シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ハーレイが来る日…!)
土曜日の朝、ちょっぴり早めに目が覚めたぼく。
ハーレイが来てくれる日なんだ、と思った途端にパチリと冴えた目、起きていそいそ顔を洗って着替えも済ませて、ママが朝御飯の支度をしているキッチンへ。
ダイニングのテーブルにサラダとかの用意は出来ていたけど、誰も座っていなかったから。
今日はまだ起きていなかったパパ。大抵の朝は起きて新聞を読んでいるのに。
キッチンのママは後は卵やソーセージを焼くだけ、って準備万端だから。
「ママ。パパがまだ来ていないけど…。起こしてくる?」
「そうね。その内、起きてくるとは思うけど…」
もう起きてるかもしれないけれども、行きたいんなら行ってらっしゃい。
「はーい!」
起こしてくるね、と駆け出した。
パパは放っておいても起きるんだけれど、たまには起こしてみたいから。
二階に上がって、寝室の中を覗いてみたら。
よく寝てる、パパ。
昨夜は遅くまで起きてたのかな、枕元に開いたままの本。あと少し、って所で挫折したみたい。最後まで読みたくて頑張った気持ちはよく分かる。推理小説なんだもの。
(こういうのって、一気に読んじゃいたいものね)
クライマックスに差し掛かっちゃったら、一休みなんかしたくない。そうなる前に栞を挟めば、続きは次の日、って思えるけれど。パパはタイミングを逃したんだな、って可笑しくなった。
「パパ?」
起きて、って声を掛けたら、パパの身体がゴソッと動いて。
「ぐおーっ!」
いきなり飛び出した、大きなイビキ。さっきまでイビキは無かったのに。
きっと起きると思ってただけに、ビックリしちゃった、パパのイビキ。
(えーっと…)
ぐおーっ、ってイビキは止まらない。こういう時には鼻をつまんで…、とつまんでやった。
プスッって止まった大きなイビキ。面白いほどピタリと止まった。
(静かになった…)
でも、起きて貰わなくっちゃいけないから。
枕元の目覚まし時計がもうすぐ鳴るけど、せっかく起こしに来たんだから。
目覚まし時計は鳴らないようにと止めてしまって、パパの肩を揺さぶることにした。パパ、って何度か揺するとパパは目を覚まして。
「うーん…。なんだ、ブルーか」
おはよう、ブルー。起こした御褒美、欲しいのか?
「ううん、来ただけ」
早く目が覚めたから、ちょっと起こしてみようと思って…。ホントにそれだけ。
御褒美なんかは要らないよ、パパ。
じゃあね、って部屋を出て、ダイニングに行こうと階段を下りた。
パパの御褒美は朝御飯の追加。
(貰ってもあんまり…)
嬉しいどころか却って迷惑、朝からそんなに食べられやしない。ぼくの胃袋、小さいんだもの。
なのに…。
「ほら、ブルー。今朝の御褒美だ」
起こしてくれたろ、パパが寝てたら。
パパの分を分けてやるからな、ってソーセージが一本、ぼくのお皿にやって来た。オムレツしか載っていないお皿に、卵一個分のオムレツが精一杯のぼくのお皿に。
「これは御褒美じゃないってば!」
ぼくはトーストとオムレツがあれば充分なんだよ、それとミルクと!
ソーセージが増えたら、サラダが入らないんだけれど!
「こらこら、御褒美を断っていたら、次から御褒美、貰えなくなるぞ?」
それに食べないと大きくなれないじゃないか。ミルクだけでは背も伸びないしな。
朝から沢山食べるのがいいんだ、お前の食事は少なすぎだ。
「うー…」
ホントのホントに、これだとぼくには多すぎるのに!
酷いよ、パパ!
「御褒美、足りなかったのか?」
もっと欲しいか、それじゃソーセージをもう一本だ。
ママ、ソーセージの追加を頼む。ブルーに二本も譲ったからなあ、あと三本焼いてくれるかな。
こいつは美味いし、多めに食べたい気分なんだ。
(パパ、もっと食べるの…?)
ぼくに譲った分だけ足すなら分かるんだけれど、追加に一本。
それだけ沢山食べられるパパに文句を言ったら、ソーセージはもっと増えそうだから。ううん、ソーセージどころかサラダも大盛りにされちゃいそうだし、諦めるしか…。
御褒美を断り損なった、ぼく。
いつもは食べないソーセージが二本、一本でも多いのに二本もお皿に載せられちゃった。
なんとか頑張って食べたけれども、朝御飯でもうお腹が一杯。
(消化を早くするには、運動…)
だけど走ったり出来やしないし、ぼくに出来るのは部屋の掃除くらい。それでお腹が減るわけがない。模様替えでもしようって勢いでやれば、お腹も空くかもしれないけれど。
(…もうすぐハーレイが来てくれるのに…)
掃除がすっかり終わっちゃっても、少しも減ってくれないお腹。満杯になった胃袋の中身。
こんな日にお土産があったら悲劇。
ハーレイがぼくにくれるお土産、今の所は食べ物限定なんだから。
ママのお菓子はお腹に空きが出来てくるまで待ってくれるけど、お土産の方はそうはいかない。
(…時間が経っても食べられるものならいいんだけれど…)
出来立てが美味しい食べ物だとか、温め直して熱々だとか。そんなのは困る。とっても困る。
ぼくの胃袋、言うことを聞いてくれないから。まだスペースが空いてないから。
(ハーレイがお土産を持って来ませんように…)
神様にそうお祈りをした。普段だったらお土産が欲しいとお願いするのに、まるで逆のことを。
少しでもお腹が減りますように、と椅子から立ったり、座ったり。
これも運動には違いないし、と椅子から椅子へも移動した。ハーレイと座る窓辺の椅子と、勉強机の椅子との間を。
そうしている間にチャイムが鳴って、窓に駆け寄ってみたんだけれど。
生垣の向こう、門扉の所で手を振るハーレイの手にお土産と分かる荷物は無かった。
(良かった、なんにも持ってないみたい…)
だけど油断は出来ないから。荷物の中からヒョイと取り出す可能性だってゼロではないから。
ハーレイが部屋に来てくれて、テーブルの上にママが置いてったお菓子。
ママが焼いたと分かるお菓子が出て来て、ホッと一安心。
ぼくはよっぽどお菓子のお皿を気にしてるように見えたんだろう。向かい側に座ったハーレイがお菓子を指差して、訊いた。
「どうかしたのか、今日の菓子が?」
大好物だ、と喜んでるようでもなさそうなんだが、この菓子は何か特別なのか?
「そうじゃなくって…。ママのお菓子で良かったな、って」
ハーレイのお土産のお菓子だったらどうしよう、って凄く心配だったから…。
「何故だ?」
お前、土産は大好きだろうが。たまに持って来たら、尻尾を振らんばかりだが?
おやつを貰った子犬みたいにパタパタ、パタパタ、振ってる尻尾が見えるようだがな?
「だって、御褒美…」
パパに御褒美を貰っちゃったんだよ、朝御飯の時にソーセージを余分にドッカンと!
ぼくのお皿に載せて来たから、ぼく、要らないって断ったのに…。
そしたら「足りないのか」って追加が来たんだ、ソーセージを二本も食べたんだよ!
お菓子なんてとても入らない、と嘆いた、ぼく。
ソーセージは一本でもお腹が一杯になるのに、それが二本も来たんだから、と。
「ははっ、起こした御褒美か!」
お前がお父さんを起こした時には、そういう御褒美が出るんだな?
「うん…」
運が良かったら断れるけれど、大抵は駄目。パパは御褒美、くれるんだよ。
あんな御褒美、貰っても嬉しくないんだけどな…。
「ふうむ…。だったら、俺もその手でいくかな」
「何の話?」
「お前と結婚した後さ」
俺が起こして貰った朝には、お前に御褒美をやることにしよう。
俺の皿からソーセージだとか、オムレツだとか。お前のお父さんを見習ってな。
ぼくが少ししか食べない日が続いたなら、狸寝入りをして御褒美だって。
ハーレイを起こしたぼくに御褒美、ぼくのパパみたいに朝御飯の追加。
「酷い…!」
なんでそういう御褒美になるわけ、おまけに狸寝入りだなんて…!
「酷いだと? そこは嬉しいの間違いだろ?」
御褒美はもれなく俺の手作りだからな、って言われれば、そう。
ハーレイが作る朝御飯。一度だけ御馳走になったことがある、あの朝御飯。
(…メギドの夢を見ちゃった時だよ…)
怖くて泣きながら眠ってしまって、朝、気が付いたらハーレイの家で。
朝御飯を作って貰って食べた後、車で家まで送って貰った。あの幸せな朝は忘れられない。
ハーレイと食べた朝御飯。ハーレイが作ってくれたオムレツ。
結婚して一緒に暮らしてるんなら、朝御飯の中身もきっと色々、ハーレイが作る朝御飯。ぼくのお皿に「御褒美だ」って載せられるものだって、きっと色々。
ハーレイは料理が好きだと言うから、貰える御褒美も朝御飯にしては凝っているかも…。
「…いいかも…」
思わずポロリと零した言葉に、ハーレイが「な?」と笑顔になった。
うんと美味しい御褒美をやるから、頑張って俺を起こすんだぞ、って。
(…ハーレイの御褒美…)
お腹は一杯になるだろうけれど、素敵かも、って考えた所で気が付いた。
ハーレイがするのは狸寝入り。つまり、ハーレイはとっくに起きているってことで。
(ぼくより寝坊はしないわけ?)
いくら御褒美を食べさせるためでも、そのためだけに早起きってことはないだろう。元から早く起きる習慣があって、目は覚めてるのに狸寝入り。
(柔道とかだと、朝練、あるしね…)
今の生活でついた癖なのかな、と最初は思った。柔道と水泳が大好きな今のハーレイだから。
でも…。
そういえば、前のぼくたちが生きていた頃も…。
(ハーレイ、いつだって先に起きてた!)
本物の恋人同士になって、青の間やハーレイの部屋で同じベッドで眠ったけれど。
ハーレイはいつも、ぼくよりも先に起きていた。目を覚ましていた。
イビキなんか聞いた覚えが無い。
鼻をつまんでイビキを止めたことも、うるさかったことも、ただの一度も。
目覚まし時計はあったけれども、それよりも早く起きたハーレイ。
そんな時計は要らないとばかりに、止められたアラームは部屋に響きはしなかった。
(なんで…?)
やたらと早起きだったハーレイ。
前のハーレイの頃から早起きだなんて、どうしてなのか分からない。今のハーレイなら朝早くに起きて練習ってこともあっただろうけど、前のハーレイには朝練なんて無かったのに。
(…早起きしなくちゃいけない理由が見付からないよ?)
目覚まし時計はあったんだから。それが鳴るよりも前に起きる必要は無いんだから。
(運動部だったら、先輩よりも早く起きなきゃ叱られるってこともありそうだけど…)
シャングリラならば、ハーレイがキャプテンだった頃なら、誰もハーレイを叱りはしない。時間厳守は大切だけれど、そのためにあった目覚まし時計。
(あれが鳴ったら、ハーレイの仕事の準備に取り掛かる時間…)
前のぼくとの恋人同士の時間は終わりで、キャプテンの貌になる時間。
もっとも、本当は終わりじゃなかったけれど。
ソルジャーへの朝の報告っていう建前で、二人一緒に朝御飯を食べていたんだけれど。
とはいえ、ハーレイはキャプテンの制服をカッチリと着込んでマントもつけてた。ソルジャーのぼくも服とマントを着けるわけだし、着替えのための時間が必要。それに合わせて目覚まし時計。
(あの目覚ましが鳴ってから起きても、充分に…)
時間の余裕はあった筈。
それなのに早起きをしていたハーレイ。目覚ましよりも、前のぼくよりも早く。
不思議だったから、ハーレイに訊いた。
前のぼくよりも先に起きていたのはどうしてなの、って。
「目覚まし時計が鳴ってからでも良かったのに…。どうしてあんなに早かったの?」
起きて、目覚まし時計を止めて。
ぼくが起きなきゃ、目覚まし時計の代わりにぼくを起こしていたよね、どうしてなの?
「それはまあ…。キャプテンだったからな?」
船じゃ朝一番に起きるモンだろ、夜勤のヤツらとの引き継ぎってヤツも必要だしな。
いくらブリッジのヤツらが先に済ませていると言っても、キャプテンがベッドの中ではなあ…。
「そういうものなの?」
他の仲間に悪いから、って早起きしてた?
ブリッジの人たちの朝の交代、時間はかなり早かったしね…。みんなとっくに起きているのに、って急いでいたわけ、前のハーレイ?
「それもあるがだ、寝坊してたら前のお前との関係だってバレちまうしな?」
俺の部屋なら誰も来ないが、青の間はマズイ。お前と二人でベッドの中ってわけにはいかん。
朝食係が来てただろうが。あれよりも早く起きないとな?
(…そうだ、朝御飯の係が来てたんだっけ…)
前のぼくとハーレイ、二人分の朝御飯を青の間で仕上げて出すために。
ウッカリ二人で眠ったままだと、朝食係はぼくを起こそうとしてベッド周りのカーテンを開けに来るだろうから、それは大変なことになる。ぼくの隣で寝ているハーレイ。
(それに二人とも…)
寝間着なんか着てはいなかったんだし、どういう仲かも即座にバレる。
そういったことを防ぐためには、ハーレイが起きてベッドを出るのが一番だけれど。
(だけど…)
ホントにそれだけの理由で早起きだったんだろうか、ハーレイは?
よく考えてみれば、夜中にだって…。
(うん、ハーレイは夜中も起きてた…)
夜通し起きていたわけがないのに、ぼくが起きた時はハーレイも必ず起きていた。
前のぼくがたまに見ていた、アルタミラの夢。
まるでメギドの悪夢みたいに、現実だとしか思えなかった恐ろしすぎる人体実験の夢。あるいは檻に独りぼっちで、周りに誰もいない夢。
悲鳴を上げたわけじゃなくても、飛び起きたらハーレイが起きてくれてた。
あの夢の方が現実なのかと、今の日々は夢に過ぎないのかと怯えるぼくを抱き締めてくれた。
力強い腕で、広い胸の中に。温かくて逞しい胸の中に。
そう、いつだって。
いつ目覚めてもハーレイの腕が、胸があったから怖くなかった。
「大丈夫ですよ」と、「私が側にいますよ」と。
夜中でも起きてくれてたハーレイ。ぼくよりも先に起きてたハーレイ。
あれはキャプテンだからって理由じゃ片付かない。きっと他にも何かある筈。
「ハーレイ、夜中もぼくより先に起きてなかった?」
前のぼくが怖い夢を見て飛び起きた時は、ハーレイ、必ず起きてたよ?
起きて、って、ぼくが起こさなくても、いつだって先に。
どうしてああいうことが出来たの?
寝ないで起きてたわけでもないのに、ぼくの悲鳴で起きたってわけでもなさそうなのに…。
「お前の心は分かるのさ」
怖い夢に捕まってしまっているのも、その夢に苦しめられているのも。
ただ、夢っていうヤツは一瞬の内に見るものだしな?
俺が気付いて起きた時には、起こすまでもなくお前は勝手に目覚めちまったが…。
「前のぼくなら、心はいつでも遮蔽してたよ?」
仲間に不安を与えないよう、ぼくの悩みや悲しみを零してしまわないように。
眠っている時にもそうしていたから、ぼくの夢なんかが流れ出す筈が無いんだけれど…。
「それでもだ。それでこその恋人同士ってヤツだ」
僅かな息の乱れや、鼓動の速さや。
そういったもので気付いていたんだろうなあ、悪い夢を見てうなされていると。
一度気付けば、眠りの中でも意識が一気に目覚めるってわけだ、起きなければと。
だからお前よりも先に起きていたのさ、俺の方がな。
実の所は普段もそうだ、とハーレイは言った。
ぼくよりも先に目を覚ましたのは、ぼくの心が目覚める方へと向かっていたから。
ぼくが起きた時に、直ぐに瞳を覗き込めるよう、「おはよう」と笑い掛けられるように先に目を覚まして待っていたと。自分が眠ったままでいたなら、ぼくが寂しい思いをするからと。
「お前を守ると誓っただろうが、前の俺もな」
しかし、実際はそうもいかない。守られていたのは俺の方だった、お前の力に。
だったら、お前が眠っている間くらいは守りたいじゃないか。
お前自身ですらどうにもならない、捕まってしまう恐ろしい夢。
それは夢だと、俺が此処に居ると前のお前に教えてやるのが恋人の役目ってモンだろう?
前の俺はそのために起きていたのさ、お前よりも先に。
そうでない日も先に起きた理由は、お前を寂しがらせないためだ。お前は一人じゃないってな。
お前が眠っている間だけが、俺がお前を守ってやれる時間だったんだ。
早起きの理由は前のお前を守るためだ、って言われちゃったけれど。
じゃあ、今のぼくだとどうなるんだろう?
前のぼくみたいに強くないけど、ハーレイはやっぱり、ぼくよりも先に起きるんだろうか?
どうなるのかな、って尋ねてみたら。
「当然、起きるに決まってるだろう」
お前よりも先だ、夜中も朝もな。先に起きて待つのが俺の役目だ。
「やっぱり恋人同士だから?」
それでハーレイが先に起きるの、ぼくを守るために?
「もちろんだ。今度こそ守ると俺は言ったぞ」
前の俺と違って、今度の俺は本当にお前を守れるんだからな。
お前はサイオンも上手く使えないし、身体だって前と同じに弱い。そんなお前を守らんとな?
ぐっすり寝こけてしまってるようじゃ、全く話にならないってな。
(そっか…。今度もハーレイ、ぼくよりも先に起きるんだ…)
頼もしいな、と思ったけれど。とても嬉しいとも思ったんだけれど、ふと思い出した。
今朝のパパのイビキ。「ぐおーっ」って響いた大きなイビキ。
ハーレイが必ず、ぼくよりも先に起きるってことは…。
「それじゃ、ハーレイのイビキは聞けない?」
「はあ?」
イビキって何だ、俺のイビキがどうかしたのか?
「ぼく、聞いたことがないんだよ。ハーレイのイビキ」
いつだって先に起きていたから、ただの一度も。
長い長い間、ずうっとハーレイと一緒に眠っていたのに。ハーレイの腕の中にいたのに…。
ぼくは本当にハーレイのイビキを一度も聞くことが無かったから。
聞いてみたいんだよ、ってハーレイに言った。
パパのイビキを聞かなかったら、思い付きはしなかったかもしれないけれど。
凄いイビキを、「ぐおーっ」と部屋に響いたイビキを聞いたばかりだから、聞きたくなった。
前のぼくが知らない、ハーレイのイビキ。
寝息さえも一度も聞きはしなかった、ハーレイのイビキ。
「ふうむ…。俺のイビキなあ…」
そんなものを聞きたいだなんて、お前、ずいぶん変わった趣味だな。
「変わった趣味って…。恋人のことなら何でも知りたいと思わない?」
それにハーレイ、ぼくよりも先に起きてばっかりだったから。
イビキなんて夢にも思わなかったよ、どんなイビキをかいてるのかも。
ハーレイ、イビキはかかないの?
期待するだけ無駄なんだったら、別に聞かなくてもいいんだけれど…。イビキをかかないなら、どう頑張っても聞けないしね。
「自分のことだから、俺にはどうとも分からんが…」
俺と一緒の部屋で寝たことのあるヤツらによるとだ、たまにかいてるらしいんだが…。
どういう時にかいているのか、それはハッキリしないんだがな。
「それ、聞きたい!」
ハーレイのイビキ、聞いてみたいよ、かいてるんなら!
「それはお前の自由だが…。俺のイビキを聞きたかったら、だ」
お前が起きないことにはな?
でないと聞けんぞ、俺のイビキは。
「大丈夫だってば、イビキで起きるよ」
ぼくはイビキが聞きたいんだから、イビキの音がしているな、って気付いたら目が覚めるしね。
「そいつは甘いな、そう簡単にはいかないってな」
お前が起きたら、俺だって目が覚めるんだ。そうすりゃイビキは当然、止まる。
どんなに聞き耳を立てていたって、俺が起きてりゃイビキは聞けん。
「そんな…!」
酷いよ、ハーレイ!
ぼくに御褒美を食べさせるための狸寝入りはするくせに!
どうしてイビキを聞かせてくれずに、そこでアッサリ目を覚ますわけ!?
一度くらいはイビキを聞かせてくれたって、って駄々をこねたら。
狸寝入りじゃなくてホントに眠ってイビキを聞かせて欲しいのに、と強請っていたら。
「それなら、俺を酔っ払わせるんだな」
何処から見ても酔っ払いだ、と分かるくらいに酒を飲ませろ。
「えっ?」
どうしてお酒が出てくるの?
ぼくが聞きたいのはハーレイのイビキで…。
「そのイビキ。どういう条件でかいているのか分からない、と言っただろうが」
だが、酔っ払ったなら、確実にかく。こいつは証人が何人もいるな、両手の指じゃ足りないな。
ついでに起きないかもしれん。
酔っ払いだし、眠っちまったら朝までイビキをかき続けるってな。
「分かった、頑張る…!」
ハーレイにお酒を飲ませるんだね、酔っ払うまで?
それでイビキが聞けるんだったら、ぼく、おつまみだって作ってみるよ。
ハーレイ、どういうおつまみが好き?
教えてくれたら、ちゃんと頑張って作るから…!
「ふむ、素晴らしい心掛けだな」
俺の酒のために、つまみまで作ってくれるのか。そいつはいい酒が飲めそうだ。
いい酒と言っても、酒が上等だという意味じゃないぞ?
楽しい酒と言うか、飲んで嬉しい酒だと言うか…。
お前は酒はまるで駄目だが、俺には注いでくれるんだろう?
「決まってるじゃない!」
ハーレイに酔っ払って貰わないとイビキが聞けないんだから、いくらでもお酒を注がなきゃ。
おつまみも作るし、本当にうんと頑張るんだから…!
「そして俺のイビキを存分に聞いて楽しむ、と」
だが、その前に。酔った俺がお前を離すと思うか?
酔えば酔うほど、俺はお前を側に置きたがると思うんだがな?
つまみなんかはもう要らないから此処へ座れと、黙って此処に座っていろと。
ただし、言葉通りに座っているだけで済むかどうかは分からないがな、酔っ払いだしな?
お前という極上のつまみがあるのに、他のつまみを食ってどうする。
いくらお前の手作りでもだ、お前の方がよほど美味いってな。
俺が言っている意味は分かるな、うん…?
お前、チビだが、ただのチビではないんだからな。
「あっ…!」
ニヤリと笑ったハーレイの前で、ぼくは耳まで真っ赤になった。
ハーレイが本当に酔っ払ったら、腕の中に閉じ込められちゃうらしい、ぼく。
おつまみの代わりに此処へ座れと、来いと言われて食べられてしまうらしい、ぼく。
(…そうなっちゃうの!?)
前のハーレイはキャプテンだったから、酔っ払うほどには飲まなかったけれど。
今のハーレイはそうじゃないから、酔っ払ったら何が起こるか分からない。
イビキ目当てにハーレイを酔っ払わせたら、ぼくはとんでもないことになる。
(ハーレイに美味しく食べられちゃうんだ…!)
そうなったらイビキを聞くどころじゃない。ぼくの方が先に疲れて寝ちゃうに決まってる。
だって、相手は酔っ払い。手加減なんかがあるわけがなくて、やめてと言っても止まらない。
ハーレイのイビキを聞くよりも前に、ぼくはすっかり意識なんかは吹っ飛んじゃって…。
(ど、どうしよう…?)
これじゃ聞けない、ハーレイのイビキ。
確実にイビキをかくというのに、ぼくが寝たんじゃ話にならない。
なんとかしてイビキを聞く方法は…、と悩んでるのに、ハーレイときたら。
「酔うと人間、正直だしな?」
そりゃあもう、普段以上にお前に溺れてしまうってな。
たとえ次の日に予定があろうが、そんなことすら見事に忘れちまって夢中でお前を食うだけだ。
こんなに美味いつまみがあったと、最高のつまみが転がっていたと。
「それじゃ、イビキは…?」
ハーレイがイビキをかくっていうから、ぼくは酔っ払わせようと思ったのに…!
酔っ払わせたらそういうことになるんじゃ、ぼくはイビキを聞けないじゃない…!
「なあに、簡単なことだ、そいつは」
酔っちまった俺よりも先に起きればいいだけのことだ、酔っ払いは当分、起きないからな。
その酔っ払いに貪り食われちまって、疲れていなければの話だがな。
「無理だってば…!」
手加減無しのハーレイなんでしょ、ぼくが敵うわけないじゃない…!
疲れて眠ってそれっきりだよ、目が覚めたらハーレイが起きてるんだよ!
「おはよう」だとか、「遅かったな」だとか、ニコニコしながら朝御飯とかを作ってるんだ。
そういう結末、見えているから!
イビキなんかはとっくの昔に止まってしまって、起きたハーレイがいるだけなんだよ…!
酔っ払ったハーレイは確実にイビキをかくらしいけれど。
お酒で酔わせてイビキを聞くのはかなり難しいかも、って思った、ぼく。
ハーレイがイビキをかくよりも前に、ぼくが眠ってしまうから。
酔ったハーレイに食べられてしまって、ぼくの方が先に夢の世界の住人になってしまうから。
(…この作戦は成功するわけないよ)
何度やっても、ぼくが負けるに決まってる。
頑張っておつまみを作ってみたって、お酒をせっせと注いでみたって。
連戦連敗、勝てそうもないぼくだけれども。
酔っ払ったハーレイにも勝てやしなくて、おつまみ代わりにされるんだけれど。
(でも、人生はうんと長いしね…?)
それに、今度のハーレイは古典の先生、キャプテンの仕事なんかは無いから。
「早く起きなきゃいけないからな」って言わなきゃいけない立場じゃないから。
一度くらいは聞かせて欲しいな、ハーレイのイビキ。
安心してぐっすり寝ているんだって分かるイビキを、前のぼくは聞かずに終わったイビキを…。
イビキ・了
※前のハーレイのイビキを聞いたことが無い、と気付いたブルー。ただの一度も。
今度は聞いてみたいのですけど、聞けるでしょうか。こればっかりは運の問題かも…?
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(今じゃ美容にいい飲み物か…)
そういう時代になったのか、とハーレイは新聞の記事に苦笑を漏らした。
たまたま開いた紙面にバナナミルク。黄色いバナナの写真とセットでレシピがあった。美容に、美肌にバナナミルク。今は秋だけれど、その後に迎える寒い季節はホットでどうぞ、と。
(まあ、あの時代でも、人類にとっては美容にいいものだったかもしれないが…)
そっちの方までは分からないな、と前の自分が生きた時代を思い出す。
成人検査に脱落した後、実験動物として押し込められていた地獄のような研究所。それが在った星ごとメギドの炎に焼かれる所を辛くも脱出、シャングリラでの生活が始まったけれど。
後に白い鯨へと変身を遂げた船は楽園だったけれども。
その楽園は閉ざされた世界で、外の世界は情報が入るだけだった。しかも傍受していた通信で。
そんなわけだから、人類たちがバナナミルクをどう扱ったかまでは分からない。
美容にいいと思って飲んだか、あるいは単なるバナナから出来た飲み物だったのか。
しかし…。
(こいつを飲まされていたんだがな?)
人類の方の事情はどうあれ、前の自分はバナナミルクを飲んでいた。より正確に表現するなら、この飲み物を飲まされていた。
(嫌いってわけではなかったんだが…)
今と同じで好き嫌いなど全く無かったのだし、苦手だったというわけでもない。
けれど「飲まされていた」バナナミルク。「飲んでいた」のとは事情が違う。
(うん、明らかに俺の意志ではなかった)
シャングリラで飲んでいたバナナミルク。レシピは新聞に載っているのと同じだろう。
(さて、あいつは…)
ブルーは覚えているのだろうか、シャングリラのバナナミルクのことを。
キャプテン・ハーレイだった自分が「飲まされていた」バナナミルクのことを?
忘れているかもしれないな、とクッと小さく喉を鳴らした。
(懐かしのバナナミルクってヤツか…)
明日は土曜だから、ブルーの家に行く日だから。
バナナを持って出掛けてゆくか、と考える。
少し早めに家を出て。朝早くから営業している、馴染みの近所の食料品店で買って。
忘れないようにと切り抜いておいた、バナナミルクが載った記事。
次の日の朝、テーブルの上に見付けたそれに「よし」と大きく頷いた。今日はバナナだと、寄り道をしてバナナを買うのだと。
晴れ上がった絶好の散歩日和。
朝食を済ませてブルーの家へと向かう途中で、食料品店に足を踏み入れた。通い慣れた店だから果物の売り場は直ぐ分かる。其処にドッサリと積まれたバナナ。
(…こんなものかな)
目当ての品を抱えてレジへと向かった。他に買い物をしないのだから籠は要らない。
(ミルクはあいつの家にあるしな)
小さなブルーが毎朝飲んでいるミルク。背丈を伸ばそうと、せっせと飲み続けているミルク。
その銘柄を聞かされて以来、ハーレイが買うミルクもそれへと変わった。
幸せの四つ葉のクローバーのマークが瓶に描かれた、そのミルクへと。
前の生ではブルーも自分も一度も見付けられずに終わった四つ葉のクローバー。それが描かれた瓶は嬉しい。ブルーと同じミルクというのもそうだけれども、幸せの四つ葉のクローバー。
(今度の俺たちは四つ葉を見付けられるんだしな?)
幸せになれる、とクローバーも保証してくれた。だから四つ葉のクローバーのマーク。今度こそブルーと幸せになろうと、願いをこめて四つ葉のクローバーのマークのミルク。
もっとも、小さなブルーの方では、同じミルクにこめる願いが違うのだけれど。
伸びてくれない背丈が少しでも早く伸びるようにと、ミルクに願っているのだけれど。
バナナが入った食料品店の袋を提げて、ブルーの家まで歩いて出掛けた。
門扉の横のチャイムを鳴らすと、二階の窓から手を振るブルー。そちらに大きく手を振り返していれば、ブルーの母が門扉を開けに出て来たから。
手にした袋の中身を見せて、今日の飲み物の注文を。
それに要るだけのバナナを渡して、残りのバナナはブルーの部屋へと持ち込んだ。ブルーの母が部屋を出て行った後で、食料品店の袋から取り出して。
「土産だぞ」
ほら、とテーブルに置くと、ブルーが「バナナ?」と目を丸くした。
「美味しいの、これ?」
お土産だなんて、何か特別なバナナ?
そう訊いてから、バナナが房から折り取られた跡に気付いたようで。
「んーと…。ハーレイが買って美味しかったから、残りはぼくにくれるとか?」
「まあ、待ってろ。お母さんがもう一度、来る筈だからな」
「そういえば、お茶が…」
まだ来てないね、と首を傾げるブルー。
ハーレイの好物のパウンドケーキを載せた皿はテーブルの上にあるのに。
いつもだったら、飲み物と菓子は間をおかずに揃う筈なのに。
暫く二人で談笑する内に、部屋の扉をノックする音。
ブルーの母がトレイを手にして現れた。カップが二つ載っているけれど、ソーサーつきのカップではなくてマグカップ。ティーカップほど気取らないカップ。
「ハーレイ先生、お待たせしました」
「すみません、お手数をおかけしまして…」
「いいえ、何でもありませんわ。それにバナナもわざわざお持ち下さって…」
お菓子がパウンドケーキですから、ホットの方が合いますでしょう?
どうぞ、と母がテーブルに置いて行った二つのカップ。湯気を立てているマグカップ。
「…バナナミルク?」
なんで、とブルーが二つのカップを交互に眺める。カップの中身はバナナミルクだと、見た目と香りで分かるから。甘いバナナの香りがするから。
「こいつとバナナで思い出さんか?」
「何を?」
バナナミルクとバナナって…。ピンと来ないよ、何の意味があるの?
「俺に飲ませていたんだが、お前」
いわゆるバナナミルクってヤツを。散々飲ませてくれたんだがな…?
「えっ?」
ぼくがハーレイにバナナミルクを?
飲ませていたって、それ、いつの話?
小さなブルーはやはり覚えていなかった。
前の自分がハーレイに飲ませたバナナミルクを、何度も飲ませていたことを。
ハーレイは「忘れちまったか?」と片目を瞑ってみせる。
「いつの話かと訊かれれば、そりゃあ…。今じゃない以上は決まっているだろ?」
シャングリラさ、前の俺たちの頃だ。
ついでにバナナにも意味があるんだぞ、こうして持って来たからにはな。覚えていないか、この果物。バナナはただの果物ってわけではなくてだな…。
今も昔も、バナナはミラクルフルーツなんだが?
「ああ…!」
思い出したよ、その名前で。
バナナはミラクルフルーツだっけね、凄い果物だったんだっけね…!
遠い昔に在ったミュウたちの楽園、シャングリラ。
自給自足で暮らせるようになった時点で、果物も栽培していたけれども。
是非ともバナナを加えたい、とヒルマンが長老たちを集めた会議で提案した。バナナは栄養価の高い果物で、ミラクルフルーツと呼ばれるほどだと。
人間が必要とする栄養素を多く含むことでは、他の果物の比ではないのだと。
「ふうん…? バナナはそういう果物なのかい?」
どうも今一つ分からないね、とブラウが言えば、ゼルも続いた。
「たかがバナナじゃと思うんじゃが…」
ブルーが物資を奪っていた頃には何度も食ったが、特別という気はしなかったわい。皮を剥いて簡単に齧れる点では、リンゴなどより手間要らずじゃがな。
「それがだね…。本当にミラクルフルーツなのだよ、バナナなるものは」
こういう具合で、とヒルマンが出してきた資料に記されたバナナの栄養価の高さ、含まれる成分などは説得力に満ちたものだった。バナナは凄いと、他の果物とは違うのだと。
そうした経緯で、バナナの栽培が決まったけれど。
普通の温度では駄目だから、と温室が設けられて他の果物も一緒に育てたけれども、温室の主はあくまでバナナ。ミラクルフルーツと呼ばれるバナナ。
ブルーが人類の世界から奪ったバナナの苗木は大きく育って、やがて実を結んだ。バナナの実が連なった房がズシリと実った。
最初の間は数も少ないから、希望者に分配していたけれど。
バナナの栽培が軌道に乗ったら、ソルジャーのブルーが優先だった。分配よりも先に、ブルーに一本。ソルジャーのために、と青の間に一本、届けられるバナナ。
何ゆえにブルーが優先なのか。バナナが一本、届けられるのか。
ブルー自身にも謎だったから、ある日、一日の報告のためにと青の間に来たハーレイに問うた。
「どうしてバナナはぼくが優先になるんだい?」
こうして一本貰わなくても、他の果物とセットにしたなら少ない量で済むと思うんだけれど。
カットフルーツの盛り合わせでいいと思うし、そのフルーツだって特に貰わなくても…。
困りはしない、とブルーは言った。フルーツ無しでも問題はないと。
しかし、ハーレイが返した答えはこうだった。
「いえ、バナナはヒルマンも言っていた通り、栄養価の高い果物ですから」
ミラクルフルーツと呼ぶほどなのです、ソルジャーの分が最優先です。
ソルジャーのお力があったお蔭で、今のシャングリラがあるのです。これから先も色々とお力をお借りしなければならないでしょう。ですから、栄養をつけて頂かないと。
収穫の度に一本お届け致します、とハーレイは伝えておいたのだけれど。
その言葉通り、バナナが採れると青の間に届けられたのだけれど。
ある日、ハーレイが仕事を終えて青の間へ報告に出掛けて行ったら。
「ハーレイ、これ…」
手つかずのバナナがテーブルの上に置かれていた。バナナを載せて届けたのであろう白い皿の上に、黄色い皮を剥かれもせずに。
「お召し上がりにならなかったのですか?」
今日はバナナを召し上がりたい御気分ではなかったのでしょうか、では、明日はバナナをお届けしないようにと言っておきます。このバナナは明日、お召し上がり下さい。
「明日って…。いいんだよ、明日も貰っておくから」
でも…、とブルーはバナナの皿をハーレイの方へと押しやった。
「このバナナはぼくが食べるんじゃなくて、君が食べればいいと思って…」
「私がですか?」
「君は貰っていないだろう、バナナ」
キャプテンは余った時に貰えばいいと言って断っているのを知ってるよ。
でもね、バナナが必要なのは君の方だよ、ぼくよりもね。
今のぼくに仕事は無いに等しいけど、キャプテンの君は大忙しだ。ブリッジでも、他の所に居る時も。船の中の出来事は最終的には君の所へ行くのだから。
君の方が明らかに激務だよ。ぼくなんかよりも、ずっと。
だからバナナは君が食べるべきだ、とブルーはバナナを差し出した。
君のために食べずに残しておいたと、これを食べて栄養をつけるようにと。
せっかくのブルーの厚意だから、とハーレイは有難くバナナを貰って食べた。ブルーが嬉しげに見守っている中、黄色い皮を剥いて熟れたバナナを。
そのバナナはとても美味しかったけれど、一度きりだというつもりだった。明日からはブルーが食べるであろうと、たまにはこうした贅沢もいいと。
ところが、翌日の勤務を済ませて報告にゆけば、同じように置かれていたバナナ。キャプテンのために取っておいた、と丸ごと残っていたバナナ。
「ハーレイ、今日も一日お疲れ様。このバナナは君のものだから」
食べて、と何度も勧められては断れない。今日くらいは、と自分に言い訳しながら食べたのに、翌日も置かれていたバナナ。
今度の収穫はそれで最後だと分かっていたから、固辞したけれど。
このバナナはブルーのものなのだから、と食べずに帰ろうとしたのだけれども、ブルーの方は。
「それじゃ、このバナナは持って帰って」
明日の朝にでも部屋で食べるといいよ。バナナは身体にいいんだろう?
君こそバナナを食べるべきだよ、ぼくなんかよりね。
半ば強引に食べさせられてしまったバナナ。ソルジャーのためにと届けられた筈が、ハーレイの胃袋に収まったバナナ。
それが全ての始まりだった。次からバナナが青の間に一本届けられる度に、ブルーは必ず残しておいてはハーレイに食べるようにと勧めた。自分では食べず、ただハーレイにと。
「ソルジャー、これではバナナをお届けする意味が…」
お身体のためにと、ソルジャーの分のバナナを優先で確保しておりますのに。
それを私が食べていたのでは、何の役にも立たないのですが…。
「いいんだよ。君の方が遥かに忙しいから」
暇なソルジャーなんかよりも、余程。
身体のためだと言うのだったら、なおさら君が食べなきゃならない。キャプテンも身体を大切にしないと、君の代わりはいないんだからね。
「ですが…」
ソルジャーの代わりになれる者こそ、この船には一人もいないのですが…。
ですから、バナナはソルジャーがお召し上がりになるべきだと私は考えますが…。
「ぼくの出番なんか、今は無いにも等しいんだけどね?」
でも、キャプテンの君はそうじゃない。
君がいないと船の進路すらも危ういものだよ、だからバナナを食べるのに相応しい人間は君だと思っているんだけどね…?
まだ恋人同士にはなっていなかったけれど。
勧められたバナナを食べないとブルーがへそを曲げるから、やむを得ず食べていたバナナ。
けれども、ブルーの口にはバナナが入らない。何度バナナを届けさせても、ハーレイのためにと皮も剥かずに取っておくのがブルーだから。
ミラクルフルーツの名を持つバナナ。栄養豊富な果物のバナナ。
ブルーにこそ食べて貰いたいのに、収穫の度にバナナはハーレイの所に回ってくるから。
(どうしたものか…)
このままにしておくのは流石にまずい、とハーレイはヒルマンの部屋を密かに訪ねた。
実はこうだと、ブルーはバナナを全く食べてはいないのだと。
「そういうことになっていたとは…」
無理に言っても食べないだろうね、我々が直接進言しても。
「恐らくは」
それで食べるなら、何度かに一度は自分で食べているだろう。私も何度も言ったのだから。
しかし、どうにも食べてくれない。
何とかして食べて貰いたいのに、必ずバナナを譲られるんだ。
「ふうむ…。ならば、こうすればいいのではないかね?」
バナナの形で一人分だけ届けているから、君の所へ回ってしまう。
届け方を変えればいいのだよ。
バナナミルクを食堂で出しているだろう?
あれはバナナを増量するための飲み物ではあるが、バナナの栄養を一番効率よく摂れるものでもある。バナナとミルクを組み合わせるとだ、人間が必要とする栄養素を全て摂れるらしいね。
ブルーがバナナを全く食べていないなら、一本のバナナで出来るバナナミルクの半分でも充分と思うべきだろう。
次からバナナは一本をそのままの形ではなくて、バナナミルクにして届けさせよう。それならば量も調節出来るし、二人分になるように作らせてね。
かくして、次に採れたバナナはミルクと砂糖を加えたバナナミルクになった。
青の間に届けられたそれにブルーは驚いたけれど、元のバナナに戻ってくれはしないから。その夜、報告に訪れたハーレイに、冷蔵しておいたバナナミルクの容器を見せた。
「ハーレイ、バナナがこんな飲み物になってしまって…」
一応、残しておいたけれども、これをどうすればいいんだろう?
君が飲むかい、グラスに二杯分はあるようだけれど。
「なるほど、早速届きましたか、バナナミルクが」
ヒルマンが手配をしたようですね。それだけの量でバナナが一本分ですよ。ミルクで量の調節が出来ると言っていましたし…。その量は二人分ですよ。
「二人分って…。ハーレイ、ヒルマンにバラしたわけ?」
ぼくはバナナを食べていないと、ハーレイに譲っているんだと。
それでこういうバナナミルクで、二人分に変えられてしまったわけ…?
「はい。ソルジャーのご健康は大切ですから」
全くお召し上がりにならないよりかは、半分でも食べて頂かねばと…。
それにバナナはミルクと組み合わせるのが一番効果が大きいそうです、ですからバナナミルクをお届けすることになりました。
二人分です、これでソルジャーも私もバナナを食べられるようになったのですよ。
そんな形で始まった、二人分のバナナミルクの配達。
バナナが採れるとブルーの分が最優先なことは変わらなかったが、一本を丸ごと届ける代わりにミルクを加えてバナナミルクに。ほどよい甘さの味になるよう、砂糖も加えて。
青の間に届くバナナミルクをブルーは夜まで冷蔵しておき、報告に訪れるハーレイに飲ませた。届いてからの時間を考えれば一人で全部を飲めるだろうに、夜まで器を開けもせずに。
二つのグラスに注ぎ分けられて、「飲んで」とハーレイの前に出されたバナナミルク。栄養価が高いのだから飲んでおくべきだと、キャプテンは激務なのだからと。
そうして二人でバナナミルクを飲んでいた。
時には冷たいバナナミルクをハーレイがキッチンで適温に温め、ホットにもして。
「そっか、ハーレイにバナナミルク…」
飲ませていたっけ、これは栄養があるんだから、って。届く度に夜まで残しておいて。
「うむ。バナナの生産量が安定するまで、アレだったろ?」
俺の所までバナナが一本、ちゃんと届くようになるまでは。
お前、いつでもバナナミルクを取っておくんだ、一口も飲まずに律儀にな。
「そうだっけね…。せっかくのバナナミルクなんだし、二人で分けよう、って…」
バナナだったら丸ごと残しておいたんだけどな、ハーレイがバナナミルクに変えさせたから。
二人で飲むしか道が無くって、ハーレイと一緒に飲んだんだっけ…。
「前の俺たちの思い出の味さ、バナナミルクは」
お前がせっせと残していたなと、キャプテンは栄養を摂らなきゃ駄目だと。
「すっかり忘れちゃってたよ」
ハーレイに会ってからバナナは何度も見てるんだけどな、バナナのお菓子も出てたのに…。
だけど一度も思い出さなかったよ、バナナミルクもバナナを残していたこともね。
「忘れちまってた、という点に関しちゃ俺もだがな」
昨日まで全く思い出さずに来たんだし…。
新聞にバナナミルクのレシピが載っていなけりゃ、忘れちまったままだったろうな。
今はバナナなんて珍しくもない果物だしな、とハーレイは笑う。
食料品店に行けば果物のコーナーに山と積まれて選び放題、何本買うのも自由だと。
「シャングリラじゃ、全員に毎日一本ずつとはいかなかったんだがなあ…」
バナナが沢山採れるようになっても、そこまでの量は無かったな。
「無理だよ、最後の方はあの船に二千人もいたんだから」
一人一本だと、毎日バナナが二千本も必要になるんだよ?
貯蔵しとけば一度に二千本を出せても、毎日だなんて絶対に無理!
「バナナの木が何本植えてあっても足りやしないな、一日に二千本ともなればな」
「好き嫌いのお蔭で助かったけどね、その点ではね」
他の果物の方がいい、って人も少なくなかったから…。
だから充分に足りていたんだよ、シャングリラのバナナ。
わざわざバナナミルクに仕立てて増量しなくても、皮を剥いて食べられるバナナがね。
バナナを好んで食べる者もいれば、そうでない者たちも暮らしていたシャングリラ。
増量用にと作られていたバナナミルクはいつしか忘れ去られて、黄色いバナナが普通になった。黄色い皮を纏ったバナナが供され、剥いて食べるのが当たり前。
ブルーの所へ優先的に届けられていたのも過去のこととなり、ハーレイも日常的にバナナを口に出来る日々。もちろんブルーも、気が向いた時に青の間にバナナを届けさせて。
「お前と恋人同士になった頃には、もう無かったなあ、バナナミルク…」
バナナがあるのが普通の毎日になっちまっていて、あの飲み物はもう無かったんだよな。
子供用に作ったりはしていた筈だが、もう青の間には無かったなあ…。
「そういえば…。それで忘れてしまったかな、ぼく」
バナナミルクも、バナナのことも。
何度も二人でバナナミルクを飲んだけれども、恋人同士じゃなかったものね。
あれもハーレイとの思い出には違いないけど、恋人同士の思い出ってわけじゃないんだもの、とブルーがクスッと笑みを零した。
まだお互いに友達同士で、友達のためにとバナナを残していたのだから、と。
それではブルーがバナナを全く食べられないから、と登場した飲み物がバナナミルクで二人分。
恋人同士で飲んだジュースなら忘れないけれど、友達同士では忘れるだろうと。
バナナミルクを飲みながら交わした会話も友達同士の話ばかりで、恋の欠片も無いのだからと。
「さてなあ…。そいつはどうだかな?」
バナナミルクじゃなかったとしてもだ、お前、あれこれ覚えているか?
青の間でお茶を飲むと言ったら紅茶が定番だったわけだが…。
今のお前が暮らしてる家のお茶も紅茶が多いわけだが、紅茶を飲む度に思い出がヒョコッと顔を出してはこないしな?
「ぼく、バナナミルク以外にも忘れていそう?」
ハーレイと恋人同士になってから飲んだ飲み物のことだって忘れてるのかな、綺麗サッパリ。
それを飲んでも思い出しもしないで、ゴクゴク飲んだりしているのかな…?
「お互いにな」
俺だって昨日までバナナミルクを忘れていたんだ、他にも色々と忘れちまっているんだろうな。
お前よりかは今の年が遥かに上になってる分、手掛かりってヤツも多そうなんだが…。
飲んだ飲み物の種類が断然、多いしな?
ただしだ、お前にはまるで飲めない酒ってヤツもだ、うんと沢山飲んだんだがな。
「前のぼくとハーレイ、どんなの、飲んでた?」
お酒以外で、今でも普通に飲める飲み物。
恋人同士になってから一緒に飲んだ飲み物、紅茶の他にはどんなのがあった?
コーヒーとお酒は今のぼくでも駄目だから無しで、他に二人で飲んだ飲み物、どういうもの?
「おっと、そこまでだ」
飲み物の話も悪くないんだが、そういった方向へ話が行くのは良くないな。
お前が偶然、思い出したと言うなら仕方がないが…。
そうでもないのに、どういう飲み物を飲んでいたかと訊かれても俺は一切喋らないからな?
チビには恋の話は早いさ、とハーレイはバナナミルクが入ったカップを指差した。
湯気が立っていたバナナミルクはもう冷めた上に、半分くらいに減っていたけれど。話しながら飲む間に減ったけれども、そのカップを。
バナナミルクは身体にいいと、身体にいい飲み物を飲んで健康的にいこうじゃないか、と。
「健康的に飲んで健全な会話だ、チビにはそいつがピッタリだってな」
丁度いいじゃないか、バナナミルクで。
ミルクも入っているんだからなあ、こいつで背だって伸びるかもな?
「そうなるの?」
健康的に話をしよう、ってバナナミルクになっちゃうの?
そりゃあ、確かにバナナミルクは栄養があるから、って前のハーレイに飲ませていたけど…。
「そのバナナミルク。今は美容と美肌のための飲み物らしいが?」
栄養よりも、そっち方面の効果を期待されているらしい。
前の俺たちが生きてた時代も、人類にとってはそうだったのかもしれないがな。
美容にいい、ってバナナミルクで、美肌を目指してバナナミルクってな。
「じゃあ、頑張る!」
ぼく、頑張ってバナナミルクを飲むことにするよ、ミルクもいいけど。
ハーレイがくれたこのバナナは全部、バナナミルクにして貰うんだ。ママに頼んで。
「はあ?」
お前、頑張ってバナナミルクって…。どういうつもりだ?
身体にいいとは確かに言ったが、バナナミルクに頼らなくてもバランスのいい食事をだな…。
「違うよ、身体には違いないけど…」
ハーレイ、自分で言ったじゃない。今は美容と美肌だ、って。
だから美容と美肌のためだよ、バナナミルクで頑張らなくっちゃ!
ぼくはハーレイのお嫁さんになるんでしょ、とブルーはニッコリ微笑んだ。
お嫁さんなら美人の方がいいに決まっていると、美容と美肌はそのためなのだと。
「ハーレイ、美人のお嫁さんは嫌?」
美容と美肌で努力をしているお嫁さんより、そうじゃないお嫁さんがいい?
だったら、バナナミルクを飲むのはやめておくけれど…。
「そう来たか…」
どうせなら美人で美肌の嫁さんが欲しくないか、と言うんだな?
「うんっ!」
そういうお嫁さん、ハーレイ、要らない?
同じぼくでも、手を掛けた分は美肌になると思うんだけど…。
「なるほどなあ…。それなら美人の嫁さんがいいな、お前が努力をしてくれるならな」
バナナミルクで頑張ってくれ。
前のお前みたいに有無を言わさず押し付けやしないから、自分のペースでバナナミルクだ。
うんと美人で美肌の嫁さん、俺は楽しみに待ってるからな。
今度のブルーは目的がまるで違っているらしい、バナナミルクという飲み物。
身体にいいからとハーレイに飲ませる暇があったら、ブルーが自分で飲むのだろう。
美容のための飲み物なのだと、これで美肌を目指すのだと。
(うんうん、そうして嫁に来るんだ)
今更そんな努力をせずとも、ブルーは充分、美人で美肌の筈なのに。
前のブルーの姿からして、あれ以上はもう磨く余地などありもしないのに。
(しかし、こいつは頑張るんだな、バナナミルクで)
そう思うと可笑しくて、そしてたまらなく愛おしい。
バナナミルクで美容と美肌だ、とカップの中身を一気に飲み干す目の前の小さな恋人が…。
バナナミルク・了
※シャングリラでバナナが貴重だった頃、前のブルーがハーレイに御馳走したバナナミルク。
今では美容にいいそうですけど、美肌を目指すには、今のブルーはチビすぎますね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「わあ…!」
お土産、とブルーは喜んだ。
仕事帰りのハーレイがくれた、と母が運んで来てくれたお菓子。緑茶と一緒に、お饅頭。
菓子皿の上にチョコンと座った、ヒヨコの形のお饅頭。
艶やかな茶色を纏ったヒヨコは黒い目までちゃんとくっついていて、コロンと愛らしい。
「どうしたの、これ?」
この辺りじゃ見かけないけれど…。ハーレイ、何処かで買って来たの?
「旅行に行ってた先生の土産だ。旅行と言っても、少し長めの研修だがな」
せっかく遠くであるんだから、と休みを一日つけたらしいぞ、その土産だな。俺たちは留守番をしていたわけだし、遊んで来たなら土産の一つも寄越さんとなあ?
「可愛い形のお饅頭だね、ヒヨコだなんて」
鳥じゃないよね、ヒヨコだよね?
それとも普通の茶色い鳥かな、ぼくはヒヨコかと思ったけれど。
「ヒヨコさ、その名もヒヨコ饅頭ってな。そういう名前の饅頭なんだ」
ずうっと昔は定番だったらしいぞ、饅頭の。
昔と言ってもSD体制が始まるよりも遥かに前のことだな、この辺りに日本があった時代だ。
「そうだったの?」
「うむ。あちこちにヒヨコ饅頭があって、どれが最初のヒヨコ饅頭やら…」
当時でさえ分からなかったらしいし、今となってはサッパリ謎だな。
そして、その頃に有名だったヒヨコ饅頭。そいつがあった辺りに行くとだ、ヒヨコ饅頭が買えるわけだな。こうして復活しているからなあ、名物としてな。
「ふうん…。それじゃ有名なヒヨコなんだ…」
とっても可愛いヒヨコだよね、とヒヨコ饅頭を指先でつついているブルー。
指にくっつく皮ではないから、手のひらに載せてみたりもして。
そうやってヒヨコを愛でている内に、情が移ってしまったらしく。
「どうしよう、これ…」
ハーレイ、このヒヨコ、食べなくちゃ駄目?
「はあ? お前、この手の菓子は嫌いだったか、こういう饅頭」
好き嫌いが無いのが売りじゃなかったか、前の俺たちが苦労していた名残ってヤツで。
それに饅頭、平気で食っていたと思うが…。少なくとも俺が知る限りはな。
「お饅頭は嫌いじゃないけれど…。これも美味しそうだとは思うんだけど…」
だけどヒヨコが可哀相だよ、食べちゃったらいなくなっちゃうんだよ?
こんなに可愛いヒヨコなのに。目だって、ぼくを見てくれてるのに…!
「お前なあ…。気持ちは分からないでもないがだ、こいつはヒヨコ饅頭なんだぞ?」
ヒヨコ饅頭は食って貰うために生まれて来たんだ、食ってやるのが正しい付き合い方だ。食って貰えないで放っておかれたら、生まれて来た意味がありゃしない。
残しておいても駄目になってしまうだけなのだから、とハーレイは小さなブルーを諭した。
ヒヨコ饅頭は食べられてこそだと、それでこそヒヨコ饅頭の方も喜ぶのだと。
「いいか? 食って貰って、食った人に美味いと思って貰ってこそのヒヨコ饅頭だぞ」
美味しく食べて貰えたんだ、とヒヨコ饅頭が大いに喜ぶってモンだ。
だがな、可哀相だと残しておかれたヒヨコ饅頭はだ、いずれ駄目になっちまってゴミ箱行きだ。
それじゃヒヨコ饅頭に生まれた意味が無いだろ、食って貰えずにゴミ箱ではな?
だから食べろ、とブルーを促す。
ヒヨコ饅頭を喜ばせてやりたかったら美味しく食べろ、と。
「そっか、食べずにおいたらゴミ箱…」
嬉しくないよね、そんな結末になっちゃったら。ヒヨコ饅頭は食べられてこそなんだね。
「分かったんなら、ちゃんと食ってやれよ?」
ほら、食ってくれと見上げてるだろうが、お前の顔を。
美味しいですから食べて下さいと、遠い町から食べて貰うために来たんです、とな。
「うん、わざわざ旅して来たんだっけね」
先生が研修に行った町から、この町まで。
そしてハーレイが学校で貰って、ぼくの家まで車でやって来たヒヨコ饅頭だものね。
食べなくちゃ、と思ったブルーだけれど。
ヒヨコ饅頭が喜んでくれるよう、美味しく食べねばと思ったけれど。
でも、ヒヨコ。茶色いヒヨコ饅頭の姿は可愛いヒヨコで、黒い目までがついているから。
(うーん…)
何処から食べればいいのだろうか、と新しい悩みが生まれて来た。
食べるためには齧らなくてはいけないけれども、ヒヨコ饅頭を何処から齧るべきか。
「ハーレイ、これ…」
頭から齧って食べるものなの、それともお尻?
決まりがあるなら、何処から食べるか教えてよ。
「ヒヨコ饅頭を食べる決まりだと?」
そんなのは無いぞ、とてつもなく上等の菓子ってわけでもないからな。何処から食うのも自由な筈だぞ、頭から食おうが尻から食おうが。
「でも…。頭を齧ればお尻が残るし、お尻から齧れば頭が残るよ?」
どっちも痛そうで可哀相だよ、ヒヨコ饅頭。
いくら食べられるために生まれて来たっていうヒヨコ饅頭でも、痛いのは嫌だと思わない?
痛くなくって、美味しく食べて貰えるんなら、それが最高だろうと思うんだけど…。
「ふうむ…。ヒヨコ饅頭が痛くなくって、なおかつ喜んでくれる食い方か…」
なら、こうだな。お前には無理かもしれんがな。
ハーレイは自分の皿の上のヒヨコ饅頭をヒョイとつまむと、口を大きく開いてみせて。
その中へと放り込まれたヒヨコ。口に入ってしまったヒヨコ。
口がパクンと閉じたかと思うと、モグモグと動く顎と頬。ヒヨコ饅頭を頬張った大きな口。
やがてゴクンと喉が動いて、ハーレイは「ほらな」と口を開けて中を指差した。
(ひ、一口…!?)
何処にも見えないヒヨコ饅頭。影も形も見えないヒヨコ。
パクリと一口で食べたハーレイなのだし、ヒヨコの頭もお尻も残りはしなかった。
「こうすりゃヒヨコも大喜びだな、齧られたりはしないしな?」
丸ごと食べて貰えるってわけだ、外側の皮も中の餡もな。
うん、なかなかに美味いヒヨコ饅頭だったぞ、お前も食べてやらないとな。美味いんだから。
頭だの尻だのと言っていないで一口で食えば、お前の悩みも解決だ。
「一口って…」
確かにそれなら頭もお尻も無いけれど。
ヒヨコの頭やお尻が残って、痛いかもしれないと思う必要は無いのだけれど。
(このサイズだよ?)
ブルーもヒヨコ饅頭を手にして、口を開けてはみたものの。
ハーレイのように大きな口ならともかく、小さなブルーの口には些か大きすぎるヒヨコ。一口でパクンと頬張ろうとしても、どうやら入りそうにないヒヨコ。
暫し悩んで、口を何度も開けたり閉じたりしてみた末に、諦めてヒヨコ饅頭を皿へと戻した。
「ぼくには無理かも…」
とても一口で食べられやしないよ、押し込むんなら別だけど…。
だけど、押し込もうとしたらヒヨコ饅頭は潰れてしまうし、齧るよりももっと可哀相だよ。
「それなら選ぶしかないな。頭か、尻か」
どっちか選んでガブリといけ。食い方は決まっていないんだから。
「可哀相だよ、頭もお尻も」
食べられるためのヒヨコ饅頭でも、痛かったりしたら可哀相だもの。
だって、齧られちゃうんだよ?
頭からとか、お尻だとか。ガブリとやられて、そこから千切れてしまうんだよ…?
「おいおい、ヒヨコ饅頭ってヤツはだ、食われるために出来ているんだぞ?」
頭から食おうが尻から食おうが、食って貰えれば満足なんだと思うがな?
それにだ、ヒヨコはそんなに弱くはないぞ。ヒヨコ饅頭じゃなくて、本物のヒヨコ。
「そう?」
ぼくはヒヨコは飼ったことが無いし…。
幼稚園には居たけどね。鳥小屋でたまに生まれていたけど、ピヨピヨ鳴いてて小さかったよ?
他の鶏が苛めたりしたら駄目だから、って先生たちが仕切りを作っていたよ?
「そういうケースも無いことはないが、ヒヨコってヤツは、けっこう逞しいモンでだな…」
俺がガキの頃に、可愛いからって強請って飼って貰った友達、苦労してたぞ。
ピヨピヨ鳴いてる間は良かったんだが、気が付きゃデッカイ雄鶏だ。けたたましく鳴くし、気は強いしなあ…。餌をやるにも命懸けって顔をしてたもんだが、俺の友達。
…って、そういやシャングリラにいたじゃないか。
「何が?」
「最強のヒヨコさ」
「最強…?」
何なの、最強のヒヨコって?
それにシャングリラだなんて、それ、何の話…?
ブルーがキョトンとしているから。
意味が掴めないという顔で、赤い瞳を何度もパチパチさせているから。
まず食べてしまえ、とハーレイは言った。ブルーが食べられないと悩み続けるヒヨコ饅頭。
それを食べたら話してやろうと、ヒヨコの話はそれからだと。
「ヒヨコ饅頭の頭…。この目が見てるし、やっぱりお尻?」
お尻から食べた方がいいかな、痛くないかな?
それとも頭の方だと思う?
頭を食べたら痛いって感覚なくなっちゃうかな、だけど頭からだと残酷かな…?
「悩んでいないでパクリといけ」
頭でも尻でもかまわんだろうが、ヒヨコ饅頭は食われてこそなんだから。
「でも…。頭には目がくっついてるよ!」
目がついてるから可愛いんだけれど、この目で見られているんだもの。
痛くしないでね、って言われてるみたいで、どう食べようかとホントに迷ってしまうんだよ…!
「頭なあ…。お前も頭を蹴られていたぞ」
痛くするも何も、問答無用で頭をドカッと。
「誰に?」
「最強のヒヨコだ」
あいつがお前の頭を蹴ったな、そりゃもう遠慮の「え」の字も無くな。
「えーっと…?」
分からないよ、と目をパチクリとさせているブルー。
そんなものに覚えは全く無い、と赤い瞳が瞬きするから、ハーレイは喉をクッと鳴らした。
「覚えていないか、最強のヒヨコ」
もっとも、育った後のことだがな。お前の頭を蹴っていたのは。
「ああ、アレ…!」
思い出した、とブルーは叫んだ。
白いシャングリラに君臨していたヒヨコ。最強だったヒヨコのことを。
「アレだね、ハーレイ?」
最強のヒヨコのことを言ってるんだね、逞しいって。
「そうさ、アレだと思えば食えるだろう?」
ヒヨコ饅頭。頭だの尻だのと悩まなくっても、アレだったらな。
「うん、多分…」
アレなら、ぼくでも悩まないよ。アレは頭もお尻も丸ごと、全身、最強だったんだから。
よし、とブルーは齧り付いた。
さっきまで自分を悩ませていたヒヨコ饅頭を手にして、頭にパクリと。
つぶらな瞳で見上げていたヒヨコの頭は消えたけれども、ブルーの口に入ったけれども。
「見ろ、お前だって食えたじゃないか」
美味いだろ、ヒヨコ饅頭の頭。皮も美味いが、中身の餡も絶品だよな。
「うん、美味しい!」
食べられるために生まれて来たっていうのが分かるよ、ヒヨコ饅頭。
食べて美味しいヒヨコなんだね、皮と餡とで出来てるんだものね。お菓子の国のヒヨコだね。
美味しいヒヨコ、と、そのまま尻までモグモグしているブルーは可愛い。
まるで生まれたてのヒヨコのように。
ピヨピヨと鳴くだけのフワフワのヒヨコみたいに可愛らしいから、ハーレイは腕組みをして低く唸った。
「お前みたいに可愛いヒヨコだったら良かったんだがな、アレも」
「どういう意味?」
アレって最強のヒヨコのことでしょ、ハーレイ、何が言いたいの?
「いや…。アレもチビのままなら良かったなあ、と」
お前にはいずれ大きく育って欲しいが、アレに関しては…。
アレはそうではなかったなあ、と。
「そうだね、チビのままならね…」
最強のヒヨコ、チビのままだと良かったね。それなら可愛いヒヨコだったね、最強でも。
思い出したお蔭でヒヨコ饅頭は美味しく食べられたけれど、最強のヒヨコ…。
お饅頭で出来たヒヨコみたいに、小さいままなら良かったのに。
ヒヨコ饅頭はどれもヒヨコの形なんでしょ、大きなヒヨコ饅頭でも?
「もちろんだ。でなけりゃヒヨコ饅頭にならん」
学校用にとデカイのを一個、買って来ていたが…。
こんな菓子皿だと、はみ出すくらいの饅頭だったが、ヒヨコ饅頭だけにヒヨコだったな。デカいヒヨコの形ってだけで、鶏の姿はしていなかった。
最強のヒヨコも、チビのままだか、でなきゃデカくてもヒヨコだったら平和だったなあ…。
遠い遠い昔、この宇宙に在ったシャングリラ。
ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
前のブルーが奪った鶏を飼って増やして、卵を手に入れて暮らしていたのだけれど。
仲間たちに充分に行き渡るだけの沢山の卵が毎日産み落とされるけれども、問題が一つ。
「そろそろ次のを選ばないとね」
時期だからね、とブラウが会議の席で議案に目を通しながら書類を指先でトンと叩いた。
「そうじゃな、そういう頃合いじゃな」
報告書も上がって来ておるし…。またヒルマンの出番じゃのう。
強いのを頼むぞ、とゼルが目を遣れば、ヒルマンが「うむ」と大きく頷く。
「ああいう飼い方をしている以上は、これは必須になるのだし…。早速、作業に入るとしよう」
ケージに入れて飼っている鶏だったら、まるで必要無いのだがねえ…。
しかし、鶏を一羽ずつケージに入れるのは誰もが反対したわけだし。
「当たり前だよ、あれじゃ鶏のアルタミラみたいになっちまうよ」
あたしは御免だね、ズラリと並んだ鶏のケージを見るのはね。誰だってアレを連想するよ。
上も下も左右も仲間が詰まったケージだなんてさ、アルタミラでなきゃ何なんだい?
鶏かミュウかの違いだけだよ、檻の中で飼われているのがね…!
シャングリラで鶏が増え始めた時、検討された飼い方の案。
沢山の鶏を飼うのだから、と提案されたケージを並べる飼育方法は誰もが却下。一番効率的ではあったけれども、アルタミラで自分たちが押し込められていた檻のことを思い出させるから。
それよりは、と賛成多数で選ばれたのが平飼いだった。
充分に広い船だっただけに、鶏のためのスペースも割ける。専用の農場が一つ作られ、何羽もの鶏が放し飼いにされた。鶏たちは自由に餌をついばみ、歩き回って、卵を産んだ。
しかし…。
平飼いの鶏はハーレムを作って生きるもの。
雄鶏一羽に雌鶏が二十羽、三十羽など。そうやって次の世代をも作る。次の代を生きる鶏を。
繁殖計画の方はもちろん、栄養価の高い卵を産ませるためには健康な鶏、強い鶏。
そういった鶏を育てるためには雄鶏を慎重に選ばねばならない。雌鶏だったら何羽でもいるが、雄鶏は数が少ないのだから。
ゆえにハーレムの主の交代に備えて、次の雄鶏を選び出す。
飼育係の勘に頼るよりも、出来るだけ多くのデータを集めて強い雄鶏を。
卵から孵ったヒヨコは雄鶏と雌鶏に分けられ、雄と分かれば食肉用の飼育場へと送られていた。
そうしたヒヨコの群れの中からヒルマンが選んだ一羽のヒヨコ。
将来のハーレムの主になるべく選ばれたヒヨコは弱かった。肉に回されたヒヨコよりも。
一緒に飼われていた雌のヒヨコに踏み付けられていたり、つつかれていたり。
「…こんなヒヨコでいいのかい?」
どうにも不安なんだけどねえ、と視察に出掛けたブラウがヒルマンに問い掛ければ。
「間違いなく最強の筈なんだがね」
遺伝子的には、という言葉がオマケについた。
つまりはあくまでデータ上のこと、実情は弱いヒヨコなわけで。
死んでしまっては全く話にならないのだから、と皆がヒヨコの世話をした。
雌のヒヨコたちに踏まれるような弱いヒヨコを、鶏専用の農場から出して皆でせっせと。
それは熱心に、飼育係ではない長老たちまでが。
無論、ソルジャーだったブルーも。
「あのヒヨコ…。青の間に預かったこともあったっけね」
「うむ。ヒルマンたちも部屋で世話していたしな」
弱かったからなあ、雌のヒヨコと一緒にしたなら直ぐに踏まれて、つつかれていたし…。
放っておいたら殺されちまう、って農場から出すことにしたんだっけな。
「そうだよ、専用のケージに入れて」
出してやったら、ピヨピヨ鳴きながら後ろを歩いて来たりしたんだ、ちっちゃいくせに。
ペットみたいで可愛らしいから、ぼくだって青の間に連れてったのに…。
「お前もそうだが、ヒルマンたちだって似たようなモンだ」
仕事半分、趣味が半分。
ヒヨコの親になったつもりで部屋で世話して、猫可愛がりってヤツだよな。
他の連中も甘やかしてたし、好きなだけ餌を食わせて貰って、のびのび育っていったんだ。
大きくなれよと、強くなれよ、と。
今のお前と少し似てるな、「しっかり食べて大きくなれよ」って辺りがな。
そうやって皆で育てたヒヨコは可愛かったけれども、ふと気付いたら。
ピヨピヨとしか鳴けなかった黄色いヒヨコに、見事な羽根が生え揃ったら。
「最強になっていたんだっけ…」
弱かった頃が嘘みたいに強い、最強のヒヨコ。とっくにヒヨコじゃなかったけれど。
「殴る蹴るなんぞは当たり前だっていう凄いヤツにな」
まさしく最強のヒヨコってヤツだ、ヒルマンが選んだ通りにな。
データの通りに強いヒヨコで、もう最強としか言えないヤツだったってな。
立派に育って農場に入った最強のヒヨコは、アッと言う間に自分のハーレムを築き上げた。
縄張り意識が強かった上に、独占欲もまた強かった。
他の雄鶏がハーレムに近付くことを決して許さず、周囲の雌鶏は全て自分だけのもの。産まれる卵も自分の血を引く子供とばかりに、目を光らせていたものだから。
自分で卵を温めようとは思わないくせに、卵も自分の財産だと決めてかかっていたから。
卵を拾おうと農場に出てくる飼育係は敵だった。大事な卵を奪う泥棒。
最強のヒヨコは彼らを見るなり蹴り飛ばすのが常で、卵拾いは大仕事で。
「お前、頼まれて卵を拾いに入ったんだっけな」
今日はどうにも近付けないから、なんとか卵を拾えませんか、と訊かれちまって。
視察に出掛けた時だったよなあ、サイオンで拾えば良かったのにな?
「思い付きさえしなかったよ。飼育係はいつも手で拾って集めていたしね」
そのつもりで入って行ったのに…。
頭をドカッと蹴られたよ。鶏相手にシールドが要るなんて、ぼくは思っていなかったから!
「俺だって派手にやられたんだよな、頭をドカッと」
頭だけじゃなくて、背中もか…。
ウッカリ後ろを見せてしまったら終わりだったんだ、あの最強のヒヨコはな。
「ハーレイ、何度も卵を奪いに出掛けるからだよ」
またやって来たと思って睨んでたんだよ、最強のヒヨコ。
背中を向けたら蹴っ飛ばされるよ、泥棒の顔くらい、鶏だって覚えちゃうしね。
「あれはキャプテンの息抜きだったんだ!」
泥棒じゃないぞ、卵拾いは立派な仕事だ。拾わなきゃ卵が食えないんだしな?
それにだ、ヤツに背中を向けたら終わりだというのが緊張感があって楽しかった。
無事に卵を全部拾えたら俺の勝ちだし、蹴られちまったら負けな真剣勝負はいい娯楽だぞ?
今日は勝つぞ、と農場に向かって出掛けてゆく時は気分が高揚していたなあ…。
ソルジャーを蹴飛ばし、キャプテンも蹴飛ばし、シャングリラに君臨していた雄鶏。
毎日毎朝、時をつくって、それは元気に。
何十羽という雌鶏を侍らせ、産み落とされる卵を守ろうと暴力の限りを尽くしながら。
「最強のヒヨコ、最後はどうなったんだっけ?」
「普通は弱ってきたら肉に回されるんだが、みんな愛着があったからなあ…」
酷い目に遭わされた覚えがあっても、弱かった頃からの付き合いが長かったしな?
肉に回して食っちまうには可哀相だろ、お前のヒヨコ饅頭じゃないが。
引退した後はヒルマンが面倒を見ていた筈だ、とハーレイが語る。
他の雄鶏に攻撃されないようにと、農場の隅に専用の鳥小屋を作ってやって。
「そういえば、そういう小屋があったね」
大事な仲間が暮らしているから、ってヒルマンが餌をやりに行っていたっけ。飼育係には仕事があるから自分がやる、って餌をやったり、運動をさせに出してやったり。
「ゼルたちも世話をしに出掛けていたなあ、昔馴染みに会いに行く、ってな」
そうは言っても、たかが鶏だったんだがな。しかも散々苦労させられた、とんでもないヤツ。
「うん、最強のヒヨコって名の」
大きくなっても、引退しちゃった年寄りになっても、最強のヒヨコ。
名前だけは最後までヒヨコだったよ、見た目はとっくにヒヨコなんかじゃなくなっていても。
シャングリラに居た、最強のヒヨコ。ヒルマンが選んだ最強のヒヨコ。
最後は肉になるのだから、と誰も名前を付けなかった。皆でせっせと世話をした頃も、成長して農場でハーレムを築いていた頃も。
最強のヒヨコは最強のヒヨコのままだった。肉を免れて、専用の小屋を貰った後も。
「死んじゃった後は、仲間たちがお墓を作ってやったんだっけ?」
「ああ。ヤツの小屋があった、あの農場の隅っこにな」
流石に人間様と同じようにはいかんさ、とハーレイが笑う。
亡くなった仲間の名前を刻んだ墓碑のある公園はとうに出来ていたけれど、鶏は其処には入れはしないと。愛されていても、あそこは無理だと。
「名前が最強のヒヨコじゃね…」
墓碑に刻める名前じゃないよね、あの名前は。第一、名前と言えるのかどうか…。
「その前にヤツは鶏なんだぞ」
どんなに立派な名前があっても、あいつは鶏だったんだ。
人間様と同じ墓に入ろうだなんて厚かましいんだ、いくら最強だったとしてもな。
最後まで意志の疎通は不可能だった、とハーレイがぼやく。
一度たりとも自分の意を汲んではくれなかったと、最後の最後まで話が通じなかったと。
「俺が餌をやろうと言っているのに、いきなりつついて来やがったぞ」
小屋の扉を開けた途端に、運動だとばかりに攻撃なんだ。
「でも、シャングリラでは一番人気の鶏だったよね」
肉に回されずに引退したほどの人気者だよ、最強のヒヨコ。
「あの頃に子供たちが大勢居たなら、もっと人気は高かったろうな」
まだ子供たちの数は少なかったし、二人か三人ぐらいだったか?
みんなで農場見学に、って繰り出すほどには数が揃っていなかったよなあ、あの頃には。
「アルテメシアに着いて間もない頃だしね」
子供たちがもっと増えていたなら、名前もついていたかもね。最強のヒヨコ。
「そうかもなあ…」
子供ってヤツは名前をつけたがるかもしれないな。
自分たちよりもデカい大人に勝つような鶏、子供にしてみりゃヒーローかもなあ…。
「うん、ソルジャーより強いんだよ?」
いくらサイオンを使うのを忘れていたにしたって、頭を蹴られたのは本当なんだし。
ドカッと蹴られてビックリしちゃって、蹴られっぱなしになっちゃったしね…?
ぼくもアレには勝てなかった、とブルーが言うから。
最強のヒヨコに負けてしまった、と小さなブルーが情けなさそうにしているから。
「お前、ヒヨコ饅頭、食っただろ?」
食っていただろ、頭からガブリと齧って、全部。
「うん、美味しかったよ、ヒヨコ饅頭」
「ほらな、今のお前なら丸ごと食えるさ、あいつでもな」
ヒヨコ饅頭を食えたからには、最強のヒヨコもバリバリと頭から食えるだろうさ。
「無理!」
お饅頭と本物のヒヨコは違うよ、最強のヒヨコには勝てやしないよ!
絶対に負ける、と小さなブルーは頭を抱える。
きっと蹴られておしまいなのだと、前の自分よりも酷い負け方をするに決まっているのだと。
「ぼくにはヒヨコ饅頭がせいぜいなんだよ」
あれくらいだったら食べられるけれど、それでもお饅頭に負けていたかも…。
可哀相だ、って食べられなくって悩んでる間に蹴り飛ばされても仕方ないよね、ヒヨコ饅頭。
「頭から食うか、尻から食うかで悩んじまうようなチビではなあ…」
食うためにあるヒヨコ饅頭も食えずに悩むようでは、肉を免れたヤツには勝てんか。
最強のヒヨコ、肉にならずに済んだんだからな。
「そうだよ、負けるに決まっているよ」
ヒヨコ饅頭よりも強いヒヨコなんだよ、最強だよ?
前のぼくでも勝てなかった相手、今のぼくには歯が立たないよ…!
でも懐かしい、とブルーは微笑む。
シャングリラに居た最強のヒヨコ、最後までヒヨコと呼ばれた雄鶏。
そういう鶏を飼っていた時代もあの船にあったと、幸せな時代だったのだと。
「ふうむ…。蹴られた思い出が懐かしいなら、蹴られに行くか?」
「何処へ?」
「鶏の平飼いをやってる農場だ。卵農場だな」
いつか二人で出掛けようじゃないか、俺の車で。鶏が沢山、元気に走り回っているんだぞ。
「それ、食べに行くって約束だったよ!」
美味しい卵を食べに行こう、って、ハーレイ、言っていたじゃない!
産みたての卵でオムレツとかを作ってくれるって、ホントに美味しい卵だから、って!
「覚えてたのか…」
お前、キッチリ覚えていたのか、あの農場に出掛ける約束。
食が細いから忘れちまっただろうと思っていたのに、美味そうなものは忘れないんだな。
残念だ、と悔しそうな顔を作ってみせるハーレイ。
鶏に蹴られるブルーも面白いのにと、前のブルーも蹴られていたのに、と。
いつかブルーと二人でドライブを兼ねて、卵を食べに農場へ出掛けて行ったなら。
最強のヒヨコがいるかもしれない。
シャングリラの最強のヒヨコみたいに、卵泥棒を蹴り飛ばす強い雄鶏が。
「ハーレイ、今度はぼくを守ってくれるんだよね?」
前のぼくたちの頃と違って、ハーレイがぼくを守るんだよね?
「そういうことになってるな」
俺はお前を守ると決めたし、今度こそ守ってやりたいからな。
「じゃあ、鶏がぼくを襲って来たなら、ぼくの代わりに蹴られておいてよ」
「そうなるのか…!」
代わりに蹴られるのが俺の役目か、お前を守って蹴られるのか…!
たとえ鶏が相手であっても、ブルーを守るのが今度のハーレイ。
ブルーを庇って代わりに蹴られて、大切なブルーを守り切る。
農場で鶏と戯れた末に、ブルーが食らった一撃でも。
卵を拾おうと屈み込んだ隙に、ブルーを狙った蹴りであっても。
(…ヒヨコ饅頭だったら一口で食えるが、鶏となったら、どうなんだかなあ…)
簡単には勝てない相手だろうか、とハーレイは溜息をつくのだけれど。
鶏と派手な喧嘩になっても、ブルーを守ってやらねばなるまい。
前の生から愛し続けた大切な人を、愛してやまない恋人を。
そして二人で卵を食べる。青い地球で育った鶏の卵を贅沢に使ったオムレツなどを…。
最強のヒヨコ・了
※ヒヨコ饅頭が可哀相、と食べるのをためらってしまったブルー。ヒヨコそっくりだけに。
そして思い出した、シャングリラにいた「最強のヒヨコ」。皆に愛された、強い鶏。
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チリン。
軽やかな鈴の音が響いたから。
ハーレイが椅子を動かした途端、チリンという音が聞こえたから。
「ハーレイ、鈴をつけてるの?」
さっきも聞いたよ、とブルーは鈴の音がした辺りをテーブル越しに覗いてみた。
仕事帰りに寄ってくれたハーレイが部屋に入って間もなく、チリンと聞こえた鈴の音。その時も気になっていたのだけれども、母が居たから訊きそびれた。後で訊こうと思って忘れた。
そこへ再び、チリンと鳴った鈴。
ハーレイの趣味の品だろうか、と思ったのだけれど。なにしろハーレイの財布の中には縁起物の亀が居るのだから。銭亀という名の小さな亀が。
鈴もそういう類のものか、と興味津々で尋ねてみたのに。
「いや、こいつは…」
学校の駐車場で拾ったのだ、とハーレイは言った。
仕事を終えて、愛車を停めたスペースに向かって歩く途中で見付けてしまった落とし物。校舎に戻っても生徒はとうに下校しているし、明日、学校に届けることにしたのだと。
「どうせ生徒の落とし物だしな、明日でいいだろ」
俺が見付けて拾わなかったら、他の先生の車に轢かれてペシャンコだったかもしれないし。
落とした生徒が探しに来ようにも、学校にはもう入れないからな。
ほらな、とハーレイが床に置いていた荷物からヒョイと出して来た鈴。金色に輝く小さな鈴。
それがチリンとハーレイの指につまみ上げられて鳴ったから。
澄んだ音色が部屋にチリンと、それは軽やかに鳴ったから。
「綺麗な音だね、失くした人はきっと探しているよね」
落とした時には気付いてなくても、暫く歩いたら気が付くよ。あの鈴の音がしない、って。
何処で落としたか、通学路とかを探し回っていそうだよ、それ。
「多分な、こいつは特別だからな」
「えっ?」
その鈴、もしかして本物の金で出来ているとか?
だから綺麗な音がするのかな、ぼくは本物の金の鈴なんか触ったことはないけれど…。
「ははっ、そういうわけじゃないんだ。いい音がする鈴ではあるが…」
鈴自体はごくごく普通の鈴だな、特別なのは鈴じゃなくって…。
この飾りさ。
これだ、と指差された鈴のついた部分。
鈴のすぐ上、鈴を鞄などに結ぶための紐との間に丸い玉が一つ。それはガラスの玉ではなくて。陶器で出来た玉などでもなくて、強いて言うなら糸で出来た玉。
鈴を吊るす紐よりも少し細い紐を組み上げて作った、まるで小さな手毬のような組紐細工。
赤に緑に、青に黄色に、それから紫。五色の紐で出来た手毬は可愛らしいけれど。
「どう特別なの?」
ただの組紐細工みたいに見えるけど…。これは特別な意味でもあるの?
「あるな、願いの糸ってヤツだ」
それで作った細工物なんだ、この毬みたいな部分はな。
「願いの糸って?」
初めて聞いたよ、それがこの糸の名前なの?
「いや、糸自体は店に行ったら普通に売ってる細工物用の紐なんだが…」
願いの糸を買いたいんですが、と店員に言っても通じないのが普通だろうな。
サッと出してくる店員がいたら、かなり勉強熱心な店員だろう。沢山売れるものでもないしな。
「それじゃ何なの、願いの糸って?」
糸の名前じゃないって言うなら、どうしてこれが願いの糸なの?
「七夕、前に教えたよな? 俺の授業で」
短冊を吊るす、あの七夕だ。織姫と彦星が出会う七夕、それは分かるな?
「うん、他にもハーレイから教わったよ。カササギの橋とか、催涙雨だとか」
「あの七夕の糸さ、願いの糸は。七夕の星への供え物だな」
授業ではそこまで話さなかったが、ずっと昔は七夕と言えば五色の糸を飾るものだったんだ。
他にも楽器の琵琶を供えたり、そりゃあ大掛かりなものだった。
もっとも、そんな七夕をやっていたのは一部の貴族ってヤツだけなんだが…。
願いの糸は七夕で飾る五色の糸から来てるのさ。
願いをかけて五色の糸を飾れば、織姫が願いを叶えてくれる。糸は機織りに使うものだろ?
だから織姫の管轄なんだな、願いの糸で頼んだ願い事を叶えてくれるのはな。
七夕飾りの五色の糸。
織姫が願いを叶えるという五色の願いの糸。
落とし物の鈴に付けられた小さな手毬はそれを組み上げた細工物だと聞かされたから。
「詳しいね、ハーレイ」
これを見ただけで分かるんだ?
紐を売ってるお店の人でも、願いの糸って何のことだか分からないのに。
「おふくろが作っていたからな」
丁度こんな風に紐を組んでだ、こういう鈴をくっつけてな。
「ホント?」
ハーレイのお母さん、こういう物も作るんだ…。
「ああ、おふくろは古い習慣ってヤツが大好きだからな。今は作っていないんだが…」
俺が大きくなっちまったしな、こういう鈴を鞄とかにつけて歩くにはな。
だが、ガキの頃には鞄につけてた。
失くしちまって大泣きしたこともあったっけなあ…。幼稚園の頃かもしれないが。
「大泣きって…。ハーレイが?」
ハーレイが泣いてる所だなんて、ぼくは想像つかないんだけど…!
「そりゃそうさ。転んだくらいで泣きはしないし、怪我をしたって我慢していた」
しかしなあ…。あれを失くした時だけはショックだったんだ。
自慢だったからな、願いの糸。
持ってる友達は誰もいなかったし、これさえつけてりゃ願いが叶うと信じていたしな。
「じゃあ、この鈴を落とした人も…」
大ショックだよね、失くしちゃった、って。今頃、必死で探してるかも、見付からないって。
学校で落としたってことまで分からないもの、それこそ通学路を何度も歩いて。
「さあ、どうだかな?」
もうアッサリと諦めてるかもしれないぞ。なにしろ願いの糸だからな。
「どうして? とっても大事なものなんじゃないの?」
小さかったハーレイが泣いたくらいだし、ぼくの学校の生徒の年ならガッカリだよ、きっと。
大人みたいに簡単に諦められやしないよ、大切な物は。
「それは考え方次第だな。落とした奴がどう考えるかで変わってくるんだ」
俺が鞄につけてた鈴を失くしちまって帰った時。
泣きじゃくっていたら、おふくろがこう言ったんだ。願いが叶ったんだろう、と。
「なんで? 大事な鈴がなくなったのに、願い事なんか…」
願い事を叶えてくれる鈴でしょ、失くしちゃったら願い事はもう叶わないじゃない。
「それが違うんだな、鈴がなくなったからこそだ」
鈴の仕事が終わったんだと、だから消えたんだと言われたな。
「ハーレイ、それで納得した?」
「いや。俺の願い事は叶っていない、と泣き喚いた」
どんな願い事をしていたのかは、今ではすっかり忘れちまったが…。
願い事が叶っていなかったことだけは間違いないなあ、悔しくてたまらなかったからな。
「だったら、それからどうなったの?」
ハーレイ、大泣きし続けていたの、鈴はなくなっちゃたんだから。
「それがな…。おふくろは俺の頭を撫でてだ、鈴はもっと大事な役目をしたんだと言った」
願い事が叶っていないというのに失くしたんなら、鈴は災難を持って行ったんだと。
「災難?」
「そうだ、いわゆる災いってヤツだ。それを消して鈴は消えたんだ、とな」
鈴には厄除けの意味もあるのさ、願いの糸とは無関係にな。
持ち主に降りかかる筈だった厄を祓って、代わりに消えてしまうんだ。身代わりだな。
俺の鈴はそうして消えたんだろう、と言われちゃ納得するしかなかった。何処かで酷い怪我でもするとか、そういったことを鈴が防いでくれたんならな。
「ふうん…。それなら、その鈴を落とした人は…」
ガッカリしているとも限らないんだね、その人の考え方によっては。
「そうさ、願いが叶っていりゃあ万歳、そうでなければ厄を祓ったと思っているか…」
案外、ケロッとしているってことも全く無いとは言えんわけだな。
だがなあ、それでも帰って来ても欲しいしな?
何処かに落ちていないものかと、ヒョコッと出て来てくれないものかと思ってもいるさ。
「鈴の役目は終わったんでしょ、なのに帰って来て欲しいわけ?」
もう充分だと思うんだけど…。なんだか欲張りに聞こえるよ、それ。
「欲張りにもなるさ、願いの糸がついた鈴だぞ?」
ただの鈴ならいつでも、売ってる店にさえ行けば代わりの鈴を手に入れられるが…。
こいつは七夕の願いの糸だし、年に一度しか機会が無い。
「七夕の日にしか作らないの?」
その日だけなの、こういった鈴を作るのは?
「七夕の日にってわけではないんだが…。こういった細工は手間もかかるし」
年に一度の七夕のために作り始める、という感じだな。
その日に作っても出来んことはないが、急な用事が入ったりしたら時間が足りなくなっちまう。七夕の夜までに間に合わなければ、そいつは願いの糸じゃないだろ?
年に一度しか作らない細工がついている鈴で、貰えるのも年に一度だから。
願いの糸が飾られた鈴には七夕にしか出会えないから、出来れば失くさずに付き合いたいもの。
それに…、とハーレイは鈴をチリンと鳴らした。
「こうして失くして、見付かったのなら、なおのことさ」
もっと大切にしてやらないとな、前よりもいい鈴になるんだからな。
「どういうこと?」
失くした鈴が見付かったとしたら、誰だって嬉しいだろうけど…。いい鈴になるって、どういう意味なの、何かいいことが起こるの、それで?
「失くしちまったら、一度御縁が切れるだろ? それなのに戻って来るんだぞ」
それは御縁が深いものだということだからな、もっと効き目が強くなる。
願いの糸だって、この鈴だって。
自分と御縁の深い人なら、大事にしたいと思うじゃないか。
願いを叶えてやろうと思っているなら、より強く。厄を祓うにも、今まで以上に頑張るだろ?
「だから返してあげたいんだね、それ」
落としちゃった人に。失くして探しているかもしれない生徒に。
「ああ。学校で落としたとは思ってないかもしれないからなあ、張り紙を頼んでおくつもりだ」
学校にあるだろ、掲示板。あそこにこれの写真をつけて。
駐車場に落ちていたから、拾って保管してあるとな。そうすりゃ直ぐに分かるだろうし。
「そうだね、それが良さそうだよね」
掲示板なら一日に一度は誰でも見るし…、とブルーはハーレイが拾った鈴を眺めた。
五色の紐で出来た細工がつけられた金色の小さな鈴。
七夕にゆかりの願いの糸とやらは知らなかったけれど、鈴の方なら馴染みが深い。チリンと鳴る音もよく耳にするし、鞄などにつけている生徒も珍しくはないのだけれど。
それは今だからこそで、前の自分が生きた頃には…。
「ねえ、ハーレイ…。こういう鈴って…」
前のぼくたちの頃には無かったよね?
こういう形をしている鈴。シャングリラの中だけじゃなくって、何処を探しても。
「うむ。この形の鈴も、願いの糸もな」
マザー・システムが消してしまった文化ってヤツだな、この鈴たちも。
今の俺たちの住んでる地域じゃ、こういった鈴は何処に行っても見られるモンだが。
「鈴が無いなら、厄除けにだってならないんだね」
厄を祓ってくれる鈴。災難除けの鈴も無かったんだね、前のぼくたちが生きた頃には。
「あの頃なあ…。厄除けで音が鳴るものだったら、教会の鐘って所だな」
「そうなの?」
「らしいぞ、教会の鐘が鳴ったら悪魔も逃げて行くと言うんだ」
もっとも、教会の鐘はデカ過ぎて鈴みたいに持ち歩くことは出来ないし…。
それに、あの時代の教会ってヤツにどれほどの御利益があったんだかなあ、あんな時代だしな?
ついでに教会、シャングリラの中には無かったってな。
だが…、とハーレイは少し考え込んでから、こう口にした。
「もしもあの頃に、鈴があったら。こんな形の小さな鈴があったなら…」
欲しかったかもな、その鈴が。
「どうするの、そんな鈴なんかを?」
ハーレイ、こういう鈴が好きなの、願いの糸の鈴はもう持ってないって言っていたけど…。
「俺じゃないんだ、前のお前にくっつけるんだ」
「なんで?」
前のぼくに鈴なんかつけてどうするの?
もしかして、「猫の首に鈴を付ける」ってヤツ?
ぼくが何処に居るか直ぐに分かるように鈴をつけておくの、チリンチリンと音がするように?
「わざわざ鈴までつけなくっても、俺はお前の居場所が直ぐに分かってたろうが」
落ち込んで隠れてしまってた時も、見付けて迎えに行った筈だが?
目印の鈴なんか要らなかったな、ああいう時にはお前の心が俺の心を呼んでたからな。お前には自覚が無かっただろうが、俺にはちゃんと聞こえていたんだ。お前が俺を呼んでいる声が。
「それじゃ、どうして鈴なんか…」
「さっき言ったろ、こういう鈴は厄除けだとな」
お前に降りかかる、色々な厄。怪我とか、人類軍との遭遇だとか…。
そういった厄を祓ってくれるよう、厄除けにな。
それと願い事か…。
前のお前が心の中だけに仕舞っていたような願い事。
ソルジャーだから、と誰にも言わずに我慢していた願い事を叶えてくれるようにとな。
五色の糸の細工をつけて、とハーレイは語る。
年に一度だけ、七夕の夜に合わせて作られる願いの糸の細工物。
そんな鈴を作ってソルジャーの衣装につけるのだ、と。
「ソルジャーの服に鈴をつけるだなんて…。うるさくない?」
チリンチリンと、やたらうるさいと思うんだけど…。
「うるさいほどにつけたいのか、お前?」
「一個なの?」
鈴をつけるって一個だけなの、もっと沢山かと思っちゃったよ。
どうして勘違いしちゃったんだろ、前のぼくの服のあちこちに鈴が沢山ついてるだなんて。
「うーむ…。一個だけというつもりだったが、山ほどもいいな」
あっちもこっちも鈴だらけだ、ってほどにチリンチリンと。
マントの縁やら、襟元やら。上着にも沢山つけられそうだな、こういった鈴を。
それだけあったらメギドの厄も…、と呟くハーレイ。
鈴が一個でキースの弾を一個、と。
キースがブルーを銃で撃つ度、鈴が一つ消えて銃の弾も消える。弾はブルーの身体に届いたりはせず、身代わりに鈴が消えるのだと。
「ハーレイ、その鈴は強すぎだよ」
いくらなんでもキースの弾まで防げはしないよ、鈴なんかで。
「分からんぞ? 鈴自体はただの鈴でも、だ」
前の俺のシールド能力を託しておけたかもな、と思ってな。
あれでもタイプ・グリーンだったぞ、銃の弾くらいは充分に防げた筈なんだ。
「それじゃ、防弾鈴になるわけ?」
鈴がシールドの代わりになるわけ、前のぼくがシールドを張れなくっても?
「試してみる価値はあったかもなあ、前の俺は思い付きさえしなかったが」
前のお前のマントだの服だの、そういったものの強度ばかりを気にしていたが…。
厄除けの鈴に俺のシールド能力を託せていたなら、メギドでもお前を守れたかもなあ…。
「その鈴、ちょっぴり欲しかったかも…」
メギドまで持って行きたかったかも、ハーレイが作ってくれた鈴。
「これをつけておけ」って、ぼくが歩いたらチリンチリンとうるさいくらいに沢山つけてくれた鈴。
それがあったら、メギドでも、もっと…。
「弾除けになったと言うんだろ?」
お前がキースに撃たれちまった数、本当に酷いものだったしな…。
俺の温もりを失くしちまうほどの痛みだったんだ、弾除けの鈴さえ持っていたなら…。
「ううん、弾除けにするんじゃなくって、温もりの代わり」
ハーレイの温もりの代わりなんだよ、ハーレイがくれた鈴なんだもの。
弾除けとしては効かなくっても、山ほどつけて貰っていたなら、一つくらいは残っていたよ。
チリン、って優しく鳴ってくれたよ。
ぼくの命が消えそうになっていたとしたって、その音だけできっと…。
心強かったよ、とブルーは言った。
撃たれた痛みでハーレイの温もりをすっかり失くしてしまったとしても。
服に残った鈴を右手で握り締めれば温かかったに違いない、と。
其処にハーレイの確かな温もりがあると、この鈴はハーレイがくれたのだから、と。
「だからね、キースに何発撃たれたとしても…」
鈴が弾除けにならなくっても、一個だけでも残ってくれれば良かったんだよ。
もちろん、弾除けになってくれていたら、とても頼もしかったんだろうけどね。
「ふうむ…。鈴だらけのソルジャーなあ…」
マントも上着も、あちこちに鈴で、うるさいくらいにチリンチリンと鳴ってるわけか…。
「凄く間抜けな格好だけどね、キースだって笑い出すほどに」
なんだって鈴をつけてるんだと、ソルジャーっていうのはこうなのかと。
あっ、でも…。
ジョミーは鈴をつけていないわけだし、前のぼくの趣味だと思われたかな?
タイプ・ブルー・オリジンは変な趣味だと、鈴を山ほどくっつけた服が好きらしいと。
「いや、たとえキースが笑ったとしても。ちゃんと力があるならいいだろ、その鈴に」
上手くいったら防弾鈴だぞ、キースの笑いも余裕もたちまち消え失せちまうってな。
いくら撃っても鈴がチリンと一つ消えるだけで、お前は無傷だ。
山ほど鈴をつけていたなら、あっちが先に弾を切らして真っ青になっておしまいだぞ。
「ふふっ、そうかも…」
弾切れになったら、ぼくでもキースに勝てていたかな?
メギドを止めろって脅せていたかな、殺されたくなければ直ぐに止めろって。
「そいつはいいなあ、お前も生きてシャングリラに戻れそうだな」
歴史は丸ごと変わっちまうが、なかなか愉快な話じゃないか。
厄除けの鈴を山のようにつけたソルジャー・ブルーがメギドを見事に止めました、とな。
ミュウの歴史を変えていたかもしれない、願いの糸がついた鈴。
ハーレイが作った厄除けの鈴。
ソルジャーの衣装に山ほどつけていたなら、と二人、楽しげに笑い合う。
今のハーレイが学校で拾った鈴を見ながら、落とし物の金色の鈴を見ながら。
白いシャングリラで生きていた頃には、そんな鈴は何処にも無かったのだけれど。
鈴自体が無い時代だったのだけれど。
あの頃から遥かな時を飛び越え、青い地球の上に生まれて来た。二人一緒に、この地球の上に。
七夕が、鈴がある地域に。
こうした優しい祈りのこもった細工物の鈴がある地域に…。
だからブルーは、期待に満ちた瞳で目の前の恋人を見詰めた。
「願いの糸の鈴…。ハーレイのお母さん、今はホントに作っていないの?」
ハーレイが子供の頃には作ってたんでしょ、今も作っていたりはしない?
「いや、俺がデカくなっちまったし…。鈴なんかが似合う柄でもないしな」
親父は釣りに出掛けたら直ぐに失くしちまうし、作り甲斐ってヤツが無いんだそうだ。
自分で自分に作るというのも、イマイチ気分が乗らないしな?
なにしろ願いの糸だからなあ、自分で自分に願い事をするみたいじゃないか。
「そっか…。ちょっと残念」
見たかったんだけどな、ハーレイのお母さんが作った願いの糸がくっついた鈴。
作り方は決まっているんだろうけど、ハーレイのお母さんが作った鈴を見たかったな…。
「欲しいのか?」
お前も、こういう願いの糸がくっついた鈴。
おふくろが作ると聞いたら欲しくなったか、ソルジャーの衣装はもう無いんだが…。
「ちょっぴりね」
厄除けだとか、願い事だとか。
そういうのは別にいいんだけれども、ハーレイのお母さんが作った鈴なら欲しいよ。
だって、いつかはぼくのお母さんになってくれる人なんだもの。
ハーレイのお母さんだもの…。
ブルーが惜しそうにしているから。
願いの糸の細工がくっついた鈴は作っていない、と聞かされて残念そうだから。
ハーレイは「仕方ないな」と小さな恋人に微笑み掛けた。
「お前が作って欲しいと言うなら、俺がおふくろに頼んでやるさ。しかしだ…」
いつも持ってくるマーマレードのようにはいかんぞ、あの鈴は。
俺のおふくろの手作りとなったら、俺が手料理を持ってくるどころじゃないからな。
お前のお父さんやお母さんたちが変だと思うに決まっているから、今は駄目だぞ。
「分かってる」
どうしてハーレイのお母さんがぼくにくれるのか、パパにもママにも分からないしね…。
もっと小さな子供だったら、お守りに作って貰えたのかもしれないけれど。
「そういうことだ。今のお前じゃ、その手の土産を貰うにはなあ…」
大きすぎるんだよな、チビなんだが。
幼稚園だとか、下の学校に入って間もないくらいの子供だったら良かったのにな?
ただし、それだと俺と結婚出来るまでの時間がとびきり長くなっちまうんだが。
いつか婚約か、結婚でもしたらな、とブルーに約束してやった。
願いの糸の細工物をつけた鈴を作ってやってくれるよう、自分の母に頼んでおくと。
「うん、お願い。その頃にもちゃんと覚えていたなら、またお母さんに頼んでね」
ぼくが忘れてしまっていても。
欲しがってたことを思い出したら、作ってくれるようにお願いしてね。
「もちろんだ。七夕の頃になったら毎年思い出しそうだな、俺の場合は」
授業で七夕は必ずやるしな、そうなって来たら「そうだった」と思い出すだろう。お前のために願いの糸だと、あれをくっつけた鈴だったな、と。
おふくろだって、きっと思い出すさ。可愛らしい嫁さんが来たならな。
「可愛らしい?」
それって、ぼくの背が伸びないってこと?
結婚したってチビのまんまで、今と変わらないって言いたいわけ?
「違うさ、単なる褒め言葉だ。お前、チビだと言われ続けて根に持ってるな?」
俺の嫁さんになろうって頃には、前のお前と同じ姿に育っているさ。
だがな、チビでなくても、デカイ俺よりかは可愛いんだ。前のお前でも充分、可愛い。
おふくろは張り切って願いの糸の鈴を作るさ、お前が欲しいと言うんだからな。
しかし、今度は厄除けじゃなくて願い事のための鈴なんだぞ?
お前に降りかかる災難ってヤツは俺が防ぐと決めているから、鈴の役目は願い事だけだ。
うんと欲張りに願い事をしておけ、叶えた途端に鈴がなくなっちまうほどにデッカイのをな。
「えーっと…。その頃には、ぼくのお願い事って…」
とっくに叶っていると思うよ、ハーレイのお嫁さんだもの。ぼくのお願い、それだけだもの。
「参ったな…。そう来ちまったか」
だったら、幸せをお願いするんだな。もっと幸せにして下さいと、もっと、もっとと。
幸せはいくらあっても困りはしないのだから、とハーレイはパチンと片目を瞑ると、テーブルの上に置いてあった鈴を手に取った。
「さてと、こいつは失くさないように…」
元通りに入れておかんとな。拾ったはいいが、俺が失くしちゃ話にならんし。
「持ち主の所に帰れるといいね、ちゃんと掲示板に載せて貰って」
ハーレイ、しっかり頼んであげてね、落とし物係の人たちに。
その鈴が無事に帰れるように。
「ああ、うんと強くなって帰って行くに決まっているさ。一度失くして、また戻って…」
って、それはお前か。お前のことか…。
「えっ?」
「お前さ、お前。…前の俺が一度お前を失くしてしまって、今のお前が帰って来た」
俺の所に帰って来たろう、俺はお前を失くしたのに。
「ぼく、鈴じゃないよ?」
それに強くもなっていないし、サイオンはとことん使えないし…。
その鈴みたいに厄を祓ったり、願いを叶える力だって無いし、ハーレイの役には立たないよ?
「そうじゃなくてだ、御縁が深いということさ」
一度失くして戻って来たものは御縁が深いと言っただろう?
俺たちの縁は前よりももっと深くなったに決まっているのさ、一度は失くしたお前だからな。
「そっか…!」
ぼくもハーレイの温もりまで失くしちゃったけど…。
ハーレイ、ちゃんと居てくれるものね。ぼくと一緒に地球の上だもんね、同じ町に住んで。
今度の御縁はうんと深いね、今度は結婚出来るんだものね…。
一度失くして、戻って来て。
そうしたものは自分との縁が深いものだと言うのだから。
お互い、一度は相手を失くして、再び巡り会えたのだから。
結婚して、もっと縁を深めて、前の生よりも強い絆を。
願いの糸で飾られた鈴や、ハーレイの母が作るマーマレードや、色々なもので繋がってゆく。
幾つも幾つも御縁を繋いで、手を繋いで二人、何処までも共に。
そうしような、とハーレイは小さなブルーに微笑んでやる。
願いの糸に託す願い事も無いほど幸せにするから、青い地球で二人で生きてゆこうと…。
願いの鈴・了
※ハーレイが拾った、落とし物の鈴。七夕にまつわる厄除けの細工物だったらしいです。
前のブルーが持っていれば、という話ですけど、今のブルーは貰えそうですね。
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「クシャン…!」
仕事帰りに寄った、ブルーの家。
夕食までの間にお茶とお菓子で寛いでいたら、ブルーが小さなクシャミをしたから。
ハーレイは「どうした?」と問うてやる。急に鼻でもムズムズしたか、と。
「なんでもないよ」
いきなりクシャンと出ちゃっただけ。もう平気。
「そうか? ならいいが…」
鳶色の瞳でブルーを見詰めた。
自分は車でやって来たけれど、今日は午後から風があった。小さなブルーはバス通学だが、バス停から家まで歩く途中は少し身体が冷えたかもしれない。秋の風でも冷たかった風。
風邪を引いてはいないだろうな、と念を押したけれど。
「平気!」
クシャミが一回だといい噂でしょ?
二回だったら悪い噂で、三回だったら風邪だとハーレイも言っていたじゃない。
ぼくは一回クシャミしただけだよ、誰かが噂をしていたんだよ。
「ふうむ…。そういう話もしたっけな」
古典の授業の中での雑談。生徒を飽きさせない工夫。
ブルーはそれを覚えていたのか、と嬉しくなる。クシャミの回数と噂とを巡る言い伝え。
「ね、そうでしょ? だから風邪なんかは引いていないよ」
一回だったらいい噂だから、どんな噂をしてくれたのかな?
ぼくのことを褒めてくれていたかな、ご近所さんとか、でなきゃ、友達。
それは嬉しそうに、楽しそうにクシャミの言い伝えで自分のクシャミを打ち消すブルー。
ただのクシャミだと、噂されただけだと、何の心配も要らないと。
そんなブルーについつい釣られて長居をした。
ブルーの両親も一緒の夕食の後も、ブルーの部屋に食後のお茶を運んで貰って。
どうせ明日にはまた会うのに。
午前中から訪ねて来る日だと決まっているのに、ついゆっくりと腰を落ち着けていた。
「明日は土曜日だから、帰りが少し遅くなっても平気だよね」と引き留められて。
小さなブルーにせがまれるままに、あれこれと話が弾むままに。
そして次の日。
いつも週末にしているように、朝食を済ませて家を出て。
天気がいいからブルーの家までのんびり歩いて、門扉の脇のチャイムを鳴らした。ブルーの母が門扉を開けにくるまでの間、二階を見上げてみたのだけれど。
すっかり馴染んだブルーの部屋。其処の窓からブルーが手を振る筈なのだけれど。
(…部屋にいないのか?)
珍しいな、と人影が見えない窓を眺めた。他の部屋にでも行っているのか、でなければ。
(あいつが迎えに出て来るとかな)
たまたま階下に下りていたなら、そういうこともあるかもしれない。ブルーが門扉を開けに来たことは一度も無かったが、もしも出て来てくれるのならば。
(未来へと時間を越えた気分になるな)
結婚した後、「おかえりなさい」とブルーが出迎えに来てくれたようで。
それもいいな、と頬が緩んだけれども、間もなく開いた玄関のドアから現れた人影はブルーではなくて。
門扉を開けに来た、ブルーの母。申し訳なさそうに告げられた言葉。
「風邪ですか?」
「ええ、少し…」
寝かせてあります、と聞かされたハーレイは、ブルーの姿が見えなかった理由を理解した。風邪では仕方ないだろう。窓に駆け寄って手を振るどころかベッドの住人、可哀相にと溜息をつく。
これでは二人で休日を過ごすどころではないな、と思ったのだが。
「お大事に」とだけ言葉を残して帰ろうとしたが。
ブルーの母は「でも…」と門扉を大きく開くと、ハーレイを庭へと招き入れた。
息子が風邪を引いていてもいいなら、側に居てやって頂けませんか、と。
ブルーは朝から先生に会いたがっていますから、と。
「ええ、お邪魔してもいいのでしたら…」
このとおり丈夫な身体ですしね、風邪なんかうつりはしませんよ。
ご心配なく、マスクなんかも要りませんから。
恐縮しているブルーの母に案内されて、二階のブルーの部屋に入れば。
来てくれるとは思っていなかったのだろうか、ベッドに居たブルーの顔が輝く。
「ハーレイ、おはよう!」
「お前、おはようじゃないだろうが!」
風邪はどうした、と言えばベッドから起きようとするから。
ベッドの脇に置かれたガウンを取ろうと手を伸ばすから。
「こら、寝てろ! 起きるヤツがあるか!」
俺がそっちの方に行くから、と椅子を引っ張って来てベッドの側に座った。
普段だったら、ブルーと向かい合わせで座っている椅子。テーブルとセットになっている椅子。
テーブルの上にはブルーの母が置いて行った紅茶のカップとポット。それにお菓子と。
部屋の扉はとうに閉められ、ブルーと二人きりの部屋。
ベッドの中のブルーは嬉しさを隠そうともせずに微笑んでいる。
けれど…。
「クシャン!」
昨日も聞いた、ブルーのクシャミ。
あの時はただのクシャミに聞こえたけれども、今のブルーは病人だから。
「おい、大丈夫か?」
熱は無いのか、クシャミだけではなさそうだがな?
「ちょっぴり…」
ほんのちょっぴりだよ、ホントに微熱。それなのにママが寝ていなさい、って。
今日はハーレイが来てくれる日なのに、寝ていなさいって言われたんだよ。
「当然だろうが、お前、風邪だろ?」
ふうむ、と手を伸ばしてブルーの額に触ってみて。
くすぐったそうにしているブルーに「少し熱いか?」と尋ねてみれば。
「ちょっとだけね」
ホントにちょっぴり、熱って言うほどの熱でもないよ。
「測れ!」
お前の言うことは信用出来ん。
熱が高けりゃ俺が帰ってしまうかと思って、微熱だと嘘を言いかねないしな。
俺がきちんと納得するよう、今の体温ってヤツを測るんだな。
ほら、と枕元にあった体温計を渡して、ブルーに測らせている間に。
小さなブルーが渋々熱を測っている間に。
(ん…?)
脳裏を掠めた、遠い日の記憶。遥かな昔に過ぎ去った記憶。
(そういえば…)
あれも体温計の記憶だった、と白いシャングリラでの日々が蘇ってきた。
ブルーと暮らした白い鯨での懐かしい日々が。
青い地球の上に生まれ変わる前、キャプテン・ハーレイだった前の生。
あの頃の自分には特技があった。
ソルジャー・ブルーだった前のブルーには、些か迷惑とも言える特技が。
(そうだったっけな…)
ブルーの額に軽く触れるだけで、熱の有無が分かった前の自分。
銀色の前髪をそっとかき上げ、額にピタリと手を当てたならば、より正確に。
(前のあいつは、顔だけしか外に出ていなかったしな?)
ソルジャーの衣装はそういう風に出来ていたから。
華奢な手さえも手袋で覆われ、透けるような肌が見える部分は顔くらいだった。その顔の上の、白い額に手を当てる。あるいは触れる。
額に熱さを感じた時には、触れるだけだった手をピタリと押し付け、ブルーを睨んだ。
「熱がおありのようですね」と。
お休みになって頂かなければと、言い訳なさっても無駄ですよと。
「大丈夫だよ」が口癖だったブルーの嘘を、何度も何度も見抜いていた。
ソルジャーだからと気を張って無理をしようとしていたブルーが平然とつく嘘を。
(額は嘘をつけないからなあ、正直だからな?)
熱があると分かれば、たとえブルーが何処に居ようと、もう強引に青の間へ。「大丈夫だよ」と言い訳されても耳も貸さずに、逃げないようにと監視しながら付き添って。
青の間に着いたら熱を測らせ、そうしてベッドに送り込んだ。
ソルジャーの衣装は脱がせてしまって、柔らかなパジャマを着せ付けて。
(…そういう時のためのパジャマだっけな…)
以前は確かに着ていたくせに、いつの間にやらパジャマを着なくなってしまったブルー。
ハーレイの温もりと身体とをパジャマ代わりに眠ったブルー。
それでも病気の時はパジャマで、流石のブルーも文句は言えない。ドクター・ノルディが診察に来るし、その時に何も着ていないのでは酷く叱られるに決まっているから。
「裸で寝るとは何事ですか」と、「病人の自覚がおありですか」と。
一度ベッドに入ってしまえば、張っていた気が緩むから。
ブルーは寝込んでしまうのが常で、そうなればもう眠っているだけ。溜まった疲れを眠ることで癒すという面も多分、あったろう。
放っておいたら食事も摂らずに眠り続けるから、ブルーが好んだ素朴な野菜スープをキッチンで作って食べさせ、その他にもあれこれ世話をしていた。ブリッジを抜けては、様子を見て。
ドクターよりもブルーの体調に詳しかった自分。
こういう時にはこうすればいいと、こうすれば早く良くなる筈だと。
今と同じで虚弱だったブルーの弱い身体は薬だけでは治りが遅い。精神の疲れも取ってやらねばいけなかったし、野菜スープをスプーンで掬って口に入れてやるだけでもかなり違った。
甘えていいのだと、甘えられるのだとブルーの心がほぐれるから。
それから優しいスキンシップ。
恋人としての愛撫ではなく、幼子を慈しむように。
そうっと額を撫でてやったり、普段なら昼間は手袋に包まれている手を握ってやったり。
何かと手がかかる恋人だったけれど、愛おしかった。
自分がベッドに送り込まねば、倒れてしまうまで無理をし続けそうな前のブルーが。
(朝、起きたら熱があったりするんだ)
それは気付かずに無理を重ねた結果であったり、弱い身体だけに病に負けたり。
前の自分の腕の中のブルーの身体が熱い、と気付かされる朝。
(服なんか着てはいなかったしなあ、余計に分かりやすかったよな?)
肌と肌とが触れ合っているだけに、額に触れずとも分かった異変。
それでも起きようとしていたブルーを何度止めたことか。
「大丈夫だよ」と微笑むブルーに熱を測らせ、「駄目です」と体温計の表示を突き付けて。
(俺が一緒に寝ていなかったなら…)
どれほどの無茶をしたのだろうか、あの頃のブルーは?
熱で足元がふらついていても、「大丈夫だよ」と視察に回って、新しく見付けたミュウの子供の救出などにも出掛けて行ったに違いない。
アルテメシアに着いて間もない頃ならともかく、居を定めた後は救出班を設けてブルーの負担を減らす工夫をしてあったのに。ブルー自ら出掛けなくとも、救出班には充分な力があったのに。
それでもブルーは出掛けて行ったし、救出作戦を見守っていた。いざという時のために。
(病人が行っても意味が無いんです、と俺は何回怒鳴ったことか…)
絶対に駄目だ、と叱り付けてブルーをベッドに押し込み、外に出ないよう見張りもした。
「少し外す」とブリッジを離れて、青の間から指揮を執りながら。
ブルーのベッドの側に運んだ椅子にどっかりと座り、無茶をしがちなブルーが逃げないように。
何度もブルーとの攻防を繰り返し、無理やりベッドに押し込める内に、身体が覚えた。
この熱さならばブルーの体温は何度くらい、と、身体が、額に当てる手のひらが。
「ハーレイはぼくの体温計だね」
そう言ったブルーを覚えている。肩を竦めて苦笑したブルー。
本物の体温計には嘘がつけるが、ハーレイには嘘がつけないと。
(うん、体温計なら誤魔化せたんだ)
前のブルーのサイオンがあれば、簡単に。
相手は単純な仕組みなのだし、一瞬で数値を書き換えられた。
けれどもハーレイの手だけは誤魔化せないから、大人しくベッドで寝ていたブルー。
「熱がありますよ」と体温計でも測られてしまって、ドクターを部屋に呼ばれてしまって。
一度ベッドに送り込んだら、後は癒えるまで静かに寝ていてくれだのだけれど…。
そういったことを考えていたら。
遠い記憶を思い出していたら、ピピッと微かな体温計の音が聞こえた。
小さなブルーに「測れ」と渡した体温計。
「見せてみろ」
貸せ、と手を伸ばせば、ブルーは上掛けの下に潜り込みそうな顔で不安そうに。
「…怒らない?」
「いいから、ちゃんと申告しろ!」
何度あるんだ、と体温計を奪って見てみれば表示は微熱で。
「まあ、この程度だったら、話すくらいは…」
別にいいだろう、はしゃぎすぎて咳き込まないように気を付けるならな。
それとベッドから出て来ないことだ、そうするんなら許してやる。
「ホント?」
「その代わり、喋るのは主に俺だぞ、お前は聞き役に徹していろ」
質問と相槌は許してやるがな、自分からあれこれ喋らないことだ。疲れちまうからな。
ついでに、後できちんと昼寝するんだぞ、でないと早く治らんだろうが。
「昼寝って…。ハーレイ、帰ってしまわない?」
ぼくが寝てたら、その間に。いつもだったら、土曜日は夜まで居てくれるのに…。
「居てやるさ。今日は土曜日だからな」
お前が昼寝をしてる間は、本でも読ませて貰うとするかな。
シャングリラの写真集もいいがだ、たまにはお前の本棚の本を適当にな。
ブルーの母が運んでおいてくれたお茶がポットにたっぷりとあったから。
のんびりと飲みつつ、合間に菓子も口へと運んだ。
小さなブルーにも枕元の水分補給用のドリンクを何度か飲ませたりしながら、学生時代の武勇伝などを聞かせていたら。
「ハーレイ、ぼくの体温計だね」
「はあ?」
唐突な言葉に目を丸くしたが。
思い出した、とブルーが笑った。
前のぼくは何度も測られていたと、叱られていたと。
「ハーレイ、ぼくのおでこに触っただけで熱が分かるんだもの」
何度あるのか、触っただけで。
そして睨むんだよ、怖い顔して。「熱がありますね」って、「直ぐに測って下さい」って。
ぼくが測るまでじっと見てるし、体温計を誤魔化したってハーレイに嘘はつけないし…。
あれで何度も叱られていたよ、熱があるのにウロウロするな、って。
ベッドに入るまで監視されてて、ドクターを呼ばれちゃうんだよ。
「ああ、あれなあ…」
実は俺もさっき思い出していたんだ、とハーレイはブルーの小さな額に手を当てた。
ほんの少しだけ熱く感じる、小さな額。
体温計が示した数字に嘘は全く無いのだろうが、今の自分にはブルーの熱が分からない。微熱があるということだけしか、高熱ではないということしか。
前の自分が言い当てたように、体温計の表示と同じ数字を弾き出せはしない。
だから溜息をつくしかなくて。
「今の俺にあの腕があったらなあ…」
お前の体温計をやっていた頃と同じ腕があれば良かったんだが。
「なんで?」
「あの腕があったら、昨日のお前の不調が分かった」
そうすれば俺は早めに帰っただろうし、お前だって早くベッドに入れた。
風邪は引き始めが肝心だからな、暖かくして早い時間に眠れば朝には治っているとも言うんだ。
あの頃の腕が俺にあったなら、お前、寝込みはしなかったろうに。
「だけど…。昨日は熱は無かったよ?」
クシャミが出ただけ、それっきりだよ。体温計の出番なんかは無かったよ。
ぼくだって、朝に身体が熱いと思うまでは測っていなかったもの。
「それでも、多分、分かっていたな」
体温計だった頃の俺だったなら、と返してやれば。
小さなブルーは不満そうに唇を尖らせ、ハーレイを恨めしそうに見上げた。
「ぼくと一緒に寝ていないのに?」
あの頃のぼくはハーレイと一緒に眠っていたから、夜の間に熱が出て来たら分かるだろうけど。
そうでもないのに分かるわけがないよ、ぼくがクシャミをしてたくらいで。
クシャミくらいは誰だってするし、一回だけのクシャミだったらいい噂だよ?
「そうでなくても分かるんだ!」
一緒に寝ていたからだけではない、とハーレイは生意気な恋人の額を小突いた。
前の自分が体温計などという特技を体得したのは、前のブルーと長く一緒に暮らしたからだと。
白い鯨で三百年も共に生きたし、青の間が立派に出来た後でも二百年以上。
それほどの時を側で生きたから、ブルーに生じた僅かな変化。
体調の変化を決して見逃さないのだと、そうした経験を積み重ねた末に体温計になったのだと。
触れるだけで熱の有無が分かって、手のひらを当てれば正確な数値。
サイオンで誤魔化せる体温計よりも正しく測れる、ブルー専用の体温計に。
「じゃあ、今のぼくは?」
まだ測れないの、チビだから?
子供は体温が高いって言うし、そのせいでハーレイ、測れないかな?
「そうじゃなくって、データ不足だ」
いいか、前の俺は死んじまっているんだ、ずうっと昔にこの地球でな。
前の俺の記憶は残っちゃいるがだ、その頃の感覚とまるで同じっていうわけじゃない。
お前だってそうだろ、右手が冷たいと覚えてはいても、その冷たさは同じじゃない。
だからだな…。
前の俺の記憶を総動員して、お前の体温を測ろうにも、だ。俺の身体がついていかない。こんな感じでいいんだったか、と曖昧なことしか分からないのさ。
今じゃせいぜい、熱っぽいな、と分かる程度だ。もっと修行を積むまではな。
「それじゃ、いつかは分かるようになる?」
前のハーレイがやってたみたいに、ぼくの体温、ピタリと測れるようになるかな?
「当然だ!」
俺は意地でも測れるようになってみせるぞ、出来ないだなんて情けないしな。
前の俺より、ずっと近くにいられるようになるっていうのに…。
お前を嫁さんにするっていうのに、嫁さんの体温も測れんようでは情けなくって涙が出るぞ。
恋人同士なことさえ秘密だった頃には出来ていたことが、まるで出来なくなったんではな。
「えーっと、ハーレイ…。ぼくの体温計になれる頃って…」
結婚してから? とブルーが訊くから。
一緒に暮らせるようになるまで無理なのかな、と尋ねてくるから。
「それまでにマスターしたいもんだが…」
前の俺だって、早い頃から体温計の片鱗は見えていたんだからな。
お前と恋人同士になってない頃も、お前の具合が悪い時には誰よりも早く気付いていたし…。
だから結婚するよりも前に体温計になれるといいなあ、お前が無理をしないようにな。
「どうやって?」
ぼくと一緒に暮らしてないのに、どうやってマスターするつもり?
本物の体温計を使って測りたくっても、しょっちゅう測れやしないのに…。
「お前に何度も会ってる間に分かるようになるさ」
今日のお前の額の熱さと、体温計に出てた数字と。
これでデータは一つ手に入れたし、後は地道な積み重ねだな。
お前がクシャンとクシャミをしたなら、サッと額に手を当てて熱を確かめるとか。
具合が悪くて学校を休んでしまってる時も、せっせと見舞いに来ては額に手を当てるとかな。
そして、とハーレイは微笑んでみせる。
結婚して共に暮らすようになれば、どんな不調も見逃さないと。
また体温計になってみせると、目覚めるなり「熱があるぞ」と一目で見抜いてみせると。
ブルーの発熱に気付いたならば、前の生でしていた通りにベッドに押し込む。起きようとしても駄目だと叱って、ベッドに戻して、上掛けを掛けて…。
「それなら、仕事も休んでくれる?」
ぼくは熱が出ていて病気なんだよ、世話をしてくれる人、いないのに…。
パパもママも一緒に暮らしてないのに、ぼくはベッドで独りぼっちだよ、熱があるのに。
「前の俺がブリッジを抜けたようにか?」
少し外す、と青の間で指揮を執りながら、お前を監視していたように。
無茶しないよう見張ってもいたが、スープも作っていたっけな。野菜スープのシャングリラ風。
あんな風にお前についてりゃいいのか、仕事は二の次、三の次で。
「うん」
ハーレイが仕事に行ってしまって、鍵がかかった家で一人は嫌だよ。
少しくらいなら我慢するけど、一日中とか、大丈夫かな…。
「努力してみよう」
お前が寂しくて嫌だと言うなら、なんとか都合をつけられるように。
熱にうなされて目が覚めた時に独りぼっちだと、お前、泣くかもしれないからなあ…。
うんと甘えん坊になっちまった上に、思念で連絡も取れないんだしな?
嫁が風邪を引いたようでして、と仕事を休めばいいんだな、とハーレイは笑う。
休みを取るのが無理な日だったら、授業の合間に車を飛ばして真っ直ぐブルーの待つ家へ。
そしてベッドで寝ているブルーの世話をする。
熱を測って、スープを作って。
もちろん熱は自分の手のひらをブルーの額に当てて測って、体温計の数字はあくまでオマケ。
スープは何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んで、野菜スープのシャングリラ風を。
他にも色々、ブルーの世話。
遠い昔に白いシャングリラでやっていたように、もう愛おしさを隠すことなく。
ブルーはハーレイの伴侶なのだし、誰に遠慮も要らないから。
たとえスープを、水を口移しで飲ませていようと、誰も不思議には思わないから。
「ふふっ、楽しみ」
ハーレイが世話をしてくれるなんて、とっても幸せ。
今度のハーレイはぼくの体温計っていうだけじゃなくって、堂々と世話が出来るんだものね。
ぼくをベッドに押し込んだ後は、ハーレイが世話してくれるんだものね…。
前のぼくだと、部屋付きの係や医療スタッフが殆どの世話をしに来ていたのに。
「おいおい、楽しみなのも分かるが…」
少しは丈夫になってくれ。
クシャミを一つしていたくらいで次の日はベッドの住人だなんて、弱すぎるぞ。
俺がしょっちゅう言ってるだろうが、しっかり食べて大きくなれよ、と。
大きく育つ方もそうだが、しっかり食ったら身体も丈夫になるんだからな。
「努力はするけど…」
そんなに丈夫になれるのかな、ぼく…。
前のぼくよりも弱いんじゃないかな、頑張らなくちゃっていう場所、学校だけだし…。
ソルジャーなんかをやってない分、病気とかには弱いのかも…。
今度のぼくは弱い気がする、と言った途端に。
「クシャン!」
ブルーの口から飛び出したクシャミ。
ハーレイはハッと我に返った。ついつい話し込んでしまったけれども、ブルーは病人。
(しまった、俺だけが喋るって予定でいたのにな?)
これではブルーが休めないから、たかが風邪でも良くならない。早く治すには充分な眠り。まだ太陽は高いけれども、昼前だけれど、休ませなければ。
ブルーの肩を上掛けの上からポンポンと叩き、髪をクシャリと撫でてやった。
「いかんな、クシャミが出ちまったぞ」
ほら、少し眠れ。大人しくしてな。
「お昼前なのに?」
ハーレイ、昼寝をしろって言ったよ、昼寝はお昼が過ぎてからじゃないの?
「屁理屈を言うな。スープを作って来てやるから」
お前、好きだろ、野菜スープのシャングリラ風。
寝てる間にじっくり煮込んで、うんと美味いのを作ってやるさ。その間にゆっくり寝るんだな。
「うん…」
ちゃんと寝るから、帰らないでよ?
今日は夜まで居てくれるんでしょ、土曜日だから。
「ああ、お前の部屋に居ることにするから、その風邪、しっかり治すんだな」
そうすりゃ、明日には起きられるしな?
いいか、ぐっすり寝るんだぞ。野菜スープが出来上がるまでな。
「うん…。うん、ハーレイ…」
約束だよ、ホントに帰っちゃ嫌だよ?
野菜スープを作りに行くって、ぼくを騙して帰ってしまったりしないでよね…?
スープが出来るの待ってるからね、と上掛けの下から出て来た右手。
その手の小指とハーレイの小指を絡め合わせて、約束をしたと満足そうにしているブルー。
いつもより僅かに体温の高い、微熱で温かくなっている小指。
(…さっきより熱いんだか、同じなんだか…)
まだ触れただけで体温は測れないけれど。
いつかはこれだけでブルーの体温を測ってやろう、とハーレイは思う。
前の生で測っていたように。
あの頃よりももっと腕を上げて、絡めた小指で正確に測ってしまえるくらいになるように。
(ブルーのためだけの体温計なあ…)
前の自分が持っていた特技。今の自分にはまだ無い特技。
早くブルーの体温計になってやらなければ。
今度こそブルーを守ると決めたし、愛しいブルーに病も近付けないように。
不調を見抜いて、きちんと体温を測ってやって。
仕事の合間に家へと走ることになっても、ブルーが愛おしくてたまらないから。
だから、体温計になる。
ブルーの熱なら、体温計よりも正確無比に測ることが出来る、ブルー専用の体温計に…。
体温計・了
※触れるだけでブルーの体温が分かった、前のハーレイ。熱があるかどうか。
ブルー専用の体温計だったらしいですけど、今はまだ無理。でも将来は体温計です。
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