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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(冷たい…)
 学校からの帰り道。バスから降りて、いつもの道を歩いていたブルーだったけれど。
 まだ充分に日が射しているのに風が冷たくて、右手をキュッと固く握った。
 冷たいというほどの寒風ではなく、強く吹き付けたわけでもない。それに秋の盛り。晩秋ならば冬の先触れを思わせる風も通り過ぎるが、ブルーの周りを吹いてゆく風はただの秋風。
(まだ秋なのに…)
 単にひんやりするだけの風が肌に冷たい。右の手に冷たい。
(顔はちっとも冷たくないのに…)
 むしろ気持ちよく感じる風。澄んだ空気を感じさせる風。
 けれど右手にはそれが冷たくて、思わず息を吹きかけたほど。寒い冬の日にするように。温かな息で凍えそうな手を温めるように、冷たい右手に。



 バス停から家までの短い間に、すっかり冷えた気がする右手。
 門扉をくぐって庭を横切る間も冷たく、玄関を入ってようやく冷気から離れて一息ついた。
(メギド…)
 右手が冷えると、冷たいと思うと蘇ってくる遠い日の記憶。
 前の生の終わりに凍えた右の手。ハーレイの温もりを失くしてしまって泣きながら死んだ。その悲しさと辛さが残る右の手。
 階段を上って自分の部屋に着き、制服を脱いで着替えてもまだ冷たくて。
(ちゃんと洗面所で温めたのに…)
 冷えた右手が嫌だったから、熱めのお湯で手を洗ったのに。その温かさにホッとしたのに。
 今の自分の家は此処だと、もうメギドではないのだと。青い地球の上に生まれ変わって、両親と暮らす暖かな家。蛇口を捻れば熱いお湯が出るし、こうして右手を温められると。
 けれど、冷たい。温めてきたのに、今も冷たいブルーの右の手。



 右手のせいで悲しい記憶を思い出すのは嫌だから、と階段を下りてダイニングへ。
 おやつのケーキを用意してくれていた母に、熱い飲み物を注文した。
「ママ、ホットミルク!」
 熱めのがいいな、帰りにちょっぴり冷えちゃったから。
「シロエ風ね?」
「うんっ!」
 ハーレイに教えて貰ったシロエ風。手が冷たい日はこれで温めろ、とアイデアをくれた。歴史に名前を残した少年、セキ・レイ・シロエが好んだ飲み物。シナモンミルクにマヌカを多めに。
 何度このミルクで温めたろうか、冷えた右手を。
 早く、とテーブルで待ち焦がれていると、母が運んで来てくれたカップ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、ママ!」
 これで温まる、と湯気を立てるカップに両手を添えたブルーだけれど。
「あつっ…!」
 熱い、と思わず声が出た。あまりの熱さに離れた右手。それを耳へと持ってゆく。手が熱い時は冷えた耳たぶ、それをしっかりとつまみたいほど。
「あらあら、火傷しちゃったの? 気を付けてね」
 母が心配そうに覗き込みながら首を傾げた。
「だけど、そんなに熱かったかしら? 大丈夫、ブルー?」
 キッチンで水をかけた方がいいわよ、痛いんなら。
「ううん、平気。ちょっとビックリしちゃっただけ…」
 ぼくが思ったより、熱かったみたい。
 それに身体も冷えていたから普段より熱いと思ったんだよ、大丈夫。火傷してないよ。



 母には笑顔を返したけれど。
 もう平気だと答えたけれども、母がキッチンへと向かった後で気が付いた。
 熱いと叫んで離した右手。慌てて耳へと運んだ右の手。
 右手は熱いと悲鳴を上げたのに、左手の方は全く平気でカップに添えたままだった。シロエ風のミルクが入ったカップに、湯気を立てていた同じカップに。
(右手だけ…?)
 まだホカホカと湯気が立つカップ。その温もりが頼もしいから、右手でそうっと包み込む。もう熱くなくて、温かいカップ。右の手に温もりを分けてくれるカップ。
(こんなに優しいカップなのに…)
 どうして熱いと拒絶したのか、この右手は。左手は拒絶しなかったのに。
(なんで右手だけ?)
 そういえば最近、多い気がする。
 右手の火傷。
 火傷とは多分言わないのだろうが、右手だけが熱さを訴えること。
 それはカップなどの熱い食器であったり、蛇口から出て来た温水だったり。
 右手だけがそれを熱いと言う。左手にはとても心地良いのに、右手は熱いと驚いたりする。



(こんなこと、あった…?)
 熱い飲み物や料理が入った食器に触れたくらいで、耳たぶで冷やしたいと思ってしまうこと。
 考えたけれど、覚えが無い。ほんの十四年間の人生とはいえ、熱い食器には何度も触れた。
(肌は薄くないと思うんだけど…)
 生まれつき弱い身体だけれども、皮膚まで弱すぎるわけではない。熱いカップで火傷するような薄すぎる肌を持ってはいない。
(んーと…)
 今日のミルクは熱かったろうか、と慎重に口をつけてみた。舌まで火傷してはたまらないから、恐る恐る一口飲んだのだけれど。
(熱くないよ?)
 母が作ってくれたホットミルクはいつもの温度。
 熱すぎも温すぎもしない温度で、身体が芯から温まってくる優しい味わい。
 なのにカップは熱かった。触れた時にはそう感じた。カップで右手を温めるつもりが、あまりの熱さに耐えられなかった。
(今はもう平気なんだけど…)
 大丈夫、とカップで右手を温めながら思い起こせば、似たようなことは何度もあった。
 叫んだのは今日が初めてだけれど、カップや食器が熱すぎたこと。蛇口から出るお湯が熱かったこと。しかも何故だか、右の手だけ。右手だけが熱いと感じたこと。
(熱いの、苦手じゃない筈だけど…)
 猫舌でもなければ、大好きな風呂も熱い湯が好み。
 なのに右手には熱すぎたカップ。
 手を離したほど、声を上げたほどに、熱くて触れていられなかったカップ。
 同じ熱さでも左手は平気だったのに。



 自分の身体はどうなったのか、と部屋に戻って勉強机の前に座って考えた。
 いつからああいうことになったか、いつから右手が熱さに弱くなったのかと。
(最近だよね…?)
 今までにそうしたことは無かった。
 十四歳の今まで生きてきた中で、一度も無かった。
 どうやら今年から、この秋からの不思議な現象。右手だけが熱さが苦手になった。左手には丁度いい温かさを、右手は熱いと感じてしまう。
(ぼくって、猫手になっちゃった…?)
 猫舌という言葉があるほどなのだし、この現象に名前をつけるなら猫手だと思う。猫に手などは無いのだけれども、足だけれども、名付けるなら猫手。熱さが苦手な手を指す言葉。
(猫手だなんて…)
 それも右手だけが。
 メギドで凍えた右の手だけが猫手になった。
 左手は全く大丈夫なのに、猫手になってしまった右手。



(凍えちゃったから、とっても敏感?)
 思い当たる節はそれしか無かった。
 右の手が冷たいと泣きながら死んでいったソルジャー・ブルー。前の自分の悲しすぎる記憶。
 本当に右手が凍えたわけではなかった筈だ。メギドはそこまで寒くはなかった。
 けれど、最後まで持っていたいと願ったハーレイの温もりを失くしてしまって、縋りたいものを失くしてしまって、右の手が冷たいと泣きじゃくって。
 独りぼっちになってしまったと、ハーレイには二度と会えないのだと泣いた自分の右手はまるで氷で、温もりなどは欠片も無かった。冷たく凍えて冷え切ったままで逝くしかなかった。
(その分、熱いと駄目なのかな…)
 冷え切っていれば、同じ温度でもより熱いように感じるもの。
 メギドで凍えてしまった右手は、凍えずに済んだ左手よりも熱に敏感になったのだろうか?
(……猫手……)
 猫手になったらしい、自分の右手。
 その右の手に温もりが欲しい、とハーレイに何度も強請ったけれど。
 失くした温もりを移して欲しいと、冷たかった右手を温めて欲しいと。
 そう強請る度に右手を包み込んでくれた褐色の手。大きくて温かなハーレイの手。
 暑い夏ですらも強請ったけれども、ただでも温もりの欲しい季節に右手が猫手になるなんて。
 これから寒さの冬へ向かうのに、右手が猫手になっただなんて…。



(下手に温めたら火傷しちゃうの?)
 さっきホットミルクのカップで「熱い」と悲鳴を上げていたように。
 もしも温めたら火傷するとしたら、それは悲しくて辛すぎる。
 右手が冷えるとメギドの悪夢を見やすいから、とハーレイが医療用のサポーターを作ってくれたのに。ハーレイの手がブルーの右手を握る強さと同じにして貰った、と言っていたのに。
(あのサポーター、とても暖かいのに…)
 ハーレイに右手を握って貰っているかのようで、安心して眠れるサポーター。着ければメギドの悪夢が減ったし、メギドの夢にハーレイが現れたほどで。
 それは心強いサポーターなのに、あれを着けても熱くて火傷をするのだろうか?
 今の時点では火傷をしてはいないけれども、猫手が酷くなったなら。
 より敏感になってしまったなら、サポーターでも火傷は有り得る。熱いと感じないもので火傷をすると聞く、低温火傷というものもあるし…。
(…さっきの、火傷はしていないよね?)
 熱すぎたホットミルクのカップ。
 右手を見ても赤みは無いし、痛みも残っていないけれども。
(どうしよう、猫手が酷くなったら…)
 これからの季節、どうすればいいというのだろう。
 秋が終われば雪の舞う冬がやって来るのに。今よりももっと寒くなるのに。
(右手、絶対、冷たくなるのに…)
 秋風でさえも冷たさを覚えた右手だから。
 冷たいからとホットミルクで温めようとしたほどの右手だから。
 その手がもっと冷たくなる。本当に凍えて冷えてしまう季節。
 猫手のままでは火傷するしかないというのに。酷くなったら低温火傷も起こしそうなのに…。



 とんでもない体質になってしまった、とブルーがしょげている所へチャイムが鳴った。
 来客を知らせるチャイムの音。仕事を終えたハーレイが訪ねて来てくれて、母が紅茶とお菓子を部屋に運んで来た。テーブルに置かれたティーポットやカップ。
 母が熱い紅茶を注いでいったカップに、ブルーは怖々、触れてみた。もちろん右手で。
(うん、大丈夫…)
 熱いと分かっていたからだろうか、薄いカップは熱かったけれど、手を離したいほどに熱すぎはしない。これなら充分、触れていられる。
(猫手、ちょっぴり治ったかな?)
 気を良くして今度はポットに触った。おかわり用の紅茶を満たしたポットに、今度も右手で。
 大丈夫だろうと思っていたのに、さっきのカップで油断したのか、ポットの方が熱かったのか。
(あつっ!)
 右手が悲鳴を上げ、慌てて離した。
 火傷したかと思った右手を耳に持っていけば、ハーレイが鳶色の瞳で見詰めていて。
「どうした?」
 お前、ポットで何やってるんだ?
 火傷するほど熱かったのか、ポット?
「ぼくの手、猫手になっちゃった…」
「はあ?」
 なんだ、猫手って?
 そいつはどういう代物なんだ…?



 怪訝そうな顔をしているハーレイ。
 それはそうだろう、猫手はブルーが作った言葉で、誰も知らない言葉だから。
「猫手だってば…!」
 ハーレイのお母さんが飼ってた猫のミーシャとおんなじ猫だよ、猫のミーシャだよ。ミーシャが猫舌だったかどうかは聞いてないけど、猫は猫舌なんでしょ、ハーレイ?
 猫舌みたいな感じで猫手、とブルーは懸命に説明した。
 熱さに弱い手だから猫手。
 実はこうだと、これからの季節に困りそうだと。
「なるほどなあ…。前だったら平気だった温度のものでも駄目になってきた、と」
 ホットミルクで叫んじまったのならそういうことだな、いつもの温度だったのならな。
「うん…。だんだん酷くなってるみたい…」
 ママもビックリしちゃってたけど、ぼくもビックリしたんだよ。
 ホットミルクが入ったカップで火傷しそうになるなんて…。左手は平気だったのに…。
「右手だけが猫手とやらになったってことは、やっぱりメギドか?」
 俺はそれしか思い付かんが、原因はアレか?
 お前、右手が冷たかったと何度も何度も言ってるからな。
「多分、そのせい…」
 凍えちゃった分だけ敏感なんだよ、熱さってヤツに。
 左手は凍えたわけじゃないから全く平気で、右手だけが熱さが苦手な猫手になっちゃった…。



 どうしよう、とブルーは窮状を訴えた。
 その内にもっと酷くなりそうだと、右手では熱いものは何も持てなくなるのでは、と。
 顔を洗うにもお湯は駄目になり、お風呂も右手は熱いからと浸けられなくなって。
 更にはハーレイに貰ったサポーターでさえも、熱すぎて使えなくなってしまいそうだ、と。
「うーむ…。俺が渡したサポーターまで駄目になりそうだってか?」
 そいつは困るな、あれでメギドの夢が減ったと言ってるのにな…。
 しかし、猫手か…。
 どうしたものか、とハーレイは暫し腕組みをして考え込んでいたけれども。
 ふと何事かを思い付いたように、ブルーに向かって問い掛けた。
「同じ温度で出て来たものでも、熱くて駄目になってきているんだな?」
「そう。今日のホットミルクなんかはそうだよ」
 手を洗うお湯も。洗面所のお湯、温度はいつでも同じ筈だから。
「なら、これはどうだ?」
 熱すぎるか、とハーレイの手で右手をキュッと握られた。
 大きくて逞しい、褐色の手。力強い手。
 その温もりにブルーの心が柔らかく溶けて満たされてゆく。ほどけてゆく。
(あったかい…)
 ハーレイの手だ、とブルーは頬を擦り寄せた。
 この温もりが好きでたまらないのだと、この温もりが欲しかったのだと。



 うっとりと目を閉じ、ハーレイの温もりに酔っていたら。
 右手を包み込む温かさに安心し切って瞼を閉じたままでいたら、ハーレイの声が降って来た。
「大丈夫じゃないか」
「えっ?」
 何が、と顔を上げたブルーにハーレイが「右手だ」と握る手に少し力を加えた。
「俺の温もり、平気だろうが」
 猫手になっちまった右手とやら。熱いとも言わないようだがな?
「熱いって…。ハーレイの温もり、体温だよ?」
 紅茶のポットやホットミルクのカップと違って、温度が低いと思うんだけど…。
 お湯よりも絶対、低い筈だし、猫手のぼくでも平気だろうと思うけど?
「だが、熱いって感じはしないんだろう? 気持ちよさそうにしている所をみると」
 前に俺がこうして温めてやっていた時よりも?
 俺の手がうんと熱いんだったら、お前、「もういいよ」って言わないか?
 もう温もりは充分だから、と右手を離していそうなんだが…?
「うん…。ハーレイの手は少しも熱くないかも…」
 前と同じで温かいかも、熱すぎるっていう気はしないよ、ぼく。
 ハーレイは熱があるのかな、って感じもしないし、前とおんなじ。
 猫手だったらもっと熱いと思いそうなのに、前とちっとも変わっていないよ。



「ふうむ…。そういうことなら、お前の猫手」
 原因は気のせいというヤツだ。
 お前の記憶が戻った時には春だったからな、暖かい方へと向かう季節だ。春の後には夏だった。夏は暑いし、お前の右手は気温のせいで冷えたりはしない。
 しかしだ、今はもう秋だしな?
 冷える夜もあれば、風がちょっぴり冷たく感じる日だってあるさ。
 メギドの記憶を取り戻したお前が初めて迎える冷える季節だ、お前は途惑ってるわけだ。右手が冷えても何の不思議もない季節なのに、初めての秋だけに分かっていない。
 そのせいで此処はメギドなんだと、右手が凍えるとお前の心の何処かが叫んでいるんだな。
 本当は秋が来ただけなんだが、お前の心は勘違いってヤツをしてるのさ。右手が凍えるメギドに居るんだと、右手が凍えて冷たいんだと。
 凍えてるから、ちょっとしたものでも熱く感じる。紅茶のポットもホットミルクのカップもな。
 だが、俺の手だとそうはならない。
 前のお前が失くしちまった温もりそのものがあるわけだろう?
 熱いと悲鳴を上げる代わりに、これだと思ってお前は安心するわけだ。
 俺の温もりが戻って来たと。もう凍えないと考えるだけで、熱いと思いはしないんだな。



 その内に落ち着いて熱くなくなるさ、とハーレイは言った。
 右手が冷えるのは気温のせいで、メギドは全く関係ないのだと心もいつか気付くだろうと。
 そうすれば猫手も自然に治って、火傷したりもしないだろうと。
「でも…。ハーレイの温もり、ぼくにとっては特別だから…」
 うんと熱くても、熱いと思わないかもしれない。ハーレイの手だ、って思うだけで。
「だったら、これはどうだ?」
 ちょっと待ってろ、とハーレイの手がポットへと伸びた。熱いポットに大きな両手を添えれば、ポットの熱がその手に伝わる。手が充分に熱くなった頃合いでポットを離すと。
「ほら、ブルー。こいつは熱いか?」
 さっきよりもずっと熱い筈だが、と温められた手がブルーの右手を包んだ。
 ティーポットの熱が移ったハーレイの両手。
 上下からそれで包み込まれると熱いけれども、悲鳴を上げたくなる熱さではなくて。
 優しい熱さ。ハーレイの手だ、と心が安らぐ熱さ。
「…熱くないけど、やっぱり元は体温だから…」
 ハーレイの体温が元になってるから、これはポットの熱さじゃないよ。
 熱い気がしてもハーレイの手だと分かっているから、ぼくにとっては特別なんだよ。
「それなら、俺と一緒に触ってみろ」
「え?」
「ポットに触れ、と言っているんだ。俺と一緒に」
 俺がさっきまで触っていただろ、充分、触れる。
 お前は熱いと手を離してたが、その時よりかはいくらか冷えてる筈だしな。



 大丈夫だ、と促されて右手に手を添えられた。
 ブルーは少し怯えたけれども、ハーレイは右手を自由にしてはくれなくて。
(熱いに決まっているんだけれど…!)
 猫手になった、と訴える前に触ってみたポットの熱さをブルーは覚えている。火傷するのだ、と首を竦めても許してくれそうにはないハーレイ。
「ほら、触ってみろ」
「火傷するってば…!」
「火傷したら俺が冷やしてやる。俺の耳でな。ハーレイのせいだ、と引っ張ってもいいぞ」
 お前にギュウギュウ耳を引っ張られても文句は言わん。
 だからお前も文句を言うな。
 いくぞ、と右手を強引に引かれ、怖々、触ってみたポット。
 ハーレイの手と同時に触れてみたポット。
 それは確かに熱かったけれど、飛び上がるような熱さは感じなかった。
 反射的に手を引き、耳に運びたくなるほどの痛さを覚える熱も。



 ハーレイがポットからブルーの手を離し、「どうだった?」と尋ねるから。
 ブルーは「熱いよ、これ」と答えた。
「うんと熱かったよ、このポット、冷めにくいんだもの」
 ママの自慢のポットなんだよ、そう簡単には冷めないよ。熱いってば!
「そりゃあ熱いさ、そうでなければお茶の時間にゃ不向きだってな」
 おかわりをするまでに冷めてしまっちゃ意味が無い。ポットはそういう風に出来てる。
 だが、火傷したか?
 俺の耳を掴んでこないようだが、お前、熱くてたまらなかったか?
「…ううん。ポットは熱かったんだけど…」
 熱いな、っていう気はしたんだけれども、叫びたいほど熱くなかった。
「お前一人ならどうなっていた?」
 一人でポットに触っていたなら、我慢出来たか?
「無理だったかも…。やっぱり熱いと叫んでたかも…」
 だって、ぼくの手、猫手だもの。あんな熱さだと熱すぎるんだもの、猫手だと。
 でも…。
 ハーレイの手が一緒だったから平気だったよ。
 一緒に触ってくれていたから熱いポットでも平気だったよ、ぼくの右の手。



「ほらな、俺の手があるだけで猫手でもポットに触れたんだろ?」
 俺に「熱い」と怒らなくても、俺の耳で冷やそうと引っ張らなくても平気だったろ?
 気のせいなのさ、お前の右手が熱いと悲鳴を上げるのは。
「…ホントにそうなの?」
 ポットを触っても平気だったの、ハーレイの手のお蔭っていうわけじゃないの?
 ぼくの猫手は気のせいなの?
「そんなトコだな、じきに落ち着く。右手が冷えるのは気温のせいだ、と納得すればな」
 お前の中に居る、前のお前と言うべきか…。
 メギドで右手が凍えちまった前のお前が納得したなら、秋は右手が冷えるもんだと知ったなら。お前の猫手は治るってわけだ、メギドじゃないって気が付いたらな。
「前のぼく、秋だって分かってないの?」
「いや、分かってはいるんだろうが…。実感が全く無いってトコだろ」
 シャングリラの中じゃ季節があるのは農場と公園くらいだったし…。
 知識では秋を知っていてもだ、本物の季節がどう移るのかは分かっちゃいない。少し冷える日や暖かい日が混ざり合うとも知らないわけだな。だから途惑う。何か変だ、と。
「そうなのかな…?」
「そうだと思うぞ、幸せに暮らしている筈のお前が猫手になってしまったんならな」
 心配しなくてもちゃんと治るさ、秋はこういうものだと分かれば。
 秋はこうだと理解したなら、冬も自然に乗り切れるだろう。寒い季節はそんなものだと。
 要は心の問題なんだな、お前の猫手。
 体質が変わったというわけじゃなくて心が反応しちまってるんだ、今の季節に。



 忙しい手だな、とハーレイが笑う。
 冷たすぎると訴えてみたり、熱すぎると悲鳴を上げてみたり、と。
「温めてくれ、と言うかと思えば、今度は火傷の心配と来た。実に忙しいんだな、お前の右手」
「ちょっと忙しすぎるかも…」
 冷たいから、ってハーレイにサポーターまで貰ってたくせに、今度は猫手。
 同じメギドで猫手になったり、凍えちゃったり、忙しすぎだよ。でも、メギドは…。
「分かっているさ。お前はそれほど辛かったんだ。生まれ変わっても引き摺るほどに」
 俺と出会った頃に比べりゃだいぶ落ち着いたが、まだ忘れられん。
 季節が寒い方へと向かい始めたら、猫手になっちまうくらいだからな。心の傷が深いんだ。
 だがな…。
 メギドはとっくに時の彼方で、お前は幸せに生きてるんだろ?
 そいつをしっかり心に留めておかんとな。前のお前が辛かった分まで幸せになってやるんだと。
 猫手、治せよ?
 俺がいつまででもついててやるから。今度は一生、二人で暮らしてゆくんだから。
 お前の右手が熱すぎないよう、適温で温め続けてやるから。
「うん…。うん、ハーレイ…」
 猫手、治りそうな気がしてきたよ。
 ハーレイと一緒に触ったポットは平気だったし、きっと治すよ。



 そして両親も交えた夕食の後の、ブルーの部屋でのお茶の時間のこと。
 猫手は悲鳴を上げなかった。
 ブルーがおっかなびっくり触ったポットに、右手は文句を言わなかったから。
「ほらな、今度は平気だったろ?」
 大丈夫だったみたいだな、とハーレイがブルーの頭をクシャリと撫でた。
「そうみたい。熱かったけれど、普通の熱さ」
 ポットはこういう熱さだよね、って思っただけだよ、大丈夫。
「ほらな、猫手は心の問題なんだ。もう治りかけだ、明日には治るさ」
「そうかもね」
 治っちゃうかもね、明日の朝までに。
 猫手、心配してたんだけど…。ぼくの右手はどうなっちゃうの、って。



 悲鳴を上げずに終わった猫手。
 その手に左手でそっと触れてみて、両手でポットに触ってみて。
 どちらの手も同じ熱さを感じていることがブルーに与える安心感。治りそうな猫手。
(これって、ハーレイのお蔭だよね?)
 猫手は治るに違いない、とブルーは微笑む。
 ハーレイが心を解きほぐしてくれて、猫手を治せと言ってくれたから。
 治りかけだと、明日には治ると頼もしい言葉をくれたから。
 そのハーレイと幸せに暮らす未来に猫手は要らない。
 メギドで凍えた右の手はもう、二度と凍えはしないのだから…。




            猫手・了

※前の生の終わりにメギドで凍えた、ブルーの右手。その記憶のせいで右手が猫手に。
 けれど、治ってくれそうな猫手。ハーレイがいれば、悲しい記憶はもう要りませんものね。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







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「バカーッ!」
(えっ?)
 誰、と周りを見回した、ぼく。
 学校の帰り、バス停から家へと歩く途中の道なんだけど。
(馬鹿?)
 キョロキョロ探しても、ぼくしかいない。前にも後ろにも、誰も歩いていなかった。
 ということは…。ぼくに言われた?
(馬鹿って言われたんだけど…!)
 それも思い切り、大きな声で。辺りに響き渡りそうな声で、思いっ切り浴びせかけられた。
 とびっきりの罵声、馬鹿とののしる強烈な声。
 馬鹿と言われる覚えはなくって、喧嘩を売った覚えもない。そもそも、ぼくは喧嘩を売らない。どうせ負けるに決まってるんだし、売るだけ無駄。チビのぼくは勝てやしないんだ。
 それなのになんで、いきなり「馬鹿」って怒鳴られるわけ?
 ぼくはなんにもしていない。バス停から家まで帰る途中で、のんびり歩いているだけで。
 石でも蹴りながら歩いていたなら、場合によっては馬鹿にされるかもしれないけれど。石ころを必死に追っていたなら、子供みたいだと笑われちゃうかもしれないけれど…。
(だって制服を着ているものね)
 下の学校の子は着ない制服。それを着ていれば十四歳にはなってるってこと。十八歳になるまで行く学校だし、ちょっぴり大人になった気分の子だっている。そんな学校の子が石蹴りしてたら、馬鹿と笑う人もいるかもだけど…。



「チビーッ!」
 またまた響いた怒鳴り声。
(チビだなんて…!)
 馬鹿よりも酷い、ぼくへの悪口。明らかにぼくを狙った悪口。
 今度こそムッとしたんだけど。
 喧嘩を売ったりしないぼくだけど、売られた喧嘩は買ってやろうという気になった。チビとまで言われちゃ黙ってられない。ホントのことでもチビはチビ。ぼくにとっては最悪の言葉。
(背が伸びないこと、ぼくが一番気にしてるのに…!)
 百五十センチから伸びない背丈。ハーレイと会った五月三日から一ミリも伸びてくれない背丈。前のぼくと同じ百七十センチにならない限りは、ハーレイとキスも出来ないのに…!
(誰がチビって言ったわけ!?)
 負けるにしたって、この喧嘩は買う。買わなきゃ男じゃないだろう。チビのぼくでも、ホントはソルジャー・ブルーだったんだから。大英雄のソルジャー・ブルーなんだから。
(前のぼくなら逃げないんだから…!)
 人類軍やテラズ・ナンバーを相手に戦ってたぼく。メギドまで沈めたくらいのぼく。
 それに比べたら悪口をぶつけた相手と喧嘩くらいは喧嘩の内にも入らない。背中を見せたら駄目だと思って、ぼくは喧嘩を買うことにした。
 いきなり取っ組み合いはマズイし、力じゃ絶対敵わないから、言い負かす。悪口の知識を総動員して戦ってやる、とキッと辺りを睨んで相手を探したんだけど。
 怒鳴ってやる、って拳を握って身構えたんだけど…。



「バカーッ! チビーッ!」
 ぐにに、とヘンテコな声がついてきた。
(…ぐにに?)
 どんな悪口、って声がした方へ大股で歩いて行った、ぼく。
 舐められないよう背筋を伸ばして、出来るだけ大きく見えるように。負けないぞ、って身体中に気迫とファイトを漲らせながら、勝つぞってオーラを立ち昇らせながら、ズンズンと。
 確かこの辺、と垣根の向こうを睨み付けたら。
(えっ?)
 ぐににに、と其処から声がした。間違いなく「チビ」って怒鳴ってた相手。おんなじ声。
 だけど…。
(鳥…)
 普通の鳥籠よりも大きな鳥籠。四角くて頑丈そうな鳥籠。
 その中に鳥。小鳥とはとても呼べないサイズの、でもカラスよりは一回りくらい小さな鳥。
 真っ白で綺麗な鳥だけれども、ぐににと鳴いてる。馬鹿でチビって怒鳴った声で。



(鳥だったの?)
 こいつがぼくに
喧嘩を売ったんだろうか、ぼくは喧嘩を買うべきだろうか?
 どうしよう、って悩む間もなく、そいつは派手に叫んでくれた。
「チビーッ! バカーッ!」
(チビって言った…!)
 おまけに、馬鹿って。
 やっぱり買う、と言い返す言葉を頭の中で探していたら。



「ごめん、ごめん」
 悪かったね、って庭の向こうの玄関を開けて、この家のご主人がやって来た。
 ぼくも顔見知りのご近所さん。パパよりも少し年上くらいに見えるんだけれど、本当はもっと上らしい。年を取るのを止めているだけで、とっくの昔にお孫さんまでいるみたい。
 でも、おじさんは鳥を飼っていたっけ?
 それもこんなに口の悪い鳥、ぼくは初めて見たんだけれど…。
「えーっと…。この鳥、おじさんの鳥?」
 初めて鳥籠を庭に出しただけで、ずっと前から飼ってた鳥なの?
「いや、この鳥は預かったんだよ。今日の昼前に来たばかりなんだ」
 日光浴が好きだと言うから、鳥籠を庭に置いたんだけどね…。
 申し訳ないね、酷い言葉を喋る鳥で。



 ぼくに悪口をぶつけた鳥と、ぼくとは初対面らしい。
 家族で旅行に出掛けたという、娘さんちの鳥だった。寂しがりやだからペットのホテルにお願いするのは可哀相、って車に乗っけて連れて来たって。
(寂しがりやなのに悪口だなんて…)
 とんでもない鳥だ、と呆れた、ぼく。友達が欲しいなら、他の言葉を喋ればいいのに。
「すまないね。これはそういう鳥なんだよ」
 覚えた言葉しか喋れないんだ、って、おじさんが説明してくれた。
 人間の言葉を喋る鳥。覚えた言葉を喋るだけの鳥。
 コバタンっていう種類のオウムだって。
 絶滅しちゃったナキネズミと違って、人間と喋れるわけじゃない。人間の言葉を真似るだけ。
「上手く噛み合うこともあるけど、大抵は好きに喋ってるんだよ」
「そういうものなの?」
「そうだよ、だからわざとじゃないんだ」
 怒らないでやってくれるかな、って頼まれちゃったら仕方ない。鳥に喧嘩を売ったり出来ない。鳥だもんね、ってグッと堪えて「うん」と返事をしたんだけれど。
「バカーッ!」
「こらっ、ピーちゃん!」
 駄目だろう、ブルー君に悪口を言っちゃ。
 仲良くしなさい、ブルー君はいつも通るんだから!



 おじさんが叱ってくれたけれども、ぼくの背中が見えなくなるまで馬鹿とチビとは続いてた。
(ホントになんにも分かっていない?)
 あんまりだよね、って家に着いても口から溜息。部屋で制服を脱いでも溜息。
 コバタンのピーちゃん、お孫さんの喧嘩で覚えた悪口、馬鹿とチビ。
 狙ったように食らってしまった。ウッカリ喧嘩を買うトコだった。
(ぼくのためにあるような悪口だよ…)
 馬鹿はともかく、チビだなんて。ぼくが一番気にしてることを大声で怒鳴り散らすだなんて。
 相手が鳥でも落ち込みそうだよ、って溜息をつきながら着替えて階段を下りた。
 ダイニングのテーブルにママが用意してくれた紅茶とおやつ。熱い紅茶は美味しいけれど。
(ミルクも入れよう…)
 鳥にまでチビと言われちゃったし、こんな日はミルク。背丈を伸ばすためにはミルク。冷蔵庫に入ってる大きな瓶には幸せの四つ葉のクローバーのマークが描いてあるから、頼もしいんだ。
 瓶からミルクピッチャーに移して、それから紅茶にたっぷりと。
(少しでも背が伸びますように…)
 ミルクにお願い、神様にお願い。
 ゴクンと一口、ミルクティー。チビのぼくでもきっといつかは大きくなってみせるんだから…!



 頑張るぞ、ってミルクティーを飲んで、おやつも食べて。
 キッチンに居たママにカップとお皿を返して、部屋に戻った。栄養、ついたと思いたい。背丈も伸びると思いたいけど、伸びるかどうかは神様次第。
(馬鹿でチビって…)
 鳥までそう言うくらいなんだし、まだまだ伸びそうにないんだろうか?
 いきなり言われたら傷ついてしまう、馬鹿とチビ。馬鹿も酷いけど、チビはもっと酷い。ぼくがチビだと思い知らされる酷い悪口、鳥にも言われた。
(チビの間はハーレイとキスも出来ないのに…!)
 前のぼくと同じ背丈に育つまではキスを許してやらない、ってハーレイに禁止されたから。
 恋人のくせに酷いハーレイ。子供扱いするハーレイ。
(ぼくのこと、何度もチビだって…)
 ハーレイもぼくをチビ扱い。遠慮なくチビって呼んでは笑う。ゆっくり大きくなるんだぞ、って頭をクシャリと撫でてくれるけど。チビでいいんだ、って優しく笑ってくれるけど。
 でも…。
(ぼくはチビだと悲しいんだよ!)
 早く大きくなりたいんだから。チビのままだと困るんだから。
(それなのに、鳥にもチビって言われた…)
 傷ついちゃった、と溜息をついて、ぼくをチビ呼ばわりするハーレイを思い浮かべたら。
 ハーレイだってピーちゃんに悪口を言われるといいんだ、と思っちゃった。
 チビはともかく、馬鹿の方。
 そしたら少しはぼくの気持ちが分かるだろう。
 チビって呼ばれる度にちょっぴり悲しくなっちゃう、大きくなれないぼくの気持ちが。



 そういったことを考えていたら、チャイムの音。窓から覗いたら、庭の向こうに大きく手を振るハーレイの姿。
 ハーレイも馬鹿と言われただろうか、ピーちゃんに。あの家の所、通るんだもんね?
 どんな悪口を食らったのかな、とドキドキしながらハーレイが部屋に来るのを待った。馬鹿か、それともチビの方なのか。ハーレイにチビと怒鳴っていたなら、とても傑作。ハーレイはチビじゃないんだから。チビどころか、デカすぎるほどなんだから。
 ぼくとは逆で大きいハーレイ。人並み外れて大きなハーレイ。
 そのハーレイが部屋にやって来て、テーブルを挟んで向かい合わせ。ぼくは早速、ぼくを襲った例の不幸を披露した。



「聞いてよ、ハーレイ。馬鹿でチビって言われちゃった!」
「はあ?」
 お前、誰かと喧嘩したのか?
 珍しいなあ、お前が喧嘩とは初耳だな。
「鳥だよ、ぼくに向かって言ったんだよ!」
 ぼくが歩いてたら、馬鹿でチビって。
 バス停からウチまで歩く途中にある家なんだよ、庭に鳥籠があったんだよ。真っ白な鳥が入った鳥籠。コバタンっていう種類のオウムのピーちゃん。
「それがお前に馬鹿でチビってか?」
「そうだよ、最初は鳥だと思わなかったから…」
 誰かが喧嘩を売ったと思って、買ってやるんだって身構えたのに。
 取っ組み合いだと敵わないから、知ってる悪口、全部ぶつけてやろうと決めたら鳥だった…。
「鳥と喧嘩なあ…。相手が鳥では全く喧嘩にならんだろうが」
 相手にゃ言葉が通じないしな。下手すりゃ一方的に負けるぞ、向こうが言いたい放題で。
「うん…。ぼくはなんにも言ってないのに、何度も馬鹿でチビって言われた」
 おじさんが叱ってくれているのに、ぼくの姿が見えなくなるまで馬鹿でチビって怒鳴ってた。
 お孫さんの喧嘩で覚えた悪口らしいんだけど…。
 小さな子供が言いそうだけれど、ぼくを狙ったみたいな悪口。よりにもよって、チビだなんて。背が伸びないこと、ぼくはとっても気にしているのに、チビって言った!
「ははっ、そいつは最高だな。俺も見てみたかったもんだな、オウムも、膨れているお前も」
「見てみたかった、って…。ハーレイ、ピーちゃんに何も言われてないの?」
 チビとか、馬鹿とか。ピーちゃん、絶対、言う筈だよ?
「生憎と俺は歩く代わりに車だしな?」
 車に向かって喋っても何も言わないからなあ、鳥だって黙って見ているだけだと思うがな?
 相手をしてくれる人間でなけりゃ、馬鹿ともチビとも言わないさ。



 それに夕方、鳥籠は外には無いだろう、ってハーレイが窓の向こうを指差した。秋は日が暮れる時間が早いし、庭はとっくに薄暗い。こんな時間じゃ、ピーちゃんの籠は家の中。
「そっか…。お日様が射してる間だけだね、日光浴」
 ハーレイにはなんて言ったんだろう、って少し楽しみにしてたのに…。
 鳥籠は無くて、おまけに車じゃ悪口なんかは飛んで来ないね。馬鹿ともチビとも。
「その、馬鹿とチビ。ナキネズミに言われたわけじゃないから、別にいいじゃないか」
 お前に言ったの、オウムだろうが。オウムは人間の口真似をしてるだけなんだ。お孫さんが喧嘩している時の言葉を覚えちまって、そいつを喋っているだけだ。馬鹿もチビもな。
 しかしだ、ナキネズミが同じことを言ったら本音だぞ、それは。
 本当にお前を馬鹿でチビだと思ってるわけで、それに比べりゃオウムなんかは可愛いもんさ。
「でも…!」
 ぼくはホントに傷ついたんだよ、馬鹿とチビ。馬鹿はマシだけど、チビは酷いよ…!
「いいじゃないか、たかが鳥だってな。ナキネズミだったら大変だが…」
 オウムは何も考えてないし、自分が一番得意な言葉を喋っただけだ。そこにお前が通り掛かって寄って来たから、嬉しくなって同じ言葉を何度も何度も叫び続けただけだろう。
 要はそいつは誰にだって言うのさ、人が通れば馬鹿でチビって。
「ホント…?」
「多分な」
 お前が真面目に相手をするから、余計に何度も馬鹿でチビだと叫ぶんだ。普通だったら知らないふりして通り過ぎるのに、お前、喧嘩を買おうと身構えたんだろ?
 オウムにしてみりゃ、遊び相手が出来たってトコだ。こう言えば遊んで貰えるんだと思い込んで叫んで見送ってたのさ、もっと遊ぼうと。



 言葉は他にも色々覚えているんだろうが、と言ったハーレイ。
 馬鹿とチビの他にも人間が喋る言葉を沢山、きっと覚えている筈だと。
「今度はそいつを聞けるといいな。お前、当たりが悪かったんだな」
 たまたま馬鹿って言いたい気分の所へウッカリ通り掛かって、その次がチビで。
 オウムだって覚えた言葉を次々と披露したいんだろうし、次はマシなのを聞かせて貰え。
「そうしたいよ…。でないと怒鳴り返したくなるし!」
「馬鹿ってか?」
「馬鹿もそうだけど、チビが問題。チビの方がうんと酷いんだから!」
 それにチビって怒鳴ってるけど、ピーちゃんはぼくより小さいし…。
 何度も何度も言われちゃったら、我慢の限界で怒鳴りそうだよ。チビはお前の方だろう、って!



 フウと溜息をついた、ぼく。
 ピーちゃんの鳥籠は今日来たばかりで、暫くの間はあの家の庭にドンと置かれていそうだから。お日様が明るく射してる間は、日光浴だと外に出されていそうだから。
「早く迎えに来てくれないかなあ、娘さん…」
 旅行から帰ってピーちゃんを連れてって欲しいんだけど。馬鹿でチビって言わないように。
「娘さんが迎えに来たとしてもだ、その内にまた来るんじゃないか?」
「えっ?」
「お前がすっかり忘れちまった頃に、馬鹿でチビってな」
「なに、それ…」
 あそこのおじさん、またピーちゃんを預かるの?
 娘さん、そんなに旅行が好きかな、年に何度も出掛けるくらいに?
「さてなあ、お前がまた言われるのは来年なんだか、再来年だか…」
 その口の悪いオウムが何歳なのかは知らないが、だ。
 下手をすると、お前が俺と結婚しちまった後に「馬鹿」もあり得る。それこそ十年くらいは軽く経った頃にな。
「十年って…。そんなに先?」
 ピーちゃんは鳥だよ、十年も先に元気で悪口叫んでるかな?
「長生きらしいぞ、コバタンってヤツは」
「ホント?」
 猫と同じくらいに長生きなのかな、ミーシャみたいに二十年くらい?
「七十年を超えると聞いたな、人間が飼ってるコバタンはな」
 野生のヤツでも二十年から四十年くらいは生きるらしいし、まだまだ当分、元気だろうさ。
 結婚してチビじゃなくなったお前に向かって馬鹿と怒鳴れるくらいにな。
「えーっ!」
 チビじゃなくなったら今度は馬鹿なの?
 ぼくの顔を見たら馬鹿って怒鳴るの、ピーちゃんは…?



 あんまりだよ、って思わず叫んでしまった、ぼく。
 ハーレイは「遊び相手だと思われちまったみたいだしな?」って、笑って帰って行っちゃった。パパやママも一緒に夕食を食べて、「また今度な」って手を振って。
(チビじゃなくなっても馬鹿だなんて…)
 それだけは無いと思いたい。
 今日の馬鹿とチビはほんの偶然、明日には違う言葉を喋って欲しいんだけど…。
 遊び相手でも何でもいいから、馬鹿とチビはやめて欲しいんだ。特にチビの方は。
(ホントのことでも傷ついちゃうから…)
 大声でチビと怒鳴られちゃったら、チビだと思い知らされるから。



 次の日の朝、出掛ける時には庭にピーちゃんの鳥籠は無かった。日光浴には早すぎる時間。耳を澄ませても声はしなくて、馬鹿ともチビとも聞こえてこない。
(帰りも言わないといいんだけれど…)
 どうか言われませんように、って祈るような気持ちで学校に行って、授業を受けて。
 学校が終わって帰って来たぼくは、ピーちゃんに馬鹿にされないようにと胸を張って堂々と道を歩いていたのに、やっぱり言われた。垣根の向こうから馬鹿でチビって。
 おじさんが庭に出ていたけれども、「ごめん、ごめん」って笑っていただけ。ピーちゃんの籠をコツンと叩いて「ご挨拶は?」とは言ってくれたけど。
「チビーッ!」
「悪いね、こういう口の悪い鳥で」
「…ううん…」
 ガックリと項垂れて歩き出したら、「バカーッ!」と声が追って来た。
 その次の日だって、馬鹿でチビ。
 もうハーレイが「馬鹿」って言われるのを待つしかないんだ、あの馬鹿鳥。



 土曜日、お天気がいいから歩いて訪ねて来たハーレイ。
 ピーちゃんの鳥籠も庭に出ていそうな時間だったし、ぼくの部屋でハーレイとテーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
「どうだった?」
 通ったんでしょ、ピーちゃんの鳥籠がある家の前。ピーちゃん、日光浴をしていた?
「ああ、いたな。おはようと挨拶してくれたが?」
「ええっ!?」
 おはようだなんて、馬鹿とかチビは?
 ハーレイ、それしか言われなかったの?
「いや。ピーちゃんと自分で名乗っていたなあ、こいつのことかと暫く見てたが…」
 馬鹿ともチビとも言われなかったぞ、朝は機嫌がいいんじゃないか?
「そんな…。きっとたまたまだよ、明日は悪口言うと思うよ」
 ぼくはいつでも馬鹿でチビだし、あれが得意な言葉だろうと思うんだ。
 ハーレイにだって言うと思うな、挨拶するくらいハーレイのことが気に入ったんなら。



 明日こそきっと、と期待したのに、日曜日も挨拶されたハーレイ。それに「ピーちゃん」って。
(ぼくは「おはよう」も「ピーちゃん」も聞いていないよ…!)
 ハーレイは「たかが鳥だろ」って言っていたけど、相手を見て喋っているんだろうか?
 ぼくが子供だから馬鹿にしちゃって、馬鹿だのチビだの言うんだろうか…?
(それともピーちゃん、気分が変わった?)
 土曜も日曜も、ぼくは学校に行っていないし、ピーちゃんの家の前を通ってはいない。その間に気分が変わってしまって、今は「おはよう」で「ピーちゃん」なのかも…。
 馬鹿とチビには飽きてしまって、違う言葉になったのかも…。



 そうだといいな、と考えながら通り掛かった、月曜日の午後、学校からの帰り道。
 ピーちゃんの家が見えて来たな、と思った途端に飛んで来た声。
「バカーッ! チビーッ!」
 ぼくの足音で気付いたんだろうか、鳥籠の中で叫んでる。それは得意そうに、高らかな声で。
「バカーッ! チビーッ!」
(ぼくにはこれしか言わないわけ?)
 酷い、と泣きたくなりそうな気持ち。
 「おはよう」どころか、「ピーちゃん」どころか、ぼくにはやっぱり馬鹿とチビ。
 すごすごと去ってゆくぼくの背中に馬鹿とチビとが突き刺さる。チビはホントのことだけど。



 家に帰って、ママに「また言われたよ」って報告したら。
「あら? ママには馬鹿とは言わないわよ? チビとも一度も言わないし…」
 ブルー、ピーちゃんの御機嫌、損ねたんじゃない?
 ママには挨拶してくれてるわよ、「おはよう」だとか「こんにちは」とか。
 お行儀のいいオウムなのね、って思ってたけど、ブルーにはそうじゃなかったのねえ…。馬鹿でチビだなんて。
(嘘…!)
 ママにも挨拶するっていうのは衝撃だった。どうやらぼくだけ、馬鹿でチビ。
 いくら鳥でも酷すぎる。
 仕事帰りに寄ってくれたハーレイに思い切り怒りをぶつけちゃったら、こう言われた。
 「愛想よく挨拶してみろ」って。
 ぼくは最初に喧嘩を買おうとしちゃってるから、馬鹿でチビかもしれないぞ、って。



(そうか、挨拶…)
 ピーちゃんは鳥だけど、ナキネズミと違って意思の疎通は出来ないけれど。
 それでも動物、好きな人とか嫌いな人とかもあるだろう。甘えたい人に、喧嘩したい人。ぼくは喧嘩をしたい相手に分類されたか、あるいは馬鹿にされてるか。
(…喧嘩の相手より、馬鹿にされてる方がありそう…)
 お孫さんの喧嘩で覚えた言葉をぶつけているなら、お孫さん並みの子供扱い。馬鹿とかチビって言い合うレベルの子供だったら、ぼくより小さい。幼稚園くらいの子供なのかも…。
(そのくらいの年の子供だったら、ピーちゃんは馬鹿にしていそうだよ)
 ピーちゃんは充分、大人サイズの鳥だから。
(ぼく、幼稚園児並みにされちゃった?)
 真面目に喧嘩を買おうとしたから、鳥を相手に喧嘩するほどのチビなんだ、って。
 そうだとしたら名誉挽回、きちんと挨拶、大人の余裕を見せなくちゃ。
 ぼくはチビだけど、前のぼくなら三百歳を軽く超えてた、本物の大人なんだから。



 やるぞ、って決めて、火曜日の帰り。
 相変わらずぼくの足音を聞くなり「バカーッ!」って怒鳴られたんだけど。
 ぼくは怒りをグッと飲み込んで、ピーちゃんの鳥籠を垣根越しに覗いて笑顔で挨拶をした。
「ピーちゃん、こんにちは」
「バカーッ!」
 ぐにに、とオマケもついて来た。
「こんにちは、ってば」
「チビーッ!」
(…全然、ちっとも通じてないけど…!)
 ぼくにはこれしか言わないんだろうか、ピーちゃんは?
 だけど挨拶しようと決めたし、ぼくはチビじゃないと認めて貰えるまで頑張らなくちゃ…!



 挨拶する度に馬鹿だのチビだの言われ続けて、金曜日の帰り道のこと。
 今日はなんにも言われないな、と垣根の向こうを覗き込んだらいなかった。鳥籠ごと。
 やっと認めてくれたのかも、って思った気持ちは木端微塵に砕けてしまった。
(…静かな筈だよ…)
 どうしたんだろう、ピーちゃんは?
 日光浴はお休みなのかな、って庭を見てたら、おじさんが家から出て来たから。
「ピーちゃんは?」
「ああ、取りに来たよ。旅行から帰って来たからね」
 お昼前に車に乗せて行ったよ、今頃は自分の家に帰って寛いでるさ。
「嘘…」
 ぼく、一回も挨拶を聞いていないのに…。毎日、挨拶、頑張ってたのに…。
「悪かったねえ、いつも悪口ばっかりで」
 家の中まで聞こえていたけど、あればっかりはどうにもねえ…。
 叱っても全く直らなかったし、ピーちゃんとしては挨拶のつもりだったんだろうね。



 口の悪い鳥ですまなかったね、って、おじさんは謝ってくれたけれども。
(最後まで馬鹿とチビばっかり…)
 ぼくがあんなに挨拶したのに、馬鹿とチビしか言われなくっても挨拶したのに、駄目だった。
 努力はすっかり無駄になってしまって、ピーちゃんは家に帰ってしまった。ぼくに悪口ばかりをぶつけて、一度も挨拶してくれないで。
(ぼくは最後まで、お孫さん並み…)
 ホントのホントにチビ扱い。本物の子供と同じ扱い。
 酷いんだよ、って土曜日に来てくれたハーレイに向かって当たり散らした。
 「あの鳥、いなくなったんだな」なんて笑ってぼくに言ったから。
 「もう馬鹿もチビも聞かなくて済むな」って、楽しそうに言ってくれたから。
 挨拶されてたハーレイなんかには分からないんだ、チビと何度も言われ続けた悔しさは。
 ホントのことでも、鳥にまでチビって怒鳴られちゃったら悔しいんだから。
 ハーレイとキスさえ出来ないチビだと、ピーちゃんに馬鹿にされたんだから…!



 とうとう、挨拶されなかった、ぼく。
 ピーちゃんの挨拶を聞けずにお別れしちゃった、ぼく。
 ハーレイは「賢い鳥だな」って笑ってるけど、ホントだろうか。
 「人を見て挨拶を選ぶんだな」って、「お前には馬鹿とチビだったんだな」って。
 もしもホントに選んでたんなら、ぼくを見て挨拶は馬鹿とチビにしようと決めていたんなら。
 次に会う時は、絶対、挨拶させてやる。「おはよう」と、それに「こんにちは」。
 前のぼくみたいに大きく育って、ピーちゃんの挨拶を聞かなくちゃ。
 コバタンの寿命は長いと言うから、きっと会えると思うんだ。
 ハーレイと結婚した後になっても、あの家の庭を覗いたら。
 そしてハーレイに自慢するんだ、ピーちゃんに挨拶して貰ったよ、って。
 ピーちゃんの挨拶を聞きに行こう、ってハーレイと二人で出掛けて行くんだ、あの家の前へ。
 もうチビだなんて言われないよと、ハーレイのお嫁さんだもの、って。
 だからよろしく、コバタンのピーちゃん。
 ハーレイのお嫁さんになった幸せなぼくが、またピーちゃんに会いに行くから…。




         喋る鳥・了

※ブルーに向かって「バカ!」で「チビ!」だと叫ぶ鳥。それもブルーだけを相手に。
 なんとも悲しい話ですけど、リベンジの機会があるといいですよね。大きくなった後に。
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(猫用ケーキ?)
 なあに、と新聞を覗き込んだ、ぼく。
 猫用ケーキ、言葉のまんま。猫のためのケーキで、人間用とは違ったケーキ。
 カラフルなケーキの写真が一杯、いろんな猫用ケーキの特集。
(お誕生日に、御褒美に、おやつ…)
 これじゃ人間と変わらない。人間だって、ケーキはそういう扱いだもの。
 ぼくの家ではママが作るから、ケーキは珍しくないんだけれど。お菓子作りが得意じゃない人はケーキをお店へ買いに出掛けるし、一番は多分、誕生日用。バースデーケーキ。この記事みたいなホールケーキを買うんだったら、きっと誕生日が多いだろう。
 次が記念日、それから御褒美。おやつ用は最後になると思うな、ホールケーキなら。
 大きなケーキを家族や友達、食べる人数に合わせて切って。一切れずつお皿に載せて食べるのが人間用のケーキだけれども、猫用ケーキは…。
(ホールケーキで一人前…)
 一人って言うか、一匹と言うか。
 ペロリと一度に食べ切れるサイズ、そういう分量の小さめケーキ。
 何切れかにカットしてあげるってわけじゃなくって、丸ごと一個を盛り付けるみたい。



(これが猫用?)
 言われなければ分からないケーキ。綺麗なケーキ。
 マジパンやクッキーで作った猫が乗っかってるけど、子供だったら好きそうな感じ。クリームで飾ってミントの葉っぱも。何処から見たって人間用。
(フレッシュクリームたっぷり…)
 「猫ちゃんの大好きなフレッシュ生クリームをたっぷりとケーキ一面にデコレーション!」って謳い文句で、ケーキの上には生クリームを絞り出した飾りが星みたいに幾つも鏤めてある。
 ぼくの今日のおやつも生クリームたっぷりのケーキなんだけど。
 真っ白なクリームが甘くてとっても美味しいんだけれど、猫並みってこと?
 ぼくが学校に行ってる間にママが作ってくれたんだけど…。
 いろんなベリーを沢山乗っけて、生クリームもたっぷりと塗って。



(煮干しパウダー入りのスポンジ…)
 猫用ケーキとぼくのケーキは其処が違った。
 ぼくのケーキはふんわりスポンジ、卵の風味が優しいケーキ。味の決め手は泡立てた卵、それにお砂糖だと思う。後はバターとミルクくらいかな、しっとりふわふわ、ママの手作り。
 膨らんだスポンジに煮干しパウダーは入っていなくて、猫用ケーキとは別だけれども。
(うーん…)
 他にも色々、ケーキの種類。猫用ケーキと書かれたケーキ。
 ムースケーキみたい、と眺めたケーキは牛のミンチを贅沢に使った黒っぽい部分と、白い濃厚ミルクムースの二層になっててホントにムース。「至福の牛ムース」っていう名前。
(猫用なんだけど…!)
 食べる猫は分かっているんだろうか、「至福」って言葉。説明したって欠伸だけして、ムースに夢中で齧り付きそうな気がするんだけど。
(こっちはなあに?)
 ぼくが寝込むとハーレイが作りに来てくれる、野菜スープのシャングリラ風。何種類もの野菜を細かく刻んで基本の調味料だけでコトコト煮込んだ野菜のスープ。
 それに似てるよ、と思ったケーキは「鴨レバーのカクテルテリーヌ」だった。二層になってて、上が細かく刻んだ野菜のテリーヌ。下の部分が鴨のレバーのムースなんだ。
(野菜スープのシャングリラ風に、こんなムースはついてないから!)
 ハーレイが「新作だぞ」ってテリーヌ仕立てを編み出してくれたけれども、ママのテリーヌから思い付いたって言っていたけど、それが限界。野菜スープのシャングリラ風。
 ぼくがレシピを変えて欲しくないって頼んだからではあるけれど…。
(猫のケーキは鴨のレバーのムースつき…)
 お洒落すぎる猫用カクテルテリーヌ、贅沢すぎる猫用ケーキ。
 ぼくより凄い、と目を丸くした。



(これを食べるの、猫なんだけどな…)
 世界はなんて広いんだろう。猫用のケーキがあるってだけでも凄いのに…。
 よくよく読んだら、牛のミンチも鴨のレバーも最高級品を使ってた。それが自慢の猫用ケーキ。
(人間並み…)
 こだわりの飼育方法が売りの牛と鴨。そんなのを使った猫用ケーキ。
 考えてみれば最高級品の鴨だの牛だの、普段の食事でパクパク食べてはいないから。
 もしかしたら人間以上だろうか?
 人間用に出荷するにはちょっと落ちるよ、って部分を使って作ってるにしても、最高級品。猫用ケーキに最高級品の牛だの鴨だのを惜しげもなく。
 野菜スープのシャングリラ風だって、猫用になると最高級品の鴨のレバーのムースつき。
(負けたかも…)
 人間のぼくが、ニャーと鳴く猫に。
 おやつで負けた、とケーキをパクリと頬張った。
 猫も喜ぶフレッシュクリームたっぷりのケーキ、煮干しパウダーは入っていないけど。



 おやつを食べ終わって部屋に帰ってから、綺麗だったケーキを思い出す。
 猫用だなんて思えなかった、普通のケーキにそっくりのケーキ。
(お誕生日に、御褒美に、おやつ…)
 ハーレイのお母さんが飼ってたっていう猫のミーシャもあんなのを食べていたかもしれない。
 甘えん坊で真っ白なミーシャ。ハーレイが生まれるよりも前から家に居たミーシャ。
 とっくに死んじゃったミーシャだけれども、可愛がられていたらしいから。
 猫用のケーキ、毎日は無理でも、お誕生日に、御褒美に。
 今日はちょっぴり特別だよ、ってミーシャ用のお皿に入れて貰って。



(猫用ケーキかあ…)
 こだわりの素材の猫用ケーキ。
 猫の身体に悪くないよう、素材を厳選したケーキ。
 材料の卵も、フレッシュクリームも、煮干しパウダーも、全部、地球産。
 此処は地球だから当然だけれど、他の星から運んで来るより安くつくから当たり前だけど。
 それでも地球産、前のぼくが焦がれて行きたいと願った地球の食材で作ったケーキ。
 なのに猫用、猫が食べるために作られたケーキ。
(前のぼくでも食べられるよ、あれ)
 新聞記事には「人間は食べないで下さい」って書いてあったけれど、大丈夫。
 材料をちゃんと読んでみたけど、変なものは入っていなかったから。
 小麦に卵に、それからミルク。いろんな野菜に、最高級品の牛と鴨。
(煮干しパウダーくらいだよね)
 ケーキにしては変な材料って、これくらい。
 牛とか鴨はムースなんだし、ケーキという名前がついているだけでお料理だから。充分に人間が食べられるお料理、牛ミンチのムースに鴨のレバーのカクテルテリーヌ。
(煮干しパウダーのケーキにしたって…)
 前のぼくなら、ちょっと生臭い程度のスポンジ、気にしやしない。
 憧れの地球のケーキだったら、猫用のケーキだったって。
 大喜びで食べた、間違いなく。
 地球のケーキだと、地球の食材で作ったケーキが手に入ったと。



(ハーレイにだって御馳走するんだよ)
 そういうケーキが手に入ったなら、前のハーレイが青の間に来た時、紅茶を淹れて。
 猫用ケーキは小さいけれども、二人仲良く半分ずつで。
 ケーキの上に乗った飾りも半分ずつ。
 猫の形のマジパンだって、猫の形のクッキーだって。
(食べたかったな…)
 前のぼくだった時に、猫用ケーキ。
 地球産の食材だけで作った、素敵なケーキ。
(もしもあったら、絶対、食べてる…)
 ノアとかアルテメシアとかの猫用ケーキは要らないけれども、食べたいとも思わないけれど。
 地球のだったら、間違いなく食べる。あると知ったら、奪って食べる。



(その地球が無かったんだけれどね…)
 宇宙の何処かにあると信じた青い地球。焦がれ続けた、青い水の星。
 けれども青い星は蘇らないままで、死の星のままで。
 マザー・システムは「地球は青い」と嘘を貫き通したけれども、本当は青くなんかはなかった。作物が採れる筈もなくって、地球の食材で猫用ケーキは作れなかった。
 だから食べずに済んだんだろうか、猫用ケーキ。
 地球の土と水と光が育てた小麦や、地球で育った鶏の卵。そんな材料で出来たスポンジ。煮干しパウダーだって地球の海から獲れた魚の粉なんだから。
(とっても贅沢…)
 前のぼくにしてみれば夢のようなケーキ。
 たとえ煮干しの味がしたって、猫用と書いてあったって。
(地球の味がするケーキだしね?)
 あったら絶対、奪いに行ってる。
 アルテメシアに落ち着いた後で、物資は奪わない自給自足の生活をしていた時代でも。
 あれは別だと、あのケーキだけは別なんだと。
 そうして奪って、ハーレイと食べる。
 憧れの地球の食材で出来た猫用ケーキを、二人で分けて。



(ハーレイに呆れられそうだけどね)
 猫の上前をはねるんですか、って。
 これは猫用のケーキなのですが、って。
 だけど特別、地球産のケーキ。地球の食材で作ったケーキ。
 猫用だろうが、煮干しパウダーで生臭かろうが、最高のケーキなんだから。
 行きたくてたまらない青い地球で育った食材の旨味がギュッと詰まっているんだから。
(やっぱり猫に負けてるよ、ぼく)
 今のぼくのおやつも猫に負けたと思ったけれども、前のぼくが。
 ソルジャー・ブルーだったぼくが、欲しくて欲しくて奪いに行きそうな猫用ケーキ。
 つまりは猫の方がうんと贅沢な食事、地球産の食材で出来た豪華な猫用ケーキ。
(猫の方がいいもの食べてるだなんて…)
 大英雄だったソルジャー・ブルーが欲しがるほどの猫用ケーキ。
 ソルジャー・ブルーが地球産っていうだけで釣られてしまう猫用ケーキ。
 猫のケーキはとっても贅沢、大英雄のソルジャー・ブルーが羨ましくって欲しがるケーキ。
 それに…。



(最高級品の鴨のレバーに牛ミンチ…)
 シャングリラに鴨はいなかった。卵と鳥の肉は鶏で充分、鴨までは飼わなくてもいいと。鶏さえいれば卵も鳥肉も手に入るのだし、鴨まで育てなくてもいいと。
 だから鴨のレバーなんかは無くって、最高級品も何もあるわけなかった。
 牛は居たから牛のミンチはあったけれども、所詮は宇宙船の中で育てた牛。地面の上で、牧場を自由に歩き回って育った牛とは違うし、肉の質だって比較にならない。要はただの牛。
 鴨のレバーは最初から無いし、牛のミンチは最高級どころか高級品とさえ呼べないレベル。
 楽園だったシャングリラだけど、最高級品の食材が売りな猫のケーキは作れない。
 完全に敗北、猫のケーキに。
 猫が誕生日や御褒美に、おやつに買って貰うという猫用ケーキに。



(前のぼく、ソルジャー・ブルーだったのに…)
 大英雄だった前のぼくなのに、猫に負けてる。
 ニャーと鳴くだけの猫に負けてる、食べ物のことで。
(おまけに猫用ケーキを奪って喜んで食べそうなんだよ、前のぼく…)
 地球産の猫用ケーキに限るけれども、あったら奪う。地球のケーキだと喜んで食べる。
 前のぼくよりも猫の方が上、奪わなくっても猫用ケーキを買って貰える。地球産の食材を贅沢に使った猫用ケーキを、いろんな時に。
(猫に負けるなんて…)
 英雄のくせに情けないかも、って思っていたら、チャイムの音。お客さんだよ、ってチャイムの音。窓から見たら大きく手を振るハーレイ。



 ママが門扉を開けに出て行って、ぼくの部屋までハーレイを案内して来たから。
 お茶とお菓子をテーブルに置いてってくれたから、ぼくはお菓子を指差して言った。
「聞いてよハーレイ、猫の方がグルメだったんだよ!」
「はあ?」
 どうしたんだ、ってハーレイの鳶色の瞳が丸くなったけど。
「前のぼくより、猫の方がグルメ!」
 ホントなんだよ、ホントのホントに猫の方がグルメだったんだよ。
 前のぼくはとっても敵わなくって、猫の食事を奪いに出掛けてしまいそう。
 あれが食べたいって、どうしてもあれを食べるんだ、って。
 だって、本物の地球の食材で出来ているんだもの。
 猫用だけれど、地球産だもの…。



 こんなケーキがあったんだよ、って話をした。
 人間用のケーキなんです、って言ってもおかしくなさそうな出来の猫用ケーキ。
 見た目も綺麗で、こだわりの素材。最高級品の牛のミンチに鴨のレバーに…。
 一気に喋って、それから訊いた。
 ミーシャも猫用ケーキだったの、って。
「どうだかなあ…。おふくろが買ってやってたかもなあ、手作りだったかもしれないが」
 俺は全く覚えていないが、猫用ケーキを食っていたなら手作りかもしれん。
 おふくろは菓子作りだって得意だからなあ、猫用ケーキも手作りかもな。
「ミーシャのケーキは手作りなの?」
 ハーレイのお母さん、猫用ケーキも作れるの?
「本当に作ったかどうかは知らんが、人間用のと同じ材料だろ? 猫用のケーキ」
 愛情をこめてやりたかったら手作りだってな。
 どんな材料かが分かっていたなら、おふくろなら工夫しそうだぞ。
 最初の一個か二個は買って食わせて、ミーシャがそれで喜ぶようなら次から手作り。ミーシャの好物をあれこれ使って、ミーシャ専用ケーキってトコか。
「そっか…」
 ハーレイのお母さん、ミーシャ用に作ってあげるんだ…。
 ミーシャの好物がたっぷり詰まった、地球産の食材を使った猫用ケーキ。



 ということは、ミーシャにも負けているかもしれない、前のぼく。
 ハーレイのお母さんが猫用ケーキを買ってあげていたら、その時点で負けているんだけれど。
 もしもハーレイのお母さんが猫用ケーキに凝っていたなら、負けるどころの騒ぎじゃない。
 猫用ケーキを買って貰う猫は、お店に売ってる種類の中から選んで貰って食べるもの。あっちがいいとかこれがいいとか、喋れない猫は選べやしない。
 だけどミーシャは自分の好物を使ったケーキを食べられた可能性がある。ハーレイのお母さんに工夫を凝らして貰って、大好きな魚を使ったムースや、生クリームたっぷりのケーキなんかを。
 そうなってくると、ミーシャは前のぼくよりもずっと恵まれた立場。
 地球の食材を色々と食べて、好き嫌いもして、好物はこれだと主張して。
 その好物を使った猫用ケーキを作って貰って食べていたなら、最高に贅沢な食生活。
 前のぼくは地球に憧れるだけで、地球の食べ物は何一つ食べられないまま死んでしまったのに、ミーシャは我儘言いたい放題、好きな材料で猫用ケーキを作って貰って食べたんだから。



 前のぼくはミーシャに負けたかもね、と甘えん坊の真っ白な猫を思い浮かべながら訊いてみた。
「ハーレイのお母さん、こだわる方?」
 ミーシャが猫用ケーキを気に入ってたなら、専用ケーキも色々作るの?
「愛情はたっぷりだったからなあ、色々作ってやったんじゃないか?」
 俺はガキだったから忘れちまったが、魚のムースでも凝ると思うぞ。生クリームの猫用ケーキにしたって、スポンジがミーシャ好みの味になるよう、何度も作って「どう?」と訊くとか。
 ミーシャが喜んで食った時のレシピが定番のスポンジになるってわけだ。
「じゃあ、前のぼくはミーシャにすっかり負けちゃってるんだ…」
 地球の食材で我儘を言って、好物だけで作って貰ったケーキ。
 そんなケーキは食べたくっても食べられなかったのが前のぼくだもの。猫用ケーキでも欲しいと思ってしまうくらいなのに、好物ばかりで作って貰った猫用ケーキがあっただなんて…。
「安心しろ、お前だけじゃない」
「えっ?」
「俺も同じだ、そういうケーキは前の俺だって食えていないだろうが」
 前のお前と条件は全く同じなんだぞ、同じシャングリラに居たんだから。
 お前がミーシャに負けたと言うなら、俺も敗北してるんだ。
 もっとも、ミーシャが猫用ケーキを食ってないなら負けはしないがな。ただの猫だしな。
「そっか、前のハーレイもぼくとおんなじ立場にいたんだっけ…」
 地球産のケーキなんかは手に入らなくて、シャングリラの中。
 最高級品の鴨のレバーも牛のミンチも無かったっけね…。



 そうだった、と思い出した、ぼく。
 地球産の猫用ケーキがあると知ったら奪いに出掛けて、ハーレイと分けて…。
「えっとね、ハーレイに御馳走しようと思ってたんだよ、猫用ケーキ」
 前のぼくが地球産の猫用ケーキを奪っていたなら、青の間でハーレイと食べるんだよ。みんなに内緒で二人でこっそり。猫用ケーキは小さいけれども、半分に分けて。
「そいつはゴージャスな話だな。お前と二人で地球産のケーキか、猫用でもな」
 熱い紅茶を淹れんといかんな、シャングリラ産だから香りの方はイマイチだがな。
「でしょ? うんと素敵なティータイムが出来るよ、地球産のケーキ」
 猫用でもホントの地球産なんだし、きっと充分、美味しかったよ。
 あの時代に青い地球があったら、猫用ケーキが作られていたら。
 ハーレイと二人で食べたかったな、煮干しパウダー入りのスポンジで出来たケーキでも…。



「うむ。最高に美味かったろうさ、地球産の猫用ケーキはな」
 地球の食い物っていうだけで美味さが何倍、何十倍にもなりそうだ。猫用に作った菓子でもな。
 しかしだ、前の俺たちが猫用ケーキを食ってた場合は本当に笑うしかないんだが。
「なんで?」
 猫用ケーキでも地球産だよ。それだけで特別なケーキなんだよ?
 「地球の味だね」って感動しながら食べていたって、可笑しくはないと思うけど…。
 感激のあまり泣いていたって、ちっとも変ではなさそうだけど…?
「それはそうだが、前の俺たち。アルタミラに居た頃は餌だぞ、餌」
 ケーキなんかがあったか、あそこに。
 俺たちが食わせて貰っていたのは餌と水だけだったんだが?
「あっ…!」
 ホントだ、餌と水だけだった…。
 猫の餌でももっとマシだね、好きなタイプの餌を貰って食べるんだものね。
 そんなぼくたちに猫用ケーキって、アルタミラの頃だと贅沢すぎる餌だったんだ…。
 地球産の猫用ケーキじゃなくても、猫用に作ったケーキってだけで。



 餌と水しか食べられなくって、その餌だってオーツ麦で作った不味いシリアル。栄養だけは充分摂れるけれども、食べる楽しみなんかは無かった。文字通り飼っておくための餌。
 地球産の猫用ケーキを食べるどころか、ただの猫用ケーキでさえも貰えなかった、アルタミラ。
 ペット以下だった、前のぼくたち。
 猫と同じで飼われてはいても、猫はペットで可愛がって貰えて、餌も色々貰える存在。おやつも貰えて、猫用ケーキも。
 なのに、前のぼくたちには餌と水だけ、ミルクも貰えはしなかった。
 ミュウは実験動物だから。
 ペットじゃないから、研究者たちは愛情なんかを与えようとも思わない。彼らだって自分の家に帰ればペットが居たかもしれないのに。猫が居たかもしれないのに。
 家の猫には「いい子だな」って、猫用ケーキ。もちろん好物の餌やミルクもたっぷり。
 だけどミュウには何もくれなくて、餌と水だけを食べさせてたんだ…。



「前のぼくたち、なんだか悲惨…」
 酷い扱いだとは分かっていたけど、猫にだってケーキがあると思ったら惨めだよ。
 猫は誕生日とかに猫用ケーキを買って貰えるのに、前のぼくたちは…。
「まあな。人類のヤツらの記念日だ、って時もケーキは出てこなかったし…」
 餌が料理になってただけだな、ケーキは無しでな。
 自分たちはケーキを食ってただろうに、猫用のケーキくらいは寄越してくれても…。
「前のぼく、相当に悲惨だったのかも…」
 猫用のケーキも食べられなくって、餌と水だけ。
 アルタミラから脱出した後も、青い地球が無いから地球産の猫用ケーキも食べられなかったよ。
 今じゃこだわりの猫用ケーキが売られているのに、最高級品の鴨や牛のもあるのに。
 ミーシャだって、ハーレイのお母さんに特製の猫用ケーキを作って貰ったかもしれないのに…。
「俺も同じだと言った筈だぞ、その辺はな」
 それに、前のお前が食い物で悲惨な思いをした分、今のお前は恵まれてるぞ。
 今度のお前が食っているもの、何もかも全部、地球産だろうが。
 毎日の飯も、おやつも、全部。
 何から何まで地球で作られた食い物ばかりだと思うがな…?



「そうだけど…。そうなんだけど…」
 恵まれてることは分かってるけど、猫用のケーキ。
 今のぼくだって凄いと思うよ、素材にこだわっているんだよ?
 最高級品の牛のミンチや、鴨のレバーで出来てるケーキ。あんなの、普段に食べられないよ。
 それが猫用ケーキなんだよ、「お誕生日に、御褒美に、おやつに」って書いてあったよ。
 普段のおやつに食べてるんだよ、こだわりの素材の猫用ケーキ。
 猫に負けたよ、ぼくのおやつ。
 今のぼくのおやつだって猫に負けちゃってるよ…!
「おい、落ち着け。お前、きちんと記事を読んだか?」
 ああいうのは基本的に記念日用のケーキさ、猫用ケーキも人間様のケーキも基本は変わらん。
 まずは誕生日で、それから御褒美。気が向いた時に、たまにおやつってトコだ。
 猫用ケーキが売られてはいても、毎日食ってはいない筈だぞ。
 そういう点では、お母さんがケーキを焼いてくれるお前。
 わざわざ買いに出掛けなくっても、しょっちゅうケーキを食ってるだろうが。
 今のお前は猫に勝てるさ、ケーキを食ってる回数でな。
「ホント?」
「本当だ。鴨のレバーだの牛のミンチのヤツはともかく、ケーキ勝負ならお前の勝ちだ」
「良かった…!」
 前のぼくは猫に負けても仕方ないけど、今のぼくも負けたと思っちゃってた。
 ママのケーキは美味しいけれども、最高級品を毎日食べてる猫にはとっても敵わないよ、って。



「ふうむ…。おやつで猫に負けたと思って悲しかった、と」
 そんなに猫用ケーキが羨ましかったと言うんだったら。
 負けたと思って見ていたんなら、誕生日に、御褒美に、おやつに、ってヤツ。
 俺がお前にケーキを作ってやるとするかな、うんと素材にこだわって。
「ハーレイ、ケーキを焼いてくれるの?」
 いつなの、ぼくの誕生日とか?
 それともおやつに持って来てくれるの、お土産に?
「こら、俺の手料理はお前の家には持って来られないと言ってるだろうが」
 ケーキも同じだ、料理と言えないこともないしな。
 だから、お前と結婚した後だ。ケーキを作るのはそれからだな。
「そんなに先?」
「待つだけの価値は充分あるだろ、俺の手作りケーキだぞ?」
 御褒美はともかく、おやつに幾つも。もちろん誕生日のケーキも欠かせないってな。
 その頃に俺が覚えていたなら、いろんなケーキを猫用レシピで。
「ええっ!?」
 ハーレイのケーキ、猫用だったの!?
 ぼくに作ってくれるケーキは猫用ケーキ…?
「冗談だ。お前がやたら猫用ケーキを連発するから、冗談で言ってみただけだ」
 いくら俺でもお前に猫用ケーキは作らん。ミーシャにだったら作ってやるが…。そのミーシャもとっくの昔にいなくなっちまって長いからなあ、猫用ケーキのレシピなんぞは知らないさ。
 というわけでな、俺のレシピは人間様用のケーキに限られてるってな。
 うんと美味いのを作ってやるから楽しみにしとけ。
 フレッシュクリームたっぷりのケーキも、ムースケーキも、いくらでもな。
「うんっ!」
 楽しみにしてるよ、ハーレイのケーキ。
 結婚したらおやつに食べられるんだね、ハーレイが作ってくれたのを…!



(ふふっ、いつかはハーレイのケーキ…)
 どんなケーキが得意なのかな、パウンドケーキはお母さんの味にならないらしいけど。
 ぼくのママが作るパウンドケーキがお母さんの味と同じ味だって聞いているから、ママに習ってぼくが焼こうと思ってる。ハーレイのお母さんの「おふくろの味」っていうヤツを。
 パウンドケーキはぼくの係で、他のケーキはハーレイが作る。いろんなケーキを沢山、沢山。
(ぼくのおやつをハーレイが作ってくれるんだよ)
 誕生日のケーキも、記念日のケーキも、きっとハーレイが作るんだろう。
 今から楽しみ、ハーレイのケーキ。
 「冗談だ」って言っていたけど、猫用ケーキでもかまわない。
 だって、ハーレイが作るケーキは愛情たっぷりに決まっているから。
 「ミーシャの猫用ケーキのレシピで作ってみたぞ」って出して来たって、気にしない。
 ぼくのために、ってハーレイが作ってくれたケーキだから、ぼくは美味しく食べるんだ。
 「ホントに食うのか?」って呆れられても、きっと幸せ、きっと美味しい。
 ハーレイが作ってくれたケーキは愛情たっぷり、愛がたっぷり。
 美味しいケーキに決まっているんだ、ミーシャの猫用レシピで作ったケーキでも。
 煮干しパウダーがたっぷり入ったスポンジで出来たケーキでも、きっと…。




            猫用のケーキ・了

※今の時代は、猫用のケーキもある時代。前のブルーよりも恵まれた暮らしをしている猫たち。
 「負けた」と思ったブルーですけど、ハーレイが作ってくれるのなら猫用ケーキも歓迎。
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 今日は学校が早く終わったから。ぼくの家から近いバス停に着くのも早くて、のんびり散歩。
 あちこちの庭や生垣をキョロキョロしながら歩いていたら、幼稚園バスが追い越してった。昔はぼくもお世話になってた幼稚園バス。
 少し先で停まって、ちっちゃな子供が降りて来た。お迎えのお母さんもいる。
(ふふっ)
 さようなら、ってバスに手を振る男の子。制服も幼稚園の帽子も可愛らしいけど。
 肩から下げた通園バッグの他に持ってる小さな袋。お母さんの手作りだろうか、あの中にきっとお弁当。そんなサイズの布袋。
 男の子は袋と通園バッグを揺らしながら家に入って行った。お母さんとしっかり手を繋いで。
 お弁当箱が弾んでる音が聞こえそうなほど、はしゃいでピョンピョン飛び跳ねながら。



(お弁当箱…)
 幼稚園の頃はぼくも持ってた。お気に入りの模様のお弁当箱。お箸とフォークとスプーン入りの箱と一緒にランチョンマットに包んで貰って、袋に入れて。
 あんまり沢山食べられないから、お弁当箱は小さかったけど。その代わり中身は色とりどりで、ママが工夫を凝らしてくれた。
(リンゴのウサギとか、タコのウインナーとか…)
 一口で食べられそうなサイズのコロッケ、ピックに刺さったハム巻きだとか。
 色々と入れて貰って食べてたお弁当だけど、広げるのが楽しみだったんだけれど。
(お弁当、なくなっちゃったんだよ)
 学校に上がったら、お昼御飯は給食だった。お弁当の出番はなくなっちゃった。遠足とかに行く時しか持てなくなってしまって、お弁当箱とも滅多に会えなくなっちゃって。
(お弁当箱だって、すっかり普通…)
 幼稚園の頃みたいに模様なんかはついていなくて、サイズが優先。誰でも持っていそうな感じのお弁当箱、「ぼくのだよ」って得意になれはしなかった。中身は素敵なんだけど。
 今の学校は給食も無くて、お昼は食堂で食べるもの。
 部活のある子がランチだけでは足りないから、って休み時間に食べるためのお弁当を持ってたりするけど、学校でお弁当箱はあんまり見ない。もちろん、ぼくも持っては行かない。
(お弁当かあ…)
 懐かしいよね、って男の子が入ってった家を眺めて通り過ぎた。
 ぼくもあんなに小さかったかな、って。お弁当箱もずいぶん小さいよね、って。



 家に帰って、制服を脱いで、それからおやつ。
 ママが焼いてくれたケーキを食べながら、ダイニングの窓から庭を見ていて…。
(あれ?)
 ぼくはあそこに座っていたよ、って懐かしい記憶が戻って来た。
 庭でお弁当を広げていた、ぼく。
 うんと小さな、それこそ幼稚園くらいの子供の頃に。
 庭の真ん中、ぼくが一人でお弁当。ママはいなくて、パパもいなくて、ぼくだけ一人。
 だけどちっとも寂しくはなくて、一人で楽しく食べているんだ。まるで遠足に行ったみたいに、それは御機嫌でニコニコしながら。
(なんで?)
 パパもママも一緒にいないというのに、どうして楽しかったんだろう?
 お喋りしようにもパパとママは家の中にいるんだし、ぼくは庭だし、無理に決まってる。それに喋ってた覚えもない。ぼくは一人が好きだったんだ。一人きりで食べるお弁当が。
(…お弁当、一人で食べて楽しい?)
 幼稚園では友達と食べてた。見せ合いっこして、おかずを交換したりもしてた。一人ぼっちじゃつまらないと思うし、お弁当は賑やかに食べるもの。学校の遠足の時だって、そう。
 なのに小さなぼくは一人で、庭の真ん中で楽しくお弁当。
 しかも何かを探してた。
 お弁当を食べながら何かを探してた記憶。
(…何を?)
 一人でお弁当を食べてるだけでも変だというのに、探し物。
 食べながら何を探すというのか、座ったままで何が庭で見付かるのか。
(小鳥でも来た?)
 それとも生垣の間をくぐって猫でも遊びに来てたんだろうか?



 一人で何かを探していた、ぼく。
 それが何だか思い出せなくて、いくら考えても出て来なくって。
 おやつをすっかり食べ終えちゃっても端っこさえも掴めないから、カップやお皿をキッチンまで返しに行ったついでに訊くことにした。
「ママ! あのね…」
「なあに?」
 カップとかを洗い始めたママが手を止めて、タオルで濡れた手を拭いて。
 どうしたの、って身体ごと振り向いてくれたから、早速、質問。
「ぼく、庭でお弁当を食べていた?」
「よく食べてたでしょ、ハイキングとかに行けなくなっちゃった時に」
 ブルーは身体が弱かったから。
 ハイキングに行くのはちょっと無理ね、って時にはお弁当だけ庭で食べていたじゃない。
「そうじゃなくって、ぼくだけ一人でお弁当…」
 一人きりだよ、パパもママもいなくて、ぼくだけ一人。
 庭の真ん中で一人で食べていた気がするけど、夢だったのかな?
 それともホントにやってたのかなあ、一人で食べてもつまらないような気がするんだけど…。
「ああ、あれね」
 食べていたわね、って微笑んだママ。
 ぼくはホントに一人で食べてたみたいだけれども、どうして一人?



「ママ、ぼくが一人で食べたがった理由、知ってるの?」
 ぼくは全然思い出せないけど、ママはどうしてなのか知ってる?
「ええ、知ってるわよ。一人でなくっちゃ駄目なんだよ、って言っていたもの」
 パパやママが一緒じゃ駄目だって言って、お弁当を持って出て行くの。
 そうしてネズミさんを探していたわよ、庭に座って。
「ネズミ?」
「そうよ、おにぎりを分けてあげなくちゃ、って」
「えっ…?」
 なんでおにぎり、ってビックリしちゃった、ぼくだけれども。
 思い出しちゃった、ネズミのお話。
 幼稚園で聞いて来たのか、それとも絵本を読んだのか。ネズミの国に出掛けたお爺さんのお話。
(おにぎりを落っことすんだっけ…)
 おむすびころりん、っていう話だった?
 お爺さんが落としたおにぎりがコロコロ転がって行って、ネズミの巣穴に落ちちゃって。
 追い掛けて巣穴に入ったお爺さんは、おにぎりの御礼に宝物を貰って帰るんだった。
 お爺さんみたいにネズミの国に行きたいな、って庭でお弁当を食べていたぼく。
 ネズミが喜ぶのはおにぎりだから、って必ずおにぎりを入れて貰った。
 そうだったっけ、と鮮やかに蘇って来た記憶。



 おむすびころりん。
 そういうお話だったと思う。
 ママもお爺さんの話は知ってて、悪いお爺さんのことも覚えてた。
 宝物を貰ったお爺さんのことが羨ましくって、ネズミの巣穴におにぎりを押し込んだお爺さん。欲張りなお爺さんは酷い目に遭って、宝物も貰えないっていう結末。
 ぼくはおにぎりを押し込むつもりは全く無くって、ネズミが来るのを待っていただけ。
 おにぎりが好きなネズミが出て来て、下さいと頼んでくれないかな、って待っていただけ。庭は平らでおにぎりは転がって行かないから。落っことしたって転がらないから。



「ブルーはネズミさんの宝物が欲しかったわけじゃないみたいね?」
 宝物の話は聞かなかったわ、ママは一度も。
 ネズミさんを待っているんだよ、って言っては一人で出掛けて行くのよ、おにぎりを持って。
「うん…。宝物はどうでもよかったんだよ」
 ネズミの国に行ってみたかっただけ。
 おにぎりをあげれば行けるんだよね、って庭でお弁当を食べていたのに…。
 ネズミはとうとう来なかったみたい、ぼくの所へ。
「それはそうでしょ、ネズミの国に行って来たなら、ブルーは得意でお喋りするもの」
 だけどママはブルーから聞いていないものね、ネズミの国のお話は。
 いつ頃までやっていたのかしらねえ、庭で一人でお弁当。
 「ママ、おにぎり」って何度も何度も頼まれたわよ。
 「他のおかずは何でもいいから、おにぎりは絶対入れておいてね」って。



 小さかったぼくの憧れだった、ネズミの国。
 地面の下にある、ちょっと不思議なお伽話の世界に憧れてたんだ。
 そこへ行こうと、せっせとおにぎり。庭で一人でお弁当。
(ぼく、頑張っていたみたい…)
 何回くらいやっていたんだろう?
 ママが覚えているくらいだから、幼稚園が無い日はいつもやってた?
 自分のことだけど傑作だよね、って微笑ましくなる。部屋へ戻る途中も笑いが零れる。
(おむすびころりん…)
 ぼくの家でコロコロ転がすんなら、階段くらいしかないんだけれど。
 真っ平らな庭でおにぎりを食べながらネズミが来ないか待っていたなんて、流石は子供。部屋に入って窓から庭を見下ろしてみた。
 小さなぼくが座っていたのはあの辺りかな、って。
 おにぎりを持って、一人で座って、今日こそネズミさんに会うんだよ、って。



 窓から離れて、勉強机の前に座って頬杖をついた。
(おにぎり…)
 ママがぼくのために何個作ったか、何回くらい作ってくれたのか。おにぎりが入ったお弁当。
 それを持って庭に座っていたのに、見付からなかったネズミの国。
 とうとうネズミは来てくれなくって、行きそびれてしまったネズミの国。
(…行きたかったんだけどな、ネズミの国…)
 身体が弱くてハイキングさえも滅多に行けないぼくだったけれど、冒険の旅がしたかった。家の庭から出発するなら、ネズミの巣穴に入るだけなら弱くても出掛けられるから。
 行って来ます、って家の庭からネズミの国へ。
(おにぎりをあげて、巣穴に入って…)
 宝物なんかはどうでもいいんだ、ネズミの国さえ見られたなら。冒険の旅が出来たなら。
 だって、ちょっぴり英雄気分。
 ネズミの国まで行って来たなら。地面の下まで出掛けてネズミの国を見たなら。
 英雄になってみたかった、ぼく。
 幼稚園でも胸を張って得意でいられる英雄になりたかった、ぼく。



(それどころじゃない英雄だったんだけど…!)
 実は本物の英雄だった、誰もが知ってる大英雄だった、チビのぼく。
 ぼくじゃなくって、前のぼくだけど。
 ソルジャー・ブルーを知らない人なんて誰もいなくて、世界を救った大英雄。正真正銘、本物の英雄、今の世の中、英雄と言えばソルジャー・ブルー。
 あの頃のぼくはネズミの国へ出掛けるどころか、星から星へだって飛んで行けてた。生身で宇宙空間を駆けて、とんでもない距離でも一瞬で飛べた。
 だけど今のぼくは…。
(おにぎりでネズミの国が限界…)
 自分の力で行くんじゃなくって、ネズミの国からの御招待待ち。
 招待して貰うために渡すおにぎりだってママのお手製、ぼくが作ったわけじゃない。
 なんとも情けない英雄。
 しかもそうやって行くつもりだったネズミの国すら行けていないし…。



 あまりにも情けなさすぎるかも、って思っていたら、チャイムが鳴って。
 窓に駆け寄ってみたら、やっぱりハーレイ。ぼくの恋人。前のぼくだった頃からの恋人。
 そのハーレイが部屋に来てくれて、ママがお茶とお菓子を置いてってくれたテーブルを挟んで、二人、向かい合わせ。
 もしかしたらハーレイも小さな頃におにぎりを庭で食べていたかも、って気になったから訊いてみることにした。
「ハーレイ、ネズミの国って探した?」
 小さかった頃におにぎりを持って、ネズミを探していなかった?
「はあ?」
 なんだ、それは。小さかった頃というのはともかく、おにぎりだとか、ネズミだとか。
「おむすびころりん…。ハーレイ、知らない?」
 おにぎりを落としたらネズミの国に行けるんだよ。おにぎりの御礼に呼んで貰えるって…。
「ああ、あれか。お爺さんがおにぎりを落とす話だな」
 お前、ネズミを探してたのか?
 あの話みたいにネズミの巣穴に入ってみたくて、おにぎりを持って探していたのか?
「うん。まだ幼稚園に行ってた頃に…」
 ぼくの家の庭で探してたんだよ、ネズミがいないか。
 会えたら御馳走してあげなくちゃ、って庭で一人でおにぎり食べてた。
 おにぎりが入ったお弁当だよ、おかずは何でも良かったんだけど、おにぎりは必ず要るんだよ。
 ネズミにあげるには、おにぎりが無くちゃ。



「おにぎりを一人で食っていただと? いや、おにぎり入りの弁当か…」
 チビが一人で弁当だなんて、そこまでして行きたかったのか?
 ネズミの国に行きたかった理由を聞きたいもんだな、出掛けて行って何をするんだ?
「別に何も…。行ければいいな、って思っただけだよ」
 ネズミの国まで行って来たなら英雄でしょ?
 地面の下の世界で冒険なんだよ、家の庭から冒険の旅に行ったんだよ、ってみんなに自慢できるもの。身体の弱いぼくでも、冒険。
「なんだ、宝物を貰いに行くんじゃないのか」
 てっきりそうかと思ったんだが、宝物はどうでもいいんだな?
 ネズミの国に行くことが大事で、冒険したかっただけってわけだな。
「そう。行って来た証拠に何か欲しいけど、それで充分」
 宝物までは要らないよ。ネズミの国に行って来ました、って分かる何かがあればいいんだ。
「欲の無い奴だな、せっかく出掛けて行ったのに…」
 まあ、幼稚園くらいの子供だったらそういうものかもしれないが。
 宝物よりも先に冒険かもなあ、別の世界を見に行けるだけで充分なのかもしれないな。



「ハーレイは?」
 一人でお弁当、食べてなかった?
 おにぎりを持って、家の庭で一人。
「俺は一度もやっていないな。いや、庭で一人で弁当を食ったことはあるかもしれないが…」
 そもそもネズミを探していない。
 ネズミの国に行こうと思っていないし、ネズミにおにぎりをやろうとも思っていなかったな。
「そうなの?」
 おにぎりをあげたらネズミの国に連れてって貰えるのに…。ハーレイ、おにぎり、あげないの?
「ネズミにプレゼントするつもりは無い」
 握り飯は自分で食うもんだ。俺の好みの具が入ってれば尚更だな。
 ただの塩おにぎりにしたって、俺の弁当なんだから。
 なんでネズミにくれてやらんといかんのだ。うっかり地面に落としたのなら仕方がないが…。
 お前が言ってる話にしたって、おにぎりがネズミの穴に落っこちたのは偶然だろうが。
 握り飯をネズミの巣穴に無理やり押し込んじまったら駄目なんだぞ。
 ネズミを探してプレゼントとなると、お前、おにぎり、押し付けてないか?
「…そうなのかも…」
 だからネズミは来なかったのかな、おにぎりなんか要らないよ、って。
 間に合ってます、って断られたかな、ぼくのおにぎり…。
「そうなんじゃないか?」
 連れてってくれ、と用意したなら、そいつは巣穴に押し込んでるのと変わらんだろう。
 小さかったお前は気付いてなくても、ネズミにしてみりゃ押し売りだってな。
 おにぎりをやるから迎えに来い、と偉そうに言われても出てはこないさ。



「そんなつもりじゃなかったんだけど…」
 親切の押し売りをやってたのかな、あの頃のぼく。
 おにぎりを用意してネズミが来るのを待っていたなら、立派に押し売り?
「でなきゃ罠とも言うかもしれんな、ネズミ用の罠」
 おにぎりが餌で、そいつを食ったら案内するしかないっていう罠。
 チビの頃のお前を自分の国まで、どうぞいらして下さいとな。
「押し売りどころか罠だったの、あれ?」
 なんだか自分が悪者みたいな気がして来たよ。悪いお爺さんと変わらないほど酷い欲張り。
「いいんじゃないか? 小さな子供はそんなもんだろ」
 自分が王様みたいなもんだ。思い込んだら一直線だし、そいつはそいつで可愛いじゃないか。
 おにぎりを食え、って庭でふんぞり返っていてもな。



 どうやらネズミに向かって押し売りをやっていたらしい、ぼく。
 おにぎりを食べに出て来たら最後、ぼくを案内しなくちゃいけない罠を仕掛けたらしい、ぼく。
 それじゃネズミは来てくれないよね、って自分に溜息が出そうだけれど。
(おにぎり、真剣だったんだけどな…)
 押し付けた気持ちは全く無くって、押し売りでも罠でも何でもなくて。
 ネズミの国に行ってみたいよ、って思ってだけで、ネズミを困らせるつもりなんかは…。
(でも、連れてってくれ、って頼んでるなら困っちゃうかも…)
 あんなに何度も用意したのに、無駄だったらしいぼくのおにぎり。
 ママが作ってくれたおにぎり。
 お弁当に詰めて、これが大事だと庭で一人で食べてたおにぎり…。



(…おにぎり?)
 其処で初めて気が付いた。
 ハーレイはなんて言ったっけ?
 握り飯とも言っていたけど、確か…。
「ハーレイ。ねえ、ハーレイもおにぎりだよね?」
「はあ?」
 なんだ、って鳶色の瞳が丸くなったから、「おにぎりだよ」って繰り返した。
「おにぎりの名前。ハーレイもおにぎりって言っていたでしょ?」
 おむすびって言うんじゃなくて、おにぎり。ぼくもおにぎりって呼んでいるけど…。
「ああ、握り飯の呼び方か。おにぎりと呼ぶか、おむすびと呼ぶか」
 今じゃどっちでもいいみたいだなあ、好みで呼んでいるんじゃないか?
 ただし、おむすびころりんの話。
 あの話を「おにぎりころりん」と呼んだ奴には、お目にかかったことが無いがな。
「それじゃ、元々はおむすびなの?」
 おむすびって呼ぶのが正しかったの、ずうっと昔は?
 おにぎりじゃなくて、おむすびだった?
「そうと決まったわけでもないが…。おむすびころりんの話が出来た頃には、だ」
 おむすびと呼ぶ時は形が決まっていたそうだ。
 よくある三角形のおにぎり、あの形だけがおむすびだ、とな。
「へえ…!」
 三角形のおにぎり、転がりにくい形だと思うんだけど…。
 それがコロコロ転がったんなら、ネズミの巣穴に落っこちたなら。
 ホントに凄い偶然なんだね、小さかったぼくが庭で待ってもネズミは来なくて当然だよね。



 うーん…、と自分の欲深さを思い知らされた、ぼく。
 宝物が欲しかったわけじゃなくても、ネズミの国に案内してよ、って言ってるだけでネズミからすれば充分に迷惑だっただろう。
 家の庭でお弁当を広げてるだけのチビが「連れて行って」って待っているんだから。
 ネズミの国に行ってみたくて、冒険したくて待っているチビ。
 そんなのを案内しなくちゃいけない義理なんか無いし、ネズミは笑って見ていただろう。
 今日も馬鹿なチビがお弁当を一人で広げてるよ、って、おにぎりを用意しているよ、って。
 英雄になりたくて頑張るチビだと、今日も一人でお弁当だと。
(…英雄どころか間抜けだったよ…)
 ネズミにさえ鼻で笑われてしまうか、迷惑がられただろう幼稚園時代の小さなぼく。
 前のぼくなら大英雄なのに、ネズミの国を旅した英雄にさえもなれなかった、ぼく。
 そんなぼくが一人で庭で食べてた、大事なおにぎり。
 お弁当に必ず入れて貰った、ママのおにぎりなんだけど…。



「ハーレイ。前のぼくたちの頃には無かったね」
 御飯を握って作るおにぎり。白い御飯を食べる時代じゃなかったものね。
「うむ。そういう文化が無かったからな」
 おにぎりも無ければおむすびも無いな、三角形をした一番有名なヤツでさえもな。
 海苔だって無い時代だったし、おにぎりなんかは作りようがない世界だったんだなあ…。
「今じゃおにぎり、普通なのにね」
 お弁当って言ったら、おにぎり。
 普通の御飯を入れていた子もたまにはいたけど、小さい頃には大抵、おにぎり。
 家によって形は色々だったし、入ってる具だって色々だけれど…。
 でも、お弁当の定番だよ?
 ぼくがネズミにあげたかった時は、ママがサンドイッチとかを作っちゃったら困るから注文しただけで、御飯が入るお弁当だったら普通はおにぎり。
 学校に入ってもお弁当の時はおにぎりが多かったかな。
「俺はお前くらいの年になっても、おにぎりを持って学校に行ってたもんだが?」
 食堂が開く昼休みまでは腹が持たんからなあ、弁当だったり、おにぎりだったり。
 そいつを休み時間に食うんだ、お前のクラスにもそういう生徒がいるだろう?
 おにぎりの日の俺のおにぎりは大きかったぞ、なにしろ弁当の代わりだからな。



 このくらいだ、ってハーレイが両手の親指と人差し指で作ってみせた三角形。
 ハーレイの手も大きいけれども、その手が示したおにぎりもビックリするほど大きい。ぼくなら半分も食べられやしない、と思ったのに、ハーレイはそれを二個だって。
 大きすぎるおにぎりに具を詰めて貰って二個持って、そして学校へ。お昼休みまでの休み時間に二つとも食べて、お昼はもちろん食堂で食べていたっていうから凄すぎる。
 しかも大きいだけじゃない。御飯をギュウギュウに固めたおにぎり、それが二個。お昼御飯とは別に二つも、そのおにぎりを持ってない日はお弁当。
(ハーレイ、大きく育つ筈だよ…)
 前のハーレイは何を食べて大きく育ったんだろう、って気になるほど。
 だけど、その話は訊いちゃいけない。
 前のハーレイの記憶は機械に消されて残っちゃいないし、成人検査よりも後に育った分の栄養は餌から摂ったに決まっているから。不味くても栄養だけは満点だった餌のオーツ麦のシリアル。
 でも、シリアルで大きく育つためには基礎になった頑丈な身体がある筈。
 その身体を作ったお弁当や食事は、前のハーレイを育てたお母さんが作ったんだろう。
 あの頃だったらサンドイッチか、それともランチボックスを余計に持たせていたか。
 気になるけれども訊いちゃいけない、訊いてもハーレイは答えられない。
(だって、覚えていないんだもの…)
 もしも訊いたら、ハーレイだって悲しくなるに決まってる。思い出せない、って。
 だから質問を変えなくちゃ。
 同じ訊くなら、楽しいことを。ハーレイが笑顔で答えられることを。
 せっかくなんだし、やっぱり、おにぎり。



「今のハーレイも、そんなおにぎり食べてるの?」
 うんと大きな、そのおにぎり。今でもたまには食べてたりする?
「親父と一緒に釣りに行くなら、持って行ってることもあるなあ」
「お弁当に?」
「いや、おやつだ。釣りってヤツは朝が早かったりするからな」
 弁当を持って出掛けて行っても腹が減る。
 そういった時には握り飯だな、昼飯までに出して食うんだ。釣りをしながら片手で食えるし。
「釣りの途中に食べてるんなら、ハーレイ、ネズミに会えそうだね」
 おにぎりを落っことしちゃって、コロコロ転がって行くんだよ。
 ネズミの巣穴にコロンと落ちたら、ハーレイ、ネズミの国に行けるよ。
「俺のおやつだぞ、おやつは自分で食うもんだ。落としてたまるか」
 腹が減るだろうが、それにおにぎりもネズミにくれてやるにはもったいない。
「もったいないって…。ハーレイのおにぎり、上等なの?」
 ネズミには分けてあげられないほど、上等な中身が詰まってる?
 いいお肉で作った時雨煮だとか、新鮮なイクラがたっぷりだとか。



「そこまで具には凝っちゃいないが、釣りに持って行く時の握り飯にはこだわってるのさ」
 俺のはクラシックスタイルなんだ。握り飯じゃなくて入れ物がな。
「えっ?」
 何か特別なお弁当箱?
 おにぎり専用っていうのがあったりする?
「特別と言えば特別だな。弁当箱の売り場には置いてないからなあ、竹の皮」
「竹の皮?」
「タケノコは知っているだろう? あれの皮だな」
 竹が生えてくる時に被っている皮。そいつを使って包むんだ、俺は。昔の人の知恵だってな。
「なんで?」
 おにぎりを包むのに丁度いい大きさとか幅のものなの、竹の皮って?
「そういった面ももちろんあるがだ、殺菌作用がバッチリなんだ」
 衛生面で優れてるんだな、昔の人がどうやって見付け出したかは知らないが…。
 ついでに雰囲気もいいだろう?
 竹の皮の包みを開いて食うには、釣りに出掛けるような野外が一番似合っているからな。
「それ、食べてみたい…!」
 竹の皮に包んだおにぎり、食べてみたいよ。一度、作って持って来てよ。
「いつかはな」
 俺の自慢の具を入れて、お前が食べられそうなサイズに握って。
 ちゃんと竹の皮に包んでやるがだ、まだまだ当分、先のことだな。
「おにぎりのお土産も駄目なの、ハーレイ?」
「当然だろうが。おにぎりといえども、俺が作って包む以上は俺の手料理になるからな」
 お前のお母さんの手前もあるから、おにぎりは駄目だ。諦めるんだな。
「そんな…!」
 御飯を握るだけじゃない!
 握って固めて海苔を貼るだけでも手料理になるの、ただの御飯の塊なのに…!



 酷い、って頬を膨らませたけど、ハーレイは聞いてくれなくて。
 駄目なものは駄目だとしか言ってくれないから、ぼくはプウッと膨れたままで。
「おにぎり、結婚してからなの?」
 でなきゃ婚約するまで駄目なの、ちょっと御飯を握って固めるだけなのに…。ハーレイのケチ!
「ケチと言われても、そこは譲れん。その代わり、いずれ美味いのを作ってやるから」
 それまで待ってろ、俺のおにぎり。
「どんなおにぎり?」
「そうだな、焼きおにぎりとかもいいなあ」
 醤油でもいいし、味噌でも美味い。焼き立ては実に美味いんだぞ。
「ホント!?」
 ハーレイがおにぎり焼いてくれるの、御飯を固めるだけじゃなくって?
「ああ。そして竹の皮に包んだおにぎりってヤツもやろうじゃないか」
 俺の分はデカイ包みで、お前の分は小さめで。そいつを二人で並んで食おう。
「何処で?」
「親父と釣りに行く時だ。お前も連れて行ってやりたいと何度もうるさく言っているしな」
「わあっ…!」
 それじゃ何処かの山の中かもしれないね。
 おむすびを落としたらネズミの巣穴にコロンと転がって入っちゃいそうな、山の中。
 竹の皮の入れ物が似合いそうだね、そういう所で食べるおにぎり。
 ハーレイと二人で並んで座って、おにぎりを食べながら釣りなんだね…!



 小さかったぼくが庭で待ってたネズミに出会えそうな、いつかハーレイと釣りに行く場所。
 ハーレイのお父さんが連れてってくれる、きっと何処かの山の中。
 竹の皮で包んだおにぎりを持って出掛けて行くけど、ちゃんとおにぎり、持ってるけれど。
 でも、おにぎりは落とさない。
 間違ったって落としやしないし、しっかり掴んで食べなくちゃ。
 だって、ハーレイが作ってくれたおにぎり。
 ネズミなんかにはあげられないんだ、ぼくの大事なおにぎりだから…。




         おにぎり・了

※幼かった頃のブルーが行こうとしていたネズミの国。子供らしい夢ではあります。
 いつかはハーレイが作ってくれた「おにぎり」を持って二人でお出掛け。素敵ですよね。
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(わあ…!)
 鯨、とブルーは新聞の記事を覗き込んだ。
 学校から帰って、おやつの後に広げた新聞。シロエ風のホットミルクを飲みながら。
(とっても綺麗…)
 海を思わせる青いイルミネーションが輝く広場に浮かんだ鯨。写真に添えられた解説によると、ザトウクジラという種類。
 夜の広場に浮かび上がったザトウクジラは本物そっくり、空中を泳いでいるかのようで。
(これって実物大なんだ…)
 しかも鯨は動くという。新聞の写真では分からないけれど、海で見られる姿さながら、尾びれや身体をダイナミックにくねらせて空を泳ぐのだと。



 水族館の前の広場で立体映像を投影中。
 ただし夜のみ、夜に水族館まで来ようという人への御礼の期間限定イベントなるもの。
 立体映像だけに、鯨が泳ぎ回る範囲は広場の上空だけなのだけれど。
(見たいな…)
 水族館のイベントだから、様々な鯨が投影される。ありとあらゆる種類の鯨。
 中でも目玉は最大の動物と名高いシロナガスクジラで、それが泳ぐさまを見られるという記事がブルーの心を惹き付けた。
 シロナガスクジラ。
 前の生で暮らした白い鯨にそっくりだという巨大な鯨。
 シャングリラは鯨によく似ていた。意図したわけではなかったけれども、改造の過程でそういう形に落ち着いた。
(人類軍にも鯨に見えてたみたいだしね?)
 彼らが名付けたシャングリラの名前はモビー・ディック。SD体制よりも遥かな昔の小説に出てくる白い鯨から取られた名前。
(モビー・ディックはシロナガスクジラじゃないんだけどな…)
 シャングリラでキースと対峙した時、彼の心を読んでモビー・ディックの名を知った。キースに逃亡されてから後、ナスカの悲劇に至るまでの間に気付いて苦笑したものだ。
(あっちはマッコウクジラなんだよ)
 人類のネーミングセンスはなかなかだったが、モビー・ディックはマッコウクジラ。元になった小説にマッコウクジラとあった筈だ、と些か可笑しく、愉快でもあった。
 シャングリラはマッコウクジラに見えはしないと思うのだが、と。



(このイベントだと…)
 マッコウクジラも見られるのだろう。
 投影の順番は分からないけれど、広場で夜空を見ていれば、きっと。
 シャングリラを思わせるシロナガスクジラに、モビー・ディックなマッコウクジラ。
(見に行きたいなあ…)
 水族館まで行ってみたいな、と記事と写真を何度も眺める。鯨の立体映像を見に、水族館へ。
 ブルーの住む町に海は無かったが、代わりに大きな水族館。
 巨大な水槽を泳ぎ回る魚や、色とりどりのイソギンチャクなどの生物も居た。幼い頃には両親と一緒にイルカのショーを見ていたものだ。
 充実した水族館だったけれども、流石に鯨はいなかった。水族館で飼うには大きすぎる鯨。
 小さな種類の鯨は飼えても、シロナガスクジラはとても飼えない。マッコウクジラも。
 だから立体映像で見て貰おうという夜のイベント、夜空を泳ぐ鯨たち。
 青いイルミネーションに彩られた広場に浮かぶ姿は、どれほど素敵な光景だろう。次から次へと映し出される実物大の鯨たち。
 シロナガスクジラにマッコウクジラ。
 前の自分が守った船にゆかりの鯨が実物大で。



(どっちも見たことないんだよ…)
 今の自分も知らないけれども、前の自分も本物の鯨を知らなかった。
 シャングリラを白い鯨のようだと思ってはいても、それは知識を持っていただけ。データベースから得ていた知識で、生きて泳いでいた鯨は知らない。
(わざわざ探しに行けないしね…)
 アルテメシアの海に鯨は居たらしいのだが、泳ぐ姿は見かけなかった。海の上を飛んだり、海に潜って隠れたりもしたのに、出会わなかった。
 シャングリラそっくりのシロナガスクジラに会えはしなくて、影さえ一度も見られなかった。
(海の中には居た筈なのに…)
 運が良ければ出会えそうだ、と思っていたのに、とうとう会えずに終わってしまった。あの星に辿り着いた時には「鯨が見られるかもしれない」と心躍らせていたというのに。



 シャングリラを白い鯨に仕上げた時には、まだ海さえも見ていなかった。
 メギドに滅ぼされたアルタミラが在った星、ガニメデに海があったかどうかも覚えてはいない。だから知らない、海というもの。もちろん鯨も知りはしなくて。
 いつかは地球の海で本物の鯨を見たいものだ、と夢を見ていた。
 母なる地球でシャングリラと鯨が出会えればいい、と。
 けれども地球への道は遠くて、辿り着いたのが雲海の星。それでも海はあったから。
 そこに鯨がいないものかと、見られないものかと期待したのに、雲海からは海は見えない。外に出た時しか見られはしない。
(偶然に賭けるしかなかったんだよ、アルテメシアで鯨に会うには)
 シャングリラが堂々と海の上を飛べたら、きっと鯨も見られただろうが、出来ない相談。
 だから更なる夢へと広がる。
 鯨を見るならいつか地球でと、青い水の星で鯨を見ようと。
(だけど…)
 地球には行けずに終わってしまった。前の自分はメギドで散った。
 本物の鯨も見られないまま、ただの一度も出会えないままに。



(鯨…)
 見たかったんだけどな、と零れた溜息は前の自分のものだろう。
 冷めてしまったホットミルクの残りを飲み干し、名残惜しげに新聞を閉じた。
 キッチンの母にお皿やカップを返しに行って、階段を上がって自分の部屋に戻ってから。
(本物の鯨…)
 今だと何処で出会えるだろう、と勉強机の前に座って考えた。
 水族館には鯨はいない。シャングリラを思わせる巨大なシロナガスクジラを飼ってはいない。
 鯨に会うなら、本物の海。何処までも広がる海に行かないと出会えない鯨。
 しかも鯨は大きいから。
 砂浜に泳いで来たりはしないし、海水浴に出掛けて見られるわけでもなさそうだ。もっと深くて船が通ってゆくような海。そういう所を鯨は自由に泳ぐのだろう。
(ハーレイ、見たことあるのかな?)
 水泳が得意な今のハーレイ。
 海が好きだし、普通の人なら泳がないような沖にまで泳いで出てゆくと聞いた。
 それにハーレイの父は釣りをするから、船に乗って遠い遥かな沖へも一緒に出掛けている筈だ。
(もしかしたら…)
 ハーレイは鯨を見たかもしれない。
 この地球の上で、シャングリラそっくりのシロナガスクジラが泳ぐ姿を。



 出会ったかもね、とブルーが思いを巡らせていたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。窓から下を見下ろしてみれば、門扉の向こうで手を振る人影。ブルーの大切な想い人。
 母に案内されたハーレイが部屋を訪れ、テーブルを挟んで向かい合わせ。
 ブルーは早速、鯨の話を切り出した。
「ハーレイ、鯨を見たことはある?」
「何を今更…。そりゃまあ、俺は見たことが無いが」
 前の俺には馴染みだったぞ、シャングリラ。もっとも、大抵は俺は鯨の中だったがな。
「シャングリラじゃなくて、本物の鯨」
 大きなヤツだよ、シロナガスクジラを何処かで見てない?
「今の俺がか?」
「そう。ハーレイ、シロナガスクジラに会ったかなあ、って…」
 海が好きだから、一度くらいは会ってるかも、って思うんだけど…。
「生憎と俺は見てないなあ…」
「シロナガスクジラ、ハーレイが行くような海にはいないの?」
 もっと遠くに行かなきゃ駄目なの、簡単に行ける海では無理?
「そういうわけでもないんだが…」
 運の問題っていうヤツもあるな、親父とおふくろは見てるんだがな。
 でかかったぞ、って話してくれたが、俺は一緒じゃなかったんだよな、その時にはな。



「そっか…。ハーレイも知らないなら、連れてってくれない?」
 シロナガスクジラ、見たいんだよ。だから連れてって欲しいんだけど…。
「何処にだ?」
「水族館」
 この町にあるでしょ、あの水族館。
「はあ?」
 ハーレイは鳶色の瞳を丸くした。あの水族館にそんな大きな鯨がいたかと、シロナガスクジラを飼っているなど一度も聞いてはいないのだが、と。
「違うよ、本物の鯨じゃなくて…」
 立体映像の鯨なのだ、とブルーはハーレイに説明した。
 実物大の様々な鯨が夜の広場を泳ぐイベント。それの目玉がシロナガスクジラで、是非とも夜に行ってみたいと。暫くはやっているようだから、と。



「夜だって?」
 おまけに水族館の前の広場か、とハーレイは苦い顔をした。
「俺にはお前をデートに連れて行く義務なんぞ無いと思うがな?」
 どうしてわざわざ出掛けて行かんとならんのだ。お前を連れて。
「先生と生徒でいいんだよ!」
 水族館に出掛けるんだから、引率の先生と生徒で充分。恋人同士じゃなくていいから。
 ぼくは鯨を見に行きたいだけで、デートだなんて思ってないから!
「だが、そのイベント。夜しかやっていないんだろうが」
「そうだけど…」
 イルミネーションとセットで夜だよ、夜に水族館に出掛けた人だけ見られるんだよ。
「お前の家の門限、何時だ?」
「んーと…。ぼくは門限なんて一度も言われてないけど、何時だろう?」
 でも、門限があったとしても。
 ハーレイと一緒だったら延びると思うよ、遅い時間になったって平気。きっと、十時でも。
「十時だと? それは相当遅いだろうが」
「でも、鯨…。いろんな鯨を投影するから、何度も見てたら遅くなりそう」
 シロナガスクジラ、一回だけ見て帰ってくるなんてつまらないものね。二回は見たいし、時間があるなら三回だって、四回だって。
 ハーレイが一緒に行ってくれるんなら、十時を過ぎてもパパもママも何にも言わないよ。だって先生と一緒なんだし、帰りも家まできちんと送ってくれるに決まってるものね。



「家に帰るのが十時を過ぎるとは不健全だな、デートだからな」
 子供のデートは門限までには帰るもんだし、それ以前にお前のその年で、だ。
 デートなんぞに行こうというのは好ましくないな、おまけに夜のデートとくれば論外だ。
「デートじゃなくて引率だってば!」
 先生と生徒で見に行くだけだよ、手を繋ぎたいとか言わないから!
 ハーレイとはぐれないように服の裾とかを掴むだけにするから、先生の立場で連れてってよ!
「お前は先生と生徒のつもりでいいかもしれんが…」
 俺がそういう気にならないんだ、デートだとしか思えないから駄目だ。
「なんで?」
 水族館だよ、学校からでも見学に行ったりする所だよ?
 前の学校の時にも行ったし、今の学校でも何年生かで出掛ける筈だと思うんだけど…。
 引率の先生、大勢行くから、古典の先生が水族館でも全然おかしくないと思うよ?
「確かに俺も今までに何度か引率で生徒を連れては行ったが…」
 そいつは昼間だ、生徒を連れて見学するのは学校があるような時間だろうが。
 しかしだ、夜の水族館はな、デートコースの王道なんだ。
「嘘…!」
 ハーレイ、嘘をついてない?
 ぼくを連れて行くのが嫌だから、って口から出まかせ言ってるんでしょ…!



 ただの鯨の投影なのに、とブルーは怒ったのだけれども。
 ハーレイが言うには、ブルーが何も知らないだけで。
 夜の水族館と前の広場は本当に有名なデートコースで、カップルの姿が目立つ場所。立体映像もイルミネーションも、そういう来客が増えるようにと行われるイベントの一環らしい。子供たちは夜にはあまり来ないし、カップル向け。
「…そんな…。あの鯨、デート用だったの?」
 実物大だよ、本物そっくりの映像だよ?
 デートじゃなくても見たいって人が沢山いそうなイベントなのに…。
「もちろん、一般客も狙っているさ。期間中はデート目当てじゃない客だって増えるだろう」
 それこそ鯨が好きそうなチビも見に行きそうだぞ、帰りはすっかり寝ちまってそうな幼稚園児。
 だからお前もお父さんかお母さんに連れてって貰え。
 門限の心配は要らんわけだし、ついでに外で食事もするとか。
「でも…。ハーレイと晩御飯、食べられないよ」
 鯨の投影を見に出掛ける日は、ハーレイと食事が出来ないんだけど…。
「そこは潔く諦めるんだな。お前、鯨が見たいんだろうが」
 鯨と俺とは両立しない、ってコトで鯨を選んでおけ。
「えーっ!」
 酷いよ、ぼくはハーレイと食事をしたいのに!
 ハーレイが家に来てくれる日に、留守になんかはしたくないのに!



 仕事帰りのハーレイが寄ってくれる日は決まってはいない。仕事が早く終われば会えるし、その逆ならば会えずに終わる。夕食の席にハーレイの姿があるかどうかは神様次第。
 もしも鯨を見に出掛けた後、ハーレイが家を訪ねて来たなら、食事の機会が一つ無くなる。鯨を眺めに行ったばかりに、ハーレイと食事が出来なくなる。
 それだけは嫌だ、とブルーは鯨を頭から追い出しにかかったのに。
 見に行きたかった鯨を忘れようと思っているのに、ハーレイは「うーむ…」と腕組みをして。
「留守にしたくないと言うんだったら、俺が来られない日を教えてやろうか?」
 この日はちょっと難しそうだな、と思ってる日があるからな。
 頑張って仕事を片付ける計画を立てちゃいたがだ、その日は俺は仕事をして。お前はお父さんやお母さんと一緒に水族館に行けばいいだろ、そうすりゃ全て解決だ。
 俺との食事を逃しはしないし、鯨だって見に行けるってな。門限の心配も要らんからなあ、気が済むまで何度でも見られるぞ、鯨。
「やだ」
「何故だ? いいアイデアだと思ったんだが」
 俺は仕事で来られないんだし、丁度いいだろ、その日に行けば。
「ハーレイが来られない日に決まってるから、って遊びに行くのは嫌だよ、ぼく」
「なんでそうなる」
 来られないって言っているんだ、遊びでも何でも自由に過ごせばいいだろうが。
「ぼくはそこまで不真面目じゃないから」
「はあ?」
「ハーレイが頑張って仕事をしてる、って分かっているのに、ぼくだけ、遊び」
 そんなの不真面目に決まっているでしょ、恋人が仕事をしてる間に遊ぶだなんて。家で大人しく過ごすべきだよ、そういう日には。
「お前なあ…」
 チビのくせして何を言うんだか、普段は普通に過ごしてるだろ?
 俺が帰りに寄らないからって、家の手伝いとか勉強ばかりをしてるってわけじゃないだろうが。
 本を読むのも立派な遊びだ、水族館へ行くのと大して変わりはしないが?



 鯨の投影を見たいんだろうが、とハーレイに勧められたけれども。
 確かに鯨は見たかったけれど、そんな方法でしか見られない鯨は要らないから。
 ハーレイの仕事と引き換えの鯨は嬉しくないから、ブルーは未練を追い払って言った。
「鯨、諦めるよ…」
 きっと御縁が無かったんだよ、最初から。
 たまたま記事を見付けたけれども、もしも新聞を読まなかったら、知らなかったと思うから。
「見たかったんじゃないのか、シロナガスクジラ」
 シャングリラそっくりの鯨だからなあ、お前、見たくてたまらないだろうに。
 諦めちまって後悔しないか、考え直すんなら今の内だぞ。俺が来られない予定の日は、だ…。
「いいよ、その日は知らなくっても。その日、ハーレイが来られなくてもかまわないよ」
 水族館に行っておけば良かった、なんて考えたりはしないから。
 ハーレイが仕事で来られないって分かっているのに、ぼくだけ遊びに行けないから。
「しかしだな…。せっかく見られるチャンスなんだし…」
 行っておけばいいと思うんだがなあ、チビはチビらしく、お父さんたちと。
「いいんだってば、いつかハーレイとデートで見るから」
「デート?」
「夜の水族館、デートコースだから連れて行けないって言ったじゃない」
 ハーレイとデートが出来るようになった頃に、またイベントをするかもしれないし…。
 そしたらハーレイと見に出掛けるから、その時でいいよ。
 デートでゆっくり好きなだけ見るんだ、シロナガスクジラ。モビー・ディックなマッコウクジラとか、他の鯨も沢山、沢山。
「ふうむ…。またイベントをやるって可能性は大いにあるなあ…」
 新聞に載ってたくらいなんだし、多分、新しいイベントだろう。
 好評だったら定番になって、年に何度もやるようになる。
 俺たちがデートに出掛けられる頃にもやっていたなら、二人で行くとするか。俺の車で夜の町を走って水族館まで、お前の知らない鯨を見にな。



 そういうデートをしようじゃないか、とウインクしたハーレイが「そうだ」と手を打った。
 いいアイデアを思い付いたと、これぞデートだと。
「なあ、ブルー。いつかデートで見ると言うなら、本物の鯨を見に行かないか?」
 立体映像もいいが、本物の鯨。水族館じゃなくて、ちゃんと海でな。
「なに、それ?」
 そんなのがあるの、海で鯨を見られるの?
 いつも必ず鯨がいます、って決まってる場所でも知っているわけ?
「ホエールウォッチングというヤツなんだが…。聞いたことないか?」
「…ホエール…?」
「ウォッチングだ、鯨を見に行くツアーさ」
 船に乗って鯨が見られる場所まで行くんだ、いろんな鯨に会えるのが売りだ。
「鯨を見に行くって…」
 船に乗っていれば鯨に会いに行けるの、いろんな鯨に?
 海に出るなら、うんと大きな鯨もいるよね、それこそシロナガスクジラとかも…!
「うむ。親父とおふくろはそれで見たんだ、釣りの途中ってわけじゃなくてな」
 俺に自慢していた、シロナガスクジラ。
 ただし、あくまで運らしいんだが…。
 この前は見られたから今回も、って風にはいかんらしいな、相手は野生の生き物だしな。



 どんな鯨に出会えるのかは、運と鯨の気分次第。
 ホエールウォッチングとはそういったものだ、とハーレイはブルーに説明してから。
「どうだ、俺と一緒に出掛けてみるか? ホエールウォッチング」
 シロナガスクジラに会えるかどうかは、本当にお前の運次第だがな。
「行く!」
 夜の水族館でデートもいいけど、ホエールウォッチングも行ってみたいよ。
 ハーレイと一緒に船に乗って行って、シロナガスクジラに会えたらいいな。とっても大きな鯨に会えたら、それがシロナガスクジラだよね?
「ちゃんと説明してくれる人だっているさ、鯨の種類を」
 プロだからなあ、影を見ただけで分かるそうだぞ、鯨の名前。
 そうして鯨が逃げて行かない距離を保って見せてくれるのさ、ゆっくりとな。
「絶対、行きたい!」
 連れて行ってよ、そういうデート。
 ハーレイと一緒に本物の鯨に会いに行けるツアー。
 立体映像のシロナガスクジラも素敵だけれども、本物の方がいいに決まっているもの…!



「分かった、いつかは連れてってやるさ。ただし、結婚してからだぞ?」
 日帰りで行くには遠すぎるからな、泊まりの旅行になっちまうからな。
「泊まりのデートは駄目なの、ハーレイ?」
 デートに行けるってことは、ぼくは大きくなってるんだし…。
 前のぼくと同じ背丈になってるんだし、泊まりでもいいと思うんだけどな。
 結婚してからだなんて言っていないで、デート出来るんなら連れて行ってよ。
「おい。お前を泊まりで連れ出すだなんて、お前のお父さんたちに何と言い訳すればいいんだ」
「えっ、先生と生徒で旅行くらいは普通でしょ?」
 ハーレイは家族みたいなものだし、ぼくを旅行に連れてってくれても問題無いよ。
 パパもママも「行ってらっしゃい」って言ってくれるよ、大丈夫。
「そのまま教師と生徒で行くならかまわないが、だ」
 いずれ結婚するんだろうが。
 その時に俺がうんと気まずい立場になるんだ、お前を旅行に連れて行ったりしてればな。
 旅行の間は何をしてたか、どういう関係だったのか。
 お父さんとお母さんの前で脂汗だぞ、「あの時はすみませんでした」とな。
「えーっと…。それじゃ、結婚よりも前に泊まりの旅行は駄目ってこと?」
「当然だ!」
 結婚しないと言うなら別だが、俺と結婚したいんだったら。
 その辺はきちんとしておかないとな、デートは日帰りの範囲ってことだ。



 元が教師と生徒だからな、とハーレイは厳しい顔をする。
 泊まりの旅行などには行かずに、デートは日帰り、門限も厳守。
 いくら恋人同士になっても、付き合いはあくまで健全に、と。
「ちょっと待ってよ、健全にだなんて…」
 それじゃ、本物の恋人同士になれるのはいつ?
 日帰りで門限厳守のデートじゃ、いい雰囲気になれそうな所が少なそうだよ…!
「そういったことは結婚するまでお預けだってな」
 お前が大きく育ったからって、すぐにやらなきゃいけないわけでもないんだし。
「そんな…!」
 嘘でしょ、ハーレイ?
 ぼくがまだまだチビだから、って嘘を言ってるだけだよね?
「いや? 少なくとも、俺はそのつもりだが?」
 嘘も冗談も言っちゃいないぞ、お前とそういう関係になるなら結婚式を挙げてからだな。
「酷い…!」
 ぼくの背丈が伸びたなら、って言ったじゃない!
 どうしてそういうことになるわけ、結婚するまで駄目だなんて…!
「酷くないだろ、お前と一生、付き合うんだからな」
 ちゃんと結婚して、一緒に暮らす。お前は俺の嫁さんになる。
 誰もが認めるカップルってわけだ、前の俺たちとは違うってな。
 秘密の恋人同士じゃない分、けじめはきちんとしておきたい。
 お前のお父さんたちに堂々とお前を下さいと言える立場で申し込みたいからなあ、不埒な行為は厳禁だ。泊まりの旅行は論外だな、うん。



 結婚前でもキスくらいはな、と笑うハーレイ。
 キスくらいならば許してもいいが、その先のことは決して駄目だと。
「ハーレイ、酷いよ…。背が伸びたら、って言ってたくせに…」
 前のぼくとおんなじ背丈になるまで我慢しろ、って言うから我慢してるのに…。
 背が伸びてもキスしか出来ないだなんて、酷すぎない?
 結婚するまで泊まりの旅行も、本物の恋人同士になることだって禁止だなんて…!
「間違えるなよ? 我慢するのはお前だけじゃなくて、俺もだからな」
 お前がチビでガキの間は俺も余裕で笑ってられるが、お前が育ち始めたら。
 前のお前と同じ姿に育っちまったら、俺だって我慢大会だ。
 しかし、お前と結婚したけりゃ耐えるしかないと思ってるわけだ、やましいことはしたくない。
 お前のお父さんとお母さんに顔向け出来ないことをしちまったらマズイだろうが。
 俺はお前の立場も考えた上で言ってるんだが、お前は不満そうだってことは。
 そういう関係になりたいから俺と付き合いたいのか、その関係がお前の目的なのか?
 俺と一緒に暮らすことより、俺と結婚することよりも。
「違うけど…」
 ハーレイのお嫁さんになって一緒に暮らすのが夢なんだけど…。でも…。
「でもも何もない。そいつが夢なら、まず結婚だ」
 それが一番大事なことだろ、俺と一緒に生きてゆくなら。
 まずはそいつをクリアせんとな、お前のお父さんとお母さんにきちんと申し込んで。



 その代わり…、とハーレイはブルーの銀色の頭をポンと叩いた。
 褐色の大きな手で軽く、優しく、そっと諭すように。
「いつか、お前と結婚したら。俺とお前は、あちこちへ旅をするんだろう?」
 宇宙から二人で青い地球を見て、その地球の上も気が向くままに。
 もちろん、ホエールウォッチングも。
「うん」
「いろんな所へ泊まりで行けるさ、もう遠慮なんかは要らないんだからな」
 何処へ行っても恋人同士だ、誰にも隠さなくてもいいだろ?
 前の俺たちとはまるで違って、何処でもいつでも恋人同士でいられるってな。
 そうしたかったら、まずは結婚。
 分かるな、俺とお前の名前を並べて書けるようになるのが大切なんだということは。
「うん…」
 結婚してから旅行なんだね、ハーレイと二人。
 いろんな所へ出掛けるんだね、泊まりの旅行で二人一緒に…。



 鯨も見ようね、とブルーは微笑む。
 シャングリラそっくりのシロナガスクジラを見に行ける旅に、船に乗って海へ出る旅に。
 そんな旅へと出掛ける日までは、立体投影の鯨が限界。
 日帰りで行けて、門限までに家へ帰れる水族館のイベントくらいがデートの限界。
(…ハーレイ、凄く早い時間に家まで送ってくれそうだよ…)
 それこそ引率教師と生徒さながらの早い時間に、家の前まで。
 名残惜しくて胸に縋っても、キスでお別れ。
(…せっかく二人でデートなのに…)
 キスよりも先はお預けだなんて、まるで思いもしなかった。
 背丈が伸びれば、前の自分と同じに伸びれば、前と同じに愛し合えると信じていた。
(…だけど、お預け…)
 結婚するまでお預けはとても悲しいけれども、ハーレイの言う「けじめ」は分かるから。
 誠心誠意、向き合ってくれているからこその言葉だから。
(結婚までは我慢しなくちゃ…)
 我慢、と自分に言い聞かせた。
 もっとも、明日にはすっかり忘れてまた言うのかもしれないけれど。
 ハーレイがそれを口にする度、唇を尖らせて、プウッと膨れて、子供ならではの我儘で。
 それは酷いと、結婚するまでお預けだなんて酷すぎるよ、と…。




          水族館の鯨・了

※立体投影の鯨をハーレイと一緒に見に行きたい、と思ったブルーですけれど…。
 夜のデートは「まだ駄目」だそうで、将来も「早い時間に」帰ることになりそう。でも幸せ。
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