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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(あれっ、白い…)
 珍しいな、とブルーは生垣越しに見えた庭の中を覗き込んだ。
 学校からの帰り、バスを降りてから家まで歩く間に見付けた白い彼岸花。花壇に一杯。
(これって今頃の花だった…?)
 彼岸花という名前なのだし、彼岸の頃の花ではなかろうか。確か春分と秋分の頃。彼岸花は秋の風物詩だから、多分、秋分の辺りに咲く筈。少々、遅すぎはしないだろうか。
(それに白いよ?)
 彼岸花は赤いと記憶している。
 緑が多いとはいえ、この辺りは住宅街だから。学校への道も田園地帯を通るわけではないから、彼岸花には出会えない。
 けれども群生している写真を何度も見たし、幼い頃には実物も見た。父と母に連れられて歩いた郊外の道で、燃え上がるような赤い彼岸花の絨毯を。



(今頃の花で、おまけに白いの…?)
 彼岸花ではないのだろうか、と眺めていたら、顔見知りのご主人が庭に出て来た。挨拶すると、「おかえり」と笑顔で返してくれて。
「この花、持って帰るかい?」
 ちょうど綺麗に咲いているから、と件の花を示された。
「貰ってもいいの?」
「もちろんさ。喜んでくれる人に見て貰えたら花も喜ぶしね。何本欲しい?」
「一本貰えたら充分だけど…。他にも欲しい人、いると思うから」
「欲が無いねえ。…はい、どうぞ」
 ハサミでチョキンと切って、一本。白い花を生垣越しに貰った。
 せっかくだから、と疑問をぶつけてみることにする。
「えーっと…。これって、彼岸花なの?」
 花の時期が遅すぎるようだけれど、と尋ねてみれば「園芸種だからね」と答えが返った。花壇で育てて愛でるための品種で、野生のものより咲く時期が少し遅いのだと。
「じゃあ、花の色は? 彼岸花は赤いと思うんだけど…」
「野生のは赤いね。でも、こうして庭に植える彼岸花なら赤いのも白も黄色もあるよ」
 赤い花だと野生のものと同じになるから、早い時期に咲いて終わってしまうという。しかし白や黄色の彼岸花なら、今の季節が見頃らしくて。
「ウチじゃ育てたことがないけど、紫っていうのもあるんだよ」
「紫色?」
「鮮やかな紫ってわけじゃなくって、少しだけれどね」
 彼岸花の色に青は無いから、と教えて貰った。紫の彼岸花は白がほんのり紫を帯びたような花。いつか植えようと思っているから、楽しみに待っていてくれると嬉しいね、とも。



(やっぱり彼岸花だったんだ…)
 白い花だけど、と貰って帰った彼岸花。母に見せると、母も咲いていた花壇を見ていたらしく。
「あら、頂いたの?」
 満開になっていたでしょう、と訊かれて「うん」と笑顔で答えた。
「彼岸花とは違うのかな、って覗き込んでたら、好きなだけどうぞ、って」
 でも、ぼくは一本貰えたら充分だから…。他にも欲しい人、きっといるしね。
 彼岸花の話も教えて貰ったよ、これは花壇に植える花だから色も咲く時期も違うんだ、って。
「お話が聞けて良かったわね。確かに彼岸花が咲く時期にしては遅いわよねえ…」
 気付かなかったわ、とカレンダーに目をやる母。もう秋分は過ぎてしまったし、彼岸花の季節も終わってしまった筈だった、と。
「そうでしょ? それに白いし、気になったんだよ」
「見ていたお蔭で貰えたわけね。ブルーの部屋に飾るんでしょう?」
「うんっ!」
「それじゃ、器を取って来ないと…」
 母は背の高いガラスの一輪挿しを選んで生けてくれた。スラリと細い一輪挿し。
「葉っぱが無いのが少し寂しいわね…。でも、これはこういう花だから」
 言われてみれば、花壇の花に葉っぱは無かった。ただの一枚も、緑色の葉の欠片さえも。庭から何か取って来て添えれば彩りになりそうだったが、それは彼岸花本来の姿ではないらしいし…。
(葉っぱ無しでもかまわないよね?)
 花だけでもとっても綺麗だもの、とブルーは一輪挿しを部屋へと運んで行った。



 勉強机の上に彼岸花を飾り、制服を脱いで。
 それから一階のダイニングに下りて、おやつを食べてから部屋に戻って来たけれども。
(匂いは無いんだ…)
 彼岸花の香りはしなかった。持って帰る途中もしなかったけれど、こうして閉め切られた部屋の中なら少しくらいは、と思ったのに。
 小さな百合の花を幾つも束ねて作られたような彼岸花。それに相応しく、百合に似た香り。気品溢れる香りがほのかに漂うのでは、と考えたのに…。
(うーん…)
 もしかしたら、と鼻を近づけてみても全く感じ取れない香り。姿だけらしい彼岸花。
(綺麗な花なのに、もったいないよね…)
 これで素敵な匂いがあれば、と眺めながら宿題を済ませて、読書。白い彼岸花を飾った机で本を読んでいると、来客を知らせるチャイムが鳴って。
(ハーレイかな?)
 椅子から立って、駆け寄った窓から見下ろしてみれば、長身の影が手を振っていた。庭を隔てた向こうに立って、門扉のすぐ脇で上を見上げて。



 母に案内されてブルーの部屋に来たハーレイは、いつもの椅子に腰を下ろすなり、勉強机の上に飾られた花の存在に気付いたらしい。紅茶とお菓子がテーブルに置かれて母が立ち去ると、視線を机の方へと向けた。
「ほう、白い彼岸花か。珍しいな」
「綺麗でしょ?」
 貰ったんだよ、学校の帰りに。覗き込んでたら、好きなだけどうぞ、って。
 でも…。欲張ったら駄目だし、一本だけ。ぼくの机にはこれで充分。
「お前らしいな、一本ってトコが。しかし、白い花か…。まさに曼珠沙華といった風情だな」
「なに、それ?」
「彼岸花の別名さ、曼珠沙華は。本来は天上に咲く花を指す言葉なんだがな、曼珠沙華」
 だがなあ、曼珠沙華は白い花だと言うからなあ…。
「白い花だよ?」
「そいつが白いと言うだけだろうが。彼岸花は元々、赤い花だぞ」
「やっぱり、普通は赤だよね?」
 だから不思議に思ったんだよ、これは白いな、って。おまけに彼岸花の季節とズレてるし…。
「おっ、ちゃんと覚えているんだな。彼岸っていう時期がいつなのかを」
 偉いぞ、とハーレイに褒められた。
 SD体制の時代よりも遥かな昔に、この地域に在った小さな島国。日本と呼ばれた国での季節の行事や暦などは古典の授業の範囲だから。ハーレイは古典の教師だから。
 嬉しくなったブルーは白い彼岸花に感謝した。
 見付けて良かったと、分けて貰えて運が良かったと。



 珍しい白い彼岸花。季節外れの彼岸花。
 園芸品種だからそうなるらしい、と仕入れたての知識をハーレイに披露してみたら。
「ふむ…。今のこの地域じゃ、すっかり園芸植物だしなあ…」
 彼岸花って言えば赤だった時代とまるで違って、花を愛でればいいってことか。必要も無いし。
「必要って?」
 何かに使うの、彼岸花の花。それは赤い花でなくっちゃいけないの?
「花じゃなくって、根っこだな。彼岸花は救荒植物なんだ。ずうっと昔は、飢饉が起こって食べるものが無くなってしまったら。彼岸花の球根を掘り起こして食った」
 何処にあるのか分かりやすいように、田んぼや畑の側に植えたわけだな。其処を掘ったら球根があると、そいつを食ったら生き延びられると。
「あれって、そういう植物だったの!?」
「いざという時に食えるっていうのと、もう一つ。畑の作物を守るためだ」
 彼岸花を側に植えておいたら、モグラや野ネズミ除けになる。昔の人の知恵ってヤツさ。
「ふうん…。役に立つ植物なんだね」
「今ではどっちも必要無いがな。飢饉に備えて備蓄があるし、モグラや野ネズミの害にしたって、そいつのせいで人間様が飢えちまうって時代じゃないだろうが」
 だから田んぼや畑の側には彼岸花っていう約束事だって無くなったのさ。
 田園地帯に彼岸花が沢山咲くというのは人間が作り出した風景だしなあ、地球の自然を元通りに戻してゆくにしたって、何処までやるかだ。
 何が何でも田んぼや畑に彼岸花、と頑張らなくても問題は無い。
 そういったわけで、今じゃ田んぼや畑をやってる人たちにお任せしようってことになっている。彼岸花を沢山植えるのも良し、植えなくても良し、だ。



 それでも植えてある所が多い、と聞かされてブルーは納得した。幼かった頃に見た赤い彼岸花は郊外の田園地帯のものだし、彼岸花のある風景写真も田んぼや畑のものばかりだから。
「そっか…。それで野生の彼岸花は田んぼとかの側にあるんだね」
 野生って言うけど、人間が其処に植えておいた花。役に立つ花だ、って植えたんだね。
「ああ。…だがな、彼岸花は諸刃の剣だ」
「どういう意味?」
「モグラや野ネズミ除けだと言っただろう?」
 どうしてヤツらを防げるのか、ってことだ。彼岸花には毒があるんだ。
「ええっ!?」
 触っちゃったよ、とブルーは慌てたけれども。
 大切に持って帰った上に、飾ってしまったと慌てたけれども、ハーレイは可笑しそうに笑って。
「花や茎には大した毒は入っちゃいないさ、首飾りを作る遊びがあるくらいだしな」
 茎をポキポキと折って、皮だけで繋がるようにして。
 そうやって花の部分を飾りにするんだ、それを首から下げて遊ぶ、と。
 猛毒があったらそうはいかんぞ、たちまちかぶれて大変なことになっちまう。だから花と茎なら大丈夫なんだが、根が危ない。
「根?」
「球根だな。彼岸花の根っこは球根だと言ったろ」
「でも、食べるって…。飢饉の時には球根を掘り起こして食べるんじゃないの?」
「食う前にきちんと毒抜きするんだ」
 でないと、死ぬぞ。猛毒だからな、彼岸花の根は。



 掘り起こした球根をそのまま食べると死んでしまうから。
 すり潰して、更に何度も何度も水に晒して毒を抜いてから、やっと食用に出来るという。それは大変な手間がかかると、口に入れられるまでが大変なのだと。
 小さなブルーには信じられない話。毒を抜かねば食べられないのに、食べるという球根。
「…そこまでするの? 毒があるのに食べるの、球根?」
「そうだ。飢え死にしないためにはな」
 何もしないで飢え死にするより、食えるものなら毒でも食う。そうやって人は生き延びたんだ。
「飢え死にしないようにって、毒…。でも……」
 信じられないって思ったけれども、毒でも食べられるものがあるだけマシだね。
 毒さえ抜いたら、それは普通に食べられるんでしょ?
「そうだが、あるだけマシって…」
 何のことか、とハーレイは首を捻ったけれども、引っ掛かった記憶。遠い遥かな昔の記憶。前の自分を思い出したから、訊いてみた。
「前の俺たちか? 毒の食べ物でも、っていうのは?」
「そう。…ハーレイが食料の残りが一ヶ月分しか無い、って言った時」
 あの時、船には毒の食べ物さえ無かったよ?
 毒を抜いたら食べられるんじゃあ、っていう可能性のある食べ物さえも。
 倉庫の食料が無くなっちゃったらそれで終わりで、何処にも食べ物は無かったんだよ…。



 彼岸花さえ無かったシャングリラ。
 前のブルーが物資を奪いに出掛けるより前、飢え死にの危機に瀕した時もそうだが、それよりも後も食料といえば安全な食べ物ばかりだった。
 つまりは食料が尽きたら終わり。これを食べれば生き延びられる、という物は存在しなかった。有毒の彼岸花でさえ食料になるのに、そうした手段は何も無かった。
 ブルーに指摘され、かつてキャプテンであったハーレイは呻く。
「…シャングリラにはこの手の植物は無かったからなあ、普通に食えるものばかりで…」
「いざという時には非常食だしね」
 毒を抜かなくても、パッケージを開けて食べるだけ。そういうのを備蓄していただけでしょ?
 最後の手段っていうのが無いんだ、彼岸花の球根みたいなもの。
「うむ。非常食を食い尽くしたなら、終わりだったな」
 幸い、そんな事態には一度も陥らなかったが…。
 前のお前が初めて食料を奪いに飛び出して行った時でさえ、俺たちは飢えていなかったし。
 食料の残りが少ないってだけで、食える物はまだ充分にあったからな。



「…前のぼくたち、生き延びるために必死だったけど…。まだまだ甘かったな、って思うよ」
 彼岸花の話を聞いちゃったら。毒の球根でも、いざとなったら食べるって話を聞いちゃったら。
 毒を食べてでも生き延びるんだ、って発想はまるで無かったよ、前のぼく。
 食料を確保することは考えてたけど、それは安全な食べ物ばかりで。毒を食べられるようにするなんてことは、一度も考えもしなかった。
 前のぼくたちよりも遥かな昔に生きていた人たちは、そうしていたのに。彼岸花の球根を食べて生き延びてたのに、そこまでして生きようってことを考え付きさえしなかったよ…。
 新しい種族だったくせに、生き延びる力でSD体制よりも昔の人たちに劣るだなんて。
 やっぱり地面の上で生きていないと駄目なんだろうか、人間って。
 シャングリラの中の世界が全てで、地面を踏まずに生きていたから弱かったのかな…。



「まあ、人間ってヤツは、基本、そうだろ」
 地面の上で生きていたいと願うもんだ。だから地球へと戻ろうとした。
 一度は滅びちまった星でも、人類が其処で生まれた星だ。最初に地面を踏んだ場所だな。
「前のぼくたち、変だったのかな…。地面が無い分、弱かったかな…」
 だから毒の球根を食べてでも、っていう強さが生まれて来なかったのかな…?
「降ろしてくれる地面が無いんだ、仕方がないさ」
 ミュウが降りられる星は無かったし、種族としては弱くなっても船の中だけで生きるしかない。そうだろ、他に選択肢が無かったんだから。
「それじゃ、ナスカは…。ジョミーがナスカに皆を降ろしたのは…」
「人としての生き方を、強さを求めるのならば正しい。…しかし解決策にはならん」
 シャングリラの仲間だけが全てじゃないんだ、ミュウは人類の中から生まれていたんだから。
 俺たちだけがナスカで強く生きても、ミュウという種族を救えはしない。
「そうだね、ナスカに住んでいるだけじゃ、新しい仲間を助け出せないものね…」
「その辺りもあって、ゼルたちが反対していたわけだな」
 ナスカよりも先に地球に行かねば、と。
 一人でも多くのミュウを救うためには、こんな所でのんびり暮らしてはいられない、とな。



 赤い星、ナスカ。
 ブルーはその星を見ただけで終わってしまったけれども、ミュウたちが踏みしめていた大地。
 手放したくないと執着しすぎて、多くの仲間を喪ってしまった赤い星。
 あの星に自分が降りていたなら…、とブルーは思いを巡らせる。赤い大地を踏んでいたならば、ミュウの未来も変わったろうか、と。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくはナスカに降りなかったけれど…」
 降りていたなら、また考えが違っていたかな?
 何が何でもこの星を守る、とキースをさっさと殺してしまって、ナスカを守り切れていたとか。
 地面に降りたら、前のぼくにも強さだとか、逞しさだとか。
 しぶとく生き延びるための知恵や本能、そういったものが備わってたかな…?
「どうだかなあ…」
 前のお前が生き延びる道を選んでくれてりゃ、俺としては嬉しかっただろうが。
 メギドへ飛ばずに残ってくれたら、最高に嬉しかったんだろうが…。
「そういう道だって、もしかしたら。前のぼくが地面に降りてさえいれば、あったのかも…」
 だって、地面の上で生きてるからこそ、いざとなったら彼岸花でも食べられるんだよ。
 毒を食べてでも生き延びる道を地面が教えてくれるんだよ。
 ナスカの地面も、前のぼくに「生き延びろ」って、他の道を教えてくれたかも…。
 同じメギドを止めるにしたって、しぶとく生き残る方法とか知恵を。
「そうかもしれんな…」
 何としてでも生きて帰れと、死ぬんじゃないと言ってたかもな。
 そうなっていたら、本当に全てが変わっていたんだろうが…。
 ただ、今の地球。
 俺たちが住んでる、この青い地球が在るかどうかは分からないがな。



「…そっか…」
 それじゃ駄目だね、と小さなブルーは頭を振った。
 未来を変えても何にもならないと、地球が死の星のままでは意味が無いと。
「ぼくがしぶとく生き延びちゃったら、青い地球は戻って来ないんだ…。それは困るよ」
 前のぼく、今は英雄扱いだけど。
 逆に嫌われちゃっていたかも、しぶとく生き延びた方法によっては。有り得ない、って。
「そんなことにはならんと思うが…。お前、ソルジャーだったんだからな」
 凄いと思われることはあっても、嫌われたりは…。
 そういや、嫌われると言えば、この彼岸花。こいつは昔は嫌われ者の花だったんだぞ。
「毒があるからでしょ?」
「危険だと教えなきゃいけないからなあ、彼岸花を家に持ち込んだら火事になるって話とかな」
「火事!?」
「赤い花だし、火事を連想したんじゃないか?」
 とにかく家には持って入るなと言われていたんだ。今だと信じられないだろう?
「この彼岸花、庭の花壇に植えてたよ? うんと沢山」
 ぼくにもくれたし、火事になるだなんて言ってはいなかったよ。
「平和な時代だということさ。彼岸花の毒なんかは知らなくっても生きて行ける、と」
 もっとも、そいつはSD体制に入るよりもずうっと前から、既にそうだったようだがな。
「火事の花ではなかったの?」
「恐ろしい花だと嫌う世代が減って行ったら、そうなるだろうが」
 毒抜きをしてまで食ってた時代の記憶が薄れりゃ、ただの花だ。
 このとおり綺麗な花だからなあ、園芸品種も作られていって、花壇の花へと変身したんだ。



「彼岸花…。葉っぱがあったら、もっと綺麗なのに」
 どうして花しか咲いてないんだろ、葉っぱは無くって花だけだったよ?
「葉知らず、花知らず、って言うんだ、そいつは」
 花が終わったら、葉っぱが出て来る。葉っぱが消えたら、花が出て来る。両方が揃うってことは無いんだ、花と葉っぱは両立出来ない仕組みらしいぞ。
「それで葉っぱが無かったんだ…」
 ママも「これはこういう花だから」って言っていたけど、葉っぱが無いなんて不思議な花だね。
 だけど、こんなに綺麗な花が咲くのに、球根に毒があるなんて…。嘘みたいだ。
「おいおい、毒があります、って顔をしている物の方が世の中、少ないぞ?」
 如何にも毒だ、って見かけの動物や植物もあるが、大抵は隠し持ってるもんだ。
「そうかもね…」
 彼岸花だって毒を隠してるものね、花じゃなくって球根の中に。
 球根だけ見たら毒かどうかも分からないんだろうね、「毒です」と書いてはいないだろうし…。
 だから「持って帰ったら火事になる」なんて脅したんだね、昔の人は。
 綺麗だから、って下手に近付いたら死んでしまうぞ、って。毒なんだから、って。



 でも…、とブルーは勉強机の上の白い彼岸花に目を遣った。
「同じ昔の人でも、前のぼくたち。地面が無かったから弱かったかもしれない、前のぼくたち」
 毒の球根を食べてでも生き延びてやるって根性があれば。
 彼岸花の球根だって食べてしまえって根性があれば、もっと早く地球に着けていたかな?
 ジョミーの代まで待たなくっても、前のぼくがソルジャーだった間に。
「根性もいいが、君子危うきに近寄らず、と言うぞ」
 食う必要が無かった彼岸花まで食うことはないさ。
 前の俺たちには安全な食い物だけのシャングリラが似合いで、無理に背伸びをしなくってもな。好き好んで毒まで食わなくっても、人類からの逃げ隠れだけで充分だ。
「…危険はほどほどでいいってこと?」
「危険なんぞは無いに越したことは無いんだが、だ。無くせないなら、ほどほどに、だな」
 それにだ、人類から特に隠れる必要が無かった頃にも、食い物は安全だったんだが?
 前の俺が厨房に立ってた時から、毒のある食い物なんかは無かったってな。
「生のパイナップルは?」
 痺れるから毒だって大騒ぎになったよ、パイナップル。ハーレイが料理をしていた頃に。
「あれは一種の事故だろうが!」
「無知と言うか…ね」
 完熟してない生のパイナップルを食べ過ぎちゃったら、痺れるだなんて知らなかったし。
 子供の頃には食べたんだろうに、そういう記憶も消えちゃってたしね…。



「生のパイナップルの件はともかく。ちゃんと調べて料理していたんだ、俺だって」
 どうすれば美味いか、どう組み合わせれば喜ばれるかと、それに栄養バランスもな。
 食料の管理は万全だったぞ、ジャガイモ地獄もキャベツ地獄も乗り切ったろうが。
「いざとなったら彼岸花の球根でも料理してくれた?」
「飢え死にしないためならな。船にそういうのがあったなら、やるさ」
 もちろん皆には毒だなんて言わずに、一人でコッソリ毒抜きをして。
 本当に食えるか試食してから、何食わぬ顔でドンと出すんだ、皿に盛ってな。今日はコレだと、美味い筈だと。彼岸花の球根を料理したとは絶対に言わん。



「それ、キャプテンになった後でも?」
 もしも彼岸花の球根を食べなきゃ生きていけない事態になったら。
 ハーレイ、こっそり厨房に立った?
 キャプテンの仕事じゃないんですが、って厨房のクルーが止めに入っても、追い出してコッソリ毒抜きをしてた…?
「当然だ。そういう時こそ、俺がやらんといかんだろうが」
 厨房のヤツらに任せたんでは腰が引けるし、パニックになったら秘密だって漏れる。たとえ俺が厨房出身でなかったとしても、彼岸花の球根の料理は俺の仕事だ。
 シャングリラのヤツらを生き延びさせるためには手段は選ばん。毒の料理でもな。
「ふふっ。…やっぱりハーレイを選んで良かった」
 キャプテンになって、って頼んで良かった…。
「何が言いたい?」
「毒の球根をコッソリ料理してでも、みんなを生き延びさせなくちゃ、って意地と根性」
 だからシャングリラを運べたんだよ、遠い地球まで。
 踏みしめる地面が無い状態でも、彼岸花の球根だって料理するって言い切るハーレイだから。



「その、地球への道。…前のお前が俺に押し付けたんだがな?」
 ジョミーを頼む、と言いやがって。一人でメギドへ飛んでっちまって。
「…そうだけど…」
 それは悪いと思っているけど、ハーレイだったから頼めたんだよ。
 あそこでぼくを止めはしないと分かってたから、ハーレイの強さが分かっていたから…。
「お蔭で俺は生き地獄だったが? 前のお前を失くしちまって、それでも地球まで行けってな」
「ごめん…。ハーレイがどんなに辛い思いをするかは、全く考えていなかったかも…」
 自分のことだけで精一杯で。ミュウの未来を守ることだけで頭が一杯で。
 ぼくってホントに自分勝手で、うんと我儘だったかも…。
「まあ、いいさ。今日の所は曼珠沙華に免じて許してやる」
「えっ?」
「曼珠沙華だ、あそこの白い彼岸花だ」
 彼岸花の別名は曼珠沙華だと言っただろうが。
 だが、その名前で呼ばれてた頃は、彼岸花は赤い花だった。突然変異で白い花が咲くってことはあったかもしれんが、基本は赤だ。白い花だという本物の曼珠沙華とは似ても似つかん。
 しかし、お前が貰って来た彼岸花は白いしな?
 白い曼珠沙華なら正真正銘、天上に咲く花の曼珠沙華だ。
 天上の花が咲いているほどに素晴らしい地球に二人で来られました、ってことで許してやるさ。



「…ホント?」
 でも、地球に来る前に
一度、死んだんだけどね?
 それでハーレイに文句を言われちゃったんだけれど…。ついさっきまで。
「ああ、死んじまったさ、お互いにな」
 お前はメギドで、俺は彼岸花さえ生えていない地球で。
 これ以上はもう死ねません、ってほどに死んだが、どういうわけだか、地球に居るようだな。
「うん。ぼくもハーレイも、二人とも死んだ筈なのにね…」
 けれど青い地球の上に生まれて来られた、と白い彼岸花を二人で眺める。
 天上の花だと言われる曼珠沙華。本来は赤い花の色が白く変わった、天上の花の彼岸花を。
 小さなブルーが分けて貰った彼岸花。
 今は花壇の植物になったそれが咲き誇る、平和な時代の青い地球の上で…。




          彼岸花・了

※毒抜きをすれば食べられるという彼岸花。前のハーレイなら、そうやって皆を救った筈。
 今は白い彼岸花を眺めて語らえる時代。まさに天上の花で「曼殊沙華」という所ですよね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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 母に「晩御飯よ」と呼ばれて、階段を下りて入ったダイニング。両親と一緒の夕食の席。
 温かな会話と笑いが途切れない中、ブルーの視線を引き付けたもの。
(んーと…)
 蓋を取ったばかりの茶碗蒸し。食べようとスプーンを手にした所で気が付いた。
 滑らかな表面には三つ葉が乗っているけれど。それはさながら…。
(…前のぼくだと、絶対プリンだと思うよね?)
 器から抜かずに出されたプリン。甘くて柔らかな卵のお菓子。
 プリンに三つ葉は乗っていないが、前の自分がこれを見たならハーブの一種だと思うだろう。
(お菓子にハーブって、よく使うものね)
 シャングリラにもハーブは沢山あった。流石に三つ葉は無かったけれども。
 その頃の自分が茶碗蒸しを見たら、プリンだとしか思うまい。甘いお菓子だと、卵の菓子だと。茶碗蒸しもプリンも卵なのだし、笑えはしない勘違い。
(そして、食べたらビックリなんだよ)
 味も違えば、中身だって違う。プリンには決して入ってはいない、海老や銀杏、百合根など。
 あの時代には無かった料理。思い付きさえしなかった料理。今のブルーは好物だけれど。



(ハーレイも同じこと、考えたかな?)
 スプーンで掬った茶碗蒸しを頬張りながら、恋人の顔を思い浮かべる。
 自分で料理をするハーレイは、茶碗蒸しとプリンが似ていることに気付いただろうか。それとも未だに気付くことなく、作ったり食べたりしているのだろうか?
(茶碗蒸しかあ…)
 ハーレイは、たまに土産をくれるから。
 「これは前の俺たちの頃には無かっただろう?」だとか、「懐かしいだろう」だとか言っては、ちょっとした食べ物やお菓子を土産に持って来るから。
 自分もそうした新鮮な驚きを贈りたくなった。
 茶碗蒸しとプリン。前の自分たちの頃には無かった茶碗蒸しの味を、ハーレイに。
 だから…。



「ママ。今度の土曜日、お昼御飯は茶碗蒸しにしてくれる?」
 お願い、と母に頼み込む。ハーレイと二人で食べてみたいと、自分の部屋で食べるのだと。
「茶碗蒸しを?」
 怪訝そうな母には理由を説明せねばなるまい。同じく不思議そうにしている父にも。
「前のぼくとハーレイは知らないんだよ、これ」
 ぼくも今日まで忘れてたけど、茶碗蒸しなんか知らなかったよ。
「そうなの?」
「もしも出されたら、絶対、プリンだと思って食べた!」
 自分もハーレイもそうしたであろう、と力説する。
 茶碗蒸しなるものをまるで知らなかった、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ。彼らにそれを出してみたなら、菓子だと思うに違いないと。浮かべられた三つ葉はハーブなのだと。
「だからね、スプーンで掬って食べたら甘くなくってビックリだと思う…」
 それに色々、入っているし。お菓子じゃないことは分かるだろうけど、驚きっ放し。
 美味しいけれども変な食べ物だと、これもプリンの一種なのかと思うんだよ。
「あらまあ…」
 言われてみれば、と母は父と顔を見合わせ、笑った。
 ソルジャー・ブルーが生きた時代に、茶碗蒸しは存在しなかったろうと。
 卵を溶いて、出汁と合わせて作る食べ物。昆布やカツオの出汁が無かった頃には無理だと、この手の料理を作れはしないと。
「ね、そうでしょ? だから土曜日は茶碗蒸し!」
 お昼に作って、と母に強請った。
 自分では作れない茶碗蒸し。調理実習で習っていないし、一度も作ったことが無い。
 ついでに、忘れてしまいそうだから。
 茶碗蒸しをプリンだと思って眺めていそうな前の自分を、すっかり忘れてしまいそうだから…。



 案の定、ブルーは綺麗に忘れた。
 茶碗蒸しをプリンだと思い込みそうな前の自分が居たということも、その茶碗蒸しをハーレイのために作って欲しいと母に頼んでいたことも。
 土曜日の朝、今日はハーレイが来てくれるのだと上機嫌で朝食を食べに行ってみれば。
 母が焼き立てのトーストを載せたお皿を差し出しながら、笑顔で尋ねた。
「今日のお昼は茶碗蒸しで良かったのよね?」
「えっ?」
 何故そう訊かれたのか分からないから、ブルーは目を丸くしたのだけれど。母はハーレイの母が作った夏ミカンのマーマレードが入った大きな瓶をブルーの方へと寄せてくれて。
「茶碗蒸しって言っていたでしょ、ソルジャー・ブルーは知らないから、って」
 プリンだと思うに違いない、って言っていたわよ、ソルジャー・ブルーが茶碗蒸しを見たら。
 キャプテン・ハーレイもそうなるんだから、今度の土曜日は茶碗蒸しにして、って。
「忘れてた!」
 頼んだことも、茶碗蒸しでプリンを連想したことも忘れちゃってた、と白状すると。
「あらあら…」
 母は可笑しそうにクスクスと笑い、父も「子供の特権だな」と笑みを浮かべた。
 毎日が充実しているからこそ忘れるのだと、一晩眠れば忘れてしまうのは心が健康な証拠だと。
「本当に大事なことを除けば、だ。忘れてしまって新しいことを詰め込まないとな」
「そうよ、子供はそれでいいのよ」
 どんどん忘れてしまっていいのだ、と両親はブルーに教えてくれた。
 大人になったら、そういうわけにはいかないけれど。子供の間は忘れていいのだと、そうやって空になった部分に新しい体験を次々に詰めてゆくのだと。
 ただし、大切な事柄は別。約束だとか、学校の宿題だとか。それに習った授業の中身も。



 そう教えられて、朝食を食べて。
 部屋に戻って掃除を始めた時点ではまだ覚えていた。今日の昼食は茶碗蒸しだと、前の自分ならプリンだと思う茶碗蒸しを作って貰うのだ、と。
 やがてチャイムが鳴り、ハーレイが訪ねて来てくれた後は、吹き飛んでしまった茶碗蒸し。どの時点で頭から消え去ったのかすらも分からないほどに見事に忘れた。
 ハーレイと二人、部屋のテーブルで向かい合ってお茶とお菓子で午前中を過ごし、迎えた昼時。
 階段を上がって来る足音の後で、扉がノックされ、カチャリと開いた。大きなトレイを手にした母が入って来て、にこやかに。
「お待たせしました。ソルジャー・ブルー御注文の茶碗蒸しをお持ちしましたわ」
「ママ…!」
 いきなりソルジャー・ブルーと呼ばれて、ブルーは真っ赤になったけれども。
 母は空になったカップやお皿やポットを手際よく、トレイに載せて来た昼食と入れ替えながら。
「どうせ、また忘れていたんでしょ?」
 茶碗蒸しを頼んでいたってこと。忘れてました、って顔に書いてあるわよ。
「うん…」
「いいのよ、朝にも言ったとおりよ。楽しかったから忘れちゃうのよ、茶碗蒸しのこと」
 ハーレイ先生とお話していて忘れたんでしょ、と蒸し立ての茶碗蒸しの器が置かれた。それからスプーンと、他の料理を食べるためのお箸。
 澄まし汁に御飯、野菜の煮物と白身魚の塩焼きと。茶碗蒸しが引き立つ、シンプルな料理。
 「ごゆっくりどうぞ」と扉を閉めて、母は階下へと戻って行ったが…。



「何なんだ、お母さんが言ってた茶碗蒸しってのは」
 ハーレイがまじまじと茶碗蒸しが入った器を見詰める。
 蓋がぴったり閉まった器。熱でテーブルを傷めないよう、下に敷かれた茶托にも似た木製の受け皿。茶碗蒸し以外の何物でもないが、シチュエーションが理解し難い。
 だから恋人に尋ねてみたのに、ブルーの答えは説明になっていなかった。
「茶碗蒸し…」
 それくらいは見れば分かるから。茶碗蒸しだとは直ぐに分かるから、ハーレイは的外れな言葉を返したブルーに対する質問を変えた。
「茶碗蒸しの方はともかくとして。…どうして其処でソルジャー・ブルーの名前が出るんだ」
 お母さんは御注文の品だと言ったぞ、お前じゃなくって前のお前が注文したのか?
 この茶碗蒸しを作ってくれと。
「そうじゃなくって…。前のぼくだと注文のしようがないんだよ」
「はあ?」
「茶碗蒸し。前のぼくには絶対、注文出来っこないんだ」
 だって、知らない食べ物だもの。前のぼくは茶碗蒸しなんか見たこともないし、一度も食べてはいないんだけど…。
 前のハーレイは茶碗蒸しって食べ物、知ってたわけ?
 食べたことがなくても、どんな食べ物かデータベースで見てたとか…。厨房に居た頃はレシピを色々調べていたから、その時に茶碗蒸しも見た?



 知っていたか、と問われてみれば、ハーレイの記憶にそれは無かった。
 今のハーレイではなくて、キャプテン・ハーレイ。その頃の記憶に茶碗蒸しは影も形も無くて。
「そういえば…。知らんか、前の俺の時には」
 データすらもお目にかかっちゃいないな、見た覚えが無い。
 今じゃすっかり馴染みの料理で、美味そうな具が揃った時には作るんだがなあ…。
「やっぱり? ぼくもこの間、驚いたんだよ。ママの茶碗蒸しを食べようとしてて…」
 スプーンを持ったら気が付いたんだ。これはプリンじゃないんだよね、って。
「なるほど、プリンか。…うん、前の俺たちがこいつを見たならプリンだな」
 間違いない、とハーレイが蓋を取り、ブルーも自分の茶碗蒸しから蓋を外して。
「何処から見たってプリンでしょ? 三つ葉だってハーブと間違えるんだよ」
「そいつは間違いってわけでもないぞ。三つ葉も一種のハーブだと言える」
 ハーブティーには向いちゃいないが、この地域で採れるハーブだな。
 独特の香りってヤツがするだろ、神経を鎮めてくれるんだ。気持ちが落ち着くハーブなのさ。
「そうだったの?」
「うむ。食欲増進と消化にも効く。だが、プリンの甘さには合わないなあ…」
「でしょ? だからね、前のぼくが茶碗蒸しを食べたら、三つ葉の味にビックリして。…その後でもっとビックリするんだ、このプリンは全然甘くない、って」
「別物だからな、同じ卵の料理でもな。…第一、こいつは菓子ではないし」
 しかし美味い、とスプーンで掬って頬張るハーレイ。
 前の自分たちは知らなかった味だが、今では大好物なのだと。作って食べたくなる味だと。
 ハーレイが美味しそうに食べているから、ブルーも嬉しくてたまらなくなる。
 母が作った、優しい味の茶碗蒸し。
 前の自分ならプリンと間違えて驚いただろう、茶碗蒸し…。



 海老はともかく、銀杏に百合根。それから三つ葉。
 溶いた卵と合わせてある出汁も、前の自分たちが生きた時代には食材として存在しなかった。
 イチョウの木の実が食べられることなど知らなかったし、百合の根っこも。三つ葉に至っては、そういう植物が在ること自体を知らずに生きて終わってしまった。
 食べられなかった茶碗蒸し。知りもしないで終わった食べ物。それをハーレイと二人、こうして食べられる幸せにブルーが頬を緩ませていたら。



「茶碗蒸しか…。前の俺には作れんな」
 無理だな、とハーレイが呟いたから。
 キャプテンになる前は厨房で料理をしていたハーレイが残念そうに言うから。
「当たり前でしょ? 無かった料理は作れないよ」
 前のぼくもハーレイも知らなかったんだよ、茶碗蒸しなんか。材料だって無いし。
「いや、その辺の事情もあるがだ、卵がな…」
 肝心の卵が充分に手に入らなかった。覚えていないか、俺が厨房に立っていた頃。
「そっか、卵…。保存食用の乾燥卵はあったけれども、普通の卵…」
 いつも殆ど無かったっけね、輸送船には滅多に積まれていなかったから。
 何処の星でも鶏さえ飼えば手に入るんだし、わざわざ輸送する必要が無かったんだっけ…。
「うむ。殻に入った卵は常に不足しがちな世界だったな、卵地獄を除けばな」
 前のお前が奪った物資が偏った時の。これでもか、ってくらいに卵が溢れてた時の。
 あれを除けば、普通の卵はたまにしか船に無かったからなあ…。
 全員に卵がメインの料理を出せるほどには量が無かった。茶碗蒸しを作るには卵不足だってな。
「そうだっけね…。殻に入った普通の卵は、あの頃、貴重だったんだっけ…」
 鶏を飼って、卵を産ませて。
 いつでも食べられるようになった頃には、ハーレイ、とっくにキャプテンだったね。
 茶碗蒸しを作りに厨房へ、ってわけにはいかない、シャングリラの最高責任者。
 みんなの分の茶碗蒸しなんかを作ろうとしてたら、たちまち係が飛んで来るよね、それは自分の仕事ですから、って。



 前のハーレイが料理をしていた頃には、卵不足で作れなかったという茶碗蒸し。
 たとえレシピを知っていたとしても、その材料があったとしても。
 充分な量の卵がシャングリラで供給され始めた時は、ハーレイはキャプテンだったから。厨房に立とうとすれば担当のクルーが慌てそうな立場になっていたから、茶碗蒸しは無理。
 しかし…、とハーレイはブルーを見詰めて苦笑する。
「俺がキャプテンではなかったとしても、茶碗蒸しは作れやしなかったんだがな」
 レシピも無ければ材料も無いと来たもんだ。茶碗蒸しそのものが無かった時代じゃ仕方ない。
 卵が沢山あったとしたって、俺に作れたのは、せいぜいプリンだ。
 茶碗蒸しじゃなくてプリンの方だな。
「ハーレイのプリン…。食べたことないよ?」
 前のぼく、一回も食べていないよ、ハーレイのプリン。卵地獄もあったのに。
「卵地獄じゃ、砂糖が足りなかったんだ。俺が厨房に立ってた頃には菓子の類は作っていない」
 あれだけの数の卵があったら、プリンもケーキも作り放題って光景だったが、砂糖がな…。
 料理するために必要なだけの砂糖を取ったら、菓子の分は残らなかったんだ。
 もっとも、一人分くらいなら作れそうだな、とプリンのレシピを見てはいたんだが…。
 作ってやったら喜ぶだろうな、とチビだったお前を思い浮かべてはいたんだが…。
「どうして作ってくれなかったの?」
 他の人にバレたら大変だから?
 ぼくにだけコッソリ食べさせていた、ってバレてしまったら叱られるから?
「まさか。バレるようなヘマはやらかさないが、だ」
 甘やかしたらいかんだろうが。いくらチビでも。
「そういう発想?」
「クセになっても困るしな? また作って、と強請りに来るとか」
「ハーレイのケチ!」
 チビだったんだよ、作ってくれても良かったのに。
 いつもチビだって言ってたんだし、ちゃんとチビらしく子供扱いでも良かったのに…!



 酷い、と膨れっ面になったブルーに、「残念だったな」とハーレイが片目を瞑ってみせた。
「前のお前がただのチビではなかったなら。…俺はプリンを作ったんだがな」
「えっ?」
 それって、ソルジャーだったら、ってこと?
 卵地獄の時にソルジャーだったら、ハーレイのプリンを食べられたの?
「馬鹿。ソルジャーの特権で食べてどうする、そんなの美味くはないだろうが」
 他のみんなが食べられないものを一人だけ食べて嬉しいか、お前?
 ソルジャーなんていう称号のお蔭で、自分一人だけで特別なものを。
「…嬉しくないけど…。ハーレイに「作れ」って命令する気にもならないけれど…」
「そうだろう? だからソルジャーって意味じゃないんだ、俺が言うのは」
 前のお前がただのチビではなかった時。
 そいつは、お前が俺の一番古い友達じゃなくて、俺の恋人だった時さ。
 でなければ、俺がお前に惚れてて、恋人になってくれたらいいなと夢を見ていたか。
「えーっと…。恋人だったら作ってくれるっていうのは分かるけど…」
 恋人じゃなくて、ハーレイの片想いだった時でも作ってくれたの?
 ハーレイがコッソリ作ったプリンを食べられたの?
「当然だ。惚れた相手は餌で釣る。基本の中の基本だろう?」
 普通は女性が使う手だがな。
 惚れた男にあれこれ作って、まずは胃袋から攻めて行け、ってな。



 餌で釣るのだ、とハーレイが惚れた相手の捕まえ方を口にするから。
 胃袋を掴んだら次は心だ、と言っているから、ブルーは胸を高鳴らせて尋ねてみた。
「ねえ、ハーレイ。…卵地獄だった頃、ハーレイがぼくを好きだったなら…」
 プリン、作れた?
 お砂糖の量が少ない頃でも、ぼくにプリンを作ってくれた…?
「そりゃもう、頑張って作ったろうなあ。試作品だ、とコソコソとな」
 試作品だったら俺しか試食をしなくて普通だ、絶対にバレん。
 甘い匂いさえさせていなけりゃバレやしないし、細心の注意を払ってプリン作りだ。会心の作のプリンが出来たら、お前の部屋へと直行だな。是非、食ってくれと。
「…ハーレイのプリン、食べ損なった…」
 試作中のでも食べたかったのに。完成品でなくても、ハーレイのプリンが欲しかったのに…。
「仕方ないだろうが、物事には順番っていうものがある」
 惚れてもいないのに作ると思うか、チビのためにとプリンをコッソリ。
 ただのチビでは食わせても意味が無いってな。
「うー…」
 チビだ、チビだと連呼された上、食べられなかったハーレイのプリン。
 前のハーレイがブルーのためにと、コッソリ作ったかもしれないプリン。
 食べ損ねたことが悔しくてたまらない、ブルーだけれど。
 呻くしかなかったブルーだけれども、ふと考えた。今のハーレイはどうなのだろう?
 茶碗蒸しも作るというハーレイ。
 料理上手な今のハーレイは、プリンも作ったりするのだろうか…?



 これは訊かねば、と気分を切り替え、ブルーは目の前の恋人を見詰めた。
 母の茶碗蒸しを美味しく食べ終え、他の器に盛られた料理も空にしつつあるハーレイを。
 赤い瞳を期待に煌めかせ、息を吸い込んで気分を落ち着かせて。
「じゃあ、今は?」
 今のハーレイ、プリン、作れる?
 作ったりするの、と問い掛けてみれば、ハーレイが「まあな」と返したから。
「ハーレイ、プリンも作るんだ?」
「うむ。これでもけっこう得意なんだぞ、俺のおふくろの直伝なんだ」
 一度に沢山作れるからなあ、柔道部だとか水泳部だとか。
 俺が指導するクラブのガキどもが家に来た時に御馳走するんだ、気が向いたらな。
「えーっ!」
 いいな、とブルーは思わず叫んでしまったけれど。
 自分は遊びに行くことが出来ないハーレイの家に行けて、プリンまで御馳走になれる生徒たちが羨ましいと心底、思ったのだけれど。
 其処で閃いた打開策。ハーレイのプリンを食べる方法。
 これはいける、と自分で自分を褒め称えたくなる名案が天から降って来た。
 ハーレイが家でプリンを作っているなら、これを逃す手は無いだろう。ハーレイの母の直伝だというプリンを是非とも食べなければ、とブルーはアイデアを実行に移すことにした。
 なんとしてでも、ハーレイのプリン。
 今のハーレイが作るプリンを、と。



「ハーレイ、お願い! ぼくにもプリン!」
 作って、と頭をガバッと下げた。
 チビはチビなりに、子供らしくおねだり攻撃に限る。うんと素直に、精一杯に。
「プリンって…。お前、俺の家には来られないだろうが」
 違うのか? と鳶色の瞳が咎めるような光を帯びた。
 小さなブルーはハーレイの家に行くことを許されておらず、行ったとしても入れて貰えない。
 前の生と同じ背丈になるまで、ソルジャー・ブルーと同じ背丈になるまで。
 それまではキスが駄目なのと同じで、ハーレイの家にも来てはならないと諭されていた。なのに来る気かと、約束を忘れてしまったのかと、鳶色の瞳が睨んでいるから。
 それは駄目だと睨み付けるから、ブルーは負けじとキッと顔を上げた。此処からが勝負。
「行けないから、ハーレイが持ってくるんだよ!」
 プリンを作って、ぼくの家まで。
 来ちゃ駄目だって言うんだったら、ハーレイのプリンを持って来てよ!
 一個でいいから、と食い下がるけれど、ハーレイは「駄目だな」と素っ気なくて。
「俺の手料理を持ってくるのは駄目だと言ったろ、お母さんの手前」
 そんなことをしたら恐縮される、と何度も言ったと思うがな?
 たった一個のプリンであっても、俺が作ったということになれば申し訳なく思われちまう。
 俺が全く気にしてなくても、お母さんの方はそうはいかない。
 次は御礼にうんと沢山御馳走を、ということになるか、俺に土産が用意されるか。
 どちらかになるのは見えているんだ、俺がタダ飯を食ってるだけでも「いつもブルーがお世話になります」って御礼ばかり言われているんだからな。



 絶対に駄目だ、とハーレイはブルーに釘を刺した。
 たかが一個のプリンといえども、ハーレイが作って持って来たなら手料理と変わらないのだと。
 ブルーの母を恐縮させるし、気を遣わせてしまうのだと。
「分かるな、お前はチビだけれども馬鹿じゃないしな?」
 お母さんを困らせたくはないだろう?
 それに俺もだ、お前のお母さんに迷惑をかけるのは御免だからな。
 諦めろ、と頭をクシャリと撫でられたけれど、ブルーのアイデアはまだ終わってはいなかった。ハーレイがこう言ってくることも予想の範疇、まだまだ敗北したわけではない。
 勝負はこれから、得意げな笑みを湛えて褐色の肌の恋人を見上げた。
「だからプリンがいいんだよ」
 プリンだったら、そういったことも大丈夫。これはプリンだから出来ることだよ。
「…どういう意味だ?」
 不審そうな恋人に、ブルーは一気に勝負をかけた。素晴らしい閃きを披露するべく。
「お店のプリン。器に入ったのを売っているでしょ、壊れないように」
 家に帰るまで壊れないように、何処でも器に入っているよ。
 お店のマークが入ったのもあるし、シンプルなのとか、可愛いのだとか…。
 そういうプリンを何処かで買ってよ、そしてハーレイが食べるんだよ。中身を食べたら、それを使ってハーレイのプリンを作ればいいでしょ?
 お店の器で、おんなじプリン。
 買って来た時の箱に入れたら、ママにも絶対、分かりっこないよ。
 そうやってハーレイのプリンを作って、「買って来ました」って持って来たなら大丈夫。
 今日のお土産はプリンなんです、って。



 バレはしない、とブルーは料理上手の恋人に強請った。
 お菓子の専門店で売られているプリン。それを買って中身を入れ替えてくれと、ハーレイ自慢のプリンを作って店の器に入れて来てくれと。
「そうだ、明日ならホントのホントに安全だよ?」
 今日の茶碗蒸し、前のぼくたちにはプリンに見える、って話をしてたってママも知ってるし…。
 それにちなんでプリンを買って来たんですが、って言ったら、ママだって不思議がらないよ。
 ハーレイ、今日はプリンを作ってみない?
 ぼくの家から帰る途中に、何処かのお店でプリンを買って。
「おい…! 俺に店で普通に売ってるプリンの偽物ってヤツを作れってか?」
 しかも器を手に入れるために、店でプリンを買うのか、俺が?
「駄目…?」
 いいアイデアだと思うんだけど…。明日のお土産なら、もう完璧だと思うんだけど…。
「なんで其処までしなくちゃならん」
 たかがプリンだ、どうしてプリンで俺が偽物作りまで…!
「だって、ハーレイのプリン…」
 食べたいんだもの、今のハーレイが作っているなら。クラブの子たちに御馳走するなら…。
「お前なあ…。悪知恵を巡らす暇があったら、少しくらいは背を伸ばすんだな」
 そうやって背丈を伸ばしていって、だ。堂々と食えるようになるまで待て。
 俺の家のチャイムを鳴らして、入って。
 プリンどころか飯も食って行ける背丈になるまで、俺のプリンは我慢しておけ。
「ハーレイのドケチ!」
 お店でちょっとプリンを買うだけだよ。中身を入れ替えるだけなんだよ!
 そうしたら、ぼくも食べられるのに…。
 ハーレイのプリン、ぼくの家でも食べられるのに…!



 酷い、とブルーは叫んだけれど。
 まだ当分は食べられないらしい、ハーレイが作る自慢のプリン。
 そういう食べ物が存在するのだと知らされた切っ掛けは茶碗蒸し。
 前の自分とハーレイが知らないままで終わった茶碗蒸し。
 それを話の種にしようと母に強請ったのは自分だから。
 茶碗蒸しをハーレイに出してしまって、プリンの話を持ち出したのも自分だから。
 これを藪蛇と言うのだろうか、とブルーはガックリと項垂れる。
 ハーレイが目の前で語り続ける、自慢のプリンの味の秘訣と評判の良さを聞かされながら…。




          茶碗蒸し・了

※前のブルーたちが知らなかった料理が茶碗蒸し。プリンだと思うことでしょう。
 そして今のブルーが欲しくなってしまった、ハーレイのプリン。食べられる日は遠そうです。
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(豆スープ…)
 美味しいんだけれど、とブルーは夕食のスープを口へと運ぶ。
 金曜日の夜、明日はハーレイが朝から訪ねて来てくれる筈の土曜日。
 母が作った白インゲン豆のスープはトマトベースの赤いスープで、タマネギにニンジン、それにセロリも入っていた。とろけるほどによく煮込まれた豆と野菜は味わい深くて、ハーレイが作ってくれる野菜スープとは違った風味。
 前の生からブルーが好んだ「野菜スープのシャングリラ風」。何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴なスープ。
 それは母の豆スープとは比べようもなくて、豆も無ければトマトの赤さも味すらも無くて。
(でも…)
 何故だかハーレイを思い出す、今日の母のスープ。白インゲン豆がたっぷり入った豆スープ。
 ハーレイは豆のスープを作ったろうか?
 遠い昔に、共に暮らしたシャングリラで。名前だけの楽園に過ぎなかった頃のシャングリラで。
 キャプテンになる前は、厨房で料理をしていたハーレイ。
 そのハーレイは豆のスープを、こういう味の豆のスープを作っただろうか?



(…豆のスープも、作ってない筈は無いんだけどね?)
 前の自分は豆も奪って来ていたから。
 人類の船から奪った物資や食料の中に豆があることは、特に珍しくも無かったから。
(だけど、どうしてハーレイを思い出すんだろう?)
 トマトベースの、白インゲン豆と野菜のスープ。タマネギにニンジン、それからセロリ。
 ハーレイの得意な料理だったか、前の自分の好物だったか。
(…野菜スープのシャングリラ風じゃなくて…?)
 あれはキャプテンになった後にハーレイが作った料理。物資不足だった頃のシャングリラで。
 豆のスープはそれよりも前に、奪った食料で豊かに暮らしていた頃、ハーレイが作ったスープの一つだったのだろうか?
 気に入っていた料理の一つだろうか、と気になって仕方ないのだけれど。
 食べている間には思い出すことが出来なかった。柔らかな豆と野菜とをゆっくりゆっくり、舌の上に乗せては喉へと送り込んでも。



(豆のスープ…)
 何だったろう、と引っ掛かる味。
 前の生での懐かしい記憶なら思い出したい。
 ハーレイと過ごした優しい時間の記憶だったら、なおのこと。
 けれど、どうしても遡ることが出来ない遠すぎる記憶。流れ去ってしまった遥かな時の彼方。
 記憶の糸を手繰って手繰って、それでも引き寄せられない記憶。
 お風呂に入って、ベッドに入る時間になっても思い出すことが出来なくて。



(豆スープ…)
 きっと忘れてしまったのだ、とベッドにもぐって身体を丸めた途端に蘇った記憶。縮めた手足が遠い記憶を呼び寄せた。
 そうだ、こうしていたら出て来た。豆のスープが。
 出て来たと言うより、乱暴に置かれた。
(アルタミラ…!)
 狭い檻の中、係の男が突っ込んでいった豆スープの皿。食事を差し入れるという形でさえ無く、動物に餌を与えるように。ミュウはペットにも劣る存在、実験動物に過ぎなかったから。
(…あのスープだ…)
 たった一人きり、独りぼっちの狭い檻。
 時間を潰せるものなどは無くて、いつだって蹲っていた。でなければ手足を縮めて丸まり、何も考えてはいなかった。
 考えても何も起こりはしないし、ただ辛くなるだけだから。果ての見えない、終わりなど来ない地獄のことなど忘れていたくて、心は殆ど空っぽのままで。
 そんな日々の中、檻に入れられた豆スープ。
 母の味とは似ても似つかぬ、火を通したというだけの豆スープ。
 トマトの赤い色などは無くて茹で汁そのまま、豆だけが入っていたスープ。
 けれど…。



(それでハーレイだったんだ…)
 ハーレイと出会ったアルタミラ。忘れようもない、メギドに砕かれてしまった星。
 其処で食べた、と引っ掛かって来たスープの記憶。豆だけのスープ。
 けれども、豆のスープを啜っていた時。突っ込まれたスープを食べていた時。
 ハーレイの姿は何処にも無かった。檻の中には自分しかおらず、いつだって独りきりだった。
 上や下や、左右の独房。檻という名の狭い独房。
 それらに仲間が押し込められていることは知っていたけれど、顔を合わせる機会などは無くて。言葉も交わすことさえ出来ない、絶対の孤独。
 実験が無い時は、檻に居る時は、蹲るか、丸くなるか、餌を食べていたか。
 でなければ、眠り。幸せな夢さえ見られないまま、眠っていただけ。



(アルタミラの餌…)
 餌と水しか与えられなかった、ペットにも劣る実験動物。
 来る日も来る日もオーツ麦をベースにしたシリアルと、必要な栄養分などが添加された飲み水、それしか無かった。もちろん火などは通っていなくて、室温だった餌。
 ボソボソとして口に貼り付く不味いシリアル、飲み水で胃へと流し込むしかなかったシリアル。ミュウのための餌はそれで充分、栄養失調で死にもしなければ痩せ衰えもしない優れもの。
(…だけど…)
 思い出した、例の豆スープ。豆を茹でた汁を豆ごと出して来たようなスープ。
 そんな風に時折、パンやスープが餌の代わりに出る日があった。
 豆のスープに硬いパン。ジャムもバターも添えられていない、硬くて冷たいパンの塊。
 それに茹でられた卵が一個。
 茹でただけの卵がゴロンとついた。殻に塩を少し纏った卵が突っ込まれた。
 何も考えずに食べていたけれど、今だったならば。
 周りを見回すだけの余裕がたっぷりとあって、幸せな毎日を送る自分があれを見たなら…。



(明日は死んじゃうのかと思うよね?)
 殺される前の、せめてもの慈悲。
 実験動物のミュウに情けをかけてくれるかどうかはともかく、普段と違う食事は怪しい。これが最後だから味わって食えと言わんばかりのスープや卵。
(前のぼく、それに気付いてたらパニックかも…)
 明日は死ぬのだと、これで終わりだと泣きながら食べていたかもしれない。
 幸か不幸か、そういうことすら考える余裕は無かったのだけれど。
(でなきゃ、体力つけておけ、っていう食事だとか…)
 過酷な実験を実施する前の準備段階。
 餌と水では足りないだろうと、もっと体力を蓄えておけと、スープに卵に硬いパン。
 それとも、あれも実験だったのだろうか?
(普段と違う食事をさせたら、何かが変わると思っていたとか…?)
 ミュウは精神の生き物だから。
 精神状態がサイオンに反映されることもあるから、餌の内容を特別なものに変えてみてデータを取るとか。
 御馳走とは呼べない代物であっても、スープにパンに茹で卵。
 シリアルと水だけの餌とは違うし、研究者から見れば実験する価値があったかも…。



(どういう時に出て来たっけ…?)
 豆のスープや、硬すぎるパン。殻に少しだけの塩を纏った茹で卵。
 生憎と全く記憶に無かった。
 茹で汁にゴロゴロと入っていた豆がまるで柔らかくはなかったことも、パンの歯ごたえも覚えているのに。茹で卵を剥いて、殻にくっついていた僅かな塩で頬張ったことも覚えているのに。
 記憶からすっかり消えてしまった、それらを食べた時の条件。
 実験の後の労いだったか、はたまた実験を行う前の栄養補給のためだったのか。
(ハーレイに訊けば分かるかな?)
 二人分の記憶を突き合わせれば…、と考えたけれど。
 明日、ハーレイは来てくれるけれど、それまで覚えていそうもないから。
(メモ…)
 こういう時には覚え書きだ、とベッドから起き出し、メモに「アルタミラ」と書いた。その下に「特別な食事が出て来た時」と。



 翌朝目覚めて、メモに気付いて。今の幸せにホッと息をついた。
 狭い檻の中に居るのではなくて、両親と共に暮らす家。自分のためのベッドに机に、ハーレイと二人で向かい合うためのテーブルに…。
(うん、今のぼくには部屋があるんだよ)
 アルタミラに居た頃と同じ姿でも、全く違う。のびのびと自由に過ごせる部屋。
 顔を洗って着替えが済んだら、両親も一緒の朝食の席で。
 餌でも硬いパンでもなくって、焼き立ての匂いが漂うトースト。狐色のそれにハーレイの母から貰ったマーマレードの金色を塗れば、もうそれだけで顔が綻ぶ。
 アルタミラには無かったものだ、と嬉しくなる。焼き立てのトーストも、ハーレイの母が作った夏ミカンの金色のマーマレードも、母が注いでくれたミルクも。
 一日も早く背が伸びるように、前の自分と同じ背丈に育つようにと飲んでいるミルク。
 祈りをこめて飲んでいるミルクも、アルタミラでは見もしなかった。今では毎日、新鮮なそれが瓶に入って出て来るのに。幸せの四つ葉のクローバーのマークが描かれた、大きな瓶で。



 幸せ一杯の朝食を食べて、部屋を掃除して。
 ハーレイを迎えて、紅茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで座った後。
 勉強机の方へ視線を向けたブルーは直ぐに思い出した。昨夜のメモが其処に置いてあったから。
 忘れてしまう前に訊かなければ、と目の前の恋人に「あのね…」と切り出す。
「ハーレイ、アルタミラの餌は覚えている?」
「餌と水の日々か?」
 あれは酷かったな、ペットフードの方がまだマシだ。犬や猫の餌でもバラエティー豊かに色々と揃っているからな。味付けも硬さもお好み次第で、おやつだって選べると来たもんだ。
「そっちじゃなくって、特別食だよ」
「特別食?」
「うん。シリアルと水じゃなかった時」
 パンとか、豆のスープとか。茹で卵とかを、たまに食べてた筈だよ。
「ああ、あったなあ…。茹でただけじゃないか、って豆のスープに硬いパンだな」
 ついでに塩は殻にだけっていう茹で卵。まあ、餌よりかはマシだったが…。
「あれって何かの実験だった?」
「実験?」
「食べた食事がサイオンにどういう風に影響するか、っていう実験」
 そういうものかとも思ったんだけど、実験の後の体力の回復用だった?
 それとも、実験前に栄養をつけておくためだった?
「なるほど、そういう質問か…」
「そう」
 気になったのだ、とブルーは答えた。
 どういう時に出て来た食事か、覚えていないから訊いてみたのだと。



「ぼくはホントに、全然覚えてないんだよ。食べたってことは覚えているのに…」
 ハーレイはどう?
 どんな時にあれを食べていたのか、覚えてる?
「俺も同じだな、まるで記憶に無い。…俺たちの檻にカレンダーなんぞは無かったからな」
「カレンダー…?」
 なんなの、それ。カレンダーって、なに?
「カレンダーさ。ほら、お前の部屋にもあるだろう。あれだ、ああいうカレンダーだ」
 それが鍵だ、とハーレイに言われて、ブルーの瞳が丸くなった。部屋の壁にある、カレンダー。自分には馴染みのものだけれども、それがどうして出て来るのだろう?
 確かに檻には無かったけれど。カレンダーなどは何処にも置かれていなかったけれど…。
「カレンダーがあったら、何か分かるの?」
 実験がある日は何曜日だとか、そういったことが決まっていたの?
「そうじゃない。あの餌は実験とはまるで関係ないんだ」
「えっ…?」
「俺も何とも思わずに食った。あの頃には、ただ機械的にな」
 食わなけりゃ死ぬし、「今日はいつもと違うんだな」と思った程度で食っていただけだ。そしてそのまま忘れたかもしれん。
 だがな…。
「何かあったの?」
 あれは違う、って分かる何かが。
 実験とは何の関係も無い、って言い切れるだけの証拠が何処かに。



 ブルーの問いに、ハーレイは「そうだ」と頷いた。
 自分はそれを目にしたのだと、前の自分が見ていたのだと。
「アルテメシアだ、テラズ・ナンバー・ファイブが持ってたデータだ」
「前のぼくたちの…?」
「ああ。ジョミーがあれを破壊した時、前のお前や俺の養父母のデータなんかも出て来たが…」
 他にも膨大な記録があったさ、アルタミラでやってた実験とかのな。
 だが、誰も見たがりはしなかった。惨い記録だと分かっているんだ、それが自然な反応だ。
 俺も見たいとは思わなかったが、何のデータが入っているのかくらいはな…。
 キャプテンとして目を通すべきだろ、ジョミーは見向きもしなかったし。
 誰かが見ておかなくちゃならんと思って、タイトルだけでも全部見ようと決心した。
 俺はアルタミラを、地獄を生き抜いて来たんだからな。



 アルタミラ時代の多岐にわたるデータ。
 実験内容や、想像するだに惨たらしい標本などの記録や、研究施設に纏わるものや。
 ハーレイはそれらに付けられたタイトルだけでも確認せねば、と思ったという。ジョミーが全く見ないからには、シャングリラを預かる自分が見ておかねば、と。
「とてもじゃないが、中身まで見られる量じゃなかった。俺もそんなに暇じゃないしな」
「それで…?」
「流し読みのように見ていたら、だ。餌の記録があったんだ」
 そいつの中身を覗いてみようという気になった。
 キャプテンになる前は厨房に居たせいかもしれん。
 お前と同じで思い出したのさ、特別な餌が出ていたことを。そうなれば知りたくなるだろう?
 あの食事には何の意味があったのか、何のために食わせていたのかと。
 そういうわけでだ、俺の分のデータを引き出してみたら…。



「どうだったの?」
 ハーレイが言ってたカレンダーと、食事。どんな関係があったの、其処に?
「節目ってヤツだ」
「節目?」
「そのまんまさ。今のカレンダーにも色々あるだろ?」
 俺が授業で教えたものなら、七夕だとか、仲秋だとか。
 しかし、前の俺が引き出したデータで見付けたものは少し違った。
 一年の始まりに、復活祭。それとクリスマス。あの時代の神様は一つだけだし、祝い事は二つ。それと誰もが嬉しい新年。
 この三つと、あの頃の祝日に出たんだ、例の食事は。
 実験とはまるで関係なくって、人類にとっての祝い事の日に出されたわけだな。
 ところが、檻の中に居た俺たちにはカレンダーが無い。ついでに曜日どころか月日の感覚だって無いんだ、祝い事だとは気が付かないさ。
 感情だって半ば麻痺しているしな、今日の餌はいつもと少し違うと考えるだけだ。
 祝い事なら祝い事だと、今日はクリスマスだとか言ってくれれば分かったのにな?



 アルタミラで出された特別な食事。
 餌ではなかった、不味いながらも火の通ったスープと硬いパンと、それに茹で卵。
 シリアルと水だけの日々の中では特別だった食事は、祝い事の時に出たというから。ハーレイはそれを確認したと言うから、ブルーは首を傾げるしかなくて。
「…なんでミュウに御馳走してくれるわけ?」
 茹で汁のスープでも豆スープだよ?
 硬いパンだって、塩ちょっぴりの茹で卵だって、料理をしなくちゃ作れないのに。
 いつものシリアルと水だけでいいのに、どうしてわざわざ作ってたわけ…?
「さてなあ…。復活祭にクリスマスだしな?」
 それに新年と祝日だ。人類の社会じゃ御馳走を食って祝おうって日だぞ。
 少しばかりは良心ってヤツがあったのかもなあ、あいつらにも。傷めつけてばかりのミュウにも祝いのお裾分けだと、今日くらいは飯を食わせてやるか、と。
「ホント…?」
 そうだったのかな、あの食事って?
「実験動物だって動物の内だ、それらしく扱ってやらんとな?」
 ペットを可愛がっていたのが人類ってヤツだ、たまには情けもかけてくれるさ。
「人間の形をしてるってだけの、実験動物だったミュウでも?」
「うむ。たとえ明日には殺す予定でも、ほんの少しのお情けってヤツだ」
 あるいは自分たちにだって情けはあると、優しいのだと酔っていたかもしれないが。
 祝いの日だからと実験動物に飯を食わせる、慈悲深い自分。
 お優しくて偉い人格者なんだと、高い評価を自分につけてた可能性だって大きいんだがな。



「それなら言ってくれればいいのに…」
 御慈悲で食事をくれたんだったら言えばいいのに、とブルーはフウと溜息をついた。
 そうすれば少しは感謝しただろうし、あの食事だって特別な気持ちで食べられたのに、と。
「おいおい、コミュニケーションを取ってどうする、ペット以下のヤツらと」
 実験動物と会話なんかをする必要は全く無いんだ。
 それに感謝をされたって困る。どうせいずれは殺すか、酷い実験をするか。そんな相手から感謝なんぞをされてみろ。いくらヤツらが冷血漢でも良心が痛むってこともあるしな。
 その良心で気が付いたが…。
 俺たちが食ってた特別な食事。
 最悪、グランド・マザーの指示だったかもしれんな、研究者どもの精神衛生のために。
「どういう意味?」
「傷めつけてばかりだと、人間性が歪むだろうが」
 ミュウは見た目は人間なんだぞ、動物じゃなくて。
 それを相手に切り刻んだり、殺してみたり。血だって流れる、苦しむ声だって聞こえるんだ。
 そういったことが当たり前の日々になっちまったら、ヤツらはただの殺人鬼だぞ?
 歪んだ人間が出来上がらないよう、慈悲深さも併せ持つべきだってな。
 実験動物だって大事にしますと、祝い事の時には飯も食わせてやるんです、とな。
 そうすりゃヤツらも救われる。
 大事に扱っていたが死んじまったと、実験動物だから仕方ないんだと。



「…ミュウの扱いより、研究者の精神状態の方が大切なんだ…。当然だろうけど…」
 特別な食事を食べさせておいたから、死んじゃってもいいって発想なんだ?
 ちゃんと大事に扱いました、って。
「どっちなのかは分からないがな、今となっては」
 グランド・マザーがそういう指示を出していたのか、それともヤツらが良心ってヤツを持ってて特別な飯をくれたのか。
 前の俺がデータを見付けた時さえ、その辺のことは何処にも記録が無かったし…。
 祝い事の日には餌じゃなくって飯を食わせた、って所までしか掴めずに終わっちまったからな。
「本当はどっちだったんだろうね?」
「さあな?」
 グランド・マザーは地球と一緒に滅びちまったし、データもすっかり消えちまった。
 そいつがあったら、どうだったのかも分かったのかもしれないが…。
 今じゃ想像するしかないのさ、前の俺たちが食わせて貰った特別な飯の真相は。
 分かってることは一つだけだ。
 あれは祝いの時の食事で、餌とは違うものだったんだ、ということだけだな。



 茹で汁で作ったような豆のスープと、硬いパン。殻に少しの塩を纏った茹で卵。
 料理とも呼べないものだけれども、あまりにも酷い食事だけれど。
 それでもオーツ麦のシリアルと飲み水しか出ない、餌しか出ない日々の中では貴重だった食事。曲がりなりにもスープとパンがあり、茹でた卵も一個ついていた。
 祝い事の日にそれを出して来た人類の真意は、もう永遠に謎だけれども。
 知りようもないことだけれども、アルタミラに食事は確かに在った。
 餌と水しか無かった日々でも、豆のスープと硬いパンと、たった一個の茹で卵。
 祝いの日だとも気付かないままで、知らされないままで食べた食事が。



「ハーレイ、あの食事、嬉しかった?」
 美味しかったかどうかは、別で。
 餌と水じゃない食事が出た時、ハーレイはどんな気持ちで食べてた?
「そうだな…。これは飯だ、と思ったな」
 餌じゃないんだと、人間が食べるためのものだと。俺も人間に違いないんだと、餌じゃなくって飯を食うのが本来の姿なんだとな。
「だよね、全部に火が通ってた。スープもパンも、茹で卵も」
 餌と違って、煮たり、焼いたり、茹でたりしないと作れないもの。料理しないと作れない食事。硬いパンでもオーブンが要るし、豆のスープも茹で卵も火が無きゃ作れないし…。
 あれのお蔭で人だってことを覚えていたよ。
 餌じゃなくって食事を食べるのが人間なんだと、ぼくだってちゃんと人間なんだ、と。
 もしも、あの食事が無かったら。
 餌と水しか出ていなかったら、人間だってことまで忘れちゃっていたかもしれないね…。
「そうかもしれんな」
 アルタミラと言えば餌と水だと今でも思い込んでるが…。
 そして実際、そうだったんだが、年に数回出て来ただけの特別食。
 案外、あれが前の俺たちの正気を保つためには役立ってたかもしれないなあ…。
 あの頃の俺も、前の俺ですら、そういう自覚はまるで無かったが。



 茹で汁で作ったような豆のスープと、硬いパン。たった一個の茹で卵。
 それが前の自分たちの役に立ったというのなら。
 人として生き抜く糧になったと言うのだったら、食事の由来が何処にあろうと。如何なる理由で供されていた特別食でも、意味はあったとブルーは思う。自分たちにとっては、と。
「あの食事…。グランド・マザーの指示で出てたって方が本当の理由でもかまわないかな」
 お蔭で人でいられたのなら。自分は人だと、あれのお蔭で覚えていたなら…。
「食事だけで覚えていたってわけでもないんだろうが…。確かに助けにはなってたろうな」
 まだ人なんだと、飯も食えると。
 餌と水だけでは誇りってヤツまで失くしちまうし、あの飯にも意味はあったんだなあ…。
 グランド・マザーの指示だとしたなら、研究者どもの精神衛生のために、と考え出したプランが仇になったってか。俺たちに正気を保たせちまって。
「うん。あれがグランド・マザーの指示だったとしても…」
 研究者たちのお情けでなくても、食事のお蔭で人でいられた。人の心は失くさなかったよ。
 心も身体もすっかり成長を止めてしまって、蹲っていただけのぼくなんかでも。



「なら、感謝するか、豆のスープに?」
 それに硬いパンと茹で卵だ。
 パンと茹で卵はまだマシだったが、あの豆スープは許せんな。茹で汁なんかで作りやがって。
「そのスープで思い出したんだよ。アルタミラの食事」
 昨日の晩御飯、白インゲン豆のスープだったんだ。トマトベースで赤かったけど…。
 なんだかハーレイを思い出すな、っていう気がしたから、前のハーレイの得意料理だったのかと思っちゃってた。よく考えたら違ったんだよ、アルタミラだった…。
「ふむ。豆のスープもじっくり作れば悪くないしな、前の俺だって作っていたし」
 茹で汁で煮込んで作るなんぞは論外だが。
 豆を茹でたら茹で零さんとな、茹で汁は捨てて新しい水で煮るもんだ。おまけに例の豆スープときたら、豆が充分に煮えてないってな。茹でただけだろ、あのスープは。
「ハーレイ、今でも豆のスープを作ってる?」
「もちろんだ。シャングリラで料理をしていた頃より、ずっと美味いのをな」
 見かけはアルタミラのスープみたいに見えても、ぐんと柔らかい豆が入ったヤツとか。
 採れたてのエンドウ豆のスープなんかは美味いぞ、こいつは春に限るんだ。畑をやってる人から貰えば必ず作るな、ポタージュスープも、豆を潰さずに煮込んだスープも。



 他にも豆のスープは沢山あるぞ、とハーレイが指を折って数えてゆく。
 乾燥した豆でも美味しいスープは幾らでも作れると、逆にアルタミラの豆スープも今の自分ならそっくりそのまま再現出来ると。
「いつか作るか、クリスマスとかに?」
 祝い事の時は豆のスープだぞ、アルタミラではな。
「クリスマスとかなら、御馳走でなくちゃ!」
「そこに一品、アルタミラの味だ」
 前の俺たちの特別食だぞ、餌と水の日々の中では最高級の飯だったんだが?
「悪くないけど、うんと幸せになってからね」
 もう食べられない、ってくらいに御馳走を食べて、幸せになって。
 アルタミラの食事はそれからでいいよ、ハーレイと一緒に暮らせる幸せに満足してから!
「そう来たか…。うんうん、幸せになってからだな」
「お祝い事の日でなくっても、アルタミラの食事でいいってほどにね」
 それくらい幸せな日を過ごしてから、アルタミラの食事。
 もちろん、ハーレイが作ってくれた豆のスープで。それと、硬いパンと茹で卵も。
「硬いパンだな、そいつも焼け、と」
「うんっ!」
 期待してるよ、ハーレイの腕に。パンだって焼けると言ってたものね。
 茹で卵は殻にお塩をつけておいてよ、ちょっぴりだけね。



 結婚して二人、幸せな日々がやって来たなら。
 アルタミラの食事どころか餌さえも懐かしく思えるくらいに幸せな毎日が訪れたなら。
 たまには茹で汁で作った豆のスープも悪くない、と二人、幸せに笑い合う。
 豆のスープに硬いパン。茹で卵が一個ついてくるだけの質素な食事を食べてみようと。
 不味かったあれを食べてみようと。
 褒めようもない食事だけれども、二人で食べれば、きっと美味しい。
 アルタミラではそれが祝い事の日の食事だとも知らず、独りぼっちで食べたのだから…。




         餌と豆スープ・了

※餌と水だけだった、アルタミラの檻の中での食事。けれども、たまに違っていた日。
 実験内容とはまるで無関係、祝日だからと。それすらも知らなかったミュウ。酷かった時代。
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 学校から帰って、着替えておやつ。ママが焼いておいてくれたパウンドケーキ。
 ハーレイの大好物だから、もしも今日、ハーレイが寄ってくれたら喜ぶ顔が見られるだろう。
(来てくれるといいな…)
 ぼくのママが焼くパウンドケーキは、ハーレイのお母さんのと同じ味がするって聞いてるから。ハーレイが自分で焼いても同じ味にはならないのに。
 「おふくろがコッソリ持って来たのかと思ったぞ」なんて言ったくらいだし、ホントのホントにそっくり同じに違いないんだ。このパウンドケーキが、ぼくの目標。
(いつかはママに習わなくっちゃね)
 どうやって焼くのか、コツは何なのか。
 ハーレイの話ではパウンドケーキは材料も作り方も簡単なもので、ケーキ作りの初心者にだって失敗しないで作れるケーキ。
 それなのに何故か、違ってくる味。ぼくのママとハーレイのお母さんが焼いたパウンドケーキは同じ味なのに、ハーレイが焼くとそうはいかない。
 きっと何処かに秘密がある。ほんのちょっとしたコツか、でなければ癖。
 材料を合わせる時のタイミングだとか、その後の混ぜ加減だとか。
(ママに教わったら、きっと同じになるよ)
 直接習って、ママがするとおりに焼いたなら。材料を合わせて、混ぜてみたなら。
(ママのと同じ味のを焼くんだ、絶対!)
 ハーレイに喜んで貰いたいから。
 同じ味のが焼けなくっても、ハーレイは「美味いぞ」って言ってくれそうだけれど、どうせなら同じ味のを焼きたい。「おふくろが焼くのとそっくりだな」って言って貰いたい。
 だって、最高の褒め言葉だもの。
 あちこちで聞いたり、目にしたりする「おふくろの味」っていう言葉。
 たとえパウンドケーキだけでも、ハーレイのお母さんのと同じ味にしたい。「おふくろの味」は誰もが喜ぶ、懐かしくて嬉しい味だと言うから。



 そういったことを考えながら、食べ終わったパウンドケーキのお皿。空になった紅茶のカップと一緒にキッチンに居るママに返しに行った。「御馳走様」って。
 ママは、お皿とかを受け取りながら「ハーレイ先生、来て下さるといいのにね」と優しい笑顔。パウンドケーキがハーレイの大好物だってこと、ママだってちゃんと知っているから。
「うん。来てくれるといいんだけどな、ハーレイ…」
「ブルーはホントにハーレイ先生が大好きだものね」
 今日もチャイムが鳴るといいわね、ってママが玄関の方へ目を遣る。キッチンからでは見えないけれども、ハーレイが来た時は入る玄関。それに通って来る庭と、くぐる門扉と。
(チャイム、鳴らしてくれるといいな…)
 今日はパウンドケーキなんだもの、とキッチンの中をぐるりと見回してみたら、目に入った棚にノートが何冊も。ママの自慢のレシピ帳。お料理の本と並んで、ノート。
 ママはお料理もお菓子作りも大好きだから、うんと沢山レシピを持ってる。
 新聞や雑誌から書き抜いたものや、お祖母ちゃんから習ったもの。曾祖母ちゃんのレシピだってある。パパの方のお祖母ちゃんのレシピも。
(伯母さんたちのもあるんだっけ…)
 美味しい料理やお菓子を御馳走になったら、作り方を知りたくなっちゃうママ。御馳走した人も褒められて悪い気なんかしないし、レシピを教えて貰えるみたいで。
(それを整理してあるんだよね、あれ)
 貰ったメモが貼ってあったり、ママの字で綺麗に書き込んであったり。
 友達に習ったっていうものもあるし、旅行先で食べて気に入ったものを再現したりと、レシピは一杯、どれだってママの得意な料理。
(あの中にきっと、パウンドケーキも…)
 ぼくのお目当てのレシピだって、きっとあるんだろう。もしかしたら、コツも書き添えて。
(見たいんだけどな…)
 ちょっぴり中を覗けたならば。そうしてコツが書いてあったら。
(ハーレイに「秘密、これだよ!」って言えるのに…)
 謎が解けたと、ハーレイの好きなパウンドケーキはこうすれば焼ける、と言えるのに…。



 だけど見られない、レシピ帳。
 ママがキッチンに立っている時に開いていたなら「調理実習でもあるの?」って尋ねられるか、「何が食べたいの?」って訊かれるか。
 それじゃ肝心のパウンドケーキのレシピが何処にあるかは分からない。
 うっかりパウンドケーキって言おうものなら、どうしてそれを知りたいのかと探られちゃうし、ハーレイのために探してることも、作りたいことも下手をすればバレる。
 それがバレたら、ぼくの夢もバレる。
 いつかはハーレイのお嫁さんになって、「おふくろの味」のパウンドケーキを焼くという夢。
 それはマズイし、レシピ帳には手を出せない。
 ママが留守の間にコッソリ覗くってことも考えたけれど、きっとそういう時に限って予定よりも早くママが帰ってくるんだ。
 レシピの発掘作業に夢中のぼくは気が付かなくって、結果はやっぱり大惨事。
 ハーレイのためにパウンドケーキ、って夢がバレちゃって、お嫁さんになるという夢だって…。
(…見たいんだけどな、レシピ帳…)
 すぐそこに魔法の種があるのに、種明かしが転がっているというのに、手も足も出ない。
 小さなぼくが結婚出来る年になるまで、ハーレイのお嫁さんになれる時まで、お預けの魔法。
 ハーレイが大好きな「おふくろの味」を再現するための魔法の種…。



 暫くキッチンに立っていたけど、レシピ帳が降ってくる筈もなくて。
 ママが「見てみる?」と渡してくれる筈もなくって、夕食用のシチューの味見だけ。お昼過ぎにママが仕込んで、味に深みを出すためにトロトロと煮込んでいるシチュー。
「どう、美味しい?」
 まだまだ煮込むから美味しくなるわよ、とスプーンで掬って貰ったシチューは充分美味しくて、今でも食べられそうなのに。「まだ足りないわ」って笑ったママ。もっと美味しく、って。



(うーん…)
 部屋に戻って、考え込んでしまった、ぼく。
 勉強机の前に座って、さっきのシチューやパウンドケーキのことなんかを。
(ぼく、ママのお料理、ちゃんと味だけで分かるのかな…?)
 ハーレイがいつも言ってるみたいに。
 ぼくのママのパウンドケーキを口にする度に「おふくろの味と同じだな」って言うみたいに。
(…ママのパウンドケーキ…)
 たまにママが買う、お店のケーキと味が違うのは分かってる。お店のケーキは、なんて言ったらいいんだろう…。ちょっと澄ました、よそ行きの味?
 素朴な味が売りのお店だったら別だけれども、大抵のお店のケーキは気取った味がする。ケーキだけじゃなくて、他のお菓子だって。
 だからママのとは味が違うし、それはぼくにも区別が出来る。
 でも…。
(友達の家とかで御馳走になって、ママの味とおんなじだなんて気付くかな?)
 しかも凝ってるケーキと違ってパウンドケーキ。それで分かるか、と訊かれたら…。
(…分かんないかも…)
 ママのとそっくりだったとしても。
 まるで同じ味のが出て来たとしても、気付かないままで食べそうな、ぼく。
(……シチューだったら…?)
 さっき味見をしてきたシチュー。うんと美味しいのに、ママが「まだよ」と言った味。
(…ますます区別が付かないかも…)
 ママの納得の味になってないのに、美味しいと思っているんだから。
 完成品のシチューはこれだと、これがママの自慢のシチューなんだとは分かりっこない。何処で出されてもシチューはシチューで、美味しかったら喜んでいそう。
(…ぼくって、駄目かも…)
 ママの味すら分からないんじゃ、ハーレイのために「おふくろの味」は無理かもしれない。
 レシピ帳にあるだろうパウンドケーキは何とかなっても、たったそれだけ。
 「これは美味いな」と褒めて貰える、ハーレイが馴染んだ「おふくろの味」。
 ハーレイのお母さんが作るだろう味は、パウンドケーキの他にはただの一つも出せないとか…。



(…どうしよう…)
 パウンドケーキだけしか自慢出来ないお嫁さん。
 好きでたまらないハーレイのために、「おふくろの味」の料理を幾つも作ってあげたくっても、その才能の欠片すら無い、お嫁さん。
 ハーレイは自分で料理をするから、料理上手だから、かまわないのかもしれないけれど。
 「お前は俺が作る料理を食ってくれればそれでいいのさ」って、何度も言ってくれるけど。
 でも、お嫁さんは普通、作る方だと思うんだ。
 あれこれ作って、帰りを待って。
 「お帰りなさい」って、出来立てのお料理を出すとか、そういうの。
 パウンドケーキじゃ、ただのデザート。「お帰りなさい」って出すものじゃない。
 それこそシチューとか、煮物だとか。
 旬の野菜や魚や、お肉。そういったものを使ったお料理、そしてハーレイお気に入りの味。
 ハーレイが子供の頃から馴染んだお母さんの味で、おふくろの味。
 そこまで分かっているというのに、このぼくと来たら。
(…ママの味だって区別が付かないんだけど…!)
 ぼくを育ててくれたママの味すら、全く見分けが付かないぼく。
 見分けと言ったら変かもだけれど、「これがママのだ」と言えない、ぼく。
 こんな調子じゃ、ハーレイのお母さんの味なんて分かるわけがない。
 隣町にあるハーレイのお父さんたちが住んでいる家で、何度御馳走になったとしたって、ぼくは何一つ覚えられなくて、再現だって出来やしないんだ。
 ハーレイのお母さんの味。
 釣って来た魚を自分で料理するのが大好きな、ハーレイのお父さんの味だって…。



 おふくろの味が出せない、ぼく。
 そもそも最初から分かってないから、その味を作り出せない、ぼく。
 ママみたいにレシピ帳を作っていったら、いつか出来るかもしれないけれど。
 庭に夏ミカンの大きな木がある、隣町のハーレイのお父さんとお母さんとが暮らす家。その家に行く度、其処で御飯を御馳走になる度、レシピを教えて貰ったならば。
 ぼくのママがレシピ帳を作ったみたいに、「美味しいから作ってみたいんです」ってお願いしてレシピを教わったならば、少しはハーレイのお母さんの味に近付く。
 材料と味付けは、そのものズバリのレシピってヤツが手に入る。
(…だけど…)
 ハーレイが焼いても、お母さんの味にはならないと聞いたパウンドケーキ。
 つまりは材料と味付けじゃ駄目で、コツというのが何処かにあって。
 そのコツとやらを掴むためには、料理の手順をしっかり見ていて「これだ」って所を見抜くしかない。でなければ自分で懸命に工夫。舌だけを頼りに、ああだこうだと。
(…でも、その舌に自信が無いんだけど…!)
 ハーレイのお母さんの料理を御馳走になって、「こんな味なんだ」と思えるかどうか。
 ママの料理とは此処が違うと、ちょっと違うと気付けるかどうか。
(……全然、駄目そう……)
 さっきキッチンで味見した、シチュー。
 それが完成品の味かどうかも、ぼくには分からなかったんだから。



(……おふくろの味……)
 ハーレイの口から聞きたい褒め言葉だけど、その前に世間では定番の言葉。
 懐かしい味、自分の舌に刻み込まれた子供時代からの記憶の味。
 おふくろの味が嫌いだなんていう人はいなくて、今のぼくみたいな子供はともかく、大人ならば確実に誰もが惹かれる味。ハーレイがパウンドケーキを大好きなのも、そのせいだから。
(…ぼくが子供だから分からないの?)
 大きくなったら分かるのかな、と思ったけれども、それと舌とは別だった。
 おふくろの味だと思う料理の有無はともかく、十四歳にもなれば味覚の鋭い子だって居る。料理上手で休日は家族のために食事を作る、って子だって珍しくはない。
(ぼくって舌が鈍いとか…?)
 好き嫌いが無いくらいだから、と自分に言い訳しようとしたけど、ハーレイも同じ条件だった。ぼくと同じで好き嫌い無しで、それでも「おふくろの味」を見分けるハーレイ。
 ぼくのママが焼くパウンドケーキは特別なのだと、自分のお母さんのと同じ味だと。
(…ぼくって、とことん駄目なのかも…)
 不器用なのはサイオンだけだと思っていたのに、実は舌まで不器用だった。
 ママの料理が分からないほどに、ママが作っているシチューの味とか、パウンドケーキの風味が全く分からないほどに、鈍くて不器用だったんだ…。



(もう駄目かも…)
 おふくろの味はパウンドケーキしか作れないという、酷いお嫁さん。
 それも本当に作れるかは謎で、ママのレシピ帳と特訓があっても焼けないのかもしれなくて。
(…パウンドケーキが目標なのに…)
 舌までとことん不器用となったら、パウンドケーキだって無事に焼けるか怪しい。ママに習って「この味なんだ」と覚えられなければそれでおしまい、何処かでズレが出来てくる。
(習って直ぐなら上手に出来ても、二回、三回って作ってる内に…)
 自分では同じ味のつもりが、香ばしさが少し足りないだとか。口どけが違うとか、そんなズレ。最初の間はご愛嬌でも、ズレていく間にすっかり別物、おふくろの味の欠片も無くなる。
(…でも、ハーレイは「美味いな」って食べてくれるんだろうし…)
 どんなに違うものが出来ても、ハーレイならばきっと笑顔で「美味い」と言ってくれるだろう。「おふくろの味がするパウンドケーキだ」と、「これはお前にしか作れないな」と。
(ハーレイ、そう言うに決まってるんだよ…)
 そんな優しいハーレイだからこそ、優しすぎるほどに優しいハーレイだからこそ、本当に本物の「おふくろの味」のパウンドケーキを焼き上げて食べて貰いたいのに。
 普段の料理も、おふくろの味で揃えたいのに。
 ハーレイが心の底から「美味い」と喜んでくれそうな味を、料理を揃えたいのに…。



 絶望的かもしれない味覚。
 役に立たないサイオンよろしく、とことん不器用らしい舌。
 これじゃ駄目だと、いいお嫁さんにはなれやしない、と落ち込んでいたら、チャイムの音。誰か来たのだと、お客さんだと、ぼくに知らせるチャイムの音。
(…まさか…)
 窓の所に行って、庭の向こうの門扉を見たら。
 其処で大きく手を振る人影、間違えようもない、ぼくの恋人。
(……パウンドケーキはあるんだけど……!)
 来てくれたらいいなと思っていたけど、それとこれとは別問題。
 ハーレイの大好物のパウンドケーキは、もうすぐママがお皿に乗っけて、紅茶と一緒に部屋まで運んでくれるだろうけど。
 嬉しそうに食べるハーレイの顔が見られるけれども、パウンドケーキは「おふくろの味」。
 いつか焼こうと、結婚したらハーレイのために焼いてあげるんだと勇んでいたぼくは、ドン底な気分になっていて。
 それをハーレイに言うべきか否か、頭の中がぐるぐるしてる。
 ハーレイはぼくの料理の腕には期待してないって言っていたけど、どうなんだか…。
 だって、お嫁さんを貰うんだもの。
 一つくらいは得意料理があるといいなと、ぼくのママと同じ味のパウンドケーキが焼けるのならいいなと思っていない…?
(…思うよね、普通…)
 いくら優しいハーレイでも。
 ぼくが「おふくろの味」とは似ても似つかないパウンドケーキを焼いたとしたって、「今日のも美味いぞ」と褒めてくれそうなハーレイでも、きっと。
 少しくらい期待するだろう。お嫁さんになったぼくの、料理の腕に。



 そうしてハーレイが部屋にやって来て、テーブルを挟んで、ぼくと向かい合わせ。
 テーブルの上に紅茶とポットと、それからパウンドケーキのお皿。ハーレイは「今日の俺は運がいいな」と笑顔で、ママにも御礼を言っていたから。
 「これが最高に好きなんですよ」と言っていたから、ぼくはますます肩身が狭い。ママの特訓とレシピ帳があっても、ぼくには多分…。
(…きっと無理だよ、おふくろの味…)
 この味が分からないんだもの、とパウンドケーキをフォークに刺して頬張った。ママが作ったと断言出来る自信が全く無いケーキ。何処かの家で同じ味が出ても、分からないケーキ…。
「おい、どうした?」
 元気が無いぞ、ってハーレイの声。
「学校で何かあったのか? それとも腹でも痛くなったか?」
「ううん、そうじゃなくて…」
「じゃあ、何だ?」
 悩み事なら相談に乗るぞ、って鳶色の瞳で穏やかに見詰められたから。
 ぼくを心配してくれているのも伝わってくるから、ぼくは打ち明けることにした。ハーレイには申し訳ないけれども、これは本当のことだから。



「…ハーレイ、お願い。呆れないでよ?」
「何にだ?」
 お前、失敗でもやらかしたのか?
 帰る途中で派手に転んだとか、でなきゃおやつの皿を割ったか。
「…おやつのお皿は、ちょっと近いかも…」
 パウンドケーキ、と呟いた、ぼく。
 今日のおやつがパウンドケーキで、いつか焼こうと思ったのだ、と。
 だけど舌まで不器用らしくて、頑張ったとしてもハーレイの好きな「おふくろの味」は無理かもしれないと。
「なんだ、そんなことか。別にいいだろ、お前はお前だ」
 お前が焼いてくれると言うならそれだけで俺は嬉しいんだが、ってハーレイが笑う。
 焦げていたって、不味くったって。
「でも…。ハーレイのお母さんの味…」
 おふくろの味が最高なんでしょ、お菓子も、それにお料理も。
 それをハーレイに作ってあげたいんだけれど、ぼくには無理かもしれないんだよ?
 そんなお嫁さん、嫌じゃない?
 おふくろの味の料理やお菓子が作れるお嫁さんの方が、絶対にいいと思うんだけど…。



「そりゃまあ、なあ…。世間一般ではそうではあるが、だ」
 お前、何かを忘れちゃいないか?
 俺たちの場合は例外なんだぞ、おふくろの味に関しては。
「えっ?」
 どういう意味、って訊き返した、ぼく。例外だなんて、まるで分からない。
「忘れちまったか? 今の俺にはおふくろがいるし、おふくろの味も当然あるが…」
 前の俺にはおふくろの味どころか、おふくろの記憶が無かったってな。
 お前だってそうだろ、機械にすっかり消されちまっていただろうが。
 そうでなくても、前の俺たちが生きていた時代。
 おふくろの味なんて言葉自体が存在しないさ、成人検査で綺麗サッパリ消されちまってな。
「そういえば…。残しておいても無駄な記憶かな、おふくろの味」
「無駄で済めばいいが、場合によっては有害だろうが」
 子供時代にこだわられては困る、というのがマザー・システムの時代の考え方だ。
 そんな時代を生きた俺だし、おふくろの味があるというだけで幸せなのさ。
 たとえそいつを食べられなくても、おふくろの味の記憶がある。それは最高だと思わないか?
「それはそうかもしれないけれど…。でも…」
「出会えればラッキー、出会えなくても舌は決して忘れないってな、おふくろの味」
 その思い出ってヤツが幸せなんだ。
 ついでに、思い出ってヤツは幾らでも増える。
 お前が焼け焦げたパウンドケーキを作ってくれたら、そいつも俺には幸せの味でいい思い出だ。
 今度はお前を嫁に貰えたと、お前が作ってくれたんだ、とな。



 前のお前はパウンドケーキなんかは焼かなかったろうが、と片目をパチンと瞑ったハーレイ。
 ソルジャー・ブルーはキャプテン・ハーレイに料理を作ってはくれなかった、と。
「ところが、今度は作ってくれると来たもんだ。これが嬉しくなければ何だ?」
 焦げたケーキでも、お前が焼いてくれたんだ。俺のためにな。
 おふくろの味なら言うことはないが、焦げていたって充分に美味い。
 いいか、嫁さんが心をこめて作ってくれた料理をけなす男はいないんだぞ?
 愛情ってヤツは最高の調味料なのさ。どんな料理でも美味くしちまう、魔法の味だな。
「…その魔法…。ママのパウンドケーキの秘密は何処かにあると思うんだけど…」
 愛情なんかを使わなくっても、レシピ帳の中か、ちょっとしたコツか。
 それが分かったら、って思うけれども、ぼくの舌も不器用みたいだから…。
 ママに教えて貰って直ぐなら、ハーレイの好きな味になるかもしれないけれど。何回か作ってる間にズレていっちゃって、全然違うって味になりそう…。
「どうだかな? 案外、才能があるって可能性もゼロではないしな」
 お前、まだまだチビだろうが。これから育つし、可能性は無限大ってことだ。
 それにだ、お母さんに習った味からズレて別物になったとしても。その時は、それを自慢の味にしておけばいいのさ、お前の。
 お前が作るパウンドケーキの味はこれだと、そういうものだと。
「でも、それって美味しいって言わないんじゃない?」
 おふくろの味じゃなくなってるよ、って言ったんだけれど。ハーレイはぼくの頭をポンと叩いて微笑んだんだ。「それもおふくろの味って言うさ」と。



「…なんで?」
 ズレちゃった味がおふくろの味って、どういうこと?
 ハーレイのお母さんの味でもなければ、ぼくのママの味でもないんだよ?
「お前、俺の嫁さんになるんだろ?」
「そうだけど…」
「嫁さんってヤツは、普通は子供が付き物だってな。生憎とお前は産めないわけだが…」
 もしも、お前が子供を産んで親になったら。
 お前が作るパウンドケーキが、その子にとっては「おふくろの味」だ。違うか、ブルー?
「……そうなのかも……」
「そこは疑う余地も無いってな、子供さえいれば「おふくろの味」になるわけだ」
 だからだ、ズレた味でも本物のおふくろの味になるのさ、その家の味っていうヤツに。
 子供にとっての「おふくろの味」は、旦那にとっては家庭の味だ。
 おふくろの味は卒業しろっていうことなんだな、家庭の味が出来る頃には。
 たまには恋しくなったとしたって、家庭の味が一番なんだと思うようになるのが結婚なのさ。
「…ズレたパウンドケーキでもいいの?」
「もちろんだ。それが俺たちの家庭の味ってことなんだからな」
 きっと美味いさ、お前がパウンドケーキを焼いてくれたら。



 レシピ帳もコツも、こだわらなくっていいんだからな、って頭を撫でてくれたハーレイ。
 ズレた味でも、家庭の味だからそれがいいんだ、って言ったハーレイ。
 だけどやっぱり、そんな優しい言葉を掛けてくれるハーレイのために作ってあげたい。
 おふくろの味の料理に、お菓子。
 まずはパウンドケーキから。
 結婚したなら、ママに教えて貰わなくっちゃ。
 今はまだ覗けない、レシピ帳。
 あれを開いて、ママと一緒に材料を計って、合わせていって。
 ハーレイが大好きな味のケーキを、ハーレイのお母さんの味と同じケーキを作りたい。
 ぼくの夢で目標のパウンドケーキ。
 それくらいは頑張って、おふくろの味をハーレイのために…。




         おふくろの味・了

※ハーレイが大好きな「おふくろの味」のパウンドケーキ。それを焼くのがブルーの目標。
 上手く焼けなくても、ハーレイは気にしないようですけれど…。ブルーはきっと頑張ります。
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「すっかり暗いね…」
 ブルーはフウと溜息をついた。
 ハーレイが仕事帰りに寄ってくれる時間は以前と全く変わらないのに、暗くなってしまった窓の外。地球の上で二人、再会した頃には明るかった筈の、この時間。
 両親も交えて夕食を食べ始めようかという時になっても、ダイニングの外は明るかったのに。
 庭の木々や、庭で一番大きな木の下の白い椅子とテーブルを充分に見分けられたのに…。
 それに比べて、今はもう暗い。日が落ちて深い夕闇の中。



「秋の日は釣瓶落としと言うからな」
 これからどんどん暗くなるさ、とハーレイが妙な言葉を口にしたから。
「つるべ…?」
 なあに、それ。何が落ちるの?
 怪訝そうなブルーに、ハーレイは「釣瓶落としだ」と繰り返した。
「釣瓶は井戸で使う道具だ。井戸から水を汲み上げる桶。そいつが釣瓶だ」
 井戸も釣瓶も、授業で話したと思うがな?
「そういえば…。でも、なんで釣瓶が出て来るの?」
 釣瓶は秋のものだったろうか、とブルーは首を捻った。言葉によっては季節を表すものもあるとハーレイの授業で習ったけれども、釣瓶については覚えが無い。
 ハーレイは「ははっ、釣瓶が秋の言葉だっていうわけではないさ」と可笑しそうに。
「釣瓶落としって所が問題なんだ。釣瓶を井戸に入れるとどうなる?」
「えーっと…?」
「それこそ重力というヤツだ。綱がついててもストンと落っこちて行くだろうが」
 アッと言う間に井戸の中へと。
 秋の夕日は釣瓶みたいな早さで沈んじまうから、釣瓶落としと言われるんだ。
 もっとも、本当に早く沈むってことは有り得ないがな、太陽だからな?
 それを見ている人間の方の感じ方だな、秋は日暮れがとても早い、と。



 実際、日没の時間が早くなってゆくし…、とハーレイに教えられたけれども。
 夏よりも日暮れが早くなったことは、ブルーにも分かっているのだけれど。
「…もっと明るいままがいいのに…」
 ハーレイと出会った頃みたいに。あの頃はこの時間でも明るかったよ、窓の外は。
「暗いの、嫌いか?」
 お前、夜の暗さは嫌いだったか?
 前のお前が暮らしていた青の間、さほど明るくはなかったがな…?
「そうじゃないけど…。暗いのが嫌いってわけでもないけど…」
 怖い夢を見て目が覚めた時は、暗いととっても怖いけれども、普段は平気。
 だけど、今日みたいにハーレイが寄ってくれる日に暗くなるのは嫌だな。
 なんだか時間が短くなったように思うんだもの。
 外が明るかった頃と違って、ハーレイと一緒にいられる時間が縮みそうな気がするんだよ。
 お日様、もっとゆっくり沈めばいいのに。
 同じ井戸でも釣瓶じゃなくって、風船を落とすみたいにゆっくり、ゆっくり。



「ふうむ…。なら、戻すか?」
 時間が足りないと言うんだったら、戻してみるか?
「何を戻すの?」
「太陽だ」
 沈んじまった太陽をもう一度、呼び戻すのさ。そうすりゃ明るくなるだろう?
「そんなこと、出来るの?」
「お前、扇子は持ってるか?」
 扇だ、扇。こう、広げてパタパタと扇ぐアレだな、風を送るヤツ。
「持ってないけど…」
「なら、駄目だな」
 太陽を呼び戻すには扇が要る。お前が扇子を持ってないなら、諦めておけ。



 そうは言われても、太陽を呼び戻せるという方法が気になるから。
 ブルーの手元に扇子は一つも無いのだけれども、知りたくなったから尋ねてみる。
「ハーレイ、それって…。どうやるわけ?」
 扇子なんかを何に使うの、太陽をどうやって呼び戻すの?
「やり方か? 扇を持ってだ、そいつを広げて翳すんだな。そして扇で太陽を招く」
 戻れ、戻れ、と呼び戻すわけだ。広げた扇を持った手を上げて。
「それで戻るの? そんな方法、あったんだ…」
 扇子ならママが持ってるよ。ママの部屋にあると思うんだけど…。



 ブルーは立ち上がろうとした。母の部屋にある扇子を探しに、それを探して持って来ようと。
 本当に太陽を呼び戻せるかどうかはともかく、試さねば損だと思ったのに。
「やめとけよ、おい」
 扇子なんかを取りに行くなよ、とハーレイに待ったをかけられた。
「なんで?」
 ちょっと試してみるだけだよ。お日様、戻って来るのかどうか。無理だろうけど…。
「その方法。…下手にやらかすと罰が当たるぞ」
「えっ!?」
「本当だ。SD体制よりもずうっと昔に、この辺りが日本だった頃。其処での話さ」
 田植えは分かるな、遥か昔は人間の手で田んぼに稲を植えていた。
 広い田んぼを持っていた人が、使用人たちに田植えをさせていたんだが…。日暮れまでにそれが終わらなくってな、それじゃ困ると扇で太陽を呼び戻したんだ。
 お蔭で田植えは無事に終わったが、次の日の朝。田んぼは湖になっていました、という話だ。
「…それが罰なの?」
「湖になっちまったら、二度と田んぼには戻らないからな。全財産がパアッってことだ」
 しかし、同じように太陽を扇で呼び戻しても。
 世の中の役に立つことをしていた場合は、そういった罰は当たらないってな。
「そうなの?」
「船が通れるようにしようと、海峡を開削していた人がいた。ところが、これが難工事だった」
 このタイミングならば工事が出来る、という時に日が沈みそうになったから。
 工事を始めた偉い人がだ、扇で太陽を呼び戻した。お蔭で工事は無事に終わったというわけだ。
 そうやって出来た、狭い海峡。その後もずうっと船が通れたと言うからな。
 罰は当たらなかったわけだな、罰が当たったなら、海峡は閉じてしまって船は通れない。
「そっか…」
 自分のために、と欲張ったら罰が当たるんだ…。
 みんなのために、と頑張った人は同じことをやっても平気なんだね。



 罰は神様が当てるものだから。
 私利私欲でやれば罰が当たって、そうでなければ当たらないのも頷けるけれど。
 扇で太陽を呼び戻した人が少なくとも二人はいると言うから、ブルーの脳裏を掠めた考え。
 もしかしたら、と。
「ねえ、ハーレイ。扇でお日様を呼び戻した人たちって、タイプ・ブルーかな?」
 ずうっと昔にもミュウがいたかもしれないよ?
 その昔話、お日様を呼び戻したっていう所は案外、本当なのかも…。
「なんでそうなる?」
 しかも、どうしてタイプ・ブルーってことになるんだ?
「星の自転…」
 前のぼくは試していないけれども、星の自転を止めるくらいの力はあったよ。
 だから、逆の方向にだって回せたと思う。
 お日様が沈むの、地球の自転のせいだもの。逆に回せば戻ってくるよ。
 扇で招くのは演出なんだよ、こうすれば太陽を戻せますよ、って。



「なるほどなあ…。前のお前だったら、出来たってか」
 扇で太陽を呼び戻すくらい、やれば出来たということなのか…。扇が無くてもサイオンだけで。
「ぼくだけじゃなくて、ジョミーでもね」
 おんなじタイプ・ブルーだもの。ジョミーだってお日様を呼び戻せたよ。
「ナスカでは、やっていなかったがなあ…」
 太陽は二つあったんだが…。沈んだら作業は其処で終わりだ、延長なんかはしていないぞ。
 どうしても終わらせたいって仕事は、明かりを点けるか、サイオンで夜目を利かせてだったな。
「でも…。誰も頼んでいないでしょ?」
 日が暮れちゃったら困る、って。お日様が戻ってくればいいのに、って言ってはいないでしょ?
「まあな」
 そもそも思い付かないからなあ、沈んだ太陽を戻そうだなんて。
 日暮れは日暮れだ、たとえ太陽が二つあっても両方沈めば夜が来るんだ。
 そういうものだと思っていたから、誰もジョミーに頼みやしないさ。
 太陽をもう一度戻せないかと、もう少しだけ時間があったら今日の作業が終わるから、とは。



 思い付きさえしなかった、と苦笑したハーレイだったけれども。
 タイプ・ブルーにはそれが出来ると言うから、小さなブルーをまじまじと眺めた。
「太陽なあ…。俺は危うく、お前に罰が当たるようなことをさせるトコだったのか?」
 扇で太陽が呼べると教えて、お前がそれをやっていたなら。
「大丈夫。今のぼくには出来ないから」
 呼びたくっても、呼べやしないよ。ぼくのサイオン、不器用になってしまったから。
「それはそうだが…。今のお前だと、力があったらやりかねないしな」
 日暮れが早いのは嫌だから、と扇子を持ち出して、沈んじまった太陽をヒョイと戻すくらいは。
「かもね…。ハーレイを見たいだけなんだけど」
「はあ?」
 どういう意味だ、と訝しむハーレイに、ブルーは「ハーレイだよ」と答えた。
「お日様の光でハーレイを見たい。たったそれだけ」
 今みたいに早く日が暮れちゃったら、部屋の明かりでしか見られないんだもの。
 だけど、そういう理由でぼくが太陽を呼び戻したなら、神様の罰が当たっちゃうよね…。



「何故、太陽の光で見たいんだ?」
 どんな光で見たとしてもだ、俺は俺だと思うんだが…。
「ハーレイにとても似合っているから。お日様の光」
 それなのに今は、お休みの日か、学校でしか見られないんだよ。
 仕事の帰りに寄ってくれる時には、もう夕方で。外は暗くなって来ているんだもの…。
 前はもっと明るかったのに。
 秋になるよりも前は、今日みたいな日でも、ぼくの家でお日様の中のハーレイを見られたのに。
「太陽の光って…。そいつは普通のことだろう?」
 昼間だったら太陽があるし、似合うも何も…。
 そりゃあ確かに、夏の日射しと秋の日射しじゃ明るさや強さが違ったりもするが…。
「うん。今のぼくはハーレイをお日様の光で見るのに慣れちゃったんだけど…」
 それが普通だと思っていたけど、秋になったら。
 暗くなるのが早くなって来たら、気が付いたんだ。
 今のぼくと違って、前のぼく。
 前のぼくは一度も、ハーレイをお日様の光の下で見ていないんだ、って。



 ブルーの言葉。小さなブルーが口にした言葉に、ハーレイはハッと息を飲んだ。
「…そうか…。お前、ナスカに着いた時には…」
 眠ってたんだな、目覚めないままで。
 俺がナスカの太陽の下を歩いていた時、お前は眠っていたんだっけな…。
「そう。そしてアルテメシアで暮らしてた頃は、ハーレイは外に出ていないんだよ」
 いつだって船の中で、お日様の光は射し込まなくて。
 ぼくはお日様に照らされたハーレイの姿を一度も見ないままだったんだよ…。
「言われてみれば、そうなるのか…」
 俺とお前が一緒に地面に立っていたのは、アルタミラだけか。
 あの時は太陽どころじゃなかったんだな、空は真っ赤に燃えていたからな。
「うん。…ぼくが地面の上でハーレイを見たのは、アルタミラだけ」
 お日様なんか見えもしなかった、あの時だけ。
 シャングリラを改造していた時だって、大気のある星には降りてないから。
 ハーレイは地面に立たなかったし、お日様の明るい光の中には居なかったんだよ…。



 見てはいない、とブルーは言った。太陽の光を浴びたハーレイの姿をただの一度も。
 しかし、対するハーレイにその自覚は無く、何故そうなるのかと首を捻った。
「ならば、俺は何故…。俺は確かに、太陽の光で前のお前を見ているんだが…」
 自分が太陽の下に出ていないのなら、何故、そのブルーを知っているのか。太陽の下のブルーを知っているのか、と自分に問い掛け、遠い記憶を探ってみて。
 見出した答えに愕然とした。
 前の自分が知っていたブルー。太陽の光を浴びたブルーは…。
「…俺が見ていたお前の姿。あれは肉眼ではなかったのか…」
 俺はお前をスクリーン越しに眺めていたのか、太陽の光の下を飛ぶお前を。
 アルテメシアの雲海の上を飛んでゆくお前を、シャングリラのスクリーンを通して見たのか…。



 知らなかった、とハーレイは呻く。今の今まで知らなかったと。
「…そうだったのか、俺は気付いていなかっただけで…」
 俺も太陽の下でお前を見ていなかったのか…。
 前のお前が太陽の光を浴びた姿を、肉眼で見てはいなかったのか…。
「そう。前のぼくもハーレイも、見ていないんだよ」
 太陽の下だと、お互いにどんな風に見えるのかを。
 本当に一度も、ただの一度も、二人一緒に太陽の下には出なかったから…。



 前の生では一度も見なかった、自然光を浴びた互いの姿。
 アルタミラの空は火焔を映した黒煙に覆われ、陽が射し込んでは来なかった。
 長く暮らした雲海の星はハーレイが降り立つことを許さず、外に出られたブルーの姿も船に居たハーレイは肉眼では捉えられなくて。
 ナスカに在った二つの太陽はハーレイを優しく照らしたけれども、眠り続けるブルーの瞳にその姿が映ることは無かった。
 ハーレイもまた、ナスカの太陽を浴びたブルーの姿を眺めることは叶わなかった。
 長い長い時を、アルタミラからの三百年を超える歳月を共に過ごしながら、一度たりとも互いに見られずに終わった姿。
 今ではあまりに当たり前すぎて、気付くことさえ無かった姿。
 昼間の空に在る、太陽の光。自然の光を浴びた互いの姿を前の生では知らなかったのだ、とは。



「迂闊だったな…」
 俺としたことが、とハーレイは小さなブルーを見詰めた。
 秋は日暮れが早くて嫌だと、仕事帰りの自分が寄る時、暗いのが嫌だと言ったブルーを。
「まるで考えちゃいなかった。お前に太陽の光が似合うかどうかを」
 其処に気付いていりゃ、俺だって…。
「なあに?」
 どうしたの、とブルーが首を傾げるから。
 愛らしい顔で問い掛けて来るから、ハーレイは「お前と同じさ」と笑みを浮かべた。
「釣瓶落としを恨んだだろうな、今の季節は太陽の光でお前の姿を見られない、ってな」
 こんなに早く日が暮れたんでは、学校か休みの日にしか見られないじゃないか。
 お前、太陽の光が良く似合うのに。
 今のお前を存分に見るなら、断然、太陽の光なのにな。



「太陽って…」
 ブルーは赤い瞳を丸くした。
 太陽の光が似合うなどとは、生まれてこの方、一度も言われたことが無い。
 強い日射しは身体に悪い、と幼い頃から被せられていた帽子。つばが広くて日陰を作る帽子。
 それを被って歩いていれば、「可愛らしい」と何度も言われたけれど。
 小さなブルーは、帽子を被った自分の姿を褒められたのだと思っていた。自分ではなくて、頭に被った大きな帽子。頭の上に大きな帽子があるから、太陽の下の自分は「可愛い」のだと。
 実の所は、帽子など被っていなくても。
 日射しが柔らかい春や秋にも、冬にも「可愛い」と褒められたけれど、それは太陽とはまた別のものだという認識。ブルーにとっては、そういう認識。
 太陽の強い光の下では、自分は、帽子。
 あの日射しは自分に似合わないから、頭に帽子。
 それを被って誤魔化していると、太陽の下では自分は「可愛い」と言って貰えず、太陽は自分に似合わないのだと。



 そうだと思い込んでいたのに、ハーレイは太陽が似合うと言うから。
 ブルーには太陽の光が似合うと言うから、恐る恐るそれを確認してみる。
「ハーレイ、ぼくって…。お日様、似合う?」
 お日様の光はぼくに似合うの?
 そんなこと、今までにたったの一度も言われたことが無いんだけれど…。
「そうなのか?」
「うん。帽子を褒めて貰っただけだよ、お日様の光が強い時には被っているから」
 可愛いわね、って帽子だったら褒めて貰った。つばが広くて大きな帽子を。
「そいつは帽子を褒めているんじゃないと思うがな…」
 お前、面白い発想をするな。
 帽子を褒めるなら「可愛い帽子ね」と言うもんだ。「良く似合うわね」とか、そんな感じで。
 いいか、可愛いのは帽子じゃなくって、それを被ったお前の方だ。
 でかい帽子を被っていてもな、声を掛けられるくらいの距離にいるなら顔は見えてる。
「…そうなのかな?」
「当たり前だろうが、帽子を褒めてどうするんだ」
 こんなに可愛い顔が帽子の下にあるのに。
 お前を褒めずに帽子を褒めてるヤツがいたなら、そいつの目玉は節穴というヤツだよな。



「…帽子じゃなくって、ぼくだったの?」
 お日様もちゃんとぼくに似合うの、帽子にお日様が似合うんじゃなくて?
「ああ、似合うさ。前のお前は月みたいだったが、太陽だって似合っていたぞ」
 前の俺はスクリーン越しにしか知らんが、良く似合っていた。眩しいほどにな。
 そうして今のお前は、だ。
 前のお前よりも遥かに太陽が似合ってるんだぞ、影ってヤツが無いからな。
「影…?」
「そうだ、影だから暗い部分だ。悲しみだとか、苦しみだとか」
 前のお前は、いつだって何処かに抱えていた。
 どんなに楽しそうに笑っていたって、どうしても消えない、消せない影だ。
 アルタミラから背負い続けて、メギドに飛んで行っちまうまで。
 誰にも見せないようにしてても、俺にまでは隠せていなかったんだ。前のお前の深い悲しみ。
 しかしだ、今のお前にはそいつが無い。
 悲しみも苦しみも生まれて来ないし、それを持ち続ける必要も無い。影なんか存在しないんだ。
 その分、余計に太陽が似合う。幸せそうに笑えば笑うほどにな。
「ホント?」
 今のぼく、ホントにお日様が似合う?
「本当だ。俺が嘘なんかを言うと思うか?」
 お前は本当に太陽が似合う。前のお前よりも、ずっと幸せに生きている分。
 前のお前が焦がれ続けた地球の太陽、今のお前の笑顔にとても似合ってるんだぞ。
 褒められてたのは帽子だなんて言い出すお前だ、自分じゃ気付いていないだろうがな。



 前のブルーが、ソルジャー・ブルーが焦がれ続けた水の星、地球。
 母なる青い地球を育む恒星、それがソル太陽系の太陽。地球の太陽。
 前の生でフィシスの映像に在った、地球へと渡る旅の目印。太陽もブルーは見たかった。いつか肉眼で見たいと願った。
 その地球の太陽が今の自分に似合うと言われて、小さなブルーの顔が輝く。
 「ハーレイ、本当?」と何度も問い掛け、それは嬉しそうに、とても幸せそうに。
 太陽のように明るい笑顔。
 前のブルーのそれと違って、翳りも憂いも秘めていない笑顔。
 ハーレイはその眩しさに、明るさに目を細めて恋人の顔を見詰めたけれど。
 前の生から愛してやまない恋人の笑顔に目を奪われてしまったけれども、それはもう太陽の光の中ではなくて。
 今のブルーに似合う太陽は、とうに沈んでしまった後で…。



「…俺も太陽を招き返したくなってきたな」
 せっかくのお前の眩しい笑顔に、太陽がついていないんだが…。
 沈んじまった後で、窓の外はもう真っ暗だしなあ…。
「罰が当たるよ?」
 ハーレイがそう言ったんだよ?
 ぼくがハーレイをお日様の中で見たいから、って思っているのに、「罰が当たる」って。
 自分のためにだけ、お日様を呼び戻しちゃったら罰が当たると言ったよ、ハーレイ。
「それはそうなんだが…。確かに言ったが…」
 お前の気持ちが俺にもようやく理解出来たぞ、秋は困るな。釣瓶落としの日暮れは困る。お前の姿を思う存分、太陽の光で見たい俺には不向きな季節だ。
「分かってくれた? だから釣瓶落としより、風船落としの方がいいなあ、って…」
 ゆっくりゆっくり、日が暮れるのが。
 でなきゃ、前みたいに日暮れが遅いか。
「これからの季節、そうもいかんが…。だが、太陽を呼び戻すのも…」
「罰が当たったら困るでしょ? ぼくも、ハーレイも」
「うむ。お互い、それは困るしなあ…」
 どういう罰だか分からないが、だ。
 田んぼが湖になっちまうくらいだ、お前と二度と会えなくなるような罰が当たると大変だしな?
「それは困るよ、それくらいなら釣瓶落としでも我慢するよ!」
 お日様、呼び戻したいとは思うけど…。
 ハーレイをゆっくり、お日様の光で見ていたいけど…!



 沈んだ太陽を呼び戻す方法。釣瓶落としの秋の日暮れを覆せそうな扇の魔法。
 けれども、それを使ってしまえば罰が当たると言われるから。
 私利私欲のためには使えないから、ブルーは我慢をすることに決めた。秋の日暮れが早くても。
「…釣瓶落としでも、我慢するしかないみたいだけど…」
 ハーレイをお日様の光で見ていたいけれど、学校のある日は家では見られないみたいだから。
 その分、お休みの日には、ゆっくり、じっくりハーレイを見なきゃ。お日様の光で。
「俺も同じでお前を見たいが、秋の日暮れはこれから早くなる一方だしなあ…」
 夜明けだって遅くなっちまう。流石にお前の家に来る頃には明るい時間になっているがな。
 しかし太陽とは縁が薄くなるなあ、これから冬に向かって行くとな。
「でも、太陽はちゃんと出るよね、シャングリラに居た頃と違って」
 雲海が白いか、暗いかだけの違いだった昼や夜と違って、どんな日でもお日様は昇って来るし。
 それに次の日も、その次の日も…。そのまた次の日も、必ず来るよ。
 シャングリラに居た頃は、次の日の朝が来るって保証は無かったのに。夜の間に人類軍の攻撃で沈んでしまって、次の日なんかは来ないかもしれない、って思っていたのに。
 あの頃に比べたら、ずうっと贅沢。
 お日様が釣瓶落としに消えてしまっても、次の朝には必ず昇って来るんだから。
「違いないな。それも、本物の地球の太陽がな」
 前のお前が行きたかった地球。前の俺が辿り着いた時には、死の星だったままの地球。
 その地球の上で生きているんだ、釣瓶落としの日暮れくらいで文句を言っては駄目だってな。



 秋の日は釣瓶落としと言われるくらいで、明るい昼間も短くなってゆくのだけれど。
 太陽の光に照らされる時間は、どんどん短く縮んでいってしまうのだけれど。
 それでも昼間は太陽の光の中に居るから。
 前の生では見られなかった、太陽の光の下に居る互いの姿を見られるのだから。
 沈む夕日を招き返してはいけないのだ、と二人、戒め合う。
 それが出来るだけの強いサイオンを持っていたとしても、地球に全てを任せなければ、と。
 星の自転を止めることなく、蘇った地球に全て委ねて…。




         秋の夕暮れ・了

※前のハーレイとブルーは、太陽の光の下でお互いを見たことが無かったのです。
 けれど今では太陽があって、明るい光が似合うのがブルー。平和な時代ならではですね。
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