忍者ブログ

シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

路線バスで恵須出井寺に逆戻りしてしまった私たち。バスの乗客は終点の山頂まで私たちだけで、下車した後は乗り込む人も無かったらしく、アルテメシア行きの最終バスとして空っぽで走り去りました。バス停からは一日修行体験をした本堂と宿坊が見えています。会長さんは真っ直ぐ宿坊を目指し、私たちもそれに続いて…。
「はい、とりあえず休憩しようか。お疲れ様」
会長さんが宿坊の1階ロビーのソファに腰掛け、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が自販機で缶ジュースを買って渡しました。私たちも座るようにと促され、缶コーヒーや好みの缶ジュースを手にして会長さんを取り巻いて。
「休憩って…。案内を頼まなくてもいいのか?」
キース君が『受付』と書かれたカウンターの方を見ています。ホテルで言えばフロントに当たるカウンターの奥には部屋の鍵などが並んでいました。宿坊で慰労会をするんですから、受付を済ませなくては駄目なのでは? けれど会長さんは「必要ないよ」と首を横に振って。
「まだ豪華ゲストが来てないだろう? それにさ、泊まるのは此処じゃないからね」
「「「は?」」」
宿坊でなければ何処に泊まると? 他に泊まれそうな所がありましたっけ? 会長さんはクスクスと笑い、缶ジュースを軽く揺すりながら。
「この宿坊は一般の人でも泊まれるんだよ。高級ホテルのようにはいかないけれど、そこそこ快適な宿泊施設だ。打ち上げパーティーをしたいと言えば宴会用の料理だって出せる。…でもね、それだけじゃ全然面白くない。せっかく恵須出井寺に来ているんだから、その環境を生かさないと」
「…他の宿坊に行こうと言うのか?」
キース君が尋ねました。
「ここには幾つも寺があるしな。宿坊をやってる所もあった筈だ」
「まあね。だけど今夜の宿泊先は特別なんだ。本当だったら一ヵ月以上前までに予約が必要」
「一ヵ月だと?」
「うん。璃慕恩院の老師のコネが無ければゴリ押しするのは無理だったね。楽しみだなぁ、居士林道場」
えっ、道場? 今、ナントカ道場と聞こえたような…?
「おい」
訊き返したのはキース君です。
「コジリンと聞こえたような気がするが…。まさか居士林道場のことじゃないだろうな?」
「知ってたのかい? それは驚き」
博学だねえ、と感心してみせる会長さんにキース君は。
「やっぱり居士林道場か…。あんたは何を考えてるんだ!? 居士林の何処が慰労会で打ち上げパーティーなんだ!」
声を荒げるキース君。なんだか嫌な予感がします。ジョミー君が恐る恐るといった感じでキース君に問い掛けました。
「ね、ねえ…。コジリンって何? 道場ってことは何かするの?」
「何か程度で済めばいいがな…。居士林は漢字で居士…そう、戒名とかの居士に林という字だ。そういう名前の道場があって、泊まりでの修行を受け付けている」
「「「修行!?」」」
愕然とする私たちに向かってキース君は。
「その修行がまた半端ではないと聞かされた。…恵須出井寺の宗門校から俺の大学に来ているヤツが何人かいてな、そいつらが経験者だったんだ。高校の間に全校生徒が行くらしい。地獄の居士林研修と呼んでいたぞ」
「「「……地獄……」」」
えらい所へ来てしまった、と私たちは顔面蒼白でした。そこへ入口の扉が開いて人影が…。
「あっ、ハーレイ! こっち、こっち!」
会長さんが立ち上がって力一杯手を振っています。豪華ゲストとは誰だったのか、この瞬間に分かりました。宿泊用と思しき荷物を提げた教頭先生は笑顔ですけど、居士林道場とやらを果たして御存知なのでしょうか? 地獄と呼ばれる道場なんかで慰労会なんて、どう考えても無理ですってば~!

「ハーレイ、男子の身代わり座禅、頑張ってたね」
会長さんに微笑みかけられ、教頭先生は頬を赤らめて頭を掻きました。
「ああ、いや…。あのくらい別に大したことは…。それよりお前は大丈夫なのか? かなり打たれていただろう?」
「ぼくは慣れてるから平気なのさ。銀青と名乗っていた頃に恵須出井寺でも修行をしたし…。ぼくの修行を追体験したいっていう君の殊勝な気持ちには頭が下がるよ」
「…っつう!」
ポンと肩を叩かれた教頭先生の顔が苦痛に歪み、会長さんは「ごめん」と素直に謝って。
「叩かれまくっていたんだっけね、触っただけでも響いちゃうか…。ちゃんと手当てをしてきたかい?」
「一応、湿布を貼ってある。でないとハンドルも握れんからな」
教頭先生は愛車で来たようです。私たちが最終バスに乗ってきたんですし、車が駄目なら残る手段はタクシーのみ。市街地からかなり離れているので料金も高くなるでしょう。湿布を貼ってもマイカーという教頭先生の気持ちは分からないでもありません。そんな教頭先生がソファに腰掛けようとするのを会長さんが片手で制して。
「のんびりしている時間はないんだ。入所式は午後の3時からだよ」
「「「え?」」」
私たちは一斉に壁の時計を眺めました。針は5時をとっくに回っています。3時って何かの間違いなんじゃあ? けれど会長さんは気にも留めずに。
「3時っていうのは居士林道場の一般規則さ。入所式をして4時半から座禅、6時に夕食。だけど今回は特例として、昼間の一日修行体験の分を座禅にカウントしてもらった。璃慕恩院のコネがあるから無理が利く。…ここから先は知らないけどね」
「うむ。…お前たちも一緒に修行だったな」
頷いている教頭先生。居士林道場の噂を御存知なのかどうかはともかく、修行というのは心得てらっしゃるみたいです。でも私たちまで修行だなんて殺生な…。お泊まり会だと思っていたのに…。会長さんは涙目になる私たちの横をすり抜け、教頭先生に右手を差し出して。
「用意してきてくれたんだよね、研修費用は? 璃慕恩院のコネだとはいえ、出すものは出しておかないと」
「言われたとおりに用意はしたが、ホームページで確認したらゼロが二つも少なかったぞ、一人分が。どうしてこんなにかかるんだ? 永代供養料と変わらんじゃないか」
教頭先生が荷物の中から取り出した金封はとても厚みのあるものでした。会長さんはそれを受け取り、袱紗に包んで。
「特別扱いを頼むからには寄付金を積まなきゃ格好が…ね。璃慕恩院の体面もあるし、このくらいの額は必要なわけ。それじゃ行こうか、修行をしに」
先頭に立って歩き始めた会長さんを追わないわけにはいきません。教頭先生は御機嫌ですけど、私たちは…。
「…どうしよう、本気で修行らしいよ」
宿坊の入口で靴を履きながらジョミー君が嘆きました。
「昼間に叩かれた肩が痛いのにさ! どうして修行になっちゃうわけ? 慰労会は?」
「俺だって派手に痛いんだ。座禅の経験は無かったからな…」
キース君も肩を押さえています。なのに外では「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「早く、早く~!」と無邪気に呼んでいますし、逃げ出そうにもバスはとっくに行っちゃいましたし…。トボトボと夕暮れの山道を歩いて辿り着いたのは立派な木造二階建ての建物でした。『居士林』と墨書された看板が見るからに厳しそうな印象です。玄関を入るとお坊さんが待ち構えていて…。

「ようこそいらっしゃいました」
「お世話になるよ。話は行ってると思うんだけど、ぼくがブルーだ」
会長さんが差し出した金封を恭しく受け取り、奥へと消えるお坊さん。その間にふと三和土に置かれた床几を見ると『座るな』という張り紙が。床几って座るものではないんでしょうか? 肘でつつきあって床几を眺める私たちに、会長さんが。
「ああ、それね。…ここでは修行の目的以外で座るってことは許されないんだ。立ちっぱなしになるんじゃないかって? 大丈夫、そんな心配も要らないほどに座禅とか色々あるからさ」
「「「………」」」
人生終わった、と私たちがガックリと肩を落とした時。
「大変お待たせ致しました。皆さん、どうぞお座敷の方へ」
さっきのお坊さんが戻ってきて笑顔で奥へと促しました。
「夕食を御用意しております。あ、そちらの…教頭先生はあちらの方へ。別の者が案内させて頂きます」
教頭先生は若いお坊さんに私たちとは違う方向へと連れて行かれてしまいました。振り返りながら会長さんに声をかけようとしたのですけど、「私語厳禁です」と即座に注意が。これって一体、どういうこと…?
「ふふ、居士林で修行するのはハーレイだけさ。ぼくたちは賓客扱いで普通に宿坊気分って予定だけれど、希望者があれば修行コースに入れてあげるよ」
ニッコリと笑う会長さんに私たちの背筋が凍りました。教頭先生、またも騙されちゃいましたか! 『座るな』なんて書かれた道場でたった一人で地獄の修行体験を…? もしかしたらキース君も体験希望するかもですけど……一般参加者もいるかもですけど、そういう望みは薄そうな気が…。
「えっと、今日の研修者は何人だっけ?」
会長さんが尋ねると、お坊さんは。
「お一人だけでございます。…他になさりたい方が無ければ…ですが」
「だってさ。…どうする、キース? ジョミーは?」
キース君たちは必死の形相で首を横に振り、教頭先生の一人修行が決定しました。私たちが案内された部屋には既に夕食が並んでいます。昼間に一日修行体験をした宿坊の調理人が来ているそうで、グルメ大好き「そるじゃぁ・ぶるぅ」も歓声を上げる本格的な精進料理のラインナップ。煮物に焼き物、揚げ物などなど盛りだくさんな内容ですが…。
「6時だ」
会長さんが腕時計を見て言いました。
「ハーレイの修行が始まるよ。まずは夕食。ちょっと見物しに行こう」
面白いから、と座敷を出てゆく会長さん。食事なんか見て楽しいのかな、と思いましたが、頭を掠めたのは今日の昼食。タクアンで食器を綺麗に洗えと何度も叱られましたっけ…。教頭先生も叱られるとしたら、これは一見の価値ありです。よーし、みんなで見届けなくちゃ!

「ふふ、やってる、やってる」
会長さんが食堂だという大広間を覗き込んで私たちを手招きします。襖一枚分のスペースに頭を並べて眺めた先では教頭先生がたった一人で正座して机に向かっていました。指導役らしきお坊さんが少し離れた所に座ってニコリともせず監視中。教頭先生は両手を合わせて何やらお経を唱えていますが…。
「お経を読むのが正式な作法になるんだよ。ぼくたちがやったのは略式なのさ。一般の信者さんが唱えるんだ」
信仰の篤いお年寄りくらいなものだけど、と会長さん。私たちが唱えた食前の言葉はそんなに長くなかったですし、この食前のお経からして居士林での修行というのは相当ハードなものなのでは…。お経を終えた教頭先生は食事を始めたのですけども、これが一汁三菜です。ご飯とお味噌汁の他には胡麻豆腐と野菜の煮物くらいしか無く、私たちのために用意されていた精進料理とは大違い。しかも…。
「食事中は音を立てないように!」
お坊さんの注意が飛びました。ビクリとしている教頭先生。えっと…音なんかしてましたっけ?
「タクアンを口に入れてただろう?」
笑みを浮かべる会長さん。
「噛む音もダメ、味噌汁を啜る音もダメって昼間の修行で教わったよね? 君たちの時は少々の音は許されたけど、ここではビシビシ指導されるよ。恵須出井寺は厳しいんだ。…ちょっと戻って食事してこようか、温かいものが冷めない内にね」
「わーい!」
お腹ぺこぺこ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が廊下を走ってゆきます。けれど「お静かに」と注意はされませんでした。お座敷に戻って始めた食事も、正座しろとは言われません。お給仕のお坊さんが二人いますが、会長さんと和やかに談笑しています。
「そろそろハーレイの食事が終わる頃かな?」
会長さんの問いに、お坊さんが。
「はい。またお出掛けになるのですか?」
「もちろんさ。楽しいことになりそうだしね。…あ、食事は帰って来てからゆっくり食べるし、気遣い無用」
行くよ、と促されて私たちは再び食堂に向かいました。会長さんが襖を開けて、私たちが狭いスペースに頭を突っ込んで…。あ。教頭先生の食器にお茶が注がれています。そうそう、あのお茶を全部の器に注ぎ分けて、タクアンで綺麗に食器を洗って、元の器に戻すんですよね。それを飲み干したら食事終了。そういえば恐ろしい話を聞かされたような…。
「体験ですから三回までです、って話かい?」
誰の思念が零れていたのか、クスッと笑う会長さん。
「ハーレイの場合は全部の食器が綺麗になるまでお茶をドボドボ注がれるのさ。…ついでに言うと、この道場ではトイレの時間も決まってる。どんなに大量の水分を摂っても、夜中以外は勝手にトイレに行けないんだ」
「「「………」」」
私たちは震え上がりました。季節は既に初夏ですけども、高い山の上は少し冷えます。大量のお茶を飲まされた上にトイレを禁止されるだなんて、それはあまりというものでは…。
「余計な水を飲みたくなければ作法をマスターすればいい。…そう簡単にはいかないけどね」
教頭先生の器には既に6杯目のお茶が注がれていました。お腹がタプタプになってしまうのは時間の問題かもしれません。居士林道場の恐ろしさを思い知った私たちは回れ右をし、お座敷に戻っていったのでした。

精進料理オンリーとはいえ、お代わり自由の夕食は美味しくてボリュームの方もたっぷり。会長さんにはお酒もついて、気分は打ち上げパーティーです。ワイワイ騒いでも叱られませんし、教頭先生のことはすっかり忘れて盛り上がって…。
「けっこう美味しいものなんですね、精進料理」
シロエ君が褒め、サム君が。
「割といけるんだぜ、出汁とかきっちり取ってるし。…なあ、ジョミー?」
「麦飯じゃないから美味しいんだよ! これって普通のご飯だもん!」
璃慕恩院では麦飯なのだとジョミー君が顔を顰めています。修行体験ツアーで放り込まれた時の経験でしょう。今日の修行体験では麦飯は出ていませんでしたが…。
「麦飯は確かに美味くはないな」
キース君が肯定した所で会長さんが割り込みました。
「でも食事には感謝しなくちゃいけないんだよ? ハーレイはたっぷり実感できたと思うんだけどね。今は千日回峰のビデオを見てる。それが終わったらやっとトイレだ。あれだけお茶を飲まされちゃったら我慢するのも辛いよねえ」
千日回峰というのは恵須出井寺の荒行だそうです。千日の間、毎日休まず決められたコースを三十キロも歩くのだとか。真っ暗な中を出発して山道を巡る修行の他に、お堂に九日間籠って断食、水断ち、不眠不休で祈祷するという苦行なんかもあったりして…。
「流石のぼくもアレはちょっとね。サイオンでズルは出来るけれども、千日間も束縛されるのは遠慮したいし」
璃慕恩院の生ぬるい修行で十分、と会長さんは笑っています。恵須出井寺でも修行を積んでいる筈ですが、詳しい話は上手くはぐらかされました。お給仕のお坊さんに興味を持たれると困るから、と短い思念が届いた後で。
「そんなことよりハーレイだよ。お風呂に行こうか、愉快なものが見られるからさ」
えっ、お風呂? 女湯はきっと別ですよね? スウェナちゃんと顔を見合わせていると、会長さんは。
「一応、隣同士になってる。覗けない仕様になっているけど、音声は中継してあげるから。ね、ぶるぅ?」
「中継するの? お風呂から?」
キョトンとしている「そるじゃぁ・ぶるぅ」を連れて会長さんはお座敷を出て行ってしまいました。男子もお風呂に向かうようです。うーん、とにかく行けばいいのかな? お坊さんにお風呂の場所を教えて貰い、着替えなどを持って出掛けてゆくと、確かに男湯の隣が女湯です。
「あらっ、けっこう広いのね」
スウェナちゃんが声を上げました。脱衣場も浴室もスペースゆったり、湯船だって広くて大きくて…シャワーの数もちょっとしたホテルの大浴場並み。厳しい修行をする場所だけに、お風呂くらいは寛げるようになっているのでしょう。シャンプーやボディーソープもありますし…。
「ジョミー、すげえ青あざになってるな」
サム君の声が聞こえてきます。これが音声中継でしょうか?
『そうだよ。中継は必要不可欠なんだ』
会長さんの思念を挟んで男湯の賑わいがひとしきり。ジョミー君とキース君は座禅の時に打たれた肩が青あざになっているようでした。そんな二人を会長さんが「ご苦労様」と労い、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が背中を流している様子。スウェナちゃんと私は「そるじゃぁ・ぶるぅなら女湯でもよかったのに」と話しながら湯船に浸かっていたのですが…。
「「「教頭先生!?」」」
男子の驚く声がしたかと思うと、慌ただしい水音がバシャバシャと。
「すまん、私には時間が無いんだ!」
どいてくれ、と教頭先生の声が響いてドブンと湯船に飛び込む音…? 男湯でいったい何事が…?
「お風呂の時間は10分だしね」
クスクスクス…と会長さんの笑い声。
「しかも行き帰りの時間も合わせて10分間! 守れなかったら寝る前に座禅が待っているんだよ。そうだよね?」
「悪いが、とにかく急ぐんだ! ああっ、もう時間が…」
ドタバタと大騒ぎしながら教頭先生は男湯を飛び出していったみたいです。そして会長さんの声がのんびりと…。
「お風呂が広い理由が分かった? 人数が多くても10分間しか許されないから、シャワーとかも数が必要なんだよ。湯船も一度に大勢浸かれるようにしておかないとね。…ふふ、流石のハーレイも心に余裕がなくなっちゃったか」
ぼくと一緒のお風呂なのに、と会長さんは楽しそう。言われてみればそうでした。教頭先生、会長さんとお風呂に入る日を夢見て広いバスルームを用意してたり、騙されて行った婚前旅行で二人きりの露天風呂に緊張しきってお風呂マナーが滅茶苦茶だったり、お風呂ネタには事欠きません。なのに今回は会長さんに見向きもせずに走り去って行ったらしいです。夢も妄想も綺麗に吹っ飛ぶ居士林道場、恐るべし…。

その夜、私たちは宿坊から運んだという布団でぐっすり休みました。けれど教頭先生を待っていたのは湿気を吸った煎餅蒲団。これも居士林ならではだとか。それでも教頭先生は疲れていたのか、すぐに沈没。私たちも普段ほどには起きていられず、早めに眠って…夜が明ける頃にカンカンという鐘の音で飛び起きたのですが。
『気にしない、気にしない。あれはハーレイ専用だから』
まだ5時だし、と会長さんの思念が流れてきます。
『もっと寝てればいいんだよ。…おやすみ』
眠たそうな思念が途切れて、会長さんは眠ってしまったようでした。そっか、寝ててもかまわないんだ…。私たちは布団を被って寝なおすことにし、起き出したのは7時過ぎ。やはり一回目覚めてしまうと長時間は眠れないみたいです。寝惚け眼を擦りながら顔を洗っていると…。
「そこの隅! 埃が残っています」
鋭い声が響き渡りました。なんだろう、と振り返った先では教頭先生が雑巾がけの真っ最中。お坊さんに叱られながら廊下をせっせと磨いています。うわぁ…朝から早速修行ですか…。キース君が教頭先生の後ろ姿を眺めながら。
「去年の道場を思い出すな…。俺も毎日せっせと掃除をしてたんだ」
「ああ、カナリアさんか」
会長さんが頷いて。
「でもさ、あっちは璃慕恩院の系列だから、掃除はあっても座禅はないよね。ハーレイは5時に起こされて座禅した後、本堂に参拝してから三十分のウォーキング。それも号令つきで殆ど駆け足」
「「「えぇっ!?」」」
とんでもないハードスケジュールです。柔道で鍛えている教頭先生だけに大丈夫だとは思いますけど、座禅に駆け足に掃除ですか…。
「で、朝ご飯はお粥なわけ。お味噌汁とタクアンはつくけどね」
「「「…タクアン…」」」
またタクアンで食器を洗うのか、と私たちは教頭先生が気の毒でたまりませんでした。朝食の後は写経と法話で、それが終わるまでトイレは禁止。こんな道場に放り込まれた教頭先生、今度こそ会長さんに愛想を尽かすのでは…? お粥ではない精進料理の朝食を食べながらコソコソ話していると、会長さんが。
「甘いね。この程度では懲りないよ。それどころか、ぼくとの絆が深くなったと信じ込んでる。同じ修行を体験したから許されるかも、とも思っているし」
許されるとは何を指すのか、私たちには分かっていました。ずっと昔に会長さんを「そるじゃぁ・ぶるぅ」と二人きりで修行に行かせてしまったことです。会長さんが許すとはとても思えませんし、仮に許して貰えたとしても教頭先生が望んでいるような甘い生活は無理そうですけど…。
「もちろん無理に決まっているさ。ハーレイはぼくのオモチャなんだし、オモチャと結婚する気は無いし」
サラリと言い放つ会長さんに、キース君が額を押さえて。
「居士林に連れてきたのも最初からオモチャにするためなのか…。見物だの何だのと言っていたから、そうじゃないかとは思っていたが」
「だってさ、ぼくたちの楽しい校外学習をぶっ潰したんだよ、ハーレイは。提案したのはグレイブだけど、最終的に決定権を握っていたのはハーレイなんだ。…責任は取ってもらわないとね。目には目を、って言うだろう?」
一日修行体験と張り合えるのは居士林道場しかない、と会長さんは言っていますが、雲泥の差があるのでは? 居士林の方は地獄と呼ばれる道場ですよ…?
「いいんだってば。ハーレイは自己満足に浸っているし、ぼくたちは楽しく傍観者だし。…そうそう、昼ご飯が済んだら退所式があって終了なのさ。だから残る修行は写経と法話と昼ご飯! 座禅に比べれば楽なものだよ」
正座は絶対崩せないけど、と聞かされて私たちは「地獄じゃないか」と深い溜息。教頭先生、帰りの車を運転することが出来るのでしょうか? 出来なかったら愛車は一体どうなっちゃうの…?

「お疲れ様、ハーレイ。…どうだった、修行体験は?」
会長さんが教頭先生に声をかけます。此処は本堂に近い四階建ての宿坊のロビーで、私たちは一足先に居士林を出てこちらに移動していたのでした。教頭先生が退所式を終えてやって来たのは2時過ぎのこと。どう見ても顔がやつれていますが…。
「うむ…。お前たちも一緒に修行だとばかり思っていたが、私一人で修行させられたのはいい経験になったと思う。考えてみれば、お前も一人で修行したようなものなのだからな。…厳しい修行を積んだお前を嫁に貰いたいと思う私は、まだまだ修行が必要だろうか?」
げげっ。教頭先生、懲りるどころか、却って気合が入りましたか? 地獄を見て強くなったとか? 会長さんはクッと喉を鳴らして、教頭先生を見詰めると。
「なるほどねえ…。もっと修行をしたいわけだ。じゃあ、気が変わらない内に行ってみようか」
「「「は?」」」
何処へ、と私たちと教頭先生の声が綺麗に重なった所へ会長さんが。
「居士林だよ。あそこは一泊二日コースと二泊三日のコースがあるんだ。都合で二泊三日になるかも、とお願いしといた甲斐があった。幸い、明日は日曜日だし? 二泊三日で頑張るんだね」
そっちは回峰行の体験がつくよ、と会長さんは先に立って歩き出しました。
「入所式は省略できるし、居士林に戻ってまずは座禅だ。でもって今夜は夜中の2時前に起床! おにぎりを2個だけ食べて準備をしたら千日回峰のコースを体験ウォーク」
途中で朝食と休憩を入れつつ30キロ、と涼しい顔の会長さんに教頭先生は青ざめましたが、後悔先に立たずです。そしてキース君が溜息混じりに…。
「地獄の居士林研修に二泊三日コースがあったとはな。まあ、高校生には二泊三日はキツすぎるか…。で、俺たちは街へ戻るのか?」
「もちろんさ。ハーレイを居士林に放り込んだらバス停に行って、恵須出井寺とはお別れだ。あっ、ハーレイ…。君の車はどうするんだい? 千日回峰体験の後でも自分で運転できそうかい?」
難しそうなら瞬間移動で家のガレージまで送ってあげる、との会長さんの申し出に教頭先生は飛び付きました。流石に安全運転できる自信が無いらしいです。会長さんは「了解」とニッコリ笑顔で頷いて…。
「運んでおいたよ、もうガレージに入ってる。でね、今の車の運び賃が…」
タクシーで恵須出井寺と街を何往復も出来そうな値段を告げられ、顔面蒼白の教頭先生。そうでなくても居士林道場に凄い金額を支払ったのに…。
「細かいことは気にしない! それより修行を頑張って。ぼくだって昔、歩いたんだよ。ねえ、ぶるぅ?」
「うん! ブルー、とっても頑張ったもんね。サイオンも殆ど使わなかったし」
修行だもん、とニコニコしている「そるじゃぁ・ぶるぅ」の言葉に教頭先生はグッと拳を握り締めて。
「そうなのか…。ならば私も頑張ってみよう。お前を嫁に貰えるだけの立派な男にならねばな」
やるぞ、と居士林道場目指して歩き始めた教頭先生は会長さんがペロリと舌を出したことに全く気付いていませんでした。修行に燃えているようです。私たちは教頭先生を居士林の玄関まで送り、バス停へと向かったのですが…。
「ふふ、やっぱり見事に引っ掛かったか」
時間どおりにやって来たバスに乗り込んでから会長さんが居士林の方角を振り返って。
「馬鹿だよねえ…。サイオンを殆ど使わないと言っても、タイプ・ブルーはケタが違うよ。ハーレイが全力を出しても出来ないことが少しのサイオンで出来ちゃうんだけど、知らない方が幸せだよね」
今夜は2時前に起床で回峰行、と微笑んでいる会長さん。陥れられた教頭先生、月曜日は無事に学校へ来られるでしょうか? トイレの時間も決められていて、お風呂はたったの10分間で、夜中に起きて30キロも山道を歩く地獄の居士林。会長さんと結婚できる男になりたい、というアヤシイ動機で志すには修行の道は厳しそうです。まあ、でも……校外学習を水族館から恵須出井寺に変えてしまった責任を取って、根性でクリアして下さいね~!




PR

校外学習のお知らせが発表されたのは2週間後の朝でした。いつものように1年A組の教室の一番後ろに会長さんの机が増えて、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が来ています。出席を取ったグレイブ先生がおもむろに書類袋から取り出した紙を前から順に配るようにと指示をして…。
「諸君、来週の金曜日に校外学習がある」
ワッとクラスが湧き立ちました。校外学習と名前はついても実質上の遠足なのだと誰もが思っていたからです。ところが『校外学習のお知らせ』と書かれた紙を受け取ったクラスメイトの表情が次々と凍り、ニヤリと笑うグレイブ先生。
「どうかね、校外学習は? 恵須出井寺で一日修行体験だぞ。あそこは林間学校で有名なのを知っているだろうが、我々の目的はバードウオッチングでも珍しい植物の観察でもない。書いてあるとおり座禅と写経だ。もちろん昼食は弁当ではなく、精進料理ということになる」
「「「………」」」
「誘惑の多い日常を離れ、気を引き締めて集中力を養いたまえ。文字通り校外学習だ。…そうそう、そこの生徒会長」
名指しで呼ばれて首を傾げる会長さん。
「ん? ぼくかい?」
「他に誰がいると言うのだ? 今回はお前も手も足も出んな、恵須出井寺は宗派が違うのだからな」
勝ち誇った顔のグレイブ先生に、会長さんは苦笑しながら。
「そうだね、ぼくは璃慕恩院だし…。残念だけど」
「では、お前のコネが利かない世界で大いに修行に勤しむように。他の諸君も頑張るのだぞ。服装は制服で問題ないので私服は禁止だ。詳しいことはプリント参照。これで朝のホームルームを終わる」
カッと靴の踵を鳴らしてグレイブ先生は出てゆきました。途端に教室は上を下への大騒ぎに…。
「修行ってなんだよ、修行って!?」
「なんで座禅になるんだよ! 校外学習は水族館だって聞いていたのに…」
あんまりだ、と嘆くクラスメイトたちの中で一人の男子が会長さんを振り返って。
「そうだ、生徒会長のコネがどうとかって何なんですか?」
彼は入学前から1年A組と会長さんに纏わる噂を知っていた生徒。それだけに会長さんに関することには敏感です。会長さんは「そうだねえ…」と人差し指を顎に当てると。
「簡単に言えば、恵須出井寺にはコネが利かないってことなんだけど…。さっきグレイブに答えてたとおり、ぼくは璃慕恩院なんだ。キースの家がお寺だっていうのは知ってるだろう? キースも同じ璃慕恩院だよ、恵須出井寺とは宗派が違う」
「えっと…? 生徒会長の家もお寺なんですか?」
「違うよ、ぼくは気楽なマンション住まい。お坊さんの資格があるって言うだけ」
「「「お坊さん!?」」」
会長さんとはおよそ結び付かない単語にクラス中が仰天しましたが、会長さんは悠然と。
「ぼくが三百年以上在籍していることは知ってるよね? 三百年もあれば色々と出来てしまうのさ。ちょっと抜け出して修行してみたら高僧になれた。だから璃慕恩院には顔が利く。もちろんコネも利くってわけ」
「「「……高僧……」」」
ポカンとしているクラスメイトたちに、会長さんはパチンとウインクしてみせて。
「やっぱり普通は信じないよね? 仕方ない、特別に見せてあげるよ。ぶるぅ、着替えをお願いできるかい?」
「かみお~ん♪」
パアッと迸る青いサイオン。会長さんの制服はアッと言う間に緋色の法衣と立派な袈裟に大変身です。とうとう学校で披露しちゃいましたか、緋の衣。派手なのは嫌だとか璃慕恩院で言っていたのに、それとこれとは別件ですか…。

「緋の衣はね、一番偉いお坊さんしか着られないんだよ」
だから高僧の印なんだ、と語る会長さんに女子たちの目はハートでした。あちこちで写メを撮るシャッター音が…。男子生徒は口々に質問しています。
「坊主頭じゃなくても構わないんですか、高僧って?」
「印を結んだり、護摩を焚いたりするんですよね?」
会長さんは「うーん…」と首を捻りながら。
「髪の毛の方は坊主頭が基本だね。だけど璃慕恩院では一定期間の修行を終えたら個人の自由ってことになってる。ぼくはお寺も持っていないし、なにより普通の高校生だし……坊主頭は避けたいな。坊主とデートじゃ絵にならないだろ?」
キャーッと上がる黄色い悲鳴。フィシスさんとの仲で有名な上に、シャングリラ・ジゴロ・ブルーと呼ばれているのも周知の事実。デートという単語が出てきたことで「いつか私も!」と夢見る女子が一気に増えたようでした。その騒ぎの中、カラカラと教室の前の扉が開いて、入ってきたのは教頭先生。
「静かに!」
授業を始める、という宣言は会長さんに無視されました。
「誰か入ってきたみたいだけど、まだ質問に答えてないよね。ぼくの宗派は印を結んだりしないんだ。護摩も普通は焚かないね。大切なのはお念仏さ。璃慕恩院はそういう宗派で、もちろん座禅も無いってわけ」
「じゃあ、生徒会長のコネが恵須出井寺には利かないっていうのは…」
「宗派が違うと難しいんだよ、この世界。困っちゃうよね、恵須出井寺で修行だなんて…。どうしようかな?」
サボっちゃおうか、と教頭先生の方に視線を向ける会長さん。
「ねえ、ハーレイ? 校外学習、ぼくは行かなくても問題ないよね、1年A組の生徒じゃないしさ」
「サボるだと!?」
「うん。特別生には登校義務だって無いし、校外学習を欠席してもいいんだろう?」
「そ、それは……」
口籠る教頭先生の頭が猛烈な速度で回転しているのは明らかでした。会長さんと一緒に修行が出来る、と思い込んで校外学習への参加を決めたと聞いていますし、逃げられたのでは困るでしょう。でも会長さん、どうして「行かない」なんて言うのかな? 行く気満々でコネまでつけに出掛けていたのに…。
『ハーレイに貸しを作っておくのさ。でないと後々、面白くない』
届いた思念波に私たちは納得しました。この調子では教頭先生、修行体験で苦労しそうです。教頭先生はそうとも知らずに…。
「ブルー、サボリは感心せんな。それに私も参加することになっている。お前の担任は私なのだが?」
「君が行くから参加しろって言うのかい? それって命令?」
「そうなるな。担任の前で堂々とサボリ宣言は生徒会長としてどうかと思うぞ。…校外学習には参加しなさい」
重々しく告げる教頭先生に、会長さんは。
「担任として命令されたら聞かないわけにはいかないねえ…。仕方ない、ぼくも行くことにするよ。…というわけで、この時間はぼくが修行の心得を…」
「こら、待て! 今は私の授業時間で、病欠した分の遅れがまだ…」
「君が病欠したのが悪い。それに校外学習だって、学習と名前がついてるんだよ? 事前にきちんと学ばないと」
会長さんはスタスタと教壇まで歩いていくと、教頭先生をシッシッと手で追い払う仕草。
「じゃあ、恵須出井寺のことを説明しよう。あそこの開祖は…」
気の毒な教頭先生は会長さんに授業時間をぶっ潰されてしまいました。今日の分の授業内容はプリントを作って配布すると言っていましたけど、それって時間外労働ですよねえ…。けれど緋の衣を纏った会長さんから恵須出井寺や座禅などについて教えて貰えたクラスメイトは大感激。予備知識はこれでバッチリです~!

そして校外学習の日。私たち七人グループは集合時間より早く「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に行きました。お弁当も要らない校外学習にしては大きすぎるバッグを1個、余分に持って。
「かみお~ん♪ 今日は楽しみだね!」
「やあ、おはよう。ちゃんと用意をしてきたね」
出迎えてくれた会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が私たちの余分な荷物を瞬間移動で運び去ります。荷物の行き先は会長さんの家のゲストルーム。今日は金曜日ですから、校外学習という名の一日修行体験の後、慰労会と称してお泊まり会があるのでした。精進料理と座禅が済んだら「そるじゃぁ・ぶるぅ」の美味しい料理が待ってます。
「これでよし、と」
準備完了、と会長さんが微笑みました。
「荷物はちゃんと運んでおいたよ。校外学習は頑張りたまえ」
「「「………」」」
「不満そうな顔をしてるとお泊まり会から外すからね? それでいいなら…」
「やだよ!!!」
そんなの困る、とジョミー君。私たちだって仲間はずれは嫌でした。校外学習、頑張らなくちゃ! 教室で出席が取られ、みんなでバスに乗り込んで……バスは郊外に聳えるアルテメシアで一番高い山の頂上目指して登っていきます。急な坂道は冬には凍結して通行止めになる日も多く、平地では雪が積もらなくても山頂付近が真っ白なのはよくあること。恵須出井寺はそんな厳しい自然の中で修行するための聖地であって…。
「シャングリラ学園の皆さん、ようこそいらっしゃいました」
駐車場でバスを降りるとお坊さんが出迎えてくれました。
「本日は修行にいらしたのですから、私語は控えて頂きましょう。厳しくビシビシいきますよ。まずは心得を学びにこちらへどうぞ」
案内されたのは意外な事に鉄筋コンクリートで四階建ての立派な建物。宿坊だという話でしたが、キース君の家とはケタが違います。中には大きな広間もあって、私たちはそこに通されました。畳に正座で恵須出井寺の由緒や一日修行体験の心構えを聞かされ、それから本堂へ移動なのですが…。
「いたたた…。足が、足が~!」
悲鳴を上げる男子生徒や立ち上がれない女子生徒。三十分の話の間に足がすっかり痺れています。なのに。
「私語厳禁だと申し上げたと思いますが?」
指導役のお坊さんが睨んでいました。1クラスに四人の勘定でつくお坊さん。逆らったら容赦なく指導をします、と聞かされた今となっては、足の痺れくらい我慢しないと…。どういう指導か知りませんけど、とんでもない目に遭わされてからでは遅いのです。ヨロヨロ歩いて玄関で靴を履き、坂道を登って見上げるような本堂に入って…。
「こちらで座禅をして頂きます。時間はこのお線香が消えるまでですが、これは四十分間燃え続けます」
げげっ。四十分間も? 会長さんが「お線香が一本燃える間」と言ってましたから、せいぜい十分くらいかと…。あちこちで息を飲む気配がしています。
「座る時にはその座布団を使って下さい。普通の座布団とは形も硬さも違うでしょう? 座禅専用の座布団ですから姿勢を正しくしてくれます。座り方は…女子の方はスカートですし、正座をしてもいいですよ。男子はこのように左ももの上に右足を乗せ、右ももの上に左足を乗せて座ります」
できねえよ、と誰かの声が聞こえた瞬間、バシッと鋭い音がしました。そちらを見ると棒を構えたお坊さんと、肩を押さえて顔を歪める男子が…。
「テレビなどでも御存知のとおり、座禅中はこうして指導するものです。一日修行体験では普通、希望者のみを打っております。しかし今回は学園からの御希望があり、指導対象と見做した場合はもれなく打たせて頂きます」
「「「!!!」」」
お坊さんたちの隣で笑みを浮かべるグレイブ先生。なにも此処までしなくても…、と私たちは泣きそうな気持ちでした。続いて手指の組み方を教わり、先生方が見学用の椅子に移動し、お坊さんがお線香に点火しようとした時です。
「ちょっと待った!」
よく通る声が本堂に響きました。スッと立ち上がる会長さんの姿が見えます。これって天の助けでしょうか? それとも地獄の始まりなのかな…?

会長さんは男子生徒に混じって本堂の中ほどにいたようですが、真っ直ぐ前へと歩いていきます。お坊さんたちが棒を構えて脅しているのにも我関せずで、指導役の筆頭を務めるお坊さんの傍まで行くと…。
「璃慕恩院から聞いてないかな、赤い瞳で銀色の髪。シャングリラ学園生徒会長のブルーが行くって連絡があった筈だけど…?」
「え? あ…。は、はいっ!」
お坊さんの態度が変わりました。直立不動でガチガチに緊張しています。会長さんはクスッと笑って。
「分かってくれればそれでいいんだ。えっと…。ぶるぅ、大丈夫だから前までおいで」
「かみお~ん♪」
ピョンピョンと跳ねて行く「そるじゃぁ・ぶるぅ」を叱るお坊さんは誰もいません。まあ、元々小さな子供ですから、例外なのかもしれませんけど。会長さんは隣に並んで立った「そるじゃぁ・ぶるぅ」の頭を撫でると、指導役筆頭のお坊さんに赤い瞳を向けました。
「この子がぼくとセットの、ぶるぅ。まさか子供を打ちすえたりはしないだろうけど、一応紹介しておくよ。それとね、ぼくのお願いは必ず通ると璃慕恩院の老師が言ったんだけれど…。違うのかな?」
「い、いえ…。確かにそのように聞いております」
「だったら何も問題ないね。まずはお願い。ぼくの大事なクラスメイトたちを打つのは止めてくれないかな? あ、ぼくのクラスの子だけって言うんじゃないよ。同級生は全員、打たずに済ませて欲しいんだ」
会長さんの言葉にグレイブ先生が椅子からガタンと立ち上がって。
「ブルー! 勝手な真似は許さんぞ!」
「残念でした。一教師よりもぼくの方が強い。…そうだよね、そこの指導係?」
「はいっ!」
深々と頭を下げるお坊さん。会長さんは勝ち誇った顔でグレイブ先生を眺め、それから視線を横にずらすと。
「あそこで座禅を組んでいるのがシャングリラ学園の教頭っていうのも知ってるだろう? 彼とぼくとが一番前に座ることにしたい。…連れて来て」
「はいっ! おい、そこの先生をお連れしろ!」
指導係に命じられた下っ端のお坊さんが教頭先生を前へと促しました。会長さん、何を考えているんでしょうか? 教頭先生と一緒に一番前に座ろうだなんて…。名指しされた教頭先生は真面目な顔をしていますけど、心の中は会長さんに呼ばれた喜びで一杯です。だって思念がダダ漏れ状態、私たちにだって読めるんですから。
『ブルーがついに認めてくれたか! 私の誠意が通じたのだな、一緒に座禅が出来るとは…』
修行に来た甲斐があった、と大喜びで前に出た教頭先生でしたが。
「それじゃハーレイ、君はこっちへ。ぼくが此処」
座って、と会長さんと教頭先生が座禅を組んで、会長さんが指導役に。
「せっかくビシビシ打つ方向で修行体験に来たんだからね、ぼくとハーレイ……そう、教頭が代わりに打たれることにする」
「「「えぇっ!?」」」
私語厳禁の注意も吹っ飛び、本堂を揺らす驚きの声。会長さんは構わず続けました。
「ぼくが受けるのは女子の分だ。ぼく自身は座禅の心得があるから打たれない自信があるんだけども、女子の身代わりに打たれてあげよう。…ぼくが打たれるのは嫌だと言うなら、女子のみんなは頑張って欲しいな」
「「「はーい!!!」」」
元気のいい声に「静粛に!」と指導役の声が重なり、女子は一気に静まって……会長さんは更に続けて。
「男子の分はハーレイが受ける。ハーレイは修行をしたいらしいし、男子は頑張る必要はない。遠慮なく居眠りしておきたまえ。ただし…。キースとジョミーは例外だ。ぶるぅ、二人を教えてあげて」
「かみお~ん♪」
ピョーンと跳ねて行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」がキース君とジョミー君を指し示しました。
「えっとね、こっちがキースで、そっちの金髪がジョミーだよ!」
キース君とジョミー君の後ろに棒を構えたお坊さんが一人ずつピタリと張り付きます。うわぁ……これって最悪かも…。サム君が除外されたのは会長さんの贔屓でしょうか?
『決まってるだろ? サムは自分から仏門を志したんだ。キースやジョミーとは心構えが違うのさ。座禅なんかで萎縮されては勿体無い。だけどキースとジョミーは鍛えないとね』
心身を、と伝わって来る会長さんの思念。それと同時に…。
『キース一人でいいじゃないか! あんまりだよ~!』
『俺は座禅と関係ないんだ! お念仏だけでいい寺なんだーっ!』
ジョミー君たちの泣きの思念が流れてくる中、お線香に火が点けられました。いよいよ座禅開始です。四十分間の修行ですけど、代わりに打たれる人がいるなら安心ですよね……って、会長さんを打たせちゃったらマズイかも? うーん、やっぱり頑張らなくちゃ!

だだっ広い本堂での座禅修行は思った以上にハードでした。頭を空っぽにして座っているつもりが、ついウッカリと頭がコックリ…。肩にピタリと棒が当てられ、しまった! と思った時には前でバシッ! と鋭い音。ご、ごめんなさい、会長さん…。
『心配しなくても平気だってば。ぼくはハーレイとは違うから』
サイオンでガードしているからね、と笑いを含んだ会長さんの思念。会長さんの右隣では教頭先生が派手に打たれていました。女子は憧れの会長さんを打たせまいとして努力中ですが、男子の方は注意散漫。あっちこっちでコックリコックリ居眠っている人たちが…。そうかと思えば足が痺れて身動きをして、お坊さんの目に止まったり。それも打たれる対象ですから、教頭先生がバシバシと…。
「かみお~ん♪ 今ので百発目!」
嬉しそうに数えているのは勿論「そるじゃぁ・ぶるぅ」です。会長さんの左隣にちょこんと座っているのですけど、座禅ではなく体育座り。教頭先生が打たれた数を発表するのがお役目でした。結局、教頭先生は四十分の座禅の間に二百発以上食らったらしく、終わった途端に痛そうに肩を擦っています。会長さんの方は申し訳なさそうに頭を下げる女子に笑顔で手を振っているというのに…。
『ハーレイはタイプ・グリーンで防御に優れているんだけどね、ガードする発想が無かったらしい。ぼくも教えてあげる気は無いし、二百と…幾つだっけ、ぶるぅ?』
『二百と三十四だったよ♪』
『ありがとう。男子一人に二発はカタイね。女子と違って気の抜き方が半端じゃないや』
それでこそだけど、と会長さんの思念は楽しげです。ジョミー君とキース君も厳しく指導を受けたらしくて肩が痛んでいるみたい。えっと、この後はお昼ご飯で…。私たちは座禅で痺れた足を擦りながら宿坊に戻り、大広間に入ったのですが。
「食事の前にそこに書いてある言葉を唱えて頂きます。食後の言葉も書いてありますので、食事が終わればそちらの方を…。そして食事にも作法があります。器は必ず持ち上げること! 音を立てない! タクアンを一切れ最後に残して、それで食器を綺麗に洗う!」
え。タクアン? 洗うって……なに? 並んだ食事は精進料理の一汁三菜、そこそこ美味しいですけども…。私語厳禁だけに静かですけど、音を立てずに食べるというのは…。あっ!
「お静かに、と申しております」
お味噌汁を啜った音を注意されてしまい、私は首を竦めました。他の生徒も叱られています。キース君とジョミー君にはお坊さんが一人ずつ張り付き、姿勢を正されたり、叱られたり。あまり食べた気がしない食事のトドメはタクアンでした。食事の器にお茶が注がれ、タクアンをお箸で摘んでお茶で食器を洗うのです。洗い終えたらお茶を飲んで……、と。あれ? 汚れが残ってる?
「もう一度!」
お坊さんがお茶を注ぎに来ました。そんなこと言われても、タクアンで綺麗に洗うなんて…。えいっ、今度こそ!
「…やり直しです」
体験だからと三回までで終わりましたが、本当の修行だと汚れが完全に落ちるまでお茶が何度も注がれるとか。もう嫌ですよ、こんな体験! なのにこれから写経ですって? 部屋を移って般若心経を書くんですって~?

結論から言うと、一日修行体験の中で写経が一番マシでした。お手本シートの上に半紙を乗せて書き写すだけで、正座とはいえ一行書くごとに足を崩せるので痺れに苦しむこともなく…。そう、食事中も正座だったのです。やっとのことで書き終えた般若心経の末尾に名前を書き入れ、お願い事を書いて提出。
「はい、皆さん最後まで頑張りましたね」
よく出来ました、と指導役のお坊さんが労いの言葉をかけてくれたのは解散式という名の法話の会場。ここも正座ではありましたけど、修行もこれで終わりです。私たちは駐車場で待っていたバスに乗り込み、恵須出井寺を後にしました。急カーブの山道を下りてゆく中、1年A組の感謝の言葉が会長さんに…。
「会長、ありがとうございます!」
「座禅は本当に助かりました! 教頭先生が代わってくれなかったら、俺、今頃は泣いてますよ~」
そんな言葉が飛び交う車中でキース君とジョミー君は仏頂面。二人とも派手に打たれましたし、写経の時までお坊さんにマークされ……会長さんに救われたクラスメイトたちとは正反対の待遇だったのですから。…でも、この後は会長さんの家で慰労会! きっと気分も良くなるでしょう。バスは山道からアルテメシアの市街地に出て、一路シャングリラ学園へ…。
「諸君、今日は有意義な一日を過ごせたことと思う」
バスを降りると教頭先生の短いお話を聞いて解散でした。荷物持参で出掛けてましたし、教室に戻る人はありません。みんなが校門を飛び出していくのと反対側に歩く私たちの行き先は勿論…。
「かみお~ん♪ 早く、早く!」
「乗り遅れちゃうよ、急いで走って!」
は? 乗り遅れるって何のこと? 会長さんたちの言っている意味が分かりませんが?
「恵須出井寺行きの最終バスが出ちゃうんだってば!」
会長さんがそう叫びながら「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に飛び込みました。そこには朝に会長さんの家へ送った筈のお泊まり用の荷物があって、私たちはそれを持つように言われ…。
「バス停まで一気に飛ぶからね。大丈夫、周りの人には気付かれないから」
パアッと青い光が走って、フワリと宙に浮く身体。浮遊感が消えた時には目の前に路線バスが止まっていました。他に乗客のいなかったバスは間もなく発車し、さっき下って来たばかりの山へ向かって走って行きます。
「おい」
キース君が前の座席に座った会長さんを睨み付けて。
「一体なんの真似なんだ? あんたの家で慰労会だと聞いていたがな」
「慰労会としか言っていないよ?」
クルリと振り向く会長さん。
「そうだよね、ぶるぅ? 家には何も用意をしていないよね?」
「うん!」
会長さんの隣に座った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が笑顔全開で答えました。
「あのね、慰労会の会場は恵須出井寺! ブルーが用意をしてくれたんだ♪」
「「「用意?」」」
素っ頓狂な声を上げた私たちに会長さんはニッコリと。
「そう、用意。手配したとも言うのかな? 恵須出井寺に着けば分かるよ、せっかくのコネは利用しないと」
叩かれ損で終わりたくない、と会長さんは肩を擦ってみせました。
「あんた、サイオンでガードしてたんだろうが! 俺とジョミーは手加減無しで叩かれたんだぞ!」
「それは君たちの心構えが足りないからさ。一日修行体験したんだ、恵須出井寺との御縁は大事にしておかないとね」
みんなで楽しく慰労会、と会長さんは御機嫌です。けれど山の上にはお寺と宿坊しかありません。確かに立派な宿坊でしたが、あんな所で慰労会なんてアリですか…?
「慰労会には豪華ゲストが来るんだよ」
会長さんが言いました。
「ゲストは見てのお楽しみ! 一日修行体験なんかよりゴージャスで素敵な打ち上げになるさ」
それは絶対保証する、と自信満々の会長さん。えっと…本気で恵須出井寺に戻るんですね? でもって慰労会だか打ち上げだかに豪華ゲストが来るわけですか? それって一体、誰を呼んだの…?




教頭先生がギックリ腰から復帰したのは球技大会の十日後でした。ゼル先生に蹴飛ばされて悪化した件については、ソルジャーがゼル先生の記憶を消去したので学校側に報告されずに無事に終わったみたいです。お蔭で病欠扱いも取り消されずに済みましたし、じっくり治して元通り。泊まり込みでお世話した甲斐がありましたよ~!
「すまんな、本当に世話をかけた」
職場復帰の朝、教頭先生は私たち全員に金一封を渡してくれて。
「お前たちはバスで登校だな。車に乗せて行ってやりたいんだが、この人数では乗れないし…。それでタクシーに乗りなさい。余った分は好きに使っていいぞ。私は色々と仕事があるから先に出る」
あれこれ滞っているようだから、と教頭先生は愛車で出発しました。それを見送った私たちは金封を開け、中のお札を引っ張り出して。
「…誠意がない…」
ボソリと言ったのは会長さんです。
「ゼロが足りないよ、ハーレイのドケチ! これじゃ全員の分を合わせても打ち上げパーティーなんか出来ないじゃないか!」
「仕方ないだろう」
キース君がお札を眺めながら。
「十日も病欠なさっていたんだ、お給料に響くのは間違いない。下さっただけでも有難いと思うべきだぞ、俺たちの食費も光熱費も全部、教頭先生のお財布から出ていたんだし…」
「そりゃそうだけどね。でも贅沢はしてなかったよ」
「人数が多けりゃ費用も嵩む。…それにもう一人多かった時期もあったしな」
「「「………」」」
もう一人の顔を思い浮かべて私たちは溜息をつきました。花嫁修業だと押し掛けてきたソルジャーは途中で追い返されましたけど、水光熱費に無頓着だった上に、私たちが登校している間に高価なお菓子を買い食いしたりと財布に優しくなかったのです。
「ブルーは好き放題にやってたからねえ…。ハーレイの懐を直撃したか」
花嫁修業が聞いて呆れる、と会長さん。
「家計簿もつけさせておくべきだったよ。そしたら金一封ももっと中身があったのにさ。…これでタクシー代も払えって? 冗談じゃない。瞬間移動で十分だ。ぶるぅ!」
「かみお~ん♪ 戸締り済んだし、オッケーだよ!」
パァッと青い光が溢れて、身体がフワリと浮き上がります。移動した先は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でした。
「ほら、君たちは教室に行く! ぼくはのんびり過ごしてるから」
また放課後に、と送り出される私たち。金一封は纏めて打ち上げパーティーに使うことに…。えっ、無理なんじゃなかったのかって? 会長さんや「そるじゃぁ・ぶるぅ」御用達の高級店には行けませんけど、ファミレスだったら十分な量が食べられますって!

授業を終えて「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に向かう私たちの頭の中は打ち上げパーティーのことで一杯でした。ファミレスと言っても色々あります。何処にしようか、と相談しながらワイワイと…。
「ハンバーグがいいな、オムライスとコンボで!」
ジョミー君はハンバーグとステーキが売りのお店に行きたいようです。サラダバーとドリンクバーも充実してますし、あそこがいいかな?
「それより中華の方がいいって! 色々頼んで取り分けようぜ」
サム君はバラエティー豊かな中華を希望。スウェナちゃんはピザとパスタを推してますから、これはジャンケンになるのでしょうか? それとも会長さんの鶴の一声? 隠れた名店があるかもですし…。生徒会室に着き、壁を抜けて「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に入ると会長さんが待っていました。
「やあ、お疲れ様。グレイブは今日も絶好調だったみたいだね」
会長さんが言っているのは抜き打ちテストのことらしいです。球技大会の『お礼参り』でボコボコにされたグレイブ先生、お礼参りの御礼とばかりに抜き打ちテストを乱発中。今日のテストも補習の犠牲者が大勢出るのは確実でした。復帰した教頭先生の方は普通に授業をしただけなのに…。
「ハーレイは当分、授業を進めるだけで精一杯だよ。何処のクラスも自習になっていただろう? 早く遅れを取り戻さないと、一学期のノルマが達成できない。そうでなくても授業時間が潰れそうだしね」
「「「???」」」
「校外学習を忘れたのかい? あれで丸一日は潰れてしまうよ」
「そういえば…」
そんな時期か、とキース君が苦笑し、シロエ君が。
「会長、今年も何か企んでるんじゃないでしょうね? 教頭先生、去年は特訓してましたもんね」
特訓というのは人魚ショーのことでした。ハーレイズのショーよりも先に水族館でお披露目された教頭先生人魚ショーです。大水槽で素潜りダイバーとして泳がされたり、イルカプールで「そるじゃぁ・ぶるぅ」と一緒にジャンプなんかをやらされたり…。その前の年はドルフィン・ウェディングに花嫁の父親役で出演でしたし、校外学習は教頭先生にとって鬼門と言ってもいいでしょう。きっと今年も絶対に…。
「それがね…」
顔を曇らせる会長さん。
「ちょっとマズイことになりそうなんだ」
「「「え?」」」
「今ね、職員会議をしてるんだけど…。ぶるぅ、中継してくれるかい?」
「うん!」
任せといて、と会議室の方へ視線を向けた「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサイオンで映し出してくれた光景は…。
「このままではシャングリラ学園の恥さらしです!」
ダン! とテーブルを叩いたのはグレイブ先生でした。
「去年が人魚で、その前はドルフィン・ウェディングで…。一生徒の趣味で校外学習の場がお笑いになるのは大いに問題があると思われますが!」
「…しかしだね…」
落ち着きたまえ、とヒルマン先生。
「ブルーは生徒会長だ。それに人望もあるのだよ? なによりハーレイ自身が良しとしている以上は、少々のことは目を瞑ってもいいと思わないかね?」
「思いません! ですから私がプランを練らせて頂きました!」
グレイブ先生が分厚い書類袋を取り出し、何枚かずつに綴じられた資料をミシェル先生に渡して配らせて…。先生方は資料をパラパラとめくり、その表情が厳しくなります。
「なんだい、これは?」
ブラウ先生が顔を上げました。
「今年はこれでいこうってのかい? とっくに手配は済んだんだけどねえ」
「その件については調整済みです」
グレイブ先生は自信満々で滔々と説明してゆきます。
「我が校が行かない場合は休館日としてメンテナンスをするそうです。月に一度の休館日だけでは対応しきれない部分があるので有難いとの話でした」
「勝手に話を決めたんかいっ!」
ゼル先生が叱り付けましたが、グレイブ先生はツイと眼鏡を押し上げて。
「職員会議に諮ってからでは手遅れになると判断しました。そういうわけで水族館の方はいつでもキャンセル可能です。バス会社からも行き先が変更になるだけなので構わないとの承諾を既に得ております」
「…じゃあ、水族館は止めにするのかい?」
こっちのプランも面白そうだ、とブラウ先生が資料をめくって。
「林間学校気分ってことか。あそこは人気の場所だしねえ」
「いえ、林間学校のプランの方は参考として添えてみただけです。林間学校では水族館の二の舞ということも起こり得ますし、やはり行き先に相応しい非日常な活動内容が好ましいかと…。詳細は最終ページに書いてあります」
「ふむ…。これか」
ヒルマン先生が頷いています。
「なるほど。羽目を外す心配はないし、勉強にもなる。…ハーレイ、君はどう思うかね、教頭として」
「校外学習を楽しみにしている生徒たちには可哀想だと思うのだが…」
え。可哀想? 水族館がお流れになって別の行き先になりそうなことは読めていましたが、可哀想って…どんな所へ行くんでしょう? 林間学校に行けそうな場所で、非日常な活動が相応しいって…何処? 私たちは顔を見合わせ、会長さんが「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「ぶるぅ、資料をアップにしてあげて。グレイブが持ってるヤツでいいよ」
「オッケー!!」
中継画面に映し出された資料の文字はこうでした。
『恵須出井寺・一日修行体験』。
なんですか、これは!? 恵須出井寺って……修行体験って、何なんですか~!

「やられちゃったよ、グレイブに…」
会長さんが嘆いているのは職員会議が終わった後。グレイブ先生のプランは最終的に満場一致で通ってしまい、今年の校外学習の行き先はアルテメシア郊外に聳える山の上に建つ恵須出井寺――エスデイデラと読むんですが――に変更されてしまったのです。しかも一日修行体験…。
「恵須出井寺って修行がキツイんじゃなかったっけ…?」
恐る恐る口を開いたジョミー君に、キース君が。
「ほう? 珍しく覚えていたか。坊主は嫌だと言っているのに素質があるな」
「な、無いってば! 絶対嫌だと思ってたから覚えただけで!」
「そうなのか? まあ、俺はどうでもいいんだが…。それはともかく、恵須出井寺が厳しい修行で有名なのは確かだな。それを一般向けにアレンジしたのが一日修行体験コースだ」
「だよね…。座禅に写経だもんね」
ズーンと落ち込むジョミー君。まさか学校から修行体験に行く羽目になるとは夢にも思わなかったのでしょう。それは私たちの方も同じで、校外学習はサボった方がいいかも…という考えが頭の隅に浮かんでいたり。去年までは水族館で楽しく遊んで笑っていたのに、修行だなんてあんまりですよう…。
「君たちもそう思うかい?」
会長さんが私たちをグルリと見渡しました。
「校外学習は楽しくなくちゃね、ぼくとぶるぅも楽しいからこそ参加することに決めたわけだし…。そりゃあ少しはやり過ぎたかもしれないけれど、去年のショーはゼルも一枚噛んでたんだよ? 一昨年のショーもそうだし、ハーレイはともかく他の教師は楽しんでいたと思うけどな」
会長さんの言葉は間違いではありませんでした。私たちの学年の担当でもないのに見物に来ていた先生方がおいでだったのを覚えています。グレイブ先生、校外学習という行事について固く考えすぎなのでは? 教頭先生の人魚ショーだって、シャングリラ学園の親しみやすさをアピールするためという側面が…。
「…その楽しさを逆手に取られたという気がするぞ」
キース君が口を挟みました。
「今度も教師は楽しめるんだ。俺たちが修行をしている間、先生方は見学なんだぞ? 座禅も写経も見ているだけなら傍目には立派な見世物だしな」
「「「………」」」
「ブルーは恵須出井寺で修行した経験があるし、座禅も多分平気だろう。だが、俺は座禅はサッパリだ。あれはな…、終わってから立ち上がる時がとてもキツイと聞いている」
立ち上がれないのは当たり前、と強調するキース君に私たちは既に涙目です。校外学習、参加しないのが吉なのかも…。特別生に登校義務は無いのですから、校外学習をサボッたとしても別に問題ありません。水族館なら行きたかったんですけども…。そして会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。
「恵須出井寺じゃね…。行こうって気にはなれないよね…」
「イルカさんに会いたかったのに…。今年もショーだと思ってたのに…」
二人ともガックリと肩を落としています。こういう時は気分転換、パアッと打ち上げパーティーでしょうか? 教頭先生に貰ったお金でファミレスに行くのが一番かも~!
ジョミー君が行きたがったハンバーグとステーキが人気のファミレスは「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお気に入りでした。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は高級店にしか行かないのだとばかり思ってましたが、シャングリラ号のクルーや仲間たちと出掛ける時にはファミレスというのもアリなのだとか。打ち上げパーティーはハンバーグなファミレスに決まり、お腹一杯になるまで食べて…。
「校外学習はサボリってことでいいんだよね?」
確認を取るジョミー君に、私たちは大きく頷きました。修行なんかやってられません。みんなでサボッて遊びに行こうということに…。イルカが見られる水族館は他の場所にもありますしね。こうして打ち上げパーティーは解散となり、教頭先生の看病からも解放されて、久しぶりの我が家へとそれぞれに散っていったのでした。

翌日の朝のホームルームで校外学習は発表されず、会長さんも1年A組には来ないまま。考えてみれば発表はいつも1週間前だった気がします。行き先変更の職員会議が昨日行われていたくらいですから、校外学習が実施されるのは3週間も先のことで…。
「ここなんかいいと思うんだが」
キース君が休み時間に取り出したのは、昨夜インターネットで調べたというマップでした。
「海沿いの小さな水族館だが、イルカのショーがメインだそうだ。ぶるぅにはちょうど良さそうじゃないか」
「えっと…。特急で1時間ちょっとですか」
日帰り範囲内ですね、とシロエ君。
「そうなんだ。気軽に行って帰れるあたりもポイントが高い」
「いいわね。ここにしておきましょうよ、ぶるぅもきっと喜ぶわ」
スウェナちゃんが賛同し、私も異議はありませんでした。他のみんなも大賛成で、校外学習の日は水族館行きになりそうです。私たちは「そるじゃぁ・ぶるぅ」の喜ぶ顔を楽しみに放課後を待って出掛けたのですが…。
「「「えぇっ!?」」」
ソファに腰掛けて待ち構えていた会長さんの言葉は実に衝撃的なもの。そ、そんな…。昨日の今日でそんな殺生な…!
「なんで修行!?」
一番最初に食ってかかったのはジョミー君です。
「誰もそんなの行きたくないからサボるんだって決めたじゃないか! ぶるぅが好きそうな水族館も探してきたのに、どうして修行!?」
「…だって、面白そうだったから」
会長さんは平然として切り返しました。
「昨日、家に帰ってからサイオンでハーレイを追っていたんだよ。ぼくたちがいなくなったからホームシック状態かなぁ、って思ってさ」
「「「………」」」
自分の家でホームシックも何もあったものではないだろう、と思いましたが、言いたいことは分かります。昨日まで賑やかに住み込んでいた私たちが帰ってしまえば、あの広い家は火の消えたように静かになってしまうでしょうし……一人暮らしの教頭先生、寂しくなってしまうかも…。
「それでね、落ち込んでるかと期待してたら、なんだか嬉しそうなんだ。グレイブが作った資料を眺めてニヤついてるし、ちょっと心を読んでみた」
「…それで?」
気乗りしない顔のキース君に会長さんは。
「ハーレイも校外学習に参加しようとしているらしいよ。ぼくが恵須出井寺で修行したのを知ってるからね、罪滅ぼしって所かな。…ほら、ぼくの修行に付き合わなかったのを責められたことがあっただろ? 今からでも遅くはないと勝手に考えて盛り上がり中」
「それじゃ教頭先生は……あんたと一緒に修行しようと思っているのか?」
「うん。一日体験でもしないよりマシと考えたらしい。ハーレイに対するぼくの評価が上がると信じているんだよ」
「「「………」」」
教頭先生の発想の飛躍に私たちは目が点でした。会長さんが教頭先生をお坊さんの修行に誘ったのは遥か昔の話です。それも一日体験とは比較にならない厳しい修行に出掛ける時の出来事で…。坊主頭に抵抗があった教頭先生は「お気をつけて」と会長さんを一人で…、いいえ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」と二人きりで送りだしてしまったとか…。
「つくづくハーレイは間抜けだよねえ、今頃になって修行したって何の役にも立たないのにさ。…だけど勘違いして修行しようと決意したのは評価できる。グレイブたちは監督だけで済ますつもりだけれど、ハーレイは座禅も写経も参加するんだ。これは絶対見届けなくちゃ」
イルカショーよりワクワクするよ、と会長さんの瞳が煌めいています。
「だから校外学習に参加決定! 恵須出井寺で一日修行体験だ」
そうと決まれば善は急げ、と会長さんは携帯電話を取り出しました。通話ボタンを押し、誰かと話しているようです。私たち、今日はまだおやつも食べていないのに…。あれ? そういえばテーブルにお菓子が並んでないですよ? いつもなら私たちが現れた時点で「そるじゃぁ・ぶるぅ」が用意し始める筈ですが…? アイスやシャーベットなら融けちゃいますから遅めですけど、そういう時は先に飲み物が…。
「ごめん、ごめん」
電話を切った会長さんが私たちに微笑みかけました。
「おやつの用意は必要ないかと思ってさ。…これからすぐに出掛けるから」
「何処へ?」
ジョミー君の問いに対する答えは…。
「璃慕恩院だよ」
「「「えぇぇっ!?」」」
璃慕恩院は会長さんが属する宗派の総本山。キース君が今年の暮れに修行に入るお寺ですけど、そんな所へ何をしに…?
「校外学習に向けて下準備をしなきゃいけないからね。恵須出井寺は璃慕恩院とは宗派が違うし、グレイブも宗派が違えば顔が利かないと思い込んでる。それで安心してプランを出してきたんだろうけど、蛇の道はヘビ」
きっちりコネをつけてやる、と会長さんはソファから立ち上がりました。えっと……コネって簡単につくんでしょうか? お坊さんの世界は分かりませんから、黙ってついて行くしかないかな…。

タクシーに分乗して向かった璃慕恩院はキース君の家である元老寺が建つ郊外から更に山奥へと入った所。一昨年の夏にジョミー君とサム君の修行体験ツアーを見学がてら出掛けて以来、私には縁のない場所です。あの時は会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、スウェナちゃんが一緒でしたっけ…。
「ほら、着いたよ」
会長さんが立派な山門を見上げました。ジョミー君とサム君は去年も修行体験ツアーに来ていましたし、もうお馴染みの光景でしょう。キース君も総本山だけに慣れていそうなものなのですけど、何故かジョミー君と二人で尻込みしています。
「先に行ってよ、ぼくは一番最後に行くから」
「い、いや、俺は…。ここは俺ごときが押し掛けていいような場所ではなくて…」
「キースはお坊さんだからいいじゃないか! ぼくは見つかったらマズイんだってば!」
目をつけられているんだから、と言うジョミー君はお寺の人に発見されたくないようでした。キース君の方は総本山に顔が利く会長さんに連れられているのが分不相応に思えるらしくて、二人揃って逃げ腰です。けれど会長さんは全く気にせず、サム君とシロエ君に命じて二人をガッチリ捕まえると。
「ぐずぐずしない! お待たせすると失礼だとは思わないかい、ぼくの友達ではあるんだけどね」
璃慕恩院で一番偉い人なのに、という言葉にジョミー君は震え上がり、キース君はガチガチに緊張しています。そんな二人を引っ張って境内を歩きながら会長さんは色々と教えてくれました。キース君が住職の位を得るための修行に入る道場はどの建物か…、とか、そういうことを。意外なことに寝起きする建物はジョミー君たちが修行体験ツアーで使っていたのと同じ所で…。
「ジョミーたちの修行体験ではクーラーなんかも一応使える仕様だけどね。キースが修行に入る時にはエアコンなんかは一切なし! 暖房なしで冬の寒さは厳しいよ。もちろんホカロンも使用禁止だ」
しもやけとかが出来るわけ、と会長さんは笑っています。キース君の修行はきっと厳しいものなのでしょう。やがて私たちはお坊さんたちが生活している建物に入り、ずっと奥へと案内されて…。
「おお、ブルー。久しぶりじゃの」
前に一度だけ会ったことのある老僧がにこやかに迎えてくれました。磨き込まれた机の上には美味しそうな和菓子が並んでいます。
「急に連絡してきおるから、ケーキの手配が間に合わなんだ。特上の寿司は注文したがのう」
「いつも悪いね。…そうそう、彼がキースで、こっちがサムとジョミーだけれど」
「サムとジョミーは知っておるわい。…去年の夏にも見に行ったんじゃ」
修行中に、とニコニコ笑う老僧。
「お前が見込んだ子じゃと聞いては見に行かずにはおれんでのう。二人とも素質がありそうじゃ。…そっちのキースとやらも中々…。確か元老寺の跡取りじゃったか?」
「は、はい! お目にかかれて光栄です!」
キース君は土下座せんばかりに平伏してお辞儀していました。サム君も礼儀正しく頭を下げていますが、ジョミー君はプイと知らんぷり。老僧はそんな所も気に入ったようで…。
「元気がいいのは良い事じゃ。そこのキースも反抗的な頃があったと聞いておる。今に気持ちが変わろうて」
「変わりませんっ!!」
ジョミー君の叫びを老僧はサラッと無視して会長さんに向き直ると。
「ときに、今日は何の用事じゃ? 恵須出井寺にコネをつけろと聞こえたように思うたのじゃが、緋の衣で行けば十分じゃろうが。高僧ならば賓客じゃぞ?」
「…そこまで派手にやりたくないのさ。どうせ一日だけのことだし」
「はあ?」
「だから一日だけって言った。ぼくの学校で一日修行体験に行くんだよ。その時に便宜を図ってもらえるように手を打ってほしくて来たってわけ」
あそこの修行は厳しいから、とウインクをする会長さんに老僧はニッと笑ってみせて。
「なるほどのぅ…。璃慕恩院の関係者として丁重に扱え、ということじゃな。修行の類は一切無しかのう?」
「その辺はまだ決めてないんだ。ある意味、出たとこ勝負かな。とにかく、ぼくが希望することは通るってことにしといてくれると嬉しいんだけど」
会長さんの厚かましいお願いはアッサリ通ってしまいました。蛇の道はヘビとはよく言ったもので、璃慕恩院の老僧と恵須出井寺のトップのお坊さんとのホットラインがあったのです。コネを確保した会長さんは老僧とお寿司を肴に楽しく飲み始め、私たちにもお寿司と飲み物。緊張していたキース君も最後の方には笑顔でした。
「今日はありがとう。また来るよ」
「恵須出井寺では無理せんようにの。…お前はともかく他の子たちが心配じゃ。一人で逃げずに、きちんと庇ってやるんじゃぞ」
「分かってるって。せっかくのコネだ、大事に使うさ」
じゃあね、と軽く手を振る会長さんに続いて私たちも部屋を出たのですけど、ひょっとして…璃慕恩院のコネで楽が出来るのは会長さん一人だけですか? 老僧の言葉を聞いた限りではそういう風に聞こえましたが…。
「ん? ぼくとぶるぅはバッチリだよ。ぶるぅはぼくとセットものだし」
「じゃあ、俺たちはどうなるんだ?」
キース君の疑問は私たち全員に共通でした。それに対して返って来たのは…。
「平気だってば、いざとなったらぼくがいるから。…ハーレイを助けるつもりはないけど、君たちは大事な友達だしね?」
「…と、友達って……その程度か? つまり俺たちは一般人か?」
「もちろんじゃないか。住職の位も持ってない君に璃慕恩院や恵須出井寺で優遇される資格があるとでも?」
「い、いや……そうは思わないが…」
歯切れの悪いキース君に、会長さんはクッと喉を鳴らして。
「分かってるならそれでいい。校外学習はきっと楽しくなると思うよ、勘違いしたハーレイがやって来るからね。グレイブの提案に感謝しなくちゃ」
恵須出井寺で座禅に写経、と指折り数えながら会長さんはタクシーに乗り込みました。辺りはとっくに真っ暗です。修行体験にコネが利くのは会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」だけだと知った私たちの心も真っ暗ですけど、今更どうにもなりませんよね…?




教頭先生の家にエロドクターと一緒に立て籠もってしまったらしいソルジャー。会長さんにも「そるじゃぁ・ぶるぅ」にも中の様子は分からないそうで、私たちはスーパーで買い込んだ荷物を抱えて教頭先生の家へと急ぎました。普段から鍛えている柔道部三人組が一足先に門扉を開けて玄関前に辿り着いたのですが…。
「くそっ、押しても引いてもダメだ」
キース君が玄関の扉をドンドンと叩き、シロエ君が門扉の所でインターフォンのボタンを押しまくっています。やはり会長さんが言っていたとおり、家には入れない状態でした。会長さんがポケットから合鍵を取り出し、玄関の鍵穴に差し込んでみせて。
「ほらね、鍵はかかっていないんだよ。だけど扉は開かない。もちろん瞬間移動で中へ飛び込むこともできない」
「「「………」」」
私たちを締め出した状態でソルジャーが何をしているのかは想像したくもありません。花嫁修業だなんて言ってましたし、きっとロクでもないことが…。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が放り出されてから既に1時間近く経つそうです。その間、ソルジャーは好き放題に…。
「いっそ窓でも割ってみるか?」
物騒なことを口にしたのはキース君。
「そうでもしないと中へ入るのは無理そうだぞ。あいつも窓を割られるとまでは思っていまい」
「窓か…」
会長さんが考えを巡らせています。確かに窓なら強行突破できるかも? と、突然カチャリと扉が開いて。
「おやおや。これは皆さん、お揃いで…」
出てきたのは白衣を羽織って往診用の鞄を提げたドクターでした。
「ハーレイの具合はいいようですよ。明日くらいまで安静にすれば動けるようになるでしょう。秘伝の塗り薬とやらが効きましたね」
民間療法も馬鹿にできないものがあります、と話すドクターは完全にお医者さんの顔。けれど…。
「…ブルーは?」
会長さんが玄関を覗き込み、胡乱な瞳で振り返りました。
「姿が見えないようだけど? 君もブルーに聞かされてたよね、花嫁修業に来たんだ…って。花嫁修業なら往診に来たお医者様をお見送りしなきゃいけない筈だ。ぼくはそのように教えたけれど?」
家から放り出される前に、と舌打ちをする会長さんにドクターは。
「ああ、要らないと言ったのですよ。花嫁修業中ともなると色々お忙しいでしょう? ご自分の世界にも何か用事がおありのようで、今はそちらにお戻りです」
では、と軽く会釈をするとドクターは表に停めた車の方へ。ドクター自慢の高級車です。風で白衣がフワリと靡いて、何かいい香りがしたような…? 病院特有の消毒薬などの匂いではなく、もっと自然で爽やかな…。ドクターってコロンをつけてましたっけ? 会長さんも気付いたようで。
「あれ? ノルディって香水つけていたかな? …おっと、そんなことはどうでもよかった。とにかくブルーが心配だ」
「心配って…それは逆じゃないのか?」
キース君が突っ込みを入れました。
「立て籠もっていたのはあいつなんだぞ? 絶対に何かよからぬことを…」
「だから心配してるんだってば! ブルーが何をやっていたのか、ハーレイに確認しなくっちゃ」
行くよ、と会長さんが玄関を入った所でドクターの車がエンジン音も高く去っていきます。ソルジャーは自分の世界に戻っているそうですし、今の間に教頭先生の安否を確認しなくっちゃ!

バタバタと二階に上がって寝室へ行くと、教頭先生はベッドに仰向けに寝ていました。きちんと肩まで布団を被り、膝の下には会長さんの抱き枕が挟み込まれているようです。そして漂ういい香り…。ん? この匂いって、さっきドクターがつけてたコロン?
「なんだ、どうしたんだ?」
私たちが勢いよく駆け込んだので、教頭先生は怪訝そうな顔。
「もう学校は済んだのか? 何をそんなに慌ててるんだ?」
「何をって…」
会長さんが溜息をつき、部屋をグルリと見渡すと。
「ブルーとノルディと三人で何をしてたのさ? とてもいい匂いがするようだけど」
「ああ、これか。ノルディが身体にアロマオイルを塗ってくれたんだ。アルトさんがくれた薬も塗ってるんだが、なんと言っても匂いが酷い。あれをブルーが嫌がるんでな、別の香りで薄めた方がいいだろうと」
「え…?」
「ノルディは私に対抗意識を燃やしたらしい。エステティシャンとして腕を磨けばお前に呼んで貰えるかもしれん、と色々勉強したそうだ。アロマテラピーも学んだとかで、この香りはそれの成果だな。あの悪臭を消せるオイルを選び出すとは凄いじゃないか」
教頭先生は本当に感心しているみたいです。この様子ではドクターは診察してアロマオイルを塗っていっただけで、何も悪さはしていないのでは…? けれど会長さんは引っ掛かるものがあるらしく。
「それだけかい?」
「………? 他に何かあるのか、ブルー?」
「ノルディは往診していっただけ? 他には何もしなかった?」
「他に? いや、何もないが? すぐにブルーが見送って行った。そういえばブルーが見当たらないな。買い物か?」
もう半時間ほどになると思うが、と言う教頭先生に会長さんの顔が青ざめました。
「…ちょっと待って。ブルーは君に断っていかなかったのかい? 自分の世界に用事があるから帰ってる、ってノルディは言っていたんだけれど…?」
「いや、知らん。そういう話は聞いていないが…」
教頭先生の証言によると、ソルジャーはエプロン姿でドクターを見送りに行ったそうです。それっきり戻らなかったわけですけども、相手は勝手気ままなソルジャー。花嫁修業とやらに飽きて好きに過ごしているのだろう、と教頭先生はベッドでウトウトしていたのだとか。
「ハーレイ、君はどこまでおめでたいんだい? ブルーがノルディと一緒に出掛けたかも、とかは全く思っていないんだ…?」
会長さんの鋭い指摘に教頭先生はウッと詰まって。
「そ、それは…。そんなことは…。しかし……自分の世界に行ったのだろう? だったら何も問題は…」
「今の行き先に関してはね。でも問題はそこじゃない。ノルディが往診に来てからすぐに、ぼくもぶるぅも放り出されてしまったんだ。家に入ろうとしても入れず、中の様子も分からなかった。…君の治療をしていただけならシャットアウトされなくってもいいんじゃないかと思うけど?」
「……放り出されただと?」
信じられない、と目を丸くする教頭先生は何も知らないようでした。会長さんが問い詰めた結果、エロドクターは教頭先生の寝室を出てから暫くの間、家の中に留まっていたことが明らかになり…。
「空白の時間が三十分か…」
溜息をつく会長さん。
「その間にブルーは自分の世界に用事が出来て、勝手に帰ってしまったわけだ。緊急事態ってこともあるだろうから、そっちの方はいいとして……ノルディと何をやってたのかが気になるな」
「そう?」
ユラリと空間が揺れて出現したのは噂のソルジャーその人です。会長さんの私服の上からフリルひらひらのエプロンを着けていますが、その格好で自分の世界に行ったんですか!?
「…この格好で里帰りしてちゃいけないのかい? ぼくのハーレイにはウケたけど?」
ソルジャーはクスッと笑って会長さんに向き直りました。
「お蔭様で花嫁修業は順調だよ。ハーレイもとても喜んでくれたし、ノルディに感謝しないとね」
「「ノルディ?」」
重なったのは会長さんと教頭先生の声。ソルジャーは「うん」と頷き、微笑んで。
「特別にレクチャーしてくれたんだ。ぼくは花嫁修業中だろ? 夫役のハーレイが役立たずって状態だから、そういう時の過ごし方。王道は宅配便のお兄さんだとか言っていたけど、往診に来た医者というのもアリらしい」
「「「???」」」
「分からないかな、夫が役に立たないんだよ? 花嫁修業をしているのにさ。だったら代わりが要るじゃないか。でないと欲求不満になるし」
ソルジャーが何を言っているのか私たちにはサッパリでした。ところが会長さんはピンと来るものがあったらしく。
「…ま、まさか……まさかノルディと……」
「心配しなくても大丈夫。最後まではやってないからね」
だけど十分熱くなれた、とソルジャーはウットリしています。この展開って、もしかして…? 口をパクパクとさせる会長さんにソルジャーは。
「仕上げはぼくの世界に戻ってハーレイと一緒に楽しんだんだ。ノルディはプロの店に行くとか言ってたよ。あそこで引けるのは流石だね。テクニシャンだと自負するだけのことはある」
「「「………」」」
今度こそ私たちにも分かりました。ソルジャーは会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」を締め出しておいてエロドクターと大人な遊びをしていたのです。教頭先生は耳まで真っ赤になっていますし、会長さんは顔面蒼白。直後に起こった会長さんとソルジャーの派手な口喧嘩は思い出したくもありません。エロドクターが来たばっかりに悲惨なことになっちゃいましたよ…。

その夜、会長さんは不機嫌でした。大喧嘩の末、ソルジャーがエロドクターの記憶を消去することで一応決着はついたのですけど、それでも腹に据えかねる様子。なのにソルジャーはのんびりと…。
「もういいじゃないか、ノルディの記憶は消したんだしさ。花嫁修業中のぼくと出会ったことすら覚えてないよ」
保証する、と言ってデザートのシャルロットポワールを頬張るソルジャー。
「美味しいね、これ。後でハーレイにも運んであげなきゃ」
「余計な真似はしなくていい! 花嫁修業は他にやることがあるだろう? エプロンだけが全てじゃないんだ。…ぶるぅ!」
「かみお~ん♪」
トトトト…と走って行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が抱えてきたのは裁縫箱と紅白縞のトランクスです。えっと、私たち、まだデザートの最中ですけど…。トランクスなんかテーブルに置かれても困るんですけど…。しかし会長さんは私たちをチラッと眺めて冷たい声で。
「不愉快なのはぼくも同じさ、それも君たちとはケタが違う。とにかくブルーには反省しといて貰わないと…。ブルー、そのトランクスは昼間に君が洗ったヤツだ」
「ああ、あれね。ハーレイの大事な取っておきの」
素手で優しく揉み洗い、と手つきを再現しているソルジャー。洗剤を大量に放り込んだと会長さんから聞いていますが、トランクスは少し色落ちしたようです。そのトランクスを「そるじゃぁ・ぶるぅ」が両手でパッと広げてみせて。
「えっとね、ここの縫い目が綻びてるの! ブルーが針仕事を教えてあげなさい、って。縫物、やったことはある?」
「…生憎そういう経験はないね」
「それじゃ一から教えるね! いきなり繕い物をするのは無理だし、練習からだよ」
頑張って、とソルジャーの前に積み上げられたのは端切れの山。針と糸を渡されたソルジャーが縫物の練習に悪戦苦闘するのを監視するのが私たちのお役目でした。その間に会長さんが教頭先生にシャルロットポワールを届けに行って、ついでに消灯してきたようです。
「ノルディの診断が確かだったら安静にするのも明日までかな。ハーレイもだいぶ楽になったって言っていたから、花嫁修業も明日で終わりだ」
人手は十分足りている、と会長さんは不快感を露わにしていますけど、ソルジャーを叩き出すだけの能力が無いものですから口で言うのが精一杯。そして案の定、ソルジャーは…。
「縫物の練習までさせてるくせに明日までだって? たった三日で修業が終わるわけないじゃないか!」
「君はとっくに奥義を極めてしまっているよ。ノルディを引っ張り込んで浮気気分を楽しんだだろ? 言い訳しても無駄だからね。言い出したのはノルディの方かもしれないけれど、君も良からぬことをしようと企んでいたのは確かなんだ。ぼくとぶるぅを放り出したのがその証拠さ」
「ぼくは三人で試したかっただけなんだ! 現地妻候補が揃ったんだし、三人でしないと損だよね」
「「「………」」」
三人で何をしようとしたのか、およそ見当はつきました。けれど教頭先生がギックリ腰では、それは絶対無理なのでは…と私たちは思ったのですが。
「ノルディはその道のプロだしね? やり方は工夫できたと思うよ。ギックリ腰でも口は十分使えるんだし…」
パシッと青いサイオンが走り、ソルジャーが顔を顰めました。
「いたたた…。何も攻撃しなくても!」
「調子に乗ってペラペラ喋っているからさ。万年十八歳未満お断りの団体の前でそれ以上言うと許さないよ? とにかく君の修業は明日まで! それと今夜はトランクスをきっちり繕うこと!」
分かったね、と会長さんは厳しい口調。ソルジャーは仏頂面で縫物の練習を続け、どうにか縫い目が揃ってきたのは日付が変わる頃でした。幸い、明日は土曜日ですから学校の方はお休みです。トランクスの綻びを繕い終えるのが明け方になってしまったとしても、それから眠ればいいんですよね。

翌日、私が目を覚ましたのはお昼前。ゲストルームで寝たソルジャーも、リビングで雑魚寝していた会長さんやジョミー君たちも同じです。リビングに置いた土鍋で眠った「そるじゃぁ・ぶるぅ」だけが早起きをして朝昼兼用の食事を用意し、私たちが学校帰りに頼んでおいたスーパーからの宅配品を受け取って…。
「かみお~ん♪ ご飯の用意、出来てるよ!」
元気一杯の「そるじゃぁ・ぶるぅ」は教頭先生のお世話も済ませていました。サイオンを使ってパジャマを着せ替え、ちゃんと朝食も食べさせたとか。
「あのね、ハーレイにトランクスを届けに行ったら感激してたよ。ブルーが繕ったんだよ、って言っといたから」
教頭先生はソルジャーが繕ったトランクスでも嬉しくなったみたいです。会長さんが繕ってくれる可能性はゼロなのですから、そっくりさんでもいいのでしょう。押し掛け花嫁修業中のソルジャーなんかでも役立つことがあるのですねえ…。教頭先生限定ですけど。
「それでね、さっきね、電話があって」
オムライスのお皿を配りながら「そるじゃぁ・ぶるぅ」が言いました。
「ゼルがお見舞いに来るんだって。今日は学校、お休みだから」
「…ゼルが?」
まずいな、と会長さんが顔を曇らせます。
「ゼルはブルーを知らないんだ。…ブルー、悪いけど修業は打ち切りにしてほしい。それが嫌なら来客中はゲストルームに籠ってて。君なら気配を消せるだろう?」
「まあね。気配くらいは軽く消せるし、そっちの方にしておくよ。花嫁修業は今日いっぱいは有効なんだろ?」
昨夜の押し問答の結果、ソルジャーの花嫁修業は今日の夜までと決まっていました。教頭先生が完治するまで居座るつもりで来たソルジャーは渋々同意していましたから、打ち切りなんかは聞き入れる筈もないわけで…。会長さんはソルジャーにビシッと指を突き付けると。
「いいかい、絶対にゲストルームから出ないこと! ゼルには君の存在を知らせたくない。SD体制が皆に知れたら不安を煽るだけだからね」
「分かってる。君もソルジャーである以上は守るべきものがあるんだろうし…。君の世界と仲間を脅かすような真似はしないよ、約束する」
「じゃあ、念のためにシールドを。ゲストルームに籠ってるだけでは今一つ不安な気がするから」
「了解」
こうしてソルジャーはゲストルームに籠った上でシールドを張り、隠れることになりました。ゼル先生の来訪を知らせるチャイムが鳴った時点でソルジャーは姿を消さねばならないわけです。
「だからさ、それまでは頑張らなくっちゃいけないんだよ、花嫁修業を」
なのに「そるじゃぁ・ぶるぅ」が全部済ませてしまっていた、とソルジャーはとても不満そうです。身体を拭いたり髭を剃ったり、あれこれしてみたかったらしくて…。
「そういうのは君の世界のハーレイでやればいいじゃないか」
会長さんが言いましたけど、ソルジャーはプイとそっぽを向いて。
「ぼくはハーレイの下僕じゃないし? そうでなくてもハーレイときたら、口うるさくて困ってるんだ。部屋はきちんと片付けろだの、濡れた身体でベッドの上に転がるなだの…。そういうことをしてくれるためにハーレイがいるんだと思わないかい?」
部屋の片付けに風呂上がりの世話、とソルジャーは威張り返っています。あちらのキャプテンが日頃からそういう役目をしているのなら、尽くされる立場に立ってみたいと願うのも無理はないでしょう。花嫁修業に出されるわけだ、と私たちは心の底から納得しました。けれどソルジャーは修業どころかお遊び感覚、キャプテンの夢は叶わないまま終わるのでは…?

ゼル先生のバイクがやって来たのは昼食の片付けを終えて寛いでいた所でした。音で気付いた会長さんがソルジャーに隠れるようにと目配せします。
「そうか、あれがゼル御自慢のバイクなんだ?」
大きいよね、とレースのカーテン越しに食い入るように見ているソルジャー。バイクを停めたゼル先生がフルフェイスのヘルメットを取り、会長さんはソルジャーが今日も着けているエプロンの端を引っ張って…。
「いいから隠れて! じきにチャイムが…」
ピンポーン♪ とチャイムが鳴って「そるじゃぁ・ぶるぅ」が玄関の方へと駆け出しました。
「ほら、早く!」
「分かってるってば」
じゃあね、とソルジャーがニッコリ笑った次の瞬間。
「「「!!?」」」
会長さんが真っ白でフリルひらひらのエプロン姿に大変身です。ソルジャー、やってくれましたか…。置き土産っていうヤツですか?
「違うんだな、これが」
「「「は?」」」
「せっかく修業に来たっていうのに消えろというのは酷くないかい? それにゼルにも会えるんだよ? ここで消えるのはブルーの方だと思うんだよね」
えっ、ちょっと待って。エプロンの下の私服はソルジャーが選んで着ていたもの。それじゃ消えたのはソルジャーじゃなくて会長さん!?
「お、おい…」
キース君が震える声で問い掛けました。
「あんた、もしかしてソルジャーの方か? 代わりにブルーを閉じ込めたのか?」
「閉じ込めたなんて人聞きの悪い…。ブルーはそこだよ」
ソルジャーが指差す先では会長さんが必死に何か叫んでいました。シールドの中に押し込められているようです。えっと…私たち、どうすれば?
「ブルーの姿はゼルには見えない。もちろん声も聞こえない。ぼくがブルーを演じ切っていれば問題ないと思うんだけどな。…そうそう、君たちがボロを出すとマズイから…ちょっと外出してもらおうか」
「「「えぇっ!?」」」
それが私たちの最後の悲鳴。気付いた時には会長さんもろともシールドの中に閉じ込められて手も足も出ない状況でした。そこへ「そるじゃぁ・ぶるぅ」がゼル先生を連れて戻ってきて…。
「かみお~ん♪ …あれ?」
「ご苦労様、ぶるぅ。みんなはちょっと用事があってね、ぼくと二人でお願いします…って」
ソルジャーに言われた「そるじゃぁ・ぶるぅ」はシールドの中の私たちに気付きましたが、会長さんが必死に送ったサインは「言われるとおりにしろ」というもの。いつも良い子の「そるじゃぁ・ぶるぅ」はコクリと頷き、会長さんのふりをしたソルジャーに従うことに…。

「何なんじゃ、ブルー、そのエプロンは?」
ゼル先生がジロジロとソルジャーを上から下まで眺め回して。
「まさかハーレイに着ろと言われたのではあるまいな? 如何にもあいつの好みなんじゃが」
「用意してあったから着たんだけれど…。この家には色々置いてあるよね」
ソルジャーの答えは間違いではありませんでした。ゼル先生は不快そうに鼻を鳴らすと。
「だから普段から言っておるんじゃ、ハーレイの家に一人で行ってはいかん、とな。エプロンは取った方がいい。でないとハーレイが図に乗りおるぞ」
「…そうなんだ…」
素直にエプロンを外すソルジャー。今の段階では別人だとバレていないようです。私たちはハラハラしながらシールドに入れられたままでソルジャーたちに続いて二階へ上がり、教頭先生の寝室へ。
「ハーレイ、腰の様子はどうじゃ? 見舞いに来たぞ」
「ああ、かなり楽になった。ノルディの見立てでは絶対安静は今日までらしい」
「なるほどのぅ。泊まり込みで看病してくれた子たちに感謝するんじゃぞ。ブルーも頑張っておるようじゃし…」
ゼル先生は教頭先生と和やかに言葉を交わし、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がお茶とお菓子を運んできます。お見舞いは至極平穏に過ぎ、ソルジャーも聞き役に徹していたので時間はアッという間に経って…。
「いかん、いかん。すっかり長居をしてしもうた。…そろそろ失礼せんといかんな」
壁の時計を見たゼル先生の言葉にソルジャーが。
「うん、ハーレイもマッサージしないといけない時間だしね」
「マッサージ?」
首を傾げるゼル先生。
「ギックリ腰はマッサージしてはいかんのじゃろう? わしはそのように覚えておるが」
「ダメらしいね。でも腰以外の筋肉をマッサージして血行を良くすると効果があるってノルディが言ったし、ハーレイ直伝のマッサージをするのもいいかと思って」
「ほほう…。そう言えばお前がハーレイをエステティシャンにしたんじゃったな。ハーレイのマッサージはなかなか気持ちのいいもんじゃて」
「そうだろう? だから今からマッサージ」
ソルジャーは手際よくアロマオイルやパウダーを並べました。
「ギックリ腰に効く秘伝の薬を塗ってるんだけど、これがまた酷い匂いでねえ…。それを消すのにアロマオイルを使うんだよ。マッサージのやり方は普段のエステとちょっと違って、ハーレイが独自に編み出したらしい」
「ほう? それはまた…。後学のために見て行こうかのう」
椅子に座り直したゼル先生。私たちはシールドの中で上を下への大騒ぎでした。教頭先生がソルジャーにマッサージを教えただなんて聞いてませんが? それに教頭先生、マッサージの話が出てから不自然に黙っているんですけど?
『そりゃハーレイは知らないさ。ついでに口も利けないように細工中。マッサージはノルディに習ったんだ』
飛び込んで来たソルジャーの思念に私たちは肝を潰しました。エロドクターに習ったマッサージ? それってまさか、私たちが締め出しを食らった時に…? では、エロドクターがいい香りをさせていたのは…。
『うん、マッサージに使ったオイルの香り。このマッサージは特別なんだ。ノルディは熱くなってくれたし、ぼくもたまらなくなっちゃって…。それであっちの世界に帰ってハーレイとベッドで楽しんだわけ』
「「「えぇっ!?」」」
外には聞こえない私たちの声を綺麗に無視して、ソルジャーは教頭先生のパジャマの前を大きく開くと…。
「最初は滑りを良くするためにパウダーを使っていくんだよ。まずは胸から、こんな風に」
両手を滑らせてゆくソルジャーの姿にゼル先生が大きく目をむき、「いかん!」と大声で怒鳴りました。
「ブルー、お前は騙されておる! それは…そのマッサージは間違っておるぞ!」
「え? やり方が違うのかい? でもハーレイはこんな風に…って」
「違うんじゃ! それはな…、それは男を気持ちよくする性感マッサージというヤツなんじゃあ!」
ゼル先生はソルジャーを教頭先生から引き離すなり、教頭先生の腰を思い切り蹴飛ばしたからたまりません。グキッと不吉な音が響いて呻き声が…。教頭先生、とんだ濡れ衣を着たものです。『せいかんマッサージ』とやらは初耳ですけど、精悍とでも書くのかな?

「ええい、ハーレイ、この痴れ者めが!」
ドスドスドス…と足音を立ててゼル先生は出てゆきました。
「ブルーを騙して性感マッサージをさせておったとは不届きな…。ギックリ腰が聞いて呆れる。いいか、病欠は明日までじゃぞ! それ以後はサボリと見做しておくよう、事務局の方に言っておく。せいぜい急いで治すんじゃな!」
捨て台詞を残してゼル先生のバイクが走り去り、私たちを捕えたシールドも解けて…。
「そうか、あのマッサージにはそういう名前があったのか…」
ノルディはそこまで言わなかった、とソルジャーが笑みを浮かべています。
「花嫁修業には必須ですよ、と言ってた理由がよく分かったよ。ちょっとした悪戯だったけれども、思わぬ収穫だったよね。で、ハーレイのギックリ腰は悪化しちゃったみたいだけども…。花嫁修業を期間延長してもいい?」
「却下!」
即座に切り捨てる会長さん。
「君のせいで悪化したんだろう? ノルディとあんないかがわしいのを練習したとは思わなかった! ノルディの記憶は消去したって言っていたけど、ゼルの記憶も消しといてもらう。でないと…」
ハーレイが気の毒すぎる、と会長さんは頭を抱えています。そりゃあ…怪しげなマッサージを会長さんに教えたとなれば教頭先生の評価が地に落ちますよね。教頭先生はゼル先生に蹴られた腰の痛みでそれどころではないようですが…。
「教頭先生、痛みますか?」
キース君が抱き枕の位置をずらして教頭先生の顔を覗き込んでいます。シロエ君はアルトちゃん秘伝の塗り薬の瓶を手にしてスタンバイ中。ソルジャーはゼル先生の記憶の消去を約束させられ、頬を膨らませて怒っていました。
「せっかく花嫁修業に来たというのに追い出すのかい? まだまだ習いたいことが沢山あるのに」
「マッサージを習えば十分だよ! 君は花嫁修業に向いてないのが良く分かった!」
所詮ままごと止まりなのだ、と会長さんも負けていません。二人の不毛な言い争いに教頭先生の蚊の鳴くような声がかぶさって…。
「それでも私はブルーを嫁に欲しいのだが…」
痛みを堪えて紡いだ言葉は二人に届きませんでした。ぎゃんぎゃんと詰り合っている会長さんとソルジャーは教頭先生のギックリ腰より我が身が優先みたいです。どちらをお嫁に貰ったとしても不幸になりそうな気がするのですが、それでもお嫁に欲しいのでしょうか? キャプテンが期待した花嫁修業もどうやら空振りに終わりそう。教頭先生、会長さんとの結婚生活を夢見ているなら腰は早めに治しましょうね~!




ギックリ腰になってしまった教頭先生のお世話をするべく泊まり込みを決めた私たち。けれどソルジャーがやって来るとは夢にも思いませんでした。手伝いをすると言っていますが、ソルジャーって家事は無能に近いのでは? 春休みに会長さんの家で合宿した時、部屋を散らかされて困った記憶が…。
「ぼくが手伝いをしちゃいけないのかい?」
ソルジャーは椅子に腰掛けたままで尋ねました。
「本人の許可は取ったんだけど? ねえ、ハーレイ?」
「え、ええ…。お手数をお掛けしてすみません…」
仰向けに横たわった教頭先生は申し訳なさそうにしています。ソルジャーは「ほらね」と得意そうに微笑み、教頭先生の顔を覗き込んで。
「相当酷くやられた割にはあまり腫れてないみたいだね。ちょっと心配してたんだけど」
「病院でずっと冷やして下さったので…。大したことはありませんよ」
「ふうん? ブルーにやられたことだと思えば痛みも吹っ飛んじゃうのかな? ギックリ腰になった理由もブルーが大事だからだもんねえ」
「な、何故、それを…!」
真っ赤になった教頭先生にソルジャーはクスクスと笑い始めました。
「ぼくも最初は気付かなかったよ。だけどブルーがそこの子たちに解説するのを聞いちゃったんだ。大事な下着を庇おうとしてギックリ腰って美談だよね。ぼくのハーレイも感動していた」
「…お恥ずかしい限りです…」
「いいじゃないか。ぼくが手伝いに来ることにしたのもハーレイに言われたからなんだよ? 腰は男の命だからねえ、しっかり養生するようにって。…ついでに腰が使えない間は心配ないから、色々覚えてきて下さいって」
「「「は?」」」
間抜けな声を上げたのはソルジャー以外の全員です。お手伝いに来て何を覚えると? ソルジャーは「分からないかな?」と人差し指を顎に当てて。
「腰が使えない間は心配ないって言っただろう? ぼくのハーレイが心配するのは浮気に決まっているじゃないか。この前、現地妻を募集したのが心にグサッと刺さったらしい。だけど、こっちのハーレイが夢を見ている新婚生活にも大いに惹かれるらしくって…」
「「「???」」」
「ハーレイズのことは覚えてる? 二人のハーレイの人魚ショー! あれの特訓をしていた時に、こっちのハーレイと色々話をしたらしい。ブルーを嫁に貰う日のために準備してあるグッズなんかが新鮮だったらしいんだよね。いかにも新婚って感じじゃないか」
教頭先生は頬を赤らめ、私たちは頭を抱えました。教頭先生の夢の数々は年始の挨拶で押し掛けた時に見ています。花の香りのシャンプーだとか、乙女ちっくなガウンだとか。あちらのキャプテンが惹かれるってことは、あれって男のロマンですか?
「そうらしいよ。ハーレイはぼくに主導権を握られてばかりいるからねえ…。一度でいいから尽くされる側に立ちたいらしい。それで修業に来たってわけ。いわゆる花嫁修業というヤツ」
「「「花嫁修業!?」」」
「うん」
ソルジャーは悪びれもせずに頷きました。
「ギックリ腰が完治するまで、世話をしながら理想の嫁について学ぼうかと…。ぼくのハーレイに提案したら一も二もなく賛成したよ。それどころか顔がニヤけていたね」
そういうわけで、とソルジャーはゆっくり立ち上がって。
「君たちにはサポートを頼みたい。花嫁修業をすると言っても、ぼくは家事なんか出来ないし…。出来る部分は努力するからダメな所はカバーして」
まずはお世話をしなくっちゃ、とソルジャーが抱え上げたのは会長さんの写真がプリントされた抱き枕でした。
「ギックリ腰には楽な姿勢が大切だって? 枕がどうとか言っていたけど、どう使ったらいいんだい?」
うわぁ、ソルジャー、本気ですか? 教頭先生のお世話をしながら花嫁修業って大真面目ですか~?

「ブルー、ちょっと待って」
抱き枕をセッティングしようとしたソルジャーを会長さんが止めました。
「君が本気で修業したいなら、まず服装をなんとかしたまえ。ソルジャーの衣装は家事に向かない」
「そうかな? ぶるぅも同じ服だよ?」
「ぶるぅは慣れているからいいんだってば! 君は初心者だし、マントだけでも邪魔になる。ぼくが持ってきた服に着替えるんだ。リビングに荷物が置いてあるから、好きなのを選んで着ればいい」
「形から入れってことなのかな? まあいいけど…」
着替えてくる、と寝室を出て行くソルジャーを見送り、会長さんは深い溜息。
「どうしてブルーが来ちゃうのさ…。せっかくハーレイで楽しく遊ぼうと思っていたのに」
「ブルー、お前…」
教頭先生が息を飲みましたが、会長さんは「当然だろ?」と涼しい顔。
「わざわざ泊まりに来てあげたんだ、オモチャになってくれなくっちゃ。…だけどブルーが花嫁修業って言い出したから、ここはブルーに譲るしかないか…。よかったね、ハーレイ。花嫁だってさ」
「…うむ…。そう言われると悪い気はせんな。ウッ!」
いててて、と呻く教頭先生。腰に響いたみたいです。ただ仰向けに寝ているだけでは姿勢に無理があるのかも…。それに球技大会で着ていたジャージのままでは寝込むのに向いてないような…?
「大丈夫かい、ハーレイ?」
痛そうだね、と会長さん。
「とにかく楽な姿勢を取らないと…。ああ、その前に着替えかな? ブルーに気を取られて忘れてたけど、身体を拭こうと思ってたんだ。病院では手当てしかしていないだろ?」
「い、いや…。私は別にこのままで…」
「君は平気かもしれないけどね。汗臭いんだよ、ハッキリ言って。前にギックリ腰をやった時にはプールだったから臭くなかった。でも今回は…汗臭いんだ」
「し、しかし…。今は身体を動かしたくは…」
痛いんだ、と教頭先生は腰の辺りを示しましたが、会長さんは。
「寝込む以上は清潔に! ぶるぅ、着替えを用意して。それと蒸しタオルが沢山要るかな」
「オッケー!」
早速戸棚からパジャマを取り出す「そるじゃぁ・ぶるぅ」。次に開けた抽斗の中にはズラリと並んだ紅白縞のトランクスが…。きちんと畳んで分けてある分が会長さんからのプレゼントでしょう。
「あ、トランクスは普段使いのヤツで頼むよ。薬臭くなったりするだろうし」
「分かった! じゃあ、こっちだね」
引っ張り出された紅白縞とパジャマがベッドの上に揃った所で寝室の扉が開きました。入って来たのは会長さんの私服に着替えたソルジャーですが…。
「「「!!?」」」
「変かな? ハーレイの夢を忠実に再現してみたんだけど」
ソルジャーが服の上から着けていたのは真っ白でフリルひらひらのエプロンでした。そういえば教頭先生、会長さんのためにエプロンも沢山揃えていたんでしたっけ…。
「どれにしようか悩んでいたのと、着方がやたら難しくって時間がかかってしまってね。ただ結ぶだけじゃなかったし…」
エプロンは背中で紐が交差するタイプで、その紐はボタンで固定する形になっています。腰で結ぶリボンもついてますから、ソルジャーには分かりにくかったのでしょう。それでもきちんと着てくる辺りは流石と言うか何と言うか…。教頭先生の視線はソルジャーの姿に釘付けです。
「そんな熱い目で見て貰えると嬉しいね。…なるほど、エプロン姿はポイントが高い…、と。裸エプロンよりいいのかな?」
「ブルー!!」
会長さんが怒鳴り、ソルジャーは首を竦めました。
「怒らなくてもいいじゃないか。ハーレイの夢には裸エプロンも入っているよ? 新婚生活には欠かせないロマンみたいだけども」
「そこまで修業しなくていいっ! 君はハーレイの世話をするために来たんだろう?」
「花嫁修業に来たんだってば。…えっと、着替えも済んだしハーレイに楽な姿勢を取らせなくっちゃ…って、あれ? ぶるぅ?」
今の騒ぎの間に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が蒸しタオルを用意しに行っていたらしく、湯気の立つタオルを籠に詰め込んでソルジャーの隣に立っています。
「あのね、ハーレイも着替えなくっちゃいけないんだよ。たっぷり汗をかいちゃったから」
これで身体を拭いてあげるの、と蒸しタオルを指差す「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ソルジャーの瞳がキラリと妖しく輝きました。
「それ、ぼくがやろう。エプロンも着たし、花嫁修業に旦那様のお世話は必須だよね?」
ウキウキとベッドに近付くソルジャー。スウェナちゃんと私は回れ右しようとしたのですけど…。
「逃げなくっても大丈夫だよ、いつもブルーがやってるみたいにモザイクかけてあげるから。えっ、足りない? ぶるぅ、悪いけど協力して」
ここに立って、と言われた「そるじゃぁ・ぶるぅ」がベッドの上に飛び上がります。スプリングが弾んだショックで教頭先生が呻きましたが、小さな身体はそのすぐ隣にピョコンと立って。
「これでいい?」
両手で大きく広げたマントが隠しているのは教頭先生の腰の辺りでした。確かにこうすれば見えませんけど…って、ソルジャー、その格好で教頭先生の身体を拭いてあげるんですか? 教頭先生は耳まで真っ赤になっています。このまま行けば鼻血コースをまっしぐらでは…?

ソルジャーによる教頭先生のお世話はサービス満点すぎました。ジャージを脱がせて身体を拭く合間に耳元で「気持ちいい?」と囁いたりするのですから、教頭先生の鼻の血管が無事に済むわけがありません。会長さんが仏頂面で渡したティッシュを教頭先生が鼻に詰め込み、「すまん」と謝ったのですが…。
「今のはぼくに? それともブルーに?」
冷たい目をする会長さん。
「お前に決まっているだろう!」
「そうかな? サービスしてくれているブルーに対して申し訳ないように聞こえたけれど? その調子なら治りもきっと早いだろうね。ブルー、拭き終わったら薬を塗るのを忘れずに」
取ってくる、と会長さんの姿が消え失せます。鬼の居ぬ間になんとやら…でソルジャーが悪戯するのでは、と思う間もなく会長さんは戻ってきて。
「ふふ、サイオンは便利でいいね。アルトさんも仲間になったし、遠慮なく思念でお願いができる。メールするより早かったよ」
会長さんが手にしているのはアルトちゃんの家の秘伝の塗り薬。ギックリ腰によく効くとかで前もお世話になったのでした。難点は酷い悪臭がすることで…。
「嫌だよ、こんなの!」
薬の蓋を取るなりソルジャーは露骨に顔を顰めて。
「これはロマンに含まれないだろ? 悪戯は君が専門だよね」
交替しよう、と会長さんに瓶を突き付けたのですが、会長さんも心得たもの。
「よく効くんだよ、その薬がさ。花嫁修業なら早く治るよう尽くさなくっちゃ。腰に塗るんだし、身体を拭くより刺激的だと思うけど?」
「………。こんな匂いがする薬では刺激も何も…」
ソルジャーはブツクサと文句を言いつつ薬を塗りにかかりました。身体はじっくり拭いていたのに薬の方は最低限の時間しかかけず、終わるとサッと立ち上がって。
「手を洗ってくる! ハーレイの服の方はよろしく」
逃亡したソルジャーは暫く戻って来ませんでした。その間に会長さんとジョミー君たちが教頭先生にトランクスを履かせ、パジャマを着せて姿勢を整え始めます。
「横向きがいい? それとも仰向け?」
どっちが楽かを会長さんが尋ね、柔道部三人組が教頭先生の身体を抱えて動かしてみて…。
「仰向けの方が痛まないようだね。すると膝の下に枕ってことか…」
よいしょ、と抱き枕を持ち上げ、キース君が抱えた教頭先生の膝下に押し込む会長さん。教頭先生はシロエ君とマツカ君に手伝ってもらって身体を動かし、枕の具合を確かめると。
「うむ、このくらいがいいようだ。…すまんな、みんなに迷惑をかけて」
「まったくだよ。紅白縞はもっと大事にしてくれなくちゃ。運動したら破れるかもって思ったことはないのかい?」
「すまん、普段は大丈夫なのだが…」
「だろうね、紅白縞しか履かないもんね。あ、バレエのレッスンはビキニだっけか。今も熱心にやってるよねえ」
クスクスと笑う会長さん。教頭先生は私たちが普通の一年生だった時に覚えさせられたバレエのレッスンに通っています。残念ながら発表会には出ないらしくて目にする機会が無いのですけど…。それだけ身体を鍛えていてもギックリ腰になったというのはお気の毒としか言えません。教頭先生は腰をしきりに気にしながら。
「ブルー、あっちのブルーは何をしに来たんだ? 私にはサッパリ分からんのだが」
「花嫁修業って言ってたじゃないか、本人が。それにハーレイがOKしたから居座ることにしたんだろ?」
「う、うむ…。人手が多い方がお前たちの負担が減るかと思ってな。お前はともかく、他の子たちは学校にも行くという話だし…」
「それは確かにそうなんだけどね。でもさ、自分で気付かなかった? ブルーが来るとロクな結果にならないってこと」
既に鼻血が出ちゃったけれど、との会長さんの指摘に教頭先生は「すまん」と申し訳なさそうに。
「私の世話をしてくれると聞いて、深く考えずに答えてしまった。だが、あれでも役に立つんじゃないのか? 身体も拭いてくれたしな」
「かなりサービス過剰だったけどねえ? エプロンまで着けてハーレイ好みの演出だ。…おっと、ブルーが戻ってきたかな?」
会長さんが扉の方を向くのと扉が開くのは同時でした。
「いいお湯だった。広いバスルームは最高だね」
「「「!!!」」」
顔を上気させたソルジャーがバスローブを纏って立っています。
「どう? 薔薇の香りで纏めてみたけど、薬の匂いは消えたかな?」
「ブルー!!!」
入ってこようとするソルジャーを会長さんが廊下に押し出し、バタンと扉を閉めました。教頭先生が名残惜しそうに扉を眺めていますが、会長さんは廊下に向かって大きな声で。
「余計なことはしなくていいっ! 花嫁修業なら大人しくしてればいいだろう!」
初々しさが大切なんだ、と怒り心頭の会長さん。この調子では先々が思いやられます。私たちは大きな溜息をつき、我が身の不運を嘆きました。ソルジャーが来さえしなかったなら、会長さんの悪戯だけで済んだでしょうに…。ギックリ腰が悪化しない程度に教頭先生を弄ぶだけで済んだでしょうに…。
「…来ちゃったものは仕方がないよ」
会長さんが額を押さえて。
「よりにもよって花嫁修業か…。ぶるぅ、後でブルーに繕い物を教えてやって」
「繕い物?」
「そう。そこの紅白縞、昼間の騒ぎで少し綻びているからね。洗って干して、繕った方がいいだろう。花嫁修業なら洗濯と裁縫も教えないと」
「分かった! えっと、手洗いで陰干しだよね?」
大事な紅白縞だもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は教頭先生に確認を取り、ジャージと紅白縞を抱えて廊下へと出てゆきました。果たしてソルジャーは洗濯と繕い物をマスターすることが出来るのでしょうか? その前に今夜の夕食は…? 色々と問題が山積みの中、教頭先生はベッドの住人。早く治って頂かないとソルジャーが帰ってくれませんよ~!

花嫁修業に来たソルジャーに家事の能力は皆無でした。夕食は「そるじゃぁ・ぶるぅ」が作り、ソルジャーがしたのは教頭先生に食べさせる係。例によってエプロンを着け、ベッドサイドにテーブルを置いてスプーンで口に運ぶのですから、教頭先生が喜ばないわけがありません。見た目だけは会長さんにそっくりですし、正しく夢の光景です。
「忌々しい…」
監視中の会長さんが吐き捨てるように言いましたけど、教頭先生の耳には入っていませんでした。ソルジャーがせっせと「美味しい?」とか「熱くない?」とか言葉をかけているからです。どう見ても『新婚ごっこ』を楽しんでいるとしか思えませんが、あれで修業になるのでしょうか?
「…なるんだと思うよ、あっちのハーレイが望んでるのは尽くされる立場みたいだし…。もっともブルーの性格からして、本気の相手にああいう態度が取れるかどうかは謎だけど」
遊びだから喜んでやっているだけだ、と会長さんの分析は冷ややかなもの。
「あの調子でどこまで続けられるかが見ものだね。多分、明日にはギブアップだよ。ハーレイの下着なんかを手洗いできるとは思えない。だけど花嫁修業と言ったし、チャレンジだけはしてもらう」
「「「………」」」
私たちはソルジャーが少し気の毒になりました。教頭先生が履いた紅白縞を手洗いだなんて、ソルジャーはきっと嫌がるでしょう。言われただけでも不愉快になるのが目に見えるような気がします。
「だからこそだよ、ブルーのペースで遊ばれたんでは面白くない。もちろん手袋は使用禁止さ」
素手で優しく揉み洗い、と会長さんの唇に乗る微かな笑み。指導役をする「そるじゃぁ・ぶるぅ」は責任感に燃えていますし、明日、私たちが学校に行っている間に一荒れしそうな感じです。たかが洗濯、されど洗濯。紅白縞を洗う羽目になったソルジャーがブチ切れなければいいが、と祈るような気持ちで私たちは眠りにつきました。その前にソルジャーがガウンを羽織って教頭先生の寝室に行こうとしかける騒ぎなんかもあったんですけど…。

翌朝、朝食を作ってくれたのは「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ホカホカご飯に卵焼きと焼き魚、お味噌汁というのは教頭先生のお気に入りメニューらしいです。ソルジャーがまたエプロンを着けて朝食を教頭先生の寝室へ運んで行くのを見送ってから私たちは登校しました。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」がお留守番をしてるんですし、ソルジャーの見張りは大丈夫でしょう。
「帰りにスーパーに寄るんだったな」
慣れない路線のバスの車内でキース君がメモを取り出しました。
「俺たちが押し掛けたから色々と食材が足りないらしい。米も買わないといけないし…」
「配達を頼めばよかったのよね? お米とかは」
スウェナちゃんが確認したのは「そるじゃぁ・ぶるぅ」からの伝言です。重たいものと急ぎでないものは配達サービスでかまわない、とのことでした。その日の内に届くサービスは4時までなので学校帰りでは間に合わないかもしれないのです。
「お米くらい持てますよ。ね、キース先輩?」
シロエ君が言い、キース君が「そうだな」と頷いています。私たちの任務はお買い物。家に残った会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」はソルジャーの花嫁修業の監視と指導がお仕事です。いえ、本当は教頭先生の看病がメインの筈なんですが、いつの間にやら全く別の方向に…。ソルジャーは紅白縞を真面目に手洗いするんでしょうか?
「洗うわけがないと思うよ、ソルジャーだもん」
絶対逃げる、とはジョミー君の読み。
「そのまま逃げて帰ってくれればいいけどなあ…」
そうあって欲しい、と願うサム君。学校に着いた私たちは上の空で授業を受け、キース君は大学の講義に行くのをサボり、放課後はゼル先生たちに教頭先生の家での生活ぶりを思い切り端折って報告し…。
「あいつの存在が明かされていないのが癪に障るな」
仕方ないが、とキース君。ソルジャーの存在は未だに伏せられたままでした。SD体制を皆に知らせて不安を煽ることはしたくない、との会長さんの意向です。そのせいで先生方への報告は「教頭先生はお元気です」という事務的なものに終わってしまい、私たちの苦境を知らせる術も無いままで…。
「あっ、いけない!」
ジョミー君が慌ててバスの降車ボタンを押しました。いつもと違う路線な上に、声を潜めて話し込んでいたので乗り過ごすところだったのです。ゾロゾロと降りた私たちはバス停に近いスーパーであれこれ買い込み、予想以上の食材の量に一部は配達サービスを頼み…。
「これでよしっ、と」
今夜の分のおやつも完璧! とジョミー君が大量のお菓子をレジ袋に詰め、他の食材も皆で分担して手に持って…教頭先生の家へ帰るべく駐車場へと出てきた所で。
「「「あれ?」」」
駐車場の入り口に立っているのは会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」ではないのでしょうか? 私たちは早足でそちらの方へと向かいました。二人とも教頭先生の家でソルジャーを監視中の筈なのでは…?

「かみお~ん」
「おかえり。学校、お疲れさま」
同時にかけられた声の主は「そるじゃぁ・ぶるぅ」と会長さん。特徴的な容姿は間違えようもありません。
「え? えっと…何かあったの?」
ジョミー君の問いは私たち全員のものでした。会長さんも「そるじゃぁ・ぶるぅ」も見るからに元気がなさそうです。もしかして、紅白縞の手洗いを命じられたソルジャーがキレて二人揃って追い出されたとか?
「…家に入れなくなっちゃったんだよ」
会長さんが答え、キース君が。
「本気であいつに洗わせたのか、紅白縞を!?」
「うん」
「あーあ…。それで追い出されてれば世話ないぜ。俺たちでさえ読めたんだ。そんなことしたらブチ切れるってな」
「ブチ切れなかった」
その段階では大丈夫だった、と会長さんは断言しました。
「下着を洗うというのもドキドキするね、と面白がってたみたいだよ? 今度ぼくのハーレイのを洗おうかな? とも言ってたし。ただし腕前は全然ダメ。手洗いに向くタイプじゃない。ね、ぶるぅ?」
「洗濯機でもダメだと思う。だって洗剤を適当に放り込むんだもん! 少しくらいならぼくだって目分量だけど…基本の量は量ってるもん!」
ソルジャーは紅白縞を入れた盥を泡まみれにしたらしいです。お蔭で濯ぎに普通の量の何倍もの水が必要になってしまったらしく…。
「あれじゃ布地が傷んでしまう。色落ちもするし、最悪だね。でも本当に最悪なのは今現在の状況かな」
そう呟いた会長さんに「何があった!?」とキース君。会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」と顔を見合わせ、頷き合って。
「…ぼくたちにもよく分からないんだ。とにかく家から放り出されて、戻ろうとしても入れない。サイオンで覗くことも出来ない」
「「「………」」」
それってまずくないですか? ソルジャーがやっているのは明らかです。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」を追い出しておいて教頭先生と二人きり。しかも教頭先生はギックリ腰でトイレに行くのも困難という状況ですから、もう危険としか言いようがなく…。
「二人じゃないよ?」
そう言ったのは「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「あのね、中には三人いるんだよ」
「「「三人!?」」」
いったい誰が、と大騒ぎになった私たちに会長さんが沈痛な声で。
「ノルディだよ」
「「「えぇぇっ!?」」」
「ハーレイを往診しに来たんだ。そしたらブルーが出迎えに出て、そのまま二人でハーレイの部屋へ…。追いかけようとしたら放り出されてしまったんだよ」
それで私たちと合流するべくスーパーの方へやって来たのだ、と会長さんは説明しました。
「よりにもよってエロドクターか…」
とてつもなく嫌な予感がするが、とキース君が天を仰いでいます。ソルジャーと教頭先生を二人きりにしておくだけでも危なそうなのに、ドクター・ノルディが加わったとなれば大惨事ではないのでしょうか? 会長さんも「そるじゃぁ・ぶるぅ」も入れない家にその三人が…。教頭先生の安否も気になりますけど、エロドクターの動向も気がかりです。
「分かった、急いで家に戻ろう。教頭先生が心配だ」
いざとなったら強行突破だ、とキース君が荷物を抱えて駆け出しました。タイプ・ブルーの会長さんでも入れないのに強行突破は無理じゃないかと思うんですけど、急げばなんとかなるんでしょうか~?



Copyright ©  -- シャン学アーカイブ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]