シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(んーと…)
金曜日の夜、眠る前にサポーターを着けようとしていたブルー。
今夜は少し冷えそうだからと、メギドの悪夢を見てしまってはたまらないから、と。ハーレイがくれたサポーター。医療用の薄いサポーター。
秋の初めに夜中の冷え込みで毎晩のようにメギドの夢を見た。右の手が冷えて冷たくなるから。前の生の最後にハーレイの温もりを失くしてしまって、凍えた記憶が蘇るから。
それを防ぐための助けになれば…、とハーレイがサポーターを贈ってくれた。右手用に、と。
自分がブルーの右手を握る時の力加減を再現したと、そのように作って貰ったと。
着ければハーレイに右手を握られているような感覚になれるサポーター。初めて着けて眠った夜には、メギドの夢にハーレイが現れたほどに。
幻のハーレイだったけれども、凍えた右手にそっと移してくれた温もり。ハーレイの幻が消えた後にも温もりは残って、悲しくなかった。独りぼっちではないと、もう一人ではないのだと。
そういう夢を見せてくれたり、悪夢そのものを防いでくれたり。
なんとも頼もしいサポーターではあったけれども、不意に浮かんで来た疑問。
(ハーレイ、何処で買ったんだろう?)
激しいスポーツも遊びもしないから、サポーターなどのお世話になったことは無かった。
生まれつき身体が弱いものだから、馴染みの医師はいるけれど。何度となく近所の病院へ通ったけれども、そこでは多分、こういったものは作らない。
風邪を引いたの、腹痛だのと、そういった患者を対象に診ている町の医師。ブルーが知っている医師はそういう医師。
(あの病院には怪我をした人は行かないし…)
当然、医療用のサポーターを貰って帰る患者もいない。だから分からない、サポーターの出処。ハーレイが何処で作って来たのか、何処で注文したのかが。
(…やっぱり怪我のお医者さんだよね?)
骨折だとか、捻挫だとか。ブルーには縁の無い世界。せいぜい擦り傷、切り傷くらい。わざわざ病院に出向かなくても、家で手当てが出来る怪我しかしたことが無い。
しかし、ハーレイはスポーツをする。水泳はそうでもないだろうけれど、柔道は身体をぶつけるスポーツだから。投げたり、投げられたりする武道だから、怪我も付き物なのかもしれない。
もしかしたら、ハーレイも怪我をしたことがあるのだろうか?
そのせいで馴染みの医師がいるのだろうか、怪我を専門に扱う医師が?
(…骨折しちゃったこともあるとか…?)
そうした話は一度も聞いてはいないけれども、あったかもしれない。
今のハーレイの人生では骨折や捻挫の一つや二つや、あるいは日常茶飯事くらいに。
(身体が丈夫でも怪我はするよね?)
運が悪ければ、自分の技が拙いものであったりすれば。
プロの選手にならないか、と声がかかったほどの腕であっても、始めた頃には初心者だから。
(…やっぱり、怪我して知り合っちゃった?)
このサポーターを作ってくれた医師と、捻挫や骨折を切っ掛けにして。
(前のハーレイは骨折も捻挫もしなかったけれど…)
キャプテンはブリッジで指揮を執るだけだし、キャプテンになる前は厨房にいたし、そういった怪我とは無縁の立場。今のハーレイは違うのだろうか、何度も怪我をしたのだろうか?
(切り傷くらいは前のハーレイもやってたけれど…)
骨折は無かった。捻挫だって、多分。
今のハーレイならではの経験かも、と気になってきたから、メモに書き付けた。
「サポーターとお医者さん」と。
明日は土曜日だから、訊いてみようと。
ハーレイが来たら、何処でサポーターを作ったのかと。
勉強机の上にメモを置いて、一晩ぐっすり深く眠って。朝、目を覚ますと例のメモ。
(訊かなくっちゃ…!)
ハーレイの武勇伝のオマケもついて来そうな素敵な質問だから。
朝食を済ませて部屋の掃除もして、待ち受けていたらチャイムの音。門扉の所に立つハーレイに大きく手を振り、部屋まで上がって来てくれるのを待った。
母がテーブルにお茶とお菓子を置いて去るなり、早速、質問。あのサポーターも持って来て。
「ハーレイ、このサポーターなんだけど…」
切り出す前にハーレイが「効かなかったか?」と心配そうな瞳になった。昨夜はメギドの悪夢が来たかと、サポーターは役に立たなかったか、と。
「ううん、昨日は夢は見てないんだけど…。夢とは全く関係ないんだけれど…」
このサポーターは何処で作って貰ったの、と尋ねてみた。医療用だから病院なのかと、何処かの病院で頼んだのか、と。
「そりゃあ、まあ…。いわゆる病院って所だが?」
薬局とかでも売ってはいるがな、力加減の調整をするなら病院に出掛けて作らないとな?
俺の握力とかを測ってもらって、それに合わせて。
「病院って…。ハーレイ、怪我をしたの?」
予想通りの答えだったから、そう問い返せば。
「何故だ? なんだって俺が怪我になるんだ」
「病院だから…」
その病院、怪我のお医者さんでしょ?
お腹が痛いとか、風邪を引いたとか、そういう時に行く病院じゃなくて。
「ははっ、そうか! そういう理屈で怪我になったか、なるほどな」
こいつを作った病院の世話にはなっていないな、と笑ったハーレイ。
大きくなってからは怪我をしていないと、ガキの頃なら隣町の病院に行っていた、と。
「その怪我って…。骨折もした?」
「そこまではやらんさ、せいぜい捻挫といったトコだな」
慣れてない間は捻っちまうもんだ、ちょっとしたはずみに手首とか、足。
放っておいたら癖になるから、早めにきちんと治さないとな。大したことはないと甘く見ないで医者に駆け込む、それが頑丈な身体作りに繋がるんだ。
故障しやすい身体になってしまわないよう、早めの処置。それが大切だ、と話すハーレイ。
このサポーターを作った病院もお蔭で馴染みだと、何回となく駆け込んだのだ、と。
「俺の教え子どもの御用達なのさ、この病院はな」
大したことはありません、と言ってやがっても、俺もプロだし見りゃ分かる。医者に診せる方がいいか、保健室の湿布で済ませておくか。
「そういうものなの?」
見ただけで分かるの、自分の身体のことじゃないのに?
「慣れていればな。こう動かしたら痛むか平気か、どんな具合に痛むのか、って訊いてやるんだ」
こいつは駄目だ、と判断したなら、俺の車で病院行きだ。
俺も学校を幾つも変わっているしな、学校から遠けりゃ別の病院に行くが、近けりゃ其処だな。
名医なんだぞ、と教えられた。
この手の怪我にはとても強いと、頼れる医師だと。
まだハーレイが隣町に住んでいた頃に世話になった医師の友人なのだ、と。
「ふうん…。お医者さん同士で友達なんだね、それも腕のいいお医者さん同士」
そういえば、ハーレイの従兄弟にもいたんだっけね、お医者さん。
「ああ。怪我を診る医者ではないんだけどな」
「うん、知ってる。ぼくの聖痕を診てくれたお医者さんだし…」
怪我が専門ってわけじゃないよね、目や身体から血が出ていたって、怪我じゃないから。痛みは確かにあったけれども、怪我したり事故に遭ったわけではなかったものね。
「…お前だから教えてやるけどな。あいつの夢はな、ノルディなんだ」
ドクター・ノルディだ、シャングリラのな。
「…ノルディ? なんでノルディが出て来るわけ?」
「ノルディだぞ? あいつ、病人も怪我人も診ていただろうが、一人でな」
もちろん医療スタッフはいたが、ノルディが最高責任者で何でもこなしていただろう?
あんな風に何でも診られる医者さ。そういった医者になるのが夢なんだそうだ。
いずれは町の病院へ、と思っているらしいハーレイの従兄弟。
大病院で専門の診療科に居るより、何でも診られる町の病院の医師になりたい、と。
「病気から怪我まで扱いたいらしい、手広くな」
それで儲けようってわけじゃなくって、頼りにされる医者になりたいらしいぞ。怪我も病気も、あの先生なら治してくれると、安心して全部任せられる、と言われる医者にな。
「それでノルディが目標なんだね、ノルディは何でも出来たから」
怪我の手術も、病気の手術も。どんな薬を飲ませたらいいか、塗ったらいいかも分かってたし。
「そういうこった。実に頼れる医者だったよな、あいつ」
たまに訊かれてしまうんだよなあ、従兄弟にな。どうすればノルディみたいになれるのかと。
「そっか、ハーレイの記憶…」
前のハーレイの記憶が戻ったってことも、あのお医者さんは知ってるものね。
「うむ。あれ以来、何度も訊かれるんだが…。コツは無いのかと、何か無いかと」
そうは言われても困っちまうんだ、俺としてもな。ノルディのことは覚えちゃいるが、だ…。
「習うより慣れよ、って感じだったしね、ノルディの場合は」
ぶっつけ本番、どんな怪我でも病気の人でも、これが最初のケースです、っていうのが必ず…。
最初は必死でなんとかこなして、だんだん慣れたっていうだけだものね。
「俺もそう言うよりなくってなあ…。要は慣れだと、沢山こなせと」
なにしろノルディには学ぶ師匠もいなかったしな?
「あえて言うならデータベースだよね、ノルディの先生」
船のデータベースから情報を貰って、やり方を覚えていっただけだもんね…。
アルタミラから脱出して間もない頃のシャングリラ。
薬も色々と載ってはいた。怪我の薬も、病気の時に使う薬も。
最初の間は、各自が勝手に症状に応じて持ち出しては使っていたけれど。服用したり、塗ったり貼ったり。けれど…。
「シャングリラって名前がついた頃にはあいつがいたな」
薬と言ったらノルディなんだ、っていう具合にな。
「うん。ノルディに頼めば必要な薬が届く、って。ちょっとした怪我の手当てなんかも」
包帯を巻くとか、他にも色々…、とブルーはコクリと頷いた。
あの頃、食料や備品の管理はハーレイがやっていたのだけれど。前のブルーが奪って来た物資を仕分けして倉庫に入れたのだけれど。
「見当たらないものがあるならハーレイに訊け」と言われたほどの管理人だったハーレイの所へ薬を取りに来る者がいた。何かと言えば、薬を倉庫から出して貰いに。
「病気なんだと思ったんだよな、最初はな」
見かけの割に身体が酷く弱いらしいと、また何か病気をやらかしたな、と。
「そりゃあ、思うよ。いろんな薬を持って行くんじゃあ…」
同じ薬なら分かるけれども、効能が違う薬を色々。
頭痛が治ったら腹痛なのかと、それが治ったら今度は熱が出ちゃったのか、と。
「あいつ、医者向きだったんだよなあ…。面倒見はいいし、几帳面だし」
具合が悪いと聞かされたら黙っちゃいられなかったようだな、どんな感じかを律儀に訊いて。
それから薬を貰いに来るんだ、そいつにピッタリ合いそうなヤツを。
でもって飲ませて、様子を見て。追加で貰うか、もうやめていいか、そんなトコまであれこれと面倒を見たりしてな。
俺に言わせりゃ、自分の面倒は自分で見ろってモンだったが。
まだ治らないか、もう治りそうか、それくらいは自分で判断しろと。薬だって他人に頼まないで自分で取りに来いとな。
倉庫の管理人でもあったハーレイにしてみれば、なんとも不思議だったノルディの行動。
自分用に薬を貰っているのではない、と気付いた後には余計に謎だと思ったものだが、それでもノルディはせっせと薬を取りに来た。飲み薬や塗り薬、様々な病気や怪我の薬を。
成人検査で誰もが記憶をすっかり失くしていたけれど。成人検査の前の記憶は無かったけれど。
そうした中で、病人が出たと聞けば駆け付けるのがノルディだった。怪我人でも同じ。それから薬を貰いに出掛ける。ハーレイが管理していた倉庫へ。
自分でも何故そうするのか分からないが、とノルディ自身にも掴めはしなかった理由。
病人や怪我人を放っておけずに、世話をせずにはいられなかったノルディ。
元々、志していたのだろうか。医師になる道を。
成人検査でミュウと判断され、記憶を失ってしまう前には、医師を目指していたのだろうか。
ノルディは何度も薬を取りに来た末に、薬の注文もつけるようになった。
データベースで情報を調べていたのだろう。
こういう薬は手に入らないかと、これがあればもっと便利なのだが、と。
「薬を注文されちゃったから…」
あれとこれと、って幾つも希望を出されちゃったから…。
「お前、山ほど盗って来たよな、薬も、ついでに医療器具も。
「うん。そういう荷物を載せた輸送船を狙って飛んで行ってね」
食料とかを積んでる船とはまた違うから…。載せている船を探して貰って行って来たよ。これで足りればいいんだけれど、ってコンテナを幾つも持って帰って。
「お前、派手にやらかしてくれたからなあ、シャングリラで病院が開けるほどにな」
医療用のベッドまで奪って来やがって…、と苦笑するハーレイ。
その大量の薬や医療器具の類を嬉々として整理したのがノルディだった。
どうせやるなら、と専用の部屋を一つ貰って、医療用のベッドを設置したのが後のメディカル・ルームの始まり。ノルディはその部屋の責任者となった。
「あいつ、水を得た魚とでも言うか…。めきめきと腕を上げやがって」
気が付きゃ注射も手慣れたモンで、血液検査だってこなすようになっていやがったし…。
「ハーレイがキャプテンになるよりも先に、ノルディはドクターだったよね?」
誰が呼び始めたのかは覚えてないけど、お医者さんだからドクターだ、って。病気になったら、ノルディの所。怪我をしたって、ノルディの所。
「うむ。俺よりも先に確固とした地位を築いていたなあ、俺は所詮は厨房だしな?」
倉庫の管理を任されちゃいても、ただの厨房の責任者ってヤツだ。ドクターはノルディだけしかいないが、厨房だったら、そこそこ料理が上手けりゃなあ…?
「だけどハーレイ、ちゃんとキャプテンになったじゃない」
元は厨房に居たけれど…。「フライパンも船も似たようなものさ」ってキャプテンになったよ、どっちも焦がしちゃ駄目なんだ、って。
「まあな。そして長老って呼ばれる面子にも入ってしまったわけだが…」
ノルディは長老にはならなかったんだ、人数制限があったわけでもないのにな。
「資格は充分、あったのにね」
船の中で誰も代わりになれる人がいない立場で、自分の意見もちゃんと言えたし…。
「そうなんだがなあ…」
本人が嫌だと言っているのを、どうすることも出来んしな?
あいつが長老になっていたなら、長老会議のテーブルに席が一つ余計にあったんだが。
長老になってくれないか、と声を掛けられたノルディは即座に断った。
のんびり会議に出ている間に急患が出たらどうするのか、と。
ブラウは「医療スタッフに任せりゃいいじゃないか」と言ったものだし、ヒルマンも「そういう時には会議を抜けてくれれば…」と提案したのに、ノルディは首を縦には振らなかった。
自分の居場所はメディカル・ルームで、決して会議室ではないと。会議に行くためだけに白衣を脱げはしないと、医者にはそんな暇などは無いと。
「あいつ、見た目もけっこう若かったからな、偉いと知らない仲間もいたよな」
アルテメシアに来てから救出したヤツら、大人になってもきっと気付いちゃいなかったぞ。
実は発言権は大きいと、ノルディがこうだと決めたら誰も文句は言えない、ってこと。
「ドクター・ストップだけだったものね、ノルディが決めたら長老でも反対出来ないのは」
お医者さんが言うのなら守らなくっちゃいけないし…。
そんなものだと思ってたろうね、後から船に来た仲間たちはね。お医者さんだから、って。
「まったくだ。…本当の所は長老のなり損ないだっただけなのにな?」
一つ間違えたら、あいつも長老だったんだがなあ、ゼルたちと揃いの制服を貰って。
「しかも断った方だったんだよ、なり損なったって言ってもね」
誰かが反対してなれなかったってわけじゃなくって、自分で嫌だと断っちゃって。
「なりたいってヤツはいただろうになあ…」
シャングリラの最高機関だったしな、長老会議。
もしも自分が長老だったらあれもやりたい、これもやりたいってヤツはいた筈だぞ、きっと。
欲が無いと言うか、とことん職務に忠実だったと言うべきか…。
長老になってりゃ、自分の意見も希望も言えただろうにな、メディカル・ルームの設備をもっと充実させたいとかな。
「でも、そのお蔭で長生きしたよね、ノルディはね」
長老にならなかったお蔭で。
「そうだな、あいつは地球には降りなかったしな」
人類との会談の席に医者は要らんし、キャプテンの俺も連れて行こうとは思わなかったし…。
長旅だったら医者も要るだろうが、ほんの一日か二日、留守にするっていうだけだしな。それに医者なら人類の方にだって居るだろうが。
「それはそうだね、えーっと、ユグドラシルだっけ?」
リボーンの人たちが常駐している施設だったらお医者さんもいるし、きっと設備だって…。
ハーレイの判断は正しかった筈だよ、ノルディは船に残しておこう、って。
長老だったら、みんな会談に参加しないと全く話にならないけどね。
自ら長老になるのを断ったがゆえに、地球に降りずに残ったノルディ。
グランド・マザーが破壊されて地球が燃え上がった後、シャングリラからは何基ものシャトルが地球へと向かった。逃げ遅れた人類を救うために。
シャトルに拾われ、命からがら逃げ延びて白いシャングリラに来た人類たち。彼らの多くは傷を負っていて、重症の者も少なくなかった。
ノルディは彼らを全て手当てし、必要な者には手術もした。人類の船に戻れるレベルに回復するまで治療を続けて、無事に仲間たちの許へと返した。
ミュウの船でこれだけのことが出来るのか、と人類の医師たちに驚かれたノルディ。
閉ざされた船の中でしか生きられなかったミュウだというのに、高度な技術を持っていたと。
そしてノルディは伝説となった。
病人から怪我人まで何でも診られた凄い医者がいたと、それも独学の医者だったと。
「ノルディだったら、このサポーターも…」
作れてたのかな、作ってくれって頼みさえすれば。
「そりゃ、作るさ。必要とあらば何でも工夫して技術を編み出していたんだからな」
ついでに、お前がメギドから戻れさえしていたら…。
瀕死の重傷を負ってはいてもだ、シャングリラに戻ることさえ出来れば…。
「助かったのかな、あの傷でも?」
何発も撃たれてしまってた上に、ぼくの体力も殆ど残っていなかったのに…。
「ノルディならきっと治していたさ。何としてもな」
船中のヤツらから血をかき集めて、輸血をして。その一方で緊急手術だ、飲まず食わずで立ったままでな。あいつならやった筈だと思う。そして必ず成功させたと。
もちろん右目も元通りだ、と自信たっぷりに語るハーレイ。
眼球の移植再生手術はシャングリラでは例の無いものだったけれど、ノルディならば、と。
データベースから引き出した情報を頼りにやったであろうと、赤い瞳も視力も元の通りに。
残念ながらそうはならなかったがと、そうしようにも肝心の患者が戻って来ないのでは、と。
「ねえ、ハーレイ。もしも、前のぼくを助けていたら、ノルディの伝説…」
増えてたのかな、今よりももっと?
「間違いなく増えたな、死神の手から一人取り戻したってことになるんだからな」
それもソルジャー・ブルーをだ。
ミュウの最初の長の命を救っていたなら、それでお前が地球まで辿り着いたなら。
キースはそれこそ腰を抜かすし、ミュウの医療技術の凄さを心底思い知らされただろうさ、船の中だけで何もかも出来るヤツらだと。
…ただなあ、そのシナリオだと、その後の地球がどうなったやら…。
燃え上がらないで死の星のままで、ノルディの出番は全く無くて。伝説どころかミュウの医者というだけで終わったかもなあ、腕前も独学で仕入れた知識も披露できずに一生を終えて。
「…そっか、そうなっちゃうってこともあるよね」
前のぼくが生きて地球まで行ったら、いろんなことが変わっただろうし…。
今でも地球は青い星にはなっていないかもね、あんな荒療治は出来ないままで。
少しずつテラフォーミングをするにしたって、これほど劇的には回復しなかったかもね…。
「そういうことだな、ノルディの伝説も出来ないままでな」
お前、知っているか?
ノルディの写真な、医者たちが大勢集まるようなデカイ建物には必ず飾ってあるらしいぞ。
写真の代わりにレリーフだとか、そういったこともあるらしい。
「ホント?」
ノルディの写真って、お医者さんにとっては大事なものなの?
「ああ。ミュウの最初の医者だからな」
伝説の医者っていうのもそうだが、ミュウと人類では違う部分もあるからなあ…。外見はまるで変わりはしないが、サイオンを持っている分だけな。
「そうだったんだ…。ノルディ、神様みたいなもの?」
「それに近いな。ああなりたいと、あんな医者になろうと志すヤツも多いってわけだ」
例えば、俺の従兄弟みたいに。
目標はドクター・ノルディなんだ、という医者は少なくないらしい。何でもやろうと、どういう患者が運び込まれても適切な治療が出来るだけの腕を身に付けようと頑張る医者だな。
それから、ノルディは凄い大発明をしている。ミュウの最初の医者ならではの…な。
「…どんな発明?」
前のぼくはなんにも聞いていないよ、ノルディの凄い発明だなんて。
「だろうな、シャングリラではごく当たり前のことだったしな」
アレだ、サイオンで病室を遮蔽するヤツだ。病人の苦痛が外に漏れたら仲間に伝染するからな。思念波があるから、簡単に同調しちまうし…。
もっとも、その素晴らしい発明なんだが。
ナスカでトォニィが生まれた時にはシールドの強度を読み誤ってな、凄い騒ぎになったってな。この俺どころか、ゼルまでが出産の痛みってヤツを体験しちまったんだぞ、男なのにな?
「それ、歴史の本で前に読んだことがあるよ」
どんなのだったの、ねえ、ハーレイ?
子供を産んだって実感できた?
「馬鹿! 俺はひたすら痛かっただけだ、子供なんか産んでないのにな!」
生んだんだな、って充足感は確かにあったが、所詮は男だ。未知の感覚で、かつ痛いだけだ!
今では常識の病室のシールド。
病院によっては待合室で簡易シールドの器機を貸し出したりもする。診察待ちをしている患者の苦痛が伝わらないよう、熱が高くて泣きじゃくっている子供などに。
もちろん急患は最優先で診察だけれど、そういう病人が重なってしまうこともあるから。
そのシステムを最初に考え出して使ったドクター・ノルディ。
サイオンを持った患者はただ病室に入れるだけではなくて、苦痛の思念を漏らさないように工夫すべきだと気付いたノルディ。
ミュウだったからこそ出来た発見、研究熱心だったからこそ開発させて設けたシールド。
シャングリラでは普通のことだったけれど、その外側に居た人類にとっては驚きであって、次の世代を担ったミュウたちからすれば偉大な発明。
病人が出たならこうするのだと、病室を作ったらシールドを必ず設置しなくてはならないと。
伝説と功績を残したノルディ。
本来だったら長老と呼ばれる立場の所を、生涯、一人の医師として生きたドクター・ノルディ。
その写真は今もあるというから、医師が集う建物には写真やレリーフがあるというから。
小さなブルーは首を傾げてこう呟いた。
「…ノルディも何処かにいるのかな?」
ぼくたちみたいに生まれ変わって、地球か何処かの星にいるかな…?
「いるかもなあ…」
あの顔は会ったら一目で分かるが、ガキの頃だとどうなんだか…。
お前みたいなチビのノルディだったら、分からないかもしれないな。
しかしだ、きっとあいつは医者だぞ。でなければ医者を目指すガキだな、そんな気がする。
生まれ変わっても、あのノルディならば。
成人検査で記憶を奪われてもなお、シャングリラで薬の手配をしていたノルディならば。
相も変わらず医者なのだろう、とハーレイとブルーは頷き合った。
もしもノルディが何処かにいるなら、きっと医者だと。でなければ医者の卵か、医者を目指して勉強に励んでいる子供。
そういうノルディがいるに違いないと、生まれ変わっているならば、と。
「会ってみたいね、そういうノルディ」
何処かにいるなら、会ってみたいと思わない?
「…患者としてか?」
お前、注射をして欲しいのか、ノルディに会って?
注射は嫌いだと聞いた筈だと思うんだが…。ノルディの注射は別物なのか?
「それは嫌だよ!」
ぼくが注射は大嫌いだってこと、ハーレイだって知ってるくせに!
アルタミラで懲りて嫌いなんだよ、前のぼくの記憶が戻る前から大嫌いだよ!
いくらノルディと何処かで出会えて、お医者さんと患者だったとしても。
ぼくは注射は断固拒否するし、ハーレイと結婚した後だったら、ハーレイ、約束したじゃない!
「こいつは注射が嫌いなんです」って、「注射は無しでお願いします」って頼んでやるって!
「…俺の近所の医者ってヤツはだ、問答無用で打つタイプだとも言った筈だが?」
「ノルディは違うかもしれないじゃない!」
「いいや、違うな。あいつも問答無用でブスリとやってたタイプだからな」
前のお前の腕にブスリと、「これで治ります」と注射を一発。
だからだ、何処かで出会って患者だったら諦めろ。これは注射だと、注射をされると。
「酷い…!」
今度のノルディも注射をするわけ、このぼくに?
注射は嫌いだって言っているのに、ハーレイも横で「苦手なんです」って言ってくれるのに…!
ノルディと出会ったらまた注射なのか、と顔を顰めたブルーだけれど。
注射は勘弁願いたいけども、懐かしいドクター・ノルディの名前。
白いシャングリラに居た、一番最初のミュウの医者。
シャングリラがまだ白い鯨にならない頃から、ドクターと呼ばれていたノルディ。
注射も含めて何度もお世話になったけれども、御礼を言えなかったから。
メギドに飛ぶ前、十五年ぶりに目覚めた時の治療と、眠り続けていた間にしてくれただろう医療チェックや色々なことの御礼を言いそびれたままで終わったから。
言えないままで前の自分の命は終わってしまったから…。
(ねえ、ノルディ…。ぼくは地球の上で幸せだよ?)
ちゃんと元気にしているから、とブルーは窓の向こうの空を仰いだ。
晴れ渡った秋の高い空。青い地球の色を反射させたような、何処までも澄んだ青い空。
この空の彼方、今も何処かにドクター・ノルディがいるのなら。
今も医者として生きているなら、今も患者を診ているのなら。
(大丈夫だよ、ノルディ。…今度こそ本当に大丈夫)
無茶をするソルジャーはもういないからと、「大丈夫」と嘘をつきはしないからと。
今度はハーレイの言うことを聞いて、きちんと病院へも行くと。
問答無用で注射を打たれるのは嫌だけれども、それで病気が治るのならば。
効くのだったら、我慢する。
ハーレイに心配をかけるよりかは、早めに病気を治したいから。
だから今度こそ大丈夫。ハーレイと二人、何処までも幸せに青い地球で生きてゆくのだから…。
最初の医師・了
※今の時代は、お医者さんたちの目標になっているドクター・ノルディ。偉大な医師として。
シャングリラでも、実は長老格だったらしいです。意外な一面があるものですね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ほほう…)
今日は風船だったのか、とハーレイは鳶色の目を細めて眺めた。
週末の土曜日、歩いてブルーの家へと向かう途中の道筋にある食料品店、行きつけの店。家から近くて便利だから、と何かと世話になっている店。
その店の前でやっている催し物。子供連れの客に風船のサービス。赤や黄色や、色とりどりに。フワフワと浮かぶ風船の中から好きに選んで、渡して貰えるようなのだけれど。
「あっ…!」
目の前で上がった小さな悲鳴。貰ったばかりの風船を手から飛ばしてしまった幼い子供。幼稚園くらいの男の子はたちまち泣き顔になった。飛んでしまった黄色い風船。
みるみる昇ってゆくけれど。食料品店の軒の高さへ、更に上へと飛んでゆくけれど。
「ほら、泣かないの」
「わあ…!」
子供の母親が風船をスイと指差し、その指をクイと手前に引いた。風船はピタリと上昇を止めて戻って来る。逃げようとしていた青い空から。
「はい、風船さん、捕まえたわよ」
「ママ、すごーい!」
サイオンで風船を戻した母親。「しっかり持って」と子供に風船の糸を握らせ、細い手首に一周クルリと回してやった。そうすれば風船は簡単に飛んで行かなくなるから。
「ありがとう、ママ!」
「どういたしまして」
さあ帰りましょ、と子供の手を引いて歩き出す母親。風船を手にして嬉しそうな子供。
(あのくらいの年の子供だったら…)
飛んでしまった風船を自分の力で戻せないのが普通だろう。
それを取り戻してくれた母への尊敬の眼差し。「すごーい!」と輝いていた瞳。
子供たちはそうやってサイオンを覚えてゆくのだけれど。
自分の中に眠る力をどう操るのか、どういう場面で使えばいいのか、自然に学んでゆくけれど。
(あいつの場合は…)
未だに無理かもしれないな、と思い浮かべた小さな恋人。
風船が飛んだらそれっきりのような、小さなブルー。
(とことん不器用になっちまったしな、あいつ)
前の生と同じタイプ・ブルーに生まれて来たのに、サイオンの扱いが上手くゆかない。とことん不器用、思念波でさえもロクに紡げない、十四歳の小さなブルー。
ソルジャー・ブルーの生まれ変わりだとは思えないほどの不器用さだけども、それが可愛いし、嬉しくもあった。今度は自分がブルーを守れると、守ってやることが出来るのだと。
(前の俺だと、守ると言っても口約束に過ぎなかったしなあ…)
ブルーの方が力が上だったから。比較にならない強さのサイオンを誇っていたから。
それが今ではすっかり逆様、小さなブルーはタイプ・グリーンの自分にも劣る。けれども不自由してはいないし、ブルーは少しも困っていない。たまに膨れているだけで。
(あいつの力が要らない世界になったんだ…)
平和になって、ソルジャーなどは要らなくなって。
前のブルーの強すぎたサイオンも必要ない世界。今の時代はタイプ・ブルーが増えたけれども、彼らはサイオンを自分のためにだけ使っている。守り、戦うためではなくて。
(ふむ…)
不器用なブルーも、さっき見かけた子供のように風船を飛ばしてしまったろうか?
前のブルーなら考えられないことだけれども、「飛んでしまった」と泣いただろうか?
(…前のあいつなら、風船くらい…)
サイオンで引っ張って戻すどころか、追い掛けて飛んでゆくことも出来た。いとも簡単に、息をするのと変わらないように。
シャングリラの公園でそれをしていたブルーを見た。ブリッジからも何度も見かけた。
子供たちが飛ばしてしまった風船を追って飛び、「捕まえたよ」と戻るブルーを。
時にはわざと高くまで飛ばして、それから追い掛けて飛び立った。遥か上にある窓の高さにまで飛んで昇って、「ほら」と風船を抱いて戻った。
(しかしだ、今のあいつだと…)
空は飛べないし、サイオンも上手く扱えないから、風船はきっと、飛んで行ったまま。
追って飛ぶなど夢のまた夢、泣きべそをかいて見上げていたのに違いない。
今よりもずっと幼いブルーが、風船を欲しがった頃のブルーが。
(何か思い出が聞けるかもな?)
小さなブルーの子供時代の思い出話。
同じ町に住んでいたというのに、ブルーとは何故か出会えなかった。ブルーが生まれたと聞いた病院の側を何度もジョギングしたというのに、生まれた瞬間にすら立ち会えなかった。
(あいつを見たかも、っていう気はしてるんだがなあ…)
生まれて間もないブルーが退院してゆく日に。春の雪が降る日に、病院の前で。
ストールにくるまれた赤ん坊を抱いた母親に確かに出会った。その時のものだというストールをブルーの家で見かけたけれど。雪の日の記憶が蘇ったけれど。
(…ストールの色を覚えてないんだ…)
だから決め手に欠けている記憶。
あの赤ん坊はブルーだったと思うけれども、そうだと言い切れない記憶。
それから後の日々にしたって、何処かでブルーと会っていたかもしれないけれど。ジョギングの途中で幼いブルーが手を振ってくれて、自分の方でも振り返したかもしれないけれど。
(…そういう記憶も無いんだよなあ…)
十四年も同じ町で暮らして、十四歳になったブルーと出会うまで。
五月の三日にブルーの教室に足を踏み入れるまで、一度も出会えはしなかった。ブルーがどんな日々を生きたか、どう幸せに生きていたのか、目で確かめるチャンスが無かった。
ブルーに出会えていなかったから。記憶が戻っていなかったから…。
そんなわけだから、ブルーの子供時代を知りたい。自分の知らないブルーを知りたい。
風船を飛ばしてしまって泣いたかどうかを尋ねてみたい、と思ってしまう。たったそれだけの、ほんの些細なことだけれども、ブルーの思い出。ブルーが過ごした子供時代。
それを聞きたい、と風船の方へと近付いて行った。子供連れでなくても貰えないかと、あるいは売っては貰えないかと。
(おっ…!)
側に寄ってみれば、風船は売り物でもあった。子供を連れては来られないけども、欲しいという人も多いのだろう。近くに住む孫にプレゼントなどもあるかもしれない。
(こいつは運がいいってな!)
一つ選んで買うことが出来る。自分も風船を手に入れられる。ブルーへの土産に風船を一つ、と色とりどりの風船を束ねた糸を見上げた。
(どれにするかな…)
ふわふわと揺れている風船。様々な色の風船の束。
シャングリラの白か、ブルーの瞳を映した赤か。前のブルーのマントの色だった紫もいいし…。
決めかねている間に、また別の子供が風船を貰って弾む足取りで帰って行った。可愛いピンクの風船を持って。男の子なのに、その子はピンクが好きらしい。
(あいつだったら、どういう風船が好きだったんだか…)
幼かった頃の色の好みを聞いてはいない。今の好みもそういえば聞いてはいなかった。
(さてなあ…。いったい、何色だったんだ?)
記憶が戻るよりも前のブルーが好きだった色。好きそうな感じの風船の色。
(そういや、ウサギ…)
ウサギになりたかった、と聞いたことがあった。真っ白で赤い瞳のウサギに。将来の夢はウサギだったと、ウサギになろうと思っていたと。
(…ウサギ色でいいか)
それにするか、と白を選んだ。青空の色に映える白。シャングリラの白。
この色でいいと、これにしようと。
ふうわりと揺れる白い風船。渡して貰った白い風船。
それを手にして、いつもの道を歩いて向かった。ブルーが待っている家へと。
大きな身体にいかつい顔をした自分。風船を持って道を歩くとまるで似合っていないけれども。
(きっと子供への土産物だと思われるんだ)
子供がいたって可笑しくはない年だから。
風船を土産に家へ帰れば、「パパ!」と駆け寄って来そうな子供が待っていたとしても。
(…子供への土産には違いないがな?)
少し大きい子供だけれど。
風船を飛ばしてしまったから、と泣き顔になるには大きすぎる年の子供だけれど。
白い風船を連れて、ブルーの家に着いて。
門扉の脇のチャイムを鳴らすと、ブルーの母が迎えに出て来た。風船は直ぐに目に付くから。
「あら、風船ですか?」
何処かで配っていましたの、それ?
「途中の食料品店の前ですよ。ブルー君にも思い出があるかと思いましてね」
こういった風船に纏わる思い出。今はもう風船を欲しがる年でもなさそうですが…。
「ああ、あの子…!」
いつも失くしてばかりでしたわ、と予想通りの返事が返った。
サイオンの練習にもなるだろうから、と持たせてやっても飛んで行ったと。
風船を失くしたと泣きじゃくるから、また買うことになったのだと。
自分たちが側に居る時だったら飛んで行っても戻せるけれども、そうでない時は…、と。
二階のいつもの部屋に入ると、窓からハーレイに手を振って待っていたブルーの笑顔。
母がお茶とお菓子を置いて去るなり、ブルーは真っ白な風船をじっと見詰めた。ハーレイの手に糸を握られ、ふわりと浮いている風船を。
「風船、くれるの?」
「ああ。此処へ来る途中で売ってたからな」
ほら、と差し出せば、ブルーは嬉々として受け取った。少し考えてから、勉強机から持って来た自分の腕時計。それに風船の糸の端を巻き付け、重石代わりにしてテーブルに置いた。
「これでよし、っと…!」
テーブルから飛んで行かないよ、と眺めているから。満足そうに見上げているから。
本当は子供用のオマケだったんだが、と話してやった。
子供連れの客には無料でサービスだったと、貰っていた子供を何人か見た、と。
お前の風船の思い出はどうだと、いい思い出を持っているかと。
「風船…。とても好きだったし、大事に持っていたんだけれど…」
買って貰ったら、いつもしっかり持ったんだけど…。
「ん? それでも失くしちまっていたのか、風船?」
飛んで行っちまったのか、お前が持ってた風船は?
「そう。…転んだ時とか、飛んでっちゃうんだ」
転んだはずみに手が離れちゃって、ほんの一瞬。アッと言う間に飛んでっちゃって…。
「それで?」
「ママたちが側にいればいいけど…」
サイオンで戻して貰えるんだけど…。そうじゃない時は、ぼくだけか、他にも居たって子供か。
風船を戻せる人はいなくて、ぐんぐん昇って行っちゃったんだよ…。
大抵は飛んで行ったままだった、と項垂れるから。
風船を失くしそうだと思ったブルーの子供時代は、ハーレイが想像した通りだったから。
持って来た甲斐があったと心が温かくなる。ブルーの思い出を一つ拾ったと、拾い上げたと。
自分が出会っていなかった頃の小さなブルー。幼かったブルー。
風船が飛んで行ってしまったと泣いている所に、もしも自分が通り掛かったなら。ジョギングの途中で出会っていたなら、「何処だ?」と尋ねてやっただろうに。
まだサイオンが届く所を飛んでいたなら、「ほら」と呼び戻してやれただろうに。
けれどもブルーとは出会っていなくて、風船は飛んで行ったままだったから。
幼いブルーの手から離れた風船は何処かへ消えたというから。
「その風船…。手紙、つけときゃよかったな」
「手紙?」
キョトンとしている小さなブルー。手紙とは何のことなのか、と。
「風船に手紙をつけるのさ」
「なに、それ?」
風船に手紙って、普通の手紙?
ポストに届くみたいな手紙を風船につけておくっていう意味?
「似たようなもんだな、あんまりデカイ手紙は駄目だが。それに今ではそういう文化は無いが…」
ずうっと昔はあったそうだ、と教えてやった。
SD体制が始まるよりも遠い遥かな昔の地球。まだ地球の大気が澄んでいた頃。
人はサイオンなど持ってはいなくて、風船を意のままに操れはしなかった時代の遊び。
風船に手紙をつけて飛ばしたと、「拾った人は手紙を下さい」と名前や住所を書いたのだ、と。
そうして風船を空に放って、人の住んでいる場所に落ちたなら。
見知らぬ人から手紙が来るのだと、時には風船が辿り着いた所の名物のお菓子なども添えて。
其処から始まる新たな交流、それが何年も何十年も続いて、深い縁になることもあったのだと。
「凄いね、風船で友達とかが出来たんだ…」
全然知らない町に住んでいる人と、友達になったり出来ただなんて…。
「失くす風船も捨てたモンじゃあないだろう?」
今じゃ戻せるのが珍しくないから、そういう遊びも無いんだが…。
そもそもSD体制の時代に入るよりも前に無くなっちまってそれっきりだが、風船には手紙って文化があった。お前もつけときゃよかったな、手紙。
「うん。名前と住所は書けばよかった…」
風船を失くしてた頃のぼくだと、住所はそんなに詳しく書けなかったかもしれないけれど…。
名前と住所を書いておいてよ、ってママかパパに頼めばよかったかな?
手紙…、とブルーは幼かった自分が失くした風船に思いを馳せているようで。
あの風船に手紙をつけておいたなら、と暫し考えてから。
「ハーレイのトコまで飛んでったかな?」
ぼくの風船。ハーレイの所にも飛んで行けたのかな?
「俺?」
「うん。ハーレイの家の庭に落っこちるんだよ、ぼくの風船」
そしたらハーレイからぼくに手紙が来るんでしょ?
庭で風船、見付けて、拾って。
「おいおい、そいつは近すぎないか?」
歩くには少し距離があるがだ、風船が萎んで落ちるほどには遠くはないぞ。
俺の家の庭は無理じゃないかと思うんだが…。
「上手くパチンと弾けちゃったら、落っこちるよ?」
ハーレイの家の庭の真上でパチンと。割れたら手紙もストンと落ちるよ?
「鳥とかがつついて割るってか?」
「そう!」
風船をつつくのが好きな鳥だって、きっと何処かにいるんじゃないかな。
ぼくの風船をつついてくれたら、ハーレイの家でも届いたんじゃないかと思うんだけれど…。
「お前、どれほど凄い偶然ってヤツに賭けているんだ?」
まずはそういう風船好きで悪戯好きの鳥が飛んでいて…、だ。
その鳥とお前が飛ばした風船、俺の家の真上で出会わないことには話にならんぞ、割れてもな。まるで全く知らない人の家の庭に落っこちてくのが普通だろうが、お前の風船。
そうそう上手くいくものか、とハーレイは笑い飛ばしたけれど。
風船の手紙で出会おうだなんて難しすぎる、と大いに笑ったのだけど。
「…待てよ、親父の家ならアリか」
俺は無理でも、俺の親父やおふくろだったら、可能性がゼロっていうこともないな。
「そうなの?」
ハーレイのお父さんやお母さんから手紙が来るってこともあったの、ぼくが風船に手紙をつけておいたら。住所と名前を書いておいたら。
「隣町だしな、俺の家よりは着きやすいだろう」
飛ばして直ぐってわけじゃない分、届く確率はグンと上がるな。
「そこまでは飛ぶの、風船の手紙?」
隣町って言ってもかなり遠いよ、車じゃないと行けない場所だよ?
「もっと遠くても風船の手紙は飛んで行けるさ」
うんと高い所まで昇って、そこで風があれば。
運んでくれる風さえあったら、信じられないほどの距離でも飛んでくそうだぞ、風船はな。
飛んだ高さと風向き次第の旅なんだ、とブルーに話して聞かせていて。
ふっと脳裏を過った記憶。遠い日の記憶。
「…待てよ?」
親父の家で風船、見たな。誰かが飛ばしちまった風船。
「それ、いつの話?」
ハーレイが子供の頃のことなの、お父さんの家に風船が飛んで来ていたのって?
「いや。俺は教師になっていたから…」
ガキの頃じゃないな、とっくに大人だ。あれは教師になってから…。
何年目だ、と記憶を遡りながら指を折って数えた。
隣町の父の家で目にした風船。長い旅をして疲れました、といった風に見えた萎んだ風船。まだ少しだけ膨らんではいたのだけれども、もう飛ぶ力は無かった風船。
教師という職についてこの町に引越して、四年目か、五年目あたりの春。
「うん、教師生活の四年目か五年目、そんなトコだな」
だからお前はもう生まれてるな、三歳か四歳か、そのくらいのチビか。
春休みに親父の家に行ったら、庭の木に風船が絡まってたんだ。最初は親父が何かつけたのかと思ったんだが、風船だった。萎んで元気は無くなってたがな。
「庭の木って…。何処に?」
ぼくでも分かる木にくっついていたの、その風船?
「うむ。お前も馴染みの夏ミカンの木さ、おふくろがマーマレードを作ってる木だな」
あの木は夏ミカンにしてはデカイが、木としてはそれほど大木っていうわけじゃない。
もっと高い木もあるのにな、と親父たちと笑って見たモンだった。
夏ミカンの実を仲間だと思ったか、それとも友達になりたかったか。そんな具合に見えたんだ。黄色い実の中に風船が一つ、混じって揺れているんだからな。
まるで狙って来たようだったぞ、あの風船。
あんまり仲良く見えたもんだから、親父もおふくろもこう言ったもんだ。
「すっかり萎むまで外さずにつけておいてやろう」と、「せっかく旅して来たんだから」と。
流石に次に行った時には、外されちまって無かったけどな。
手紙はついちゃいなかったんだろうなあ、そういう話は聞いてないしな。
「その風船…。どんな色だった?」
何色だったか覚えてる?
夏ミカンと友達になってた風船なんだし、やっぱり黄色?
「いや、白かったな、こいつみたいに」
だから親父が何かつけたのかと思ったわけだ。
果物の木だと、実に紙袋をかけたりすることがあるだろうが。袋をかけたら美味くなるかと一個だけ袋に入れてみたか、と見上げてみたら風船だったというオチさ。
そのせいで今でも覚えてるってな、あの木に風船がくっついてたことも、風船の色も。
「ハーレイ、それ…。ぼくの風船だったかも…」
「なんだって?」
「白かったんなら、ぼくの風船かもしれないよ。ぼくが三歳か四歳の頃の話だったら…」
よく風船を買って貰って持ってた頃だし、よく失くしてた。
転んでしまって、パパもママも大人の人もいなくて、そのまま飛んでっちゃったんだよ。
ハーレイがさっき言ってたみたいに、風に乗って隣町まで飛んで行った風船もあったかも…。
白い風船、大好きだったから、何度も買って貰っていたし…。
他の色のも好きだったけれど、白い風船を一番沢山持ってたと思うよ、小さかったぼく。
失くした数もきっと一番。持ってた数が多いんだもの。
きっとシャングリラの白だったのだ、とブルーは言った。
記憶は戻っていなかったけれど、白い鯨を、あのシャングリラを自分は覚えていたのだと。心の何処かで、戻らない記憶が閉じ込められていた心の奥で。
空を飛ぶものには白が似合うと考えていたと、風船にも白が似合うのだと。
そう感じるから、選ぶ風船は白が多くて、白が大好きで。
手から離れて飛んで行ってしまっても、白い風船なら何故か嬉しい気もしたと。
どんどん高く昇ってしまって手が届かない白い風船。呼び戻して貰えない白い風船。
白い点になって消えてゆくのを見送っていたと。
何処までも飛んでと、行きたい所まで飛んで行って、と。
「ぼくは気付いていなかったけど…。白がシャングリラの色だったなら…」
きっと地球へって思ってたんだね、小さかったぼくは。
そのまま真っ直ぐに地球まで飛んで、って。遠い地球まで飛んで行って、って…。
「なるほどなあ…。お前がシャングリラを見送ってたなら、そうなるか…」
お前、一人でメギドに行っちまったから、シャングリラ、見送っていないよなあ…。
前のお前の記憶の続きで見送ってたんだな、シャングリラを。
無事に地球まで飛んでくれよと、行ってくれよ、と。
お前が見送ってたのはシャングリラじゃなくて、白い風船だったわけだが。
「うん、きっと。前のぼくのつもりで見てたんだと思う」
ちゃんと飛べたと、地球へ行くんだと。ぼくは行けない青い地球まで。
あんなに遠くへ飛んでゆくから、きっと着けると思ってたんだよ。
「その地球は此処で、小さかったお前の足の下に地面があったんだがなあ…」
シャングリラが着いた頃と違って、青い星に戻った地球の地面が。
そうとも知らずに白い風船を見上げていたのか、地球へ行ってくれ、と。
お前らしいと言えばそうだが、生まれ変わってまで見送ってたのか、シャングリラを…。
白い風船のシャングリラか…、とハーレイはテーブルの上で揺れている風船を仰いだ。
自分が持って来た白い風船。これを買おうと選んだ風船。
シャングリラの白を選んで良かったと思う。小さなブルーの思い出話が聞けたから。
幼かったブルーが白いシャングリラをそれと知らずに見送っていたと、思わぬ話が聞けたから。
その上、好きだった風船の色。何度も失くした白い風船。
何処までも遠く…、と幼いブルーが願った白い風船が高く昇って、風に運ばれて…。
「それで、そいつが俺の親父の家の庭まで来たってか?」
お前が失くした白い風船、親父の家に着いたのか?
夏ミカンの木に絡まってたのは、お前の風船だったと言うのか、確かに白い風船だったが。
「絶対に違うとは言えないよ?」
ぼくは風船に名前も住所も書かなかったし、誰かが拾ってもぼくの風船かどうかは謎。
それにハーレイのお父さんの家に届いた風船、誰のか分からなかったんでしょ?
ぼくのじゃなかったってどうして言えるの、ぼくは生まれていたんだから。
その頃だったら、白い風船、しょっちゅう失くしていたんだから…。
「うーむ…」
違うと言い切ることは出来んな、あの風船。
お前が飛ばしちまった風船が旅して来たかもしれんな、隣町の親父の家までな。
そうかもしれない、と思うけれども、証拠が無いから。
遠い日に夏ミカンの木に絡まっていた白い風船、それがブルーの風船だという証拠が無いから。
「お前、やっぱり、手紙をつけときゃよかったな」
風船を失くしてばかりいたなら、風船を買ったら手紙をつけて。
そうすりゃ、あちこちに知り合いが出来ていたかもしれん。うんと遠い町に友達だってな。
「ぼくの住所と名前を書くとか?」
この風船はぼくのです、って分かるようにしておけば手紙が貰えた?
「それじゃ駄目だな、短くっても手紙だな」
拾った人は手紙を下さい、って、それだけでいいんだ、それと名前と住所とな。
そんな風船なら、失くした風船じゃないんだと分かる。誰かに手紙を出したんだ、とな。拾った人が風船の手紙を知らなくっても、返事を出したくなるだろう?
お前はそいつを書くべきだったな、「ぼくに手紙を下さい」と。
こういう所に住んでいますと、ぼくの名前はブルーといいます、と。
もしも幼かった日のブルーが手紙を書いていたなら。
風船を買って貰う度に短い手紙を書いては、糸の端っこに結んでいたならば。
そうすればもっと早くにブルーと出会えた、という気がした。
隣町の父の家の庭で見付けた風船。夏ミカンの木に絡み付いていた、小さくなった白い風船。
あの風船に幼かったブルーが書いた手紙が、名前が、住所がついていたなら、と。
「いいか、お前が手紙を書いてたとして、その風船が親父の家に届いたら…」
親父は返事を書いただろうなあ、もちろん、おふくろも書いたと思うぞ。
そしてこの町には俺が住んでるし、手紙をポストに入れるよりかは届けた方がいいだろう?
親父ならきっとそうしろと言ったな、この手紙を届けに行って来い、と。
そういうわけでだ、俺が親父の返事をお前に届けに来て、だ…。
「ぼくとハーレイ、友達になるの?」
手紙をくれたのはハーレイのお父さんたちでも、ぼく、ハーレイと友達になれた?
「そりゃあ、間違いなく友達になれたさ」
多分、土産も持って来てたな、マーマレードかどうかは分からないがな。
もっと子供の好きそうな菓子を持って来たかもしれないが…。
俺が子供に好かれやすいこと、お前なら充分、分かるだろ?
きっとお前も懐いただろうし、手紙と土産を届けただけでは終わらないってな。
風船を見付けたと、隣町まで旅をしていたと、幼いブルーの家まで報告に来て。
父たちからの手紙と土産を渡して、後は肩車でもしてやったろうか?
それとも四つん這いになって背中に座らせて、馬になって遊んでやっただろうか?
自分に兄弟はいなかったけれど、幼い子供との遊び方なら幾らでも知っていたのだから。
ブルーに懐かれるだけの自信はあった。「また来てね」とせがまれるであろうという自信も。
そうしていたなら、ブルーとはもっと早くに出会えて、何度も一緒に遊んだりも出来て…。
「…惜しいことをしたな、風船の手紙…」
あれがお前の風船だったら、十年は早く出会えてたのにな?
「だけど聖痕、まだ無いよ?」
ぼくの記憶は戻らないままで、ハーレイだっておんなじだよ?
ただの友達で、子供のぼくには「いつも遊んでくれるおじさん」だよ、きっと。
「おじさんって…。そこはお兄さんじゃないのか、おじさんなのか?」
「おじさんだと思うよ、パパとあんまり変わらないんだもの」
ハーレイおじちゃん、って呼んでいたんじゃないかな、ハーレイのこと。
お兄ちゃんっていうのは、もっと年下の人のことだよ、ぼくだってうんと小さいんだから。
「おじちゃんなあ…。ついでに記憶も戻ってないなら、そういうことだな」
俺にとってもお前はチビだし、間違っても恋人なんかじゃないなあ…。
出会えていたって、そこが問題になるってわけか。お互い、相手が分かってないしな。
そういう出会いも困ったものだ、とハーレイは苦笑したけれど。
本当に早く出会えていたなら。
自分の父と母も含めて家族ぐるみの付き合いだったら、もっと変わっていたろうか?
ブルーが聖痕現象を起こし、記憶が戻って来た後も。
今よりももっと距離が近くて、親しく出入り出来ただろうか?
隣町にある両親の家へもブルーと一緒に何度も出掛けて、まるで昔からの親戚のように。
(…そうなっていたら、ブルーもとっくに夏ミカンの木に会えてただろうに…)
今はまだ会わせてはいない、両親ともとうに顔馴染みで。
記憶が戻っても、それまでと変わらず、あの家に自由に出入りをして。
いつか大きく育った時には、本物の新しい家族になる。両親の新しい子供となって。
(…風船の手紙、ホントについてりゃよかったなあ…)
こういう白い風船だった、とテーブルの上の風船を見ながら遠い日の風船を思い出す。
空の旅に疲れて舞い降りた風船、夏ミカンの木に降りた風船。
父が夏ミカンの実にかけた袋かと見間違えたほどに、萎んでしまった白い風船。
その頃、ブルーは幾つも風船を失くしてしまっていたというから。
白い風船が大好きだったと、よく失くしたとも聞かされたから。
(あの風船は…)
幼いブルーが飛ばした風船。
遠くまで飛べと、何処までも飛べと見送っていたという白い風船。
あれがそうだったのだ、とハーレイは思う。
きっとそうだと、あの風船はブルーよりも先に隣町の家に着いたのだ、と。
いつか、あの家にブルーを連れて行ったなら。
指差してやろう、あそこだったと。
あそこにお前の風船があったと、お前よりも先に着いていたぞ、と…。
思い出の風船・了
※幼かった頃のブルーが好きだった、白い風船。記憶は無くても、きっとシャングリラの姿。
ブルーが失くしてしまった風船、隣町まで行ったようです。ブルーよりも先に。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「パパ!」
「わっ!」
ビックリしたぞ、と振り返った父。夕食前に廊下で見付けた背中に飛び付いてみた。
ブルーよりも先を歩いていたから、気付いていなかったようだから。
突然やりたくなった悪戯。脅かしてやろうと、大きな背中に飛び付いてやろうと。
「まったく、もう…。腰が抜けそうになるじゃないか」
父は苦笑いを浮かべたけれども、「久しぶりだな」と頭をクシャリと撫でてくれた。
こういう悪戯も可愛らしいと、「やっぱりパパのブルーだな」と。
「悪戯なんかをするってことはだ、ソルジャー・ブルーってわけでもないな」
「パパの子だもの」
前のぼくのことは関係ないもの、パパの子だよ?
ソルジャー・ブルーにはパパの記憶が無かったんだよ、ぼくのパパはパパしかいないんだよ。
「そうだっけなあ…。それでお前はパパの子だ、と」
「前のぼくにパパの記憶があっても、パパはパパだよ」
ぼくのパパだよ、ぼくだけのパパ。だから大好き!
「そう言われると嬉しくなるな、うん。お前はパパのブルーだ、ってな」
いい子だな、と頬にキスをくれた父は、それは御機嫌で夕食のおかずも譲ってくれた。「これも好きだろう?」と、「もっと食べていいぞ」と。
食が細いブルーには有難迷惑だったけれども。お腹一杯になってしまったけれど。
その夜、お風呂に入ってパジャマに着替えて、部屋に戻ってから。
ようやっとお腹が落ち着いて来たと、食べ過ぎちゃったとベッドの端に腰掛けながら。
(パパの御褒美…)
おかずを譲ってくれた父は本当に嬉しかったのだろう。前世の記憶を取り戻した後も、ブルーはブルーのままだから。それを再認識出来たから。
(パパはホントにパパなんだけどな…)
生まれた時から側に居てくれた父。抱っこに、おんぶに、肩車。
前の自分が知らない幸せを沢山与えてくれた父。今も暖かな家を、優しい毎日をくれている父。
(パパの背中…)
飛び付いた背中は大きかった。脅かしたらビクンとなったけれども、揺らがなかった。大きくて逞しい背中。両手を広げて飛び付いた背中。
広くて大きな背中だよね、と思ったけれど。
もっと大きい背中を自分は知っている。父よりも大きくて広い背中を。
(ハーレイの背中…)
そういえば、ハーレイにも何度もやった。夕食前に父にやったようなことを。
白いシャングリラの中、周りに人がいない通路を歩くキャプテン。そういう姿を青の間から目にして、何度も飛んだ。瞬間移動でハーレイの後ろへ。
何の前触れもなく現れ、飛び付き、抱き付いていた。あの背中に。
濃い緑色のマントに隠れた、広くて逞しいハーレイの背中に。
けれど。
(…もしかして…)
せっかくハーレイと再会したのに、青い地球の上で巡り会えたのに。
再会してから長く経つのに、今の生ではまだ一回もやってはいない。飛び付いていない。
今の自分はハーレイを背中から脅かしていない。
あんなに何度も会っているのに、前の生ではあんなに何度もやっていたのに。
(やってみないと…!)
今度もやってみなくっちゃ、と思ったけれど。
あの広い背中に飛び付いて脅かしてやらなければ、と思ったけども。
でも、どうやればいいのだろう?
(チャンスさえあれば…)
学校では絶対に出来ないけれども、家でならば、と考えたものの。
(足音がしちゃう…)
前の自分が得意としていた瞬間移動が出来ないから。歩いて近付いてゆくしかないから。
父が相手なら上手くいったけれど、ハーレイならば、きっと。
(足音でバレる…)
そんな気がした。今度のハーレイはきっと気付くに違いない、と。
気配だってバレてしまうだろう。いくら足音を隠せたとしても、気配でバレる。
はしゃいでいる時の自分の心はハーレイに筒抜けらしいから。
心の中身が零れてしまって、何をしようとしているのかが手に取るように分かるらしいから。
(…できっこない…)
ハーレイの背中に飛び付くなんて、とシュンとしてから気が付いた。
飛び付くどころか、抱き付くどころか、あの背中自体がご無沙汰なのだ、と。後ろからいきなり脅かすどころか、ハーレイの背中に抱き付いたことが無いのだ、と。
(胸は何度も…)
抱き締めて貰ったし、自分から抱き付いて甘えもした。
椅子に座ったハーレイの膝にチョコンと乗っかり、そのままギュウッとくっついたりした。
「甘えん坊だな」と呆れられたほどに、何度も、何度も。
最近でこそ、向かい合わせで座っていることが多いけれども。ベッタリ甘えはしないけれども。
(でも、背中…)
背中の方には甘えるチャンスがまるで無かった。一度も無かった。
前の生なら飛び付いてそのまま、顔を埋めたりもしていたのに。ハーレイが振り返ったらキスをくれると分かっていたのに、背中の広さを味わいたくて。その温かさを感じていたくて。
二人でベッドで過ごした後にも、起き上がったハーレイの背にもたれていた。
大きな背中に自分の身体を預けてしまって、その温もりに酔っていた…。
(ハーレイの背中…)
どうして忘れていたのだろう、と何度となく二人で座ったテーブルと椅子に目を遣って。
其処に原因を見付け出した。ハーレイがいつも座っている椅子。しっかりした木枠に籐を編んで張ってある、椅子の背もたれ。ハーレイがもたれてもビクともしない堅固な背もたれ。
それが背中を隠していた。ハーレイの背中にくっついて自分の邪魔をしていた。
これでは思い付かないだろう。背中に後ろから飛び付くなんて。抱き付くだなんて。
(でも、背中…)
気になり始めたら止まらない。思い始めたら止まらない。
あの背中がいい、と。ハーレイの背中に甘えてみたいと、抱き付いてみたいと。
(明日は土曜日…)
ハーレイが訪ねて来てくれる日だから。
頼んでみようか、背中がいいと。背中に甘えたいのだけれど、と。
一晩眠っても、消えてくれなかった背中への思い。ハーレイの背中に甘えたい気持ち。
朝食を食べても、部屋を掃除しても、それは一向に消えてはくれずに、大きくなるだけ。背中がいいと、あの背中だと。
やがてハーレイが来てくれたけれど。いつものように向かい合わせで座ったけれど。
(背中…)
お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、向かいに座ったハーレイの背中。
やはり背もたれが邪魔をしていた。触らせてなるか、と背中を丸ごとガードしていた。其処から肩は出ているけれども、大きな身体も両脇にはみ出してはいるのだけれど。
飛び付きたい背中は背もたれの向こう、抱き付きたい背中は背もたれの向こう。
どうすればいいというのだろう?
頑丈な背もたれが邪魔をしている向こうの背中に甘えたければ…?
(…相談してみる?)
当のハーレイに。
不意打ちで脅かすことは出来なくなってしまうけれども、どうせ脅かすだけ無駄だから。
足音で、それに気配で何もかもが直ぐにバレてしまって、前のようにはいかないから。
相談しよう、と心を決めて切り出してみた。他愛ない会話を交わす間に、「ハーレイ」と。
「えっと、背中…」
「背中?」
ハーレイは反射的に後ろを振り返ってから、ブルーの方へと向き直って。
「俺の背中に何かついてるのか? …って、お前に分かるわけがないか」
サイオンの方はサッパリだっけな、前のお前と違ってな?
「うん、ハーレイの背中なんかは見えないよ」
椅子から立ってハーレイの後ろに回らない限り、ぼくには全然見えないんだけど…。
「じゃあ、なんだ?」
俺の背中が何だと言うんだ、急に背中と言われてもなあ…。
「背中にご無沙汰してるんだよ。ハーレイの背中に」
「はあ?」
ご無沙汰ってなんだ、どういう意味だ?
お前、俺の背中と知り合いだったか、挨拶を交わすような仲だったのか?
そもそも背中は喋らんと思うが、挨拶なんてヤツも全くしないと思うんだがな…?
挨拶する時に出て来るのは背中じゃないだろうが、と訝るハーレイ。
お辞儀するなら前に身体が傾くものだと、背中の方へは傾かないと。どうして背中にご無沙汰ということになるのか、とハーレイにはまるで通じていなかったから。
ブルーは懸命に説明した。
実はこうだと、こうなのだと。
前の生では馴染み深かった背中に、今度は一度も飛び付きも抱き付きも出来ていない、と。
「そうなんだってば、ハーレイだって考えてみれば分かるでしょ?」
ぼくが背中にくっついてたこと、一度も無いっていうことが。
ハーレイの背中がとても好きだったのに、まだ一回も飛び付いて挨拶していないんだよ。
ご無沙汰なんだよ、本当に。
ハーレイの背中は其処にあるのに、今だって背もたれの向こうなんだよ…。
「俺の背中なあ…」
そういえば何度もやられたっけな、とハーレイの目が細くなった。
シャングリラの通路を歩いていた時に急襲されたと、後ろからいきなり飛び付かれたと。
「そう。…でも、今のぼくだとハーレイの後ろに飛べないし…」
瞬間移動で飛んで行けないから、前のぼくみたいにはいかないよ。
「飛んでも無駄だぞ、今の俺はな」
驚きやしないな、お前が後ろに出たってな。
「なんで?」
瞬間移動だよ、一瞬だよ?
今のぼくには出来ないけれども、さっきまで誰もいなかった場所に出るんだよ?
「それでもだ。今の俺はだ、前の俺より勘がいい」
出たな、と直ぐに分かっちまうさ、お前が来たなと、現れたなと。
つまり驚かなくて済むんだ、何がいるかが最初から分かっているんだからな。
柔道で鍛えてあるもんでな、と余裕たっぷりに微笑まれた。
気配に敏いと、脅かそうとして後ろに飛んでも前のようにはいかないと。
「お前が飛び付いてくる前に、だ。俺がクルリと後ろを向くかもしれないな?」
お前は背中に飛び付く代わりに、俺に受け止められるってわけだ。悪戯者めが、と俺の腕の中に閉じ込められちまって、それっきりだな。
「じゃあ、脅かすのは…」
前みたいにハーレイを後ろからビックリさせるのは…?
「まず無理だってな、相手が今の俺ではな」
瞬間移動を覚えた所で、多分、役には立たないだろうさ、そういう風に使いたくてもな。
俺に捕まって背中とは縁が無いままだってな、振り向かれて逃しちまってな。
自信に溢れているハーレイ。今度の自分は脅かされないと、後ろを取られはしないのだと。
それでは背もたれが無かったとしても、ハーレイの背中に飛び付けはしない。抱き付くことも。
けれども諦められない背中。ハーレイの大きくて逞しい背中。
ご無沙汰したままでは悲しいから。甘えてみたくてたまらないから。
ブルーはなんとかならないものかと問い掛けた。
「…だったら、背中にくっつくのは?」
飛び付くんじゃなくて、脅かすのでもなくて、くっつくだけ。
ハーレイの背中にくっつきたいな、と思うんだけど…。
「どうやってだ?」
俺はこうして座ってるわけで、背中は後ろになるわけなんだが…。
背中の方を向けるんだったら、お前は俺の背中に向かって喋るしかないわけだがな?
椅子ごと後ろを向いちまうんだし、背もたれ越しの背中にな。
「…やっぱり、背中、無理だよね…」
ハーレイごと後ろを向いてしまって、ぼくはそっぽを向かれるんだね?
「うむ。背中と腹とは入れ替わらんしな」
背中を向けては喋ってやれんな、そいつは絶対、出来やしないと分かるだろうが?
「…そっか…」
ハーレイの背中、無理なんだ…。
くっつきたくても、背もたれつきの背中しか向けて貰えないんだ…。
残念、と深い溜息をついたブルーだけれど。
今の生では背中は無理かと、ハーレイの背中には甘えられないのかと肩を落として萎れるよりも他に無かったけれど。
「ふうむ…。そんなに俺の背中がいいのか…」
こんなのの何処がいいんだか、とハーレイが肩越しに自分の背中を軽く叩いた。
固いだけだと、やたら筋肉がついてるだけなんだが、と。
「でも、好きなんだよ、ハーレイの背中…!」
好きだったんだよ、前のぼくは。
後ろからいきなり飛び付いてた時、よくそのままでくっついてたよ?
ハーレイが振り向こうとしたってギュッと押さえて、背中にそのまま。手を一杯に広げて背中にくっつくのが好きで、顔を埋めてるのも好きだったよ。
ハーレイの背中は温かいな、って。ぼくの背中よりもずっと大きいよね、って…。
あの背中がとても好きだったのに、と訴えた。
それなのに今度はくっつけないのかと、背もたれが間に挟まるのか、と。
「…ハーレイの背中、ホントのホントにご無沙汰なのに…」
くっつきたいのに、どうすることも出来ないの?
脅かす方は無理だとしたって、くっつくくらいは出来たらいいな、と思ってたのに…。
「そこまで俺の背中にこだわりたいのか、今日のお前は?」
今までに背中と言われたことは無いんだがなあ、どうして背中になっちまったんだ?
「…パパを脅かしたんだよ、昨日の夜に…」
廊下で前を歩いていたから、後ろから「パパ!」って飛び付いただけ。
その時には思い出さなかったけど、後からどんどん思い出しちゃって…。ハーレイにも後ろから飛び付いたよね、って、抱き付いて甘えていたんだよね、って。
そしたら背中に甘えたくなって、ご無沙汰してたってことに気が付いたんだよ。
今度は一度もやっていないし、一度も背中に甘えていない、って。
「なるほどなあ…。そういうことか」
それで背中と言い出したのか、とハーレイが腕組みをして暫く考え込んだから。
もしかしたら、とブルーは淡い期待を抱いた。
背中を向けて貰えるのかもと、背中に飛び付かせて貰えるのかも、と。そうしたら…。
「俺の背中だが。…お茶もお菓子も無しでいいなら何とか出来んこともない」
より正確に言えば、俺の方はお茶も飲めるし、お菓子だって食える。
しかしだ、お前はそういうの抜きで、それでもいいなら背中を貸せないこともないな。
「…お菓子抜き? お茶も?」
なあに、とブルーが目を丸くすると。
「ん? 百聞は一見に如かず、ってな」
こうするのさ、とハーレイは椅子から立ち上がった。丈夫な木枠に籐を張った背もたれのついた椅子から。前のハーレイのマントの色を淡くしたような座面の椅子から。
小さなブルーの腕には重たいその椅子を軽々と抱え、前後を逆に置き替えた。背もたれがついた方がテーブルを向くように。座面がテーブルにそっぽを向けてしまうように。
その椅子にハーレイはドカリと座った、テーブルの方を向いて。背もたれの上に腕を乗っけて。
逞しく強い両足の間に、背もたれを挟むようにして。
テーブルの向こう、ブルーと向かい合わせに座るハーレイ。
けれどもテーブルとハーレイとの間に背もたれ、籐が張ってある丈夫な背もたれ。編まれた籐の隙間からハーレイの身体が透けて見えていて、それは背中ではない側で。
「どうだ? こういう俺のだ、背中にだったら後ろに回ればくっつけるぞ?」
お前が座れるスペースなんぞは残ってないしな、後ろに立つしかないわけだが…。
くっつきたければ貼り付くしかなくて、お前の口にはお茶もお菓子も入らないんだが…。
それで良ければくっついてみるんだな、俺の背中に。
「くっつく…!」
ブルーは椅子からガタンと立った。
ハーレイの後ろに回ってしまえば、テーブルはグンと遠ざかるけれど。お茶にもお菓子にも手が届かなくて、どうにもならなくなるけれど。
そんなことなど、どうでも良かった。
ハーレイの背中にくっつけるのなら、ご無沙汰していた大きな背中にくっつけるのなら。
(くっつける…!)
背中、とハーレイが座った椅子を回り込んで、後ろに行った。
ハーレイの後姿は何度となく目にして来たのだけれども、どうして忘れていたのだろう。大きな背中を、広い背中を、大好きだった背中のことを。
「ん? どうした…?」
くっつかないのか、と聞こえたハーレイの声。こちらを向いてはいないままで。テーブルの方に顔を向けたハーレイの短い金髪、それしか見えない。
(この声だって…)
久しぶりだ、と胸が熱くなった。いつもと同じ声だけれども、いつもと違う。向かい合って聞く時の声とは違う。
(学校だったら、何度も聞いてる筈なんだけど…)
授業の時には背を向けて話していることも多いから。教室の前の大きなボードに書いている時、ハーレイは背中を向けているから。
(…でも、違うんだよ)
こうして頭の向こう側から聞こえて来る声。
自分に向けられた声だけれども、自分の方を向いて発せられてはいない声。
前の生で何度聞いただろう。何度こういうハーレイの声を、前の自分は聞いたのだろう…。
(ハーレイ…!)
たまらなくなって、ギュウッと両腕を回してくっついた。
ハーレイが向けてくれた背中に、背もたれが邪魔をしていない背中に。
座りたくてもスペースは本当にほんの僅かしか空いていないから、座ることは諦めてしがみつくだけ。被さるようにしてしがみつくだけ、大きな背中に。
「…どんな具合だ、俺の背中は?」
お気に召したか、こだわりの背中。ご無沙汰らしいが、挨拶はしたか?
「今、してる所…」
身体中で、とブルーは答えた。ハーレイの背中に挨拶してると、ぼくの身体が挨拶してると。
懐かしくて温かい背中。前のハーレイの背中と同じに広くて逞しい背中。
違う所はマントが無いこと。いつも顔を埋めた、濃い緑色のマントが何処にも無いこと。
(でも、この方が…)
こっちがいい、と抱き付いた。
ハーレイの背中をより近く感じられるから。厚いマントに隔てられてはいないから。
それにハーレイの声、とブルーは背中に耳をピタリとくっつけた。
さっき聞いたよりも懐かしい声。ハーレイの大きな身体の中から響いてくる声。
「俺の背中は期待通りか」と、「もう挨拶は済んだのか?」と。
ハーレイの腕の中で聞く声とは違う。胸に抱かれて聞く声とは違う。
前の生では何度も耳にしたけれど、生まれ変わってからは初めてこの声を聞いた。大きな身体の中を通って耳に届く声を、ハーレイの背中の中から聞こえる声を。
「挨拶はもう済んだけど…。ハーレイの声…」
いつもと違うね、もっと、ずうっと深い所から聞こえてくるね。
こんな風に聞こえる声だってことを忘れていたよ。背中にくっついてたら、こう聞こえること。
「そりゃまあ、なあ…。背中の中で喋っているしな?」
胸にくっついてりゃ、俺の声はお前の頭の上からお前の耳に届くんだろうが…。
この状態だと、間に背中が入るんだしな?
俺が身体の中から出している声、口から出てても背中の中から出てるようなもんだ。身体の中で響くわけだな、お前の耳まで届く前にな。
「…うん、きっと…」
とても温かく聞こえるんだよ、耳の側で喋っているみたいに。
ううん、もっと近く、まるでハーレイがぼくの中で喋っているみたい…。
この声のことも忘れていたなんて、ホントにご無沙汰しちゃっていたんだ、ハーレイの背中。
前のぼくはあんなに好きだったのに…。
ハーレイの背中を何度も追い掛けて、飛び付いて、抱き付いていたのにね…。
あまりにも懐かしい背中だったから。温かい響きの声だったから。
ハーレイが「お茶はいいのか?」と訊こうが、「俺は飲むぞ?」と念を押されようが、ブルーは背中にくっついていた。
大きな背中の向こう、ハーレイがお茶を飲んでいる音も、お菓子を口にする音も。
全て聞こえているように思えた、耳に響いて来ているように。
お茶をゴクリと、ケーキをフォークで切り取って口に運んで、モグモグ、ゴクンと。
ハーレイの気配が伝わる背中。何をしているのか、ちゃんと伝わってくる背中。
(ホントのホントに久しぶりだよ…)
声も気配も、と身体中でハーレイの背中を感じ取ろうとくっついた。
お茶もお菓子も抜きのまんまで、食べに戻ろうと思いもせずに。
そうやって、どのくらいの間、背中の温もりを、大きさを満喫していただろう。
「もう少し経ったら戻れよ、お前」
お母さんが様子を見に来るぞ、とハーレイの声が促した。背中の中から。
昼食の前にお茶のおかわりは如何と訊きに来るから、お菓子をきちんと食べておけよ、と。
「分かってる…。でも、もうちょっと…」
あと少しだけ、いいでしょ、ハーレイ?
背中、ホントにうんとご無沙汰だったんだから。次はいつ会えるのかも分からないんだから…。
「ふむ…。こいつはそうそう出来んが、だ」
椅子は置き方を変えにゃならんし、お前はお茶もお菓子も手が出せないし…。
とても褒められたモンじゃないしな、俺の背中はそう簡単にはお前に提供してやれん。
それは分かるな?
「…うん、分かる…」
膝なら降りたらおしまいだけれど、こっちは椅子の置き方が逆になっちゃってるしね。
ママの足音が聞こえてからでは、元に戻せそうもないものね…。
「そういうことだ。おまけにお前はお茶もお菓子も手付かずなんだし、お母さんに変に思われる」
何があったのかと、どうなったのかと。だから、そうそう出来ないが…。
お前がそんなに気に入ったのなら、たまにはしてやる。
たまに、だがな。
「ホント!?」
くっついていいの、とブルーは両腕で強く背中にしがみついた。
今日限りでお別れになるのではなくて、またくっついてもいいのかと。こう出来るのかと。
「…たまにだぞ?」
会う度にっていうわけにはいかんな、たまにだな。お前がご無沙汰だと言い始めたらな。
「言ってもいいの? 背中にご無沙汰してるって」
「たまにならいいさ。いいか、本当に、ごくたまに、だぞ?」
それから、お前のお母さんにバレないような時だな、そいつも大事だ。なにしろ椅子がな…。
椅子の置き方がまるで逆では、俺はお行儀の悪い先生になっちまう。
この座り方はお世辞にも行儀がいいとは言えんし、俺だってどうも落ち着かないんだ。
とはいえ、今はこれくらいしかしてやれないからなあ、背中にご無沙汰だと言われたってな。
そのくらいはお前にも分かるだろうが?
恋人としてベッドの上でもたれさせてはやれないし…、とハーレイが笑う。
後ろから飛び付いて抱き付こうにも、そういうチャンスも全く無いと。
「だからだな…。結婚するまではこいつで我慢しておけ、俺の背中は」
お前がご無沙汰してると言い出して、俺が「そうだな」と納得したら。
今日みたいにこうして座ってやるから、後ろから背中にくっつくんだな。
「…うん。またご無沙汰になったら言うから、これ、やってよね」
この背中でも充分幸せだから。
…ハーレイの背中と、身体の中から聞こえる声と。それだけでぼくは幸せになれるよ、とっても大きな背中だから…。
「そりゃ良かった。…そろそろ戻れよ、お茶もお菓子も放ったままだぞ」
早く戻って減らしてくれ。俺も元通りに座りたいしな、椅子本来の座り方でな。
次の機会が欲しいんだったら早く戻れ、と言われたから。
促されたから、ブルーは背中に別れを告げた。最後にギュッと強く抱き付いて、「さよなら」と「またね」と身体で背中に挨拶をして。
いつもの自分の椅子に戻る間に、ハーレイは椅子を元の通りに置き直してしまった。背もたれを正しい方向に向けて、座面がテーブルの方を向くように。
(んーと…)
ブルーは椅子に腰掛けたけれど、もうハーレイの背中は見えない。ついさっきまで独占していた広い背中はもう見えない。次に会える日はいつになるかも分からないけれど…。
「ハーレイ、今はご無沙汰しないと背中に会わせて貰えないけど…」
結婚したら、もっとくっつけるんだよね?
前のぼくが色々やってたみたいに、背中にくっつき放題だよね…?
「当たり前だろうが。運が良ければ脅かせるかもしれないぞ」
俺は後ろを取られはしないが、お前が相手だと油断するかもしれないな。
後ろからパッと飛び付かれた途端に、「うわっ!」と叫んでしまうかもなあ?
「頑張ってみる…!」
ハーレイと一緒に暮らしてるんだし、きっとチャンスは転がってるよ。
瞬間移動が出来なくったって、ハーレイを後ろから脅かすチャンス。
今はこれしか出来ないけれど。
椅子の向きを逆に据えて貰って、お茶も飲まずにくっつくことしか出来ないけれど。
いつかは身近になる背中。
同じ家で暮らして、側にあるのが当たり前になるハーレイの背中。
父にやったように廊下で後ろを歩いて、脅かすことだって出来るだろう。前をゆく背中にパッと飛び付いて、前触れもなく抱き付いて、ハーレイを。
「前の俺のようにはいかないぞ」と自信満々の、気配に敏いハーレイを。
だからブルーは訊いてみる。赤い瞳を煌めかせて。
「ねえ、ハーレイ。…驚かせられたら、御褒美、くれる?」
ぼくが後ろから、ハーレイを「わっ!」と言わせられたら。
「もちろんだ」
今の俺の後ろ、取れたヤツは一人もいないんだからな、今のレベルになってからはな。
その俺よりもだ、お前が優れた技を見せたら、そいつは称賛に値する。
当然、御褒美をやらんといかんな、参りましたと、一本取られてしまいました、と。
柔道で一本取るというのは「勝った」の意味だとハーレイに教えて貰ったから。
一本取れたら何でもやるぞ、と言われたから。
(ふふっ、御褒美…)
もしも首尾よく、ハーレイを後ろから驚かすことが出来たなら。
その時は思い切り甘えてみよう。御褒美が欲しいと強請ってみよう。
どんな我儘でもハーレイは叶えてくれるだろうけれど、とびきりの我儘な注文を。
一緒に仕事場に連れて行ってだとか、今日は一日側に居て、だとか。
ハーレイの背中と離れないために。
大きくて広くて、逞しい背中。
前の自分が追い掛け続けた広い背中を、今度は誰にも隠すことなく堂々と追ってゆくために…。
会いたい背中・了
※今のブルーは飛び付くことが出来ない、ハーレイの背中。前の生では、よくやったのに。
なんとかくっつけましたけれども、次の機会はいつになるやら。懐かしい背中に会える日は。
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(えーっと…)
ブルーは途方に暮れていた。土曜日の朝に。
目覚めたまではいいのだけれども、顔を洗って着替えるまでは普段通りの日だったけども。
朝食を食べようとダイニングに行ったら、其処には誰もいなかった。
先に食卓に着いている筈の、父も母も。
それにガランとしたテーブル。湯気を立てるカップも卵料理の皿も無ければ、トーストだって。母が焼くソーセージなどの匂いもしないし、サラダボウルも見当たらない。
(…なんで?)
どうして何一つ無いのだろう?
自分の分はこれから出て来るとしても、父と母。二人が食べた筈の料理は何処へ消えたろう?
とっくに食べ終えてしまったにせよ、名残はありそうなものなのに。
両親も気に入りの、ハーレイの母が作った夏ミカンの実のマーマレード。その瓶くらいは後から食べるブルーのためにと、テーブルに置いてありそうなのに。
(…物凄く早い時間に食べちゃった?)
それとも自分が寝坊をしただろうか、と壁の時計を見れば、いつもの時間。
母はダイニングか、キッチンにいる筈なのに。父は食べているか、新聞を読んでいる筈なのに。
(…他の部屋かな?)
朝食前にひと仕事、と庭に出掛けたということもあるかもしれない。父が芝生を刈り込んでいる間に、母が花壇の手入れだとか。
(えーっと…)
暫く待ってみて、それから庭に出てみたけれど。ぐるりと家を一周してみたけれども、父も母も庭には居なかった。てっきり庭だと思ったのに。
ダイニングに戻っても、両親はやはり其処には居なくて。
食事の匂いもまるでしなくて、皿なども置かれていないままで。
(…なんだか変…)
両親は何処に行ったのだろう?
そろそろ自分が起きて来る頃だと、二人とも知っている筈なのに。
父は用事で出掛けたとしても、母は朝食の用意をしようと来てくれそうなものなのに…。
トーストは自分で焼けるけれども、卵料理だって目玉焼きくらいなら作れるけども。
それでも母が毎朝のように訊いてくれる。トーストの焼き加減や、卵料理は何にするかを。
その母が来ないだなんて、おかしい。どうも変だ、とようやく気付いた。
「パパ、ママ、どこーっ!?」
何処にいるの、と叫んでも返らない返事。庭には出ていなかった両親。
ならば家の中で、父はいなくとも母は何処かにいる筈で。
(何処…?)
扉を端から開けて回った。一階も二階も、両親の部屋も。
あちこち探して探し回って、やっと見付けた。ダイニングのテーブルに置かれたメモを。
(こんなの、さっきあったっけ…?)
気付かなかったのかもしれない。皿や料理を探していたから、そっと置かれていたメモには。
手に取ってみれば「出掛けて来るから」と書かれていた。母の文字で。
父も母もいなくて、生まれて初めての本物の留守番。
近所まで買い物や外出というなら、ほんの短い時間だったら、何度か経験していたけれど。
家に一日、たった一人で。父も母も出掛けてしまった家に一人きり。
しかも「今夜は帰らない」とも。
(嘘…)
留守番どころか、夜まで一人。何の予定も聞いていないのに。
自分は弱く生まれて来たから、どんな時でも父か母かが家にいるのが常だったのに。
けれど目覚めたら、メモが一枚。二人で出掛けて来るから、と。
(そんなこと…)
ある筈がない、と考えていてハタと思い当たった。
この世界は夢に違いない。やたら現実味のある世界だけれども、きっと自分が見ている夢。
有り得ないことが起こっているのがその証拠だ、と確信した。
だとしたら…。
(今日は帰って来ないんだよね?)
父も母も明日まで帰って来ない。
夢の中の家に自分は一人で、この家に他には誰一人いない。
そうなってくると…。
(いい子で留守番、って書いてあるけど…)
友達を呼ぼうか、一人でいるのは寂しいから。
誰か泊まってくれそうな…、と友人たちの顔を順に思い浮かべていて。
(そうだ、ハーレイ!)
ハーレイを家に呼べばいいのだ、と閃いた名案。
土曜日なのだから、放っておいてもハーレイは来てくれる筈なのだけれど。そうなのだけれど、夢の世界ではその約束だって危ういもので。
(ハーレイだって、ちゃんと呼ばないと来てくれないかも…)
現に両親も、何も言わずに出掛けてしまって留守なのだから。二人とも家にいないのだから。
それに、これはチャンス。
普通だったら出来はしないこと、ハーレイを呼んで家に泊まって貰うこと。
それが出来る世界。夢だからこそ、ハーレイを家に呼ぼうと思った。泊まって欲しい、と。
でも…。
(ハーレイが泊まっていったベッド…)
あっさりとバレてしまうかもしれない。
外出先から家に戻った両親に。
このベッドを使ったのは子供ではないと、どう見ても大人が眠ったベッドだ、と。
それに、呼ばれたハーレイだって。
(…断るよね?)
両親の留守に家に泊まりに来るなんて。
ゲストルームに泊まるだけでも、本物の恋人同士の時間は抜きでの泊まりでも。一緒のベッドで眠るのではなくて、「おやすみなさい」と別れるにしても。
なにしろ相手はハーレイだから。
キスさえも許してくれはしないで、「チビには早い」と叱ってばかりのハーレイだから。
(でも、ハーレイ…)
せっかくチャンスが訪れたのに。
二人きりで夜まで楽しく過ごして、次の日の朝も「おはよう」と挨拶が出来るチャンスなのに。
同じ家の中で。同じ屋根の下でハーレイと眠って、朝も二人で目を覚まして…。
別の部屋で、別のベッドでも。それでもいいから、ハーレイと過ごしてみたいのに。
けれども、両親にはバレる。
身体の大きなハーレイを泊めたら、きっとベッドの具合でバレる。
ハーレイだって、何かと理由や理屈をつけて「駄目だ」と断って来そうだけれど。
いくら頼んでも、「友達を呼べ」と撥ね付けられてしまいそうだけど。
(ぼくが行けば…)
もしも自分がハーレイの家に行ったなら。
ハーレイは泊めてくれるだろう。両親が留守だと告げたなら。一人きりだと頼み込んだら。
まさか「帰れ」と放り出されはしないだろう。
ハーレイの家にもゲストルームはあるのだから。其処に泊めればいいのだから。
(うん、そうすればいいんだよ!)
遊びに来るなと言われてしまった家だけれども、こんな時なら話は別。
一人で留守番をさせておくより、ハーレイならきっと「泊まれ」と許してくれるだろう。
「今日だけだぞ」と苦い顔になっても、「この部屋を使え」と。
(そうしようっと!)
決めた、と頷いて読み直した母が残して行ったメモ。
都合のいいことに、両親の行き先もいつの間にか其処に書かれてあった。
(お祖母ちゃんの家…)
それなら分かる、と遠い地域に住む祖母の家へと通信を入れた。番号は機械に入っているから。登録されている番号を選んで、ボタンを押すだけで繋がるから。
呼び出し音が何回か鳴って、「はい?」と聞こえた祖母の声。「ぼくだよ」と名乗って、少しの間、話をして。
「えっとね、今日はハーレイ先生の家に泊めて貰うよ」
一人でいるよりその方がいいでしょ、ちゃんと大人のいる家の方が?
「そうねえ…。ハーレイ先生の家なら安心ね」
それはいいわね、と賛成してくれた祖母。そうしなさいと、泊めて貰いなさいと。
「ありがとう! パパたちが着いたら、言っておいてね」
ぼくはハーレイ先生の家に行くから、って。
「はいはい、きちんと鍵を掛けてから出掛けるのよ?」
「うんっ!」
分かってるよ、と通信を切った。忘れないように鍵を掛けてゆくから、と。
(ふふっ、お出掛け…)
ハーレイの家へ泊まりに行ける、とワクワクと鍵を取り出した。
一度も使ったことがない鍵。学校から戻れば母がいるから、持っているだけで使っていない。
(でも、使い方は知ってるしね?)
どうすれば鍵が掛かるか、開くか。それくらいのことは知っているから問題無かった。
泊まるための荷物は持っていないけれども、夢の世界だから大丈夫、と何の根拠もなく考える。荷物など無くても困りはしないと、これでいいのだと。
そして、行き先のハーレイの家がある場所は…。
(何処だったっけ?)
ハーレイの家が思い出せない。いくら考えても出てこない。
確かに一回、訪ねて行った筈なのに。一人で路線バスに乗って出掛けて、帰りもバスで。
メギドの悪夢を見てしまった夜に瞬間移動で飛び込んだ時には、ハーレイの車で送って貰った。バスが走るのと同じ通りを、ハーレイの車の助手席に乗って眺めていた。
それなのに全く思い出せない、ハーレイの家が建っている場所。その近くまで運んでくれる路線バスがどれかも、どの方向へ向かうのかさえも。
(そういえば、名刺…)
名刺があった、と気が付いた。
前に貰ったハーレイの名刺、大切な二枚の宝物。教師としてのハーレイの名刺と、仕事を離れて個人的に交換している名刺と。
(そう、これ!)
勉強机の引き出しの中から取り出した名刺。ハーレイの家の住所と通信番号が書かれた名刺。
これさえあれば、とそれを手にした。
何故だか道順が書かれていたから。
この道を通って行けば着くのだと、地図までが一緒に書かれていたから。
「行ってきまーす!」
父も母も家にはいないけれども、玄関先で奥に向かって叫んだ。いつもするように。
それから扉を閉めて鍵を掛け、颯爽と庭へ。庭から門扉へ、門扉をくぐって外の通りへ。生垣に沿って歩き始めて、心はハーレイの家へと飛んだ。これから行くのだと、直ぐに着けると。
胸を弾ませてバス停を目指したけれど。
バス停に着いて探したのだけれど、その方向へ行くバスは無かった。ただの一つも。
どのバスもそちらへ行ってはくれない。行きたいのならば歩くしかない、自分の足で。
何ブロックも離れたハーレイの家に行くのだったら、その場所に辿り着きたいのならば。
ブルーの足には遠すぎる距離。
天気が良ければハーレイは歩いて来るのだけれども、ブルーが歩くには遠すぎた。学校でさえもバス通学をしているほどの弱い身体で歩いてゆくには長すぎる距離。
けれど他には道が無いから、バスは運んではくれないから。
(大丈夫!)
ハーレイの家に行くんだから、とブルーは迷わず歩き始めた。
名刺に書かれた道順通りに、こうだと書かれた道を確かめながら。
(ここを真っ直ぐ…)
二つ目の交差点を左に曲がって、一つ目の信号を渡って右へ。そこから先は住宅街の中。
(この家の角を左へ行って…)
暫くは真っ直ぐ、次を右へと。
そんな風に歩いて行くけれど。名刺に書かれた通りの道を、前へと進んでゆくのだけれど。
(…お腹、空いたな…)
朝食を食べずに家を出て来てしまったから。
夏ミカンのマーマレードを塗ったトーストも、卵一個分の卵料理も、毎朝飲んでいるミルクも。卵料理はともかくとして、トーストとミルク。それくらいは用意出来ただろうに。母が留守でも、トーストを焼くくらいなら。ミルクを瓶からカップに注ぐくらいなら。
(…失敗しちゃった…)
喉も乾いてきたのだけれども、持っていないお金。持たずに家を出て来た財布。
歩いてゆく道に食事が出来る店はあるのに、パンや飲み物が買える店だってあるというのに。
(…財布も、失敗…)
荷物は無くてもかまわないけれど、財布は持って来るべきだった。
お腹も空いたし喉も乾いた、と悔やんでも財布は降っては来ない。空からストンと落っこちてはこない。財布も、お金も、トーストもミルクも。
(でも、ハーレイの家に着けさえすれば…)
ハーレイは「馬鹿が」と、「ウッカリ者が」と額を小突いて、朝食を作ってくれるだろう。もう朝食と呼ぶには遅い時間になっているけれど、トーストを焼いて、ミルクも出して。
「オムレツの卵は何個なんだ?」と尋ねてくれることだろう。ソーセージも焼くかと、サラダにかけるドレッシングは何がいいかと。
(うん、きっとそう…)
ハーレイならば、と自分自身を励ましながら歩いて行った。辿り着ければ朝食なのだと、お腹が一杯になってしまうほど食べさせて貰えるに違いないと。
「しっかり食べろよ」と、「沢山食べて大きくなれよ」と、大好きな声で促されて。
もう入らないと降参したって、「もっと食べろ」と盛り付けられて。
考えただけで幸せな気持ちになってくる。だから頑張って歩いてゆこうと、音を上げないで前へ進んでゆこうと。
何ブロックも離れていたって、いつもハーレイが歩いてくる道。
自分の足でも辿り着けない筈がない。少し遠くても、喉が乾いても、空腹感を抱いていても。
(ハーレイはいつも、こんな景色を見ながら来るんだ…)
路線バスが走る通りでなければこうなのか、と公園や道筋の家の花壇、生垣などで気を紛らわせながら歩き続けて。もう少し歩けばと、もう少しだと名刺を眺めて。
(次の角を曲がって…)
ここ、と辿り着いた場所に家はあったけれど。
見覚えのある家が建っていたけども、チャイムを鳴らしても出ないハーレイ。生垣と庭の芝生を隔てた向こうの、家の扉も開きはしない。
(お休みの日なのに…)
土曜日なのだし、ハーレイは家にいる筈なのに。
それともハーレイはブルーの家を目指して出掛けて、途中ですれ違ってしまったろうか?
名刺に書かれた道順通りに来たのだけれども、ハーレイにとっては通い慣れた道。他にも通れる道はあるのだし、その日の気分で変えてみたりもするかもしれない。
(…ぼく、行き違いになっちゃった…?)
此処まで歩いて来る途中の何処かで、ハーレイと。それと知らずに、気付かないままで。
ハーレイは今頃、ブルーの家に着いて「留守か…」と呟いているかもしれない。
せっかく来たのにと、ブルーは出掛けてしまったのかと。
(…通信、入れておけば良かった…)
これから行くよと、だから待ってて、と。
そうすればハーレイとすれ違ったりはしなかったろう、と思ったけれど。
(でも、そう言ったら断られちゃう…)
泊まりに来るより友達を呼べと、友達を呼んで泊まって貰えと間違いなく断られていただろう。通信も切られて、それからではもう、押し掛けて来たって手遅れで。
(…きっと門前払いなんだよ)
駄目だと言ったら絶対に駄目だ、と車に乗せられて送り返されてしまうかもしれない。
それを思えば、こうして直接やって来た方がマシに違いない。泊めて貰える可能性も高い。
行き違いになってしまったけれど。
どうやら何処かですれ違ってしまい、ハーレイは家に居なかったけれど。
(…ぼくが留守だと、何処かへ行っちゃう…?)
柔道の道場だとか、ひと泳ぎしにジムだとか。
けれども、いつかは帰って来るに決まっているのだし…。
真っ直ぐに戻ってくれるといいな、と家の前で帰りを待つことにした。
門扉の脇のスペースに膝を抱えてチョコンと座って、早く帰って来てくれないかと。
そうして待ち始めて暫く経ったら、犬の散歩をしていた人が通り掛かって。
「ハーレイ先生の生徒さんかな?」
年配の男性にそう訊かれたから、「はい」と礼儀正しく返事をした。歩き疲れた後だったから、腰を下ろしたままだったけれど。膝を抱えてチョコンと座ったままだったけれど。
すると男性が「待ってるのかい?」と訊くものだから。
「そうです。先生、お留守みたいで…」
帰って来るのを待ってるんです、と答えた途端。
「ハーレイ先生だったら、引越したよ」
「えっ!?」
そんな、とブルーは目を見開いた。引越したなどと聞いてはいない。ただの一度も。
だから男性を見上げて尋ねた。
「…いつ?」
丁寧に「いつですか?」と問い掛ける余裕はもう無かった。男性の方は首を捻って。
「確か先月だったかなあ…」
「嘘!」
「いや、本当だよ」
私はその先に住んでいるんだ。引越しますから、と挨拶に来て下さったんだよ。
美人の奥さんと一緒にね。
(…奥さん…)
思いもよらないことを聞かされて、ブルーは声も出なかった。
せっかくハーレイの家まで来たというのに、頑張って歩いて来たというのに。
(ハーレイ、結婚してただなんて…)
美人の奥さんがいたというなら、そういうこと。
いつかハーレイと結婚しようと思っていたのに、お嫁さんになろうと決めていたのに、他の人と結婚されてしまった。自分が育つのを待ってくれずに、他の誰かとハーレイは結婚してしまった。
おまけに引越し。結婚した誰かと一緒に引越し。
ブルーには内緒で、一言も言ってくれないままで。
(…ハーレイ、ぼくはもう要らないの…?)
週末ごとに家を訪ねて来てくれるけれど、仕事帰りにも寄ってくれるけれど。
それはあくまで守り役としてで、もう恋人だとは思ってくれてはいなかったのか。
結婚をしたというのなら。その人と引越してしまったのなら…。
流石に泣きはしなかったけれど、知らない人の前で泣き出したりはしなかったけども。
打ちのめされてしまったブルーは、あまりにしょげて見えたのだろう。
ちょっと待ってて、と犬を連れて数軒先の家に入って行った男性が紙を手にして戻って来た。
ハーレイの引越し先が書かれた紙を渡してくれた。
ここだよ、と。ハーレイ先生に用があるのなら、此処に行けばいいよ、と。
(…ぼくの家の近所…)
見覚えのある住所と地図。家からさほど遠くはない場所。
その地図がとても気になるけれど。
確かめてみたい気がするけれども、その家を目指して出掛けて行って。
本当に其処にハーレイが住んでいて、奥さんもいたら。
美人の奥さんがその家にいたら…。
(そんな…)
自分は間違いなく、ハーレイにとって要らない存在。
もう前の生の恋人などには縛られない、とハーレイは他の誰かと結婚したのだから。今の自分に似合いの女性を見付けて結婚したのだから。
(ぼく、邪魔者になっちゃったの…?)
結婚したことを教えたならば、嫉妬しそうなチビだから。それどころか怒り出しそうだから。
それで黙って結婚した上、黙って引越ししたのだろうか?
今は内緒にしておけばいいと、知られはしないと、黙ったままで。
(…嘘だよね?)
引越しの話も奥さんの話も嘘だよね、と思いたいけれど、現にハーレイは家に居ないから。
チャイムを鳴らしても出て来なかったし、近所の男性は「引越したよ」と言ったのだし…。
(…でも、嘘だってことも…)
間違っているということも無いとは言えない。
この目で確かめるまでは、本当かどうか分かりはしない。
本当だったら辛いけれども、悲しいけれども、確かめずにはいられないことだから…。
帰りの道は来る時よりも遠かった。
距離は変わらない筈だけれども、来た道を逆に辿るのだけれど、それでも遠くて長かった。足も重いし、酷く疲れてどうにもならない。
(お腹、減ったよ…)
喉も乾いた、と余計に惨めな気持ちになった。財布さえあれば、何か食べられるのに。空っぽの胃袋に何か入れたなら、温かな食べ物と飲み物を入れてやれたなら。
気持ちも少しは落ち着くだろうに、少し和らいでくれるだろうに。
(ほんのちょっぴり、パンとミルクと…)
一番安いものでいいから。こんなのがいい、と贅沢を言いはしないから。
けれども財布は現れてくれず、パンもミルクも出て来なかった。
重たい足を引き摺りながらも歩くことしか出来なかった。元来た道を逆に、家の方へと。
来る時は弾む心で歩いていた道を、どうしようもなく重い心を抱えて俯きながら。
どのくらいそうして歩いたろうか。
やっとの思いで、いつも学校への行き帰りに使うバス停の所まで戻って来た。辿り着いた。其処から住宅街に入って、家へ向かう道。
(これをこっちに…)
右へ曲がれば、ハーレイが奥さんと住んでいると教えられた家。
真っ直ぐに行けば、自分の家。
(…どうしよう…)
本当かどうかを確かめに行くか、行かずに家へと帰るべきか。
真っ直ぐ帰れば傷つかずに済む。トーストを焼いて、ミルクを飲んで、疲れた身体を癒すことが出来る。歩き疲れてしまった身体を、打ちのめされてしまった心も。
(…家に帰って…)
お腹を満たして、ベッドに倒れ込みたい誘惑。このまま眠ってしまいたい、と。
けれども、それでは悩みを先へと送るだけ。先送りにしてしまうだけ。
もしもハーレイが、本当に結婚していたならば…。
悩んだけれども、歩き出した。
まだ今ならば歩けるから。歩く力は残っているから、ハーレイの家の方角へ。
貰った紙を見ながら歩いて、角を曲がって…。
(あの家だよね?)
三軒向こう、と近付いて行って、生垣越しに覗き込んだら。
庭の手入れをしている女性。ブルーが知らない、まだ若い女性。
(まさか、奥さん…?)
震えそうになる足をグイと踏みしめ、懸命に声を絞り出した。
「あの…。ここ、ハーレイ先生の家ですか?」
「ええ。あら、生徒さん?」
女性が笑顔で振り向いた。「いらっしゃい」と、「すぐに呼ぶわね」と。
(…そんな…!)
とても待ってはいられなかった。後をも見ずに逃げ出した。
そのままだと泣き出してしまいそうだったから。
ハーレイが家から出て来るよりも前に、泣き崩れてしまいそうだったから。
(嘘だよ…!)
あんまりだよ、と家に向かって走った。足が重たいことも忘れて、空腹だったことも忘れて。
(ハーレイの家に泊まろうと思って行ったのに…!)
泊まるつもりで出掛けて行ったのに、頑張って歩いて行ったのに。
ハーレイの家に泊まるどころか、引越されていて、おまけに奥さん。自分が全く知らない間に、何も知らされないままに。
(酷すぎるよ…!)
やっとの思いで駆け込んだ自分の家の庭。
家の鍵を開けることさえ忘れて、庭に置かれた白いテーブルで泣いた。庭で一番大きな木の下、ハーレイと何度も過ごした場所で。初めてのデートをした場所で。
(ハーレイが結婚しちゃったなんて…!)
自分は捨てられてしまったのだ、とハーレイのいないテーブルで泣いて、泣きじゃくった。
独りぼっちだと、独りぼっちになってしまったと。
もうハーレイのお嫁さんになれはしなくて、独りなのだと。ただ一人きりで、独りぼっちで…。
(手が冷たいよ…)
右の手が冷たい。凍えて冷たい。
痛いほどに冷たく冷えて凍えて、どうしようもなくて。
温めて欲しくても、どうにもならない。もうハーレイはいないから。
独りぼっちになってしまったから。温めてくれていた手は、二度と戻っては来ないから…。
(ハーレイ…っ!)
自分の泣き声で目が覚めた。
土曜日の朝、カーテンの隙間から柔らかな朝日が射し込むベッドで。
(…夢…)
夢だったのか、と身体を起こしたけれども、夢の中でも似たようなことをしていたから。
これは夢だと、夢の世界だと、色々なことをしていたから。
(…これも夢なの…?)
恐る恐るベッドから下りて、勉強机の所に行って。
引き出しを開けて取り出したハーレイの名刺に、あの地図は無かった。夢の中の自分が見ていた地図。それを頼りに歩いた地図。
(やっぱり、あっちが本物の夢…?)
そして現実はこちらなのだろうか、名刺に地図が無いのだから。ハーレイの住所と通信番号だけしか書かれていないし、柔道の先生の証のマークも入っているし…。
(全部、夢だったの…?)
ハーレイが引越してしまっていたことも、美人の奥さんがいたことも。
それとも本当は、ハーレイは…?
起きてゆけば、ちゃんと両親がいた。ダイニングで「おはよう」と迎えてくれた。
いつも通りの土曜日の朝で、トーストも卵料理も、ミルクもあった。母は「もっと食べる?」と訊いてくれたし、父は「食べるか?」とソーセージを一本くれた。そんなに入らないと言っているのに、「もっと食べろ」と。「でないと大きくなれないぞ」と。
(いつもとおんなじ…)
やっぱりあれは夢だったんだ、とキツネ色にカリッと焼けたトーストに齧り付いた。ハーレイの母が作ったマーマレードをたっぷりと塗って、夏ミカンの金色をスプーンで塗って。
それは幸せな休日の食卓、マーマレードの味に思わず顔が綻ぶ。いつもの味だと、この味がある食卓なのだ、と。
朝食を終えて、部屋の掃除を済ませて。
窓辺で待っていると、門扉の横のチャイムを鳴らしてハーレイが来てくれたから。
母が運んでくれたお茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、向かい合わせに座ったから。
ふと心配になって、訊くことにした。現実はどうかと、本当はどうなっているのかと。
「ハーレイ、もしかして、引越した?」
「はあ?」
どうして俺が引越しするんだ、俺の家はあそこから変わっちゃいないが。
「…じゃあ、奥さんは?」
「なんだそりゃ?」
奥さんって、誰の奥さんだ?
俺の家の近所に奥さんって人は沢山いるがな、どの奥さんのことを言っているんだ…?
「ハーレイに奥さん、いるの、って訊いているんだよ…!」
「俺に奥さん!?」
どう間違えたらそういう質問になるんだ、お前?
俺が独身人生だってこと、お前は誰よりもよくよく知ってる筈なんだがな?
ブルーは夢の話をしたのだけれど。
辛くて悲しくて、泣きじゃくって終わった夢の話を聞かせたけれど。
聞き終えたハーレイに散々に笑われた。
その夢は全てお前が悪いと、俺の家に泊まりに来ようだなどと企むからだ、と。
「ロクでもないことを計画するから、そういうオチになっちまうんだ」
夢の中だからやってやろうと思ってたんだろ、夢の中のお前。そいつのせいだな。
「そうなの?」
「うむ。良心ってヤツが咎めたってわけだ、それでとんでもない夢になる」
俺に叱られるオチの代わりに、俺がいないというオチにな。
「…そうなのかな?」
ホントにそうなの、ぼくが悪いの?
「そういうことだな」
俺が悪いわけがないだろう。お前の夢には干渉出来んし、第一、引越してもいない。
ついでに結婚もしてはいないし、何もかもお前が悪いってな。
勝手に悪事を企んだ挙句、自分で自分を落とし穴に追い込んじまったんだ。俺が黙って引越しをしてて、結婚している世界へとな。
だが、と右手を褐色の大きな手で掴まれた。
この手は温めておいてやろうと、怖かったろうと。
「…独りぼっちで泣いていたなんて、お前、メギドじゃあるまいし…」
庭のテーブル、お気に入りだろうが。そんな所で泣くヤツがあるか、夢でもな。
「うん…。でも、ハーレイ…。勝手に結婚……しないでよ?」
怖かったんだよ、と訴えれば。
「結婚もしないし、引越しもしないさ」
お前が嫁に来る家だろう、と微笑まれた。あの家はいつかお前と住む家だ、と。
奥さんと呼ぶのはお前だけだと、他の奥さんなど要りはしないと。
「うん…。うん、ハーレイ…」
ぼくがハーレイと住む家なんだね、ハーレイの家。
ハーレイの奥さん、ぼくがなったらいいんだね。いつか結婚して、お嫁さんで奥さん…。
(ぼく、奥さんになれるんだ…)
あの夢に出て来た女性みたいに、庭でハーレイの教え子を迎えて。
「生徒さん?」と、「すぐに呼ぶね」と、家に入ってハーレイを呼んで…。
(うん、あんな風に…)
学校の生徒が訪ねて来たと、こういう子だと伝えに行く。そしてハーレイと並んで出てゆく。
訪ねて来た子を招き入れるために、「いらっしゃい」と門扉を開けてやるために。
(女の人になっちゃってたけど、あれがぼく…)
あれが未来の自分の姿。ハーレイと結婚した後の自分の姿。
とても恐ろしい夢だったけれど、ハーレイの言葉は信じられる。
(引越しもしないし、結婚するのもぼくだけだって…)
そのハーレイの家に勝手に泊まりに出掛けようとは、もう思わない。
夢が本当になってしまったら、怖いから。
悲しい夢はもう見たくないから。
大人しく待っていようと思う。ハーレイがちゃんと家に招いてくれるまで。
もう来てもいいと、俺の恋人だと、手を繋いで一緒に門扉をくぐってくれる日まで…。
夢の中の家・了
※夢の中とはいえ、ハーレイの家を訪ねて行こうとしたブルーを見舞った悲劇。
可哀想すぎる夢でしたけど、いつかはブルーもハーレイの家で暮らせる日が来ます。
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(久しぶりに…)
飲んでみるか、とハーレイは野菜を刻み始めた。何種類もの野菜を細かく、細かく。
今日は土曜日、いつもより早く目が覚めたから。
ブルーの家に出掛ける前にと、普段と違ったものを飲もうと。
(こいつもずいぶんご無沙汰だよなあ…)
前はよく飲んだ野菜ジュース。
学校のある日も作っていたほど、馴染みの味だった朝の食卓の野菜ジュース。
小さなブルーと再会してから朝はミルクが多くなったから、あまり作らなくなっていた。こんなジュースよりもミルクなのだと、ブルーも飲んでいるのだから、と。
(あいつ、毎朝、頑張って飲んでるみたいだしな?)
背丈を伸ばそうとミルクをせっせと飲んでいるらしい、小さなブルー。
努力は全く報われないまま、今も出会った時と変わらない百五十センチの身長だけれど。一ミリさえも伸びはしなくて、愛くるしいチビのままなのだけれど。
(そんなあいつも、また可愛いんだ…)
前の生でも、そのくらいの頃に出会ったブルー。少年の姿で成長を止めてしまっていたブルー。
けれども、アルタミラから脱出した後は順調に成長していった。育っていった。
皆のためにと食料や物資を奪いに宇宙を駆ける間に。甘える暇さえろくに無い内に。
だから幸せそうな笑顔の記憶が無い。今のブルーが見せるような笑顔を覚えていない。
(もっと、もっと俺は見ていたいんだ…)
両親に守られ、暖かな家で暮らすブルーを。小さなブルーの幸せそうな顔を。
早く大きく育って欲しいと、前と同じに育って欲しいと思う半面、今のままでとも願っている。少しでも長く、小さなブルーと過ごしてみたいと。
(あいつが聞いたら膨れるんだろうな…)
小さいままでいて欲しい、などと言ったなら。育たなくていいと言ったなら。
「ゆっくり育てよ」とは言ってあるけれど、ブルーも頷きはしたけれど。
それでもブルーは膨れるだろう。「ぼくは大きくなりたいのに」と。
早く育とうと、背を伸ばそうとブルーが毎朝、飲んでいるミルク。幸せの四つ葉のクローバーのマークが瓶に描かれているミルク。
前の生では、何故だか見付けられなかった四つ葉のクローバー。ブルーも自分も、それは何度も探したというのに、一度も出会えはしなかった。幸せの四つ葉のクローバーに。
(そのクローバーのマークってトコがな…)
ブルーの家で買っているミルクが四つ葉のクローバーのマークだと聞いて、まるで運命のように感じたものだ。
今の生では見付けられた四つ葉のクローバー。ブルーの家の庭にも、自分の家の庭にも四つ葉のクローバーが生えていた。探したその日に見付かった。
それ以来、牛乳を買わねばと思うと自然に四つ葉のクローバーのマークを探すようになった。
ブルーと同じだと、同じ四つ葉のクローバーだと、幸運の印が描かれたミルクを。
そうして、いつしか朝の食卓から野菜ジュースは姿を消した。
四つ葉のクローバーのミルクに取って代わられてしまって、いつの間にやら。
(野菜が足りないってこともないしな)
朝には必ず何か野菜を食べているのだし、果物だって口にする。
その辺りは前と全く変わらないけれど、野菜ジュースもかつては定番だった。朝にはこれだと、野菜ジュースを飲まねばと。
ブルーに出会うまでは、四つ葉のクローバーのミルクに心惹かれて忘れるまでは。
毎朝のように作っては飲んでいたジュース。何種類もの野菜を刻んで作ったジュース。
健康作りに、と上の学校に入った頃から始めたのだったか…。
家にある野菜を沢山入れようと、目に付いた野菜を端から刻んで。
ミキサーに入れて、水を加えて、ほんの少しの塩をパラリと。
作り始めた頃を懐かしく思い出しながら、今も野菜を端から刻んでいたのだけれど。
(そういえば…)
同じだな、と、ふと気が付いた。
前の自分が作っていたスープと、この野菜ジュース。
何種類もの野菜を細かく刻んで、水を加えて、塩を少し。
前のブルーに食べさせるために何度も何度も作ったスープと全く同じ。
あちらはコトコト煮込んだけれど。野菜の旨味が充分出るまで、野菜がとろけるほどにまで。
(だから余計に作らないってか?)
あのスープを思い出したから。
今では「野菜スープのシャングリラ風」と、名前だけはお洒落になっているスープ。
それをブルーのために作っているから。
ブルーが寝込んでしまった時には、出掛けて作ってやっているから。
(あいつ、今でも好きだからなあ、あのスープ…)
前のブルーがそうだったように。
まるで食欲が無かった時でも、あのスープだけは食べてくれたブルー。食べられたブルー。
小さなブルーもそれと同じで、野菜スープを作ってとせがむ。あれならば食べられそうだから、と。他の食べ物は嫌だけれども、スープならば、と。
(本当に前とそっくりなんだ…)
味を変えるなと、塩だけでいいと言う所までがソルジャー・ブルーとそっくり同じ。
素朴すぎる味のスープなのに。
美味しい食事を食べて育った小さなブルーには、物足りなく思える味だろうに。
(あいつのための食べ物なんだ、と俺は思っているんだろうなあ…)
何種類もの野菜を細かく細かく刻んで作るものは。水と少しの塩を加えて出来上がるものは。
それを煮込むか煮込まないかの違いくらいしか無いのだから。
野菜スープのシャングリラ風と、自分好みの野菜ジュースの間には。
どちらも野菜を端から刻んで…。
(そういや、なんで刻むんだ?)
何故だ、と其処に思い至った。
今も刻んでいる野菜。どうして野菜を刻むのだろう? それも細かく、とても細かく。
どうせミキサーにかけるのに。
どんなに細かく刻んだところで、ミキサーで粉々になるというのに。
そもそも、ミキサーはそのためにある。細かく砕いてしまうためにある調理器具。
なのにどうして、自分は野菜を細かく刻んでいるのだろう…?
学生だった頃から不思議がられた。
何故刻むのかと、ミキサーがあるのに余計な手間をかけるのかと。
仲間のいる場所で作る度に。
「適当に切っておけばいいのに」と呆れた友やら、「これでいいじゃないか」とキャベツの葉を手でバリバリと破った友やら。
キュウリを豪快にポキポキと折った友人もいた。「充分だろ?」と。
もちろんミキサーはそうした野菜も見事に砕いてくれたのだけれど、友人たちは「ほらな?」と得意満面だったけども。
それでも次には野菜を刻んで作るものだから、「真面目すぎる」と笑われた。
(…ついでに味もな)
果物を入れろ、とよく言われた。
出来上がった野菜ジュースを飲んだ仲間たちから、不味いと、味が足りないと。
塩しか入れないことは許すが、果物抜きなのは許せないと。
「これも入れろ」とバナナやリンゴを放り込まれた。これで美味くなると、飲みやすくなると。
味はすっかり別物になってしまったものだが、彼らの口にはそれが合ったらしい。
(俺にはこいつで良かったんだが…)
果物などは入らなくても、ほんの少しの塩さえあれば。
もう充分に満足できる味であったし、工夫しようとも思わなかった。
野菜だけでいいと、家にあるだけの野菜を端から入れればいいと。野菜が摂れればいいのだと。
けれども、野菜を刻む方。野菜ジュースに入れる野菜を全部刻んでしまう方。
細かく刻むのに理由は無かった。刻めば味が変わるわけでもないのだし…。
なのに、刻まずにはいられなかった。友人たちが手抜きする方法を幾つ伝授してくれようとも。キャベツは破ってキュウリは折るのだと、何度も手本を見せてくれても。
(ミキサーに逆らわれたってことはないよな?)
固すぎるものを放り込んだ時は、異音を立てて抗議するミキサー。
もっと砕けと、砕いてから入れろと苦情を申し立てるミキサー。
野菜ジュースを作ろうとして、それをやられたかと思ったけれど。カボチャが固いと、この固いニンジンを何とかしろと喚かれたのかと思ったけれど。
記憶にある限り、その覚えは無い。文句を言われた覚えは無い。
(ミキサーに負担をかけないためだと思っていたが…)
自分ではそのつもりで刻んでいたが。
最初から刻んでいなかったろうか、この野菜ジュースを作る時には?
初めて作ろうと思った時から、細かく刻んではいなかったか。
(…俺の手が勝手に刻んでいたんだ…)
これだけの野菜をジュースにせねば、と思ったら。
考えずとも身体が動いた、包丁を持った手が動いていた。もっと細かくと、細かくせねばと。
全部の野菜を細かく刻んで、ミキサーに入れて水を加えた。それに塩を少し。
ついでに果物も入れなくていいと思っていた。バナナもリンゴも、恐らくはあった筈なのに。
要りはしないと、余計な味など要らないのだと入れずに作った。
出来上がったジュースは会心の作で、もう手を加える必要は無くて。
それ以来、ずっとこの野菜ジュース。
何種類もの野菜を細かく刻んで、水と、僅かな塩だけを入れて。
煮込む代わりにミキサーにかけた、野菜スープのシャングリラ風。前のブルーが好んだスープ。
(…あいつのために作ってたのか…?)
沢山の野菜を前にした途端に、身体が、勝手に。
これを刻もうと、刻んで野菜のスープを作ろうと、手が勝手に。
野菜ジュースが目的だったから、コトコト煮込みはしなかったけれど。ミキサーにかけて終わりだったけれど、自分は野菜のスープを作ろうとしたのだろうか?
生まれてもいなかったブルーのために。
まだ出会ってもいなかった小さなブルーのために。
誰に教えられずとも野菜を刻んで、前の自分がやっていたように。
こうして野菜を刻んで作ると、塩を少しだけ入れるのだ、と。
(それとも…)
今の小さなブルーではなくて。
前のブルーのためにと作っていたのだろうか、これを食べさせようと。
食べて欲しいと、お前のために作ったから、と。
(そうなのかもな…)
前のブルーの方だったかもしれない、と思えて来た。
何処かで一緒に居た気がするから。
其処が何処かは分からないけども、生まれ変わる前には、二人一緒に。
片時も離れず共に居たのだと、自分はブルーと共に居たと。
(そこでも俺は作ってたのか?)
天国にキッチンがあるというなら、食べるという行為があるとしたなら。
何処とも知れない天国とやらで、自分は野菜のスープを作っていたのだろうか。共に居ただろうブルーのためにと、ブルーに食べさせてやりたいと。
何種類もの野菜を細かく刻んで、水と少しの塩とでコトコトとろけてくるまで煮込んで。
(キッチンなんぞは無かったとしても…)
食べるという行為が無かったとしても。
この地球の上に生まれて来た自分は、ブルーを覚えていたのだろう。
ブルーが好きだった野菜スープも、その作り方も。
何種類もの野菜を目にして、身体がそれを思い出して。
食べさせてやろうとしていたのだろう、記憶の何処かに居たブルーに。
お前の好きなスープを作ってやるから、と。
少し待っていろと、じきにスープが出来上がるから、と。
(…中途半端な出来だったがな)
ブルーの好んだ野菜スープとは違う味。材料と手順が似ているとはいえ、別物の味。
煮込んでいない、ただのジュースだから。
スープほどに味が深くはないから。
それに野菜も、とろける代わりに粉微塵。スープの中に浮かぶ代わりに濃い緑色を加えるだけ。
つまりは見た目もまるで別物、あのスープと同じ材料から出来たとは思えない代物。
だから自分でも気付かなかった。
今の今まで、作り始めるまで思い出しさえしなかった。
長年飲んでいた野菜ジュースが、前のブルーが好んだスープと同じ作り方のものだったとは。
(さて、と…)
刻み終えた野菜を水と一緒にミキサーにかけて、塩をほんの少し。
僅かな時間で出来上がったジュースをコップに移して味わってみれば、今の自分の記憶のままの味だけれども。
学生時代から何度となく作った野菜ジュースの味なのだけれど。
(…一味足りんな)
今だからこそ、そう思う。
友人たちのアドバイス通りにバナナやリンゴを入れたいというわけではない。
足りないものは、煮込む手間の分。
細かく刻んだ野菜が半透明になってとろけるくらいに、柔らかく煮込む手間の分。
その味が足りない、と今なら分かる。
小さなブルーに何度も作ってやったから。
完成品の野菜スープを、同じ材料から出来上がってくる野菜スープのシャングリラ風を。
(あいつに作ってやったなら…)
何と言うのだろうか、小さなブルーは?
この野菜ジュースを作ってやったら、作って飲ませてやったなら。
自分は作り続けていたのだと、中途半端な野菜スープをずっと作っていたのだと。
それをブルーに話してやりたい。小さなブルーに教えてやりたい。
(手料理は厳禁なんだがな…)
ブルーの母に気を遣わせることになるから、自分の手料理は持って行かないと決めていた。野菜スープのシャングリラ風も、ブルーが寝込んだ時に作ってやっているだけ。
しかし、この野菜ジュースは飲ませてやりたい。
今の自分がそれと知らずに作り続けて、ブルーのためにと野菜を刻んでいたジュースだから。
(…どうするかな…)
たっぷり飲もうと多めに作っていたジュース。まだ二人分は充分にあった。
水筒に詰めて持って行ったなら、ブルーの母には気付かれないで済むだろう。ただの水筒、道々飲みながら歩いて来たお茶か、ジュースでも入っているのだろう、と。
水筒の中身は見えないから。サイオンで透視でもしない限りは、中身が何かは分からないから。
(そいつでいくか)
よし、と水筒を用意した。保温も保冷も出来る水筒。
野菜ジュースの残りを水筒に移して、しっかりと蓋をし、紙コップも二つ用意した。水筒からは二人一緒に飲めないから。ブルーの家のコップを借りるわけにもいかないから。
(うん、これでいいな)
ブルーの家へと提げてゆく荷物の中に水筒、それに二つの紙コップ。
小さなブルーが待っている家へ、野菜ジュースを運んでゆこう。
未だ記憶も戻らぬ内から、何度も何度も作り続けた中途半端な出来のスープを…。
朝食を食べ終え、ミキサーも洗って片付けをして。
秋晴れの空の下、歩いてブルーの家に向かった。野菜ジュースが詰まった水筒を提げて。
通い慣れた生垣に囲まれた家の門扉の横のチャイムを鳴らせば、二階の窓から手を振るブルー。手を振り返す内に、ブルーの母が門扉を開けに来た。
ブルーの部屋に案内されて、いつものようにお茶とお菓子が運ばれて来て。
二人きりになると、ブルーが紅茶のカップへと手を伸ばしたから。
「その前にこいつを飲んでみないか?」
これだ、と水筒を取り出して見せた。野菜ジュース入りの水筒を。
「お茶?」
わざわざ持って来てくれたの、ハーレイ?
美味しいの? 何か特別なお茶なの、それは?
どんなお茶なの、とブルーの瞳が輝くから。
お茶だと思い込んでいる様子だから、水筒だけに無理もない、と心の中で苦笑しながら。
「いや、ジュースだ」
こいつの中身はお茶じゃなくって、ジュースなんだが…。
「ジュース?」
「ああ。お母さんには内緒だぞ」
俺がジュースを持って来てたということは。
ついでに不味いが、と紙コップを出して注いでやった。自分の分も。
白い紙コップに八分目くらい、濃い緑色をした野菜のジュース。
何種類もの野菜を細かく刻んで、水と少しの塩を加えてミキサーにかけて作ったジュース。
「なに、これ?」
小さなブルーは目を丸くした。想像していたジュースと全く違ったのだろう。
きっと小さなブルーにとっては、ジュースと言ったらリンゴやオレンジ、果物のジュース。
「いいから飲め」
こいつもジュースには違いないんだ、お前が飲んでるジュースとは別かもしれないが。
「えーっと…。これって、野菜ジュース?」
野菜ジュースなの、ハーレイが家で飲んでるジュース?
「そうだが、不味いぞ」
美味いと思って飲んだら後悔するからな。
俺でも何が足りないかくらい、充分、自覚はあるってな。
「ふうん…?」
じゃあ、ハーレイの手作りなんだね、このジュース。
それなのに不味いって、どういうこと?
ハーレイだったら、いくらでも美味しく出来そうなのに…。
だけど不味いだなんて言わないよ、ぼく。ハーレイが作って持って来てくれたジュースだもの。
どんな味かな、と飲んでみたブルーが一瞬、目を見開いて。
もう一口、と口に含んで、それをゆっくりと味わい、飲み込んでから。
「ハーレイ、これ…」
「ん?」
どうかしたか、と微笑んでやれば、ブルーはジュースをもう一口飲んで。
「味の足りない、野菜スープのシャングリラ風…」
それに冷たいね、スープと違って。野菜ジュースだから。
「おっ、分かったか?」
「うん。一口飲んだ途端にね」
分からない筈がないじゃない、と笑顔のブルー。
この味は分かると、見た目が違っていても飲めば分かると。
そして好奇心満々の瞳で尋ねて来た。
「新作なの?」と。
野菜スープのシャングリラ風のアレンジなのかと、野菜ジュースにしてみたのかと。
「いや、旧作だ」
「旧作?」
ブルーがキョトンとしているから。
旧作とはいったい何のことかと、どんな意味かと首を傾げるから、「古いってことだ」と答えてやった。新作の逆だと、古いのだと。
「俺はこいつを作っていたんだ、学生の頃から」
その頃から不味いと評判だったが、野菜ジュースには違いないしな。
誰が文句を言ってこようが、こうすれば美味いと手を加えられようが、俺のオリジナルは決して変えたりしなかった。こだわりってヤツだな、俺なりのな。
「野菜ジュースだものね、そういうものかも…」
自分の身体にはこれがいい、って決めたら不味くても飲んじゃうのかも…。
スポーツをする人って、そういったものが好きそうだものね。
身体が一番、味よりも先に栄養だ、って。
きっとそうだね、とブルーが言うから。
それで美味しくないままなんだね、と納得している風だから。
「俺もそうだと思っていた」
そういうものだと思い込んでいたし、不味くてもこれが俺のジュースの味だと飲み続けていた。
だがな…。
野菜を細かく刻んでいたんだ、と明かしてやった。
どうせミキサーにかけるというのに自分は野菜を刻むのだと。それも細かく、とても細かくと。
「今日のこれもそうだ、どういうわけだか必ず刻んでしまうんだ」
キャベツの葉くらい破って入れればいいじゃないか、と手伝ってくれたヤツもいた。キュウリは折ったら充分いけると、へし折ってくれたヤツもいた。
そして実際、それでジュースは出来上がるんだが…。ミキサーも文句は言わないんだが…。
次に作る時はまた刻んでたな、呆れられても刻み続けた。
考えてみたら、最初からなんだ。
一番最初に野菜ジュースを作った時から、俺は野菜を刻んでいた。
これだけ入れようと選んだ野菜を、どれも細かく、細かくしようと刻んでた。
まるで昔からやっていたように、ごくごく自然に野菜を刻んでいたんだ、俺は。
刻み終わったら、水と少しの塩とを入れて。
ミキサーにかけてジュースを作った、これで完成するんだ、とな。
「…ハーレイ、それって…」
ブルーの顔に驚きの色が広がってゆく。
まさかと、信じられないと。
「そうさ、俺はお前のためにと作っていたんだ。中途半端な記憶だったが」
煮込む代わりにミキサーに入れて、野菜ジュースにしちまってたが…。
自分では作っているつもりでいたんだろうなあ、野菜スープのシャングリラ風を。
野菜はこんなに細かく刻んだと、後は少しの塩なんだと。
そうやって作った完成品なら、誰が不味いと言って来ようが、俺が変えるわけが無いだろう?
あのスープの味、お前は決して変えるなと言っていたんだからな。
美味い調味料が色々増えても、塩味と野菜の旨味だけで。
「…そんなこと、あるんだ…」
ハーレイの記憶、その頃には戻っていなかったのに…。
学生時代なんて、ずうっと昔で、ハーレイは好きに、自由に生きてた筈なのに…。
「その筈なんだが、身体が覚えていたらしい。この手が、だ」
俺はすっかり忘れちまって、前のお前のことだって…。ただの英雄だと思ってた。
遠い遠い昔の英雄なんだと、ソルジャー・ブルーという英雄が今の時代を作ったんだ、と。
しかし、身体はお前を忘れちゃいなかった。
野菜の山を目にした途端に、こいつでスープを作らなければ、と勝手に思い出したんだ。
細かく刻んで塩を入れてと、そこまでだけな。
お蔭でスープが出来る代わりに、野菜ジュースが出来ちまったが…。
誰が飲んでも「不味い」としか言わない、評判の悪いのが出来ちまったってわけなんだがな。
「そうなんだ…」
ブルーの瞳に盛り上がった涙。
それが見る間にポロリと零れて、柔らかな頬を伝ったから。
「どうした?」
なんで泣くんだ、そんなに不味かったか、俺の野菜ジュース?
嫌なら残りは飲まなくていいぞ、泣きながら飲んだら余計に不味くなっちまうしな。
塩味がもっと増えちまうし…、と指先で涙を拭ってやれば。
小さなブルーは「ううん」と首を左右に振った。
「そうじゃなくって、嬉しくて…。そしたら涙が出ちゃったんだよ」
ハーレイ、覚えててくれたんだ、って。
勝手に野菜を刻んじゃったくらいに、前のぼくのことを。
前のぼくがスープを好きだったことを。あのスープが好きで、いつも作って貰ってたことを。
ぼくは生まれてもいなかったのに。
この地球の上に、今のぼくはまだ、いなかったのに…。
「俺もお前を思い出してはいなかったがな」
ソルジャー・ブルーの写真を見たって、ドキリとしたりはしなかった。
恋人の顔も忘れちまってたような薄情な奴だぞ、そんな奴がスープだけを作っててもなあ…。
おまけにスープにもなっちゃいなくて、不味いと評判の野菜ジュースだ。
それで喜ばれても、俺としては何だか申し訳ない気もするんだがな?
「ううん、充分…」
野菜ジュースだけで充分だよ。
ハーレイの手が勝手に野菜を刻んでただけで、ぼくは充分。出来たのが野菜ジュースでも…。
生まれる前から会ってたんだね、とブルーの頬に流れる涙。幾つも、幾つも、涙の真珠。
ずうっとハーレイと一緒だったと、生まれる前から一緒だったと。
「どうやら、そういうことらしい。俺たちはずっと一緒に居たんだ」
記憶が無くても、まだ出会ってはいなくても。
俺の身体が勝手に野菜スープを作ろうと用意をし始めるくらい、俺はお前と一緒に居た。
何処に居たのかはサッパリ謎だが、間違いなく一緒に居た筈なんだ。
…だから今度は離れるなよ?
お前一人で飛んでっちまうんじゃないぞ、前のお前が俺を残して飛んでっちまったみたいにな。
「うん、離れない…」
離れたりしないよ、ぼくの居場所はハーレイの居る所だから。
今度はハーレイのお嫁さんになって、ずうっと一緒に暮らすんだから…。
もう行かないよ、としゃくり上げるブルーの涙を拭うと、手招きして膝に座らせてやった。
まだ泣き続けているブルーを抱き締め、その背を優しく撫でてやる。
泣かなくていいと、今度こそ何処までも一緒だと。
一緒に行こうと、二人一緒に歩いてゆこうと。
「なあ、ブルー…。今はまだ、一緒に暮らせないが、だ」
あと数年の辛抱だろう?
お前は俺の嫁さんになって、俺の家で一緒に暮らすんだ。
前と違って結婚式だって挙げられるんだぞ、祝福されて堂々とな。
そうしたら不味い野菜スープも、レシピを変えて美味いのを作るとするか。バナナとかリンゴをたっぷり入れてだ、お前が不味いと泣かないようなジュースをな。
「…ううん、不味くて泣いたりしないよ…」
このままでいいよ、ハーレイのジュース。
ハーレイが覚えていたままでいいよ、果物なんかは入ってなくても、塩味だけで。
この味もきっと、ぼくは好きになるよ。
ハーレイが何度も作ってくれてた、あのスープと同じなんだから。
材料は同じで、ハーレイが作ってくれる味。
…ぼくが嫌いになる筈がないよ、ハーレイのジュース…。
だから作って、とまだ濡れた瞳で見上げる恋人。
中途半端な出来の野菜ジュースを、野菜スープの出来損ないのジュースを欲しいと言ってくれる恋人。その味がいいと、その味でいいと。
「ねえ、ハーレイ…。ジュース、また作ってくれるよね…?」
「またいつかな」
そうそうコッソリ持ち込んだりは出来んだろうが。
その代わり、お前が嫁に来たら、だ。健康作りに飲ませるとするか、こいつをな。
「…毎日とか?」
「毎日もいいな、毎朝な」
お前、育ったら、もう毎朝ミルクではないんだろうし…。
俺の得意の野菜ジュースと洒落込んでみるかな、不味いんだがな。
なにしろ野菜と水と塩だけだからな、とブルーの背中をポンポンと叩く。
それで良ければ作ってやろうと、学生時代から作り続けて慣れたものだと、お手の物だと。
何種類もの野菜を細かく刻んでミキサーに入れて、水と塩だけ。
ミキサーに入れる野菜だというのに、何故だか細かく、細かく刻んで。
身体が覚えていた記憶。
前の自分の身体ではないのに、勝手に動いてジュースを作った。
こうだと、こうして作るのだと。
この味が好きな恋人だったと、こうして自分は作っていたと。
それほどに愛していたブルー。
生まれ変わって、この腕の中に再び戻って来てくれたブルー。
今度こそ決して離しはしない。いつまでも、何処までも、そして命尽きた後も…。
野菜ジュース・了
※今のハーレイの野菜ジュースの作り方。ミキサーがあるのに、野菜を細かく刻むのです。
前世の記憶が戻る前から、ブルーのために作っていたジュース。想いの深さが分かるお話。
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