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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv




まだ十一月の末だというのに本格的な寒波がやって来ました。中旬あたりから「今年は寒いね」と言い交わしていたら、いきなりドカンと真冬並み。初霜だの初氷だのと冬は駆け足、ついに初雪な上に積もったという始末です。
「う~、寒い~!」
風が冷たい、とジョミー君が校舎を出るなり手に息を吐きかけ、私たちも。終礼を終えて「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ向かうまでの間、校舎の間をビル風とまでは行かないまでも強い寒風が吹き付けてきます。
「寒いよなあ、耳がちぎれそうだぜ」
サム君も背中を丸めていますが、キース君は。
「この程度で文句を言ってどうする! 璃慕恩院はもっとキツイぞ」
「え? なんで璃慕恩院が出て来るんだよ」
「お前とジョミー限定だ。いずれは住職の資格を取るんだろうが」
そろそろ伝宗伝戒道場のシーズンだぜ、とニヤリと笑うキース君。
「俺が行った年も寒波だったが、お前たちの時はどうなるだろうな? 未だに暖房は無いそうだぞ。寝泊まりする部屋から障子一枚隔てた外はだ、寒風吹きすさぶ外なわけだが」
廊下に戸なんか無いんだからな、と言うキース君の言葉は実体験に基づくもの。道場に行った時、キース君は酷い霜焼けになって後遺症に苦しんでましたっけ…。
「そ、そうか…。だったら覚悟をした方がいいよな、なあ、ジョミー?」
この寒さにも慣れようぜ、とサム君が声をかけるなり。
「なんでぼくが!」
坊主なんかはお断りだし、とジョミー君は脹れっ面。
「行きたきゃサムだけ行けばいいだろ、ぼくは絶対行かないからね!」
「その考えは甘いと思うが」
キース君が即座に否定し、サム君も。
「うんうん、ブルーの弟子だしなぁ…。いつかは道場行きだぜ、お前も」
「ぼくも全く同感です。会長の魔手から逃れられたら誰も苦労はしませんってば」
坊主だけでなく何もかもです、と首を振り振り、シロエ君。
「現に今年の学園祭だって、会長が思い切り仕切ってましたし…。例年以上にぼったくるんだ、と言い出したのは会長ですよ」
「そうよね、オプションを何種類もつけて儲けてたわよねえ…」
逆らえる人はいないのよ、とスウェナちゃんが。学園祭での売り物はサイオニック・ドリームを使った喫茶、『ぶるぅの空飛ぶ絨毯』です。居ながらにして世界のあちこちへ飛べる体験に上乗せ価格でオプショナルツアー。ぼったくり価格でも千客万来、お客様が納得だったらいいのかな?



寒波だ、坊主だと言い合いながら生徒会室に入り、奥の壁をすり抜けて「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へと。よく効いた暖房が嬉しいです。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
「やあ。今日も冷えるね」
でもって坊主がどうしたって? と会長さん。
「な、なんでもないし!」
ジョミー君が逃げを打ちましたが、会長さんは地獄耳。
「君たちが何を話してたかは知ってるよ。キースが行った年の璃慕恩院は寒かったねえ」
「ぼくには関係ないってば!」
「おや、そうかい? まあいいけどね、時間はたっぷりあるんだからさ。でも、せっかくの寒波と坊主の話題なんだし、あやかろうかな」
「「「は?」」」
何の話だ、と首を傾げる私たち。話がサッパリ見えません。
「たまには和風もいいだろう、っていう話。そうだよね、ぶるぅ?」
「うんっ! でも…。ブルーが思い付いたの、ついさっきだし…」
作ってる時間が無かったの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。作るって……何を?
「えとえと…。見れば分かるよ、持ってくるね~!」
待っててね、とキッチンに走った「そるじゃぁ・ぶるぅ」はワゴンを押して戻って来ました。ホカホカと湯気の立つ大きなヤカンと、最中の山と缶ジュース…?
「「「…もなか?」」」
なんでまた、と目を見開けば、会長さんが人差し指をチッチッと。
「見た目だけなら最中だけどねえ、その横の缶で分からないかい?」
私たちは缶を注視し、そこに書かれた文字に仰天。『しるこドリンク』と書かれています。
「おい」
キース君が会長さんをまじまじと見て。
「しるこドリンクとセットだったら、そいつは懐中しるこだな?」
「大当たり! 流石は元老寺の副住職だよ、和のおやつにも詳しいってね」
「…まあな。月参りに行って出てくる菓子は圧倒的に和菓子だし…。冷え込む冬場は、しるこもアリだ。そして正直有難いんだが、何故しるこなんだ」
「あやかろうって言っただろ? 厳しい寒さで坊主とくれば、やっぱりおしるこ! 時間があったらおぜんざいだけどね、時間が無い時はコレが一番!」
というわけで、どっちがいい? と各自に任された好みのチョイス。しるこドリンクか懐中しるこか、私はどっちにしようかなあ…。



少し悩んで、懐中しるこ。「そるじゃぁ・ぶるぅ」がパキッと割ってお椀に入れてくれ、ヤカンのお湯をたっぷりと。しるこドリンクを選んだ人は熱々のお湯を満たした器で熱燗の如く温めて貰い、その間に緑茶が淹れられて…。
「「「いっただっきまーす!」」」
たまにはこんなティータイムもいいね、と懐中しるこ組はお椀を手にして、しるこドリンク派は缶を開けて直接ゴックンと。短い距離でも寒風の中を歩いただけに、熱さと甘さが有難く…。
「なかなかいけるな。正直、期待していなかったんだが」
キース君がしるこドリンクの缶を見詰めると、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「ブルーのイチオシのメーカーだしね! 璃慕恩院の老師のお勧めだって!」
「えーーーっ?!」
それは困る、とジョミー君が缶を片手に青い顔。
「先に聞いてたら選ばなかったよ、なんか坊主に近付いた気がする…」
「それは結構。御仏縁かもしれないね、ジョミー」
会長さんがからかい、ジョミー君はオタオタと。
「ぜ、絶対関係ないんだから! 偶然だから!」
「どうだかねえ…。そもそも御仏縁というのは、いろんな所にあるものだしさ」
大いに御縁を結びたまえ、と会長さんの法話もどきが始まりそうになった時です。
「ぼくも、おしるこ!」
「「「??!」」」
誰だ、と振り返った先で優雅に翻る紫のマント。いつものソルジャー登場ですけど、御仏縁とは思い切り縁が遠そうな…。会長さんもそう思ったらしく。
「…君がおしるこ? なんで?」
「なんか面白そうだから!」
カップ麺みたいな食べ物だねえ、とソルジャーはソファに腰掛けました。
「おやつは手間がかかるものだと思ってたけど、お湯を注ぐか温めるかだけで出来るんだ?」
「そうだけど…。で、君はどっち?」
「もちろん、両方!」
おしるこだから甘いんだろう、と甘いものには目が無いソルジャー。まずは懐中しるこを味わい、お次はしるこドリンクで。
「…いいねえ、どっちも美味しいよ。思い付いた時にパパッと出来て、熱々っていうのがまたいいよね」
もう一個! と、お代わりを希望。私たちも二杯目や二本目に突入していますけども、後から来たくせに三個目ですか…。



しるこドリンクと懐中しるこを合計四個も食べたソルジャー。気に入ったらしく、自分の世界でも夜食に食べると言い出したまでは良かったのですが。
「悪いね、沢山貰ってしまって。早速今夜から頂くよ。…それでさ、ちょこっと思い付いたんだけどさ…」
「何を?」
胡乱な目をする会長さん。会長さんもさることながら、ソルジャーの思い付きもロクな結果にならないことが多いのです。とはいえ、今日の会長さんのアイデアは美味しいおしるこになったんですから、ソルジャーの方もグルメ絡みかもしれません。
「お湯を注ぐか、温めるだけで直ぐに食べられるなんて最高だよね。この発想を生かせないかと思うんだけど」
「…君のシャングリラで?」
「そう!」
良さそうだろ、と言うソルジャー。なんだ、やっぱりグルメ絡みじゃないですか! ああ良かった、とホッとしたのも束の間で。
「こんな調子で作れないかな、いつでも何処でも美味しいハーレイ!」
「「「はぁ?!」」」
何ですか、それは! 懐中しるこならぬ懐中キャプテン? しかも食べるって…?
「分からない? 思い付いた時に即、食べられるハーレイって素敵だと思うんだよ。ブリッジだとか公園だとか、ヤりたくなったらその場で食べる!」
「退場!!!」
会長さんがレッドカードを突き付け、私たちも遅まきながら理解しました。同じ「食べる」でもソルジャーの「食べる」は全く別物、要するに大人の時間です。そんなモノを即席しること同じ感覚で実行されたら、ソルジャーが住むシャングリラの人たちは大迷惑というものでしょう。しかし…。
「いいアイデアだと思うんだけどねえ? ハーレイは未だにヘタレな部分があるから、ぼくが今すぐって要求したってダメなケースが多くてさ…。青の間でだって、執務時間中だとアウトで」
どうやらその気になれないらしい、と語るソルジャー。
「ぼくに報告に来た時なんかにヤりたくなっても、「後で出直して参りますから」って帰っちゃうんだよ! ブリッジと公園は無理だとしても、せめて青の間では即、食べたい!」
お湯を注いで少し待つとか、ちょっと温めるだけだとか…、とソルジャーはブッ飛んだ主張を始めました。
「そりゃあ、ぼくが御奉仕ってヤツをしちゃえばいいんだけども…。それじゃイマイチ、気分がねえ…。ぼくがハーレイを襲ってるような気がしちゃう時もあるわけで」
自発的にヤッて欲しいのだ、と言われましても、なんでそういう方向に~!



しるこドリンクと懐中しるこは猥談の危機に陥りました。どういう発想の持ち主なのだ、とソルジャーのセンスを嘆いてみても今となっては手遅れです。お坊さんと寒さから来た美味しいおやつがアヤシイ話になるなんて…。
「どう思う? 何かこう、素敵なアイデアってヤツは?」
ソルジャーの赤い瞳は期待に溢れて煌めいています。
「考えてみれば色々あるよね、缶詰とかカップ麺だとか…。そんな感覚でいつでも何処でも!」
「……唐揚げにすれば?」
会長さんがフウと溜息を。えっと、唐揚げって…即席ですか? 確か「揚げずに唐揚げ」ってありましたよねえ、それなのかな? ソルジャーも「唐揚げ?」と首を捻って。
「それ、簡単に作れるのかい? ついでに美味しい?」
「どうだろう? だけど威勢はいいみたいだよ」
「「「???」」」
威勢のいい唐揚げって、どういう意味? 活きがいいなら分からないでもないですが…。でもでも、相手は魚とかじゃなくって唐揚げです。揚げたての味を指すのでしょうか? 疑問だらけの私たちを他所に、料理とはまるで無縁のソルジャーは。
「威勢がいいなら大歓迎かな。ヌカロクを軽く越えられそうとか?」
「聞いた話じゃ、暴れっぷりが凄いらしいね」
「凄いじゃないか! で、どうやるって?」
「唐揚げにするだけだけど」
滾った油に放り込むだけ、と会長さんは答えました。
「油って…。それはどういう例えなんだい? 潤滑剤を多めに使えばいいのかな?」
油だけに、とソルジャーが尋ね、私たちの頭も『?』マークで一杯です。潤滑剤って何に使うの?
「え、潤滑剤っていうのはねえ…。男同士の大人の時間をより円満に」
「その先、禁止!」
会長さんが眉を吊り上げ、ソルジャーは渋々といった様子で。
「分かったよ…。だからさ、早く唐揚げの話!」
「了解。元ネタは猫の唐揚げなんだよ、生きたまま油に放り込むわけ。すると暴れて」
「待ってよ、それって猫はどうなってしまうわけ?」
「もちろん昇天するんだな。…でも、それまでは派手に暴れるっていう話だから丁度いいだろ」
暴れまくって御昇天、と会長さんはニッコリと。
「昇天するまで暴れる辺りが君の好みにピッタリだろうと思うけどねえ?」
「ちょ、死んじゃったらシャレにならないし!」
昇天はヤッた挙句の昇天に限る、と叫ぶソルジャー。なんだ、唐揚げって正真正銘の唐揚げでしたか…って、会長さんったら何処で猫の唐揚げなんていう恐ろしいネタを…。



誰もが青ざめた猫の唐揚げ。本当に聞いた話なのか、と疑っている人もいるようです。とはいえ、会長さんは腐っても伝説の高僧、銀青様。殺生をするとは思えませんが…。
「…もしかして実行したかと思われてる? それは違うよ、璃慕恩院で聞いた話さ。老師にね」
世の中には酷い人間がいるものだねえ、と会長さん。
「実はそういうことをしました、と懺悔に来た人がいたらしい。そして璃慕恩院で頭を丸めて、猫の菩提を弔ったとか…。だからね、ブルー。…君もつまらないことばかり考えてないで、この際、キッパリ縁を切るのがお勧めだよ」
今日のテーマは御仏縁! と会長さんはブチ上げました。
「しるこドリンクも懐中しるこも坊主絡みのネタだったんだし、妙な方向に突っ走るよりも精進潔斎で清く正しく! 君のハーレイと二人仲良く念仏三昧、いずれは極楽往生ってね」
「同じ極楽だか天国だったら、ヤりまくった果てに天国だってば!」
あくまで戻って来られる天国、とソルジャーの方も譲りません。
「気持ち良くって昇天してもね、ぐっすり眠れば元通り! 目が覚めたら食事してパワー充填、いつでも何処でもヤりまくり!」
そっちに限る、とグッと拳を握るソルジャー。
「暴れまくって昇天するのは理想だけれども、君の言う唐揚げは頂けない。…本当の意味での昇天なんかは求めていないよ、ぼくの希望はこの世で昇天! そして望んだ時に、即!」
せめて青の間では昼夜を問わず、とソルジャーの夢は果てしなく。
「それとハーレイがデスクワークで缶詰になって御無沙汰になった後とかさ…。たまにあるんだ、仕事が何日も続いてしまって夜は疲れて寝るだけってヤツ。缶詰が終わっても直ぐには回復しなくって…。お湯を注げば即、復活とか、そういう仕掛けがあればいいのに」
待ちくたびれずに食べたいなぁ…、とキャプテンのお疲れを歯牙にもかけないソルジャーの台詞に涙が出そうになりましたが。
「…そうか、缶詰!」
唐突に声を張り上げたソルジャーの瞳がキラキラと。
「うん、缶詰だよ、しるこドリンクは缶詰じゃないか!」
どうして今まで全く閃かなかったんだろう、とソルジャーの顔は輝いています。しるこドリンクの空缶を手にして御満悦ですけど、いったい何が閃いたのやら…。



ソルジャーは空缶を仔細に検分しながら一人で何やら「うん、うん」と。更には「よしっ!」とポンと両手を打ち合わせて。
「いいアイデアが閃いたんだよ、しるこドリンクに感謝しなくちゃ!」
「はいはい、分かった」
だからサッサと帰りたまえ、と会長さんが「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「ぶるぅ、お客様のお帰りだ。しるこドリンクと懐中しるこ、この部屋にある分はブルーにプレゼントしたけど、家には残っていなかったっけ?」
「んとんと…。こないだ買った分なら今日のに足したよ、もう無いと思う」
「だってさ、ブルー。悪いけど、譲れる分はそれだけらしいね」
丈夫な手提げの紙袋に詰められたお土産を指差す会長さん。
「もしもハマッて足りなくなったら、懐中しるこはデパ地下で! しるこドリンクはスーパーで買うか、自販機だったら…」
「ああ、そこまでしては要らないよ。それにさ、今は同じ缶詰でも気になる缶詰が出来ちゃったからさ」
「「「???」」」
どんな缶詰のことでしょう? しるこドリンクの他に缶詰は置いてありません。それに「そるじゃぁ・ぶるぅ」は缶詰を使うくらいなら手間がかかってもフレッシュなものを、というスタンスです。料理なんかは絶対にしないソルジャーが缶詰に詳しいとは思えませんが…。
「ん? ぼくの気になる缶詰かい? ズバリ、ハーレイの缶詰だけど」
「「「は?」」」
よりにもよって唐揚げどころか缶詰だなんて、それじゃキャプテンの運命は…。
「ブルー、君のハーレイをどうする気なのさ!」
まさか料理はしないだろうね、と詰め寄る会長さんに、ソルジャーは。
「うーん…。広い意味では料理かな? 唐揚げってわけじゃないけれど」
「当たり前だよ、唐揚げは君が却下しただろ!」
「死なれちゃ元も子も無いからね。…死なない程度に料理しようかと」
そして缶詰にしておくのだ、と言うソルジャー。
「ただねえ、ぶっつけ本番はちょっと…。失敗したら恨まれちゃうか、はたまた萎えて当分、御無沙汰になるか。どっちも困るし、実験したいな」
「「「実験?」」」
「そう、実験。こっちの世界にもハーレイは居るし」
拝借してもいいだろうか、と私たちに訊かれても困ります。教頭先生は立派な大人で、私たちの所有物ではありませんってば…。



教頭先生をウッカリ貸し出してしまわないよう、私たちは口にチャックを。ところが此処に困った人がいるわけで。
「…それって、どういう実験なんだい?」
会長さんが興味津々、ソルジャーの話に食い付きました。そういえば会長さんは教頭先生を日頃からオモチャと呼んで憚らない上、実際、オモチャにする人です。ソルジャーの方も我が意を得たりと微笑んで。
「気になるかい?」
「それはもう! モノによっては喜んで貸すよ、ハーレイを」
「ちょっと待て!」
キース君が横から割って入ると。
「教頭先生はあんたのものじゃないんだぞ! 貸すヤツがあるか!」
「ぼくのものだと思うけどねえ? 少なくとも、そう言えばハーレイは喜ぶ」
あるいは感涙に咽ぶかも、と会長さんは涼しい顔。
「本人が喜んで貸し出されるならいいんだよ。ブルー、実験の内容は?」
「ハーレイにとっても悪くはないと思うんだ。缶詰にされるだけだからねえ、文字通り」
こんな感じで、とソルジャーはしるこドリンクの空缶をテーブルにコトンと置いて。
「これは小さすぎて入れないけど、ハーレイのサイズで特注するわけ」
「…えっ…。そ、それは……。そんなのを被せてどうすると?」
「被せる?」
今度はソルジャーが訊き返す番でした。
「被せるって、何処に?」
「…違うわけ? て、てっきりそうだと…。ご、ごめん、今のは聞かなかったことに…!」
会長さんが耳の先まで真っ赤になって、ソルジャーが派手に吹き出して。
「なるほど、ハーレイの息子の缶詰なんだ? それもいいかも」
「違うってば! そうじゃなくって!」
そんな意味ではなかったのだ、と会長さんは必死に否定しましたが、赤くなってしまった後ではもはや手遅れ。教頭先生の大事なアソコに缶を被せるとは斬新な…。ソルジャーもお腹を抱えて笑っています。
「確かに文字通り缶詰だけどさ…。それも思い切り美味しそうだけど、そんなのを装着した状態で臨戦態勢に入られてもねえ? ぼくは笑うしかないじゃないか」
股間に輝くしるこドリンク、とモロに口にされて、しるこドリンクを楽しんだ面々がテーブルにめり込んでいます。私、懐中しるこにしといて良かった~!



討ち死にした面子の復活を待って、ソルジャーは早速、話の続きを。曰く、ハーレイのサイズの缶とは教頭先生の体格に合わせた巨大な缶だそうでして。
「立って入れるだけじゃなくてね、中には座れるスペースも欲しい。ぼくのハーレイが仕事で缶詰になっちゃう時って、もれなくデスクワークだし…。椅子と机も入るサイズで」
「相当大きな缶になるよ?」
どうするつもり? と会長さん。
「費用も高くつきそうだよねえ、それはノルディに頼むのかい?」
「ハーレイが自分で払うと思うよ、こっちのハーレイ、君に甘いし」
あわよくば美味しい思いも出来るわけだし、とソルジャーは自分の計画を得々と。
「缶の中には快適な環境を整えて、缶詰の間も気持ち良く! そう、いろんな意味でね。疲れたな、とモニターのスイッチを入れれば、君の笑顔が映し出されて「お疲れ様」とメッセージが流れてくるとかさ」
「ふうん? そのモニターとやら、嫌な予感しかしないんだけれど?」
「いいカンしてるね、流石はソルジャー。君の場合はソルジャーの称号で呼ばれてるだけに過ぎないけれど、一応、タイプ・ブルーだし?」
そのくらいは分かって当然か、と唇に笑みを浮かべるソルジャー。
「息抜き専用のモニターなんだよ、「お疲れ様」と再生を繰り返す内にグレードアップをしていく仕組み! 最初は制服でも、ソルジャーの正装でもかまわない。それが一枚ずつ減っていくのはどうだろう?」
「ストリップしろと?!」
このぼくに、と会長さんの顔が引き攣り、ソルジャーが。
「君にやれとは言っていないさ。ぼくのハーレイが使うためのを作るわけだし、モデルはぼくが自分でやるよ。一枚ずつ減らす間の繋ぎに悩殺ポーズも忘れずに!」
「…の、悩殺…」
「色々あるだろ、誘うポーズとか、淫らだとか? でもって最後は一糸纏わず! これで気分が盛り上がらないなんて男じゃないね」
こっちのハーレイの場合は盛り上がる前に鼻血で倒れて終わりかもだけど、と言うソルジャー。
「とにかく、そういう仕掛けをつけた缶詰の缶を作るのさ。デスクワークが終わって蓋を開けたら、即、ベッドイン! 今までだったら「疲れていますから」とバタンキューだったとは思えないほどの漲るパワー!」
これをやらずに何とする、とソルジャーの身体から立ち昇る決意のオーラ。…しるこドリンクと懐中しるこが今日のおやつに出てきたばかりに、話はドえらい展開に…。



ソルジャーを追い出すことは既に不可能になっていました。しるこドリンクの忌まわしい缶を処分し、ソルジャーがお土産の分を自分の世界に送った後も延々と缶詰計画が。下校時間が過ぎてしまうと会長さんの家に瞬間移動で連れてゆかれて…。
「さてと、みんなが食べ終わったらハーレイの家に行かなくっちゃね」
今日は冷えるから、と始めた寄せ鍋をソルジャーが仕切り倒しています。食材も鍋の出汁も「そるじゃぁ・ぶるぅ」に丸投げのくせに「早く食べろ」とせっつかれ。
「ハーレイから缶の制作費を毟り取るのと、実験への協力ゲットだよ。そこはブルーの腕次第だよね、上手くいったら相手をしようと言うとかさ」
「………。どうせ鼻血で轟沈だしねえ、君のストリップは気に食わないけど」
またハーレイの妄想爆発、とブツブツ言いつつ、会長さんも教頭先生をオモチャに出来るチャンス到来に心が揺れてはいるようで。
「きちんと口説き倒しはするから、仕掛けとやらは頑張ってよ?」
「もちろんさ。ぼくのハーレイが缶詰な期間を楽しく待つためのアイテム作りだし、手抜きする気は無いってば」
任せておけ、とソルジャーはやる気満々です。間もなく鍋に締めのラーメンが投入されて、食べ終えてテーブルの片付けが済むと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が元気一杯に。
「かみお~ん♪ しゅっぱぁ~つ!」
青いサイオンがパァァッと溢れて、私たちは教頭先生の家のリビングに立っていました。一人侘しく一人鍋中だった教頭先生、目がまん丸になっていますよ…。



「こんばんは、ハーレイ。急にお邪魔して悪いんだけど…」
会長さんが口を開くと、教頭先生は「気にするな」と穏やかな笑み。
「一人で晩酌も飽きていた所だ、一杯やるか?」
「お断りだよ!」
間に合っている、と会長さんが突っぱねた横からソルジャーが。
「頂こうかな、せっかくだから」
「嬉しいですねえ、では、お付き合い頂いて…。どうぞ」
教頭先生、食器棚からいそいそと盃を持って来ました。熱燗を注いで貰ったソルジャー、一息にクイッと飲み干して。
「ありがとう。寒い季節は熱燗に限るね、お酒も、しるこドリンクも」
「…しるこドリンク? それは私は飲めないのですが…」
甘すぎますし、と予防線を張る教頭先生。甘いものが苦手でらっしゃいますから、しるこドリンクな攻撃をかましにやって来たと思われたみたいです。
「ごめん、しるこドリンクとは違うんだ。…いや、しるこドリンクな部分もあるけど」
「……はぁ???」
怪訝そうな顔をする教頭先生に、会長さんが。
「しるこドリンクをブルーに御馳走したんだよ。そしたら直ぐに飲めるって所が気に入ったらしくて、缶を開けたら直ぐに食べられるハーレイを希望」
「…缶だと?」
「そうなんだ。あっちのハーレイ、仕事で缶詰がよくあるらしい。その缶詰の専用缶を作りたいっていうプロジェクト。上手くいくかどうか、君でテストをしたいらしくて…。成功したら缶を開けたら臨戦態勢、いつでも準備オッケーが売り」
そこから先をソルジャーが引き継ぎ、滔々と。
「もうビンビンのガンガンってわけだよ、ぼくを押し倒して即、一発! ベッドに運んで更に一発、疲れ知らずで抜かず六発!」
ヌカズロッパツ。これも未だに意味が不明の言葉です。教頭先生が頬を赤らめてらっしゃいますから、大人の時間な単語でしょうが…。
「それでね、君には缶詰のテストと缶の制作費用を出してほしくて…。運が良ければテスト成功の後にブルーとヤれるかもしれないし?」
「やりましょう!」
費用もドンとお任せ下さい、と胸を叩いた教頭先生が鼻息も荒く答えた「やりましょう」。会長さんがチッと舌打ちしていましたから、大人の時間なニュアンスが混じっていたのかも…?



こうしてキャプテンの缶詰を作るプロジェクトがスタートしました。教頭先生の懐をアテにビッグサイズの缶を特注。それも「急ぎで」という注文ですから費用はグンと高くつきます。その代わり納品は一週間後の土曜日とのこと、ソルジャーはもう御機嫌で。
「嬉しいな。お蔭様でクリスマスまでに缶詰ハーレイを味わえそうだよ。だってクリスマスはぼくのシャングリラでパーティーした後、こっちに来るし…。そのための休暇を捻出するために絶対、缶詰な期間があるんだ」
いつもは苛々するんだけども、とソルジャーは缶詰がとても楽しみらしく。
「バストイレ付きの缶を作ったら、もっと気分が出るかもねえ…。今のサイズだと、その時間は外に出なきゃだし」
「そういうのは君の世界で作りたまえ!」
今回の缶が上手く行ったら、と会長さんはツンケンと。
「君のシャングリラにも技術はあるだろ、こういう缶を作れる程度の!」
「もちろんさ。それに備えて、この前に貰って帰った缶を残してあるんだ。参考用にね」
作るなら当然、しるこドリンク! と親指を立てているソルジャー。缶詰にも色々種類があるというのに、最初の出会いが大切だとかで譲れないポイントらしいです。缶が出来るのを待つ間には、自分の世界で撮影を頑張っているそうで。
「こっちの世界で買ったカメラでぶるぅに撮らせているんだよ。君の制服を借りようかとも思ったけれど、テストはともかく、実際に使うのはぼくの世界のハーレイだしねえ…。ソルジャーの正装でないとイマイチかと思って、そっちでやってる」
「……ストリップね……」
好きにしてくれ、と投げやりな口調の会長さん。制服だろうがソルジャーの正装だろうが、教頭先生はどちらでも狂喜なさるでしょう。キャプテンだって、ソルジャーと結婚している身ではあっても仕事で缶詰の真っ最中に「お疲れ様」とストリップをされたら恐らくは…。
「そりゃあ、ビンビンのガンガンだってば!」
間違いなし! と自信に満ちているソルジャー。特製しるこドリンクの缶が出来上がる時が今から怖くてたまりませんよ…。



十二月に入り、街がクリスマスらしく華やいで来た土曜日のこと。しるこドリンクの特大缶が無事に完成、会長さんとソルジャーが引き取りに出掛けて行きまして…。
「かみお~ん♪ すっごく大きいね!」
会長さんの家のリビングに瞬間移動で送り込まれた特大缶はバカでかいという点を除けば立派なしるこドリンク缶。
「凄いだろう? ハーレイを呼んであるから、もうすぐ実験開始だよ」
「こっちのハーレイ、やっぱり鼻血で失血死かな?」
でないと缶は失敗作だ、とソルジャーが缶の中に仕込んだモニターと映像をサイオンでチェックしています。机と椅子も缶の中に置かれ、教頭先生が到着なさったら入って頂く準備万端。やがてピンポーンと玄関のチャイムが鳴って、教頭先生がリビングへと。
「…ほう、この中に入るのか…」
「うん。梯子をかけてさ、缶の上から入るんだ。蓋が閉まったら缶詰の時間。…ちゃんと仕事は持って来た?」
会長さんの問いに、教頭先生は抱えた鞄をポンと叩いて。
「当然だ。冬休みまでに終わらせればいい仕事なんだが、缶詰と聞けば終わらせないとな」
「上出来、上出来。そういう時こそ缶詰ってね」
凄い速さで終わるといいね、と会長さんがウインクすれば、ソルジャーが。
「疲れて来たな、と思った時にはモニターの前のリモコンを…ね。残念ながらブルーじゃないけど、ぼくの映像つきで「お疲れ様」の労いメッセージが流れるからさ」
「そうなのですか。…そういう癒しがあるのでしたら、缶詰明けが楽しみでしょうね。それでブルーが欲しくなったら、一発ヤってもかまわないと…」
「うん。ただしブルーがその気にならなきゃ無理なんだけどね」
健闘を祈る、とソルジャーが教頭先生の背中を叩いて励まし、会長さんは。
「ぼくがその気になる勢いで頑張ってみれば? 君はあくまで実験台だし、そこの所を忘れないようにね」
「もちろんだ! 私も男というヤツだからな」
頑張ろう、と教頭先生は梯子を登ってゆかれました。缶の中にもあるという梯子を伝って下りられた後は蓋が閉められ、外の私たちは見守りモードで…。



「ふふ、気が散って仕方ないみたいだねえ?」
缶詰で仕事どころじゃなさそう、と会長さんが指差す特大しるこドリンク缶。サイオン中継の一種らしくて缶の一部が透けて見えます。机に向かった教頭先生、備え付けの明かりで書類のチェックをしておられますが、何度も視線がリモコンに。
「こっちのハーレイ、君から癒しを貰うどころかオモチャにされる日々だしねえ…。ぼくのハーレイなら、そっちの方は大丈夫! 本当に疲れた時くらいしかモニターのスイッチは入れないよ」
「…それを見習って欲しいんだけどねえ…」
せめて半時間は仕事しろ、と会長さんが缶の外で呆れているとも知らない教頭先生、好奇心に負けて十五分足らずでスイッチを。モニター画面で会長さんそっくりのソルジャーがとびきりの笑顔、さらには「お疲れ様」と普段よりも甘い声音のメッセージ。
『こ、これは…。素晴らしいな…』
いい仕掛けだ、という教頭先生の声も中継で流れ、今のメッセージにハートを直撃されたらしい教頭先生はリピートボタンを押しました。すると…。
『な、なんだ?!』
ムードたっぷりの音楽が流れ、ソルジャーが肩からマントをスルリと落として「お疲れ様」。
『…ま、まさか…。いや、そんなことが…』
どうなんだ、と再度リピートボタン。音楽と共に画面のソルジャーが妖艶なポーズで時間をかけて白と銀のソルジャーの衣装の上着を脱いでゆき、アンダーウェアになって「お疲れ様」の声。
『…な、なんと…! では、この次は…』
教頭先生、再びリピート。ソルジャーが焦らすような視線を向けつつ、アンダーウェアのファスナーを下ろしてゆっくりと…。音楽は妖しくゆったりと流れ続けています。
『も、もしかしたら…。こ、これを最後まで見てゆけば…』
カチカチとせわしなくリピートボタンを押してらっしゃる教頭先生。
「あーあ…。連打したって無駄なんだけどねえ、1カット終わらない間はさ…」
だけど効き目は出て来てるよね、と缶の外のソルジャーは満足そうに。
「あの調子だと、下着一枚までも持たないだろうね? ホントに最後まで撮ったんだけど」
「き、君は何処まで悪ノリしたら…!」
何をするのだ、と会長さんが怒鳴りつけても、ソルジャーはと言えば何処吹く風。
「だってさ、元々がぼくのハーレイ用だし? 最後まで脱がなきゃ珍しくもなんとも…。あっ」
「「「あーーーっ!!!」」」
アンダーの上を脱いでしまったソルジャーの手がズボンにかかり、ファスナーを下ろそうとしかかった所で教頭先生の鼻血がブワッと。そのままドサリと仰向けに倒れ、まだ映像は流れているのに視界が暗転したようです…。



しるこドリンク特製缶は見事な効果を発揮しました。缶詰になって「お疲れ様」な画像を拝めば鼻血MAX、キャプテンの場合は缶詰が終わった途端にソルジャーを食べたくなること間違いなし。
「いいアイテムが出来て嬉しいよ。…ハーレイ、明後日から缶詰の予定で」
もう缶詰明けが楽しみで、とソルジャーはドキドキワクワクです。
「どんな素晴らしい結果になったか、必ず報告するからね!」
「要らないってば!」
会長さんが即座に跳ね付け、私たちも首を左右に振りました。
「えっ、そうかい? こっちでヒントを貰った上に、作った場所もこっちだし…。詳細に報告をさせて貰うのが正しい道だと思うんだけど」
「それは絶対、間違ってるよ! 黙っているのが正しい道!」
その缶を持って早く帰れ、と会長さんが急かすと、ソルジャーは。
「…じゃあ、バストイレ付きの缶を開発した時に纏めて報告ってことでいいかな、年明けにも缶詰シーズンがあるから間に合うように作りたいんだ」
「そっちの報告も要らないよ!」
「うーん…。でも、実験台になってくれたハーレイには報告すべきじゃないのかと…」
でないとぼくの気が済まない、と言い募るソルジャーの視線の先には教頭先生が倒れていました。缶の中から運び出されて、転がされていると言うべきか…。
「好きにすれば? 何かと言えば鼻血なハーレイが報告を聞けると思うのならね」
会長さんの言葉にソルジャーは「それもそうか」と頷いて。
「なら、レポートを書いてプレゼントするよ。しるこドリンクがどう効いたのか、缶詰効果の凄さをさ! ぼくも是非とも聞いて欲しいし、微に入り細に渡った記録を図解付きでね」
「「「……図解……」」」
それは発禁モノなのでは、と思いましたが、しるこドリンク缶を空間を超えて運搬するべくサイオン発動中のソルジャーには言うだけ無駄というものでしょう。教頭先生が更なる鼻血を噴いて失神なさる日は年内に来るか、年明けか。しるこドリンク、当分は遠慮したいです~!




          手軽な食べ物・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 缶詰になって「しるこドリンク」、本当に効果はあるんでしょうかね、キャプテンで。
 謎ですけれども、思い立ったが吉日な人がソルジャーですから…。
 シャングリラ学園、去る4月2日で連載開始から8周年になりました。8年って…。
 よくもそれだけ書いたモンだと思いますです、まだ書きますけど。
 4月は感謝の気持ちで月2更新、今回がオマケ更新です。
 次回は 「第3月曜」 4月18日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、4月は、シャングリラ学園も新年度。やっぱり1年A組で…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv







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 秋の日の午後。庭で一番大きな木の下の白いテーブルと椅子で、ブルーはハーレイと二人きりの時間を過ごしていた。
 自分の部屋に居る時のようにハーレイの膝に座ったり、抱き付いたりは出来ないけれども、この場所はブルーの大のお気に入り。初めて「ハーレイとデートをした場所」だったから。
 べったりとくっついて甘えられなくても、話すことなら沢山あった。前の生のこと、今の生での色々なこと。家であったことも、学校で起こった様々なことも。
 今日のブルーも上機嫌だったのだけれど、ふと思い出した週の半ばに見舞われた不幸。以前なら大したことではなかった、珍しくもなかった学校に行けなかった二日間。
 生まれつき身体の弱いブルーは小さな頃から幼稚園も学校も休みがちな子供で、入院するほどの大病はしない代わりに頻繁に欠席を余儀なくされた。そういうものだ、と大人しく休んでいたのが今では違う。学校に行けないことは、ハーレイに会えないことを意味していたから。
(休んじゃったら会えないんだもの…)
 ハーレイはブルーが通う学校の教師。登校すれば大抵は何処かで顔を見られる。ハーレイが受け持つ古典の授業が無い日であっても、廊下で、校庭で、中庭などで。
 だから学校を休まなくて済むよう、ブルーは懸命に努力していた。体調管理にも気を配ったし、少し眩暈がした程度ならば無理をしてでも登校するとか。
 それなのに先日、休んでしまった二日間。熱が出てしまっては誤魔化しも出来ず、かかりつけの病院に連れてゆかれて、そのまま欠席。
 あまつさえ、ブルーが休むと「大丈夫か?」と見舞いに来ては野菜スープを作ってくれる優しいハーレイも来てくれなかった。忙しいのだと分かってはいても、寂しくてたまらなかった二日間。
(それに…)
 そういう時に限って酷い目に遭うんだ、と病院での出来事を思い返した。幼い頃から顔馴染みの医師が、「早く治すにはこれが一番」とブスリと打ってくれた注射を。



 ブルーは注射が大嫌いだった。
 幼稚園の頃には泣き叫んで抵抗したほどの注射嫌いで、今でも変わらず注射は嫌い。昔のように泣き喚いたりはしないけれども、注射針の痛さも、注射器を見るのも出来れば御免蒙りたい。
 幼かった頃に初めて打たれた注射が余程痛かったか、痛みというものに弱いのか。
 注射嫌いの子供は珍しくないし、その部類だと思い込んでいた。両親も、ブルー本人でさえも。それがどうやら違ったらしい、と気が付いたのは前の生の記憶が戻った後。
 先日と同じように熱を出してしまって学校を休み、母と近所の病院に行った。いつもの主治医が「打っておきましょう」と取り出した注射器を見た瞬間に覚えた恐怖。今までの「嫌い」どころの騒ぎではない、明確な「嫌だ」と拒絶する心。
 それが何なのかを思い出す前に、ブルーの注射嫌いを知っている医師と母は手際よく作業をしてくれた。母がブルーの服の袖を捲って「我慢しなさい」と諭す間に、医師が慣れた手つきで消毒を済ませ、注射針が腕にグサリと刺さる。
(嫌だ…!)
 注射は嫌だ、と叫ぼうとしたが、「はい、おしまい」という医師の声。薬剤はとっくにブルーの身体の中で、大嫌いな時間は終わっていた。
 なのに収まらなかった恐怖。医師が笑顔で「じきに熱が下がりますよ」と告げるのを聞くまで、震え出しそうだったほどの激しい恐怖。
 その原因が何だったのかを遠い記憶として手繰り寄せ、納得した時はとうに家へと帰っていた。母が「大人しくして寝ていなさい」と上掛けを掛けてくれ、部屋を出て行った後で気付いた。
 どうして注射があれほど怖いか、幼い頃から嫌いだったのか。



(…全部アルタミラのせいなんだよ)
 タイプ・ブルー・オリジンと呼ばれ、人体実験を繰り返された前の生で居た研究所。
 薬剤に対する抵抗力を調べるためだとか、行われる実験の目的に合わせた薬物を注入するために打たれる注射。打たれて直ぐに苦痛が襲うこともあれば、実験開始と共に生き地獄のような苦悶に見舞われたり。
 もちろんブルーを死なせないため、治療用の注射も実験の後で幾度となく打たれていたけれど。身体が楽になる注射もあった筈だけれど、ブルー自身に記憶は無い。
 注射は苦痛を齎すもの。直ちに苦痛に見舞われなくとも、確実に苦痛が襲ってくるもの。実験が始まるまでの間が待ち時間であったり、遅効性の薬物の時であったり。
 どう転んでも逃れられない激しい苦痛。それを運んでくる注射。
 嫌いにならないわけがなかった。注射器を見ただけで震え上がるのも、打たれた痛みで泣くのも当然。自分の身に何が起ころうとしているのか、嫌というほど体験して来たのだから。
(今の注射は大丈夫だって分かっているんだけどな…)
 記憶が戻ってから初めて打たれた注射は医師が効能を告げてくれるまで怖かったけれど、今では其処まで怖くはない。治すための注射だと自覚しているし、現に打った方が治りが早い。
 分かってはいても、未だに消えてくれない恐怖。前の生で心に刻まれた恐怖。
(…ノルディは知っててくれていたしね?)
 白いシャングリラで暮らしていた頃も、注射は苦手だったから。
 戦闘に赴くソルジャーが注射如きを恐れていては、と耐えていたけれど、顔には出るから。
 それが何ゆえかを知っていたノルディは、あれこれと心を配って注射を極力打たない方向で治療してくれたが、今の生でのブルーの主治医はお構いなし。
 体調を崩して病院に行けば、問答無用で注射一発。
 どんなに嫌いでたまらなくても、自分の前世を言えはしないし…。



 酷い目に遭った、と打たれた注射を思い返して、ブルーはハーレイに泣き言を言った。大嫌いな注射を打たれたのだと、今でも注射が嫌いなのだと。
「…熱が下がるって分かっていたって嫌なんだよ、注射…」
「お前、アルタミラで沢山打たれたらしいしなあ…」
 可哀相に、とハーレイが顔を曇らせる。
 生まれ変わっても注射嫌いになるほど打たれたのかと、それほどに苦しかったのかと。
「ハーレイは注射は少なめだったんだよね?」
「俺は耐久実験の方が多かったからな」
 ミュウには珍しく頑丈に出来ていたからだろうな、ひたすら耐えてりゃ良かっただけだ。
 タイプ・グリーンは幾らでもいるし、薬物実験はそっちでやりゃいい。
 お前みたいに一人しかいないタイプ・ブルーだと、被験体も一人きりだからなあ…。
 色々と集中しちまったんだな、実験の方も。
「…うん、多分…。お蔭で死なずに済んだけれども」
 他にもタイプ・ブルーが大勢いたなら、殺されていたかもしれなかった。
 どうすれば死ぬのか、どんな風にして死んでゆくのか、それを調べる実験も存在していたから。
 その果てに殺された仲間たちの残留思念を幾度も拾った。
 彼らのようにならずに済んだ理由は唯一のタイプ・ブルーだったから。
 ブルーが死んだらタイプ・ブルーのデータが取れない。実験しようにも被験体がいない。
 だから苦しめ、痛めつけても治療をされた。次の実験に役立てるために。
 そうして何本も打たれ続けた注射。
 実験薬に、実験の準備にと打たれた注射。苦痛しか齎さなかった注射…。



「…ホントに嫌な思い出なんだよ、あの注射」
 今になっても引き摺るくらい、と嘆いてブルーは立ち上がった。
 こんなに平和な地球に来たのに、ハーレイと二人でのんびりとお茶を楽しめる世界に生まれたというのに、どうして注射を恐れなくてはならないのか。
 父と母が居る暖かな家があるのに、午後の柔らかな光が降り注ぐ庭もあるのに。
「なんで今でも注射器を見ただけでダメなんだろう…」
 あの針が嫌だ、と銀色に光る忌まわしい凶器を頭の隅へと追いやりながら、自分の目を現実へと向かわせる。
 庭で一番大きな木。幼い頃から見上げていた木。太く頼もしい幹と、四方に広げた枝葉と。この木の下にハーレイと二人で座る場所が在って、母がお茶やお菓子を届けてくれる。これが現実。
 そう、アルタミラはもう遠い遠い昔。
 其処に居た自分は遥かな昔に死んでしまって、今は地球に住んでいる子供の身体。まだ十四歳にしかならない小さな身体で、ソルジャー・ブルーだった頃とは違う。
(手だって、小さくなっちゃったんだよ)
 そのせいでハーレイとの恋に支障があるのだけれども、「前の自分とは全く違う」ことを教えてくれる姿ではある。
 小さな手と、庭にどっしりと根を張った木と。
 二つを重ね合わせれば「今」が見えて来るよ、とブルーは木の幹を撫で擦った。ざらざらとした感触が「木は此処に在る」と教えてくれる。ブルーの手が其処に触れていることも。



(…ぼくは此処に居るんだ…)
 ちゃんと青い地球の上に生きているんだ、と何度も何度も木の幹を撫でる間に。
「いたっ…!」
 チクリと指先に走った痛み。注射のそれとは違うけれども、不愉快な痛み。
「どうした?」
 椅子から腰を浮かせるハーレイに、白い指先に視線を落としながら「棘…」と短く答えた。棘のある種類の木ではなかったし、今までに刺さったこともない。
 けれども運が悪かったのか、撫で擦る内に木の皮が浮いてしまったのか。右手の人差し指の先に刺さった小さな棘。左手で抜こうとしても抜けない。
(刺さっちゃった…)
 抜こうと左手で引っ張るブルーに、ハーレイが「見せてみろ」と声を掛け、招き寄せて。
 自分が腰掛ける椅子の側に立たせて、小さな手を掴んで白い指先を検分しながら。
「すっかり入り込んじまったか…」
 刺抜きじゃ無理だな、こいつは針だな。
「針!?」
 父に何度か針で抜かれたことがある棘。それと同じだと気付いたブルーは悲鳴を上げた。
「やだ…!」
「しかし、こいつは抜けないぞ?」
「でも、針は嫌だ。注射みたいで怖いんだよ…!」
 絶対に嫌だ、と慌てて右手を引っ込めようとしたが、ハーレイの力は緩まなかった。
 捕まったままでブルーは「嫌だ」と首を左右に振る。針は嫌だと、注射みたいな針は嫌だと。



 涙まで滲ませて訴えてみても、一向に緩まないハーレイの力。棘が刺さった指先の不快な痛みは嫌だったけれど、針の方がもっと嫌だから。
 針で棘を抜かれることだけは避けたかったから、「サイオンは?」と泣きそうな声で尋ねる。
「ハーレイ、サイオンで抜けないの、これ?」
「…瞬間移動が出来るヤツにしか無理だろう。病院に行けば出来る医者だっているが…」
 この程度の棘、そんな先生の出番を待つ前に針だと思うぞ。
 普通なら病院に行かずに家で抜こうってレベルの棘だし、病院でも同じ程度の扱いだな。
「…そんな……。そうだ、テープは?」
 テープで抜けると友人が言っていたのを思い出して訊いてみたけれど、ハーレイはフウと溜息をついて答えた。
「刺さって直ぐなら抜けたかもしれんが…」
 今じゃ無理だな、もぐっちまっているからなあ…。
 テープで抜くには棘の端っこが見えていないと駄目なんだ。
 こうなっちまうと針で引っ張り出すしかない。この際、針を克服しておけ。
「えっ?」
「注射は無理でも針くらいはな」
 俺がやるのでも針だけは嫌か?
 病院に行ってお医者さんに針で抜いて貰うか、その方がいいか?
(…ハーレイにやって貰うか、お医者さんか…)
 どちらも針しか無いのだったら、考えるまでもないことだから。
 恋人に抜いて貰う方がマシに決まっているから、ブルーは「ハーレイでいいよ」と呟いた。
 針は見たくもないのだけれども、ハーレイが抜いてくれるのならば、と。



「よし。…うん、泣き喚くだけのガキじゃないってことだな」
 偉いぞ、とハーレイの手がブルーの頭をポンと叩いて。
「此処じゃ抜けんな、お前の部屋でやるか。…柚子の木があると良かったんだが…」
「柚子の木?」
 庭に柚子の木は無かったから。どういう意味か、とブルーはキョロキョロと庭を見回す。
「それ、何にするの?」
「針の代わりだ」
 ハーレイに言われても、まだピンと来ない。
「針?」
「柚子の木の棘さ。針みたいにデカイ棘があるんだ、柚子の木にはな」
 俺の家では棘が刺さった時の定番だったぞ、柚子の木の棘。
 ガキの頃には親父が抜いてくれていたもんだ。
 柚子は殺菌作用があるんだ、実だけじゃなくって木の皮とかにも。
 もちろん棘だって、青いヤツなら消毒済みっていうわけさ。
 生えてから何年も経っちまった棘だとそうはいかんが、生えてから間もない青い棘だな。



 そうした棘を使って抜くのだ、とブルーの気を逸らしながら、ハーレイは家の方へと戻った。
 玄関を入り、リビングに居たブルーの母に声を掛ける。
「すみません、ブルー君が指に棘を刺してしまいまして…。薬箱と針をお借り出来ますか?」
「針ですか?」
「ええ。これから部屋で抜きますので」
 ハーレイが言うなり、ブルーの母は「それは…」と言葉を濁してから。
「ブルー。ハーレイ先生が抜いて下さるのなら、ちゃんとお礼を言わなきゃ駄目よ?」
 泣くんじゃないのよ、大きいんだから。
 十四歳になったんでしょうが。
「…うん、ママ……」
 シュンと項垂れるブルーの姿に、ハーレイは今日までにこの家で起こったであろう騒動が容易に想像出来た。注射も針も嫌いなブルーが泣き叫んだか、はたまた涙を零したか。たかが棘抜きとは思えないほどの騒ぎだったに違いない。
(…よっぽど針が苦手で嫌いなんだろうが…)
 ブルーの両親は今も理由を知らないのだろうな、とハーレイは思う。
 小さなブルーは泣き虫だけれど、前世を思わせる気丈な部分も存在していた。両親を心配させることが明らかなアルタミラでの悲惨な過去など、きっと話しはしないだろう。
 注射嫌いで針も嫌いな弱虫のレッテルを貼られたままでも、その方がいいと思うのだろう。
 そんな健気な小さなブルーに、針くらいは克服させてやりたい。
 注射は無理でも、針を使った刺抜きくらいは…。



 ブルーの母が用意してくれた、刺抜き用の道具と薬箱。ハーレイはそれを手にして、先に立って階段を上って行った。普段だったらブルーがパタパタと先に駆け上る階段を。
「こら。ぐずぐずしてても棘は抜けんぞ」
 早く来い、とブルーを急かして、すっかり馴染みの部屋に入るとテーブルの上に薬箱を置いた。いつも自分が座る側の椅子に腰掛け、借りて来た針とライターを持つと立ち竦むブルー。
 部屋の入口で止まったブルーの顔には「嫌だ」と書いてあったけれど、ハーレイはやめるつもりなど無い。ライターを点け、針の先を炙りながら「来い」と命じる。
「ほら、消毒が済んだぞ、ブルー。針を克服するんだろうが」
 いつまでも弱虫でいいのか、お前。
 俺は一向に構わないんだが、棘が刺さる度に泣くのはお前なんだぞ、ブルー?
「……痛くない?」
 怖々といった様子で前に立ったブルーに「そりゃ痛いさ」とハーレイは返した。
「針なんだからな、少しは痛い。気を付けはするが、全く痛くないとは言わん」
 だが、我慢しろ。こいつは治療で、アルタミラとは違うんだ。
 俺を信じて右手を出せ。
 …よし、それでいいから動かすなよ、指。
 怖いからって逃げたりしたらだ、針がグサリと刺さっちまうからな。



 ハーレイはブルーの右手をしっかりと掴むと、棘が刺さった人差し指の先を針で慎重にそうっと探った。此処だ、と見定めた場所に針を入れれば、ブルーの手がビクリと強張って。
「いたっ…!」
「こら、逃げるな!」
 直ぐだ、と刺さっていた棘を針で取り除いた。自分に刺さった棘も、教え子の棘も何度も抜いた経験があるから、手際よく抜ける。ほんの一瞬とまでは言わないけれども、僅かな時間。
「ほら、取れたぞ。…痛かったか?」
「…ちょっとだけ…」
 チクッとした、と訴えるブルーの指先に化膿止めの薬を付けてやる。刺抜き用の針はライターで消毒してあったけれど、刺さっていた棘はそうではないから。小さな棘でも侮れないから、後から膿んだりしないようにと。
「これで終わりだ。…ちゃんと見てたか、さっきの針を」
「…ハーレイの手を見てた……」
 針は殆ど見ていなかった、とブルーは俯いたけれど。
「少しでも見たなら、それでいいさ」
 針だけだったら普段も見るしな、家庭科の授業でも使うだろう。
 そういう針は平気だろ、お前?
 自分の身体に刺さってくる針が嫌なんだろう?
 …だがな、身体に刺さる針もこうして役に立つんだ、注射も同じだ。
 痛い分だけ、ちゃんと良くなる。
 それをきちんと覚えておけ。そうすりゃ怖くはなくなってくるさ。



 棘抜きと手当てを終えたハーレイが薬箱などを返しに行くと、ブルーの母が心配そうな顔をしていたから。
 ハーレイは「ブルー君は我慢強かったですよ」と伝えることを忘れなかった。棘を抜くのに針を刺しても泣かなかったし、痛いと叫びもしなかったと。
 ホッとしたらしいブルーの母は「ありがとうございました」と深く頭を下げ、それから間もなく二階へお茶とお菓子を持って来てくれた。庭で使っていたものとは別のティーセット。
「ブルー、ハーレイ先生にちゃんとお礼を言った?」
「うんっ!」
 笑顔で答えたブルーは「ぼく、泣かなかったよ」と自慢したけれど、母は「当たり前でしょ」と苦笑して部屋から出て行った。ブルーが前の生で受けた仕打ちを知らないのだから仕方ない。
 母の足音が階段を下りてゆくのを聞きながら「我慢したのに…」と残念そうに呟くブルー。
 注射が嫌いで、針も嫌いな小さなブルー。
 ハーレイは「仕方ないだろ、お母さんにとってはお前はただの弱虫なんだし」と言いつつ、手を伸ばしてブルーの頭を撫でてやった。
「お前がきちんと我慢したのは俺が見てたさ、それでいいだろ?」
 前のお前が惨い目に遭ったことも、俺は知ってる。
 だから針が怖くてたまらない理由も知っているがな、人生、うんと長いしな?
 克服しといて損は無いんだ、針も、それから注射もな。
 出来れば克服して欲しいんだが…。



 しかし、とハーレイは片目を瞑って微笑んだ。
「どうしても無理なら、結婚した後は俺が病院についてって医者に注文してやるさ」
 こいつは注射が嫌いなんですと、注射は抜きでお願いします、と。
「ホント!?」
 嬉しい、と喜んだブルーだったが、それに対するハーレイの言葉は。
「もっとも、俺が行ってる近所の医者もだ、問答無用で打つ方なんだが」
「嘘…!」
「残念ながら、本当なんだ」
 俺がそういう好みだからなあ、とにかく早めに治したい、ってな。
 滅多に病院の世話にはならんが、たまに行くなら早く治せる医者がいい。
 のんびり優しく治療してくれる病院よりもだ、注射一本、その日限りの御縁がいいな。
「…そういうお医者さんなんだ…?」
「俺の行きつけと言うか、かかりつけと言うか…。馴染みの医者はそういうタイプだ」
 ブスリと注射で、後は飲み薬を三日分ほどと言った所か。
 それでピタリと治っちまうなあ、名医と評判の先生なんだぞ?
 だが、待合室で女性と子供は見かけないから、優しい医者ではないってコトか。
 お前、どうする?
 俺は優しいと評判の先生の病院は生憎と全く知らないんだが…。



(…ハーレイの行ってる病院の先生も注射だなんて…)
 しかも問答無用だなんて、とブルーは頭を抱えたくなった。
 どうやらハーレイと結婚した後も、注射からは逃れられないらしい。
 注射の無い病院は無いのだろうか、と悩むブルーだけれども、注射が一番早いのだから。
 早く確実に治したいなら注射なのだと分かっているから、問答無用の方針も分かる。
 そうした病院で注射をされずに済ませるためには、ハーレイの「お願い」に期待するのみ。
 こいつは注射が駄目なんですと言ってくれるよう、なんとか打たない方で済むよう。
(…でも…)
 針を克服するんだな、と指に刺さった棘を抜いてくれたハーレイが持つ針は怖くなかった。
 大きな手が器用に棘を抜く間、自分の指に刺された針をチラリと見られた。
 父が同じことをしてくれた時には泣き喚いた針。
 大して痛くはなかったというのに、大声で泣いてしまった針。
(…ハーレイの手と一緒だったら怖くなかったよ、針が刺さっても)
 たった一度で克服出来たとは思わないけれど。
 もしかしたら針が身体に刺さることに対する恐怖も、いつかは本当に消えるかもしれない。
 注射も平気になるかもしれない。
 そうなるといいな、とブルーは思う。
 アルタミラの注射の記憶を忘れて、幸せに生きていけたらいいと…。




        大嫌いな注射・了

※幼かった頃から注射嫌いのブルー。多分、アルタミラ時代の記憶のせいで。
 今もやっぱり苦手ですけど、怖くなかったハーレイが持つ針。いつかは注射嫌いも克服?
 そして、今日、3月31日は、聖痕シリーズのブルーの誕生日。
 ブルー君、お誕生日おめでとう!
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 来客を知らせるチャイムの音。この時間だと…、と部屋の窓から庭の向こうの門扉を見下ろす。生垣を隔てた表の通りに見慣れた人影。
(やっぱり…!)
 ママが夕食の支度を始める時間帯。ママの友達が来るには遅いし、パパの友達は平日には滅多に訪ねて来ない。今頃の時間に来るお客さんといえば、ご近所さんか、そうでなければ…。
(ふふっ)
 ぼくは急いで部屋を飛び出し、階段を駆け下りて玄関へ走った。着くのと同時に外側から開いた玄関の扉。ママが「どうぞ」と中へ促すお客さん。
「ハーレイ…!」
「おう。今日の放課後以来だな」
 元気にしてたか? と挨拶しながら大きな身体が入ってくる。学校を出る前、廊下ですれ違って挨拶を交わした「ハーレイ先生」。ぼくの家だと、ただの「ハーレイ」。
 ハーレイはママに「すみません、こんな時間から」って、お決まりの挨拶をしているけれども、ママはちっとも気にしていない。ハーレイはとっくに家族みたいなものだから。
「こちらこそ、ブルーがお世話になります。どうぞごゆっくり」
 直ぐにお茶をお持ちしますから、とママが言い終えるのを待って、ぼくも「来てよ!」と階段の方へと駆け出した。走らなくてもいいんだけれども、いつもパタパタ走ってしまう。階段の途中で後ろを振り向いて、歩いてくるハーレイに「早く!」と叫んで。
 もちろんハーレイは走ってくれない。他所の家で走るだなんて、大人はしない。
 分かってるけど、走ってしまう小さなぼく。前のぼくなら走りはしないと思うけど…。
(でも、走りたくなっちゃうものは仕方ないよね)
 部屋の扉を開けて入って、テーブルと椅子を目でチェックした。窓際に置いてある、ハーレイと二人で腰掛けるための指定席。今日みたいに急に来ることも多いから、毎日掃除は欠かさない。
(よし!)
 ちゃんと出来てる、と満足した所でハーレイがようやく到着した。



 テーブルに向かい合わせで座って、ママがお茶とお菓子を運んで来るのを待って。
 それが届いたら夕食に呼ばれるまでの間は二人きりの時間。ママは決して部屋には来ない。前はそうだと気付いていなくてドキドキしたけど、パターンが分かったら寛ぎの時間。
(うん、今日もハーレイとゆっくり出来るよ)
 ママの足音が階段を下りて消えていく。二人きりの時間の始まりだよ、とハーレイを見たら。
(あ…!)
 学校帰りにぼくの家に寄った時、ハーレイが一番最初にしていること。
 正確に言うなら、挨拶とかを終えて落ち着いた後で、必ずすることって言うのかな?
 スーツの上着はママが預かって掛けておくから、上着を脱ぐのは家に入ったら直ぐにすること。スーツじゃない先生も多いけれども、ハーレイはスーツ。パパと同じで大人の制服。
 その制服の上着も脱ぐけど、なによりネクタイ。
 ママの足音が消えて行ったら、ハーレイの褐色の手が自分の襟元に行く。
 キッチリと結んであったネクタイを緩めて、ホッと寛いだ表情を見せるハーレイ。
 学校では決して見られない顔。
(…ママが出て行くまで緩めないよね…)
 それでもパパやママが「どうぞお楽に」って言うよりも前に緩めるようになっただけマシ。誰も何にも言わなくっても、ネクタイを緩めてくれるハーレイ。
 ぼくの家に通うようになってから暫くの間、ハーレイはネクタイを緩めなかった。パパとママが「楽になさって下さい」と声を掛けるまで、きちんと結んだままだった。
 休日に訪ねて来てくれた時はネクタイなんかはしてなかったから、学校帰りの時だけれども。
 そのネクタイを今では勝手に緩めてくれるのが嬉しい。
 ぼくの家を出る前には元通りに締めて、上着も着て帰ってゆくけれど。それが大人の制服だって分かっているから、ネクタイを緩めて制服にサヨナラしてくれると思うととても嬉しい。
 ぼくの家では制服を着なくていいんだと、楽にしていいんだと思ってくれているんだから…。



 その、ネクタイ。
 緩める姿はすっかり見慣れたけれども、ぼくはネクタイをしたことがない。ぼくの学校の制服にネクタイは無いし、小さな頃に改まった場所へ着て行った子供スーツは蝶ネクタイ。それも子供が自分で簡単に出来るようにとボタンでパチンと留めていただけ。
(んーと…)
 ハーレイがネクタイを緩める時の表情からして、あれって首筋がきついんだろうか?
 パパは毎朝、ダイニングの壁に掛かった小さな鏡の前でキュッと締め直して出掛けるけれども、首筋がギュウギュウ締まるんだろうか?
 ぼくには分からない、大人の制服。前のぼくだってネクタイは締めたことがない。どんな感じか訊いてみよう、とハーレイに尋ねることにした。
「ねえ、ハーレイ」
「なんだ?」
「ネクタイって、やっぱり首がきついの?」
 緩めてるよね、ぼくの家に来たら。学校ではきちんと結んでいるけど…。
「まあな。首が締まるっていうほどじゃないが、緩めると楽なものではあるな」
「キャプテンの制服とネクタイだったら、どっちがきつい?」
 どっちだろう、と訊いてみた。
 前のハーレイが着ていたキャプテンの制服。仕事で機関部の奥までチェックに入るとか、特別な事情がある時は制服の代わりに繋ぎの作業服なんかを着ていたけれども、普段は制服。背中に深い緑色のマントがついた制服。
 前のぼくの上着よりも重たい上着に、マントつき。しかも襟元までカッチリしていた。前のぼくみたいに戦闘に出てゆくわけじゃないから、活動的なデザインには出来ていなかった。
 生地だって重いし、伸縮性だって前のぼくの上着とかには敵わない。
 ネクタイと制服、どっちがハーレイにとってはきつかったかな、と好奇心。



「さてなあ…。どっちも慣れだしな?」
 俺にとっては大差ないな、とハーレイらしい答えが返って来た。
「毎日着てれば慣れて来るものさ。キャプテンの服もネクタイもスーツも、要は慣れだな」
 ただ、キャプテンの制服はネクタイみたいに人前で緩められはしなかったしな?
 お前だって覚えてるだろう、あのデザイン。
 首がきついな、と緩めてみろ。だらしないどころの見た目じゃないぞ。
 前のお前の前でくらいしか緩められなかったなあ、ついでに上着も脱げなかったな。
「……上着……」
 どういう時にハーレイが上着を脱いでいたのか、一瞬で思い出したから。
 前のぼくとキスして、それから上着を脱いでいたのを思い出してしまって、真っ赤になったぼくだけれども。
 ハーレイは「また余計なことを考えてるな?」って、ぼくの額を指で弾いた。
「お前がそういう良からぬ発想にならない分だけ、ネクタイの方がマシらしいな」
 俺にとってきついかどうかはともかく、緩める度に赤くなられちゃ落ち着かん。
 スーツの上着も、お前の目の前で脱いでいたってお前の顔は赤くならないからな。



 ネクタイの方が断然マシだ、と結論付けてしまったハーレイ。
 ぼくはプウッと膨れたけれども、お構いなしで澄ました顔。ネクタイの話を続けてくれる。
「キャプテンの制服は変えようが無かったが、ネクタイは色々と変えられるしな」
 その日の気分で色も模様も選べるって辺りが優れものだ。
 締めて行く場所に合わせてこの色で、って約束事はあるが、それ以外は自由というのがいい。
 自分だけのための決まり事なんかも作れるからな。
 節目の時にはこれを締めようとか、部活の大会の付き添いの時は勝利を祈ってコレだとかな。
「そういう約束、作ってるんだ…」
「気付かなかったろ? 俺だけの決まりだ、傍目にはまず分からんな」
 いつかはお前も覚えるだろうが…。
 俺に「あのネクタイは何処だった?」と訊かれる立場になったならな。
「えっ?」
「俺の嫁さんになるんだろ? その後のことさ」
 俺が出勤して行く時にはネクタイを締めるし、それをお前が渡してくれる日もあるだろう。
 そうして何度も渡したり探したりしている内にだ、俺の決まりも覚えてしまうさ。
 俺がこうだと教えなくても、その日にピッタリのネクタイを渡してくれたりな。
 まだまだ先の話なんだが、俺としてはその日が待ち遠しいな。



「えーっと…」
 ネクタイの決まりを覚えられるほど、ぼくに余裕はあるんだろうか?
 ハーレイと一緒に暮らせるだけで幸せ一杯、そんなトコまで気が付かないっていう気もする。
(…お嫁さんがそれじゃいけないのかな?)
 ダメなのかな、って思うけれども、覚えられない可能性が高い。だけど楽しみにしているらしいハーレイ。これは話題を変えなくちゃマズイ。
(ネクタイの話で、だけど模様とかとは違う話で…)
 何か無いかな、と懸命に考えて思い付いた。それをそのままぶつけてみる。
「ハーレイ、ぼくの家ではネクタイを緩めてるけど、帰る時には締めて帰るね」
 なんでそのまま帰らないの?
 締め直さないと上着が着られないってことはないよね、上着を着てなかった季節も締めてた。
 どうしてわざわざ締めて帰るの?
「そりゃまあ…。お前のお父さんとお母さんに挨拶しなくちゃいけなしな?」
「締めていないと駄目なものなの、挨拶の時は?」
 そういえばハーレイは、ママがお茶とお菓子を出し終わるまでは決して緩めたりしない。あれも挨拶が終わるまで待っているんだろうか?
 ネクタイってそんなに面倒なのか、と思うけれども。
「駄目と言うより、だらしないってことになるからなあ…」
 本来、きちんと締めているためのものだしな?
 お前のお父さんだってそうだろ、会社に行くのに緩めていたりはしないだろう?
「それはそうだけど…。学校の先生たちは色々だよ?」
 緩めてる先生も何人もいるし、ネクタイをしていない先生もいるよ。
「その点は俺のこだわりだな。教師はネクタイって決まりなんかは無いからな」
 言わば今の俺の仕事用の制服って所か、ネクタイとスーツ。
 ネクタイを締めると「これから仕事だ」って気が引き締まるような感じがするな。
 気持ちの切り替えに丁度いいんだ、ネクタイってヤツは。



 こんなに小さな布の紐だけで制服気分とは大したもんだ、とハーレイは笑う。
 ネクタイに比べればキャプテンの制服は大層だったと、スーツと比べても立派すぎたと。
「あれを着てた頃にはそういうモンだと思っていたがな、今になるとなあ…」
 よくも毎日着ていたもんだ。律儀にマントまでくっつけてな。
「肩章までついていたもんね」
「まったく、誰の趣味だったんだか…」
 其処まで凝らなくてもいいだろう、と溜息をついてるハーレイだけれど。
「でも、似合ってたよ? キャプテンらしくてカッコ良かったよ、あの肩章」
「前のお前でも肩章なんかは無かったのに…」
「その分、マントが長かったよ。大袈裟なんだよ、あのマント」
 防御力がどうとかって言ってたけれども、あんなの無くても平気だったのに。
 シールドがあればマントなんかは出番無しだし、役に立ったの、一回だけだよ。
 メギドで背中から撃たれた時には防弾チョッキ代わりになったけれども…。
 よく考えたら上着だって同じ仕様だったし、やっぱり要らなかったよ、マントは。
「お前、嫌がってたもんなあ…。あのマント」
「ソルジャーの上着はともかく、マントはね…。そんなに偉くはないんだもの」
 大して偉くはないよ、ソルジャー。たまたま力があったってだけで。
「そいつは俺だって同じことだな」
 キャプテンに担ぎ上げられちまったが、元々は調理担当なんだぞ?
 それ専門ってわけじゃなかったが、食材管理の責任者のつもりだったんだがなあ…。
 何処で間違えちまったんだか、気付けばキャプテンになっちまってたさ。
 挙句の果てにマントまでついた制服を着せられちまってな。



「そっか…。今度はネクタイで済んで良かったね」
 それとスーツと。
 ネクタイもスーツも、キャプテンの服と違って目立たないものね。
「そうだな、おまけにただの教師だ。キャプテンなんかと違って気楽だ」
 お前も普通の制服だしなあ、ソルジャーの服と違ってな。
「うん。友達もみんな一緒の服だよ」
 ぼくだけ特別って服じゃないから、制服は全然気にならないよ。
 家に帰ったら脱ぎたくなるけど、きついからってわけではないし…。
 多分、生徒のぼくと普通のぼくとを切り替えてるんだ、ネクタイと一緒。
 ハーレイがネクタイで気分を切り替えるみたいに、ぼくは制服で気分の切り替え。
 制服だったら学校の生徒で、普通の服だとパパとママの子供。
 そしてハーレイの恋人なんだよ、普通の服の時は。



 きっとそうだよ、と口にしてから、ふと浮かんで来た将来のこと。
 今は学校の生徒だけれども、いつまでも生徒で子供じゃない。いくらぼくの背が百五十センチのままだったとしても、いつかは伸びる。前のぼくと変わらない背丈に伸びる。
 そうなったら、ぼくはどうなるんだろう?
 学校の制服を着ている代わりに、ネクタイを締めることになるんだろうか?
「ハーレイ…。ぼくもいつかはネクタイなのかな?」
 ネクタイって、きつい?
 緩めたくなるほどきついものなの、ネクタイって?
「ふむ…。俺ので良ければ締めてみるか?」
 お前の今のシャツならネクタイが出来んこともない。
「いいの?」
「百聞は一見に如かずだからなあ、体験するのが一番ってことだ」
 チビのお前には少しデカイが、締め方なんぞは同じだからな。
 感じは分かるさ、ネクタイを締めたらどんな気分か。



 ハーレイは自分の首からネクタイを外して、ぼくの首に「ほら」と掛けてくれた。
 思いがけない、ハーレイのネクタイ。今の今まで、ハーレイの首にあったネクタイ。
 胸がドキドキするのを隠して、ネクタイの端を掴んでみたけど。
「えーっと…」
 締め方がまるで分からなかった。こんな風かな、と紐みたいに結ぼうとしたら。
「違う、違う。ネクタイってヤツはそうじゃなくって…」
 こうだ、こう。
 そう言いながらハーレイの手がぼくの後ろから伸びて来た。ぼくの肩越しに褐色の手が手際よくネクタイを結んでゆく。
(…ネクタイって、なんだか難しそう…)
 ただ結んであるだけじゃないのか、と複雑に重なってゆくネクタイを見てた。折って、重ねて、回して、通して。ハーレイやパパの襟元で見慣れた独特の結び目が出来上がってゆく。
「これで大体、出来上がりだな」
 ハーレイに結んで貰ったネクタイ。嬉しくて、ちょっぴりくすぐったい。
(…ハーレイのネクタイ…)
 貸して貰って、結んで貰った。幸せだな、って頬を緩ませていたら、「そら」とネクタイの端を握らせてくる手。
「此処をキュッと引っ張れば、きちんと締まるってわけだ」
「こう?」
 ハーレイの大きな手と一緒にキュッと引っ張ったけれど。
 ぼくの首筋もキュッと締まった。やっぱりきつい。ボタンで留めてた蝶ネクタイとは全然違う。
「きついよ、これ…」
「そうか? 緩めるとこんな感じになるんだ」
 太い指がネクタイの結び目を緩めて、一気に楽になった首筋。
「わあ…!」
 ハーレイがネクタイを緩める気持ちがよく分かった。
 こんなに首筋が軽くなるなら、断然、緩めの方がいい。緩めてもかまわない場面だったら、絶対緩める方がいい。首筋がキュッと締まってるより、楽な感じがする方がいい…。



 子供にはちょっと早すぎだな、ってハーレイはネクタイをサッサと外してしまったけれど。
 自分の首へと結び直して、キュッと締めてから直ぐに緩めているんだけれど。
(…ハーレイがネクタイを緩めるのって…)
 楽だからってだけじゃないんだろうな、と考えた。
 キャプテンの制服と大差は無いな、って言ってたネクタイ。今のハーレイのための制服。
 そのネクタイを緩める時には、きっと責任が緩むんだ。
 キャプテンの服を着ていない時がそうだったように、背負っている重さが緩むんだ…。
(前のハーレイはキャプテンだったけど、今は先生…)
 重さは全然違うけれども、仕事に対する責任は同じ。
 自分がやってる仕事に対して、責任があるって点では同じ。
 ぼくもいつかはネクタイを締めて、責任ってヤツを背負うんだろうか?
 前のぼくほどではないにしたって、何かの責任。
 今度はうんと軽いだろうとは思うけれども、やっぱり背負わなくてはならない。
 そう考えたらとても不安で、凄く心配になってきた。
 ソルジャーのそれよりは軽かったとしても、その責任をぼくは背負えるだろうか。
 潰されずに背負っていけるんだろうか…。



(今のぼく、ペシャンと潰れちゃうかも…)
 ぼくは前ほど強くない、って分かってる。
 不器用すぎるサイオンもそうだけど、心の強さが前のぼくとは比較にならない。一人きりで死が待つメギドへと飛べた、前のぼくほど強くはない。
 それなのに背負わなくてはいけない責任。背負えなかったら潰れてしまう。背負える程度のものならいいけど、どんな責任を背負うことになるのか分かりもしないし、見えもしないし…。
 背負えるのかな、と俯いていたら、ハーレイが「どうした?」って訊いてくるから。
 心配なんだ、って返事をした。
 今度のぼくはどんな責任を背負うんだろう、って。
 ネクタイを締めて、スーツを着て。
 どんな責任を背負って歩くんだろうと、背負い切れなったらどうしようか、と。



「背負わなくていいさ」
「えっ?」
 ハーレイがまるで挨拶みたいに簡単に投げて寄越した言葉。ぼくの重たすぎる疑問に答えるには軽い、あまりに軽すぎる言葉なんだけれど。
 でも、そう言ってのけたハーレイの鳶色の瞳は優しくて深くて、真剣なもの。
 冗談なんかを口にするには相応しくない瞳の色。
「お前は何も背負わなくていいさ」
 ハーレイはもう一度、念を押すように言って笑顔になった。
「責任なんかは背負わなくっていいんだ、今度のお前は」
 もしもお前が仕事をしたいと思うんだったら、俺は止めない。
 どんな仕事でも、やりたいことなら好きなだけやって責任も背負え。
 …だがな、やりたいことが無いなら俺の嫁さんだけをやってりゃいい。
 俺と暮らして俺を見送って、ただ出迎えてくれればいい。お前の責任はそれだけだ。
「…でも…」
 それって、ちょっとあんまり過ぎない?
 無責任にも程があるって気がするんだけど…。



「馬鹿」
 それでいいんだ、と頭をポンと叩かれた。
「前のお前は普通の人の何人分を働いたんだ? 今度はゆっくり休んでおけ」
 今度のお前は休むのが仕事だ、どうしても仕事をしたいのならな。責任も休むことだけだ。その程度だったら背負えるだろうが、寝転がっていたって背負えるからな。
「だけど、ハーレイは今度も仕事をしているのに…」
 キャプテンの制服は着ていないけれど、ネクタイを締めて先生だよ?
 ハーレイはちゃんと仕事をしてるし、責任だって前と同じで背負っているのに。
「俺はいいのさ、好きな仕事に好きな部活の顧問だからな」
 それで給料を貰えているんだ、キャプテンよりも充実してるぞ。
 キャプテンは責任ばかり重くて無給だったぞ、前のお前も給料無しだが…。
 そいつを思えば今の仕事は俺にとっては遊びと変わらん。
「本当に?」
「ああ。趣味が仕事になったようなもんだ」
 古典の教師が俺の趣味と見事に重なってるのは、普段から見てりゃ分かるだろ?
 柔道部の顧問も趣味の世界だし、他の学校でやってた水泳部の顧問だって同じだ。
 今の俺には楽しい仕事で、責任も大したことじゃないのさ。
 生徒を預かる立場ではあるが、何処からも攻撃は来ないしな?
 シャングリラのキャプテンをやってた頃には、俺がミスをしたら船中の仲間の命が無かった。
 前のお前が眠ってた間も、どれだけ危ない橋を渡ったか…。
 三連恒星の重力干渉点からワープするなんて荒技までやっていたんだぞ?
 太陽に投身自殺する気かとゼルに怒鳴られたりしたっけなあ……。



 そして…、とハーレイはぼくの大好きな笑顔で笑いかけてくれた。
「お前が嫁に来てくれるんなら、嫁さんのために頑張れる、ってな」
 お前のお父さんだってそうだろうが。
 お母さんとお前のためにって仕事に出掛けているんだろう?
 嫌そうに見えるか、お父さんの背中。
 それと同じだ、大事な人が居てくれるだけで責任もグンと軽くなるのさ、身体の底から力が湧き上がってくるからな。
 前のお前もそうじゃなかったか?
 シャングリラの仲間を守るためなら、力が湧いて来なかったか?
 そのせいでメギドまで行っちまったわけだな、あんなに弱ってフラフラだったくせにな。
「…そうだったかも…」
 確かにハーレイの言う通りかも、と納得していたら。
「そうだろう? だから今度のお前はネクタイなんかは締めなくていい」
 お前が締めたいと思わないならな、と大きな手で頭を撫でられた。
「お前は今度は責任なんかは背負わなくていい」
 その分まで俺が背負ってやる。
 お前ごと全部背負ってやるから、お前は俺の隣に居るだけでいい。
 今度こそ俺が背負いたいんだ、前のお前を背負い切れなかった分までな…。



 約束だぞ、と優しく笑ってくれたハーレイ。
 ぼくごと背負うと、ぼくの責任まで全部自分が背負いたいのだと。
 ネクタイは締めなくてもいいらしい、ぼく。
 男としてはどうなんだろう、と思ったけれども、どうせハーレイのお嫁さん。
 ハーレイが背負ってくれると言うんだったら、背負って貰って生きるのもいい。
 やりたい何かが出てこない限り。
 ネクタイを締めて、責任を背負って、やりたい何かが出てこない限り。
 それに、今のぼくがやりたいものはお嫁さんだけ。
 ハーレイのお嫁さんだけなんだから…。




          ネクタイ・了

※ハーレイにネクタイを締めて貰ったブルー。けれど、育った後にも要らないネクタイ。
 今度は責任を背負わなくてもいいのです。ハーレイの側にいれば、それで充分。
 次回更新日の3月31日は、ブルー君のお誕生日です!
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 ハーレイと二人、ぼくの部屋でのお昼御飯に天麩羅いろいろ。
 ぼくとハーレイが再会してから、どのくらい経った頃だったろうか。休日にハーレイが家に来てくれて、パパとママも一緒の夕食の席。テーブルに揚げ立ての天麩羅があった。ハーレイがそれを見て言ったんだ。「シャングリラに天麩羅は無かったですね」と。
 ぼくたちが生まれ変わって来た青い地球の上。
 SD体制の頃には無かった様々な文化が復活していて、ぼくたちの住んでいる地域だと日本風。ずっと昔にこの地域に在った小さな島国、日本の文化を楽しみながら暮らしている。
 天麩羅は日本にあった料理で、SD体制前の地球では有名だったらしいんだけど。人気も高くて日本以外の場所でも食べられたほどで、お寿司と併せて「スシ、テンプラ」って言われたくらいに代表的な料理だったらしいんだけれど…。



 マザー・システムが支配する世界に地域色なんかは要らなかった。独自の文化も要らなかった。
 そういったものは個性を作り出す。画一化された社会に個性は要らない。支配する側には個性は邪魔なものでしかない。誰もが判で押したように同じ思考を持つ方が便利。
 ついでに特定の地域への愛着も必要なかった。地球への思慕さえあれば良かった。
 その上、地球は滅びたままだったから。マザー・システムは「地球は元通りに復活している」と嘘をついていたから、地球の特定の地域を愛する人間が出てくると都合が悪い。そんな場所は全く存在しないのだから。
 そうした理由で抹殺された地域の文化。人間は地球だけを慕えばいい。青い水の星だけを慕えばいい。その星にかつて何が在ったか、それはデータの形で残して夢だけ見させておけばいい。遠い昔はこうであったと、今の地球ではそうではないと。
 広い宇宙に散らばった星を統治し、支配するためには画一的な文化がいい。統一された食生活や文化、前のぼくたちが「地球と同じだ」と信じて疑わなかった文化。
 それを作り出すために幾つもの文化が、地域性が消され、誰も変だとは思わなかった。
 マザー・システムから弾き出された、居場所の無かった前のぼくたちでさえも。



 前のぼくとハーレイが暮らしたシャングリラ。白い鯨の形の楽園。
 ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 船のデータベースから様々な情報を引き出していたし、SD体制よりも前の時代の本を読んだり歌を歌ったり、色々なことをしていたのに。
 自給自足の生活のために食材も料理も調べていたのに、マザー・システムが作り上げた食文化の枠から外へは出られなかった。そんな発想は全く無かった。
 多分、成人検査とその後の人体実験で奪われてしまった記憶よりも奥、無意識よりもずっと深い場所に刷り込まれてしまっていたんだろう。統一された文化に疑問を持たないように。他にも何かあるかもしれない、と決して考えないように。
 それを考えると、ナスカで自然出産に挑んだジョミーは凄いと思う。機械が植え付けた意識へのコントロールを振り切り、誰も持たなかった異質な発想を勝ち取ったのだから。
(…ひょっとしたら、成人検査の途中で逃げ出せたからなのかな?)
 前のぼくと違って、記憶を消されていなかったジョミー。その分、心が柔軟に出来ていたのかもしれない。前のぼくよりも自由な心を、縛られない心を持っていたかもしれない。
(だったら、やっぱりジョミーを選んで正解だったよ)
 前のぼくより、断然、ジョミーの方が前向き。機械の支配を跳ね返せる分、ぼくよりも強い。
(…ジョミーだったら、お寿司と天麩羅にも挑めそうだよ)
 そっちの方向へ行かなかっただけで、と可笑しくなった。
 ジョミーが地球を目指すことに全力を傾けていなかったならば、有り得たかもしれない食文化の改革。自然出産の方が偉大だけれども、食文化だって大切だもの。



「どうした、ブルー?」
 何を笑ってる、と向かいに座ったハーレイが不思議そうな顔をするから。
「天麩羅だな、って思ってた。…ハーレイが前に言ったから、ママ、天麩羅に凝ってるなって」
「そういや、今日のもこだわりだなあ…」
 たかが俺たちの昼飯なんだが、とテーブルの上を眺めるハーレイ。
 シャングリラに天麩羅は無かったという話を耳にして以来、ママは天麩羅の時は工夫を凝らす。ちょっと変わった食材を揚げたり、衣に抹茶を混ぜて緑色の天麩羅を作ってみたり。
 今日は材料に凝っていると言うより、食べ方の方。天つゆじゃなくてお塩で食べる天麩羅。そのためのお塩を入れた小さな器がテーブルの上に整列していた。
 普通のお塩だけじゃなくって、藻塩に岩塩。それから山椒粉や抹茶や七味唐辛子、柚子の皮の粉とかを混ぜたお塩の器。どれを付けて食べるかは、ぼくたちの自由。



「ママのこだわり、今日はお塩だね」
 色々あるよ、と海老の天麩羅に抹茶のお塩を付けていたら。
「塩も色々だが、大元の塩がなあ…。実にバラエティー豊かだよなあ、シャングリラの頃には塩は一種類しか無かったのにな?」
 もっとも抹茶も山椒粉も無かったんだが、とハーレイも天麩羅に七味入りのお塩を付けている。
「シャングリラは岩塩だったものね…」
 前のぼくが食料を奪いに出ていた頃には、岩塩じゃないお塩もあったんだけれど。
 自給自足の生活を始めるにあたって、岩塩が採れる星を探して採って、大量に船に積み込んだ。当分は塩に困らないよう、うんと沢山積み込んでおいた。
 船の中での循環システムが上手くいったから、前のぼくが長い眠りに入ってしまう前にも岩塩は充分に残っていたんだけれど。ハーレイの話し方だと、最後まで岩塩だったみたいだから。
「前のぼくたちが採った岩塩、地球に着くまで残ってたとか?」
「うむ。アルテメシアを落としてから後なら、海の塩も補給出来たんだろうが…」
 生憎と、キャプテンの俺にその発想が無かったからな。
 前のお前が逝っちまった後は、ただ淡々と仕事をしていただけだしな?
 アルテメシアでもノアでも、他の星でも海を見たのに、海の塩は考えなかったなあ…。



「そっか…」
 前のぼくが死んでしまったせいで最後まで岩塩だったのか、と思ったけれど。
 海で採れるお塩を味わい損ねた仲間たちには申し訳ないし、キャプテンだったハーレイの心から余裕を奪ってしまったことも申し訳ないと思ったんだけど…。
 でも、お塩。
 後生大事に岩塩を抱えていたシャングリラだけど、アルテメシアには海があったから。
「…アルテメシアの海のお塩も作りたかったな、やれば良かった」
 きっと美味しいお塩が出来た、と言ったら「馬鹿」と返された。
「どれほどの海水が要るんだ、そいつから塩を作るのに」
「やっぱりダメ?」
「塩が全く無いなら別だが、岩塩が山ほどあったんだ。作る必要は無いだろう」
 海水から塩を作り出すには思い切り手間がかかるんだ。
 岩塩みたいに掘り出して終わりってわけじゃない。
 海水を煮詰めて塩の結晶を作り出さんと、使える塩にはなってくれない。
 やってみたいっていう軽い気持ちで挑むと絶対、後悔するぞ。
 手間も時間もうんとかかるし、岩塩の方が遥かに楽だ。



 岩塩は掘ってくれば直ぐに使える、とハーレイが言うとおり、手間要らずだった岩塩の塊。
 不純物の混じったものがあっても、取り除く作業は簡単なもの。
 それに比べると海のお塩は無駄が多すぎて無理があったか、と思っていたら。
「もっとも、わざわざ海水から塩を作って遊ぼう、って暇人も昔は居たらしいがな?」
「えっ?」
 誰のことだろう、と首を捻ると、「SD体制よりもずっと昔さ」と答えが返った。
「百人一首に歌があるだろ、知らないか?」
 来ぬ人を松帆の裏の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ、とな。
 この歌を詠んだ人が塩作りの遊びをやってたかどうかは分からないが…。
 そういう時代は遠い海から海水を運ばせて、自分の家の庭で塩を作って遊んでいたんだ。
 塩釜っていう塩作り専用の釜まで庭に作らせてな。
「…そこまでやるの?」
「ああ。そいつは貴族の優雅な趣味だが、シャングリラでそういう塩は作れん」
「やれば出来たんじゃあ…」
「手間がかかると言ってるだろうが、効率ってヤツが悪すぎだ」
 それともお前が趣味でやるのか、ずっと昔の貴族みたいに?
 前のお前は確かに基本は暇だったけどな。



 ソルジャーとしての役目がある時以外は、暇にしていた前の生のぼく。
 キャプテンだったハーレイは常に仕事があったけれども、ぼくはのんびりしていたから。
 皆の命を預かるという点ではハーレイと全く同じだった割に、仕事の無い日が多かった。仕事が無いからと保育部に出掛けて、子供たちと遊んでいたほどに。保育部のクルーの手伝いだか、補助だか。それを日常にしていたくらいに…。
 そんなぼくだったから、暇はたっぷり。海水からお塩を作る遊びにかかる時間には困らない。
「えーっと…。青の間で塩釜?」
「燃料によっては煙が出るが…。換気設備は完璧だったし、出来んことはない」
 大量の海水も前のお前なら軽いもんだろうが、いくらでも調達出来たよな?
「うん。どうせだったら、青の間の水。あれを全部、海水にしておいて毎日、塩釜」
 きっと沢山のお塩が作れたよ。
 ぼくが暇な時に作る分だけで、月に一回くらいは海のお塩で料理が出来たかも…。
 青の間の水って、海水に変えてもシャングリラに影響は出なかったよね?



「うーむ…」
 ハーレイは腕組みをして、少し考え込んで。
「青の間の水はあの中だけで循環してたし、海水に変えても影響は無いが…」
 海水にすることに意味があるのか、前のお前が塩釜で塩を作る以外に?
「真水でも海水でも、どっちでも良かったんだと思うんだけど…」
 青の間の水、非常用の貯水槽でも何でもないよ?
 ぼくのサイオンが水と相性が良さそうだから、って水だらけの部屋になっただけだよ。
 それに半分以上は見た目重視の部屋だよね、あそこ。
 海水に変えて塩釜をやっても、問題なかったと思わない?
「使い道としては無問題だろうが、海水って所が問題だな」
「腐食とか? そういうコーティングは完璧だったんじゃないの、シャングリラは」
 宇宙には腐食性のガスとかもあるから、対策には念を入れていた筈。
 ぼくのベッドの枠とかだって、耐久性に優れた素材。
 青の間の水が海水に入れ替わってしまっても大丈夫だと思ったんだけど。
「潮風だ、潮風」
 お前のベッドのリネン類まで潮臭くなるぞ、と真顔で言われた。
 真水だったから何の匂いもしなかっただけで、海水だとそうはいかないと。



 青の間が潮臭くなってしまう、と指摘された海水。
 だけど塩水。しょっぱいだけの水で、真水と変わらないんじゃないかと思う。
 今、天麩羅に付けてるお塩も、抹茶とか七味唐辛子が混ざってなければ匂いは無いと思うから。
「海水ってそんなに匂いがしたっけ?」
 ただの塩水だよ、と言ったんだけど。
「潮臭いだろうが。ただの塩水とは違うんだぞ」
 岩塩を真水に溶かすのとは全く違うんだ。
 アルテメシアの海の水を持って来ようというなら、そういうことだ。
「…そういえば潮の匂いがしてたよ、海の側だと」
「忘れてたのか、お前? 潮の匂いを」
 海水浴に行ったら嫌というほど潮風の匂いがするだろうが。
 塩の他にも色々なものが入っているから、ああいう匂いがするんだな。
「…ぼくは海水浴はあんまり…」
「チビの頃に行ってただけだったか?」
「うん。…ぼく、長い間は入っていられないしね、海もプールも」
 だから殆ど忘れちゃってた、潮風の匂い。
 青の間が潮臭くなってしまったらちょっと困るかな、ぼくはいいけどゼルとかが。
 会議とかで来る度に「変な匂いだ」って言い出しそう。潮風の匂い、みんな記憶に無いものね。
「それを言うなら前の俺だって同じだな」
 何の匂いですか、と質問しそうだ。
 今の俺だと海も潮風も馴染みの深いものだが、前の俺は全く知らないんだしな。



 変な匂いだと言われてしまうらしい、潮風の匂い。
 潮風だけでその有様だと、前のぼくが塩釜をやっていたなら変な趣味だと思われるだろう。
 岩塩は充分足りているのに、青の間を変な匂いで満たして、時間をかけて塩まで作って。
 美味しいお塩が出来ていたなら理解も得られそうだけど…。海水から出来たお塩は味が違うと、青の間は変な匂いがするけど、美味しいお塩が出来る場所だと。
「…前のぼくが青の間で塩釜をやったら、美味しいお塩が出来てたと思う?」
「出来たんじゃないか? …ちゃんと作れば」
 美味い塩が売りの場所もあるしな、今の時代は。
 この藻塩とかもそうだぞ、きちんと海水を汲み上げて作っているからな。
 藻塩ってヤツはだ、ただ海水っていうんじゃなくって海藻も使う。
 潮風の匂いの原因の一つだ、海藻はな。



 海に生えている海藻が波に乗って、空気に触れて。その海藻から漂う匂いも潮風の匂い。海藻の他にも小さな小さなプランクトンとか、色々なものが混ざって混じって、潮風になる。お塩を水に溶かしたものとは全く違った匂いになる。
 ハーレイが言うには、藻塩を作るのに使う海藻はホンダワラ。昔の貴族が遊びでやってた塩釜に使っていたかどうかはともかく、今は塩釜にはホンダワラらしい。
 海水を煮詰めてお塩を作るための大きな釜。その上にホンダワラをたっぷりと乗っけて、上から海水を注いで、かけて。その過程で美味しい藻塩のための成分が出来るらしいんだけど…。
 塩釜は其処から先が大変。
 釜一杯の海水を何時間もかけてゆっくり煮詰めて、それから冷ます。釜ごと水に浸けるのも風を送って冷やすのも駄目で、自然に冷めてゆくのを待つ。
 そうしたら釜の中に勝手に出来てくるという、大きなサイズの塩の結晶。角砂糖よりもずうっと大きな、三センチくらいもあるような結晶。
 その結晶でもいいんだけれども、美味しい藻塩を作りたかったら、結晶が出来た後の上澄み。
 それを掬って釜で煮詰めて、やっと藻塩の出来上がり。丸一日はかかるという藻塩。
 手間は沢山かかりそうだけど、面白いな、と聞き入っていたら。



「おい。…前のお前は海水から塩を作り損ねたが、塩釜、やるか?」
 やってみたいか、とハーレイに訊かれた。
「塩釜って…。何処で?」
 ぼくの家の庭でやるんだろうか、と目を丸くしたら。
「いつか俺と一緒に海で、だ」
「海!?」
 ハーレイと一緒に海で塩釜。凄く素敵だと思ったけれども、海と言ったら海水浴の季節。
「…楽しそうだけど、夏は暑そうだよ?」
 ぼく、暑い季節は苦手なんだよ。暑いのがダメなの、知ってるくせに…。
「もちろん承知だ。だから暑くない季節でないといかんな、春とか秋とか」
 塩釜をやるのにピッタリのシーズンに出掛けないとな?
 それから美味い魚も釣らないと。
 海辺で塩でバーベキューだ。
 せっかく藻塩を作るからには、海の見える場所で味見しないとな?
「わあっ…!」
 なんて素敵なアイデアだろう。
 藻塩を作るってだけじゃなくって、バーベキュー。
 塩釜で作ったお塩を使って、ハーレイが釣った美味しい魚でバーベキュー…。



 お塩だけを使ったバーベキューでも美味しそう、と思った所で気が付いた。
 バーベキューで焼くもの、魚の他にも海の中には棲んでいる筈。水泳が得意なハーレイが潜って獲れそうな貝とか、ウニだとか…。
 これは絶対に焼いて食べなくちゃ、と強請ることにした。
「ハーレイ、バーベキューには魚だけなの? 潜って獲って来てくれないの?」
 サザエとかアワビ。
 ウニだっているし、焼いてお塩を振っただけでも美味しそうだよ。
「おいおい、潜るって…。夏じゃなくって、塩釜が出来る季節にか?」
「シールドを張ったら寒くないと思うよ?」
「そう来たか…」
 まあ、サーファーなんかは年中いるしな、海に入っても変な顔は誰もしないと思うが…。
 それにだ、俺は寒中水泳だってやっていたから、短時間ならシールドは要らん。
 お前が獲って欲しいと言うなら、アワビもサザエも獲って来てやるぞ。
 そういや、お前、ウニは憧れだったんだよな?
 前のお前は栗のイガを見ては、ウニが食いたいって言ってたもんなあ…。



 よし、とハーレイはバーベキューにするウニとかも獲ると約束してくれて。
「そうだ、俺の親父も一緒に出掛けるか?」
 釣り名人だから色々と釣ってくれるぞ、お前の師匠にもなってくれるさ。
 お前のためにと新しい釣竿も買って来そうだ、仕掛けもあれこれ作ってな。
「えーっと…」
 ハーレイのお父さんと釣りをするのは楽しそうだけれど。
 新品の釣竿でハーレイも一緒に、ハーレイのお父さんと並んで釣るのも良さそうだけど…。
 わざわざ海まで出掛けてゆくのに、大問題が一つ。
「ハーレイのお父さんと一緒じゃ、ハーレイと二人でくっついてられない…」
「宿の部屋は別にしてやるさ。塩釜をやるには泊まりがけでないとな」
 丸一日はかかると言ったろ、釣りをしながら塩釜の番だ。
 煮詰めたのを冷ます間はともかく、煮詰める間は誰かが釜についていないと。
 そうなると適任は俺のおふくろだ、俺たちが釣りに出掛ける間も見ていてくれるぞ。
 親父とおふくろを連れて行ったら実に便利だと思わんか?
 それにだ、お前、いつまで俺にくっつくつもりだ。
「一生だよ!」
 決まってるよ、と答えたぼく。
 どんなにハーレイと一緒に居たって、くっついてたって、飽きることなんて有り得ない。
 満足だってきっとしないし、いつまでだって、一生だって…。



 でも…、と、ぼくは考えた。
 いつまでもくっついていたいと思うハーレイだけれど、ハーレイのお父さんは釣り名人。釣りが大好きで、小さなぼくを釣りに連れて行きたいと言ってくれた人。
 優しい、ハーレイのお父さん。隣町の庭に夏ミカンの大きな木がある家に住んでいるお父さん。そのお父さんも一緒に釣りに行くのもいいかもしれない。ハーレイの子供時代の話なんかも色々と聞けそうな気がしてきたから。
「んーと…。ハーレイのお父さんとも行きたいかな、釣り」
「おっ、そうか? 親父は楽しみにしているからなあ、お前を釣りに連れて行くのを」
 いつか絶対に連れて行くぞ、と今から計画を練っているんだ。
 まずは川で釣って、慣れたら海にも行こうとな。
 それにキャンプ場だって諦めていないぞ、何処がいいかと思案中だし…。
 俺たちが塩釜をやると言ったら勇んで来そうだ、そういうのは親父もおふくろも好きだ。
 賑やかに家族旅行といこうじゃないか。
「家族旅行かあ…」
 それならぼくのパパとママも、と言ってしまってから「うーん…」と唸った。
「ハーレイのお父さんとお母さんに、ぼくのパパとママと…。人数、多すぎ!」
 ホントにハーレイとくっつけないよ。
 そんなに大勢で一緒に行ったら、くっついてる暇が全然ないよ…。
「お前なあ…。本当にいつまで俺にくっつきたいと…」
「一生だってば!」
 さっきも言ったけど、一生、くっつく。
 一生、ハーレイにくっついていたいよ、前のぼくがくっつき損ねた分まで…。



 だから、とぼくはハーレイに言った。
「パパやママが見てても平気でキスが出来るようになったら、みんなで塩釜」
 気にせずにくっついていられるくらいに平気になったら、みんなで家族旅行に行こうよ。
 それまではハーレイと二人がいい。
 ちょっと面倒でも、ハーレイと二人で塩釜で藻塩を作るんだよ。
「俺を独占したいってか?」
 欲張りめが、と軽く睨まれたけれど、怒ってないってちゃんと分かるから。
「だって、ハーレイはぼくのハーレイだよ?」
 そして、ぼくはハーレイのものなんだよ。
 だからずうっと二人がいいんだってば、基本は二人。
「ふむ…。お前も俺のものだと言うなら、それでもいいか…」
 俺もお前を存分に独占したいしな?
 早くお前を連れて来い、と何度も言ってる親父とおふくろに取られんようにな。
「ね、ハーレイだってそう思うでしょ?」
 でもね…。
 ぼくはパパとママに取られっぱなしなんだよ、ハーレイを。
 晩御飯の度に取られちゃうんだ、パパとママに取られてしまうんだよ…。
「仕方ないだろ、俺は「ハーレイ先生」なんだ」
 お母さんたちに悪気は全然無いんだ、俺がお前の相手で疲れただろうと気遣ってくれてる。
 晩飯の間くらいは大人と喋りたいだろう、と俺と話をしてくれるんだ。
 いくらお前が元はソルジャー・ブルーだと言っても、今は立派な子供だからな。



「…そうなんだけど…」
 それは分かっているんだけれど、とぼくは大きな溜息をついた。
 ハーレイのためにと天麩羅を揚げてくれたママ。何種類ものお塩を用意してくれたママ。パパも優しいし、文句なんか言ったら罰が当たるというものだけど。
「でも…。早くハーレイを独占したいよ、ハーレイの時間をぼくが独占」
「俺もなんだが…。道は長いぞ?」
 まだまだ我慢の日々が続くぞ、と脅されたから。
「十八歳になったら結婚出来るよ、それまでの我慢」
「その前にだ。お前と結婚出来るよう、お前のお父さんたちに申し込まんといかんのだが…」
 お許しを貰えるのはいつになるやら…。
 いきなり「出て行け」とか「帰れ」と放り出されるかもなあ、お前の家から。
「ハーレイがうんと頑張ってよ。そういうのは大人の役目だと思うよ」
 ぼくは子供だから、待ってるだけ。許して貰えるまで待ってるだけ…。
「こらっ! お前も結婚出来る年なんだろうが、俺と一緒に努力をしろ!」
「お酒が飲めない子供だよ、まだ。二十歳までお酒は飲めないよ」
 だから大人はハーレイだけだよ、ハーレイがうんと頑張らなくちゃ。



「………。都合のいい時だけ子供なのか、お前」
 なんてヤツだ、とハーレイは両手を広げてお手上げのポーズを取ったけれども。
 そうやって呆れ顔をしてくれたくせに、目だけは優しく笑っていて。
「まあいいが……な」
 子供なんだな、と唇にも浮かんだ小さな微笑み。
 それが綻んで笑顔になった。ぼくの大好きな笑顔のハーレイ。
 笑顔で天麩羅をお箸で摘んで、器の藻塩をチョイチョイと付けて。
「藻塩、二人で作りに行こうな、結婚したら」
 まずは二人で藻塩作りで、いずれは家族旅行で賑やかに塩釜やるんだな?
「うんっ!」
 二人きりで塩釜をする時も、魚を釣ってバーベキューだよ?
 ぼくは塩釜の番をしてるから、ハーレイが釣って、貝とウニも獲ってね。
 うんと美味しい藻塩が出来たら、魚とかに振って食べようね?
「…お前は塩釜の番をするだけか? ずいぶんと人使いの荒いヤツだな」
「えっ? ハーレイも塩釜の番をするでしょ、交代で?」
「俺をそこまでこき使う気か…!」
 塩釜なんか教えるんじゃなかった、とハーレイは大袈裟に天井を仰いでいるけれど。
 本当はとても嬉しいんだってこと、顔を見てれば簡単に分かる。
 いつかはハーレイと二人で塩釜。
 パパやママが一緒でも平気になったら、ハーレイにくっついて家族旅行で、みんなで塩釜。
 そんな日が早く来るといい。
 海辺でのんびり塩釜をやって、美味しい藻塩を作れる日が……。




          塩と塩釜・了

※シャングリラでは岩塩だった塩。海水から採れる塩は使っていなかったらしいです。
 青の間で塩釜も凄いですけど、今の時代なら、のんびりゆっくり塩釜で遊べそうですね。
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「うーん…」
 休日の朝、目覚めたブルーは鏡に映った自分の姿に溜息をついた。
 ピョコンと跳ねてしまった頭の天辺、髪の一房。銀色の髪がピンと真上に立ち上がっている。
(間抜けだよ、これ…)
 好き勝手な方向に跳ねているようにも見えるブルーの髪だが、ちゃんと決まった方向があった。髪を切りに行けば理容師が丁寧に癖を見極めながらカットし、整えていた。
 前の生では名前など無かった髪型だけれど、今の時代は「ソルジャー・ブルー風」という立派な名前が付いてしまって、町を歩くと同じ髪型をたまに見かける。それだけに妙な風に跳ねると寝癖なのだと一目で分かるし、それが悩ましい点でもあって。
(…ジョミーだったら普通なんだけどなあ…)
 コレ、とブルーは跳ねた髪の毛を引っ張った。
 前の自分が見付けた後継者のジョミー・マーキス・シン。性格をそっくり表したような金の髪は明るく、光そのもの。ブルーよりも短かった彼の髪だが、何故か一房跳ねていたものだ。
(多分、寝癖じゃないんだよね?)
 ああいう髪の癖なんだよね、とブルーは思う。十五年もの長い眠りから覚めて出会った、青年の姿に育ったジョミー。その髪もやはり一房ピョコンと跳ね上がっていた。
 それがジョミーのお決まりの髪型だったから、今も何枚も残る写真はそういう髪。男性も女性も「ソルジャー・シン風」だの「ジョミー・マーキス・シン風」だのと真似たがる。
(アレだったら跳ねてても普通なのに…)
 この状態が普通なのに、と寝癖のついた髪を引っ張るブルーは知らない。ジョミーと同じ髪型の人たちが「ピョコンと一房」跳ねさせるために毎朝努力していることを。どの辺りを上手く真上に向かって跳ねさせようかと、鏡に向かっていることを…。



 ジョミーだったら「普通」だとブルーが信じる寝癖。跳ね上がってしまった自分の髪。
 それは「ソルジャー・ブルー風」の髪型では変にしか見えず、とにかく寝癖を直すしかない。
(うー…)
 前の自分の髪もよく跳ねていたが、前のブルーなら何でもなかった。サイオンで直せば良かっただけ。サイオンを宿らせた指で軽く撫でれば良かっただけ。
 しかし今では事情が違った。とことん不器用になってしまったブルーのサイオン。寝癖を直せる技などは無くて、撫でたって何も起こらない。
(…全然ダメだよ…)
 こんな風に、と理想のスタイルを思い描きながら何度撫でても、髪はピョコンと跳ねたまま。
 ブラシを握って梳いてみても無駄、ブラシを濡らして梳いてみても駄目。
(直らないよ…)
 休日で時間はたっぷりあるから、と努力したものの成果はゼロで。
(…やっぱりママに頼まなくっちゃ…)
 登校する日についた寝癖は母が蒸しタオルを使って直してくれるから、そうして貰おうと階下に下りて行ったのに。



「あれっ、ママは?」
 焼き立てのトーストの匂いが漂うダイニングに母は見当たらなかった。父だけが新聞を手にしてテーブルに着いて、空いた方の手には齧りかけのトースト。
 父が食べている目玉焼きとソーセージが乗っかった皿も、ブルー用の小さなオムレツもきちんと用意されているし、サラダを盛り付けたボウルもあるのに。ハーレイに貰ったマーマレードの瓶も置かれているのに、母の分の皿は何処にも無い。
 代わりに自分で焼けとばかりに皿に載せられたスライスしたパン。厚みは明らかにブルー用。
 母は何処に、と見回すブルーに父が新聞から顔を上げて言った。
「ママなら朝市に出掛けて行ったぞ。朝刊にチラシが入っていたんだ」
 たまに来るだろ、郊外の農場の販売車。
 新鮮な野菜も果物もあるって書いてあったし、いそいそとな。
「そうなんだ…。いつ帰るかな?」
「さあな? 朝御飯は其処にあるだろう」
 オムレツは軽く温め直して、トーストは焦げ過ぎないように気を付けろよ。
 バターは其処で、ハーレイ先生のマーマレードも此処にあるから。



 父の言葉通り、オムレツを温め、トーストを焼いて。
 背が伸びるようにと毎朝飲んでいるミルクも冷蔵庫から出してカップに注いだ。食べている間に母が戻ってくるであろう、とトーストにマーマレードをたっぷりと塗って齧っているのに。
「…ママ、まだかなあ?」
 一向に帰って来ない母。壁の時計の針が進んでゆく。一時間もすれば多分、ハーレイが来る。
(こんな頭じゃ困るんだけど…)
 とても困る、と母の帰りを待ち侘びながら「まだかなあ?」と何度も繰り返して。
「もうすぐハーレイが来ちゃうよ、パパ」
「そりゃそうだろうさ。そのために朝市に行ったんだぞ、ママは」
 ハーレイ先生に美味しい食事をお出ししたい、ってな。
 おいでになる時間には間に合うように帰ってくると言っていたから心配しなくても大丈夫だぞ。
「えーっ!?」
 心配事は其処ではない、とブルーは悲鳴にも似た叫びを上げた。
 ハーレイに出すお茶は間に合うだろうが、間に合わないかもしれない自分の頭。
 しっかりと寝癖がついてしまった自分の頭…。



 一人息子の素っ頓狂な声に、父は新聞をバサリと閉じると向き直った。
「どうした、ブルー?」
「…ぼくの髪の毛…」
 この世の終わりのような顔で跳ねた毛先を指差すブルーだったが、父は事も無げに。
「寝癖か、自分で直せるだろう?」
「…パパ、直せないの、知ってるくせに…」
 恨めしそうに上目遣いで父を睨めば、「はははっ」と笑い声が返った。
「そのままでいいだろ、いらっしゃるのはハーレイ先生なんだから」
 校長先生とかじゃないしな?
 それにお前のために来て下さるんだ、何も問題ないだろう?
 たまにはありのままのお前の姿を見て貰え、と父は涼しい顔だけれども。
(ありのまま過ぎて笑われるんだよ!)
 ハーレイは前の自分の寝癖を知っている。
 ソルジャー・ブルーの髪が朝にはどうなっていたか、どんな具合に跳ねていたのか。
 それに寝癖をサイオンで簡単に直したことも。
(…ぼくが不器用なの、これ以上バラしたくないんだってば…)
 たかが髪の毛、たかが寝癖のほんの一房。
 けれどブルーにとっては大問題で、何としても寝癖を直したかった。
 ピョコンと跳ね上がった一房の髪を、ハーレイがやって来る前に。



 まだか、まだかと時計を見ながらオムレツを食べて、トーストも食べて。サラダもミルクも胃に収めたのに、母は戻って来なかった。
 朝市の場所は近所の公園。其処で出会ったご近所さんと話が弾んでいるのだろう。
(…ママ、ギリギリまで帰らないかも…)
 ハーレイが来る日だと知っているのだし、時計も持って出掛けた筈。何時に戻れば来客のための準備が出来るか、母は充分に分かっている。そして準備に必要な時間の中にはブルーの寝癖を直す時間は含まれていない。
(…ママが帰って来ても、直して貰う時間は無いかも…)
 どうやって直すんだったかな、とブルーは母の手順を頭の中で追ってみた。
(えーっと…)
 まずは必須の蒸しタオル。
 母は給湯器から出る一番熱い湯を使っていた。火傷しないよう気を付けて絞り、湯気が立つ間にブルーの頭に載せていた。
 そう、ピョコンと跳ねてしまった辺りに。
(うん、乗っければいいんだよね!)
 後は何度かタオルを外して跳ね具合をチェックしていたと思う。
 ちょうどいい具合に髪が収まるまで、寝癖がついた辺りをタオルの熱で温めながら。



(蒸しタオル…)
 ついでだから、と父と自分が使った食器の後片付けをして、テーブルを拭いた。それから仕事に取り掛かる。キッチンの蛇口から出る湯の温度の目盛りを最高まで上げて、タオルを濡らして。
「あつっ…!」
 手にシールドを張れないブルーには熱すぎる温度。絞るだけでも一苦労だった。
 ともあれ、蒸しタオルはこれで出来上がったから。
(…こんなものかな?)
 ホカホカと湯気を立てるタオルを頭に載せると、ダイニングへと戻って行った。
(少ししたら外して、ちょっと見てみて…)
 ダイニングの壁には小さな鏡が掛かっているから、それを覗けばいいだろう。待ち時間はどんなものだったろうか、と考えながら遊ばせた視線の先。
(あっ!)
 父が再び広げていた新聞に可愛らしい猫の写真を見付けた。読者投稿欄のペットの写真。



(ミーシャだ…!)
 カメラの方を向いてチョコンと座った真っ白な猫。ハーレイの母が飼っていたというミーシャにそっくりな白い猫の写真。
「パパ、ちょっと見せて!」
 父の肩越しに覗き込んでみると、写真の猫の名前も奇しくもミーシャ。
(猫のミーシャだ…)
 ハーレイの母が飼っていたミーシャはずうっと昔に死んでしまっていないけれども、ハーレイが色々と思い出話をしてくれる。
 甘えん坊な所がブルーに似ている、などと懐かしそうに目を細めて。
(本物じゃないけど、本物のミーシャ…)
 いいな、とブルーは夢中でミーシャの写真とセットの投稿を読んだ。まるでハーレイが過ごした子供時代を見ているよう。投稿者は子供ではなかったけれども、猫と飼い主との素敵な触れ合い。
(ホントにミーシャにそっくりだよ)
 家族全員で可愛がっているという甘えん坊のミーシャ。
 子供の頃のハーレイもきっと、こんな風にミーシャと過ごしたのだろう…。



 うっとりと想像の世界に浸っていたブルーは、父が呼ぶ声で我に返った。
「ブルー、蒸しタオル、載せすぎじゃないか?」
「えっ?」
 忘れ果てていた、頭の上に載せた蒸しタオル。熱すぎるほどだった熱はとっくに無い。
(大変…!)
 まさか、と覗き込んだダイニングの壁に掛かった鏡の中。
(……嘘……)
 呆然と赤い瞳を見開く。
 ピョコンと跳ねていた一房は無かったけれども、頭は見事にペシャンコだった。いつもふわりと広がっている筈の銀色の髪が頭の上だけペシャリと平らにへしゃげている。ソルジャー・ブルー風どころか、何が何だか分からない髪型。何処から見ても可笑しな髪型。
 ブルーは半ばパニックになって、慌てて父に助けを求めた。
「どうしよう、パパ…! これ、直せない?」
「うーん…。シャンプーしてブローしないと無理なんじゃないか、それは?」
 お前、タオルでしっかり蒸しちまったろう。
 そう簡単には直らないぞ、きっと。
「パパのサイオンとかは?」
「出来んこともないが、パパの髪の毛じゃないからなあ…」
 失敗したらどうするんだ。パパには加減が分からないからな。
「…そんな……」
 どうしたらいいの、と泣きそうになった所へ母が帰って来た音がしたから。
 ブルーは急いで玄関の方へと駆けて行った。



 買い込んだ荷物が多かったらしく、勝手口には回らないで玄関の扉から入って来た母。ブルーの住む地域は家の中では靴を履かないから、玄関の床は土足の場所より一段高くなっている。其処に敷かれた絨毯の上に、野菜や果物が詰まった袋。
 普段のブルーなら母を手伝って荷物を奥へと運ぶけれども、今はそれどころの話ではなかった。
「ママ!」
 見てよ、と袋を持とうともせずに自分の頭を指差した。母はまだ靴を脱いでいる最中なのに。
「ぼくの髪の毛、大変なことになっちゃった…!」
「あらあら、すっかりペッシャンコねえ…」
 何をしたの、と上がってブルーを見下ろす母。身長が未だに百五十センチしかないブルーよりも母の方が背が高いから、自然とそういう形になる。
「寝癖を直そうとして失敗しちゃった…」
 ママがなかなか帰って来ないから、蒸しタオル、自分で作ったんだよ。
 だけど頭に乗っける時間が長すぎちゃった…。
「そうだったの? でもねえ、ブルー」
 美味しそうな野菜と果物を沢山買ったわ、お昼も夜も御馳走よ。
 ハーレイ先生もいらっしゃるから、ママ、張り切ってお料理するわね。
「それより、ママ…!」
 ぼくの頭、と訴えた時にチャイムが鳴った。母が「あら?」と客人を映し出す画面を見て。
「いらっしゃったわ、ハーレイ先生」
 ブルー、荷物をキッチンに持って行っておいて。
 ママは門扉を開けに行くから。
「え? えええっ?」
 母は靴を履き直して出て行ってしまい、ブルーは一人残された。
(ハーレイ、来ちゃった…!)
 頭はペシャンコのままなのに。
 玄関には野菜と果物が詰まった袋が置かれて、それを運ばねばならないのに。
 髪を直して貰うどころか、母の手伝いをする間に時間切れだなんて…!



「…ふうむ。それでペシャンコになっちまった、と」
 ハーレイは二階の自室に逃げ帰っていたブルーを見るなり吹き出したけれど、声を上げて笑いはしなかった。流石は大人と言うべきだろうか、「すまん」と謝り、いつも通りに挨拶もしてくれたけれども。
 ブルーの母がお茶とお菓子を置いて去るなり、ハーレイの顔から教師の威厳は吹き飛んだ。目の前のブルーのペシャンコになった頭をしげしげと眺め、クックッと懸命に笑いを堪える。
 大きな身体を二つに曲げんばかりにして肩を震わせるハーレイの姿にブルーは唇を尖らせ、今に至るまでの事情を説明したというのに止まらない笑い。
 だから頬っぺたをプウッと膨らませ、悲劇の原因を改めて口にした。
「本当にミーシャだったんだよ! ちゃんと真っ白の!」
 それに本物のミーシャみたいに甘えん坊で。
 お魚だって生は嫌いで、焼いてくれってトコまでそっくり…。
「おいおい、ミーシャのせいにしないでくれ。それはお前の不注意ってヤツだ」
 蒸しタオルを載せてる間くらいは時間に注意していろ。
 よそ見をするからそんなことになる。
 実に間抜けとしか言いようがないぞ、お前の髪型。



 とんだソルジャー・ブルーもあったもんだ、とハーレイが笑い続けるから。
 笑われてもペシャンコになった頭はどうにも元に戻せないから、ブルーは仏頂面で尋ねる。
「…ハーレイ、ぼくのこと笑ってるけど、ハーレイは寝癖つかないの?」
「お前、その辺はよくよく知ってる筈だよな?」
 前と同じだ、何も変わらん。
 キャプテン・ハーレイも俺も寝癖は同じだ。
「逆立つんだっけ?」
 確かツンツン立っていたな、とブルーは遠い記憶の底を探った。
 青の間のベッドで眠っていた時も、ハーレイの部屋に泊まった時にも、寝癖がついたら逆立っていたと記憶している。短い髪を両手でかき混ぜ、指で上へと伸ばしたように。
「その通りだが、俺の場合はブラシで何回か梳けば直るぞ」
 髪質の違いというヤツだな。
 それにブラシで直せなければ、スタイリング剤を使うって手もあるし。
「ずるい!」
 なんでハーレイはブラシだけで直せてしまうわけ?
 おまけに直す薬っていうの?
 そんなのまでちゃんとあるなんて、ずるい!



 不公平だ、とブルーは頬を膨らませた。
 自分は寝癖も直せなくなってしまったというのに、何故ハーレイは前と同じで直せるのかと。
 二人で地球に生まれて来たのに、どうして違いが出て来るのかと。
 ハーレイは「お前なあ…」と呆れ顔でブルーの苦情を聞いていたけれど、ふと思い付いたように褐色の大きな手を伸ばして。
「じゃあ、こんな髪の方がいいのか、お前」
 ブルーの銀色の髪に指を差し入れ、前髪を額の上へと梳きながら。
「今の髪型よりコレにしとくか? どうなんだ、ブルー?」
 こんな感じで、と何度か撫でられたブルーの髪はオールバックになっていた。
 何か変だ、と気付いたブルーが鏡を覗けば、其処にはペシャンコよりも酷い頭の自分が居て。
「ハーレイ、これ…!」
「ん? 俺の髪型と同じヤツだが、文句があるのか?」
 お前の大好きなお揃いってヤツだ。
 キャプテン・ハーレイ風と呼ぶには少し長いが、悪くないだろう?



「……こんなお揃い……」
 酷い、とブルーは鏡の向こうの別人のような自分を見詰めた。
 好き勝手な方へ跳ねているようでも、ソルジャー・ブルー風の髪型はそうではないのに。たった一房の髪が真上に跳ねただけでも変になるのに、オールバック。
 いくら大好きなハーレイとお揃いであっても、これだけは御免蒙りたかった。この髪型を作った理容師の方をクルリと振り向き、「直してよ!」と突っかかってゆく。
「直してよったら、嫌だよ、こんなの!」
 ねえ、とハーレイが腰掛ける椅子の脇に膝を付き、広い胸を、逞しい腕や足をポカポカと叩いて頼んでいるのに、悠然としている酷い理容師。「知らんな」と素知らぬ顔の理容師。
「ママに見られたら笑われるよ…!」
「お前、そのママにいつも頼んでるんだろ、寝癖直しを?」
 ハーレイ先生にやられたと言っとけ。
 生憎と俺にも直せんからなあ、お前の寝癖は。
 お母さんに頼んで直して貰うのがいいと思うぞ、蒸しタオルで。
 それが一番確実なのさ、とハーレイはブルーの悲惨な頭を笑いながら眺めているものだから。
「ホントは上手に直せるくせに!」
 大嘘つき、とブルーは自分の髪型を変えてしまった理容師の腕を、胸を叩いた。
「コレが出来たんだから、絶対、直せる!」
 直せないだなんて、嘘なんだから!
 嘘に決まっているんだから…!



 お茶もお菓子もそっちのけにして、ポカポカ叩いて、叩き続けて。
 ようやっとハーレイが「仕方ないな」とブルーの髪に手を伸ばすまではかなりかかった。褐色の指がそうっとそうっと髪を解きほぐし、ゆっくりと梳いて。
「…どうだ、こんなもんか?」
 鏡を見て来い。
 ついでにペシャンコも直しておいたぞ、ソルジャー・ブルー風になったと思うがな?
「えーっと…」
 立ち上がって鏡を覗きに行ったブルーは驚いた。オールバックの髪の自分は何処にも居なくて、代わりに普段とまるで同じ姿。ペシャンコになった髪はもとより、ピョコンと跳ねていた寝癖まで綺麗に直っている。
「…凄い……」
 ホントに凄い、と感嘆するブルー。
「今度のハーレイ、器用なんだ…」
「違うぞ、前の俺だった頃から出来たぞ?」
 変わっていないと言っただろうが。
 寝癖も髪質も、寝癖直しの腕前も前の俺のままだ。
「嘘!」
 そんな話は聞いていない、とブルーは反論したのだけれど。
 前の自分の、ソルジャー・ブルーの記憶の中にはハーレイのそんな技などは無い、と。
 けれどハーレイはいとも簡単にサラリと答えた。
「出番が無かったというだけだ」
 前のお前には必要無かった技だろうが。
 お前、自分で直してたしなあ、寝癖くらいは一瞬でな。



 出番が無ければ使う機会も無いものなのだ、とハーレイは笑う。
 この技は前から持っていたのだと、今でもスタイリング剤を切らした時には使っていると。
「俺は基本的にサイオンは使わないことにしているからな」
 サイオンよりかはスタイリング剤が好みだな。
 まずはブラシで、そいつが駄目ならスタイリング剤だ。
 しかしだ、俺が使っているヤツはお前の髪には合わないだろうし、髪型もまるで違うしな?
 将来、お前に「ずるい」と言われても貸しようがないな、スタイリング剤。
「えっと…。将来って?」
 そう尋ねてから、ブルーはハタと気が付いた。
 ハーレイ愛用のスタイリング剤を「貸してくれ」とゴネられそうな場面は一つしか無い。それはハーレイと共に暮らす家で、其処の洗面所の鏡の前あたりで口にする台詞。
 自分の髪は寝癖で跳ねたままなのに、寝癖をサッサと直してしまったハーレイはずるいと、秘密兵器のスタイリング剤を貸してくれてもいいのにと。
「そっか…。借りられないんだ、今のハーレイが使ってる、えーっと…」
「スタイリング剤だ。お前みたいな子供が使うのは早すぎだな」
 だから蒸しタオルになるんだろう。
 将来的にも蒸しタオルかもなあ、お前の髪質と髪型に合うヤツが無ければな。



「ずっと蒸しタオルかもしれないの?」
 ぼくがやると失敗してしまうのに、とブルーは嘆いた。
 母が居なかったから髪がペシャンコになったと、一生これが続くのかと。
「こらこら、勝手に悲観するな」
 お前、一人で暮らす予定は無いんだろ?
 俺の嫁さんになると決めてるんだろ、違うのか?
「でも、蒸しタオル…。ママがいないと失敗しちゃう…」
「だからだ、お前のママの代わりに直してやる羽目になるんだろうなあ、この俺が」
 朝っぱらから蒸しタオルを作って、お前の頭に乗っけるんだ。
 うっかりペシャンコにしちまわないよう、チェックするのも忘れずにな。
「ハーレイが直してくれるんだ…」
 ママの代わりに、とブルーの頬が幸せで緩む。膨れてばかりだった頬が幸せで桜色になる。その嬉しさのままに「ふふっ、幸せ」と微笑んだけれど。
 頼もしい寝癖直し係はニヤリと笑ってこう言った。
「場合によってはオールバックに仕上げるからな?」
 俺とお揃いだ、いいだろう?
 さっきお試しでやってみたよな、ああいう感じだ。
「酷い!」
 寝癖を直してくれるんじゃないの、と食って掛かったブルーに、ハーレイは片目を軽く瞑った。
「冗談だ。さっきはともかく、冗談以外でやらかすわけがないだろう」
 やらんさ、お前には今の髪型が一番似合うんだからな。
 ソルジャー・ブルー風が似合う俺のブルーだ。
 ブルーには、コレだ…。
 …そうだろう、ブルー?
 前のお前からずっとコレだし、寝癖くらい俺がいくらでも直してやる。
 お前の姿を側で見ていられるなら、毎朝だって直してやる。
 だから安心して俺の所に来てくれ。いつかお前が、ちゃんと大きく育ったならな……。




       寝癖の直し方・了

※今は寝癖を自分で直せないブルー。将来も自分で直すのは難しそうです、前と違って。
 ハーレイに頼めばきちんと直して貰えそうですけど、たまにはオールバックかも?
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