シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「赤い糸?」
なに、とキョトンとしちゃった、ぼく。
学校のお昼休みで、ランチの時間。食堂で初めて聞いたんだけど…。赤い糸って何だろう?
わざわざ話を持ち出すからには、きっと特別な糸だろうけど。
「噂だぜ、噂。ウチの学年、なんか端から」
「いつものハーレイ先生だよ」
噂の出処はハーレイの古典の授業なんだって。授業中に生徒が飽きて来たな、と思ったら始めるハーレイの雑談、そこから出て来た赤い糸。今は学年中で噂になってるみたい。
赤い糸は普通の糸じゃなかった、特別すぎる糸だった。いつか結婚する人と人との間を繋いだ、赤い糸。小指と小指を結んでいる糸、それが赤い糸。
「そんなの、あるんだ…?」
「らしいぜ、ウチのクラスではまだ聞かねえけどよ」
ハーレイ先生が喋ってくれねえもんな、とランチ仲間が言う通り。ぼくのクラスで赤い糸の話は披露されていなくて、きっとこれから。
「小指に赤い糸なんだよね?」
「うん、小指。でもなあ…」
見えねえ糸だって話だけどな、って笑い合ってた仲間たち。
赤い糸は目には見えはしなくて、サイオンを使っても見えないらしいと。
それでも小指に赤い糸はあって、いつか結婚する何処かの誰かと繋がっていると聞いたけど…。
(赤い糸…)
小指と小指を結んだ糸。結婚相手の小指に繋がる運命の糸。
赤い糸はきっと、ぼくの小指にもあるんだろう。ハーレイの小指に結んである糸と繋がっている筈の赤い糸。そう考えただけで心がじんわり温かくなるし、小指を眺めてしまうけど。
もちろん学校でやりはしなくて、家に帰ってからなんだけど。
(此処に赤い糸…)
どっちの手かな、と右手と左手、交互に眺めて考えた。おやつを食べた後で部屋に戻って、勉強机の前に座って。
だけど分からない、見えない糸。赤い糸は目には見えない糸で。
(んーと…?)
せめてどの辺りにあるのか知りたい、と小指を片方ずつ引っ張ってる内に気が付いた。
赤い糸をぼくは覚えていない。前のぼくは赤い糸を知らない。
(…前のぼく、その話、聞かなかったの…?)
白いシャングリラにも恋人たちは何人もいたのに、カップルが何組もあったのに。
前のぼくとハーレイ、誰にも仲を明かせなかった秘密の恋人同士。堂々と手を繋いだカップルを見ると心がツキンと痛んだりしたし、出来るだけ見ないようにした。幸せを羨んでしまうから。
ぼくの心が辛くないよう、痛くならないよう、避けてばかりいた恋人たちの話題。
そのせいでぼくは知らないんだろうか、赤い糸の話。小指と小指の赤い糸の話。
(きっと、そう…)
前のぼくはそれで良かったんだろうし、知らない方が幸せでいられただろうけど。
今のぼくには耳寄りな話、ハーレイとの間の運命の糸。
もっと知りたい、詳しく知りたい。どっちの手なのか、赤い糸はどんなものなのか。
(ハーレイの雑談…)
ぼくのクラスで話してくれるのを待つしかない、って思ったのに。
古典の授業の度に心をときめかせてたのに、聞けない雑談、赤い糸の話。ハーレイの雑談は別の話で、赤い糸の話は出て来ない。
(今日のも違うよ…)
これはこれで面白い雑談だけれど、クラスの生徒も熱心に聞いているけれど。ぼくが待っている話じゃなくって、ぼくは不満で一杯になる。赤い糸の話は何処だろう、って。
いくら待っても話してくれない赤い糸の話、他のクラスの生徒は直接聞いたのに。ぼくみたいに噂で聞くんじゃなくって、生の話を聞いたのに。
(…ぼくのクラスじゃしてくれないの?)
どうにも気になる赤い糸。
ハーレイが仕事帰りに寄ってくれた時に訊きたいけれども、時間が惜しい気もするし…。
授業中に聞けるチャンスを待とう、って思ってる間に、結局、週末。それも二回目の。
もう待てない、って心が叫んで時間切れ。好奇心に勝てない、ぼくの負け。
訊いてやろうと決心した。ハーレイが訪ねて来てくれたら。
いい天気だから、歩いてやって来たハーレイ。ぼくの部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、お茶もお菓子も放り出してしまって、ぶつけた質問。抱え続けていた疑問。
「ハーレイ、赤い糸ってなあに?」
どんなものなの、小指と小指を結んでる糸だ、って聞いたけど…。
「何処で聞いた?」
「友達にも聞いたし、学年中で噂になってるよ。ハーレイが授業でやった雑談」
でも、ぼくのクラスじゃ全く話してくれないし…。待っても待ってもしてくれないから、今日は訊こうと思ったんだよ。
どうしてぼくのクラスで赤い糸の話をしてくれないのか、それも気になってきたけれど…。
「話さなかった理由ってヤツか? もう充分に広まってるなら、話す必要も無さそうだが…」
俺がお前のクラスで話すのを避けて通った理由は、だ。
ウッカリ話すと、本気で小指を眺めそうなヤツがいるからだな。
「…ぼく?」
「まあな」
お前、聞いたら絶対見るだろ、自分の小指。
俺との間を結んでる糸がくっついてないか、赤い糸は何処にあるんだろうか、と。
何処のクラスでも、赤い糸の話を聞いた生徒は小指を見ていたらしいけど。自分の小指をじっと眺めたり、引っ張ってみたり、触ったり。
だけどそこまで、興味があるのは自分の小指。其処にくっついているらしい赤い糸。
ところが、ぼくだと繋がった先を見ちゃうから。ぼくの小指にくっついた糸が繋がっている筈のハーレイの小指、それを見ちゃうに決まっているから。
「危ない話は避けるに限る。…俺とお前が赤い糸で繋がっていたら大騒ぎだしな」
授業どころじゃなくなっちまうぞ、クラス中がたちまち野次馬だ。赤い糸だと、俺とお前は結婚する予定の二人らしい、と。
「でも…。赤い糸は見えない糸なんでしょ?」
そういう糸だと話を聞いたよ、見えるなんてことはないと思うけど…。
「万一ってこともあるからな」
お前はタイプ・ブルーだろうが、って肩を竦めてみせるハーレイ。
サイオンを使って赤い糸を描けないこともないだろう、と。
「無理だってば!」
出来やしないよ、そんなサイオンの使い方!
ぼくのサイオン、とことん不器用なんだから!
「分からんぞ? 意識して使うことは出来なくても、無意識ってヤツもあるからなあ…」
一度は俺の家まで瞬間移動で飛んで来ただろうが、と挙げられてしまった、無意識にサイオンを使った例を。たった一度しかやってないけど、二度目は未だに無いんだけれど。
ハーレイの家まで瞬間移動をしたのはホントで、意識してなかったのも本当だから。
「…そっか、無意識…」
ぼくにその気がまるで無くても、赤い糸、作れちゃうかもしれないんだ…。
「な、万一は有り得るだろう?」
俺とお前の小指が赤い糸なんかで繋がってみろ。もう大変だぞ、アッと言う間に学校中の噂だ。
そいつはマズイし、お前のクラスは避けたわけだが…。
赤い糸があるに違いない、と思い込んだお前の無意識のサイオンは実に怖いからなあ…。
ハーレイが言う通り、やってしまうかもしれない、ぼく。
赤い糸の話を聞いた途端に、ハーレイとぼくとを赤いサイオンの糸で結んでしまいそうなぼく。
それは確かにマズイだろうから、雑談をして貰えなかった理由は納得するしかなくて。
「…分かったよ。それで、赤い糸っていうのは何なの?」
どういうものなの、その赤い糸。
「お前、話を聞いたんだろ?」
知ってたじゃないか、小指と小指を結ぶ糸だと。赤い糸はそういうものなんだが?
「…ぼくが聞いたのは、糸ってトコだけ…」
赤い糸が小指にくっついてる、って噂話を聞いただけだよ。詳しい話は聞いていないし…。
それに、小指の赤い糸の話。前のぼくは全然知らないんだけど…。
赤い糸の話は聞いていなくて、何の記憶も無いんだけれど…。
忘れたんじゃなくて全く知らない、って説明した。
そんな話は聞いたことが無いと、白いシャングリラで耳にしたりはしなかったと。
「前のぼくが避けてたせいかもしれないけれど…。幸せそうなカップル」
みんなに祝福されてるカップル、見たらやっぱり辛かったし…。
赤い糸の話を聞きもしないで逃げていたのか、ホントに少しも知らないんだよ。
「そうだろうなあ…」
シャングリラに赤い糸の話なんかは無かったからなあ、お前が知ってた筈が無い。
ヒルマンやエラは知っていたという可能性もあるが、少なくとも俺は聞いてはいないな。
「えっ?」
赤い糸の話、シャングリラには最初から無かったの?
前のぼくが知らずに終わったんじゃなくて、誰も話していなかったわけ…?
有名な話じゃなかったの、って訊いてみたら。
赤い糸の話はSD体制よりも前の時代からあった伝説じゃないの、って確かめてみたら。
伝説には違いなかったけれども、日本の伝説。ぼくたちが住んでる地域にあったと教わる島国、小さな小さな日本の伝説。
それじゃ白いシャングリラで暮らした時代にあるわけがない。日本の文化はマザー・システムに消されてしまって、データだけだった時代だから。文化が生きてはいなかったから。
赤い糸の伝説も消えてしまって、それっきり。
いつか結婚する二人の小指と小指を結んでいた糸は消されてしまった、人の世界から。
ロマンチックな伝説なのに。
思わず小指を見てしまうほどに、目には見えない赤い糸を其処に探してしまうほどに。
とても素敵な日本の伝説、小指と小指の赤い糸。前のぼくは知らなかった運命の糸。
「元々は日本の話じゃないぞ」って、ハーレイがぼくに教えてくれた。授業中の雑談の時間には話していないという赤い糸の由来、赤い糸は何処からやって来たのかを。
日本に来る前は中国の伝説、其処では小指の糸じゃなかった。糸よりも太い縄だった。赤い縄で結ばれた足首と足首、月下老人っていう神様が結んで回る。お爺さんの姿の神様が。
「足に縄なの…?」
なんだかイメージが違うんだけど…。まるで縛られてるみたいだよ、それ。
「ロマンチックじゃないってか?」
見た目が悪いと言いたいわけだな、赤い縄だと。
「うん。…縄って普通は縛るものでしょ?」
糸だと結んで貰ったんだ、って嬉しくなるけど、足首に縄って…。
いくら未来の結婚相手と繋がっていても、複雑な気分。悪いことをして縛られてるみたいで。
「それはそうかもしれないが…。そっちの方が本家だからなあ、伝説の」
日本に伝わってから赤い糸に変わってしまったってだけで、本来は赤い縄なんだ。縄は糸よりも丈夫なものだし、切れない絆っていう意味だったら、考えようによっては頼もしいだろ?
糸はハサミでチョキンと切れるが、縄だとそうはいかないからな。
もっとも、中国の文化ってヤツも、前の俺たちが生きた時代には無かったが…。
マザー・システムが選んだ文化の中には、中国も入っていなかったんだし。
「…中国の文化も無かったってことは、前のぼくたちが生きてた頃には…」
赤い糸の元になった縄も消えちゃってたわけ?
足首と足首を結んでくれる神様も、いなかったことになっていたわけ…?
「そうなるな。そういう伝説も含めて丸ごと、文化ってヤツが無いんだからな」
赤い縄を持った月下老人は出番が無い時代だった。結婚する二人を結んで回ろうにも、そうして欲しい人たちがいない。月下老人も赤い縄もだ、誰一人として知っちゃいないんだからな。
データベースに資料はあっても、出て行く場面が全く無い。誰も知らない神様なんだし、結んで欲しいと願いをかける人が一人もいないんではなあ…。
「だったら、前のぼくとハーレイには…」
赤い糸はついていなかったんだね、小指と小指に。…足首の赤い縄だって。
「うむ。赤い糸も縄も、あるわけがないな」
誰の小指にも足にも無いんだ、前の俺たちにだってついていたわけがないだろう?
月下老人は仕事をしていなかったし、赤い糸も何処にも無かったんだからな。
ついでに…、とハーレイに念を押された。
赤い糸も縄も、結婚相手との間を繋ぐものなんだぞ、って。
中国で月下老人に会った人の伝説、赤い縄の伝説の始まりの話。一人の青年が運命の相手を月下老人に訊いたら、今の縁談の相手ではなくて三歳の女の子だと言われてしまう。赤い縄で結ばれた相手はその子で、決まったことは変えられないと。
でも、三歳の女の子。おまけに市場で野菜を売っている老婆が背負っている子。
身分も年も釣り合わないから、殺してしまえばいいと思って召使いに命令、眉間を刀で刺させて逃げた。これで自分は自由になった、と。
けれどもそれから何年経っても、少しも上手くいかない縁談。どれも破談で、十四年が経った。そこで出会った十七歳の美女、眉間に残った微かな傷。美女はあの時の三歳の子供で、野菜売りは子供の乳母だった。身分違いじゃなかった二人。運命の二人。
そんなわけで決まった結婚だけれど、二人は結婚したけれど。
つまりは赤い縄というのは、いつか結婚する二人にしかついていないもの。どんなに気に入った人がいたって、赤い縄がなければ結婚出来ない。赤い縄で結ばれていなければ。
赤い糸だって縄とおんなじ、結婚相手との間を結ぶものだというから…。
「それじゃ、前のぼくたち…」
赤い糸や縄があったとしたって、それで結ばれてはいなかったんだ?
ハーレイのことは好きだったけれど、ずうっと一緒だと思っていたけど…。
誰にも言えない恋人同士じゃ、赤い糸も縄も無かったんだね…。
「そういうことだな、結婚することは出来なかったからな」
俺にはお前しか見えなかったし、お前の方でも俺しか見てはいなかったんだが…。
二人一緒だと何度も言ったが、それは俺たちの間だけのことで、誰にも言えやしなかった。結婚しようにも許されなかった、ソルジャーとキャプテンでは恋を明かすのも無理だった。
たとえ月下老人がいたとしたって、赤い糸の文化があったって…。
結婚出来ない人間同士じゃ、誰も繋いじゃくれないさ。小指の糸も、足首の縄も。
前の俺たちには夢のまた夢で、どんなに欲しいと願ったとしても、赤い糸も縄も、決して結んで貰えなかった。結婚相手との間を繋ぐものでは、結んで貰えはしないよなあ…。
いつか結婚する人との間を結んでいるのが赤い糸。伝説の元になった赤い縄も同じ。
前のぼくがハーレイをどんなに好きでも、ハーレイもぼくのことが好きでも、前のぼくたちには赤い糸はついていなかった。結婚出来ない二人の間を赤い糸が結びはしないから。
前のぼくたちが生きた時代に、赤い糸は存在しなかったけれど。赤い糸の文化は消えてしまっていたけど、赤い糸の文化が残っていたって、ある筈が無かった赤い糸。前のぼくたちの小指に赤い糸は無かった、結婚する二人じゃなかったから。
本当に本物の恋人同士で、生まれ変わってまで出会えたほどの強い絆で結ばれていても、小指と小指を結んだ糸は何処にも無かった、結婚相手との間を結ぶという糸は。赤い色の糸は。
前のぼくたちには無かった糸。小指に結ばれた赤い糸。
「…赤い糸、今はあるのかな?」
今度はハーレイと結婚出来るし、赤い糸、小指にくっついてるかな…?
「そりゃあ、今度はもちろんあるだろ」
赤い糸の文化は復活してるし、俺たちは結婚するんだし…。
お前の小指と俺の小指を繋いでいる糸、無い筈がないと思うがな?
「…赤い糸、見えてこないんだけど…」
見えないんだけど、って小指を指差した、ぼく。
いくら見詰めても赤い糸は無くて、ぼくの小指は真っ白なまま。肌の色だけ。
「そう簡単に見えると思うか、赤い糸が?」
見えるんだったら、この世の中は赤い糸だらけになっちまうぞ。町も道路も、学校だって。赤い糸があちこち溢れ返って、踏まないように歩くだけでも苦労しそうだ。
やっぱり踏んだら申し訳ないしな、赤い糸は大事な糸なんだしな?
見えないからこそ平気でズカズカ歩いてゆけるし、踏んじまっても気にせずに済む、と。
「そうかもね…。でも、赤い糸はくっついてるよね?」
ぼくとハーレイとを結んでる糸、ちゃんとあるよね…?
「決まってるだろうが」
赤い糸が今はあると言うなら、もう間違いなく結んであるさ。
俺はお前しか結婚相手に欲しくはないし、お前だって俺の嫁さんになると決めているんだし…。
目で見て確かめられはしなくても、赤い糸は必ずある筈だってな。
今のぼくたちの小指には、くっついているらしい赤い糸。目には見えない赤い糸。
くっついてるならこの辺りかな、と小指を眺めたぼくだけれども。
肝心のことを訊き忘れていた、赤い糸がある手は右か左か、どっちなのかを。
「えーっと、ハーレイ…。赤い糸がある手は、どっちの手なの?」
左手か、それとも右手か、どっち?
左のような気もするんだけれど…。
きっと左だ、と思ったぼく。結婚指輪を嵌める手は左手なんだから。なのに…。
「知らん」
「えっ?」
いともあっさり「知らん」と返って来た答え。赤い糸に詳しいハーレイの答え。
そこまでは調べてないんだろうか、と思ったけれども、そうじゃなかった。赤い糸の手がどちらなのかに正解は無くて、右とも左とも決まってなんかはいなかった。
ずうっと昔から無かった正解、日本という国があった頃から無かった答え。
赤い糸は小指にあるというだけ、どっちの手なのか分かる伝説は一つも無かった。
「…じゃあ、赤い糸がくっついてる手は…」
右か左かも分からないわけ、糸が見えないだけじゃなくって…?
「ものの見事に謎だってな」
赤い糸の伝説の元になった縄も、どっちの足かは謎なんだ。元の話でも謎なんだしなあ、日本で糸に変わっちまったら、もう右なんだか左なんだか…。
「それなら、ぼくは右手がいいな」
どっちの手なのか決まってないなら、ぼくは右手がいいんだけれど…。
「はあ?」
なんで右手だ、さっき左だと言わなかったか、お前、自分で?
「それは左かと思ってただけで…。分からないのなら、右手がいいよ」
ぼくの右の手、メギドで凍えちゃったから…。
ハーレイの温もりを失くした手だから、そっちに欲しいな、赤い糸。
結んで貰える手を選べるなら、右手がいい。…右手の小指に赤い糸があると嬉しいんだけど…。
赤い糸が小指に結んである手。ハーレイの小指と繋がってる糸が結んである手。
選べるんなら右手がいい、って言ったんだけど。
どっちの手なのか謎なんだったら、右手がいいな、と思ったんだけど…。
「右手と来たか…。赤い糸の指はな、左手説が有力なんだぞ」
お前じゃないがな、どっちの手なのか気になるヤツはいるもんだ。
日本が存在していた頃から、右か左かとあれこれ言われて、左手という説が有力だった。
さっきお前が言ってたみたいに、結婚指輪が左手だろう?
だから左だと主張したヤツや、心臓に近い手だから左手なんだ、と主張するヤツや。
赤い糸の伝説が生まれた時代の日本に結婚指輪は無かったからなあ、結婚指輪は少し弱いが…。心臓の方は説得力があるよな、心臓ってヤツは文字通りハートで心だからな。
「…右手だって言っていた人は?」
その説は無いの、少数派でもいいから右手というのは?
「さてなあ…。決まってないから、右手なヤツもいたかもしれんが…」
いたんだろうが、こういう理由で右手なんです、という根拠を知らん。左手の方なら結婚指輪と心臓なんだと言えるんだがなあ…。
生憎と右手は一つも聞いたことがない。探し回れば何処かにあるかもしれないが…。
「それなら、ぼくは右手にするよ」
右手は絶対ダメってわけでもなさそうなんだし、ぼくの赤い糸の小指は右手。
誰も右手だと言ってなくても、ぼくは右手にしておきたいな。
ぼくの右手は運命の手だから、って差し出した。
前のぼくがメギドに飛び立つ前に、ハーレイの腕に触れていった手。
ジョミーを頼む、って最後の言葉を伝えてゆくために触れたけれども、言葉だけなら思念で充分残してゆけた。わざわざ手なんか当てなくっても、思念波を飛ばしさえすれば。
そうする代わりに触れていったのは「さよなら」の印。
これで最後だと、別れのキスを交わす代わりに触れて伝えた、ぼくの想いを。
「ありがとう」と、そして「さようなら」と。
そうしてハーレイの腕から温もりを貰った、この温もりを最後まで持ってゆこうと。ハーレイの温もりとずっと一緒だと、そうすればぼくは一人じゃないと。
なのに失くしてしまった温もり、撃たれた痛みで消えた温もり。
ぼくの右手は冷たく凍えて、独りぼっちになってしまった。ハーレイの温もりを失くしたから。
もう会えないと、独りぼっちだと泣きじゃくりながら、一人きりで死んでいった、ぼく。
だけど、もう一度ハーレイに会えた。青い地球の上に生まれ変わって、また巡り会えた。
ぼくの右手に温もりをくれるハーレイに。
前の生の終わりに冷たく凍えた右手を、何度も何度も温めてくれるハーレイに。
ぼくの右手はハーレイと繋がって、離れて、また繋がることが出来た手だから。
本当の本当に運命の手だから、赤い糸があるなら右手がいい。右手の小指に赤い糸が欲しい。
だから右手、ってハーレイに言った。
ぼくとハーレイの小指を繋いでる赤い糸は右手にあるのがいいよ、って。
「ふうむ…。右手か、本当にそうかもしれんな」
これという説を俺は知らんが、俺たちの糸は右手に結んであるかもしれん。
「ハーレイにも右手だと思う理由があるの?」
ぼくは運命の手が右手だけれども、ハーレイは左手じゃないの?
前のぼくが最後に触れていったの、左の腕だったんだから…。
「いや、前の俺たちとは関係なくて、だ…」
俺たちは男同士だからな。赤い糸があるなら右手かもしれん、と思ったわけだ。
なにしろ赤い糸っていうのは、ずうっと昔は男性と女性を繋ぐためにあった糸だしな…?
今は男同士のカップルもいるけど、遠い昔には結婚と言ったら男性と女性。
月下老人が繋いでいたのも、赤い糸が結んでいた運命の二人も、昔は男性と女性だけ。
本来は男性と女性を結ぶためにあるのが赤い糸だから。
その赤い糸が左手だったら、それよりも後に生まれた男同士のカップルを繋ぐ小指の糸は右手になってもおかしくはない。男同士のカップルの赤い糸は右手かもしれない、と微笑むハーレイ。
こればっかりは分からないぞ、って。
見えない糸だし、右手に結んであるんじゃないか、って。
「本当に右手だったらいいな…」
ぼくの赤い糸、右手の小指についてたらいいな。ハーレイの小指に繋がってる糸。
この辺りに、って右手の小指の付け根を左手の親指と人差し指でつまんでみていたら。
「お前の右手は、しょっちゅう凍えてばかりだが?」
冷たくなったと、凍えて冷たいと何度お前に言われたことやら…。
運命の手には違いないんだが、その手でいいのか、赤い糸を結んで貰える手は?
幸せ一杯の手にしたいんなら、左手の方がいいんじゃないか?
「凍えちゃうから、余計に右手がいいんだよ」
ここにハーレイと繋がってる糸があるよ、って思えば温かい気持ちになるから。
心が温かくなってくれたら、手だって一緒に温かくなるよ。
「なるほどなあ…。俺の手が側に無いって時でも、気分だけでも温かいわけか」
それは確かにいいかもしれん。ここに赤い糸、と小指を触れば温かくなる、と。
「でしょ? きっとそうだと思うんだよ」
メギドの夢とかで飛び起きちゃっても、赤い糸があるって思えば落ち着くよ、きっと。
「ふむ…。なら、赤い糸が小指に結んであるってことで、もう冷たくはならないか?」
俺に「温めてよ」と強請らなくても、自分で小指をキュッと握れば。
「それは別だよ!」
ハーレイが側にいる時だったら、断然、ハーレイの温もりがいいよ!
見えない糸よりハーレイなんだよ、ハーレイの手の方がいいに決まっているじゃない…!
赤い糸より、ハーレイの手で温めて欲しい右手だけれど。
メギドで凍えた悲しい思い出が消えてくれない、ぼくの右の手なんだけど。
でもきっと、いつか。
ハーレイの小指とぼくの小指を繋いでる糸で、赤い糸で結び合わされたなら。
赤い糸の向こうで待ってるハーレイと結婚出来たら、ぼくの右手は、もう二度と…。
「ほほう…。二度と冷たくならないってか?」
俺と一緒に暮らし始めたら、もう冷たくはならないんだな?
「うん、ハーレイと一緒だもの」
右手はいつでも温かいままだし、左手には結婚指輪なんだよ。うんと幸せなら凍えはしないよ、ぼくの右の手。ハーレイのお嫁さんになったなら。
「そうだったな。今度は二人で結婚指輪を嵌めるんだったな」
俺とお前と、お揃いの指輪。
前の俺たちには嵌められなかった薬指の指輪、今度は堂々と嵌めて暮らすんだっけな…。
同じ結婚指輪だったら当たるといいな、ってウインクされた。
何が当たるんだろうと思ったぼくだったけれど、シャングリラ・リングのことだった。結婚するカップルが一回だけ申し込めるらしい、シャングリラ・リング。抽選で当たる結婚指輪。
遠い昔にトォニィが解体を決めた、懐かしい白いシャングリラ。
そのシャングリラの金属の一部が今も残っていて、シャングリラ・リングが作られる。白い鯨で出来た指輪が、シャングリラの思い出が残る指輪が。
ハーレイが見付けて来た情報。結婚する時は申し込もう、って決めていたのに…。
また忘れていた、チビのぼく。
ハーレイはきちんと覚えているのに、もう何回目だか分からない。
こんな調子でシャングリラ・リングは当たるんだろうか、抽選は一回きりなのに。一度だけしか申し込めなくて、抽選もたった一度だけ。年に一回、外れたら終わり。
でも…。
「そう落ち込むな。忘れるくらいが当たりやすいらしいぞ」
ハーレイがぼくの頭をクシャリと撫でた。
「なんの話?」
シャングリラ・リングは、忘れちゃったら申し込めないと思うんだけど…。
「宝くじってヤツさ、そいつはそういうものだったらしい」
買ったことさえ忘れちまったヤツが当たりやすい、と言われてたそうだ。
宝くじ、今の時代はもう無いんだが…。SD体制に入る前に無くなってそれっきりだが…。
要はクジだな、クジは分かるだろ?
そいつで大金が当たる仕組みのヤツだったんだな、宝くじは。
一発当てれば大金持ちで…、って雑談の時間が始まった。
授業中ではないけれど。ぼく一人しか聞いていないけど、ハーレイお得意の楽しい薀蓄。
お茶とお菓子で幸せな時間、テーブルを挟んで向かい合わせで。
前のぼくだった時から好きだったハーレイ、今も恋人同士のハーレイ。
チビのぼくでも、ハーレイはちゃんと恋人扱いしてくれるから。
ハーレイとぼくの小指を繋いだ赤い糸。
前のぼくたちの指には無かった、運命の糸。
今度はあるに決まっているから、同じ糸なら右手に欲しい。
ぼくの右手に、前の生の終わりに凍えてしまった運命の手に。
そうして早く結婚したいな、ハーレイとぼくの間を繋いだ赤い糸は目には見えないけれど。
きっとあるから、出来るだけ早く。
ハーレイとぼくとを結んでくれてる、赤い糸。
それが約束している通りに、一日でも早く、お嫁さん。
ハーレイのお嫁さんになるんだ、小指と小指を繋いでる糸を辿って、お嫁さんに…。
赤い糸・了
※今のハーレイとブルーの小指を結ぶ、赤い糸。左手なのか右手なのかは、謎なのです。
けれど右手の方がいいと思ったブルー。前の生の最期に凍えた右手は、二度と凍えないから。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ふふっ、大好き…)
ハーレイのことが一番好き、とブルーは心で呟いた。
明日はハーレイが来てくれる土曜日、待ち遠しくてたまらなかった日。今日も学校で会って挨拶出来たけれども、立ち話も少ししたけれど。学校では「ハーレイ先生」だから。
(いくら好きでも、ハーレイ先生…)
恋人同士の会話は出来ない、「好きです」と口にしてみた所で周りから見れば「好みの先生」。他の先生や友達が聞いていたって、恋人とは思わないだろう。お気に入りの先生なのだな、と思う程度で、「守り役なのだから、仲良くなるのも当然」くらい。
同じ「好き」でも意味が全く変わる学校、恋人だとはとても言えない学校。ブルーもそうだし、ハーレイの方も同じこと。あくまで先生、教師と生徒。
そんなわけだから楽しみな週末、両親には内緒でも恋人同士で会える週末。「ハーレイ先生」と呼ばずに一日を過ごせる、学校のある日と全く違って。
平日でも仕事が早く終わればハーレイは訪ねて来てくれるけれど、恋人同士で語らえるけれど。その時間よりも前の時間は学校、「ハーレイ先生」と呼ばねばならない学校。
その学校が無いのが週末、もう楽しみでたまらない。何を話そうかと、どんな話が聞けるかと。
(大好きだよ…)
ハーレイのことが、と心の中で繰り返す。
早く土曜日にならないものかと、明日の朝が来てくれないかと。
お風呂上がりにパジャマ姿でベッドに腰掛け、何度も繰り返す「大好き」の言葉。眠るには少し早い時間だから、恋人を思い浮かべながら。
(ハーレイが好き…)
誰よりも好きで、一番好き。ハーレイが好きで、誰よりも好きで…。
今日も何度も呪文のように唱えるけれども、数え切れないほど繰り返した言葉。心だけでなく、声にも出した。眠る前のひと時、ベッドにもぐって囁くように声にしてみたり、ハーレイに向けてぶつけてみたり。
「好きだよ」と「一番好きだよ」と。「ハーレイのことが一番好き」と。
言わずにはとてもいられないから、「好き」が溢れて止まらないから。この地球の上で再会した日から想い続けて、心で唱えて、ハーレイにも「好き」と想いを伝えて…。
そう、ハーレイが一番好き。誰よりも好きで、ハーレイが一番。
前の生でも。
ソルジャー・ブルーだった頃にもそうだった。ハーレイが好きで一番だった。
誰よりも愛した大切な恋人、ハーレイだけを想い続けて…。
(あれ…?)
ふと引っ掛かった、ハーレイへの想い。遥かな昔に前の自分が持っていた想い。
今と同じに「好きだよ」と言っていたけれど。
十四歳の自分よりも年上だった分だけ、大人だった分だけ、「好き」の他にも言い方はあって、「愛している」とも繰り返したけれど。
ハーレイが好きだと、愛していると何度も唱えた前の自分は…。
(…ハーレイだけ…?)
心から好きだと思っていたのはハーレイだけ。前のハーレイただ一人だけ。
ゼルやヒルマン、ブラウにエラ。他の仲間も好きだったけれど、大切に思っていたけれど。
白いシャングリラの中でハーレイは特別、たった一人きりの恋人で心から愛した存在。
躊躇うことなく言うことが出来た、「君だけだよ」と。
自分にはハーレイ一人だけだと、ハーレイだけを愛していると。
他の仲間も大切だけれど、誰か一人を選ぶのだったら迷うことなくハーレイだった。心の底から愛していたのはハーレイだったし、他には考えられなかった。
ゼルもヒルマンも、他の仲間も嫌いではなくて、好きだったけれど。
誰が一番大切なのかと、愛しているかと尋ねられたら、「ハーレイだよ」と答えただろう。
誰も尋ねはしなかったけれど、前の自分に恋人がいたことも誰も気付きはしなかったけれど。
それでも選ぶならハーレイだったし、ハーレイだけを愛して恋した。
ところが、今の小さな自分。
ハーレイに「好き」を伝える言葉に、「愛している」が似合わない自分。
もしも「愛してるよ」と口にしたなら、ハーレイは「俺もだ」と応えて笑顔を返して、口付けの代わりに頭をクシャリと撫でてくれるか、パチンとウインクしてくれるか。
とにもかくにも子供扱い、それは間違いない自分。
前の自分よりも幼くてチビで、それでもハーレイを好きな気持ちは前のままだと思ったけれど。
好きな気持ちは負けていなくて、前と全く同じつもりでいたけれど。
(…ぼく、パパもママも…)
大好きで特別な存在だった。父も母も好きで、友人たちとは比べようもない。
例えて言うなら友人たちは前のゼルやヒルマンたちのようなもので、大切だけれど一番とまでは思わない。どちらか選ぶなら両親が先で、友人たちはその次でいい。
(パパもママも好きだし…)
遠い所に住んでいるから滅多に会えない祖父母たちも。
両親に祖父母、友人たちよりも好きで特別、片手では足りない「大好き」な人たち。「好き」と心から言える人たち、大勢の「好き」で特別な人。
そうした中でも、ハーレイのことが一番好きだと本当に言っていいのかどうか。
前の自分がそう言ったように、「ハーレイだけだよ」と何の躊躇いもなく言えるのか。
(ハーレイのこと、パパよりもママよりも…)
好きとは言えるかもしれないけれど。
いつかは両親の許を離れて、この家を出てハーレイの家へとお嫁に行くのだけれど。
好きだからこそハーレイの家に行こうと思うし、そうしようと決めているけども。その日が早く来ないものかと待って待ち焦がれる日々だけれども。
(ハーレイだけだよ、って…)
前の自分のようには言えない、「ぼくにはハーレイだけだよ」とは。
父も母も要らないなどとは言えない、ハーレイだけだと言い切れはしない。
ハーレイの家にお嫁に行っても、ハーレイと暮らすようになっても、きっと両親への「好き」は消えはしなくて、会いたくなるに違いない。
離れて暮らしている祖父母に会いたくなるように。通信機越しに声を聞いただけで嬉しくなってしまうみたいに、両親の家を離れても、きっと。
声を聞こうと通信を入れたり、休日には会いに行こうとしたり。
そんな自分が頭に浮かぶし、ハーレイだけだとはとても言えない。ハーレイだけでは「好き」が足りない、好きな人たちが足りてはくれない。
父も母も好きで、祖父母たちも好きで、ハーレイだけを選べはしない。
前の自分なら「ハーレイだけだよ」と心の底から言えたのに。本当にそうで、前の自分が心から愛して「好き」と言えたのは前のハーレイだけだったのに。
ハーレイだけだと言えはしなくて、選ぶことさえ出来ない自分。
父も母も好きで、祖父母たちも好きで、ハーレイだけだと宣言出来ないのが自分。
ハーレイのことは好きだけれども、前の自分と同じつもりでいたけれど。
(…ぼく、薄情になっちゃった?)
両親や祖父母が好きな人の中に入ってしまって、ハーレイだけを選べない。迷うことなく一人を選んで、他は要らないとはとても言えない。
両親に祖父母、それにハーレイ。大好きな人が多すぎる。その人数分で「好き」を分けるなら、ハーレイの分の「好き」はどのくらいになるのだろう。ハーレイへの愛はどれほどだろう。
「好き」の量はきっと前の自分と同じだろうから、心の大きさは同じだから。
同じ量の「好き」を何人分にも分けるからには、前の自分よりも薄いかもしれないハーレイへの愛。考えるほどに薄くなりそうで、ハーレイへの愛が足りなさそうで。
(どうしよう…)
大変なことになってしまった、とショックだけれども、それが真実。
どんなに好きでも「ハーレイだけだよ」と言えなくなってしまった自分。薄情な自分。
ハーレイが知ったら呆れるだろうか、それとも失望するのだろうか。
「俺のブルーは変わってしまった」と嘆くのだろうか、それは悲しそうに顔を歪めて。見た目は前と同じだけれども、中身が変わってしまったと。
(ハーレイもきっとビックリするよね…)
そうは思っても、これは本当のことだから。自分に嘘はつけないから。
ハーレイには真実を打ち明けなくてはいけないだろう。包み隠さず、本当のことを。
好きでたまらないハーレイだからこそ嘘はつけない、騙し続けるわけにはいかない。ハーレイのことが一番好きだと、ハーレイだけだと心にもないことを告げられはしない。
(…嫌われちゃうかもしれないけれど…)
それでもハーレイには言わねばならない、「ぼくは薄情になっちゃった」と。
こんなぼくでもかまわないのかと、ハーレイだけを選べないぼくでもいいだろうか、と。
薄情になってしまった自分。ハーレイだけだと言えない自分。
そんな自分の姿を知ったらハーレイはどう思うだろうか、と心配しながら眠りに就いて。
土曜日の朝、目を覚ましても忘れないままで覚えていた。薄情になった自分のことを。
(…ハーレイのことは好きなんだけど…)
好きでたまらなくて、今日が来るのが楽しみで待っていたのだけれど。
その「好き」の気持ちが、ハーレイへの愛が前の自分よりも足りなさそうで。どう考えてみても足りそうになくて、それがなんとも情けない。薄情になってしまったなんて。
(ホントにハーレイが好きなのに…)
ハーレイの姿を、声を想うだけで胸がドキドキするというのに、足りないらしい自分の愛。
顔を洗って着替えを済ませて、朝食を食べにダイニングに行けば、「おはよう」と笑顔を向けた両親。母はトーストを焼いてくれたし、父は「美味いぞ」とソーセージを一本分けてくれた。普段だったら有難迷惑な父のお裾分け、けれども今日は父の愛だと分かるから。
自分を愛してくれる両親、いつでも丸ごと受け止めてくれる優しい両親。
やっぱり言えない、「ハーレイだけ」とは。
前の自分には言えた言葉が、「ハーレイだけだよ」と躊躇いもなく紡げた言葉が。
(ぼくって、薄情…)
こんなことになってしまうだなんて、と部屋に戻っても溜息ばかり。
掃除をしても心は晴れずに、ハーレイはなんと言うだろうかと心配する内にチャイムが鳴って。
そのハーレイが部屋にやって来て、テーブルを挟んで向かい合わせで座って間もなく、正面から瞳を覗き込まれた。鳶色の瞳で。
「どうした、今日は元気がないな」
具合が悪いようにも見えないんだが…、と訊かれたから。
「分かる…?」
ハーレイにも分かるの、元気が無いこと。
身体はちっとも悪くなくって、何処もなんともないんだけれど…。
悪い所があるなら、気分。ぼくの心がうんと重たくて、軽くなってはくれないんだよ…。
あのね、と一息に打ち明けた。昨晩からの心配事を。
黙っていては駄目だと決めたし、同じ言うならハーレイの反応を見ながらではなくて一気にと。
大好きなハーレイが溜息をつくのを聞きたくはないし、顔が曇るのも見たくない。そんな反応があれば心が鈍って途中で口を噤んでしまうか、ポロリと涙が零れるか。
そうならないよう一息に話した、ハーレイが何も言えないように。口を挟む暇も無いように。
一気に言い終え、それからようやくハーレイの顔を見上げてフウと大きな吐息をついた。
「ぼく、薄情になっちゃったみたい…」
言った通りだよ、パパとかママとか、お祖父ちゃんとかお祖母ちゃん…。
ぼくが大好きで大切な人たちが何人も出来て、「好き」をみんなで分けてしまうから…。好きな気持ちを分けちゃってるから、ハーレイへの愛が足りないんだよ。前のぼくより。
今のぼくの愛は前のぼくよりずっと少なくて、薄情みたい。ハーレイのことは好きだけど…。
こんなのでもいいの、こんなぼくでも?
前より薄情になったぼくでも、ハーレイはぼくを好きでいてくれる…?
きっと直ぐには返らないと思った答えだけれど。
ハーレイが何と答えるにせよ、腕組みをして考え込むのだとブルーは思っていたのだけれど。
「当たり前だろうが、俺の気持ちは変わらんさ。それにお前は薄情になってしまったと言うが…」
それが普通だ、と伸びて来た手で頭をポンと叩かれた。ポンポンと軽く。
「…普通って?」
ホッと安心したブルーだけれども、ハーレイの気持ちは変わらないと聞いて安心したけれど。
普通というのは何のことだろうか、意味が全く掴めない。
キョトンと優しい恋人を見たら、「分からないか?」と穏やかな笑顔。
「今の時代はそれが普通だと言ったんだ。前のお前が生きた頃とは事情が全く違うってことだ」
前の俺たちには親の記憶が無かっただろうが。自分を育ててくれた親たちの記憶。
成人検査で失くしちまって、何度も人体実験を受けた間にもう完全に忘れちまった。どんな顔をした人たちだったか、どんな思い出があったのかも。
ついでに本物の親でもなかった、機械が選んだ養父母ってヤツだ。
忘れてしまったことは辛くても、思い出せないことがいくら悲しくても、記憶に無いものは仕方ない。どんなに探しても出ては来ないし、血の繋がった親戚ってヤツもいやしない。
機械が組み合わせていた家族だからなあ、従兄弟もいなけりゃ祖父母だっていない。あの時代はそういう時代だったし、失くした記憶を取り戻したとしても、親の方ではどうだったか…。
育てた子供を覚えていた親も多かっただろうが、義務は果たしたと忘れた親もいた筈だ。
そんな時代に生きていたのが前のお前だ、親の記憶がまるで無かったから、親への愛ってヤツが無かった。覚えていない人間を愛せやしないし、そっちに向ける愛も要らない。
だからこそお前は言えたんだ。愛しているのは俺だけだ、とな。
前のブルーには特別な愛を向ける相手がいなかった、とハーレイは言った。
誰もいなかったから前のハーレイにだけ愛を向けられたと、それだけのことだと。
「お前、ゼルのことを覚えているか?」
「えっ?」
急にゼルの名を持ち出されてブルーは驚いたけれど。
「若い頃のゼルだ、俺たちと出会って直ぐの頃のゼルと弟のハンス」
思い出せるだろう、ハンスを助け損なった事故は。
あの後、ゼルはずいぶん落ち込んでいただろうが。助けられなかったと、どうしてハンスの手を離さずに掴んでいられなかったのかと。
「うん…。あの時、ぼくのサイオンが残っていれば…」
ほんの少しでも残っていたなら、他のみんなの手が届く所までハンスを引き上げられたのに…。
そしたらハーレイやヒルマンたちの力で、ハンスを引っ張り上げられたのに。
「…その話は今は置いておいて、だ」
ゼルが俺たちよりも酷く落ち込んだ理由は何故だと思う?
仲間を目の前で亡くしたっていうのは、俺もお前も他のヤツらも全く同じだったんだがな?
俺たちが気持ちを切り替えた後も、ゼルは長いこと沈んでいた。
どうしてゼルだけが沈んでいたのか、その理由、ちゃんと分かっているか?
「えーっと…」
ハンスはゼルの弟だったし、そのせいだよね?
「そうだ。ゼルとハンスは兄弟だったからだ」
俺たちはハンスと何のゆかりも無かったわけだが、ゼルだけは違った。
一緒に育った弟を亡くしちまったから、心に残った傷の深さが桁違いだったということだな。
SD体制の時代に血の繋がった家族は無かったけれども、ゼルとハンスが育った頃には養父母が望めば複数の子供を同時に持つことが出来た。二人育てていた者もいたし、三人なども。
もちろん成人検査の年齢になれば、年かさの子から親元を離れて行くのだけれど。
それでも微かな記憶は残るし、大人の社会に出てから再会することもあった。血の繋がりが無い兄弟とはいえ、再会したなら家族は家族。そういった偶然がまだあった時代。
ゼルとハンスもその中の一組、しかも二人ともミュウだったがゆえに劇的に出会えた。炎の中で再会出来た。先に成人検査を迎えて大人の社会へ旅立った筈のゼルと、その弟が。
アルタミラではミュウは一人ずつ檻に入れられ、顔を合わせる機会は無かった。ゼルもハンスも自分たちが同じ境遇にいるとも知らずにあの日まで生きた、アルタミラが滅ぼされた日まで。
前のブルーとハーレイが二人で開けて回ったシェルター、その中のどれにゼルがいたのか、弟のハンスは何処にいたのか。
今となっては分からないけれど、彼らは逃げる途中で出会った。ゼルはハンスを、ハンスは兄の姿を見付けた、燃え上がる地獄の炎の中で。
そうして懸命に二人で走って、自由の世界へ飛び立つ船へと乗り込んだけれど。
後のシャングリラへと駆け込んだけれど、それが離陸する時に起こった悲劇。閉めねばならない乗降口を開け放ったままで上昇した船、ハンスは外へと放り出された。
ゼルが必死に握り続けて離すまいとした手から離れて、燃える地獄へと落ちて行ったハンス。
再会したばかりの兄弟の絆は引き裂かれてしまった、一瞬にして。
生まれ変わってもなお、忘れることの出来ないハンス。悲しすぎた事故。
その事故をゼルは悔やみ続けた、長い長い間。シャングリラが白い鯨に改造された後も、ゼルはハンスを忘れなかった。墓碑公園に植えた糸杉を「ハンスの木」と名付けていたほどに。せっせと自分で世話をしたほどに、ハンスの木に弟を見ていたゼル。
それは兄弟だったからだ、とハーレイはブルーに語って聞かせた。機械が選んで養父母に委ねた血縁の無い二人であっても、二人は兄と弟だったと。
「同じ養父母に一緒に育てられたというだけのことで、血の繋がりが無くてもあの有様だ」
機械が作り出した家族ってヤツでも、あれだけの愛情が生まれたんだぞ。
今みたいに血が繋がった本物の家族となったら、もっと愛情は深まるもんだ。兄弟はもちろん、親ともなったら一層深い愛情が其処に生まれるものさ。
今のお前はそういう家族の中で育った、本当に血の繋がったお父さんたちに育てて貰ったんだ。
お前を愛して今日まで育てて来たのがお前のお父さんたちで、そのお父さんたちを大きく育てた人たちがお祖父さんたちということになるか…。
そのお父さんたちを要らないと言われた方が俺は驚く。俺の他には誰も要らないなどと聞いたら耳を疑うし、そんなことを言うお前は要らない。
俺だけを選べなくなってしまったと言うお前だったら、俺は大いに歓迎だがな。
その問題に気付いて悩んでしまうようなお前が好きだ、と微笑むハーレイ。
それでこそだと、それでこそ俺も好きだと言えると。
「ホント…?」
ぼくはハーレイだけを選べないんだよ、そんなぼくでも本当にいいの?
前のぼくならハーレイだけだと言えたけれども、今のぼくは…。
「本当さ。そういうお前が好きだと俺は言っただろうが」
現に俺も、だ…。今度こそお前を大切にすると、お前だけだと誓ってはいるが…。
どうなんだかな、とハーレイは苦い笑みを浮かべた。
ブルーと両親とを秤にかけたら迷うだろうと、迷わずブルーを選べはしないと。
「…秤って…?」
何の秤なの、何を量るの?
「文字通り愛情を量る秤だ、愛しているのはどちらの方か」
本当に大切に思っているのは誰なのかを量る秤なんだな、そういう例え話があるんだ。
どちらの手を離すか、どちらの命を助けるか…、というのがな。
「え…?」
赤い瞳を丸くしたブルー。物騒に聞こえる愛情の秤。
ハーレイは「ハンスの事故とは少し違うんだが…」と断ってから。
「二人が同時に高い崖から落ちそうだとか、川に落ちて溺れそうだとか。そういう場合だ」
助けに行ける人間は自分しかいなくて、片方を助ける間にもう片方は死んじまう。
そんな状況で誰を救うか、どちらの命を助けるか。
お前だったら、そこで誰を選ぶ?
俺を助けるか、俺と一緒に溺れそうになっているお母さんか。…落ちそうな方かもしれないな。
ついでに、お母さんとは違ってお父さんだということもある。
お前はどっちを助けに行くんだ、俺か、それともお母さんの方か?
どう頑張っても、どちらか一人しか助けられない。選ぶしかない。
愛情の秤の例え話とは、そういう話。
ハーレイを選べば母の命を失くしてしまうし、母を助ければハーレイが死ぬ。二人とも誰よりも大切な人で、どちらも死んで欲しくはないのに。どちらか一人など、選べないのに。
「…ぼく…」
選べそうにないよ、一人だけなんて。ハーレイかママか、どちらか片方だけなんて。
早く選ばないと助からないって分かっていたって、選ぶ代わりに泣き出しそうだよ…。
「ほらな、どっちも選べないだろ?」
愛情の秤ってヤツはそういうものだ。選べないからこその話だ。
話によっては、助けられる方が決めてしまうのもあったりするなあ…。あちらを助けろ、と川に沈んでしまう話や、崖から手を離す人の話や。
それも愛情ゆえの話だ、選ばなければならなくなったヤツを思いやっての決断なんだな。
そういった具合に愛情の深さはどのくらいかと突き付けられるのが愛情の秤だ。
どちらか一人、と追い詰められた時に、俺だけを迷わず選べるようなお前は要らない。
そんなお前に助けられても嬉しくはないし、どうして俺を助けたんだと怒るだろう。
本当に大切なものが何かも分からないようなヤツは嫌だと、嫌いだとな。
そして俺もだ…、とハーレイの困ったような笑み。
俺も全く自信が無いのだと、そういう場面でお前を選べる自信が無いと。
「おふくろとお前、どちらか一人だと言われたら…。俺はいったい、どうするやらなあ…」
お前には悪いが、直ぐに助けてやる自信が無い。
落ちそうだと悲鳴を上げていようが、今にも沈みそうになって溺れていようが。
「そっか…」
ハーレイでも選べないんだったら、ぼくが選べなくても仕方ないよね。
お互い様だし、助けられても、死んじゃったとしても、恨みっこなしにするしかないね。
「そういうことだな」
だからだ、今のお前が薄情だと言うなら、俺も薄情だということになるな。
おふくろかお前かを選べないんだ、前の俺ならお前だけだと自信を持って言えたのに。
大切な人間が増えてしまって、お前一人に絞れなくなってしまったからなあ…。
だが…、とハーレイに真摯な瞳で見詰められた。
一人だけに愛情を注げなくなってしまった理由は、薄情になったからではないと。
それは愛情が深くなったからだと、前の自分よりも多くの愛を知っているからこそなのだと。
「お前もそうだし、俺だってそうだ。本物の家族がいる時代に生まれて育ったからだな」
生まれた時からうんと沢山の愛情を注いで貰って、そいつに似合いの愛情の深い人間が育つ。
前の俺たちみたいに自分一人しかいないわけじゃなくて、愛情を注げる家族がいるんだ。そんな中で育って、俺の他にも大切な人が何人も出来て…。
そういうお前に愛された俺は幸せ者さ。前の俺とは比べ物にならない幸せ者だ。
「…ぼくがハーレイだけを選べなくても?」
ハーレイだけだよ、って言えるどころか、ハーレイの命がかかっているような時に、選べなくてオロオロしそうなぼくでも?
ハーレイかママか、どっちを助けたらいいか分からなくて泣き出しそうなぼくでもいいの?
「ああ。お前がお母さんを選んだとしても俺は恨まん」
ごめんね、とお母さんの方へ行っても、俺は笑顔で許してやるさ。お前が決めたことならな。
俺はお前を好きなんだからな、お前がやりたいようにするのが俺が喜ぶ道なんだ。
たとえ命を失くすとしてもだ、それでお前がお母さんと幸せに生きてゆけるなら本望だってな。
「そんなことしないよ!」
ママだけ助けて、ハーレイは死んでしまうだなんて!
逆も嫌だよ、ハーレイだけ助けてママが死んじゃったら、幸せになんかなれやしないよ…!
両方助ける、と叫んでいた。
どんなに無理をしてでもきっと、と。
無茶だと言われてもきっと助けると、命懸けでやれば出来る筈だと。
「やってみせるよ、前のぼくなら絶対に出来たことなんだから…!」
今のぼくでも出来る筈だよ、死に物狂いで頑張れば、きっと…!
ハーレイもママも助けてみせるよ、メギドを沈めた時に比べれば、絶対にマシな筈だから…!
「そう来たか…。うん、間違いなく俺のブルーだ」
無茶をやらかしても、周りのみんなが止めにかかっても、こうと決めたら動かないんだ。頑固な所は前と同じだ、前のお前とそっくりだってな、見た目は子供でチビなんだがな。
昔と何も変わっちゃいない、と笑顔のハーレイ。
より愛情が深くなっただけだと、薄情どころかその反対だと。
「そうなの?」
ぼくは心配してたのに…。前のぼくより薄情なぼくになっちゃった、って。
これじゃハーレイに嫌われちゃうかも、って思ったくらいに好きな人が沢山で選べなくって…。
「心配は要らん。そいつは幸せな悩みってヤツだ」
今のお前には好きが一杯ありすぎるんだな、だから悩んでしまうんだ。
俺だけだと決めてかからなくても、お父さんやらお母さんやら、お祖父さんやら。
誰が一番大切だろう、と考える方が間違ってるのさ、それは決めようが無いんだからな。
決めようが無いから愛情の秤の話があったりするんだ、決められるんなら要らん話だ。
余計な心配をしなくてもいい、と額をピンと弾かれた。
そんな悩みを抱えてしまうほど幸せな今のお前が好きだ、と。
「いいか、俺が一番でなくてもいい。俺だけでなくてもかまわない」
うんと沢山、愛して、愛されて、幸せに育て。
お父さんも、お母さんも、お祖父さんやお祖母さんたちも。好きが沢山でいいじゃないか。
前のお前には好きと言おうにも、前の俺しかいなかったんだしな。
「でも…」
ハーレイだけって言えないだなんて、ハーレイは寂しくなったりしない?
前のぼくなら「ハーレイだけだよ」って、何度言ったか分からないのに…。
「それなんだがな…。お前、いつかは嫁に来るんだろ?」
俺の所へ。今の所は俺が一人で住んでる家へ。
「うん」
早く結婚したいけれども、当分は無理…。十八歳にならないと結婚出来ないし…。
「その、結婚。いつになるかはまだ分からないが、その時、お前は選ぶんだ」
お父さんたちよりも、俺の方をな。
この家を離れて俺の家に嫁に来るってことはだ、俺を選んだってことになるだろ?
「あっ、そうか…!」
そうだね、ハーレイの方を選んだからこそ、ハーレイの家にお嫁に行くんだものね。
パパとママの方を選ぶんだったら、ぼくはお嫁に行ったりしないで上の学校に行くだとか…。
ハーレイと結婚しない道だって、きっと幾つもあるんだろうしね…。
「ほらな? だから心配なんかは要らないってな」
俺を選べないと悩まなくても、いずれは選ぶ日がやって来るんだ。
愛情の秤なんかじゃなくって、ごくごく自然な形でな。
俺はのんびり待つことにするさ、前のお前よりも愛情が深い、今のお前に選ばれる日をな。
しかし…、とハーレイに付け加えられたこと。
俺を選ぶ日が来たとしたって、お母さんたちを忘れるなよ、と。
「いいな、俺の家でどんなに幸せになっても、お母さんたちを忘れちゃいかん」
たまにはきちんと顔を見せてだ、一緒に飯を食ったりせんとな?
「うん…。言われなくても、きっとそうすると思うけど…」
パパやママの顔だって見たくなるだろうし、声だって聞きたくなるだろうし。
今だってハーレイだけを選べないから悩んでたんだよ、パパとママにも会いたくなるよ。
「よし。…俺もお前に付き合ってやるから、二人で顔を出そうじゃないか」
この家に来たなら、俺と二人でキッチンに立って、お母さんたちに御馳走を作るとか。
そういうのも悪くはないと思うぞ、俺が得意の料理を作って、お前は手伝い。
親孝行って言葉があるだろ、今はそいつが出来る時代だ。
庭の手入れを手伝うのもいいな、芝生を刈ったり、掃除してみたり。
今の時代は前の俺たちが生きた時代とは違うんだから…、と言われたから。
あの頃は無かった親孝行が出来る時代で、本物の家族と暮らせる時代。
そういったことを考えてみれば、どうやら自分は薄情になってしまったわけではないらしい。
愛情を注いでくれる人が沢山、好きが沢山。
だから選べない、ハーレイだけだと言えない自分。幸せに囲まれて育った自分。
そうして両親の家で育って、いつかハーレイを選ぶ日が来る。
ハーレイを選んで家を出てゆく、結婚式を挙げてハーレイの花嫁になって。
それでも決してハーレイだけにはならないけれど。
両親も祖父母も、大切で大好きな人たちは絶対に忘れられないけれど。
いつか選ぼう、ハーレイと生きてゆく道を。
ハーレイだけとは言えないままでも、手を繋いで二人で歩いてゆく道を…。
大好きの順番・了
※前のブルーなら、一番大切な人は、もちろんハーレイ。けれど今では、本物の両親が。
一人だけを選ぶのは無理で、それはハーレイも同じ。薄情ではなく、幸せだからこその悩み。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(えーっと…?)
ブルーは首を傾げて目の前にある物体を見た。学校から帰って、おやつの後で。
母に頼まれて荷物を置きに来た部屋、父が普段に使う部屋。そこに地球儀。今の自分が住む星を模して作った地球儀、それが棚の上に飾ってあるから。
(なんで?)
先日までは無かったと思う。この部屋の棚に地球儀などは。
そもそもブルーが暮らす家には地球儀が無かった、父も母も持っていなかったから。遠い昔には学校の授業で使われたこともあったと地理の授業で習ったけれども、今の時代はインテリア。
大きなものから小さなものまで、百貨店などで売られているのが今の地球儀。
けれども両親にその趣味は無くて、家ではお目にかからなかった。なのに地球儀、棚の上にある小さな地球儀。
父が欲しくなって買ったのだろうか、と観察してみれば、それの正体はトロフィーだった。優勝記念と文字が刻まれた台座、地球儀を据えてある台座。地球を支える棒にはリボン。
(そういえば…)
何かの大会で優勝したと言っていた父。会社の仲間が大勢集まる遊びの会。
土曜日だったか日曜だったか、ハーレイが来ていた日だったから。優勝の話は夕食の席の話題の一つ。父はトロフィーを披露しなかったし、貰ったことさえ聞きはしなかった。
どうやらその日の記念品らしい、このトロフィー。地球儀の形で台座付き。
(地球儀…)
小さいけれども本物の地球儀、インテリアとして人気の地球儀。
作り物の地球を覗き込んでみたら、今とは全く違う大陸。地理の授業で馴染みの地球とはまるで違った形の大陸。
けれど根拠の無いものではない、歴史の授業で習う大陸たち。それは遥かな昔の地球。
SD体制が敷かれるよりも前、人がまだ地球に住んでいた頃はこういう形の大陸だった。地球が滅びて人が住めなくなった後にも、辛うじて地形は残っていた。
ところがSD体制の根幹だったグランド・マザーの崩壊と共に、燃え上がってしまった遠い日の地球。火山の噴火や大規模な地殻変動が起こり、地球はすっかり変わってしまった。
もっとも、そうした荒療治のお蔭で今の青い地球があるのだけれど。
汚染されていた海も大地も息を吹き返して、青い水の星が宇宙に蘇って来たのだけれど。
父が貰ったトロフィーにあるのは、そうなる前の昔の地球。失われてしまった大陸たち。
(フィシスの地球…)
前の自分が見ていた地球だ、と父のトロフィーの地球を見詰めた。
今でも地球儀として人気があるのが昔の地球。一度滅びるよりも前の時代の地球を模したもの。
今の状態を描き出した地球儀もあるのだけれども、好まれるものは断然、こちら。
なんと言っても、人間を生み出した時代の地球はこうだったから。遠い遠い昔のアフリカ大陸、人間はそこで生まれて地球に広がり、あちこちで多様な文化を築いていった。
地面の上を歩いて行ったり、海を渡って更に遠くへと進んで行ったり。
そうした時代に、母なる地球に思いを馳せるなら、地球儀はこうでなければいけない。変わってしまった地形を描いた地球儀を見ても、人間の先祖が旅をした道はその上に見えてこないから。
アフリカ大陸から始まった歴史、それを辿るなら昔の地球。
前の自分もこれを見ていた、フィシスの記憶に刻み込まれた青い地球を。
たとえ機械が刻んだものでも、地球は地球。こういう姿で宇宙の何処かにある筈の地球。銀河の海の中の何処かに、この青い星がぽっかりと浮かんでいるのだと。
父が貰って来たトロフィー。脳裏に蘇るフィシスの地球。
(触っていいよね?)
悪戯するんじゃないんだから、と小さな地球儀に手を伸ばした。
単なる飾りでクルリと回りはしないのだろうか、と触れてみたらスイと動いた地球儀。回そうとした方へと地球が回った、作り物の地球が。昔の地球を模している玉が。
もうそれだけで弾んだ心。嬉しくなって緩んだ頬。
小さくても地球、それが自分の手で動く。指先でスイと回してやれる。自転さながらにクルリと回って、見える大陸が変わってゆく。小さな地球儀の表から裏へ、裏から表へ。
昔の地球でも今の地球でも、肉眼で見てはいないから。
地球儀のような丸い地球には一度も出会ったことがないから、もう嬉しくてたまらない。これが地球だと、宇宙から見ればこう見えるのだと。
この地球儀の上に描かれた大陸、それは失われてしまったけれど。
前の自分が生きた時代の終わりに滅びて、新しい大陸とそれを囲む海とが生まれたけれど。
今とは違う姿の地球でも、地球は地球。クルリクルリと何度も回した、作り物の地球を。
父のトロフィーにくっついた地球を、小さいながらも精巧に出来た地球儀を。
トロフィーの地球を飽きずに眺めて、それから自分の部屋に戻って。
あのインテリアが人気なわけだと、地球儀を飾っておきたい人が多いわけだと思ったけれど。
自分の部屋にも欲しいほどだと、また父の部屋へ行ったら回してみようと勉強机に頬杖をついて考えていたブルーだけれど。
(…あれ?)
さっき回していた、小さな地球。昔の地球を模した地球儀。
クルリと回せば日本も出て来た、遠い昔の小さな島国。今は無いけれど、今の自分が住んでいる地域は日本が在った場所だから。文化も日本に倣っているから、日本の形は馴染みの形。
そんな日本が何度も出て来た、地球儀をクルリと回してやれば。独特の形の島たちが。
(前のぼくが見ていたフィシスの地球は…)
フィシスの記憶に刻まれていた地球、そこに日本は無かったけれど。細長く伸びた島たちの列を目にした記憶は無いけれど。
SD体制の時代だったから、日本が無いのも頷ける。SD体制が基準に選んだ文化圏の中には、日本は入っていなかったから。日本からは遠く離れた地域が文化の基準で、フィシスの記憶に刻み込むなら、そういう地域にしなければ。日本が一緒に見えたりはしない遠い地域に。
でも…。
フィシスが見せてくれていた地球。前の自分が焦がれた地球。
青い地球を抱く少女だからこそ、フィシスを攫った。機械が無から作ったものでも、どうしても欲しくてミュウにしてまで。
そうして地球を心ゆくまで眺めたけれども、地球へと向かう旅の記憶が好きだったけれど。
(フィシスの地球は見てたけれども、地球儀って…)
さっき自分が回した地球儀、それを回した記憶が無い。クルリと回せば自転のように回る地球の模型、地球が好きなら何度も回していそうなのに。
これがアフリカで、人は此処から長い旅をして…、と人の歴史を辿りそうなのに。
今もインテリアとして人気の地球儀、百貨店に行けば誰でも買える。昔の地球から今の地球まで揃って並んだ地球儀の中から、好みの一つを選び出して。
そんな地球儀に前の自分が魅せられない筈が無いのだけれど。
クルリクルリと何度も回して、いつかは行こうと、この目で見ようと眺めそうだけれど。
(前のぼくは…)
あんなにも地球に焦がれていたのに、フィシスの地球に酔っていたのに。
フィシスを攫って来るよりも前は、きっと地球儀だっただろうに。
クルリと回せば地球の姿を見られる地球儀、それを好んで身近に置いたか、見に出掛けたか。
小さなものなら青の間に置いておけた筈だし、もっと大きくて立派なものならヒルマンが持っていただろう。子供たちに勉強を教えたヒルマン、彼が教材を保管していた資料室に。
その他にも地球儀はシャングリラの中にありそうで。
いつかはと夢見た青い地球の姿、それを表す地球儀は幾つもあった筈。休憩室やら、憩いの場になる公園といった所にきっと幾つも。
(…だけど、地球儀…)
まるで記憶に残っていない。
いくら考えても思い出せない、地球儀の記憶が全く無い。
クルリと回した思い出はおろか、それを目にした記憶でさえも。
(ぼく、忘れちゃった…?)
焦がれ続けた地球だったけれど、それを模したのが地球儀だけれど。
フィシスを手に入れ、模型の地球とは比較にならない鮮やかな地球をいつでも眺められるようになったから。望みさえすれば青い地球を見られて、地球儀よりも遥かに美しかったから。
もう地球儀には興味を失くして、触れさえもしなくなったのだろうか。
たとえ何処かで地球儀を見ても、ただ其処にあるだけの置物に過ぎず、存在さえも意識しないで記憶の彼方に消えたのだろうか。
なんとも薄情な話だけれども、それが一番ありそうだから。
(ハーレイに…)
訊いてみようか、前の自分は地球儀を忘れてしまったのか、と。
フィシスの地球に魅せられる内に、青い地球へと飛んでゆく旅に酔いしれる内に、以前は好んだ地球儀を忘れ、顧みなくなっていたのだろうか、と。
ハーレイはきっと酷く呆れることだろうけれど、覚えていないものは仕方ない。
もしも自分が地球儀を持っていた時期があるなら聞いておきたい、どんな地球儀だったかと。
青の間に置いて眺めていたかと、その地球儀はいつの間に姿を消してしまったろうか、と。
誰かに譲ったか、シャングリラの何処かに新たな置き場所を見付けたか。
それとも自分では持っていなくて、ヒルマンの所へ足繁く通って回していたか…。
(来てくれないかな…)
今日は寄ってはくれないのかな、と何度も窓の方へと目をやっていたら、チャイムが鳴って。
その待ち人がやって来たから、部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、今日ね…」
パパの部屋で地球儀を見付けたんだよ、前には無かったんだけど。
何かで優勝した記念のトロフィーが地球儀の形で、小さいけれども本物の地球儀。優勝記念って書いた台座に乗っかってるけど、ちゃんとクルンと回せるし…。
それにね、昔の地球だったよ。今みたいな地形に変わっちゃう前の、昔の地球。
「ほほう…。地球儀ってヤツは人気だからなあ、それも昔の地球の方がな」
やっぱり夢があるんだろうなあ、昔の地球は。とっくの昔に無くなっちまった大陸とかでも。
「パパの地球儀、綺麗だったよ。小さくてもホントの地球儀だったし。…それでね…」
ちょっとハーレイに訊きたいんだけど、前のぼくも持っていたのかな?
「何をだ?」
「えっと、地球儀…。全然覚えていないんだけれど…」
前のぼくが持ってたかどうかも覚えていないし、見かけた覚えも無いんだよ。
フィシスを攫って、本物みたいな地球をいつでも見られるようになっちゃったから…。そっちに夢中になってしまって、地球儀、どうでもよくなったみたい。
酷い話だけど、あんなに行きたかった地球。
その地球とそっくり同じに出来てた地球儀のことを、ぼくはすっかり…。
忘れちゃったみたい、と話したら。
ハーレイはきっと呆れるだろうと俯きかけたら。
「いいや、お前は忘れたんじゃない。知らないだけだ」
酷いも何も、と返った答え。
「えっ?」
知らないって、何を?
なんのことなの、忘れたんじゃなくて知らないだなんて。
「地球儀だ。俺も地球儀、知らないからな。…今の俺じゃなくて前の俺だが」
天球儀だったら知っていたがな、と笑ったハーレイ。キャプテンには必須だったから、と。
それならばブルーも覚えている。シャングリラにあった天球儀。
白いシャングリラの位置と他の天体とを関連付けて表示させたり、座標を打ち込んで遠く離れた宇宙の彼方の星雲などを映し出させたり。
地球があるのは何処だろうかと何度も覗いた、地球を擁するソル太陽系はどの辺りかと。
ぼんやりと光るホログラムの天球、それを天球儀と呼んでいた。
いつかは地球の座標を打ち込み、其処に向かって旅立とうと。これに航路を映し出そうと。
天球儀はあったとハーレイは言ったが、そのハーレイも知らないらしい地球儀。
前の俺は、と繰り返したハーレイ。
「天球儀は確かにあったんだが…。そう呼んでいたものはあったが、地球儀の方は…」
生憎と俺も全く知らない、前のお前と同じにな。
「ハーレイも地球儀を知らないだなんて…。もしかして地球儀、無かったの?」
シャングリラには地球儀が無かったってわけ、ぼくが忘れたわけじゃなくって?
「うむ。地球儀そのものが無かったんだ」
無かったものなら、覚えているわけがないだろう?
前のお前は見たことも無くて、シャングリラの中にも一つも無かった。
もちろん俺だって知らず仕舞いだ、地球儀という代物をな。
「そうだったんだ…」
無かったんだ、とブルーはポカンと口を開けたけれど、同時に少しホッとした。自分は地球儀を忘れたわけではなかった、前の自分に地球を見せてくれていた地球儀を。
フィシスが来るまでは何度も眺めただろう地球儀、それを忘れたかと思っていたから。
無かったものなら記憶に残っていなくて当然、何の不思議も無いのだけれど。
それ自体は納得出来るのだけれど、無かったと即答したハーレイ。
尋ねた途端に答えを返したハーレイはいつ知ったのだろう?
白いシャングリラに地球儀が存在しなかったことを、いつの間に…?
「ねえ、ハーレイ。…なんで気付いたの?」
地球儀は無かった、って直ぐに答えたでしょ、前から気付いてたんだよね?
どんな切っ掛けで思い出したの、シャングリラに地球儀が無かったってことを。
「それなんだがな。…お前より少し前のことだが…」
お前と同じだ、俺も切っ掛けはトロフィーなんだ。
前に来たから覚えているだろ、俺が幾つも飾っているのを。柔道のだとか水泳のだとか…。
あれを見ていて気が付いた。前の俺には地球儀ってヤツの記憶が無いぞ、と。
「トロフィーって…。ハーレイのヤツにあったっけ?」
パパのみたいな地球儀型。ぼくは見覚え、無いんだけれど…。
「地球儀そのままって形のじゃないが、地球つきのトロフィーを持っているんだ」
トロフィーの飾りの一部が地球の形をしているわけだな、地球を嵌め込んだ塔みたいに。
金色の塔の天辺が地球になっているな、としみじみ眺めて、昔の地球の方だと思って…。
トロフィーでも昔の地球が人気なのかと考えてみたが、そいつは柔道のトロフィーだった。
柔道はSD体制の頃には消されちまってた武術だからなあ、昔の地球なのも当然だよな。
そのトロフィーを見ていた間に、地球儀型のトロフィーもあると気付いたらしいハーレイ。
何の競技かは忘れたらしいが、他のクラブが優勝した記念の品が学校に飾ってあったのだ、と。ブルーの父が持っているような地球儀型のトロフィーが。
「あれを思い出したら、地球儀型のが欲しかったと思っちまってなあ…」
俺が出ていた大会の類に地球儀型のは無かったわけだし、貰い損なってはいないんだが…。
この中に地球儀型のが一つあったらなあ、と棚を眺めていたってな。
「地球儀型のトロフィーが欲しかったって…。懐かしいから?」
前のハーレイが辿り着いた地球は青くなかったけど、大陸とかの形は同じだったから?
「いや、そうじゃなくて…。今の俺の趣味だ」
何かとレトロなものが好きだろ、その辺りは前の俺とどうやら似ているらしい。
地球儀とくればレトロの極みだ、一つあったらいい感じなのに、と思ったわけだ。
「そっか、地球儀…」
今は宇宙がぐんと身近で、地球儀なんかを眺めなくても宇宙から本物を見られるんだし…。
学校の授業でも地球儀の出番は全く無いよね、今の時代は地球儀、レトロなインテリアだよね。
「そういうことだ。如何にも俺の好みのアイテムなわけだ、地球儀ってヤツは」
今の俺でも、前の俺でも。
特に前の俺は地球に行こうと思ってたんだし、レトロな地球儀は是非欲しいよな?
それで気付いたらしいハーレイ。白いシャングリラには地球儀が無かったと気付いたハーレイ。
レトロ趣味だった前の自分は地球儀を持っていなかったと。
木で出来た机や羽根ペンを愛用していたほどなのに、地球儀を持ってはいなかったと。
「そういえば…。ハーレイの部屋に地球儀、無かったね」
あってもおかしくなさそうどころか、うんとレトロなのを飾っててもビックリしないのに。
同じ地球儀でもセピア色とか、渋いのを。
「前の俺は地球儀、好きそうだろう?」
机の上に置いて回してそうだろ、今の時間なら地球はこんな具合に太陽が当たっているな、と。この半分が昼の時間で、残りの部分は夜なんだ、とか。
「うん、ぼくよりもずっと好きそうだよ」
ぼくは地球儀を見ても地球の模型だと考えるだけで、行きたいって眺めるだけなんだけど…。
早く本物の地球を見たいな、って憧れるだけで終わりだけれど…。
ハーレイだったら銀河標準時間に合わせて地球儀を回して光を当てたり、色々やりそう。
此処から此処まで旅をするなら、海から行くのか陸伝いだとか、ルートをあれこれ考えたりも。
前のブルーは地球を抱くフィシスを攫って来たほどに本物の地球に焦がれたけれども、本物しか見てはいなかったけれど。
ハーレイの方は同じ地球でも、地球儀があれば楽しめるタイプ。此処へ行ったらどんな風かと、この場所はどんな気候だろうかと。赤道に近い場所なら暑くて、北極や南極の近くは寒くて。
けれど一概にそうだとも言えず、海流などでも気候は変わる。地形も大きく影響する。高い空を吹く風によっても異なる、信じられないような場所でも雪がドッサリ積もったりもする。
前のハーレイなら地球儀でそれを考えただろう、どの地域が温暖で過ごしやすくて、どの地域が人を寄せ付けない厳しい寒さや暑さに見舞われる場所なのかと。
自分が住むなら此処だろうかと想像してみたり、この川を遡れば何処までゆけるかと指で辿って確かめてみたり。
地球儀の捉え方がブルーとは違っていたろう、航海図を見るような感覚で眺めただろう。いつか行きたい星の姿を、同じ夢でもブルーよりももっと現実に近い感覚で。
其処へ行ったら何があるのか、どうなるだろうかと、さながら冒険や探検のように。
遠い昔に航海図だけを頼りに海へ漕ぎ出し、まだ見ぬ世界の果てに向かって旅をしていた船乗りたちのように。それは確かにある筈なのだと船を進めた者たちのように。
ハーレイにとっての地球儀は航海図だったのだろう、と考えたブルーだけれど。
前のハーレイが地球儀を持っていたなら、いつか行くべき星へと導く航海図よろしく夢の場所を探し、其処へと思いを馳せていただろうと思ったけれど。
「あれっ、ひょっとして、前のぼくたちが生きてた頃って…」
航海図っていうのも無かったのかな、昔の船乗りが使っていた地図みたいなの。
地球の海を船で旅する時に使っていたヤツ、あれもシャングリラには無かったかな?
あれもハーレイが好きそうだけれど、ぼくは見た覚えが一度も無いから…。
前のハーレイだったら地球儀を見ても、航海図みたいな感覚だったかと思うんだけど…。
「そうだろうなあ、前の俺が地球儀を持っていたなら、お前が言ってる通りだろう」
シャングリラで飛ぶなら海の上にするか、陸の上を飛ぶか。それだけで充分楽しめていたな。
同じ陸でも何処を飛ぶべきか、ルートを幾つも考えてみたり。
航海図を見るような気分だっただろうが、その航海図。そいつも地球のは無かったんだ。何処を探しても無い時代だった、シャングリラに無かったというだけじゃなくて。
「…なんで?」
何処にも無かったなんて、どうして?
シャングリラだけならまだ分かるけれど、人類の世界にも無かったなんて…。
地球儀も航海図も無かっただなんて、どうしてそういうことになったの?
「マザー・システムだ」
あれが隠蔽していたわけだな、本物の地球に纏わる全てを。
かつて地球にはこういう国が存在したとか、こんな文化があっただとか。断片になったデータは残してあったが、纏め上げられると些かマズイ。
そいつが存在していた場所を探しに行かれちゃマズイんだ。あの通りに死の星だったしな。
だから全体像をぼかした、想像をかき立てる地球儀や航海図の類を消した。
手掛かりが無けりゃ、地球は漠然と青い水の星で、人類の聖地で夢のままだからな。あの時代の人間は物事を深く考えないよう、真実を追究しないようにと仕向けられたのさ。
地球は何処かにあればいいんだ、どんな星かは知る必要も無いってな。
ぼかされていたという地球の情報。
マザー・システムがそのように仕向け、地球そのものを表す地球儀はおろか、地球の海を旅するための航海図すらも消してしまった。
かつて地球にあった歴史や文化は断片と化して、マザー・システムが統制していた。必要以上のものを引き出されぬよう、人が興味を持たぬよう。
地球という星に纏わる何もかもがぼかされ、真実は誰にも知らされなかった。
本当の地球を知る一部のエリートや、地球の再生を託された技術者たちを除けば、誰一人として掴めなかった地球の全貌。それを知ろうとも思わないよう、巧みに構築されていた世界。
地球儀を回して、地球のどの部分が今は昼間かと考える者はいなかった。
航海図を眺めて海の渡り方を考える者もいなかった。
それがおかしいとも気付きはしないで、地球儀や航海図の存在にさえも気付かないままで。
「なんだか酷いね…」
何もそこまでしなくても、と溜息をついたブルーだけれど。
「そいつがマザー・システムってヤツだ。お前が見ていた地球もだろう?」
「えっ?」
「フィシスの地球だ。…前のお前が憧れ続けた、あの映像の地球だ」
ソル太陽系の惑星の配列も本物とはまるで違っていたが…。その段階で既に怪しいんだが…。
具体的には地球の何処へ降りる映像だったのか、と問われてみれば。
「俺は降りる所まで見てはいないが、お前は降りたか?」と尋ねられれば、降りなかった地球。
フィシスの記憶で辿る地球へと飛んでゆく旅は、青い海に浮かぶ大陸で終わり。
あの大陸へと降りるのだな、と思う辺りで旅は終わって、一度も地上には降りられなかった。
前の自分は全く不思議に思いはしなくて、そういうものだと自然に納得していたけれど。
フィシスの生まれを知っていただけに、大陸には地球の中枢があって、それゆえに情報がガードされていると、これ以上先には進めないのだと素直に信じていたのだけれど。
目の前のハーレイにそれを話したら、きっとあそこがユグドラシルだろうと話してみたら。
「その、大陸。…本物だったか?」
俺は何度も見てはいないし、記憶も曖昧になってるんだが…。
前のお前が見ていた大陸、本当に本物の地球のだったか?
「本物でしょ?」
だってフィシスの記憶なんだよ、マザー・システムが植え付けたんだよ?
本物と違って青い地球でも、あの大陸の場所にユグドラシルがあった筈だと思うんだけど…。
「間違いなく…か?」
どの大陸だとハッキリ言えるか、今のお前には歴史で習った知識も入っている筈なんだが。
ユグドラシルが何処にあったか、どういう名前の大陸だったか知っているよな?
「えーっと…?」
考えてみれば怪しいようにも思える大陸。
前の自分が地球の中枢だと考えた場所こそがユグドラシルで、何処にあったかは何度も習った、今の自分が。どの大陸かも、当時はどういう形で存在していたかも。
その大陸と、フィシスの記憶の中で目指した大陸。
似ていたようにも思うけれども、微妙に違っていた…かもしれない。
青い海に浮かぶ大陸は鮮やかだったけれど。
前の自分は魅せられたけれど、そんな形の大陸は無かったと言われれば否とも言えはしなくて。
やはり偽物かと、騙されたのかと考え込んでいたら。
「今となっては本当か嘘か、確かめようもないわけだが…」
フィシスとキースの地球の映像、データが残っていないからなあ…。
そうだと断言出来はしないが、俺は偽物だと思っている。フィシスの記憶の中の大陸。
あれもぼかされていたのだろう、とハーレイは言った。
偽の情報だと、本物の地球とは違うものだと。
「…そこまで酷いの?」
自分たちが作り出したフィシスに入れてあった地球まで嘘なの、まるで嘘なの?
確かに地球は青かったけれど、それだけでも酷い嘘なんだけれど…。
「そういう時代だったんだ。地球の情報はとことん隠すか、ぼかしていたかだ」
だから地球儀なんかも無かった、前のお前が知るわけがない。
忘れたんじゃなくて知らずに終わった、地球儀というものがあったことさえも。
「そっか…」
知らなかったんならどうしようもないね、人類の世界にも無かったものなら。
マザー・システムが隠したものなら、地球儀、前のぼくは知りようがないんだものね…。
前のぼくが好きそうなものだったのに、と項垂れていたら。
フィシスを攫うよりも前にそれがあったら、地球への夢も膨らんだろうに、と呟いたら。
「そりゃまあ…なあ? だが、無かったものは仕方ないってな」
しかしだ、今はトロフィーにもなっているだろう?
お前のお父さんが貰ってくるようなトロフィーが今は地球儀なんだぞ。いい時代じゃないか。
「そうだね、あれで気が付いたんだものね」
前のぼくが地球儀を知らなかったこと、あのトロフィーのお蔭で分かったし…。
「平和な時代になったってことだ。地球の姿は見放題だし、情報も隠さないってな」
今じゃ地球儀は自由に買えるし、昔の地球のも今の地球のも好きに選べる。航海図だって専門の店に出掛けて行ったら買える時代だ、昔のヤツから今のヤツまで。
「…地球儀、前のぼくに持たせてあげたかったな…」
地球はこんな風に見えるんだよ、ってクルクル回して楽しめるように。
フィシスに出会うよりも前の時代も、地球儀があれば毎日が充実してただろうに…。
「それはそうだが…。前のお前は地球儀さえも持てなかったが…」
今のお前は地球に生まれて来られただろうが。
昔の地球儀は役に立たなくなっちまったが、青い星に戻った地球の上に。
地球儀よりも本物の地球がいいだろうが、と微笑まれたけれど。
本物の地球が
足の下にあるぞ、と言われたけれども、でも、地球儀も気に入ったから。
父の部屋で見た地球儀型のトロフィー、それとハーレイの話とで欲しくなって来たから。
「ねえ、ハーレイ。…結婚したら地球儀、買ってくれる?」
大きいのでもいいし、小さいのでも…。昔の地球のがいいんだけれど…。
「いいな、航海図も買うか」
そっちも昔の地球のヤツだな、帆船で航海していた頃のを。
「航海図、やっぱりハーレイの趣味なの?」
「レトロっぽいのが好きではあるな」
うんと昔の古めかしいのが好きなんだ。俺の記憶が戻る前から、何故だか惹かれた。
レトロ趣味なのか、キャプテン・ハーレイの血が騒いだのかは謎だがな。
結婚したならそういう部屋を作ろうか、とウインクされた。
大きな地球儀に航海図。それが似合うよう、書斎を模様替えでもするか、と。
「だったら、ハーレイの部屋風に!」
「はあ?」
俺の部屋は元からハーレイの部屋だが、それをどうすると?
「違うよ、キャプテン・ハーレイ風の部屋だよ」
シャングリラの頃のハーレイの部屋。あの部屋、ぼくは大好きだったし…。
それに航海図も地球儀も似合いそうだから、と提案したら。
「ふむ…。そういうのも悪くはないな」
もう羽根ペンはあるわけなんだし、他の部分を前の俺風に模様替えする、と。
「素敵でしょ?」
いいと思うよ、前のハーレイの部屋みたいなの。
航宙日誌は並んでないけど、代わりに古典の本をズラリと並べるんだよ、棚一杯に。
そして壁には航海図を飾って、地球儀は何処に置こうかなあ…。
小さいのだったら机の上だし、床に置くような大きい地球儀も似合いそうだよね。
前の自分が生きた頃には無かった地球儀、無かったという航海図。
もしも覚えていたならば。
ハーレイと結婚する頃までそれを覚えていたなら、書斎の模様替えもいい。
昔の地球を模した地球儀に、帆船時代の航海図。
それを使ってハーレイと二人で地球の旅に出よう、昔の地球へ。
SD体制が敷かれるよりも前、滅びてしまう前の古い地球。
其処を二人で旅してみよう。
この辺りはどんな国だったのかと、気まぐれに地球儀を回してみて。
其処へゆくなら航路はこうだと、此処からゆこうと古い航海図を二人で眺めて…。
地球儀・了
※前のブルーとハーレイが生きた頃には、何処にも無かった地球儀。それに地球の航海図も。
フィシスの地球さえ、偽物だったみたいです。けれど今では、レトロな地球儀を飾れる時代。
拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
さて、恒例の夏休み。柔道部の合宿と、ジョミー君とサム君が送り込まれる璃慕恩院の修行体験ツアーも終わって、今日はワイワイ慰労会。精進料理に一週間耐えたジョミー君とサム君のために真昼間から焼き肉パーティーです。
「やっと終わったあ~! 後は遊ぶだけ!」
夏休みだ、とジョミー君が肉をガツガツ食べている横で、キース君が。
「良かったな。俺の苦労はまだまだ終わらんわけだがな」
「あー、卒塔婆書き…」
お盆だったね、と他人事のようなジョミー君。棚経のお手伝いはしているのですけど、卒塔婆の方にはノータッチです。キース君は来たるお盆に向かって卒塔婆を何十本だか何百本だか。計画的に書いているだけに、そうそう修羅場は無いようですが…。
「今年も山の別荘までには目途をつけるのが目標だ!」
「あと二日ですよ、キース先輩」
「だから明日から缶詰だ!」
此処に来ているどころではない、と悲壮な表情。会長さんの家でダラダラと過ごす時間も魅力的ですが、あと二日。それが過ぎたら山の別荘、マツカ君のご招待でお出掛けの予定。
「缶詰なあ…。頑張れよな」
サム君がキース君の肩をポンと叩いて、私たちは再び焼き肉に興じていたのですが。
「ごめん、ちょっといいかな?」
「「「は?」」」
何が、と視線を向けた先には。
「なんで、あんたが!」
キース君が叫んで、サム君も。
「ぶるぅ付きかよ!?」
肉はねえぜ、とお皿をガード。紫のマントのソルジャーはともかく、隣に「ぶるぅ」。大食漢の悪戯小僧に来られちゃったら、焼き肉どころじゃないですってばー!
「肉はどうでもいいんだ、うん」
それよりコレ、とソルジャーは「ぶるぅ」を指差しました。
「「「???」」」
「見て分からない? いつもとちょっぴり違うようだとか、そういうの」
「「「うーん…?」」」
言われてみれば元気が無いでしょうか? 普段だったらサム君が止めてもテーブルに突撃している筈です。ホットプレートの上の焼き肉も野菜も、ペロリと平らげてしまうのが「ぶるぅ」。
「もしかして食欲不振かい?」
会長さんが訊くと、ソルジャーは憮然とした表情で。
「それもあるけど、この顔を見て何も思わないかな!?」
「「「顔?」」」
ふっくら、ぷっくり、お子様の顔。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のそっくりさんは膨れっ面で突っ立っています。ソルジャー、「おあずけ」のコマンド出しましたか?
「あのねえ! ぶるぅがぼくに言われたくらいで大人しくするわけがないだろう!」
そんなぶるぅはぶるぅじゃない、ともっともな仰せ。だったら、なんで膨れっ面?
「膨れてるんだよ!」
「うん、見れば分かる」
膨れっ面だね、と会長さん。
「泣きっ面に蜂と言うのか、何と言うべきか…。不満たらたらが顔に出てるよ、物騒すぎだし!」
連れて帰れ、と冴えた一言。
「こんなぶるぅを連れて来られても、悪戯地獄になるだけだから!」
「連れて帰れたら苦労はしないよ!」
「だったら、なんで連れて来るかな、君って人は!」
「一大事だから!」
もう本当に一大事なのだ、とソルジャーはズイと進み出ると。
「ぼくのシャングリラが存亡の危機! だからぶるぅを!」
「…ぶるぅを?」
「こっちで預かって欲しいんだけど!」
「「「ええっ!?」」」
膨れっ面の悪戯小僧を預かれと!? シャングリラが存亡の危機に陥るほどの悪戯小僧を…?
あまりにも酷い頼み事。ソルジャーの手にも負えなくなったらしい「ぶるぅ」を預かったりしたら、私たちだって地獄を見ます。マツカ君の山の別荘にお出掛けどころか、それまでに死屍累々になるのが明々白々、これはお断りしなくては…!
「お断りだね」
会長さんがバッサリ切り捨てました。
「存亡の危機だか何か知らないけど、ぶるぅは君の世界の住人だしね? こっちの世界で揉め事なんかは御免蒙る、連れて帰って」
「だけど、ホントにマズイんだよ!」
だからお願い、とソルジャーはガバッと土下座し、「このとおりだから!」と。
「ちょ、ちょっと…!」
ソルジャーには似合わない土下座。会長さんは慌て、私たちだってビックリですが。
「土下座で済むなら何度でもするよ! だから、ぶるぅを!」
「「「ぶるぅ…?」」」
そういえば何だか様子が変です。いつもだったら、こういう時には調子に乗って悪戯するとか、はしゃぐとか。ソルジャーの土下座なんていう天変地異が起こりそうなものを目にしているのに、「ぶるぅ」はボーッと立っているだけ。
「…ぶるぅ、熱でもあるのかい?」
会長さんが訊くと、ソルジャーはパッと土下座状態から顔を上げて。
「それだけじゃないよ、膨れてるだろう!」
「「「は?」」」
「顔だよ、顔が膨れてるんだよ!」
このとおり、と立ち上がったソルジャーは「ぶるぅ」の頬っぺたを指差しました。
「こう、両方の頬っぺたがプウッと…」
「膨れっ面じゃなかったわけ?」
「天然自然の膨れっ面だよ、頬っぺたが膨れ上がっているんだよ!」
昨日の夜から膨れて来たのだ、とソルジャーに言われてよくよく見れば、膨れっ面ではない感じ。こう、頬っぺたがプクプクぷっくり、虫歯でも放置しましたか?
「…歯医者さんなら君のシャングリラにいるだろう!」
そっちのノルディは歯医者じゃないかもしれないけれど、と会長さん。
「こんな状態になっているなら、真っ先に歯医者!」
「もう行った!」
連れて行った、とソルジャー、即答。
「ぶるぅは歯は痛くないって言ったんだけどね、子供の言うことはアテにならない。それに歯磨きもサボリがちだし、いくら丈夫な歯をしていたってこれは来たな、と」
「それで歯医者さんをガブリとやっちゃって後が無いとか?」
代わりのお医者がいないとか、と会長さんは迷惑そうに。
「こっちのノルディがやってる病院、歯科もやってはいるけれど…。ぶるぅはちょっと…」
「だから預かってくれるだけでいいって言ってるだろう!」
「歯医者さんの手が回復するまで?」
「そうじゃなくって、この頬っぺたの腫れが引くまで!」
プラス数日はダメだったかな、と言われましても。
「腫れが引くまでって…。虫歯は放置じゃ悪化するだけ、治りはしないよ?」
「注射なら打って来たんだよ!」
「「「注射?」」」
ソルジャーの世界は虫歯も注射で治るのでしょうか。歯医者さんと言えばチュイーンでガリガリ、イヤンな音が鳴り響く世界だと思ってましたが、技術がうんと進んだ世界は違います。注射で虫歯が治るならいいな、と誰もが思ったのですけれど。
「そもそも、これは虫歯じゃないから!」
「虫歯じゃない?」
だったら何、と尋ねた会長さんに、返った答えは。
「分からないかな、オタフク風邪だよ!」
「「「オタフク風邪!?」」」
ぎゃああああ! と部屋一杯に響き渡った悲鳴。私、予防注射をしてましたっけ? オタフク風邪の予防接種は義務でしたっけか、それとも任意で打つヤツでしたか?
「ぼ、ぼくってオタフク、打っていたっけ…?」
「俺が知るかよ、自分のことだって分からねえのに!」
ジョミー君とサム君が青ざめ、シロエ君もやはり顔面蒼白。その一方で、キース君とマツカ君は「よく考えたら大丈夫だった」と落ち着いた顔。
「俺は受けさせられてる筈だ。…こんな人生になるとは思っていなかったからな」
「ぼくもです。絶対に受けている筈です」
「なんなんですか、その自信は!」
シロエ君が噛み付くと、キース君は。
「知らないか? オタフク風邪に下手に罹ると、男は子供が出来にくくなる」
「「「は?」」」
「オタフク風邪で睾丸炎を起こすことがあるんだ、そうなると精子の数が減るそうだ」
「ですから、跡継ぎ必須なキースやぼくは罹ると困るわけですよ」
予防接種を受けた筈です、と落ち着き払った二人はともかく。
「じゃ、じゃあ、ぼくたちも下手に罹ったら…!」
「ヤバイってことだな、将来的に!?」
早く「ぶるぅ」を撤去してくれ、と男の子たちは上を下への大騒ぎ。スウェナちゃんと私も顔ぷっくりな病気は御免ですから、壁際に退避したのですけど。
「えーっと…。君たちは全員、受けてるようだよ。オタフク風邪の予防接種」
会長さんの声が神様のお言葉のように聞こえました。それもサイオンで分かるんですか?
「いや、ちょっと記憶の底を探ってみただけ。受けてるかな、って」
「受けてたとしたら幼児か乳児だと思いますが!」
シロエ君の指摘に、会長さんは余裕の微笑み。
「そうだろうねえ、だけど記憶にあるものなんだよ」
そして全員、接種済み…、という頼もしい台詞。それなら「ぶるぅ」がオタフク風邪でも特に問題なさそうです…って、ソルジャーの世界にもワクチンはあるって言いましたよね?
「ブルー。ぼくたちの世界でもこの始末なんだ、ワクチンがあるなら君のシャングリラで対処したまえ、オタフク風邪!」
「そのワクチンが無いんだってば!」
「「「ええっ!?」」」
注射を打ったと言いませんでしたか? 無いんだったら、何処で打ったと?
「…ぼくの世界じゃ、オタフク風邪はとっくの昔に根絶されててしまっていてさ」
ソルジャーが言うには、あちらのドクター・ノルディは「ぶるぅ」を診察するなり隔離室に放り込んだのだそうで。
「それから船内を隈なく消毒、広がらないようにと大騒ぎで…。なにしろワクチンが無いんだからねえ、シャングリラには」
「だったら、君は何処でぶるぅにワクチンを?」
「逆に訊かせて貰うけどさ。オタフク風邪のワクチンってヤツは、発症してから使えるのかい?」
「「「あ…」」」
あれはあくまで予防接種で、治療じゃなかった気がします。それじゃ、「ぶるぅ」が打った注射はワクチンじゃなくて…。
「中身は何だか聞いてないけど、対症療法ってヤツじゃないかな。とにかく腫れが引くまで安静、腫れが引いても暫くの間はウイルスを発散してるらしいから隔離しか無い、と」
だけど相手はぶるぅだから…、とソルジャーは至極真面目な顔で。
「今は熱が出てるし、膨れてるしね? 大人しいけど、腫れが引いたら隔離されてた反動で絶対、悪戯しに行くと思うんだよ」
「それはそうかもしれないねえ…」
頷いている会長さん。
「ね、君だって大体予想はつくだろう? いくら本人が元気になっても、ウイルスを撒きながらシャングリラ中で悪戯されたら、ぼくのシャングリラはホントに存亡の危機なんだってば!」
だからお願い、とソルジャーは再びガバッと土下座を。
「オタフク風邪が普通にはびこる、こっちの世界を見込んでお願い! ぶるぅがウイルスを撒かなくなるまで預かって!」
「で、でも…。ぼくたちはマツカの山の別荘に…」
「ぼくのシャングリラが滅びてもいいと!?」
「それは確かに一大事だけど…」
そもそも「ぶるぅ」は何処でオタフク風邪なんかに…、と会長さんが訊けば。
「間違いなくこっちの世界だと思う。勝手に遊び回っているから」
「そういうことか…。それなら普通にオタフク風邪だね」
それなら対処のしようもあるか、という話ですが。普通じゃないオタフク風邪って、なに?
「ぶるぅ」が罹ったオタフク風邪。ソルジャーの世界では根絶されてしまってワクチンも無し。ゆえに「ぶるぅ」を預かってくれという依頼ですけど、会長さんは何を心配してたのでしょう?
「ああ、それかい? 妙な変異を起こしたヤツだと困ると思って…」
だけどこの世界のオタフク風邪なら無問題だ、と会長さん。
「分かった、ぶるぅは引き受けよう。でもねえ、ぼくたちは山の別荘に行く予定だから…。ハーレイの家に預けようかと思うんだけどね?」
「ああ、ハーレイ! いたね、そういう暇人が!」
忘れていたよ、とポンと手を打つソルジャー。
「君が預かると言ってくれた以上は太鼓判だし、ハーレイに頼みに行こうかな? ぼくのお願いでも喜んで聞くよね、こっちのハーレイ」
「それはもちろん。土下座しなくても「預かれ」と命令すればオッケー!」
「ぼくとしたことがウッカリしてたよ、土下座は必要無かったってね」
最初からあっちに行けば良かった、と笑うソルジャーですけれど。冷静な判断が出来なくなるほど「ぶるぅ」のオタフク風邪は脅威で、ソルジャーとしての責任に追われていたわけで…。
「そういうことだね、ぼくでもパニック。こっちの世界を甘く見てたよ、まさかぶるぅがオタフク風邪に罹るだなんてね」
ただの虫歯だと思ったのに、と言うくらいですし、オタフク風邪という病気自体がソルジャーの頭に無かったのでしょう。ともあれ、「ぶるぅ」はウイルスを撒き散らさない状態になるまで教頭先生の家にお泊まりということですね?
「うん。寝心地がいいよう土鍋も運んでおかなくちゃ…。その前にハーレイに頼まなくっちゃいけないけれども、オッケーは最初から出ているようなものだしねえ?」
「あのハーレイなら断らないね」
「それじゃ、頼みに行ってくる! お騒がせして申し訳ない、パーティーの続きはごゆっくりどうぞ。ぼくはぶるぅを預けたら向こうに帰るから!」
まだシャングリラがゴタついていて…、とソルジャーは「ぶるぅ」を連れてパッと姿を消しました。隔離していたオタフク風邪の患者が船から消えた件とか、色々と情報を操作しないと駄目なのでしょう。それともアレかな、「ぶるぅ」はきちんと船にいます、って方向かな…?
こうしてソルジャーと「ぶるぅ」は消え失せ、私たちは焼き肉パーティー続行。会長さんがサイオンで教頭先生のお宅を覗きましたが、教頭先生、二つ返事で「ぶるぅ」を引き受けたみたいです。早速、土鍋が運び込まれて、ソルジャーは「ぶるぅ」を残してシャングリラへ。
「それにしたって、オタフク風邪ねえ…」
ワクチンが無いとは面倒な、と会長さん。
「根絶しちゃった世界だと要らないとばかりに無いってトコがねえ…」
流石はSD体制の世界、と会長さんが言えば、キース君も。
「俺たちの世界だと考えられない話だな。根絶したと言われる病気でもワクチンは確か、あるんだったな?」
「現役のワクチンがあるかどうかは知らないけれど…。作る用意はしてある筈だよ」
根絶した病原菌だって残してある、と言われて仰天。そんな物騒なものがあったんですか!
「え、だって。何処から再び湧いて出るかも分からないしね?」
「新しい病原菌だって湧くんだからな」
言われてみればそうでした。新しい地域に進出して行けば新しい病原菌が登場することもあったりします。それと同じで、根絶したつもりの病原菌が今も何処かに隠れているかも…。
「そういうことだよ、それに備えてワクチンを作るための株がね」
いざとなったらソレを使ってワクチンを作れるようになっているのだ、という説明。ソルジャーの世界にはそういう備えが無いのでしょうか?
「地球自体が滅びてるしね、病原菌も滅びたって考えかもね?」
それともマザー・システムとやらが完璧に管理しているのかも…、と会長さん。
「こまめに殺菌しまくっていればワクチン不要になるかもしれない。流行った時だけ何処かから調達するかもしれないけれども、それもグランド・マザーとやらの管轄ってね」
「しかしオタフク風邪で存亡の危機か…」
危険ではあるが、とキース君。
「ミュウは虚弱だと言ってやがるし、オタフク風邪でも滅びかねないのか…」
「だろうね、ブルーのパニックぶりから察するに…。だけど解決して良かったよ」
ぼくたちに迷惑の来ない形で、と会長さんは御機嫌です。教頭先生が「ぶるぅ」の悪戯に悩まされるような頃になったら、私たちはマツカ君の山の別荘。教頭先生、「ぶるぅ」のお世話をよろしくです~!
山の別荘でのんびり過ごして、ハイキングに乗馬にボート遊びに。充実の別荘ライフを満喫してきた後は、お盆の準備で忙しいキース君も交えてプールに行ったり、会長さんの家で遊んだり。オタフク風邪に罹った「ぶるぅ」も無事に回復、自分の世界に帰ったのですが…。
「なんだかねえ…」
どうもハーレイがうるさくって、と会長さん。
「夏休みだからドライブしようとか、食事に行こうとお誘いだとか…。モテ期ではないと思うんだけどさ」
「そういうモノもありますけどねえ…」
ちょっと様子が違いますね、とシロエ君。教頭先生のモテ期なるもの、「自分はモテる」という思い込みから会長さんに熱烈なアタックをかます時期。つまり一種の発情期ですが、これは症状が徐々に酷くなっていって、アプローチが熱烈になる傾向が。でも…。
「今度のヤツはは最初の時からフルスロットルでアタックですよ?」
「だからモテ期じゃないんだと思う。だけどしつこい!」
プレゼントだって毎日山ほど、と会長さんが言っている側から管理人さんからの連絡が。プレゼントの山と花束などが届いているから、これから持って行くとのことで…。
「やれやれ、またか…」
「かみお~ん♪ ハーレイの車も来たみたいだよ!」
「なんだって!?」
窓へと走った会長さんと一緒に見下ろせば、確かに教頭先生の愛車。プレゼントが届くタイミングを見計らってのご登場だと思われます。
「この暑いのに、暑苦しい男は顔を出さなくていいんだよ!」
会長さんが毒づいていますが、間もなくチャイムがピンポーン♪ と。玄関を開けに出掛けた「そるじゃぁ・ぶるぅ」が山のようなプレゼントの箱をサイオンで運びつつ、飛び跳ねて来て。
「ブルー、プレゼント、いっぱい来たの! それにハーレイも!」
「ハーレイを家に入れたのかい!?」
「だって、ブルーに用事があるって…」
「冗談じゃないよ!」
こっちに用事は無いんだけれど、と会長さんが言い終わらない内に「ブルー、元気か?」と満面の笑顔の教頭先生。真っ赤なバラの花束を抱えていらっしゃいます。えーっと、確か、この花束を叩き落として踏みにじったらモテ期は終了でしたっけか?
教頭先生の発情期なモテ期。その終幕は会長さんが貰った花束をグシャグシャに潰すことだと聞いています。教頭先生の熱は一気に冷めて「モテない自分」を自覚するとか。ということは、花束登場で終了だな、と誰もが思ったのですが。
「ブルー、この花束を受け取ってくれ。私の気持ちだ」
「迷惑なんだよ!」
花束をベシッと叩き落とした会長さん。リビングの床に落っこちたソレを踏みにじるべく足を上げようとしたのですけど。
「そう照れるな」
「えっ?」
教頭先生の腕がグイと会長さんを引き寄せ、顎を持ち上げて熱烈なキス。教頭先生、ああいうキスって出来たんだ…。
「「「………」」」
私たちがポカンと立ち尽くす内に会長さんは正気に返ってバタバタと暴れ、教頭先生の腕を振りほどいて。
「何するのさ!」
「何って、キスだが? …どうだ、そういう気分になったか?」
「そういう気分?」
「もちろんベッドに行きたい気分だ」
言うなり会長さんをヒョイと抱き上げた教頭先生、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「ぶるぅ、ベッドメイクは出来てるか? ブルーの部屋の」
「うんっ! 朝一番に済ませてあるよ!」
「それは良かった。やはり初めてはきちんとベッドメイクを済ませたベッドでないとな」
「ちょ、ちょっと…!」
初めてって何さ、と会長さんが手足をバタつかせましたが。
「決まっているだろう、私とお前の初めてだ。夜なら初夜だが、昼間だと何と呼ぶべきか…」
とにかく行こう、と会長さんを抱き上げたままで歩き始める教頭先生。リビングのドアは開けっ放しになってましたから、そのまま廊下へ。
「ちょ、ハーレイ!」
「私も色々と勉強したしな、痛い思いはさせないと思う。優しくするよう努力するまでだ」
「お断りだってばーーーっ!!!」
ギャーギャーと騒ぐ会長さんは連れ去られて行ってしまいました。あのう…。私たち、こういう時にはどうすれば…?
死ぬかと思った、という会長さんが乱れたシャツで戻って来たのは五分ほど経ってからでした。疲れ果てた口調での報告によると、教頭先生は瞬間移動でご自分の家へ飛ばされたとか。
「ついでに車も送っておいたよ、取りに来られたら面倒だから」
「面倒って…。モテ期は終わったんだろう?」
キース君の問いに、会長さんは「終わっていない」と苦い表情。
「それどころかますます絶好調だよ! ぼくの寝込みを襲うのがいいか、それとも家に引きずり込むか、と犯罪まがいのプランを立ててる」
「そうなのか!?」
「瞬間移動で飛ばされちゃったし、不意を突くしか無いと思ったみたいだね。でもって、キスだの何だのと手間暇かけるよりも既成事実だと」
「「「既成事実?」」」
それってまさか、と血の気が引いた私たちですが、会長さんは。
「それで合ってる、既成事実さ。いわゆる強姦、とにかく突っ込んでしまえば自分のものだという発想! 無理やりモノにして、それから結婚!」
「「「け、結婚…」」」
モテ期は花束で終わるどころか、より酷い方に向かっていました。会長さんを強姦だなんて、教頭先生の日頃のヘタレっぷりからはまるで想像がつきません。でも…。
「どういうわけだか、ハーレイは元気モリモリなんだよ! ぼくが暴れても襲って来たしさ、鼻血体質も何処へやらだよ、危うく全部脱がされるトコで…」
「「「全部!?」」」
「そう。…情けないけど、ズボンを下着ごと…って、ごめん、失言」
「「「………」」」
会長さんはその先を語ろうとしませんでしたが、シャツが乱れたどころの騒ぎではなかったらしいことが分かりました。どおりで「死ぬかと思った」な発言が飛び出してくるわけです。
「このままで行くと真面目に危ない。…ぶるぅ、ハーレイを家に入れてはいけないよ」
「でもでも…。ブルーに御用だったら入れてあげないと…」
キャプテンだよ? と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。教頭先生なら門前払いもオッケーですけど、シャングリラ号のキャプテンではそうもいきません。なんだか激しい、今度のモテ期。激しいと言うより激しすぎですが、会長さんは無事に逃げ切れるでしょうか?
「…なんでこういう恐ろしいことに…」
今のハーレイならキャプテンとしてでも乗り込んでくる、と怯えまくりの会長さん。
「本来、ヘタレな筈なんだ。いくらモテ期でも、ここまで酷いのをぼくは知らない」
「うん、ぼくだって初めて見たよ」
「「「えっ?」」」
誰だ、と振り返った先にフワリと翻る紫のマント。ソルジャーが「実に凄い」と感心しながら。
「あれこそまさに男の中の男だよねえ、ヤリたい盛りの男ってね! 目的のためには手段を選ばず、断られた後には強姦あるのみ!」
そういう強引な所も実に素晴らしい、とソルジャー、絶賛。
「しかもパワーは衰え知らずで、抜いても抜いてもグングン元気に!」
「「「は?」」」
「ブルーに放り出されたからねえ、ムラムラしながら自家発電の真っ最中! あ、自家発電だと分からないかな? せっせと自分の元気な部分を解放するべく!」
大事なトコロを爆発させては元気モリモリでまた爆発、とソルジャーの喋りは立て板に水。
「あの勢いなら初心者ながらも抜かず六発、ヌカロクも夢じゃないって感じ!」
「「「………」」」
ヌカロクの意味は未だ不明ながら、大人の時間の用語だということは理解しています。つまりはソルジャー、猥談もどきを繰り広げているわけなんですけど、いつもなら「退場!」とレッドカードを突き付けてくれる会長さんはソルジャーの台詞に顔色を悪くしているだけで。
「…ハーレイ、そこまで酷いのかい…?」
「それはもう! 今夜にでも君の家の鍵を壊して寝込みを襲おうかってほどの元気さ!」
なんと素敵な話だろうか、とソルジャーは瞳を輝かせています。
「ぶるぅを預けた甲斐があったよ、オタフク風邪にこんなパワーがあっただなんて!」
「「「オタフク風邪?」」」
「そう、オタフク風邪!」
ハーレイはそれに罹ったのだ、とソルジャーは一枚の紙を取り出しました。何かの数値や文字などがズラリと並んでいますけれども、これって何?
「えっ、これかい? こっちのハーレイの血液検査の結果だけれど?」
ぼくの世界でちょっと検査を、とソルジャーの唇に極上の笑みが。
「ハーレイの異変はぶるぅを預けた後で起こった。それでオタフク風邪の潜伏期間を調べてみたら、ちょうど発症時期と重なる。まさか、と思って見てたんだけど…」
「それで?」
会長さんがようやく服を整え、冷たい声で。
「あのとんでもないモテ期もどきはオタフク風邪の症状だと?」
「もしかしたら、と見ている間に今日の騒ぎになっちゃったしね? これは調べる必要がある、と自家発電に夢中のハーレイの血を一滴貰って検査してみた」
血を採る時の痛みとやらは殆ど無いらしい、ソルジャーの世界の検査用の針。背後から腕をブスリとやられた教頭先生、全く気付きもしなかったとか。
「ぼくのシャングリラじゃ迅速検査ってコトになったら時間はほんの少しだけってね。ちゃんと情報は操作したから、こういう検査をやったことすらノルディは忘れているんだけれど…」
此処、とソルジャーが指差した箇所。それがオタフク風邪への感染を示す項目で、他の数値などからソルジャーの世界のドクター・ノルディが診断を下した結果は「オタフク風邪に罹って絶倫」だという恐るべきもの。
「絶倫だって!?」
会長さんの悲鳴に、ソルジャーは。
「うん。オタフク風邪が治る頃には元に戻ってしまうらしいけど、今はオタフク風邪のウイルスのお蔭で絶倫なんだな、こっちのハーレイ」
「…オタフク風邪はどっちかと言えば、生殖能力に重大な後遺症を残す傾向が…」
「だからね、きっと変異したんだよ、オタフク風邪のウイルスが! だって、罹ったのがぶるぅだし! こっちの世界の人間じゃないし!」
おまけに卵から生まれた人間だというオマケつき、とソルジャーは指を一本立てました。
「ウイルスってヤツは宿主を転々としていく間に変異していくものだろう? ぶるぅは一人で何人前もに相当したんだ、そして絶倫ウイルスが出来た!」
それに罹ったのがこっちのハーレイ、と検査結果を示すソルジャー。
「ぼくの世界のノルディが言うには、このウイルスはオタフク風邪の症状を引き起こす代わりに絶倫パワーを引き出すわけ! 頬っぺたの代わりに大事な部分が腫れ上がる!」
その結果として元気モリモリ、抜いても抜いても腫れて来るのだ、ということですが。教頭先生の大事な部分って、男のシンボルのアレですよねえ…?
頬っぺたがプックリ腫れる代わりに、男性としての大事な部分が腫れ上がってしまうオタフク風邪。
腫れが引くまでは精力絶倫、ヘタレも吹っ飛ぶ元気な男になってしまってムラムラだとか。
「つまりハーレイはモテ期じゃなくって、オタフク風邪! 絶倫風邪でもいいけれど!」
いずれ治るよ、とソルジャーはニコニコしています。
「頭も熱でイッちゃってるから、治った時にはモテ期同様、ケロリと元に戻るって!」
そして再びヘタレに戻る、と話すソルジャーですけれど。
「ぼくにとっては絶倫風邪は非常に魅力的なんだ。だけど、君には迷惑なんだね?」
「迷惑だなんて次元じゃなくって!」
ホントに死ぬかと思ったんだ、と会長さんはブルブルと。
「しかも治るまで絶倫だったら、真面目にぼくの身体が危ない。正体が病気だと分かったからには暫く姿を消すことにするよ、何処かのホテルに隠れるとかさ」
「何もそこまでしなくても…。要はハーレイを閉じ込められればいいんだろう?」
君を襲いに出て来られないように家にガッチリ、と言うソルジャー。
「それはそうだけど…。君がシールドでも張ってくれるのかい?」
「お望みとあらば!」
ぶるぅを預けた責任もあるし、と珍しくソルジャーは殊勝でした。普段のソルジャーならこういう時には教頭先生と会長さんとの結婚を目指して良からぬ画策をする筈ですけど、今回は逆の方向へと行くようです。
「こっちのハーレイのオタフク風邪が完治するまで、家ごとシールドしておくよ。もちろんハーレイが飢え死にしないよう、ちゃんと食料とかは差し入れするし」
「本当かい? そこまでフォローしてくれると?」
「任せといてよ、そうする傍ら、絶倫風邪の研究もね!」
「「「は?」」」
今、研究って言いましたか? オタフク転じて絶倫風邪の?
「うん! とっても魅力的なウイルスだからさ、ぼくのハーレイにも使えないかなあ、って!」
「「「………」」」
そういう目的だったのかい! と誰もが一気に理解しました。そりゃあ、ソルジャーには最高に美味しいウイルスでしょう。オタフク風邪としての症状は無くて、代わりに腫れ上がる男のシンボル。罹っている間は絶倫だなんて、欲しがって当たり前ですってば…。
ソルジャーが教頭先生の家をシールドしてしまったお蔭で、会長さんへの迷惑行為は収まりました。プレゼントなどの注文ルートも遮断しちゃったらしいです。絶倫パワーを持て余している教頭先生、会長さんの抱き枕だの写真だのを相手に過ごしてらっしゃるそうですが…。
「…ちょっと困ったことになってね…」
ソルジャーがヒョイと現れた、私たちが集う会長さんの家。お盆の棚経を控えたキース君が殺気立っているのも気にせず、「困ったんだよ」とボソリと一言。
「何がだ! 俺は来る日も来る日もお盆の準備でキレそうだが!」
キース君の怒声に、ソルジャーは。
「お盆だなんて悠長なことは言ってられない。もう今日明日が勝負なんだよ」
「それは俺もだ!」
お盆の前は戦場なのだ、とキース君。
「卒塔婆の注文は直前でも容赦なく舞い込んで来るし、此処へ来る前も墓回向を手伝わないと親父に文句を言われるし…。棚経に備えて戒名チェックも欠かせないんだ!」
「だけど、お盆はまだ先だろう? こっちは持っても明日くらいで…」
「何の話だ!」
ハッキリ言え、と怒鳴り付けたキース君に、ソルジャーが「うん」と。
「こっちのハーレイの絶倫風邪がさ、明日くらいに完治しそうでさ…。実に困ったと」
「なんで困るんだ! いいことだろうが!」
「ブルーにとってはいいだろうけど、ぼくが困るんだ。まだハーレイにうつせていない」
「「「は?」」」
そう言えば使いたいとか言ってましたっけ、キャプテンに…。ウイルスの研究だけかと思えば、うつす気でしたか、絶倫風邪。
「それが一番の早道だろう? だからぼくのハーレイを何度も「お見舞いに行け」と送り込んでいたのに、うつらない。シールドするな、と言ってあるのにうつらないんだ」
ソルジャーが言うには、キャプテンも絶倫風邪の件は承知で、出来ればソルジャーの望み通りに感染したいと立派な覚悟。ゆえにシールドも張らずに何度もお見舞い行脚をしているというのに未だ罹らず、ウイルスは明日あたり、教頭先生の身体から消滅しそうだとか。
「そのウイルス、取っておかないのかい?」
そうすればシャングリラでゆっくり研究可能なのに、と会長さんが指摘しましたが。
「それはダメだよ、あれもウイルスには違いないしね。シャングリラでウッカリ漏れようものなら絶倫風邪が蔓延しちゃって大変なことに」
「キャプテンが感染するのはかまわないんだ?」
「青の間に隔離するからね!」
ちょっと特別休暇と称して、とソルジャーは胸を張りました。
「だから絶倫風邪をなんとかしてうつしたいんだけれど…。どうやら非常に感染力が弱いらしくて、空気感染も飛沫感染もしないみたいで…」
こんなウイルスをどうやって感染させればいいのだ、と呻くソルジャー。
「期限はホントに明日までなんだよ、出来れば今日中になんとかしたい!」
「うーん…。そういう時には濃厚接触?」
「濃厚接触?」
「そう。体液レベルになって来たなら、弱いウイルスでも充分にうつる」
「体液ね!」
ありがとう、とソルジャーはグッと拳を握りました。
「確かにそれならいけそうだ。早速、ぼくのハーレイを連れて乗り込むよ!」
「ぼくこそ、お役に立てて何より。今は夏だし……って、あれっ?」
いない、とキョロキョロしている会長さん。ソルジャーの姿はありませんでした。
「もう行っちゃった? 最後まで話していないんだけどさ、勘違いをしていないだろうね?」
「「「勘違い?」」」
「うん。夏だから汗をかきやすいしね、汗をかいた手で握手でもすればいけるだろう、ってアドバイスしようと思ったんだけど…。最後まで聞いて行かなかったから…」
大丈夫かな、と首を捻っている会長さん。
「ブルーは体液としか聞いていないし、なにしろ相手はブルーだし…」
嫌な予感がするんだけれど、と教頭先生の家がある方角を眺める会長さんの不安は的中しました。ありとあらゆる不幸な意味で。
「今年の海の別荘、あいつら無事に来られるのかよ?」
「さあ…?」
サム君の問いに、言葉を濁す会長さん。お盆は昨日までで終わって、明日からマツカ君の海の別荘へと出発です。滞在中にはソルジャー夫妻の結婚記念日もあるのですけど。
「…なにしろオタフク風邪だからねえ、ブルーの世界の医療技術で何処まで劇的に回復できるかが勝負だよ、うん」
「教頭先生が罹ったヤツなら何も問題無かったのにね…」
どうせ別荘では部屋にお籠り、とジョミー君。
「今年もダブルベッドのお部屋を用意してあるんですが…。途中からでも来て頂ければ…」
いいんですけどね、とマツカ君も心配しています。キャプテンは絶倫風邪には罹らず、オタフク風邪になったのでした。せっかく教頭先生からウイルスを分けて貰ったのに。
「ディープキスで貰ったと聞いてるな?」
キース君が額を押さえて、スウェナちゃんが。
「握手にしとけば良かったのにねえ…」
「仕方ないさ、中途半端に聞いて帰ったブルーが諸悪の根源なんだ」
だから頑張って看病すべし、と会長さん。オタフク風邪がシャングリラに蔓延しないようにとキャプテンは隔離、あの面倒くさがりのソルジャーが看病をする羽目に陥ったらしいです。でも…。
「なんでウイルス、オタフク風邪になっちゃったんだろ?」
ジョミー君が首を傾げて、シロエ君が。
「ぶるぅはオタフク風邪でしたしねえ、こっちの世界のオタフク風邪が向こうの世界の誰かを経由してこっちでうつると絶倫風邪なんじゃないですか? こっちからうつすとオタフク風邪で」
「「「うーん…」」」
その研究は進めてみたい所ですけど、オタフク風邪と絶倫風邪ではどちらも迷惑。仮説の段階で留めておこう、という結論になりました。教頭先生はすっかり回復、会長さんに乱暴狼藉を働いたことは熱のお蔭で覚えていないらしくって。
「とにかく、ぶるぅのオタフク風邪は二度と御免だよ!」
予防接種を受けさせておくか、と会長さんは真剣に検討しています。悪戯小僧が予防接種に大人しく応じるかどうかはともかく、危険は未然に防ぎたいところ。ハシカに風疹、水疱瘡とか受けさせますかね、まずは母子手帳を捏造しなくちゃダメなのかも…?
膨らんだ変異・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
悪戯小僧の「ぶるぅ」が罹ったオタフク風邪から、教頭先生がとんでもないことに。
別の世界を経由したウイルス、恐るべし。おまけに意のままにならない仕様…。
次回は 「第3月曜」 7月16日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、7月は、お盆の棚経を控えて、対策を立てようと画策中で…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
「ハーレイ先生、一本どうです?」
放課後、少し長引いた会議の後で勧められたタバコ。
同僚が箱を差し出して来た。一本どうかと、気分転換にとライターも手にしているけれど。他の教師たちも「ひと仕事終わった」と咥えて一服している者が多いのだけれど。
「いえ、私は…」
こちらの方で、とコーヒーのカップを持ち上げた。
会議の時にはよく出るコーヒー、終わった後には女性教師が主におかわりする飲み物。男性陣はタバコの方が割合が高い。会議の続きのようなカップに注ぐコーヒーよりかは、会議中には駄目なタバコがいいのだろうか、と思うくらいに。
けれどもハーレイはタバコは吸わない、その趣味が無い。だからコーヒー。
そうでしたねえ、と笑ってタバコを咥えた同僚。タバコはお好きじゃなかったですね、と。
プカリと上がった、いわゆる紫煙。あちこちでタバコをくゆらせている男性教師たち。もちろん中にはハーレイと同じコーヒー党もいるのだけれど。緑茶を淹れている者もいるのだけれど。
会議が長引くくらいだったから、ブルーの家には寄れなかった日。
買い物を済ませて家に帰って、夕食の後は書斎でコーヒー。愛用の大きなマグカップにたっぷり注いだ熱いコーヒー、それを傾けていたら思い出した。会議の後での同僚との会話。
(どうもなあ…)
タバコは性に合わないな、とコーヒーを味わいながら考える。タバコよりかはコーヒーだと。
一息入れるなら断然コーヒー、若い頃から。そういう好み。
休憩することを「一服する」と言うほどなのだし、本来はタバコで一休みかもしれないけれど。気分転換にはタバコを一服、そういうものかもしれないけれど。
(コーヒーは一服と言わんよなあ…)
一服つけるとは言わないコーヒー。一服つけるなら言葉の上ではタバコしかない。古典の教師をやっているからそうは思うが、自分が休憩するならコーヒー。タバコではなくて。
遠い昔には害が多かったと伝わるタバコ。健康被害や依存性やら、それは色々と問題だらけで、あの紫煙までが悪かったらしい。タバコを吸わない人が煙を吸い込むだけでも身体を害した。
そういったことが判明したから、一時は駆逐されかかったほどのタバコだけれど。
害があるものだと分かる前には紳士の嗜み、貴族たちが集った晩餐会では食事の後に男性のみが別室に移ってタバコをくゆらせる習わしまでがあったほど。葉巻は高価な贈答品。
いわば社会に浸透していた一つの文化で、有害だからと排除するには反対の声も高かった。害があるなら無くせばいいと、改良すればいいと唱える声も。
タバコをこよなく愛する者には、資産家たちも多かったから。彼らは私財を惜しみなく投じて、タバコの改良に励んだという。害の無いタバコ、健康被害の無いタバコ。
そうした努力が実を結んだ結果、今ではタバコは無害な単なる嗜好品。ガムを噛むのと変わりはしない。気軽に一服、気分転換。
ゆえに吸っても問題は無いし、男性に人気のタバコなのだが。
(健康云々以前に、だ…)
何故だか吸う気になれなかったタバコ。吸ってみようと思いもしないで来たタバコ。
この年になるまで吸ったことが無い、ただの一度も。吸いたいと思ったことすらも無い。
(タバコ自体は別に嫌いじゃないんだが…)
吸う習慣が無いというだけで、吸っている人を嫌悪しているわけではない。
タバコなるものにロクな思い出が無いというわけでも全くない。
父の釣り仲間にはパイプで吸っている人も少なくなくて、どちらかと言えばプラスのイメージ。父はタバコを吸わないけれども、ああいう姿も絵になるな、と。
釣り糸を垂れて獲物を待ちながらパイプをくゆらせ、のんびりと座る姿はいい。如何にも紳士といった感じで、釣り用のラフな服装であっても大人の余裕を感じるもの。
箱から出すだけのタバコなどより格好良く見えたパイプのタバコ。あれはいいな、と。
釣りのお供をしていた頃から見ていたタバコ。パイプのタバコも、普通のタバコも。
上の学校に進んだ後には吸っていた友人も何人かいた。大人の男の嗜好品だと、タバコで一服。彼らに何度か勧められたが、吸う気になれずに終わってしまった。
教師になってもタバコは吸わずにこの年まで来た、一本も試さないままで。
(…何故なんだかなあ?)
未だに御縁が無いままのタバコ。「如何ですか」と縁が生じても「いえ」と返して途切れる縁。
もしも自分が吸うのだったらパイプだろうか、様になるのは。
ごくごく普通の紙巻きタバコや、作るのに手間がかかると噂の葉巻などよりパイプのタバコ。
刻んだタバコの葉を自分でパイプに詰めて一服、吸う前にひと手間かかるのがパイプ。ただ火を点けるだけの紙巻きタバコや葉巻とは違う。
吸い終えた後もパイプの手入れが必要、灰皿で消して終わりではない。吸い口が目詰まりしたりしないよう、専用の掃除道具もあるのがパイプ。
レトロな趣味だと思えるパイプは、自分の心を惹き付けそうなものなのに。
パイプのタバコを嗜む人物が描かれた名画も多いのに。
SD体制が始まるよりも遥かな昔の絵の中、パイプのタバコ。紙巻きタバコや葉巻ではなくて。
(パイプを買わんと吸えないしな?)
デザインが豊富で、好みで色々選べるパイプ。自分の手にしっくりと馴染むパイプを探す所から始まるのだから、それだけで楽しそうではある。店に出向いて、どれがいいかと品定め。
パイプの中には吸えば吸うほど味わいが出るものもあるのだと聞いた、何と言ったか、白い石で出来ているパイプ。水に浮くほど軽い石。それで作られた白いパイプは色が変わってゆくらしい。何度もタバコを吸っている内に、白から黄色へ、光沢と深みのある茶色へと。
耳にしただけで、如何にも惹かれそうなのに。そういうパイプを持ってみたいと、吸う度に色が深まるパイプを愛用したいと考えそうなのが自分なのに。
(…なんでタバコは駄目なんだ?)
紙巻きタバコや葉巻はともかく、パイプのタバコ。
こだわって選んだ一本のパイプや、使うほどに味わいが増すパイプやら。
本当に好きそうな感じがするのに、一つ欲しいと店へ探しに行きそうなのに。
(前の俺だって…)
今と同じにレトロ趣味だった、前の生の自分。
誰も欲しいと言い出さなかった木で出来た机を愛用していた、磨けば磨くほど味わいが増すと。羽根ペンも気に入りで、ペン先を何度もインクに浸けては航宙日誌を綴っていた。
あの頃の自分も実に好きそうなアイテムなんだが、とパイプを思い浮かべたけれど。
どうだったのかと遠い記憶を探ったけれども、結論としては。
(吸っていなかったな…)
パイプのタバコも紙巻きタバコも、むろん葉巻も。
前の自分も今と同様、タバコを吸ってはいなかった。吸った記憶も全く無かった。
(前の俺もタバコは吸わなかったか…)
あの時代にもタバコは確かに存在していた筈なのに。パイプも売られていたのだろうに。
SD体制が敷かれていた時代、既に健康的だったタバコ。無害に改良されていたタバコ。
そうでなければマザー・システムが許さない。タバコは抹殺されただろう。多様な文化も消してしまったマザー・システム、タバコの存在を消し去るくらいは何でもない。
しかしタバコは消されはしなくて、アルテメシアを落とした後には何度も見かけた。人類側との交渉や会議、そういった場に出掛けて行ったら目にしたタバコ。
なのに自分は吸っていなくて、ゼルやヒルマンも吸っていたという覚えが無いから。
(シャングリラは禁煙だったのか?)
あれはそういう船だったろうか、と前の自分の記憶を手繰ってタバコを探した。考えてみれば、あの船の中でタバコに出会った記憶は無い。タバコを吸っていた者もそうだし、タバコ自体も。
紙巻きタバコも葉巻も無ければ、パイプのタバコも見覚えが無い。
タバコの原料になる葉を栽培していたという記憶でさえも。
(…あの船は禁煙…)
どうやらそうだ、と気付いた途端に不思議に思い始めたこと。タバコが無かったシャングリラ。
白い鯨には酒もコーヒーもあったのに。
合成品やら代用品でも、タバコと同じに嗜好品だった酒やコーヒー、それは船にあった。
なのにどうしてタバコは無かったのだろう?
パイプでくゆらせるレトロなタバコは、前の自分も好きそうなのに。
そういう代物があると知ったら、喜んで吸いそうだったのに。
(…ブルーが手に入れ損なったのか?)
前のブルーが奪った物資にタバコは混ざっていなかったろうか。
それならば分かる、タバコが無くても誰も気付きはしないだろうから。成人検査を受ける前には誰もタバコを吸ってはいないし、嗜好品の一つになってはいない。ミュウと判断され、檻の中へと送られた後にはなおのこと。研究者たちはミュウにタバコをくれはしないし、吸うわけがない。
まるでタバコを知らなかったなら、その味を知らなかったなら。
前のブルーが奪った物資にタバコが無くても、誰も不満は言わないだろう。存在自体を知らないタバコを欲しいと考えたりはしないし、吸いたくもならない筈だから。
そんな具合でタバコが無いまま、自給自足で暮らす船へと移行したならタバコは要らない。船でタバコを葉から育てて、吸おうとは誰も考えない。
きっと最初から無かったのだ、と思ったけれど。
タバコという嗜好品に出会わないまま、白い鯨は飛んでいたのだと考えたけれど。
(しかし、酒…)
味を知らなかった嗜好品とくれば、酒も似たようなものだった。
合成してまで飲んでいた酒、前の自分も好んだ酒。ほんの僅かなワイン以外は全て合成、それが飲まれていたシャングリラ。楽しく飲むなら酒なのだと。
けれど、子供でも飲みそうな紅茶やコーヒーなどはともかく、酒を知っていた筈がない。どんな味なのか、どう美味しいのか、成人検査を受けるよりも前の子供は知らない。
どう考えても酒は後から、後にシャングリラと名付けた船で脱出してから覚えたもの。あの船で初めて口にしたもの。
脱出直後は紅茶の淹れ方も危うかったような自分たち。船で見付けたコーヒーメーカー、それに紅茶の葉を入れたほどに記憶が曖昧だった状態。
そこから懸命に這い上がる内に、いつしか覚えて飲んでいた酒。警戒したという記憶は何処にも無いから、失くした記憶の中に残っていたのだろう。養父母たちが飲んでいたものだ、と。
ならば、タバコだって条件は同じ。
僅かでも物資に紛れていたなら、誰かがタバコに気付いた筈。これは吸えると、火を点けて煙を味わう嗜好品だと。
(なのに全く無かったとなると…)
やはりブルーが奪い損ねて出会わないままで終わったのか、と考えたものの。
船にデータは山ほどあったし、暇に任せて調べる時間も充分にあった。人類の社会も、かつての人間たちの歴史も。
それらを端から調べていたなら、タバコにも出会うことだろう。大人のための嗜好品だと、酒の他にもタバコがあると。そうなってくると…。
(ヒルマンあたりが…)
頼んでみそうだ、何処かからタバコを手に入れられないものだろうか、と。
前のブルーが物資を奪うのに慣れてしまって、何を奪うか選べるようになった頃にでも。
あるいは白い鯨が出来上がった後に、奪う必要が無くなった後に、冗談交じりに。
この世の中には酒の他にもタバコというものが存在すると、それを試してみたいものだと。
それを聞いたら、ブルーは出掛けて行っただろう。
話の種にとタバコを奪って、それがシャングリラの仲間たちの好みに合ったなら…。
(奪ったろうなあ、完成品のタバコも、タバコの苗も)
シャングリラで是非栽培しようと意気込むブルーが目に見えるようだ。完成品のタバコはこんな出来栄えだから、これを手本にシャングリラでもタバコを作ろうと。
紙巻きタバコや葉巻を作って、更にはパイプも。
初期のパイプは略奪品で、やがては自給自足のパイプ。吸えば吸うほど味わいが出るという噂のパイプも、材料になる石を探しただろう。何処かの星では採れるのだろうし、同じ吸うなら評判の高いパイプにしようと。
発展の過程が容易に想像出来るというのに、シャングリラには無かったタバコ。
ついぞ見かけることも無いまま、禁煙だった白いシャングリラ。
白いからと言って、中でタバコを吸っている内に船体の色が変わるわけでもなかろうに。白から黄色に、そして茶色へと色合いが変わる白い石のパイプとは違うのだから。
あのシャングリラが禁煙だった理由が思い当たらない。タバコが無かった理由が、まるで。
(風紀が乱れるわけではないしな…)
煙を味わうという一風変わったものであっても、ガムのような感覚なのだから。
コーヒーと同じで休憩に一服、ブリッジなどの仕事場でなければ吸っても問題無いだろう。休む時には休憩用の部屋や公園へと出掛けるものだし、そこで一服すればいい。
仕事の合間にプカリと一服、ゼルもヒルマンも似合いそうだが、とパイプを思い浮かべた時。
あの二人ならばきっとパイプだと、紙巻きタバコや葉巻よりもと考えた時。
(それだ…!)
シャングリラが禁煙になった理由はそれだった、と鮮やかに蘇って来た記憶。
ほんの一時期、紫煙がくゆっていたシャングリラ。
まだ白い鯨にはなっていなくて、ゼルもヒルマンも若かった頃。前の自分も青年と言える外見をしていた時代のこと。そう、キャプテンでさえもなかった時代。
ある時、前のブルーが奪った物資に大量のタバコが混じっていた。葉巻や刻みタバコではなくて普通のタバコ。紙巻きタバコの箱がドッサリ。
吸った記憶こそ誰にも無かったけれども、タバコの箱に描かれた絵だけで直ぐに分かった。この箱の中身は火を点けて煙を味わうものだと、ふかして楽しむものなのだと。
早速、誰かが咥えた一本。火を点けてプカリとふかした一本。
「悪くないぞ」という感想を待つまでもなくて、我も我もと手を伸ばした。独特の香りが鼻腔をくすぐり、ゆったりと煙が立ち昇るそれに。
ゼルもヒルマンもタバコが気に入り、嬉しそうに吸っていたものだ。これは落ち着くと、休憩の時にはタバコに限ると。コーヒーよりも先にまずは一本、プカリとタバコ。
タバコはたちまち人気を博して、休憩といえばタバコになった。
なにしろタバコは山ほどあったし、それの虜になった者たちがもれなく紫煙をくゆらせるから。
休憩室はいつも煙だらけで、排煙設備も追い付かないほど。
いくら健康に害が無くても、タバコに紫煙はつきものだから。休憩室が煙っているものだから。
(女性陣に不評だったんだ…)
何故だか理由は分からないけれど、タバコを吸わなかった女性たち。一番最初に好奇心から手を出したブラウが激しく噎せた挙句に、「これとは相性最悪だよ」と吐き捨てるように言ったことが原因かもしれない。ブラウが駄目なら自分も駄目だと、女性向けではないらしいと。
とにかく女性はタバコを吸おうとしなかった上に、休憩室の紫煙に文句を付け始めた。
いつ出掛けても煙ばかりで見苦しすぎると、これでは全く落ち着かないと。
アルタミラで煙は散々に見たと、あの燃える星に逆戻りしたようで不愉快だと。
本当を言えば、アルタミラの地獄で見て来た煙とタバコの煙はまるで別物、同じに見えると言う方が無理があったのだけれど。
空を焦がした炎と黒煙、それと紫煙が似ているわけもないのだけれど。
休憩室に溢れる紫煙に嫌気が差した女性陣としては、アルタミラは格好の脅し文句で。とにかく煙はアルタミラだと、もう沢山だと苦情を述べてはタバコの排除に乗り出した。
タバコを嗜む男性の方も、負けてはならじと懸命に論陣を張ったけれども、タバコの美味しさと良さをせっせと説いたけれども。
(吸わない人間に美味いと主張したってなあ…)
如何に美味しさを説明されても、それを吸わない女性たちには分からない。
分かる筈もなくて、タバコを吸う者たちは日に日に肩身が狭くなっていったという有様。時間が出来たと一服しようにも、休憩室に行けば女性にギロリと睨まれる。
かといって他の場所で吸うには、船の構造上、無理があり過ぎた。各自に割り当てられた部屋や通路や、そういった所で紫煙を上げれば火災を知らせる警報が響いたシャングリラ。
警報装置を切ることは出来ない、船の安全に関わるから。
タバコを吸うなら休憩室のみ、けれど其処では女性陣との攻防戦といった日々。
(俺は吸う前に…)
どんな味かと吸ってみる前に、皆の様子見をしていた間に。
ほんの数日、吸わずに様子を見ていた間に、まだ少年の面影が残るブルーに訊かれたのだった。十四歳の小さなブルーとそれほど変わらなかった姿のブルーに。
「あのタバコ…。ぼくは吸えないけど、美味しいの?」
吸っちゃ駄目だと言われてるけど、あれって美味しいものなのかなあ…?
「さてなあ…?」
俺も一本も吸ってないしな、美味いかどうかは知らないんだが…。
美味いのかもなあ、あれだけプカプカ吸ってるヤツらがいるんだからな。
きっと美味しいものなのだろう、とは答えたけれど。
ブルーの言葉を聞いたばかりに吸えなくなった。吸ってみる機会を逸してしまった。
皆が紫煙をくゆらせるタバコ、美味しいと吸っているタバコ。
それをシャングリラに持ち込んだブルーは、奪って来たブルーはタバコを吸えはしないから。
まだ少年の身体なのだし吸っては駄目だと、皆が挙って止めていたから。
せっかく自分が奪って来たのに、吸えずに眺めているだけのブルー。美味しいのだろうかと首を傾げるしかないブルー。
それを知ったら駄目だと思った、自分までが吸ってしまっては。
ブルーは吸えないタバコを試しに咥えてみるのは、この際、やめにしておこうと。
(仮にブルーが吸ってたとしても、健康被害は無かったんだがな?)
恐らく実害は無かったと思う、ブラウのように噎せることはあっても。
美味しくはないと顔を顰めても、身体に害は無かっただろう。煙臭いというだけのことで。
タバコの害はSD体制が始まるよりも前の時代に除去されていたし、後は好みの問題だけ。
(とはいえ、箱にも書いてあったし…)
二十歳未満の喫煙は禁止、と書かれていた箱。前のブルーが大量に奪ったタバコの箱。
あれから遥かな時が流れた今の時代も、タバコを吸うなら二十歳から。
何の根拠も無いのだけれども、SD体制の時代よりも前から継がれた伝統、大人のアイテム。
子供はタバコを吸いはしないし、大人になったら吸えるもの。
そんなこんなで、前の自分もタバコを吸わなかったから。
休憩室に満ち満ちた紫煙に不快感を覚える女性陣の気持ちが少しは分かった。アルタミラの煙を思い出すとまでは言わなかったが、憩いの場所がこれでは如何なものかと。
一息入れようとやって来たのに、澄んだ空気が無い休憩室。
コーヒーの香りにも紫煙の匂いが混ざり込んでくるし、鼻の中にも遠慮なく。
これはマズイと、タバコを吸わない者たちにとっては有難くない状況だろうと考えたから。
(それで禁煙…)
シャングリラにタバコは相応しくない、と判断した。ブルーにもそう伝えておいた。
お蔭でブルーは二度とタバコを奪わなかったし、雑多な物資に紛れていた時は密かに廃棄処分にしておいた。備品倉庫の管理人をも兼ねていたから、その役目ゆえの特権で。
そうしてタバコはシャングリラの中から消えてしまって、二度と戻っては来なかった。
白い鯨への改造が済んで、部屋や通路の設備がすっかり新しいものに変わった後も。何が原因の煙なのかを感知出来る火災報知器を備え、紫煙くらいでは警報が鳴らなくなった後にも。
(禁煙でタバコが無かった船…)
思い出した、と手を打った。
白いシャングリラを禁煙にしたのは前の自分で、皆からタバコを奪ったのだった。文句の一つも出ずに済んだから、綺麗に忘れていたけれど。
タバコを愛飲していたゼルやヒルマンたちだって、無いものは無いと諦めて禁煙、そのまま味を忘れたのだろう。タバコをふかしていたことも。
(なにしろ若かった時代だしなあ…)
ヒルマンは髭を生やしてはおらず、髪だって少しも白くはなかった。ゼルの髪の毛も豊かに頭を彩っていた。遠い遠い日のほんの一時期、短期間だけ吸っていたタバコ。長い年月が流れる内には記憶も薄れていっただろう。どんな味だったか、どんな気持ちで吸っていたのか。
(たまにはタバコを思い出したかもしれないが…)
栽培しようとは言い出さなかった、ヒルマンもゼルも。
白い鯨でタバコを作ろうと、タバコを吸いたいとは言わなかった。
(その程度の味っていうことなんだか、それとも言うのが面倒だったか…)
新しい作物を導入するなら、必ず会議が必要だから。タバコに手を出して噎せたブラウや、煙に閉口していたエラにはいい思い出が無さそうだから。
(反対されたら、タバコ作りは無理なんだしな?)
ゼルとヒルマンとが忘れたにせよ、言い出せずに終わってしまったにしても。
白いシャングリラにタバコは無かった、ほんの一時期だけを除いて。全面禁煙で宇宙を旅して、地球にまで行った。
明日はブルーに話してやろうか、土曜日だから。
シャングリラは実は禁煙だったと、その必要が無くなってしまった後も、と。
翌日、ブルーの家に出掛けて。小さなブルーとテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「お前、タバコを覚えているか?」
「えっ?」
タバコってなあに、吸うタバコだよね?
知っているけど、覚えているかって訊かれても…。学校で何かあったっけ?
「違うな、学校よりもずっと昔の話さ。前の俺たちが生きてた頃のな」
シャングリラのタバコだ、と怪訝そうなブルーに教えてやった。
自分でもすっかり忘れていたことを思い出したと、シャングリラはタバコの無い船だったと。
「そういえば、タバコ…」
前のぼくが一度だけ奪って、それっきりだっけ…。とても人気が高かったのに。
ゼルもヒルマンも吸っていたのに、エラたちが文句を言ったんだっけ…。
それでハーレイが二度と奪うなって言って来たから、ぼくもタバコはあの一回きり…。
「な? シャングリラにはタバコ、無かっただろうが」
あれよりも後に前のお前が奪った物資に、たまに紛れてはいたんだが…。
何かと騒ぎの元になるから、倉庫に入れずに廃棄処分にしておいた。タバコさえ無ければ平和な休憩室なんだしなあ、わざわざタバコを持ち込むことも無いからな。
改造が済んだ後ならタバコも栽培出来たんだろうが、吸える場所も沢山あったんだが…。
ヒルマンもゼルも「タバコを作ろう」と言わなかったし、そのまま全面禁煙ってな。
シャングリラを禁煙にしちまった犯人、誰かと訊かれたら俺なんだよなあ…。
もっとも俺は吸っていないが、と苦笑した。
前のお前が吸えないというのに自分だけ吸うのは悪いと思って吸わなかった、と。
「俺の一番古い友達のお前がタバコを吸えないんだぞ? しかもお前が奪って来たのに」
そんな状態で俺だけ吸えるか、申し訳なくて吸えなかったな。
もっとも、お前が「あれは美味いのか」と訊いて来たのが、もう三日ほど後だったら。
味見に一本、と吸ってしまって、そのままタバコに捕まってたかもしれないが。
そうなっていたら、一度は全面禁煙にしても、白い鯨に改造した後。
俺が率先してタバコ作りをしていないという保証は無いなあ、あれは美味いと、もう一度と。
つくづく思うに、シャングリラを禁煙にするもしないも、俺次第だったかもしれないなあ…。
「えーっと、タバコ…。ハーレイ、似合いそうだけど…」
似合いそうな気がするんだけれども、どうだろう?
ゼルたちが吸ってた頃と違って、もっと後の時代。キャプテンになって、もっと年を取って。
今のハーレイと変わらない姿になった後なら、タバコを吸うのも似合いそうだよ。
普通の箱のタバコじゃなくって、パイプのタバコ。ああいうタバコが似合うと思うな。
「おっ、お前もそういう気がするか?」
実は俺もだ、パイプのタバコが好きそうだったと思うんだよな。
パイプってヤツは普通のタバコより手間がかかるし、掃除なんかも必要なわけで…。
その辺の所が俺の好みにピッタリだという気がしてな。
もしもシャングリラにタバコがあったら、断然、パイプだ。きっとパイプをふかしていたな。
シャングリラの舵を握りながらは流石に無理だが、キャプテンの席なら吸えたかもなあ…。
タバコなんかは一度も吸わずに終わっちまったがな、俺の人生。
ついでに今の俺もタバコは全く吸わないんだが、と笑ったら。
前の自分の記憶のせいかもしれないと肩を竦めておどけて見せたら。
「そうだったの? 一度も吸っていないの、ハーレイ?」
前のハーレイは分かるけれども、今のハーレイもタバコを吸ったことがないの?
「うむ。吸おうと思ったことが無いなあ、前の俺がそうだったからなのか…」
パイプなんかは格好いいな、とガキの頃から見ていたもんだが、縁が無くてな。
普通のタバコも勧められたら断っちまうし、未だに一度も経験無しだ。
「それじゃ、今度は吸ってみる?」
ハーレイ、ホントに似合いそうだもの、パイプのタバコ。
ぼくはまだ吸える年にはなっていないし、大きくなっても似合いそうにはないけれど…。
ハーレイだったらきっと似合うよ、今度はパイプのタバコにしない?
もうシャングリラの中じゃないから、禁煙も何も関係ないもの。
「いや、いいさ」
お前は今度も似合わないとか言ってるんだし、俺だけタバコを吸わなくてもな?
今日まで吸わずに来ちまってるんだ、今更タバコってほどでもないさ。
タバコを吸おうとは思わないな、と言ったのだけれど。
小さなブルーが「似合いそうなのに…」と繰り返すから。
パイプのタバコはハーレイに似合うと、好きそうだったら吸えばいいのにと見上げるから。
機会があったら吸ってみようか、吸うのにひと手間かかるレトロなパイプのタバコ。
今度はアルタミラの煙だという苦情も出ないし、何よりブルーのお勧めだから。
パイプに刻んだタバコの葉を詰めて、ゆったりと紫煙をくゆらすのもいい。
自分の手に馴染むパイプを探して、それを咥えてのんびりと。
青い地球の上、ブルーと二人で過ごすひと時、ゆっくりと幸せを噛み締めながら…。
無かったタバコ・了
※禁煙だったシャングリラ。けれどタバコは、一時期だけ存在していたのです。
全面禁煙の船にしてしまったのは、前のハーレイ。愛煙家だったら違ったのでしょうね。
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