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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

「ブルー、首の所…」
 赤いわよ、とママに指差された。学校から帰って、ママとおやつの真っ最中に。
「えっ?」
 椅子から立って、ダイニングの壁の鏡を覗き込んだら、ちょっぴりプクッと首に赤いもの。
「…刺されたのかな?」
「どうかしら…」
 ママも立ち上がって、近付いて来て。ぼくの首筋を横から覗いてみたんだけれど。
「あら、虫刺されじゃないわね、これは」
 毛穴が詰まってしまったのね、と虫刺されの薬を持ってたママが笑ってる。きっとダイニングに置いてたんだろう、庭仕事をすると刺されることだってよくあるから。
「これじゃ薬が違うわね」
 取ってくるわね、と吹き出物用の薬を取りに出掛けたママは直ぐに戻って来た。
 小さなチューブの塗り薬。
 ぼくは薬を塗られたんだけど…。



(うーん…)
 簡単には引いてくれない、赤み。
 おやつを食べ終わって部屋に戻っても、まだ赤い。壁の鏡を見てみたら赤い。
 顔じゃなくって良かったと思う。鼻の頭にプックリと赤く出来てたら嫌だ。
(だって…)
 そんな時に限ってハーレイが来るに決まっているんだ、「仕事が早く終わったからな」って。
 鼻の頭に赤い吹き出物が出来た顔なんかを見られたら…。
(笑われるんだよ!)
 ハーレイだったら絶対に笑う。容赦なく笑い飛ばしてくれる。
 出来たのが首で本当に良かった、と思ったんだけど。
(あれ…?)
 首筋にプックリ、赤い吹き出物。何かが記憶に引っ掛かる。



(えーっと…)
 なんだったっけ、と鏡に映ったぼくを見るけど、分からない。
(…前のぼく…?)
 そうなのかな、と一瞬、考えたけれど、それだけは無い。
 前のぼくがいつも着ていた服だと、この辺りはきっと隠れてしまうと思うから。
(もっと上の方じゃないと分からないしね?)
 同じ首でも、もっと上。服で隠れてしまわない場所。
 だから違うよ、さっきから引っ掛かってる首の記憶は前のぼくが持ってたヤツじゃない。
(小さい頃に虫に刺されたとか…?)
 家の庭とか、幼稚園とか。
 それでとんでもなく痛かったとか、とても痒かったとか。
(何なのかなあ…?)
 思い出せないから、余計に気になる。
 気分転換したら分かるかな、って空気を入れに窓を開けようとした瞬間に。
(思い出した…!)
 首筋にぷっくり、赤い吹き出物。
 それは一つじゃなかったんだ。



「…吸血鬼?」
 ハーレイの報告に目を丸くした、前のぼく。
 一緒に朝食を食べながらの「朝の報告」っていう方じゃなくって、ブリッジでの勤務が終わった後に青の間に来ての真面目な報告。
 朝の報告は「一日の予定とかを報告している」とシャングリラ中が思い込んでたけど、ホントは嘘でただの朝食。二人で甘い夜を過ごして、朝御飯を仲良く食べていただけ。
 本物の報告は夜にしていた。
 ハーレイと二人、ベッドに行く前にきちんと済ませた。
 恋人同士としてじゃなくって、ちゃんとソルジャーとキャプテンとして。
 ハーレイがその日の出来事をぼくに伝えて、次の日の予定の報告なんかもするんだけれど。
 其処で出て来た、吸血鬼。
 キャプテンの貌で、大真面目な目をしたハーレイの口から。



「なんだい、それは?」
 そうとしか言えなかった、ぼく。
「吸血鬼ですが」
 ソルジャーは御存知ありませんか、と吸血鬼の説明を始めたハーレイ。
 夜の間に血を吸う怪物。人の生き血を啜る化け物。
 やっぱりそれで合っているのか、と自分の知識を頭の中で確認してから。
「それで、その吸血鬼がどうしたって?」
「出るのだそうです」
「何処に?」
「このシャングリラの中にです、ソルジャー」
 嘘だろう、と絶句したぼく。
 なんでそんなものがシャングリラに…。
 吸血鬼なんか、いるわけがない。あれは大昔の作り話で、伝説の怪物なんだから。
「ですが、ソルジャー…」
 子供たちの多くが怯えております、次は自分の番なのだと。
「どういうことだい?」
「それが、最初は…」
 ハーレイは困惑し切った様子で、キャプテンとしての任務を続けた。
 シャングリラに出るという吸血鬼について、ソルジャーであるぼくに報告するために。



 保護したミュウの子供たち。
 ミュウと判断されて殺される前に、前のぼくや専門の救出班が助けて連れて来た子たち。
 年齢に合わせて、保育部や養育部で面倒を見ているんだけれど。
 よちよち歩きの小さな子供から、ヒルマンたちが教える教室に通う大きな子まで。
 そうした子供が増えたシャングリラは、活気溢れるミュウの楽園。
 名前の通りに楽園だったシャングリラの中、元気に駆け回る子供たち。公園も居住区も、子供の声が響いてた。歓声だったり、泣き声だったり、それは賑やかに。
 なのに…。



 ある日、小さな女の子の首筋に赤い傷痕が出来ていた。それも二つも。
 吸血鬼だ、と大騒ぎになった。
 如何にも牙で血を吸われたような具合に、二つ並んで出来た傷痕。赤く存在を主張する傷。
 吸血鬼が出たに違いない、と決めてかかった子供たち。
 ライブラリーにはSD体制よりも前の時代の本も沢山揃ってた。子供向けの伝説の本も沢山。
 楽しい話に、ためになる話。それに怖くて不思議な話も。
 伝説のドラゴンなんかも人気だったけど、子供たちは怖い話も大好きだから。
 怖すぎて夜に眠れなくなっても、ついつい読んじゃう、怖い本。
 そういった中に、吸血鬼ももちろん入ってる。



「ハーレイ、それは…」
 虫刺されとは違うのかい?
「そういう虫がいますか、ソルジャー?」
 シャングリラでは有害な虫は飼っておりません。
 刺す虫と言えばミツバチですが、あれは「悪戯をすると刺されて痛い目に遭う」と自然の脅威を教えるための面もありますから…。
 あえて針のあるものを飼っておりますが、悪戯をした子供くらいしか刺されませんね。
 何もしていない子供の首を二ヶ所も刺すような虫は、シャングリラにはいない筈ですが。
「…ごめん、ぼくは外にも出るものだから…」
 外にはいるしね、そういった虫も。
 マザー・システムは有害な生物を排除している筈だけれども、あれは一種のご愛嬌かな。
 で、その類の虫がいないとなったら、吹き出物じゃないかと思うんだけどね?
 たまたま二つ、綺麗に並んでしまっただけで。
「常識で考えればそうなのですが…」
 時期と場所とが悪すぎました。
 ちょうど吸血鬼の本が流行っていたのと、首筋に二つという所です。
「だけど、一人に出来ただけなら吹き出物だろう?」
「いいえ、ソルジャー。…吸血鬼にやられたと主張している子供は一人だけではないのです」
「えっ…」
 まさか、と驚いたぼくだったけれど。



 増えているらしい、首に赤い傷痕が二つある子供。
 まるで吸血鬼に噛まれたみたいに、首に並んだ二つの傷痕。
 そういう子供が増えているのだ、とハーレイが真顔で報告するから。
「…どうしてそんなことに…」
 吸血鬼だなんて、君は信じちゃいないだろうね?
「最初に傷痕が出来た子供の友達が酷く怯えていたのだそうです」
 次は自分がやられるかも、と。ベッドが隣同士だから、と。
「なるほどね…」
 子供たちが小さい間は個室じゃなくって、相部屋とでも言うのかな?
 何人かの子供が同じ部屋で寝る。
 集団生活を学ぶという意味でも、大いに役立つ共同生活。
 隣同士で並んだベッドは普段だったら素敵だろうけど、吸血鬼が出たら話は別。
 ハーレイは真面目な顔で続けた。
「吸血鬼が出たと騒がれた次の日の朝、隣のベッドの子供の首にも同じ傷痕が…」
 例の怯えていた子です。その子の首に。
「出来過ぎってヤツじゃないのかい?」
「偶然だろう、と養育部の係やヒルマンたちが納得させたのですが…」
 その次の朝は、同じ部屋に居た別の子供が。
 四人部屋だった全員の首に同じ傷痕が出来たのはその翌朝のことです、ソルジャー。



「それで、現在の状態は?」
「被害は拡大し続けております。被害者は主に女の子ですが…」
 最初の間は面白半分だった男子も、小さな男の子が被害に遭ってからは怯えております。
 次は自分だと、自分の番かもしれないと。
「もちろんノルディには診せたんだろうね?」
「吹き出物だという診断ですが、原因の方が不明です」
 必ず首に二つ並んで。
 しかも吹き出物の薬を塗っても効果は見られず、最初に発症した子も治らないままです。
「…心理的なものなのかな?」
 最初の子は多分、ホントに偶然だったんだろうけど…。
 それから後は恐怖が引き金になって、蕁麻疹が出来るみたいな感じで引き起こされて。
「恐らくは」
 治らないのも、思い込みから来ているのでしょう。
 吸血鬼に目を付けられたのだと、この傷痕は治らないのだと。
 ノルディもそういう見立てですから、いずれ落ち着けば消えるだろうと…。
 とはいえ、放ってもおけないようです。
 子供たちと接する保育部や養育部の若い女性の間にも恐怖感が次第に広がりつつあり…。
「ミュウの悪い癖っていうヤツだね…」
 サイオンを持ち、思念波で会話が出来るミュウ。
 心を共有出来る力は、こういう時には裏目に出る。
 一人が「怖い」と思えば広がる、「怖い」気持ちが広がってしまう。
 枯草に火を放ったみたいに、アッと言う間に燃え広がるんだ、「怖い」気持ちが。



 平和だしね、と溜息をついた、前のぼく。
 アルタミラの地獄は遠い昔になり、今のシャングリラはアルテメシアの雲海の中。
 文字通りミュウの楽園となった白い鯨が、雲の海の中を泳いでいる。
 此処しか知らないミュウの方が増えた。
 アルテメシアの育英都市から救い出されて、この船で大きくなった者たち。
 生き地獄だったアルタミラを体験していない分、精神的には強くない。



 そういえば、と思い当たる節なら一応あった。
 シャングリラの中に張り巡らせてある、ぼくのサイオン。目には見えないサイオンの糸。
 船を守るために、仲間たちのために、見守るために張ったサイオンの糸。
 その糸を通してぼくに伝わる、船の中の様子。
 漠然としたものに過ぎないけれど。ハーレイの報告で「これだったのか」と気付く程度の。
 そうやって感じる、シャングリラの中。
 この間から何かザワついてはいた。子供たちの心がざわめいていた。
 だけど普通の喧嘩か何かなんだ、と放っておいた。ハーレイに訊きもしなかった。
 子供の喧嘩に大人が出るのは良くないから。
 ソルジャーともなれば論外だから。
 だけど…。



(吸血鬼ねえ…)
 本物の吸血鬼に出会ったことはないけど、似たようなのならアルタミラに居た。
 実験と称して、ぼくの血を山ほど抜いてくれたヤツら。
 透明な管を、ぼくの赤い血が流れてゆく。どんどん、どんどん身体の外へと流れてゆく。
 意識が少しずつ遠のいていって、ぼくは「死ぬんだな」って思うんだけれど。
 ふと気が付いたら、ちゃんと生きてる。治療用のベッドの上で目覚める。
 輸血したのか、抜いた血をぼくに戻していたのか。
 そんなこと、ぼくには分からなかったし、意識が無い間に何が起こったのかも分からない。
 何のために血を抜いていたのか、何の実験だったのかも。
(あの時は、確か…)
 吸血鬼が噛むっていう首じゃなくって、腕とか足の血管から抜かれていたけれど。
 成長を止めていた小さなぼくの、細っこい手足に透けて見えていた血管から。
(…首から抜かれたこともあったかな?)
 そういう場合もあった気もする。
 首に刺された管を通って流れてゆく血を見てた気もする。
 吸血鬼に血を吸われた人間は、同じ吸血鬼になってしまうと言うけれど。
 ぼくは白衣の研究者なんかにはなっていないし、あれは吸血鬼じゃなかったわけで。
 血を抜いていただけの、ただの人間。
 ぼくにとっては充分に怖い、吸血鬼よりも遥かに怖くて恐ろしい怪物だったけれども…。



 吸血鬼なんて、いやしない。
 本物が存在するわけがない、と分かっているからハーレイに言った。
「…そもそも吸血鬼なんて、いないだろう?」
 実在するとか、しないとか。
 そんな話は置いておくとしても、このシャングリラには乗せていないよ、そういうものは。
「ですから、外から来るのだと」
 窓をすり抜けて入って来るのだ、と子供たちは怯えておりますが。
「…外からねえ…」
 吸血鬼は蝙蝠の姿に化けて空を飛ぶとは言うのだけれど。
 その蝙蝠が飛んで来た上に、シャングリラの窓から入るだなんて。
 吹き出物の傷痕が派手に伝染するくらいだから、想像力にはキリが無いらしい。
 おまけに今では子供ばかりか、若い女性までが怖がり始めている状態。
 放っておいたらマズそうではある。
 だから…。



 ふふっ、と思い出し笑いをしていた所へ、来客を知らせるチャイムの音。
 前のぼくに吸血鬼の報告をしに来たハーレイじゃなくて、今のハーレイがやって来た。
 ぼくの先生、ぼくの守り役で、ぼくの恋人。
 ママが運んで来たお茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、向かい合わせに腰掛けて。
 「見て、これ」と首を指差した、ぼく。
 まだ赤いままの、ぷくりと小さな吹き出物。
「吹き出物か?」
 珍しいな、お前が吹き出物なんて。
「これ、もう一つあったら思い出さない?」
「何をだ?」
 怪訝そうなハーレイに「此処」って、吹き出物の横の辺りをつついて見せて。
「…吸血鬼」
「ああ、シャングリラの吸血鬼か…!」
 吹き出物が二つ並んで出来たら吸血鬼な。
 何でもかんでも共有しちまう、子供ならではの事件だったが…。
 楽しかったな、ってハーレイが笑う。
 そう、前のぼくたちは、シャングリラに出る吸血鬼を退治することになったんだ。



 白いシャングリラの窓という窓に、ニンニクを幾つも束ねて吊るした。
 展望室の大きな窓はもちろん、公園やブリッジの上にあるドームみたいな強化ガラスにも。
 それだけの窓に吊るすニンニクは流石に船じゃ賄えないから。
 栽培してたら間に合わないから、久しぶりにぼくが奪いに出掛けた。
 アタラクシアだったか、エネルゲイアの方だったか。
 白い雲海の下の都市に潜入して、野菜を流通させるための建物から箱を山ほど失敬して来た。
 ニンニクをたっぷり詰め込んだ箱。
 蓋を開けただけで強い匂いが辺りに漂う、ニンニクが行儀よく詰まった箱を。
 それに、十字架。
 前のぼくたちの時代にも居た、唯一の神様のシンボルだった十字架。
 これはハーレイが頑張った。
 木彫りの腕を生かしてせっせと作った木の十字架。
 手先の器用なクルーも総動員して、「早く作れ」と激を飛ばしながら。
 その十字架を出来た端から窓に取り付け、子供たちの部屋の扉にも付けた。



「もう大丈夫。これで来ないよ」
 ぼくは公園に集まった子たちの頭を撫でながら、上を見上げた。
 強化ガラスのドームは遥かな上にあるから、吊るしたニンニクも、付けた十字架も、サイオンを使ってよく眺めないと見えないけれど。
 それでもきちんと付けてあるからと、窓という窓は全てこうしたから、と。
「でも、ソルジャー…」
 吸血鬼に血を吸われてしまったら吸血鬼になる、とまだ言ってる。
 自分たちは吸血鬼になってしまうのだと、いつか吸血鬼になるのだと。
「怖いわ、ソルジャー。吸血鬼になったら、どうなっちゃうの?」
「私たち、死んじゃう?」
「ソルジャー、吸血鬼はシャングリラから放り出されちゃう?」
 ねえ、どうすればいいの、ソルジャー。
 吸血鬼にならないで済む方法は一つだけしか無いんでしょ?
 血を吸った吸血鬼を見付けて退治しないと、私たち、死んだら吸血鬼でしょ…?
 怖い、と震えている子供たち。ぼくを見上げている子供たち。
 首に二つの吹き出物を並べて、怯えた色が浮かんだ瞳で。



 吸血鬼が外から来なくなっても、それじゃ駄目だと言う子供たち。
 自分たちは吸血鬼になってしまう、と信じ込んでいる子供たち。
 ニンニクを山ほど吊るしてみたって、十字架を沢山付けておいたって、まだ足りない。
 子供たちの恐怖を拭い去るには足りないんだ、というわけで…。
(仕方ない…)
 前のぼくは子供たちの前で宣言した。
「分かった。じゃあ、ぼくが吸血鬼を退治するから」
 アルテメシアに下りて、吸血鬼の墓を見付けて倒すよ。
 そうすれば吸血鬼は二度と来ないし、君たちも吸血鬼になる心配が無くなるからね。
「退治するって…」
 ソルジャー、ホントに大丈夫?
 吸血鬼なんだよ、相手は普通じゃないんだよ?
 首に傷痕の無い男の子たちまでが、ぼくを心配してくれたけれど。
「大丈夫、ぼくなら心配要らない」
 ソルジャーだからね。
 吸血鬼なんかに負けるようでは、ソルジャーをやってはいられないよ。



 これがホントの嘘八百。
 ハーレイが作った木の杭を持って、ぼくはシャングリラから飛び立った。
 吸血鬼を退治するには、墓を暴いて心臓に木の杭を打ち込むこと。
 トネリコかサンザシの木で作った杭が一番いいと言うから、それの杭だよ、って。
 もちろんそんな木、簡単に用意が出来るわけない。
 ただの木の杭、倉庫にあった木材をハーレイが適当に選んで削っただけ。
 でも、子供たちは気付きやしない。
 ぼくが抱えて持って来たってだけで信頼の眼差し、本物だって信じてる。
 吸血鬼を倒せる最強の杭だと、トネリコかサンザシの木の杭なんだと。
 杭を抱えて「行ってくるよ」って微笑んだ、ぼく。
 いつもは瞬間移動でシャングリラの外へ出るんだけれども、わざわざ船のハッチから出た。
 ちゃんと出てった、って印象付けなきゃいけないから。
 それから船の周りをクルリと飛んで、展望室に並んで見送る子たちに手を振って、下へ。
 雲海の下のアルテメシアへ…。



(吸血鬼退治か…)
 人類だってビックリだろうな、とクスクス笑いながら杭を抱えて都市の上を飛んだ。
 まさかミュウの長が吸血鬼退治に出て来ただなんて、誰も思いやしないだろう。
 ぼくの宿敵の、テラズ・ナンバー・ファイブでさえも。
 でも、吸血鬼は退治しなくちゃならない。
 思い込みで生まれた吸血鬼だって、退治しないとシャングリラが不安と恐怖に包まれるから。
(さて、と…)
 退治した証拠が要るんだよね、と山の中に下りた。
 吸血鬼が眠っていそうな墓地じゃなくって、ただの山の中。ハイキング向けの郊外の山。
 ぼくのお気に入りの隠れ場所がある山で、潜入する時に時間潰しに下りたりもする。
 森の中にぽっかり開けた、小さな空地。木を切り倒した後に生まれた空地。
 其処で木の杭をサイオンで燃やして、灰を持って来たハンカチに包んだ。
 吸血鬼は死ぬと灰になるから、灰になって散ってしまうと言うから。



 それから、ぼくは白いシャングリラへと戻って行った。
 ミュウの長が吸血鬼退治をしていたとも知らないテラズ・ナンバー・ファイブが潜む洞窟の奥は覗きもしないで、青く澄んだ空を飛び、雲海の中へ。
 瞬間移動で公園に飛び込んだぼくを、遊んでいた子供たちがワッと一斉に取り囲んで。
「ソルジャー、やったの!」
 退治して来たの、吸血鬼を!
「うん、もちろん」
 木の杭を持っていないだろう?
 ちゃんと吸血鬼の心臓に打ち込んだからね。
「吸血鬼は?」
「灰になったよ、ほら、これが証拠」
「こわーい!」
 怖い、と子供たちは叫んだけれども、ハンカチに包んだ灰の効果は絶大だった。
 吸血鬼は心臓に杭を打ち込まれると死ぬ。灰になって散り、跡形もなく滅びてしまう。
 そしてシャングリラから吸血鬼は消えた。
 子供たちの首に二つ並んでいた牙の跡も、吹き出物の傷痕も綺麗に消えた。
 窓という窓に取り付けてあった、ニンニクと十字架をドッサリ残して。



「ねえ、ハーレイ」
 あれから暫く、ニンニクの料理が続いたっけね…。
 何かって言えばガーリック風味で、そういう味付けの出来る料理は何でもニンニク。
「どれも美味かったが?」
 ローストチキンも、煮込み料理も。炒め物だってニンニクが入ると味が深くなるしな。
「うん、今だってガーリック風味のお料理、美味しいよね」
「ああ、美味いな。しかしだ、お互い…。いや、なんでもない!」
 不自然に断ち切られた話。
「なあに?」
 何がなんでもないの、と首を傾げたけど、ハーレイの顔が赤いから。
 ひょっとしたら、と、ピンと来た。
 これは訊いてみる価値があるな、って閃いた、ぼく。
 だから、ハーレイの鳶色の瞳をじいっと見上げて、それから不意打ち。



「…お互い、ガーリック味のキスで良かった、って?」
「読んだのか!?」
 お前、読めたのか、不器用なのに!?
 いつの間に読んだ、俺の心を!
「ふふっ、引っ掛かった!」
 無理だよ、ぼくのサイオンは不器用なんだから。
 それにハーレイ、タイプ・グリーンでしょ、防御と同じで遮蔽も凄く強いじゃない。
 読めやしないよ、って、ぼくが笑ったら、ハーレイは真っ赤。
 トマトみたいに真っ赤な顔して、「チビに鎌を掛けられて引っ掛かるとは…」って呻いてる。
 俺としたことが、と、チビにまんまとしてやられた、と。



(大当たりだよね、冴えてるよ、ぼく)
 吸血鬼のことを思い出したお蔭で、今日は素敵な拾い物。
 前のぼくとハーレイが交わしてたキス。
 ガーリック味のキスは生憎、全く覚えていないんだけれど。
 今夜の料理にもしもニンニクが使ってあったら、ちょっぴり嬉しい。
 だって、ハーレイのキスの味。
 ハーレイのキスの味の一つはガーリックだよ、って幸せな気持ちで食べられるから…。




        吸血鬼・了

※シャングリラで起きた吸血鬼騒ぎ。ミュウならではの出来事ですけど、問題は子供たち。
 ソルジャーとキャプテンの吸血鬼退治、そんな事件もあったらしいのがシャングリラ。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







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 庭で一番大きな木の下、ぼくのお気に入りの白いテーブルと椅子が置いてある。あそこで何度もハーレイと過ごした。ハーレイが来ない日に、ママと座ったことも何度か。パパとだって。
 最初は白くなかったけれど。
 ハーレイが持って来てくれた、キャンプ用のテーブルと椅子だったんだけど…。
 まだ夏休みが始まる前で、だけど季節は光が眩しい、木漏れ日がとっても綺麗な頃。ハーレイと二人、其処に座ってドキドキしながら午前中のお茶の時間を楽しんだ。
 テーブルの上にあった、懐かしいシャングリラの姿。白い鯨の形に見えた木漏れ日。ハーレイが見付けて教えてくれた。
 お日様が動いて無くなってしまうまで、シャングリラの形が消えてしまうまで二人で眺めた。
 遥かな昔にぼくたちが暮らした船の姿を、地球の太陽が作り出してくれたシャングリラを。



(あの日もパウンドケーキだったんだよ)
 木漏れ日のシャングリラを映すテーブルで食べていたお菓子。
 ハーレイの好物のケーキだから、ってママが焼いてくれた。ぼくのママが焼くパウンドケーキはハーレイのお母さんのパウンドケーキとおんなじ味がするんだって。
(ぼくもハーレイに焼いてあげられるようになりたいな…)
 ママと同じ味のパウンドケーキ。ハーレイが自分で作ってみたって、お母さんの味にはならないらしいパウンドケーキ。
 それを焼くのがぼくの夢だけど、今はまだ無理。
 ぼくの背丈は百五十センチから伸びないままで、ハーレイとキスも出来ないから。結婚どころかプロポーズもして貰えないチビで、結婚の準備にって料理の練習なんかは出来ない。
(絶対、ママに怪しまれるしね…)
 今の所は諦めるしかない、ママにパウンドケーキの焼き方やレシピを教わること。
 だけどいつかは習わなくっちゃ、と決めている。ぼくの大好きなハーレイのために。



 そんな決心までしているぼくの、一番最初のデートの場所。
 庭で一番大きな木の下、今のとは違うものだったけれど、テーブルと椅子とを置いて座った。
 忘れられない、大切なデート。
 ハーレイとぼくの初めてのデート。
 光のシャングリラが揺れるテーブルで、ハーレイの好きなパウンドケーキと…。
(それに冷たいレモネード!)
 氷が入った涼しげなグラスは、よく冷えて露を纏ってた。
 酸っぱくて甘いレモンのジュースをハーレイと二人、ストローで飲んだ。
 テーブルの上の木漏れ日のシャングリラに見守られながら、うんと幸せな時間を過ごした。
(庭でレモネードも、あの日が初めてだったんだっけ…)
 身体が弱いぼくはパパやママと庭でピクニックしていたことも多いんだけれど。
 山や野原に出掛ける代わりに庭でお弁当を食べたりしたけど、レモネードは庭で飲んでない。
 庭でピクニックをしてた頃のぼくは小さかったから、レモネードは出ては来なかった。ごくごく普通にミルクだったり、子供向けの甘いジュースとか。
 ちょっぴり酸っぱいレモネードはぼくの記憶には無くて、ハーレイと飲んだあれが初めて。



 今の季節は、冷たいレモネードはもう似合わないけれど。
 飲むならホットで、ってほどに寒くもないから、ママはレモネードを作らないけど…。
(レモネードかあ…)
 よく冷えたレモネードが懐かしくなった。
 氷を浮かべたレモネード。あの日の、ぼくの初デートの味。
(パウンドケーキは今だって焼いているのにね…)
 「ハーレイ先生がお好きだものね」って、パウンドケーキを作るママ。ぼくのおやつにも何度も出て来て、その度に「ハーレイのお母さんの味なんだな」って思いながら食べるパウンドケーキ。
 だけど出て来ない、レモネード。
 ぼくのおやつにも、ハーレイが来てくれた時のお茶にも、今はレモネードは出て来ない。
 もうちょっと寒くなったらママに頼もうかと思ったけれども、温かいのだと少し違うんだ。
 ぼくの初デートの思い出の味は、氷が入ったレモネード。
 暑い季節が似合う飲み物、涼しさを感じさせてくれる飲み物。
 身体の芯から温まるための湯気の立つレモネードとは違うと思うし、それじゃ別物。
 ぼくはあの日に飲んだレモネードが飲みたいのに。
 冷えたレモネードが飲みたいのに…。



 だけど次の夏まで出会えそうにない、あの日の飲み物。うんと冷たいレモネード。
 あれが飲みたい、って勉強机の前に座って頬杖をついて考えていたら、チャイムが鳴った。窓に駆け寄って見下ろしてみると、やっぱりハーレイの姿があって。
 ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせに座ったけれども、いつもの紅茶。お菓子と一緒にママが運んで来た紅茶。
 やっぱりレモネードは出やしない。あの日のレモネードは出て来やしない…。
「…レモネード…」
 つい唇から零れてしまった、残念な気持ち。
 ハーレイが「ん、どうした?」って訊いてくるから。
「レモネードがいいな、って思うんだけど…」
 紅茶じゃなくって、レモネード。とっても飲みたい気分なのに…。
「お母さんに頼めばいいじゃないか」
 今日は無理だが、明日のおやつにはちゃんと作って貰えるだろう?
 明日になったらもう要らない、って気分がするなら、その程度のものさ。
 大して重要なわけじゃないんだ、今のお前のレモネード気分。
「それじゃ違うんだよ!」
「はあ?」
 何処が違うと言うんだ、お前。
 どうしても今でなくては駄目だと言うならただの我儘だぞ、ガキと変わらん。
 それともアレか、お母さんの作るレモネードじゃなくて、売ってるヤツが飲みたいのか?
 気に入りの味でも見付かったか?



 ハーレイが怪訝そうな顔をするから、ぼくは唇を尖らせて言った。
「ママのレモネードには違いないけど、これからの季節はダメなんだよ」
「どういう意味だ?」
「初デートの味のレモネード!」
 冷えたレモネードがいいんだよ。それが飲みたいから、ホットじゃダメ!
「あ、ああ…」
 アレな、と答えるハーレイの目がなんだか遠い。焦点がずれた鳶色の瞳。
「…どうかした?」
「いや…。そういや冷たいレモネードだったな、あの日はな。…その話か」
 なんだか素っ気ないハーレイ。
 もっと懐かしんでくれてもいいのに、ぼくたちの初デートだったんだから。それにデートだって言い出したのはハーレイの方で、そのためにテーブルと椅子を持って来たんだ、って…。
 ぼくが「いつもと違う場所で食事をしてみたい」って前に強請ったのを覚えててくれて。
 それなのに反応が鈍いハーレイ。目の焦点までずれてたハーレイ。
 ホントにおかしい。絶対、おかしい。
 ぼくは変なことを口にした覚えなんか無いし、レモネードって言っただけなのに。
 初デートの日に飲んだのと同じレモネードが飲みたいって言っただけなのに…。



 疑問と不満が膨らむ、ぼく。
 ぼくたちの記念すべき初デートの日のこと、ハーレイはなんて思っているんだろう?
 何を食べたか、何を飲んだか、そんなのどうでも良かったとか?
 デートなんだぞ、って言ってくれたのも、お愛想みたいなものだったとか?
「…ハーレイ、懐かしくないの?」
 ぼくとハーレイとの初めてのデート。あの日が初めてだったのに…。
「そりゃ懐かしいさ」
 懐かしくないわけがないだろ、今のお前との初デートだしな?
「だったら、なんで遠い目、してたの?」
 ぼくは見てたよ、ハーレイの目が遠かったのを。
「なんでもない」
 ちょっと考え事をしていたもんでな、そのせいだろう。
「そんなことない!」
 考え事なんて、嘘に決まってる。だって、直前まで会話は途切れてなかったんだから。
 どうして、とぼくは問い詰めた。
 冷たいレモネードの何処がいけないのか、初デートの何処が悪いのか、と。



 聞き出すまでは諦めない、って気迫が伝わったんだろう。
 ハーレイは眉間に皺を寄せると、腕組みをして「うーむ…」と低く唸った。
「お前に言ったら、やたらと喜びそうだしなあ…」
「何が?」
 ぼくは怒り出したい気分だけど?
 初デートとレモネードを軽くあしらわれて、頭に来そうな気持ちなんだけど。
 それがどうやったら喜ぶ方に行ってしまうのか、全然サッパリ分かんないけど!
「…初デートでレモネードな所が問題なんだ」
「えっ?」
「そいつのせいで俺は遠い目になって、お前は知ったら喜びそうだ、と」
 いいか、初デートでレモネードだ。
 どうやらお前は俺が喋るまでは諦めそうもないからなあ…。
 黙ったままだと膨れっ面になって怒りそうだし、仕方ない、腹を括るとするか。



 ハーレイはフウと溜息をつくと、まだ腕組みは解かないままで。
「…あの日は何とも思わなかったし、今、ようやっと気が付いたんだが…」
「何に?」
 ねえ、ハーレイ。初デートでレモネードって何かおかしな意味でもあったの?
「ずうっと昔の話なんだが…。SD体制が始まるよりも遥かに昔のことなんだが…」
 それも、この地域限定だぞ。此処が日本って小さな島国だった頃。
 …初めてのキスはレモンの味だ、っていう噂がな。
「ええっ!?」
 どうしてレモン?
 初めてのキスがなんでレモンの味になるわけ?
「そういう歌詞の歌が流行っていたんだ、「レモンのキッス」ってタイトルのな」
 当時の地球で有名だった男性歌手の娘が歌った曲をだ、日本で別の歌手が歌った。
 元の曲は「レモンのキッス」ってタイトルでもなきゃ、歌詞も全く違ったらしいが…。
 そいつが由来だ、それで初めてのキスはレモンの味ってことになったんだ。
 もっとも、レモンの味って噂は、後にはイチゴに変わっちまったそうだがな。
 しかし始まりはあくまでレモンだ、初めてのキスはイチゴ味じゃなくてレモンの味だ。
 …もう分かるだろ?
 初デートでレモネードだと言われた俺の目が一瞬、遠かった理由。



 ポカンと口を開けちゃった、ぼく。初めてのキスはレモンの味…。
「…それも古典の範囲なの?」
「少し違うな、古い本なんかを調べていったら偶然出会った情報ってトコか」
 面白いな、と思ったから忘れずにいたんだな。あの日は綺麗に忘れ去っていたが。
「…じゃあ、あの日に飲んだレモネードって…」
 初めてのキスの味だったの!?
 初デートで初めてのキスの味の飲み物を一緒に飲んだの、ぼくとハーレイ?
「そういうことになるようだぞ」
 うんと昔のこの地域ならな。初めてのキスはレモンの味だって言うんだからな。
「…もっと味わって飲めば良かった…」
 せっかくのレモネードだったのに…。
 レモンの味がする飲み物なのに、初めてのキスの味だったのに…。
「おい、落ち込むな」
 俺だって綺麗に忘れていたんだ、仕方ないだろ。
 それに落ち込んでも、今の季節に冷たいレモネードは多分、作って貰えないだろうさ。
 お前が勝手に買うならともかく、お母さんは作ってくれないな。
 身体を冷やすと良くないからなあ、お前みたいに弱すぎるチビは。



 耳寄りな話を聞いたというのに、過ぎてしまった冷たいレモネードが飲めるシーズン。
 それに初デートの時には気付きもしないで飲んでしまった、初めてのキスの味だから…。
「…ハーレイ。あの日、初めてのキスもしました、ってことにしておいてもいい?」
 ハーレイ、キスしてくれないんだもの。
 初めてのキスの味のレモネードを二人で飲んだし、あれがぼくたちの初めてのキス。
「お前が勝手に想像するのはかまわんが…」
 あの時だけだぞ、あの日だけだ。
 今後、レモネードを出して来たって無駄だからな。
 あくまで初めてのキスの味なんだ、初めてが何度もあったら困る。



 あれっきりだ、とハーレイは苦い表情だけど。
 それでも瞳は笑ってるから、お許しは貰えたんだろう。あのレモネードが初めてのキス。
 だけど…。
「…だけど、レモンの味だったっけ?」
「何がだ?」
「前のぼくたちの初めてのキス」
 レモンの味がしてたんだっけ…?
「おっと、そこまでにして貰おうか」
 お前の話にはそうそう釣られん。昔話もたまにはいいがな、キスの話はお断りだ。
 その先となったら御免蒙る、俺は一切、応じないからな。



 聞きもしないし聞いてもやらない、と見事に突っぱねてくれたハーレイ。
 前のぼくたちの初めてのキスを語る代わりに、別の方へと行っちゃったんだ。
「そもそも、シャングリラでレモンと言えば、だ」
 どちらかと言えば料理用だったぞ、レモネードじゃなくて。
 ジュースはオレンジとかブドウとか…。小さな子供でも飲めるジュースがメインだろうが。
「そうだったっけ…」
 今のぼくも小さい頃にはレモネードは飲んでいなかったよ。
 小さい子供は酸っぱいのとか、炭酸入りでシュワシュワするのが苦手だったりするものね。
「うむ。だからシャングリラでレモネードは決して定番ではない」
 いつでも飲めるってわけじゃなかったから、前のお前はレモンの味にさほど思い入れってヤツは無いってな。少なくとも俺の記憶には無い。
 レモンよりかはオレンジだったな、前のお前がこだわりを示した柑橘類は。
 もっとも、そいつも「シャングリラにオレンジがあって良かった」って言ってた程度だが。
 あれがジョミーの好物だから、と。
「ああ、オレンジスカッシュ…!」
 ジョミーがシャングリラに連れて来られてしょげていた時、よく運ばせたよ。
 厨房に思念を飛ばして作って貰って、お菓子を添えてジョミーの部屋まで。
 でも…。前のぼくだってレモネードをたまに飲んでたよ?
「たまにだろうが、レモネードがジュースのメニューに入ってた時に」
 注文してまで作らせてないぞ、前のお前は。
 親しみがあったレモンってヤツは料理の方だと思うがな?
「…そうなんだけど…」
 肉料理にちょっと添えてあったり、魚料理に搾ってみたり。
 前のぼくがレモンで思い出すものは、そっちの方が多いんだけど…。



 シャングリラでもレモンは栽培してた。だけど、ハーレイが言う通り。
 レモネードを作るためのレモンじゃなくって、料理用に育てていたレモン。たまにレモネードになったりするけど、大抵は料理に使われていた。あとは…。
 何だったっけ、と考えていたら、とっくに腕組みを解いてたハーレイがニッと笑って。
「そういや、今日の紅茶は助かったな」
「えっ?」
「ミルクティーだしな?」
 お好みでどうぞ、とミルクつきだ。こいつは実に有難いってな。
「そうだ、レモンティー!」
 シャングリラにもあった、レモンティー。スライスしたレモンが添えられた紅茶。
 今のぼくの家でも、ママがお菓子やその日の気分で選んでる。
 ミルクかレモンか、どっちを添えて持ってくるかを。
 こんな話になると分かっていたなら…。



「…レモンティー…」
 ママに頼んでおけばよかった、と項垂れた、ぼく。
 もしもレモンティーを頼んでいたなら、ハーレイと二人、レモン味の紅茶を飲めたんだ。
「おいおい、レモンの味ってヤツはだ、初めてのキスに限るんだがな?」
 二回目以降はカウントされんぞ、それは初めてじゃないからな。
 お前はレモンにこだわっているが、何度お前とレモンティーを飲んだと思っているんだ。
 ついでに料理の付け合わせの方でも何度も食ったな、レモンをな。
「それじゃ、初めてのキスの味なのは、あの日に飲んだレモネードだけ!?」
「そうなるな」
「酷い!」
 どうして一回きりしかダメなの、ぼくは気付いてもいなかったのに!
「うんと嬉しい偶然だろうが、初めてのデートでレモンの味の飲み物なんだぞ」
 初めてのキスの味のレモンだ、そいつを詰め込んだレモネードだ。
「酷いよ、あの時、ぼくには教えてくれなかったくせに!」
「さっきも言ったろ、忘れていたんだ、俺だってな」
「本当に?」
「本当だとも」
 覚えていたなら、思い出していたなら、こっそり耳打ちしてやったさ。
 こいつは初めてのキスの味だと、初めてのキスはレモンの味って言うんだ、と。
 お母さんたちから丸見えの庭のテーブルでもな。
「そっか…。ホントに忘れていたんだ、ハーレイ…」
 聞きたかったな、あのデートの日に。
 レモネードを飲みながら聞きたかったな、初めてのキスはレモンの味だ、っていう話。
 今頃になって分かっただなんて、なんだか残念…。
 あの時のレモネード、初めてのデートで初めてのキスの味だったのに…。



「お前には申し訳ないが…。時間は元には戻せないってな」
 あの時は俺と一緒にレモネードを飲んだな、って思い出すしかないってことだ。
 レモネードだったと、初めてのキスの味だったんだ、と。
「…前のぼくたちの初めてのキスも、ちゃんとレモンの味だった?」
「それに関しては話してやらん、と言っただろうが」
 もちろん味なぞ教えてやらん。本当にレモンの味だとしてもな。
「ハーレイ、やっぱり覚えているの?」
「どうだかな?」
 お前みたいにチビじゃない分、記憶はハッキリしているかもな?
 前のお前とキスをした頃と変わらない姿になっているしな、記憶もうんと鮮やかかもなあ…。
「お願い、教えて!」
 前のぼくたちの初めてのキス。
 レモンの味だったか、そうじゃないかだけでもいいから教えて、お願い、ハーレイ!
「駄目だな、チビのお前にはレモネードまでだ」
 俺とキスさえ出来ない子供のお前に教えられるのは、レモンの味のキスまでだ。
 あの日のレモネードは初めてのキスの味だったな、って思い出すだけで我慢しておけ。
「ハーレイのドケチ!」
 意地悪でドケチで、ぼくを苛めて遊んでるんだ!
 いい思い出を自分一人だけでしっかり抱えて、ぼくには分けてくれないんだから!



 プウッと膨れた、ぼくだけれども。
 前のぼくたちが初めて交わしたキスの味さえ、思い出せないぼくなんだけど。
(レモネード…)
 今のハーレイとの初めてのデート。
 庭で一番大きな木の下、木漏れ日のシャングリラを見ていたデート。
 幸せだったあの日に初めてのキスの味の飲み物を飲んでいたと分かって、嬉しくなった。
 初めてのキスはレモンの味。
 そう歌われた、遠い遥かな昔の地球の日本にあった曲。
 ぼくとハーレイは日本という島国があった地域に生まれて、其処で出会った。
 そして初めてのデートをした日に、一緒にレモンの味を纏った甘くて冷たい飲み物を飲んだ。
 初めてのキスは交わせてないけど、キスの代わりにレモンの味がするレモネード。
 向かい合って飲んで、二人で話した。
 木漏れ日のシャングリラを眺めて遠い昔を懐かしみながら、二人きりの時間を庭で過ごした。
 あれがぼくたちの初めてのデート。
 初めてのキスの味のレモンをたっぷり使ったレモネードつきで、木漏れ日の下で。



(初めてのデートでレモネードだよ?)
 ハーレイが忘れちゃっていたから、あの時には聞けなかったけど。
 初めてのキスを交わす代わりに、レモンの味のレモネード。
 今のぼくには交わせないキスがどんな味なのか、気分だけでも、ってレモネードがあった。
 知らずに飲んでしまったけれど。
 気付かずに飲んでしまったけれども、あれが初めてのキスの味。
(ちゃんとレモネードが出て来てたなんて…)
 ママが作って、ハーレイの好きなパウンドケーキと一緒に庭まで運んでくれたレモネード。
 初めてのキスの味のレモンをギュッと詰め込んだ、甘くて酸っぱいレモネード。
 だから…、と胸が温かくなった。
 やっぱりぼくとハーレイの間には、きちんと運命の糸があるんだ。
 前のぼくたちを結んだ糸は切れてしまったのか、無かったのかは分からないけれど。
 それは永遠に分からないけど、今はある筈の運命の糸。
 ぼくとハーレイの小指にはきっと、赤い糸が結んであるんだよ。
 神様が結んでくれた糸。
 いつかはハーレイとホントにキスして、ちゃんと結婚出来る糸。
 その日が来るよう、ぼくとハーレイとを繋いでくれてる、小指に結ばれた赤い糸…。



(初めてのキス…)
 ぼくがハーレイと初めてキスを交わす時には、レモンの味がするんだろうか?
 遠い昔の歌のとおりに、ハーレイが教えてくれたとおりに。
 それとも、いつの間にかレモンと入れ替わっちゃったらしいイチゴの味?
 どっちなのかな、と心がときめく。
 レモンか、イチゴか、どっちの味がするんだろうと。
(…前のぼくは覚えていないものね…)
 前のハーレイと初めて交わしたキスの味を覚えていない、ぼく。
 ハーレイは覚えているみたいなのに、思い出せない、ちっぽけなぼく。
 思い出せたら、レモンかイチゴか、今すぐにだって分かるのに…。
 でも、いつか。



(きっと、前のぼくたちの初めてのキスの味だって、ぼくは思い出せるよ)
 その時が来たら。
 もう一度、ハーレイと初めてのキスが出来たら。
 それまでの間はレモネードの味だったってことで我慢しておこう、初デートの時の。
 初めての時しか意味が無いみたいだから、これから先にぼくがレモネードを飲んだとしたって、そのレモネードはキスじゃなくって「ただの飲み物」なんだけど…。
 冷たくっても温かくっても、レモン味ってだけのただの飲み物なんだけど…。
 それを思うとちょっぴり残念な、味わい損ねたレモネード。
 初めてのデートで木漏れ日の下で、ハーレイと飲んだ冷たくて酸っぱいレモネード。
 だけどやっぱり嬉しくなるんだ、初めてのデートで初めてのキスの味だから。
 初めてのキスの味がするという、レモンの味の飲み物だから。
 そんなレモネードが出て来たってことは、運命の糸があるって印。
 ぼくとハーレイ、お互いの小指に赤い糸。
 その糸で繋がって、距離がどんどん短くなって。
 いつか必ず結婚するんだ、レモンの味がするかもしれない初めてのキスを交わしてから…。




         レモンの味・了

※ハーレイとの初めてのデートの思い出、レモネード。今の季節は冷たいのは無理。
 其処へ聞かされたレモンの味とキスの関係、初めてのキスの味が気になるブルーです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv



そろそろ夏休みの声が聞こえて来そうな七月の初め。近付いてくる期末試験対策など完全に無視が1年A組、それに輪をかけて何もしないのが私たち七人グループです。今日も今日とて、土曜日とあって会長さんの家に遊びに来ていたり…。
「かみお~ん♪ お昼御飯はグリーンカレー! トムヤムクンも作ってみたよ!」
夏はやっぱりスパイシー! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が呼びに来てくれ、ダラダラしていた広いリビングからダイニングの方へと大移動。席に座って…。
「「「いっただっきまーす!!!」」」
「ちょっと待ったぁ!」
ぼくの分が、と余計な声が。いつの間に湧いたか、会長さんのそっくりさんが紛れてテーブルに着いています。当然ながらカレーのお皿もトムヤムクンもその前には無く。
「ぶるぅ、ぼくの分のカレーもあるよね?」
「うんっ! ちょっと待っててねー!」
お客様だぁ~! と飛び跳ねていった「そるじゃぁ・ぶるぅ」は直ぐにソルジャーの分のお皿を運んで来ました。そこで改めて「いただきます」となったわけですが。
「…君はいったい何しに来たわけ?」
会長さんの険しい目つきに、ソルジャーはトムヤムクンをスプーンで掬いながら。
「何って…。お昼御飯だけれど? 今日の食事はイマイチだったし」
断然こっちの方がいい、と言うソルジャーの世界のシャングリラ号も昼食はカレーだったらしいです。けれどいわゆる普通のカレーで、スープも定番のものだったとかで。
「同じカレーなら素敵な方を食べたいじゃないか。…というわけで、こっちで昼食」
「………。それだけかい?」
「それだけだけど?」
まだ何か、と返すソルジャー。
「ハーレイとの仲は至極円満だし、夜の生活にも不満は無いし…。何か理由が欲しいんだったら、作ろうか?」
「い、要らない! ゆっくり食べてってくれればいいから!」
お代わりも遠慮なく食べてくれ、と顔色を変える会長さん。ソルジャーが来るとロクな展開にならない事例が多数なだけに、警戒する気持ちは分かります。とはいえ、何も起こらない時の方が割合としては大きいですから、今日も平穏な日なのでしょう。
「ぶるぅのカレーは美味しいねえ…。来て良かったよ」
トムヤムクンも絶品だし、とソルジャーは食欲旺盛です。私たちの方もホッと一息、ソルジャーも交えてお喋りタイム~。



話題は昼食前と同じであちらこちらと飛びまくり。今年の夏も暑そうだとか、夏といえばそろそろお盆だとか。中身も無ければ脈絡も無い会話に花が咲きまくりな中。
「…そうだ、馬って高かったんだねえ…」
ジョミー君の唐突な台詞に、誰もが「はぁ?」と。
「馬ってアレかよ、乗って走るヤツ?」
サム君が訊くと「うん」という答え。
「マツカの山の別荘に行ったら乗ってるからさ、あんなに高いとは思わなくって」
「…何が高いんだ? 馬の背丈か?」
馬の種類によるだろう、とキース君が返しましたが。
「違うよ、馬の値段だよ! 家より高いとは思わなかったな」
「そっちも色々ありますよ」
マツカ君が控えめな声で。
「血統とかで決まるんです。いい馬だったら凄い値段がつきますけれども、そういう馬でもレースで結果が出せなかったら値が下がることもありますしね」
「そうだったわけ? だったら、ぼくたちが乗ってる馬は?」
「あそこの馬も色々ですね。競走馬だった馬もいますし、ごく普通のも。…乗馬クラブですから、元競走馬と言ってもそこそこですけど…」
いい成績を出していた馬は繁殖用に回されますし、とマツカ君が説明した所で。
「そう、それ、それ! なんかそういう牧場だった!」
「「「は?」」」
またしても『?』マークの乱舞ですけど、ジョミー君は。
「何処だったかなぁ、外国のニュースだったんだけど…。レース用の馬を育ててる牧場で事故があってさ、下手すると凄い損害らしいよ」
「「「事故?」」」
「うん。なんか世界でも指折りの血統の親から生まれた馬をさ、預かって育ててたみたいなんだ。とっくの昔に買い手がついてて、持ち主はオイルダラーだったかな? そういう馬が蜘蛛に噛まれて重体だって」
「「「蜘蛛?」」」
なんじゃそりゃ、と誰もが思いましたが、蜘蛛は蜘蛛でも毒蜘蛛らしく。
「きちんと治れば問題無いけど、死んじゃったりしたら大損害、ってそういうニュース」
「…そりゃそうだろうねえ…」
大損害だ、と会長さん。ジョミー君曰く、重体の馬は豪邸が楽々買えるお値段だそうで、牧場の人も馬の持ち主も、これはもう御愁傷様としか…。



一噛みで高額の損害を与えそうだという毒蜘蛛。とんでもないモノがいるものだ、と話題は馬から毒蜘蛛の方へ。
「この国に居なくてよかったよなぁ、そういうヤツがよ」
平和で良かった! とサム君が言えば、シロエ君が。
「一撃必殺まではいかないですけど、最近、いるじゃないですか。外国から入って来たとかで」
「いたな、そういう物騒なのも」
寺にとっては悩みの種で、とキース君。
「側溝とかによく居るらしくて、暖かい地方の寺なんかだと墓地の掃除に来た檀家さんが見付けて大騒ぎってこともあるそうだ。駆除するのは寺の仕事になるから大変なんだぞ」
「それ、元老寺にもいるのかしら?」
スウェナちゃんの問いに、キース君は即答で。
「居られてたまるか! アルテメシアでも出たというニュースは聞いているしな、業者さんに定期的に調べて貰っているんだが…。その分、管理費が少々高めに」
「でも馬よりは安いよねえ?」
その管理費、とジョミー君。
「当然だ! そんな巨額の出費になったら赤字どころか倒産だ!」
「良かったですねえ、キース先輩。とんでもない毒蜘蛛の居る国じゃなくて」
「まったくだ。そんな毒蜘蛛に檀家さんが噛まれたとなれば大惨事だしな。…まあ、この国にも毒蛇なんかはいるわけだが」
「南の島のは強烈ですよね」
キース君とシロエ君が毒蛇談議に突入しました。南の島の蛇はヤバイとか、この辺りでも普通に棲んでるヤマカガシが実はヤバイとか。危険視されているマムシなんかよりヤバイらしいのがヤマカガシで。
「ヤマカガシの本気は怖いそうですよ、普通に噛まれても毒は出さないらしいんですけど…。本気を出すと人間も殺せるレベルの毒を繰り出すみたいで」
「「「えーっ…」」」
本気と普通を使い分けるな、と言いたいです。そのせいで長い間、毒の無い蛇だと思われていたという豆知識が更に恐ろしく。
「…そういうのって勘弁して欲しいよね」
毒があるなら最初からそれっぽくしておいてよ、というジョミー君の意見に、私たちは全面的に賛成でした。毒が無いように見えて実は有毒ってヤツ、キノコなんかにありがちですけど、キノコは噛んだりしませんものね。



有毒の生き物は毒を持っている件について申告すべし。そうあるべき、と私たちはブチ上げました。毒蜘蛛なんかは見るからにヤバイ外見です。ジョミー君が見たニュースの馬は不幸な事故に遭ったようですが、私たちならまず触ったりはしないかと…。
「…そうかなあ?」
会長さんが首を捻って。
「ヤマカガシってヤツは置いといてもさ、毒のある生き物は侮れないよ?」
「あ、分かる、分かる! ぼくも色々試されちゃったし」
人体実験時代にね、とソルジャーが割って入りました。
「生物由来の毒ってヤツはけっこうキツイよ。…でもねえ、ぼくの世界は地球自体が一度滅亡しかけてるだけに、自然といえども人工的に作られたヤツで…。わざわざ人間に害のある生き物を放しはしないし、遭遇することはまずないね」
「そういう意味では安全な世界なんですね?」
SD体制と聞けば物騒ですけど、とシロエ君。
「まあね。それにSD体制ってヤツも、ミュウでなければ安全で安心な世界じゃないかな。ちょっと色々歪んでるけどさ」
「ぼくたちもミュウには違いないから、SD体制は願い下げだね」
そんな世界には絶対しない! と会長さんが決意表明しましたけれども、それで話が高尚な方へ行くかと思えばさに非ず。
「…ところで、無人島に流れ着いたら何を選ぶ?」
「「「はぁ?」」」
なんでいきなり無人島? SD体制に放り込まれた時の脱出用のシナリオか何か?
「あ、違う、違う! そうじゃなくって毒の続きで…。遭難して無人島に着いたとするだろ? 食べ物を調達しなきゃいけないけど、有毒だったら一巻の終わり!」
「そうだろうな」
解毒剤も病院も無いからな、とキース君が答えれば、会長さんは。
「そこでコレなら安全、っていう動物性のタンパク質を選ぶんだったらどれにする? 海では魚が獲り放題で、陸にはトカゲとか大きな蛇とか。ついでに警戒心が皆無の鳥もいるんだけれど」
「「「うーん…」」」
どれだろう、と考え込んで、それから顔を見合わせて皆で意見交換。ソルジャーも交えて討論の末に出した結論は…。
「「「鳥!」」」
これっきゃないでしょ、魚はフグとか色々いますし、蛇もトカゲもヤバイですってば…。



自信満々で鳥を選んだ私たち。しかし会長さんは両手で大きくバツ印を。
「はい、死亡」
「「「えぇっ!?」」」
なんで鳥なんかで死ぬ羽目に? まさか寄生虫? 毒が無くてもそっちはアリかも…。
「違うね、実は世界で三番目に強い猛毒の生き物は鳥なんだよねえ…」
「「「へ?」」」
そんな話は初耳でした。鳥が毒だなんて、怪獣とかじゃあるまいし…。
「この国には棲んでいないんだけどね、南の島にズグロモリモズってヤツがいる。毒があるのは皮膚と羽根でさ、バトラコトキシンっていう神経毒。地元じゃ鳥から抽出した毒で毒矢を作っていたらしい」
「ど、毒矢って…」
死ぬじゃないですか! とシロエ君が叫び、私たちもブルブルです。それにしたって猛毒の鳥とは凄すぎ、他にも色々いるのでしょうか?
「いや、レアケースらしいけど? 少なくとも猛毒ってヤツはこれだけだしね」
「物騒だな…」
南無阿弥陀仏、とキース君がお念仏を。
「分かった、南の島に流れ着いても鳥は食わないことにする。しかしだ、掟破りな鳥だな」
「まあね。どうやら餌によるんじゃないかって話らしいよ、猛毒の元は」
フグと同じで、と会長さん。
「養殖のフグには毒が無いっていう話があるだろ、あれと同じさ。ジャングルの中で食べている餌に毒の成分があるんじゃないかと言われているね。羽根と皮膚だから触るとアウトさ、なんとも危険な鳥なんだってば」
「…触るとアウトって、死ぬのかい?」
ソルジャーが尋ね、会長さんが。
「そこまでは行かないんじゃないのかな? 酷くかぶれるとか、腫れるとか…。触ってる時間が長かったり、手に傷があったりしたら死ぬかもだけど」
「なるほどねえ…。触るとアウトで、一見して毒とは思えないモノか」
面白い、とソルジャーの唇が笑みの形に。
「しかも毒性は餌由来だって? これって使いようによっては凄いのが出来そう」
「……まさか生物兵器とか?」
会長さんが怖々といった風情で口を開けば、ソルジャーは。
「そんなトコかな。お昼御飯を食べに出掛けて来た甲斐があったよ、うん」
「「「…………」」」
南無阿弥陀仏、と最初に唱えたのが誰だったのかは分かりません。SD体制の世界で命を懸けて戦うソルジャー、生物兵器を開発しますか、そうですか…。



お昼御飯を美味しく食べたソルジャーはウキウキと帰ってゆきました。午後のおやつに予定されていたレモンババロアのケーキをお土産に詰めて貰って、御礼を言って。
「えーっと…。ぼくが振った話、マズかったかな?」
毒蜘蛛事件、とジョミー君が首を傾げれば、キース君が。
「いや、それを言うならブルーだろう。猛毒の鳥の話はあいつだぞ」
「…その前にヤマカガシを出したの、ぼくです」
悪いことをしたでしょうか、とシロエ君も反省しきり。
「まさか生物兵器に繋がるなんて…。大丈夫でしょうか、あっちの世界」
「その大丈夫は難しいよ」
ブルーたちの方か人類側か、と会長さん。
「ブルーが生物兵器を開発したことで犠牲が出るのは人類側だ。だけど人類側ってヤツはさ、ブルーたちの仲間を見付け次第抹殺するみたいだし…。生物兵器でブルーが勝利したなら、それはそれで平和になる……かもしれない」
「…ほどほどにしておいてくれるといいんだが…」
キース君が左手首の数珠レットの球を数えながら南無阿弥陀仏を何回か。
「無益な殺生は良くないからな。…生物兵器を送り込むにしても、要人だけに留めておくとか、良識ってヤツに期待をしたい。無差別攻撃は惨すぎる。いくら相手がそうだとしてもな」
「そうだよねえ…」
会長さんも合掌しています。
「女子供はやめて欲しいよ、ついでに大量殺人もね。…ブルーにしてみれば恨みは山ほどあるんだろうけど」
「「「………」」」
惑星ごと抹殺されかけたというアルタミラ事変の話はソルジャーから何度も聞いていました。その時の仕返しとばかりにシャングリラ号が潜んでいる惑星、アルテメシアを生物兵器で攻撃とかは酷すぎです。しかも元ネタは私たちが振った話となると…。
「ど、どうしよう…。ぼくも地獄に落ちたりして…」
ジョミー君が青ざめ、キース君が。
「そういう時にはお念仏だ! 南無阿弥陀仏で救われるんだ、その一言でお浄土だぞ!」
「そ、それで地獄は大丈夫なわけ?」
「南無阿弥陀仏と唱えれば阿弥陀様が来て下さるんだ!」
「…そ、そうなんだ? じゃ、じゃあ…。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」
地獄は勘弁して下さい、と懸命にお念仏を唱えるジョミー君。日頃あれほど嫌がっている南無阿弥陀仏を自分からとは、よほど反省してるんですねえ、自分が言い出した毒蜘蛛の件…。



ソルジャーが開発に取り掛かりそうな生物兵器。私たちがネタ元だけに、どんな結果が待っているかは考えたくもありませんでした。大量虐殺になったりしたら悲惨です。その時は会長さんとキース君に頼んで供養のための法要を、ということに決めて忘れておこうと決心したのに。
「どうかな、コレ?」
可愛いだろう、とソルジャーが写真を見せてくれたのは夏休みに入ったとある日のこと。恒例の柔道部の合宿とサム君とジョミー君の璃慕恩院行きが終わり、今日からマツカ君の山の別荘。ソルジャーは参加していないくせに、夜に大広間で遊んでいたら突然フラリと現れて。
「こっちの世界には居ないよね、コレは」
「…いないね」
君の世界にしかいないだろう、と会長さん。
「ナキネズミだっけ? 確か思念波を使えるとか」
「そうなんだよ! 意思の疎通が出来るってトコがポイント高いし、おまけに見た目も可愛いし…。これなら誰でも油断するかと」
「「「油断?」」」
「そう! コレがトコトコ近付いてきても、誰も絶対、警戒しない!」
そして撫でたい気持ちになる、と言われて思い出しました。例の生物兵器です。鳥に毒があるとは思わなかった私たち。まさかソルジャー、この生き物を使う気では…?
「あっ、分かった? あれから色々考えたんだけど、これがいいかな、と思ってね」
「…まさか開発中ですか?」
それともこれから? と尋ねたシロエ君に、ソルジャーは。
「只今、絶賛開発中! 餌に色々と混ぜ込んで…。最初の間は大変だったよ、これマズイとか美味しくないとか、拒否られちゃってさ。幸い、いいモノが見付かって」
コレに混ぜれば大喜びで、とソルジャーが取り出したものはパイ菓子でした。何処かで似たようなモノを見た気がします。えーっと、この手のヤツは色々と…。
「うなぎパイだよ、夜のお菓子で有名だよね。いつも思うけど、凄いネーミング」
そのものズバリ、とソルジャーがニヤリ。
「食べると気分が盛り上がるしねえ、夜のおやつの定番なんだ。時々買いに来ているんだけど、それをコイツが盗み食い! しょっちゅう盗られるし、もしかして…、とコレに混ぜたら大喜びで」
「「「………」」」
生物兵器の開発に着手されていたことも衝撃でしたが、うなぎパイもダメージ大でした。物騒なモノを作り出すために夜のお菓子を使うだなんて…。せめてもうちょっとマシなチョイスを、と言いたいですけど、好物だったら仕方ないかな…。



うなぎパイに恐ろしい毒を混ぜ込み、ナキネズミに食べさせているというソルジャー。パイ菓子にどうやって練り込むのだろう、と思ったのですが、表面に塗って乾かすだけでOKらしく。
「流石は夜のお菓子だねえ…。毒をもって毒を制すというか、木の葉を隠すなら森の中というか。似たような効果のある代物を混ぜてやっても味は落ちないみたいだよ」
「「「は?」」」
似たような効果って、うなぎパイですか? うなぎパイはあくまで夜のお菓子で、生物兵器とは似ても似つかぬ効果を誇る食べ物かと…。
「だから生物兵器だってば、対ハーレイとか、そういう系の!」
「「「えっ!?」」」
思考が一瞬、停止しました。今、対ハーレイとか聞こえましたか? 生物兵器が?
「そう! ハーレイに使おうと思ってるけど、自分に使うのもアリかもね。撫でるだけで催淫作用があるんだ、このナキネズミ。皮膚と毛皮にそういう成分、蓄積中!」
触るとジンとくるんだよ、とソルジャーは片目をパッチンと。
「何度も撫でるとジワジワくるねえ、もうハーレイとヤるしかないって気分になるよ。ぼくは薬には耐性が高い方なんだけれど、それでもジワジワ! それをハーレイが撫でたら気分は獣さ、もう最高の生物兵器!」
いずれは夜のベッドのお供に、とソルジャーはニコニコしています。
「人懐っこいから、人間がいればスリスリと寄って来るんだよ。ベッドの上に放しておけばさ、ぼくかハーレイかに擦り寄るし…。そうすれば媚薬成分バッチリ、もう何発でも」
「退場!!」
会長さんが叫びましたが、ソルジャーに効き目がある筈もなく。
「もちろん催淫作用だけでなく、精力剤の方も仕込んであるよ。ナキネズミに触ればパワー充填、猛毒ならぬ絶倫作用! そういう成分を皮膚と毛皮にたっぷりと」
まだハーレイには試してないけど、と語るソルジャー。
「せっかくだからね、使い始めは結婚記念日! 夫婦円満のための生物兵器の使い初めにはピッタリの日だと思うんだよね」
マツカの海の別荘行き、と聞いて仰天、唖然呆然。海の別荘はソルジャーとキャプテンが結婚した場所だけに、毎年、結婚記念日と重ねてお出掛けすることに決まっています。そこへ怪しげな毒性を持ったナキネズミとやらを持ち込むと…?
「別にいいだろ、検疫はキチンとしてあるし! こっちの世界に居ない生き物でも、ぼくは上手に誤魔化せるしね」
猫が居るとでも思わせとくさ、と言われましても。そのナキネズミ、アヤシイ作用があると聞いたら何だかとっても心配です~!



ソルジャーが着手していた生物兵器はナキネズミ。私たちの世界にはいない生き物で、耳が大きくてリスみたいな感じの可愛さですけど…。
「…大丈夫なのか、あのネズミは?」
ソルジャーが広間のおやつを大量にゲットして帰って行った後、キース君がボソリ。
「うーん…。検疫は大丈夫みたいだけどねえ?」
会長さんの答えに、キース君は。
「そっちじゃなくてだ、アヤシイ効果が気になるんだが…。まさか逃げたりしないだろうな?」
「「「…え?」」」
「逃げないだろうな、と言っているんだ。アイツは自分たちで使うつもりで連れて来る気だが、なにしろ相手は生き物だ。逃げないという保証は無いぞ」
「あー…」
それは確かに、と会長さん。
「でもさ、ブルーはサイオンのエキスパートだし! 脱走したってすぐにお縄だよ、でもってブルーの部屋にガッチリ監禁!」
そして本来の目的のために使用される、と会長さんは断言しました。
「何と言っても、ブルーのアヤシイ目的のために開発しているみたいだし…。まして大切な結婚記念日に使い初めをすると言っているんだ、逃走させるわけがない」
「なるほどな…。逃がしたらアイツが損をするだけか」
「そうだと思うよ、肝心の時に使えないだけ! そして生物兵器としての怖さは既に分かっているんだし…。万一、逃走中に出会っても触らなければ大丈夫!」
そしてブルーに通報すべし、と会長さん。
「きっと慌てて引き取りに来るよ、自分たちのためのナキネズミだし! まだまだパワーアップさせる予定とも言ってたんだし、大事なネズミが逃げたままなんて有り得ないってば」
「…それもそうだな、慌てず騒がず通報なんだな」
決して触らず、とキース君が重々しく付け加え、私たちは揃って頷きました。アヤシイ効き目だか毒性だかを帯びている上、今よりも更にパワーアップするというナキネズミ。可愛い見た目に騙されたが最後、何が起こるか分かりません。
「…ハーレイにも言っておかないとねえ…」
海の別荘には来るからね、と会長さんが溜息をついて。
「ぶるぅ、お前もアレには触っちゃダメだよ、可愛いけれど」
「うんっ! 毒があるんなら触らないよ!」
怖いもんね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は良い子の返事。ナキネズミが本物の猛毒でなかったことは嬉しいですけど、海の別荘、大丈夫かな…。



山の別荘から戻ってくれば、キース君が忙殺される恒例のお盆。ジョミー君とサム君も棚経のお手伝いに出掛けて汗だく、キース君は他にも墓回向やら施餓鬼法要やらと走り回って…。
「「「海だーっ!!!」」」
今年も来たぞ! と男の子たちが拳を突き上げ、スウェナちゃんと私もワクワクです。教頭先生にソルジャー夫妻、「ぶるぅ」なんかも一緒とはいえ、海の別荘はやっぱり格別。海で泳いで、美味しい料理を御馳走になって…。
「ハーレイ、地球の海は何度見てもいいねえ…」
いつか必ず地球に行こうね、とソルジャー夫妻は別荘に入る前から熱いキス。そのソルジャーの足元にはペット用のキャリーケースが置かれ、「ぶるぅ」が中を覗いています。ケースの中身は言わずと知れたナキネズミで。
「あっ、ぶるぅ! 開けちゃダメだよ、そのケースは!」
キスを終えたソルジャーが珍しく注意。普段なら「ぶるぅ」が何をしていようと放置のくせに、ナキネズミのケースに触る前からこの調子ならば、恐らくは…。
「…大丈夫だよね?」
ジョミー君が見回し、シロエ君が。
「大丈夫でしょう!」
私たちのやり取りに気付いたソルジャーも。
「ああ、コレかい? コイツは大事なナキネズミだし、ぼくがキチンと管理するってば!」
餌もこんなに持って来たんだ、と開けた旅行用バッグの中にはギッシリと…。
「ブルー、奮発しましたねえ…。こんなに買ってやったのですか?」
うなぎパイを、と覗き込むキャプテンに、ソルジャーは。
「それはもう! ほら、言っただろ? コイツに頑張って貰わなきゃ、って!」
「パワーアップ用だと伺いましたね、楽しみです」
どんな効果があるのでしょうか、と頬を赤らめるキャプテンはナキネズミの正体を一応は把握しているようです。教頭先生もキャリーケースが気になる様子で。
「…おい、ブルー。あの生き物は怖いと聞いたが」
「そうだよ、ウッカリ触ると最悪! ブルーたちには素敵な生き物らしいんだけどさ、他の人間には迷惑なだけの生物兵器ってヤツだからね」
命が惜しければ触るんじゃない、と会長さんが真顔で告げて、教頭先生も「うむ」と真面目に。
「別の世界の生き物らしいし、私も重々気を付ける。お前も注意するんだぞ?」
「勿論さ。ぼくも命は惜しいから」
あんなので命を落としたくない、と震えてみせる会長さんが教頭先生にナキネズミの正体を何処まで明かしたのかは謎ですねえ…。



こうして私たちの世界に連れて来られた生物兵器のナキネズミ。海の別荘での初日がソルジャー夫妻の結婚記念日に重ねてあったため、その夜は盛大なお祝いでした。御馳走にケーキと盛りだくさんで、宴会が終わるとソルジャー夫妻は二人きりで部屋に引き揚げて…。
「かみお~ん♪ ぶるぅ、今日からよろしくー!」
「うんっ! ぼくと一緒のお部屋で寝ようね!」
悪戯小僧の「ぶるぅ」が良い子の「そるじゃぁ・ぶるぅ」とガッチリ握手。「ぶるぅ」は遊び相手がいれば悪戯しないのが基本ですから、海の別荘は毎年、極めて平和。今年は怪しげなナキネズミが持ち込まれていますけれども、アレだって…。
「ぶるぅ、あのナキネズミを勝手に出しちゃダメだよ?」
会長さんが念を押すと、「ぶるぅ」は「触らないよ」と良い子な返事。
「なんかブルーが大事にしてるし、色々食べさせているみたいだし…。前は遊ばせてくれていたのに、この頃、全然ダメだしね。ウッカリ触ったら危ないから、って…。もう遊んだり出来ないのかなぁ、とっても残念」
振り回すのが好きだったのに、と肩を落としている「ぶるぅ」。
「…振り回すって?」
会長さんの問いに、「ぶるぅ」は「尻尾!」と答えました。
「あのね、尻尾を掴んでグルグル回すの! こんな感じでブンブンと!」
「「「………」」」
それはイジメと言うのでは、と腕を目いっぱい振り回している「ぶるぅ」を眺める私たち。尻尾を掴んで振り回されるのがナキネズミの日常だったとしたら、「ぶるぅ」がケースを開けたとしても出て来る心配は無いでしょう。出て来たが最後、尻尾を掴まれてグルングルンですし…。
「…ぶるぅの悪戯も心配することは無さそうですね?」
安心しました、とシロエ君が言い、マツカ君も。
「そうですね。別荘の人たちにも触らないように言っておきましたし、万一の時には責任を持って捕まえて貰えばいいと思いますよ」
「そういうこと! アレを持ち込んだのはブルーだしね」
逃げ出さないとは思うけど、と会長さん。ソルジャー夫妻の夜の生活を盛り上げるために開発されたナキネズミだけに、バカップルの部屋から一歩も出ないで過ごすんでしょうね…。



次の日、太陽が高く昇ってから起き出して来たソルジャー夫妻は御機嫌でした。結婚記念日の夜を熱く過ごしたとかで大満足で、ビーチでも熱々バカップル。ナキネズミの効果は抜群だったに違いありません。その日の夜も凄かったらしく、翌日はビーチでイチャイチャ、ベタベタ。
「…目の毒だな…」
キース君が呻き、サム君が。
「仕方ねえだろ、毎年こうだし…。今年はちょーっと割増だけどな」
「ちょっとどころじゃないですよ! 五割どころか十割増しです、二十割かも!」
何かもアレのせいですよ、とシロエ君が浜辺で絶叫してから時は過ぎ去り、夜も更けた頃。
「「「えーーーっ?!」」」
なんてこった、と私たちは天井を仰ぎました。夕食をとっくに済ませて二階の広間で騒いでいたら、ソルジャーが顔を出したのです。
「…本当にごめん。悪いけど、どうにもならなくて…」
まさかサイオンに引っ掛からないとは思わなかった、とソルジャーは深く頭を下げました。
「与えた餌が悪かったのかな、いわゆる透明ナキネズミ? 目には見えるけどサイオン透視に引っ掛からない状態なんだ。ぼくも今まで知らなかったんだよ、知っていたなら閉じ込めてたよ」
部屋にガッチリ鍵を掛けて…、と平謝りのソルジャー夫妻が夕食後に部屋でイチャついている間にナキネズミが脱走したのです。幸い、建物から出るなという暗示は与えてあったのだそうで、別荘内の何処かに居ることは確か。けれど居場所は全く謎で。
「とにかく、見付けたら教えて欲しい。でもねえ…。回収することも難しくって」
「「「は?」」」
「餌のせいだと思うんだけどね、サイオンがまるで効かない状態。手で掴むしかないんだよ。でもって掴んだら例の成分をもれなく食らうし、どうやってケースに戻そうかと…」
触ったが最後、ヤリたい気分しか残らないのだ、と聞かされた私たちは顔面蒼白。そこまで強烈な生物兵器になっていたとは…。
「それじゃ君はどうやってアレを連れて来たのさ!」
何か方法があるんだろう、と詰め寄る会長さんに、ソルジャーは。
「…連れて来た時には、まだサイオンが効いたんだ。だから建物から出るなと暗示もかけられた。それが昨日の夜辺りから怪しくなって、今日の分のうなぎパイを与えたらサッパリ駄目に」
「「「うわーーー…」」」
どうしろと、と誰もが頭を抱えましたが、餌の効き目が切れるのを待つか、脱走中のを取り押さえるか。しかし捕まえようと触ればもれなく…。
「……放置しかないね……」
でもってブルーに通報だ、と会長さん。本当にそれしか道は無いですし、こうなった以上、出会わないことを祈るしか…。



何処へ消えたか、ナキネズミ。サイオンに引っ掛からないとなれば目視あるのみ、ソルジャー夫妻が懸命に捜すかと思ったのですが、其処は流石のバカップル。ナキネズミ無しでも夜は大人の時間とばかりに籠もってしまって出ても来ず…。
「仕方ないねえ、部屋の鍵はキッチリかけるんだよ? あ、その前に。部屋の何処かに隠れていないか、各自、キッチリ点検すること!」
会長さんの訓示を受けて解散となった丑三つ時。海で元気に遊ぶためには睡眠時間も大切です。ナキネズミの行方は気になりますけど、たっぷり眠って疲れも取って…。
「バスルームにはいないみたいよ?」
「うん、こっちの部屋も大丈夫みたい」
スウェナちゃんと手分けして部屋をチェックし、パジャマに着替えようとした時のこと。
『で、で、出たぁーーーっ!!!』
会長さんの思念波が部屋を貫き、私たちは一斉に廊下に飛び出しました。ジョミー君たちも走ってゆきます。会長さんは一人部屋。以前は「そるじゃぁ・ぶるぅ」も一緒でしたが、ソルジャー夫妻の結婚以来、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「ぶるぅ」と二人で別の部屋になることも多くなり…。
「おい、大丈夫か!?」
キース君がバアン! と開け放った扉の向こう側、ベッドの上で会長さんがガタガタと震え上がっています。そのすぐ側にはナキネズミが居て、キュウキュウと人懐っこく鳴いていて。
「ど、ど、どうしよう…。ぼ、ぼ、ぼくをブルーと…」
「間違えてるってか?!」
「そ、そうみたいで…。ひいっ!」
来るなぁーっ! と会長さんは後ずさりましたが、ナキネズミはその分、ズズイと前へ。
「部屋中を捜したつもりだったけど、見落としちゃってたらしいんだ…! 布団の上に何か乗ったな、と明かりを点けたらベッドの上に…!」
「落ち付け、騒ぐと懐かれるぞ! ブルーを呼ぶんだ!」
「そ、それが…。お取り込み中か何か知らないけど、返事が無くて…!」
誰か助けてーっ! と会長さんの顔は真っ青、身体は小刻みに震えています。なにしろ相手はナキネズミ、いえ、触ったが最後エライことになるエロネズミ。懐かれてペロリと舐められでもしたら大惨事ですし、かといって…。
「俺たちも触るとヤバイんだよな?」
「う、うん、多分……」
「ゴム手袋とかは効くんでしょうか? 重ねてはめれば大丈夫かも…」
「それは推測の域を出ないぞ」
俺は嫌だ、とキース君の腰が引け、他の男子もお手上げ状態。その間にもナキネズミは会長さんの布団の上を攀じ登り、手か顔を舐めるべく接近中で…。



もうダメだ、と私たちは目を瞑り、あるいは両目を手で覆いました。会長さんがナキネズミの毒だかエロだかを食らう、と思った瞬間。
「ブルーーーっ!!!」
ダッと一陣の風が駆け抜け、教頭先生が凄い勢いで飛び込んで来たではありませんか! 髪はビショ濡れでパジャマもビショビショ。会長さんの悲鳴を聞いた時にはお風呂に入っておられたのでしょう。褐色の手が伸び、会長さんをまさに舐めようとしたナキネズミの尻尾を引っ掴み…。
「…た、助かった……」
危なかった、と荒い息をつく会長さんのベッドの脇に、教頭先生が仰向けに倒れて鼻血を噴いてらっしゃいました。意識はとうに失くした状態、しかし両手はナキネズミをガッシリ掴んだまま。モロに食らったエロ成分が強すぎたらしく、立ち往生の一種です。
「…どうするんです、コレ…」
シロエ君が呟いた所へ「ごめん、ごめん」と声がして。
「あ、捕まえてくれたんだ? ご覧よ、ハーレイ、有難いねえ」
「この状態なら、こちらの私ごと運べますね」
部屋に運んで、それから外して楽しみましょう、と現れたソルジャーとキャプテンと。二人ともバスローブだけを纏って、如何にも大人の時間の合間っぽくて。
「それじゃハーレイを貰って行ってもいいかな、ナキネズミごと」
「…好きにしていいけど、二度と逃げないようにしてよね、迷惑だから!」
ぼくは死ぬかと思ったんだ、と文句を垂れる会長さんは、身を呈して自分を守って戦死した教頭先生にチラリと冷たい一瞥を。
「ハーレイはぼくを守れて本望だろうし、そのナキネズミを剥がした後は適当に部屋に返しておいてよ」
「オッケー! それじゃ、そっちはぶるぅに任せる」
ぼくはナキネズミに触ったが最後、理性の箍が外れちゃうから、とニッコリ笑ったソルジャーはキャプテンと共に教頭先生をサイオンで担ぎ上げて運んで行ってしまいました。瞬間移動だとナキネズミを取りこぼす心配があるからです。そしてその夜も二人の部屋では盛大に…。



「二度と御免だよ、エロネズミは!」
次の日、会長さんがソルジャーにギャーギャーと苦情を述べている頃、教頭先生はエロ成分が抜けずに朦朧としてベッドでうなされ中。妄想ダダ漏れのうわ言が凄いらしくて、それも会長さんの頭痛の種で。
「次から絶対連れて来ないでよ、出入り禁止にするからね!」
「…言われなくっても二度としないよ、危険だからさ」
未練はたっぷりあるんだけどね、とソルジャーが。
「サイオンがまるで効かないとなると、ぼくのシャングリラがどうなるか…。エロ成分をブリッジなんかで撒き散らされたら航行不能に陥るどころか、人類軍に墜とされかねないし」
「私もブルーと同意見です。実に貴重な存在ですが…」
素晴らしい生き物なのですが、と惜しがりつつもキャプテンもエロネズミは排除の方向でした。二度と作られない幻の生き物、エロネズミ。その成分が抜け切るまでは毛皮と皮膚からエロを放って何処までも…。
「でも、ハーレイ。とりあえず、此処に滞在している間は楽しめそうだね?」
「そうですね。せっかく作ったナキネズミですし、残る期間を有効に活用いたしましょう」
ビーチどころではありませんね、とキャプテンがソルジャーの肩を引き寄せ、思いっ切りのディープキス。バカップルはそのまま部屋へと引き揚げてゆき…。
「…あの二人には似合いだけどねえ、エロネズミ…」
ハーレイにはキツすぎたみたいだよね、と会長さんが額を押さえています。教頭先生に注ぎ込まれたエロ成分を中和する方法は無い模様。滞在中に抜けなかったら別荘に捨てて帰るのだそうで…。
「気の毒だよねえ…」
「身体を張って頑張ったのになあ…」
南無阿弥陀仏、とサム君が唱え、ジョミー君も。お念仏でエロ成分は抜けるのでしょうか、だったら私もお念仏。此処はみんなでお唱えしましょう、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。




         危ない生き物・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 猛毒な鳥のお話は嘘じゃないです、気になる方は「ズグロモリモズ」で検索を。
 うなぎパイは管理人も好物、夜のお菓子というネーミングは困りますけど。
 来月は第3月曜更新ですと、今回の更新から1ヶ月以上経ってしまいます。
 よってオマケ更新が入ることになります、9月は月2更新です。
 次回は 「第1月曜」 9月5日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、8月は、お盆の棚経が問題。スッポンタケの卒塔婆はどうなる?
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv







(ふうん…)
 普段よりも早く目覚めたブルーは、朝食が出来るのを待つ間にダイニングのテーブルに置かれた新聞を広げていたのだけれど。
 ふと目に留まった占いコーナー。今日一日の運勢なるものが記されていた。
(星座別かあ…)
 ぼくの星座は何だったっけ、と確認してから牡羊座の欄をチェックし、ラッキーだと知っていい気分になる。最高にツイている星座。十二個の星座の中でもダントツの一位。今日は一日、最高にツイているらしい。
(ハーレイは、っと…)
 いそいそと恋人の星座を確かめ、乙女座の欄を覗き込んでみて愕然とした。誰よりも大切な想い人が属する乙女座は本日、最低最悪の運勢だった。十二星座の中で最下位、要注意という印までがついたアンラッキー。
(……嘘……)
 こんな占い、当たりっこない、と思ったのだけれど。

(タロット占いだったんだ…)
 よく読んでみれば、それはタロット占いを得意とする人が書いたコーナー。
 前の生の頃、フィシスが得意としていたタロット占い。驚くほどに当たったフィシスの占い。
 あながち馬鹿に出来はしない、と「タロット占い」との謳い文句に青ざめた。
 今現在でも予知能力は神秘の能力。
 確実に未来を読める能力者は皆無だったし、フィシスほどの能力は誰も持っていない。
 とはいえ、まるで当たらないというわけでもなかった。漠然とした形でなら占える未来。
 例えば、人気の恋占い。
 今の恋人と結婚出来そうか、まるで希望は無さそうなのか。その程度ならば当たることもある。だから恋人と大喧嘩になってしまった男女が占い師の所へ駆け込んでゆく。
 「私たちに未来はあるのでしょうか」と、「謝った方がいいのでしょうか」と。
 そして「未来はあります」と聞いて関係修復に努めたカップルは成婚率が高いと聞くから。
 占いは当たる時には当たるのだろうし、ましてやタロット占いとなれば…。

(どうしよう…)
 とことんツイていないらしい、今日のハーレイ。もう心配でたまらないけれど。
 自分が最高にラッキーなことさえ忘れてしまうくらいに、心配でたまらないのだけれど。
(どうツイてないのか分からないよ…)
 母が「トーストもオムレツも出来てるわよ?」とお皿を置いてくれても生返事。まだ占いの欄を横目で見ながらトーストを齧り、オムレツを頬張るという始末。
(…アンラッキーって…)
 ハーレイの身に何が起こるのだろう?
 それさえ分かれば防ぎようもあるのに、と縋るような気持ちで見詰めてみても細かい解説は一切無かった。そもそも占いの結果として出た、タロットカードの記載が無かった。
 どういうカードが乙女座に出たのか、それが分かれば…、と考えたのだが。
(カードの意味…)
 忘れちゃった、と空っぽになった頭の中の引き出しの中身に衝撃を受ける。
 小さなブルーは綺麗に忘れてしまっていた。
 前の自分が、ソルジャー・ブルーが熟知していた筈の、タロットカードが持っている意味を。
 これではカードがきちんと書いてあってもどうにもならない。
 読めもしない未来、参考にすらも出来ない手掛かり。
(…今日のハーレイ、どうなっちゃうの?)
 そればっかりを考えていたら、両親の声が聞こえて来た。
「遅刻するわよ?」
「早起きしたからってのんびりしすぎだ、バスに間に合わないんじゃないか?」
「ええっ!?」
 壁の時計はとんでもない時刻になっていた。慌てて二階の部屋に駆け戻り、通学鞄を引っ掴んで飛び出す羽目に。なんとかバスには間に合ったけれど、占いはすっかり頭から消えた。

 いつも乗ってゆくバスに揺られて、学校の近くのバス停で降りて。
 その頃には普段と全く変わらない気分、背筋を伸ばして校門を入った所で出会った人物。朝練の指導を終えたばかりの、スーツに着替える前の柔道着のハーレイ。
 朝一番に会えるだなんてツイている、と思った途端に思い出した。
(アンラッキー…)
 今日の自分は最高にツイているのだけれども、ハーレイの方はそうではなかった。
 現にこうしてツイている自分。ならば、その逆のハーレイは…。
「…ハーレイ先生?」
 おはようございます、と挨拶するのも忘れたブルーだけれど。ハーレイは笑顔を向けてくれた。
「おはよう、ブルー。俺に何か用か?」
「…えっと…。ハーレイ先生、今日は気を付けて」
「何の話だ?」
 怪訝そうに問われた所へ、柔道部の生徒たちが「ハーレイ先生!」とワッと走って来たから。
 ブルーの持ち時間は其処で終了、占いの結果を告げ損ねたままで終わってしまった。

 告げられなかった、ハーレイへの忠告。
 今日はとてつもなくツイていないから気を付けて、と注意を促したかったのに。
(言い損ねちゃった…)
 大丈夫だろうか、と気もそぞろな内に二時間目になって古典の授業。いつものように扉を開けて現れたハーレイに変わった様子は全く無い。
 けれども古典の授業があること自体が、ブルーにとってはラッキーだから。
(アンラッキー…)
 ツイている自分とは真逆に位置するハーレイが気になってたまらない。
 ハーレイに何が起こるのだろう。どういった風にツイていないというのだろう?
(…もしかして、怪我…?)
 放課後に行う柔道部の指導で怪我をするとか。
 ハーレイの腕前は生徒とは比較にならないけれども、生徒を庇っての怪我なら有り得る。体勢を崩した生徒を受け止めたはずみに足を捻るとか、腕の筋を傷めてしまうとか。

(カードがちゃんと書いてあったら…)
 ツイていないと告げたカードが何だったのかさえ、新聞に載っていたならば。
 占いの過程で出て来たカードも全て書かれていたなら、ツイていない中身を絞れただろう。何が災いの元になるのか、どうすればそれを避けられそうかも。
(…でも…)
 でも、とガックリと項垂れる。
 今の自分はカードの意味を忘れてしまった。タロットカードが書かれていても分からない。
 どう読み解くのか、そのカードが何を意味するのかも。
「ブルー君?」
 自分の名を呼ぶハーレイの声。
 当てられていた、と気付いて慌てて立ち上がった。後ろの男子が囁いてくれる。読むべき箇所は教科書の何処か、どのページの何行目からなのかを。
 ハーレイに名前を呼ばれて当てられることは、ブルーにとってはラッキーな出来事。
 何処を読むのか教えてくれた友人に心で感謝しながら音読しつつも、ブルーはハーレイを見舞う不幸がどうしても頭から離れなかった。

(…結局、あの後、会えなかったよ…)
 家に帰って、おやつを食べて。
 もう一度ダイニングのテーブルで新聞を眺めたけれども、変わらない結果。
 今日の牡羊座は最高にラッキー、乙女座は逆に最低最悪のアンラッキー。
 自分は本当にツイていたのに、ハーレイはどうなってしまったろうか。
 今の時間は柔道部の部活の真っ最中。
 生徒を庇って怪我をしてしまっていないだろうか?
 足を捻ったり、腕を傷めたり、大変なことになっていないだろうか…?

(カードさえ新聞に書いてあったなら…)
 二階の自分の部屋に戻って、机の前で考え込んだ。
 夏休みの一番最後の日に庭でハーレイと二人、写した記念写真を眺めて。
 けれど…。
 新聞にカードが書いてあっても無駄なのだった、と思い出す。
 タロットカードの解説無しでは、今の自分は読み解けはしない。
 すっかり忘れてしまったから。
 色々な絵が書かれたカードが持っている意味を、綺麗に忘れてしまったから。
(前のぼくって…)
 どうやって全てのタロットカードを頭に叩き込んだのだったか。
 熟知していたカードの意味。
 カードが正しい向きである時と、上下が逆様の時で意味が変わるといったことさえも。
 幼いフィシスを救い出した日、フィシスの心を真っ黒な不安で塗り潰していた死神のカード。
 文字通りに死を意味するカードの向きを変え、逆様にしてみせた。
 上下が入れ替わってしまった死神のカードは再生の意味。死地からの生還。
 もう、それだけしか覚えてはいない。
 他のカードの意味は何一つ、正しい向きに置かれた時の意味さえ。
 前の生でフィシスがカードを繰っていた時は、眺めながらあれこれ考えたのに。
 出て来たカードが何を示すのか、自分なりに読もうとしていたのに…。

 けれども、何処で覚えたのだろう?
 前の自分はタロットカードが持つ意味を何処で知ったのだろう?
(…シャングリラにはタロットカードなんかは無かったよ…?)
 アルタミラを脱出した直後はもちろん、白い鯨が出来上がった後にも無かったタロットカード。
 フィシスが来るまで、タロットカードは船に存在しなかった。フィシスの占いに必要だから、とデータベースから情報を引き出し、専用のカードを作らせた。
 それまではカードと言えばトランプ、戯れにトランプ占いをしていた者たちもいた。
 けれども無かったタロットカード。
 では、何処で…?
 何処で自分はタロットカードの意味を覚えて来たのだろう?

(んーと…)
 遠い記憶を探ってゆく内、「門前の小僧」とハーレイの古典で習った言葉が頭を掠めた。
 それだ、と閃いた「門前の小僧習わぬ経を読む」という遥かな昔の古い諺。
 教わらなくとも、見聞きする内に知らず知らずに覚えること。
 幼いフィシスが水槽から出され、如何にも女の子が好みそうな個室を与えられた後。
 何度もこっそり様子を見に忍び込んで、そして覚えた。
 フィシスが繰っていた、タロットカードと呼ばれるカードの意味を。
 占いのためだけに作られたカードが持っている意味を、それを繰っては一喜一憂するフィシスの心を読み取りながら。
 そうやってカードの並べ方までをも覚えていたから。
 あの日、占いの一番最後に出て来た死神のカードの上下を入れ替えられた。
 フィシスの未来を示すカードを、死を意味していたカードを逆様に変えて意味をも変えた。
 死神のカードが示した未来は自分が変えると、変えてみせるとフィシスに教えた。
 その後のことは、逆様になった死神のカードの意味そのまま。
 フィシスはシャングリラへと迎え入れられ、死の影は二度と近付かなかった。

(でも…)
 ハーレイに迫る不幸を退ける力も、避けるための道を教える力も自分には無い。
 たとえ新聞に占いの結果を示すカードが載っていたって、今のブルーには読み解けない。
 今日は最低最悪にツイていないというハーレイの乙女座。
 極め付きのアンラッキーな今日のハーレイ。
 どうすればハーレイを救えるだろうか、と「手遅れかも」と悩んでいる間にチャイムの音。この時間に来客を知らせるチャイムが鳴ったということは…。
(あっ…!)
 駆けて行って見下ろした窓の向こう側、庭を隔てた門扉の所に見間違えようもない恋人の姿。
 ハーレイが夕食を食べに寄ってくれるとは、もう最高にツイているけれど。
(アンラッキー…)
 自分が最高にツイているなら、ハーレイは逆。
 ツイていればいるほど、その逆のハーレイは不幸の連続…。

(アンラッキー…)
 その言葉が消えてくれないから。
 夕食が出来るまでの間、部屋で向かい合ってお茶を飲む時、ハーレイに顔を覗き込まれた。
「ん、どうした?」
 どうも元気が無いようだが…。何処か具合でも悪いのか?
「ううん。…ハーレイ、今日はいいことあった?」
「おっ、分かるか?」
 相好を崩すハーレイにブルーは驚く。
「…あったんだ、いいこと…」
「なんだ、知っていたんじゃなかったのか?」
 てっきり地獄耳ってヤツかと思ったんだが…。たまたま来合わせた生徒もいたしな。
 職員室でな、研修で出掛けてたヤツが「土産だ」って美味い蕎麦饅頭を配ってくれたんだ。
 其処の町でしか売ってないから、行かないと買えん名物でな。
 ほら、お前にも貰って来てやったぞ、余った分があったからな。
「わあ…!」
 思いがけなく、お土産まで貰ってしまったけれど。本当にツイているのだけれど。
(アンラッキー…)
 最高にツイている自分とは逆の運勢を持ったハーレイが心配でたまらない。
「どうした、蕎麦饅頭、食わないのか?」
 皮も中身も実に美味いんだぞ。それとも夕食に響きそうか?
「一個くらい、平気」
 薄い包装を剥いで頬張れば、香ばしい皮とくどさのない餡。
 名物と言うだけのことはある出来の蕎麦饅頭で。
「美味しい…!」
「そりゃ良かった。貰って来た甲斐があったってな」
「ありがとう、ハーレイ!」
 とっても美味しいお饅頭だよ、とブルーは貰った蕎麦饅頭を綺麗に食べた。
 ハーレイが貰って来てくれたお饅頭だと、喜びと幸せに浸りながら。

 お土産に名物の蕎麦饅頭。職員室で配られたもののお裾分け。
 普通の生徒なら貰えないもので、おまけにハーレイが貰って来てくれたもの。
 ますますもってラッキーだけれど。
(アンラッキー…)
 自分がツイていればいるほど、逆のハーレイはドン底だから。
 蕎麦饅頭を美味しく食べ終えた後は心配になるし、表情も暗いものになる。
 そんな風にくるくると変わるブルーの様子に、ハーレイが気付かない筈などが無くて。
「おい、ブルー。なんだか変だぞ、今日のお前」
 舞い上がったり、暗くなったり。
 まるで一定していないんだが、何か心配事でもあるのか?
「だってハーレイ、アンラッキー…」
「はあ?」
「アンラッキーなんだよ、今日のハーレイ!」
 ぼくは最高にツイているのに、ハーレイはツイてないんだよ。
 そしてホントにぼくはツイてるから、ハーレイのことが心配なんだよ…!

「お前なあ…」
 アンラッキーの根拠が何かを訊き出したハーレイは、呆れたような顔で笑った。
「その占いがたとえ当たっていたとしてもだ、乙女座のヤツが何人いるんだ」
 この地球の上に何人いると思っているんだ、この町だけでも何十人では済まないぞ。
 それが全員アンラッキーなら、今日は救急車がてんてこ舞いかもしれないな。
 お前はたまたま占い通りに大当たりの牡羊座だったらしいが…。
 牡羊座でもドン底のヤツはいると思うぞ、俺たちの学校だけでもな。
 今日、上の学年で抜き打ちテストをしたから、あの学年の牡羊座は殆ど不幸な筈だが。
「…牡羊座なのにドン底って…」
 そういうものなの、今日の占い。
 ぼくの学校でもツイてない人がいるくらい?
 あれってけっこう当たるんだな、ってハーレイのことを本気で心配してたのに…!

「おいおい、冷静に考えろよ?」
 フィシスほどの予知能力を持った人間は、今の時代までに流れた長い時間にも一人もいない。
 そいつはお前も知っているよな?
 そのフィシスでさえ、個人の未来をきちんと読むのは無理だったぞ?
 シャングリラの未来を占えはしても、乗ってたヤツらを星座別になんか占っていない。
 それどころか、前のお前の未来でさえも正確に読めてはいなかったろうが。
「…そういえば…。ただ漠然と読んでただけだね」
「もしも完全に読めていたなら、ナスカが燃えてしまったあの日。フィシスはお前を離さんさ」
 どんな理由を付けたか知らんが、とにかく離しやしなかったろう。
 離したらお前はメギドに行くって、フィシスには分かっているんだからな。
「見送ってくれたよ、「行ってらっしゃい」って」
 ぼくは補聴器を預けたのに。
 驚いてはいたけど止めなかったよ、ちゃんと見送ってくれていたよ。
「ほら見ろ、占えていなかったんだ」
 フィシスは前のお前みたいに強くはなかった。
 お前の未来が見えていたなら、止められないと分かっていたって縋り付いたさ。
 見送らなければ、と心で思っても感情がついていかないってヤツだ。
 お前はフィシスの腕を振りほどいて行く羽目になったと断言出来るぞ、間違いない。

「…だけど、ぼくがフィシスをシャングリラに連れて来た日の朝…」
 死神のカードは確かに出てたよ?
 フィシスが占っていた未来。死神のカードは確かにあったよ、ぼくはこの目で見たんだから。
 カードを見たフィシスが怯えていたから逆様にしたよ、死神のカード。
 そうすれば再生の意味になるから。まるで反対の意味になるから…。
「危機が迫っていたからだろうさ、それもフィシスの上にだけな」
 それとも、たまたまだったのか。
 偶然に出ただけのカードかもしれんな、その死神は。
「…たまたま?」
「もしも本当に未来を読んで、死神のカードを出せたのならば、だ」
 前のお前がどうなるかだって占えた筈だ、同じ理屈で。
 あれほどにお前を慕っていたフィシスが、目覚めたお前の未来を占わなかったとは思えない。
 だが、死神のカードは出はしなかった。
 不吉な予兆を示すカードは出たかもしれんが、死神のカードは出なかったんだ。
 だからこそ「行ってらっしゃい」と言えた。
 死神のカードを目にしていたなら、「行っては駄目です」と絶対に止める。
 お前だって、そう思わないか?
 フィシスには「行ってらっしゃい」と送り出せるほどの強さは無かった、ってな。

 未だに伝説の占い師と名高い、前のブルーが女神と呼んでいたフィシス。
 そのフィシスにさえ確かな未来は読めなかった、とハーレイは言う。
 読めていたならフィシスはメギドへと向かうブルーを阻止しようと縋り付いただろう、と。
「…それじゃ、小さかったフィシスが怯えた死神のカードは…」
「本当にたまたまだったのさ。偶然の巡り合わせってヤツだ」
 でなきゃ、ナスカでも出た筈なんだ。
 フィシスがお前を占った時に、その時と同じように死神のカードが。
「…ぼくはわざわざ、死神のカードを逆にしたのに…」
 小さなフィシスが怖がらないよう、逆にしてから連れ出したのに。
「それはそれで別にいいんじゃないか?」
 まるで無駄にはなっていないさ、フィシスの信頼は勝ち取れただろう。
 前のお前には未来さえも変える力があると、自分を助けてくれたんだ、とな。
 助けるから、とカードでメッセージを伝えてみせて、その通りの結果を出したんだから。

「…死神のカード、たまたま出ただけだったんだ…」
「俺の推測に過ぎないわけだが、そいつで当たっていると思うぞ」
 占いなんてそういうものさ。
 あのフィシスでさえもその有様だ、前のお前の真の未来を読み取れなかった。
 だから新聞の占いごときが当たるか、今日の俺はツイているってな。
「ツイているって…。本当に?」
 蕎麦饅頭を貰った他にも何かあったの、ツイていること。
「あったとも。…お前が心配してくれた」
 一日中、俺を思っていてくれた。俺の心配をしてくれていた。
 それだけでもう最高じゃないか、これをラッキーと言わずにどうする。
 お前の心を一人占めだぞ、お前は俺のことだけをひたすら考えてくれていたんだからな。

「えーっと…」
 そうなのかな、とブルーは考えたけれど。
 一日中、心に引っ掛かっていた言葉はやはり心配で、それがポロリと口から零れた。
「だけど新聞には、アンラッキーって…」
 ツイてないかもしれないんだよ。
 たかが占いってハーレイは言うけど、でも、やっぱり…。
「安心しろって、俺には最強のお守りってヤツがあるからな」
「最強って…。ハーレイ、何か持ってるの?」
 凄いお守り、何処かで買って持ってたりする?
「分からないか?」
 これだ、これ。
 こいつがそうだ、とハーレイが指差す、ブルーの顔。
「…なに?」
「赤い瞳だ、お前のな。前の俺たちの服に付いてた赤い石さ」
 魔除けのお守り、付けていたろう?
 青いメデューサの目のお守りの代わりに、お前の赤い目。
「ちょ、ちょっと…!」
「そいつが俺を一日中、見守ってくれてました、ってな。どんな不幸でも避けられるぞ」
 死神のカードも逆様に変えてしまえたお前だ、アンラッキーを避けるくらいは軽いだろ?
 まさに最強のお守りってヤツだな、お前の瞳は。

 シャングリラで制服を作った時にシンボルに決まった赤い石。
 遥かな昔の地球にあったという、青い魔除けのメデューサの目のお守りに因んだ赤い石。
 メデューサの青い瞳の代わりに赤い瞳が皆を守ると、ブルーの瞳が魔除けなのだと。
 ハーレイはそれを持ち出した上に、今のブルーの瞳がそうだと言うから。
 最強のお守りなのだと言うから。
「でも、ハーレイ…。凄い力を持っていたのは前のぼくだよ?」
 今のぼくだと、死神のカードを逆様には出来ても、フィシスを助けられないよ?
 だって、サイオン、とことん不器用…。
「俺にとっては今も同じさ、お前の瞳が見ていてくれるなら頑張れる」
 不幸なんかは跳ね飛ばさんとな、お前を心配させてはいかん。
 だから不幸に遭いはしないし、巻き込まれたりもしちゃいられない。
 というわけでな、俺には一生、不幸ってヤツは来そうにないな。
 最強のお守りの赤い瞳が俺を見ていてくれる以上は。
「…そうなるわけ?」
 だったら、ぼくはどうなるんだろう?
 そういうお守り、持っていないよ。ぼくのお守りは何になるの?
 今日は最高にツイていたけど、ツイてない日はどうすればいいの…?
「お前は俺が守ってやるさ」
 今度こそ俺が必ず守ると言っただろうが。
 俺がお前のお守りってヤツだ、目だけと言わずに身体ごとな。
 つまり、お前にも不幸は来ない。お前に近付く不幸ってヤツは、俺が端から投げ飛ばすんだ。
 柔道でエイッと投げ飛ばすように、不幸も投げてしまえってな。

 俺たちの未来にはラッキーしか無いさ、とハーレイは笑う。
 不幸を避けるお守りを互いに持っているのだから、と。
 ブルーの赤い瞳がハーレイのお守り、ブルーのお守りはハーレイ自身なのだから、と。
 ブルーが守って、自分が守って。
 互いが互いのお守りとなって不幸を退け、幸せだけを拾ってゆこう、と。
「そっか、お守り…」
 ちゃんと二人とも持っているんだ、とブルーは微笑む。
 不幸を避けるためのお守りを、互いのために自分自身が持っているのだ、と。
(アンラッキーなんて無いのかもね?)
 きっとそうだね、と自分たちの未来を思い描いた。
 今はまだ離れて暮らしているから心配だけれど、結婚したならお互いに守り合うのだから。
 不幸が近付いて来ることはないし、幸せだけを拾い集めながらハーレイと二人で歩いてゆく。
 もっとも、ブルーは見守るだけ。赤い瞳で見守るだけ。
 今度の生ではハーレイが守る。
 前の生で守れなかった分まで、不幸を端から投げ飛ばしながら…。




        占いとタロット・了

※新聞のタロット占いでは、アンラッキーな今日のハーレイ。心配なブルーですけれど…。
 ハーレイが言うには、最強のお守りはブルーの瞳。それに占いは当たるとは限らないのです。
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 クー、クルックー。
 鳩か、とダイニングの窓から庭を眺めたハーレイは「おっ?」と顔を綻ばせた。
 朝食の途中、庭の方から聞こえた鳴き声。普通の鳩かと思ったのだけれど。
 公園などで見かける鳩。野生のキジバトとは鳴き声が違う。何処かの公園から飛んで来たな、と考えた鳩。予想通りの姿の鳩が庭の木の枝に止まってはいたが。
(伝書鳩か…!)
 珍しいな、と目を凝らした。鳩の片方の足にチラリと見えた、足の色とは異なった色。
 サイオンを使えば、ある程度の距離なら双眼鏡のように拡大して見ることが出来る。サイオンの扱いが不器用になってしまった小さなブルーには出来ないけれども。
(ふうむ…)
 やはり、とハーレイの笑みが深くなった。
 鳩の足に見付けた、色が異なっている部分。其処に異物がくっついていることが判別できた。
 そうではないか、と思ったからこそサイオンを使って見てみたわけだが。
 色が違って見えた部分の正体は足輪。
 鳥の個体の識別用に、と研究者が付けることも多いが、この種の鳩ならそうではない。鳩の飼い主が付けた足輪で、自分の鳩だと見分けるための認識票。
 その足輪に付けられた小さな筒。
 レース用の鳩かと思ったけれども、これならば違う。レース用の鳩なら足輪だけだ。
(こいつは本物の伝書鳩だぞ…!)
 愛好家が使う、通信用の伝書鳩。レース用とは違った鳩。
 ブルーに話してやらなければ、とハーレイは枝に止まった鳩の姿を頭にしっかり叩き込んだ。



 その日、運良く早めに終わった仕事。いそいそと学校の駐車場に停めた愛車に乗り込み、目指す家へと出掛けて行った。来客用のガレージに車を置いてチャイムを鳴らせば、二階の窓にブルーの姿。軽く手を振り、門扉を開けに来たブルーの母に案内されて二階へと。
 紅茶と、夕食に差し支えない程度の菓子と。
 テーブルに置かれたそれを前にしてブルーと二人で向かい合って座り、早速、話した。
「今朝、鳩を見たぞ」
「ぼくは雀も見かけたよ?」
 鳩だって見たよ、と得意げに庭を指差すブルーに訊いてみた。
 その鳩は足輪を付けていたか、と。
「…足輪?」
「お前ではちょっと見えないかもな」
 サイオンで遠くを見られないしな、付いてても分からないかもなあ…。
「ううん、其処の木の枝に止まっていたから、良く見えたよ」
 枝で羽繕いしていたけれども、足輪なんか付いていなかったよ。
「そいつは残念な話だな。俺の見た鳩とは違うようだ」
 俺の家とは離れてるからな、別の鳩が遊びに来てたんだろうな。



 足輪の話は予想通りにブルーの興味を引いたらしくて。
 赤い瞳を煌めかせながら、ブルーは問いを投げ掛けて来た。
「ハーレイの見た鳩、足輪が付いてた?」
「付いていたとも。おまけに筒もな」
「筒?」
 キョトンとしている小さなブルー。
 個体識別用の足輪ならばさして珍しくないが、筒などは付いていないから。
「手紙を入れておくための筒さ」
 伝書鳩ってヤツを知らないか?
 俺は今朝、そいつに出会ったんだが。
「伝書鳩?」
 知らないよ、とブルーは首を傾げた。
「ふうむ…。だが、レース鳩は知っているだろう?」
「なあに、それ?」
 どっちも、ぼくは聞いたことが無いよ。
 伝書鳩とか、レース鳩とか、それって鳩の種類なの?
「そうか、知らんか…。前の俺たちの時代には無かったからなあ、どっちの鳩も」
 種類としては、ごくごく普通の鳩なんだが。
 野生のじゃなくて、公園とかで飼ってるヤツだな。
 餌を撒いたらわんさと集まる、ああいった鳩と同じ鳩さ。



 どちらも知らない、と答えたブルーに、ハーレイは説明してやった。
 伝書鳩とはどういうものかを、思念ではなく、きちんと言葉で。
「今じゃ二種類あるんだがなあ、レース用の鳩と、伝書鳩と」
 元々はレース用の鳩はいなくて、伝書鳩の方だけだった。
 鳩の帰巣本能を使っているのさ、遠くで放すと自分の家へと飛んで帰って行くからな。そういう風に育てた鳩をだ、通信手段に役立てていたのが伝書鳩だ。
 足に手紙をくっつけてやれば、そいつを運んでくれるんだな。空を飛ぶからうんと早いし、通信手段が発達していなかった時代は重宝されていたらしい。
 ついでに手紙だけじゃなくって、荷物も運んでいたそうだ。背中に荷物を結んでおけば目的地にきちんと届けてくれる。鳩が背負える程度の重さの荷物しか駄目だが、凄かったんだぞ。
 人間じゃ簡単に辿り着けないような僻地へ、薬や血清を運んでいたのさ。沢山の人の命を救った偉い鳩なんだ、薬とかを運んだ伝書鳩は。
「へえ…!」
 ハーレイが見たのはどんな鳩なの、とブルーが訊くから、手と手を重ねて思念で伝えた。
 こんな鳩だと、これが足輪でこれが筒だ、と。



 伝書鳩の姿を知ったブルーは、「ぼくも見たかったな…」と羨ましそうで。
「この筒に手紙が入っているの?」
「そうなるな。うんと昔なら、秘密の暗号文とかな」
 SD体制よりも前の話だぞ、そんなのは。今の伝書鳩が運ぶ手紙は、ただの手紙だ。
 レース用の鳩が殆どなんだが、こういうのが好きな愛好家ってヤツもいるんでな。レースよりも手紙だ、昔ながらの伝書鳩だ。
 俺が見た鳩は、手紙を遠くへ運ぶ途中で休憩してたっていうことさ。
「面白いね。レース用の鳩は何をするの?」
「もちろんレースだ、目的地までの飛行時間を競うんだ」
 どれだけの時間をかけて着いたか、飛行時間で勝負が決まる。今じゃそっちが殆どだそうだ。
 前の俺たちの時代はどっちも無くって、今の世界ならではの遊びだが…。



 レース鳩には手紙を入れる筒などは無くて足輪だけだ、とハーレイはブルーに教えてやった。
「その足輪がまた、よく出来ていてな。鳩が家まで飛んで帰って着いた時間を記録するんだ」
 そういう仕組みになっているからズルは出来ない。
 放した時間も、着いた時間も正確なデータがあるんだからな。
 この仕掛け自体はSD体制より前の時代にも存在してたが、レース鳩ごと消えちまってた。SD体制の管理社会には役に立たない趣味だしな?
 レース鳩ってヤツも、伝書鳩が通信手段の発達で要らなくなったからこそ出来たんだが…。
 そのレース鳩も、伝書鳩の方も、前の俺たちが生きてた頃には無かった。
 今はあちこちの星にレース鳩を飼う愛好家がいるが、どの星の鳩が一番速いかはデータからしか割り出せないんだ。一緒に飛ばせて競わせることは不可能なのさ。
 なにしろ帰巣本能だしなあ、地球の鳩なら地球の上でしか使えない。他の星から鳩を連れて来てレースをするのは無茶ってもんだ。放した途端に迷子になるのがオチだしな。
 伝書鳩だって其処は同じだ、そいつが育った星の上でしか手紙を運んで行ったりは出来ん。
 ついでに片道のみってな。
 放された場所から自分の家まで、その逆は飛んで行けないんだ。



「そっか、片道だけなんだ…」
 返事は運んでくれないんだね、と納得していたブルーだけれど。
 突然、「そうだ!」と声を上げて瞳を輝かせた。
「伝書鳩だと片道だけど…。それ、ナキネズミだったら往復出来るよ」
 手紙や荷物を運んで、届けて。
 「受け取りました」って返事を持たせてやったら、ちゃんと戻って来るじゃない。
 片道じゃないよ、往復便だよ、ナキネズミ。
「ああ、ナキネズミな!」
 確かに往復出来ただろうなあ、あいつらだったら。
 伝書鳩よりも役立つわけだが、あいつらはもう何処にもいないな…。
「うん…」
 いなくなっちゃったね、ナキネズミ。
 動物園にも、何処の星にもナキネズミはもういないんだっけね。



 手紙や荷物を運んで往復出来そうだったナキネズミ。
 シャングリラに居た頃、ブルーたちが作り出した思念波での会話が可能な生き物。前のブルーが後継者に選んだジョミーにも一匹渡しておいたほどに、重要な役割を担った生き物だったけれど。
 そのナキネズミは消えてしまった。
 ハーレイとブルーが青い地球の上へと生まれ変わるまでの間に、時の彼方へ消え去った。二人が生まれた地球の上にも、何処の星にもナキネズミはもういなかった。
 前のブルーが幸せの青い鳥の代わりにと、青い毛皮の個体を育てさせたナキネズミ。
 地球の色と同じ青を纏った、大きな尻尾のナキネズミ…。



 何故ナキネズミがいなくなったか、ハーレイもブルーも知っていた。前世の記憶が戻る前から、学校で習ったミュウの歴史の一環として。
 ハーレイは「ナキネズミか…」と前の自分たちが作り上げた生き物の名を呟いた。
「生殖能力が衰えていったらしいな、世代が替わる度に少しずつ…な」
 そうして子供が滅多に生まれなくなって、生まれても次の世代が出来なかったり。
 頑張って繁殖させようとしても、まるで駄目だったと教わったっけな…。
「元が作った生き物だしね?」
 ちゃんと繁殖させるんだったら、遺伝子とかを操作してやらないと。
 でないと子供が生まれなくなるよ、繁殖させるために作ったわけじゃないんだから。
 だけど、絶滅させないために、って身体をいじるのは良くないよ。
「うむ。自然界に存在していた生き物だったら、手助けってことになるんだろうが…」
 ナキネズミはそうじゃないからな。
 動物愛護の観点から、ってコトで放っておいたようだな、新たに作り出したりもせずに。
 あいつらをどうやって作り出すのか、そうしたデータはあった筈だが。
「滅びていくのがナキネズミにとっては自然の法則ってヤツだったんだと思うけど…」
 最後のナキネズミは寂しかったろうね。
 仲間は一匹も残っていなくて、広い宇宙に独りぼっちで。
 雄だったって習ったけれども、お嫁さんもいなくて、子供もいなくて。
「さあな?」
 そいつはどうだか分からないぞ。
 大切に飼われていたって話で、飯は食い放題、遊び放題。
 自分はナキネズミなんだってことも忘れて、案外、元気にやってたかもな。
 こういう姿の人間なんだ、と思い込んでて、人間の友達を沢山作って。
「そうかもね!」
 そんな風に幸せに暮らしていたんだったら嬉しいな。
 前のぼくが作らせてしまったんだもの、ナキネズミっていう生き物を…。



 時の彼方へ消えてしまったナキネズミ。歴史の本やデータにしかいないナキネズミ。
 本物のナキネズミを見たことがある人も、とうに時の流れの向こうへと消えた。
 けれど、ブルーは知っているから。
 前の自分がナキネズミを作らせたことも、どんな生き物だったかも鮮やかに思い出せるから。
 ふと思い付いて、口にしてみた。
「ナキネズミ…。伝書鳩のことを知っていたなら、使いたかったな」
 前のぼくは伝書鳩もレース鳩も全く知らなかったんだけれど。
「どう使うんだ?」
 不思議そうな顔をするハーレイに、ブルーはニッコリ笑って返した。
「お使いだよ」
「…お使い?」
「そう、お使い!」
 前のぼく、ハーレイに出前を注文してたでしょ?
 青の間からブリッジに思念を飛ばして、「来る時にコレを持って来て」って。サンドイッチや、お菓子や、フルーツ。ハーレイに届けて貰っていたでしょ?
 それの代わりに、ナキネズミに手紙を持たせるんだよ。
 ブリッジのハーレイにラブレターとか。



「ラブレターだと!?」
 なんだそれは、とハーレイは仰天したのだけれど。ブルーは澄ました顔で続けた。
「ラブレターだよ、内緒の手紙」
 ナキネズミは思念波で伝言も伝えられたけれども、思念波、筒抜けだったしね?
 ぼくたちが声に出すのと同じで、周りのみんなに聞こえちゃうでしょ、伝言の中身。
 ナキネズミの思念波は人間と喋るための手段で、内緒の話には向いてなかった。
 だから個人的なお使いに使えないのが難点だったけど、手紙をくっつけておくのなら別。
 これを届けて、って相手を教えたら一直線だよ。
「そしてブリッジに寄越すのか?」
 ラブレターつきのナキネズミってヤツを、俺の所へ寄越そうってか?
「うん」
 いいアイデアだと思わない?
 ナキネズミに手紙を持たせるんなら、足輪じゃなくって首輪になるかな。
 首輪に筒をくっつけておいて、それに手紙を入れるんだよ。



「お前なあ…」
 ハーレイは特大の溜息をついた。
「ナキネズミに手紙を配達させる案は悪くないが、だ」
 手紙の中身が問題だ。
 お前から俺へのラブレターなぞを、ブリッジで読めると思うのか?
「ソルジャーからの伝言です、ってことにしとけば誰も見ないよ」
 覗き込んだりしないよ、きっと。
 ソルジャーがキャプテンに宛てて出した手紙だよ、特別な手紙に決まっているよ。
 キャプテン以外は読んじゃいけない、極秘の手紙が届くんだよ。
「機密事項というわけか…」
 確かに安全な伝達方法ではある。
 思念と違って漏れはしないし、通信のように傍受も出来んか。
「そう、シャングリラの最高機密」
 ぼくとハーレイの仲、誰も知らないしね?
 実はそういう仲なんです、って書いてあるのがラブレターだよ。
 それが最高機密でなければ何だって言うの、ホントのホントに極秘の中身。



 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが恋人同士だったことは誰も知らない。
 共にシャングリラの命運を左右する立場に居たから、明かせなかった。二人きりで過ごせる時を除けば、甘い言葉を交わせはしない。恋を語るなど、とても出来ない。
 ましてやシャングリラの中枢と言えるブリッジともなれば、恋人同士として振る舞うどころではないのだけれど。
 ブルーは其処へラブレターを届けさせると言い出した。ハーレイに宛てて書いたラブレターを、ナキネズミの首輪に付けた筒に入れて。
 ハーレイは「うーむ…」と眉間に皺を寄せると。
「前の俺たちの仲は必死に隠し通していたのに、そんな中で堂々と寄越すのか」
 よりにもよってブリッジの俺に、お前が書いたラブレターを。
「ブリッジにも思念波は送っていたよ?」
 出前を頼むついでに「愛してるよ」だとか、何度も送っていたじゃない。
 恋人なんです、って思念は何度も送ってたけど、それじゃつまらない。
 ラブレターっていうのがいいんだよ。ちゃんと形になってる手紙で、愛の告白。
「…俺は返事を書くのか、それに?」
 往復便とか言っていたよな、返事が要るんじゃないだろうな?
「要るに決まっているじゃない!」
 ナキネズミは青の間に戻ってくるんだよ?
 ぼくがラブレターを送っているのに、空っぽの筒を持たせて帰すつもりなの、ハーレイは?
 それって、恋人としては最低じゃない?



 ラブレターが仕込まれた筒を付けたナキネズミがハーレイの許へやって来たなら、返事が必須。書いて貰わねば、とブルーは言い張る。
 でなければ恋人失格なのだと、自分への愛が足りないと。
「ぼくが愛をこめて書いた手紙を無視ってことだよ、返事無しなら!」
 恋人だったら、直ぐに返事を書かなくちゃ。
 気の利いた言葉は期待しないけど、きちんと愛がこもった手紙を。
「…そうするよりも前に、まずは暗号の開発からだという気がするが」
 万一ってことも考えてみろ。
 暗号だったら誰も読めんし、何の心配も要らないが…。
 普通に書かれた手紙なんぞはどうかと思うぞ、お前から俺へのラブレターだぞ?
 ソルジャーとキャプテンは恋人同士だとバレたらどうする、シャングリラ中が大騒ぎだ。
「平気だってば」
 大丈夫だよ、ハーレイがぼくの書いた手紙を落としたりしない限りは絶対バレない。
 一人でコッソリと読んで、内ポケットに大事に仕舞っておいたら大丈夫だよ。
 落としたり、失くしてしまったり。
 そうならないよう、細心の注意を払っておいてよ、ぼくから届いたラブレター。
「俺にそこまでの責任を負えと!」
 バレないように手紙を読んで、部屋に戻るまで厳重に保管しておけと?
「そうだけど?」
 ついでに返事もちゃんとお願い。
 その辺のメモに書いたヤツでいいから、ラブレターの返事。
 ナキネズミの首輪の筒に入れておいてよ、ぼくが返事を待ちくたびれているんだから。



 ロマンティックだよね、とブルーは微笑む。
 人目があるどころの騒ぎではない、シャングリラの中枢部であるブリッジ。其処を舞台に誰にも言えない秘密の恋を語り合うために、ラブレター。ナキネズミに持たせたラブレター。
 ブルーが書いたラブレターを首の筒に入れて、ナキネズミがハーレイの所まで行く。ハーレイはそれを読み、返事を書く。返事はナキネズミの首に付いた筒に。
 そうしてナキネズミは青の間に戻り、ブルーが筒から返事を取り出す。ハーレイが書いてくれた手紙を、自分への想いが熱く綴られたラブレターを。
 ハーレイからのラブレターを読むブルーの側では、無事にお使いを終えたナキネズミが御褒美を貰っていることだろう。
 きっと、好物のプカルの実。普段は限られた数しか貰えないそれを、専用の器にたっぷりと。



「うん、プカルの実が一番いいよね、ナキネズミへの御礼」
 またお使いに行ってくれるよ、とブルーはハーレイに同意を求める。プカルの実はナキネズミのためだけに栽培されていた植物の実だが、お使い用に株を増やすのもいいと。
「毎日お使いして貰うんなら、それ専用に何本か植えておくとか…」
「おい、ラブレターは毎日来るのか!?」
「ハーレイ、毎日だと嬉しくないの?」
 邪魔だって言うの、ぼくからの手紙。
 ぼくがハーレイのためにって書いたラブレター、毎日届いたら嬉しくないの?
 ハーレイ、昼間はブリッジに居るから、会いに行っても恋人同士の話なんかは出来ないのに…。
 代わりにラブレターを出そうと言うのに、それ、要らないって言い出すの?
「い、いや…。そ、そんなことは…!」
「だったら、毎日」
 ぼくは毎日、ラブレターを書くよ。ナキネズミに毎日届けて貰うよ、そして返事を貰うんだ。
 ハーレイ、書いてくれるよね?
 返事を書いてナキネズミに持たせてくれるよね?
 ナキネズミが空っぽの筒をくっつけて帰って来たりしたら、うんと怒るよ?
 ハーレイが青の間に来た時に平手打ちだってしちゃうかもだよ、最低だ、って。
 恋人がくれたラブレターに返事を書かないだなんて、ホントのホントに有り得ないから!



 ナキネズミの首輪にくっついた筒には、必ず返事を入れておくこと。
 そうやってラブレターを交わし合ってこそのナキネズミだ、とブルーは力説して譲らない。
 片道だけしか手紙を運べない伝書鳩とは違ったナキネズミ。
 届けた先から返事を受け取り、持って帰れるナキネズミ。
 それを生かさない手は無いのだと、ラブレターには返事を書くものなのだと。
「せっかくお使いしてくれるんだよ?」
 手ぶらで帰すなんて、ナキネズミにだって失礼だよ。
 返事を書いたから届けてくれ、って頼むのが礼儀ってものだよ、ハーレイ。
「…俺はあの時代に伝書鳩を知らなくて良かったという気がして来たぞ」
 知っていたなら、ナキネズミのヤツが毎日ブリッジに来るんだろう?
 「ブルーの手紙を持って来たよ」と、筒をくっつけた首輪をつけて。
 俺はそいつは御免蒙る、手紙の内容がいつバレるかと生きた心地もしないじゃないか。
「そうかな、ぼくは素敵だと思うんだけれど」
 ハーレイがとんでもないヘマをしなけりゃ、手紙の中身はバレないよ?
 それに返事も、「機密事項だ」って言えば覗かれないから堂々とブリッジで書けるしね。
 ナキネズミのお使い、絶対にいいと思うけどなあ…。
 伝書鳩と違って、ナキネズミは往復してくれるんだし。



「頼むから、ラブレターだけは勘弁してくれ…!」
 伝書鳩代わりに使いたいなら、荷物を持たせて差し入れくらいにしておいてくれ、とハーレイは悲鳴を上げたけれども。
 首の筒に手紙を入れる代わりに、勤務中には厳禁とされるアルコール。合成ラムかウイスキーを少し、ほんのちょっぴり届けてくれ、と代替案。お菓子に入れる程度の量をコッソリ、ブリッジで頑張る自分に差し入れてくれ、と頼んだのだけれど。
「それでハーレイへの愛を示せるなら、それでもいいけど…」
 ぼくへの返事は何が届くわけ?
 ナキネズミのお使いは往復なんだよ、ぼくにも何かくれるんだよね…?
「それはマズくないか!?」
 ソルジャーがキャプテンを労うのならば話は分かるが、逆はどうなんだ。
 俺から何かを届けたりしたら、俺たちの仲を疑われるぞ…!
「それじゃ、帰りはラブレターでいいよ」
 ぼくからの愛を受け取りました、って手紙を書いてよ、ラブレター。
 お酒を入れておいた器に入れてくれていいから、ナキネズミに持たせて帰らせてよね。
「…どう転んでも俺はラブレターを書く羽目になるのか…!」
 差し入れが来ても、手紙が来ても。
 俺は書くしかないってわけだな、ラブレターを…。



 なんてこった、とハーレイが天井を仰ぎ、ブルーはコロコロと可笑しそうに笑う。
 往復が出来るナキネズミは手紙の返事を運んでこそだと、ラブレターを運ばせるべきだと。
 そうして二人で笑い合ったけれど、全ては遥かな遠い昔の話で夢物語。
 伝書鳩代わりになりそうだった、便利なナキネズミはもういない。
 青い地球にも、広い宇宙の何処を探しても…。




           伝書鳩・了

※伝書鳩ならぬ、伝書ナキネズミ。伝書鳩よりは役に立ちそうですけれど…。
 運ぶ手紙の中身によっては困り物。青の間とブリッジでラブレター交換、ハーレイは大変。
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