シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(大座布団…)
学校から帰って、おやつを食べて。広げた新聞に載ってた広告、カラー写真の大座布団。
ゆったり座ってお殿様気分、って謳い文句で、特大の座布団のことみたい。
(かなり大きいよね?)
比較用にってことなんだろう、隣に座った大人の男性。正座して普通の座布団の上。大座布団は普通のよりも大きい上に、厚みだって倍はありそうな感じ。
(お殿様気分かあ…)
ぼくは本物のお殿様なんか知らないけれど。
歴史の授業でしか聞かない名前で、ずうっと昔に地球の日本って島国にいた偉い人たちだけど。こういう大きな座布団に座っていたのかな、って想像してみた。
(どうせだったら、お殿様の写真もつければいいのに…)
モデルさんにそういう格好をさせて。大座布団に座った写真をつけたら、もっと売れそう。隣に座った男性の方も、お殿様の家来の格好で。
(その方がいいと思うんだけどな…)
お殿様気分を売りにするなら、断然、それだという気がする。大きな座布団、特大の座布団。
どんな人がこれを買うのかな、って広告を眺めていたんだけれど。
(…あれ?)
こういう座布団、ハーレイの家で見なかったっけ?
リビングにあった大きなクッション。ふかふかの絨毯の上に置かれていたクッション。
(ハーレイの色の…)
肌の色っていう意味じゃなくって、前のハーレイのマントの色。濃い緑色。今のハーレイの車の色もそうだし、ぼくにとってはハーレイの色。
あのクッションを見かけた時にも、そう思った。ハーレイの色のクッションだな、って。
きっとリビングがあれの定位置なんだろう。一度だけ遊びに出掛けた時も、一回だけ瞬間移動で飛んで行っちゃった時も、クッションはリビングの絨毯の上にあったから。
(大きいクッションだと思っていたけど…)
床にあったから、昼寝用かと思ってた。ゴロンと転がるのに丁度良さそうだもの。頭から肩までクッションの上で、気持ち良く昼寝出来そうだもの。
だけど、今から思えば、あれは座布団。クッションじゃなくて、この広告にある大座布団。
真ん中と四隅に糸がついてた。真ん中はちょっぴりへこんでた。
ぼくの家に座布団は無いんだけれども、座布団の知識くらいは持ってる。
あの時は気付かなかったけど。クッションなんだと思い込んでしまっていたけれど。
(大座布団って…)
ハーレイの趣味の座布団だろうか、ハーレイの色をしてるんだから。
濃い緑色をしたハーレイの車は、あの色のを選んだみたいだし…。大座布団だって、きっと。
(あの色が気に入って一目惚れ?)
そうなのかな、と思ったけれども、色だけだったら普通のクッションにすればいい。大座布団を選ぶ必要はない。そうなってくると…。
(ハーレイ、座布団が好きなわけ?)
しかも普通の座布団じゃなくて、大座布団。お殿様気分の大座布団。
(お殿様が憧れだったとか…?)
ぼくの知らないハーレイの中身。今のハーレイの中身は知らない部分がまだまだ沢山、こういう趣味とか好みの物とか、前のハーレイとは違うから。
こうなってくると気になる座布団、ハーレイの家で見かけた筈の大座布団。
(あれの話を聞いてみたいな…)
こんな日にハーレイが寄ってくれたらいいんだけれど。
学校の仕事が早く終わって来てくれたならば、大座布団の話が出来るんだけれど…。
来てくれるといいな、と大座布団の広告をもう一度目に焼き付けてから新聞を閉じた。
キッチンのママにおやつのお皿やカップを返して、階段を上って部屋に戻って。
ぼくの部屋にあるクッションを抱えて、椅子の上にポンと乗っけておいた。ハーレイと話す時に座る窓際の椅子の、ぼくの椅子の方に。
(よし!)
これなら絶対、忘れない。
ハーレイが次に来てくれた時は、大座布団の話をするんだ。今日でなくても、次に会った時に。
その日が来るまで、クッションは椅子の上だと決めた。
普段は床に置いてるクッションだけれど。床に座る時にチョコンと腰を下ろすんだけど…。
ハーレイの仕事が早く終わるか、それとも駄目か。
期待半分、諦め半分、勉強机で本を読んでたらチャイムが鳴った。この時間だと、鳴らした人はもう間違いなくハーレイだから。窓に駆け寄って、手を振った。クッションを乗っけた椅子の横に立って、門扉の所に立つハーレイに。
そうして部屋に来たハーレイだけれど、ママがお茶とお菓子をテーブルに置いて出てった途端にこう訊いた。まだ椅子に座っていないぼくに。クッションが邪魔して座れないぼくに。
「なんだ、その椅子の上のクッションは?」
お前、尻でも痛いのか?
そいつを敷かなきゃ座れないほど尻が痛いなら、運動不足だ。座り過ぎだな。お前の年だと実に情けないが、お前、座ってばかりだからなあ…。
そういう時には座るよりもだ、軽い運動をするのがいいんだ、ストレッチだ。教えてやるから、俺と一緒に少しやってみろ。何回かやれば尻の痛みが吹っ飛ぶからな。
「違うよ、ハーレイ!」
お尻なんか痛くなっていないよ、クッションは置いてあるだけだよ!
ハーレイに訊きたいことがあったから、忘れないように乗せておいたんだってば!
とんでもない勘違いをされちゃった、ぼく。
ハーレイと一緒にストレッチは少し興味があったけれども、やったら肝心のことを忘れちゃう。ぼくが訊きたいのは大座布団の話で、運動の話じゃないんだから。
(…ストレッチはいつか覚えてたら訊こう…)
忘れちゃったら、それはその時。ぼくはクッションを元の床に戻すと、ストレッチを潔く諦めて切り出した。ハーレイの向かいの椅子に座って。
「んーとね…」
ハーレイの家に行った時にね、リビングで大きなクッションを見たよ。前のハーレイのマントの色とおんなじ色をした大きなクッション。
あれって、クッションなんだと思ってたけど、ホントは大座布団だった…?
「その通りだが…。よく分かったな、あれが大座布団だと」
俺の家に何が置いてあったか覚えていたのも驚きなんだが、大座布団と来たか。
あんまり知られていないんだがなあ、大座布団は。
現に、俺の家に遊びに来るようなクラブのガキども。特大の座布団だと言ってやがるぞ、ただの大きな座布団なんだと。
「広告に載っていたんだよ」
今日の広告、って、ぼくは答えた。
「ゆったり座ってお殿様気分って書いてあったけど、大座布団ってハーレイの趣味?」
あれが好きなの、大座布団っていうものが?
「まあな。明らかに俺の趣味だな、うん」
しかしだ、お殿様気分って方ではないぞ。単なるサイズの問題だ。
「ハーレイ、身体が大きいものね」
普通の座布団でも座れそうだけれど、ちょっぴり窮屈で可哀相かな、座布団が。
「おいおい、窮屈っていうのはともかく、座布団が可哀相とは失礼だな」
座布団は座るためにあるんだ、どんなに重たいヤツが座っても受け止めるのが仕事ってモンだ。
とはいえ、同じ座るんだったら、ゆったり座りたくなるじゃないか。
そういうわけでだ、俺の家には大座布団だ。俺の身体にピッタリのサイズの座布団だってな。
普通の座布団でも充分に座れはするんだが、と言うハーレイ。
そっちのサイズにも慣れているから、小さくっても別に困りはしないって。
ハーレイが子供の頃から好きでやってるスポーツ、柔道と水泳。どっちもプロの選手になる道が開けていたのに、ハーレイは蹴った。そうして古典の先生になって、ぼくと出会った。
ぼくの学校では柔道部の指導をしてるけれども、その柔道には畳が必須。もちろん、正座も。
座布団は正座に使うものだから、ハーレイは馴染みが深いんだけれど。
「ただなあ…。偉くないと座らせて貰えないんだがな」
道場に座布団が置いてあっても、指を咥えて見てるだけ、ってな。
「そうなの?」
座布団があっても使っちゃ駄目なの、偉くないと?
「下っ端は無理だ。先生と呼ばれるくらいにならんと、座布団に座れる身分になれない」
たとえ座布団が余っていたって座らせちゃ貰えないものだ。
ガキの頃には道場の隅っこに積まれた座布団、何度も眺めていたっけなあ…。
いつかはあそこから一枚貰って俺も座ろうと、あれに座れるレベルになろうと。
子供時代のハーレイの憧れだったらしい座布団。
柔道を習いに行く道場で、いつかはと夢を見ていた座布団。
「俺の家にはあったからなあ、たまに道場に行っているつもりで座っていたな」
俺も座布団を貰える身分になったと、ついに先生になったんだと。
いわゆる「ごっこ遊び」ってヤツだな、俺一人しかいない遊びだったがな。
「ハーレイのお父さんたちの家…。座布団なんかがあったんだ…」
もしかして大座布団もあったの、その家に?
ハーレイが子供だった頃から、大座布団は家にあるものだったの?
「うむ。大座布団も普通の座布団も。ついでに畳の部屋もあったな、一部屋だけだが」
だから余計に道場ごっこの気分が高まるっていう勘定だ。柔道に畳はつきものだしな?
その部屋に行って、座布団を一枚、引っ張り出して。
ガキだった俺が上に座るのさ、すっかり先生気分になってな。
「畳の部屋って…。珍しくない?」
そんなの、あんまり聞かないよ。ぼくの家にも、友達の家にも畳の部屋は無いんだけれど…。
ああいう部屋って、和風が売りのお店やホテルにあるものじゃないの?
「それはそうだが、結婚式の衣装に白無垢を選んだようなおふくろたちだぞ」
畳の部屋も一つ欲しいと思ったわけだな、あくまで趣味の延長だな。
「そういえば白無垢を着たんだっけね、ハーレイのお母さん」
ぼくも白無垢も悪くないかな、って思ったんだっけ、そう聞いた時に。
ハーレイのお父さんたち、畳の部屋まで作るほどだし、古い文化がホントに大好きなんだね。
畳の部屋があるような家で育ったハーレイ。
座布団に座って「柔道の先生ごっこ」をしていたくらいに、畳の部屋が馴染みのハーレイ。
なのに、ハーレイの家には畳が敷かれた部屋が無い。家の中をぐるっと一周したんだし、もしも見たなら覚えている筈。畳の部屋なんて、普通の家には珍しすぎるものだから。
なんでハーレイの家には畳の部屋が一つも無いの、って訊いてみたら。
「嫁さんが来なくなったら困るだろうが」
あの家は子供部屋まであるんだ、いつか嫁さんを貰った時のためにと親父が買ってくれたんだ。
その嫁さんが家のせいで来なくなっちまったら、本末転倒っていうヤツだからな。
「どうして来ないの?」
お嫁さんが来なくなるって、どうして?
畳の部屋があったら駄目って、お嫁さんと畳と、どういう関係?
「正座だ、正座。畳の部屋があるってことはだ、俺が正座をするってことだ」
常に正座とまではいかなくても、それ専用の部屋があるんじゃなあ…。
嫁さんだって正座に付き合う羽目になる。
だが、正座は嫌いって人が多いぞ、そいつがもれなくついてくる家、避けられるだろうが。
「そうかも…」
足は痛いし、すぐ痺れちゃうし…。
家でゆったり座りたいのに、そのゆったりが正座だったら嫌っていう人、多そうだよね。
大座布団を買って座ろうと思うような人なら、そういう家でもいいんだろうけど。
「そういうことさ。だから俺の家には畳の部屋が全く無いわけだ」
仕方ないから、畳の部屋の代わりにリビングで大座布団に座っているのが俺なんだが…。
その俺だってだ、前の俺の頃に正座をしろと言われていたなら拷問だと思っていたろうな。
アルタミラの研究所で押し込められてた檻の中では正座をしろとか、そんな感じで。
「確かにね。前のぼくたちなら拷問だよね…」
今のぼくでも少しだけしか出来ないよ、正座。
アルタミラの檻で正座をしろって命令されたら、前のぼくだとホントに拷問。
実験するぞ、って檻から外に引っ張り出されても歩けやしないよ、足が痺れて動かなくって。
正座させられたら拷問なんだと思っただろう、前のぼく。
正座の文化が消された時代。座ると言ったら椅子に座るもので、座布団なんかは無かった時代。
あの時代に正座が出来るような人が誰かいたのかな、って首を捻ったら。
「ふうむ…。いたとしたなら、キースだな」
俺もお前も知ってるヤツだと、あいつくらいだ。
「キース?」
なんでキースが正座出来るの、メンバーズだったら日本の文化も教わるわけ?
「いや。過去の歴史として少しくらいは習っていたかもしれないが…。それよりもだ」
メンバーズはあらゆる戦闘訓練を受ける。どんな状況でも対処出来るようにな。
あの座り方で参るようでは話にならん。
たとえ何時間も正座で拘束されていようと、直ぐに立ち上がって動けてこそのメンバーズだ。
「そっかあ…」
拷問みたいな座り方だもんね、何処でそういう目に遭わされるか分からないものね。
足が痺れて動けません、なんて言ってるようではメンバーズの資格は無さそうだよね…。
だったらキースも柔道をやっていたのかな、って思ったんだけど。
メンバーズの戦闘訓練の一環として柔道の技も習ったかもね、って考えちゃったんだけれど。
ハーレイは「そいつはないな」と即答だった。
「あの時代だと柔道っていう武道は全く無いんだ、見事なまでに消されてたってな」
マザー・システムが消しちまったんだ、礼儀作法とセットだというのがマズかったかもな。
ただの武術じゃないからなあ…。
「礼に始まって礼に終わる」ってほどのヤツだし、人間関係だって濃い。子供さえも人工子宮で育てた時代には合いそうもないな。余計な文化は消しておくのが上策だろう。
それでもSD体制が崩壊した後、復活させたのが人間の凄い所だな。データはあっても、柔道をやるのは人間だ。誰かが体得しないことには、柔道は復活出来ないんだからな。
「うーん…。無かったんなら、キースは柔道、無理なんだね」
メンバーズでも出来ない武道があるんだ、そういった道のプロなのに…。
「要は戦って勝てればいいんだからなあ、特定の武術にこだわる必要は無いってな」
そもそも、キースには似合わんだろうが、柔道着。
体格のいいヤツではあったが、柔道をやるには向いていないな、ヤツの身体は。
「そうなんだ…。もったいないね、せっかく正座が出来るのに」
あの時代の人間が拷問なのかと勘違いしそうな正座、キースは出来たっていうのにね。
「お前なあ…。もったいないって、相手はキースだぞ?」
前のお前を撃った奴なのに、お前ときたら…。
そんなに楽しそうに語られちまったら、俺も真面目に付き合ってやるしかないってな。
キースは柔道着よりも袴なんじゃないか、道着ってヤツが似合うとしたら。
「袴って…。剣道?」
「いや、弓道だろ。剣道と違って胴着が無いしな」
弓道で欠かせないのは肩当てくらいだ、後は手袋といった所か。
「そうかあ…。剣道だと顔が見えないんだっけね、体格だってよく分からないし…」
キース、確かに弓道の格好、似合いそう。
袴も、弓を構えるのも。
「本物のキースも弓道とはまるで無縁じゃないぞ?」
メンバーズとして訓練を続けていたかどうかは知らんが、教育ステーションにいた時代。
シロエとエレクトリック・アーチェリーで競った話は有名なんだ。もっとも、学校で習う歴史の範囲じゃないしな、お前は初耳かもしれないが。
「初めて聞いたよ、そんな話は。シロエとエレクトリック・アーチェリーだったんだ…」
それじゃ、ホントに弓道なんだね、キースが武道をやるとしたなら。
「あの時代に弓道の弓があったならな」
ついでに袴や肩当ても要るか…。どれも無かったぞ、前の俺たちの時代にはな。
「あったとしたなら、メギドにも持って来たかな、弓」
キースが得意なのが弓なんだったら、メギドにも弓。あそこならキースの船もあったし…。
ナスカと違って弓も持ち込めたと思うんだけど。
「お前、あんなので撃たれたいのか?」
銃よりも弓がいいのか、お前。矢も相当に痛そうだが?
「…それは嫌かも…」
ぼくに刺さるってトコまで想像していなかったよ、銃も嫌だけど弓も嫌だよ。
どっちが痛いのか分からないけど、弓だって痛いに決まってるもの…!
震え上がってしまった、ぼく。
弓道の矢がどんなものかは知っているから、あんなので撃たれるなんて御免蒙りたい。
「撃たれる」じゃなくて「射られる」のかな?
言い方を変えても矢が刺さることだけは間違いないから、弓を持ったキースに会いたくはない。いくら袴が似合っていたって、弓道の弓が似合ってたって。
無意識に右の手を握り締めていたら、ハーレイがその手をキュッと握ってくれた。大きな両手で包み込むように。ぼくの手に温もりが伝わるように。
「メギドの話は忘れておけ。キースも、弓もな」
それよりもだ。お前が畳が嫌いではないと言うのなら…。
「何かあるの?」
「実はな、いつか畳の部屋が欲しいと思っていてな」
俺の家に畳の部屋は無いんだが、子供部屋なんていうのがあるだろう?
子供部屋は全く要らないわけだし、あれを畳の部屋に変えるのもいいかと考えている。けっこう立派な部屋が出来るぞ、壁とかも畳に合うようにすれば。
お前が嫌でなければ、だがな。
「畳の部屋でいいよ?」
ぼくは正座は得意じゃないけど、ハーレイが欲しいなら畳の部屋があってもいいよ。
畳の部屋があるのは嫌だ、って逃げて帰ったりはしないよ、ぼく。
ハーレイの家に畳の部屋。
ぼくがお嫁さんになったら要らなくなっちゃう子供部屋を畳の部屋にする。絨毯の代わりに畳を敷いて、壁だって畳に似合うようにして。
(ふふっ、ハーレイが好きな畳の部屋…)
そんな未来の話をしたのに。
結婚したら畳の部屋を作るのもいいね、って二人で話して、ハーレイは「またな」と手を振って車で帰って行ったのに。
幸せな気持ちでお風呂に入って、ベッドに潜り込んだのに…。
キースの話が悪かったんだろうか、気付けばぼくはメギドに居た。ちゃんとソルジャーの衣装を着けて、背だって前のぼくみたいに伸びて。
(やっちゃった…!)
珍しく自覚があった、ぼく。
これは夢だと、夢でメギドに来ちゃったんだと。
だけど醒めない、メギドの悪夢。ぼくはメギドを止めなくちゃ駄目で、青い光が溢れる制御室の中を歩いていた。破壊しなくちゃと、中枢部を壊さなくっちゃと。
(制御装置…)
目標はそれ、と歩いてゆく足は止まらない。メギドの夢も終わらない。
(これじゃ、いつもと変わらないから…!)
ぼくの意志で夢から逃げ出せないんじゃ、いつものコースと全く同じ。ううん、いつもより酷い状況。ぼくは自分の運命も末路も知っているのに、夢に捕まっちゃったんだから。
(キースが来たら、撃たれて、痛くて…)
あまりの痛さにハーレイの温もりを失くしてしまって、右手が凍えてしまうんだ。
そうして泣きながら死んでゆく。独りなんだと、もうハーレイには二度と会えないんだと。
(やだな…)
痛いのは嫌だし、独りぼっちで泣きじゃくりながら死んでゆくのも嫌だけど。
でも、運命は変えられないから、そうなるんだと諦めていたら。
「やはりお前か、ソルジャー・ブルー!」
(…どうなってるの?)
聞こえて来た声は間違いなくキースだったけど。
前のぼくがそうした通りに、ぼくも後ろを振り返ったけれど。
其処に居たキースは国家騎士団の赤い制服じゃなくて、白い着物に黒い袴の弓道部の服。それに肩当て、銃の代わりに弓を引っ提げていた。
(えーっと…)
化け物だとか何とか言っているけど、喋りながら弓を構えたから。
矢を射ようと弦を引き絞っているのが分かったから。
(よしっ!)
キリキリと引かれた弓がヒュンと矢を放った瞬間、ぼくはシールドを展開した。風を切る矢音がピタリと止まって、間に合ったシールド。目の前で宙に刺さっている矢。
この辺りは流石、前のぼく。
今のぼくだとシールドどころか、思念さえも上手く紡げないのに。
ヒュン、と鳴ったキースの二本目の矢。その矢も宙へと突き刺さった。
(ぼく、撃たれてない…!)
まだ一発も。
矢だから一本、二本と数えるのかもしれないけれども、とにかく撃たれていない、ぼく。
いつものメギドの悪夢だったら、今頃はもう血まみれなのに。
(もしかして、この夢、普段のと違う…?)
キースはせっせと弓を引いては矢を射てくるけど、どの矢も宙に浮いたまま。
ぼくの身体には一本も刺さらず、掠り傷さえ負ってはいない。
キースの背中に背負われた矢が一本、二本と減ってゆく。残りが数えられるほどにまで減って、最後の一本、それをつがえて引き絞るけれど。
(これで終わりだ、って言わないし…!)
何度も何度も聞いて来た台詞。嫌というほど聞かされ続けた冷酷な言葉。
それを聞いたら、ぼくの視界は真っ赤に染まる。右目を失くして、ハーレイの温もりも失くしてしまう。でも、聞こえない、言われない台詞。
(最後の一本…!)
ヒュン、と空気を切り裂いて来た矢を、ぼくはハッシと宙で受け止めた。シールドで止めた。
(…この後は?)
矢が増えるのかと思ったけれども、キースの背中の矢を入れる器はすっかり空っぽ、射るための矢は無くなった。次の矢を、って背中に回したキースの手が空しく空を掴んで。
信じられない、といった表情のキース。
愕然としているキース・アニアン、弓道部員の道着を纏った地球の男。
(ぼくの勝ち!?)
そこでパチリと目が覚めた。
一発も、ううん、一本も撃たれなかった、ぼく。
失くさなかったハーレイの温もり、凍えずに済んだぼくの右の手。
(メギドを止めてはいないけれども…)
キースはぼくにダメージを与えられずに終わったんだから、ぼくが勝ったと言えるんだろう。
夢の続きがもしもあったならば、きっとメギドは止まるんだ。
矢が無くなって呆然としているキースの目の前で、制御装置をぼくが壊して。
(シャングリラにだって帰れるのかも…!)
キースを放って、ぼくが来た道を逆に辿って、メギドの外へ。宇宙を飛んで白い鯨へ。
そういう夢だ、という確信。
ぼくはキースに勝ったんだ。キースが弓を持って来たから。いつもの銃じゃなかったから。
何処か間違った夢だけれども、それでも勝利。前のぼくの勝ち。
どうしてキースに勝てたか、って言うと…。
(ハーレイの座布団の話のお蔭…)
大座布団がハーレイの家にあるっていう話から、柔道の話と正座の話。
前のぼくたちの時代だったら正座は拷問みたいだよね、って方へと転がって行った。あの時代に正座が出来た人って誰だろう、って話してキースの名前が出て来た。
(キースは柔道着が似合わないから弓道で…)
それで話は終わりそうなのに、キースはシロエとエレクトリック・アーチェリーで競っていたというから弓道で決定、そのままメギドへ繋がった。メギドにも弓を持って来たかも、って。
(…本当に持って来ちゃったんだけど…!)
ぼくが勝手に見た夢だけれど。座布団の話が切っ掛けになって、そういう夢を見たんだけれど。
(でも、勝っちゃった…)
弓を持ってるキースはぼくには勝てなかった。矢が尽きてしまっておしまいだった。
なんて素敵な夢なんだろう。ぼくがキースに勝つなんて。
(座布団に、畳…)
いつかハーレイと一緒に暮らす家には畳の部屋を作らなくっちゃ。
ぼくたちに子供は生まれないから、子供部屋を壁ごと大改装して畳の部屋へと変身させる。
そして頼もしい座布団を置くんだ、メギドの悪夢を一度は勝利に変えた座布団。
ハーレイのお気に入りの大座布団を置いて、もしかしたら、ぼくも大座布団。
ゆったり座ってお殿様気分、って謳い文句の大座布団もいいかもしれない。ハーレイの身体にはピッタリだけれど、ぼくには余裕がたっぷりありそうな大きくて分厚い大座布団をドンと。
次の日、仕事帰りに寄ってくれたハーレイに夢の報告をした。
キースに勝ったと、弓を持って来た弓道部員の格好のキースに勝ったんだと。
ハーレイは爆笑していたけれど。「お前、やるな」って笑い転げていたけれど。
ぼくが「座布団を置くための部屋を作ろう」って言ったら、それは嬉しそうに頷いてくれた。
「なるほど、勝利に導いてくれた座布団を置くために畳の部屋か」
記念すべき座布団を置いてやるんだな、その部屋に。
「うん、ぼくたちが忘れていなければ」
結婚する時にも覚えていたなら、座布団の記念に畳の部屋だよ。
子供部屋を改装して畳の部屋にしようよ、二人分の座布団を置こうよ、ハーレイ。
大座布団と普通の座布団でもいいし、大座布団を二つでもいいよね。
ぼくにはちょっぴり大きすぎるけど、あれならフワフワで正座も平気かもしれないよね…!
覚えていたら、って言ったけれども、忘れていても。
弓を持って来たキースに勝った夢とか、勝利の座布団とかを綺麗に忘れてしまっていても。
ハーレイが欲しい畳の部屋なら、ぼくだってハーレイにそれをあげたい。
正座で足が痺れちゃっても、ハーレイの好きな座布団に似合うのは畳の部屋だから。
今はリビングで絨毯の上に置かれちゃってる、大座布団には畳が似合うから。
ゆったり座ってお殿様気分、ハーレイの身体に丁度いいサイズの大座布団。
ぼくもやっぱりお揃いがいいかな、大座布団を部屋に置くのが。
ハーレイが欲しい、畳の部屋。
結婚する時は必ず言ってね、畳の部屋が一つ欲しいんだ、って。
ぼくは反対しやしない。足が痺れても、正座が苦手でも、ハーレイが好きな部屋なんだから…。
座布団・了
※SD体制の時代だったら、拷問だと思われそうな正座。出来そうだったのがキースです。
そのせいで、ブルーが見てしまった夢。弓道部員なキースに勝利したようですね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(えっ?)
それは突然、何の前触れもなく鳴り出した。
学校から帰ったブルーがおやつを食べ終わったばかりのダイニングで。
(ママは?)
慌ててキョロキョロと辺りを見回す。母はキッチンに居たと思うのだけれど、其処から何処かへ行っただろうか?
(他の部屋? それとも庭?)
キッチンからだと、どちらへも行ける。このダイニングを通ることなく。
(えーっと…)
ダイニングに流れているメロディ。耳に馴染んだそれは、通信機から流れる着信音。
何処かからの通信が入って来たのだ、この家に向けて。
通信機自体はリビングにも、二階の両親の部屋にもあるのだけれど。そちらでボタンを押しても通信に出られるのだけれど、メロディは一向に鳴り止まない。
通話ボタンを押しさえすれば止まるメロディ。通信を始めれば終わる筈のメロディ。
(ママ、庭かな?)
庭ならば多分、通信機のメロディは母の耳には届かない。聞こえていない。
(どうしよう…?)
着信記録は残るのだから、放っておいても平気だけれど。戻って来た母に知らせれば着信記録を調べた上で、必要だったら直ぐにこちらから通信を入れ直すだろうけれど。
まだ鳴り止んでくれないメロディに、大事な通信なのかもしれないという気がしてくる。
(…学校からとか?)
明日の持ち物の追加連絡とか、そういうものなら自分が出ても大丈夫だろう。まだ通信を取った経験は無いに等しい子供ではあるが、全くの未経験でも無いし…。
よし、と鳴り続けている通信機に近付いて覗き込んだ。
小さな画面に表示される相手の通信番号。よくかかってくる相手は名前が登録されているから、其処に「学校」と出ているようなら、と表示を見れば。
(お祖母ちゃんだ!)
これなら出られる、と勇んで通話ボタンを押した。
メロディは止まって、通信機の向こう、遠い地域に住んでいる母方の祖母の声。
「お祖母ちゃん…!」
「あら、ブルーなの?」
祖母は年齢をとうに止めているから、母の声とそうは変わらないけれど。ブルーにとっては実の祖母の声で、聞き間違えることもない。
久しぶりに話して、あれこれ喋って。学校のことやら、普段の暮らしぶりやら。
どのくらい祖母と話しただろうか、母が来たから通話を代わった。
やはり庭に出ていて気付かなかったらしい。夕食に使うハーブを採りに行っていたのだ、と母が話している。ついでに花たちの手入れを少し、と始めたら意外に時間がかかったとも。
さっきまでの自分がそうだったように、祖母と楽しげに話している母。
母にしてみれば祖母とは違って、母なのだけれど。母を産んで育てた実の母だけれど。
おやつに使った皿やカップをキッチンに運んで、まだ話している母に「じゃあね」と手を振り、二階の自分の部屋に戻って。
勉強机の前に座って、さっきの通信を思い返した。
(お祖母ちゃん…)
元気にしていると話したけれど。
聖痕のことを心配してくれたから、平気だと話しておいたけれども。
(ハーレイのこと…)
守り役の先生が訪ねて来てくれるから大丈夫としか言えなかった。週末以外も家に来てくれて、今では家族のようなものだと、その先生がついていてくれるから聖痕は再発していないと。
(それは間違いないんだけれど…)
あれ以来、起こらない聖痕現象。
学校や周囲の人たちはハーレイが側に居るから起こらないのだと信じ込んでいるし、祖母たちもそうだと信じている。通信でも祖母は何度も言っていた。
「いい先生に出会えて良かったわね」と、「お祖母ちゃんもいつか御礼を言いたいわ」と。
孫がお世話になっているのだし、機会があったらハーレイに御礼を言いたいと。
その時はハーレイにお土産を持って行こうと思うから、祖母が住む地域の名物などでハーレイの好きそうなものがあったら覚えておいて教えて欲しいと。
(お祖母ちゃんがハーレイに御礼だなんて…)
ハーレイは本当はただの守り役ではないというのに。いつか結婚する恋人なのに。
祖母はそれよりも前にハーレイに会う機会があるのだろうか?
孫をよろしくと土産物を渡して、ハーレイに挨拶するのだろうか?
もしもそういうことになったら、守り役としてのハーレイに出会ってしまったならば。
何年か経って、自分とハーレイとが結婚することになったなら…。
(お祖母ちゃんもきっとビックリだよ)
孫の結婚もさることながら、今の時代でも珍しい男性同士のカップル。
おまけに守り役だった先生の所へ嫁に行こうというわけなのだし、さぞかし驚くことだろう。
祖母はもちろん、祖父だって。父方の祖父母も、親戚たちも、きっと。
けれども、その日はまだ先のことで、今はハーレイはただの守り役。
祖母が御礼にと土産物を渡して挨拶しそうな、学校の教師。
その祖母は今頃、母と話しているのだろう。用があったか、それとも声が聞きたくなったか。
(お祖母ちゃんと喋っちゃった…!)
祖母からの通信はよくあるけれども、ブルーは通信を取らないから。
幼い頃には通信が入る度に「お祖母ちゃんよ」と母が代わってくれたけれども、今ではそういう年でもないから、本当に久しく話してはいない。聖痕現象の直後が長く話した最後だったか…。
(御礼とかだと代わるんだけどね)
祖母から届いた荷物にブルー宛の贈り物が入っていた時や、荷物の中身が食べ物だった時や。
そうした時には御礼を言って、少し話して、母と通信を代わる。次から次へと話し続けることはもう無くなって、幼かった頃のようにはいかなくなった。礼儀正しく、母に交代。
だから今日の通信は本当に嬉しかったし、楽しかった。
祖母に遊んで貰ったようで。今の自分を祖母に丸ごと届けられたようで。
(お祖母ちゃんの声…)
祖母の姿は見えなかったけれど、すぐ側で祖母の声が聞こえた。
遠い地域に住んでいる祖母が、まるでダイニングに居るかのように。
離れていても声が聞こえる通信機。通話ボタンを押すだけで相手と声が繋がる通信機。
遥かな昔には、相手の姿も見られる仕組みの機械だったと聞くのだけれど。
(今は無いんだよね…)
相手の姿を映し出す通信機は今の時代には無い。
SD体制が始まるよりも前の時代に存在していた、持ち歩けるタイプの通信機も。
(…持ち歩けたっていう通信機…)
ポケットに入れて出掛けられたという通信機。一人に一台、自分専用の通信機。
それがあったらいつでもハーレイと話せるのに。
メギドの悪夢で目覚めた夜にも、夜が更けていても、ハーレイに通信を入れられるのに。起きて貰って朝まででも二人で話せるのに…、と考えていて。
(そういえば…)
まだハーレイの声を一度も聞いたことがない。
通信機越しに聞こえるハーレイの声。通信機で繋がり、耳へ届けられてくるハーレイの声。
(たまにかかってくるんだけどな…)
ハーレイからブルーの家への通信。
それは嬉しいサプライズ。かかって来たと分かれば胸がドキンと跳ねる。
通信が入る理由は最初から決まっているから。用事があって来られないと聞いていた日の予定が変わって、来られることになった時。そういう時には通信が入る。
もっとも、相手は母だけれども。ハーレイの食事を用意する母への通信だけども。
(でも、ハーレイの通信だって…)
通信番号は登録してある筈。今日は祖母の名前を表示していた画面にハーレイの名前が出る筈。
ならば自分が取ることだって出来るだろう。
ハーレイの名だ、と確認してから通話ボタンを押せば通信が繋がるのだから。ついさっき祖母と話していた時のように、ハーレイの声が通信機から聞こえてくるのだから。
(どんな感じの声なのかな?)
ハーレイの声を通信機越しに聞いたなら。
聞いた瞬間にハーレイの声だと分かる自信はたっぷりとある。母か父かが相手のつもりで口調が改まっていたって分かる。
大好きなハーレイの声を通信機を通して聞けたなら、と思うけれども。
ハーレイの家のリビングか、あるいはダイニングか。通信機のある部屋と自分の家とが声だけで繋がる幸せな時を、味わってみたいと思うのだけれど。
(かかってくる予定…)
ハーレイからの通信が入る機会は、どうやら当分、無さそうだった。
今度の週末にはハーレイは来る予定になっているから。次の週末も、その次だって都合が悪いと聞いてはいない。予定変更の通信は入りそうにない。
通信機はハーレイの名前を表示してはくれず、自分は通話ボタンを押せない。ハーレイがかけて来た通信に出られはしない。
(一度くらい聞いてみたいんだけどな…)
通信機を通したハーレイの声、と溜息をついていたら、来客を知らせるチャイムが鳴って。
そのハーレイがやって来たから、仕事帰りに寄ってくれたから。
母に案内されて来たハーレイと自分の部屋で向かい合うなり、ブルーは早速、こう切り出した。
「ハーレイ、うちに通信、入れてよ」
「はあ?」
何の前置きもなく飛び出した言葉に、ハーレイの鳶色の瞳が丸くなる。何のことかと、通信とは何を指しているのかと。ブルーは「通信だってば!」と繰り返した。
「通信機、何処の家でもあるでしょ。さっき、お祖母ちゃんからかかって来たんだよ」
ママがいなかったから、ぼくが出たんだ。お祖母ちゃんといっぱい話して、色々話して…。
お祖母ちゃん、ハーレイに御礼を言いたいって言ってたよ。お土産だって渡したい、って。
「ほほう…。そいつは光栄だな。お前のお祖母ちゃんから、俺に土産か」
「そう。ハーレイの好きなものがあるなら聞いといて、って言われたけれど…。って、ぼくはそうい話をしたいんじゃなくて…!」
ハーレイの声を聞きたいんだよ。聞いてみたくなってきたんだよ…!
「今、聞いてるだろうが、俺の声なら」
これ以上どう聞くというんだ、耳元で怒鳴って欲しいのか?
「通信機越しに聞きたいんだってば!」
あの機械を通してハーレイの声を聞いてみたいな、って思うんだよ。
だから通信、入れてくれない?
ハーレイからの通信だ、って分かれば直ぐに、ぼくが出るしね。きちんと通話ボタンを押して。
通信番号は登録してある筈だから、とブルーは瞳を煌めかせた。
自分が出るから、通信を入れてみて欲しいと。
「ハーレイの声だってことは、絶対、直ぐに分かるだろうけど…。感じが変わると思うんだよ」
通信機を通して聞いたら、きっと。
それにハーレイからの通信だなんて、出るだけでドキドキすると思うし…。
通信機の向こうにハーレイが居るって、リビングからかな、ダイニングかな、って…!
「そいつは些か…。不純な動機というヤツだな」
俺の声を聞きたいってだけで、お前が通信に出ようってか。
お前、普段から家に入った通信ってヤツを、ちゃんと自分で取ってるか…?
「そ、それは…。ぼくじゃ分からないことも多いし、通信なんかは…」
出ないよ、それにぼくみたいな子供が出たって、相手の人も困るじゃない!
お祖母ちゃんのは、お祖母ちゃんからって分かったからボタンを押したんだよ!
「通信にも出られないチビのくせにだ、俺の通信には出ようというのか?」
「だって、ハーレイなら出たって平気だもの!」
お願い、ぼくの家に通信を入れてよ。ぼくが出るから、通信、入れて…!
「駄目だな、通信を入れる予定が無いしな」
お前だって知っているだろう?
俺がどういう時に入れるか、そのくらいは。俺は当分、暇な週末しか待ってないってな。
つまりは予定が変わりました、と通信を入れる必要なんぞは無いわけだ、うん。
「えーっ!」
そういう用事がある時だけしか通信を入れてくれないの?
週末に入ってた予定が無くなって、ぼくの家に来られるようになった時だけ…?
あっさりと頼みを断られてしまって、ブルーは暫し考え込んだ。
何とかしてハーレイから通信を入れて貰えないものか。
そうすれば声が聞けるのに。通信機の向こうで話しているだろう、ハーレイの声が聞けるのに。
(コーヒーを飲みながら、ってことは無いんだろうけれど…)
長話をしようというわけではないから、お供の飲み物などは要らない。椅子やソファに座っての通信でもなくて、きっと立ったまま通信番号を押しての通信。
それをしているハーレイの姿が目に浮かぶようだ。ブルーの父か母が出ることだろうと、背筋を伸ばして通信番号を押すハーレイが。
(パパとかママの声が聞こえたら、ペコリと頭を下げるんだよ、きっと)
そんなハーレイからの通信に出たい。一度でいいから出てみたい。
通信機越しに耳に届くだろうハーレイの声を、聞いてみたくてたまらない。
けれどハーレイには通信を入れる予定などは無くて、入れるつもりも無いという。用も無いのに通信を入れる理由などありはしないから。
(…ハーレイからの通信…)
ハーレイの予定が変わる時しか、入れては貰えないらしい通信なるもの。予定は当分、変わりはしないと言われたのだし、絶望的とも思えるけれど。
(そうだ…!)
不意に名案が閃いた。まさに天啓、神様がくれた素敵なアイデア。
その通りにすれば、きっと通信を入れて貰えるだろう。ハーレイの家から自分の家へ。
ブルーは「よし!」と心の中で大きく頷き、ハーレイにこう宣言した。
「ハーレイ、ぼく、ママに嘘をつくから」
「なんだと?」
嘘って、お前…。お母さんに嘘をつくって、俺に宣言するようなことか?
「そうだよ、ハーレイに言っておかなきゃ意味が無いんだよ、ぼくがつく嘘は」
ハーレイが帰ったらつくことにするよ、ママを捕まえて。
今度の土曜日、ハーレイはぼくの家に来られるかどうか分からない、って。
「俺はその日は空いてるんだが…」
土曜日も日曜日も、来週の土曜日も日曜日も。当分、来られないような用事は無いと言ったが?
「だから嘘だって言ってるじゃない!」
ハーレイの予定は空いているけど、どうなるか分からないってことにするんだよ。
そうしておいたら、ママは今週の土曜日、ハーレイの食事を用意すればいいのかどうかを決める方法が無くなっちゃうしね…。
だからハーレイ、ママのために通信を入れてくれればいいんだよ。
土曜日の予定は無くなりましたと、ぼくの家に行くことになりました、ってね。
母には嘘をついておくから通信を入れて欲しいのだ、とブルーは強請った。
その日は空いたと、来られそうだと、それだけでいいと。
もしも通信を入れてくれたら、表示名を見て自分が通話ボタンを押して出るから、と。
「うーむ…。そいつは、お母さんに申し訳ないような気がするんだが…」
いいか、今度の土曜日なんだぞ、もう今週のことなんだぞ?
それを今頃になって分からないとか言い出した挙句に、やっぱりお邪魔させて頂きます、とは。
「平気だってば、ママはそんなの気にしないから!」
客間とかを使うお客様だったら、ママも大変かもしれないけれど…。
ハーレイだったら用意する食事の量だけなんだし、今日みたいな日とあまり変わらないよ。
張り切ってお菓子を作るかどうかの違いだけだよ、ホントだよ。
お願い、一回だけでいいから、ぼくが出られる通信、入れてよ…!
「………。これっきりだぞ」
お前の悪だくみなんぞに協力するのは、これが最初で最後だからな。
「ありがとう!」
通信、入れてくれるんだよね、ぼく、頑張って通話ボタンを押すからね!
その後できちんとママに代わるから、ハーレイ、ちゃんと通信、入れてね…!
こうしてハーレイからの通信の約束を取り付けたブルー。
その後、ハーレイはブルーの両親も一緒の夕食を終えて「またな」と手を振って帰って行って。
ハーレイの車のライトを見送った後で、ブルーは母に嘘をついた。
先刻、練り上げたばかりの嘘を。
ハーレイは言うのを忘れて帰ったけれども、今度の土曜日は予定が入るかもしれないらしいと。
「あらまあ…。それじゃ、ハーレイ先生は?」
いらっしゃらないの、今週の土曜日は?
この間、お友達から新しいお菓子のレシピを頂いたから、お出ししようと思っていたのに…。
今日のおやつ、新作だったでしょ?
あれを出そうと思っていたのよ、もう少し工夫してみてね。
「えーっとね…。まだ分からないよ、来られる可能性だって残っているしね」
ギリギリでもいいか、って訊いていたから、金曜日の夜には分かる筈だよ、来られる時は。
もしもハーレイが来られるんだったら、あのお菓子、出してあげてよね。美味しかったから…!
母を騙すことになってしまったけれども、ブルーの心は少しも痛んでいなかった。
お風呂に入ってパジャマに着替えて、ベッドに入る時にも上機嫌で。
(ハーレイから通信が入るんだよ)
あの通信機の小さな画面に表示されるだろうハーレイの名前。
それを見付けたら自分が通話ボタンを押すのだ、「はい」と元気に返事をして。
繋がった通信の向こうにハーレイ、何ブロックも離れた場所に住んでいるハーレイの家と自分の家とが音声だけで暫く繋がる。通信機を通して空間が結び付けられる。
もうそれだけで心が躍った。ハーレイの家のリビングか何処かと、自分の家とが繋がる瞬間。
通信機の画面にハーレイの名前が出たならば…。
(急いで通信、取らなくっちゃね!)
その時が楽しみでたまらない。
通信機の向こうで話すハーレイの第一声は何だろう?
「もしもし」なのか、「こんばんは」なのか、それも分からないからドキドキしてくる。
まずは名乗るのか、あるいは「ブルーか?」と訊いてくれるのか。
それより何より、ハーレイの声。
通信機越しに聞こえるハーレイの声は、どんな風に耳に届くのだろう?
優しくて甘いか、じかに聞くよりも落ち着いているか。
声だけを聞けば、実際よりも年配の男性が話しているように思えるとか…?
そして次の日。
学校から戻って着替えをするなり、もう通信機が気になってたまらない。
ダイニングでおやつを食べる間もチラチラとそちらを見てしまう。
(でも、まだハーレイ、学校だしね?)
こんな時間に通信は来ない。仕事時間の間に通信を入れても、それは学校の通信機だから。
(それじゃハーレイって出てくれないよ、表示)
学校と画面に表示された通信に出る度胸は無い。昨日のように母の姿が見当たらないまま、学校からの通信が何度も何度も入れば通話ボタンを押すだろうけれど。
(そういう通信って、どうせ持ち物連絡だとか…)
自分が出たって全く意味の無い通信。自分の学校のことだけれども、今の自分には意味が無い。
待っているものはハーレイからの通信だけで、学校からは入れてこない筈。
(自分の家の通信機を使ってくれないと、ハーレイって表示にならないものね?)
仕事帰りに寄ってくれた時も、通信は入れて貰えない。ブルーの家に来ているのならば、用件は通信機などを介さず、直接伝えるものだから。
(…ハーレイが来ちゃったら、通信はお預け…)
今日ばかりはハーレイの来訪を知らせるチャイムが鳴らないように、と身勝手な願い事もした。
普段だったらまだ鳴らないかと待ち焦がれるチャイムが鳴らないようにと。
その甲斐あってか、チャイムは鳴らずに夕食の時間が始まって。
ダイニングで両親と食事をしながら、ブルーは何度も通信機の方を眺めていた。
(ふふっ、通信…)
きっとその内にハーレイが入れてくれるだろう。今日は来なかったのだから。
早く鳴らないかな、と首を長くしていたら、あのメロディ。着信を知らせるメロディが流れた。
(やった…!)
出なくっちゃ、と立ち上がろうとするよりも早く、ヒョイと椅子から立った父。
「誰かな?」と通信機の所まで行って覗き込むなり、母の方へと振り返って。
「ハーレイ先生だな」
「じゃあ、私が出た方がいいわよね」
(えっ…!)
そんな、という声は音にはならなかった。通話ボタンを押し、当たり前のようにハーレイからの通信を取ってしまった母。
「こんばんは、ハーレイ先生。いつもブルーがお世話になっております」
ええ、ええ…。はい、分かりました。
それでは土曜日、よろしくお願いいたします。いえ、そんな…。
お気になさらずにお越し下さい、ブルーもきっと喜びますわ。
母は通信機の向こうのハーレイに何度も頭を下げてから通信を切った。自分の椅子へと戻る前にブルーに笑顔を向ける。
「ブルー、ハーレイ先生、土曜日は来て下さるって」
良かったわね、とテーブルに着いた母はブルーの表情が変だと気付いたようで。
「…どうしたの?」
何処か痛いの、具合でも悪い?
それとも晩御飯、ブルーの嫌いなものでもあった?
いえ、違うわね…。好き嫌いは昔からまるで無いんだし、苦手な味がしたかしら?
そういうのがあるなら残していいのよ、その分、他のお料理をしっかり食べるんならね。
「…なんでもない…」
ちょっと口の中、噛んじゃったから…。
それでヘンテコな顔になっただけだよ、具合なんかは悪くないから。
晩御飯だって全部美味しいし、苦手な味はしてないよ。
だけど頬っぺたにウッカリ噛み付いちゃった分、痛いから変な顔のままかも…。
なんでもないよ、と嘘をつくしかなかったブルー。
ハーレイからの通信を取り損なったと言える筈など無いブルー。
ブルーの野望は見事に砕けて、頬の内側を噛んだという嘘までつく羽目になった。
(…嘘の上塗り…)
そういう言葉があるのかどうかは疑わしかったが、恥の上塗りならぬ嘘の上塗り、何も知らない母に嘘をついたばかりに苦しい嘘がもう一つ。
(…頬っぺたなんか噛んでないのに…)
けれども、効果的だった嘘。
ハーレイの通信を母に取られたショックを隠すには「口の中を噛んだ」はピッタリだった。父も母もブルーの落胆に全く気付かなかったし、無言でも二人とも怪しみはしない。
「大丈夫、ブルー? 後で蜂蜜を舐めておきなさいね」
「そうだな、口の中の怪我には蜂蜜がいいな」
腫れてしまう前に、よくウガイをして蜂蜜を舐めるのがいいだろう。
そういった場所から口内炎になると痛いぞ、あれは沁みるからな。
「…うん…」
マヌカでいいかな、殺菌作用があるって言うし…。ハーレイお勧めの蜂蜜だしね。
後でキッチンに行くから、出してね、ママ。
嘘の上塗りの始末にマヌカまで舐める羽目になってしまったブルー。
ハーレイお勧めのセキ・レイ・シロエ風のホットミルクのための蜂蜜、マヌカの花から採れる蜜だけで出来た蜂蜜。
(…ハーレイの通信、取りたかったな…)
どうして取り損なったんだろう、と母がマヌカを掬ってくれたスプーンを口に咥えて泣きそうな気持ちに囚われる。その顔を見ていた母は「もう一杯ね」と新しいスプーンでマヌカを掬った。
「蜂蜜でも沁みるほどなら、口内炎になってしまう前に」と、もう一杯。
マヌカは沁みたりしなかったけれど、そういうことにしておいた。口の中を噛んだ傷が痛むから辛そうな顔になるのだと、それほど強く噛んだのだと。
(嘘の上塗りの、そのまた上塗り…)
とてもハーレイに言えはしないし、この事件のことは黙っておくのがいいだろう。
自分は不幸にして通信を取り損ねただけで、次の機会は逃さない。だからもう一度、と強請ってみよう。また通信を入れて欲しいと。
翌日、仕事帰りに寄ってくれたハーレイに、ブルーは「もう一度」と通信を強請ったけれど。
また日を改めて母に嘘をつくから、通信を入れて欲しいと頼んだのだけれど。
「一度だけだと言っただろうが、お前の悪だくみに付き合うのは」
それに俺は約束を守ってやったしな?
ちゃんと通信、入れてやっただろうが、どうしたわけだか、お前のお母さんが出ちまったがな。
「うー…」
パパが先に見て、ハーレイからだって言ったんだよ!
そしたらママが「じゃあ、私ね」って。ぼくは出る暇、無かったんだよ…!
失敗した、とブルーは肩を落として項垂れた。
父と母とに先を越されたと、通信機越しの恋人の声を聞き損ねた、と。
「ハーレイの通信…。ホントに取りたかったのに…」
取ろうと思って待っていたのに、パパの方が先に立っちゃったんだよ…!
ぼく、普段から通信なんかに出ないから…。仕方ないけど、せっかくのチャンス…。
ハーレイからだって分かっていたのに、目の前で取り損なっちゃうなんて…!
「そうしょげるな。いつかはうるさいほどに入るさ、俺からの通信」
またかとお父さんたちに舌打ちされるほど、面倒くさそうに取り次がれるほど。
お前に代わって下さいと頼む度に俺がペコペコ通信機の前で頭を下げなきゃいけないほどにな。
「それって、いつ?」
いつになったらハーレイからぼくに通信が入るの、パパとかママとかじゃなくって、ぼくに。
代わって下さいってハーレイが頭を下げるほどだし、ぼく宛にかけてくるんだよね?
「まあ、お前とデートが出来る頃になればな」
そうすりゃ通信もうんと増えるさ、デートの誘いにデートの御礼と山のようにな。
「そんなに先なの!?」
嫌だよ、そんなに先だなんて!
ぼくはハーレイの声を聞きたいんだってば、通信機の向こうから聞こえる声が…!
もう一度ぼくに通信を入れて、と泣けど叫べど、ハーレイは折れてくれないから。
「お前の悪だくみの片棒は二度と担がん」と協力する気も無いようだから。
(でも、ハーレイの声…)
いつか必ず聞いてやろう、とブルーは次のチャンスを夢見る。
ハーレイの予定が変わりそうな時、そういう時に通信機のメロディが鳴ったらチャンス到来。
駆け寄って画面の表示を確かめ、ハーレイの名前が出ていたならば。
母よりも先に通話ボタンを押してやろうと、そしてハーレイの声を聞こうと…。
聞きたい声・了
※通信機越しにハーレイの声を聞いてみたい、と思ったブルー。一度でいいから、と。
せっかく根回ししたというのに、駄目になったチャンス。次を待つしかありませんね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ハーレイが来る日…!)
土曜日の朝、ちょっぴり早めに目が覚めたぼく。
ハーレイが来てくれる日なんだ、と思った途端にパチリと冴えた目、起きていそいそ顔を洗って着替えも済ませて、ママが朝御飯の支度をしているキッチンへ。
ダイニングのテーブルにサラダとかの用意は出来ていたけど、誰も座っていなかったから。
今日はまだ起きていなかったパパ。大抵の朝は起きて新聞を読んでいるのに。
キッチンのママは後は卵やソーセージを焼くだけ、って準備万端だから。
「ママ。パパがまだ来ていないけど…。起こしてくる?」
「そうね。その内、起きてくるとは思うけど…」
もう起きてるかもしれないけれども、行きたいんなら行ってらっしゃい。
「はーい!」
起こしてくるね、と駆け出した。
パパは放っておいても起きるんだけれど、たまには起こしてみたいから。
二階に上がって、寝室の中を覗いてみたら。
よく寝てる、パパ。
昨夜は遅くまで起きてたのかな、枕元に開いたままの本。あと少し、って所で挫折したみたい。最後まで読みたくて頑張った気持ちはよく分かる。推理小説なんだもの。
(こういうのって、一気に読んじゃいたいものね)
クライマックスに差し掛かっちゃったら、一休みなんかしたくない。そうなる前に栞を挟めば、続きは次の日、って思えるけれど。パパはタイミングを逃したんだな、って可笑しくなった。
「パパ?」
起きて、って声を掛けたら、パパの身体がゴソッと動いて。
「ぐおーっ!」
いきなり飛び出した、大きなイビキ。さっきまでイビキは無かったのに。
きっと起きると思ってただけに、ビックリしちゃった、パパのイビキ。
(えーっと…)
ぐおーっ、ってイビキは止まらない。こういう時には鼻をつまんで…、とつまんでやった。
プスッって止まった大きなイビキ。面白いほどピタリと止まった。
(静かになった…)
でも、起きて貰わなくっちゃいけないから。
枕元の目覚まし時計がもうすぐ鳴るけど、せっかく起こしに来たんだから。
目覚まし時計は鳴らないようにと止めてしまって、パパの肩を揺さぶることにした。パパ、って何度か揺するとパパは目を覚まして。
「うーん…。なんだ、ブルーか」
おはよう、ブルー。起こした御褒美、欲しいのか?
「ううん、来ただけ」
早く目が覚めたから、ちょっと起こしてみようと思って…。ホントにそれだけ。
御褒美なんかは要らないよ、パパ。
じゃあね、って部屋を出て、ダイニングに行こうと階段を下りた。
パパの御褒美は朝御飯の追加。
(貰ってもあんまり…)
嬉しいどころか却って迷惑、朝からそんなに食べられやしない。ぼくの胃袋、小さいんだもの。
なのに…。
「ほら、ブルー。今朝の御褒美だ」
起こしてくれたろ、パパが寝てたら。
パパの分を分けてやるからな、ってソーセージが一本、ぼくのお皿にやって来た。オムレツしか載っていないお皿に、卵一個分のオムレツが精一杯のぼくのお皿に。
「これは御褒美じゃないってば!」
ぼくはトーストとオムレツがあれば充分なんだよ、それとミルクと!
ソーセージが増えたら、サラダが入らないんだけれど!
「こらこら、御褒美を断っていたら、次から御褒美、貰えなくなるぞ?」
それに食べないと大きくなれないじゃないか。ミルクだけでは背も伸びないしな。
朝から沢山食べるのがいいんだ、お前の食事は少なすぎだ。
「うー…」
ホントのホントに、これだとぼくには多すぎるのに!
酷いよ、パパ!
「御褒美、足りなかったのか?」
もっと欲しいか、それじゃソーセージをもう一本だ。
ママ、ソーセージの追加を頼む。ブルーに二本も譲ったからなあ、あと三本焼いてくれるかな。
こいつは美味いし、多めに食べたい気分なんだ。
(パパ、もっと食べるの…?)
ぼくに譲った分だけ足すなら分かるんだけれど、追加に一本。
それだけ沢山食べられるパパに文句を言ったら、ソーセージはもっと増えそうだから。ううん、ソーセージどころかサラダも大盛りにされちゃいそうだし、諦めるしか…。
御褒美を断り損なった、ぼく。
いつもは食べないソーセージが二本、一本でも多いのに二本もお皿に載せられちゃった。
なんとか頑張って食べたけれども、朝御飯でもうお腹が一杯。
(消化を早くするには、運動…)
だけど走ったり出来やしないし、ぼくに出来るのは部屋の掃除くらい。それでお腹が減るわけがない。模様替えでもしようって勢いでやれば、お腹も空くかもしれないけれど。
(…もうすぐハーレイが来てくれるのに…)
掃除がすっかり終わっちゃっても、少しも減ってくれないお腹。満杯になった胃袋の中身。
こんな日にお土産があったら悲劇。
ハーレイがぼくにくれるお土産、今の所は食べ物限定なんだから。
ママのお菓子はお腹に空きが出来てくるまで待ってくれるけど、お土産の方はそうはいかない。
(…時間が経っても食べられるものならいいんだけれど…)
出来立てが美味しい食べ物だとか、温め直して熱々だとか。そんなのは困る。とっても困る。
ぼくの胃袋、言うことを聞いてくれないから。まだスペースが空いてないから。
(ハーレイがお土産を持って来ませんように…)
神様にそうお祈りをした。普段だったらお土産が欲しいとお願いするのに、まるで逆のことを。
少しでもお腹が減りますように、と椅子から立ったり、座ったり。
これも運動には違いないし、と椅子から椅子へも移動した。ハーレイと座る窓辺の椅子と、勉強机の椅子との間を。
そうしている間にチャイムが鳴って、窓に駆け寄ってみたんだけれど。
生垣の向こう、門扉の所で手を振るハーレイの手にお土産と分かる荷物は無かった。
(良かった、なんにも持ってないみたい…)
だけど油断は出来ないから。荷物の中からヒョイと取り出す可能性だってゼロではないから。
ハーレイが部屋に来てくれて、テーブルの上にママが置いてったお菓子。
ママが焼いたと分かるお菓子が出て来て、ホッと一安心。
ぼくはよっぽどお菓子のお皿を気にしてるように見えたんだろう。向かい側に座ったハーレイがお菓子を指差して、訊いた。
「どうかしたのか、今日の菓子が?」
大好物だ、と喜んでるようでもなさそうなんだが、この菓子は何か特別なのか?
「そうじゃなくって…。ママのお菓子で良かったな、って」
ハーレイのお土産のお菓子だったらどうしよう、って凄く心配だったから…。
「何故だ?」
お前、土産は大好きだろうが。たまに持って来たら、尻尾を振らんばかりだが?
おやつを貰った子犬みたいにパタパタ、パタパタ、振ってる尻尾が見えるようだがな?
「だって、御褒美…」
パパに御褒美を貰っちゃったんだよ、朝御飯の時にソーセージを余分にドッカンと!
ぼくのお皿に載せて来たから、ぼく、要らないって断ったのに…。
そしたら「足りないのか」って追加が来たんだ、ソーセージを二本も食べたんだよ!
お菓子なんてとても入らない、と嘆いた、ぼく。
ソーセージは一本でもお腹が一杯になるのに、それが二本も来たんだから、と。
「ははっ、起こした御褒美か!」
お前がお父さんを起こした時には、そういう御褒美が出るんだな?
「うん…」
運が良かったら断れるけれど、大抵は駄目。パパは御褒美、くれるんだよ。
あんな御褒美、貰っても嬉しくないんだけどな…。
「ふうむ…。だったら、俺もその手でいくかな」
「何の話?」
「お前と結婚した後さ」
俺が起こして貰った朝には、お前に御褒美をやることにしよう。
俺の皿からソーセージだとか、オムレツだとか。お前のお父さんを見習ってな。
ぼくが少ししか食べない日が続いたなら、狸寝入りをして御褒美だって。
ハーレイを起こしたぼくに御褒美、ぼくのパパみたいに朝御飯の追加。
「酷い…!」
なんでそういう御褒美になるわけ、おまけに狸寝入りだなんて…!
「酷いだと? そこは嬉しいの間違いだろ?」
御褒美はもれなく俺の手作りだからな、って言われれば、そう。
ハーレイが作る朝御飯。一度だけ御馳走になったことがある、あの朝御飯。
(…メギドの夢を見ちゃった時だよ…)
怖くて泣きながら眠ってしまって、朝、気が付いたらハーレイの家で。
朝御飯を作って貰って食べた後、車で家まで送って貰った。あの幸せな朝は忘れられない。
ハーレイと食べた朝御飯。ハーレイが作ってくれたオムレツ。
結婚して一緒に暮らしてるんなら、朝御飯の中身もきっと色々、ハーレイが作る朝御飯。ぼくのお皿に「御褒美だ」って載せられるものだって、きっと色々。
ハーレイは料理が好きだと言うから、貰える御褒美も朝御飯にしては凝っているかも…。
「…いいかも…」
思わずポロリと零した言葉に、ハーレイが「な?」と笑顔になった。
うんと美味しい御褒美をやるから、頑張って俺を起こすんだぞ、って。
(…ハーレイの御褒美…)
お腹は一杯になるだろうけれど、素敵かも、って考えた所で気が付いた。
ハーレイがするのは狸寝入り。つまり、ハーレイはとっくに起きているってことで。
(ぼくより寝坊はしないわけ?)
いくら御褒美を食べさせるためでも、そのためだけに早起きってことはないだろう。元から早く起きる習慣があって、目は覚めてるのに狸寝入り。
(柔道とかだと、朝練、あるしね…)
今の生活でついた癖なのかな、と最初は思った。柔道と水泳が大好きな今のハーレイだから。
でも…。
そういえば、前のぼくたちが生きていた頃も…。
(ハーレイ、いつだって先に起きてた!)
本物の恋人同士になって、青の間やハーレイの部屋で同じベッドで眠ったけれど。
ハーレイはいつも、ぼくよりも先に起きていた。目を覚ましていた。
イビキなんか聞いた覚えが無い。
鼻をつまんでイビキを止めたことも、うるさかったことも、ただの一度も。
目覚まし時計はあったけれども、それよりも早く起きたハーレイ。
そんな時計は要らないとばかりに、止められたアラームは部屋に響きはしなかった。
(なんで…?)
やたらと早起きだったハーレイ。
前のハーレイの頃から早起きだなんて、どうしてなのか分からない。今のハーレイなら朝早くに起きて練習ってこともあっただろうけど、前のハーレイには朝練なんて無かったのに。
(…早起きしなくちゃいけない理由が見付からないよ?)
目覚まし時計はあったんだから。それが鳴るよりも前に起きる必要は無いんだから。
(運動部だったら、先輩よりも早く起きなきゃ叱られるってこともありそうだけど…)
シャングリラならば、ハーレイがキャプテンだった頃なら、誰もハーレイを叱りはしない。時間厳守は大切だけれど、そのためにあった目覚まし時計。
(あれが鳴ったら、ハーレイの仕事の準備に取り掛かる時間…)
前のぼくとの恋人同士の時間は終わりで、キャプテンの貌になる時間。
もっとも、本当は終わりじゃなかったけれど。
ソルジャーへの朝の報告っていう建前で、二人一緒に朝御飯を食べていたんだけれど。
とはいえ、ハーレイはキャプテンの制服をカッチリと着込んでマントもつけてた。ソルジャーのぼくも服とマントを着けるわけだし、着替えのための時間が必要。それに合わせて目覚まし時計。
(あの目覚ましが鳴ってから起きても、充分に…)
時間の余裕はあった筈。
それなのに早起きをしていたハーレイ。目覚ましよりも、前のぼくよりも早く。
不思議だったから、ハーレイに訊いた。
前のぼくよりも先に起きていたのはどうしてなの、って。
「目覚まし時計が鳴ってからでも良かったのに…。どうしてあんなに早かったの?」
起きて、目覚まし時計を止めて。
ぼくが起きなきゃ、目覚まし時計の代わりにぼくを起こしていたよね、どうしてなの?
「それはまあ…。キャプテンだったからな?」
船じゃ朝一番に起きるモンだろ、夜勤のヤツらとの引き継ぎってヤツも必要だしな。
いくらブリッジのヤツらが先に済ませていると言っても、キャプテンがベッドの中ではなあ…。
「そういうものなの?」
他の仲間に悪いから、って早起きしてた?
ブリッジの人たちの朝の交代、時間はかなり早かったしね…。みんなとっくに起きているのに、って急いでいたわけ、前のハーレイ?
「それもあるがだ、寝坊してたら前のお前との関係だってバレちまうしな?」
俺の部屋なら誰も来ないが、青の間はマズイ。お前と二人でベッドの中ってわけにはいかん。
朝食係が来てただろうが。あれよりも早く起きないとな?
(…そうだ、朝御飯の係が来てたんだっけ…)
前のぼくとハーレイ、二人分の朝御飯を青の間で仕上げて出すために。
ウッカリ二人で眠ったままだと、朝食係はぼくを起こそうとしてベッド周りのカーテンを開けに来るだろうから、それは大変なことになる。ぼくの隣で寝ているハーレイ。
(それに二人とも…)
寝間着なんか着てはいなかったんだし、どういう仲かも即座にバレる。
そういったことを防ぐためには、ハーレイが起きてベッドを出るのが一番だけれど。
(だけど…)
ホントにそれだけの理由で早起きだったんだろうか、ハーレイは?
よく考えてみれば、夜中にだって…。
(うん、ハーレイは夜中も起きてた…)
夜通し起きていたわけがないのに、ぼくが起きた時はハーレイも必ず起きていた。
前のぼくがたまに見ていた、アルタミラの夢。
まるでメギドの悪夢みたいに、現実だとしか思えなかった恐ろしすぎる人体実験の夢。あるいは檻に独りぼっちで、周りに誰もいない夢。
悲鳴を上げたわけじゃなくても、飛び起きたらハーレイが起きてくれてた。
あの夢の方が現実なのかと、今の日々は夢に過ぎないのかと怯えるぼくを抱き締めてくれた。
力強い腕で、広い胸の中に。温かくて逞しい胸の中に。
そう、いつだって。
いつ目覚めてもハーレイの腕が、胸があったから怖くなかった。
「大丈夫ですよ」と、「私が側にいますよ」と。
夜中でも起きてくれてたハーレイ。ぼくよりも先に起きてたハーレイ。
あれはキャプテンだからって理由じゃ片付かない。きっと他にも何かある筈。
「ハーレイ、夜中もぼくより先に起きてなかった?」
前のぼくが怖い夢を見て飛び起きた時は、ハーレイ、必ず起きてたよ?
起きて、って、ぼくが起こさなくても、いつだって先に。
どうしてああいうことが出来たの?
寝ないで起きてたわけでもないのに、ぼくの悲鳴で起きたってわけでもなさそうなのに…。
「お前の心は分かるのさ」
怖い夢に捕まってしまっているのも、その夢に苦しめられているのも。
ただ、夢っていうヤツは一瞬の内に見るものだしな?
俺が気付いて起きた時には、起こすまでもなくお前は勝手に目覚めちまったが…。
「前のぼくなら、心はいつでも遮蔽してたよ?」
仲間に不安を与えないよう、ぼくの悩みや悲しみを零してしまわないように。
眠っている時にもそうしていたから、ぼくの夢なんかが流れ出す筈が無いんだけれど…。
「それでもだ。それでこその恋人同士ってヤツだ」
僅かな息の乱れや、鼓動の速さや。
そういったもので気付いていたんだろうなあ、悪い夢を見てうなされていると。
一度気付けば、眠りの中でも意識が一気に目覚めるってわけだ、起きなければと。
だからお前よりも先に起きていたのさ、俺の方がな。
実の所は普段もそうだ、とハーレイは言った。
ぼくよりも先に目を覚ましたのは、ぼくの心が目覚める方へと向かっていたから。
ぼくが起きた時に、直ぐに瞳を覗き込めるよう、「おはよう」と笑い掛けられるように先に目を覚まして待っていたと。自分が眠ったままでいたなら、ぼくが寂しい思いをするからと。
「お前を守ると誓っただろうが、前の俺もな」
しかし、実際はそうもいかない。守られていたのは俺の方だった、お前の力に。
だったら、お前が眠っている間くらいは守りたいじゃないか。
お前自身ですらどうにもならない、捕まってしまう恐ろしい夢。
それは夢だと、俺が此処に居ると前のお前に教えてやるのが恋人の役目ってモンだろう?
前の俺はそのために起きていたのさ、お前よりも先に。
そうでない日も先に起きた理由は、お前を寂しがらせないためだ。お前は一人じゃないってな。
お前が眠っている間だけが、俺がお前を守ってやれる時間だったんだ。
早起きの理由は前のお前を守るためだ、って言われちゃったけれど。
じゃあ、今のぼくだとどうなるんだろう?
前のぼくみたいに強くないけど、ハーレイはやっぱり、ぼくよりも先に起きるんだろうか?
どうなるのかな、って尋ねてみたら。
「当然、起きるに決まってるだろう」
お前よりも先だ、夜中も朝もな。先に起きて待つのが俺の役目だ。
「やっぱり恋人同士だから?」
それでハーレイが先に起きるの、ぼくを守るために?
「もちろんだ。今度こそ守ると俺は言ったぞ」
前の俺と違って、今度の俺は本当にお前を守れるんだからな。
お前はサイオンも上手く使えないし、身体だって前と同じに弱い。そんなお前を守らんとな?
ぐっすり寝こけてしまってるようじゃ、全く話にならないってな。
(そっか…。今度もハーレイ、ぼくよりも先に起きるんだ…)
頼もしいな、と思ったけれど。とても嬉しいとも思ったんだけれど、ふと思い出した。
今朝のパパのイビキ。「ぐおーっ」って響いた大きなイビキ。
ハーレイが必ず、ぼくよりも先に起きるってことは…。
「それじゃ、ハーレイのイビキは聞けない?」
「はあ?」
イビキって何だ、俺のイビキがどうかしたのか?
「ぼく、聞いたことがないんだよ。ハーレイのイビキ」
いつだって先に起きていたから、ただの一度も。
長い長い間、ずうっとハーレイと一緒に眠っていたのに。ハーレイの腕の中にいたのに…。
ぼくは本当にハーレイのイビキを一度も聞くことが無かったから。
聞いてみたいんだよ、ってハーレイに言った。
パパのイビキを聞かなかったら、思い付きはしなかったかもしれないけれど。
凄いイビキを、「ぐおーっ」と部屋に響いたイビキを聞いたばかりだから、聞きたくなった。
前のぼくが知らない、ハーレイのイビキ。
寝息さえも一度も聞きはしなかった、ハーレイのイビキ。
「ふうむ…。俺のイビキなあ…」
そんなものを聞きたいだなんて、お前、ずいぶん変わった趣味だな。
「変わった趣味って…。恋人のことなら何でも知りたいと思わない?」
それにハーレイ、ぼくよりも先に起きてばっかりだったから。
イビキなんて夢にも思わなかったよ、どんなイビキをかいてるのかも。
ハーレイ、イビキはかかないの?
期待するだけ無駄なんだったら、別に聞かなくてもいいんだけれど…。イビキをかかないなら、どう頑張っても聞けないしね。
「自分のことだから、俺にはどうとも分からんが…」
俺と一緒の部屋で寝たことのあるヤツらによるとだ、たまにかいてるらしいんだが…。
どういう時にかいているのか、それはハッキリしないんだがな。
「それ、聞きたい!」
ハーレイのイビキ、聞いてみたいよ、かいてるんなら!
「それはお前の自由だが…。俺のイビキを聞きたかったら、だ」
お前が起きないことにはな?
でないと聞けんぞ、俺のイビキは。
「大丈夫だってば、イビキで起きるよ」
ぼくはイビキが聞きたいんだから、イビキの音がしているな、って気付いたら目が覚めるしね。
「そいつは甘いな、そう簡単にはいかないってな」
お前が起きたら、俺だって目が覚めるんだ。そうすりゃイビキは当然、止まる。
どんなに聞き耳を立てていたって、俺が起きてりゃイビキは聞けん。
「そんな…!」
酷いよ、ハーレイ!
ぼくに御褒美を食べさせるための狸寝入りはするくせに!
どうしてイビキを聞かせてくれずに、そこでアッサリ目を覚ますわけ!?
一度くらいはイビキを聞かせてくれたって、って駄々をこねたら。
狸寝入りじゃなくてホントに眠ってイビキを聞かせて欲しいのに、と強請っていたら。
「それなら、俺を酔っ払わせるんだな」
何処から見ても酔っ払いだ、と分かるくらいに酒を飲ませろ。
「えっ?」
どうしてお酒が出てくるの?
ぼくが聞きたいのはハーレイのイビキで…。
「そのイビキ。どういう条件でかいているのか分からない、と言っただろうが」
だが、酔っ払ったなら、確実にかく。こいつは証人が何人もいるな、両手の指じゃ足りないな。
ついでに起きないかもしれん。
酔っ払いだし、眠っちまったら朝までイビキをかき続けるってな。
「分かった、頑張る…!」
ハーレイにお酒を飲ませるんだね、酔っ払うまで?
それでイビキが聞けるんだったら、ぼく、おつまみだって作ってみるよ。
ハーレイ、どういうおつまみが好き?
教えてくれたら、ちゃんと頑張って作るから…!
「ふむ、素晴らしい心掛けだな」
俺の酒のために、つまみまで作ってくれるのか。そいつはいい酒が飲めそうだ。
いい酒と言っても、酒が上等だという意味じゃないぞ?
楽しい酒と言うか、飲んで嬉しい酒だと言うか…。
お前は酒はまるで駄目だが、俺には注いでくれるんだろう?
「決まってるじゃない!」
ハーレイに酔っ払って貰わないとイビキが聞けないんだから、いくらでもお酒を注がなきゃ。
おつまみも作るし、本当にうんと頑張るんだから…!
「そして俺のイビキを存分に聞いて楽しむ、と」
だが、その前に。酔った俺がお前を離すと思うか?
酔えば酔うほど、俺はお前を側に置きたがると思うんだがな?
つまみなんかはもう要らないから此処へ座れと、黙って此処に座っていろと。
ただし、言葉通りに座っているだけで済むかどうかは分からないがな、酔っ払いだしな?
お前という極上のつまみがあるのに、他のつまみを食ってどうする。
いくらお前の手作りでもだ、お前の方がよほど美味いってな。
俺が言っている意味は分かるな、うん…?
お前、チビだが、ただのチビではないんだからな。
「あっ…!」
ニヤリと笑ったハーレイの前で、ぼくは耳まで真っ赤になった。
ハーレイが本当に酔っ払ったら、腕の中に閉じ込められちゃうらしい、ぼく。
おつまみの代わりに此処へ座れと、来いと言われて食べられてしまうらしい、ぼく。
(…そうなっちゃうの!?)
前のハーレイはキャプテンだったから、酔っ払うほどには飲まなかったけれど。
今のハーレイはそうじゃないから、酔っ払ったら何が起こるか分からない。
イビキ目当てにハーレイを酔っ払わせたら、ぼくはとんでもないことになる。
(ハーレイに美味しく食べられちゃうんだ…!)
そうなったらイビキを聞くどころじゃない。ぼくの方が先に疲れて寝ちゃうに決まってる。
だって、相手は酔っ払い。手加減なんかがあるわけがなくて、やめてと言っても止まらない。
ハーレイのイビキを聞くよりも前に、ぼくはすっかり意識なんかは吹っ飛んじゃって…。
(ど、どうしよう…?)
これじゃ聞けない、ハーレイのイビキ。
確実にイビキをかくというのに、ぼくが寝たんじゃ話にならない。
なんとかしてイビキを聞く方法は…、と悩んでるのに、ハーレイときたら。
「酔うと人間、正直だしな?」
そりゃあもう、普段以上にお前に溺れてしまうってな。
たとえ次の日に予定があろうが、そんなことすら見事に忘れちまって夢中でお前を食うだけだ。
こんなに美味いつまみがあったと、最高のつまみが転がっていたと。
「それじゃ、イビキは…?」
ハーレイがイビキをかくっていうから、ぼくは酔っ払わせようと思ったのに…!
酔っ払わせたらそういうことになるんじゃ、ぼくはイビキを聞けないじゃない…!
「なあに、簡単なことだ、そいつは」
酔っちまった俺よりも先に起きればいいだけのことだ、酔っ払いは当分、起きないからな。
その酔っ払いに貪り食われちまって、疲れていなければの話だがな。
「無理だってば…!」
手加減無しのハーレイなんでしょ、ぼくが敵うわけないじゃない…!
疲れて眠ってそれっきりだよ、目が覚めたらハーレイが起きてるんだよ!
「おはよう」だとか、「遅かったな」だとか、ニコニコしながら朝御飯とかを作ってるんだ。
そういう結末、見えているから!
イビキなんかはとっくの昔に止まってしまって、起きたハーレイがいるだけなんだよ…!
酔っ払ったハーレイは確実にイビキをかくらしいけれど。
お酒で酔わせてイビキを聞くのはかなり難しいかも、って思った、ぼく。
ハーレイがイビキをかくよりも前に、ぼくが眠ってしまうから。
酔ったハーレイに食べられてしまって、ぼくの方が先に夢の世界の住人になってしまうから。
(…この作戦は成功するわけないよ)
何度やっても、ぼくが負けるに決まってる。
頑張っておつまみを作ってみたって、お酒をせっせと注いでみたって。
連戦連敗、勝てそうもないぼくだけれども。
酔っ払ったハーレイにも勝てやしなくて、おつまみ代わりにされるんだけれど。
(でも、人生はうんと長いしね…?)
それに、今度のハーレイは古典の先生、キャプテンの仕事なんかは無いから。
「早く起きなきゃいけないからな」って言わなきゃいけない立場じゃないから。
一度くらいは聞かせて欲しいな、ハーレイのイビキ。
安心してぐっすり寝ているんだって分かるイビキを、前のぼくは聞かずに終わったイビキを…。
イビキ・了
※前のハーレイのイビキを聞いたことが無い、と気付いたブルー。ただの一度も。
今度は聞いてみたいのですけど、聞けるでしょうか。こればっかりは運の問題かも…?
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(今じゃ美容にいい飲み物か…)
そういう時代になったのか、とハーレイは新聞の記事に苦笑を漏らした。
たまたま開いた紙面にバナナミルク。黄色いバナナの写真とセットでレシピがあった。美容に、美肌にバナナミルク。今は秋だけれど、その後に迎える寒い季節はホットでどうぞ、と。
(まあ、あの時代でも、人類にとっては美容にいいものだったかもしれないが…)
そっちの方までは分からないな、と前の自分が生きた時代を思い出す。
成人検査に脱落した後、実験動物として押し込められていた地獄のような研究所。それが在った星ごとメギドの炎に焼かれる所を辛くも脱出、シャングリラでの生活が始まったけれど。
後に白い鯨へと変身を遂げた船は楽園だったけれども。
その楽園は閉ざされた世界で、外の世界は情報が入るだけだった。しかも傍受していた通信で。
そんなわけだから、人類たちがバナナミルクをどう扱ったかまでは分からない。
美容にいいと思って飲んだか、あるいは単なるバナナから出来た飲み物だったのか。
しかし…。
(こいつを飲まされていたんだがな?)
人類の方の事情はどうあれ、前の自分はバナナミルクを飲んでいた。より正確に表現するなら、この飲み物を飲まされていた。
(嫌いってわけではなかったんだが…)
今と同じで好き嫌いなど全く無かったのだし、苦手だったというわけでもない。
けれど「飲まされていた」バナナミルク。「飲んでいた」のとは事情が違う。
(うん、明らかに俺の意志ではなかった)
シャングリラで飲んでいたバナナミルク。レシピは新聞に載っているのと同じだろう。
(さて、あいつは…)
ブルーは覚えているのだろうか、シャングリラのバナナミルクのことを。
キャプテン・ハーレイだった自分が「飲まされていた」バナナミルクのことを?
忘れているかもしれないな、とクッと小さく喉を鳴らした。
(懐かしのバナナミルクってヤツか…)
明日は土曜だから、ブルーの家に行く日だから。
バナナを持って出掛けてゆくか、と考える。
少し早めに家を出て。朝早くから営業している、馴染みの近所の食料品店で買って。
忘れないようにと切り抜いておいた、バナナミルクが載った記事。
次の日の朝、テーブルの上に見付けたそれに「よし」と大きく頷いた。今日はバナナだと、寄り道をしてバナナを買うのだと。
晴れ上がった絶好の散歩日和。
朝食を済ませてブルーの家へと向かう途中で、食料品店に足を踏み入れた。通い慣れた店だから果物の売り場は直ぐ分かる。其処にドッサリと積まれたバナナ。
(…こんなものかな)
目当ての品を抱えてレジへと向かった。他に買い物をしないのだから籠は要らない。
(ミルクはあいつの家にあるしな)
小さなブルーが毎朝飲んでいるミルク。背丈を伸ばそうと、せっせと飲み続けているミルク。
その銘柄を聞かされて以来、ハーレイが買うミルクもそれへと変わった。
幸せの四つ葉のクローバーのマークが瓶に描かれた、そのミルクへと。
前の生ではブルーも自分も一度も見付けられずに終わった四つ葉のクローバー。それが描かれた瓶は嬉しい。ブルーと同じミルクというのもそうだけれども、幸せの四つ葉のクローバー。
(今度の俺たちは四つ葉を見付けられるんだしな?)
幸せになれる、とクローバーも保証してくれた。だから四つ葉のクローバーのマーク。今度こそブルーと幸せになろうと、願いをこめて四つ葉のクローバーのマークのミルク。
もっとも、小さなブルーの方では、同じミルクにこめる願いが違うのだけれど。
伸びてくれない背丈が少しでも早く伸びるようにと、ミルクに願っているのだけれど。
バナナが入った食料品店の袋を提げて、ブルーの家まで歩いて出掛けた。
門扉の横のチャイムを鳴らすと、二階の窓から手を振るブルー。そちらに大きく手を振り返していれば、ブルーの母が門扉を開けに出て来たから。
手にした袋の中身を見せて、今日の飲み物の注文を。
それに要るだけのバナナを渡して、残りのバナナはブルーの部屋へと持ち込んだ。ブルーの母が部屋を出て行った後で、食料品店の袋から取り出して。
「土産だぞ」
ほら、とテーブルに置くと、ブルーが「バナナ?」と目を丸くした。
「美味しいの、これ?」
お土産だなんて、何か特別なバナナ?
そう訊いてから、バナナが房から折り取られた跡に気付いたようで。
「んーと…。ハーレイが買って美味しかったから、残りはぼくにくれるとか?」
「まあ、待ってろ。お母さんがもう一度、来る筈だからな」
「そういえば、お茶が…」
まだ来てないね、と首を傾げるブルー。
ハーレイの好物のパウンドケーキを載せた皿はテーブルの上にあるのに。
いつもだったら、飲み物と菓子は間をおかずに揃う筈なのに。
暫く二人で談笑する内に、部屋の扉をノックする音。
ブルーの母がトレイを手にして現れた。カップが二つ載っているけれど、ソーサーつきのカップではなくてマグカップ。ティーカップほど気取らないカップ。
「ハーレイ先生、お待たせしました」
「すみません、お手数をおかけしまして…」
「いいえ、何でもありませんわ。それにバナナもわざわざお持ち下さって…」
お菓子がパウンドケーキですから、ホットの方が合いますでしょう?
どうぞ、と母がテーブルに置いて行った二つのカップ。湯気を立てているマグカップ。
「…バナナミルク?」
なんで、とブルーが二つのカップを交互に眺める。カップの中身はバナナミルクだと、見た目と香りで分かるから。甘いバナナの香りがするから。
「こいつとバナナで思い出さんか?」
「何を?」
バナナミルクとバナナって…。ピンと来ないよ、何の意味があるの?
「俺に飲ませていたんだが、お前」
いわゆるバナナミルクってヤツを。散々飲ませてくれたんだがな…?
「えっ?」
ぼくがハーレイにバナナミルクを?
飲ませていたって、それ、いつの話?
小さなブルーはやはり覚えていなかった。
前の自分がハーレイに飲ませたバナナミルクを、何度も飲ませていたことを。
ハーレイは「忘れちまったか?」と片目を瞑ってみせる。
「いつの話かと訊かれれば、そりゃあ…。今じゃない以上は決まっているだろ?」
シャングリラさ、前の俺たちの頃だ。
ついでにバナナにも意味があるんだぞ、こうして持って来たからにはな。覚えていないか、この果物。バナナはただの果物ってわけではなくてだな…。
今も昔も、バナナはミラクルフルーツなんだが?
「ああ…!」
思い出したよ、その名前で。
バナナはミラクルフルーツだっけね、凄い果物だったんだっけね…!
遠い昔に在ったミュウたちの楽園、シャングリラ。
自給自足で暮らせるようになった時点で、果物も栽培していたけれども。
是非ともバナナを加えたい、とヒルマンが長老たちを集めた会議で提案した。バナナは栄養価の高い果物で、ミラクルフルーツと呼ばれるほどだと。
人間が必要とする栄養素を多く含むことでは、他の果物の比ではないのだと。
「ふうん…? バナナはそういう果物なのかい?」
どうも今一つ分からないね、とブラウが言えば、ゼルも続いた。
「たかがバナナじゃと思うんじゃが…」
ブルーが物資を奪っていた頃には何度も食ったが、特別という気はしなかったわい。皮を剥いて簡単に齧れる点では、リンゴなどより手間要らずじゃがな。
「それがだね…。本当にミラクルフルーツなのだよ、バナナなるものは」
こういう具合で、とヒルマンが出してきた資料に記されたバナナの栄養価の高さ、含まれる成分などは説得力に満ちたものだった。バナナは凄いと、他の果物とは違うのだと。
そうした経緯で、バナナの栽培が決まったけれど。
普通の温度では駄目だから、と温室が設けられて他の果物も一緒に育てたけれども、温室の主はあくまでバナナ。ミラクルフルーツと呼ばれるバナナ。
ブルーが人類の世界から奪ったバナナの苗木は大きく育って、やがて実を結んだ。バナナの実が連なった房がズシリと実った。
最初の間は数も少ないから、希望者に分配していたけれど。
バナナの栽培が軌道に乗ったら、ソルジャーのブルーが優先だった。分配よりも先に、ブルーに一本。ソルジャーのために、と青の間に一本、届けられるバナナ。
何ゆえにブルーが優先なのか。バナナが一本、届けられるのか。
ブルー自身にも謎だったから、ある日、一日の報告のためにと青の間に来たハーレイに問うた。
「どうしてバナナはぼくが優先になるんだい?」
こうして一本貰わなくても、他の果物とセットにしたなら少ない量で済むと思うんだけれど。
カットフルーツの盛り合わせでいいと思うし、そのフルーツだって特に貰わなくても…。
困りはしない、とブルーは言った。フルーツ無しでも問題はないと。
しかし、ハーレイが返した答えはこうだった。
「いえ、バナナはヒルマンも言っていた通り、栄養価の高い果物ですから」
ミラクルフルーツと呼ぶほどなのです、ソルジャーの分が最優先です。
ソルジャーのお力があったお蔭で、今のシャングリラがあるのです。これから先も色々とお力をお借りしなければならないでしょう。ですから、栄養をつけて頂かないと。
収穫の度に一本お届け致します、とハーレイは伝えておいたのだけれど。
その言葉通り、バナナが採れると青の間に届けられたのだけれど。
ある日、ハーレイが仕事を終えて青の間へ報告に出掛けて行ったら。
「ハーレイ、これ…」
手つかずのバナナがテーブルの上に置かれていた。バナナを載せて届けたのであろう白い皿の上に、黄色い皮を剥かれもせずに。
「お召し上がりにならなかったのですか?」
今日はバナナを召し上がりたい御気分ではなかったのでしょうか、では、明日はバナナをお届けしないようにと言っておきます。このバナナは明日、お召し上がり下さい。
「明日って…。いいんだよ、明日も貰っておくから」
でも…、とブルーはバナナの皿をハーレイの方へと押しやった。
「このバナナはぼくが食べるんじゃなくて、君が食べればいいと思って…」
「私がですか?」
「君は貰っていないだろう、バナナ」
キャプテンは余った時に貰えばいいと言って断っているのを知ってるよ。
でもね、バナナが必要なのは君の方だよ、ぼくよりもね。
今のぼくに仕事は無いに等しいけど、キャプテンの君は大忙しだ。ブリッジでも、他の所に居る時も。船の中の出来事は最終的には君の所へ行くのだから。
君の方が明らかに激務だよ。ぼくなんかよりも、ずっと。
だからバナナは君が食べるべきだ、とブルーはバナナを差し出した。
君のために食べずに残しておいたと、これを食べて栄養をつけるようにと。
せっかくのブルーの厚意だから、とハーレイは有難くバナナを貰って食べた。ブルーが嬉しげに見守っている中、黄色い皮を剥いて熟れたバナナを。
そのバナナはとても美味しかったけれど、一度きりだというつもりだった。明日からはブルーが食べるであろうと、たまにはこうした贅沢もいいと。
ところが、翌日の勤務を済ませて報告にゆけば、同じように置かれていたバナナ。キャプテンのために取っておいた、と丸ごと残っていたバナナ。
「ハーレイ、今日も一日お疲れ様。このバナナは君のものだから」
食べて、と何度も勧められては断れない。今日くらいは、と自分に言い訳しながら食べたのに、翌日も置かれていたバナナ。
今度の収穫はそれで最後だと分かっていたから、固辞したけれど。
このバナナはブルーのものなのだから、と食べずに帰ろうとしたのだけれども、ブルーの方は。
「それじゃ、このバナナは持って帰って」
明日の朝にでも部屋で食べるといいよ。バナナは身体にいいんだろう?
君こそバナナを食べるべきだよ、ぼくなんかよりね。
半ば強引に食べさせられてしまったバナナ。ソルジャーのためにと届けられた筈が、ハーレイの胃袋に収まったバナナ。
それが全ての始まりだった。次からバナナが青の間に一本届けられる度に、ブルーは必ず残しておいてはハーレイに食べるようにと勧めた。自分では食べず、ただハーレイにと。
「ソルジャー、これではバナナをお届けする意味が…」
お身体のためにと、ソルジャーの分のバナナを優先で確保しておりますのに。
それを私が食べていたのでは、何の役にも立たないのですが…。
「いいんだよ。君の方が遥かに忙しいから」
暇なソルジャーなんかよりも、余程。
身体のためだと言うのだったら、なおさら君が食べなきゃならない。キャプテンも身体を大切にしないと、君の代わりはいないんだからね。
「ですが…」
ソルジャーの代わりになれる者こそ、この船には一人もいないのですが…。
ですから、バナナはソルジャーがお召し上がりになるべきだと私は考えますが…。
「ぼくの出番なんか、今は無いにも等しいんだけどね?」
でも、キャプテンの君はそうじゃない。
君がいないと船の進路すらも危ういものだよ、だからバナナを食べるのに相応しい人間は君だと思っているんだけどね…?
まだ恋人同士にはなっていなかったけれど。
勧められたバナナを食べないとブルーがへそを曲げるから、やむを得ず食べていたバナナ。
けれども、ブルーの口にはバナナが入らない。何度バナナを届けさせても、ハーレイのためにと皮も剥かずに取っておくのがブルーだから。
ミラクルフルーツの名を持つバナナ。栄養豊富な果物のバナナ。
ブルーにこそ食べて貰いたいのに、収穫の度にバナナはハーレイの所に回ってくるから。
(どうしたものか…)
このままにしておくのは流石にまずい、とハーレイはヒルマンの部屋を密かに訪ねた。
実はこうだと、ブルーはバナナを全く食べてはいないのだと。
「そういうことになっていたとは…」
無理に言っても食べないだろうね、我々が直接進言しても。
「恐らくは」
それで食べるなら、何度かに一度は自分で食べているだろう。私も何度も言ったのだから。
しかし、どうにも食べてくれない。
何とかして食べて貰いたいのに、必ずバナナを譲られるんだ。
「ふうむ…。ならば、こうすればいいのではないかね?」
バナナの形で一人分だけ届けているから、君の所へ回ってしまう。
届け方を変えればいいのだよ。
バナナミルクを食堂で出しているだろう?
あれはバナナを増量するための飲み物ではあるが、バナナの栄養を一番効率よく摂れるものでもある。バナナとミルクを組み合わせるとだ、人間が必要とする栄養素を全て摂れるらしいね。
ブルーがバナナを全く食べていないなら、一本のバナナで出来るバナナミルクの半分でも充分と思うべきだろう。
次からバナナは一本をそのままの形ではなくて、バナナミルクにして届けさせよう。それならば量も調節出来るし、二人分になるように作らせてね。
かくして、次に採れたバナナはミルクと砂糖を加えたバナナミルクになった。
青の間に届けられたそれにブルーは驚いたけれど、元のバナナに戻ってくれはしないから。その夜、報告に訪れたハーレイに、冷蔵しておいたバナナミルクの容器を見せた。
「ハーレイ、バナナがこんな飲み物になってしまって…」
一応、残しておいたけれども、これをどうすればいいんだろう?
君が飲むかい、グラスに二杯分はあるようだけれど。
「なるほど、早速届きましたか、バナナミルクが」
ヒルマンが手配をしたようですね。それだけの量でバナナが一本分ですよ。ミルクで量の調節が出来ると言っていましたし…。その量は二人分ですよ。
「二人分って…。ハーレイ、ヒルマンにバラしたわけ?」
ぼくはバナナを食べていないと、ハーレイに譲っているんだと。
それでこういうバナナミルクで、二人分に変えられてしまったわけ…?
「はい。ソルジャーのご健康は大切ですから」
全くお召し上がりにならないよりかは、半分でも食べて頂かねばと…。
それにバナナはミルクと組み合わせるのが一番効果が大きいそうです、ですからバナナミルクをお届けすることになりました。
二人分です、これでソルジャーも私もバナナを食べられるようになったのですよ。
そんな形で始まった、二人分のバナナミルクの配達。
バナナが採れるとブルーの分が最優先なことは変わらなかったが、一本を丸ごと届ける代わりにミルクを加えてバナナミルクに。ほどよい甘さの味になるよう、砂糖も加えて。
青の間に届くバナナミルクをブルーは夜まで冷蔵しておき、報告に訪れるハーレイに飲ませた。届いてからの時間を考えれば一人で全部を飲めるだろうに、夜まで器を開けもせずに。
二つのグラスに注ぎ分けられて、「飲んで」とハーレイの前に出されたバナナミルク。栄養価が高いのだから飲んでおくべきだと、キャプテンは激務なのだからと。
そうして二人でバナナミルクを飲んでいた。
時には冷たいバナナミルクをハーレイがキッチンで適温に温め、ホットにもして。
「そっか、ハーレイにバナナミルク…」
飲ませていたっけ、これは栄養があるんだから、って。届く度に夜まで残しておいて。
「うむ。バナナの生産量が安定するまで、アレだったろ?」
俺の所までバナナが一本、ちゃんと届くようになるまでは。
お前、いつでもバナナミルクを取っておくんだ、一口も飲まずに律儀にな。
「そうだっけね…。せっかくのバナナミルクなんだし、二人で分けよう、って…」
バナナだったら丸ごと残しておいたんだけどな、ハーレイがバナナミルクに変えさせたから。
二人で飲むしか道が無くって、ハーレイと一緒に飲んだんだっけ…。
「前の俺たちの思い出の味さ、バナナミルクは」
お前がせっせと残していたなと、キャプテンは栄養を摂らなきゃ駄目だと。
「すっかり忘れちゃってたよ」
ハーレイに会ってからバナナは何度も見てるんだけどな、バナナのお菓子も出てたのに…。
だけど一度も思い出さなかったよ、バナナミルクもバナナを残していたこともね。
「忘れちまってた、という点に関しちゃ俺もだがな」
昨日まで全く思い出さずに来たんだし…。
新聞にバナナミルクのレシピが載っていなけりゃ、忘れちまったままだったろうな。
今はバナナなんて珍しくもない果物だしな、とハーレイは笑う。
食料品店に行けば果物のコーナーに山と積まれて選び放題、何本買うのも自由だと。
「シャングリラじゃ、全員に毎日一本ずつとはいかなかったんだがなあ…」
バナナが沢山採れるようになっても、そこまでの量は無かったな。
「無理だよ、最後の方はあの船に二千人もいたんだから」
一人一本だと、毎日バナナが二千本も必要になるんだよ?
貯蔵しとけば一度に二千本を出せても、毎日だなんて絶対に無理!
「バナナの木が何本植えてあっても足りやしないな、一日に二千本ともなればな」
「好き嫌いのお蔭で助かったけどね、その点ではね」
他の果物の方がいい、って人も少なくなかったから…。
だから充分に足りていたんだよ、シャングリラのバナナ。
わざわざバナナミルクに仕立てて増量しなくても、皮を剥いて食べられるバナナがね。
バナナを好んで食べる者もいれば、そうでない者たちも暮らしていたシャングリラ。
増量用にと作られていたバナナミルクはいつしか忘れ去られて、黄色いバナナが普通になった。黄色い皮を纏ったバナナが供され、剥いて食べるのが当たり前。
ブルーの所へ優先的に届けられていたのも過去のこととなり、ハーレイも日常的にバナナを口に出来る日々。もちろんブルーも、気が向いた時に青の間にバナナを届けさせて。
「お前と恋人同士になった頃には、もう無かったなあ、バナナミルク…」
バナナがあるのが普通の毎日になっちまっていて、あの飲み物はもう無かったんだよな。
子供用に作ったりはしていた筈だが、もう青の間には無かったなあ…。
「そういえば…。それで忘れてしまったかな、ぼく」
バナナミルクも、バナナのことも。
何度も二人でバナナミルクを飲んだけれども、恋人同士じゃなかったものね。
あれもハーレイとの思い出には違いないけど、恋人同士の思い出ってわけじゃないんだもの、とブルーがクスッと笑みを零した。
まだお互いに友達同士で、友達のためにとバナナを残していたのだから、と。
それではブルーがバナナを全く食べられないから、と登場した飲み物がバナナミルクで二人分。
恋人同士で飲んだジュースなら忘れないけれど、友達同士では忘れるだろうと。
バナナミルクを飲みながら交わした会話も友達同士の話ばかりで、恋の欠片も無いのだからと。
「さてなあ…。そいつはどうだかな?」
バナナミルクじゃなかったとしてもだ、お前、あれこれ覚えているか?
青の間でお茶を飲むと言ったら紅茶が定番だったわけだが…。
今のお前が暮らしてる家のお茶も紅茶が多いわけだが、紅茶を飲む度に思い出がヒョコッと顔を出してはこないしな?
「ぼく、バナナミルク以外にも忘れていそう?」
ハーレイと恋人同士になってから飲んだ飲み物のことだって忘れてるのかな、綺麗サッパリ。
それを飲んでも思い出しもしないで、ゴクゴク飲んだりしているのかな…?
「お互いにな」
俺だって昨日までバナナミルクを忘れていたんだ、他にも色々と忘れちまっているんだろうな。
お前よりかは今の年が遥かに上になってる分、手掛かりってヤツも多そうなんだが…。
飲んだ飲み物の種類が断然、多いしな?
ただしだ、お前にはまるで飲めない酒ってヤツもだ、うんと沢山飲んだんだがな。
「前のぼくとハーレイ、どんなの、飲んでた?」
お酒以外で、今でも普通に飲める飲み物。
恋人同士になってから一緒に飲んだ飲み物、紅茶の他にはどんなのがあった?
コーヒーとお酒は今のぼくでも駄目だから無しで、他に二人で飲んだ飲み物、どういうもの?
「おっと、そこまでだ」
飲み物の話も悪くないんだが、そういった方向へ話が行くのは良くないな。
お前が偶然、思い出したと言うなら仕方がないが…。
そうでもないのに、どういう飲み物を飲んでいたかと訊かれても俺は一切喋らないからな?
チビには恋の話は早いさ、とハーレイはバナナミルクが入ったカップを指差した。
湯気が立っていたバナナミルクはもう冷めた上に、半分くらいに減っていたけれど。話しながら飲む間に減ったけれども、そのカップを。
バナナミルクは身体にいいと、身体にいい飲み物を飲んで健康的にいこうじゃないか、と。
「健康的に飲んで健全な会話だ、チビにはそいつがピッタリだってな」
丁度いいじゃないか、バナナミルクで。
ミルクも入っているんだからなあ、こいつで背だって伸びるかもな?
「そうなるの?」
健康的に話をしよう、ってバナナミルクになっちゃうの?
そりゃあ、確かにバナナミルクは栄養があるから、って前のハーレイに飲ませていたけど…。
「そのバナナミルク。今は美容と美肌のための飲み物らしいが?」
栄養よりも、そっち方面の効果を期待されているらしい。
前の俺たちが生きてた時代も、人類にとってはそうだったのかもしれないがな。
美容にいい、ってバナナミルクで、美肌を目指してバナナミルクってな。
「じゃあ、頑張る!」
ぼく、頑張ってバナナミルクを飲むことにするよ、ミルクもいいけど。
ハーレイがくれたこのバナナは全部、バナナミルクにして貰うんだ。ママに頼んで。
「はあ?」
お前、頑張ってバナナミルクって…。どういうつもりだ?
身体にいいとは確かに言ったが、バナナミルクに頼らなくてもバランスのいい食事をだな…。
「違うよ、身体には違いないけど…」
ハーレイ、自分で言ったじゃない。今は美容と美肌だ、って。
だから美容と美肌のためだよ、バナナミルクで頑張らなくっちゃ!
ぼくはハーレイのお嫁さんになるんでしょ、とブルーはニッコリ微笑んだ。
お嫁さんなら美人の方がいいに決まっていると、美容と美肌はそのためなのだと。
「ハーレイ、美人のお嫁さんは嫌?」
美容と美肌で努力をしているお嫁さんより、そうじゃないお嫁さんがいい?
だったら、バナナミルクを飲むのはやめておくけれど…。
「そう来たか…」
どうせなら美人で美肌の嫁さんが欲しくないか、と言うんだな?
「うんっ!」
そういうお嫁さん、ハーレイ、要らない?
同じぼくでも、手を掛けた分は美肌になると思うんだけど…。
「なるほどなあ…。それなら美人の嫁さんがいいな、お前が努力をしてくれるならな」
バナナミルクで頑張ってくれ。
前のお前みたいに有無を言わさず押し付けやしないから、自分のペースでバナナミルクだ。
うんと美人で美肌の嫁さん、俺は楽しみに待ってるからな。
今度のブルーは目的がまるで違っているらしい、バナナミルクという飲み物。
身体にいいからとハーレイに飲ませる暇があったら、ブルーが自分で飲むのだろう。
美容のための飲み物なのだと、これで美肌を目指すのだと。
(うんうん、そうして嫁に来るんだ)
今更そんな努力をせずとも、ブルーは充分、美人で美肌の筈なのに。
前のブルーの姿からして、あれ以上はもう磨く余地などありもしないのに。
(しかし、こいつは頑張るんだな、バナナミルクで)
そう思うと可笑しくて、そしてたまらなく愛おしい。
バナナミルクで美容と美肌だ、とカップの中身を一気に飲み干す目の前の小さな恋人が…。
バナナミルク・了
※シャングリラでバナナが貴重だった頃、前のブルーがハーレイに御馳走したバナナミルク。
今では美容にいいそうですけど、美肌を目指すには、今のブルーはチビすぎますね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv
シャングリラ学園の秋とくればマザー牧場での収穫祭。搾りたてミルクだのジンギスカンだのをたっぷり食べて栄養補給で、次に来るのが学園祭です。もっとも、学園祭の準備は二学期に入ると間もなく始まり、クラス展示だの演劇だのと賑やかになるんですけれど…。
「かみお~ん♪ 今年も空飛ぶ絨毯だよね!」
放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でキャイキャイと飛び跳ねるお部屋の持ち主。いえ、持ち主と言っていいのかどうかは謎が残るところ、とはいえ名称は「そるじゃぁ・ぶるぅのお部屋」。生徒会室の奥の壁にある紋章に触った人だけが入れる憩いの空間です。
壁の紋章はシャングリラ学園のシンボルマーク。サイオンを持った人にしか見られないそうで、それに触れれば瞬間移動で壁をすり抜け、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へと。
日頃はそういう仕掛けになっている部屋を学園祭の時だけ壁にドアをつけて一般公開、それが私たちの誇る催し物、『ぶるぅの空飛ぶ絨毯』という名の喫茶店。好みのドリンクを注文すれば、飲んでいる間にサイオニック・ドリームがかけられ、あちこちの観光名所へバーチャルトリップ。
サイオニック・ドリームは会長さんがやっていますが、一般生徒には「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーと説明してあります。その喫茶店で売られるドリンク、行き先が観光地だけにお値段は観光地プライス、ぼったくり価格というヤツで…。
「…今年も観光地プライスですか?」
シロエ君がおずおずと口を開きました。
「いい加減、ぼくの良心が痛むんですけど…。なにしろ発案者がぼくということに」
「観光地価格は高いですよね、と君が確かに言ったんじゃないか」
あれでパパッと閃いたのだ、と会長さん。
「サイオニック・ドリームで世界の旅だよ、あらゆる所に行けるんだよ? バーチャルトリップでも臨場感の方はバッチリ、本当に其処まで出掛けるよりかは安いって!」
ジュースの値段じゃ空港までのバス代も出ない、と自説を展開。
「おまけにオプショナル・ツアーの方だって大人気! 眺めるだけよりクルーズ気分とか、遊覧飛行は人気があるよね。追加料金を払うお客さんが毎年大勢いるんだ、問題なし!」
今年もうんとぼったくるべし、という会長さんの号令で私たちはバーチャルトリップの行き先選定に取り掛かりました。定番の場所もありますけれども、新しい場所も入れたいです。何処にするか、と意見を出し合っていた中、飛び出した案が溶岩湖。
「「「溶岩湖!?」」」
なんだそれは、と発案者のジョミー君へと視線が集中。溶岩湖って…なに?
「だからさ、火山の火口だってば!」
ブルーだったら知っているよね、とジョミー君は解説を始めました。私たちの国には無いらしいですが、火山の火口に湖よろしく溶岩が溜まっているのだとか。溶岩だけにもちろんドロドロ、ただし表面は外気に触れているため、赤くはないという話。
「だけど溶岩が一杯なんだし、その上を飛ぶとかスリリングだよね」
「「「あー…」」」
溶岩湖の上をバーチャル遊覧飛行ですか! それは人気が出たりするかも、と思っていたら。
「いいねえ、溶岩湖は素敵に面白そうだよ」
会長さんがパチパチと拍手。
「見物に行ったことはあるから、火口の眺めは提供できる。…遊覧飛行をするとなったらオプショナルかな、その映像は行ってこないと手に入らないし」
「そだね~」
無いね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「ぼくもブルーも「凄いね」って縁から見てただけだし、上を飛ぶなら見に行かないと…」
「そういうわけだよ、新たにお出掛けが必要になるから別料金はガッツリ頂く!」
会長さんが本領発揮。地球上なら何処でも一瞬で往復可能なサイオンがあるくせに、こういう時には出し惜しみならぬ有難味の押し出し。今更だから、と私たちは何も言いませんけど…。
「あっ、そうだ!」
どうせ行くなら、と会長さんはポンと手を打って。
「遊覧飛行はスリリングに! 溶岩湖で燃えるゴミ袋だよ!」
「「「ゴミ袋?」」」
「うん。実験した人があったんだ。表面は黒っぽく固まって見えるし、其処に人が落っこちたとしたらどうなるか、っていう話が発端」
まさか本当に人を落とすわけにはいかないから、と選ばれたものがゴミ袋。四十キロだか五十キロだか、中身を詰め込んで溶岩湖に投下実験をした学者さんたちがいたのだそうで…。
「そ、そのゴミ袋はどうなったわけ…?」
ジョミー君の問いに、会長さんは。
「表面の黒い部分をズボッと突き抜け、中で爆発炎上だってさ」
溶岩湖の表面は固まってはおらず、件のゴミ袋は下で滾っていた溶岩の中へ。高温ですから瞬時に炎上、溶岩湖の表面もゴミ袋よりも大きめサイズでドッカン爆発。ゴミ袋が燃える煙が一瞬だけ出て、爆発の後は元通りの黒い溶岩湖に…。
スゴイ、と私たちは驚きました。ゴミ袋の投下実験もさることながら、その実験の結論なるものが「人が溶岩湖に落ちた場合は表面を突き抜け、爆発炎上するであろう」という凄さ。投げ込んだモノはゴミ袋でも、人が転落した時の展開を予想するとは学者魂、恐るべし…。
「…何も人にまで結び付けなくてもねえ?」
怖すぎるんだよ、とジョミー君。
「ゴミ袋だけでいいじゃない! そんなに人を投げ込みたいかなあ…」
「どうなんだか…。まあ、学者というのは研究バカだし?」
探究心は半端では無い、と会長さんが口にしてから。
「待てよ、爆発して燃えるゴミ袋…。これを組み込んだら更にスリリングな体験になるね」
「投げ込むつもりか!?」
キース君がすかさず突っ込みました。
「四十キロだか五十キロだか、ゴミ袋を投げ込みに出掛けるつもりか!」
「それはもう! …どうせだったらゴミ袋よりも人間だよね」
「「「ええっ!?」」」
に、人間って、それは殺人になるのでは? それとも何処かの医学部とかから解剖用のをせしめてくるとか、そっち方面なら無罪だとか…?
「違うね、リアルに出来た人形! 今から作れば間に合うかと」
「…マネキンか…」
ならいいか、とキース君以下、ホッと安堵の溜息ですけど。
「うんとリアルな特製だよ? でもってコンセプトは堕天使なんだ」
「「「堕天使?」」」
会長さんの目指す所がサッパリ分かりませんでした。しかし…。
「ぶるぅ、こないだ買ったリュックは?」
「えとえと、天使のリュックのこと?」
「そう! みんなに見せてあげてよ、アレを」
「オッケー!」
何も無い空間からヒョイと出て来た黄色いリュック。小さなお子様サイズですけど、白い布で出来た翼が両脇にくっついています。ずっと前にも背負ってたかな、このリュック…。
「可愛いでしょ、これ? ブルーに買って貰ったんだよ!」
ねーっ? とリュックを背中に背負って飛び跳ねている「そるじゃぁ・ぶるぅ」。とても無邪気で上機嫌。天使のリュックは分かりましたが、これと堕天使との関係は…?
黄色いリュックに天使の翼。それを見ていた私たちの耳に、会長さんの笑いを含んだ声が届いて。
「ぶるぅの空飛ぶ絨毯だよ? 溶岩湖の上を飛んで行くなら、ぶるぅがお似合い!」
その更に上をぼくが飛ぶんだ、と会長さんはニコニコと。
「ぶるぅの不思議パワーについては、詳しい内容は知られてないしね? 自分が空を飛んでいるのを上から撮影可能なんだと思われるだけで解決だよ、うん」
「…それで?」
堕天使の件はどうなったんだ、とキース君が冷静に。
「察する所、ぶるぅがマネキンを落としに飛んで出掛けるようだが…」
「もちろんさ。落っこちたマネキンが堕天使なんだよ、溶岩湖に沈んで当然だよね」
ただし、と会長さんはニヤニヤ。
「落っこちて爆発炎上の前にすり替えるだけで、最初は本物の人間だってば」
「「「本物!?」」」
「いわゆるスタントマンっていう感じかな? 天使の翼をつけて貰って、ぶるぅが抱えて飛んで行く。そして堕天使に相応しく!」
燃える溶岩湖に沈むのだ、と会長さんはブチ上げました。
「天使の翼は片方だけにするのがいいかな、もう片方は悪魔の翼! そうすれば一目で堕天しそうな天使と分かるし、すり替えるマネキンは両方の翼を悪魔のヤツにしておけば…」
「ちょっと待て!」
そんな危険を誰が冒すか、とキース君の顔は真っ青で。
「俺は断らせて貰うからな! 坊主は天使などとは無縁だ、そんなコスプレは教義に反する。…いいか、怖くて言っているんじゃないからな!」
「怖がってるとしか思えないけど?」
まあいいけどね、と会長さん。
「その理屈だとサムとジョミーも坊主で却下で、残ってるのは…」
「ぼくたちですか!?」
シロエ君がマツカ君と顔を見合わせてブルブルと。会長さんのサイオンがいくら凄くて心配無用と言われた所で、溶岩湖の上を「そるじゃぁ・ぶるぅ」に抱えられて飛行した上、真っ逆様に落っことされるとあっては誰だって嫌というものです。
「女の子は除外に決まってるしねえ…」
会長さんの台詞に、シロエ君とマツカ君は顔が真っ白になったのですけど。
「…誰が仲間内から選ぶと言った? こういうのは適材適所なんだよ」
喜んで落っこちそうなバカが、と会長さんはニンマリと。落っこちそうなバカって、誰…?
落っこちたら最後、爆発炎上、地獄まがいの溶岩湖。そこに落とされるスタントマンが出来そうな人がいると言われても、まるで見当がつきません。誰なんだろう、と言い合っていたら。
「バカと言ったら一人だけだろ、考えるまでもなさそうだけど?」
「「「バカ?」」」
「ぼくにベタ惚れのバカだってば! シャングリラ学園教頭、ウィリアム・ハーレイ!」
ゲッ、としか声が出ませんでした。きょ、教頭先生を溶岩湖に…?
「いいじゃないか、学園祭の催し物に使う映像だよ? 教師たるもの、協力しなくちゃ!」
そして撮影は一発勝負、と会長さん。
「ぼくのサイオンにミスは無いしね? それにハーレイはタイプ・グリーンだ。防御能力はタイプ・ブルーに匹敵する。万一の時にも大丈夫!」
「「「………」」」
その万一とは何を指すのか、言われなくても明明白白。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が大失敗をして溶岩湖の中に転落する羽目になった場合も生き残れるという意味です。
「だからね、まずはハーレイのマネキン作り! いつものコスプレ専門店の子会社がマネキンを扱ってるから、ハーレイの体格と体重に合わせたリアルなヤツを作って貰おう」
天使じゃなくて堕天使バージョン、と会長さんはニコニコと。
「堕天使の翼はやっぱりアレだね、コウモリだよね」
「それはまあ…」
そうなんだが、とキース君が浮かない顔で。
「あんた本気か、本気で教頭先生を?」
「だって、ピッタリの人材だよ? 学園祭の催し物だよ、ハーレイが落下するとなったら人気は絶大、お客がひっきりなしに来るかと」
もちろん価格は超のつくスペシャル観光地価格、と儲け第一、他は二の次、三の次。
「しかし、教頭先生の同意を得てない段階でだな…」
「同意するってば、ぼくも一緒に飛ぶんだからね。ぶるぅの上を飛ぶと言っても、同時に飛ぶのは間違いない。ハーレイにとっては貴重な体験、落下シーンが待っていようと絶対にやる!」
会長さんは自信満々で。
「堕天使バージョンの翼をくっつけたマネキンと一緒に、コスプレの方も注文しなきゃ。天使の翼と堕天使の翼、それを片方ずつハーレイにつけて、と…」
「凄いね、なんだかカッコ良さそう」
「「「は?」」」
カッコ良さそうって、いったい何が? そもそも今の台詞って、誰?
何処かがズレた奇妙な台詞。誰の口から飛び出したのだ、と見回してみれば。
「こんにちは」
紫のマントがフワリと翻り、会長さんのそっくりさんのソルジャーが姿を現しました。
「ハーレイにコウモリの翼だって? …マネキンでもさ」
「本人の翼も片方、コウモリだけど?」
会長さんがツンケンと。
「それの何処がカッコいいってことになるのか、ぼくにはサッパリ分からないけど」
「そうかなあ? コウモリと言えば吸血鬼だろ?」
かっこいいじゃないか、とソルジャーはウットリした顔で。
「黒いタキシードでバッチリとキメて、背中にコウモリの翼だよ。でもって美女の生き血を吸うんだ。ハーレイの場合は君の生き血かな、それとも生き血よりもずっと素敵な…」
「「「素敵な?」」」
「男のアレだよ、絶頂の時に迸るヤツ!」
「退場!!!」
今すぐ出て行け、と会長さんがレッドカードを投げ付けましたが、効き目なし。
「そういうのを啜る吸血鬼っていうのもいい感じだよね? でなきゃアレかな、吸ケツ鬼かな?」
「「「???」」」
吸血鬼と言えば吸血鬼でしょう。他にどういう意味があるのだ、と思ったのですが。
「ケツが違うんだよ、お尻の方だよ! お尻はとっても大切だから!」
吸うよりは舐める方なんだけど、と言われましても、お尻を…ですか?」
「あっ、もしかして君たちは分からない? 男同士でヤるとなったらお尻に入れるのは知ってるだろう? その前に充分ほぐさないとね。舌を入れるのも王道ってヤツで」
「退場だってば!!」
会長さんがレッドカードを何度投げても、ソルジャー、全くお帰りにならず。
「いいねえ、ハーレイが吸血鬼かあ…。何を吸うにしても燃えると思うよ、その役、絶対に引き受けると見たね。ぼくも口添えしてあげるから!」
ハーレイが吸えそうなブツについて、と極上の笑み。
「それだけの特典がついてきそうなコスプレなんだ。たとえ溶岩湖が待っていようと、ハーレイは笑顔で承諾だね」
「…き、き、君は…!」
来なくていいっ! と会長さんは叫びましたが、時すでに遅し。ソルジャーに聞かれてしまった以上は、どう断っても来るでしょう。プロジェクト中止もきっと不可能、なんで溶岩湖にゴミ袋を投げ込む話が吸血鬼に……。
こうして強引に仲間入りを果たしたソルジャー。思い立ったが吉日だとか言い出した末に、その日の夜には教頭先生の家へ行くことがサックリ決まってしまいました。
「…学園祭の話だったのに…」
どうしてこうなる、と会長さんがブツブツと。完全下校のチャイムを合図に私たちは瞬間移動で会長さんの家に移動し、ジュウジュウと焼けるステーキの夕食。溶岩湖の話が発端なだけに、ソルジャーが希望したのです。一人前ずつ鉄板を仕込んだお皿に乗っかった熱々ステーキ。
「ふふ、溶岩となったら鉄板どころの熱さじゃないよね」
でもハーレイは頑張るだろうね、とソルジャーはステーキを頬張っています。
「タイプ・グリーンのプライドにかけて挑んでくると思うよ、きっと。君と一緒に飛べるだけでも食い付きそうなのに、吸血鬼! これで釣れなきゃ男じゃない、と!」
「吸血鬼の話は要らないってば!」
「ダメダメ、そこが肝心要! こっちのハーレイ、何かと腰が引け気味だしね? 無事に撮影終了したらさ、ぼくが手引きして吸血鬼への道を」
「なんだって!?」
会長さんの顔色が変わりましたが、ソルジャーの方は平然と。
「手引きだってば、吸血鬼の! 何を吸うにしても、ターゲットは君!」
そして目出度く結婚なのだ、と信じられない言葉がポポーン! と。
「吸血鬼に血を吸われたら吸血鬼になるらしいしねえ? 君も吸血鬼の仲間入りだよ、ハーレイと仲良く吸ったり、吸われたり!」
「なんでハーレイのお尻なんかを!」
「お尻とは言ってないってば!」
言っていない、とソルジャーは人差し指を左右にチッチッと。
「お尻からは何も吸えないじゃないか、舌を突っ込むくらいでさ。吸うと言ったら男のシンボル! 二人仲良く一緒に吸うならシックスナイン!」
「「「…しっくすないん?」」」
何が何やら、もはや理解の範疇外。分かるもんか、と私たちはステーキに集中ですけど、会長さんはさに非ず。頭から湯気が出そうな勢い、ソルジャーを激しく詰りまくり。
「君の頭はとっくの昔に論外だから! 腐れまくって爛れてるから!」
「こっちのハーレイだってそうだろ、毎日妄想三昧だしさ! そんなハーレイに是非ともオススメ、吸血鬼! 絶対に「うん」と言わせてみせるよ、学園祭での催しのために!」
「催しだけでいいんだってば、他の話は要らないんだよ!」
黙っていろ、と怒鳴り付けている会長さんですが、相手はソルジャー。教頭先生の家にお邪魔した後、何が起こるか考えたくもないですってば…。
夕食が済んで、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が片付けを終えて。その頃には教頭先生もとうに御帰宅、食事を済ませてリビングで寛ぎのコーヒーと新聞の時間だそうです。
「そろそろいいかな。…ブルー、君は余計なことを言わない!」
「そう言わずにさ。移動用のサイオンは惜しまないから」
ねえ? とソルジャーが「そるじゃぁ・ぶるぅ」に声を掛け…。
「かみお~ん♪ しゅっぱぁ~つ!」
三人分の青いサイオンがパアッと迸り、私たちは教頭先生の家のリビングへと突入しました。予告なしの電撃訪問に教頭先生が仰け反られる姿も毎度お馴染み、会長さんが挨拶を。
「こんばんは、ハーレイ。今日は学園祭のことで相談があって…」
「学園祭?」
なんだそれは、と教頭先生。それはそうでしょう、過去のパターンからして瞬間移動での訪問はロクでもない目的が圧倒的多数。学園祭などと真っ当なものを持ち出された方が驚きなわけで。
「学園祭がどうかしたのか、お前たちは今年もアレだろう?」
アレとは『ぶるぅの空飛ぶ絨毯』。喫茶として届け出が済んでいますし、ドアを取り付ける工事が必要なだけに業者さんを手配して貰うための届けも必須。教頭先生がそうしたことを御存知ないわけがありません。
「うん、例によって喫茶なんだけど…。其処のメニューに新しいのを出したくってね」
会長さんはズバリ本題を持ち出しました。
「その件で君に相談したくて」
「新メニューだと? それは勝手に決めてるだろうが、相談が必要とも思えないが? …待てよ、サイオンの特殊な使い方でも追加するのか? それなら長老会議だな」
教頭先生が仰る通り、存在自体が極秘なサイオンは長老会議こと長老の先生方全員の賛同を得ないと校内で新しい使い方を実行することは出来ません。そうした相談に現れたものと教頭先生はお思いになったようですが…。
「ううん、長老会議じゃなくて…。君個人の協力が必要なんだな」
「は?」
「ぼくと一緒に空を飛んでいる映像が欲しい。…それが今年のスペシャルメニュー」
「お前とか!?」
教頭先生の顔が輝き、釣り針にがっぷり食い付かれたのが分かりました。さて、この先がどうなるか…。釣り上げられるか、逃げられるか。なにしろ相手は溶岩湖ですしね?
「…正確に言うと、君はぶるぅと飛ぶんだよ。でも、その真上をぼくが飛ぶわけ」
そうやって映像をゲットするのだ、と会長さんは教頭先生に説明しました。
「ぶるぅが君を抱えて飛ぶ。その姿をぼくが記憶しておいて、サイオニック・ドリームとしてメニューに出す。…どうかな、ぼくたちと一緒に飛んでくれる?」
「もちろんだ!」
教頭先生、考えもせずに見事な即答。流石は日頃の夢が会長さんとの結婚だけのことはあります。会長さんをお嫁に貰って「そるじゃぁ・ぶるぅ」を養子にしたいと、何回耳にしたことか…。
「飛んでくれるんだね? ありがとう。それじゃマネキンが出来てきたらさ、早速撮影に出掛けようかと…」
「…マネキン? 飛ぶのは私のマネキンなのか? 私ではなくて?」
傍目にもガッカリなさった教頭先生ですけれど。
「違う、違う! マネキンはいわゆるスタントマンかな、君の代わりに爆発炎上」
「爆発炎上!?」
不穏な言葉に教頭先生の目が見開かれて。
「スタントマンだの爆発だのと、どうも穏やかには聞こえんのだが…」
「だろうね、目指す所はスリリングな遊覧飛行だから! それでこそウケが取れるってもので」
「スリリング…?」
「溶岩湖の上を飛ぶんだよ。溶岩湖はもちろん知っているよね、こう、溶岩がグツグツと」
煮え滾っているというか、表面だけが黒く固まったように見えるというか…、と会長さん。
「其処にゴミ袋を放り込むとさ、爆発炎上するらしい。人間でも同じ結果が得られそうだと学者が言ってる。だからね、君のマネキンを投げ入れようかと」
「…わ、私の…?」
「そう。そして、それだけでは面白くない。テーマは堕天使の墜落なんだ。堕天した天使は地獄行き! 溶岩湖はまさに地獄の風景!」
其処でマネキンが爆発炎上してこそなのだ、と会長さんは滔々と。
「でもねえ、最初からマネキンを抱えていたんじゃつまらない。まずは本物の君を抱えて遊覧飛行! 頃合いを見てぶるぅが手を放す。真っ逆様に落ちてゆく君をマネキンと入れ替えて溶岩湖の中でドッカン爆発、実にスリリングな見世物だよ、うん」
「…つ、つまり私が落ちるのか? 溶岩湖に?」
「途中まではね」
震え始めた教頭先生に、「平気だってば」と太鼓判を押す会長さん。
「ぼくのサイオン能力の高さは知ってるだろう? ちゃんとキッチリ入れ替えるさ」
心配無用、と微笑まれても。教頭先生、顔が凍ってますってば…。
「…よ、溶岩湖…。真っ逆様に……」
死ねる、と青ざめる教頭先生。けれど会長さんは「心配ない、ない」と教頭先生の背中をバンッ! と強く叩いて。
「君は防御力ではぼくに匹敵するタイプ・ブルー! 万一の時にもシールドを張れば死にはしないし、火傷もしないで無事に生還! これが出来るのは君しかいない!」
ゼルやヒルマンでは駄目なのだ、と拳を握ってタイプ・グリーンの力を強調。
「ぼくが見込んだ人材なんだし、ここは是非とも協力を…ね? 一度はやると言ったじゃないか」
「…し、しかし……」
「マネキンだとホントにつまらないんだよ、堕天使の君が落っこちてこそ! 堕天使なんです、と見ている人によく分かるように翼もつけるし」
「翼?」
怪訝な顔の教頭先生。会長さんは「翼だってば」と教頭先生の肩を指差し…。
「片方の肩に天使の翼で、もう片方には悪魔の翼! 善と悪とのせめぎ合いです、って雰囲気を作り出さなくちゃ。溶岩湖に落ちるマネキンは両方とも悪魔の翼なんだよ」
悪魔になってしまったからこそ地獄行きだ、と会長さん。
「その前段階として天使と悪魔の両方の翼の君が必要! まさに地獄な溶岩湖の上で改心するかどうかを問われて、改心しないままに地獄落ちっていうシチュエーションだよ!」
ドラマティック、と会長さんは自分のアイデアに酔っている顔。
「落ちたマネキンは爆発炎上、溶岩湖の底力を見たお客さんは大いに満足ってね。シャングリラ学園の教頭である君が落ちるから見世物としての魅力も上がるし」
「…ほ、本当に大丈夫なのか? そ、そのう……溶岩湖に落ちたとしても」
「自分の力は知ってるだろう? ゼルとかだったら危ないけどさ」
君なら出来る、と会長さんが発破をかけた所で。
「悪魔の翼がとってもポイント高いんだよ?」
ソルジャーが割って入りました。
「悪魔の翼だと思っているから間違ってくる。…ブルー的には悪魔の翼のつもりだろうけど、現物はコウモリみたいな翼になるって話でねえ…。コウモリで何か思い出さない?」
「…コウモリですか?」
傘でしょうか、と間抜けな答え。コウモリ傘は実在しますし、教頭先生だってお持ちなのですが。こういう流れでコウモリ傘とは、ズレるにもほどがあるのでは…?
「…いや、そこはコウモリ傘じゃなくって…」
もう少し頭を捻ってみたまえ、とソルジャーが溜息をつきながら。
「いいかい、コウモリの翼だよ? 悪魔に極めて近いモノでさ、コウモリとくれば吸血鬼だし!」
「ああ…! 言われてみればそうですねえ…」
吸血鬼にはコウモリが付きものでした、と教頭先生。実際に居るかどうかはともかく、吸血鬼はコウモリに変身すると言われています。納得なさった教頭先生に、ソルジャーは。
「君がコウモリの翼をつけるからには吸血鬼だ、と、ぼくはブルーに言ったわけ。そして吸血鬼の狙いは美女だと決まっているけど、君の場合はブルーだよね?」
「そ、それは…。もし吸血鬼になってしまっても、私にはブルーしか見えませんが!」
いくら美女でも目に入りません、と教頭先生はグッと拳を。それを聞いたソルジャー、満足そうな笑みを浮かべて。
「ほらね、ブルー? 君しか見えていないらしいよ、この吸血鬼」
そうして君を襲うんだ、とニヤリニヤニヤ。
「でね、ハーレイ? 君の場合は吸血鬼と言っても偽物なんだし、所詮はコスプレ! 本当に血なんか吸わないだろう? だから代わりに別のものを…ね」
「別のもの?」
「吸血鬼という響きに相応しく、ブルーのお尻…。いわゆるケツを吸ってみるとか、ブルーの大事なアソコが吐き出す白い液体を吸ってみるとか!」
「…うっ……」
教頭先生は鼻の付け根を押さえて鼻血の危機。しかしソルジャーが止まる筈もなく、吸血鬼を目指せと更なる煽りが。
「君が溶岩湖でのロケだか何だか知らないけれども、それを見事にやり遂げたなら! 君を立派な吸血鬼と見なして、このぼくが手伝ってあげるから!」
「…手伝い…ですか?」
「吸血鬼の君がブルーの家へと忍び込むための手伝いだよ! ブルーのお尻を吸いまくるも良し、アソコを吸って飲み干すのも良し!」
「の、飲み干す……」
ツツーッと教頭先生の鼻から流れる赤い筋。両方の鼻から垂れた鼻血に、教頭先生はティッシュで拭くやら鼻に詰めるやら、大騒ぎですが。それにかまわず、ソルジャー、トドメの一言を。
「吸血鬼に吸われてしまった人はさ、吸血鬼になるっていう話だよね? ブルーも吸血鬼になってしまうかも…。二人仲良く吸血鬼! 大事な部分をお互いに吸ってシックスナイン!」
「…し、シックスナイン…」
ブワッと鼻からティッシュが吹っ飛ぶ勢い、鼻血の噴水。教頭先生、終わりでしょうか?
「…ったく、超絶どスケベが…」
あれで倒れないなんてどうかしている、と会長さんは怒り心頭。ソルジャーが持ち出した吸血鬼なアイデアは教頭先生のハートをガッツリと掴み、鼻血の海で契約完了したのでした。教頭先生は天使と悪魔の翼を片方ずつ肩につけ、溶岩湖の上を飛行する予定。しかも…。
「失敗したって恨まないだって!? ハーレイとマネキンの入れ替え作業!」
吸血鬼めが、と怒鳴り散らしている会長さん。ソルジャーはとっくに帰ってしまって、私たちも会長さんの家のリビングに戻っています。会長さんが吸血鬼という言葉を口にする度に、脳内で吸ケツ鬼と誤変換を繰り返しながら。
「…吸ケツ鬼だしよ、基本はスケベに決まってるよなあ?」
サム君の言葉に、誰もが「うん」と。あんな吸ケツ鬼を抱えて飛ぶ羽目になる「そるじゃぁ・ぶるぅ」が可哀相になってきそうですけど、そこは小さなお子様だけに。
「わぁーい、ハーレイを抱えて飛ぶんだ! 天使のリュックで飛ぶんだよ!」
とっても楽しみ! と跳ね回ってますし、コスプレ衣装の専門店に発注する翼やマネキンのデザインもやりたいらしく。
「ねえねえ、天使の翼とコウモリの翼、どっちが右側でどっちが左?」
「…さあな? コウモリが左でいいんじゃないのか」
投げやりな口調はキース君。
「左手は不浄だと言われる国も多いしな? 逆は聞かんし、左が悪魔の側だろう」
「そっか、左がコウモリなんだね! 右が天使で…、と…。この辺はカタログで選べるよね」
それとハーレイの服をどうしよう、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は首を傾げて。
「やっぱり天使は白い服かな? うんと長くてズルズルしたヤツ」
「それでいいんじゃない?」
ジョミー君が答えて、シロエ君が。
「悪魔の服をどうするかですよ…。堕天した時って服は変わるんでしたっけ?」
「うーん、どうだろ…」
分かんないね、と顔を見合わせる私たちは明らかに知識不足でしたが。
「そのままでいいよ、吸ケツ鬼なんて!」
会長さんが声を張り上げました。
「いちいち服のデザインを替えるなんていう面倒なことは必要無い。要はスリリングな見世物なんだよ、溶岩湖に真っ逆様で爆発炎上!」
見どころは其処であって衣装ではない、と言われてみればそんな気も…。学園祭用のスペシャル映像、作成はマネキンが出来上がり次第。私たちはロケに行けませんけど、どんな映像が出来て来るのか楽しみです~!
学園祭の準備が進んでゆく中、ついにマネキンが出来て来ました。会長さんのマンションで拝んだそのマネキンは教頭先生に瓜二つ。体重も同じになっているそうで、着せられた服は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のデザインで作られた純白のローブ、天使の衣装。
「凄いね、ソックリ!」
悪魔の翼がついていなければ教頭先生そのものだ、と言いながらジョミー君が触ってみて。
「うわっ、なんか肌までリアルに出来てる!」
「えっ、どれどれ?」
ワイワイ騒いでタッチしてみて。まるで人間の皮膚のような手触り、職人さんのこだわりだとか。
「会長、これが溶岩湖でドッカンですか? もったいない気がしますけど…」
シロエ君が残念がっても、このマネキンはそのためのもの。教頭先生に着せるローブと天使の翼と悪魔の翼も揃っています。悪魔の翼はコウモリで黒。
「さて、ハーレイの家に出掛けようかな? 時差があるから本番は夜中になるけれど…」
「かみお~ん♪ 練習はやっぱりしなくちゃね!」
行って来るね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が手を振り、会長さんと一緒に消え失せました。現場を見られない私たちは家でお留守番。お泊まりしながらの留守番ですから、夕食は「そるじゃぁ・ぶるぅ」が作っておいてくれたシチューなどを食べ、夜更けも騒いでいたのですけど。
「…あれっ?」
唐突な声はジョミー君。なになに、何か変なものでも?
「……あれ、あそこ……」
なんでアレが、と指差した先に大きな人影。いえ、あの妙な影は人ではなくて…。
「「「マネキン!?」」」
廊下の隅っこに悪魔の翼を生やしたマネキンが直立不動。ついさっきまでは無かった筈です。時計を見れば、例のロケをすると会長さんが言っていた時間がとっくに過ぎているような…?
「おいおい、ロケはどうなったんだよ?」
中止かよ、とサム君が教頭先生マネキンを見詰め、キース君が。
「いや、中止だったらまだいいが…。これは不要と戻して来たんじゃないだろうな?」
「「「不要?」」」
「つまりだ、ロケは決行されたが、こいつの出番は無かったとかだ」
「そ、それって、まさか…」
まさか、とジョミー君が顔面蒼白、私たちも震え上がりました。このマネキンの出番が無い時。それはすなわち、スタント無し。教頭先生、溶岩湖へと真っ逆様で爆発炎上…?
ガクガクブルブル、震えが止まらない私たち。教頭先生はどうなったのだ、と噂するのも憚られる中、「かみお~ん♪」と元気な声がして。
「ただいまあー! 凄くいいのが撮れたらしいよ、ブルーの映像!」
「みんな、留守番、ご苦労様。まあ、見てよ」
ぼくの渾身の作の出来栄え、と満面の笑顔の会長さん。私たちは無言でマネキンの方を示して、ブルブル震えていたのですけど。
「遠慮しなくていいってば! どうかな、スペシャル! こんな感じで!」
会長さんが強引に思念で伝えて来た映像では「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛んでいました。背中に黄色いリュックを背負って、それについた白い翼を羽ばたかせて。小さな腕を精一杯に広げて引っ掴んでいるのが教頭先生の背中です。純白のローブをしっかりと握り…。
「…飛んでるな?」
「飛んでいますね…」
キース君とシロエ君が囁き交わす中、教頭先生の右の肩には天使の翼。左の肩には悪魔の翼。「そるじゃぁ・ぶるぅ」に吊り下げられて飛んでゆく先に恐怖の溶岩湖。グツグツとまではいかないものの、不穏に滾るその上空で教頭先生の身体が何度かグラグラ揺さぶられて。
「「「あーーーっ!!!」」」
パッと手を放した「そるじゃぁ・ぶるぅ」。教頭先生は手足をバタつかせながら真っ逆様。そう、バタバタと暴れまくりながら…。
「素敵だろう? マネキンは暴れないってことにリハーサルの時に気が付いちゃってね…」
会長さんの声が酷く遠くに聞こえました。じゃ、じゃあ、これって…。
「「「教頭先生!?」」」
全員の悲鳴が響き渡る中、教頭先生は冷えて黒く見える溶岩湖の表面を突き抜けて落ちてゆかれました。ドッパーン! と真っ赤な溶岩が噴き出し、大爆発と黒煙が。それじゃ教頭先生は…。
「…吸ケツ鬼だったら、気絶して自分の家のベッドに転がってるけど?」
会長さんが冷たく言い放ち、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「えとえと、ブルー? 棺桶って何処で売ってるの?」
「多分、その辺の葬祭センター!」
一番安いのでかまわないから、と答えながら会長さんはマネキンを眺めています。えっと、棺桶って何のこと? それにマネキンがどうしたと?
「これかい? 学園祭で客寄せにしようかと思ってさ。溶岩湖に落ちて燃えたマネキンのそっくりさんです、よく出来てます、って。これが瞬時に燃えるんだよ? きっと大勢のお客さんが!」
燃える瞬間見たさにスペシャルなサイオニック・ドリームを買うであろう、と嬉しそう。で、でも、本当に爆発炎上させられたのは教頭先生なんですけど~!
「そんなの絶対バレやしないよ、元々が夢の販売だしねえ? 落ちる瞬間まで暴れているのも演出なんだと思ってくれるさ、これで大ウケ間違いなし!」
「それじゃ棺桶は何なんだ! なんで買うんだ!」
キース君が噛み付きましたが、会長さんは涼しい顔で。
「…ブルー対策」
「「「ブルー対策?」」」
「あっちのブルーさ。ハーレイが見事に溶岩湖に突入を遂げた以上は、吸ケツ鬼とやらを煽りに出て来る。でもねえ、いくらブルーでも棺桶を開けてまで煽りはしないさ」
ついでに棺桶に十字架とニンニクをたっぷり詰める、と会長さん。
「どっちも伝統の吸血鬼除け! ぼくは吸血鬼も吸ケツ鬼の方もお断りです、とハーレイにもアピールしておかないとね」
でないと勘違いして吸ケツ鬼になってしまいかねない、と言い切った会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」が棺桶をゲットして戻って来るなり、気絶している教頭先生を棺桶に入れて…。
「…本当にあれで良かったのかよ?」
「坊主としては十字架とニンニクが引っ掛かるんだが、あいつがいいならいいんだろう」
銀青様は伝説の高僧だしな、とサム君に答えるキース君。十字架が効いたかニンニクが効いたか、はたまた棺桶も効いたのか。教頭先生は吸血鬼にも吸ケツ鬼にもならず、お元気で過ごしておられます。蓋が釘付けされた棺桶からの大脱出には苦労なさったようですが…。
えっ、溶岩湖なサイオニック・ドリームですか?
あれはもちろん、学園祭での一番人気。ぼったくり価格の高額商品、最高の稼ぎ頭でしたよ~!
燃え上がる湖・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生が落下なさった「溶岩湖」は実在しますです。爆発炎上するのも本当。
気になる方は、検索してみて下さいね。ドッカンする動画もあるんです。
来月は第3月曜更新ですと、今回の更新から1ヶ月以上経ってしまいます。
よってオマケ更新が入ることになります、6月は月2更新です。
次回は 「第1月曜」 6月5日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、5月は、スッポンタケとの縁を切ろうという企画が進行中。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv