シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
別世界から来た「そるじゃぁ・ぶるぅ」そっくりの「ぶるぅ」の意識はなかなか戻りませんでした。私たちの住んでいる世界がよほど驚きだったのでしょう。サイオンを持つ人間がミュウと呼ばれて迫害される世界のシャングリラから来たお客様。理由は聞けませんでしたけど、そこではミュウは地球へ行きたいと願っているようです。会長さんがソファの横に座り、おしぼりの上から「ぶるぅ」の額に手を当てて。
「うん、今なら遮蔽されてない。どんな世界から来たのか探ってみよう」
「やめとけよ!」
止めに入ったのはサム君でした。
「ぶるぅにそっくりだけど、妖怪が化けてるのかもしれないぜ?あんたの力を弾くくらいだし、何もしないで放っておいて、目が覚めたら帰ってもらった方が…」
「その心配は要らないよ、サム。みんなには分からないだろうけど、ぼくとぶるぅにはサイオンパターンで分かる。ここに寝てるのは、ぶるぅと全く同じものだ。…住んでる世界が違うだけさ。ぼくやハーレイもいるって言ったし、どんな所か知りたいんだ。…っと、その前に掛軸の始末をつけておかなくちゃ」
お客様の意識が戻るまでには時間がかかりそうだから、と言った会長さんは奥の部屋から立派な硯箱を持ってきました。教頭先生の所へトランクスを熨斗袋に入れて届ける時に使っていた硯や筆が入っています。
「お札でも書いてくれるのか?」
キース君が興味津々で覗き込む中、会長さんが宙に手を伸ばすとフワリと水の玉が現れて…。
「本山の奥の院から貰ったよ。君も知ってるだろ、明星の井戸」
「おい!あそこは確か立ち入り禁止の…」
「ごく限られた高僧以外、ね。ぼくは入ってもいいんだよ?…これは瞬間移動で手に入れたけど、桶を持って行けば自由に汲ませて貰えるんだ」
そう言って会長さんは水の玉を宙に浮べたまま、硯箱から新品のような細い筆を出して水の玉で先を濡らしました。
「キース、ちょっと掛軸を持ち上げてくれるかな?…そう、それでいい。そのまま持ってて」
会長さんの身体が青いサイオンの光に包まれ、筆の先も青白く光り始めます。掛軸は会長さんから見えているのは裏側ですが、いったい何を…と思う間もなく、そこに青白い不思議な文字がサラサラと書かれ、軸に吸い込まれていったのでした。掛軸には何の跡も残らず、会長さんを包むサイオンの光も消えて…。
「はい、おしまい。…もう乾いてるし、片付けていいよ。時空の歪みはもう起こらない」
水の玉がパチンと割れて消え失せ、細かな霧が立ち昇ったのをキース君が慌てて追いかけます。霧を掴もうとしているんですが、間に合うわけがありません。キース君はガックリと肩を落としてしまいました。
「もったいないことをしやがって…。消すくらいなら俺にくれれば、持って帰って御本尊様にお供えしたのに」
「頑張って修行するんだね。いつか自分で汲ませて貰えばいいじゃないか」
クスクス笑いながら会長さんは筆を箱に戻して、蓋をして。
「サイオンだけでも封じられるけど、高僧として頼まれた以上、それなりのことをしなくっちゃ。明星の井戸の霊水で書いた光明真言があれば十分だろ?…お父さんも安心できると思うよ」
「明星の井戸って聞いたら親父が腰を抜かすかもな。あんた、どれだけ奥が深いんだ?」
「さぁね。…とにかく、掛軸の方は一件落着。次はこっちのお客様だ。気絶してる間に調べないと」
硯箱を片付けてきた会長さんはソファの横に腰を下ろしました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のソックリさんが住んでいる世界って、どんなのでしょう?遊び歩いているという他の世界のシャングリラのことも分かるのかな…。
会長さんが「ぶるぅ」の心を探ろうと手を伸ばした時、「う~ん…」と小さな呻き声がして。
「あれ?…ブルー…?」
お客様がぽっかりと目を覚ましました。
「変な服着てどうしたの?何か楽しいこと、思い付いたの?」
「ぶるぅ、落ち着いてよく聞いて。ぼくは君のブルーじゃないよ」
「えっ?…えぇっ!?…や、やっぱり、ぼく…死んじゃったんだぁ~!!」
一気に記憶が蘇ったらしい「ぶるぅ」はパニックに陥りそうになったのですが、それを止めたのは会長さんが差し出したレモンパイのお皿でした。
「はい、食べてごらん。美味しいよ。…死んじゃったんなら食べられないと思うんだよね。仏様は実物を召し上がるわけじゃないんだし」
「…ほとけさま…?」
「あ、ごめん、ごめん。君の世界には無い言葉かな?…死んじゃった人のことを言うのさ。死んだ人にお菓子をあげてもお菓子そのものは消滅しない。死んだ人が食べるお菓子は目に見えるお菓子とは別なんだ。ここは生きた人間の世界だから…君が食べればお菓子はちゃんと消えてしまうよ」
「…ほんと…?」
レモンパイを見つめる「ぶるぅ」に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「それ、ぼくが焼いたレモンパイなんだ。大丈夫だよ、ぼくもブルーも生きた人間だし」
「そうなの?…じゃあ…」
いただきまぁ~す、とレモンパイに齧り付いた「ぶるぅ」は「美味しい!」と顔を輝かせてペロリと食べてしまいました。お皿まで舐めそうな勢いです。
「良かった、ちゃんと食べられたぁ!…ここ、天国じゃないんだね。ミュウと人間が一緒に住んでて、おまけにテラで…。まるで天国みたいだけど。それに、ぼくはお料理できないのに…君はお料理できるんだ」
「ぶるぅは家事が得意なんだよ。ぼくの代わりに掃除も洗濯も全部やってくれてる」
「凄いや…。あ、でも、ブルーはそういうの出来ないんだね?おんなじだぁ!…ぼくが住んでる世界のブルーもお掃除とか全然できないし」
ニコニコと笑う「ぶるぅ」に会長さんは溜息をついて。
「あのね。ぼくは一応、家事全般は出来るんだ。ただ、ぶるぅの方が腕が良くて家事が好きだから任せてるだけ」
「そうなんだ…。あ、ここが別の世界だってハッキリしたからお願いしなくちゃ。ブルー、ぼくと一緒に来てくれる?…新しいシャングリラが見つかったら、そこの世界のブルーに会いたい…ってブルーがいつも言ってるもん」
「えっ…」
驚いている会長さんに「ぶるぅ」が右手を差し出します。
「ね、ぼくの世界のブルーに会ってよ。美味しいお菓子のおかげで元気いっぱいだし、今ならすぐに飛べるから」
「ちょ、ちょっと待って。…君がどんな世界から来たのか、それを聞かせて貰わないと。なんだか大変な世界みたいだし、知っておいた方が良さそうだ。思念波で教えてくれると助かる。この子たちにもついでに伝えて貰えるかな?ぼくの大事な仲間だしね」
「ふぅん…?」
お客様は私たちをグルッと見渡し、不思議そうに首を傾げました。
「見たことのない顔ばっかり。どこのシャングリラでも似た人がいる筈なんだけど…。ミュウって言葉が無い世界だと、うんと変わってくるのかなぁ?」
まぁいいや、と呟いた「ぶるぅ」。
「ぼくが住んでる世界がどんな所か、それを伝えればいいんだね。みんな、ぼくと思念の波長を合わせて」
えっと。…波長を合わせる?どうやって…?あいにくサイオンに目覚めて間もない私たちには方法が分かりませんでした。戸惑っているのに気付いた会長さんが。
「ぶるぅ、この子たちはサイオンに馴染みが薄いんだ。ぼくが君に波長を合わせて、後はこっちのぶるぅから皆に中継してもらおう」
そういうわけで私たちは目を瞑っていればいいだけになりました。ソファに座って、出来るだけ心を空っぽにして「そるじゃぁ・ぶるぅ」から送られてくる思念を受ければ会長さんが得たのと同じ知識を共有できるというわけです。
サイオンを持つ人間が追われるという別世界の情報だけに、多少のショックはあるだろうと思いましたが…。
「なんだよ、あれ!…お前、あんな世界から来たのかよ!?」
サム君が握り締めた拳をワナワナと震わせ、会長さんは重苦しい表情で瞳を閉じてソファに沈み込んでいます。私たちが知った「ぶるぅ」の世界は想像を遥かに超えた場所でした。
「地球が荒廃した後の遠い未来…か」
キース君が左手首の数珠レットの玉を数えながら呟きました。心の中でお経を唱えているのでしょう。
「SD体制に成人検査。マザーシステム。…俺たちミュウは追われるだけじゃなかったのか…」
伝わってきた知識の中にはミュウが実験体として扱われた時代の情報があり、初代のミュウを小さな星ごと殲滅しようとした凄まじい惨劇の光景が。その時、脱出に使った船を改造したのがシャングリラ号らしいです。キース君が数珠レットの玉を数えているのは、惨殺されたミュウの為にお経を唱えているのに違いありません。
「どうしたの?…みんな顔が真っ青だよ」
無邪気な声で言った「ぶるぅ」が首を傾げて「そるじゃぁ・ぶるぅ」に近づきました。
「ねぇねぇ、なんで固まってるの?…ぼく、何か変なこと教えちゃった?」
「…えっと…。そうじゃなくて、えっと…」
困った顔の「そるじゃぁ・ぶるぅ」が会長さんに視線を向けます。会長さんは深い溜息をついてソファから身体を起こしました。
「…君のせいじゃないよ。どちらかといえば、ぼくたちのせいだ。…ここにはSD体制も成人検査も存在しない。もちろんアルタミラの大虐殺もね。君の世界と、ぼくたちの世界は違いすぎる。埋めようのない大きな溝が間にあって、ぼくたちは不幸を知らずに生きてきた側。…そう思うと自分が許せなくなってくるんだよ」
会長さんの言葉通りでした。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のソックリさんがいて、会長さんと瓜二つな人もいるという世界なのに中身は全くの別物で…シャングリラ学園で遊び暮らしてきた自分のことを振り返ってみると落ち込みそうになるんです。
「ぼくは確かにソルジャーだけど、君のブルーと違って名前だけだ。好き勝手に遊んで生きてきたし、これからも多分そうだと思う。…だから、君のブルーには会えないよ。きっと傷付けてしまうだろうから。ごらん、これがぼくの住んでる世界だ」
そう言って会長さんは「ぶるぅ」の手を取り、今度は私たちの世界の情報が伝達されて…。
「うわぁ、ホントに天国みたい!」
感嘆の声を上げた「ぶるぅ」が会長さんの手を両手で握って、嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねました。
「怖いことはなんにも無くて、おまけにテラで。ぼく、この世界、気に入っちゃった。ブルーも絶対、喜ぶと思う。ね、シャングリラに来てブルーに会ってよ。そしたら次から此処へ遊びに来られるんだ。でも、ブルーを連れて帰れなかったら…二度と此処へは来られないかも…」
「…叱られちゃうのかい?」
「うん。ぼくが遊びに行けるシャングリラはブルーが知ってる所だけ。…初めての所へ行った時にはそこのブルーを連れて帰って、どんなブルーがいる世界なのか、知って貰わないとダメなんだよね。…お願い、ぼくと一緒に来てよ。ぼく、また此処に遊びに来たい!」
シャングリラの中しか居場所が無いという恐ろしい世界から来た「ぶるぅ」。私たちの世界が気に入らないわけがありません。おまけに憧れの星、テラが足元にあるんですから。
「ブルー、一緒に行ってあげてよ。ぼく、ぶるぅの気持ちが分かるもん。もしも逆だったら、ぼく、ブルーに断られちゃったら泣いちゃうもん…」
お願い、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がピョコンと頭を下げました。
「ブルーが一人で行くの嫌なら、ぼく、ついて行くよ。二人なら知らない世界でも平気でしょ?」
「…二人なら…か。それならいいかな」
会長さんが頷き、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がニコッと笑ったのですが。
「あ…。えっとね、二人でもいいんだけど…二人目はブルーが決めちゃってて…」
私たちの顔を順番に眺め、「ぶるぅ」は首を捻っています。
「でも、この中には入ってないし…。もしかして凄く忙しいのかな?だったら、もう一人のぼくでもいいのかも…」
「決めちゃってるって…。誰だい、それは?」
興味を持ったらしい会長さんが「ぶるぅ」に向かって尋ねました。
「その様子だと、さっき教えた知識の中に入ってた誰かなんだろう?名前を教えてくれるかな」
「名前?…えっとね、ウィリアム。…ウィリアム・ハーレイ」
「ハーレイ?」
「うん!」
なんと「ぶるぅ」の世界のソルジャー・ブルーは教頭先生を御指名らしいです。やっぱりシャングリラのキャプテンだからだろう、と納得した時、「ぶるぅ」が高らかに言い放ちました。
「だって何処のシャングリラでも、ブルーにはハーレイって決まってるもん!!」
「「「は?」」」
ブルーには…ハーレイ…?それって一体、どういう意味…?まさか、まさかとは思いますが…教頭先生が会長さんに御執心なのと同じで、何処のシャングリラでもハーレイと呼ばれる人はソルジャー・ブルーにベタ惚れだとか?
とてつもなく嫌な予感がする中、口を開いたのは会長さんでした。
「ぶるぅ。君のブルーがハーレイを指名してるというのは何故なんだい?…ブルーにはハーレイ、って言葉が引っかかるんだけども」
「キャプテンだからだよ。それにブルーの恋人だしね」
「「「えぇぇっ!?」」」
私たちの悲鳴と会長さんの呻き声が重なり、会長さんはしばらくテーブルに突っ伏していましたが…。
「…ハーレイがぼくの恋人だって?…君が知ってるシャングリラは全部、ぼくとハーレイが恋人同士…?」
「うん!だからブルーは二人目を連れてくるならハーレイを、って言うんだよ」
得意そうに胸を張って「ぶるぅ」は説明を始めました。
「あのね、ブルーだけでも楽しくお話してるけど…ハーレイも一緒だともっと盛り上がるらしいんだ。仲良くなると夜に二人で遊びに来てるよ。ぼくは先に寝なさいって言われちゃうから土鍋に入っちゃうけどね。大人のお話の時間なんだってさ」
え。恋人同士の二人が遊びに来て…訪問先のカップルと一緒に大人のお話?それって、もしや…。
「ぼくの寝床は防音土鍋だから何も聞こえないし、お話の中身は知らないよ。でも、ブルー、なんて言ってたっけ…。そうそう、マンネリになりがちだから、情報交換する貴重な機会だって喜んでる」
げげっ。やはり猥談というヤツですか!会長さんは頭を抱えてしまい、「ぶるぅ」はキョトンとしています。
「どうしたの?…あ、そういえば恥ずかしがる人もいるからね、ってブルーに言われてたんだっけ。えっとね、最初から大人のお話するわけじゃないよ?今日は挨拶だけでいいと思うな」
「…そうじゃなくて…。ハーレイはぼくの恋人じゃない。ハーレイはぼくが好きらしいけど、ぼくが好きなのは…」
女の子なんだ、と会長さんが言い終える前に。
「俺、俺!…一応、俺が恋人候補!!」
サム君が勢いよく名乗りを上げて会長さんの隣に移動し、ストンとソファに腰掛けました。
「ブルーの一番はフィシスっていう女の子で、他にもアルトさんとrさんがいるんだけどさ。俺、こないだブルーに公認だよって言って貰ったし、これから頑張ってデートに誘えるようにするんだ。なぁ、ブルー?」
「うん。もちろんサムも好きだよ。でも、まだキスもしてないし…」
頑張らなきゃね、と会長さんに微笑まれてサム君の顔は真っ赤です。「ぶるぅ」はまん丸な目をして会長さんとサム君を見比べ、それから「うーん…」と考え込んで。
「えっと、えっと。ブルーの恋人はサムって人なの?…だけど一番は女の人って…。なんか変!」
「こいつは女好きなんだ」
割り込んだのはキース君でした。
「男には全く興味が無い。サムはブルーに惚れて告白したから恋人候補ってことになってるが、恋人になれるかどうかは果てしなく謎だ。なにしろ教頭先生…いや、お前の言うハーレイときたら、三百年以上もブルーに惚れているのに、ヘタレっぷりをからかわれるばかりで一向に進展しないんだからな」
「えぇっ、やっぱり変だよ、この世界!…ぼくの世界のハーレイもブルーにヘタレだって言われてるけど、ちゃんと恋人同士だもん。…間違った軌道は修正しなきゃ。そう思わない?…ねぇ、ぶるぅ?」
「えっ…」
いきなり話を振られて言葉も出ない「そるじゃぁ・ぶるぅ」。会長さんは額を押さえて…。
「…ぼくのぶるぅにおかしな話を吹き込むな。とにかく、君のブルーに会いに行くには一人で行くか、ハーレイと一緒に行くかの二択なわけだ。…行かなかったら君が遊びに来られなくなる。仕方ない、ハーレイに頼むしかないな」
「来てくれるの!?」
顔を輝かせる「ぶるぅ」に会長さんは溜息混じりに答えました。
「あんな世界から来た君が、ここを気に入ったって言うんだからね。…見捨てたんじゃあ、みんなに何を言われるか…。特にキースはうるさそうだ。それでも緋の衣を許された高僧か、って」
「こうそう?…何、それ?」
「この世界で精神的に困っている人や悩んでいる人を救うのが役目の、お坊さん、って仕事があってね。偉いお坊さんを高僧と呼ぶんだ。ぼくは高僧の中でも一番上の位を持ってるんだよ」
「凄いや!ソルジャーみたいなもの?」
「…ううん、全然。もっと簡単で楽な仕事。それじゃハーレイの所に行こうか。ぼくと一緒に行ってくれ…って頼みにね」
会長さんが立ち上がり、「ぶるぅ」と「そるじゃぁ・ぶるぅ」と私たちにもついて来るよう促します。行き先は無論、教頭室。別世界から来たお客様を見たらビックリするでしょうねぇ、教頭先生。
二人の「そるじゃぁ・ぶるぅ」…一人はソックリさんの「ぶるぅ」ですが…見かけは全く同じの二人が連れ立って歩いていても、すれ違った生徒は「あれ?」という顔をしただけで特に気にしていませんでした。なんといっても「そるじゃぁ・ぶるぅ」は不思議な力で知られています。分身の術だって使えそうですし。
「これがテラの地面なんだね。空も見えるし、嬉しくなっちゃう」
弾むような足取りの「ぶるぅ」は校舎に映える夕焼けに感動しています。本館に入って、教頭室の扉を会長さんがノックして…。
「失礼します」
全員で中に入ると、教頭先生が羽ペンを置いて眉間に皺を寄せました。
「ブルー、今度は何の冗談だ?…ぶるぅが二人に見えるのだが」
「二人なんだよ。話せば長くなってしまうから、手を出して」
「…………」
会長さんが差し出した手を教頭先生は無言でじっと見つめています。散々悪戯されてきただけに、相当警戒しているのでしょう。
「何もしないってば。ソルジャー・ブルーの名にかけて誓う。…手を重ねて、ぼくに心を委ねてくれればいいんだ。とても大事なことだから」
「…分かった。…いえ、承知しました、ソルジャー」
キャプテンの表情になった教頭先生が会長さんの手を取り、二人はしばらく目を閉じたままサイオンの淡く青い光に包まれていました。その光が薄れてフッと消えた後、教頭先生は呆然と「ぶるぅ」を眺めて。
「あのぶるぅが別の世界から…。しかも恐ろしい世界としか思えませんが、本当に行くとおっしゃるのですか、ソルジャー?」
「ブルーでいいよ。…今、伝えたろう?ぶるぅはぼくに来て欲しがってる。でも、ぼくには一人で出掛ける自信が無いんだ。あっちのブルーは付き添いを一人だけ認めてくれるらしい。ただし、ハーレイに限るんだってさ」
あらら…。会長さんは全てを伝えたわけではないようです。教頭先生は腕組みをして考え込み、会長さんと「ぶるぅ」を何度も見比べ、机をじっと見据えた末に。
「…分かりました。同行させて頂きます。で、今から?」
「だから!その敬語はやめてくれないかな。向こうのブルーが待っているのはソルジャー・ブルーなんだろうけど、ぼくはその名に値しない。何人ものソルジャー・ブルーを知ってる人だよ?その人たちは全員、人間に追われるミュウの長で…ぼくには想像もつかない修羅場を生き抜いた人たちで。そんな中でソルジャーを名乗るなんてこと、ぼくには出来ない。…行くのは生徒会長のブルーだ」
もちろん制服で行くんだから、と会長さんは微笑みました。
「ハーレイもスーツでいいと思うよ。念の為にソルジャーの衣装は持っていくから、ハーレイもキャプテンの服を持った方がいいね。…学校には置いていなかったっけ?」
「家のクローゼットに掛けていますが…」
「敬語。次に言ったらホントに怒るよ」
睨みつける会長さんに、教頭先生は「すみません」と言ってしまってから、慌てて「すまん」と言い直します。
「すまない、ブルー。…だが、本当にこれでいいのか?先様はソルジャーとキャプテンをお待ちのようだが」
「いいんだってば。じゃあ、お客様を連れてハーレイの家にキャプテンの服を取りに行こう。それからハーレイも一緒にぼくの家に行って、そこから別の世界へ案内して貰うのがいいと思うな。ハーレイ、今日は車で来た?」
「ああ。瞬間移動で帰るのはやめて乗って帰るか?」
「そのつもり。…お客様にテラの街を見せてあげたいし」
もう日が落ちてしまうけどね、と会長さん。教頭先生は机の上を片付けながら、先に駐車場へ行っているようにと言いました。私たちは本館を出て「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に置きっぱなしにしていたカバンを回収してから、校門へ向かう道と駐車場への道とが分かれる所で立ち話。
「それじゃ、行ってくるよ。…大丈夫、心配いらないから」
「すまん、俺が妙な掛軸を持ち込んだせいで…」
「気にしなくてもいいさ、キース。礼金を受け取った以上、アフターサービスも必要だからね」
会長さんは涼やかな笑みを浮かべて。
「多分、今夜中に帰って来られると思う。時間の流れは似てるみたいだし、早ければ日付が変わる前かも。…帰ったら思念で連絡するけど、待っていないで寝るんだよ。夜更かし厳禁」
やがて教頭先生がカバンを提げて現れ、会長さんは「バイバイ」と軽く手を振りました。
「どんなシャングリラだったか、土産話を楽しみにしてて。…じゃあね、サム。みんなも帰り道に気をつけて」
二人の「そるじゃぁ・ぶるぅ」と会長さんと教頭先生が、暮れかかってきた木立の向こうへ歩いて行きます。会長さんたちが別の世界へ旅立つ頃には月が昇ってくるのでしょうか。『月下仙境』の掛軸から現れた「ぶるぅ」の世界に比べれば私たちの世界は仙境です。…今夜は満月。不思議な掛軸から来たお客様は月下仙境を堪能してからお帰りになるのかもしれません。会長さんと教頭先生、どうか御無事で…。
シャングリラ学園特別生としての日々は順調に過ぎていました。キース君は大学と掛け持ちしながら出席しては柔道部にも通っていますし、サム君は会長さんにベタ惚れ中。その会長さんは折を見つけては留年してしまったアルトちゃんとrちゃんを口説いていますが、もうこれは不治の病というものでしょう。今日も放課後、私たちは「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でレモンパイを食べていました。そろそろキース君が来る頃です。
「忙しいヤツだよなぁ。朝からこっちに来て、それから大学に行って、また戻ってこようっていうんだからさ」
サム君が「俺にはとても真似できねえや」と言った所へキース君が壁を抜けて現れました。
「約束どおり戻ってきたぜ」
「かみお~ん♪キースのパイ、ちゃんとあるからね!」
はい、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がお皿を差し出し、キース君は大きなカバンを「よいしょ」と床に。
「いつ見ても重そうなカバンだよねぇ。…それ、全部要るの?」
ジョミー君が言うのも無理はありません。大学生の荷物って少ないんだと思っていたのに、キース君のカバンは中身が沢山詰まっています。ノートPCはもちろん、普通のノートや本もギッシリ。
「…一般の学生なら要らない物も多いんだが、俺はそういう訳にはいかん。教授には偉い坊さんも多いからな…。講義以外で話を聞けるチャンスに備えて、仏教関係の本は常に持っていないと」
うわぁ、お寺を継ぐのって大変なんだぁ…。
「キースが真面目すぎるんだよ。適当にやってても単位が取れれば問題ないのに」
クスッと笑ったのは会長さん。緋の衣を許された高僧のくせに、ソレイド八十八ヶ所の御朱印を集めた掛軸を8本も売り飛ばそうとして表装に出しているのは周知の事実。出来上がってきたら『箱書き』とかいうものを知り合いの名僧に頼んで更に付加価値を付ける気です。
「あんたがいい加減すぎるんだろうが!…まぁ、学ぶべきことも多いのかもしれんが…」
「肩の力を抜くのも大事さ。人生を楽しむっていうのも悟りの境地の一つなんだし」
「そういうものか?」
「うん。自分が満たされてない状態で、他人を救おうだなんておこがましいよ。だから気楽にするのが一番」
一理あるようなことを言って、会長さんはキース君のカバンを眺めました。
「ところで…。何を持っているんだい?風呂敷包みが気になるな」
「…気付いてたのか。だったら、話が早い」
キース君がカバンの中から取り出したのは細長い風呂敷包みでした。箱が入っているようです。
「うちの檀家から預かったんだ。こないだ一周忌が済んだ爺さんの遺品らしいんだが…」
風呂敷包みの中身は古ぼけた桐箱で、蓋には毛筆で文字が書かれていました。
「ふぅん…やっぱり掛軸か。月下仙境、ねぇ…」
「待て、開けるな!」
蓋を取ろうとした会長さんの手をキース君が掴んで押し戻します。
「なんで?…見せるために持って来たんだろう」
「それはそうだが…。いわくつき、ってヤツなんだ。開けるのは話を聞いてからにしてくれ」
「「「いわくつき!?」」」
私たちの声がひっくり返りました。いわくつきの掛軸ですって?
「…呪いの掛軸…?」
ジョミー君の問いにキース君は複雑な表情になり、掛軸の箱をテーブルの真ん中に置いて。
「一概にそうとも言えなくてな。親父が三百年以上も生きた高僧にお任せしろ、と寄越したんだが、あまり開けたい心境ではない。…とりあえず事情を説明しよう」
元老寺のアドス和尚が会長さんに託した掛軸。いわくつきって、どんな話が…?
毛筆で『月下仙境』と書かれた桐箱に作者の名前はありませんでした。キース君が言うには蓋の裏側とかにも何も書かれていなくて、軸には落款も無いのだとか。
「つまり作者は不明ってことだね。…月下仙境って言うんだし、絵なんだろう?」
会長さんの問いにキース君は即座に頷きました。
「ああ。かなり色褪せているが、こう…仙人が住んでいそうな景色で、空に月が」
「なるほど。…つまり君は広げて見たってことだ」
「そりゃあ…ここへ持って来るからには見ておかないと話にならないし。昨日、親父と二人で見た。親父は預かる時にも見たらしいぜ」
「じゃあ開けたって特に問題ないだろう?」
「待て!俺の話はこれからなんだ」
箱に手を伸ばす会長さんを止め、キース君は深呼吸して。
「…その掛軸。持ち主だった爺さんが何処かで手に入れたらしいんだがな…。軸の中から仙人や仙女が出てくると言って、爺さんの部屋の床の間にずっと飾ってあったそうだ。家族はもちろん信じてなかった。ところが、爺さんが死んだ後、部屋に入ると掛軸から…仙人やら龍やら得体の知れないモノがゾロゾロと…」
「で、出たってわけ!?」
ジョミー君が叫び、私たちも背筋に冷たいものが…。
「そういうことになるんだろうな。錯覚か幻覚だと思い込もうとしたそうなんだが、この1年の間に何回となく目撃してはそうもいかん。とうとう俺の家に持ち込んで来た。預かってくれ、ってな。…永代供養料並みの金を包んで来られちゃ、もう無期限で預かるしかない」
「寺宝が増えていいじゃないか」
会長さんが笑いましたが、キース君は「そんなものは寺宝にならん」と苦い顔です。
「俺も親父も、見世物で稼ぐ気は無いんだ。だからこいつは蔵にしまうしか無いと思っているんだが…一応、供養はしないとな。どんな因縁で奇妙なモノが湧いて出るのか分からないし」
「それで、ぼくに鑑定させようっていうのかい?…呪いの掛軸か、そうでないのか」
「察しが早くて助かるぜ。親父と俺にはサッパリなんだ。何が原因か分からないんじゃ、供養の仕方も分からない。だから高僧の法力と三百年の知恵に縋ってこい、と親父に言われた」
「…ふうん…」
人差し指を顎に当てて考え込んでいた会長さんですが、不意に悪戯っぽい笑みを浮べて。
「力を貸すのは構わないけど、タダ働きじゃないだろうね?…せめてこれくらいは貰わなくちゃ」
指を1本立てる会長さんに、キース君がすかさず差し出したのは袱紗包み。会長さんはそれを開いて中身を確かめ、満足そうに分厚い金封を受け取りました。
「君のお父さんは気前がいいね。いや、よほど困っているのかな?…なんといってもモノがモノだし…。扱いに失敗したら命が無いってことも有り得るし。いいよ、この掛軸はぼくが引き受けよう」
地獄の沙汰も金次第とは言いますが…会長さんときたらヤバそうな掛軸をお金と引き換えに背負い込むつもりみたいです。巻き添えを食う前に逃げるべきでしょうか?得体の知れないモノがゾロゾロ出てきてからじゃ間に合わないと思いますし!
金封を片付けた会長さんは桐箱の蓋に手をかけました。逃げよう、と思ったのは私だけではない筈ですが…。
「ブルー!やめろよ、危ないじゃないか!」
サム君が会長さんの手を掴んで押さえ、腰を浮かせていた私やジョミー君たちを見回します。
「お前たちも止めてくれよ。もしも…もしもブルーに何かあったら…。キース、お前、なんてモノを持って来るんだ!ブルーがどうなってもいいってぇのか!?」
「い、いや…。ブルーなら大丈夫だと…」
「そんなの分からねぇじゃねえか!家へ帰って親父に言えよ、断られました…って!」
会長さんを止めようと必死のサム君。でも会長さんはニッコリ笑って。
「平気だよ、サム。…ぼくなら大丈夫。ちゃんと修行はしてきたんだし、第一、タイプ・ブルーだし」
「…でも…」
「いいんだってば。あ、だけどサムたちは避難した方がいいかもね。ぶるぅ、みんなを連れて奥の部屋へ。…部屋ごとシールドを張れば大丈夫だろう」
「オッケ~♪」
ついてきて、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が立ち上がり、渡りに船と続こうとすると…。
「俺は残るぜ。持ち込んだ以上、見届ける義務があるからな」
「俺も!ブルーだけ置いていけるかよ!!」
キース君とサム君が残ると言い出し、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が困ったように首を傾げました。
「ブルー…。キースとサムにもシールド要るよね?…奥のお部屋と此処と、二ヶ所いっぺんに張れないことはないけれど…。ぼく、お化けとか苦手だし、ホントに何か出てきちゃったら集中力が続かないかも」
「そうか…。じゃあ、ジョミーたちは外に出ててもらおうかな。この部屋自体がシールドになるし、生徒会室の方にいれば問題ないさ」
えっと。それって会長さんはともかく、キース君とサム君を見捨てて逃げるってことですか?あまりいい気分はしませんけれど、やっぱり命あっての物種。三十六計逃げるにしかず…って、あれ?シロエ君?
「ぼくも残ります!お化けごときで後ろを見せたくありませんし」
「じゃあ、ぼくも一緒に残ります。日頃の鍛錬の成果を試すいい機会ですよね」
シロエ君とマツカ君の決意に、ジョミー君が。
「ぼくも残る!…一人だけ逃げるって男らしくないし!!」
「…みんなが残るんだったら私も残るわ。ジャーナリスト志望としては何が起こるか見届けたいもの」
ええっ、スウェナちゃんまで残るんですって?もしかして逃げるのは私一人だけ…?それって…凄くカッコ悪い…。
私は半ばヤケクソで「残る」と叫び、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が私たちを一ヶ所に集めてシールドを張りました。
「これで見つからないで隠れてられるよ。みんなの声、ブルーにだけ届くようにしてあるから。ぼく、頑張るね!」
お化けはとても怖いけど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。もしシールドを張る集中力が無くなるような凄いモノが出てきたらどうすれば…。
「ぶるぅが駄目でも、ぼくがいる。…だからそこで見てて」
「ブルー、あんたに何かあったら俺はキースを許さねえからな!」
殴るくらいじゃ済まさねえぜ、と凄むサム君。場合によってはキース君の首を絞めてしまいそうな勢いです。会長さんは「大丈夫だよ」と柔らかな笑みを浮べました。
「ぼくは絶対に大丈夫。恋人の言葉は信じるものだよ」
「………!」
真っ赤になったサム君に向かってウインクしてから、会長さんは徐に桐箱の蓋を開けたのでした。
箱の中に入っていたのは古ぼけた掛軸。会長さんが掛軸の紐を解き、テーブルの上に広げてゆきます。まず色褪せた表装の布が現れ、続いてかなり退色した山水画が。キース君が言っていたとおり、仙人が住んでいそうな雰囲気です。薄墨色の空に満月が淡く描かれていて、その風景はまさしく『月下仙境』。特に怪しいモノは見当たりません。
「見たところ普通の絵だけれど…。特に負の思念も感じない。呪われているわけじゃなさそうだ」
会長さんは絵をじっくりと見てゆきます。
「だとすると…絵の内容が問題なのかな?何かを引き寄せやすいとか…。でも、そんなモチーフも無さそうだね」
「無いだろう?それは俺も親父も確認したんだ。…ひょっとして下絵に何かあるとか?」
キース君が言い、会長さんが「なるほど」と呟きました。
「絵具の下に塗り込められているってことはあるかも。サイオンを使って見ていけば…」
青い光が会長さんの身体を包み、その光が掛軸に描かれた満月に届いた瞬間。
「「「ああっ!?」」」
部屋が夜のように暗くなり、絵の月が煌々と照り渡ったかと思うと、空間がぐにゃりと歪んでゆきます。
「まずい…!」
会長さんが歪みを封じ込めようと放った青い光が掛軸を包もうとして弾き飛ばされ、四散して。
「かみお~ん!!!」
掛軸の中から雄叫びを上げて飛び出したのは「そるじゃぁ・ぶるぅ」の姿でした。
「「「えぇぇっ!?」」」
空間の歪みが消え、元通り明るくなった部屋に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が立っています。でも…でも、私たちがいるシールドの中にも「そるじゃぁ・ぶるぅ」はちゃんと居て。いったい何がどうなってるの!?
「こんにちは。はじめまして…だよね、ソルジャー・ブルー」
呆然としている会長さんに掛軸から出てきた「そるじゃぁ・ぶるぅ」がニコニコと右手を差し出しました。
「ぼく、ぶるぅ。あちこちのシャングリラを回って遊んでるんだ。よろしくね♪」
「…あちこちの…シャングリラ…?」
「うん。いろんなブルーやハーレイがいて楽しいんだよ」
そう言って「ぶるぅ」と名乗った「そるじゃぁ・ぶるぅ」のソックリさんは会長さんの右手を握り、ブンブンと振り回すように握手をして。
「でも、ぼくがいるシャングリラって初めて見ちゃった。…かくれんぼしてるの、ぼくだよね?君の名前も『そるじゃぁ・ぶるぅ』っていうんでしょ?」
げげっ。シールドの中の私たちの姿が見えているようです。この「ぶるぅ」って、もしかしなくてもタイプ・ブルーだったりするのでしょうか?あたふたとする私たちを見て「ぶるぅ」はニッコリ笑いました。
「シールドしなくても大丈夫だよ。ぼく、遊びに来ただけだしね。…んとね、ぼくもタイプ・ブルー。全開だと3分間しか力が使えないんだけど、シャングリラを渡り歩くには十分なんだ」
会長さんは「ぶるぅ」をまじまじと見つめ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「ぶるぅ、シールドを解いてくれ。どうやら別の世界から来たお客様のようだ」
「オッケー!」
シールドが解かれ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」と私たちは「ぶるぅ」とじかに御対面です。どこから見ても「そるじゃぁ・ぶるぅ」に瓜二つで服装も同じ。別の世界からのお客様って…?
「キース、この掛軸の謎は解けたよ。何かのはずみで別の世界との間の扉が開くらしい。今はぼくのサイオンで発動したけど、きっと気象条件とか様々な要素があるんだろうね」
会長さんの言葉にキース君が困惑しきった顔で。
「…それは解決できないのか?あんたの力でも扉を閉じるのは無理みたいだしな。…さっきは失敗したんだろう」
「ううん、それはタイプ・ブルーの力で弾かれたからで…掛軸自体を封印するのは問題ない。一度封印すれば二度と歪みは生じない筈だし、歪みが無ければ何も出ないよ。ただ、封印は…このお客様がお帰りになってからでないと気の毒だろう?帰りの道が無くなってしまう」
それを聞いていた「ぶるぅ」が首を傾げました。
「えっと。なんのお話か分からないけど、ぼくが通ってきた道が閉じても平気だよ?タイプ・ブルーの力が使える間は何処からでもシャングリラに帰れるしね。…いつも他のシャングリラに遊びに行くけど、勝手に道が開いたのって初めてだからビックリしたぁ。どのシャングリラに行こうかな~、って思ってたらグイッて身体が引っ張られて」
だから力は要らなかったんだ、と「ぶるぅ」。
「でも、出口が見えたと思ったらいきなり道が閉じかけて…ちょこっと力を使っちゃった。空間を閉じようとしたのはブルーの方のサイオンだよね?よかった、閉じる前にここに遊びに来られて♪」
いわくつきの掛軸から現れたのは仙人でも龍でもお化けでもなく、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のソックリさんで、別の世界から来たみたい。しかもシャングリラがあちこちにあるって言ってますけど、本当でしょうか?
招かれざるお客様はキョロキョロと部屋を見回しながら会長さんに話しかけました。
「ねぇねぇ、ここって青の間じゃないね。こんなお部屋は見たことないけど、ブルーのお部屋?」
「ぶるぅの部屋だよ。…君の部屋とは似てないのかい?」
「うん。ぼくのお部屋は…って、あれ?もしかして、今、何処かに降りてる?なんだか地面に近い感じがする」
「地面?」
怪訝そうな顔の会長さんに「ぶるぅ」は床を指差しながら。
「あのね、ちょっと自信がないんだけど…ここの下って、空とか宇宙じゃなくって地面だったりするのかなぁ、って思ってさ。メンテナンスで着陸中?」
「着陸って…。君が言ってるシャングリラというのは船なのかい?」
「そうだよ。シャングリラは船に決まってるもん!」
エヘンと胸を張った「ぶるぅ」の言葉に全員が息を飲みました。シャングリラは船に決まってる、って…。このお客様が住んでいる世界や遊び歩いている世界ではシャングリラといえば宇宙クジラで、シャングリラ学園は無いのでしょうか?
「ぶるぅ、と言ったね。確かにぼくたちもシャングリラという船は持っているけど、今は遠い宇宙にいるんだ。二十光年くらい離れてるかな。ここはシャングリラ学園っていう学校だよ」
「え?…ええっ!?」
今度は「ぶるぅ」が驚く番でした。会長さんをまじまじと見つめ、それから部屋の周囲をサイオンで探っているようです。全開だと3分間しか力が使えないとか言ってましたけど、この程度なら問題ないのかな?…やがて「ぶるぅ」はフウ、と溜息をついて。
「ホントだ…。ここ、シャングリラじゃないみたい。こんな地面に降りてて平気なの?…ミュウじゃない人も沢山いるよ?」
「「「ミュウ?」」」
それは初めて聞く単語でした。ミュウって何のことでしょう?
「えっ、みんなミュウなのに知らないの?…ミュウってぼくたちのことなのに。ここの世界って凄く変!シャングリラは他所に行ってるって言うし、人間たちがウロウロしてる所に平気で住んでるみたいだし…」
「ぶるぅ、ちょっと待って」
会長さんが「ぶるぅ」の話を遮り、真剣な顔で尋ねました。
「ミュウっていうのはサイオンを持った人間だね?…君が知っている世界のミュウは普通の人間と共存できていないのかい?」
「人間と…共存!?それってブルーの理想だよ。でも、人間は聞いてくれない…って。ミュウは何処でも追われてるからシャングリラしか居場所が無いんだ。…ひょっとして、この世界ではそうじゃないの?人間に追われたりしてないの?」
「………。ぶるぅ、君の知ってるシャングリラは何処の世界でもそうなのかい?ミュウは人間に迫害されて…シャングリラでしか生きられない、と?」
「うん。だからブルーは大変なんだよ。…ぼく、あちこちのシャングリラを回ってブルーの友達を捜してるんだ。同じソルジャーなら苦労も分かるし、すぐ友達になれるもん」
無邪気に笑う「ぶるぅ」ですけど、聞かされた事実は衝撃的なものでした。別の世界から来たというだけでも驚きなのに、そんな世界が幾つもあって…しかもそこでは私たちは『ミュウ』と呼ばれて普通の人から追われる立場らしいのです。会長さんがシャングリラ号を建造したのは万一の時に備えてでしたが、他の世界ではシャングリラは既に箱舟になっているみたい…。
「えっ、シャングリラに逃げ込んだことが一度もないの!?」
まん丸な目でポカンとしている「ぶるぅ」。
「ブルーたちは人間に追われて必死で逃げて、やっとシャングリラを造り上げたんだよ。ここってホントに変わってるよね。…じゃあ、テラに行こうっていう目標も無かったりするのかなぁ?」
「「「寺?」」」
なんじゃそりゃ、と私たちは首を傾げました。お寺ならキース君の家で十分間に合ってますし、ソレイド八十八ヶ所も卒業旅行で回りましたし…。迫害されて追われていると抹香臭い世界に安らぎを覚えるっていう意味でしょうか?それとも駆け込み寺という言葉どおりに匿ってくれるお寺があるとか?
「違う、違う!そうじゃなくって、星のことだよ。人類が一番最初に生まれた星。えっと…凄く綺麗な青い星でね、青いのは地表の七割が海に覆われているからだ、ってブルーが言ってた」
こんなのだよ、と「ぶるぅ」が宙に浮べて見せてくれたテラという星の映像は…。
「「「地球!?」」」
それはどう見ても地球でした。春休みにシャングリラで宇宙から見た青い星。とてつもなく見覚えのある星を前にして会長さんがポツリと呟きました。
「…ラテン語だ。確かラテン語で地球のことをテラと呼ぶんだ…」
「あっ、そうそう、地球のこと!じゃあ、やっぱりみんなもテラに行こうと思ってるんだね」
良かったぁ、と「ぶるぅ」は嬉しそうな笑顔になって。
「共通点が無いわけじゃないんだ。あんまり違いすぎるから焦っちゃった。で、テラは遠いの?」
私たちは顔を見合わせ、会長さんは困惑しきった様子で考え込んでいましたが…とうとう覚悟を決めたらしくてスッと足元を指差しました。キョトンとしている「ぶるぅ」に会長さんが告げた言葉は…。
「この部屋がある建物は地球の上に建っているんだよ。シャングリラ学園はテラにあるんだ」
「えっ!?」
別世界から来た「ぶるぅ」はよほどビックリしたのでしょう。青い星の映像が消え、ヘタヘタと座り込みました。
「…ここがテラ…?…ブルーが行きたがってる星?…ミュウと人間が一緒に暮らしてて、おまけにテラ…?ぼく、天国に来ちゃったのかも…。もしかして、ぼく、死んじゃったの…?」
「ぶるぅ!?」
フラッと倒れそうになった「ぶるぅ」を会長さんが受け止めましたが、小さな身体は何の反応もしませんでした。
「駄目だ、気を失ってしまってる。…ぶるぅ、冷たいおしぼりを持ってきてくれ」
会長さんは「ぶるぅ」をソファに寝かせて額におしぼりを乗せました。気絶してしまったお客様。掛軸に描かれた仙境とは似ても似つかない恐ろしい世界から来たようですけど、この場合、私たちの世界の方が仙境ってことになるのでしょうか。…そういえば今夜は満月です。やっぱり此処が月下仙境…?
会長さんの健康診断を巡る一連の事件が終わった次の週の土曜日のこと。慰労会と称して会長さんのマンションでお好み焼きパーティーが開催されることになりました。お昼前にみんなでお邪魔して、ホットプレートを並べて賑やかにお好み焼きを作るんですけど…お世話係は「そるじゃぁ・ぶるぅ」。たかがお好み焼きでも料理となれば放っておけないみたいです。
「ぶるぅ、次は海老を沢山入れてほしいな」
会長さんが言えばサッと具を入れ、次はトトト…と走っていって他のプレートのを裏返して。
「はい、これ、上からギュッと押さえといてね」
そう言いながら、焼きあがってきた別のプレートのお好み焼きにソースを塗って青海苔と粉カツオを振りかけています。要するに、私たちは何を焼くかの注文をつけて、出来上がったものを切り分けてお皿に乗せるだけでした。どうかすると切り分けるのも「そるじゃぁ・ぶるぅ」がやってくれたり。なんとも楽でいいですよねえ。サム君はしっかり会長さんの横に座っています。
「よかったな、サム。今週もブルーと別れずに済んで」
キース君が焼きソバ入りのを頬張りながらニヤリと笑って言いました。
「おう!…俺、頑張るって決めたんだ。なあ、ブルー?」
「うん。とりあえずの目標はデートだっけね」
サム君と会長さんが頷き合い、キース君はフウ、と溜息をついて。
「サムの意気込みは分かるんだがな。…ブルーはガード固そうだぜ?目標はデートだなんて言っていないで、別れ話を持ち出されないことにしといた方がいいんじゃないか」
「別れ話…?」
「そうだ。ブルーなら、ある日突然、言いかねないぞ。もう飽きたから別れたい…って」
「…えっ…」
言葉に詰まってしまうサム君。キース君は大真面目な顔で続けました。
「お前だって知ってるだろ?…ブルーは女好きなんだ。ついでに人をからかうことも大好きで…。今はお前に好意的だが、別れ話で済めば御の字で、気付けば教頭先生みたいにオモチャにされていたりしてな」
「…そんな…。そんな、まさか…。ブルー…?」
サム君が不安そうに会長さんを見ています。うわぁ、なんだか雲行きが…。会長さんがサム君の肩を軽く叩いて微笑み、キース君に。
「キース!…サムをからかったら許さないよ」
「…バレたか…。悪い、サム。お前があんまり幸せそうにしてるもんだから、つい…」
ちょっかいを出したくなったんだ、と笑うキース君を会長さんは冷たい視線でチラッと眺めて。
「なるほど。…モテない男の僻みってヤツか」
「なんだと!?」
「本当のことを言ったまでさ。大学でも彼女は見つからないんだろう?」
「…俺は女にモテたいと思ったことは一度も無いぞ」
キース君の低い声を会長さんは意にも介さず、更に続けて。
「ぼくもからかっているだけだよ。君が硬派なのは知ってるからね。…で、その大学のことだけど。大学を卒業するのと住職の位を貰う修行とは別。…いつ道場に行くんだい?」
「………。まだ決めていない」
「そうだろうねえ…」
クスクスクス、と会長さんはおかしそうに笑い、並んだホットプレートを見回して。
「あと2、3回焼いたらお好み焼きは終わりかな。ふふ、パーティーが済んだら、なぜ笑ったか全員に教えることにしよう。…サムをからかった罰にはちょうどいいだろ?」
「待て!!その話だけはやめてくれ!!!」
「…いやだね」
会長さんは慌てふためくキース君を赤い瞳で見据えました。
「ぼくとサムとは公認だよ…って宣言した時、なんて言ったかもう忘れたんだ?サムをからかっちゃいけないよってキッチリ釘を刺したのに」
あ。そういえば、そんなことがありましたっけ。あれから色々あり過ぎたので、すっかり忘れていましたけど。
「ソルジャーの命令に逆らった以上、それなりの覚悟はあるんだろう?…諦めたまえ、キース・アニアン」
いきなりソルジャーの肩書きを持ち出す会長さんに、キース君の顔は真っ青でした。よほど知られたくない何かを抱えているようです。
「ふぅん…。キースに秘密なんかあったんだ」
ジョミー君が興味津々といった様子でシーフード入りのお好み焼きをつつきました。
「シロエは何も聞いていないの?…昔からの知り合いだよね」
「えっと…。お坊さんになるって決めた後のことは知らないんです。道場って言われたら柔道の方かと思っちゃいますし」
「そっかぁ。じゃあ、ブルーに聞くしかないんだね。パーティーの後が楽しみになってきちゃった」
それは私たちも同じでした。いったいどんな秘密なのか、とワイワイ騒ぎながら残りのお好み焼きを食べている間、キース君は明らかに意気消沈。うーん、秘密って何でしょうね?
ホットプレートとお皿の片付けが済み、リビングに移動すると「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飲み物を配ってくれました。キース君は話題の主役とあって中央に座らされ、会長さんが向かい側。私たちはグルッと周囲を取り巻くように思い思いの場所に座ります。もちろんサム君は会長さんのすぐそばでした。
「さてと。…尋問を始めようか。言っておくけど、緋の衣の高僧を敵に回したら一生住職になんかなれないからね。お父さんとお母さんが泣くことになるよ?…降伏したまえ、寺の跡取り」
「うう…」
コーヒーカップを前に項垂れているキース君。会長さんはソルジャーの次は緋の衣で脅しをかける気でした。
「年寄りと女子供も大事にしなくちゃいけないけれど、檀家さんは丁重に扱えって教えられていないかい?ぼくが本山に一声かければ君は住職になれなくなる。元老寺の檀家さんは困るだろうね」
「…俺にどうしろと…」
「時期住職の地位と引き換えに無理矢理にでも答えてもらう。…檀家さんを困らせたいか?」
「………」
なんとも凄い脅し文句にキース君は額に汗を浮かべています。会長さんなら本気でそれくらいのことはやりかねません。後で撤回するにしたって、キース君に不利な情報を本山に流すくらいはしそうです。
「まずは質問を一つ。…道場に入るのはいつだ?」
「…決めていない…」
「理由は?…言いたくなければ君の心を読んだ結果をみんなに話す」
「………。ど、道場に入るには条件が…」
キース君は俯いたままブツブツと小さな声で呟きました。
「条件、ね。…続けたまえ」
「…それが…条件というのが剃髪で…」
「「「ていはつ?」」」
えっと。剃髪って…もしかして頭をツルツルに…?ひっくり返った声で叫んだ私たちに会長さんはニコッと笑って。
「そう、キースの自慢の髪を剃らなきゃいけないっていうことさ。道場に入る必須条件」
「た、確か…」
ジョミー君がプッと吹き出し、必死に笑いを堪えながら。
「子供の時に1回だけ丸坊主にして、それが似合わなかったから…お坊さんが嫌になったんだっけ…?」
「ええ。先輩の辛い過去なんですよ」
うんうん、とシロエ君が頷いています。
「道場に入るには丸坊主が条件だったんですか…。それじゃ決心がつかないっていうのも無理はないかも」
「でも、道場で修行をしないと住職の位は貰えないんだよ」
そういう決まりになってるからね、と会長さんはキース君の髪に手を伸ばしました。
「この髪型は似合ってるけど、元老寺を継いでゆくためには一度は必ず剃らなくちゃ。ついでに言えば…そこそこ高い位にならない限り、丸坊主でいなきゃいけないんだよね。キースがどんなに頑張ったって、5年くらいは丸坊主の日々が続くってわけ」
「「「5年!?」」」
「最短で5年。うっかり足踏みすればもっと期間は長くなる。…ぼくは1回も剃ったことないけど、キースがぼくと同じ裏技を使う気だったら勉強だけでは済まないんだ。丸坊主に見えるように、周囲の人間全てに暗示をかけなきゃならないんだから」
なんと!…今から頑張ってサイオン能力を向上させるか、諦めて丸坊主の道を選ぶか。努力家のキース君が道場に入る時期を決めてないなんて変だと思っていましたが…そんな理由が…。
「やっぱり髪の毛のことで決めかねてたんだ。まったく驚きだな…。宗門校まで入ったくせに悩んでるなんて、まさしくヘタレ。残念だけど、住職の位は取れそうにないね」
「…………」
「どうしたの?反論してごらんよ。…亀のように蹲ってるだけでは剃髪コースは止められないけど」
ソファで頭を抱えているキース君を会長さんはツンツンとつつき、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に「ねぇ?」と同意を求めました。
「ぼくだって頑張って修行したんだ。緋の衣は何もしないで貰えるわけじゃないんだからさ。最初の道場入りは特に厳しいよ。…まぁ、細かいことは置いておくとして、その髪の毛。どうするんだい、本当に?」
「……まだ4年ある。大学を卒業してから道場に…」
「それで決心がつくのかい?…まさか外国のお寺や聖地を見て回ってから、なんていう逃げを打つんじゃないだろうね?」
うっ、と呻き声を上げるキース君。どうやら図星だったみたいです。よほど丸坊主が心の傷に…。でも会長さんは全く容赦しませんでした。
「そうか、檀家さんの期待を裏切るんだ?…お父さんもガッカリするだろうねぇ。シャングリラ学園を1年で卒業したから、同い年の人より2年以上も早く住職の位を貰える筈なのに…。いっそ本山に進言してあげようか?元老寺の跡取りのキース・アニアンは住職になる気は無いそうです、って」
「それは困る!!」
「じゃあ、剃髪」
会長さんはビシッとキース君を指差し、ソルジャーの表情で言い放ちました。
「サムのことでぼくの命令に逆らったんだし、この際、剃るっていうのはどうかな?…よくあるじゃないか、お詫びの印に丸坊主にしました…っていう人が。丸坊主にして詫びてもらえばスッキリするし、君も決心がついて一石二鳥だと思うんだよね」
「「「……!!!!!」」」
キース君も私たちも仰天して声も出ませんでした。か、会長さんったらなんてことを!…もちろん、いつもの冗談ですよね…?
それから一時間ほど後のこと。気の毒なキース君は、会長さんが元老寺から瞬間移動で取り寄せた墨染めの衣を着せられてリビングに一人で座っていました。ソファではなくて絨毯に座布団が敷かれ、その上に正座しています。
「…ブルー、本気でやるつもりかな…」
サム君が廊下から中を覗き込んで小さな声で言いました。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は奥の寝室に引っ込んでいて、私たちは少し開いたドアから中を窺ってはコソコソ話しているのです。
「やるんじゃないでしょうか…」
心配です、とマツカ君。
「急にこんなことになってしまって…。キース、大丈夫だといいんですけど」
「先輩の心の傷を抉るようなものですからね。荒療治にも程がありますよ」
シロエ君が頭を振って、サム君が。
「俺は全然気にしてないんだけどなぁ、さっきの話。…でもブルーは怒っちゃったみたいだし…俺の力じゃ止められないか」
「止めない方がいいと思うよ。それでブルーと喧嘩になったらどうするのさ」
別れ話になっちゃうよ、とジョミー君が言い、サム君は「そうだな…」と溜息をつきました。
「やっぱ、友情より恋人を取るべきだよな。…それとも、これって逆だっけ?」
「いいんじゃない?人それぞれだと思うもの」
スウェナちゃんの言葉に一斉に頷く私たち。そもそも、墓穴を掘ったのは他の誰でもなくキース君です。悪乗りした会長さんを止めようなんて命知らずは誰もいませんし、ここは諦めてもらうしか…。やがて奥の寝室の扉が開いて「そるじゃぁ・ぶるぅ」と会長さんが出てきました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は四角いお盆を持ち、後ろに続く会長さんは…去年の夏休みに見た緋色の衣を着ています。
「やあ、お待たせ。…キースは逃亡してないだろうね」
「逃げてないけど…。ブルー、本気で?」
恐る恐る尋ねるサム君に、会長さんはニッコリ笑って答えました。
「元老寺の跡取りが飛び込んで来たんだよ。見事な坊主頭にしてあげるのが剃る者の剃られる者に対する礼儀だろう?…ちゃんと緋の衣を着てあげたんだし、この袈裟だって上等なんだ」
ほらね、と立派な袈裟を披露する会長さん。その横に立つ「そるじゃぁ・ぶるぅ」が持つお盆には鋏とバリカン、安全剃刀にシェービングクリームが乗っかっています。いったい何処から調達して来たんだか…。
「ああ、これ?キースの法衣を取り寄せる時に、元老寺から一緒に…ね。ぼくとぶるぅはバリカンもシェービングクリームも要らないし」
会長さんはキース君を丸坊主にする気満々でした。ドアを押し開け、先頭に立ってリビングの中に入ってゆきます。
「キース、剃髪の用意が出来たよ。…暦を見たけど日もいいようだし、今日から立派なお坊さんだ」
「うっ……」
床に置かれたお盆の中身にキース君は息を飲みました。剃髪が必須条件というので道場入りを悩んでいたのに、こんな形で坊主頭にされるだなんて夢にも思っていなかったでしょう。いっそ吹っ切れていいのかも知れませんけど、可哀相というかなんというか…。
「緋の衣の高僧に頭を剃って貰えるなんて幸運、滅多に無いよ。お父さんだって感激するさ」
会長さんがキース君の前に敷かれた座布団に座り、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がお盆の横に座ります。きっとお手伝いをするのでしょう。私たちはキース君に悪いと思いつつも、好奇心を隠せません。3人を遠巻きにしつつ見やすい位置にちゃっかり陣取っています。
「それじゃ、キース。覚悟はいいね?」
合掌する会長さんにキース君が合掌して深く頭を下げ、呪文のような言葉を呟いて…。
「…お願いします」
「よく言った。君の長髪も…これで終わりだ」
会長さんが頷いて鋏を取り上げ、キース君の長い前髪を掴みました。鋏が黒い髪を挟んで、サクッと髪の毛が切れる音が。あぁぁ、やっちゃった…!
「…やってないよ」
笑いを含んだ声がリビングに響き、会長さんがスッとキース君の髪から手を離します。あれ?…切れてない?
「暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときは、二年以下の懲役若しくは…以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。 …他人の髪の毛を無断で切ったら暴行罪になっちゃうんだよね。今回は無断じゃないけど、脅して切ろうっていうんだからさ。…場合によってはもっとマズイことに」
警察沙汰は困るじゃないか、と会長さんは笑っています。それじゃさっきのサクッて音は…?
「ああ、あれくらいは簡単だよ。サイオニック・ドリームの一種。キースは実際に髪を切られたような感じがした筈だ。どうだった、キース?…未来の住職の感想は?」
「…俺の決心を犠牲にして鋏を止めたのか…。ソルジャー・ブルー…」
キース君が眉を寄せ、怒ったような顔で唇を震わせました。そりゃあ確かに…あれだけの覚悟を決めさせておいて幻覚とはいえ切られちゃったのに、何も無かったと笑われたんじゃあ…。
「あ、そう。…せっかくの決心を裏切られたのが不満なんだ。だったら初志貫徹で剃髪する?ぼくは一向に構わないけど」
楽しげに鋏を左右に振ってみせる会長さん。
「それじゃ続行しちゃおうか。…ぶるぅ、袖が邪魔だから頼むよ」
「オッケ~♪」
会長さんの後ろに回った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が緋の衣の袖を持ち上げ、鋏を持った手がキース君の髪にまさに触れようとした時です。
「や、やめてくれーっ!!!」
転がるようにキース君が後ろへ逃れ、髪の毛を両手で押さえました。
「やめる、やっぱり遠慮しておく!俺はまだ…まだ、そこまでの決心が…」
「…だろうね。みんなの手前、格好をつけてみたものの…逃げ道が見えたら一目散っていうわけだ」
クスクスと笑う会長さんにキース君は反論しませんでした。
「ああ、その通りだ…。俺は檀家さんのために髪の毛すら犠牲にできないヘタレ坊主だ」
「それでかまわないと思うけどね。まだ若いんだし、無理しなくても…さ。何処まで耐えられるか試してみたけど、よく頑張った方じゃないかな。本当のヘタレだったら髪を掴まれる前に逃げ出してる」
「…そうだろうか…?」
「うん。ぼくが取り寄せた法衣を文句も言わずに着ただろう?あの辺りから感心してた。…本物のヘタレ坊主はぼくの方。いくらタイプ・ブルーで強いサイオンを持ってるからって、一度も剃髪したことが無いっていうのはヘタレだっていう証拠だよ。君は子供の頃に経験してる分、ぼくよりも上。だから道場にも、きっと入れる」
今は勉強の方を頑張って、という会長さんにキース君は勇気づけられたようで。
「…そうか…。焦らなくても大丈夫なのか…」
「ぼくの方が焦ったかもね。君がパニックに陥って逃げて帰るのを期待したのに、逃げるどころか居座られちゃって。サイオンまで使う羽目になるとは思わなかった。…君はハーレイと違ってからかいにくいタイプだったよ。ハーレイなら…ぼくが剃髪だと宣言した瞬間に後をも見ずに逃げると思うな」
そう言った会長さんが不意に吹き出し、クックッと涙を流して笑いながら。
「ご、ごめん…。ハーレイが…丸坊主に…なったところを…想像しちゃって…」
「「「!!!」」」
教頭先生が丸坊主。その衝撃的な映像は瞬時に私たち全員の頭の中に浮かびました。こ、これは…おかしいなんてレベルじゃなくて…もう、どうしたらいいんだか…。こういう時にサイオンは非常に不便です。他の誰かが考えたことがポロッと零れて、巡り巡って…最終的に辿り着いたのはゼル先生のトンガリ頭と並んだ教頭先生の坊主頭が光り輝くという凄い映像。
「誰だ、バレエなんて考えたヤツは!」
キース君の絶叫が響き、私たちの頭の中でゼル先生と丸坊主の教頭先生が真っ白なチュチュで手を組み、『四羽の白鳥』を二人で踊りだします。頭には『白鳥の湖』の羽根のカチューシャ。わ、私たち、もうダメかも…。
お好み焼きパーティーはとんでもない方向に突っ走った末、大爆笑で終わりました。緋の衣の高僧が床を叩いて笑い転げる構図なんかは、そうそうお目にかかれるものじゃありません。こんな人でもちゃんと高僧になれたんですし、キース君だって住職になれると思います。道場入りはすぐでなくてもいいんですから。
「キース、これに懲りたらサムをからかうのはやめることだね」
普段着に着替えた会長さんが同じく着替えを済ませたキース君に言うと、キース君は「さぁな」と笑って。
「あんたの方こそ、教頭先生をからかって遊ぶのは大概にしとけよ?…いつか食われちまっても俺は知らんぞ」
「ハーレイはヘタレだから何をしたって大丈夫。…サムもいるから安心だよ」
「…そのサムに食われちまったりしてな」
キース君の言葉にサム君は耳まで真っ赤になってしまって、会長さんが。
「言ってるそばから早速かい?…懲りてないんなら剃髪用具一式を買い揃えてもいいんだよ?」
いつでも丸坊主にできるようにね、と人差し指と中指で鋏の形を作って動かし、軽く脅しをかけてみせます。
「うっ…。分かった、俺が悪かった!…謝るから、それだけは勘弁してくれ」
「言葉より行動で示して欲しいな。今後、サムをからかうのは一切禁止。もしもやったら剃髪用具をぶるぅの部屋に常備するから覚悟したまえ。キースが抵抗するようだったら、その時は…ジョミー、みんなを頼む」
「えっ、ぼく?…なんで?」
目を丸くするジョミー君に会長さんはニコッと微笑みかけました。
「ぶるぅには剃髪の手伝いをして貰わなきゃいけないし…キースはキレると怖いタイプ・イエローだから、みんなにシールドを張ってあげられそうなのはタイプ・ブルーの君だけなんだ」
「えぇっ、そんなの無理だよ、シールドなんて!」
「いざとなったらなんとかなるさ。…まぁ、キースが大人しく丸坊主になれば何もかも丸くおさまるけどね」
本当か!?と、心で叫ぶ私たち。会長さんがそんな悪戯をやらかさないのが一番平和でいいんです。でもキース君が諦めて剃髪する可能性もゼロじゃないですし、そしたら道場入りも問題ないし…。じゃあ、やっぱりキース君が会長さんに丸坊主にされてしまうのが最良の結末っていうことでしょうか?
「キースが道場に入る時には頭を剃ってあげてもいいよ。それ以外の時でも、いつでも歓迎。その長髪をバッサリやるのは楽しそうだ」
「…あんた、面白がっているだろう」
「決まってるじゃないか。だから教えないよ、サイオンで誤魔化す方法なんか…ね」
それは自分で努力したまえ、とクスクス笑う会長さん。キース君はガックリと肩を落としてしまいました。いつか会長さんに剃髪して貰って道場入りか、サイオンでなんとかする方法を求めて頑張るか…道場入りとは無関係に無理に坊主頭にされてしまうか。髪の毛への未練で道場入りを決めかねているキース君の未来は三択です。どれになっても私たちには関係ないですけども、元老寺の跡取りとして住職への道を進むしかないのは間違いなくて…。元老寺の本堂に住職として座れる日まで、キース君、負けずに頑張って~!
※2008年7月28日にブルー追悼と銘打って書いた「番外編の番外編」です。
アニテラ17話に出てきたセリフのパクリをお楽しみ頂ければ…(笑)
会長さんの健康診断の付き添いに行った私たち。夜は会長さんの家で夕食を御馳走になって、お泊りという予定でした。エロドクター…いえ、ドクター・ノルディの魔手から会長さんを守り通して全て終わったと思っていたら、サム君の爆弾発言が。会長さんが寝室に引き上げた後も、私たちはダイニングから動けないまま。
「ねぇねぇ、寝ないんだったらリビングに行く?」
ホットプレートを片付けながら「そるじゃぁ・ぶるぅ」が言いました。
「お皿はぼくが洗っとくから、ゆっくりしてて。みんなお話したそうな顔に見えるもん」
「えっ、でも…」
片付けなくちゃ、と立ち上がった私たちを「そるじゃぁ・ぶるぅ」はリビングに連れて行き、飲み物とお菓子を用意してくれて。
「ブルーは寝ちゃったみたいだけれど、ここなら騒いでも大丈夫。徹夜だってオッケーだよ」
キッチンに消えていく後姿を見送ってから、最初に口を開いたのはジョミー君でした。
「…なんだか信じられないんだけど…。サム、本当にブルーのこと…?」
「おう!絶対ダメだと思ってたのに、俺ってラッキー♪」
相好を崩すサム君に、スウェナちゃんが溜息をつきます。
「そういえば…サムって美人に弱いのよねぇ、昔っから。いつも振られっぱなしだけども」
「小学校の時からそうだったね…」
ジョミー君が相槌を打ち、スウェナちゃんと二人でサム君の失恋回数を数え始めました。惚れっぽいわけではないようですが、美人の女の子相手に玉砕経験多数の模様。キース君がクックッと笑いながら。
「じゃあ、今回が記念すべき初の告白成功ってことか。…あいにく女じゃないようだがな」
「…俺さ…。ブルーには初対面で失恋してるんだ」
「「「は!?」」」
サム君の思いがけない言葉に私たちはビックリ仰天。初対面で失恋って、なに?
「去年、受験に来た時にさ…。ブルーがいるのを見かけたんだよ。男の制服だったけど、凄く綺麗な顔だったから男装の女の子だと思っちゃって…ボーッと見とれてたら声をかけられて」
「うんうん」
「試験問題を買わないか、って言われても男だって気付かなかったんだ。ハスキーな声だけどちょっといいな、と思った途端に、ぼくは生徒会長だ…って。その瞬間にアッサリ失恋」
「…男だったって分かったんですね…」
シロエ君が頷き、それから怪訝そうに首を傾げて。
「でも今は男でもいいってことなんでしょう?…いったいいつから気が変わって…?」
「んーと…。いつだろう?」
ポテトチップスをポイッと口に放り込んでサム君は記憶を遡っているようです。
「…一発で失恋してからも、綺麗だなーって見てはいたんだ。あんな美人っていないしさ…。ウェディング・ドレスなんか着られちゃったら反則だよな。やっぱ、あれが決定打だったかなー…」
ホワイトデーに教頭室で見たウェディング・ドレスで惚れ直したんだ、とサム君は頬を染めました。
「でもさ、見てるだけで満足してたんだぜ?…好きだって言っても聞いてくれるわけないし、高嶺の花っていうのかな…。手が届かなくて当然だって思ってたのに、つい、勢いで言っちまった。魔が差した、ってぇの?」
「それでオッケーして貰ったんだから、棚ボタじゃないか」
キース君がサム君の頭を軽く小突いて。
「あいつ、ああ見えて頑固だからな。おまけに根っからの女好きだ。恐らく遊び感覚だろうが、公認だって言ってもらった以上、頑張れよ。…俺は別に偏見なんか持っちゃいないし」
「ぼくも!…ぼくも応援する!」
ジョミー君が勢いよく言い、私たちも心からエールを送りました。サム君には幸せになって欲しいですもんね。あ、でも…ひょっとして会長さん、サム君をからかっているのでは…?
「大丈夫だよ」
ヒョイ、と現れた「そるじゃぁ・ぶるぅ」が人数分のホットミルクを載せたお盆を持ってニッコリと。
「ブルー、からかってなんかいないよ。ぼく、ブルーの気持ちは分かるんだ」
だから安心してね、と太鼓判を押してホットミルクを配る「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「もう遅いから、ぼく、先に寝るよ。お部屋に帰るんだったら、ここの電灯とエアコンは消しといてね」
おやすみ、と手を振って「そるじゃぁ・ぶるぅ」は会長さんの寝室に置かれた土鍋に寝に行ってしまいました。
会長さんとサム君。えっと…これからどうなるんでしょう。会長さんは公認だなんて言って乗り気でしたけど、付き合うとなると今までとはちょっと変わってきますよね…。
「なあ。ブルーって、何処へ誘ったら喜ぶと思う?」
ひゃああ!サム君、早速デートの算段ですか!?キース君も「気が早いな」と苦笑しています。
「だってさ。善は急げって言うじゃないか。ブルーの気が変わらない内にちょっとでも点数稼がないと」
「…なるほど。じゃあ、アドバイスしてやろう。…背伸びはやめとけ」
大真面目な顔のキース君。
「あいつ、ダテに三百年以上生きちゃいないし、女扱いの上手さからしてかなり場数を踏んでると見た。その辺で仕入れた情報とかで安易なデートコースを組んだら負けだな」
「……だよな……」
サム君はズーンと落ち込み、「どうしよう?」と私たちにアイデアを求めてきました。会長さんが喜びそうなデートスポットにデートコース。そんなものを考え出すには、みんな経験値が足りなさすぎです。
「そもそも、誰か、デートしたことある人いるの?」
ジョミー君の問いに全員が首を横に振り、サム君が「えっ」と声を詰まらせ…。
「も、もしかして…俺が…。俺が、トップバッター?…参考例なし?」
「…残念ながらそのようだ」
キース君が気の毒そうに告げ、私たちは同情の目でサム君を見るしかありませんでした。そもそも特別生になったばかりで、実年齢では2年生になりたて、というのが私たちです。2年生になった元の同級生を当たればデート経験者はいる筈ですが(修学旅行の時に不純異性交遊で停学になった人もいたことですし)、それでも所詮は子供のデート。三百歳を超えている会長さんに太刀打ちできるレベルなわけがないでしょう。
「お、俺…。もしかして凄い間抜けとか…?…舞い上がってたけど、デートもできないろくでなしとか…?」
「落ち着け、サム。最初からそんなに飛ばさなくてもいいと思うぞ」
「でも、キース!…ブルーの気が変わったらおしまいなんだぜ?うっかり女の子とデートに行かれて、そっちの方が楽しかった…って思われてしまったら終わりじゃねえかよ!」
「うっ…。そ、それは…。それは確かにそうだが…」
会長さんがサム君を放って女の子とデート、というのは如何にもありそうな展開でした。フィシスさんがいますし、アルトちゃんやrちゃんだって…。おまけにシャングリラ・ジゴロ・ブルーなんです。
「…やっぱダメかも…。ブルー、俺には無理って知っててオッケーだなんて言ったのかも…。俺が勝手に挫折したんなら、からかったことにはならないもんな…」
テーブルに突っ伏してしまうサム君。励まそうにも誰も何にも思い付かなくて、空気が重たくなってゆきます。うわ言のように「もうダメだ…」と繰り返すサム君でしたが、不意にリビングのドアが開いて。
「まだ起きてたのかい?」
パジャマ姿の会長さんが顔を覗かせ、一瞬の内に全てを把握したらしく。
「なんだ、デートコースで悩んでたんだ?…そんなの、もっと先でいいのに」
クスクス笑いながら入ってくると、サム君の手を取りました。サム君の頬がみるみる真っ赤に染まります。
「ふふ、顔が赤いよ?…手を握ったくらいで赤くなってちゃ、恥ずかしくてデートできないじゃないか。どうせならエスコートして欲しいしね。…サムが馴れるまでデートはお預け。デートの締め括りってキスするものだろ?」
サム君は耳まで赤くなり、私たちも口をパクパクさせるだけ。…えっと、えっと。会長さんは本気で言っているんでしょうか…?
「…信じられないって顔してるね。付き合うって言ったからには、キスくらい当然だと思うけど?…それ以上のことはちょっとダメだな。…今のところは」
でも付き合ってみたら変わるかもね、とウインクして。
「ハーレイは三百年以上も片想いしてきて、あの状態。サムは出会ってから1年ちょっとで此処まで来たんだし、焦らなくてもいいと思うよ。…分かったんなら寝た方がいい。もう3時をとっくに過ぎているから」
おやすみ、とサム君の手を軽く握って会長さんは去ってゆきました。見送るサム君の表情は幸せそのもの。
「…もしかして、惚気を聞かされたわけ…?」
ジョミー君が呟き、シロエ君が。
「そういうことだと思いますけど…」
「よかったな、サム。…くそっ、さっさと見捨てて寝ればよかったぜ!」
キース君の言葉は私たちの総意でした。あれこれ悩んで心配したのに、結局、最後はお惚気で…。本当に起きてて損した気分。さっさと寝ちゃうに限りますよ、うん。
翌日はかなり遅めの朝御飯。パンにサラダに卵料理に…と、いつもどおりの光景ですが、サム君の隣に会長さんが座っているのが気になります。二人が並んで座っていることは今までにも普通にありましたけど、公認だなんて言われてしまうと、どうしても意識しちゃいますよね。
「…ちょっと気が早いかもしれないけれど」
会長さんの声に私たちは思わずドッキリ。今度は何を言い出すのでしょう?
「次の金曜日って空いてるかな?」
「「「は?」」」
「…健康診断の結果を聞きに行くんだよ。また付いて来て欲しいんだけど…」
「「「えぇぇっ!?」」」
あのドクターの家へもう一度!?…でもドクターの危険さは分かっていますし、断るなんて出来ません。夕方6時の予約ですから、またまたお泊り決定です。サム君、なんだか嬉しそう。昼食を食べ、おやつを食べて会長さんの家を出るまで、サム君はニコニコしていました。帰り際に会長さんに手を握られて真っ赤になって、キース君たちにからかわれながらバス停へ。…この分ではデートはいつのことやら。月曜日に登校するとサム君はやたらソワソワです。
「今日はブルーは来ないと思うよ」
ジョミー君がおかしそうに笑って「去年もずっとそうだったから」と。
「行事がある日しか来ないんだ。来る日は教室の一番後ろに机が一つ増えるんだよ」
「…そうなのか…」
見るからにガッカリしているサム君でしたが、クラスメイトは気付きません。放課後になるとサム君は一目散に「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に行って会長さんの隣に座り、もうそれだけで幸せそう。そんな日が続いて、アッという間に約束していた金曜日。私たちは先週と同じようにお泊り用の荷物を持って登校し、夕方、タクシーに分乗してドクター・ノルディの家へ。
「…サム…」
扉の前で会長さんがサム君の腕にギュッと両手でしがみ付きます。今日の付き添いのメインに指名されたのはサム君でした。キース君たちは万一の時に実力行使をするボディーガードで、サム君は会長さんにピタリと付き添う係。会長さんに縋り付かれても赤くならないほど、気合を入れたサム君が扉を開けると…。
「お待ちしておりましたよ、ブルー」
待ち構えていたドクターが不快そうにサム君を眺めました。
「なんですか、彼は?…ブルー、いったい何の真似です」
「無粋だね。見て分からない?」
ねえ?と身体を寄せる会長さんにサム君が微かに頬を染めます。ドクターはニヤリと笑って、サム君を値踏みするようにジロジロと…。
「なるほど…恋人というわけですか。この前はそうは見えませんでしたが」
「君が色々やらかしたせいで自分の気持ちに気付いたらしい。…あの夜に告白されたんだ」
「ほほう…。それであなたが受け入れた、と?…信じられませんね。ほんの子供じゃありませんか。あなたを満足させるには私のような大人でないと…」
ドクターがズイと近づき、会長さんの顎を捉えて顔を近づけた次の瞬間。
「…っつうっ!!」
パシッと鋭い音が響いてドクターが後ずさりました。サム君と会長さんを薄紅色の光が包み込んでいます。あの光は…サイオン…?
「シールドですか…。ヒヨコが何処で覚えたやら…」
「「「シールド!?」」」
今度は私たちが驚く番。ドクターの口ぶりからして、あのシールドはサム君が…?
「お友達もご存じなかったようですね。それだけ必死ということでしょうが…。そんなにブルーが大切ですか?」
「決まってるじゃねえか!」
私たちにはやり方も分からないシールドを展開したまま、サム君はドクターを睨みました。
「だからブルーに二度と触るな!…さっさと健康診断の結果を言えよ」
「やれやれ…。この間は野蛮極まりない連中が無礼を働き、今日はヒヨコがタメ口とは。…ソルジャー、あなたはどんな教育をしてらっしゃるのですか?」
「あいにく、ぼくは教師じゃない」
プイと横を向く会長さん。ドクターは大げさな溜息をつき、私たちを診察室へ案内すると会長さんを椅子に座らせました。その横にサム君がピタリと立って、薄紅色のシールドが会長さんを包んでいます。
「健康診断の結果ですが…。血圧と心電図に問題があった以外は正常でした。心電図は…安静にしていた筈なのに、かなり乱れが…」
「あんたのセクハラのせいだろうが!!」
すかさず叫んだのはキース君。
「あれだけ触りまくられていて、正常な数値が出るもんか!…24時間のホルダー心電図ってヤツで測り直せ」
「…これはこれは。手厳しいことで」
舌打ちをしたドクターは会長さんのカルテを見直し、異常無しだと告げました。
「次はまた1年後でいいでしょう。今度こそ、是非お一人で…。あの約束もありますしね」
「………!!」
会長さんが以前キスマークを付けられた辺りを押さえ、サム君が拳をグッと握って。
「俺、来年も来るからな!…ブルーは俺が絶対守る!」
「ふむ。…勇ましいことですね。…しかし、それはあなたの意思ですか?…本当に?…胸に手を当てて、よく考えてごらんなさい。…なんといってもタイプ・レッドだ」
「「「タイプ・レッド!?」」」
叫んだ私たちをサラッと無視して、ドクターは待合室に続く扉を開けました。
「タクシーを呼びますから、お帰りなさい。…ブルー、続きはあなたにお任せしますよ。タイプ・レッドがどういうものか、あなたのナイトにしっかり説明することですね」
「…………」
会長さんは俯き加減にサム君の腕に縋って立ち上がります。サム君のシールドは徐々に薄れてきていました。
「…サム、もういいよ。…もう大丈夫。大丈夫だから…」
穏やかな会長さんの声で薄紅色の光が消えて、サム君は会長さんと並んで待合室のソファに腰掛けます。
「ブルー…。俺、ちゃんとあんたを守れたよな…?」
「うん。疲れただろう?シールドなんて教えてないのに、よく頑張ったね。…ありがとう…」
会長さんがサム君の額の汗をそっと拭って微笑みました。タクシーにも二人並んで乗り込む姿をドクターが苦々しげに見ています。1年後まで来なくていいと思うとせいせいしますが、タイプ・レッドって何なのでしょう…?
会長さんの家に着くと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が夕食を用意してくれました。
「今日は中華料理だよ!北京ダックにフカヒレスープ、色々あるから沢山食べてね!」
次々と運ばれてくる大きなお皿。サム君は隣に座った会長さんにせっせと料理を取り分けています。
「ブルー、もう少し入れようか?…あ、マツカ、そっちの皿も回してくれよ」
甲斐甲斐しく世話を焼くサム君でしたが、会長さんが突然ポツリと。
「…サム、聞かなくていいのかい?…タイプ・レッドってどういう意味か…って」
「え?…ああ、エロドクターが言ってたヤツか。サイオンの色のことだろう?…シールドが張れるなんてビックリしたなあ。触らせてたまるか、と思ってたけど」
「サイオンは意思の力だからね。サムの思いが強かったのさ。だけど…その思いは本物じゃない」
「………?」
キョトンとしているサム君をじっと見つめて、会長さんは。
「タイプ・レッド…。赤い色のサイオンを持つ人間には、サイオンを増幅させる力がある。だから影響を受けやすい。他人の強い思いに触れると、取り込まれてしまう場合もあって…今のサムはその状態。そのせいでぼくを好きだと思ってる。…ノルディは百戦錬磨なだけに、見破っちゃったみたいだね」
「俺の…意思じゃないっていうのか…?」
問い返すサム君の声が震えています。会長さんが小さく頷き、サム君は縋るような目で。
「…嘘だろ…?そんなの、嘘だろ?…あんたのこと、ずっと…ずっと見てたし、綺麗だなって思ってた。やっと…やっと好きだって言えて、これからなのに…。なあ、嘘だって言ってくれよ!」
「…本当なんだ…。サム、本当のことなんだよ…」
そう言って会長さんはサム君の手をそっと握ると、両手で包み込みました。
「サムの心は真っ直ぐだから、傷付けたりはしたくない。…黙っておこうと思ってたんだ。でも、ノルディが指摘しちゃった以上、本当のことを言わなきゃね。…覚えてるかい?…ぼくがハーレイにトランクスを届けに行った日のこと。あの時、逃げようとしたハーレイがサムとジョミーを突き飛ばして…」
あっ、と息を飲む私たち。二人が尻餅をついたのを覚えています。強い思いに触れると取り込まれることがあるというタイプ・レッド。サム君は教頭先生とぶつかって…。
「…じゃあ…俺があんたを好きだって思う気持ちは、教頭先生から貰ったのかよ…?」
「うん…。ごめん、サム。こんな結果になるんだったら、最初に言ってしまえばよかった。ぼくには分かっていたんだから。…サムが取り込んだハーレイの想いは、ぼくが消す」
会長さんの両手が青いサイオンの光に包まれ、サム君が目を見開いて。
「け、消すって…。そしたら俺は?…あんたを好きな俺の気持ちはどうなるんだ…?」
「…そんなもの、最初から無かったんだよ。ぼくと付き合ってたのは思春期にありがちな気の迷い」
「気の迷い…?嫌だ、そんなの!…俺は確かにあんたが好きで、初めて会った時から一目惚れで…!」
「思い込んでるだけなんだよ。ごめんね、サム…。大丈夫、元のサムに戻るだけだから」
何か言おうとしたサム君を青い光が広がって包み、身体が崩れ落ちてゆくのを会長さんのサイオンがゆっくりと床に下ろします。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が眠ってしまったサム君の顔を覗き込んで。
「…サム、ブルーのこと好きじゃなかったの?…ブルー、サムのこと嫌いだったの?」
「ううん…。恋人ごっこは楽しかったよ。サムが優しいのを知ってるからかな…。好きだって告白されても嫌な気持ちはしなかったんだ」
だけど終わってしまったね、と会長さんはサム君の上に屈み、額にキスを落としました。
「おやすみ、サム。…デートし損ねたから、お別れのキス」
「…タイプ・レッドか…」
キース君が溜息をつき、シロエ君とマツカ君を呼んで、サム君を寝室へ運びます。3人が戻ってくるのを待って夕食が再開されましたけど、会長さんは沈みがち。「そるじゃぁ・ぶるぅ」自慢の小籠包が運ばれてきたのに寝室に行ってしまいました。
「…ブルー、サムのこと好きだったのかな…」
ジョミー君が呟き、キース君が「さぁな」と小籠包を頬張りながら。
「あれだけチヤホヤされていたんだ、悪い気はしてなかっただろうさ。…でもショックなのはそっちじゃなくて、サムの心を操るような結果になった事だと思うぜ。気分のいいものじゃないだろうし…」
この1週間、サム君は会長さんをとても大事にしていました。会長さんがいるだけで幸せでたまらない、という顔をして、いつも一生懸命で。…タイプ・レッドの特性から生まれ、それゆえに消えてしまった恋を、サム君は忘れてしまっても…私たちは忘れないでしょう。
翌朝、ダイニングに行くと会長さんの隣にサム君の姿がありました。他愛ない話をしながら朝食を摂る二人を見ると、ついつい錯覚してしてしまいますが…もうカップルではないんです。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が会長さんのカップに紅茶を注いで…。
「ブルー、砂糖は?」
サム君がシュガーポットを手にしました。
「2つだっけ?…まだ、自信なくてさ。ダメだよなぁ…。これじゃ恋人失格かも」
「「「えっ!?」」」
「当然だろ?…好みを覚えるのって基本だぜ」
目を丸くする私たちの前でサム君は会長さんのカップに砂糖を入れてニコニコ顔。会長さんの赤い瞳が揺れ、声が震えて。
「…サム…。どうして恋人だなんて…。ハーレイの想いは全て消し去ったのに」
「ハーレイ?…ああ、教頭先生がどうかしたのか?」
サム君は会長さんが教頭先生の想いを消した事件を全く知りませんでした。タイプ・レッドに関する話は覚えているのに、その後のことは記憶に無くて…おまけに会長さんとの関係が終わったなんてまるで思っちゃいないのです。だって会長さんを好きな気持ちはそのままですから。
「そうか…。ハーレイの想いが引き金になってしまったのか」
会長さんがクスッと笑ってサム君の肩にもたれかかると、サム君は真っ赤になって大慌て。
「ブルー!?…なんだよ、いったいどうしたんだよ?」
「…なんでもない。サムが変わらなかったのが嬉しいだけ」
「……?…まぁ、いいか…」
一目惚れしてから1年以上もサム君が温めていた恋は本物でした。タイプ・レッドでなかったら目覚めなかった恋心ですが、いつか実る日が来るのでしょうか?会長さんが相手なだけに、実るどころか花も咲かずに蕾のままかもしれません。…でも、とりあえず公認カップル再びです。サム君、幸せになれるかな?
会長さんが健康診断に出掛ける金曜日。私たちはお泊り用の荷物を持って登校しました。健康診断は夕方6時からですし、夕食を会長さんのマンションで食べてそのまま泊っていけばいい、と言われたからです。放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ。マツカ君とシロエ君は部活中でキース君はまだ大学でした。
「かみお~ん♪今日のおやつはマンゴープリン!」
健康診断の日だからヘルシーだよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。私たちが健康診断を受けるわけではないんですけど、ちょっぴり気分が引き締まります。飲み物も絞りたてのオレンジジュース。柔道部で練習中のシロエ君たちには物足りないかも…と思っていたら、二人には焼きソバを作る予定だとか。
「みんなもお腹が空きそうだったら遠慮なく言ってね。晩御飯、遅くなりそうだし」
何人分でも作っちゃうよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニコニコ顔です。
「ブルーを守ってもらうんだもん、焼きソバの具も豪華版なんだ♪」
「ぼくの健康診断なのに、付き合わせてごめん。…今夜はお詫びに御馳走するから」
申し訳無さそうに言う会長さんにサム君が「かまわねえって」と明るく笑って。
「俺たちで役に立てるんだったら、付き添いくらいなんでもないさ。…なぁ、ジョミー?」
「うん。あのドクター、本当に危ない人みたいだし」
教頭先生と飲み比べをした時は凄かったよね、とジョミー君。酔いが回って饒舌になったドクターときたら、伏字にするしかない卑猥な言葉を次から次へと、会長さんに投げ掛けていたんです。
「ホント、いやらしいオッサンだよな。…二度と聞きたくねえよ、あんなセリフ」
サム君が不快そうに拳を握り締めます。
「今日は大丈夫だと思いたいぜ。ただの健康診断だし」
「…どうだろうね。でも君たちが守ってくれるんだろう?…いざとなったら」
ぶるぅも入れて8対1なら安心だよね、とニッコリ微笑む会長さん。8対1。…会長さんが数に入ってないってことは、自分ではドクターに対抗できる自信が無いってことなのでしょう。ボディーガードの責任は重そうです。やがてシロエ君とマツカ君が部活を終えてやって来て、焼きソバが出来上がる頃にキース君が。
「約束どおり来てやったぞ。…なんだ、食事中か?」
「腹が減っては戦が出来ぬ、と言うからね」
会長さんが取り皿をキース君に差し出しました。
「まだ時間があるから食べるといいよ。君の柔道の腕はとても貴重な戦力なんだし」
「…おい…。素人に技をかけるのは危険だってこと、分かってるか?」
「関節技で動きを封じることも出来るだろう?投げ飛ばすのは最後の手段。文字通りの人間最終兵器」
「…俺が傷害罪で訴えられたら、あんたのせいだぞ」
キース君は苦笑しながら焼きソバとマンゴープリンを平らげ、柔道部仲間のシロエ君、マツカ君とパチンと手と手を打ち合わせて。
「とりあえず俺たち3人はドクターを取り押さえられるよう努力する。…それでダメなら…。ぶるぅ、俺が合図をしたらドクターを思い切り弾き飛ばすか、動けないよう固めてしまえ。タイプ・ブルーなんだしな」
「…うん。ブルーを守るためなんだね」
コクリと頷く「そるじゃぁ・ぶるぅ」。会長さんの実質上のボディーガードは柔道部3人組と「そるじゃぁ・ぶるぅ」で決まりみたいです。4人もいればまず大丈夫。ジョミー君や私たちの出番は無さそうですが、ドクターが不埒な行為に及ばないよう睨んでいればいいんでしょう、うん。
タクシーに分乗して着いたドクターの家はアルテメシア公園に近い高級住宅街にありました。立派な門の向こうに洒落た豪邸。診療所だという建物は歩道に面した二階建ての別棟です。かなり大きな建物でエントランスにはちょっとした植え込みまであり、知らなかったら別の家だと思ったかも。
「…えっと…。看護師さんとか、いるんだよね?」
ジョミー君が『予約制』と書かれた小さなプレートを眺めています。
「ドクター・ノルディしかいないのかと思ってたけど、ちゃんと病院みたいだし」
「開業してる日は看護師さんも来るよ。受付の人もいると思うな」
だからといって油断は禁物だけど、と会長さん。
「ぼくを診るのはノルディだからね…。看護師さんが見ている前でも平気な顔して触ってくるんだ」
うーん、さすが本物というか何というか。人目などを気にしていたら会長さんを落とせないとは思いますけど、看護師さんも大変だなぁ。きっとお給料はいいんでしょうね。私たちは会長さんを先頭にして診療所に入っていったのですが…。
「待っていましたよ、ブルー。…約束の時間ピッタリですね」
立っていたのは白衣を纏ったドクター・ノルディ。受付に人の気配はありませんでした。
「お友達を大勢お連れになったようですが…まずは御挨拶をしませんと。ようこそおいで下さいました、ソルジャー・ブルー」
ドクターは会長さんの右手を取ると、手の甲に恭しく口付けて…。
「「「!!!」」」
次の瞬間、ドクターの手が会長さんの右手をグイと引き寄せ、身体ごと腕に閉じ込めて…強引に唇を奪っていました。会長さんの目が見開かれ、赤いルビーの瞳が驚愕に揺れるのを見た私たち。不意を突かれた会長さんが逃れようともがくのをドクターの両腕は許そうとせず、逆に背中から腰へと手を滑らせながら口付けを深くしてゆきます。
「馬鹿!噛み付け、噛み付くんだ!」
キース君が叫びましたが、会長さんは肩をピクンと震わせただけで、ドクターの口付けは深く激しくなるばかり。
「くそっ…。仲間を傷付けたくはないってか?俺たちが来てなかったら終わりだぞ」
世話の焼けるヤツだ、とキース君はドクターに近づき、トントンと軽く肩を叩いて。
「悪いが、そいつを離してもらおう。…警察に突き出されたいなら話は別だが」
「……………」
不愉快そうに薄目を開けるドクター。でも会長さんを捕まえた腕は離しませんし、キスを止める気も無いようです。
「おい、本当に通報するぞ。強制わいせつ罪だっけな。…十三歳以上の男女に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、六月以上七年以下の懲役に処する。十三歳未満の男女に対し、わいせつな行為をした者も、同様とする」
「…………。興醒めな発言ですね。もっと情緒に富んだ言い回しをして頂きたい」
ドクターは唇を離すと苦々しげに吐き捨て、会長さんの顎を捉えて上向かせて。
「嫌でしたか、ブルー?…そうは思えませんでしたが。続けてあげてもいいのですよ?」
「………遠…慮し…ておく…」
会長さんが途切れ途切れに言葉を紡ぎ、ドクターの手を振り払いました。すかさずキース君が会長さんを奪い返すと背後に庇い、ドクターを睨み付けながら。
「さっきソルジャー・ブルーと呼んでいたな。あんたは長であっても見境無しに襲うのか?」
「…私は自分の欲望に忠実でしてね」
ふふふ、と笑うドクターの視線が会長さんに絡み付きます。
「長であろうが、年上であろうが知ったことではないのですよ。ブルーは初めて会った時からまるで変わっていませんし…私の理想そのままに美しい。みずみずしい身体も透けるような肌も、くまなく味わいたいと願っていてはいけませんか?どんな声で鳴いてくれるか、想像するだけでゾクゾクしますね」
「なるほど、立派な変態だ。だが、俺たちがついてきた以上、あんたの思惑どおりにはさせん。…さっさと健康診断とやらを済ませてもらおう」
診察室にも同行するぜ、とキース君が言い、私たちも頷きました。いきなりキスする危険人物と会長さんを二人きりになんてさせられません。ドクターはチッと舌打ちをして検査服を取ってきて。
「ボディーガードが8人ですか。ぶるぅだけだと思っていたのに、余計なオマケが7人も…。仕方ありません、健康診断を始めましょう。ブルー、いつものようにそれに着替えて」
検査服を受け取った会長さんはキース君を連れて更衣室に入っていきました。ドクターがいつ襲ってくるか分からないので用心してのことでしょう。…何事もなく済むんでしょうか、健康診断。
着替えを済ませた会長さんをドクターは上から下まで舐めるように眺め回してから、診察室へと促しました。えっと…本当に大丈夫かな?私たちもくっついて入りましたが、看護師さんの姿は見当たりません。
「私一人で十分ですよ。…その方が時間もかかって楽しめますしね」
ドクターは会長さんを椅子に座らせ、機械の代わりに聴診器を使って血圧測定。ちゃんと機械も置いてあるのに聴診器を持ち出す辺りがヤバイです。触ってやろうという意図が見え見え。…これじゃ血圧、平常より高くなっちゃうのでは…。
「…前回に比べてかなり高めのようですが…」
カルテを見ながら呟くドクター。ああ、やっぱり…。
「正しい食生活をして頂かないと困ります。ソルジャーに万一のことがあったら…」
「ちゃんと考えて作ってるもん!!」
割り込んだのは「そるじゃぁ・ぶるぅ」。頬を膨らませて怒っています。
「ブルーの食事はぼくが作ってるんだもん!お野菜もお肉もバランスよく出そうって気をつけてるし!!」
「あんたが原因なんだと思うぞ。そっちの機械で測定してみろ」
キース君の冷たい声をドクターはサックリ無視して、お次は採血。時間をかけて血管を探っているのは採血し易い場所を探しているのではなく、会長さんの腕の手触りを楽しんでいるだけで…。
「ちょっと痛みますよ」
返事を待たずにドクターが採血用の針をブスッと突き刺し、会長さんが顔を顰めます。い、痛そう…。今の、かなり痛そう…。
『わざとだな』
『サドっ気もあるみたいですね…』
キース君とシロエ君の思念に、ドクターがニヤリと笑いました。そっか、仲間ですもんね…。聞こえちゃったというわけです。採血を終えたドクターが針を抜いてアルコール綿をテープで貼り付け、しばらく押さえているように、と会長さんに。試験管を奥の部屋に持っていくドクターの背中を私たちは不信感に満ちた目で見ていました。
「…いつものことだよ。ぼくなら別に気にしてないし」
「分かってるんなら、なんで噛み付いてやらなかったんだ!…あんなサドなら噛み付いたって…」
キース君が会長さんに言いましたけど、会長さんは腕を押さえながら微笑んで。
「採血するのと噛むのとは違う。…君が言ってたとおりなんだよ。ぼくは仲間を傷付けたくない。もちろん、普通の人間でもね。…そりゃ…助けてくれる人が誰もいなかったら、噛み付いてたかもしれないけれど」
「…あまり俺たちをアテにするなよ?自分で逃げる方法も考えてくれ」
「努力する」
そういう会話を交わしているとドクターがニヤニヤしながら戻ってきます。
「次は心電図になりますので…。女性の方は外でお待ち頂きましょうか」
あう。スウェナちゃんと私は待合室へ出されてしまいました。心電図なんて…今度こそセクハラ天国のような気がします。でもサイオンで覗く度胸も技も持ってませんし、心配しながら待っているだけ。
「けっこう時間がかかるのね…」
「修羅場になっていなきゃいいけど…」
キース君がドクターを投げ飛ばさざるを得ない状況になったらどうしましょう?なにしろ相手がドクターだけに、後々まで尾を引きそうです。逆恨みして会長さんを今まで以上に追い掛け回すとか、脅すとか…。傷害罪で訴えられたくなければ言うことを聞け、なんて如何にもありそうな展開かも。あぁぁ、どんどん怖い考えに…。
「お待たせ。…心配かけてごめんね」
診察室の扉が開いて会長さんが出てきました。制服に着替えるために更衣室へ入るのにキース君が付き添います。ジョミー君たちの様子からして修羅場ではなかったようですが…何事も無かったわけでもないみたい。ドクターが不敵な笑みを浮べて私たちをグルリと見渡しながら。
「ぶるぅどころか、こんなに大勢ついて来るとは予想外です。おかげで貴重なチャンスを逃しましたよ。…念入りにベッドメイクをさせたのに」
やっぱりドクターは会長さんを食べる気だったのでした。ついて来て良かった…と安堵していると着替えを終えた会長さんがキース君と一緒に戻ってきて。
「ノルディ。…タクシーを呼んだし、来るまでここで待たせてもらうよ。構わないよね?」
「もちろんです。泊っていって下さっても構いませんよ…貴方だけなら」
「遠慮する」
顔を背けて待合室のソファに座った会長さんにドクターが近づこうとするのをキース君が遮りました。
「それ以上、近づかないで貰おうか。検査は済んだし、もういいだろう」
「最近、東洋医学の研究をしていましてね。ご存じですか?…手にも色々と重要なツボがあるのですよ。タクシーを待つ間にちょっと…」
会長さんの手を取ろうとするのをシロエ君とマツカ君が盾になって防ぎ、キース君の低い声が。
「傷害罪で訴えられても構わないという気がしてきたぜ。…今度触ったら投げ飛ばすからな。ブルー、あんたに迷惑はかけん。親父とおふくろに泣いて貰うさ」
ひえぇぇ!キース君がここまで言い切るなんて、どんな騒ぎがあったのやら…。柔道部3人組とドクターが睨み合う中、やっとタクシーが到着しました。私たちは1台目の車に会長さんを最初に押し込み、2台目の最後にキース君が乗り込んでから、後をも見ずに会長さんのマンションへ。ドクターの高笑いが聞こえたように思いましたが、あれも思念波だったのでしょうか…。
会長さんの家に辿り着いた私たちが私服に着替え、ダイニングのテーブルに集合すると「そるじゃぁ・ぶるぅ」がホットプレートを用意して待ってくれていました。会長さんも制服を脱いでラフな格好をしています。
「かみお~ん♪今日はお疲れさま!…鉄板焼きにしようと思って」
家でやっても美味しいんだよ、とお肉やエビや野菜を焼きながら、スープなんかも出してくれたり。約束どおり御馳走です。会長さんを守れてよかったぁ…。スウェナちゃんと私は殆ど役に立ってませんし、診察室を出されてからは何があったかも知りませんけど。
「あの後かい?…心電図にとても手間取ったんだよ。まったく、電極の取り付けと外すのとにどれだけ時間をかけてるんだか…」
会長さんが忌々しそうに言い、キース君が顔を顰めて。
「変態野郎に苦労させられたぜ。動きを封じたら健康診断が出来なくなるし、好き放題にさせるわけにもいかないし。しかも何かっていうと、私に怪我をさせたら傷害罪になりますよ…なんてぬかしやがって。俺はああいうヤツが大嫌いなんだ」
「でも助かったよ、レントゲン室まで来てくれて…。シロエとマツカにもお礼を言わなきゃ。ぶるぅのシールドがあると言っても、気持ちいいものじゃないだろう?」
なんと柔道部3人組は放射線管理区域にまで付き添いで入っていたようです。そこまでしなくちゃいけないほどにドクターは危険だったというわけですか…。
「ノルディが強気なのはキスマークの件があるからだよ。あれに時効は無いみたいだ」
会長さんが深い溜息をつき、サム君が。
「時効が無いって…。じゃあ、いつまでも逃げ回るしかないのかよ!?」
「…そうなるね。でなきゃ、ぼくが大人しく食べられるか」
「言うなって!!」
バン!とテーブルを叩くサム君。
「冗談でも言うなよ、そんなこと!本当になっちまったらどうするんだよ!?」
「…サム…?」
「だから!…言霊って言うじゃねえか。そういうのって、言わねえ方がいいと思うぜ」
「…ごめん…」
悪かった、と会長さんが謝ります。ギャラリーを何度もやらされて分かりましたが、会長さんは『食べられてしまうかもしれないスリル』を味わって遊ぶのは好きでも、食べられたくはないんです。…なんといっても食べるの専門、女性限定というシャングリラ・ジゴロ・ブルーですから。
「なあ、キース」
サム君が真面目な顔でキース君を見つめました。
「柔道って俺でも出来るかな?」
「……?…それは…出来ないことはないと思うが…。どうしたんだ、突然」
「俺って武道はからっきしだし、ボディーガード、お前たちに任せっきりでさ。…あんなんじゃ、やっぱマズイよなぁ」
「なんだ、それで柔道なのか?実生活では全く問題ないと思うぞ」
キース君が言い、会長さんが。
「うん。ノルディには人数だけで十分な脅しになったからね」
「そうじゃなくって!!」
サム君が叫び、椅子からガタンと立ち上がって。
「俺、あんたを守りたかったんだ!…なのに見ていただけなんて!!」
えっ。サム君、いったいどうしちゃったの…?みんなの視線が集中する中、サム君は更に続けました。
「あんたが触られまくってたのに、俺には何も出来なくってさ…。またアイツが来たら…って思うと怖いんだ。あんたが攫われたりしたらどうしよう、って。だってさ…。俺…俺……」
しばらく口ごもってから思い切ったように。
「俺、あんたのことが好きなんだ!!」
「「「えぇぇっ!?」」」
私たちの目が点になり、鉄板焼きを締め括るガーリックライスを盛り付けていた「そるじゃぁ・ぶるぅ」もポカンと口を開けています。サム君、なんて言いましたっけ?…会長さんが好きですって?聞き間違い…じゃないですよね?会長さんも唖然としていましたが、三百年を超える年の功なのか、立ち直りは誰よりも早くって。
「…サム……。それって、告白ってヤツ…?」
問い掛けられた言葉にサム君はみるみる真っ赤になって、俯いて椅子に腰掛けて。
「………。そうだけど……。やっぱダメだよな…」
俺の勝手な思い込みだし、と消え入りそうな声で呟くサム君。
「今、言ったこと…忘れてくれよ。あんた、そういうの嫌いだもんな。…分かってる…。分かってるけど…」
言わずにいられなかったんだ、と辛そうに唇を噛んでから、サム君はパッと顔を上げて。
「…なんてね。…あはは、冗談!…全部、冗談だってば」
明らかに無理に作った笑顔でサム君が笑い飛ばします。
「みんな、なんて顔してんだよ。…もしかして信じちまったとか?…有り得ねぇって!」
サム君は笑っていますけれども、冗談だったとは思えません。でも笑うしか無いですよね…冗談だったと片付けるしか。この状況ではそうするしか…と思った時。
「……無理しないで、サム」
会長さんが静かに立ち上がり、サム君の笑い声が止みました。
「サムの気持ちはよく分かったよ。…びっくりしたけど、嬉しいな」
「えっ?」
信じられない、という表情のサム君に会長さんは穏やかな笑みを浮べて。
「…ぼくにそっちの趣味は無いけど、好きだって言われて悪い気はしない。…無理強いしないなら好きでいてくれて構わないんだ。だから柔道なんか習いに行かずに、ぶるぅの部屋に遊びにおいでよ」
「「「……!!!」」」
思いがけない言葉にサム君も私たちも驚きましたが、会長さんは落ち着いています。
「ぼくの一番はフィシスだけれど…アルトさんたちも大切だけど、サムと付き合うのも楽しそうだ。…デートに誘うことはあっても、連れてってもらったことって無いし」
「…マジで……?」
目を丸くしているサム君に会長さんがコクリと頷いて。
「うん。…サムならノルディと違って安心だしね」
そして会長さんは私たちに向き直り、ニッコリ笑って宣言しました。
「今日から、ぼくとサムとは公認ってことでいいだろう?サムをからかったりしちゃいけないよ」
その後、温め直したガーリックライスやデザートのケーキを食べましたけど、誰もが心ここに在らず。サム君が会長さんを好きだったなんて…。しかも会長さんがサム君の想いを受け入れるなんて。会長さんが「今夜はこれで」と口にするまで、会話は途切れがちでした。
「みんな、今日は付き添ってくれてありがとう。ゆっくり休んでくれればいいから」
食べ始めた時間が遅かったので、そろそろ日付が変わる頃です。
「それじゃ、おやすみ。…いい夢を、サム」
サム君に微笑みかけて寝室に向かう会長さんを私たちは呆然と見送るばかり。サム君だけが幸せ一杯な顔でニコニコと手を振っています。えっと…今日って普通の金曜日だと思ってましたが、大安吉日だったでしょうか?サム君と会長さんというカップルが誕生するとは想定外。私たち、これからどうすれば…?