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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

 ママが焼いてくれたフルーツケーキ。ラム酒に漬けたレーズンやアプリコット、プルーンとかがたっぷり入って、真っ白なアイシングがかかってる。アイシングの上に載った紫色のアクセント。スミレの花の砂糖漬け。雪の中から顔を出したかのような紫のスミレ。
 ぼくの部屋でハーレイと向かい合わせでのティータイム。ハーレイがフォークで紫色のスミレをチョンとつついた。
「…スミレもこうすれば食えるんだよなあ、面白いもんだ」
 口に入れればスミレの香りがふうわりと広がる砂糖漬け。ママの手作りではなかったけれども、お菓子のデコレーションとしてお気に入り。ケーキに添えたり、ラスクに載せたり。小さな頃から何度も目にした。そう、今日みたいに。
「シャングリラでは作らなかったよね、砂糖漬け。子供たちが花束にしてたくらいで」
「ああ。こういう洒落た菓子を作って食えるほど優雅な日々でもなかったしな」
 シャングリラにもお菓子はあったし、ハーレイと過ごすお茶の時間もあったのだけれど。紅茶は今のように香り高くはなく、お菓子もお洒落なものではなかった。
 もっとも、そんなティータイムでも充分すぎるほどに贅沢なもの。アルタミラでの研究所時代を思えばお茶の時間が持てるというだけで夢のようだったし、幸せだった。
 そういう暮らしをしていたぼくたちが、今は青い地球の上でティータイム。地球の太陽を浴びて育ったスミレの花の砂糖漬けが載ったケーキを二人で食べてる。なんて幸せなんだろう。こんなに幸せでいいんだろうか。
 スミレの花を食べるだなんて、シャングリラに居た頃は思い付かなかった。
 公園にスミレは沢山咲いていたけれど、あくまで目で見て楽しむもの。子供たちが摘んで花束にするもの。たまに愛らしいスミレの花束を子供たちがくれた。



「ハーレイも子供たちから貰っていたよね、スミレの花束」
「うんうん、ゼルもブラウも貰っていたな。クローバーとかと一緒で摘み放題だったしな」
 子供たちが摘んで作ったスミレの花束。香りがいいから、貰うとガラスのコップに挿して枕元のテーブルに飾っていた。ハーレイは航宙日誌を書いていた机の上に飾った。
「実にいい香りがしたんだよなあ、あの花束は」
「あんなに小さな花なのにね。貰うと幸せな気分になれたよ」
「そうだな、部屋に公園が引っ越して来たような感じがしたな」
 限られた空間しか無かったシャングリラの中。公園と居住区に散らばる庭だけが自然を思わせる緑のスペース。其処で咲いたスミレの花束は外の世界も運んで来てくれたように思えたものだ。
「ぼくは好きだったよ、スミレの花束。地面の上に居るような気持ちがしたから」
 新しく見付けたミュウの救出や戦闘の時しか、シャングリラの外には出なかった。ぼくの力なら自由に何処へでも行けたけれども、他の仲間たちはそうではないから。
 ぼくだけが自由に出歩くことはしたくなかった。そうやって自分に課した禁を破って出るようになったのは、偶然フィシスを見付けた時だけ。フィシスの地球を見に通った時だけ。
 だからスミレの花が咲く地上でゆっくりと過ごしたことは無い。シャングリラの中だけがぼくの世界で、スミレの花束は外の世界を夢見るための小さな小道具。
「いつかスミレが咲いている地上で過ごしたいな、と思っていたよ。ハーレイは?」
「俺も同じだ。子供たちを思い切り走らせてやれる時が来ないかと願っていたな」
 シャングリラの公園じゃなくて、広い大地で。
 走っても走っても果てが無いような、花いっぱいの野原を何処までも……な。



 遙かに過ぎ去った時を懐かしんでいたハーレイが「ん?」と顎に手を当てて。
「そうか、しまった…。お前と出会うのが遅すぎたな」
「えっ?」
 そりゃあ、再会は早ければ早いほど良かったけれど。
 ハーレイともっと早く会えていれば嬉しいけれども、その分、ぼくは今よりもっと小さな子供。ハーレイは何をしたかったんだろう?
 小さなぼくを連れて野原へ行こうと思ったんだろうか、スミレを摘みに?
 キョトンとするぼくの目の前、ハーレイはスミレの砂糖漬けをフォークでつつきながら呟く。
「もう二日ほど早ければ…。いや、四月の間に出会うべきだった」
「なんで?」
 たったの二日ほど早いだけでいいの?
 四月の間だとか、ほんの少ししか早くないけれど…。
「忘れちまったか? 俺たちが会ったのが五月三日で」
「そうだけど?」
「五月一日と言えばスズランの花束の日だったろうが。この地域には無いようだがな」
「あっ…!」
 それを聞くまで忘れていた。五月一日はスズランの日だった。
「今もフランスではやってるらしいぞ、今の地球でのフランス地域だ。…いわゆる文化の復活ってヤツで」
「そうなんだ…」
 SD体制の時代には無かった、かつてフランスと呼ばれた地域。地球が青い星として蘇った後、その名を冠した地域が生まれた。ぼくたちの住む地域が日本で通っているように、フランスだって地球の上に在る。遙かな昔のフランスの文化を追い求めて楽しんでいる地域。
「お前に堂々と贈っても問題無いんだよなあ、今の世界じゃ。なにしろ日本にはスズランの文化が無いからな? …ついでにスズランも山ほどあるんだ、シャングリラと違って」
「うん…」
 あるね、とぼくは頷いた。
 鈴の形をした白い花を沢山つけるスズラン。
 シャングリラでは公園に咲いていただけだけれど、今の世界なら公園だけじゃなくて個人の家の花壇やプランター、もちろん花屋さんにだってある。
 珍しくもないスズランの花。でも、シャングリラでは特別だった。



 愛する人への五月一日の贈り物。
 贈られた人に幸運が訪れますように、と祈りをこめて贈るスズランの花を束ねた花束。
 シャングリラの公園で初めてのスズランが花開いた年に、ヒルマンが皆に説明してくれた。
 恋人同士で贈り合ったり、夫から妻へ、妻から夫へ。
 遠い昔には、わざわざ森までスズランの花を探しに出掛けて摘んでいた時代もあるらしい。森に咲くスズランは香りが高くて希少価値があるから、と後の時代には五月一日には高値で売られた。子供たちが森まで採りに出掛けて、たった一本のスズランが栽培種の花束と同じ値だったり。
 小さなスズランの花を前にして、ヒルマンが語った遙か昔の素敵な習慣。
 ぼくはハーレイにスズランの花束を贈りたくなった。
 沢山の幸運が訪れるようにと祈りをこめて、五月一日にスズランを摘んで。
 ハーレイはぼくに贈りたくなった。
 ぼくが幸せになれるようにと、五月一日にスズランの花を摘んで束ねて。
 でも、スズランの花は花束に出来るほど沢山咲いてはいなかった。
 増えて来た頃にはそれを必要とするカップルたちがいて、ぼくとハーレイの分は無かった。
 ぼくたちは誰にも仲を明かせない、秘密の恋人同士だったから。
 五月一日にスズランの花束を作りたいのだと、誰にも言えはしなかったから…。



 スズランの株は順調に増えて、花束を幾つも作れるようになったのに。
 五月一日になると恋人たちが公園や居住区の庭で摘んでいるのに、ぼくたちはそれを微笑ましく見守るだけの立場で、スズランの花束は手に入らない。
 いくらスズランの花が増えても、贈りたい人に贈れはしない。
 五月一日が何度も巡って、ある年、ハーレイが「やはり今年も無理でしたね」と溜息をついて。
「いっそ私の部屋で育てようかとも思うのですが…。そうすれば私の分ですから」
「バレるよ、掃除に来たクルーに」
 ハーレイの気持ちは嬉しかったけれど、部屋にスズランの鉢だかプランターだかを置くなんて。何をしているのか直ぐに知られる。スズランは特徴があり過ぎるから。
「私が好きで育てている花だと言えば問題無いかと」
「それはそうだけど、五月一日に花がそっくり消えた理由を何と説明するんだい?」
 シャングリラでは広く知られた五月一日の恋人たちの贈り物。ハーレイがスズランの花を好きかどうかはともかくとして、五月一日を境に花が消えれば誰かに贈ったということになる。この船の何処かに恋人が居て、その恋人のためにスズランを育てていたのだと知れる。
「どう考えても直ぐにバレるよ、恋人用のスズランだった、と」
「…確かに…。そうではない、と言い訳するのは難しいかもしれませんね…」
 いい考えだと思ったのですが、とハーレイが残念そうな顔をするから。
「ぼくの青の間でも同じなんだよ。…君がスズランを育てて贈ってくれると言うなら、ぼくだって君に贈りたいけれど…」
 この部屋はこんな造りだから。
 スズランを育てられそうな自然な光が降り注ぐ場所はもれなく人が入って来る。ベッドの周りは言わずもがなだし、奥のキッチンとかにも人が入るし…。
 君のためにスズランを育てたくても、こっそり育てられそうにない…。



 二人して自分の部屋でスズランを育てられないことを嘆いて、残念がって。
 それでもお互いに贈りたかった。
 贈られた人に幸運が訪れるという、五月一日の恋人たちの贈り物。スズランの花を束ねた花束。ぼくはハーレイに贈りたかったし、ハーレイはぼくに贈りたかった。
 いつかは贈ってみたいものだ、と語り合った末に。
「いつか…。そうですね、いつか、地球に着いたら」
 ハーレイの鳶色の瞳がぼくを見詰めた。
「そうしたらスズランもきっと沢山手に入るでしょう。その時はあなたに贈りますよ」
 いつか地球に着いて、五月一日が巡って来たら。
 あなたのためにスズランの花束を作って、幸運が訪れるようにと祈りをこめて…。
「うん、ぼくも。…ぼくもスズランの花束をプレゼントするよ」
 ハーレイのためにスズランを探すよ、ヒルマンが言ってた希少価値が高いという森のスズラン。地球の森が広くても、ぼくなら探せる。ハーレイには無理でも、ぼくは出来るよ。
「お気持ちはとても嬉しいのですが…。それでは私の愛が足りないような気がするのですが…」
 ハーレイが困ったように口ごもるから、「いいんだよ」とぼくは微笑んだ。
「いいんだよ、それで。ハーレイはぼくに沢山の愛をくれているもの、それに沢山の幸せだって。ぼくはハーレイを幸せにしてあげたいんだ、いつも貰ってばかりだから」
「いえ、私こそあなたを幸せにして差し上げたい。あなたはいつも、皆のためにだけ…。御自分のことはいつも後回しで、皆の幸せばかりを祈っていらっしゃるから…」
「ううん、その分の幸せは皆からも、そしてハーレイから沢山貰っているよ」
 ハーレイが居てくれるから幸せなんだよ、ぼくはシャングリラの誰よりも…。



 いつか地球へ行って、お互いにスズランの花束を贈り合う。
 それがぼくたちの夢だった。五月一日が巡って来る度に白いシャングリラでそれを思った。
 恋人たちのためのスズランの花を束ねた花束。
 ぼくたちが贈りたいと願い続けて、贈れずに終わった夢の花束。
 ハーレイがスミレの砂糖漬けを眺めながらフウと大きな溜息をつく。
「…いつの間にかお前は眠ってしまって、五月一日どころじゃなかった…」
「うん…。寝てしまったね、アルテメシアから旅立って直ぐに」
 眠るつもりは無かったのだけれど、弱り切った身体はそれを許してくれなかった。
 毎晩、青の間に来てくれていたハーレイに「おやすみ」といつものように言って眠って、まさかそれきり目覚めないだなんて思わなかった。
 深い深い眠りの底に沈んでしまった、前のぼく。
 それでもハーレイは毎晩、ぼくを訪ねて来てくれた。眠り続けるぼくに語り掛けてくれた。
 子守唄まで歌ってくれていたことを、夏休みの間にハーレイから聞いた。
 今のぼくが小さな頃に大好きだった「ゆりかごの歌」。前のぼくが眠りの底で聞いていた歌。
 眠っていたぼくには一瞬とも思えた時だったけれど、ハーレイにとっては十五年間。
 十五年もの間、ぼくはハーレイを独りきりにして眠ってしまった…。
「…ごめんね、ハーレイ…。十五年も眠ってしまったままで」
「初めの間は直ぐに起きると思ったんだがな…。そう深刻には考えなかった」
 なのに、お前は何年経っても一向に目覚める気配すらなくて。
 五月一日にブリッジから見ると、公園でスズランを摘んでいる恋人たちが目に入るんだ。
 幸せそうにしている恋人たちを見るのが辛かった。俺の恋人は眠っているのに、と。
 しかしだ、ものは考えようだ。
 お前は深く眠っていたから、もしかしたら……と俺は思った。
 体力的にとても無理だと諦めていたが、お前は地球まで行けるんじゃないか、と。
 もしもお前が俺と一緒に地球まで辿り着けたなら。
 そうしたらお前にスズランの花束を贈るんだ、とな。



 そういう夢を見ていたんだ、とハーレイが昔語りをするから。
 夢が叶わなかったことを知っているぼくは、「ごめん」と俯くしかなかった。
「…ごめん。いなくなってしまって、本当にごめん…」
 ぼくは地球まで行けなかった。
 ハーレイのささやかな夢にも気付くことなく、一人でメギドへと飛んでしまった。
 別れの言葉すら告げもしないで、「頼んだよ、ハーレイ」と次の世代を託しただけで。
「…ごめん。…ごめん、ハーレイ……」
「いや、いいんだ。俺の勝手な夢だったしな」
 それに俺には思い出している暇など無かった。
 五月一日どころじゃなくなってしまったからな、シャングリラ中が。
 地球を目指して進むことと戦いだけに明け暮れていたし、いつだって空気が張り詰めていた。
 スズランを摘んでいた恋人たちの中の何人もをナスカで亡くして、トォニィたちの世代はきっとスズランの花束なんぞは知らなかったろう。
 トォニィの恋人はアルテラだったが、あいつらがスズランを摘んでいるのは見なかった。もしも見ていたなら五月一日だと気付いた筈だし、お前との約束も思い出していたんだろうが…。
 とうとう一度も思い出さないまま、俺は地球まで行ってしまった。
 地球に着いても、その地球があの有様ではな…。
 スズランの咲く森など在りはしないし、水も大気も酷いもんだった。
 お蔭で俺は思い出しもせず、地球の地の底で死んじまった。
 そして今頃になって思い出したというわけだ。
 五月一日といえばスズランの花束を贈る日だったな、と…。



「まったく…。なんで今まで忘れてたんだか」
 情けないな、とハーレイは眉間の皺を指先で揉んで。
「…五月一日はとっくに過ぎちまった上に、出会ってもいなかったんではどうしようもないな」
「そうだね、二日ほど遅かったよね…」
 ぼくがハーレイと再会した日は五月の三日。スズランを贈る日は終わってしまった後だった。
 今、ぼくたちが住んでいる地域にスズランを贈り合う習慣は無いから、それよりも前に出会っていたって思い出さずにいた可能性も高いんだけれど…。
 でも、ハーレイは思い出したから悔しいらしい。
「来年の五月に覚えているといいんだが…。この地域にスズランの花束を贈る文化が無いだけに、思い出せるか微妙だな」
 その代わり、覚えていたら堂々とお前に贈れるわけだが。
「ママにはなんて説明するの? ぼくにスズランの花束なんて…」
 ぼくだって一応、男の子だから。
 花束を貰うのは変だと思う。何かのお祝いならばともかく、普通の日に花束、それもスズラン。
 だけどハーレイは「ん?」と、ちょっぴり悪戯っ子みたいな表情で。
「恋人に贈るって部分は省略だ。幸運が来ると聞いていまして、って言って持って来るさ」
 もしもお前のパパやママに気付かれてしまったって、だ。俺の勘違いだと思われて終わりだ。
 俺は古典の教師だしな?
 日本の文化なら間違えはしないが、フランスの文化は範疇外だ。
「ハーレイ、勘違いで済ませる気なんだ?」
「それが一番安全だろうが、お前との仲がバレるよりかは勘違いで恥をかく方がマシだ」
 もっとも、勘違いで通りそうな古典の教師ってだけに。
 来年の五月一日にスズランの花束を覚えている自信も無いわけなんだが…。



 忘れていたらすまん、とハーレイが謝る。
 本当に済まなそうな顔をしていて、心がキュッと痛くなったから。
「お互い様だよ、ぼくだって忘れていると思うよ」
 大丈夫、とぼくはハーレイに笑ってみせる。
 思い出したばかりの今はスズランの花束のことがとても懐かしくて、五月一日よりも二日遅れで再会したことが残念だけれど、きっと夜には忘れていそう。フルーツケーキに乗っかったスミレの花の砂糖漬けで思い出したけれども、これを食べ終えたら忘れていそう。
 ママのお気に入りのデコレーション。甘いスミレの砂糖菓子。
「ハーレイ、忘れてしまってもいいよ。ぼくも忘れてしまうと思うし」
「…そうか? 来年の手帳はまだ買っていないが、カレンダーに覚え書きを書いておいても…」
 新しい年のカレンダーを買う度に、前の年のカレンダーと突き合せながら必要な予定を書き写すことにしているらしいハーレイ。
 今年の五月一日の所に「スズランの花束の日」と書いておけば忘れない、と言うのだけれど。
 帰宅するまでに忘れないように、メモを書いてポケットに入れようと言ってくれたのだけれど。
「ううん、こういうのって「思い出す」からいいんだよ」
 思い出した時が幸せなんだよ、とハーレイの嬉しい申し出だけを貰っておくことにした。
 カレンダーにもメモにも書かなくていい。
 ぼくたちの思い出は沢山あるから、いちいち予定にしなくてもいい。
 予定を書いたら縛られてしまって、嬉しい気持ちが少しだけ減ってしまうから…。
 何かの機会にまた思い出して、その日が五月一日だとか。
 五月一日の前の日だったとか、そういう方が絶対いい。
 幸運は何処からかやって来るもので、予定を決めて来るものじゃない。
 だから忘れてしまっていい。
 スズランの花束をぼくにくれる五月一日は、ひょっこり思い出した時でいい。



「でも、ハーレイ…」
 今日はこのまま忘れてしまっていいんだけれど。
 ぼくもきっと忘れてしまうんだけれど。
 いつか二人で思い出そうね、そしてスズランを採りに行こうよ。
「いいな、二人で採りに行くのか?」
「うん。どうせ贈るんなら、お店に売ってるスズランよりも、森のスズランがいいと思わない?」
 ヒルマンが言ってた森のスズラン。
 栽培種のスズランよりも希少価値が高い、いい香りがする森のスズラン。
 何処にスズランの咲く森があるのか、ぼくは全く知らないんだけど…。
「そうだな、今の地球なら俺だって森のスズランを見付けることが出来そうだしな」
 行くか、とハーレイはぼくの大好きな笑顔になった。
「もっとも、お前が大きく育ってくれんことには二人で出掛けられないわけだが」
「ぼく、頑張って大きくなるよ。だから二人で採りに行こうよ、森のスズラン」
「ふむ…。この辺りだと何処に咲くのか、きちんと調べておかんとな?」
 そしてお前より沢山採るぞ、とパチンと片目を瞑るハーレイ。
 ぼくの花束よりも大きなスズランの花束を作って、ぼくに贈ってくれるって。
「ぼくもハーレイより沢山見付ける! ハーレイに沢山幸せになって欲しいもの!」
 前のぼくだってそう決めてたもの、と決意表明しておいた。
 こんな風に約束し合って、意地を張り合っても、明日にはきっと忘れてるんだけど…。
 それでもいつか、ぼくたちはきっと思い出す。
 思い出して二人、手を繋いで春の森へと出掛けてゆくんだ。
 森に咲いている香り高いスズランの花を探しに、五月一日に二人一緒に…。




       スズランの花束・了

※シャングリラにあった、スズランの花束を贈り合う習慣。恋人たちが摘んで。
 ソルジャーとキャプテンでは無理でしたけれど、今度はスズランを贈り合えるのです。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv




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(まだ育たないよ…)
 土曜日の朝、ハーレイが訪ねて来る前に部屋の掃除を終えたブルーはクローゼットに付けた印を見上げて溜息をついた。床から百七十センチの所に鉛筆で微かに引いた線。ソルジャー・ブルーの背丈と同じ高さに引いた線まで育たない限り、大好きなハーレイとキスも出来ない。
(本当に全然、育たないんだけど…)
 ハーレイと出会った時の百五十センチから伸びない背丈。一ミリさえも伸びてはくれない。印の高さに届いてくれる日はいつになったら来るのやら…。
 そこまで背丈が伸びた時には、クローゼットに付けた印も忘れているかもしれないけれど。今のブルーには大問題で、クローゼットを見上げれば溜息しか出ない。
(クローゼットかあ…)
 印を付けるまでは特に気にしていなかった。ただ其処に在るというだけの家具。
(でも…)
 そういえば、と遠い日の思い出が蘇って来た。このクローゼットに纏わる思い出。子供の頃に、此処に隠れた。幼稚園から学校に入って間もない頃に、クローゼットに。



 その頃、学校で流行ったかくれんぼ。
 ブルーは隠れるのが下手で、いつも真っ先に見付かってしまうから。
 両親はどうだか試したくなった。隠れた自分を見付けられるか、見付けることが出来ないのか。
(ちょっとだけ…。ちょっと試してみたいだけだよ)
 小さな子供は下校時刻が早かったから、帰宅時間は午後のおやつの時間よりも前。ブルーが家に帰り着いた時には、母がお菓子作りの真っ最中のことも多かった。
「ブルー、もう少ししたらケーキが焼けるわよ」
 待っていてね、と母が声を掛けて来たから「うんっ!」と返事をして、二階にある自分の部屋へ入るなり、キョロキョロと周囲を見渡した。
 何処に隠れるのが一番なのか、と眺め回してみる。カーテンの陰は直ぐバレそうだし、ベッドの下も覗き込まれたら終わり。
(んーと…)
 息を潜めていられそうな場所で、自然に隠してくれそうな場所。
 クローゼットの中がいいかもしれない。まさかブルーが入っているとは思うまい。
(…服とかを入れる場所だしね?)
 それにクローゼットはブルーの部屋の家具の中でも一番大きい。実に頼りになりそうな家具。
(うん、此処がいいや)
 ブルーはクローゼットの扉を開けて中へもぐり込み、内側から扉をパタンと閉めた。途端に暗くなってしまって、サイオンの扱いが不器用なブルーには何も見えなくなったけれども。
(このくらいでちょうどいいんだよ)
 自分の手さえ見ることが出来ない真っ暗闇。
 これなら充分にブルーを隠してくれるだろう。最高の隠れ場所を見付けた、と嬉しくなった。
 両親は自分を見付けることが出来るだろうか…?



 隠れている間に階下で父の声が聞こえた。
 いつもよりも早い帰宅時間。仕事が早く終わったのだろうか、とブルーの胸がドキンと高鳴る。父は夜まで帰って来ないと思っていたから、クローゼットには二回隠れるつもりだった。一度目は母を試して、二度目が父。思いがけない父の帰宅のお蔭で、隠れるのは一度で済みそうだ。
(パパが捜しに来るのかな? それともママかな?)
 どちらが部屋に来るのだろう、とクローゼットの中で膝を抱えて座りながら。
(…まだかな?)
 そろそろケーキが焼き上がる頃。父が居るなら直ぐにティータイムだと思うけれども…。
「ブルー! ブルー、おやつよー!」
 母が呼んでいる声が聞こえた。普段のブルーなら、これだけで階下へ駆けてゆく。母が部屋まで呼びに来ずとも、待ち兼ねていたおやつ目当てに駆け下りてゆくが。
(…我慢、我慢…)
 此処で飛び出したら何のために隠れているのか分からない。おやつのケーキも気になるけれど、それよりも先にかくれんぼ。両親は自分を見付けられるか、無理なのか。
「ブルー? ケーキが焼けてるわよー?」
 母がさっきよりも大きな声で呼び掛け、階段を上がって来る足音がした。母の軽やかな足音とは違って、ゆっくりと落ち着いた父の足音。ブルーには音しか聞こえなかったが、やがて部屋の扉がカチャリと開いて。
「ブルー、おやつだぞ?」
 おや。…いないのか?
 部屋じゃなかったのか、と聞こえた父の独り言。
(やった!)
 父には見付けられないのだ、とブルーの心は躍り上がった。
 学校でやっているかくれんぼの時は、捜されもせずに見付かっている。ブルーの隠れ場所を目にした鬼は迷わず真っ直ぐに近付いてきて容赦なく「見付けた!」とタッチしてしまう。
 けれど、クローゼットを目にしているのに「いないのか」と呟く父はブルーを見付けられない。もう嬉しくて小躍りしそうになったブルーの居場所は、その瞬間に父に知れていた。
 かくれんぼが苦手なブルーが見付かってしまう理由は、その思念。「見付かりませんように」と懸命に祈る気持ちが零れ出ていて、鬼に容易く拾い上げられる結果。
 今の場合は「見付からなかった!」と大喜びした思念を父に拾われ、父の視線はクローゼットの中の悪戯息子に向けられたのだけれど。
 ブルーの意志を尊重するべく、父はそのまま出て行った。



 見付かっていないつもりのブルーよりも、父の方が二枚も三枚も上手。階下に戻ると母に息子の隠れ場所を教え、それから二人で捜し回る。あちこちの扉を開けたり閉めたり、ブルーの部屋まで覗きに来たり。ついには庭まで捜している声が聞こえてきて…。
(まだかな、おやつ…)
 かくれんぼは上手くいったけれども、少々上手くやり過ぎた。おやつのケーキに辿り着けない。
(…今日のケーキは何なのかな?)
 早く見付けて食べさせてよ、と願うブルーは本当にかくれんぼが下手だった。鬼に見付からずに済んだ子たちが姿を現すタイミングが何処かを知らなかった。
 いつも真っ先に見付かってしまうから、かくれんぼの終わりは「見付かった時」と頭から信じて疑いもしない。鬼が降参してしまった時には出てもいいのだと気付いていない。
(…パパ、ママ、まだあ…?)
 捜す声はとっくに止んでしまって、両親はブルーの分も用意してケーキを食べているのに、全く気付かず出てゆきもしない。かくれんぼは鬼が見付けてくれるまで続くものだと思っているから。その鬼たちが降参するなど、思いもよらないことだったから。
(…ケーキ、まだかな…)
 今か今かと待ちくたびれて、おまけにクローゼットの中は暗くて。
 いつの間にかブルーはぐっすり眠ってしまって、様子を見に来た父に抱えられて運び出された。眠ったままベッドに横たえられて眠り続けて、揺り起こされた時には夕食の時間。
 おやつのケーキは食べ損なった。
 かくれんぼに失敗したらしいことも、ベッドで眠っていたから分かった。
 なんとも情けない遠い日の思い出。かくれんぼは一向に上達しなくて、流行っていた間はいつも真っ先に見付けられては悔しい思いをする日々で…。



(そうだ、かくれんぼ…!)
 ブルーの頭に突如として閃いた思い付き。
(…ハーレイはぼくを見付けられるかな?)
 前の生では、ブルーが何処に居てもハーレイは直ぐに見付けてくれた。
 かくれんぼをしていたわけではない。ブルーが姿を隠していただけ。かくれんぼではなく、姿を誰にも見られたくなかった。ソルジャーとしての務めの重さに苦しむ姿を、弱い自分を知られてはならないと思って隠れた。
 半ば公の場である青の間では弱い姿を見せられないから、誰も来ない倉庫や、機関部の奥の奥、滅多に点検の者たちも来ない狭い通路や。
 そうした場所で膝を抱えて蹲っていると、直ぐにハーレイが捜しに来た。捜すというほど時間は経っていないというのに、「捜しましたよ」と微笑みながら。
 そしてブルーの隣に黙って座り込んで温もりを分けてくれたり、そうっと肩を抱いてくれたり。ブルーの心が癒えるまで待って、それから外へと連れ出してくれた。
 いつもいつも寄り添っていてくれた、優しいハーレイ。
 ソルジャー・ブルーだった頃のブルーが愛したキャプテン・ハーレイ…。



(…今だって分かる筈だよね?)
 ハーレイだもの、とブルーは確信に満ちた表情になる。ハーレイならきっと見付けてくれる。
 ブルーが何処に隠れていようと、今のハーレイでも見付けられる筈。
 よし、と隠れることにした。
 部屋の窓から外を見下ろし、やって来たハーレイが門扉の前に立つのを確かめてクローゼットの中にもぐり込む。内側からパタンと扉を閉めれば、子供の頃と同じ真っ暗な闇。
(だけど、ちょっとは上手になったものね)
 サイオンの扱いは不器用なりに、外の気配くらいは探れるようになった。瞳を扉の方に凝らすと部屋の様子を見ることが出来る。いわゆる透視という能力。滅多に使わないブルーのサイオン。
 そうやって見ていると、母がハーレイを案内して来て部屋の扉を開けて。
「あらっ?」
 いないわ、と驚きの声を上げる母。
「何処へ行ったのかしら、あの子ったら…」
「直ぐ戻りますよ、他の部屋に用事でもあるのでしょう」
「そうですわね…。ハーレイ先生、どうぞこちらへ」
 母はハーレイに椅子を勧めて、「お茶の用意をして来ますわね」と部屋から出て行った。足音が階段を下りて遠ざかり、ハーレイは椅子にのんびりと座る。
(あれっ?)
 ハーレイがブルーに気付いた様子は無い。クローゼットの方に視線も向けない。
(…ハーレイ、鈍くなっちゃったのかな? それとも…)
 お茶の用意が整った後で、クローゼットを開けて不意打ちだろうか。もしかしたら、父のように抱き抱えて運び出してくれるとか…?
 ブルーは暗闇の中で頬を紅潮させた。ハーレイが気付かない筈がないから…。



 クローゼットに潜んだブルーの思念は実はハーレイに筒抜けだった。しかしハーレイは素知らぬ顔で椅子に腰掛け、ブルーを待っているふりをする。其処へブルーの母が入って来た。
「ハーレイ先生、お茶とお菓子をお持ちしましたわ。…ブルーは?」
「まだなのですが…。お心当たりは?」
 問われた母は困り顔で。
「それが…。書斎には居なかったんですけれど…。もう本当に、あの子ったら、何処に?」
「お気になさらず。私の用事はこちらに伺うことですしね」
 もっとも用事の相手が居ないようですが、とハーレイが笑い、母が「戻って来たら叱ってやって下さいね」と息子の非礼を詫びてから部屋の扉を閉める。
「ブルー! ブルー、何処なの?」
 ハーレイ先生が待っていらっしゃるわよ、と遠ざかってゆく声。足音も階下へと消え、ブルーは胸を高鳴らせた。
(ハーレイ、来るかな…)
 クローゼットの扉を開けての嬉しい不意打ち。それだけで充分嬉しいけれども、逞しい腕に抱え上げられてクローゼットから出して貰えればもっと嬉しい。
(抱えて欲しいな…)
 寝たふりをしていれば抱えて出してくれるだろうか?
 そうしようか、とドキドキしているのに。
(…えっ、来ない?)
 ハーレイはクローゼットの方を見もせず、ゆっくりとティーカップを傾けた。いつものとおりに砂糖を入れて、スプーンで軽くかき混ぜてから。どうやらブルーを待っているらしい。
(…もしかして、全然気付いていないの?)
 まさか、とブルーは縋るような視線をクローゼットの扉越しに向けたが、それでも気付く様子は無い。明確な思念は向けていないけれど、こうすれば気配は届きそうなのに…。
(ハーレイ、鈍くなっちゃった?)
 前のハーレイなら直ぐに見付けてくれたのに。
 ブルーが何処に隠れていようと、捜し出して寄り添いに来てくれたのに…。



 一方、紅茶を飲んでいるハーレイはと言えば。
(…本当に不器用になったな、あいつ)
 ハーレイはとうに気が付いていた。ブルーがクローゼットに隠れていることも、今この瞬間にもクローゼットの中から自分の方を見ていることにも。
(不器用と言うか、不器用すぎて可愛いと言うか…)
 この部屋に足を踏み入れた瞬間、感じたブルーの弾んだ心。
 前の生でと同じように自分を見付けて欲しいと、見付けられるであろうという気持ち。もちろん隠れた場所も分かった。ブルーの表情までもが手に取るように。
 全てを一瞬で見抜いたハーレイは、ブルーの母にだけ届く思念を送った。
 クローゼットに隠れていますよ、ソルジャー・ブルーだった頃も時々姿を消していました、と。
 私がブルーを捜すのが得意だったことを思い出してやっているのでしょう、と。
 そうやって送った思念の後はブルーの母と一緒に芝居を打っていたわけで。
(…俺がとっくに気付いているのも分かっていないとは天晴れとしか…)
 悠然とお茶を飲み、ケーキを食べる。クローゼットには視線も向けない。
(はてさて、いつになったら気が付くやら…)
 普段は観察する暇がないブルーの部屋をあちこち眺めて楽しんだ。クローゼットはたまに視界を掠めてゆくだけで、棚に並んだ本の背表紙やら、きちんと整えられたベッドやら。
 もっとも、ベッドは其処で眠るブルーを思うだけで身体の奥が熱くなるから少しだけ。それでも上掛けの模様や枕カバーなどの好みがブルーらしくて笑みが浮かんだ。
 勉強机の上には自分のと揃いのフォトフレーム。
 ハーレイが写真を入れたフォトフレームをブルーの分と交換したから、元は自分の持ち物だったフォトフレームがブルーの机に飾ってある。飴色の木枠のフォトフレームの中、幸せそうな笑顔のブルーと自分。
(あの写真を撮って良かったな)
 ブルーがフォトフレームを大切にしていることが一目で分かった。昨夜も眠る前に見詰めていた気配が残っている。自分以外は気付くことすら出来ないだろうブルーの想い。
 どんな微かな思念でさえも、ブルーのものなら必ず拾えると自負しているのに。
(まだ気付かんとは恐れ入った)
 クローゼットの中の小さな恋人。
 見付けて貰えないことが不満で、頬を膨らませつつある小さな恋人…。



 ブルーの我慢は限界に達しそうだった。
(酷いよ、ハーレイ! 気が付かないの!?)
 ぼくは此処なのに、ぼくよりもお茶とケーキなの?
 あんまりだ、と捜してもくれない恋人に腹を立てるブルーと、面白がっているハーレイと。
(鈍いな、ブルー。いい加減、気付け)
 ふむ、とハーレイは立ち上がってブルーの勉強机に近付いて行った。家探しをするつもりなどは無いのだけれども、悪戯小僧はこらしめねば。
(えっ、ハーレイ? …何をする気?)
 ブルーはギクリと身を強張らせた。
 勉強机に引き出しは幾つかあったが、一番上の引き出しの中にブルーの宝物が仕舞ってある。
 学校便りの五月号。転任教師の着任を知らせる小さな記事とモノクロ写真のハーレイが載った、ブルーの大切な宝物。いつでも取り出して眺められるよう、一番上にして収めてあった。
(開けられたら直ぐに見付かっちゃうよ…!)
 ハーレイの写真が載っているから宝物にした学校便り。それを見られるのは恥ずかしい。
 いくらハーレイが相手であっても、恥ずかしいから知られたくない。
 あんな小さなモノクロ写真を宝物にして持っているなんて…!



 切羽詰まったブルーの思念はもちろんハーレイにも届いてはいたが、その中身まではハーレイもあえて読んではいない。勉強机に何かがある、という程度。
(何か隠しているらしいな?)
 ブルーが大切な物を入れていそうな引き出しはどれか、と手近な取っ手に手を掛けてみた。
 それが一番上の引き出し。ブルーが危惧した学校便りの入った引き出し。ブルーはとても隠れていられず、クローゼットの扉を乱暴に開けて飛び出した。
「酷いよ、ハーレイ!」
 何をするの、と両手で引き出しを開けられないよう押さえ付ければ。
「酷いのはお前の方だろうが」
 コツン、とハーレイが拳で軽くブルーの頭を小突いた。
「丸分かりだったぞ、隠れていること。お母さんにも思念で伝えておいたしな」
「えっ…」
 息を飲むブルーに、ハーレイは「悪戯者めが」と咎める視線を向けて。
「で、開けられると困るというわけなんだな、この引き出し」
 …何を仕舞っているんだ、うん?
 問われたブルーは言葉に詰まった。
「…………」
 ハーレイの写真が載った学校便りだなどと白状出来るわけがなかった。
 どう勘違いをされてもいいから黙っていよう、と覚悟を決めた。
 それなのに……。



「ふむ。…お母さんに内緒のラブレターだな、女の子から沢山貰ったんだな?」
 ハーレイが口にした言葉のあまりの酷さに、沈黙の覚悟は呆気なく砕けた。
「そんなの、貰ったことないよ!」
 たとえラブレターを貰ったとしても、女の子なんかよりハーレイが大事。
 ブルーはハーレイのとんでもない誤解を解くべく、慌てて叫んだ。
「そんなものなら直ぐ捨てるけれど、学校便りは捨てないよ!」
「……学校便り?」
 ポカンとしていたハーレイだったが、ブルーが絡めばカンが働くのも早い。
 あれか、と直ぐに思い至った。ブルーの学校に赴任した直後に配られた筈の学校便りの五月号。自分の着任を知らせる記事とモノクロ写真が載っていた号。
 勉強机の上に飾ってあるフォトフレームの写真を撮るまで、ブルーはハーレイの写真を持ってはいなかった。ハーレイの写真が欲しくて「キャプテン・ハーレイの写真でもいいから」と写真集を探しに出掛けた話も聞いている。
 そんなブルーが如何にも大切に持っていそうな学校便りの五月号。たった一つきりのハーレイの写真が刷られた、学校便りの五月号…。
「そうか、俺の写真が載ってた学校便りか。…あれがお前の宝物なのか」
「……うん……」
 消え入りそうな声で答えたブルーを、ハーレイはグイと抱き寄せた。
 もう愛おしくてたまらない。
 クローゼットに隠れるような幼くて小さな恋人だけれど、その愛らしさがたまらない…。



 力任せの抱擁の後で、ブルーは椅子に腰掛けたハーレイの膝に乗せられた。
 かくれんぼをしていた件は不問で、ハーレイはただ嬉しそうな顔でブルーの頭をクシャクシャと撫でる。銀色の髪を何度も何度も、ブルーの大好きな褐色の手で。
「うんうん、お前は実に可愛い。隠れるのが下手でも、隠すのが下手でも、実に可愛い」
「…どうせ、どっちも下手くそだよ…」
 隠し通そうとした学校便りは喋ってしまってバレてしまった。
 クローゼットに隠れていたのも最初からバレていて、隠れたことにすら全くなっていなかった。
 かくれんぼも隠し事も下手くそで不器用なブルーだけれども、なんだか心がドキドキと弾む。
(…やっぱりハーレイは今でも凄い…)
 ホントに凄い、とブルーはハーレイの広い胸に頬を擦り寄せた。
 隠れていた場所も、隠していたものも、何もかもお見通しとしか言えないハーレイ。
 前の生からブルーの居場所を誰よりも早く捜し当てては、そっと寄り添ってくれたハーレイ。
 今でもハーレイはやっぱり凄い。
 ぼくのことは何でも分かってるんだ、と…。




           かくれんぼ・了

※ブルーのことなら、何でもお見通しなのがハーレイ。前のハーレイも、今も。
 学校便りが宝物なのがバレてしまっても、ブルーは幸せ一杯です。
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 上も下もなく、時すらも無い白い空間。
 ただ暖かく、穏やかな光に包まれて二人きりで過ごす恋人たち。
「好きだよ、ハーレイ」
「俺もだ、ブルー。…お前さえいれば何も要らない」
 ただ二人きり、甘やかな言の葉を交わし、幸せな想いを、他愛ない言葉を交わしては互いに寄り添い合って眠り、また目覚めては微笑み合って…。
 そんな優しくも満たされた時が、どれくらい流れていったのだろう。
 いつしかブルーは願うようになった。
 もう一度ヒトの姿で生まれてみたいと、失くしてしまったヒトの身体でハーレイの温もりと共に生きてみたいと。死の星であった地球が蘇っているのなら、その地球の上で。
 ブルーの願いを、望みを知ったハーレイもまた祈るようになった。
 神が存在するというなら、その身を、命をミュウの未来に捧げて散った愛しい者の切なる願いを叶えて欲しいと。



 そうして二人、共に生きたいと願い、祈り続けてどのくらいの時が過ぎていったのか。
 時すらも無い場所では分からないけれど、穏やかな白い光に満たされ、二人だけのために閉じた筈の世界を清しい風が吹き抜けていった。
 白い光がふうわりと揺れて、彼方まで見通せたような気がした。
 ほんの一瞬のことだったけども、恋人たちには直ぐに分かった。時が来たのだと。
「…ハーレイ、今の…」
「ああ。…風が吹いたな、お前の夢が叶うらしいな」
 行くか、とハーレイがブルーの手を取る。
「お前が焦がれた青い地球に行こう。今度こそ俺はお前を離しはしない」
「ぼくも。…ぼくも今度こそ離れはしない」
 けして一人で行きはしない、とブルーはハーレイの手を強く握った。
 遠い日にメギドでハーレイの温もりを失くしてしまって凍えた右手で。今度こそ温もりを忘れはしないと、その手でハーレイの温もりを握り締めながら。
「ハーレイ、ぼくを忘れないでよ? ぼくは必ず思い出すから」
「そう言っていたな、ずっと前から。…俺も必ず思い出してみせる。青い地球の上でお前に会った時には、必ず全てを思い出してみせる」
「うん…。うん、ハーレイ…」
 それまで少しお別れだね、とブルーの瞳が僅かに揺れて。
 想いをこめて恋人の唇に唇を重ねた。それに応えてハーレイの腕がブルーを抱き締め、長い長い口付けを交わし合った後で。
「今度もさよならは言わないよ。…ぼくたちに「さよなら」は要らないから」
「ああ、今度は本当に要らないな。俺たちは出会うために行くんだからな」
「そうだよ、離れるわけじゃないから。…二度と会えないわけじゃないから」
 前と違って。
 メギドへ飛び立った前と違って、今度こそ「さよなら」の言葉は要らない。
 あの時には言えなかった「さよなら」の言葉。交わせずに終わった別れの言葉。
 今度も「さよなら」は言わないけれども、それは再び出会えることが分かっているから。
 青い地球の上で、もう一度ヒトの身体で巡り会えるから…。



「行こう、ブルー。…早くお前の姿を見たい。今と全く同じ姿に生まれたお前を」
「ぼくもだよ。今と変わらないハーレイに会って、早く一緒に過ごしたいよ…」
 お互い、何処に生まれるのだろう。
 どうやって、何処で出会えるのだろう。
 まるで見当もつかなかったけれど、必ず会えるとお互いにちゃんと分かっていたから。
 別れには何の不安も無かった。それに…。
(…たとえ忘れても、ぼくは思い出せる)
 ブルーが魂に刻んだ傷痕。メギドで撃たれて、ハーレイの温もりを失くした時に受けた傷痕。
 全てを忘れてしまっていたとしても、あの傷の痛みで思い出せる。
(…もしもハーレイを忘れていたなら、会った時にぼくに思い出させて。ハーレイなんだ、と)
 魂に刻み付けた見えない傷痕に強い願いを、祈りを託して、ブルーはハーレイに口付けた。
 傷痕のことは何も告げずに、ただ恋人への想いをこめて。
 長い口付けと抱擁を終えて、二人、互いを見詰め合って微笑む。
「次のキスは地球の上で…だね」
「そうだな、青い地球の上で会おう」
 もう一度、恋人同士として。
 ヒトの身体を持った今とそっくりの恋人同士として巡り会い、再びキスを交わそう。
 それまでの間、ほんの少しの間の「さよなら」。
 でも、「さよなら」と別れを告げるつもりなど互いに無いから。
「…さよならじゃなくて、「またね」がいいかな」
「いいな。また会おう、ブルー。…少しでも早く、地球の上でな」
「うん。…またね、ハーレイ。ああ、まだ暫くは一緒なのかな」
 互いの手を握り合い、指を絡め合って、吹き込んで来た暖かな風に乗る。
 ハーレイの左手がブルーの右手を、ブルーの左手がハーレイの右手を。
 互いに寄り添い、抱き合って二人は白い風に乗った。
「…好きだよ、ハーレイ…」
「俺もだ、ブルー。…いつまでも俺にはお前だけだ」
 甘やかな言葉を交わし合いながら、互いの想いを確かめ合いながら、少しずつ風に溶けてゆく。
 まるで眠りに落ちるかのように、暖かな想いに満たされたままで。
 何の不安もありはしないし、二人、いつまでも一緒だから。
 何処までも二人、離れずに居るための旅立ちだから…。



 いつお互いの手が離れたのか、寄り添い合った魂が離れていったのか。
 ブルーにもハーレイにも分かりはしなくて、ただ一つだけ、確かなこと。
 上も下も無く、時すらも無い白い空間からの旅立ち。
 其処に時など有りはしないし、生まれ落ちる場所と時間がどんなに隔たっていても、其処からの旅立ちは二人一緒に。
 先に生まれる者も、後から追う者も、旅立つ時には一緒だった。
 時の流れなど無い場所だから。
 前も後も其処では意味を持ってはいないから…。
 恋人たちは共に、同時に旅立ち、新たな生を得るために地球へと向かった。
 ブルーが焦がれて止まなかった地球。
 ハーレイが辿り着いた時には死に絶えた星であった地球。
 遙かな時を経て青く蘇った地球の上へと、二人は共に旅立って行った。
 ブルーの願いを、ハーレイの祈りを聞き届けた神の導きのままに。
 上も下も無く、時すらも無い白い空間を後に、また恋人として巡り会うために……。



 閉じた世界で二人きりで過ごした恋人たちは知らなかったのだけれど。
 魂は懐かしい者を見付けては寄り合い、また次の生へと旅立つまでの時を共にするもの。
 彼らが生きてきた幾つもの生で、最高だったと思う時の仲間を見付けたがるもの。
 次の旅立ちを待つ者たちが集まって過ごす光の世界に、漣のように広がってゆく気配。
(…誰だろう、あれは)
(誰が旅立つというのだろう)
 未だかつて見たこともない、神に祝福された魂。
 神の御使いの胸に抱かれ、生ある者たちが生きる世界へと降りてゆく青く美しく輝く魂。
(……ソルジャー・ブルー?)
(ソルジャー・ブルー…?)
 知らない者など誰一人いない、あまりにも知られた伝説にも等しいミュウの長の名。
 誰からともなく囁きが零れ、あちこちでその名が口へと上る。
 その身と引き換えにミュウの未来を守り、メギドに散ったソルジャー・ブルー。
 彼に逢った者は今の今まで、誰一人として居なかった……。
「…ブルーなのかい?」
 あれは、と遠い昔にブラウと呼ばれていたシャングリラの長老が呟いた。
「そうらしいのう…。今まで何処におったものやら」
 かつてゼルと呼ばれた長老が応じる。
「ブルーに違いないわね、あれは」
 間違えはしない、とエラであった魂の声が重なり、穏やかなヒルマンの声も重なる。
「そうか、ブルーは地球へ行くのだね…。前と全く同じ姿に生まれるのだね」
「おや、本当だよ。あの赤ん坊が今度のブルーなのかい」
 赤ん坊ですらないんだけどね、とブラウが笑った。
 母の胎内に宿ったばかりの小さな命。人の形すら持たない器へと神の御使いが降りてゆく。
 けれど魂だけの者たちには分かる。
 その器がいつか、かつてのソルジャー・ブルーと同じ姿に育つものだと。
「…しかし、解せんのお…」
 なんで今まで何処にもおらんかったのじゃ、とゼルが腕組みをして。
 他の長老たちもしきりに首を捻った。
 今までブルーは何処に居たのかと、何故今になって地球へ行くのか、と…。



 ブルーの魂が地球に降りた後、折に触れては見守っていたかつての長老たちだったけれど。
 母の胎内で眠るブルーの魂が不意に飛び跳ねる時があると気が付いた。
 けして目覚めるわけではないのだが、喜びの気配を確かに感じる。何ゆえなのかと訝りつつも、眠る魂を見守り続けて…。
「あら、また跳ねたわ」
「何だろうねえ、喜びそうなものは何も無いんだけどねえ?」
 定期健診で病院を訪れているブルーの母。待合室の椅子に座った彼女の胎内でブルーが跳ねた。眠りながらもその嬉しさを隠そうともせずに。
「夢なのかしらね?」
「そうかもねえ…」
 いったい何の夢なんだか、とブラウが病院の外に向けた意識が公園を捉えた。病院からほど近い所に広がる大きな公園。親子連れや散歩中の人々が行き交う中をタッタッと駆けてゆく頑丈そうな体格の若者。褐色の肌に金色の髪。その面差しに見覚えがあった。
「ちょっと、エラ! あれをご覧よ」
「…まさか、ハーレイ?」
「それ以外の誰に見えるってんだい? ちょいと若いけどさ」
 かつてアルタミラを脱出した頃のハーレイにそっくりな姿の若者。その身に宿る魂はハーレイのものに間違いない、と直ぐに分かった。ヒルマンとゼルも寄って来る。
「おやおや、ずいぶん若くなったものだ」
「若づくりと言うんじゃ、若すぎじゃ、あれは!」
 もっと老けんかい、と毒づくゼルは自分ではとても気に入っているらしい禿げ頭で。ヒルマンもまた白髪に白い髭、ブラウとエラも長老だった頃そのままの姿。
 そんな姿を好む彼らを他所に、若いハーレイが走ってゆく。ブルーの母が居る病院との間が近くなるにつれて、ブルーの魂が喜びに跳ねる。
「…ハーレイを待っているのかい?」
「さあ…?」
 ブラウとエラが言い交わす間に、ハーレイは軽快に公園を駆け抜けて道路の方へと出て行った。するとブルーの魂は何も無かったかのように眠ってしまって、それきり跳ねることは無かった。
「…やっぱりハーレイだったのかねえ?」
「どうなのかしらね?」
 いずれ分かるといいのだけれど、とエラが返して。それから間もなく、彼らは気付いた。
 ブルーの魂に逢った者は今までに誰一人いない。ハーレイもまた、そうではなかったかと。



「…いつの間にか消えておったんじゃ」
 最初は居たんじゃ、とゼルが遙かに過ぎ去った地球が燃え上がった日に思いを馳せる。あの日、地球の地の底で命尽きた直後は長老たちは揃っていた。ハーレイも彼らの中に居た。
 それがいつの間に見えなくなったか、誰の記憶も定かではない。
 しかしハーレイはいつしか姿を消していた。誰と挨拶を交わしもせずに、いつの間にか何処かへ消えてしまった。
 多分、何処かに新しく生まれたものであろうと思ったから。
 誰も探しに行きはしなかったし、そうしたものだと考えていたが…。
「そう言えば一度も逢っていないか…」
 あれきり逢いはしなかったか、とヒルマンが白い髭を引っ張る。
「私は一度も逢っていないが、誰かハーレイに逢ったかね?」
「あたしは一度も逢っていないよ」
「私もだわ」
「わしもじゃ」
 では、何処に。長老たちの視線が交差した。
 地球が蘇るほどの長い長い間、自分たちは幾度も顔を合わせた。今のように揃うことも珍しくはなく、ジョミーやキースまで居たこともある。
 それなのに一度も、誰も逢わなかったというハーレイ。
 ブルーと同じで、見た者が誰も無いハーレイ。
「…ブルーと一緒に居たのかねえ?」
 なんでまた、とブラウが軽く頭を振った時、ブルーの魂が跳ねる気配が届いた。皆で見た先に、タッタッと軽快に走るハーレイ。彼とすれ違う、病院帰りのブルーの母。
 その瞬間に、彼らはようやく思い至った。
 何故、ハーレイは何処にも居なかったのか。ブルーの魂が喜びに跳ねるのは何故なのか。
「…そうだったのかい…。あんたたち、恋人同士だったのかい…」
 知らなくてごめんよ、とブラウの瞳から涙が零れた。
「ブルー、ホントに辛かったろう…。知ってたらメギドにゃ行かせなかったよ…」
「うむ。水臭い奴らじゃ、いつか会ったら、うんと叱ってやらんとのう…」
 馬鹿者どもが、と言葉は酷いけれども、ゼルもまた涙ぐんでいた。
 遠い遠い昔、別れの抱擁さえも交わすことなく死に別れてしまった恋人たち。
 彼らが今まで何処に居たのかは分からないけれど、もう一度地球で巡り会うのだ。
 青い地球の上で二人巡り会うためにだけ、ブルーの魂は地球へと降りて行ったのだ……。



 誰にも仲を悟られることなく、隠し通した恋人たち。
 皆の前では最後までソルジャーとキャプテンであったブルーとハーレイ。
 二人は恐らく、二人だけで何処かに居たのだろう。
 新しい命を授かりもせずに、長い長い時を、ただ二人きりで何処かで過ごした。
 その果てに多分、二人で願った。
 青い地球に生まれて巡り会いたいと、恋人同士として再び二人で生きてみたいと。
 前と全く同じ姿で、ブルーが焦がれた青い地球の上で…。
 神は御使いにブルーの魂を託し、先に生まれたハーレイから近い場所へと送り出した。
 いや、最初から定まっていたのだろう。
 ハーレイが今の身体に生まれて来た場所も、ブルーの魂が宿った場所も。
 彼らが再び巡り会うのがいつになるのかは分からないけども…。
「あたしたちと会うことは、これから先も無いんだろうねえ…」
「無いじゃろうなあ…」
 会ったらハーレイを一発殴りたいんじゃが、とゼルが自分の拳を擦る。
 何も言わずにブルーをメギドに行かせてしまったハーレイを殴りたい気分なのだ、と。
「知っておったら止めておったわ、挙句に今頃泣かねばならん」
「ホントだよ。…まったく、何年経ったと思っているのさ…」
「ええ。でも、また二人で何処かへ消えるのでしょうね」
「そうなるだろうな…」
 私たちの所へは来ないだろう、とヒルマンも頷く。
 まだ出会ってもいない恋人同士の二人は再び巡り会い、今度こそ幸せになるであろうけれど。
 彼らの生が終わった時にもこの世界には来ないであろう、と。
 何処に行くのか分からないけれど、彼らには二人きりで過ごした世界が在った筈。
 二人は其処へと共に還って、二人だけの時を過ごすのだろうと…。
 それが彼らの決めたことならば、それでいい。
 巡り会えないことは寂しいけれども、恋人たちが幸せでいられるのならば……。



 青い地球の上で時は流れて、季節は移る。
 神の御使いがブルーの魂を抱いて地球へと降りた時には青葉の頃だった、若いハーレイが暮らす町。彼が古典の教師となって一年目の年度の終わりは三月の末。
「…明日から新年度が始まるしな」
 リフレッシュして気分を引き締めねば、とハーレイは朝早くからジムに向かった。二年目となる教師生活。担任をすることも覚悟していたが、そちらの不安は三月半ばに解消された。ハーレイが顧問を務める柔道部の成績が上々だったため、担任は持たずに柔道部と共に大会を目指す。
 任された以上は、全力で。自分の体調管理も大切な仕事。
 ジムのプールで思い切り泳いで、それからジョギングに出発した。走るコースは何通りもあり、どれを行くかはその日の気分。
(…そろそろ桜が咲いてくる頃か…)
 公園の方に行ってみるか、とハーレイは町を走り始める。麗らかに晴れた三月の一番最後の日。明日から四月というだけはあって、日射しはすっかり春のものだ。
 あちこちの家の花壇やプランターに花が咲き始め、街路樹もうっすらと芽吹きの緑。吹いてゆく風も肌に心地よく、走るには最高のジョギング日和。
 手を振ってくれる子供たちに手を振り返しながら颯爽と走り、公園が近付いてくると胸が次第に高鳴って来た。桜のせいだ、とハーレイは思う。今の季節は桜がいい。
(チラホラとでも咲いていると実に幸先がいいんだが…)
 古典の教師だからこそ知っている。SD体制よりも遙かに遠い昔の合格電報、「サクラサク」。合格したい試験は無いが、柔道部を大会に出してやるなら「サクラサク」。
 咲いているといいな、とハーレイが公園を目指していた頃、公園から見える病院へと走ってゆく一台の車があった。ブルーの父がハンドルを握っている車。初めての子供が生まれそうだと報せを受けて病院へと急ぐブルーの父の車。
 ブルーの父の車はハーレイを追い越し、ハーレイはそれとも気付かなかった。公園から目に入る病院の建物に誰が居るのか、誰が生まれて来ようとしているのかにも気付かない。
 けれど心は高鳴ってゆく。公園で待っている素敵な出来事。
(…おっ!)
 咲いているな、と遠目に捉えた桜の木の枝に目を細めた。いわゆる咲き初め、チラホラと咲いた白に近く見える桜の花。
(サクラサク、か…!)
 最高の気分で公園を駆け抜けてゆくハーレイは夢にも思わない。
 たった今、産声を上げた小さな命。それが前世で愛した恋人のもので、胸が高鳴っていた本当の理由は生まれる直前のブルーの魂と共鳴したからなのだとは…。



「鈍い! あんた鈍いよ、ハーレイ!」
 どの辺がサクラサクなんだい、と見守っていたブラウが詰る。
「仕方ないわよ、ブルーだってもう分かってないもの」
 エラが吐き出した微かな溜息。
 産声を上げる少し前まで、ブルーの魂は飛び跳ねていた。ハーレイが近付いてくるのを感じて、喜びに弾んで小躍りしていた。
 そのハーレイが最も病院に接近してから次第に離れてゆきつつあるのに、ブルーの魂は跳ねたり弾んだりする代わりに母の方へと向いている。生まれてしまったのだから魂ではなく心だろうか、それが向く先は母と、その傍らでブルーに指を握らせている父と。
「おやまあ…。普通の赤ん坊になっちまったのかい?」
「そうみたい…。ハーレイばかりを責められないわ」
「ふむ…。すると恋人同士になるとしてもじゃ、暫く時間がかかるのかのう?」
「そうなるだろうな…」
 私たちが揃っている間に見届けてやりたいものなのだがね、とヒルマンが言えば。
「どの辺までだい?」
 覗きは御免蒙るよ、とブラウがツンとそっぽを向き、「確かにのう…」とゼルが応じる。
「わしも悪趣味な覗きは御免じゃ、第一、なんで今頃あてられにゃいかん」
「ならば、この辺でやめておくかね?」
「そうねえ、今ならキリがいいわね」
 このまま見ていればズルズルと…、というエラの意見に長老たちは皆一様に頷いた。
 もう少しだけ、という気持ちは募ってゆくのに決まっている。
 恋人たちの悲しすぎた別れを知っているからこそ、見届けたくなるに決まっている。
 けれど彼らは自分たちの所に戻っては来ない。
 享けて間もない生が終われば、また二人だけの世界へと還る。
 ブルーが無事に生まれる所までは見届けたのだし、後は二人きりにしておくべきだろう…。
「今度こそ幸せにおなりよ、ブルー」
「ブルー、ハーレイと幸せにね?」
「うんと幸せになるんじゃぞ。前の分もじゃ」
「幸せにな、ブルー…」
 皆がそれぞれの言葉をブルーに投げ掛け、心からの祝福を生まれたばかりの赤ん坊に告げて。
 二度と見まい、と遙か離れた魂の世界からの優しく暖かな見守りは終わった。
 サクラサクと公園を駆け抜けて行ったハーレイに呆れ果てながら…。



 咲き初めの桜を楽しんだハーレイのジョギングコースは、自分の家が終点だった。教師になると決めた時に父が買ってくれた一戸建て。両親は隣町に住んでいるから、庭つきの家に今はハーレイ一人。いずれは妻や子供が一緒に住むのだろうが…。
(今の所は俺一人だしな?)
 気ままな一人暮らしも気に入っていた。鍵を開けて入り、軽くシャワーを浴びたら鼻歌交じりに料理を始める。桜も咲き始めていたし、こんな日は少し豪華な夕食もいい。
「よし、明日から始まる新年度と柔道部の前途を祝して、晩飯はステーキで一杯やるか」
 ならば昼食は簡単に。オムライスにサラダ、ソーセージでも焼けば上等だ。食べ終えたら店まで買い出しに行こう。ステーキ肉と、それに合う赤ワイン。重いのがいいか、軽めがいいか。
(…いっそ見た目で選んでみるかな)
 赤という色に心が躍る。ステーキ肉も今日はレアにしようか、明日からの活力が漲る気分。
(うん、赤がいいな。血の色の赤だ、肉もワインも)
 何故か血の赤に心が惹かれた。血気盛んと言うくらいだから、きっと健康の証だろう。血の色のワインとレアステーキで更に体力をつけて、新しい年度に備えなければ。
 買い出しと夕食の段取りをしているハーレイを長老たちが見たなら、罵声が飛んだに違いない。
 血の色の赤はソルジャー・ブルーの瞳の色。
 生まれたばかりの恋人の瞳の色に惹き付けられているのに、其処でワインとステーキなのかと。
 けれど長老たちの見守りは終わり、ハーレイが気付くわけもない。
 前世からの恋人が生まれ落ちたことも、その瞬間に自分が近くに居たことも。



 そしてハーレイと魂を共鳴させていたブルーの方も、何も知らずに眠っていた。
 前の生から焦がれた地球に生まれて来たことも、その地球の同じ町に運命の恋人が居ることも。
 ハーレイが自分でも気付かない意識の底で垣間見た、血の色を映した瞳を閉じてブルーは眠る。母のベッドの隣に置かれた小さなベッドの中ですやすやと、本当に何も知らないままで。
 前の生での名前は忘れた。
 恋人が居たことも忘れてしまった。
 上も下も無く、時すらも無い白い空間で共に過ごした褐色の肌を持った恋人。
 鳶色の瞳の優しい恋人。
 それでもいつの日か、ブルーはきっと思い出す。
 柔らかな肌の下、その魂に刻まれた傷。
 恋人と共に過ごす間に、秘かに刻んだ見えない傷痕。
 その傷痕から鮮血が溢れ出す時、痛みがブルーの忘れ去った記憶を呼び覚ます筈。
 いつかハーレイと出会う時が来るまで、傷痕は見えはしないのだけれど。
 時の無い場所を出て、時の有る場所へ戻って来て二人巡り会うために、その魂に刻んだ傷痕。
 流れ出す血と、その痛みとで恋人を思い出すために…。
 そんな傷痕を持っていることさえ知らないままでブルーは眠る。
 ハーレイが買いに出掛けた赤ワインの色の瞳を閉ざして、青い地球に生まれた幸せの中で……。




          時の有る場所で・了

※ハーレイとブルー、ちゃんと出会っていたのです。ブルーが生まれて来るよりも前に。
 運命の二人なんですけれども、本当に会えるまでが長かったよね、というお話。
 第17弾の『時の無い場所で』と対です、やっと公開出来ました~!
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv





桜の花咲く入学式を経てシャングリラ学園、新年度スタート。私たちは毎度お馴染みの1年A組、担任はグレイブ先生です。入学早々の抜き打ちテストやクラブ見学などの行事も一段落して、今日から授業スタートで。放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へレッツゴー!
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
授業が始まるとみんなが来るのが遅くなるよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は残念そう。昨日までは行事の最中に抜け出して遊びに来たりもしていましたけど、当分それは無理っぽく…。
「授業が始まると抜けにくいよね…」
抜けたら最後、戻れなさそう、とジョミー君が言うと、会長さんが。
「最初から出ないって選択肢も特別生にはあるんだけどねえ? それで校内をウロついていても文句を言われるわけじゃなし」
パスカルたちを見習いたまえ、と引き合いに出されたパスカル先輩は数学同好会所属の特別生です。アルトちゃんとrちゃんが在籍していることでも分かる通りに数学同好会は特別生の溜まり場になっている上、欠席大王と名高い1年B組のジルベールもメンバーの一人。
「いいかい、あそこの顧問はグレイブだよ? なのに授業どころか学校にも来ないジルベールとか、来ても学食でランチだけっていうパスカルだとかボナールだとか…。そういうのがまかり通っているんだ、君たちもサボればいいのにさ」
「…それはそうなんですけども…」
柔道部はサボりにくいんですよ、とシロエ君。
「毎日練習で朝練も基本のクラブですし…。ぼくたちは本来だったら卒業している年齢ってことで多少の自由はありますけれど、心技体を重んじる柔道部の部員がサボリはちょっと」
後輩に示しがつきません、と説明する隣でキース君も。
「それに加えて俺の場合は、副住職だと学校中に思い切り知れ渡っているからな…。やはり真面目にやるしかないんだ」
「なるほどねえ…。今年も自己紹介でグレイブにキッチリ暴露されてたよね」
あれも年中行事になりつつあるね、と思い出し笑いをする会長さんにキース君がどんよりと。
「…言わないでくれ…」
昨夜は大変だったんだ、という妙な言葉に、サム君が。
「また葬式かよ?」
「いや、枕経を頼まれたわけではないが…」
そっちの方がまだマシかも、とはこれ如何に。枕経といえば誰かが亡くなったという知らせを受けて上げに行くお経。その後はお通夜、お葬式と続いてゆくわけで、キース君も全くのノータッチとはいきません。その枕経よりも大変だなんて、何が起こったというのでしょう?



副住職の肩書き絡みでキース君の顔を曇らせる昨夜の出来事。興味津々の私たちは「そるじゃぁ・ぶるぅ」が焼いてきた熱々の桜スフレをスプーンで掬いつつ膝を乗り出し、会長さんが。
「いったい何があったんだい? 夜のお寺で大変とくれば枕経しか思い付かないけど」
「…普通はな。正直、俺も腰が抜けるかと」
「「「へ?」」」
どんな凄いことが起こったんだ、と私たちの目がまん丸に。まさか強盗でも入ったとか?
「いや。…ハリテヤマだ」
「「「ハリテヤマ?」」」
なんだそれは、と派手に飛び交う『?』マークの中、シロエ君が。
「ハリテヤマって、確かポケモンでしたよね? 先輩、アレがお気に入りですか?」
えっ、ポケモン? いわゆるポケットモンスター?
「そういうわけでもないんだが…。とにかく張り手が得意なもんで、そんな渾名がついている」
「キースの家って相撲部屋にも貸してたっけ?」
初耳だけど、とジョミー君。相撲の巡業の時にお寺が宿舎になるという話は知っています。でも、それって長期の地方巡業の時で、アルテメシアみたいに短期間の場所だとホテルとかに泊まっているんじゃあ…。
「相撲部屋とは縁がないな。…ハリテヤマとも正直、御縁は欲しくないんだ」
「それって、どういう御縁なんです?」
シロエ君の質問に、キース君は。
「…夜中に庫裏の裏口で音がするんだ、ドカン、ドカンと。宿坊にも来ると従業員さんが証言している。生ゴミのバケツに思い切り張り手をかました挙句に、倒して中身をガツガツと…」
もう片付けが大変で、との嘆きっぷりに相撲取りではないらしいことが分かりました。つまりはソレが昨夜も出た、と…。
「そっちの方なら驚かん。俺も親父も、昨夜は本当に恐ろしい思いをしたんだからな」
おふくろもだが、と深い溜息。
「坊主の道に入ってン十年の親父でさえも震え上がっていたんだぞ」
「…ハリテヤマでかよ?」
たかが生ゴミ漁りだろ、と呆れ顔のサム君と私たち。夜な夜な生ゴミのバケツに張り手をかます程度の存在なんかより、怒らせたら鬼なアドス和尚の方が遙かに怖そうなんですけれど…。



「…お前たちもその場にいたら笑うどころではないと思うがな」
よく聞けよ、とキース君はコーヒーで喉を潤してから。
「昨夜は親父と碁を打っていたんだ。やたらと「待った」をかけてくるから時間もどんどん遅くなってな。あれは十一時をとっくに回った頃だったか…。いきなり窓の向こうに明かりが」
「「「???」」」
「渡り廊下で繋がった先に本堂がある。その本堂に急に明かりが点いたんだ」
「お母さんじゃないの?」
何か用事があったとか、とジョミー君が訊いたのですけど。
「おふくろは俺たちに夜食を運んで来たところだった。つまり、おふくろでは有り得ない」
「宿坊の人もいるだろう?」
休業中でないのなら、との会長さんの指摘に、キース君は「まあな」と即答。
「だが、本堂は夜間は施錠してるんだ。仏像泥棒も多い昨今、御本尊様を盗まれたのではたまらんからな。…そして本堂の鍵は庫裏にしかない」
持ち出す場合は一声かけてが鉄則だ、とキース君。早い話がキース君やアドス和尚に無断で夜の本堂には入れないわけで。
「当然、親父はおふくろに訊いた。誰か本堂に用だったのか、と。だが、おふくろは「知りませんよ」と答えたんだ。それで親父が宿坊に訊いたら「こっちは全員揃っています」と」
「じゃあ、泥棒…」
警察ですよね、とシロエ君の声が少し震えれば、キース君が。
「泥棒が明かりをつけると思うのか? そんな真似をしたら即バレだろうが!」
「…そ、それじゃあ…」
何なんです、とマツカ君の顔が青ざめ、スウェナちゃんも。
「…ま、まさか、幽霊…?」
「それしか残っていないぞ、普通は」
寺だけに、と肩を竦めるキース君。
「日頃のお勤めが足りなかったか、はたまた成仏希望の通りすがりか。…どっちにしても夜更けの本堂に出たとなったらただでは済まん。立派な心霊現象だ」
「「「………」」」
それはコワイ、と顔を引き攣らせる私たち。もちろん当事者だったキース君たちも其処は同様。とはいえ本職だけに逃げてもいられず、法衣に着替えて数珠を握って現場に向かったというから流石です。よりにもよって本堂にオバケ。深夜に明かりって怖すぎですって…。



幽霊だろうと踏んだキース君とアドス和尚ですが、泥棒はともかく不審者の可能性もゼロではありません。棒で武装した宿坊の男性従業員二人を先頭に渡り廊下を通って本堂の扉の前に着くと。
「…物音ひとつしないんだ、これが。怖いだろう?」
「「「…う、うん…」」」
怖すぎるよね、と見交わす視線。どう考えても幽霊です。
「とにかく開けよう、と廊下側の鍵を開けてだな…。従業員さんたちと踏み込んでみたら、御本尊様の前のお花が畳に撒き散らかされていて、お供え物が」
「「「お供え物?」」」
「そうだ。お前たちも知っているだろう? 果物や菓子を供えてあるのが荒らされてたんだ」
「「「は?」」」
どんなアクティブな幽霊なんだ、とビックリ仰天。ポルターガイストの類だろうか、と思いましたが、キース君は「まだ分からんか…」とコーヒーをズズッと。
「親父たちと顔を見合わせていたら、ガタンと音がして影が走った。そして柱の上にだな…、こう、思い切り毛を逆立てたハリテヤマが」
「「「ハリテヤマ?!」」」
「ああ。どうやら天井裏から入って本堂で悪さをしていたらしい。でもってウッカリ電気のスイッチを入れたんだろうな、ケダモノだけに」
法衣まで着たのにとんだ道化だ、とブツブツ呟くキース君。
「おまけにその後が大変で…。追い出そうにも柱の上で怯えてやがってどうにもならん」
机を置いてやっても下りて来ないし、餌を差し出しても涎を垂らしているだけで…、と嘆き節。
「しかし放置もしておけん。仕方ないから本堂の扉を開け放ってだ、俺たちは一旦撤収で…。一時間後に見に行ってみたら既に姿は無かったな」
釣り餌代わりに置いておいた葡萄パンも消え失せていたが、とブツブツブツ。
「まあ、幽霊でなくて良かったと言えば良かったんだが…。それから本堂の掃除と片付けをして寝たのが朝の四時だぞ? 本堂は土足厳禁だからな、畳もキッチリ拭かないと…」
ましてケダモノは穢れたモノで、と大変っぷりを強調されるとお気の毒としか言えません。御本尊様も時ならぬ『お身拭い』とやらをしたのだそうで、宿坊の従業員さんたちも総動員の真夜中のお掃除タイムとは…。
「というわけでな、怪奇現象で震え上がるわ、後片付けに振り回されるわで俺は正直、疲れているんだ。ハリテヤマなぞ二度と御免だが、そういうわけにもいかなさそうで…」
本堂に侵入されたとなると…、と腕組みをしているキース君。ところでハリテヤマで話が進んでますけど、ハリテヤマって、そもそもどういうモノなの?



キース君曰く、張り手が得意なハリテヤマ。ポケットモンスターといえばかつての人気ゲームで、シロエ君はハリテヤマのビジュアルを知っているようです。男の子たちはマツカ君を除いてそれなりに心当たりがあるようですけど、それに似ている動物でしょうか?
「…ああ、すまん。女子にはイマイチ通じなかったか…。まあ、ジョミーたちでも危うそうだが」
外見までハリテヤマに似ているわけではないからな、とキース君。
「世間一般にはハリテヤマと言うよりラスカルだろうな」
「「「ラスカル?」」」
「ほれ、アレだ。昔の子供向けアニメで人気だったと聞いたことはないか?」
「あー、アライグマ!」
アニメの方は知らないけれど、とジョミー君。私もその名前だけは知っています。もちろん他の男の子やスウェナちゃんも。小さな子供とはいえ三百年以上も生きている「そるじゃぁ・ぶるぅ」はラスカルと聞いて大喜びで。
「キースの家にラスカルが来るの!? いいなぁ、ラスカル、可愛いもん!」
遊びたいよう、と瞳がキラキラ。その一方でキース君と同じく僧籍にある会長さんは。
「…ハリテヤマでは気付かなかったけど、アライグマかぁ…。それはマズイね」
「マズイだろう?」
「うん。マズイというのは良く分かる」
どうするんだい、と滅多に見せない真面目モードな会長さん。お寺にアライグマってマズイんですか? そういえば国宝のお寺の屋根を破ったとか聞いたかなぁ…。
「屋根だけじゃないよ、柱や壁もやられるさ」
本堂まで入ったとなると問題なんだ、と会長さんは真剣な顔。
「生ゴミバケツを漁ってる間は他所から来てるってこともあるしね、さほど神経質にならなくてもいい。だけど本堂に侵入したなら、まず間違いなく住み付かれている。屋根が破られたり柱が傷だらけになるのも時間の問題」
「…そこなんだ。親父も本堂を片付けながら何度も溜息三昧で…」
実に困った、とキース君。
「既に入られてしまっていたら駆除する以外に方法は無い。しかしだ、今の法律では…」
「「「法律?」」」
アライグマに法律があるんですか?
「ああ。特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律。略して外来生物法だ」
これがマズイ、とキース君が答えて、会長さんが。
「早期発見と迅速な完全排除。…アライグマはこれに該当するんだよ」
お寺にとってはマズすぎだよね、と言われましても、どの辺が?



法律まであるらしいハリテヤマことアライグマ。その法律がお寺にはマズイらしいのですけど、どうマズイのかが私たちにはサッパリでした。本堂に住み付かれたと言うんだったら完全排除で出て行って貰えば終わりなのでは…。
「それが違うんだな。完全排除は処分の意味さ」
保健所に持ち込んで殺処分しろという決まり、と会長さん。
「捕獲したアライグマを他所に放すのは禁止されてる。捕まえた以上は責任を持って保健所へ、と決まっているからマズイんだよ。…お寺は殺生厳禁だしね」
アドス和尚もそこで困っているんだろう、と会長さんが水を向けるとキース君は。
「そうなんだ。放っておいたら出て行くだろうか、とも親父は言っているんだが…。出て行ってから本堂の屋根裏に入れそうな場所に網を張るか、とか」
それまでの間は多少の傷は我慢するとして…、という消極的な対処法がアドス和尚の方針らしいです。殺生が出来ない以上は仕方ないか、と私たちも納得したのですけど。
「甘いよ、キース。時期が悪すぎ」
これが夏なら良かったんだけど、と会長さん。
「夏なら子育ても一段落して子供も大きくなるからねえ…。新天地を求めて旅立つ可能性もゼロではないけど、今は子育てシーズンだから当分は出て行かないよ」
下手をしたらまだ子供は生まれていないかも、との会長さんの言葉にキース君が。
「…子供だと? あれ一匹ではないというのか?」
「うん、多分。時期が時期だけに確実に夫婦、おまけにもれなく子供つきさ」
生まれているかお腹の中かの違いだけだ、と断言されてキース君は口をパクパク。
「…こ、子供つき…。まだ増えるのか?」
「それはもう! なにしろアライグマは妊娠率が百パーセントで」
「「「百パーセント!?」」」
なんですか、その驚異的としか言えない数字は? けれど会長さんはスラスラと。
「そこがアライグマの処分が必須な所以さ、メスは1歳、オスは2歳で成獣になる。でもって生後2年以上の妊娠率はほぼ百パーセントというのが定説。不妊症でない限り、確実に産む。それも一度に三匹から六匹」
「…ひ、百パーセント…。三から六匹…」
もうダメだ、とキース君は頭を抱えました。
「夫婦は確実、おまけに子供…。そ、そんなのを放っておいたら本堂が…。屋根や柱や壁はともかく、御本尊様でも引っ掻かれたら…」
だからといって捕獲したら最後、殺生の罪が…、と悩みまくっているキース君。アドス和尚も子供つきと聞いたら思い切りショックを受けるでしょうねえ…。



本堂の屋根裏で増殖するらしいアライグマ。一匹でも昨夜の騒動なだけに、更に子供が増えるとなると大惨事になるかもしれません。しかし捕まえれば保健所送りという法律の前に、殺生禁止な元老寺とキース君たちは大ピンチ。子育てが済んで出て行くまでに御本尊様がやられたら…。
「くっそぉ…。もう少し前に聞いていればな、その恐ろしい妊娠率を…」
知っていたなら本堂の屋根に登って入られそうな場所に網を張った、とキース君が悔やみまくっても後悔先に立たずです。ハリテヤマことアライグマの夫婦はとっくに入ってしまった後で。
「ど、どうすればいいんだ、ウチは…。百パーセントでは逃げ切れん…」
三匹でも夫婦の倍以上の数字で六匹だったら四倍で…、とアライグマ家族の増えっぷりと拡大するであろう被害に泣きの涙のキース君。増えれば増えるほど御本尊様に傷をつけられる確率もググンとアップしてゆくわけで…。
「なんで百パーセントなんだ! おまけになんでそんなに産むんだ!」
殺生な、と嘆かれましても、その殺生が厳禁な以上、どうにもこうにもなりません。それにしたって百パーセントとは強烈な数字ですけども…。
「うん、本当にすごいよね」
あやかりたいな、と声が聞こえてバッと振り返る私たち。フワリと紫のマントが揺れて、ソルジャーが赤い瞳を輝かせていました。
「今日は桜のスフレだって? ぶるぅ、今からぼくのも作れる?」
「んとんと…。生地から作るから時間がかかるの…。そんなに待てる?」
「それは無理! それじゃ他ので」
待たずに食べられるお菓子がいいな、というソルジャーの注文でふんわりピンクの生地が素敵な桜のロールケーキが出て来ました。私たちのスフレのお皿も下げられ、代わりにケーキが。桜のスフレは「そるじゃぁ・ぶるぅ」がソルジャーの夜食用に作ると言っています。
「いいのかい? それじゃ喜んでお願いするよ。来て良かったなぁ」
ついでにアライグマにもあやかりたいな、と現れた時の台詞がもう一度。
「百パーセントってことはハズレ無しだろ、それって絶倫って意味だよね?」
「「「は?」」」
なんのこっちゃ、と首を傾げる私たちに向かってソルジャーは。
「だから精力絶倫だってば、ヤッたら確実に妊娠だなんて凄すぎる数字だと思わないかい? そのパワーに是非あやかりたいと思うんだけども、アライグマの薬って無いのかな?」
あったらぼくのハーレイに…、とソルジャーが言い終える間もなく会長さんがテーブルをダンッ! と拳で叩いて。
「退場!!!」
今はそういう場合ではない、と柳眉を吊り上げる会長さん。そりゃそうでしょう、百パーセントの妊娠率で困っているのに、あやかりたいだなんて不謹慎ですよ…。



アライグマの驚異的な妊娠率に釣られて出て来たソルジャー。会長さんが怒鳴り付けても帰るどころかドッカリ居座り、ロールケーキを頬張りながら。
「…ねえ、本当に無いのかい? オットセイとかの薬はあるよね、アライグマは?」
「無いってば!」
そんな薬は存在しない、と会長さんは素っ気なく。
「そもそも漢方薬の国には生息してない動物だしねえ、誰もチャレンジしてないよ。生息場所だと毛皮がメインで、あとはせいぜいペットくらいかと」
「そうなんだ…。だったら作るのも難しそうだね」
「それ以前の問題として、アライグマなんかが効くかどうかが疑問だよ!」
バカバカしいことに挑戦するな、と突っぱねてから、ハッと息を飲む会長さん。
「…今、作るって言ったかい?」
「言ったけど?」
だけどハードルが高すぎるかな、とソルジャーは首を捻っています。
「こっちの世界でも無理な薬をぼくの世界で作るというのは難しいかも…。こっちで買った漢方薬の精力剤をさ、ノルディに再現可能か訊いたら「無理ですね」って却下されたし…」
そもそも材料の問題が…、と語るソルジャー。
「ぼくの世界では手に入らない材料が多用されてるらしい。一部は合成可能らしいけど、肝心かなめの材料が……ね。オットセイとか」
「なるほどね…。だったら材料があればいいのか」
「うん、多分」
材料さえあれば後はノルディの腕次第、と紅茶のカップを傾けるソルジャー。
「ぼくの世界のノルディは仕事の鬼だし、アライグマの薬もいつかは完成させるかも…。それに無理でも百パーセントの妊娠率を誇る生き物がシャングリラにいればハーレイも燃えてくれそうだ」
アライグマのサンプルを是非一匹、とソルジャーが言い出し、会長さんが。
「えっと…。検疫の問題は? こっちの世界の生き物を連れて帰るのはリスクが高いと前に言ってなかったっけ?」
「ああ、それかい? 君たちの話を聞いた感じじゃ、アライグマってヤツは子供にウケがいいんだろう? 子供たちの遊び相手に連れて来た、と言えばキッチリ検査をしてくれるさ」
検査に通れば後は飼育部の仕事、とソルジャーはやる気満々です。でもアライグマって凶暴なんだと聞いていますよ、子供の相手には向かないんじゃあ?
「えっ、凶暴? うーん、それは…。でもまあ、可愛かったらいいんだよ、うん」
遊べなくても和めば充分、とアライグマお持ち帰りコースを希望のソルジャー。もしかしてコレって渡りに船かも?



百パーセントの妊娠率を誇るアライグマを使って精力剤を、というソルジャーの思い付き。そのサンプル用に一匹欲しい、と言っていますが、アライグマは一匹どころか夫婦と子供つきで元老寺を悩ませている存在です。上手くいったら…、と会長さんも考えているらしく。
「サンプルとなったら一匹よりも二匹の方が良くないかい? 絶倫っぷりを調べたいなら一匹ではちょっと…。やっぱりここはオスとメスとをセットものでさ」
「ああ、そうか! オスだけだと調べられないねえ…」
「そうだろう? ついでに子供もセットでどうかな、避妊しちゃえば増えないし」
可愛い動物だと主張するなら子供も是非、と会長さんが提案すればソルジャーも納得したようで。
「そうだね、動物の子供は可愛いものだし…。どうせ検疫するんだったら何匹いたって問題ないかな、そっち方面はぼくの仕事じゃないんだからさ」
「よし、決まり! 君に謹んでプレゼントするよ、キースの家のアライグマを」
「いいのかい?」
本当にぼくが貰っちゃっても、と狂喜するソルジャーはキース君を悩ませていたアライグマ騒動をまるで理解していませんでした。何処から覗き見していたのかは謎ですけども、百パーセントの妊娠率と聞いた瞬間から自分に都合のいい部分だけを拾い上げて話を組み上げたようで。
「生まれてるかどうかは分からないけど子供つきの夫婦を貰えるわけだね、帰ったら話を通しておくよ。まずは検疫部門と飼育部と…。ノルディの方はその後でいいや」
実物をゲットしてから相談しよう、とソルジャーはそれはウキウキと。
「ぼくの世界にもアライグマはいる筈だけども、動物園で飼われているだけだからデータくらいしか知らないんだよ。飼育方法はヒルマンに調べて貰おう」
久しぶりの大きな拾い物だ、とはしゃぐソルジャー、以前はシャングリラで飼育している動物たちの初代を人類側から盗み出したりしていたそうです。その時代にもシャングリラに病原菌などを持ち込まないよう検疫は必須だったため、今度のアライグマも問題無しで。
「まさか別の世界からやって来ただなんて思わないだろうし、少々変なモノが出たって「別の惑星で育ったアライグマか」って思われる程度だよ。なにしろ宇宙は広いからさ」
「それは良かった。じゃあ、キースの家のアライグマは捕まえとくから、君の世界の準備が出来たら取りに来てよね」
「喜んで! 精力絶倫の生き物を連れて来るから、ってハーレイにもしっかりアピールしておく」
アライグマに負けない勢いで励むようにと発破をかける、とブチ上げたソルジャーは勢い込んで帰ってゆきました。えっ、夜食用の桜のスフレはどうなるのかって? 焼き上がる頃合いを見計らって会長さんの家に行くそうですよ、今はアライグマが最優先事項らしいです~。



「…マッハの速さで解決したねえ、君を悩ませたハリテヤマ」
まさかブルーが引き受けるとは、と会長さんはニコニコと。キース君も安堵の表情です。
「いや、本当に助かった。これで安心して捕まえられるが、問題は…」
「まだ何か?」
会長さんの問いに、キース君は顎に手を当てて。
「捕まえた後はあいつの世界に送られるわけだが、その辺のことは親父にも言えん。あいつの存在は極秘だからな。捕まえはしても殺処分しない理由をどうしたものか…。アライグマを生かしたままで引き受けてくれる施設なんぞは無い筈だ」
「そうか…。どうだろう、そこはマツカのコネとでも言って」
「「「は?」」」
どういう意味だ、と当のマツカ君までが怪訝そうですが、会長さんはアッサリと。
「マツカのお父さんは世界中に顔が利くだろう? アライグマの生息地にもね。そっち方面の人に頼んで引き取って貰うんです、ってことでどうかな」
「いいですね、それ。…ぼく、どうして思い付かなかったんでしょう…」
キースがあんなに困っていたのに、とマツカ君は軽く自己嫌悪。会長さんも同じくで。
「ぼくも今まで頭に無かった。もうちょっと頭が回っていればねえ…。でもさ、最初っからコレを思い付いていたら手続きが何かと面倒だよ? それこそ検疫とか色々と…ね。里親探しもしなきゃダメだし、もちろん御礼も」
その点、ブルーが持ち帰りコースなら世話要らず、と開き直った会長さん。
「捕まえてブルーに引き渡すだけだし、心の底から喜ばれるし…。誰に迷惑もかけないわけだし、結果オーライというヤツさ。アドス和尚には「引き取ってくれる人が見付かったから捕まえる」と説明しておきたまえ」
「分かった。…で、捕まえる方法は…。罠は借りられないからな…」
アレは届け出が必要らしい、とキース君。
「ついでに捕まえたアライグマを保健所に引き渡すのとセットらしいし、罠は自作か?」
「ぼくが作ってみましょうか?」
機械弄りよりは簡単でしょう、とシロエ君が。
「探せば資料がありますよ、きっと。堂々と捕まえていいんだったら何の工夫も要りませんしね」
罠を作るのも面白そうです、と乗り気になったシロエ君は今夜から作業にかかるそうです。元老寺に住み付いたらしいアライグマの夫婦だかファミリーだかは、近日中にあの世ならぬ別の世界に送られることになるようですよ~!



それから一週間ほどが経ち、ハリテヤマことアライグマの夫婦は見事お縄になりました。会長さんからの知らせで土曜日の朝から出掛けてゆくと、会長さん宅のリビングの一角にシールドが張られ、その中の檻にアライグマが二匹。
「昨日の朝に一匹かかったっていうのはキースから聞いていただろう? 昨夜もう一匹かかったんだよ、メスの方がね」
やっぱり思ったとおりにおめでた、と会長さんが指差すメスはお腹がふっくらしています。ということは、増殖する前に捕獲成功ってわけですね?
「そういうこと! これで屋根裏にアライグマは居なくなったし、キースは少し遅れて来るよ」
「あ、ホントだ」
いないや、とジョミー君がリビングをキョロキョロ見回して。
「なんでキースは遅れるわけ?」
「ん? それはね、アライグマの捕獲に成功したから、二度と入られないように屋根に網をね…。宿坊の男の職員さんたちが業者さんと一緒に登って仕事をしてる。こんな事でもないと本堂の屋根なんて登る機会が無いだろう、とアドス和尚がキースにも行けと言ったのさ」
「そういや自分で言ってたよなあ、網を張っときゃよかったってよ」
元から登るつもりだったぜ、とサム君が思い出し、スウェナちゃんが。
「そうね、だったらお手伝いくらい大したことはないわよね」
「…さあ、それはどうだか…」
本人が来たら聞いてごらん、と会長さんがクスクスと。可笑しいことでもあるのだろうか、と不思議に思った私たちですが、疑問はキース君の登場と同時に解消しました。
「…二度と御免だ、もう絶対に本堂の屋根には登らんぞ…」
親父にもそう宣言してきた、と言って檻の中のアライグマを睨むキース君。
「お前たちのせいで俺は死ぬ目に遭ったんだ! よくも屋根の上にあちこち糞をしやがって…。親父が下からキッチリ掃除しろと怒鳴るんだがな、命綱をつけてもあの屋根の傾斜は怖かったぞ!」
いつ滑るかとヒヤヒヤだった、とキース君は文句たらたら。それでもアライグマは捕まったんですし、殺生がどうこうという悩みも解決するんですから贅沢を言えば罰が当たるんじゃあ…。
「まあ、それはそうだが…。で、あいつは来るのか?」
「ブルーかい? 検疫部門も飼育部もとっくに説得済みだそうだよ、もうすぐ来ると思うけど」
なにしろ御希望のアライグマの夫婦、と会長さんが言い終える前に部屋の空間がユラリと揺れて。
「やっと捕まったんだって?」
もう楽しみで楽しみで、と現れたソルジャーは不純な目的に燃えていました。妊娠率百パーセントのアライグマを持って帰って研究三昧、絶倫の薬がどうとかこうとか…。



ソルジャーの世界に連れてゆかれたアライグマの夫婦は検疫をクリアし、メスはその後に無事に出産、六匹の子宝に恵まれたらしいです。アライグマの一家、シャングリラの子供たちはおろか大人たちにも人気の見世物になっているそうで。
「実にいいものを貰ったよ、うん。ぼくの株も上がっているんだけども…」
でもねえ、と溜息を吐き出すソルジャー。今日は日曜、会長さんの家で昼前からお好み焼きパーティーの真っ最中ですが、ソルジャーの顔色は冴えません。
「ノルディにこっちで買った薬のサンプルを色々渡して、アライグマの観察と研究もさせているんだけども…。妊娠率が百パーセントの件はともかく、その先がねえ…」
どうも芳しくないんだよね、とソルジャーはフウと再び溜息。
「コレという決め手が無いらしい。アライグマの薬は無理じゃないか、と言われちゃったよ。こうなった以上、ハーレイのライバル魂に火を点けるしかないわけで…。何度もアライグマを見せてコイツは絶倫なんだから見習って頑張れ、とは言ってるんだけど…」
元から頑張ってきたハーレイだけに難しくって、と気落ちしているソルジャー。
「昔みたいにヘタレな頃なら劇的に向上したかもだけれど、今ではねえ…。これ以上を、となれば特別休暇で朝までコースで、薬が無いならさほど変わりはしないんだよねえ…」
せっかくアライグマをゲットしたのに、とソルジャーはとても残念そう。自分とアライグマの人気が上がっても、元々の目的を果たせなければガックリ気分になるでしょう。でも…。
「仕方ないだろ、ぼくは最初から言ってた筈だよ? アライグマの薬は無いってね」
自業自得だ、との会長さんの指摘に、ソルジャーも。
「分かってるってば…。だけどアレだよ、少しくらいはアライグマな気分が欲しいんだけど…」
「アライグマな気分?」
「そう。妊娠率が百パーセントな絶倫とヤッているんです、っていう最高の気分」
気分だけでも欲しいんだよね、と未練たらたらのソルジャーの台詞に、会長さんが。
「それじゃ着ぐるみでも着せとけば?」
「着ぐるみ?」
「君のハーレイだよ。アライグマの着ぐるみを着せればいいだろ、コスプレ気分で!」
それでヤッておけ、と吐き捨てるように言い放つ会長さん。あのキャプテンに着ぐるみですか? アライグマだなんて、どう考えてもお笑いですが…、って、あれ? ソルジャー?
「……着ぐるみかぁ……」
いいかもね、とお好み焼きをつつくソルジャーの意識は何処かに飛んでいるようでした。待って下さい、本気で着ぐるみ? 大人の時間は分かりませんけど、本当にそれでいいんですか?



元老寺にハリテヤマが出なくなり、誰もがアライグマのことなど忘れ去ってしまったゴールデンウィーク後のとある土曜日。会長さんの家のリビングにたむろしていた私たちの前に空間を超えてソルジャーが出現しました。
「こんにちは。この前は素敵なアイデアをどうも」
「「「は?」」」
何の話だ、と心当たりなどゼロの集団が騒いでいると。
「ほら、着ぐるみだよ、アライグマの! ブルーが言ったろ、ぼくのハーレイに着せてヤったらいい、って!」
「「「あー……」」」
そういえば、と蘇る記憶と共に頭にポンッ! と着ぐるみ姿のキャプテンの映像が浮かびました。まさか本気で着せたんですか? タヌキみたいに間抜けですけど…。
「そのイメージは間違いだってば!」
サッサと消す! とチッチッと指を左右に振ったソルジャーは胸を張って。
「男らしさと絶倫のパワーは大事な部分に宿るんだよ、うん。そんな部分こそアライグマにあやかって頑張るべきでさ、当然、着ぐるみもその部分にね」
「「「………???」」」
ソルジャーが何を言っているのか全く分かりませんでした。着ぐるみと絶倫が何ですって?
「分からないかな、アレとか息子とか言ったら分かる?」
「退場!!!」
会長さんがレッドカードを突き付けましたが、ソルジャーは怯む気配も見せずに。
「実はね、着ぐるみは特製ゴムなわけ! アライグマって尻尾がシマシマだろう? でもってハーレイのアレもついてる場所の前後が違ってるだけで尻尾みたいだし、そこにシマシマのゴムを被せてヤッてみようかってことでハーレイと二人で盛り上がってさ」
「「「…ゴム?」」」
輪ゴムしか頭に浮かんでこない私たちを他所に得意げに続くソルジャーの声。
「でもねえ、ぼくの世界には無いんだよねえ、ゴムってヤツが。だからこっちのノルディに頼んでアライグマの尻尾っぽい模様のゴムを特注で…。それを使ったら、気分は妊娠率百パーセント! ゴムつきでも妊娠出来そうなほどに、もう最高の…」
シマシマ尻尾を装着したアライグマなハーレイは本当の本当に凄いんだ、と喋りまくるソルジャーを止める気力は会長さんにも無いようです。滔々と流れ続ける話の中身は大人の時間らしいですけど、シマシマ尻尾って何でしょう? そもそもゴムって何なんでしょうね、何処に被せる着ぐるみなんだか誰か教えて下さいです~!




          パワフルな獣・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 今回の騒動の原因になった、ハリテヤマことアライグマの実態ですけれど。
 妊娠率が百パーセントというのも含めて嘘ついてないです、本当の話らしいですよ?

 そしてシャングリラ学園番外編は来月、11月8日に連載開始から7周年を迎えます。
 7周年記念の御挨拶を兼ねまして、11月は月に2回の更新です。
 次回は 「第1月曜」 11月2日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、10月はソルジャーが巨大スッポンタケを探しているとかで…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv








 ぼくの勉強机の上。ハーレイとお揃いのフォトフレーム。ハーレイのと、ぼくのとを交換して、ハーレイの手が写真を入れていたフォトフレームがぼくのものになった。ぼくが写真を入れた分はハーレイの家の何処かにある。
 飴色をした木枠のフォトフレームの中、笑顔で写ったハーレイとぼく。ハーレイの左腕に両腕でギュッと抱き付いた、ぼく。夏休み最後の日に庭で写した記念写真。
 眺めるだけで幸せな気持ちが溢れて来るから、毎晩こうして机の前に座る。ハーレイとぼくとが同じ写真の中に居るなんて…。
(…また撮りたいなあ、ハーレイと二人一緒の写真…)
 次の機会はいつになるかも分からないのに、もう欲張りになっているぼく。
 前はハーレイのカラー写真さえも持っていなくて、学校便りの五月号を宝物にしていたくせに。転任教師の着任を知らせる小さなモノクロのハーレイの写真。スーツ姿の生真面目な顔。それでも唯一のハーレイの写真だったから、何度も何度も取り出して見ていた。
 その状態から一足飛びに笑顔のハーレイのカラー写真で、ぼくも一緒に写っている。もう最高の宝物なのに、次の写真が欲しくなる。
 なんて欲張りなんだろう。ずっと長いこと、学校便りしか持っていなかったくせに…。



(…そういえば…)
 自分の欲深さに呆れ果てていたら、ふと懐かしく思い出した。欲張りなぼくの一学期の夢。
(ハーレイの似顔絵が欲しかった頃があったんだよね…)
 夏休みに入る前、まだ学校便りの五月号しかハーレイの写真が無かった頃。欲しくて欲しくて、なんとか手に入れる方法は無いかと頑張り続けたハーレイの似顔絵。
 そう、似顔絵でいいから欲しかった。ハーレイの姿に繋がるものが。
(…似顔絵でもいいって思ってたくせに、写真を撮ったらもう次が欲しくなるなんて…)
 本当に欲張りで欲深いぼく。
 ハーレイの顔を、姿を見られるものなら何でも欲しくなる欲張りなぼく。
 もっとも、前のハーレイの写真だけは、ちょっと…。
(いい顔をしているハーレイの隣には必ず前のぼくがいたんだもの!)
 本屋さんでソルジャー・ブルーの写真集を何冊も積み上げて探してみたのに、腹が立っただけ。前のぼくが独占していたハーレイの写真なんかは要らない。
(…だからハーレイなら何でもいいってわけじゃないけど…)
 何でもかんでも見境なしに欲しいわけではないんだから。
 酷い欲張りじゃないと思いたい。欲が深くても、底無しじゃないと思いたい。
 だけど似顔絵でも欲しかった頃があったんだ。ハーレイの姿を見られるのなら…。



 年度初めに少し遅れて赴任してきた古典の教師。ぼくとは五月三日に出会った。ハーレイの姿を見るなり、ぼくは右の瞳や両肩とかから大量出血を起こしてしまって、それが切っ掛けで二人とも前世の記憶が戻った。
 聖痕現象と診断された謎の出血。ソルジャー・ブルーが最期にメギドで負った傷痕からの出血。二度と同じことが起こらないよう、ハーレイはぼくの守り役になった。出来る限りぼくの側に居ることがハーレイの役目。
 お蔭で前世で恋人同士だったぼくたちは頻繁に会えて、ぼくの家で会う時は甘え放題だけど…。学校ではあくまで教師と生徒。其処はどうしても崩せない。学校ではハーレイを独占できない。
 ハーレイは滅多に怒らない上、雑談を上手く交えて授業を楽しく進めてゆくから、絶大な人気を誇っていた。授業が終わった後も追い掛けて行って、話しながら廊下を歩く生徒も多くって…。
 男子にも女子にも人気のハーレイ。嫌いだと言う生徒などいないハーレイ。
 そんなハーレイの似顔絵を授業中に描く子たちがいた。男子も女子も、よく描いていた。
 特徴を掴んでデフォルメするのが上手いのが男子。格好良く描くのが上手いのが女子。
 授業が終わって休み時間になると話題になるそれは、どれもハーレイを巧みに捉えていて。
 ぼくは欲しくてたまらなかった。似顔絵だけれど、ちゃんとハーレイに見えるから。
(…みんなホントに上手かったしね)
 なのに描いてある場所がとても問題。
 ノートだの教科書だのに描かれたハーレイ。その箇所を破って譲ってくれなんて絶対言えない。ノートも教科書も破り取るなんて論外だったし、第一、ぼくがハーレイを好きなことがバレる。
(ホントのホントに欲しかったんだけどな…)
 特に上手に描いていた子の作品は今でも鮮やかに思い出せる。
 喉から手が出そうな思いで覗き込んでいたノートや教科書。ハーレイが描かれた素敵なページ。



 譲って貰うことが不可能ならば自分で描こう、と決意した。
 何人もがサラサラと描いているのだし、自分にだって描ける筈。幸い美術の成績はトップ。コツさえ掴めば簡単だろう、とチャレンジしたのに、いくら頑張っても似てくれなかった。ハーレイの姿を捉えるどころか、誰を描いたのかも謎の落書き。似顔絵を描くのと美術の成績は別物らしい。
(頑張ったんだけどなあ、ハーレイの似顔絵…)
 ノートと教科書に描き込んでみては溜息な日々。家に帰って改めて眺めても、ハーレイの顔には見えない似顔絵。
 そして教室の前に立つハーレイは授業中に生徒が何をしているか、神様よろしくお見通しで。
 ある日、唐突に言われてしまった。
 平日の夕方、仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれた時に、部屋で向かい合って座った途端に。
「おい、ブルー。お前、古典の教科書とノートを此処に出してみろ」
 ハーレイがテーブルを指差した。夕食前だから紅茶と僅かなクッキーが置かれたテーブル。
「えっ…」
 古典の教科書とノートだなんて。今日もハーレイの似顔絵を描いて、今までの作品も消さないで残してある教科書とノート。とても見せられる状態じゃない。
 けれどハーレイはぼくを見詰めて。
「どうした、後ろめたいことが無ければ見せられる筈だが?」
 今すぐ出せ、と腕組みをして睨まれると、ぼくも否とは言えない。仕方なく鞄から取り出して、あえて開かずにテーブルに置いた。それをハーレイの褐色の手が開いてパラリと捲って…。
(…ダメダメダメ~~~っ!)
 捲らないで、という願いも空しく、教科書もノートも見られてしまった。ハーレイの似ていない似顔絵で埋まった、ぼくのとんでもない作品集を。
(…………)
 もう駄目だ、と項垂れるぼくにハーレイの言葉。
「…これは俺か?」
 今日描いたばかりの下手くそな似顔絵を褐色の指がトントンと叩く。
 これは何かの嫌がらせか、とハーレイの眉間に皺が寄るほどに似ていない似顔絵。
 どうすればいいと言うんだろう。
 嫌がらせじゃなくて精魂こめて描いた似顔絵で、だけど下手くそな失敗作だなんて…。



 黙り込んでしまったぼくの姿に、ハーレイは怖い顔をした。
「俺の授業はそんなに退屈だったのか? かなり前から描いているようだが」
「……そうじゃなくって……」
 これ以上、誤解されてはたまらないから、覚悟を決めて口を開いた。
「…みんな似顔絵が上手いんだよ。ぼくよりもずっと…」
「それで毎回、練習なのか? お前な…。いったい俺をどうしたいんだ」
 こういう顔になれと言うのか、と似ていない作品を指差された。変な顔になったハーレイなんか要らない。今のハーレイの顔がいい。ぼくの下手くそな似顔絵そっくりな顔のハーレイは嫌だ。
 でも、ハーレイの似顔絵が欲しいんだけど、と白状する勇気なんかとても無くって。
 似顔絵が上手くなりたいと言った。他の子たちみたいに上手に描いてみたいのだ、と。
「…お前なあ…。教師の似顔絵が上手く描けても成績は上がらないんだぞ?」
「……分かってるけど……」
 だけどハーレイを上手く描きたい。
 誰を描いたのか一目で分かる、ハーレイの似顔絵をぼくも描きたい…。



 嫌がらせかとまで言われてしまった、ぼくの下手すぎるハーレイの似顔絵。
 それを描かれた気の毒なモデルは「うーむ…」と低く一声唸って。
「生憎と俺も、そっち方面の才能ってヤツはサッパリでな…」
 しかしだ、特徴を上手く掴んで描けば似てくると昔、上手いヤツらが言ってたな。
 俺がお前くらいの年の頃かな、今のお前たちみたいに似顔絵を落書きしていたもんだ。
「ハーレイも?」
「まあな。皆がやっているとやりたくなるだろ、ガキってヤツは」
 夢中になり過ぎて先生に見付かったこともあったな、とハーレイが笑う。「そこの馬鹿者!」とボードに書くためのペンが机に飛んで来たらしい。それは素晴らしいコントロールで、狙い違わず目標にヒット。只者ではない、と投げられたハーレイも周りの友達も驚いていたら。
「往年の名投手だったんだそうだ、その先生は。いやもう、あの時は散々だったな」
 お前も将来苦労するぞ、と叱られたんだが、まさか本当にそうなるとは俺も思わなかった。
 教師になった上に、こんな酷い出来の似顔絵を描かれてしまうとはなあ…。
「…ごめん。ホントにわざとじゃないんだってば…」
「そうらしいな? それでだ、お前、俺の顔だと、何が特徴だと思うんだ?」
 まずは其処だ、とハーレイがポイントを指導してきた。
 特徴を掴んでしっかりと描く。それが似顔絵のコツなのだ、と。



「えーっと…」
 ハーレイの特徴と言われても咄嗟に思い付かない。
 褐色の肌……は特徴だけれど、似顔絵を描くのに肌の色は関係無いだろう。色つきの似顔絵など誰も描いていないし、それでもハーレイを描いた似顔絵なのだと分かるのだから。
「髪型…とか? 前のハーレイとおんなじだけど…」
「ああ、まあ…。教師になって暫くしてからはずっとこうだし、特徴の一つではあるだろうな」
 最初の間は違ったんだぞ、とハーレイは思わぬ昔話をしてくれた。今よりもずっと若い頃には、今みたいなオールバックと違って、髪の長さも少し長めで。ハーレイ自身にも不思議らしいけど、アルタミラを脱出した頃の髪型にそっくりだったという話。
「自分じゃ似合うと思ってたんだが、まさか前の俺とそっくり同じにしていたとはな」
「なんでだろうね? ぼくも前のぼくとそっくりおんなじだよ?」
 ママが選んでくれた髪型。パパも「似合うぞ」と言ってくれた髪型。ソルジャー・ブルーだった頃と少しも変わらず、物心ついた時にはとっくに今の髪型。
 ハーレイもぼくも本当に不思議でたまらない。二人とも前世の記憶が戻るまではどんな髪型でも出来た筈なのに、前と同じになっていたことが。
「俺は断じてキャプテン・ハーレイの髪型を真似ていたわけではないぞ」
 こんな風にして下さい、と写真を持って行って理容師に頼んだことはない、と話すハーレイ。
 キャプテン・ハーレイは知っていたけれど、好んで真似たわけではないと。
「仕事柄、こういうのがスーツに似合うかと思ったんだが…」
「ぼくのはママが決めてくれたよ、こんな風にするのが似合いそうね、って」
「なるほどなあ…。お前の場合はまるっきりソルジャー・ブルーだしな?」
 生まれた時からアルビノだろう、と指摘されて「それでこの髪型になったのかな?」と考えた。ぼくの名前はソルジャー・ブルーから取ったものだし、髪型も同じにしたかもしれない。
 小さかった頃は「あらまあ、可愛いソルジャー・ブルーね」って色々な人からよく言われたし、ぼくも悪い気はしなかった。ソルジャー・ブルーは英雄だから。
 もっとも、ぼくに「可愛い」と言ってくれた人の半分以上は女の子と間違えていたんだけれど。



 いけない、昔話の時間じゃなかった。ハーレイの特徴を見付けないと…。
「鳶色の瞳!」
 ハーレイの瞳は優しいから好きだ。厳しい時でも、何処か優しい。
「おいおい、そこは目の形だとか…。似顔絵に目の色は関係無いぞ」
「でも……」
 ハーレイの大きな鼻も好きだよ、それに大きな唇も。
 前のぼくだった頃から好きだった。ソルジャー・ブルーだった頃から…。
(…キスの時とかね)
 鼻が軽く触れ合って、それから唇。温かくて意外に柔らかいハーレイの大きな唇。
 そう思ったらもう、たまらなくなって。
「ねえ、ハーレイ…」
「なんだ?」
「…ちょっとだけ、キス…」
 お願い、と椅子から立ってハーレイが座っている椅子に近付き、膝の上へと腰掛けた。
「こらっ! 誰がキスの話をしている!」
「だから、ちょっとだけ…。頬っぺたか、額でかまわないから」
「そこしか駄目だと言ってるだろうが!」
 苦い顔をしながらも、ハーレイは頬っぺたにキスしてくれた。
 うん、この唇の感触が好き。
 ぼくの大好きなハーレイの唇…。
 もっと、と強請ろうとハーレイの胸にすり寄った途端に、階段を上ってくる足音。ぼくは慌てて自分の椅子に戻り、ママが扉をノックした。開けはしないで、声だけ掛かった。
「ブルー、もうすぐ御飯が出来るわよ? 出来たら呼ぶからハーレイ先生と降りていらっしゃい」
「はーい!」
 元気よく返事を返したぼく。ママの足音が階段の下に消えたらハーレイに睨まれた。
「それで、似顔絵はどうなったんだ。俺の特徴ってヤツはどうした?」
 ハーレイの眉間に寄せられた皺。この皺はいつもあるんだけれども、睨んだりすると深くなる。
「…その皺かな?」
「分かった、晩飯の後でチャンスをやろう。特別にモデルになってやる」
 ただし、だ。…上手く描けたら、授業中には二度とやるなよ?
 お前が俺を熱心に描いているかと思うと、どうにも気分が落ち着かんからな。



 ぼくはハーレイにチャンスを貰った。堂々と似顔絵を描いていい時間。盗み見しながらの授業中じゃなくて、似顔絵を描くためにある時間。
(頑張らなくっちゃ…)
 高鳴る胸を抑えて、平静なふりを装って。
 パパとママも一緒の夕食を終えて、ハーレイと一緒に二階に戻った。ママが食後の紅茶を持って来てくれて、テーブルの上にティーカップが二つとおかわり用の紅茶が入ったポット。
 明日も学校があるから、ハーレイは遅い時間まで居られない。だけど自分の車で来たってことは帰り道に余計な時間は不要。九時頃くらいまでは居てくれる筈。
(一時間ほどあるもんね?)
 よく観察して、しっかり特徴を掴んで描こう。せっかくだからスケッチブックに大きめに。
 でも、いざハーレイと向き合ってスケッチブックを広げてみたら。
(…なんだか凄く恥ずかしいんだけど……)
 下手くそなぼくの絵を見られることも恥ずかしいけれど、ハーレイがモデル。
 テーブルを挟んで向かい側に座ったモデルがハーレイ。
 大好きな瞳に、鼻に、唇…。
 特徴を捉える前に心臓がドキドキ脈打ち始める。ぼくの大好きなハーレイがモデル。
 いっそ似顔絵じゃなくて、肖像画に挑戦しちゃおうか?
 スケッチブックに大きくハーレイの肖像画。
(……いいかも……)
 似顔絵なんかより肖像画。
 石膏デッサンは得意なんだし、きっと素敵な絵が描ける。
 もっと微笑んでくれるといいな。ぼくの大好きな笑顔がいいな……。



 とにかくデッサン、とハーレイの大まかな輪郭を描こうとスケッチブックに向かったけれど。
 真っ白な紙があるだけのスケッチブックよりもモデルの顔に惹き付けられる。
 デッサンするような暇があったら、もっとハーレイを見ていたい。
 いつもは甘えたりお喋りしたりと忙しいから、顔をゆっくり見るどころじゃない。それが今なら好きなだけ観察していられるし、しげしげ見たってモデルだから別に問題無いし…。
(…ふふっ、顎とか…。ちゃんと剃ってるけど、ハーレイの髭って伸びてきた時に触るとチクチクするんだよね)
 今のハーレイの顎のチクチクをぼくは知らない。
 あれは朝までハーレイと一緒に過ごした、前のぼくだけが知っている手触り。
 手触りと言うより肌触りだろうか、よく頬っぺたを擦り寄せていた。自分の頬でチクチクとする髭の感触を楽しんでいた。
 前のぼくには生えなかった髭。きっと今のぼくも髭は生えない。大きくなっても髭なんか無くて子供みたいな手触りのまま。
(…前のハーレイ、よくぼくの頬っぺたとか顎とかを撫でていたっけ…)
 ぼくがハーレイの顎や頬のチクチクを触りたがる度に「あなたの頬は滑らかですから」と大きな褐色の手で撫でられた。「この滑らかさが好きなのですよ」と、何度も何度もそうっと優しく。
 大好きでたまらないハーレイ。
 前も今も誰よりもハーレイが好きで、いつまでだって見ていたい。
 ぼくの大好きな鳶色の瞳。
 大きな鼻に大きな唇、眉間に刻まれた癖になった皺も、何もかもが好きでたまらない…。



「おい、手がお留守になってるぞ」
 似顔絵はどうした、とハーレイが白紙のままのスケッチブックを鼻で笑った。
「これだけの時間をかけても線の一本も描けんのか…。駄目だな、お前は似顔絵どころか画家にも向かん。どっちも諦めて勉強の方に専念しろ」
 上手い生徒はササッと描くぞ、とハーレイが挙げるクラスメイトの名前。ぼくが似顔絵を譲って欲しいと秘かに思った男子や女子の名が次々と挙がる。
 授業中のハーレイはたまに机の間の通路を歩いてゆくけど、基本は教室の一番前。ボードに字を書きながらの説明だとか、教科書片手の解説だとか。
 一番前から殆ど動くことが無いのに、似顔絵の上手下手まで知っているなんて、いつの間に?
 流石は教師で、生徒のやることは何もかも全部お見通しだ。ぼくがハーレイの似顔絵を描こうと頑張っていたのがバレていたように。
「ふむ。残念だが、もう時間切れだな。そろそろ家に帰らねばならん」
 時計を眺めたハーレイが立ち上がろうとするから、引き止めてみた。
「まだ描けてないよ!」
 上手く描けるとは思わないけれど、もっとハーレイを見ていたい。
 あと五分だけ、ううん、三分でも一分でもかまわないから、ハーレイを観察していたい…。
「時間切れと言ったら時間切れだ」
 俺は帰る、とハーレイはカップに残った紅茶を綺麗に飲み干して椅子から立った。
「スケッチブックが白紙のままとは恐れ入った。これからも授業中に描くつもりなんだな、お前というヤツは」
「……だって……」
 欲しいんだもの、とは言えなかった。欲しくてたまらない似顔絵だけれど。
「だっても何も、お前の場合は描きまくっても致命的に似ないと思うがな?」
 俺とも思えん絵が出来るだけだ、とクックッと喉の奥で笑ってハーレイは家に帰ってしまった。
 残されたものは白紙のスケッチブック。
 ハーレイの肖像画に挑戦どころか、似顔絵すらも描けずに終わった。
 でも……。



「…今は写真を持っているから、もう似顔絵は要らないものね」
 ハーレイと二人で写した写真。夏休みの記念に写した写真。笑顔で写ったハーレイと、ぼく。
 その写真をうんと堪能してから、古典の教科書とノートを取り出して開いてみた。
 写真を撮る前の一学期。
 ハーレイと再会してから夏休みまでの間の授業中に描いた似顔絵。
 ぼくが必死で描いた似顔絵。
 ハーレイの似顔絵欲しさに描いていたものの、あまりの似ていなさに自分で吹き出す。
(…ハーレイが眉間に皺を寄せたの、無理ないかも…)
 嫌がらせか、と尋ねられたほどの悲惨な出来栄え。
 とてもハーレイには見えないどころか、顔を歪める呪いをかけているのかと誤解されそうな酷い似顔絵。それでもぼくは頑張ったんだ。
 時間切れだな、と告げられたあの日から後も積み重ねられた、ぼくの空しい努力の跡。
 まるっきり似ていないハーレイの似顔絵が鏤められた教科書とノート。



 そうやって奮闘したぼくだけれど、二学期に入ってからのノートと教科書にハーレイの似顔絵は一つも無い。似顔絵つきのページ作りは一学期だけで卒業した。
 何故って、ぼくは最高のハーレイの写真を手に入れたから。
 ハーレイの左腕にぼくが両腕で抱き付いていて、おまけにフォトフレームはハーレイのもの。
 もう似顔絵は要らないんだ。
 他の子たちが描く上手い似顔絵も、もう欲しいとは思わない。
 学校便りの五月号は今でも宝物にしているけれど…。
 だって、あれが一番最初のハーレイの写真。生真面目な顔の小さなモノクロの写真だけれども、最初に貰ったハーレイの写真。
 学校で配られたプリントだけど。ハーレイに貰った写真じゃないけど…。
 それでもハーレイが写った最初の写真。ぼくが手に入れた一番最初のハーレイの写真。
 きっといつまでも宝物だよ、学校便りの五月号。
 五月の三日から始まった、ぼくとハーレイとの青い地球での新しい生。
 それを運んで来てくれた五月に貰った、学校便りの五月号。
 あの日の朝のホームルームで配られた学校便りの小さな写真。
 其処にハーレイが載っていることに気付いたのはずっと後だったけれど、大切な宝物なんだ…。




          似顔絵・了

※美術の成績はトップだというのに、似顔絵の腕前は破壊的だったらしいブルーです。
 それでも頑張って描きたかった気持ち、いじらさを分かってあげて下さい。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv




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