シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(小鳥…)
一杯、とブルーが眺めた生垣と、その向こうにある庭の木と。
学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で出会った光景。十羽くらいはいそうな小鳥。もっと沢山いるかもしれない。名前も知らない小鳥だけれど。
家族なのか群れか、それすらも分からない小鳥。大きさも姿も、どれもそっくり。少し動くと、見ていた鳥がどれなのかも…。
(分かんなくなっちゃう…)
目まぐるしく入れ替わってゆく小鳥たち。枝から枝へと、木から木へと。生垣にいた鳥が、見る間に庭へと。庭から生垣に来たかと思うと、その中でだって入れ替わる。チョンと飛んでは。
賑やかにさえずって、クルクルと居場所を変える小鳥たち。気の向くままに飛び回って。
その姿がとても楽しそうな上に、どの小鳥たちも愛らしいから。
(来てくれないかな…)
ぼくの所にも、と待っているのに、気にも留めない小鳥たち。どんなに静かに立っていたって、人間は木とは違うから。そうっと片手を出してみたって、小鳥たちはまるで見向きもしない。
自分たちだけの遊びに夢中で。さえずり交わして、生垣の中でかくれんぼで。
沢山いるから、一羽くらいは来てくれたって、と覗いてみても知らんぷり。逃げないけれども、寄っても来ない。人間なんかは知らないよ、と。
(手乗りの小鳥じゃないものね?)
野生の小鳥はこういうもの、と思うけれども、ちょっと残念。友達同士か、大勢だけれど大家族なのか、仲良しらしい小鳥たち。
ほんの少しだけ、一緒に遊んでみたいのに。一羽でいいから、来て欲しいのに。
仲間じゃないから仕方ないけど、と諦めて歩き出した道。いくら待っても、小鳥は来ない。
あまりしげしげ眺めていたなら、怖がらせるかもしれないから。此処は危ない、と慌てて飛んで行ってしまったら、悲しい気持ちになるだろうから。
鳴き交わす声が遠くなっていって、帰り着いた生垣に囲まれた家。庭に小鳥は一羽もいないし、寂しい気分。やっぱり遊んで貰えないよ、と。
「ただいま」と家の中に入って、制服を脱いで、ダイニングに行っておやつを食べて。
小鳥たちのことなどすっかり忘れて、二階の部屋に戻って来たら…。
(あれ…?)
耳に届いた小鳥の声。帰り道に聞いた、賑やかなさえずり。軽やかに、とても楽しげに。
窓の方だ、と駆け寄って覗いたガラスの向こう。庭の木の梢、枝から枝へと飛び移ってゆく影が沢山。小さくて、翼を持った影。
(あの小鳥たち…!)
うちに来たんだ、と嬉しくなった。きっと、おやつを食べている間に、庭から庭へと移動して。次の遊び場は何処にしようかと、生垣や木を幾つも移って。
陽の当たる場所に出て来た時には、影はきちんと小鳥になる。羽根の模様が見えるから。
(何の鳥だろ…?)
野生の鳥には詳しくない。鴨や鷺なら分かるけれども、こんな小さな鳥たちは。
名前は何でもかまわないけれど、遊んでみたい小鳥たち。あんなに沢山来ているのだから、一羽くらいは好奇心の強い小鳥が混じっていてもいい。「此処は何かな?」と覗きに来る鳥。
そういう小鳥が来るといいよね、と窓を開けたけれど、側の枝までやって来るだけ。窓の中には向いてくれない、小鳥たちの目。窓枠にだって来てくれない。
(人間だけじゃなくて、家も駄目なの…?)
少し止まってくれもしないの、と見ている間に、小鳥たちは隣の家の庭へと行ってしまった。
鳴き交わしながら、「今度はこっち」と。「あっちの庭も楽しそうだよ」と。
小鳥たちがいなくなった庭。鳴き声も隣の庭に移って、もう戻っては来ないだろう。お隣の次は別の庭へと行くのだろうし、残念だけれど、これでお別れ。
溜息をついて閉めた窓。勉強机の前に座って、頬杖をついて考える。
(さっきの小鳥…)
帰り道でも遊べなかったし、窓を開けても駄目だった。人間は相手にされないから。小鳥たちは見てもくれないから。木から木へなら、飛び移るのに。木の枝だったら、止まるのに。
(ぼくだと来てもくれないよ…)
人間と木の枝は違うのだから、当然と言えば当然のこと。人間と小鳥も、違う生き物。見た目も言葉もまるで違うし、「おいで」と呼んでも届かない言葉。小鳥たちの耳には、ただの雑音。
(雑音どころか、怖がっちゃうかも…)
人間が来た、とビックリして。捕まるのかも、と大慌てで逃げて行ったりもして。
こちらにそんなつもりは無くても、小鳥には通じないのだから。「おいで」と言ったか、叱っているのか、それさえも分からないのだから。
(…小鳥の言葉…)
小鳥の言葉を喋れたならば、あの小鳥たちは、自分の手にもチョンと止まってくれるだろうか。手から頭へ、頭から肩へ、次から次へと飛び移りもして。
部屋にも遊びに来るのだろうか、窓を開けて小鳥の言葉で呼べば。「こっちだよ」と。
(手乗りの小鳥は…)
どうだったかな、と思い浮かべた愛らしい小鳥。友達の家で何度か出会った。
けれど、友達が小鳥に話し掛けていた言葉は、人間の言葉。「おいで」も、「こっち」も。どの友達の家の小鳥も、人間の言葉を聞いていた。
(そういう訓練、するんだっけ…)
飼い主の友達に教わったこと。手乗りの小鳥の育て方。
卵から孵って、親鳥でなくても世話が出来るくらいになったなら…。鳥籠から出して、手の上で餌を食べさせる。人間の手を怖がらないよう、人間の手は優しいものだと覚えるように。
そうして大きくなった小鳥は、すっかり手乗り。飼い主でなくても、差し出された手にチョンと止まってくれたりもする。飼い主が「ほら」と乗せてくれたら。
(人間を仲間だと思っているのかな?)
小さい頃から一緒に暮らして、親鳥と同じで餌も食べさせてくれるから。身体の大きさがまるで違っても、話す言葉が違っていても。
手乗りでなくても、人工的に卵を孵すと、そうなる鳥もいるそうだから。人間を親だと思い込む鳥。人間の後ろをついて歩いて、一緒に遊んだりもして。
自分が鳥だと気付かないくらいに、人間に慣れる鳥もいるのだと何処かで聞いた。自分の仲間の鳥を見たって、「あれは誰?」と驚いてしまう鳥。
卵から孵ったばかりの時から、人間と一緒だったから。人間に育てて貰ったから。
そういうことでもないと無理かな、と思った鳥と遊ぶこと。小さい頃から世話をするとか、卵を孵してやるだとか。
もしもシャングリラで鳥を飼っていたら、その光景を見られたろうか。人間を仲間だと思う鳥。違う言葉を話していたって、人間も鳥も同じものだと考える鳥。
けれど、シャングリラの鶏たちでは起こらなかった、素敵な出来事。友達になれなかった鶏。
(…鶏、遊びで飼っていたわけじゃなかったから…)
卵を産ませて、肉にもしたのが鶏たち。友達になったら、肉には出来ない。生まれた卵を貰って食べることだって。…卵からは雛が孵るから。食べてしまったら、雛は生まれないから。
(…友達になったら駄目だよね…)
それだと生きていけなくなっちゃう、と思い浮かべたシャングリラ。白い鯨はミュウの箱舟。
船の中だけが世界の全てで、自給自足で生きていた船。鶏の肉も卵も食べられないとなったら、たちまち困ってしまう船。
(鶏と友達になるのは駄目だし、前のぼくたちは鶏しか…)
飼っていなかったから、鳥と遊ぶのは無理、と思ったけれども、不意に頭を掠めた記憶。鶏ではなくて、鳥を見上げていた自分。
今日の自分がやっていたように、枝から枝へと飛び移る鳥を。
シャングリラに鳥はいなかったのに。…欲しかった幸せの青い鳥さえ、シャングリラでは飼えはしなかったのに。
(…なんで…?)
いない筈の鳥を見ていたなんて、と傾げた首。何処で見上げていたのだろう、と。
白いシャングリラには鶏だけしかいなかったのだし、鳥がいたなら、船の外しかないけれど。
(…どうして、鳥…?)
何のために鳥を見ていたろうか、と考える内に思い出したこと。前の自分が見ていた鳥たち。
アルテメシアに降りていた時、山や林で鳥たちが何羽も遊んでいる所に出会ったら…。
(ぼくの所に来ないかな、って…)
一羽くらいは来てくれないかと、姿を見上げていたのだった。今日の自分がしていたように。
楽しげに鳴き交わす鳥の世界には、人類もミュウも無いだろうから。どちらも同じに「人間」なだけで、そういう姿をしている生き物。鳥たちの目には、きっとそう。
だから一緒に遊びたかった。自分を「人」だと思ってくれる鳥たちと。
(…だけど…)
いくら見ていても、来なかった小鳥。少し大きめの鳥たちも。
枝から枝へと飛び移りはしても、自分の方へは来てくれない。手を差し伸べても、「おいで」と思念波で呼び掛けても。
鳥たちは自分の遊びに夢中で、飽きてしまったら飛び去るだけ。次はあっちで遊ぼうと。
どんなに熱心に見上げていたって、「遊ぼう」と思念で呼び掛けたって。
前の自分にも出来なかったらしい、鳥を呼ぶこと。鳥たちと一緒に遊ぶこと。
巧みにサイオンを操った、ソルジャー・ブルー。それでも鳥たちの世界に入ってゆくことは…。
(出来なかったし、今のぼくだと…)
もっと出来ない、とガックリと肩を落とした所へ、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ハーレイも小鳥とは遊べないよね?」
友達みたいに、手とか肩とかに止まって貰って。怖がられないで、遊ぶってこと。
「はあ? 小鳥って…」
俺の身体は確かにデカイが、それと小鳥に怖がられるかは別問題で…。
どちらかと言えば、好かれる方だぞ。俺の家では飼ってないがな、小鳥とかは。
「えっとね…。手乗りじゃなくって、普通の小鳥」
外で生きてる野生の鳥だよ、そういう小鳥はハーレイとは遊んでくれないでしょ?
「それはまあ…。野鳥と手乗りじゃ全く違うな」
あちらの方から寄っては来ないし、人間の手にも止まらない。鳥には鳥の世界があるしな。
人間に育てられた鳥とは、まるで事情が違うってもんだ。
しかし、そいつがどうかしたのか、いきなり鳥の話だなんて…?
「今日の帰りに、小鳥が沢山遊んでて…。ぼくの方にも来ないかな、って見てたのに…」
ちっとも相手にしてくれなくって、木の枝とかに夢中なんだよ。生垣の中でかくれんぼとか。
家に帰ってから、ぼくの家の庭にも飛んで来たから…。窓を開けたけど、やっぱり駄目。部屋の中には来てくれないし、窓枠にも止まってくれないし…。
残念だよね、って思っていたら、前のぼくのことを思い出しちゃった。
前のぼく、鳥と遊びたいと思っていたんだよ。…今日のぼくみたいに、小鳥たちと。
「鳥ってことは…。青い鳥か?」
お前、欲しがっていたからな。幸せの青い鳥ってヤツを。
「青い鳥じゃなくて、普通の鳥だよ」
アルテメシアに棲んでた鳥たち。山や林に降りた時には、出会うこともよくあったから…。
鳥の世界なら、人類もミュウも無い筈なんだし、ぼくと遊んでくれるかな、って…。
人類もミュウも、鳥が見たなら、人間だとしか思わないものね。
遊ぼうと思って頑張ったのに駄目だった、と話したら。思念波を使って呼び掛けてみても、鳥は来てくれなかったのだと、溜息を一つ零したら…。
「そりゃ無理だろうな、人間と鳥じゃ、言葉が全く違うんだから」
思念波で呼んでみたって同じだ、思念波も人間の言葉だからな。声か思念かの違いだけで。
ナキネズミどものようにはいかんさ、鳥が相手では。
「やっぱり無理…?」
前のぼくでも無理だったんなら、今のぼくにも無理だよね…。
今日、会った小鳥、ホントに楽しそうだったのに…。一緒に遊びたかったのに…。
「話をしようというのは無理だな、鳥と俺たち人間ではな」
だが、呼ぶことは出来るんだぞ。野生の鳥でも、「こっちへ来いよ」と。
そうやって沢山呼び寄せていれば、肩に止まったりするのも出て来る。好奇心の強い鳥ならな。
「野生の鳥って…。餌で?」
沢山集めてやるんだったら、餌をたっぷり用意するの?
「呼び寄せた以上は、餌をやるのもいいんだが…。うんと仲良くなれるんだが…」
餌があるから、と呼んでやった所で、鳥に通じやしないだろう?
あちらが見付けてくれない限りは、餌では呼べん。餌場を作ってやるにしたって。
鳥を呼ぶには、鳴き真似なんだ。そいつが一番早いってな。
「鳴き真似…?」
なあに、それ?
鳥の鳴き声の真似をするってことなの、それで合ってる?
「その通りだが?」
もっとも、猫や犬じゃないから、声で真似るのは難しい。…其処の所は、鳥にもよるが。
その辺の小鳥の鳴き真似をするなら、口笛を使うのが定番だな。
こんな具合に、とハーレイが吹いた口笛のウグイス。「ホー、ホケキョ!」と本物そっくりに。
今はウグイスの季節ではないのに、本物が部屋で鳴いたみたいに。
「凄いね、上手い…!」
ハーレイ、本物のウグイスみたい。口笛だなんて、側で見てなきゃ分からないよ。
「そうだろう? こいつには俺も自信があるんだ、昔から」
これを吹いてりゃ、ウグイスがやって来るってな。この声で鳴く季節だったら。
聞こえる所に本物がいれば、聞こえた途端に、俺の所へ。
「本当に? …ウグイスが近い所にいたら?」
聞こえたら直ぐに遊びに来るわけ、ハーレイを仲間と間違えて…?
「ウグイスの場合は、遊びに来るんじゃないんだがな。やって来る理由は喧嘩だ、喧嘩」
俺と喧嘩をしなきゃならん、と大急ぎで飛んで来るってわけだ。
この鳴き声は、オスのウグイスの縄張り宣言みたいなものだから…。
そいつが聞こえて来たってことはだ、他のウグイスが縄張りに入っているわけで…。
自分の縄張りを荒らしに来たな、と慌てて調べにやって来る。どんなヤツだ、と確認しに。
向こうは向こうで、この鳴き声で鳴くんだぞ。何しに来た、という警告だな。
それに応えて鳴いてやったら、「まだいるのか」と向こうも返す。「さっさと出て行け」と。
俺とウグイスとで「ホーホケキョ」と何度も交わしてる内に、どんどん近くなって来て…。
直ぐ近くまで飛んで来るなあ、相手のウグイス。
もっとも、相手が人間様だと気付いちまったら、行っちまうんだが…。
人間様には用は無いしな、追い出さなくてもいいんだから。…縄張り荒らしじゃないんだし。
「遊んでは貰えないんだね…」
せっかくウグイスが側まで来たって、人間だとバレたら行っちゃうなんて。
「元から喧嘩のつもりだからなあ、仕方ないだろ」
鳴いていたのが本物だったら、顔を合わせた途端に喧嘩だ。そりゃあ物凄い喧嘩らしいぞ。
ウグイスの喧嘩は、足まで使うらしいから…。
足で相手の羽根を掴んで、引っ張って毟っちまうんだ。掴み合いの喧嘩だ、鳥のくせに。
だからウグイスの鳴き真似をしても、喧嘩の相手を呼ぶだけなんだが…。
俺の親父は笛を使うな、とハーレイが教えてくれたこと。鳥寄せのバードホイッスル。
名前の通りに、鳥の鳴き声を真似られる笛。
「一種類だけじゃないんだ、バードホイッスルで真似られる鳥は」
色々な鳥の声を真似られる便利な笛だぞ、本物そっくりの音で鳴るから。
「そんなのがあるの?」
笛を吹くだけで鳥の声になるの、ハーレイがやったウグイスみたいに?
「吹くだけでは無理だな、練習しないと。こういう風に、と鳥の声を真似て」
上手く吹いたら、いろんな鳥を呼べるってな。何通りもの音を鳴らしてやれば。
どういうわけだか、猫まで来るが…。
「猫…?」
それは鳥じゃないよ、笛の音とも似ていないように思うけど…。猫の鳴き声。
生まれたばかりの赤ちゃん猫なら、ちょっぴり似ているかもだけど…。
「鳥は餌だろ、猫の場合は。…捕まえられたら、新鮮な肉が食えるんだ」
多分、そいつが狙いなんだろうな、直ぐ近くに美味い餌がいるぞ、と。
笛の音だか、本物なんだか、猫には分からないんだから。
そうやって猫が来てしまったら、呼び寄せた鳥を食っちまうから…。
おふくろがミーシャを飼ってた頃には、親父は家では吹いていないぞ、バードホイッスル。
今も庭で吹こうと思った時には、猫が来ないか見張っているなあ、あちこち眺めて。
隣町の家で、ハーレイの母が飼っていたミーシャ。甘えん坊の真っ白な猫。
ミーシャが家に住んでいた頃は、ハーレイの父は、釣りに行く時にバードホイッスルを吹いた。釣り糸を垂れて魚を待っている間に、鳥寄せの笛を。
子供時代のハーレイを連れて、キャンプなどに出掛けて行った時にも。
「凄いぞ、親父の鳥寄せの腕は」
家で吹いても、鳥が呼べるほどの腕だから…。自然の中だと沢山来るんだ。
呼び寄せた鳥が虫を食うなら、釣り用の餌を分けてやったりしていたな。「食うか?」ってな。
「…その鳥、どれも野生の鳥だよね…」
笛を吹いたら、餌を食べに来てくれるんだ…。鳥の言葉で呼べるんだね、鳥を。
ハーレイも、バードホイッスル、吹ける?
さっきやってたウグイスみたいに、色々な鳥の真似が出来るの?
「教えては貰ったんだがなあ…。こうやるんだ、と」
残念ながら、親父ほどの腕は無かったな、俺は。笛の練習より、釣りやキャンプが面白いから。
子供というのはそうしたモンだろ、練習するより遊ぶ方が好きで。
「そうかも…。ハーレイが練習しなくったって、お父さんが鳥を集めてくれるんだから…」
自分でやろうとは思わないかもね、練習してまで。…直ぐには上手く吹けないんなら。
今はどうなの、前よりも上手い?
「…今か? 長いこと吹いていないんだが…」
柔道と水泳をやっていたんじゃ、鳥とは殆ど縁が無いしな?
まるで駄目だな、吹くチャンスが無い。たまに親父と釣りに行っても、忘れているし…。
親父も俺と出掛ける時には、鳥を呼ぶより俺と話すのが優先だしな。
せっかく親子で釣りなんだから、と言われれば、そう。バードホイッスルを吹くより、あれこれ話をするのだろう。今は離れて暮らしているから、なおのこと。
鳥の鳴き真似で鳥と話すより、親子の会話。そっちの方が、ずっと楽しくて大切だから。
そうは思っても、気になるのがバードホイッスル。色々な鳥を呼べるという笛。
「えっと…。バードホイッスル、ぼくでも吹ける?」
ハーレイのお父さんみたいに上手くなれるかな、沢山の鳥が来るほどに?
呼んだ小鳥に餌をやったり出来るくらいに…?
「そりゃまあ…。お前だって、ちゃんと練習すれば…」
俺みたいに途中で放り出さなきゃ、充分、上手に吹けるんじゃないか?
楽器の笛とは違うわけだし、人を選びはしないだろう。…楽器の笛だと選ぶそうだが。
名人でないと鳴らない笛とか、いい音が出ないって話もあるから。
「じゃあ、やる!」
バードホイッスルの練習、するよ。色々な鳥の声で鳴らせるようになるように。
うんと頑張って練習したなら、ぼくでも鳥を呼べそうだから。
「おいおい、練習するって…。今か?」
この家の庭で練習するのか、バードホイッスルを買って来て…?
「違うよ、もっと先だってば。…もっと大きくなってから」
前のぼくと同じ背丈になったら、ハーレイとデートに行けるでしょ?
ハーレイのお父さんたちにも会いに行けるよ、隣町の家までドライブをして。…それからの話。
ぼくがハーレイや、ハーレイのお父さんたちと釣りに行くようになってからだよ。
バードホイッスルを上手く吹くには、先生がいないと無理そうだもの。
お父さんに習うのが一番いいと思うから…。名人なんでしょ、バードホイッスルも?
釣りだけじゃなくて、そっちも名人。
「ふむ…。それで親父に教わろうってか、いい考えではあるんだが…」
本当の所は、一番の先生は、親父じゃなくって自然だってな。
吹き方の基本を覚えた後には、自然の鳥を真似るんだ。…自然の中で、耳を澄ませて。
どう鳴いてるのか、自分の耳で聴いて覚えて、その通りに吹けるよう練習する、と。
「面白そう…!」
自分の耳で覚えるんだね、鳥の鳴き声。…ぼくの先生、本物の鳥の声なんだ…。
とっても素敵、と思った先生。バードホイッスルの吹き方は鳥が教えてくれる。本物の鳥が。
上手く鳴らせるようになったら、呼べる鳥たち。山や林や、家の庭でも。
前の自分には出来なかったこと。鳥たちを集めて遊ぶこと。
それが出来そう、と嬉しくなった。前の自分とは比較にならない、不器用すぎるサイオンの持ち主の自分でも。思念波もろくに紡げなくても。
バードホイッスルを吹けば、鳥たちが来るのだから。鳥の言葉で呼べるのだから。
「ねえ、ハーレイ…。バードホイッスルで呼べる鳥たち…」
上手に呼べたら、ぼくと遊んでくれるよね?
餌を欲しがる小鳥だったら、餌を用意して待ってれば。…直ぐに他所には行っちゃわないで。
喧嘩しに来る、ウグイスのオスとは違うんだから。
「手や肩に止まってくれるような鳥が、上手く来るかは分からんが…」
野生なんだし、その時の運次第ってトコか。人間を怖がらない鳥が来たなら、遊べるだろう。
ただし、そういう鳥が来たって、怖がらせちまったら駄目だがな。
急に動くとか、いきなりクシャミをしちまうだとか。
「気を付けるってば、鳥をビックリさせないように」
だから練習してもいいでしょ、バードホイッスル?
いつかハーレイのお父さんに習って、自然の中でも一杯練習。…家の庭でも。
やってみたいよ、と頼んだバードホイッスル。いつか大きくなったら、と。
ハーレイと出掛けられるようになったら、ハーレイの父に手ほどきして貰って。基本を覚えて、自然の中で本物の鳥にも教えて貰って。
「いいでしょ、ハーレイ?」
楽しそうだもの、鳥と遊べるなんて。…前のぼくでも出来なかったことが出来るだなんて。
餌を沢山用意して待つよ、虫を食べる鳥のも、パンや果物を食べる鳥たちの分も。
「かまわんが…。俺の留守に庭で練習するなら、猫に注意だぞ」
さっきも言ったろ、あれを吹いたら猫も来るんだ。御馳走が鳴いているんだから。
お前が気付いて追い払わないと、来ている鳥が狙われる。猫にとっては御馳走だからな、どんな鳥でも、捕まえさえすれば。
「そっか…。ぼく一人だと、猫がいたって気付かないかも…」
ハーレイみたいに勘が鋭くないんだもの。それにシールドも張れないし…。
あっ、シールドが張れたとしたって、それじゃ小鳥も入れない…。猫は来ないけど、来て欲しい小鳥の方だって…。
じゃあ、ハーレイが家にいる時以外は、猫がいない所で練習なの?
猫の姿がチラッと見えたら、直ぐに分かるような広い公園の真ん中とかで…?
「そうなっちまうな、小鳥を猫に食われちまいたくなかったら」
猫がいなくて鳥が沢山いる場所だったら、山や林が一番なんだが…。
お前一人じゃ行けやしないし、俺が連れて行ってやらんとな。休みの時に。
だが、その前に…。お前もウグイス、覚えてみないか?
これなら笛は要らないぞ。この部屋でだって練習出来る。
ついでにウグイスがやって来たって、喧嘩しに来るわけだから…。
間違ったって猫に食われはしないな、そうなる前に「なんだ、人間か」と飛んでっちまって。
「えーっと…。ウグイスだったら安心かも…」
喧嘩するのが目的なんだし、猫の心配、要らないね。
それに、バードホイッスルが無くても練習出来るから…。ウグイスの真似…。
今の季節は鳴かないけれど、と吹こうとしたら、「ホー、ホケキョ」と吹けなかった口笛。音が途中で消えてしまって、ハーレイのようにはいかなかった。
「あれ? ウグイス…」
ホーホケキョ、と吹いてみたいのに、「ヒュッ」と鳴るだけの掠れた音。頑張ってみても。
「お前、口笛、下手だったのか…」
今の感じじゃ、まるで吹けそうにないんだが…?
ウグイスが無理なら、ちょっとした曲も吹けないんじゃないのか、口笛では…?
「そうだけど…。ウグイスくらいなら出来るかな、って…」
曲じゃないから、短いし…。息は続くと思ったんだけど…。
「口笛が駄目だということは…。息だけじゃないな、頬の筋肉が弱いんだ」
そのせいで上手く吹けないわけだな、音が途中で消えちまう。
意外だったなあ…。お前、しょっちゅう膨れているから、頬の筋肉、強そうなんだが。
「頬っぺたが弱いって…。そうなの、ぼく?」
だから口笛が上手じゃないわけ、ウグイスの真似も出来ないの…?
「筋肉の問題だと思うがな?」
いいから、プウッと膨れてみろ。いつもやってる、お得意のヤツ。
「ハーレイのケチ!」って時の顔だな、出来るだろ?
「…ぼくがやったら、笑うんでしょ?」
「笑わないから、やってみろ」
いつも通りに、あの顔を。「ハーレイのケチ!」とは言わなくていいから。
膨れっ面は得意だろうが、と促されたから、注文通りに膨れてみせたら、大きな手でペシャンと潰された頬。褐色の手で、両方を。
「うむ。…実に見事なハコフグだな」
前にも言ったが、こうすると似てる。俺の可愛いハコフグだってな、チビのお前は。
「今、笑った…!」
笑わないって言っていたくせに…!
酷いよ、ハーレイ、笑おうと思って潰したんでしょ、ぼくの頬っぺた…!
「そう怒るな。少しくらいは許してくれ。…本当にハコフグなんだから」
可愛いハコフグだと言っているだろ、愛称ってヤツだ。チビのお前にピッタリの。
この頬っぺたを鍛えてやればだ、口笛が吹けるようになる。ウグイスの真似も、曲だって。
そういや、前のお前も口笛は一度も吹かなかったか…。
少なくとも俺は聞いてはいないな、お前、口笛、吹いていたのか?
「…吹いてないと思う。下手だったのかどうかも知らないよ」
吹こうと思わなかったしね。…どうしてなのかな、口笛、吹いても良さそうなのに。
お気に入りだった曲が吹けたら、楽しい気分になれそうなのに…。
前のぼくも口笛、下手だったのかな?
「さてなあ、そいつも俺は知らんぞ。…前のお前から聞いちゃいないし」
鼻歌はたまに歌っていたのに、口笛は無しか…。まるで気付きもしなかった。
しかしだ、ソルジャー・ブルーに口笛ってヤツは似合わんし…。
吹いていなくて正解だったな、今のお前なら練習してても大丈夫そうだが。
「なに、それ…」
前のぼくだと口笛は駄目で、今のぼくだと大丈夫だなんて、どういう意味?
「なあに、簡単なことだってな。前のお前だと、誰もが注目してたから…」
似合いそうにない口笛を吹いて歩いていたなら、エラが叱りに来たかもしれん。威厳が台無しになってしまうから、口笛は直ぐにやめるように、と。
しかし今だと、お前がチビでなくなったとしても、ただのブルーでしかないだろう?
みんなが注目してないってこった、お前が何をしていたってな。
「それはそうかも…」
ソルジャーじゃないから、威厳なんかは要らないね。何をしてても。
前の自分が吹いていたなら、エラに叱られそうな口笛。ソルジャー・ブルーの威厳を損ねると。
けれども、今の自分は違う。チビの今でも育った後にも、ソルジャーではない、ただのブルー。
今度は口笛も吹いていいから、練習したっていいらしいから…。
ハーレイが得意なウグイスの真似から始めてみようか、口笛を吹く練習を。
(頬っぺたの筋肉、鍛えないと吹けないらしいけど…)
口笛の練習を頑張っていたら、頬の筋肉も強くなるだろう。ウグイスの真似も出来るだろう。
そしていつかは鳥寄せの笛、バードホイッスルにも挑戦しよう。
(…ハーレイのお父さんに教えて貰って…)
基本の吹き方をマスターしたなら、自然の中で積む練習。本物の鳥たちを先生にして。どういう声で鳴いているのか、耳を澄ませて、きちんと聴いて。
「口笛もバードホイッスルも練習するから、小鳥、いっぱい呼べるといいね」
ぼくの手から餌を食べてくれるくらいに、好奇心の強い鳥だって。
頭にも肩にも、小鳥、沢山止まってくれるといいな…。
「鳥なあ…。前のお前も遊びたかったと聞いちまうとな…」
シャングリラには鶏だけしか、いなかったせいもあるんだろうな。
お前が欲しがった青い鳥は船じゃ飼えなかったし、余計に惹かれたんだろう。鳥ってヤツに。
そうでなくても、人類もミュウも気にしちゃいない鳥の世界は、大いに魅力的なんだしな。
前のお前の夢だった鳥を山ほど呼ぶか、とハーレイが言ってくれるから。餌も色々用意しようと頼もしい言葉もくれたから。
いつかハーレイと暮らし始めたら、山で、林で小鳥を呼ぼう。色々な鳥を。
最初は口笛で呼べるウグイス、来ても喧嘩が目的だけれど。
綺麗な鳴き声はオスの縄張り争い、その代わり、猫には攫われない。やって来たって、遊ぼうと思っていないから。縄張りを荒らしたオスのウグイス、それと喧嘩をしに来るのだから。
(…ぼくと喧嘩は出来ないんだから、直ぐに行っちゃう…)
鳴き声の主が人間なのだと分かった途端に、飛んで行ってしまう鳥がウグイス。それでも充分、練習は出来る。猫を気にせず、家の庭でも。
口笛でウグイスを真似るのが無理でも、鳥寄せの笛のバードホイッスル。
練習をすれば、きっと上手に吹けるだろう。何種類もの鳥の鳴き声を、その笛で。
「ハーレイ、ぼくがバードホイッスルを吹けるようになったら…」
青い小鳥も来てくれる?
山や林の中で吹いたら、綺麗な青い鳥だって。
「そうだな、オオルリは難しそうだが…」
青い鳥は他にも色々いるから、上手く真似れば来てくれるだろう。
餌も用意しておかんと駄目だな、青い鳥が喜びそうな餌。
でないとお前に恨まれちまう。せっかく青い鳥が来たのに、餌が無いから行っちまった、と。
青い鳥の餌を調べないと、とハーレイも協力してくれる。いつか鳥たちと遊ぶ時には。
前の自分にも出来なかったこと、鳥たちを呼んで遊ぶこと。
それが出来るのが今の自分だから、ハーレイと二人で楽しもう。「こんなに来たよ」と。
山や林でバードホイッスルを吹いて、沢山の鳥を呼び集めて。
地球は凄いねと、青い鳥もいるよ、と。
アルテメシアよりもずっと沢山と、シャングリラには鶏しかいなかったのに、と。
きっと幸せだろうと思う。鳥に囲まれて遊ぶ自分は。
小鳥たちと同じ世界で遊んで、餌をやったり、眺めたり。
満足するまで一緒に過ごした後にも、帰ってゆく先は地球の上。
鳥のいない船に戻ってゆくことはなくて、地球の地面に建っている家。
ハーレイと暮らす家の庭でも、呼んだら鳥は来るのだから。
猫が狙わないよう気を付けていたら、いつでも鳥たちを呼べるのだから…。
鳥たちの言葉・了
※前のブルーにも出来なかったのが、鳥たちを呼んで遊ぶこと。鳥には思念が通じなくて。
今なら、バードホイッスルで鳥を呼べるのです。いつかハーレイと山や林で、沢山の鳥を…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
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(たまには、のんびり食ってみるかな)
よし、とハーレイが選んで籠に入れたチーズ。これにしよう、と。
ブルーの家には寄れなかった日に、帰りに出掛けたいつもの食料品店で。けれど、食べたいのはチーズそのものだけではなくて…。
(これと、これに…)
これも美味い、と次々に籠に入れてゆく食料品。忘れちゃならん、とパンを扱うコーナーにも。欠かせないのがバゲットだから。これを忘れたら始まらない。
(ついでがあるなら、パン屋に行ってもいいんだが…)
朝食用のパンは買ってあるから、この店のものでいいだろう。専門店とは違うけれども、パンは此処でも焼いているから。種類が少ないというだけのことで、味は充分、いいものだから。
バゲットを買って、他にも色々。メインはチーズ。
支払いを済ませて、詰めて貰った袋。それを手にして、足取りも軽く駐車場へと。其処で待っていた愛車に乗り込み、鼻歌交じりに家へと向かう。
今夜はチーズフォンデュを食うぞ、と。一人だけれども、ちょっと豪華に。明日も仕事がある日とはいえ、ワインなんかも開けたりして。
食べたくなったら、その時が一番美味しい時。料理も、それに食材だって。
家に帰ったら、もう早速に始めた準備。チーズフォンデュに使える鍋を取り出して。野菜などは切って茹でてやる。バゲットも丁度いい大きさにカット。
そういった具材を見栄えよく盛ってゆく大皿。一人分でも手抜きはしない。豊かな時間を味わうためには、手間を惜しまないことも大切。
(ブルーの家でも食ったんだがな…)
両親も一緒の夕食の席で、「どうぞ」と出て来たチーズフォンデュ。色々な具材が揃っていた。それを端からフォークに刺しては、ブルーと、両親と食べた夕食。それは賑やかだった食卓。
けれども、一人でのんびりやるのも悪くないもの。チーズを溶かして、ワインをお供に。
実際、前はよくやっていた。気ままな一人暮らしならではのことで、思い付いたら、帰りに店で食材を買って。あれもこれもと、目に付いたものを籠へと入れて。
ブルーの家へと通う習慣が出来る前には、何度やったか分からない。食卓には自分一人でも。
(寒い冬場は、特に美味いが…)
今の季節だって美味いんだ、と整えた支度。これでいいな、とチェックして。
ダイニングのテーブル、その上にチーズフォンデュに使う鍋。漂う美味しそうな匂いと、鍋からフワリと立ち昇る湯気。溶かしたチーズと、それを滑らかに伸ばすために入れた白ワイン。
これに合うのは…、と選んだワインを開けて、グラスに注いでやって…。
(美味い!)
用意した甲斐があったってもんだ、とチーズを絡めたバゲットを噛む。最初はバゲット、それでチーズの味を見るのが楽しいもの。もう少し緩めた方がいいのか、これでいいのかと。
今日のチーズの出来は上々、他の具材もフォークに刺しては絡めてゆく。次はこれだ、と思ったものを。野菜も、バゲットも、ソーセージなども。
一人だからこそ、要らない遠慮。何を選ぼうが、どう食べようが。
ブルーの家で御馳走になった時には、気を遣うこともある食事。チーズフォンデュの時だって。次はあれを、という気分のままには食べられない。用意されている量があるのだから。
ブルーの母が「これだけあれば」と大皿に盛っていた具材。それの減り具合で、どれを選ぶか、考えなくてはいけないから。同じものばかりを取っていたなら、他の誰かの分が減るから。
その点、家では気楽なもの。選んだ具材が偏っていようが、余ろうが。
(俺の好きに食えばいいってな)
好きに飲んで、と頬張ってゆくチーズフォンデュ。次はこいつ、とフォークに刺して、とろけたチーズを絡めてやって。
用意した具材が残ったならば、明日に自分が使うだけ。それを使って作れそうなものは何か、と考えて。野菜だったら、そのように。バゲットが余れば、朝食の時につまんでもいい。
こういう食事もいいもんなんだ、とワインのグラスも傾けていたら…。
頭に浮かんだ小さな恋人。今日は一緒に夕食を食べられなかったブルー。
(あいつと二人きりだったなら…)
きっと気を遣いはしないのだろう。料理がチーズフォンデュでも。
ブルーも自分も好きに選んで、フォークに刺してゆく具材。気の向くままに。
残りのバゲットが一つになっても、お互い、遠慮などしない。食の細いブルーが其処までついて来られるかどうかは、ともかくとして。
(最後の一個になっちまった、と思っても…)
俺のだ、と刺すかもしれないフォーク。早い者勝ちだ、と手を伸ばして。
ブルーが「酷い!」と叫んだとしても、悠々と絡めていそうなチーズ。「お前が悪い」と。
食べたかったのなら、もっと早くに動くものだ、とニヤニヤ笑って。
そうは言っても、相手はチビのブルーだから。苛めたら膨れそうだから。
(俺のフォークで刺したヤツでも…)
欲しがるのならば、きっと譲ってやるのだろう。「俺のフォークで刺しちまったが」と、膨れるブルーに渡してやって。「このままでいいか?」と。
もしもブルーがチビでなくても、そうやって譲ることだろう。「早い者勝ちだ」と取ったって。そういうルールで食べていたって、愛おしさの方が先に立つから。
気を遣うのとは違う所で、想ってしまうブルーのこと。「こいつを優先しないとな?」と。
前の生から愛したブルーは、今でも宝物だから。大切にしてやりたいから。
(いつか、あいつと食いたいもんだな)
昔のように、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せる。白いシャングリラで暮らした頃に。
朝食はいつも二人だったし、たまに夜食も食べていた。青の間で二人、サンドイッチなどを。
あんな風にブルーと食べてみたい、と思うけれども…。
(チーズフォンデュは…)
食っていないな、と簡単に分かる。白い鯨でブルーと二人で食べてはいない。
朝食にチーズフォンデュは出ないし、凝った夜食も食べられはしない。二人きりでは、こういう手間のかかる夜食は無理だから。
もっと手軽に食べられるもので、後の片付けも簡単なもの。夜食はいつも、そういったもの。
厨房から何か運ばせるにしても、仕事の後で、前の自分が「これを頼む」と作って貰って、青の間まで運んでゆく方にしても。
それに…。
モノがこれだ、と見詰めるテーブルのフォンデュ鍋。一人分でも、必要な鍋。
チーズフォンデュは、常にチーズを温めていないと駄目な食べ物。鍋が無ければ温められない、柔らかく溶けているチーズ。
冷めてしまえばチーズは固くなってしまって、塊に戻る。それでは具材に絡みはしないし、鍋で温め続けるもの。一人用だろうが、何人もで食べる時であろうが。
テーブルに置いた鍋と熱源、それが欠かせないのがチーズフォンデュで、美味なのだけれど…。
(あの船にチーズフォンデュってヤツは…)
無かったのだった、白いシャングリラには。チーズフォンデュという料理は。
船にチーズはあったけれども、食堂で皆に供するためには向かない料理。一人分ずつ出すには、かかりすぎる手間と鍋などの食器。とてもメニューに入れられはしない。
大勢で囲むパーティー料理にも、あの船の場合は向いてはいない。なにしろ船には、仲間たちが大勢いたのだから。一つの鍋では済みはしないし、やっぱりかかりすぎる手間。
(厨房のヤツらが、てんてこ舞いで…)
懸命になって用意したって、きっと追い付かないだろう。
船の仲間たちの胃袋を充分、満たせるだけのチーズフォンデュを作ること。チーズを溶かして、具材を揃えて、食事の後には幾つものフォンデュ鍋を洗って。
今の自分が考えてみても、「無理だ」と即答出来ること。とても作れるわけがない、と。
厨房出身のキャプテンでなくても、チーズフォンデュは無かったと分かるシャングリラ。いくらチーズがあったと言っても、皆の分を作れはしないから。
(前の俺は、食っていないんだよな…)
こういう洒落たチーズ料理は、とフォークで口に運んだバゲット。熱いチーズと中のバゲット、それが奏でるハーモニー。ただのチーズとバゲットだけでは出せない味わい。
今ならではだ、とモグモグと噛んでいたのだけれど。次の具材はどれにしようかと、フォークを握って皿の上を眺めていたのだけれど…。
(待てよ?)
チーズフォンデュ、と聞いた気がする。この料理の名を、遠い昔に。
前の自分が生きていた船で、今はもう無いシャングリラで。
(…チーズフォンデュだと?)
存在した筈が無い料理。あの船では皆に出せない料理。
けれども、確かに「チーズフォンデュ」と耳にした記憶。それも料理の名前として。
(誰だ…?)
チーズフォンデュの名を口にした仲間。誰が自分に言ったのだろう?
船には無かった料理なのだし、ヒルマンだろうか、それともエラか。博識だったあの二人なら、調べて知っていそうではある。
チーズがあったら、こういう料理が作れると。…自分では食べたことが無くても。
いったい何処で聞いたのだろう、と首を捻ったチーズフォンデュという料理。シャングリラでは無理だと分かる料理は、何処から出て来たのだろう、と。
(あそこじゃ作れもしない料理を…)
持ち出したのは誰なのか。どうしてそういう話になるのか、チーズフォンデュは作れないのに。食堂のメニューを決める会議があったとしたって、議題にするだけ無駄なのに。
(…会議?)
それだ、と戻って来た記憶。あれは会議で聞いたのだった、と。
シャングリラを白い鯨に改造した後、開かれた何かの会議の席。長老の四人と、前のブルーと、前の自分の六人が集まるのが常だった。
自給自足の生活が軌道に乗って、乳製品が順調に出来ていた頃。ブルーとも、とうに恋人同士になっていたから、白い鯨は平穏な日々を送っていたのだろう。アルテメシアの雲海の中で。
その日の議題を検討した後も、そのまま残って続いた会話。昔馴染みの六人だから。あれこれと話をしている内に…。
「チーズは充分あるのだがね」と言ったヒルマン。切っ掛けが何かは覚えていない。農場の話を交わしていたのか、それとも食べ物の話題だったか。
どちらにしても、ヒルマンの言葉だけを聞いたら、チーズに関する何かが気がかりらしいから。
「チーズだと?」
何か問題でもあるのだろうか、と尋ねた自分。たとえ些細なことにしたって、キャプテンとして聞いておかねばならない。
チーズは充分あるというのに、何か起こっているのなら。満足のいく品質になっていないとか、味にバラつきがあるだとか。
そういうことなら、手を打つようにと促すのもまた、キャプテンの仕事。チーズ作りの責任者を呼んで、「なんとか出来ないものだろうか」と。
これはキャプテンの出番だろうな、とヒルマンの答えを待ったのに。それ次第では、ブリッジに真っ直ぐ戻る代わりに、乳製品の製造場所へ出向いて行かなければ、と考えたのに。
「そういうことではなくてだね…。チーズ自体には、何の問題も無いのだが…」
このシャングリラでは、出来ない料理もあるという話なんだよ、チーズがあっても。
チーズは充分、足りているとは思うんだがねえ…。
残念だよ、とヒルマンが髭を引っ張るものだから。
「なんだって…?」
シャングリラでは作れないチーズ料理があるのか、その言い方だと…?
確かめなければ、と思ったヒルマンの言葉。チーズはあっても、出来ない料理があるのなら。
せっかく作ったミュウの箱舟、改造を済ませたシャングリラ。
自給自足で生きてゆく日々は順調なのだし、不自由があるなら改善するのも必要なこと。材料のチーズが足りていたって、作れない料理があってはならない。
元は厨房の出身だけに、調理方法の問題だろうか、と考えた。相手はチーズ料理だから。
今の厨房では無理だと言うなら、改装を検討すべきだろう。それを作れるだけの設備を備えた、使い勝手のいい厨房に。もっと広さが要るのだったら、拡張だって。
白い鯨は進化してこそ、より良い船に出来るのだから。
現状に不満を抱いているより、解決して先へ進んでこそ。
それが自分の信条だったし、厨房の改装などは次の会議の議題だろうな、と思ったほど。
此処で話題になった以上は、きちんと対処しなくては、と。
そうしたら…。
「作れないことはないのだがね」と、ヒルマンが軽く広げた両手。今の厨房でも充分だ、と。
「調理方法としては可能なのだよ、問題は無いと言ってもいい」
チーズと同じだ、厨房の方にも問題は何も無いのだが…。今すぐにで作れそうだが…。
問題があるのは料理の方だね、食堂で出すには不向きなのだよ。
不味いとは思えないのだが…。むしろ、歓迎されそうだとも思うのだがねえ…。
しかし無理だ、とヒルマンは最初から諦めているようだから。試しもしないで、無理だと決めてかかっているから、余計に気になったチーズの料理。それはいったい何なのだろう、と。
だからヒルマンにぶつけた疑問。真正面から。
「何なのだ、それは?」
歓迎されそうだと思っているなら、どうして試してみないんだ。厨房の者に訊いてみるとか…。
何もしないで諦めるというのは、この船らしくないと思うが…?
どういう料理が無理だと言うんだ、チーズを使った料理と言っても色々だろうが…。
「チーズフォンデュだよ、知っているかね?」
料理の本とは違う本でも、割によく見る名前だがね。
「あれか…。本で見掛けたことならあるな」
作り方も、と名前だけでピンと来た料理。鍋で溶かしてやったチーズに、野菜やバゲットなどの具材を絡めて食べるもの。
美味しそうだ、と読んだのだった。レシピも、添えてあった写真も、鮮明に記憶に残っている。
チーズを船で作れる今なら、あの料理だって作れるだろう。
ただ…。
なるほどな、と頷かざるを得なかった。チーズフォンデュの材料はあるし、チーズを溶かすのも厨房で出来る。けれど其処まで、食堂で皆が揃って食べるには不向き。
「…この船の皆で、鍋を囲むわけにはいかないか…。専用の鍋が幾つ要るやら…」
それに食事の時間の方も、それぞれの持ち場で違うものだし…。
時間に遅れた、と駆け込んで行ったら、食べるものがろくに残っていない恐れも出て来るな…。
「そうなのです。一人用に作ることも出来るようなのですが…」
全員の分の鍋を用意する手間や、片付けなどを思うと非効率的です、と応じたエラ。
「残念ですが、チーズフォンデュは諦めざるを得ないでしょう」と。
美味しそうな料理なのですが…、とエラも言うから、ゼルとブラウも興味を示した。今の船では出来ないらしいチーズフォンデュとは、どんな料理かと。
前のブルーも黙って聞いてはいたのだけれども、瞳を見れば直ぐに分かった。「無理だ」という答えを知ったがゆえの沈黙なのだ、と。関心が無いわけではないと。
ヒルマンとエラが、ゼルとブラウに訊かれるままに語った料理。チーズフォンデュの作り方。
熱を加えれば、とろけるタイプのチーズを使う料理だと。
それをすりおろすか、細かく刻んで、専用の鍋に入れてやる。熱しながら溶かして、白ワインで伸ばして、具材に絡めるのに似合いの濃度に。
そうやって出来たチーズを絡めて、食べやすいサイズに切られた具材を食べるもの。バゲットや茹でた野菜などを。
鍋のチーズが濃くなりすぎたら、白ワインを足して緩めてやって。
チーズフォンデュはこういうものだ、と説明されたゼルとブラウが漏らした溜息。残念だ、と。
「もったいないねえ、材料は揃っているのにさ」
とろけるチーズは山ほどあるだろ、グラタンとかに使っているんだから。
あれを溶かせば出来ると分かっているのにねえ…、とブラウが嘆けば、ゼルだって。
「まったくじゃて。それに具材もあるのにのう…」
バゲットも、野菜やソーセージもじゃ。どれも、この船で手に入るんじゃが…。
そうじゃ、ワシらだけで食うのはどうじゃ?
会議で集まっている時じゃったら、たまに食事もするんじゃし…。
この部屋で食えば良かろうが、と言い出したゼル。六人分なら手間も材料も、それほどの負担はかからない。厨房の者に頼んで用意をさせるとしても。
「ちょいとお待ちよ、船の仲間に、それで示しがつくのかい?」
あたしだって食べたいと思うけれどさ…。あたしたちだけで食べるなんて、とブラウは反対。
ヒルマンとエラも反対したから、ゼルは新たな意見を述べた。諦め切れずに。
「なら、ソルジャーのための特別料理というのは無理かのう?」
会議の時の食事なんじゃが、ソルジャー用なら誰も文句は言わんじゃろう。
特別な料理が用意されることは、実際、たまにあるんじゃからな。
「それだと食事会になっちまうじゃないか、招待状が無いってだけでさ」
ソルジャー主催の食事会だろ、特別な料理が出るってヤツは。
でもねえ…。誰がそいつを食べていたのか、厨房の連中には分かっちまうよ?
あたしたちだけで食べたってことが。…食事会とは違うことがね。
さっきの意見とどう違うのさ、と指摘したブラウ。「それはマズイよ」と。
「やはり駄目かのう…」
ソルジャー用の特別料理と言うんじゃったら、チーズフォンデュも通りそうじゃが…。
ワシらだけで食うのはマズイじゃろうなあ、皆に示しがつかんからのう…。
美味そうな料理なんじゃがな、とゼルは残念そうだった。六人だけで食べるというのは、やはり後ろめたいものがあるから。諦めざるを得ない料理が、チーズフォンデュというものだから。
「酒のつまみにチーズがあるだけマシとするか」というゼルの言葉で終わった会議。
チーズは色々役立っているし、贅沢を言っては駄目じゃろうな、と。
その夜、青の間に出掛けて行ったら、待っていたブルーに尋ねられた。キャプテンとしての報告などを済ませた後で、「今日の会議のことだけれど…」と。
「会議が済んだら、チーズフォンデュが話題になっていただろう?」
君も知っていたようだけど…。あれは本当に、作るのが難しいのかい?
チーズを溶かす鍋が沢山要るというのは、ぼくにも分かったんだけど…。美味しそうなんだし、船でなんとか出来ないのかな、と思ってね。
「そうですね…。会議の時にもヒルマンたちが言っていましたが…」
色々と手間がかかりそうです、チーズフォンデュという料理は。
もっと人数の少ない船なら、皆で食べても、厨房の者たちの負担は軽いのですが…。
なにしろ大人数の船です、現状では無理がありすぎます。…材料だけでは作れませんよ。
皆には諦めて貰うしか…、と昼間の会議の結論と同じことをブルーに言ったのだけれど。
「それなら、いつか地球に着いたら食べようか」
この船では無理な料理だったら、いつか地球でね。
「地球ですか?」
チーズフォンデュをお召し上がりになりたいのですか、地球に着いたら?
「いい考えだと思うけれどね?」
地球だったら、きっと美味しいチーズもあるよ。地球で育った牛のミルクで作ったチーズが。
「そうなのでしょうね、地球ですから…」
この船で作るチーズなどより、ずっと美味しいことでしょう。
せっかくのチーズフォンデュなのです、いつか本物の地球のチーズで食べてみましょうか。
時間もたっぷりあるでしょうから、鍋でゆっくりチーズを溶かして。
「地球なら、きっと店もあるよね」
チーズフォンデュが食べられる店が。…其処へ行ったら、誰にも迷惑はかからないよ?
厨房の仲間たちにもね。
「店ですか…。確かに地球なら、そういう店もありそうですね」
それでは、いつか地球まで辿り着いたら、二人で行くとしましょうか。
本物の地球のチーズを使った、美味しいチーズフォンデュを食べに。
地球に着いたら、と前のブルーと交わした約束。シャングリラが地球に着いたなら、と。
白いシャングリラが地球に着くには、人類と和解せねばならない。けれども、それさえ済ませてしまえば、ソルジャーもキャプテンも要らなくなる。ミュウは追われはしないのだから。
ソルジャーでもキャプテンでもなくなった後は、ブルーとはただの恋人同士。
隠し続けた仲を明かして、何処へでも二人で出掛けてゆける。ブルーが焦がれた地球の上で。
青い地球まで辿り着いたら、ブルーと一緒にやろうと夢見ていたことの一つ。
シャングリラでは作ることが出来ない、チーズフォンデュを食べに出掛けてゆくこと。
(…あれっきりになっちまったんだ…)
前のブルーも「美味しそうだ」と思ったらしいチーズの料理。本当に船では無理なのか、と。
あれから後にも、白い鯨でチーズフォンデュは作られないまま。材料になるチーズはあっても、食堂で皆に出せる料理ではなかったから。大人数の船の食堂向きではなかったから。
そしてブルーは逝ってしまった。たった一人で、メギドを沈めて。
(…この味なんだな…)
前の俺もブルーも知らなかった、と眺めた目の前のフォンデュ鍋。温かくとろけているチーズ。一人で美味しく食べていたけれど、前の自分たちは知らなかった味。
材料は船に揃っていたのに、食べ損ねたままになっちまった、とチーズを絡めてやるバゲット。今の自分も、今のブルーも知っている。チーズフォンデュはどんな料理か、どんな味かを。
(あいつと二人で…)
小さなブルーと二人きりで食べてみたいけれども、実現は難しいだろう。
ブルーの家では、チーズフォンデュは夕食用の料理だから。両親も一緒に鍋を囲んで、賑やかに食べるものだから。
(しかし、こうして思い出したし…)
今度ブルーの家に行ったら、小さなブルーに話してみようか。「覚えてるか?」と。
それまで自分が覚えていたら。
前のブルーと交わした約束、地球で食べようと夢見たチーズフォンデュのことを。
運良く次の日、早く終わった学校での仕事。チーズフォンデュも、まだ忘れてはいなかった。
丁度いいから、ブルーの家に出掛けて行って、テーブルを挟んで座る恋人にぶつけた質問。
「チーズフォンデュを覚えているか?」
「この前、ハーレイと食べたよね。パパとママも一緒だったけど」
美味しかったよ、あのチーズフォンデュがどうかしたの?
「そうじゃなくてだ…。今の俺たちの話じゃない」
前の俺たちだ、覚えていないか?
「えっ?」
チーズフォンデュって、何のことなの?
そんなの、シャングリラで食べていないと思うけど…。それとも、あった?
「お前の記憶で合っている。…あの船じゃ無理な料理だったな、チーズフォンデュは」
材料は船に揃ってたんだが、船の人数が多すぎた。全員に出せるチーズフォンデュは作れない。
だから、お互い、知ってはいたって、食い損なった料理だってな。
ヒルマンが持ち出した話だったが、最初から「無理だ」ってことだったから。
それでだ、前のお前と約束をして…。例のヤツだな、地球に着いたら、と。
「思い出した…!」
そうだったっけ、いつかハーレイと地球に着いたら…。
シャングリラで地球まで辿り着いたら、チーズフォンデュを食べに行こうって…。
本物の地球のチーズで作った、うんと美味しいチーズフォンデュがあるだろうから。
船の仲間に迷惑をかけてしまわないように、お店に出掛けて食べようね、って…。
忘れちゃってた、と丸くなっているブルーの瞳。
せっかく二人で地球に来たのに、ハーレイと食べたのに忘れていたよ、と。
「…パパとママも一緒だったけど…。本物の地球のチーズフォンデュ…」
食べていたのに、すっかり忘れていたなんて…。
どうしよう、ハーレイと食べたくなって来ちゃった…。今度は二人でチーズフォンデュを。
「俺もなんだが、我儘は言えん」
昨夜、一人で食ってて思い出したんだが…。こいつだった、と。
だがなあ、お前の家だと、チーズフォンデュは夕食の時に出るモンだしな?
「そうだけど…。頼んでみようよ、チーズフォンデュを」
「はあ? 頼むって…」
誰にだ、お前、どうする気だ?
「決まってるじゃない、ママに頼むんだよ」
晩御飯の時に頼んでみるよ。今度、ハーレイと食べたいから、って。
「おい、お前…!」
我儘が過ぎるぞ、俺と二人で食うってか?
お母さんに用意をさせるつもりか、昼飯用にチーズフォンデュを…?
無茶を言うな、と止めたのに。「そいつはチビの我儘だぞ」と軽く叱っておいたのに。
両親も一緒の夕食の席で、小さなブルーはこう持ち出した。
恋人同士だったという話は隠して、「シャングリラで食べ損なった料理がね…」と。
「本当なんだよ、ぼくもハーレイも、食べ損ねたままになっちゃった…」
料理の名前は知っていたのに、シャングリラでは作れなかったから…。
「あら、なあに?」
材料が足りなかったのかしら、と首を傾げたブルーの母。「何のお料理?」と。
「チーズフォンデュ…。材料は船にあったんだけど…」
手間がかかりすぎて、みんなの分はとても作れないから…。お鍋も沢山要りそうでしょ?
ヒルマンたちと会議をしてたら、そういう話になっちゃって…。無理だよね、って。
だけど、とっても美味しそうだし、前のハーレイと食べる約束をしていたんだよ。
いつかシャングリラが地球に着いたら、本物の地球のチーズで作ったのを食べようね、って。
船の仲間に迷惑をかけちゃ駄目だし、お店に行って。
「ほほう…。そいつを思い出したんだな?」
お前もハーレイ先生も、とブルーの父が投げ掛けた問い。「うん」と頷く小さなブルー。
「チーズフォンデュ、ハーレイと食べてみたいのに…」
うちだと晩御飯の時に出て来るから…。ハーレイと二人は無理みたい…。
「なるほどなあ…。前のお前とハーレイ先生の夢だったんだな、チーズフォンデュが」
どうだろう、ママ。今度の土曜日のお昼御飯に、チーズフォンデュをお出しするのは?
「そうね、お昼ならハーレイ先生とブルーだけだし…」
ブルーと食べて頂きましょうよ。ハーレイ先生とブルーの約束のお料理、ブルーの部屋で。
「いいの、ママ?」
本当にいいの、チーズフォンデュを作ってくれるの?
「もちろんよ。お店の味にも負けないのをね」
楽しみに待っていなさいな。今度の土曜日、お昼御飯はチーズフォンデュよ。
ブルーのお部屋に運んであげるわ、という声で決まった、土曜日の昼食。チーズフォンデュを、二階のブルーの部屋で二人で。
その部屋で食後のお茶を飲みながら、呆れ顔で見詰めてしまった恋人。「大した策士だ」と。
「ああいう風に持って行くとはなあ…。食べ損なった、と来たもんだ」
俺とお前と、二人揃って、シャングリラで。
おまけに、いつか地球で食おうと約束してたと言われたら…。
お父さんたちだって、用意しようと思うよな。この家で作れる料理だったら。
「ぼく、上手いでしょ?」
ずっとパパたちと暮らしているもの、おねだり、とっても上手なんだよ。
どういう風にお願いするのが一番いいのか、考えるのだって得意なんだから。
小さい頃から、一杯、お願いしてたしね?
駄目な時は「駄目」って言われちゃうけど、前のぼくたちの約束だったら大丈夫。
だから土曜日はチーズフォンデュだよ、本物の地球のチーズをたっぷり使って。
「うーむ…。俺はお前に感謝しないと駄目なんだろうな」
こんな形で実現するとは思わなかった。
昨夜、一人で食ってた時には、お前と一緒に食えるチャンスは当分無いと…。
ずっと先だと思っていたのに、そうか、今度の土曜日なんだな、俺たちの約束が叶うのは。
何でも言ってみるもんだな、と感心させられたブルーの機転。チビでも、中身はブルーだと。
もっとも、ブルーが子供だからこそ、ブルーの両親は息子に甘いのだけれど。
それでも凄い、と思う間に、やって来た週末。約束の土曜日。
いつものようにブルーの家を訪ねて行ったら、昼食に出て来たチーズフォンデュ。ブルーの母が支度を整えてくれて、二人で過ごす部屋のテーブルに。
「ね、ハーレイ。約束の地球のチーズフォンデュだよ?」
食べようよ、お店じゃないけれど…。ぼくの部屋だけど、それだって素敵。
そんなの、思っていなかったもの。地球の上に、ぼくのための部屋があるなんて。
「まったくだ。…それに約束、叶っちまったな、凄い速さで」
お前のお蔭で、アッと言う間に。…こいつが地球のチーズフォンデュか、本物のな。
「そうだよ、二人で地球まで来られたんだから、食べなくちゃ」
どれにしようかな、一番最初は…。バゲットかな?
「お前の好きに選んでいいぞ。ドッサリ用意をして貰ったしな、こいつの具材」
俺も遠慮しないで食っていくから、お前も好きなの、端から選べよ?
「好き嫌いは無いから、どれも好きだよ。チーズだって、とても美味しいし…」
ホントに本物の地球のチーズで、ハーレイと一緒に食べられるんだし、最高の気分。
でもね…。約束していた頃と違って、ぼくは子供になっちゃったから…。
ハーレイとお店に出掛ける代わりに、此処で食べるしかないみたい…。
「まあなあ…。今は一緒に食うってことしか出来ないよな」
お前をデートに連れても行けんし、こうして二人で食ってるだけか…。チーズフォンデュも。
「でしょ? だから、いつかはハーレイが作ったのを食べたいよ」
ママじゃなくって、ハーレイの。…この前、一人で作っていたのを二人分で。
「そのくらい、お安い御用だってな。それに、食べにも出掛けないと…」
「チーズフォンデュが食べられるお店?」
「ただの店じゃないぞ、こいつの本場に行こうじゃないか」
スイスの辺りになるんだろうなあ、昔のスイスとは違うわけだが…。今でも気候はそっくりだ。
美味いチーズが沢山出来るし、チーズフォンデュも美味いらしいぞ。
「凄くいいかも…」
絶対行こうね、其処のお店も。…いつかハーレイと結婚したら。
うんと楽しみにしているからね、と笑顔のブルー。
フォークを手にした、今日の昼食のチーズフォンデュの立役者。「えっと、次は…」と、具材も気になるらしい恋人、どれを食べようか迷っているのが可愛らしい。
バゲットか野菜か、ソーセージか。野菜も幾つも盛られているから、どれにしようかと。
いつかブルーが前と同じに育った時には、今度こそ本当に二人きり。
ブルーと暮らす家で腕を奮おう、とびきり美味しいチーズフォンデュを食べるために。
美味しいと評判のチーズを買って来て、すりおろして。上等の白ワインを惜しみなく使って。
(こいつはアルコールが飛んじまうから、ブルーも平気で食べられるしな?)
現に今でも酔っ払っていない、小さなブルー。「美味しいね」と、せっせと食べているのに。
この愛おしい人と一緒に暮らし始めたら、「地球で食べにゆく」という約束も叶えてやろう。
白いシャングリラには無かった料理を、チーズフォンデュを、ブルーと二人で食べにゆく。
本場に出掛けて、洒落たシャレーに泊まったりして、綺麗な景色を満喫して。
チーズフォンデュを食べた後には、お土産にチーズも買って帰って、家でも楽しむ。
旅の思い出をブルーと一緒に、本場のチーズをすりおろしながら、語り合って。
「この味だよな」と、「チーズフォンデュはこうでなくちゃな」と。
今度は二人で、地球の上で旅が出来るから。旅の後には、二人で帰れる家もあるから。
前の自分たちが夢に見た地球、その上で二人、幸せに生きてゆけるのだから…。
チーズの料理・了
※シャングリラでは無理だった、チーズフォンデュ。いつか地球で、と夢見た料理の一つ。
ブルーのおねだりで、ハーレイと食べることが叶った休日。結婚したらハーレイが作る約束。
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(あっ…!)
ブルーが思わず目を瞑った突風。いきなり吹き抜けていった風。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中で。何の前触れもなく、身体の周りを凄い速さで。
ザアッと響いた、木々の葉っぱが風に靡く音。揃って同じ方向へ。耳の直ぐ側を通った風と、風の音。一瞬の内に。
顔に、身体に吹き付けた風は、アッと言う間に去ってしまったようだから…。
(ビックリした…)
行っちゃったかな、と開いた瞳。パチクリと何度か繰り返した瞬き。もう平気かな、と。
いつもより風があるとは思ったけれども、予想もしていなかった突風。空を見上げたら、真っ青なのに。天気が変わるわけでもないのに。
雲の流れは少し速いだろうか、空の上だと風はもっと強くて速いものだから。前の自分が飛んでいた空、アルテメシアの空の上でもそうだったから。
晴れていたって、こういう急な風が吹く日も、たまにある。風は気まぐれだし、青い地球だって気分は色々。突風で人を驚かせるとか、突然に雨を降らせるだとか。
(埃、目に入らなくって良かった…)
風が巻き上げる、とても細かな埃や砂。目を瞑るのが少し遅れていたなら、入ったかもしれない小さな異物。目玉を苛める、青い地球の欠片。
地球は丸ごと好きだけれども、目の中にまでは欲しくない欠片。痛いし、それに涙だって出る。涙で上手く流れなかったら、痛いだけでは済まなくて…。
ぼくの目、真っ赤になっちゃうんだから、と竦めた肩。目の中に入った地球の欠片は、コロコロ転がって目を赤くする。白い部分に細い血管を浮き上がらせて。
ただでも赤い瞳なのだし、白目まで赤くなってしまってはたまらない。
(見た人、みんなビックリだよ)
丸ごと赤い瞳なんて、とパチパチ瞬きをしておいた。念のために、と。
瞬きをすれば、もしも埃が入っていたって、早い間に流れて何処かへ行くだろうから。
もう突風は大丈夫かな、と歩き始めた家までの道。風はやっぱり普段より強い。さっきのような風には気を付けなくちゃ、と思いながらもキョロキョロしながら歩いていたら…。
(お花…)
ふと目に留まった、道端の家。生垣の向こう、花壇に幾つも咲いている花。種類は様々、それに色だって。今の季節に咲く花たちを揃えて植えてある花壇。
綺麗だよね、と眺めたけれども、その花たち。柔らかそうな花びらなのに、どの花も吹いている風に揺れているものだから…。
(破れちゃわない?)
薄い花びら、と心配になった。茎ごと揺れる花と花びら、どれも繊細そうだから。手で触ったら傷みそうなほどで、まるで蝶たちの翅のよう。
もしも突風に襲われたならば、裂けて破れてしまいそう。まだ破れてはいないけれども、次のが来たら無事に済むとは思えない。
(…もう吹かないといいんだけれど…)
あんな風は、と見守る間に、聞こえたゴオッという響き。顔を上げたら、庭の向こうから木々を揺らして吹いて来る風。花たちに襲い掛かるかのように。
(破れちゃう…!)
お花、と思わず目を瞑りそうになったのだけれど。
風が花壇を抜けてゆくから、「もう駄目だ」と心で悲鳴を上げたのだけれど。
(あれ…?)
なんともないよ、と見詰めた花壇。乱暴な風が行ってしまった後で。
風と一緒に靡いた花たち、折れてしまいそうに見えた細い茎。風が過ぎたら元に戻った。風など吹きもしなかったように、シャンと真っ直ぐ。
それに破れていない花びら。薄くて風で裂けそうなのに、どの花もまるで傷んではいない。茎も一つも折れていなくて、怪我をしていない花壇の花たち。
(…弱そうなのに…)
ほんの少しの風で破れてしまいそうなのに、頑丈だった幾つもの花。風に襲われても、どの花も元気に咲いているから…。
なんだか凄い、と感心した。ぼくよりもずっと強いみたい、と。
風が巻き上げた地球の欠片が目に入ったら、大変なのが自分だから。白目は真っ赤で、目だって痛くて涙がポロポロ零れるのだから。
そんな自分より、花たちの方がよっぽど強い。見た目はとても弱そうなのに。
これならばきっと、もっと強い風が吹いてきたって、花びらが破れはしないのだろう。花びらを支える茎も傷んでしまいはしなくて、今みたいに元に戻るのだろう。
頼りなく見えても、丈夫な花たち。花びらも茎も、チビの自分より、ずっと頑丈らしいから…。
(これからも、元気で頑張ってね?)
風に負けずに綺麗に咲いてね、と生垣越しに手を振った。
見かけと違って、強くて丈夫な花たちに。思いがけない逞しさを見せた花びらや茎に。
家に帰って、制服を脱いで、おやつの時間。一階のダイニングに下りて行って。
おやつのケーキと紅茶が置かれたテーブルの上には、母が生けた花。庭で咲いた花たちに、緑の葉たちを幾つか添えて。さっきの花壇で見掛けた花も混じっているから…。
(この花も、うんと頑丈だよね?)
それに他のも、此処には無い庭の花たちも。強い風でも破れない花びら、折れない茎。
きっと元から丈夫な花たち、そんな気がする。花たちの種類のせいではなくて。同じ種類でも、弱い花なら、種の間に駄目になるのだろう。
蒔いてやっても、芽を出さないとか。芽が出たとしても、育たないとか。
(…自然の中だと、勝手に駄目になっちゃうし…)
花壇の花なら、手入れする人が「これは弱いから」と抜いたりもする。混み合っていたら、他の花たちの邪魔になるから。弱い花のせいで、強い花まで駄目になるから。
そういった風に丈夫な株が残って、雨や風にも鍛えられて…。
(グンと丈夫になるんだよね?)
ひ弱そうに見えても、風で破れない強い花びらを持つ花に。倒れない茎を持っている花に。
だから突風でも大丈夫。頑丈に育った花たちなのだし、そう簡単には負けないから。
それを思うと、人間だって同じだろう。持って生まれた身体の他にも…。
(日頃のトレーニングが大切…)
きっとそうだよ、と頬張ったケーキ。人間だって花と同じ、と。
ハーレイを見ていれば良く分かる。前のハーレイは「身体がなまっちまうしな?」と言っては、せっせと走っていた。まだシャングリラの名前も無かった頃から、船の中を。
今のハーレイも子供の頃から鍛えているから、前よりも遥かに強い身体を持っている。プロ級の腕を誇る柔道と水泳が、その証拠。鍛えたからこそ、プロの選手にも負けない身体。
それに比べてチビの自分は、今度も前と同じに弱い。ほんの少しの運動でさえも、身体が悲鳴を上げるくらいに。体育の授業は見学の方が多いくらいに。
(ぼくだって、ちゃんと運動したなら、今より丈夫になれそうだけど…)
そういう気持ちがしてくるけれども、何回となくそれで失敗したから、もう懲りた。ハーレイのようには強くなれない。今になってから頑張ってみても、身体を壊してしまうだけ。
弱い身体は、丈夫な友人たちの動きについていけないから。加減を掴めもしないから。
もっと小さな頃から鍛えておいたなら、と思うけれども…。
(そうしていたなら、今よりマシかも…)
日々の積み重ねだもんね、と風にも負けない花たちを思う。種の頃から頑張った結果、と。
だから自分も幼い頃から頑張っていれば、丈夫になっていたかもしれない。今よりも、ずっと。
けれど、手遅れ。
鍛えようとしないで大きくなったら、弱い自分が出来上がったから。
基礎になる身体が全く出来ていないのに、運動しようという方が無理。…今頃になって。
仕方ないよね、と溜息をついて戻った部屋。座った勉強机の前。
頬杖をついて、花たちのことを考える。あんなに強い風が吹いても、破れなかった薄い花びら。元が丈夫に出来ているから、傷つきさえもしなかった。花びらも、茎も。
花たちの強さは、種の頃から培ったもの。芽が出た時には弱かった株が強く育つことも、自然の中ならありそうなこと。「これは弱い」と、他の株のために人間が抜いてしまわなければ。
(…勝手に生えて来たんだったら、混んでない場所もあるだろうしね…)
運良くそういう場所に生えたら、弱い株でも頑張り次第。雨や風に負けずに力をつければ、強い株にもなれるだろう。頑丈な茎をシャンと伸ばして、繊細そうでも丈夫な花を咲かせて。
(花だって、強くなれるのに…)
今の自分は丈夫な身体になれそうもないし、あの花たちのようにはいかない。弱く育ったから、風が吹いたら破れてしまう花びらの花。折れて倒れてしまう茎。
ぼくはホントに弱い花だ、と零れる溜息。見た目通りに弱くて駄目、と。
何処から見たって、丈夫そうには見えない自分。細っこくてチビで、おまけにアルビノ。色素を持たない真っ白な肌は、弱そうな印象を強くするだけ。
(おんなじように弱く見えても…)
本当は丈夫な花だったならば、きっと素敵に生きられたのに。
今よりもグンと大きく広がる可能性。自分が丈夫に育っていたなら、強い身体を作っていたら。
小さい頃から鍛えて丈夫だったなら、と描いた夢。同じチビでも違う筈だよ、と。
もしも鍛えた身体だったら、一番最初にやりたいことは…。
(柔道部に入って…)
ハーレイと一緒に過ごせる時間を増やすこと。柔道部に入れば、ハーレイが教えてくれるから。
柔道の経験が全く無くても、入れるクラブが柔道部。今の学校から始めた生徒も多い柔道。
(…ハーレイと出会ってからだって…)
きっと入部は出来る筈。五月三日に再会したから、時期としてはまだ早い方。直ぐに「入る」と言ったなら。入部手続きを頼んだならば。
(初めて柔道をやる生徒とだったら…)
一ヶ月も差は開いていないし、充分についていけるだろう。後から入った自分でも。
柔道部に入れば、ハーレイと一緒に朝から練習。走り込みとか、体育館での練習だとか。授業が終わって放課後になれば、本格的な練習の時間。ハーレイの指導で汗を流して。
それが済んだら、ハーレイの車に乗せて貰って家まで帰る。同じ時間までクラブなのだし、後に会議などの仕事が無い日だったら、ハーレイは家に来てくれるのだから。
(今だと、ぼくは家で待つしかないけれど…)
柔道部員になっていたなら、ハーレイと一緒の帰り道。車の助手席にチョコンと座って、家まで二人で話しながら。
家に着いても、ガレージから二階の自分の部屋までハーレイと一緒。
母が門扉を開ける代わりに、「ちょっと待ってね」と自分が開けて。「入って」と、ハーレイを庭に招き入れて。
「ただいま」と家に入って行ったら、ハーレイも後から入ってくる。二人一緒に階段を上って、部屋に入る時もハーレイと二人。
(…制服を着替えてる間だけ…)
外に出て貰うことになるのか、気にせずにエイッと着替えるか。それはハーレイ次第だろう。
「俺は出ていた方がいいよな」と行ってしまうか、「早くしろよ?」と椅子に座っているか。
(…そのまま部屋にいるかもね?)
柔道部の練習は柔道着。それに着替えるなら、ハーレイも同じ更衣室かもしれないから。
いつも着替えを見ているのならば、いくら恋人同士でも…。
気にしないよね、と浮かんだ笑み。チビが着替えているだけなのだし、問題無し、と。
ホントに素敵、と夢は広がる。ハーレイと一緒にクラブ活動、家に帰る時は乗せて貰える車。
今の自分には出来ないことが、簡単に出来る柔道部。…入ることさえ出来たなら。
(お昼御飯も…)
柔道部員たちがやっているように、たまには食堂でハーレイを囲んで昼御飯。ワイワイ賑やかな彼らの姿を、いつも羨ましく見ているけれど…。
(ぼくだって、あれの仲間入り…)
大盛りランチをペロリと平らげ、放課後の部活に備えるのだろう。前に食堂で頼んだけれども、自分には多すぎた大盛りランチ。…ハーレイに食べて貰ったランチ。
けれど柔道部にいる自分だったら、きっと綺麗に食べられる。ランチだけでなくて、授業の間の休み時間にもお弁当。運動部の生徒たちは、そうしているから。
(お弁当、買いに行かなくちゃ…)
家から持って来たお弁当では、短い時間に食べられない。だからパンとか、おにぎりだとか。
ハーレイだって、そういうものを買って来ている。昼食の他にも、何処かの店で。
(学校に行く途中で買えばいいんだよね?)
それが一番、という気がする。
柔道部に入るほど元気なのだし、バスには乗らずに歩いて通学。きっと走って行ったりもする。別に遅れたわけでもないのに、それこそ元気一杯に。走り込みの前から自主練習。
そうやって学校まで出掛ける途中で、その日の気分で買うお弁当。パンやおにぎり、道の途中にある店に入って。
お弁当を買ったら、学校に向かって真っ直ぐ走ってゆくのだけれど…。
(スピードウィルなんか要らないよ)
ジョミーが学校へ急いで行こうと、履いて走っていた靴なんか。裏に車輪がついた靴。
そんな靴など履かなくっても、丈夫だったら、サムみたいに走っていけばいい。体力自慢だったサムはジョミーに追い付いたから。
あれと同じに、みんな追い越して、ぐんぐんと。二本の足の力だけで。
颯爽と走って学校に着いたら、もうハーレイがいるかもしれない。「おっ、早いな!」と笑顔を向けてくれて。「今日も朝から張り切ってるな」と。
柔道着を着たら、ハーレイも一緒に走り込み。それが済んだら、体育館で朝の練習。ハーレイに指導して貰って。「こうだ」と手本も見せて貰って。
(いいよね…)
そんな風に始まる、学校の朝。もしも自分が丈夫だったら、きっと叶っただろう夢。弱い身体に生まれて来たって、ちゃんと鍛えておいたなら…。
手遅れだけど、と考えていたら、聞こえたチャイム。柔道部の指導を終えたハーレイが、仕事の帰りに来てくれたから、もう早速に切り出した。テーブルを挟んで向かい合うなり。
「あのね、ハーレイ…。ぼくが丈夫だったらいいと思わない?」
ぼくの身体だよ。弱いけれども、そうじゃなくて丈夫だったなら、って。
「はあ? なんでまた…」
いきなりそういう話になるんだ、お前、いったい何をしたんだ?
新聞に体力作りの記事でもあったか、それに影響されちまっのたか?
「えっとね…。新聞はちっとも関係無くて…」
今日の帰りに歩いていたら、凄い風が吹いて来たんだよ。ビックリして目を瞑っちゃうほど。
その後、花壇の花を見掛けて…。
花びらがとても弱そうだったから、次の風で破れちゃうかと思って心配してて…。
そしたらホントに強い風が来て、もう駄目だ、って思ったんだけど…。
花びら、破れなかったんだよ。茎だって少しも傷まなくって、風が行っちゃったら元通りで…。
弱そうな花が見た目よりもずっと丈夫だった、と説明した。
あの花みたいに、自分が今と全く同じ姿をしていたとしても、丈夫な身体だったなら、と。
「見掛けは今と同じなんだよ、弱いチビのぼく…」
でもね、ホントはうんと丈夫で、弱い身体じゃないってこと。
「ほほう…。そいつは愉快だな」
同じチビでも、今よりも丈夫に出来てるんだな?
直ぐに倒れて寝込んだりはしない、丈夫な身体を持ったお前か…。
「そう! 素敵でしょ、それ?」
丈夫なんだし、柔道部にだって入れるよ。今の学校から始めた生徒も多いんでしょ?
だからね、ぼくも柔道部。ハーレイに会って、ちゃんと記憶が戻った後は。
他のみんなより遅いけれども、入部届を出しに行くよ。一ヶ月も遅れていないもの。
柔道部に入ったら、朝の練習からハーレイと一緒。
放課後の部活はもちろん一緒で、家に帰る時はハーレイの車に乗せて貰って…。
いいでしょ、ハーレイといつだって一緒。…ぼくの身体が丈夫だったら。
「そりゃいいかもなあ…。お前が柔道部に入ってくれるのか」
少なくとも帰り道の分だけ、二人で過ごせる時間が増えるな。
車に乗ってる時間はうんと短いわけだが、それまでの時間も一緒だしな?
部活が済んだら、お前と二人で駐車場まで歩いて行く、と。
帰る前に職員室に寄る時も、「ちょっと待ってろ」と、廊下までは一緒に行くわけで…。
うん、なかなかに素敵じゃないか。お前が言ってる通りにな。
合宿だって一緒だしな、と言われて胸がときめいた。夏休みにあった、柔道部の合宿。あの時は家でガッカリしていたけれども、柔道部員なら合宿に参加するのが当然。
そうなってくると、ハーレイの家でのバーベキューとかにも…。
「ねえ、合宿に行けるんだったら、ハーレイが家でやってるヤツ…」
柔道部員を呼んでるバーベキューとか、ピザを頼んだりするパーティーだとか…。
ああいうのにも、ぼくも行けるんだよね?
おやつは徳用袋のクッキーだっていう、ハーレイの家でみんながワイワイ集まる時も…?
「そりゃあ、断る理由は無いな」
お前が一人で来るんだったら、今と同じで「駄目だ」と言うが…。
柔道部のヤツらが一緒だったら、事情は全く違うしな?
そうか、お前が柔道部なあ…。
入ってくれたら楽しいだろうな、俺としても指導のし甲斐があるし。…お前だけにな。
「ぼくって…。なんで?」
恋人だからなの、いつも一緒にいられるから?
練習の時も、家まで車で帰る時にも。
「そいつも大いに魅力的だが、俺がやりたいのは、お前を強くすることだ」
柔道部に入ってくれた生徒は、全力で指導するというのが俺の信条だしな?
伸ばせる力は、大いに伸ばしてやらないと…。
お前に柔道の才能があったら、原石を磨く楽しみってヤツが倍増だ。
いや、倍どころの騒ぎじゃないな。…なんたって、原石はお前なんだから。
きっと凄いぞ、とハーレイがパチンと瞑った片目。「騒ぎが目に見えるみたいだな」と。
「こんなに可愛いチビが強いとなったら、間違いなく注目の的ってヤツだ」
たちまち人気者になるんだろうなあ、大勢がドッと押し掛けて来て。
「え…?」
人気者って、どういうこと?
ぼくが強かったら、なんで人気が出るっていうの…?
「簡単なことだ、お前にファンがつくってことさ」
チビなのに強い選手というのは、柔道の世界じゃ人気だぞ?
その上、お前は可愛いし…。ソルジャー・ブルーの子供時代にそっくりだしな。
人気が出ないわけがない。評判を聞いて、ファンが沢山やって来るぞ。
「ぼくのファンって…。学生時代のハーレイみたいに?」
試合や練習を見に来る人が増えるってこと…?
「そういうこった。まだ義務教育の生徒だからなあ、俺の時ほど凄くはないが…」
学校に入るには許可も要るしな、上の学校のようにはいかん。
しかし、学校の外での試合となったら、見に来るヤツらも多いと思うぞ。
でもって、お前は育ってゆくほど、どんどん美人になっていくから…。
そうなったら、もう引っ張りだこだな。…俺の出番も無くなりそうだ。
インタビューとかは、いつもお前ばかりで。俺は後ろで見ているだけで。
その光景も見えるようだな、と腕組みをして頷くハーレイ。「主役はお前だ」と。
「まさしくヒーローというヤツだよなあ、俺の出番は全く無いぞ」
お呼びじゃないってことになっちまって。…とにかくお前、っていうことでな。
「そんなことないでしょ?」
ハーレイだって、柔道の腕は凄いじゃない。ぼくでも勝てそうにないけれど…。
いくら強くても、まだ学校の生徒なんだし…。
「それはそうだが、考えてもみろ。学校新聞の取材をしてるの、誰なんだ?」
生徒だろうが、自分たちで取材して新聞を発行しているわけで…。
教師の俺を取材したって仕方ないしな、読むのは生徒なんだから。
生徒の視線で書くとなったら、お前を取材しないと駄目だ。…インタビューして記事を書く。
そいつを読んだ女子生徒たちが、ドッと押し掛けて来るってな。お前目当てで、体育館に。
柔道部にも、マネージャー希望のヤツらが殺到しちまいそうだよなあ…。
今の時期は募集していません、と張り紙を出さなきゃ断れないほど、それは大勢。
「マネージャー希望って…。そうなっちゃうの?」
ぼくがいるだけで、マネージャーになりたい人が増えるの?
「世の中、そういうモンなんだぞ?」
カッコいい男子が入っている運動部は、マネージャーに苦労しないってな。
わざわざ募集しに行かなくても、向こうからやって来るもんだから…。
それと同じで、お前が柔道部にいるってだけでも、マネージャーになりたいヤツがいそうだ。
しかも、お前は強いわけだし…。
お前がチビのままだったとしても、人気はきっと凄いと思うぞ。
学校新聞の記者が来た時は、俺なんか押しのけて取材だ、取材。お前の記事を書かないと…。
新聞を読んで貰いたかったら、俺の記事よりお前の記事だ。
「…それはちょっと…」
取材に来られても、ぼく、困るかも…。
ハーレイの方は見向きもしないで、ぼくだけ取材をして貰っても…。
なんだか嫌だ、という気がする。自分だけが注目を浴びること。
ハーレイと一緒にインタビューなら、嬉しいのに。記事にもハーレイの名前が出るなら、写真も一緒に撮ってくれるのなら。
「…ぼくに柔道を教えてくれるの、ハーレイだよ?」
強くしてくれたのも、ハーレイなんだし…。それに恋人…。
ホントは恋人同士だってこと、秘密だけれども、記事は一緒でなくちゃ嫌だよ。
「ふうむ…。まあ、師匠抜きでは語れないしな、柔道は」
その辺を記者に説いてやったら、俺の出番もありそうだが…。記事の隅っこの方でもな。
お前が上手く説明したなら、俺の記事も大きくなるかもしれん。学生時代の活躍ぶりとか。
…それで、柔道が強いお前の話なんだが…。
どうするんだ、プロの道に行くのか?
「…プロ?」
それってプロの選手ってことなの、プロになれって?
「なれる可能性は充分、高いだろうと思うがな?」
強いってことは、柔道の素質があるってことだ。そうでなければ、教えても伸びん。
素質があって強いとなればだ、柔道の指導に力を入れてる上の学校に行ってだな…。
其処で一層腕を磨けば、プロになるのも夢じゃない。もちろん、俺も教えてやるし…。
休みの時には、柔道部にいた頃と同じようにだ、個人指導をしてやるってな。
「そんな道には行かないよ!」
上の学校にも、プロの道にも、ぼくは絶対、行かないってば!
「行かないって…。お前、どうする気だ?」
せっかくプロになれそうなのに、いったい何をするつもりなんだ?
「決まってるじゃない、ハーレイのお嫁さんになるんだよ!」
卒業したら、結婚してハーレイのお嫁さん。ぼくはそれしか、やりたいと思ってないんだから!
プロの選手になるなんて…、と膨らませた頬。プロになったら、きっと大変だろうから。
ハーレイと結婚出来たとしたって、毎日、試合と練習ばかり。ろくに一緒に過ごせはしなくて、ただ忙しいだけの日々。家にいたって、ハーレイと練習かもしれない。
「…ハーレイ、ぼくがプロになったら、練習しろって言いそうだよ…」
もっと強くなるには練習だから、って、お休みで家にいたって練習…。
「それはまあ…。そうなるだろうが、お前、そいつは嫌なんだな?」
だからプロにはならない、と…。どんなに才能があったとしても。
ということは、お前、俺と一緒にいるだけのために、柔道部に入部するってか?
「…駄目なの?」
入っちゃ駄目なの、柔道部には…?
強くなったらプロの選手になろうって人しか、入っちゃ駄目…?
「駄目とは言わんが…。プロになれないのが殆どなんだし、其処の所は気にしないんだが…」
もったいないな、と思ってな。…お前に凄い才能があっても、捨てちまうのかと…。
その才能が欲しくてたまらないヤツ、きっと大勢いるんだろうにな。
もっとも、俺もそいつを言えた義理ではないんだが…。
プロの選手になるっていう道、捨てて教師になっちまったから。…柔道も、それに水泳もな。
あまり強くは言えないか…、とハーレイが苦笑しているから。
それでもやっぱり「もったいないと思うがなあ…」とも言うものだから。
「えっとね…。プロの選手にならなくっても、丈夫なぼくなら、いいこともあるよ」
だって、柔道が出来るくらいに丈夫なんだし…。
結婚した後も、ハーレイに迷惑かけないよ。病気になったりしないんだもの。
今のぼくだと、しょっちゅう寝込んで、ハーレイが困ってしまいそう…。
「丈夫なお前だと、俺が楽だってか?」
確かにそうなんだろうがな…。丈夫だったら寝込みもしないし、仕事に行くにも安心だが…。
俺としてはだ、守り甲斐がある方が嬉しいな。
強いお前も悪くないんだが、今みたいに弱いお前の方が。
「…弱いぼくって…。ホントに弱くて、ちょっと無理をしたら倒れちゃうよ?」
ハーレイ、そっちの方が好きなの?
ぼくの身体が丈夫だったら、迷惑かけたりしないのに…。
仕事に行く前に、寝込んでしまったぼくの世話とか、食事の用意とかしなくていいのに…。
「そういう面倒は要らんだろうな、お前が丈夫に出来ていたなら」
ついでに心配も要らないわけだし、仕事の間中、ずっとお前を気にしなくてもいいんだが…。
昼休みとかに学校を抜けて、具合はどうかと家に帰らなくてもいいんだろうが…。
強いお前よりは、弱いお前の方がいい。
…前のお前が強すぎたからな、今度は弱いお前がいいんだ。
俺の好みはそっちの方だ、と言われたけれど。前の自分も、今と同じに弱かった。ひ弱な身体を持っていたから、何かと言えばハーレイに迷惑をかけていた自分。
食事が喉を通らない時には、ハーレイがスープを作ってくれた。青の間の奥のキッチンで。
恋人同士になるよりも前から、何度も作って貰ったスープ。白い鯨が出来る前から。
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ、優しいスープを。
そんな自分が、強かった筈がないわけだから…。
「前のぼく…。ちっとも強くなかったよ?」
今と同じで、弱かったよ。…しょっちゅう寝込んで、ハーレイに野菜スープを作って貰ってた。
野菜スープのシャングリラ風だよ、今も作ってくれてるじゃない。
ぼくが寝込んでしまった時には、仕事の帰りに、わざわざ作りに来てくれたりして。
「前のお前も、身体は間違いなく弱かった。今のお前と、其処は全く同じにな」
チビの間も、育った後にも、前のお前はとても弱くて、強いとは言えやしなかったが…。
強かったのは、お前の中身だ。長いことソルジャーをやっていた分、お前の心は強すぎた。
誰にも弱みを見せはしなくて、俺の前でしか泣きはしなかったほどに。
だから、お前は飛んでっちまった。…たった一人で、メギドへな。
俺に「さよなら」のキスもしないで行っちまうくらい、前のお前は強かったんだ。
後でメギドで泣いたらしいが、それでも後悔してないだろうが?
「…うん、してない…」
ハーレイの温もりを失くしちゃったことは、辛かったけど…。
とても悲しくて泣きじゃくったけど、メギドに飛んだことは後悔してないよ。
「…今でも俺にそう言えるくらい、強かったのが前のお前だな。…何度メギドの夢を見たって」
今のお前はメギドの夢が怖いチビだが、前のお前は違うんだ。強すぎたってな。
強すぎると、お前、無茶をするから…。
そうならないよう、弱いお前の方がいい。俺が何度も面倒を見る羽目になっても。
学校に「少し遅れます」と連絡をしては、お前を病院に連れて行くのが当たり前でも。
病院から連れて帰ったお前をベッドに寝かせて、昼飯を作ってから仕事に出掛けて…。昼休みになったら、飯を食わせに家に帰らなきゃいけなくても。
…そういう弱いお前でいいんだ、その方がいい。
強いお前だと、俺はまたしても、とんでもない目に遭いそうだからな。
あんな思いはもう沢山だ、とハーレイが呻くメギドのこと。前の自分が一人で出掛けて、二度と戻らなかった場所。
…ハーレイを置いて逝ってしまった自分。白いシャングリラに、独り残して。
前の自分は、確かに強かったのだろう。今の自分には無い強さ。とても持てない、強すぎる心。
だから「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「今のぼくなら、平気だってば。…身体が丈夫に出来ていたって」
だって、弱虫なんだもの。一人でメギドに行けやしないし、ハーレイがいないと寂しいし…。
そんなぼくだから、大丈夫。柔道がとても強いぼくでも。
「どうだかなあ…。メギドには行けそうもないんだが…」
それは分かるが、妙な所で頑固だろ、お前。…前と同じで。
丈夫だったら、たまに風邪でも引いたりした時に…。俺に心配かけちゃ駄目だ、と隠して黙って頑張った末に、すっかりこじらせちまうとか。
さっさと病院に行けばいいのに、「大したことはないよ」と我慢しすぎて。
「…それはあるかも…」
ぼくは弱いから、直ぐに倒れて寝込んじゃうけど…。
強かったとしたら、頑張りそう。ハーレイは仕事で忙しいんだし、我慢しなくちゃ、って。
「ほら見ろ、言わんこっちゃない。俺が思った通りだろうが」
そうなっちまうから、お前は弱い方がいい。弱い身体のままのお前で。
弱くても充分、無茶をするだろ、今のお前も。
熱があるのに学校に行こうと頑張ってみたり、体育の時間に無理をしすぎたり。
「そうだけど…。そうなっちゃうのは、ぼくの身体が弱いからで…」
小さい頃からきちんと鍛えて、強い方がいいかと思ったのに…。
柔道部にだって入れるんだし、結婚したって、ハーレイに迷惑かけずに済むから。
「お前なあ…。俺は何回、お前にこれを言ったんだか…」
今度は俺が守るんだ、とな。…今度こそ、俺がお前を守ると。
前の俺はお前を守ると何度も言ったが、いつでも言葉だけだった。…俺は守られていた方だ。
守ると言いつつ、前のお前に守られて生きていたってな。シャングリラごと。
だから、今度はお前を守る。…守るほどの危険が無いような世界に来ちまったがな…。
見掛け通りのお前でいい、と握られた右手。メギドで冷たく凍えた右の手。ハーレイの温もりを失くしてしまって、前の自分が泣きじゃくった手。
それをハーレイは両手で包んで、温かな笑みを浮かべてみせた。
「お前は、弱いお前でいいんだ。…ひ弱な今のお前のままで」
強くなろうなどと、思わなくてもいい。強くないお前で充分だってな。
柔道部に入って貰えないのは残念ではあるが、いつかは一緒に暮らせるんだし。
「本当に…?」
弱くてもいいの、強いぼくなら色々なことが出来そうなのに…。
ハーレイと一緒に柔道が出来て、ジョギングにだって行けそうなのに。
「お前、柔道、続けるつもりは無いんだろ? 凄い才能があったとしても」
俺と結婚するために放り出しちまうんなら、そんな強さも才能も要らん。
今のお前は、俺と旅行に行ける程度の強さがあればいいってな。
それだって足りなきゃ、俺が背負って歩いてやるから。…旅先で倒れちまったら。
「うん…!」
弱いぼくでもかまわないなら、柔道部のことは諦める…。
とっても素敵な夢だけれども、夢は夢だから、うんと素敵に見えるんだものね…。
前のぼくだって、地球に幾つも夢を見てたよ、と握り返したハーレイの手。右手でキュッと。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が描いていた夢。
それはこれから、ハーレイと二人で叶えてゆく。生まれ変わって来た、この地球の上で。
青い地球の上で生きる今の自分は、ひ弱な花でもいいらしい。
帰り道に見た花たちのような強さは無くても、風でペシャンと潰れる花でも。
今度は守って貰えるから。
ハーレイがいつも守ってくれるし、弱い身体のままでいい。
鍛え損なった身体だけれども、ハーレイは弱い身体の方がいいと言ったから。
強い風が吹いたら、負けてしまう花でかまわない。
今の自分は、弱い花。頑張らなくてもペシャンと潰れて、世話をして貰えばいいのだから…。
ひ弱な花・了
※丈夫な身体なら素敵だったのに、と考えたブルー。柔道部に入ることも出来そうです。
けれど、ハーレイの好みは「弱いブルー」。今度こそブルーを守りたいのです、前と違って。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(なんだか色々…)
石鹸なのに、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
天然素材の石鹸、色々。そういう特集。オリーブオイルやアーモンドオイルで作った石鹸、牛乳からも作れる石鹸。様々な石鹸があるのだけれども、驚いたのが世界最古の薬局の石鹸。
(…十三世紀って…)
いつなの、と指を折っても足りないくらいに、遠い昔に生まれた薬局。人間が地球しか知らずに生きていた頃、薬局は修道院だった。薬と言ったらハーブだったから、それを育てる場所が薬局。
そういう修道院の一つから生まれた薬局、其処が作っていた石鹸。何百年も同じ製法で。
修道院での処方そのまま、何も変えずに。天然素材にこだわり続けて、いい石鹸を。
(でも…)
地球の大気が、大地が汚染されていったら、その石鹸も作れなくなってゆく。滅びゆく地球は、緑が自然に育ちはしない。そんな星では、もう材料が手に入らないから。
そうして消えてしまった石鹸。処方だけが後の時代に残った。かつてこういうものがあった、と書き残されて。最古の薬局も、地球から消えた。
ついには人間も離れざるを得なかった、母なる地球。青い水の星を蘇らせるためだけに、機械が治めるSD体制を敷いて。
前の自分が生きていたのは、そういう時代。地球は死の星のままだったという。
(今ならではです、って…)
SD体制が崩壊した後、多様な文化が戻って来た時代。青い地球まである宇宙。
石鹸だって、原料も作り方も自由に出来る。世界最古の薬局が作っていた石鹸も、遠い昔と全く同じに作られるらしい。天然の材料だけを使って。
(石鹸の世界もそうなんだ…)
青い地球の上、あちこちの地域は気候も色々。それぞれの場所に合わせた石鹸、オリーブだとか牛乳だとか。他にも何種類もあるのが石鹸、前の自分が生きた時代には無かったものが。
ふうん、と興味深く読んで、二階の部屋に帰った後。
勉強机に頬杖をついて、石鹸について考えてみた。今の時代は色々なものがあるけれど…。
(前のぼくたちだと…)
アルタミラの檻で生きていた頃は、石鹸どころか洗浄液。お風呂に入れはしなかった。入りたい気持ちも多分、無かった。実験動物のように洗われただけで、それだけが全て。
「入れ」と放り込まれた洗浄用の部屋で、何もかも自動で。酷い火傷を負っていたって、手加減さえもされないで。
(石鹸なんて…)
考えることも無かった筈。身体を洗うためのものなど、自分で使えはしないから。
その地獄から脱出した後、嬉しかったのが初めてのシャワー。やっと人間になれた気がした。
(あれで、お風呂が大好きになって…)
具合が悪くても入っていたほど、前の自分はお風呂好き。そのせいなのか、今の自分も。
お風呂好きだった前の自分だけれども、その時に使っていた石鹸は…。
(一番最初は…)
船のバスルームにあった石鹸。シャワーを浴びに出掛けて行ったら、其処に置かれていた石鹸。それを使って洗った身体。ボディーソープもあったけれども、石鹸を使ったような気がする。
(ボディーソープだと、洗浄液みたいな感じだから…)
避けたのだろうか、無意識の内に。「少し怖い」と。記憶は定かではないけれど。
少し経ったら、石鹸にするか、ボディーソープか、気分で決めるようになっていたから。今日はこっちを使ってみよう、と目に付いた方を。
船に最初からあった石鹸、ボディーソープといったもの。倉庫に山と積まれていたって、使えば消えて無くなってゆく。毎日の暮らしに欠かせないもので、誰もが使うものだから。
船の備品が尽きた後には、前の自分が奪って来た。人類の輸送船から、石鹸だって。他の物資を奪うついでに、「これも」と失敬してしまって。
(いろんな石鹸…)
沢山あったよ、と思い出す石鹸やボディーソープの類。香りも色も、実に様々。
あんな時代だけに、天然素材ではなかったのだろうけれど。天然素材を使っていたって、恐らくほんの少しだけ。オリーブ石鹸と書いてあっても、オリーブオイルは僅かしか入っていないとか。
きっとそうだ、と思うけれども、その石鹸。様々な香りや色の石鹸。
(どうやってたっけ?)
皆の好みが分かれていそうな、石鹸たちの配り方。色も香りも、本当に様々だったから。
希望者を集めて分配したのか、好みは無視してバスルームに置いておいたのか。今度はこれ、と一方的に決めてしまって、個人の希望はまるで聞かずに。
物資が限られていた船なのだし、その可能性も充分にある。流石に花の香りがする石鹸などを、男性用のバスルームに置きはしないだろうけれど。
男性用だと思われるものを、女性用のバスルームに置くことだって。
そうは言っても、やはりあるだろう石鹸の好み。選びたい仲間はきっといた筈。
分配したのか、有無を言わさず備え付けの形だったのか。シャングリラで使っていた石鹸。
(どっちだったの…?)
覚えていない、と首を捻って考え込んでいたら、聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊こうと思った。石鹸のことを。
(…ハーレイだったら、きっと覚えているよ)
キャプテンになる前は、備品倉庫の管理人も兼ねていたのだから。物資を分配する係だって。
訊くのが一番、とテーブルを挟んで向かい合うなり、石鹸の話を持ち出した。
「あのね、石鹸って、色々だよね」
「はあ? 何の話だ?」
お前、石鹸が欲しいのか、と怪訝そうな顔になったハーレイ。慌てて「違うよ」と話の続き。
「欲しいってわけじゃないけれど…。今の時代は石鹸が色々。天然素材の」
今ならではです、って書いてあったよ、新聞に。
天然素材だけで出来てる色々な石鹸、今だから作れるんだ、って…。
「まあ、そうだろうな。前の俺たちが生きてた時代じゃ無理だ」
原料があっても、とてつもなく高くついただろうし…。それに文化も限られていたし。
石鹸なんぞは洗えればいい、と合成だろうな。シャングリラじゃなくて、人類が生きてた世界の方でも。…天然素材ばかりで量産するのは無理だったろう。入っていたって、少しだったろうな。
もっとも、そういう時代にしたって、パルテノンのヤツらは使っていたかもしれないが。
うんと贅沢に作らせた石鹸、まるで無かったとは言えないしな。
「使ってたかな…?」
材料は確かに、無いってわけではないものね…。作ろうとしたら高くつくだけで。
「あいつらは特権階級だからな、やりかねないぞ」
こういう石鹸を作って届けろ、と命令するだけで済むんだから。自分たちが使う分だけ、特別に材料を集めさせてな。
「…それ、アドスとかが…?」
あんな人たちが使っていたわけ、天然素材の石鹸を…?
前の自分は知らないアドス。元老の一人だったけれども、キースに消された。旗艦ゼウスで。
歴史の授業で習う範囲だから、アドスのことは知っている。どう考えても天然素材の石鹸などは似合いそうにない、でっぷりと太っていた男。
ハーレイも「アドスなあ…」と苦笑しているのだから、やっぱり似合わないのだろう。
「あいつが高級石鹸か…。天然素材で贅沢に作った石鹸、アドスが使っていたってか?」
身体を洗ったら、ついでに頭も石鹸で洗っちまいそうな感じだが…。
まさに猫に小判ってヤツだな、アドスが使っていたんなら。
あいつに使わせるくらいだったら、前のお前に使わせてやりたかったよなあ…。高級石鹸。
「前のぼく? …なんで?」
そんなもの使ってどうするの、とキョトンとしたら、「決まってるだろうが」という返事。
「凄い高級石鹸なんだぞ、きっと肌にもいい筈で…。そいつを使えば肌を磨ける」
お前はただでも美人だったし、磨き甲斐があるというもんだ。一層、綺麗になれるんだから。
俺も嬉しいし、船のヤツらも喜んだだろう。
美人のソルジャーがもっと綺麗になってみろ。自慢の種が増えるってな。
「…それはどうでもいいけれど…。高級石鹸を使いたかったとも思わないけど…」
その石鹸だよ。ハーレイ、シャングリラの石鹸の配り方、覚えてる?
「配り方だと?」
「そう。前のぼくが人類の船から奪った石鹸、色々だったよ。色も香りも」
石鹸も、それにボディーソープも、いろんな種類があったでしょ?
これが欲しい、って思った仲間もいただろうけど、バスルーム、一人に一つじゃなかったし…。
石鹸とかも、いつもおんなじ種類があるとは限らないんだし…。
希望者を集めて分配してたか、バスルームに備え付けだったのか。それを覚えていなくって…。
備え付けだと、選ぶ自由は全く無くなっちゃうけれど…。
どうだったのかな、と瞳を瞬かせたら、「なんだ、そんなことか」と笑ったハーレイ。そいつは俺の得意分野だと、ダテに備品倉庫の管理人をやってはいない、と。
「ああいうのは好みが分かれるからなあ…。そういう時には押し付けるよりも…」
配っちまうのが一番だってな、希望者に。これが好きだ、と欲しがるヤツらに。
「そうだったの?」
だけど、それだと、他の人たちの分の石鹸は?
欲しい人たちが持ってっちゃったら、足りなくなってしまわない…?
「其処はきちんと考えてたさ。癖のない石鹸やボディーソープは共用ってことで」
そういうのを先に取り分けておいて、バスルームの方に回すんだ。備え付けって扱いだな。
石鹸の類にこだわらないヤツは、備え付けのを使ってた。洗うだけなら何でもいい、と。
そうでないヤツは、持って出掛けて行ったんだ。バスルームに行く時は、自分用のを。
お前も記憶を辿ってみたなら、思い出せると思うがな…?
あの船の中の石鹸事情、と言われたけれど。
「えーっと…?」
覚えていない、と傾げた首。
バスルームと言えば、初めてのシャワーが嬉しかったことと、ソルジャーになった途端に、皆と分けられてしまったこと。
エラがソルジャー専用のバスルームを設けてしまったから。他の者たちが使うことが無いよう、決められてしまったソルジャー専用のバスルーム。
其処にも石鹸とボディーソープはあった。その程度しか覚えていない石鹸。
ハーレイにそう話したら…。
「そのバスルームを貰う前にはどうだったんだ?」
貰ったと言うか、押し付けられたと言うか…。そうなる前のお前だな。
石鹸を持ってバスルームに出掛けて行ったのか、という質問。着替えの他に、石鹸なども持って行ったのか、と。
「そいつが鍵になるってな。お前、石鹸、持っていたのか?」
バスルームに行くなら、これも、と忘れずに自分の石鹸。部屋の何処かに仕舞ってたヤツを。
「持って行っていないよ、石鹸なんか」
わざわざ持って出掛けなくても、バスルームに置いてあるんだし…。
しないよ、そんな面倒なこと。石鹸が無いなら、持って行かなきゃいけないけれど。
「それはお前がそうだっただけで、こだわるタイプじゃなかったってことだ」
どんな石鹸が置いてあっても、何の不満も無いんだな。今度はこれか、と思う程度で。
しかしだ、そうやって石鹸を持たずに出掛けた、お前の周りはどうだった?
先にシャワーを浴びたヤツに会うとか、次に入ろうとしてやって来たヤツらのことなんだが。
「…思い出した…!」
ホントだ、それが鍵だったよ。凄いね、ハーレイ…。ぼくはすっかり忘れてたのに。
石鹸のことを考えていても、思い出せずにいたことなのに…。
凄い、と感心させられたこと。ハーレイが今も忘れずにいた、希望者たちに配った石鹸。
バスルームに出掛けて行った時には、石鹸やボディーソープを持った仲間たちが何人かいた。
すれ違う時に目にすることもあったし、ふわりと香りがして来たり。
石鹸そのものは見えない時でも、髪や身体から漂った香り。直ぐにそれだと分かった香り。
纏う香りは様々だったし、本当に好みがあったのだろう。希望者に配られる石鹸の中に、それがあったら欲しい香りが。貰わなければ、と名乗りを上げたくなる石鹸が。
前の自分は全くこだわらなかったけれども、仲間たちは違ったらしい石鹸。より正確に言えば、こだわる仲間も少なくなかったらしい石鹸。
ハーレイが言うように、希望者向けの分配の時には、出掛けて行って手に入れていた仲間たち。自分好みの石鹸があれば、「欲しい」と声を上げてまで。
「自分用の石鹸、持っている人、いたっけね…」
石鹸も、それにボディーソープも。きっと分配される時には、必ず覗きに行ってたんだね。
欲しい石鹸とかが出ているかどうか、いつでもチェックしてないと…。
「そういうことだな。好みのヤツが常にあるとは限らんし…」
前のお前が奪った物資の中身次第だし、見付けたら貰っておかなきゃならん。同じ好みのヤツが多けりゃ、尚更だ。貰える時に貰っておかんと、切らしちまうからな。
俺もキャプテンになる前はずっと、配る係をしてたから…。
石鹸のことは良く覚えてる。貰いに来るのは女性の方が多かった。香りがいいのを欲しがって。
男だったら、ゼルがこだわる方だったぞ。
「ゼル…?」
石鹸なんかを貰いに行ったの、あのゼルが…?
ハーレイが配っていた頃なんだし、うんと若かった頃だよね…?
意外な名前を聞かされたけれど、お洒落だったらしい若き日のゼル。自分好みの石鹸が無いか、チェックするのを欠かさなかった。分配の時には必ず出掛けて行って。
考えてみれば、後に髭にこだわったくらいなのだし、その片鱗。きっとあの髭も、石鹸と同じに気を配って手入れしていたのだろう。
髭と言ったら、ゼルと並んでヒルマンも髭が自慢だったから…。
「ヒルマンは…?」
やっぱり石鹸にこだわっていたの、ゼルみたいに?
配られる時には出掛けて行って、欲しい石鹸、貰ってたのかな…?
「あいつは別にそれほどでも…。たまに覗きに来た程度だな」
話の種になりそうなのを探していた、といった感じか。興味津々で眺めてはいたが、貰うことは滅多に無かったからな。
そして、配っていた俺にしてみりゃ、お前が全くこだわらないのが不思議だったぞ。
石鹸をあれこれ奪って来たのは、お前のくせに。
「どれでも全部、同じじゃない。どれも石鹸だよ、洗えればね」
色も香りも、ただのオマケで…。こだわらなくても、少しも困りはしないもの。
「そう言ってたなあ、ずっと後にも」
俺が石鹸を配る係を離れて、キャプテンになって…。それよりもずっと後のことだが。
「後って…?」
「白い鯨になった後だな、シャングリラが。…ずっと後だと言ったぞ、俺は」
お前、ソルジャー専用の石鹸、断っちまったろうが。
石鹸なんかはどれも同じで、洗えればそれでいいんだから、と。
「なに、それ?」
ソルジャー専用の石鹸だなんて、それをバスルームに置こうとしたわけ?
もう青の間は出来ていたから、あそこに置くのにピッタリだとか…?
「それに近いが、少し違うな。石鹸作りが先だったから」
オリーブ石鹸みたいに他の石鹸も作れるだろう、って話が船で出た時だ。
覚えていないか、オリーブ石鹸。
「あったね、そういう石鹸も…」
それで欲張ったんだっけ…。もっと凄いのも作れそうだ、って。
自給自足で生きてゆくために、白いシャングリラで育てたオリーブ。食用油は欠かせないから、何本も植えて世話をして。
オリーブの木たちは大きく育って、どれもドッサリ実をつけた。オリーブオイルが沢山採れて、一部の者たちが挑んでみたのが石鹸作り。オリーブオイルから作る石鹸。
その石鹸がいいと評判になって、欲が出たのが石鹸を作っていた仲間たち。データベースで色々調べて、他の石鹸も作れそうだと考えた。牛乳を使った石鹸なども。
牛乳石鹸が上手く出来たら、作りたくなったのが長い歴史を誇った高級石鹸だった。人間がまだ地球しか知らなかった時代に生まれて、人気を呼んでいた石鹸。
船で材料は揃うのだけれど、オリーブや牛乳のようにはいかない。あっても量が少ない原料。
素晴らしい石鹸が出来上がったって、とても皆には配れない。少しだけしか作れないから。
それでも作りたくなるのが人情。
オリーブ石鹸も牛乳石鹸も評判なのだし、もっといい石鹸を作ってみたい。それが高級石鹸ともなれば、なおのこと。
けれど、作っても皆に配れない所が大いに問題。
石鹸作りをしていた仲間は、考えた末に、エラの所へ出掛けて行った。この案だったら、きっと賛成して貰える、と。
相談を受けたエラの方でも、「これはいい」と思ったものだから…。
ある日、長老たちが集まる会議でエラが提出した議題。それが石鹸、しかもソルジャー専用だと言うから、驚いたのが前の自分。いったいどうして石鹸なのか、と。
「ぼく専用の石鹸だって?」
誰が言い出したんだい、それを。…ぼく専用という意味も教えて欲しいね。
石鹸だけでは分からないよ、とエラに尋ねたら。
「いい案だと思うのですけれど…。言い出したのは、石鹸を作っている者たちです」
御存知でしょう、オリーブ石鹸を最初に作り始めた者たちを。
今では牛乳石鹸も作っております、どの石鹸も評判です。石鹸作りの腕には自信があるとか。
ソルジャー専用の石鹸を作りたいとの話で、私の所にやって来ました。
如何でしょうか、とエラが乗り気になった石鹸。
遠い昔に人気を博した高級石鹸、地球で最古の薬局が作っていたものらしい。その薬局の基盤になった修道院での、処方そのままの作り方で。
天然素材にこだわるだけに、シャングリラでは僅かな量しか作れない。仲間たちに配れるだけの量は無理だし、ソルジャー専用に作ると提案されたけれども。
「ぼくの分しか作れない高級石鹸だなんて…。そんな贅沢なものは要らないよ」
そうでなくても、ぼくは石鹸にこだわるタイプじゃないからね。…昔からずっとそうだった。
石鹸は洗えれば充分なんだし、どんな石鹸でもかまわない。原料も香りも、全部含めて。
その高級な石鹸だけれど…。
どうしても作りたいのだったら、作った人たちが使えばいい。趣味の作品なら、他の仲間に遠慮することはないからね。配らなくては、と考える必要も無いだろう?
ぼくはいいから、作りたい仲間で趣味の品として使うようにと伝えて欲しい。
いいね、ソルジャー専用の石鹸なんかは、ぼくは欲しくはないんだから。
断ってしまった、ソルジャー専用の石鹸を作ること。必要無いと考えた自分。
今から思えば、今日の新聞に載っていた石鹸の中の一つだろう。世界最古の薬局が作った石鹸、それに修道院生まれの処方。エラの話と重なる部分が幾つもあるから。
あの石鹸は、その後、どうなったろう…?
作りたかった仲間たちは本当にそれを作ってみたのか、作らないままになったのか。
「ハーレイ、前のぼくが断っちゃった石鹸だけど…」
ソルジャー専用の石鹸を作る話は消えちゃったけれど、石鹸の方はどうなったのかな?
作りたがってた仲間が作って使っていたかな、そうすればいい、って言っておいたけど…。
「あの石鹸か? お前が断っちまったから…」
諦めちまって、それっきりだ。自分たちで使うのはどうかと考えたんだろう。
しかしそいつが、フィシスが来てから再燃したぞ。丁度いい、と思ったらしくてな。
「…そうだったっけ…」
それもすっかり忘れていたけど、フィシス専用になったんだっけね、あの石鹸。
ソルジャー専用の代わりに、フィシス専用。
「思い出したか?」
フィシスだったらミュウの女神で、ソルジャーに引けを取らないからな。
専用の石鹸を持っていたって、誰も文句を言いはしないし…。
お前も文句は言わなかった。ソルジャー専用の石鹸の時は、一言で切って捨てたくせにな。
「文句なんか言うわけないじゃない。フィシス用だよ?」
フィシスにだったら、素敵な石鹸があったっていいと思ったから…。
そうでしょ、フィシスは特別だったんだもの。前のぼくにとっても、仲間たちにとっても。
青い地球を抱いてて、未来が読めて…。本当に女神そのものだったよ。
機械が無から作ったものでも、フィシスはミュウの女神で特別。
フィシスのために専用の石鹸を作りたい、と再び持ち上がった話。石鹸を作る仲間たちから。
前の自分が船に連れて来た、青い地球を抱く幼いフィシス。彼女が美しく成長してから、彼らは話を持って来た。前と同じにエラを通して。
ソルジャー専用の石鹸などは要らないけれども、フィシス用だったら話は別。こちらから頼みに行きたいくらいで、反対したりはしなかったから…。
嬉々として石鹸作りを始めた仲間たち。必要な材料を全部揃えて、フィシスのための石鹸を。
「…あの石鹸…。フィシスが使っていたんなら…」
フィシスから花の匂いがしたのは、香水じゃなくて石鹸の香りだったのかな?
花の匂いがする石鹸も色々あったから…。フィシス用なら、そういう石鹸にしていそう。
ソルジャー用だと、花の匂いは無しだろうけれど。
「いや、石鹸と香水じゃ、全く違うぞ。石鹸の匂いは長くは持たん」
風呂上がりに会ったら分かる程度の匂いだろう。石鹸だな、と。
前のお前が、バスルームの近くで気付いた他の仲間の石鹸の匂いも、その時だけだろ?
「そっか…。お風呂上がりのフィシスの匂い…」
石鹸の香りはそれなんだ、と気付いたけれども、肝心の香り。
お風呂上がりにフィシスが纏った筈の香りを、前の自分は知らなかった。
会ったことが無かったものだから。…夜はハーレイと一緒だったから、フィシスを訪ねて行きはしなくて、まるで知らない。
フィシスからどんな匂いがしたのか、石鹸の香りは何だったのか。
愕然とさせられた、その事実。何十年もフィシスの側にいたのに、ミュウにしてまで攫って来たほど彼女が欲しかったのに。…フィシスが抱く地球の映像が。
なのに自分は知らないらしい。フィシスに、ミュウの女神に与えた、特別な石鹸が漂わせたろう香り。あの時代には希少だったという高級石鹸、それがどういう香りだったか。
「…前のぼく…。フィシスの石鹸、どんな匂いか知らなかったよ!」
作るように、って注文したのに、匂いを知らずにいたみたい…。
お風呂上がりのフィシスには一度も会ってないから、知らないんだよ…!
「うーむ…。お前、夜には俺と一緒だったし…」
行かないだろうな、フィシスの部屋には。それは不思議じゃないんだが…。
フィシスの石鹸の匂いを知らないままだってか?
そいつは由々しき問題なんだが、生憎と俺も、石鹸の処方は知らんしなあ…。
オリーブ石鹸や牛乳石鹸の作り方だって知らんし、フィシス専用の方を知るわけがない。
まるで興味が無かったもんでな、訊きに行こうとも思わなかった。見学だって。
キャプテンの仕事には入らないだろうが、石鹸作りの方法を書き留めておくというのは。
これが石鹸の配り方なら、場合によっては航宙日誌に書いただろうがな。
石鹸が不足しそうな時でもあったら、後で参考にするために。
前のハーレイの管轄ではなかった石鹸作り。フィシスが使った特別な石鹸、それの香りも成分も知らないらしいキャプテン。知ろうとも思っていなかったから。
ハーレイの記憶に今もあるのは、最古の薬局と修道院生まれの処方だったという言葉だけ。今の自分と全く同じで、何の手掛かりにもなってはくれない。
ただ…。
「えっとね…。あの石鹸、今もありそうだけど…」
フィシス専用に作った石鹸。新聞に書いてあったから…。
今の時代は昔と同じに作れるらしくて、あの石鹸もちゃんと復活しているみたいだよ?
「俺も話に聞いちゃいるがだ、一種類しか存在しないというわけではないぞ」
さっきお前が言っただろうが、フィシス用なら花の匂いにしていそうだと。ソルジャー用だと、花の香りは抜きで作りそうだが…。なんと言ってもフィシス用だし、花の香りは欲しい所だ。
本物の石鹸もそれと同じで、香りが幾つかある筈だから…。
「そうなの?」
一種類しか無いわけじゃないんだ、今は復活している石鹸…。
それじゃ、フィシス用に作っていた石鹸と同じのは…。その中の一つってことになるわけ?
「多分、そういうことだろう」
自信を持ってフィシス用にと言い出したからには、きちんとデータがあっただろうしな。
ソルジャー用に作ろうとしていた時とは違ったんじゃないか、処方ってヤツが。
どういう風に配合するとか、入れる香料はこれだとか。
「だったら、フィシス用の石鹸、どれだったのかは分からないね…」
一種類しか無いんだったら、それに決まっているんだけれど…。
幾つもあるなら香りも違うし、フィシスの石鹸、見付からないよね…。
「残念だがな…」
せっかく同じ石鹸があるというのに、手掛かりが何も無いんじゃなあ…。
この香りだった、と誰かが教えてくれないことには、どうにもこうにも…。
お前も知らないらしいからな、とハーレイがついた大きな溜息。フィシス専用の石鹸の香り。
石鹸は確かにあったのに。作っていた仲間が確かにいたのに、幻になってしまった石鹸。
今の時代は、その石鹸と同じ石鹸が作られるのに。昔と同じ処方のままで。
「…フィシスの石鹸、ホントに残念…」
前のぼく、匂いも知らないままになっちゃって…。今のぼくにも分からないなんて…。
石鹸が一種類しか無いんだったら、買いに行ったら分かるのに…。
「まったくだ。俺も残念だが、こればかりはなあ…」
そうだ、お前がいつか試すか?
端から試せば、もしかしたら見付かるかもしれん。
「えっと…?」
試すって、なあに?
何を試すの、どうやればフィシスの石鹸がどれか見付け出せるの?
「簡単だってな、端から試すと言っただろう?」
例の石鹸、買って使ってみればいいんだ。チビのお前が大きくなったら。
俺と一緒に暮らし始めたら、石鹸を買って使うわけだな。どれかは謎だし、一種類ずつ。
前のお前は、前の俺よりは遥かに沢山、フィシスに会っていたんだし…。
石鹸の匂いを嗅いでいる内に、この香りだ、とピンと来るのがあるかもしれん。
毎日使い続けていたなら、記憶を呼び戻すチャンスも多くなるからな。
石鹸の匂いは長く残りはしないが、微かに残ることもあるから…。お前が忘れてしまった記憶の中に、それが無いとは言い切れない。
でもって、俺も同じ匂いでピンと来たなら、そいつがフィシスの石鹸なんだ。
前の俺だってフィシスとは何度も会っているから、「これだ」と気付くだろうからな。
もっとも、お前が探してくれんと、俺では見付け出せそうもないが…。
石鹸だったら買ってやるから、順に使って探さないか、と言われたフィシスの香り。フィシスのためにと仲間たちが作った、特別な石鹸と同じ石鹸。
その香りを石鹸を使って探す。お風呂で何度も泡立てる内に、戻って来るかもしれない記憶。
小さな泡が弾けたはずみに、石鹸の香りがフイと鼻腔を掠めた時に。
「楽しそうだね、そのアイデア」
石鹸を買って、毎日使って探すだなんて…。そんなの思い付かなかったよ。
だけど、それなら見付かりそう。…これだったよ、って思う石鹸。フィシスの香りも。
「悪くないだろ? それに、相手は石鹸だからな」
お前を磨くことも出来るし、俺にとっても嬉しい話だ。石鹸に感謝しないとな。
「磨くって…。ぼくを?」
ハーレイ、石鹸で何をするつもり?
「分からないか? 磨くと言ったろ、それに石鹸だぞ」
どれがフィシスの石鹸なのかは知らないが…。
お前がそいつを見付け出すまでの間はもちろん、見付けた後にも石鹸で綺麗に磨くんだ。
俺の大事な宝石を。…お前の身体をせっせと磨いて、ピカピカに磨き上げるってな。
「ちょ、ちょっと…!」
ハーレイがぼくを洗うって言うの、ぼくが自分で洗うんじゃなくて?
毎日使えって言っていたから、ぼくが使うんだと思ってたのに…!
「お前が使うのには違いないだろ、その石鹸で洗うものはお前なんだから」
自分で洗うか、洗って貰うかの所が違うというだけだ。
石鹸の香りは変わりやしないぞ、洗おうが、洗って貰おうが。
それにだ、お前がピンと来た時に、俺がお前と一緒にいたなら話は早い。
風呂を出てから、「これだったよ」と報告する手間が省けるぞ?
俺は一緒にいるわけなんだし、その場で「これか」と確認すればいいんだから。
「んーと…」
石鹸はいいけど、ハーレイとお風呂…。
ぼくが自分で洗うんじゃなくて、ハーレイに洗って貰うんだ…?
なんだか恥ずかしい気がするけれども、きっとハーレイと暮らす頃には大丈夫だろう。とっくにチビではなくなっているし、もう結婚しているのだから。
それに、気になるフィシスの石鹸。白いシャングリラで仲間が作った、天然素材の特別な石鹸。
どんな香りか、どれがフィシスの石鹸だったか、分かるものなら知りたいから…。
いつかハーレイと暮らし始めてから、石鹸のことを思い出したら、二人で買いに出掛けようか。
遠い昔に世界最古の薬局が作った、修道院生まれの処方だという石鹸の復刻版を。
種類が幾つもあるらしいから、順番に一つずつ使ってフィシスの石鹸を探す。
これがそうだ、と思う香りが見付かるまで。毎日石鹸を使い続けて。
「…ハーレイ、ホントにぼくを磨いてくれるんだね?」
お風呂で毎日、石鹸で。…洗って、磨いて。
「もちろんだ。俺に任せておけってな」
フィシスよりも綺麗な、俺の自慢の嫁さんになってくれるように、せっせと磨いてやろう。
石鹸を泡立てて、お前を洗って、それこそ月みたいにピカピカにな。
「ぼくにフィシスよりも綺麗になれって…?」
それは無理だと思うけど…。フィシスの方がずっと綺麗だと思うんだけど…。
「他のヤツらはどうだか知らんが、俺にとっては、お前の方が上だった」
フィシスがミュウの女神だろうが、お前の方が遥かに美人だ。
そう思っていたし、今も変わっちゃいないってな。
チビのお前でも、フィシスよりもずっと、魅力的な俺のブルーなんだから。
お前が大きくなった時には、より美しく磨いてやろう、とハーレイが片目を瞑るから。
石鹸を買ったら、本気で磨いてくれそうだから、頬を染めながらも広がる夢。
ハーレイと結婚した時に覚えていたなら、石鹸を買いに二人で出掛けてゆこう。
今の時代だからこそ誰でも手に入れられる、世界最古の薬局が作ったのと同じ石鹸を。
白いシャングリラでフィシスが使った、特別な石鹸と同じらしいのを。
どれがそうなのか分からないから、端から試して、それでハーレイに磨いて貰う。
フィシスよりも綺麗になれるよう。
ハーレイの自慢のお嫁さんになるよう、毎日、二人でお風呂に入って。
遠く遥かな時の彼方の、フィシスの石鹸を探しながら。
これがそうだ、と思う香りに出会える時まで、ハーレイにせっせと磨いて貰って、幸せな時。
フィシスの石鹸が見付かった後も、きっとハーレイは磨いてくれる。
「俺の大事な宝石だからな」と、お月様みたいにピカピカに…。
特別な石鹸・了
※シャングリラで、ソルジャー専用に作ろうとした石鹸。後に、フィシス専用の石鹸に。
今も同じ石鹸があるというのに、分からない種類。結婚したら、二人で見付けたいですよね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
今年も桜の季節がやって来ました。お花見大好きなソルジャーまでが押し掛けてくる季節です。今日は土曜日、せっかくだからと山桜一杯の名所へお出掛け、もちろん反則技の瞬間移動で。ついでにお花見の場所も穴場を探して飛び込んだので…。
「いいねえ、周りに人がいないというのはね!」
貸し切り最高、と笑顔のソルジャー。今日はキャプテンと「ぶるぅ」も一緒で、私たちはドッサリお弁当を持参。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が腕を奮ってくれて…。
「かみお~ん♪ 今日のお弁当、ちらし寿司だよ!」
それとおかずが一杯なの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ちらし寿司が詰まったお弁当箱が配られ、おかずの方はまた別です。好みのおかずを選び放題、桜を見ながらの昼食タイムですけれど。
「うーん…。ちらし寿司かあ…」
ちらし寿司ねえ、とお弁当箱を見詰めているソルジャー。豪華な具がたっぷり乗っているのに、何か文句があるのでしょうか?
「えとえと…。ちらし寿司、嫌いだったっけ?」
今まで聞いていないんだけど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」も心配そうです。
「他のお弁当がいいんだったら、大急ぎで買って来るけれど…」
今から作ったんじゃ間に合わないし、と言われたソルジャーは。
「そういうわけじゃないんだけれど…。ちらし寿司は大歓迎なんだけど…」
「だったら、素直に喜びたまえ!」
ぶるぅが朝から作ったんだから、と会長さん。
「おかずとセットで頑張ったんだよ、ぶるぅはね! 君のぶるぅの分まで山ほど!」
「かみお~ん♪ ぶるぅのお弁当、美味しいよね!」
もういくらでも食べられそう! と大食漢の「ぶるぅ」はガツガツと食べ始めています。凄い勢いで食べまくりますから、「ぶるぅ」の分は別にしてあるほどで。
「ほらね、ぶるぅを見習いたまえ! 文句をつけない!」
会長さんが睨むと、ソルジャーは。
「文句ってわけじゃないんだけれど…。同じお寿司なら…」
「特上握りが良かったと?」
出来上がってから文句をつけるな、と会長さんがギロリ。特上握りにしたかったんなら、リクエストするとか、持参するとか、それくらいはして欲しいです。用意して貰ったお弁当に文句をつけるだなんて、最低ってヤツじゃないですか…。
豪華ちらし寿司なお弁当に不満があるらしいソルジャー。てっきり特上握りな気分なのかと思ったんですが。
「握り寿司じゃなくって…。巻き寿司なんだよね」
「「「巻き寿司?」」」
それはとっても地味じゃないか、と考えたものの、巻き寿司も色々。とても太くて具だくさんのもあったりしますし、そういうヤツならお花見にだって良さそうで。
「そっか、巻き寿司…。買った方がいい?」
欲しいんだったら行ってくるけど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「巻き寿司だったら、いろんなお店ですぐ買えちゃうし!」
「いいよ、ブルーに睨まれそうだし…。今度御馳走してくれれば」
お花見シーズンも今週でおしまいみたいだから、と言うソルジャー。
「次の土曜日にでもパーティーしようよ、ブルーの家でさ」
「オッケー! パーティーなんだね、巻き寿司で!」
うんと豪華に用意しとくね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大喜び。お客様大好き、おもてなし大好きなだけに、パーティーと聞くと大張り切りで。
「ぶるぅも一緒に来るんでしょ? パーティーだから!」
「…どうだろう? そこはちょっと…」
「そろそろ君のシャングリラが危なそうかい?」
お花見に繰り出し続けたからねえ、と会長さんが。
「ソルジャーとキャプテンが揃ってサボリで、普段だったら留守番しているぶるぅも一緒に来ちゃっているし…。人類軍にでも目を付けられたと?」
「そうでもないけど、ぶるぅは残した方がいいかな」
ハーレイと二人でお邪魔するよ、と早くも決まってしまった予定。明日もみんなで揃ってお出掛け、今年のお花見の総決算ですが、それとは別に巻き寿司パーティー?
「うん、その方がぼくもいいんだよ。明日のお花見はスポンサーもいるし」
「まあねえ、お花見で毟るのはお約束だしね?」
豪華弁当も予約済みだし、と会長さん。明日は最後のお花見ですから、有名店の豪華弁当を予約してあります。支払いはスポンサーという名の教頭先生、それだけに一緒にお花見するわけで。
「ハーレイがいると何かと面倒ではあるかな、確かにねえ…」
それに巻き寿司までは食べ切れないし、と会長さんも納得の様子。豪華弁当と巻き寿司、両方食べても平気なのって、「ぶるぅ」くらいなものですしね?
そんなこんなで、次の土曜日は巻き寿司パーティー。教頭先生もおいでになっての豪華弁当なお花見も済んで、平日は学校なんですけれど。
「巻き寿司パーティーって…。手巻き寿司だよね?」
ジョミー君が確認している、放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「うんっ!」と元気良く。
「パーティーなんだもん、手巻きだよ? それが一番!」
「だよねえ、具だって好きに選べるし…」
いろんなのを組み合わせちゃっていいんだし、とジョミー君が言えば、サム君も。
「それが手巻きの醍醐味ってヤツだぜ、あれもこれもって詰め込んでよ!」
「…詰めすぎると溢れてしまうわけだが?」
海苔からはみ出してしまうんだが、とキース君。
「欲もほどほどに、という教訓ではある」
「キース先輩、手巻き寿司パーティーに教訓なんかは要りませんから!」
法話もしないで下さいよ、とシロエ君がフウと溜息。
「ぼくたちは賑やかにやりたいんです。湿っぽい法話はお断りです」
「法話は別に湿っぽいとは限らんのだが?」
笑いを取るための法話もあるが、と言われましても、法話は法話で。
「そういうのは求めてないんだよ!」
ただの手巻き寿司パーティーだから、とジョミー君。
「それにさ、ブルーも来るんだよ? 法話はするだけ無駄っぽいけど」
「それは言えるぜ、あいつら、絶対、聞いてねえしな」
ついでに教訓にもしやがらねえぜ、とサム君が。
「二人揃って来るってことはよ、もうバカップルに決まっているしよ…。法話どころじゃねえってことだぜ、どう考えても」
「「「あー…」」」
そうだった、と頭痛を覚える私たち。ソルジャーとキャプテンが「ぶるぅ」抜きで来ると噂の手巻き寿司パーティー、繰り広げられる光景が目に見えるようです。
「…二人であれこれ巻くんだな、きっと…」
そして「あ~ん♪」と食べさせ合うんだ、とキース君が呻いて、会長さんも。
「それしか無いねえ、どう考えても…」
覚悟はしておいた方がいいね、と言われなくても酷い頭痛が。今度の土曜はバカップルかあ…。
逃げ場所も無いまま迎えた週末、会長さんの家へと出掛けて行った私たち。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は朝早くから市場であれこれ買い込んだそうで。
「かみお~ん♪ いいお魚とか、いっぱい買って来たからね!」
「海苔もいいのを用意してあるよ、何処かの馬鹿は忘れて楽しみたまえ」
バカップルは見なければ済むわけなんだし、と会長さん。
「いくら「あ~ん♪」とやっていようが、ぼくたちは無視の方向で!」
「当然だろうが、誰が見るか!」
あんな阿呆は御免蒙る、というキース君の言葉に、私たちも「うん」と。バカップルが勝手に盛り上がる分には、見なければいいだけのことですから。
「ぼくたちは食べればいいんですよね」
せっせと巻いて、とシロエ君が言い、マツカ君も。
「手巻き寿司は自分で作るんですから、自然と集中できますよ、きっと」
「そうよね、巻かなきゃ食べられないものね」
まるで話にならないものね、とスウェナちゃん。寿司飯と具とを巻いてる間は視線を他へは向けられませんし、バカップルどころではないわけで。手巻き寿司パーティー大いに結構、せっせと巻こうと考えていたら…。
「こんにちはーっ!」
「お邪魔します」
空間を超えてソルジャー夫妻が登場、二人揃って私服です。これは食べる気満々だな、と思っている間に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「用意、出来たよーっ!」と呼びに来て。ゾロゾロとダイニングに向かって移動で、大きなテーブルにドッサリと…。
「「「わあ…!」」」
凄い、と歓声、幾つもの大皿に盛られた手巻き寿司の具。海苔も寿司飯もたっぷりとあって、「ぶるぅ」がいたって大丈夫そうなほどの量ですけれど。
「…これはなんだい?」
「「「は?」」」
ソルジャーの台詞にポカンと口を開けた私たち。
「なんだい、って…。君の希望の巻き寿司パーティーなんだけど?」
それ以外の何に見えると言うんだ、と会長さんも呆れ顔です。何処から見たって手巻き寿司パーティー仕様のテーブル、お好み焼きとか鍋パーティーとは違いますけど?
先週のお花見で「ちらし寿司より、巻き寿司の方が良かった」と文句をつけたソルジャーの希望で開催が決まった、本日の手巻き寿司パーティー。なのに「なんだい?」って、ソルジャーはいったいどうしたのでしょう?
「あんた、早くもボケたのか?」
そこのブルーより百歳ほど若い筈なんだが、とキース君。
「あんたが希望したんだろうが! 今度の土曜日は巻き寿司がいいと!」
「そうだけど…。でも、これは…」
「何か分からない具があった?」
珍しいのも仕入れて来たし、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「分からなかったら、なんでも訊いてね! ぼくでもいいし、ブルーにだって!」
「…具のことじゃなくて…。ぼくが言うのは巻き寿司で…」
「手巻き寿司だよ?」
これからみんなで巻くんだもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「座って、座って!」と声を掛けてくれて、私たちは席に着いたんですけど。ソルジャー夫妻も並んで座りましたけど…。
「…ブルー、巻き寿司ではないようですね?」
キャプテンが言って、ソルジャーが。
「違うようだねえ…」
注文の仕方を間違えただろうか、とテーブルの上を見回すソルジャー。だから手巻き寿司だと言ってますってば、何が違うと?
「これは自分で巻くヤツだし…。巻き寿司じゃないよ」
巻き寿司と言えばロールケーキみたいなヤツで、とソルジャーは両手で形を作ってみせました。
「こんな風に丸くて、細長くって…。全体に海苔が巻いてあってさ」
「そうです、中身は色々ですが…」
キュウリだったりトロだったり…、とキャプテンも。
「同じ巻き寿司の中に何種類もの具が入ったのもありますが…」
「とにかくロールケーキなんだよ、そういう形で海苔がビッチリで!」
それが巻き寿司! とソルジャーが説明、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が目を丸くして。
「…えっと、普通の巻き寿司だったの?」
手巻き寿司じゃなくて、細長く巻く方のヤツだったの、とテーブルの上をキョロキョロと。その巻き寿司なら分かります。同じ巻き寿司でも、ミニサイズのスダレみたいな巻き簾を使って巻いていくアレのことですね…?
どうやら違ったらしい巻き寿司、手巻き寿司ではなかった巻き寿司。ソルジャー夫妻は「これはこれで美味しいんだけどねえ…」などと言ってますけど、食べるつもりではあるようですけど。
「間違えちゃった…」
巻き寿司の意味が違ったみたい、とガックリしている「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「気にすんなよ、ぶるぅのせいじゃねえし」
普通はこっちの方だと思うだろうし、とサム君が慰め、シロエ君も。
「パーティーって言ったら、手巻き寿司ですよ。間違ってません!」
「ただの巻き寿司では盛り上がらんだろうなあ…」
今一つな、とキース君だって。
「だから手巻きでいいと思うが」
「そうだよ、ぶるぅは頑張って用意してくれたんだし…」
朝から市場にも行ってくれたし、とジョミー君も言ったんですけれど。
「でもでも…。お客様には、おもてなしの心が大切だもん…」
なのに注文を間違えちゃったなんて、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は具材を乗っけたお皿をまじまじと眺め、それからタタッと駆け出して行って。
「「「…???」」」
どうするのだろう、と思っていたら、戻って来た手に大きなお皿。それにお箸も。
「これと、これと…」
それから、これ! とお皿の上に具材をヒョイヒョイ。もしかして、巻こうとしてますか?
「うんっ! お寿司の御飯はまだまだあるから、作ってくる!」
キュウリもあったし、他にも色々、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「みんなは先に食べ始めててよ、すぐに出来るから!」
「でもですね…!」
そこまでしなくていいんじゃあ、とシロエ君が止めに入りました。
「ただの我儘なんですよ? 巻き寿司の方がいいというのは!」
「そうだぜ、また今度ってことにしとけよ」
ぶるぅも一緒に手巻き寿司しようぜ、とサム君が誘ったのですが。
「ううん、おもてなしは大切なの!」
ちょっと待っててねー! と飛び出して行ってしまった「そるじゃぁ・ぶるぅ」。帰って来るのを待とうかとも思いましたが、それだと逆に気を遣わせてしまいます。申し訳ない気もするんですけど、ここはお先に頂いてますね~!
手巻き寿司の具と、家にあるらしい食材を使って巻き寿司を作りにキッチンへ出掛けた「そるじゃぁ・ぶるぅ」。小さな子供に作らせておいて自分たちは先に食べるというのも酷いですが。
「ぶるぅはあれでいいんだよ。気にしてないから!」
遠慮しないで食べて、食べて! と会長さん。
「巻き寿司を作るのも大好きだしねえ、ぶるぅはね。それに食事もちゃんとしてるし」
「「「え?」」」
「手巻き用の具材でお刺身気分! ちょっと御飯に乗せたりもして!」
海鮮丼風に楽しんでるから、という会長さんの言葉で一安心。巻き寿司をギュッと一本巻いたら、海鮮丼を食べているとか。
「それならいいか…。海鮮丼も美味いしな」
俺たちも手巻き寿司を楽しもう、とキース君が言うまでもなく、何処かの誰かが。
「はい、ハーレイ! 君、こういうのも好きだろう?」
「ありがとうございます! では、あなたにも…」
こんな感じで巻いてみました、と差し出すキャプテン、「あ~ん♪」とやってるバカップル。
(((馬鹿は見ない、見ない…)))
あっちを見たら負けなのだ、と自分の手巻き寿司を巻くのに集中、食べる時にはバカップルはサラッと無視しておいて。
「美味しいですねえ、流石はぶるぅの仕入れですよ」
活きがいいです、とシロエ君が絶賛、ジョミー君も。
「甘海老なんかもう、プリプリだよ? これ、さっきまで生きてたんだよね?」
「もちろんさ。ぶるぅはそれしか買わないよ」
生簀で泳いでいるのが基本、と会長さん。
「他の魚も生簀か活け締め、イカなんかも獲れたてに限るってね!」
それにお米もこだわりのヤツを炊いてるし、という解説に聞き入っていたら。
「かみお~ん♪ 巻き寿司、お待たせーっ!」
こんな感じで作って来たよ! と飛び跳ねて来た「そるじゃぁ・ぶるぅ」。大皿の上に盛られた巻き寿司色々、太さも色々。
「すげえな、そんなに作ったのかよ!?」
「時間、殆どかかってませんよね?」
それにとっても美味しそうです、とシロエ君。綺麗に切られた巻き寿司の断面は彩り豊かです。何種類ほど作ったんでしょうね、ホントに仕事が早いですってば…。
ソルジャーのご注文の巻き寿司を盛り付けた大皿がテーブルの真ん中にドンッ! と置かれて、取り皿も。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「沢山食べてね!」とニコニコ笑顔で。
「足りなかったら、また作るから! すぐ作れるから!」
どんどん食べて! と言われたソルジャーですけど。
「…これってさあ…」
違うんだけど、と見ている大皿の上。今度こそ本物の巻き寿司が出たのに、まだ文句が?
「何処が違うと言うのさ、君は!」
巻き寿司だろう! と会長さん。
「ぶるぅが頑張って作ったんだよ、これの他にどういう巻き寿司があると!?」
それともアレか、と会長さんは眉を吊り上げて。
「御飯の方を外側にして巻くヤツの方を言うのかい、君は!?」
「…そうじゃないけど…。巻き方はこれでいいんだけれど…」
「具材の方なら、文句を言わない! 家にあるものでこれだけ出来たら上等だから!」
干瓢とかは直ぐには戻らないんだから、と会長さんが言う通り。短時間では戻らない上に、味付けだってしなきゃ駄目ですし…。入っていなくて当然でしょう。
「もっと色々欲しいんだったら、買いに行くしかないってね!」
「…そういう意味でもなくってさ…」
「じゃあ、何だと!?」
文句があるならハッキリ言え! と怒鳴り付けられたソルジャーは。
「…この巻き寿司は切ってあるから…」
「「「はあ?」」」
切るも切らないも、巻き寿司はこうやって盛り付けるもの。各自が一切れずつ取って食べるのが巻き寿司の常識、それでこその巻き寿司パーティーですが…?
「…でも、切らないのもあるだろう?」
「それは単なるお店の方針!」
家でお好きにお切り下さい、という店だから、と会長さん。
「好みの厚みというのもあるしね、その手のお店もありはするけど…」
「えっとね、巻き寿司、家で切るのは難しいらしいよ?」
ぼくはなんとも思わないけど、失敗しちゃう人が多いらしいの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。そういう話は聞いてます。寿司飯が上手に切れないだとか、形が潰れてしまうとか。上手に切れない人にとっては、切ってある方が断然、有難いですよね?
「そるじゃぁ・ぶるぅ」が切って持って来た巻き寿司に文句があるらしいソルジャー。切っていない方が迷惑だろうと誰もが考えたのですけれど…。
「そりゃあ、そうかもしれないけれど…。ぼくが食べたい巻き寿司はさ…。切ってないから」
「「「え?」」」
ソルジャーと言えば不器用が売りで、巻き寿司なんかを綺麗に切れるとは思えません。それなのに切っていないのが好みって、まさかキャプテンが切るのでしょうか?
「切ってないって…。だったら、誰が切ってるのさ?」
会長さんもそこを突っ込みましたが。
「誰も? ぼくは切らないし、ハーレイもね!」
「切らないでどうやって食べているわけ?」
巻き寿司なんかを、と会長さんが更に重ねて尋ねると。
「そのままに決まっているだろう! 巻き寿司と言ったら、丸かじりだよ!」
恵方に向かって丸かじりだ、と飛び出した台詞。
「「「恵方!?」」」
恵方と言ったらその年の縁起のいい方向。そっちに向かって巻き寿司を丸かじりするとなったら、恵方巻とか言うような…。節分限定品だったような…。
「そうだよ、こっちの世界の節分のだよ!」
あの日は何処でも切っていない巻き寿司を売っているよね、とソルジャーは笑顔。
「ぼくもハーレイも、あれが好きでねえ…。ただねえ、あれはさ…」
「食べるのがとても難しいのです、私もブルーも未だに上手く食べられないのです」
もう長いこと頑張り続けているのですが、とキャプテンが補足。
「節分の度にブルーと挑戦しているのですが…。今年も頑張ったのですが…」
「難しいって…。相手は恵方巻だよね?」
ぼくもぶるぅも食べるけど、と会長さん。
「あれってそんなに難しいかな、君たちはアレで苦労をしているかい?」
どう思う? と訊かれましたから。
「俺は特に…。太巻きに挑むというなら別だが」
キース君が答えて、ジョミー君も。
「途中で誰かに話し掛けられて、どうしても返事をしなくっちゃ、っていうのでなければ…」
「いけるよな、普通?」
困らねえぜ、とサム君が。恵方巻なら、自分に合ったサイズを選べば楽勝ですけど?
節分に食べる恵方巻。それが難しいと言うソルジャー夫妻ですが、巻き寿司がいいと言い出した原因はそれなんでしょうか、食べるコツを習いたかったとか?
「そう、それなんだよ! この機会にと思ってさ!」
こっちの世界じゃ恵方巻は常識みたいだし、とソルジャーが膝を乗り出して。
「ぼくたちの世界に恵方巻は無いけど、君たちには馴染みの食べ物だしね!」
「…恵方巻にはコツも何も無いと思うけど?」
恵方に向かって黙って食べるというだけで、と会長さん。
「さっきジョミーが言ってたみたいに、喋っちゃったら終わりなだけでさ」
「そういうことだな、黙って食うのがお約束だ」
喋ったら福が逃げるからな、とキース君が言うと、ソルジャーは。
「ぼくたちだって、それは知ってるんだよ! でも、それ以前に食べる方がさ…」
「恵方に向かって丸かじりの段階で躓くのですが…」
本当にどうにもなりませんで、と嘆くキャプテン。
「今年こそは、と気合を入れても、失敗ばかりで…」
「そうなんだよ! 今年も福を逃したんだよ!」
丸かじりが出来なかったから、とソルジャー、ブツブツ。
「だからさ、ちらし寿司を見て思い出したついでに、恵方巻のプロに教わろうと!」
「プロって言うのかな、こういうのも…」
単に食べてるだけなんだけど、と会長さんが呆れて、シロエ君も。
「節分のイベントっていうだけですよね、豆まきとセットで」
「俺もそう思うが、そういう文化が無い世界となればコツが要るのか…?」
たかだか恵方巻なんだが…、と首を捻っているキース君。
「黙って食ったらそれで終わりだぞ、コツと言うより根性か辛抱の世界じゃないのか?」
「ああ、辛抱ね! …それは足りないかもしれないねえ…」
ぼくたちの場合、とソルジャーがキャプテンに視線を遣ると。
「その可能性はありますねえ…。辛抱ですか、それと根性だと」
「根性は要るぜ? デカいのを食おうと思った時はよ」
ギブアップしたら終わりだからよ、とサム君が言うと、ソルジャーは。
「うん、君たちはやっぱりプロみたいだねえ! 是非ともコツを習いたいんだけど!」
「私からもよろしくお願いします。お手本を見せて頂けたら、と…」
よろしく、と揃って下げられた頭。恵方巻を食べるお手本ですって…?
手巻き寿司パーティーを繰り広げる筈が、どう間違ったか恵方巻。切った巻き寿司では話にならないとソルジャーが主張するだけに…。
「分かった、とりあえず手巻き寿司パーティーが終わってからっていうことで…」
でないと色々と無駄になるし、と会長さんが。
「今も食べながら話してるけど、巻き寿司も出たし…。とにかく、これは食べておかないと」
「まったくだ。手巻き寿司はネタが新鮮な内だし、巻き寿司も出来立てが美味いしな」
作り置きでは話にならん、とキース君も。
「これだけあるんだ、ちゃんと食わんとぶるぅに悪い」
「そうですよ。巻き寿司なんかは、わざわざ作って貰ったんですし…」
恵方巻の件は食べてからにしましょう、とシロエ君が言った途端に、ソルジャーが。
「ありがとう! お手本を見せてくれるんだね?」
「えっ? え、ええ…。それはまあ…」
どうしてもということであれば、とシロエ君。
「でも、参考になるんでしょうか? 食べるだけですよ、巻き寿司を?」
「だけど、丸かじりをするんだろう? そこが大切!」
プロならではのコツを是非教わりたい、と繰り返すソルジャー。
「辛抱と根性だったっけ? それを聞けただけでも大いに収穫だったからねえ、そうだよね?」
ねえ? と話を振られたキャプテンは。
「ええ、本当に。…素晴らしい話を伺えました、来て良かったです」
ありがとうございます、と深々と頭を下げるキャプテン。なんとも不思議でたまりませんけど、ソルジャー夫妻は恵方巻に深い思い入れがあるようで…。
「恵方巻ねえ…。そこまで言うなら、やるしかないねえ…」
食べ終わってお腹が落ち着いたら、と会長さん。
「コツがどうこうと言ってるからには、練習なんかもするんだろうし…」
「練習もさせて貰えるのかい? 有難いねえ、ねえ、ハーレイ?」
「そう願えると嬉しいです。…恵方巻は私たちの念願ですから」
どうかコツを、とキャプテンにまでお願いされると断れません。もう恵方巻のお手本を見せるしかなくて、そうなってくると…。
「ぶるぅ、後で巻き寿司を二十本ほど…。具は適当なのでかまわないから」
「オッケー! 恵方巻にいいサイズのヤツだね!」
分かったぁ! と会長さんの注文に飛び跳ねている「そるじゃぁ・ぶるぅ」。なんだって春に恵方巻なんていうことになるのか、お花見シーズンもとっくに終わりましたが…?
こうして何故だか恵方巻。手巻き寿司と巻き寿司でお腹一杯になった私たち、午後のおやつは元から要らない気がしてましたが、おやつどころか…。
「…恵方巻は節分なんだがな…」
節分の次の日が立春でだな、とキース君が巻き寿司の山を眺めています。切られていない巻き寿司が二十本はあって、私たちの技の出番待ちで。
「節分の次の日からが春でしたよね?」
その春はとっくに真っ盛りですが、とシロエ君。
「桜の季節が終わったからには、春も半分過ぎていそうな気がするんですが…」
「じきに立夏だよ、ゴールデンウイークが終わったらね」
そしたら暦の上では夏の始まり、と会長さんが壁のカレンダーへと目を遣って。
「…今のシーズンになって恵方巻なんて、正気の沙汰とも思えないけどねえ…」
「かみお~ん♪ ちゃんと美味しく作ったよ!」
丸かじりしやすい中身にしたの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「太さもリクエストを聞いて作ったし、みゆもスウェナも大丈夫だよね?」
「「…大丈夫だけど…」」
この太さなら充分いけるけど、と返事したものの、恵方巻。季節外れにもほどがあります、ソルジャー夫妻は期待に満ちた瞳で見詰めていますけど…。
「…仕方ない、食うか」
揃っていくぞ、とキース君が合図し、恵方巻を持った私たち。
「今年の恵方はあっちでしたか?」
シロエ君が確かめ、会長さんが。
「それで合ってる。それじゃ、揃って…」
「わぁーい、みんなで恵方巻ーっ!」
黙って、黙って! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が叫んで、総員、ピタリと沈黙。恵方巻は恵方に向かって無言で食べること。これが大切、これが鉄則。
「「「………」」」
モグモグ、モグモグ。節分の夜じゃないんですから、本物の恵方巻とは違いますけど、お手本はきちんと真面目にやらなきゃいけません。喋ったら駄目、喋ったら駄目…。
「よし、食ったぞ!」
こんな感じだ、とキース君が一番、他のみんなも次々と。スウェナちゃんも私も「そるじゃぁ・ぶるぅ」も食べ終えましたけど、ソルジャー、コツは分かりましたか?
「えーっと…」
大切なのは根性と辛抱、と呟くソルジャー。そうです、それが大切です。食べてる途中でどんなに可笑しいことがあっても笑っては駄目で、巻き寿司の量がどんなに多くても丸ごと一本食べないと御利益は貰えないもの。
「…根性と辛抱は分かったかなあ、今ので大体」
「そうですね。…皆さん、真面目にお手本を見せて下さいましたし」
とても勉強になりました、と頷くキャプテン。
「ただ…。私たちの積年の課題をクリアするには、もう一つ、恵方の問題が…」
「そうだっけねえ! そこも外せないポイントだよねえ、本当に」
恵方を向かなきゃ意味が無いし、とソルジャーが。
「…二人揃って恵方を向いて食べたいんだけどね、どうすれば食べられるんだろう?」
「「「はあ?」」」
どうすればって…。たった今、みんなで恵方に向かって食べてましたよ、恵方巻?
「二人って…。君たち二人のことかい、揃ってというのは?」
会長さんが訊くと、ソルジャーは「うん」と。
「これがどうにも難しくって…。未だにクリア出来そうもなくて」
「難しいって…。見本を見ただろ、二人どころか九人も恵方を向いてたけれど?」
余所見さえしなければいける筈! と会長さんが恵方を指して。
「あっちなんだ、と恵方を向いたら余所見をしない! そこがポイント!」
「それしか無かろう、あんたたちの場合は余所見したいかもしれんがな」
バカップルだけに隣が大いに気になるとか…、とキース君。
「しかし、恵方巻をきちんと食べたいのなら、だ。余所見は駄目だな」
「そうです、せめて食べ終わるまでは我慢ですよ」
根性と辛抱で耐えて下さい、とシロエ君も言ったのですけれど。
「…耐えるだけなら、なんとかなりそうなんだけど…」
「ええ。そちらの方は、根性と辛抱で持ち堪えることも出来そうですが…」
私も努力してみますが、とキャプテンが。
「ですが、二人で恵方を向くというのが…。もう本当に積年の課題で…」
いったいどうすればいいのでしょう、と悩みまくられても困ります。解決するには辛抱あるのみ、余所見をしないことが大事だと思いますけどねえ…?
恵方巻を食べるには恵方に向かって黙々と。食べ終えるまでは沈黙、それが鉄則。巻き寿司を一本食べるだけの時間も我慢出来ないのがバカップルというヤツなのでしょうか。会長さんも両手を広げてお手上げのポーズで。
「…食べる方は耐えられても、恵方を向けないって言われてもねえ…」
どれだけ辛抱が足りないのだ、と呆れ果てた顔。
「それだと今から練習あるのみ、ぼくたちが応援してあげるから頑張るんだね!」
練習用の恵方巻ならそこに沢山あるんだから、と指差す巻き寿司。
「節分じゃないから、恵方巻とは呼べないけれど…。それを二人で食べて練習!」
「…応援をしてくれるのかい?」
「二人きりでも気が散ってるなら、いっそエールを送った方がマシそうだからね!」
さあ持って! と言われたソルジャー夫妻は、恵方巻をそれぞれ持ちましたけれど。
「はい、食べて! 余所見しないで、恵方はあっち!」
会長さんが示した方向、それを見ているソルジャー夫妻。
「…どうする、ハーレイ?」
「コツは教えて頂きましたし、練習してもいいのですが…。でもですね…」
いささか恥ずかしくなって来ました、とヘタレならではの発言が。
「応援して下さるのは嬉しいのですが、なにしろ私は…」
「分かってるってば、見られていると意気消沈だというのはね! でもねえ、これは恵方巻!」
本当に本物の巻き寿司だから、と促すソルジャー。
「節分の夜とは違うわけだから、ここは思い切って頑張ってみる!」
「は、はい…。ですが、恵方を向く件は…」
「誰かが教えてくれると思うよ、これだけのプロが揃っていればね!」
「そ、そうですね…。では、恥ずかしさは根性で耐えるということで…」
頑張りましょう、と恵方巻をグッと握ったキャプテン。
「それで、恵方はあなたが向かれる方向で?」
「決まってるじゃないか、毎年、そういう約束だろう!」
恵方を向くのはぼくが優先! と妙な台詞が。優先も何も、二人揃ってそっちを見たらいいだけなのでは…、と誰もが思ったのですけれど。
「では、ブルー。…ここは失礼して…」
「うん、練習をしないとね!」
ゴロリと絨毯に転がったソルジャー、恵方巻、寝ながら食べるんですか…?
いったい何をする気なのだ、と驚いてしまったソルジャーのポーズ。寝転んで恵方巻を食べようだなんて、喉に詰まったらどうするのでしょう?
「…どうかと思うよ、その姿勢はね!」
気が散るわけだ、と会長さんが文句をつけました。
「恵方巻をいつ食べているのか、それで大体分かったってば! そんな時間に食べる方が無理!」
ベッドに行く前に食べたまえ! という声で納得、ソルジャー夫妻は大人の時間の真っ最中に恵方巻を食べていたようです。それでは二人で恵方を向くどころか、気が散りまくりになって当然で。根性と辛抱が必要なわけだ、と誰もが溜息、超特大。けれど…。
「ちょっと待ってよ、まだこれからが大切で!」
「そうなのです。ブルーが恵方を向くわけですから、私の方がですね…」
こんな感じになるのですが、とソルジャーの上に四つん這いになってしまったキャプテン。恵方巻を持った手は床から離れてますけど、他の手足で身体を支えて。
「「「………」」」
どういうポーズだ、と頭の中に乱舞している『?』マーク。キャプテンの頭が向いている方向はソルジャーとは真逆、ソルジャーの足の方向に頭があるわけで。
「…こうです、この状態で毎年、恵方巻をですね…」
「ハーレイ、百聞は一見に如かずだってば! ここでみんなに見て貰わないと!」
「そうでした…。お知恵を拝借するには、まず食べませんと…」
黙って恵方巻でした、とモグモグと巻き寿司を丸かじりし始めたキャプテン。ソルジャーの方も食べてますけど、ホントにどういう食べ方なんだか…。って、会長さん?
「ちょっと訊くけど!」
そこの二人! と、会長さんが仁王立ちに。
「「………」」
返事は返って来ませんでした。恵方巻タイムだけに、当然と言えば当然ですが。
「黙っているのは分かるんだけどね、君たちが毎年食べているのは本当に恵方巻なんだろうね?」
「「「え?」」」
恵方巻って…。それ以外の何を食べるんですか?
「…よし、食べた!」
「ええ、食べられましたね!」
やはり根性と辛抱が大切でしたね、と笑顔のキャプテン。ちゃんと恵方巻は食べてましたけど、キャプテン、恵方を向いていませんでしたよ、ソルジャーと逆方向でしたし…。
「…こんな感じになっちゃうんだけど…。揃って恵方を向ける方法って、何かありそう?」
恵方巻のプロに教えて欲しい、と起き上がって来たソルジャーとキャプテン。
「食べる間は辛抱っていうのは分かったんだよ、そこは耐えるから!」
「私も根性で耐えてみせます。今もなんとかなりましたから」
恵方巻を無事に食べ終えられましたから、とキャプテンは自信を持った様子で。
「ですが、ブルーが恵方を向いている限り、私の方は逆を向くしかないわけでして…」
「そこを解決したいんだよ! ぼくとハーレイ、二人揃って恵方を向いて食べたいからね!」
プロの意見を是非よろしく、とソルジャーの瞳に期待の光が。
「それさえ分かれば、来年からは最高の恵方巻だから!」
「ぼくはさっきも訊いたけどねえ、もう一度訊かせて貰っていいかな?」
本当に恵方巻を食べているんだろうね、と会長さん。
「まさか、恵方巻とは全く違う物を食べてはいないだろうね…?」
「「「へ?」」」
違う物って…、と首を傾げた私たちですが、ソルジャーは。
「分かってくれた!? ぼくたちの節分の恵方巻はね、もう特別で!」
「そうです、お互い、一本ずつを大切に食べているわけでして…」
ついついウッカリ声が零れてしまう辺りが問題でして…、とキャプテンの頬が気持ち赤めで。
「けれど、そちらは根性と辛抱で耐えればいいと教わりましたし…。後は恵方が問題で…」
「そうなんだよねえ、ハーレイも恵方を向ける方法って無いのかな?」
節分の夜はシックスナインで恵方巻! とソルジャーは高らかに言い放ちました。
「「「…しっくすないん…?」」」
それって69の意味なんでしょうか、69って数字がどうしたと…?
「出て行きたまえ!!!」
やっぱりそうか! と激怒している会長さん。ソルジャー夫妻は何をやらかしたと?
「待ってよ、恵方の問題がまだ…!」
「クルクル回せば解決するだろ、ベッドごと! ぶるぅに回して貰うとか!」
「ああ、ぶるぅ! それはいいねえ、回して貰えばいいかもねえ!」
一瞬ずつでもお互いに恵方、とソルジャーが叫んで、キャプテンが。
「それは考えもしませんでしたね、回して貰えばお互いに恵方を向けますねえ…!」
プロに相談した甲斐がありました、と大喜びのキャプテン、ソルジャーと固く抱き合ってキス。バカップル的には何かが解決したようですけど、恵方を向くのにベッドを回すって…?
「…あいつらは何がしたかったんだ?」
恵方巻の残りを持って帰りやがったが、とお悩み中のキース君。私たちだって分かりません。ソルジャー夫妻が恵方巻を食べる時のポーズも、シックスナインとかいうものも。
「…何だったんでしょう、節分の夜はシックスナインだそうですが…」
シロエ君が顎に手を当て、サム君が。
「分かんねえけど、ブルーがブチ切れていたってことはよ…」
「ヤバイ話だって意味だよねえ…?」
恵方巻の何処がヤバイんだろう、とジョミー君。本当に何処がヤバイんでしょう?
「分からなくてもいいんだよ! 君たちは!」
どうせ理解は出来ないから、と会長さんが溜息をついて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「かみお~ん♪ 来年の節分、ブルーたちも呼ぶ?」
恵方巻、うんと沢山作るから! と言ってますけど、会長さんは「呼ばなくていい!」とバッサリ切って捨てました。と、いうことは…。
「…恵方巻ってヤツは、あいつらの世界じゃ猥褻物か?」
キース君の問いに、会長さんが。
「あの二人に関してはそういうことだね!」
今日の記憶は手放したまえ、と言われたからには、忘れた方がいいのでしょう。ソルジャー夫妻が節分の夜に食べる恵方巻、来年からは「ぶるぅ」がベッドを回すとか。乗り物酔いしないといいんですけどね、年に一度の恵方巻ですし、美味しく食べたいですもんね…?
お寿司の好み・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
ちらし寿司より巻き寿司なのだ、というソルジャーの注文。しかも切らずに丸ごとだという。
恵方巻の食べ方の指南を希望はいいんですけど…。こんな結末、忘れるしかないですよね。
次回は 「第3月曜」 11月15日の更新となります、よろしくです~!
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こちらでの場外編、10月といえば行楽の秋で、何処かへお出掛けしたい季節で…。
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