忍者ブログ

シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(シャングリラ…)
 こんなにあるんだ、とブルーが覗き込んだ新聞。
 学校から帰っておやつを食べながら、ダイニングで。母が焼いてくれたケーキはすっかり食べてしまったから、残るは紅茶だけだから。新聞を見ていても行儀が悪いわけではないし、と。
 其処に載っていたシャングリラ。前の自分が暮らした船。
 白いシャングリラが、懐かしい鯨が幾つも幾つも並んでいた。カラー写真が、紙面にズラリと。
 けれど本物のシャングリラではなくて、インテリア用のシャングリラ。家を彩るためのもの。
 額装された写真や様々な素材で出来たレリーフ、ポスターもジグゾーパズルもあって。
 精巧な模型も色々とあるし、凝ったものだと手織りのタペストリーまで。



 驚いてしまったシャングリラの数、値段の方にも驚かされた。本物そっくりに作ってある模型も高いけれども、タペストリー。織り上げるまでに手間がかかるから、ポスターや写真とは桁違いに高価。こんなものを誰が買うのだろうか、と思うくらいに。かつて暮らした自分でさえも。
(…シャングリラは飾りじゃないんだけどな…)
 あの白い船はミュウの箱舟、人類から逃れて生きてゆくために造った船。
 優美な姿の白い鯨は好きだったけれど、誇りに思っていたけれど。人類軍の戦艦などよりずっと綺麗だと、美しい船だと、いつも眺めていたけれど。
 飾りではなかったシャングリラ。自給自足で全てを賄い、船の中だけで一つの世界。仲間たちの命を乗せていた船、飾りどころか実用品。無ければ生きてはゆけなかった船。
 それが飾りになっているのが今の世界で、平和の証拠。
 高い模型やタペストリーまでが作られるほどに。そういったものを欲しがる人がいるほどに。



(高いのは別に…)
 シャングリラを織り上げたタペストリーは欲しくないけれど。精巧な模型も要らないけれど。
 前にハーレイと約束をした。いつか二人で暮らす家には、シャングリラの写真を飾ろうと。
 白いシャングリラの写真集はお揃いで持っているけれど、それとは別に。
(雲海の写真…)
 写真集の何処にも載っていない写真、きっと誰一人、撮らなかった写真。
 雲海に浮かぶシャングリラ。それを捉えた写真は一枚も無かった、きっと美しかっただろうに。
 白い雲の海の上に浮かんだ白い鯨は、太陽の光を受けて輝いていたのだろうに。
 雲海の星、アルテメシアに長く潜んでいたけれど。雲の上には出なかった船。いつも雲海の中に隠れていた船、浮上することは死を意味していたから。
 シャングリラの存在を人類に知られ、沈むまで追撃されるだろうから。
 ジョミーを救いに浮上するまで、シャングリラは雲から出なかった。ただの一度も。



 そんな過去を持った船だったから。雲の海といえば隠れ住むもので、それが常識だったから。
 アルテメシアを後にしてからも、人類軍との戦いに勝ってアルテメシアに戻った後にも、雲海は突き抜けてゆくだけのもの。宙港に出入りするために。その惑星の空を飛ぶ時に。
 そのせいかどうか、トォニィがソルジャーだった時代も、何枚もの写真が撮られた時代も、誰も思い付きはしなかった。雲海の上を飛ぶシャングリラを撮影するということを。雲の海の上をゆく白い鯨を、眩く輝く白いシャングリラを写真に収めておくことを。
 宇宙の何処にも残されていない、雲海に浮かぶシャングリラの写真。
 白いシャングリラが時の彼方に消えた今では、もう撮ることすら叶わない写真。
 その幻の写真を作ろうと決めた、いつかハーレイと二人で雲海の写真を撮りに出掛けて。雲海が出来やすい季節に朝早く起きて、暗い内から待ち構えて。
 これだと思う写真が撮れたら、シャングリラの写真と合成して作る。雲海に浮かぶ白い鯨を。
 誰一人として思い付かなかった、白いシャングリラの美しい姿を。



 夢の雲海のシャングリラ。昇る朝日に輝く船。
 そういう写真を飾ろうと決めていたのだけれども、世間にはもっと色々なものがあるらしい。
 模型はともかく、タペストリー。それも高価な手織りだなんて。
(写真集があるくらいだものね…)
 ハーレイとお揃いで持っている写真集。自分のお小遣いでは買えない値段の豪華版だったから、父に強請って買って貰った。それの他にも写真集は様々、手頃な値段のものも沢山。
 ミュウの歴史の始まりの船は、今の時代も一番人気の宇宙船。
 遊園地に行けば遊具もある。幼い子供向けのものから、スリリングな大人向けのものまで。
 自分が幼かった頃には、青い海を走るバナナボートのシャングリラだって見たのだし…。
(…写真を飾るくらいは普通?)
 額装された立派な写真や、貼るだけの安価なポスターやら。
 手織りのタペストリーまであるくらいなのだし、シャングリラに憧れる人なら欲しいのだろう。この新聞に載っているような、インテリアに出来るシャングリラが。
 本物のシャングリラは飾りなどではなかったけれども、飾りになったシャングリラが。



(こんなにあるなら…)
 売り物になっている白いシャングリラが、こんなに沢山あるのなら。
 いつかハーレイと暮らす家にも一つくらいは欲しい気がする、雲海に浮かぶ白いシャングリラの写真の他にも。高価なものではなくていいから、人気のものを。新聞に載るような人気商品を。
 何種類もある大きなポスターでもいいし、大きなジグゾーパズルでも。
 きっと素敵なことだろう。リビングだとか、ダイニングの壁に飾る大きなシャングリラ。
(…でも…)
 それもいいな、と想像してみてハタと気が付いた。
 ハーレイと二人で住んでいるのなら、同じ家で暮らしているのなら。
 その家にはハーレイの教え子たちがやって来る。顧問をしているクラブの部員たちが。
 彼らは家中、端から探検すると言うから。家探しのように、どの部屋も覗いてゆくと聞くから。
 シャングリラの大きなポスターが飾ってあったら、変だと思われるだろうか?
 もしかしたら、この家の住人は生まれ変わりかもしれないと。
 ハーレイと自分の姿が姿なだけに、懐かしい船の写真を飾っているのだと。
(…雲海の写真なら趣味で済むけど…)
 趣味で合成してみたのだと、綺麗だろうと、ハーレイが鼻高々で披露出来そうだけれど、大きなポスターはマズイだろうか?
 自分たちは実は生まれ変わりだと、このシャングリラで生きていたのだと言わんばかりの飾りになってしまうのだろうか、部屋の壁にデカデカと貼ってあったら。
 そうは思うけれど、そんな気持ちもするのだけれど。
 これだけの数のシャングリラを見たら、幾つも並べて載せてあったら…。



 やっぱり、どれか欲しくなる。一つくらい、と思ってしまう。
 白いシャングリラのポスターもいいし、ジグゾーパズルも。懐かしい白いシャングリラ。それが欲しいと、大きな写真を飾ってみたいと。
 見れば見るほど欲しくなるから、欲が出て来てしまうから。新聞を閉じて、空になったカップやお皿をキッチンの母に返して、部屋に戻って来たけれど。勉強机の前に座ったけれど。
(…ぼくたちの船…)
 前の自分が守り続けた白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 ハーレイと出会った場所はアルタミラだったけれども、燃える地獄で出会ったけれど。それから二人、懸命に逃げて、あの船で暮らして恋をした。
 きっと出会った時からの恋で、それと知らずに一目惚れで。
 恋と気付かず、長い長い時を一番の友達同士で過ごして、白い鯨が出来上がってから結ばれた。キスを交わして、愛を交わして。



 だからシャングリラは思い出の船。忘れられない、大切な船。
 飾り物の船ではなかったけれども、インテリアではなかったけれど。
 仲間たちの命を守っていた船、ミュウという種族を乗せた箱舟。
 それは充分に、誰よりも分かっているのだけれども、ハーレイと恋をしていた船。甘い思い出も乗せていた船、誰にも言えない恋だったけれど。
 そんな船だから、前の自分たちが恋を育み、共に暮らした船だったから。
 雲海に浮かぶ写真の他にも、白いシャングリラを飾ってかまわないのなら…。
(飾りたいよ…)
 大きなシャングリラのポスターを。でなければ大きなジグゾーパズル。
 それが実現するかどうかは、ハーレイ次第なのだけど。
 生まれ変わりかと疑われそうだ、と止められてしまったら駄目だけれども。



 でも欲しい、と思う気持ちは消えてくれない。二人で暮らす家に飾ってみたい、と。
 それを頭から追い払えないままで考えていたら、チャイムが鳴って。
 仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、部屋のテーブルで向かい合うなり切り出した。
「あのね…。ハーレイ、シャングリラのタペストリーって知っている?」
 手織りなんだって、タペストリー。凄く高いけど、シャングリラが綺麗に織ってあったよ。
 新聞にいろんな写真が載ってたんだよ、インテリアになってるシャングリラの特集。模型とか、額に入った写真だとか…。レリーフになってるヤツも色々。
「ああ、あるらしいな、手織りのタペストリー」
 とんでもない値段の飾り物だな、酔狂なヤツもいるもんだ。
 同じシャングリラなら、写真の方が実物そっくりだと思うんだがなあ、織物にするより。
「そうだよねえ? ぼくもポスターの方がいいんだけれど…」
 ぼくたちの家に飾ってもいい?
 いつかハーレイと結婚したなら、シャングリラ、飾りたいんだけれど…。
 ハーレイと作ろうって約束している雲海の写真も飾るけれども、大きなポスター。
「はあ?」
 ポスターって、お前…。
 なんだってポスターなんかを飾ろうって言うんだ、雲海の写真じゃ駄目なのか?
 前にお前が言っていたとおり、雲海に浮かぶシャングリラの写真は綺麗だぞ、きっと。
 最高の雲海を撮りに行く所から始めるんだろうが、俺たちの家に飾る写真は。



 それじゃ駄目か、と問われたけれど。雲海の写真もいいのだけれど。
「思い出の船だから何か欲しいよ、ぼくたちで作る写真の他にも」
 あんなに色々売られてるんだし、シャングリラの何かが欲しいんだよ。
 前のぼくたちが暮らしてたんだ、って思い出せるように大きなポスターとか、ジグゾーパズル。
 大きなジグゾーパズルもあったし、そういうのでもいいんだけれど…。
「…シャングリラ・リングじゃ足りんのか?」
 当たるかどうかは申し込まないと分からないがだ、もしも当たったら、シャングリラから作った指輪が手に入るんだぞ?
 それこそシャングリラそのものなんだが、それじゃお前は足りないのか?
「シャングリラ・リングは欲しいけど…。確かにシャングリラそのものだけど…」
 だけど形が残っていないよ、見た目は結婚指輪なんだよ?
 ぼくはシャングリラの姿を見たいよ、白い鯨の。
 ハーレイと暮らした船を見たいんだよ、この船でハーレイと生きていたんだ、って。
「ふうむ…」
 あの船の形が残っていないか、結婚指輪になっちまったら。
 シャングリラの名残の金属で出来た結婚指輪ってだけで、形が違うと言うんだな、お前。



 俺はシャングリラの外見にはさほどこだわらないが…、と続いた言葉。
 お前と違って外側からはあまり見ていない、と。
「いつもモニター越しだったんだ。俺が見ていたシャングリラは」
 アルテメシアに着いてから後は、ずっと雲海の中だったし…。
 前のお前が元気だった頃には、数えるほどしか見ていない。キャプテンの俺が外に出ることは、本当に滅多に無かったからな。
 白い鯨に改造していた最中だったら、視察に出ることも多かったんだが…。
 作業の進捗状況はどうか、何処まで出来上がって来ているのか。俺がこの目で確かめないとな、キャプテンだしな?
 だが、改造が済んじまったら、俺の仕事場は船の中なんだ。新しい船を上手く纏めて、効率よく動かしてやらんといかん。外に出ている暇があったら中で仕事をしろってな。
 ステルス・デバイスのオーバーホールとか、そんな時しか見てはいないな、外からはな。
「あ…!」
 ホントだ、ハーレイ、見ていないんだ…。
 前のぼくは何度も外へ出ていたけれども、ハーレイは外には出なかったっけ…。



 雲海の星に長く潜んでいた間には、ハーレイが肉眼でシャングリラの姿を見ることは無かった。船の外へ出る機会があっても、雲海の中では白い鯨の姿そのものは見られない。
 前の自分がやっていたように、雲の中を透視しない限りは。白い雲の粒を消さない限りは。
 白い鯨が雲海から出て、赤いナスカの衛星軌道上にあった時。
 前のハーレイはシャングリラとナスカを何度も往復していたのだから、乗ったシャトルから白い鯨を目にしていたのだろうけれど。
 その頃にはもう、前の自分は深い眠りに就いていた。十五年間もの長い眠りに。
 ようやく眠りから覚めた時には、あの惨劇が待っていたから。
 ナスカはメギドの炎に焼かれて、前の自分はメギドへと飛んでしまったから…。
 それから後のシャングリラにはもう、前の自分の姿は無かった。
 地球へと向かって旅立った船に、ハーレイは一人きりだった。多くの仲間を乗せた船でも、前の自分たちの約束の地へと向かう船でも。
 幾つもの星を陥落させては、シャングリラは其処に降りたけれども。
 ハーレイも船から降りてシャングリラを仰いだけれども、その船に前の自分はいなくて。
 白い鯨をいくら眺めても、何の感慨も無かっただろう。ハーレイの魂はとうの昔に、前の自分を喪った時に、死んでしまっていただろうから。
 ただの船にしか見えなかったろう、白い鯨の形をした。巨大な白い船だとしか…。



「…じゃあ、ハーレイが知ってるシャングリラは…」
 白い鯨の形をしていた時のシャングリラは、殆どの時は…。
「前のお前が眠っちまっていたか、いなかったかだ」
 元気だった頃のお前とはあんまり結び付かんな、そのせいでな。
 お前が元気だった頃にも見た筈なんだが、寂しかった時代と悲しかった時代。そっちの方が多いわけだな、前のお前が目覚めないままか、いなくなっちまった後ってことでな…。
「…それじゃ、あの船、好きじゃない?」
 ハーレイはあんまり好きじゃないのかな、白い鯨だったシャングリラ…。
「いや、好きだが…」
 キャプテンなんだぞ、嫌いなわけがないだろう。俺が動かしてた船なんだから。
 前のお前が逝っちまった後は、少し複雑だったがな…。
 あれを地球まで運ばんことには、俺の役目は終わってくれない。前のお前の所へ行けない。
 そう考えたら、俺を縛っている厄介な船で、おまけにお前も乗ってはいない。
 好きな船だが好きじゃなかった、誰にもそうは言わなかったが。
 …それでも好きではあったんだろうな、前のお前と一緒に暮らした船だったからな…。



 お前ほどにはこだわらない、と苦笑いされた白いシャングリラの姿そのもの。白かった鯨。
 思い出は船の中なんだ、と。前のお前との思い出も船の中だろうが、と。
「だったら、写真は…。シャングリラの大きなポスターは…」
 やっぱり駄目?
 ハーレイがそれほどこだわらないなら、ぼくが欲しいからって貼ったら駄目かな?
 そんなの貼ったら、生まれ変わりだと思われそうだし…。
 キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーだから、飾ってるんだと思われそうだし…。
「誰にだ?」
 俺たちが生まれ変わりだと誰が思うんだ、そのデカいポスターとやらのせいで?
「…ハーレイの学校の生徒たちだよ」
 顧問をしているクラブの生徒は、家に呼ぶんだって言ってるじゃない。
 今の学校でも、柔道部の子たちが何度も遊びに行ってるんだし…。
「あいつらか…」
 家中を走り回って騒ぐヤツらだな、部屋の扉を端から開けては中を覗いて。
 シャングリラのポスターが貼ってあったら、もちろん発見されるんだろうが…。
 しかしだ、相手はあいつらだしな…。



 甘く見るなよ、とハーレイは一旦、言葉を切って。
「そんな代物を飾ってなくても、あいつらは勝手に話を作っていそうだが?」
 たとえポスターが無かったとしても、格好の餌食というヤツだ。
「え?」
 餌食って…。なんなの、なんで餌食になるの?
 話を作るって、どういう話を勝手に作られてしまうわけ…?
「よく考えてみろよ、お前と俺だぞ?」
 しかも結婚して一緒に暮らしてるんだぞ、結婚指輪まで嵌めて同じ家でな。
 あいつらは寝室だろうが容赦しないで覗くわけだし、そりゃもう派手に騒ぐだろうなあ…。
 本当に結婚しているらしいと、生まれ変わったから今度は結婚したらしいとな。
「今度は、って…。ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイも恋人同士だったって?」
 そういう話にされてしまうの、ぼくとハーレイが結婚したら?
 見た目がそっくり同じだからって、生まれ変わりだと決め付けられちゃって…?
「うむ。その上、適当に尾びれもくっついちまって」
 実は記録に残っていないだけで、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイも本当は結婚していただとか。新婚旅行に行っていたとか、結婚記念日はこの日だとか。
「新婚旅行に結婚記念日って…。そんなの、出来っこなかったのに…!」
 結婚記念日の方はともかく、新婚旅行はどう考えても無理そうなのに…。
 そうなってしまうの、ハーレイの学校の生徒が話を作っちゃったら…?
「ガキなんていうのは、そんなもんだ」
 根も葉もない噂で盛り上がるのが好きで、話を大きく膨らませるのも大好きで。
 ヤツらにかかれば、俺たちの過去は楽しく捏造されるんだろうな、それはとんでもない方向へ。



 シャングリラのデカいポスターが飾ってあろうが無かろうが、と笑うハーレイ。
 この姿だけでとっくに話の種だと、前も結婚していたことにされちまう、と。
「どうするの、それ…」
 大変じゃないの、キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーが恋人同士だっただなんて。
 おまけに結婚していただなんて、そんな話になっちゃったら…!
「どうもしないさ、他にも噂は色々流れていそうだからな」
 義務教育中のガキどもなんかは可愛いもんだぞ、今のお前と中身は大して変わらないしな。
 結婚の意味もそれほど分かっちゃいないさ、一緒に暮らしているって程度で。
 だがな、俺の友達やら、お前が結婚する頃のお前の友達。
 そういったヤツらはもっと手強い相手になるなあ、結婚ってことになったらな。
 同じ家で仲良く暮らしてるんです、というだけでは済まないと百も承知なんだし…。
 手を繋いで二人で出掛ける程度じゃないってことも充分知っているしな?
「…結婚の中身…。そっか、その頃なら、ぼくの友達でも分かるかも…」
 ぼくの友達には分からなくっても、ハーレイの友達だったら分かるよね…。
 結婚したら何をするのか、一緒に暮らして何をしてるのか。
 それで生まれ変わりだって思われちゃったら、バレちゃうの、前のぼくたちのことも?
 前のぼくたちが最後まで言わずに隠していたこと、今頃になってバレてしまうの…?
「まさか。本物だと名乗らない限りはな」
 俺たちが本当に生まれ変わりだと言わない限りは、似ているってだけの赤の他人だ。
 面白おかしく噂が立っても、前の俺たちへの評価は揺るがん。
 まるで関係無いカップルが一組いるだけなんだし、むしろ気の毒がられるかもなあ…。
 紛らわしいのが結婚したお蔭で、前の俺たちが墓の中で迷惑していると。
 変な噂を立てられちまって、ソルジャー・ブルーもキャプテン・ハーレイも、いい迷惑だと。



 友人たちが無責任な噂を立てていようが、変わらないという前の自分たちへの視線。
 世間の評価は何も変わらず、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイに瓜二つのカップルがいるというだけ。
 自分たちが公にしない限りは、本当に本物の生まれ変わりだと言わない限りは。
「で、どうするんだ。…名乗るのか?」
 いつか言うのか、本当はソルジャー・ブルーなんだと。
 お前がそうだと明かすんだったら、もちろん俺も付き合うが…。キャプテン・ハーレイだったと名乗る覚悟は出来てるんだが。
 そのせいでどんな噂が立とうが、どんな目で見られることになろうが、俺はお前を全力で守る。今度は守ると決めたからには、相手が何であろうがな。
「まだ決めてない…」
 考えていないよ、まだ少しも。…だって、ぼくはまだ子供だから。
 ハーレイにチビって言われるくらいに小さいんだから、きっと考えも子供なんだよ。子供の頭で考えてみても、正しいかどうかは分からないから…。
 どうしようかな、って考えはしても、そこまでだけ。…こうするんだ、って決めてはいないよ。
 ハーレイが本当のことを話すんだったら、付き合おうとは思うけれども。
「ゆっくりでいいさ、大事なことだ」
 チビのお前には重すぎるしなあ、前のお前の人生ってヤツは。
 いくら記憶を持っていたって、前のお前と同じようには決断出来んし、する必要も無いってな。
 今度は俺がお前を守ってやるんだ、難しい判断を一人でしなくていいんだ、今のお前は。
 俺に相談すればいいのさ、どんなことでも。…お前が本当は誰だったのかを話すかどうかも。
 学者どもに囲まれて、もみくちゃにされたくないって言うなら、黙っているのも一つの手だ。
 俺たちには何の責任も無いんだからなあ、前の俺たちのことに関してはな。



 責任があるのは今の自分の人生だけだ、と微笑むハーレイ。
 今の時代を生きてゆくだけなら、前の自分たちは何の関係も無いと。
「思い出だけを持ってりゃいいんだ、大切にな。前の俺たちが生きた思い出」
 そいつを大事に持ったままでだ、今の幸せをその上に積んでいけばいい。幾つも、幾つも、俺と二人で。
 前の幸せの上に今の幸せ、実にお得な話じゃないか。二人分の幸せを積めるんだからな。普通は一つの人生の上に一人分しか乗せられないだろ?
 今の自分が生きてる分だけ、それしか無いのが普通なんだ。ところが俺たちは前の分まで持って生まれて来たってな。その有難さだけを貰えばいいんだ、前の俺たちの人生からは。
 責任なんかは持たなくていいし、誰も持てとも言わんしな。
 放っておいても噂は勝手に立つものなんだし、それでかまわん。
 噂は所詮噂だからなあ、学者なんぞは見向きもしないさ、真面目に相手をしやしない。
 俺たちが本当に本物なんだと言わない限りは、ただの他人の空似だからな。



 どんな噂が流れていようが、ハーレイの学校の教え子たちが勝手に話を作ろうが。
 今の自分たちは笑って聞き流しているだけでいいと、前の自分たちのことまで気にする必要など何処にも無いと、ハーレイが太鼓判を押してくれたから。
 好きに生きていいと、今を生きろと優しい笑みを浮かべるから。
「じゃあ、シャングリラの写真…」
 ハーレイも嫌いじゃないんだったら、前のぼくたちの船の思い出に飾ってもいい?
 リビングとかダイニングの壁にポスター、貼ってもいい?
「もちろんだ。お前の気に入ったヤツを飾ればいいさ。うんとデカイのを」
 雲海の写真だと、シャングリラはそれほど大きくないしな、主役は雲海なんだから。
 シャングリラの姿を見たいんだったら、ポスターの方がいいだろう。
 お前が欲しいなら、ポスター並みにデカい写真を買うのもいいなあ、きちんと額に入ったヤツ。俺の給料で買えそうだったら、もっと立派なパネルとかでも。
「ううん、普通のポスターでいいよ」
 今のぼくでも買えそうな値段のポスターでいいよ、シャングリラをいつでも見られるんなら。
 壁に飾って、こんな船だった、って懐かしく眺められるんなら。
「そうなのか?」
 あるだけでいいのか、シャングリラの写真が。
 額入りのだとか、立派なパネルに仕立てたヤツとか、そういうのじゃなくてポスターだけで。
「うん」
 あの船の写真を飾れるんなら、それだけで幸せ。
 ハーレイと二人で暮らしてた船を、今のぼくたちが暮らしてる家で一緒に見られるんなら…。



「ふうむ…。俺と一緒に見ようって言うのか、シャングリラの写真」
 だったら、デカいポスターもいいが、ジグゾーパズルにするのはどうだ?
 とびきりデカくて、作るのに床を占領しちまいそうなほど、ピースが多いジグゾーパズル。
「…ジグゾーパズル?」
 それもいいよね、って思ってたけど、ハーレイ、ジグゾーパズルが好きなの?
 前のハーレイが作っていたって覚えはないけど、今のハーレイは好きだったとか…?
「いや。特に好きだということは無いし、ガキの頃に作った程度だが…」
 相手がシャングリラの写真となったら、そいつもいいなと思ってな。
 お前が俺に教えてくれ。
 山ほどの真っ白なピースの中から、これは此処だ、と。シャングリラの此処になるんだ、と。
 お前、そういう見分けをするのは得意だろうが。
 前の俺と違って、あの船を外から何度も見ていたのが前のお前なんだからな。
 ほんの小さな違いだけでも気付く筈だぞ、同じ白でもこれは此処だ、と。
「それを言うなら、ハーレイだってモニター越しに見ていたじゃない!」
 センサーを通した画像で見てても、シャングリラはおんなじシャングリラだよ?
 肉眼で見るか、モニターで見るかの違いしかなくて、条件は同じだと思うんだけど…!



 それにハーレイはキャプテンだった、と言ってやったら。
 前の自分よりもシャングリラの構造に詳しかった筈で、どの角度からの画像であっても、何処の部分が映っているのか分かった筈だ、と指摘したら。
「そうだっけなあ…。言われてみれば、俺の方が詳しかったのかもな」
 小さな傷でも宇宙船には命取りだし、発見したなら補修させないといけなかったし…。
 作業完了と報告が来たら、直ぐに確認していたし…。
 シャングリラの何処の部分がこのピースなのか、と訊かれたら、即答出来るのは俺かもしれん。
 だがな、俺とお前の共同作業で出来るシャングリラもいいもんだぞ。
 床いっぱいにピースを広げて、これは此処だと、これはこっちだと、お前と二人で。
「そうかもね…!」
 あっちだ、こっちだ、って喧嘩になるかもしれないね。
 ぼくは絶対此処だって言うのに、ハーレイは違う場所だって言って。
 二人とも少しも譲らないままで、他のピースを嵌めてって…。
 頑張ってパズルを作っていったら、喧嘩してたピースが嵌まる所を二人とも間違えてたとかね。



 いつか二人で暮らす家には、シャングリラのポスターもいいけれど。
 ジグゾーパズルの白いシャングリラもいい、大きくてピースも沢山のパズル。
 山ほどのピースを床に広げて、ハーレイと一緒にせっせと嵌めて。
 シャングリラを二人で作ってゆこうか、自分たちの手でシャングリラを。白い鯨を。
「ねえ、ハーレイ。ジグゾーパズルなら、シャングリラ、ぼくたちで作れるね」
 ぼくとハーレイのためのシャングリラを、ぼくとハーレイ、二人だけで。
 本物のシャングリラは大勢の仲間が造り上げたけど、今度はハーレイとぼくの二人で。
「おっ、いいな!」
 出来上がったら号令するかな、「シャングリラ、発進!」と景気よくな。
「発進なんだね、ジグゾーパズルのシャングリラの」
 ハーレイが言ってくれるんだったら、本当にぼくたちのシャングリラになるよ。
 ぼくとハーレイ、二人だけのためのシャングリラに。
 シャングリラ、二人で作ってみようよ、ジグゾーパズルで。
 ぼくたちの船を、本物のシャングリラの頃とは違って、飾って眺めるための船をね。



 白いシャングリラは、白い鯨は、大勢の仲間と造ったけれど。
 飾り物の船ではなかったけれど。
 家に飾るための思い出の船は二人で作ろう、ジグゾーパズルのピースを嵌めて。
 床いっぱいにピースを広げて、これは此処だと、それは違うと喧嘩し合って、笑い合って。
 そんな幸せな時間もいい。ジグゾーパズルのピースで喧嘩。
 結局、二人とも間違えていたり、分からないと揃って悩んでみたり。
 いつか結婚したならば。二人一緒に暮らせるようになったなら。
 二人だけで眺める飾り物の船を、白いシャングリラを作ってみよう。
 今の時代は、もう箱舟は要らないから。
 ハーレイと二人、青い地球の上に生まれ変わって、何処までも歩いてゆけるのだから…。




            飾り物の船・了

※今の時代は、白いシャングリラはインテリア。ハーレイと暮らす家にも何か欲しいのです。
 どうせ飾るのなら、ジグゾーパズルがいいのかも。二人で作ったシャングリラの雄姿を。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







PR

(ふうむ…)
 こいつは全く知らなかった、とハーレイが覗き込んだ新聞記事。
 ブルーの家には寄れなかったから、夕食の後でダイニングで。愛用の大きなマグカップに淹れたコーヒー片手に寛ぎの時間。書斎に行く日も多いけれども、今夜はゆっくり新聞を、と。
 その新聞の中、「最後の花」という見出し。添えられたエーデルワイスの写真。真っ白な綿毛に覆われた花が美しい高山植物。最後の花とはどういう意味か、と読み始めたのだけれど。



 エーデルワイス。
 それが地球で最後に咲いていた花。今の蘇った青い地球ではなくて、滅びゆく地球で。
 SD体制に入ると決定した時、人類は全て地球を離れた。誰一人として残ることは出来ず、死の星と化した地球を後にした、宇宙船に乗って。もう二度と見られぬ地球に別れを告げて。
 人の世界は変わってゆくから、生き方も何もかもSD体制の開幕と共に変革されるから。地球にいた人々に次の世代は無かった。幼い子供にも、若い夫婦にも、その胎内の赤子にさえも。
 彼らはいったい、どんな思いで地球を離れて行ったのか。自分たちが残りの生を送るための星へ旅立って行ったのか。記録は殆ど残されていない、彼らも滅びていったのだから。
 母なる地球から遠く離れた植民惑星、其処だけで生きて。SD体制の時代を生きた者たちからは忘れ去られて、マザー・システムからの保護も受けられずに。



 地球を去ってゆく彼らの船。二度と戻らない、戻れない船。
 悲しみの涙が満ちていたろう、地球の大地に永遠の別れを告げてゆく船。
 その旅立ちを地球の上から見送った花がエーデルワイス。滅びゆく地球で開いた最後の花。
 もちろん、人が住めない大地にエーデルワイスが咲けるわけがない。植物などが育ちはしない。人工的に創り出された環境、そんな場所でしか。
 エーデルワイスはユグドラシルの側に咲いていたという。地球の再生を託されたユグドラシル。その中にまだ人はいないけれども、SD体制が人を育てるまでは無人だけれど。
 いつか機械が育てた人類が地球に戻って、ユグドラシルから地球を蘇らせてゆくだろうから。
 マザー・システムとグランド・マザーに守られて青い水の星を取り戻してくれるだろうから。



 いつか必ず、と地球を離れる人々が咲かせたエーデルワイス。
 高く聳え立つユグドラシルの下に、強化ガラスのケースを据えて。中の環境を整えてやって。
 この花が自然に育つ環境が地球に再び蘇るように、と祈りをこめて。
 エーデルワイスは不死と不滅のシンボル、永遠を意味する花だと語り継がれていたから。地球がまだ青い星だった頃に、採集されすぎて絶滅しかかった過去を持っていた花だったから。
 地球が永遠であるように。
 エーデルワイスが滅びることなく生き残ったように、この星もまた蘇るように。
 どうか、と人類が植えていった花。
 自分たちは二度と戻れはしないけれども、地球は永遠であるようにと。
 ガラスケースの中のエーデルワイスはきっと滅びてしまうだろうけれど、その花の代わりに次の花たちが、蘇った地球に新しいエーデルワイスの株が根付いて花開くようにと。



 そうして人類の船は旅立った、エーデルワイスの花を残して。
 エーデルワイスは船を見送った、もう戻らない人類の船を。強化ガラスのケースの中から。白く美しい花を咲かせて、滅びに向かいつつあった地球の大地で。
(SD体制の時代には消されていたデータなのか…)
 新聞記事にはそう書いてあった、当時の人々は知らなかったと。
 ユグドラシルの側に強化ガラスのケースが据えられていたということも、エーデルワイスの花のケースであったことも。
 地球から去って行った人類の思いは知らない方が良かったから。
 管理出産と機械による統治、そんな時代に「最後に人らしく生きた人々」の存在はタブー。遠い星で次の世代も作れず、滅び去っていった人々のことは深く考えない方がいい。
 彼らの思いは、悲しい最期は、SD体制を良しとする世界ではマイナスにしかならないから。
 何を思ってどう生きたのかも、どんな思いで母なる地球を後にしたかも。



 だから封印されていたデータ。かつての多様な文化も消されてしまったけれども、それに纏わるデータ以上に、厳重に。
(誰も知らずにいたってわけか…)
 ユグドラシルの側のガラスケースも、中に咲いていたエーデルワイスも。
 滅びゆく地球に祈りをこめて植えられ、去ってゆく船を見送った最後の花だったのに。人工的に創り出された空間の中で、強化ガラスのケースの中で。
(ケースもその内に割れたんだろうが…)
 SD体制の下で生まれた人類が育ち、ユグドラシルに入る頃には割れてしまっていたのだろう。跡形もなく壊れていたのか、それとも何が入っていたかも分からないようになっていたのか。
 人類はそれに気付かなかった。エーデルワイスを育てたケースに。地球の最後の花のケースに。
 それから長い時が流れて、SD体制が滅びるまで。
 マザー・システムが管理していた、情報の封印が解かれる日まで。
 地球の上に咲いた最後の花が何であったか、どんな思いで人々がそれを残したのか。知られないままで流れた時間。



 前の自分もその時代を生きた、最後の花のことなど知らずに。
 いつか地球へとブルーと二人で夢を見ていても、その地球の上に人類が残したエーデルワイスは知らずに終わった。
 白いシャングリラのデータベースにも、宇宙の何処にも、情報は何も無かったから。封印された情報などは、引き出す術が無かったから。
(最後の花なあ…)
 これがそうか、と新聞記事のエーデルワイスの写真を覗き込む。
 ガラスケースの中とは違って、自然の中での写真だけれど。ハイキングコースの脇に咲いていたエーデルワイスの花だと書かれているけれど。
 エーデルワイス。今の時代にも愛されている高山植物、それを目当てに山に出掛ける人もいる。
 ただ、高い山の花だから。おまけに、今の自分が住んでいる地域にエーデルワイスは…。
(無いんだよなあ…)
 かつて日本と呼ばれた小さな島国、それがあった場所にエーデルワイスの花は無かった。たった一ヶ所だけを除いて、ただ一つだけの山を除いて。



 ハヤチネウスユキソウ。かつての日本のエーデルワイス。
 早池峰山という山の頂でだけ咲いた固有種、他の山には無かったという。だから今でも、其処に行かないと見られない。早池峰山があった辺りに聳える高い山だけに咲くエーデルワイス。
 今の自分は見たことが無いし、見に出掛けたいと思ったことも無いのだけれど。
(待てよ…?)
 白い花を咲かせるエーデルワイス。本などで何度も目にしてきた花。
 星を思わせる花の形に、綿毛に覆われた独特の姿。ふうわりと柔らかそうな花。
 それを自分は知っている。自分ではなくて前の自分が、キャプテン・ハーレイだった自分が。
 前の自分が確かに見ていた、エーデルワイスを。白い星の形をしていた花を。
 本やデータで見たのではなくて、肉眼で。
 手を伸ばしたら触れそうなほどに近い所で、その気になったら摘めそうな場所で。



(何処だ…?)
 エーデルワイスなどを何処で見ただろうか、前の自分は?
 今も昔も高山植物、園芸品種があるという話は耳にするけれど、そうそうお目にはかかれない。現に自分は知らないわけだし、前の自分ともなれば尚のこと。
(シャングリラの中しか有り得ないんだが…)
 そのシャングリラは自給自足で飛んでいた船、宇宙船。高い山などあるわけがない。けれども、自分は確かに目にした。エーデルワイスを、あの白い花を。
(あんなのが何処にあったんだ…?)
 花と言ったら思い出すのは公園だけれど。ブリッジから見えた広い公園、様々な植物が植わった憩いの場所だったけれど。
 思い出せないエーデルワイス。あの公園で見たなら、覚えていそうな筈なのに。
 エーデルワイスが咲いていた場所からも、ブリッジは見えていただろうから。白い花から視線を上げたら、自分の居場所が見えたろうから。



 けれど全く無い記憶。エーデルワイスとブリッジはまるで繋がらない。
 そうなってくると…。
(…公園じゃないのか?)
 バラエティー豊かな植物と言えば、あの公園。子供たちがよく遊んだ公園。
 ただ、公園は他に幾つもあったから。居住区の中などに幾つも鏤められていたから、そういった公園の一つだったろうか?
(しかし、エーデルワイスだぞ?)
 今でも珍しいエーデルワイス。今の自分が一度も目にしていない花。
 それほどに特別な植物なのだし、シャングリラの中で植えるとしたなら、貴重品扱いだった筈。小さな公園に植えるよりかは、ブリッジが見える広い公園、そうなりそうな花なのに。
(どう考えても、あの公園しか…)
 他の公園は規模も小さくて、緑に親しむための場所。栗の木があったり、サクランボだったり、それぞれ特徴があったけれども、エーデルワイスの記憶は無い。
 いったい何処で見掛けたのだと、記憶違いかと遠い記憶を幾つも手繰り寄せて…。



 一向に浮かんでくれない記憶。思い出せないエーデルワイスが咲いていた場所。
 溜息をついて、新聞記事へと落とした視線。花の写真は参考にならず、もう一度、記事を読んでいったら。遠い昔に滅びかけた頃のエーデルワイスのくだりが目に留まった。
 採集されすぎて数が減っても、人はエーデルワイスを求めたから。手に入れようと山に登って、崖から落ちて命を失くした者もいたほど。険しい岩場に生えていたというエーデルワイス。
(あれか…!)
 岩場で一気に蘇った記憶、ヒルマンが作ったロックガーデン。
 名前そのままに岩を配して、高山植物が植えられた公園。空調もそれに相応しくして。
 規模は小さなものだったけれど、中身は本格的だった。他の公園とは違った植生。
 船の中が世界の全てだったから、外の世界には出られないから。
 其処で育ってゆく子供たちのためにと、高山植物を教えてやりたいと言ったヒルマン。
 そういう公園が一つあったら、大人たちの心もきっと豊かになるだろうから、と。



 反対する者は一人も無かったロックガーデン。
 何かといえば「役に立たんわ」が口癖だったゼルも、これには反対しなかった。子供好きだったせいもあるだろう。いつもポケットに子供たちのための菓子を忍ばせていたほどに。
(何を植えるかで会議になって…)
 公園の管理をしていた者たちとヒルマンとで大筋は決まったけれど。
 長老と呼ばれるようになっていた前の自分にゼルやブラウたち、それにブルーが加わった会議で承認されれば、後は公園を作るだけだけれど。
 配られた植物の資料の中で、「これだけは入れたい」とヒルマンがこだわったエーデルワイス。
「なにしろ、シャングリラの白だからね。この花の色は」
 それに…、と説明を続けたヒルマン。
 エーデルワイスの名前は「高貴な白」の意味だという。地球があった頃のドイツの言葉で。白いシャングリラに似合いの花だと、高貴な白を是非植えたいと。
 それにエーデルワイスは元々は薬草、「アルプスの星」と呼ばれて珍重された。美しい姿も目を惹いたから、人に採られて減った野生種。
 一時は絶滅しかかったほどで、採集が禁止されたという。そこまで数が減ってしまっても、高い崖にしか咲かなくなっても、それでも命永らえた花。地球が滅びてしまうまでは。
 採り尽くされそうになってしまったのに、生き残ったというエーデルワイス。
 人類に追われ、アルタミラで星ごと殲滅されそうになったミュウの船には相応しいと。
 この花のように強くあろうと、生き延びようと。



 「高貴な白」の名を持つ植物、人に絶滅させられかかった過去を持っているエーデルワイス。
 ヒルマンのこだわりに誰もが頷き、エーデルワイスがロックガーデンの主役と決まった。それを植えようと、エーデルワイスの庭にしようと。
(前のあいつが奪いに出掛けて…)
 白いシャングリラは、もう略奪とは無縁の船だったけれど。自給自足の船だったけれど、特別なものを導入するには奪ってくるより他にないから。
 そういう時にはブルーの出番で、ロックガーデンに植えたい植物を全て調達して来た。人類側の植物園やら、園芸用の苗を扱う場所やらで。
 それをヒルマンが主導して植えて、岩なども置いて、完成したエーデルワイスの庭。
 「高貴な白」のエーデルワイスが美しく咲いた、他に幾つもの高山植物を従えて。白い花びらを星のように広げ、艶やかな緑の葉をアクセントにして。



「へええ…。こりゃまた、綺麗な花だねえ…!」
 本当に星みたいな形じゃないか、と声を弾ませて見ていたブラウ。
 地球のアルプスは知らないけれども、「アルプスの星」と呼ばれていたのも納得だよ、と。
「高貴な白と言うのも分かるのう…」
 実に不思議な魅力のある花じゃて、しかも高い山にしか咲かんと聞いたら尚のことじゃ。
 わしらの船にピッタリじゃわい、とゼルも褒めちぎった。いい花が咲いたと。
 想像したよりも大きかった花、もっと小さいかと思っていた花。
(指先くらいとまでは言わないんだが…)
 儚く小さな花だと思ったエーデルワイス。それは意外に大きめの花で、遠目にもそうだと分かる白くて美しい星。この花が崖に咲いていたなら目に入るだろう、摘んでみたくもなるだろう。
 白い綿毛に覆われた花。高貴な白の名を持つ、アルプスの星を。
 けれど、白いシャングリラのエーデルワイスは摘むことを禁止された花。大人はもちろん、子供たちさえも。
 「これは珍しい植物だから」と、エーデルワイスの歴史を子供たちに教えたヒルマン。
 一度は滅びそうになったほどの植物、それを摘んではいけないと。
 そういう教育も必要だからと、エーデルワイスの株が増えても禁止令は解かれはしなかった。
 ロックガーデンに幾つもの星が咲いても、高貴な白が鏤められても。



(そして、あいつも…)
 前のブルーも見ていたのだった、エーデルワイスを。咲く度にロックガーデンに行って。
 「この花は地球にも咲くんだよね」と、「今のアルプスはどんなだろうか」と。
 きっとこんな風だ、とロックガーデンを、エーデルワイスを眺めたブルー。地球のアルプスにもエーデルワイスが咲いているだろうと、地球の風に揺れているのだろうと。
 いつも通って眺めているから、飽きずに花を見詰めているから。
「摘んでもいいのではありませんか?」
 あなたならば、と何度も声を掛けたけれど。
 船の仲間たちも、ヒルマンやエラも、「ソルジャーの部屋に飾るのならば」と、摘んでゆくよう勧めたけれども、ブルーはいつでも首を横に振った。
 「ぼくはそこまで特別じゃないよ」と、「エーデルワイスには敵わないよ」と。
 いくら沢山の花が咲いても、けして摘むことをしなかったブルー。
 ただ側でそれを見ていただけで。
 白いエーデルワイスの花の向こうに、焦がれ続けた夢の星を。
 「青い地球でも雪が積もったら、きっと白いね」と。
 白い星だと、この花のように白く輝く美しい星になるのだろうね、と。



 エーデルワイスの白い星に地球を見ていたブルー。前のブルーの憧れの星。
 いつか行きたいと、そこへゆくのだと言っていたのに、前のブルーは辿り着けなくて。
(白い星どころか…)
 赤かった地球。青い水の星は何処にも無かった、死の星があっただけだった。
 遠い昔にエーデルワイスが残された時そのままに。
 地球を去ってゆく人類の船を、エーデルワイスがガラスケースの中から見送った時とまるで全く変わらないままに。
 エーデルワイスのガラスケースはとうに砕けて、風化してしまっていただろうけれど。
 そこに咲いていたエーデルワイスも、塵になって風に舞い上げられて。
 今も戻らない青い地球の上を、赤い星の上を、ただ風に乗って舞っていたかもしれないけれど。



 前の自分はエーデルワイスにこめられた祈りも、存在さえも知らずに地球に降りたけれども。
 ユグドラシルの側で風化したろうガラスケースを、思うことさえなかったけれど。
(最後の花がミュウの船にあったか…)
 地球を目指したシャングリラに。ついに辿り着いた白い鯨に。
 前の自分が地球まで運んで行った船。
 大勢のミュウの仲間たちを乗せて、ヒルマンのロックガーデンを乗せて。「高貴な白」の名前を持つ花を乗せて、白いシャングリラの舵を握って。
 その船が地球を蘇らせた。
 SD体制を、グランド・マザーを破壊し、地球が蘇るための引き金を引いた。
 エーデルワイスを乗せていた船が。
 遠い昔に地球に残された最後の花と同じ花が咲いていた船が。



(まさか、エーデルワイスに呼ばれたってことは…)
 いくらなんでも、花がシャングリラを呼ぶことはないだろうけれど。
 あまりにも不思議な偶然だから。
 シャングリラでいつもエーデルワイスを摘まずに見ていた、ブルーに話してやりたいから。
(明日は土曜日だし…)
 丁度いい時に巡り会った記事、地球の最後の花が載った記事。
 教えてやろう、小さなブルーに。
 この記事のことを。
 遠い昔に人類の船を見送ったという、エーデルワイスの花のことを。



 次の日はよく晴れていたから、歩いてブルーの家に出掛けて。
 ブルーの部屋でお茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、こう訊いてみた。
「エーデルワイスを知ってるか?」
 そういう名前の有名な花だが、そいつをお前は知っているのか?
「うん、知ってる。エーデルワイスの歌があるよね」
 SD体制が始まるよりも前から地球にある歌。学校で習って歌っていたよ。
「エーデルワイスの花を見たことは?」
 写真はもちろん知ってるだろうが、本物のエーデルワイスはどうだ?
「ないよ、本物の花は一度も」
 だって、高い山に咲く花だもの…。植物園にはあるだろうけど。
「前のお前はどうだった?」
 やっぱり知らんか、エーデルワイスは?
「前のぼく…?」
 エーデルワイスなんか知っていたかな、そんなの何処かで見掛けたかな…?
 アルテメシアの山にあったかな、高い山は確かにあったけれども…。



 あんな所にエーデルワイスがあっただろうか、とブルーは暫し考えてから。
「…待ってよ、アルテメシアじゃなくて…。そうじゃなくって…」
 シャングリラで見たような気がするんだけど、エーデルワイス…。
 ハーレイがこうして訊いてるんだし、シャングリラの何処かにあった…よね…?
 思い出せないけど、きっと何処かにエーデルワイス…。
「うむ。俺もすっかり忘れてたんだが、ヒルマンのロックガーデンだ」
 高貴な白って名前だからとか、他にも色々あったっけな。
 ロックガーデンにはエーデルワイスを植えたい、とヒルマンが主張していたわけだが。
「ああ…!」
 ホントだ、エーデルワイスの名前…。
 それに人間に採られすぎちゃった花で、それでも滅びないで生き延びた花で。
 ミュウの船にはピッタリだから、ってヒルマンが欲しがったんだっけ…!



 シャングリラにあった、と手を打ったブルー。
 あそこに出掛けていつも見ていた、と。白い星だと、雪が積もった地球だと思っていたと。
「きっと地球にも咲いてるんだと思ってたんだよ、あの頃のぼくは」
 青い星に戻った地球に行ったら、エーデルワイスも咲いているんだ、って。
「知ってるか? そのエーデルワイスの花なんだが…」
 あの花が最後の花だったそうだぞ。白いエーデルワイスの花がな。
「…最後の花?」
 それってどういう意味なの、ハーレイ?
 何の最後なの、エーデルワイスが最後だなんて…。
「地球だ。今の地球じゃなくて滅びゆく地球のな」
 前の俺たちが生きた頃より、もっと前の時代。
 SD体制に入ることが決まって、人類が地球を離れてゆく時。
 エーデルワイスの花を置いて行ったそうだ、ユグドラシルの側に専用のガラスケースを作って。
 いつか、この花が自然に生きられる青い地球が戻って来るように、と。
 そういう祈りを託された花が、地球の最後の花だったのさ。
 エーデルワイスの花が去ってゆく船を見送っていたんだ、もう誰もいない地球の上で。



 例の新聞記事の中身をブルーに話してやったら。
 地球に咲いていた最後の花はエーデルワイスだったと教えてやったら。
「…その話、前のぼくは知らなかったよ?」
 エーデルワイスの苗を奪いに出掛けた時にも、それから後も。
 花が咲いたら見に行っていたし、エーデルワイスのことも何度も調べていたと思うんだけど…。
「俺も知らんさ、ヒルマンだってな」
 エラだって知りやしなかった。前の俺たちが生きた頃には、何処にも無かった情報なんだ。
 グランド・マザーとマザー・システムが何重にもロックしていたわけだな。
 どう調べたって、何処からも決して出て来ないように。
 グランド・マザーが破壊されない限りは、マザー・システムが消えない限りは。
 そんなわけだから、知ろうとしたって知りようがない。
 あのキースでさえ、きっと調べても辿り着けなかったデータだろう。
 もっとも、あいつは調べようともしなかったろうな、地球を離れた人類のその後なんかはな…。



 厳重に封印されていた記録。
 SD体制が滅びない限りは、出ないようにされていた記録。
 地球の上で最後に咲いていた花、人類の船を見送ったというエーデルワイス。
「そんなの、あるんだ…」
 前のぼくたちが生きてた頃には、どう調べたって誰にも分からなかったって話。
 エーデルワイスのことは知ってたつもりでいたのに、まさか最後の花だったなんて…。
「そういうことらしいぞ、今の時代はエーデルワイスを詳しく調べりゃ出て来るそうだが」
 とはいえ、あまり知られてはいないようだな、新聞の記事になるほどなんだし。
 エーデルワイスは人気の花だが、最後の花ってトコまではな。
「そうだね、みんな知らないんだろうね」
 もっと有名な話だったら、エーデルワイスはもっと大事にされていそうだし…。
 この花が見送ってくれていたんだ、って記念品とかも作られそうだし…。
「まったくだ。エーデルワイスも大々的に宣伝されているだろうしな」
 植物園で咲いていますとか、最後の花を見に行きませんかと山登りのツアーを組むだとか。
 それでだ、前の俺たちの船はエーデルワイスを積んでいたってわけなんだが。
 最後の花と同じエーデルワイスを乗せていた船で、前の俺は地球まで行ったんだが…。



「そういえば…!」
 おんなじ花だね、エーデルワイスだったんだものね。最後の花とおんなじエーデルワイス。
「そのシャングリラが地球まで辿り着いた時に、SD体制は終わったんだ」
 最後の花が咲いていた地球に、エーデルワイスを積んでいた船が着いたらな。
「偶然かな…?」
 エーデルワイスが最後の花だった地球に、エーデルワイスを乗せたシャングリラが着いたらSD体制が終わったなんて。
 地球が青い星に戻った切っ掛けの船が、エーデルワイスを積んでいたなんて。
「さてな…?」
 そいつは分からん、神様にでも訊いてみないとな。
 でなきゃエーデルワイスに訊くとか、どっちにしたって難しそうだが…。



 ロマンチックに言うんだったら呼ばれたんだろう、と片目を瞑った。
 エーデルワイスに、と。
 いつの日か地球が蘇るようにと祈りをこめて置いてゆかれた、最後の花に。
「…そうなの?」
 植物が人を呼ぶなんてことが本当にあるの?
 人じゃなくって、エーデルワイスを呼んでいたのかもしれないけれど…。
 帰っておいで、って。
 その船で地球に帰っておいでって、そしたら地球が蘇るから、って。
「現実の世界じゃどうかは知らんが、古典の世界じゃありがちだよなあ…」
 花だって立派に生き物なんだし、人に化けたりもするんだし。
 花の精霊だっているしな、エーデルワイスの精霊だっていないとは言い切れないからなあ…。
「じゃあ、本当にエーデルワイスが呼び寄せたのかな?」
 地球においで、って、シャングリラを。エーデルワイスを乗せていた船を。
「俺にはなんとも分からんがな…」
 前の俺たちは何も知らなかったし、エーデルワイスで地球と繋がってたとも思わなかった。
 俺はシャングリラの舵を握ってただけで、エーデルワイスの声なんぞは聞きもしなかったがな。



 前の自分たちは何も知らずに、エーデルワイスを植えていたけれど。
 白いシャングリラに、ミュウの船に相応しい花だと思って植えたけれども。
 エーデルワイスは地球の最後の花だった。
 滅びゆく地球で、ガラスケースの中から去りゆく人類の船を見送った花。
 その花が残されて朽ちていった星へ、始まりの花がやって来た。同じエーデルワイスの真っ白な花が、白いシャングリラに乗せられて。
 歴史を変えたシャングリラの中にもエーデルワイスが咲いていた。
 SD体制を終わらせ、地球を蘇らせるための引き金を引いたシャングリラに。
 新しい時代の始まりの船に、青い水の星を呼び戻した船に、始まりの花のエーデルワイスが。



「…トォニィ、知っていたのかな…?」
 最後の花がエーデルワイスだったってことを。人類を見送った花だったことを。
「そいつも謎だな、情報の封印は解けてた筈だが…」
 グランド・マザーは壊れちまって、マザー・システムも破壊されて。
 もう封印する必要は無いし、どんなデータでも自由に引き出せる時代になってはいたんだが…。
 興味が無ければ調べんだろうな、人類がどういう風に地球から去って行ったか。SD体制なんて時代が始まる直前の人類がどう生きたのかは。
 おまけに手掛かりが「最後の花」だぞ、地球に残った最後の花。
 俺が思うに、多分、知らんな。トォニィも、他のシャングリラの連中もな…。
「それじゃ、ぼくたちが知ったのが…」
「最初かもなあ、この話はな」
 地球に残された最後の花と、シャングリラに乗ってたエーデルワイスと。
 同じ花だったとは誰も知らないかもなあ、この宇宙はうんと広いんだがな…。



 白いシャングリラが解体された後、宇宙に散って行った仲間たち。
 トォニィも、シドも、フィシスも白いシャングリラであちこち旅をした後に、それぞれの道へと旅立って行った。他の大勢の仲間たちも。
 彼らが語り伝えていないからには、誰も気付いていなかったろう。
 最後の花と、始まりの花。
 地球に残ったエーデルワイスと、シャングリラが地球まで乗せて行ったエーデルワイスの絆に、最後と最初がエーデルワイスの花で繋がっていたということに。



「エーデルワイスが呼んだんだ…。シャングリラを」
 おいで、って。地球に帰っておいで、って…。
「ロマンチストの極みだがな」
 だが、本当にそうかもしれんな、俺があの記事に気付いたってことは。
 たまたま広げた新聞の記事に、エーデルワイスが最後の花だと書いてあったということはな。
「…エーデルワイス、また見てみたいよ」
 今のぼくは一度も見ていないんだし、そんな話を聞いちゃったら…。
 エーデルワイスが呼んでたのかも、って思っちゃったら、エーデルワイスが見たくなったよ。
 高い山には登れないから、栽培してあるエーデルワイスしか無理だけれども…。
「いつか植物園まで行くか?」
 エーデルワイスが咲いている時期に、俺と二人で。
「うんっ!」
 一緒に行こうね、エーデルワイスの花を見に。
 うんと沢山咲いてるといいな、ヒルマンのロックガーデンみたいに。
 植物園ならきっと上手に育ててるだろうし、沢山、沢山、見られるといいな…。



 小さなブルーもエーデルワイスの花を思い出してくれたから。
 白いシャングリラで見ていたことも、その向こうに地球を見ていたことも思い出したから。
 もしもエーデルワイスの苗が手に入るようならば。
 育ててみるのもいいかもしれない、ブルーと二人で暮らす家の庭で。
 地球を後にする人類の船を見送ったという最後の花を。
 シャングリラが運んだ始まりの花を。
「なあ、ブルー。…エーデルワイス、植物園まで見に行くのもいいが…」
 苗があったら育ててみないか、俺たちの家で。
 ヒルマンのロックガーデンみたいに本格的なヤツは無理でも、ちょっと工夫して。
 そしたら今度は自由に摘めるぞ、エーデルワイス。
 俺たちの庭のエーデルワイスを摘んでる分には、誰も文句は言わないからな。
「それ、いいかも…!」
 育ててみようよ、エーデルワイス。
 最後の花で、始まりの花。いっぱい育てて、白い星を庭に沢山咲かせて…。



 「高貴な白」の名を持つエーデルワイス。
 白いシャングリラで育てていた花、前のブルーは摘まなかった花。
 地球に焦がれて眺めていたのに、けして摘もうとしなかった。
 だから今度はブルーに摘ませてやりたい、白い星の花を好きなだけ。
 エーデルワイスの苗が手に入ったなら、二人で暮らす家の庭できちんと育ててやって。
 地球の最後の花で、始まりの花。
 自分たちしか知らないらしい、エーデルワイスの不思議な繋がり。
 それを二人で語り合っては、白い星の花をブルーに幾つも、思いのままに摘ませてやって…。




            最後の花・了

※滅びゆく地球で最後に咲いていた花は、エーデルワイス。SD体制の時代は秘密でしたが。
 そうとも知らずにエーデルワイスを育てた白い箱舟。本当に、花が呼んだのかも…?
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(あれ…?)
 学校から帰ったブルーが目にしたもの。「ただいま」と覗き込んだダイニングのテーブルで母が見ている葉書だけれど。母が葉書を手にしていること自体は、特に珍しくもないのだけれど。
 何故だか懐かしいような気がした、その葉書。届いた時には家にいなかった筈なのに。
 郵便配達のバイクは学校に行っている間にやって来るもの。だから留守の間に届いた筈で、目にしたわけがないというのに。
(…なんの葉書だっけ?)
 前にも見たことがあるのだろうか。母宛の葉書で、似たようなものを。
 部屋へ行こうと階段を上りながら考えてみる。チラリと見えた絵、その色彩に覚えた懐かしさ。絵が描いてある葉書ならば…。
(色々あるよね?)
 母の友人には絵を描く人も少なくないから。絵が添えてある葉書もよく届くから。
 それだろうか、と思ったけれども、懐かしい理由が分からない。そういう葉書を届けてくる人に会ったことは何度もあるけれど。顔だって知っているけれど…。
(…でも、懐かしい…?)
 葉書を見ただけで懐かしくなるほど親しいだろうか、その人たちと。小さかった頃には何処かへ一緒に出掛けたりしたこともあったけれども…。
(ぼく宛に葉書は来なかったし…)
 絵が描かれた葉書はいつも母宛、それを横から眺めていただけ。この間の人だ、と。色々な顔を思い出せるけれど、葉書を見ただけでピンと来る人の記憶は無くて。
(誰だっけ…?)
 謎の差し出し人、と葉書の主が分からないまま、着替えて下りて行ったダイニング。あの葉書を見せて貰って、おやつも食べて…、と。
 そうしたら…。



 おやつを用意して待っていた母が、「覚えてる?」と笑顔で持っていた葉書。さっきの葉書。
(あ…!)
 懐かしい筈だ、と葉書を見詰めた。母宛の葉書には違いないけれど、描かれている絵。幼稚園の頃に自分が描いた絵、クレヨンを使って時間もかけて。
 鮮やかに蘇って来た記憶。「お家の人に手紙を書きましょう」という幼稚園の企画、先生たちが用意してくれた葉書。字の書けない子もいたりしたから、手紙と言っても絵を描いただけ。
 出来上がった葉書は先生が纏めて出してくれた。宛先を書いて。でも…。
(ぼく、頑張って…)
 宛先も自分で書いたのだった。母に住所を書いて貰った紙を見本に、精一杯の字で。
 その葉書がヒョイと時間を飛び越えて届いた、自分の前に。幼稚園の時に家に届いて、父と母が褒めてくれた記憶はあるのだけれども、それきり葉書は見なかったのに。
「懐かしいでしょ?」
 この絵はブルーが描いたのよ。どう、思い出した?
「うん…。宛先もぼくが書いたんだっけ…」
 凄く下手だよね、ぼくが書いた字。郵便屋さんに笑われそうだよ、読めやしない、って。
 頑張ったつもりだったけど…。今になって見たら恥ずかしいかも…。
「そんなことないわ、上手な字よ。だって、ブルーが幼稚園の頃よ?」
 子供は誰でもこんなものなの、恥ずかしくなんかないのよ、ブルー。
 それにね、この葉書はママたちの宝物だから。
 家のポストに届いた時から、大切な宝物なのよ。ブルーから貰った初めての手紙。郵便屋さんが届けてくれた最初の手紙よ、ブルーが「はい」って渡してくれてた手紙と違って。



 言われてみれば、「手紙ごっこ」は何度もやった。画用紙や折り紙に描いた絵や文字、そういう手紙を父にも母にも手渡していた。「お手紙あげる!」と得意満面、郵便ではない子供の手紙。
(初めての手紙…)
 郵便ポストに届くという意味では、確かに最初の手紙だろう。この葉書が。下手くそな字が少し恥ずかしいけれど、懐かしくも思える幼稚園から出した葉書が。
「ママ、なんでこんなの出して見てたの?」
 何か気になることでもあったの、ぼくの葉書に。今頃になって見てるだなんて…。
「ブルーはブルーね、って思っていたのよ」
 この葉書が家に届いた頃には、ソルジャー・ブルーだとは思いもしなかったわね、って。
「ごめんなさい…。ぼく、変なのになっちゃって…」
 生まれ変わりなんかになっちゃって。それまではずっと、パパとママの子供だったのに。ママが産んでくれたから、ぼくがいるのに…。
「それはいいのよ、前にも話してあげたでしょ?」
 ブルーは少しも変わっていないわ、ちょっぴり記憶が増えちゃっただけ。
 ソルジャー・ブルーの分が余分について来ただけで、ブルーはブルーよ、前と同じよ。この家で暮らして、パパとママの子で。学校にもきちんと通っていて。



 でも…、と優しく微笑んだ母。たまに確認したくなるの、と。
「ブルーはママのブルーよね、って。この家で大きくなったんだわ、って」
 ソルジャー・ブルーでも、ブルーはブルー。
 赤ちゃんの時からこの家で育って、間違いなくママのブルーなのよ、って確かめたくなるの。
 ソルジャー・ブルーは英雄だったけど、今はママたちの子供なんだから、って。
「それで葉書なの?」
 ぼくが初めて出した手紙を見てたの、ぼくが幼稚園に行ってた証拠の?
「そうよ、宝物が役に立っているのよ」
 ママたちが貰った大切な手紙。ブルーは手紙を出してくれたし、こんな頃からずっとママたちの側にいてくれて、今もいるでしょ?
 赤ちゃんの頃の写真もあるけど、ブルーから貰った手紙は特別。幼稚園に行ってた頃のブルーがいたって証拠よ、ブルーが描いた絵と、書いてくれた字。



 母の宝物だという葉書。幼稚園から出して貰った葉書。
 子供が描いた絵と下手くそな宛先、それでも宝物にしている母。遠い地域に住む祖父母たちも、手紙を大事に持っているらしい。ブルーが今までに出したものを、全部。
「全部?」
 お祖父ちゃんたちが全部持っているの、ぼくが書いた手紙を?
 葉書も手紙も、捨てないで全部持ってるの…?
「そうよ、きちんと箱に入れてね。これはブルーから届いた手紙、って」
 誰でも、そういうものなのよ。大切に持ってて、ママみたいに時々、取り出して読むの。
 そしたらブルーが側にいるみたいに思えるでしょう?
 今のブルーも、もっと小さな頃のブルーも。
「えーっ!」
 宝物だって言うの、お祖父ちゃんたちまで箱に仕舞って残しているの?
 ぼくが出した手紙、全部、宝物にされちゃってるんだ…?



 上手に書けた手紙はともかく、下手な手紙も沢山ある筈。小さな頃にはせっせと手紙を書いたりしたから、きっと山ほど。
 まさか宝物になっていたとは思わなかったから、手紙が残っているのはショックで。
(…ホントに下手くそなのが沢山…)
 あんまりだよ、と母に訴えたけれど、「この葉書と同じで宝物なのよ」と笑みが返っただけ。
 祖父母たちにとっては大切なもので、今も見ているかもしれないと。こんな頃もあったと、まだ小さかったと、最初に貰った手紙を眺めているのかも、と。
 そう言われたら、もう敵わないから。勝てはしないから、曖昧に笑っておくしかなくて。
 おやつを食べ終えて部屋に戻ってから、頭を抱えた宝物の手紙。祖父母の大切なコレクション。下手くそな手紙も多いのに。きっと沢山ある筈なのに。
(…捨てちゃって下さい、って手紙を出す?)
 上手に書けている手紙以外は捨てて下さい、と手紙を書いたら、祖父母に届くだろうけれど。
 郵便配達の人がポストに届けてくれるだろうけれど、その手紙だって手紙だから。ブルーからの手紙に違いないから、下手な手紙を捨てる代わりに、その手紙まで残してしまわれそうで。
 「ブルーがこんな手紙を寄越した」と面白がられて、大切に箱に入れられそうで。



(それじゃ駄目だよ…)
 祖父母たちのコレクションがまた増えるだけ。「捨てて下さい」という情けない文面が綴られた手紙はきっと特別扱い、宝箱の一番上に仕舞われてしまうに違いない。捨てるものか、と。
(お祖父ちゃんたちの宝物…)
 手紙を残されていたなんて知らなかったと、恥ずかしすぎると、溜息しか出て来ないけれども。本当に顔から火が出そうだけれど、ハタと気付いた。
 自分だったらどうだろう?
 宝物にしたいような手紙を受け取ったのが自分だったなら。それがポストに入っていたなら。
(ハーレイの手紙…)
 それを自分が貰ったことは無いけれど。ポストに入っていたことも無いし、手渡されたことさえ無いけれど。ただの一度も手紙は貰っていないけれども、貰えばきっと残しておくから。どんなにつまらない用件だろうと、大切に机の引き出しに仕舞っておくのに違いないから。
(お祖父ちゃんたちも一緒…)
 仕方ないか、と手紙の処分はもう諦めることにした。恋人からの手紙も、孫からの手紙も、貰う方にとっては宝物だから。捨ててしまうなど、とんでもないから。
(これからは上手な手紙を書こう…)
 祖父母に宝物にされても、恥ずかしくない立派な手紙。文面はもちろん、字だって綺麗に。そう決めたけれど、これ以上の恥はかくまいと心に決めたのだけれど。
 でも…。



 祖父母の気持ちが理解出来た切っ掛け、恋人からの手紙。ハーレイの手紙。
(…貰っていないよ…)
 今の自分も貰っていないし、前の自分も貰っていない。ただの一度も、葉書でさえも。
 ハーレイの手紙なんかは知らない。どういう手紙を書いて寄越すのか、自分は知らない。一度も貰ったことが無いから。ハーレイの手紙を読んだことが一度も無いのだから。
(今のぼくは駄目でも、前のぼくなら…)
 子供扱いの自分はともかく、本物の恋人同士だった前の自分の方なら、ラブレターの一通くらい貰っていてもいい筈なのに、と思ったけれど。それが当然、と考えたけれど。
 恋人同士には違いなくても、前の自分たちは誰にも秘密の恋人同士。ソルジャーとキャプテンが恋人同士だと明かせはしないし、最後まで隠し続けたのだから、ラブレターなどは…。
(貰えないよね?)
 手紙という形で愛を綴ったら、何処から漏れるか分からない。形にしてはならない恋。
 だからラブレターは一度も貰っていないし、自分も書きはしなかった。前の自分も、ハーレイも持っていなかった。手紙という名の宝物は。ただの一通も、ただ一枚の葉書でさえも。
 そうだったっけ、と納得したのだけれど。



(ちょっと待って…!)
 手紙という名の宝物。今の自分の母も祖父母も、大切にしている自分の手紙。今の自分が書いた手紙が宝物だと聞いたのだけれど。
(…前のハーレイ…)
 前のハーレイの手元には何も残らなかった。宝物どころか、前の自分がいた名残すらも。
 前の自分がいなくなった後、メギドで死んでしまった後。ハーレイは前の自分の銀色の髪の一筋でも、と青の間へ探しに行ったのに。部屋は綺麗に掃除されてしまって、何も残っていなかった。前の自分が綺麗好きだったから、係が掃除をしてしまって。
 係は知らなかったから。前の自分が二度と戻らないとは夢にも思っていなかったから。
 戻ったら直ぐに休めるようにと、整えられていたベッドに、水まで入れ替えられた水差し。前の自分が最後に水を飲んだのかどうか、それさえもハーレイには分からなかった。
 そんな青の間に銀の髪など落ちてはいなくて、前のハーレイは何も持つことが出来なくて。
 前の自分を偲ぶためのものは何一つ無くて、長い年月を独りぼっちで生きて死んでいった。青くなかった地球の地の底で、白いシャングリラを無事に地球まで運んだ後で。



 もしもあの時、手紙を書いておいたなら。
 メギドに向かって飛び立つ前に、ハーレイに宛てて手紙を一通、書いていたなら…。
 ハーレイはそれを宝物にすることが出来ただろう。母が持っていた葉書のように。祖父母の家で箱に仕舞われているらしい、今までに書いた手紙のように。
 前のハーレイはそれを宝物にして、何度も取り出して読めただろう。何度も何度も繰り返して。中身をすっかり暗記するほどに、開かずともすらすらと思い出せるくらいに。
(ラブレターじゃなくても…)
 前のハーレイへの別れの挨拶。長い年月、共に生きてくれたことへの感謝をこめて。
 それを書いてからメギドに行けばよかった、ハーレイに宛てた手紙を残して。
 あんな風に言葉を残すよりも。
 腕に触れて思念を送り込んだだけの、何の形も残らない別れの言葉よりも。



(言葉も残さなきゃいけなかったけれど…)
 ジョミーを支えてやってくれ、という言葉は必要だったけれども。それだけだった別れの言葉。
 「頼んだよ、ハーレイ」と、告げて終わりで、それも必要だったのだけれど。ソルジャーとして言うべきことだったけれど、恋人同士の別れは告げられなかったけれど。
(…あれはブリッジだったから…)
 ブリッジで、皆が周りにいたから。恋人同士だと知られるわけにはいかなかったから。
 だから最後まで、別れの時までソルジャーとキャプテン、そう振舞った。自分もそうだったし、ハーレイの方でも自分を止めはしなかった。これが最後だと分かっていても。二度と会えないと、もう戻らないと気付いていても。
 けれど、手紙を残していたら。それを書いて置いて行ったなら。
 手紙が何処に置いてあろうとも、キャプテン宛の手紙だったら、誰も開けたりしなかったろう。開いて中を読むよりも前に、ハーレイの許へ届けただろう。
 ソルジャーの手紙なのだから。それも最後の、キャプテン宛の手紙。
 内容は機密事項か何かで、シャングリラの今後を左右するかもしれない手紙。キャプテンだけが知るべきことだと、それで充分だと、誰も中身を知ろうとも思わなかっただろう。
 手紙を見付けたのがエラやヒルマンといった長老たちでも、ジョミーであっても。



(ハーレイが死んじゃった後に誰かが見ても…)
 大丈夫な手紙を書けば良かった。恋人同士には見えない手紙を、親しい友からの別れの手紙を。
 「ありがとう」と。「君のお蔭で楽しかった」と、「またいつか会おう」と。
 そういう手紙を残せば良かった、そうすればハーレイは宝物を一つ持っていられた。前の自分の髪の一筋が無かったとしても、代わりに手紙。前の自分が綴った手紙を。
 それがあったら何度でも読めた、前の自分が綴った言葉を、想いを何度も読み返せた。何処にも愛の言葉が無くても、手紙の向こうにそれを読み取れた。「ありがとう」と、「愛していた」と。
 たった一通の手紙さえあれば。「ありがとう」と書かれた手紙があれば。
(ぼくって、馬鹿だ…)
 どうして思い付かなかったのだろう、ハーレイに手紙を残すことを。それを綴ってゆくことを。
 時間は充分にあったのに。下書きをしたり、文を練ったり、そんなことさえ出来ただろうに。
(…手紙なんか書いていなかったから…)
 前の自分が生きていた頃、手紙を書く習慣は無かったから。
 白いシャングリラに郵便配達のシステムなどは無くて、ポストも存在しなかったから。
 ハーレイに宛てて書くのはもちろん、他の仲間たちに宛てても手紙を書きはしなかった。私的な手紙も、公的な手紙も、ただの一度も。
 ソルジャー主催の食事会などには招待状もあったけれども、あれは手紙とは言わないだろう。



 シャングリラには無かった手紙なるもの。
 前の自分も書かなかったし、ハーレイからも届かなかった。レトロな白い羽根ペンで航宙日誌を綴ったハーレイでさえも、手紙は思い付かなかったといった所か。
(でも、ラブレター…)
 愛の手紙を交わす恋人たちならいた。レターセットも存在していた。配達するためのシステムは無くて、自分で届けるか誰かに頼むか、そんな手段しか無かったけれども、手紙はあった。
 ラブレターだの、招待状だの、そういった時のものだったけれど。私的どころか趣味の世界で、そうでなければ演出手段。ソルジャー主催の食事会です、と招待状が出されたように。
 とはいえ、手紙はあったのだから。レターセットも手に入れられたのだから。
(一度くらい…)
 書けば良かった、ラブレターを。前のハーレイに宛てて、想いを綴って。
 恋人同士の仲は秘密だから、「読んだら捨てて」と言ってでも。本当に捨てられてしまっても。
 ハーレイがどんなに恥ずかしがっても、「愛しているよ」と想いをこめて。



 そんな手紙は書かないにしても、別れの手紙。それだけは書いておくべきだった。
 ソルジャーからキャプテン宛のものでも、中身もそういうものであっても。長い年月を白い鯨で共に過ごした、友への別れの手紙であっても。
(…お別れなんだし、もっと欲張りに…)
 最初で最後のラブレターを書いても良かったかもしれない。ソルジャーからキャプテンに宛てた最後の手紙は、誰も開けたりしないから。中を見ようとはしないだろうから。
 ハーレイへの想いを、心のままに。いつまでも好きだと、愛していると。たとえこの身が消えてしまおうとも、魂は君の側にいるから、と。
 そう綴ってから逝くのも良かった、ハーレイへの愛を、想いの全てを。
 手紙を開けようとする者はいないし、内容を知ろうとする者だっていないのだから。
(燃やせ、って書いておいたなら…)
 読み終わったら燃やしてくれ、と書き添えておけば、秘密は漏れなかったと思う。最初で最後の愛の手紙は灰になって消えて、ハーレイの心の中にだけ。前の自分の想いと共に。
(でも、ハーレイは…)
 きっと燃やさずに残しただろう。誰にも気付かれない場所に。
 そうして取り出して、何度も何度も読んでいたろう、「燃やせ」と書き添えられた手紙を。
 流石に地球に降りる前には処分したかもしれないけれど。
 暗殺の恐れもあった地球だから、これは駄目だと燃やしたのかもしれないけれど。



 もしも手紙を残していたら、と考えるほどに、書いておけば良かったと心が締め付けられる。
 どうして思い付かなかったかと、手紙を残すべきだったと。
(ホントに馬鹿だ…)
 時間は沢山あったのに、と自分を責めていたら、チャイムが鳴って。窓に駆け寄ったら、門扉の向こうで手を振るハーレイ。
 これは訊くしかないだろう、とハーレイが部屋に来るのを待った。いつものように向かい合って座って、母の足音が消えてから…。
「ハーレイ、ラブレター、欲しかった?」
「はあ?」
 なんの話だ、と鳶色の瞳が丸くなったから。
「前のぼくからのラブレターだよ、それがあったら良かったかな、って…」
 ママがね、ぼくが幼稚園の時に出した葉書を大切に持っているんだよ。ママの宝物なんだって。
 お祖父ちゃんたちも、ぼくが出した手紙を全部大事に残しているって聞いたから…。
 それで考えたんだよ、前のハーレイのことを。
 前のハーレイ、前のぼくの手紙が残っていたなら、独りぼっちでも少しは辛くなかった?
「お前からの手紙か…。なるほどなあ…」
 そりゃあ、少しは紛れただろうな、前の俺が感じていた孤独。
 手紙を開けば、そこにお前の書いた字と言葉が残ってるんだし…。
 きっとお前の声まで聞こえるような気持ちになっただろうなあ、読んでいる時は。



「やっぱり、そういうことなんだ…。前のぼくの手紙が残っていたら」
 ごめんね、ぼくは思い付かなかった。手紙を書こうと思いもしないでいたんだけれど…。
 ハーレイに手紙を書けば良かった、普段は一度も書いてなくても、お別れの時に。
「お別れって…。メギドの時のことか?」
「うん。…行く前に時間は充分あったよ、長い手紙でも書けたんだよ」
 あんな言葉を残して行くより、手紙を書いておけば良かった。
 キャプテン宛の手紙だったら、青の間にあっても誰も開けたりしないから…。ソルジャーからの最後の手紙で、きっと大事な中身なんだと思うだろうから…。
 誰が見付けても、ハーレイの所へちゃんと届くよ、開けられないで。手紙に何が書いてあったか訊かれもしないよ、機密事項かもしれないから。エラたちにだって言えないような。
 そうやって青の間に残してもいいし、ハーレイの部屋に瞬間移動で届けておいても良かったね。ハーレイの机の上に置くとか、引き出しの中に入れておくとか。
 そういう手紙だよ、ハーレイのための。
 …ぼくが何処にもいなくなっても、ハーレイが寂しくないように。ぼくの手紙を読めるように。
 ぼくからの最後のラブレターなんだよ、最初で最後の。



「…ラブレターなのか?」
 お前が俺宛に書いていく手紙、中身はラブレターだったのか?
 普通の別れの手紙じゃなくてだ、ラブレターを書きたかったのか、お前…?
「それも良かったかな、って思って…」
 前のぼくは手紙を書こうとも思っていなかったけれど、今のぼくだから思うことだけど…。
 同じ手紙を書くんだったら、ラブレターの方がハーレイだって嬉しくない?
 ちゃんと「読み終わったら燃やしてくれ」って書いておくから、ラブレターだよ。
 …残しておいても大丈夫なように、普通の手紙でもいいんだけれど…。
「おいおい、ラブレターってヤツはマズイぞ、マズすぎるってな」
 俺たちの仲がバレちまうじゃないか、そんな手紙を置いて行かれたら。
 お前が「燃やしてくれ」と書いていようが、「捨ててくれ」と大きく書いてあろうが。
 …俺はそいつを捨てられやしない、お前からの最後の手紙なんだぞ?
 しかも最初で最後のラブレターなんぞを貰っちまったら、捨てられるわけがないだろうが。
 燃やせもしないし、そいつはマズイ。
 ラブレターじゃなくて普通の手紙で頼みたかったな、書いてくれると言うならな。
 親友向けの別れの手紙で充分じゃないか、まるで手紙が無いよりは。
 前の俺はお前の手紙なんか一つも持ってはいなかったんだし、そういう手紙で満足だったさ。



 普通の手紙にしておかないと後で色々とマズイことに…、と苦笑するハーレイ。
 前の自分は
手紙を処分出来はしないし、歴史も変わってしまっただろうと。
「いいか、シャングリラに残っちまうんだぞ、前のお前のラブレターが」
 前の俺が死んじまったら、航宙日誌と同じでキャプテンの部屋から発掘されて、だ…。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは本当は恋人同士でしたと、すっかりバレてしまうことになるんだが…。
 シャングリラどころか、宇宙全部に話が広がっちまうんだが…?
「そうなっちゃうかもしれないけれど…。ハーレイが処分しないままなら、そうなるけれど…」
 地球に降りる前なら、どうだった?
 ハーレイ、何度も言っているよね、暗殺されるかもしれないと思っていたってこと。
 暗殺の心配があるんだったら、前のぼくの手紙、処分してから出掛けない…?
「ああ、地球なあ…!」
 地球があったな、あの時は確かに死ぬかもしれんと思って出掛けて行ったわけだし…。
 後に残ってマズイようなものを持っていたなら、処分してから出掛けただろうな。
 しかしだ、前のお前の手紙となったら、処分する代わりに大切に持って降りたかもしれん。
 前のお前が行きたかった地球だ、あんなとんでもない星でもな。
 お前を連れて行くような気持ちで、誰にも見られないよう、服の下に大事に仕舞い込んで。
 「地球に来たぞ」と、「ちゃんと見えるか?」と服の上から何度も押さえて。
 そうやって持って行っただろうなあ、処分するより、俺と一緒に地球へ降りようと。



 前の自分がラブレターを書いて残していたなら。
 「燃やしてくれ」と書いてあっても、ハーレイは大切にそれを持ち続けて、繰り返し読んで。
 最後は地球まで持って行ったと、懐に入れて一緒に地球へ降りたのだろうと話すから。
「それなら処分出来たじゃない。前のぼくの手紙」
 誰もあったと気付きはしないよ、ハーレイの服の下だったなら。
 ハーレイはタイプ・グリーンだったんだし、遮蔽はタイプ・ブルー並みだよ?
 そんなハーレイが何を持っていたか、トォニィにだって分かりはしないし、気が付かないし…。
 前のぼくの手紙、地球の地面の下で燃えてしまったと思うんだけど…?
 どんなに長いラブレターでも、ハーレイのことが好きだってハッキリ書いてあっても。
「…そうか、その手紙、地球で燃えちまうんだな、俺の身体と一緒にな」
 前の俺の身体は何処へ消えたか、誰にも分からないんだし…。
 ユグドラシルがあった辺りで死んだらしい、としか記録も残っていないんだし…。
 なら、バレないのか、前のお前が書いておいてくれたラブレター。
 後生大事に残していたって、そんな手紙があったことすら、誰にも分からないんだな…?
「うん、燃えちゃったらおしまいだからね」
 前のぼくが書いておいた通りに、燃えてしまって消えるんだよ。
 前のハーレイが自分で燃やさなくても、最後まで大事に持っててくれても。
 ぼくの手紙は残りはしなくて、前のハーレイと恋人同士だったこともバレずにおしまい。
 前のぼくが最後に書いた手紙が、ハーレイへのラブレターだったってことも。



 前のハーレイに宛てて書いた手紙は、どんな中身でもハーレイの慰めになっただろうから。
 最初で最後のラブレターを書いて残したとしても、その手紙は誰にも知られることなく、地球の地の底で消えただろうから。
「…ハーレイに残しておけば良かったね、手紙…」
 メギドへ行く前に、レターセットをコッソリ貰って来て。
 親友っぽく書いた手紙でもいいし、最初で最後のラブレターでも良かったし…。
 書いて青の間に置いておくとか、ハーレイの部屋に届けておくとか。
 そしたら、その手紙、ハーレイの宝物になったんだろうし、ハーレイは何度も読み返せたし…。
 本当に書いておけば良かった、どんな手紙でも。ラブレターでも、そうじゃなくても。
「そうだな…。前のお前の手紙というのも良かったな…」
 親友向けの別れの手紙だったら、俺は号泣していただろう。最後まで隠しやがって、と。本当はこんな手紙じゃなくって、別のことを書きたかったんだろうに、と。
 …ラブレターだったら、もっと泣いたな。「燃やしてくれ」と書いてあったら、余計にな。誰が燃やすかと、俺に出来ると思うのか、と。
 お前だけ勝手に逝きやがってと、この手紙の返事を書こうにもお前がいないのに、と。
 親友向けだろうが、ラブレターだろうが、きっと読む度に俺は泣いたんだ。
 書いていた時のお前を思って、お前に返事を書いてやりたいと、何度も何度も。
 だがな…。



 読む度に泣くしかない手紙でも、欲しかったかもな、とハーレイが言うから。
 そういう手紙を貰っていたなら、きっと宝物にしていただろうと、遠く遥かな時の彼方を鳶色の瞳で見ているから。もしもあの時、手紙があれば、と思っているのが分かるから…。
「あのね…。前のぼくは手紙を書かないままになっちゃったけど…」
 ハーレイに手紙を渡せないままで終わったけれど。
 今度はきちんと手紙を書くよ。前のハーレイが欲しかった手紙の代わりに、手紙。
「手紙って…。お前、何処へ行くつもりなんだ?」
 旅行にでも行くのか、お父さんたちと?
 家族旅行に出掛けた先から俺に手紙か、絵葉書とかか?
「ううん、違うよ。ちょっと近くまで」
 ハーレイと結婚した後のことだよ、ハーレイの留守に、ぼくが近所に出掛ける時。
 まだ仕事から帰ってない時とか、柔道の道場に行ってる時とか。
 もうすぐハーレイが帰りそうだけど、と思う時間に、買い物を思い出したりした時のこと。



 行って来ます、と書いたメモの手紙を置いておくよ、と笑ったら。
 直ぐに戻るから、って行き先も書いておくから、早く帰ったら迎えに来てね、って甘えたら。
「近所までか…。それなら許す」
 メモを見付けたら、俺は急いで迎えに行くが…。
 その手の手紙は大歓迎だが、別れの手紙は厳禁だぞ?
 どんなに熱烈なラブレターだろうが、そいつは要らん。前の俺が貰い損ねたヤツはな。
「お互い様だよ、ぼくもそんな手紙は貰いたくないよ」
 ハーレイからお別れの手紙だなんて、もう絶対に要らないからね!
 お断りだし、ぼくも書かない。お別れなんかは無いんだから。
 ずうっとハーレイと一緒なんだし、そんな手紙は書かなくってもいいんだから…!



 そう、今度は二人、何処までも一緒。
 青い地球の上で二人で暮らして、手を繋ぎ合って歩いてゆく。
 死ぬ時も二人一緒なのだから、そうするつもりなのだから。
 別れの手紙は書かなくていいし、そんな機会も巡っては来ない。
 だから普段に、ハーレイに宛ててメモくらい。
 ほんの近所まで出掛けるけれども、ハーレイが帰るまでに戻れそうにない時は、小さなメモ。
 行って来ますと、直ぐに戻るよ、と短い手紙。
 早く帰ったら迎えに来てね、と行き先も書いて、ハートマークも添えたりして…。




               宝物の手紙・了

※前のハーレイに手紙を残して行けば良かった、と思ったブルー。メギドに飛ぶ前に。
 それがあったら、ハーレイも救われた筈なのですが…。書けなかった分まで、今度は幸せに。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









(届かない…)
 まだまだ無理、とブルーが見上げたクローゼット。
 学校から帰って、おやつを食べて。自分の部屋に戻った後で、クローゼットが目に入ったから。見た目は普通のクローゼットで、ずっと前からあるのだけれど。部屋に馴染んだ家具だけれども。
 この春から一つ、秘密が出来た。特別になったクローゼット。
 正確に言うなら春ではなくて初夏かもしれない。鉛筆で微かな印をつけた時から、秘密が一つ。前の自分の背丈の高さに引いた線。クローゼットに書いた目標、こうして見上げて溜息をつく。
 五月の三日に出会ったハーレイ、再会を遂げた前の生からの自分の恋人。
 直ぐにでもキスをしたかったのに。抱き合ってキスして、それから、それから…。
 恋人同士の絆を確かめ、前とすっかり同じように。離れていた時を取り戻すように、ハーレイと愛を交わしたかったのに。
 キスさえも駄目と言われてしまった、今の自分は子供だから。十四歳にしかならない幼い子供。
 そんな子供にキスは早いと、前の自分と同じ背丈に育つまでは駄目だと叱った恋人。それまではキスは頬と額だけ、唇へのキスはしてやらないと。



 そう言われたから、クローゼットに印をつけた。前の自分の背丈の高さを床から測って。
 母に見付かって叱られないよう、鉛筆で微かに引いておいた線。床から百七十センチの所に。
(あと二十センチ…)
 今の自分の背丈はたったの百五十センチ、百七十センチまではまだ遠い。二十センチもの大きな違いで、それに加えて問題が一つ。前の自分の背丈との差の二十センチ。
 これが少しも縮んでくれない、一ミリさえも縮みはしない。春はとっくに過ぎてしまって、夏も終わって秋なのに。草木も子供もよく育つ夏が、育ち盛りの年の夏休みがあったのに。
(ちっとも縮まらないんだけれど…)
 伸びてくれない自分の背丈。百五十センチから伸びない背丈。
 ハーレイと再会した日から全く変わらないままで、ハーレイにかかれば「チビ」の一言。チビはチビだと、お前はほんの子供なんだ、と。
 クローゼットに秘密の印をつけた時には、直ぐに育つと思ったのに。二十センチの差はみるみる縮んで、前の自分の背丈になる日が順調に近付くと思っていたのに。
 そうだと思って浮かれていたのに、まるで伸びてはくれない背丈。未だに卒業出来ないチビ。
 一ミリずつでも育ってくれたら、チビと笑われはしないのに。
 「キスは駄目だ」と叱るハーレイも、子供扱いをやめてくれるだろうに。
 それなのに一ミリも伸びない背丈。チビで子供の姿の自分。
 縮まらない差も問題だけれど、それに加えて。



(あの高さの視点…)
 前の自分の背丈になったら、この部屋がどう見えるのか。二十センチ伸びたら、部屋の見え方はどう変わるのか。チビの自分の視点ではなくて、前の自分の視点で見た部屋。
 あの線を引いた日、ちゃんと確かめた。こんな感じ、と見回した部屋。
 床から二十センチ離れて、今の背丈に二十センチをプラスして。
 背伸びしたわけでも、爪先立ちしたわけでもなくて、フワリと床からサイオンで浮いた。自分の身体を浮き上がらせて、印の高さに頭を合わせた。前のぼくの背はここまでだった、と。
 まるで違って見えた部屋。二十センチも背が高くなると、普段は見えないものまで見えた。棚の上に置いた物の角度も違って見えたし、他にも色々。
 いつかはこんな風に見えるようになるのだから、と何度も浮いたり、床に下りたり。
 今の自分との違いを楽しみ、そこまで育つ日を夢見て浮いた。この高さまで育つのだから、と。
 心を弾ませて何度も浮いてみた高さ、前の自分と同じ視点で眺めた部屋。こう見えるんだ、と。前のぼくの目でこの部屋を見たら、こんな感じに見えるんだよ、と。
 楽々と浮いて、身体を浮かせて、また下りてみて。
 高揚した気分で味わった世界、前の自分と同じ背丈に育ったら見えるだろう世界。
 けれど…。



 全然無理、とクローゼットの印を見上げて溜息をついた。
 二十センチの差が縮まらないことも問題だけれど、あの日、自分が見ていた世界。いつか育てば見える筈の世界。
 それが見えない、どう頑張っても。いくら睨んでも、少しも近付かない印。
(やっぱり浮けない…)
 あれ以来、浮けた試しがない。前の自分の背丈の高さに並べられない、自分の頭。床から浮いて並べはしなくて、両足は床についたまま。ほんの一ミリも浮いてはくれない。
 前と同じにタイプ・ブルーに生まれたけれども、今の自分はとことん不器用。サイオンの扱いが上手くいかない、思念波さえもろくに紡げないレベル。
 空は飛べないし、身体も浮かない。どう頑張っても、自分の意志では浮き上がれない。
 クローゼットに印をつけていた日は、前の自分が現れたのか、と思うくらいに浮かない身体。
 今日も印を睨み付けるけれど、床から離れてくれない足。印の高さまで浮けない身体。
(いつもそうだけど…)
 クローゼットの印を見る度、努力するけれど何も起こらない。今の自分の身体は浮かない。
 元々、不器用だったサイオン。
 ハーレイの家まで無意識の内に飛んでしまった瞬間移動も、たった一度きり。



(あれって、前のぼくだった…?)
 瞬間移動の件はともかく、クローゼットに印をつけた日。
 前の自分の背丈はこれだけ、と身体を浮かせて、この部屋を眺めていた自分。小さな自分の目で見る部屋との違いに感動していた自分。
 浮いたり下りたり、何度も何度も試して遊んだ。いつかここまで育つんだから、と。
 あの日の自分は、自分には違いなかったけれど…。
(前のぼくかと思っちゃうよ…)
 遠く遥かな時の彼方から、前の自分が来たのかと。今の自分の身体を使って遊んだのかと。
 そういうこともあるかもしれない、今の幸せを味わいたくて前の自分が現れることも。自分でも意識しない間に、ヒョイと現れて小さな身体を好きに使ってゆくことも。
(どうせだったら、ぼくに尋ねてくれればいいのに…)
 使っていいかと訊いてくれれば、もちろん「うん」と元気に答える。そして、自分も前の自分に頼んでみる。少し力を貸して欲しいと、サイオンを使ってみたいんだけど、と。
(そしたら身体も浮かせられるし、空も飛べるし、瞬間移動も…)
 出来るんだけど、と思うけれども、自分は二人もいないから。自分同士で会話が成り立つわけがないから、無理なものは無理。前の自分の力を借りることなどは夢物語。



 今日も浮けない、と諦めた末にトンと床を蹴った。
 この高さまで、と飛び上がってみた、百七十センチの所につけた印の高さまで。
 ほんの一瞬だけ目に入った世界、前の自分の視点から見た自分の部屋。これだ、と大きく弾んだ心。育ったら部屋はこう見えるんだ、と。
 けれどもストンと落っこちた身体、床へと戻ってしまった両足。もう見えはしない、前の自分と同じ背丈で眺める世界。今よりも二十センチ育って大きくなったら、見える筈の世界。
 ずっと眺めていたいけれども、ジャンプしないと届かない高さ。それも一瞬だけ、すぐに身体は床へと落ちてしまうから。
 また見たいのなら、床を蹴るしかないけれど。ジャンプするしかないのだけれど…。
(何度も飛べない…)
 床に落ちたら音がするのだし、階下の母にもきっと聞こえる。一度くらいなら気にもしないし、何か落としたのか転びでもしたかと、首を傾げるくらいだろうけれど。
 何度も繰り返し飛んでいたなら、何をしているのかと部屋まで様子を見に来そうだから。「何の音なの?」と尋ねられるだろうから、何度もジャンプは繰り返せない。
 クローゼットの印の高さに自分の頭を合わせたくても。前の自分の背丈で眺める、まるで違った部屋の景色を心ゆくまで見てみたくても。



(あと二十センチ…)
 今の自分には届かない世界、そこまで伸びてくれない背丈。いつ育つのかも分からない背丈。
 さっき一瞬、ジャンプしてそれを体験したから。こう見えるのだ、と部屋を見てしまったから。
 今日はどうしても味わってみたい、前の自分と同じ背丈で眺める世界。
 クローゼットに印をつけた日、何度も試していたように。この高さだと何度も眺めたように。
 けれども自分は浮けはしないし、ジャンプも何度も出来はしないから。
(えーっと…)
 椅子に乗ったのでは高すぎる。二十センチどころか、もっと高さがあるのが椅子。
 本を積んだら上手い具合にいきそうだけれど、本を踏むのは行儀が悪い。積み上げた上に立ってみるなど、とんでもない。一番良さそうなものではあるのだけれど。
(いい高さのもの…)
 二十センチくらいの高さで、乗ってもペシャンと潰れないもの。何か無いかと見回したけれど、生憎と何も見付からないから。丈夫な箱なども何も無いから。
(大は小を兼ねる、って…)
 そう言うものね、と勉強用の椅子をクローゼットの側まで運んで行った。二十センチよりも高いけれども、無いよりはマシ、と。



 クローゼットの隣に置いた椅子。その上に上がってみたけれど。
 座面の上に両足で立ってみたけれど、椅子の高さは二十センチより高いから。前の自分の背丈の印は目の高さよりも下になってしまって、それに合わせるなら屈むしかなくて。
(やっぱり違うよ…)
 これじゃハーレイみたいだし、と高くなりすぎた自分の視点を嘆いた所で気が付いた。
(そうだ、ハーレイ!)
 前の自分よりも背が高かったハーレイ、今ほどではなくても充分にあった背丈の差。前の自分が背伸びしてみても、ハーレイの背には敵わなかった。
 それほどに背丈の高いハーレイだけれど、この椅子があれば、そのハーレイの視点で見られる。この部屋がハーレイにはどう見えているか、どんな景色を見ているのかを体験できる。
 前の自分の背丈の視点も気になるけれども、それよりも高く出来るのだから。椅子が高い分だけ上へと視点を移せるのだから、ハーレイの世界を見てみたい。
 あの鳶色の瞳が見ている部屋を。ハーレイの視点から眺めた自分の部屋を。



 そう考えたら、もう止まらない。それが見たくてたまらない。
(んーと…)
 椅子の高さが足りるかどうかが気になったけれど、どうやら足りてくれそうだから。ハーレイと今の自分の背丈の違いを、ちゃんと補ってくれそうだから。
(よし!)
 やろう、と勉強机から取って来た物差し。それと透明な接着用のテープ。
 前の自分の背丈の高さを書いた印の上、ハーレイとの身長の差を物差しで測った。今でも忘れていないから。二十三センチ違った背丈。ハーレイの背丈は百九十三センチ、前も、今でも。
 流石に印はつけられないし、と持って来ていた透明なテープ。五センチほどの長さに切って来たそれを、クローゼットにペタリと貼り付けた。ハーレイの背丈はこの高さ、と。
(出来た!)
 ハーレイの頭の高さは此処、と大きく頷いて、椅子からピョンと飛び下りて。物差しを勉強机に返して、それから椅子の上へと戻った。ハーレイの世界を味わうために。



 透明なテープを貼った高さに、自分の頭を合わせてみて。椅子の上で慎重に姿勢を整えて。
 こうだ、と固定したハーレイの視点と同じ筈の高さ。その高さから部屋を見回して大満足で。
(そっか、ハーレイにはこう見えてるんだ…)
 勉強机や、いつも二人で使うテーブルと椅子や、本棚などが。
 いつも自分が見ているのとはまるで違った、その見え方。前の自分の背丈以上に高い場所から、ハーレイはこういう風に見ている。今の自分が住んでいる部屋を。今の自分の小さなお城を。
 新鮮な景色に驚いていた間は良かったけれど。
 キョロキョロしていた間は幸せだったのだけれど、ふと目に入ったクローゼットに書かれた印。鉛筆で微かに引いた線。前の自分の背丈の高さに。
 それはずいぶん下の方にあって、二十三センチの差はとても大きい。そして今の自分の方だと、その印よりも更に二十センチも下に頭があるわけで…。



(すっごくチビ…)
 今の自分の背丈の印は無いけれど。クローゼットに書いてはいないけれども、二十センチの差と二十三センチの差は、それほど大きく違わないから。
 ハーレイの背丈の高さで見ている自分が見下ろした印、そこまでの差が二十三センチ、そこから下へと同じくらいに見下ろした所が今の自分の頭の高さ。頭の天辺。
 ハーレイはいつもそれを見ている、この高さから。今の自分の小さな頭の天辺を。
(…四十三センチ…)
 見上げるように背の高いハーレイ、その差は分かっていたけれど。四十三センチも違うと何度も思ったけれども、こうして見たことは無かったから。
 小さな自分が見上げるばかりで、ハーレイの視点から眺めた自分がどんな風かは、まるで考えもしなかったから。
(…ぼくって、こんなにチビだったんだ…)
 ハーレイがキスもしてくれないわけだ、と肩を落として椅子から下りて。
 改めてテープの高さを見上げた、ハーレイの背丈はあんなに高い、と。あそこから見れば自分は本当にチビで子供で、どうしようもなくて。
 キスしようにも腰をどれほど屈めればいいのか、ハーレイにすれば笑い事かもしれないわけで。とんでもないチビが一人前にキスを強請ると、笑っているかもしれないわけで…。



 子供扱いされるわけだ、と納得せざるを得ない状況。
 ハーレイの視点が分かったら。椅子の上に上がってそれを見てみたら、ハーレイの瞳が見ている世界を自分で確認してみたら。
(ホントのホントに、チビで子供で…)
 キスが駄目でも仕方ないかも、と項垂れていたら、チャイムが鳴って。窓に駆け寄れば、門扉の向こうで手を振るハーレイ。
(ハーレイ、来ちゃった…!)
 仕事帰りに来てくれたことは嬉しいけれども、とんだ不意打ち。大慌てで椅子を抱えて運んで、勉強机の所に戻したから。剥がし忘れた透明なテープ。クローゼットに貼り付けたテープ。
 ハーレイの背丈はこの高さ、と自分がペタリと貼り付けたテープ、それを剥がすのを忘れていたことに気付いた時には既に手遅れ。もうハーレイの声がしていて、母の声もして。
(…剥がしに行けない…)
 今から椅子を運んで行っても間に合わない。なんとかテープを剥がせたとしても、椅子を抱えて戻る途中で二人が入って来るだろう。扉を軽くノックして。「入るわよ?」と母が扉を開けて。
 その時に椅子を運んでいたなら、大ピンチだから。運ぶ途中ならまだいいけれども、椅子の上に上がってテープを剥がしている時だったら、ピンチどころかアウトだから。
(…バレませんように…)
 どうかハーレイが気付かないでいてくれますように、と心で祈った。
 もしもバレたら、子供っぽさが倍になるから。笑われてしまうに決まっているから。



 そのハーレイが部屋に来てくれて、テーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。お茶とお菓子をお供に話す間も、気になってしまうクローゼット。
 貼ったままのテープも心配だけれど、それを使って体験していたハーレイの世界。高い視点から眺めた部屋。とても小さいのだろう自分。
 こうして腰掛けていたら、それほど酷くは違わないけれど。四十三センチの差は無いけれど。
(…だけど、チビ…)
 やっぱりチビ、とクローゼットを見てしまうから。ついつい視線を遣ってしまうから。
「なんだ、あそこに何かあるのか?」
 クローゼットに、とハーレイの視線もクローゼットに向けられた。透明なテープがある方に。
「ううん」
 なんでもないよ、ちょっと見ただけ。
「そういうわけではなさそうだがな? お前、何度もチラッと見てるぞ」
 何か隠してあるのか、中に?
 隠し事は直ぐにバレるもんだぞ、隠そうとすればするほどにな。
「中じゃないよ!」
「ほう…?」
 中じゃないと来たか、ならば外だな、クローゼットの?



 語るに落ちるとはこのことだな、と笑ったハーレイ。
 自分で白状したようだが、と。クローゼットの外に何があるんだ、と鳶色の瞳が覗き込むから。
「何も…」
 何も無いってば、外側にも!
 中にも外にも何も無くって、ホントに見ていただけなんだってば…!
「むきになる辺りが、ますますもって怪しいってな。そう思わないか、自分でも?」
 本当に何も無いんだったら、キョトンとしてると思うがな。「何かあるの?」と逆に訊くとか。
 それをしないで慌ててるトコが、何かあるんだという動かぬ証拠というヤツだ。
 クローゼットの外側なあ…。お前が見ていた感じからして…。
 おっ、あのテープか。普通、クローゼットにテープは貼らないよな?
 ポスターでも貼ろうというならともかく、透明なテープだけっていうのは。



 ふむ、とハーレイが椅子から立ち上がって出掛けて行って。
 クローゼットに貼られたテープを「俺の背の高さだ」と眺めているから。この高さに貼ることに何の意味が、と指でテープに触れたりするから。
 隠すだけ無駄だと観念した。きっとハーレイにはバレるんだから、と。
「…ハーレイの背の高さを体験したくて…」
 ぼくの部屋がどんな風に見えてるのかな、って気になっちゃって…。
 それで貼ったんだよ、そのテープ。椅子に上がってその横に立って、ぼくの頭を合わせてみて。
 ハーレイになったつもりで見ていたんだよ、この部屋の中を…。
「そういうことか…。俺の背の高さを真似たってことは、だ」
 椅子に上がってまでやってたんなら、椅子に上がらないと届かないことも分かっているな?
 そうまでしないと俺の背まではとても届かない、今のお前の背丈ってヤツも分かっただろう。
 自分が如何にチビなのかってことも、よく分かったか?
「うん…」
 情けないほど小さかったよ、今のぼく。
 ハーレイから見たら本当にチビで、うんと子供で。頭の天辺、ずうっと下にあるんだもの…。
「分かったようだな、今のお前のチビさ加減が」
 こいつを貼っただけの甲斐はあったというわけだ。
 俺の背丈を体験しようと、頑張って椅子の上に上がって、高さも測って。



 用が済んだならもう要らないな、と軽々と剥がされてしまったテープ。
 ハーレイはそれを指先で丸めて屑籠に捨ててしまっただけ。ポイと放り込んだら自分の椅子へと戻って来たから、背丈の印は気付かれなかった。
 透明なテープを貼った場所から二十三センチ下に、鉛筆で引いてあった線。一日も早くその高さまで、と何度も見上げている目標。
 そっちの方はバレずに済んだ、とホッとしていたら、問い掛けられた。
「お前、俺の背なんかが憧れなのか?」
 前の俺と少しも変わりはしないが、お前、この高さに憧れてるのか?
「…ほんのちょっぴり…」
 凄いよね、って思っちゃったよ、ハーレイの背の高さ。
 ぼくなんかホントにチビでしかなくて、ぼくの頭はハーレイから見たら、ずっと下にあって…。
「憧れるのはお前の勝手だが…。体験してみるのも勝手なんだが…」
 そんなにデカくなってみてどうするんだ、馬鹿。
 憧れと体験するのはともかく、お前が本当に俺と変わらない背丈に育っちまったら。



 俺と釣り合いが取れなくなるぞ、と弾かれた額。
 普段はそれほど困らないにしても、結婚式はどうするつもりなんだか、と。
「白無垢ならいいが、ウェディングドレスを着るとなるとなあ…」
 それに似合う靴を履くことになるし、そうなれば踵の高い靴だし、俺より背が高くなっちまう。
 俺にも踵の高い靴を履いてくれってか?
 その手の靴も無いことはないが、まさか俺の背でそいつを履くことになるとはなあ…。
 しかし、本当になるかもしれん。今度のお前はデカくなるかもしれないからな。
「えっ?」
 デカくなるって、もしかして、前のぼくよりも?
 ハーレイと同じくらいに育つって言うの、今度のぼくは?
「そうならないとも限らないな、と可能性ってヤツを言ってるまでだ」
 あまりにもチビの間が長いし、今は一ミリも伸びないままだし…。
 少しも育たずに止まっている分、伸び始めたら派手に伸びるかもしれん。見る間にぐんぐん背が伸びていって、気付いたら俺と変わらんくらいになっているとか。
「そんな…!」
 ハーレイと同じくらいに育つなんて嫌だよ、ぼくはそこまで育たなくてもいいんだよ!
 結婚式の時に、ハーレイが背を高く見せる靴を履くようなことになるなんて…!



 前のぼくと同じ背丈がいい、と叫んでしまった。
 そうでないと困る、と。
「でないと、ハーレイと並んで歩く時だって困るよ…!」
 ハーレイに手を繋いで貰って、「こっちだぞ」って連れてって貰おうと思っているのに…。
 まるで背丈が変わらないんじゃ、引っ張って貰っても頼もしさが全然無いじゃない…!
 それに手だって、ハーレイの手と大きさが変わらなくなっちゃうんだよ?
 大きな手だな、って思えなくなって、ぼくは寂しくなっちゃうんだけど…!
「俺も大いに困るんだが…」
 前とそっくり同じお前がいいんだがなあ、俺だって。
 お前が言ってる通りのことだな、俺の方にしても。
 今度はお前を守ってやる、って言っているのに、お前が俺と変わらないほどデカいんじゃあ…。
 守るも何も、お前は充分、一人でやっていけそうじゃないか。デカいんだから。
 そいつは俺も御免蒙りたいもんだ、俺と同じくらいにデカいお前は。
 チビのお前が育たないのは、可愛いから全く気にならないが…。
 育ち始めるのも楽しみではあるが、俺と変わらない背まで育つのは勘弁してくれ。
 やっと育って前のお前と同じになったと思った途端に、それよりデカくなられたんじゃなあ…。
 俺の立場はどうなるんだ?



 一瞬でお前を失くしちまう、とハーレイが浮かべた苦笑い。
 前のお前が戻って来たと思った途端に、お前はいなくなっちまうんだ、と。
「お前はちゃんと生きてるんだが…。俺の前にお前はいるんだが…」
 俺の知ってるお前はアッと言う間に育っちまって、いなくなる。
 代わりに前の俺の知らないデカいお前がいるってわけだな、俺と変わらないほどデカいお前が。
「そこまで大きくならないよ!」
 前のハーレイが知らないぼくになったりしないよ、ぼくはぼくだよ!
「そればっかりは分からんぞ?」
 育ち始めてみないことには、何処で止まるかは誰にも分からん。
 お前のサイオンが器用だったら、これはマズイと思った所で成長を止めれば済むんだが…。
 前のお前の背丈を越えてしまいそうだ、と気付いたら止めりゃいいんだが。
 そしたら見た目にそれほど変わりはしないんだろうが、お前のサイオン、不器用だしなあ…。
 止めるなんてことは出来そうもないし、どんどん育つ一方だってな。
「きっと止まるよ、前と同じで!」
 前のぼくとおんなじ背丈で止まる筈だよ、育ち始めても…!
「どうだかなあ…」
 現に今だって、前のお前とは全く違った育ち方をしているわけだしな?
 前のお前は長いこと成長を止めてしまっていたが、あれは未来に何の希望も無かったからで…。
 今の状況とはまるで逆様で、今のお前は育ちたいわけで。
 少しでも早く育ちたいんだと焦っているのに、一ミリも育っていないだろ、お前?



 背を伸ばそうと毎朝飲んでいるミルクが一気に効き始めるとか、と言われたから。
 今まで全く無かった効果が何処かに蓄えられていて、効きすぎるかも、と脅されたから。
「そんなの、ぼくも困るんだよ…!」
 効かなくても頑張って飲んでいるのに、飲んだ分だけ、貯金みたいになってるだなんて!
 育ち始めたらぐんぐん育って、前のぼくの背を追い越しちゃって。
 もう止めたい、って思っているのに止まらなくって、どんどん、どんどん、伸びるだなんて。
 ハーレイと同じくらいの背丈になるまで、止められないままで育つだなんて…!
 あんまりだよ、と泣きそうになった。
 それくらいならチビの方がいい、と。育たないままの方がいい、と。
「チビでいいのか?」
 お前、大きくなりたいんだろうが。
 チビのままだとキスも出来んが、俺と変わらないくらいにデカくなるよりはチビでいいのか?
「…ハーレイと同じになっちゃうよりはね…」
 おんなじ背丈になってしまって、手の大きさだって変わらなくなって。
 手を繋いで歩いても、グイグイ引っ張って貰えなくなってしまうよりかはチビのままでいいよ。
 うんと大きくなっちゃうよりかは、チビの方がずっといいんだよ…。



 ハーレイとキスを交わせなくても、唇へのキスが貰えなくても、チビの方がマシ。
 キスは駄目でも強い両腕で抱き締めて貰えて、甘やかして貰えて。
 チビならハーレイに甘え放題、優しく扱って貰えるけれど。子供扱いでも、ハーレイの腕に包み込んで貰えるのだけれど。
 ハーレイと同じ背丈になってしまっては、そうはいかないから。
 手の大きさまで変わらなくなって、「こっちだぞ」と引っ張って貰えもしないから…。
「まあ、大丈夫だとは思うがな」
 チビのままでいい、と悲観しなくても、無駄にデカくはならんと思うぞ。
 面白いから脅してはみたが、前のお前と同じ背丈で止まるだろうなあ、お前の背丈。
「ホント…?」
 ぼく、自分では止められないんだよ、育つのを。
 これでいいや、って思った所で止められる自信、ぼくには少しも無いんだけれど…。
「神様が下さった身体だからなあ、お前も俺も」
 俺は全く意識なんかはしていなかったのに、前の俺と全く同じ背丈に育ったんだ。一ミリさえも違いはしないぞ、前の俺とな。
 だから、お前もそっくり同じに育つだろうさ。お前が頑張らなくても、勝手に。
 年を取るのも自然に止まってしまう筈だぞ、前のお前と全く同じに育ったならな。



 心配は要らん、とハーレイの手が伸びて来て髪をクシャリと撫でたけれども。
 お前は俺のブルーなんだから、と太鼓判を押して貰えたけれど。
「しかしだ…。デカくなったお前って、どんなのだろうな?」
 俺と全く変わらんくらいにデカく育ったら、お前はどういう風になるんだ?
「そんなの、想像しなくていいから!」
 大きすぎるぼくなんて、ぼくは絶対、嫌なんだから!
「チビのお前は、前のお前も今のお前も知っているがだ、デカい方はなあ…」
 前の俺は一度もお目にかかっちゃいないし、可能性があるのは今の俺だな。
 まず無いだろうと思いはしてもだ、どんな感じか気にはなるなあ、デカいお前も。
「チビのぼくでいいよ!」
 育たないままのチビのぼくでいいよ、大きくなりすぎるのは嫌だから!
 育っても前のぼくと同じで、それよりも大きく育つつもりは無いんだから…!



 大きすぎるぼくは想像しないで、と悲鳴を上げた。
 ハーレイと同じ背丈に育ったぼくなんかは、と。
「そうか? 俺はそれでも美人だろうとは思うんだが…」
 背が高すぎても、美人は美人だ。きっとスラリと背が高いんだぞ、俺と違って。無駄にゴツゴツしてはいなくて、透き通るような肌をしていて。
 前のお前がそうだったように、誰もが思わず振り返るような凄い美人の筈なんだが…。
 俺と釣り合いが取れるって意味では、断然、前のお前だな。あのくらいの背丈が丁度いい。
 でなければ、チビか。
 今のお前と変わらないままの、チビで小さな子供のお前か。
「チビでも釣り合い、取れてるの?」
 ハーレイの背の高さになって眺めてみたら、ぼくはホントにチビなんだけど…。
 椅子に上がって見下ろしてみたら、ぼくの頭はハーレイの目より、ずうっと下に見えていそうな感じにしか思えなかったんだけど…。
「同じ背よりかはチビの方がいいだろ、守り甲斐もあるし」
 うんとチビなら、前のお前よりも大切に守ってやれるってもんだ。
 それこそ俺が保護者ってヤツだな、チビのお前の手を引っ張って迷子にならないように。
 「俺の手を離しちゃ駄目なんだぞ」って言い聞かせながら、チビのお前とデートってことだ。
 もしもお前が疲れちまったらヒョイと抱き上げて歩くのもいいな、チビなんだしな?



 お前もチビの方がいいんだろうが、と笑われたけれど。
 デカくなるよりはチビなんだろうが、と念を押されてしまったけれど。
 ハーレイと変わらない背丈に育ってしまって、甘えられなくなるよりは…。
(チビの方がいいに決まっているよね?)
 クローゼットにつけた前の自分の背丈の印はまだ遠いけれど、チビでいい。
 育ちすぎてしまうよりかは、チビの方が。
 ハーレイに甘やかして貰える低い背丈の、チビの自分の方がいい。
 チビでも釣り合いは取れるらしいし、ハーレイと釣り合いが取れるチビ。
 前の自分と同じ背丈に育てないなら、チビでいい。
 ハーレイの隣にいるのが似合う姿の自分がいい。
 何処までも二人でゆくのだから。いつまでも二人、手を繋いで歩いてゆくのだから…。




           ハーレイの背丈・了

※ハーレイの視点で眺める世界が気になったブルー。そして試してみたのですけど…。
 今の自分がハーレイの背丈に育ってしまったら、大変なことに。前と同じがいいのです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(今日は、ハーレイ…)
 多分、来られない、とブルーがついた小さな溜息。学校から帰って、おやつの時間に。
 母が焼いてくれたケーキはとても美味しいけれど。シロエ風のホットミルクもホッとする甘さが優しいけれども、いつものように弾んだ気持ちにならない。自然と綻んではくれない顔。
(ハーレイは会議…)
 そう聞かされていた、数日前から。長引きそうな会議だから、と。
 会議にも色々な種類があって、時間通りに終わるものやら、早めに終わることが多いものやら。逆に長引くのが常のものまで、今日の会議はそのタイプ。時間通りにはまず終わらない。
(…早めに終わって来てくれたこともあるけれど…)
 駄目だった時の方が圧倒的に多いから。ハーレイの予告通りに会議は長引くものだから。仕事の帰りに寄ってはくれない、今日はハーレイが来てくれない日。
 もちろん、毎日来てくれるわけがないけれど。来てくれない日も多いけれども、最初から駄目と分かっているのと、そうでないのとは違うから。
 普段だったら、おやつを食べる間もときめく心。今日はハーレイに会えるだろうか、と。
 けれども、今日は弾まない心。ハーレイは来てはくれないのだから。



 望みがゼロではないけれど。もしかしたら、会議が早く終わるかもしれないけれど。
(期待しちゃ駄目…)
 来てくれるかも、などと考えてはいけない、何度もそれで悲しい思いをしているから。やっぱり来てはくれなかったと、肩を落としたことが何度も何度もあったから。
 ともすれば沈んでしまいそうな気持ち。暗くなってしまいそうな瞳と顔付き。
 こんな日に限って、母が「今日は学校、楽しかった?」と自分用の紅茶のカップを手にして来たテーブル。母はハーレイの予定を聞いてはいないし、聞いていたって「夕食を何にしようかしら」などと考える程度。会議が早く終わったとしたら、どんなメニューが喜ばれるだろうと。
(ママはなんにも知らないしね…)
 ハーレイの予定も、ハーレイが息子の恋人なことも。
 だから本当の気持ちを隠して、懸命に明るく振舞った。「それでね…」と友達の話などもして。今日も学校は楽しかったと、授業も分かりやすかったよ、と。



 母と話をしていた間は良かったけれど。
 笑って気分も紛れたのだけれど、その反動で余計に沈んでしまった気持ち。「御馳走様」と母と別れて、自分の部屋に戻った途端に。
 今日はハーレイは来ないのだった、とテーブルと椅子を眺めて溜息。ハーレイが来たら、二人で使うテーブルと椅子。二つある椅子の片方はハーレイの指定席。
 その指定席に座る恋人に会えないのだ、と思うと零れる溜息、テーブルと椅子に背中を向けた。見たら溜息が漏れるから。あのテーブルと椅子の出番が無い日、と心が沈んでしまうから。
(これじゃ駄目…)
 きっとハーレイも喜ばない、と勉強机の前に座って、視線を遣った机の上。温かみのある飴色の木のフォトフレームの中、ハーレイの笑顔。夏休みの最後の日に二人で写した記念写真。
 庭で一番大きな木の下、好きでたまらないハーレイの笑顔。左腕に抱き付いた自分も笑顔。
(うん、この顔…!)
 この顔が好き、と頬を緩めた。ハーレイの笑顔が一番好き、と。
 誰よりも好きな恋人の笑顔、いつも自分に向けてくれる笑顔。それが写真の中にあるから。
 励まされた気分で本を広げた、昨夜から読んでいる本を。
 続きを読もうと、ハーレイも写真の中から笑顔で見守ってくれているし、と。



 けれど、やっぱり…。
 沈みそうになる心を奮い立たせて向き合った本の中身は、さっぱり頭に入って来ない。ページをめくって先に進んでも、文字を目で追っているだけのこと。何ページか読んだら、さっきの所まで戻る羽目になった。読み落としてしまっていた部分。これでは話が繋がらない。
(ぼくって駄目だ…)
 ハーレイも見てくれているのに、とフォトフレームの写真を眺めた。
 とびきりの笑顔で写ったハーレイ。見るだけで幸せになれそうな笑顔。そのハーレイの左腕には自分がギュッと抱き付いている。両腕でギュッと、それは嬉しそうに。
 写した時の気持ちが心に蘇る写真、思いがけなくハーレイと写せた記念写真。それまでは写真は一枚きりしか持っていなかった、今のハーレイが写った写真は。ほんの小さなモノクロのしか。
 再会して直ぐに記念写真を撮りそびれたから、ハーレイの写真はまるで無かった。学校で貰った転任教師の着任を知らせるものだけしか。学校便りの五月号しか。
 それを何度も何度も眺めて、宝物にして。今もきちんと大切に持っているけれど。
 ハーレイの方でも写真が欲しいと思ったらしくて、夏休みの記念に撮ろうと言われた。それなら自然でいいじゃないか、と。
 カメラを持って来てくれた上に、お揃いのフォトフレームまで買って来てくれて。
 庭で一番大きな木の下、母がシャッターを切ってくれた写真。ハーレイと二人で写した写真。



(写真の中のぼくは、幸せなのに…)
 最高に幸せだった夏の日、ハーレイの左腕に抱き付いてカメラに笑顔を向けた日。
 あの日は幸せだったのに。とても幸せで、ハーレイも側にいてくれたのに。
 ぼくは違う、と零れ落ちそうになった涙。
 独りぼっちだと、今日はハーレイは来ないんだから、と。
 ポロリと涙が本に落ちた途端。いけない、と慌てて拭き取った途端。
(違う…!)
 もっと悲しい独りぼっちを知っている。今の自分よりも、ずっと悲しい独りぼっちを。
 前の自分が迎えた最期。
 たった一人でメギドまで飛んで、周りに仲間は誰もいなくて。ハーレイからも遠く離れて、もう本当に一人きりで。
 それでも自分は一人ではないと、これさえあればと右の手に持っていた温もり。ハーレイの腕に触れた手が感じて覚えた温もり、それを抱き締めて逝くつもりだった。ハーレイの腕の温もりを。
 なのに失くした、撃たれた痛みで。
 銃弾が身体に撃ち込まれる度に温もりは薄れて、最後に右の瞳を撃たれて。視界が真っ赤に塗り潰された後に、もう温もりは残らなかった。ほんの僅かな欠片さえも。
 冷たく凍えてしまった右手。ハーレイの温もりを失くした右の手。
 独りぼっちになってしまったと泣きながら死んだ、もうハーレイには会えないのだと。温もりはもう消えてしまったと、右の手が冷たいと泣きじゃくりながら。



 あの時の孤独に比べたら。絶望的な独りぼっちでの死に比べたら、今は…。
(ずっと幸せ…)
 独りぼっちとはとても言えない、ハーレイとは会えないだけなのだから。今日は会えなくても、別の日がある。また会えるのだし、何度でも会える。
 二度と会えないわけではなくて。
 前の自分がそうなったように、たった一人で、独りぼっちで死んでゆくのではなくて、これから先もハーレイに会える。今日は駄目でも、また別の日に。何度も、何度も、何度だって。
(ぼくはハーレイに会えるんだから…)
 こんな所で泣いたら駄目だ、と自分自身を叱り付けた。
 前のぼくより、ずっと幸せなんだから、と。独りぼっちじゃないんだから、と。
 今は部屋で独りぼっちだけれども、写真の中からハーレイが見ていてくれるのだし…。
 大好きな笑顔のハーレイの写真。見るだけで幸せになれそうな笑顔。
 それがあるから、一人きりの部屋でもハーレイの笑顔を見ることが出来て…。



(写真…?)
 ハッと気付いて覗き込んだ写真。飴色をしたフォトフレーム。
 勉強机の上に飾って、毎日見ている写真だけれど。「おやすみなさい」と写真の中のハーレイに挨拶したりもするけれど。
 前の自分は持っていなかった、写真を飾ってはいなかった。誰よりも愛した恋人の写真を。飾るどころか持っていなかった、こんな風に一人の時に眺めるための写真の一枚すらも。
(前のぼくは、いつでも本物のハーレイを見られたから…)
 今と違って自由自在に操れたサイオン、ハーレイが広いシャングリラの何処にいようと、望めば姿を垣間見られた。笑顔ではなくて厳しい顔の時も、忙しそうな時もあったけれども。
 それでも姿は見られたのだし、もう充分に満足だった。ハーレイは今はあそこにいる、と。
(…それに、写真は…)
 飾りたいと思ったとしても、飾れなかった。恋人同士だったことは秘密だったし、青の間に飾るわけにはいかない。誰が目にするか分からないから。
(サイオンで隠しておくにしたって…)
 二人で写した写真が無かった、今の自分が持っているような意味での二人きりの写真は。
 同じ写真に収まってはいても、ソルジャーの貌とキャプテンの貌。
 二人一緒の、自分たちのための記念写真は写せなかった。撮ろうとも思っていなかったけれど。それが欲しいとさえ思わなかったほど、隠すのが当たり前の恋だったから。



 ハーレイの写真を持っていなかった上に、二人一緒の記念写真も無くて。
 それを撮りたいとも、飾りたいとも思わないままに、前の自分は生きて死んでいった。右の手が冷たいと泣きじゃくりながら、本当に独りぼっちのままで。
 なのに…。
(ぼく、ホントに幸せになっちゃたんだ…) 
 独りぼっちで暗い宇宙で死んでいった筈が、ハーレイと二人で青い地球の上に生まれ変わって。
 また巡り会えて、今では独りぼっちではなくて、一人の時でも写真が一緒。
 今日のように寂しくてたまらない日も、ハーレイの写真が目の前にある。机の上からハーレイが笑顔で見ていてくれる。「元気出せよ?」と言わんばかりに。
 そのハーレイの左腕には、自分がくっついているけれど。両腕でギュッと抱き付いている自分が羨ましくてたまらないけれど、その瞬間を自分も確かに過ごした。夏休みの一番最後の日に。
 庭で一番大きな木の下、幸せな時間を切り取った写真。
 ハーレイと二人、母が構えたカメラに向かって最高の笑顔。シャッターが切られる度に笑って、もっと素敵な笑顔にしようと、最高の記念写真にしようとカメラに向かって。



 写真を撮った日、幸せだった自分。今も一人ではない自分。
 ハーレイは写真の中で笑顔で、それを見ている自分がいて。本物のハーレイは会議中でも、今は会えないというだけのことで。
 けして自分は一人ではない、独りぼっちになってはいない。前の自分とはまるで違って。たった一人で死ぬしかなかった、前の自分の悲しみに満ちた最期と違って。
 それを思えば、今の自分は…。
(ぼくって、幸せ…)
 前よりもずっと幸せなんだ、と思ったらポロリと零れた涙。瞳から溢れて、机に落ちた。
 えっ、とビックリしたけれど。
 泣くつもりなどは無かったのに、と慌てたけれども、溢れ出した涙は止まらない。さっき零した涙とは違って、幸せの涙。幸せすぎて溢れ始めた涙。
 次から次へと蘇る思い出、泣いているのは自分ではなくて前の自分の方かもしれない。
 白いシャングリラで前のハーレイと二人で過ごした幸せな日々。愛して、愛されて、満ち足りた時を重ね続けて、長い時を生きた。二人一緒に。
 幾つも、幾つもの幸せの記憶、それを思うと涙が溢れる。あの幸せな日々が帰って来たと。またハーレイと生きてゆけると、もっと幸せに生きてゆけると。
 前の自分が今も大切にしている幸せの記憶は、あの頃は誰にも言えなかったけれど。白い鯨では誰にも言わずに、秘めておくしか無かったけれど。
 今度は誰に話してもいい。今の自分の幸せのことは、誰に話してもかまわない。
 こんなに幸せなことがあったと、幸せなのだと、他の誰かに話したい気持ちになったなら。
 今はまだ誰にも話せないけれど、いつかハーレイと結婚したなら。
 教師と教え子という仲でなくなったら、堂々と手を繋いで歩ける恋人同士になったなら。



 そうだ、と其処で気が付いた。
 前の自分には出来なかったこと。今の自分には当然のことで、もう決まっている未来のこと。
(ハーレイと結婚出来るんだ…)
 いつか自分が大きくなったら、結婚出来る十八歳を迎えたら。
 前の自分たちの恋は最後まで誰にも言えなかったけれど、今度は皆に祝福されて結婚式。二人で結婚指輪を交わして、互いの左手の薬指に。
 結婚指輪が左手にあれば、薬指に光っていたならば。誰でも一目で分かってくれる。恋人同士の二人なのだと、結婚して幸せに二人で暮らしているのだと。
(…前のぼくたちは、誰にも言えなかったのに…)
 ソルジャーとキャプテンという立場にいたから、明かすわけにはいかなかった。いつか地球まで辿り着いたら、お互いの立場から自由になれたら、と夢を描いていただけで。そんな日が来たら、この恋を明かしてもいいのだろうと。
(だけど、そんな日は来なくって…)
 前の自分の寿命が尽きると分かった時に潰えた夢。叶いはしないと諦めた夢。
 けれど、今度は夢とは違う。夢のように儚く消えはしなくて、いつか必ず訪れる未来。今はまだいつとも分からないだけで、その日は何処かで待っている。この先の未来の時間の何処かで。
 おまけに、ハーレイと結婚することを知っていてくれる人たちが、隣町に二人。
 庭に夏ミカンの大きな木がある家に住んでいる、ハーレイの両親が自分たちの結婚を待っていてくれる。新しい子供が一人増えたと、自分のことを新しい家族だと思ってくれて。
(まだ結婚もしていないのに…)
 もう子供だと言って貰えて、マーマレードの瓶まで貰った。庭の夏ミカンの実でハーレイの母が作ったマーマレードの大きな瓶を。
 金柑の甘煮を詰めた瓶も貰った、庭で採れた金柑の実をハーレイの母が甘く煮たものを。風邪の予防に食べるといいと、喉の痛みにもよく効くからと。



 なんと幸せなのだろう。もう結婚が決まっている上に、それを知っている人までが二人。
 まだ十四歳にしかならない自分を、新しい家族だと言ってくれる人が、もう二人も。
 今度はハーレイと結婚出来るし、その日は必ずやって来るから。
(幸せすぎるよ…)
 頬をポロポロと伝い落ちる涙。幸せの温かい涙。
 今日はハーレイが来てくれなくても、会議で来られない日でも。今日が駄目でも、また次の日。明日が駄目でも、またその次に。
 順送りに駄目な日が続いていっても、週末に会える。いつまでも会えずに終わりはしない。
(今日が駄目でも、次があるんだ…)
 シャングリラで暮らした頃と違って、確実に来ると分かっている明日。沈んだ太陽は青い地球の反対側を照らしに行っただけで、次の日の朝には昇って来るから。明けない夜は無いのだから。
 今の平和な時代の地球では、明日が無くなることはない。
 白いシャングリラが世界の全てだった頃には、明日が来るとは誰にも言い切れなかったけれど。
 夜の間に人類軍の船に見付かって沈められれば終わりなのだし、そうでなくても空を飛んでいる宇宙船では万一ということもあるのだから。事故が起こっても緊急着陸出来はしないし、脱出先もありはしないのだから。
 前の自分たちには来ると言い切れなかった明日。無くなるかもしれなかった明日。
 それを今ではいつまでも待てる、明日が駄目ならその次の日に、と。
 ハーレイに会える日を待ち続けられる、今日が駄目ならその次の日にと、また次の日にと。



(ホントに幸せ…)
 明日が無くなったりはしないし、いつかハーレイと結婚出来る。消えない明日が幾つも続いて、その先の何処かで結婚式の日が待っている。自分とハーレイが其処へ着くのを。
 それにハーレイと二人で来られた、青い地球の上に。
 前の自分が辿り着けずに終わってしまった青い星の上に、あの時代には無かった青い地球に。
(…ハーレイと地球で結婚なんだよ…)
 結婚して、地球で二人で暮らす。同じ家に住んで、いつもハーレイと二人。
 ハーレイと暮らせる幸せな未来も、前の自分が焦がれ続けた青い水の星も、何もかも自分は手に入れられる。何もしなくても、幸せが手の中に降ってくる。
 前の自分が夢見た以上に。
 こうなればいいと思い描いた夢よりもずっと、大きな幸せが今の小さな自分の身体を包み込む。
 まだ育ってはいないのに。
 まだ小さいのに、約束されている幸せな未来。いつかは必ず来ると決まっている、明日の続きの何処かの明日。ハーレイと結婚式を挙げる日。



 もう止まらない、幾つもの涙。頬にポロポロと零れ続ける幸せの涙。
 涙の粒が幾つも幾つも、勝手に零れ落ちてくる。前の自分がメギドで泣きじゃくった以上の数の涙が、後から後から溢れる涙が。
(メギドだったら、もうとっくに…)
 前の自分は死んでしまっていただろう。これほどの涙を流すよりも前に。
 ハーレイの温もりを失くしてしまったと、もう会えないのだと泣きじゃくりながら、前の自分は死んでいったけれど。涙の中で死んだけれども、これだけの時間を泣いてはいない。こんなに長く泣き続けてはいない、長く感じていただけで。
 時間にすればほんの一瞬、長かったとしても一分か二分。
 前の自分は覚えていないし、第一、時計など見てもいないのだけれど。メギドが爆発して沈んだ時間も、今の自分はまるで知らないのだけれど。
(でも、こんなには…)
 泣いてはいないし、時間も無かった。
 それなのに、今は幸せな自分が泣き続けている。悲しみではなくて、幸せのせいで。今の自分がどれほどの幸せに包まれているか、それに気付いてしまったせいで。



 溢れて止まらない幸せの涙。頬を濡らし続ける温かな涙。
 それを流れるままにしていたら、耳に届いたチャイムの音。門扉の脇にあるチャイム。
(ハーレイ!?)
 まさか、と窓に駆け寄ってみれば、門扉の向こうで手を振るハーレイ。会議は終わったと、俺は間に合ったと知らせるように。今日の会議は長引くのが常で、終わる筈が無いと思っていたのに。
 ハーレイの方でも、そう思ったから今日は会議だと聞かされたのに。
 今日は会えないと思っていたから涙が零れて、その涙から今の温かな涙が生まれて、泣き続けて今まで泣いていたのに。
(…ハーレイが来てくれるだなんて…)
 いったい自分は、どれほど幸せなのだろう。
 今日の続きを待っていなくても、もうハーレイが来てくれた。今の自分には明日の続きも、そのまた続きも、いくらでも明日があるというのに。
 それを待てるのも幸せなのだと幸せの涙を流していたのに、明日を待たなくてもいいなんて。
 ハーレイが来てくれて、もう待たなくてもいいなんて。
(…いけない、涙…!)
 泣いてちゃ駄目、と溢れそうになる涙をグイと拭って、涙の跡も分からないよう綺麗に拭いた。壁の鏡を覗き込んで。目元が赤くなっていないか、それもきちんと確認して。



 ようやく止まった幸せの涙。泣いていたことに気付かれないよう、しっかりと止めて、ニイッと笑顔も鏡で作った、悪戯っ子の笑みの形に。普通の笑顔だと、また幸せで泣きそうだから。幸せの涙が溢れそうだから、悪ガキ風に。酷い悪戯でも仕掛けたように。
(これでよし、っと…!)
 ぼくの笑顔じゃないみたい、と自分でも吹き出しそうな顔。お蔭で涙も引っ込んだ。こんな顔は一度もしたことがないと、どんな悪さをしでかしたのかと考えただけで。物凄い悪戯小僧になった自分を少し想像してみただけで。
(…ママの花壇が丸坊主とか?)
 それをやったらこんな顔、とププッと笑って、可笑しくなって。もう大丈夫、といつもの自分の顔に戻ってハーレイを待った。いつものぼくだ、と。



 そうやって準備万端整えたけれど。
 ハーレイも母も泣いていたことには全く気付かず、テーブルの上にお茶とお菓子が揃ったまではいいのだけれども、向かい合わせで座ったら。ハーレイが指定席の椅子に腰を下ろしたら。
 ついつい見てしまう、ハーレイの顔。写真のハーレイの笑顔もとても素敵だけれども、本物にはやはり敵わない。ハーレイがとびきりの笑顔でなくても、ごくごく普通の顔付きでも。
(幸せだよね…)
 今日もハーレイが来てくれたし、と恋人の顔を見てばかりだから。いつも以上にじっと見詰めてしまうものだから、とうとうハーレイが自分の顔を指差した。
「俺の顔に何かついてるか?」
 ケーキの欠片でもくっついてるのか、どの辺りだ?
「ううん、そうじゃなくて…。幸せだな、って」
「はあ?」
 何が幸せなんだ、お前は。俺の顔ばかり見て、いったい何があると言うんだ?
「えーっと…。ハーレイ、今日は来られないかも、って聞いていたから…」
 今日は会えなくて一人だよね、って思ってて…。独りぼっちだ、って悲しくなって。
 でもね、よくよく考えてみたら、独りぼっちじゃなかったんだよ。ハーレイは会議に行っているだけで、今日は駄目でもいつか来てくれるし…。ハーレイの写真も飾ってあるし。
 独りぼっちっていうのは、前のぼくが死んじゃった時みたいなので、あの時に比べたら、ぼくは独りぼっちでもなんでもなくて…。一人で家にいるっていうだけ、じきに一人じゃなくなるしね。いつかハーレイは来てくれるんだし、そしたら一人じゃなくなるでしょ?
 ぼくはとっても幸せなんだよ、今のぼくは。



 前のぼくと違って今は幸せ、と話したら。
 うんと幸せになったんだから、と付け加えたら、ポロリと零れてしまった涙。温かな涙。
 しっかりと止めた筈だったのに。悪戯小僧の顔まで作って止めたのに。
「おい…?」
 どうしたんだ、お前。目が痛むってわけじゃなさそうだが…?
「えっとね…。ぼく、ハーレイが来る前に…」
 泣いてたんだよ、幸せすぎて。今のぼくはとっても幸せなんだ、って気が付いて。
 そしたら涙が止まらなくなって、ハーレイが来たから頑張って止めて…。
 鏡の前でこんな顔までやって止めたのに、また止まらなくなっちゃった…。
 ね、この顔をしても無理なんだよ。ママの花壇を丸坊主にしたらこんなのかな、って思っても。凄い悪戯小僧になったつもりでニイッてやっても、もう駄目みたい…。



 また止まらなくなってしまった涙。次から次へと溢れて零れる幸せの涙。
 ハーレイが目の前にいるだけで。今の自分は幸せなのだと考えるだけで、もう止まらない。
 さっきはピタリと止めてくれた筈の、悪戯小僧の顔を作っても。ニイッと笑っても、ハーレイはそれを笑うどころか、優しく笑んでくれるから。「そういう顔は初めて見たな」と、子供らしくていい表情だと褒めてくれるから。
「チビらしくていいぞ、そんな顔をしているお前もな」
 普通じゃやらない顔なんだろうが、俺はそういう顔も好きだぞ。元気一杯に見えるしな。
「…笑わないの? ハーレイ、笑ってくれればいいのに…」
 ぼく、自分でも吹き出したのに…。
 ハーレイが笑ってくれなかったら、涙、ちっとも止まりやしないよ。
 ますます幸せになっちゃうから。ぼくが幸せだと、どんどん涙が出て来ちゃうから…。
「なるほどなあ…。幸せの涙が止まらないってか」
 お前のあの顔、俺がウッカリ褒めちまったから、必殺技も効かなくなったと。
「うん。あの顔をしたら止まってたのに…」
 酷い顔だよね、って鏡を見てたら、止められたのに。
 ハーレイ、あの顔、褒めるんだもの。ぼくを幸せにしちゃうんだもの。
 そうでなくても、ハーレイが来るまで、ぼくはポロポロ泣いちゃってたのに…。
 今のぼくには明日も、その次も、その次もあって。
 今日はハーレイに会えなくっても、またいつか会えて。
 そうやってずっと先へ行ったら、何処かに結婚式の日もあるんだよね、って思ったら…。
 前のぼくだと結婚式は夢だったのに、今度は夢じゃないんだよね、って思ったら…。



「ふうむ…。あれこれ考えるほど涙が止まらない、と」
 どんどん幸せになってしまって、涙が出るって言うんだな?
 やっとのことで止めたというのに、また止まらなくなっちまった、と。
「そう。…ホントのホントに止まらないんだよ」
 見れば分かるでしょ、さっきからちっとも止まってくれないんだから。こんな顔をしても。
 褒めちゃ駄目だよ、ぼくの涙、もっと酷くなるから…!
「…そう言うのなら、褒めないが…」
 笑えと言うなら笑いもするがな、今からそんな調子だと…。
 お前、これから先に何回泣くやら。この俺のせいで。
「え?」
 これから先って…。今日じゃなくって、もっと別の日?
「そういう意味だが?」
 俺はお前を幸せにすると言っているだろ、いつでもな。今度こそお前を幸せにしてやるんだと。
 いいか、そのためには、結婚して一緒に暮らすわけだが…。その前に、だ。
 まずはプロポーズをしなきゃいかんな、俺と結婚してくれと。
 それから婚約、こいつはプロポーズとは別の日になるぞ。お前のお父さんたちのお許しが無いと婚約するのは無理だしな?
 お前、どっちも泣きそうじゃないか。
 幸せすぎて泣くんだったら、プロポーズの時も、婚約の時も。
 結婚式までに二回は泣いて、結婚式でも泣くだろ、お前?
 その後も、俺と二人で暮らす家に着くなり泣いちまうのは確実で…。
 俺は何回お前を泣かせりゃいいんだ、うん…?
 結婚した後も、何かといったらお前がポロポロ泣き出しそうだが…?
「何度でもいいよ」
 ぼくは何回泣かされてもいいよ、何度涙が止まらないようになっちゃっても。
 ハーレイがぼくを泣かせるんなら、ぼくは何回泣いたっていいよ。



 幸せすぎて泣くのなら…、と止まらない涙。後から後から溢れ続ける温かな涙。
 こんなに幸せな涙だったら、泣き続けてもいいと思ったのに。このままでいいと思ったのに。
「しかしだ、今は止めなきゃな?」
 そいつを止めんとマズイじゃないか。俺がお前を泣かせたんだし、苛めたのかと思われちまう。
 晩飯までに止めておかんと…、と手招きされて膝に乗せられて、抱き締められて。
 「止まりそうか?」と抱き込まれたままで尋ねられたら、またまた涙が溢れ出すから。
 「駄目みたい…」とグイと顔を上げた、「止まらないよ」と。
 そうしたら…。
「分かった、今日はオマケしてやる。俺が泣かせたのは間違いないしな」
 額でも頬でも無いんだが、と唇で優しく吸い取られた涙。メギドで撃たれた右の瞳から。
 「どうだ?」と、「止まったか?」と訊かれたけれども、余計に溢れてしまうから。幸せの涙が止まらないから、キッと睨み付けた。
「これで止まるわけないじゃない!」
 幸せになるほど止まらないんだよ、止まらないのはハーレイのせいだよ!
「だったら、左目はオマケは無しでだ、ハンカチだな」
 俺のハンカチでゴシゴシしてやる、逃げるなよ?
「酷い…!」
 なんで左目はハンカチになるわけ、右目との差がありすぎだよ!
 ハンカチで痛くする気なんでしょ、そしたら不幸になりそうだから…!



 せめてハーレイの指で拭き取ってよ、と強請ったら。
 指で優しく拭われた涙。「これでいいか?」と。
 もちろん、それで涙が止まるわけがない。ますます溢れて、零れるばかりで。
 ハーレイが「ほらな」と指で頬を弾く、「ハンカチの方がゴシゴシ痛くて止まりそうだが」と。
「今からこんなに泣いていたんじゃ、本当にこの先、何度お前は泣くやらなあ…」
 俺は何回、お前を泣かせちまうんだか。…苛めているってわけじゃないのに。
「何度でもだよ」
 何十回でも、何百回でも。ハーレイは何度でもぼくを泣かすよ、今日みたいに。
 きっと涙が止まらなくなるよ、ぼくが大きくなった後でも。
 だって、ハーレイと暮らすんだから。
 結婚して、うんと幸せに二人で暮らしていくんだから…。



 きっと何回も何回も泣くよ、と涙は溢れて止まらない。
 頬を転がり落ちる涙が。温かな幸せの涙の粒が。
 まるで全く止まらないけれど、止まりそうな気配も見えないけれど。
 今は幸せに泣かせて貰おう、未来の幸せを思いながら。
 プロポーズに婚約に結婚式に、と幸せの数を数えながら。
 きっとハーレイなら、ちゃんと泣き止ませてくれるから。涙を止めてくれるから。
 夕食の支度が出来たと母が来る前に、優しい言葉で、優しく抱き締めてくれる腕で。
 零れる涙ごと幸せで包んで止めてくれるから、それまでは涙が溢れるままで…。




              幸せの涙・了

※ブルーの瞳から溢れた幸せの涙。前の生でメギドで流した涙よりも、ずっと長く、多く。
 止まらなくなった幸せの涙は、これからも何度も流れる筈。今の人生が幸せすぎて。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









Copyright ©  -- シャン学アーカイブ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]