シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(わあっ…!)
ブルーの瞳を引き付けた、それ。学校帰りの路線バスの中。
座った席から見るともなしに見たバスの前方、運転席のすぐ脇の所。
バスを降りる人が取ってゆけるよう催しなどのチラシが吊られている場所だけれど、「釣り」と書かれた二文字が目に入った。
ハーレイの父が好きだという釣り。しかも「一日釣り名人」と謳ったチラシ。
「釣り」の二文字がグンと大きく強調されたそれが、もう気になってたまらない。
(どんなのかな?)
考えただけでドキドキしてきた。
子供向けのイベントのようだけれども、対象年齢はどのくらいだろう?
自分も子供には違いないのだし、ああいうイベントに行けたなら…、と胸が高鳴る。
(んーと…)
もっと詳しく見たいと思うが、今のブルーはサイオンの扱いがとことん不器用。チラシの場所に狙いを定めて拡大しては眺められない。
チラシを取って来れば済むものとはいえ、こんな日に限って前の方の座席が埋まっているから、取りに行くなら鞄を置いて行き、再び戻って来なければ…。
(…降りる時に貰えばいいんだよね)
バスに乗っている時間は短いのだから、ほんの少しの間の我慢。降りる時に貰えばいいチラシ。
自分くらいの年が対象のイベントだったら…、と夢が膨らむ。あのイベントに行きたくなる。
一度もやったことが無い釣り。ハーレイの父が大好きな釣り。
ハーレイから「俺の親父は釣りが好きでな」と聞かされるまでは、さして興味の無かった釣り。友人が休日に釣りに行くのだと話していたって、羨ましいとは思わなかった。
けれど今では憧れの釣り。
ハーレイの父が、ブルーを連れて行ってやりたいと思ってくれているらしい釣り…。
チラシから目を離せないまま、バスはいつものバス停に停まり、降りる時に目的のものを貰って降りた。「一日釣り名人」の文字が躍ったチラシ。
バス停に降りるなり、走り去るバスを振り向きもせずにチラシを覗き込んだのだけれど。
(えっ?)
澄んだ川の写真がメインに刷られた、「一日釣り名人」のイベント。
対象年齢はまさにブルーの学校に通う子供たちの年。下の学校に通う子供向けにも同時開催。
(ぼく、行けるんだ…!)
釣りへの道が一気に開けて、グッと近付いたような気がする。
歩きながら読みたいくらいだけれども、あまり褒められたことではないし…。
(そういう時に限って、ご近所さんに会っちゃうんだよ)
すれ違うとか、生垣越しに「お帰りなさい」と声を掛けられるとか、「こんにちは」とか。
チラシに夢中で生返事をしては失礼なのだ、ということくらいは充分に分かる。ブルーの年なら「微笑ましい」と済ませてくれるだろうけれど、それはつまりは子供扱い。
(子供じゃないしね!)
十八歳になったら結婚しようと決めている以上、子供扱いは御免蒙りたい。チラシの中身は気になるのだけど、もうすぐ結婚する自分に相応しく、此処は礼儀を優先で。
読みたい気持ちをギュッと押さえ付け、ブルーはチラシを鞄に仕舞った。
家に帰って、制服から普段着に着替える暇ももどかしく、部屋で立ったまま読んでみたチラシ。鞄の中から引っ張り出して来た、大切なチラシ。
(釣り入門…!)
学校に通う年齢の子供たちのための一日講習会。初めて釣竿を握る子供でも釣り名人に、というコンセプト。だから「一日釣り名人」。
秋は釣りを始めるのにピッタリの季節だと書かれてあった。冬を越すための「荒食い」とやら。魚たちが活発に餌を食べるから、初心者の腕でも釣りやすいという。
チラシの写真の川に棲んでいる、鯉やフナにウグイ、ハゼといった魚。それらを釣ろう、と魚の写真も載っていた。写真の下には魚たちの大きさと紹介文も。
その上、「一日釣り名人」。釣り名人たちが大勢、指導に来てくれるらしく。
(ハーレイのお父さん、これに来るとか!?)
釣り好きな上に名人なのだと聞いていた。海でも川でも出掛ける釣りの達人なのだと。
もしも隣町から来て参加するなら、是非会ってみたい。
ハーレイは「ヒルマンに少し似ているぞ」と話してくれただけで、顔は教えてくれなかったが、向こうはブルーの姿を知っているのだし、一目で気付いてくれるだろう。
(ぼくみたいな子は珍しいものね)
銀色の髪に赤い瞳のアルビノの子供。きっと自分だと分かって貰える。
(声を掛けてくれるかもしれないし…!)
釣りだけではなくて、ハーレイの父に出会えるかもしれない素敵なイベント。
行ってみたい、と思ったけれども。
(土曜日なんだ…)
ハーレイが来てくれる土曜と日曜。いつも待ち遠しい、週末の二日間の休日。
その片方の日がイベントの日では、選ぶまでもなく参加は見送り、家でハーレイと過ごしたい。
けれど、ハーレイに何か予定が入って、来られない日だと言うのなら…。
(断然、釣りだよ!)
家に居るより、釣りに行きたい。「一日釣り名人」の講習会に出掛けてみたい。
憧れの釣りを体験できるし、運が良ければハーレイの父に会って話が出来るのだから。
(…この日、どうかな…)
ハーレイの予定はどうなっているのだろうか、とチラシを見ていたら、母の声。
「ブルー、おやつよ!」
下りて行かないから呼びに上がって来たのだろう。多分、階段の半ば辺りから呼んでいる声。
「はーい!」
大切なチラシを勉強机に置くと、ブルーは部屋を飛び出した。母の姿はもう見えない。代わりに漂う、美味しそうな匂い。甘く優しい、ホットケーキらしき幸せな匂い。
ダイニングに入ると、思ったとおりにホットケーキが焼き上がっていた。食の細いブルーが満足出来るようにと小さめに焼かれ、二枚重ねてお皿の上に。
早速、バターを乗せてメープルシロップをたっぷりとかけて。
ナイフで切って頬張る間も、「一日釣り名人」のチラシが頭を離れず、つい笑みが零れる。
もしかしたらと、釣りに出掛けてハーレイの父に会えるのかも、と。
「どうしたの? 今日はずいぶん御機嫌ね」
学校でいいことがあったのかしら、と母が訊くから。
「あのね、ママ…。今日、バスで貰ったチラシにね…」
嬉しさのあまり、もう喋らずにはいられない。こんなイベントを見付けたのだと、釣りが習えるイベントなのだと。
「釣り?」
「うんっ! 一日釣り名人だって!」
「ブルーは釣りをやってみたいの?」
母の不思議そうな顔でハタと気が付き、「ちょっとだけね」と慌てて答えた。
(いけない、ママはハーレイのお父さんのことは知らないんだ…!)
これではどうして自分が釣りをしたいと言い出したのか、まるで見当が付かないだろう。下手に言い訳をすれば、何をポロリと話してしまうか分からない。
(…ハーレイのお父さんだけで済めばいいけど…!)
ハーレイのことが好きでたまらないとか、そのハーレイの父が好きな釣りだから憧れるとか。
そういう話をしてしまったら、ハーレイとの仲が明るみに出る。
これはマズイ、と冷汗が出そうになったのだけれど。
「そういえば、ハーレイ先生のお父さんがお好きだったかしら?」
(…た、助かった…)
ブルーは心底、安堵した。
いつもは不満一杯の両親も交えてのハーレイとの夕食。両親は「子供の話し相手をするのは大変だろう」とハーレイを気遣い、せっせと声を掛けているから。ハーレイをブルーから奪ってしまうから、嬉しくない時間だったのだけれど。
そのお蔭で釣りの話を母が知っていたのか、と「嬉しくない時間」に感謝したい気持ち。
「うん、ハーレイの話を聞いている内に興味が出ちゃった」
釣りって、ぼくでも出来るのかなあ、って。
「それで、行ってみるの?」
「ハーレイが来られない日だったらね」
土曜日なんだよ、ハーレイが来る日。ハーレイに予定が入っているなら、釣りに行きたい。
「ブルーは本当にハーレイ先生が大好きねえ…。一緒に行って頂いたら?」
「大人は駄目なイベントじゃないかな、子供向けだし…」
下の学校の子なら、保護者付きかもしれないけれど。ぼくの年だと駄目じゃないかな?
そうは言ったものの、胸に生まれた微かな期待。
部屋に戻るなり手に取ったチラシには、保護者同伴は下の学校の子供たちだと書かれてあった。ブルーの年では一人か、友達同士でのグループ参加。つまりハーレイとは一緒に行けない。
(せっかくママのお許しが出たのに…)
母の後押しがあれば、ハーレイも断ることは出来なかっただろう。ブルーを連れて行ってやって欲しいと頼まれたならば、理由も無いのに断る方が難しい。
(ハーレイと一緒に出掛けられるチャンスだったのに…)
こんな機会は二度と無いだろうと思うのだけれど、ブルーの年では要らない保護者。ハーレイと一緒に行けないイベント。
(でも、ハーレイのお父さんが…)
釣り名人のハーレイの父が来るイベントなら、それだけで充分、値打ちはあった。顔を知らない自分からは声を掛けられないけども、もしも見付けて貰えたならば。
(ハーレイのお父さんに挨拶出来るんだよ!)
「はじめまして」と頭を下げて、「これからよろしく」と握手だって出来る。ブルーのためにと指導に付いてくれるかもしれない。
そういったことを考えて行けば、ハーレイと一緒に出掛けられなくても美味しいイベント。
たとえ一人でも行かねばなるまい、と決心した所で来客を知らせるチャイムが鳴って。
「ほほう、お前、釣りに出掛けるのか?」
仕事帰りに寄ってくれた恋人に例のチラシを見せると、興味深げに眺めているから。
「ハーレイが来られない土曜日ならね」
家で一人より、これに行くよ。釣り名人になれるみたいだから。
「俺の用事なら、いくらでも作るが? 久しぶりに道場へ指導に行くのもいいな」
「それは無し!」
作るのはダメ、とブルーは意地悪な恋人に釘を刺した。
「で、どうなの、この日は?」
「生憎と何の用事も無かったな…」
「じゃあ、ハーレイと家に居る」
「おいおい、たまにはこういうのもだな…」
お前、身体が弱いから。…アウトドアってのは殆ど経験無しだろ、一度くらいは行ってみろ。
せっかく興味を持ったからには、やってみるのも悪くはないぞ。
「ママもハーレイと一緒に行って来たら、って言ってくれたけど…」
「俺とか!?」
「うん。ママがそう言ってくれたのに…。ハーレイ、一緒に行けないみたい…」
此処、と保護者同伴は下の学校のみ、と記された箇所を示してブルーは溜息をついた。デートのお許しが出たというのに、イベントの参加条件がそれを許してくれないのだ、と。
「でもね、ハーレイのお父さんがこれに来るんだったら、行ってもいいかな、って」
そうは思ったよ、ハーレイ無しでも行こうかな、って。
「フライングで親父に会うつもりか!」
「駄目?」
会ってみたいよ、ハーレイのお父さんに。
ぼくはハーレイのお父さんを知らないけれども、お父さんはぼくを知っているよね?
顔もチビなのも知ってるんだし、きっと見付けて貰えるよ。
ハーレイのお父さんに会えるんだったら、一人でも行ってみようかなあ…、って。
「お前なあ…。しかしだ、親父はこれには来ないぞ」
親父もこの手のイベントは好きだが、こいつに親父は参加しないな。
「嘘ついてない? ぼくが行こうとしてるから、って」
「ついていない。その日は親父は釣り仲間たちと海に行くんだ、船を雇って海釣りだ」
俺にも予定を知らせて来たのさ、おふくろも一緒に泊まりで行くから留守にするぞ、と。
「そっか…。だったら、ハーレイと家!」
釣りは行かずに家で過ごすよ、だから予定を入れないでね。ちゃんと来てよ?
「うーむ…。実に不純な動機だったな、お前の一日釣り名人への参加希望は」
しかし、親父が聞いたら喜ぶだろうな。どんな動機であれ、お前が釣りをやりたがったなんて。
「ホント?」
「ああ。親父は根っから釣り好きだからな、お前にも教えたくってたまらないんだ」
俺にしょっちゅう言ってくるんだ、あの子を連れて来る気は無いかと。
お前が自然の中で遊べて、釣りも楽しめるような川や湖。そういう所へ行かないか、とな。
この町にも、ハーレイの父が住む隣町にもあるという自然と触れ合える沢山の場所。
ブルーは山や野原しか知らないけれども、川や湖には「釣り」という楽しみがあるらしい。山や野原に出掛けた時に目にしてはいたが、特にやりたいとも思わなかった釣り。
水に糸を垂れている人たちは釣りをしているのだ、と両親は教えてくれたけれども。
待っていれば魚が釣れる筈だと言われて眺めていた程度。釣れた、と感心していた程度。
だから大物が釣れたと歓喜する現場を見たことも無ければ、次から次へと釣り上げてゆく光景も映像でしか知らないから。
釣りの楽しさを体感していないから、釣り名人の父を持った恋人に訊いてみる。
「ハーレイは釣りって、やったことある?」
「もちろんだ。お前にも教えたいって言い出す親父が、俺に教えないわけがないだろう?」
川でも釣ったし、海でも釣ったぞ。今度親父が行くヤツみたいに、船からの釣りもやってるさ。
「そうなんだ…。シャングリラでは釣りはやらなかったね」
前のぼくもハーレイもやっていないね、釣りなんか。
「必要無いしな」
わざわざ糸を垂らして釣らなくっても、係が掬っていたからな。育てた魚を、必要な分だけ。
「でも、子供たちのために、やらせてあげれば良かったね」
今日はこれだけ魚が要るから、頑張って釣ってみて下さい、って。係が掬うより楽しそうだよ、子供たちも、それを見ている大人も。
「そうだな、ゼルあたりが張り切って指導しそうだな。ヒルマンもな」
釣竿を作って、餌をつけてやって。竿を上げるタイミングなんかを付きっきりで。
「いっそ大人もみんな揃って、シャングリラで釣り大会をすれば良かったかもね」
誰が一番沢山釣ったか、それだけで充分、ゲームが出来たよ。
普段は係が網で掬ってても、月に一回とか釣り大会を開催してたら、人気のイベントになったと思うんだけどな…。今度こそ自分が優勝するとか、次は負けないとか。
「うむ。どうして思い付かなかったもんかな、魚を養殖していたのになあ…」
「やっぱり自然が無かったからだよ、こういう川とか」
自然に流れて魚が棲む川、とブルーはチラシの写真の川を指差した。
シャングリラに川の流れは無かったと、自然の流れを模した水は流れていなかったと。
「ビオトープってヤツを作りゃ良かったのか?」
「…ビオトープ?」
なあに、とブルーは首を傾げた。
まるで知らない響きの言葉。けれども聞いたような気もする。遠い昔に、あの白い船で。
白いシャングリラで耳にしたのか、あるいは本で読んだのか。
けれども、今は知らない言葉。今の地球には存在しないか、失われてしまったものなのか…。
「うん? 今の地球には要らんものだな、ビオトープはな」
生物社会の生息空間。元々はそういう意味だった。
地球の環境破壊が進んだ時代に大切にされた概念だったが、そこから転じて小さな水辺。学校や公園なんかに水辺を作って、小魚とかを飼っていたのさ。そうして生態系と自然を再現しようと。
今の地球では自然はしっかり守られているし、ビオトープなんかは必要ない。
これからテラフォーミングをしようって星なら、本来の意味でのビオトープが必要だろうがな。
「そっか、小さな水辺なんだ…。そういう公園、一つくらいはあれば良かったかも…」
公園は幾つもあったのだし、とブルーは白い鯨を思い浮かべた。
ブリッジが見えた一番大きな公園を筆頭に、居住区の中に鏤められた幾つもの小さな公園たち。その一つに水辺を作れば良かった。
そうしていたなら、釣りをしようと思ったかもしれない。
自然の水辺を模した公園が一つあったなら、魚を釣って楽しもうと考えていたかもしれない。
白い鯨に、小さな水辺をもしも作っていたならば…。
あれば良かったと、今になって思うビオトープ。白いシャングリラに自然を模した小さな水辺。
前の自分も考えたことがあるのだろうか。だから聞いた気がするのだろうか、と思った言葉。
けれどシャングリラにビオトープは無くて、釣りをしようとも考えないままで。
「ビオトープ…。なんで作っていなかったんだろう、シャングリラの中に」
「そりゃまあ、なあ…。シャングリラじゃ虫を飼えなかったしな?」
「虫?」
「ミツバチくらいしか飼っていなかったろうが、役に立たない虫は要らないと」
ビオトープを作るならトンボを飼ったり、蛍を育てたりするもんだ。
「そういうものなの?」
「本格的なヤツを目指すんならな。水草と魚だけでは生態系を再現したとは言えん」
幼虫の餌になる小さな貝とかも要るし、トンボや蛍が生きてゆくための草も必要になる。人間の憩いの場としての公園とは全く違ってくるんだ、シャングリラには向かないな。
自給自足で生きて行くための船の中には、ビオトープを作る余裕は無かったんだ。
「…ハーレイ、なんでそんなに詳しく知っているの?」
「キャプテンだった頃に調べてみたのさ、船の居心地を良くしようとな」
公園に改善の余地は無いかとか、次に木を植える時は何にしようかとか、よく調べていた。
そういった中でビオトープってヤツにも出会ったんだが、使えないな、と思ったな。
魅力的だし、子供たちの教育にも向いていそうではあるが、俺たちにそんな余裕は無いな、と。
「ビオトープまで辿り着いてたんなら、釣りはどうだったの?」
釣りっていう遊びが存在するって、気付かない筈がないよね、ハーレイ?
「もちろん気付くさ、魚の棲んでる水があったら釣りだとな」
しかしだ、そいつは遊びの一種だろうが。
これは違うな、と撥ねちまったな。魚をわざわざ釣らなくっても、網で掬う方が早いしな?
「うー…。ハーレイ、真面目すぎなんだよ!」
「そう言うお前はどうなんだ。俺と違って、外で見てたろ?」
アルテメシアの海の方に行きゃ、釣りをしていた人間たちも居た筈だがな?
「あれが釣りっていうヤツなんだな、と思っただけだよ!」
じっと見ていたわけじゃないから、楽しいのかどうかも分からなかった。
今のぼくの方がよっぽどマシだよ、釣り上げる所をちゃんと見たことがあるんだもの。
「その点は前の俺も同じだ、実感ってヤツが伴わなくてな」
釣り糸を垂らせば魚がかかると、餌に食い付いて釣り上げられるというデータを見ても、だ。
そこまでしなくても網で掬えば簡単なのに、と考えちまった。
食うための魚を調達するなら、効率的にやらんとな?
さっさと掬って厨房に運ぶのが一番だろうと思っちまったし、それでいいんだと考えていた。
同じ魚なら厨房に届ける前にも楽しめたのにな、みんなで釣りをしていたならな。
「…ホントだよ。自分が食べる魚は自分で釣るとか、楽しみ方は幾らでも…」
「そうだな、自分で釣っていたなら、美味かったろうなあ、その魚」
ついでに自分が釣った魚は、自分で料理をしていいとかな。
そしたらキャプテンになった俺でも、たまには懐かしの厨房で料理が出来たんだよなあ…。
自分が食べる魚は自分で釣るとか、自分で料理をしていいだとか。
どちらも、シャングリラでは無理だったビオトープとは違って、白い鯨で出来たこと。
ほんの少し発想を変えてやるだけで楽しめた筈の、養殖していた魚たちを使って出来たこと。
何故それすらも思い付かずに、魚を網で掬っていたのか。
係のクルーに必要な分だけ掬わせておいて、それが一番だと思っていたのか。
釣りというものが存在すると知っていながら、釣りをしようと考えなかった自分たち。
シャングリラでも釣りを楽しめる場所は、場面はあった筈だというのに。
皆で腕を競う釣り大会とか、厨房で使う魚を子供たちに遊びを兼ねて釣らせるだとか…。
可能だった筈の釣りの楽しみに気付きもしないで、魚を飼っていたシャングリラ。
ただ食べるためにだけ魚を飼育し、釣り糸の代わりに網で掬ったシャングリラ。
ブルーはフウと溜息をついて、前の自分たちの失敗なるものに頭を振った。
「…釣りが出来たのに、しなかったなんて。やっぱり駄目だね、作り物の楽園」
前のぼくもハーレイも間抜けすぎるよ、それで楽園だと思っていたなんて。
「うむ、限界があったようだな、想像力だか、発想だかの」
そして今ではビオトープさえも死語になっちまった青い地球まで来たわけで…、だ。
「そうだよ、だから今度はハーレイと釣り!」
一日釣り名人には行かないけれども、ハーレイと釣りをするんだよ。
本当に釣りがしたくなったし、ハーレイと釣ってみたいんだもの。
「分かった、分かった。いつか行こうな、釣りは俺でも教えてやれるんだが…」
お前、親父にも習いたいんだろ、名人の技。ついでに遊びに出掛けたいんだな、親父が見付けた自然一杯の川や湖に。
「うんっ! 船で行く海の釣りもやりたい!」
約束だよ、とブルーはハーレイの小指に自分の小指をキュッと絡めた。
釣りの名人に釣りを教わるのだと、ハーレイと一緒に釣りもしたい、と。
シャングリラでは出来なかった釣り。
思い付きさえしなかった釣りを、青い地球の上で。
ハーレイと並んで釣り糸を垂れて、柔らかな風が吹いてゆく中で。
あるいは青い海の上で二人、船から長い竿を伸ばして、何が釣れるかと語り合いながら…。
釣りに行きたい・了
※シャングリラには無かった「釣り」というもの。魚は網で掬っていただけ。
いくら楽園でも、船での暮らしには発想の限界があったようです。釣りは楽しいのに。
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(…無い…)
此処にも無いよ、とブルーは勉強机の脇の床に座って項垂れた。
昨日の夜からの探し物。ハーレイに聞いた海の話が心に残って、お風呂の中で思い出した物。
小さな頃に海で拾った真っ白な貝殻。
拳みたいな形の巻貝、今から思えばタカラガイの仲間。
拾った時には大きかったけれど、今の自分なら手のひらに収まるくらいだろう。
(白くてコロンとしてたんだよ…)
父が「ウサギ貝」だと教えてくれた。本当の名前は海兎貝だが、ウサギ貝の方が通りがいいと。
ウサギはとても好きだったから、貝の名前も気に入った。
真っ白でコロンと丸いウサギの貝。海に住んでいる、海兎の貝。
それに何よりも、海の音。
(…海のウサギの貝だものね)
耳に当てると中から海の音が聞こえた。海のウサギが聞いていた音。
父と母が教えてくれたとおりに、家に帰ってから耳に当てても海の音はちゃんとついて来た。
海辺のホテルに泊まっていた時は、窓の向こうの海の音かと思っていたのに。
(海の音が聞こえる貝なんだよ)
ハーレイが好きな海の音を届けてくれる貝。海の音が中から聞こえてくる貝。
確かに自分は持っていたのだ、と思い出したから、お風呂の後で探していたのに、見付からないまま諦めてベッドに入った。
遅くまで探して体調を崩せば、ハーレイに会える学校に行けなくなってしまうから。
(…色々、考えたんだけどなあ…)
今日こそは見付け出してみせる、と学校へ行く路線バスの中から考え続けて、見当を付けた勉強机の一番下の引き出しの奥。
大切な物を仕舞う場所は全て探したのだし、恐らく落っこちたのだろう、と。
(引き出しの奥に引っ掛かっちゃって、下に落ちること、あるものね…)
けれど引き出しの一番奥に貝は無かった。コロンと丸い、海のウサギは居なかった。
其処に居なければ、もう一つ下。
更に下へと落ちたのであれば、一番下の引き出しを抜かないとブルーには拾えないのに。
前の自分なら、こんな時には瞬間移動で取り出せた。サイオンで引き出しの下を覗いて、其処に落ちている海のウサギを見付けてヒョイと一瞬で出せた。
けれども今のブルーには無理。海のウサギが落ちている場所を透視すら出来ない。
行く手を阻む大きな引き出し。勉強机の引き出しの中でも、一番大きな深い引き出し。
(…重たいよ、これ…)
引っ張り出して抜いたら、元に戻せそうもない重さ。中身を空にしてみても重かった。これではどうにもなりはしない、と溜息をつく。
父が帰ったら、抜いてくれるように頼んでみようか。この下に宝物を落としたのだ、と。
けれど、それでも無かったとしたら…。
海のウサギは此処に居るのだ、と引き出しの奥を覗くけれども、自信が無い。
引き出しの下を見られないから。
コロンと落ちている筈の海のウサギは、今のブルーには見えないから。
(…何処にあるの…?)
幼い自分が大切にしていた、海の音が中から聞こえる貝。
白くてまあるい、ウサギそっくりのウサギ貝。
あの貝が今、欲しいのに。海の音を聞かせて欲しいのに…。
店で売っている貝殻ではなくて、正真正銘、自分が海で拾って来た貝。海辺で拾った海の音。
ハーレイの大好きな海の世界の音を聞かせてくれる貝。
真っ青な海と、波の音。
ハーレイが話してくれた海の話を、海の音を聞きながら思い出したいのに…。
(…そうだ、ハーレイ!)
失くしてしまった宝物。探しているのに、出て来てくれない白い貝殻。
ハーレイは探し物が得意だった、と遠い記憶が蘇って来た。
遠い遠い昔、ハーレイとシャングリラの中だけで暮らしていた頃。
そのシャングリラがまだ白い鯨ではなかった昔に…。
「あれが見当たらないんだけどねえ…」
何処だろうか、と首を捻ったブラウに、ハーレイが「あれとは?」と問い返した。
人類のものだった船に名を付けただけの、シャングリラ。名前だけは楽園と立派だった頃。
「あれだよ、あれ」
「ああ、あれな」
そいつだったら…、と備品倉庫にしていた部屋の一つに入って行ったハーレイは「これだろ」と箱を抱えて戻って来た。予備のリネン類が詰められた箱の中の一つで、枕カバーと書かれた箱。
「そうだよ、これ、これ!」
助かったよ、と箱を受け取ったブラウがおどけた表情で尋ねる。
「アレで通じたかい?」
「前後の話で大体な」
「そりゃどうも。じゃあ、貰ってくよ」
ありがとう、と立ち去るブラウを見送りながら、側で全てを見ていたブルーは首を傾げた。
予備の枕カバー。
ブラウの探し物は薄々感じ取れたけども、ハーレイもそれを読んだのだろうか?
漠然とした思念をきちんと読み取り、倉庫から出して来たのだろうか?
だとすればハーレイのサイオン能力も相当なものだ、と思ったのに。
「いや。俺はそこまで器用じゃないしな」
ブラウの姿が見えなくなった後、その質問をハーレイに向かって投げ掛けてみたら、返って来た答えがそれだった。
「あれはアレとしか分かりゃしないし、ブラウの話からアレかと思っただけなんだが…」
そのくらいは誰でも出来るんじゃないか、話さえきちんと聞いていればな。
ヒントってヤツは詰まってるもんだ、だから「アレ」でも通じるわけだ。
「でも、ハーレイ。…ブラウだけじゃなくて、いつも色々探していない?」
アレって言ってくる人は珍しいけど、探し物。
しょっちゅう倉庫に入っているように思うんだけどな。
「そりゃまあ、頼まれれば探してやるさ」
見付からないって困ってるんなら、俺が探してやらんとな?
探し出せないなら安請け合いをしては駄目だが、いつでも俺は見付けて来るだろ?
「うん。…あれも凄いな、って見てるんだけど…」
「凄くはないさ。コツはな、整理整頓だ」
整理しておきゃ見付かるもんだ、とハーレイは笑う。何処に何があるかを分かりやすく整理し、詰め込んでおけば目的の物を引っ張り出せると。
最初は二人で片付けただろ、と、お前と二人でやっただろうと。
そう、一番最初はそうだった。ハーレイと二人で始めた作業。
(…二人で掃除をしてたんだっけ…)
アルタミラから脱出して間もない頃に、一人ずつ部屋が割り当てられた。
心が落ち着いてくればプライバシーも気になってくるし、プライベートな空間が欲しいと要望も出る。船は充分に大きかったから、一人に一部屋。
貰った部屋の管理は各自の仕事。気が乗らないなら荷物が積まれたままでもかまわなかったし、綺麗にしろとは誰も言い出さない段階。
アルタミラでは狭い檻の中だけで暮らしていたから、雑然と荷物が置かれていようが部屋は充分広いと感じる。船の通路に積まれた箱なども、避けて通ればそれで済むこと。
ところがブルーには、その状態は好ましいものとは思えなくて。
(…ぼくって、前のぼくの時から綺麗好きだしね…)
自分の部屋を片付けて居心地のいい空間に仕上げた後は、通路も綺麗に掃除したくなった。歩くための場所に荷物を置いておくより、通路は通路。避けなくても真っ直ぐに歩ける通路。
けれども、どうすればいいのだろう?
ただ端の方へ寄せるだけでは根本的な解決になりはしないし、片付かない。どうしたものか、と考えながら出掛けて行ったハーレイの部屋。
脱出の直前に初めて出会った仲だというのに、「俺の一番古い友達だ」と気遣ってくれる友人の部屋。その部屋もすっかり片付いていたから、「通路…」と口から零れた言葉。
ハーレイの部屋も片付いているのに、と気になった通路。荷物を避けながら歩いて来た通路。
「ん? …通路がどうかしたか?」
怪訝そうな顔をしたハーレイに、思い切って言った。
「通路に積んである荷物…。片付けたら歩きやすいかな、って…」
「それで?」
「ちゃんと片付けたいんだけど…。今みたいにゴチャゴチャしていないように」
通路が済んだら、放ってある部屋だって片付けたいな。
この船の中をきちんと綺麗に、何処へ行っても邪魔な荷物とかが無いように。
「いいんじゃないか? いつかはやらんといかんことだしな」
此処で暮らして行くんだったら、そういったことも必要になる。放っておいたらメチャクチャになるだけで、勝手に片付くわけじゃない。
お前がそう思ったのも切っ掛けっていうヤツだろう。やるか、二人で。
サイオンは出来るだけ使わず、身体を使って手と足で。
運動を兼ねて自分の身体を動かすべきだ、というのがハーレイの動かぬ信条で。
せっせと二人で汗を流して通路に置かれた荷物を運んで、空いた部屋へと片付けていった。順に整理し、似たようなものは集めて積み上げ、箱ごとに中身が何かを書いて。
(…最初の間は分からない物もあったんだよね)
何に使うのか見当がつかず、保留になった箱が幾つもあった。それはそれで纏めておいて、箱に「不明」の文字と手掛かり。どういった形の物だったとか、何で出来ているように見えたか。
飛び抜けて身体の大きいハーレイはともかく、小さなブルー。
船で一番身体が小さく、見た目も少年のブルーが頑張って片付けをしているのだから、まずゼルたちが手伝い始めて、いつしか船の仲間たちが総出の作業となった。
思ったよりも早く船の中は整理され、通路も人間専用としての本来の機能を取り戻して…。
それがハーレイの仕事の始まり。
本人は厨房で調理をしていたけれども、最初は食材の管理から。食料の在庫を常に把握し、船にあるものだけで料理を作った。何があるかを、どれから使うかを計算しながら。
ブルーが食料と一緒に物資も奪って来るから、食料を倉庫などに運び入れた後に、残りの物資を仕分けして仕舞うことになる。
個人の役に立ちそうなものは、希望者を募って公平に分配。
船全体で使うものなら、目的別に備品倉庫へ。箱に中身が書かれていなければ、何の箱か一目で分かるように書き、埋もれてしまわないように様々な品物のリストも作って。
物資の仕分けや備品倉庫への搬入作業は、ハーレイ以外の者も手伝っていたのだけれど。
備品倉庫の基礎を作ったのがハーレイだったから、どういった品が何処に運ばれたか、置かれているかはリストを見ずとも把握出来ていたと言っていい。
こういう品なら何処の倉庫で、其処のどの辺り、と簡単に見当を付けられる。
大抵の物の在り処はハーレイの頭に入っていたから、さながら備品倉庫の管理人。
ブラウではないが、「あれ」などという要領を得ない問い合わせをする者もいたし、目的の物が見付からないと訊きに行く者も。
どれもにハーレイは気軽に応じて、求められる品を出してくるから。
待たせることなく備品倉庫から出してくるから、ますます頼りにされてゆく。
「見当たらない物があるならハーレイに訊け」とまで言われたくらいに。
(…うん、自分が何処かで失くした物まで訊きに行くんだよ)
いつも期待に応えたハーレイ。
船の中で誰かが置き忘れた物まで、きちんと管理していたハーレイ。船の備品なら、それが本来あるべき場所へと。そうでなければ、持ち主不明の遺失物として専用の場所へ。
そうした管理能力なども買われて、ついにはキャプテンになったのだけれど…。
(…そっか、ハーレイの探し物の才能、ぼくの部屋だと無理なんだ…)
此処はハーレイが整理した部屋ではないから。ハーレイが整えたわけではないから。
「見当たらない物があるならハーレイに訊け」と頼られた能力は発揮されない。
ブルーの部屋では出来るわけがなく、海のウサギは見付けられない。
それでも…、と期待したくなる。
ハーレイならばと、あのハーレイなら失くしてしまった海のウサギを見付け出すかも、と。
もしかしたら…、と勉強机で考え込んでいたら、来客を知らせるチャイムの音。
ハーレイが仕事帰りに寄ってくれたから、母がお茶とお菓子を置いて出て行くのを待って頼んでみた。例の引き出しを引っ張り出せるかと、引っ張り出してから元に戻せるかと。
「ん、こいつか?」
椅子から立ったハーレイは引き出しを確かめ、両手でグッとしっかり掴んで。
「…よっ、と!」
引き出しの中身を出しもしないで、軽々と引っ張り出されたそれ。ブルーの腕には空の状態でも重すぎたそれを、楽々と引っ張り出してくれたけれども。
覗き込んでみた奥の暗がりに、ブルーの探し物の姿は無かった。
引き出しの下に落ちたのだろうと思った、海のウサギは居なかった。
「…ありがとう…。引き出し、元に戻してくれる?」
溜息と共に頭を引っ込め、逞しい腕を持つ恋人に頼んだ。
「もういいのか?」
「…うん。…無かったから……」
「ほう…?」
引き出しを元に戻してくれたハーレイは何かを言いたそうで。
テーブルを挟んで向かい合わせに座り直した後も、鳶色の瞳が「どうした?」と問い掛けてくるように見えるから。
つい、その表情に甘えたくなった。
探し物が得意だったハーレイならばと、この部屋でも見付けられるのかも、と。
引き出しを引っ張り出してくれたハーレイ。元に戻してくれたハーレイ。
探し物をしていることは、きっと分かっているだろうから。
ブルーは「ねえ」と、恋人に甘えることにした。
「ハーレイ、今でも探し物は得意?」
「はあ?」
「前のハーレイだよ、うんと昔のシャングリラの頃。探し物の天才だったでしょ?」
みんな言っていたよ、「見当たらない物があるならハーレイに訊け」って。
「あったな、そういう言葉もなあ…」
懐かしいな、と鳶色の目が細められる。
「それで、お前の探し物というのは何なんだ? 引き出しの下には無かったそうだが…」
ちゃんとハサミを持ってお願いしてみたか?
「ハサミ?」
「古い昔のおまじないさ。ハサミを持ってお願いするんだ」
お前の机にもあるだろ、ハサミ。
まずアレを持って、刃先を下に向けてだな…。それから目線よりも上に持ち上げるんだ。
そうやってハサミにお願いしてみろ、声には出さなくてかまわないから。
「これを失くしてしまいました。早く見つかりますように」ってな。
俺に頼むよりも先にハサミに頼め。駄目で元々と言うだろう?
古典の教師ならではの知識か、それとも古い物が好きだと聞くハーレイの両親の知恵なのか。
ハサミのおまじないなるものを教わったブルーは、両手でハサミを持ってみたけれど。
刃先を下にして願ってみたけれど、それで出て来る筈も無くて。
(…ウサギ貝、何処に行っちゃったんだろ…)
引き出しの下には居なかったウサギ。白くてコロンと丸い海のウサギ。
ハサミを所定の位置に戻して、ガッカリしながら椅子に腰掛けると、ハーレイに訊かれた。
「何を探しているんだ、お前?」
「…宝物……」
海の音がする貝を探しているとは言えなかった。恥ずかしくて。
ハーレイの好きな海の音が聞こえるウサギ貝を探しているのだ、とは。
「宝物なあ…。見付からないのか?」
「うん。昨日の夜から探しているのに…」
ぼくの宝物は全部、机の引き出しにちゃんと仕舞ってある筈なのに…。
「宝物、本当に其処だけか?」
「えっ?」
「机の引き出しだけなのか、と訊いているんだ。お前が宝物を仕舞っておく場所」
宝物ってヤツは生きてる間にどんどん増えるぞ、分けていないか?
増えすぎちまって他の何処かに仕舞っていないか、その宝物。
「あっ…!」
そういえば、とブルーは思い出した。自分でもとうに忘れてしまっていたことを。
ずいぶん前に、母に綺麗な缶を貰った。
元々はお菓子が沢山詰まっていた缶。パカリと蓋が開く、青く美しい地球が印刷された缶。
蓋に青い地球、缶の四方はソル太陽系の星たちと宇宙。一目で魅せられて欲しかった缶。
(…前のぼくの記憶は、あの頃は戻っていなかったのに…)
それでも缶が欲しいと思った。青い地球とソル太陽系と宇宙を鏤めた缶が。
母に強請って、約束をして。
中のお菓子が無くなった後で、貰って大切にこの部屋に運んで来て。
あの缶を何処に仕舞っただろう?
青い地球が浮かんだ宝物の缶を、自分は何処に仕舞ったのだろう…?
それこそハサミにお願いしたい気分だったが、部屋をぐるりと見回してみて。
(そうだ、クローゼット!)
小さな自分が潜り込んでいた。母に貰った缶を抱えて、奥の奥へと。
(うん、きっと、あそこ…!)
開けて覗いてみたクローゼットの奥の隅っこ、今よりも小さな自分が隠した缶が入っていた。
身体ごと手を伸ばし、手にした途端に蘇る記憶。
この缶の中に確かに仕舞った。
幼かった頃の宝物の幾つか、うんと大切で特別な宝物たちを。
(…青い地球が綺麗な缶に入れたよ…)
あの頃の自分は、青い地球がどんなに価値のあるものか、全く知らなかったのに。
前の生で焦がれた星であることさえ知らずに生きていたのに、宝物を仕舞おうと考えた。そして大切に隠しておこうとクローゼットの奥の隅に置き、取り出しては中身を眺めていた。
(ぼくの宝物…)
取り出した缶の蓋を開ければ、コロンと丸い白い貝殻。
探し回っていたウサギ貝。
海のウサギが缶の中に居た。他の宝物たちと顔を並べて、誇らしげに。
「あった…!」
見付かった、とブルーは宝物の缶から海のウサギを持ち上げた。
遠い記憶では大きかった貝は、思ったとおりに今の自分の手のひらに収まる大きさで。
白いウサギを手のひらに乗せて、艶やかに光る身体を撫でる。
「ハーレイ、やっぱり探し物の天才なんだね!」
「そういうわけでもないんだが…。まあ、あれだ。お前よりも長く生きてる分、経験でな」
増えちまったら、分けて仕舞うしかないだろう?
最初は身近な場所に仕舞って、増えたら今度は宝物置き場を作るってな。
で、なんでそいつを探していたんだ?
「えっ?」
えーっと…、と言葉に詰まったブルー。
海のウサギは見付かったけれど、探していた理由は海の音。
ハーレイが大好きな海から聞こえる音が聞きたくて探していたとは、とても言えない。
恥ずかしくて言えたものではない、と頬を真っ赤に染めたけれども。
そうなればハーレイが訊かずに済ませるわけがない。
どうしてブルーが頬を染めるのか、その貝殻に何の意味があるのかと。
ハーレイは赤くなったブルーに「うん?」と探るような目を向け、片目を瞑った。
「俺が探してやったんだ。教えて貰う権利はあると思うがな?」
ウサギ貝だろ、その白い貝。
なんでお前が探していたのか、理由を訊いたら赤くなるのか。
まさかウサギの目の色を真似てみましたってわけでもあるまい、どうして顔が赤いんだ、お前。
「…ハーレイの意地悪…」
ブルーは唇を尖らせながらも、渋々、意地悪な恋人に向かって白状した。
「……海の音だよ」
「海?」
「…ハーレイの好きな、海の音。それが聞きたかった」
昨日、海の話をしてくれたでしょ?
あれを聞いたら海に行きたくなったけれども、近くに海が無いんだもの。
海の音だけでも聞きたいのに、って考えていたら思い出したんだ。
小さな頃に海で貝を拾って、持って帰ったら家でも海の音が聞こえたんだ、って。
また聞きたい、って思って探していたんだよ。
海の音だけでも聞いてみたい、って…。
ハーレイが好きな音がどんなのか、この貝で聞いてみたいって…。
「…参ったな…」
俺のせいか、とハーレイは照れたように頭を掻いて。
少し赤くなった頬をブルーに悟られないよう、「ほら」とウサギ貝を指差した。
「せっかく見付かった貝なんだしな? 耳に当ててみろ」
暫く黙っていてやるから。
海の音がするか、ちゃんと確かめてみるんだな。
「うん」
素直に耳に当てたブルーが、目を閉じて貝から流れて来る音に聞き入っているから。
ハーレイは「どうだ?」と小さなブルーに尋ねた。
「それで海の音、聞こえるか?」
「…聞こえてるよ、海の波の音…」
うんと遠くから、と赤い瞳が姿を現し、音を聞きながら瞬いた。
「ハーレイ、この音が好きなんだね」
波が浜辺に打ち寄せる音。…貝が聞かせてくれている音。
この音がする浜辺からずっと遠くの沖まで、泳いで行くのが大好きなんだね…。
「まあな。沖へ出ちまったら波の音はせんし、浜辺でのんびり寝転んでいるのも好きだがな…」
そうやって波の音を聞いているのも好きだが、間違えるなよ?
俺の一番は海じゃなくって、その音を聞きたいと探してくれたお前の方さ。
一番好きなものはお前だ、海よりもずっと大事なんだから、覚えておけ。
「…ホント?」
「本当だ。…だが、当分はお前と海には行けんしなあ…」
それまでは音だけで我慢しててくれ、俺が探してやった貝から聞こえる海の音で。
見付かったんだからそれでいいだろ、海の音の貝。
いつか一緒に海に行こうな、とハーレイが微笑む。
俺の車で本物の海へ、本物の地球の青い海の音を聞きに行こう、と。
「連れてってくれる?」
「もちろんだ。お前にも俺の好きな世界を見せてやらんとな」
しかしだ、俺が海で泳いでたら、お前は留守番になっちまうしなあ…。
二人で一緒に浜辺を歩いて貝殻でも拾うか、海水浴の代わりにな。
「…海のウサギをまた拾えるかな?」
「そいつはどうかな、運次第だな」
だから今度は失くすんじゃないぞ、そのウサギ貝。
また拾えるとは限らないからな。
「失くしたらまた探して貰うよ、ハーレイはちゃんと見付けてくれるから!」
「こらっ、その前に失くさないよう気を付けろ!」
コツン、と頭を軽く小突かれ、ブルーは首を竦めて笑った。
ハーレイが居るから失くしてしまってもまた見付かるよと、直ぐに見付けて貰えるんだよ、と。
海の音がする、コロンと丸いウサギ貝。
海のウサギを見付け出してくれたハーレイの腕を、ぼくは信じているんだから、と…。
探し物の天才・了
※探し物が得意だったのが前のハーレイ。船の仲間たちから頼りにされるくらいに。
今のハーレイも見付けてくれた、海の音を運んでくれる貝。いつかは二人で本物の海へ。
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(やっぱり、子供だ…)
鏡に映った、子供の顔。十四歳の小さなぼく。
背丈がちっとも伸びてくれないから、顔立ちだって変わってくれない。子供っぽい顔で、少しも大人びてくれやしないし、パパもママも、それにハーレイも子供扱いしてくれるんだ。
大好きなハーレイと再会した日から、変わらないぼく。
五月の三日から変わらないまま、背丈が百五十センチのまま。
(うーん…)
これで慣れちゃったんだけど。
いつまでもこれだと困るけれども、もう慣れた。
ハーレイだって「ゆっくり育てよ」って言ってくれるし、時が来たらきっと育つんだろう。
大きくなりたいって焦らなくっても、その時が来たら、きっと自然に。
(それでもミルクは欠かさないけどね?)
毎朝、必ず一杯のミルク。幸せの四つ葉のクローバーが描かれた瓶に入ったミルク。
早く背丈が伸びますように、って祈りをこめてミルクを飲むことは忘れない。
今のぼくの大切な習慣がこれで、背丈が伸びないことを除けば悩みも無くて幸せ一杯。
優しいパパとママがいる家で暮らして、ハーレイだって家を訪ねて来てくれるんだ。いつか結婚出来る日までは「またな」って帰って行っちゃうけれども、ハーレイはちゃんと来てくれる。
おまけに青い地球に住んでて、本当に幸せ一杯のぼく。
(だけど…)
ぼくと全く同じ顔をしていた、前のぼく。
アルタミラの研究所に閉じ込められてて、来る日も来る日も人体実験ばっかりだった。檻の中に独り、仲間と話せる機会すら無くて、心も身体も成長を止めた。
あの頃のぼくは、心まで子供のままだったのに。
成人検査を受けた時から変わらないままで、今のぼくと同じ十四歳の子供の筈だったのに。
(どうして頑張れたんだろう…)
アルタミラがメギドに滅ぼされた日に、ハーレイと二人で沢山の仲間を助け出したぼく。
幾つものシェルターを開けて回って、閉じ込められてた仲間たちを救い出したぼく。砕けてゆく星の上を走って、メギドの炎に焼かれた地獄の中を走って。
(今のぼくと変わらない筈なんだけどな…)
遠い記憶の中にいるぼくは、今のぼくとおんなじチビで、子供で。
あの日、初めて研究所の外の世界を見たってくらいに、記憶も失くしてしまってた。今のぼくと違う所はサイオンだけ。タイプ・ブルーが持ってるサイオンを使えたっていう所だけ。
(そこだけしか違わないんだよ…)
今のぼくより長く生きてても、それに見合った心も身体も持ってないんじゃ、ぼくとおんなじ。
それなのに違った、前のぼく。今のぼくより、ずっと頑張っていた前のぼく。
(…アルタミラなんて…)
いくらサイオンが強いと言っても、メギドで壊れた研究所の外の世界は燃え盛る地獄。
あんな所を、今のぼくなら走れない。
研究所では靴さえ履いていなくて裸足で、今のぼくなら地面が熱くて走れやしない。瓦礫で足の裏が痛くて痛くて、走るどころか歩くのがやっと。
(それに真っ赤に燃えてるんだよ…)
空まで炎に染まってた世界。この世の終わりを、星の最期をそのまま描いた恐ろしい世界。
ハーレイが側についててくれても、足が竦んで動けなくなる。
怖くて一歩も歩けなくなる。
ハーレイに抱えて走って貰えば、他の仲間を助けに行けるかもしれないけれど…。
(…でも…)
やっぱり、今のぼくには怖い。思い出しただけで怖くてたまらない。
空を焦がすほどに大きな炎は見たこともないし、地面が割れてゆく地震だって知らない。
前のぼくは両方知っているけど、今のぼくはどっちも知らないんだ。
(…あの火だけでも怖すぎだよ…)
ぼくが知ってる一番大きな火は、キャンプファイヤー。
休んでしまったこともあったけど、前の学校のサマーキャンプで囲んだ炎。
あれは楽しい火で、怖くなかった。とても大きい火だったけれども、大人がついてて見守ってた火。点火してから燃え上がるまでをワクワクしながら待っていたんだ、友達と一緒に。
(雨が降らないように、お祈りもしたよ)
キャンプファイヤーが出来なくなったら困るから。
楽しい時間が無くならないよう、晴れるようにとみんなでお祈りしていたくらい。怖くなかったキャンプファイヤー。
マシュマロを焼いて食べたりしたから、火の近くだって行ったんだ。
(頬っぺたとかが熱くなるんだよ)
火の粉だってパチパチ飛んでいたけれど、平気でマシュマロを焼いていたぼく。もっと焼こうと棒に刺しては、キャンプファイヤーの側まで行っていたぼく。
だけど、メギドの火なんか知らない。空が真っ赤に染まる火なんかは見たことがない。
今のぼくが見たら腰が抜けるか、気絶しちゃうか、どっちかなんだ。
地震だって、そう。
今のぼくが住んでる地域は、昔の日本が在った辺りになるんだけれど。
日本は地震が多かったらしいと聞いているけど、今は地震は滅多に無くって、揺れたことすらも分からないくらい。たまにカタッと小さな音がして、何の音かと思う程度で。
だから激しく揺れ動く地面も地割れも知らない。
アルタミラでハーレイと二人で走った、波打つような地面を知らない。それに地鳴りも。
今のぼくがあんな地震に遭ったら、腰が抜けるか、気絶しちゃうか。
とてもじゃないけど走れやしないし、他の誰かを助け出すなんてことも出来っこない。
(前のぼく、なんで頑張れたんだろ…)
ハーレイが居たから頑張れたってわけではないと思うんだけど…。
今のぼくならハーレイが居ても、気絶しちゃうか、腰が抜けるか。
でも、前のぼくもハーレイが声を掛けてくれるまでは座り込んでいたし、腰が抜けてた?
「お前、凄いな」って助け起こしてくれたハーレイ。
もしもハーレイに出会わなかったら、腰が抜けたままで逃げ遅れちゃった?
船に乗れずに、アルタミラと一緒に前のぼくの命も終わっちゃってた?
ぼくがなんとかしなくっちゃ、って閉じ込められてたシェルターを壊しはしたけれど…。ぼくと一緒のシェルターだった人たちが逃げられただけで、前のぼくはあそこで死んじゃってた?
そういうことも起こっていたかもしれない。
ハーレイが助け起こしてくれなかったら、ハーレイと出会っていなかったなら。
それでも頑張った前のぼく。ハーレイと二人で、大勢の仲間を助け出したぼく。
なのに、今のぼくは同じチビでも、うんと弱虫。
子供の頃にはフクロウのオバケが怖くて泣いたし、雷だって怖かったんだ。今だって前のぼくが見たメギドの炎や地震が怖くてたまらない。
こんなぼくが今、アルタミラの地獄で役に立つとは思えない。気絶しちゃうか、腰を抜かすか。
ぼくは弱虫になっちゃった…?
前のぼくとそっくり同じ顔でも、すっかり弱虫になっちゃった…?
(メギドだって…)
アルタミラを壊したメギドじゃなくって、前のぼくが宇宙に沈めたメギド。
白い鯨を、仲間たちを守ろうと命と引き換えに沈めたメギド。
今だって後悔はしてないけれど。
ハーレイの温もりを失くしてしまって冷たく凍えた右手はともかく、やり遂げたんだって思っているけど…。
あれで良かったと、ああして良かったと少しも後悔してないんだけど。
そう考えてるのは、ぼくが引き継いでる前のぼくの部分。前のぼくが良かったと思ってるんだ。自分の役目をちゃんと果たせたと、やるべきことをやったんだと。
それに引き換え、今のぼく。
メギドまで飛べる力すら全く持ってない上、飛んで下さいって言われたら逃げる。
飛ばなきゃいけないことになったら、怖くて逃げ出してしまうと思う。
だって、独りぼっち。
仲間なんか誰もいない所へ、敵ばかりの所へ独りぼっちで飛んで行かなきゃいけないんだから。
おまけに行ったら確実に死ぬ。
メギドと一緒にぼくの命も尽きてしまって、生きて戻って来られやしない。
(…死んじゃうに決まっているんだもの…)
死んでしまったらパパにもママにも二度と会えないし、ハーレイにだってもう会えない。
ハーレイは例外で、また会えるのかもしれないけれど。今みたいに会えるかもしれないけれど。
神様が「また会えますよ」って言ってくれても、絶対に嫌だ。
メギドなんかに飛びたくはないし、行きたくもない。
だって、死んじゃう。
御飯もおやつも全部なくなる。
この部屋にだって、帰って来られなくなっちゃうんだもの…。
(前のぼくって…)
どうしてあんなに強かったんだろう。
メギドを沈めた頃は子供じゃなかったけれども、前のぼくの記憶は残っているから。
今のぼくの中に残っているから、今のぼくが大きく育った時にはどう考えるか想像がつく。今のぼくには、絶対に無理。大きくなっても、前のぼくみたいに強くはなれない。
(…前のぼく、ホントに強すぎなんだよ…)
ぼくには真似の出来ない強さ。それが不思議でたまらない。
(なんで平気でいられたの…?)
前のぼくがナスカで目覚めた時。キースを取り逃がしてしまった後。
死んじゃうんだってことが分かっていたのに、どうしてハーレイの邪魔をしないで青の間に居ることが出来たんだろう?
逃げ出しもせずに平気な顔して、シャングリラに居られたんだろう…?
フィシスには会いに行ったけど…。
行ったけれども、フィシスを慰めて帰って来ただけ。自分の運命は話さなかったし、同じ予感を抱くフィシスに「大丈夫」とまで言ってのけた、ぼく。
(ホントのホントに強すぎだってば…)
今のぼくには逆立ちしたって言えない言葉。
自分が不安でたまらないのに、他の人まで心配している余裕なんか無い。
その上、前のぼくが誰よりも会いたいと願ったハーレイ。本物の恋人同士だったハーレイ。
長い眠りから覚めたというのに少しだけしか会えなかったし、二人きりじゃなくてゼルたちまで居た。ソルジャーの立場でハーレイと会った。
たったそれだけ、ほんの僅かな青の間でハーレイと話せた時間。
(あれっきり会えなかったのに…)
次に会える時は前のぼくの命が終わる時だと知っていたくせに、何も言わずに見送ったぼく。
ゼルたちと青の間を出てゆく背中を、追い掛けもせずに見ていたぼく。
ハーレイは「船が落ち着いたら、スープを作りに来ますから」って約束してくれたけれど、その野菜スープを食べられることは二度と無いんだって、知っていたぼく。
それなのに何一つ言わなかったなんて、ぼくには信じられない強さ。
(…大きくなっても、ぼくには無理だよ…)
今のぼくなら、我慢できずに我儘を言う。
ブリッジで忙しくしているハーレイに思念を送って、「スープを作りに来てよ」って頼む。
夜だって青の間に居て欲しいと強請るし、その内、ポロッと言っちゃうんだ。
「ぼく、死んじゃうよ」って。
「死にたくないよ」って。
決して言ってはならない言葉を、心に仕舞っておくべき言葉を。
そしたらハーレイは抱き締めてくれて、ぼくをメギドへは行かせないだろう。
ぼくだって怖くて、ハーレイの側から離れたくなくて、行けなくて。
白い鯨は沈んでしまって、それっきりなんだ。
前のぼくがメギドを止めなかったら、そうなるしか道は無いんだから。
おまけにとても弱虫なぼくは、白い鯨が沈みそうな時にハーレイを呼んでしまうと思う。
一緒にいて、って。
怖いからぼくと一緒にいて、って、青の間でぼくを抱き締めていて、って。
そして本当にシャングリラが沈みそうなら、ハーレイはぼくの所に来てくれるんだろうか…。
(…ぼくの恋人だけど、キャプテンなんだよ…)
キャプテンだった、前のハーレイ。シャングリラの船長だったハーレイ。
船が沈む時、船長は最後まで船に残らなきゃいけなかった、って時代があった。
今は違うけど。
残ったお客さんがタイプ・ブルーだったりしたら、逃げなかった船長は無駄死にだから。下手に残れば船長だけが死んだりするから、今はそういう決まりは無い。
でも、前のぼくたちが生きていた頃は、まだその精神も決まりも生きていた筈。
(…ハーレイなら、どうしていたんだろう…)
前のぼくを選んで青の間に一緒にいてくれたのか、最後までブリッジを離れなかったか。
どっちなんだろう、と悩むまでもなく、ハーレイが取りそうな動きは分かる。
(きっと、ブリッジ…)
責任感が強かったハーレイ。
前のぼくが最後に残した言葉を守って、シャングリラを地球まで運んだハーレイ。
そんなハーレイがブリッジを捨てるわけがない。最後までシャングリラの舵を握ってブリッジに立っているだろう。白い鯨が沈む時まで、シャングリラが最期を迎える時まで…。
(…やっぱり、ぼくは独りぼっちだ…)
メギドへ飛んでも、飛ばなくっても、独りぼっちで死んでしまうぼく。
弱虫のぼくでも、独りぼっちで青の間で泣きじゃくりながら死んじゃうらしい。
側にいてほしいハーレイがいないと、ブリッジに行ってしまって帰って来ないと。
(…ぼくがシャングリラを守らなくても、ハーレイはちゃんと守るんだ…)
本当に守れるかどうかはともかく、キャプテンとしての仕事は最後までやり遂げる。ブリッジを離れず、最後まで指揮を執り続ける。少しでも長く持ちこたえるよう、白い鯨が沈まないよう。
そうすることが出来るハーレイは強くて、泣いてるだけのぼくは弱虫。
メギドに飛べないぼくは弱虫。
そうなんだな、って溜息をついた。
今のハーレイも精神はとても強そうなんだし、最後までブリッジに立てそうだよね…。
すっかり弱虫になってしまった、今のぼく。
ハーレイはそうじゃないんだろうな、と考えていたら、仕事帰りに寄ってくれたから。
ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせでお茶を飲みながら訊いてみた。
「ハーレイ、前より弱虫だと思う?」
「誰がだ?」
「今のハーレイ。…前のハーレイより弱虫だな、って思うことはある?」
「そりゃまあ、なあ…。随分と弱くなったと思うが」
生きるか死ぬか、って目にも遭っちゃいないし、何より平和な世界だからな。
青い地球に生まれて、呑気に生きて。
前よりも強い筈がないだろ、格段に弱くなってるぞ、きっと。
そう言って笑ったハーレイだけれど、ぼくみたいな弱虫の筈は無いから。
きっと強いに決まっているから、質問をちょっと変えてみた。
「じゃあ、アルタミラで走ることは出来る?」
メギドの炎で燃えてた地獄を、今のハーレイでも走ることが出来る?
「走れるさ、お前と一緒ならな」
アルタミラってことは、お前も一緒にいるんだろう?
それで走れなきゃ男が廃るな、何のために鍛えているんだ、ってな。
「ぼくが腰を抜かしてしまっていたら?」
腰が抜けてたら、ぼくは一緒に走れないんだけど…。走るどころじゃないんだけれど…。
「そしたらお前を抱えて逃げるさ、他のシェルターを開けて回るのは諦めるな」
「ホント?」
「腰を抜かしているってことはだ、そいつは今のお前なんだろ?」
「うん」
弱虫になってしまったぼくだよ、メギドの火も地震も怖いんだよ。
「なら、仕方ない。そんなお前でも、閉じ込められてたシェルターくらいは壊せるだろうしな」
あれだ、火事場の馬鹿力っていうヤツだ。
俺の家まで瞬間移動で飛んで来ちまったろ、一回だけな。メギドの夢が怖かったとかで。
人間、追い詰められた時には凄い力が出るもんだ。
シェルターを壊した力もそいつだったと思うまでだな、他のシェルターまでは手が回らんと。
だからだ、腰を抜かしたチビのお前を抱えて逃げるさ、船のある方へ。
お前さえ俺の腕の中に居りゃ、今の俺でもアルタミラは充分走れるな、うん。
「それじゃ、メギドは?」
「はあ?」
今の話とは別なのか、ってハーレイが訊くから、「ナスカの方」って説明した。同じメギドでもナスカの方だと、ナスカを燃やしたメギドなんだ、と。
「あれでナスカが燃えちゃう前にね…。ぼくが「もうすぐ死ぬんだ」って言ってたら…」
ぼくはもうすぐ死んでしまうんだ、って言っていたなら、スープを作りに来てくれる?
野菜スープを作るためにブリッジを抜けて来てくれる?
「予知なのか、それは。…死ぬってヤツは」
「漠然とね」
なんで死ぬのかは分かってないけど、シャングリラを守って死ぬんだな、って。
みんなの命を守るために死ぬってことしか分かってないけど…。
「…そいつはスープを作るどころの騒ぎじゃないな」
俺はブリッジを離れて青の間に詰めるぞ、キャプテンの権限を行使してな。そして指揮する。
青の間からでも指揮は出来るだろ、ある程度の設備はあるんだからな。
「ホント?」
「ああ。ついでにメギドにも行かせないさ」
お前が行くと言っても止める。
行かせたら死ぬと分かっているんだ、俺は全力で止めるってな。
何があっても行かせやしない。たとえメギドの第一波が来たって、俺はお前を引き留めるぞ。
弱虫のお前なら止められる筈だ、とハーレイが言うから。
俺の力でも青の間に引き留めておける筈だ、と自信たっぷりに言い切るから。
ぼくは、そうなった時に何が起こるか、おっかなびっくり、口にしてみた。
「シャングリラ…。沈んじゃうよ?」
ぼくがメギドを止めなかったら、シャングリラは沈んでしまうんだよ?
第一波の被害は食い止められても、次の攻撃が来たらおしまいなんだよ…?
「分かっているさ。とりあえずブリッジに走って行って、だ」
被害状況を確認した上で、必要な指示を出したらトンズラだな。
「トンズラ…?」
「逃げるって意味の言葉だ、逃げるってことだ」
「何処へ?」
「青の間に決まっているだろう。指揮を執る、と言って逃げるさ、青の間までな」
誰も怪しんだりはしないぞ、青の間にはお前が居るんだからな。
前のソルジャーの側で指揮を執るなら、ブリッジよりもいい知恵が出るかと思う程度で。
それっきり俺が戻らなくっても、別に問題無いだろう?
どうせシャングリラは沈むんだ。死んじまったら誰も文句を言いに来ることは無いからな。
後のことは俺は一切知らん、と鼻でフフンと笑うハーレイ。
古典の授業風に表現するなら「三十六計逃げるに如かず」だなんて、言ってるハーレイ。
とんでもないことを聞いちゃったような気がするから。
「まさか、ハーレイ…」
それって、ブリッジを放り出すって意味なんじゃあ…?
「お前の側に居るってことだ。シャングリラが沈む瞬間までな」
「でも、キャプテンは…。今と違って、前のぼくたちの頃のキャプテンは…」
「船を離れなきゃいいんだろうが」
最後までな。俺は船から離れちゃいないぞ、ちゃんと青の間に居るんだからな。
「屁理屈だよ?」
ブリッジにいなきゃ駄目なんじゃないの、そんな時には?
沈みそうなら、キャプテンはブリッジに詰めていないと駄目なんじゃないの…?
「いいんだ、俺は自分に正直に生きる。もう懲りた」
「前のぼくの時に?」
「ああ。前のお前を行かせちまって、嫌と言うほど懲りたんだ」
もしも同じ状況が巡って来るなら。
そしてお前がメギドに飛ぶ前に、俺に全てを打ち明けるような弱虫だったら。
俺はお前を離しはしないし、お前と一緒にシャングリラごと宇宙に沈んでやるさ。
それでいいだろ、お前だって?
最後まで俺と二人でいられて、独りぼっちじゃないんだからな。
「…そうなんだけど…」
ハーレイと一緒にいられるんなら嬉しいけれど、と答えたけれども、手放しで喜べない気がして来たぼく。
二人一緒に死ぬのはいいけど、シャングリラは沈んでしまうんだから…。
「ねえ、ハーレイ。…それをやっていたら、ぼくたち、地球に来られたと思う?」
今の地球に二人で来られたと思う?
二人揃って好きなようにやって、シャングリラを沈めてしまっていたら。
「…青い地球ってヤツが存在しないんじゃないか?」
俺たちが好き勝手にした罰かどうかは置いておいて、だ。
シャングリラが沈んでしまっていたなら、ミュウの時代が来ていたかどうか…。
この地球だって無事に蘇ったかどうか、まるで見当が付かないからなあ…。
全く別の道を歩んで、結果は同じって可能性もゼロではないが。
しかし、今の俺たちが習う歴史じゃ、前のお前のお蔭でミュウが生き延びて、ミュウと人類とが手を取り合って。マザー・システムから地球を守って、蘇らせたってことになっているしな。
この青い地球は前のお前がいなけりゃ存在しない、って教わるだろう?
「そういえば…。もしかして、地球に来られたことって、御褒美?」
神様がくれた御褒美なのかな、逃げずにちゃんと頑張ったから。
「そうかもしれんな、前のお前が頑張った分の」
ついでに俺が無茶をやらかさずに、シャングリラをきちんと守った分もか?
お前と一緒にシャングリラごと沈む方へは行かずに、地球まで運んで行きました、ってな。
御褒美かもな、ってハーレイも頷いたから。
青い地球に来られたことが神様のくれた御褒美だったら、次はどうなるのか、ちょっぴり心配。
弱虫になってしまったぼくには、御褒美は何も来ないんだろうか?
「…それなら今度も頑張らないと、次の御褒美、貰えないかな?」
今みたいに凄く素敵な御褒美、今のぼくだと貰えないかな…?
「欲張るな。分相応って言葉があるだろ、今の俺たちには小さなつづらで充分だってな」
授業で言ったろ、舌切り雀。
自分が背負える小さなつづらを貰って帰ったお爺さんには宝物でだ、欲張って大きい方を貰ったお婆さんにはオバケでした、って昔話だ。
分相応の御褒美ってヤツを神様はちゃんと下さるさ。小さなつづらに一杯分な。
「前のぼくみたいに頑張らなくても、小さな御褒美、貰えるんだ?」
「多分な」
「なんの御褒美だろ?」
何を頑張ったら、神様が御褒美をくれるのかな?
「俺の嫁さんを頑張ればいいんじゃないか?」
今度のお前の目標はそれだろ、俺の嫁さん。
それをきちんとやっておいたら、頑張った御褒美を神様が用意して下さると思うぞ。
「そっか!」
ハーレイのお嫁さんを頑張ればいいのか、と納得した、ぼく。
弱虫になってしまったぼくでも、お嫁さんなら頑張れそう。アルタミラの地獄を走れなくても、メギドを沈められなくても。
大好きなハーレイのお嫁さんなら、頑張れなんて言われなくても頑張れる。
弱虫のぼくでも出来そうなこと。ハーレイのために出来そうなことが沢山、沢山。
「お料理とかを頑張ればいいんだね!」
ハーレイが好きな、ぼくのママが焼くパウンドケーキ。
あれを覚えて焼けるようになるとか、ハーレイのお母さんと一緒にマーマレードを作るとか。
もちろん、普通のお料理も!
「そんなに頑張らなくてもいいぞ? 俺も料理は得意だからな」
どちらかと言えば食わせたい方だ、お前は俺が作った料理を食ってくれれば充分なんだ。
俺が喜んでいればそれでいいのさ、嫁さんになって俺の家にお前が居てくれれば。
「それで御褒美、貰えちゃうの?」
「貰えると思うぞ、今の俺たちに見合ったのをな」
前の俺たちほど凄くないから、今よりも凄いのを下さいと言っても無理だろうが…。
凄いと言っても、今の世界じゃこれが普通の生活だしな?
今よりも落ちるってことだけは無いさ、御褒美と名前が付くからにはな。
幸せの量は増える筈だ、ってハーレイが笑顔で話してくれるから。
前のぼくたちと今のぼくたちとの違いほどには増えなくっても、幸せは増える筈だと言うから。
「どんな御褒美を貰えるのかな?」
「さてなあ…。俺はお前と一緒だったら何でもいいが」
お前と一緒に暮らせるんなら、もうそれだけで幸せだからな。
「ぼくも。…ハーレイと一緒だったら、それで充分」
きっとそれだね、次の御褒美。ハーレイと一緒。
ハーレイのお嫁さんを頑張っておいたら、次もハーレイと一緒なんだよ。
「そういう褒美なら、いつまでも貰っておきたいもんだな」
「うん。弱虫なぼくでも貰えるといいな、次の御褒美」
御褒美を貰って、ハーレイと一緒。それが欲しいよ、次の御褒美に。
「うむ。貰えるように神様に御礼を言っておけばいいんだと思うぞ、幸せです、って」
「もう何回も言ってるよ?」
ハーレイと会えて幸せです、って。青い地球に来られて幸せです、って。
「もっとだ。一生、御礼を言わんとな? 幸せだったら」
「そっか、一生分なんだね。一生、ハーレイと一緒で幸せです、って言っていたら、きっと…」
またハーレイと一緒なんだね、弱虫のぼくでも。
前のぼくみたいに強くなくても、弱虫のぼくでもかまわないんだね?
ハーレイが「うむ」って微笑んでくれて、ぼくの心は幸せな気持ちで一杯になった。
弱虫になってしまったぼくだけれども、それに見合った小さな御褒美。
うんと背伸びして頑張らなくても、神様はちゃんと見ていてくれる。
弱虫のぼくには、小さな御褒美。
だけど、それだけで充分すぎるし、欲張りたいとも思わない。
ハーレイといつまでも、何処までも一緒。
それがぼくには、何よりも最高の御褒美だから…。
弱虫なぼく・了
※前に比べて、弱虫になったと自覚している今のブルー。「メギドだって無理」と。
けれど今度も、きっと御褒美は貰える筈。小さなつづらの分の幸せでも、ハーレイと一緒。
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(よしよし、かなり馴染んで来たな)
そろそろ日記もこれで書けそうだぞ、とハーレイは自分が書いた文字を眺めた。特に意味も無く書き連ねた文字。思い付くままに古い短歌や、その辺にある物の名称やら。
それらを書いてくれた文具は、澄ました顔で専用のペン立てに収まっていた。ハーレイの右側、机の上に鎮座している白い羽根ペン。ブルーからの誕生日プレゼント。
小さなブルーは羽根ペンを買おうと百貨店まで出掛けたらしいが、子供が買うには高すぎて。
それでもハーレイに贈りたいのだと悩んでいたから、羽根ペンの一部を買って貰った。ブルーの予算で出せる範囲を。
費用の殆どを自分が支払った羽根ペンだけれど、ブルーに贈って貰った羽根ペン。羽根の部分の一部がブルーの買ったものなのか、それともペン先の一部分なのか。
そんなことは別にどうでもいい。ブルーに「ちゃんと使ってよ?」と渡された羽根ペン代だって使わないまま、机の引き出しに大切に仕舞ってあるのだから。
(こいつはブルーに貰ったんだしな?)
自分で買って来て、ブルーに渡して、誕生日祝いにと贈って貰った。ブルーの手から受け取ったことに意味がある。
ブルーの心がこもった羽根ペン。ブルーがくれた大事な羽根ペン。
あの八月の二十八日から、折を見ては書く練習を続けて来た。
日記を綴る文字が急に変わってしまわないよう、早く自分の手に馴染むよう、と。
(…最初に書いたのはこれだっけな)
目を細めて指先でなぞった、ブルーの名前。今日も書き付けた、ブルーの名前。
幾度こうして書いたのだろうか、前の生からの恋人の名を。羽根ペンをくれたブルーの名前を。
練習を始める前に一度は書いたし、終える時にもブルーの名前。
今日の練習はこれで終わりだ、と締め括る時はブルーと綴った隣に自分の名前も並べて書いた。対の名前だと、自分とブルーは共に生きるのだ、と願いをこめて。
早くこうして二人の名前を並べて書ける日が来ないものかと思いをこめて。
結婚式を挙げ、互いの名前を誓いの紙に並べて記して、それからは常に、何処でも二つ並べて。旅先で宿帳に記す名前も、旅の記念に何か書くにも、いつだって対で。
早くその日を、と夢見る一方、「ゆっくり育って欲しい」とも思う。
まだ十四歳にしかならないブルーに、背丈が百五十センチのままのブルーに、急がずにゆっくり育って欲しいと。
小さなブルーが前の生で失くした子供時代の幸せの分まで、何年、それこそ何十年でも。
(そういえば、前もあいつに貰ったんだな)
いや、貰ったようなものと言うべきか。
前のブルーが奪ったコンテナの中の物資に紛れて詰まっていた、羽根ペン入りの沢山の箱。
そう、前もブルーに羽根ペンを貰った。今度のように一部をではなく、長かった生涯でも全てを使い切れなかったほどの羽根ペンの山を。
(…あの時も羽根ペンの方が後だったんだ…)
今のブルーがくれた羽根ペンは、この家の書斎に机を置いてから何年も経った後に来たけれど。十数年を経た後にやって来たのだけれども、前の生でもそうだった。
羽根ペンよりも先に手に入れた、木で出来た机。ブルーが奪った物資に混ざっていた机。
誰一人として欲しがる者がいなかったそれを、貰って自室に据え付けた。木の温かみが好きで、暇を見付けてはボロ布でせっせと磨いてやった。
貰った頃には、まだキャプテンではなかったけれど。厨房で料理をしていたけれど。
(キャプテンになってくれ、って言われた時にも机を磨いていたんだっけな)
考え事をする時の常で、懸命に机を磨いていた。其処へやって来たブルーの言葉が背中を押したようなものだったな、と思い出す。
「ハーレイがなってくれたらいいな」と言いに来たブルー。
ハーレイになら命を預けられると、自分と息の合うキャプテンがいい、と。
そうしてキャプテンになったけれども、キャプテンの部屋に羽根ペンの姿はまだ無かった。木の机で日誌を一日も欠かさず書いたのだけれど、あくまで普通のペンだった。
シャングリラの何処でも、手で文字を書く場面だったらお目にかかれる普及品のペン。色や形は様々だけども、一目で「ペンだ」と判別可能な文具の一種。
ハーレイ自身も何とも思わず、それを使って日誌を書いた。キャプテンになったからには日々の記録が必要だろうと、後々の役に立つであろうと。
(…日誌と言っても、ノートなんだか日記なんだか…)
物資に混ざっていた、日付を書き込む欄がついたノートが航宙日誌。日記帳にもノートにもなる品だったそれを日誌に選んだ。倉庫にあるのを知っていたから、キャプテン就任が決まった時点で運び出して机に備えておいた。
キャプテンになって、操舵の練習なども始めたのだが。
他にもキャプテンならではの仕事も多かったのだが、まだ後継者が居なかったから。
キャプテンではなく、厨房と兼業でしていた物資の分配を行う者が決まっていなかったから。
駆け出しの候補者を手伝ってやるべく、暇な時には覗きに出掛けた。アドバイスをして、これはこうだと知恵も出してやった。
そんな最中に、コンテナに入ってシャングリラへと運び込まれた羽根ペン。
前のブルーが奪ってしまった、専用の箱に収められた羽根ペンがドカンと詰まった箱。
「…誰がこんなのを使うんだい?」
分配希望者を募るために、と物資の数々を陳列した部屋。蓋を開けて置かれた羽根ペンの箱に、ブラウが遠慮の無い言葉を浴びせた。これは古すぎると、ゴミであろうと。
「そうだな、恐らく誰も希望者はいないだろうな」
居たら驚く、とゼルも「古すぎる」文具とその付属品に呆れてはいたが、こればっかりは分配を初めてみるまで分からない。希望者が何処かに居るかもしれない。
ハーレイは羽根ペンを見た瞬間から「欲しい」と思ってしまったのだし、同じ趣味を持つ仲間がいないとは言い切れない。
(…欲しいんだがなあ…)
けれども分配前の内覧会とも言える、自分たちの下見。其処でキャプテンが奪い去っては…、と諦めて見守ることにした。もしも残ったら貰うことにしようと、一箱くらいは残るだろうと。
ところが、いざ分配が始まってみたら、羽根ペンの箱は全部残った。
ただの一箱も、一箱でさえも引き取った者はいなかった。
分配が終わり、残った物資を倉庫送りや処分品などに仕分ける作業が始まった時。
ハーレイは目を付けていた羽根ペンの箱を一つ持ち上げ、宣言した。
「こいつは俺が貰っておくぞ。残りの箱も倉庫に仕舞っておいてくれ」
次の機会があるかどうかが分からんしな。予備は沢山あるほどいいんだ、捨てるなよ。
「また、あんたかい」
ブラウがフウと溜息をついて、「酔狂だな」という感想がゼル。
前に木の机を引き取ったのもハーレイだったと、今度は羽根ペンを引き取るのかと。ヒルマンやエラも「またか」という顔で見ていたけれども、ブルーは違った。
「そんなに変かな?」
ぼくはハーレイらしいと思うけれどね?
みんなが欲しがらないような物にでも価値を見出せるのは凄いと思うよ、才能だよ。
何でも大切に出来る精神。
そうでなくっちゃキャプテンも務まらないんじゃないかな、広い目で物を見られないとね。
リーダーだったブルーの言葉が効いたか、はたまた見放されたのか。
ゼルたちは分配に使用した部屋から出て行ってしまい、ハーレイは羽根ペンの箱を手に入れた。とりあえず一箱、他は係の者に頼んで備品倉庫へ。
その日の勤務が終わって部屋に戻って、机の上に置いてあった羽根ペンの箱をそうっと開けた。
分配は勤務時間中に行われたから、箱を置きに戻るのが精一杯で。
本当に自分のものになったと、これが自分の羽根ペンなのだと箱の中身をじっと見詰める。分配前の陳列中には見ていただけの品が、今では全て自分のもの。自分だけのもの。
主役の羽根ペンもさることながら、インク壺だの、吸い取り紙だの。
初めて触れる品々に心が躍った。顔が自然と綻ぶのが分かる。
(…俺のものだぞ、これが全部な)
まずはセッティングをしなければ。木の机の上に、ずしりと重いペン立てを据えた。羽根ペンを其処に立てるわけだが、その羽根ペン。
(うーむ…)
真っ白な鳥の羽根で出来たペンにはペン先が既に取り付けてあった。それとは別に、箱の上蓋の内側に留め付けられた幾つものペン先。取り替え可能なペン先たち。
どれも同じというわけではなく、形が違った。恐らくは目的に合わせて使い分けるもの。文字の太さなどが変わるのだろうが、初心者には全く見分けが付かない。
最初から付いていたものでいいだろう、と替えずにペン立てに収めた所で。
「ふうん…」
いつの間にドアが開いていたものか、それとも得意の瞬間移動で現れたか。
まだ少年の姿のブルーが、ハーレイをキャプテンに推したブルーがドアを背にして立っていた。机の上に立てた羽根ペンの方を見ながら近付いて来て、それとハーレイとを見比べて。
「いい雰囲気だね、思った通りにハーレイに似合う」
「そうか?」
「うん」
まだ制服さえ無かった頃。ブルーがソルジャーではなかった頃。
ブルーへの敬語は必要ではなく、普通に言葉を交わすことが出来た。砕けた口調で、アルタミラからの友人として。
しげしげと羽根ペンを眺めたブルーは、こう尋ねた。
「それで航宙日誌を書くわけ?」
「いや、まだだが。慣れないペンで書いたら書き損じるしな」
今日の所はいつものペンだ。航宙日誌は、こいつで書くのに慣れてからだな。
「残念。使い初めをするなら、どんな字になるのか読ませて貰おうと思っていたのに」
「誰が読ませるか、航宙日誌は俺の日記だ!」
「でも、日誌だろう?」
何処でも日誌は引き継ぎ用に書いているもので、書き手以外も読んでいるけど?
「俺には引き継ぎなんかは無いぞ。日記だと言ったら日記なんだ!」
キャプテンが二人いるなら分かるが、俺一人だしな?
誰に引き継ぐ必要も無いし、日誌を書くのも読むのも俺一人だ!
読ませてたまるか、と追い払おうとしたのだけれども、居座ったブルー。
椅子を引っ張って来て、机の脇に座ってしまった少年の姿をしているブルー。
羽根ペンなるものをどう使うのかと、ワクワクしながら待っているのが分かるから。
ハーレイは「言っておくが」とブルーに断った。
「こいつを貰っては来ちまったが、だ。…俺も羽根ペンは本でしか知らないからなあ…」
「そうだったわけ?」
知っているのかと思っていたよ。だから欲しくて貰ったんだな、と。
「おいおい、ヒルマンじゃあるまいし…。俺の知識はたかが知れてる。ペンだとしか知らん」
だが、憧れのペンではあったな、羽根ペン。使ってみたいと思ってはいた。
「いつから?」
「本で挿絵を見た時からだな。主人公が手紙を書いていたんだ、羽根ペンで」
これは何だ、と思わなくても直ぐに分かった。羽根ペンって言葉が出て来たからな。
羽根っていうのは見りゃあ分かるし、そいつで作ったペンなんだな、と。
ブルーが奪った物資に混ざった本や雑誌などは図書室へ。
そう名付けられた部屋に書棚が作られ、閲覧用の机も置かれていた。其処で手に取った本を読み進める内に、出て来た挿絵にあった羽根ペン。主人公が使っていた羽根ペン。
手紙に書くべき事を考えつつ、インク壺にペン先を浸して、書いて。
インクを早く乾かすためにと吸い取り紙で押さえ、書き上がった手紙を読み返していた。
普段、ハーレイが使うペンでは考えられない手間暇のかかる執筆作業。けれど、味わいがあっていいと思った。そういうペンで書いてみたい、と惹き付けられた。
とはいえ、挿絵の人物の服装が示すとおりに古い昔の本だったから。人が地球しか知らなかった時代に書かれた古い本だから、まさか羽根ペンが今もあるとは思わなかった。
とうの昔に消えたものだと、挿絵にしか無い文具なのだと見ていた記憶。
それなのに、一目で惹かれてしまったから。
此処にある木で出来た机と同じく、使いたいと思ってしまったから。
「…もしかしたら俺の養父母の家にあったのかもしれんな、この羽根ペンも」
木の机も羽根ペンも、失くしちまった記憶の中に多分、あったんだろう。
「そうなんだ?」
「羽根ペンが現役で存在するとなったら、俺は見たことがあるんだと思う」
ついでに「いい思い出」ってヤツとセットなんだろうな。
羽根ペンを見たら欲しくなるんだし、きっと羽根ペンにいい思い出が詰まっていたんだ。
「どんな思い出だったんだろうね?」
「こいつを使って遊んでいたってわけではないだろうしなあ…。人をくすぐって遊ぶとかな」
遊べそうだが、それだと「これで書いてみたい」と思う理由にはならん。
こういったペンは改まった時に使うものだ、とヒルマンが言っていたからなあ…。
招待状の返事でも書いているのを見たかもしれんな、パーティーとかの。
「パーティーって、子供が行けるパーティー?」
「そうだと思うぞ、育英都市だと子供同伴のパーティーだろうし」
羽根ペンを使って何か書いていたなら、何日かしたらパーティーに行ける。
そんな記憶があったかもしれんな、機械にすっかり消されてしまう前にはな。
木の机でそいつを書いていたとか、如何にもありそうな話なんだよなあ…。
今じゃ何一つとして覚えちゃいないが、それでもこうして記憶の欠片が残っているのかもな。
「ハーレイはいいな…。ぼくにもそういう温かい記憶があればいいのに」
「いつかは思い出すかもしれんさ、何かのはずみに」
「そうだといいな」
ブラウたちに「変な趣味だ」と笑われてもいいから、何かを思い出したいな。
ハーレイの机と羽根ペンみたいに、いい思い出とセットの何かを。
机の脇に座ったブルーは帰ろうともせずに、椅子に腰掛けて動かない。
お茶を出してやったわけでもないのに動かないから、ハーレイはやむなく切り出した。
「…おい、ブルー。俺はこれから今日の航宙日誌をだな…」
書かなきゃならんし、暇ってわけではないんだが。
「それじゃ羽根ペンの試し書きは?」
「日誌の後だ。まずは仕事だ」
「じゃあ、待ってるよ」
「おい!」
此処で待つ気か、丸見えじゃないか!
航宙日誌は誰にも見せんと言っただろうが、たとえリーダーでも俺は見せんぞ!
「分かってるよ。ちゃんと向こうで待ってるってば、君のベッドを借りてもいいよね」
椅子の代わりに座って待つから。
それから、あそこに置いてある本。あれも借りるよ、暇つぶしに。
そう言ってブルーは椅子から立つと、ベッドの方へと行ってしまった。其処に腰掛け、膝の上に本を広げてはいるが、ハーレイにしてみれば心配ではある。
なにしろ、ブルー。瞬間移動でアッと言う間に背後に立ってしまえるブルー。
航宙日誌を引っ張り出して開いたものの、ペンを片手にベッドの方へと視線を向けた。
「これから書くから、読みに来るなよ?」
「行かないよ。君の大切な日記なんだろう?」
仕方ないよね、と本のページをめくるブルーがどうにも気になって、気になって。
覗かれてしまわないだろうか、と振り返り、振り返り日誌を書いた。
日付を書く欄があるというだけの、日記にもノートにも使える仕様の航宙日誌。
白い鯨が完成した後には専用の立派な日誌が作られたけれど、それまでの間はノートだったり、正真正銘、日記帳だったこともある。
白い鯨が出来上がった時、ハーレイ自身が時間を作っては順に整理し、何冊かずつ纏めて揃いの表紙を付けて仕上げて、きちんと本棚に並べたけれども。
ブルーを気にしていたせいだろうか、航宙日誌を書き終えるまでに普段の倍はかかったと思う。それでもなんとか書き上がったから、閉じて置き場所へと戻した所で。
「終わった?」
ブルーが顔を上げ、読んでいた本をパタリと閉じた。何の未練も無いらしい。さもありなん、と苦笑いしつつ「ああ」と答えれば、ブルーは本をベッドに置いていそいそと元の椅子に戻った。
ハーレイがベッドに置いていた本は料理の本だし、つまらなかったに違いない。
「日誌が終わったんなら、羽根ペン」
早く、と急かされ、「うむ」と試し書き用の紙を取り出した。インク壺を開け、羽根ペンの先を浸して紙に「ハーレイ」とサインしてみる。
「ふうん…。そうやって使うんだ」
「インクは入っていないからな。で、こいつで、と…」
吸い取り紙を持ち、初めてにしては上手く書けたと思えるサインに押し付けた。余分なインクを吸い取るそれに、ブルーの瞳が丸くなる。
「ああ、そうすれば手が汚れないよね。でも…。普通のペンより面倒じゃない?」
ハーレイらしいとは思うけれども。
机だって大事に磨いてるんだし、ペンをいちいちインクに浸けたり、書き上がった字を乾かしていても別に変とは思わないんだけど…。
「こういった手間をかけてやるのは好きだな、俺の好みというヤツだ」
効率だけを追求するより、過程の方も楽しまないとな?
そういう点では昔に生きてた連中の方が、豊かな人生を送っていたかもなあ…。
こうやって文字を書くにしたって、じっくりと時間をかけて、ってな。
同じ文章を綴るにしても手間と時間がまるで違う、とハーレイは試し書きを続けた。
航宙日誌の中身と少し重なるかもしれない、今日の物資の分配作業。羽根ペンを手に入れられた幸運な出来事を「引き取り手が無かった羽根ペンを貰った」と書き、吸い取り紙で押さえる。
次は…、とペン先をインク壺に浸そうとしたら、ブルーがそれを眺めながら。
「つまりハーレイ、古いものに憧れるタイプなんだね」
「そうなるな」
こいつもそうだし、机もそうだな。どっちも古すぎて誰も引き取り手が無かったからな。
「じゃあ、ぼくにも?」
「はあ?」
意味が掴めず、試し書きを中断してブルーの方へと向き直ってみれば。
「古いものに憧れるタイプだったら、もしかして、ぼくにも憧れたりする?」
古いよ、ぼくは君よりもずっと。
「お前が古いのは年だけだろうが!」
見た目も中身も、俺よりもずっと新しいくせに、古いも何も…。
なんでお前に憧れにゃならん、羽根ペンや机とは違うだろうが!
「やっぱり、そう?」
古いものなら何でもいいのかと思ったんだよ、ぼくなんかでも。
憧れられても困るけれどさ、「引き取り手が無いから貰ってやる」って言われても。
「俺だって要らんぞ、お前なんかは」
机みたいに磨く楽しみも無きゃ、羽根ペンみたいに書く楽しみだって無い代物だぞ、お断りだ。
心配しなくても俺は貰わん、古けりゃ何でもいいってわけではないからな。
「ふふっ、良かった」
古いものだからって憧れられても、ぼくはあげられないからね。
これでも一応、人格はあるし、所有物には向かないんだよ。
「違いないな」
俺の方でも御免蒙る、お前なんかを貰うのはな。
あの時はお互い、笑い合っておしまいだったけれども。
それから長い長い時が流れて、白い鯨が出来上がった後に恋をした。ソルジャーと呼ばれ、青の間に住む美しい人に。あの日のブルーが気高く育った、それは美しいミュウの長に。
そうしてブルーと想いが通じて、身も心も結ばれた恋人同士になれたのだけども。
(…古いものだから憧れた…ってわけではないよな?)
まさかそういう恋ではあるまい、と羽根ペンを巡る会話を思い返して苦笑する。
確かにブルーは年だけは上で古かったけれど、レトロなアイテムというわけではない。
ブルーの何処にも古さを感じたことは無かったし、古いと思ったことさえも無い。
冗談交じりに「ぼくは年寄りだよ」と言っていたって、ブルーの姿は若々しかった。その身体が弱り、死の影が間近になった頃でさえ、ブルーは若かったのだから。
(うん、ブルーはブルーだ)
古いものが好きだから恋をしたのだ、と言うのであれば。
(今のあいつに当て嵌まらんしな?)
十四歳の小さなブルー。見た目どおりに若いどころか幼いブルーは、古くない。
(いや、しかし…)
いくら今のブルーが若いとはいえ、ソルジャー・ブルーの生まれ変わり。
前の生からの恋人なのだし、古いのだろうか。
幼いブルーも、古いものだと言えないこともないのだろうか…?
(古女房という言葉があったな…)
今の自分だから知っている言葉。古典の教師をしている間に覚えた言葉。
もしもブルーにこれを言ったら、膨れっ面になるのだろうか。
「古くない!」と唇を尖らせ、膨れるだろうか、小さなブルーは。
(まさか、古いから好きってわけではないと思うが…)
違う筈だが、と思うけれども。
思いたいけれども、前の自分が好んでいたもの。
誰も引き取り手が無かった代物、木で出来た机と、書くのに手間がかかる羽根ペン。
どちらもレトロで、前の自分の象徴なのだとゼルが笑った二大アイテム。
古すぎたことを否めはしないし、レトロに過ぎる趣味ではあった。
更に…。
(三度目の正直って言葉もあったな…)
まさかブルーが三つめのレトロなアイテムだった、という恐ろしいオチではないのだろうが。
前の自分は確かに古いものに、年上のブルーに恋をした。
恋に落ちてブルーに想いを打ち明け、手に入れて自分のものにした。
誰にも言えない秘密の恋ではあったけれども、結ばれて幸せな時を過ごした。
白いシャングリラで、遠く遥かな時の彼方で。
そうして今も恋をしている。
青い地球の上に生まれ変わって、小さなブルーに恋をしている。
(今度の羽根ペンは、あいつがくれた羽根ペンだからな…)
いつかブルーにラブレターを書ける時が来たなら。
小さなブルーが大きく育って、堂々と恋を語り合える時が訪れたなら。
この羽根ペンでしっかりと想いを綴ろう、とハーレイは紙にブルーの名を書いた。
前の生では、書くことが無かったラブレター。
何処から知れるか分からないから、書かずに終わったラブレター。
それを今度は羽根ペンで書く。
前の生からの恋人のために、その恋人がくれた大切なペンで…。
レトロな趣味・了
※前のハーレイのレトロな趣味。木の机だとか、羽根ペンだとかに惹かれたようです。
そして同じに「古かった」のがブルー。そのせいで恋をしたなんてことは、ないですけどね。
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ふわり。
学校の帰り、バスを降りて家まで歩く途中で、ブルーの鼻腔をくすぐった匂い。
甘いけれど強い、その独特の秋の花の香。
(あっ…!)
咲いてるんだ、とブルーは脇道に逸れた。角を曲がって二軒先の家、其処の生垣。
(うん、今年も一杯!)
どうして今日まで全く気付かなかったのだろう。
(…ハーレイのことで頭が一杯になってたからかな?)
例年だったら咲き始めて直ぐに誘われるように寄り道するのに、今年は全く覚えが無い。小さな蕾が花開いただけで、いつもの道まで「咲いているよ」と香を漂わせる木たちなのに。
(ごめんね、今年はウッカリしちゃっていたみたい…)
せっかく呼んでくれていたのに、と家を取り囲む木たちに謝った。
ブルーの背丈よりも高い、金木犀で出来た生垣。枝一杯に花を咲かせて誇らしげに立つ木々。
(銀木犀の木もあるんだよね)
あれはこっち、と生垣の角を曲がれば、生垣を越えて道路にまで張り出した白い花の木。香りの高い花をつける木。
(こっちももうすぐ咲きそうだよ)
金木犀の生垣と、見上げるような銀木犀の木。
オレンジ色の花と真っ白な花が咲き揃ったら、普段の道を歩いていたって甘い香りが強く漂い、「こっちだよ」「見においでよ」とブルーを手招き、惹き付けて来る。
小さな頃から大好きな香り。物心つく前からきっと、好きだった香り。
幼い頃には手のひらの中に花を握って持ち帰ったりもした。
(男の子らしくないんだけどね…)
零さないようにしっかりと持って帰って、宝物のように窓辺に置いていたなんて。
可愛らしいと呼ぶには小さすぎる花を器に入れて、香りを楽しんでいたなんて。
すっかり乾いて香りがしなくなってしまうまで、ポプリよろしく子供部屋の素敵なアクセント。あの頃はポプリという言葉もドライフラワーさえも欠片ほども知りはしなかったのに。
(…だけど香りが好きだったんだよ…)
何故この花が好きなんだろう、と生垣に咲き誇る金木犀の花に触れてみた。
集まって咲いているからそれと分かるけれど、一輪一輪は小さくて目立たない四弁の花。
自分の家の庭に無いのが残念だったが、どういうわけだか、花の季節以外は忘れているから。
甘い香りが消えてしまったら、見に出掛けようともしなかったから。
それを良く知るブルーの両親は、金木犀の木を庭に植えようとは言わなかった。
独特の香りが強い花だし、他の花の香をすっかり圧倒してしまうから。
母が丹精している四季咲きの薔薇の香りまでもが、台無しになってしまいそうだから。
(金木犀かあ…)
ハーレイの家の庭にもあるのかな、と呟いたけれど分からない。
一度だけ遊びに出掛けた時には家の中だけを夢中で見ていて、庭までは足を運ばなかった。次の機会が無くなるだなんて思っていないし、また次でいいと窓から眺めていただけ。
(…まさか行けなくなっちゃうだなんて…)
前の生と同じ背丈になるまで、来るなと言われてしまった家。
メギドの悪夢を見た夜に一度だけ、瞬間移動で飛び込んで行ってしまったけれど。一度だけしか飛んでゆけなくて、どうすれば飛べるのか分かりもしない。
(…あの時も庭は見ていないんだよ…)
ハーレイの車で家まで送って貰ったから、ガレージまで庭を横切って行った筈なのだけども。
夢のような時間に目がくらんでいて、庭を観察出来る余裕はまるで無かった。
だから知らない、ハーレイの家の庭を彩る数々の木たち。
金木犀の木も庭の何処かに植えられ、花を咲かせているのだろうか…。
せっかくだからハーレイに訊いてみよう、と一枝貰うことにした。花は華奢だけれど丈夫な葉。ハーレイが暫く来られなくても、花が落ちても、枝だけだったら週末まで持つ。
この生垣に囲まれた家の人とは、小さな頃から顔馴染み。
金木犀の花が欲しくて欲しくて生垣にべったりへばりついていた、幼稚園からの顔馴染み。
気付いた奥さんが「持って行ってね」と枝をハサミで切ってくれたし、ご主人だって「ほら」と分けてくれたことが何度もあった。
そうする内に、とびきりの許可。小躍りしたくなった二人からの言葉。
いつでも一枝取って行っていいと、大きな枝をもぎ取るわけではないのだから、と。
(うん、久しぶりに!)
こうして枝を分けて貰うのは、いったい何年ぶりだろう?
よいしょ、と一枝、小さいのを折った。コップに挿すのに丁度いいくらいの小さな枝を。
香りを楽しみながら大切に持って、元の道へと。
花が零れてしまわないよう、ゆっくり歩いて家に帰ると、母が「あら、金木犀。久しぶりね」とクリスタルの一輪挿しに生けてくれた。
「部屋に飾るんでしょ? 長い間咲いててくれるといいわね」
「うん。ありがとう、ママ!」
コップに挿そうと思っていたのに、母のお気に入りの一輪挿し。
これならばグンと見栄えがする、と嬉しくなった。
勉強机に置いたけれども、もしもハーレイが来てくれたならば、部屋の彩りになるだろう。
制服を脱いで着替えて、母と二人でおやつを食べてから、部屋に戻って。
扉を開けて入った途端に、あの香り。ふうわりと甘く、けれども強く主張する香り。
勉強机の上に飾った金木犀。
引き寄せられるように机の前に座って、ハーレイと自分が写った写真を収めたフォトフレームと交互に見比べ、金木犀の香りを心ゆくまで吸い込んだ。
(いい匂い…)
強すぎて嫌いだ、と言う友達もいるし、両親だって庭に植えてはくれない。薔薇の香りを殺してしまうからと植えてはくれない。
それでも、この花に心惹かれる。花が咲く時期だけ、香りが風に乗る花の季節にだけ、ついつい惹かれて見に行ってしまう。こうして香りを手に入れたくなる。
どうして好きなのか分からないけれど。
何故だか分からないのだけれど…。
(…もしかしたら…)
ひょっとしたら、と心を掠めた微かな、それでいて引っ掛かってくる思い。
これは自分ではないのかもしれない。
金木犀の香りが好きだった人は。甘い香りに惹かれる人は…。
(前のぼくなの…?)
遠く遥かに過ぎ去った昔、白いシャングリラで暮らした前の生の自分。ソルジャー・ブルー。
前の自分の全てだった船。世界の全てと言ってよかった、ミュウの楽園。
あのシャングリラに金木犀の花はあっただろうか、と手繰り寄せた記憶にその木があった。
ブリッジから見える広い公園ではなくて、居住区の方。
皆の憩いの場になるように、と幾つも鏤めた公園の一つにあったと、金木犀が植えてあったと。
何本かあった金木犀の木。今日の帰り道に見た生垣と同じくらいに大きかった木。
(銀木犀だってあったんだよ)
オレンジ色の花と競うかのように、その公園にあった銀木犀。季節ともなれば漂った香り。
でも…。
前の自分は、どういったわけで金木犀の香りを好んでいたのだろう?
金木犀と銀木犀とが植わった公園に、頻繁に足を運んだ覚えも無いのに。
その公園が好きで、花の季節には入り浸っていたという記憶すら残っていないのに…。
(なんで…?)
理由さえ記憶に無いというのに、前の自分だという気がする。
金木犀の香りが好きだった人は前の自分で、それゆえに今も惹かれるのだと。
けれども今でも覚えているのは金木犀があった公園だけ。銀木犀もあった公園だけ。手掛かりにならない、前の生の記憶。
(忘れちゃっただけで、あの公園が一番好きだったとか…?)
思い出せない、と金木犀の枝を見詰めて悩んでいたら、来客を知らせるチャイムの音。
程なくして母に案内され、部屋にやって来た、白いシャングリラの生き証人。
褐色の肌のブルーの想い人は、直ぐに香りに気付いたようで。
「ほほう…。金木犀か」
母がお茶とお菓子をテーブルに置いて立ち去った後で、ハーレイは勉強机の方へ視線を遣った。
「お前の家の庭には無いだろ、珍しいものが飾ってあるな」
いや、金木犀自体は、今の季節には特に珍しくもないんだが…。
「ぼくが貰って来たんだよ。近所にあるんだ、金木犀の生垣に囲まれた家が」
ハーレイの家の庭にも金木犀はあるの?
「いや、植えてないな」
「そうなんだ…。ちょっと残念」
あったらいいな、と思ったんだけど。枝を貰いたくなっちゃう木だし。
「俺の家の庭には植えていないが、親父の家には昔からあるぞ」
生垣じゃなくて一本だけだが、お前の背よりはデカイ木だな。
「ホント?」
「おふくろは薔薇に凝ってるわけじゃないから、こいつだってあるさ」
ガキの頃にはこいつが咲いたら「ああ、秋だな」って思っていたな。
夏の暑さが残っている間は、金木犀の花は咲かないからな。
生まれ育った家には金木犀の木があった、とハーレイが話すから、ブルーは訊いた。
「ハーレイは金木犀が好きだった?」
「いや、特にどうとも思わなかったが…」
言ったろ、秋の花だって。庭から金木犀の花の匂いがしたらだ、もう秋だな、という程度だ。
「…じゃあ、無理かな…」
「どうした?」
金木犀がどうかしたのか、飾ってあるくらいだし、お前にとっては特別なのか?
「…金木犀の香りが好きなんだよ。うんと小さい頃から好きで、生垣にへばりついてたくらい」
この枝を貰って来た家のことだよ、いつでも貰っていいって言って貰えたほど見てたんだ。
花だけ貰って握り締めて帰った時でも、香りが消えるまで部屋に置いてた。
でも、今のぼくじゃないかもしれない、って思っちゃって。
金木犀の香りが大好きだったのは、前のぼくかもしれない、って…。
だって、シャングリラにも金木犀の木があったんだもの。植えてある公園、あったんだもの。
ハーレイだったら覚えてるかと思ったけれども、やっぱり無理かな…。
「ああ、あれな」
思いがけずも返った答えに、ブルーは赤い瞳を丸くした。
ハーレイは「忘れちまったか?」と穏やかに笑む。
「そいつは前のお前だな」
金木犀の香りが好きで、何故なのか思い出せないとしたら。
それは間違いなく前のお前だ、今のお前が金木犀に惹かれる理由が無いなら。
「…知ってるの?」
覚えているの、と驚きに包まれてブルーは尋ねる。自分は忘れてしまったというのに、金木犀の香りに纏わる記憶が無いのに、ハーレイに断言されたから。
今のブルーに金木犀を好む理由が無いなら、それはソルジャー・ブルーのものだと。
「ハーレイ、なんで前のぼくだって言い切れるの?」
「ん? そりゃまあ、なあ…。他にも色々とあった筈だが、始まりが金木犀だしな」
一番最初が金木犀なのさ、お前が言うまで俺も綺麗に忘れていたが。
「…どういう意味?」
「前のお前の女神だ、フィシスだ」
「…フィシス?」
ますますもって分からない、と首を傾げた小さなブルーに、ハーレイは「覚えていないか?」と金木犀の枝を指差した。
「花じゃないんだ、香りの方だな。要するに花の香りってヤツだ」
お前、フィシスは特別だからと…。こう言っても思い出さないか?
「ああ…!」
そうだった、とブルーの脳裏に蘇る記憶。遠く遥かな時の彼方のシャングリラ。
其処に確かに花の香りが、金木犀の香があったのだった…。
ソルジャー・ブルーだった頃のブルーが攫って、ミュウの女神に仕立てたフィシス。
無から生み出され、人類とすら言えなかった少女が欲しくてサイオンを与え、手に入れた。
彼女はその身に地球を抱くと、未来を読むとシャングリラに暮らす仲間を騙して。
フィシスは特別だったから。
彼女の正体が何であろうと、ブルーにとっては大切な女神だったから。
幼い頃から皆の制服とは違う服を纏わせ、天体の間の奥に個室を持たせた。
竪琴が得意なアルフレートを世話係に付けて、フィシスはさながらミュウの姫君。
それでも足りなくて、もっと何か…、と思っていた頃。
フィシスと皆との違いを引き立たせるものが欲しいと思っていた頃。
「香水がいいんじゃないのかい?」
長老たちが集まる会議が終わった後の寛ぎのひと時、ブラウが投げ掛けて来た言葉。
「…香水?」
何のことだか咄嗟に分からず、オウム返しに問い返したら。
「昔はあったよ、この船にもね。あんたが色々と人類の船から奪っていた頃」
「アレじゃ、女性の好きな香りじゃ。たまに物資に混ざっておったじゃろうが」
好きなヤツらはつけておったぞ、とゼルが続きを引き継いだ。
すれ違うとほのかに香ったものだと、ふと振り返ったりもしたものだと。
「そういえば…。あったね、確かにそういったものが」
でも…。香水なんかを作れるのかい?
データベースに作り方とかは入っているんだろうけど…。
「花さえあれば出来るじゃろうて。合成よりも本物が良かろう、可愛い女神のためじゃからな」
ヒルマン、その辺はどうなんじゃ?
「作れるだろうね、本物の花で。今の季節だと…」
「金木犀じゃないかしら?」
居住区の公園で花盛りよ、とエラが応じて、ゼルが頷く。
「うむ、咲いておるな」
あれはいい香りじゃ、わしも好きじゃぞ。あの香りがする女神ともなれば素敵じゃろうなあ…。
金木犀だ、と意見の一致を見たのだけれども、遠い記憶になった香水。
今のシャングリラには存在しない香水。
子供にはちょっと強すぎないか、とエラが慎重な意見を出した。かつて香水が流行っていた頃、傍迷惑なほどに強い香りのものもあったと。
香りの強い金木犀はその二の舞になりはしないか、と。
「心配要らないんじゃないのかい?」
程度ものだよ、とブラウがウインクしてみせた。
「みんながつけてるってわけじゃないんだ、ほんのちょっぴりでも効果のほどは充分さ」
少しだけ使えば強すぎたりはしない筈だよ、子供らしくほんの一滴、二滴で足りるだろ?
ふわっと香ればそれでいいのさ、フィシスの身体からは花の香りがするってね。
花の香りを纏った女神。
それは如何にも特別そうで、神秘的とも思えたから。
何よりフィシスの身体から香しい香りがするというのが素晴らしかったから、花の香りの香水を開発させようと決めた。まずは今が盛りの金木犀で。
ヒルマンがデータベースを調べて、見付け出して来た自然素材の本物の香水の作り方。
遠い昔には本物の花だけで香水を作るには大量の花が必要だったらしいけれども。
その時代よりも技術は遥かに進歩していた。僅かな花からでも香り高い香水が作り出せた。
居住区の公園に咲いた金木犀の花から生まれた香水。
フィシスのためにだけ、生まれた香水。
それを一滴、その身に纏ってフィシスは一層、特別になった。
フィシスが歩けば金木犀の花の香りが漂うと、地球を抱く女神は甘く香しい香りがすると。
「…そっか、最初は金木犀の香りだったんだ…」
忘れちゃってた、と勉強机の上の金木犀を見遣るブルーに、ハーレイが「お前なあ…」と呆れたような顔で頭を振った。
「綺麗サッパリ忘れちまうとは、見事なもんだな。金木犀の香り以外は忘れました、ってか」
お前、物凄く喜んでいたじゃないか。ミュウの女神で花の女神だ、って。
それにフィシスも花の匂いがする水を貰った、って大喜びで…。
シャングリラの中でもフィシスの人気が更に高まったぞ、ついでに金木犀の方もな。
「そうだったっけ?」
「金木犀の後も色々な花の香りを作り出していたが、金木犀の香りが一番強かったからな。香水にしなくても花を取ってくるだけで香りがするから、人気だったぞ」
次の年から金木犀の花をこっそり、制服の下に忍ばせる女性がいた筈だが…。
手袋の中とか、襟元とかにな。
「言われてみれば…。いたね、そういうことをしてた人たち」
ほんのちょっぴり入れておくだけで、ふんわり香りがするんだものね。
恋人がいる女性だったら真似たくなるよね、そういったお洒落。
ようやっと思い出してくれたか、とハーレイの手がブルーの頭をクシャリと撫でた。
「金木犀の香りはフィシスだったんだ。フィシスの最初の香りなんだ」
でもって、今なら。
金木犀の花があったら、香水どころか酒だの茶だのを作り始めるんだな、ゼルたちがな。
「なに、それ?」
「男でも楽しめる金木犀さ。金木犀の香りの酒や茶があるんだ」
茶だと、茶の葉に金木犀の花を混ぜ込んで香りを移して。そいつで普通にお茶を淹れたら、花の香りの茶になるんだな。
酒の方だと金木犀の花を酒に漬け込むわけだが、出来上がるまでに三年かかる。白ワインに花を浸けてあってな、香りも強いが甘みも強い酒なんだ。
「ふうん…」
金木犀のお酒、甘いんだ…。
「お前の場合は茶しか無理だな、酔っ払うからな」
「…金木犀の香りがするお酒だったら、欲しい気もするけど…」
「花の香りを年中楽しめる酒だからなあ、金木犀の香水と同じだな。おまけに甘くてお前みたいなヤツでも飲めるタイプだ、あの酒は」
酒だと言わなきゃ、お前、知らずに飲むかもな?
ソーダとかで割って出される場合も多いと聞くから、「金木犀の匂いだ」って嬉しそうにな。
「そうかも…」
飲んじゃって酔っ払ってしまうかも、とブルーは素直に頷いた。
金木犀の香りはとても好きだから、そんな匂いの飲み物があれば喜んで飲んでしまうだろうと。
その香りがするというだけのことで、酒すらも飲んでしまいかねない金木犀。
幼い頃から生垣にへばりついて動かなかったほど、大好きな香りの金木犀の花。
まさか前世の自分が好んだ香りだったとは…、とブルーは部屋に漂う金木犀の香りを追った。
勉強机の上に置かれた一輪挿し。久しぶりに、と手折って来た枝。
「金木犀の香り、好きだったけど…。まさかフィシスの香りだったなんて思わなかったよ」
前のぼくが好きだった花かと思ってたんだよ、でなきゃあの公園が好きだったとか。
意外過ぎてちょっとビックリしちゃった。
「俺もお前が忘れていたことに驚きだ」
前のお前の記憶かもしれない、ってトコまでは行っていたくせに、何故、出ないんだ。
フィシスなんだぞ、前のお前が欲しがって攫って来たんだろうが。
たかが香水の話ではあるが、漠然と「好き」だけで済ませるとはなあ…。
「これがハーレイだったら忘れたりはしないよ、思い出せるよ」
忘れていたって、ちゃんと思い出すよ。切っ掛けがあれば。
「そうなのか?」
「ぼくの一番はハーレイだしね。フィシスも欲しかったけれど、断然、ハーレイ」
だからハーレイのことなら忘れないんだよ、金木犀の思い出がハーレイだったら思い出したよ。
「そいつは非常に有難いんだが…」
光栄でもあるが、とハーレイは金木犀の枝をチラリと眺めた。
独特の甘い香りを振り撒く、小さいながらも香り高い枝を。
「俺のことなら覚えている、と言われてもだ。金木犀の香りは要らんぞ、俺は」
あんな香りを俺がさせていたら、笑いもの以外の何物でもない。
もしもシャングリラでフィシスの香りが移っていたら、だ。ブリッジに立つ俺から金木犀の花の香りがしてたら、似合わないこと夥しいぞ。
絶対、皆が肘でつつき合いとか、サイオンでヒソヒソ話とか。ネタになるんだ、格好のな。
「…金木犀の香りのお酒だったら?」
「そっちだったら頂いておこう、酒には罪は無いからな」
ただし、そいつは前の俺たちの時代には無かったぞ?
さっきも言ったが、金木犀の茶も、金木犀の酒も今だから飲めるものなんだ。
SD体制の時代には消されちまってた文化の一つだ、誰も作りやしなかった。青い地球と一緒に復活して来た文化さ、ゼルたちは作ろうとも思っていなかった、ってな。
今の時代だから金木犀の香りの酒もあるのさ、とハーレイが片目を瞑ってみせるから。
青い地球で咲いた金木犀の花を白ワインに閉じ込め、香りを移した今の時代の酒だと言うから。
「それじゃ、そのお酒、結婚したら買ってみたいな」
金木犀の香りなんでしょ、一年中。飲めなくてもいいから、香りが欲しいよ。
「そうだな、買って来て俺が飲むとするか。お前は舐めるか、見てるだけでな」
他の地域の酒を沢山扱う、でかい店なら置いているからな。
「なんて名前のお酒なの?」
「桂花陳酒さ」
「いつか買おうね、その桂花陳酒」
金木犀の花の時期でもいいけど、違う季節にも。あの香り、ホントに大好きなんだよ。
「…酒はかまわんが、フィシスはいいのか、フィシスの香りの香水の方は?」
俺は香水のことはサッパリ知らんが、売ってるんじゃないのか、金木犀の香りの香水。
「ぼくは男だから、そんな香水、要らないよ。それに…」
金木犀の香りが何だったのかを思い出してくれた、ハーレイの方がずっと大切。
だから金木犀、来年からはハーレイのために桂花陳酒だ、って思うことにするよ。
それを買わなきゃ、って、いつかハーレイと結婚した時には買うんだ、って。
金木犀の花が咲く季節になったら思い出すよ、とブルーは幸せそうな笑みを浮かべた。
幼い頃から惹かれ続けた金木犀の香り。
フィシスの香りも大切だけれど、それよりもずっと君が大切…、と。
金木犀の香り・了
※今のブルーが好きな金木犀の香り。小さかった頃から好きな香りだったのですけれど…。
元々は前のブルーの記憶。フィシスが一番最初につけた香水、それが金木犀なのです。
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