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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(何故だ?)
 ハーレイは角を曲がるなり、首を捻った。秋晴れの土曜日、家から歩いて五分足らずの場所。
 今からブルーの家に行くのだし、寄ろうというわけではないのだけれど。そんな予定は最初から全く無かったけれども、食料品店の前に行列。いつも馴染みの食料品店。
(特売だったか?)
 チラシは読んで来なかったし…、と眺めた店から鉢を抱えた人が出て来た。食料品入りの鉢ではなくて植木鉢。買い込んだ食料品の袋の他に植木鉢が一つ。大切そうに両腕で持って。
(今日だったのか…)
 「菊の懸崖作りをプレゼント!」と謳ったチラシに見覚えがあった。先日、確かに入っていた。この店の名物、年に一度の恒例行事。それが目当てで行列が出来たというわけだ。



 店の前のスペースにズラリと並べられた鉢。色とりどりの懸崖作りの菊は実に目を引く。どれにしようかと品定め中の客や、早く整理券を貰って買い物を、と行列に加わってゆく人やら。
(綺麗なんだが、貰ってもなあ…)
 今なら充分、貰えそうだけれど。花の色をあれこれ選ぶ余裕もありそうだけれど。
(俺が貰ったら、後は確実におふくろの菊になっちまうしな?)
 花が咲いている間は簡単な世話で済むのだろうが、咲き終わった後。来年も綺麗に咲かせてやるだけの世話が出来そうにない。隣町の実家に鉢ごと届けてプレゼントするしかないだろう。
(咲き終わったヤツでも喜ばれるとは思うんだが…)
 母は庭仕事が好きなタイプだし、父も同じだ。鉢を渡したなら、来年の今頃には実に見事な懸崖作りの菊が咲きそうだとは思うのだが…。
(どうするかな…)
 さて、と考えた所で頭に浮かんだ恋人。これから訪ねる予定の恋人。
 鉢を貰って小さなブルーにプレゼントしたら、とても喜ばれそうな気がするけれど。
 「今日の土産だ」と抱えて行ったら、弾けるような笑顔になるだろうけれど。
 「貰っていいの?」と大喜びで鉢を受け取り、何処に置こうかと思案しながら今日の所は自分の部屋で夜まで愛でて。
 それから鉢の置き場所を決めて、毎朝、毎日、飽きずに眺めて…。



(喜び過ぎだ!)
 せっせと世話をするブルーの姿が目に浮かぶようだ。
 水をやったり、咲き終わった花を摘んでやったり、それは小まめに来る日も来る日も。菊の花の育て方まで調べて、最後の花が萎んだ後もきちんと面倒を見て冬越しのための支度をして…。
 そう、ブルーならそうするだろう。
 この菊の花は貰ったのだと、恋人から花を貰ったと。
(うん、あいつなら間違いなく…)
 食料品店で買い物のついでに貰ったオマケだ、と説明したって花は花。しかも立派な懸崖作りの菊と来た。それを貰おうと行列が出来ているほどに。
(大人でもこの有様だしな?)
 小さなブルーは飛び上がって喜ぶことだろう。素敵な花を貰ってしまった、と。
 たかが野の花でも贈ってやったら狂喜乱舞に違いない恋人。道端で見付けた花を一輪だけ摘んで持って行っても嬉しそうに受け取ると分かっているから、こんな見事な鉢を贈るにはまだ早い。
(もう少し大きく育ってからだな)
 野の花ではなくて薔薇の花束を贈ったとしても似合うくらいの年頃に。そういう姿になるまでは菊の懸崖作りは早すぎる、と結論付けた。
 けれど…。
(前の俺たちは懸崖作りなんて知らないしな?)
 今日の話題にすることにしよう、と店の前にあったチラシだけを取った。先着順にプレゼントと書かれ、菊の鉢が大きく載ったチラシを。



 ブルーの家に着き、テーブルを挟んで向かい合わせに座って「ほら」とチラシを見せれば、手に取った恋人はそれを読むなり。
「ハーレイ、間に合わなかったの?」
「はあ?」
 何のことか、と思う間もなく、小さなブルーは「これ!」と菊の写真を指差した。
「ぼくにくれるつもりだったんでしょ? でも…」
 ハーレイ、菊の鉢、持って来ていないものね。
 先着順って書いてあるから、並びに行くのが遅かったの?
「誰が並ぶか!」
 チラシを見せただけでこの有様だし、貰って来なくて正解だった、とハーレイは思う。花の鉢をプレゼントするために並んでくれたに違いない、と考えるような恋人だから。しかも並んでくれたことへの礼よりも先に「間に合わなかったの?」と問う幼さだから。
 この恋人に花を贈るには早すぎる、と苦笑しながら。
「まだまだ鉢はあったんだがなあ、俺が通り掛かった時にはな」
 選び放題ってくらいにあったぞ、いろんな色をした菊の鉢がな。
「じゃあ、なんで!」
 どうして貰ってくれなかったの、持ってくるには重すぎたとか…?
「お前、喜び過ぎるからだ。こいつは年相応の花じゃないのさ、もっと大きく育たないとな」
 チビのお前には野の花くらいが丁度いいって所だ、うん。
「酷い!」
 貰えた筈なのにチラシだけなんて!
 チビに贈るにはもったいない、って貰わずに通り過ぎちゃったなんて…!



 あんまりだ、と不満そうな恋人にハーレイは「そう怒るな」と片目を瞑ってみせた。
「いずれ貰えるだろ、いつかはな。今年は駄目でも」
「なに、それ…」
「菊のプレゼントはあの店の名物の一つだからだ。毎年、今頃の時期にやってる」
 これから先も続くんだろうし、お前にも似合う年になったら貰えばいいさ。
 結婚するか、婚約するか。それ以降のお楽しみってトコだな。
「えーっ!」
 そんなに先の話だなんて、とブルーは頬を膨らませたけれど。
 暫く膨れていたのだけれども、その顔が不意に綻んで。ふわりと花が開くように笑んで。
「…もしかして、予告?」
 ねえ、そうだったの、それでチラシを持って来てくれた?
 いつかこういうのを貰えるぞ、って。結婚したら毎年、秋にはこれが貰えるんだぞ、って。
「そういうつもりで持って来たわけでもないんだが…」
「それじゃ、どうして?」
 なんでチラシだけ持って来たの?
 贈ってくれるつもりも無くって、予告でもなくて、どうしてチラシを持って来るの…?
「それなんだがな…。前のお前、こんなのは知らないだろうが」
 菊の懸崖作りなんていうもの。知らなかったと思わないか?
「…うん…。言われてみれば…」
 今じゃ当たり前に秋になったら見かけるけれども、菊の花なんかは無かったね。
 菊の花が無いのに、懸崖作りの菊なんか何処にもあるわけないよね…。



 シャングリラには菊というものが無かった。白い鯨の公園に菊の花は無かった。
 それに菊の花があったとしても、こうした細工の文化が無かった。本来ならば真っ直ぐに上へと伸びる筈の茎を手間暇をかけて懸崖作りに仕立てて、愛でる文化が。
 前の自分たちが生きた時代はそういう時代。画一化された文化しか無かった時代。
 ブルーはチラシの菊をしみじみと見詰め、「綺麗だよね」と呟いた。
「こんなに綺麗な菊が買い物のオマケでついてくるなんて…」
 前のぼくたちが聞いたらビックリするよね、花だけで売られていそうなのに。
 シャングリラでは見かけなかった花だし、うんと高いと思いそうだよね、懸崖作り。
「まあな。それに気付いたら驚くだろう、とチラシを貰って来たんだが…」
 しかしだ、今はいい時代だが…。菊にとっては悲しい時代になったもんだな。
「なんで?」
 こうやって大勢の人に見て貰えるんだし、「いい時代になった」の間違いじゃないの?
「誰もがミュウでは意味が無いんだ、菊の存在意義ってヤツが」
 もっとも、そいつも前の俺たちが生きてた頃には消されてた文化なんだがな。
「どういうこと?」
 菊って何か特別な花なの、持ってるといいことが起こるとか?
 うんと縁起のいい花だったとか、そういった何かがあったの、ハーレイ…?



 SD体制の時代には無かった、多様な文化。
 菊の懸崖作りもそうだけれども、菊の存在意義なるものまで消えたと言うから。消されていたとハーレイが言うから、ブルーは首を傾げて尋ねた。それは何かと、どういうものかと。
 古典の教師をしている恋人は古い文化に詳しいから。遠い昔にこの地域にあった日本という名の小さな島国。其処の文化の一つであろう、と恋人の答えが返るのを待てば。
「桃の節句と、端午の節句。むろん七夕も知ってるな?」
「うん。…端午の節句の授業の時には休んでいたから、ハーレイの授業、聞き損ねたけど…」
 聖痕のせいで休んでしまって、柏餅も粽も食べ損ねたけど…。
「七草粥を食べるっていうヤツはどうだ?」
「知ってるよ。ママが毎年作ってくれるよ、七草粥。食べると元気に過ごせるのよ、って」
「七草粥の日と桃の節句と端午の節句と、それに七夕。これで四つになるわけだが…」
 五節句と言ってな、実はもう一つ特別な行事をする日があるんだが。
「そうなの? 五つ目だなんて、聞いたこともないよ?」
「ほらな」
 それ自体が影が薄すぎるんだ。
 いくら消された文化にしたって、こういう時代でなければなあ…。
 きっと定着出来たんだろうに、時代ってヤツに合わなかったのさ、その五つ目は。
「それって、何の日?」
「重陽と言ってな、もう過ぎたが九月九日だ」
 九月九日は菊の節句だ、菊が主役の節句なんだ。
「知らないよ?」
「枕草子にもあるくらいだが。…枕草子の名前くらいは知ってるだろう?」
 古典の授業じゃ必ず教える。それも知らないとは言わないだろうな?
「名前だけなら…。だけど中身は読んでいないよ」
 前のぼくが少し読んでいたかも…。ライブラリーで古い本を読むのが好きだったから。
 でも、菊の節句。そういうのを見た覚えは無いけど…。それに重陽の節句の方も。



 ソルジャー・ブルーだった頃のブルーは遠い昔の本も色々読んでいた。けれども記憶の海の底に沈んだか、それとも出会わなかったのか。菊の節句も重陽の節句も覚えてはいない。記憶に無い。
 そんなブルーに、ハーレイは重陽の節句なるものを教えてやった。
「菊の節句と言っただろう? 菊は不老長寿の薬になると信じられていてな、その節句だ」
 不老長寿と、若返りと。それを祈るための行事だったんだ。
「…みんなミュウだと要らないね、それ…」
 年は好きな所で止めてしまえるし、寿命だって最初からうんと長いし。
「うむ。まったく意味が無くなっちまった、だから菊には悲しい時代だと言ったのさ」
 もっとも、SD体制が始まるよりもずうっと昔。
 既に消えかかっていたという話だなあ、重陽の節句。
 菊に不老長寿の力が無いと分かっちまったせいで影が薄れて、他の四つに負けちまった。
「…不老長寿はお薬か何かなんだろうけど…。若返りだなんて、なんだか凄いね」
 それもお薬だったりするの?
 菊の花を食べたり飲んだりするの?
「ん? 若返りの方は面白いんだぞ、ただの薬とは違うんだ」
 重陽の節句の前の日の内に、菊の花に綿を被せておくのさ。そうすると其処に夜露がつくだろ?
 次の日の朝、露で湿った綿で顔とかを拭いたら若返るんだと思われていた。
 菊の着せ綿っていう名前があってな、今じゃ意味の無いものだよなあ…。



 若返りの方法だという菊の着せ綿。ブルーは「ふうん…」と聞き入っていたのだけれども、ふと思い付いて問い掛けた。
「ねえ、ハーレイ。…もしも、その方法が効いていたなら。本当に若返りの方法だったら…」
 ミュウは怖がられなかったのかな?
 年を取らない化け物だ、って怖がられずに済んでいたのかな…?
「おいおい、年を取らないってこともそうだが、怖がられた理由は他にあるだろ」
「サイオンの方かあ…」
 心を読む、って嫌われたっけね。他の力も怖がられたけれど、それが一番だったっけ。
 年を取らない方は実害は無いと言ったら無いし…。
 そうだ、キース!
「キースがどうした?」
「マツカがいたでしょ、キースの側には。マツカはミュウで、キースは人類」
 どんどん年の差が開いていった、って言われてるじゃない。残っている写真を見てもそうだよ。
「そのようだな。前の俺はマツカを直接知らんが」
 トォニィが失敗して殺しちまった、っていう話くらいしか知らなかったが…。後はナスカだな、キースを助けにやって来たミュウがマツカだった、とトォニィの件で知った程度か。



「もしもキースが重陽の節句を知っていたなら。せっせと着せ綿、やっていたかな?」
 菊にそういう力は無い、って分かっていたって、若返れるかもしれないと。
 何もしないよりかは少しでも、って努力したかな、マツカとの年の差が開かないように。
「そんな男か?」
 そういう男か、あのキースが?
「マツカが気味悪がられないためなら頑張りそうだよ。たとえ言い伝えに過ぎなくっても」
 だってマツカは、ミュウは本当に年を取らないし、サイオンは精神の力だもの。
 信じさえすれば効くかもしれない、って菊の着せ綿。
「…キースってヤツはお前を撃った男なんだが」
 もっとも、俺は今のお前に聞くまで知らなかったが…。そのせいであいつを殴り損ねちまった。知っていたなら殴り飛ばしたぞ、地球で会った時に。
「あの頃のキースは仕方がないよ」
 ぼくを撃った頃にはSD体制に忠実な男だったから。
 自分が信じるもののためには命を懸けるのがキースだったし、仕方ないんだ。
 でもね…。
 その後のキース。それから後のキースだったら、きっと優しい。
 マツカを守ってやれるんなら、って菊の着せ綿だってしたと思うよ、知っていたらね。
 キースはすっかり変わっちゃったから、マツカのお蔭だと思ってる。
 それとシロエかな。シロエが暴いたキースの出生の秘密。真実を知らされたことで揺らいだ心。
「前の俺には知りようも無かったことばかりだがな、どれも」
 マツカを側に置いていた件も、トォニィからの伝聞だしな。
 誤って殺してしまった負い目の分だけ、キースはマツカに優しかったとトォニィが思い込んだという可能性を捨て切れなかった。マツカはキースに利用されていただけなんだ、とな。
「だけど今では常識だよ?」
 キースがマツカをどう扱ったか、シロエがどういう役目を負ったか。
「ああ。スウェナに託されたメッセージってヤツの続きでな」
 前の俺は見られずに死んじまったが。知らないままで死んだんだが…。



 キースが死んだら公開されるという条件だったメッセージ。
 スウェナ・ダールトンにキースが託した二つ目の公的メッセージ。
 其処で全てが明かされていた。
 キースがマツカを大切な部下として、一人の人間として扱っていたということ。ミュウの能力を買ったのではなく、一個人として自らの側に置いたということ。
 それからシロエ。
 ステーション時代にシロエが探り当てた秘密を自分が知るのが遅すぎたことを悔やんだキース。もっと早くに知っていればと、悔やみながら生きた後半生。
 そういった思いが語られたそれは、来たるべきミュウの時代へのメッセージでもあった。人類はミュウへと進化するのだと、それを恐れることなどは無いと。
 もしもキースが生き残ったならば、自分自身で語ったであろうメッセージ。
 それは叶わず、画面の向こうのキースの遺言が全宇宙に中継されたのだけども…。



 二つ目のメッセージが在ったがゆえに、キースという英雄の評価は更に上がった。
 ミュウと人類との最初の架け橋、共存できることを身を以って示した指導者だった、と。
 もちろん学校でもそう教わるから、今のブルーはキースのその後を知っているわけで。
「ぼくが習った、すっかり変わった後のキースだったら、きっと…」
 菊の着せ綿を知っていたなら、気分だけでも。
 これで若返れればマツカとの差が開かないかも、と重陽の度に菊の花に綿を被せていそうだよ。夜露で湿った綿で顔を拭いて、若返らないかと試しそうだよ…。
「皺だけだったら整形手術で消せたんだがな?」
 かなり若返ると思うんだがなあ、皺さえ消してしまったならな。
「そういう男じゃないよ、キースは」
 まして自分の生まれを知った後では、皺を消すための手術だなんて…。
 自然に任せて年老いていって、その自然が許してくれるのならば。その範囲でだけ若返ろう、と菊の着せ綿だよ、年に一度だけ。
「確かにな…」
 そうなんだろうな、キースが若さを保ちたいと願っていたのなら。
 技術が生み出した手術なんぞより、自然が持ってる力の方へと行っただろうなあ…。あまりにも普通じゃない生まれだっただけに、頼るなら自然の力になっただろうな。
 お前の言うとおり、効きはしないと分かっていたって菊の着せ綿。
 整形手術よりも菊の着せ綿だな、キースがマツカを守るためにと若返りを願っていたならな…。



 キースとマツカが生きた時代には重陽の節句も菊の着せ綿も無くて、マツカはトォニィが放ったサイオンからキースを庇って死んで。
 キースもまた地球の地の底で逝った。ジョミーと共にグランド・マザーを、SD体制を根幹から倒して逝ってしまった。
 ブルーにとっては前の自分を撃った男に違いないけれど、彼のその後を知っているから。学校で教わって知っているから、キースを亡くしたことが惜しくて。
「キース…。ジョミーと二人で長生きをして欲しかったのに…」
 メッセージなんかを遺すんじゃなくて、生き残って語って欲しかったのに…。
 スウェナ・ダールトンにインタビューされて、大勢の人から質問を受けて。
 ミュウと人類とは兄弟なんだと、自分もマツカと一緒に生きたと強く語って欲しかったのに…。
 もちろんジョミーとも友達になって、サムのこととかを思い出しながら二人で長生き。
「それだと地球が蘇らんぞ?」
 死の星のままになったんじゃないか、あんな荒療治は出来ないからな。
「やっぱり無理かな?」
「ジョミーとキースが生き残るってことは、地球は燃え上がらなかったってことだ。そんな形でも今の姿に戻っていたとはとても思えん」
 派手にあちこち燃えて、壊れて。全てが入れ替わっちまったからこそ、青い地球へと蘇った。
 ジョミーもキースも、前の俺やゼルやブラウたちも。
 言わば人柱みたいなもんだな、死の星だった地球が蘇るための。
「…そんな人柱、本当に必要だったのかな?」
 人柱っていうのは生贄のことでしょ、地球はホントにそんなものが必要だったのかな?
「どうだかな…」
 それは分からないが、人柱として役に立ったと思っておくのが精神衛生上はいいってな。
 前のお前を失くしちまって早く死にたかった俺はともかく、他のヤツらはまだまだ生きるつもりだったと思うからなあ…。
 いくら覚悟をしていたとしても、ジョミーもキースも、生き残った方が自分が役立つってことは百も承知だったと思わないか?
「…そうだね…」
 死にたい人なんてそうそういないね、普通は生きたいものだよね…。
 ハーレイが言うように人柱だって思っておいたら、死んじゃった人でも救われるよね…。



 地球が蘇るための人柱。
 ジョミーもキースも、地球の地の底で死んだ長老たちも人柱なのだ、と言われればそういう気もしてくる。ただ死んでいったというわけではなく、青い地球が彼らを欲したのだと。
 ならば彼らもハーレイのように地球に還って来たのだろうか?
 青い地球の上で生きただろうか、とブルーは思いを巡らせたけれど、そうした記録は残されてはいない。生まれ変わった彼らの記録は何処にも無い。
 けれど…。



「ハーレイ、もしかしたらジョミーやキースも地球に生まれ変わって来てたのかな?」
 ぼくたちみたいに地球の上で生きて、前の自分の話は何もしないで楽しんでたかな?
「さてなあ…。そいつはどうなんだかな?」
 それは本人にしか分からんさ。前の記憶を忘れ去ったままで一生を終えることもあるだろうし。俺はたまたまお前に会ったし、それで記憶が戻ったんだがな。
「…たまたまなの?」
「いや、会うべくして会ったんだろうが…。出会い自体は偶然みたいなものだっただろう?」
「うん。ぼくも学校でハーレイに会うとは思わなかったよ」
 メギドで独りぼっちで死んで。
 もうハーレイには会えないんだ、って泣きながら死んで、次に会ったら学校だったなんて。
 右の手が冷たい、って泣きじゃくったぼくが、学校の生徒だっただなんて…。
「その点は俺も同じだな。死んだらお前に会えると思って死んだ筈なのに、お前が居たさ」
 チビになっちまって、制服を着て。
 俺が赴任して来た学校の教室にチビのお前が居るなんてことは、本当に夢にも思わなかったな。
 だからだ、ジョミーたちだって。
 きっと何処かで平和に生きたさ、青い地球ってヤツを満喫してな。
 自分が誰かを思い出すことは無かったとしても、うんと楽しい人生をな…。



 ゼルも、ブラウも。ヒルマンもエラも青い地球にきっと来ただろう、とハーレイは語る。
 地球が蘇ってからの長い歳月の内に、もしかしたら一度どころか二度、三度と。
「とにかく青い地球が戻って来て、だ。人間はもれなくミュウになっちまったし…」
 五節句って文化が復活してみても、菊の節句の意味も出番も無くなったってな。
 不老長寿の薬の菊酒とかも要らなきゃ、若返りの着せ綿も要らないんだしな。
「今は菊って、懸崖作りのプレゼントくらいでしか出て来ないかな?」
 好きで育ててる人はいるけど、欲しい人が多いのって、これくらい?
「そうなるなあ…。品評会に出してやるぞ、ってくらいに熱心な愛好家はともかくとして…」
 普通の人が菊を目当てに行列となれば、この手のイベントくらいじゃないか?
 わざわざ鉢植えを買ってまで世話をするのは面倒だが、だ。
 こんな風に買い物のオマケにつくなら貰って来ようと、家に飾っておこうとな。
「平和だね…。不老長寿も若返りも無しで、買い物のオマケ…」
「うむ。元はそういう花だったってことも、菊の節句も忘れ去られているぞ」
 俺も授業で触れてないしな、言った所で真面目に聞いてくれそうもないし…。
 不老長寿が当たり前ではどうしようもないな、重陽の節句。



 今の世の中では重陽の節句はまるで重みが無さすぎる、とハーレイは笑う。
 小さなブルーが口にしたように、キースが若返りを願って着せ綿をしそうな昔はともかく…。
 そのブルーは例のチラシをしげしげと眺め、恒例行事なことをハーレイに確認してから。
「懸崖作りの菊、結婚したら此処へ貰いに行ってもいい?」
 この鉢、重いかもしれないけれど…。重すぎたら、ハーレイ、持ってくれる?
「ああ、持ってやるさ。お安い御用だ」
 お前のと、俺のと、一鉢ずつな。
「一鉢ずつって…。欲張っていいの?」
 そんなに貰ってしまってもいいの、この鉢?
「もちろんだ。買い物をしたら貰えるんだし、一軒に一個とは決まってないしな」
 夫婦で貰いに出掛けるんです、って家も多いぞ。
 こいつが開催された次の日に通ると二つ並べて飾ってある家がけっこうあるんだ、毎年な。
「そうなんだ…。だったら二つ貰ってもいいよね、ぼくの分とハーレイの分と一つずつ」
 じゃあ、何色にしようかな?
 同じ色のを二つがいいかな、それともまるで違う色のを並べておくのが綺麗かな…?
「気の早いヤツだな、今から色を考えるのか?」
「えっ、だって。毎年あるなら早めに決めておいたって…」
 別にいいでしょ、その時に慌てなくても済むし。
 お店の前でどれにしようか悩んでる内に、欲しい色のが無くなっちゃうかもしれないし…!



 だから早めに決めておくのだ、とチラシを手にして捕らぬ狸の皮算用。
 そんな恋人も可愛いと思う。
 まだ菊の鉢をプレゼントするには幼すぎるけれど、愛おしくてたまらない小さなブルー。
 いつかは二人で、菊を二鉢。
 買い物に出掛けて行列に並んで、懸崖作りの菊を二鉢。
 持って帰って、家に飾って。
 そうして仲良く菊を愛でよう。ミュウの時代にはもう出番が無い、不老長寿と若返りの花を…。




          重陽の菊・了

※かつては不老長寿を願った重陽の節句と、菊の着せ綿。今はどちらも要らない時代。
 思わぬことから、キースとマツカが話題になりましたけど…。ブルーの狙いは懸崖作りの菊。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








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(えっ?)
 ブルーは思わず振り返った。
 そして微笑む。
(いいもの、見ちゃった…!)
 昼休みではなくて、普通の休み時間。授業と授業の合間の時間。
 外の空気を吸いに行こうと出て来た渡り廊下の脇を走って行った、それ。
(ハーレイが自転車…!)
 少し離れた奥の校舎に何か用事が出来たのだろう。急いで行かねばならない用が。
 走り去ってゆく後姿。マントは靡いていないけれども。
 キャプテンの制服と違ってスーツなのだし、マントなどありはしないのだけれど。前の生ならばきっとマントが、濃い緑色のマントが靡いていたのだろうに…。
 ちょっと残念、と自転車が消えて行った方向を名残惜しげに眺めていて。



(…あれっ?)
 不意に蘇ってきた記憶。欠片だけが戻って来た記憶。
 遠い昔の、遥かな昔の前の自分の記憶の欠片。
 何処かで確かに目にしたと思う。
 マントを靡かせ、自転車で走るキャプテンを。キャプテン・ハーレイの後姿を。



(いつ…?)
 あの記憶はいつのものだったろう。自転車に乗ったハーレイの背中を何処で見たろう?
 休み時間が終わってしまって、教室に戻っても其処から先が思い出せない。蘇って来ない。次の授業が始まった時は、気分を切り替えられたのに。
(何処で…?)
 昼休み前の授業時間はハーレイが受け持つ古典だった。ハーレイの顔を見れば気になってしまう自転車の記憶。キャプテン・ハーレイの背中の記憶。マントを靡かせ、自転車に乗っていた背中の記憶が思い出せなくて、懸命に記憶を手繰る内に。
「ブルー君!」
 気付けば当てられてしまっていた。きっと続きの音読だろう、と先刻まで耳が拾っていた箇所の続きを慌てて読み始めたら。
「読めとは誰も言っていないが? この文章の解釈は、という質問だったが」
 ついでに君の頭の時計は五分ほど遅れているようだ、とハーレイに鼻で笑われた。音読しかけた箇所はとうに過ぎていて、其処よりも先の箇所についての質問だったらしい。
「…すみません…」
「まあいい、君が答えるべき質問は…」
 此処だ、と質問し直された上に、途惑いながらも正解を返した筈なのに何かを書かれた。教師が書き込む授業の記録に、褐色の指が何かを書いた。マイナスの評価を書き込まれた可能性が大。



(…やっちゃった…)
 ハーレイの授業でマイナス評価。かなり落ち込んでいるというのに、授業の後のランチタイム。友人たちは、いつものランチ仲間は大いに笑い飛ばしてくれた。
 ブルーにとっては痛恨のミスを、大好きなハーレイの前で冒してしまった大失態を。
 普段のブルーが優等生だけに、こういう時にはクラスメイトに愉快な話題を提供してしまうのが辛い所で、どんな言い訳も通りはしなくて「それが普通だ」と笑われるだけ。たまには派手に失敗してみろと、もっと失敗したっていいと。
(…ハーレイの授業で失敗したからショックなのに…!)
 けれど、ハーレイ以外の教師の授業も同じこと。マイナス評価は出来れば御免蒙りたいから。
(だけど自転車のことは忘れたくないし…)
 せっかく掴んだ記憶の欠片。自転車に乗ったキャプテン・ハーレイ。
 あまりにも有り得なさすぎる記憶だったから、前の自分が夢で見たのかもしれないけれど…。
(…でも、気になるしね?)
 何としてでも掴みたい記憶。しっかりと手繰り寄せたい記憶。
 うっかり失くしてしまわないよう、授業中に手繰ろうとしてまた失敗をやらかさないようにと、メモに書いておくことにした。「ハーレイの自転車」とだけ、簡潔に。
 それを鞄に突っ込んでおいて…。



 流石にメモまで書いておいたら、午後からの授業と帰り道のバスで消えた記憶も戻って来た。
 家に帰って制服を脱いで、おやつの前にと開けた鞄にメモを見付けて。
(…ハーレイの自転車…)
 確かに自分は見たのだと思う。マントを靡かせて自転車で走るハーレイを。
(でも、何処で…?)
 おやつを食べながら考え続けて、食べ終えて部屋に戻って来てもまだ分からない。記憶の尻尾が掴めない。自転車を走らせるキャプテン・ハーレイ。その背に靡いていたマント。
(何処で自転車…?)
 あれはやっぱり、前の自分が夢の中で見た幻だったのだろうか?
 白いシャングリラに自転車なんかは、無かったように思うのだけれど…。



 一向に戻って来ない記憶を追い掛けていたら、来客を知らせるチャイムが鳴って。ブルーの頭を悩ませ続ける張本人がやって来た。
 もっとも、キャプテン・ハーレイではなく、今のハーレイなのだけれども。
 そのハーレイはブルーの部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、こう訊いて来た。
「おい。今日のお前は何をボケてた?」
 俺の授業中によそ見どころか、考え事とは恐れ入った。で、原因は何なんだ?
「…自転車…」
「はあ?」
 ブルーがボソリと呟いた言葉に、ハーレイは鳶色の目を見開いて。
「お前、自転車通学に切り替えるのか?」
 そいつは大きな問題だな、うん。お前の頭が一杯になるのも仕方ないかもな、自転車ではな。
「無理だから!」
 自転車通学なんか出来っこないよ。学校はうんと遠いんだから!
「だろうな、やめておいた方がいいぞ。これから寒くなる季節なんだし」
 やるなら来年の春からにしておけ、どうしても自転車で通いたいなら。
「ぼくはそんなこと、言っていないよ!」
 自転車が気になっただけなんだから、とブルーは叫んだ。
 乗りたいと考えたわけではないのだと、自転車そのものが気になるだけだと。



「自転車だと…?」
 ハーレイは首を傾げたけれども、さほど間を置かずに自転車なるものに思い至ったようで。
「そう言えば、お前、今日、廊下に居たか?」
 休み時間に渡り廊下に。俺が自転車で走っていた時。
「うん。見たよ、ハーレイが自転車で奥の方へと走って行くのを」
 振り返って見てたよ、珍しいな、って。なんで自転車なんだろう、って。
「まあなあ、自分の足で走ればいい距離なんだが…。急ぎすぎるとスーツが汗まみれにな」
 だから自転車だ、たまに乗ってはいるんだが…。お前、見たこと無かったのか…。
「無いよ、初めて見たんだよ」
 いいもの見ちゃった、って思ったんだけど。自転車のハーレイ、初めてだから。
「ふむ…。それで、お前の自転車は何なんだ? お前の頭に詰まっていた自転車っていうヤツは」
「…その自転車…」
「俺か?」
 お前、俺が自転車に乗っていただけで頭がすっかりお留守になるのか?
「違うよ、そういうわけじゃなくって!」
 ハーレイを見てたら思い出したんだよ、キャプテンの制服で走ってたな、って。
 自転車に乗って走っていたな、って思うんだけれど、いつだったのか全然思い出せない…。



 何処で見たのかも分からないのだ、というブルーの言葉にハーレイの方も怪訝そうに。
「キャプテンの俺がか?」
 前の俺が自転車だったと言うのか、そんな記憶か?
「うん。…もしかしたら夢だったのかな、って気もするけれど…」
 今のぼくじゃなくって、前のぼく。前のぼくが見ていた夢なのかな、とも思うけど…。
「ふうむ…。キャプテン・ハーレイが自転車なあ…」
 それは全く有り得ないが、とハーレイの考えもブルーと同じだったから。
 やはり夢かと、前の自分が夢に見たのかと、納得しかけたブルーだけども。



「待てよ、あの時か!」
「えっ?」
 いきなりハーレイが声を上げたから、ブルーの瞳は真ん丸になった。
 あの時とは何のことだろう?
 そういう夢を見ていたのだ、と前の自分がハーレイに話していたのだろうか?
 けれどハーレイの口から出て来た言葉は。
「シャングリラのコミューターが故障した時だ」
「コミューター?」
 それは巨大な白い鯨の中を走っていた乗り物。決められた軌道を走った乗り物。
 あまりにも大きな船だったから、移動手段として導入された。ランチと呼んでいた小さな車両。それが船内の何ヶ所かで停まり、人を乗せたり下ろしたり。
 ブルーの記憶では、完成してから暫くの間は…。
「何度かあったよ、コミューターの故障。シャングリラの改造が済んで直ぐの間は」
 止まっちゃったり、乗ってた仲間がランチごと閉じ込められちゃったりとか。
「そいつだ、そういった時に自転車を出したぞ」
「自転車…?」
 ブルーの記憶とは結び付かない、コミューターと自転車。まるで別物の二つの乗り物。
「忘れちまったか、前のお前が奪った物資に紛れて、自転車ってヤツも何台か…」
 それを前の俺が取っておいてだ、時々、ゼルが倉庫でメンテを…。
「ああ…!」
 ホントだ、シャングリラにあったね、自転車。備品倉庫の奥に仕舞ってあったっけね…。



 二人揃って綺麗に忘れ果てていた。
 そんな乗り物を、自転車なるものをシャングリラに載せていたことを。
 ハーレイの目が懐かしそうに細められる。
「シャングリラがすっかりデカくなっちまって、コミューターを作りはしたが、だ」
「よく故障したっけね、あのコミューター…」
 止まっちゃいましたとか、閉じ込められましただとか。そういう連絡、よく飛んでたね。
「最初の間だけだがな。だが、アレが止まって移動手段が無くなっていても…」
 キャプテンってヤツは用があったら船の端から端までだって行かねばならん。
 急ぎだったら走らにゃならんが、キャプテンの制服を汗まみれにするってわけにもなあ…。
 威厳が台無しになっちまうからな。
「今日のハーレイとおんなじだね。走ったらスーツが汗まみれだから、って」
「うむ。それで自転車を倉庫から引っ張り出したんだ。思い出したぞ」
 こいつさえあれば早く走れる筈だと、汗だってさほどかかずに済むとな。だが…。



「まずは練習からだったっけね」
 あの自転車。出して直ぐには乗れなかったよね、ハーレイでも。
「うむ。成人検査よりも前には間違いなく乗っていたんだろうが…」
 ブランクってヤツが長すぎたってな。身体の大きさもガキの頃とはまるで違うし…。
 俺とゼルとで練習だっけな、ゼルもコミューターが止まったとなりゃあ現場行きだからな。他のヤツらに任せちゃおけんと、原因を調べて改良せねば、と。
「もっと若けりゃ楽だったのに、ってゼル、言ってたね…」
「ああ。ついでにデカブツの自転車なんぞは支えられん、とな」
 それで俺ばかりがババを引くんだ。同じ自転車の練習でもな。
「ゼルのはハーレイが支えていたけど、ハーレイのはね…」
「誰も支えてくれなかったしな、後ろを押さえてくれるヤツさえいなかったぞ」
 自転車の後部を押さえてくれるだけでも助かったのに、と嘆くハーレイ。そうすればハンドルを取られてよろめいたとしても倒れはしないと、そうなる前に姿勢を立て直せたと。
 ゼルとハーレイ、二人の練習は格好の見もので、ブラウが囃しに出て来たりもした。
 とても無理だと、乗れはしないと遠巻きに見ていた者たちもいたが。



「乗れるようになった時には嬉しかったな、あれは」
 実に頼もしい相棒だった、とハーレイは懐かしそうな笑顔で。
「だろうね、颯爽と走ってたものね。ハーレイも、ゼルも」
 コミューターが故障する度に見たのだった、とブルーは時の彼方に流れ去った光景を思い出す。
 白い鯨を、シャングリラの中を走った自転車。
 濃い緑色のマントを靡かせ、自転車で走るキャプテンを。キャプテン・ハーレイの後姿を。
(うん、ぼくはホントに見ていたんだよ…)
 夢の中ではなく、現実で。現実の世界で自転車に乗っていたキャプテンを。
 もっとも、コミューターが安定した後。
 ゼルたちの改良が功を奏して、メンテナンス以外ではもう動かなくなることは無くなった頃。
 自転車は役目を終えたとばかりに、全て壊れてしまったのだけれど。
 ハーレイたちが便利に使っているからと他の何人かが乗っていたものも含めて、全部。
 それきり二度と作られもせずに、補充もされなかったのだけれど…。
(リオなんかは自転車、現地調達組だしね)
 ジョミーを一旦船に迎えた後、アタラクシアへ戻した時。リオはジョミーを自転車に乗せて二人乗りをして走っていた。草原を、道路を、自由自在に。
 けれど自転車はリオが地上で入手したもの。それに自転車に乗る練習すらしていない。
 アルテメシアへの潜入班で自転車に乗っていた者たちは、元から乗れた者だけだから。子供時代から自在に乗りこなしていて、自転車さえあれば直ぐに走れた者だけだから。
 ゆえにシャングリラに自転車は無くて、ブルーもハーレイも忘れていた。
 自転車がシャングリラに在った時代を、ハーレイが、ゼルが自転車に乗って走った時代を。



 一度思い出すと、記憶は溢れて来るもので。
 切っ掛けをしっかり掴んでしまえば、鮮やかに蘇って来るもので。
 ハーレイは小さなブルーが学校で見付けた記憶の欠片に感謝しながら、昔を語った。
「あれでなかなか難しいんだぞ、シャングリラの中を走るのは」
 学校の中を走るのとはわけが違うさ、自転車なんぞは全く想定していないからな。
「スリップするしね?」
 シャングリラの通路。人が歩くのと、運搬用の車両くらいしか…。運搬用の車はシャングリラに合わせて開発された車だったし、自転車のタイヤとは違うものね。
「うむ。自転車で走るとあの通路が、だ。雪道と言うか、アイスバーンと言うか…」
「ハーレイ、雪道、走ったの?」
「今の俺がな」
 お前が行ってる学校の生徒くらいだった頃には走っていたさ。
 車の免許が取れてから後は、そういう無茶はしなかったがな。雪道を走るなら車の方がマシだ。安定もいいし、それ専門のタイヤってヤツもあるからな。
「その雪道。…シャングリラの中と比べて、どうだった?」
「当時の俺にはキャプテンの頃の記憶なんてものは無かったが…」
 雪道の方が危険だな、うん。シャングリラのツルツルの通路よりもな。
「転んじゃった?」
「ああ。派手に転んだらスニーカーとズボンに見事に穴がな」
 転んで、滑って。道路にはザラザラしている部分もあるから、其処で擦り切れちまったんだ。
 あるだろ、滑り止めを作ってある部分。あそこのザラザラに持って行かれちまった。
 俺のお気に入りのスニーカーとズボンを連れ去られちまって、二つともゴミになっちまったさ。



「そ、そっか…。シャングリラでは…」
 大丈夫だった?
 キャプテンの制服の靴とズボンは無事だった…?
「穴が開くなんてことにはなってない。キャプテンがそれだと大間抜けだぞ」
 まあ、スピードも出さないからな。そうそう派手には転ばないさ。
「スピードって…。ハーレイ、雪道でスピード出してたの?」
「度胸試しというヤツでな。何処までスピードを上げて走れるかと、せっせとペダルを」
「うわあ…」
 自分でやってて転んじゃったんだ?
 避けようのない事故じゃなくって、スピードの出し過ぎで滑っちゃったの?
「そうなるな。アッと思ったら、もうハンドルを取られてたってな」
「誰も見ていなくて良かったね、それ」
 それとも誰かに見付かっちゃった?
 学校の友達とか、友達のお母さんだとか。でなきゃハーレイのご近所さん。
「いや。有難いことに誰も居なかったな」
 穴の開いた靴とズボンで家に帰る道でも、誰にも会わずに済んだのさ。
 雪がドッサリ降った休日の朝だし、みんな暖かい家の中でゆっくりしてました、ってことだ。



 凍った雪道で派手に転んだという今のハーレイ。ブルーと似たような年頃のハーレイ。
 転んだ時にはどういう顔をしていたろうか、と想像しかけたブルーの頭に浮かんだ光景。少年の頃のハーレイではなく、今のハーレイの姿でもなく。
「そういえば、キャプテンだった時のハーレイ…」
 シャングリラの通路で転んでなかった?
 コミューターが止まって自転車で通路を走っていた時、滑ってベシャッと転んでなかった…?
「お前、俺が転んだのを見ていたのか?」
「転んだ後をね。転んじゃった、って気配だけをね、青の間で感じ取ったんだけど…」
「本当か?」
 それにしては描写がやたらと具体的だぞ、ベシャッとだなんてどうして分かる?
 転んだ後なら俺が通路に倒れているだけだと思うがな…?
「…転ぶトコからホントは見てた…」
 おっと、っていう思念を拾っちゃったから、何かと思って。
 そしたらハーレイが転ぶ所で、自転車ごとベシャッと通路に突っ込んでったよ。
「なんで止めない!」
 前のお前だったらサイオンで充分、止められたろうが!
 それこそ自転車ごとでも止められた筈だぞ、俺がすっかり転んじまう前に。
「つい、見ちゃってた…」
 珍しいな、って。自転車にはもう慣れた筈なのに転んじゃったよ、って。
「見世物じゃないぞ!」
「ごめん…!」
 だけど誰にも喋っていないよ、前のぼく。キャプテンが転ぶのを見たなんてことは。
「当たり前だろうが…!」
 ソルジャーがベラベラ喋ってどうする、キャプテンの恥を。
 お前は笑って終わりかもしれんが、俺は当分、ブラウたちに笑いものにされるんだ…!



 キャプテンの威厳も何もあったものではない、とハーレイは渋面を作る。
 広いシャングリラの中を全力疾走すると制服が汗まみれになってしまうから、と選んだ自転車。威厳を保つために乗って走っていた自転車。
 それで転んだと、練習以外の時に転んだと知れてしまえば、誰もが笑いを堪えるだろう。
 自転車で走るキャプテンを見たなら、キャプテンが自転車でやって来たなら。
 いくら急ぎの用があるのだと分かっていたって、つい笑わずにはいられない。このキャプテンが転んだのかと、転んだ時の様子はどうだったのかと。
 それに噂には尾鰭がつく。
 転んだというだけでは噂は終わらず、雪だるまのように膨らんでゆく。
 下手をしたなら、シャングリラに自転車が在ったことを綺麗に忘れる代わりに、生まれ変わった後までも忘れない情けない記憶。赤っ恥の記憶になったかもしれず、それを思うと恐ろしい。
 よくぞ人前では転ばなかったと、前のブルーが黙っていてくれて助かった、とハーレイは小さな恋人を見ながら胸を撫で下ろした。
 今のブルーだったら些か危ない。珍しいものを目にした喜びでポロッと喋ってしまいかねない。
 子供ゆえの純真無垢さと無邪気さでもって、「今日、ハーレイが転ぶのを見たよ」と。
 「自転車で転ぶハーレイを見たよ」と、帰宅するなり母に報告してしまうとか…。



 それは勘弁願いたい、と小さなブルーを見詰めていたら。
 そうならないよう、気を付けて走ることにしようと考えていたら、ブルーの方でもこう言った。
「前のハーレイが転んじゃうトコ、止めなかったことは謝るけれど…」
 止めずに見物しちゃってたことは謝るけれど。ごめんなさい、って謝るけれど…。
 だけど、今度はホントに止められないから。
 ぼくのサイオン、とことん不器用になっちゃってるから、今度はホントに止められないよ?
 学校でハーレイが転びそうになっても、ぼく、見ているしかないんだからね…?
「分かっているさ。今のお前に期待はしてない」
 止めてくれるとも思っちゃいないぞ、だから自分で気を付けるまでだ。
 お前に家でウキウキしながら報告されてはたまらんからな。俺が自転車で転んでいた、と。
 お父さんやお母さんに報告されたら赤っ恥だし、転ばないよう気を付けて走る。
 ところで、だ…。
 お前、自転車には乗れるのか?
 自転車通学とか、そんなのじゃなくて。自転車には一応、乗れるのか、お前…?



「えーっと…?」
 何を問われたのか分からなくて。ハーレイの問いの意図が分からなくて、ブルーは途惑う。
 自分が自転車に乗れるかどうかが、何故、問題になるのだろう?
 ハーレイが乗っていた自転車の話を二人でしていた筈なのに…。
「乗れるのか、と訊いているんだ」
 お前、身体が弱いから。自転車なんてものとは縁が無いかもしれんがな…。
「…ちょっとくらいなら…」
 ほんの少しなら乗れると思うよ、下の学校の時に自転車教室があったから。
 乗れない子供でも乗れるように、って教えに来てくれたよ、ボランティアのおじさんたちが。
 支えて貰って走ったりしたし、一人で走るのも少しだけ…。
 それを毎年やっていたから、乗るくらいだったら多分、出来るよ。
 自転車教室、年に何度もやっていたしね。



 学校を休みがちだったブルーだけれども、自転車教室の機会は沢山あったから。
 自分専用の自転車を買って欲しいと思うほどには上達しなかったけれども、乗ることは出来た。自転車に乗ってなんとかバランスが取れる程度には。
 ハーレイは「ふうむ…」と腕組みをすると。
「自転車の腕前、その程度か…。だが、嫌いではないんだな?」
「うん。乗れたらいいな、って思うけれども、沢山走ったら疲れちゃうしね…」
 だから自転車は持っていないよ、ぼくの自転車。もちろん自転車通学も無理。
 ハーレイみたいに颯爽と自転車で走って行けたら、きっと気分がいいんだろうけど…。
「なるほどなあ…。お前が乗りたいと思うんだったら、サイクリングにでも出掛けるか?」
「サイクリング…?」
 そんなの無理だよ、ぼくは少ししか乗れないし…。ほんのちょっぴりしか走れないし。
 ハーレイと一緒にサイクリングなんて、絶対、置き去りにされちゃうから!
 それにすっかり疲れてしまって、自転車だって自分で乗っては帰れないよ…。
「そんなトコだろうな、お前じゃな。前のお前みたいに瞬間移動も出来ないし…」
 しかしだ、そういうお前にピッタリの自転車ってヤツがあるんだぞ。
 そいつで二人で走らないか?
「…どんな自転車?」
「二人乗り用の自転車っていうのがあるのさ、後ろに乗るってわけじゃなくって二人で一台」
「えっ…?」
 二人で一台って、どういう意味?
 後ろに乗るのを二人乗りって言うんじゃないの…?



「そのまんまの意味だ、一台の自転車に二人分のサドルとペダルがついているんだ」
 タンデム自転車って呼ばれているなあ、二人どころかもっと人数が多いのもある。
 二人で漕ぐから、そりゃあスピードが出るらしい。
 ついでに、きちんとバランスを取って乗りさえ出来るなら。落っこちないようにサドルに座っていられるんなら、後ろに乗ったヤツはペダルを漕がなくっても自転車はちゃんと走るんだ。
 だから、お前が俺の後ろに乗れるなら。
 俺がペダルを漕いでやるから、サイクリングと洒落込まないか?
 いつかタンデム自転車を買って。
「…ホント?」
 そんな自転車、本当にあるの?
 ぼく、漕がなくても
ハーレイと一緒にサイクリングに出掛けられるの…?
「ああ。ちゃんとバランスが取れるんだったら、もうそれだけで充分だってな」
 それに俺が言ってるタンデム自転車。
 実在してるし、たまに走ってるヤツらを見かけるぞ、郊外へ行けば。
 夫婦とか、恋人同士とか。そんな組み合わせのヤツらが多いな、二人乗りだしな?
 俺とお前なら丁度いいだろ、まさに俺たちのために存在するような自転車じゃないか。



「そうかも…。その自転車、乗ってみたいかも…」
「良さそうだろ? タンデム自転車でサイクリングだ」
 お前は気が向いた時だけペダルを踏めばいいのさ、俺の後ろで。
 乗ってるだけなら疲れないだろ、バランスさえきちんと取れるんならな。
「うん。…多分、ぼくなら大丈夫。自転車教室で何度も教えて貰ったから」
 タンデム自転車っていうヤツだったら、ハーレイと一緒にサイクリングに行けるんだよね?
 二人乗り用の自転車だったら…。



 一台の自転車にサドルとペダルが二つずつ。二人で乗るためのタンデム自転車。
 実物をまだ見たことは無いし、想像するしかないのだけれど。
 その自転車なら、ハーレイの後ろに乗った自分は漕がなくても走ってゆけると言うから。
 気が向いた時だけペダルを踏んで走ってゆけばいいと言うから。
 いつかハーレイに漕いで貰って走るのもいいな、とブルーは思う。
 二台で走れば置き去りにされてしまいそうだけれど、その自転車なら大丈夫だから。
 疲れずに何処までも気持ちよく走ってゆけそうだから。
 車でドライブも素敵だけれども、たまには自転車。
 ハーレイが漕いでくれるタンデム自転車に乗って、郊外を巡るサイクリングロードを二人で…。




         自転車・了

※自転車で走っていたキャプテン・ハーレイ。改造直後だったシャングリラの中で。
 今は当たり前になった自転車、いつかブルーとタンデム自転車で走ってゆくのも素敵です。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








 

 ぼくがなりたいと思っているもの。いつかなるんだ、と決めているもの。
 それはハーレイのお嫁さん。
 前のぼくたちは結婚どころか、恋人同士だっていうことさえも内緒で秘密だったから。最後まで言えずに終わってしまって、歴史にも残りやしなかったから。
 今度は堂々と結婚するんだ、結婚式を挙げて二人一緒に暮らすんだ。
 ぼくはまだチビで、十四歳にしかなっていなくて。結婚出来る十八歳まではまだ遠くって…。
(だけど結婚するんだよ)
 その時が来たら、ウェディングドレスか白無垢を着て。
 パパやママや、ハーレイのお父さんとお母さん。みんなに祝福されて結婚。
 そうしてハーレイのお嫁さんになる。それがぼくの夢で、いつか必ず叶う夢。



(でも、その前は…?)
 ハーレイに出会う前には、何だったろう?
 ぼくがなりたいと思っていたものは。将来の夢って、何だっただろう…?
(んーと…)
 咄嗟にこれだ、と出て来ない夢。
 ハーレイのお嫁さんっていう素敵な夢に食べられちゃった?
 だって、前のぼくの時から憧れてただろう、お嫁さん。前のぼくたちには結婚なんて夢のまた夢だったから。ハーレイのお嫁さんになんかなれやしない、と分かっていたから諦めてただけ。
 お嫁さんになれる日なんか永遠に来ない、と分かっていたから思い付きさえしなかっただけ。
(前のぼくも、きっと…)
 心の何処かで夢を見ていた。ハーレイのお嫁さんになるっていう夢。
 絶対に叶いっこなかったんだけど。
 シャングリラの運命を握る二人じゃ、ソルジャーとキャプテンじゃ、結婚なんて…。
 結婚出来ずに終わってしまった前のぼくたち。恋人同士だとさえ明かせないままで、さよならのキスさえ交わせないままで。
(なのに今度は結婚だものね)
 幸せすぎる未来が待ってる、今のぼく。
 前の生から憧れ続けた夢が実現する、今度の人生。
 とびっきり幸せな夢が形になる日を待っているんじゃ、それまでの夢も忘れるよね?
 将来は何になりたかったか、何になろうと思っていたのか。
 でも…。



 幸せすぎる夢に食べられちゃったか、飲まれちゃったか。
 ハーレイと再会するよりも前の将来の夢が出て来ない。行方不明で思い出せない。
(何だったっけ…?)
 今の世の中、人間はみんなミュウだから。
 寿命はうんと長いんだから、その気になったら進路変更はいつでも、何度も出来るんだ。外見の年を若いまんまで止めているから、上の学校に入り直しても浮いたりしないって聞いている。
 やりたい道をホントに一から、勉強からだってやり直せる時代。
 そんな具合だから、将来の夢は文字通りの夢。
 年齢制限があってやり直しの出来ないスポーツ選手とかを除けば、将来の夢は描き放題。途方もない夢に見えていたって、大抵の人は実現させちゃう。長い寿命がある間に。
(だから将来の夢は夢なんだよね…)
 あれもこれもと欲張る子だとか、どれにしようか決められない子も少なくなくて。
 もちろん、スポーツ選手になる、って決めてる子だって大勢いるけど。
(ぼくの夢って…)
 何だったのかな、将来の夢。ハーレイのお嫁さんって決めるよりも前になりたかったもの。
 漠然と学者になろうかな、って思ってたくらい?
 何の学者だとも決めてなくって、本を読むのが好きだから、って。
 あちこち飛び回って調査しなくちゃ研究出来ない、体力勝負の分野の学者は無理だろうけど。



(なりたかったものって…)
 何だったろう、と改めて考え直してみれば。
 なろうと思った学者でさえも「この分野だ」って決めていなかったぼく。
 動物を追い掛けて走り回るような分野の学者は無理だ、と消去法で決めそうだった、ぼく。
 そんな調子だから、小さな頃から将来の夢なんて御大層なものは無かった気がする。
 だって、生まれつき身体が弱かったから。
 幼稚園の頃から、みんなみたいに元気一杯とはいかなかった、ぼく。
 熱を出しては休んでた。休まなくても、駆け回る友達を見ているしかなかったことも多くて。
 学校に行くようになれば、もっとハッキリ分かってくる。
 ぼくの身体では出来ないこと。弱い身体では決して入っていけない世界。
(…大きな夢なんか見られないんだよ…)
 スポーツ選手も、花形職業の宇宙船のパイロットも。
 弱い身体じゃ体育の授業に付いていくのが精一杯で、スポーツ選手には手が届かない。
 健康でなくちゃ入学できないパイロット養成学校も同じ。
 諦めるよりも前に気付いてしまって、夢を見る前にブレーキをかけて。
 そういう風に育って来たから、これだっていう夢が無かった、ぼく。
 将来の夢を持たずに育ってしまった、ぼく。



(…結局、ぼくってお嫁さんなんだ)
 ハーレイと再会出来たお蔭で、それは素晴らしい将来の夢が出来たけど。
 それが無ければ、きっとぼくには何も無かった。
 自分に向いていそうな分野を選んで、上の学校に行って、学者になって。その道でコツコツ研究したって、「これが好きだから」と思ったかどうか…。
(…やっぱり、学者になるよりお嫁さん向き…)
 幸せに生きてゆける道、って言うんだったら、断然、お嫁さんなんだ。
 ただし、ハーレイのお嫁さん限定だけど。
 ハーレイのお嫁さんになった後にも、お嫁さんと両立させたい夢っていうのが何も無い。
 ぼくは男なのに、お嫁さんだけで充分満足、それだけで幸せ一杯になる。
 大きくなったら会社に行くとか、ハーレイみたいに先生だとか。
 そんなのは全然浮かんでこない未来で、ハーレイもそれでいいって言ってる。
 「俺が帰った時に家にいてくれる嫁さんが一番なのさ」って。
 ハーレイを「行ってらっしゃい」って見送って、「お帰りなさい」って迎えて、二人で暮らす。そういうお嫁さんが居てくれればいいと、一緒に暮らせればそれでいいんだと。



(お嫁さんかあ…)
 思いもよらなかった将来の夢。いつか実現する、ぼくの夢。
 お嫁さんなんていう選択肢だけは、それだけは全く無かったと思う。
 基本は女の子がなるものだから。
 「将来はお嫁さんになる」って言う女の子は今だっているし、幼稚園の頃にも沢山いたし…。
 だけど「ふうん…」って思っていた、ぼく。
 羨ましいとも思わなかったし、お嫁さんになろうとも全然思っていなかったのに。
(意外すぎだよ)
 そのお嫁さんになろうだなんて。
 本物の将来の夢が見付かったと思ったら、「ハーレイのお嫁さん」になることだったなんて。
 自分でも本当に驚くしかない、とんでもなさすぎる将来の夢。
 パパとママもきっと、腰が抜けるほどビックリしちゃうと思うけど…。
 ぼくがハーレイと結婚する、って言った時には。



(あれっ?)
 パパとママ。
 ぼくが「お嫁さんになる」って言ったら、腰を抜かしそうなパパとママ。
 そのパパとママに、ずうっと昔に止められた記憶。「それは無理よ」と言われた記憶。
 それは無理だと、なれやしないと。
(ぼくって何かになりたかった…?)
 パパとママが無理って言ったんだったら、それは本物の将来の夢。
 なれそうもないのに、なりたいと夢見ていた何か。
(…それって、なに…?)
 ちょっと気になる。
 ううん、ちょっとどころかかなり気になる、小さかったぼくがなりたかったもの。
 小さな子供が言うことだったら、普通は「なれるといいわね」って言ってくれると思うんだ。
 パパだってきっと、「なれると思うぞ」って期待を持たせてくれたと思う。
 なのに二人して無理だの、なれやしないだのって…。
 子供相手に有り得ない。
 よっぽど凄くて、子供の夢では済まないほどに大きすぎて絶対に叶わない夢…?
 早い内に無理だと言い聞かせないと、勘違いして道を踏み外すとか…?
 スポーツ選手とかパイロットではないと思うんだ。
 ちょっぴり思い出して来たから。
 なりたかったものはぼくに似ていて、なれるかもしれないと思ったんだから。



 小さかったぼくに良く似ていたから、なりたかったもの。
 パパとママとに無理だと言われた、止められてしまった将来の夢。
 いったい、ぼくが目指してたものは、なりたかったものは何だっただろう…?
(…まさか、ソルジャー・ブルーってことは…)
 いくらなんでもないよね、きっと。
 伝説の英雄になろうだなんて、大それた夢にもほどがあるから。
(でも、ぼくにそっくり…)
 そういう何かになりたかった記憶。ぼくに見た目がそっくりの何か。
 やっぱりソルジャー・ブルーだったのかな?
 だから「無理よ」と言われたのかな、頑張ってもなれやしないって。子供の夢でも無理なものは無理で、せめてパイロットくらいにしておきなさい、って。
(…ぼくって、実は偉いのが好き?)
 大英雄のソルジャー・ブルー。いくら似てても、その英雄になりたいだなんて。
(だけど…)
 無理だって言ったパパとママとの笑い声の記憶の感じからして、幼稚園くらいだった、ぼく。
 そんな小さな子供の頃にソルジャー・ブルーって分かってる?
 ブルーって名前はぼくにそっくりの人から貰ったんだ、って聞いていたって、理解出来てる?



(んーと…)
 幼稚園にはフィシス先生の像があったけど。
 小さな子供がよじ登れるように手を差し伸べていた、真っ白な像があったけど。
 フィシス先生が誰なのかなんて、あの頃のぼくは知らなかったし…。
 それさえ分かっていないというのに、ソルジャー・ブルーなんて分かるだろうか?
 フィシス先生の像はあっても、フィシスと対になるソルジャー・ブルーの像は無かった筈で…。
(…フィシス先生!?)
 そうだ、思い出した。
 フィシス先生の膝に登って、順番が空くのを待っていた。
 幼稚園の制服を着ていたぼくが、休み時間になったら其処にチョコンと乗っかって。
 早くみんなが飽きちゃわないかと、ウサギの小屋の前が空かないかと。



(…ウサギ…)
 小さかったぼくがなりたかったもの。
 パパとママとが「無理」って言う筈で、なりたかったものは赤い瞳に白い毛皮のウサギだった。ぼくとおんなじ赤い瞳に、銀じゃないけど白い毛皮で。
 ウサギになりたいと思っていたから、友達になりたくて小屋の中を覗き込んでいた。
 そうしていれば友達になれて、いつか誘われてぼくもウサギになれるかも、って。
(…でも、なんでウサギ?)
 ウサギの小屋に住みたかったってわけじゃないだろう。
 小屋と言っても広くて綺麗なものだったけれど、ウサギの小屋にはベッドは無いし…。羨ましくなるほどに、住みたくなるほどに素敵なスペースとは思えない。
 だったら何故、と幼稚園時代の記憶をせっせと掘り起こしてみて。



(遊びの時間…!)
 休み時間には小屋の中だけど、子供たちと遊ぶ時間はウサギたちは小屋から外に出て来た。広い園庭をあちこち自由に跳ねて回ったウサギたち。
 みんなに人気で、元気なウサギ。駆けっこしたって敵わないウサギ。
 どんなに跳ねても走り回っても、ぼくみたいに疲れて寝込んだりしないウサギたち。
 あんな風に元気になれたらいいな、とウサギに憧れたんだった。
(ニンジンを毎日沢山食べたら、ぼくもウサギになれるかも、って…)
 ウサギの好物は赤いニンジンだったから。
 ぼくの御飯もニンジンにしてよ、ってママに強請って、ウサギになるって言い張って…。
 それでパパとママに笑われてしまったんだっけ。
 ウサギなんかにはなれやしないと、ニンジンを食べても人間がウサギになるのは無理だと。
 ついでに、こうも言われたんだった。
 「ウサギになったら家に帰って来られないぞ」って。
 それはとっても困るから。
 ウサギになって元気になれても、家で暮らせないと困ってしまうから。
 庭で飼ってよ、って駄々をこねてた記憶もある。
 家の庭にウサギの小屋を作って、ウサギになったぼくを飼って欲しいと。



(…ウサギ…)
 よりにもよって、それが小さかったぼくがなりたかったもの。
 パパとママも呆れる将来の夢。超特大の将来の夢。
 流石に幼稚園を卒園する頃には「無理らしい」と分かっていたけれど。
 たとえウサギと仲良くなれても、人間のぼくがウサギになることは出来やしないと。
(…そして今度はお嫁さんだよ…)
 ぼくが将来、なりたいもの。
 ウサギの次には「お嫁さん」だなんて、ぼくはどれほど変なんだろう?
 誰が聞いても笑い出しそうなウサギの次は、パパとママが腰を抜かしそうな「お嫁さん」。もう少し普通の、人並みの夢って無いんだろうか…?



 そういったことを考えていたら、ハーレイが仕事帰りに寄ってくれたから。ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「ハーレイ、子供の頃には何になりたかった?」
「そりゃあ、スポーツ選手だな。子供の夢では定番だがな」
「やっぱり…」
 予想してたけど、ハーレイの夢はごくごく普通。ウサギなんかは夢見てなかった。ぼくみたいにヘンテコな夢じゃなくって、ちゃんと実現できそうな夢。
 実際、ハーレイはプロのスポーツ選手にだってなれそうだったのを断ったんだし…。
 ぼくって駄目だと、やっぱり変だと溜息をついてしまったら。
「おい、どうかしたか?」
 スポーツ選手は変だったか、ってハーレイに顔を覗き込まれて、ぼくは素直に白状した。
「…ぼくって、ウサギだったんだよ…」
「はあ?」
「ウサギだよ。ぼくが小さかった頃になろうと思っていたもの、ウサギなんだ…」
 ホントのホントにウサギなんだよ、なれると思っていたんだよ。
 ぼくとおんなじ赤い目をしてて、毛皮の色だってぼくの髪の毛の色と似てたから…。



 ちょっぴり恥ずかしかったけれども、ぼくはハーレイに説明した。
 ウサギに憧れて、なろうとしたこと。
 家の庭で飼って貰おうと思って、パパとママとに強請っていたこと。
 ハーレイは最初の間は笑っていたけど、最後まできちんと聞いていてくれて、こう言った。
「ふうむ…。まあ、ウサギでもいいんじゃないか?」
 ウサギになれるかどうかはともかく、お前だったら夢がウサギでも。
「なんで?」
「ウサギってヤツは月だからな」
「月?」
「空にある月だ。月はウサギで、太陽はカラス。ずうっと昔の日本って国じゃそう言ったんだ」
 太陽にはカラス、月にはウサギが住んでいる、ってトコから太陽が金烏で月が玉兎だった。
 お前、見た目が月みたいだしな?
 真っ白な肌で、銀色の髪で。イメージで言うなら月だろうさ。
 それに目の色はしっかりウサギだ、髪の色だって充分、ウサギで通るし。



 ハーレイがぼくはウサギでもかまわないだなんて言い出したから。
 ウサギになりたかった夢を笑い飛ばさずに、ウサギでもいいって言ってくれたから。
「じゃあ、ハーレイはカラスなの?」
「は?」
 なんでカラスだ、俺の夢はスポーツ選手だったと言った筈だぞ。
「ぼくはハーレイ、太陽みたいだって思っているもの。お日様がとても似合うんだもの」
 ハーレイ、カラスになりたくないの?
「いや、そいつは…。俺はそういう夢はだな…」
「そっか…。だけど、ハーレイ、ちょっぴりカラスに似ているよ?」
「何処がだ?」
「肌の色がカラスに似ていない?」
 ぼくと違って褐色だよ。カラスに似てると思うんだけど…。
「カラスは黒いぞ?」
「だから、ちょっぴり」
 真っ黒だったらカラスだろうけど、褐色だから、ほんのちょっぴり。少しだけカラス。
「ちょっぴりか…。そんなトコだろうな、俺は太陽になれるカラスほど偉くはないからな」
「ぼくも月のウサギみたいに偉くはないよ?」
「前のお前だったら偉いだろうが」
 ソルジャー・ブルーだ、ミュウの歴史の始まりになった大英雄だぞ。
 地球が蘇ったのも前のお前のお蔭なんだし、今の地球で月を見られるのもそのお蔭だろ?
 月のウサギ並みに偉いと思うが、前のお前は。
「それは無し!」
 前のぼくの話は入れちゃ駄目だよ、こういう時には。
 ウサギになりたかったのは前のぼくじゃなくて、今のぼくだから。
 前のぼくはウサギになりたいだなんて、一回も思っていないんだから…。



 ハーレイが言った月のウサギは、玉兎とかいう月のウサギは今のぼくには似合わないけれど。
 ウサギになろうと思ったくらいの、ちっぽけなぼくには偉すぎて手が届かないけれど。
 だけど、ウサギになりたかった、ぼく。
 もしもウサギになっていたなら…、と考えてみた。
 それでもハーレイと会えただろうか?
 ハーレイはちゃんとぼくを見付けて、ぼくだと分かってくれただろうか…?



「ねえ、ハーレイ。ぼくがウサギになっちゃっていたら、ハーレイ、どうする?」
 そのウサギ、ぼくだって気付いてくれる?
 ハーレイの家の庭に小屋を作って、ウサギになったぼくをちゃんと飼ってくれる…?
「お前がウサギになっていたら、か…。もちろん、直ぐに気付くだろうな」
 これはお前だと、お前がウサギになったんだ、と。
 そして俺もだ、ウサギの小屋を作る代わりにウサギになるさ。
「ウサギ!?」
「お前が言うのは白いウサギだが、茶色いウサギもいるんだぞ。そっちが普通だ」
 野生のウサギは茶色いもんだぞ、この辺りじゃな。
「そういえば…。だけどハーレイ、ウサギになってどうするの?」
「決まってるだろう、お前と一緒に暮らすのさ」
 ウサギ同士なら、太陽のカラスと月のウサギよりずっと近くで暮らせるぞ。
 同じ巣穴に住めるんだからな。
 お前が住んでた巣穴が俺が住むには狭すぎるんなら、頑張って掘って広げりゃいいし。



 ハーレイも一緒にウサギになるだなんてビックリだけれど。
 ウサギのぼくを飼うんじゃなくって、ウサギになって一緒に住むなんてビックリだけれど…。
 そう言ってくれるハーレイだから。
「ハーレイ、ぼくがウサギになっちゃっていたら、探してくれた?」
 ウサギ小屋でも、ペットショップでも。
 ウサギになったぼくを探しに、あちこち回って見付けてくれた…?
「当然だろうが。さっきも言ったろ、たとえウサギでも見付けられないわけがない」
 お前はお前だ、一目で分かるに決まってる。
 そうやってウサギのお前を探し当ててだ、俺がウサギになるための方法を探すのさ。
「…どうやって?」
 どうすれば分かるの、ハーレイがウサギになる方法。
 幼稚園の頃のぼくには分からなかったよ、どうすればウサギになれるのかが。
「なあに、簡単なことだってな」
 お前に訊けば分かるだろうが。お前、ウサギになっているんだから。
「あっ、そうか!」
 ちゃんとハーレイと話が出来たら教えられるね、人間がウサギになる方法。
 本物のウサギなら分かっているよね、人間を仲間にする方法も。
「そうだろう? それを教わって俺もウサギになるまでだ」
 俺の家は空家になっちまうんだが、あんな住宅地の庭で暮らすより郊外の野原や山がいいだろ?
 安全な場所に巣穴を作って、お前と一緒に住むんだ、俺も。
 そういう暮らしも悪くないよな、お前がウサギになってた時はな…。



 ぼくがウサギになっていたなら、ハーレイも人間をやめてウサギになる。
 白い毛皮に赤い瞳のウサギじゃなくって、茶色い毛皮をしたウサギに。きっと瞳は鳶色なんだ。同じウサギでもぼくより強くて、巣穴だって軽々と広げてくれる。
 二人で住んでも狭くないように、うんと広々と暮らせるように。ウサギで二人は変かもだけど、二羽とか二匹じゃしっくりこない。ハーレイと一緒なら、やっぱり二人。
 白いウサギと茶色いウサギで、おんなじ巣穴で仲良く暮らして…。



 そこまで考えて気が付いた。
 ハーレイがウサギになったぼくを探し当てて一緒に住むのなら。ウサギになって暮らすのなら。
「じゃあ…。ぼく、どっちにしたってお嫁さんなんだ」
「はあ?」
 ぼくがポロリと零した言葉に、ハーレイが変な顔をしたから。
 まるで通じていないようだから、ぼくは慌てて最初から話した。ハーレイが来るよりも前に頭に浮かんでいた疑問。将来の夢が「お嫁さん」になる前は何だったのか、っていう話。
「ハーレイのお嫁さんになるんだ、って夢が出来る前は何だったかな、って…」
 何も無かったみたいなんだけど、って考えていたらウサギだったんだよ。
 だけどウサギになっていたって、ハーレイに見付けて貰って同じ巣穴に住むんだったら…。
「なるほど、たとえウサギでも嫁さんだってな」
 俺の嫁さん。茶色いウサギになった俺の大切な嫁さんなんだな、真っ白なウサギ。
「うん」
 毛皮の色はハーレイと全然違うけれども、ウサギのハーレイのお嫁さん。
 ウサギになっても、ぼくの夢はハーレイのお嫁さんみたい…。



 もうちょっとマシな将来の夢は無いんだろうか、って言ったんだけれど。
 将来の夢はお嫁さんかウサギで、ウサギの方でも結局はお嫁さんなんて、って言ったんだけど。
「…ぼくってやっぱり何処か変かな、お嫁さんになれればいいなんて…」
 前のぼくと違って、とても駄目そうな感じなんだけど…。
 ソルジャーどころかお嫁さんだけで満足だなんて、きっとみんなに笑われちゃうよ。
 今の世界の友達だったら笑う代わりに「おめでとう」って祝福してくれそうだけれど、ゼルとかブラウだとか。あの二人は絶対に大笑いするし、ヒルマンとエラだって笑いそうだよ。
 ソルジャー・ブルーはどうなったんだ、って、お嫁さんなんかでかまわないのか、って。
「それでいいのさ、今度のお前は」
 頑張って何かになろうとしなくても、俺の嫁さんで。
 お前になりたいものが無いなら、嫁さんでいればいいだろう?
 住む家も暮らしも、俺がちゃんとするし。ウサギだったなら巣穴も広げると言っただろうが。
 お前は何もしなくていいんだ、今度はのんびり暮らせばいいのさ。



 前に頑張り過ぎたからな、ってハーレイはぼくの頭を撫でてくれた。
 今度は頑張らなくてもかまわないんだと、前のぼくの分まで自由にのびのび暮らせばいいと。
「そいつは俺の夢でもあるんだ、俺が前の俺だった時からな」
 お前を守ってやりたかったが、前の俺には不可能だった。そのせいでお前を失くしちまった。
 しかし今度は違うからなあ、俺はお前を守ることが出来る。
 お前を俺の家に住ませて、飯も食わせて、うんと幸せにしてやれるってな。
 俺が望んでやってることだし、お前は俺に任せておけ。そうしてくれれば俺も幸せ一杯だしな。
「本当に? ただのお嫁さんだけでかまわないの、ぼく?」
「嘘は言わんさ、お前は嫁さんだけをやってろ。他にやりたいことが無いなら」
「無いよ、ぼくの夢はハーレイのお嫁さんになることだけだから」
「なら、決まりだな。嫁さんってことで」
 夢の実現に向けて大きくなれよ、ってハーレイは優しく微笑んでくれた。
 急がずにゆっくり、ゆっくり育って前のぼくと同じ背丈まで、って。
 ぼくの将来の夢はお嫁さん。大好きなハーレイのお嫁さん。
 もしもウサギになってたとしても、ハーレイのお嫁さんだった、ぼく。
 今度はハーレイと結婚するんだ、前のぼくが行きたいと焦がれ続けた青い地球の上で…。




         将来の夢・了

※幼かった頃は「ウサギになりたい」と思っていたブルー。真っ白で赤い目をしたウサギに。
 もしもウサギになっていたなら、ハーレイもウサギになるのだとか。それも素敵かも。
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 学校からの帰り道、家の近所のバス停で降りて歩いてすぐの家。ブルーの目の前で庭に向かって飛び込んで行った一羽の小鳥。
(えーっと?)
 見慣れた雀などとは違ったように見えたから。
 何の鳥だろうと生垣越しに覗いてみれば、小さな庭池の畔で尻尾を上下させている鳥。長い尾が特徴のセキレイだった。魚を食べると聞いているから、それを目当てに下りたのだろう。
(魚、獲るかな?)
 運が良ければその瞬間を見られるかも、と暫く見ていたけれども、魚は些か大きすぎたらしく。尻尾を上下させながら池の周りを一周した後、セキレイは空へと飛び去ってしまった。
 いともあっさり、ためらいもせずに。



(残念…)
 魚には少し可哀相だけれど、見てみたかった。セキレイが獲物を獲る所を。狙いを定めて目にも留まらぬ速さで嘴を突っ込み、ピチピチと跳ねる魚を咥えた所を。
(魚を獲る鳥、この辺りでは見かけないものね…)
 有名な所ではカワセミだとかサギ。
 その種の鳥には住宅街ではお目にかかれないし、せいぜいセキレイくらいだろう。そのセキレイだって水辺でないと魚は獲らない。庭に来たって、土の中の虫をつついて食べているだけ。
 だから庭池めがけて下りたセキレイに期待したのに、獲物を獲らずに去ってしまったとは、運が無かったと言うべきか。
 ブルーは一度も鳥が魚を捕まえる所を見たことが無い。映像ならば知っているけれど、肉眼では未だにただの一度も。
(…ハーレイのお父さんは色々と見ているんだろうけど…)
 釣りが大好きで、川へ、海へと出掛けるというハーレイの父。
 そうした場所なら魚を狙う鳥だって沢山いるに違いない。サギやカワセミ、それからカワウも。海ならカモメもきっと舞っている。
(…いいな…)
 いつかは自分も見られるだろうか。
 ハーレイと結婚したなら、釣り名人のハーレイの父も一緒に釣竿を持って海や川へと。釣り糸を垂れて獲物を狙えば、鳥たちも同じように魚を狙っているだろうか…。



 見損ねてしまった、セキレイの狩り。
 待っていたって舞い戻って来る筈も無いから、家に帰って、制服を脱いでおやつを食べて。
 二階の部屋に戻ってから庭を見下ろしたら、其処に来ていた。尻尾の長いセキレイが。
(ぼくの家だと魚は無理だよ?)
 生憎と庭に池は無かったし、セキレイの餌は土の中に住む虫くらい。それをせっせと探しているらしく、芝生をチョンチョンと跳ねてゆくセキレイ。長い尾羽を上下に振って。
(…疲れないのかな?)
 あんなに尻尾を振りっ放しで、と思うけれども、セキレイにとっては日常のこと。バランスでも取るのか、それとも他に理由があるのか。
(じっとしていられない性分だとか?)
 人間で言うなら貧乏ゆすり。まさかね、とクスクス笑っている間に、セキレイは羽を広げて飛び去った。また魚でも探しに行くのか、あるいは他の家の庭で虫を食べるのか。



(今日はセキレイと縁があるよね)
 帰り道で見たのと同じ鳥かな、と頬が緩んだ。池の魚を狙っていたセキレイ。
 あのセキレイが自分に会いに来てくれたのかも、と。
(…セキレイに知り合いはいないんだけどね?)
 毎日見かける鳥ではないし、顔馴染みというわけではない。単なる通りすがりの鳥。
 そう思ったけれど、もしかしたら、あれは。
(ブラウとかゼルとかだったりする?)
 自分とハーレイのように生まれ変わって、青い地球の上を飛んでいるとか。人間ではなくて鳥の姿で、セキレイになって自由を満喫しているとか…。
(いくらなんでも、それは無いよね)
 だって鳥だよ、とセキレイが飛んで行った方角の空を眺めた途端。



(…セキレイ?)
 ブラウでもなく、ゼルでもなく。
 もちろんヒルマンやエラでもなくて、そういう名前の少年がいた。まさにセキレイ。
 遠い遥かな歴史の彼方に。流れ去って行った、時の彼方に。
(セキ・レイ・シロエ…)
 あまりにも短かった生涯だけれど、彼の名前は今も歴史に刻まれている。ミュウの歴史を教える授業に彼の存在は欠かせない。
 前の自分もその名前だけは聞いていた。
 ただし、単なるミュウの子として。ミュウ因子を持った幼い少年。
 アルテメシアを追われた混乱の中で、ジョミーが救い損ねてしまった子供の名前。あと少しだけ早く見付けていたなら、助け出せたかもしれない子供の名前。
 発見が遅れて救えなかった子供は少なくないから、彼もその一人となる筈だったけれど。
 救い出せなかったことを詫びるしかない不幸な子として、記憶されてゆく筈だったけれど…。



(キースと出会ったんだよ、シロエは…)
 奇跡的に成人検査を通過し、エリートコースに入ったシロエ。
 何事もなく歩み続けていたなら自らがミュウであることも知らず、気付くことなく、その生涯を平穏に終えていたかもしれない。
 けれども世界はそれを許さず、シロエはシステムに馴染めなかった。ミュウであるがゆえに。
 人類が歩むためのコースは彼には向かなかったのだろう。機械の思考を嫌うミュウには、人類が何の疑いも抱くことなく頼り、縋り付いている管理システムは受け入れ難いものだから。
(シロエには教育ステーションの生活は合わなかったんだ…)
 大人社会への旅立ちの準備をする教育ステーション。シロエにとっては機械に管理された檻。
 合うわけがなくて、システムに従って懐かしい記憶を捨てることなど出来るわけもなくて。
 独り反抗して、逆らい続けて、自らの心に正直に生きて。
 その果てに宇宙に散ってしまった。
 自分が乗った船を撃墜したキースの心に棘を残して、彼の出生の秘密を暴いて。
(…だけど、キースに直ぐには伝わらなかったんだよ…)
 シロエが命懸けで手にした、キースの生まれに纏わる秘密。
 それは長いこと見付からなかった。知られないままで眠り続けて、役立たなかった。もっと早い時期にキースがそれを知っていたなら、様々なことが変わっていたかもしれないのに。



 危うく無駄死にになってしまいかねなかった、シロエの最期。
 彼が暴いたキースの秘密は、一冊の本に隠されていたと授業で習う。シロエの船が宇宙に散った後、残骸の中から偶然にも回収された一冊の本。
 爆発に耐えて残ったピーターパンの本が無ければ、明かされなかったキースの秘密。
(…ほんの偶然…)
 回収したのが軍の上層部であったなら。本は処分され、何も残らなかっただろう。
 そうならずに残り、キースの手元に辿り着いたのは神の意志なのか、歴史の必然だったのか。
 シロエはそれを望んだだろうが、可能性は限りなく低かった。
(ステーションに置いていたなら処分されたし、爆発で砕け散っても何も残らない…)
 ほんの僅かな偶然に賭けて、シロエはピーターパンの本を手に宇宙へ飛んで行ったのだろうか。それとも過酷な検査の末に正気を失い、闇雲にステーションを脱出したのか。
(…どっちだったのか、誰にも分からないんだよ…)
 キースからの通信にシロエの応答は無かったと言うから。
 自らの意志で通信を切ってしまっていたのか、応答できない状態だったか、それすらも謎。何を思って死んでいったのか、今もって謎は解かれないままのシロエの最期。
 確固たる意志と信念の下に死を選んだのか、ただ殺されただけだったのかも。



(どっちにしたって、本が残されたっていう偶然が無ければシロエは無駄死に…)
 彼の人生は何だったのだろうか、と見下ろした窓の向こうの庭。
 セキレイが跳ねて行った庭。
(まさか、さっきの…)
 シロエじゃないよね、と苦笑した。ただのセキレイ、名前がシロエと重なるだけ。
 彼が自分に会いに来るなど有り得ない、と。
 けれど…。



(…シロエ…?)
 前の自分はシロエの声を聞いていなかったろうか?
 アルテメシアに居た頃のまだ幼かったシロエの声ではなくて、もっと後の声。
(地球へ行こう、って…)
 そう呼び掛ける声を聞いた気がする。
 アルテメシアを脱出した後、十五年もの長い年月を眠り続けた自分。
 その眠りの中、少年の声で。
 切ないほどの思いと憧れが託された声で、まるで自分の地球への思いと重なるかのように。



(みんなで行こう、地球へ、って…)
 あの声の主は、思念の主はジョミーだとばかり思っていたけれど。
 ジョミーが紡いだ思念なのだと信じ込んだまま、前の自分は深く眠っていたけれど。
(…あれはジョミーの声じゃなかった…?)
 折に触れて感じ取っていたジョミーのそれにしては、切なすぎた思い。
 あまりにも強すぎた、地球への思慕。
 其処へ行こうと、地球へゆくのだと翼を広げて真っ直ぐに飛んでゆくかのように。
 それに…。



(…ピーターパン…)
 今の今まで忘れてしまって、記憶の海の深い水底に沈んだままで埋もれていた言葉。
 ピーターパンと呼ぶ声が届いた。
 そう呼び掛ける声を確かに聞いた。
 「ぼくは此処だよ」と。
 此処にいるよ、と地球に焦がれる夢の翼を託すかのように。



 セキ・レイ・シロエ。
 幼かった日に出会ったジョミーをピーターパンと呼んだ少年。
 ネバーランドへ、夢の国へと連れて行ってくれると信じた少年。
 救い損ねたままでエネルゲイアに、アルテメシアに残して前の自分たちは旅立ったけれど。
 人類軍に追われて宇宙へと飛び去ったけれど、もしかして、あれは。
 前の自分が眠りの底で聞いた、ピーターパンを呼んでいた声は…。




(…シロエ…)
 目覚めることすらも叶わなかった眠りの中で聞いたのだろうか、シロエの声を。
 その時、自分は捉えたのだろうか…?
 人類の中に紛れてしまったミュウの少年が最期に遺した言葉を。
 紡いだ思念を、前の自分はそれと知らずに拾ったろうか…?
 シロエの声とは気付かないままで、ジョミーの声だと信じ切ったままで。



(…それを言いに来たの?)
 帰り道で出会った、庭池の畔に下りたセキレイ。庭の芝生に来ていたセキレイ。
 まさか、シロエではないだろうけれど。
 あのセキレイは自分に、それを。
(…あれはシロエの声だったんだよ、って…)
 どうか気付いてと、思い出してと姿を見せに来たのだろうか。
 セキレイという名の少年がいたと、その声を聞いていなかったかと。



 アルテメシアを後にした時にジョミーから聞いたきりの少年。
 救えなかったと、自分には何も出来なかったと悔やみ続けていたジョミー。
 前の自分はその少年の、シロエの辿った運命を知らないままに逝ったけれども。
 恐らくはジョミーも最期まで知らなかっただろうけれど。
(…セキ・レイ・シロエ…)
 歴史に名前を残した少年。
 一瞬の内に燃え尽きてしまう流星にも似た、激しくも短い時を駆け抜けて散っていった少年。
 彼が生きた生は、ミュウのものだったか、それとも人類としてのものだったのか。
 人類の中に紛れてしまって、そのまま逝ってしまったシロエ。
 彼の名前は今も歴史にあるのだけれども、その歴史を何と呼べばいいのだろう。
 ミュウの歴史でもなく、人類の歴史でもなく、どちらの歴史と呼ぶべきか。
 恐らくは、それはヒトの歴史。
 ミュウと人類とが手を繋ぎ、共に歩み始める前の束の間に刻まれた一人の人間の歴史。
 人類か、ミュウか。
 シロエがどちらの生を生きたかったかは、誰にも分からないのだから。



(…もしもシロエの声を聞いたのならば…)
 シロエの声を本当に捉えていたのだったら。
 キースに教えてやりたかった。
 シロエとキースとの関係を知っていたならば。シロエがどう生き、誰に命を絶たれたのかを。
 あの一瞬にそこまでを捉えていたなら、キースに伝えていただろう。
 自分はシロエの声を聞いたと、シロエの船を墜としたことを何も後悔していないのかと。
 そうすれば変わっていたかもしれない。
 色々なことが。
 ミュウの未来や、赤い星、ナスカ。それにキースが歩んだ道も。



(何もかも手遅れなんだけどね…)
 全ては遠い歴史の彼方で、前の自分も、キースもとうの昔に消えてしまった存在。
 時を戻すことなど出来はしないし、問おうにもキースは何処にもいない。
 会えた所で、それは今のキース。今の自分と全く同じで、記憶を継いでいるというだけ。
 シロエのことを話したとしても昔語りにしかなりはしないし、何が変わるというわけでもない。
 けれど気になる。
 記憶の底から蘇って来た、あの声の主が心にかかる。
 あれはシロエの思いだったろうか、と。



 シロエの声か、そうではないのか。
 分からないままに勉強机の前で考え込んでいたら、来客を知らせるチャイムの音。窓から見れば庭を隔てた門扉の向こうに手を振る長身の人影が在った。
 ハーレイ。かつてはキャプテン・ハーレイだった恋人。
 彼ならば知っているかもしれない。あの声の主が誰だったのかを。
 自分の部屋でテーブルを挟んで向かい合いながら、ブルーはハーレイに尋ねてみた。
「ハーレイ、変なことを訊くけど…」
「どうした?」
 不審そうに眉を寄せた恋人に、遠慮がちに問う。
「シロエの声…。聞いた?」
「…シロエ?」
「うん。…セキ・レイ・シロエ。…前のハーレイだった時に」
 ぼくが眠っていた間のことだよ、キースがシロエの船を撃墜した時。
 その頃にハーレイは聞いてないかな、シロエが遺した最期の思いが届かなかった?
「そう言えば、ジョミーがそんなことを…」
 俺は直接、シロエの声を聞いてはいないが。
 ジョミーも誰の声とも言わなかったが、「キャプテンの君には話しておく」と。
 誰かの思いが突き抜けて行ったと、掴むことは出来なかったのだが、と…。
 時期としてはシロエの船が墜とされた時と重なっていた。
 ずいぶん後になってから、当時の航宙日誌を読み返していて気付いたんだがな。
 シャングリラへの攻撃が激しくなったのはこのせいだったかと、良かれと思ってやった人類への思念波通信が彼らに悪影響を与えてしまったのか、と当時の日誌を読んでみた。
 其処に書いてあったさ、ジョミーが感じた「誰かの思い」というヤツも。



「じゃあ、あれはやっぱりシロエの声だったんだ…」
 地球への思い。みんなで行こう、って…。地球へ行こう、って。
「聞いたのか、お前?」
 前のお前は聞いていたのか、シロエの声を?
「うん、夢の中で。…だからジョミーの声だったんだと思ってた…」
 馬鹿だね、ぼくも。
 シロエの名前は聞いていたのに、シロエがジョミーを何と呼んだかも知っていたのに。
 小さかった頃のシロエはピーターパンと呼んでいたんだよ、ジョミーのことを。
 あの声は確かにピーターパンと呼び掛けていたのに。
 「ぼくは此処だよ」と呼んでいたのに。
 もしも前のぼくが、シロエの声だと気付いていたなら…。
 そうすれば掴めていたかもしれない、シロエがどういう状況だったか。
 どんな思いで地球を目指したか、キースとの間に何があったか。
 もしかしたら、キースの正体までも。シロエが命懸けで掴んだ、キースの秘密も。
 前のぼくが全てを掴んでいたなら。
 あの時、シロエの思いを逃すことなく捉えていたなら、何もかも変わっていたかもしれない…。



「そうかもな…。そうかもしれんな」
 お前ならば、とハーレイは腕組みをして深く頷いた。
「ジョミーには無理でも、お前だったら可能だったか…」
 あの頃のジョミーはまだ粗削りで、細かな心の襞まで捉える力が無かった。
 だが、前のお前だったら、ほんの一瞬、通り過ぎただけの思念も掴むだけの力はあったっけな。
「…うん。たった一瞬でも捕まえてしまえば読めたから」
 其処にこめられた思いの全てを読み取ることが可能だったから。
 だから、しっかりとシロエを捕まえていれば…。通り過ぎた瞬間に捕まえていれば…。
 でも、出来なかった。
 そうしようとさえ思わなかったし、そうしなければとも思わなかった。
 ジョミーだとばかり思い込んでいたから、通り過ぎるままにさせてしまった。
 全部、手遅れ…。
 何もかもがすっかり遅すぎたんだよ、今頃になって気付いても。
 あれはシロエの思いだった、と今になって知っても、何にもならない…。
 前のぼくは何一つ出来なかった。
 十五年間もただ眠っていただけで、シロエの思いさえも捉えようともせずに。
 何の役にも立たなかったよ、あれがシロエだと気付いていれば…。
 気付きさえしたなら、同じキースを相手にするにも、より深く入り込めただろうに。
 キースの心に揺さぶりをかけて、マザー・システムへの懐疑心を植え付けられただろうに。
 ぼくがシロエからキースの生まれを、彼の正体を直接聞き出していたならば…。
 そうして、シロエから得たメッセージとしてぶつけていれば。
 ぼくの言葉ではなくて、シロエの言葉で正面からキースに叩き付けていれば…。



 手遅れだった、とブルーは悔やむ。
 シロエがその身に抱え込んで散った、地球への思い。
 自分の思いに似ていたそれを掴めば良かったと、どうして捕まえなかったのだろう、と。
 俯いてしまったブルーの頭に、ふわりと大きな手が置かれて。
「そんなものさ。…世の中っていうのは、そんなものだ」
 後悔先に立たずと言うだろ、それに後悔どころか時効だ。
 いつの話だと思っているんだ、前のお前がシロエの思いを感じ取った頃。
 前のお前が生きてた頃だぞ、まだナスカでさえ影も形も無かった時代でうんと昔だ。
「でも…。あの時、ぼくが気付きさえすれば…」
 気付いていたなら、深い眠りの底であっても。
 シロエを捕まえて話を聞けたよ、シロエの思いを全て取り込むという形で。
 何があったのか、何を見たのか。どうして死んでしまったのかも…。
 キースがシロエを殺したことまで、前のぼくは知ることが出来たのに…。
「仕方ないだろう、前のお前は出来るだけのことをしたんだから」
 シロエの思いを捕まえ損ねた件はともかく。
 キースについては、やるだけのことはきちんとやったと思うがな?
 目覚めて間もないフラフラの身体で先回りしたり、挙句の果てにメギドを沈めに飛んでったり。
 それだけ頑張った前のお前を責めようってヤツは誰もいないさ、お前だって悔やむことはない。
 シロエのことは残念だったが、眠っていたんじゃシロエだって許してくれるだろう。
 「どうして気付いてくれなかった」と怒鳴り付けたりはしないと思うぞ。
「うん…」
 シロエはずいぶん、気が強そうな感じだけれど。
 八つ当たりだってしそうだけれども、流石に前のぼくに其処までは言わないだろうね…。



 今のぼくなら負けちゃいそうな気もするけれど、と小さなブルーは首を竦めた。
 シロエに怒鳴り付けられたらパニックになると、「ごめんなさい」と泣くしかないだろうと。
 ハーレイは「ははっ、チビのお前ならそうかもな」と可笑しそうに笑いながら。
「それで、どうして急にシロエなんだ?」
 お前、シロエと接点なんかは無いだろうが。前のお前が夢の中で聞いた声はともかく。
 その声だってシロエかどうか、って俺に訊くのに、何処からシロエの話になるんだ?
 今日は歴史の授業だったか、シロエの話が出て来る辺りの?
「そうじゃなくって…。鳥を見たんだよ」
 学校の帰りと、ぼくの家の庭と。
 おんなじ鳥か、別の鳥かは分からないけど、どっちもセキレイ…。
 セキレイって言えば、思い出さない?
 セキ・レイ・シロエ、って。
「ほほう…。そのセキレイがシロエだってか?」
 セキレイになってお前の目の前に現れたってか、あのシロエが?
「多分、違うだろうけどね。最初はブラウかと思ったほどだし」
「さてなあ、そいつは分からないぞ?」
 案外、本当にシロエかもしれん。
 向こうがお前をソルジャー・ブルーだと知っているかはともかくとして、だ。
 鳥のセキレイになっていないとは言い切れないなあ、こればっかりは神様次第だからな。



 人間に生まれるか、鳥に生まれるか。
 それとも地面に根を張る木々に生まれるか、全ては神様が決めることだとハーレイが言うから。
 希望を聞いて貰えるかどうかも神様次第だ、と言われたから。
 小さなブルーは首を傾げて訊いてみた。
「…それじゃ、もしかしたら。…ぼくたちも鳥になっていたかもしれなかった?」
「絶対に無いとは言えないな」
 だが、鳥になるなら注文が一つ。これだけは聞いて貰わないとな。
「何?」
「お前と一緒に鳥になるなら、比翼の鳥でなければ嫌だ」
「なあに、それ?」
 ヒヨクの鳥って何なの、ハーレイ?
「二羽の鳥がいつも一体になって飛ぶんだ、互いに翼を並べ合ってな」
 いつも一緒だから、翼も目も。
 片方ずつあれば充分ってことで、どちらも片方ずつしか無い。そして力を合わせて飛ぶ。
 絶対に離れないように。
「…その鳥がいいな、ハーレイと一緒に鳥になるなら」
 いつだって一緒に飛んで行くんだよ、何処へ行くのにも。
 飛ぶ時も、下りる時も一緒で、食事をするのも寝るのも一緒。
「うむ。俺もそいつで頼みたいもんだな、お前と離れずにいられる鳥で」
 だが、比翼の鳥ってヤツもいいが、だ。
 同じ生きるなら人の身体の方がいいじゃないか、今みたいに。
「そうだよね、前のぼくたちとそっくり同じの身体がいいよね」
 今のぼくはまだチビだけど…。
 いつかは前と同じになるから、前のぼくとそっくり同じになるから。
 だから待ってて、ぼくがきちんと大きくなるまで。ソルジャー・ブルーと同じになるまで…。
「もちろん待つさ」
 何年でも、何十年でもな。
 比翼の鳥よりは断然お前だ、前のお前と同じお前が一番だからな。
 …もっとも、チビのお前も可愛いんだが。
 いくら見てても飽きないぞ、うん。



 鳥になるよりは、やっぱり今の人間の身体がいいとブルーは思うから。
 比翼の鳥も素敵だけれども、やはり人間が一番いいと思うから。
「ねえ、ハーレイ。…もしもあの鳥、シロエだったら…」
 あのセキレイがシロエだとしたら。
 次は人がいいね、シロエそっくりの人に生まれて来られるといいね。
「さあな。…シロエはどっちが好きなんだかなあ…」
 人の身体は二度と御免だ、と思っているかもしれないぞ。
 鳥になって自由に飛んで行こうと、何処までも自由に飛び続けるんだ、と。
「そうかもね…。シロエ、そういうことも言っていたかも…」
 遠い昔に眠りの中で聞いた声。突き抜けて行ったシロエの思い。
 「ぼくは自由だ。自由なんだ。いつまでも、何処までも、この空を自由に飛び続けるんだ」。
 それがシロエの最期の叫び。前の自分が捉えた叫び。
(…シロエは飛んで行けたんだろうか…)
 地球へ行こう、と受け取った思い。空を飛び続けて、いつか地球へ、と。
 シロエも地球まで来てくれていれば、とブルーは願う。
 その姿が一羽の鳥であっても、自分たちのような人であっても。
 彼が最期まで焦がれ続けた、青く輝く水の星の上に…。




              セキレイ・了

※前のブルーが捉えていたらしい、シロエの思念。ジョミーにも掴めなかった最期の思い。
 ブルーがシロエを捕まえていたら、全てが変わっていた可能性も…。歴史はそういうもの。
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(秋の訪れ…?)
 なんで、とブルーは新聞の記事を覗き込んだ。
 学校から帰って、ダイニングのテーブルでおやつの時間。ついでに広げてみた新聞。秋の訪れと謳った記事には一枚の写真が添えられていた。
 山並に囲まれた雲海の写真。何処か山間の盆地なのだろう、昇る朝日に真っ白に輝く一面の雲。文字通りの雲海、まさに雲の海。その真ん中の辺り、船が浮かぶように突き出た山の頂。
(ここだけ高くなっているんだ…)
 盆地の中に聳える山。雲の海にぽっかり浮かんだ船。船の形はしていないけれど、その姿は船を思わせる。
(シャングリラみたい…)
 雲海の星、アルテメシアに潜んでいた船。ミュウたちの楽園だった船。
 白い鯨を思い出させる写真だけれども、問題は「秋の訪れ」と付けられた見出し。雲海を指しているようなのだけれど…。



(あれって、年中あるんじゃなかった…?)
 アルテメシアを覆っていた雲海。一年中、消えることのなかった雲の海。
 ミュウたちの安全な隠れ場所。巨大なシャングリラを人類の目から隠し通してくれた雲海。
 シャングリラはいつも雲の中だった。
 そう、いつだって。一年を通して、常に雲の中。
(雲が消えちゃったことなんて無いよ?)
 隠れ住んでいた長い年月、一度も消えはしなかった雲の海。雲海に包まれていたシャングリラ。
 ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 雲海の中に隠れていたから、誰もが安心して暮らしていられた。人類に発見されたりしないと、この雲の海がある限りは、と。
(あれが消えちゃったら、大変なことになっちゃうんだけど…!)
 シャングリラは隠れ蓑を失い、その船体を曝け出すことになっただろう。そうなれば、たちまち不審な船と認定されて、恐らくは何者かを問う通信。応答しなければ、即、攻撃される。
(そうなったら、もう逃げるしか…)
 ステルス・デバイスだけで完全に姿を消すことも可能ではあったけれども、アルテメシアからは逃げるしかない。姿を消してまで其処に残れば危険の方が大きいから。
 新しい仲間を救い出すことも大切だけれど、船に乗っている仲間たちの命が最優先。皆を危険に晒せはしないし、新しい仲間の救出は諦め、宇宙へと逃げてゆくしかない。



 けれど、そんな目に遭いはしなかった。雲海は一度も消えたりはせずに、アルテメシアを、白いシャングリラを包み続けた。
 雲海の星、アルテメシア。雲の海に覆われ続けた星。
(だからあの星を選んだのに…)
 シャングリラを隠す場所として。
 暗い宇宙を飛び続けていれば、居場所が欲しくなってくる。踏みしめる大地は手に入らずとも、せめて星の上を飛んでいたいと。
 改造を済ませ、白い鯨となったシャングリラで居場所を求めて宇宙を旅した。広い宇宙の中にはきっと条件に適う星があるに違いないと、それを見付けようと。
 そうして辿り着いたアルテメシアは、理想的な星で。
(人類が暮らす育英都市があって、いざとなったら簡単に物資の補給が出来て…)
 おまけに、雲海。
 データでは一年中、雲に覆われた星だというから、アルテメシアに隠れようと決めた。白い雲の海に船を隠せば、決して人類に見付かりはしない。
 雲の中さえ飛んでいたなら、雲の海に潜って飛んでいたなら。



(アルテメシアの雲、秋のものなんかじゃなかったよ…?)
 もしもそうなら、一年の内の四分の一しかアルテメシアには隠れていられなかっただろう。他の季節は宇宙を旅して、秋の間だけアルテメシアに滞在するという、それはさながら渡り鳥。
 しかしシャングリラは渡り鳥にはならなかった。一年を通じてアルテメシアの雲海の中で、長い年月を其処で過ごした。
(だけど、秋って…)
 何故、と雲海の写真を載せた新聞記事を読み進めてみれば、雲海はやはり秋のもの。
 盆地を埋め尽くすほどの雲の海がこうして発生するには、それに適した気象条件があるという。
(んーと…)
 最適な季節は春と秋。
 どちらかと言えば秋の方が多く見られるらしくて、「秋の訪れ」と謳った記事になるらしい。
 今年もこういう季節になったと、雲海が綺麗なシーズンが来た、と。

(アルテメシアが変だったわけ…?)
 今の今まで、雲海は一年中あると思っていたけれど。
 小さなブルーが暮らす地球では違うと言うから、秋のものだと新聞記事になるほどだから。
 アルテメシアはきっと、変わり種の星。秋でなくとも、春でなくとも雲海が発生し続けた星。
 恐らくはそれに適った気象条件が揃っていたのだろう。
 この新聞の写真のように低い盆地を埋める雲ではなかったけれども、あれも雲海。
 消えることのない雲の海なら、普通の雲ではないのだから。
 普通の雲ならいつか消えてしまうし、それが消えずにある星だからとアルテメシアを選んで船を隠していたのだから…。



(でも、綺麗…)
 雲海が出来る仕組みはともかく、秋の訪れを謳った写真。
 こんな風にシャングリラが雲海にぽっかりと浮かんでいたなら。
 雲の海から突き出して見える山の頂のように、雲の海に浮かんだ船を思わせる山のように。
 朝日に照らされた山の頂。
 この山が白い鯨であったなら…、と想像の翼を広げるけれど。
(…そんなシャングリラは見られなかったよ…)
 朝日に輝く白い鯨は。
 雲の海に浮かぶ、白い鯨は。
 あの星ならば朝日でなくとも、シャングリラは雲海の上で光を受けて輝いたろうに。真昼の光も沈む夕日も、シャングリラを鮮やかに照らしたろうに。
 けれど、そんな機会は一度も無かった。シャングリラは浮上しなかったから。
 雲の海から出なかったから…。



(…最後だけだ)
 アルテメシアを離れた時。
 サイオン・トレーサーに追われて浮上した時、シャングリラは昼の光の下に出た。
 それよりも前に、成層圏まで飛び出したジョミーを救い出すために雲海から姿を現しはしたが、あの時は夜。シャングリラを照らし出す太陽の光は何処にも無かった。
 だから機会は一度だけ。
 人類軍の猛攻を浴びてアルテメシアを捨てた、あの戦闘の最中だけ。
(…でも、あの時だって船全体は…)
 多分、見えてはいなかったろう。白い鯨はその姿を隈なく見せてはいなかったろう。
 ブルー自身は船の被害状況を探るのが精一杯で、どういう形で浮かんでいるのかを把握出来てはいなかったけれど。
 アルテメシアを離れなければ、と決断を下しはしたけれど…。
(…シャングリラ、全体が見えてたのかな?)
 雲の海の上に浮かんだろうか、と遠い記憶を手繰ってみても思い出せない。
 仕方ないから新聞を閉じて、食べ終えたおやつの器を母に渡して、部屋に戻って。



(うーん…)
 シャングリラの写真集を開いたけれども、ある筈も無かった。
 ハーレイとお揃いで持っている写真集。懐かしい白い鯨の写真を収めた豪華版。
 今日まで何度も開いたのだし、あったならば記憶に残っている筈。
(…やっぱり無いや…)
 雲海に浮かんだシャングリラの写真。
 さっきの新聞記事で見た写真みたいに、雲海に突き出していた山の頂のように、雲の上に浮かぶシャングリラ。朝日を受けて光り輝くシャングリラ。
 真昼の光でも夕日でもいいのに、その写真が無い。ただの一枚も。
 雲海に浮かぶシャングリラを捉えた写真は一枚も入っていない。
 白い鯨は、あれほどに雲に馴染んでいたのに。
 長い歳月を雲に守られ、雲海の中に浮かんでいたのに…。



(アルテメシアから逃げ出す時には、そんな姿も見えたのかな?)
 雲海の上に浮かんだ白い鯨を自分たちは全く見ていないけれど、攻撃して来た人類軍。それから監視していたであろう、ユニバーサルの職員たち。
 彼らは鯨を見ただろうか。雲海に浮かぶ白い鯨を、光を受けて白く輝くシャングリラを。
(…綺麗だとは思ってくれなかっただろうけど…)
 それでも彼らは見たかもしれない。
 前の自分でさえ、一度も見られずに終わった景色を。雲海に浮かぶシャングリラを。
(誰か見た人、いるのかな…?)
 どうなのだろう、と考え込んでいると、来客を知らせるチャイムの音。窓辺に駆け寄ってみれば長身の人影。庭を隔てた門扉の向こうで、こちらを見上げて手を振るハーレイ。
 これは訊かねば、とブルーは質問をしっかりと頭に叩き込んだ。
 恋人が来てくれた喜びの前に、すっかり吹っ飛んでしまわないように。



 ハーレイと二人、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。
 ブルーは早速、自分の頭を悩ませていた疑問を恋人にぶつけてみた。
「ねえ、ハーレイ。前のぼくたちがアルテメシアから逃げ出した時…」
「ん?」
「シャングリラ、雲海の上に浮かんだ?」
 船全体が雲海の上に見えていたかな、お日様の下に。
「何の話だ?」
 怪訝そうな顔をするハーレイに「今日の新聞だよ」と返した。
「雲海は秋のものなんだって。それでね、朝日に照らされた山の天辺が船みたいで…」
 まるで浮かんでるように見えていたから、シャングリラはどうだったんだろう、って。
 お日様の光で白く光っていたのかなあ、って…。
「ああ、そういう綺麗な景色のことか」
 雲海の上に浮かんでいたかと、船全体が見えていたかって意味なんだな?
「うん。ぼくたちからは見えなかったけど、人類はそれを見られたのかな、って」
 綺麗だっただろうと思うんだけど…。もしも人類が見ていたならば。
 ミュウの船でも綺麗じゃないか、って思う人だって一人くらいはいたかもしれないと思わない?
「あの時は無理だな、船体を全部見せちまったら敵の思う壺だ」
 それに、逃げると決めてワープの準備に入った時。
 その時が一番外に出た部分が多かったんだが、残念ながら半分も見えちゃいないってな。
 上げ舵で船首が真上に突き出しただけだ、お前の望むような景色じゃなかった。
「そっか…」
 残念、とブルーは溜息をついたけれども、諦め切れない雲に浮かんだシャングリラ。
 雲海の上で光り輝くシャングリラ。
 だから恋人に重ねて尋ねることにした。ハーレイはそれを知っているかもしれないから。



「その後にも、無い?」
 シャングリラと、雲海。それが綺麗に見えるような時。
「いつだ?」
「アルテメシアに戻った時とか…」
 前のぼくが死んじゃった後に、アルテメシアに行ったでしょ?
 その時に雲海の上に浮かんでいないの、シャングリラは?
「うーむ…」
 ハーレイの眉間に皺が寄ったから、ブルーは「なあに?」と首を傾げた。
「どうしたの、ハーレイ? ぼく、変なことでも訊いちゃった?」
「お前、歴史をきちんと勉強してたか?」
「えっ?」
「居眠りしないで聞いていたか、ということだ。ついでにちゃんと覚えたのか、と」
 馬鹿、と額を指先でピンと弾かれ、「いたっ!」と大袈裟に押さえてみせたブルーだけれど。
「何するの! 痛いよ、ハーレイ!」
「馬鹿で間抜けなお前が悪い。雲海とシャングリラっていう組み合わせで頭がパンクしてるな」
 いいか、授業で教わる基礎の基礎だぞ、「忘れました」では済まないレベルだが?
 よくよく歴史を思い出してみろ。
 アルテメシア侵攻は夕方からだと習わなかったか、学校で?
「そういえば…」
 宣戦布告は夕方だった、って習ったかも…。
 陥落した時は夜だったかも…。



「ほら見ろ、馬鹿」
 ハーレイにまたも「馬鹿」と言われて、ブルーは唇を尖らせたけども。そのハーレイは気にせず続きを口にした。
「アルテメシアには夜の間に降りちまったんだ、雲海も何も無いってな」
 雲を突き抜けて降りた後には、アタラクシアの上空に停泊していたし…。
 次の目標へとアルテメシアを出発した時も、のんびり雲の上にはいないさ。突き抜けただけだ、真っ直ぐ宇宙へ向かってな。
「じゃあ、シャングリラが雲海の上を飛んでいる景色って…」
「見たヤツは誰もいないんじゃないか?」
 俺が思うに、誰一人として。
「えーっ!」
 そんな、とブルーは叫んだけれども、ハーレイの手が伸びて来て。大きな手がブルーの頭を軽くポンと叩いて、クシャリと撫でて。
「これはキャプテンとしての俺の勘だが…」
 あの船のキャプテンを誰よりも長くやっていた俺の勘なんだが。
 シャングリラが雲海に浮かぶ所は、誰一人として見ちゃいない。そんな気がするな、それを見たヤツは誰もいないと。



 雲海に浮かぶシャングリラ。
 それを見た者は誰もいないとハーレイが言うから。キャプテンとしての勘だと言うから、小さなブルーは首を捻った。何故ハーレイはそう言えるのかと、誰もいないと言えるのかと。
「なんで? …どうして誰も見ていないって言えるの?」
「勘だと言ったろ、ヒントはお前も持っているんだ。その写真集さ」
 あれだ、とハーレイが指差した先にシャングリラを収めた写真集。勉強机の上に置かれたままになっていたそれを示して、ハーレイは「あれに入っていないだろう?」と問い掛けた。
「何が?」
「お前の言ってる、雲海に浮かぶシャングリラの写真。あの中にそれは一枚も無い」
 もしも誰かがそれを見たなら、きっと写真集に入っているだろう。
 お前の想像どおりの景色を見たヤツがいたら、写真を撮らない筈がない。綺麗なんだからな。
 写真はたちまち評判になるし、そいつを撮ろうと頑張るヤツだって出て来るさ。
 そうして写真集を作ろうって時には絶対に入る。
 宇宙空間もいいが、そいつを何枚も載せるよりかは、雲海に浮かぶ姿だろうが。
 シャングリラと言ったらアルテメシアで、アルテメシアは今も昔も雲海の星で有名なんだぞ。



「そうかも…。ハーレイの言う通りかも…」
 本当に誰も見なかったのかもしれないね。シャングリラが雲海に浮かんでる所。
 絶対、似合う筈なのに…。とても綺麗だろうと思ったのに…。
「俺はシャングリラ全体を雲海の中で肉眼で見てはいないんだが…」
 前のお前はサイオンの助けを借りて見ていた。アルテメシアで外へ出る度にな。
 雲海とシャングリラを一番長く見ていたお前でも、今まで気付かなかった景色だ。雲海に浮かぶシャングリラってヤツは。
 トォニィたちが思い付かなくても仕方ないだろ、シャングリラと雲海の組み合わせを。
 乗ってるヤツらが気付いてないんだ、他のヤツらがそうそう気付くか?
 よっぽどの偶然ってヤツが無ければ出会えない景色で、まず見られない。
 そして見たヤツはきっと誰もいなくて、シャッターチャンスも無かったのさ。



 誰一人として知らない景色だ、とハーレイは語る。
 一面の雲の海に浮かぶシャングリラの姿は誰一人知らず、見もしないままで終わったのだと。
「写真集が出るほどの船なんだぞ? 其処に無いなら、そういう景色も無かったんだ」
 雲海の上を飛んでいることはあったんだろうが、どう見えるかに気付かなかった。
 だから無いんだな、その写真は。
「…だけど、写真もそうだけど…。せっかく雲海の星に居たのに…」
 前のぼく、どうして気付かなかったんだろう?
 シャングリラを雲の海に浮かべたら綺麗だってことに。きっと綺麗に違いない、って…。
「雲海に対する認識ってヤツの違いだな。前のお前と、今のお前と」
 今のお前は日頃から普通に雲を見てるし、雲海の写真も「綺麗だ」と思って眺めているが、だ。
 前のお前はそうじゃなかった。雲海はシャングリラを隠すためのもので、眺めるためのものじゃないんだ。其処にシャングリラを浮かべようだなんて、絶対に思い付く筈が無い。
 あの時は浮かぶには危険すぎた。雲海の上に浮上したなら、ステルス・デバイスに何かあったら見付かって攻撃されるだけだ。シャングリラは雲の中に隠れているしかなかったわけさ。
 そして平和な時代になったら、もう雲海は要らなかったんだ。何処にでも堂々と停泊出来るし、雲の海は必要無いってな。



「…もしかして、並び立たないの?」
 シャングリラと雲海。
 雲海に隠れるか、雲海なんて無い場所に堂々と出るか。シャングリラにはそれしか無かったの?
「そういうことだな。なまじ隠れ蓑にしていたっていうのが仇になった、と」
 堂々と出られる時代になったら、誰も雲海を見向きもしなくなっちまった。
 突き抜けて飛んでゆくことはあっても、上にのんびり浮かんでいようとは思わなかった。
 だから誰一人、そいつを見てはいないんだ。どう見えるのかにも気付かないままで。
「シャングリラ…。雲海の上に浮かべてあげたかったな」
 白く眩しく光って見えるように。綺麗な船だ、って分かるように。
 朝日でも夕日でも、真昼のお日様でもいいから、一回くらいは雲海の上に…。



「それを言うなら月も良くないか?」
 月の光だ、とハーレイが挙げる。満月の光も悪くはない、と。
「お月様?」
「雲海は此処じゃ秋のものだが、秋は月だって綺麗に見えるぞ。なんたって月見が二回もある」
 秋だけで二回だ、芋名月と豆名月。芋名月が仲秋だな。豆名月は栗名月とも言うんだが…。
 満月は年中あるというのに、月見と言ったら秋だけだろう?
 しかも二回もだ、他の季節には一度も月見が無いのにな?
 その満月の光でシャングリラを照らしたら映えると思うぞ、雲海の上で。
「お月様で光るシャングリラかあ…」
 白って言うより銀色だね、きっと。
 お月様がもう一個あるみたいだよね、銀色の鯨の形をしたのが。
「月の光っていうのもいいだろ、綺麗なシャングリラが見られそうだぞ」
 雲海も月の光を映すからなあ、そりゃあ夢みたいな景色だろうさ。月とシャングリラ。
「見てみたかったな、お月様の下のシャングリラ…」
 見たかったな、と呟いたブルーは「あれっ?」と声を上げた。
 頭に浮かんだアルテメシア。さっきハーレイに「馬鹿」と呆れられた歴史の大切な一コマ。
「それなら、アルテメシア侵攻の時にも…。夜だったんだし、お月様なら…」
 シャングリラ、雲海の上で綺麗に光っていたかも!
 誰も見ていなかった、ってだけで。
「おいおい、アルテメシアに月があったと思うのか?」
「………。お月様、あそこには無かったね…」
 無かったっけ、とブルーはガックリ肩を落とした。
 月明かりを浴びたシャングリラが雲海の上に浮かぶ機会も無かったのか、と。



「…シャングリラ、雲海に浮かぶのは無理だったんだ…」
 あんなに長い間、雲海の星に潜んでいたのに。
 平和になってからも長い間、シャングリラは宇宙のあちこちへ旅をしたのに…。
 ただの一度も雲海の上に浮かべなくって、写真も写して貰えなくって…。
 きっと綺麗なのに、雲海の上に浮かんでいたなら。
 お日様の光でも、お月様でも、とても綺麗なシャングリラが見られたと思うのに…。
「そういう写真は残ってないんだ、誰も見ちゃいないっていうのが本当だろうさ」
 思い付かなかったトォニィのセンスの無さを恨んでおけ。
 もっとも、あいつはアルテメシアとは縁が無いのも同然だからな、雲海も馴染みが無いってな。
「…うん、トォニィを恨んでおくしかないみたい…」
 残念だけど、とブルーは時の流れが連れ去ってしまった白い鯨を思い浮かべた。
 きっと雲海が似合っただろうシャングリラ。
 一面の雲の海に浮かべば、朝日や月に照らされて浮かべば、どんなに美しかったことか。
 雲の海を本物の海に見立てて、鯨が浮かんでいるかのように。
 白い船体を朝日の赤や月の銀色に染めて輝いていれば、どんなにか…。
 シャングリラはSD体制が崩壊した後も、長く宇宙に在ったのだから。
 姿を留めていたのだから。
 トォニィが雲海の美に気付きさえすれば、素晴らしい写真が残せただろうに…。



(…シャングリラ…)
 雲海に浮かぶ、白い鯨を見たかった。
 此処は雲海の星ではなくて地球だけれども、今日の新聞で見た写真のように。
 山に囲まれた盆地を覆った白い雲の上に、白い鯨を浮かべたかった。
 どうやら此処では秋のものらしい、白い雲海。その雲の海に浮かぶシャングリラを…、と未練を断ち難いブルーの頭に、ポンと浮かんで来たアイデア。
「そうだ、合成!」
 シャングリラの写真は幾つもあるから、合成したら作れるかも…。
 光の具合とか、上手く合いそうな写真を見付けて、雲海の写真と合成したら作れそうだよ。
 雲の海の上に浮かぶ所を、白いシャングリラが浮かぶ写真を。
「お前、そこまでやりたいのか?」
 合成してまでシャングリラを雲海に浮かべてみたいってか?
「駄目?」
 うんと綺麗だと思うんだけど…。
 シャングリラが雲海に浮かんでる写真、合成でも素敵だと思うんだけれど…。



 作りたいな、とブルーの思いは彼方へと飛んだ。
 遠い昔に暮らした船へと、白い鯨だったシャングリラへと。
 あの鯨を雲の海に浮かべてやりたい。たとえ合成写真であっても、一面の白い雲海の上に。
 朝日でも夕日でも、月の光の下であっても…、と夢を見ていたら。
「なら、いつかやるか?」
 向かい側に座った恋人に声を掛けられた。
「いつかって?」
 ハーレイ、合成してくれるの?
 シャングリラの写真と、雲海の写真。
「俺だけじゃないさ、俺とお前の共同作業だ」
「共同作業?」
 写真の合成って、そんなに大変?
 二人がかりで作らなくっちゃいけないくらいに手間がかかるの…?
「うむ。とてつもなく手間と時間がかかるかもなあ…」
 ただし、とハーレイは笑顔になった。
 運が良ければ一回で済むと、一度出掛けてゆくだけで済むと。



「えーっと…?」
 何処へ出掛けてゆくのだろう、と膨れ上がったブルーの疑問。
 写真の合成は個人の家では出来ない作業で、専門のスペースや機械が要るのだろうか?
 その場では出来を確認できなくて、何度も何度も足を運んでやっと完成に至るのだろうか…?
 けれども写真は作りたいから、それでもいいと思っていたら。
「お前、勘違いをしているだろう? 行き先は山だな」
「山!?」
「そうさ。本物の雲海を見るなら山だ。山の上から見ないと撮れんぞ、雲海の写真は」
 この辺りで見るなら何処になるかな、本物の雲海を何処かから見て。
 そいつの写真を撮って、だな…。
 データベースでそれにピッタリのシャングリラの写真を探せばいい。
 そうすりゃお前の望み通りのシャングリラと雲海の写真が出来るぞ、地球の雲海でな。
「ホント!?」
 シャングリラを地球の雲海に浮かべられるの、それが合成写真でも?
「お前がやりたいと言うのならな」
 しかしだ、雲海ってヤツは天気と同じで気まぐれだ。
 確実に撮れると思って行っても、一面の雲の海にはならなかったり、色々だな。
 手間と時間がかかると言ったのはそれだ、運が良ければ最初の一度で撮れるんだがな。



「撮りに行きたい!」
 何度空振りしても撮りに行きたい、とブルーが強請ると、ハーレイは「ふむ…」と小さな恋人の顔を見詰めて。
「今は駄目だぞ、ちゃんと結婚してからだ。でないと二人で出掛けられないしな」
 そして、雲海を撮るなら早起きだ。
 日の出よりも前から陣取ってないと綺麗な写真は撮れないらしいし、暗い内に家を出ないとな。
「うん、頑張る!」
 寝坊してたら起こしてよ?
 ハーレイ、早起き、得意なんだよね?
「お前なあ…。其処は自分で目覚ましを幾つもかけてみるとか…」
「ハーレイのケチ! 隣で寝てるのを起こすだけでしょ、揺すってくれればいいんだよ!」
「それで起きるか、お前、本当に?」
「起きるよ、雲海を撮りに行くんだろ、って言ってくれたら!」
 いつか二人で撮りに行こうよ、とブルーは恋人と小指を絡めた。
 「約束だよ」と。
 シャングリラに似合う白い雲の海を探しに、それの写真を撮りに行こうと。
 ハーレイと二人、早起きをして見付けた見事な雲海。
 青い地球の上に現れた白い雲海。
 其処にシャングリラが浮かぶ写真を作ってみようと、そうして部屋に飾るのだ、と…。
 
 

 
           雲海の船・了

※ブルーが見たいと思った、雲海に浮かぶシャングリラ。けれど、その写真は無いのです。
 いつか雲海の写真を撮って、合成してみたい白い船。きっと綺麗に映えるでしょうね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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