忍者ブログ

シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

「わあ…!」
 お土産、とブルーは喜んだ。
 仕事帰りのハーレイがくれた、と母が運んで来てくれたお菓子。緑茶と一緒に、お饅頭。
 菓子皿の上にチョコンと座った、ヒヨコの形のお饅頭。
 艶やかな茶色を纏ったヒヨコは黒い目までちゃんとくっついていて、コロンと愛らしい。
「どうしたの、これ?」
 この辺りじゃ見かけないけれど…。ハーレイ、何処かで買って来たの?
「旅行に行ってた先生の土産だ。旅行と言っても、少し長めの研修だがな」
 せっかく遠くであるんだから、と休みを一日つけたらしいぞ、その土産だな。俺たちは留守番をしていたわけだし、遊んで来たなら土産の一つも寄越さんとなあ?
「可愛い形のお饅頭だね、ヒヨコだなんて」
 鳥じゃないよね、ヒヨコだよね?
 それとも普通の茶色い鳥かな、ぼくはヒヨコかと思ったけれど。
「ヒヨコさ、その名もヒヨコ饅頭ってな。そういう名前の饅頭なんだ」
 ずうっと昔は定番だったらしいぞ、饅頭の。
 昔と言ってもSD体制が始まるよりも遥かに前のことだな、この辺りに日本があった時代だ。
「そうだったの?」
「うむ。あちこちにヒヨコ饅頭があって、どれが最初のヒヨコ饅頭やら…」
 当時でさえ分からなかったらしいし、今となってはサッパリ謎だな。
 そして、その頃に有名だったヒヨコ饅頭。そいつがあった辺りに行くとだ、ヒヨコ饅頭が買えるわけだな。こうして復活しているからなあ、名物としてな。



「ふうん…。それじゃ有名なヒヨコなんだ…」
 とっても可愛いヒヨコだよね、とヒヨコ饅頭を指先でつついているブルー。
 指にくっつく皮ではないから、手のひらに載せてみたりもして。
 そうやってヒヨコを愛でている内に、情が移ってしまったらしく。
「どうしよう、これ…」
 ハーレイ、このヒヨコ、食べなくちゃ駄目?
「はあ? お前、この手の菓子は嫌いだったか、こういう饅頭」
 好き嫌いが無いのが売りじゃなかったか、前の俺たちが苦労していた名残ってヤツで。
 それに饅頭、平気で食っていたと思うが…。少なくとも俺が知る限りはな。
「お饅頭は嫌いじゃないけれど…。これも美味しそうだとは思うんだけど…」
 だけどヒヨコが可哀相だよ、食べちゃったらいなくなっちゃうんだよ?
 こんなに可愛いヒヨコなのに。目だって、ぼくを見てくれてるのに…!
「お前なあ…。気持ちは分からないでもないがだ、こいつはヒヨコ饅頭なんだぞ?」
 ヒヨコ饅頭は食って貰うために生まれて来たんだ、食ってやるのが正しい付き合い方だ。食って貰えないで放っておかれたら、生まれて来た意味がありゃしない。



 残しておいても駄目になってしまうだけなのだから、とハーレイは小さなブルーを諭した。
 ヒヨコ饅頭は食べられてこそだと、それでこそヒヨコ饅頭の方も喜ぶのだと。
「いいか? 食って貰って、食った人に美味いと思って貰ってこそのヒヨコ饅頭だぞ」
 美味しく食べて貰えたんだ、とヒヨコ饅頭が大いに喜ぶってモンだ。
 だがな、可哀相だと残しておかれたヒヨコ饅頭はだ、いずれ駄目になっちまってゴミ箱行きだ。
 それじゃヒヨコ饅頭に生まれた意味が無いだろ、食って貰えずにゴミ箱ではな?
 だから食べろ、とブルーを促す。
 ヒヨコ饅頭を喜ばせてやりたかったら美味しく食べろ、と。
「そっか、食べずにおいたらゴミ箱…」
 嬉しくないよね、そんな結末になっちゃったら。ヒヨコ饅頭は食べられてこそなんだね。
「分かったんなら、ちゃんと食ってやれよ?」
 ほら、食ってくれと見上げてるだろうが、お前の顔を。
 美味しいですから食べて下さいと、遠い町から食べて貰うために来たんです、とな。
「うん、わざわざ旅して来たんだっけね」
 先生が研修に行った町から、この町まで。
 そしてハーレイが学校で貰って、ぼくの家まで車でやって来たヒヨコ饅頭だものね。



 食べなくちゃ、と思ったブルーだけれど。
 ヒヨコ饅頭が喜んでくれるよう、美味しく食べねばと思ったけれど。
 でも、ヒヨコ。茶色いヒヨコ饅頭の姿は可愛いヒヨコで、黒い目までがついているから。
(うーん…)
 何処から食べればいいのだろうか、と新しい悩みが生まれて来た。
 食べるためには齧らなくてはいけないけれども、ヒヨコ饅頭を何処から齧るべきか。
「ハーレイ、これ…」
 頭から齧って食べるものなの、それともお尻?
 決まりがあるなら、何処から食べるか教えてよ。
「ヒヨコ饅頭を食べる決まりだと?」
 そんなのは無いぞ、とてつもなく上等の菓子ってわけでもないからな。何処から食うのも自由な筈だぞ、頭から食おうが尻から食おうが。
「でも…。頭を齧ればお尻が残るし、お尻から齧れば頭が残るよ?」
 どっちも痛そうで可哀相だよ、ヒヨコ饅頭。
 いくら食べられるために生まれて来たっていうヒヨコ饅頭でも、痛いのは嫌だと思わない?
 痛くなくって、美味しく食べて貰えるんなら、それが最高だろうと思うんだけど…。
「ふうむ…。ヒヨコ饅頭が痛くなくって、なおかつ喜んでくれる食い方か…」
 なら、こうだな。お前には無理かもしれんがな。



 ハーレイは自分の皿の上のヒヨコ饅頭をヒョイとつまむと、口を大きく開いてみせて。
 その中へと放り込まれたヒヨコ。口に入ってしまったヒヨコ。
 口がパクンと閉じたかと思うと、モグモグと動く顎と頬。ヒヨコ饅頭を頬張った大きな口。
 やがてゴクンと喉が動いて、ハーレイは「ほらな」と口を開けて中を指差した。
(ひ、一口…!?)
 何処にも見えないヒヨコ饅頭。影も形も見えないヒヨコ。
 パクリと一口で食べたハーレイなのだし、ヒヨコの頭もお尻も残りはしなかった。
「こうすりゃヒヨコも大喜びだな、齧られたりはしないしな?」
 丸ごと食べて貰えるってわけだ、外側の皮も中の餡もな。
 うん、なかなかに美味いヒヨコ饅頭だったぞ、お前も食べてやらないとな。美味いんだから。
 頭だの尻だのと言っていないで一口で食えば、お前の悩みも解決だ。



「一口って…」
 確かにそれなら頭もお尻も無いけれど。
 ヒヨコの頭やお尻が残って、痛いかもしれないと思う必要は無いのだけれど。
(このサイズだよ?)
 ブルーもヒヨコ饅頭を手にして、口を開けてはみたものの。
 ハーレイのように大きな口ならともかく、小さなブルーの口には些か大きすぎるヒヨコ。一口でパクンと頬張ろうとしても、どうやら入りそうにないヒヨコ。
 暫し悩んで、口を何度も開けたり閉じたりしてみた末に、諦めてヒヨコ饅頭を皿へと戻した。
「ぼくには無理かも…」
 とても一口で食べられやしないよ、押し込むんなら別だけど…。
 だけど、押し込もうとしたらヒヨコ饅頭は潰れてしまうし、齧るよりももっと可哀相だよ。
「それなら選ぶしかないな。頭か、尻か」
 どっちか選んでガブリといけ。食い方は決まっていないんだから。
「可哀相だよ、頭もお尻も」
 食べられるためのヒヨコ饅頭でも、痛かったりしたら可哀相だもの。
 だって、齧られちゃうんだよ?
 頭からとか、お尻だとか。ガブリとやられて、そこから千切れてしまうんだよ…?



「おいおい、ヒヨコ饅頭ってヤツはだ、食われるために出来ているんだぞ?」
 頭から食おうが尻から食おうが、食って貰えれば満足なんだと思うがな?
 それにだ、ヒヨコはそんなに弱くはないぞ。ヒヨコ饅頭じゃなくて、本物のヒヨコ。
「そう?」
 ぼくはヒヨコは飼ったことが無いし…。
 幼稚園には居たけどね。鳥小屋でたまに生まれていたけど、ピヨピヨ鳴いてて小さかったよ?
 他の鶏が苛めたりしたら駄目だから、って先生たちが仕切りを作っていたよ?
「そういうケースも無いことはないが、ヒヨコってヤツは、けっこう逞しいモンでだな…」
 俺がガキの頃に、可愛いからって強請って飼って貰った友達、苦労してたぞ。
 ピヨピヨ鳴いてる間は良かったんだが、気が付きゃデッカイ雄鶏だ。けたたましく鳴くし、気は強いしなあ…。餌をやるにも命懸けって顔をしてたもんだが、俺の友達。
 …って、そういやシャングリラにいたじゃないか。
「何が?」
「最強のヒヨコさ」
「最強…?」
 何なの、最強のヒヨコって?
 それにシャングリラだなんて、それ、何の話…?



 ブルーがキョトンとしているから。
 意味が掴めないという顔で、赤い瞳を何度もパチパチさせているから。
 まず食べてしまえ、とハーレイは言った。ブルーが食べられないと悩み続けるヒヨコ饅頭。
 それを食べたら話してやろうと、ヒヨコの話はそれからだと。
「ヒヨコ饅頭の頭…。この目が見てるし、やっぱりお尻?」
 お尻から食べた方がいいかな、痛くないかな?
 それとも頭の方だと思う?
 頭を食べたら痛いって感覚なくなっちゃうかな、だけど頭からだと残酷かな…?
「悩んでいないでパクリといけ」
 頭でも尻でもかまわんだろうが、ヒヨコ饅頭は食われてこそなんだから。
「でも…。頭には目がくっついてるよ!」
 目がついてるから可愛いんだけれど、この目で見られているんだもの。
 痛くしないでね、って言われてるみたいで、どう食べようかとホントに迷ってしまうんだよ…!
「頭なあ…。お前も頭を蹴られていたぞ」
 痛くするも何も、問答無用で頭をドカッと。
「誰に?」
「最強のヒヨコだ」
 あいつがお前の頭を蹴ったな、そりゃもう遠慮の「え」の字も無くな。



「えーっと…?」
 分からないよ、と目をパチクリとさせているブルー。
 そんなものに覚えは全く無い、と赤い瞳が瞬きするから、ハーレイは喉をクッと鳴らした。
「覚えていないか、最強のヒヨコ」
 もっとも、育った後のことだがな。お前の頭を蹴っていたのは。
「ああ、アレ…!」
 思い出した、とブルーは叫んだ。
 白いシャングリラに君臨していたヒヨコ。最強だったヒヨコのことを。
「アレだね、ハーレイ?」
 最強のヒヨコのことを言ってるんだね、逞しいって。
「そうさ、アレだと思えば食えるだろう?」
 ヒヨコ饅頭。頭だの尻だのと悩まなくっても、アレだったらな。
「うん、多分…」
 アレなら、ぼくでも悩まないよ。アレは頭もお尻も丸ごと、全身、最強だったんだから。



 よし、とブルーは齧り付いた。
 さっきまで自分を悩ませていたヒヨコ饅頭を手にして、頭にパクリと。
 つぶらな瞳で見上げていたヒヨコの頭は消えたけれども、ブルーの口に入ったけれども。
「見ろ、お前だって食えたじゃないか」
 美味いだろ、ヒヨコ饅頭の頭。皮も美味いが、中身の餡も絶品だよな。
「うん、美味しい!」
 食べられるために生まれて来たっていうのが分かるよ、ヒヨコ饅頭。
 食べて美味しいヒヨコなんだね、皮と餡とで出来てるんだものね。お菓子の国のヒヨコだね。



 美味しいヒヨコ、と、そのまま尻までモグモグしているブルーは可愛い。
 まるで生まれたてのヒヨコのように。
 ピヨピヨと鳴くだけのフワフワのヒヨコみたいに可愛らしいから、ハーレイは腕組みをして低く唸った。
「お前みたいに可愛いヒヨコだったら良かったんだがな、アレも」
「どういう意味?」
 アレって最強のヒヨコのことでしょ、ハーレイ、何が言いたいの?
「いや…。アレもチビのままなら良かったなあ、と」
 お前にはいずれ大きく育って欲しいが、アレに関しては…。
 アレはそうではなかったなあ、と。
「そうだね、チビのままならね…」
 最強のヒヨコ、チビのままだと良かったね。それなら可愛いヒヨコだったね、最強でも。
 思い出したお蔭でヒヨコ饅頭は美味しく食べられたけれど、最強のヒヨコ…。
 お饅頭で出来たヒヨコみたいに、小さいままなら良かったのに。
 ヒヨコ饅頭はどれもヒヨコの形なんでしょ、大きなヒヨコ饅頭でも?
「もちろんだ。でなけりゃヒヨコ饅頭にならん」
 学校用にとデカイのを一個、買って来ていたが…。
 こんな菓子皿だと、はみ出すくらいの饅頭だったが、ヒヨコ饅頭だけにヒヨコだったな。デカいヒヨコの形ってだけで、鶏の姿はしていなかった。
 最強のヒヨコも、チビのままだか、でなきゃデカくてもヒヨコだったら平和だったなあ…。



 遠い遠い昔、この宇宙に在ったシャングリラ。
 ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 前のブルーが奪った鶏を飼って増やして、卵を手に入れて暮らしていたのだけれど。
 仲間たちに充分に行き渡るだけの沢山の卵が毎日産み落とされるけれども、問題が一つ。
「そろそろ次のを選ばないとね」
 時期だからね、とブラウが会議の席で議案に目を通しながら書類を指先でトンと叩いた。
「そうじゃな、そういう頃合いじゃな」
 報告書も上がって来ておるし…。またヒルマンの出番じゃのう。
 強いのを頼むぞ、とゼルが目を遣れば、ヒルマンが「うむ」と大きく頷く。
「ああいう飼い方をしている以上は、これは必須になるのだし…。早速、作業に入るとしよう」
 ケージに入れて飼っている鶏だったら、まるで必要無いのだがねえ…。
 しかし、鶏を一羽ずつケージに入れるのは誰もが反対したわけだし。
「当たり前だよ、あれじゃ鶏のアルタミラみたいになっちまうよ」
 あたしは御免だね、ズラリと並んだ鶏のケージを見るのはね。誰だってアレを連想するよ。
 上も下も左右も仲間が詰まったケージだなんてさ、アルタミラでなきゃ何なんだい?
 鶏かミュウかの違いだけだよ、檻の中で飼われているのがね…!



 シャングリラで鶏が増え始めた時、検討された飼い方の案。
 沢山の鶏を飼うのだから、と提案されたケージを並べる飼育方法は誰もが却下。一番効率的ではあったけれども、アルタミラで自分たちが押し込められていた檻のことを思い出させるから。
 それよりは、と賛成多数で選ばれたのが平飼いだった。
 充分に広い船だっただけに、鶏のためのスペースも割ける。専用の農場が一つ作られ、何羽もの鶏が放し飼いにされた。鶏たちは自由に餌をついばみ、歩き回って、卵を産んだ。
 しかし…。
 平飼いの鶏はハーレムを作って生きるもの。
 雄鶏一羽に雌鶏が二十羽、三十羽など。そうやって次の世代をも作る。次の代を生きる鶏を。
 繁殖計画の方はもちろん、栄養価の高い卵を産ませるためには健康な鶏、強い鶏。
 そういった鶏を育てるためには雄鶏を慎重に選ばねばならない。雌鶏だったら何羽でもいるが、雄鶏は数が少ないのだから。
 ゆえにハーレムの主の交代に備えて、次の雄鶏を選び出す。
 飼育係の勘に頼るよりも、出来るだけ多くのデータを集めて強い雄鶏を。



 卵から孵ったヒヨコは雄鶏と雌鶏に分けられ、雄と分かれば食肉用の飼育場へと送られていた。
 そうしたヒヨコの群れの中からヒルマンが選んだ一羽のヒヨコ。
 将来のハーレムの主になるべく選ばれたヒヨコは弱かった。肉に回されたヒヨコよりも。
 一緒に飼われていた雌のヒヨコに踏み付けられていたり、つつかれていたり。
「…こんなヒヨコでいいのかい?」
 どうにも不安なんだけどねえ、と視察に出掛けたブラウがヒルマンに問い掛ければ。
「間違いなく最強の筈なんだがね」
 遺伝子的には、という言葉がオマケについた。
 つまりはあくまでデータ上のこと、実情は弱いヒヨコなわけで。
 死んでしまっては全く話にならないのだから、と皆がヒヨコの世話をした。
 雌のヒヨコたちに踏まれるような弱いヒヨコを、鶏専用の農場から出して皆でせっせと。
 それは熱心に、飼育係ではない長老たちまでが。
 無論、ソルジャーだったブルーも。



「あのヒヨコ…。青の間に預かったこともあったっけね」
「うむ。ヒルマンたちも部屋で世話していたしな」
 弱かったからなあ、雌のヒヨコと一緒にしたなら直ぐに踏まれて、つつかれていたし…。
 放っておいたら殺されちまう、って農場から出すことにしたんだっけな。
「そうだよ、専用のケージに入れて」
 出してやったら、ピヨピヨ鳴きながら後ろを歩いて来たりしたんだ、ちっちゃいくせに。
 ペットみたいで可愛らしいから、ぼくだって青の間に連れてったのに…。
「お前もそうだが、ヒルマンたちだって似たようなモンだ」
 仕事半分、趣味が半分。
 ヒヨコの親になったつもりで部屋で世話して、猫可愛がりってヤツだよな。
 他の連中も甘やかしてたし、好きなだけ餌を食わせて貰って、のびのび育っていったんだ。
 大きくなれよと、強くなれよ、と。
 今のお前と少し似てるな、「しっかり食べて大きくなれよ」って辺りがな。



 そうやって皆で育てたヒヨコは可愛かったけれども、ふと気付いたら。
 ピヨピヨとしか鳴けなかった黄色いヒヨコに、見事な羽根が生え揃ったら。
「最強になっていたんだっけ…」
 弱かった頃が嘘みたいに強い、最強のヒヨコ。とっくにヒヨコじゃなかったけれど。
「殴る蹴るなんぞは当たり前だっていう凄いヤツにな」
 まさしく最強のヒヨコってヤツだ、ヒルマンが選んだ通りにな。
 データの通りに強いヒヨコで、もう最強としか言えないヤツだったってな。



 立派に育って農場に入った最強のヒヨコは、アッと言う間に自分のハーレムを築き上げた。
 縄張り意識が強かった上に、独占欲もまた強かった。
 他の雄鶏がハーレムに近付くことを決して許さず、周囲の雌鶏は全て自分だけのもの。産まれる卵も自分の血を引く子供とばかりに、目を光らせていたものだから。
 自分で卵を温めようとは思わないくせに、卵も自分の財産だと決めてかかっていたから。
 卵を拾おうと農場に出てくる飼育係は敵だった。大事な卵を奪う泥棒。
 最強のヒヨコは彼らを見るなり蹴り飛ばすのが常で、卵拾いは大仕事で。



「お前、頼まれて卵を拾いに入ったんだっけな」
 今日はどうにも近付けないから、なんとか卵を拾えませんか、と訊かれちまって。
 視察に出掛けた時だったよなあ、サイオンで拾えば良かったのにな?
「思い付きさえしなかったよ。飼育係はいつも手で拾って集めていたしね」
 そのつもりで入って行ったのに…。
 頭をドカッと蹴られたよ。鶏相手にシールドが要るなんて、ぼくは思っていなかったから!
「俺だって派手にやられたんだよな、頭をドカッと」
 頭だけじゃなくて、背中もか…。
 ウッカリ後ろを見せてしまったら終わりだったんだ、あの最強のヒヨコはな。
「ハーレイ、何度も卵を奪いに出掛けるからだよ」
 またやって来たと思って睨んでたんだよ、最強のヒヨコ。
 背中を向けたら蹴っ飛ばされるよ、泥棒の顔くらい、鶏だって覚えちゃうしね。
「あれはキャプテンの息抜きだったんだ!」
 泥棒じゃないぞ、卵拾いは立派な仕事だ。拾わなきゃ卵が食えないんだしな?
 それにだ、ヤツに背中を向けたら終わりだというのが緊張感があって楽しかった。
 無事に卵を全部拾えたら俺の勝ちだし、蹴られちまったら負けな真剣勝負はいい娯楽だぞ?
 今日は勝つぞ、と農場に向かって出掛けてゆく時は気分が高揚していたなあ…。



 ソルジャーを蹴飛ばし、キャプテンも蹴飛ばし、シャングリラに君臨していた雄鶏。
 毎日毎朝、時をつくって、それは元気に。
 何十羽という雌鶏を侍らせ、産み落とされる卵を守ろうと暴力の限りを尽くしながら。
「最強のヒヨコ、最後はどうなったんだっけ?」
「普通は弱ってきたら肉に回されるんだが、みんな愛着があったからなあ…」
 酷い目に遭わされた覚えがあっても、弱かった頃からの付き合いが長かったしな?
 肉に回して食っちまうには可哀相だろ、お前のヒヨコ饅頭じゃないが。
 引退した後はヒルマンが面倒を見ていた筈だ、とハーレイが語る。
 他の雄鶏に攻撃されないようにと、農場の隅に専用の鳥小屋を作ってやって。
「そういえば、そういう小屋があったね」
 大事な仲間が暮らしているから、ってヒルマンが餌をやりに行っていたっけ。飼育係には仕事があるから自分がやる、って餌をやったり、運動をさせに出してやったり。
「ゼルたちも世話をしに出掛けていたなあ、昔馴染みに会いに行く、ってな」
 そうは言っても、たかが鶏だったんだがな。しかも散々苦労させられた、とんでもないヤツ。
「うん、最強のヒヨコって名の」
 大きくなっても、引退しちゃった年寄りになっても、最強のヒヨコ。
 名前だけは最後までヒヨコだったよ、見た目はとっくにヒヨコなんかじゃなくなっていても。



 シャングリラに居た、最強のヒヨコ。ヒルマンが選んだ最強のヒヨコ。
 最後は肉になるのだから、と誰も名前を付けなかった。皆でせっせと世話をした頃も、成長して農場でハーレムを築いていた頃も。
 最強のヒヨコは最強のヒヨコのままだった。肉を免れて、専用の小屋を貰った後も。
「死んじゃった後は、仲間たちがお墓を作ってやったんだっけ?」
「ああ。ヤツの小屋があった、あの農場の隅っこにな」
 流石に人間様と同じようにはいかんさ、とハーレイが笑う。
 亡くなった仲間の名前を刻んだ墓碑のある公園はとうに出来ていたけれど、鶏は其処には入れはしないと。愛されていても、あそこは無理だと。
「名前が最強のヒヨコじゃね…」
 墓碑に刻める名前じゃないよね、あの名前は。第一、名前と言えるのかどうか…。
「その前にヤツは鶏なんだぞ」
 どんなに立派な名前があっても、あいつは鶏だったんだ。
 人間様と同じ墓に入ろうだなんて厚かましいんだ、いくら最強だったとしてもな。



 最後まで意志の疎通は不可能だった、とハーレイがぼやく。
 一度たりとも自分の意を汲んではくれなかったと、最後の最後まで話が通じなかったと。
「俺が餌をやろうと言っているのに、いきなりつついて来やがったぞ」
 小屋の扉を開けた途端に、運動だとばかりに攻撃なんだ。
「でも、シャングリラでは一番人気の鶏だったよね」
 肉に回されずに引退したほどの人気者だよ、最強のヒヨコ。
「あの頃に子供たちが大勢居たなら、もっと人気は高かったろうな」
 まだ子供たちの数は少なかったし、二人か三人ぐらいだったか?
 みんなで農場見学に、って繰り出すほどには数が揃っていなかったよなあ、あの頃には。
「アルテメシアに着いて間もない頃だしね」
 子供たちがもっと増えていたなら、名前もついていたかもね。最強のヒヨコ。
「そうかもなあ…」
 子供ってヤツは名前をつけたがるかもしれないな。
 自分たちよりもデカい大人に勝つような鶏、子供にしてみりゃヒーローかもなあ…。
「うん、ソルジャーより強いんだよ?」
 いくらサイオンを使うのを忘れていたにしたって、頭を蹴られたのは本当なんだし。
 ドカッと蹴られてビックリしちゃって、蹴られっぱなしになっちゃったしね…?



 ぼくもアレには勝てなかった、とブルーが言うから。
 最強のヒヨコに負けてしまった、と小さなブルーが情けなさそうにしているから。
「お前、ヒヨコ饅頭、食っただろ?」
 食っていただろ、頭からガブリと齧って、全部。
「うん、美味しかったよ、ヒヨコ饅頭」
「ほらな、今のお前なら丸ごと食えるさ、あいつでもな」
 ヒヨコ饅頭を食えたからには、最強のヒヨコもバリバリと頭から食えるだろうさ。
「無理!」
 お饅頭と本物のヒヨコは違うよ、最強のヒヨコには勝てやしないよ!
 絶対に負ける、と小さなブルーは頭を抱える。
 きっと蹴られておしまいなのだと、前の自分よりも酷い負け方をするに決まっているのだと。
「ぼくにはヒヨコ饅頭がせいぜいなんだよ」
 あれくらいだったら食べられるけれど、それでもお饅頭に負けていたかも…。
 可哀相だ、って食べられなくって悩んでる間に蹴り飛ばされても仕方ないよね、ヒヨコ饅頭。
「頭から食うか、尻から食うかで悩んじまうようなチビではなあ…」
 食うためにあるヒヨコ饅頭も食えずに悩むようでは、肉を免れたヤツには勝てんか。
 最強のヒヨコ、肉にならずに済んだんだからな。
「そうだよ、負けるに決まっているよ」
 ヒヨコ饅頭よりも強いヒヨコなんだよ、最強だよ?
 前のぼくでも勝てなかった相手、今のぼくには歯が立たないよ…!



 でも懐かしい、とブルーは微笑む。
 シャングリラに居た最強のヒヨコ、最後までヒヨコと呼ばれた雄鶏。
 そういう鶏を飼っていた時代もあの船にあったと、幸せな時代だったのだと。
「ふうむ…。蹴られた思い出が懐かしいなら、蹴られに行くか?」
「何処へ?」
「鶏の平飼いをやってる農場だ。卵農場だな」
 いつか二人で出掛けようじゃないか、俺の車で。鶏が沢山、元気に走り回っているんだぞ。
「それ、食べに行くって約束だったよ!」
 美味しい卵を食べに行こう、って、ハーレイ、言っていたじゃない!
 産みたての卵でオムレツとかを作ってくれるって、ホントに美味しい卵だから、って!
「覚えてたのか…」
 お前、キッチリ覚えていたのか、あの農場に出掛ける約束。
 食が細いから忘れちまっただろうと思っていたのに、美味そうなものは忘れないんだな。



 残念だ、と悔しそうな顔を作ってみせるハーレイ。
 鶏に蹴られるブルーも面白いのにと、前のブルーも蹴られていたのに、と。
 いつかブルーと二人でドライブを兼ねて、卵を食べに農場へ出掛けて行ったなら。
 最強のヒヨコがいるかもしれない。
 シャングリラの最強のヒヨコみたいに、卵泥棒を蹴り飛ばす強い雄鶏が。
「ハーレイ、今度はぼくを守ってくれるんだよね?」
 前のぼくたちの頃と違って、ハーレイがぼくを守るんだよね?
「そういうことになってるな」
 俺はお前を守ると決めたし、今度こそ守ってやりたいからな。
「じゃあ、鶏がぼくを襲って来たなら、ぼくの代わりに蹴られておいてよ」
「そうなるのか…!」
 代わりに蹴られるのが俺の役目か、お前を守って蹴られるのか…!



 たとえ鶏が相手であっても、ブルーを守るのが今度のハーレイ。
 ブルーを庇って代わりに蹴られて、大切なブルーを守り切る。
 農場で鶏と戯れた末に、ブルーが食らった一撃でも。
 卵を拾おうと屈み込んだ隙に、ブルーを狙った蹴りであっても。
(…ヒヨコ饅頭だったら一口で食えるが、鶏となったら、どうなんだかなあ…)
 簡単には勝てない相手だろうか、とハーレイは溜息をつくのだけれど。
 鶏と派手な喧嘩になっても、ブルーを守ってやらねばなるまい。
 前の生から愛し続けた大切な人を、愛してやまない恋人を。
 そして二人で卵を食べる。青い地球で育った鶏の卵を贅沢に使ったオムレツなどを…。




           最強のヒヨコ・了

※ヒヨコ饅頭が可哀相、と食べるのをためらってしまったブルー。ヒヨコそっくりだけに。
 そして思い出した、シャングリラにいた「最強のヒヨコ」。皆に愛された、強い鶏。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









PR

 チリン。
 軽やかな鈴の音が響いたから。
 ハーレイが椅子を動かした途端、チリンという音が聞こえたから。
「ハーレイ、鈴をつけてるの?」
 さっきも聞いたよ、とブルーは鈴の音がした辺りをテーブル越しに覗いてみた。
 仕事帰りに寄ってくれたハーレイが部屋に入って間もなく、チリンと聞こえた鈴の音。その時も気になっていたのだけれども、母が居たから訊きそびれた。後で訊こうと思って忘れた。
 そこへ再び、チリンと鳴った鈴。
 ハーレイの趣味の品だろうか、と思ったのだけれど。なにしろハーレイの財布の中には縁起物の亀が居るのだから。銭亀という名の小さな亀が。
 鈴もそういう類のものか、と興味津々で尋ねてみたのに。



「いや、こいつは…」
 学校の駐車場で拾ったのだ、とハーレイは言った。
 仕事を終えて、愛車を停めたスペースに向かって歩く途中で見付けてしまった落とし物。校舎に戻っても生徒はとうに下校しているし、明日、学校に届けることにしたのだと。
「どうせ生徒の落とし物だしな、明日でいいだろ」
 俺が見付けて拾わなかったら、他の先生の車に轢かれてペシャンコだったかもしれないし。
 落とした生徒が探しに来ようにも、学校にはもう入れないからな。
 ほらな、とハーレイが床に置いていた荷物からヒョイと出して来た鈴。金色に輝く小さな鈴。
 それがチリンとハーレイの指につまみ上げられて鳴ったから。
 澄んだ音色が部屋にチリンと、それは軽やかに鳴ったから。



「綺麗な音だね、失くした人はきっと探しているよね」
 落とした時には気付いてなくても、暫く歩いたら気が付くよ。あの鈴の音がしない、って。
 何処で落としたか、通学路とかを探し回っていそうだよ、それ。
「多分な、こいつは特別だからな」
「えっ?」



 その鈴、もしかして本物の金で出来ているとか?
 だから綺麗な音がするのかな、ぼくは本物の金の鈴なんか触ったことはないけれど…。
「ははっ、そういうわけじゃないんだ。いい音がする鈴ではあるが…」
 鈴自体はごくごく普通の鈴だな、特別なのは鈴じゃなくって…。
 この飾りさ。



 これだ、と指差された鈴のついた部分。
 鈴のすぐ上、鈴を鞄などに結ぶための紐との間に丸い玉が一つ。それはガラスの玉ではなくて。陶器で出来た玉などでもなくて、強いて言うなら糸で出来た玉。
 鈴を吊るす紐よりも少し細い紐を組み上げて作った、まるで小さな手毬のような組紐細工。
 赤に緑に、青に黄色に、それから紫。五色の紐で出来た手毬は可愛らしいけれど。
「どう特別なの?」
 ただの組紐細工みたいに見えるけど…。これは特別な意味でもあるの?
「あるな、願いの糸ってヤツだ」
 それで作った細工物なんだ、この毬みたいな部分はな。
「願いの糸って?」
 初めて聞いたよ、それがこの糸の名前なの?
「いや、糸自体は店に行ったら普通に売ってる細工物用の紐なんだが…」
 願いの糸を買いたいんですが、と店員に言っても通じないのが普通だろうな。
 サッと出してくる店員がいたら、かなり勉強熱心な店員だろう。沢山売れるものでもないしな。



「それじゃ何なの、願いの糸って?」
 糸の名前じゃないって言うなら、どうしてこれが願いの糸なの?
「七夕、前に教えたよな? 俺の授業で」
 短冊を吊るす、あの七夕だ。織姫と彦星が出会う七夕、それは分かるな?
「うん、他にもハーレイから教わったよ。カササギの橋とか、催涙雨だとか」
「あの七夕の糸さ、願いの糸は。七夕の星への供え物だな」
 授業ではそこまで話さなかったが、ずっと昔は七夕と言えば五色の糸を飾るものだったんだ。
 他にも楽器の琵琶を供えたり、そりゃあ大掛かりなものだった。
 もっとも、そんな七夕をやっていたのは一部の貴族ってヤツだけなんだが…。
 願いの糸は七夕で飾る五色の糸から来てるのさ。
 願いをかけて五色の糸を飾れば、織姫が願いを叶えてくれる。糸は機織りに使うものだろ?
 だから織姫の管轄なんだな、願いの糸で頼んだ願い事を叶えてくれるのはな。



 七夕飾りの五色の糸。
 織姫が願いを叶えるという五色の願いの糸。
 落とし物の鈴に付けられた小さな手毬はそれを組み上げた細工物だと聞かされたから。
「詳しいね、ハーレイ」
 これを見ただけで分かるんだ?
 紐を売ってるお店の人でも、願いの糸って何のことだか分からないのに。
「おふくろが作っていたからな」
 丁度こんな風に紐を組んでだ、こういう鈴をくっつけてな。
「ホント?」
 ハーレイのお母さん、こういう物も作るんだ…。
「ああ、おふくろは古い習慣ってヤツが大好きだからな。今は作っていないんだが…」
 俺が大きくなっちまったしな、こういう鈴を鞄とかにつけて歩くにはな。
 だが、ガキの頃には鞄につけてた。
 失くしちまって大泣きしたこともあったっけなあ…。幼稚園の頃かもしれないが。
「大泣きって…。ハーレイが?」
 ハーレイが泣いてる所だなんて、ぼくは想像つかないんだけど…!
「そりゃそうさ。転んだくらいで泣きはしないし、怪我をしたって我慢していた」
 しかしなあ…。あれを失くした時だけはショックだったんだ。
 自慢だったからな、願いの糸。
 持ってる友達は誰もいなかったし、これさえつけてりゃ願いが叶うと信じていたしな。



「じゃあ、この鈴を落とした人も…」
 大ショックだよね、失くしちゃった、って。今頃、必死で探してるかも、見付からないって。
 学校で落としたってことまで分からないもの、それこそ通学路を何度も歩いて。
「さあ、どうだかな?」
 もうアッサリと諦めてるかもしれないぞ。なにしろ願いの糸だからな。
「どうして? とっても大事なものなんじゃないの?」
 小さかったハーレイが泣いたくらいだし、ぼくの学校の生徒の年ならガッカリだよ、きっと。
 大人みたいに簡単に諦められやしないよ、大切な物は。
「それは考え方次第だな。落とした奴がどう考えるかで変わってくるんだ」
 俺が鞄につけてた鈴を失くしちまって帰った時。
 泣きじゃくっていたら、おふくろがこう言ったんだ。願いが叶ったんだろう、と。
「なんで? 大事な鈴がなくなったのに、願い事なんか…」
 願い事を叶えてくれる鈴でしょ、失くしちゃったら願い事はもう叶わないじゃない。
「それが違うんだな、鈴がなくなったからこそだ」
 鈴の仕事が終わったんだと、だから消えたんだと言われたな。
「ハーレイ、それで納得した?」
「いや。俺の願い事は叶っていない、と泣き喚いた」
 どんな願い事をしていたのかは、今ではすっかり忘れちまったが…。
 願い事が叶っていなかったことだけは間違いないなあ、悔しくてたまらなかったからな。



「だったら、それからどうなったの?」
 ハーレイ、大泣きし続けていたの、鈴はなくなっちゃたんだから。
「それがな…。おふくろは俺の頭を撫でてだ、鈴はもっと大事な役目をしたんだと言った」
 願い事が叶っていないというのに失くしたんなら、鈴は災難を持って行ったんだと。
「災難?」
「そうだ、いわゆる災いってヤツだ。それを消して鈴は消えたんだ、とな」
 鈴には厄除けの意味もあるのさ、願いの糸とは無関係にな。
 持ち主に降りかかる筈だった厄を祓って、代わりに消えてしまうんだ。身代わりだな。
 俺の鈴はそうして消えたんだろう、と言われちゃ納得するしかなかった。何処かで酷い怪我でもするとか、そういったことを鈴が防いでくれたんならな。



「ふうん…。それなら、その鈴を落とした人は…」
 ガッカリしているとも限らないんだね、その人の考え方によっては。
「そうさ、願いが叶っていりゃあ万歳、そうでなければ厄を祓ったと思っているか…」
 案外、ケロッとしているってことも全く無いとは言えんわけだな。
 だがなあ、それでも帰って来ても欲しいしな?
 何処かに落ちていないものかと、ヒョコッと出て来てくれないものかと思ってもいるさ。
「鈴の役目は終わったんでしょ、なのに帰って来て欲しいわけ?」
 もう充分だと思うんだけど…。なんだか欲張りに聞こえるよ、それ。
「欲張りにもなるさ、願いの糸がついた鈴だぞ?」
 ただの鈴ならいつでも、売ってる店にさえ行けば代わりの鈴を手に入れられるが…。
 こいつは七夕の願いの糸だし、年に一度しか機会が無い。
「七夕の日にしか作らないの?」
 その日だけなの、こういった鈴を作るのは?
「七夕の日にってわけではないんだが…。こういった細工は手間もかかるし」
 年に一度の七夕のために作り始める、という感じだな。
 その日に作っても出来んことはないが、急な用事が入ったりしたら時間が足りなくなっちまう。七夕の夜までに間に合わなければ、そいつは願いの糸じゃないだろ?



 年に一度しか作らない細工がついている鈴で、貰えるのも年に一度だから。
 願いの糸が飾られた鈴には七夕にしか出会えないから、出来れば失くさずに付き合いたいもの。
 それに…、とハーレイは鈴をチリンと鳴らした。
「こうして失くして、見付かったのなら、なおのことさ」
 もっと大切にしてやらないとな、前よりもいい鈴になるんだからな。
「どういうこと?」
 失くした鈴が見付かったとしたら、誰だって嬉しいだろうけど…。いい鈴になるって、どういう意味なの、何かいいことが起こるの、それで?
「失くしちまったら、一度御縁が切れるだろ? それなのに戻って来るんだぞ」
 それは御縁が深いものだということだからな、もっと効き目が強くなる。
 願いの糸だって、この鈴だって。
 自分と御縁の深い人なら、大事にしたいと思うじゃないか。
 願いを叶えてやろうと思っているなら、より強く。厄を祓うにも、今まで以上に頑張るだろ?
「だから返してあげたいんだね、それ」
 落としちゃった人に。失くして探しているかもしれない生徒に。
「ああ。学校で落としたとは思ってないかもしれないからなあ、張り紙を頼んでおくつもりだ」
 学校にあるだろ、掲示板。あそこにこれの写真をつけて。
 駐車場に落ちていたから、拾って保管してあるとな。そうすりゃ直ぐに分かるだろうし。



「そうだね、それが良さそうだよね」
 掲示板なら一日に一度は誰でも見るし…、とブルーはハーレイが拾った鈴を眺めた。
 五色の紐で出来た細工がつけられた金色の小さな鈴。
 七夕にゆかりの願いの糸とやらは知らなかったけれど、鈴の方なら馴染みが深い。チリンと鳴る音もよく耳にするし、鞄などにつけている生徒も珍しくはないのだけれど。
 それは今だからこそで、前の自分が生きた頃には…。
「ねえ、ハーレイ…。こういう鈴って…」
 前のぼくたちの頃には無かったよね?
 こういう形をしている鈴。シャングリラの中だけじゃなくって、何処を探しても。
「うむ。この形の鈴も、願いの糸もな」
 マザー・システムが消してしまった文化ってヤツだな、この鈴たちも。
 今の俺たちの住んでる地域じゃ、こういった鈴は何処に行っても見られるモンだが。
「鈴が無いなら、厄除けにだってならないんだね」
 厄を祓ってくれる鈴。災難除けの鈴も無かったんだね、前のぼくたちが生きた頃には。
「あの頃なあ…。厄除けで音が鳴るものだったら、教会の鐘って所だな」
「そうなの?」
「らしいぞ、教会の鐘が鳴ったら悪魔も逃げて行くと言うんだ」
 もっとも、教会の鐘はデカ過ぎて鈴みたいに持ち歩くことは出来ないし…。
 それに、あの時代の教会ってヤツにどれほどの御利益があったんだかなあ、あんな時代だしな?
 ついでに教会、シャングリラの中には無かったってな。



 だが…、とハーレイは少し考え込んでから、こう口にした。
「もしもあの頃に、鈴があったら。こんな形の小さな鈴があったなら…」
 欲しかったかもな、その鈴が。
「どうするの、そんな鈴なんかを?」
 ハーレイ、こういう鈴が好きなの、願いの糸の鈴はもう持ってないって言っていたけど…。
「俺じゃないんだ、前のお前にくっつけるんだ」
「なんで?」
 前のぼくに鈴なんかつけてどうするの?
 もしかして、「猫の首に鈴を付ける」ってヤツ?
 ぼくが何処に居るか直ぐに分かるように鈴をつけておくの、チリンチリンと音がするように?
「わざわざ鈴までつけなくっても、俺はお前の居場所が直ぐに分かってたろうが」
 落ち込んで隠れてしまってた時も、見付けて迎えに行った筈だが?
 目印の鈴なんか要らなかったな、ああいう時にはお前の心が俺の心を呼んでたからな。お前には自覚が無かっただろうが、俺にはちゃんと聞こえていたんだ。お前が俺を呼んでいる声が。
「それじゃ、どうして鈴なんか…」
「さっき言ったろ、こういう鈴は厄除けだとな」
 お前に降りかかる、色々な厄。怪我とか、人類軍との遭遇だとか…。
 そういった厄を祓ってくれるよう、厄除けにな。
 それと願い事か…。
 前のお前が心の中だけに仕舞っていたような願い事。
 ソルジャーだから、と誰にも言わずに我慢していた願い事を叶えてくれるようにとな。



 五色の糸の細工をつけて、とハーレイは語る。
 年に一度だけ、七夕の夜に合わせて作られる願いの糸の細工物。
 そんな鈴を作ってソルジャーの衣装につけるのだ、と。
「ソルジャーの服に鈴をつけるだなんて…。うるさくない?」
 チリンチリンと、やたらうるさいと思うんだけど…。
「うるさいほどにつけたいのか、お前?」
「一個なの?」
 鈴をつけるって一個だけなの、もっと沢山かと思っちゃったよ。
 どうして勘違いしちゃったんだろ、前のぼくの服のあちこちに鈴が沢山ついてるだなんて。
「うーむ…。一個だけというつもりだったが、山ほどもいいな」
 あっちもこっちも鈴だらけだ、ってほどにチリンチリンと。
 マントの縁やら、襟元やら。上着にも沢山つけられそうだな、こういった鈴を。



 それだけあったらメギドの厄も…、と呟くハーレイ。
 鈴が一個でキースの弾を一個、と。
 キースがブルーを銃で撃つ度、鈴が一つ消えて銃の弾も消える。弾はブルーの身体に届いたりはせず、身代わりに鈴が消えるのだと。
「ハーレイ、その鈴は強すぎだよ」
 いくらなんでもキースの弾まで防げはしないよ、鈴なんかで。
「分からんぞ? 鈴自体はただの鈴でも、だ」
 前の俺のシールド能力を託しておけたかもな、と思ってな。
 あれでもタイプ・グリーンだったぞ、銃の弾くらいは充分に防げた筈なんだ。
「それじゃ、防弾鈴になるわけ?」
 鈴がシールドの代わりになるわけ、前のぼくがシールドを張れなくっても?
「試してみる価値はあったかもなあ、前の俺は思い付きさえしなかったが」
 前のお前のマントだの服だの、そういったものの強度ばかりを気にしていたが…。
 厄除けの鈴に俺のシールド能力を託せていたなら、メギドでもお前を守れたかもなあ…。



「その鈴、ちょっぴり欲しかったかも…」
 メギドまで持って行きたかったかも、ハーレイが作ってくれた鈴。
 「これをつけておけ」って、ぼくが歩いたらチリンチリンとうるさいくらいに沢山つけてくれた鈴。
 それがあったら、メギドでも、もっと…。
「弾除けになったと言うんだろ?」
 お前がキースに撃たれちまった数、本当に酷いものだったしな…。
 俺の温もりを失くしちまうほどの痛みだったんだ、弾除けの鈴さえ持っていたなら…。
「ううん、弾除けにするんじゃなくって、温もりの代わり」
 ハーレイの温もりの代わりなんだよ、ハーレイがくれた鈴なんだもの。
 弾除けとしては効かなくっても、山ほどつけて貰っていたなら、一つくらいは残っていたよ。
 チリン、って優しく鳴ってくれたよ。
 ぼくの命が消えそうになっていたとしたって、その音だけできっと…。
 心強かったよ、とブルーは言った。
 撃たれた痛みでハーレイの温もりをすっかり失くしてしまったとしても。
 服に残った鈴を右手で握り締めれば温かかったに違いない、と。
 其処にハーレイの確かな温もりがあると、この鈴はハーレイがくれたのだから、と。



「だからね、キースに何発撃たれたとしても…」
 鈴が弾除けにならなくっても、一個だけでも残ってくれれば良かったんだよ。
 もちろん、弾除けになってくれていたら、とても頼もしかったんだろうけどね。
「ふうむ…。鈴だらけのソルジャーなあ…」
 マントも上着も、あちこちに鈴で、うるさいくらいにチリンチリンと鳴ってるわけか…。
「凄く間抜けな格好だけどね、キースだって笑い出すほどに」
 なんだって鈴をつけてるんだと、ソルジャーっていうのはこうなのかと。
 あっ、でも…。
 ジョミーは鈴をつけていないわけだし、前のぼくの趣味だと思われたかな?
 タイプ・ブルー・オリジンは変な趣味だと、鈴を山ほどくっつけた服が好きらしいと。
「いや、たとえキースが笑ったとしても。ちゃんと力があるならいいだろ、その鈴に」
 上手くいったら防弾鈴だぞ、キースの笑いも余裕もたちまち消え失せちまうってな。
 いくら撃っても鈴がチリンと一つ消えるだけで、お前は無傷だ。
 山ほど鈴をつけていたなら、あっちが先に弾を切らして真っ青になっておしまいだぞ。
「ふふっ、そうかも…」
 弾切れになったら、ぼくでもキースに勝てていたかな?
 メギドを止めろって脅せていたかな、殺されたくなければ直ぐに止めろって。
「そいつはいいなあ、お前も生きてシャングリラに戻れそうだな」
 歴史は丸ごと変わっちまうが、なかなか愉快な話じゃないか。
 厄除けの鈴を山のようにつけたソルジャー・ブルーがメギドを見事に止めました、とな。



 ミュウの歴史を変えていたかもしれない、願いの糸がついた鈴。
 ハーレイが作った厄除けの鈴。
 ソルジャーの衣装に山ほどつけていたなら、と二人、楽しげに笑い合う。
 今のハーレイが学校で拾った鈴を見ながら、落とし物の金色の鈴を見ながら。
 白いシャングリラで生きていた頃には、そんな鈴は何処にも無かったのだけれど。
 鈴自体が無い時代だったのだけれど。
 あの頃から遥かな時を飛び越え、青い地球の上に生まれて来た。二人一緒に、この地球の上に。
 七夕が、鈴がある地域に。
 こうした優しい祈りのこもった細工物の鈴がある地域に…。



 だからブルーは、期待に満ちた瞳で目の前の恋人を見詰めた。
「願いの糸の鈴…。ハーレイのお母さん、今はホントに作っていないの?」
 ハーレイが子供の頃には作ってたんでしょ、今も作っていたりはしない?
「いや、俺がデカくなっちまったし…。鈴なんかが似合う柄でもないしな」
 親父は釣りに出掛けたら直ぐに失くしちまうし、作り甲斐ってヤツが無いんだそうだ。
 自分で自分に作るというのも、イマイチ気分が乗らないしな?
 なにしろ願いの糸だからなあ、自分で自分に願い事をするみたいじゃないか。
「そっか…。ちょっと残念」
 見たかったんだけどな、ハーレイのお母さんが作った願いの糸がくっついた鈴。
 作り方は決まっているんだろうけど、ハーレイのお母さんが作った鈴を見たかったな…。
「欲しいのか?」
 お前も、こういう願いの糸がくっついた鈴。
 おふくろが作ると聞いたら欲しくなったか、ソルジャーの衣装はもう無いんだが…。
「ちょっぴりね」
 厄除けだとか、願い事だとか。
 そういうのは別にいいんだけれども、ハーレイのお母さんが作った鈴なら欲しいよ。
 だって、いつかはぼくのお母さんになってくれる人なんだもの。
 ハーレイのお母さんだもの…。



 ブルーが惜しそうにしているから。
 願いの糸の細工がくっついた鈴は作っていない、と聞かされて残念そうだから。
 ハーレイは「仕方ないな」と小さな恋人に微笑み掛けた。
「お前が作って欲しいと言うなら、俺がおふくろに頼んでやるさ。しかしだ…」
 いつも持ってくるマーマレードのようにはいかんぞ、あの鈴は。
 俺のおふくろの手作りとなったら、俺が手料理を持ってくるどころじゃないからな。
 お前のお父さんやお母さんたちが変だと思うに決まっているから、今は駄目だぞ。
「分かってる」
 どうしてハーレイのお母さんがぼくにくれるのか、パパにもママにも分からないしね…。
 もっと小さな子供だったら、お守りに作って貰えたのかもしれないけれど。
「そういうことだ。今のお前じゃ、その手の土産を貰うにはなあ…」
 大きすぎるんだよな、チビなんだが。
 幼稚園だとか、下の学校に入って間もないくらいの子供だったら良かったのにな?
 ただし、それだと俺と結婚出来るまでの時間がとびきり長くなっちまうんだが。



 いつか婚約か、結婚でもしたらな、とブルーに約束してやった。
 願いの糸の細工物をつけた鈴を作ってやってくれるよう、自分の母に頼んでおくと。
「うん、お願い。その頃にもちゃんと覚えていたなら、またお母さんに頼んでね」
 ぼくが忘れてしまっていても。
 欲しがってたことを思い出したら、作ってくれるようにお願いしてね。
「もちろんだ。七夕の頃になったら毎年思い出しそうだな、俺の場合は」
 授業で七夕は必ずやるしな、そうなって来たら「そうだった」と思い出すだろう。お前のために願いの糸だと、あれをくっつけた鈴だったな、と。
 おふくろだって、きっと思い出すさ。可愛らしい嫁さんが来たならな。
「可愛らしい?」
 それって、ぼくの背が伸びないってこと?
 結婚したってチビのまんまで、今と変わらないって言いたいわけ?
「違うさ、単なる褒め言葉だ。お前、チビだと言われ続けて根に持ってるな?」
 俺の嫁さんになろうって頃には、前のお前と同じ姿に育っているさ。
 だがな、チビでなくても、デカイ俺よりかは可愛いんだ。前のお前でも充分、可愛い。
 おふくろは張り切って願いの糸の鈴を作るさ、お前が欲しいと言うんだからな。
 しかし、今度は厄除けじゃなくて願い事のための鈴なんだぞ?
 お前に降りかかる災難ってヤツは俺が防ぐと決めているから、鈴の役目は願い事だけだ。
 うんと欲張りに願い事をしておけ、叶えた途端に鈴がなくなっちまうほどにデッカイのをな。
「えーっと…。その頃には、ぼくのお願い事って…」
 とっくに叶っていると思うよ、ハーレイのお嫁さんだもの。ぼくのお願い、それだけだもの。
「参ったな…。そう来ちまったか」
 だったら、幸せをお願いするんだな。もっと幸せにして下さいと、もっと、もっとと。



 幸せはいくらあっても困りはしないのだから、とハーレイはパチンと片目を瞑ると、テーブルの上に置いてあった鈴を手に取った。
「さてと、こいつは失くさないように…」
 元通りに入れておかんとな。拾ったはいいが、俺が失くしちゃ話にならんし。
「持ち主の所に帰れるといいね、ちゃんと掲示板に載せて貰って」
 ハーレイ、しっかり頼んであげてね、落とし物係の人たちに。
 その鈴が無事に帰れるように。
「ああ、うんと強くなって帰って行くに決まっているさ。一度失くして、また戻って…」
 って、それはお前か。お前のことか…。
「えっ?」
「お前さ、お前。…前の俺が一度お前を失くしてしまって、今のお前が帰って来た」
 俺の所に帰って来たろう、俺はお前を失くしたのに。
「ぼく、鈴じゃないよ?」
 それに強くもなっていないし、サイオンはとことん使えないし…。
 その鈴みたいに厄を祓ったり、願いを叶える力だって無いし、ハーレイの役には立たないよ?
「そうじゃなくてだ、御縁が深いということさ」
 一度失くして戻って来たものは御縁が深いと言っただろう?
 俺たちの縁は前よりももっと深くなったに決まっているのさ、一度は失くしたお前だからな。
「そっか…!」
 ぼくもハーレイの温もりまで失くしちゃったけど…。
 ハーレイ、ちゃんと居てくれるものね。ぼくと一緒に地球の上だもんね、同じ町に住んで。
 今度の御縁はうんと深いね、今度は結婚出来るんだものね…。



 一度失くして、戻って来て。
 そうしたものは自分との縁が深いものだと言うのだから。
 お互い、一度は相手を失くして、再び巡り会えたのだから。
 結婚して、もっと縁を深めて、前の生よりも強い絆を。
 願いの糸で飾られた鈴や、ハーレイの母が作るマーマレードや、色々なもので繋がってゆく。
 幾つも幾つも御縁を繋いで、手を繋いで二人、何処までも共に。
 そうしような、とハーレイは小さなブルーに微笑んでやる。
 願いの糸に託す願い事も無いほど幸せにするから、青い地球で二人で生きてゆこうと…。




          願いの鈴・了

※ハーレイが拾った、落とし物の鈴。七夕にまつわる厄除けの細工物だったらしいです。
 前のブルーが持っていれば、という話ですけど、今のブルーは貰えそうですね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









「クシャン…!」
 仕事帰りに寄った、ブルーの家。
 夕食までの間にお茶とお菓子で寛いでいたら、ブルーが小さなクシャミをしたから。
 ハーレイは「どうした?」と問うてやる。急に鼻でもムズムズしたか、と。
「なんでもないよ」
 いきなりクシャンと出ちゃっただけ。もう平気。
「そうか? ならいいが…」
 鳶色の瞳でブルーを見詰めた。
 自分は車でやって来たけれど、今日は午後から風があった。小さなブルーはバス通学だが、バス停から家まで歩く途中は少し身体が冷えたかもしれない。秋の風でも冷たかった風。
 風邪を引いてはいないだろうな、と念を押したけれど。
「平気!」
 クシャミが一回だといい噂でしょ?
 二回だったら悪い噂で、三回だったら風邪だとハーレイも言っていたじゃない。
 ぼくは一回クシャミしただけだよ、誰かが噂をしていたんだよ。
「ふうむ…。そういう話もしたっけな」
 古典の授業の中での雑談。生徒を飽きさせない工夫。
 ブルーはそれを覚えていたのか、と嬉しくなる。クシャミの回数と噂とを巡る言い伝え。
「ね、そうでしょ? だから風邪なんかは引いていないよ」
 一回だったらいい噂だから、どんな噂をしてくれたのかな?
 ぼくのことを褒めてくれていたかな、ご近所さんとか、でなきゃ、友達。



 それは嬉しそうに、楽しそうにクシャミの言い伝えで自分のクシャミを打ち消すブルー。
 ただのクシャミだと、噂されただけだと、何の心配も要らないと。
 そんなブルーについつい釣られて長居をした。
 ブルーの両親も一緒の夕食の後も、ブルーの部屋に食後のお茶を運んで貰って。
 どうせ明日にはまた会うのに。
 午前中から訪ねて来る日だと決まっているのに、ついゆっくりと腰を落ち着けていた。
 「明日は土曜日だから、帰りが少し遅くなっても平気だよね」と引き留められて。
 小さなブルーにせがまれるままに、あれこれと話が弾むままに。



 そして次の日。
 いつも週末にしているように、朝食を済ませて家を出て。
 天気がいいからブルーの家までのんびり歩いて、門扉の脇のチャイムを鳴らした。ブルーの母が門扉を開けにくるまでの間、二階を見上げてみたのだけれど。
 すっかり馴染んだブルーの部屋。其処の窓からブルーが手を振る筈なのだけれど。
(…部屋にいないのか?)
 珍しいな、と人影が見えない窓を眺めた。他の部屋にでも行っているのか、でなければ。
(あいつが迎えに出て来るとかな)
 たまたま階下に下りていたなら、そういうこともあるかもしれない。ブルーが門扉を開けに来たことは一度も無かったが、もしも出て来てくれるのならば。
(未来へと時間を越えた気分になるな)
 結婚した後、「おかえりなさい」とブルーが出迎えに来てくれたようで。
 それもいいな、と頬が緩んだけれども、間もなく開いた玄関のドアから現れた人影はブルーではなくて。



 門扉を開けに来た、ブルーの母。申し訳なさそうに告げられた言葉。
「風邪ですか?」
「ええ、少し…」
 寝かせてあります、と聞かされたハーレイは、ブルーの姿が見えなかった理由を理解した。風邪では仕方ないだろう。窓に駆け寄って手を振るどころかベッドの住人、可哀相にと溜息をつく。
 これでは二人で休日を過ごすどころではないな、と思ったのだが。
 「お大事に」とだけ言葉を残して帰ろうとしたが。
 ブルーの母は「でも…」と門扉を大きく開くと、ハーレイを庭へと招き入れた。
 息子が風邪を引いていてもいいなら、側に居てやって頂けませんか、と。
 ブルーは朝から先生に会いたがっていますから、と。
「ええ、お邪魔してもいいのでしたら…」
 このとおり丈夫な身体ですしね、風邪なんかうつりはしませんよ。
 ご心配なく、マスクなんかも要りませんから。



 恐縮しているブルーの母に案内されて、二階のブルーの部屋に入れば。
 来てくれるとは思っていなかったのだろうか、ベッドに居たブルーの顔が輝く。
「ハーレイ、おはよう!」
「お前、おはようじゃないだろうが!」
 風邪はどうした、と言えばベッドから起きようとするから。
 ベッドの脇に置かれたガウンを取ろうと手を伸ばすから。
「こら、寝てろ! 起きるヤツがあるか!」
 俺がそっちの方に行くから、と椅子を引っ張って来てベッドの側に座った。
 普段だったら、ブルーと向かい合わせで座っている椅子。テーブルとセットになっている椅子。
 テーブルの上にはブルーの母が置いて行った紅茶のカップとポット。それにお菓子と。
 部屋の扉はとうに閉められ、ブルーと二人きりの部屋。
 ベッドの中のブルーは嬉しさを隠そうともせずに微笑んでいる。
 けれど…。



「クシャン!」
 昨日も聞いた、ブルーのクシャミ。
 あの時はただのクシャミに聞こえたけれども、今のブルーは病人だから。
「おい、大丈夫か?」
 熱は無いのか、クシャミだけではなさそうだがな?
「ちょっぴり…」
 ほんのちょっぴりだよ、ホントに微熱。それなのにママが寝ていなさい、って。
 今日はハーレイが来てくれる日なのに、寝ていなさいって言われたんだよ。
「当然だろうが、お前、風邪だろ?」
 ふうむ、と手を伸ばしてブルーの額に触ってみて。
 くすぐったそうにしているブルーに「少し熱いか?」と尋ねてみれば。
「ちょっとだけね」
 ホントにちょっぴり、熱って言うほどの熱でもないよ。
「測れ!」
 お前の言うことは信用出来ん。
 熱が高けりゃ俺が帰ってしまうかと思って、微熱だと嘘を言いかねないしな。
 俺がきちんと納得するよう、今の体温ってヤツを測るんだな。



 ほら、と枕元にあった体温計を渡して、ブルーに測らせている間に。
 小さなブルーが渋々熱を測っている間に。
(ん…?)
 脳裏を掠めた、遠い日の記憶。遥かな昔に過ぎ去った記憶。
(そういえば…)
 あれも体温計の記憶だった、と白いシャングリラでの日々が蘇ってきた。
 ブルーと暮らした白い鯨での懐かしい日々が。



 青い地球の上に生まれ変わる前、キャプテン・ハーレイだった前の生。
 あの頃の自分には特技があった。
 ソルジャー・ブルーだった前のブルーには、些か迷惑とも言える特技が。
(そうだったっけな…)
 ブルーの額に軽く触れるだけで、熱の有無が分かった前の自分。
 銀色の前髪をそっとかき上げ、額にピタリと手を当てたならば、より正確に。
(前のあいつは、顔だけしか外に出ていなかったしな?)
 ソルジャーの衣装はそういう風に出来ていたから。
 華奢な手さえも手袋で覆われ、透けるような肌が見える部分は顔くらいだった。その顔の上の、白い額に手を当てる。あるいは触れる。
 額に熱さを感じた時には、触れるだけだった手をピタリと押し付け、ブルーを睨んだ。
 「熱がおありのようですね」と。
 お休みになって頂かなければと、言い訳なさっても無駄ですよと。



 「大丈夫だよ」が口癖だったブルーの嘘を、何度も何度も見抜いていた。
 ソルジャーだからと気を張って無理をしようとしていたブルーが平然とつく嘘を。
(額は嘘をつけないからなあ、正直だからな?)
 熱があると分かれば、たとえブルーが何処に居ようと、もう強引に青の間へ。「大丈夫だよ」と言い訳されても耳も貸さずに、逃げないようにと監視しながら付き添って。
 青の間に着いたら熱を測らせ、そうしてベッドに送り込んだ。
 ソルジャーの衣装は脱がせてしまって、柔らかなパジャマを着せ付けて。
(…そういう時のためのパジャマだっけな…)
 以前は確かに着ていたくせに、いつの間にやらパジャマを着なくなってしまったブルー。
 ハーレイの温もりと身体とをパジャマ代わりに眠ったブルー。
 それでも病気の時はパジャマで、流石のブルーも文句は言えない。ドクター・ノルディが診察に来るし、その時に何も着ていないのでは酷く叱られるに決まっているから。
 「裸で寝るとは何事ですか」と、「病人の自覚がおありですか」と。



 一度ベッドに入ってしまえば、張っていた気が緩むから。
 ブルーは寝込んでしまうのが常で、そうなればもう眠っているだけ。溜まった疲れを眠ることで癒すという面も多分、あったろう。
 放っておいたら食事も摂らずに眠り続けるから、ブルーが好んだ素朴な野菜スープをキッチンで作って食べさせ、その他にもあれこれ世話をしていた。ブリッジを抜けては、様子を見て。
 ドクターよりもブルーの体調に詳しかった自分。
 こういう時にはこうすればいいと、こうすれば早く良くなる筈だと。
 今と同じで虚弱だったブルーの弱い身体は薬だけでは治りが遅い。精神の疲れも取ってやらねばいけなかったし、野菜スープをスプーンで掬って口に入れてやるだけでもかなり違った。
 甘えていいのだと、甘えられるのだとブルーの心がほぐれるから。
 それから優しいスキンシップ。
 恋人としての愛撫ではなく、幼子を慈しむように。
 そうっと額を撫でてやったり、普段なら昼間は手袋に包まれている手を握ってやったり。
 何かと手がかかる恋人だったけれど、愛おしかった。
 自分がベッドに送り込まねば、倒れてしまうまで無理をし続けそうな前のブルーが。



(朝、起きたら熱があったりするんだ)
 それは気付かずに無理を重ねた結果であったり、弱い身体だけに病に負けたり。
 前の自分の腕の中のブルーの身体が熱い、と気付かされる朝。
(服なんか着てはいなかったしなあ、余計に分かりやすかったよな?)
 肌と肌とが触れ合っているだけに、額に触れずとも分かった異変。
 それでも起きようとしていたブルーを何度止めたことか。
 「大丈夫だよ」と微笑むブルーに熱を測らせ、「駄目です」と体温計の表示を突き付けて。



(俺が一緒に寝ていなかったなら…)
 どれほどの無茶をしたのだろうか、あの頃のブルーは?
 熱で足元がふらついていても、「大丈夫だよ」と視察に回って、新しく見付けたミュウの子供の救出などにも出掛けて行ったに違いない。
 アルテメシアに着いて間もない頃ならともかく、居を定めた後は救出班を設けてブルーの負担を減らす工夫をしてあったのに。ブルー自ら出掛けなくとも、救出班には充分な力があったのに。
 それでもブルーは出掛けて行ったし、救出作戦を見守っていた。いざという時のために。
(病人が行っても意味が無いんです、と俺は何回怒鳴ったことか…)
 絶対に駄目だ、と叱り付けてブルーをベッドに押し込み、外に出ないよう見張りもした。
 「少し外す」とブリッジを離れて、青の間から指揮を執りながら。
 ブルーのベッドの側に運んだ椅子にどっかりと座り、無茶をしがちなブルーが逃げないように。



 何度もブルーとの攻防を繰り返し、無理やりベッドに押し込める内に、身体が覚えた。
 この熱さならばブルーの体温は何度くらい、と、身体が、額に当てる手のひらが。
「ハーレイはぼくの体温計だね」
 そう言ったブルーを覚えている。肩を竦めて苦笑したブルー。
 本物の体温計には嘘がつけるが、ハーレイには嘘がつけないと。
(うん、体温計なら誤魔化せたんだ)
 前のブルーのサイオンがあれば、簡単に。
 相手は単純な仕組みなのだし、一瞬で数値を書き換えられた。
 けれどもハーレイの手だけは誤魔化せないから、大人しくベッドで寝ていたブルー。
 「熱がありますよ」と体温計でも測られてしまって、ドクターを部屋に呼ばれてしまって。
 一度ベッドに送り込んだら、後は癒えるまで静かに寝ていてくれだのだけれど…。



 そういったことを考えていたら。
 遠い記憶を思い出していたら、ピピッと微かな体温計の音が聞こえた。
 小さなブルーに「測れ」と渡した体温計。
「見せてみろ」
 貸せ、と手を伸ばせば、ブルーは上掛けの下に潜り込みそうな顔で不安そうに。
「…怒らない?」
「いいから、ちゃんと申告しろ!」
 何度あるんだ、と体温計を奪って見てみれば表示は微熱で。
「まあ、この程度だったら、話すくらいは…」
 別にいいだろう、はしゃぎすぎて咳き込まないように気を付けるならな。
 それとベッドから出て来ないことだ、そうするんなら許してやる。
「ホント?」
「その代わり、喋るのは主に俺だぞ、お前は聞き役に徹していろ」
 質問と相槌は許してやるがな、自分からあれこれ喋らないことだ。疲れちまうからな。
 ついでに、後できちんと昼寝するんだぞ、でないと早く治らんだろうが。
「昼寝って…。ハーレイ、帰ってしまわない?」
 ぼくが寝てたら、その間に。いつもだったら、土曜日は夜まで居てくれるのに…。
「居てやるさ。今日は土曜日だからな」
 お前が昼寝をしてる間は、本でも読ませて貰うとするかな。
 シャングリラの写真集もいいがだ、たまにはお前の本棚の本を適当にな。



 ブルーの母が運んでおいてくれたお茶がポットにたっぷりとあったから。
 のんびりと飲みつつ、合間に菓子も口へと運んだ。
 小さなブルーにも枕元の水分補給用のドリンクを何度か飲ませたりしながら、学生時代の武勇伝などを聞かせていたら。
「ハーレイ、ぼくの体温計だね」
「はあ?」
 唐突な言葉に目を丸くしたが。
 思い出した、とブルーが笑った。
 前のぼくは何度も測られていたと、叱られていたと。
「ハーレイ、ぼくのおでこに触っただけで熱が分かるんだもの」
 何度あるのか、触っただけで。
 そして睨むんだよ、怖い顔して。「熱がありますね」って、「直ぐに測って下さい」って。
 ぼくが測るまでじっと見てるし、体温計を誤魔化したってハーレイに嘘はつけないし…。
 あれで何度も叱られていたよ、熱があるのにウロウロするな、って。
 ベッドに入るまで監視されてて、ドクターを呼ばれちゃうんだよ。



「ああ、あれなあ…」
 実は俺もさっき思い出していたんだ、とハーレイはブルーの小さな額に手を当てた。
 ほんの少しだけ熱く感じる、小さな額。
 体温計が示した数字に嘘は全く無いのだろうが、今の自分にはブルーの熱が分からない。微熱があるということだけしか、高熱ではないということしか。
 前の自分が言い当てたように、体温計の表示と同じ数字を弾き出せはしない。
 だから溜息をつくしかなくて。
「今の俺にあの腕があったらなあ…」
 お前の体温計をやっていた頃と同じ腕があれば良かったんだが。
「なんで?」
「あの腕があったら、昨日のお前の不調が分かった」
 そうすれば俺は早めに帰っただろうし、お前だって早くベッドに入れた。
 風邪は引き始めが肝心だからな、暖かくして早い時間に眠れば朝には治っているとも言うんだ。
 あの頃の腕が俺にあったなら、お前、寝込みはしなかったろうに。
「だけど…。昨日は熱は無かったよ?」
 クシャミが出ただけ、それっきりだよ。体温計の出番なんかは無かったよ。
 ぼくだって、朝に身体が熱いと思うまでは測っていなかったもの。



「それでも、多分、分かっていたな」
 体温計だった頃の俺だったなら、と返してやれば。
 小さなブルーは不満そうに唇を尖らせ、ハーレイを恨めしそうに見上げた。
「ぼくと一緒に寝ていないのに?」
 あの頃のぼくはハーレイと一緒に眠っていたから、夜の間に熱が出て来たら分かるだろうけど。
 そうでもないのに分かるわけがないよ、ぼくがクシャミをしてたくらいで。
 クシャミくらいは誰だってするし、一回だけのクシャミだったらいい噂だよ?
「そうでなくても分かるんだ!」
 一緒に寝ていたからだけではない、とハーレイは生意気な恋人の額を小突いた。
 前の自分が体温計などという特技を体得したのは、前のブルーと長く一緒に暮らしたからだと。
 白い鯨で三百年も共に生きたし、青の間が立派に出来た後でも二百年以上。
 それほどの時を側で生きたから、ブルーに生じた僅かな変化。
 体調の変化を決して見逃さないのだと、そうした経験を積み重ねた末に体温計になったのだと。
 触れるだけで熱の有無が分かって、手のひらを当てれば正確な数値。
 サイオンで誤魔化せる体温計よりも正しく測れる、ブルー専用の体温計に。



「じゃあ、今のぼくは?」
 まだ測れないの、チビだから?
 子供は体温が高いって言うし、そのせいでハーレイ、測れないかな?
「そうじゃなくって、データ不足だ」
 いいか、前の俺は死んじまっているんだ、ずうっと昔にこの地球でな。
 前の俺の記憶は残っちゃいるがだ、その頃の感覚とまるで同じっていうわけじゃない。
 お前だってそうだろ、右手が冷たいと覚えてはいても、その冷たさは同じじゃない。
 だからだな…。
 前の俺の記憶を総動員して、お前の体温を測ろうにも、だ。俺の身体がついていかない。こんな感じでいいんだったか、と曖昧なことしか分からないのさ。
 今じゃせいぜい、熱っぽいな、と分かる程度だ。もっと修行を積むまではな。
「それじゃ、いつかは分かるようになる?」
 前のハーレイがやってたみたいに、ぼくの体温、ピタリと測れるようになるかな?
「当然だ!」
 俺は意地でも測れるようになってみせるぞ、出来ないだなんて情けないしな。
 前の俺より、ずっと近くにいられるようになるっていうのに…。
 お前を嫁さんにするっていうのに、嫁さんの体温も測れんようでは情けなくって涙が出るぞ。
 恋人同士なことさえ秘密だった頃には出来ていたことが、まるで出来なくなったんではな。



「えーっと、ハーレイ…。ぼくの体温計になれる頃って…」
 結婚してから? とブルーが訊くから。
 一緒に暮らせるようになるまで無理なのかな、と尋ねてくるから。
「それまでにマスターしたいもんだが…」
 前の俺だって、早い頃から体温計の片鱗は見えていたんだからな。
 お前と恋人同士になってない頃も、お前の具合が悪い時には誰よりも早く気付いていたし…。
 だから結婚するよりも前に体温計になれるといいなあ、お前が無理をしないようにな。
「どうやって?」
 ぼくと一緒に暮らしてないのに、どうやってマスターするつもり?
 本物の体温計を使って測りたくっても、しょっちゅう測れやしないのに…。
「お前に何度も会ってる間に分かるようになるさ」
 今日のお前の額の熱さと、体温計に出てた数字と。
 これでデータは一つ手に入れたし、後は地道な積み重ねだな。
 お前がクシャンとクシャミをしたなら、サッと額に手を当てて熱を確かめるとか。
 具合が悪くて学校を休んでしまってる時も、せっせと見舞いに来ては額に手を当てるとかな。



 そして、とハーレイは微笑んでみせる。
 結婚して共に暮らすようになれば、どんな不調も見逃さないと。
 また体温計になってみせると、目覚めるなり「熱があるぞ」と一目で見抜いてみせると。
 ブルーの発熱に気付いたならば、前の生でしていた通りにベッドに押し込む。起きようとしても駄目だと叱って、ベッドに戻して、上掛けを掛けて…。
「それなら、仕事も休んでくれる?」
 ぼくは熱が出ていて病気なんだよ、世話をしてくれる人、いないのに…。
 パパもママも一緒に暮らしてないのに、ぼくはベッドで独りぼっちだよ、熱があるのに。
「前の俺がブリッジを抜けたようにか?」
 少し外す、と青の間で指揮を執りながら、お前を監視していたように。
 無茶しないよう見張ってもいたが、スープも作っていたっけな。野菜スープのシャングリラ風。
 あんな風にお前についてりゃいいのか、仕事は二の次、三の次で。
「うん」
 ハーレイが仕事に行ってしまって、鍵がかかった家で一人は嫌だよ。
 少しくらいなら我慢するけど、一日中とか、大丈夫かな…。
「努力してみよう」
 お前が寂しくて嫌だと言うなら、なんとか都合をつけられるように。
 熱にうなされて目が覚めた時に独りぼっちだと、お前、泣くかもしれないからなあ…。
 うんと甘えん坊になっちまった上に、思念で連絡も取れないんだしな?



 嫁が風邪を引いたようでして、と仕事を休めばいいんだな、とハーレイは笑う。
 休みを取るのが無理な日だったら、授業の合間に車を飛ばして真っ直ぐブルーの待つ家へ。
 そしてベッドで寝ているブルーの世話をする。
 熱を測って、スープを作って。
 もちろん熱は自分の手のひらをブルーの額に当てて測って、体温計の数字はあくまでオマケ。
 スープは何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んで、野菜スープのシャングリラ風を。
 他にも色々、ブルーの世話。
 遠い昔に白いシャングリラでやっていたように、もう愛おしさを隠すことなく。
 ブルーはハーレイの伴侶なのだし、誰に遠慮も要らないから。
 たとえスープを、水を口移しで飲ませていようと、誰も不思議には思わないから。



「ふふっ、楽しみ」
 ハーレイが世話をしてくれるなんて、とっても幸せ。
 今度のハーレイはぼくの体温計っていうだけじゃなくって、堂々と世話が出来るんだものね。
 ぼくをベッドに押し込んだ後は、ハーレイが世話してくれるんだものね…。
 前のぼくだと、部屋付きの係や医療スタッフが殆どの世話をしに来ていたのに。
「おいおい、楽しみなのも分かるが…」
 少しは丈夫になってくれ。
 クシャミを一つしていたくらいで次の日はベッドの住人だなんて、弱すぎるぞ。
 俺がしょっちゅう言ってるだろうが、しっかり食べて大きくなれよ、と。
 大きく育つ方もそうだが、しっかり食ったら身体も丈夫になるんだからな。
「努力はするけど…」
 そんなに丈夫になれるのかな、ぼく…。
 前のぼくよりも弱いんじゃないかな、頑張らなくちゃっていう場所、学校だけだし…。
 ソルジャーなんかをやってない分、病気とかには弱いのかも…。



 今度のぼくは弱い気がする、と言った途端に。
「クシャン!」
 ブルーの口から飛び出したクシャミ。
 ハーレイはハッと我に返った。ついつい話し込んでしまったけれども、ブルーは病人。
(しまった、俺だけが喋るって予定でいたのにな?)
 これではブルーが休めないから、たかが風邪でも良くならない。早く治すには充分な眠り。まだ太陽は高いけれども、昼前だけれど、休ませなければ。
 ブルーの肩を上掛けの上からポンポンと叩き、髪をクシャリと撫でてやった。
「いかんな、クシャミが出ちまったぞ」
 ほら、少し眠れ。大人しくしてな。
「お昼前なのに?」
 ハーレイ、昼寝をしろって言ったよ、昼寝はお昼が過ぎてからじゃないの?
「屁理屈を言うな。スープを作って来てやるから」
 お前、好きだろ、野菜スープのシャングリラ風。
 寝てる間にじっくり煮込んで、うんと美味いのを作ってやるさ。その間にゆっくり寝るんだな。
「うん…」
 ちゃんと寝るから、帰らないでよ?
 今日は夜まで居てくれるんでしょ、土曜日だから。
「ああ、お前の部屋に居ることにするから、その風邪、しっかり治すんだな」
 そうすりゃ、明日には起きられるしな?
 いいか、ぐっすり寝るんだぞ。野菜スープが出来上がるまでな。
「うん…。うん、ハーレイ…」
 約束だよ、ホントに帰っちゃ嫌だよ?
 野菜スープを作りに行くって、ぼくを騙して帰ってしまったりしないでよね…?



 スープが出来るの待ってるからね、と上掛けの下から出て来た右手。
 その手の小指とハーレイの小指を絡め合わせて、約束をしたと満足そうにしているブルー。
 いつもより僅かに体温の高い、微熱で温かくなっている小指。
(…さっきより熱いんだか、同じなんだか…)
 まだ触れただけで体温は測れないけれど。
 いつかはこれだけでブルーの体温を測ってやろう、とハーレイは思う。
 前の生で測っていたように。
 あの頃よりももっと腕を上げて、絡めた小指で正確に測ってしまえるくらいになるように。
(ブルーのためだけの体温計なあ…)
 前の自分が持っていた特技。今の自分にはまだ無い特技。
 早くブルーの体温計になってやらなければ。
 今度こそブルーを守ると決めたし、愛しいブルーに病も近付けないように。
 不調を見抜いて、きちんと体温を測ってやって。
 仕事の合間に家へと走ることになっても、ブルーが愛おしくてたまらないから。
 だから、体温計になる。
 ブルーの熱なら、体温計よりも正確無比に測ることが出来る、ブルー専用の体温計に…。




            体温計・了

※触れるだけでブルーの体温が分かった、前のハーレイ。熱があるかどうか。
 ブルー専用の体温計だったらしいですけど、今はまだ無理。でも将来は体温計です。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(何の匂い?)
 ふうわりと鼻をくすぐった香り。
 お風呂のドアを開けた途端に、温かい湯気の湿気に混じって。
 いつもはこういう香りはしないし、この匂いは何処から来てるんだろう?
 ママが新しいバスキューブでも入れたかな、ってバスタブを覗いてみたんだけれども、色なんかついていないお湯。湯気だって何の匂いもしない。
(でも…)
 確かに甘い香りがするんだ、お風呂とも思えない香り。どちらかと言えば…。
(お菓子みたいだよ?)
 だけど分からない、香りの正体。バスキューブじゃないなら何だろう、って首を捻っても答えは出ないし、とにかくお湯に浸からなくっちゃ。風邪を引く前に。
 まずは身体を洗ってから…、とシャワーを浴びながら手を伸ばした先に。



(石鹸…)
 昨日までは無かった、ピンクの石鹸。白い陶器のお皿に載ってる。他のとは別に。
(もしかして、これ?)
 ボディーソープで身体を洗って、お湯で流して。
 それから新しく来た石鹸を観察してみた。ママのなんだろう、ぼくは初めて見るけれど。
 予想通りに、あの香りの元は石鹸だった。甘いイチゴの香りの石鹸。
(美味しそう…)
 まるで食べられそうな石鹸。ちっとも石鹸臭くなくって、ホントのホントにイチゴの匂い。甘く熟したイチゴの匂いがする石鹸。
 それに本物のイチゴを潰して搾って作ったみたいな石鹸なんだ。半透明のストロベリーピンク、種の粒々まで綺麗に見える。イチゴのジュースを固めたようにしか見えない石鹸。



(んーと…)
 もっとゆっくり眺めたいから、陶器のお皿ごとバスタブの縁まで持ってった。
 ちょっとしたものを乗っけられるように小さな棚が作ってあるから、そこに陶器のお皿を置いてイチゴの石鹸をつついてみる。
 ぼくはお湯の中、あったかいお風呂にゆったり浸かって、チョンチョンと指で。
(これってホントに石鹸だよね?)
 だって、お風呂にあるんだから。だけどイチゴの香りは甘くて、これがダイニングやキッチンにあったらお菓子なのかと間違えそう。ちょっぴり固めのゼリー菓子とか、そんな感じで。



 そう思って見てたら、お風呂のドアを開けてママが覗いた。
 食べちゃ駄目よ、って。
 美味しそうだとは思っていたけど、ぼくってそんなに食いしん坊に見えるんだろうか?
「ママ、これなあに?」
 昨日まではお風呂に無かったよ?
 それにとっても甘い匂いがするんだけれど…。
「手作り石鹸なんですって。お友達から頂いたのよ」
 何処だったかしら、他所の地域で作っているって聞いたわねえ…。
 本物のイチゴを使っているから、お肌にいいって話だったわ。
 まるで食べ物みたいでしょ?
 でもね、本当にちゃんと泡が立つのよ、ママもビックリしたくらいにね。



 ママが扉を閉めてった後で、ぼくは改めて石鹸を見詰めた。
 ストロベリーピンクのイチゴの石鹸、種まで入った手作り石鹸。
(本物のイチゴ…)
 イチゴの香料を使ったわけじゃなくって、本物のイチゴで出来た石鹸。イチゴは果物で、食べるものだと思っていたのに。イチゴのジュースも飲み物だと思っていたんだけどな…。
(イチゴで石鹸、作れるんだ…)
 使っちゃ駄目とは聞かなかったし、ちょっと好奇心。
 陶器のお皿ごと石鹸を取って、バスタブの側の床にそうっと下ろして…。
(うわあ、つるつる…)
 バスタブから手で掬ったお湯をかけたら、濡れた石鹸を両手で擦ってみたら。
 ちゃんと泡立つ。綺麗に泡立つ。
 ママが「お肌にいい」って言っていたのも納得、きめ細かな泡がモコモコ出てくる。生クリームみたいな泡がこんもり、ぼくの両手の上にこんもり。



(石鹸かあ…)
 無かったよね、って肩を竦めた。
 前のぼくが生きていた頃は。シャングリラじゃなくて、あの船がまだ無かった頃は。
 未来なんかは見えもしなかった、生き地獄だったアルタミラ。
 人体実験の繰り返しの日々に、石鹸なんかはありもしなかった。ボディーソープもシャンプーも無くて、あそこじゃ洗浄液だった。
 実験動物の身体は清潔にしておく必要があるけど、所詮は実験動物だから。
 手間暇かけて洗ってやるより、自分で自由に洗わせるより、自動で丸洗い出来る部屋。
 実験が終わって意識があったら、丸洗い用の部屋はそれこそ地獄。身体中の皮膚が火傷や凍傷で覆われてたって、薬品で無残に爛れていたって、容赦なく吹き付ける洗浄液。
 消毒を兼ねたそれの痛みに悲鳴を上げても、のたうち回っても、四方八方から洗浄液。
 それが済んだら次は冷水、洗い流すための冷たい水。お湯なんか一度も出なかった。
 洗い終わると乾燥用の風が送られてくる。皮膚が引き攣れてひび割れようが、血が流れようが、実験動物を洗う係はまるで気にしちゃいなかった。スイッチ一つで済むことだから。



 そういう地獄を味わったせいで、前のぼくはお風呂が大好きになった。
 白い鯨が出来上がる前からのお風呂好き。あったかいバスタブに浸かるのが好き。
 具合が悪くても入ってたほどで、今のぼくだって前のぼくの記憶が影響したのか、熱があっても入りたいほどお風呂が大好き、浸かるのが好き。
(…地球まで来たってお風呂なんだよ)
 生まれ変わってもお風呂好きのぼく。青い地球に来たって、やっぱりお風呂。
 そして今ではイチゴの石鹸。
 アルタミラでは石鹸なんか影も形も無かったというのに、イチゴから作った素敵な石鹸、しかも手作り。イチゴのジュースのストロベリーピンクで、小さな種まで入ってる。
 美味しそうな匂いがする石鹸。
 食べ物と言ったら餌しか無かったアルタミラ時代のぼくが見たなら、齧ってしまいそうな石鹸。
 だけど泡立つ、しっかり泡立つ。
 イチゴジュースの色じゃなくって、真っ白な泡がたっぷりと。



(もこもこ、こんもり…)
 泡立てた生クリームみたいな泡。きめが細かくて滑らかな泡。
 普通の泡は出来ないのかな、って軽く擦ったら、ぷくっと膨らんだ泡がヒョコッと出来て。
(こういう泡も出来るんだ…)
 面白いよね、って泡をフウッって吹いたら、ふわりと飛んだ。
 バスタブの湯気に乗ってふわりと、温められた空気の中をふんわりふわふわ、泡の珠。
 明かりを映してキラリと泡が光った途端に思い出した。
(シャボン玉…!)
 小さかった頃によく遊んでた。虹色に煌めくシャボン玉。石鹸の泡で出来た玉。
 もう懐かしくてたまらない。あれで遊んでいたんだよね、って。



 せっかくだからと指を輪っかにして、フウッて吹いて。
 こんもり、もこもこの泡の山でも、これならシャボン玉になる。親指と人差し指を繋いで作った輪っかで泡を広げてやったなら。フウッと息を吹きかけたら。
 小さい小さいシャボン玉だけど、幾つも幾つも舞い上がる。真っ白な泡を指で掬って、フウッと吹いたら。上手に息を吹きかけたなら。
 何度もシャボン玉をバスルームの天井に飛ばす間に、だんだんコツが掴めてきた。
 泡を広げる時はゆっくり、石鹸の膜が破れないように。
 息を吹き付ける時もゆっくり、石鹸の玉が少しずつ膨らんでゆくように。
(もっと大きく…)
 同じ作るなら、小さかった頃に作ったみたいなシャボン玉。大きくて立派なシャボン玉。
 もっと大きく、もっと、もっと、って頑張っていたら。
「ブルー、のぼせるわよ!」
 いつまでお風呂に入っているの、ってママの声。
「はーい!」
 すぐに上がるよ、ちょっとのんびりしちゃってただけ。
 大丈夫、のぼせていないから!



 お風呂から上がって、パジャマを着て。
 部屋に戻ったら、ベッドに腰掛けてシャボン玉の続き。
 もう石鹸は無いけれど。イチゴの石鹸は部屋に無いけど、他の石鹸だって無いんだけれど。
 親指と人差し指とで輪っかを作って、フウッと吹いてみて、飛ばしてるつもり。
 ぼくの部屋の中に幾つも、幾つも、目には見えないシャボン玉。ぼくにだけ見えるシャボン玉。
 もっとサイオンの扱いが上手だったら、石鹸、持って来られるんだけど。
 瞬間移動をちょっと使って、バスルームからヒョイと石鹸の泡。
 でも、今のぼくには無理な相談、出来っこないから夢のシャボン玉、想像するだけの泡の玉。
 部屋一杯に飛んでるつもりで、幾つも、幾つも、フウッって吹いた。
(昼間だったらキラキラ綺麗…)
 窓から入るお日様を映してきっと虹色、七色の玉。
 部屋の中でシャボン玉遊びをやったことは一度も無いけれど。
 シャボン玉は庭のものなんだけど。
 お日様の下で、青空の下で、自然に吹いてくる風に任せて飛ばして遊ぶものなんだけれど…。



(あれ…?)
 何処かで遊んだシャボン玉の記憶。シャボン玉を作って遊んだ記憶。
 庭じゃなくって、もっと昔に。
 大きなシャボン玉を上手に作れるようになった頃より、もっともっと前に。
(…幼稚園かな?)
 幼稚園の庭でやってたのかな、と思ったけれども、その頃だったら庭でもやってる。
 お気に入りの遊びは、ぼくの家でも出来るようなものなら絶対にやる。幼稚園にしか無い道具を使う遊びだったら諦めるけれど、シャボン玉はそんな遊びじゃない。
 石鹸と水と、それからストロー。
 たったそれだけで出来る遊びを庭でやらないわけがない。幼稚園でやったら、家でも、絶対。
(庭じゃなくって、幼稚園でもなくて…)
 もっと昔。
 ずうっと昔に遊んだ筈のシャボン玉。ぼくが作ったシャボン玉。
 でも、何処で…?
 流石に幼稚園よりも古い記憶は曖昧だろうし、探れないかと思ったんだけど。
(シャングリラ…!)
 ぼくが持ってたシャボン玉の記憶は、あのシャングリラのものだった。
 ハーレイが舵を握っていた船。ぼくが守った、白い鯨の。



(…石鹸の記憶が繋がっちゃったよ…)
 お風呂で思い出してた石鹸。アルタミラには無かった石鹸。
 あのアルタミラから宇宙へと逃げて、シャングリラと名付けた船で暮らして。
 白い鯨が出来上がるよりも前に、誰かが始めたシャボン玉。
 最初は多分、偶然だったと思うんだ。
 お風呂で身体を洗っていた時、石鹸の泡が飛んでっただけで。
 何かのはずみに生まれた泡の真ん丸な玉が、ふうわりと宙に浮かんだだけで。
 でも…。



「何処かで見たねえ?」
 そう言ったのはブラウだったっけ。
 まだ公園なんか無かった時代で、シャボン玉はガランと広い部屋の中をフワフワ飛んでいた。
 軽い運動がしたい時とかに使われる部屋で、意味もなくのんびりしたい時にも。
 その部屋で仲間の一人が吹いて作ったシャボン玉。こんなのが出来ると、石鹸なのだと。
「ああ、見たような気がするな」
 初めてじゃないな、ってハーレイも言った。たまたま居合わせた他のみんなも、思いは同じで。
 ヒルマンもゼルも、それにエラだって。もちろん、ぼくも。
(シャボン玉なんか、成人検査よりも後には作ってないのに…)
 作って遊ぶ余裕も無ければ、石鹸さえも無かった日々。地獄だった日々。
 おまけに実験動物になるよりも前の記憶もすっかり失くして、まるで残っちゃいなかった。
 育ててくれた養父母の顔も忘れて、声さえも思い出せなくて。
 どんな所で暮らしていたのか、何をしていたのか、全く覚えていなかったのに。
 欠片さえも頭に無いというのに、シャボン玉を見たと誰もが思った。
 きらきらと光る泡で出来た玉。石鹸と水で出来る玉。
 それを確かに何処かで見たのだと、幸せだった頃の記憶の名残に違いないと。



 シャボン玉の話はたちまち広がり、作ってみた人は嬉しくなった。そう、ぼくだって。
 記憶は残っていないけれども、これを作って遊んでいたと。
 アルタミラの檻に閉じ込められるよりも前の時代に、育った家とかで遊んだ筈だと。
(シャボン玉の記憶…)
 すぐにパチンと壊れちゃうけれど、割れちゃうけれど。
 ふわふわと宙を漂う薄い薄い玉は子供時代の夢の思い出、失くした記憶の優しい名残。
 そうだと気付くと作りたくなる。シャボン玉を作って飛ばしたくなる。
(ついでに自慢もしたくなるしね?)
 こんなに大きく作れるんだと、自分は誰よりもシャボン玉作りが上手いんだと。
 あれこれ工夫を凝らす仲間やら、腕を磨こうと頑張る仲間。
 シャボン玉が最初に飛んでいた部屋は練習用の部屋に化けてしまって、他の部屋でも通路でも。
 ちょっとした時間が出来たらフワフワ、ふんわりふわふわ、シャボン玉が舞う。



 そうして競って、みんなが作った。子供時代の思い出を追った。
 戻ってはこない記憶であっても、シャボン玉を見たのは確かだから。幼い自分が飛ばして遊んだことだけは間違いないのだから。
(作りたくなるよね、シャボン玉…)
 ぼくはハーレイと一緒に作っていたっけ、他のみんなに負けないように。
 うんと大きなシャボン玉にしようと、シャングリラで一番大きなのを二人で作るんだと。
 ハーレイとぼくと、頑張った記憶。
 石鹸と水を混ぜるコツだの、大きく膨らませるための工夫だの。
(シャボン玉…)
 遠い遠い昔、シャングリラで作ったシャボン玉。ハーレイと飛ばしたシャボン玉。
 明日は土曜日、懐かしい思い出をハーレイと二人で話したいから。
 シャボン玉、ってメモに書き付けた。
 明日の朝まで忘れないように、ハーレイが来た時にシャボン玉だと思い出せるように。



 次の日の朝、目が覚めたぼくは勉強机の上に置いてあるメモに気が付いた。
(そうだ、シャボン玉!)
 ハーレイと思い出話をするんだった、って急いで階段を下りて行った、ぼく。
 顔を洗う前に、着替えるよりも前に、ママにお願いしなくっちゃ。
「ママ、おはよう!」
 キッチンを覗いて、挨拶をして。
 あの石鹸を貸してと頼んだ。イチゴの石鹸を貸してほしいと、悪戯なんかはしないからと。
「あら、石鹸? 何に使うの?」
 ブルーもあれで顔を洗うの、そうしたいならブルー用のも貰ってあげるわよ?
 気に入ったのなら分けてあげる、とママのお友達が言っていたから。
「ううん、石鹸で顔を洗うんじゃなくて…」
 前のぼくのことを思い出したんだよ、あの石鹸で。
 ハーレイにも教えてあげたいな、って思うから、石鹸、借りたいだけ。
「あらまあ、イチゴの石鹸で?」
 きっと美味しそうな匂いのせいね、ってママはニッコリ笑ってくれた。
 石鹸はいくらでも貸してあげると、お部屋がイチゴの匂いになるわよ、って。
(…ママ、食べ物の話だと思ってるかな?)
 ホントはちょっぴり悲しい思い出だけれど、ママに話したら心配するから。
 シャボン玉の話はしないでおいた。
 ママがイチゴのお菓子の話だと思っていたって別にいいんだ、あの石鹸さえ借りられたなら。



 そうして借りて来た、イチゴの石鹸。ストロベリーピンクのイチゴの石鹸。
 白い陶器のお皿ごと借りて、勉強机に乗っけておいたら、ハーレイが訪ねて来てくれて。
 テーブルを挟んでぼくと向かい合わせ、石鹸の甘い匂いはママが置いてってくれた紅茶の香りに負けずに部屋に漂ってるから。
 ハーレイはクンと鼻を鳴らして、ぼくの部屋の中を見回した。
「なんだかイチゴの匂いがしないか、今日はイチゴの菓子ではないようだが…」
 この部屋に来るまでもイチゴの匂いはしていなかったし、イチゴのガムとかキャンディーか?
「食べ物じゃないよ、石鹸だよ」
 これ、って立ち上がって、あの石鹸を取って来た。
 テーブルの上にコトリと置いたら、ハーレイがまじまじとイチゴの石鹸を見て。
「お前、こういう趣味なのか?」
 やたらと美味そうな匂いではあるが、お前がイチゴの石鹸なあ…。
「違うよ、これはママのだよ」
 ママが友達から貰ったんだって、本物のイチゴで作った手作り石鹸。
 お肌にいいって言っていたけど、ぼくは石鹸にはこだわらないし…。洗えればいいんだ、石鹸の種類は何でもいいよ。ボディーソープでも、こういう固形の石鹸でも。



 でも石鹸、って指差した。白い陶器のお皿の上のストロベリーピンクの塊を。
 「思い出さない?」って、「石鹸だよ」って。
 ハーレイは石鹸とぼくとを交互に見たけど、なんにも思い出せないようで。
「石鹸って…。何をだ?」
 こいつで何を思い出せと言うんだ、俺もイチゴの石鹸なんかは全く御縁が無いんだが…。
 俺がこういうのを使っていたらだ、似合わないどころか笑われちまうと思うがな?
「そうだろうけど…。そんなのじゃなくて、石鹸で出来る遊びだよ」
 シャングリラでやったよ、シャボン玉遊び。
 ぼくはハーレイと組んでたんだよ、忘れちゃってる?
「ああ、作ったな…!」
 まだソルジャーだのキャプテンだのと、仰々しい肩書きが無かった頃にな。
 俺がお前を「お前」と呼んでも誰も叱らない時代だったな、エラも怒鳴って来なかったしな。
 二人でデカイのを作っていたなあ、シャングリラで一番の名人ってヤツを目指してな。
 誰よりも大きなシャボン玉を二人で作ってやろうと、シャングリラの中で飛ばすんだと。



 前のぼくとハーレイ、シャボン玉を沢山作ってた。
 うんと大きいのを、もっと大きいのを作ろうと。
 シャボン玉遊びが流行ってた間は二人でせっせと、石鹸と水とを使って、せっせ、せっせと。
「頑張ってたでしょ、シャボン玉遊び」
 まだシャングリラは白い鯨じゃなかったけれど。
 公園なんかは無かったけれども、シャボン玉、あちこちで作っては自慢してたよね。ハーレイと二人で作ってみせては、これより大きいのは作れないだろう、って。
 公園があったら、ぼくたち、もっと頑張ってたかな…?
「あの頃もやったが、公園が出来た後にもやったろ」
 お前と俺とで、シャボン玉遊び。…うん、俺は一気に思い出したぞ。
「そうだっけ?」
 公園が出来た後って言うなら、ぼくはとっくにソルジャーだよ?
 ハーレイだってキャプテンなんだし、二人でシャボン玉なんかを作って遊んでいられたかな?
「覚えていないか、半ば仕事で、半ば遊びだ。公園が出来た後のはな」
 お前はソルジャー、俺はキャプテン。
 この二人がシャングリラのシャボン玉のプロだとヒルマンたちが紹介してな。
 ヒルマン率いる子供たちとだ、シャボン玉作りの腕を競っていたろうが。
「あったね、そういう楽しいのも…!」
 ゼルまで出て来て頑張ってたっけ、「こういうのはわしに任せておけ」って。
 「シャボン玉のプロでもわしには勝てん」と、「わしには技術があるんじゃからな」って。



 白い鯨に変身を遂げたシャングリラ。
 アルテメシアの雲海に潜んで、ミュウの子供たちを救い出すようになったシャングリラ。
 そうして船の仲間に加わった子供たちと一緒にシャボン玉勝負。
 ヒルマンが子供たちを連れて公園に出て来て、前のぼくとハーレイが紹介されて。
(シャボン玉作りのプロは負けてはいられないもんね?)
 最初の間は、圧倒的にハーレイとぼくの勝ちだった。
 子供たちが作ったシャボン玉はプロが作るシャボン玉に敵うわけがなくて、ハーレイとぼくとはヒーローだった。とても大きなシャボン玉を作ると、ソルジャーとキャプテンはやっぱり凄いと。
 シャボン玉のプロを尊敬の眼差しで見ていた子供たち。
 ソルジャーとキャプテンが遊んでくれるというのも嬉しかったんだろう。
 何度も何度も勝負を挑まれ、ぼくとハーレイとは受けて立った。
 負けやしないと、シャボン玉作りのプロなんだからと。



 ところがどっこい、途中から参加して来たゼル。
 見た目に似合わず子供たちが好きで、いつもポケットにお菓子を忍ばせていたようなゼル。
(ポケットのお菓子、人気だったんだよ)
 子供たちにワッと囲まれる度に、ゼルは魔法を披露した。ポケットのお菓子が増えてゆく魔法。歌を歌いながらポケットをポンと軽く叩くと、お菓子が次々増えるんだ。
(ポケットの中にはビスケットが一つ…、って)
 ビスケットだったり、キャンディーだったり。中身に合わせて変わっていた歌詞。
 マントの下に隠れて見えない袋の中から、お菓子がポケットに瞬間移動。ゼルでも動かせる短い距離での瞬間移動を使った魔法で、子供たちの目には本物の魔法。
 そんな魔法を使うほどの子供好きのゼルが、敗北続きの子供たちに肩入れをしないわけがない。
 「この勝負、わしが勝たせてやるわい」って、それは大真面目に参戦して来た。
 ずっと昔はぼくとハーレイとに負けていたくせに、シャボン玉の大きさで負けてたくせに。



(勝てるわけないと思ったんだけどなあ…)
 大きなことを言って勝負に出たって、ゼルはゼル。
 シャングリラが白い鯨じゃなかった頃にも負けてた勝負に勝てやしないと高を括った。
 ハーレイもぼくも、そういうつもりで余裕の笑みを浮かべていたのに…。
(あんなの、誰も考えないから…!)
 遠い日のプロは、ゼルが加わったヒルマン率いる子供たちのチームにアッサリと負けた。
 シャボン玉の大きさでは充分に勝っていたんだけれども、その強さ。
(あれはパチンと割れるものなのに…!)
 どんなに慎重に吹いて作っても、パチンと壊れるシャボン玉。儚く割れちゃうシャボン玉。
 そういうものだと思っていたのに、壊れないのを出して来たゼル。
 ぼくとハーレイとが頑張って作った大きなシャボン玉が壊れてなくなっちゃっても、子供たちが作ったシャボン玉は割れずに浮いているんだ、ふわふわと。
 シャングリラの公園をふんわりふわふわ、人工の風に揺られてふわりふわりと。



「おい、あのシャボン玉は反則だろう!」
 ハーレイが珍しく、敬語を使わずに文句をつけた。
 キャプテンっていう立場にいるから、他の仲間が見ている場所ではゼルにも敬語を使うのに。
 そういう習慣がついているせいで、長老しかいない会議の席でもハーレイだけが敬語で話すのが普通みたいになっているのに、この時ばかりは敬語じゃなかった。
 よっぽどカチンと来てたんだろうな、割れないシャボン玉を出されて。
 ぼくだってうんと悔しかったし、ハーレイに拍手を送りたい気持ちだったけど。
 ゼルはと言えば、勝ち誇った顔でこう言い放った。
「反則も何も、こういったものは日進月歩じゃ、日頃の努力の積み重ねじゃ!」
 わしは真面目に研究したんじゃ、子供たちでもプロに勝つにはこれしか無いと。
 大きさでプロに敵わないなら、強さで勝てればいいじゃろうが!



 文句があるか、と偉そうに胸を張られたから。
 ぼくとハーレイとが実地で磨いたシャボン玉の腕を、シャボン玉の強度でパアにされたから。
「要は、割れなきゃいいってことだね?」
 これでどうだ、とサイオンを発動させちゃった、ぼく。
 残っていたシャボン玉の液を一気にシャボン玉へと変えてしまって、サイオンで補強。
「わあっ…!」
 凄い、と見上げた子供たち。
 ぼくが作ったシャボン玉。サイオン・カラーの青を纏った、幾つもの割れないシャボン玉。
 ハーレイもサイオンを乗っけてくれたから、うんと沢山、壊れないシャボン玉が公園に舞った。ぼくとハーレイとのサイオン・カラーが混じった青と緑のが。
 青と緑の虹を纏った、それは沢山の丈夫な丈夫なシャボン玉の群れが…。



「思いっ切り派手にやっちゃったっけね…」
 サイオンのせいで、つついても割れないシャボン玉。
 前のぼくが「これでおしまい」って言うまで割れずに飛んでいたっけ、公園の上を。
「思い出したか、あの騒ぎまで?」
 あれから時々、作ってくれと公園に呼ばれたろうが。
 何をやっても割れないシャボン玉をまた見せてくれと、あれが見たいと。
「うん…。ぼくとハーレイ、公園が出来た後でもシャボン玉作りのプロだったっけ…」
「そういうことだ。俺たちはとことん、プロだったのさ」
 キャプテンとソルジャーになっちまった後も、公園が出来た後になっても。
 シャングリラでシャボン玉を作るとなったら呼び出されていたぞ、ヒルマンたちに。
 子供たちが見たいと言っているから披露してくれと、プロならではの腕でよろしく頼むと。



 派手にやってと、綺麗なのを見せて、と子供たちにせがまれて、前のぼくとハーレイ。
 シャボン玉のプロは何度も公園に呼ばれて出掛けた。割れないシャボン玉を何度も作った。
 青と緑の虹を纏ったシャボン玉。サイオン・カラーの虹を映したシャボン玉。
 公園の上をふわりと飛び越え、ブリッジにまで飛ばして遊んだ。
 シャングリラを動かす舵の周りを飛び回らせたり、ブリッジの飾りよろしく舞わせたり。



 そういう遊びをやっていたっけ、と石鹸を見ながら思い出していたら。
 イチゴの香りの石鹸を見詰めて微笑んでいたら、ハーレイが「おい」と訊いてきた。
「今度はどうする?」
 お前、今度はどうするんだ?
「何を?」
「シャボン玉さ。俺とお前はシャボン玉作りのプロだったろうが」
 ずうっと昔からタッグを組んでて、シャングリラが白い鯨になった後でもプロだったんだ。
 そのプロがまたしても揃ったわけだが、シャボン玉は今度も作るのか?
「えーっと…。作るんだったら、ハーレイの家でやってみたいな」
 石鹸はいつでも手に入るけれど、今も目の前にあるんだけれど。
 パパとママとがビックリしちゃうよ、ぼくたちが庭でシャボン玉遊びを始めたら。
「そうだな、この家でやるのはなあ…」
 流石にマズイか、お前、シャボン玉に夢中な年でもないからな。
 もっと前からやっていたなら、キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーの得意技でした、と言いも出来るが、今からではなあ…。
 それに今度は割れないシャボン玉、お前の力じゃ無理だしな?
 俺だけのサイオンで作っていたなら、お前がシャボン玉遊びをしたくなったと思われるよな。
 割れないシャボン玉を作って欲しいと俺に強請ったと、十四歳にもなってるくせに、と。



 ぼくの年になってシャボン玉遊びは、いくらなんでも子供っぽいから。
 パパとママとが見ている庭では出来っこないから、今は無理。
 シャボン玉作りは当分お預け、ハーレイと結婚するまでお預け。
 結婚してからやっている方が、ぼくが大きくなっている分、子供っぽい気もするんだけれど。
(…だけど、シャボン玉、ハーレイと二人で作っていたし…)
 かまわないんだ、前のハーレイとぼくはシャボン玉作りのプロで通っていたんだから。
 遠い遠い昔に、白いシャングリラで。
 だから今度は青い地球の上で、ハーレイと二人でシャボン玉。
 割れないシャボン玉を作れる器用さは、今のぼくにはもう無いけれど。
 その分、ハーレイのサイオン・カラーのシャボン玉を二人で幾つも、幾つも空に浮かべる。
 幸せの色のシャボン玉。
 ぼくのサイオンの青が足りなくても、緑色の虹を纏った綺麗なシャボン玉。
 それを見上げて、ハーレイと二人。
 壊れない、割れないシャボン玉みたいに、いつまでも何処までもハーレイと二人。
 今度は結婚するんだから。二人一緒に、青い地球で生きてゆくんだから…。




           シャボン玉・了

※シャングリラでは、シャボン玉作りのプロだった、前のブルーとハーレイ。
 今のブルーに割れないシャボン玉は作れませんけど、きっとハーレイが作ってくれますね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








「ハーレイ、どうかした?」
「いや?」
 土曜日の昼下がり、庭で一番大きな木の下のテーブルと椅子に来てるんだけれど。
 ぼくのお気に入りの白いテーブルと椅子は、初めてのデートの思い出の場所。ハーレイが持って来てくれたキャンプ用の椅子とテーブルでお茶にしたんだ、初夏の光が眩しかった日に。
 それから夏が来て、今は秋。此処でのお茶は午後が定番になったけれども。穏やかで暖かな秋の日射しを感じながらのティータイムだけど。
(…どうしたんだろ?)
 ハーレイが急にニヤニヤし始めたから。
 どうかしたの、って訊いているのに答えないから、キョロキョロ周りを見回した。ぼくの近くに何かあるの、って。
 だけど見当たらない、ハーレイをニヤニヤさせるようなもの。
 それなのにハーレイの笑みは消えないままで、唇の辺りに残っているから。



(えーっと…)
 前のぼくの失敗談でも思い出したんだろうか、と急に心配になってきた。
 だって、悪戯心が見える微笑み。とても楽しそうにぼくを見ている気がする鳶色の瞳。こういう顔をしたくなるような何かが起こって、それでニヤニヤしてるんだから…。
(どんな失敗?)
 この状況でハーレイが思い出すような失敗だったら、ティータイム絡み。
 ハーレイの好きなコーヒーを強請って、苦くて飲めないとミルクやお砂糖を足していたこと?
 あれはホイップクリームまでがこんもり、今のぼくもやって笑われた。
 すぐに思い付くのはコーヒーに纏わる失敗だけれど、なにしろ長く生きたから。シャングリラが立派な白い鯨になってからでも、二百年は軽く生きていたから。
 ハーレイと二人でお茶を飲んだことは星の数ほど、それだけあれば他にも失敗だってする。
(あれかな、それとも、あれのことかな…?)
 遠い記憶を軽く探るだけでポロリポロリと零れて出て来る失敗談。
 ハーレイにお茶のおかわりを淹れてあげようとしたら、シュガーポットを落っことしてしまって真っ白なお砂糖をぶちまけたとか。
(シュガーポットはサイオンで守れたんだけど…)
 ミュウの紋章入りの食器はソルジャー専用、シュガーポットでもそれはおんなじ。ぼく専用でも割ったらマズイ、と慌てて守った。だけどお砂糖は守り損ねて、床一杯に散らばった。
(手が滑ってタルトが飛んでったことも…)
 ちょっと切りにくい、と力を入れたらパッキリと割れて飛んでったタルト。飛んだだけならまだいいんだけど、ハーレイの膝に落っこちた。キャプテンの制服のズボンにつけちゃった、タルトに乗ってたカスタード。



(うーん…)
 前のぼくがお茶の時間にやった失敗、思い出せば山ほどあるみたいだから、焦っていたら。
 どれをハーレイが考えてるのかが分からないから、文句も言えずに困っていたら。
(えっ?)
 ぼくの右足、何かが触った。
 すりすり、って触って撫でる感触。テーブルの下で。
 すりすり、すりすり。気のせいじゃなくて、ホントにすりすり。
(…ハーレイなの?)
 庭だとパパとママの目があるからな、って言っているくせに、触ってる?
 ぼくの右足。ズボンに覆われてしまっているけど、ふくらはぎとか。
 すりすり、すりすり、触ってくるのは止まらない。



(…ハーレイったら…!)
 ぼくの頭をよく撫でてくれる、大きな両手はテーブルの上。お茶は一休みで、組み合わされてる褐色の両手。
 すると、足。
 テーブルの下ですりすりとやってる悪戯者は誰かと言ったら、ハーレイの足。
(…すりすりだなんて…!)
 こんなアプローチは全く考えていなかった。ぼくの右足にすりすりだなんて、触るだなんて。
 さっきのニヤニヤ、これだったんだ。
 「今から触るぞ」って、「お前、こういうのが好きだろう?」って。
 確かに嫌いじゃないんだけれど…。触って貰うの、嬉しいんだけれど。
(…どうすべき?)
 ぼくからも足で触り返すか、それとも足を絡めるか。
 悪戯者の足に足を絡めて捕まえたいけど、しっかりと絡め取りたいけれど。
(でも…)
 ぼくたちがいる場所はリビングとかからよく見える庭。芝生だから遮るものも無い。
 こうしている間も、ママたちが眺めているかもしれない。ぼくたちのお茶を。
 ハーレイが足で触っているだけだったら「悪戯だな」って済ませそうだけど、ぼくまでが真似をしていたら…。
 二人で足を絡め合ったり、触り合ったりしていたら…。
(マズイよね?)
 ふざけ合いには見えそうもない。どう見ても恋人同士の戯れ。
 だけど、すりすり。
 今も止まらない、ハーレイの足。
 テーブルの下ですりすり、すりすり、ぼくの右足に擦り付けられる足。



(んーと…)
 頬っぺたが赤くなるのが分かる。だって、すりすり。テーブルの下で足をすりすり。
 こんな風に足に触れられた記憶は今のぼくには全く無い。一度も無い。
 いつも「チビにはチビの扱い方があるってな」って言われてるから、足なんか触って貰えない。足と足とが触れるチャンスなんかは無いに等しいし、現に今日のが初めてだから。
 すりすり、すりすり、ぼくの右足を撫でている足。
 ぼくが真っ赤になっているのに、意地悪なハーレイはニヤニヤしてる。
(どうすればいいの?)
 ハーレイの馬鹿、って言ってみようか、一方的に悪戯されてるんだから。
 でも、そうしたら触ってくれなくなっちゃう。
 すりすりしていた足は止まって、二度と触って貰えなくなるし…。



(もうちょっとだけ…)
 恥ずかしいけれど、とっても嬉しい。ハーレイのすりすりが嬉しくてたまらない。
 もうちょっと味わっていたいから、と苦情を言うのはやめにした。
(すりすり、って…)
 こんな感じで触って来たかな、ハーレイの足。前のハーレイの長い足。
 あんまり覚えていないけれども。
 服を着たまま、足を絡めたり触れ合わせたりなんて、滅多にしてはいなかったから。
 朝御飯の時にテーブルの下でやってたくらい?
 シャングリラの仲間たちが朝の報告だと信じ込んでいた、ソルジャーとキャプテンの朝の会食。実は大嘘、前の夜から一緒に過ごして、何食わぬ顔で朝御飯のテーブルに着いていただけ。
 そんなわけだから、名残惜しくて足を絡めてみたり、触れ合わせたり。
 朝御飯を食べ終えてしまった後には、ハーレイはブリッジに行くんだから。そうしたら、夜まで二人きりの時間はもう取れない。休憩時間に寄ってくれても、恋人同士の触れ合いは無理。
(朝御飯が済んだら、ハーレイ、いなくなっちゃうもんね…)
 それが寂しく思えた朝には、テーブルの下で足を絡めた。触れ合わせたりも何度もした。
 後は、ハーレイが戻って来た夜にサンドイッチとかを二人で食べながら。
 テーブルの下で足を絡めて、触れ合わせて、互いに微笑み合って。
 幸せだった、小さな触れ合い。
 恋人同士で過ごす時間の延長だったり、そうした時間を過ごす先触れの触れ合いだったり。



(ふふっ)
 何年ぶりだろう、こんな感覚。ハーレイの足が触れてる感覚。
 今のぼくは全く経験が無いし、前のぼくだって十五年もの長い眠りに就いていたから、こうした触れ合いは長く無かった。
(おまけに、その後、死んじゃったしね?)
 この地球の上に生まれ変わるまでの長い長い時間もカウントするなら、百年なんかじゃ済まない時間。ホントのホントに久しぶりの感覚、ハーレイの足がやってる悪戯。
 すりすり、すりすり、ぼくの右足に擦り付けられているハーレイの足。
(そう、こんな感じ…)
 前のぼくたちのテーブルの下での戯れだって、こうだった。
 ハーレイ、キスも駄目だって言っているくせに、とっても大胆。テーブルの下で足をすりすり。
 ぼくの部屋じゃなくて庭に置かれたテーブルと椅子で、隠してくれる茂みも無いのに。
 庭の芝生を隔てた向こうに、リビングかダイニングにはパパとママもきっといる筈なのに。
 だけど、すりすり。
 ハーレイの悪戯は止まらなくって、ぼくの右足をすりすり、すりすり。



(…ハーレイの足…)
 ぼくからは絡められないけれど。
 前のぼくがよくやっていたように、触り返すことも出来ないけれど。
 それでも充分幸せだよね、って懐かしい感触に浸っていたら。酔っ払っていたら…。
「ニャー」
(えっ?)
 テーブルの下でニャーって言った?
 ハッキリ聞こえた、へんてこな声。信じられないニャーという声。
 何が、って覗き込んだ、ぼく。
 身体を傾けてテーブルの下を覗き込んだら、真ん丸な青と目が合った。
「ニャー!」
(猫だったの!?)
 ぼくの右足、すりすりしている真っ白な猫。身体を擦り付けてる猫。
 ハーレイに見せて貰った写真のミーシャにそっくり、ハーレイのお母さんが飼っていたと聞いた甘えん坊のミーシャにそっくりな猫。
 ぼくの右足に触っていたのは猫だった。ハーレイじゃなくて。
 ハーレイの足だと思っていたのに、猫がすりすり。
 ぼくはすっかり騙されていた。ハーレイなんだと、ハーレイが足で悪戯しているんだと。



「酷いよ、ハーレイ!」
 今度は別の意味で真っ赤になってしまった、ぼく。
 勘違いしていた恥ずかしさのせいで、猫のすりすりで幸せに酔ってた間抜けな自分の失敗で。
 ハーレイに当たっても仕方ないのに、声を張り上げずにはいられない。
 案の定、ハーレイは素知らぬ顔で。
「何のことだ?」
 俺がお前に何をしたと言うんだ、酷いと言われる覚えは無いがな?
「ハーレイの足だと思ったのに!」
 そうだと思ってじっとしてたのに、ニャーって言った!
 猫だったなんて、あんまりだってば!
「そのようだな。お前、すっかり勘違いをして幸せそうにしていたからなあ…」
 だから黙って見てたというのに、猫だと分かったら怒るのか、お前?
「…知ってたの?」
 ぼくがハーレイの足だと勘違いしたの、ハーレイ、知ってて見ていたわけ?
「そういうことだが? 今のお前は分かりやすいんだ、何度も言うがな」
 顔にも出ていりゃ、心も見事に零れていたさ。俺の足だと、俺が触っているんだと。
 それでバレない筈がないだろ、お前が何を考えてたのか。



 馬鹿め、って鼻で笑われた。
 ぼくの心は筒抜けなんだと、そうでなくても顔を見てれば直ぐに分かると。
 じゃあ、ハーレイのニヤニヤは…。
 ぼくに悪戯しようとしたんでなければ、あの時、ニヤニヤしてたのは…。
「ん? あれか?」
 あれはな、とハーレイがテーブルの下を指差した。真っ白な猫がいる場所を。
 猫はすりすりをやめてしまって、チョコンと座っているんだけれど。ぼくの右足の側に行儀よく座って、ぼくとハーレイとを交互に見上げているんだけれど。
「お前の後ろをこいつが通って行ったのさ。向こうの方から歩いて来てな」
 そしてこの下に入った、と。
「えーっ!」
 それじゃ、ハーレイがニヤニヤしてたの、猫が入るのを見ていたから?
 ぼくの足にすりすりするかどうかは、別にどうでも良かったの?
「そうなるなあ…。まさかお前が勘違いするとも思わないしな?」
 俺の足だと思い込むとか、それで真っ赤になっちまうとか。
 うん、黙っていたのは正解だったな、面白いお前が見られたからな。
 しかし、お前も触り返そうとしなくて正解だったぞ、猫をビックリさせちまう。
 人間の足でいきなり触られてみろ。大人しい猫なら怖がるだけだが、気の強い猫は噛み付くぞ。でなきゃ思い切り引っ掻くとかな。



 触り返さなくて良かったな、と言ってからハーレイはテーブルの下に向かって呼んだ。
「おい、ミーシャ!」
「ニャア!」
 そう返事をして、ハーレイの膝の上にピョンと乗っかった猫。
 膝の上だから、もうテーブルの下を覗かなくっても、真っ白な姿が見えるんだけれど。
「ハーレイ、その猫…。ミーシャなの?」
 返事してたよ、それにハーレイの膝に乗っかってるよ?
「さてな? 俺は適当に呼んだだけだが」
 猫の名前はあまり知らんし、ミーシャでいいかと声を掛けただけだ。
 俺には一番馴染みの名前だ、親しみをこめて呼んでやるならミーシャだろ?
 なかなかに人懐っこい猫だな、こいつは。
 もっとも、俺も動物ってヤツには好かれる方ではあるんだが…。猫も犬もな。



 公園なんかでのんびりしてたら、他の人が連れて来た犬や猫に懐かれてしまうらしいハーレイ。
 猫なら、ぼくがさっきからされてたみたいに足にすりすり。膝に乗っかることもしばしば。
 犬の方だと「遊んでくれ」って言わんばかりに尻尾をパタパタ、期待に満ちた顔なんだって。
 もちろん、ハーレイは犬に頼まれたら遊んであげる。飼い主さんから借りたボールで犬と仲良くキャッチボールとか、フリスビーを投げてあげるとか。
(前のハーレイは猫とも犬とも、全く遊んでいなかったけれど…)
 シャングリラにはどちらもいなかったから。ペットの類はナキネズミしかいなかったから。
 だけど、如何にもハーレイらしいと思ってしまうのは何故だろう?
 猫にも犬にも好かれるハーレイ、何もしなくても好かれるハーレイ。食べ物なんか全く持たずに公園のベンチに座っていたって、猫が寄って来て膝に座って、犬は遊んで貰いたがって。
 そうしてハーレイは一緒に遊ぶ。猫とは流石に無理だろうけど、犬とはボールやフリスビーで。
 なんだか、そういう姿が似合う。前のハーレイがやっているのを一度も見てはいないのに。
(ハーレイ、大きくて優しいからかな?)
 シャングリラの子供たちが懐いたように、動物だって懐くんだろうか。
 前のぼくが安心して側にいたのと同じで、ハーレイの側だと動物も安心出来るんだろうか。
 さっき来たばかりの白い猫だって、ハーレイの膝に乗っかってるし…。
(この辺りの猫じゃないんだけどな…)
 ぼくは見かけたことがないから。
 人懐っこいことは分かるけれども、それでも膝に乗っかるだなんて、ハーレイを信用してなきゃ出来ない。捕まえられてしまうってこともあるから、悪戯されることもあるから。



(今のハーレイ、ホントに動物に好かれるんだ…)
 食うか、ってケーキのスポンジを手のひらに乗っけてあげてるハーレイ。
 美味しそうに食べてる真っ白な猫。
「ハーレイ、猫にケーキ…。食べさせていいの?」
「少しくらいならな」
 人間の食い物も欲しがるからなあ、こういったペットは人間と同じつもりだからな。
 たまにはこうしたおやつもいいのさ、これが普通になったら駄目だが。
「そういうものなの?」
「ああ。食ったら身体に悪いってものさえ食べさせなきゃな」
 おふくろがミーシャを飼ってたからなあ、猫の食い物なら俺にも分かる。人間様用のケーキでもたまにはいいんだ、おふくろも食わせてやっていたしな。
 しかし、この猫…。本当にミーシャにそっくりだぞ。甘えん坊な所もそっくりだ。
「いいな、ハーレイの膝の上…」
「こいつをどけてお前が座るか?」
 そうするんなら、ミーシャには下りて貰うことにするが。
「ううん、いい…」
「お父さんたちの目があるってか?」
 俺の膝の上にお前が座っていたなら、そいつは確かに何処か変だと思われそうだが…。
 その割に、お前、盛大に無視してしまっていたがな。
 お前の足に触っているのは俺だと思って、そりゃあウットリと幸せそうに赤い顔して…。
「言わないでよ…!」
 ホントに間違えたんだから!
 ハーレイが最初にニヤニヤしちゃってたせいで、余計にハーレイかと思ったんだよ…!



 恥ずかしすぎる、ぼくの勘違い。
 当分の間はハーレイにネタにされそうだよね、って思うけれども仕方ない。
 真っ白な猫が足をすりすり、それだけのことで舞い上がってしまった馬鹿なぼくだから。自分で勝手に勘違いをして、一人で真っ赤になってたんだから。
 でも…。
(ハーレイ、猫には優しいんだから…!)
 初対面の筈の、真っ白な猫。ハーレイと初めて会った筈の猫。すっかり懐いて膝の上。
 いい子だな、ってハーレイが頭を大きな手で撫でて。
 両腕でヒョイと抱っこしてやったら、猫はハーレイの顔をペロリと舐めた。
「こら、くすぐったいぞ…!」
 ペロペロ、ペロペロ、猫が小さな舌で何度も舐めているから。
「ハーレイ、顔に生クリームでもくっついてる?」
 美味しそうにしてるよ、ハーレイの顔は食べ物じゃないのに。
「さてなあ、匂いがするかもな?」
 俺はケーキを食ってたんだし…。
 おいおい、ミーシャ!



(あっ…!)
 ハーレイの唇をペロリと舐めちゃった、猫。
 それは美味しそうに、嬉しそうにペロリと、抱っこされたままで唇をペロリと。
(ぼくでもキスが出来ないのに…!)
 あろうことか、猫に先を越された。それも普段は見かけない猫に。
 ハーレイの唇を猫がペロリと、ぼくは触れるだけのキスさえ許して貰えないのにペロリと…。
 酷い、と思わず睨んじゃったら、ハーレイがぼくの方を見て。
「ん? お前、猫にも嫉妬するのか?」
 うんと可愛い猫だからなあ、ついつい嫉妬をしちまうってか?
「だって…!」
 ハーレイの唇を舐めたよ、その猫!
 ぼくはキスさえして貰えないのに、猫がハーレイの唇を舐めてるだなんて…!
「美味そうな匂いがするってだけだと思うがな?」
 ケーキを食ってた唇なんだし、ケーキの匂いも味もするだろう。
 さっきスポンジを食わせて貰って、もっと食いたくなったってことさ。
 猫にまで嫉妬していないで、だ。
 お前も心を広く持たんといけないぞ。でないとこの先、お前は嫉妬で大変だ。
 俺と一緒に公園に行けば、犬だの猫だの、いくらでも寄って来るんだからなあ、遊ぼうとな。



(うー…)
 ハーレイとキャッチボールをしたがる犬だの、フリスビーで遊んでほしがる犬なら嫉妬しないで済むけれど。足にすりすりとか、膝に乗っかる猫にも嫉妬はしないけれども。
 今の状況はぼくにはキツくて、唇を尖らせて唸るしかない。
(いくらケーキの匂いがしていて、味が残っているって言っても…!)
 ペロペロ、ペロペロ。
 ぼくには遠い記憶しかない、ハーレイの唇を猫がペロペロ。
 温かくて優しい唇だったとしか思い出せない、あの唇を猫が独占しているだなんて…!
 でも、ハーレイは構っちゃいない。
 猫を両腕で抱いて御機嫌、ぼくにチラリと視線を寄越して。
「んー、いい子だな」
 チュッとキスまでしてくれた。ぼくにではなくて、真っ白な猫に。
 それも唇に、猫に唇というものがあるなら、その辺りに。



(酷い…!)
 ぼくには絶対にくれる気も無い、唇へのキス。猫は貰えるらしいキス。
 初対面のくせに、今日、ハーレイと出会ったばかりの通りすがりの猫のくせに。
(抱っこして貰って、おまけにキス…!)
 ハーレイに唇にキスして貰った猫も大概、腹立たしいけれど。
 もっと酷いのはキスを贈ったハーレイの方で、ぼくにはキスをくれないハーレイ。
 キスさえ貰えない恋人の前で猫とキスして御満悦なんて、いくらなんでもあんまりだ。
(嫉妬するなって言われたって、絶対、無理だから!)
 これで嫉妬しない人がいたなら、それこそお目にかかりたい。恋人を猫に盗られちゃっても嫉妬しないで、広い心で見守れる人がいるのなら。
 だけどハーレイはニヤニヤしてる。猫が現れたらしい時と同じニヤニヤ、おんなじ表情。
 こいつを追っ払ってお前が来るか、って。
 キスは無理でも抱っこくらいはしてやれるが、って。



(そういう抱っこじゃないんだよ!)
 二階のぼくの部屋ならともかく、此処は庭。外に置かれたテーブルと椅子。
 家の中にいるパパやママの視線を遮ってくれる茂みも植え込みも無くて、丸見えの芝生。こんな所で抱っこは出来ない。恋人ならではの抱っこは出来ない。
 パパとママに見られても平気な抱っこって、高い高いとか、そういうの。
 力自慢のハーレイがぼくの身体を持ち上げるだけの、小さい子供にするような抱っこ。
 ぼくはそういうのは求めていない。抱き締めてくれる抱っこでなくっちゃ意味なんか無い。
 なのに…。
「よしよし、お前は温かいなあ…」
 毛皮も実にいい手触りだ、とハーレイがギュウッと抱き締めた猫。
 ぼくの部屋だったら、ぼくが甘えている筈の胸に。ぼくが抱き締めて貰って甘える指定席に。
(猫のくせに…!)
 ハーレイとキスが出来るどころか、広い胸まで持って行かれた。ぼくの居場所まで奪われた。
 庭にフラリと現れた猫に、通りすがりの見かけない猫に。
(パパとママも見ている所でキスして、抱っこ…)
 今のぼくには出来っこない。逆立ちしたって無理な相談、どうにもならない。
(猫だってキスして貰えるのに…!)
 それも唇に。チビのままのぼくが大きく育たない限り、唇へのキスは貰えないのに。
 後から来た猫に先を越されて、ハーレイのキスを盗られてしまった。唇へのキスをアッサリと。



 負けちゃった、ってドン底の、ぼく。
 もう嫉妬するだけのエネルギーも失くして、ただガックリと項垂れてるだけ。
 それでもハーレイと猫から目を離せなくて、上目遣いで恨めし気に睨んでいたんだけれど。
「ミーシャー!」
「ミーシャ、どこー!?」
 庭の向こうから聞こえて来た声。
 通りに面した生垣の向こう、ぼくも知ってるご近所さんの声と、いつもは聞かない子供の声。
「ミーシャー!」
 猫の耳がピクンと小さく動いて、聞き耳を立ててるみたいだから。
 ハーレイは「こいつのことかな」と猫を優しく両腕で抱えて、生垣の方へ歩いて行った。
 そうして丁度通り掛かった、子供連れのおじさんを呼び止めて。
「探しておられるミーシャというのは、この猫ですか?」
「ああ、そうです。飛び出して行ってしまいましてね」
 その内に帰ってくるだろう、と言っていたんですが、戻って来なくて…。
 ご迷惑をお掛けしませんでしたか、孫の猫が。
「いいえ、お行儀のいい子でしたよ。…ミーシャ、お迎えが来て良かったな」
 帰ったら御飯を貰うんだぞ、とハーレイが生垣越しに猫を渡して、ご近所さんが抱き取った。
 それから暫く、立ち話。
 餌はケーキのスポンジを少しだけしか食べていないから、お腹が空いてる筈だとか。
 生クリームの匂いが気に入っていたから、そういう風味の餌を喜ぶ筈だとか。
 ぼくは見事に放っておかれて、またハーレイを持って行かれた。猫のミーシャとご近所さんに。
 話に混ざろうと思えば出来たけれども、エネルギーが切れていたんだもの。
 下手に混ざったら、ミーシャに嫉妬して怒ってしまって何を言い出すか分からないんだもの…。



 ハーレイがご近所さんに返したミーシャは、お孫さんと一緒に遊びに来ていた猫だった。
 真っ白だった猫の名前はホントにミーシャ。正真正銘、本物のミーシャ。
 抱っこして連れて帰られたけれど。
 ぼくが散々な目に遭ってしまった、庭でのお茶も終わったけれど。
「うー…」
 二階のぼくの部屋に戻って、夕食までの間は二人きり。
 テーブルにお茶と軽いお菓子は置いてあるけど、夕食前のこの時間にはママはお茶のおかわりを持っては来ない。だからホントにハーレイと二人、扉の向こうを気にしなくてもいいけれど。
 いつもだったら甘え放題の時間だけれども、今日はなんだか…。
「膨れるな、こら」
 相手はホントに猫だったろうが。
 お前、いつまで膨れているんだ、ミーシャはとっくに帰っちまったぞ。
「…でも、猫に負けた…」
 ハーレイのキスをミーシャが持って行っちゃったんだよ、ぼくよりも先に。
 唇へのキス、ぼくは絶対、貰えないのに…!



 ミーシャに負けた、と肩を落とすぼくにハーレイが笑う。
 最初は嬉しかったんだろ、って。
 ミーシャが家の庭に現れた時は、とっても嬉しそうにしてたじゃないか、って。
(それは間違いないんだけれど…!)
 ぼくが幸せだった理由はミーシャのすりすり、足にすりすり。
 こんな感触は何年ぶりに味わったろう、って、ハーレイの足だと思って頬を染めただけ。
 テーブルの下で大胆に触れてくる足がとても嬉しくて、幸せに酔っていただけで…。
「あれは間違えただけだから!」
 猫だと知ってたら喜んでいないし、ハーレイがニヤニヤしてたからだよ!
 だからハーレイが足で悪戯してると思って、嬉しくなってただけなんだよ…!



 ハーレイと間違えただけなんだから、って殴り掛かった。
 猫のミーシャを抱っこしてた胸に、広い胸に拳でポカポカと。
「こらこら、まだ猫に嫉妬してるのか?」
「嫉妬だってするよ、ハーレイの意地悪!」
 ぼくの勘違いだって知っていたくせに、笑って見てたし!
 それにミーシャに優しくしちゃって、ぼくなんか放って遊んでたくせに…!
 バカバカバカ、って胸を拳で何度も叩いた。
 ぼくの拳で殴ったくらいじゃダメージなんかは食らわない胸を、逞しい胸を何度も、何度も。
 意地悪だけれど大好きな恋人、猫にはうんと優しい恋人。
 ぼくにはキスしてくれなくっても、猫とはキスする酷い恋人。
 この次は顔を舐めてやろうか、それはキスとは言わないから。猫のミーシャもやっていたから。
 「ハーレイ、クリームくっついてるよ」って。
 頬っぺたをペロリと、舌でペロリと。
 だけど唇だけは、きっとガードをされちゃうんだろう。
 ホントにクリームがくっついていても、「キスは駄目だ」と許してくれないハーレイだから…。





           意地悪な恋人・了

※てっきりハーレイの悪戯なんだ、と一人でドキドキしていたブルー。嬉しくもなって。
 けれど正体は猫だったわけで、それをニヤニヤ見ていたハーレイ。意地悪すぎ…?
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









Copyright ©  -- シャン学アーカイブ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]