シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あれ?)
いったい何をしているのだろう、とブルーは少し向こうの道端を眺めた。
学校の帰り、バス停から家へと歩く道の途中。行く手に下の学校の生徒だと一目で分かる少女が二人。年は十歳くらいだろうか、制服は無いから普通の服。通学鞄も持ってはいないけれど。
(この時間だと…)
十歳くらいなら授業はとっくに終わっている筈。一度帰って、それから遊びに出て来たらしい。
少女たちの側の生垣に沿ってコスモスが沢山植えられていた。白やピンクや、色とりどりに。
その花を千切っては何かしている。一輪千切って、また一輪と。
(悪戯?)
花を戯れに手折るにしたって、花束にするならいいのだけれど。
少女たちは花びらを次々と毟ってしまっては、花を捨てているようだから。花びらが無くなった花を捨てては、また別の花を千切っているから、とても褒められたものではない。
(コスモス、駄目になっちゃうよ…)
いくら沢山咲いていたって、花びらは毟るものではないから。花は愛でるもので、その花びらを毟って捨ててしまうなどは論外だから。
(花だって可哀相だよね?)
自分が叱るのも変だけれども、あの年頃の子供からすれば充分に「大きなお兄ちゃん」。学校の制服も着ているのだから、多分、効果はあるだろう。「駄目だよ」と一声かければ、きっと。
家の人が気付いていないのならば、と決心を固めて近付いてゆけば。
(…えっ?)
生垣の向こうに顔馴染みのご主人。それも熱心に庭の手入れ中。他の作業をしているとはいえ、少女たちが見えない筈はない。コスモスの花を毟っては捨てる二人の少女が。
(じゃあ、黙認なの?)
あんなに酷い悪戯を何故、と首を傾げたら、少女の歓声。
「好きーっ!」
明るい声が響いたけれども、もう一人の声が被さった。羨ましそうに「いいな」と言う声。先に叫んだ少女の隣で肩を落として、「私の方は駄目みたい」と。
少女たちがポイッと投げたコスモス。花びらをすっかり失くしたコスモス。
(あ…!)
その瞬間に思い出した。
花占い。コスモスの花とは限らないけれど、花びらを使った恋の占い。
下の学校に通っていた頃、何度も目にした。様々な花が溢れる花壇の側やら、学校を囲む垣根に沿って植えられた花たちが幾つも咲いている横で。
花を一輪、手折って、持って。
花芯を取り巻く花びらを一枚、また一枚と抜き取る度に口にする言葉。
好き、嫌い、好き。
花びらを一枚、取って捨てる度に「好き」と「嫌い」を交互に唱えて、花びらが一枚も無くなる時まで続けていって。
最後に残った花びらを毟る時の言葉が「好き」か「嫌い」かで答えが決まる。花に託した占いの答えが導き出される。
好き、嫌い、好き。
花びらの数で恋を占う、少女たちが好きな恋占い。
(それで叱らなかったんだ…)
コスモスを幾つ毟っていたって、少女たちの方は悪戯ではなくて真剣だから。
花びらに恋の行方を尋ねて、否と言われても諦め切れずに次の花。望み通りの答えが出たって、更に確認したくなる。どの花も同じ答えをくれるか、何度訊いても同じなのかと。
それは一種の願い事。
こうであって欲しいと、こうなればいいと、コスモスの花に願い事をするようなものだから。
花占いをしている二人の少女を叱る者などいないだろう。むしろ微笑ましく見守るべきことで、最後の一輪を毟ってしまったとしても、叱る大人はいないだろう。
(でも…)
どう眺めたって、恋には早すぎる少女たち。
コスモスに「好き」と教えて貰った少女と、「嫌い」と答えを貰った少女。何度やっても答えは同じと思ったのかどうか、並んで去ってゆく小さな背中。
(いったい誰のこと、占ったのかな?)
下の学校にいた頃に見た花占いでの恋のお相手は、人気のドラマのヒーローだったり、その役を演じる俳優だったり。あの少女たちも、きっとそういう恋の相談。
今の時代は誰もがミュウで、平均寿命も三百歳を軽く越えるから。恋をする年も遅くなるから、少女たちの年なら、まだまだ子供。ブルーの年でも恋には早い。恋の話など一度も聞かない。
(でも、ぼくには恋人、いるもんね?)
前の生からの大事な恋人。
青い地球の上に生まれ変わって再び出会えた、今のハーレイ。
正真正銘、本物の恋人、コスモスの花に訊くまでもなくて「好き」に決まっているけれど。
(ハーレイがぼくを嫌いな筈がないもの)
花びらは「好き」と答えるだろう。好き、嫌い、好き、と唱えてゆけば。
やってみようか、とコスモスの花に手を伸ばしたら。
「ブルー君?」
欲しいのかい、と家のご主人に声を掛けられた。庭仕事の合間に見ていたらしい。
気前よくチョキンと枝ごと切って貰ったコスモス。白やピンクや、真ん中に向かって濃い色へと染まる花びらを持った華やかなものや。
家に飾るならこのくらい、と両手に余るほど渡された。この蕾だって明日には咲くよと、充分に長く楽しめるよ、と。
(コスモス、いっぱい…)
貰ってしまった沢山のコスモス、思いがけずもコスモスの花束。
母に渡して生けて貰おうと思ったけれど。大きな花瓶に入れて貰ってリビングにドンと飾るのもいいし、二つに分けてダイニングもいい。
(あの花瓶に入れて貰って、ダイニングのテーブル…)
そうすればおやつを食べる間も眺められるし、と思ってから。
(花占い…)
大きすぎる花束を貰ってしまって、頭の中から消えてしまっていた花占い。一輪くらいは自分の部屋に飾っておくのもいいだろう。せっかく貰ったコスモスなのだし、記念に一輪。
コスモスの花束を抱えて帰って、「頂いたの?」と微笑む母に注文して。
リビングとダイニング、それから一輪挿しに一輪。
淡いピンクのコスモスを一輪、ガラスの一輪挿しに生けて貰って勉強机の上に飾った。着替えを済ませてダイニングでおやつを食べる間は、テーブルの花瓶のコスモスを愛でた。
白にピンクに、もっと濃いピンク。真ん中が濃い色に染まった花など。
それは賑やかなコスモスの花束、細い糸を編んだレースにも似た緑色の葉も美しい。
(貰っちゃったよ、こんなに沢山)
あの少女たちが毟った花より、ずっと沢山。手に余るほどの数のコスモスの花。
これだけの数の花に訊いても、きっと「好き」だと答えるだろう。
「ハーレイはぼくのことが好き?」と訊いてみたなら、花たちは、きっと。
おやつを食べ終えて、部屋に戻って。
勉強机の前に座って、一輪挿しに咲いたコスモスを見ながら考える。
淡いピンクのこの花もきっと、「好き」と答えてくれるのだろう、と。
(花占い…)
あの少女たちがやっていたように、花びらを毟れはしないから。
一輪しかないコスモスを丸坊主にしてはしまえないから、花びらを数えることにした。一枚ずつ順に数えて一周したなら、花は答えをくれるのだから。
一輪挿しを手前に引き寄せ、目印になってくれる一枚の花びらを決めた。
持って帰る途中でくっついたものか、それよりも先にミツバチが触れていったのか。ピンク色の花びらに黄色い花粉がほろりと零れて小さな点がついていた。他の花びらにはついていないから、その花びらが出発点。
そうっと指差し、心の中で問いを投げ掛ける。
(ハーレイはぼくのこと…)
好き、と唱えた一枚目の花びら。其処から隣へと移って「嫌い」と。
コスモスの花芯の周りを一周しながら、好き、嫌い、好き…。
(嘘!)
くるりと一周数え終わった時、「嫌い」と告げてくれた花。淡いピンクのコスモスの花。
その花はハーレイはブルーを嫌いだと言った。嫌いなのだと、好きではないと。
(ハーレイがぼくを嫌いだなんて…)
そんなことがある筈がない。ハーレイとは前の自分の頃からの恋人同士で、この地球にも二人で生まれて来た。また出会うために生まれて来たのに、ハーレイが自分を嫌いだなんて…。
(嘘なんだから…!)
この花は嘘をついたのだ、とブルーはキッと唇を噛んだ。
でなければ問いを間違えたか。もっと分かりやすいことを訊くべきだったろうか、答えが絶対に揺らがないことを?
好きか嫌いかという漠然とした尋ね方ではまずかったろうか、その日の気分というものもある。
(ぼくがしつこくキスを強請ってたら、ハーレイ、嫌かもしれないしね?)
たまには嫌いになってしまうこともあるだろう。あんなチビは知らん、と言いたい時が。
(うん、きっとそうだ…!)
自分の訊き方が悪かったのだ、と質問を変えることにした。さっきとは別の花占い。
やり方は全く同じだけれども、花びらをぐるりと一周しながら、今度はこう。
(ハーレイと結婚出来るかどうか…)
出来る、と最初の花びらから順に数え始めて、できる、できない、できる…。
淡いピンクのコスモスの花の、花びらの数は同じなのだから。
数え直した所で増えも減りもしないで同じ数だから、当然、出来ないと出て来たお告げ。
ブルーはハーレイと結婚出来ないと、結婚することは出来ないのだと。
(そんな…!)
まさか結婚出来ないだなんて、と愕然としてしまったけれど。
今度こそ嘘だと思ったけれども、そういった結末も絶対に無いとは言い切れないのが今の生。
ハーレイは前のハーレイとは全く違った別の人生を生きて来たのだし…。
(ぼくはちょっぴりしか生きてないけど、ハーレイはもっと…)
三十八歳にもなるハーレイ。十四歳の自分の倍どころではない時間をハーレイは生きた。色々な人と出会って、色々な場所へ出掛けて行って。
白いシャングリラの中だけが世界の全てだった前の生とは違う。ブルーの他にも大勢の人たちと出会って笑い合って、地球の上ばかりか他の星にも友人がいて…。
そう、ハーレイはブルーとは違う時間を生きた。前はそっくり同じ時間を、同じシャングリラで過ごしていたのに。まるで違う場所で違う時間を、ハーレイは生きてはいなかったのに。
別の時間を生きた今のハーレイには、ブルーのそれとは重なり合わない人生があって…。
(ハーレイ、昔はモテたって…)
水泳と柔道で活躍していた学生時代はモテたと聞いた。
ハーレイは笑って語らなかったけれど、恋人がいてキスを交わしていたかもしれない。
キスどころか、その先のことだって。
その可能性も大いにあった。
そして、その恋人がハーレイの前に再び戻って来ることも。
喧嘩別れをした恋人でも、再会したなら恋が再び燃え上がらないとも限らない。ブルーのように子供も産めない同性の相手と結婚するより、女性を妻に迎える方が周りから見ても自然だし…。
(ハーレイ、誰かと結婚しちゃうの?)
自分以外の誰かを選んで去ってしまうのだろうか、ハーレイは?
ハーレイだけしか見えない自分をアッサリと捨てて、他の誰かと結婚式を挙げるのだろうか…?
信じたくないことだけれども、コスモスの花はそう告げた。
ハーレイと結婚出来はしないと、出来ないのだと。
(どうしよう…)
突然に崩れ去ってしまった、自分の未来。
大きく育ってハーレイと一緒に暮らすつもりが、そのハーレイには別の相手がいるという。
ハーレイと結婚式を挙げる誰かが、共に人生を歩む誰かが。
(…ハーレイと結婚出来ないだなんて…)
ブルーがガックリと落ち込んでいたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。ハーレイが押したと分かる時間で、窓から見下ろせば門扉の向こうで手を振る影があったけれども。
暫くしたら母がハーレイを案内して来たけれども、気になる勉強机のコスモス。淡いピンクの、残酷なお告げをくれたコスモス。
ハーレイはブルーが嫌いなのだと、結婚だって出来ないのだと。
そのコスモスにチラリチラリと目を遣っていたら、ハーレイもそれに気付いたようで。
「おっ、コスモスか?」
何処かの家で貰って来たのか、お前の家には咲いてないしな。
生垣沿いにズラリと植えている家か、バス停から此処まで来る途中の?
「うん…。あの家のおじさんがくれたんだけど…」
もっと一杯、持ちきれないくらい貰ってしまって、リビングとかにもあるんだけれど…。
「どうした、お前、元気がないな?」
何かあったか、それとも具合が良くないのか?
「そうじゃないけど…。ハーレイ、ぼくのことは好き?」
ぼくのこと好き、ちゃんと恋人っていう意味で?
「決まってるだろう」
でなきゃどうして俺がこの家にしげしげやって来るんだ、守り役ってことにはなっているがな。
お前のことが好きでなければ、もっと手抜きをする筈だが?
「…結婚してくれる?」
「どうしたんだ、お前。何か変だぞ」
悪いものでも食ったのか?
熱でもあるのか、どうも妙だぞ、今日のお前は…?
「だって、コスモス…」
コスモスの花が花占いでそう言った、とブルーは訴えた。
ハーレイは自分のことが嫌いで、結婚だって出来ないのだと。
あのコスモスの花で占ってみたら、そういう答えが出て来たのだと。
「ホントなんだよ、好きか嫌いか、って占ったらハーレイはぼくが嫌いで…」
結婚出来るかどうか、って占った時は出来ないっていう答えだったんだよ…!
だからハーレイはぼくが嫌いで、結婚だってしてくれないんだと思っちゃって…。占いの質問を変えてみたって、酷い答えしか出ないんだもの…!
「馬鹿。占いは所詮、占いだぞ?」
それにだ…。お前がどういう占い方をしたかはともかく、花びらの数。
何度やっても花びらの数は変わらんだろうが、とハーレイは可笑しそうに笑って言った。
その花を俺に貸してみろ、と。
今度は俺が占うから、と。
「ハーレイがするの、花占いを?」
「俺がやったら駄目だということもないだろう」
デカイ大人でも花占いをする権利くらいは持ってる筈だと思うがな?
お前に妙なことを吹き込んじまったコスモスらしいが、俺の場合はどうだかなあ…?
やってみよう、とハーレイが花を指差すから。
ブルーは一輪挿しごと取って来たコスモスをテーブルにコトリと置いた。ハーレイが「よし」と一輪挿しに手を添え、コスモスの花を観察して。
「ふうむ…。こいつを出発点にするかな、分かりやすいしな」
ハーレイが選んだ花びらはブルーが選んだのと同じ、黄色い花粉が零れた一枚の花びらだった。それを示して「いくぞ」と合図するハーレイの褐色の大きな手の側、可憐なコスモス。
淡いピンクのコスモスの花びらを指先でチョンとつついて、ハーレイはそれを数え始めた。
「いいか? お前は俺のことを…」
好き、嫌い、好き、と…。
ほほう、嫌いか。嫌われたらしいな、この俺はな。
「そんなこと!」
違うよ、それは間違ってるから!
コスモスの花が間違ったことを言ってるんだよ、ぼくはハーレイを嫌いじゃないよ!
前のぼくだった頃からずっとずっと好きで、今だってハーレイが大好きなのに…!
コスモスのお告げが間違いなのだ、とブルーは懸命に抗議した。
花占いの答えは間違っていると、ハーレイを嫌ったことなどは一度も無いと。
「それは光栄だな、一度も嫌われたことが無いとはな。…なら、次だ」
このコスモスに訊くとするかな、お前は俺と結婚を…。
する、しない、する、と…。
しないそうだが?
お前、俺以外のヤツと結婚するらしいぞ。嫁に行くのか、嫁さんを貰うのか、それは知らんが。
「それは絶対、有り得ないから!」
ぼくはハーレイとしか結婚しないし、ハーレイのお嫁さんにしかならないよ!
ハーレイと結婚しないなんてこと、ぼくには考えられないから…!
「ほら、そんなものだ。花占いの答えなんぞはアテにならんさ」
ついでに、だ。
ちゃんと見てろよ、もう一度こいつに訊いてみるからな?
お前は俺のことをだな…。嫌い、好き、嫌い…、と。
見ろ、好きと出たぞ。
「ホントだ!」
ハーレイ、こっちが正解なんだよ、間違えないでよ?
「ああ、分かってるさ。さっき訊いてた結婚の方も訊き直すとするか」
お前は俺と結婚を…。しない、する、しない、する…。
な、結婚すると言われただろう?
「うんっ!」
これが本当だよ、花がホントのことを言ったよ。
ぼくはハーレイと結婚するって決めてるんだし、これが正しい答えだからね…!
良かった、と胸を撫で下ろしたブルーだけれど。
コスモスの花が本当のことを言ってくれたと喜んだけれど、その頭をコツンと軽く叩かれた。
「まだ気付かないのか、めでたいヤツだな。俺は二回もやって見せたんだが…」
お前、最初に選ぶ言葉を間違えたってな。
好きから始めて嫌いで終わってしまったんなら、次に別の質問をする時には、だ。
結婚出来るか出来ないのかを尋ねる時には、出来ないって方から始めなければマズイだろうが。最初の言葉の逆の言葉しか出ないんだからな、この花びらの数ではな。
「そっか…」
確かに言われてみればそうだね、花びらの数は同じだもんね。
質問を変えても無駄だったんだね、数える時に言う順番の方を変えないと…。
「そういうことだ。それに全く気付かないとは、お前、つくづく間抜けだと言うか…」
俺が二回も実演したって、仕組みを見抜いて笑うどころか大喜びで感激と来た。
どうなってるんだ、お前の頭。成績はいい筈なんだがなあ…。
学年トップは勉強だけでだ、他の方面になると実はサッパリだったってか?
「恋は盲目って言うじゃない!」
ハーレイとのことを占ったんでなきゃ、ぼくだってもっと冷静になるよ!
いきなり嫌いって言われちゃったからビックリしちゃって、訊き方を間違えたんだと思って…。
だから結婚出来るか訊いたら、そっちも駄目だと言われちゃって…!
ハーレイには昔の恋人とかがいたかもしれない、って思い始めたらもう、ドン底だよ!
ぼくと結婚しなくったって、結婚相手は他に何人でもいそうだし…!
「なるほどなあ…。悪い方へと考え出したらキリが無かった、と」
それですっかり落ち込んじまって、俺に直接、訊いてみることにしたんだな?
俺はお前を好きかどうかと、結婚はしてくれるのかと。
「そうだよ、それが一番早いんだもの…」
嫌いだし結婚も絶対しない、って言われちゃったら大ショックだけど、聞かないよりマシ。
ぼくには何の話もしないで、ある日いきなり、他の人と結婚されちゃうよりはね。
「その度胸がありゃ、花占いなんかに頼らなくてもいいと思うが」
占いは訊きに行くだけの度胸が無いヤツがするものなんだぞ、可能性があるか、無いかってな。
お前みたいに訊いて確認しようってヤツには、まるで必要無さそうなんだが…?
「たまには確かめたくなるんだよ…!」
ホントにハーレイはぼくが好きか、って、確かめてみたくなるじゃない!
ぼくが貰ったコスモスは全部、好きって言うんだと思ってたのに…。
それなのに逆のことを言うから、ショックでパニックになっちゃったんだよ…!
「おいおい、貰ったコスモスの花が揃いも揃って同じ答えを出すってか…?」
そいつは凄いな、お前、そこまで自信に溢れていたわけか。
「…それくらい幸せ気分だったんだよ、コスモスの花を貰った時は…」
ぼくには恋人がちゃんといるから、占ったら「好き」って答えが出るのに決まってる、って。
考えてみたら、花びらの数は花によって違っていることもあるし…。
コスモスの花はどれも同じに見えるけれども、あれだけあったら違う数のも混じるだろうし。
全部が揃って「好き」って言うわけないんだけれどね、コスモスの花。
「さてなあ、そいつはどうだかな?」
俺がやって見せたろ、占う言葉の順の入れ替え。
花を選ぶ度に言葉の順も気まぐれに変えていった場合は、「好き」って答えで揃っちまうことも絶対に無いとは言い切れないがな…?
「よっぽど運が良くないと出来ないよ、それ…!」
ハーレイと結婚するより難しそうだよ、あんなに沢山のコスモスに同じ答えを出させるなんて。
結婚する方が簡単そうだよ、ハーレイが嘘をついてないなら。
「ついていないさ、嘘なんかつくか」
俺はお前に嘘なんか言わん。お前が悲しむようなことも決してしない。
俺はお前しか好きにならんし、お前しか嫁に欲しいと思わん。
だから安心していりゃいいんだ、コスモスが何と言っていようが鼻先で笑い飛ばしてな。
この花の方が間違っていると、俺がお前を嫌いになったりするわけがない、と。
花占いをするなら、ほどほどに。
たまに戯れに占ってみても、悪い結果よりは俺を信じろ、とハーレイは言った。
その方がよほど信頼できると、気まぐれな花が告げることより俺の意見が確かだと。
「まあ、世の中には本当に予言をする植物がまるで無いこともないかもしれんが…」
前の俺たちがいくら探しても、どう頑張っても、見付からなかった四つ葉のクローバー。
あれは予言をしたかもしれんが、あっちの方が例外だ。
今の俺たちには未来を予言するような花なんか無いさ、何処にもな。
「…ハーレイが言うなら信じるよ。花占いより、ハーレイを信じる」
それに、四つ葉のクローバー。
今のぼくたちは見付けられたしね、自分の家の庭で。ぼくの家の庭にも、ハーレイの家の庭にもあったし、今度は幸せになれる筈だよ、あのクローバーがあるんだから。
「うむ。それが分かっているんならもう振り回されるなよ、花占いに」
勝手に占って、勝手に一人で思い込んで。
落ち込んでる所へ俺が来たから良かったようなものの、俺が仕事で遅くなっていたら。
お前の家に寄る暇がなくて帰っていたなら、お前、明日までドン底だろうが。
花占いを真に受けるヤツがあるか、と苦笑するハーレイだったけれども。
小さなブルーが落ち込んだ理由も分からないではなかったから。
銀色の頭を大きな右手でクシャリと撫でると、パチンと片目を瞑ってみせた。
「とりあえず、ちゃんと正しい結果が出て来て良かったな」
このコスモスだって言っただろうが。
俺はお前のことが好きだし、ついでに結婚出来るってな。
「うん。ハーレイが占い、やり直してくれたお蔭だよ」
ぼくが自分でやっただけだと、正しい答えは出なかったしね。ハーレイがやって見せてくれても占い方、分かっていなかったしね…。
「うんうん、恋は盲目らしいしな。お前の言い分を信じるならな」
ところで、お前。コスモスの名前、知ってるか?
「コスモスの名前って…。コスモスでしょ?」
「その他に別の名前があるのさ、秋桜だ」
秋に咲く桜って意味の名前だな、花は桜よりもかなりデカイが…。桜みたいに木でもなければ、葉っぱもまるで別物なんだが、秋桜と言えばコスモスなんだ。
「へえ…!」
秋桜って、秋に咲いてる桜じゃないんだ…。
たまにあるよね、秋になって葉っぱが落ちてしまう頃に咲いてる桜。
そういう桜を知っているよ、とブルーは話した。
季節外れに咲く桜。秋の終わりに花を咲かせている桜。
「ああ、あれか…。あれは冬桜だ、そういう品種で秋から冬に咲くのが普通だ」
あれとは違って、普通の桜も秋に咲くことがあるんだが…。気候のせいで秋に花芽が目覚めると咲く。もっとも、冬桜ほどに沢山の花は咲かんがな。
「ふうん…。普通の桜でも秋に咲いてることがあるんだ、ぼくはそっちは見たことがないよ」
ぼくが知ってるのは冬桜。普通の桜の花は春に見ただけ。
「桜か…。お前の誕生日の頃に早けりゃ咲くよな、桜の花」
「早ければね」
だけど満開はもっと先だよね、ぼくの誕生日にお花見をするのは無理みたい。
「うんと昔は、その頃にはとうに満開だったって話もあるが…。SD体制よりも前の時代だがな」
この辺りが日本だった頃。早い年には三月の末に桜が満開だったらしいぞ、そして花見だった。
お前、桜の花は好きなのか、花は好きだと聞いているが…。
「桜、好きだよ」
満開も好きだし、咲き初めも好き。散ってしまう頃は少し寂しいけれども、花吹雪だって大好きだよ。満開の時にヒラリと落ちてくる花びらもいいけど、次から次へと舞うのも好き。
「そうか、好きか。桜の花が好きなんだったら…」
いつか、お前と結婚したら。
春は桜を見に出掛けようか、俺の車で。
「ホント!?」
お花見に行くの、車だったら遠い所でも行けるよね。桜が沢山見られる所も、山の奥でも。
「行きたい所に連れてってやるぞ、のんびり桜見物といくか」
俺が弁当を作ってやるから、そいつを持って。
花見に行ったら、また花占いをするといい。桜は「好き」としか言わないからな。
コスモスと違って、大抵の桜はそう言う筈だ。
「どうして?」
コスモスの名前は秋桜なんでしょ、桜の花とコスモス、何処が違うの?
「ん? そいつはな…」
桜と言ったら花びらが五枚だ、それ以外じゃ桜らしくない。八重桜とかは別だがな。
花びらが五枚だけしかなければ、好きで始めりゃ最後はどうなる?
「えーっと…。好き、嫌い…」
あっ…!
必ず「好き」で終わっちゃうんだね、桜の花びらで占った時は。
結婚出来るか出来ないかだって、「出来る」って言ってくれる頼もしいのが桜なんだね…!
「そうなるな。もっとも、結婚しちまった後で…」
結婚出来るか、出来ないのかって占うヤツはいないと思うが。
好きか嫌いかを占って遊んでいればいいのさ、俺と一緒に桜を見に行くお前はな。
「うん…。うん、ハーレイ…」
ハーレイはぼくを好きなんだよ、って桜が教えてくれるんだね。いつまでも好き、って。
コスモスの花びらの花占いのせいで、落ち込んでしまったブルーだけれど。
花占いが告げた言葉にショックを受けてしまったけれども、花占いの答えを見事に逆さに変えたハーレイ。こうだ、と全く逆の答えを導き出してくれたハーレイ。
そのハーレイが教えてくれた、コスモスの別名、秋桜。
コスモスは桜に似ていないけれど、秋桜という名前から素敵な未来がチラリと見えた。
いつかハーレイと結婚したなら、二人一緒に桜見物。
コスモスの花占いには泣かされたけれど、「好き」としか言わない桜の花の花占い。それを桜の下で占ってみては、ハーレイの心を確かめる。
気まぐれに桜の花を手にして、好き、嫌い、好き、と。
答えはいつも「好き」とだけ。
そしてハーレイの心にもまた、「好き」とだけ。ブルーが好きだと、ブルーだけだと…。
花占い・了
※花占いにチャレンジしたブルー。「ハーレイは、ぼくのことが好き?」と。
けれど「嫌い」と出てしまった答え。大ショックなのを、ハーレイが助けてくれました。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ヒマワリの花…?)
こんな季節に、とブルーは新聞の記事を覗き込んだ。
学校から帰って、おやつを食べた後に開いた新聞。紅茶のおかわりを口にしながら。
その新聞に広がる鮮やかな黄色。見渡す限りの一面のヒマワリ、ヒマワリの畑。
(…ヒマワリだよね?)
まだ肌寒くはなっていないけれど、とうに秋。ヒマワリと言えば夏の花。太陽さながらに明るい黄色の花を咲かせる、背の高いものではなかったろうか。
(今の季節だと、もう萎れてるよ?)
夏の終わりには種が実ってきて、重い頭を垂れるヒマワリ。太陽に顔を向けてはいない。実った種が重すぎるからか、夏の間中、上を向きすぎた首が疲れるからか。
下を向いてしまったヒマワリの花は花びらも萎れて、陽気だった黄色も色褪せてしまう。ピンと張っていた葉だって元気を失い、濃い緑色を失くしてしまうのではなかったか。
(たまに咲いてることもあるけど…)
咲く時期を間違えてしまったものか、同じ花壇のヒマワリよりも遅れて秋に咲いているのを目にすることもあるけれど。時期を逸した花だけあって、何処かヒョロリとしているものだ。その茎も花も。同じヒマワリでも逞しさが無い。
夏の日射しを弾き返せそうにないヒマワリの花。暑い夏には萎れてしまいそうな、何処か危うい秋のヒマワリ。
(だけど、この花…)
記事の写真のヒマワリの花は、夏のヒマワリそのものだった。一面に広がるヒマワリの畑。
どのヒマワリもすっくと背筋を伸ばして天を仰いで、それは見事な太陽の花。夏の盛りの焦げるような日射しに染め上げられた黄色の氾濫。
(今の写真だよね?)
日付が昨日になっているから、間違いなく今のものだろう。撮影場所もそう遠くない。
特別な種類のヒマワリなのかと思ったけれども、記事を読んでみればそうではなかった。普通のヒマワリ、夏に見かけるのと同じヒマワリ。
種を蒔く時期をずらして咲かせたものだという。この季節ならば充分に咲くと書かれてあった。夏のものより手がかかるけれど、手間さえかければ夏と同じに花開くのだと。
(ふうん…?)
面白いことをするものだ、と読み進めていけば、ただのヒマワリ畑ではなかった。人を呼ぼうと秋に咲かせたヒマワリの畑。物珍しさで訪れる人が目当てのヒマワリ畑。
(写真好きな人とかが喜びそうだよ)
それに小さな子供だって、と顔を綻ばせたら、更なる仕掛けが施されていた。ヒマワリ畑の中は迷路で、自由に歩いていいのだという。入場料さえ払えば、誰でも。
週末ともなれば家族連れで賑わうヒマワリの迷路、長く続いているイベントらしい。車で気軽に出掛けられる場所で、田園地帯ならではの土産物なども買って帰れるから。
(迷路…?)
それに一面のヒマワリ畑。
何かが心に引っ掛かる。さっきまでは季節外れのヒマワリしか気にしていなかったけれど、そのヒマワリが迷路になっていると知った途端に。
自分はこれに出掛けただろうか、幼い頃に?
記憶には残っていないけれども、父の運転する車に揺られて、母も一緒に。
「ママー!」
キッチンに居た母に声を掛けた。空になったおやつのカップや皿を手にして。
「あら、どうしたの?」
「あのね、新聞に載っていたんだけれど…」
ヒマワリの迷路。毎年、秋にやっているんだって書いてあったけれど、ぼく、それに行った?
小さい頃にパパとママに連れてって貰ってたのかな、ヒマワリの迷路。
覚えてないけど、とカップなどを手渡しながら尋ねてみれば。
確かに連れて出掛けたという。今よりもずっと幼い頃に。
「幼稚園の頃だったわねえ…。ヒマワリだ、って喜んでたわよ」
もう、ピョンピョンと飛び跳ねちゃって。
早く入ろう、って、早く行こうって大騒ぎだったわ、パパとママの手を引っ張ってね。
「そっか、やっぱり行ったんだ、ぼく」
ヒマワリだけでは気付かなかったけど、迷路になってるっていうのを読んだら行ったのかもって気がしてきて…。きっとホントに凄かったんだね、ヒマワリの迷路。
幼かった自分が大喜びしたというヒマワリの迷路。早く入ろうと両親の手を引っ張った迷路。
(でも…)
そんなに楽しい記憶だったら、もっと温かい、懐かしい気持ちがしないだろうか?
いくら幼くて忘れてしまったことであっても、ヒマワリの迷路の記事に出会ったなら。心の端に引っ掛かるという頼りなさより、心が弾むとか、そういったこと。
どうしてその時の高揚した気分の欠片も出ては来ないのだろう、と訝しんでいたら。
「ブルーは迷子になっちゃったのよ」
「えっ?」
迷子って、ぼくが、ヒマワリ畑で?
パパやママとはぐれて迷子になったの、あの迷路で?
「そうよ、ブルーったら、ヒマワリがよっぽど好きだったのね。とても背が高い花だったから」
あんなに高い所に咲いてる、って見上げて、それから見回して。
ぼくの背よりもずっと高いよ、大きなヒマワリが一杯あるよ、って大喜びで。
はしゃぎながらヒマワリの迷路に入った幼いブルー。
中に入れば、見渡すばかりのヒマワリだから。上を見れば大きなヒマワリの花で、周りには太いヒマワリの茎。重なり合った葉の向こう側など見えないくらいに茂った迷路。
けれども小さな子供の身体は、植えられた茎や茂った葉の間を抜けてゆくことが出来るから。
最初はヒョイと隣の通路へ移動した。大きな葉の間から両親に手を振り、「ここだよ」と叫んで得意げだった。両親よりも一足先へ進んだと、両親はまだ此処に着かないと。
「そんなことをしていると迷子になるぞ」と、「戻って来なさい」と父が言ったけれども。
「平気だよ」と笑っていたブルー。迷子なんかになりはしないと、先に迷路を抜けるのだと。
そうして次のヒマワリの壁もくぐって、ブルーは見えなくなってしまった。
小さな子だから出来る壁抜け、両親の身体では出来ない壁抜け。無理に通ればヒマワリが折れてしまうと分かっているから、幼いブルーを追ってはゆけない。
それでも思念で居場所は分かるのだから、と迷路を辿って追いながら様子を眺めていたら。
ブルーは突然、火が付いたように泣き出したのだという。
ママがいないと、ママもパパも何処にも見えなくなったと。
「ママたちからはサイオンで見えていたけど、ブルーの力では無理だったのよ」
ここよ、って思念を送ったけれども、「ここって、どこ?」って泣きじゃくるだけで。
あんまり泣くから思念も受け取れなくなってしまって、もう本物の迷子だったわ。
「…それ、今だって出来ないから…!」
ぼくは透視は全く駄目だし、今でも迷子になれると思うよ、ヒマワリ畑。
「それは無いでしょ、もう大きいから迷路の壁をくぐり抜けては行けないわ」
小さかったから出来たのよ。今だとヒマワリが折れてしまうわ、ブルーが間を通ればね。
幼い子供だけの特権、ヒマワリの迷路の壁を抜けること。
両親はブルーがいる場所へ辿り着こうと急いだけれども、如何せん、迷路。ヒマワリがびっしり植えられた迷路。隣の通路が透けて見えては面白くない、とヒマワリの壁は二列、三列。
おまけに工夫がこらされた迷路に最短距離などありはしなくて、やっとの思いで追い付いた時、ブルーは監視員に保護されていた。パパとママがいないと泣きじゃくりながら。
「あれで懲りちゃったのかしらね。二度と行きたいとは言わなかったわ」
ヒマワリの花は好きだったのに、と母が微笑む。
大好きだったヒマワリは嫌いになったりしなかったけれど、迷路が苦手になったのだろうと。
遊園地の迷路も入りたがらなかったと、迷路は嫌だと言っていたと。
(そっか、迷子になっちゃったんだ…)
楽しかった記憶が残っていないのも無理はない、と部屋に戻って勉強机の前で考えた。
覚えてはいない、迷子の記憶。両親と一緒に入ったヒマワリの迷路。
ヒマワリの壁をくぐって先へ先へと進んだ自分は、得意満面だったのだろう。両親よりも自分の方が早いと、先に迷路を抜けるのだと。
けれども広すぎたヒマワリの畑。大きすぎた迷路。
出口に着く前に力尽きたか、あるいは気が散ってしまったのか。一休みして見回したヒマワリの畑に両親はいなくて、見当たらなくて。
慌てて探しに走り回ったか、その場で泣いたか、今となっては分からない。
(迷路が苦手になっちゃったなんて…)
それも覚えてはいなかった。
迷路は嫌だと言ったことさえ、入りたがらなかったという遊園地の迷路の入口さえも。
両親が何処にいるのか分からず、ヒマワリ畑で泣き出した自分。
母の思念も届かなくなるほど、大泣きして監視員に保護された自分。
(前のぼくなら…)
ヒマワリ畑がどんなに広くてヒマワリが深く茂っていたって、簡単に透視することが出来た。
両親の居場所も直ぐに分かるし、迷路が如何に複雑だろうと瞬間移動で飛べば一瞬で戻ってゆくことが出来る。迷子にはならず、きっと何度も先に行っては戻ったりして遊んでいたに違いない、と思ってからハタと気が付いた。
(小さかった頃には、ミュウじゃない筈…)
成人検査を受ける前の自分は何処にでもいる普通の子供だった。金色の髪に青い瞳の子供。今の自分のようなアルビノではなくて、ミュウでもなかった。だから養父母が育ててくれた。
(ミュウの子供なんかは育てないよ…)
前の自分に付けられた名前、タイプ・ブルー・オリジン。最初に発見されたミュウ。
成人検査でミュウと判明するよりも前は、ごくごく普通の子供時代を送った筈で。
今のハーレイが「アルテメシアを落とした後に手に入れたデータだ」と教えてくれた記憶の中の写真で見た養父母に育てられ、十四歳までの日々を過ごした筈で。
ならば普通の子供だった前の自分も迷っただろうか、養父母と出掛けた何処かの迷路で。
そして嫌いになったのだろうか、自分が迷子になった迷路が?
(だったら、とっても素敵だよね…)
迷子が素敵だとは思わないけども、迷子になってしまった経験。
養父母という育ての親でも、両親と迷路ではぐれてしまって泣きじゃくる気持ちは同じだろう。
心細くて、一人ではどうにもならなくて。泣くことしか出来ない、幼い自分。
監視員が来て保護された後も、両親が迎えに来てくれるまでは泣きやむことが出来ない子供。
(前のぼくだって、きっとそうだ…)
成人検査と、その後に続いた人体実験。記憶はすっかり失くしたけれども、あったかもしれない迷路の記憶。迷子になってしまった記憶。
そんな体験をしたかもしれない、と思い浮かべれば、前の自分の子供時代と繋がったようで。
失くした記憶が戻ったようで。
心がじんわりと温かくなる。前の自分ももしかしたら、と。
その日、ハーレイは来てくれなくて。仕事帰りに寄ってはくれなくて。
寂しかったけれど、ヒマワリの迷路で迷った思い出。迷子になってしまった思い出。
それがあるから、心は夢の世界へと飛んだ。ベッドで眠れば見るだろう夢へ。
(前のぼくの記憶、戻るかも…)
幼かった頃に迷路で迷った時の記憶が。
今の自分の遠い記憶と混ざってしまったものであっても、欠片でもいいから戻れば嬉しい。前の自分が取り戻せないままに終わってしまった、失くした記憶が戻るのならば。
(記憶、戻ってくれるといいな…)
アルタミラを脱出した後、三百年以上も生きていたのに戻らないままで終わった記憶。
ほんの小さな欠片でいいから、夢の中で見付けて拾い上げたい。
そんな思いでベッドにもぐって眠りに就いた。
お気に入りの枕に頭を預けて、上掛けを被って丸くなって。
そして…。
(あれ?)
気付けば一面に広がるヒマワリの中に立っていた。
夢の中だとは思わなかったし、ブルーにとってはそれが現実。パジャマ姿でも本当のこと。今の自分に起こっていること。
見上げるようなヒマワリの花が幾つも重なった上に、ぽっかりと覗いた青い空。
(誰もいないの?)
しんという音が聞こえそうなほど、静まり返ったヒマワリ畑。
見回してもただ、ヒマワリだけ。夏の太陽を思わせる花が見渡す限りに咲き誇るだけ。人の声はおろか、鳥の声さえ、風の音さえ聞こえてはこない。
しかも小さくなっている自分。
ヒマワリの間をくぐり抜けても、葉の一枚さえ損ねないほどに幼い身体の自分。
ガサガサと大きな葉を両手で掻き分け、向こう側へと出てみたけれど。畝の向こうへと出てみたけれども、風景はまるで変わらない。
(どこ…?)
此処は何処なの、と見回していたら、思い出した。
そうだ、両親と一緒に来たのだ。父が運転する車の座席に母と並んでチョコンと座って。
「ヒマワリの迷路に連れて行ってやるぞ」と笑顔だった父の車に乗って。
果てが見えないヒマワリ畑に歓声を上げて、先頭に立って走ったことは覚えているけれど…。
(はぐれちゃった…?)
ヒマワリを掻き分けて走る間に。あっちへ、こっちへと気の向くままに迷路をくぐる間に。
(確か、こっちから…)
こっちの方から来たのだと思う、と真っ直ぐに幾つもの畝を突っ切ったけれど。ヒマワリの間を抜けて行ったけれど、両親の姿は何処にも見えない。他の人にも出会わない。
「パパ、ママ…!」
精一杯の声で叫んだけれども、声は返って来なかった。風さえも吹きはしなかった。ヒマワリの花が咲いているだけ、太陽のような花が遥か上から見下ろすだけ。
(ぼく、迷子なのに…)
どうしたの、と訊いてくれる大人も現れないから、どうにもならない。
自分で出口を探すしかなくて、運が良ければ何処かで両親とバッタリ会うかもしれなくて。
(きっと、こっち…)
こちらへ行くのが近そうだから、と方向を決めて駆け出した。畝を突っ切るのは、もうやめて。
道の通りに走っていたなら、いつかは出口に着く筈だと。
ヒマワリの畝に左右を囲まれた道を走って、曲がって、また曲がって。
懸命に走っても、いくら走っても出ることが出来ないヒマワリの畑。
気付けば元に戻っているから。見覚えのある場所に戻ってしまって、其処には自分の小さな靴の足跡が確かに刻まれて残っているから。
(ちゃんと進んでた筈なのに…!)
何処で間違えてしまったのだろうか、曲がり角を右へ曲がる所を?
それとも右だと思っていたのが間違いの元で、角は左に曲がるのだったか。
迷路を抜けるには片方の壁から手を離さないのが鉄則だけれど、夢の中だけに覚えてはおらず、曲がり方だと勘違いをしてブルーは進んだ。右に曲がるか、左に曲がるか、そのどちらかが正しいのだと。右だ、左だと決めて走ってゆくものの、夢の世界ではそれも曖昧で。
(これも左だった…?)
そうだよね、と曲がっては元に戻ってしまう。元の場所へと戻ってしまう。
(迷路…)
出られないよ、と幼いブルーは走るけれども。両親を、出口を探して走るけれども、どうしても先へ進めない。今度こそ、と走り出しても、気付けば最初の所へと戻る。
(パパ、ママ、どこ…?)
息が切れても、泣きじゃくっても。
迷子になったと泣きながら迷路を走り続けても、誰も来なくて、ヒマワリが咲いているだけで。
鮮やかな黄色の大輪の花が幾つも幾つも現れるだけで、人影も終点も見えては来ない。
どんなに走っても、右へ、左へと懸命に曲がり続けても。
その足元に転がっていた小石、それを踏んづけたと思った瞬間、崩したバランス。
ぐらりと傾いだ小さな身体。
(あっ…!)
踏み止まれずに転んだはずみに、打ち付けた右手。
膝や胸にも土が沢山ついたのだけれど、何故だか右手が痛かった。擦り剥きそうになった膝小僧やら、強かに打った胸よりも、右手。
土を払えば怪我はしていないようだけれども、皮も剥けてはいないのだけれど。
僅かな血さえも滲んでいなくて、痣も出来てはいないけれども、右の手が痛くてたまらない。
(冷たいよ…)
地面が冷たかったのだろうか、右の手が凍えて酷く冷たい。走る気力ももう無くなった。痛くて冷たい、と泣きながらトボトボと歩き続ける。
もう帰れないかも、とヒマワリの中を。二度と家へは戻れないかも、と冷たく凍える右手に息を吹きかけながら。温まってはくれない右手を左手で擦り、重たい足を引き摺りながら。
そうしたら…。
「ブルー!」
やっと見付けた、と声が聞こえた。ヒマワリの壁の向こうから。
「パパ…!」
そちらへと身体ごと振り向いた途端、ヒマワリを掻き分けて現れた人影。大人が通るには無理がある筈のヒマワリの壁を傷つけもせずに抜けて来た人影。
その長身の大きな影は父ではなくて…。
「ハーレイ…!」
褐色の肌に鳶色の瞳。それが誰だか、直ぐに分かった。
手が冷たいよ、と泣きながら言えば、右の手が凍えて痛いと泣きじゃくりながら訴えれば。
「ああ、分かってる」
転んじまったんだな、可哀相に。
温めてやるから、もう泣くな。俺が来たから、大丈夫だからな。
右手がそっと大きな両手に包まれた。片手だけで右手を覆えそうな手に。
優しい温もりが凍えた右手を溶かしてゆく。打ち付けた痛みが癒えてゆく。
「よく我慢したな、転んでも歩き続けるなんてな」
偉いぞ、お前。小さいけれども我慢強いな、ちゃんと歩いていたんだからな。
「でも、ぼく…。泣いちゃっていたよ、それでも強い?」
「強いさ、もう歩けないと泣いていたわけじゃないだろう?」
手が冷たくて泣くのは仕方ないんだ、転んじまったら誰だって痛い。そいつを我慢しろとは誰も言わんさ、こうして治療も必要になる。
右手、痛いか? まだ冷たいか…?
こいつはきちんと治さないとな、痛くも冷たくもないようにな。
ハーレイの大きな手の温もりはよく効いた。あんなに冷たくて痛かった右手がみるみる温まってゆくのが身体中で分かる。凍えた辛さも、打ち付けた痛みも嘘だったように和らいでゆく。
(あったかい…)
ハーレイの手は魔法みたいだ、と褐色の手が与える温もりに酔っていたら。
「治ったか、右手?」
もう痛くないか、冷たくないか?
「うん。ハーレイが温めてくれたから治ったみたい」
痛くないよ、冷たかったのも消えたし、もう平気。元々、怪我はしていないしね。
「それは良かった。怪我が無いなら温めておけば、後はすっかり元通りだからな」
すまんな、早く見付けてやれなくて。お前、長いこと独りぼっちで走ってたんだろ?
「ううん、ハーレイに会えたからいいよ。ずっとあのまま独りだったら悲しいけれど…」
ハーレイが来てくれたからいいんだよ。ぼく、もう、独りぼっちじゃないしね。
「そうか。…さてと、お前を連れてかないとな」
「何処へ?」
「パパとママの所さ」
お前、頑張って走ったんだろ、パパとママの所へ行こうとして。
もう走らなくてもかまわないんだぞ、俺が代わりに運んでやるから。
ヒョイと肩車で持ち上げられた。ハーレイの逞しい両肩の上に。
(ハーレイ、大きい…!)
自分の身体が小さすぎるから、余計に大きいハーレイの身体。肩に乗せられるとグンと高くなる自分の視点。見上げるようだったヒマワリの花も、今は頭上で揺れていて。
「見えるか、お前のパパとママ?」
足首を掴んだハーレイに訊かれた。さっき右手を温めてくれた大きな両手で、しっかりと握られ支えられた足。ブルーが肩の上で動いたとしても、其処から落っこちないように。
ブルーはハーレイの頭に手を置き、伸び上がったけれど。
両親の姿が見えはしないかと見回したけれど、ヒマワリの方が背が高かった。さっきまでよりは花の高さに近付いたけども、それでも花は頭の上で。
「んーと…。パパとママ、見付からないよ」
ヒマワリが邪魔をして見えない、と言った。
自分の背よりもヒマワリの方がずっと高いから、肩車をして貰っても見えないと。
けれど…。
「ふうむ…。お前には見えないか」
だが、あっちなんだ。パパとママはあっちの方にいるんだ。
向こうの方だ、と片方の足首を握っていた手を離して指差すハーレイ。
握る手は片方になったけれども、肩車は揺らぎはしなかった。頼もしいハーレイの肩車。
「あっちなの?」
「うむ、あっちから声がするからな」
声と言うより、こいつは思念か…。お前を探しているようなんだが、聞こえないか?
「ぼく、そういうのは駄目なんだよ…」
ちゃんと聞こえる時もあるけど、大抵、聞こえてないんだよ。
パパとママの声、ハーレイには聞こえているんだね?
「まあな。お前よりも長く生きている分、こういう探し物は得意だってな」
直ぐに連れてってやるからな、とズンズン歩いてゆくハーレイ。
ブルーの両方の足首をしっかり握って、落っことさないように背筋をシャンと伸ばして。
何処までも広がるヒマワリの中を、ブルーが迷った迷路の中を迷いもせずに。
何か目印でもあるというのか、でなければ抜けるコツでもあるか。
角に差し掛かる度に右へ、左へと曲がるハーレイ。「こっちだな」と少しもためらわずに。
ハーレイの肩の上から眺めるヒマワリ畑の長い迷路は、怖いものではなくなっていた。次の角は右に曲がるのだろうか、それとも左へ行くのだろうか。
(あれっ、右なの?)
ぼくは左だと思っていたのに、と遥か下にある地面を見下ろせば、幾重にもついた自分の足跡。闇雲に走り続ける間につけた足跡は全て左へと向かっていた。
(これじゃ出られるわけないよ…)
全ての角で右と左とを試したつもりが、どうやらそうではなかったらしい。今、左へ行くのだと考えたように、この角に来る度、自分は左へ曲がってしまっていたのだろう。
(だけど、ハーレイ、やっぱり凄い…!)
自分があれほど間違えた道を、迷いもしないで歩いてゆく。正解を選んで進んでゆく。
それにハーレイの肩車。
あの広い肩がこんなに素敵な座り心地の椅子に、乗り物になるなんて。
自分の背よりもずっと高い場所から周りを見られて、ヒマワリの花だって、こんなに頭から近い所で幾つも幾つも揺れているだなんて…。
(もっと…)
もっと歩いていたいと思った。ハーレイの肩車に乗って、ヒマワリの中を。
「パパとママ、見えたか?」と訊かれる度に「ううん」と答えを返しながら。
ハーレイと二人、もっともっと、いつまでも歩いていたい、と思ったのに。
「ブルー!」
角を曲がったら、母がこちらへ駆けて来た。もちろん父も。
「ハーレイ先生、すみません!」
息子がお手数をおかけしてしまって…。
ブルー、一人で先に行ったら迷子になるぞ、と言っただろう?
「ごめんなさい、パパ…」
ハーレイが見付けてくれたんだよ。ぼくが迷子になっちゃっていたら。
転んで右手が痛かったけれど、ハーレイが治してくれたんだよ。
「あらあら…。ハーレイ先生、本当にご迷惑をおかけしまして…」
この子ったら、言っても聞きませんのよ、主人と二人であんなに駄目だと止めたのに…。
「いえ、いいんですよ。これも私の役目ですしね、探すのも右手を治すのも」
お気になさらず、とハーレイが笑う。
どちらも自分の役目なのだからと、それを果たしたまでのことだと。
「じゃあな、ブルー。二度と迷子になるんじゃないぞ」
ヒマワリの迷路には気を付けるんだぞ、お前、迷ったら出られなくなるみたいだからな。
そういう時は俺が探しちゃやるがだ、ほどほどにしとけよ、ヒマワリの迷路。
「またな」と軽く手を振って、ハーレイはヒマワリの迷路の向こうへと消えた。
肩車から降りたブルーを両親に託して、ヒマワリの迷路の角を曲がって。
「ハーレイ…!」
待って、と叫んだ自分の声で目が覚めた。
カーテン越しに朝の柔らかな光が部屋に射し込み、庭で小鳥がさえずっている。
(夢…)
ヒマワリの迷路は夢だったのか、とようやく気付いた。
右手が凍えて痛かった理由が、転んだからではないことにも。
(ハーレイが探してくれるんだ、ぼくを…)
あの夢のように独りぼっちで泣きじゃくっていても、右手が冷たいと泣いていても。
そう、ハーレイならばきっと見付けてくれるのだろう。
自分が何処で迷っていたって、独りぼっちになっていたって。
前の生の記憶の欠片を夢で拾うことは出来なかったけれど、もっと嬉しい夢を見た。ヒマワリの迷路は怖かったけれど、ハーレイが来るまでは独りぼっちで泣いていたけれど。
(ハーレイの肩車で歩いていたんだよ、ぼくは)
一面に広がるヒマワリの迷路を、ハーレイの肩に乗っかって。
今よりももっと小さくて幼い自分だったけれど、ハーレイの肩に揺られて歩いた。
(もっと、もっと…)
ヒマワリの中をもっと歩いていたかった。
肩車に乗って、ハーレイと二人。
(…ヒマワリの迷路…)
いつかハーレイに強請ってみようか、ヒマワリの迷路に行ってみたいと強請ろうか?
ハーレイの肩車でヒマワリの迷路を歩いてみたいと、ぼくは迷路が苦手だからと。
(肩車で歩くには大きすぎだ、って言われそうだけれど…)
迷路に来ている他の人にも笑われてしまいそうだけど。
でも、ハーレイは力持ちだから。
前と同じに大きく育ったブルーの身体も、ヒョイと肩車が出来そうだから。
その肩車で歩いてみたい、とブルーは夢見る。
まだ他の人は誰もいないような朝の早い時間に、ハーレイの肩車でヒマワリの中を、と。
「次は右だよ」と、「いや、左だな」などと言い交わしながら、二人で迷路。
入口から出口までの長い長い迷路を、ヒマワリで出来た迷路の中を…。
ヒマワリの迷路・了
※小さかった頃に、ヒマワリの迷路で迷子になったらしいブルー。そう聞いた日の夜の夢。
迷子になってしまった迷路で、助けに現れたハーレイ。肩車で歩けて、幸せですよね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv
除夜の鐘と初詣も済み、冬休みも残り数日ですが。とは言うものの、お正月の方は実は三日目、いわゆる三が日というヤツです。今年の冬は寒さ厳しめになりそうだ、などと話しつつ皆でゾロゾロ会長さんのマンションへと。昨日は初詣で屋台グルメでしたし、今日は普通に…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
おせち沢山揃っているよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎え。ワイワイ上がり込めば和洋中と素晴らしいおせちがドッサリ、これは食べねば!
「キースにはすっげえ悪いけどよお、やっぱ、おせちはこうでなくっちゃっな!」
サム君が取り皿にドッサリ取り分け、キース君が。
「ウチでも和洋中と揃えたんだが…」
「いや、だから悪いって言ったじゃねえかよ。味とか種類とかじゃなくてよ、おせちは普通に食いてえからなあ…」
衣抜きで、とサム君、パクパク。衣とは天麩羅の衣ではなく、いわゆる法衣。除夜の鐘の後、元老寺で迎えるお正月はサム君とジョミー君も墨染の衣で初詣のお手伝いコースです。豪華おせちが食べられるとはいえ、衣つき。抹香臭いのは御免蒙る、という意味で。
「ぼくも衣は御免だよ! なんで毎年!」
ジョミー君がぼやけば、会長さんが。
「一年の計は元旦にあり、と言うだろう? お正月からビシッと墨染、それでこそ坊主への覚悟も出来るというもので…。君もサムも今年も断ったしねえ、専修コース」
「そりゃそうだけど…」
そうなんだけど、とジョミー君がブツブツ、サム君はボソボソ。
「やっぱ覚悟が決まらねえよ…。全寮制だろ、しかも二年で。一年コースはまだなのかよ?」
「もうすぐだったと思ったが?」
キース君が指折り数えて。
「学寮の建設場所はもう決まったし、土地も買ったと聞いている。あと数年で出来ると思うが、そしたら入学するわけか?」
「えっ、数年? ちょ、ちょっとそいつは早すぎだって!」
せめて十年考えさせろ、とサム君が慌てて、ジョミー君も。
「ぼくは二十年ほど欲しいってば! ううん、三十年でもいいかも!」
行かないからね、と二人揃ってお断り中の専修コースとは、キース君の母校の大学に併設された僧侶養成コースです。ひたすらお坊さんの勉強のみで他の学問はしなくていいため、二年で卒業。それを更に濃縮した一年コースも出来ると噂で、サム君とジョミー君に坊主な未来が着々と…。
「とにかく絶対、行かないからね!」
ジョミー君が喚いた所でいきなり鳴り響く電話の呼び出し音。会長さんはソルジャーなだけに、たまに電話もかかります。三が日でも忙しいのだな、と思っていれば。
「かみお~ん♪ えっ? うん、あけましておめでとうございまぁーす!」
電話を取った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が元気に年賀の御挨拶。やはり仲間の誰かでしょう。ん?
「えとえと、えとね…。おせちはみんなで食べてるんだけど…。うん、うん…」
はて、おせちとは面妖な話題。誰と話しているのでしょう?
「えーっと…。分かった、ブルーに代わるね。…ブルー、ハーレイから電話!」
「切っといて!」
会長さんは見事な脊髄反射でしたが、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「でもでも、ハーレイ、おせち用意して待ってるって…」
「いつものことだろ、勝手に一人で空回り! 孤独に食べろって返事しといて!」
「うんっ! あのね、ハーレイ、ブルーがね…。あ、聞こえてた?」
うんうん、それで? と切れない電話。どうなるのだろう、と皆が注目していれば…。
「はぁーい、了解! 待ってるねーっ!」
チンッ! と受話器が置かれたクラシックスタイルのレトロな電話。「そるじゃぁ・ぶるぅ」がクルリとこちらに向き直って。
「あのね、ハーレイがおせちを届けに来てくれるって!」
「「「えぇっ!?」」」
「みんなの分も買ってあるから無駄にしないで是非食べてくれって、出前でお届け!」
豪華版らしいよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はウキウキと。
「和洋中だけど、どれも専門のお店に頼んだヤツなんだって! 今年は特に気合を入れたから、他の人たちに御馳走するのは勿体ないって!」
「「「他の人?」」」
「なんか毎年、三が日が済んだらお客さん呼んでたみたいだね、うん」
教頭先生が私たちの年始回りに備えてドッサリ買うと聞いていたおせち。教頭先生が冷凍でもして孤独にコツコツ食べているのかと思っていれば、さに非ず。シャングリラ号での部下たちを招き、三が日明けにドカンと振舞っていたようです。
「それって、賞味期限はどうなんでしょう?」
シロエ君が心配そうですが、会長さんは平然として。
「問題無いだろ、三が日のラストにぼくたちが来るかもって想定しているわけだしね? 絶対、長めにしているさ。四日か五日まで楽勝だよ、うん」
それが来るのか、と教頭先生の家の方角を見ている会長さん。おせちのお届け、もうすぐかな?
やがてピンポーン♪ と玄関チャイムの音が。キャプテンである教頭先生、このマンションは顔パスです。管理人さんからの問い合わせもなく、直接入って来られるわけで…。
「わぁーい、おせちー!」
玄関へ飛び跳ねて行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が戻って来ると、その後ろには大量の重箱が詰まったらしい荷物を背負った教頭先生。
「あけましておめでとう。どうやら全員揃っているな」
「残念ながらね」
それでおせちは、と会長さんがツンケンと。
「置いたらサッサと回れ右する! 君を呼んではいないから!」
「し、しかしだな…、これは私の愛なわけで!」
荷物を降ろした教頭先生、あれこれと説明しながら重箱を並べ始めました。
「和風はパルテノンでも評判の店に注文したんだ。洋風はお前とぶるぅも気に入りのレストランに発注したし、中華もそういう専門店に頼んでおいたのだが…」
どれも気に入ると思うのだが、とズラリ重箱。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が蓋を取るなり大歓声。
「うっわー、すっごーい! ホントに豪華!」
「…無駄に豪華としか言いようがないね」
会長さんはあくまで素っ気なく。
「ぼくへの愛だか何か知らないけど、愛があるなら耐え忍べば? こんな風に嫌味たらしく……未練たらしくと言った方がいいかな、押し付けがましく持ってくるよりは自分で食べる!」
「いや、それは…。それはあまりに勿体ないから、お前たちが来なかった年は…」
「知ってるよ、キャプテンの立場で大盤振る舞い! 人気らしいね、君の家のおせち」
今年もそうすれば良かったのに、と会長さん。
「でなきゃアレだね、君が一人で完食するとか…。耐えてこそだよ、愛というのは」
「…そうなのだろうか?」
「うん。幾歳月もの風雪を耐えて忍べばいつか花咲く時もある……かもしれない。だけど今年は持って来ちゃったし、耐えてる内にはカウントされない」
おせちは皆で美味しく頂く、とニッコリと。
「というわけでね、君の用事は済んだってね。はい、回れ右!」
「…ま、回れ右して帰れば耐えたとカウントして貰えそうなのだろうか?」
「は?」
「幾歳月を耐えろと言うなら耐えてみせるから、カウントしてくれ!」
耐えた内に、と教頭先生、頼み込み。えーっと、耐えても全く無駄だと思いますけどね?
耐えればいずれは会長さんの愛が、と妙な勘違いスイッチが入ったらしい教頭先生。おせちのお届けをしてしまったことで今年は耐えたことにはならないと言われてしまって、なんとかカウントして貰おうと懇願中。
「おせちを届けたことは謝る! しかし皆で食ってくれれば無駄にはならんし、私としてもその方が…。いやいや、それで耐えたと数えて貰えないなら、いっそ背負って帰るから!」
「あー、それはお断り」
もう貰った、と会長さん。
「ぼくの目と舌を喜ばせてくれそうなのも多いしね? 今更持って帰られてもさ」
「しかし、私は耐えたいわけで!」
耐えて愛の花を咲かせたいのだ、と妄想スイッチもオンらしき模様。
「幾歳月が何年先だか分からないのだが、耐えれば花が咲くのだろう? 耐えさせてくれ!」
頼む、と早くも土下座モードで、絨毯に額を擦り付け、耐えたいとの仰せ。
「…うーん…。たかがおせちで耐えられてもねえ?」
「だったら何に耐えればいいのだ、私は耐えて耐え抜きたいのだ!」
土下座ペコペコ、傍から見ればバッタかカエルか。こんな姿で会長さんに頼みごとをしたら墓穴じゃないかという気もしますが、相手はたかがおせちのお届け。大したことにはならないだろう、と私たちは踏んでいました。せいぜい座禅か、三日間ほど肉料理抜きか。しかし…。
「君はそんなに耐えたいわけ?」
「もちろんだ!」
「ぼくへの愛で耐えるんだね?」
「当然だろう! 何か思い付いてくれたんだな!?」
是非言ってくれ、と教頭先生の顔が輝いたものの。
「……じゃあ、八耐」
「…はちたい?」
「知らないかなあ、バイクの八時間耐久レース」
略して八耐、と会長さんは指を一本立てました。
「二人一組で八時間バイクを走らせるんだよ、その間にコースを何周したかで勝者が決まる。君の場合は組む人もいないし、一人で走らせることになるかな?」
それともゼルと組んで走るか、とズズイと迫る会長さん。
「耐えると言ったら八耐が花だね、本物に出ろとは言ってない。ただ八時間を走り抜くだけ! ぼくへの愛があるんだったら孤独な走りも楽勝だろう?」
八時間ほど走ってこい、と言ってますけど、八耐って…。あの有名なバイクレースを教頭先生がたった一人で…?
会長さん曰く、「愛があるなら八耐くらい」。その八耐は夏のものだったと記憶しています。おまけに場所はサーキット。冬の最中に孤独に八耐、ゼル先生と組むにしたって一組だけでサーキットなんて借りられるのでしょうか?
「え、八耐のサーキットかい? この時期、空いてると思うんだけどな」
どう? と会長さんの視線がマツカ君に。
「今ですか? レースに不向きなシーズンですから空いてますけど、使うんですか?」
「「「え?」」」
「あのサーキットは父の会社が持ってるんです」
「「「さ、サーキット…」」」
そんなモノまで持っていたのか、という衝撃の事実。マツカ君も何処まで奥が深いのでしょうか、自家用ジェットだの外国にお城だのと聞いてましたが、サーキット…。
「マツカのお父さんの持ち物だしねえ、八耐用のサーキット。今の時期だと積雪だとか凍結だとかと悪条件が揃ってるけど、どうかな、ハーレイ?」
ぼくへの愛で走ってみる? と会長さんはニコニコと。
「何周できたかは無関係なんだよ、要は八時間を耐えて走ったかどうかでさ…。君がやるならマツカに頼んでサーキットを借りる。さあ、決めたまえ。八耐をやるか、やるなら一人かゼルと組むのか。八耐をやれば耐えた度数はググンとアップする……かもしれない」
「…は、八耐…」
バイクレースか、と青ざめてらっしゃる教頭先生。そういえばスピードが苦手でらっしゃったんでしたっけ。バイク野郎で『過激なる爆撃手』の異名を取っているゼル先生のサイドカーに乗せられての爆走の末に気絶なさったこともあったかと…。
「ん? バイクレースは無理そうだって?」
自分で走らせてもスピードは無理? と尋ねる会長さん。
「君はママチャリが限界だったかもしれないねえ…。二輪車の類」
「…そ、そうなのだ……」
実は原付もキツイものが、と教頭先生、涙の告白。
「八耐は非常に魅力的だが……。体力的には一人八耐も充分いけるという気がするのだが、如何せん、バイクのスピードが…」
無理だ、と泣き顔の教頭先生。
「サーキットまで提供しようと言ってくれるお前の愛は嬉しい。嬉しいのだが、私には…」
「応える術が無いってわけだね、よく分かった」
じゃあ回れ右、と言うのだろうと私たちは疑いもしませんでした。ところが会長さんの口から飛び出した次の言葉は。
「だったら、人力八耐でいこう!」
「「「ジンリキハチタイ?」」」
なんですか、それは? ジンリキハチタイって、何ものですか…?
「人力車で走るレースがあるんだよ、うん」
会長さんは得意げに知識を披露しました。人力車と言っても観光地で走っているアレではなくって、三輪車だとか自作の二輪車とか。二歳から参加可能なレースで、基本は二人で一チーム。正式名称、人力車レース。
「一応、八耐と同じく世界選手権って形になってる。より正式な名前でいくとね、ワールド・エコロジカルカー・チャンピオンシップ、五時間耐久人力車世界選手権!」
「「「じ、人力車世界選手権…」」」
そんなレースが存在したのか、と唖然呆然。けれど会長さんが立ち上げた端末でアクセスした先に公式サイトがしっかりとあって、八耐と並ぶ有名なサーキットが会場で…。
「ね? このとおり人力車レースは存在する。八時間じゃなくて五時間だけど…。これを参考に五時間の所を八時間! マツカのお父さんのサーキットで!」
愛があるなら人力車で走れ、と会長さんはブチ上げました。
「君の自慢のママチャリもいいし、大人には乗りにくい三輪車でもいい。孤独に八時間走り抜いたら、愛の花の蕾が少しくらいは膨らむかもね?」
「…じ、人力八耐……」
教頭先生はグッと拳を握り締めて。
「よし! 私も男だ、やってみせよう!」
「「「おおっ!?」」」
凄い、と息を飲んだ途端に背後でパチパチと拍手の音が。誰だ、と一斉に振り返れば。
「こんにちは。…いや、あけましておめでとうだね、お正月だしね?」
フワリと翻る紫のマント。会長さんのそっくりさんがにこやかな顔で立っています。
「凄いね、豪華おせちが沢山! ぼくのシャングリラのニューイヤーパーティーも今日までだけどさ、流石に三日目ともなると食べ飽きちゃってねえ…」
たまには地球のおせちがいいのだ、と招かれざる客はスタスタと部屋を横切って空いていた席にドッカリ座ってしまいました。
「おまけに何だか楽しそうな話をしてるじゃないか。人力車でサーキットを走るんだって?」
「いや、人力車じゃなくて、エコカーってヤツで…。要は人力で走る車で」
人力車であって人力車じゃない、と会長さんは勘違いをしていそうなソルジャーに解説を。
「君が考えてる人力車は観光客を乗せて走っているヤツだろう? アレじゃなくてね」
「その人力車でいいじゃないか」
そっちの方が絶対にいい、とソルジャーは会長さんに向かって得々と。
「だって、あの人力車なら乗れるんだよ? 君を乗せた車を引っ張って八時間走り抜いてこその愛じゃないかな、耐えるんならね」
どう? と笑顔で言われましても。それの答えは会長さんの心次第では…?
「ホントに本物の人力車かあ…」
ちょっといいかも、と会長さんの心が動いた様子。
「ハーレイが孤独に走るママチャリも良さそうだけれど、負荷をかけるのも楽しそうだね」
「そうだろう? しかも座席に乗っかるのは君! ハーレイの愛を確かめながらね」
ぼくも乗りたくなってきたかも、とソルジャーの思考がズレ始めて。
「ハーレイが引っ張る人力車もいいね、それに乗っかってサーキットをねえ…。でもって、こっちのハーレイと勝負! どっちがより深くパートナーのことを愛しているか!」
「ちょ、ちょっと…! ぼくはハーレイのパートナーじゃないし!」
「ああ、ごめん。予定だったね、君の場合は」
「予定でもないっ!」
そんな予定は全然無い、と会長さんは不快そうですが、レースには興味があるようで。
「君のハーレイも人力車で八耐にチャレンジするのかい?」
「それもいいな、と思ってね。…だけどさ、最初からぼくが乗っていたんじゃハーレイに負荷がかかりすぎだし、ぶるぅを代わりに乗せようかと」
「ぶるぅって…。あの悪戯小僧の大食漢の」
「人力車に乗れるなら大人しいと思うよ、それ自体が悪戯みたいなものだし」
乗っかっているだけでハーレイに負荷が、とソルジャーは「ぶるぅ」の悪戯心をお見通し。
「汗水たらして人力車を引くハーレイを高みの見物だしねえ、きっと喜んで乗ってくれるさ」
「なるほどねえ…。ぶるぅが乗るのか…」
それも良さそう、と会長さんの心は既に人力車へと傾いています。エコカーならぬお客を乗せて走る人力車。教頭先生の負担が余計に増えそうですけど…。
「えっ、そこがポイント高いんだよ! 同じ八耐なら耐えてなんぼで、ただ走るよりは余計な負荷だね。ぶるぅもいいけど、ぼくが乗るのも良さそうだ」
「あっ、君もハーレイへの愛に目覚めた?」
「そうじゃなくって、ぼくの方がぶるぅより重いしね?」
でもハーレイは喜びそうだ、と悪魔の微笑み。
「こういう趣向はどうだろう? 八耐だとマシンの調整だの乗員交代だのでピットインする。これは人力車レースでも同じ。ましてや一人八耐ともなればトイレ休憩や食事が必須で、ピットインしないわけがない」
「それで?」
「ピットインした時にとある条件をクリアしたなら、ぶるぅの代わりにぼくが乗る!」
そして次のピットインまで乗ってゆくのだ、という話ですが。とある条件ってどんなのですか?
耐久レースに欠かせないピットイン。其処で条件をクリア出来たら、人力車のお客が「そるじゃぁ・ぶるぅ」から会長さんに交代になるらしいですけど…。
「どういう条件を出すつもりなわけ?」
ソルジャーの問いに、会長さんは。
「ズバリ、キスだね」
「「「キス!?」」」
「ただし、手の甲! ハードな人力車耐久レースで身体がガタガタになってくる中、いわゆる騎士のキスってヤツかな、あれをビシッと決められた時はぼくが乗っかる!」
おおっ、と広がるどよめきの中、教頭先生が嬉しそうに。
「お、お前が乗ってくれるのか? 人力車に?」
「ちゃんと映画のワンシーンみたいに手の甲にキスを決められたら……ね」
「努力しよう! 帰ったら早速練習だ!」
それでレースはいつになるのだ、と教頭先生、やる気満々。
「私は明日でも明後日でもいいぞ? 冬休みはまだあるからな」
「ふうん? だったら君と一緒にレースをしてくれそうな人の都合を訊かないとねえ?」
「ぼくのハーレイ? ニューイヤーのパーティーの後は比較的平和な日が続くからさ、七日まで休暇を取ってあるんだ。だからいつでもかまわないけど?」
それこそ明日でも明後日でも、とソルジャーがドンと請け合い、会長さんが。
「えーっと、サーキットの手配と人力車と…。マツカ、明日でもいけそうかい?」
「明日ですか? 訊いてみますね」
マツカ君が携帯端末を取り出し、お父さんに電話しています。いつもは執事さん相手が多いんですけど、お父さんもお正月で暇なのかな?
「そう、明日…。かまわない? えっ、人力車も? じゃあ、お願い」
電話を終えたマツカ君は「大丈夫です」と柔らかな笑顔。
「サーキットは好きに使っていいそうです。人力車も用意しておくと言ってましたね、サーキットまでの移動はどうしますか? 父がバスの手配もしておこうかと訊いてましたが…」
「そっちはいいよ、瞬間移動でパパッと行こう」
少し遠いし、と会長さん。
「車だと二時間ではとても着かない。その点、瞬間移動なら直ぐ!」
「分かりました。あっ、サーキット自体は閉まってますけど、設備などは使えるようにしておくそうです。トイレもシャワーもOKですよ」
「ありがとう、マツカ。それじゃ、明日は人力車で八耐レースってことで」
ここは一発、壮行会! と会長さんが拳を突き上げ、ソルジャーの世界からキャプテンと「ぶるぅ」も招いての大宴会が始まりました。教頭先生の豪華おせちは無駄になるどころかゲストを迎えて大いに役立ち、私たちも美味しく頂きましたよ~!
そして翌日。会長さんのマンションへの集合時刻はなんと早朝、六時半。家を出る頃はまだ暗いという有様でしたが、なにしろ相手は八耐です。スタートから八時間走らなくてはいけないのですし、冬の日暮れの早さを思えば八時に始めるのがいいであろう、と会長さんが。
「うう、眠い…」
まだ眠い、とジョミー君が眠い目を擦り、キース君が。
「やかましい! 俺なんかはもっと早起きだったぞ、家を出る前に朝のお勤めがあるんだからな」
早く出掛けると言ったらサボれるかと思ったらしいのですが。アドス和尚に「なら、先にやれ」と命令された上、「俺の分までやっておけ」だったそうで、普段以上にキツかったとか。
「…いつもだったら俺が本堂の掃除をしてだな、お勤めのメインは親父なのに…。なんで一人で全部やらねばならんのだ!」
「でもよ、住職が一人の寺なら普通だぜ、それ」
サム君の指摘はもっともなもので、グウの音も出ないキース君。そんなやり取りをしながら辿り着いた会長さんのマンションでは…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
みんな来てるよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。案内されたリビングには教頭先生にソルジャー、キャプテン、「ぶるぅ」が勢ぞろいしています。
「やあ、来たね。じゃあ、サーキットへ出発しようか」
「そうだね、早い方がコースの下見も出来るしね」
行こう、と会長さんの言葉にソルジャーが応じ、パアアッと迸る青いサイオン。「ぶるぅ」も入って今日はタイプ・ブルーが四人前での瞬間移動で、身体がフワリと浮き上がって…。
「「「うわあ…」」」
広い、としか言葉が出ませんでした。朝日に照らされたサーキット。木立に囲まれていますけれども、F1レースにも使われる其処は本格的なコースが広がり、観客席だって凄いのが…。
「えとえと、此処がスタートする場所?」
一段と幅の広い直線コースのド真ん中。私たちが降り立った場所がスタート地点らしいです。やたら広いと思ったのも当然、この直線コースだけで八百メートルあるのだとか。
「「「は、八百メートル…」」」
その距離は体育の授業の持久走で走らされる距離に二百メートル足りないだけ。学校だとグラウンドを何周も走って叩き出す距離ですが、それに近い距離を直線だとは…。
「この程度で驚いていてはいけないよ? コースの下見はやめといた方がいいかもねえ?」
なにしろ五千八百メートル、と聞かされて絶句。そんな下見は結構ですとも、走る人だけで行って下さいです~!
マツカ君のお父さんが用意してくれた人力車。何処の観光人力車かという立派なものが二台、交換用のタイヤなどもピットに揃っています。八時間も走ればタイヤ交換も必要かもで、そのための工具も置いてあり…。
「教頭先生、人力車の整備なんかが出来るわけ?」
ジョミー君が首を捻って、「さあ?」と同様の私たち。教頭先生はキャプテンと一緒にコースの下見に出掛けていました。会長さんとソルジャー、人力車に乗る「そるじゃぁ・ぶるぅ」と「ぶるぅ」も一緒に出掛けましたし、いやはや、皆さん健脚としか…。
「下見だけでも疲れそうだよな?」
サム君がだだっ広いサーキットを眺め、マツカ君が。
「コースは傾斜もありますしね…。ぼくやキースは柔道部で鍛えてますから、走れない距離ではないんですけど」
「マジかよ、こんなの走れるのかよ!?」
「合宿の時は十キロくらいは走ってますよ」
「「「…十キロ…」」」
想像のつかない距離でした。マツカ君でも十キロ走れると言うんだったら、五千八百メートルくらい、と一瞬、考えかけたのですけど。教頭先生とキャプテンが走るコースにゴールは存在しないのでした。レースが終わる八時間後まで同じコースをひたすらグルグル。
「…八時間あったら、どのくらい走れるんだろう?」
ジョミー君の素朴な疑問に答えを返せる人材は皆無。市民マラソンとかなら既定のコースを八時間かかって走り切る人もいるでしょうけど、人力車を引いてのレースだなんて…。
「周回距離を競うんでしたっけ? 教頭先生とキャプテンとで」
シロエ君が確認し、みんなで「うん」と。
「八時間の間に何周出来たか、多かった方が愛が深いとか言ってましたね…」
「うん、言ってた」
確かに言った、とジョミー君。その台詞を吐いていた人は会長さんではなくてソルジャー。昨日の壮行会でキャプテンにそう言って発破をかけてましたっけ…。
「もしもキャプテンが教頭先生に敗北したらさ、どうなるんだろ?」
「怖いこと言うなよ!」
死ぬぜ、とサム君がジョミー君を窘めました。
「俺もよ、体力的には教頭先生の勝ちじゃないかと思うんだけどよ…。有り得ねえだろ、それだけはよ」
バカップルだけに何か秘策がある筈だ、という鋭い読み。あのソルジャーが愛の深さで負けたがるとは思えません。レースに参加を言い出した以上、勝ちに来るかと…。
「ということはさ、教頭先生、負けるんだ?」
「「「うーん…」」」
それこそ会長さんの狙い通りの結末ですけど。ジョミー君の予言は当たるのかな?
私たちがピットで騒いでいる間に下見を終えた教頭先生たちが戻って来ました。人力車レースを始める前にまずは着替えということで。
「…これを着るのか?」
「そして、この笠を被るのですか?」
教頭先生とキャプテンの姿は何処から見ても見事なコスプレ。人力車夫というヤツです。足元だって靴ではなくて地下足袋。慣れない衣装に途惑いながらも人力車がスタート地点に引き出され、「そるじゃぁ・ぶるぅ」と「ぶるぅ」が乗車。冬ですから二人とも分厚い膝かけ。
「用意はいいかい? ピットイン出来るのは其処だけだからね、それ以外の場所でクラッシュした時は自力で戻って来られなかったらリタイヤだから!」
会長さんが声を張り上げ、ソルジャーも。
「ハーレイ、期待してるよ、ピットイン! 華麗なキスで決めてよね」
「ええ。あなたを乗せて走れるように頑張ります!」
キャプテン、大いに意気盛ん。乗客としては「ぶるぅ」の方が軽くて遙かにマシな筈なのに、ソルジャーを乗せて走る気です。もちろん教頭先生も…。
「ブルー、私がキスをキメたら、お前が乗ってくれるのだな?」
「そうだよ、次のピットインまで乗って行くから!」
ついでにピットインでもう一度キスを決めたら次もそのまま乗ってるから、と会長さんの艶やかな笑み。教頭先生は頬を赤らめ、「是非乗ってくれ」と照れておられて…。
「はい、二人とも並んで、並んで!」
会長さんが二台の人力車の位置を確かめ、午前八時ちょうどにレース開始の号砲が。八時間後にレース終了のチェッカーフラッグが振られるまでの耐久レースがスタートです。
「かみお~ん♪ しゅっぱぁ~つ!」
「うわぁーい、しゅっぱぁ~つ!」
乗客二人の声が重なり、二台の人力車はエッホエッホと掛け声こそはかからないものの、直線コースを軽快に走ってぐんぐん遠ざかってゆき…。間もなく最初のコーナーを曲がり、私たちの視界からすっかり消えてしまったのですが。
「…なんだか、意外に速くない?」
キャプテンが、とスウェナちゃん。
「教頭先生が速いというのは分かるわよ? でも、キャプテンは運動は…」
「だよね、あんなに飛ばして行っちゃって大丈夫かな?」
一周だけで五千八百メートルだけど、とジョミー君が呟く側から、妙な言葉が。
「狙い目は第二コーナーとS字カーブで、ヘアピンカーブも充分いける。ストレートは誤魔化しが効かないからダメだね、補助が限界」
「「「は?」」」
怪しい台詞の主はソルジャーでした。私たち全員の注目を浴びたソルジャーは。
「うん? 今の台詞の意味かい? ぼくのハーレイが距離を稼げそうな場所を羅列しただけ」
今は第一コーナーに居る、と微笑むソルジャー。
「こっちのハーレイとの距離は順調に開いているから、第二コーナーで一回目の瞬間移動かな。それで稼いで、何処まで飛ばすか…。やりすぎるとバレるし、ヘアピンカーブを抜けたトコかな」
「「「え?」」」
「だから瞬間移動だってば、人力車ごとコースの先に飛ばすわけ。こっちのハーレイを余裕で引き離すことが出来るんだけれど、速過ぎてもズルがバレるしねえ?」
そこそこの距離を保って飛ばす、とソルジャーは一周目にして既に勝負に出ていました。
「ついでにぼくのハーレイが速く走れる理由もサイオンだから! ぶるぅは重石のつもりで乗っかってるけど、ハーレイに負荷はかかっていない。人力車の重みもゼロなんだよね」
引いて走るポーズが少々負担になる程度だ、ということは…。キャプテンは普通にジョギングしているような感じで、教頭先生だけが人力車つきの走行ですか?
「そんなトコだね、こっちのハーレイに勝てさえすれば余裕だしねえ?」
一周走って戻って来る度にピットインだ、とソルジャー、ニヤニヤ。
「ゆっくり休んで、こっちのハーレイの姿が見えたらピットアウト! そして直線コースを抜けたら、第一コーナーから瞬間移動で飛ばすのもいいねえ…」
思い切り最終コーナーまで、と恐ろしい言葉が飛び出しました。其処で休憩、教頭先生が見えなくなったら走り始めてピットイン。つまりキャプテン、走り出した最初の一周目だけは何キロか走るかもしれませんけど、それ以降は殆ど走らない…とか?
「決まってるじゃないか! ぼくを乗せての愛の走行も瞬間移動でガンガン稼ぐよ、こっちのハーレイと並走している間を除けば、もうガンガンと!」
「「「………」」」
教頭先生に勝ち目ゼロなのが見え見えなレース。あっ、キャプテンが戻って来ました、早々にピットインですか~!
足取りも軽く人力車を引き、ピットインしてきた余裕のキャプテン。所定の位置に人力車を停めると、出迎えのソルジャーの手の甲に恭しくキスをして…。
「ブルー。これで次はあなたを乗せられますね?」
「もちろんだよ。寒風吹きすさぶサーキットを二人で熱く走ろう」
固く抱き合い、情熱のキスなバカップル。寒風も何も、実はシールドしてるんじゃないか、と疑いの目を向けた私たちに。
「えっ、シールド? 基本の中の基本だろ、それ」
ソルジャーが答え、会長さんが。
「こっちのハーレイはシールドどころじゃないけどねえ? もう汗だくで走っているし…。おっと、そろそろ帰って来るかな」
どれ、と眺めれば最終コーナーを曲がって来る人力車が見えました。ピットインせずにもう一周はキツそうな感じの走りです。ソルジャーはニンマリ、会長さんはニンマリニヤニヤ。
「さてと、こっちのハーレイがピットインしたら出発だよ?」
「ええ、ブルー。愛の人力車で出発ですね!」
どうぞ、とキャプテンが「ぶるぅ」が降りた後の人力車にソルジャーを乗せて膝かけを。バカップルがイチャイチャ語り合う間に教頭先生が必死の形相で走り込んで来て、入れ替わりに出てゆくソルジャーを乗せた人力車。
「…お、遅れを取ってしまったか…!」
だが頑張る、と教頭先生、人力車を停めて会長さんに駆け寄り、片膝をついて白い手の甲に恭しくキスを。
「ブルー、人力車に乗ってくれるな?」
「いいけど…。君の愛はイマイチ足りないようだね、まさかこんなに遅いだなんてね?」
「いや、頑張って取り返す!」
こうしてはいられん、と特製ドリンクをグイと飲み干し、会長さんが乗り込んで一周目よりも重量を増した人力車を引き出す教頭先生。ソルジャー夫妻の人力車はとっくの昔に見えません。恐らくソルジャーが言っていたとおり、直線コースを抜けるなり瞬間移動でズルを…。
「行くぞ、ブルー! あいつらに追い付け、追い越せだ!」
「頼もしいねえ、頑張ってね?」
行って来るね、と軽く手を振って会長さんは人力車に乗って走り去りました。
「かみお~ん♪ 行ってらっしゃ~い!」
遠ざかってゆく人力車。さて、と振り返れば最終コーナーにソルジャー夫妻の人力車が。もはやズルなんてレベルではなく、インチキだとか言いませんか?
ソルジャー夫妻のズルい工作に気付きもしない教頭先生は頑張りました。キャプテンが引く人力車に滅多に「ぶるぅ」が乗っていないせいで、負けていられないと更に闘志に火が点いて…。
「ブルー、の、乗ってくれるな、今度も続けて!」
「遅い人力車は嫌いなんだけど、約束だしねえ…」
キスをされたら仕方ないか、とピットインの度に会長さんが乗り込むのですから、人力車の重さは常にMAX。それを「うおおお~っ!」と引いて突っ走る教頭先生、身体にガタが来ないわけがなく、次第次第に屁っ放り腰に…。
「ハーレイ、そろそろヤバくないかい?」
「いや、まだまだ!」
腰を庇いながらタイヤ交換をしている教頭先生に会長さんが話しかけたものの、レースを放棄する気は無いようです。手許が覚束ないタイヤ交換、腰がヤバイとなかなか上手くいかなくて…。
「こんにちは~!」
「おや、ついに周回遅れでらっしゃいますか?」
ソルジャー夫妻がピットイン。タイヤ交換でモタついている教頭先生を他所にイチャイチャベタベタ、食料と愛の栄養補給を済ませて「お先~!」と出て行ってしまい。
「…に、二周遅れなど…。断じて二周遅れなどは…!」
取り戻す! と立ち上がった教頭先生の腰の辺りでグキリという音。「うぐぅっ!」という呻き声と額の脂汗とで、何が起こったかは誰の目にも一目瞭然でしたが。
「…あ、あと残り三時間なのだ…!」
こんな所で倒れてはおれん、と教頭先生は必死の形相で人力車を。
「い、行くぞ、ブルー! 私は八時間走るのだ! 耐え抜いて愛を咲かせるのだ…!」
「はいはい、分かった。寒いけど付き合ってあげるよ、だだっ広いコース」
恩着せがましく言う会長さんが寒風避けにシールドを張っていることも、貼るカイロ多数装備なことも私たちは知っていましたが…。
「…八耐だし、これでいいんだよね?」
ノロノロと去ってゆく人力車をジョミー君が見送り、キース君が。
「どうだかな…。伝説のレッドフラッグを俺たちが振る羽目になるかもな?」
「「「レッドフラッグ?」」」
何ですか、それ?
「知らんのか? 昔、本物の八耐の日に台風が来たと聞いている。それでもレースはスタートしたんだが、六時間の時点で打ち切りになった。しかし勝者は其処で決まった。その時にチェッカーフラッグの代わりに振られた旗がレッドフラッグだったんだ」
一応、用意はしてあるようだぞ、とキース君が指差す先にクルクルと丸められた旗。チェッカーフラッグだとばかり思ってましたが、ホントだ、赤いのも置いてあるんだ…。
「…どうするんだい、レッドフラッグ」
振るのかい? とソルジャーがキャプテンとイチャつきながら尋ねて来ました。
「こっちのハーレイ、どう見ても腰が思い切り終わっているけどねえ?」
「先ほど追い越す時に見て来たのですが、相当に悪化しているようですよ」
心配です、とキャプテンも。
「私の愛はブルーに充分に確かめて貰って満足ですし…。レッドフラッグを振って下さっても」
「うん、ぼくたちは全然かまわないんだけど、こっちのハーレイのプライドがねえ…」
「いえ、腰は男の命です! プライドよりも腰が大切です!」
「こっちのハーレイ、その腰の出番が無いからねえ…」
レッドフラッグでレース打ち切りより、壊れてもいいから八耐だろう、と言うソルジャー。私たちもそれが分かってますから、レッドフラッグを振れないわけで…。
「どうしよう…。今度、教頭先生の人力車が来たら振ることにする?」
「俺は御免だ、恨まれたくない」
「ぼくも嫌ですよ!」
そんな調子でレッドフラッグを振れないままに、教頭先生はクラッシュしました。人力車が壊れたわけではなくて、教頭先生の腰がクラッシュ。一歩も動けなくなったらしい教頭先生をコースに置き去りにして会長さんが瞬間移動で戻って来ると。
「八耐どころかクラッシュねえ…。ぼくのハーレイへの愛もクラッシュってね」
「そんなもの、最初から無いんだろうが!」
噛み付くキース君に、会長さんは悠然と。
「ううん、たっぷりと人力車に乗ってあげたしねえ? 寒風の中でサーキットコースに二人きり! あれが愛でなければ何だと!」
だけどゴールも出来なかった上に、バカップルに負けたからには愛もクラッシュ、と冷たい笑みが。ところで教頭先生は何処でクラッシュなさったんですか? 救護班を出さなきゃですから、それだけは教えて下さいです~!
人力車で走れ・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生がクラッシュなさった、人力車レース。なんともハードなレースでしたけど…。
伝説のレッドフラッグの話は本当です。振るべきでしたかね、レッドフラッグ?
今月は月2更新ですから、今回がオマケ更新です。
次回は 「第3月曜」 6月19日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、6月は、キース君を御用達にするという話が持ち上がり…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(ふうむ…)
懐かしいな、とハーレイは食料品店の店先を眺めた。
週末、ブルーの家まで歩いて出掛ける途中に通り掛かった馴染みの店。表に群れた子供たち。
(俺もガキの頃には、あんなだったかもしれないなあ…)
綿菓子の実演販売中。砂糖の糸をふわりと纏めて雲のような菓子に。
ワッと歓声が上がったと思えば、白かった糸がピンクに変わった。店主が手にした棒にピンクの糸が見る間に巻き付き、ふんわりとした雲の出来上がり。
「ピンク、ちょうだい!」
「次は白がいいな!」
賑やかに騒ぐ子供たちを見ていたら、ふと蘇って来た遠い記憶。
遥かな昔に、白い鯨でこの菓子を見た。シャングリラを取り巻く雲海の雲を切り取ったような、ふわりと大きく膨らんだ菓子を。
(うん、綿菓子は人気だったな)
出来上がる過程を目を輝かせて見学していた子供たち。雲の菓子を手にしてはしゃいだ子たち。
シドも、リオも、ヤエも船に来た頃には綿菓子を食べた。
アルテメシアから救い出した子たちに人気を博した、シャングリラの菓子。
これは買わねば、と綿菓子の実演に群がる子たちをかき分けるようにして近付いた。食料品店の店先に設けられた小さな仮設の店の前に。
「一つ下さい」
白いのでいいな、と出来上がった綿菓子を詰めた袋を指差した途端に掠めた記憶。
(そうだ、綿菓子は一つではなくて…)
袋を取ろうと手を伸ばした店主に言い直した。
「いえ、二つ入りの方をお願いします」
「二つ入りね!」
どうぞ、と差し出された綿菓子入りの大きな袋。それは驚くほどに軽くて、空気のようで。
代金を支払い、袋を抱えて歩き出す。
ブルーは覚えているだろうかと、あの白い船の綿菓子を…、と。
秋晴れの空の下、懐かしい記憶に目を細めながら綿菓子の袋を抱いての散歩。
生垣に囲まれた家に着いて門扉の脇のチャイムを鳴らすと、二階の窓から手を振るブルー。手を振り返して、門扉を開けに来たブルーの母に綿菓子の袋を示して見せた。
「綿菓子を買って来ましたから」と、「お茶にはあまり合わないでしょうが」と。
「まあ、綿菓子…! ブルーも小さい頃にはよく食べましたわ」
でも、あの子。あまり沢山食べられる方ではありませんでしょ、綿菓子だっておんなじですの。
小さいのになさい、って止めても「食べられるから」って聞かなくて…。
普通の大きな綿菓子が欲しいと買っては必ず食べ切れなくって、私か主人が食べてましたわ。
「分かる気がしますよ、ブルー君は見かけに似合わず強情ですしね」
「そうですの。今から思えば、ソルジャー・ブルーだったせいかもしれませんわね」
今のあの子は甘えん坊の弱虫ですけど、元はソルジャー・ブルーですものね。
意志が強くないと務まりませんわよね、ソルジャーなんて。
ハーレイ先生も色々と苦労をなさったんでしょうね、キャプテン・ハーレイでいらした頃に。
こうだと言ったら譲らないソルジャー・ブルーにあれこれ振り回されて。
「ええ、まあ…。そういったことが無かったと言ったら嘘になりますね」
ソルジャー・ブルーも強情でしたよ、おまけに無茶をしてくれるんです。私がどんなに駄目だと止めても、一旦決めたら飛び出して行ってしまうんですよ。
最たるものがメギドだったな…、と苦笑しながらブルーの部屋に案内されて。
ブルーの母が「紅茶でよろしかったかしら?」とお茶のカップとポットだけをテーブルに置いて去った後、ハーレイは綿菓子の袋を掲げてみせた。
「ほら、土産だ。来る途中で売っていたからな」
「綿菓子?」
「ああ。お母さんに聞いたぞ、お前、綿菓子、好きだったってな」
デカイのがいいと言って聞かなくて、食い切れなくて。お父さんかお母さんが食べてたってな?
「そうだけど…。だって、大きいのが欲しいじゃない!」
小さい綿菓子も頼めば作って貰えるけれども、それじゃワクワクしないんだもの。
ちゃんと大きな綿菓子でないと、雲を食べてるような気分にならないんだよ…!
「なるほど、雲なあ…。小さいと雲って感じじゃないなあ、綿菓子はデカイ雲でなくちゃな」
今のお前だったら食べ切れるだろう、このサイズでも。
俺とお前と、一個ずつだ。
二個入っているが、どっちにする?
このとおり、どっちも大きさは似たようなサイズのものなんだがな。
袋から引っ張り出した二つの綿菓子は、まだふんわりと膨らんでいた。出来立ての砂糖の糸から作り上げたように、たっぷりと空気を中に含んで。
左右の手に一つずつ持ってブルーに選ばせ、残った方を一口齧れば舌の上で甘く溶けてゆく。
ブルーもパクリと齧り付いているから、笑みを浮かべて尋ねてやった。
「懐かしいだろ、綿菓子の味」
「うん! パパとママに買って貰っていたのと同じ味だよ、フワフワしてて」
今のぼくなら食べられそうだよ、これ一個、全部。
お腹一杯になってしまってハーレイに「食べてくれる?」って渡さなくても、大丈夫みたい。
「そいつは良かった。しかしだ、お前…」
懐かしいのはガキの頃に食った思い出だけなのか、この綿菓子。
他にも何か忘れちゃいないか、こういう綿菓子の記憶ってヤツを?
「えっ、綿菓子の記憶?」
なんだろ、ママから何か聞いて来た?
食べ切れなかった話の他にも、綿菓子の話、あるのかな…。幼稚園かな、それとも学校?
下の学校でも小さかった頃は綿菓子を買って貰っていたしね。
ママがハーレイに教えたくなるような綿菓子の話、どんな酷いのがあるんだろ…?
「おいおい、一人で二つ食おうとしたとか、そんなのはあるかもしれないが…」
白もピンクも両方欲しい、と欲張った挙句にお父さんとお母さんに食べて貰う羽目になったかもしれんが、俺は全く聞いていないぞ?
俺が言うのはもっと前の記憶さ、前のお前の思い出は無いかと聞いているんだ。
シャングリラだ、あの白い鯨で子供たちが食ってた綿菓子なんだが。
「ああ、シャングリラ…!」
思い出したよ、あったね、綿菓子。
ハーレイが買って来てくれた綿菓子みたいに袋に入ってお店に並んじゃいなかったけど…。
欲しい子の数だけその場で作って渡していたけど、シャングリラにも綿菓子、あったんだっけ!
白い鯨にあった綿菓子。楽園という名の船の綿菓子。
砂糖を熱して溶かしさえすれば、簡単に作れる菓子だったから。
大きく膨らんだ砂糖の糸の菓子は、特別な材料を揃えなくても出来上がる上に、作る過程も見た目も子供たちの心をくすぐり、充分に惹き付けるものだったから。
シャングリラで子供たちを育てるようになって間もなく、ゼルが作った。
ヒルマンが調べた情報を参考に、アッと言う間に製造用の機械を完成させて。
子供が大好きだったゼル。その子供たちに人気だった綿菓子。
綿菓子を作ろうと最初に言い出した者はエラだった。
アルテメシアの育英都市から救い出して来た子供たち。誰もが心に深い傷を負っていて、人類を恐れていたけれど。殺されそうになった記憶に怯えていたけれど、それでも暮らした町が恋しい。養父母が恋しい子供も居た。誰が自分を通報したのか、何も知らずに船に来たから。
彼らの心を解きほぐすために、あれこれ工夫がなされたけれど。
楽しい思い出を引き出してやろう、とエラが挙げたのが綿菓子だった。
アルタミラで檻に閉じ込められていた自分たちは子供時代の記憶を失くしたけれども、その後に色々と学んで来たから子供時代がどういうものかは知っている。
養父母と暮らして、友達と遊んで、時には遊園地などにも出掛けて行って。
そうして過ごした日々の中には、きっと綿菓子があるに違いないと。目の前でふんわりと膨らむ甘い砂糖菓子がきっと、焼き付いているに違いないと。
「綿菓子ねえ…」
美味しいのかい、とブラウが訊いた。長老たちが集まる会議の席で。
「ただの砂糖じゃないのかい? そいつの糸だろ、甘いってだけじゃないのかねえ…」
「そうは思いますが、でも…。綿菓子について語っている本は多いのですよ」
雲を綿菓子のようだと描写した本も沢山あります、愛されている砂糖菓子だと思います。
大人しかいない星でも作っているようですから、マザー・システムも消さないで残す子供時代の記憶の一つでしょう。きっと心に残るお菓子なのです、私たちは忘れてしまいましたが。
「ほほう…。成人検査でも消さん記憶か、それは一見の価値があるのう」
いや、一食と言うべきか。わしらも食べてみたいものじゃな、綿菓子とやらを。
それはどういう仕組みなんじゃ、とゼルが一気に乗り気になった。砂糖を糸にする機械とやらを自分が作ってみるのもいいと。
「一応、調べてはみたのだがね」
こんな具合だ、とヒルマンが既に調べてあった情報。ゼルは渡された資料にザッと目を通して、「よし」と大きく頷いた。
「これなら直ぐに作れるじゃろう。製造機はわしに任せておけ」
しかし、問題はその先じゃのう…。砂糖の糸が出来たからと言って、大きく膨らんだ菓子の形に仕上がるわけではないようじゃ。この資料にも書いてあるとおり、熟練の技が要るようじゃぞ。
ゼルは早速、綿菓子にするための砂糖の糸が吹き出す機械を作ったけれど。
熱せられて糸になった砂糖を綿菓子の形に仕上げるまでが大変だった。芯になる棒に巻き付ける速度が早すぎれば糸は固くくっつき合ってしまって綿にはならない。遅すぎても形が崩れて失敗。
試行錯誤を繰り返すゼルと、甘い糸を紡ぎ続ける綿菓子製造機と。
「あれの試作の段階でだな…」
俺たちにもお鉢が回って来ていただろうが。今日の綿菓子はこういう出来だと、まだまだ改良の余地があるが、と。
「よく食べたっけね、ゼルの綿菓子」
食べ物を無駄には出来ないから、って届けて来るんだ、ぼくの所に。
「下手くそなのをな」
メンツにかけて他の仲間たちには見せられん、と俺たちの間だけで処分しようとしやがって…。
他のヤツらも動員してれば、俺たちが綿菓子を食わされる回数、もっと減ってた筈なんだが。
綿菓子作りの日々は続いた。
大きく膨らんだ綿菓子に仕上げるコツを、甘い糸を紡ぐ機械を作り出したゼルが掴むまで。
その次はヒルマンが技をマスターするまで。
子供たちの教師という役割を担うヒルマンもまた、子供たちの前で失敗は許されないとばかりに綿菓子作りに熱中したから、失敗作の綿菓子が出来ては長老たちに配られていて…。
「ふふっ、青の間でしょっちゅう綿菓子」
膨らみ方が足りないのだとか、ふわふわすぎて形が崩れたのとか…。
飽きるくらいに綿菓子を食べたよ、ゼルとヒルマンが作った失敗作をね。
「お前が食うと言うからだろうが!」
ぼくも食べるよと、ハーレイの分と二人分を寄越してくれれば二人で食べると。
そうすれば失敗作を食べる人間が増えるし、心置きなく綿菓子作りを練習出来る、と!
ハーレイの仕事だった、青の間へ綿菓子を運ぶ係。
失敗作の綿菓子の存在は極秘事項で、長老たち以外に知られるわけにはいかなかったから。
ゼルが作っていた綿菓子は次第に膨らみ、ついには完成品が届いたけれど。
その翌日からは製造係がヒルマンに移って、再び失敗作の日々。膨らみ過ぎて頼りないものや、芯の棒に固く巻き付いてしまって半分飴になったものやら。
そういった綿菓子がコッソリと袋に詰められてハーレイに託される。二人分だと、ソルジャーと二人で食べてくれと。
袋を手にして青の間へ行けば、ブルーが待っていたけれど。
まだ恋人同士ではなかったブルーが、お茶を淹れて待っていたのだけれど。
「紅茶にもコーヒーにも合わなかったな、あの綿菓子は」
今日も、お前のお母さんが紅茶を淹れては下さったんだが…。
どうも合わんな、先に綿菓子、食っちまうか。
「うん、綿菓子はお茶を飲みながら食べるようなお菓子じゃないよね、ホントに」
綿菓子だけで食べてこそだよ、甘くてふわふわ。
お茶なんか飲んだら口の中で飴になってしまうよ、すっかり溶けてくっついちゃって。
ソルジャー・ブルーも失敗作の処分に協力していた綿菓子作り。
失敗作が幾つも青の間に運ばれ、やがてヒルマンもゼルに負けない腕前になった。試作の段階が過ぎた綿菓子は機械ごと公園で大々的にお披露目されて、子供たちの歓声がブリッジにまで届いたほど。
エラの読みは全く間違っておらず、子供たちは皆、顔を輝かせて綿菓子を食べた。
とても懐かしいと、この綿菓子が好きだったと。遊園地や公園で買って貰ったと、友達と一緒に買いに行ったと、地上に居た頃の思い出に浸って砂糖の糸の雲を頬張った。
人類はとても怖いけれども、綿菓子を食べていた頃は幸せだったと、その綿菓子がまた食べられるとは思わなかったと。
綿菓子は子供時代の思い出を失くした仲間たちにも人気が高くて、作ってみたいと言い出す者も多かった。何人もの仲間が綿菓子作りを習い始めて、見事に作れる人材も増えた。
綿菓子製造機は普段は厨房に置かれ、賑やかにやりたい時は公園や天体の間に運ばれた。
雲のような綿菓子が幾つも幾つも、作られては皆に笑顔を運んだ。
シャングリラを取り巻く雲海の雲が綿菓子だったら美味しいだろうと言い出す者やら、あの雲も実は甘いのだ、と子供たちに嘘を教える者やら。
綿菓子はシャングリラの砂糖菓子の定番になって、子供も大人も綿菓子を食べた。これといった行事が無いような時も、作れる腕前の持ち主がいれば頼んで気軽に。
綿菓子を一つ作って欲しいと、食べたいから大きいのを一つ、と。
白い鯨に綿菓子があるのが当たり前になって久しい頃。
救出されて間もない子供が落ち着かない時は、誰かが綿菓子をクルクルと作ってやるのが普通の流れになった頃。そうすれば子供は目を丸くすると、自分が置かれた境遇を暫し忘れるものだと、皆が覚えて実践するようになっていた頃。
「お前が綿菓子を注文したんだ、デカイのを一個、と」
大きいのがいいと、顔が見えないほどに大きい綿菓子が一個欲しい、と。
「そうだっけ?」
ぼく、綿菓子なんかを頼んでいたかな、ハーレイに?
「間違いない。ブリッジで仕事中だった俺に思念でな」
仕事が終わったら一つ頼むよと、青の間まで一個持って来て、と。
とんだ夜食だと思ったけれども、他ならぬブルーの注文だから。
その日の勤務を終えたハーレイは厨房に寄って、綿菓子を作れるスタッフに特大を一つ頼んだ。それを袋に入れて貰って、運んだハーレイ。青の間まで運んで行ったハーレイ。
ブルーは笑顔で待っていた。
この綿菓子を二人で食べようと。
「二人で…ですか?」
「そう、二人で。君とぼくとの二人分だから、特大を注文したんだけれど…」
大きな袋に入っているから、注文通りの綿菓子が出来たみたいだね。
ハーレイ、今日も一日お疲れ様。甘いものは疲れが取れると言うから、君もこれを食べて。
「そういう御注文だったのですか…。ありがとうございます」
では、喜んで頂戴いたします。
最初から二人分だと仰って下されば、二人分で作らせましたのに…。
ソルジャーが遠慮なさらなくても、綿菓子作りが大好きな者が厨房には何人もおりますからね。二つだと頼んでも直ぐに作ってくれますよ。
それどころか、二つ頼まれた方が大喜びかもしれません。腕を奮うチャンスが二回ですから。
次からはどうぞ御遠慮なく、と告げてキッチンへ皿を取りに行こうとしたハーレイ。
青の間の奥には小さなキッチンがあるから、其処から綿菓子を取り分けるための皿とフォークを取って来ようと。
しかし、そのハーレイをブルーが止めた。それは綿菓子の食べ方ではないと。
「こんなに見事に膨らんでるのを切り分けるだなんて、間違っているよ」
綿菓子はお皿やフォークを使って食べるものじゃないと思うんだけどね?
「では、どうやって…」
そういったものを使わないなら、どうやって分ければいいんです?
まさかサイオンで少しずつ千切って食べるとか、そういう風にするのでしょうか?
「いいから、これ。君が持ってて」
「はあ…」
持つのですか、私が綿菓子を?
それは一向にかまわないのですが、どうやってこれをお召し上がりになるつもりですか…?
ブルーと向かい合わせで座るように促され、間に挟んだ小さなテーブルの真ん中辺りで持つよう言われた綿菓子。テーブルの上に立てるような形で綿菓子を持っているように、と。
どういう意味だか分からないまま、ハーレイは綿菓子の棒を握っていたのだけれど…。
「これはね、こうやって食べるんだよ」
ブルーが上半身を傾け、ハーレイが持っている綿菓子を齧った。
自分の手などは添えることなく、首だけを伸ばして桜色の唇を開けると甘い綿を一口。
口に含んだ綿が消えると、ブルーはペロリと唇を舐めて。
「ハーレイ、君はそっち側から食べて」
「なんですって?」
そっち側とは…。私の側から、この綿菓子を齧れという意味で仰いましたか?
私にも綿菓子を齧るようにと?
「そうだけど? この綿菓子は二人分だと言っただろう」
だから二人で食べるんだよ、これを。
ぼくはこっち側から食べていくから、君は自分に近い側から。
「…それでフォークも皿も要らないと…」
そう仰ったのですか、綿菓子はこうして齧るものだと。
確かに正しい食べ方だろうとは思うのですが…。マナーの点からは些か問題があるような…。
行儀が悪いと苦言を呈したものの、まるで聞く耳を持たないブルー。
仕方なく綿菓子に齧り付いたら、ブルーの顔がやたらと近い。
ブルーも食べようとしていたのか、と慌てて綿菓子から顔を離した。うっかり齧って鉢合わせてしまわないよう、タイミングを計って交互に食べようと思っていたら。
「同時に食べなきゃ駄目だろう!」
でないと公平に食べられないから、二人分を頼んだ意味が無くなる。
ぼくが齧っていようが、いまいが、君はそっち側から綿菓子を食べればいいんだよ!
とにかく食べろ、と向かい側のブルーに叱られた。
綿菓子は同時に食べてこそだと、二人で一緒に食べるものだと。
腹を括って食べ始めたものの、齧る度に減ってゆく甘い綿菓子。
最初は殆ど見えなかったブルーの顔が一口ごとに綿の端から覗き始めて、綿菓子の厚みも減ってゆく。白くふうわりと膨らんでいた雲が次第に薄らいでゆく。
ハーレイが、ブルーが齧り付く度に綿菓子は減って、近付いてくる互いの顔。
どんどん、どんどん、縮まる距離。
ブルーの顔はもう目の前と言った感じで、舌を伸ばせば舐め上げられそうなほどで。
(………)
もう食べられない、とハーレイは動きを止めたのだけれど。
綿菓子から顔を離したのだけれど。
「最後まで食べる!」
しっかり齧る、と叱咤されて綿菓子を食べようと首を伸ばしたら触れ合ってしまった唇。
柔らかなブルーの唇と重なってしまった唇。
甘い糸が間に入っていたからだろうか、ブルーの唇は文字通り甘い味がして。
初めて触れ合わせたというわけでもないのに、頬が真っ赤に染まってしまった。
その食べ方を強いた、ブルーの方も。
透けるように白い肌を襟元まで赤くしたブルーが唇に手をやって。
「…案外、恥ずかしいものだね、これは」
ここまで顔が赤くなってしまうとは思わなかったよ、まだ心臓がドキドキ音を立てているかな。
君の顔だってトマトみたいに赤いよ、きっと耳まで赤いんだろうね。
「…何だったんです、あの食べ方は?」
ああいう食べ方を続けていたなら、ああいった結末は容易に予測可能かと思われますが…。
私は想定しておりませんでしたが、言い出されたあなたは最初から御存知だったのでは?
「ちょっと、昔の資料を見ててね」
データベースで、ずうっと昔の資料をね。SD体制が始まるよりも遥かな昔の地球のデータを。
「地球ですって?」
そのデータには何とあったのでしょうか、このようなことをなさるとは…。
私には全く分からないのですが、データには何と…?
「…ん? ぼくが見付けた古い資料の話かい?」
バカップルというのがあったんだよ、とブルーは笑った。馬鹿とカップルを掛け合わせた造語。
そのバカップルと呼ばれるカップルたちは、こうやって綿菓子を食べていたらしい、と。
「バカップル…ですか?」
馬鹿と付くほど所構わず戯れ合うカップルという意味でしょうか、その言葉は?
あのような綿菓子の食べ方からして。
「うん。二人でジュースを同じ器からストローで飲む、というのもあったけれども…」
綿菓子が面白そうだったのだ、と微笑むブルー。
大きな綿菓子の向こう側から互いの顔がどんどん見えて近付いてくるのが楽しそうだから、と。
「綿菓子はそういう目的のために存在している食べ物ではないと思いますが!」
「まあね。明らかに違う存在だよねえ、綿菓子は」
子供たちのための食べ物だよね、とは言っていたけれど。
肩を竦めてみせたブルーだったけれど、その後も何度もやられたのだった。
綿菓子を一つと、大きな綿菓子を夜食に一つ持って来て欲しいと。
そうして綿菓子を運んでゆく度、繰り返される例の食べ方。
バカップルとやらの食べ方を真似た、二人で同時に齧って最後はキスな食べ方。
いくら恋人同士であっても、その食べ方はやはり気恥ずかしくて。
ブルーと唇を触れ合わせた後、深いキスへと雪崩れ込んでも、頬が赤らむのは止められなくて。
(…あれは本当に恥ずかしかったんだ…!)
誰も見ていないと分かっていたけれど、誰も周りにいなかったけれど。
大きな綿菓子をブルーがどうやって食べているのか、誰も訊いたりしなかったけれど。
(作って貰っている間、待っている俺がどれほど苦労したことか…!)
出来上がった綿菓子はブルーと二人で食べるのだから。同時に食べ始めてキスなのだから。
何も知らない厨房の者や腕自慢の者が甘い糸の雲を作っている間、何度いたたまれない気持ちになっただろう。赤く染まりそうな頬を「少し暑いか?」と誤魔化しながら押さえただろう。
それを幾度も繰り返した果てに、懲りて綿菓子を二つ持って行くようになった。
大きな綿菓子を一つ、と思念でブルーの注文が来たら、綿菓子を二つ。
ブルーは不満そうに唇を尖らせたけれど、「御注文の綿菓子をお持ちしました」と。
そして小さな今のブルーも。
土産に買って来た綿菓子を半分近くまで食べた小さなブルーも。
「ハーレイ、どうして綿菓子を二つ買って来たの!」
ぼくは綿菓子、大好きだけれど。
ハーレイは綿菓子なんかよりも普通のお菓子が好きなんじゃないの、綿菓子は頼りないものね。
もっとお腹に溜まりそうなお菓子が好きだと思うな、ぼくの綿菓子に付き合わなくても良かったのに。一個にしとけば、ハーレイのお菓子はママのケーキになったのに…。
「それはな…。一つだと、お前、ロクなことを思い出さないだろう?」
でもって俺に向かって妙なことを言うんだ、それが何かは俺は言わんが。
「思い出したよ!」
全部すっかり思い出したから怒ってるんだよ、どうして綿菓子が二つなの、って!
前のぼくも何度も怒った筈だよ、綿菓子は一つしか注文していないけど、って!
ハーレイは綿菓子を必ず二つにするんだ、ぼくが一個とお願いしたって!
綿菓子は一つで良かったのに、と膨れる恋人。
二つ買わずに一つだけ買って来てくれていれば良かったのに、と不満一杯の小さな恋人。
まだ十四歳にしかならないブルーと、あの食べ方が出来るようになるのはいつだろう?
大きな綿菓子を一つ、と二人で注文出来る日はいつになるのだろう?
いつか、その日が訪れたなら…。
「ハーレイ、今日は綿菓子、二つでも許してあげるけど…」
結婚した後に二つ買ったら、ぼく、怒るからね?
今度こそ綿菓子は一個あったらホントのホントに充分だからね…!
「分かっているさ。俺もその時は一個しか買わん」
お前が後ろで膨れていたって、赤くなっていたって、一個だけだ。
そいつを二人で食べるんだろうが、お前と俺とで綿菓子を一個。
「そうだよ、今度は本物のバカップルだよね?」
ぼくたちが恋人同士だってこと、誰に知られてもいいんだものね。堂々とバカップルだよね?
「うむ、バカップルだ」
綿菓子を買って正真正銘のバカップルと洒落込もうじゃないか、二人で一個の綿菓子だ。
お前が止めても一個しか買わん。
俺とお前で一個の綿菓子、うんとデカイのを頼んで作って貰ってな。
遠い昔に青の間で二人、コッソリと気取ったバカップル。
前のブルーがデータベースで見付け出して来た、馬鹿と呼ばれるほどの恋人同士。
バカップルという言葉自体は、遥かな昔に死語だけれども。
前の自分たちが生きた時代ですら、死語となってしまった言葉だったけども。
小さなブルーが大きく育ったら、またバカップルとして暮らしてみたい。
綿菓子を買うなら、二人で一個。
大きな綿菓子を一緒に齧って、最後はキスして終わる食べ方。
他にも甘い時間を沢山、沢山、ブルーと二人で幸せの中で。
今度は誰にも隠すことなく、何処へ行ってもバカップルになっていいのだから…。
綿菓子・了
※一つの綿菓子を、二人で食べていた前のハーレイとブルー。「バカップルらしく」と。
けれど今では、綿菓子は一人に一個ずつ。前と同じに食べられる日は、まだ先です。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ふうむ…)
似合うかもな、とハーレイは鳶色の目を細めて新聞のカラー写真を眺めた。
花屋の広告特集だけれど、結婚式用のブーケやフラワーアレンジメントなどを披露する広告写真だけれど。結婚式にはもちろん花嫁がいるから、花嫁のための生花の髪飾りも多数。
その中で目を引いた胡蝶蘭の飾り。結い上げた髪に胡蝶蘭が幾つも。
(あいつ、こういうのがいいかもなあ…)
夢は花嫁な小さなブルー。
「早くハーレイと結婚したいよ」が口癖の、十四歳にしかならないブルー。
今はまだ本当に小さいけれど。
百五十センチで止まったままの背丈も、年相応に幼い心も、まだまだ子供のものだけれども。
(いつかは前のあいつとそっくり同じに育つんだ)
気高く美しかったソルジャー・ブルー。前の自分が愛したブルー。
前の自分が失くしてしまった、あの美しいブルーがそっくりそのまま戻って来る。
憂いを秘めた瞳の色だけは、今度のブルーには無いだろうけれど。幸せ一杯の瞳を煌めかせて、ただただ嬉しそうに笑うのだろうけれど。
(あんな悲しい瞳は二度としなくていいんだ、俺がさせない)
今度こそ守ると決めているから。
どんな悲しみも憂いも近付けることなく、幸せの中で微笑むブルーを守り続けて生きてゆく。
小さなブルーが育ったならば。結婚出来る歳の十八歳を迎えたならば。
そうしたらブルーは、花嫁衣装を着ることになる。
前の生では着られずに終わった、花嫁だけが着られる衣装を。白いシャングリラには花嫁衣装と呼べるドレスは無かったけれども、挙式だけのための純白のドレスは無かったけれども。
(もしもウェディングドレスがあったとしたって、前のあいつは…)
けして着られはしなかった。前のブルーは花嫁衣装を着られなかった。
誰にも言えない秘密の恋人同士だったから。結婚式を挙げるわけにはいかなかったから。
白いシャングリラにも恋人たちはいたというのに、結婚式だってあったのに。
(子供が生まれたカップルだっていたのになあ…)
前のブルーは深い眠りに就いていたけれど、そんなカップルたちを起きて見ていたならば。
赤い瞳に悲しみの色がまた増えたろうか、自分は結婚出来ないのにと。
(前のあいつなら…)
恐らく、彼らを心の底から祝福していたことだろう。生まれた子供たちにも愛を注いで、キスを贈りもしただろう。新しいミュウの世代が出来たと、この子供たちが未来を築いてゆくのだと。
(自分の幸せってヤツは後回しだな)
結婚出来ないことも、恋人がいると明かせないことも、前のブルーなら悲しむことさえも忘れていたに違いない。自分が守り続けた種族の、ミュウの未来を担う子供たちが出来た喜びの前に。
(…そういうヤツだった、前のあいつは…)
ただひたすらにミュウのために生きて、ミュウの未来を守って散った。
メギドを沈めて、独りぼっちで暗い宇宙で逝ってしまった。別れのキスさえ交わすことなく。
(今度は幸せにしてやらんとな)
自分の心を押し殺すような生き方はさせずに、小さなブルーが望むままに。
どんな我儘でも言っていいのだと、何度も何度も言い聞かせてやって。
(結婚する頃には、もう小さくはない筈なんだが…)
それでも今はまだ、小さなブルー。育った姿を思い描こうにも、あまりに愛くるしいブルー。
だから想像するしかない。前のブルーの姿形から、憂いと悲しみの色とを消して。
(まずは結婚式なんだ)
花嫁衣装を纏ったブルーと永遠の愛を誓う式。
小さなブルーはウェディングドレスは女装なのかと悩んでいたこともあったけれど。
ハーレイが自分の母が着たのだと話してやった、白無垢にも憧れているようだけれど。
(ウェディングドレスを着るのなら…)
髪には花がいいかもしれない、と漠然と何処かで思っていた。
銀色の髪に、幾つもの花を。
具体的なイメージは何も無かったし、こういう花だと思ったわけでも無かったのだが、何故だか花を飾るのがいいなと考えている自分がいた。
煌びやかなティアラを被せるよりも。
ブルーには花だと、ティアラよりも花が良さそうだと。
繊細な銀細工のようなブルーに、ティアラはきっと映えるだろうけれど。
花嫁どころか姫君に見えることだろうけれど、ティアラよりも花。
(あいつには清楚な花が合うんだ)
美しいけれども、華美なイメージではないブルー。
それに、宝石よりも花だと思う。
ティアラに鏤められた宝石よりも、花。
命が無い上に豪奢で高価なだけの宝石などより、命の輝きの瑞々しい花。
銀細工のようでも、血の通ったブルー。温かい血が流れたブルー。
生きているブルーには花が似合うと、命あるものこそが似合うのだと。
(宝石なら顔にくっついてるしな?)
わざわざティアラを被せなくとも、ブルーが持っている何にも代え難い澄んだ光を宿す宝石。
二粒の真紅に光る宝石。
その片方がメギドで失われたと小さなブルーから聞かされた時は、どれほどの怒りがこみ上げたことか。あの美しい瞳を銃で撃つなど、悪魔の所業でしかないと。
(そんな最期を迎えただなんて、前のあいつが可哀相じゃないか)
右の瞳を失くしてしまって、痛みのあまりに右手に残った温もりさえも失くしてしまって。右の手が冷たいと泣きじゃくりながら死んでいったブルー。メギドに散ったブルー。
それを聞いた時、キースを引き裂いてやりたいほどに激しく憎んだ。同時に自分自身を呪った。
キースとは地球でまみえたというのに、彼を殴らなかったから。
キースがブルーに何をしたのか、前の自分はまるで知らなくて、律儀に挨拶してしまったから。
(知っていたなら、あの場で一発殴っていたんだ)
たとえ会談が後に控えていようと、自分の立場がキャプテンだろうと。
それくらいはしても許されたと思う。ブルーの仇、と殴り飛ばして、謝らせて。
(あくまでブルーの仇だしな…)
まさか恋人の敵討ちとは、誰も気付きはしなかったろう。殴ればよかった、あのキースを。
今となっては手遅れだけれど、キースは何処にもいないのだけれど。
キースが砕いてしまった宝石。美しかった赤い宝石。
その宝石は蘇ったから、小さなブルーの顔で生き生きと煌めき、命の輝きを放っているから。
(宝石はあれだけで充分なんだ)
余計なティアラなど被せなくても、二粒の赤い宝石だけで。
だから、飾るなら花がいい。銀色の髪に瑞々しい花を。
これだと思い描いたイメージは本当に何も無かったけれども、この胡蝶蘭。広告の胡蝶蘭の花。
幾つもパターンが載っているから、多分、定番なのだろう。花嫁のための髪飾り。
(ほほう…)
花言葉は「幸福の飛来」だという。それだけでも選ぶ価値がある。
花嫁になったブルーに幾つも、幾つもの幸福の飛来。それを願わないわけがない。
(おまけに、蝶だな)
蝶を思わせる花の形が気に入った。白いシャングリラにはいなかった蝶。自給自足で生きてゆく船で担う役目を持たなかったから、蝶は飼われていなかった。
(今の俺たちには蝶は見慣れたものなんだが…)
青い地球の上を舞う、様々な蝶。今の時代に生まれ変わったからこそ見られる蝶。
まるで平和の証のようだ、と胡蝶蘭の花の形に惹かれた。この花がいいと、蝶の花がいいと。
小さなブルーが髪飾りは花でもいいと言うのなら…。
(胡蝶蘭だな)
これがいいな、と広告の写真を覗き込んでは幾つものパターンを見比べる。
胡蝶蘭の髪飾りは白もあったけれど、ピンクもあった。淡いピンクや、濃いめのピンク。純白のウェディングドレスに合わせて、ピンクの胡蝶蘭の髪飾り。
(あいつらしい色の取り合わせだな)
アルビノに生まれて来たブルー。前の生では成人検査が引き金となってアルビノになったブルーだけれども、今のブルーは生まれた時からアルビノだという。
その姿ゆえに付けられた、ブルーという名。同じアルビノのミュウの長から取られた名前。
(生まれた時からソルジャー・ブルーだったんだ、あいつ)
記憶は無くとも、その姿だけで。ブルーの両親がブルーと名付けたほどに珍しいアルビノ。
透けるように白い肌に銀色の髪で、瞳はさながら赤い宝石。
そんなブルーに真っ白なドレス、髪にピンクの胡蝶蘭。
きっと似合うという気がする。誰もが思わず振り返るような、それは見事な色の取り合わせ。
(これにするかな)
ブルーにはピンクの胡蝶蘭だ、と思ったけれども。
ウェディングドレスのデザインなどはともかく、髪にはピンクの胡蝶蘭だとイメージが固まってしまったのだけれど。
しかし…。
(一人で決めちまってどうするんだ、おい)
花嫁になるのは、あくまでブルー。ウェディングドレスを纏うのもブルー。
その花嫁の意見も聞かずに決めるわけにはいかないから。自分一人では決められないから。
(あいつなら何でも喜びそうではあるんだが…)
夢が花嫁なだけに、どんなドレスでも、髪飾りでも、ブルーはきっと満足だろう。自分の花嫁姿などは二の次、大切なものは花嫁な自分。花嫁衣装を纏った自分。
(俺の趣味だけで全部決めても、文句を言いそうにはないんだが…)
それでも訊いてやらねばなるまい。どんな衣装を選びたいかと、髪の飾りは何にするかと。
明日は土曜日だから、ブルーの家に行く日だから。
話してみようか、このアイデアを。
髪にはピンクの胡蝶蘭だと、それが似合うと思うのだが、と。
翌朝、ベッドで目覚めた時にも胡蝶蘭を忘れてはいなかった。花嫁衣装のブルーにはこれだと、ピンクの胡蝶蘭が似合いそうだと。
朝食を食べて、ブルーの家まで歩く途中も忘れてしまいはしなかったから。
小さなブルーとテーブルを挟んで向かい合わせで腰掛けた後に、訊いてみた。
「お前、花がいいか?」
花ってヤツは好みか、お前?
「えっ?」
花は好きだけど、ハーレイ、いきなりどうしたの?
「髪の毛さ、髪」
お前の頭にくっつけるのに、花はどうかと思うんだがな?
「なんで花なの、ぼくの頭に?」
それじゃ女の子みたいだけれど…。花冠でもくれるの、ハーレイ?
「花冠なあ…。そういうのも混じっていたかな、うん。実は結婚式の話なんだが…」
「結婚してくれるの!?」
ハーレイ、それってプロポーズ?
結婚式の話だなんて、結婚の申し込みだよね…?
プロポーズなの、とブルーの顔が輝くから。
もう結婚が決まったかのように、それは嬉しそうに身を乗り出すから。
「いずれはな」と苦笑しながら、ハーレイは小さなブルーにこう話し掛けた。
「これはプロポーズとは違ってだな…。結婚式の中身の話だ、どんな格好をするかだな」
お前、ドレスを着るんだろう?
前に女装だと悩んじゃいたがだ、俺に抱き上げられた記念写真ってヤツを撮りたいんならドレスだからな。あのポーズ、お前の憧れなんだろ、如何にも幸せな花嫁っていう感じだしな?
「んーと…。ぼくは白無垢でもいいんだけれど…」
白無垢にもちょっぴり憧れるんだよ、ハーレイのお母さんが着たって話を聞いたから。どっちにしようか決めてないけど、早めに決めた方がいい?
「いや、急がないが…。もしもドレスにするんなら、だ。髪はどうする?」
「…伸ばさなきゃ駄目?」
ちゃんと結えるように伸ばすべきかな、そういう話もあったよね?
ハーレイ、うんと長さの要る髪型がいいって気がしてきた?
今から伸ばさないと間に合わないくらい、長く伸ばさなきゃ結えない髪型。そうなんだったら、ぼく、頑張って伸ばすけど…。パパとママには「伸ばしたくなった」って嘘をついて。
怪しまれないようにして長く伸ばすよ、と応じるブルーは健気だけれど。
伸ばせと言ったら腰までも伸ばしそうなほどの勢いだけれど、今は髪型の話ではないから。
ハーレイは「そうじゃなくてだ」と張り切るブルーを遮った。
「髪型じゃなくて、飾りの方だ。ティアラ、被るか?」
「…ティアラ?」
「冠だ、冠。ベールとセットで花嫁には要るぞ、でなきゃ花だな」
もちろん、花もベールとセットものだが…。ベールってヤツは欠かせないからな。
ベールはともかく、花かティアラか。どっちがいい?
お前はどっちを髪に飾りたいんだ、ティアラか、花か。
「えーっと…」
そんなの考えたことが無かったよ、ドレスか白無垢かは時々悩んでいるんだけれど…。
ティアラか花かって、ドレスのデザインで決まるんじゃないの?
ドレスにくっついてくるものじゃないの、髪飾りって?
キョトンとしている小さなブルーはまるで分かっていなかった。
世間の花嫁はドレス選びで大騒ぎすることも、それに合う髪型や髪飾りを選び出すために更なる騒ぎがあることも。まだ十四歳と幼い上に、男なのだから当然と言えば当然なのだが…。
ハーレイはクックッと小さく笑うと、「セットじゃないさ」と教えてやった。ドレスを選んでも髪飾りが決まるわけではないと。そうと決まったわけでもないと。
「これがセットになっております、ってドレスがあっても、必ず使えと決まっちゃいないぞ」
別のがいいと、これは嫌だと言い出す女性も多いんだ。自分の好みっていうものがあるからな。
そんなわけでだ、髪飾りはセットじゃないんだが…。お前、どういう飾りをつけたい?
俺は花かと思うんだがな?
「どうして?」
ぼくって花が似合いそうなの、頭に花なんかくっつけたことがないけれど…。
前のぼくなら、シャングリラの子供たちが作ってくれた花冠を何度も乗っけていたけどね。
「単なる俺のイメージってヤツだ」
ティアラよりも花が良さそうだよな、と思ったわけだな、単純に。
お前の顔には見事な宝石が二つもくっついているだろう?
頭の上にまで載せなくていいと、ティアラは要らんと思うんだが…。それよりも花だ、そっちの方がお前に似合いそうだ。造花じゃなくって本物の花がな。
こんなのはどうだ、とブルーの手に触れて思念でイメージを送ってやった。
胡蝶蘭で出来た髪飾り。広告で目にした幾つものパターン。
小さなブルーは目を丸くして。
「胡蝶蘭なの?」
綺麗だけど、ハーレイ、胡蝶蘭が好き?
「こいつのピンクが良さそうだな、と思ってな。ピンクを使ったヤツじゃなくて、だ…」
ピンクの胡蝶蘭がいいな、という気がするんだ。どう飾るかとは全く別にな。
「なんで?」
ハーレイ、ピンクが好きだった?
白が好きだと思ってたけど…。白はシャングリラの色だったしね。
「俺の好みの色はピンクじゃないんだがな?」
それなら車もピンクだろうさ、今の緑じゃなくってな。俺の好みとは無関係だ、これは。
いいか、ウェディングドレスが白だろう?
そこへピンクの胡蝶蘭の髪飾りをつければ、白にピンクでアルビノっぽくならないか?
アルビノのお前は白に赤だし、白にピンクが合いそうだがな?
「ホントだ…!」
ぼくの目の色、赤だものね。
真っ白な花を持ってくるより、ピンクの方が似合ってるかもしれないね…!
「そうだろう?」
ついでに、こいつの花言葉はな…。
「幸福の飛来」と言うんだそうだ。蝶の形だけに、幸福が飛んで来るんだな。俺はお前をうんと幸せにしてやりたいんだし、幸福が飛んで来る花で飾ってやりたい。
それにシャングリラには蝶なんか飛んでいなかったろう?
役に立たないと飼わなかったが、この地球じゃヒラヒラ飛んでいるってな。俺たちは蝶が住める平和な世界に来たんだ、そういう意味でも胡蝶蘭だな。
「それ、いいかも…!」
幸福が飛んで来る花で、シャングリラにはいなかった蝶の形の花なんだね。
その花がいいよ、胡蝶蘭にしようよ、ハーレイ!
胡蝶蘭に決めた、とブルーがはしゃぐ。
結婚式には胡蝶蘭だと、髪にピンクの胡蝶蘭の花を飾るのだと。
それに純白のウェディングドレス。白とピンクでアルビノらしくと、そういう花嫁姿がいいと。
「お前、白無垢はどうするんだ?」
ドレスか白無垢かで悩んでいたのは、もういいのか?
「それだけど…。白無垢でも髪飾りに花はつけられるでしょ?」
絶対ダメってことはないよね、綿帽子の下は好きに飾っていいんでしょ?
「確かにそういう写真もあったが…」
お前に送ったイメージ以外で、そんな写真を見かけたっけな。白無垢で髪に胡蝶蘭のな。
「じゃあ、決まり!」
ドレスか白無垢かはまだ悩むけれど、髪飾りはもう決まったよ。
ピンクの胡蝶蘭にするんだ、ハーレイのお勧めの胡蝶蘭の花。どう飾るかは決めてないけどね。髪飾りの形よりも衣装が先だし、それが決まってから悩むことにするよ。
「髪飾りって…。もう決めたのか!?」
そっちから先に決めちまったのか、花嫁衣装よりも髪飾りを先に決めるのか?
「少しでも早い方がいいじゃない」
順番なんかにはこだわらないしね、どっちが先でもかまわないよ。
それよりも結婚式の準備の方が大事で、出来ることは先にしておかないと。
準備するものが一つ決まった、とブルーは今にも舞い上がりそうで。
髪にはピンクの胡蝶蘭だと浮かれているから、ハーレイは呆れ顔になる。
「一つ決まったと喜ぶのはお前の勝手だが…。お前、明日には忘れてそうだが?」
結婚式はまだまだ先だし、お前は十四歳のチビだしな?
明日になったら綺麗サッパリ、影も形も無いんじゃないのか、ピンクの胡蝶蘭の髪飾りは?
「それはそうだけど…。覚えているかもしれないよ?」
結婚式の準備なんだよ、うんと大切なことだもの。髪飾りだけでも決まったんだもの、しっかり覚えておきたいな。ホントはメモに書きたいくらいなんだけど、まだ早いしね…。
「当たり前だ! お前、いくつだ!」
チビはチビらしくしてればいいんだ、結婚式の準備なんぞを始める歳じゃないからな!
間違ったってウェディングノートはまだ作るなよ?
「…ウェディングノート?」
なあに、それ?
何をするものなの、それも結婚式の準備をするのに要るものなの?
「な、なんでもない…!」
気にしなくていいんだ、チビのお前は。そういうのを持つにはまだ早いしな。
「持つって…。やっぱり結婚式には要るものなんだね、ウェディングノート」
教えてよ、それってどういうノートか。
普通のノートで間に合うものなら、今から作っておきたいような気もするし…。
ハーレイが教えてくれないんだったら、メモに書いておいてデータベースで探すことにするよ。
だから教えて、と言い出した小さなブルーは本気で調べそうだから。
調べるだけでは済まずにウェディングノートを自分で作りそうだから、ハーレイは焦って止めにかかった。ブルーには早いと、まだ早すぎると。
「いいな、ブルー。ウェディングノートは結婚式の準備をするためのノートなんだ」
どういう結婚式にするとか、誰を呼ぶとか、いつまでに何を決めなきゃいけないかだとか…。
スケジュール帳と覚え書きを兼ねたようなものだな、中身は実に細かいらしいが。
専用のウェディングノートも売られているし、自分で作ろうって人もいる。
だがな、いくら自分で作れるからって、ウェディングノートなんかを用意していて、だ。もしも見付かったらどうするつもりだ、お父さんとかお母さんに?
誰と結婚する気なんだ、って所から色々と訊かれちまうぞ、冗談では済まない代物だけにな。
「そっか…。夢中で書いてて、ママが入って来ちゃったら…」
何を書いてるのか、後ろからコッソリ覗き込みたくなるだろうしね、ママだって。
それで中身がウェディングノートだと分かっちゃったら、大変なことになっちゃうかも…。
取り上げられて、中身を読まれて。
ぼくがお嫁さんを目指しているのも、誰のお嫁さんを目指してるかもバレちゃうかもね…。
早くウェディングノートも作りたいのに、とブルーが残念そうに呟く。
決まったばかりのピンクの胡蝶蘭の髪飾り。
こういうアイデアも書いておきたいと、忘れないように書き留めたいのにと。
「せっかく一つ決まったのに…。結婚式の準備」
結婚式で髪に何をつけるか、とても素敵なアイデアが出来て決めたのに…。
ぼくはチビだから忘れちゃうんだ、書いておくウェディングノートも無いから。明日になったら覚えていなくて、思い出しさえしないんだ…。ピンクの胡蝶蘭の髪飾り…。
「なら、俺が書くか?」
「えっ?」
「ウェディングノートは持ってないがな、今の所は作る予定も無いんだが…」
あれは未来の嫁さんと一緒に作るものだし、お前が作れる歳にならんと無理なわけだが…。
ウェディングノートの代わりに、俺の日記に書いておいてやろうか?
お前の髪飾りはピンクの胡蝶蘭だと、胡蝶蘭の花に決まったとな。
「ホント!?」
ハーレイの今日の日記に書いてくれるの、ぼくの髪飾りが決まったこと。
結婚式にはこれにするんだ、って羽根ペンで書いてくれるんだね…!
「日記を書く時まで俺が覚えていたらな」
これから一緒に昼飯を食って、午後のお茶は庭のテーブルか?
そいつが済んだらお前の部屋でのんびりしてから夕食だよなあ、その後は食後のお茶もある。
おまけに明日は日曜日だしな、帰りも普段よりかはゆっくりな上に車じゃなくって歩くんだぞ?
忘れそうな場面が山ほどあるなあ、はてさて、いつまで覚えているやら…。
「酷い…!」
今すぐに手帳に書いておくっていうのは無いんだね!?
そして帰るまでに忘れちゃうんだ、ハーレイまでぼくと一緒になって…!
「仕方ないだろ、単なる話題っていうヤツだからな」
俺が家まで覚えていたなら、ラッキーだったと思っておけ。
しかしだ、お前と夜まで話す間に、二人して見事に忘れちまうと思うぞ、これは。
胡蝶蘭の花があったら覚えてそうだが、お前の家にも俺の家にも胡蝶蘭の花は無いってな。
ブルーには、そう言ったけれども。
小さなブルーは膨れっ面になったけれども、書かなくても、きっと忘れない。
胡蝶蘭の花の髪飾りの話は忘れ果てても、ブルーの髪には花が似合うと思ったことは。
(そうさ、ティアラよりも花が似合うんだ)
宝石はブルーの顔に二つもついているから、宝石を鏤めたティアラは要らない。
髪に飾るなら、瑞々しい花。命の輝きが眩しい花。
(こいつは絶対、忘れないってな)
記憶の底へと沈んでいっても、埋もれてしまいはしない筈。
この記憶さえ錆びずに残っていたなら、その時が来たら思い出す。
小さなブルーが大きく育って、花嫁になる日が近付いたなら。
二人で花嫁衣装を決めたり、あれこれ準備をし始めたなら。
胡蝶蘭の花がいいと思ったと、ブルーの髪にはピンクの胡蝶蘭の髪飾りだと…。
胡蝶蘭・了
※宝石だったら、ブルーの瞳で充分だから、と結婚式には花の飾りがいいと思うハーレイ。
ティアラよりも花で、「幸福の飛来」な花言葉の胡蝶蘭。どうなるでしょうね。
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