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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(えーっと…)
 どれにしようか、とブルーはズラリと並んだ見本を眺めた。
 喉が乾いた昼休み。食堂のお茶もいいのだけれども、たまには自動販売機、と。
 食堂の中、壁際に置かれた自動販売機。カップに注がれてくるタイプではなくて、缶やボトルが出て来るタイプ。熱い缶やら冷たい缶やら、そこは好みで選んで買える。
 食堂の給茶機のほうじ茶だったら無料だけれど。水も無料で、紅茶やコーヒーはお金さえ払えば買えるけれども、そうした飲み物では物足りないという生徒のための自動販売機。
 何種類かの紅茶とコーヒー、それから様々な種類のジュース。リンゴにオレンジ、野菜ジュースだって。どれを買おうかと直ぐに選べない、カラフルな缶やボトルたち。



(どれも美味しそう…)
 お目当てのジュースを決めていたわけではなかったから。缶やボトルの果物の絵やら、見た目の色やらで悩んでしまう。オレンジジュースを買うにしたって、果肉の入った粒入りを買うか、果汁だけを詰めたジュースを買うか。
(んーと…)
 まずはお金、とコインを入れて、また悩んで。リンゴにしようか、それともオレンジジュースにするかと眺めている内に、ふと目に留まった真っ赤なジュース。宝石のように澄んだ赤。どうやらベリーのジュースらしくて、ビタミン豊富だと書いてあるから。赤い色もとても気に入ったから。
 これにしよう、とボタンを押したら、出て来たジュース。ボトルに入ったベリーのジュース。
 ゴトン、と落ちて来たそれを自動販売機からヒョイと取り出す、当たり前の風景なのだけど。
 滅多に買わない自動販売機でも、学校生活の中では馴染みの光景なのだけれども。
 ジュースのボトルを手にした途端に、その赤い色が遠い記憶を連れて来た。前の自分の瞳の赤。その赤がいいと、ミュウのお守りだと、シャングリラの仲間たちの制服についていた石。
 あの色なのだ、と思ったら。同じ赤だと、あの石のような色のジュースだと思ったら…。



(選んで買えた…!)
 たちまち一変した景色。目の前の自動販売機。
 沢山並んだジュースの中から、あれこれ迷って選んで買えた。これ、とボタンを押すだけで。
 誰にも注文しなくても良くて、ほんの気まぐれな思い付きだけで。リンゴかオレンジを買おうと眺めていたのに、こっちがいいと方向転換、まるで関係無いベリーのジュース。
(シャングリラだったら出来ないよ、これ…)
 どれにしようかと迷いは出来ても、ジュースを注いでくれる厨房のスタッフを前に延々と悩めば迷惑になるし、決めてからしか頼めない。ましてジュースが注がれ始めてから別のジュースが目に留まったって、そちらにしたいと変えられはしない。あまりに我儘すぎるから。
 ところが、今の自分ときたら。
 自動販売機の前で悩んで、コインを入れてもまだ悩んで。最初に思っていたジュースとはまるで違ったジュースを買った。こっちがいいと、これにしたいと、ボタンをチョンと押すだけで。



(なんだか凄い…)
 とてつもない自由を手にした気がした、自動販売機でジュースを買ったというだけなのに。
 喉を潤すための飲み物を買いにやって来ただけなのに。
(前のぼくには凄い贅沢…)
 どれを飲もうかと好きなだけ悩んで、挙句の果てに思い付きだけで方向転換、これに惹かれたと選択肢の中に無かった飲み物、ベリーのジュース。リンゴかオレンジを買うつもりが。
 もしもシャングリラでやっていたなら、どれほどの迷惑をかけるだろう。前の自分がジュースを飲もうと食堂に出掛けて、リンゴかオレンジかと悩み始めたら。
(…きっと、係がグラスを持ったままで待ってるんだよ)
 注文が決まれば直ぐに注げるよう、ジュース用のグラスを用意して待つ。やって来たのが自分でなくても、他の仲間であったとしても。
(やっと決まって、これって言って…)
 リンゴかオレンジ、どちらかに決めて、それを伝えて。係が注ぎ始めた途端に、それとは違ったジュースに目を留め、「あっちがいい」と言おうものなら、もう迷惑としか言いようがなくて。
(…ジュースは貰えると思うけど…)
 目的のジュースは飲めるだろうけれど、注ぎかけていたジュースはどうなるだろう?
 元の容器に戻せはしないし、誰かが飲むしかないのだろう。それを入れようとしていたグラスも一個余計に洗うことになって、たった一人の気まぐれのために厨房の手間が二重、三重。
 だからシャングリラで出来はしなかった、あれこれ迷えはしなかった。
 前の自分も、他の仲間も、ズラリと並んだジュースを前にして好きなだけ迷えはしなかった。
 これと決めてから変える気まぐれなどは論外、そんな自由は何処にも無かった。閉ざされた船の中では仲間に迷惑をかけないことが大切、船の常識だったから。



(いっぱい悩んで、最後は気まぐれ…)
 なんと自由な世界だろうか、と自動販売機をしみじみと眺め、更なる幸せに気が付いた。
 さっきチャリンと放り込んだコイン、ジュースを買うために投げ入れたコイン。財布から出して入れた一枚、ジュースを買うのにピッタリのコイン。
(…ジュース、コインで買えちゃった…!)
 今の自分には当たり前すぎて、不思議でも何でもないけれど。自動販売機はそういう仕組みで、コインを入れれば商品がポンと出て来るけれど。
(前のぼくだと、コインなんかは…)
 ジュースを買うのに使いはしないし、第一、シャングリラにコインは無かった。
 自動販売機だって何処にも無かった、コインの無い世界に自動販売機があるわけがない。人類の世界にはあったけれども、人類は使っていた筈だけれど。



(使ったことない…)
 前の自分は自動販売機はおろか、コインも使ったことが無かった。たった一枚、ジュースを買うだけの値段のコインも。
 シャングリラにコインは無かったから。あの白い船にコインは必要無かったから。
 アルテメシアに落ち着いてからは、新しい仲間の救出を手掛ける潜入班が出来たけれども。船を離れて地上で暮らすこともあった彼らだけれども、彼らもコインは使わなかった。
 マザー・システムが管理する通貨は、何かと足が付きやすいから。何処から来たのか、ルートを特定しやすいから。
 そうならないよう、潜入班はデータを誤魔化し、様々な物資を入手していた。地上で暮らすのに必要なものや、場合によっては家を丸ごと。
 データはサイオンで改ざんしたから、ある意味、サイオンの通貨とも言える。目には見えない、幻のコインや紙幣たち。昔話の中に出て来るキツネなどが使う葉っぱのお金と似たようなもの。
 とはいえ、一応、コインを使ったと言えるかもしれない潜入班の仲間たち。
 潜入活動が長引いた時は、自動販売機でジュースを買ったりしたかもしれない。目には見えないコインを一枚チャリンと投げ入れ、ボタンを押して。人類がそうしていたように。



(でも、ぼくは…)
 使ったことがなかったお金。たった一枚のコインでさえも。
 前のハーレイはアルテメシアを陥落させた後に人類の世界の通貨を手に入れ、仲間たちに配ったらしいけれども。
 前の自分が奪った物資に紛れていた通貨を捨てずに保管していたハーレイ。それらが高い値段で人類に売れて、前のハーレイは奪うことなく沢山の通貨を見事に手にした。
 ジョミーが供出にこだわったお蔭で通貨の出番はまるで無かったから、仲間たちが自由に使えたお金。ミュウの支配下に入った星での息抜きの時間に、食事や、あるいは買い物などで。
 仲間たちはきっと、自動販売機にも出会っただろう。コインを入れてみたことだろう。その前で何を買おうか悩んで、ボタンを押していたのだろう。
 さっき自分がやっていたように、あれこれ悩んで、コインを入れた後にも迷って。
 そう、地球へと向かった仲間たちは使っただろうコインと、好きなだけ悩んでジュースが買える自動販売機。コインを一枚放り込むだけで、ポンとジュースが出て来る機械。
 けれども、前の自分は一度も使わなかった。コインも、自動販売機も。



(前のぼくには無かった幸せ…)
 コインを使えることも幸せ、誰にも迷惑をかけることなく好きなだけ悩んでジュースを買えるというのも幸せの証。
 たったそれだけで幸せになれる、コインを一枚入れて自動販売機が使えるだけで。選べる幸せ、買える幸せ、なんと自由で幸せな世界なのだろう。自動販売機が使える世界。そこに生まれて来た自分。青い地球の上に生まれ変わって、コインをチャリンと投げ入れた自分。
(ぼくって、幸せ…)
 うっとりと自動販売機を見詰めていたら。
 真っ赤なベリーのジュースのボトルを手にして、暫し感慨に浸っていたら。
「おーい、ブルー!」
 何してんだよ、とランチ仲間が呼んでいる声。食堂のテーブルで待っている友人たち。その声でハッと我に返って、ジュースのボトルを握って駆け出した。
 待たせてごめんと、すぐに行くよ、と。



 それきりすっかり忘れてしまった、自動販売機で感じた幸せのこと。
 学校が終わって家に帰って、おやつの時間に母が淹れてくれたお茶、熱い紅茶。湯気が立ち昇るカップを持ったら思い出した、自動販売機。
 あれにも紅茶が入っていた。コインを入れればゴトンと出て来る紅茶の缶が。ミルクティーも、レモンティーも、熱いのも、冷たいのも揃っていた自動販売機。
 紅茶は家でも飲めるけれども、自動販売機にズラリと並んでいた飲み物は…。
(家では飲めないヤツも沢山…)
 買って来ないと無い飲み物が幾つもあった。お茶のように簡単には出来ない飲み物。
 自分が買った真っ赤なベリーのジュースも家では出来ない、確か五種類のベリーを煮込んだものだったから。ビタミンが壊れないようサッと煮込んで作ったジュースが詰まったボトル。
(ママも作れるとは思うけど…)
 それだけのベリーを集めたのなら、ジュースよりもお菓子の方がいい。断然、お菓子。
 だから自動販売機のジュースもいいと思うし、好きに選べるのがまた嬉しい。
 でも…。



(お茶は淹れるのが一番だよね)
 熱いお湯とポットがあったら淹れられる紅茶、コーヒーだって熱いお湯を沸かせば淹れられる。自動販売機で買うのも悪くはないのだけれども、きっと淹れるのが一番美味しい。
(学校のだって…)
 自動販売機にある紅茶やコーヒーは、食堂で飲めない生徒が買ってゆくのだろう。グラウンドで活動しているクラブの生徒や、帰り道に喉が渇きそうな生徒。
 食堂で淹れてくれる紅茶やコーヒーも、値段は同じなのだから。自動販売機と同じ値段を払えばカップに入って出て来るのだから、食堂で飲むならそっちになる筈。淹れ立ての味を選ぶ筈。
 それを思えば、自動販売機は無くて淹れるしかなかったシャングリラは。
 食堂でも、それに休憩室でも、紅茶やコーヒーは淹れるしかなかったあの白い船は…。



(幸せだったのかな?)
 シャングリラではお茶は淹れるものだった、自動販売機で買えはしなかった。
 好きな時にコインで買えない代わりに、淹れ立ての味が楽しめた。その場で飲むなら、冷めない間に飲むのだったら、紅茶もコーヒーも淹れ立てだったシャングリラ。
 香り高くはない紅茶でも、代用品だったコーヒーでも。
(…美味しかったとは思うんだよ…)
 いつも淹れ立てを楽しめたのだし、シャングリラは幸せな船だったろうか。
 それとも自動販売機が置かれた船だった方が、皆は幸せだったのだろうか。
 自動販売機が置いてあったら、誰かに淹れて貰わなくても紅茶もコーヒーも買うことが出来た。他の飲み物も入れておいたら、その前で楽しく悩んで買えた。
 紅茶を買うつもりでコインを入れても、オレンジジュースにしようだとか。リンゴかオレンジか迷った挙句に、やっぱり紅茶だと方向転換、ボタンを押しても誰一人として困りはしない。
 厨房のスタッフに余計な仕事が増えはしないし、買った本人は大満足だし、幸せそうだと思えてしまう。そんなシャングリラも、自動販売機があるシャングリラも。



 あの白い船に、自動販売機は無くて幸せだったのか。あった方が幸せだったのか。
(どっち…?)
 分からないや、と紅茶を飲み干し、キッチンの母に空のカップとおやつのお皿を返しに行って。部屋に戻って勉強机の前に座って、また考えた。どちらが幸せだっただろうか、と。
(…自動販売機…)
 あった方が良かっただろうか、と悩んでいたら聞こえたチャイムの音。窓から覗くと、手を振るハーレイ。応えて大きく手を振り返して、ハーレイに訊いてみようと思った。
 自動販売機をどう考えるか、シャングリラにあれば良かったろうか、と。



 ハーレイと部屋でテーブルを挟んで、向かい合わせで腰掛けて。熱い紅茶のカップを傾けながら鳶色の瞳を見上げて尋ねた。
「ねえ、ハーレイ。自動販売機は好き?」
「はあ?」
 なんのことだ、とハーレイは怪訝そうだから。「自動販売機だよ」と繰り返した。学校の食堂に置いてあるような自動販売機だと、コインを入れれば欲しいものが買える機械だと。
「自動販売機は選べるんだよ、いろんなものが。ジュースにしようか、紅茶がいいか、って」
 いっぱい迷えて、ボタンを押すまで悩めるんだよ、どれにしようか、って。
 それに、自動販売機はコインを入れれば買えるけど…。
 シャングリラには無かった自由なんだよ、あれこれ悩んで飲み物を選ぶのも、コインで買うっていうことも。
 シャングリラでは飲み物は自分で淹れるか、淹れて貰うか、ジュースだったら食堂とかだし…。紅茶にします、って注文してからジュースに変えたら迷惑がかかるし、色々迷ってられないよ。
 コインはお金を使わない船には要らなかったし、逆に言ったら使える自由が無かったわけで…。
 自動販売機で買えるってことは幸せだよね、って思ったんだよ。
「そりゃまあ…。なあ?」
 今の俺たちならではの自由だ、自動販売機で買える生活。
 わざわざ誰かに頼まなくても、コインを入れれば好きな時に自由に買えるからなあ…。



「やっぱり、ハーレイもそう思う?」
 自動販売機、人類の世界にはあったんだから…。シャングリラにも導入しとけば良かったかな?
 仕組み自体は簡単だろうし、ゼルに頼めば作れたよね、きっと。
「なんで導入すれば良かったと思うんだ?」
「いつでも飲み物、好きなだけ悩んで選べるし…。悩んでいたって、誰にも迷惑かけないし」
 それにコインを使った気分になれるよ、シャングリラにお金は無かったけれど。
 買い物をしたって気分になれるよ、自動販売機を置いておくだけで。飲み物だけでも、買い物の気分。ちょっぴり自由を味わった気分。
「ふうむ…。シャングリラで金は使わないんだし、オモチャのコインか?」
 そいつを皆に配っておくのか、これで飲み物が手に入ります、と。
「うん」
 本物のお金を転用したっていいけれど…。前のハーレイが保管していた、人類のお金。
 あれを使って買えるようにしたら、ホントに買い物気分になるよね。
「なるほど、そいつは画期的だな」
 保管しておくだけより、金も生きるか…。自動販売機に入れられるようなコインだけだが。
「でしょ?」
 ちょっと素敵だと思うんだけどな、自動販売機で人類のお金を使って買い物。
 もう本当に自由の欠片を手に入れた気分がしたんじゃないかな…。



 本物のお金を使うというのは、今、思い付いたばかりだけれど、と白状した。
 自動販売機があった方がいいかどうかは考えたけれど、使うお金は何も考えてはいなかったと。
「もしも自動販売機があったら、きっと便利で楽しかったと思うけど…」
 でも…。紅茶やコーヒーは淹れ立ての方が美味しいよね、って思うから…。
 シャングリラだと、紅茶もコーヒーも、味はともかく、ちゃんと淹れ立てだったから…。
 自動販売機が置いてある船より、淹れ立てのお茶の船の方が幸せだったかな、って…。
 ハーレイはどう思う、自動販売機で選んで買える幸せと、淹れ立てのお茶の幸せだったら?
「そうだな、淹れ立ての方が美味いというのもあるしだ、それよりも前に…」
 人との関わり方ってヤツだな、シャングリラじゃそっちが問題だ。
「えっ?」
 なんなの、人との関わり方って…。どういう意味のことなの、ハーレイ?
「そのままの意味さ。他の仲間との関わり方だ」
 今の俺たちは友達や知り合いとワイワイやれるし、自動販売機も便利なんだが…。
 シャングリラみたいに閉じた世界でそいつはなあ…。
 コインを入れてボタン一つで、ポンと飲み物が出て来るのはなあ…。



 あまり褒められたものではない、と話すハーレイ。
 閉じた世界だった白いシャングリラは、人との関わりが欠かせない世界だったのだから、と。
「いいか、飲み物を自分で淹れる時ならともかく、そうじゃない時は…」
 他の誰かに頼むんだったら、「お願いします」と声を掛けてだ、それに返事が返ってくる。
 これは立派なコミュニケーションというヤツだろうが、お茶を一杯飲むだけにしても。こいつは大きい、日頃からそうした関係を重ねてゆくというのは。
 頼んだ方も、頼まれる方も、相手を気遣いながらの作業になるだろう?
 お前が言ってた、下手に悩んだら迷惑をかけてしまうだろう、というのもそうだ。自分の我儘で煩わせちゃ駄目だ、と思うからこそ、そういう考えになるんだな。
 自動販売機はそいつを解決してはくれるが、他の人との関わりが一つ無くなっちまう。飲み物で繋がっていられた所の糸をプツリと切っちまうのさ。
「そっか…」
 自動販売機、楽しくて便利だと思ったけれど…。便利さだけでは駄目なんだ…。
「シャングリラはな」
 ああいう閉じた世界じゃ駄目だ。
 どんな形であれ、他の仲間とのコミュニケーションを大切にしておかないとな。
 食堂で飲み物を注文する方と、用意する方と。たったそれだけでも仲間と触れ合う機会になる。顔を合わせて言葉を交わして、それが切っ掛けで次の機会も生まれる。
 船の通路で出会った時には挨拶するだろ、お互いにな。「いつも紅茶を頼んでますよね」なんてことから会話が生まれて、そのまま暫く一緒に歩いて行くとかな…。



 人と人とのコミュニケーションが大切だったシャングリラ。
 閉じた世界だった船だからこそ、他の仲間との触れ合いの機会は少しでも多く。
 自動販売機は便利だけれども、触れ合う機会を一つ潰してしまうのだ、とハーレイは言った。
 今の世界ならば心配しなくていいことだけれど、自動販売機は便利だけれど。
 ならば、どちらが幸せだったのだろう?
 淹れ立ての紅茶やコーヒーはあっても、悩んで選んだりは出来なかったシャングリラか、選んで買える自動販売機がある今か。
 どうなのだろう、とハーレイに問いを投げ掛けてみたら。



「もちろん、今さ」
 今に決まっているだろうが。…シャングリラの中でしか生きられなかった時代よりも。
「やっぱり?」
 そこはそうなの、ハーレイも今だという気がするの?
 お願いします、って飲み物を頼まなくっちゃいけなかった頃より、自動販売機で選べる世界?
「そうなるな。それも自由の形ってヤツだろ、お前が食堂で気付いた通りに」
 何を買おうか迷った挙句に、いきなり注文を変えちまっても、自動販売機は文句を言わん。
 ついでにシャングリラでは出番の無かった金も使える、コインを入れたら飲み物が買える。
 前の俺たちが生きてた時代も、人類の世界には自動販売機があったしなあ…。
 それを俺たちも自由に使える時代が来たってわけだし、今の方が幸せな時代ってことだ。



 だが…、と片目を瞑るハーレイ。
 お茶は淹れるのが一番だ、と。自動販売機で買うお茶よりも、と。
「そいつが美味いし、同じコーヒーなら自動販売機で買ったヤツよりも淹れ立てだ、ってな」
「そこはシャングリラの方の勝ちなの?」
 シャングリラだといつも淹れ立てだったし、シャングリラの勝ち?
「いや、今だ」
「今って…。今だと自動販売機のコーヒーもあるんだけれど…」
 コーヒーはいつでも淹れ立てじゃなくて、自動販売機で買ったコーヒーもあるけれど?
 ハーレイだって、柔道部の練習場所で飲むんだったら、自動販売機のコーヒーじゃないの?
「確かにそうではあるんだが…。自動販売機のコーヒーにも何度も出会うわけだが…」
 その代わり、淹れ立てに出会った時。
 シャングリラの頃より、うんと美味いのが飲めるだろうが。
 代用品なんかじゃないコーヒーだぞ、キャロブのコーヒーとは違うんだ。本物のコーヒー豆から淹れたコーヒー、そいつが飲める。しかも地球で採れたコーヒー豆なんだぞ?
 紅茶にしたって地球の紅茶で、シャングリラのとは香りからして違うってな。



 同じ飲むならコーヒーも紅茶も地球の淹れ立てだ、とハーレイが言うから。
「そうだね、本物のコーヒーと美味しい紅茶だものね」
 おまけに地球で育ったコーヒーの木とか、お茶の木とか…。同じ淹れ立てでも、シャングリラのとは違ってくるよね、味も香りも。
「うむ。ついでに、その素晴らしい淹れ立てをいつでも、好きな時に飲める自由もあるしな」
「好きな時って…。仕事中でも?」
「そいつは無理だが、そこはシャングリラでも同じだろ?」
 ブリッジで仕事の真っ最中にだ、ちょっとコーヒーというわけにはいかん。休憩時間にならんと飲めんし、今の仕事もそれは同じだ。だがな…。
 時間の余裕がうんと違うさ、と語るハーレイ。
 同じ休憩時間や自由時間でも、シャングリラでは無かった心の余裕。あったつもりでも、今から思えばまるで無かった心の余裕。
 明日に備えて眠らなければとか、一休みしようと考えた時の時間の重さが全く違うと。
 今ならば明日に待っているものは普通の仕事で、一休みするのも学校の仕事やクラブの指導。
 けれども前のハーレイだったら、次の日もキャプテンの仕事ばかりで、判断を誤れば仲間の命が危うくなる。シャングリラが潜む雲海の流れを読み誤ったら、人類に船の存在を知られたら。
 そんな綱渡りのような日々の中では、淹れ立てのコーヒーでも心の底から楽しめはしない。前の自分は楽しんでいるつもりだったのだろうが、今の自分からすればそうではないと。
 同じ境遇に放り込まれたら、心配でとても眠れはしないし、休めもしない。
 淹れ立てのコーヒーの味も分からないくらいに気が張りつめてしまい、休憩した気分になれないだろうと。



「ああいう時代に比べたら、だ…。好きな時にコーヒーを飲める自由は比較にならんぞ」
 もう本当に自由な時間だ、何をするのも俺の自由だ。
 コーヒー片手にのんびり新聞を読んでいようが、そのままウッカリ眠っちまおうが、何の心配も要らない世界だ。仲間の命も預かってないし…。
 だからコーヒーの美味さからして違ってくるのさ、心に余裕があるんだからな。
 こいつは美味いと、淹れ立てなんだと、ゆっくり楽しむ余裕ってヤツが。
 そういう時代に淹れ立てのコーヒー、これは最高に贅沢なことだと思わないか?
「そうかもね…」
 前のぼくはハーレイほどには色々と心配していなかったと思うけど…。
 いざとなったらシャングリラごとサイオンで包んで宇宙に逃がすとか、やり方はちゃんとあったわけだし、ハーレイよりかは気楽だったと思うけど…。
 だけど、ミュウの未来とかを考えないわけにはいかなかったし、紅茶、今ほど美味しく飲んではいなかったかも…。心配事が全く無かったわけじゃないんだから。



「ほらな、お前も同じだろうが。淹れ立ての美味さも、断然、今の時代ってことさ」
 しかしだ、たまには自動販売機もいい。あれはあれの良さがあるもんだ。
「えっ?」
 それって、選べる幸せのこと?
 ぼくが色々悩んだみたいに、迷っちゃうほど沢山あるのがハーレイも好き?
「それはもちろんだが、美味そうなヤツに限ったわけでもないんだぞ、そこは」
 とんでもなさそうな飲み物にだって気軽に挑戦出来るだろう、と言われてみれば。
 自動販売機に並ぶ飲み物の中には、どんな味だか想像もつかない変わり種だってあるわけで。
 そういうものでも、コインを一枚チャリンと入れれば、おっかなびっくり試せるわけで…。
「…それはそうかも…」
 ぼくの友達、たまに変なのを買ってるよ。美味しくなかった、って文句を言ってる。
 でもね、懲りずにまた買うんだよ。別の変なのが新登場したら、コインを入れて。
「その、変なヤツ。…シャングリラには無かった贅沢だぞ、これは」
 新作の飲み物を作るにしたって、みんなの口に合わないようなものは出来んしなあ…。
 こういう飲み物を作ってみました、と遊び半分みたいなヤツを出せはしないぞ。
「変な飲み物、食べ物で遊んでいるような気もするけどね…」
 贅沢だけれど、ちょっぴり食べ物に失礼かな、って。…前のぼくたちからすれば。
「少しくらいは許されるだろうさ、そういう遊びも」
 食い物に不自由してないからこそ出来る遊びだ、笑って許してやろうじゃないか。前の俺たちが考えもしなかった遊びなんだぞ、今の時代だからこそだ。



 平和な時代になったんだからな、と心の広さを見せられて納得したのだけれど。
 ハーレイは凄いと、流石は大人だと思ったけれども、その後があった。
「いいか、現に俺なんかは変なのをだな…」
 見付け次第、端から試したもんだ、と学生時代の武勇伝。
 変な飲み物などには目もくれなかったブルーには真似の出来ないこと。美味しそうなジュースはどれだろうか、と今日も悩んでいたのだから。
「…ハーレイ、それ…。今でも飲める?」
 食堂の自動販売機にあるよ、変な飲み物。えーっと、今のは何だったっけ…?
「おいおい、俺はこの年だしな?」
 三十八歳にもなって、この外見でだ…。そういう変なの、買うヤツはいないと思うんだが?
「ぼくはこれからなんだけど…」
 ハーレイが変なのを飲んでた年頃、ぼくはこれからなんだけど…。
 ぼくが飲もうか悩んでいたって、ハーレイ、付き合ってはくれないの?
「そう来たか…」
 お前が飲みたい気分になると言うんだな、変なのを?
 俺が変なのを飲んでいたような年になったら、今度はお前が。



 それなら付き合ってやるとするか、と苦笑いしながら約束して貰えたから。
 いつかハーレイと結婚したなら、たまには自動販売機もチェック。
 変な飲み物を発見した時は、どんな味なのか試してみよう。コインを一枚、チャリンと入れて。
「えーっと…。変な飲み物、ハズレだった時は口直しだよね…」
 美味しかったらかまわないけど、この味はちょっと、って思った時は。
「安心しろ。そういう時には、俺が美味い茶を淹れてやる」
 紅茶でもいいし、緑茶でもいいぞ。お前の気分に合わせてやるさ。
「じゃあ、ぼくはコーヒーを淹れてあげるね」
 ぼくはコーヒーは苦手だけれど、と笑顔で言った。
 ハーレイのために淹れてあげるよ、と。
「そいつはいいな。お前が淹れてくれるコーヒーだったら、きっと美味いに決まっているし」
 自動販売機のとは比べ物にならない美味いコーヒー、そいつで口直しが出来るってわけか。
「やっぱり、お茶は淹れるのが一番だよね」
 シャングリラは幸せな船だったんだよね、自動販売機は無かったけれど。
 選んで買ったり出来なかったけど、いつも淹れ立てのお茶が飲めたんだし…。
 前のぼくたちだって、きっと幸せ。淹れ立てのお茶を何度も二人で飲んだんだから。



 青の間で二人で飲んでいたお茶、前のブルーが淹れていた紅茶。
 ハーレイはコーヒーが好きだったけれど、ブルーに合わせて飲んでいた紅茶。
 幸せだったと思うけれども、今は時代が違うから。
 二人揃って生まれ変わって、平和な地球に来たのだから。
 自動販売機で買える幸せ、選べる幸せ、それも二人で満喫したい。
 変な飲み物を発見したから買ってみよう、とコインを入れて。
 たとえハズレの味がしたって、淹れ立てのお茶で直ぐに口直しが出来るのだから。
 二人で暮らす家で、お互い、相手のために美味しい紅茶やコーヒーを淹れて…。




            自動販売機・了

※シャングリラには無かった自動販売機。あったら楽しそうでも、あの船には不向き。
 けれど今では、自動販売機も悪くない世界の住人なのです。たまには選んでコインを1枚。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




人恋しくなる秋がやって来ました。私たちには無関係ですが、会長さんには迷惑な季節。片想い歴三百年以上の教頭先生が何かと言えば熱い視線を送ってくるのだとか。
「昨日もなんだよ、たまたま中庭ですれ違ったっていうだけなのに!」
「あんたが中庭にいること自体が珍しいだろうが」
キース君の台詞は至極ごもっとも。会長さんは平日は登校していますけれど、大抵は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でサボリです。私たちが放課後に出掛けて行くまで、そこでのんびり。
「そりゃそうだけどさ…。たまには散歩もしたくなるってね」
秋の高い空は気分がいいものなのだ、と会長さん。
「だからぶるぅと散歩してたら、「いい天気だな」って」
「その挨拶も普通だろうが!」
「だけど視線が熱いんだよ!」
熱いどころか下心が…、と会長さんはブツブツと。
「駄目で元々、あわよくば…、って心が見え見え! ちょっとお茶でも飲まないかと!」
「食堂でか?」
「そんなトコだね、でなきゃ教職員用のラウンジかもね」
とにかく迷惑な季節なのだ、と言いつつも。
「まあ、今日は土曜日だから出くわす心配も皆無だし…。ぼくにとっては吉日なんだよ」
「かみお~ん♪ ゆっくりしていってね!」
お昼はピザにしようと思うの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。もちろん宅配ピザなどではなく、生地から作った御自慢のピザ。みんな揃って大歓声までは良かったのですが。
「ピザだって?」
それはいいねえ、と聞こえて来た声。
「「「!!?」」」
「こんにちは。でもって、今はおやつなのかな?」
ぼくの分も残っているのかい? と出ました、紫のマントを纏ったソルジャー。
「梨のコンポートのタルトだってね?」
「うんっ! それと紅茶だね、ちょっと待ってねー!」
空いた所に座っててね、とキッチンに駆けてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」。会長さんのマンションで過ごす土曜日、荒れ模様にならなきゃいいんですけど…。



おやつをゲットしたソルジャーは早速、タルトにフォークを入れながら。
「こっちのハーレイも報われないねえ、毎度のことではあるけどさ…」
「報われるわけがないだろう!」
ぼくにその手の趣味なんか無い、と会長さんが突っぱねています。
「なのに諦めが悪いったら…。振っても振っても追いかけて来るし、どうにもこうにも」
「ホントにつくづく深い溝だね、君とハーレイとの間にあるヤツ」
「溝どころか海溝レベルだから!」
底なんか見えやしないんだから、と強烈な例え。
「なのに脈アリかと思ってるんだよ、人恋しくなる季節ってだけで!」
「君は恋しくならない、と」
「ぼくにはフィシスがいるからね」
恋人だったら間に合っている、と会長さんが返し、ソルジャーは「うーん…」と。
「やっぱりハーレイだけが恋人のいない秋を今年も過ごす、と」
「来年も再来年も、この先もずっと!」
「気の毒だねえ…。せめて孤独を癒す方法でも、と思うんだけど」
「ぼくは協力しないから!」
勝手に孤独に過ごしていろ、と会長さんはけんもほろろに。
「家族用だか何か知らないけど、大きな家まで用意したのはハーレイの自業自得だから!」
人の気配の無い家で孤独を噛み締めるがいい、とまで言っていますが。
「あの家、けっこう大きいしねえ…。庭も広いし」
「ぼくとの結婚を勝手に夢見て、ああいう家にしたわけだしね!」
「遊ばせておくのはもったいないよ。ついでに孤独な秋を過ごすのもよろしくないかと」
「ぼくは絶対、行かないから!」
オモチャにするために出掛けてゆくならともかく…、と会長さんは不機嫌な顔。
「あの家の住人になるなんてことは願い下げだよ、一人で住んでりゃいいだろう!」
「まあ、人間は一人でいいけど…」
「「「は?」」」
人間は一人だけで良くって、けれど孤独はよろしくなくて。広い家を遊ばせておくのももったいないとは、ソルジャー、何が言いたいんですか?



「…ペットはどうかと思うんだよ」
一人暮らしの孤独を癒すには、とソルジャーの口から出て来た言葉は斜め上でした。
「「「ペット?」」」
「そう、ペット! あれは癒されるよ」
ぼくもナキネズミを飼っていてね、とソルジャーが始めたペットの自慢。思念波で会話が出来る動物、ナキネズミ。それを使って厨房からおやつを失敬させたり、色々と仲良くしているそうで。
「だからハーレイにも、ペットをね!」
「ハーレイが飼うとは思えないけど?」
そういう性格じゃないんだから、と会長さんのすげない一言。
「あの年まで生きて来てるんだ。寂しかったら、とっくに飼ってる!」
猫とか犬とかお好みで…、という説は説得力がありまくりです。三百年以上も飼わずに来たなら、今更飼うとは思えません。会長さん以外はお呼びじゃなくって、ペットなんかは不要なわけで。
「そうだろうけど、ペットの名前がブルーだったら?」
「「「ブルー?」」」
「そう! 恋人の名前をつけたペットなら、気分も変わってくるってね!」
ペットはキスしても嫌がらないし、とソルジャーは笑顔。
「抱き締めたって、ベッドに一緒に入れて寝たって、ペットは文句を言わないから!」
「それは余計に迷惑だから!」
妄想が広がるに決まっている、と会長さんは叫んだのですが。
「…どうだろう? ペットにもよると思うけどねえ?」
「どういう意味さ?」
「ただ可愛いというだけだったら、妄想だって広がるだろう。…だけど可愛いだけじゃなくって、扱いが難しいペットだったら?」
「…どんなペットさ?」
暴れるのかい、と会長さん。
「機嫌を損ねたら噛み付くだとか、引っ掻くだとか。そういうのをハーレイに飼わせろと?」
「それに近いね」
ちょっといいのを見付けたんだよ、とソルジャーは紅茶のカップを傾けています。ソルジャーが見付けたと言い出すからには、もしやソルジャーの世界の生き物だとか…?



私たちとは違う世界に住むソルジャー。ナキネズミなんていう未知の生物までがいる世界の住人。そこからペットを連れて来る気か、と私たちは思わず身構えました。会長さんだって。
「君の世界の動物ってヤツは問題だから!」
検疫とかもさることながら…、と会長さんはソルジャーの肩書きを持つ身ならではの真面目な顔で指摘しました。
「こっちの世界じゃ有り得ない動物を飼うとなったら、問題、山積み!」
他人に見られたら大騒ぎだし、という声にソルジャーは。
「平気だってば、ぼくの世界の動物じゃないから」
「「「えっ?」」」
「ぼくの世界で少し改良を加えようとは思っているけど、こっちの世界に影響は出ない」
避妊手術と変わらないレベルの細工だから、とソルジャーの笑みは余裕です。
「出来るかどうかは、もう確認済み! ぼくの世界にはその技術がある!」
シャングリラでやったことはないけどデータがあるから充分出来る、と自信たっぷり。
「ハーレイにペットを飼わせるんなら、そういう風に改良するけど?」
「どういうペットさ、改良だなんて」
「量に限りがあるらしくってねえ…」
打ち止めになってしまうのだ、とソルジャー、溜息。
「効果絶大な技を持ってるんだけど、五、六発で終わりらしくって…。打ち止めになったら充填するまでにかなりの時間が」
「ちょっと待った!」
それは本当にペットだろうね、と会長さんが険しい顔に。
「ペットと言う名で実は人間だったんです、ってオチじゃないだろうね、六発だなんて!」
「シーッ!」
抜かず六発は言わない約束だろう、とソルジャーは唇に人差し指を。
「ヌカロクとはまるで違うんだけど…。参考にはなっているんだけれど」
「「「ヌカロク?」」」
「ああ、君たちには分からないからね!」
ブルーだけに通じればそれでいいのだ、とサラッと流された謎のヌカロク。それはともかく、ソルジャーが言ってるペットとやらは何なのでしょう?
絶大な技を誇る割には五、六発で打ち止め、再充填にうんと時間がかかるって、なに…?



「ちゃんと純粋に動物なんだよ、人間じゃなくて」
大きさはこんなものだろうか、とソルジャーが両手で示したサイズはビッグサイズの猫くらい。確かに人間ではなさそうです。
「最近、ペットとして人気が出て来たらしいけど…。ペットショップのヤツだとダメだね」
「「「は?」」」
「売ってるヤツは手術済みでさ、技を繰り出せない仕組み」
「「「???」」」
ますますもって訳が分かりません。どんなペットだ、と顔を見合わせた私たちですが。
「ズバリ、スカンク!」
「「「スカンク!?」」」
スカンクって言ったら、アレですか? オナラが臭いと評判の…。
「そう、そのスカンク! ペットショップで売ってるヤツはさ、オナラをしないように分泌腺を取ってあるわけ」
オナラは実はオナラではない、とソルジャーは説明してくれました。スカンクの肛門の両脇にあるという肛門傍洞腺とやら。其処に溜めておいた分泌液をブシューッとかますのが、いわゆるオナラ。ペットショップで売られるスカンクはそれを手術で除去済みだそうで。
「もしも手術をしていなかったら、攻撃されたらブシューッとオナラ! でもね、オナラには回数制限があって…。分泌液を溜めた袋が空になったら打ち止めってね」
その限界が五、六発なのだ、との話です。ついでに再充填して発射可能になるまでの期間は一ヶ月くらいかかるのだとか。
「普通は五発も六発も撃たないからねえ、それで充分なんだろうけど…」
こっちのハーレイに飼わせるんなら足りないだろう、とソルジャーは会長さんに視線を向けて。
「どうかな、スカンク? 名前はブルーで」
「…ぼくの名前でオナラをすると?」
「そういうわけだね、御希望とあらばガンガンと!」
ぼくの世界にはその技術がある、とソルジャーは胸を張りました。
「再充填までに一ヶ月どころか、半日も必要ないってね!」
「誰がそういうつまらない技術を開発したのさ!」
「さあ…? 学者ってヤツは研究バカだし…」
誰かが趣味でやったんだろう、と言われて納得。確かに世の中、妙な研究に燃えてる学者っているんですよね…。



「オナラ無制限のスカンクねえ…」
それで名前がブルーとはね、と会長さんは複雑な顔。
「ハーレイがオナラを食らいまくる図には興味があるけど、なんだかねえ…」
ぼくの名前、と言いたい気持ちは分かります。よりにもよって教頭先生がペットにスカンク、しかもブルーと名付けるだなんて。
「でもねえ、コレはお勧めなんだよ!」
いろんな意味で、とソルジャーは膝を乗り出しました。
「こっちのハーレイは世話に燃えるし、君は笑いが止まらない。…そういうのはどう?」
「でも、オナラだよ?」
ぼくにとっては不名誉なのだ、と会長さんは不服そうですけれど。
「オナラがポイント高いんだってば!」
そこが売りだ、とソルジャー、強調。
「ついでにハーレイは君との結婚に向けて頑張る! 努力が報われるかどうかはともかく!」
「…なんでスカンクで結婚なわけ?」
可愛がっていたって評価はしないよ、と会長さん。
「ぼくはそこまで甘くない。いくら甲斐甲斐しく世話をしてても、それと結婚とは別次元!」
「だけど、ハーレイにとってはそうじゃないんだな」
趣味と実益を兼ねた充実の日々が待っているのだ、とソルジャーはグッと拳を握って。
「いつか迎えたい、君との夢の結婚生活! それに向かって修行の毎日!」
「「「修行?」」」
何故にスカンクで修行になるのか、サッパリ分かりませんでした。ペットを飼って可愛がることは結婚に向けての心の準備になるのでしょうか?
「修行と言ったら修行なんだよ、結婚生活で大切なものは大人の時間!」
それに備えて修行を積むのだ、と話は一層、謎な方へと。
「…スカンクで大人の時間って…」
どういう意味さ、と会長さんが訊くと、ソルジャーは。
「だから細工をすると言ったろ、オナラの回数無制限に!」
「「「オナラ?」」」
大人の時間とやらは理解出来ない、万年十八歳未満の私たちですが。それでも少しは掴めていますし、大人の時間にオナラなんかしたらブチ壊しなんじゃあ、と思うんですけど…?



ソルジャー曰く、スカンクをペットに大人の時間のために修行を。しかし、そのためにスカンクのオナラの回数制限を解いてしまったら、ベッドの中で何発オナラをかますやら…。ただでもオナラは恥ずかしいもので、大人の時間にやってしまったら赤っ恥ではないのでしょうか?
「うん、本物の大人の時間にやったとしたなら最低だよね」
ぼくのハーレイなら殴り飛ばすね、とソルジャーは過激な発言を。
「でもって当分、ぼくのベッドに出入り禁止だ」
「だったら、どうしてスカンクのオナラに細工なんかを…」
会長さんの問いに、ソルジャーは。
「オナラのための分泌液を溜めておく場所、肛門の両脇だと言ったけどねえ?」
「うん、聞いたけど」
「そこがポイント! こっちのハーレイの修行のための場!」
男同士でヤるためには必要不可欠な場所、とソルジャーはニヤリ。
「こっちのハーレイは童貞だしねえ、経験ってヤツがまるで無い。その上、初めての相手は君しかいないと決めているだろ?」
「…そうだけど…」
正直、有難くないんだけれど、と顔を顰めた会長さんですが。
「それはそうだろうね、初心者なんかに下手にヤられたら大惨事! そうならないよう、修行を積んで貰うわけ! スカンクで!」
「「「えっ?」」」
「突っ込む前には、きちんとほぐす! これが基本で!」
「その先、禁止!」
会長さんが止めたのですけど、ソルジャーは「別にいいだろ、スカンクなんだし」と。
「要はスカンク相手にほぐす練習、気持ち良くなって貰おうってね!」
「ま、まさか…」
「そうだよ、スカンクの肛門で来る日も来る日も、未来に向かって猛特訓!」
指を突っ込んでほぐすだけなのだ、と恐ろしい台詞。
「ちゃんと上手にほぐしてやればね、スカンクはオナラしないから!」
オナラをブシューッと食らわないよう、特訓あるのみ! と力説しているソルジャーですけど。スカンクの肛門だかオナラだかの仕組み、本当にそれで合っていますか…?



教頭先生にスカンクを飼わせ、会長さんとの結婚生活に向けて特訓させようだなどと言うソルジャー。それもオナラの回数が無制限になるよう、細工を施したスカンクで。
「君は簡単に言ってくれるけど、そんなことをしたら…」
ハーレイが自信をつけるじゃないか、と会長さんは青い顔。
「上手くなったと、これで自分もプロフェッショナルだと妙な自信を!」
「努力が報われるかどうかはともかく、と言った筈だよ」
無制限なスカンクを舐めるんじゃない、とソルジャーは不敵な笑みを浮かべました。
「今日こそは、と挑んでもオナラ、何度挑んでも何発もオナラ!」
「…修行するだけ無駄なわけ?」
「スカンクだしねえ?」
ほぐして気持ち良くなる筈が無い、と言い放つソルジャー。
「でも、ハーレイには内緒にしとけば真面目に励んでくれるよ、うん」
「珍しい発想もあったものだねえ、君にしてはね?」
ぼくとハーレイとの結婚を目指しているんじゃなかったのかい、と会長さんが尋ねると。
「まるで無駄ってわけでもないしね、指の使い方が多少は上達するかと!」
「ただ、それだけ?」
「たったそれだけ!」
それ以上のことは期待していない、と何も企んでいないらしいソルジャー。何処からスカンクになったのだろう、と思いましたが、どうやら元ネタはエロドクター。
「こないだランチを食べた時にね、スカンクって動物を御存知ですか、って話題になってさ」
色っぽい話題ばかりをしているわけではないんだから、とソルジャーは威張り返りました。
「それでね、スカンクの匂いってヤツは、タンパク質とガッチリ結び付いちゃうらしいんだ。人間の身体は隅から隅までタンパク質だろ?」
つまり匂いが消えないのだ、と聞いてビックリ。
「じゃ、じゃあ、教頭先生がオナラを食らったら…?」
ジョミー君の問いに、ソルジャーが。
「もちろん、オナラの匂いは消えない!」
「「「うわー…」」」
「もっとも、ぼくの世界には強力な消臭剤もあるしね? 仕事に行く前にプシューッとしとけば、そこはバッチリ解決ってね!」
スカンクにしようよ、と推すソルジャー。教頭先生に飼わせるべきだ、と。



「その話、乗った!」
ブルーの名前も必要とあらばくれてやろう、と会長さんが食い付きました。
「ハーレイにスカンク、大いに結構。そしてオナラは無制限なんだね?」
「もちろんだよ!」
そうと決まればスカンクの調達、とソルジャーは笑顔全開です。
「手術してない野生のスカンクでも、ぼくにかかれば人を怖がらないようにチョチョイとね!」
サイオンで干渉してやれば可能なのだ、と誇らしげ。
「昼御飯を御馳走になったら、早速、捕まえに出掛けて来るよ」
「君ならオナラも見事にかわして捕獲だろうねえ?」
「それどころじゃないよ、スカンクの方からすり寄って来るさ」
そこを捕まえてぼくのシャングリラに御招待、とスカンクの未来が決まった模様。捕獲に出掛けたソルジャーと最初に出会ってしまったスカンク、手術をされてしまうのです。五、六発やったら打ち止めになると噂のオナラを無制限に発射可能な身体に。
「捕まえるんなら雄でないとねえ…、ブルーと名前をつけるんだしね?」
「その辺は君に任せておくよ」
「ノルディが言うにはスカンクの飼育は簡単らしいよ、雑食だから」
生息地ではゴミを漁るほどに何でも食べるというスカンク。しかも食欲は底なしだとかで。
「ぼくの世界のぶるぅに似てるね、とにかく食べて食べ続けたいという精神!」
二十四時間、食べ続けていれば幸せらしい動物、それがスカンク。飼い主の食事もつぶらな瞳でおねだり攻撃、特別な餌は要らない動物。
「ついでに、ケージじゃ飼えない動物! 家の中が全てテリトリー!」
庭に出られるなら庭もテリトリー、と知識を披露するソルジャー。エロドクターとの会話でスカンクに目をつけて以来、あれこれ調べていたようです。
「そうか、ケージじゃ無理なんだ?」
「広い所が好きらしいんだよ、こっちのハーレイの家ならピッタリ!」
だけど庭には出せないねえ…、とソルジャーは顎に手を当てて。
「何のはずみでオナラをしちゃうか分からないから、家の中だけにしておかないと」
「スカンクは強烈に匂うんだっけね」
「一発やったら一キロ四方に匂いが漂うってコトだしね」
「「「一キロ四方…」」」
そこまで凄いオナラだったとは知りませんでした。教頭先生、どうぞご無事で…。



手作りピザが山ほど出て来た昼食が済むと、ソルジャーは「行ってくるね」と瞬間移動でスカンク狩りに。明日までは来ないと思っていたのに、なんと夕方、ヒョッコリ出て来て。
「出来たよ、特別製のスカンク!」
「「「ええっ!?」」」
もう出来たんですか、オナラが無制限だというスカンク。仕事が早い、と驚きましたが、手術跡の治療に一週間ほどかかるらしくて。
「その間に名前を覚えさせておこうと思ってね。お前はブルーだ、と」
「…ぼくには迷惑な名前だけどねえ…」
会長さんが零すと、ソルジャーは。
「だけど、ハーレイに一からつけさせるよりもいいと思うよ。ブルーと呼んだら飛んで来るんだし、いくらスカンクでも断れないよね、ペットにする話」
それに実地で役に立つし…、と微笑むソルジャー。
「スカンクの手術は情報操作をしておいたけどさ、暫く青の間で飼うしかないから、ハーレイに話しておいたんだ。こういう事情で飼うことにした、と」
「それで?」
「そしたらハーレイも面白がってさ。私がレクチャーしましょうか、って」
「「「レクチャー?」」」
なんのこっちゃ、と揃って首を傾げれば。
「そのまんまの意味だよ、ホントにレクチャー! スカンクのアソコのほぐし方!」
「「「ほぐし方!?」
「そう! 男同士の大人の時間に大切なものはお尻だってね!」
その点、ハーレイは慣れたものだ、とソルジャー、ニコニコ。
「ぼくのアソコをほぐし続けて何年だっけか…。その技をこっちのハーレイに!」
「要らないから!」
そんなプロの技をレクチャーするな、と会長さんが止めたのですけど。
「誰が本物を伝授すると言った?」
「「「は?」」」
「嘘だよ、大嘘! それっぽい嘘!」
まあ聞いてくれ、とソルジャーの赤い瞳が輝いています。もしやキャプテンまで巻き込みましたか、スカンクのペット計画に…?



「本当はさ…。ぼくから頼もうと思っていたんだ、ハーレイに」
手間が省けて助かった、とソルジャーは嬉しそうな顔。
「流石は夫婦だ、以心伝心って言うのかな? ぼくの考えがピタリと伝わる」
「それはいいけど、嘘って何さ?」
会長さんが投げた疑問に、ソルジャーが返して寄越した答えは。
「ぼくのハーレイならではの嘘で、こっちのハーレイが見事にコロリと騙されるヤツ!」
「…どんな?」
「それは現場に立ち会ってこそ! まずはハーレイにスカンクを!」
飼うとオッケーしてくれた時に披露するのだ、と言われた謎のレクチャー。どんなものだか気になりますけど、教頭先生がスカンクを飼ってくれないとレクチャーの出番も無いわけで。
「…教頭先生、スカンク、飼うかな?」
ジョミー君が首を捻って、サム君が。
「飼うんじゃねえのか、ブルーって呼んだら走って来るなら」
「だろうな、飼いたい気持ちになられるだろう」
スカンクでも…、とキース君。
「でも、一キロ四方に匂うんですよね、スカンクのオナラ…」
シロエ君が「ご近所に迷惑をかけないでしょうか」と心配する様子に、ソルジャーは。
「そこはしっかりシールドだよ! ぼくに任せてくれれば完璧!」
オナラが何発炸裂しようが家の中だけで封じ込め、と聞いて安心、スカンクのペット。教頭先生についた匂いもソルジャーの世界の消臭剤で消せるそうですし…。
「いい計画だと思うんだよ。ブルーも乗り気になってくれたし、次の土曜日に!」
スカンクをこっちのハーレイの家にお届けしよう、と言うソルジャー。
「ぼくのハーレイも、その時に一緒に連れて来る。休暇届は出しておいたから」
こっちのハーレイがスカンクを飼うと言ってくれたらレクチャー開始、と聞いてドキドキ、次の土曜日。教頭先生、スカンクを飼ってくれるでしょうか。レクチャーが何か知りたいですから、此処は是非とも、教頭先生にスカンクを~!



ソルジャーが「ブルー」と名付けたスカンクは青の間で順調に暮らしたようです。無制限だと聞くオナラもしないで、モリモリと餌を食べ、人懐っこくなって、手術の傷もすっかり治って…。
「はい、こんなに可愛くなりました~!」
見てよ、とソルジャーが一週間後に持って来たケージ。会長さんの家のリビングで覗き込んだケージの中には、ふさふさとした大きな尻尾が印象的な可愛い動物。
「かみお~ん♪ スカンク、可愛いね!」
触ってみたいな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。危ないのでは、と思いましたが、ソルジャーはケージを開けてしまって。
「はい、どうぞ」
「わぁーい!」
とっても可愛い! と撫でられてもオナラは出ませんでした。ソルジャー曰く、スカンクは攻撃されると思わない限り、オナラ攻撃をしないのだとか。
「私も半信半疑でしたが、実際、なんともなかったですから」
ソルジャーと一緒に来ていたキャプテンがそう証言しました。悪戯小僧の「ぶるぅ」もスカンクを可愛がっていたそうです。もっとも、「ぶるぅ」の場合は「悪戯したらオナラされるよ」とソルジャーに脅された分が相当に効いていたのでしょうが…。
ともあれ、スカンクは見た目は可愛く、「ブルー」と呼ばれれば大喜びで甘える仕様。この出来だったら教頭先生だってイチコロでしょう。私たちはソルジャーがケージに戻したスカンクを連れて、教頭先生の家まで瞬間移動でパッとお出掛け。お行儀よく玄関でチャイムを鳴らして。



「はい?」
チャイムの向こうで答えた教頭先生、来客が誰かを知って大急ぎで玄関を開けに来ました。リビングに案内されたのですけど、其処でようやくソルジャーが抱えたケージに気付いたようで。
「なんですか、それは?」
「ブルーだけど?」
「は?」
「だから、ブルーだって!」
そういう名前がついているのだ、とソルジャーはケージを床へと下ろすと。
「秋は人恋しい季節だからねえ、ペットなんかはどうかと思って…。ブルーって呼んだら甘えるんだよ、試してごらんよ」
ケージが開けられ、スカンクは外へ。教頭先生はそれをまじまじと見て。
「…スカンクのように見えますが?」
「そうだけど? でも、スカンクを選んだのには理由がね…。ねえ、ブルー?」
ソルジャーが呼んだ「ブルー」は会長さんのことでしたけれど、スカンクのブルーも即座に反応。ソルジャーの足元にタタッと駆け寄り、すりすりと身体を擦り付けています。
「…ほ、本当にブルーだったのか…」
ポカンとしている教頭先生に、会長さんが。
「君のために、とブルーが選んだペットなんだよ。ぼくとの結婚生活に向けて、大いに役立つらしいんだけどね?」
「結婚生活?」
「うん。君がブルーを飼ってくれるなら、そこのハーレイがレクチャーをするっていう予定。でも、要らないなら連れて帰るよ」
元は野生のスカンクだから…、と会長さん。
「ブルーが捕まえて、名前を教えて、スカンクのブルーに仕上げたんだけど…。飼う気が無いなら、自然の中に戻してやるのが一番だってね」
「ま、待ってくれ! こいつがブルーか…。おい、ブルー?」
教頭先生に呼ばれたスカンクはパッと駆けてゆくと、差し出された手に頭をすりすり。
「ほほう、本当にブルーなのだな。うん、なかなかに可愛いものだ。しかし…」
私はスカンクの飼育方法を知らないのだが、と悩ましげな教頭先生に、ソルジャーと会長さんが「餌は何でも食べるから」だの「家の中に放しておけばいいから」だのと。トイレはケージの中でするよう躾済みと聞いた教頭先生、「よし」と決心しましたですよ~!



こうして決まった、スカンクの飼育。教頭先生は私たちに飲み物を用意してくれ、スカンクのブルーはお皿に入れて貰ったミルクをペロリと。そして…。
「ブルー、さっきの話なのだが…」
教頭先生の声に、会長さんとスカンクがそちらに視線を。教頭先生はスカンクを呼び寄せ、「よしよし」と頭を撫でてやりながら。
「こいつがお前との結婚生活に役立つというのはどういう意味だ?」
「ああ、レクチャーね! それなら、其処のハーレイの役目」
会長さんが「よろしく」と頭を下げて、ソルジャーが「出番だよ」とキャプテンの背中をバンッ! と叩きました。キャプテンは「はい」と頷くと。
「…ブルーからの許可も得ていますので、精神年齢が十八歳未満の皆さん方がいらっしゃっても問題無いかと思われます」
大人の時間に欠かせない大切な知識でして、と続けるキャプテン。
「相手の身体を傷つけないよう、ほぐさなくてはいけないことは御存知かと…」
「ええ、心得てはいるのですが…」
生憎とチャンスがありませんで、と頬を赤らめる教頭先生。キャプテンは「そこでですね」と身を乗り出すと。
「このスカンクが役立つわけです、ほぐすための練習が出来るのです」
「は?」
「御承知かと思いますが、スカンクはオナラが有名でして…。そのオナラを出すための器官が、ほぐすべき場所の両側についているのです」
肛門の両側というわけですね、と解説が。
「スカンクは攻撃されるとオナラをしますが、それよりも前に。肛門の中のイイ場所を押してやったらオナラを出す代わりに喜ぶのですよ」
「そうなのですか?」
「はい。私のブルーが調べましたし、それで間違いありません」
イイ所です、とキャプテンは其処を強調しました。
「そのイイ所が、いわゆる人間…。私のブルーなどのイイ所と似たような感じだそうで、其処を一発で探り当てて刺激出来るようになったら一人前だということですよ」
初めての時でも大丈夫です、と太鼓判。会長さんを相手に初めての大人の時間を過ごす時にもイイ所さえ探り出せれば完璧、痛いと言われずにスムーズにコトが進むであろう、と。



「なんと…。スカンクで練習出来るのですか!」
驚きの表情の教頭先生に、キャプテンは「そうらしいです」と大真面目。
「ただし、スカンクのイイ所はですね…。オナラを出すための器官を取り除いてしまうと無くなるそうで、ペットショップの手術済みのスカンクでは役に立たないのですよ」
「ああ、それで野生のスカンクだと…」
「そういうことです。私のブルーが捕獲して来て、私の世界で手術しました」
「手術?」
それでは役に立たないのでは…、と怪訝そうな教頭先生に、キャプテンが。
「手術の目的が違うのですよ。普通のスカンクは五、六回オナラをするとオナラの素が入った器官が空っぽになってしまって、一ヶ月はオナラが出来なくなります」
「…はあ…」
「そんなスカンクでは一ヶ月に六回だけしか練習が出来ませんからねえ…。いえ、もちろん最初からイイ所を狙えれば普通のスカンクでもいいわけですが」
「なるほど、素人はオナラを何発も食らわないとイイ所を探し出せない、と…」
そうでしょうねえ、と頭を振っている教頭先生。ド素人に最初から出来るわけがないと、練習を重ねなければイイ所は探り出せそうもないと。キャプテンは「お分かり頂けましたでしょうか」と笑みを湛えて。
「ですから、このスカンクはオナラをしても直ぐに充填されるように手術をしてあります。存分に練習なさって下さい、イイ所を探り出すために」
「お心遣い、痛み入ります。…それで、イイ所とやらを探り出すコツは…?」
「コツと言うより、慣れですね」
慣れて下さい、とキャプテンはスカンクを指差しました。
「ほぐすべき場所は人間と全く同じです。サイズは多少、違いますがね」
「そうですねえ…」
小さいですしね、と教頭先生。けれどキャプテンは「問題は無いと思いますよ」と。
「指を一本くらいでしたら、スカンクでも充分いけますから。それに本当に同じでしたよ、イイ所に当たった時の感じは」
「お試しになっておられたのですか!?」
「レクチャーする以上、やはり試しておきませんとね」
しっかり確かめておきました、と語るキャプテンが大嘘をついていることを私たちは承知していましたけど、コロリと騙された教頭先生、感激の面持ちでらっしゃいますよ~!



スカンクのお尻に指を突っ込み、オナラを封じられるという「イイ所」。人間の「イイ所」とやらと共通である、とキャプテンに嘘を教えられてしまった教頭先生、やる気満々。
「ブルーのためにも、しっかり練習しておきませんと…。大切なのは慣れなのですね?」
「そうなりますねえ、此処だ、と直ぐに分かるようになるには回数をこなす必要が」
人間だと分かりやすいのですが…、と真顔のキャプテン。
「声や反応で分かりますしね、此処なのだ、と。しかし、スカンクではそうもいきませんし…」
そのためにオナラで見分けて下さい、というレクチャー。
「明らかに感触が違う場所ではあるのです。其処を押してみて、オナラが出ないようならば」
「その場所がそうだというわけですか…!」
イイ所を押せばオナラ無しだと、と教頭先生は頭から信じて疑いもせずに。
「つまりは、オナラをされる間はイイ所を探り出せていないと…。私が下手だというわけですね」
「スカンク相手に上手も下手も無いのでしょうが、人間相手なら下手ですね」
「分かりました、今日から精進あるのみです!」
ブルーと一緒に頑張ってみます、とスカンクのブルーを熱く見詰める教頭先生。
「とにかくお尻に指を突っ込み、イイ所を探ってやればいい、と!」
「そうです、そうです。オナラが出なければ成功ですよ」
大いに精進なさって下さい、と教頭先生を激励するキャプテンの横からソルジャーが「はい」とスプレー缶を差し出しました。
「なんですか、これは?」
「ぼくの世界の消臭剤だよ、スカンクのオナラの匂いは半端じゃないって言うからねえ…。服なんかはもう捨てるしかないって話なんだし、それじゃ君だって困るだろ?」
このスプレーがあればどんな悪臭も瞬時に分解! とソルジャーは缶を教頭先生に。
「それから、スカンクがオナラしちゃうと一キロ四方が臭いと聞いたし、君の家にはシールドをサービスしておくよ。消臭剤とシールドで完璧、安心して練習に励んでみてよね」
「はい、ありがとうございます!」
ブルーとの結婚に備えて腕を磨きます、と教頭先生は感無量でした。イイ所を探す練習が出来る素敵なスカンク、しかも名前は会長さんと同じでブルー。いいものを貰ったと、可愛がらねばとスカンクを撫でておられますけど、キャプテンの説明、大嘘ですから~!



お茶を御馳走になった後、私たちは瞬間移動で会長さんの家へと帰って、ソルジャーがリビングの壁に映し出す中継画面をウキウキと。教頭先生は私たちが使ったカップを洗って片付け、それからスカンクにビスケットなどを食べさせてから。
「さて、ブルー…。ちょっと練習してみるか」
褐色の手にすりすりと頭を擦り付けているスカンクのブルー。教頭先生はふさふさの尻尾を左手で持ち上げ、右手の人差し指を構えて。
「すまんな、私も初めてだからな…。驚かせてしまったら申し訳ないが」
今日からお前と二人三脚で頑張ろう、と笑顔でブスリと突っ込んだ指。突っ込んだ先はスカンクのお尻、これでスカンクが驚かない筈がないわけで…。
「「「ひいぃっ!!!」」」
やった、と目を覆う私たち。スカンクのブルーは狙い違わず、お尻を覗き込んでいた教頭先生の顔に向かって発射しました、いわゆるオナラと呼ばれるヤツを。
「うーん、スカンクは顔を狙って攻撃するって本当だったか…」
のんびりと呟くソルジャーに向かって、キース君が。
「あの体勢だと、どう考えても顔だろうが!」
「いや、それが…。顔を狙うって書いてあったよ、ぼくが読んだ資料」
ついでに目潰しを兼ねていてね、とソルジャーが見物しているとも知らずに、教頭先生、不撓不屈の精神で。
「…く、臭い…。しかし、これは私が下手くそだからで…」
今度は上手くやってみせるからな、と再び構える人差し指。スカンクのブルーはソルジャーに人懐っこく育てられたせいか、教頭先生にお尻を向けてお皿のビスケットを齧っています。
「…これはもう一発ですね…」
既に相当臭いんでしょうが、とシロエ君が呻いて、会長さんが。
「一発どころか、続けて二発、三発といくね。ハーレイだからね」
そんな冷たい会長さんに、ソルジャーが。
「ね、お勧めした甲斐があったろ、ハーレイにペット」
「うん。当分の間はスカンクの方のブルーに夢中で、ぼくどころではないってね」
君のハーレイにもうんと御礼を言わなくちゃ、と大満足の会長さん。スカンクのブルーは、教頭先生が騙されたことに気付くまで飼われることでしょう。教頭先生、いつ気付くんだか…。人恋しい秋に癒しのペット。あれでも多分、癒しでしょうねえ…?




           秋にはペット・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 教頭先生が飼うことに決めた、スカンクのブルー。真実に気付くのは、いつのことやら。
 スカンクのオナラに回数制限があるとか、顔を狙うとかは嘘ついてません、本当です。
 次回は 「第3月曜」 9月17日の更新となります、よろしくです~! 

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、8月は、もちろん、お盆の棚経。今年はどうなりますのやら…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv








(えーっと…?)
 何だろう、とブルーは目を丸くした。
 昼休みの時間、ランチ仲間と来た食堂。順番待ちで並んでいる目の前で起こった出来事。行列の先頭までは数人、じきに順番が来るのだけれど。注文した品を渡して貰えるけれど。
 列の一番前、「弓道部です!」と元気よく叫んだ男子に渡されたトレイ。その上に載った大きな丼、それを見るなり丸くなった目。
(カツ丼…?)
 御飯の上にたっぷりと卵、火が通ったそれでとじられたカツ。一面の卵と、それからカツと。
 どう見てもカツ丼、何処から見たってカツ丼でしかないけれど。カツ丼の匂いもするけれど。
(…無いよね、カツ丼?)
 学校の食堂には無いメニュー。注文しようという生徒が少ないからか、丼物はまるで無かった。考えてみれば女子は丼物を頼まないだろうし、男子だけのためのメニューは必要無い。
 ライスカレーやオムライスなどはメニューにあっても、丼物は無いし、見たこともない。
 なのにカツ丼、それを載せたトレイを颯爽と運んでゆく男子。
 しかも注文の時にカツ丼とは言っていなかった男子、たった一言、「弓道部です」とだけ。



(…なんで弓道部でカツ丼になるの?)
 それも不思議だし、メニューに無いカツ丼が貰えた理由も分からない。行列が進んで自分の番になるまで考えたけれど、やっぱり分からないカツ丼の謎。
 いつものランチセットを頼んで、出て来るまでの間に確認したメニューにもカツ丼は無かった。
(…無い筈なのに…)
 けれど確かに自分は見たのだ、カツ丼のトレイを貰った生徒を。
 美味しそうな匂いも、卵でとじられたカツも、大きな丼も白昼夢などではなかった筈で。
「ねえ、さっき…」
 カツ丼を持った生徒がいたよね、とランチ仲間とテーブルに着いてから訊いてみた。勘違いではないと思うのだけど、と。
「ああ、見た、見た! いたぜ、カツ丼を持ってったヤツ」
「何だったんだろうな、あのカツ丼…。食堂のメニューにカツ丼、無いよな?」
 ランチ仲間も同じ疑問を持っていたから。
「…注文した時、なんて言ったか覚えてる?」
「いや、俺は…。別の方を見てたし」
 他の友人も聞いていないと言うから、自分が目にしたあの光景を話してやった。カツ丼を貰った男子生徒は「弓道部です」としか言わなかったと、何の注文もしていないのだと。
「え? 注文しないでカツ丼なのかよ?」
「弓道部って、それ、どういう意味だよ?」
 何かの暗号なのだろうか、と皆で考え込んだけれども、分からない。カツ丼の方も、この学校の食堂で見たという記憶が誰にも無かった。なのにカツ丼、弓道部の男子が貰ったカツ丼。



(こんな時のハーレイ…)
 ハーレイなら知っていそうだけれど、と食堂をぐるりと見回したけれど、いなかった。柔道部の生徒とたまにランチを食べているくせに、こういう時に限っていない。
 そして少し離れたテーブルに見付けた柔道部の生徒たちは普通のランチ。運動部の生徒に人気の大盛りランチで、カツ丼の姿は影も形も見当たらない。
(…カツ丼、弓道部だけだったの?)
 柔道部員もカツ丼を食べていたなら、今日はそういう日なのだろうと納得だけれど。運動部員は誰でももれなくカツ丼の日だと、何か特別な行事なのだと考えるけれど。
(…弓道部だけ…?)
 しかも弓道部も、部員はそこそこいる筈なのに。さっきの男子生徒の他にもカツ丼を食べている姿を目にしそうなのに、そういうわけでもなかったから。
(弓道部だと誰でもカツ丼…じゃない…とか?)
 どうにも謎だ、と首を捻った。
 これは覚えておかなければ。ランチ仲間の話題はとっくにカツ丼から離れているけれど。まるで無関係な話になっているけれど、カツ丼が気になって仕方ないから。
(ハーレイだったら知っている筈…)
 いつか訊こう、と疑問を頭に叩き込んだ。今日は無理でも、いつか訊こうと。



 そんなわけだから、家に帰ってもカツ丼は忘れていなかった。
 着替えを済ませてダイニングでおやつを食べる間も、頭から離れてゆかないカツ丼。母が焼いたケーキを頬張りながらも、カツをとじていた卵が浮かぶという有様。ケーキもカツ丼も卵が入る。黄色い卵が、どちらにだって。
(…カツ丼も嫌いじゃないんだけれど…)
 好き嫌いは無いし、カツも卵も嫌いなわけではないけれど。カツ丼になると増えるボリューム、同じカツでも量がドカンと増えた気がする。それをとじている卵だって。
 たっぷりのつゆが悪いのだろうか、とにかくカツ丼は美味しいけれども多すぎる量。カツだけで食べるなら大丈夫そうに見える量でも食べ切れない。いつだって残してしまうカツ丼。母が少なく盛ってくれても、小さな器に入れてくれても。
(今日、見たような丼だったら…)
 とても自分は食べ切れはしない。どう頑張っても半分が限界、三分の一で丁度いいくらい。
 そういったことを考えていたら、母がダイニングに入って来たから。
「ママ、カツ丼って何だと思う?」
 今日、学校でこんなのを見たんだ、と話したけれど。
 似たような出来事を見はしなかったかと、心当たりが何か無いかと尋ねたけれども、母も答えを知らなかった。学生時代はブルーと同じで食堂でランチだったけれども、見たことがないと。



(カツ丼、やっぱりママにも謎だよ…)
 あのカツ丼は何だったのか、と部屋に戻った後も気になる。父ならば知っているのだろうか?
 それとも父も見たことがなくて、「なんだそれは?」と母と同じ顔をするのだろうか。
 まさかカツ丼で悩む日が来るとは思わなかった、と考え込んでいたらチャイムが鳴った。窓から覗くと、門扉の向こうで手を振るハーレイ。これは訊かねば、カツ丼のことを。
(ハーレイだったら分かる筈だよ)
 分からなくても、ハーレイは教師なのだから。あの学校で教えているわけなのだし、食堂の人に尋ねることも出来るだろう。カツ丼の謎を解き明かしに行ってくれるだろう。
 こんなに気になるカツ丼の謎。ハーレイならばきっと、と期待が高まっていたものだから…。



 ハーレイと部屋で向かい合うなり、テーブルを挟んで座るなり、訊いた。
「カツ丼、知ってる?」
「好物だが?」
「そうじゃなくって!」
 自分の訊き方がまずかった、と反省したのもほんの一瞬、謝る代わりに説明をした。食堂で目にした不思議な光景、謎のカツ丼。
 それが出て来たと、ハーレイは食堂にいなかったけれど、と。
「弓道部です、って言ったらカツ丼なんだよ」
 カツ丼のトレイを貰ってたんだよ、食堂のメニューにカツ丼、無いのに…。
 弓道部の生徒はもっと大勢いると思うのに、みんなカツ丼でもなかったみたいで…。
「ああ、それか…!」
 その日だったか、とハーレイは気付いたようだから。
 何故、弓道部でカツ丼なのかを、きちんと知っているようだから。
「何なの、カツ丼?」
 あのカツ丼は何だって言うの、どうして弓道部だって名乗るだけでカツ丼だったわけ?
「スペシャルメニューというヤツだな」
 普段は食堂に無いだろ、カツ丼。もう本当に特別なメニューだ、スペシャルなんだ。
「スペシャルメニューって…。何がスペシャル?」
「お前たちは全く知らないだろうが、明日、弓道部は大会なのさ」
 あちこちの学校から強い選手を集めて競技会だな、そいつがあるんだ。
 それに備えてスペシャルメニューだ、カツ丼なわけだ。



 何処かの体育館で開催されるらしい、弓道部員が腕を競うための競技会。強い選手だけを集めた大会、それに何人かが出場するのだと聞かされた。
 カツ丼の生徒は出場選手だと、だからスペシャルメニューなのだと。
「…なんでスペシャルメニューでカツ丼?」
 栄養をつけて出て下さい、って言うんだったら、大盛りランチになりそうだけど…。
 大盛りランチにメッセージカードがつくとか、デザートがつくなら分かるんだけど…。
「分からないか? カツ丼なんだぞ」
 カツ丼だ、カツ丼。そいつでピンと来ないもんかな、カツ丼なんだが…。
 語呂合わせさ、と片目を瞑ったハーレイ。
 カツ丼なのだから、その名も「勝つ」。勝つためのメニューがカツ丼だ、と。
「…そんな理由でカツ丼だったの?」
 言葉遊びみたいに聞こえるけれども、食堂でちゃんと出るんだし…。
 スペシャルメニューになってるって言うし、食堂の人も、頼んだ生徒も大真面目なの?
「そういうことだな、カツ丼は縁起担ぎの食べ物なんだ」
 ずうっと昔の、と教えて貰った。
 SD体制が始まるよりも遥かな昔に、この地域にあった小さな島国。日本という国。
 カツ丼は其処で生まれた食べ物、「勝つ」と縁起を担いだ食べ物。
 運動部の世界ではけっこう知られた縁起担ぎで、試合に勝つならカツ丼らしい。



「…それじゃ、柔道部も?」
 柔道部です、って言ったらカツ丼、出て来るの?
「もちろんだ。大会に行くとなったらな」
 食堂で名乗ればカツ丼が出るさ、大会に出場する生徒には。
「その大会…。今年は無理そう?」
 出られそうにないの、強い選手が集まる大会。
「失礼なことを言うなよ、おい」
 柔道部のことも知らないくせにだ、無理だと勝手に決めてかかるな。柔道部員が怒り出すぞ。
 あいつらは毎日、頑張って練習してるんだしな?
 ついでに指導してるのは俺で、その辺の学校の顧問とは一味違うってモンだ。
 なかなかいないぞ、プロの誘いが来ていたほどのヤツで学校教師というヤツは。
 生徒の方に才能さえあれば、後はそいつの頑張り次第さ。



 大会は年が明けてからだと言われた。
 出場選手に選ばれそうな生徒も何人かいると。
「じゃあ、ハーレイも…」
 大会について行ってしまうの、何処であるのか知らないけれど。
 それに大会に向けての練習、いつもより多くなりそうだものね…。ハーレイが仕事の帰りに来てくれる日も、うんと少なくなっちゃうのかな…。
「安心しろ、大会は平日だから」
 あいつらが出場するにしたって、平日に俺がいないというだけの話だ。
 週末が潰れちまうってことにはならんさ、大会ではな。問題はその前の期間なんだが…。
 正式に出場が決まったとなれば、強化月間に入るからなあ、部活の時間が多くなる。平日の練習時間も増えるし、今よりはずっと柔道部についてる時間が長くなる勘定になるんだが…。
 まあ、そうなっても、お前の家には出来るだけ寄れるようにするがな、今日みたいに。
「ホント?」
 仕事の帰りに寄ってくれるの、週末だけじゃなくて?
 ぼくの家で晩御飯を食べてくれるの、強化月間に入っちゃっても?
「そのつもりだが…。とりあえず、お前が優先だしな」
 柔道部のヤツらも大切なんだが、それよりお前だ。
 同じ教え子で、どちらを取るかと尋ねられたら、もちろんお前の方ってことだ。
 ただし…。



 俺の中では、という一言がついた。
 ハーレイにとってはブルーが優先なのだけれども、学校としては柔道部だろう、と。
 大会への出場が決まったとしたら、そちらが優先。ブルーのために時間を割くよりも。
「…だったら、やっぱり…」
 ハーレイの時間は減っちゃうんだよね、ぼくの家に寄ったりする時間。
 いくらハーレイが頑張ってくれても、今みたいにはいかないよね…。
「そうでもないさ。手伝いを頼むってことも考えてるし」
「手伝いって?」
「そのまんまの意味だな、俺の助手だ」
 俺の代わりに柔道部の指導が出来るヤツ。心当たりは幾つもあるから、声は掛けてある。
 学校の方にも言ってはあるんだ、俺はお前の守り役だからな?
 仕事がお留守になってる間に、お前が聖痕現象を起こしちまったら大変だ。聖痕は傷痕が残りはしないが、大量出血を繰り返した末に寝たきりになっちまった例もあったと聞いてるだろう?
 お前がそういうことにならないよう、守り役の俺がいるってわけだ。
 柔道部が大事な時だから、って放っている間に何かあったら、どう謝ったらいいのやら…。
 俺も困るが、学校の方も困るんだ。俺の役目を知っていたくせに、柔道部を優先させていた、と病院の先生から文句を言われたら反論しようがないからな。
 俺が守り役を務めるためには、俺の代わりに柔道部を指導してくれるヤツが必要だ。そのための人間を入れていいか、という話はしてある。
 どんな肩書きになるかは知らんが、俺の助手を呼ぶことになるんだろうなあ、大会に出るなら。



 ブルーが思った以上に大切で責任があるらしい、守り役の仕事。
 学校も考えてくれているから、柔道部が大会に行くとなったら、ハーレイの助手がやって来る。守り役の仕事に支障が出ないよう、ハーレイの補佐をする人が。
「そいつが来てくれたら、今まで通りに会えるってことさ」
 お前の家に寄らなきゃいかん、と思った時には柔道部の指導はそいつに任せる。
 後は頼んだ、と俺は着替えて帰るわけだな、お前と晩飯を食べるためにな。
「それは嬉しいけど…。でも、いいの?」
 柔道部の方を放っておいても本当にいいの、大事な大会が控えているのに…。
「俺の後輩に頼むんだからな、問題無いさ」
 ちゃんと柔道をやってるヤツらだ、道場で教えているヤツら。
 そういうヤツらを呼んで来るんだ、いわばその道のプロってもんだな。選手じゃないだけで。
 下手な学校教師が指導するより、ずっといいんだ。
 本当は何処の学校でも、そういったヤツらに指導を任せたいって所が本音なんだろうが…。
 外からそういう人を呼ぶには、けっこう費用がかかるんだ。だから出来ない。
 そんなヤツらを俺の代わりに呼ぼうと言うんだ、学校からは何も文句は出ないさ。
 なにしろ費用はタダだからなあ、後輩たちは「喜んでタダでやりますよ」と言ってるわけだし。



「だったら安心…」
 柔道部の方も大丈夫そうだし、ぼくもハーレイと今まで通りに会えそうだし。
「な? お前は心配しなくていいんだ、柔道部が大会に行くことになっても」
 俺と会えなくなったりはしないさ、きちんと対策は考えたしな。
「その人、今から頼めないの?」
 後輩の人たち、今から来てくれたら、もっとハーレイに会えるのに…。
 仕事の帰りに寄ってくれる日、今よりも多くなりそうなのに。
「こら、欲張るな!」
 いい方法を聞いたから、って調子に乗るなよ、チビのくせに。
 後輩たちがタダで来てくれるのは、教え甲斐があるヤツらが決まった期間で何処まで伸びるか、自分の腕を試したいからでもあるわけで…。
 まだ大会に出られるかどうか、それも決まってないんじゃなあ…。
 出場する生徒が決まっているから、そいつらの力を伸ばそうと来てくれるんだぞ。他のヤツらの指導もしながら、出場するヤツらの面倒を見る。
 教え子が優秀な成績を挙げてくれたら嬉しいモンだし、それを目当てのボランティアなんだ。
 今からヤツらを呼んでどうする、流石にタダでは来てくれないぞ…?



 欲張らなくても今は普通だろ、と叱られた。
 週末も会えるし、今日のように仕事の帰りにも。ちゃんと充分に会えていると。
 今のペースでブルーに会えるよう、大会の前だけ、後輩たちに助手を頼むのだから、と。
「うん…。ハーレイが考えてくれているなら、カツ丼の日にも応援出来そう」
 柔道部です、って言ってカツ丼を持ってく生徒が食堂に来たら、ぼくも応援出来そうだよ。
 明日の大会では勝てますように、って。
「そりゃ嬉しいな」
 応援ってヤツは力になるしな、お前も応援してくれるんなら頼もしい。
 声に出さなくても、思念波でなくても、「勝てますように」と祈ってくれるだけでいいのさ。
 そういう祈りがこもったカツ丼を食えば、きっと勝てるに違いないしな。
「あのカツ丼…。あれは食堂の人が考えてるの?」
 明日は弓道部の大会だから、ってカツ丼を作ろうと決めたりするの?
「いや、顧問からの申請だな」
 ウチの部が明日は大会ですとか、遠征試合に行くんです、とか。
 ここでカツ丼、と顧問が思えば、食堂に注文しておくわけだ。
 そして生徒の方にも伝える、この日は食堂で名乗るようにと、そうすればカツ丼が貰えると。
 柔道部の場合は俺が出すんだ、この日にカツ丼を何人前、という風にな。



 クラブの顧問からの申請があれば、食堂で作るというカツ丼。勝つと縁起を担いだカツ丼。
 どおりで普段は見ないわけだ、とブルーはようやく理解した。
 何処かのクラブがここ一番の勝負に挑む時、出場選手のために作られるカツ丼。今日は弓道部の生徒がカツ丼のトレイを持っていたけれど、年が明けたら柔道部の生徒が持つのだろう。
 ハーレイが見込んだ生徒が大会に出場するとなったら、その大会の前日になったなら。
 何人くらいがカツ丼のトレイを貰えるのだろうか、と考えていて、ふと思ったこと。
「…ハーレイもカツ丼、食べていたの?」
 顧問の先生が頼んでくれたの、明日はカツ丼が出る日だから、って。
 それとも、そういう仕組みじゃなかった学校だった…?
「俺の学校でも同じだったな、運動部向けのスペシャルメニューというヤツだ」
 学校でカツ丼を食って帰って、ついでに家では勝利の煮込みだ。
 月桂樹の冠の話、してやっただろ?
 俺が貰った正真正銘の月桂樹の冠、それの葉っぱで勝利の煮込みだ、と。



 月桂樹の枝で作った冠、と言われて鮮やかに思い出した。そうだった、と。
 ハーレイがブルーと同じ年頃の生徒たちが通う学校にいた頃、所属していた水泳部。顧問だった先生の奥さんが月桂樹の枝で冠を編んで、大会で優勝した生徒にくれるというから。遠い遠い昔にオリンピックの勝者が貰った冠、それを作ってくれるというから。
 ハーレイは頑張って練習を重ね、見事優勝してそれを貰った。本物の月桂樹で出来た冠を。
 保存用の加工をしなかったそれは、日に日に乾いていったけれども。乾燥した葉が落ちていったけれども、その葉を使ってハーレイの母が煮込み料理を作った。
 シチューにポトフに、それからカレー。月桂樹の冠の葉を入れて煮込む料理は勝利の煮込みで、ここぞという試合や大会の前には、ハーレイはそれを母に注文したという。勝利の煮込みを。
 食べれば力がついた気がしたという勝利の煮込み。ハーレイは柔道も水泳も負け知らずだった、勝利の煮込みを食べて挑んで。
 勝って勝ち進んで上の学校へと行ったハーレイ、家ではカツ丼の出番は無さそうだから。



「えーっと…。家だと勝利の煮込みってことは、ハーレイの家ではカツ丼は…」
 出てなかったの、カツ丼は学校だけで食べていたの?
「むろん、カツ丼も食ってたぞ?」
 勝利の煮込みが生まれる前にはカツ丼だったし、勝利の煮込みに入れる月桂樹の葉が無くなった後もカツ丼だったな。勝つにはやっぱりカツ丼じゃないか。
 上の学校に進んだ後にはステーキもつけて。
「ステーキって?」
「カツ丼と同じだ、これも語呂合わせだ。ステーキを敵と言い換えるんだ」
 ステーキと一緒にカツ丼を食えばだ、敵に勝つという意味になるってわけだな。これを食ったら負ける気がしない、もう最強の組み合わせってことだ。
「ステーキと一緒にカツ丼って…。そんなに入る?」
 カツ丼だけでも凄い量なのに、ステーキだなんて…。お腹一杯になりそうだけど…。
「俺の胃袋だぞ、入るに決まっているだろう」
 ペロリと平らげて、野菜サラダも食ってたが?
 栄養バランスは大切だしなあ、肉を食ったら野菜もしっかり摂らないとな。
 そいつはカツ丼だけだった頃から変わらん、カツ丼を食ったら野菜か果物が俺の主義だった。
 同じ食うなら、カツ丼だけで済ませちゃいかん、と。
 もっとも、カツ丼…。



 お前の胃袋にはカツ丼だけでも無理そうだが、と笑われた。
 学校の食堂のカツ丼はきっと入らないだろうと、とても食べ切れないだろうと。
「ずっと昔には受験生も食べてたらしいんだがなあ…」
 お前じゃ、受験生でも食えそうにないな、カツ丼ってヤツは。
「受験生って?」
 何なの、何を受験するの?
「俺が言う時代の受験生と言ったら、学校に入るために試験を受けるんだが?」
 入試が大変だった時代の話さ、カツ丼を食って挑むぞってほどに。
「…ぼく、カツ丼を食べたら試験どころか…」
 少しの量なら大丈夫だけど、今日、食堂で見たようなヤツ。
 あんなのを食べたら、試験会場へ行く前に寝込んでいそうだけれど…。
「そうだろうなあ…。お前の小さな胃袋ではな」
 腹一杯になっちまって気分が悪くなるんだろうな、と可笑しそうなハーレイ。
 今の小さなブルーはもちろん、前のブルーと同じに育っても残しそうだ、と。



「そうかも…」
 育っても、あれだけの量のカツ丼だと…。ちょっと無理かも、食べ切るのは。カツ丼、嫌いじゃないんだけれど…。
「前のお前なら、食うべき場面は山盛りなんだが…」
 勝つぞと縁起を担ぐ場面は山ほどあったろ、前のお前には?
「あの頃に無くて良かったよ。カツ丼が…!」
 もしもあったら、ハーレイに食べさせられていそう、と苦笑した。
 人類から物資を奪いに出掛ける前には必ずカツ丼、と。
「だろうな、俺が厨房にいた頃ならな」
 せっせと作って、前のお前に食べさせて。これで勝てると、行って来いと、必ずカツ丼だな。
「キャプテンになった後でもだよ!」
 カツ丼なんだと思ってるんだし、厨房で作らせていそうだよ。
 ハーレイが自分で作っていた頃のカツ丼、それとおんなじレシピを厨房の係に渡して。



 前のぼくが出掛けるとなったら、「ソルジャーにこれを」と言うんでしょ、と訊いてみたら。
 厨房に指図して、カツ丼を届けさせるんでしょ、と尋ねてみたら。
「もちろんだとも」
 俺が厨房にいないからと言って、カツ丼をやめるわけにはいかん。お前が出るならカツ丼だ。
「ほらね…!」
 食べ切れないって悲鳴を上げても、カツ丼が届いてしまうんだよ。
 「キャプテンが仰いましたので…」って、厨房のスタッフが運んで来るのか、部屋付きの係か。どっちにしたってカツ丼が届いて、ぼくは食べるしかないんだよ。お腹一杯になっちゃっても…!



 酷い目に遭ったに違いない、と前の自分とカツ丼が出会わなかったことに感謝したけれど。
 何かと言えばハーレイが「食べろ」とカツ丼を寄越す世界でなくて良かったと思ったけれど。
 でも…、と少し考え込んだ。
 メギドに行く前はカツ丼だろうか、と。
「ねえ、ハーレイ…。前のぼくがメギドに飛び立つ前にも、カツ丼、くれた?」
「メギドって…。そこでカツ丼って…。お前、あの状態で食えたのか?」
 カツ丼なんかを食べられるような体調だったか、とても食えそうにないんだが…?
「…食べられたかどうかは分からないけど、ハーレイが手配してくれた食べ物…」
 それを一口でも食べて出掛けたかったな、おまけに勝てるカツ丼なんだよ?
 同じメギドに行くにしたって、あそこでカツ丼、欲しかったかも…。
「俺はあの時、お前が出撃するとは思っていなかったが?」
 お前がブリッジにやって来るまで、その可能性は微塵も考えちゃいなかったんだが。
「それじゃ、カツ丼は…」
「届くわけがないな、青の間にはな」
 俺は手配をしていないんだし、カツ丼が届くわけがない。
 いくらお前が食べるつもりでも、一口でもと待っていたとしても、カツ丼は届かないってな。



「…ぼく、カツ丼が届かなかったら…」
 ハーレイからのカツ丼が、いくら待っても届かなかったら、メギドには…。
「行けなかったか?」
 勝てる気がしなくて行けなかったか、俺が手配したカツ丼が無い寂しさで行けなかったか。
 どちらか知らんが、行けずに終わっていたと言うのか、メギドに…?
「…そんな気がする…」
 気持ちが挫けてしまったと言うか、決心がつかなかったと言うか。
 メギドは本当にここ一番の戦いだったし、そういう時こそカツ丼が無いと、って気がするから。
「なら、本当にカツ丼があれば良かったなあ…」
 シャングリラにカツ丼は無かったわけだが、あれば良かったと本気で思うな。
 お前が出掛けようって時には、俺がカツ丼を自分で作るか、手配して届けさせたかったなあ…。



 そのカツ丼が届かないからと、お前がメギドに行かずに済んだのならな、と言うハーレイ。
 たとえ普段はカツ丼を無理やり食べさせるからと恨まれていても、と。
「…どんなに日頃は恨まれていても、カツ丼のせいで腹一杯だとお前に文句を言われていても…」
 カツ丼が本当にあれば良かった、お前に食わせておきたかった。
 そうしてさえおけば、お前はメギドに行き損なったという可能性が充分あったのならな。
「…カツ丼、あった方が良かったのかな?」
 あのシャングリラに、ハーレイのカツ丼。ハーレイが「食べろ」って出して来るカツ丼。
「俺としてはあって欲しかったな」
 そいつが存在していたばかりに、お前がメギドに行き損ねようが、地球の未来がどうなろうが。
 カツ丼は是非、欲しかった。
 前のお前が出掛ける前には必ず食わせて、もう見たくないと言われるくらいに必ずカツ丼。
 そういう習慣がありさえすればだ、前のお前の一世一代の大勝負。
 あのメギドでの戦いは無くて、カツ丼を食い損なったお前が青の間にションボリいたんだしな。カツ丼が届かなかったから沈めに行けなかったと、メギドはどうなったかと肩を落として。



 そんな姿を見ることになっても、お前が留まってくれていたなら…、と悔しそうなハーレイ。
 カツ丼を食べられなかったブルーが、「勝つ」と背中を押されなかったブルーが、ションボリと青の間に残っていたら…、と。
 けれども全ては夢物語で、あの頃はカツ丼が無かった時代。
 ハーレイはブルーにカツ丼を一度も作りはしなくて、届けさせることも一度も無かった。勝つと縁起を担ぐカツ丼、それをブルーに食べさせなかった。
 前のブルーはカツ丼などは知りもしなくて、たった一人でメギドへと飛んだ。
 戦いの場へと赴く前にはカツ丼を食べることも知らずに、勝つと縁起を担ぎさえもせずに。
 そうしてブルーがメギドを沈めて、全ては変わった。
 人類の世界からミュウの世界へ、死の星だった地球は青い星へと。
 青い姿を取り戻した地球に幾つもの文化が戻って、カツ丼も其処に帰って来た。日本という国があった地域に、勝つと縁起を担いで食べるカツ丼が。
 だから…。



「ねえ、ハーレイ。今はカツ丼、あるけれど…」
 ぼくの家でもママが作るし、お店にだってあるんだけれど…。学校の食堂でも出すらしいけど、そのカツ丼…。スペシャルメニューだっていうカツ丼…。
 それを柔道部に出す時が来ても、ぼくを放っておかないでよ、と念を押したら。
 柔道部の指導で大変だからと、ろくに会えないようなことにはしないでよ、と頼み込んだら。
「分かっているさ。ちゃんと俺の助手を手配するんだと言ってるだろうが」
 柔道部が大会に出ることになったら、お前にも応援して欲しいしな。
 食堂でカツ丼を貰ってる柔道部のヤツらを見掛けたら、応援してやって欲しいと思うし…。
 お前の恨みを買わないように、お前の相手は今まで通りにしてやるさ。大会だろうが、強化月間だろうが、今と全く変わらんようにな。
 …そうだ、カツ丼。お前用のも頼んでやろうか?
「え?」
「前の俺がお前に食わせてやり損なった代わりだ、食堂のカツ丼」
 柔道部の生徒じゃないんですけど、って俺の名前を出したら、お前がカツ丼を貰えるように。
 お前の胃袋のサイズに合わせて、少なめでな。
「…そんなの、出来るの?」
 運動部用のスペシャルメニューなんでしょ、ぼく、運動部に入ってないのに…?
「さてなあ、俺もやってみないと分からんが」
 食堂の人に訊いてみないと、どうなるのかは分からないんだが…。
 俺はお前の守り役なんだし、特例ってヤツで通りそうな気がするんだよなあ、お前用のカツ丼。



 柔道部が大会に出られることになったら訊いてやろう、と言われたから。
 特例が駄目でも、結婚したなら特製カツ丼を作ってやるとパチンとウインクされたから。
 楽しみになって来たカツ丼。
 カツを卵でとじたカツ丼、勝つと縁起を担いだカツ丼。
 前の生では無かった食べ物、運動部員の御用達。
 もしもシャングリラにあったとしたなら、ハーレイに何度も食べさせられただろうカツ丼、船の外へ出る時は必ず「食べろ」と押し付けられただろうカツ丼。
 それを学校の食堂で食べられるのなら、ハーレイの名前を出して受け取って、幸せ気分な少なめサイズ。大きな丼に少なく盛られた、ハーレイが手配をしてくれたカツ丼。
 そのカツ丼を食べるのは無理でも、食堂で却下されたとしても。
 いつかハーレイと結婚したなら、特製カツ丼が食べられる。
 勝つと縁起を担いだカツ丼、ハーレイが何度も食べて作って来たカツ丼。
 きっとこだわりの味だろうから、それを二人で味わってみたい。
 何に勝とうと思うわけでもないのだけれども、二人でカツ丼。
 地球に来られたと、幸せの味だと、ハーレイが作った特製のカツ丼を二人で暮らす家で…。




          勝利のカツ丼・了

※今の時代は、大事な勝負の前にはカツ丼。SD体制の時代には無かった食べ物。
 もしもあったら、前のブルーはメギドに行っていなかったかも。たかがカツ丼ですけどね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(んーと…?)
 学校から帰って、ダイニングのテーブルでおやつの時間。
 ブルーの鼻をくすぐった香り、甘くて美味しそうな匂いがしたのだけれど。
(…ケーキ?)
 甘いものなら、目の前のケーキ。さっきから食べているケーキ。
 けれども生クリームで飾られたケーキの匂いとは違う気がする、この匂いは。嗅いでみたって、やっぱり違う。同じ甘さでもケーキではなくて、どちらかと言えば…。



(ホットミルク…)
 シロエ風のミルクが近いと思った。ハーレイに教わったお気に入りの飲み物、身体が温まる甘いホットミルク。
 前の自分が生きていた頃、マザー・システムに逆らい続けて散った少年、セキ・レイ・シロエ。彼が好んで飲んでいたから、シロエ風だと伝わる飲み物。
 シナモンミルクにマヌカ多めで、それがシロエの注文だった。マヌカの蜂蜜を多めに、と。
 ハーレイから聞いて母に作って貰った時には、マヌカで失敗したけれど。癖のあるマヌカを母が買って来て、薬っぽい味だとハーレイに苦情を言ったけれども、今では甘いマヌカの蜂蜜。
 その蜂蜜がたっぷり入ったホットミルクに近いと感じる、美味しそうな香り。
 ダイニングの何処からか、ふうわりと届いた甘そうな匂い。



(なんで?)
 香りをよくよく考えてみれば、どうやら蜂蜜を思わせるそれ。甘くてトロリとした金色。
 おやつのケーキに蜂蜜は使われていそうにもないし、テーブルの上にも蜂蜜は無くて。甘い蜜を中に閉じ込めた瓶も、器に移した蜂蜜も欠片も見当たらなくて。
(でも、甘い…)
 蜂蜜の香り、あるいは蜂蜜に似た何か。消えずに漂い続ける香り。甘い甘い香り。
 何処、と見回しても分からない。それっぽいものを見付けられない。
 甘い香りを放ちそうなものはケーキの他には一つも無い。
 今日は紅茶を飲んでいるから、シロエ風のホットミルクも無いし…。
 なのに蜂蜜、何処からか甘い蜂蜜の匂い。



 キョロキョロと何度も目で探す内に、母がダイニングに入って来たから。
「ママ!」
 蜂蜜は何処、と訊いてみた。
 甘い匂いがしているけれども、蜂蜜は何処にあるのかと。
「ああ、蜂蜜…。それなら、これよ」
 此処よ、と母が棚から取って来た白い小さな紙袋。何も書かれていない袋で、簡素な袋。素朴と言ったらいいのだろうか、甘いお菓子には似合わない。普通は凝った袋なのに、と見ていたら。
 母が開けた袋の中からフワッと蜂蜜そのものの匂い、出て来た黄色い小さな蝋燭。
 まるで蜂蜜を固めたかのような黄色い蝋燭、ランプに入れるのに良さそうなサイズ。蝋燭で灯すタイプのランプ用に、と母が買ったりしているサイズ。
 その蝋燭から甘い甘い匂い、蜂蜜の匂い。
 お菓子ではなくて蝋燭なのに。火を灯す芯がついているから、蝋燭の形のお菓子ではない。
 それなのに甘い香りの蝋燭、幼い子供なら齧ってしまいそうな匂いの蝋燭。



「なあに、それ?」
 蜂蜜の匂いがしてるけれども、お菓子じゃなくって蝋燭だよね?
 食べるものじゃないよね、その蝋燭…?
「これはね、ミツバチの蝋燭よ」
「えっ?」
 ミツバチの蝋燭と言われてもピンと来ないし、キョトンと目を丸くして眺めていたら。
 知らないでしょう、と母が教えてくれた。「本当にミツバチの蝋燭なのよ」と。
 ミツバチが巣を作る巣材の蜜蝋、蜂蜜を採る時には壊されてしまうミツバチの巣。その巣に熱を加えて溶かすと蜜蝋が出来て、甘い香りの蝋になる。
 蜜蝋は新しい巣を作るためにとミツバチに与えてやるのだけれども、同じ蜜蝋から作れる蝋燭、母の友人が作ったらしい。
「養蜂場へ行ったんですって、蜂蜜を買いに」
 そしたら蜜蝋も売られていたから、一緒に買って来たらしいのよ。蝋燭作りがお勧めです、って養蜂場の人が言ってたらしいわ。



 養蜂場のお土産の蜜蝋、それで手作りした蝋燭。
 置いてあるだけでも甘い匂いが漂うけれども、火を灯しても蜂蜜の香りが素敵らしくて。
「せっかくだから試してみる?」
 どんな匂いか、ブルーも嗅いでみたいでしょう?
 蜂蜜は何処に置いてあるの、ってママに訊いてたくらいだものね。
「うんっ!」
 ミツバチの蝋燭、初めて見たよ。巣から蝋燭が作れるなんて…。
 巣まで蜂蜜の匂いがするなんて、ぼく、考えてもみなかったよ。巣は蜂蜜が詰まってるんだし、匂いも同じになるんだろうけど…。
 蝋燭はどんな匂いがするかな、やっぱり蜂蜜の匂いなのかな…?



 母が火を灯してくれた蝋燭。ミツバチの巣から出来た蝋燭。
 ゆらゆらと揺れる焔は蜂蜜の匂いを連れて来た。溶けてゆく蝋の甘い香りを、ミツバチが集めた蜂蜜の匂いを。
 甘い匂いを満喫してから、二階の自分の部屋に戻って。
(美味しそうだったな…)
 甘くて美味しそうな匂いだった、と勉強机の前に座って思い出す。
 火を灯しても蜂蜜の香り、灯す前から蜂蜜の香りがした蝋燭。ミツバチの巣から作った蝋燭。
 今の時代も蝋燭は色々あるけれど。
 凝った形をしているものやら、絵がついたものや、それは色々とあるのだけれど。
 そういう蝋燭とは少し違って、特別な感じがする蝋燭。ミツバチの蝋燭。



(匂いも、色も…)
 店で売っている蝋燭とは違う、とミツバチの蝋燭を思い浮かべた。
 甘い蜂蜜の匂いが漂う蝋燭、火を灯す前から蜂蜜の香り。まるで蜂蜜を固めたみたいに。
 色も蜂蜜を思わせる色で、黄金色にも見えた蝋燭。金色に輝いてはいないけれども、荘厳な金。蝋燭の光で金細工を見たら、ほのかな暗がりでそれを見たなら、あんな風ではないだろうかと。
 甘い香りに厳かな黄金、自然の素材で出来た蝋燭。
 人の手が加えてあると言っても、それは蝋燭の形にしただけ。蜜蝋はミツバチが作るのだから。
 自然の中から生まれた蝋燭、天からの授かり物のような蝋燭。
(素敵だよね…)
 甘い香りも黄金の色も、人が作ったものではないから。
 あんなに甘くて美味しそうなのに、蜂蜜の色を湛えているのに、自然が作った蝋燭だから。
 本当に素敵でホントに特別、と思った途端に。



(あ…!)
 あの蝋燭は特別だった、と掠めた記憶。遠い遠い記憶。
 前の自分の。ソルジャー・ブルーだった自分の。
(…神様の蝋燭…)
 白いシャングリラではそうだった。
 甘い蜂蜜の香りが漂う金色の蝋燭は、神に祈りを捧げた蝋燭。祈りの時に灯す蝋燭。
 あれはミツバチの蝋燭だった、と遠い記憶が蘇って来た。
 前の自分もミツバチの蝋燭を知っていた。甘い香りも、あの金色も。
 蜜蝋で出来た蝋燭を灯した、さっき母と灯していたように。
 蜂蜜の香りが漂う蝋燭の焔を見詰めて祈った、きっと何処かにいるだろう神に。



 白いシャングリラにもあったミツバチの蝋燭、蜜蝋で出来た金色の蝋燭。
 それは偶然から生まれて来たもの、蝋燭を作ろうとしていたわけでは全くなかった。
 始まりはミツバチを飼い始めたこと、自給自足の生活の日々の助け手として花粉を運んでくれるミツバチの巣箱をシャングリラに置いた。
 居住区に散らばる小さな公園でも生きられるように改良されたミツバチ、テラフォーミング用に人類が改良していたミツバチ。それを奪って巣箱を幾つも。
 そうして蜂蜜を採ろうとしていて、巣から蜜蝋が採れると分かった。蜂蜜を採るために壊す巣を溶かせば、蜜蝋というものが出来るらしいと。



「蜜蝋は次の巣材になるのだがね」
 ミツバチのために与えてやれば、と言ったヒルマン。
 蜜蝋はミツバチの身体の中から出来るものだけれど、既に出来上がった蜜蝋があれば、巣作りの助けになるようだ、と。
 ミツバチは蜜蝋で新しい巣を作り直して、また蜂蜜を溜めてゆく。蜂蜜が溜まれば、人間が巣を壊して蜂蜜を採る。その巣からまた蜜蝋が出来て…、という繰り返し。
 けれども蜜蝋を貰わなくとも、ミツバチは自分で巣を作れるから。蜜蝋を全て返す必要はないというから、ヒルマンとエラが調べた結果。
「蜜蝋からは蝋燭なども作れるそうです」
 エラが蜜蝋の使い道を挙げた。蝋燭の他にもハンドクリームやリップクリームなど、様々な物に使えるらしいと。
「へえ…! ミツバチの巣から蝋燭なんかが出来るのかい?」
 面白いじゃないか、と言い出したブラウ。
 ミツバチと蝋燭はまるで結び付かない気がするけれども、面白そうだと。蜂蜜を採るなら、その蝋燭を作ってみよう、と。



 そうして生まれた金色の蝋燭。
 蜂蜜を集めるために開けた巣箱の、壊してしまった巣から生まれて来た蝋燭。
 ヒルマンがミツバチの管理係と一緒に蜜蝋を作り、その蜜蝋からエラが手作りした蝋燭。試しに作ってみた金色。
 長老たちが集まった席で披露されたそれは、甘い匂いがして美味しそうだった。蜂蜜の香り。
 ゼルにブラウに、ヒルマンにエラ。ハーレイとブルー、その六人で囲んで火を灯してみて。
「美味しそうな匂いだねえ…」
 本当に本物の蜂蜜みたいだ、とブラウが漏らした感想。美味しそうだと。
「どう見ても食えんようじゃがな」
 蝋燭じゃし、とゼルが返したけれど。
「そういうわけでもないようだがね」
 ヒルマンの言葉は、「この蝋燭は食べられる」という風にも受け取れたから。
「食べられるのかい、これは?」
 前の自分が問い掛けてみれば、「神様がね」と笑顔のヒルマン。
「え…?」
 それはどういう意味なんだい?
 神様が蝋燭を食べるというのかい、神様はこれを食べるのかい…?



 いったいどうやって食べるのだろう、と意味を掴みかねた前の生の自分。
 聖書には書かれていないようだけれど、神は蝋燭を好んで食べるというのだろうか、と。
 そう、文字通りに「食べる」ものだと考えた。口に運んで味わうのだと。
 ゼルもブラウも、ハーレイもそう考えたけれど、ヒルマンとエラの答えはそうではなかった。
 神は蝋燭の甘い香りを好むもの。
 遠い昔に教会で焚かれた乳香などの煙と同じで、この蝋燭の香りも神への捧げ物なのだ、と。



 SD体制が始まるよりも遠い遥かな昔の地球。中世と呼ばれていた時代。
 蜜蝋で出来た金色の蝋燭は神に捧げる貴重品だった。
 蝋燭の材料は蜜蝋の他にも色々とあって、牛脂などの動物の脂が一般的だったけれど。そうした蝋燭は神は好まない、それは良い香りがしないから。教会を天上の香りで満たしはしないから。
 教会で灯すなら蜜蝋の蝋燭、蜂蜜の香りがする蝋燭。
 蜂蜜自体が貴重だった時代、甘い菓子など庶民の口には入らなかったような時代に蜜蝋の蝋燭は高価な蝋燭、教会で神に捧げる蝋燭。
 時が流れて、獣脂ではなくパラフィンの蝋燭が普及した後も、教会でもパラフィンの蝋燭を使うようになっても、蝋燭が主役を務める儀式の時には蜜蝋の蝋燭が使われた。
 神が好むという蝋燭が、甘い香りのする蝋燭が。



 その習慣は消えてしまって、もう人類の社会にも残っていないという。
 蜜蝋の蝋燭を好んだ神は今でも存在するのに、シンボルの十字架もあるというのに。
「地球が滅びてしまったからねえ…」
 神様も贅沢を言ってはいられないんだねえ、とブラウが深い溜息をつけば、エラも頷いた。
「蜜蝋の蝋燭どころではなかったようです」
 地球はミツバチが自然に生きられる環境を失い、蜜が採れる花も育たなくなって…。
 急速に衰えてゆく地球を救うためにと、人類は地球を離れました。SD体制を作り上げて。
 そんな激動の時代の中では、とても教会どころでは…。
 祈る人がいても、蜜蝋の蝋燭を作る余裕は無かったでしょう。
 それが神への捧げ物だったと覚えていた人たちも死んでしまって、蜜蝋の蝋燭が何であったかは忘れ去られてしまいました。
 人類の社会に蜜蝋の蝋燭はあるのですけれど、香りを楽しむもののようです。蜂蜜の匂いがする蝋燭だと、自分の心を楽しませるために灯して暮らしているそうですよ。



 人類が忘れてしまった蝋燭。神に捧げていた蝋燭。
 けれども、今でも神はいるから。
 シャングリラの中に教会は設けていないけれども、人類の社会にも純粋に祈りの場である教会は一つも無いのが現状だけれど。結婚式などのために存在するのが教会、それを維持する人間たちも信仰ではなくて仕事をしているだけなのだけれど。
 それでも祈るなら神はいたから。
 蜜蝋の蝋燭を好んだという神は今でもいるのだから。



「この蝋燭…。神様の蝋燭にしておこうか」
 せっかくだから、と言ってみたものの、シャングリラの中には無い教会。
 その教会から作るとなったら難しいし、と考え直しかかっていたら。
「いいと思うね」
 祈りたい人が使うというのはどうだね、とヒルマンが言った。
 神に祈りを捧げたい時は、蜜蝋の蝋燭を使えばいいと。
 蜂蜜を採ったら蜜蝋が出来るし、蜜蝋の蝋燭はこれから先も作ってゆける。白いシャングリラの中で幾つも、幾つも、蜂蜜の香りの蝋燭を。
 祈る時にはそれを一本、甘い香りの蝋燭を灯して祈ればいいと。
「いいねえ、蝋燭を灯すだけなら自分の部屋で自由に祈れそうだよ」
 とっておきの蝋燭なんです、と神様にアピールしながらね、とブラウがパチンと片目を瞑れば、ゼルも乗り気で頷いた。
「ふうむ…。自分の部屋で祈れるとなったら、個人的なことでも遠慮は要らんのう…」
 特別な蝋燭を灯していようが、自分の部屋の中なんじゃしな。
 もう遠慮なく頼み事が出来るというもんじゃ。つまらんことでも、誰も笑いはせんからのう…。



 これは使えそうだ、と皆で頷き合った蝋燭。
 シャングリラにも蝋燭はあったけれども、それとは違った特別な感じがする蝋燭。
 遠い昔には神に捧げたらしい蝋燭、その上、人類が忘れた習慣。
 蜜蝋の蝋燭は神への捧げ物だったことを人類はすっかり忘れてしまった、滅びへと向かう地球を救うのに精一杯で。
 地球は救えたようだけれども、蜜蝋の蝋燭を捧げる祈りは戻らなかった。教会はあっても人生の節目の結婚式だの、クリスマスだのといった行事をするための場所。蜜蝋の蝋燭を灯す儀式はもう行われてはいないから。
 その蝋燭を灯して祈れば、ミュウの祈りが届くかもしれない、甘い匂いに乗って神の許へと。
 蜜蝋の蝋燭を好んでいた神は、今も何処かにいるのだから。



「じゃあ、神様の蝋燭ということにしよう」
 そう宣言した、前の自分。ミュウの長だったソルジャー・ブルー。
 反対する者はいなかった。長老たちの中にも、白いシャングリラの仲間たちの中にも。
 エラが試作した蜜蝋の蝋燭の甘い香りと、ヒルマンが伝えて回った蜜蝋の蝋燭と神との繋がり、それらは皆の心を捉えた。この蝋燭は他の蝋燭とは全く違うと、祈りに相応しい蝋燭だと。



 こうして作られるようになった蜜蝋の蝋燭、特別な蝋燭だったけれども。
 白いシャングリラのミツバチの蝋燭は、祈りたい時には誰でも貰えたけれど。
(前のぼくはあんまり…)
 祈らなかった、個人的なことは頼まなかった。
 ミツバチの飼育は順調だったし、蝋燭は充分に足りていたのに。神に祈りたい気分になったら、蝋燭の保管場所に出掛けさえすれば、誰でも分けて貰えたのに。
 何を祈るのかも訊かれはしないし、貰いすぎだと言われもしない。係がケースから出して渡すというだけ、「どうぞ」と一本渡されるだけ。
 なのに滅多に灯しはしないで、個人的な祈りも捧げなかった。
 前の自分は皆を導く長でソルジャーだったから。ただのミュウではなかったから。
 たった一人きりのタイプ・ブルーで、白いシャングリラを守っていたから。
 個人的なことを神に頼める立場ではないと、頼んでは駄目だと自分を何度も戒め、けして祈りはしなかった。蜜蝋の蝋燭を灯す時には、それを灯して祈る時には。
 自分の本当の願いは密かに、蝋燭は灯さずに心で祈った。そのくらいは許して貰えるだろうと。
 だから自分の寿命が尽きると分かった時にも、皆を地球へ、と蝋燭を灯した。
 自分は地球まで行けないけれども、皆は地球まで行けるようにと。



 前の自分が蜜蝋の蝋燭を灯して祈ったことは殆ど無かった、特別な蝋燭は滅多に灯さなかった。
 本当の願いは心の中だけ、蝋燭は灯さず、本当に心の中でだけ。
(ハーレイとのことも…)
 一度も祈りはしなかった。
 何処までも共にと、二人一緒にと願ったけれども、それは心の中だけだった。
 蜜蝋の蝋燭を灯しはしなくて、ただの一度も特別な祈りを捧げようとはしなかった。甘い香りの蜜蝋の蝋燭、それを灯しはしなかったのに。神に祈りはしなかったのに。
 ハーレイと二人で生まれ変わって地球に来られた、奇跡のように。
 青い地球の上に、聖痕を抱いて今の自分は生まれて来た。
 それを願った覚えは無いのに、蜜蝋の蝋燭に祈りを捧げはしなかったのに。



(もしかして、ハーレイ…?)
 前の自分は一度も祈りはしなかったけれど、ハーレイが祈りを捧げただろうか。
 甘い香りの蝋燭を灯して祈っただろうか、自分とのことを。
 それならば神にも届いたかもしれない、二人で地球へ、という願いが。
 前のハーレイと前の自分の思いは同じで、何処までも共にと何度も確かめ合っていたから。命が尽きた後も共にと、共に逝こうと抱き合ったほどに。
 前のハーレイは神に祈っていたかもしれない、あの蝋燭を灯して自分の代わりに。
 いつか地球へと、二人で地球へ行けるようにと。



(やっぱり、ハーレイ…?)
 ハーレイが祈ってくれていたから、今の幸せがあるのだろうか。
 蜜蝋の蝋燭を捧げた祈りは、神に届いていたのだろうか。
 それをハーレイに尋ねてみたい、と思っていた所へチャイムが鳴って。ハーレイが仕事の帰りに寄ってくれたから、いつものテーブルで向かい合うなり訊いてみた。
「ねえ、ハーレイ。…神様の蝋燭、覚えてる?」
「はあ?」
 なんだ、そいつは。神様の蝋燭というのは何の話だ?
「えっとね…。ずうっと昔は神様専用だった蝋燭」
 ミツバチの蝋燭で、蜜蝋の蝋燭。ミツバチの巣から作るんだよ。
 母が友達から貰って来たのだ、とミツバチの蝋燭の話を聞かせた。
 蜂蜜の匂いがする蝋燭だと、甘い匂いで、見た目も蜂蜜を固めたような金色なのだ、と。



「シャングリラでも作っていたんだけれど…」
 ハーレイ、覚えていないかなあ?
 神様にお祈りをしたい人は誰でも貰えた蝋燭なんだけど…。ミツバチの蝋燭。
 蜂蜜の匂いがする蝋燭は神様専用だったと言うから、お祈りする時だけ使った蝋燭…。
「ああ、あれなあ…!」
 あったな、そういう蝋燭も。俺は滅多に使わなかったし、すっかり忘れちまっていたなあ…。
 蜂蜜の匂いが美味そうな蝋燭、シャングリラに確かにあったっけな。



 懐かしいな、とハーレイが鳶色の目を細めたから。
 白いシャングリラのミツバチの蝋燭を思い出してくれたようだから。
「…もしかしてハーレイ、祈ってくれた?」
 あの蝋燭を貰って灯して、ちゃんとお祈りしてくれていた…?
「何をだ?」
「ぼくとの未来。…前のぼくとの未来のことだよ」
 いつまでも二人でいられますようにとか、二人で地球へ行けますように、とか。
 そういうお祈りのために、あの蝋燭を灯してくれた?
 神様にお願いしてくれていた…?



 前の自分たちが幸せになれるように祈ってくれただろうか、と訊いたのだけれど。
 蜂蜜の香りの蝋燭を灯してくれただろうか、と尋ねたけれど。
「…すまん…」
「え?」
 どうしたの、ハーレイ。すまん、って…。何が?
「…そのままの意味だ。俺はお前に謝ってるんだ」
 前のお前と、俺との未来。俺は祈っちゃいないんだ。
 もちろん祈らないわけはなかった、いつだって祈り続けていたが…。前のお前の幸せも祈ってはいたが、あの蝋燭を灯して祈りはしなかった。
 神様に祈るための蝋燭、俺は一度もお前とのことを頼んじゃいない。
 だから、すまんと言っている。…あの蝋燭は何度も灯したんだが、お前とのことは…。



 祈らなかった、と答えたハーレイ。「すまん」と頭を下げたハーレイ。
 俺はキャプテンだったから、と。
「…あの蝋燭を灯してた時は、シャングリラだとか、仲間たちだとか…」
 そういったことで神様のお世話になりたかった時だな、俺だけの力じゃ心許なくて。
 祈ったからって、問題が解決するとは思っちゃいなかったが…。
 それでも心が軽くなったもんだ、やれるだけのことはやった、とな。
 後は神様にお任せしようと、きっといい方向に導いて下さることだろう、と。運を天に任せるとでもいった所か、後は神様次第なんだ、と。
 …俺はそういう時しか祈っていないが、お前は祈らなかったのか?
 あの蝋燭を灯して俺との未来を一度も祈っちゃいないのか?
 さっきのお前の言い方からして、そんな風に聞こえちまうんだが…?
「うん…。ぼくはソルジャーだったから…」
 ハーレイがキャプテンだったのと同じで、ぼくはソルジャーだったから。
 みんなのことが何よりも先で、あの蝋燭を灯してお祈りするなら、そういうことだけ。
 自分のお祈りは心の中だけ、蝋燭は一度も灯していないよ。
 どんなに神様に頼みたくっても、あの蝋燭は使っちゃ駄目だ、って…。そう思ってた。
 でも…。



 あの蝋燭の祈りのお蔭で地球に来られたのかと思ったから、と打ち明けた。
 人類が忘れてしまった蜜蝋の蝋燭、それで祈りを捧げていたミュウ。白いシャングリラの仲間や前の自分たち。
 神が好んだという甘い香りに乗せた祈りが届いたのかと思った、と。
 けれども自分はあの蝋燭を灯してハーレイとの未来を祈らなかったし、きっとハーレイが祈ってくれたに違いないと考えたのだけれど、と。
「…だから、ハーレイと地球まで来られたのかな、って…」
 ぼくは聖痕まで貰っちゃったし、きっと神様のお蔭だよ、って。
 あの蝋燭でお祈りしたから願いを叶えて貰えたんだと思ったけれども、ハーレイもあれを灯してないなら、蝋燭のお蔭じゃないのかな…?
 神様が奇跡を起こしてくれたの、蝋燭のお蔭だと思ったんだけど…。
「ふうむ…。俺が思うに、そこは逆だろうな」
「逆?」
 逆ってなんなの、あの蝋燭のお蔭じゃないっていう意味?
「いや、あの蝋燭もまるで無関係ではないかもしれん、と思うんだ」
 もしも前の俺たちの願いが神様に届いていたとしたなら、あの蝋燭で祈った分もそうだが…。
 蝋燭を灯して祈る時にも、自分の本当の願い事は一度も祈らなかったこと。
 …そのせいじゃないか?
 本当だったら、一番に祈りたい筈の自分のこと。自分の幸せな未来ってヤツ。
 そいつを一度も祈りはしないで、他のことばかりを祈り続けて…。
 神様にそれが分からないとは思えない。
 最後まで一度も祈らなかったから、御褒美に本当の願いを叶えて貰えたんじゃないか…?



 前の自分たちが祈りを捧げた蜜蝋の蝋燭、ミツバチの蝋燭。
 神様に祈る時にはこれだ、と決めていた甘い香りの蝋燭。
 それを灯して祈ったけれども、前のブルーはソルジャーだったし、ハーレイはキャプテンという立場だったから。
 蝋燭を灯して祈る時には皆のことばかり、白いシャングリラのことばかり。
 自分たちの未来を祈りはしなくて、それは心の中でだけ。蝋燭は灯さず、心の中で。
 蝋燭の甘い香りが無ければ、祈りは届きにくいのに。
 神が好んだ甘い香りに乗せない祈りは、届かないかもしれないのに。
 それでも祈りはしなかった。
 ソルジャーだからと、キャプテンだからと、自分を強く戒め続けて。
 祈りのための特別な蝋燭があっても、それに火を灯すことがあっても…。



 前のブルーと前のハーレイ、二人揃って祈らずに終わった本当の願い。
 ミツバチの蝋燭を灯さないまま、心の中だけで祈り続けた自分たちのための幸せな未来。
 それに神様は気付いて下さっていたのだろう、とハーレイの鳶色の瞳が深くなるから。
 あの蝋燭を灯して祈らなかったことも大きいだろう、と言われたから。
「…そっか、祈らなかったから…」
 前のぼくの本当のお祈りのために、あの蝋燭を一度も使いはしなかったから…。
 灯さずに最後まで我慢したから、神様、叶えて下さったんだ…?
 ハーレイと幸せになれますように、って、二人で地球へ行けますように、っていうお祈り…。
「多分な。…あの蝋燭が関係してると言うんだったら、そんなトコだろ」
 俺もお前も、一度も祈りはしなかった。そこを評価して下さったんだな、よく我慢したと。
 本当だったら祈りたいだろうに、最後まで我慢し続けたから…。
 よく頑張ったと、これが御褒美だと、願いを叶えて下さったかもな。
「…それじゃ、今度も祈っちゃ駄目?」
 ハーレイと幸せになりたくっても、ぼくはお祈りしちゃ駄目なのかな…?
「今度はいいだろ、俺もお前も」
 ただの教師と生徒なんだぞ、優先しなくちゃいけない仲間も船も無いしな。
 シャングリラはもう何処にも無いんだ、俺たちの役目は終わったってな。



 もうソルジャーでもキャプテンでもなくなったんだから、と微笑むハーレイ。
 あの蝋燭を自分だけのために灯してもかまわないだろう、と。
「好きなだけ祈っていいと思うぞ、今度はな」
 お前も、俺も。
 神様に届きますように、って蝋燭を灯してもかまわんだろうさ、自分の願い事のためにな。
「それじゃ、ママが持ってたみたいなミツバチの蝋燭…」
 好きな時に灯してかまわないんだね、神様にお祈りするために。
「そういうことだな。…結婚したなら毎日灯すか、あの蝋燭を?」
 養蜂場へ行けば蜜蝋が買えるし、出来上がった蝋燭も売られているかもしれないし…。
 地球のミツバチの蜜蝋で出来た蝋燭だったら、うんと効き目があるだろう。
 そいつを毎日二人で灯して、神様にお祈りしてみるか。
 幸せになれますように、ってな。
「いいかも…!」
 ママの蝋燭、ホントに美味しそうな匂いがしてたし、あれを二人で買いに行こうよ。
 蜜蝋で作るか、ちゃんと蝋燭になっているのが買えるのか…。
 ハーレイと二人で灯す蝋燭、養蜂場まで買いに行こうね…!



 蜂蜜の香りのミツバチの蝋燭、甘い匂いがする蝋燭。
 白いシャングリラでは祈りのために灯した蝋燭、神に祈りを捧げた蝋燭。
 前の自分もハーレイも、本当の願いは一度も祈らずに終わったけれど。
 あの蝋燭を自分のためには、一度も灯しはしなかったけれど。
 今度は灯して、幸せになれるように祈ってみたい。
 前は祈れなかった分まで、ハーレイと二人、うんと欲張りに。
 二人で暮らす家で二人で灯して、うんと幸せになれますように、と…。




         ミツバチの蝋燭・了

※シャングリラで作られていた蜜蝋の蝋燭。神に祈りを捧げる時だけ、皆が灯していたのです。
 前のブルーもハーレイも祈った、自分たちの幸せ以外のこと。お蔭で今では地球の住人。
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「赤い糸?」
 なに、とキョトンとしちゃった、ぼく。
 学校のお昼休みで、ランチの時間。食堂で初めて聞いたんだけど…。赤い糸って何だろう?
 わざわざ話を持ち出すからには、きっと特別な糸だろうけど。
「噂だぜ、噂。ウチの学年、なんか端から」
「いつものハーレイ先生だよ」
 噂の出処はハーレイの古典の授業なんだって。授業中に生徒が飽きて来たな、と思ったら始めるハーレイの雑談、そこから出て来た赤い糸。今は学年中で噂になってるみたい。
 赤い糸は普通の糸じゃなかった、特別すぎる糸だった。いつか結婚する人と人との間を繋いだ、赤い糸。小指と小指を結んでいる糸、それが赤い糸。
「そんなの、あるんだ…?」
「らしいぜ、ウチのクラスではまだ聞かねえけどよ」
 ハーレイ先生が喋ってくれねえもんな、とランチ仲間が言う通り。ぼくのクラスで赤い糸の話は披露されていなくて、きっとこれから。
「小指に赤い糸なんだよね?」
「うん、小指。でもなあ…」
 見えねえ糸だって話だけどな、って笑い合ってた仲間たち。
 赤い糸は目には見えはしなくて、サイオンを使っても見えないらしいと。
 それでも小指に赤い糸はあって、いつか結婚する何処かの誰かと繋がっていると聞いたけど…。



(赤い糸…)
 小指と小指を結んだ糸。結婚相手の小指に繋がる運命の糸。
 赤い糸はきっと、ぼくの小指にもあるんだろう。ハーレイの小指に結んである糸と繋がっている筈の赤い糸。そう考えただけで心がじんわり温かくなるし、小指を眺めてしまうけど。
 もちろん学校でやりはしなくて、家に帰ってからなんだけど。
(此処に赤い糸…)
 どっちの手かな、と右手と左手、交互に眺めて考えた。おやつを食べた後で部屋に戻って、勉強机の前に座って。
 だけど分からない、見えない糸。赤い糸は目には見えない糸で。
(んーと…?)
 せめてどの辺りにあるのか知りたい、と小指を片方ずつ引っ張ってる内に気が付いた。
 赤い糸をぼくは覚えていない。前のぼくは赤い糸を知らない。
(…前のぼく、その話、聞かなかったの…?)
 白いシャングリラにも恋人たちは何人もいたのに、カップルが何組もあったのに。
 前のぼくとハーレイ、誰にも仲を明かせなかった秘密の恋人同士。堂々と手を繋いだカップルを見ると心がツキンと痛んだりしたし、出来るだけ見ないようにした。幸せを羨んでしまうから。
 ぼくの心が辛くないよう、痛くならないよう、避けてばかりいた恋人たちの話題。
 そのせいでぼくは知らないんだろうか、赤い糸の話。小指と小指の赤い糸の話。
(きっと、そう…)
 前のぼくはそれで良かったんだろうし、知らない方が幸せでいられただろうけど。
 今のぼくには耳寄りな話、ハーレイとの間の運命の糸。
 もっと知りたい、詳しく知りたい。どっちの手なのか、赤い糸はどんなものなのか。



(ハーレイの雑談…)
 ぼくのクラスで話してくれるのを待つしかない、って思ったのに。
 古典の授業の度に心をときめかせてたのに、聞けない雑談、赤い糸の話。ハーレイの雑談は別の話で、赤い糸の話は出て来ない。
(今日のも違うよ…)
 これはこれで面白い雑談だけれど、クラスの生徒も熱心に聞いているけれど。ぼくが待っている話じゃなくって、ぼくは不満で一杯になる。赤い糸の話は何処だろう、って。
 いくら待っても話してくれない赤い糸の話、他のクラスの生徒は直接聞いたのに。ぼくみたいに噂で聞くんじゃなくって、生の話を聞いたのに。
(…ぼくのクラスじゃしてくれないの?)
 どうにも気になる赤い糸。
 ハーレイが仕事帰りに寄ってくれた時に訊きたいけれども、時間が惜しい気もするし…。
 授業中に聞けるチャンスを待とう、って思ってる間に、結局、週末。それも二回目の。
 もう待てない、って心が叫んで時間切れ。好奇心に勝てない、ぼくの負け。
 訊いてやろうと決心した。ハーレイが訪ねて来てくれたら。



 いい天気だから、歩いてやって来たハーレイ。ぼくの部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、お茶もお菓子も放り出してしまって、ぶつけた質問。抱え続けていた疑問。
「ハーレイ、赤い糸ってなあに?」
 どんなものなの、小指と小指を結んでる糸だ、って聞いたけど…。
「何処で聞いた?」
「友達にも聞いたし、学年中で噂になってるよ。ハーレイが授業でやった雑談」
 でも、ぼくのクラスじゃ全く話してくれないし…。待っても待ってもしてくれないから、今日は訊こうと思ったんだよ。
 どうしてぼくのクラスで赤い糸の話をしてくれないのか、それも気になってきたけれど…。
「話さなかった理由ってヤツか? もう充分に広まってるなら、話す必要も無さそうだが…」
 俺がお前のクラスで話すのを避けて通った理由は、だ。
 ウッカリ話すと、本気で小指を眺めそうなヤツがいるからだな。
「…ぼく?」
「まあな」
 お前、聞いたら絶対見るだろ、自分の小指。
 俺との間を結んでる糸がくっついてないか、赤い糸は何処にあるんだろうか、と。



 何処のクラスでも、赤い糸の話を聞いた生徒は小指を見ていたらしいけど。自分の小指をじっと眺めたり、引っ張ってみたり、触ったり。
 だけどそこまで、興味があるのは自分の小指。其処にくっついているらしい赤い糸。
 ところが、ぼくだと繋がった先を見ちゃうから。ぼくの小指にくっついた糸が繋がっている筈のハーレイの小指、それを見ちゃうに決まっているから。
「危ない話は避けるに限る。…俺とお前が赤い糸で繋がっていたら大騒ぎだしな」
 授業どころじゃなくなっちまうぞ、クラス中がたちまち野次馬だ。赤い糸だと、俺とお前は結婚する予定の二人らしい、と。
「でも…。赤い糸は見えない糸なんでしょ?」
 そういう糸だと話を聞いたよ、見えるなんてことはないと思うけど…。
「万一ってこともあるからな」
 お前はタイプ・ブルーだろうが、って肩を竦めてみせるハーレイ。
 サイオンを使って赤い糸を描けないこともないだろう、と。



「無理だってば!」
 出来やしないよ、そんなサイオンの使い方!
 ぼくのサイオン、とことん不器用なんだから!
「分からんぞ? 意識して使うことは出来なくても、無意識ってヤツもあるからなあ…」
 一度は俺の家まで瞬間移動で飛んで来ただろうが、と挙げられてしまった、無意識にサイオンを使った例を。たった一度しかやってないけど、二度目は未だに無いんだけれど。
 ハーレイの家まで瞬間移動をしたのはホントで、意識してなかったのも本当だから。
「…そっか、無意識…」
 ぼくにその気がまるで無くても、赤い糸、作れちゃうかもしれないんだ…。
「な、万一は有り得るだろう?」
 俺とお前の小指が赤い糸なんかで繋がってみろ。もう大変だぞ、アッと言う間に学校中の噂だ。
 そいつはマズイし、お前のクラスは避けたわけだが…。
 赤い糸があるに違いない、と思い込んだお前の無意識のサイオンは実に怖いからなあ…。



 ハーレイが言う通り、やってしまうかもしれない、ぼく。
 赤い糸の話を聞いた途端に、ハーレイとぼくとを赤いサイオンの糸で結んでしまいそうなぼく。
 それは確かにマズイだろうから、雑談をして貰えなかった理由は納得するしかなくて。
「…分かったよ。それで、赤い糸っていうのは何なの?」
 どういうものなの、その赤い糸。
「お前、話を聞いたんだろ?」
 知ってたじゃないか、小指と小指を結ぶ糸だと。赤い糸はそういうものなんだが?
「…ぼくが聞いたのは、糸ってトコだけ…」
 赤い糸が小指にくっついてる、って噂話を聞いただけだよ。詳しい話は聞いていないし…。
 それに、小指の赤い糸の話。前のぼくは全然知らないんだけど…。
 赤い糸の話は聞いていなくて、何の記憶も無いんだけれど…。



 忘れたんじゃなくて全く知らない、って説明した。
 そんな話は聞いたことが無いと、白いシャングリラで耳にしたりはしなかったと。
「前のぼくが避けてたせいかもしれないけれど…。幸せそうなカップル」
 みんなに祝福されてるカップル、見たらやっぱり辛かったし…。
 赤い糸の話を聞きもしないで逃げていたのか、ホントに少しも知らないんだよ。
「そうだろうなあ…」
 シャングリラに赤い糸の話なんかは無かったからなあ、お前が知ってた筈が無い。
 ヒルマンやエラは知っていたという可能性もあるが、少なくとも俺は聞いてはいないな。
「えっ?」
 赤い糸の話、シャングリラには最初から無かったの?
 前のぼくが知らずに終わったんじゃなくて、誰も話していなかったわけ…?



 有名な話じゃなかったの、って訊いてみたら。
 赤い糸の話はSD体制よりも前の時代からあった伝説じゃないの、って確かめてみたら。
 伝説には違いなかったけれども、日本の伝説。ぼくたちが住んでる地域にあったと教わる島国、小さな小さな日本の伝説。
 それじゃ白いシャングリラで暮らした時代にあるわけがない。日本の文化はマザー・システムに消されてしまって、データだけだった時代だから。文化が生きてはいなかったから。
 赤い糸の伝説も消えてしまって、それっきり。
 いつか結婚する二人の小指と小指を結んでいた糸は消されてしまった、人の世界から。
 ロマンチックな伝説なのに。
 思わず小指を見てしまうほどに、目には見えない赤い糸を其処に探してしまうほどに。



 とても素敵な日本の伝説、小指と小指の赤い糸。前のぼくは知らなかった運命の糸。
 「元々は日本の話じゃないぞ」って、ハーレイがぼくに教えてくれた。授業中の雑談の時間には話していないという赤い糸の由来、赤い糸は何処からやって来たのかを。
 日本に来る前は中国の伝説、其処では小指の糸じゃなかった。糸よりも太い縄だった。赤い縄で結ばれた足首と足首、月下老人っていう神様が結んで回る。お爺さんの姿の神様が。
「足に縄なの…?」
 なんだかイメージが違うんだけど…。まるで縛られてるみたいだよ、それ。
「ロマンチックじゃないってか?」
 見た目が悪いと言いたいわけだな、赤い縄だと。
「うん。…縄って普通は縛るものでしょ?」
 糸だと結んで貰ったんだ、って嬉しくなるけど、足首に縄って…。
 いくら未来の結婚相手と繋がっていても、複雑な気分。悪いことをして縛られてるみたいで。
「それはそうかもしれないが…。そっちの方が本家だからなあ、伝説の」
 日本に伝わってから赤い糸に変わってしまったってだけで、本来は赤い縄なんだ。縄は糸よりも丈夫なものだし、切れない絆っていう意味だったら、考えようによっては頼もしいだろ?
 糸はハサミでチョキンと切れるが、縄だとそうはいかないからな。
 もっとも、中国の文化ってヤツも、前の俺たちが生きた時代には無かったが…。
 マザー・システムが選んだ文化の中には、中国も入っていなかったんだし。



「…中国の文化も無かったってことは、前のぼくたちが生きてた頃には…」
 赤い糸の元になった縄も消えちゃってたわけ?
 足首と足首を結んでくれる神様も、いなかったことになっていたわけ…?
「そうなるな。そういう伝説も含めて丸ごと、文化ってヤツが無いんだからな」
 赤い縄を持った月下老人は出番が無い時代だった。結婚する二人を結んで回ろうにも、そうして欲しい人たちがいない。月下老人も赤い縄もだ、誰一人として知っちゃいないんだからな。
 データベースに資料はあっても、出て行く場面が全く無い。誰も知らない神様なんだし、結んで欲しいと願いをかける人が一人もいないんではなあ…。
「だったら、前のぼくとハーレイには…」
 赤い糸はついていなかったんだね、小指と小指に。…足首の赤い縄だって。
「うむ。赤い糸も縄も、あるわけがないな」
 誰の小指にも足にも無いんだ、前の俺たちにだってついていたわけがないだろう?
 月下老人は仕事をしていなかったし、赤い糸も何処にも無かったんだからな。



 ついでに…、とハーレイに念を押された。
 赤い糸も縄も、結婚相手との間を繋ぐものなんだぞ、って。
 中国で月下老人に会った人の伝説、赤い縄の伝説の始まりの話。一人の青年が運命の相手を月下老人に訊いたら、今の縁談の相手ではなくて三歳の女の子だと言われてしまう。赤い縄で結ばれた相手はその子で、決まったことは変えられないと。
 でも、三歳の女の子。おまけに市場で野菜を売っている老婆が背負っている子。
 身分も年も釣り合わないから、殺してしまえばいいと思って召使いに命令、眉間を刀で刺させて逃げた。これで自分は自由になった、と。
 けれどもそれから何年経っても、少しも上手くいかない縁談。どれも破談で、十四年が経った。そこで出会った十七歳の美女、眉間に残った微かな傷。美女はあの時の三歳の子供で、野菜売りは子供の乳母だった。身分違いじゃなかった二人。運命の二人。
 そんなわけで決まった結婚だけれど、二人は結婚したけれど。
 つまりは赤い縄というのは、いつか結婚する二人にしかついていないもの。どんなに気に入った人がいたって、赤い縄がなければ結婚出来ない。赤い縄で結ばれていなければ。
 赤い糸だって縄とおんなじ、結婚相手との間を結ぶものだというから…。



「それじゃ、前のぼくたち…」
 赤い糸や縄があったとしたって、それで結ばれてはいなかったんだ?
 ハーレイのことは好きだったけれど、ずうっと一緒だと思っていたけど…。
 誰にも言えない恋人同士じゃ、赤い糸も縄も無かったんだね…。
「そういうことだな、結婚することは出来なかったからな」
 俺にはお前しか見えなかったし、お前の方でも俺しか見てはいなかったんだが…。
 二人一緒だと何度も言ったが、それは俺たちの間だけのことで、誰にも言えやしなかった。結婚しようにも許されなかった、ソルジャーとキャプテンでは恋を明かすのも無理だった。
 たとえ月下老人がいたとしたって、赤い糸の文化があったって…。
 結婚出来ない人間同士じゃ、誰も繋いじゃくれないさ。小指の糸も、足首の縄も。
 前の俺たちには夢のまた夢で、どんなに欲しいと願ったとしても、赤い糸も縄も、決して結んで貰えなかった。結婚相手との間を繋ぐものでは、結んで貰えはしないよなあ…。



 いつか結婚する人との間を結んでいるのが赤い糸。伝説の元になった赤い縄も同じ。
 前のぼくがハーレイをどんなに好きでも、ハーレイもぼくのことが好きでも、前のぼくたちには赤い糸はついていなかった。結婚出来ない二人の間を赤い糸が結びはしないから。
 前のぼくたちが生きた時代に、赤い糸は存在しなかったけれど。赤い糸の文化は消えてしまっていたけど、赤い糸の文化が残っていたって、ある筈が無かった赤い糸。前のぼくたちの小指に赤い糸は無かった、結婚する二人じゃなかったから。
 本当に本物の恋人同士で、生まれ変わってまで出会えたほどの強い絆で結ばれていても、小指と小指を結んだ糸は何処にも無かった、結婚相手との間を結ぶという糸は。赤い色の糸は。



 前のぼくたちには無かった糸。小指に結ばれた赤い糸。
「…赤い糸、今はあるのかな?」
 今度はハーレイと結婚出来るし、赤い糸、小指にくっついてるかな…?
「そりゃあ、今度はもちろんあるだろ」
 赤い糸の文化は復活してるし、俺たちは結婚するんだし…。
 お前の小指と俺の小指を繋いでいる糸、無い筈がないと思うがな?
「…赤い糸、見えてこないんだけど…」
 見えないんだけど、って小指を指差した、ぼく。
 いくら見詰めても赤い糸は無くて、ぼくの小指は真っ白なまま。肌の色だけ。
「そう簡単に見えると思うか、赤い糸が?」
 見えるんだったら、この世の中は赤い糸だらけになっちまうぞ。町も道路も、学校だって。赤い糸があちこち溢れ返って、踏まないように歩くだけでも苦労しそうだ。
 やっぱり踏んだら申し訳ないしな、赤い糸は大事な糸なんだしな?
 見えないからこそ平気でズカズカ歩いてゆけるし、踏んじまっても気にせずに済む、と。
「そうかもね…。でも、赤い糸はくっついてるよね?」
 ぼくとハーレイとを結んでる糸、ちゃんとあるよね…?
「決まってるだろうが」
 赤い糸が今はあると言うなら、もう間違いなく結んであるさ。
 俺はお前しか結婚相手に欲しくはないし、お前だって俺の嫁さんになると決めているんだし…。
 目で見て確かめられはしなくても、赤い糸は必ずある筈だってな。



 今のぼくたちの小指には、くっついているらしい赤い糸。目には見えない赤い糸。
 くっついてるならこの辺りかな、と小指を眺めたぼくだけれども。
 肝心のことを訊き忘れていた、赤い糸がある手は右か左か、どっちなのかを。
「えーっと、ハーレイ…。赤い糸がある手は、どっちの手なの?」
 左手か、それとも右手か、どっち?
 左のような気もするんだけれど…。
 きっと左だ、と思ったぼく。結婚指輪を嵌める手は左手なんだから。なのに…。
「知らん」
「えっ?」
 いともあっさり「知らん」と返って来た答え。赤い糸に詳しいハーレイの答え。
 そこまでは調べてないんだろうか、と思ったけれども、そうじゃなかった。赤い糸の手がどちらなのかに正解は無くて、右とも左とも決まってなんかはいなかった。
 ずうっと昔から無かった正解、日本という国があった頃から無かった答え。
 赤い糸は小指にあるというだけ、どっちの手なのか分かる伝説は一つも無かった。



「…じゃあ、赤い糸がくっついてる手は…」
 右か左かも分からないわけ、糸が見えないだけじゃなくって…?
「ものの見事に謎だってな」
 赤い糸の伝説の元になった縄も、どっちの足かは謎なんだ。元の話でも謎なんだしなあ、日本で糸に変わっちまったら、もう右なんだか左なんだか…。
「それなら、ぼくは右手がいいな」
 どっちの手なのか決まってないなら、ぼくは右手がいいんだけれど…。
「はあ?」
 なんで右手だ、さっき左だと言わなかったか、お前、自分で?
「それは左かと思ってただけで…。分からないのなら、右手がいいよ」
 ぼくの右の手、メギドで凍えちゃったから…。
 ハーレイの温もりを失くした手だから、そっちに欲しいな、赤い糸。
 結んで貰える手を選べるなら、右手がいい。…右手の小指に赤い糸があると嬉しいんだけど…。



 赤い糸が小指に結んである手。ハーレイの小指と繋がってる糸が結んである手。
 選べるんなら右手がいい、って言ったんだけど。
 どっちの手なのか謎なんだったら、右手がいいな、と思ったんだけど…。
「右手と来たか…。赤い糸の指はな、左手説が有力なんだぞ」
 お前じゃないがな、どっちの手なのか気になるヤツはいるもんだ。
 日本が存在していた頃から、右か左かとあれこれ言われて、左手という説が有力だった。
 さっきお前が言ってたみたいに、結婚指輪が左手だろう?
 だから左だと主張したヤツや、心臓に近い手だから左手なんだ、と主張するヤツや。
 赤い糸の伝説が生まれた時代の日本に結婚指輪は無かったからなあ、結婚指輪は少し弱いが…。心臓の方は説得力があるよな、心臓ってヤツは文字通りハートで心だからな。
「…右手だって言っていた人は?」
 その説は無いの、少数派でもいいから右手というのは?
「さてなあ…。決まってないから、右手なヤツもいたかもしれんが…」
 いたんだろうが、こういう理由で右手なんです、という根拠を知らん。左手の方なら結婚指輪と心臓なんだと言えるんだがなあ…。
 生憎と右手は一つも聞いたことがない。探し回れば何処かにあるかもしれないが…。
「それなら、ぼくは右手にするよ」
 右手は絶対ダメってわけでもなさそうなんだし、ぼくの赤い糸の小指は右手。
 誰も右手だと言ってなくても、ぼくは右手にしておきたいな。



 ぼくの右手は運命の手だから、って差し出した。
 前のぼくがメギドに飛び立つ前に、ハーレイの腕に触れていった手。
 ジョミーを頼む、って最後の言葉を伝えてゆくために触れたけれども、言葉だけなら思念で充分残してゆけた。わざわざ手なんか当てなくっても、思念波を飛ばしさえすれば。
 そうする代わりに触れていったのは「さよなら」の印。
 これで最後だと、別れのキスを交わす代わりに触れて伝えた、ぼくの想いを。
 「ありがとう」と、そして「さようなら」と。
 そうしてハーレイの腕から温もりを貰った、この温もりを最後まで持ってゆこうと。ハーレイの温もりとずっと一緒だと、そうすればぼくは一人じゃないと。
 なのに失くしてしまった温もり、撃たれた痛みで消えた温もり。
 ぼくの右手は冷たく凍えて、独りぼっちになってしまった。ハーレイの温もりを失くしたから。
 もう会えないと、独りぼっちだと泣きじゃくりながら、一人きりで死んでいった、ぼく。
 だけど、もう一度ハーレイに会えた。青い地球の上に生まれ変わって、また巡り会えた。
 ぼくの右手に温もりをくれるハーレイに。
 前の生の終わりに冷たく凍えた右手を、何度も何度も温めてくれるハーレイに。



 ぼくの右手はハーレイと繋がって、離れて、また繋がることが出来た手だから。
 本当の本当に運命の手だから、赤い糸があるなら右手がいい。右手の小指に赤い糸が欲しい。
 だから右手、ってハーレイに言った。
 ぼくとハーレイの小指を繋いでる赤い糸は右手にあるのがいいよ、って。
「ふうむ…。右手か、本当にそうかもしれんな」
 これという説を俺は知らんが、俺たちの糸は右手に結んであるかもしれん。
「ハーレイにも右手だと思う理由があるの?」
 ぼくは運命の手が右手だけれども、ハーレイは左手じゃないの?
 前のぼくが最後に触れていったの、左の腕だったんだから…。
「いや、前の俺たちとは関係なくて、だ…」
 俺たちは男同士だからな。赤い糸があるなら右手かもしれん、と思ったわけだ。
 なにしろ赤い糸っていうのは、ずうっと昔は男性と女性を繋ぐためにあった糸だしな…?



 今は男同士のカップルもいるけど、遠い昔には結婚と言ったら男性と女性。
 月下老人が繋いでいたのも、赤い糸が結んでいた運命の二人も、昔は男性と女性だけ。
 本来は男性と女性を結ぶためにあるのが赤い糸だから。
 その赤い糸が左手だったら、それよりも後に生まれた男同士のカップルを繋ぐ小指の糸は右手になってもおかしくはない。男同士のカップルの赤い糸は右手かもしれない、と微笑むハーレイ。
 こればっかりは分からないぞ、って。
 見えない糸だし、右手に結んであるんじゃないか、って。



「本当に右手だったらいいな…」
 ぼくの赤い糸、右手の小指についてたらいいな。ハーレイの小指に繋がってる糸。
 この辺りに、って右手の小指の付け根を左手の親指と人差し指でつまんでみていたら。
「お前の右手は、しょっちゅう凍えてばかりだが?」
 冷たくなったと、凍えて冷たいと何度お前に言われたことやら…。
 運命の手には違いないんだが、その手でいいのか、赤い糸を結んで貰える手は?
 幸せ一杯の手にしたいんなら、左手の方がいいんじゃないか?
「凍えちゃうから、余計に右手がいいんだよ」
 ここにハーレイと繋がってる糸があるよ、って思えば温かい気持ちになるから。
 心が温かくなってくれたら、手だって一緒に温かくなるよ。
「なるほどなあ…。俺の手が側に無いって時でも、気分だけでも温かいわけか」
 それは確かにいいかもしれん。ここに赤い糸、と小指を触れば温かくなる、と。
「でしょ? きっとそうだと思うんだよ」
 メギドの夢とかで飛び起きちゃっても、赤い糸があるって思えば落ち着くよ、きっと。
「ふむ…。なら、赤い糸が小指に結んであるってことで、もう冷たくはならないか?」
 俺に「温めてよ」と強請らなくても、自分で小指をキュッと握れば。
「それは別だよ!」
 ハーレイが側にいる時だったら、断然、ハーレイの温もりがいいよ!
 見えない糸よりハーレイなんだよ、ハーレイの手の方がいいに決まっているじゃない…!



 赤い糸より、ハーレイの手で温めて欲しい右手だけれど。
 メギドで凍えた悲しい思い出が消えてくれない、ぼくの右の手なんだけど。
 でもきっと、いつか。
 ハーレイの小指とぼくの小指を繋いでる糸で、赤い糸で結び合わされたなら。
 赤い糸の向こうで待ってるハーレイと結婚出来たら、ぼくの右手は、もう二度と…。
「ほほう…。二度と冷たくならないってか?」
 俺と一緒に暮らし始めたら、もう冷たくはならないんだな?
「うん、ハーレイと一緒だもの」
 右手はいつでも温かいままだし、左手には結婚指輪なんだよ。うんと幸せなら凍えはしないよ、ぼくの右の手。ハーレイのお嫁さんになったなら。
「そうだったな。今度は二人で結婚指輪を嵌めるんだったな」
 俺とお前と、お揃いの指輪。
 前の俺たちには嵌められなかった薬指の指輪、今度は堂々と嵌めて暮らすんだっけな…。



 同じ結婚指輪だったら当たるといいな、ってウインクされた。
 何が当たるんだろうと思ったぼくだったけれど、シャングリラ・リングのことだった。結婚するカップルが一回だけ申し込めるらしい、シャングリラ・リング。抽選で当たる結婚指輪。
 遠い昔にトォニィが解体を決めた、懐かしい白いシャングリラ。
 そのシャングリラの金属の一部が今も残っていて、シャングリラ・リングが作られる。白い鯨で出来た指輪が、シャングリラの思い出が残る指輪が。
 ハーレイが見付けて来た情報。結婚する時は申し込もう、って決めていたのに…。
 また忘れていた、チビのぼく。
 ハーレイはきちんと覚えているのに、もう何回目だか分からない。
 こんな調子でシャングリラ・リングは当たるんだろうか、抽選は一回きりなのに。一度だけしか申し込めなくて、抽選もたった一度だけ。年に一回、外れたら終わり。
 でも…。



「そう落ち込むな。忘れるくらいが当たりやすいらしいぞ」
 ハーレイがぼくの頭をクシャリと撫でた。
「なんの話?」
 シャングリラ・リングは、忘れちゃったら申し込めないと思うんだけど…。
「宝くじってヤツさ、そいつはそういうものだったらしい」
 買ったことさえ忘れちまったヤツが当たりやすい、と言われてたそうだ。
 宝くじ、今の時代はもう無いんだが…。SD体制に入る前に無くなってそれっきりだが…。
 要はクジだな、クジは分かるだろ?
 そいつで大金が当たる仕組みのヤツだったんだな、宝くじは。
 一発当てれば大金持ちで…、って雑談の時間が始まった。
 授業中ではないけれど。ぼく一人しか聞いていないけど、ハーレイお得意の楽しい薀蓄。
 お茶とお菓子で幸せな時間、テーブルを挟んで向かい合わせで。



 前のぼくだった時から好きだったハーレイ、今も恋人同士のハーレイ。
 チビのぼくでも、ハーレイはちゃんと恋人扱いしてくれるから。
 ハーレイとぼくの小指を繋いだ赤い糸。
 前のぼくたちの指には無かった、運命の糸。
 今度はあるに決まっているから、同じ糸なら右手に欲しい。
 ぼくの右手に、前の生の終わりに凍えてしまった運命の手に。
 そうして早く結婚したいな、ハーレイとぼくの間を繋いだ赤い糸は目には見えないけれど。
 きっとあるから、出来るだけ早く。
 ハーレイとぼくとを結んでくれてる、赤い糸。
 それが約束している通りに、一日でも早く、お嫁さん。
 ハーレイのお嫁さんになるんだ、小指と小指を繋いでる糸を辿って、お嫁さんに…。




            赤い糸・了

※今のハーレイとブルーの小指を結ぶ、赤い糸。左手なのか右手なのかは、謎なのです。
 けれど右手の方がいいと思ったブルー。前の生の最期に凍えた右手は、二度と凍えないから。
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