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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

「すっかり暗いね…」
 ブルーはフウと溜息をついた。
 ハーレイが仕事帰りに寄ってくれる時間は以前と全く変わらないのに、暗くなってしまった窓の外。地球の上で二人、再会した頃には明るかった筈の、この時間。
 両親も交えて夕食を食べ始めようかという時になっても、ダイニングの外は明るかったのに。
 庭の木々や、庭で一番大きな木の下の白い椅子とテーブルを充分に見分けられたのに…。
 それに比べて、今はもう暗い。日が落ちて深い夕闇の中。



「秋の日は釣瓶落としと言うからな」
 これからどんどん暗くなるさ、とハーレイが妙な言葉を口にしたから。
「つるべ…?」
 なあに、それ。何が落ちるの?
 怪訝そうなブルーに、ハーレイは「釣瓶落としだ」と繰り返した。
「釣瓶は井戸で使う道具だ。井戸から水を汲み上げる桶。そいつが釣瓶だ」
 井戸も釣瓶も、授業で話したと思うがな?
「そういえば…。でも、なんで釣瓶が出て来るの?」
 釣瓶は秋のものだったろうか、とブルーは首を捻った。言葉によっては季節を表すものもあるとハーレイの授業で習ったけれども、釣瓶については覚えが無い。
 ハーレイは「ははっ、釣瓶が秋の言葉だっていうわけではないさ」と可笑しそうに。
「釣瓶落としって所が問題なんだ。釣瓶を井戸に入れるとどうなる?」
「えーっと…?」
「それこそ重力というヤツだ。綱がついててもストンと落っこちて行くだろうが」
 アッと言う間に井戸の中へと。
 秋の夕日は釣瓶みたいな早さで沈んじまうから、釣瓶落としと言われるんだ。
 もっとも、本当に早く沈むってことは有り得ないがな、太陽だからな?
 それを見ている人間の方の感じ方だな、秋は日暮れがとても早い、と。



 実際、日没の時間が早くなってゆくし…、とハーレイに教えられたけれども。
 夏よりも日暮れが早くなったことは、ブルーにも分かっているのだけれど。
「…もっと明るいままがいいのに…」
 ハーレイと出会った頃みたいに。あの頃はこの時間でも明るかったよ、窓の外は。
「暗いの、嫌いか?」
 お前、夜の暗さは嫌いだったか?
 前のお前が暮らしていた青の間、さほど明るくはなかったがな…?
「そうじゃないけど…。暗いのが嫌いってわけでもないけど…」
 怖い夢を見て目が覚めた時は、暗いととっても怖いけれども、普段は平気。
 だけど、今日みたいにハーレイが寄ってくれる日に暗くなるのは嫌だな。
 なんだか時間が短くなったように思うんだもの。
 外が明るかった頃と違って、ハーレイと一緒にいられる時間が縮みそうな気がするんだよ。
 お日様、もっとゆっくり沈めばいいのに。
 同じ井戸でも釣瓶じゃなくって、風船を落とすみたいにゆっくり、ゆっくり。



「ふうむ…。なら、戻すか?」
 時間が足りないと言うんだったら、戻してみるか?
「何を戻すの?」
「太陽だ」
 沈んじまった太陽をもう一度、呼び戻すのさ。そうすりゃ明るくなるだろう?
「そんなこと、出来るの?」
「お前、扇子は持ってるか?」
 扇だ、扇。こう、広げてパタパタと扇ぐアレだな、風を送るヤツ。
「持ってないけど…」
「なら、駄目だな」
 太陽を呼び戻すには扇が要る。お前が扇子を持ってないなら、諦めておけ。



 そうは言われても、太陽を呼び戻せるという方法が気になるから。
 ブルーの手元に扇子は一つも無いのだけれども、知りたくなったから尋ねてみる。
「ハーレイ、それって…。どうやるわけ?」
 扇子なんかを何に使うの、太陽をどうやって呼び戻すの?
「やり方か? 扇を持ってだ、そいつを広げて翳すんだな。そして扇で太陽を招く」
 戻れ、戻れ、と呼び戻すわけだ。広げた扇を持った手を上げて。
「それで戻るの? そんな方法、あったんだ…」
 扇子ならママが持ってるよ。ママの部屋にあると思うんだけど…。



 ブルーは立ち上がろうとした。母の部屋にある扇子を探しに、それを探して持って来ようと。
 本当に太陽を呼び戻せるかどうかはともかく、試さねば損だと思ったのに。
「やめとけよ、おい」
 扇子なんかを取りに行くなよ、とハーレイに待ったをかけられた。
「なんで?」
 ちょっと試してみるだけだよ。お日様、戻って来るのかどうか。無理だろうけど…。
「その方法。…下手にやらかすと罰が当たるぞ」
「えっ!?」
「本当だ。SD体制よりもずうっと昔に、この辺りが日本だった頃。其処での話さ」
 田植えは分かるな、遥か昔は人間の手で田んぼに稲を植えていた。
 広い田んぼを持っていた人が、使用人たちに田植えをさせていたんだが…。日暮れまでにそれが終わらなくってな、それじゃ困ると扇で太陽を呼び戻したんだ。
 お蔭で田植えは無事に終わったが、次の日の朝。田んぼは湖になっていました、という話だ。
「…それが罰なの?」
「湖になっちまったら、二度と田んぼには戻らないからな。全財産がパアッってことだ」
 しかし、同じように太陽を扇で呼び戻しても。
 世の中の役に立つことをしていた場合は、そういった罰は当たらないってな。
「そうなの?」
「船が通れるようにしようと、海峡を開削していた人がいた。ところが、これが難工事だった」
 このタイミングならば工事が出来る、という時に日が沈みそうになったから。
 工事を始めた偉い人がだ、扇で太陽を呼び戻した。お蔭で工事は無事に終わったというわけだ。
 そうやって出来た、狭い海峡。その後もずうっと船が通れたと言うからな。
 罰は当たらなかったわけだな、罰が当たったなら、海峡は閉じてしまって船は通れない。
「そっか…」
 自分のために、と欲張ったら罰が当たるんだ…。
 みんなのために、と頑張った人は同じことをやっても平気なんだね。



 罰は神様が当てるものだから。
 私利私欲でやれば罰が当たって、そうでなければ当たらないのも頷けるけれど。
 扇で太陽を呼び戻した人が少なくとも二人はいると言うから、ブルーの脳裏を掠めた考え。
 もしかしたら、と。
「ねえ、ハーレイ。扇でお日様を呼び戻した人たちって、タイプ・ブルーかな?」
 ずうっと昔にもミュウがいたかもしれないよ?
 その昔話、お日様を呼び戻したっていう所は案外、本当なのかも…。
「なんでそうなる?」
 しかも、どうしてタイプ・ブルーってことになるんだ?
「星の自転…」
 前のぼくは試していないけれども、星の自転を止めるくらいの力はあったよ。
 だから、逆の方向にだって回せたと思う。
 お日様が沈むの、地球の自転のせいだもの。逆に回せば戻ってくるよ。
 扇で招くのは演出なんだよ、こうすれば太陽を戻せますよ、って。



「なるほどなあ…。前のお前だったら、出来たってか」
 扇で太陽を呼び戻すくらい、やれば出来たということなのか…。扇が無くてもサイオンだけで。
「ぼくだけじゃなくて、ジョミーでもね」
 おんなじタイプ・ブルーだもの。ジョミーだってお日様を呼び戻せたよ。
「ナスカでは、やっていなかったがなあ…」
 太陽は二つあったんだが…。沈んだら作業は其処で終わりだ、延長なんかはしていないぞ。
 どうしても終わらせたいって仕事は、明かりを点けるか、サイオンで夜目を利かせてだったな。
「でも…。誰も頼んでいないでしょ?」
 日が暮れちゃったら困る、って。お日様が戻ってくればいいのに、って言ってはいないでしょ?
「まあな」
 そもそも思い付かないからなあ、沈んだ太陽を戻そうだなんて。
 日暮れは日暮れだ、たとえ太陽が二つあっても両方沈めば夜が来るんだ。
 そういうものだと思っていたから、誰もジョミーに頼みやしないさ。
 太陽をもう一度戻せないかと、もう少しだけ時間があったら今日の作業が終わるから、とは。



 思い付きさえしなかった、と苦笑したハーレイだったけれども。
 タイプ・ブルーにはそれが出来ると言うから、小さなブルーをまじまじと眺めた。
「太陽なあ…。俺は危うく、お前に罰が当たるようなことをさせるトコだったのか?」
 扇で太陽が呼べると教えて、お前がそれをやっていたなら。
「大丈夫。今のぼくには出来ないから」
 呼びたくっても、呼べやしないよ。ぼくのサイオン、不器用になってしまったから。
「それはそうだが…。今のお前だと、力があったらやりかねないしな」
 日暮れが早いのは嫌だから、と扇子を持ち出して、沈んじまった太陽をヒョイと戻すくらいは。
「かもね…。ハーレイを見たいだけなんだけど」
「はあ?」
 どういう意味だ、と訝しむハーレイに、ブルーは「ハーレイだよ」と答えた。
「お日様の光でハーレイを見たい。たったそれだけ」
 今みたいに早く日が暮れちゃったら、部屋の明かりでしか見られないんだもの。
 だけど、そういう理由でぼくが太陽を呼び戻したなら、神様の罰が当たっちゃうよね…。



「何故、太陽の光で見たいんだ?」
 どんな光で見たとしてもだ、俺は俺だと思うんだが…。
「ハーレイにとても似合っているから。お日様の光」
 それなのに今は、お休みの日か、学校でしか見られないんだよ。
 仕事の帰りに寄ってくれる時には、もう夕方で。外は暗くなって来ているんだもの…。
 前はもっと明るかったのに。
 秋になるよりも前は、今日みたいな日でも、ぼくの家でお日様の中のハーレイを見られたのに。
「太陽の光って…。そいつは普通のことだろう?」
 昼間だったら太陽があるし、似合うも何も…。
 そりゃあ確かに、夏の日射しと秋の日射しじゃ明るさや強さが違ったりもするが…。
「うん。今のぼくはハーレイをお日様の光で見るのに慣れちゃったんだけど…」
 それが普通だと思っていたけど、秋になったら。
 暗くなるのが早くなって来たら、気が付いたんだ。
 今のぼくと違って、前のぼく。
 前のぼくは一度も、ハーレイをお日様の光の下で見ていないんだ、って。



 ブルーの言葉。小さなブルーが口にした言葉に、ハーレイはハッと息を飲んだ。
「…そうか…。お前、ナスカに着いた時には…」
 眠ってたんだな、目覚めないままで。
 俺がナスカの太陽の下を歩いていた時、お前は眠っていたんだっけな…。
「そう。そしてアルテメシアで暮らしてた頃は、ハーレイは外に出ていないんだよ」
 いつだって船の中で、お日様の光は射し込まなくて。
 ぼくはお日様に照らされたハーレイの姿を一度も見ないままだったんだよ…。
「言われてみれば、そうなるのか…」
 俺とお前が一緒に地面に立っていたのは、アルタミラだけか。
 あの時は太陽どころじゃなかったんだな、空は真っ赤に燃えていたからな。
「うん。…ぼくが地面の上でハーレイを見たのは、アルタミラだけ」
 お日様なんか見えもしなかった、あの時だけ。
 シャングリラを改造していた時だって、大気のある星には降りてないから。
 ハーレイは地面に立たなかったし、お日様の明るい光の中には居なかったんだよ…。



 見てはいない、とブルーは言った。太陽の光を浴びたハーレイの姿をただの一度も。
 しかし、対するハーレイにその自覚は無く、何故そうなるのかと首を捻った。
「ならば、俺は何故…。俺は確かに、太陽の光で前のお前を見ているんだが…」
 自分が太陽の下に出ていないのなら、何故、そのブルーを知っているのか。太陽の下のブルーを知っているのか、と自分に問い掛け、遠い記憶を探ってみて。
 見出した答えに愕然とした。
 前の自分が知っていたブルー。太陽の光を浴びたブルーは…。
「…俺が見ていたお前の姿。あれは肉眼ではなかったのか…」
 俺はお前をスクリーン越しに眺めていたのか、太陽の光の下を飛ぶお前を。
 アルテメシアの雲海の上を飛んでゆくお前を、シャングリラのスクリーンを通して見たのか…。



 知らなかった、とハーレイは呻く。今の今まで知らなかったと。
「…そうだったのか、俺は気付いていなかっただけで…」
 俺も太陽の下でお前を見ていなかったのか…。
 前のお前が太陽の光を浴びた姿を、肉眼で見てはいなかったのか…。
「そう。前のぼくもハーレイも、見ていないんだよ」
 太陽の下だと、お互いにどんな風に見えるのかを。
 本当に一度も、ただの一度も、二人一緒に太陽の下には出なかったから…。



 前の生では一度も見なかった、自然光を浴びた互いの姿。
 アルタミラの空は火焔を映した黒煙に覆われ、陽が射し込んでは来なかった。
 長く暮らした雲海の星はハーレイが降り立つことを許さず、外に出られたブルーの姿も船に居たハーレイは肉眼では捉えられなくて。
 ナスカに在った二つの太陽はハーレイを優しく照らしたけれども、眠り続けるブルーの瞳にその姿が映ることは無かった。
 ハーレイもまた、ナスカの太陽を浴びたブルーの姿を眺めることは叶わなかった。
 長い長い時を、アルタミラからの三百年を超える歳月を共に過ごしながら、一度たりとも互いに見られずに終わった姿。
 今ではあまりに当たり前すぎて、気付くことさえ無かった姿。
 昼間の空に在る、太陽の光。自然の光を浴びた互いの姿を前の生では知らなかったのだ、とは。



「迂闊だったな…」
 俺としたことが、とハーレイは小さなブルーを見詰めた。
 秋は日暮れが早くて嫌だと、仕事帰りの自分が寄る時、暗いのが嫌だと言ったブルーを。
「まるで考えちゃいなかった。お前に太陽の光が似合うかどうかを」
 其処に気付いていりゃ、俺だって…。
「なあに?」
 どうしたの、とブルーが首を傾げるから。
 愛らしい顔で問い掛けて来るから、ハーレイは「お前と同じさ」と笑みを浮かべた。
「釣瓶落としを恨んだだろうな、今の季節は太陽の光でお前の姿を見られない、ってな」
 こんなに早く日が暮れたんでは、学校か休みの日にしか見られないじゃないか。
 お前、太陽の光が良く似合うのに。
 今のお前を存分に見るなら、断然、太陽の光なのにな。



「太陽って…」
 ブルーは赤い瞳を丸くした。
 太陽の光が似合うなどとは、生まれてこの方、一度も言われたことが無い。
 強い日射しは身体に悪い、と幼い頃から被せられていた帽子。つばが広くて日陰を作る帽子。
 それを被って歩いていれば、「可愛らしい」と何度も言われたけれど。
 小さなブルーは、帽子を被った自分の姿を褒められたのだと思っていた。自分ではなくて、頭に被った大きな帽子。頭の上に大きな帽子があるから、太陽の下の自分は「可愛い」のだと。
 実の所は、帽子など被っていなくても。
 日射しが柔らかい春や秋にも、冬にも「可愛い」と褒められたけれど、それは太陽とはまた別のものだという認識。ブルーにとっては、そういう認識。
 太陽の強い光の下では、自分は、帽子。
 あの日射しは自分に似合わないから、頭に帽子。
 それを被って誤魔化していると、太陽の下では自分は「可愛い」と言って貰えず、太陽は自分に似合わないのだと。



 そうだと思い込んでいたのに、ハーレイは太陽が似合うと言うから。
 ブルーには太陽の光が似合うと言うから、恐る恐るそれを確認してみる。
「ハーレイ、ぼくって…。お日様、似合う?」
 お日様の光はぼくに似合うの?
 そんなこと、今までにたったの一度も言われたことが無いんだけれど…。
「そうなのか?」
「うん。帽子を褒めて貰っただけだよ、お日様の光が強い時には被っているから」
 可愛いわね、って帽子だったら褒めて貰った。つばが広くて大きな帽子を。
「そいつは帽子を褒めているんじゃないと思うがな…」
 お前、面白い発想をするな。
 帽子を褒めるなら「可愛い帽子ね」と言うもんだ。「良く似合うわね」とか、そんな感じで。
 いいか、可愛いのは帽子じゃなくって、それを被ったお前の方だ。
 でかい帽子を被っていてもな、声を掛けられるくらいの距離にいるなら顔は見えてる。
「…そうなのかな?」
「当たり前だろうが、帽子を褒めてどうするんだ」
 こんなに可愛い顔が帽子の下にあるのに。
 お前を褒めずに帽子を褒めてるヤツがいたなら、そいつの目玉は節穴というヤツだよな。



「…帽子じゃなくって、ぼくだったの?」
 お日様もちゃんとぼくに似合うの、帽子にお日様が似合うんじゃなくて?
「ああ、似合うさ。前のお前は月みたいだったが、太陽だって似合っていたぞ」
 前の俺はスクリーン越しにしか知らんが、良く似合っていた。眩しいほどにな。
 そうして今のお前は、だ。
 前のお前よりも遥かに太陽が似合ってるんだぞ、影ってヤツが無いからな。
「影…?」
「そうだ、影だから暗い部分だ。悲しみだとか、苦しみだとか」
 前のお前は、いつだって何処かに抱えていた。
 どんなに楽しそうに笑っていたって、どうしても消えない、消せない影だ。
 アルタミラから背負い続けて、メギドに飛んで行っちまうまで。
 誰にも見せないようにしてても、俺にまでは隠せていなかったんだ。前のお前の深い悲しみ。
 しかしだ、今のお前にはそいつが無い。
 悲しみも苦しみも生まれて来ないし、それを持ち続ける必要も無い。影なんか存在しないんだ。
 その分、余計に太陽が似合う。幸せそうに笑えば笑うほどにな。
「ホント?」
 今のぼく、ホントにお日様が似合う?
「本当だ。俺が嘘なんかを言うと思うか?」
 お前は本当に太陽が似合う。前のお前よりも、ずっと幸せに生きている分。
 前のお前が焦がれ続けた地球の太陽、今のお前の笑顔にとても似合ってるんだぞ。
 褒められてたのは帽子だなんて言い出すお前だ、自分じゃ気付いていないだろうがな。



 前のブルーが、ソルジャー・ブルーが焦がれ続けた水の星、地球。
 母なる青い地球を育む恒星、それがソル太陽系の太陽。地球の太陽。
 前の生でフィシスの映像に在った、地球へと渡る旅の目印。太陽もブルーは見たかった。いつか肉眼で見たいと願った。
 その地球の太陽が今の自分に似合うと言われて、小さなブルーの顔が輝く。
 「ハーレイ、本当?」と何度も問い掛け、それは嬉しそうに、とても幸せそうに。
 太陽のように明るい笑顔。
 前のブルーのそれと違って、翳りも憂いも秘めていない笑顔。
 ハーレイはその眩しさに、明るさに目を細めて恋人の顔を見詰めたけれど。
 前の生から愛してやまない恋人の笑顔に目を奪われてしまったけれども、それはもう太陽の光の中ではなくて。
 今のブルーに似合う太陽は、とうに沈んでしまった後で…。



「…俺も太陽を招き返したくなってきたな」
 せっかくのお前の眩しい笑顔に、太陽がついていないんだが…。
 沈んじまった後で、窓の外はもう真っ暗だしなあ…。
「罰が当たるよ?」
 ハーレイがそう言ったんだよ?
 ぼくがハーレイをお日様の中で見たいから、って思っているのに、「罰が当たる」って。
 自分のためにだけ、お日様を呼び戻しちゃったら罰が当たると言ったよ、ハーレイ。
「それはそうなんだが…。確かに言ったが…」
 お前の気持ちが俺にもようやく理解出来たぞ、秋は困るな。釣瓶落としの日暮れは困る。お前の姿を思う存分、太陽の光で見たい俺には不向きな季節だ。
「分かってくれた? だから釣瓶落としより、風船落としの方がいいなあ、って…」
 ゆっくりゆっくり、日が暮れるのが。
 でなきゃ、前みたいに日暮れが遅いか。
「これからの季節、そうもいかんが…。だが、太陽を呼び戻すのも…」
「罰が当たったら困るでしょ? ぼくも、ハーレイも」
「うむ。お互い、それは困るしなあ…」
 どういう罰だか分からないが、だ。
 田んぼが湖になっちまうくらいだ、お前と二度と会えなくなるような罰が当たると大変だしな?
「それは困るよ、それくらいなら釣瓶落としでも我慢するよ!」
 お日様、呼び戻したいとは思うけど…。
 ハーレイをゆっくり、お日様の光で見ていたいけど…!



 沈んだ太陽を呼び戻す方法。釣瓶落としの秋の日暮れを覆せそうな扇の魔法。
 けれども、それを使ってしまえば罰が当たると言われるから。
 私利私欲のためには使えないから、ブルーは我慢をすることに決めた。秋の日暮れが早くても。
「…釣瓶落としでも、我慢するしかないみたいだけど…」
 ハーレイをお日様の光で見ていたいけれど、学校のある日は家では見られないみたいだから。
 その分、お休みの日には、ゆっくり、じっくりハーレイを見なきゃ。お日様の光で。
「俺も同じでお前を見たいが、秋の日暮れはこれから早くなる一方だしなあ…」
 夜明けだって遅くなっちまう。流石にお前の家に来る頃には明るい時間になっているがな。
 しかし太陽とは縁が薄くなるなあ、これから冬に向かって行くとな。
「でも、太陽はちゃんと出るよね、シャングリラに居た頃と違って」
 雲海が白いか、暗いかだけの違いだった昼や夜と違って、どんな日でもお日様は昇って来るし。
 それに次の日も、その次の日も…。そのまた次の日も、必ず来るよ。
 シャングリラに居た頃は、次の日の朝が来るって保証は無かったのに。夜の間に人類軍の攻撃で沈んでしまって、次の日なんかは来ないかもしれない、って思っていたのに。
 あの頃に比べたら、ずうっと贅沢。
 お日様が釣瓶落としに消えてしまっても、次の朝には必ず昇って来るんだから。
「違いないな。それも、本物の地球の太陽がな」
 前のお前が行きたかった地球。前の俺が辿り着いた時には、死の星だったままの地球。
 その地球の上で生きているんだ、釣瓶落としの日暮れくらいで文句を言っては駄目だってな。



 秋の日は釣瓶落としと言われるくらいで、明るい昼間も短くなってゆくのだけれど。
 太陽の光に照らされる時間は、どんどん短く縮んでいってしまうのだけれど。
 それでも昼間は太陽の光の中に居るから。
 前の生では見られなかった、太陽の光の下に居る互いの姿を見られるのだから。
 沈む夕日を招き返してはいけないのだ、と二人、戒め合う。
 それが出来るだけの強いサイオンを持っていたとしても、地球に全てを任せなければ、と。
 星の自転を止めることなく、蘇った地球に全て委ねて…。




         秋の夕暮れ・了

※前のハーレイとブルーは、太陽の光の下でお互いを見たことが無かったのです。
 けれど今では太陽があって、明るい光が似合うのがブルー。平和な時代ならではですね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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 学校から帰って、ママと一緒におやつを食べていたんだけれど。いつもと変わらないのんびりとした時間だったんだけど、ママが「そうそう」と立ち上がった。
「忘れていたわ、昨日、お買い物に行って貰って来たのよ」
 何なんだろう?
 街の百貨店に行くっていうのは聞いていたけど、一緒に出掛けた人からお土産?
 首を傾げてたら、ママは棚の上からパンフレットみたいなのを取って来て。
「はい、ブルー。懐かしいでしょ?」
(…えーっと…)
 なんて答えたらいいんだろう。それは食器のパンフレットだった。



(こんなもの、発売されていたんだ…)
 百貨店にはたまに行くけど、食器売り場なんかに興味は無いから知らなかった。
 シャングリラ・シリーズ。そういう名前の食器たち。「永遠のロングセラー」って謳い文句も。
 白いシャングリラが描かれた食器じゃなくって、見覚えのある食器たち。それもその筈、どれもシャングリラで使われていた食器の復刻版。
 みんなが食堂で食べていた食器や、ティーセットまで。よくも揃えたものだと思う。
 ママは「買ってあげましょうか」って言うんだけれど。



「要らないよ」
 そう答えた、ぼく。ママは意外そうな顔をして。
「あら、欲しくないの? 復刻版だからブルーもずうっと昔に見ていた筈よ」
 シャングリラの食器、懐かしいでしょ?
 ソルジャー・ブルー用の食器もあるのよ、こっちのページに。
 ほらね、とママがめくったページに、紋章入りのカップやお皿。白地にあしらわれた金と赤との紋章はシャングリラの船体にあったものと同じ。ミュウのシンボルのフェニックスの羽根。
 今の世界で見られるだなんて思っていないし、懐かしくないこともないんだけれど…。欲しいかどうか、ってことになったら話は別で。



「今の食器の方が好きだよ、これは要らない」
「本当に?」
 ソルジャー・ブルーが使ってた食器よ、ブルーの思い出の食器なのよ?
 復刻版でも素材は同じよ、それが売りのシリーズなんだから。
「そうみたいだけど…。パパやママと一緒に家で食べてる食器が好き。それにハーレイとも」
 今までどおりの食器が良くって、シャングリラの食器は別に欲しくないよ。
「あらまあ…」
 本当にいいの?
 シャングリラ・シリーズ、欲しくないの?



 ママはてっきり、ぼくが昔懐かしい食器を欲しがると思っていたみたいで。
「売ってるのをすっかり忘れていたけど、思い出したからパンフレットを貰って来たの」
 昨夜、パパとこれを見ながら相談したのよ。
 ブルーが欲しいなら、セットで買ってあげてもいいわね、って。ソルジャー・ブルー用のでも、食堂で使っていた食器でも。
 お皿もスープ用のお皿も一式揃えて、それにカップやポットなんかも。
「ううん、ママたちと食べる食器が好きだよ、家にあるのが」
 御飯茶碗とかはシャングリラの頃には無かったけれど…。他のお皿も、カップとかも要らない。
「でも、いいの? ハーレイ先生とこれで食べなくっても?」
 いつもの食事は普段の食器でかまわないかもしれないけれど…。
 ハーレイ先生と食べる時には、シャングリラ・シリーズで食べたくならない?
「普通のがいいよ。ぼくはソルジャー・ブルーじゃないもの」
 今はパパとママの子で、普通の子供。だからシャングリラの食器なんかは要らないよ。
「まあ…」
 そう言ってくれるの、パパとママの子だから普通でいい、って。
 この家で使っている食器がいいのね、今のブルーは。



 ママはとっても嬉しそうだった。ぼくはソルジャー・ブルーだけれども、今はママたちの子で、この家が大好きな子供なんだ、って。
 本当に喜んでくれた証拠に、おやつのオマケ。「少しだけよ」って、ぼくのお皿に入れてくれたフルーツケーキのおかわり、ママが御機嫌だったって印。
 美味しく食べてから部屋に帰って、勉強机の前に座ったけれど。
 シャングリラ・シリーズとやらのパンフレットは、ダイニングに置いて来たんだけれど。



(実際、懐かしくないんだよね…)
 復刻版の食器だなんて。シャングリラで使われていた食器たちなんて。
 シャングリラは今でも一番人気の宇宙船。遠い歴史の彼方にしか無い、時の流れに連れ去られてしまった船なのに。
 誰もが憧れる白い鯨だから、其処で使われた食器が人気というのも分かる。同じ食器は材料さえあれば何処の星でも作れるんだし、「永遠のロングセラー」って謳い文句もつくだろう。
 地球だけじゃなくて、あちこちの星で売られているだろうシャングリラ・シリーズ。
 だけど、今のぼくが懐かしいものはお皿やカップなんかじゃなくって、過ごした時間。
 それらが在った白い鯨で、シャングリラで暮らしていた頃の日々。
 あの食器たちを使って食べてた様々な料理。
 スープもサラダも、メインディッシュも。決して香り高くはなかった、紅茶だって。



(それに、ソルジャー・ブルー用の食器なんて…)
 御大層な紋章が描かれた食器。ソルジャー専用の食器の印。
 あれはハーレイとぼくが使っていただけ。青の間での毎朝の朝食の席で。朝の報告という理由はあくまで表向きのもの、本当はただの朝御飯。二人きりの夜を過ごした後の。
 それだけだったら懐かしいんだけど…。ちょっぴり欲しくもなるんだけれど。
(公式の食器だったんだよ!)
 普段はぼくとハーレイしか使う機会が無かったけれども、長老たちとの会食には、あれ。紋章の入ったソルジャー専用の公式の食器。
 つまりは、ハーレイとぼくだけのために存在していた食器じゃない。
 青の間に置いてあった二人分の食器はハーレイとぼくしか使わない専用の食器だったけど、あの紋章入りの食器は幾つも存在していた。
 決して沢山ってわけじゃないけど、ソルジャーだったぼくとの会食用にと仕舞い込まれていて、長老以外の仲間たちの目には滅多に触れなかったんだけれど。



 その、食器。
 ソルジャー・ブルーと一緒の昼食会とかで、仲間たちを招いて出された時。
(人によっては固まっちゃったし!)
 シャングリラの食堂でお馴染みの食器とは違うから。ミュウの紋章が金と赤とで描かれた食器はどう見ても別格、違うものだと一目で分かる代物だから。
(おまけにソルジャー専用だものね…)
 前のぼくとしては、お高くとまっているつもりなんかは全然無くて。
 仲間たちと同じでシャングリラの一員だと思っていたのに、そうはいかないシャングリラの中。
 いつの間にやらぼくは雲の上、神様みたいになっちゃっていた。
 青の間に住んでいる神様。シャングリラを守る、偉い神様。



 白い鯨に作られた青の間。実はこけおどしだった、巨大な部屋。ソルジャーの威厳だか、神秘性とやらを高めるための演出に過ぎない舞台装置。
 そうは言っても、最初の間はまだ良かったんだ。船の仲間はアルタミラから一緒に脱出して来た古参ばかりで、ぼくをソルジャーと敬ってはいても、チビだった頃も覚えていたから。
 チビがずいぶん偉くなった、と礼を取りながらも、たまには昔みたいな軽口だって飛び出した。



 ところが、アルテメシアに辿り着いて、雲海の中に隠れて。
 其処で新しい仲間たちを救い出して来るようになったら、事情は変わった。
 保護されたミュウの子供たち。
 ほんの小さな子供だったら、ぼくと遊んだりもするんだけれど。ぼくも養育部門の仕事を手伝うつもりで遊んでいたから、子供たちにとってはお馴染みの遊び相手だったけど。
 少し大きな子供の場合は、ソルジャーへの礼儀を叩き込まれた。小さかった子も、一定の年齢に達した時には同じように教育を施された。
 だから…。



 養育部門を離れて船での役目を持つようになったら、会えないソルジャー。
 子供時代のように一緒に遊ぶどころか、敬わないといけないソルジャー。
 その上、ぼくが船の中をフラフラ歩いていたなら、皆に気を遣わせてしまうから。皆が働いてる場所へは行かずに、ブリッジや公園、養育部門なんかが普段の行き先。
 とどのつまりが、そういう職場にいない仲間とは、視察くらいでしか顔を合わせない。
 食堂だって、皆が緊張してしまうからと避けていた。
 ぼくは青の間で独りきりの昼食と夕食を食べて、たまに会食。



 その会食で慰労を兼ねて、って色々な部門の責任者だとか功労者と食事をしたんだけれど。
 舞台は青の間じゃなかったけれども、其処で出るのが例の食器で。
 ミュウの紋章があしらわれた食器、シャングリラの食堂では出てこない食器。
 かてて加えて、各自の席に整列しているナイフやスプーンやフォークといったカトラリー。両端から順に内側へと使うように、と並べられてた。
 これまた食堂では有り得ない光景、ナイフやフォークは各自で取ってくるもので。



(テーブルマナーも何も無いんだけどね?)
 どうせアルタミラでは餌しか食べていなかったんだし、と言っても無駄。
 エラが仕切っていた、ソルジャーとの会食。マナーも大切にすべきだから、と譲らなかった。
 ナイフやフォークがその有様だから、食事のお皿もそれに相応しく。
 食堂のようにトレイに並べられて出るんじゃなくって、一種類ずつ順番に。まずは前菜、続いてスープ。そんな具合だから、もうそれだけで固まる人が出て来ちゃう。



 おまけに、食器。ミュウの紋章入りの御大層な食器。
 エラが「これはソルジャーのお客様にしか使われません」って仰々しく皆に説明するんだ。
 とても特別な食器なのだと、食堂などでは出てこないと。
 そう言われたら、もう大変。テーブルマナーよりも、もっと大変。
 大切な食器を割っちゃ駄目だと、傷つけちゃ駄目だと、テーブルに着いた仲間はカチンコチン。



 そういった時に、よくハーレイに目配せをした。
 会食の席にはキャプテンも長老も揃っているから、ぼくの直ぐ側に座ったハーレイに。
 頼むよ、って。
 分かりました、という返事は返って来なかったけれど。
 それから間もなく、ガチャンとフォークを落っことしたり、お皿から食べ物が飛んじゃったり。
「こら、キャプテンが何をやっとるんじゃ!」
 ゼルが怒鳴ったり、エラが呆れ果てたように首を振ったり。
「すみません…。つい、うっかりと」
 不作法をしてしまいました、とハーレイが大きな身体を縮めて謝り、それで一気に和んだ空気。
 キャプテンだって失敗するのだと、慣れている筈のキャプテンだってこうなのだ、と。
 緊張が解けたみんなは会話も弾んで、これぞ会食といった雰囲気。
 ぼくやヒルマンたちが質問したって、我先に返事が返って来た。誰も固まってはいなかった。
 場を和ませる、大失敗。
 わざとナイフを床に落としたり、切ったお肉が宙を飛んだり。
 あれはハーレイにしか頼めなかった。ゼルにもヒルマンにも、他の誰にも。



 会食が終わって、招待客たちの姿が消えて。
 お皿もすっかり下げられた部屋で、残ったハーレイと長老たちとで交わされた言葉。
 もうお決まりになってた会話。
「あんたも損な役回りだねえ…」
 毎回、毎回、ご苦労様、ってブラウがハーレイの肩をポンポンと叩く。
「だが、私しかいないだろう。適役が」
「うむ。わしじゃと空気が凍るからのう、和むどころか」
「私の場合もそうなるだろうね」
 セルとヒルマンなら、多分ホントに逆効果。次は自分の番かもしれない、って思われるだけ。
「あたしの場合は「やりかねない」って雰囲気だしねえ、和まないねえ…」
 意外性ってヤツに欠けてるんだよ、ってブラウの台詞も頷ける。エラは失敗するわけがないし、頼める相手はハーレイだけ。
 だから、ぼくはハーレイにだけ目配せをしてた。
 威厳に満ちたキャプテンだって失敗するから大丈夫、って仲間たちの緊張を解くために。
 シャングリラを預かるハーレイでさえも、ソルジャーの前で大失敗をしちゃうんだよ、って。



 ぼくとハーレイ、夕食は一緒に食べられないから。
 ハーレイはブリッジでの勤務の間か後かに食堂で夕食、ぼくは青の間で独りで食べていたから。
 会食が夕食会だった時でも私的な会話は出来やしないから、例の失敗をお願いした日は、勤務を終えたハーレイに出前を頼んだ。青の間に来る前に食堂で何か貰って来て、って。
 サンドイッチだとか、フルーツだとか。
 ぼく専用のお皿ではなくて、食堂で使われるお皿に盛られたそれを二人で食べながら謝った。
 青の間で二人、軽い夜食やフルーツなんかをつまみながら。
「今日はごめんね」
 また、キャプテンの威厳を損ねてしまって。
 きっと話題になっちゃうんだろうね、今日はこういう事件があった、って見てた仲間が働いてる場所で。もしかしたらシャングリラ中に広がっちゃうかも…。
 キャプテンはけっこうウッカリ者だと、ああ見えて派手に失敗するって。
「いえ、あれもキャプテンの仕事の内ですから」
 大したことではありませんよ。自分の仕事をしたまでです。
「重要な?」
「ええ」
 皆が緊張し切ったままでは、会食の意味が無いですからね。
 ソルジャーや我々と親しく話せる機会は滅多にありません。そういう場だからこそ、色々な声を上げられるのです。面倒な手順を踏まずとも伝わる意見や要望。
 彼らにとっても、私たちにとっても、貴重なチャンスなのですよ。
 それをたかだか食事如きでふいにするよりは、肉や魚が宙を飛ぶ方がマシでしょう?



 仲間たちの緊張をほぐすのも、仕事。
 わざと失態を演じてまでも、彼らとの会食を有意義なものに。
 キャプテンはなんて忙しいんだろう、って笑いながらハーレイにキスをした。
 太い首にぼくの両腕を回して、「今日の御礼」って。
 キスの味はサンドイッチの時もあったし、フルーツだったり、それは色々だったけれども。唇を重ねて、うんと長くて深いキスを交わし合ってから。
 ぼくはクスッと笑って、訊いた。
「…こんなキスくらいじゃ、足りないかな?」
 失敗の御礼。君に大恥をかかせた分の埋め合わせをするには、まだ足りない?
「ええ、足りませんね」
 この程度で足りるとお思いでも?
 キャプテンの威厳が台無しなのです、私の自信も粉々ですよ。
 砕けてしまった自信を回復させるためには、そうですね…。
 美味しく食べ損なってしまった食事。それの代わりに、大好物を。このシャングリラでも最高に美味なあなたを、心ゆくまで食べたいですね。
「ふふっ、欲張り」
 心ゆくまで食べるって?
 お腹一杯になるまで、ぼくを。
 …いいよ、失敗をしてってお願いしたのはぼくだから。好きなだけ、食べて。



(…そうだったっけ…!)
 会食の席でのハーレイのヘマ。ぼくがお願いして、やらせちゃったヘマ。
 肉や魚が宙を飛んだり、ナイフやフォークが派手に落っこちたヘマの御礼は…。
(ぼくだったんだ…!)
 キスだけじゃ足りない、って言ったハーレイ。
 ぼくを美味しく食べたハーレイ。
 次の日もキャプテンの仕事があるから、お腹一杯食べられたかどうかは疑問だけれど。
(…だけど、食べてた…!)
 ハーレイに美味しく食べられてしまった、前のぼく。ハーレイの威厳を台無しにしたお詫びに、失敗のせいで味わい損ねたという食事の代わりに食べられてた、ぼく。
(…えーっと…)
 食べられちゃったけど、嫌じゃなかった。もっともっと食べて欲しかった。
 だって、ハーレイ。大好きなハーレイに食べられてる間は、とても幸せだったから。
 丸ごと食べられてしまったけれども、本当に幸せだったから…。



(あの食器…。買って貰ったらハーレイに…)
 シャングリラ・シリーズのパンフレットにあった、ソルジャー・ブルーの専用食器の復刻版。
 金と赤とのミュウの紋章が入った、前のぼくが使っていた食器のそっくりさん。
 あれがあったなら、あれでハーレイにお昼御飯を出したなら。
 ぼくの部屋で二人で食べている時に、ハーレイがヘマをやらかしたなら…。
(ぼくが目配せしていなくっても、もしかしたら、御礼にキスくらい…!)
 元はそういう約束のもの。
 あの食器でハーレイが失敗したなら、御礼にキスを贈るもの。
(うん、いいかも…!)
 使えるかも、って考えた、ぼく。
 パパとママに頼んで買って貰って、ハーレイと食事。そして失敗するのを待つ。
 ちょっといいかな、って思ったんだけど…。



 もう一度パンフレットを見にダイニングに下りて行こうかな、と立ち上がったらチャイムの音。
 噂をすれば影と言われるヤツなんだろうか、窓から見下ろした庭の向こうに大きな人影。門扉の所にハーレイが立って手を振っていた。
 これも一種のチャンスかも、って、ぼくの部屋に来てくれたハーレイと紅茶を飲みながら、今日見たばかりのパンフレットの話をしたんだけれど。
「シャングリラ・シリーズだと?」
 あれか、シャングリラで使われていた食器の復刻版とかいうヤツか?
「うん。ママがパンフレットを貰って来ててね、買ってあげましょうかって訊かれたんだよ」
 パパと相談したらしいんだ。
 ソルジャー・ブルー専用の食器もあるから、欲しいならセットで買ってくれるって。
 ミュウの紋章つきのヤツだよ、前のぼくが青の間で使ってた食器。
「…ふうむ…。それは悪くはないんだが、だ」
 ソルジャー・ブルー専用の食器を買おうという話は別にかまわん。お前も懐かしいだろう。
 しかしだ、お前、ロクでもないことを考えてないか?
「えっ?」
「俺がその食器で飯を食ってて、ヘマをしたら、だ」
 フォークを落とすだとか、切った途端に野菜が皿から何処かへ吹っ飛んで行くだとか。
 そういったヘマをやらかした時に、お前、大喜びしたりしないだろうな?
 何かを思い出さないか、と押し売りをしては来ないだろうな…?
 これは御礼だとか、妙に恩着せがましく、俺が駄目だと言っていることを。
 前のお前と同じ背丈に育つまでは駄目だと禁止したヤツを。



 どうなんだ、と鳶色の瞳で覗き込まれてしまった、ぼく。
 ヘマの御礼に贈っていたキスは、狙ってたキスは、ハーレイに見抜かれちゃってるから。
「なんでバレたの!?」
 ぼくはなんにも言っていないよ、食器としか…!
 シャングリラ・シリーズの食器を買って貰おうかな、って言っただけだよ、前のぼくのを!
「筒抜けだ、馬鹿」
 そいつを首尾よく手に入れたならば、俺に出そうと思っただろうが。
 お父さんやお母さんも一緒の夕食じゃなくて、お前の部屋で食べる昼飯。
 でもって、俺が食ってる最中にヘマをしたなら、キスをしようとしていたな?
 これはそういう約束だからと、決まりなんだと。
「ぼく、喋ってた!?」
「喋っていないが、お前の思考は前と違って筒抜けなんだ!」
 特に、楽しくてたまらない時には垂れ流しだな。
 こういうことを考えてますと、こういう計画を立てたんです、と。
「パパやママにはバレたことないよ!?」
「俺に関してはガードが緩むというヤツだろう。日頃からそういう傾向にある」
 キスだの、本物の恋人同士だの。
 そういったことを企んでいる時が特に酷いぞ、ガキならではだな。
 きちんと育った大人ってヤツは、そうした時にはあれこれ駆け引きをするもんだ、チビ。



 とことん不器用になってしまった、ぼくのサイオン。
 隠してコッソリ進めるつもりが、いともあっさりハーレイにバレた。
 「お前にはまだまだ早すぎだ」ってギロリと睨まれて、ゴツンと一発。
 頭にゴツンと一発、ゲンコツ。
 痛くなかったけど、負けは負け。
 ぼくはハーレイに勝てやしないし、企みもすっかりバレてしまった。
(…ソルジャー・ブルー専用の食器があったら、キスを狙えていた筈なのに…)
 買って貰えたら狙えたのに、と思ったけれども、バレているなら意味が無い。
 シャングリラ・シリーズはやっぱり要らない。
 ミュウの紋章が入ったソルジャー・ブルーの専用食器も、買って貰っても役に立たない。
 ハーレイのキスは貰えっこないし、代わりにゲンコツ。
 何のオマケもついて来なくて、会食の席でカチンコチンだったみんなの姿を思い出すだけ…。



 ぼくがしょげていたら、ハーレイの手が頭に伸びて来た。
 大きな手がぼくの頭をクシャクシャと撫でて、それからぼくが大好きな笑顔。
「ふむ…。そのシャングリラ・シリーズとやら」
 どうしても欲しけりゃ、結婚してから買うんだな。そうすりゃ、御礼のキスも問題無いし…。
 俺も自分がヘマをする度、お前からキスが貰えるってな。
「買ってくれるの?」
 前のぼくが使っていた食器。ハーレイと朝御飯を食べてた食器…。
「さあなあ、お前が欲しいと言うなら全部セットで揃えてもいいが…」
 しかしだ、そうやって買っても、そいつは多分…。
 食器棚の奥に仕舞い込まれて、そうそう出番が来ないんじゃないか?
 普段の飯には向かないぞ、あれは。御飯茶碗もついてないしな。
「そっか、御飯茶碗…」
 ハーレイの分と、ぼくの分と。御飯茶碗が無いと話にならないね、今じゃ。
 毎日使える食器じゃないんだ、あのシリーズは…。
「そうさ、俺たちには今の地球にある普通の食器が似合いだってな」
 御飯茶碗に、それから箸に。
 そういったものが入ってないんじゃ、毎日の食卓には大いに不向きだ。どう思う?
「うん。食事の時には必ず出します、って食器じゃないね…」
 それじゃ買っても仕方がないね。食器棚の飾りになっちゃうだけだね。
「そうなるな。…まあ、たまに紅茶をゆっくり飲もうって時にはいいかもしれないが」
 昔を懐かしんで、あの紋章の入ったポットやティーカップで。
 もっとも、前の俺は食後の飲み物やデザートが出て来る時までヘマをやってはいないがな。
 そこでしくじっていたら単なる間抜けだ、それはわざとじゃないってな。



 今度の俺にはヘマは必要なさそうだが…、ってハーレイが笑う。
 そういう場面はもう無くなったし、わざと失敗しなくてもいいと。
「しかし、お前のキスは欲しいし、その先の美味い飯も欲しいもんだな、いつかはな」
「ハーレイ、それって…」
「無論、食べ頃に育ったお前さ。そいつを美味しく食うのが夢だ。しかし…」
 急がなくてもいいんだぞ、ってウインクされた。
 何十年でも待っていてやるから、ゆっくり幸せに大きくなれよ、って。
「うん。…うん、ハーレイ…」
 今度は結婚出来るんだよね、って、ちゃんと確認したけれど。
 ハーレイのお嫁さんにして貰うんだ、って約束もキッチリ取り付けたけど。
 そうして二人、同じ屋根の下で暮らすようになっても、多分買わないシャングリラ・シリーズ。
 今のぼくたちには、お互いの分の御飯茶碗とお箸のある生活がピッタリだから。
 金と赤との紋章が入った、前のぼくが使っていた食器の復刻版なんかはきっと要らない。
 うんと人気の、ロングセラーの食器だけれど…。




         特別な食器・了

※ソルジャー専用に作られた、特別な食器。それで催される食事会。招かれた方は緊張です。
 場を和らげる役目を背負っていたのがハーレイ。ヘマをするキャプテンも愉快ですよね。
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(ハーレイのスープ…)
 少し冷えるな、と思った夜。
 ふと恋しくなった、ハーレイのスープ。野菜スープのシャングリラ風。
 お風呂から上がって、ベッドに入る前に飲みたくなった。あの温かい野菜のスープが。
(だけど病気はしてないし…)
 ぼくの具合が悪い時だけ、ハーレイが作ってくれる特別食。前のぼくだった頃から、ずっと。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴なスープ。優しくて懐かしい味わいのスープ。
 今は「野菜スープのシャングリラ風」なんてハーレイは呼んでいるけれど。
 地球の太陽と水と土とで育った野菜を使っているから、うんと美味しくなったんだけれど。
(…でも、あの味付けでなくちゃ駄目なんだよ…)
 凝った味付けなんかは要らない。今のぼくのママがビックリしたほど、素朴すぎる味のスープがいい。前のぼくだって、そうだった。レシピを変えて欲しくはなかった。
 シャングリラが立派な白い鯨になっても。
 食材に不自由しなくなっても、レシピは最初のままが良かった。
 野菜スープのシャングリラ風。前のハーレイがぼくのためにだけ作っていたというスープ。



 あのスープをいつから飲んでいたんだろうか。
 シャングリラと名付けた、前のぼくとハーレイが暮らしていた船。世界の全てだった船。
 其処でいつから、ハーレイが作る野菜のスープを飲むようになっていったんだろうか…。
 前のぼくが好きだった野菜のスープ。
 どんなに弱り果てた時でも、あのスープだけは喉を通った。何も食べたくない時でも。
 いつから飲んでいたんだろう、って遠い記憶を手繰ってみる。



(ハーレイが厨房に居た頃は…)
 キャプテンになる前は、厨房で料理をしていたハーレイ。食材を管理し、船にあるもので作れる料理をあれこれ工夫し、皆を飽きさせないように頑張っていた。
 前のぼくが奪って来た食材が偏り過ぎてて、ジャガイモ地獄やキャベツ地獄になった時でも。
 とはいえ、あの頃は奪いさえすれば豊富にあった様々な食材。
 野菜はもちろん、肉も魚も。調味料だって沢山あったし、香辛料も。
(そんな時には作らないよね、あのスープ…)
 材料はたっぷりあるんだから。
 スープの中身は野菜だけでも、スープを工夫出来た筈。ブイヨンだって作れた時代。
(…野菜と基本の調味料だけ…)
 たったそれだけ、味付けは塩と野菜の旨味だけ。
 えーっと、とスープの材料から考えていってみたんだけれど。



(…そうだ…)
 シャングリラに塩と野菜くらいしか無かった頃。
 自給自足の生活の初期。
(もう奪わないって…)
 キャプテンだったハーレイに、ヒルマンとエラ、ブラウにゼル。それに前のぼく。
 何度も会議を重ねた末に、そう決めた。
 人類から奪った物資に頼っていたんじゃ、ミュウは決して自立できない。新しい種として生きてゆくなら、いつか人類に存在を認めて貰いたいのなら。
 自分たちの力で生きていかねばと、自分たちの足で立たなければ、と。



 もうこれ以上は奪うまい。自分たちの力でやってゆこうと、生きてゆこうと決めたけれども。
 それが本当に上手くいくかは分からない。
 宇宙船の中で、シャングリラの中だけで出来るのかどうか分からない。
 自給自足の船を目指して改造案が幾つも出ていて、後は煮詰めて実行するだけの段階だけれど。机上の空論という言葉もあるのだし、それらの案が使えるものとは限らない。
 慎重に進めてゆかなければ、と出来ることから手を付けてみた。
 まずは改造に取り掛かる前に、自給自足でやっていけるかどうかの試験期間を、と。



 船の中を整理し、スペースを設けて作り始めていた野菜。それは軌道に乗っていた。畑を広げて収穫量だって充分に増えた。
 計算の上では、船のみんなの胃袋を満たせるだけの野菜がある筈。種類も多いし、上手く回せば何とかなる、とヒルマンたちが太鼓判を押した。
 それでも準備期間を設けて、保存食用に加工した野菜も倉庫に沢山蓄えておいた。
 後は調理に欠かすことが出来ない調味料。合成するにはまだ早すぎると、船の改造が進まないと駄目だと、塩だけで調理しようと決めた。
 畑からはトマトなんかも採れるし、塩さえあれば工夫次第で料理を作れるだろうと。
 塩は岩塩を含んだ小惑星からの採取が可能。
 武装していない小型艇やシャトルしか持たないシャングリラだけど、岩塩くらいは採掘のために出てゆくことが出来るから。
 ぼくがサイオンで採って来たって良かったんだけど、小型艇を出して採った岩塩。
 それと畑から採れる野菜と、それらだけで暮らしてゆこうとして…。



 シャングリラはたちまち行き詰まった。
 食料は充分に足りているのに、食べるものはあるのに、食べることが出来なくなった様々な物。
「もっと広い畑でないと無理だ。当たり前の野菜しか無いじゃないか」
「肉が食いたい」
「魚が何処にも無いだなんて」
 アルタミラでは餌と水しか無かったというのに、長く続いた平和な時間に船の誰もが慣れ過ぎていた。肉も魚もあって当前、野菜もあれこれ種類が欲しい。
 おまけに調味料は塩しか無くって、トマトベースの煮込みくらいしか違った味が食べられない。
 日々、募ってゆく不満の中。
(ぼくは…どうすればいいんだろう)
 ソルジャーと呼ばれるぼくだけれども、こういう時には役に立たない。
 みんなが生きるための物資を奪っていたから、ぼくがいなければ食べるものや着るものに不自由するから、ソルジャーの称号を貰っただけ。
 こんな時にぼくが役立つとしたら、皆の不満を逸らすための物資を人類の船から奪うことだけ。
(だけど…)
 奪うことはすまい、と決めたんだった。今はそのための試験期間中。
 此処で物資を奪って来たなら、振り出しに戻ってしまうんだ。
 でも…。



 怒りをぶつけられるハーレイの姿を知っていた、ぼく。
 不平不満の矢面に立つのはいつもハーレイ、このシャングリラのキャプテンだから。陳情やら、面と向かっての文句に怒声。
 それらの全てに穏やかに応じ、ただ黙々と仕事をこなすキャプテンの姿をいつも見ていた。
(…ハーレイに怒っても仕方ないのに…)
 今はみんなが我慢をすべき時なのに、と思うけれども、それを言いには行けない、ぼく。
 皆を鎮める力は無くって、逆に「物資を奪って来て欲しい」と頼まれてしまいそうな、ぼく。
 だから、ハーレイの仕事が終わった時間に思念を飛ばした。
 ぼくの部屋まで来てくれないかと、相談したいことがあるから、と。



 暫くしてから扉が開いて、やって来たハーレイ。扉が閉まるなり、ぼくは尋ねた。
「不満の声が高まって来ているけれど…。ぼくがもう一度、奪って来ようか?」
 みんなが喜びそうなもの。食料と、それに調味料を。
「駄目です」
 ハーレイは即答したけれど。そう言うだろうと分かっていたから、重ねて言った。
「でも…。一度だけ」
 本当に一度だけでいいんだ、そうすれば船の中が落ち着く。食べたいものを充分食べれば、我慢出来るようになるだろうから。
「一度が二度。二度が三度。一度きりの筈が、そうやって全て元に戻ってしまうのです」
 あなたの力に頼る暮らしに。あなたが物資を奪わなければ、誰一人生きていけない日々に。
「だけど…。それでみんなが生きていけるのなら」
 幸せに生きてゆけるのだったら、ぼくは幾らでも奪って来るよ。
 こんな風に皆が無理を重ねて不満だらけで暮らすよりかは、その方が余程…。



「お分かりだったと思いますが?」
 それでは駄目だと。そんな生き方しか出来ないようでは、ミュウに未来などありはしないと。
「…そうなんだけど…」
 これも一種の非常事態だよ、今のシャングリラは普通じゃない。船の空気が殺伐としてる。
 ミュウは精神の生き物だからね、一人の不満が次から次へと皆に伝わり、増幅してゆく。それを止めるためにも、一回だけ。
 負へと傾いてゆく流れを止めたい。充分な内容の食事があったら止められるんだ。
「駄目です、許可は出来ません」
 食料を奪う必要などはありません。皆が食べるだけの量は確保しています。
「ソルジャーは、ぼくだ」
 君よりもぼくの方が上。ぼくが奪うと言っている。
「いいえ。船のことはキャプテンの私が決めます」
 この船に関する、全責任は私にあります。私が最高責任者です。
 たとえソルジャーのお言葉であっても、シャングリラの今後を左右する行為は認められません。



「ハーレイ…!」
 ぼくに逆らうのか、と思わず怒ってしまったけれど。
 ハーレイを助けたくて言い出したことを否定されたから、ついつい怒鳴ってしまったけれど。
 直ぐに気が付いて「…ごめん」と謝ったぼくに、ハーレイは「いいえ」と応えて、まるで小さな子供にするように、そうっとぼくの右手を取った。両手で握って、諭すように語った。
「…ソルジャーのお気持ちは分かりますが…」
 いつまでもあなたに頼っていたのでは、ミュウという種族は生きていけない。
 そのことは御自身が一番お分かりでらっしゃるでしょうに。
 あなた無しでは生き延びることさえ出来ない種族に、未来があるとお思いですか?
 …遠い昔に、食料が尽きかけてしまった時。
 飢え死にするしか道が無かった私たちを救って下さった。まだ少年の姿だったあなたが。
 そのことは感謝しています。
 あなたの力が無かったとしたら、今日まで生き延びられたかどうか…。
 ですが、今の私たちは自分たちの力で生きてゆく術を身に付けなくてはなりません。
 そういう時が来ているのです。
 どんなに辛くて厳しい日々が続いたとしても、乗り越えなければならない時です。
 私の言うことはお分かりですね?
 物資を奪いにお出になることは必要ありません。これはキャプテンとしての命令です。



 やんわりと、けれど厳しい表情で断られてしまった物資の調達。
 勝手に奪っては来られない。ぼくには簡単なことだけれども、ハーレイは奪った食料などを全て廃棄してしまうだろう。今のシャングリラには必要無いと。
 そうなれば余計に船の中は荒れる。せっかくの物資をキャプテンが捨てたと、何もかもを捨ててしまったのだと。
(…ハーレイの立場が今よりも悪くなるだけだ…)
 だから出来ない。ぼくの独断で物資を奪いに出られはしない。



 試験期間を無事に乗り越えて、船の改造に入ったならば。
 シャングリラの改造が完了したなら、船は本当に自給自足のミュウの楽園になる。改造を終えていない時期でも、食料事情は今よりもずっと改善されて豊かになる筈。
 そうすれば軌道に乗るんだろうけど…。食べたいものを食べられるようになるんだろうけど。
 船のみんなも、そのことは充分、分かっている。何の説明もせずに始めた試験期間じゃない。
 今は過渡期で辛いだけ。乗り越えた先には、また色々と食べられる日々が待っている。
 けれど、一度は楽園だった船。それが奪った物資であっても、満ち足りていた食事と生活。
 後戻りは辛い。誰もが辛い…。



 物資を全く奪わなくなって、ぼくの仕事は警備だけ。
 その警備だって、人類の船がレーダーに映れば逃げているのだし、まるで必要とされていない。
 ソルジャーと言っても、もう名前だけ。
 ただのお飾り、今のシャングリラでは何の役にも立たないソルジャー。
(こんな服…)
 仰々しいマントに、頭の補聴器。誰も着ていない、白と銀との目立ちすぎる上着。
 同じ立派な衣装であっても、ハーレイの服はいいんだけれど。キャプテンとしてシャングリラの舵を握って船を預かるハーレイの服はいいんだけれど。
 ぼくの服は無駄。
 仕事なんか全然していないくせに、やたら偉そうなソルジャーの衣装。
 この服のせいでウッカリ畑にも出られない分、本当に無駄。
 脱いでいいなら、畑仕事を手伝うのに。
 水をやったり、耕したり。みんなと一緒に野菜を育てられるのに…。



(ぼくは何のために居るんだろう…)
 このシャングリラに、何のために。
 ソルジャーなんて尊称で呼ばれて、畑仕事を手伝いもせずに、ただ食べるだけ。
 皆が不満を零す食事に、文句を言ったりはしないけれども。不満も無いけど、食べているだけ。
(…何の役にも立ってやしない…)
 ただ食べるだけの役立たず。
 ごくつぶしだとか、無駄飯食いとか。ぼくにピッタリの言葉が渦巻く。頭の中で繰り返し。
 何の役にも立ちはしないと、食べては寝ているだけの日々だと。



 来る日も来る日もぐるぐるしていて、それも身体に悪かったんだろう。
 いわゆるストレス、精神の生き物のミュウにとっては万病の元。
(なんだか重い…)
 ある朝、起きたら鉛みたいに重かった身体。熱は無さそうだったけれども、身体が重い。自分の身体ではないような重さ。ほんの少し腕を動かすだけでも辛かった。
 だけど心配かけちゃいけない。
 ただでもみんなの役に立たないのに、余計な心配までさせちゃいけない。



 なんとか起きて、いつもよりずっと重く感じるマントも着けて、食堂までは出掛けて行った。
「ソルジャー?」
 何処かお加減でも、って訊いたハーレイ。何故分かったのか、ぼくを見るなり。
 ううん、と答えておいたけれども。
 食事も辛うじて食べられたけれど、もうそれだけで精一杯で。ふらつかないように気を張って、懸命に歩いて部屋に戻るなりベッドに倒れた。文字通りバタリと倒れ込んだ。
(身体が重い…)
 それに眠くて、引き摺り込まれるように意識を手放した。目を覚ました時には、もう昼時。
 お昼御飯に行かなくちゃ、と思ったことまでは覚えている。
 だけど…。



「ソルジャー?」
「…ハーレイ…?」
 ぼくを呼ぶ声と思念で優しく揺り起こされた。心配そうに覗き込んでいるハーレイ。
「昼食をお持ちしましたが…。お召し上がりになれそうですか?」
「…無理みたいだ…」
 ハーレイが持って来てくれた食事。トレイに載せられた野菜の料理。
 首を横に振った。今日は要らないと、食べたくないと。
「決して無理にとは申しませんが…」
 少しくらいはお食べ下さい。でないと、お身体が弱ってしまいますよ。
「…いいんだ、本当に食べたくないから」
 どうせ眠っているだけだから、と言ったら、ハーレイは「またご様子を見に参ります」と部屋を出て行ったんだけれども。



(ますます役に立たなくなった…)
 忙しいハーレイに食事を運ばせた上に、その食事まで食べなかった、ぼく。
 これが役立たずでなければ何だろう…。
 元々、そんなに丈夫な方ではなかったけれど。
 虚弱な身体は無理が利くものではなかったけれども、アルタミラで鍛えられたと言うのかな?
 長いこと地獄で生きていたから、弱い身体でも元気でいられた。
 たまに倒れても、ゆっくり眠れば元に戻った。ある意味、病気知らずだった身体。
 みんなのために頑張らなくちゃ、と思っていた分もきっと力になっていた。
 それがプツリと切れたんだろう。
 役立たずになってしまったから。何の役にも立たない存在になってしまったから…。



 ハーレイが何度か覗きに来ていたけれども、ぼくは目を開けるだけの気力も無かった。額の上に手が置かれたって、多分、睫毛が震えた程度。
 眠くて眠くて、身体が重くて。どうしようもなくて眠っていただけ。
 何度目に覗きに来た時だろうか、ハーレイがマントと上着を脱がせてくれても、ぼくは腕さえも動かそうとせずに人形みたいにぐったりしてた。
 意識はあったし、楽になったとも思ったんだけど、御礼も言わずにまた眠った。ベッドに沈んでしまいそうなほどに重い身体は、ただ眠りだけを欲していたから。
 泥のように眠っていたかったから…。



 そんなぼくだから、夜になっても気力は回復していなくって。
「ソルジャー、お夕食ですが」
 今度こそ起きて頂きます、とハーレイに抱え起こされた。
 熱は無いのだから食べなければと、でなければ本当に病気になると。ベッドの上で上半身だけを起こした状態、仕方なく重い瞼を上げれば、ハーレイがトレイを差し出していて。
 ぼくが食べる間、持っていようとでも言うのだろうか。トレイを支える褐色の手。野菜ばかりの質素な食事。スプーンもフォークも添えてあったけれど。
「…食べたくない…」
 意地を張ってるとかじゃなくって、本当に要らなかったんだ。食べたい気持ちがしなかった。
 だけど野菜しか使われていない料理でも、食事は食事。食べればお腹が満たされる食事。
 ぼくの分は船のみんなが食べてくれればいいと思った。
 だからハーレイにそう言った。
 役立たずなぼくの分の食事は他のみんなに分けてあげて、って。



「役立たずだなどと…!」
 どうしてソルジャーが役立たずだということになるのですか?
 いったい誰がそのようなことを…!
「誰も言わないよ、ぼくが自分で気付いたこと」
 ぼくは全く役に立たない。今のこの船に、ぼくは必要無いんだよ…。
「そんな馬鹿な!」
「でも、そうなんだよ…」
 実際、誰にも必要とされていないし、眠っていたって誰も困らない。そうだろう…?
「ですが、ソルジャー…!」
「そのソルジャーだって、名前だけだよ…」
 何の役にも立ってないから、ってベッドに身体を預けたぼく。もう眠るから、って起こしていた身体を倒してしまった、役立たずのぼく。
 ハーレイは深い溜息をついて、頭を振って出て行った。
 ぼくが手を付けようともしなかった食事を載せたトレイを両手で持って。



(…ごめん、ハーレイ…)
 ドアが閉まって、ハーレイがいなくなった後。
 ベッドで丸くなって、ごめん、って泣いた。涙がポロポロと零れて落ちた。
(…ごめん、ハーレイは悪くないのに…)
 悲しませてしまったか、呆れられたか。
 何もかも、ぼくの八つ当たり。役立たずなぼくの八つ当たりだ、って。



 そうして泣いて、涙がようやく収まったから。
 真っ暗な部屋で一人で寝てた。ハーレイが点けておいてくれたんだろう、天井や壁をほんのりと浮かび上がらせていた常夜灯。それもサイオンで消してしまって、暗闇の中で。
 そうしたら…。
 いきなり部屋のドアが開いて、パッと明かりが灯されて。
「おい、入るぞ!」
(えっ?)
 ドカドカと足音を立ててベッドに近付いて来た人影。ベッドの脇の椅子にドッカリと座る。
「起きろ、この馬鹿! 役立たずにはそれなりの食事があるってな!」
「…ハーレイ…?」
 何を言われたのか全部は掴めなかったけれども、叱られたことは分かったから。
 起きろと怒鳴られたことも分かっていたから、慌てて起きた。身体の重さは忘れていた。とても眠くてたまらなかったことも。
「ふん、ちゃんと起きられるじゃないか。なら、食えるな?」
 ほら、と差し出されたトレイの上。
 ぼくの膝の上に置かれたトレイに、湯気を立てている野菜のスープ。
 さっきハーレイが運んで来ていた夕食のスープとは、見た目が全く違ったスープ。
 夕食のスープはポタージュだったと思うけれども、そのスープはまるで別物のようで…。



「…なんだい、これは?」
「役立たずだと仰るソルジャー用のお食事ですが」
 貴重な野菜を使用するのは、もったいないかと考えまして。
 夜勤の者たちの食事用に使った野菜のくずを刻んで、煮込んで来ました。それと塩だけのスープです。野菜くずと水と塩しか使っていません。
「…これを君が…?」
「ええ。厨房の隅を借りて作りました」
 お召し上がり下さい。
 材料は確かに野菜くずですが、何種類も入っていますから。それに細かく刻んであります。
 充分に柔らかく煮込みましたし、野菜の旨味が出ているのですよ。
 役立たず用だと申し上げましたが、味見した限り、不味いスープではなかったですね。



 どうぞ、とハーレイの手がトレイを支えていてくれるから。
 添えられたスプーンで一匙掬って、零さないように口に運んでみたら。
(…美味しい…)
 煮込まれた野菜はトロトロになってて、舌の上でホロリと溶けてゆきそうで。野菜くずだなんてとても思えなくて、野菜の一番美味しい部分を選んで使ってあるような味。
 優しい甘み。ハーレイが言ってた野菜の旨味なんだろう。それと塩味とが深く絡み合って。
(…野菜くずと塩と水だけだ、って…)
 役立たず用の食事だ、と渡されたけれど。野菜くずと水と塩だけのスープなんだけど。
 それは本当に美味しかった。
 涙が零れてしまいそうなほどに、美味しくて優しいスープだった。



「如何ですか、ソルジャー?」
 お口に合いましたでしょうか、役立たず用にと特別に作って参りましたが…。
「美味しいけれど…。美味いか、って訊いてくれないんだ…?」
 そう言って訊いて欲しかったのに。昔のハーレイみたいな言葉で。
「あの口調はもう無理ですよ」
 こちらで慣れてしまったんです。この方が話しやすいんですよ。
「…でも、これを持って来てくれた時のハーレイは…」
 昔みたいに普通だったよ?
 「入るぞ」だとか、「起きろ」だとか。それに「食えるな?」とも言ってた筈だよ。
 ちゃんと普通に喋っていたのに…。
「腹を括って来ましたからね。なんとしてでも食べて頂こうと」
 あなたが弱っていらっしゃったのは、身体ではなくて心の方でしょう?
 そうではないか、と薄々感じておりましたが…。
 役立たずだなどと仰いましたから、間違いないと確信しました。放っておいたら、もっと弱ってしまわれる。そうなる前に、と起きて頂くことに決めたのですよ。
 無理にでも起こして食べて頂く。それが一番の薬です。
 役立たずだなどと仰るのならば、そのように。けれど、心のこもった食事を。



 ハーレイの口調は懐かしいものには戻ってくれなかったけど。
 乱暴な言葉で叩き起こされて渡されたそれが、優しいスープの始まりだった。
 役立たず用だなんて言ったけれども、ハーレイの心がこもったスープ。
 野菜くずと水と塩だけで出来た、何種類もの野菜の旨味が滋味深く溶け込んでいたスープ。
(これくらいは食べてもかまわないんだ、って思ったんだっけ…)
 何の役にも立たないぼくでも、ごくつぶしで無駄飯食いのぼくでも。
 お飾りのソルジャーに過ぎないぼくでも。
 だって、役立たず用に作られたスープ。野菜のくずから作られたスープ。
 そんなものくらいは食べていいんだ、って心も身体もホッとしたのを覚えてる。
 弱っていたのは身体じゃなくって、ぼくの心で。それを見抜いてくれたハーレイ。役立たず用のスープを作って、鉛みたいに重かった心を、身体をふわりと軽くしてくれたハーレイ。
 スープを食べながら、何度も御礼を言った、ぼく。
 「いいんですよ」って笑ってくれたハーレイ。
 「私にくらいは甘えて下さっていいんですよ」と優しく微笑んでくれたけれども。
 ハーレイの口調は元に戻らなくて、ぼくが眠りに落ちてゆくまでずっと敬語のままだった。



 それから何度、あのスープを作って貰っただろう。
 ぼくのためだけに、厨房の隅でハーレイが作る特別食。
 どんなに気分が落ち込んでたって、元気が出て来た役立たず用の野菜のスープ。
 シャングリラの改造が始まる頃には、ぼくは役立たずじゃなかったけれど。改造中の船は進路を急に変えられないから、ぼくがシールドで隠して守っていたんだけれど。
 そうして再び、ぼくの力が必要になる日まで、ぼくが元気でいられた秘密。
 ぼくはお飾りのソルジャーなんだ、って押し潰されずにいられた秘密。
 それがハーレイの野菜のスープで、野菜のくずと水と塩しか使っていないというスープ。



(…ホントは途中から、普通の野菜になってしまっていたんだろうけど…)
 シャングリラが白い鯨になった後でも、ぼくがあのスープを欲しがったから。
 ぼくが寝込んだらハーレイが作ってくれていたけど、材料は野菜のくずじゃなかった。
 青の間のキッチンで作っていたから、ぼくだってちゃんと承知の上。
 でも、そのスープは最初と変わらず、優しい甘みと塩味が複雑に絡み合ったもの。とろけそうなほどに煮込まれた野菜の旨味が美味しかったスープ。
(…ひょっとしたら、最初から野菜のくずとは違ったとか…?)
 どうなのかな、と思うけれども、今のぼくにはハーレイの心を読む力が無い。
 前のハーレイが「野菜くずだ」って言ったからにはそうなんだろう、と思うしかない。
 違ったんじゃないかな、と気になった所で知りようがないし、ハーレイはきっと言わないから。
 本当はどっちだったのかなんて、教えてくれっこないんだから…。



 だって、相手はあのハーレイ。
 前のぼくにスープを食べさせるためにだけ、乱暴な言葉で叩き起こした。
 ぼくよりも役者が上なんだもの。
 ちゃんとした野菜で作ったスープを「野菜くずだ」って言うくらい、きっと簡単なこと。
 「起きろ」と怒鳴ったハーレイだから。「馬鹿」と怒鳴ったハーレイだから。
 丁寧な敬語でしか話せないくせに、あの時だけは言葉遣いが昔に戻ったハーレイだから。

(今じゃ普通に昔の口調で喋ってるけどね?)
 ぼくを「お前」って呼ぶハーレイ。自分のことを「俺」って言ってるハーレイ。
 だけど変わらない、野菜のスープ。
 ぼくの大好きな、野菜スープのシャングリラ風。
 昔とそっくり同じレシピで、細かく細かく刻んだ野菜を基本の調味料で煮込んだスープ。
 地球の野菜を使っているから、うんと美味しくなっちゃったけれど。



 なんだか食べたくなってきちゃった、ハーレイのスープ。
 本当に食べてみたいんだけれど、昔も今も、あれは病人食だから。
(…仮病、使ってみようかな?)
 こんな風に冷える夜には、恋しくなる味。
 ハーレイが作る野菜スープが飲みたくなるから、もしもハーレイの家がお隣だったら。
 学校を休まなくてもお隣から直ぐに届くんだったら、たまに仮病も使ってみたい。
 心も身体も温まるスープ。
 その始まりを、こんな風に懐かしく思い出してしまった秋の夜には…。




           あの味の始まり・了

※ブルーが今も大好きな「ハーレイが作る野菜のスープ」。味付けは塩だけの素朴なもの。
 「役立たずなソルジャー用に」と生まれたのです、それがハーレイの優しい心遣い。
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 閑古鳥。
 ガランとしている劇場だとか、お客さんのいない店だとか。
 そういうのを閑古鳥が鳴くって言うけど、閑古鳥はカッコウのことだったんだ。ものの例えだと思っていたのに、実在していた閑古鳥。カッコウの名前。
(…架空の鳥だと思ってたのに…)
 実はカッコウだったなんて。カッコウの別名が閑古鳥だなんて。
 今日のハーレイの授業で教わった話。
 SD体制よりもずうっと昔に、この地域にあった日本っていう名の小さな島国。その国にあった短歌、俳句で有名な芭蕉って人の歌に詠まれた閑古鳥。
 「憂き我を寂しがらせよ閑古鳥」って。
 前のボードに書かれた時には、変な歌だと思ったんだけど。わざわざ寂れた劇場とかに出掛けて何をするんだとクラスのみんなが思ったんだけれど、正解はカッコウのことだった。
 遠い昔の日本でお馴染みだった鳥。
 ハーレイは「昔の和歌だとホトトギスと間違えて書かれていたりもしたんだぞ」って「郭公」という字もボードに書いた。



(カッコウ…)
 幼稚園で習った古い歌。SD体制よりも遥かな昔の地球にあった歌。
 静かな湖畔の森の影から、って始まる歌で、カッコウの鳴き声が出て来るんだ。
 もう起きちゃいかが、って、カッコウ、カッコウ、って。
(可愛い鳥だと思ってたのに…)
 本当は閑古鳥だったなんて、可愛いどころかとんでもない。
 小さかったぼくが幼稚園のみんなと歌った「カッコウ、カッコウ」っていう鳴き声の繰り返し。其処が問題、昔の人たちにはカッコウの声が「物寂しい」って思えたらしいんだ。
 そのカッコウが鳴いてるみたいに寂しいお店や劇場だから「閑古鳥が鳴く」って言われちゃう。カッコウは閑古鳥だから。
(いい声なのにな、カッコウって…)
 小さな頃に森で聞いた声。パパやママと出掛けた、明るい森の中で。
 カッコー、カッコー、って。
 パパとママに教えて貰わなくても、直ぐに分かった。カッコウなんだ、って。
 幼稚園で歌った歌に出て来たカッコウが鳴いているんだな、って。
 姿が見えないか、キョロキョロ探した。可愛いカッコウを見付けたくって。



(でも…)
 よく考えてみたら、カッコウは可愛くない鳥だった。
 未だにチビのぼくだけれども、カッコウの歌を歌ってた頃よりは大きくなって知識も増えた。
 托卵。
 カッコウがやってる、独特の子供の育て方。
 自分で卵を温める代わりに、他の鳥の巣に卵を産み付けて行く。巣の持ち主が気付かないよう、元からあった卵を一個だけ捨てて、それの代わりに自分の卵を一個、コロンと。
 それだけでも充分酷いというのに、卵から孵ったカッコウの子供。
 巣の持ち主の卵よりも早く孵化して、最初にすることが巣の乗っ取り。他の卵を押し出して巣の外へ全部捨てちゃうんだ。自分よりも先に孵ったヒナがいたなら、そのヒナまでも。
 そうして自分がドッカリ居座る。巣の持ち主の子供なんです、って顔で住み着く。
 騙された親鳥は、カッコウの子を…。
(自分の子供だって思い込んだまま、育てるんだよ)
 一所懸命に餌を運んで、せっせとカッコウの子を育てる。本当の子供と卵を捨ててしまった酷いヤツだと気付きもしないで、これが自分の子供なんだ、って。
 自分の身体よりもずうっと大きく育ってしまったカッコウの子にも、頑張って餌を運ぶ親鳥。
 大きくっても、餌を欲しがるヒナだから。
 まだ飛べもしない雛鳥だから、って何度も何度も餌を取って来て、大人になるまで。カッコウの子が巣立つ時まで、自分の子供だと信じたまんまで。



 とてもずるくて酷いカッコウ。
 親も親だけど、子供も酷い。巣にあった卵を全部放り出して、自分を育てさせるだなんて。
 ホントに酷い、と思ったんだけれど。
(…それって、ぼく…?)
 ソルジャー・ブルーだった、ぼく。ソルジャー・ブルーの生まれ変わりだった、今のぼく。
 ママがお腹の中で大切に大切に育てて、産んで。
 うんと可愛がって育ててくれていたのに、ソルジャー・ブルーになっちゃった、ぼく。
 十四歳まで普通の子だった、ブルーって子供は消えてしまった。
 ママの大事なブルーはいなくなっちゃったんだ。
 何も知らずに育ったブルーは、ソルジャー・ブルーの記憶が無かったブルーは。



(…ぼくって、カッコウ?)
 そんなつもりは無かったんだけど。
 ママのブルーを捨ててしまって、代わりに住み着いたつもりは微塵も無かったんだけど。
(…だけど、カッコウ…)
 ぼくがやっちゃったことは、カッコウと同じ。
 ママがお腹の中から育て続けた大事なブルーを、一人息子のブルーを奪った。
 前のぼくとそっくり同じに育つ身体が欲しいと奪った。巣の中に卵を置いて行く代わりに、前のぼくの記憶を送り込んで。
 他の卵やヒナを捨てる代わりに、ママの大事なブルーの身体をそっくりそのまま乗っ取った。
(…ママのブルーを捨てちゃった…)
 巣からポイッと放り出して。
 澄ました顔して、ママの子供を気取っているぼく。ママのブルーを装ってる、ぼく。
(…ママ、ぼくがやっちゃったことに気付いてる…?)
 それとも気付いていないんだろうか、カッコウの子供を育てる親鳥が気付かないのと同じで。
 あるいはとっくに気が付いてるけど、人間の子供だから捨てられないとか…?
(…どっちなの、ママ…?)
 怖くて訊けない。ママには訊けない。
 今日もぼくの大好きなおやつを作って、帰るのを待っていてくれたママ。
 いつだって優しい、今のぼくのママ。
 そのママはカッコウの子供を育てる親鳥みたいな心境なんだろうか?
 これは違うと、自分の子供じゃないようだけど、と思いながら育てているんだろうか…?



 今の今まで考えたこともなかった、ぼくがやらかしちゃったこと。
 ママのブルーを捨ててしまって、代わりにちゃっかり住み着いた、ぼく。カッコウの子供。
(…どうしよう…)
 とてもママには言えやしない、と勉強机の前で頭を抱えて俯いていたら。
「ブルー!」
 部屋のドアの向こう、多分、階段の途中あたりからママの声。ぼくの名前を呼んでいる声。
「なあに?」
 普通のふりして、訊き返したぼく。充分にずるい、カッコウの子供。
 だけどママの方は、そんなこととは知らないから。
「下りてらっしゃい、珍しいものを頂いたわよ!」
「えっ?」
「お菓子よ、ブルーが好きそうなお菓子!」
 おやつは済んだけど、見にいらっしゃい。食べられそうなら食べていいのよ、せっかくだから。



 ママの呼ぶ声は、いつもと変わらない優しい声で。
 ぼくの大好きなママの声だから、知らんぷりなんて出来るわけがない。
(…カッコウの子供でも、ママが大好きならいいんだよね…?)
 心の中で言い訳しながら、階段を下りていった、ぼく。ママはダイニングで笑顔で待ってた。
 テーブルの上に、綺麗な缶。何のお菓子が入ってるんだろう、小さな缶が置いてある。ママは、その缶の蓋をパカリと開けて。
「ドラジェよ、可愛らしいでしょ?」
「…ドラジェ?」
「お砂糖をかけて作った甘いお菓子よ、中にアーモンドが入っているの」
 ほら、って見せて貰った缶の中。桃の花みたいな淡いピンク色の丸っこいお菓子が詰まってた。お砂糖の甘い衣を纏ったアーモンド。それが沢山。



 何処から貰ったお菓子なのかな、と思ったら、ご近所さんだった。そういえばチャイムが鳴っていたっけ、ハーレイが来るには早すぎる時間だったから外を覗きもしなかったけれど。
「女の子だからピンクのドラジェなのよ」
「…女の子?」
「そうよ。お孫さん、女の子が生まれたんですって」
 お祝い事の時に、こういうお菓子を配る所で。女の子だとピンク、男の子なら水色。
 そんな決まりがあるんですよ、って教えてくれたわ、色々なお祝いにドラジェを配るの。
(…お孫さん…)
 なんてタイミングなんだろう。
 そのお孫さんは普通のお孫さんで、普通の赤ちゃん。ぼくみたいなカッコウの子供じゃない。
 大きくなっても、ご近所さんのお孫さんのまま。いつまで経っても、ちゃんとお孫さん…。
「…ブルー?」
 どうしたの、ブルー? こういうお菓子は好きじゃなかった?
「ううん…」
「何だか変よ、お腹、痛いの?」
 どうかしたの、具合が悪いんだったら早くお医者さんに行かないと…。
「……カッコウ……」
「えっ?」
 ポロッと口から零れてしまった、カッコウの名前。そうなったらもう、止まらない。
 ぼくは黙っていられなくなって、何もかも全部、話してしまった。
 ママはカッコウの子供でもいいの、って。
 ママの大事なブルーを家から放り出しちゃった、カッコウの子供のぼくでもいいの、って。



「…馬鹿ね」
 お馬鹿さんね、ってママは微笑んだ。
 ママの隣の椅子に座って、べそをかきそうになっていたぼくに。
「ブルーはカッコウなんかじゃないわ。最初からブルーよ」
 ママの子供の、大事なブルー。カッコウの子供なんかじゃないのよ。
「でも…。今のぼくって、ソルジャー・ブルーで…」
「ソルジャー・ブルーでも、名前はブルー。そうじゃないの?」
 同じブルーでしょ、何処が違うの?
「だけど、ママのブルー…」
 ママがお腹の中で育てて、産んだブルーが何処にもいないよ。ぼく、カッコウの子供だから。
「此処にいるでしょ、ママのブルーも」
 それともブルーは忘れちゃったの、ソルジャー・ブルーじゃなかった自分。
 ソルジャー・ブルーになるよりも前の、色々なこと。全部忘れてしまっちゃったの?
「…ううん」
 覚えてるよ、全部。赤ちゃんの時のは無理だけれども、小さい頃のことも覚えているよ。
「ほら、ちゃんとブルーはママのブルーよ。ママのブルーはいなくなっていないわ」
 ブルーの中にちゃんといるのよ、ママのブルーも。
 放り出されたわけじゃなくって、ブルーの中に一緒にいるのよ。
 だからブルーは、ママのブルー。ソルジャー・ブルーでも、ママのブルーよ。



 大丈夫、ってママは頭を撫でてくれた。柔らかな手で、うんと優しく。
 ぼくの記憶が戻った時には怖かったんだ、って話してくれた。
 ソルジャー・ブルーだったことを思い出したぼくが、ママの前から消えちゃうかも、って。
 何処かへ姿を消してしまって、二度と戻って来ないんじゃないかと思って怖かったんだ、って。
「だけどブルーは何処にも行かなかったでしょ?」
「…ぼくの家、此処だよ」
 それに独りじゃ、とっても生きていけないもの…。住む家も御飯も無くなっちゃったら。
 …ぼくってやっぱり、カッコウなのかな?
 この家でママとパパに育てて貰わないと、大きくなれないカッコウなのかな…。
「違うわ、ママのブルーだからよ。だから独りじゃ生きていけないのよ」
 ママのブルーを育てるのはママでしょ、ママがいないとブルーは大きくなれないの。
 それにね、ママはカッコウの子供でもかまわないのよ。
 カッコウの子供を預けられた鳥は、カッコウの子供を自分の子供だと思って育てるの。ちゃんと大人にしてあげなくちゃ、って自分よりも大きくなったヒナでも。
 そうやって頑張って育ててあげても、カッコウの子供は何処かへ行ってしまうんだけれど。誰が自分を育てたのかなんて、すっかり忘れてしまうんだけれど…。
 ブルーはパパやママを忘れないでしょ?
 それに、この家で大きくなったんだっていうことも。
「うん。忘れていないし、忘れないよ」
「ほらね、だからソルジャー・ブルーでもいいの。カッコウの子でもかまわないのよ」
 ママが育てたブルーだから。ママをママだと思ってくれているなら、それがママのブルー。
 ソルジャー・ブルーがカッコウの子でも、ママにとってはママのブルーよ。



 何も心配しなくていいの、ってママはドラジェをぼくにくれた。
 缶から取り出して、ぼくの手のひらに一つ。
「今日のおやつは済んじゃったけれど、せっかく頂いたんだから…。お祝いのお菓子」
 貰った人にも幸せを運ぶお菓子ですよ、って下さったんだし、食べなくちゃね。
 ブルーにも幸せが沢山、来るように。
 それから、オマケ。
「…オマケ?」
「心配事が消えますように、ってオマケをあげるわ」
 そう言って、オマケのドラジェをくれたママ。
 カッコウだなんて言い出しちゃったから、心配事が幸せに変わるようにオマケに二つ、って。
 ダイニングで食べた、三粒のドラジェ。
 甘くて、中のアーモンドがカリッと香ばしかったピンクのドラジェ。
 美味しいでしょ、ってウインクしてくれたママ。
 「心配事を幸せに変えてくれる魔法のお菓子よ、それは」って言ってくれたママ。
 ぼくはカッコウの子供じゃないって思ってもいい…?
 ママのブルーを追い出してないって、放り出してはいないんだ、って。



 そんな事件があった日の夕方、暮れて来た頃に鳴らされたチャイム。
 部屋に戻ってたぼくが窓から覗くと、門扉の所にハーレイが居た。ぼくが大好きな、前のぼくの頃からの大事な恋人。ソルジャー・ブルーだったぼくが愛したキャプテン・ハーレイ。
 今はキャプテン・ハーレイじゃなくて、閑古鳥の話を授業でしていた古典の先生なんだけど。
 ただのハーレイ先生だけれど、ぼくにとっては誰よりも大切な恋人なんだ。
 そのハーレイが部屋に来てくれて、ママが紅茶とお菓子のお皿を持って来てくれた。テーブルに置かれたお菓子のお皿に添えられたドラジェ。ピンク色のお砂糖の衣を纏ったアーモンド。
 それがお皿に一粒ずつ。ぼくとハーレイ、それぞれのお皿に。



「ほほう…。何処かでお祝い事があったのか?」
 ハーレイはドラジェを知っていた。お祝い事に配るお菓子なんだということを。今のぼくよりも二十四年も長く生きてるから、貰ったことがあるみたい。
「ご近所さんに貰ったんだよ、お孫さんが生まれたんだって」
「お孫さんか。ピンク色なら女の子だな」
「当たり!」
 男の子だと水色だって。それでね、普段だったら珍しいな、って食べるんだけど…。
「どうかしたのか?」
「あのね…」
 半分はハーレイのせいなんだよ、ってカッコウの話をしてみた、ぼく。
 授業で閑古鳥の話なんかをするから、色々なことをぐるぐる考えちゃったんだ、って。
 カッコウの鳴き声だけでは済まなくなって、托卵のことまで思い出した、って。
「…それで?」
「ぼくってカッコウの子供なのかも、って思ったんだよ」
「カッコウの子供?」
「そう。ママの子供を巣から放り出して、代わりに居座っちゃったカッコウ」
 だってそうでしょ、ママにしてみれば騙されたようなものなんだもの。
 自分の子供だって信じていたのに、育ててみたらソルジャー・ブルーになっちゃったなんて。
 まるで違う子供になっちゃったんだよ、へんてこな記憶まで取り戻して。
 カッコウの子供みたいでしょ?
 育てた親とは全然似てない、大きくて可愛くないヒナが巣に乗っかってて、餌を貰って。



「なるほどなあ…。それでお前はどうしたんだ?」
「カッコウの子かも、って考えていたら、ママに呼ばれた…」
 珍しいものを貰ったから、って呼ばれたんだよ。それがこのドラジェ。
 ぼくはドラジェがどういうお菓子か知らなかったから、ママが説明してくれて。お砂糖をかけたアーモンドだっていう所までは何も問題無かったんだけど…。
「出産祝いで引っ掛かったか?」
 お孫さんだしな。お前、カッコウの子供で悩んでいたんだものな?
「うん。そのお孫さんは本物だよね、って思った途端に、頭の中がカッコウで一杯…」
 それで口から出ちゃったんだよ、カッコウ、って。
 言っちゃったらもう止められなくって、ママに喋ってしまったんだ。
 ぼくはカッコウの子供なんだ、って。ママの子供を放り出して代わりに住み着いたんだ、って。
 そんなぼくでもかまわないの、って、カッコウの子供でもママはいいの、って…。
「ふうむ…。そう話した後はどうなったんだ?」
 お母さんはビックリしたと思うが、なんて答えてくれたんだ?
 俺を迎えに出て来てくれた時には、いつもと全く変わらない様子だったんだがな?
「…ぼくは最初からぼくだ、って。ママのブルーで、カッコウの子供なんかじゃない、って」
 ぼくはママの子供を放り出していないし、ママの子供で間違いないって。
 それにソルジャー・ブルーだとしても、カッコウの子供でもかまわないって。
 ママをママだと思ってるんなら、カッコウの子供でもママのブルーになるんだって。
 カッコウの子供を育てる親鳥は、それが自分の子供のつもりで大切に育てるんだから、って…。



 そう言ってくれたよ、ってハーレイに話した。
 心配事が消えますようにってドラジェもくれたと、心配事が幸せに変わるようにとオマケに二つ貰ったんだ、と。
「魔法のお菓子よ、ってママは言ったんだけど…。心配事を幸せに変えてくれるのよ、って」
「それで、お前に幸せは来たか?」
「うん。今、気が付いたけど、ちゃんと来てたよ。ハーレイが来てくれたんだもの」
 カッコウの子かも、って考えちゃったのはハーレイの授業のせいなんだけど…。
 でも、ハーレイが来てくれるとぼくは嬉しいし、幸せはちゃんと来ていたみたい。ママが魔法のお菓子だって言ったの、本当だったよ。
「そうか、幸せは来たんだな。心配事の方はどうなった?」
「やっぱりカッコウの子供かもね、って思うけれども…。ママがいいなら、それでいいかな」
 カッコウの子供でもママのブルーだって言ってくれたし、気付いた時ほど心配じゃないよ。
 ママのブルーを追い出しちゃったかも、って思った時には本当に心配だったんだ。
 こんなことママには言えやしないって、どう思ってるのか訊けもしない、って。
 でも、訊いちゃった…。
 うっかりカッコウって言っちゃったから…。



「だが、お母さんはきちんとお前の話を聞いて。…そして答えてくれたわけだな」
 お前がカッコウの子供かどうかを。カッコウの子供でも、自分の子供に間違いないと。
 いいお母さんじゃないか。心配事が幸せに変わるようにと、魔法のお菓子までくれたんだろう?
 お前はいいお母さんを持ったと思うぞ、それにお前も素直ないい子だ。
 たとえカッコウの子供だとしてもな。
「どうして?」
 カッコウの子供って…。それでどうしていい子になるの?
 ママがいいママだってことは分かるけど、カッコウの子供はあまりいい子じゃないと思う…。
「お前、自分でカッコウの子かも、と言ったんだろう?」
「言ったけど…」
「其処だ、其処がお前の素直な所で、いい子な所だ」
 お母さんにきちんと打ち明けられるのが素直な証拠さ。
 カッコウの子供は育ての親に向かって喋りはしないぞ、自分はカッコウの子供です、とはな。
 本物の子供と卵は捨てました、なんて本当のことを白状してみろ、自分の命が無くなっちまう。親鳥は子育てをやめて逃げてしまうし、そうなれば餌が貰えないだろう?
 餌が来なけりゃ飢えて死ぬしか道が無いんだ、本物のカッコウは最後まで親を騙すわけだな。
 しかし、お前はきちんと話した。
 お母さんが「自分の子供じゃない」って気付いてしまうかもしれないのにな…?



 偉いぞ、ってハーレイがぼくの頭をポンポンと叩いてくれたから。
 ぼくの幸せはグンと膨らんで、嬉しくてたまらなくなった。
 ハーレイに褒めて貰えるなんて。いい子だって褒めて貰えるだなんて、もう幸せでたまらない。ママに貰ったドラジェの魔法は本物なんだ、って頬が緩んだ。
 心配事が幸せに変わる、魔法のお菓子。ママがオマケにと二個くれたお菓子。
 一つはハーレイを連れて来てくれて、もう一個はハーレイに褒めて貰えた。素敵な魔法をかけてくれたお菓子。幸せを運んだ、ピンクのドラジェ。
 カッコウの子供でも、どうでもよくなる。
 そのカッコウの子に、ママが魔法の幸せのドラジェをくれたんだから…。



(ふふっ、幸せ…)
 カッコウの子供でもかまわないや、って考えた途端、ハーレイが「実はな…」と口にした言葉。
「俺はな、現役のカッコウなんだ」
「えっ?」
 現役のカッコウって、どういう意味なの?
 それにハーレイがカッコウって…なに?
「お前と同じさ、俺だっておふくろが産んだ子供とは違う中身になっちまったろうが」
 おまけに、お前は記憶が戻って直ぐに、お父さんとお母さんに自分が誰かを話したが…。前世の記憶を持っていることも、ソルジャー・ブルーだってことも話しているが、だ。
 俺はまだ、親父にもおふくろにも全く話していないってな。
 実はキャプテン・ハーレイでした、っていうことを。
 つまり、今でもカッコウなんだ。親鳥を騙して自分の子供だと思い込ませているカッコウだな。
「ハーレイ、それって…。酷くない?」
 お父さんとお母さん、ハーレイに餌を運んでるわけじゃないけれど…。
 ハーレイは一人で暮らしているけど、カッコウの子です、ってことを黙っているのは酷くない?
「酷いかもしれん。だが、お前を嫁さんに貰うわけだしな?」
 それだけでも充分、驚かせたんだ。
 一度にあれこれ話しちまったら、親父もおふくろも腰を抜かすと思わないか?



 折を見て順番に話さないと…、って言ってるハーレイ。
 まだまだ当分、お父さんとお母さんには話すつもりが無いハーレイ。
(…まさか、ぼくと結婚する時まで内緒のままってことはないよね…?)
 いくらなんでも、それまでには多分、話すんだろうと思うけど。
 こんなカッコウの子供がいるんだったら、ぼくなんか可愛い方かもしれない。
 だって、ぼくはたったの十四歳。
 ハーレイみたいに三十八年もカッコウをやっていないから。
 実はカッコウの子供なんです、って言いもしないで、巣に居座ってたわけじゃないから。
(…ぼくは素直に言っちゃったものね、ソルジャー・ブルーだったんだよ、って…)
 前のぼくの記憶を取り戻して直ぐに、パパとママに話してしまった、ぼく。
 それが普通だと思っていたのに、ハーレイはキャプテン・ハーレイだったことを内緒にしてる。大人には大人の考え方があるから、それも正しいのかもしれないけれど。



(…それでも、いつかは話さなきゃ駄目なんだけどね? カッコウの子供だったこと…)
 ハーレイがキャプテン・ハーレイだったこと。ぼくと同じでカッコウの子供とそっくりなこと。
 だけど、ハーレイのお母さんたちも、きっとハーレイを許すんだろう。
 ハーレイはカッコウなんかじゃない、って。
 カッコウの子供でも自分の子供とまるで同じで、ちゃんと自分の子供なんだ、って。
(ぼくもハーレイも、産んで貰った子供だものね)
 人工子宮から生まれた前のぼくたちと違って、お母さんのお腹から生まれた子供。
 機械が選んだ養父母じゃなくて、本当の親が育ててる子供。
 だからぼくのママも、ぼくはママのブルーに間違いないって自信を持って言えるんだ。
 今度のぼくたち、ちゃんと本物のパパとママ。
 たとえ子供がカッコウの子でも…。




           カッコウ・了

※他の鳥の卵を捨ててしまって、自分の卵を産んでゆくカッコウ。知らずにそれを育てる親鳥。
 自分もカッコウのようなものかも、と思ったブルー。優しいお母さんで良かったですね。
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(あ…)
 学校から帰って、おやつを食べて。ダイニングで広げた新聞の中。
 タイトルと写真がぼくの目を引いた。地上絵の描き方。そんな名前が付いた記事。それに大きな鳥の絵が写った一枚の写真。
(…地上絵…)
 遠い昔の地球にあった絵。人が住めない乾いた大地に描かれた地上絵。
 地上から見れば石だらけの地面に溝が走っていただけなのに、遥か上空から見れば幾つもの絵があったという。ハチドリにコンドル、様々な動物や図形なんかが。
 SD体制が始まるよりも前に失われてしまって、今はデータしか無いんだけれど。
 地上絵が発見された時代の人にも、どうやって描くのかまるで分からなかったんだけれど。
(…色々な描き方があるんだ、これ…)
 下の学校の子供たちが挑戦している様子が記事になってた。
 学校のグラウンドに白い線で再現された地上絵。画鋲が一個と糸だけがあれば可能だという拡大方法。もちろんサイオンなんかは抜きで。
 歩数で計って描く方法もあった。向かい合わせの子との距離を目で測りながら、ぐんぐん歩いて元の絵を大きく描いていくんだ。二人一組で、半分ずつを。
 子供たちがそうやって描いた絵たちが新聞に載っているんだけれど。



(…ナスカ…)
 ナスカの地上絵。そう呼ばれていた、巨大な絵たち。
 本来、地球の地名の一つだったナスカ。
 なのにどうして、あの星がナスカだったのか。
 ジョミーたちが降りた、あの赤い星が。トォニィたちが生まれた星が。
 前のぼくはナスカの地上絵を知っていたけれど、それをシャングリラにも描かせたんだけれど。白い鯨の甲板に大きく、ナスカの地上絵のハチドリの絵を。
(このハチドリだよ…)
 子供たちが再現した地上絵の写真にも写っている鳥。不思議な形に描かれたハチドリ。
 本物のそれが発見された時、描いた人たちはもう居なかったから。本当にハチドリを描いた絵かどうかは永遠に謎のままなんだけれど。
 本物の絵だって前のぼくが生きてた頃には無かったんだけど、それでもハチドリ。白い鯨の背に描かせた絵。
(でも、なんでナスカ…?)
 白い鯨はナスカの地上絵と同じ絵を背負って飛んでいたけれど、何故、あの星がナスカなのか。赤い星がナスカと呼ばれていたのか。
(確か、フィシスが名付けたって…)
 フィシスが名前を付けた星だと学校で習う。ミュウの歴史に欠かせない大切な星だから。
 だけど理由は教わらない。何故ナスカなのか、それは学校では教えてくれない。



(なんで…?)
 ナスカの名前と、シャングリラの甲板に描いてあった絵と。
 無関係なのか、そうじゃないのか、どうにも気になってたまらない。新聞を閉じて部屋に戻った後もぐるぐる考えていたら、お客様が鳴らすチャイムの音。
(ハーレイ?)
 窓に駆けて行って、下を覗いた。庭を隔てた門扉の向こうに大きな人影。やっぱりハーレイ。
(うん、ピッタリのタイミング!)
 丁度いい所に来てくれたよね、と嬉しくなった。ぼくの部屋でテーブルを挟んで向かい合わせに座って、紅茶のカップを傾けながら早速、質問。
「ハーレイ、ナスカの名前の由来って、知ってる?」
 赤い星だよ、あの星の名前。
「フィシスが付けたが? あの星に降りようと決まった時に」
 名を授けようとか言っていたなあ、赤き乙女とも言ってたか…。あの星に可能性を見出したと。
「それ以外に、何か。フィシスが付けたっていうのは学校の授業で教わるもの」
「いや、俺は知らん。お前こそ知っているんじゃないのか、フィシスなんだから」
 ナスカでお前が目覚めた時には、俺は忙しくてお前と個人的に会える機会が全く無かったが…。
 フィシスは特に役目も無かったんだし、お前と話すための時間は充分にあったと思うがな?
「…聞きそびれちゃった…」
 あの星にナスカって名前を付けた、って話はちゃんと聞いたんだけれど。
 他にも色々と話をしたけど、どうしてナスカって名前にしたかは聞かなかったんだよ。



 そして今まで気付かなかった、と話した、ぼく。
 ナスカと言ったら地球のナスカの地上絵なんだ、と。今でも子供たちが描こうとするほど有名な絵だから、あの赤い星にナスカと名前が付いた理由は地球のナスカじゃなかったのか、って。
「そういや、シャングリラの甲板にあったデカイ鳥の絵…」
「うん。ナスカのハチドリ、地上絵の鳥だよ」
 ハチドリの絵をそのまま写して描かせた鳥がシャングリラの背中に乗っかってたよ。
「お前、あの絵をフィシスに見せたか?」
「シャングリラに連れて来た時にね」
 それから後には見せていないと思うけど…。船の外には出していないし、出たっていつも雲海の中で甲板の絵までは見えはしないよ。
「その辺の記憶はあったんだったな、フィシスにも?」
「フィシスの記憶は其処からだよ。前のぼくが連れて来て、シャングリラの姿が見えてから」
 その前の記憶は全部消した。何処に居たのか、どうやって連れて来られたのかも。
 フィシス自身が望んだって言って、すっかり消してしまったんだけど…。



「ふうむ…。あの時もシャングリラは雲海の中に潜んでいたが、だ」
 お前、フィシスにどういう船なのか見せたんだな?
 フィシスは元々、視覚に頼っていなかったし…。雲の中でもシャングリラ全体を見られた、と。
「そう。普段だったら其処まではしない。でも、あの時は見て欲しかったんだ」
 ぼくたちの船だと、今日から此処で暮らすんだ、と。
 シャングリラの姿を見せたかったから、ぼくがサイオンを導いて雲に隠れた所まで、全部。
「なら、甲板の絵もフィシスは見たってわけだ」
 それで、お前はあの絵が何かを説明したのか?
「ぼくたちの夢の鳥なんだよ、って」
 シャングリラに描いてあったものは全部見せたよ、自由の翼も、ミュウを示す文字も。それからフェニックスの羽根のシンボルマークも、見せて何なのか説明したよ。
 甲板の鳥もフェニックスだと、不死鳥の絵だと。
 ずいぶん変わった形なのね、って不思議がったから、モデルはナスカの地上絵だよ、って…。



「それじゃないのか?」
 フィシスがあの鳥の由来を聞いていたのなら。知っていたのなら、ナスカは其処から来たんじゃないのか…?
「やっぱり、ハーレイもそう思う?」
 フィシス、覚えていたのかな…。一度きりしか見せていないのに。
「多分な。ナスカの地上絵を何処まで理解したかは知らんが、シャングリラの鳥だと覚えたんだ」
 船に描いてあるフェニックス。
 そいつのモデルがナスカって所に存在するらしいと、シャングリラの鳥はナスカの鳥だと。
 フィシスは小さな子供だったから、どういう風に記憶の底に沈んでいったかは分からないが…。
 ナスカはとても素敵な名前だと、その鳥がシャングリラに描いてあるんだと思っただろう。その時の記憶も、何だったのかも忘れ去っても、ナスカという名だけは何処かにあった、と。
「…それでナスカって名前を付けたんだ…」
 ミュウに相応しい、ぼくたちの船に相応しい名前だと何処かで思っていたんだろうね。自分でもそれが何かは知らずに、思い出せずに、ナスカって付けた。いい名前だ、と。
「そういうことになるんだろうなあ、今から思えば」
「あの鳥がナスカの地上絵だってこと、知らない仲間が多かったのにね…」
 描いた頃には居なかった仲間、後からずいぶん増えちゃったものね。
「俺だって綺麗に忘れちまってたが?」
「ぼくもなんだけど…」
 赤い星の名前がナスカだと聞いても、いい名前だな、って思っただけで。
 同じ名前の場所から貰った鳥の絵がシャングリラの背中に乗っかってることは忘れていたよ…。



 ホントのホントに忘れちゃってた、と頭をコツンと叩いたんだけど。
 ハーレイが「仕方ないだろ」って。
「そんなもんだろ、灯台下暗しって言葉がずうっと昔からあるくらいだしな」
 ヒルマンあたりは気付いていたかもしれないが…。ナスカの地上絵と同じ名前だと。
「そういう話は聞いていないの?」
「俺の記憶には全く無いな」
 まるで覚えていないからには、一度も聞いていないんだろう。ナスカはナスカだ、赤い星だ。
「だけどあの鳥、ヒルマンとエラがデータベースで探し出して来た絵なんだよ?」
 二人揃って気付かなかったか、気付いていても黙ってたのか。どっちなんだろう…?
「さてなあ…。若い連中が浮かれていたから、気付いていたって黙ってたかもな」
 ゼルは頑固に反対してたし、全員一致でナスカに降りたってわけじゃない。
 ナスカの名前はシャングリラとも無関係ではないんだってことを下手に言ったらマズイしな?
 大義名分を与えちゃいかんと黙っていた可能性もある。
 ナスカに着いても、根を下ろしたとしても、シャングリラは大切な船なんだ。あの船が無ければ宇宙を旅することは出来んし、他のミュウたちを救いにも行けん。
 ナスカとの縁は無い方がいいと、切り離しておいた方がいいんだと思ったかもなあ…。
「そうかもね…」
 実際、ナスカにしがみ付きすぎて死んじゃった仲間も大勢いたし。
 シャングリラとナスカは鳥の絵で繋がっているんです、ってことになってたら、もっと離れ難い星になってて、被害が大きくなってたかもね…。



 前のぼくもハーレイも気付いてなかった、シャングリラとナスカの共通点。
 もしもヒルマンとエラが気付いていたなら、語らなかった二人に感謝しなくちゃ駄目だろう。
 踏みしめる大地を手に入れただけで、あれほどの仲間がナスカに残ろうとしたのだから。人類に発見されたと知っても、攻撃が来ると分かっていても。
 ただのナスカでも、その始末。
 これがシャングリラと縁の深い名前の星だったならば、そう簡単には捨てて行けない。なんとか残そうと、残したいのだと頑張る仲間も出て来ただろう。
 若かった仲間だけじゃなくって、古い仲間たちも。
 長く暮らしたシャングリラにゆかりの名を持つ星であったなら、離れ難くて、去り難くて。
 ナスカの名前と同じ由来の鳥が、シャングリラの背に在ると気付いていたなら…。



「あの鳥、お前が欲しいと言い出したんだっけな、甲板に描こうと」
 自由の翼とは別に、鳥の絵。鳥の全身を描いた絵が欲しいと言ったんだったか…。
「そうだよ、シャングリラが鯨の形になっちゃったから」
 完成したら鯨みたいな形になるんだ、って説明されたから鳥が欲しかった。
「鯨は空を飛べないから、ってことだったよな?」
「うん。気分だけでも鳥にしよう、って」
 あやかりたいって言うのかな?
 何処へでも自由に飛んで行ける鳥。それがシャングリラに欲しかったんだよ…。



 様々な機能を搭載していった結果、鯨になったシャングリラ。
 うんと大きく改造しちゃった船体はともかく、あの形には意味があったんだ。
 ステルス・デバイスだの、サイオン・シールドだのを効率よく施すためには最適な形。
 だけど鳥からは離れてしまった。空を自由に飛ぶ鳥からは。
 せめてと船にあしらおうと決めた翼の模様。自由の翼。
 けれど足りない。それでも足りない。
 羽根をシンボルマークに決めたフェニックスではなくてもいいから、何処かに鳥の絵。鳥の姿が欲しかった。
 ゼルたちと意見交換した末、選ばれた場所があの甲板。
 シャングリラに降りる小型艇やシャトルの誘導用を兼ねて、甲板の上に鳥の模様を、と。



 何でもいいから、と頼んだ鳥の絵。そうは言っても、シャングリラに描く鳥なんだから。
「あれは、地球の鳥の絵を片っ端から探したんだったか?」
「有名な鳥の絵を探したんだ、って言ってたよ。ヒルマンとエラは」
 データベースを隅から隅まで調べたんだ、って言ってたと思う。時間もずいぶんかかったし…。
 そうして調べて、持って来たのがあの絵だったよ。



 ぼくとキャプテンだったハーレイ、それにゼルたちが顔を揃えた会議の席。
 ヒルマンとエラが自信ありげに広げた図面に、後にシャングリラの甲板に描かれた絵があった。鳥と言われれば鳥に見えるし、何かの模様だと言われればそうも見える絵。
「…ハチドリだって?」
 この絵がかい?
 本物のハチドリにお目にかかったことはないけれど…。飛びながら花の蜜を吸う鳥だったかな?
「そのハチドリだと言われていた、というだけなんだがね」
 ハチドリと決まったわけではないのだ、とヒルマンは言った。そう呼ばれているだけなのだと。
「ぼくにはハチドリのようには見えないけれど…」
「フェニックスでも通りますでしょう?」
 鳥の絵ですから、とエラに説明されて眺めてみれば、フェニックスにも見えて来たから。
「そうだね、フェニックスだと言われれば…。そんな風にも見えるかな、うん」
 これがハチドリだって言うんだったら、フェニックスだと言い張ったとしても通りそうだね。
「如何ですか、ソルジャー? この鳥を甲板に描くというのは」
「どういう絵だい、これは?」
 なんとも奇妙な鳥だけれども…。何か有名な鳥の絵なのかな?
「地球で最大の鳥の絵の中の一つだよ」
 ナスカの地上絵と呼ばれていてね。地面に直接描かれたのだよ、それはとてつもない大きさで。
 何が描いてあるかは、空から見ないと分からない。
 誰が何のために描いた絵なのか、それすらも謎だと言われた絵だね。
「空からしか見えないほどの絵だって?」
「ええ。残念ながら、SD体制に入るよりも遥かな昔に失われてしまったそうですが…」
 このハチドリが一番有名な絵だったそうです。
 もっと大きな地上絵も幾つかあったようですが、これが一番、鮮明に見えたと伝わっています。
 空からしか見られない、神秘の鳥の絵。
 甲板に描くにはこの鳥がいいと思うのですが…。



 ナスカの地上絵。
 それが地球の上に在った頃でさえ、多くの謎が解かれないままだった巨大な地上絵。
 今は失われ、地球から消えてしまった鳥の絵。
 ハチドリのようにも、フェニックスのようにも見える鳥の絵。
 地球に行きたいと願っていた前のぼくが、惹かれないわけが無かったから。
 その絵を見付けたヒルマンとエラも、もちろん地球に焦がれていたから。
 遠い昔の地球に在った絵は、ハーレイたちにも支持されて甲板に描かれることになった。改造が済んだら船の甲板に、誘導用として大きく描こうと。



「…出来上がったシャングリラに描かせたんだっけ、あれ…」
 これだけ大きな船に描くんだから、本物にも負けていないかも、って思ったんだった。
 甲板の上に立ったくらいじゃ全体の形は分からないよね、って。
「そして綺麗に忘れちまった、と」
 シャングリラの甲板にはナスカの地上絵があるってことを。
 前のお前がフェニックスでも通ると言ってた、ハチドリの絵が描かれているってことを。
「ナスカの地上絵って所をね」
 忘れちゃってたんだよ、ナスカって地名。
「本当か?」
 鳥の絵そのものを忘れちゃいないか、ナスカだけじゃなくて?
「…忘れていたかも…」
 シャングリラはいつも雲海の中だし、外に出る時もぼくは甲板からは出なかったし。
 船の周りを飛んだ時には見えていたけど、シャングリラの一部だという感覚で。



「まあ、俺もだがな。キャプテンのくせに」
 滅多に見ることは無かったからなあ、あれの全体。
 ナスカに着くまでは俺は船から離れちゃいないし、映像でしか知らんと言うべきか。
 たまに甲板の様子を覗きに行っても、其処からじゃ鳥の姿は見えないからなあ…。
「本物の地上絵と同じだね、それ」
 絵が描いてある場所に立っていたって、何の絵なのか分からない、って。
「まったくだ」
 ついでにナスカに居た間にも、だ。
 シャトルで何度も地上とシャングリラを行き来してたが、操縦してたのは俺じゃないしな。誘導用に描かれた絵なんぞ見るチャンスは無い。
 窓からチラリと絵の一部分が見えたと思ったら、もう格納庫の中なんだからな。
「それじゃ、ハーレイだって忘れるわけだね…」
 船の全体を把握するのがハーレイの仕事で、甲板だけじゃないんだものね。あの鳥の絵が消えてしまいそうだから、って補修作業でもしない限りは頭に無いよね…。
「そんな所だ。人類軍の攻撃のせいで甲板の修理ってケースはよくあったんだが…」
 全体の被害が大きすぎてな、修理の進捗状況を報告させて目を通すだけで精一杯だ。甲板の絵にどういう被害が出ているかなんて、いちいち報告も上がっちゃ来ない。
 修理が必要で直ぐ始めます、って報告の次は修理完了までの日数だとか、完了したとか。つまり絵なぞは任せっ放しだ、絵よりはその下の甲板なんだ。
「そうなるだろうね…」
 あの絵は無くても何とかなるけど、甲板は急いで修理しないと大変だから。
「うむ。…しかしだ、そういう状況だった俺はともかく…」
 お前は俺よりも遥かに多く見ていた筈だぞ、あの絵をな。それを忘れるとはボケちまったのか?
「そうかも…」
 だけど、ナスカで目が覚めた時には十五年ぶりだし、船の外にも出なかったしね?
 あの赤い星の名前はナスカなんだ、って聞かされたら素直に納得しちゃうと思わない?
 素敵な名前を付けたんだな、って。…しかもフィシスが付けたんだものね。



 仕方ないよ、と唇を尖らせた、ぼく。
 ボケちゃってたのかもしれないけれども、あの時はナスカで納得したんだ。ミュウが手に入れた赤い星だと、あの星で新しい命が幾つも生まれたんだ、と。
 シャングリラの甲板に描いてあった鳥まで思い出さない。ナスカの地上絵どころじゃない。
 だって、ミュウが初めて踏みしめた大地。新しい命を生み出した大地。
 それほどの重みを持っていた星と、シャングリラの甲板のちっぽけな絵なんか重なりやしない。同じナスカでも全然違う。星と、甲板の小さな絵では。
 それに…。



「ハーレイ、前のぼくがボケてたなんて言うけれど…」
 確かにウッカリしてたかもだけど、前のぼくとは違って、プロ。歴史を調べるプロの人たち。
 ミュウの歴史を研究している学者たちだって、あの絵とナスカを結び付けてないよ?
 ナスカの地上絵、今でもデータは残っているのに。
 下の学校の子たちがグラウンドに描いて新聞記事になるほど、あの絵はうんと有名なのに…。
「誰も接点を語らなかったら、偶然ってことで片付けるじゃないか」
 学者ってヤツはそうしたもんだぞ、資料が残っていないものなら自分なりの説を唱えるが、だ。きちんと資料が残っているなら、それを踏まえて研究せんとな。
 ナスカって星の名前が付いた日のことは、前の俺が航宙日誌に書いている。其処に甲板に在った鳥の絵について何も書かれていなかったならば、それが全てだ。
 ナスカは、ナスカ。フィシスがナスカと名を付けた星で、ナスカの地上絵とは無関係なんだ。
「そういうことかあ…」
 資料があるなら、そうなっちゃうね。ただの偶然、ナスカはナスカ。
 フィシスはSD体制が崩壊した後も、カナリヤの子供たちを育てて幼稚園を創って、サイオンもちゃんと取り戻して。
 あの姿のままで長生きしたって聞いているけど、そのフィシスだって何も証言してないし…。
 やっぱりフィシスもナスカの地上絵のことは忘れてたんだね、甲板の鳥の絵。
「うむ。そうだと思うぞ、フィシスも最後までナスカはあの星の名前だと思っていたんだろう」
 前のお前に教えて貰った、ハチドリの絵のことは思い出さずに。
 シャングリラの甲板に描かれた鳥は、ナスカの地上絵がモデルだってことは忘れたままで。
 付けたフィシスが思い出さないからには仕方ないよな、ナスカの名前が何処から来たかは…。



 こればっかりはどうしようもないな、ってハーレイが腕組みしてるから。
 眉間に皺まで寄せているから、ぼくも盛大な溜息をついた。
 ナスカの地上絵と、赤い星。シャングリラの甲板に描いてあった鳥と、赤い星ナスカ。
「…ナスカの鳥の絵、前のぼくだって忘れがちだったしね…」
 ぼくが描こうって言い出したくせに、自由の翼は覚えていたってナスカの鳥は忘れるんだよ。
 甲板に描いて誘導用の絵にしちゃったからかな、シャングリラの一部分だとしか思ってなくて。
「俺も同じだ、あれは甲板の付属品みたいなモンだったからな」
 甲板が無事ならそれでいいんだし、やられちまったら修理しないと。
 其処に描いてある絵の修理だって、甲板の修理の内だからなあ…。あれは甲板の一部だ、うん。
「やっぱり、甲板?」
「ああ、甲板だ」
 鳥の絵よりも先に甲板なんだ。
 それ以上でも以下でもなくって、あの鳥の絵も丸ごと含めてシャングリラの甲板だったってな。



 間違いなく甲板の一部だった、って言うハーレイと二人、開いてみたシャングリラの写真集。
 ぼくとハーレイがお揃いで持ってる、豪華版の立派な写真集。
 見開きのページにシャングリラ。白い鯨が大きく写った、宇宙空間が背景の写真。
 あの鳥が甲板に浮かんでいた。
 フェニックスみたいだと前のぼくが描かせた、ナスカの地上絵のハチドリの姿がくっきりと。
 今日の新聞に載ってた写真とそっくりなハチドリ、ナスカの地上絵。



「…この絵、ナスカの地上絵だけどね?」
「何処から見たって、その絵だなあ…」
 立派にナスカだ、あの赤い星と同じナスカって名前で、地上絵の方が古いってな。
「フィシスも忘れてしまってたんだし、偶然だとしか言えないけれどね…」
「シャングリラがナスカを背負ってることを思い出していたら、俺は一層辛かったろうな」
 お前がいなくなっちまってから。
 前のお前を失くしちまってから、もしもそいつに気付いていたら。
 シャングリラにはナスカが付き物なんだと気付いていたなら、毎日が酷く辛かったろう。
 船にはナスカが乗っかってるのに、肝心のナスカは燃えちまった。そのせいでお前まで失くしてしまって、それなのに俺は生きているのか、と。ナスカを背負ったシャングリラでな。
「じゃあ、忘れちゃってて良かったんだ?」
「そういうことになるんだろうな」
 一度も思い出さなかったし、気付かなかった。
 だからナスカの地上絵を乗っけた甲板を何度も修理しながら、地球を目指して。
 前のお前に頼まれたとおりに地球を目指して、なんとかシャングリラを運べたってことだ。
 ナスカのハチドリに気付いて落ち込む目には遭わずに、地球までな。



 見事に思い出さなかった、ってハーレイが写真を眺めているから。
 ナスカの地上絵のハチドリを描いたシャングリラの甲板を見詰めているから、訊いてみた。
「ぼくたち、明日まで覚えてるかな?」
 赤い星の名前は、この甲板の絵から付いたってことを。
 ナスカって名前は、ナスカの地上絵からフィシスが知らずに貰って来たっていうことを…。
「忘れるんじゃないか?」
 明日になったら、綺麗サッパリ。
 前の俺たちがこの絵の存在を知っていながら、忘れ果ててしまっていたのと同じで。
 ナスカはナスカだ、赤い星の名前がナスカだったと明日になったら思っているさ。
「うん…」
 ぼくもハーレイも、ボケるには早すぎるんだけど…。
 今の所は、ちゃんとナスカの地上絵だけど…。



 明日になったらそうなるだろうね、って笑い合った。
 前のぼくたちでさえも気付かなかった、赤いナスカと白いシャングリラの甲板の絵の共通点。
 どちらもナスカの地上絵から来て、遥かな昔の地球に在った巨大なハチドリなのに。
 ハチドリの絵からナスカの名前が生まれて来たのに、誰も知らない歴史の秘密。
 きっと明日には忘れちゃってる。ハーレイもぼくも、忘れちゃってる。
 そしてナスカは、またナスカになる。
 フィシスが名付けた赤い星に…。




             ナスカの鳥・了

※赤い星、ナスカの名前の由来は、遠い昔の地球の「ナスカ」から。地上絵があった場所。
 その地上絵を元にシャングリラの甲板に描かれた鳥。フィシスもそれを見ていたのです。
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