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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

 ふと目に入った父のスーツ。学校から戻っておやつを食べていたリビングの一角。風を通すためなのだろうか、上着だけがハンガーに掛けてあった。いつも父が仕事に着てゆくスーツ。
(やっぱり大きい…)
 ハーレイの体格には及ばないものの、ブルーの父も背は高い方。従ってスーツも大きいサイズ。ハンガーに掛けられたそれは、ブルーの制服の上着とはまるで大きさが違う。文字通りの大人用と子供用と言っても差し支えは無く、ブルーはその大きさが羨ましくなった。
(…早く大きくなりたいんだけど…)
 父ほどの大きさにはならなくていい。前の生と同じ背丈の百七十センチがあれば充分。そこまで育てば上着のサイズも今ほどの差は開かないだろう。
(でも…。ハーレイはパパよりももっと大きいよね?)
 いつか自分が大きくなっても、ハーレイの上着と並べて掛けたら大きさの違いが分かりそうだ。今の父と自分ほどには違わないだろうけれど、きっとブルーのよりずっと大きい。
(大きい上着かあ…)
 自分の体格よりも大きな上着。それを着てみたらどんな感じがするのだろう?
 背伸びして大人になった気持ちか、あるいは一人前の大人な感覚か。子供には縁の無いスーツ。制服を着るまでは改まった外出用に子供用のを持っていたけれど、それはあくまで子供用。仕事に出掛けるわけではないし、行儀よくしているためだけの服。
(…ちょっとだけ着てもかまわないよね?)
 大人に少し近付けるかも、とブルーは父の上着に手を伸ばした。背が高い父の上着を羽織れば、いいおまじないになりそうだ。そのサイズには届かないまでも、大きくなれる力が宿っていそう。
(んーと…)
 手に取るとズシリと重かった。制服の上着とは全く違う。袖を通して羽織ってみたら。
(…うわあ…。ホントに大きいよ、これ)
 肩にかかる重さもさることながら、余りすぎの肩幅に長すぎる袖。裾だって腰よりもかなり下にあり、案の定、ブカブカとしか言いようがない。
 上着と呼ぶより、これではガウン。上掛け代わりに着て寝られそうなほどに大きな上着。
(…分かってたけど、ぼくって小さい…)
 早く大きくなりたいな、と溜息をついて上着をハンガーに戻しておいた。一日も早くハーレイと一緒に暮らせる背丈になれますように、と願いをこめて。



 父のスーツで勝手なおまじないをしていたことは綺麗に忘れたけれども、その夜、パジャマ姿で自分のベッドに腰掛けた途端に思い出した。
 ガウン代わりになりそうだった父の上着。着て寝られそうだった大きな上着。
 今は秋だから、これから少しずつ寒くなってくる。パジャマ一枚で夜更かし出来る季節はやがて終わって、羽織るものが要るようになるのだけれど。
(…あれ?)
 なんだか着ていたような気がする。カーディガンや子供用のガウンではなくて、もっとズッシリした上着。パジャマの上から確かに羽織っていたような…。
(でも…)
 父のスーツを持って来たりはしない筈。ガウン代わりに父が貸してくれるわけがないから、もし着たとしたら、それは悪戯。目的も無いのにスーツで悪戯なんかはしない。なのに着ていた記憶がある。
 両肩に微かに残った感触。自分には重くて大きすぎる上着。
(…いつなんだろう?)
 もしかしたら父が着せかけてくれたとか?
 お風呂上がりにパジャマ一枚で遊んでいたら「風邪を引くぞ」と羽織らせてくれた?
 そういうこともあるかもしれない、と懸命に記憶を手繰っていて。
(…あっ…!)
 引っ掛かって来た遠い日の記憶。今の家とは違う場所の記憶。
(前のぼくだ…!)
 着ていたものは父のスーツの上着ではなくて、キャプテンだったハーレイの上着。ソルジャーの上着とお揃いの模様があしらってあったキャプテンの制服の上着を着ていた。
 ソルジャー・ブルーだった頃のブルーには大きくて重かった、ハーレイの上着。それを羽織って青の間に居た。ソルジャーの上着とマントの代わりに、ハーレイの上着をしっかりと着て…。
 蘇ってくる懐かしい記憶。ブルーはそれを夢中で追った。



 ソルジャーだったブルーは大抵、青の間に一人。
 戦いや新しく見付けたミュウの救出に出掛けない時は、シャングリラの中を一巡すればその日の役目はおしまいだった。アルタミラを脱出して間もない時代は皆と賑やかに過ごしていたけれど、ソルジャーとなり、青の間に住まうようになった頃には普通の役割は無くなっていた。
 唯一の戦える存在であって、同時に行く手を指し示すソルジャー。
 年若い者たちにとっては神にも等しい立ち位置となってしまったブルーに、一般のミュウと同じ仕事は回ってこない。戦闘も救出作戦も無くて暇だからといって農作業の手伝いをしようとしても視察扱い、却って作業の手を止めてしまう。掃除を手伝おうとしても同じこと。
 ブリッジに行けばソルジャーの巡視とばかりに皆が緊張するのが分かるし、機関部に出掛けても今の状況を説明するべく誰かが作業を抜けて来てしまう。
 あれこれと色々試してみた末、子供たちの相手をして遊ぶことが一番問題が少ないと分かった。保育部の者たちは恐縮するけれど、子供たちはブルーに懐いてくるから仕事の手伝いをすることは出来る。ブルーが子供たちの相手をしている間に他の作業が可能だから。
 とはいえ、子供たちは眠りに就くのも早い。大人たちより早い時間に夕食を済ませ、ブルーより先に眠ってしまう。ブルーが見付けた小さな仕事は子供たちが夕食に行けばおしまい。
 夜ともなれば船内の巡回にも出掛けられない。公園で散歩は出来るけれども、それ以外の場所を歩いていれば、出会った者に「ご用でしょうか?」と気を遣わせてしまうのが目に見えている。
 仕方ないから、夜になったら本当に青の間で一人きり。
 恋人のハーレイがブリッジでの勤務を終えて来てくれるまでは、たった一人で青の間で過ごす。そのハーレイが忙しい時は独り寂しく待つしかない。本を読むのに飽きてしまっても、一人で飲む紅茶が美味しくなくても、ハーレイにはキャプテンという大切な任務があるのだから。
 そうやって待って、ハーレイを迎えて、愛を交わしたり、ただ添い寝して貰うだけであったり。二人一緒にベッドで眠って、朝になったらハーレイをブリッジへ送り出す。その後はブルーは独りになる。どんなに仲間が大勢いようと、心の底から幸せを感じられる時間は夜まで来ない。



 それが日常だった、ある朝のこと。起き出して制服を着込んだハーレイが言った。
「今夜はこちらに来られないかもしれません」
「…忙しいの?」
「ええ。色々と片付けなければならないことが重なりまして…」
 でも、心配は御無用です。一つ一つは大したことではありません。ただ…。
 私の帰りがあまり遅くなると、あなたがお休みになれませんから。
「理由はそれだけ?」
 ブルーの身体を気遣う言葉は嬉しかったけれど、従うつもりにはなれなかった。「そうです」と答えたハーレイに「遅くてもかまわないから来て」と自分の望みを口にする。
「それだけなら、ぼくは待っているよ」
 先に眠ってしまっているかもしれないけれども、一人にしないで。
 朝に独りで目を覚ますのは嫌なんだ。
 夜中に目覚めて独りぼっちだと気付くのも嫌だということ、君は充分知ってるだろうに。
「…分かりました」
 遅くなるかもしれませんが、とハーレイは約束をして出掛けて行った。
 そういう会話を交わしていたから、遅くなっても仕方がないとは思っていた。けれど…。
(…まだ来てくれない…)
 本当にハーレイが戻るのが遅い。覚悟していたけれど、本当に遅い。
 とっくの昔にシャワーを済ませて、もう長いことベッドに腰掛けて待っているのに。



(寂しいよ、ハーレイ…)
 サイオンで軽く気配を探ると、ハーレイはまだ忙しそうで。どうやら幾つかの部署から幾つもの案件が同時に持ち込まれたらしく、どれもキャプテンの決裁が必要だからと急いでいる。如何にも生真面目なハーレイらしい。明日や明後日に持ち越したって支障の無いものも多そうなのに。
(…そういう所も好きなんだけどね…)
 シャングリラの仲間たちの暮らしが少しでも快適であるようにと、心を砕く優しいキャプテン。ブリッジで見せる厳めしい顔とは正反対の温かい心を持ったハーレイ。
 だからハーレイが好きになった。自分のことよりもブルーのことを大切に思い、いつだって側に居てくれたから。本当に側に居られる時間は短いものでも、心ごと寄り添ってくれたから…。
(まだかな、ハーレイ…)
 早く仕事が終わらないかな、と探ってみれば、また別件でハーレイの部屋を訪ねてゆくクルーの姿が見えて。他にも幾人か順番待ちらしき気配があった。夜間シフトの者も含まれているようだ。これでは半時間やそこらで全て片付きそうもない。優に一時間、あるいはもっと…。
 先に眠るべきかと思うけれども、眠る時にはハーレイが隣にいないと寂しい。
 ハーレイと二人寄り添い合って、生まれたままの姿か、アンダーだけか。
 どちらの格好で眠るにしても、ハーレイの温もりが側に無いとあまりに寂しすぎる。
 シャワーを浴びた後でマントも上着も脱いでいるから、ベッドにもぐれば眠れるのだけれど…。
 どうにも眠ろうという気持ちになれない。
 少しでいいからハーレイの優しい温もりが欲しい。
 ブルーの身体を暖かく包んでくれるもの。包み込んでくれる何かが欲しい…。



 眠れないままに、自分を包んでくれそうな温もりを頭の中であれこれと探し求めていて。
(そうだ、上着…!)
 ハーレイがいつも着ているキャプテンの上着。ブルーとお揃いの模様をあしらった上着。
 あれを羽織れば大きくてきっと暖かい。ブルーはガウンを持っていないけれど、ガウンみたいに暖かく包んでくれると思う。ハーレイの大きな身体を包む上着だし、充分ガウンに出来る大きさ。あれならばハーレイの温もりを身近に感じられそうだ。
(…えーっと…)
 青の間からは少し離れたハーレイの部屋をサイオンで覗く。何度も泊まったことがあったから、ハーレイが制服を仕舞っているクローゼットは直ぐに分かった。ハンガーに掛けられて並んでいるクリーニングを済ませた上着。替えの上着は何着もあったし、一つくらいはいいだろう。
(ちょっと借りるよ)
 机に向かっているハーレイの背中に心の中だけで声をかけた。もちろん思念に乗せてはいない。仕事の邪魔をしては悪いし、かと言って無断で持ち去るのも良心が咎めたから。
 手近な上着を一つ選んで、瞬間移動で失敬した。青の間のベッドに腰掛けたままのブルーの手の中に上着がバサリと落ちて来る。思っていたよりも重たいそれ。同じ模様があしらわれたブルーの上着よりも遙かにズシリと重い。
(大きいし、袖もついてるんだし…)
 重くて当然、とブルーは微笑む。この重い上着を軽々と着こなすハーレイの逞しさを思う。
(…こうして見るとホントに大きい…)
 両手で持って広げてみれば、彼の人の頑丈で大きな身体が直ぐ目の前にあるかのようで。
(ハーレイはこれを着てるんだ…)
 自分のマントと上着はシャワーを浴びた時に脱いでしまって、今はアンダーだけだったから。
 手に入れたばかりの素敵なガウンを早速羽織ってみることにした。まずは袖には腕を通さずに、マントのように肩に掛けてみる。それだけで肩と背中が暖かくなった。ハーレイに合わせてある丈だけに、ブルーが羽織るとハーレイのマントくらいの大きさになる上着。
 両方の腕を通して着れば、まるでハーレイに包まれているようで。
(…ふふっ)
 これを着ていれば寂しくない。ハーレイが側に居てくれるような安心感。
 どっしりと重いキャプテンの上着。いつもハーレイが着ている上着。
 前を掻き合わせて両方の手でキュッと握って、幸せに浸る。
 もう少し待てば、これの持ち主が仕事を済ませて戻って来る。
 あと少し、ほんのもう少し…。



 ブルーが着込んだハーレイの上着。キャプテンの制服の重たい上着。
 今もまだ部屋で仕事をしているハーレイと同じ上着を纏って、その暖かさに包まれて。ブルーは心が安らぐのを覚え、寂しさも和らいだような気がした。
 寂しかった心がハーレイの温もりを感じたからか、俄かに眠気が襲って来て。ハーレイの帰りを待とうと思っているのに、小さな欠伸が立て続けに出る。
(…もうすぐハーレイの仕事が終わる…)
 終わるまで待っていなくては。眠らずに待って迎えなくては、と堪えても欠伸を止められない。ほんの少しだけ横になろう、とベッドにぱたりと倒れ込んだ。眠るつもりは全く無かった。
 横になれば眠気が収まるだろうと、目を瞑らなければ眠りはしないと思って身体を横たえた。
 そう、目を開けていれば眠らずに済む。こうして眠気をやり過ごしてやれば欠伸も止まる。
(…少しだけ…。ほんの少しだけ…)
 眠気が去ったら起き上がるつもり。それが眠気に捕まってしまい、知らず知らずに瞼が閉じた。ブルーはベッドに倒れ込んだまま、ぐっすりと深く眠ってしまった。
 ハーレイの上着を上掛けにして、腰の辺りまですっぽりと包まれたままで…。



「…ブルー?」
 いったい何をしているんです、と呼ばれたブルーは「…ん?」と寝返りを打って目を覚ました。眠い目を擦りながら開けば、直ぐ前に恋人の顔があって鳶色の瞳に途惑いの色。
「…遅くなってしまってすみません。ですが、この格好は何ごとです?」
「…格好…?」
 何を言われているのか分からず、眠気を払おうと伸ばした腕が目に入った。見慣れた自分の腕の代わりにハーレイの腕。それも不格好に余りすぎた制服を纏った腕。
(………?)
 ブルーの半ば寝ぼけた頭が状況を把握する前に、ハーレイの瞳が覗き込んで来た。
「…私の上着が皺くちゃになってしまっているのですが…」
「……君の……?」
 なんで、と口にしかかった所でブルーはようやく気が付いた。
 無断で借りたハーレイの上着。ガウン代わりに着込んでみたらとても暖かくて、幸せで…。
(…そのまま眠ってしまっていたんだ…!)
 カアッと顔が赤くなるのを覚えたけれども、ハーレイに背を向け、ぶっきらぼうに言い放つ。
「君が遅いからいけないんだ。早く包んで」
「…は?」
「上着じゃなくって、君の身体でぼくを包んで。もう遅いから、それだけでいい」
 早く、とブルーは恋人を急かした。
「君が来ないから、代わりに上着で寝る羽目になった。これはもういい。早く脱がせて」
 上着より君の方がいい。早く脱がせて、君が包んで。
「…ええ、ブルー…」
 ハーレイの声に笑いが混じる。この恋人はなんと可愛いのかと、自分が来るのを独りで待てずに上着を持って来てしまったのか、と。愛らしい恋人がしっかりと袖を通して着込んだキャプテンの上着。細くて華奢な身体に纏うには大きすぎて余っている上着。
「ブルー、少し身体を浮かせて下さい。あなたの下敷きでは脱がせられません」
「…うん……」
 そう答えつつも非協力的なブルーの身体から上着を剥がすハーレイが小さな吐息を漏らした。
「…おまけに、私の上着を脱がせるというのは、なんとも妙な感じがするのですが…」
「そうかな? でもこれ、気に入ったんだよ」
 とても暖かくて、君が側に居るような気がする。また遅くなる時があったら借りるよ。
「はあ…」
 困り顔で脱がせていたハーレイ。自分の持ち物のキャプテンの上着を脱がせたハーレイ…。



(借りていたんだ、ハーレイの上着…!)
 小さなブルーは思い出した。前の生で過ごしたハーレイとの時間。青の間で過ごしていた時間。
 そんなことは滅多に無かったけれども、寂しい夜にはハーレイの上着。
 ハーレイの帰りを待ち切れない時、持ち主の部屋からキャプテンの上着を無断で借りた。何着も並んだクリーニング済みの上着の中から一つ選んで、瞬間移動で持ち出していた。
 持ち主のがっしりとした身体に相応しい重みと大きさの上着。それが気に入って何度も借りた。たまに昼間にも羽織っていた。急にハーレイに会いたくなったのに、叶わない時に。用を見付けて呼び出そうにも、キャプテンの仕事が多忙だった時に。
(…大好きだったっけ、ハーレイの上着…)
 ブルーがそれを着ている度にハーレイは苦笑していたけれども、それでも瞳は嬉しそうだった。
 自分の制服を脱がせないと恋人に触れられないとは、と嘆きながらも声に幸せが滲み出ていた。そうしてブルーの身体を包んだ大きすぎるキャプテンの上着を脱がせて、自分の身体で包み込んでくれた。温かくて広い褐色の胸に、逞しい筋肉を纏った腕で。
(本物のハーレイには敵わないけど、上着もとっても好きだったんだよ…)
 何回も借りていたハーレイの上着。
 ガウン代わりに、上掛け代わりにしていたキャプテンの制服の重たい上着…。



 思い出したら、あの上着が急に懐かしくなった。
 今はもう何処にも無い上着。時の流れが連れ去ってしまったキャプテンの上着。
 ブルーが着ていたソルジャーの上着とお揃いの模様があしらわれていたキャプテンの上着。
 存在しないものは着られないから、思考を別の方へと向けた。
(今のハーレイのスーツ、羽織ってみたいな…)
 記憶を呼び戻す切っ掛けになった、昼間に羽織った父のスーツの大きな上着。ハーレイほどではなくても長身な父の上着があの大きさ。ハーレイは父よりもずっと肩幅があって背が高い。
(…ハーレイのだと、パパのよりもっと大きいよね?)
 ブルーには大きすぎた父の上着。それより遙かに大きいだろうハーレイの上着。
 前の生でハーレイの上着を着ていたブルーは今よりも背が高かった。肩幅だって広かった筈。
 今のブルーはソルジャー・ブルーだった頃に比べれば小さな子供。そんな自分が前と同じようにハーレイの上着を借りたら、どれほど余ってしまうのだろうか。
 今のハーレイのスーツの上着は、キャプテンの制服の上着よりも大きくてきっと暖かい。
(でもって、うんと重たいんだよ)
 着てみたいな、とブルーは夢を見るのだけれど。
 週末の土曜日や日曜日に来てくれるハーレイはスーツではないし、着たいと頼み込むなら平日。
(…だけど……)
 平日にこんな思い出話は出来ない。前の生で愛し合っていた頃の話は出来ない。
(…週末に話して、次にスーツで来てくれた時に着せて貰えばいいのかな…?)
 着せてくれるかな、とハーレイのスーツ姿を思い浮かべる。今日も学校でスーツ姿のハーレイに会った。暑い季節にはワイシャツにネクタイだったけれども、今ではスーツが普通のハーレイ。
(ちゃんと頼んだら、着られるかな?)
 一度くらい着せて欲しいんだけど、とハーレイの身体を包むスーツの上着に思いを馳せる。
 着せて貰うなら今がいい。
 結婚したならいつでも着せてくれるのだろうし、勝手に着ることも出来るけれども、今がいい。
 前よりも小さな身体だからこそ、着せて貰う価値がありそうだった。ブルーの身体をすっぽりと包み込むハーレイの大きさ、温かさ。今なら前の何十倍にも感じられるに違いない。
(それにハーレイ、キスも許してくれないしね…?)
 上着くらいは着せて欲しいよ、とブルーは頑丈な身体を持った恋人のスーツの上着を狙う。
 何とかしてあれを着られないか、と懸命に考えを巡らせるけれど、全ては上着の持ち主次第。
 小さなブルーはハーレイのスーツの上着を着せて貰えるのか、拒否されるのか。
 キャプテンだったハーレイすらも苦笑したそれは、今のブルーには些か難しそうだった……。




            羽織ってみた上着・了


※キャプテン・ハーレイの上着をコッソリ拝借していたソルジャー・ブルー。
 とても幸せだったでしょうけど、脱がせる方のハーレイは複雑な気分ですよね…?
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv





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 学校へ向かう路線バスの中。
 ふと気が付いて通学鞄を覗き込んだブルーは顔色を変えた。
(…えっ?)
 いつもの場所にある筈の財布。鞄を開ければ直ぐ分かるそれが見当たらない。まさか、と奥まで手を突っ込んでみたが馴染んだ感触が何処にもない。何度探っても見付からない。
(…そんな……)
 路線バスの乗車賃は財布とは別。鞄に付けている小さなカードを機械が自動で読み取る仕組み。財布が無くても困りはしないが、お金が要る場所はバスだけではない。焦って鞄を探っている間にバスは学校の側のバス停に着いた。



(もしかしたら何処かに挟まってるかも…)
 祈るような気持ちで教室に行って、机の上に鞄の中身を全部取り出してみたのだけれど。逆さにして何度も振ったのだけれど。
(…やっぱり無い…)
 財布は出て来てくれなかった。肩を落として出してあった中身を順に鞄に仕舞い込む。本当なら其処に在った筈の財布。忘れたことなんか無かった財布。
(…なんで?)
 どうしてこうなっちゃったんだろう、とブルーは自分の記憶を探った。財布は外でしか使わないから、いつだって通学鞄の中。たまに何処かへ出掛ける時は外出用の鞄に入れ替えて行って、家に帰ったら直ぐに通学鞄に戻す。財布を鞄以外の所に置いておくことは無いのだけれど…。
(…あっ…!)
 引っ掛かった小さな記憶の欠片。昨日の夜、母にお小遣いを貰って財布に入れた。通学鞄の中が定位置の財布を確かに鞄から出した。
(…それから何をやったんだっけ?)
 母に呼ばれて貰いに行ったお小遣い。ちょうど本を読んでいる時に声を掛けられたから、急いで階下へ下りて行った。鞄から出した財布をしっかりと持って。
 ダイニングで渡されたお小遣いを財布に仕舞って、部屋へ戻った所までは確か。通学鞄に入れるつもりで勉強机の前まで行って…。
(…やっちゃった…)
 広げたままで机に置いて出た写真集。ハーレイとお揃いで持っている本、シャングリラを収めた写真集。開いたページに載っていた写真が前の生の記憶を運んで来たから、手繰り寄せようとして椅子に座った。持っていた財布は…。
(隣の棚に置いちゃったんだ…!)
 ほんのちょっとだけ、懐かしい記憶に浸りたかった。通学鞄を手に取っていたら現実が前の生の記憶を消してしまって追えなくなるかもしれなかったから、写真集の方を優先した。財布は後でもいいと思った。思い出しかけた遠い記憶の方が大切。
 そうやって蘇ってきたシャングリラでの日々がとても懐かしくて、もっともっとと夢中になって写真集のページをめくり続けた。此処でこんなことが、此処でこういう会話があった、と。



 時の流れが連れ去ってしまったシャングリラ。
 ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 ゼルやヒルマンやブラウたちと交わした言葉や、その表情。日常のほんの小さな一コマ。温かな光景が幾つも幾つも胸の奥から湧き上がって来て、幸せな気持ちで眠りについた。シャングリラの写真集をぱたりと閉じて、幸せな気分を仕舞いたくなくて、棚に入れずに机に置いたままで。
(…朝もそのまま置いて来ちゃった…)
 昨夜の幸せを覚えていたから、学校から戻ったら遠い記憶を追おうと思った。心を空っぽにしてページをめくって、浮かび上がってくる記憶の欠片を拾ってみようと。
 写真集を棚に戻さなかったから、棚の方なんか見ていない。財布を置いた棚なんか見ない。
 探していた財布は今も家に在って、ブルーの部屋の棚の上。母が気付いてくれたら届けてくれる可能性もあったけれども、生憎と部屋の掃除はブルーの習慣。ブルーが学校に行っている間に母が部屋に入ることなど滅多に無い。
(……どうしよう……)
 これではランチが食べられない。
 ノートなどを買う予定は無いから、財布が要る場所は食堂だけ。食の細いブルーは昼休みに少し食べれば充分、それ以外に食堂は使わないけれど、食堂で食べるにはお金が必要。いくらブルーの食が細くても、何も食べずに放課後まではとても持たない。
 こうなった以上、ランチ仲間にお金を借りるしか無さそうだ。誰に頼もうかと思案していて。
(そうだ、ハーレイ!)
 この学校にはハーレイが居る。
 校内ではあくまで教師と生徒で「ハーレイ先生」と呼ばねばならないが、そのハーレイは誰もが認めるブルーの守り役。ある意味、保護者とも呼べる立ち位置。
(…友達に借りるより、ハーレイだよね?)
 ランチ仲間は万年金欠の傾向が強い。特に今の時期、お小遣いを貰っていればいいけれど、まだ貰ってはいなかった場合、ブルーに貸すのは大変そうだ。下手をすればランチ仲間全員が少しずつ出してくれて一人分を捻り出すのがやっとかも…。
 そんな迷惑をかけてしまうより、ハーレイに頼んだ方がいい。財布を忘れたと言わねばならないことは恥ずかしかったが、自分の始末は自分で付けねばならないだろう。



 幸いブルーは登校時間が早い方。
 柔道部の朝練を終えたばかりのハーレイと出くわすこともしばしばで。
 この時間なら他の先生たちも忙しくしてはいない筈だから、大急ぎで職員室へと駆け込んだ。
「ハーレイ先生!」
 目指す人影は職員室の中でもひときわ目立つ大きな体格。出勤してきた他の先生たちと立ち話の最中で、手には熱いコーヒーが入ったマグカップ。そのハーレイがブルーの声で振り返る。
「どうした、ブルー? 朝早くから」
「……えっと……」
 職員室中の教師の視線を一身に浴びたブルーは真っ赤になって俯いた。ブルーの担任の先生まで居る。この状況で口にするのは本当に勇気が要ったけれども。
「…すみません。財布を忘れて来たんです。少しでいいから貸して下さい」
 消え入りそうな声では失礼だから、精一杯に搾り出した声。ハーレイが「ふむ」と呟いて。
「昼飯用か?」
「……そうです……」
 買えないんです、と顔を上げられないままのブルーに、ハーレイは「よし」と答えてくれた。
「分かった。昼休みに準備室に来い」
「えっ?」
「準備室だ。古典の準備室、知ってるだろう?」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
 返事を貰った以上は礼儀正しく、きちんと御礼を言わなければ。他の先生たちの耳にも聞こえる声で答えて、御礼を言って。ペコリと頭を下げたブルーは職員室を出て、扉を閉めた。
(…は、恥ずかしかったあ…)
 まだ心臓が激しく脈打っている。ウッカリ者の自業自得な情けない末路。とはいえ、心配の種は無くなった。ランチ仲間に無理を言ってお金を借りなくて済む。
(…でも……。準備室に来いって、どういう意味かな?)
 もしかするとハーレイが食堂について来て、その場で支払ってくれるのだろうか?
 考えてみれば、理に適った正しいやり方だった。ブルーがいくらのランチを買って食べるのか、今の時点では分からない。ブルーは嘘を言ってお釣りを懐に入れたりはしないけれども、そういう生徒も絶対いないとは言い切れない。同行して必要な分を支払う方が貸すよりもいい。
 きっとそうだ、とブルーは思った。ハーレイが食堂まで一緒に来てくれる。
(…どうせなら一緒に食べてくれたらいいんだけどな…)
 流石にそれは無理だろうけど。ハーレイにはハーレイの都合があるのだろうし…。



 そして昼休みがやって来た。ランチ仲間には「財布を忘れたから」と真実を告げて、待たないで食べてくれるようにと言った。昼休みの食堂はまさに戦場。出遅れれば売り切れるものも多いし、いい席となれば奪い合い。纏まった数の席を取るのは大変だけれど、一人分なら何とでもなる。
(…ホントはハーレイと二人で食べてみたいんだけどな…)
 食堂の隅っこの席でいいから。教師と生徒の会話でいいから、ハーレイと二人…。
 そんなことを考えながら校舎の中を歩いて、辿り着いた古典の準備室。職員室とは別に教科別に設けられた教師の居場所。授業のある時間帯は準備室で待機し、質問なども受け付ける。
「失礼します」
 扉をノックし、カチャリと開けたブルーは目を見開いた。
(あれっ?)
 何人か居る筈の先生たちが一人もいない。正確にはブルーの方を振り向いたハーレイ一人だけ。机は幾つか並んでいるのに、ガランとした古典の準備室。途惑うブルーに声がかかった。
「来たか。…まあ入れ、今日は俺だけだ」
「えっ?」
 扉を閉めたものの、ブルーはキョロキョロと周囲を見回す。他の先生は何処へ消えたのだろう?
「お前、いいカンしているな。実は不器用じゃないんじゃないか? お前のサイオン」
 ハーレイが「来い」とブルーを手招きした。
「他の先生は研修でな。今日は一日、隣町だ」
 まさか全員がいないわけにもいかんだろうが。俺は別の日に済ませたんだ。
 そう言いながら、ハーレイは自分の隣の席から持ち主が留守の椅子を引っ張り出した。
「というわけで、今日は一人だから豪華弁当と洒落込むつもりだったんだが…。そしたら、お前が来ちまった。御馳走するしかないだろうが」
「ええっ?」
「ついでに人目も無いからな。ハーレイ先生じゃなくてハーレイでいいぞ」
 座れ、と椅子を用意されたブルーは信じられない思いで腰掛けた。
 ハーレイと二人で食堂どころか、準備室で二人で食事だなんて。しかもハーレイ先生ではなく、ハーレイと呼んでいいなんて…。
 本当に此処は学校だろうか?
 夢を見ているのではないのだろうか…。



「遠慮しないで食って行け。自慢のクラシックスタイルなんだぞ」
 ハーレイが四角い風呂敷包みを取り出した。机の上に置いて風呂敷を解けば、中から二段重ねになった弁当箱が現れる。行楽の季節に見かけるような黒く塗られた弁当箱。金色の模様も描かれたそれは、まさにクラシックスタイルそのもの。
「…なんだか凄いね…」
 SD体制の時代よりも遙かに古いスタイル。前の生では情報だけしか知らなかった。実物を目にしたことが無かった。その点はハーレイも同じ筈だが、今の好みはこうなのだろうか?
「ははっ、驚いたか? 俺の親父とおふくろはこの手の弁当も好きなんだ。春の桜や秋の紅葉にはピッタリだろうが、こういうヤツが」
 せっかくの文化を楽しまないとな?
 此処は地球だし、ずうっと昔は日本という名の島国だ。由緒ある場所に生まれて来たんだ、昔の人たちが愛した文化を俺たちもうんと楽しむべきだぞ。
 もちろん今風の飯も美味いし、そっちの味だって捨て難いんだが…。
「どうだ、中身もクラシックスタイルというヤツだ。ちなみに全部、俺が作った」
 見ろ、とハーレイが自慢げに開けた二段重ねの弁当箱。上の段には魚の焼き物や野菜の煮物など何種類ものおかずが詰められ、下の段にはキノコたっぷりの炊き込み御飯。行楽弁当として売られているものにも引けを取らない、ハーレイの手作りがぎっしり詰まった豪華弁当。
「ほら、食べろ。お前、好き嫌いは無いんだろうが。…俺と同じで前世の記憶を引き摺っちまって贅沢を言えない舌なんだしな」
「そうだけど…。ぼく、食べていいの? これ、ハーレイのお弁当でしょ? お腹、空かない?」
「安心しろ。俺の非常食ならこっちにある」
 ハーレイが机の下から引っ張り出した袋に詰まったサンドイッチやホットドッグ。授業の合間に買って来たらしいそれはブルーからすれば驚くほどの量だったけれど。
「柔道部の指導は腹が減るしな、いつも買うんだ。今日は多めに買っておいた」
 だから好きなだけ弁当を食べろ、とハーレイは割り箸を机の引き出しから出して来た。ついでに準備室に備え付けの棚から陶器の皿。これまたクラシックな形と模様のもの。
「…これもハーレイのお皿なの?」
「まあな。俺の私物だ。他の先生も色々置いてるぞ。…茶碗も要るか?」
 炊き込み御飯には茶碗が似合う、とハーレイが棚から取って来た茶碗。それもハーレイの私物の茶碗で、持ち主の手に相応しい大きな茶碗。
「これに一杯はお前は無理だな、好きなだけ入れろ。おかずも好きなだけ取っていいぞ」
 取り分けるための割り箸も用意され、ブルーは感激で胸が一杯だった。普段ハーレイが使う器で食べられる上に、ハーレイの手作りのお弁当。本当に夢じゃないんだろうか…。



 お弁当とはいえ、本格的な和風のおかずと炊き込み御飯。ハーレイ御自慢の豪華弁当。
(…どれを貰ったらいいんだろう?)
 ブルーは嬉しい悩みを抱えて所狭しと詰まったおかずを眺めた。さっきハーレイが言った通りにブルーには好き嫌いが無い。前の生でアルタミラの研究所で食事とも呼べない餌を与えられ、脱出した後も耐乏生活が長く続いた。そのせいか、ハーレイともども好き嫌いが全く無いのだが…。
(それとこれとは話が別だよ…)
 出来ることなら全部食べたい、ハーレイ手作りの豪華弁当。しかしブルーの食は細くて、とても全部は食べられない。魚の焼き物を一切れと炊き込み御飯を茶碗に半分も貰えば満腹、他には入りそうもない。美味しそうなおかずが沢山あるのに、どれを選べばいいのだろう?
「おいおい、遠慮しなくていいんだぞ? 好きなだけ食え」
「…食べたいんだけど…。ぼく、沢山は食べられないよ…。ほんの少しでお腹一杯」
 どれにしようか迷っているのだ、とブルーは悩みを打ち明けた。全種類を制覇したいけれども、その前に満腹してしまう。だからお勧めのおかずがあったら教えて欲しい、と。
「ハーレイのお勧めのおかずにするよ。それと御飯を少しでいいよ」
「なるほどな…。お前、少ししか食わないからなあ、しっかり食べろと言っているのに」
 だから大きくなれないんだぞ、と苦笑しながらハーレイは魚の焼き物に割り箸を入れた。小さく割れた端っこをブルーの皿に取り分け、次は野菜の煮物を少し。それから玉子焼きを半分。
「何してるの?」
「試食サイズだ。これなら全種類でもいけるだろうが。気に入ったのがあって入るようだったら、また後で取れ。炊き込み御飯は自分で入れろよ、俺には適量が分からんからな」
 自分で調理したと言うだけあって、ハーレイが取り分けた試食サイズとやらは立派な盛り付けとなってブルーの前に供された。ブルーがお弁当のおかずにするには充分な量。
「お前が食べるならこのくらいか? どれも美味いぞ」
「ありがとう、ハーレイ! このくらいだったら食べ切れるよ、ぼく」
「だったら炊き込み御飯も取っとけ、一緒に食うのが美味いんだ」
「うんっ!」
 ブルーの手には大きすぎるサイズのハーレイの茶碗。其処にキノコの炊き込み御飯を取り分け、ハーレイと二人で「いただきます」と合掌をして。
 ドキドキしながら、ブルーはハーレイが最初に盛り付けてくれた魚の焼き物を頬張った。普通の付け焼きとばかり思っていた鮭。ハーレイ曰く、幽庵焼きとかいう付け焼き。醤油や味醂のタレに柚子を入れてあるのだと聞いて納得した。どおりでほのかに柚子の香りがする筈だ…。



 そうした調子で、ハーレイお手製の豪華弁当は作り方まで凝っていた。煮物も揚げ物もひと手間かけた本格仕上げ。もちろん炊き込み御飯も風味豊かで、冷めているのに気にならない。
「凄いね、ハーレイ。…こんなの作ってこられるんだ…」
「そう毎日はやってられんがな、普段はかき込むだけだしな?」
 一人だからこそゆったり食えるし、豪華にやりたくなるもんだ。
 俺の秘かなお楽しみだ、とハーレイは笑う。部屋を独占して豪華弁当を食べ、ちょっとした行楽気分に浸るのだと。今までの学校でもやってきたというリフレッシュ。旬の素材を自分で調理し、二段重ねの弁当箱に詰めて風呂敷に包んでクラシックスタイルの豪華弁当。
「そして弁当には箸でないとな。…箸の使い方も上手いな、お前」
「パパとママが厳しかったんだ。ちゃんと持てないと恥ずかしいぞ、って」
「うんうん、そいつはいいことだ。俺の親父とおふくろが聞いたら大いに喜ぶ」
 親父は釣りが好きだからなあ、アユなんかは箸で食わんとな?
 早くお前に釣った魚を食わせたい、と言っていたから、上手に食ったら大感激だぞ。
「…ホント?」
「本当だとも。親父は自分でアユを焼くから、綺麗に食べて驚かせてやれ。箸を上手に使ってな。…ところで、だ。味噌汁も飲むか?」
「そんなのもあるの?」
 まさか味噌汁まで作ってきたとは思わなかったから、ブルーは驚いたのだけれども。
「いや、味噌汁は此処の常備品だ。…いわゆるインスタントだな。すまし汁もあるぞ、好きな方を選べ。種類も色々揃っているんだ」
 棚の奥から出て来た何種類もの味噌汁、すまし汁。そのくらいなら、まだ食べられる。ブルーは最中みたいな皮の中に具が詰まっているというすまし汁を選んだ。お湯を注げば花の形の麩などが出て来て面白いのだとハーレイが言うから。
「よし、こいつだな? 器は、と…」
 お湯を沸かす間に棚から二つ出されたお椀。そっくり同じ形だったから、ハーレイの私物が二つあるのかとブルーは思ったが、そうではなかった。
「こいつは此処の備品でな。歴代の古典教師が揃えた、いわばコレクションだ」
 古典の教師は和風の食事が好きな人が多く、インスタントの味噌汁やすまし汁もそのために皆で資金を出し合って揃えているのだという。
 ハーレイはブルーが食べ切れなかった分のお弁当を食べ、ブルーとお揃いのすまし汁を飲んで、「実に美味かった」と御馳走様の合掌をして。



「さて、ブルー。…ここまで来たら食後は緑茶で締めんとな?」
 これまた棚の奥から出て来た急須と湯呑み。ハーレイが湯を適温に冷まして緑茶を淹れる。
「とっておきの玉露なんだぞ、生徒用ではないんだが…。俺の客だし、許されるさ」
 買う時には俺だって出資したしな?
 パチンと片目を瞑るハーレイは悪戯っ子のような瞳をしていた。
 嬉しそうなハーレイと二人、すっきりとした味わいの緑茶で喉を潤し、ブルーのランチタイムは終わった。お腹一杯になったけれども、幸せだった昼休み。
「御馳走様でした、ハーレイ先生!」
「ああ、気を付けて教室に戻れよ、食い過ぎで走ると腹が痛くなるぞ」
「はいっ!」
 ブルーはペコリと頭を下げて廊下に出た。
 夢のようなランチタイムは終わって、教師と生徒に戻ったけれど。
 ハーレイの手作りのお弁当を一緒に食べて、いつもハーレイが教師仲間と食べているすまし汁や玉露も御馳走になった。幸せ過ぎて、誰彼かまわず喋りたくなるような素敵なランチ。
 たまには財布を忘れるのもいいな、と弾む足取りで教室に戻ってゆくブルーはやはり子供で。
 ハーレイの方は、思いがけない来客を迎えた喜びと幸せを一人になった部屋で噛み締めていた。自分以外には誰もいない古典の準備室。教師としての自分の居場所。
(…俺の家だとこう冷静には振る舞えないしな?)
 ブルーに手料理ならぬ手作り弁当を食べて貰えて、しかも二人きりでのランチタイム。
 孤独な昼休みが素敵で豪華な時間に化けた。
 たまには研修の留守番もいい。また次の機会に引き受けてみようか、留守番役を。
 もっとも、ブルーが財布を忘れない限り、二人でランチは出来ないけれど…。




           幸運な忘れ物・了

※財布を忘れてしまったお蔭で、ハーレイと二人で昼御飯。幸運だったブルーです。
 ハーレイ自慢のクラシックスタイルのお弁当、美味しかったでしょうね。
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 ローズマリーのおまじない。
 学校から帰った時にテーブルの上にあった新聞。ママがおやつを用意してくれるのを待つ間に、なんとなく広げてみたんだけれど。たまたま開いた所にチラッと載っていたんだ。
 植物と伝説だったかな。カラーの写真付きのコラムで、その日はローズマリーだった。ハーブとしての使い方や効能の他に、ローズマリーに纏わる伝説なんかが書いてあって。
(わあ…!)
 ローズマリーを使ったおまじないが一つ。ローズマリーの小枝を枕の下に入れて眠ると、未来の夫が夢に出て来るんだって。
(いいな…)
 大きくなったらハーレイのお嫁さんになると決めているぼく。「お嫁さん」という言葉は正しくないかもしれないけれども、ハーレイに貰ってもらうんだから「お嫁さん」だよね。他の言い方をぼくは知らない。「伴侶」じゃ偉すぎるような気がするし…。
 ぼくが「お嫁さん」だと、ハーレイは「夫」。ぼくの未来の夫はハーレイ。
 パパとママにはまだ秘密だけど、ハーレイのパパとママは将来の結婚相手だと認めてくれてる。ローズマリーのおまじないを使えば、きっとハーレイが夢に出て来る。
(このおまじない、いいな…)
 ハーレイの夢はよく見るけれども、ぼくの結婚相手としてじゃないから…。
 夢の中でキスをすることも、愛し合うことも多いというのに、ハーレイと本物の恋人同士として夢の時間を過ごしているのは、いつだって、いつだってソルジャー・ブルー。
 前のぼくがハーレイを独占していて、小さなぼくは入り込めない。どんなに幸せな夢の中でも、ぼくは小さなぼくじゃない。目が覚めると少しガッカリするんだ。また今日もぼくじゃなかった、って。ぼくだったけれど、ぼくの身体じゃなかった、って。
 ハーレイと本物の恋人同士になりたいのに。
 夢の世界の中だけでいいから、本当に本物の恋人同士。おまじないを使えばなれるかも…。



(だって、ハーレイのお嫁さんだものね?)
 未来の夫が夢に出て来る、ローズマリーのおまじない。
 それを使って見る夢だったら、ハーレイはぼくの夫に決まってる。キスくらいきっと出来る筈。運が良ければその先だって…。
(いつも前のぼくに盗られちゃうけど、ぼくがハーレイのお嫁さんなら話は別だよ)
 ソルジャー・ブルーにハーレイを持って行かれてしまわない夢。
 ぼくの夫のハーレイの夢。
(…絶対、素敵な夢が見られるよ)
 だからおまじないをしようと思った。ママと一緒におやつを食べた後、ママが片付けをしている間に庭に出掛けた。ハーブが植えてある庭の一角。料理に使うミントやタイム、オレガノなんかが植わった中に、ローズマリーもちゃんと在る。濃い緑の葉をたっぷりと茂らせた小さな木。
 その木から一枝、ポキリと折り取って失敬してきた。寝るまでに萎れてしまわないように、水を含ませた紙を枝の切り口に巻き付けておくのも忘れなかった。
 夕食を済ませてお風呂に入って、机に飾ったハーレイとぼくが写った写真を眺めて過ごして。
(ふふっ、ハーレイの夢を見るんだもんね)
 パジャマ姿のぼくはローズマリーの小枝を手に取り、枕の下にそうっと入れた。ローズマリーの強い香りがぼくの手からフワリと立ち昇る。如何にも効きそうな、頼もしい移り香。
(きっとハーレイに夢で会えるよ)
 ぼくの夫になるハーレイ。どんな夢が見られるんだろう?
 枕の下に入れたローズマリーと、ぼくの手に残った移り香と。普段は部屋に無い香りに包まれ、ドキドキしながら眠りについた。
 今夜はきっと、ハーレイの夢。前のぼくにハーレイを盗られない夢…。



 幸せを夢見てベッドで眠ったぼく。
 でも…。
「やはりお前か、ソルジャー・ブルー!」
 気付けば、ぼくはメギドに居た。あの地球の男、キース・アニアンが銃口をぼくに向けている。もうどうなるかは分かっていた。
(酷いや、夢じゃなかったの!?)
 普段のぼくなら、此処で夢だと気付きはしない。前の生での記憶のとおりに進んでゆく夢。銃で撃たれて、痛みのあまりにハーレイの温もりを失くしてしまって、泣きながら独り死んでゆく。
 幾度となく繰り返し見て来た夢。いつも泣きながら目を覚ます夢。
 ところが今日のぼくは違った。夢の中のぼくはローズマリーの小枝をしっかり覚えていたから、夢だと気付いて泣きそうになった。
 ハーレイの夢を見ようと思っていたのに、よりにもよってメギドの夢。
 おまじないなんて効かなかった。ローズマリーの小枝は未来の夫の夢の代わりにメギドの悪夢を運んで来た。ぼくは撃たれてまた死んでしまう。
(これじゃ逆だよ、ハーレイを失くす夢なんて…!)
 だけど、どうすることも出来ない。いくら泣きそうでも、夢の中身は変えられない。
 そうしたら…。



「ソルジャー・ブルー……ではないのか。子供か」
 何をしている、と銃をホルスターに仕舞って、寄って来るキース。
 其処はメギドだけど、メギドじゃなかった。あの忌まわしい青い光が満ちたメギドの制御室には違いないけれど、ただそれだけ。発射までのカウントダウンも止まってしまって、そういう機能を持った部屋だというだけのこと。
 ぼくも十四歳のぼくになってて、おまけにパジャマ。
(…どうなってるの?)
 何が何だか分からないぼくの直ぐ目の前にキースが来た。その手に体温計みたいな簡易サイオン測定装置。それがぼくの喉に当てられて、ピピッと鳴って。
「タイプ・ブルーか。…サイオンレベルは危険性なし、と」
 そう、今はこういう機械がある。サイオンタイプが瞬時に分かって、サイオンを扱えるレベルも判別できる。前の生と同じタイプ・ブルーのくせに不器用なぼくは危険性ゼロ。喧嘩でサイオンを使ってしまって相手がケガとか、そういうトラブルすら起こさないレベル。
 ぼくのサイオンを測ったキースは腰をかがめて、アイスブルーの瞳でぼくを見詰めた。背が高いキースと小さなぼくでは、そうしないと顔を覗けないから。
「それで、こんな所へ子供が一人で何をしに来た?」
 何故なんだろう、このキースは怖い感じがしない。危険な地球の男でもない。
 国家騎士団の制服を着てはいるけれど、ぼくへの殺意も感じはしない。
「…だって、未来の結婚相手に会えるって……」
 素直に喋ってしまっていた。
 ぼくったら、なんでキースにこんなことを話しているんだろう?
 それに右手にローズマリーの小さな枝。
 メギドの夢を見る度に冷たく凍える筈の右手に、枕の下に入れて眠ったローズマリー。
 ……なんで?
 どうして変なことが起こっているんだろう?



 メギドの夢でキースと話をしたことは無い。いつも問答無用で撃たれて、それっきり。
 なのに、この夢のキースは違った。屈んで視線を合わせてくれたし、厳しかった表情も穏やかなそれへと変わって。
「奇遇だな。俺も結婚相手を探していてな」
「えっ?」
 見たこともないキースの笑顔。それに結婚相手って言った?
 ぼくが声さえ出せない間に、キースは「マツカ!」と大きな声で背後に向かって呼び掛けた。
(あっ…!)
 メギドでチラッと見かけたマツカ。ぼくが道連れにしようとしていたキースを救い出して逃げたタイプ・グリーンのミュウだった。
 マツカを見たのはその一瞬だけ。でも今は色々と知っているから、普通に出て来た。キースのと似た国家騎士団の制服を纏って、キースに向かって敬礼する。
「マツカ、こいつだ。こいつが俺の結婚相手らしい。見ろ、ローズマリーを持っている」
「本当ですね。おめでとうございます、キース」
 ちょ、ちょっと待って。
 ぼくはハーレイに会いに来たのに!
 ハーレイに会いたかったのに…。
 違うと懸命に抗議したけれど、キースは「照れるな」と笑っただけ。
 マツカはぼくに「パジャマだと此処は寒いですよ」なんて言いながら、自分の上着を羽織らせてくれた。国家騎士団の制服の上着。まさか夢で着るとは思わなかった。
 でもでも、そんな場合じゃなくって、何かが絶対間違ってるから!
 ぼくはキースの結婚相手ではないし、ローズマリーの小枝だってそのために持っていたわけじゃない。ハーレイの夢を見ようと思って枕の下に入れただけなのに、どうしてキース?



 勘違いだと主張したって、所詮は子供の言うことだから。
 キースにもマツカにも聞き流されて、アッと言う間に話はしっかり進んでしまった。
 流石は夢で、全く整合性が無い。
 ミュウと人類はとっくに和解してしまっていた。メギドなんて無かったことになってた。
 ぼくは地球だか、見たこともない首都惑星ノアだかに連れて行かれて、キースが住んでいる家の一室を充てがわれていた。ぼくの世話はマツカがしてくれていて、未来のキースの伴侶扱い。
 キースは嬉しそうにしている上に、ぼくが小さな子供なことも全く気になんかしていない。
「結婚式にはお前の仲間も呼ばないとな」
 上機嫌であれこれ決めてゆくキース。
 ぼくの意見は聞いてもくれない。もちろん逃がしてなんかくれない。逃げ出したくても瞬間移動すら出来ないぼくは家から一歩も出られない。
(助けて、ハーレイ! 助けに来てよ!)
 思念波も上手く紡げないぼく。何処に居るのかも分からないハーレイに助けを求めることなんか出来やしない。手紙を書いて届けようにも、ぼくは家から出られない。
 そうこうする内に結婚式の招待状が作られてしまって、代表でハーレイが来ることになった。
(もしかして、ぼくを助けに来てくれるの?)
 映画で見たようなワンシーン。
 結婚式場からぼくを攫って逃げるハーレイ。
 きっと、そういう夢なんだ。未来の夫が出て来るだけの夢より、うんとドラマティックな演出。
 ハーレイと一緒に逃げてハッピーエンド。
 キースなんかと結婚するのは腹立たしいけど、最後はハッピーエンドなんだよ…。



 ついに結婚式の日が来て、ぼくはドレスを着せられた。
 ふんわり膨らんだ歩きにくい純白のウェディングドレス。白いレースのベールを被せられた頭に花の飾りを乗っけられてしまい、お揃いの花をメインに作った白いブーケも持たされた。
「お綺麗ですよ」
 付き添いのマツカに褒められたって、ぼくはちっとも嬉しくない。キースのお嫁さんなんて。
(…ドレスはハーレイと選びたかったんだよ!)
 だけど今更どうにもならない。キースが待つチャペルへ行くしかない。エスコート役のマツカの腕に掴まってバージンロードを歩くしかない。
(ハーレイ、何処で助けに来てくれるのかな…)
 バージンロードを歩く間か、キースと並んで祭壇の前に立った瞬間か。
 早くハーレイがぼくを攫いに来てくれないか、と考えながらチャペルに入って衝撃を受けた。
 招待者の席に笑顔のハーレイ。心からぼくを祝福している顔。
『ブルー、おめでとうございます』
 ご丁寧に喜びの思念波まで届けてくれて、バージンロードを歩いてゆくぼくに嬉しげな顔。赤い絨毯の先にはタキシードのキースが待っているのに。
 ぼくと結婚の誓いを交わそうと、ぼくが着くのを待っているのに…。



(酷い、ハーレイ!)
 ぼくを攫って逃げるどころか、祝福されてぼくはキースのお嫁さん。
 まだ小さいのに、このままキースのお嫁さん…。
(…なんで? どうしてハーレイのお嫁さんじゃないの?)
 ポロリと涙が零れそうになった時、ブーケの中のローズマリーに気が付いた。
 花嫁のブーケに挿し込まれたローズマリーの小枝。愛の貞節と永遠を祈って挿し込まれる小枝。この小枝が新居の庭に根付けば幸せになれると伝えられてきたローズマリー。
(……ローズマリーだ……)
 独特の香りがする細い葉を沢山つけた緑の小枝。未来の夫の夢を見たくて、ハーレイが出て来る夢が見たくて枕の下に入れて眠った小枝。
 それなのに、ハーレイじゃなくてキースが来た。ハーレイにキースとの結婚を祝福された。このローズマリーが諸悪の根源。
(ハーレイがぼくの結婚式を祝いに来るなんて…!)
 白いブーケからローズマリーの小枝を乱暴に抜き取って、それでハーレイの頬っぺたを思い切り引っぱたいてやって叫んだ。
「あんまりだよ!」
 ハーレイのお嫁さんになりたかったのに。
 そのためにローズマリーを採って来て枕の下に入れていたのに…!



 其処でパチリと目が覚めた。
 もう明け方で、小鳥が鳴いてる。今日は土曜日の朝だっけ…。
 ハーレイが来てくれる土曜日の朝。いつもは幸せな気分で一杯なのに、今朝は最悪。
 もう少し目が覚めるのが遅かったなら、キースと結婚してしまう所だった。
 ハーレイはぼくを攫って逃げてくれなくて、ぼくの結婚を祝ってくれた。
 強引にキースの未来の花嫁に決められてしまって、キースの家で暮らしていたぼく。ハーレイが助けに来てくれるのだと思い描きながら我慢をしていた。
 いつかはきっとハッピーエンド。
 そう思いながらウェディングドレスも着たのに、ハーレイは攫いに来てくれなかった。
 枕の下を探ってみれば、ローズマリーの緑の小枝。夢の中でハーレイの頬っぺたを叩いた小枝。
 ぼくが勝手におまじないをして、ああいう夢を見たんだけれど。
 ハーレイは何も悪くはないんだけれども、酷すぎて悔しくてどうにもならない。
 ぼくがキースのお嫁さんだなんて。
 それをハーレイが祝福してくれるなんて、悲しいどころか腹が立つってば…!



 とってもとっても腹が立ったから、来てくれたハーレイに八つ当たりをした。
 ぼくの部屋でテーブルを挟んで向かい合いながら夢の話をして、薄情すぎると怒りをぶつけた。
「なんでお祝いしに来るわけ? 攫って逃げてくれる代わりに!」
「お前が勝手に見た夢だろうが、俺には救助義務は無い」
「そんなことない! あの夢、ぼくには本物だから!」
 ぼくはあの夢の中に居たんだから、とこじつける。夢から逃げ出せなかったぼくは、夢の中から動けない。つまりは夢の世界が本物、本物のぼくは夢の世界に居たのだ、と。
 そうしたら、ハーレイは「ああ、なるほど…」とポンと手を打って。
「うんうん、それで昨夜の俺の夢にはお前が出て来なかったんだな。…別の場所に居たと言うなら仕方ない。災難だったな、今度は二人で同じ夢を見よう」
 なんて笑って言うから、ぼくは椅子からガタンと立ち上がった。
「どうした、ブルー?」
「直ぐ戻って来る!」
 部屋を飛び出して階段を駆け下り、玄関から庭へ。
 昨日、胸をときめかせて覗き込んだハーブが幾つも植わった一角。ぼくの不幸を笑うハーレイに仕返しするにはこれしかない。
 ローズマリーの小枝をポキリと折り取った。
 ぼくと同じ目に遭えばハーレイだって、ぼくの気持ちが分かるって…!



 庭で採って来たローズマリーの緑の小枝。「はい」とハーレイに差し出した。
「これを枕の下に入れて寝てみて。ぼくが使ったおまじない」
 ね? と意地悪く微笑んでやった。
「きっとゼルとかヒルマンとかが来るよ。ちゃんと結婚してあげてよね」
 ぼくも夢の中でハーレイを祝福してあげるから。
 おめでとうって言ってあげるから。
「でもね、ぼくを引っぱたくのは無しだよ? ハーレイがやったら大人げないでしょ?」
 大人が子供を叩いたりしたらみっともないよ、と注意をしたら。
「…俺は嫁さんを貰う立場で、誰かの夢に出る方なんだが?」
 そういう夢を見る立場ではない、とハーレイはニヤリと笑みを浮かべた。
「そのおまじないで夢に出るのは未来の夫というヤツだろう? 未来の嫁さんではないぞ」
 従って俺には効かない筈だ。
 俺がヒルマンだのゼルだのの夢に出るならともかく、その逆は無いな。
「どうだ、ブルー? 文句があるか?」
「……………」
 ぼくはとんでもない夢を見たのに。
 ハーレイと結婚したかったのに、酷すぎる夢を見てしまった。
 笑い飛ばしてくれたハーレイを同じ目に遭わせてやろうと目論んだのに、ローズマリーの小枝のおまじないは効かないだなんて…。
 プウッと頬っぺたを膨らませていたら、ハーレイがローズマリーの小枝をヒョイと摘んだ。
「こいつは俺には効かないらしいし、お前、もう一度試してみるか?」
 ほら、と渡されそうになったから「要らない!」とハーレイの手ごと突き返す。
「嫌だよ、今度こそ結婚させられそうだし!」
「どうだかな? 俺と結婚出来るかもしれんぞ、試す価値はある」
「もう嫌だってば、ローズマリーは!」
 ケチがついたおまじないなんか二度と御免だ。
 次は上手く行くかもしれないと夢見る気持ちは多少あるけど、失敗したら大惨事。キースと結婚なんか嫌だし、ゼルとかヒルマンでも嫌だ。
 ぼくが結婚したい相手はハーレイだけ。
 ハーレイと結婚出来る夢なら、おまじないに頼る価値もあるんだけれど…。



 酷い目に遭って、ハーレイに当たり散らしたおまじない。
 未来の夫が、大好きなハーレイが夢に出て来る筈だったおまじない。
 ローズマリーの小枝は懲りたけれども、諦め切れない未来の夫を夢に見ること。だって、ぼくが見る夢の中ではハーレイの相手はいつだって、いつだってソルジャー・ブルー。ハーレイと本物の恋人同士でキスを交わせて、幸せの中に浸るのはいつもいつもソルジャー・ブルー…。
「…ハーレイの夢が見たかったのに…」
 結婚する夢が見たかったのに、と項垂れていたら、ハーレイにあっさり見抜かれた。
「お前の目的は結婚じゃないな? それとセットのキスだの何だの、そういうのだな?」
「な、なんで分かるの!?」
「図星か。…そうだろうとは思ったんだが、今の答えでハッキリ分かった」
 鎌をかけられて引っ掛かった、ぼく。真っ赤になってももう遅い。
「いいか、その手のおまじないはな、相手の姿が見えたらラッキー程度のものなんだぞ? チビのくせして欲張るからそういうことになる」
「……そうなのかな?」
「多分な。未来の結婚相手を見るだけだったら、俺はこういうのを聞いたことがあるが」



 結婚式で貰えるケーキ。
 ウェディングケーキの一部だったり、お土産用の別のケーキだったり。
 とにかく結婚式で貰ったケーキの欠片を使った、おまじない。
 ケーキの欠片をお気に入りのハンカチに包んで枕の下に入れて眠れば、未来の結婚相手に出会う夢が見られるとハーレイに教えて貰ったけれど。
 そんな特別なケーキを貰うアテは無いし、キースの夢だって懲り懲りだから。
 仕方ないから、寝る前にハーレイとぼくが一緒に写った大切な写真にお祈りをする。
 どうか今夜は幸せな夢を見られますように。
 大好きなハーレイと過ごす素敵な夢が見られますように…。
(ソルジャー・ブルーじゃ駄目なんだよ、うん)
 幸せになるのはぼくでなくっちゃ。
 前のハーレイは前のぼくのだけど、今のハーレイはぼくのもの。
 だから盗らないでよ、ソルジャー・ブルーだった、ぼく。
 前のハーレイは盗らないって約束するから、今のハーレイを盗らないで。
 自分にお願いって変だけれども、ホントのホントにお願いだから。
 ぼくのハーレイをぼくにちょうだい……。




            おまじない・了

※よりにもよって、キースのお嫁さんになる夢を見てしまったブルー。
 ハーレイに八つ当たりまでしていましたけど、自業自得と言いますよね、これ…?
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 それは本当に些細なきっかけ。元はおやつのチェリーパイ。学校から帰ったブルーを待っていた母のお手製のパイだった。今は秋だから、ブルーの家がある地域の周辺でサクランボは採れない。パイのサクランボは甘いシロップに漬けられた保存用だったのだけれど。
 母と二人でのティータイム。チェリーパイのお供はホットのミルクティー。
(んー…)
 美味しい、とパイを味わっていて思い出す。
 ハーレイと再会して間もない頃が生のサクランボの旬だった。母が作ってくれたタルトや、器に盛られた赤いサクランボをハーレイと一緒に何度も食べた。休日の土曜と日曜はもちろん、平日も頻繁に会っていたから、二人で幾つサクランボを食べたのだろう。
 十個や二十個で済むわけがない。もっと沢山、五十個くらいか。あるいは一人で五十個以上?
(…シャングリラの頃だと有り得ないよね?)
 ブルーはチェリーパイをフォークで切って口へと運んだ。その部分だけでサクランボが二個。



 シャングリラにも在った、サクランボ。前の生でハーレイと暮らしていた船。
 公園と、居住区に散らばる幾つかの庭にサクランボの木が植えてあった。花は心を和ませるから花の咲く木を、と選ばれた一つがサクランボ。桜によく似た花が咲く上に、サクランボが出来る。花を楽しむだけの桜を植えるより、サクランボにしようと言い出したのは誰だったのか…。
(ゼルだったかな? それともヒルマンだったっけ?)
 言い出しっぺが誰だったのかは忘れたけれども、ブルーもサクランボの木がいいと思った。花を愛でた後に食べられる実が出来るだなんて、まさに一石二鳥だから。
(…そういう木って多かったよね…)
 桃やアンズの木も植えた。そんな果樹たちに確実に実を結ばせるためにミツバチの世話になっていた。公園や庭の一角に置かれたミツバチの巣箱。子供たちのいい教材だった。
 果樹もミツバチも、人類側から失敬したもの。シャングリラで増やして、きちんと世話をした。気温の調節、それに水やり。細やかな世話に果樹たちは豊かな実りで応えてくれた。
 けれどサクランボは食べ切れないほどに採れはしないし、たっぷり食べるのは子供たち。大人はデザートに添えられる程度で、チェリーパイやタルトはシーズンに一度あったらいい方。
 そんなサクランボが、ソルジャーだったブルーには特別に多めに届けられた。
 たった一人きりの戦える者で、シャングリラを守る神にも等しい存在だと皆が崇めていたから。ブルー自身は「ぼくはそんなに偉くはないよ」と否定したけれど、皆の思いは変わらない。温かい心遣いを「ありがとう」と受ければ皆が喜ぶ。ソルジャーが喜んで下さった、と。
(全然、偉くはなかったんだけどね?)
 でもサクランボは美味しかったな、と青の間に届けられた沢山の赤い実に思いを馳せた。



 ブルーが一人で食べてしまうには勿体ない数のサクランボ。皆はブルーが毎日少しずつ食べたと信じ込んでいたが、実の所は二人で分けて食べていた。
 毎夜、青の間を訪れるハーレイ。前の生で愛したキャプテン・ハーレイ。そのハーレイと二人、赤く熟したサクランボの実をゆっくりと味わい、甘酸っぱい恵みを楽しんでいた。
 青の間にサクランボが届けられたら、保存しておく冷蔵庫。其処から食べる分だけ取り出して、ガラスの器に盛って。テーブルで二人、向かい合いながらサクランボを一つずつ摘んで食べた。
「ハーレイ、今年のサクランボもよく実ったね」
「ええ。あなたの瞳のように赤くてとても綺麗ですよ、それに美味しい」
 ハーレイが真っ赤なサクランボの軸を武骨な指で摘んで、艶やかな実とブルーの瞳とを見比べた後で口に入れると、舌先で転がす。まるでブルーの赤い瞳を口に含んでいるかのように。
「ぼくの目は食べられないと思うんだけれど?」
 意地悪くブルーが笑ってみせれば。
「いえ、こうすれば食べられますよ」
 椅子から立ち上がったハーレイがブルーのすぐ隣に来ると、腰をかがめて口付けて来た。唇ではなく、瞳を目掛けて。思わずブルーが瞑った瞼に、ハーレイのキス。そうっとサクランボを味わうように、赤い瞳を食べるかのように。
(まさかキスとは思わなかったよ)
 両目とも食べられてしまったっけ、と懐かしく思い出していて。
(……キス?)
 そういえば、もう一つキスの思い出があった。
 真っ赤に熟れたサクランボの実と、ハーレイのキスと。



(そうだ、サクランボの軸を口の中で…)
 母が焼いたチェリーパイを頬張りながら、ブルーはシャングリラでの遠い日々を思った。
 キャプテンだったハーレイに教えて貰った話。サクランボの軸に纏わる小さな思い出。
「ブルー、この軸を口の中で結ぶことが出来ますか?」
「軸?」
「ええ、こんな風に」
 ブルーの目の前でハーレイはサクランボの実を食べ、残った軸を口に含んで暫くしてから。
「…如何ですか?」
 サクランボの種を捨てる器にハーレイの舌がポトリと落とした軸。緑色の軸はクルリと結ばれ、元の真っ直ぐではなくなっていた。
「ハーレイ、サイオンを使ったのかい?」
「いいえ、使っていませんが? 舌を使って結んでみました」
「舌で?」
 驚いたブルーは早速挑戦してみたけれども、上手くいかない。そもそも舌をどう使うのかすらも分からない。悪戦苦闘した末に「駄目だ、ぼくには才能が無い」と軸を器に放り出せば。
「御存知ですか、ブルー? 口の中で軸を結べる人はキスが上手いのだそうですよ」
「キスが?」
 ならば結べない自分はキスが下手なのだろうか、とブルーは愕然とした。
「…ハーレイ、ぼくはキスが下手かな?」
「さあ、どうでしょうか? 私は簡単に結べるのですが…」
 ほんのちょっとしたコツなのですよ、とハーレイがサクランボを食べ、その軸をまた舌で見事に結んでみせる。本当に簡単そうに見えるのだけれど、ブルーにはコツが分からないそれ。
 ハーレイは軸を上手く結べて、ブルーはどう頑張っても結べなかった。
 それ以来、サクランボが実る度に二人で遊んだ、サクランボの軸。
 口の中で結べる人はキスが上手いとハーレイに教わったサクランボの軸…。



「ブルー? なんだか嬉しそうね?」
 母の声でブルーは我に返った。此処はシャングリラでも青の間でもなく、今は母と二人のティータイム。サクランボだって生ではなくて、シロップ漬けのチェリーパイで…。
「え? う、うん、ちょっと…」
 頬が赤くなりそうなのを懸命に堪え、落ち着くためにミルクティーをコクリと一口。
「えっとね、昔の…。ううん、前のぼくのことを思い出してた」
 シャングリラにもサクランボの木があったんだよ、と思い出話をしておいた。公園などに在って花と実を両方楽しんでいたと、ミツバチの巣箱も置いていたのだと。
「あらあら…。凄かったのねえ、シャングリラって」
「でしょ? それでね、ぼくはソルジャーだったからサクランボを沢山貰えたんだよ」
 他の大人より沢山貰った、と話したけれども、軸の話はしなかった。ハーレイと二人で食べたと懐かしそうに語っただけ。青の間で二人で食べていたのだ、と。
 そうして、母におやつを強請る。
 土曜日にハーレイが訪ねて来る時、またチェリーパイを焼いて欲しい、と。



 サクランボの軸とキスの話など知らない母は、夕食の席で父にシャングリラの話を聞かせた。
 可愛い一人息子のブルー。
 前世はソルジャー・ブルーだった小さなブルーの思い出話は、両親だって共有したい。十四歳の小さなブルーが前の生で何を眺めていたのか、どんな暮らしをしていたのか、と。
「ほう、シャングリラにもサクランボの木があったのか…」
 感心する父に、母が「凄いでしょ?」と自分のことのように得意げに微笑む。
「この子ったら、ソルジャーだから沢山貰っていたんですって、サクランボの実を」
「なるほど、ソルジャーの特権だな」
 父も嬉しそうな顔で笑った。まるで今のブルーが賞でも貰って来たかのように。
「その思い出のサクランボか。…うん、いい話を聞いたな、ママ」
「ブルーが言うのよ、ハーレイ先生にもチェリーパイをお出ししたい、って」
「そうだろうなあ、思い出したんなら当然だろう」
 誰だって思い出は懐かしいものだ、と父は可愛い息子に「なあ?」と笑顔を向けて。
「チェリーパイと一緒に生のサクランボもハーレイ先生に御馳走しようか。どうだ、ママ?」
「そうね、輸入物が入って来ている頃よね。そうしましょ、ブルー」
「ホント!?」
 ブルーは歓声を上げて喜んだ。
 チェリーパイだけで充分なのだと思っていたのに、輸入物の生のサクランボ。チェリーパイだとサクランボの軸はついていないが、生のサクランボなら軸もついていて思い出そのまま。
 きっと素敵な土曜日になる。チェリーパイと生のサクランボ…。



 ブルーが住んでいる、遠い遠い昔は日本という島国があった地域。此処でのサクランボの季節はとうに終わってしまったけれども、青い地球の反対側の地域は今がサクランボの採れるシーズン。
 待ちに待った土曜日、母は約束通りにチェリーパイを焼いて生のサクランボも用意してくれた。
 訪ねて来たハーレイとのブルーの部屋でのティータイム。テーブルの上にチェリーパイとは別に新鮮な赤いサクランボ。ガラスの器に盛られた瑞々しく光る生のサクランボ。
「ねえ、ハーレイ。…シャングリラのサクランボ、覚えてる?」
 ブルーはサクランボを一つ、摘み上げて尋ねた。
「ああ。お前と二人で毎年、食ったな」
 あれもこういうサクランボだった、とハーレイも懐かしそうに一つ摘んで眺める。
「じゃあ、軸は? 軸で遊んだのも覚えている?」
「…軸?」
「うん。ハーレイは軸を上手く結べて、ぼくは結べなかったんだよ」
 赤い実をパクリと食べたブルーが指に残った軸を弄び、ハーレイは「うーむ…」と低く唸った。
「……やっぱりそういう魂胆だったか……」
「バレちゃってた?」
「チェリーパイだけなら気付かなかったが、こうして生のを出されるとな」
 悪戯者め、とハーレイが軽くブルーを睨んで。
「お前、お母さんには何て言ったんだ? 軸の話なんぞは黙っていたろう、悪戯小僧」
「ハーレイと食べたってちゃんと言ったよ、サクランボ」
「俺が言うのは軸の話だ。口の中で軸を結ぶ話はどうなったんだ」
「……言うわけないよ……」
 言えるわけないよ、とブルーは唇を尖らせた。
「そんなの言ったらママにバレちゃう。…ハーレイはぼくの恋人だ、って」
「別にそうとも限らんのだがな?」
 競い合うヤツも世の中には居る、とハーレイが笑う。
「俺は出来るだの、コツを教えろだのと友達同士で騒ぐヤツらも居るもんだ。男にとっては大問題だしな、キスが上手いか下手かというのは。そういう話も知らん子供がサクランボなんぞ…」
 まあ見てろ、とハーレイは摘んでいたサクランボの実を食べた後に軸を口の中へ。ブルーの目の前でハーレイの口の周りが動いたかと思うと、種を入れる器にヒョイと結ばれた緑色の軸。
 前の生での記憶そのままに、クルンと結ばれたサクランボの軸…。



「凄い、やっぱり出来るんだ!」
 悪戯小僧と詰られたこともすっかり忘れて、尊敬の眼差しになるブルー。
 今のハーレイもやっぱり凄い、と褐色の肌の恋人にまじまじと見惚れたのだけれど。
「ん? 記憶を取り戻す前から俺は出来たが? 競い合うヤツも居ると言っただろうが」
 学生時代はよくやったもんだ、とハーレイは柔道と水泳に夢中だった若い日の思い出を語った。サクランボが出回る季節でなくても、何かのはずみに軸を結ぶ話。出来る、出来ないで騒いだ末に軸つきのシロップ漬けを買って来て腕を競ったり、その腕を披露する相手の有無で笑ったり。
「血気盛んな若い男が集まると凄いぞ、結ぶ腕前まで競い合いだ」
「結ぶ腕前?」
「こんなに短い軸でも結べる、と自慢するのさ。俺は二センチの軸でも結べた」
「二センチ!?」
 たった二センチのサクランボの軸。器に盛られたサクランボの軸はそれより長いし、遙かな昔にシャングリラで食べたサクランボの軸も長かった。
 前のハーレイが口の中で結んだサクランボの軸は二センチよりずっと長かった。
 ならば、ほんの二センチしかない軸を結ぶことが出来る今のハーレイは…。
「じゃあ、ハーレイ…。キスは前よりもっと上手いの?」
「…どうだかな?」
 こんな動機でチェリーパイだの生のサクランボだのを持ち出すヤツには教えられんな。
 それより、お前も今度は上手くなったらどうだ?
 ハーレイの鳶色の瞳が悪戯っぽい光を帯びてブルーを捉える。
「……前のぼくって、下手くそだった?」
 ブルーは俄かに心配になった。
 サクランボの軸を口の中で結ぶことが出来なかったソルジャー・ブルー。それが前の自分。
 あの頃は気にしていなかったけれど、自分はキスが下手だったのだろうか…?



 キスが下手だったかもしれないソルジャー・ブルー。
 小さなブルーはハーレイにキスを強請っては断られて来たが、強請るからには自信があった。
 今の身体は小さいけれども、中身の方は一人前。キスだってちゃんと出来るのだ、と。
 それなのに前の自分のキスが下手なら、今の自分もキスは下手くそ。ソルジャー・ブルーだった頃のキスしか出来ないのだから、下手くそということになる。
(…ぼくって下手なキスしか出来ない…?)
 どうしよう、と落ち込みそうになって来た。どんよりと項垂れるブルーの額にハーレイの褐色の指が伸びて来て、ピンと弾いて。
「おいおい、キスも出来ないチビのくせして落ち込むな。…前のお前だが、俺はキスが下手だとは思わなかったぞ」
「ホント!?」
「本当だ。…ただ、如何せん、比較対象が…な? お前以外に知らなかったし」
「…えっ……」
 思わぬ言葉にブルーは絶句し、その意味を暫く考えてから慌てて口を開いた。
「も、もしかしてハーレイ、今は誰かとキスしたことある!?」
 比較対象というのは、そういうこと。比べる誰かがいないことには上手いか下手か分からない。今のハーレイは自分以外の誰かとキスをしたのだろうか?
(…ハーレイ、ぼくよりずっと年上…)
 学生時代はモテたとも聞く。たまたま結婚しなかっただけで、キスも、もしかしたらキスよりも先の色々なこともハーレイは経験済みなのだろうか…?
(……ぼくだけなんだと思っちゃってた……)
 ハーレイの相手は自分だけだと思っていたのに、それは間違いなのかもしれない。記憶が戻ったハーレイはブルーの恋人だけれど、それよりも前のハーレイは自由。恋をするのもキスをするのもハーレイ次第で、モテていたなら恋の一つや二つどころか、十も二十も……。
(……あんまりだよ……)
 それは困る、と泣きたい気分になってくるけれど、時間は逆に流れない。
 大好きなハーレイが自分以外の誰かとキス。何人もとキスを交わしていた上、その先のことまでとっくの昔に……。



 ぽたり。
 ブルーの赤い瞳から涙が零れてテーブルに落ちた。
 ハーレイは自分一人のものではなかった。きっと他にも沢山、沢山……。
「…ハーレイ、前に恋人、いたんだ…。ぼくよりも前に、誰かとキスして……」
 後は言葉にならなかった。ただポロポロと涙が零れる。
 大好きなハーレイを盗られてしまった。生まれて来るのが遅かったばかりに、誰かがハーレイを盗ってしまった。こんなにハーレイが好きなのに。ハーレイのためだけに生まれて来たのに…。
「…泣くな、馬鹿。…泣くんじゃない」
 お前だけだ、とハーレイの大きな手がブルーの頭をクシャリと撫でた。
「仮に誰かが居たとしてもだ、今の俺にはお前だけだ。…俺はお前しか好きにならない」
 俺を信じろ、と鳶色の瞳がブルーを真っ直ぐに見詰めて深い色に変わる。
「俺にはお前だけなんだ。一生、お前一人しかいない。…お前以外には誰も要らない」
「……ホント?」
「本当だ。やっとお前を見付けたというのに、どうやって他を向けと言うんだ」
 お前だけしか欲しくはない。
 俺の隣に居てくれるヤツはお前だけしか欲しくはない。
 だから大きくなってくれ、ブルー。
 ゆっくりでいいから、前のお前と同じ姿に。その日までキスは出来ないんだからな。
「…うん。…うん、ハーレイ……」
 大きくなる、とブルーは涙を拭って答えた。
 早くハーレイとキスが出来るよう、頑張って早く大きくなるから…、と。



 何度も繰り返し「お前だけだ」と言って貰って、ようやっと涙が止まったブルー。
 その顔に笑みが戻るのを待って、ハーレイはサクランボを一つ摘み上げた。
「いいか、泣き虫。…俺には一生お前だけだが、心配だったら練習しておけ。キスじゃなくって、サクランボの軸だ。上手く結べたらキスも上手くなる」
 俺の腕前はこの通りだ、と軸を短く折ったハーレイ。自慢していた二センチほどの長さ。それを口に入れ、舌で見事に結んで見せた。それから悠然とサクランボを食べる。
「どうだ、お前もやってみるか? そのために用意していたんだろう、サクランボ?」
「そうだけど…。そうなんだけど!」
 二センチなんて無理に決まっているから、ブルーは長い軸を口に含んだ。しかしどうにも上手くいかない。結ぶどころか曲げることさえ出来はしないし、ズルをしようにもサイオンだって扱えはしない。意のままにならないサクランボの軸。
「うー…」
 どう頑張っても結べないまま、吐き出すしか無かったサクランボの軸。ハーレイが結んだものと見比べて情けなくなり、やはり自分はキスが下手かもと考えてしまう。
(…下手くそだなんて…。ぼくのキス、うんと下手くそだなんて……)
 ハーレイに何と思われるだろう?
 前よりも上手にサクランボの軸を結べるハーレイ。二センチしかない軸を結べるハーレイ。
 キスが上手くなったハーレイからすれば、前と変わらない自分のキスは下手くそ…。
「おい。また何かとんでもないことを考えてるな?」
 顔に出てるぞ、と大きな手がブルーの頭をポンポンと軽く優しく叩いた。
「安心しろ、キスはお前としかしない。…そして下手くそでも、それがお前のキスなんだ。…俺にとっては何よりも甘い。この世で最高のキスなんだ、ブルー」



 そう言ったハーレイはサクランボを摘み、また軸を口の中でヒョイと上手に結んでいたから。
 自分も頑張った方がいいのだろうか、とブルーは真剣に悩んだけれども、軸つきのサクランボは毎日手に入らない。シロップ漬けでも毎日は無理で、生の果実は季節が過ぎれば姿が消える。
 ほんの少しの間、サクランボに夢中で「買って」と強請っていたブルー。
 父や母が見ていない時に口の中で軸を結ぼうと練習したブルー。
 けれど努力が実を結ぶ前に、新鮮な赤いサクランボの実は母が行く店から消えてしまった。
 シロップ漬けは沢山食べれば飽きるし、もうサクランボはいいか、と思った。練習をするなら、また来年。この地域でサクランボの実が採れる季節に頑張ればいい。
(うん、来年になったらきっと出来るよ、上手になるって!)
 シャングリラに居た頃よりも沢山のサクランボが食べられる今。
 練習の材料には事欠かないから、前の生よりも上達するに違いない。ソルジャー・ブルーだった自分に出来なかった偉業を成し遂げるのだ、と小さなブルーは自分に誓った。
 今度の生こそ、サクランボの軸を口の中で見事に結んでみせる。
 ハーレイは二センチの軸を結べるようになっているのだし、自分だってきっと出来る筈。
(うん、絶対に大丈夫!)
 勝負は来年、と固く誓いを立てていたくせに。
 無垢な子供はすぐに忘れて、ハーレイが誰かとキスをしたかも、という不安も時の流れに消えて忘れる。
 そうして小さなブルーは夢見る。
 いつか自分が大きく育って、ハーレイとキスを交わす日の夢を…。




            サクランボ・了

※サクランボの軸を口の中で結べる人は、キスが上手だと言われても…。
 頑張っていたらしいソルジャー・ブルー。果たしてキスは下手だったんでしょうか…?
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 ハーレイは「またな」と軽く手を振って帰って行った。パパとママも一緒の夕食を食べてから、ぼくの部屋でアイスティーを飲んで少し話をした後で。
 別れ際の言葉は「またな」だけで、馴染んでしまった「また明日な」ではなかったけれど。平日だって二人一緒に過ごせた夏休みは今日で終わってしまって、「また明日な」を聞ける日はきっと週末の土曜日まで来ないんだけれど…。
 学校がある平日だって、時間が取れればハーレイは家に来てくれる。だけど明日は夏休みの後の最初の日だから、忙しくて来られないだろう。もしかしたら、と望みは捨てていないんだけれど、普通はやっぱり無理だよね…。



 次にハーレイとゆっくり過ごせる休暇は冬休み。それまでの間に長い二学期が挟まってしまう。ハーレイと再会してから後の一学期よりも、冬休みの後に来てアッと言う間に終わる三学期よりも長い二学期。四ヶ月近くも続く二学期。そんなに長い間、ハーレイと二人の休暇が無いなんて…。
 考えただけで溜息が出そうになってくるけれど。
 勉強机の前に座って頬杖をついたぼくの目の前に、ハーレイの笑顔。昨日までは無かった一枚の写真。今日、ハーレイと庭で写した夏休みの記念という名のぼくも一緒に収まった写真。
 飴色をした木のフォトフレームはハーレイがプレゼントしてくれた。写真撮影だってハーレイが提案してくれた。



 ハーレイとぼくと、お揃いの木製のフォトフレーム。中の写真も同じもの。
 夕食前までは勉強机の上じゃなくって、ハーレイとお茶を飲んだりしているテーブルの上に二つ並んで置かれていた。ぼくの分と、ハーレイの分と、そっくり同じなフォトフレームが。
 その片方をハーレイが家に持って帰って、今頃は書斎の机の上か、それとも寝室に置いたのか。比べても全く見分けがつかない双子みたいなフォトフレーム。ぼくとハーレイとの大事なお揃い。
 ハーレイが写真をプリントしてくれて、フォトフレームもくれたんだけど。お互い、それぞれのフォトフレームに写真を収めて、並べて置いていたんだけれど。
 結局、ぼくたちは取り替えたんだ。
 夕食の後で、並んだ写真を眺めながら紅茶を飲んでいた時、二人とも考えていたらしい。まるで同じなフォトフレームと写真。取り替えたって区別がつきはしないし、それなのに持ち主が別々にいる。
 ぼくのフォトフレームの持ち主はぼくで、ハーレイの分は持ち主がハーレイ。
(どっちでも同じ写真とフォトフレームだよね…)
 ハーレイの分が欲しいんだけどな、と考えた、ぼく。
 同じものなら、ハーレイが写真を入れていたフォトフレームが欲しいと思った。だって、それはハーレイの持ち物なんだから。ほんの少し前に決まったものでも、ハーレイの物に違いないから。
(…ハーレイのと取り替えてくれればいいのに…)
 ぼくの大好きな褐色の手が写真を入れて、そうっと触っていたフォトフレーム。飴色の木の枠にハーレイの温もりが残っていそうで、欲しくてたまらなくなってしまって。
「…ねえ、ハーレイ…」
 取り替えて欲しいと強請ろうと口を開いたら、ハーレイが「うん?」とぼくを見詰めて。
「どうした? 俺もお前に話があるんだが、まずはお前の話からだな」
「えっ? ハーレイの話が先でいいよ。…ぼくのは我儘で、おねだりだから」
 そう答えると、ハーレイは「うーむ…」と唸った。
「弱ったな…。俺の方もお前に頼みごとでな、おまけに酷く我儘なんだが」
「ハーレイが? なんで我儘?」
 不思議だったけれど、ハーレイの頼みごとなら何でも聞きたい。叶えるかどうかはまた別の話。だって、とんでもない頼みごとだったら困るから。結婚の約束は取り消しだとか、そういうの。
「我儘でもいいから聞かせてよ、それ」
「お前の我儘を優先するが」
「でも、ぼくの我儘だって酷いんだよ。それに、おねだり…」
 どちらが先に口にするかで譲り合った末に、同時に言おうということになった。一、二の三、で声を揃えて、お互いの酷い我儘を。



 ぼくとハーレイ、テーブルを挟んで向かい合わせ。ぼくはハーレイの鳶色の瞳、ハーレイの瞳はぼくの瞳を至極真面目に覗き込んで。
「いい、ハーレイ? 一、二の…」
 三! で同時に言った。
「ハーレイのフォトフレームが欲しいんだけど!」
「お前のフォトフレームが欲しいんだが…」
 えっ。
 重なり合った声もそうだけど、その中身。ぼくたちは顔を見合わせて暫く無言で。
「……俺のフォトフレームが欲しいと言ったか?」
「…ハーレイ、ぼくのが欲しいって言った?」
 なんで、と尋ねたぼくにハーレイも「何故だ」と訊いてくるから。
「…だって、見た目はおんなじだもの…。どうせだったらハーレイのが欲しいよ…」
 此処でしっかり強請らないと、と思ったから理由をきちんと話した。ぼくの頬っぺたは少しだけ赤くなっていたかもしれない。そうしたら、ハーレイが「実は、俺もだ」と白状した。
「お前が選んだフォトフレームだし、そいつはお前の分なんだが…。お前の持ち物が欲しくてな。俺よりもずっと年下のお前に我儘を言うのは大人げないが」
「…ハーレイもなんだ……」
 ぼくと同じことを考えてくれたのが嬉しかった。
 ハーレイはぼくの持ち物が欲しくて、ぼくはハーレイのが欲しくって。
 普通の持ち物なら取り替えて持ったりは出来ないけれども、フォトフレームならそっくり同じ。それに今日の昼間に出来たばかりの持ち物なんだし、取り替えたって誰にもバレない。だから…。
「いいよ、ハーレイ。取り替えようよ」
「ああ。…お前も俺のが欲しかったんなら、利害は一致しているからな」
 ハーレイがパチンと片目を瞑って、ぼくのフォトフレームに手を伸ばした。
「だったらこいつは俺のものだな、有難く貰って帰るとしよう」
「じゃあ、ぼくはハーレイの分を貰うね」
 こっち、と自分の前に引き寄せて「今日からよろしく」とフォトフレームに声をかけた。
「ハーレイから取り上げちゃったけれども、大事にするから」
「ははっ、それじゃ俺もこいつに挨拶せんとな。…むさ苦しい家だが、よろしく頼むぞ」
 ハーレイはぼくのフォトフレームにペコリと頭を下げて挨拶してから、嬉しそうな笑顔で箱へと仕舞った。それから帰って行ったんだけれど、ぼくの一部がハーレイと一緒に連れて帰って貰えるような気がして、心が躍った。
 ぼくが行けないハーレイの家。大きくなるまで来るなと言われたハーレイの家へ、ぼくが選んだフォトフレームが一緒に帰って行くなんて…。
 幸せなぼくのフォトフレーム。ハーレイの家でうんと大切にされて、幸せに暮らすことだろう。



 ぼくが選んで写真を入れていたフォトフレームを、ハーレイが連れて帰って行った。
 ハーレイが写真を入れた方は、ぼくの家に残って双子のようなフォトフレームを見送った。
 そうやって交換されたフォトフレーム。
 ぼくとハーレイ、二人だけしか知らない秘密の、互いの持ち物。
 お揃いだっていうだけじゃなくて、自分の分は手元を離れて、お互い、相手が持っているんだ。
 なんて幸せなんだろう。
 ぼくの持ち物に見えるけれども、本当はハーレイの持ち物だったフォトフレーム。ぼくが選んだフォトフレームはハーレイが連れて帰ってくれた。
 そっくり同じなフォトフレームは見えない糸で繋がっていそうで、その糸に触れるような気分で飴色の枠に手を伸ばす。
 ぼくの机の上、ハーレイが選んだフォトフレーム。
 ハーレイが写真を入れていた。ぼくの大好きな褐色の手で、裏返して写真を入れていた…。



(…この辺かな?)
 ハーレイの手が触れていた辺りを触ってみる。滑らかに磨かれた飴色の木枠。自然の素材だから冷たくはなくて、その柔らかさと温もりがハーレイを思わせた。
 がっしりと頑丈で、ぼくよりもずっと大きな身体を持ったハーレイ。木の枠を見るまでは考えたことも無かったけれども、ハーレイは立派な大木みたいだ。どっしりと根を張り、天に聳えて枝を四方に広げた大木。雨にも風にも揺らぐことなく、その枝と葉とで沢山の命を守るんだ…。
(…うん、キャプテンだった頃のハーレイはホントに大木だよね)
 シャングリラという名の楽園を支えていた大樹。大勢のミュウたちを枝に止まらせ、茂る葉影に休ませていた。ハーレイがキャプテンだったからこそ、誰もが安心して暮らしていられた。
 ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 白いシャングリラを守っていたぼくは、ハーレイが伸ばした枝の間を吹き渡る風。皆が心地よく過ごせるようにと、清しい空気を運び続けた。禍々しいものが枝に纏わりつかぬよう。皆を脅かすものが来ぬよう、大樹の周りを巡り続けた…。
 懐かしい、白いシャングリラ。
 ハーレイと一緒に暮らしていた船。いつだってハーレイの気配が在ったし、ハーレイが必ず側に居てくれた。辛く悲しい時代だったけれど、あの船の中だけは楽園だった。
(…今は別々の家だもんね…)
 ハーレイの気配は家の中に無いし、ハーレイは側に居てくれない。
 せっかく平和な青い地球の上に生まれて来たのに、肝心のハーレイと一緒に住めないだなんて。
(でも……)
 これはハーレイの持ち物だものね、とフォトフレームの木枠を指先で撫でた。
 ハーレイの家に行ったぼくのフォトフレームと同じ姿で、飾られた写真もそっくり同じ。きっとハーレイの家にあるフォトフレームと見えない糸で繋がっている。
 それにハーレイの持ち物だったフォトフレーム。この中にハーレイの心の一部がちゃんと入っている筈なんだ。だって、ハーレイがぼくのフォトフレームを連れて帰る時、ぼくの心が飛び跳ねていたから。ハーレイの家へ一緒に行ける、と心の欠片が弾んでいたから…。



 フォトフレームの中に収まった写真。
 庭で一番大きな木の下にハーレイと二人並んで、ママが写した夏休みの記念。
 そういうことになっているけれど、本当は二人一緒の写真が欲しかったんだ。ハーレイもぼくもそう思っていて、お互い口にはしていなかったのに、ハーレイが実行に移してくれた。羽根ペンを買いに出掛けたついでに、お揃いのフォトフレームまで買って来てくれて。
 写真の中のハーレイは穏やかな笑顔。穏やかなように見えるけれども、とびきりの笑顔。最高の笑顔なんだと、ぼくには分かる。前のハーレイがこんな笑顔をしていたから。青の間でぼくと二人きりの時、こんな風に笑っていてくれたから。
 ぼくだけに見せてくれたハーレイの笑顔。ぼくだけを想っていてくれるハーレイの笑顔。それを見るのが好きだった。
 今もこの笑顔を見せてくれるけれど、まさか写真になるなんて。ハーレイが側にいない時にも、写真を見れば大好きな笑顔が見られるなんて…。
 そのハーレイの左の腕に、ギュッと両腕で抱き付いて嬉しそうなぼく。ハーレイが抱き付いてもいいと言ったから、遠慮なく抱き付いて撮らせて貰った。「あくまで憧れの先生とだぞ?」なんて念を押されたけど、ハーレイにくっついて写真が撮れた。それだけで胸がドキドキしてた。
(あっ…!)
 撮った時には幸せ一杯で全く気付いていなかったけれど、ぼくが抱き付いている左腕。
 利き腕じゃない方のハーレイの腕。
 ハーレイが「俺の利き手を封じてどうする」と注意したから、左腕に抱き付いていたんだけど。この左腕に、前のぼくの右手が最後に触れた。
 メギドに飛ぶ前、ぼくの言葉を口にすることは出来なかったから。死にに行くのだとジョミーや皆に知られるわけにはいかなかったから、ハーレイの左腕に触れて其処から思念を送っておいた。ジョミーを頼む、と。
 ぼくがハーレイに言えた言葉は、「頼んだよ、ハーレイ」。肉声ではそう伝えただけ。思念でも別れは告げられなかった。ハーレイへの想いも、「さよなら」も言えずに前のぼくは死んだ。
 ハーレイの腕に最後に触れた手。右の手に残った温もりだけを最期まで持っていたかったのに、それも失くして独りぼっちで泣きながら死んだ。
 もう会えないと、ハーレイには二度と会えないのだと…。
 メギドで冷たく凍えた右の手。ハーレイの温もりを失くした右の手。
 ハーレイの温もりを覚えていたかったのに。温もりを抱いていたかったのに…。



 前のぼくが失くした温もりの元は、ハーレイの左腕だった。最後に触れた腕は左腕だった。
 あんなにも切ない思いで触れて、その温もりを抱いて逝こうと右の手にしっかり覚えさせた腕。この温もりがハーレイなのだと、心に刻み付けた腕。
 それなのに、ぼくは失くしてしまった。撃たれた痛みがあまりに酷くて、温もりは撃たれる度に薄れて、最後に右の瞳を撃たれた瞬間、消えてしまって失くしてしまった。
 独りぼっちになってしまって、泣きながら死んでいったぼく。
 失くしてしまったハーレイの左の腕の温もり。
 その左腕に、前よりもずうっと小さい身体になったぼくがくっついているなんて。
 前のぼくがほんの少しだけ触れて離れたあの左腕に、両腕で抱き付いているなんて…。
(……夢みたいだ……)
 前のぼくが失くした温もりの代わりに、両腕一杯分の温もり。ギュッと抱き付いたから、胸にも温もりをしっかり感じた。温かで確かなハーレイの温もり。幻ではない生の温もり。
(なんて幸せなんだろう…)
 そう思ったら涙が零れた。
 ハーレイの左腕なんだ。ぼくが両腕で抱き付いていたのは、ハーレイの左腕なんだ…。



 二人並んだ写真なんか撮れなかった、前のぼくたち。
 何処かに前のハーレイの写真は無いかと、ハーレイの写真欲しさに本屋さんで探した今のぼく。前のぼくたちが一緒に写った写真はいくらでもあったけれども、恋人同士の写真じゃなかった。
 二人一緒でも、あくまでソルジャー・ブルーとキャプテン。それが前の生でのぼくたちだった。恋人同士と一目で分かる写真など撮れず、撮れる日が来るとも思わなかった。そうして運命の日がやって来て、前のぼくは独りぼっちで泣きながら死んだ。もうハーレイには会えないのだと。
(…またハーレイと会えただなんて…)
 青い地球の上に生まれ変わって巡り会えた上に、二人一緒の写真まで撮れた。
 シャッターを切ってくれたママにも、記念写真を撮ったと報告しておいたパパにも、恋人同士の写真だということはまだ明かせないけれど、幸せな今のぼくたちの写真。
 ハーレイとお揃いで持っている写真と飴色をした木のフォトフレーム。
 ううん、お揃いって言うだけじゃなくて、このフォトフレームはハーレイのもの。誰も気付きはしないけれども、ぼくのフォトフレームはこれの代わりにハーレイの家に行ったんだ。
 ぼくはハーレイのを、ハーレイはぼくのを持っている。
 お揃いな上に、お互い、相手から貰った形のフォトフレーム。恋人の持ち物が手許に欲しくて、交換し合ったフォトフレーム。
 ハーレイの持ち物を貰ってしまった。
 大きな褐色の手が触れて写真を入れていたフォトフレーム。ハーレイの手の温もりを枠に残したフォトフレーム。大切なぼくの宝物。中の写真も、フォトフレームも…。



 ずうっとお揃いが欲しかった。ハーレイとお揃いで持っているもの。
 つい昨日まで、今日の午前中までは、お揃いはたった一つだけだった。ハーレイが先に見付けて買って教えてくれたシャングリラを収めた写真集。ぼくのお小遣いでは買えない値段の豪華版で、パパに強請って買って貰った。その写真集だけがお揃いだった。
 だけど今では、写真集ならぬ記念写真。ハーレイと二人で写した写真がフォトフレームごと双子みたいにそっくり同じで、お揃いの持ち物に加わった。
 お揃いのものも欲しかったけれど、二人一緒の写真も欲しいと夢見ていた。
 ハーレイと一緒に写った写真と、お揃いのフォトフレームと。両方の夢が一度に叶って、もっと素敵なオマケがついた。ハーレイの持ち物だったフォトフレームが、ぼくのもの。その上、ぼくのフォトフレームはハーレイの家へと貰われて行った。
(…ぼくよりも先にお嫁に行ったよ、フォトフレーム…)
 そう思うとなんだかくすぐったい。
 いつの日か、ぼくはあのフォトフレームを追い掛けるようにハーレイのお嫁さんになる。伴侶と呼ぶのかもしれないけれども、ハーレイに貰われるぼくの立場は「お嫁さん」だ。
 ハーレイは自分のお父さんとお母さんとに、ぼくと結婚するんだってことを、ちゃんと報告してくれた。庭に大きな夏ミカンの木がある隣町のハーレイが育った家。ハーレイのお母さんが作った夏ミカンのマーマレードが入った大きな瓶を、ハーレイはお父さんたちから預かって来た。
 将来、ハーレイの結婚相手になるぼくに、ってプレゼントしてくれたマーマレード。お日様の光みたいな金色が詰まった瓶はとても綺麗で、ハーレイのお父さんとお母さんの気持ちが嬉しくて。大事に食べようと思っていたのに、パパとママが先に蓋を開けて食べてて大ショック。
 それが今朝のこと、マーマレードを貰ったのは昨日。
 昨日と今日との二日間だけで、幸せが沢山降って来た。マーマレードを先に食べられてしまった悲劇はともかく、他は幸せ一杯だった。



 前の生から大好きだったハーレイと一緒に過ごした、ぼくの人生で最高の夏休み。
 その夏休みの最終日が文字通り最高の日で、二人一緒に写真を写して、お揃いのフォトフレームまで手に入れて勉強机の上。ハーレイの持ち物だったフォトフレームの中、幸せそうに笑っているぼく。ハーレイの左腕に両腕でギュッと抱き付いたぼく。
 そうだ、ハーレイに羽根ペンもプレゼント出来たんだっけ。ぼくのお小遣いで買うには高すぎる値段だったからハーレイが殆ど自分で支払ったけれど、ハーレイの誕生日プレゼント。ハーレイが前世で愛用していた羽根ペンによく似た白い羽根ペン。
 羽根ペンをハーレイの誕生日にプレゼント出来て、ハーレイのお父さんとお母さんから手作りのマーマレードを貰って、今日はハーレイと一緒に写った写真。しかもお揃いのフォトフレーム。
 思い付くだけでも最高が三つ、羽根ペンとマーマレードと、目の前の写真。
 きっと他にも色々とある。この夏休みだけで最高を幾つ体験したのか、それこそ紙にでも書いてみない限りは分からない。幸せ一杯だった夏休み。ハーレイと過ごした夏休み。
 だけど、まだまだ最高の日が幾つも幾つもやって来るんだ。
 夏休みは今日で終わりだけれども、ぼくはたったの十四歳で、まだ結婚も出来ない歳。
 結婚出来る十八歳までに最高の日が幾つあるのか、それだけでも数え切れそうになくて。
 どうしようか、と思うほどなのに、幸せはもっと増えてゆく。
 ハーレイと結婚するだけで増えるし、一緒に暮らせば毎日のように増えてゆく。
(…前のぼくは全然知らなかったよ、こんなに幸せが一杯な日が来るなんて…)
 そう思ったら、また涙が零れた。



 独りぼっちになってしまったと泣きながらメギドで死んでいった、ぼく。
 その前のぼくに教えてあげたい。
 ぼくはこんなに幸せだよ、って、ハーレイと幸せに生きてるんだよ、って。
 もう泣かなくても大丈夫だから、きっと幸せになれるから…。
 ぽたり、と机の上に落ちた一粒の涙。
 ソルジャー・ブルーだったぼくの涙だと思いたい。
 悲しい涙はもうおしまいで、幸せを見付けた涙なんだ、と。
 泣かないで、ソルジャー・ブルーだった、ぼく。
 ぼくはこんなにも幸せだから……。




            フォトフレーム・了

※ハーレイとブルーがお揃いで持っているフォトフレーム。実は交換していたのです。
 ほんの一瞬でも、お互いの持ち物だった物を交換。それだけで幸せなブルーです。
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