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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

 仕事で遅くなって、ブルーの家に寄れなかったから。
 こういう日にはジムやドライブなどに出掛けたりもするのだけれども、今日は買い出し。家から近い食料品店の駐車場に愛車を停めて、店の中へと。
 商品を入れるための籠を左手に提げ、あれやこれやと入れてゆきながら。
(コーヒーも買っておかないと…)
 そろそろ買わねばならない頃だ、と思い出した。
 ブルーの家では紅茶ばかりを飲んでいるけれど、それはブルーに合わせてのこと。自分の好みで選んでいいなら断然コーヒー、それがハーレイのお気に入り。
 豆を挽く時間もドリップする時間も、心安らぐ寛ぎの時間。何が無くとも、コーヒーだけは家に無くてはならないもの。そのコーヒー豆がもうすぐ切れる頃だから。
(早めに買っておかんとな)
 仕事が早く終わった日にはブルーの家でお茶と夕食。帰る頃にも食料品店は開いているのだが、最低限の買い物だけをする習慣。じっくり選びたいコーヒー豆を買うなら、今日のような日に。



 何にするかな、とコーヒー豆の売り場に出掛けて驚いた。
 コーヒーフェアを開催中。地球は元より、コーヒーで知られた他の星で産する豆も色々とある。そういえばチラシを見たかもしれない。期間中に寄れるか分からないし、と読まなかったが。
(ちょうどいい日に来合わせたな)
 これだけあれば選び放題、専門店まで行かねば買えない豆もあるのが実に嬉しい。まさに愛好家向きのイベント、コーヒー党には見ているだけで楽しいもので。
(どれにしようか迷うトコだな)
 高級品の豆も捨て難いけれど、珍しい豆を買うのもいい。行ったこともない他の星の豆。
 そういった豆も悪くはないな、と普段は見かけないような品を端から順に目で追っていたら。
(こいつは…!)
 この店ではついぞお目にかからない豆のパッケージに惹き付けられた。
 アルテメシア産と謳ったコーヒー豆。
 有名どころの豆などと違って、味の特徴や魅力を記した説明は全く添えられていない。つまりは評判の高いコーヒーではなく、フェアのためだけに取り寄せられた品。
 恐らく売りはアルテメシア産というだけのことで、ミュウの歴史の始まりの星から届いた豆。
 早い話が話題性だけ、コーヒーとしては特筆すべき何も持ってはいないのだろうが…。



(ふうむ…)
 懐かしいな、とアルテメシアの名前が刷られた豆の袋を手に取った。印刷されたカラー写真には忘れようもない雲海の星。アルテメシアと言えば、今の時代でもこの雲海。
 青い地球に生まれ変わった自分は肉眼で見てはいないけれども、前の自分は何度か眺めた。あの星に初めて辿り着いた時も、ナスカの惨劇の後でアルテメシアに戻った時も。
(こうして見ると変わらんなあ…)
 遠い記憶の中にある星と。
 前の自分がシャングリラのブリッジから見ていた星と。
 手にしたらもう、元の棚へと戻せはしない。星に呼ばれたと言うべきか。
(アルテメシアのコーヒーか…)
 どんな味だとも書かれていないし、食料品店のスタッフのお勧めとも書かれていないコーヒー。価格も特に高めではなくて、アルテメシアからの輸送費などを思えばコーヒーとしては安い方。
(あんまり期待は出来そうにないが…)
 しかし、また会えるとは限らないから。家から歩いて来られるほどの店で、また出会えるのかは謎だから。
(…買ってみるかな)
 よし、とコーヒー豆の袋を籠の中に入れた。
 雲海の星が呼んだのだろうと、買うのならばこのコーヒーだと。



 愛車を運転して家に帰って、買った食品を整理して。冷蔵のものは冷蔵庫へ。常温で保存出来るものは棚などへ、と仕分けを済ませて、アルテメシアのコーヒー豆だけはテーブルの上に。
 それから手早く夕食を作り、ダイニングのテーブルで食べながらコーヒー豆の袋を眺める。袋に刷られた雲海の星。今も雲海に覆われた星。
(アルテメシアか…)
 あの星で暮らした時間は長かったけれど、大部分は雲海の中で過ごした。シャングリラの船体を覆い尽くして匿ってくれる白い雲の中で。
(こういう姿はあんまり記憶に無いんだよなあ…)
 アルテメシアの全景は。
 暗い宇宙にぽっかりと浮かぶ、雲海の星の姿そのものは。
 けれど、懐かしさが込み上げてくるアルテメシア。長く暮らした思い出の星。
 この星で何度、コーヒーを口にしただろう。シャングリラの中で熱いコーヒーを飲んだだろう。自室で、休憩室で飲んだコーヒーはそれこそ星の数ほど、とても全部を思い出せはしない。
 ブリッジでも仕事の合間に飲んだ。「お疲れ様です」と若いブリッジクルーが運んで来たのを、キャプテンだけが座るシートで。ある時は舵を片手で握りながらのコーヒーブレイク。
(美味かったんだ、あの一杯が)
 疲れが癒えてゆくコーヒー。神経をすり減らす操舵の間も、あのコーヒーで乗り切れた。絶妙な苦さと独特の味わい、まさに命のための一杯。
 ただし、キャロブのコーヒーだったが。
 イナゴ豆という名の木の実から生まれた、代用品のコーヒーだったが…。



 そんなコーヒーを飲んで過ごした雲海の星。
 生まれ変わって、青い地球の上でアルテメシア産が謳い文句のコーヒー豆を買ってみたものの。
(…美味いのか、これは?)
 店では深く考えないまま籠へと入れたけれども、思い起こせば味を知らない。
 アルテメシアの雲海の中ではキャロブのコーヒー、それだけが全て。地上で暮らしていた人類が飲むような本物のコーヒーには出会えなかった。
(潜入班のヤツらは飲んだんだろうが…)
 ミュウと判断されそうな仲間を事前に救い出すために派遣されていた潜入班。人類側のデータを操作し、人類に紛れて暮らす間にコーヒーも口にしただろう。
 けれども、彼らは土産を買っては帰らないから。物資の補給に派遣されていたわけではないから土産などは無く、アルテメシア産のコーヒーは船に届かなかった。飲める機会は一度も無かった。



(アルテメシアを落とした後も…)
 最初に陥落させた星。ミュウの歴史の始まりの星。
 暫く滞在していた筈だが、その間にはコーヒーも飲んだ筈なのだが。
(ジョミーの補佐で降りていたしな)
 若きソルジャーの右腕として、何度も地上に降りていた。人類側との会談や会食もあった。
 そういった席でカップを手にした記憶はある。熱いコーヒーを満たしたカップ。
 シャングリラの中では相変わらずキャロブのコーヒーだったし、地球に着くまでキャロブ以外のコーヒーは無いままだった。人類との戦いに勝利したいなら、生活を変えてはならないから。
(何処で補給が断たれちまうか分からないしな、戦時中では)
 一度贅沢を覚えてしまえば、人はそれに慣れるものだから。
 遠い昔に奪う生活から自給自足へと切り替えた時に、噴出した不満を覚えていたから。
 人類側との戦いに勝って星を幾つも手に入れた後も、シャングリラは常に自給自足を守る路線を貫いた。地上に降りて飲食するのは自由だったが、地上の物資を補給用に積みはしなかった。
 だからキャロブのコーヒーしか無く、そのまま地球まで行ったけれども。
(アルテメシアで飲んだってことは…)
 シャングリラを離れて地上で飲んだものならば、恐らくはアルテメシアのコーヒー。あの雲海の星で育ったコーヒー豆から淹れたコーヒー。
 けれど…。



(味の記憶が全く無いぞ…!)
 飲んだ筈のコーヒーの記憶が無い。
 あれほどに好んだ筈のコーヒー。キャロブで作った代用品でも好んだコーヒー。
 紅茶だったらシャングリラで作った本物の紅茶があったというのに、前の自分はコーヒーの方を好んで飲んだ。前のブルーとのお茶の席では飲まなかったけれど、一人の時は。
 自他ともに認めるコーヒー好きのコーヒー党。
 それが本物のコーヒーに出会えば、大喜びで飲みそうなのに。その味も香りも記憶にしっかりと刻み込まれて、忘れる筈もなさそうなのに…。
(忘れちまったのか…?)
 何故、と考えるまでもなく直ぐに分かった。忘れたのではなかったのだ、と。
(…そうだ、分かっていなかったんだ…)
 自分が何を飲んでいるのか、それがどういう味わいなのか。
 本当に本物のコーヒーだろうが、キャロブで作ったコーヒーだろうが、認識してはいなかった。機械的に喉へと流し込んだだけで、舌は味さえ感じなかった。
(どうでもいいことだったしな…)
 あの時、ブルーはもういなかった。
 アルテメシアへと戻った切っ掛け、それをメギドを沈めて作って、ブルーの命は宇宙に消えた。
(あいつが何処にもいない世界なんて…)
 ジョミーを頼む、とブルーが自分に言い残したから生きたけれども。
 約束を守ろうと生きたけれども、自分の世界に食べ物の味など、もう無かったのだ。
 生きる意味さえも。
 だから覚えているわけがない。アルテメシアで飲んだコーヒーの味も、それが与えた感覚も。



(そうなってくると…)
 前の自分が口にしながら素通りしていたコーヒーの味。雲海の星で産するコーヒー。
 飲んだら思い出すのだろうか、とパッケージを開けて豆を挽いてみたけれど。
 愛用のコーヒーメーカーで丁寧に淹れて、ダイニングで飲んでみたけれど。
(…こんな味だったか?)
 可もなく不可もないコーヒー。
 どうということもないコーヒー。
 食料品店で何の説明も無かった理由が頷けるほどに、それは特徴の無い味で。
(せめて、こう…)
 前の自分の記憶の欠片でも引き寄せるだとか、舌の上に味が蘇るだとか。
 そういったことを期待したのに、何一つ教えてくれないコーヒー。
 あの日、あの星でこれを飲んだと、あの味なのだと思い出しさえしないコーヒー。



(うーむ…)
 どうしたものか、と少し考え込んで。
 ブルーと飲んだら変わるだろうか、とコーヒーを淹れたマグカップを持って書斎に向かった。
 明かりを点けて、机の前に座って。
 熱い間に飲まなければ、と急いで日記を書いてしまって、机の上に載せた写真集。前のブルーが表紙に刷られた『追憶』という名のソルジャー・ブルーの写真集。
 正面を向いた一番有名なブルーの写真は、青い地球を背景に憂いと悲しみとを秘めた瞳で。その瞳を見詰め、心の中で語り掛けてみた。「アルテメシアのコーヒーだぞ?」と。
 写真集の表紙のブルーと向き合い、そうっとカップを傾けるけれど。
 まだ熱いコーヒーを喉へと落とし込むけれど、口の中で転がしてもみたのだけれど。
 一向に戻らない記憶。
 舌が覚えていないコーヒー。
 「これだ」という気はしなかった。
 アルテメシアでこれを飲んだと、あの星に降りて飲んだコーヒーの味はこれだった、とは。



(全く話にならんな、これは…)
 サッパリ覚えていないのではな、と苦笑した。
 まさかここまで記憶に無いとは、まるで覚えていないとは。
(本当に俺は、ただ生きていたというだけのことだったんだな…)
 ブルーがそれを言い残したから、「ジョミーを頼む」と最後の言葉を置いて逝ったから。
 そのためにだけ生きて、地球まで行った。コーヒーの味さえ分からないままで。
(コーヒーは好きだったんだがなあ…)
 ブルーの好みが紅茶でなければ、きっと毎日、コーヒーばかりを飲んでいたろう。目覚めて朝の一杯を飲んで、昼食までの間にも。ブルーと過ごしたお茶の時間も、きっとコーヒー。
 それほどに好んだコーヒーの味を、本当に本物のコーヒーの味を感じないままで生きたとは…。
(まさしく生ける屍ってヤツだな)
 ブルーを失くしてしまった後は。
 前のブルーを喪った後は、コーヒーの味さえ分からないまま、ひたすらに地球を目指していた。辿り着ければ役目は終わると、ブルーの許へと旅立てるのだと。
 そうやって生きたことを後悔はしない。
 ブルーに望まれて生きた生だし、何も後悔はしないけれども。



 お前はコーヒーは駄目だったよな、と写真集の表紙のブルーに微笑む。
 俺はアルテメシアで本物のコーヒーを飲んだが、お前が居たってコーヒーを飲みたいと言ったりしなかったろうな、と。
 コーヒーが苦手だったソルジャー・ブルー。
 前の自分が美味しそうに飲むから、と何度も強請って飲んでは「苦い」と顔を顰めた。自分には向いていない味だと、飲むなら紅茶の方がいいと。
 もしもアルテメシアを落とした後にブルーが生きていたならば。
 人類側との会談や会食に臨んでいたなら、其処で出されたコーヒーで苦労していただろう。あの頃、基本の飲み物はコーヒー。何も注文しなかった時は、もれなくコーヒー。
 湯気を立てる濃い色の液体を前に、困るブルーが目に浮かぶようだ。きっと窺うような赤い瞳を向けて来たのに違いない。この飲み物は飲まねば駄目かと、紅茶に替えては貰えないのかと。



(そういうあいつも見たかったような気がするなあ…)
 叶わずに終わった夢だけれども、前のブルーはメギドで散ってしまったけれど。
 出来るものならアルテメシアへも、地球へまでも共に旅したかった。
 二人で暮らしたあのシャングリラで、白い鯨で星々の散らばる宇宙を渡って。
 コーヒーが苦手で飲めないブルーの補佐をしながら、控えめ過ぎて出されたコーヒーをそのまま飲んでしまいそうなブルーの代わりに「紅茶を頼む」と何度も頼んでやりながら。
 けれどもブルーはいなくなってしまい、自分は独りぼっちになった。
 コーヒーの味さえ分からないまま地球まで旅して、地球の地の底で瓦礫に押し潰されて。
 どうしたわけだか、気付けば青い地球に来ていた。
 小さなブルーが居る地球の上に、生まれ変わった十四歳のブルーが生きている地球に。
(今のあいつも…)
 やはりコーヒーを飲めはしなくて、一度酷い目に遭っていた。苦いと、とても飲めないと。
 今のブルーとのコーヒーの思い出はその程度。
 たまに夕食の後にコーヒーが出ると、恨めしそうに見ているブルー。
 あれは自分には飲めはしないと、いくら食事に合う飲み物でもコーヒーを用意するなんて、と。
 そうした席ではブルーの前にだけ紅茶のカップ。
 コーヒーが飲めないブルーのためにと紅茶だけれども、ブルーは嬉しそうではない。仲間外れにされてしまったと、自分もコーヒーが飲みたいのに、と。
 飲めもしないくせに。強請ってコーヒーを淹れて貰っても、困るだけのくせに。



(それにしたって、このコーヒーなあ…)
 どうなんだか、とマグカップの中身を口に運んで味わってみる。
 アルテメシア産だというだけのコーヒー、ミュウの歴史の始まりの星から来たコーヒー。
 味も香りも可も不可もなくて、前の自分の記憶さえ戻って来ないコーヒー。
 失敗だったか、という気がしないでもない。
 アルテメシアの名とパッケージに釣られて買いはしたものの、有難味すらも無いコーヒー。
 これを買うよりも普段の豆を買うべきだったかと、美味しいわけでもないのだから、と。
 いつも飲んでいる定番を買えば味に間違いは無かったわけだし、アルテメシア産よりも味わいは数段上になる。それを選ぶか、もっと他の豆。
(実に色々あったからなあ…)
 違う豆を買うなら、有名なものか、説明文を参考に何か選んで買えば良かった。
 産地だけが売りのアルテメシア産よりも美味しいコーヒーが飲めた筈だと思うけれども。
(こいつも話の種にはなるか…)
 アルテメシアのコーヒーだしな、と考え直した。
 長く暮らした星のものだと、前のブルーと見ていた星のコーヒーなのだと。



 使えるとしたら話の種。
 その程度の価値しか無さそうだな、と判断を下したアルテメシアから来たコーヒー豆。それきり淹れずに数日が過ぎて、週末が来て。
 よし、と適当な紙の袋に突っ込み、ブルーの家へと持って出掛けた。
 門扉の脇のチャイムを鳴らしてブルーの母と父とに挨拶してから、二階の窓から手を振っていたブルーが待っている部屋へ。テーブルを挟んで向かい合って座り、袋の中から豆を取り出す。
「おい、懐かしいだろう? このパッケージの写真を見てみろ」
 アルテメシアのコーヒー豆だぞ。近所の店のコーヒーフェアで買ったんだ。
「お土産なの?」
 くれるの、とブルーが赤い瞳を輝かせるから。
「お前、コーヒー、飲めないだろうが。土産に持って来てどうするんだ」
 それにもう開けてしまったからな。
 買ったその日に飲んでみたんだ、前の俺たちが長く暮らしたアルテメシアのコーヒーなんだし。
「それ、懐かしい味がした?」
「いや、それが…」
 サッパリ分からん、とハーレイは正直に白状した。
 コーヒーの味を覚えていないと、懐かしいかどうかも分からないのだと。



「分からないって…。ハーレイ、覚えていないの?」
 アルテメシアのコーヒーの味。
 もしかして一度も飲んでいないとか、そういうこと?
 シャングリラじゃキャロブのコーヒーだったし、アルテメシアのコーヒーなんかは飲んでない?
「そうじゃない。何回も飲んだ筈なんだがな…」
 本当に何度も飲みはしたんだが、俺は覚えていないんだ。俺の舌もな。
「なんで?」
 ハーレイの好きなコーヒーだよ?
 それなのに覚えていないだなんて…。キャロブじゃなくって本物のコーヒーだったのに…。
「お前を失くしちまったからさ」
 前の俺がアルテメシアのコーヒーを初めて飲んだ時には、お前はとっくにいなかった。
 アルテメシアを落とした後に地上で飲んだコーヒーだしなあ、味なんか分かるわけがない。俺は死んだも同然だったし、何を食っても何を飲んでも、そいつはただの栄養補給だ。
 美味いと思うような感情、あの頃の俺にはもう残ってはいなかったんだ。
「ごめん…」
 ぼくのせいだね、ぼくがメギドに行っちゃったから…。
 ハーレイにジョミーを頼んじゃったから、ハーレイ、辛くても生きるしかなくて…。
 シャングリラの中に独りぼっちで、コーヒーどころじゃなかったよね…。



 ごめん、とブルーが謝るから。泣きそうな顔になってゆくから、「いいさ」と銀色の頭をポンと叩いて微笑んでやった。
 「あの時は仕方なかったろう」と、「お前だって辛かったんだから」と。
「俺はいいんだ、前のお前の望み通りに生きたんだしな。それに…」
 味は全く覚えてなくても、本物のコーヒーを何度も飲んでから死んだわけだし、本望だ。
 アルテメシアのだけじゃなくって、ノアとかのコーヒーも飲んだんだからな。
「それならいいけど…。覚えてなくても飲めただけでいいなら、嬉しいけれど…」
 じゃあ、今、生きてるハーレイに質問。
 アルテメシアのコーヒー、美味しかった?
 コーヒーフェアに出てくるほどだし、うんと美味しいコーヒーだったの?
「そうでもないな。俺に言わせりゃ、可もなく不可もなく、って味だな、こいつは」
 ミュウの歴史の始まりの星のコーヒーなんです、って話題作りになるだけだろう。
 大して美味いってモンでもないし。
「不味いわけ?」
「そこまでは言わんが、いつもの豆にすべきだったな」
 でなけりゃ、店のお勧めの豆。こういう味だと説明文がついてる豆がけっこうあった。
 そんな豆もいいし、名前しか知らない有名どころの豆でも良かった。
 要するに俺はアルテメシアって名前に釣られただけだな、あの雲海の星の名前に。



「そうなんだ…。だったら、その豆で淹れたコーヒー…」
 ぼくも飲んでみるよ、もうパッケージが開いているなら。
「はあ?」
 どうしてお前が飲むことになるんだ、コーヒーは苦手だっただろうが。
 俺が美味いと絶賛したなら飲みたくなるって気持ちも分かるが、こいつはだな…。
「ぼくのせいでハズレのコーヒー豆を買っちゃったんでしょ?」
 アルテメシアのコーヒーの味を覚えてないから、買っちゃったわけで…。
 ハーレイが味を覚えていないの、前のぼくがいなくなっちゃったからなんだものね。
「そうではなくてだ、俺が勝手に、懐かしいな、と買ったんだぞ」
 アルテメシアの名前と写真に釣られちまって、どんな味かも考えないで。
「でも…。味を覚えていたら失敗しないよ?」
 大したことないコーヒーなんだ、って知っていたなら別のを買うでしょ?
「それはそうかもしれないが…。分かっていたなら別のにするが…」
 しかしだ、前の俺が飲んでたアルテメシアのコーヒーだがな。
 ずうっとキャロブのコーヒーばかりを飲んでたんだし、二百年ぶりくらいの本物だぞ?
 どんな味でも美味いと思って感激しないか、俺に味覚があったとしたら。
「最初はともかく、何回も飲んでたら分かってくるよ。本当に美味しいコーヒーかどうか」
 前のぼくが物資を奪ってた頃には本物のコーヒー、あったんだから。
 その内に舌が思い出してきて、当たりかハズレか気付くと思うな。
 おまけに今は地球のコーヒーを飲んでるんだし、古い記憶でも比べられるよ。ハーレイが味さえ覚えていればね。
「うーむ…」
 言われてみればそうかもなあ…。
 漠然とした味の記憶しか無くても、うんと美味かったか、そうでないかは分かったかもな。前の俺が味わって飲んでいたなら、これが本物のコーヒーなんだと味わっていたら。



「ほらね、やっぱり責任はぼくにあるんだよ。今のぼくじゃなくて前のぼくだけど」
 ハーレイがアルテメシアのコーヒー豆を買っちゃった原因、ぼくだから…。
 責任を取ってハズレのコーヒー、飲んでみるよ、ぼくも。
「おい、やめとけ! お前、ホントに苦手だろうが!」
 この前みたいに眠れなくなるぞ、それで酷い目に遭ったのをもう忘れたのか!?
「お昼前だから大丈夫。夜にはコーヒー、抜けちゃうもの。…ママー!」
 ママ、とブルーは部屋の扉を開けて声を張り上げた。母が居るだろう階下に向かって。
 間もなく「なあに?」と階段を上がって二階に来た母。
 小さなブルーがニッコリと笑う。
「コーヒー、淹れてよ。この豆、ハーレイが持って来たんだ」
 これで淹れて、とテーブルの豆の袋を指差し、ブルーの母が覗き込んで。
「あらまあ、アルテメシアのコーヒー豆ね?」
 シャングリラが長いこと居た星なのね、と母は理解したようだから。ハーレイは「そうです」と苦笑いをして、豆の袋を差し出した。
「美味いコーヒーではないんですが…。よろしかったら、ご主人とどうぞ」
 アルテメシア産というだけですので、と念を押せば、母は「お相伴させて頂きますわ」と笑顔で応えてブルーの方へと視線を向けた。
「ブルーはミルクとお砂糖とホイップクリームたっぷりなのよね?」
「うん…。でも、それ、別にして持って来てよ!」
 自分でちゃんと調整するから!
 お砂糖もミルクも、クリームも自分で味見しながら入れていくから、別にしておいて。
 いいでしょ、ママ?



 そうして届いた、コーヒーが二つ。
 テーブルの上にアルテメシア産のコーヒーを満たしたカップが二つ。
 濃い色のコーヒーは片方だけで、もう片方には…。
「うー…」
 カフェオレと呼ぶにも薄い色の液体が入ったコーヒーのカップ。顔を顰めているブルー。
 その手が砂糖をスプーンで掬ってサラサラとカップに加えているから。
「まだ入れるのか?」
 何杯目だ、とハーレイは半ば呆れ顔だが、ブルーときたら。
「美味しくないしね、甘くないとね」
 もっと、とミルクを、砂糖を、ホイップクリームを足してゆくブルー。
 前に自分がやっていたように、前のブルーがそうしたように。
 別物になってゆくコーヒー。そのやり方は前のブルーも何度もしていたことだったから。
 キャロブのコーヒーを相手に何度も、何度も、前のブルーがやっていたから。
 小さなブルーに重なって見える。
 幼い仕草に前のブルーのしなやかな指が、ミルクや砂糖を入れていた手が。
 それは懐かしくて温かな遠い記憶で、ハーレイの心がほどけてゆく。
 アルテメシアのコーヒーの味は全く覚えていないけれども、自分たちは地球に居るのだと。
 遠い昔に失くしたブルーは戻って来たと、そしてコーヒーを味わっていると。
 前のブルーは辿り着けなかった、陥落した後のアルテメシア。
 飲めずに終わったアルテメシアのコーヒーをブルーが飲んでいるのだと、苦手なコーヒーを自分好みにアレンジしながら飲んでいると。
 ミルクに砂糖に、ホイップクリーム。
 本来の形とはまるで違った飲み方だけれど、ブルーはそれが好きだったと。



 ハーレイはホウと溜息をつくと、小さなブルーをじっと見詰めた。
「そうか、お前がアルテメシアのコーヒーをなあ…」
 あれから長すぎる時が流れて、お前はチビになっちまったが…。
「どうかした?」
 なあに、とブルーが首を傾げるから、ハーレイは笑みを返してやった。
「いや、責任。取ってくれたな、と思ってな」
「どういう意味?」
 ちゃんと飲んでるよ、責任を取って。ハズレのコーヒー、飲んでるけれど…。
 ハーレイ、とっても嬉しそうだよ、ぼくにもハズレを飲ませたから?
「そうじゃないんだ。お前がコーヒーを飲んでいるな、と思うと嬉しくてたまらなくてな」
 俺が味さえ覚えてなかった、あのコーヒー。アルテメシアで飲んだコーヒー。
 そいつをお前が飲んでるんだな、と見ているわけだ。
 前のお前はアルテメシアでコーヒーなんかは飲めなかったが、飲めたんだな、と。
 青い地球の上に生まれ変わって、アルテメシアのコーヒーをな…。



 ブルーが生きてコーヒーを飲んでくれている。
 前の生で暮らした雲海の星から来たコーヒーを、アルテメシアのコーヒーを。
 ミルクに砂糖にホイップクリーム、自分好みにアレンジしながら。
 まだまだ苦いと、もっと甘くと別物に変えてゆきながら。
(…そうだ、俺はブルーとあの星のコーヒーを飲んでいるんだ)
 小さな姿で帰って来たブルーと、青い地球の上で。
 もうそれだけで充分なのだ、と顔が綻ぶ。
 ミュウの歴史の始まりの星から届いたコーヒー、それだけが売りのコーヒー豆。
 今一つな味のコーヒーだけれど、ブルーと飲めた。
 前の自分が失くしたブルーと、また巡り会ってコーヒーが飲めた。
 パッケージに惹かれて失敗をした、と思ったコーヒーが幸せな時を紡いでくれる。
 ミルクに砂糖にホイップクリーム、ブルーの好みの甘いコーヒー。
 そのコーヒーのように甘い時間を心ゆくまで味わおう。
 青い地球の上で、ブルーと二人。雲海の星の、アルテメシアのコーヒーを…。




           忘れたコーヒー・了

※今のハーレイは覚えていない、前の生でアルテメシアで飲んだ筈のコーヒーの味。
 そして青い地球で出会った、アルテメシア産のコーヒー豆。今度はブルーと飲めるのです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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(んーと…)
 学校から帰って、おやつを食べて。紅茶を飲みながら広げた新聞、今日の特集は肖像画。
 芸術はあんまり分かんないけど、肖像画はけっこう好きな方。だって、いろんな人の顔だから。画家が創作したわけじゃなくて、ホントに生きてた人たちの顔。
 歴史でしか知らない人ばかりだけど、こういう顔をしていたんだ、って分かるから。
 画家に頼んでハンサムに描いて貰いました、って人もあるみたいだけど、それでも全く似てないわけではないだろうから。

(有名なのが色々…)
 ずうっと昔の王様や貴族。それ自体が一つの芸術作品。
 SD体制よりも昔の有名な絵たちは、大抵、レプリカなんだけど。保存技術が間に合わなくって破損しちゃって、そっくりなレプリカが作られた。額縁まで再現されたレプリカ、本物そっくり。
 それでもきちんと残ってる。昔の人たちの呼吸が聞こえてきそうな絵たち。この地球で生きた、様々な人たちの肖像画。
 見るからに王様っていう絵もあれば、気取らないポーズの絵なんかも多い。薔薇の花を持ってる王妃様とか、大人みたいなドレスを着込んだ小さな小さな女の子とか。
 そういった古い絵から順に見てって、時代をどんどん下っていったら。



(キースだ…)
 国家主席の肖像画。歴史の教科書だと写真だけれども、美術の教科書には載ったりする絵。
 真っ白な制服に紫が利いて、威厳に溢れた絵ではあるけど…。
 前のぼくが知ってるキースより、かなり老けてる。顔に小皺が出来ちゃってる。
(ぼくが会った頃のキースだったら、もっとハンサムだったのに…)
 若くて、俊敏な獣のようで。誰が見ても認めただろうハンサム、それが若き日のキース。
 きっと人気もあっただろう。画面に映れば、大勢の女性がキャーキャー騒いでいそうな感じ。
(国家騎士団のエリートだもんね?)
 ハンサムな上にエリートとくれば、憧れる人は多かったろう。ぼくがナスカで出会ったキース。ミュウにとっては敵だったけれど、人類にとっては将来を嘱望されたエリート。
 だけど肖像画を描いて貰えるような立場じゃなかった。まだそこまでは偉くなかった。
(いくらグランド・マザーのお気に入りでも、階級ってヤツがあるものね…)
 キースよりも偉い人間が沢山いたから、若いキースは肖像画を描いては貰えなかった。
 今も残っている肖像画は、もう充分に出世した後のキースの顔。
 長い間空席だった国家主席に就任したから、グランド・マザーが特別に描かせた肖像画。
 お気に入りのキースの立派な姿を後世まで残しておくために。
 自分たちが無から創ったキースの、輝かしい功績を後々までも留めておくために。



(でも、キースのしか無いんだよ…)
 肖像画特集の中に、あの時代の絵はキースだけ。
 古い肖像画を集めた特集、最後を飾っているキースの絵。同じ時代の他の絵は無い。この特集に無いだけじゃなくて、元から存在しないんだ。
 ノアやアルテメシアの記念墓地にお墓がある英雄の中で、肖像画があるのはキースだけ。
 記念墓地では別格扱いの前のぼくだって、キースと並んで眠るジョミーだって、肖像画は無い。特集の最後に加えたくっても、肖像画なんか残っていない。
(トォニィだって…)
 最後のソルジャーとしてミュウと人類とを繋いだトォニィ。
 記念墓地にお墓は作られてないけど、トォニィだって英雄の一人。そのトォニィだって肖像画は無くて、この特集にも入っていない。
 トォニィの肖像画を作る話はあったけれども、トォニィ自身が断ったという。ぼくとジョミーの分が無いのに、平和な時代になったからって自分の分だけ作れやしない、って。
 前のぼくたちの分を写真を元にして描こうって話も出たらしいけれど、描かれずじまい。
 トォニィが止めたか、あるいはシャングリラの仲間たちが嫌だと言ったのか。
 とにかく前のぼくとジョミーの肖像画は無くて、こういう時にはキースの分だけ。偉そうな国家主席の制服のキース、彼が載せられてそれでおしまい。



(老けたキース…)
 若い頃だとハンサムなのにね、って新聞を閉じて部屋に戻った。
 キッチンのママにお皿やカップを返して、「美味しかった!」って御礼を言って。ママが焼いたケーキは今日も絶品、とっても幸せ。
 階段を上って部屋に入って、勉強机の前に座って…。
(肖像画かあ…)
 ああいう特集には載せて貰えない、前のぼくとジョミー。肖像画が存在しないから。
 だけど、ホントはぼくとジョミーにも肖像画なるものがあったりする。
 宇宙遺産で門外不出で、特別公開すらも無いけれど。
 劣化しないよう、密閉保存。博物館の特別な収蔵庫の奥で厳重に。
 前のぼくとジョミーが生きていた頃に描かれた絵だから、もう本当に宇宙遺産。
 それのレプリカを作ればいい、と普通は考えるんだろうけれど。
 脆い絵ならばレプリカを作って展示すればいい、と思うだろうけど、問題が一つ。
 確かに肖像画は存在してるし、生きていた頃のぼくたちをモデルにしてるんだけれど…。



(トォニィの絵だしね?)
 宇宙遺産になった肖像画を描いてくれた画家はトォニィだった。
 密閉されるほど脆いのも当然、前のぼくとジョミーが一緒に描かれた画用紙なんだ。何の加工もされていない子供のための画用紙、ごくありふれた白い画用紙。
 宇宙遺産に指定されてるトォニィの絵はもう一枚あって、そっちはトォニィの家族の絵。小さいトォニィと父親のユウイ、母親のカリナを描いたもの。
 前のぼくたちの絵も、トォニィの家族も、クレヨンで描かれた三歳児の絵。
 それとも二歳児だったっけ?
 どっちにしても小さな子供が頑張って描いた、二人のソルジャーと自分の家族の肖像画。



(トォニィ画伯…)
 前のぼくとジョミーの肖像画。生きてる間の、本当に本物の肖像画。
 ある意味、凄く有名な画家が描いたんだけどな…。
 知らない人なんかいないトォニィ。最後のソルジャー、平和な時代を築いたソルジャー。
 画家はとっても有名だけれど、誰もレプリカを作って肖像画扱いで展示しようと思わない。この絵はとっても貴重だから、と宇宙遺産に指定しながら、肖像画としては扱われない。
 小さな子供が描いただけあって、破壊力ってヤツがありすぎるから。
 ソルジャー・ブルーとソルジャー・シンの肖像画として公開するには、かなり強烈すぎるから。
 でも、トォニィの名誉のために言っておくなら、あの絵は決して下手くそじゃない。
 誰が見たってジョミーはジョミーに見えるんだから。
 前のぼくだって、ソルジャー・ブルーが描いてあるって一目で分かる出来なんだから。



(本質を捉えた絵なんだよ、うん)
 画用紙の真ん中に大きく描かれた、太陽みたいに元気一杯なジョミー。弾けるような笑顔。
 ぼくは後ろで寝てるんだけれど、そのぼくだって笑顔なんだ。
 あの絵を描いた頃のトォニィは起きているぼくを知らなかったのに。
 それなのに笑顔に描いてくれた。まるで目を覚ましているかのように。小さなトォニィを笑顔で見守っているかのように。
 前のぼくは絵の存在を知らずに終わってしまったけれども、今のぼくはちゃんと知ってるから。
 クレヨンで描かれた破壊的な絵でも、あの絵はけっこう気に入っている。
 トォニィは前のぼくを知っててくれたと、寝ているだけの年寄りだと思っていなかった、って。
 でも、世間ではそうは思わない。
 肖像画というものは一つの芸術、観賞に値する美しいもの。
 前のぼくとジョミーの肖像画は生きてる間に描かれなかったから、それっきり。



(トォニィの絵も、生きてる間の肖像画には違いないんだけれど…)
 画家だって高名なんだけれども、画家として高名なわけじゃないから。有名な芸術家ってこともないから、トォニィの絵には芸術品としての価値は無い。ただの宇宙遺産。
 ハーレイの木彫りのウサギと同じで、歴史の生き証人っていうだけ。ハーレイのウサギだって、正体はナキネズミだと聞いているから、宇宙遺産って何かと不思議だ。
 子供の絵だとか、下手くそな木彫りのナキネズミだとか。
 そんな代物を博物館の奥に収めて有難がってる時代が今っていうのが面白い。
 でも…。
(トォニィ、あの絵で反省しちゃって、自分の肖像、描かせてないとか?)
 前のぼくとジョミーのとんでもない絵を描いちゃったから。
 それが生前に描かれた唯一の肖像画ってことになるから、自分の肖像画をプロの画家に描かせる企画は断固、断っちゃったとか…?
 まさかね、って笑っちゃったけど。
 ホントの所はどうなんだろう?
 トォニィ画伯に訊いてみたいけれど、インタビューしてみたいけれども。
 今のぼくはトォニィに会えそうもなくて、きっと一生、謎のまま。
 トォニィがうんと反省したのか、それとも威張ってあの絵を残しておいたのかは。



(どっちにしたって、ぼくとジョミーは…)
 肖像画は無かったことになってる。
 トォニィ画伯の力作なのに。こういう画風の画家なんです、って言ったら通りそうなのに。
(綺麗な絵だとは言えないけどね)
 さっき見ていた肖像画特集に混ぜておくには、描き込みだって足りないし。
 あの絵は流石に売れないのかなあ、前のぼくとジョミーの写真集にも収録されていなかった。
 前にハーレイの写真が欲しくて探し回ったから覚えてる。キャプテン・ハーレイの写真を探して端から広げた写真集。あの絵は入っていなかった。どの写真集にも、ただの一枚も。
 キースの立派な肖像画の方は多分、キースの写真集に入っているのだろうに。
(トォニィの写真集には載ってるんだろうな)
 写真集の主役はトォニィなんだし、あの絵だってきっと入ってる。
 データベースにも収録されてて、誰でも自由に見られる絵。宇宙遺産のトォニィの絵。
 だからぼくだって知っている。
 前のぼくがトォニィに描かれちゃったことを。



(肖像画…)
 前のぼくは描かせようなんて思わなかった。肖像画なんて思い付きさえしなかった。
 シャングリラの中、生きてゆければそれで充分、肖像画を描かせて飾ろうだなんて思わない。
 肖像画なんかを飾らせるほど、自分が偉いとも思ってやしない。自惚れちゃいない。
 フィシスのだって作らせなかった。作る必要を感じなかった。フィシスの地球はフィシスと心を重ねて見るもの、その地球があれば充分に幸せだったから。
(肖像画なんかは無かったよね…)
 絵の上手な仲間はいたんだけれども、誰の肖像画も残ってはいない。
 ゼルたちも含めて有名どころは誰もモデルをしなかったから。



(モデル、頼まれてもいないんだけどね)
 前のぼくを描きたいと言った仲間がいたなら、その頼みまでは断らない。「柄じゃないよ」って苦笑しつつも、快くモデルを引き受けただろう。肖像画を描いて貰っただろう。
 だけど、誰一人としてモデルを頼みに来はしなかったし、ぼくの肖像画は描かれないまま。
 恐れ多いと思ったんだろうか、ソルジャーをモデルにするなんて。
 だとしたらトォニィはクソ度胸の画家。
 「モデルをお願いします」と言いもしないで、無断でぼくを描いちゃった。
 それも寝てたぼくを。
 長い眠りに就いていたぼくを、断りも無しにジョミーとセットで。



 遠慮してモデルを頼まなかった大人たちを他所に、前のぼくとジョミーを描いたトォニィ。
 とても見事に本質を捉えて描いたトォニィ。
(ハーレイたちも描いて貰えば良かったのに)
 そしたら肖像画が宇宙遺産になって残って、生きた証が出来たのに。
(…ハーレイは木彫りのウサギがあるんだけれど…)
 ウサギになっちゃったナキネズミの木彫りが残っているけど、肖像画の方が断然いい。
(キャプテン・ハーレイの肖像画…)
 宇宙遺産になって博物館の奥に収蔵される肖像画。前のぼくやジョミーの肖像画と一緒に、密閉保存で長い時を越えて今の時代まで。
 もしもトォニィがハーレイを描こうと思ったならば。
 どんなハーレイの絵を描いたんだろうか、トォニィ画伯は?



(んーと…)
 好奇心を刺激されちゃった、ぼく。
 トォニィになった気持ちで描いてみようか、と学校で使うスケッチブックを一枚破って勉強机の上に置いてみた。お次は画材で、クローゼットの奥の方に確か…。
(えーっと…)
 もぐり込んで引っ張り出したクレヨン。幼稚園時代のぼくの思い出、いろんな絵を描いた大事なクレヨン。今でも使えそうだから。
 こんな感じ、と画用紙に茶色で線を大きく引っ張ってみた。褐色は無いから茶色のクレヨン。
(こう描いて…)
 輪郭が出来たら、髪の毛の黄色。金色は無いから、代わりに黄色。
(目と鼻を描いて、口も描いて…)
 色を塗る前に補聴器だよね、と頑張っていたら、チャイムが鳴った。門扉の脇のチャイムの音。窓から見下ろすと、ハーレイが大きく手を振っている。
 このタイミングで来たんだったら…。
(急いで仕上げて見せちゃおう!)
 ママがハーレイを案内して来る前に、大胆に塗って。
 子供の絵なんてそんなものだし、トォニィ画伯には負けられないから。



 大急ぎで塗って、ハーレイの顔と髪とは間に合った。
 補聴器は元々の色が白だし、首の所までしか描いてないから、制服も襟の模様だけを描けば完成したと言ってもいい。制服の首の周りはクリーム色だもの、塗らなくてもいいと思うんだ。
(これでよし、っと…!)
 出来た、と勉強机の上に裏返して置いて、クレヨンの箱をクローゼットに突っ込んだ。
 ぼくの力作、キャプテン・ハーレイの肖像画。
 ママに案内されて来たハーレイの前に、「上手でしょ?」と差し出したら。
 お茶とお菓子が置かれたテーブルから立って、画用紙を取って来て突き出したら。
 ハーレイは見るなり、フフンと鼻で笑ってくれた。
 腕組みまでして、馬鹿にしたように。



「まだまだだな」
「えっ?」
 ハーレイの絵だよ、ぼく、頑張って描いてみたんだよ?
 前のハーレイ。キャプテン・ハーレイの肖像画を描いてみたんだけれど…。
「まだまだだ、と言っただろうが。お世辞にも上手とは言えん」
 お前よりもずっと、上手く描いたヤツがいたからな。前の俺の絵。
「誰?」
 誰が前のハーレイの絵なんか描いたの、ぼくよりもずっと上手いだなんて…!
「決まってるだろうが、そんなの描くヤツ」
 少なくとも俺は一人くらいしか知らないが…?
「まさか、トォニィ?」
「その他に誰がいるというんだ、前の俺を描こうというようなヤツ」
 いくらシャングリラが広くったって。そうそういないぞ、俺を描くヤツは。
「トォニィって…。そんな絵、いつの間に…!」
「前のお前が寝ていた間だ」
 時期的には…。そうだな、宇宙遺産になってるトォニィの絵。
 あれが描かれた頃の絵だなあ、あの頃のトォニィは毎日のように絵を描いてたからな。



「ハーレイの絵って…。それ、どんな絵なの?」
 あのトォニィが描いたんだよね?
 前のぼくの絵とかと同じ頃に描いていたんだったら、ハーレイの絵だって独特だよね?
「さあ、知らんな」
 何を以って独特と言えばいいのか、何を傑作と呼ぶべきか。
 俺は芸術には疎いからなあ、あのトォニィの絵をどう評するかは難しいんだが…。
 それでもお前の絵よりは上手だ、間違いない。
「ぼくの絵よりも上手いって言うけど…。トォニィの絵でしょ?」
 前のぼくやジョミーを描いた絵と同じで、破壊的だと思うんだけど…。
 ハーレイを描いた絵、酷いんじゃないの?
「まあな。そこの所は否定はしない」
 ガキの絵だから、そういうモンだと分かってはいるが…。
 しかし、お前の絵よりは上手いぞ。
 ガキっぽく描こうと悪意をこめて描いてはいないし、のびのびと描かれたいい絵だったな。
「悪意だなんて…!」
 ぼくはハーレイを描いただけだよ、トォニィだったらどう描くのかな、って!
「そこでトォニィの真似をしようというのが充分、悪意だ」
 今のお前ならマシに描けるのに、わざわざ下手くそに描く辺りがな。
 クレヨンまで出してガキっぽく描いて、俺をどうするつもりなんだか…。
 いや、前の俺か。
 こうも滅茶苦茶に描かれちまったら、トォニィの上手さが引き立つってな。



「その絵、見せてよ!」
 ハーレイの記憶に入ってるんでしょ、ちょっと見せてよ。
 ぼくの絵よりも上手いと聞いたら、見なくちゃ損だって気になるから!
「断る権利もあると思うが?」
 描かれちまったのは俺なんだし…。描かれた俺には断る権利があるんじゃないか?
 絵なんてものはそうしたもんだろ、モデルになったヤツが生きてる間は誰にも見せずに家の奥に飾っておくとかな。自分の絵だから見せてやらん、と。
「その絵って、今も残ってる?」
 トォニィの絵は宇宙遺産の二枚だけだと思っていたけど、他にもあるの?
 宇宙遺産になってないだけで、何処かの博物館にあるとか…。
「いや、あの二枚しか無い筈だが」
 残っているなら話題になるさ。俺が知ってる程度にはな。
「じゃあ、ハーレイを描いた絵は?」
 どうなっちゃったの、その絵は何処?
「行方不明っていうヤツだろ」
 シャングリラと一緒に無くなっちまったか、それよりも前にもう無かったか。
 前の俺が生きてる間にカリナがゴミにしちまったかもな。
「えーっ!」
「屑籠に入っていりゃ捨てるだろ?」
 トォニィが突っ込んだオモチャとかなら、大事に拾い上げるんだろうが…。
 クシャクシャにされて突っ込まれている画用紙までは拾わんさ。
 そんな具合でゴミになったか、何処かに紛れて行方不明か、どっちかだな。



 消えちゃったらしい、トォニィの絵。
 トォニィがキャプテン・ハーレイを描いた絵。
 前のハーレイの肖像画があったと知ったら見たくてたまらないから、ぼくは頑張ることにした。断る権利があるってくらいで見られないなんて、あんまりだから。
 だって、ハーレイの肖像画。
 前のぼくのと同じ画家が描いた、トォニィ画伯が同じ時期に描いた肖像画。
「見せてってば!」
 ケチっていないで見せてよ、ハーレイ!
 お願いだから、トォニィが描いた絵、ぼくにも見せて!
「………。笑わないだろうな?」
 お前、笑うと思うんだが…。俺としては見せたくないんだが…。
「大丈夫。笑わないって約束するよ」
 前のぼくの絵と似たような感じの絵なんでしょ?
 笑わないってば、きっとハーレイが思ってるほどに酷くはないよ。



 約束したのに、ハーレイの手とぼくの手とを絡めて、トォニィが描いた絵を見た瞬間に。
 プーッと吹き出しちゃった、ぼく。
 すかさず頭にゴツンと拳が降って来たけど、ぼくの笑いは止まらなかった。
「ほ、本質を捉えているね…」
 凄いよ、トォニィ。誰が見たって、これ、ハーレイだよ…!
「腹立たしいことにな。上手いんだからな」
 あのチビの画家は天才だ。
 前のお前やジョミーを描いた絵も実に上手いが、俺の絵だって上手く描いてあるんだ…!



 四角い顔と眉間の皺。
 もうそれだけで誰だか分かる。
 顔を茶色く塗ってなくても、髪を黄色く塗ってなくても。
 補聴器も肩章も描いてなくても、何処から見たってキャプテン・ハーレイ。
 しかも肖像画はしっかりと色を塗ってあるんだ、ハーレイの顔はちゃんと茶色に。髪も黄色く。補聴器も白のクレヨンで塗って、肩章は黄色。
 ぼくがトォニィの絵を真似て描くより、実物はもっと凄かった。
 素晴らしすぎるトォニィ画伯。
 キャプテン・ハーレイの絵を描かせたって、充分に宇宙遺産級。
 この絵が何処にももう無いだなんて、宇宙の損失だと思う。行方不明かゴミになったなんて。
 威厳に満ちたキャプテン・ハーレイを写し取った絵が、もう残されていないだなんて。



 酷いと言えば酷い絵だけど、前のハーレイを描いたと分かる肖像画。
 笑わないって約束したくせに吹き出したけれど、笑わずにいられなかったんだけれど。
 そんな具合だから、ハーレイだって腕組みをしてこう言った。
「こいつを見た時、俺は顔が歪んだかと思うくらいの衝撃を受けたぞ」
 俺の顔はここまで四角かったかと、眉間の皺はここまで深かったかのかと。
「この絵、ハーレイは何処で見たの?」
 トォニィ、ブリッジまで見せに来たとか?
 こんなハーレイの絵を描いたよ、って持って来たほど自慢の絵だった?
 上手に描けたと思っていたなら、今でも残っていそうだけれど…。行方不明になったりせずに。
「思念の噂で回っていたんだ!」
 保育セクションの誰かが見たのか、それともカリナかユウイから出たか。
 とにかく俺の肖像画だ、と思念で回覧されていた。
 ブリッジのヤツらも当然見るしな、通路で俺とすれ違ったヤツも肩を震わせて通って行くし…。
 何事なのか、と探っている間にブラウとゼルとに言われたんだ。
 「あんた、例の絵を見たのかい?」だの、「傑作誕生を知らんとは鈍いヤツじゃな」だのと。
 だがな、あいつらは笑うばかりでガードが思い切り固かったんだ!
 エラもクスクス笑ってはいたが、何も教えてくれんのだ…!



 ゼルもブラウも、エラも教えてくれないから。
 キャプテンの肖像画が出来上がった、と笑うだけで見せてはくれなかったから。
 シャングリラの中を走り回って、逃げる仲間を捕まえてようやく訊き出せたらしいキャプテン・ハーレイ。自分が描かれた絵の存在を知るまでに時間がかかったハーレイ。
 そのハーレイを置き去りにしたまま、シャングリラで有名になってた肖像。
 トォニィ画伯の幻の作品、キャプテン・ハーレイの肖像画。
 笑っちゃったけど、出来は素晴らしかったから。
 前のハーレイを描いたんだ、って分かる出来栄えだったから。
 トォニィ画伯はもっと描いたか、誰かを描いたか気になってくる。
 前のぼくが知らないままで終わった芸術家。シャングリラの偉大な肖像画家。



「ねえ、ハーレイ。他にも誰か描かれてた?」
 トォニィが肖像画を描いていた人、前のハーレイやぼくの他にも誰かいるの?
「さあな?」
 どうなんだかなあ、お前、約束を破ったからな?
 笑わない、って言っていたくせに、吹き出して笑ってくれたからなあ…。
「それは謝るから! 笑っちゃったことは謝るから!」
 あったんだったら教えてよ。トォニィが描いた絵、他にもあったというのなら。
「…フィシスを描いた絵があったんだが」
 そいつも思念で回っていたなあ、いい出来だと。
「ハーレイ、それは見てないの?」
 フィシスを描いた絵は知らないままなの、どうなの、ハーレイ?
「………」
「見たんなら、見せて」
 そこで沈黙しちゃうってことは、知ってるんでしょ?
 見ていない、って答える代わりに黙っちゃうなら。
 フィシスの絵を見たなら、ぼくにも見せてよ。ぼくはその絵を知らないんだから。



 見せてくれなきゃ怒るからね、って凄んでやった。
 トォニィが描いたハーレイの絵を真似て、ぼくの部屋に飾ってやるんだから、って。
「ぼくの絵、下手だと言ったけど…。真似して描くなら上手く描けるよ?」
 トォニィの絵とそっくりに描いて、部屋の壁に貼っておこうかな?
 それを見る度に顔が歪んだ気持ちになるでしょ、本質を掴んだ絵なんだものね。
「おい、お前…。俺を脅して楽しいか?」
 そうでなくても酷い絵を描いてくれたしな、お前。
 俺が見せないと言い張った時は、遠慮なく真似してくれそうだよなあ、トォニィの絵を…。



 あの絵は二度と御免なんだ、って渋々、右手を出したハーレイ。
 ぼくの右手と絡め合わせて、遠い記憶にあるフィシスの絵を見せてくれたハーレイ。
(…ホントにフィシスだ…)
 トォニィ画伯の腕前は確かで、目を閉じているけど笑顔のフィシス。
 宇宙遺産になってるカリナやユウイの笑顔と同じで、それは素敵な笑顔のフィシス。
 ちゃんとフィシスに見えるよね、ってハーレイに微笑み掛けた、ぼく。
 子供の絵だけどフィシスだよ、って。
 ハーレイの絵よりも優しそうだし、ミュウの女神に見えるもの、って。
「俺の絵だけが最悪だったんだ!」
 笑顔でもなけりゃ眉間に皺だぞ、やたらと怖そうに描きやがって…!
 俺はトォニィを叱っちゃいないが、小さなガキにはああいう風に見えたのか、俺が!?
「そうみたいだね。トォニィ、ハーレイにも遊んで貰っていたのにね…」
 多分、あの絵はブリッジのハーレイを描いたんだよ。
 仕事中にはああいう顔でしょ、キャプテンを描くならこの顔なんだ、と思ったんだよ。
「そうだろうとは思うんだが…」
 真面目な顔の俺を描いたんだろうと思いはするがだ、正直な所、傷ついたぞ。
 ブリッジの俺はこんな顔かと、今にも怒鳴り出しそうだと。
「それで処分したの?」
 トォニィの絵を。行方不明って言っているけど、ホントはハーレイが処分したとか?
「キャプテン権限は行使していない」
 子供相手に使ったりしたら大人げないだろ、それにシャングリラ中の笑いものだ。
 キャプテンがあの絵を捨てたらしいと、あまりに似過ぎて傷ついたからと。



 捨てていないし、捨てる方へと仕向けてもいない、とハーレイは言った。
 どうやら勝手に消えちゃったらしい、キャプテン・ハーレイの肖像画。
 フィシスの肖像も消えてしまって、今の時代には残っていない。存在さえも知られてはいない。
 もしもフィシスの肖像が今も残っていたなら、トォニィが描いた肖像画でも。
 前のぼくとセットであちこちに出回っていたんだろうか?
 ミュウの女神だったフィシスは前のぼくと対。そういう風に見られているから、肖像画があればセットで公開。トォニィ画伯のあの絵であっても、フィシスと前のぼくとはセット。
(うーん…)
 嬉しいような、嬉しくないような。
 絵の上手下手はともかくとして、前のぼくはホントはハーレイと対。誰にも言えない秘密の恋人同士だったんだけれど、肖像画を公開して貰えるのならハーレイと一緒の公開がいい。
 二人セットは無理だけれども、フィシスのもハーレイのも一緒に公開。
 トォニィ画伯が描いた肖像、ハーレイと一緒の公開だったら…。
 そうなるんなら、写真集にもあの絵を載せて欲しかった。一緒に生きていたんだよ、って。
 前のぼくが寝ている絵を載せたページの隣に、ハーレイの肖像画を載っけたページ。
 ソルジャー・ブルーの右腕でしたと、キャプテン・ハーレイの肖像画。
 トォニィが描いた怖そうな顔でも、ハーレイの肖像なんだから。



「ちょっと惜しいな、ハーレイの絵…」
 無くなっちゃったなんて、なんだか残念。
「何故だ?」
 俺は消えちまってホッとしたがな、シャングリラ中で笑われちまった絵だからな。
「ハーレイはそうかもしれないけれど…。ぼくのとセットで残したかったよ、生きた証に」
 前のぼくたちが生きてた証に、ハーレイを描いた肖像画もあったら良かったのに…。
「そう来たか…」
 生きた証か、お前と一緒に。
 とんでもない顔に描かれちまったが、描いた画家は同じなんだよなあ…。
 俺を描いた絵も宇宙遺産になっていたなら、前のお前と一緒に収蔵庫の中か。
 前の俺たちの仲は誰も知らんが、それでも仲良く一緒にな…。



 そう考えたら酷い絵でも残って欲しかったかもな、ってハーレイは苦笑いしているけれど。
 前のぼくたちを描いた、芸術品と呼べるレベルの肖像画は残っていないけど…。
 今度は二人で写真を撮れるし、勉強机の上にちゃんと一枚目の写真が飾られている。
 夏休みの最後の日に二人で写した、お揃いのフォトフレームに入った写真が。
(今度は写真で充分なんだよ)
 ハーレイと二人、結婚して一緒に生きてゆくけれど。
 肖像画を残せるほどに凄い人生を歩む予定なんかは全く無いから、写真で充分、ぼくは幸せ。
 まずはハーレイと並んで一枚、結婚写真。
 それから先の未来も幸せな写真を沢山、沢山、いろんな所で、いろんなポーズで。
 肖像画なんか、今度は要らない。
 頑張ってくれたトォニィ画伯には悪いけれども、今のぼくたちには写真があれば充分だから…。




             トォニィの絵・了

※存在していたらしい、トォニィが描いた「キャプテン・ハーレイの肖像画」。
 無くなったのは惜しいですけど、今のハーレイとブルーには、肖像画なんて要りませんね。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









(今夜は少し冷えそうだな)
 ハーレイは瞬き始めた星を見上げた。澄んだ夜空に幾つもの星。
 家のガレージに車を入れて庭に出た途端に、一瞬、吹き抜けていった風。
(まだ秋なんだが…)
 紅葉にもまだ早いというのに、冬の先触れを思わせる風。
 昼間の暖かさと日射しを覚えているから、実際よりも冷たく感じる。本当の所はただの秋の風、冬の使者ではないのだろうけれど。
 それでも星の瞬き具合からして、今夜は気温が下がりそうだ。いわゆる放射冷却なるもの。星が美しい夜は雲が無いから、地面の温もりが空へと逃げる。
 庭を横切り、玄関のドアを開け、一人暮らしの家に入って。
(今日は寄ってはやれなかったな…)
 あんな風が吹く日は、ブルーの右手が冷えるだろうに。
 前の生の最後にメギドで凍えた、右の手が冷たくなるのだろうに。
(サポーターを着けて眠るんだろうが、それまでがなあ…)
 寄って握ってやりたかった。ほんの僅かな時間であっても、小さな右手を。
 握って温め、帰り際にも「また来るからな」と強く握って。
 それだけでブルーは幸せな眠りに就けるであろうに、寄り損なった。思いの外、時間を取られた仕事。だからブルーに心で謝る。「寄ってやれなくてすまなかったな」と。



 夕食を終える頃、また風の音が耳に届いた。庭の木々の梢を鳴らしてゆく音が窓越しに。
 秋風なのだとは思うけれども、強い音だから。葉が、枝が擦れ合う音がするから、心配になる。
(ブルー…)
 どうしているだろう、小さなブルーは。
 寂しがってはいないだろうか。
(この時間だったら、まだ飯なのかもしれないが…)
 両親と食卓を囲んでいればいいのだが、と窓の向こうの庭を眺めた。暗い庭から、また風の音。
 これで収まって欲しいと願う。あまり気温を下げないでくれと、寂しい音をさせないでくれと。小さなブルーが寂しがるから、右手が冷たいと悲しがるから。
(ちゃんと甘えてくれているなら心配ないが…)
 部屋に戻らずに、両親の側で。
 教えてやったセキ・レイ・シロエ風のホットミルクでも作って貰って、ダイニングかリビングのブルーの指定席で。
 そうしてくれていたら嬉しいと思う。自分は側にいられないけれど、代わりに両親。一人息子のブルーを愛して、可愛がってくれる優しい両親。
 けれども、ブルーは自分の部屋を持っているから。其処にベッドも置いているから、いつまでも両親の側にはいられず、部屋に戻ってゆかねばならない。もう幼子ではないのだから。
 恐らくは風呂に入った後には、部屋で一人になってしまうわけで。



(風は止んだが…)
 冷えてきたな、と後片付けを終えたダイニングで溜息をついた。
 ブルーの家でもすっかり夕食の片付けが済んで、食後の語らいも終わった頃か。小さなブルーは自分の部屋に戻ったろうか。風呂に入って、パジャマに着替えて。
 一声、掛けてやりたいと思う。
 「今夜は冷えそうだから早くベッドに入るんだぞ」と、「右手、きちんと暖かくしろよ」と。
 そういう言葉を掛けてやれたら、ブルーはどれほど喜ぶことか。
 会えずとも声を聞かせてやれたら、こんな夜にはどんなに喜び、心強いと思ってくれるか。
 その一言を掛けてやりたいのに、ブルーの家は遠すぎた。窓越しに届く距離ではない。ブルーに声を聞かせてやるなら、通信手段に頼るしかないが。
(用も無いのに連絡出来んし…)
 通信を繋いでも、恐らくブルーの母か父が出て来ることだろう。次の訪問予定日でも告げるしかなく、ブルーに代わっては貰えない。用も無いのに、ブルーを呼んでは貰えない。
 これが幼い子供だったら「ハーレイ先生から」と代わって貰えるだろうに。
 子供はそういうことが好きだし、頼めば気軽にブルーの声が聞けるのだろうに…。



(今の時代は不便なもんだな)
 前の自分たちなら、いつでも思念波で会話を交わせた。ブリッジに居ても、青の間からブルーの思念が届いた。もちろんハーレイからも送れた。
 しかし今ではそうもいかない。
 とことん不器用になってしまったブルーのサイオンも問題だったが、今の時代は誰もがミュウ。どの家にも思念波の侵入を防ぐ仕掛けが施されていて、簡単に思念を届けられはしない。
(今のあいつに届く思念を紡ぐとしたら…)
 同じ家に住むブルーの両親も受け止めてしまう可能性が高く、何事なのかと思われそうで。
 そのくらいなら普通に通信、そしてブルーに代わってくれと頼んだ方がマシ。
(どっちも難しそうだしなあ…)
 恋人同士だと知れていたなら、何の問題も無いのだけれど。
 教師と生徒で、前世がキャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーというだけの理由ではかなり苦しい。幼子でもないブルーに向かって「寝る前の挨拶」は奇妙に過ぎる。
(せいぜい想ってやるくらいしか…)
 想った所でブルーに届きはしないのだが。
 それでも何もしないでいるより、小さなブルーを想ってやりたい。こんな風に冷える夜だから。ブルーの右手が冷たくなりそうな夜だから。
 ともすれば、前のブルーに語り掛けてしまいがちな夜だけれども。
 今夜は小さなブルーの方を優先しようか、出来得る限り。



(そうするんなら、コーヒーは駄目だな)
 前のブルーもコーヒーは苦手だったものだが、今のブルーも駄目だった。
 小さなブルーが冷え込む夜に口にしそうな飲み物は…。
(シロエ風のホットミルクだな、多分)
 きっと今夜も飲んだだろう。母に頼んで作って貰って。
 同じミルクならホット・ブランデー・ミルクと行きたい所なのだが、今日はやめておこう。
 小さなブルーは酒など飲めはしないのだから。
 酒が飲める年は二十歳から。もっとも、ブルーが二十歳になっても飲めるかどうか。
(前のあいつも…)
 酒に弱くて、すぐに酔っていたソルジャー・ブルー。
 新年を祝う乾杯用の赤ワインでさえ、一口だけ飲んで「はい」と渡して来たブルー。
(いかん、いかん)
 やはり前のブルーに思考を持って行かれてしまうのだな、と苦笑しながらミルクを出した。
 幸せの四つ葉のクローバーが描かれた大きな瓶。クローバーのマークが目印のミルク。
 以前は様々なメーカーのミルクを買っていたけれど、ブルーに出会って、これに絞った。いつもブルーが飲んでいるのだと聞いたから。背が伸びるようにと祈りをこめて。
 それに…。
(今の俺たちは四つ葉のクローバーを見付けることが出来るんだ)
 前の生では、いくら探しても四つ葉のクローバーは見付からなかった。自分も、ブルーも。
 クローバーは予言していたのだろうか、前の自分たちの悲しい別れを。
 そのクローバーが今では見付かる。ブルーの家の庭にも、この家の庭にも、生えていた四つ葉のクローバー。幸せのシンボルのクローバー。
(今度は幸せになれるんだからな、俺たちは)
 こんな夜には、普段は忘れがちな四つ葉のマークが頼もしい。
 いつかはブルーと共に暮らすのだと、今度は結婚するのだからと。



 ミルクを温め、愛用の大きなマグカップに注いで、そこへマヌカをトロリと垂らした。
 マヌカの木の蜜だけを集めて出来た蜂蜜。
 セキ・レイ・シロエ風のホットミルクにはマヌカの蜂蜜が欠かせない。シナモンミルクをマヌカ多めで、それがシロエが好んだミルク。
 ブルーにシロエ風のホットミルクを勧めてやる前はマヌカは常備品ではなかったけれども、今は常備品。料理にも使うし、トーストに塗って食べていることもある。
 小さなブルーの家にあるものと同じ銘柄のマヌカかどうかは、一度も確かめていないのだが。
(どうせあいつも覚えちゃいないさ、そんなことまで)
 マヌカの瓶を目にすることはあっても、きっとしげしげ眺めてはいない。
 ホットミルクは母任せだろう。自分でマヌカを入れたりしてはいないだろう。
 あの蜂蜜は薬っぽい味だとマヌカの苦情を聞かされた時も、それを聞かなくなった今でも。



 マヌカがホットミルクに溶けたら、仕上げにシナモン。
 独特の香りのパウダーを振って、カップを片手に書斎へ向かった。
 冷えるとはいえ暖房が欲しいほどでもないから、明かりを点けて机の上にカップを置くと湯気がふわりと立ち昇る。椅子に腰掛け、ホットミルクを一口飲んで。
 仕事は学校で全て済ませて来たから、今日の日記を。
 引き出しを開けて日記を取り出せば、下から現れたソルジャー・ブルーの写真集。自分の日記を上掛け代わりに被せることにしている『追憶』という名の写真集。
 表紙に刷られた前のブルーが憂いを秘めた瞳で見上げてくるけれど。
(すまんな、今日はチビのお前が優先だ)
 あっちの方だ、とフォトフレームに顎をしゃくった。
 飴色の木製のフォトフレーム。その中で自分と小さなブルーが幸せそうに笑っている。夏休みの最後の日にブルーと写した記念写真。自分の左腕に両腕で抱き付いた、小さなブルー。
 そっちのブルーが優先なのだ、と心の中で告げたけれども、写真集の方を見てしまう。ブルーの視線に囚われてしまう。
 正面を向いた、ソルジャー・ブルーの一番有名な写真。
 強い意志を湛えた瞳の奥に秘められた深い憂いと悲しみの色。前のブルーの本当の瞳。
 常に前を向き、弱さを見せることなど無かったソルジャー・ブルーの本当の瞳はこうだった…。



(今のあいつにこの目は出来んな)
 きっと出来ない、とフォトフレームの中のブルーに視線を向けた。十四歳の小さなブルー。
 一度だけ家に遊びに来た時は、ふと覗かせる大人びた表情に驚かされたものだけれども。子供のものとはとても思えぬ、前のブルーにそっくりな貌をしたものだけれど。
 あれから夏が来て、夏が終わって、秋が来る内にブルーはすっかり年相応の子供になった。背を伸ばそうとミルクを飲んでは、少しも背丈が伸びてくれないと嘆く子供に。
 一人前の恋人気取りで背伸びしてみても、十四歳にしか見えない小さな子供に。
 「キスしていいよ」と言っても可愛い。ただ愛らしく、愛おしいだけ。
 愛おしいと思う気持ちが込み上げ、力の限りに抱き締めてみたり、髪を撫でたり。あるいは頬にキスを落としたりと、それは穏やかなブルーへの想い。
 出会って間もない頃と違って、熱が上がってしまうことはない。
 情欲の獣が身体の奥で頭を擡げてきたりはしない。
(この目、あいつにはもう無理なんだ)
 小さな身体に心が馴染んでしまったから。
 次にこういう目をする頃には…、と『追憶』の表紙のブルーを見てしまってから肩を竦めた。
 小さなブルーを優先せねば、と思っていたのに、またしてもブルーに囚われかけた。
 悲しい瞳をしているブルーに、今はもういないソルジャー・ブルーに。



(チビが優先…)
 前の自分が相手であっても、ブルーだったらきっと膨れる。
 「ぼくの方を見てくれないの?」と頬を膨らませて不満たらたら、唇も尖らせることだろう。
(そういえばあいつ、写真集も買わなかったんだっけな)
 ハーレイの写真が欲しいから、と買いに出掛けたと話していた。
 キャプテン・ハーレイの写真でかまわないから、素敵な表情のハーレイの写真が欲しかったと。
 それを探しに書店に出掛けたブルーだったけども、好みの写真にはもれなく前の自分がセットでくっついていて腹が立ったとかで、写真集は買わずに帰ったと聞く。
(鏡に映った自分に喧嘩を売る子猫だな)
 そんな感じだ、とクックッと喉を鳴らして笑った。
 ブルーから写真集の話を聞いた時にも、そう言ったものだ。鏡の自分に喧嘩を売っている銀色の猫だと、チビの子猫が毛を逆立てて鏡に唸っているのだと。
(前の自分でも恋敵っていう所がなあ…)
 あながち外れてもいないのだが、と可笑しくなる。
 現に自分も前のブルーの写真を目にすれば惹かれるのだし、同じ机に小さなブルーの姿を収めたフォトフレームがあるというのに、写真集の表紙のブルーばかりを気にするのだから。
 『追憶』の表紙のブルーに語り掛けはしても、フォトフレームの小さなブルーには笑顔を向けるくらいだろうか。「元気にしてるか?」と、「いい夢を見ろよ」と。
 これでは小さなブルーが毛を逆立てた子猫よろしく嫉妬するのも無理はない。
 前の自分よりも自分を見てくれと、自分は此処に居るのだからと。



(チビが優先、チビが優先…)
 写真集の表紙のブルーを振り切り、引き出しを閉めた。
 それから机の羽根ペンを取って、ペンの先をインクの壺に浸して。
 慣れた手つきで今日の日記を書き付け、吸い取り紙で余分なインクを取って乾かし、引き出しに戻す。『追憶』の表紙のブルーの上掛け代わりに、ブルーが寂しくないように。
(これもあいつは怒りそうだぞ…)
 「前のぼくだけ大事にしてる!」と、「フォトフレームのぼくは出しっぱなし!」と。
 きっと盛大に怒るであろう、と思うけれども、フォトフレームは飾っておくもの。仕舞い込んでおいては意味が無いのだし、飾って何度も眺めてこそだ。
(しかし、あいつは怒るんだろうな)
 出しっぱなしだと、自分の扱いが前の自分よりもぞんざいだと。
 フォトフレームにカバーは掛けられないのに。掛けてしまっては肝心の写真が見えないのに。
(それでも膨れて文句を言うのがあいつなんだ)
 前の自分に嫉妬したブルー。前の自分と一緒に写っているのが嫌だ、とキャプテン・ハーレイを捉えた写真を悉く却下したブルー。
 前の自分に向かって毛を逆立てる銀色の子猫は、出しっぱなしのフォトフレームにも「酷い」と文句をつけるのだろう。「前のぼくの写真集にはちゃんと上掛けがついているのに!」と。
 しかも上掛けはハーレイの日記。
 銀色の子猫はフーフー怒って、尻尾の毛までがきっと見事に膨らむだろう。
(フォトフレームにカバーは掛けないものなんだがなあ…)
 それじゃ見えんぞ、と銀色の子猫に声を掛けても、引っ掻かれてしまうか、無視されるか。
 前の自分を大事にしているくせに何を言うかと、今の自分をちっとも大事にしないくせに、と。



(…待てよ?)
 俺は大事にしてるじゃないか、と思い出して別の引き出しを開けた。
 日記や写真集を入れているのとは別の引き出し、其処に封筒。ブルーの文字。
(こいつを仕舞っているんだっけな)
 封筒を手に取り、裏返してみれば自分が書いた字。羽根ペンで初めて書き付けた文字。夏休みも終わりに近付いたあの日、八月の二十八日のこと。
 封筒の裏に「ブルーに貰った羽根ペン代」と丁寧に書いて、こうして仕舞った。
(羽根ペン代か…)
 三十八歳の誕生日プレゼント。机の上の白い羽根ペン。
 替えのペン先やインク壺などがセットだったそれは、ブルーが買うには高すぎた。
 けれどブルーは羽根ペンを贈りたくてたまらず、どうしても諦め切れなくて。日毎に深くなってゆく悩みに気付いて、どうかしたのかと尋ねてみたらブルーの悩みは羽根ペンだった。
 自分でも羽根ペンが欲しい気がしていたから、自分で買おうと心に決めて。
 ブルーには「出せる分だけ出してくれ」と言って買ったのが今の自分の羽根ペンのセット。
 それを誕生日にブルーに渡して、ブルーの手から自分に贈って貰った。その日にブルーが封筒に入れた羽根ペン代をくれたけれども、使ってはいない。使おうなどとは思いもしない。
(ちゃんと使ってよ、と言われはしたがな…)
 小さな恋人が出せる精一杯の羽根ペン代。ブルーの小遣いの一ヶ月分だと言っていた。
 恋人の気持ちと想いが詰まった封筒の中身を出して使おうとは思わない。
 これは一つの宝物。ブルーに貰った、羽根ペンよりもずっと大切な温かな想い。
 時々、こんな風に思い出しては取り出して眺めて、また戻しておく。引き出しの奥に、そっと。



 いつかブルーと結婚したなら、この封筒を見せてやろう。
 「この封筒を覚えているか?」と、「お前に貰った羽根ペン代だ」と。
 そして二人で記念の何かを買うのもいい。封筒の中身の羽根ペン代で、結婚出来た記念の品を。
(ブルーの小遣いの一ヶ月分…)
 何を買うことが出来るのだろうか、これの中身で。
 二人お揃いの何かを買うか、二人で使える品物にするか。二人で考えて、あれこれ選んで。羽根ペン代は素敵な品物に変わる。二人で暮らす家に置くためのものに。
(取っておくのもいいんだがな)
 使う代わりに、タイム・カプセルのように引き出しの奥に。
 この封筒が今日までそうして過ごして来たように、結婚する時までそのまま眠っているように。
 ブルーと結婚した後になっても仕舞い込んだままで、取り出しては二人で眺めて、笑って。
(使えと言っておいたのに、と一番最初は怒りそうだな)
 どうして使ってくれなかったのかと、仕舞ったままになっているのかと。
 ブルーは膨れてしまいそうだけれど、その頃にはブルーにもきっと分かる筈。使わずに仕舞っておいた理由も、その封筒を見せられた理由の方も。
 だからこそ二人で記念に使う。記念の品を何か買いにゆく。
 もったいない、とブルーが言うのであれば。
 封筒は記念に残すとしても中身は使おう、と言うのであれば。
 結婚した記念になる何か。お揃いの何かか、二人で使うことが出来る品物か。
 それを選びに出掛けるのもいい。十四歳だったブルーが奮発して払った羽根ペン代で。



 今のブルーは羽根ペンを贈ってくれたけれども、前のブルーは。
 悲しい瞳で今も自分を見詰めるブルーは…。
(前のあいつは…)
 シャングリラでは誰も小遣いなど持ってはいなかったから。
 買いに行こうにも店が無かったから、お互い、プレゼントを贈り合うことも無かった。ブルーは何もくれなかったし、自分も贈りはしなかった。
 それに、無かった誕生日。
 成人検査とその後の地獄は誕生日の記憶も奪ってしまった。生まれたその日を祝いたくても何も思い出せず、アルテメシアを落とした後でようやくデータを手に入れた時は、ブルー亡き後。
(誕生日ってヤツすら一度も祝えなかったんだ…)
 知っていたなら、ブルーがこの世に生まれて来た日を祝ったろうに。
 プレゼントを贈ろうと、下手な木彫りでも評判が良かったスプーンくらいは彫ったのに。



(…いかん、いかん)
 またチビの方から逸れちまった、と頭を振った。
 前の自分たちはプレゼントなるものを贈り損ねたが、今ならいつでも、と思ったけれど。
 誕生日でなくとも思い付いた時に贈り合える、と考えたけれど。
(駄目だな、教師と生徒だったな)
 たまに提げてゆく土産がせいぜい、それも食べ物くらいなもの。いくらブルーに食べて欲しいと願ったところで、自分の手料理は持ってゆけない。
 何も知らないブルーの母を恐縮させてしまうから。料理が趣味だと説明をしても、申し訳ないと思われてしまうから。
(手料理にしたって、何かを買って贈るにしたって、今の状態じゃなあ…)
 なかなかに難しそうではある。花束だって贈れはしない。
 ブルーの方でも教師のハーレイに贈り物となったら両親の出番、ブルーは黙って見ているだけ。これにしたいと選びも出来ずに、自分の手からは渡せもせずに。
 どうやら今の自分たちでも、自由にプレゼントを贈り合える日が訪れるまでは遠そうで…。




(結婚前には贈るんだろうが…)
 プロポーズの言葉と、記念の品物。
 婚約指輪をブルーが欲しがるか、嵌めたがるかは分からないから、それはその時。
 とにかく記念の品を贈って、ブルーを花嫁として迎えるための準備を始めなければならない。
 婚約となれば、ブルーからも何か貰えそうだが。
 記念の品をプレゼントされるのだろうが、その記念品を買うための費用の方は…。
(あいつが稼いだ金ってわけではないんだろうなあ…)
 アルバイトをしよう、と思うような年まで、多分ブルーは学校にいない。
 今の学校を卒業すれば結婚出来る年の十八歳だし、恐らくブルーは進学しないで真っ直ぐに嫁に来るのだろう。寄り道なんかはしていられないと、やっと十八歳になったのだから、と。
 今の学校は義務教育。アルバイトは義務教育の間は禁止。
 ゆえに一銭も稼がないまま、ブルーは婚約記念の何かを買って贈ってくれるのだが。
 そういう結末になる筈なのだが…。



(だが、あいつは得意満面なんだ)
 決まっている、と笑みが零れる。
 その日に備えて貯めておいた小遣いか、あるいは貯金を下ろして来たか。
 両親からも充分にプラスして貰って、生まれて初めての高価な買い物。羽根ペンとは全く比較にならない高価な品物を手にしたブルーが、「これ」と笑顔で差し出すのだろう。
 自分で選んだ品物なのだと、両親と一緒に買いに行ったと。
 十八歳を迎えた直後か、その直前の頃のブルーがたった一人で高価な買い物は難しそうだ。
 自分で選ぶと言い張ったとしても、スポンサーの両親が目を光らせるのに違いなくて。
(うん、親付きだな、間違いなく)
 一人息子が大金をドブに捨ててしまわぬよう、お目付け役が居ることだろう。
 ついでに出資者、ブルーの一世一代の贈り物のためのスポンサー。
 そして結婚した後は…。



(俺の金だな)
 あいつが使う金は俺の金なんだ、と肩を揺すって暫く笑った。
 たとえブルーが両親に貰った小遣いを持って嫁いで来たとしても、使わせまい。
 今度は守ると決めているから。
 ブルーの面倒は全て自分が見るのだと、世話をするのだと決めているから。
(食費からして俺持ちだしな?)
 普段の食事も、自分が仕事に行っている間にブルーが口にする菓子なども、買うのはハーレイ。料理をするのもハーレイだけれど、材料を買うのも当然、ハーレイ。
 シロエ風のホットミルクのためのミルクも、マヌカも。それにシナモンも。
 何もかもを自分が買うことになる。
 ブルーは何も買わなくてもいい。ただ微笑んでいてくれればいい。
 幸せなのだと、毎日がとても幸せなのだと。



(気付いてるか、ブルー?)
 今度の生では何もかもを任せて生きてもいいということに。
 何ひとつ責任を背負うことなく、全てをハーレイに任せてしまって、ただ幸せに。
 そういう生き方をしてもいいのだという選択肢に、それを望まれているという事実に。
 今度こそブルーを守りたいから、そうしたいと望んでいるけれど。
 ブルー自身も、夢は「ハーレイのお嫁さん」だけらしいけれど。
(きっと分かってはいないんだろうな…)
 全てを任せて生きていいのだ、という所までは。
 前の自分が生きた道とはまるで違うと気付いてはいても、その生き方の本質にまでは。
(何度も言ってはいるんだがなあ、何もしなくていいんだぞ、とな)
 料理すらもしなくてかまわないから、と言ってやってはいるのだけれども、分かっているのか。
 自分がどれほど守りたいのか、守ろうとしているか、気付いているのか。
 まるで分かっていないのだろう、と思うけれども、それも可愛い。
 花嫁になる日を夢に見るだけの小さなブルーが愛おしい。
 その日が来たなら幸せになれると、お嫁さんになるのだと夢見るブルーが。



(この封筒をいつ見るんだろうな?)
 「ブルーに貰った羽根ペン代」と自分が書き付けておいた封筒。
 日記や前のブルーの写真集とは別の引き出しに大切に仕舞ってある封筒。
 いつかは嫁に来たブルーと二人で、この封筒を出して眺める。中身が入ったままの封筒を。
 「ちゃんと使って、と言ったのに!」とブルーは真っ赤になるのだろうか。
 まさかあるとは思わなかったと、とうに使ったと思っていたと。
(そんなあいつだから取っておくんだ)
 もしも中身を使うとしたら、それがブルーが結婚した後、一度だけ自分で支払う機会。遠い日の自分が出した費用でも、羽根ペン代でも、ブルーの財布から出て来たもの。
 結婚してもブルーは財布を持つのだけれども、中身は自分が入れてやるから。ブルーの私財など使わせないから、使える機会はたった一度で、この羽根ペン代と書かれた封筒に入った分だけ。
(そうだな、こいつの中身だけだな、あいつの金で何かを買うのなら…)
 ブルーは其処まで気付くだろうか?
 タイム・カプセルのように引き出しに仕舞われた封筒の中身が持っている意味に。
(もしも気付いたら、使っちまおうって言いそうだよなあ…)
 恥ずかしいから早く使おうと、早く何かを買いに行こうと。
 そうなった時は…。
(意地でも使わせてやらない方だな、取っておいてな)
 同じ分だけ自分が出すから、それで食事でもしようじゃないか、と宥めておいて。
 この封筒はまた引き出しの奥に仕舞い込む。
 ブルーに貰った羽根ペン代。使わずにタイム・カプセルのように、引き出しの奥に大切に。



(早く使おう、って言い出す度に食事かお茶かで誤魔化さないとな)
 そうしてブルーにキスを贈って、強く抱き締めて。
 今度こそ自分がブルーを守る。何も背負わず、ただ幸せに微笑んで生きてくれればいい。幸せな日々を幸せの中で、幸せだけに包まれて生きてくれればいい。
(今度は俺が守るんだからな)
 この封筒の中身も使わせないほど、自分の愛だけで包み込んで。
 そうやって生きると決めたのだから、と封筒を引き出しの奥へと仕舞った。
 フォトフレームの中のブルーに見付からないよう、そうっと、そうっと。
 小さなブルーに「何でもないぞ」とウインクしてから、カップの中で冷めてしまっていたホットミルクを飲み干して…。



(もう一杯やるか)
 小さなブルーはとうにベッドに入った時刻。
 温もりは届けてやれないけれども、体温を分けてやりたい冷える夜だし、温かいものを。
(あいつの夢に温もりだけでも届けてやれるといいんだがなあ…)
 幸せな夢を見られるように。メギドの悪夢に捕まらぬように。
 今度はホット・ブランデー・ミルク。
 いつかブルーが欲しがるだろうし、その日を思い浮かべるのもいい。
 ぼくも欲しい、と言い出すブルーを。
 前のブルーと同じで酒には酷く弱いのだろうに、飲みたいと強請るブルーの姿を。



(あいつが喜びそうなレシピにするのもいいな)
 ホット・ブランデー・ミルクをそのままもいいが、研究するのもいいかもしれない。
 冷える夜には右手が冷たいと訴えるのが常のブルーのために。
 結婚する頃、ブルーの右手は冷たかったことも忘れているかもしれないけれど。
 それでもたまには思い出すだろうし、そんな時に備えて飲み物を。
 酔っ払わない程度に身体がほんのり温まるだろう、優しい甘さのホットミルク。
 温めたミルクにブランデーを少し落として、砂糖か蜂蜜。
 そういうレシピを工夫してみよう。
 二人で暮らしてゆく暖かな家にシロエの影は必要ないから、同じ蜂蜜でもマヌカは抜きで…。




           冷える夜・了

※今のブルーと、前のブルーと。一人きりの夜には、揺れ動きがちなハーレイの気持ち。
 けれど、大切なのは「今」。今度こそ、ハーレイはブルーを守り抜くのです。
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(あと少し…?)
 土曜日の朝、食卓に置かれたマーマレード。
 ハーレイのお母さんが庭の夏ミカンの実から作った金色のマーマレードの瓶。かなり大きめの瓶なんだけれど、パパもママもぼくもお気に入りだから。
 毎朝のように食べているから、多分、今日か明日かでなくなりそう。瓶の底の方に残った金色、夏のお日様を閉じ込めた色。
(もうちょっとで空になっちゃうんだけど…)
 あと何回かスプーンで掬えば空になっちゃって、瓶は洗ってハーレイに返す。それをハーレイが隣町のお父さんたちの家まで行ったついでに渡してくれて、新しいのを貰えるんだ。
 残り少ないマーマレード。
 だけど、そんな朝でもマーマレードをトーストにたっぷり、ぼくの特権。スプーンを突っ込んで掬って、乗っけて。ちょっぴりビターな夏ミカンの金色をトーストと一緒に頬張る、ぼく。
(ふふっ、幸せ!)
 ぼくが掬った後、パパとママもトーストに塗り始めた。ハーレイに貰ったマーマレード。本当はハーレイのお父さんとお母さんから、ぼくへの贈り物だけど…。
 初めてマーマレードを貰った時に、ハーレイがぼくにそう言った。「親父たちからだ」って。
 いつかハーレイのお嫁さんになるぼくに、お父さんとお母さんからのプレゼント。
 大事に食べようって決めていたのに、次の日の朝、ぼくが起きたらパパとママとが食べていた。表向きはハーレイがお世話になってる御礼ってことになっていたから。
 ショックで声も出なかったぼくだけれども、ホントに泣きそうだったんだけれど。
 でも、パパとママは残り少なくなった時にはちゃんと譲ってくれて、ぼくが最後に食べられた。新しい瓶を貰えたけれども、最後の一匙はいつでも、ぼくに。
 ぼくのマーマレード、ってわざわざ言わなくってもパパとママとは譲ってくれる。
 だから残りが少なくなった今朝はぼくが一番、それからパパとママの番。



 譲り合いなんかやっていないで、次の瓶を開ければいいんだけれど。
 そうすればパパもママも、ぼくが取るのを待っていないで新しい瓶から掬えるんだけれど。
 ハーレイは瓶が空になる前にちゃんと早めに届けてくれるし、マーマレードを切らしてしまったことは無いから。
 ただ…。
(開かないんだよね)
 新しいマーマレードの瓶は開かない。そう簡単には開いてくれない。
 お店で売ってるジャムやマーマレードと変わらないように見えるけれども、蓋が固くてどうにもならない。ハーレイのお母さんが力持ちなのか、それともお父さんなのか。
 一番最初に瓶を貰った時、パパとママとは開けるのにうんと苦労した。
 ぼくは現場に居なかったけれど、見ていないけれど、そう聞いた。とても固くて大変だったと。
 そして今でも苦労している。マーマレードの新しい瓶を開けようっていう時が来る度に。
 パパが全力で蓋を捻って、ママが合わせてサイオンを乗せて。
 二人一緒に掛け声をかけて、ようやく瓶はポンと開くんだ。
 そんな具合だから、新しい瓶が開くのは前の瓶が空になった時。空っぽになったから次の瓶を、っていう時になったら始まる格闘。
 一足お先に開けておこう、と開けるには蓋が固すぎる。だって一人じゃ開かないんだから。



 パパとママとがトーストに塗って、マーマレードの残りは少しになった。
 多分、明日の朝にぼくが塗ったらそれでおしまい、パパとママとは別のジャム。マーマレードの他にもジャムとかの瓶は色々あるから、それを食べてから食後に格闘。マーマレードの瓶と格闘。
「また開けなきゃな」
 パパがマーマレードの瓶を眺めてママに言ったら、ママも頷いた。
「ええ。明日には開けなきゃいけないわね」
 今度は上手に開けられるかしら、いつも二人で開けているけど…。
 ハーレイ先生のお母様たち、ご近所の方やお友達にも配っていらっしゃるのよね、この瓶を。
 皆さん、どうしてらっしゃるのかしら、って首を傾げて見ているママ。
 そう言われてみたら、そうだった。ハーレイのお母さんたちはマーマレードを沢山配る。つまり何人もが瓶を開けているわけで、その人たちが全員、苦労しているとも思えないから。
「ハーレイにコツを訊いてみたら?」
 瓶を開けるコツがあるんじゃないかな、ハーレイは常識だと思い込んでて言わなかったとか…。小さい頃から見ていたんなら、それは普通の方法だもの。
 コツを教えて、って訊けばいいんじゃない?
 今日はハーレイ、来てくれるよ、って言った、ぼく。
 土曜日だから、ハーレイは訪ねて来てくれる。「その日は駄目だぞ」とは聞いてないから。



「そうねえ…!」
 ハーレイ先生なら絶対にコツを御存知なのよね、お母様が作ってらっしゃるんだから。
「それが良さそうだな、きっと開け方があるんだろう」
 訊いてみよう、って頷き合ってるパパとママ。
 明日の朝には瓶を開けるんだし、今日から開けても大丈夫。ハーレイに訊いて、コツを習って、次からはきっと楽に開けられるようになる筈なんだ。
 ママは早速、キッチンの貯蔵用の棚からマーマレードの新しい瓶を持って来た。テーブルの上に置かれた瓶。夏ミカンの金色が詰まった瓶。
「ぼくも開けるコツを聞いておきたいから、習う時には一緒だよ?」
 パパとママだけで聞いちゃわないでよ、教わる時にはぼくも呼んでよ?
「ふうむ…。それなら、この瓶。お前の部屋に置いておいたらどうだ?」
 それなら忘れないだろう。
 ハーレイ先生がいらっしゃったら、時間を見てお前がお願いしなさい。
 この瓶の蓋が固くて開けられないから、開けるコツを教えて下さい、とな。



 というわけで、ぼくはマーマレードの瓶を抱えて部屋に戻った。
 ハーレイと二人で座る窓際の椅子とテーブル、其処にドカンと大きな瓶。マーマレードの金色が輝くガラスの瓶。
 部屋を掃除して待ち焦がれていたら、ハーレイがやって来たんだけれど。
 案内して来たママがテーブルにお茶とお菓子を置いて行ってくれたけれども、ハーレイの鳶色の瞳は瓶に釘付け、まじまじと眺めてこう言った。
「なんだ、こいつは?」
 どう見てもおふくろのマーマレードだが、どうかしたのか、この瓶が?
 中身が減ってるようには見えんし、味や匂いが変だというわけでもなさそうだが?
「えーっとね、そういうことじゃなくって…。瓶の開け方」
 前の瓶がもうすぐ空になるから、明日にはこの瓶、開けたいんだけど…。
 これって開けるのにコツとかあるかな、ぼくのパパとママは苦労してるんだよ。
「ああ、この蓋が開けにくいってか?」
「うん。パパとママがコツを教えて下さい、って」
 ハーレイならコツを知ってるだろうし、どうやったら開くのか、蓋を開けるコツ。
「うーん…。俺にはコツなんか無いんだがなあ…」
 まあいいか、って椅子から立ち上がったハーレイ。
 紅茶のおかわりを頂く前にこいつの方を片付けるか、って。



 マーマレードの瓶を抱えたぼくと、後ろから来るハーレイと。
 階段を下りてリビングを覗いてみたら、パパもママもリビングのソファに座っていたから。
 みんなでダイニングの方に移動して、マーマレードの瓶はテーブルの上。
 主役よろしくテーブルに鎮座した瓶を前にして、パパがハーレイに頭を下げた。
「ハーレイ先生、すみません。わざわざ下りて来て頂きまして…」
「いいえ、全くかまいませんよ」
 これを持って来たのは私ですしね、責任もあるというものです。
「いつも主人と二人がかりで開けていますの。開け方、コツがあるんでしょうか?」
 教えて頂けると助かります、ってママも頭を下げたんだけど。
 ハーレイは「それが…」と、困ったような笑い顔。
「私には特に…。コツというものは無いんですよ、これ」
 こうですが、ってハーレイの大きな手が瓶の蓋を覆って、テーブルの上でキュッと捻って。
 ポンッ! と小気味いい音が聞こえて、開いた瓶。
 軽々と開いてしまった瓶。



「先生、今のは…?」
 パパが目を丸くしたら、ハーレイはマーマレードの瓶に蓋をしながら。
「サイオンは使っていませんよ?」
 捻っただけです、本当に。ですからコツなど私には無いと…。
 いつもこうやって捻るだけです、それだけでポンと開きますからね。
「そうなんですか? 私は妻と二人がかりでないと開かないんですが…」
 妻にサイオンで補助して貰って、私の方は全力で。そのくらいしないと開いてくれません。
 それが捻っただけで開くと仰るからには、やはり力の差ですかねえ…。
 柔道と水泳で昔から鍛えておられる分だけ、力もお強いということでしょうか?
「そのようですね。それほど力を入れなくても蓋は開けられますよ」
「あらまあ…。では、お父様もこの蓋、ポンとお開けになりますの?」
 ママが興味津々で訊いたんだけれど。ハーレイの答えはこうだった。
「いえ、父も力は強い方ではあるんですが…。父でも母と二人がかりです」
 釣りで大物を釣り上げる力と、瓶の蓋とは違うようですね。
 それに、マーマレードを作った母も。
 確かに自分でマーマレードを沢山作って、ガラス瓶に詰めているんですがねえ…。



 自分で蓋をしたくせに一人じゃ開けられないんです、って笑ったハーレイ。
 マーマレードの瓶は特別な真空状態になってて、開けなかったら二十年でも持つんだって。
 ガラスの瓶にマーマレードを詰めたら、蓋をして水を張ったお鍋に入れる。水が沸いてきたら、そのまま暫く弱火で煮込んで、それから出して。瓶を逆様にして冷めるまで待つ。
 蓋の真ん中がへこんでいたなら瓶は真空、開けさえしなければマーマレードはそのまんま。
「母も教わったんだそうです、ご近所の方に。その作り方を」
「そうでしたの?」
「ジャム作りがお好きな方がおられましてね」
 色々と作っておられるんですよ、毎年、何種類ものジャムを。
 頂いた瓶がなかなか開かなかったもので、母が訊いたら「真空ですよ」と仰ったそうで…。
 二十年は軽く持ちますよ、と教えて下さったという話でした。
 母がその話を伺った時に、「二十年以上も前に作りましてね」と御馳走になったようですが…。何のジャムだったかは忘れましたが、まるで出来立てのような味がしていたらしいですよ。



 二十年以上も前に作ったジャムでも、ちゃんと食べられるという真空の瓶。
 蓋が頑丈な理由が分かった。
 そんなに長い間、傷みもしないでジャムが持つなら、マーマレードだって同じこと。外の空気に触れないようにとマーマレードを守っている蓋、そう簡単に外れちゃったら大変だもの。
 ハーレイのお母さんが真空にしちゃった、うんと蓋の固いマーマレードのガラス瓶。
 蓋に小さな穴を開ける人もいるんだって。そうすれば真空じゃなくなるから。蓋は緩んで普通の力で開くようになるし、手伝ってくれる人がいなくても開けられる。
 だけど、そこまでする人がいるほどの蓋。
 固いと評判のマーマレードの蓋をハーレイはポンと開けちゃった。
 コツなんか無いと、自分はいつでもこうやっていると。
 マーマレードの瓶を開ける時には声を掛けて下されば開けますよ、って言っているけれど。
「それは申し訳ないですし…」
 妻と二人でやってみますよ、とパパが瓶を見て、ママだって。
「ええ、なんとか頑張って開けてみますわ、コツが無いなら」
「そう仰らずに、ご遠慮なく」
 いつもお世話になっていますし、マーマレードの蓋くらいなら…。
 馬鹿力がお役に立つのでしたら、このくらい、いつでもお手伝いさせて頂きますよ。



 ハーレイが開けてくれたマーマレードの瓶をダイニングに残して、ぼくの部屋に戻って。
 お茶のおかわりをカップに注いで、ぼくはハーレイの手を見詰めた。
 ぼくとおんなじカップを持っても、カップが小さく見えてしまう手。力だって強い手は瓶の蓋もポンと開けちゃうくらいで、ホントに感心するしかなくて。
「ハーレイ、凄いね」
 力持ちだね、ハーレイの手って。
 パパの力でも開けられない蓋、捻っただけで開くんだものね。
「親父たちにも言われるなあ…。馬鹿力だと」
 あの瓶の蓋を素手で開けられるヤツはお前くらいだと、誰一人として開けられないんだ、と。
 もっとも、俺でもガキの頃には流石に開けられなかったがな。
 何歳くらいの頃だったかなあ、蓋を捻るだけで開けられるようになったのは。
 お前くらいの年の頃にはまだ無理だったな、格闘していた覚えがあるしな。



 そうは言っても、ぼくの年には頑張れば蓋を開けられたらしい、凄いハーレイ。
 蓋をちょっぴり温めてやれば、なんとか開いたというから凄い。ぼくのパパとママはその方法も試してみたのに、未だに二人がかりで開けないとどうにもならないんだから。
 でも、ハーレイが蓋を開けてくれたし…。
「明日から新しいマーマレードを食べられるんだよ、ぼくが一番に掬うんだ」
 せっかくハーレイが開けてくれた瓶なんだもの、一番乗りをしなくっちゃ。
 いつもだったら一番でなくてもかまわないけど、明日は一番。
「ほほう…。遅れないよう早起きせんとな、でないと先に食われちまうぞ」
「それは絶対、大丈夫!」
 ぼく、特権を持ってるんだよ、マーマレードの。
 これが最後の一匙、って時には、マーマレードはぼくが貰うんだ。それでぼくの分が足りない時には新しい瓶。ちょうどそういうタイミングだから、パパとママは食べずに待ってるよ。
 ぼくが起きなくて先に食事、って思うんだったら、別のジャムとかマーマレード。あの瓶の分は食べずに待っていてくれてるから、ホントにぼくが一番なんだよ。



 楽しみだよね、って新しい瓶のマーマレードを思い浮かべてウキウキしてたら。
「お前、どうやって食っている?」
「えっ?」
「マーマレードだ。お前、どうやって食っているのかと訊いているんだが?」
 おふくろのマーマレードの食べ方。いつもどういう食い方をしてる?
「トーストだよ?」
 キツネ色に焼けたトーストに塗って食べているけど、どうかした?
「バター、塗ってるか?」
「バター?」
 えーっと…。バターなんかは塗らないよ?
 マーマレードをたっぷりと塗って、それだけで食べているんだけれど…。
「そいつはいかんな、バター無しとは」
 トーストにバター、熱いからトロトロに溶けるだろうが。
 溶けたバターを一面に塗って、その上にマーマレードを乗っける。こいつが実に美味いんだ。
 お前がやっていないと言うなら、それは思い切り損をしてるぞ。
 バターとマーマレードの組み合わせが絶品なんだから、ってハーレイは片目を瞑ってみせた。
 俺もそうやって食ってるんだぞ、って。



「バターを塗ってからマーマレードって…」
 美味しいの?
 ハーレイ、それがお気に入りなの?
「ジャムとかでよくやらないか? バターとセットで」
 バターだけとか、ジャムだけだとか。そんな食い方より美味いんだがなあ、組み合わせると。
 塩味と甘味の相性だろうな、バターに蜂蜜も美味いんだが。
「そういう食べ方、たまにやるけど…。美味しいんだけど…」
 でも、ハーレイのお母さんのマーマレードは…。あれはあれだけでも美味しいから…。
 夏ミカンの金色、うんと素敵な味だから…。
 もったいないよ、って答えたぼく。
 夏ミカンの味がバターで死んでしまうと、ハーレイのお母さんの味が台無しになると。
「何を言ってる、より美味しくなる食い方をしないと損だろうが」
 あのマーマレードと、溶けたバターと。
 おふくろも親父も気に入っているし、俺の家では定番だぞ。トーストにバターをたっぷりだ。
 いいか、美味いんだから試してみろ。
 もったいないだなんて言っていないで、明日にでもな。
「うんっ!」
 ハーレイも、ハーレイのお母さんたちもお勧めだったら、試してみる。
 金色同士の組み合わせなんだね、金色に溶けた熱いバターと、マーマレードの金色と。



 次の日の朝、張り切って起きていった、ぼく。
 ダイニングのテーブルにマーマレードの大きなガラス瓶が二つ、残りが少しになっていた分と、昨日ハーレイが開けてくれた分と。
 パパとママはまだ食べ始める前で、トーストを焼いてるトコだったから。
 ぼくは気前よく、残りが少ない瓶のマーマレードをママに譲った。いつもだったら両方の瓶のを一人占めだけど、今日は新しい食べ方を試す日なんだから。
 記念すべき第一回の分のマーマレードはバターが冷めてしまわない内にたっぷり塗りたい。前の瓶の底までスプーンで掬ってるよりも、新しい瓶からスプーンで沢山。



 そうするんだ、ってトーストを焼いて貰って、教わったとおりにバターを乗っけた。トーストの熱で溶かしながら塗って、金色のバターを端の方までしっかりと広げたら、マーマレードを。
 キツネ色のトーストに金色のバター、その上にマーマレードの金色。
 夏のお日様をギュッと閉じ込めた、ハーレイのお母さんのマーマレードをたっぷりと。
「あら、珍しいわね?」
 ブルー、その食べ方は初めてじゃない?
 他のジャムとかでするのは見るけど、ハーレイ先生のマーマレードではやってないでしょ?
「うん、ハーレイに習ったんだよ」
 昨日、教えて貰ったんだ。ハーレイの家では定番の食べ方なんだって。
 こうやって食べないと損をしてるぞ、って言われちゃったから、食べてみるんだよ。
(バターと、ハーレイのお母さんのマーマレードと…)
 金色と金色の組み合わせ。金色のバターと、お日様の金色のマーマレードと。
 どうなのかな、って一口、齧ってみたら…。
(美味しい…!)
 バターの塩味と、ちょっぴりビターなマーマレードの酸味と甘味。
 少し心配していたんだけど、ハーレイのお母さんのマーマレードはコクのあるバターにちっとも負けてはいなかった。それどころかバターを家来にしている。従えちゃってる。
(夏ミカンのマーマレードが王様なんだよ)
 お供はバターとキツネ色のトースト、王様のマントは夏ミカンの皮。
 マントじゃなくって王冠だろうか、マーマレードが此処にあるよ、って舌に伝えてくれる皮。
 マーマレードはトーストの主役、金色に輝く立派な王様。バターなんかに負けない王様。
(ハーレイが言ってたとおりだったよ、「美味いんだぞ」って)
 バター無しだなんて損だと言っていたハーレイ。
 ハーレイのお勧めは当たってた。
 きっと子供の頃から食べていたんだ、バターと夏ミカンのマーマレードのトーストを。
 庭に夏ミカンの大きな木がある、隣町のお父さんとお母さんが暮らしてる家で…。



 朝からとってもいいものを食べて、御機嫌になってしまった、ぼく。
 掃除も鼻歌を歌いながらで、早くハーレイが来てくれないかと何度も窓から見下ろして。
 首が伸びてしまうほど待った気がするけれども、ハーレイが来たのはいつもの時間。門扉の脇のチャイムを鳴らして、ぼくに笑顔で手を振ってくれた。
 ぼくの部屋で二人、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせに座ったら。
「マーマレードにバター、試してみたか?」
 そう訊かれたから、ぼくは元気一杯に「うん!」と答えて報告。
「美味しかったよ、ハーレイのお勧め!」
 バターの塩味に負けていないね、ハーレイのお母さんのマーマレード。
 なんだか王様みたいだったよ、トーストとバターを家来にしている偉い王様。
 キツネ色のトーストも金色のバターも家来なんだよ、マーマレードの王様の家来。
 ハーレイに教えて貰わなかったら、ぼく、マーマレードが王様だなんて気付かなかったよ。
「そいつは良かった。マーマレードが王様ときたか」
 おふくろが作るマーマレードは味がしっかりしているからな。夏ミカンを丸ごと使うからなあ、庭で完熟したヤツを。その分、どっしりしているんだろう。
「ハーレイのお母さんたちが住んでる家の味だね」
 庭に射してるお日様だとか、庭の土とか。
 そういったものが育てた夏ミカンの味が詰まってるんだね、マーマレードに。
 だからしっかりした味になって、バターとトーストを家来にしちゃえる王様なんだ…。



 王様のトースト、ホントのホントに美味しかったよ、って御礼を言ったら。
 教えてくれてありがとう、ってハーレイにペコリと頭を下げたら。
「あれはおふくろのお勧めでな」
 トーストにバターとジャムやマーマレードの組み合わせってヤツは、そう珍しくないんだが…。
 バターとマーマレードが王道らしいぞ、おふくろが作ったマーマレードでなくてもな。
 だから自信を持ってのお勧めってわけだ、あのマーマレードの食い方としては。
「そうなの?」
 お母さんのお勧めっていうのは分かるけれども、王道って、なあに?
 そういう食べ方をしている地域でもあるの、トーストにバターとマーマレードって。
「うむ。トーストの食い方をとっくに越えてて、立派な菓子だ」
「お菓子?」
「そうさ、SD体制が始まるよりもずうっと昔に作られていた菓子なんだ」
 俺がおふくろから聞いた話じゃ、一般家庭向けに刷られた最初のレシピ本にもあったらしいな。レシピだけじゃなくって、家事全般の手引書だったという話なんだが…。



 うんと古いレシピがあるんだそうだ、って教えて貰った。
 トーストにバター、マーマレードで作るお菓子のブレッド・アンド・バタープディング。
 残ったパンで作る、フレンチトーストの親戚みたいなものだって。
 パンをスライスして、まずはバターを塗り付けて。その上に塗るのがマーマレード。
 そうやって下ごしらえをしたパンを器に並べて、ミルクにお砂糖と卵を混ぜたのを回しかけて。馴染んだ頃合いでオーブンに入れて、キツネ色になるまでカリッと焼き上げるんだって。
 出来上がったプディングは外はサクサク、中はふわふわ。
 熱々の間に取り分けて食べるパンのプディング、マーマレードとバターが決め手。
 塗らずに焼いてもフレンチトーストみたいで美味しいけれども、マーマレードとバターを加えてもっと美味しく。
 そんなお菓子になってるからには、トーストにマーマレードとバターは本当に王道なんだろう。
 ハーレイのお母さんもお勧めの食べ方、マーマレードの美味しい食べ方。
 今度から、ぼくも定番にしようと思うけど…。



「ハーレイのお母さんもお菓子作りが好きなんだよね?」
 ぼくのママとおんなじ味のパウンドケーキを焼くって聞いたし、プディングだって…。
 猫のミーシャが家に居た頃、ケーキ作りの時にはミルクを強請っていたんでしょ、ミーシャ?
 いつも貰えると思ってたくらい、お母さん、お菓子を色々と作っていたんだよね?
「そうだな、おふくろは菓子作りってヤツが大好きだな」
 ついでに古いものも好きなんだよなあ、昔のレシピを調べて作って喜んでるぞ。
「ブレッド・アンド・バタープディングのレシピもそうなの?」
 ハーレイのお母さん、古いレシピを探してる内に見付けたの、それを?
「あれは違うな、先に作っていた先輩がいたと聞いてるな」
 マーマレードを配った時にだ、古いもの好きのご近所さんから習ったそうだぞ。
 こういう古いお菓子があるから作りませんかと、作るならレシピをお教えします、と。
「へえ…!」
 きっとマーマレードだったから思い付いたんだね、そのご近所さん。
 マーマレードのお菓子でこんなのがあると、うんと昔のレシピだけれど、って。
「そんなトコだな、あのマーマレードは何かと御縁を呼んでくるんだ」
 長持ちさせるなら真空ですよ、と蓋をする方法を教えてくれたご近所さんやら、菓子のレシピを下さった別のご近所さんやら。
 そういった知り合いが大勢いるから、おふくろも張り切ってマーマレードを作るのさ。
 今年も美味しく出来ましたからと、食べて下さいと配るためにな。
 そうして今年から、お前の家にも。
 俺の嫁さんになると言ってくれるお前に食べて貰えると、おふくろも親父も嬉しそうだぞ。



 「早くお前に夏ミカンの木を見せてやりたいな」ってハーレイが笑みを浮かべてる。
 「まだまだチビだが、いつかはな」って。
 隣町にある、ハーレイのお父さんとお母さんが暮らしている家。庭に大きな夏ミカンの木。その実で毎年、マーマレードが作られる。お日様の金色のマーマレードが。
 そのマーマレードで繋がっているらしい、ご近所さんが沢山、沢山。
 瓶を真空にする方法やら、お菓子のレシピやら、色々な御縁を呼び込んでくるマーマレード。
 ハーレイのお母さんがせっせと作って、あちこちに配るマーマレード。
 ぼくもいつかは混ぜて貰うんだ、マーマレードで繋がる御縁に。
 ハーレイのお母さんと一緒にマーマレードを作って、ご近所さんに配って回って。



 マーマレードが決め手だという、ブレッド・アンド・バタープディング。
 SD体制が始まるよりもずっと昔の、古い古い本にレシピが載っていたというお菓子。
 それの本物をハーレイのお母さんに食べさせて貰って、レシピを習って。
 ハーレイのために作ってみようか、パンで作るというお菓子。
 そしてハーレイに訊いてみるんだ、「お母さんのお菓子、この味かな」って。
 ハーレイのお母さんのプディングの味になってるかな、って。
 「同じ味だな」って極上の笑顔が返って来たなら、きっと幸せ。
 ぼくのママのパウンドケーキみたいにハーレイが好きな「おふくろの味」なら、とても幸せ。
 マーマレードで繋がった御縁、どうせならそこまで広げてみたい。
 ハーレイがうんと幸せになれる、お母さんのと同じ味のお菓子をマーマレードで作ってみたい。
 ブレッド・アンド・バタープディング。
 簡単そうな分だけ、手強そうな気もするんだけれど。
 いつかは「美味い!」と言わせてみたいな、「おふくろの味だぞ、この菓子は」って…。




          金色の食べ方・了

※夏ミカンの実のマーマレードをトーストに塗るなら、バターを先に塗ってから。
 ハーレイお勧めの食べ方、これは本当に美味しいです。まだの方は、お試し下さいね。
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(あれ…?)
 ブルーは首を傾げて手を止めた。
 仕事帰りに寄ってくれたハーレイが「またな」と帰って行った後。
 とうに夜だし、もうお風呂にも入って来たからベッドに入って眠るだけ。パジャマ姿でベッドに腰掛け、右手に着けようとしたサポーター。
 秋の初めに冷え始めた頃、ハーレイがくれたサポーター。
 夜中に右手が冷えてしまうとメギドの悪夢が襲ってくるから、一時期、酷く悩まされた。それを防ごうとハーレイが考案したのがこのサポーターで、着ければ右手が温かくなる。ハーレイが手を握ってくれる時の強さと同じに調整されたサポーター。
 お蔭でメギドの悪夢は減ったし、快適に眠れているのだけれど。
 今夜も少し冷えそうだから、とサポーターを着けようとしたのだけれど。



(何回目?)
 慣れた手つきで着けようとしたサポーター。
 何度、帰ってゆくハーレイを見送り、サポーターを着けただろう?
 メギドの悪夢を防いでくれるサポーター。防げなかった時も、ハーレイが夢に現れたりもした。凍えた右手をそっと握って自分の温もりを移してくれた。
 サポーターではそれが限界だったけれども、「メギドの夢にハーレイが来たよ」と報告した時、ハーレイは「いつかはメギドから救い出してみせる」と力強く宣言したものだ。
 そう、いつか。
 サポーターではなくて、ハーレイの手がブルーの右手を握って眠れる夜が来たなら。
 二人で暮らせる時が来たなら、夢の中まで助けにゆくと。
 ブルーがキースに撃たれないよう、メギドで死なずに逃げ出せるよう。
 迎えにゆく、とハーレイは言った。ブルーを必ず助け出すと。
 その日まではまだまだ遠いけれども、サポーターを着ければ思い出す。ハーレイが誓ってくれた言葉を、それが叶うだろう未来のことを。
 けれど…。



(えーっと…)
 あの日から何度も何度もサポーターを着けたし、ハーレイも何度も来てくれたのに。
 週末はもちろん、仕事が早く終わった時にも今日のように寄ってくれたのに。
(まだ秋なの…?)
 サポーターを貰った時には秋の初めではあったのだけれど。
 それから季節は進む筈だし、秋も日に日に深まる筈。そうして雪が舞う冬の寒さが訪れる筈。
 庭の木の葉が落ち、北風が吹き付ける冬は何処に行ってしまったろう?
 未だに先触れさえもない冬。
 それよりも、いつまで秋なのだろう?
 サポーターを着けた回数を思えば、ハーレイが来てくれた日々を思えば、とうの昔に過ぎ去っていそうなものだけれども。
 秋という季節は終わってしまって、庭もすっかり冬景色になっていそうな気がするのに。



(何ヵ月も秋が続いているとか…?)
 秋と呼べる季節は三ヶ月ほど。
 だから三ヶ月は秋を過ごしていても不思議ではないが、それどころではないような…。
(一ヶ月の間に週末は四回くらいしか無いよ?)
 それの全てをハーレイとの逢瀬に費やしたとしても、月に八回。三ヶ月分で二十四回。
(もっと沢山、会ってるんじゃない?)
 二十四回どころか、もっと。
 ハーレイが来られなかった日も何度もあったし、そんな日は寂しく外を眺めた。ハーレイは何をしているだろうかと、今頃は何処に居るのだろうかと。
 それなのに三ヶ月分よりももっと、もっと沢山ハーレイと会った。この部屋で、庭の白い椅子とテーブルで向かい合っては話して、幾度も甘えて。
(ぼくの勘違いじゃない筈なんだよ)
 ハーレイとの日々を数え間違うわけがない。
 どんなに小さなことも大事で、前の生で引き裂かれるように別れた辛さを、悲しみを今の幸せで塗り替えながら前へと進んで来たのだから。
 それなのに合わない。ハーレイに会った日の数が現実の暦と重ならない。



(ぼくが間違えてるってことはない筈…)
 変だ、と壁のカレンダーを眺めたけれども、日付におかしい感じはしない。
 今日はこの日、と把握出来ているし、昨日のことだってよく覚えている。学校でのことも。
(学校だって…)
 ちゃんと通っているんだから、と時間割にも目を通した。今週は休んでいないのだから、毎日の授業もハーレイが受け持つ古典の時間も記憶にあったし、間違いはない。
(でも、学校…)
 秋になってから何度も休んだ。風邪を引いたり、少し具合が悪かったりと。
 ハーレイが見舞いに訪ねてくれては野菜スープを作ってくれた。その間にも季節は進む筈で。
(野菜スープのシャングリラ風だって…)
 「今日のは風邪引きスペシャルだぞ」と作って貰った、卵を落としてとろみをつけた風邪の時のスープ。素朴な味わいは変わらないまま、滋味深いものになっていた。
 「俺の新作だ」とテリーヌ仕立ても誕生した。母が作ったポトフのテリーヌで閃いたとかで。
(普通のシャングリラ風も何度も食べたよ、秋になってから)
 確実に増えている思い出。
 野菜スープのシャングリラ風だけでも、特別なものが二種類も。
 秋が三ヶ月しか無くて、その秋が今も終わらないなら、特別なスープは二ヶ月ほどの間に二つも生まれて味わったということになる。けれども、そういう感覚は無い。
(新作、そんなに続けて出てない…)
 もしも一ヶ月に一つのペースで出来ていたなら、それをじっくり味わった自分は学校をどれほど休んでいたのか。毎週、毎週、休み続けていたのだったら分かるけれども。
(いくらぼくでも、そんなには…)
 元気に通った週が多いから、ハーレイとの思い出も積み重なった。
 学校のある日に仕事帰りに寄って行ってくれるハーレイとのお茶や、夕食などや。



 有り得ない数のハーレイと一緒に過ごした日々。
 秋が来てから、右手用のサポーターを貰う前から、どのくらい会っては話したのか。ハーレイに甘えていたりしたのか。
(なんで…?)
 出来る筈もない、秋という限られた季節の間にそこまでの逢瀬を重ねること。
 いくら数えても計算が合わず、合うわけがないとも思うのに。
 記憶違いかと壁のカレンダーを、学校の時間割を見詰めれば「間違いない」と強まる自信。
 合っているのだと、今は秋だと。
(だけど、変だよ…)
 指を折って思い出を数えてゆくほど、カレンダーの日付と合いそうにない。思い出が多すぎて、ハーレイと二人で過ごした日の数が多すぎて。
 これはハーレイにも訊いてみなければ、とメモを取り出して書き付けた。
 「いつまで秋?」と。
 そのメモを勉強机の上に置く。
 幸いなことに、明日はハーレイが来る土曜日だから。



 翌朝、目覚めてメモに気付いて。
(何回目の土曜日?)
 すぐに思ったのはそれだった。
 この秋、何度目の土曜日だろう?
 昨夜も考えたことだけれども、いくら数えても、ハーレイと過ごした土曜日の数が多すぎる。
 ハーレイが「今度の土曜は来られないぞ」と言っていた日もあったのに。
 柔道部の顧問をやっているから、そっちの仕事で潰れた土曜日も少なくないのに。
 けれど、土曜日。何度も何度も会った土曜日。
(秋って、そんなに…)
 長くはない筈。昨日も数えた。秋はせいぜい三ヶ月だと。
 三ヶ月の間に土曜日の数は十二回くらい。それでは足りない。とても足りない。
 おまけに学校のある平日だって、何度一緒に夕刻から会って父や母も一緒に食事したことか。
 やはり何かがおかしいと思う。秋がこんなに長いだなんて。



 ハーレイの母が作ったマーマレードをトーストにたっぷりと塗っての、満ち足りた朝食。それを食べたら部屋の掃除で、ハーレイを迎える準備に胸が高鳴る。
 やがて門扉の脇のチャイムが鳴らされ、其処に立っているハーレイに窓から手を振って。
 きちんと拭いておいたテーブルに母がお茶とお菓子を置いて行ってくれて、幸せな時間が今日も始まった。ハーレイと二人、テーブルを挟んで向かい合わせで。
 天気がいいからと歩いて来たハーレイの土産話を聞いていた時、勉強机のメモに留まった目。
 ブルーは話が一段落するまで待って、こう問い掛けた。
「ねえ、ハーレイ。いつまで秋なの?」
「はあ?」
 怪訝そうなハーレイに畳み掛ける。
「冬が来ないよ、だいぶ経つのに」
 秋になってからかなり経つけど、まだ冬じゃないよ。
「そりゃあ、秋だからな」
 いい季節じゃないか、今が一番。これから紅葉で、それが散ったら冬の始まりだな。
「そうじゃなくって…。変だよ、ハーレイと会った日の数」
 ぼくの家でハーレイと会った日の数、昨日、考えてみたんだけれど…。
 土曜日だけでもとても多いよ、秋だけじゃとても足りないよ。
 あれだけハーレイと会っていたなら、とっくに冬になってる筈だと思うんだけど…。



 何か変だよ、とブルーが懸命に説明すると。
 ハーレイはフウと溜息をついて、逞しい腕をゆっくりと組んだ。
「そうか、お前も気が付いたのか」
 俺たちの周りを流れてる時間、どうやら普通じゃないな、ってことに。
「ハーレイも?」
 気が付いていたの、秋が全然終わらないこと。
 いつから秋だったのか思い出せないほど、長い長い秋が続いていること。
「うむ。日記を書いてて、ふと気付いたんだ」
 日記の量が凄いな、と。秋になってからこんなに書いたか、と思わず読み返しちまったほどだ。
「ハーレイの日記、覚え書きでしょ?」
 ぼくのことなんか書いていないって聞いているけど、読み返すような中身があるの?
「前の俺の航宙日誌みたいなもんだな、覚え書き程度でも分かるもんだ」
 いつ此処へ来たか、お前とどんな話をしたのか。
 お前との思い出が山ほど詰まった日記なんだが、そいつが延々と秋のまんまだ。
「秋の日記が多すぎるの?」
「凄い量だな、覚え書きだから日記を埋め尽くすまでは行かないが…」
 まだまだ埋まる気配も見えんが、それでも凄い量なのは分かる。
 何度か気付いてチェックしてみたが、日記が増えても秋が終わらん。日記が増えるだけなんだ。
 この秋の俺の日記だけが増えて、秋って季節は終わりもしない。
 不思議なもんだな、ちゃんと夜が明けて朝が来るのにな?
 週末が来ては、また学校へと出掛けるのにな…?



「それって…。変なことが起こっているってこと?」
 ぼくたち、何かおかしなことに巻き込まれてるの?
「いや。気になる度にあれこれ調べてはみたが、異常なしだ」
 俺の周りも、その他のことも。何処にも異常は見当たらないんだ。
「エアポケットに落ちちゃった?」
 時間の流れのエアポケット。いつまで経っても秋が終わらない、そういう所に。
「そうかもしれんな。この宇宙ごとな」
「ええっ!?」
 宇宙ごとって…。ぼくとハーレイが住んでる辺りだけじゃなくて?
 地球も他の星も、全部エアポケットに落っこちちゃったの?
「落ちたんだとしたら、宇宙ごとだ。何処にも異常がないんだからな」
 地球もそうだが、他の星だって。
 毎日きちんとニュースが入るし、通信は途絶していない。空間異常の報告も無い。
 今の俺はただの古典の教師に過ぎんが、前の俺はキャプテン・ハーレイだぞ?
 データさえあれば、ある程度のことは掴めるんだ。今の宇宙には全く異常なしだ。
「それじゃ、秋が終わらないっていうだけのこと?」
「データの上ではそうなるな。ただ…」
 あえて不思議な点を挙げるなら、秋が終わらなくても、季節が前へと進まなくても。
 そのせいで困ったことが起こらないよう、帳尻が合っているらしい。
 例えば、俺がお前の家へ持ってくる、おふくろのマーマレードだが…。
 幾つも持って来てるというのに、少しも減りやしないんだ。親父たちの家に置いてある分が。
 ついでに、空き瓶、いつも返して貰っているだろ、来年のために。
 そいつを何個も親父たちの家まで返しに行ったが、空き瓶だらけにもならないな。
 マーマレードは減った分だけ、勝手に補給されてるわけだ。俺が返した空き瓶の分。
 同じようなことが宇宙全体で起こっているんだろうなあ、物資が品切れにならないように。



 ハーレイの話を聞いたブルーは酷く驚いた。
 秋が終わらないというだけではなく、減らないと言われたマーマレード。
 それはあまりに妙だったから。
「ハーレイ、ぼくたち、どうなっちゃうの?」
 口にした途端、別の不安に襲われた。もしかしたら。
 もしかしたら秋が終わらないのではなく、エアポケットに落ちたのではなくて…。
 湧き上がった恐怖がたちまち口から溢れ出す。
「まさか、これ全部、ぼくの夢とか?」
 青い地球に生まれて、ハーレイと会って、うんと幸せに暮らしてたつもりだったけど…。
 ぼくってやっぱり、あの日にメギドで死んでしまって、そのまんま?
 地球に生まれてなんかはいなくて、今も死んだまま?
 何もかも全部、前のぼくが……ソルジャー・ブルーが見ている夢なの、死んだままで?
 そんなの嫌だよ、怖いよ、ハーレイ…!



 足元から世界が崩れてゆきそうで、闇の中に放り出されそうで。
 怖くて泣き出しそうになったブルーだけれども、ハーレイの手が銀色の頭をポンと叩いた。
 「安心しろ」と、「俺がいるだろ」と、優しく微笑み掛けながら。
「大丈夫だ、こいつは夢じゃない」
 前のお前が見ている夢とは違うさ、これは。
 お前も俺もちゃんと生きてるし、本当に本物の地球に来たんだ。
 だから怖がらなくてもいい。幸せに笑っていればいいんだ、この秋が終わらなくてもな。
「でも…」
 やっぱり変だよ、いつまで経っても秋だなんて。
 ぼくが死んでいないとしても、とんでもないことが起こったりしない?
 宇宙ごと何処かへ飛ばされちゃうとか、宇宙が壊れてなくなっちゃうとか…。
「心配するな、何も起こらんさ」
 お前は心配しなくていいんだ、今の幸せを楽しめばいい。
 秋には秋の良さがあるだろ、そいつを思う存分な。この家で、それに学校とかでも。
「どうして? どうして心配無いって言えるの?」
 こんなに変なことが起こっているのに…。
 いつまでも秋とか、エアポケットとか、どう考えても普通じゃないのに…!



 おかしすぎる、と訴えるブルーに、ハーレイは「まあな」と返したけれど。
 その後に続いて出て来た言葉は、思いもよらないものだった。
「お前は変だと言っているが、だ。俺が思うに、この現象は…変じゃなくって奇跡ってヤツだな」
「奇跡?」
 何故、とブルーが目を丸くすると。
「そうとしか思えないからさ。宇宙に全く異常がないなら、こいつは奇跡だ」
 きっと神様の力だろう、という気がするんだ。宇宙を創った神様のな。
「神様の力?」
 どうして神様がこんなことをするの?
 神様だったら、きちんと時間を進めた方が良さそうなのに…。季節だって、ちゃんと。
「もちろん基本はそうなんだろうが…。それをわざわざ変えて下さってるからこそ奇跡なんだ」
 普通だったら、秋が終われば冬が来る。そうやって時間は先へと進むわけだが…。
 時間の流れを止めて下さっているんだろうなあ、神様は。



「なんで?」
 それが本当なら、神様、どういうつもりなの?
 時間を止めるような奇跡を起こしてみたって、誰も気付いていないのに…。
「気付いて欲しいとは思っていらっしゃらないさ、神様は。…お前は気付いたようだがな」
 お前と、俺と。
 この地球の上に生まれ変わって、お前は身体に聖痕まで持っているだろう?
「うん。あれっきり二度と現れないけど…」
 あの聖痕がハーレイを思い出させてくれたよ、前のぼくの記憶を戻してくれた。
 聖痕は神様のお蔭だろうけど、秋が終わらない奇跡は何なの?
「お前のためじゃないのか、こいつは。…俺が思うに」
「ぼくのため…?」
 秋が終わらないと、ぼくにいいこと、何か起こるの?
「お前の時間が増えるだろうが。秋が終わらなきゃ、その分だけな。…冬が来るまで」
 現に、俺と一緒に過ごした土曜日。それに日曜日も、俺の仕事が早く終わった平日も。
 秋だけだったら全く足りない日数なんだろ、お前が俺と一緒にいた日は?
「そうだけど…」
「それにだ、俺と過ごした日だけじゃなくて。俺がこの家に来られない日も沢山あったが…」
 お前はお父さんやお母さんと暮らしていただろうが。
 暖かい家で、可愛がられて。うんと幸せに過ごしていただろ、俺が訪ねて来られなくても。



 だから…、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。
「前のお前が失くしちまった、子供時代の暖かな時間。そいつを返して下さるんじゃないか?」
 秋から冬へと進める代わりに、季節を止めて。
 時間も恐らく止まってるんだな、流れているように見えてもな。
 そこが奇跡の凄い所だ、俺のおふくろのマーマレードは食べれば減るのに、減った分だけ増えている。いくら食っても無くなりはしない。
 しかし時間が止まっているなら、そもそも誰もマーマレードを食わないってな。マーマレードを食おうと思えば人間の身体は動かにゃならんが、動くためには時間の流れが必要だろう?
 ところが時間は止まっているんだ、実際のトコは。生きて行くのに支障が出ない範囲でな。
 これが神様の仕業でなければ何なんだ?
 そうやって時間も季節も止めてだ、前のお前が失くした時間をお前に返して下さるってな。
「じゃあ、十四年分、返ってくるの?」
 十四年分も今の秋が続くの、ねえ、ハーレイ?
「もっとかもしれん。前のお前が止めてしまっていた時の数だけ」
 アルタミラの檻で成長を止めてしまっていただろ、前のお前は。
 あの姿のままでお前が過ごした悲しい時間も、神様はちゃんと返して下さるかもな。



 終わらない秋をゆっくり楽しめ、とハーレイは言った。
 神様が下さった幸せな時を、奇跡の時間を心ゆくまで満喫しろと。
(確かに幸せなんだけど…)
 幸せな秋を過ごしているんだけれど、とブルーは思い返したけれども、問題が一つ。
 神様が時間を止めているなら、この奇跡には一つ大きな問題があって。
「ゆっくり過ごすのはいいんだけれど…。このまま時間が流れなかったら…!」
 ハーレイと結婚出来ないよ!
 ぼくは大きくなれないんだから、十八歳にだってならないんだから…!
 そうでしょ、ハーレイ?
 ぼくが十四歳のままだったら…!
 結婚出来ずに秋のままだよ、いつか時間が流れ出すまで、ぼくは結婚出来ないんだよ!
「ふうむ…。それで今、お前は困っているのか?」
 現時点でお前は困っているのか、そいつのせいで?
「とっても!」
 ぼくはとっても困ってるんだよ、チビだし、ちっとも背は伸びないし!
 このまま秋が続いていくなら、ぼくの背だって伸びないんだもの!
 チビだとハーレイとキスが出来ないままだよ、前のぼくと同じ背丈になれないから!
 それに結婚出来る十八歳にもなれやしなくて、ハーレイと結婚出来ないまんま…。
 そんなの困るよ、ぼくはハーレイと早く結婚したいんだから…!



 結婚したいしキスもしたい、とブルーは頬を膨らませた。
 神様は酷いと、こんな奇跡を自分は望んでいなかったのに、と。
 膨れっ面になったブルーの赤い瞳をハーレイの瞳が覗き込む。鳶色の瞳が、真っ直ぐに深く。
 そして問われた。真剣な顔で。
「お前、今…。不幸なのか?」
「えっ?」
 何、と問い返したブルーに更なる問いが投げ掛けられる。
「幸せなのか? それとも不幸だと思っているのか?」
 どっちなんだ、お前。今のお前の毎日ってヤツは、幸せなのか、不幸なのか。
「それは…」
 ブルーは一瞬、言い淀んだ。
 そうして自分の生きて来た日々を振り返る。ハーレイと過ごした幸せな日々。両親に慈しまれて暮らす毎日も、学校で友達と遊ぶ時間も。
 秋が来てから、数え切れないほどの満ち足りた時間を過ごして来た。時が止まらずに冬になっていたら、とても得られなかった日々。メギドの悪夢も襲っては来たが、恵まれた季節。
 終わらない秋を今日まで過ごして、不幸なのか、と問われれば、否。
 幸せなのか、と問い掛けられれば、それはその通りなのだから…。



「幸せだと思う…」
 ぼくは幸せだよ、ハーレイ。
 不幸なのか、って訊かれちゃったら、不幸だなんて言えやしないよ。
 秋のままだとハーレイと結婚出来ないんだ、って分かってるけど、それだけのことで不幸だって言ったら、前のぼくの人生は何だったんだ、って神様の罰が当たりそう…。
「ちゃんと分かっているんじゃないか。今のお前は幸せなんだっていうことをな」
 なら、貰っておけ。神様の御褒美。
「御褒美?」
 奇跡じゃなくって御褒美なの?
「いや、奇跡には違いないんだが…。お前のためなら御褒美だろうと思うわけだな」
 秋が終わらないっていうこと、普段は気付いていないだろう?
 そうして俺と何度も会っては、色々な話をして来たよな?
 俺の日記には何も書かれちゃいないが、読み返せば何を話したかは分かる。前の俺たちのことを何度も話した、小さな切っ掛けで思い出しては、沢山のことを。
 だがな、そいつも全部覚えているわけじゃない。覚えていたり、忘れていたりと色々だ。
 幾つも幾つも、前の俺たちのことを思い出しては、また忘れて。
 思い出す度に今の幸せに気付いて、この地球の上で生きていることに感謝をして。
 そうやって幸せを積み重ねていって、前のお前が失くしちまった分の幸せを取り戻す。
 全部取り戻して、それから本当に幸せになれ、と仰ってるのさ、神様は。
 前のお前は頑張ったからな、その御褒美にと失くしちまった幸せを返して下さるんだ。
 メギドを沈めて、ミュウの未来を守ったお前。
 たった一人で世界を守ったお前のためにと、神様が終わらない秋の奇跡を起こして下さった。
 お前が幸せを沢山手に入れるために、余分な時間をこうして作って下さったんだ。



 終わらない秋はそういう意味さ、とハーレイが片目を瞑るから。
 小さなブルーにも、そうなのかもしれないと思えて来たから。
「…ホント?」
 本当に神様の御褒美なのかな、終わらない秋。神様がぼくに下さったのかな…?
「ああ、きっとな」
 お前のためにと下さった時間だ、うんと幸せに使わないとな?
 もっとも、こういう話をしていたことすら、明日には忘れてしまうんだろうが…。
 なにしろ奇跡だ、御褒美を貰ったお前がいちいち気にしていたんじゃ素直に楽しめないからな。
「ふふっ、そうかもしれないね。メモに書いても忘れるんだろうな、冬が来ないこと」
 秋が終わらないことにも気付きもしないで、幸せに暮らしていそうだけれど…。
 でも、結婚…。ハーレイと結婚出来る未来が来ないよ、いつまで経っても。
「いつか出来るさ、時が来たなら」
 前のお前が失くした分まで、ちゃんと幸せを取り戻したら。
 そりゃあ幸せな花嫁になれると思うぞ、焦って結婚するよりもな。のんびり待ってろ。
「十四年後かもしれないのに?」
 ううん、十四年後に時が流れ始めても、それから十五歳で、十八歳になるのはまだまだ先だよ。
「もっと先でもいいじゃないか。前のお前がアルタミラで止めていた時の分まで入っていても」
 十四年どころじゃない時間だが、だ。俺たちの寿命もその分、伸びるし。
 今の時間は年齢にカウントされないとしても、過ごした時間の思い出は残っているだろう?
「そっか…!」
 ぼくは十四歳で、ハーレイは三十八歳で。
 年だけはそのままで十四年分とか、もっと沢山の秋を貰えるかもしれないんだね。
 神様が起こして下さった奇跡。
 今の幸せを楽しみなさい、って仰ったんなら、ハーレイと二人で楽しまなくちゃね…!



 ブルーは窓の外へと目を遣った。
 色づきそうな気配を見せたままで止まった、庭の木々の時間。
 もうすぐ紅葉の季節なのだ、という秋の盛りでエアポケットに落ちた日々。
(でも、明日も明後日もやって来るしね、週末だって平日だって…)
 ゆったりと流れてゆく時間。
 ハーレイの母が作ったマーマレードは減ってゆくのに、空になった瓶をハーレイに渡して新しい瓶を貰っているのに、止まっているらしい、不思議な時間。
 ハーレイと過ごす週末が過ぎたら学校に行って、また週末が来るのを待ち焦がれて。
 平日もハーレイが寄ってくれないかと、チャイムの音に耳を澄ませて。



 終わらない秋も、いいかもしれない。
 紅葉の季節が来たと思ったら、終わらない冬が来るかもしれない。
 ハーレイと二人、暖かな部屋で語り合いながら舞う雪を見たり、あるいは無理を言って雪景色を見に庭のテーブルと椅子で過ごしてみたり。
 そうやって幸せな日々を、奇跡のような時を過ごして、いつか十五歳の誕生日が来る。
 そうしたら時は普通に流れるのだろうか、背丈も伸びてゆくのだろうか。
 百五十センチから一ミリさえも伸びないままで止まった背丈も、前の自分と同じ背丈に育つ日を目指して伸びてゆくのだろうか…?
(分かんないけど…)
 ハーレイが「ゆっくり育てよ」と言い続けるから、伸びないのかもしれないけれど。
 十五歳の誕生日を迎えたから、と伸びるものではないかもしれないけれど。



(終わらない秋、神様が起こした奇跡なんだ…)
 前の自分が紡ぐ夢かも、と恐ろしい思いに囚われたけれど、そうではないと言われたから。
 誰よりも好きで、信じていられるハーレイが「違う」と言ったから。
 そのハーレイが教えてくれた通り、今の日々は奇跡なのだろう。
 奇跡の日々で、幸せを沢山重ねてゆくために貰えた御褒美。
(貰っちゃってもかまわないんだよね、宇宙が丸ごとエアポケットでも?)
 誰も困っていないわけだし、何処にも異常は無いのだし…。
 この幸せな日々が、神様が下さった御褒美ならば。
 終わらない秋を過ごしてゆくのも、きっと悪くはなくて幸せ。ただ幸せが降り積もるだけ。
 幾つも、幾つも、幸せな日々が降り積もる。
 ハーレイとキスが出来なくても。
 結婚出来る日に手が届かなくても、それらはいつか来るのだから。
 より幸せにその日を迎えられるよう、終わらない秋を神様に貰ったのだから…。




         終わらない秋・了

※いつまで経っても育たないブルーと、終わらない秋。幸せな季節が続いてゆくだけ。
 実は「そういう世界」になっていたんです、このシリーズは。…まだまだ終わりません!
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