シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「人が植物に変身するという話は知ってるか?」
ハーレイの古典の授業中。生徒たちの集中力を取り戻すために始まる雑談。居眠りしそうだった生徒もハッと顔を上げる、聞き逃したら損をするから。楽しかったり、ためになったりする中身。
投げ掛けられた問いに「知ってます!」と返った幾つもの声。ブルーも「はいっ!」と勢いよく手を挙げた、「知っています」と。
人が化身した植物の話は幾つもあるから。水仙になった美少年やら、月桂樹になった女性やら。彼らの名前が植物の名前になっている。水仙も、それに月桂樹も。
てっきり、そういう話になるのだと考えたのに。クラスメイトたちもそうだったろうに。
「間違えるなよ、伝説や神話の人物じゃないぞ」
誰でも知ってる実在の有名人なんだが、と続いた言葉。名前を知らなくても存在くらいは、と。
藤原定家。百人一首を選んだ人だ、と。
「嘘…」
信じられない、と教室に広がる波紋。そんな馬鹿な、と。
古典の授業では必ず出て来る百人一首。SD体制が始まるよりも遥かな昔に、日本という島国で選ばれた有名な和歌。昔とはいえ、その時代にはもう歴史が記録されていたのだし、伝説や神話の時代とは違う。藤原定家も実在の人物、その人が植物に化身するなど有り得ない、と。
「いや、本当だ。藤原定家は植物になった」
定家カズラ、と教室の前のボードに書かれた文字。藤原定家はこれになった、と。ただし、命が尽きてから。定家がこの世にいなくなってから。
生きている間に定家カズラに化身したわけではないけれど。
定家の死後に、その恋人の墓を覆ってしまったツタ。それが姿を変えた定家で、そのツタは定家カズラと呼ばれるようになったという。
何度取り除いても、また恋人の墓を覆い尽くした定家カズラ。ツタに化身した藤原定家。
「本当ですか…!」
あちこちで上がる驚きの声。実在の人物が植物になってしまうだなんて、と。
「まあ、昔からあったツタの名前が変わったっていうオチだろうがな」
このツタは定家に違いない、と皆が考えれば、そういう名前になるってもんだ。
多分、本当に定家カズラが生えたんだろうな、恋人の墓の周りにな。なにしろ定家は有名人だ、噂は直ぐに広がっただろう。ツタになっても恋人の側にいようと頑張っているんだからな。
定家カズラって名前になる前は、マサキノカズラだったという説もある。同じ植物の名前がな。
さて、俺の雑談は此処で終わりだ。定家カズラを詳しく知りたいヤツは能の勉強をするといい。能の演目で、定家というのがあるからな。
授業に戻る、とハーレイはボードに書いた「定家カズラ」の文字を消したけれども。
(定家カズラ…)
凄い、とブルーは感心した。
死んだ後まで恋人の墓を覆ったほどの定家の愛。何度取り除いても、また生えたというのが定家カズラで、尽きない愛の結晶だから。ツタになっても愛し続けようと、側にいようと。
自分よりも先に亡くなった恋人、その人の側にいつまでも、と。
定家の想いも凄いけれども、それほどに定家に愛された人。定家よりも先に死んだ恋人。
その人は幸せだっただろうと、なんて幸せな人だろうかと。
(死んじゃった後も、ずうっと一緒…)
定家カズラに覆って貰って、永遠に寄り添い続けただろう恋人同士。
地球が滅びてしまうまで。でなければ、それよりもっと昔に、定家カズラに覆われた墓が風雨で朽ちてしまうまで。
(でも、きっと今も…)
恋人同士に違いない。自分とハーレイがそうであるように、何度も二人で生まれ変わって。
定家カズラが覆っていた墓が消えた後には、地球が滅びてしまった後は。
SD体制の時代にも二人はいたかもしれない、広い宇宙でまた巡り会って。
学校が終わって家に帰っても、忘れられない定家カズラ。遠い昔の愛の物語。
おやつの時間も頭の中から定家カズラが離れない。死んだ後にも寄り添い続けた恋人同士。定家カズラが覆い尽くして、愛し続けた恋人の墓。
二人は何処に行ったのだろうか、今の時代は。SD体制が敷かれていた頃も、巡り会って二人で暮らしただろうか。きっとそうだ、と考えていたら、母がダイニングに入って来たから。
「ママ、定家カズラっていう植物、知ってる?」
ハーレイの授業で聞いたんだけど…。写真は見せて貰ってないんだ、授業と関係無かったから。ツタだっていうのは確かだけれど。
「定家カズラ…。ああ、あれのことね」
ウチには無いけど、たまに育てている家があるわ。花が可愛くて香りもいいから。
手を出してちょうだい、ママの記憶を見せてあげるから。
これよ、と絡めた手から流れ込んで来た母の記憶の定家カズラ。艶やかな葉に、花びらが五枚の白ともクリーム色とも見える花。咲いた時には白なのだろう。時が経てば淡い黄を帯びていって、やがてクリーム色へと変わる。
花から漂う甘い芳香。ジャスミンを思わせる香りの花。
(綺麗…)
想像以上に美しかった定家カズラという名の植物。母に「ありがとう」と御礼を言って。
おやつが済んだら、部屋に戻って…。
(定家カズラ、ホントに綺麗だったよね…)
花は大きくないのだけれども、可憐な白やクリーム色のが幾つも咲いて。いい香りがして。
あんな花に覆って貰っていたなら、きっと幸せだったろう。そうして二人、離れることなく寄り添い合って、ずっと愛されていたのなら。
恋人の墓が朽ちてしまうまで、地球が滅びてしまう時まで、定家カズラが恋人を守って。
そういう愛の形もいいよね、と定家カズラに思いを馳せた。遥かな後まで語り継がれた恋物語。地球が一度は滅びた後まで、定家カズラも育たないほどに死に絶えた地球が蘇るまで。
(カズラって言えば…)
ふと思い出した、風船カズラに纏わる話を。今のハーレイから聞いた話を。
風船カズラの中にはハートのマークがついた種が三つ入っているから、その種を前の自分たちの心臓に見立てるという。ソルジャー・ブルーと、ジョミーと、キースと。SD体制を倒した英雄、その心臓が中に入っていると。
さほど知られてはいないらしくて、今の自分も知らなかった。風船カズラは風船カズラ。風船のように膨らんだ実をつける植物だと思って見ていただけ。
風船カズラにこじつけた話はあったけれども、それを除けば前の自分たちは植物に姿を変えてはいない。定家カズラのようにはいかない、植物の名前はとうの昔に完成されてしまっていたから。
秋に咲く朝顔の品種の一つに「キース・アニアン」の名がつけられていたから、そういう具合に朝顔や薔薇の名前の中には混じっているかもしれないけれど。ソルジャー・ブルーもキャプテン・ハーレイも、探せばあるかもしれないけれど。
定家カズラにはとても及ばない、誰もが「あれだ」と思い浮かべる植物ではない。どんな花かは直ぐに浮かばず、今の自分だって「ソルジャー・ブルー」の名前の花など知らないから。
(それに…)
前の自分の恋は知られていなかった。前のハーレイとの恋は。
誰にも決して知られないよう、隠し続けた秘密の恋。
その上、前のハーレイの墓碑も、自分の墓碑も空っぽだから。其処に葬られてはいないから。
(ハーレイカズラは無理だよね…)
前の自分の墓碑を覆い尽くしてしまうハーレイカズラ。前のハーレイの墓碑から蔓を伸ばして、前の自分の墓碑を覆って。
そうなっていたら、幸せだったろうに。死んだ後まで、ハーレイに墓碑を丸ごと覆って貰って、いつまでも二人、寄り添い合って。
そんなことを考えていたら、来客を知らせるチャイムの音。仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから。部屋のテーブルを挟んで二人、向かい合わせに座れたから。
「ねえ、ハーレイ。…定家カズラの人、幸せだよね」
「はあ?」
幸せって…。今日の授業の俺の話か、雑談でやってた定家カズラ。
「そうだよ、あのお話の中の定家の恋人。とても幸せな人だと思って…」
あんなに愛されて、きっと幸せだっただろうな、って。
死んだ後までお墓を恋人に覆って貰って、ずうっと一緒にいられたんだから。
「なるほどな。お前、調べていないのか…」
そのようだな、とハーレイの鳶色の瞳が見詰めるから。
「何を?」
調べるって、何を調べるの?
「定家だが?」
「定家カズラはママに教わったよ?」
綺麗だったよ、ママの記憶で見せて貰った定家カズラ。白い花とかが沢山咲いてて…。とってもいい匂いがしてくる花で。
あんな花がお墓を包んでくれたら、きっと幸せ。それに、いつまでも一緒なんだし。
もう最高の恋人同士だと、素敵な恋の物語だと話したのに。
ハーレイは「定家だぞ?」と繰り返した。「能の定家は調べたのか」と。
「授業でも言った筈だがな? 詳しく知りたければ能の勉強をしておけと」
定家という名の能があるから、そっちも調べておくといい、と。
「その能は別に調べなくっても…」
ハーレイの授業で充分だよ。定家カズラの話は聞いたし、どんな花かももう分かったし…。
能は本物を見たことないから、調べてもきっと何のことだか…。
「俺は見ろとは言わなかったぞ、調べておけと言ったんだ」
能にはきちんと脚本みたいなものがある。それを読んでおけ、という意味だったんだが…。俺の話よりずっと詳しく書かれているしな、定家カズラの物語が。
そいつをちゃんと調べていたなら、幸せだなんて言えなくなるぞ。
「え?」
幸せな恋のお話なんでしょ、死んだ後まで一緒なんだ、って。定家カズラになった定家と、その恋人とのお話でしょ…?
「そうじゃないんだ、幸せな話じゃないってな。むしろ逆だぞ、能の定家は」
定家カズラに絡み付かれた恋人の方が話の主役だ、助けてくれと姿を現すんだ。都にやって来たお坊さんの前に、自分の魂を救ってくれと。
定家カズラに墓を覆われた、恋人の式子内親王。その人は定家の妄執に苦しみ、墓を覆われては成仏することも出来ないから、と僧侶に助けを求めたという。
自分を解放してくれと。墓を覆い尽くす定家カズラから、逃れて成仏したいのだと。
「なんで…?」
どうしてそういうことになっちゃうの、定家カズラから逃げたいだなんて。
せっかく恋人と一緒にいるのに、その恋人から逃げたいって頼みに行くだなんて…。
「さあな、とにかく能の定家はそんな話だ」
お坊さんに頼んで、有難いお経を唱えて貰って。
墓に絡み付いていた定家カズラはすっかり消えちまうってわけだ、内親王の願い通りに。これでようやく自由になれる、と内親王は御礼に舞を舞ってから墓に消えていくのさ。
「それで、どうなるの?」
消えちゃった後の内親王は何処へ行ったの?
「それは分からん。また定家カズラが墓を覆って終わりだからな」
内親王が成仏出来たのかどうか、分からないままで能は終わるんだ。もっと長かった話が其処で途切れてしまったんじゃなくて、最初から続きは存在しない。定家って能が出来た時から。
「ちゃんと捕まえられていたらいいのに…」
定家カズラがまた生えたんなら、内親王を元の通りに。お坊さんがお経を読む前と同じに。
「おいおい、それじゃ内親王がだな…」
可哀相だろうが、成仏出来なくなっちまうんだぞ。定家カズラにまた捕まったら。
「だって、定家の恋人でしょ?」
それでいいじゃない、捕まったままで。ずうっと二人で、離れないままで。
逃げるなんて、とブルーは呟いた。
それじゃ酷いと、死んだ後まで定家カズラが墓を覆うほどに、定家に愛されていたくせに、と。
「ぼくなら絶対、逃げやしないよ」
もしも定家がハーレイだったら。ぼくが内親王だったら。
「おっ? お前、そう言ってくれるのか?」
俺がツタになってお前の墓に絡み付いていても、お前は逃げないと言うんだな。迷惑なツタでも俺の自由にさせてくれる、と。
「迷惑だなんて…。ハーレイがそうやって来てくれたんなら、逃げないよ」
ツタになってまで来てくれるんでしょ、ぼくの所へ。ぼくのお墓へ。
ちょっと苦しくても、窮屈だな、って思ったとしても、ぼくは絶対、逃げないんだから。
「本当か?」
ギュウギュウとツタが締め付けていても、我慢して一緒にいてくれるんだな?
このツタを取って自由にしてくれ、と誰かに頼みに行ったりせずに。
「決まってるじゃない。そこで逃げちゃうようなぼくなら、今、ハーレイと一緒にいないよ」
生まれ変わってまで一緒にいないよ、とっくに何処かへ行っちゃってるよ。
「それもそうだな…」
今まで一緒にいるわけがないな、お前はお前で自由に何処かへ行っちまって。
「そうでしょ?」
前のぼくが死んだら、もう自由だもの。だけど逃げずに一緒にいたから、今だって一緒。二人で地球に生まれ変わって、これからも一緒に行きていこう、って言ってるじゃない。
ぼくなら絶対、ハーレイの側から離れないよ。ツタに絡み付かれて息苦しくても、窮屈でも。
だって、ハーレイが抱き締めていてくれるんだもの。ツタになってまで、ぼくのお墓を。
昔の人はよく分からない、と首を傾げた。どうして逃げてしまうのだろう、と。
定家カズラに化身してまで側にいてくれる恋人、それほど愛してくれる人がいるのに、どうして自由になりたいなどと言うのだろう、と。
「そういったものは煩悩だったんだ。死んだ後まで執着するっていうのはな」
執着する方も、されている方も、そいつのせいで成仏出来ずに苦しむものだと思われていた。
死んだらそういう気持ちは捨ててだ、真っ直ぐにあの世へ行くのが正しい道だったんだな。
「煩悩って…。愛や恋が?」
誰かを好きだと思う気持ちは煩悩だったの、死んだ後にはそれを持ってちゃいけなかったの?
それで内親王は定家カズラを外してくれって頼みに行ったの、お坊さんに…?
「うむ。自分の力じゃどうにもならないから、ってな」
定家カズラを払いのけたくても、定家の想いが強すぎて恋を捨ててはくれない。定家カズラから自由になれない。内親王も定家も、恋に囚われたままで成仏出来ないってことだ。
内親王が生きた時代は、それは悲しいことだった。生きていた時の煩悩ってヤツを捨てられないまま、いつまでも恋人と離れないでいるっていうのはな…。
遠く遥かな昔の日本。定家カズラが生まれた時代。
その時代には、死んだ後には恋した心は捨ててゆくものだったと言われたから。
どんなに恋して愛し合っても、そうした想いが煩悩になって邪魔をするから、命が尽きて旅立つ時には捨てねばならなかったと言うから。
「だったら、前のぼくはとても幸せだったんだ…」
愛も恋も持ったままでいられたから。
前のハーレイを好きな気持ちを、捨てないで持っていられたから。
ちゃんと大切に持って、持ち続けて、またハーレイと会えたんだから…。
「まあ、時代がとっくに違ったしな」
前の俺たちが生きた時代と、定家カズラの話の時代じゃ、全く違っていたからなあ…。
考え方だってまるで違うさ、SD体制があった頃には煩悩も何も無いもんだ。言葉はあっても、それを持ってちゃ駄目だと思いはしなかったろうが。ただの欲望くらいな意味で。
「そうだっけね…。ちょっと深めの欲望だったね、前のぼくたちの頃の煩悩」
今はどうだろ、煩悩の意味は変わっていないと思うけど…。
死んだ後にも持っていたってかまわないよね、好きって気持ち。恋をした人を好きなままでも。
「当然だろうが、愛や恋は今でも大切だろう?」
捨ててしまった方が酷いぞ、今の時代は。
お前がすっかり勘違いしていた定家カズラの話みたいに、恋はしっかり持ち続けんとな。自分の命が終わったからって、もう知らないと忘れちまったら、今の世の中、何と言われるか…。
「そうだよね?」
今の時代も、前のぼくたちが生きてた頃も。
忘れましょう、って言う方が変で、忘れずにいるのが本当の愛で恋なんだよね…?
そういう時代に生きているんだ、っていうことは…。
死んだ後にはツタに変身して、大好きな人を追い掛けて行ってもいいんだよね、と微笑んだ。
「ぼくを追い掛けて来てくれる?」と。
ハーレイカズラに姿を変えて。墓にしっかりと絡み付いて。
「もちろんだ。前の俺でも追っただろうさ」
ツタになって追って行けると言うなら、前のお前の墓に絡んで離さなかったな。
これは邪魔だと取り除かれても、また生えて来て。蔓を伸ばして、お前の墓を覆い尽くして。
「そっか…。前のハーレイでもやってくれるんなら、シャングリラで試してみたかったね」
前のぼくのお墓に、ハーレイカズラ。前のハーレイが地球で死んじゃった後に。
「おい、バレるぞ?」
ハーレイカズラがどんなツタかは知らんが、そんなのを本気でやっちまったら。
そいつは前の俺の墓から生えるんだろうし、お前の墓まで伸びてすっかり覆っていたら…。
俺たちの仲がバレると思うが、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは恋仲だったと。
「大丈夫。誰も定家カズラの話なんかは知らないよ」
だから絶対、分かりっこないよ、なんでハーレイカズラなのか。
前のハーレイのお墓から生えて来たツタが、前のぼくのお墓に絡んでるのは何故なのか。
きっと偶然だと思うだけだよ、いくら剥がしても生えてくるから迷惑だ、って考える程度。
「どうだかなあ…」
俺の墓から生えて、お前の墓まで。これは怪しいと思うヤツがいるんじゃないか?
「平気だってば、ヒルマンもエラもいないんだから」
二人とも地球で死んじゃってるから、調べようって人はきっといないよ。
ハーレイカズラの正体は何か、って植物の種類を調べるくらいで、なんで生えてるのかは気にもしないよ、「また伸びてるから剥がさないと」って剥がすだけだよ。
「それもそうか…」
深くは考えないかもしれんな、やたら活きのいいツタが生えて来たなと思う程度で。
しつこいツタだと、どうすりゃ伸びずにいてくれるのかと調べて対策を練るくらいでな。
キャプテン・ハーレイの墓から生えて、ソルジャー・ブルーの墓をすっかり覆い尽くすツタ。
遠い昔の定家カズラの物語のように、剥がしても剥がしてもツタが覆う墓碑。前のブルーの名が刻まれた墓碑。
とても素敵だ、とブルーはウットリと思い浮かべようとしたのだけれど。
「駄目だな、考えてみたら同じ墓碑じゃないか」
前のお前と俺の名前は同じ墓碑に刻んであった筈だぞ、シャングリラの墓碑公園で。
あんな所でハーレイカズラをやろうものなら、他のヤツらに迷惑がかかる。
俺の名前が刻んである場所まで這い上がる間に、何人かの名前を隠しちまって、そこから先も。前のお前の名前の所に辿り着くまでに、また何人かを隠しちまうぞ。
ハーレイカズラに隠されたヤツから直接苦情が来なかったとしても、墓碑公園の係だったヤツ。そいつの文句が聞こえるようだな、この辺の名前がいつも見えないと。
「うーん…。それはそうかも…」
誰の名前が隠れちゃうのかは分からないけど、苦情は出るかも…。
いつ出掛けたってツタが邪魔して、名前がちっとも読めやしない、って。
「ほら見ろ、ハーレイカズラは無理だ」
前の俺たちの仲がバレなくても、仲間に迷惑をかけるのはいかん。
俺も少しはやってみたいが、他の仲間の名前を隠して読めなくするのは申し訳ないしな、ツタは駄目だな。どんな種類のツタかは知らんが、ハーレイカズラは。
白いシャングリラでは無理だと言われたハーレイカズラ。他の仲間に迷惑だから、と。
けれども、諦め切れなくて。ツタに覆われた前の自分の墓碑を夢見てみたくて。
「じゃあ、記念墓地は?」
あそこだったら、他の仲間の迷惑にはならないと思うけど…。
前のぼくたちのお墓だけしか無いから、ツタのお蔭で名前が見えないとは言われないよ?
「記念墓地って…。どれだけの距離を這って行くんだ、ハーレイカズラは」
前の俺の墓碑から生えてだ、一番奥のお前の墓碑まで伸びて行かんと駄目なわけだが…。
実に迷惑なツタになっちまうじゃないか、どう考えても。
墓参用の通路を塞いじまうか、ジョミーやキースの墓碑を踏み越えて進んで行くか。
でもって、ソルジャー・ブルーの墓碑をすっかり覆っちまうんだぞ、管理係が大迷惑だ。
記念墓地はきちんとしなけりゃならんし、毎日、毎日、ハーレイカズラと大格闘が続くんだぞ?
また生えて来たと、実にしつこいと、剥がして捨てては、また伸びられて。
そんな話が広がったとしたら、何処かの誰かが気付くだろうな。
俺みたいな古典の教師ってヤツが、そのツタは定家カズラと似たようなもので、ハーレイカズラなんじゃないかと。
SD体制を倒した英雄たちの墓碑が並んだ記念墓地。
前のブルーの墓碑が一番奥に佇み、手前にジョミーとキースの墓碑。前のハーレイの墓碑は他の長老たちと一緒に並んでいるから、ブルーの墓碑からは少し距離があって。
其処を毎日、いくら毟っても、ツタがせっせと伸びて行ったら。ソルジャー・ブルーの墓碑まで届いて、すっかり覆い尽くしていたら。
きっと誰かが気付くだろう。何のためにツタが生えてくるのか、前のブルーの墓碑を覆うのか。
「気付かれちゃうほどの愛もいいんじゃないかな、ハーレイカズラ」
いくら毟っても、全部剥がしても、また生えて来てぼくのお墓を覆って。
「冗談は抜きで、いつかバレるぞ。定家カズラの現代版だと」
キャプテン・ハーレイはソルジャー・ブルーと恋をしていたと、だからこうしてツタに変わって墓碑を覆いに伸びてゆくんだと。
あれだけ隠した恋がバレるが、そっちの方はかまわないのか?
シャングリラの墓碑公園で生えてる分にはバレないだろうが、記念墓地だと流石にバレるぞ?
「死んじゃってるからいいんじゃないかな?」
ぼくもハーレイも死んだ後だし、恋人同士だってことがバレても別に…。
困りはしないし、ハーレイとずっと一緒だったら、それだけでいいよ。ハーレイカズラに覆って貰って、いつまでも一緒。
「ふうむ…。生まれ変わるより、そっちがいいか?」
俺がハーレイカズラになってだ、お前の墓を覆い尽くしている方が…?
「それは困るよ!」
生まれ変われるんなら、その方がいいに決まっているでしょ、お墓より!
死んじゃった後も一緒っていうのも嬉しいけれども、二人一緒に生まれ変わる方が絶対いいよ!
ハーレイカズラになったハーレイと寄り添い合うのもいいけれど。
いつまでも二人、墓地で暮らすより、断然、生まれ変わりたいから。青い地球の上に新しい命を貰った、今の方がいいに決まっているから。
「…定家カズラの人もそうだったのかな?」
定家カズラから逃げたがってた内親王も、お墓にいるより生まれ変わりが良かったのかな?
こんなお墓で一緒にいるより、また新しく二人一緒に生まれて来よう、って。
「こらこら、自分の物差しで測るんじゃない」
定家カズラの物語の時代は、お前みたいな考え方とは違うんだ。
死んだ後には、出来れば生まれ変わりは避けたい、そういう風に考えたんだな。生まれ変わって戻って来るより、生まれ変わりの無い世界。其処を誰もが目指していたんだ、そんな時代だ。
「ぼくなら、生まれ変わりが無い世界に行くより、生まれ変わっても一緒がいいけど…」
ハーレイと何度でも、一緒に生まれて来たいけど…。
「現に、そうなっているってな」
まだ一度目だが、俺と一緒だ。生まれ変わって、また会えたしな。
「うん。ちゃんと会えたよ、ハーレイに」
地球に生まれて、前とおんなじハーレイに。
本当に前と全く同じで、誰が見たってキャプテン・ハーレイにしか見えないハーレイに…。
次も一緒に生まれたいな、と頼んでみた。
ハーレイカズラも素敵だけれども、お墓で一緒に暮らすよりかは、この次も一緒、と。
また二人一緒に生まれ変わって、巡り会って。そうして一緒に生きてみたい、と。
「もちろんだ。俺もお前と一緒に生きてゆける方がいいに決まってるだろう」
お前に出会って、また恋をして。手を繋いで二人で一緒に歩いてゆくんだ、人生ってヤツを。
それが駄目ならハーレイカズラだ、お前と離れてしまわんようにな。
迷惑なツタだと、邪魔なヤツだと毟られようが、剥がされようが、何度でも伸びてゆくまでだ。
「絡み付いてくれる?」
ぼくのお墓に。定家カズラがそうだったように。
ハーレイカズラに絡み付かれて、ちょっぴり息が苦しくっても、身体が自由にならなくっても、お坊さんを呼んだりしないから。取って下さい、って頼みに行ったりしないから。
「うむ、いつまでもな」
しっかり絡んで、絡み付いて。俺はお前を離しはしないし、何度剥がされても伸びてゆこう。
お前をすっぽり包み込むために、お前の側にいてやるために。
ハーレイカズラになるしかないなら、そうやってお前を抱き締めてやる。お前の墓ごと、ツタで覆って。どんなツタかは俺にも謎だが、まあ、生えてみれば分かるってな。
ツタになっても離しはしないと、ハーレイは言ってくれたから。
また二人、いつか生まれ変わっても、きっと巡り会って一緒に生きてゆくのだろう。
その時までは多分、生まれて来る前にいた場所で二人、寄り添い合って。
何処にいたのか分からないけれど、青い地球に来る前にいただろう場所、其処へ還って。
「ねえ、ぼくたちが生まれ変わってくる前にいた場所…」
其処だと、ハーレイはハーレイカズラだったのかもね。
前のぼくのお墓に絡むんじゃなくて、ぼくは小さな木か何かで。
ハーレイがそれを包んでくれてて、守られてるから強い風が吹いても折れないんだよ。
いつでもハーレイと二人一緒で、おんなじ所でお日様を浴びて、雨の水も二人一緒に飲んで。
「そうかもなあ…」
ハーレイカズラだったかもしれんな、ちっぽけなお前の木を守るために。
お前が風で折れちまわんよう、俺が絡んで、しっかり支えて。
そうやって一緒だったかもなあ、いつも二人で、離れないでな。
生まれて来る前に二人でいた場所、其処が何処だか知らないけれど。
どんな所だったか、想像すらもつかないけれども、きっとハーレイと一緒にいた。
二人でいつも寄り添い合って。ハーレイと手を繋ぎ合って。
そんな気がする自分たちだから、これからも共にゆきたいから。
定家カズラの物語になった恋人たちのように、別れを望みはしないだろう。
抱き締めるハーレイの腕の強さで、息をするのが苦しくても。身体が自由にならなくても。
この先もずっと、ハーレイと二人。
ハーレイカズラに覆い尽くされても、きっと辛いと思いはしない。
代わりに、きっと幸せが満ちる。
いつまでも二人一緒なのだと、けして離れることなどは無いと…。
定家カズラ・了
※定家カズラの話が生まれた時代と、まるで価値観が違う時代。死んだ後も一緒にいたいもの。
もしもハーレイカズラが出来ていたなら、どうなったでしょう。二人の恋の証でしょうか。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あれ…?)
あんなの前からあったっけ、とブルーが覗き込んだ庭。学校の帰り、バス停から家まで歩く道の途中、ふと目に留まった小さなブランコ。生垣の向こうの芝生に、白い支柱の。
高さからして子供用だけれど、見覚えが無い。白い支柱にも、ブランコにも。
(この家に、子供…)
住んでいただろうか、あのブランコで遊びそうな子供。そちらの方も覚えが無い。この家の人は知っているけれど、見掛けたら挨拶するけれど。ご主人と奥さん、二人暮らしだったような…。
子供は確かいなかった筈、と庭のブランコを眺めていたら、勢いよくバタンと開いた玄関の扉。中から幼稚園くらいの男の子が庭に飛び出して来た。その後ろから母親らしい女性と、顔見知りのご主人と。
「こんにちは」と挨拶をしたら、ご主人が紹介してくれた男の子と母親。遠い地域に住んでいる娘と孫だと、一週間ほど滞在すると。
「じゃあ、あのブランコ…」
「遊びに来るって言うんで用意したんだよ、驚いたかい?」
朝はまだ置いていなかったしね、とブランコの方を振り返るご主人。折り畳み式の支柱を広げて簡単に据えられるらしいブランコ。吊るすブランコも楽に取り付けられるという。けれども作りはしっかりしたもの、大人が乗っても大丈夫だという頑丈さ。
せっかくだから乗っていくかい、と言われて迷っていたら。今の学校に入ってからブランコには一度も乗っていないし、少し乗りたい気分もするし…、と考えていたら。
「お兄ちゃん、遊ぼう!」
入って来てよ、と男の子に誘われた。生垣越しに「こっち!」と手を振られて。人懐っこい男の子。ご主人も「遊んでいくといいよ」と門扉を開けてくれたから。
はしゃぐ男の子に手を引っ張られて、白いブランコの所に行った。「交代だよ」と目を輝かせる音の子を先に乗せてやって、加減しながら押してやる。ブランコが上手く揺れるように。
「もっと大きく!」と強請る男の子を「危ないよ」と宥めながら、何度も押して、また押して。
「今度はお兄ちゃんの番!」と譲られて乗せて貰った小さなブランコ。
大丈夫かな、と座って漕ぎ始めてみたら、ご主人が言っていた通りに本格的なブランコ、支柱はそんなに高くないのに。自分の背丈でも立って漕ぐには低すぎるのに。
それでも立派に揺れるブランコ、「もっと高く!」と男の子にせがまれて高く漕いだ。精一杯、ブランコの綱を揺すって、お兄ちゃんの意地で。
座ったままグンと前に漕いだら、青い空へと上がるから。小さなブランコでも空が近付くから。
(飛んで行けそう…)
手を離したら空へと舞い上がれそうな気がする、無理だけれども。
今の自分は空を飛べないから、綱を離したら放り出されて、ほんの少し飛んで落っこちるだけ。空に舞い上がれはしないのだけれど。
男の子と何度も交代で漕いだ小さなブランコ。どのくらい二人で遊んだだろうか、遊び疲れると弱い身体が悲鳴を上げてしまうから。名残惜しいくらいが丁度いいのだ、と男の子と別れて、家に帰った。白いブランコのある庭を後にして。
自分の部屋で着替えを済ませて、ダイニングでおやつを頬張りながら目を遣った庭。ブランコは置かれていない庭。代わりに白い椅子とテーブル、庭で一番大きな木の下に。
(ブランコ…)
ついさっきまで漕いでいたブランコ。男の子と交代で乗ったブランコ。
楽しくはあった、小さくても。立って漕げるだけの高さが無いブランコでも。
あのまま飛んでゆけそうだった青空、揺れて一番高く上がったら、そこで両手を離して空へ。
出来はしないと分かっていたって、ブランコから飛んでゆけそうだった。それほどに近く感じた青空、ブランコで舞い上がった空。
もっと大きなブランコだったら、もっと空高く上がれただろう。立ったままで漕げたら、青空はもっと近かっただろう。両手を離して飛び込めそうなほどに、舞い上がれそうなほどに。
(二人乗りだって…)
大きなブランコだったら出来る。一人は座って、一人は立って。
していた友達を何人も見た。二人で漕ぐ分、ブランコは遥かに高く上がった、空に向かって。
自分は怖くて出来なかったけれど。あんなに高く上がったら落ちる、と怖くて遠慮したけれど。
「お前は座っていればいいぜ」と誘われても。「俺が漕ぐから」と言って貰っても。
乗っておけば良かっただろうか、二人乗りのブランコ。空があんなに気持ちいいのなら。
小さなブランコで舞い上がった空。ブランコから手は離せないけれど、近付けた空。此処で手を離せば飛んでゆけると、舞い上がれそうだと思えた青空。
それが心を離れない。ほんの少しだけ、空へと飛ばせてくれたブランコ。
(庭にブランコ…)
あったらいいな、と眺めた芝生。あそこにブランコ、と。
庭で一番大きな木の下に置かれた、白いテーブルと椅子もいいけれど。同じ白なら、小さくても丈夫なブランコもいい。今日、乗ったような白いブランコ。立って漕げなくても、子供用でも。
ブランコが一つ庭にあればと、そしたら空に近付けるのにと青い芝生を見ていたら。どの辺りにブランコを置くのがいいかと、似合いそうかと考えていたら。
(あったっけ…!)
芝生の上に小さなブランコ。子供の頃には。さっき遊んだ男の子くらいの年の頃には。
色は忘れてしまったけれども、確かに庭で漕いでいた。父や母に背中を押しても貰った、もっと大きく漕げるようにと。
あれが今でもあったなら。何処かに仕舞ってあるのなら…。
(ハーレイと遊べる?)
身体が大きなハーレイは子供用のブランコだと座れないかもしれないけれども、押して貰える。幼かった自分が両親にやって貰ったように。帰り道で遊んだ男の子の背中を押してやったように。
ハーレイと二人で庭でブランコ、空の世界へ舞い上がれるブランコ。
素敵かもしれない、乗れるのは自分一人でも。ハーレイには小さすぎるブランコでも。
(まだあるのかな…)
小さかった自分が遊んだブランコ。色も覚えていないブランコ。
あるのなら乗ってみたいから。庭の芝生に置いてみたいから、通り掛かった母に尋ねた、あれはまだ家にあるのかと。ブランコは物置の中だろうか、と。
「ああ、あれね。好きだったわねえ、あのブランコ」
いつも頑張って漕いでいたわね、パパやママが手伝ってあげられなくても。
「あのブランコ、何処かに残ってる?」
今は畳んであるんだろうけど、物置とかに?
「ブルーが遊ぶには小さくなったから、あげちゃったわよ」
「えーっ!」
小さくなっても、ちゃんと乗れるのに!
立って漕げないっていうだけのことで、座って乗ってもブランコはちゃんと漕げるのに!
乗りたかったのに、と抗議したら母に「えっ?」と変な顔をされたから。
いったい何を言い出すのだろう、と怪訝そうな瞳で見られたから。
慌てて帰り道の話をした。子供用のブランコで小さな子供と遊んで来たと。小さなブランコでも充分乗れたと、楽しかったと。
「あらまあ…。それで懐かしくなっちゃったのね」
家にあったのを思い出したら、家で乗りたくなったってわけね、ブランコに。
「うん…。でも、あげちゃったんなら乗れないね…」
もし残ってたら、出して貰おうと思ったのに。ぼくじゃ無理だから、パパに頼んで。
「ブランコなら、公園で乗って来たら?」
楽しかった気分を忘れない内に、乗りに行ってくるのもいいと思うわよ。そこの公園まで。
「行ってる間にハーレイが来ちゃうよ!」
今日は来ないかもしれないけれど、行ってる間に来たら大変。ブランコどころじゃないってば!
「そうなの? ハーレイ先生には待ってて貰えばいいと思うけど…」
ブルーは公園に行ってますからお待ち下さい、って伝えておいてあげるのに。
それじゃ駄目なのね、待っていたいのね、ブランコに乗りに行くよりも?
ブルーは本当にハーレイ先生が大好きなのねえ、と言われてドキリと跳ねた心臓。「大好き」の中身が違うから。母が思う「好き」とは大違いだから。
「そうじゃなくって! ハーレイを待たせてしまっちゃ悪いよ、遊びに行ってて!」
ブランコなんかで、と激しく打っている鼓動を必死に誤魔化して部屋に戻った。本当の気持ちを母に知られたら大変だから。どういう「好き」かを知られるわけにはいかないから。
大慌てで逃げ帰った部屋だけれども、やっぱり忘れられないブランコ。舞い上がった空。小さなブランコでも空に近付けた、漕いだ分だけ。
勉強机に頬杖をついて、ブランコのことを考える。漕げば空へと上がるブランコを。
(ぼくのブランコ…)
幼かった自分が漕いだブランコ、あれが今でも家にあったらハーレイと一緒に遊べたのに。庭の芝生にブランコを据えて、ハーレイに背中を押して貰って、空高く漕いで。
(公園に行けばあるけれど…)
立ち漕ぎが出来る大きなブランコが。ハーレイでも充分に乗れるブランコが。
とはいえ、ハーレイは連れて行ってはくれないだろう。会う時はいつも、この家ばかり。部屋で話すか、庭にある白いテーブルと椅子か。
他の場所では会っていないし、何処かへ出掛けたことも無い。ただの一度も。
(でも、公園の朝の体操…)
夏休みに一緒に行ってみないかと誘われた記憶。近所の公園へ行くなら付き合ってやるぞ、と。
体操に行くのは断ったけれど、あの時、ハーレイは公園に行こうと言ったのだから。体操をしに出掛けて行こうと、自分を誘ってくれたのだから。
(公園のブランコだったら行ける?)
朝の体操とは違うけれども、ブランコは公園で遊ぶもの。朝の体操をやっているのと同じ公園にあるのがブランコ。大人でも乗れる立派なものが。
もしかしたら連れて行って貰えるだろうか、と期待を膨らませていたら、チャイムの音。窓から覗くと、ハーレイが大きく手を振っていた。門扉の向こうで。
公園にブランコに乗りに出掛けなかったのは正解だった、とハーレイが部屋に来るのを待って。母がお茶とお菓子を置いて行ってくれたテーブルを挟んで向かい合わせで切り出した。
「あのね…。今度の土曜日、ぼくと公園に行ってくれる?」
「はあ?」
公園ってなんだ、何処の公園だ?
「そこの公園。ハーレイも歩いて来る時に通っているでしょ、公園の横を」
あそこに一緒に行って欲しいんだけど…。もちろん、お天気が良ければ、だけど。
ブランコに乗りに行きたいんだよ、と頼んでみた。
公園の朝の体操に誘ってくれていたんだし、公園にあるブランコだってかまわないでしょ、と。
「大きなブランコがあるんだよ。ハーレイみたいに大きな大人でも乗れるブランコ」
二人で一緒に乗りに行こうよ、きっと楽しいよ。
ぼくね、今日、学校の帰りに小さなブランコに乗せて貰って…。小さな男の子と遊んでたんだ。その子の家のブランコで。
漕いだら空に飛んでくみたいで、とっても素敵だったから…。今度の土曜日はあれに乗ろうよ、二人で公園まで行って。
「お前なあ…。デートは断ると言っただろうが」
いくらブランコが楽しかったか知らんが、体操ならともかく、デートはなあ…。
「デート?」
ぼくはブランコって言ってるんだよ、食事に行こうとは言っていないよ。ブランコに乗るだけ、ハーレイと一緒にジュースを買って飲もうとも思っていないんだけど…。
「それはそうかもしれないが…。お前はブランコに乗りに行きたいだけなんだろうが…」
ブランコは一応、定番なんだぞ。デートってヤツの。
「え…?」
なんでブランコが定番になるの、あれは遊びの道具でしょ?
大人の人だって乗っているけど、遊びで乗ってる人ばかりだよ…?
キョトンとしてしまったブルーだけれど。全くピンと来なかったけれど。
ハーレイが言うには、ブランコはデートに使われるもの。人が少ない時間に公園に行けば、恋人たちが乗っているという。二つのブランコに並んで乗ったり、一つのブランコに二人乗りしたり。
公園のブランコはそうしたもの。恋人同士で乗りに行くなら、デート。
「じゃあ、ブランコに乗りに行くのは駄目なの…?」
同じ公園でも体操は良くて、ブランコは駄目…?
「駄目ってことだな、デートになってしまうからな」
俺とお前じゃ、傍目にはそうと分からなくても立派にデートだ。断固、断る。
「酷いよ、ぼくはハーレイとブランコに乗ってみたいのに…!」
空に飛んでいくような気分になれるブランコ、ハーレイと乗ってみたかったのに…!
ハーレイは漕ぐのも上手そうだから、見てるだけでも楽しそうなのに…!
本当に上手いに違いない、という気がしたから。自分が漕ぐよりずっと上手くて、ずっと高くへ漕げるだろうと思ったから。
見ているだけでも楽しそうだ、と食い下がったら。
「そりゃあ上手いに決まってるだろう、お前よりかは遥かにな」
怪我も沢山しちまったんだが、いわゆる武勇伝っていうヤツだ。名誉の負傷だ。
お前が思っているようなブランコの乗り方とは多分、全く違うだろうな。
「違うって…。ブランコはブランコじゃないの?」
乗って漕ぐんでしょ、ぼくの友達はそうだったよ。公園に来ていた他の子たちも。
それともあれかな、漕いでる途中でピョンと飛び降りてしまうヤツ?
ぼくは怖くて出来なかったけど、一番高くまで漕いで上がって、そこから飛ぶとか。
「そいつは普通だ、何処でもガキどもがやってるってな」
お前は怖くて無理だったかもしれんが、幼稚園のガキでもやるヤツはいる。小さなブランコでも元気一杯に飛ぼうってヤツは。
だが、俺がやっていたのは飛ぶ方じゃなくて、ブランコの漕ぎ方そのものだ。立ったり座ったりして漕ぐ代わりにだ、漕いでる途中で逆立ちなんだ。
「逆立ち!?」
ブランコで逆立ちなんかをしたら落ちるよ、座る板から放り出されちゃうよ?
それとも、えーっと…。慣性の法則っていうの、あれで落ちずに乗っていられるの?
「甘いな、そういう逆立ちじゃない。あれは一種の体操の技かもしれないな」
ブランコを吊るしてる鎖があるだろ、でなければロープ。
あれを両手でグッと掴んで、その手を支えに逆立ちするんだ。つまり身体は板から離れる。
思いっ切り漕いでパッと逆立ち、板に戻る時は身体をクルリと回転させて戻るってな。
ハーレイが子供の頃にやっていたらしい、逆立ちでブランコに乗るという技。
逆立ちしたまま靴を飛ばすとか、逆立ちの状態から飛び降りるだとか、ブランコで披露する技は色々、友人たちと競っていたハーレイ。
怪我も沢山したけれど。ブランコから落ちたり、落ちた所へブランコの板が戻って来て頭を直撃したりと、それは散々に。
けれども懲りずに挑み続けて、誰よりも上手く乗れたというから。上の学校へ上がった後にも、公園でブランコを見掛けたら「こう乗るもんだ」と皆の前でやって、拍手喝采だったというから。
「その技、見たい…」
ハーレイ、今でも出来るでしょ、それ?
柔道と水泳で鍛えているから、身体はなまっていないよね?
だから出来そうだよ、そういう乗り方。絶対、出来ると思うんだけど…。
「まあな。昔の仲間と集まったりしたら、あれは今でも出来るのか、って話になるしな」
そうなりゃ、近くに公園があれば披露せんとな?
俺の腕は全く落ちちゃいないと見せてやらんと話にならん。ブランコの技は現役だぞ、と。
「だったら見せてよ、ぼくも見たいよ!」
ハーレイがカッコ良く逆立ちで乗るのを見たいよ、そんな乗り方、見たことないもの…!
「乗り方はともかく、お前と二人で公園だろうが。公園のブランコ」
デートの定番なんだと言った筈だぞ、恋人と公園へブランコに乗りに出掛けるのはな。
白昼堂々、デートが出来るか。
周りにはそうと見えてなくても、お前と俺とは恋人同士で、ブランコとなれば立派にデートだ。
それに…、とハーレイは腕組みをした。
公園へブランコに乗りに出掛けて、逆立ち乗りなどの技を披露していたら。
真っ昼間だけに、自分は公園に来ている子供たちのヒーローになってしまって、そちらの相手で手が塞がってしまうんだが、と。
「いいか、逆立ち乗りなんかは子供にはとても教えられないが…」
危ないから駄目だ、と決してやらんが、そういう技を持ってる大人。子供にしてみりゃヒーローだろうが、凄い人がブランコに乗りに来た、ってな。
俺の今までの経験からして、ワッと囲まれて、「ブランコで遊ぼう」って言われるんだ。二人で乗りたいとか、自分で漕ぐから思い切り背中を押して欲しいとか…。
そうなった以上は、次から次へと俺と一緒に乗せてやったり、背中を押して漕いでやったり。
「もう行かなきゃな」と俺が言うまで、それは見事にガキどもの世話だぞ?
俺の技を見ようと公園に出掛けた俺の仲間たちも巻き込まれてたな、「遊んでくれ」と。
お前もそういうコースになるんだろうなあ、「お兄ちゃんも一緒に遊ぼうよ」ってな。
ブランコに乗りに公園に出掛けたが最後、お前の世話はすっかりお留守になるな、という宣告。公園に来ている子供たちの方が優先だから、と。
「そういうモンだろ、同じ子供なら小さい方を優先しないとな」
お前は制服を着るような年だ、いくらチビでも子供から見たら「お兄ちゃん」だ。
お兄ちゃんらしく、我慢して俺を子供に譲るべきだな、公園ではな。
「そんな…。せっかくハーレイと公園に行くのに、ハーレイを子供に取られちゃうの?」
ぼくはハーレイに放っておかれて、子供の世話を一緒にするしかないの?
「そうなっちまうということだ。ブランコに乗りに出掛けるのなら」
だから駄目だな、健全なデートが出来る時間の公園は。
俺の技を見たいと言っちまったら、今、言った通りのコースになるし…。
そうでなくても、ブランコがデートの定番なんだと知ってる以上は、俺は御免だ。
お前とのデートは庭のテーブルと椅子でいいだろ、公園まで出掛けて行かなくてもな。
二人でブランコに乗りに行くなら日が暮れてから、と言うハーレイ。
遊んでいた子供たちの影がすっかり消えて、公園に明かりが灯ってからだ、と。
「お前と二人で出掛けるんなら、そういう時間になってからだな」
子供たちのヒーローになる心配も無いし、存分に技を披露してやるさ。
なあに、ブランコと鎖がきちんと見えてりゃ、逆立ち乗りは楽々出来るんだ。現に、夜にだってやっているしな、仲間たちに頼まれて技を見せようって時にはな。
「それって、いつ…?」
暗くなってから公園でブランコだなんて、いつになったら連れてってくれるの?
「夜のデートに出掛けられるようになったらな」
お前が育って、お父さんとお母さんに「行って来ます」と言えるようになって。
ついでに門限も明るい間じゃなくなってからだ、夜になってから家に帰っても間に合う時間。
そういう時間まで俺と一緒に出歩けるようになれば、夜のデートも充分出来るし。
「いつのことだか分からないよ!」
ぼくが大きく育つのもそうだし、門限が遅くなる頃だって…!
夜の公園でブランコに乗れるの、いつだか分からないじゃない…!
「なあに、結婚する頃には乗りに行けるさ」
婚約したなら、夜のデートもきっと許して貰える筈だぞ。
俺の車でドライブに出掛けて、お前を家まで送る途中に公園に寄るかな、ブランコに乗りに。
先客のいない場所となったら、そこの公園が案外、狙い目なのかもしれないなあ…。
ハーレイと二人、ブランコに乗りに行くなら夜のデートで日の暮れた公園。逆立ち乗りを見せて欲しくても、ハーレイを独占していたいのなら、やっぱり夜で。
当分はハーレイとブランコに乗りに行けそうもないから、ポツリと呟く。
「もっと小さかった頃に出会いたかったな、ハーレイと…」
ぼくが今よりずっと小さくて、チビだった頃に。
「どういう意味だ?」
俺もお前ともっと早くに出会いたかったと何度も思うが、どうして此処でそれが出てくる?
チビだとデートに行けるまでには、今よりももっと長い時間がかかるわけだが…?
「ハーレイが公園のヒーローになってて、ぼくは遊んで貰うんだよ」
ブランコに一緒に乗って貰って、ハーレイと二人でうんと高く。
飛んで行けそう、って思うくらいに高い所まで漕いで貰って。
ハーレイだったら小さな子供でも、安全に乗せてくれそうだもの。もっと高く、って頼んでも。
「そっちのコースか…」
俺のブランコの腕前を眺めて、凄い人が来たと大感激して。
それから友達になろうってヤツだな、他の子たちよりも多めに遊んで貰ってな。
気持ちは分からないでもないが…。
お前はとっくに育っちまって、同じチビでも俺と公園で遊べるチビではないんだよなあ…。
今更チビには戻れないぞ、と苦笑いされた。育った背丈は縮まないから、と。
いくらチビでも、十四歳にしてはチビというだけ。下の学校の子はもっと小さいし、幼稚園だともっと小さい。今日の帰り道、ブランコで遊んだ男の子くらいの背丈しかない。
そこまで小さくなれはしないし、小さくなったら結婚までの道も遠くなる。背が今よりも縮んだ分だけ、逆に長くなる結婚までの時間。
それでは自分も困るから。ハーレイと公園で遊べたとしても、結婚までの時間が延びてしまえば悲しいどころではないのだから。
ハーレイとブランコに乗りたいのならば、ブランコに逆立ちで乗っている姿を見たいなら…。
「やっぱり結婚してからなの?」
でなきゃ、もうすぐ結婚するんだ、って決まってからの夜のデートとか…。
それまでハーレイと二人でブランコは無理で、ハーレイの技も見られないわけ…?
「そういうことだな、残念ながら」
俺もリクエストされたからには、華麗な技を披露したいのは山々なんだが…。
お前と二人でブランコでデートも悪くないんだが、まだ早すぎだ。
俺と一緒に出掛けられるようになるまで、公園でブランコは待っていてくれ。
ブランコで遊んで楽しい気持ちになったのも分かるし、乗りたい気分も分かるんだがな。
分かるんだが…と窓の外へと目を遣ったハーレイ。
ブランコを高く漕いだ時には空に近付くし、とても気分がいいものだから、と。
「今のお前は空を飛べない分、余計に気持ちがいいんだろうなあ…」
ブランコを漕いで高く上がれば、空に飛び出して行けるようで。
そういうブランコも楽しいんだが、ゆらゆらと揺れるブランコってヤツも楽しいもんだ。
覚えていたなら、作ってやろう。
「…何を?」
何を作るっていうの、ハーレイ?
「お前専用のブランコだ」
結婚したら、庭の木に一つ作ってやろう。庭の木だから、高く漕ぐより揺れる方だな。
青空を目指すブランコもいいが、庭の緑や景色を見ながら乗れるブランコ。そいつを俺が作ってやるから、好きな時に乗って遊ぶといい。木陰のブランコでのんびりとな。
「本物の木にブランコなの?」
それをハーレイが作ってくれるの、庭の木の枝にブランコを?
「そうさ、そんなのも楽しそうだろうが」
しっかりした板を切って削って、丈夫なロープで枝に縛って。
芝生に置くようなブランコもいいが、庭の木にブランコというのもいいもんだぞ。
「うん…!」
とっても気分が良さそうだよ、それ。上を見上げたら緑の葉っぱが一杯で。
庭の木にブランコがついてるだなんて、芝生に置いてあるよりも素敵だよ、きっと…!
同じ作るなら、ハーレイも乗れそうなブランコを庭に作ってよ、と頼んでみた。
頑丈な木を選んで、ハーレイも乗れる丈夫なブランコ。そしたら昼間でも乗れるから、と。
「公園まで行かなくっても家で乗れるよ、庭のブランコでデート出来るよ」
ハーレイとぼくが二人で乗っても大丈夫なのを作ってくれたら。
二人並んで座れそうなのを、庭の木の枝につけてくれたら。
「ふうむ…。お前が一人で遊ぶんじゃなくて、デートもするのか。庭のブランコで」
だったら、公園のブランコは要らんな、昼間に行っても俺がヒーローになっちまうだけだしな。
家でのんびりデートってわけだな、ブランコは庭にあるんだからな。
「ううん、家で乗って、公園のもだよ…!」
昼間の公園だとハーレイを子供に取られちゃうから、昼間は家のブランコでデート。
夜になったら公園に行って、公園のブランコでデートするんだよ。二人で乗ったり、ハーレイの技を見せて貰ったり、公園のブランコでしか出来ないデートを。
庭のブランコが丈夫なものでも、ハーレイが逆立ちを披露できるほどの高さの枝に吊るすのは、多分、無理だから。小さな子供ならばともかく、ハーレイの背丈の高さを思えば無理そうだから。
ブランコの鎖をグッと掴んで逆立ちするハーレイを夜の公園で見たい。
「凄い!」と騒ぎ出す子供たちの姿が消えてしまって、静かになった夜の公園で。
もちろん、デートもするけれど。
ハーレイにブランコを漕いで貰って二人で乗ったり、それぞれ別のブランコに乗って、ゆっくり漕ぎながら話をしたり。
庭のブランコでも出来ることやら、公園のブランコでないと出来ないことやら。
どちらにもきっとまるで違った魅力があるから、ブランコは庭と公園と。
庭に作るなら、ハーレイと二人で乗れるブランコ、眺めが良くて丈夫な枝に。
「分かった、分かった。ブランコでデート、家と公園と、両方なんだな」
昼間は庭のブランコに二人で乗って、夜になったら公園に行って。
そんな感じでデートをしたい、と。
結婚するまでは庭のブランコは作ってやれないから、夜の公園だけになるがな。
「約束だよ? ブランコ、覚えていたら庭に作ってね」
公園のブランコでデートしたなら、きっと思い出すと思うけど…。
家にもあったらいいのにな、って思うんだろうし、そしたら思い出すだろうけど…。
ハーレイもちゃんと思い出してよ、庭にブランコを作るってこと。
そしたら昼間でもブランコに乗ってデートが出来るし、庭の木の枝に吊るしたブランコ、きっと素敵に決まっているから…!
いつかはハーレイと二人でブランコ、二人で乗ったり、ハーレイの技を見せて貰ったり。
ブランコで逆立ちするハーレイがヒーローに見えるくらいに幼かった頃には、ハーレイと出会い損ねたけれど。遊んで貰い損なったけれど。
今よりもっと大きくなったらデートが出来る。
前の自分と同じ背丈に育ったら。ハーレイと二人、恋人同士だと明かせるようになったなら。
ブランコはデートの定番らしいから、いつかはハーレイとブランコでデート。
公園でも、庭の木の枝にハーレイが吊るしてくれたブランコでも。
ゆらゆらと揺れる庭のブランコも、公園のブランコも、二人で乗ればきっと楽しい。
小さなブランコでも飛べそうだった空へブランコを漕いでゆくのも、二人並んで座るのも。
ハーレイと二人なのだから。
青い地球の上、幸せな時を二人きりで過ごすのがデートなのだから…。
ブランコ・了
※ブルーが久しぶりに乗ったブランコ。すると、ハーレイともブランコで遊びたい気分に。
なのに当分、お預けなのです。いつかは二人で乗りに行ったり、一緒で暮らす家の庭でも…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「誰だ?」
何か聞こえたぞ、と教室をグルリと見回すハーレイ。咎めるような目つきで。
ブルーの耳にも確かに聞こえた、有り得ない声が。何だったろう、と思う間も無く。
「ミィー…」
また聞こえて来た、小さな声が。教室の何処かから、人間とは思えない声が。
けれど、そんな声の持ち主が教室にいる筈が無い。現に朝から見てはいないし、誰も噂をしてはいなかったし…。
「ふむ…」
難しい顔で腕組みをして立っていたハーレイが教卓を離れ、机の間を歩いて行って。ザワザワとしている生徒たちには全く構わず、教室の真ん中辺りで立ち止まった。
どうなることかと固唾を飲んで見守るクラスメイトたちと、其処で動かないハーレイと。
(…どうなっちゃうわけ?)
いったい何が始まるのだろう、とブルーも自分の席に座って息を詰めていたら。
「よし、お前。立て」
立って頭の上で手を組め、と言われた男子。ハーレイに机をトンと叩かれて。
(立たせちゃうの!?)
それに両手を組めだなんて、とブルーは驚いたけれど、命じられた男子はもっと驚いただろう。椅子に座ったまま、動けないでいる彼の机をハーレイは促すようにトンと叩いた。「立て」と。
こうなったら、もう何処にも救いの道は無いから。仕方なく立って、命令通りに頭の上で両手を組んだ彼の通学鞄をハーレイが掴んだ。机の横に下げてあったのを。
学校指定の通学鞄。ハーレイはそれを男子の机の上に置くと。
「開けてもいいな?」
「せ、先生…!」
男子は慌てて叫んだけれども、開けられてしまった通学鞄。留め金をパチンと外されて。
大きな褐色の手が鞄に突っ込まれ、中からつまみ出された一匹の子猫。白と黒のブチ。あの声の主はやはり猫だった、それも小さな。ハーレイが片手でヒョイと持てるような。
ハーレイは子猫が苦しがらないよう、大きな左手の上に乗せてやってから。
「これは何だ?」
俺には猫にしか見えないわけだが、これは何だと訊いている。
「ミーちゃんです…」
猫のミーちゃんです、と答えた男子。引き攣った顔で。
「ミーちゃんか…。お前の家の猫か?」
「いいえ、学校へ来る途中で…」
預かりました、と青ざめながらも男子は話した、「下の学校の子たちが困っていたので」と。
通学路で彼が出会ったらしい、迷子の子猫。首輪はつけていないけれども、ハーレイの手の上で丸い目をキョロキョロさせて好奇心一杯の様子は、どう見ても飼い猫。人を怖がっていないから。
自然が戻った地球の上には、好き勝手に生きる野良猫もいる。人に捨てられた猫たちではなく、自由を選んで出て行った猫。決まった所で暮らすよりも、と。
野良猫は滅多に見掛けないけれど、警戒心の強いもの。自尊心も強くて、人に懐かない。親猫がそうだから子猫も同じで、小さくても一人前に「フーッ!」と威嚇したりする。
それをしないでハーレイの手の上に乗っている子猫は、もう間違いなく飼い猫の子で。何処かへ出掛けようとして道に迷ったか、親猫とはぐれてしまったのか。
「どうしてお前が持って来たんだ」
預かるって、お前…。お前にも学校と授業というものがあるわけだが?
「帰りに返すと約束しました、あのまま放っておけないので!」
男子が言うには、周りに大人がいなかったらしい。下の学校の子供たちも通学の途中で、迷子の子猫を家に連れて帰るだけの時間の余裕は無かったという。ついでに、彼も。
そうした事情で預かった子猫、帰りの通学路で子供たちと待ち合わせの約束をしているらしい。ちゃんと届けに来るから、と。
「そういうわけか…。なら、仕方ないな」
「先生?」
「こいつは俺が預かっておく」
鞄の中では可哀相だ、とハーレイは他の男子生徒に空き箱を貰いに行かせた。食堂に行けば丁度いい箱があるだろうから、と。
暫くして男子生徒が抱えて戻った果物の空き箱。ハーレイは子猫を中に入れてやり、教卓の脇の床へと置いた。「此処でいい子にしてるんだぞ」と蓋を少しだけ開けてやって。
それから再び始まった授業、子猫は時々、箱から顔を出したり、また引っ込んだり。
授業が終わると、箱を抱えて去って行ったハーレイ。また放課後に返しに来ると。
休み時間になった教室の中は、蜂の巣をつついたような大騒ぎで。
(ビックリした…)
猫を鞄に入れていた男子にも驚いたけれど、箱に入れて持って行ってしまったハーレイにも。
ハーレイは教科書などを小脇に抱えて、子猫が入った箱を両手で持って出て行った。箱が傾いて子猫が怖がらないよう、きちんとバランスが取れるように。
子猫は箱から顔を出してはいなかったけれど、中に引っ込んでしまっていたけれど。
(ミーちゃん…)
適当につけられていたらしい名前。迷子の子猫の名前は不明。
皆に囲まれてインタビューよろしく質問されている男子によると、「ミーちゃん」という名前は下の学校の子たちがつけたもの。「ミーちゃんをお願い」と託された子猫、迷子の子猫。
(本当の名前はミーシャかもね?)
真っ白な猫ではなかったけれど。白と黒のブチの子だったけれども。
ハーレイがまだ子供だった頃、隣町の家にミーシャがいた。庭に夏ミカンの大きな木がある家で飼われていたミーシャ。ハーレイの母の猫だったミーシャは真っ白な毛皮の甘えん坊で。
ハーレイも情が移ったのだろうか、ミーちゃんに。
毛皮の色は違うけれども、ミーシャと同じで猫だから。可哀相な迷子の子猫だから。
普段、ハーレイのいる所には滅多に行かないけれど。何か用事が出来ない限りは、扉の隙間から覗き込みさえしないけれども、どうにも気になる、ミーちゃんのその後。
例の男子も「どうなったんだろう?」と何度も口にしているから、見に行ってみることにした。昼休みに、食堂でいつものランチ仲間と食事した後で。「ちょっと行ってくる」と仲間と別れて、一人だけ別の方向へ。
(ハーレイ、いるかな…)
教科ごとに分かれた準備室。職員室とはまた別にあって、授業の合間の休み時間や空き時間には教師は其処にいるのが普通。私物なども置ける場所だから。
昼休みならハーレイは此処、と準備室の扉をノックしてみたら。
「入れ」
目当ての人の声が聞こえた、扉越しに。
「は、はいっ…!」
気配だけで自分だと分かるのだろうか、と緊張しながら開けた準備室の扉。その向こうに笑顔のハーレイが居た。「お前のノックは直ぐに分かるぞ」と。
「もっと遠慮なく叩かないとな? あれじゃ聞こえん」
それでだ、お前がわざわざやって来た理由はミーちゃんか?
心配しなくても元気にしてるぞ、あの通りにな。
ハーレイが「ほら」と指差した先。白と黒のブチの、小さな塊が跳ねていた。それは嬉しそうにピョンピョンと。誰が調達して来たのだろう、本物のネコジャラシをオモチャに振って貰って。
「ん、アレか? 倉庫の裏手に生えていたな、って取りに行ってくれてな」
あの先生だ、と教えて貰った男性教師。此処くらいでしか会わないけれども、顔も名前も知っているから、「こんにちは」とペコリと頭を下げた。「ネコジャラシ、ありがとうございます」と。
「いや、生えているのを知っていたからね。子猫と遊んでやるならネコジャラシだよ」
あれが一番、という言葉通りに、子猫は揺れるネコジャラシと遊ぶのに夢中。右に左にと振っているのは別の教師で、他の教師たちも目を細めて子猫を見ているから。
ハーレイが子猫を入れて行った箱には、柔らかそうなタオルが敷かれているから。
(みんな、猫好き…)
ミルクが入ったお皿が床の上にあるし、子猫用らしいキャットフードのお皿も。ミルクは食堂で手に入るとしても、キャットフードが学校の中にあるわけがない。ハーレイが空き時間に出掛けて買ったか、他の誰かが買いに行ったか。
ともかく、子猫は教師たちにとても可愛がられていた、ハーレイ一人だけではなくて。
(これなら安心…)
もう大丈夫、と「失礼しました」と挨拶をして出た準備室。急ぎ足で自分の教室に戻り、子猫を鞄に入れて来た男子に報告しておいた。「ミーちゃん、元気にしていたよ」と。
放課後、ハーレイが教室まで返しに来た子猫。鞄は駄目だ、とペット専用のケージに入れて。 猫がいると聞き付けた他の教科の教師が持って来てくれたという。自分の家まで取りに帰って。
「お前な、鞄はあんまりだぞ」
なんだって、あれに入れたんだ。箱なら分かるが、鞄とはな。
「でも、入れ物が…」
無かったんです、と口ごもる男子。鞄しか持っていませんでした、と。
「お前に頭はついてないのか、学校まで来れば箱くらい何処かで見付かる筈だぞ」
食堂に行って「箱を下さい」と言えば貰えるし、いろんなクラブの部室にだって空き箱はある。そういう箱に入れ替えてやればいいと思うがな?
あんな鞄に突っ込んだままにしやがって…。猫が窒息しちまうだろうが。
それにトイレはどうする気だった、俺があそこで気付かなければ鞄の中で垂れ流しだぞ?
馬鹿め、とハーレイが手渡したケージ。「こいつで連れて帰ってやれ」と。
「返すのは明日でかまわないから」と渡されたケージを提げて、男子生徒は帰って行った。鞄に猫を入れていた件については、お咎め無しで。
白と黒のブチの子猫のミーちゃんを連れて、下の学校の子供たちとの待ち合わせ場所へ。
子猫を返した後、ハーレイは柔道部の指導に行ってしまったから、路線バスに乗って一人で家に帰って。着替えを済ませて、ダイニングでおやつ。
母が焼いてくれたケーキを美味しく食べて、部屋に戻ったら、目に入った鞄。勉強机の脇の床に置いた通学鞄。今日、ハーレイが「開けてもいいな?」と言っていた鞄とそっくりの鞄。
(鞄に猫…)
凄い、と感動してしまった。ミーちゃんが入っていた鞄。
学校ではミーちゃんばかり気になって、鞄がお留守になっていた。鞄も主役だったのに。あれが無ければミーちゃんは学校に来てはいなくて、通学路に置き去りだっただろうに。
(鞄に入れて来ちゃうだなんて…)
ハーレイが「馬鹿め」と言っていたとおり、窒息もトイレも大変なのが鞄だけれど。猫が快適に過ごせる場所ではないのだけれども、それでも入れて来た男子。これに入れよう、と。
迷子になっていた子猫を保護してやるために。下の学校の子たちに代わって引き受けるために。
(…きっと、御飯の時間になったら…)
コッソリと鞄から出してやるつもりだったのだろう。鞄を提げて教室から出て、誰も見ていない所でそっと。子猫でも食べられそうな何かを食堂で買って、「早く食べろよ」と。
ハーレイが鞄の中身に気付かなかったら、きっとそういう結末だった。鞄は子猫を隠して守っていただろう。そんな生き物は何処にもいないと、此処には鞄があるだけだ、と。
鞄に子猫を入れた男子も凄かったけれど、見抜いたハーレイも凄かった。放っておかずに子猫を鞄から外に出してやって、空き箱に入れて。
ハーレイが猫を預かって行ったから、帰り道のためにケージが出て来た。他の教科の教師が用意してくれたケージ、家まで取りに帰ってくれたケージが。鞄とは違ってペット専用、ミーちゃんはきっとのびのびと帰って行っただろう。ケージの中から外を見ながら。
(鞄に、ケージに…)
あの子猫はとっても幸せ者だ、と考えずにはいられない。
通学鞄に守って貰って学校まで来て、帰り道はペット専用のケージ。咄嗟に鞄に入れたのだろう男子と、学校で面倒を見ていたハーレイや教師たち。何人もが迷子の子猫を守った、無事に家まで帰れるようにと。
もう飼い主の所に戻れただろうか、ミーちゃんは。
いなくなったと大慌てだったろうミーちゃんの飼い主、その人と再会出来ただろうか。ケージに入って、あの男子や下の学校の子たちと一緒に通学路で。
(きっと会えたよね?)
飼い主は張り紙もしているだろうし、探し回ってもいるだろう。まさか学校に行ったとは思いもしないで、何処にもいないと色々な場所を。出会った人たちに「見ませんでしたか」と片っ端から訊いて回って。
だから、今頃はもう会えている筈。でなければ、もうすぐ会える筈。
(ミーちゃん、鞄に隠れていて良かったよ)
飼い主がいつ気付いたのかは分からないけれど、いないと探しに出るまでの間。
通学路にポツンと座っていたなら、通り掛かった犬に吠えられて怖い思いをしたかもしれない。家に帰ろうと闇雲に走って、車の事故に遭っていたかもしれない。
子猫はどちらも大丈夫だった、鞄に入れて貰ったから。鞄に入って学校まで来て、犬にも車にも出会わずに済んだ。少し窮屈でも、安全な鞄。立派に子猫を守った鞄。
(この鞄とおんなじ…)
自分の通学鞄をまじまじと眺めて、優れものだと感心した。実に役立つ、と。
(子猫が入って、教科書も入って…)
ノートや筆記用具も入る。折り畳み式の傘も入るし、その気になったらお弁当だって。お弁当は持って行かないけれど。ランチ仲間は食堂派だから、食堂で注文しているけれど。
沢山入る通学鞄。頑丈に出来ていて、雨に濡れても大丈夫。
便利だよね、と思ったけれど。学校に行くにはこれが無くちゃ、とポンと叩いてみたけれど。
(前のぼく…)
ハッと気付いた、前の自分は鞄などは持っていなかった。
通学鞄は持っていなくて当然だけれど、それ以外の鞄も、ただの一度も。
シャングリラの外へ出てゆく時には、自分の身一つ。鞄を持っては行かなかったし、第一、鞄の出番など無い。外の世界へゆくのなら。人類の世界へ出てゆくのなら。
白いシャングリラの中にいた時も、鞄を提げた記憶は無い。何かを鞄に入れた記憶も。
(鞄無し…?)
無かっただろうか、と記憶を探っても見当たらない。鞄の記憶の欠片さえも。
考えてみれば、ハーレイだって。前のハーレイも鞄を手にした姿が思い浮かばない。大きな鞄も小さな鞄も、それを提げているハーレイを目にした記憶が一つも残ってはいない。
前の自分も、前のハーレイも鞄を持ってはいなかった。通学鞄が無いのはともかく、そうでない普通の鞄でさえも。
(なんで…?)
どうして一つも無いのだろう。鞄の記憶も、それを持っていた誰かの記憶も。
前の自分とハーレイ以外の誰かが鞄を持っていたなら、その記憶がきっと引っ掛かる。あそこで鞄を確かに見たと、こういう形の鞄だったと。
けれども、何処にも無い記憶。誰の鞄も覚えてはいない。ゼルもヒルマンも、ブラウもエラも。他の仲間が持っていた鞄も。
(…ノルディが持ってたケースくらい…?)
普段は提げてはいなかったけれど、往診用の専用ケースがあった。青の間で何度も世話になったそれ。聴診器や薬や、大嫌いだった注射が中から出て来た。
その他に鞄は一つも知らない。工具箱などの類はあったけれども、鞄なるものは。
シャングリラでは鞄は要らなかったから。誰も必要としなかったから。
鞄を持って出掛けてゆく場所は無くて、鞄無しでは困るような場所も何処にも無くて。
前の自分も、他の仲間も、鞄が要るとは思わなかった。それが欲しいとも、必要だとも。
そうだったのだ、と思い出した。あの船に鞄は要らなかった、と。
だから持ってはいなかった。前の自分も、前のハーレイも、他の仲間たちも、誰一人として。
唯一の例外だったのがノルディだとはいえ、あの鞄は個人の持ち物ではない。ノルディが使っていたというだけ、中身はノルディの私物ではなくて診察や治療に必要だった物ばかり。ノルディの代わりに医療スタッフが持つこともあった、医師の資格がある者ならば。
つまりはノルディのものではなかった鞄。医師なら誰でも使えた鞄で、個人的な持ち物は入っていなかった。入れる必要すらも無かった、私物は自分の部屋に置いておけばいいのだから。部屋でなくても仕事をしている場所の自分の専用スペース、其処に仕舞っておけばよかった。
それ以外の物は皆の共有だったから。わざわざ自分で持ち歩かずとも、備え付けの物を使いさえすれば間に合った船がシャングリラ。
鞄の出番は全く無かった、白い鯨で暮らした頃は。前の自分が生きていた船は。
(今は鞄無しだと…)
学校に通うことは出来ないし、幼稚園ですら通えない。幼稚園児でも一人に一つずつ、決まった鞄が渡されるもの。中身は本当にほんの少しで、お弁当が鞄の中心だけれど。
今のハーレイも鞄が無ければ仕事に出掛けることは出来ない。授業で使う教科書や資料、それに愛用の文具などを鞄に入れているのだし、お弁当が入っている日も多い。その他にもきっと色々なもの。柔道部で必要な道着やタオルは専用の鞄がまた別にある。
自分が提げている通学鞄に、ハーレイの鞄に、ハーレイの柔道用の鞄に…。
前の自分たちは持っていなかった鞄、それが今では思い付くだけでもハーレイと自分の分だけで三つ。前は一つも無かった鞄が。それを思うと…。
(鞄って…)
今の自由の象徴だろうか、猫も鞄に入るのだから。
シャングリラにペットはいなかったけれど、今では当たり前のように猫に出会える世界。通学の途中で保護したからと子猫を鞄に入れられる世界。
自分の鞄に、子猫をヒョイと。「此処に入っていればいいから」と通学鞄に。
(子猫まで入れられるんだから…)
考えたことも無かったけれども、鞄は自由の証明だろうか?
シャングリラの中だけが世界の全てだった時代と違って、自由な時代だから鞄。通学鞄に子猫を入れてもいいほど自由で、前の自分たちには無かった鞄が持てる時代で…。
なんて素晴らしい時代だろうか、と鞄を見詰めて頷いて。
これが自由の象徴なのかと、自由だから鞄を持っていいのだと考えていたら、チャイムの音。
仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、自分の発見を披露した。大発見に心を弾ませながら。
「ねえ、鞄って凄いんだよ!」
ホントに凄いよ、鞄はうんと自由なんだよ。ハーレイ、知ってた?
「そのようだな」
猫も隠せるようだしな、とハーレイが苦笑いしているから。
あれは参ったと、まさか子猫を入れて来るとは、と例の男子の話が始まりそうだから。
「そうじゃなくって…!」
持っていなかったよ、鞄なんかは。
今のぼくたちじゃなくって、前のぼくたち。ハーレイも、ぼくも。ゼルも、ブラウも。
誰も鞄を持ってなかったよ、鞄なんかは無かったんだよ。
ノルディが診察用のケースを持っていたけど、あれくらいしか無かったと思う。それに、あれはノルディの持ち物じゃなくて、医療スタッフでお医者さんなら誰でも持てたよ。
だから鞄は無かったんだよ、シャングリラには。
だけど今では鞄を持てるし、うんと自由になったんだよ。猫だって入れていいんだから…!
「そういえば…。前の俺には無かったな、鞄」
言われてみれば持っちゃいなかった。キャプテン専用の鞄なんぞは。
「ね、無かったでしょ?」
前のハーレイも持ってなかったし、前のぼくも持っていなかったんだよ。他のみんなも。
「うーむ…。今の今まで気付かなかったが…」
そういや鞄は無かったっけな、シャングリラには。ノルディの診察用のケースくらいだったか、鞄と言えないこともないのは。
あれくらいだなあ、見た目に鞄と呼べそうなヤツは。同じように提げるものではあっても、工具箱とかは鞄じゃないしな。
「ほらね、一つも無かったんだよ、鞄なんて。シャングリラにはホントにただの一つも」
だけど今だと鞄があるでしょ、ハーレイもぼくも。
それだけ自由になったってことで、自分の鞄に猫を入れてもいいんだよ。
…学校に猫は、ちょっと駄目かもしれないけれど…。叱られちゃっても仕方ないけど…。
でも、入れるのは自分の自由で、自分で好きに決められるんだよ。
白いシャングリラには無かった鞄。
書類などを入れるためのケースはあったけれども、それはケースで鞄ではなくて。個人が自由に使える鞄は何処にも無かった、誰も持ってはいなかった。
ソルジャーもキャプテンも、ゼルやブラウやヒルマンもエラも。
子供も大人も鞄が無かった、それが変だとも思わなかった。鞄が欲しいと思うことすら。
「なるほど、自由になったからこそ鞄だってか」
ついでに猫まで入れる自由も手に入れた、とお前は言いたいわけだ。それは確かに正しいが…。間違っていると言いはしないが、俺が思うに、鞄ってヤツ。
前の俺たちが鞄を使いもしなくて、持とうとも思わなかった理由は他の所にあるんじゃないか?
鞄があっても、そいつに仕舞って持ち歩きたいと思うもの。持ち歩かなくちゃならないもの。
そういったものが無かったんじゃないか、鞄に入れなきゃならないような持ち物が。
自分の部屋だの、持ち場だのに置いておけば充分だったから、鞄は必要無かったんだな。
「…そっか、そうかも…」
いつも持って行かなきゃいけない持ち物、考えてみれば無かったかも…。
子供たちだって勉強道具は教室とかに置いてたんだし、通学鞄は要らなかったよね。ハーレイがブリッジに行く時だって、必要な物はブリッジに揃っていたんだし…。
鞄の出番が無かっただけだね、シャングリラでは。
あの船に鞄はまるで必要無かったんだね…。
鞄は自由の証明なんだと思ったんだけれど…、と項垂れた。
大発見をしたと思っていたのに違ったのか、と。鞄があるのは自由の象徴ではなかったのかと。
「ちょっと残念…。凄い発見だと思ったのに…」
「そうでもないぞ。鞄に入れて持って歩くような持ち物があるのが自由の証拠さ」
入れるものは色々あるからな、と頷くハーレイ。
前の自分からは想像もつかないような仕事の道具に、弁当箱に…、と。
「それに猫も?」
想像がつかないものなら猫だよ、今のぼくだって猫は想像出来なかったよ。
猫を鞄に入れようだなんて、猫が鞄に入るだなんて。
「ああ、猫もだな」
流石に俺は入れはしないが、入れて来たヤツがいたってことはだ、猫を入れてもいいんだろう。鞄の中がどうなっちまってもかまわないなら、猫も入れられる。
今日の馬鹿者は何を考えていたんだか…。あそこで俺が気付かなかったら、昼休みまでに子猫のトイレになってただろうな、あの鞄。隅っこで済ませたか、教科書の上でやっちまったか…。
どっちにしてもだ、あいつの鞄はエライことになったと思うがな…?
子猫も鞄に入れられる時代。トイレにされてもいいのなら。自分が入れると決めたなら。
もっとも、子猫を入れた男子はトイレの危機には気付いていなかったようだけれども。昼休みに餌をやらなければ、と考えた程度で、子猫がトイレに行きたがるだろうことまでは。
鞄に入れるだけの持ち物があって、子猫を入れてもかまわない時代。鞄が身近にある時代。
旅行に行くなら旅行鞄も要るだろう。旅に出掛ける日数に合わせて、着替えの服などをぎっしり詰めて。前の自分たちには出来なかった旅行、行き先を自由に選べる旅行。
近い所へ日帰りの旅に行こうというなら、小さな鞄。必要なだけの荷物を詰めて。何を入れるか迷うかもしれない、ほんの小さな鞄の旅でも。これは入れようか、置いてゆこうかと贅沢な悩み。
持ち物が多くなったから。前の自分たちが生きた頃とは比較にならない量だから。
そうやって持ち物が増えたのと同じで、鞄も増えた。通学鞄や、旅行鞄や。
シャングリラには無かった鞄が沢山、リュックサックも鞄に入るだろうか。提げるのではなくて背負うけれども、リュックサックも鞄だろうか?
遠足などで背負ったリュック。山登りをする人たちも背負ってゆくリュック。
「リュックサックなあ…。あれは一応、あったがな…」
「えっ、いつの間に?」
ぼくは知らないよ、リュックなんて。そんなの、ぼくは見ていないけど…。
「前のお前が生きてた間に出来てはいたんだ、ナスカに入植した後に」
非常持ち出し用って言うのか、ナスカからシャングリラに緊急脱出しなきゃいけないケースってヤツを想定して、だ…。
「これに入るだけの荷物しか駄目だ」と渡してあったな、小さなリュックを。シャトルに沢山の荷物を持って来られちゃ困るし、持ち出す物の量は公平にな。
「それは鞄とは違うんじゃあ…」
ぼくの言ってる鞄とは違うよ、好きなものを好きに詰められないなら。
これも、って猫を詰められないでしょ、そのリュックは。入れられる量はこれだけですよ、って決まった鞄は自由じゃないよ。…そのリュックは鞄の形をしてても、鞄じゃないよ。
「…そうかもしれん」
ただの袋と言うかもしれんな、リュックの形をしていただけの。
思い付きで猫を入れられないようなリュックに、自由は確かに無いからなあ…。お前が言ってる鞄の自由。何でも入れていいんだ、ってヤツは。
白いシャングリラに鞄は一つも無かったけれど。
ナスカの時代に出来たらしいリュックも、中身を自由に選ぶ代わりに、それに入るだけの物しか持てない制限つきのリュックだったのだけれど。
「…今は鞄も沢山あるよね」
デザインも大きさも、ホントに色々。通学鞄とか幼稚園の鞄は決まりがあるけど…。
でも、通学鞄でも猫を入れちゃった人がいるんだし、決まりの無い鞄はもっと自由に使えるね。
「山ほど売られているからなあ…」
鞄の売り場に出掛けて行ったら、どれにしようか直ぐには決められないほどな。
このくらいの大きさの鞄にしよう、と思って行っても迷うんだ。色の違いやデザインなんかで。もう本当に迷っちまって、あれこれと持ってみて、また悩んで。
前の俺が鞄を持っていなかったせいってわけではないなあ、こいつはな。
山のようにあるデザインってヤツが悪いんだ。自由に選べて自由に使える鞄だけにだ、選ぶ時も自由が大きすぎてなあ…。これがいいな、と思った途端に別のに目移りしちまうってな。
お前は鞄を自分で買うには、まだ小さいからそれほど悩みはしないだろうが…。
結婚する頃には悩み始めるぞ、俺と同じで、あれにしようか、これにしようかと。
そうやってお前が悩んで決めた鞄は俺が持とう、と微笑むハーレイ。
結婚したら、お前の荷物は俺が持つから、と。
「持ってくれるの? ぼくの荷物も」
旅行鞄とか、そういうのを?
「そうさ、お前に重たい荷物を持たせるわけにはいかんだろうが」
嫁さんに重い荷物を持たせるなんぞは論外だ。俺がしっかり持って運ばんとな。
「前はそういうのも無かったね」
…前のぼくには、ハーレイに荷物を持って貰った覚えが無いよ。
シャングリラで使ってた荷物とかなら、二人で運びもしたけれど…。ぼくの荷物は。
「お互い、鞄が無かったからな」
俺が持とうにも、お前の鞄は無かったし…。
俺のと一緒に持って行くから、と言おうにも鞄が無いんじゃなあ…。
前は無かった鞄だけれど。今は鞄がある時代。
鞄を自由に選べる時代で、鞄の中身も選べる時代。猫を入れてもいい時代。
だから今度は、結婚したら二人で鞄を持とう。
どれを買おうか色々悩んで、旅に出るなら旅行鞄も。
そしてハーレイに重たい鞄を持って貰って…。
(幸せが一杯…)
重たい鞄の中身はきっと幸せが一杯、山ほどの幸せ。それが詰まった鞄になる。
お弁当や旅先で買ったお土産、他にも色々、入れたいものを入れて。
前の生では無かった幸せ、鞄にあれこれと詰められる幸せ。
それを鞄に一杯に詰めて、ハーレイと二人、何処までも歩く。青い地球の上を、鞄を持って…。
自由な鞄・了
※個人が自由に使える鞄が、無かった船がシャングリラ。無くても困らなかったからです。
けれど今では、幾つもの鞄。何を入れるのも自由な世界で、子猫を入れた人も。幸せな時代。
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「これからの季節もお勧めだぞ」
留鳥ってヤツを狙うなら、ってハーレイの雑談。巣箱の話。
授業中に生徒が退屈してきたら、絶妙のタイミングで色々な話をするんだけれども、今日の話は小鳥の巣箱。古典とはまるで関係ないけど、みんな瞳を輝かせてる。
巣箱を掛けるのにいい場所だとか、時期だとか。渡りをしないで一年中住んでる留鳥だったら、冬の間から巣を作る場所の下見をするから、今の時期もお勧めなんだって。夏に来る小鳥のために掛けてやるなら、春がいい。夏鳥と言っても巣作りが夏、春の終わりには来るものだから。
それと、巣箱に欠かせないもの。蛇除けの工夫。蛇に卵を盗られないように。
「蛇は卵が好物だからな、これは気を付けてやらんといかんぞ」
せっかくの幸運が逃げて行っちまう、って話すから。
卵が幸運のシンボルなのかと考えたけれど、そうじゃなかった。幸せを運んで来るのは鳥の巣の方。庭に小鳥が巣作りをすると、幸運がやって来るんだって。
ずうっと昔の風水っていうヤツ、中国から来て日本でも都を作る時とかに取り入れた思想。その風水だと、庭で小鳥が巣作りをすると吉兆になる。いいことが起こるという前触れ。
「風水の都は分かっているよな?」と話は古典の世界に戻った。四神相応の場所に造られた都、それが平安京なんだぞ、って。玄武に青龍、朱雀と白虎。ハーレイは凄く話が上手い。居眠ってる生徒は誰もいないし、授業をするのに丁度いい雰囲気になったから。
四神相応の都なんかより、ぼくの頭に残った巣箱。小鳥のために作ってやる家。
(巣箱…)
ハーレイの雑談の中身からして、ハーレイも掛けていたみたい。隣町の家に住んでた頃に。庭に夏ミカンの大きな木がある、お父さんとお母さんが暮らしてる家で。
そのせいかどうか、心に残ってしまった巣箱。学校が終わってバスで帰って、バス停から家まで歩く途中の家の庭には巣箱は無かった。裏庭とかにあるかもしれないけれども、ぼくが歩いて帰る道から見える庭には、ただの一つも。
(やっぱり無いよね…)
あったらとっくに気付いてると思う、庭を見るのは好きだから。花も木も、それに来ている鳥や虫たちも。小鳥のための巣箱なんかは、きっと最高に気に入るだろうし…。
(巣箱、あったらいいのにな…)
ハーレイも掛けていたっていうのが大切なところ。風水の吉兆なんかよりも。
本物の巣箱を見てみたいのに、何処の家にも巣箱は無いから、ちょっぴり残念。ぼくの好奇心は巣箱で一杯、だけど何処にも無い巣箱。本物に出会えない巣箱。
でも…。
家に着いて、門扉を開けて入った庭。あそこに巣箱があったらいいのに、って見上げた木の上。庭で一番大きな木。白いテーブルと椅子の上に枝を広げている木。
きっと巣箱が似合いそう、って下から順に見ていった枝。何処に掛けるのが一番だろう、って。
そうしたら…。
(あれ…?)
あったような気がする、あそこに巣箱。どの枝なのかは分からないけれど、巣箱が一つ。小鳥のために作ってある家、お洒落なのが。真っ白なのが。
そういう巣箱が枝にチョコンと、幹から枝が伸びる所に一つ乗っかっていたような…。
だけど、どの枝かが思い出せない。本当に巣箱があったかどうかも。
もしかしたら、ぼくの家じゃなくって、他所の家の庭で見たかもしれない。巣箱だな、って。
どうにも思い出せない巣箱。ぼくの家だったか、そうじゃないのか。
真っ白な巣箱は覚えているのに、お洒落だったってことは覚えているのに…。
(巣箱、本当にあったっけ…?)
だんだん自信が無くなってきたから、おやつの時間にママに訊いたら、やっぱりあった。
ぼくが今よりずっと小さくて、幼稚園に通っていた頃に。ぼくの記憶にあった通りに、庭で一番大きな木の枝に、パパが作ってくれた巣箱が一つ。
「ママ、その巣箱、うんとお洒落な巣箱だよね?」
お洒落でも鳥は入ったの?
小鳥はちゃんと入ってくれたの、お洒落な巣箱でも気にしないで。
「来ていたわよ。何度も覗いて、下見をして…。それから中に巣を作って」
でも、お洒落って…。パパが作ったのよ、巣箱の作り方を調べて。
普通の巣箱だったわよ、って答えたママ。お洒落なんかじゃなさそうだけど、って。
「…どんな巣箱?」
「こんなのよ」
手を出して、ってママが思念で見せてくれた記憶、絡めた手を通してぼくの頭に流れ込んで来た記憶。庭で一番大きな木の幹、枝の上に置かれて掛けてあった巣箱。ごくごく普通の木の巣箱。
そういえばこういう巣箱だっけ、って思い出した。自然の木目が温かそうな巣箱。
丸い穴から小鳥が外をキョロキョロ見ている記憶もあった。飛び立つ所も、戻る所も。
それを見ていたママの目を通して。小鳥を見守る、ママの優しい気持ちと一緒に。
ありがとう、って御礼を言って部屋に戻ったけれど。
ぼくの記憶に残ってた通り、庭で一番大きなあの木に巣箱は掛かっていたんだけれど。
(真っ白じゃなかった…)
お洒落で真っ白な巣箱じゃなかった、ぼくの家の木にあった巣箱は。
ぼくの記憶と違った巣箱。真っ白な巣箱はご近所さんの家のだっただろうか?
今では巣箱を掛けてないけど、ぼくが小さかった頃は掛けていたとか…。
(でも、真っ白でも、鳥って入るの…?)
ハーレイは色については話さなかったし、お洒落な白でも入るんだろうとは思うけど。そういう記憶なんだから。真っ白に塗られた、お洒落な巣箱。小鳥のために作られた家。
だけど、ぼくの家の巣箱じゃない。パパが作った巣箱は普通で、木目がそのまま。
小さかった頃は、ご近所さんの家にも何度も遊びに行ったけど。ママと行ったり、一人で歩いて出掛けたり。おやつを貰って、庭で遊んだりもしていたけれど…。
(巣箱を眺めに、しょっちゅう通っていたんなら…)
もっとハッキリしていそうなのに、巣箱の記憶も、何処の家の庭で見ていたのかも。
ママだって「お洒落な巣箱」と聞いたら思い出しそうなのに。ぼくが気に入って何処かの家まで見に出掛けてた、って。
真っ白な巣箱があった家。お洒落な巣箱を掛けていた家。あれは何処だったんだろう?
(あの巣箱を見て、ぼくの家にも巣箱だったの…?)
パパに強請って作って貰って、庭で一番大きな木に巣箱。ぼくも小鳥の家が欲しい、って。
そうなんだろうか、と思ったけれど。
小さい頃なら、何度も眺めに通う間に、自分の家にも巣箱を欲しがりそうだけど…。
それはともかく、ぼくが巣箱を見ていた家。真っ白な巣箱が掛けてあった木。
何処だったのかがホントに気になる、ぼくの記憶に残ってる巣箱。
(んーと…)
首が痛くなるほど見上げたっていう記憶は無い。巣箱は大抵、高い所にありそうだけど。ママの記憶で見せて貰った、ぼくの家の巣箱も上の方の枝に乗っけてあった。
低めの場所に掛かってたとしても、幼稚園くらいだった頃のぼくなら…。
(見えにくいよね?)
きっと遠くて見えにくいんだ、目が悪いことはなくっても。子供の背はうんと低いんだから。
小鳥が出入りをしていたとしても、巣箱から顔を覗かせていても。
なのに飽きずに眺めていたぼく。
双眼鏡なんかは持っていないのに、巣箱だってきっと、高い所にあっただろうに。
(何の鳥だっけ…?)
ぼくが見上げていた鳥は。お洒落な巣箱に住んでいた鳥は。
それが何だか思い出せたら、色々と思い出せそうだから。巣箱のあった家のこととか、通ってた頃の弾んだ心も鮮やかに蘇りそうな気持ちがするから、頑張っていたら。
どんな鳥だったか思い出そうと記憶をせっせと手繰り寄せていたら、ハーレイの言葉が浮かんで来た。巣箱の雑談をしていた時の。
幸せを運んで来るんだぞ、って。庭に巣を作ってくれる鳥は。巣箱に入ってくれる小鳥は。
(そうだ、青い鳥…!)
幸せを運ぶ、青い鳥。それが入っていた、あの巣箱には。真っ白でお洒落な巣箱には。
ぼくは青い鳥を眺めに通っていた。幸せを運ぶ青い小鳥を。
青い小鳥が住んでる巣箱を見上げに、お洒落な巣箱があった家まで。
やっと見付かった、小さな手掛かり。ぼくが見ていた青い鳥。
(オオルリかな?)
青い小鳥ならオオルリだろうか、ぼくの家に来た青い鳥。
ぼくがおやつを食べていた時、ダイニングの窓にぶつかった小鳥。怪我はしなかったけど、暫く飛べずに羽根を膨らませて立っていた。ビックリしちゃって、真ん丸になって。
お医者さんに連れて行かなくちゃ、って思っていた所へハーレイが来たんだ、あの時は。
ハーレイがいつもより早く来てくれるっていう幸せをぼくにくれた鳥。ぼくの幸せの青い鳥。
オオルリだな、ってハーレイが名前を教えてくれた鳥。
青い小鳥はオオルリくらいしか見たことがないし、巣箱の小鳥もきっとそうだと思ったけれど。
オオルリはいつの季節の鳥なんだろう、と調べかけたけれど。
巣作りをする時期が分かれば、もっと色々思い出せると考えたけれど…。
(ちょっと待って…!)
違う気がする、ぼくじゃない、って。
青い小鳥を眺めていたのは、お洒落な巣箱を見上げていたのは、ぼくじゃないんだ、って。
幼稚園の頃の小さなぼくとは違うぼく。ご近所さんの家で遊んでいたのとは違うぼく。
(前のぼく…?)
ぼくじゃないなら、前のぼくしかいないんだけど。その他にぼくはいないんだけど。
でも、シャングリラに小鳥はいなかった。白い鯨に空を飛ぶ鳥はいなかった。
船の中だけが全ての世界で、小鳥は役に立たないから。蝶と同じで目を楽しませるだけ、そんな生き物は飼えなかった船。自給自足の日々を送る船に、余計な生き物は乗せておけない。
卵を産んでくれる鶏だけしかいなかった白いシャングリラ。
巣箱なんかは必要無かった。それに入る鳥はいないから。巣を作る小鳥はいなかったから。
(だけど、巣箱…)
真っ白に塗られたお洒落な巣箱は確かにあったし、青い鳥だ、っていう記憶。
巣箱に住んでた青い鳥。ぼくの記憶はそうなっている。前のぼくの遠い遥かな記憶の中では。
青い鳥なんて、シャングリラには一羽もいなかったのに。
前のぼくが欲しくて、飼いたいと願った青い鳥。幸せを運ぶ、地球と同じ青い羽根を持った鳥。でも、シャングリラの中では飼えない。青い小鳥は何の役にも立たないから。
青い小鳥が飼えなかったから、代わりにナキネズミだったのに…、って思った途端。
どの血統のナキネズミを育てるか、って話が出た時、青い毛皮のを選んだっけ、って青い小鳥とナキネズミの繋がりを頭に思い浮かべた途端。
(そうだ、ナキネズミ…!)
お洒落な巣箱は青いナキネズミのために掛けたんだった。真っ白な巣箱の正体はそれ。
前のぼくがナキネズミに入って欲しくて、巣箱を掛けようと思い付いた。
ナキネズミは小鳥じゃないんだけれども、気分だけでも青い鳥、って。
木に掛けた巣箱に住んでいたなら、青い小鳥を見ているような気持ちになれそうだ、って。
前のぼくが巣箱を掛けたがった時にはみんなが笑った、ナキネズミが入るわけがないと。巣箱を作るだけ時間の無駄だと、それこそ文字通りに無駄骨だと。
長老たちを集めた会議の席で遠慮なく笑い飛ばされた。ゼルもヒルマンも、ブラウもエラも。
傑作すぎると笑い転げたゼルにブラウに、困ったような顔で笑ったヒルマンとエラ。
「リスなら巣箱もあるのだがね…」
飼う時にもケージに巣箱をセットするし、と髭を引っ張っていたヒルマン。
ナキネズミを開発する段階で飼っていたリスも、巣箱で眠っていたのだから、と。リスの巣箱は小鳥用の巣箱と共通点も多いのだがね、と。
遠い昔の地球の上では、小鳥用にと掛けた巣箱にリスが入って住み着くケースも珍しくなくて、リスは巣箱が好きらしいことは確かだけれど。
「ナキネズミは違うんじゃないのかい?」
見た目からしてまるで違うよ、と笑ったブラウ。大きさだって違うじゃないかと。
それにナキネズミは巣箱で暮らしていないし、巣箱が欲しいと言って来たことも一度も無いと。
「そうじゃな、ヤツらは現状に大いに満足しておるわい」
巣箱が欲しいと言いもせんわ、とゼルも呆れ顔で。エラも「聞いてはいませんね」と頭を振っていた。ナキネズミからそういう要望は無いと、ナキネズミと暮らす子供たちからも巣箱が欲しいと聞いたことは無いと。
もう散々に笑われたけれど、笑い物になってしまったけれど。
ナキネズミのために巣箱だなんてと、誰もが可笑しそうだったけれど。
たった一人だけ、穏やかに微笑んで聞いていたのがハーレイだった。それは変だと笑う代わりに浮かべていた笑み、みんなと違って意見を述べもしなかった。ナキネズミに巣箱は必要無いとも、きっと入りはしないだろうとも。
ハーレイ以外の四人が笑ってくれたけれども、それでも掛けてみたかった巣箱。
青い小鳥を飼ってる気分で、ナキネズミに住んで欲しかった巣箱。
地球が滅びるよりも前の時代は、小鳥用の巣箱にリスが入ったとヒルマンに聞いてしまったから余計に諦め切れない。ナキネズミはリスとネズミを元にして開発された生き物だったんだから。
リスよりはかなり大きいけれど。小鳥よりも遥かに大きいけれど。
それでも巣箱…、とデータベースで資料を調べた、リスが入ったという例を。ヒルマンが話した通りに幾つも出て来た、小さな巣箱から大きなものまで。
フクロウ用なんていう巣箱もあって、それにもリスが住んでいたから。フクロウは身体の大きい鳥で、ナキネズミでも充分に入れそうな巣箱で暮らしていたから。
これは使えそうだと思ったぼく。ナキネズミだって巣箱に入るだろうと。
フクロウ用の巣箱があったと言うなら、その中にリスが住んでいたのなら。
リスの血を引くナキネズミだって、巣箱は嫌いじゃないかもしれない。ゼルたちは笑ってくれたけれども、ぼくの夢は現実になるかもしれない。
青い鳥の代わりにナキネズミ。ぼくが思い描いた通りの景色を、白いシャングリラで。
そう思ったから、ハーレイに頼んで巣箱を作って貰った。木彫りじゃなくて悪いんだけど、と。
「いいえ、木の扱いなら慣れていますからね」
木彫りの評判は相変わらずですし、実用品以外はまるで駄目だと言われていますが…。
実用品ならお任せ下さい、巣箱だったら木彫りよりもずっと簡単ですよ。
削る必要があるのは入口の所だけですし、他の部分は板の寸法を測って切るだけですし…。
組み立てる方も釘さえ打てれば、子供だって作れそうなものですからね。
ハーレイは気軽に引き受けてくれた、ナキネズミのための巣箱作りを。
キャプテンの仕事が終わった後の自由時間に板を切ったり、削ったりして作ってくれた巣箱。
それを真っ白に塗って貰った、シャングリラの白に。
青い小鳥が住む家にするなら、その色がいいと思ったから。楽園という名の船の色が。
そうして巣箱が出来上がったら、「本気だったのか」と呆れてしまったブラウたち。ハーレイと二人で巣箱を見せに行ったら、長老たちの休憩用の部屋へ運んで披露したら。
「まさか本気でやらかすとはのう…」
わしは入らんと思うんじゃが、とゼルが唸って、ブラウも「入りっこないよ」と肩を竦めた。
ヒルマンもエラも「無理だと思う」と言ったけれども、巣箱は出来てしまったから。
真っ白に塗られたお洒落な巣箱が出来ていたから、シャングリラの色をした巣箱なら…、と絵を描いてくれた、フェニックスの羽根のミュウの紋章を。金と赤との羽根の模様を。
エラが器用に、出入り口の上に。
ハーレイが丸く滑らかに削って仕上げた、巣箱の出入り口にミュウの紋章。
巣箱はぐんとお洒落になった。真っ白な色も素敵だけれども、紋章までついているんだから。
完成した巣箱は、ハーレイが公園の木に梯子を架けて取り付けてくれた。
ぼくと二人で掛ける木を選んで、「此処でいいですか?」って枝に乗っけて、幹に固定して。
とても絵になる場所に掛けた巣箱、青い鳥に相応しいお洒落な巣箱。
毎日、毎日、公園まで覗きに出掛けてゆくのに、ナキネズミは入ってくれなくて。
ぼくの自慢の真っ白な巣箱は、いつまで経っても空家のままで。
「ハーレイ、あの巣箱、やっぱり駄目かな…」
ゼルたちが笑い飛ばした通りに、ナキネズミに巣箱は無理だったかな?
いいアイデアだと思ったけれども、未だに入ってくれないし…。中を覗く姿も一度も見ないし、せっかく作って貰ったけれども、無駄骨になってしまったかな…?
「それはまあ…。無理もないでしょう、公園にはナキネズミがいませんからね」
一匹も住んではいませんよ。住んでいないものは巣箱に入りはしません。何かのはずみに興味を引かれて覗き込みはしても、恐らくそれっきりでしょう。
「そういえば…」
よく見掛けるから忘れていたよ。
ナキネズミは公園にいるものなんだと思っていたけど、あれは住んではいないんだっけね…。
ブリッジが見える広い公園。お洒落な巣箱を掛けた場所。
公園に行けばナキネズミの姿はあるんだけれども、其処に住んでるわけじゃなかった。他の場所から来ていただけ。子供たちのお供で公園まで。
ナキネズミは思念波を上手く扱えない子供たちをサポートするために作った生き物、子供たちと一緒に暮らすのが仕事。ナキネズミを必要とする子に一人一匹、その子の部屋がナキネズミの家。
だから公園まで遊びに来たって、子供と一緒に帰ってゆく。自分が暮らしている部屋に。
そんなナキネズミが巣箱を見たって、住もうと思うわけがない。
ぼくが見ていない間に入口から中に入ったとしても、遊び場所だと考えるだけ。一休みするのにいい場所があったと思ったとしても、住んではくれない。自分の家は別にあるんだから。
失敗だった、ぼくの考え。ナキネズミには必要無かった巣箱。
それじゃ入らない、って溜息をついた、ナキネズミは住んでくれないと。ナキネズミ用の巣箱は無駄だったんだ、って肩を落としたら。
「大丈夫でしょう、場所を変えれば入りますよ」
ブリッジから何度か見掛けましたからね、ナキネズミが巣箱を覗いているのを。
入る所を見てはいませんが、嫌いではないと思います。ですから、巣箱の場所を変えれば入ると私は考えますが…。
「変えるって…。何処へ?」
「農場ですよ。暇なナキネズミはあそこで暮らしていますからね」
子供たちのサポートをしていない時は、ナキネズミは農場に住んでいるでしょう?
牛小屋にいたり、飼料置き場に入り込んでいたり、自分好みの場所を見付けて勝手気ままに。
一匹くらいはきっといますよ、巣箱を気に入るナキネズミも。
巣箱はそっちへ移してみましょう、ナキネズミが住んでいる所へ。
ハーレイは公園の木にまた梯子を架けて登って、巣箱を外して農場の方に移してくれた。農場に植えてあった木を端から調べて回って、此処にしましょう、って。
収穫の時以外は手のかからない木を一本選んで、その木に梯子を架けて登って。
何の木だったかは忘れたけれども、大きかった木。頑丈な幹にお洒落な巣箱が取り付けられた。真っ白なシャングリラの色の巣箱が、ミュウの紋章つきの巣箱が。
次の日に様子を見に行ってみたら、もうナキネズミが巣箱の中を覗いてた。ぼくが下から見てる間に、どんな具合かと出たり入ったりし始めた。大きなフサフサの尻尾を揺らして。
ナキネズミの尻尾が巣箱の中へと消えて行ったり、入口から顔を覗かせて外を見回してみたり。巣箱を見付けたそのナキネズミは、お洒落な巣箱が気に入ったようで。
邪魔をしないよう、そうっと帰って、また次の日に出掛けて行ったら、ナキネズミは一匹増えていた。昨日のナキネズミのお嫁さんが来てた、白い巣箱に。
(それで住み着いて…)
フクロウ用の巣箱だったから、お嫁さんも一緒に充分入れた。お洒落な巣箱はナキネズミが住む家になってくれて、前のぼくは満足したんだった。
青い鳥の巣箱がシャングリラに出来たと、青い鳥が巣箱で暮らしていると。
本当は青い鳥じゃなくって、青い毛皮のナキネズミが住んでいたんだけれど…。お洒落な巣箱の住人はナキネズミの夫婦だったけど。
(ハーレイのお蔭…)
ナキネズミ用の巣箱作りも、ナキネズミがちゃんと巣箱に入ってくれたのも。
ゼルもヒルマンも、ブラウもエラも「無理だ」と笑ったナキネズミの巣箱。巣箱なんかに入りはしないと皆が言ったのに、ハーレイは無理だと言いもしなくて、笑いもしなくて。
巣箱まで作って、木に取り付けてくれて、前のぼくの自己満足に付き合ってくれた。青い小鳥を飼いたかったぼくの、ナキネズミ用の巣箱なんていう無茶な思い付きに。
ハーレイが手伝ってくれたお蔭で叶った夢。前のぼくの夢。
ナキネズミが見事に住み着いた巣箱は、もう笑われはしなかった。ゼルもブラウも農場にあった巣箱を見上げて、「次は子供の出番だ」なんて話をしていた。きっとその内に可愛いナキネズミの子供が生まれて、巣箱から顔を出すんだろうと。外へ出て来る日が楽しみだと。
真っ白でお洒落な巣箱に住んでたナキネズミ。前のぼくの夢の青い鳥。
ハーレイのお蔭で飼うことが出来た、青い鳥の巣箱を何度も何度も眺めにゆけた。ナキネズミの子供も無事に生まれて、巣箱を見上げたら小さいのが外を見てたりもした。
とても幸せだった、ぼく。青い鳥の巣箱が此処にあるんだ、って。
(御礼、言わなきゃ…)
あの巣箱の御礼を、ハーレイに。
前のぼくはもちろん御礼を言ったけれども、今のぼくからも。巣箱のことを思い出したからには御礼を言いたい、今のハーレイに。あの時は巣箱をありがとう、って。
そう思っていたら、チャイムが鳴って。仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから。
ぼくの部屋で二人、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで、笑顔を向けた。
「あのね…。思い出したよ、ハーレイの巣箱」
ハーレイが作った巣箱のことをね、今日の雑談のお蔭で思い出せたよ。
「はあ?」
なんでお前が俺の巣箱を知っているんだ、今の家では作っていないぞ。親父の家で暮らしていた頃に作って掛けはしたがだ、その話、お前にしていたか?
俺は話した覚えなんか無いが、何かのついでに話したっけか…?
「ううん、今のハーレイの巣箱じゃないよ。前のハーレイだよ」
ハーレイが作って掛けてくれたよ、ナキネズミの巣箱。
ゼルたちは笑い転げたけれども、ハーレイだけは笑わなくって…。フクロウ用の大きなサイズの巣箱を作って、真っ白に塗ってくれたんだよ。
「ああ、あれなあ…!」
あったな、ナキネズミの巣箱。やたらお洒落で、ミュウの紋章まで描いてあったのが。
最初は公園の木に取り付けたっけな、あそこにナキネズミは一匹も住んでいなかったのにな?
前のお前が「入ってくれない」ってガッカリしていて、農場の木に取り付け直して。
そしたら直ぐに住み着いたんだったな、ナキネズミが二匹。可愛い子供まで生まれちまって。
「あの巣箱…。嬉しかったんだよ、ありがとう」
青い鳥を飼ってる気分になれたよ、ナキネズミの巣箱はハーレイのお蔭。
ハーレイが作って掛けてくれなきゃ、ぼくは巣箱を持てなかったし…。青い鳥を飼う夢はきっと叶わなかったよ。ナキネズミだったけど、あれは青い鳥。前のぼくの青い鳥だったんだよ。
「いや…。そんなに礼を言ってくれなくても…」
俺も充分、楽しんだしなあ、あの巣箱作り。俺の木彫りは評判がいいとは言い難かったが、あの巣箱は皆に褒められたしな?
洒落た巣箱も作れるんじゃないか、と辛口のブラウにまで言って貰えたし…。
いい思い出ってヤツだ、ナキネズミの巣箱。ちゃんとナキネズミも住んでたからな。
今度はいいのか、ってハーレイに訊かれた。俺の巣箱は要らないのか、って。
「…巣箱?」
またハーレイが作ってくれるの、前みたいに?
「うむ。青い鳥、今ならいけるかもしれんぞ」
巣箱を作って掛けておいたら、青い鳥が入ってくれるかもしれん。
「ホント!?」
本当に本物の青い鳥なの、青い鳥が巣箱に住んでくれるの…?
「運が良けりゃな。前に見ただろ、俺と一緒に青い鳥を。オオルリってヤツを」
あのオオルリも巣箱の中に巣を作るんだ。何処に巣を作ろうかと探している時に、上手い具合に巣箱に出会えりゃ、いいものがあったと中に入って。
ただなあ、山の中で暮らすことが多い鳥だしな…。オオルリだけを狙って巣箱を掛けにゆくなら山の中ってことになっちまうんだが。
「山の中って…。それじゃ滅多に見に行けないよ、入ってくれても」
家の庭だとオオルリは無理かな、巣箱を掛けても来てはくれない?
「まるで駄目ではないかもしれんな」
お前の家でガラスにぶつかっていたし、住宅街でも気にしないオオルリもいるかもしれん。緑と餌とが充分にあれば、生きてゆくのに困りはしないし…。
まずは巣箱を掛けることだな、オオルリに来て欲しければな。
巣箱さえあったら鳥が入るさ、って。オオルリでなくても、青い鳥とは違っても。
「お前の家でも入ってたんだろ、あそこの木に巣箱があった頃には?」
白い巣箱ではなかったようだが、お前のお父さんが作った巣箱。
「うん。普通の巣箱だったけど…」
ママの記憶で見せて貰ったよ、住んでた小鳥が飛んでゆくのを。巣箱に帰ってくる所も。
「ほらな、そんな具合で巣箱を掛ければ小鳥はやって来るもんだ」
今度は本物の鳥に入って貰って、幸せの鳥といこうじゃないか。
今日の授業で話してやったろ、庭で鳥が巣を作るというのは吉兆だ、とな。
青い鳥でなくても幸せが来るんだ、巣箱に小鳥が住んでくれれば。
前のお前の願い通りに青い鳥が巣箱に入ってくれれば最高なんだが、さて、どうなるか…。
巣箱が好きで住宅街も好きなオオルリ、飛んで来てくれるといいんだがな。
俺が巣箱をまた作ってやる、って片目を瞑ってくれたハーレイ。
今のハーレイは木彫りをやっていないけど、前のハーレイが作ってくれた巣箱みたいにお洒落な巣箱を。シャングリラと同じに真っ白な巣箱を、もう一度。
「…ねえ、白い巣箱でも鳥は入ってくれるよね?」
ナキネズミじゃなくって、本物の小鳥。…白は駄目だってことはないよね?
「その点は全く心配要らんな、真っ白な巣箱も売られてるからな」
真っ白どころか、赤とか青とか。そりゃあカラフルで洒落た巣箱が売られてるってな。
つまりは鳥は入るってことだ、白い巣箱でも、赤でも青でも。
「じゃあ、前と同じで真っ白がいいな」
シャングリラの白に塗ろうよ、巣箱。ハーレイが真っ白に塗ってくれたら、絵はぼくが描くよ。
「絵というと…。エラが描いてたあの紋章か」
前の俺たちのミュウの紋章なんだな、今度はお前が描いてくれる、と。
そいつが出来たら、巣箱を掛ける木を二人で選んで、俺が梯子を架けるわけだな。
「此処でいいか」って、お前に訊いて。
鳥が住みやすそうな場所で、俺たちからもよく見える場所。そこに巣箱を掛けに登る、と。
オオルリが入ってくれるといいな、ってハーレイも本物の青い鳥を期待してくれているから。
ぼくも本物の青い鳥が住んでる巣箱を何度も見上げたいから、いつかは巣箱。
お洒落な巣箱を青い地球の上で木の上に掛けよう、ハーレイと二人で暮らす家で。
幸せが来るという庭の鳥の巣、それを巣箱で青い鳥に作って欲しいから。
前のぼくが見ていた真っ白な巣箱、ミュウの紋章つきのお洒落な巣箱。
結婚したらそれを二人で作って、青い鳥を待とう。
青い鳥でなくても、幸せの鳥がきっとやって来る、ナキネズミじゃなくて本物の鳥。
ハーレイと二人で巣箱を見上げて、幸せな日々。
本物の地球に来られたんだと、今度こそ何処までも二人一緒に行けるんだから、と…。
青い鳥の巣箱・了
※前のブルーが欲しがった巣箱。シャングリラに小鳥はいなくても、気分だけでも、と。
そして巣箱に入ってくれたナキネズミ。今度は地球の木に、本物の鳥が入る巣箱を。
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(え…?)
何、とブルーは足を止めた。思わず握った階段の手摺。
学校から戻って二階の部屋へと上がる途中で、何の前触れもなく覚えた違和感。
(なんなの…?)
どうしたのだろう、と考えたけれど、分からない。躓いたり滑ったりしたわけではなくて、足を傷めたわけでもなくて。爪先でトンと階段を軽く蹴ってみたけれど、足に異常は無さそうで。
どちらかと言えば、気分の問題。
階段を上りたくない気分で、このまま立ち止まってしまいたいような…。
(身体の具合…?)
体調が悪くなる前触れかもしれない、今は体力を使いたくないと。階段を上るより静かに座っていた方がいいと、此処で腰掛けている方がいいと訴える身体。
それくらいしか思い付かない理由。きっとそうだという気もするけれど。
(…でも、こんな所に座っていても…)
階段は座り心地のいい椅子とは違うし、身体も冷やしてしまいそうだから。却って悪化しそうな体調、同じ座るなら自分の部屋まで行った方がいい。椅子もベッドもある部屋まで。
(部屋で一休み…)
暫く大人しくしていよう、と残りの階段をゆっくり上った。
まだ違和感を覚えたままで。上りたくないと思う気持ちを抱えたままで。
階段の上まで上り切ったら、違和感は綺麗に無くなったから。
二階の廊下に着いた途端に消えてしまったから、原因は間違いなく階段だったわけで。
(やっぱり、身体…)
身体が悲鳴を上げたのかもしれない、此処で休憩していたいと。階段など上りたくないと。
そうだとしたら、それは嬉しくない兆候で。
今の間にきちんと落ち着かせないと、寝込んでしまう結果を招かないとも限らない。気付かずに溜めてしまった疲労は、突然、爆発するものだから。夜にはなんともなかった身体が、次の朝には全く言うことを聞いてくれなくて、ベッドから出られないことも多いから。
(体育の授業が悪かった…?)
さほど日射しも強くなかったし、たまには普通の子と同じように…、と挑んだサッカー。木陰で休む代わりに走った、足が速くはないけれど。ボールも上手く蹴れないけれど。
それでも楽しかったサッカー、夢中になって過ごした時間。体育の先生に「少し休みなさい」と注意されるまで走り回った、太陽の下で。
あのサッカーのせいかもしれない、自分では分からないけれど。体調を崩すほどの負担をかけたつもりは少しも無いのだけれども、疲れる理由があったとしたならサッカーくらい。
気を付けなくては、これ以上、疲れないように。身体に負担をかけないように。
部屋で制服を脱いで着替えて、椅子に座って一休み。今すぐにだって動けるけれども、さっきの違和感が心配だから。知らずに疲れを溜めていそうだから、念のために。
時計を眺めて、五分ほど椅子で時間を過ごして、おやつを食べにまた一階へ。階段を下りて。
(気を付けなくちゃ…)
ふらついたりしたら大変だもの、と手摺を握って慎重に。一足、一足、踏み締めながら。
幸い、下りる時には何も起こらず、一階に着いたら、もう安心で。
(…栄養補給…)
おやつは食事ではないけれど。栄養バランスの取れたものとは違うけれども、それでも幾らかの栄養は摂れる。甘い砂糖は疲れが取れるし、小麦粉やクリームもエネルギーに変わる。紅茶だって身体に水分をくれる、知らない間に抜けてしまった水分を補給してくれる。
(おやつを食べたら、きっと良くなるよ)
サッカーで使った分のエネルギーと、身体から抜けた水分と。それが少しは戻るだろうから。
おやつも馬鹿に出来ないのだから、と頬張ったケーキをしっかりと噛んだ、噛めば消化が早まるから。エネルギーに変わるまでの時間が短くなるから。
紅茶もおかわりをして水分補給をしようと努めた、自覚は無くても水分不足かもしれないから。
栄養なのだ、と意識しながら食べ終えたおやつ。身体に効いてくれるだろうと。
キッチンの母に空になったお皿やカップを返して、「御馳走様」と部屋を目指した。あの階段を上って二階へ。今度はきっと大丈夫、と思うけれども、ゆっくり、ゆっくり。
そうしたら…。
(あ…!)
不意に蘇って来た記憶。
こうして階段を上った、何処かで。
こんな風にゆっくりと階段を上った、確かに自分が。
遠く遥かな記憶の彼方で、今の自分とは違う自分が。ソルジャー・ブルーだった前の自分が。
(何処で…?)
いったい何処で上ったのだろう、今と同じに階段などを。
家に帰って直ぐに上った時に感じた違和感、「上りたくない」という気分。あの時の気分は前の自分のものだった。上りたくない気持ちを抱えて上った、白いシャングリラの中の何処かで。
それが何処だか思い出せない、一足、一足、上ってみても。
あの階段が何処にあったか、どうして「上りたくない」と思いながら上っていたのかも。
思い出せないまま、階段の上まで着いたから。
上りたくない気分が
前の自分のものだったのなら、体調不良を心配しなくても良さそうだから。部屋に戻って本棚から出した写真集。白いシャングリラの姿を収めた豪華版。
ハーレイとお揃いのそれを勉強机の上で広げて、パラパラとページをめくってみて。
(階段…)
シャングリラの中で階段といえば、思い付くのは非常階段くらいなもの。巨大な白い鯨の中では階段は不向きな移動手段で、別の階層へ行くなら専用の乗り物を使うのが普通。
それに段差の代わりにスロープ、足が不自由な仲間もいたから。車椅子でも移動しやすいよう、緩やかなスロープが設けられていた。
シャングリラは階段の多い船ではなかった、目に付く所に階段は殆ど無かった筈で。
例外は天体の間と公園くらいで、その階段は写真集にも載っているけれど。
(何処なんだろう…)
前の自分が上っていた階段。
上りたくない気分を抱えて上った階段は何処にあったろう…?
天体の間の階段は違う気がする、この美しい部屋ではないと。
公園にあった階段も違う、皆の憩いの場だった公園、そこの階段でもないと。
けれども自分は、前の自分は確かに上った、「上りたくない」という気持ちを抱えて。それでも階段を上るしかなくて、たった一人で上っていた。
(ぼくが一人だと…)
余計に場所が限られてくる。白い鯨でソルジャーが何処かへ行くとなったら、大抵は誰かが付き従った。ハーレイや、他の仲間やら。
一人で歩いてゆく時といえば私的な外出、行き先はフィシスの所だったり、公園だったり。
そうした時には心は弾んでいるものだったし、階段を上りたくない気分になるとは思えなくて。
いったい何処で一人だったかと、青の間に階段は無かった筈だし、と考えていて…。
(違う…!)
思い出した、と遠い記憶の中からぽっかりと浮かび上がって来た階段。
青の間にあった、階段が一つ。あの部屋はスロープが印象的だったけれど、それとは全く違った場所に。スロープの代わりの非常階段などとは違って、まるで違った目的のために。
青の間を常に満たしていた水、それを湛えた貯水槽。其処へと下りるための階段が一つ、部屋の一番奥の所にひっそりと在った。
貯水槽のメンテナンス用の階段、係の者しか使わなかった階段だけれど。実用本位で飾りなども無くて、二人も並べば一杯になりそうなほどの幅しか無かったけれど。
(あれを下りてた…)
前の自分が。
青の間の一番奥に出掛けて、貯水槽へと続く階段を。
誰もいない時に、ただ一人きりで。
メンテナンスや貯水槽の視察をするのではなくて、隠れたい時に。深い悲しみに心を満たされ、泣きたい気持ちに囚われた時に。
青の間のベッドや椅子でも泣いたけれども、それだけではとても足りない時には階段を下りた。自分しか抱えられない悲しみ、自分であるがゆえの悲しみ。
それが心を塞いだ時には、あの階段を下りていた。此処なら自分一人きりだと、誰も来ないと。誰も自分を見付けはしないし、閉じ籠もっていても許されそうだと。
(ぼくの寿命が尽きてしまうって…)
それが分かってから、何度あの階段を下りただろう。何度、その下に隠れただろう。
一番下の段に座って、俯いて泣いた。
其処から見える暗い水面を、静まり返った水の面を見下ろして泣いた。
焦がれ続けた地球には行けない、辿り着けずに死んでしまうと。自分の命はもうすぐ終わると、それを止める術などありはしないと。
自分の命が尽きてしまうことも悲しいけれども、ミュウの未来はどうなるのか。シャングリラは何処へ向かうというのか、自分が死んでしまったならば。
後継者としてジョミーを見出した後も、本当にそれで上手くいくのかと、幼すぎるソルジャーに皆が従ってくれるだろうかと尽きなかった悩み。自分の寿命がもっとあれば、と。
(みんなの前ではとても言えない…)
自分の心が揺れているなど、悲しみに満ちているなどと。
皆の前では弱さを見せるわけにはいかない、船に不安が広がるから。けして悲しみを知られてはならない、自分の心の中だけに留めておかなければ。
だから階段を下りて、隠れて。部屋付きの係の気配がしたら上った、長老たちが来た時にも。
階段を上り、何気ない風で、さも奥にいたと言わんばかりに出て行った。
いつもと変わらない表情に戻り、悲しみも涙も拭い去って。
階段を上ってゆく時に「強い自分」に切り替えていたから、誰も気付きはしなかった。青の間の奥で前の自分が泣いていたことも、階段を下りていたことも。
気付いていた人間はたった一人だけ、その一人だけしか知らなかった。
(…前のハーレイだけ…)
青の間を訪ねて来たのがハーレイの時だけは上がらなかった。階段を上ってゆかなかった。一番下の段に座って、水面を見下ろして動かずにいたら、上から下りて来たハーレイ。
「やはり此処でしたか」とだけ、声を掛けて。
そうして隣に腰を下ろした、何も訊かずに。黙って側に寄り沿ってくれた。
ハーレイが階段を下りて来る度、二人、何度も、何度も座った、あの階段に。水を覗いて座っていた。狭い階段に二人並んで。
ハーレイと二人で座る時には、要らなかった言葉。思念もまるで必要無かった。
言わずとも、わざわざ伝えなくとも、ハーレイは分かってくれていたから。悲しみに満たされてしまった心を、どうしようもない悲しみのことを。
ただ寄り添っていてくれたハーレイ、その温もりだけで充分だった。一人ではないと、悲しみを分かち合ってくれる恋人が直ぐ側にいると、そう思うだけで。考えるだけで。
溢れ出しそうな悲しみをハーレイにぶつけてしまわなくても、ハーレイは全て受け止めてくれているのだからと。
黙って二人で座り続けて、時にはハーレイに抱き締めて貰って、キスを一つ。
それだけで良かった、何の言葉も慰めも要りはしなかった。
ハーレイがいてくれるだけで。隣に座っていてくれるだけで、二人で水面を見ているだけで。
そうして心が落ち着いた後で、立ち上がって階段を上っていった。元の部屋へと。
ハーレイは後から上って来た。
二度と下りる気にならないようにと、笑顔を向けて。
けして言葉にはしなかったけれど、「大丈夫ですよ」と、「私がお側におりますから」と。
(あの階段…)
青の間の奥にあった階段、前の自分が下りた階段。
それを上る時の気持ちを思い出したのだった、あの違和感は。今の自分の家だけれども、階段を上る途中だったから。何のはずみか蘇った記憶、こうして階段を上っていた、と。
上りたくない気分の時の自分の心。
まだ悲しみは癒えていないのに、ソルジャーの顔で上に戻らねばならない時の。
(ハーレイが来た時は…)
階段の一番下の段に二人、並んで座って過ごした時は。
上る時には悲しくなかった、胸も痛くはなりはしなくて、晴れやかな気分で上っていった。上に戻ろうと、部屋にゆこうと。もう大丈夫だと、こんな所にいなくても、と。
階段を下へと下りてゆく時は悲しかったのに、辛かったのに。
自分の居場所は其処にしか無いと、其処に隠れて涙するより他に道は無いと思っていたのに。
ハーレイが来てくれるだけで悲しみが癒えていった階段。
黙って二人で座っているだけで、何もしないで二人で水面を見ているだけで。
(ハーレイ、覚えているのかな…?)
あの階段のことを。前の自分と並んで座った、青の間の奥の階段のことを。
自分はすっかり忘れていたから、ハーレイも忘れてしまったろうか。あそこに階段が一つあったことも、二人並んで腰掛けたことも。一番下の段に座って、暗い水面を見ていたことも。
どうなんだろう、と考えていたら、来客を知らせるチャイムが鳴って。
仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊こうと思った。階段のことを。
母がお茶とお菓子を置いて行ってくれたテーブルを挟んで、向かい合わせ。
直ぐに訊いてもいいのだけれども、もったいないような気もするから。あの階段に二人で座った思い出はとても大切だから。
少し回り道をしようと思った、ハーレイが覚えていないなら。自分と同じに忘れたのなら、他の階段の話からだ、と。だから…。
「ハーレイ、階段、覚えてる?」
シャングリラにあった階段のこと。ハーレイは今でも覚えている…?
「怪談だと?」
幽霊の話は記憶に無いが、と首を捻っているハーレイ。幽霊でなければ何だったろう、と。怖い話は無かったように思うが、妖怪の類でも出ただろうかと。
「そうじゃなくって…!」
階段が違うよ、上ったり下りたりする階段!
シャングリラの階段、忘れちゃった…?
「そっちの方か…。その階段もあまり無かったぞ」
天体の間と公園の他には、階段らしい階段は作っていなかった筈だが…?
「うん、非常階段くらいしかね」
あれにも一つも写っていない、と勉強机の上に置かれたシャングリラの写真集を指差した。
でも階段はあったんだよ、と。天体の間と公園の他にも、とても大切な階段が一つ、と。
「大切な階段って…。そんなの、あったか?」
あの船は基本はスロープだったぞ、乗り物が使えなくなった時にも足の悪いヤツらが不自由なく移動出来るようにな。非常階段は作業用のヤツで、作業員くらいしか使わなかったが…。
キャプテンの俺が知らない階段、シャングリラには無いと思うがな?
「あったよ、とても大事な階段」
君との思い出の階段なんだよ、ぼくには宝物みたいな階段。
「…何処にだ?」
「青の間」
あそこにあった、と口にしてみたら、息を飲んだハーレイ。
吸い込んだ息の音が聞こえたくらいに、鳶色の瞳が大きく見開かれたほどに。
きっとハーレイは思い当たったに違いないから。あの階段だと気付いたろうから。
「覚えてた?」
ぼくが言ってる階段のこと。青の間の奥にあった階段。
「…今、思い出した」
忘れちまっていたが、青の間と言われたら思い出した。あそこの奥に階段があって…。
お前が泣いてた、とハーレイの顔が辛そうに歪む。
あの階段ではいつもお前が泣いていたんだ、と。
「泣いていないよ」
ハーレイが隣に座ってくれてた時には、ぼくは泣いたりしなかったよ。一人きりの時には泣いていたけど、ハーレイと二人の時には泣いていないよ。
「確かに泣いてはいなかったが…。泣き顔をしてはいなかったんだが…」
お前の心が泣いていたんだ、とても悲しいと。悲しくて辛くて、どうしようもないと。
「…そうかもね…」
ハーレイには伝わっていただろうしね、ぼくの心が。
声にも思念にもしてはいなくても、ハーレイは分かってくれてたし…。
ハーレイが「泣いていた」って言うなら、ぼくはいつでもあの階段で泣いていたんだろうね…。
寿命が尽きると知るより前にも、辛かった時や悲しい時。
あの階段をよく下りていた。誰にも言えない、ぶつけられない思いを抱えて。
一番下の段に座って俯いていたら、水面を見詰めてじっとしていたら。
部屋付きの係も長老たちも来ない時には、ハーレイが何度も付き合ってくれた。まるで最初から知っていたように、階段を下りてゆくのを何処かから見て、急いでやって来たかのように。
そう、ハーレイはあの階段に自分が下りてゆくことを、下りそうな時を見抜いていた。そうだと気付いて部屋に来てくれた、階段を下りて来てくれた。
黙って隣に座るためだけに、二人並んで水面を眺めるためだけに。
アルタミラから一緒だった仲間を病気で亡くした日の夜も。
救い出せなかったミュウの子供がいた時も。
一人きりで泣いていた前の自分の隣に、気付けばハーレイの姿があった。涙は止まって、二人で並んで腰掛けていた。あの階段の一番下の段に、黙って水面を見下ろしながら。
「お前、いつでもあの階段で…」
一人で下りては泣いていたんだ、誰にも打ち明けようともせずに。
全部一人で抱え込んじまって、あそこに座って一人きりで。俺が行くまで、ずっと一人で…。
「部屋でも泣いていたけどね?」
ハーレイの前ではいつも泣いていたよ、何度も泣いてしまっていたよ。
泣いていいんだって分かっていたから、ハーレイの前では泣いていたよ。
…あの階段を下りていた時は、ハーレイが側にいなかった時。悲しくて辛くて我慢出来なくて、でもハーレイはいなくって…。
そういう時に下りて泣いてたんだよ、あそこなら誰も来ないから。
誰か来たなら直ぐに分かるし、急いで上れば気付かれないし…。
前のぼくの秘密の隠れ場所だったよ、あの階段の一番下は。
そしてハーレイとの思い出の場所。あそこでハーレイと並んで座って、水を眺めて…。そういう思い出、数え切れないほどあったのに…。ハーレイと何度も座ったのに…。
今日まで忘れてしまっていた、と打ち明けたら。
どうして思い出さなかったのだろう、と自分の記憶に出来ていた穴を嘆いたら…。
「忘れていたっていいんじゃないか?」
少なくとも俺は責めはしないな、お前が忘れちまっていたこと。
俺も忘れていたっていうのもあるがだ、お前が綺麗に忘れていたのが嬉しくもあるな、階段ごと抜け落ちちまっていたのが。
「…なんで?」
薄情だとは思わないわけ、ハーレイはいつも付き合って座ってくれていたのに…。
黙って隣にいてくれたのに、それをすっかり忘れてたんだよ、ぼくときたら。
「それでいいんだ、何も覚えていないくらいで丁度いいだろ」
あの階段でのお前の思い出、悲しかったことや辛かったことしか無いんだろうが。
一人きりで泣くしかないって時しか下りてないんだ、前のお前は、あの階段を。悲しい時だけの隠れ場所なんかを後生大事に覚えておく必要は無いってな。
悲しいことは忘れちまうに限るさ、生まれ変わってまで抱え込んで覚えておかなくても。
前のお前が泣いた記憶まで、しっかり抱えていなくてもいい。忘れていいんだ、そんなのはな。
水に流すと言うだろうが、とハーレイが片目を瞑ってみせる。
前のお前の悲しみは全部、水が持って行ってくれたんだろう、と。
階段の一番下に座っていつも見ていた、青の間の水が。
「…そうなのかな?」
あの水が持って行ってくれたから忘れちゃってたのかな、階段のこと。あの階段を下りていったことも、ハーレイと二人で座ってたことも。
「そう思っておけ、あの水も役に立ったんだと」
前のお前には散々苦情を言われたが…。こんなデカイ貯水槽つきの部屋なんて、と何度も文句を言われたもんだが、あの水が役に立ったってな。
前のお前が生きてる間は何の役にも立たなかったが、死んじまった後に出番が来たんだ。
あの階段と、階段で泣いてたお前の悲しみ。全部纏めて持ってっちまった、文字通り水に流して綺麗サッパリ消したってことだ。
「うん…」
そうだったのかもね、あの水はホントに何の役にも立たなかったけど…。
前のぼくのサイオンが水と相性が良かったから、って増幅装置なんだと思われてたけど…。
本当はただの演出でしかなくて、ソルジャーの部屋らしく見せるための仕掛けみたいなもので。
あの水には何の意味も無いんだから、って思っていたけど、水だったから水に流せたのかな…?
こけおどしだった青の間の水。何の役目も果たさなかった貯水槽。
メンテナンス用の階段まで設けられていたのに、あの水はそこに在ったというだけ。広い部屋を満たしていたというだけ。
けれど、あの水は悲しみを持って行ってくれたのだろうか?
前の自分が一人で抱えた、あの水を見ながら涙していた悲しみを流してくれたのだろうか…?
「多分な」
俺が勝手にそう思うだけだが、そのくらいの役には立たんとな?
最後まで無駄だと言われ続けて終わるよりかは、前のお前の悲しみや涙。そいつを抱えて消えてこそだろ、水なんだからな。
「そっか…」
本当にそうかもしれないね。
ずうっと前のぼくの側にあった水だし、ホントに最後に役に立ったかもしれないね。前のぼくが死んだら、あの水が見ていた悲しい記憶を水に流してくれたのかもね…。
悲しかった時や、辛かった時。一人で抱えて泣くしかない時。
何度となく下りた階段だけれど、一番下に独り座って水を見ていた場所なのだけれど。
十五年もの長い眠りから覚めて、たった一人でメギドへ向かって飛び立つ前。青の間で過ごしていた筈だけれど、階段を下りた記憶は無い。水を眺めていた記憶も。
ハーレイにそれを話したら…。
「…その記憶。水が持って行ってくれたんじゃないか?」
「え…?」
どういう意味なの、ぼくは階段を下りたっていうの?
下りていたことをすっかり忘れてるだけで、本当はあそこに座っていたの…?
「そうじゃないかという気がするな。…お前が下りていたんだとしたら」
もしもお前が、あの時、下りていたのなら。
あの階段を下りて座っていたなら、どれほど泣いていたことか…。
お前は全てを知っていたんだしな、もうすぐ死ぬことも、俺が追い掛けてはいけないことも。
もちろん地球だって見られないままで、たった一人で死んじまうんだ。
そういったことを一人で抱えて、お前があそこで泣いていたなら。
お前の隣に俺は座りに行けなかったし、お前は本当に独りぼっちで泣いて、泣きじゃくって…。
どのくらい泣いていたかは知らんが、俺が下りて行ってやれなかった分まで、代わりに水が見ていただろう。泣いていたお前を、お前の抱えた悲しみと涙を。
そいつを最後に全部あの水が持って行って水に流した、だからお前は覚えていない。今のお前に生まれ変わる時に、その記憶を持っては来なかったんだな。
本当を言えば、下りていないのが一番なんだが、と言われたけれど。
下りたかもしれない、あんな時だから。
三百年以上もの長い時を生きて、青の間が出来てからも長い長い時を其処で過ごして、その間に何度あの階段を下りたことだろう。
辛かった時に、悲しい時に。たった一人で階段を下りて、水面を眺めて座った自分。
その人生がもうすぐ終わるという時、それも一人きりで死んでゆくのだと悟っていた時、下りてゆかない筈がない。
辛く苦しい心を抱えて。ハーレイとの別れを思って張り裂けそうな心を抱いて、あの階段を。
きっと自分は階段を下りた、一番下の段に座っていた。水面を見詰めて、一人きりで。
この階段でも独りなのだと、ハーレイは忙しくて持ち場を離れられないからと。
そうしてどのくらい座っていたのか、あの水を一人、眺めていたのか。
立ち上がった自分は階段を上り、ブリッジへ向かったのだろう。最後の言葉をハーレイに託して飛び立つために。永遠の別れを告げにゆくために。
けれど、何処にも無い記憶。
確かに階段を下りただろうに、欠片すらも見当たらない記憶。ほんの僅かな痕跡さえも。
「…ぼく、本当に忘れちゃったのかな?」
あの階段を下りていたのに、下りていたこと、すっかり忘れてしまったのかな…?
水が何もかも流してしまって、下りた記憶も、あそこで泣いてた時の記憶も…。
「それだと俺は嬉しいがな」
お前が下りていたんだったら、その記憶が無いのが俺は嬉しい。悲しい記憶はもう要らんしな。
メギドで凍えちまった右手の分だけで充分だろうが、それ以上は無い方がいい。
お前の記憶を消しちまったのが水だとしたなら、あの部屋は最後にお前の役に立ったんだ。青の間はただのこけおどしだったが、水の方は前のお前を守った。
最後に階段に座ったお前は独りぼっちで、俺はいなくて。
その俺の代わりに水が頑張った、お前が泣いてた記憶ごとすっかり流しちまってな。
「…ハーレイの代わりに水だったの?」
ハーレイが隣に座ってくれる代わりに、水が綺麗に消してくれたの、前のぼくの記憶。
最後にとっても悲しかったのを、思い出せないように流しちゃったの…?
「お前が忘れたんだとしたらな」
あの階段を最後に下りていったのに、何も覚えていないなら。
欠片も思い出せずにいるなら、あの水が流してくれたってことだな、悲しかった記憶。
もう思い出さなくてもかまわないから、と手招きされて、ハーレイの膝の上に座らされて。
強い両腕で抱き締められた。広い胸へと抱き込まれて。
あの階段のことは忘れておけ、と。
思い出しても悲しいだけだ、と。
「いいな、あの階段には悲しい記憶しか無いんだからな」
前のお前は泣く時だけしか下りちゃいないし、あんな階段のことは忘れておくのが一番だ。
間違ってもメギドへ行く前の記憶を探すんじゃないぞ、あの階段を下りたかどうかなんてな。
「でも、階段…。ハーレイのことは思い出したよ」
ハーレイが一緒に座ってくれていたってこと。ぼくの隣に、いつも黙って。
二人で並んで水を見てたよ、あの思い出はとても大切なんだよ。
「おいおい、お前は泣いてたんだぞ?」
俺が隣に座ってた時も、お前の心は泣いていたんだ。だから俺は黙って座っていたのに…。
前のお前の悲しい記憶とセットの思い出だろうに、それでも大切なのか、お前は?
「大切だよ。…だって、ハーレイから優しい思い出を貰ったもの」
黙って隣に座っててくれて、ぼくが落ち着くまで側にいてくれて。
階段を上ろうっていう気分になるまで、何も言わずについててくれたよ。
だから、あの階段は大切なんだよ、ハーレイと一緒に座った階段。二人で座った階段だもの…。
いつも階段を下りて来てくれた、優しいハーレイ。並んで座ってくれたハーレイ。
そのハーレイが思い出すなと言うのだから。思い出さなくていいと言うのだから。
メギドへと向かう前のことはもう、考えない方がいいのだろう。
あの日、階段を下りたのかどうか、其処に座っていたのかどうかは。
青の間の水が持って行って流してくれた悲しみ、それはもう思い出さない方がいいのだろう。
遠く遥かな昔の悲しみは流れ、こうして地球に来たのだから。
青い地球の上に生まれ変わって、幸せに生きてゆけるのだから。
ハーレイと二人、手を繋ぎ合って、何処までも二人。
もう階段には悲しみを抱えて座らなくてもいいのだから。
いつか二人で座る時には、幸せの中で。
階段に並んで腰を下ろして、お弁当だとか、ソフトクリームだとか。
きっとそういう風になるから、二人で並んで座る階段は幸せな場所に変わるのだから…。
下りた階段・了
※青の間の奥にあった、貯水槽へと下りる階段。前のブルーが泣くための場所だったのです。
けれどメギドに向かう前には、下りた記憶が全く無いまま。水が悲しみを消したのかも。
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