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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

「ハーレイ、どうかした?」
「いや?」
 土曜日の昼下がり、庭で一番大きな木の下のテーブルと椅子に来てるんだけれど。
 ぼくのお気に入りの白いテーブルと椅子は、初めてのデートの思い出の場所。ハーレイが持って来てくれたキャンプ用の椅子とテーブルでお茶にしたんだ、初夏の光が眩しかった日に。
 それから夏が来て、今は秋。此処でのお茶は午後が定番になったけれども。穏やかで暖かな秋の日射しを感じながらのティータイムだけど。
(…どうしたんだろ?)
 ハーレイが急にニヤニヤし始めたから。
 どうかしたの、って訊いているのに答えないから、キョロキョロ周りを見回した。ぼくの近くに何かあるの、って。
 だけど見当たらない、ハーレイをニヤニヤさせるようなもの。
 それなのにハーレイの笑みは消えないままで、唇の辺りに残っているから。



(えーっと…)
 前のぼくの失敗談でも思い出したんだろうか、と急に心配になってきた。
 だって、悪戯心が見える微笑み。とても楽しそうにぼくを見ている気がする鳶色の瞳。こういう顔をしたくなるような何かが起こって、それでニヤニヤしてるんだから…。
(どんな失敗?)
 この状況でハーレイが思い出すような失敗だったら、ティータイム絡み。
 ハーレイの好きなコーヒーを強請って、苦くて飲めないとミルクやお砂糖を足していたこと?
 あれはホイップクリームまでがこんもり、今のぼくもやって笑われた。
 すぐに思い付くのはコーヒーに纏わる失敗だけれど、なにしろ長く生きたから。シャングリラが立派な白い鯨になってからでも、二百年は軽く生きていたから。
 ハーレイと二人でお茶を飲んだことは星の数ほど、それだけあれば他にも失敗だってする。
(あれかな、それとも、あれのことかな…?)
 遠い記憶を軽く探るだけでポロリポロリと零れて出て来る失敗談。
 ハーレイにお茶のおかわりを淹れてあげようとしたら、シュガーポットを落っことしてしまって真っ白なお砂糖をぶちまけたとか。
(シュガーポットはサイオンで守れたんだけど…)
 ミュウの紋章入りの食器はソルジャー専用、シュガーポットでもそれはおんなじ。ぼく専用でも割ったらマズイ、と慌てて守った。だけどお砂糖は守り損ねて、床一杯に散らばった。
(手が滑ってタルトが飛んでったことも…)
 ちょっと切りにくい、と力を入れたらパッキリと割れて飛んでったタルト。飛んだだけならまだいいんだけど、ハーレイの膝に落っこちた。キャプテンの制服のズボンにつけちゃった、タルトに乗ってたカスタード。



(うーん…)
 前のぼくがお茶の時間にやった失敗、思い出せば山ほどあるみたいだから、焦っていたら。
 どれをハーレイが考えてるのかが分からないから、文句も言えずに困っていたら。
(えっ?)
 ぼくの右足、何かが触った。
 すりすり、って触って撫でる感触。テーブルの下で。
 すりすり、すりすり。気のせいじゃなくて、ホントにすりすり。
(…ハーレイなの?)
 庭だとパパとママの目があるからな、って言っているくせに、触ってる?
 ぼくの右足。ズボンに覆われてしまっているけど、ふくらはぎとか。
 すりすり、すりすり、触ってくるのは止まらない。



(…ハーレイったら…!)
 ぼくの頭をよく撫でてくれる、大きな両手はテーブルの上。お茶は一休みで、組み合わされてる褐色の両手。
 すると、足。
 テーブルの下ですりすりとやってる悪戯者は誰かと言ったら、ハーレイの足。
(…すりすりだなんて…!)
 こんなアプローチは全く考えていなかった。ぼくの右足にすりすりだなんて、触るだなんて。
 さっきのニヤニヤ、これだったんだ。
 「今から触るぞ」って、「お前、こういうのが好きだろう?」って。
 確かに嫌いじゃないんだけれど…。触って貰うの、嬉しいんだけれど。
(…どうすべき?)
 ぼくからも足で触り返すか、それとも足を絡めるか。
 悪戯者の足に足を絡めて捕まえたいけど、しっかりと絡め取りたいけれど。
(でも…)
 ぼくたちがいる場所はリビングとかからよく見える庭。芝生だから遮るものも無い。
 こうしている間も、ママたちが眺めているかもしれない。ぼくたちのお茶を。
 ハーレイが足で触っているだけだったら「悪戯だな」って済ませそうだけど、ぼくまでが真似をしていたら…。
 二人で足を絡め合ったり、触り合ったりしていたら…。
(マズイよね?)
 ふざけ合いには見えそうもない。どう見ても恋人同士の戯れ。
 だけど、すりすり。
 今も止まらない、ハーレイの足。
 テーブルの下ですりすり、すりすり、ぼくの右足に擦り付けられる足。



(んーと…)
 頬っぺたが赤くなるのが分かる。だって、すりすり。テーブルの下で足をすりすり。
 こんな風に足に触れられた記憶は今のぼくには全く無い。一度も無い。
 いつも「チビにはチビの扱い方があるってな」って言われてるから、足なんか触って貰えない。足と足とが触れるチャンスなんかは無いに等しいし、現に今日のが初めてだから。
 すりすり、すりすり、ぼくの右足を撫でている足。
 ぼくが真っ赤になっているのに、意地悪なハーレイはニヤニヤしてる。
(どうすればいいの?)
 ハーレイの馬鹿、って言ってみようか、一方的に悪戯されてるんだから。
 でも、そうしたら触ってくれなくなっちゃう。
 すりすりしていた足は止まって、二度と触って貰えなくなるし…。



(もうちょっとだけ…)
 恥ずかしいけれど、とっても嬉しい。ハーレイのすりすりが嬉しくてたまらない。
 もうちょっと味わっていたいから、と苦情を言うのはやめにした。
(すりすり、って…)
 こんな感じで触って来たかな、ハーレイの足。前のハーレイの長い足。
 あんまり覚えていないけれども。
 服を着たまま、足を絡めたり触れ合わせたりなんて、滅多にしてはいなかったから。
 朝御飯の時にテーブルの下でやってたくらい?
 シャングリラの仲間たちが朝の報告だと信じ込んでいた、ソルジャーとキャプテンの朝の会食。実は大嘘、前の夜から一緒に過ごして、何食わぬ顔で朝御飯のテーブルに着いていただけ。
 そんなわけだから、名残惜しくて足を絡めてみたり、触れ合わせたり。
 朝御飯を食べ終えてしまった後には、ハーレイはブリッジに行くんだから。そうしたら、夜まで二人きりの時間はもう取れない。休憩時間に寄ってくれても、恋人同士の触れ合いは無理。
(朝御飯が済んだら、ハーレイ、いなくなっちゃうもんね…)
 それが寂しく思えた朝には、テーブルの下で足を絡めた。触れ合わせたりも何度もした。
 後は、ハーレイが戻って来た夜にサンドイッチとかを二人で食べながら。
 テーブルの下で足を絡めて、触れ合わせて、互いに微笑み合って。
 幸せだった、小さな触れ合い。
 恋人同士で過ごす時間の延長だったり、そうした時間を過ごす先触れの触れ合いだったり。



(ふふっ)
 何年ぶりだろう、こんな感覚。ハーレイの足が触れてる感覚。
 今のぼくは全く経験が無いし、前のぼくだって十五年もの長い眠りに就いていたから、こうした触れ合いは長く無かった。
(おまけに、その後、死んじゃったしね?)
 この地球の上に生まれ変わるまでの長い長い時間もカウントするなら、百年なんかじゃ済まない時間。ホントのホントに久しぶりの感覚、ハーレイの足がやってる悪戯。
 すりすり、すりすり、ぼくの右足に擦り付けられているハーレイの足。
(そう、こんな感じ…)
 前のぼくたちのテーブルの下での戯れだって、こうだった。
 ハーレイ、キスも駄目だって言っているくせに、とっても大胆。テーブルの下で足をすりすり。
 ぼくの部屋じゃなくて庭に置かれたテーブルと椅子で、隠してくれる茂みも無いのに。
 庭の芝生を隔てた向こうに、リビングかダイニングにはパパとママもきっといる筈なのに。
 だけど、すりすり。
 ハーレイの悪戯は止まらなくって、ぼくの右足をすりすり、すりすり。



(…ハーレイの足…)
 ぼくからは絡められないけれど。
 前のぼくがよくやっていたように、触り返すことも出来ないけれど。
 それでも充分幸せだよね、って懐かしい感触に浸っていたら。酔っ払っていたら…。
「ニャー」
(えっ?)
 テーブルの下でニャーって言った?
 ハッキリ聞こえた、へんてこな声。信じられないニャーという声。
 何が、って覗き込んだ、ぼく。
 身体を傾けてテーブルの下を覗き込んだら、真ん丸な青と目が合った。
「ニャー!」
(猫だったの!?)
 ぼくの右足、すりすりしている真っ白な猫。身体を擦り付けてる猫。
 ハーレイに見せて貰った写真のミーシャにそっくり、ハーレイのお母さんが飼っていたと聞いた甘えん坊のミーシャにそっくりな猫。
 ぼくの右足に触っていたのは猫だった。ハーレイじゃなくて。
 ハーレイの足だと思っていたのに、猫がすりすり。
 ぼくはすっかり騙されていた。ハーレイなんだと、ハーレイが足で悪戯しているんだと。



「酷いよ、ハーレイ!」
 今度は別の意味で真っ赤になってしまった、ぼく。
 勘違いしていた恥ずかしさのせいで、猫のすりすりで幸せに酔ってた間抜けな自分の失敗で。
 ハーレイに当たっても仕方ないのに、声を張り上げずにはいられない。
 案の定、ハーレイは素知らぬ顔で。
「何のことだ?」
 俺がお前に何をしたと言うんだ、酷いと言われる覚えは無いがな?
「ハーレイの足だと思ったのに!」
 そうだと思ってじっとしてたのに、ニャーって言った!
 猫だったなんて、あんまりだってば!
「そのようだな。お前、すっかり勘違いをして幸せそうにしていたからなあ…」
 だから黙って見てたというのに、猫だと分かったら怒るのか、お前?
「…知ってたの?」
 ぼくがハーレイの足だと勘違いしたの、ハーレイ、知ってて見ていたわけ?
「そういうことだが? 今のお前は分かりやすいんだ、何度も言うがな」
 顔にも出ていりゃ、心も見事に零れていたさ。俺の足だと、俺が触っているんだと。
 それでバレない筈がないだろ、お前が何を考えてたのか。



 馬鹿め、って鼻で笑われた。
 ぼくの心は筒抜けなんだと、そうでなくても顔を見てれば直ぐに分かると。
 じゃあ、ハーレイのニヤニヤは…。
 ぼくに悪戯しようとしたんでなければ、あの時、ニヤニヤしてたのは…。
「ん? あれか?」
 あれはな、とハーレイがテーブルの下を指差した。真っ白な猫がいる場所を。
 猫はすりすりをやめてしまって、チョコンと座っているんだけれど。ぼくの右足の側に行儀よく座って、ぼくとハーレイとを交互に見上げているんだけれど。
「お前の後ろをこいつが通って行ったのさ。向こうの方から歩いて来てな」
 そしてこの下に入った、と。
「えーっ!」
 それじゃ、ハーレイがニヤニヤしてたの、猫が入るのを見ていたから?
 ぼくの足にすりすりするかどうかは、別にどうでも良かったの?
「そうなるなあ…。まさかお前が勘違いするとも思わないしな?」
 俺の足だと思い込むとか、それで真っ赤になっちまうとか。
 うん、黙っていたのは正解だったな、面白いお前が見られたからな。
 しかし、お前も触り返そうとしなくて正解だったぞ、猫をビックリさせちまう。
 人間の足でいきなり触られてみろ。大人しい猫なら怖がるだけだが、気の強い猫は噛み付くぞ。でなきゃ思い切り引っ掻くとかな。



 触り返さなくて良かったな、と言ってからハーレイはテーブルの下に向かって呼んだ。
「おい、ミーシャ!」
「ニャア!」
 そう返事をして、ハーレイの膝の上にピョンと乗っかった猫。
 膝の上だから、もうテーブルの下を覗かなくっても、真っ白な姿が見えるんだけれど。
「ハーレイ、その猫…。ミーシャなの?」
 返事してたよ、それにハーレイの膝に乗っかってるよ?
「さてな? 俺は適当に呼んだだけだが」
 猫の名前はあまり知らんし、ミーシャでいいかと声を掛けただけだ。
 俺には一番馴染みの名前だ、親しみをこめて呼んでやるならミーシャだろ?
 なかなかに人懐っこい猫だな、こいつは。
 もっとも、俺も動物ってヤツには好かれる方ではあるんだが…。猫も犬もな。



 公園なんかでのんびりしてたら、他の人が連れて来た犬や猫に懐かれてしまうらしいハーレイ。
 猫なら、ぼくがさっきからされてたみたいに足にすりすり。膝に乗っかることもしばしば。
 犬の方だと「遊んでくれ」って言わんばかりに尻尾をパタパタ、期待に満ちた顔なんだって。
 もちろん、ハーレイは犬に頼まれたら遊んであげる。飼い主さんから借りたボールで犬と仲良くキャッチボールとか、フリスビーを投げてあげるとか。
(前のハーレイは猫とも犬とも、全く遊んでいなかったけれど…)
 シャングリラにはどちらもいなかったから。ペットの類はナキネズミしかいなかったから。
 だけど、如何にもハーレイらしいと思ってしまうのは何故だろう?
 猫にも犬にも好かれるハーレイ、何もしなくても好かれるハーレイ。食べ物なんか全く持たずに公園のベンチに座っていたって、猫が寄って来て膝に座って、犬は遊んで貰いたがって。
 そうしてハーレイは一緒に遊ぶ。猫とは流石に無理だろうけど、犬とはボールやフリスビーで。
 なんだか、そういう姿が似合う。前のハーレイがやっているのを一度も見てはいないのに。
(ハーレイ、大きくて優しいからかな?)
 シャングリラの子供たちが懐いたように、動物だって懐くんだろうか。
 前のぼくが安心して側にいたのと同じで、ハーレイの側だと動物も安心出来るんだろうか。
 さっき来たばかりの白い猫だって、ハーレイの膝に乗っかってるし…。
(この辺りの猫じゃないんだけどな…)
 ぼくは見かけたことがないから。
 人懐っこいことは分かるけれども、それでも膝に乗っかるだなんて、ハーレイを信用してなきゃ出来ない。捕まえられてしまうってこともあるから、悪戯されることもあるから。



(今のハーレイ、ホントに動物に好かれるんだ…)
 食うか、ってケーキのスポンジを手のひらに乗っけてあげてるハーレイ。
 美味しそうに食べてる真っ白な猫。
「ハーレイ、猫にケーキ…。食べさせていいの?」
「少しくらいならな」
 人間の食い物も欲しがるからなあ、こういったペットは人間と同じつもりだからな。
 たまにはこうしたおやつもいいのさ、これが普通になったら駄目だが。
「そういうものなの?」
「ああ。食ったら身体に悪いってものさえ食べさせなきゃな」
 おふくろがミーシャを飼ってたからなあ、猫の食い物なら俺にも分かる。人間様用のケーキでもたまにはいいんだ、おふくろも食わせてやっていたしな。
 しかし、この猫…。本当にミーシャにそっくりだぞ。甘えん坊な所もそっくりだ。
「いいな、ハーレイの膝の上…」
「こいつをどけてお前が座るか?」
 そうするんなら、ミーシャには下りて貰うことにするが。
「ううん、いい…」
「お父さんたちの目があるってか?」
 俺の膝の上にお前が座っていたなら、そいつは確かに何処か変だと思われそうだが…。
 その割に、お前、盛大に無視してしまっていたがな。
 お前の足に触っているのは俺だと思って、そりゃあウットリと幸せそうに赤い顔して…。
「言わないでよ…!」
 ホントに間違えたんだから!
 ハーレイが最初にニヤニヤしちゃってたせいで、余計にハーレイかと思ったんだよ…!



 恥ずかしすぎる、ぼくの勘違い。
 当分の間はハーレイにネタにされそうだよね、って思うけれども仕方ない。
 真っ白な猫が足をすりすり、それだけのことで舞い上がってしまった馬鹿なぼくだから。自分で勝手に勘違いをして、一人で真っ赤になってたんだから。
 でも…。
(ハーレイ、猫には優しいんだから…!)
 初対面の筈の、真っ白な猫。ハーレイと初めて会った筈の猫。すっかり懐いて膝の上。
 いい子だな、ってハーレイが頭を大きな手で撫でて。
 両腕でヒョイと抱っこしてやったら、猫はハーレイの顔をペロリと舐めた。
「こら、くすぐったいぞ…!」
 ペロペロ、ペロペロ、猫が小さな舌で何度も舐めているから。
「ハーレイ、顔に生クリームでもくっついてる?」
 美味しそうにしてるよ、ハーレイの顔は食べ物じゃないのに。
「さてなあ、匂いがするかもな?」
 俺はケーキを食ってたんだし…。
 おいおい、ミーシャ!



(あっ…!)
 ハーレイの唇をペロリと舐めちゃった、猫。
 それは美味しそうに、嬉しそうにペロリと、抱っこされたままで唇をペロリと。
(ぼくでもキスが出来ないのに…!)
 あろうことか、猫に先を越された。それも普段は見かけない猫に。
 ハーレイの唇を猫がペロリと、ぼくは触れるだけのキスさえ許して貰えないのにペロリと…。
 酷い、と思わず睨んじゃったら、ハーレイがぼくの方を見て。
「ん? お前、猫にも嫉妬するのか?」
 うんと可愛い猫だからなあ、ついつい嫉妬をしちまうってか?
「だって…!」
 ハーレイの唇を舐めたよ、その猫!
 ぼくはキスさえして貰えないのに、猫がハーレイの唇を舐めてるだなんて…!
「美味そうな匂いがするってだけだと思うがな?」
 ケーキを食ってた唇なんだし、ケーキの匂いも味もするだろう。
 さっきスポンジを食わせて貰って、もっと食いたくなったってことさ。
 猫にまで嫉妬していないで、だ。
 お前も心を広く持たんといけないぞ。でないとこの先、お前は嫉妬で大変だ。
 俺と一緒に公園に行けば、犬だの猫だの、いくらでも寄って来るんだからなあ、遊ぼうとな。



(うー…)
 ハーレイとキャッチボールをしたがる犬だの、フリスビーで遊んでほしがる犬なら嫉妬しないで済むけれど。足にすりすりとか、膝に乗っかる猫にも嫉妬はしないけれども。
 今の状況はぼくにはキツくて、唇を尖らせて唸るしかない。
(いくらケーキの匂いがしていて、味が残っているって言っても…!)
 ペロペロ、ペロペロ。
 ぼくには遠い記憶しかない、ハーレイの唇を猫がペロペロ。
 温かくて優しい唇だったとしか思い出せない、あの唇を猫が独占しているだなんて…!
 でも、ハーレイは構っちゃいない。
 猫を両腕で抱いて御機嫌、ぼくにチラリと視線を寄越して。
「んー、いい子だな」
 チュッとキスまでしてくれた。ぼくにではなくて、真っ白な猫に。
 それも唇に、猫に唇というものがあるなら、その辺りに。



(酷い…!)
 ぼくには絶対にくれる気も無い、唇へのキス。猫は貰えるらしいキス。
 初対面のくせに、今日、ハーレイと出会ったばかりの通りすがりの猫のくせに。
(抱っこして貰って、おまけにキス…!)
 ハーレイに唇にキスして貰った猫も大概、腹立たしいけれど。
 もっと酷いのはキスを贈ったハーレイの方で、ぼくにはキスをくれないハーレイ。
 キスさえ貰えない恋人の前で猫とキスして御満悦なんて、いくらなんでもあんまりだ。
(嫉妬するなって言われたって、絶対、無理だから!)
 これで嫉妬しない人がいたなら、それこそお目にかかりたい。恋人を猫に盗られちゃっても嫉妬しないで、広い心で見守れる人がいるのなら。
 だけどハーレイはニヤニヤしてる。猫が現れたらしい時と同じニヤニヤ、おんなじ表情。
 こいつを追っ払ってお前が来るか、って。
 キスは無理でも抱っこくらいはしてやれるが、って。



(そういう抱っこじゃないんだよ!)
 二階のぼくの部屋ならともかく、此処は庭。外に置かれたテーブルと椅子。
 家の中にいるパパやママの視線を遮ってくれる茂みも植え込みも無くて、丸見えの芝生。こんな所で抱っこは出来ない。恋人ならではの抱っこは出来ない。
 パパとママに見られても平気な抱っこって、高い高いとか、そういうの。
 力自慢のハーレイがぼくの身体を持ち上げるだけの、小さい子供にするような抱っこ。
 ぼくはそういうのは求めていない。抱き締めてくれる抱っこでなくっちゃ意味なんか無い。
 なのに…。
「よしよし、お前は温かいなあ…」
 毛皮も実にいい手触りだ、とハーレイがギュウッと抱き締めた猫。
 ぼくの部屋だったら、ぼくが甘えている筈の胸に。ぼくが抱き締めて貰って甘える指定席に。
(猫のくせに…!)
 ハーレイとキスが出来るどころか、広い胸まで持って行かれた。ぼくの居場所まで奪われた。
 庭にフラリと現れた猫に、通りすがりの見かけない猫に。
(パパとママも見ている所でキスして、抱っこ…)
 今のぼくには出来っこない。逆立ちしたって無理な相談、どうにもならない。
(猫だってキスして貰えるのに…!)
 それも唇に。チビのままのぼくが大きく育たない限り、唇へのキスは貰えないのに。
 後から来た猫に先を越されて、ハーレイのキスを盗られてしまった。唇へのキスをアッサリと。



 負けちゃった、ってドン底の、ぼく。
 もう嫉妬するだけのエネルギーも失くして、ただガックリと項垂れてるだけ。
 それでもハーレイと猫から目を離せなくて、上目遣いで恨めし気に睨んでいたんだけれど。
「ミーシャー!」
「ミーシャ、どこー!?」
 庭の向こうから聞こえて来た声。
 通りに面した生垣の向こう、ぼくも知ってるご近所さんの声と、いつもは聞かない子供の声。
「ミーシャー!」
 猫の耳がピクンと小さく動いて、聞き耳を立ててるみたいだから。
 ハーレイは「こいつのことかな」と猫を優しく両腕で抱えて、生垣の方へ歩いて行った。
 そうして丁度通り掛かった、子供連れのおじさんを呼び止めて。
「探しておられるミーシャというのは、この猫ですか?」
「ああ、そうです。飛び出して行ってしまいましてね」
 その内に帰ってくるだろう、と言っていたんですが、戻って来なくて…。
 ご迷惑をお掛けしませんでしたか、孫の猫が。
「いいえ、お行儀のいい子でしたよ。…ミーシャ、お迎えが来て良かったな」
 帰ったら御飯を貰うんだぞ、とハーレイが生垣越しに猫を渡して、ご近所さんが抱き取った。
 それから暫く、立ち話。
 餌はケーキのスポンジを少しだけしか食べていないから、お腹が空いてる筈だとか。
 生クリームの匂いが気に入っていたから、そういう風味の餌を喜ぶ筈だとか。
 ぼくは見事に放っておかれて、またハーレイを持って行かれた。猫のミーシャとご近所さんに。
 話に混ざろうと思えば出来たけれども、エネルギーが切れていたんだもの。
 下手に混ざったら、ミーシャに嫉妬して怒ってしまって何を言い出すか分からないんだもの…。



 ハーレイがご近所さんに返したミーシャは、お孫さんと一緒に遊びに来ていた猫だった。
 真っ白だった猫の名前はホントにミーシャ。正真正銘、本物のミーシャ。
 抱っこして連れて帰られたけれど。
 ぼくが散々な目に遭ってしまった、庭でのお茶も終わったけれど。
「うー…」
 二階のぼくの部屋に戻って、夕食までの間は二人きり。
 テーブルにお茶と軽いお菓子は置いてあるけど、夕食前のこの時間にはママはお茶のおかわりを持っては来ない。だからホントにハーレイと二人、扉の向こうを気にしなくてもいいけれど。
 いつもだったら甘え放題の時間だけれども、今日はなんだか…。
「膨れるな、こら」
 相手はホントに猫だったろうが。
 お前、いつまで膨れているんだ、ミーシャはとっくに帰っちまったぞ。
「…でも、猫に負けた…」
 ハーレイのキスをミーシャが持って行っちゃったんだよ、ぼくよりも先に。
 唇へのキス、ぼくは絶対、貰えないのに…!



 ミーシャに負けた、と肩を落とすぼくにハーレイが笑う。
 最初は嬉しかったんだろ、って。
 ミーシャが家の庭に現れた時は、とっても嬉しそうにしてたじゃないか、って。
(それは間違いないんだけれど…!)
 ぼくが幸せだった理由はミーシャのすりすり、足にすりすり。
 こんな感触は何年ぶりに味わったろう、って、ハーレイの足だと思って頬を染めただけ。
 テーブルの下で大胆に触れてくる足がとても嬉しくて、幸せに酔っていただけで…。
「あれは間違えただけだから!」
 猫だと知ってたら喜んでいないし、ハーレイがニヤニヤしてたからだよ!
 だからハーレイが足で悪戯してると思って、嬉しくなってただけなんだよ…!



 ハーレイと間違えただけなんだから、って殴り掛かった。
 猫のミーシャを抱っこしてた胸に、広い胸に拳でポカポカと。
「こらこら、まだ猫に嫉妬してるのか?」
「嫉妬だってするよ、ハーレイの意地悪!」
 ぼくの勘違いだって知っていたくせに、笑って見てたし!
 それにミーシャに優しくしちゃって、ぼくなんか放って遊んでたくせに…!
 バカバカバカ、って胸を拳で何度も叩いた。
 ぼくの拳で殴ったくらいじゃダメージなんかは食らわない胸を、逞しい胸を何度も、何度も。
 意地悪だけれど大好きな恋人、猫にはうんと優しい恋人。
 ぼくにはキスしてくれなくっても、猫とはキスする酷い恋人。
 この次は顔を舐めてやろうか、それはキスとは言わないから。猫のミーシャもやっていたから。
 「ハーレイ、クリームくっついてるよ」って。
 頬っぺたをペロリと、舌でペロリと。
 だけど唇だけは、きっとガードをされちゃうんだろう。
 ホントにクリームがくっついていても、「キスは駄目だ」と許してくれないハーレイだから…。





           意地悪な恋人・了

※てっきりハーレイの悪戯なんだ、と一人でドキドキしていたブルー。嬉しくもなって。
 けれど正体は猫だったわけで、それをニヤニヤ見ていたハーレイ。意地悪すぎ…?
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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(ハーレイと全然キスが出来ない…)
 未だに出来ない、とブルーはパジャマ姿で溜息をついた。お風呂上がりで、ベッドに座って。
 今日は土曜日で朝から一日一緒にいたのに、「また明日な」と帰ってしまったハーレイ。
 ハーレイと二人で過ごした間はすっかり忘れていたのだけれど。
 キスのことなど、一度も思い出さずにいたのだけれど。



(強請れば良かった…)
 暫く強請っていなかったから、「キスしてもいいよ」と、久しぶりに。
 ハーレイが禁じたキスだけれども、もしかしたら。
 そのハーレイだって人間なのだし、ふとしたはずみに気持ちが揺らぐかもしれないのに。
(恋人同士には違いないもの…)
 ブルーの背丈が足りないせいで、未だに許して貰えないキス。前の自分と同じ背丈に育つまでは駄目だとハーレイに禁止されてしまった。小さな子供にキスは早いと、自分にそういう趣味などは無いと。
 だから背丈を伸ばしたいのに、再会してから一ミリも伸びてくれない背丈。ハーレイと出会った五月三日から一ミリさえも伸びない背丈。百五十センチで止まったまま。
 それでも何度もキスを強請った。「キスしてもいいよ」と何度も誘った。
 ハーレイが釣られてくれればいいのにと、キスしてくれれば嬉しいのに、と。
 今日は誘えば良かっただろうか、キスをしようと。
 ハーレイの膝に座って、甘えて、逞しい首に腕を回して。



(でも、どうせ…)
 ハーレイが「よし」と言ったとしても。誘いに応じてくれたとしても。
 瞳を閉じて上向いていたら、「キスしてやろう」と恩着せがましく頬か額に落とされるキス。
 期待して待っても、そういうオチになるのは必至。
 現に何度か、それをやられた。ハーレイに見事に躱されてしまって、貰えないキス。
(キスには違いないんだけれど…)
 頬や額に貰えるキスも、確かにキスではあるのだけれど。
 それはブルーが欲しいキスとは全く違って、別物のキス。親愛の情を表すキス。
 前の生でもそうしたキスは貰ったけれども、恋人同士になってからも幾つも貰えたけれど。
(あれはオマケで…)
 恋人同士の本当のキスは、ああではないから。
 幾度も交わしたキスは額や頬へのキスではなかったから。
(触れるだけでのキスでもかまわないのに…)
 唇にキス。
 貰いたいのは、唇へのキス。
 もう感触さえ思い出せないほどに、遠い日に貰ったハーレイのキス。



(んーと…)
 こんな感じ、と思い出してはみるけれど。
 前のハーレイと唇を重ねた記憶。抱き締められて、顎を取られて上向かされて。
 温かな唇が触れて来た筈なのだけれど、何処かぼやけてしまった記憶。
 キスも、その先も、その先のことも。
 それは満ち足りた、幸せな時間を二人で過ごした筈なのに。恋人同士だからこそ持てる時間を、誰にも邪魔をされない時間を、数え切れないほど共にしたのに。
(…忘れちゃってる…?)
 すっかり子供になってしまって。
 十四歳の幼い身体に、心に馴染んで、今の生を生きている内に。
(……そんな……)
 思い出せない、色々なこと。
 前のハーレイと愛し合った記憶は確かにあるのに、薄れて掠れてしまった部分。
 満たされた思いだけを残して、熱い感情も激しく交わした愛の時間も今では深い靄の彼方で。
 もう漠然とした記憶しか無い。
 愛し合う時にはこうであったと、ベッドではこうして過ごしていたと。
 それでは本当に子供と同じ。年齢よりも少しませている、背伸びしている子供と同じ。
 恋の記憶を失くしてしまった。
 今も夢見て、そうなれる日が早く来ないかと待ち焦がれている本物の恋人同士で交わす愛を。



(キスだって、そう…)
 唇が触れ合う時の感覚。
 深く深く互いの唇を重ねて、それだけで終わりではなかったキス。
 けれども記憶は薄れてしまった。こうだった筈、と思い返しても実感を伴わない記憶。
(すっかり忘れてしまっちゃってる…)
 キスの記憶も、二人で交わした愛の記憶も。
(これじゃ、知識があるっていうだけ…)
 そうした知識を持っているだけの子供と何ら変わりはしない。ませた子供と変わりはしない。
(覚えてるつもりだったのに…)
 前の生で過ごした幸せな時を。恋人同士の熱い時間を。
 それなのに忘れてしまっているから。自分でも全く気付かない間に時の彼方に失くしたから。
 ハーレイのせいだ、と唇を噛んだ。
 せめてキスだけでも出来ていたなら、もっと覚えていられたろうに。
 キスを交わしたなら次はこうだと、こういう時間を恋人同士で過ごすものだと。



(ハーレイの馬鹿!)
 酷い、と恨み言を言っても始まらない。ハーレイはキスをしてはくれない。
 キスを貰えるなら頬か額に、それでおしまい。
 唇へのキスを貰いたいなら、強請るか、あるいは奪い取るか。
(ハーレイが昼寝でもしてくれたなら…)
 その隙に、キス。
 眠っているハーレイの唇にそうっと唇を重ねて、触れるだけのキス。
 たとえハーレイが即座に目覚めて叱られたとしても、キスしてみたい。あの唇に触れてみたい。
 ぼやけてしまった唇の温かさ、その柔らかさ。
 きっと触れれば一瞬で思い出すだろう。ハーレイの唇はこうだった、と。
 その唇がくれたキスのことも、唇を深く重ね合った時の甘い記憶も。



(でも、寝ないよね…)
 いくらハーレイがこの家を何度も訪ねて来ていて、家族同然の存在でも。
 父と母も一緒の夕食が珍しくなくて、仕事帰りに不意に寄っても歓待される身であっても。
(自分の家じゃないんだもの…)
 他所の家を訪れた時に昼寝をするなど、幼い子供にしか許されないこと。
 そうでなければ、泊まりがけで滞在する時くらい。ただの訪問では昼寝するなど不作法なこと。
(ハーレイ、真面目だから、「いいよ」って言っても寝るわけがないよ)
 仕事で疲れて欠伸を噛み殺しているような時でも、ハーレイは昼寝などしない。それくらいなら早めに帰って家で眠るに違いない。
 そんなハーレイが眠っている間に唇へのキスを奪うチャンスなど決して来ない。ハーレイの家に押し掛けて行って、寝込みを襲う以外には。
(だけど、飛んで行けたのは一回きりだし…)
 メギドの悪夢に怯えながら眠って、知らずに瞬間移動をした時。
 ハーレイのベッドで目覚めて驚いたけれど、あれきり飛べない、ハーレイの家。どんなに怖くて寂しい夜でも、瞬間移動で飛んでゆく代わりに自分のベッドで震えながら眠って目覚めるだけ。
 何度でも行けると思ったのに。
 意識して飛ぶことは出来ないけれども、無意識であれば何度だって、と。
 けれど来てくれない、二度目のチャンス。来ては駄目だと言われている家に入れるチャンス。
 ハーレイの寝込みを襲って唇へのキスを狙うどころか、ハーレイの家に入れない。
 あの唇に触れることは出来ず、ハーレイからもキスは貰えないまま。



(ホントにキスだけでいいんだけどな…)
 触れるだけのキスで。
 ただ唇が触れ合うだけのキスで充分、それだけで幸せになれるだろうに。
(…それも無理なの?)
 駄目なの、とハーレイの写真を眺める。
 勉強机の上に飾ったフォトフレーム。ハーレイに貰った、飴色の木で出来たお揃いの品。
 その中に自分とハーレイが居る。夏休みの最後の日に庭で写した記念写真。
 ハーレイの左腕に両腕で抱き付いて、幸せそうな自分。とびきりの笑顔をしているハーレイ。
(こんな顔のハーレイとキスが出来たら…)
 大好きでたまらないハーレイの笑顔。それを向けられて、唇が降って来てくれたなら。
 優しく顎を持ち上げられて、唇を重ねて貰えたなら…。



(前のハーレイなら、こんな笑顔で…)
 何度もキスをくれていたのに。青の間でも、通路でいきなり抱き付いた時も。
 そう、通路でもキスをしていた。周りに誰もいない時を狙って、瞬間移動でハーレイを追って。濃い緑色のマントに覆われた背中に抱き付き、驚かせた後はこういう笑顔と唇へのキス。
(ホントに何度もキスをしたのに…)
 同じ笑顔のハーレイだけれど、今では全く貰えないキス。それが悲しくて、寂しくて。
(ハーレイの笑顔は変わらないのに…)
 同じなのに、と写真をまじまじと見詰める内に。
 笑顔のハーレイとキスしたくなった。ハーレイは写真の中だけれども。



(ちょっとだけ…)
 写真にキスが出来ないものか、とフォトフレームを手にしてみた。
 ガラス越しに顔を近付けてゆけば、もれなく近付く自分の肖像。ハーレイの隣に居る自分。
(ぼくにまでキスをしちゃいそうだよ…)
 うっかり唇がズレたなら。
 おまけに写真は小さいのだからハーレイの唇だけを狙えはしない。自分の唇でキスをしたなら、キスの対象は唇どころか顔ごと全部。ハーレイの顔中にベッタリとキス。
 でも…。
(しないよりはマシ?)
 ハーレイにキス…、とフォトフレームに息がかかるほど唇を近付けた所で。



「ブルー、起きてるの?」
 母の呼び声で飛び上がった。扉越しではあったけれども、ドキリと跳ね上がってしまった心臓。
 慌ててフォトフレームを机に戻すと、顔を扉の方へと向けた。
「な、なに!?」
 裏返りそうな声を懸命に抑え、訊き返せば。
「ごめんなさい、ビックリさせちゃったかしら?」
 母が扉の向こうで詫びた。明かりが点いていたから、点けっぱなしで眠ったのかと思ったと。
「ううん、起きてる…!」
「それならいいけど…。湯冷めしないように気を付けてね?」
「はーい!」
 大丈夫、と返事をすると、母の足音は寝室の方へと消えて行ったけれど。
(び、びっくりした…)
 絶妙と言うべきか、最悪と言うか。タイミングの良さだか悪さだかに、まだ心臓がドキドキ音を立てている。
 キスをしようとしていた所を母に見咎められたようで。
 「ほら見ろ、キスは駄目だと言ったろ」とハーレイに叱られてしまったようで。



(…写真にだって、キスしちゃ駄目なの?)
 鼓動が少し落ち着いてくると、やはり写真に未練が残る。
 したかったキス。
 ハーレイの唇を目指したけれども、母の声で阻まれてしまったキス。
(…ハーレイが駄目って怒ったのかな?)
 ならば、とフォトフレームを手にして、写真に頬を擦り寄せた。ハーレイのキスは、頬か額ならいいのだから。頬と額には今でもキスを貰えるのだから。
 頬に触れた感触はガラスだけれども、その向こうにはハーレイの笑顔。笑顔のハーレイ。
(ちょっと幸せ…)
 ハーレイにキスを貰えたようで。
 「おやすみのキスだ」と頬にキスして貰えたようで。
 今の生では貰えてもいない、おやすみのキス。
 ハーレイと一緒には眠れないから。ベッドに入るような時間にハーレイは居てはくれないから。



(おやすみのキスを貰っちゃったし…)
 離れ難くなったフォトフレーム。飴色の木枠の優しい手触り、それに温もり。
 このフォトフレームと一緒に眠ってみたい、と思ったけれど。
 枕の隣に置いて眠れば素敵な夢が見られるかも、とフォトフレームを抱き締めてベッドの方へと目を遣ったけれど。
(…ハーレイと一緒にベッドで寝るの!?)
 恋人の写真を自分のベッドに。
 前の生では幾度となく愛を交わしたハーレイ。そのハーレイの写真をベッドに。
 いくら記憶が薄れていたって、それはちょっぴり恥ずかしい。
 ベッドは愛を交わす所で、ただ眠るだけの場所ではなくて。
(でも…)
 離れたくないフォトフレーム。その中の大好きな笑顔のハーレイ。
 記憶は薄れてしまったけれども、今の自分はパジャマ姿。この格好では何も出来ない。せいぜい添い寝で、それならば寄り添って眠るだけのことで。
(ぬいぐるみ感覚…)
 幼い頃にはお気に入りのぬいぐるみと眠ったものだし、フォトフレームだって似たようなもの。
 ちょっとくらい、と抱えてベッドに近付いたけれど、やはり先に立つ恥ずかしさ。
(うー…)
 ベッドは何をする場所なのかは覚えているから。
 具体的な記憶は霞んでいたって、まるで知らないわけではないから。
 これは無理だ、と耳の先まで真っ赤に染め上げてベッドに潜った。
 フォトフレームに添い寝して貰うことは諦めて。
 ハーレイの笑顔に「おやすみなさい」と挨拶だけして、上掛けをすっぽり被ってしまって。



 そして翌日、日曜日だからハーレイがやって来たのだけれど。
 午前のお茶の時間に間に合うように、と現れたハーレイは、いつもの椅子に腰を下ろして紅茶のカップを傾けながら勉強机の方を眺めて。
「おっ?」
 其処に何かを見付けたような声を上げるから。
「どうしたの?」
 ハーレイ、あそこに何かあった?
「いや、机の上に飾ってある写真…」
「あれがどうかした?」
 平静を装って尋ねたものの、勉強机の上には例のフォトフレーム。昨夜、ハーレイの写真の唇にキスしようとして母に阻まれ、添い寝したいと考えたものの果たせなかったフォトフレーム。
(えーっと…)
 たちまち思い出す昨夜の出来事。
 鎮まってくれと願っているのに、真っ赤に染まってしまった頬。



「ふん、図星か」
 ハーレイがフフンと鼻で笑った。
「えっ?」
 図星って…。なに?
 何のことなの、とブルーは早鐘のように打つ心臓を抱えて、普通に振る舞おうとしたけれど。
 努力も空しく、ハーレイの喉がクックッと鳴って。
「よからぬ思念を感じてな」
 あれはお前のだろ、フォトフレームの俺に絡み付くように…。
「嘘…!」
 ぼくはなんにもしてやしないよ、ちょっと写真を見てただけだよ…!
「どうなんだかな?」
 それにしては妙に強い気がするが…。
 俺は嘘なんかを言いはしないぞ、本当のことを言っているだけだ。
 フォトフレームの辺りにお前の心が零れてる。
 俺にキスしようか、どうしようかと。
 一緒に眠ってみたいけれども、そいつは流石に恥ずかしいとかな。
「そ、そんな…!」
 ハーレイ、ぼくの心を読んだ!?
 それで面白くてからかっているの、ねえ、ハーレイ?
「いや? 俺はあくまで零れた心を拾っただけだが」
 あの周りにたっぷりと転がって落ちているんだ、よほど未練があったらしいな?
 もっとも、俺にしか分からんだろうが…。
 写真の中でも俺に向けられた感情だしなあ、ついでにお前の心は拾いやすいんだ。
 どうしたわけだか、今のお前が零した心は俺には拾い放題だってな。



 だから堂々としていられないようなことはするなよ、とハーレイはブルーに釘を刺した。
 フォトフレームにキスをするとか、添い寝だとか。
 母の呼び声で飛び上がった事件までもがすっかり筒抜け、穴があったら入りたいような気持ちのブルーだけれど。恥ずかしくて顔も真っ赤だけれども、負けてなるものかと抗議した。
「でも、ハーレイがしてくれないから…!」
 キスも添い寝もしてくれないから、写真くらいならいいかと思って…!
 写真だったらハーレイは笑顔で写っているだけだし、ぼくを叱りもしないから…!
「それで写真にキスで添い寝か?」
 お母さんの声で心臓が止まるほどビックリしてたり、たかが添い寝も出来なかったり。
 要するに、お前には早すぎなんだ、どちらもな。
 キスも添い寝も、もっと大きく育たんことには話にならん。
 今のお前には「おやすみ」のキスはお父さんかお母さんのが似合いで、添い寝も同じだ。いや、添い寝するなら、ぬいぐるみか…。
 そのくらいで丁度いいってものだろ、お前はまだまだ子供だからな?



 チビのくせに、とハーレイの褐色の指がブルーの額をピンと弾いた。
 「痛いよ!」とブルーが叫んだ途端に、「そうか?」と椅子から立ったハーレイ。向かい合って挟んでいたテーブルを回り込み、ブルーの額にキスを落とすと、元の椅子へと戻って行って。
「もう痛くないだろ、ちゃんとキスしてやったしな?」
 小さな子供によくやるアレだ。「痛いの、痛いの、飛んで行け」とな。
「ぼくって、そういうレベルなわけ!?」
「当たり前だろ、チビだろうが」
 チビへのキスは頬と額だけで充分だ。
 それ以外の何処にキスしろと言うんだ、手の甲へのキスだってチビには要らん。お前がどんなに背伸びしたってチビはチビだし、キスをする場所もチビにピッタリの頬と額で充分なんだ。
「だけど記憶が薄れてしまうよ!」
 ハーレイのキスとか、キスの先とか…。
 気が付いたんだよ、ぼくって記憶が薄れてるんだよ!
 思い出せない部分が多くて、前のハーレイと一緒に過ごした記憶が曖昧になっているんだよ…!
「ほほう…? それで困っているのか、お前?」
 俺と過ごした記憶が曖昧だと言い出す割には、昔の記憶もしっかり残っているようだが?
 前のお前が持っていた記憶。
 俺との記憶も、大騒ぎしなきゃいけないほどには消えてはいないと思うがな?
 早い話が、お前がよく言う本物の恋人同士とやら。
 それに関する記憶だけが薄れてしまってるんだろ、違うのか…?
「そうだけど…。そうなんだけど…!」
 でも、その記憶だって大切なんだよ、ハーレイとの大事な思い出だもの!
 本物の恋人同士だったんだよ、って幸せになれる、前のぼくの思い出だったのに…!



 それが薄れるだなんて悲しすぎる、とブルーは切々と訴えたけれど。
 記憶を留めておくためにキスが欲しいと言ったけれども、ハーレイの方はそうではなくて。
「お前、たったの十四歳だろ?」
 どう考えたって早すぎるってな、そういう思い出を噛み締めるにはな。
 チビのお前が後生大事に抱えているには向かない記憶で、だから薄れてしまうんだ。
 焦って必死に繋ぎ止めなくても、いずれ自然に戻ってくるさ。
 お前の背丈が前のお前と同じに伸びたら、そういう背丈に見合う中身になったなら。それまでは諦めて放っておくしかないだろうなあ、そういった記憶。
「酷いよ、このままにしておけって言うの?」
 思い出そうとしても駄目なのに、霞がかかったみたいに何処かがぼやけているのに…!
「忘れている方が幸せだろうと思うがな?」
 現に記憶が薄れた今でも、お前、キスばかり強請っているし…。
 もしも記憶がハッキリしてたら、いったい何を言い出したやら…。
 そうなっていても、俺は相手にしてやらん。教師と生徒じゃ、色々と問題がありすぎるからな。
 お前の記憶に感謝しておけ、ぼやけちまった記憶にな。
 その方が今のお前に似合いだ、お父さんやお母さんと一緒に暮らすチビには。



 チビはチビらしく生きるもんだ、と言われたブルーは泣きたい気持ちになったけれども。
 薄れた記憶を取り戻すどころか、忘れておけと突き放されてしまったけれど。
(でも、いつかは…)
 今は駄目でも、いつか大きくなったなら。
 前の自分と変わらない背丈に成長したなら、事情は変わってくれるのだろう。
 ハーレイはキスを許してくれるし、そうすれば薄れてしまった記憶も取り戻せるのに違いない。
 前の生で交わしたキスも、その先も、ハーレイとの甘い睦言も。
 今ではすっかりぼやけてしまって曖昧だけども、キスを交わして、それから、それから…。
 恋人同士の時を持つなら、行き先はベッド。
 何をするかは覚えているから、早くハーレイとそういう時を…、と願ったけれど。
 その心までが零れていたのか、また指先でピンと額を弾かれた。
 チビのくせにと、そういったことを思い描くには早すぎて全く話にならん、と。



 弾かれた額を押さえて大袈裟に痛がっていたら、「こっちに来い」と手招きされて。
 ハーレイはブルーを膝に座らせ、「今はこれだけだ」とキスを降らせた。
 まずは自分が弾いた額に、その次は頬に。
「チビのお前には、こういうキスしかしてやれないしな?」
 それでも無いよりマシだろうが。
 俺に会えなきゃ、お前にキスをしてくれる人はお父さんとお母さんしかいないんだぞ?
 後は友達がふざけてってトコか、少なくとも恋人からってキスは無いなあ…。
 頬と額でも恋人からのキスが貰える分だけ、お前は幸せだと思うんだがな?
 それもだ、ずうっと昔からの恋人がキスをくれるんだぞ?
 お前の年なら、まだ恋人に出会うどころか、初恋さえもしていないのが普通じゃないか?
「…そうなのかも…」
 恋人がいるって子の話なんか、一回も聞いたこと無いし…。
 今じゃ人間はみんなミュウだし、恋をするにものんびりだよね。
 上の学校に行く頃にやっと、そういう話が出てくるのかも…。
 ぼくなんか、うんと早い方だね、上の学校、行かずに結婚したいんだものね…。



 キスは駄目だと、頬と額にしかしてはやれないと、改めて言われたブルーだけれど。
 前のハーレイと交わしたキスの記憶も曖昧になってしまったけれど。
(でも、ハーレイはキスしてくれるんだしね?)
 チビにはこうだ、と頬と額へのキスであっても、恋人のキス。
 恋人が自分にくれるキス。
 これでもいいか、と思ってしまう。
 チビ扱いは癪だけれども、今の自分はこれで幸せだと心が温かくほどけてゆくから。
 頬に、額に落とされるキスに、幸せな気持ちが膨らむから。
 チビ扱いでも、自分はハーレイの恋人なのだと。
 前の生での愛の記憶は薄れたけれども、恋人の腕は今もあるから。
 こうして自分を抱き締めていてくれるから…。



(それでもやっぱり、チビはチビ…)
 ベッドに一緒に持ってゆくのは恥ずかしいから、と持ち込めなかったフォトフレーム。
 好きでたまらないハーレイの写真と、添い寝さえ出来なかったほどの小心者。
 もっと堂々と写真を抱き締め、恥ずかしがらずに眠れる日まではチビなのだろう。
 頬を真っ赤に染めたりもせずに、胸元に抱いて眠れるようになるまでは。
(…だって、いつかは本物のハーレイと一緒に眠るんだものね)
 ぼやけた記憶の向こう側でも、何をするかは分かるから。
 写真くらいで頬を染めていては、そんなことなど出来よう筈もないのだから。
(ハーレイが言う通り、ぼくってチビだ…)
 どんなに強請って誘ってみたって、頬と額へのキスが似合いの小さな子供。
 チビ扱いされて、唇へのキスを断られてしまう小さな子供。
 いつかハーレイの写真にキスを落として、添い寝出来る日が来るまでは。
 恋人の腕が無い独りの夜には、そう出来るようになるまでは。



(ねえ、ハーレイ…。それって、いつ?)
 いつのことなの、と心の中で呟いた声は確かに届いている筈なのに。
 ハーレイは「ん?」と微笑んで頬にキスをくれただけ。
 唇で優しく触れただけ。
(ハーレイってば…!)
 零れた心は拾いやすい、と言っていたくせに無視する恋人。
 そうして、また一つ、優しいキス。
 今度は額に、温かく触れて…。




            貰えないキス・了

※ハーレイの写真にキスをすることも、ベッドに持ち込むことも出来なかったブルー。
 まだまだ子供の証拠らしいです、一人前の恋人気取りでも。十四歳では仕方ないですね。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







(あ…!)
 いいもの見付けた、と屈み込んで拾い上げた、ぼく。
 学校から帰って門扉をくぐって入った庭で。まだ玄関まで着かない内に。
(何の鳥だろ?)
 ぼくの右手に、真っ直ぐに伸びた長い羽根。十センチくらいはありそうな羽根。
 濃い灰色をしているから…。
(鳩かな?)
 キジバトか、公園にいるような鳩か。きっと、その辺。
 庭に来た鳥の落とし物。忘れ物じゃなくって、落とし物。多分、自然に抜け落ちた羽根。
(小さい羽根なら、たまにあるけど…)
 ふんわりとした小さな羽根。柔らかそうな羽根は羽繕いして落としてゆくのか、けっこう庭には落ちているけど。
(今日のは大きい…)
 ふわふわじゃなくて、シュッとした羽根。長くて頑丈そうな羽根。
 こんなに立派な羽根は滅多に無いから、ドキドキしちゃう。
 小さい頃にも拾って宝物にしたりしていたけれども、今のぼくが見ると…。



(ハーレイの羽根ペンみたいだよね)
 その羽根ペンはプレゼントしてから一度も目にしていないんだけど。
 ハーレイの家へ行ってしまって、そのハーレイの家にぼくは行くことが出来ないから。
 誕生日のプレゼントにぼくが少しだけ買った羽根ペン、お小遣いの一ヶ月分だけを払って買った羽根ペン。残りのお金はハーレイが出した。これじゃ我儘を言ったり出来ない。
(持って来て見せて、って言えないもんね…)
 だからハーレイの誕生日に見たのが最後。その前に見た時は百貨店の陳列ケースに入ってた。
 前のハーレイが持っていたのと良く似た羽根ペン、白い羽根ペン。
 あれっきり会ってはいないけれども、忘れやしない。
 羽根ペンと言えば、こんな羽根。ぼくが拾ったような羽根。
 あっちはもっと大きいけれど。十センチどころじゃないんだけれど。
(でも、そっくり!)
 羽根の感じが。
 ぼくが拾ったのは小さい上に灰色だけれど、羽根ペンの羽根に似てるんだもの。



 ちょっぴり羽根ペン気分だよね、って嬉しくなって家に持って入った。
 羽根は洗ったら駄目になるから、手を洗ってウガイする間は洗面所の棚の上に乗っけた。
(消毒とかって…。要るのかな?)
 どうだろう、って思ったけれども、何度も触ってみたいんだったら、やっぱり消毒?
 少し考えてから、殺菌用のスプレーがあったのを思い出した。洗面所の棚にも置いてあったし、説明を読んでからシュッとひと吹き、殺菌完了。もう口に入れたって大丈夫。
(うん、羽根だって傷んでないしね)
 ウキウキと二階の部屋に持って上がって、勉強机の真ん中に置いた。ぼくが拾った大切な羽根。
 それから制服を脱いで着替えて、階段を下りてダイニングでおやつ。
(ふふっ、羽根ペンみたいな羽根…)
 素敵なものを拾ってしまった、とママが焼いたケーキを食べる間も、心は羽根ペン。
 羽根ペンと言えば前のハーレイで、今のハーレイも持っているから。
 トレードマークの一つみたいなものなんだから、と心はハーレイへ、羽根ペンへと飛ぶ。
 ぼくの家の庭に落っこちてた羽根、ホントに羽根ペンみたいだったよ、と。
 ハーレイが持ってる羽根ペンもああいう羽根なんだよ、と。



 おやつを食べ終えて、キッチンのママにカップやケーキのお皿を返して。
 部屋に戻って、勉強机の前に座って羽根を眺めた。今度はじっくり、うんとゆっくり。
(ホントに羽根ペンに似てるんだけど…)
 色とサイズが違うだけで、と見惚れたけれども、拾った羽根には問題が一つ。
 羽根ペンの羽根にそっくりだけれど、似てるってだけで。
(小さすぎ…)
 いつも落ちてる羽根より立派で大きな羽根でも、十センチくらいの羽根だから。ハーレイが使う羽根ペンみたいに大きな羽根ではないんだから。
(これじゃ、ペン先…)
 とてもくっつけられそうにない。
 ハーレイの羽根ペンだって、ペン先がくっつくようにと何か細工はあるだろうけれど。先っぽを補強して太くするとか、そうした細工があるんだろうけど、この羽根では無理。
(太くするにも限度があるよね)
 この倍くらいは太くなくっちゃ駄目だろう。羽根の芯と言うか、鳥の身体に生えてた部分。
(ハーレイの羽根ペン、太い芯に何か巻いてるのかな?)
 糸とか、でなけりゃ薄い金属の板だとか。そうやって太さと強さを増やして、其処にペン先。
 羽根ペンの仕組みはきっと、そんなもの。



(だけど羽根ペン…)
 うんとレトロな文具の羽根ペン。
 前のハーレイの頃にもレトロだったけど、つまりは歴史があるってこと。SD体制よりもずっと昔から人間は羽根ペンを使ってたんだし、もしかしたら。
(ペン先の方が後から来たかも…!)
 最初は尖った鳥の羽根の先で書いていたのかも、いろんな文字を。
 そう思って見てたら、どうやら使えそうな感じがしてくる鳥の羽根。尖った先っぽで書けそうな文字。インクに浸してやったなら…。
(美術の授業でガラスペンとか使ったしね?)
 尖っているだけのガラスのペン。鳥の羽根でも充分、いけそう。
(それに羽根の中、空洞の筈…)
 先を削れば、空洞はインクを吸い上げるようになるかもしれない。そしたら羽根は立派なペン。いちいちインクに浸さなくても、何文字か一気に書けてしまうペン。
(羽根ペンの始まり、そういうのかな?)
 だとしたら、ぼくも羽根ペンを持てる。
 庭に落ちてた鳥の羽根だけど。ハーレイのよりもずっと小さいけれど…。



 考え始めたら、もう止まらない。羽根ペンになるか試してみたい。
 たった一本だけしか無いから、先を削るのは駄目だけど。削り過ぎたり、削り損なって台無しにしたら悲しいから。
 でも、羽根ペンを作るアイデア、思い付いたら実行せずにはいられないから。
(ちょっとだけ…)
 削ったりしないで使ってみよう。
鳥の羽根の先っぽ、そのまんま。
 羽根ペンの始まりはそういうものかも、って、一度試してみることにした。
(ぼくの羽根ペン…)
 庭で拾った鳥の羽根。十センチくらいの灰色の羽根。
 美術の授業で使ったインクが残っていたから、先っぽにつけてみたけれど…。
(うーん…)
 白い紙に文字を書こうとしたのに、引っ掛かるだけで書けない文字。ここでカーブ、と思っても紙にカリッと引っ掛かっちゃって、ヘンテコな文字になっちゃった。
 なんだか悪戯書きみたい。でなければペンの試し書き。
 ぼくが書きたい文字は書けなくて、下手くそな線ばかり増える羽根ペン。
 本物の羽根ペンじゃないんだけれど。
 庭に来た鳥が落っことして行った、羽根ペンに似ている羽根なんだけれど…。



(やっぱりペン先…)
 ハーレイにプレゼントした羽根ペンの箱には替えのペン先が幾つもついてた。いろんなタイプのペン先だったし、書きたい文字の種類に合わせて取り替えるようになっているんだろう。
 そのペン先。あれが必要なんだと思う。
 最初からセットされていた基本のヤツでいいから、滑りを良くしてくれるペン先。
 これにはくっつかないけれど。
 ぼくが持ってる小さな羽根では、ペン先なんかは付けられないけど。
(もっと大きな羽根でないと…)
 ペン先をくっつけられるほどに丈夫な羽根。補強して太さを足してやったらペン先が付く羽根。
 ぼくの手の中の羽根とは比べ物にならない大きさがなくちゃ、ペン先はとてもくっつかない。



(ハーレイの羽根ペン、何の鳥だろ?)
 あの羽根ペンはどんな鳥の羽根で出来ていたんだろう?
 真っ白なんだし、白鳥なのかな?
 それともガチョウやアヒルだろうか、どっちも白いし、白鳥よりかは身近な鳥。
(白鳥、自然のだと渡り鳥だしね…)
 公園とかにいる白鳥なら、一年中そこにいるけれど。大自然の中で生きている白鳥は渡りをする鳥、ぼくが住んでいる地域では冬にならないと来ない。白鳥が来たら冬の始まり、冬の使者。
 まだ秋なんだから飛んで来ないし、渡って来たって水辺の鳥で。
(大きな池とか、湖だとか…)
 そういう所に行かないとお目にかかれない。この辺りでは餌もついばんでいない。
 運が良ければ渡りの時に家の上を飛ぶかもしれないけれども、それ以外は飛んでいそうもない。飛んでいなければ羽根なんか落として行ってはくれない。
(ガチョウもアヒルも…)
 ぼくの家の近所では飼われていない。白鳥と同じで公園の鳥。でなければ幼稚園とかの鳥小屋。
 そういう所じゃ、羽根ペンになりそうな立派な羽根は見付けた人が拾っちゃうだろう。誰だって拾いたくなるサイズの白くて見事な羽根なんだから。



(羽根ペン、高いし、ぼくのは買えない…)
 とんでもない値段だった、ハーレイにプレゼントした羽根ペン。ぼくの予算じゃ、一部だけしか買えなかった羽根ペン。
 あんな羽根ペンが欲しいけれども、買えやしないから考えてさえもいなかった。
 其処へ拾った灰色の羽根。羽根ペンのミニサイズみたいな羽根。
(ペン先だってくっつかないし、字も上手には書けないし…)
 見かけだけは一人前なのに。
 幼稚園くらいの子供が持ったら、充分に羽根ペンに見えるのに。
 だけど使えない、灰色の羽根。役に立たない小さな羽根。
 チビのぼくにはこの程度、って羽根を眺めて大きな溜息を一つ零した。
(ハーレイとお揃い、欲しいんだけど…)
 お揃いの文具、お揃いの羽根ペン。
 庭で拾った一本の羽根から、むくむくと夢が広がるけれど。
 実際の所は羽根ペンは高くて、子供のぼくには手が届かない。欲しくったって予算が足りない。



 チビだとお揃いはこのくらいかな、って羽根のサイズを見ていたら。
 ハーレイの羽根ペンがあの大きさなら、ぼくにはこういう羽根なのかな、って思っていたら。
 お客さんだよ、ってチャイムの音。窓に駆け寄ったら、庭の向こうで手を振るハーレイ。
 ぼくがこの羽根を拾って来た庭。門扉を開けに出掛けたママと一緒にハーレイが庭を歩いてる。もう羽根は落ちていないんだろう、二人とも屈み込まないから。
 そうしてハーレイが部屋に来たから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「ねえ、ハーレイ」
「うん?」
「ハーレイの羽根ペン、何の鳥の羽根?」
「何の鳥って…。あの羽根ペンがどうかしたのか?」
 どうした、今頃。あれを買った時には何の鳥かなんて訊かなかったくせに。
「えーっと…。ぼくの、こういうサイズなんだよ」
 おんなじように見える羽根でも、ハーレイの羽根ペンよりも小さいから…。
 ハーレイの羽根ペンになっている羽根は、どういう鳥の羽根なのかな、って。



 こんなのだよ、って勉強机から羽根を取って来て見せてみた。
 字を書こうとしたインクは綺麗に拭いてあるから、今はごくごく普通の羽根。
 ハーレイは灰色の羽根を見るなり、こう言った。
「こりゃあ、鳩だな」
「やっぱり?」
 ぼくも鳩かなって思ったんだよ、庭で拾った羽根だから。小鳥の羽根より大きいしね。
 これよりも、もっと大きな羽根が欲しいんだけど…。
「欲しいって…。庭で拾えそうな大きな羽根なら、カラスくらいなモンじゃないか?」
「カラス!?」
 そりゃあ、カラスは大きいけれど…。
 鳩よりもずっと大きいけれども、カラスの羽根なんか欲しくはないよ。



 あんな黒いの、って文句をつけた。
 それにあんまり可愛くないよ、って。
「カラスなあ…。昔は不吉な鳥だったしなあ…」
「そうなの?」
「この辺りにあった日本でもそうだし、他の国でも悪魔の使いって言われていたりな」
 もっとも、日本じゃ神様のお使いでもあったそうだが。
 太陽の中にもカラスがいるって言われたほどだし、不吉な鳥だと決まったわけでもないんだが。
 それに頭もいいそうだしな。
 クルミの実を空から地面に落として、殻を割ったりするらしいぞ。
「へえ…!」
 地面でクルミの殻を割るなんて、確かに頭は良さそうだよね。
 他の鳥なら人間がクルミを割ってくれるの、じーっと待ってるだけだろうしね…。



 ハーレイは人間に飼われたカラスの話も教えてくれた。
 巣から落っこちたヒナを人間が拾って、飼っていたキジと一緒に世話をした話。
 キジのお母さんに育てられたカラスは「カーカー」と鳴く代わりに「ケーン」と鳴いた、って。飼っていた人が出掛ける時には車を追い掛けて「ケーン」と鳴きながら飛んでいた、って。
 そんな話を聞いてしまうと、カラスも可愛く思えるけれど。
 飼っていた人は可愛がったろうな、と思うけれども、それでもカラスは真っ黒な鳥。ハーレイの羽根ペンの羽根みたいに白い鳥じゃない。大きくても白い羽根は無い。
 だからカラスの羽根は要らない。
 もっと綺麗な羽根がいいよ、って言ったんだけど。
 ハーレイの羽根ペンみたいな羽根が欲しいよ、って言ったんだけれど。



「ああいう羽根なあ…。庭に落ちては来ないんじゃないか?」
 今の俺のペンにくっついてる羽根はガチョウらしいな、暇な時に調べてみたんだが…。製造元の店の説明を読んだ具合じゃガチョウのようだ。
 前の俺のは白鳥だったかもしれないが…。あれの箱には何の説明も無かったからな。
 白鳥もガチョウも、そうそう飛んではいないだろう。白鳥は冬しか来ない鳥だし、この近くには白鳥がねぐらにしそうな場所が無いしな。ガチョウの方は飛ぶのが得意じゃない鳥なんだ。公園の外まで飛びやしないさ、帰りが大変になっちまうからな。
「ガチョウか白鳥…。どっちも大きな鳥だよね」
 カラスよりもずっと大きいよ。鳥が大きいから、羽根ペンの羽根も大きいの?
 いくらカラスの羽根が大きくったって、羽根ペンの羽根よりは小さいような気もするし…。
「鳥自体が大きいというのもあるが…。羽根が生えてる部分だな」
 そいつが大事なポイントってヤツだ、羽根ペン用の羽根を手に入れるにはな。
「何処の羽根なの?」
「風切り羽根という名前で、だ…」
 名前からして分からないか?
 風を切るのは翼だろうが、風切り羽根は鳥の翼に生えている羽根の名前なのさ。



 羽根ペンの材料になる羽根、風切り羽根。鳥の翼に生えている羽根。
 鳥の羽根では一番大きな羽根らしいけれど、取ったら飛べなくなっちゃうって。
 ぼくはビックリして、庭で拾った灰色の羽根を指差した。
「尻尾の羽根じゃなかったの!?」
「鳩の尻尾、そんなに大きいか?」
 いいか、鳩だぞ。よくよく姿を思い浮かべてみろ。
「んーと…」
 どうだったかな、と鳩の姿とサイズを思い出してみて、羽根を見詰めて。
 尻尾の羽根はそこそこ目立つけれども、こんなに大きな羽根を束ねた感じじゃない。それじゃ、この羽根は尻尾じゃなくって風切り羽根?
 でも…。
「でも、ハーレイ…。鳩は庭に落ちていなかったよ?」
 風切り羽根がなくなっちゃったら、鳥は飛べなくなるんでしょ?
 これを落っことした鳩、庭に落ちていそうな気がするけれど…。でも、鳩なんて…。
「生き物だからな、たまには抜けるさ」
 風切り羽根だって生え変わりもする。一生、おんなじ羽根ってわけではないからな。
 そいつを落として飛んでった鳩は、一本くらいは足りなくっても平気なわけだ。他の羽根で充分飛んで行けるのさ、失くしたことにも多分、気付いちゃいないだろうな。



 大丈夫だ、ってハーレイは頼もしい言葉をくれたけれども。
 鳩の心配は無くなったけども、今度はハーレイの羽根ペンが心配になってきた。
 取られちゃったら飛べなくなるという風切り羽根。それを羽根ペン用にと取られた鳥は…。
「ハーレイ、羽根ペンの鳥はどうなっちゃったの!?」
 あの羽根ペンにするために羽根を取られた鳥はやっぱり飛べないの?
「そりゃまあ、普通は飛べないだろう」
 羽根ペンを作ってる方は商売だしなあ、一羽の鳥から一本だけでは採算が取れん。同じ取るなら纏めてゴッソリ引っこ抜かないと…。もちろん、鳥はもう飛べないな。
「じゃ、じゃあ…。ハーレイの羽根ペンになった鳥…」
 羽根ペン用に羽根を抜かれちゃった鳥は、飛べなくなったから食べられちゃった?
 それとも何処かで飼われているの?
 公園とかなら、飛べない鳥でも大切に飼って貰えるものね。
「どっちだろうなあ、今の時代じゃ飼われているかもしれないが…」
 前の俺の頃だとアッサリと肉か?
 飛べない鳥なんかの世話をするより、肉にした方が手間要らずだしな。
「えーっ!」
 肉にされちゃったの、前のハーレイの羽根ペン用に羽根をくれた鳥。
 今のハーレイの羽根ペンに使ってある羽根の持ち主の鳥も、お肉にされたかもしれないんだ…?



 羽根ペンの羽根は風切り羽根。取られちゃった鳥は飛べなくなる羽根。
 飛べない鳥には用が無いから、と鳥は食べられてしまった可能性大。
(…お肉にされてしまったなんて…)
 知らなかった。羽根ペンがそんなに可哀相な鳥の羽根を使ったものだったなんて。
 羽根ペン用に羽根を提供した鳥は、大切な羽根を引っこ抜かれて、挙句にお肉になるなんて。
「そっか、羽根ペン…。鳥の命と引き換えだったら、高いの、当たり前だよね…」
 加工賃かと思っていたけど、鳥の命の代金なんだ…。
「おいおい、物騒なことを言うなよ」
 たかが羽根ペンだぞ、それを鳥の命と引き換えだとか、鳥の命の代金だとか。
「だけど、羽根ペン用の羽根を取られたら飛べないって…」
 そういう鳥はお肉なんでしょ、飛べない鳥なんかを飼っておくより。
「前の俺たちの時代と違って、今なら飼ってることだってあるさ」
 効率優先って時代じゃないしな、そうした鳥でものんびりと飼って貰える世界だ。
 ただし、普通に肉にもなるだろ、ガチョウなんかは。
 羽根布団だってガチョウの羽根だぞ、風切り羽根だってもののついでと抜いておくさ。
「そうだけど…」
 可哀相じゃない、羽根ペン用に羽根を抜かれてお肉だなんて。
「お前、鶏肉、食べるだろうが。それと変わらん」
 ガチョウか鶏かっていうだけの違いだ、どっちも鳥には違いないんだ。
 鶏の羽根は羽根ペンに向かんが、ガチョウの羽根は向いている。だから羽根ペンになるだけだ。有効活用されてるんだな、捨てる代わりに羽根ペンにな。



「でも…。ガチョウをお肉にするなんて…」
 公園のガチョウ、可愛いよ?
 小さい頃には追い掛けられちゃって、怖くて泣いちゃったこともあるけど…。そんな頃でも餌をやりたくてパパやママに買って貰ったよ。ガチョウの餌。
「ああ、あれなあ…。公園に行くと売ってるな、餌」
 お前、追い掛けられて泣いていたのか、公園のガチョウ。今でもチビがよく泣いてるが…。
 それでも餌をやりたがるんだな、チビどもは。
「だって、可愛いもの。鳩と同じで」
 餌をあげたら食べに来るしね。鳩の餌も買って貰ってたよ、ぼく。
「その鳩だって、人間様は食うんだが?」
「嘘!」
「知らなかったか、食うんだ、あれも」
 もちろん公園の鳩じゃなくって、食うために育てた鳩ではあるが…。
 種類としては公園の鳩と全く同じだ、鳩の料理は地域によっては名物だがな?



「…鳩もお肉になっちゃうんだ…」
 酷い、とショックを受けちゃった、ぼく。
 鳩もガチョウも可愛いのに。小さかった頃のぼくの、大好きな友達だったのに。
(…ガチョウはちょっぴり怖かった時もあったけど…。だけど、友達…)
 公園に行ったら餌をあげてた。パパやママに強請って餌を何度も買って貰った。小さかった頃のぼくの友達、公園の鳩やガチョウたち。なのに…。
 同じ鳩やガチョウがお肉になる。
 ガチョウの方だと、食べられちゃった上に、大切な羽根を羽根ペンにされてしまうんだ。いくら飛ぶのが下手な鳥でも、飛ぶための風切り羽根は大切。それを抜かれて、お肉にされて…。
 可哀相なんてものじゃない。
 そんなガチョウから奪って来た羽根、それが羽根ペンの羽根だったなんて。
 ぼくが拾った羽根と違って、羽根ペン用にと引っこ抜かれた命と引き換えの羽根だなんて…。



「…羽根ペン、ぼくは要らないかも…」
「ん?」
 なんだ、いきなり。お前、羽根ペン、欲しかったのか?
「この羽根を拾ったら、欲しい気持ちがして来たんだけど…」
 欲しくてたまらなくなったんだけれど、高すぎてとても買えないから…。
 羽根の部分だけでも欲しいよね、って思ったんだよ、こういう羽根だけ。
 でも、この羽根は小さすぎるし、もっと大きいのが欲しくって…。
 それでハーレイの羽根ペンの羽根の鳥は何なの、って訊いたんだよ。もしかしたら家の庭とかで拾えるかも、って。
 だけど…。
 風切り羽根だなんて知らなかったし、取られた鳥はお肉になるかも、って聞いちゃったら…。
 可哀相すぎて欲しいだなんて言えないよ。羽根も、もちろん羽根ペンだって。



「ふうむ…。結婚してても要らないのか?」
 結婚した後なら、俺がプレゼントしてやれるが?
 大きな羽根が庭に落っこちて来るのを待ってなくても、ちゃんとした本物の羽根ペンをな。
「えーっと…。結婚した後ならハーレイのがあるから、羽根ペンはいいよ」
 今、欲しかっただけだから。
 これよりも立派な羽根が欲しいと思ってるのは、今だけだから。
 結婚出来たらもう要らないんだ、こういう羽根は。
「なんだ、そいつは」
 羽根ペン用の羽根が欲しいんじゃないのか、羽根ペンは高いから羽根だけでも、と。
 なのにどうして要らなくなるんだ、俺と結婚した後は?
「お揃いが欲しくなったんだよ。この羽根を見たら」
 ハーレイの羽根ペンみたいだよね、って見てる間に欲しい気持ちになっちゃっただけ。
 だって、羽根ペンを持っていたなら、お揃いだよ?
 ぼくはハーレイとお揃いの羽根ペンが欲しかっただけ。羽根ペンが無理なら羽根だけでも、って思ったけれども、それは今だけ。
 結婚したなら、ハーレイとずうっと一緒だし…。
 お揃いの物も沢山出来るし、わざわざ羽根ペンを買わなくってもいいんだよ。
 羽根ペン、ぼくは使ってないしね、前のぼくだった時にもね。
 ハーレイの机に置いてあるのを眺めて、「幸せだな」って思えるだけで充分。
 今度のハーレイも羽根ペンだよね、って。
 やっぱりハーレイには羽根ペンが似合うと、地球に来たって羽根ペンだよね、って…。



 鳥の大事な羽根を使って作られるらしい、ハーレイの羽根ペン。
 それを取ったら飛べなくなっちゃう、風切り羽根で出来た羽根ペン。
 風切り羽根を取られたガチョウは、お肉になるかもしれないから。お肉になる道を免れたって、空を飛べなくなっちゃうから。
 それじゃガチョウが気の毒すぎる。飛ぶのが下手なのと、飛べないのとでは大違い。
 可哀相なガチョウの羽根の羽根ペンはハーレイの分だけあればいいよ、って言った、ぼく。
 結婚した後には家に一本あれば充分、ぼくの分まで買って持とうとは思わない。
 だって元々、ハーレイとお揃いが欲しいと思っただけだから。
 そんな気分は今のぼくだけ、結婚した後の幸せなぼくはお揃いを必死に探さなくても大丈夫。
(ホントに色々、お揃いが出来る筈なんだよ)
 だからそれまで、羽根ペンは我慢。羽根ペンみたいな羽根が欲しいって気持ちも、我慢。
 ハーレイとのお揃い気分を味わうだけなら鳩の羽根でいいんだ、書けなくっても。
 本物の羽根ペンの羽根より小さくっても、灰色でも。



 そして大事に仕舞っておいた鳩の羽根。
 ぼくの家の庭に来た鳩の落とし物の羽根、羽根ペン気分の宝物。
 取り出してみてはそうっと撫でてみて、持ってみて。
 もっとぼくの手が小さかったら、ホントに羽根ペンみたいだよね、って何度も思って。
 今日もドキドキ、インクの瓶を取り出した。それから真っ白な紙も一枚。
(…今日は上手に書けますように…)
 スウッと息を大きく吸い込んで、気分を落ち着けて、羽根の先っぽをインクに浸けた。あれから何度か練習したけど、いつだってカリッと引っ掛かっちゃう。上手く書けない。
(今日こそは…!)
 初のサインをものにしよう、と真っ白な紙に向かったんだけど。
 ぼくの名前をカッコよく書こうとしたんだけれど…。



「あーっ!」
 カリッと紙に引っ掛かった、と思った瞬間、ポキリと折れた。
 前のハーレイの真似をして書こうとしてたら、ポッキリと折れた、宝物。
 本物の羽根ペン用の羽根と違って、弱すぎた羽根。
 十センチくらいのミニサイズの羽根、鳩の灰色の風切り羽根。
 ぼくが持ってた辺りからポッキリと折れて、もう羽根ペンではなくなった。ハーレイが持ってる羽根ペンみたいな、素敵な羽根は折れてしまった。
(…ぼくって、力を入れすぎちゃった…?)
 もうちょっと力を弱くしておくべきだったろうか、あるいは、もっと慎重に。
 引っ掛からないように細心の注意を払って書けば良かった、と思うけれども、もう手遅れで。
 折れちゃった羽根は元に戻らない。戻したくっても、戻せやしない。
 接着剤でくっつけようにも、ポッキリと折れてしまった羽根が綺麗にくっつくわけがない。



(…ぼくの羽根ペン…)
 失くしてしまった、お揃い気分の灰色の羽根。
 ミニサイズだったぼくの羽根ペン、上手に字なんか書けない羽根ペン。
(ハーレイとお揃いだったのに…!)
 気分だけでもお揃いだよ、ってドキドキしていた、ぼくの羽根ペン。
(失くしちゃった…)
 折れちゃったよ、って見詰めたって羽根はくっつかない。もう羽根ペンには戻ってくれない。



 羽根は泣き泣き、屑籠に捨てて。
 「さよなら」って呟いて、お別れをして。
 ぼくは毎日、庭を眺める。
 羽根ペンになる羽根、庭に落っこちていないかな、って。
 出来れば大きい鳥の羽根。
 カラスはちょっと嫌だけれども、公園から逃げたガチョウでも飛んで来ないだろうか。
(…欲張ったら落ちて来ないかも…)
 それにガチョウの羽根の話は可哀相だと思ったから。
 風切り羽根を取られた挙句にお肉だなんて、そんなガチョウの羽根を欲しがるのも悪いから。
(…鳩のでいいかな、大事に使えば折れないよ、きっと)
 今度は大事に使ってみよう。うっかりポキリと折らないように。
 ハーレイとお揃いで欲しい羽根ペン、だけど今だけ欲しい羽根ペン。
 結婚した後はもう要らないから、チビのぼくには高すぎるから。
 今のぼくには鳩の風切り羽根がお似合い、十センチくらいのミニサイズの羽根が…。




           風切り羽根・了

※ハーレイとお揃いの羽根ペンだよ、とブルーが嬉しくなった鳩の風切り羽根。
 けれどポッキリ折れてしまって、それっきり。本物の羽根ペンを真似るのは無理ですよね。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(今じゃすっかりハーブティーだな…)
 ラベンダーにカモミールか、とハーレイは新聞に載っている広告を眺めて苦笑した。
 今日はブルーの家に寄り損ねたから、家で一人で食べた夕食。料理は好きだし、長いこと一人で暮らしていたから寂しい気持ちはさほど無い。
 こんな日もあるさ、と食料品店で目に付いた品を買い込み、一人にしては豪華な食卓。幾つもの皿を並べて気分は豊かに、食べ終わったら片付けを済ませてコーヒーを。
 愛用の大きなマグカップにたっぷりと淹れたコーヒー、それを片手に広げた新聞。ニュースにも目を通したけれども、その下にカラーで刷られていた広告。
(オレンジブロッサムにパッションフラワーなあ…)
 ふと目に留まった、眠りにくい夜のためのハーブティー。
 カモミールとラベンダーは馴染み深い名だが、他にも色々。ブレンドされたものもある。好みで選んでお飲み下さい、というコンセプト。
 ハーブティーだけに薬局でも買えるし、食料品店でも置いているから誰でも気軽に好みの一杯。
 小分けにされたティーバッグもあれば、ハーブをそのまま詰めてある缶も。



(眠れない夜にはハーブティーか…)
 これでは飲み過ぎて死んでしまう前に心地良い眠りに誘われてしまうことだろう。致死量などはとても飲めなくて、代わりに朝までぐっすりの眠り。
(それにハーブティーに致死量なんぞがあるのかどうか…)
 成分によっては危険なものもあるかもしれない。けれども、相手はハーブティー。致死量に至るほど飲もうとしたなら、胃の許容量を確実に超える。飲み切れるような量では死ぬわけもない。
(それに、そこまで飲もうっていう前に眠っちまうしな)
 恐らくは小さな欠伸を幾つか、その内に眠気。そうして気付けば夢の世界で、知らぬ間に翌朝。
 自然な眠りをもたらすためのハーブティーだし、致死量も何もあったものではないわけで。



(ああいう薬は要らない時代になっちまったか…)
 神経が逆立ち、眠れない夜のための睡眠薬。
 前の自分が生きていた頃は、そうした薬が薬局で売られていた筈だ。でなければ医師が処方するもの、病院で貰って帰るもの。
 シャングリラに薬局は無かったけれども、ドクター・ノルディが扱っていた。眠れないと訴える患者に合わせて、必要な量を。不測の事態が起こらないよう、薬そのものも厳重に管理。
 それが今では、ハーブティーが一杯あれば眠れる時代。
 ベッドに入る前に好みのハーブティーを一杯、それだけで気持ち良く眠れてしまう。
(ただなあ…。眠れるっていうだけだしなあ…)
 朝までぐっすりが売りだけれども、あくまで眠れない夜のためのもの。
 小さなブルーをたまに苛むメギドの悪夢を防げはしない。ブルーは眠っているのだから。眠って夢を見ているのだから、ハーブティーではどうにもならない。
(夢を見た後に怖くて眠れない、って時には効きそうなんだが…)
 如何せん、ブルーが悪夢にうなされて目覚めるのは夜中。
 小さなブルーはわざわざ階下に下りて行ってまでハーブティーを飲みはしないだろう。ただでも外は暗いのだから、そんな夜中に独りで湯を沸かし、ハーブティーを淹れたくはないだろう。
(部屋に置いておくっていうのもなあ…)
 熱い湯を満たしたポットとハーブティーとを部屋に置いておけば、夜中でも飲める。キッチンに行かずとも飲めるのだけれど、そんなことをすれば却って悪夢を呼びそうだ。悪夢への備えをしたばかりに。用意を整えておいたばかりに。



(…駄目だな、あいつにハーブティーはな)
 勧めるのはやめておこうと思う。ブルーも新聞は好きな方だし、広告にも気付いているだろう。欲しいと思えば母に強請って、きっと自分で手に入れる。
(しかし、あいつはチビなんだし…)
 大人と違って、そうそう眠れなくなったりはしない。神経が逆立つことはあっても、直ぐに他の何かで覆い隠されて忘れてしまう。今のブルーは十四歳の子供に過ぎないから。
(ハーブティーが要るなら俺の方だな)
 買いはしないが、と棚を眺めた。其処に並べたコレクション。
(俺にはあっちが似合いだってな)
 ハーブティーを買おうと思わない多くの男性と同じく、自分には酒。
 たまに前の自分の悲しい記憶に捕まってしまい、眠れないままに杯を重ねはするけれど。普段は寝付けない時にはこれだ、と軽く呷ってベッドに入れば深い眠りが訪れる。



(睡眠薬なんて名前を聞かない時代になっちまったなあ…)
 前の自分が生きたSD体制が敷かれた時代と違って、管理社会ではなくなった。人は皆ミュウになってしまい、たまに諍いが起こったとしても、思念に切り替えて話し合いをすればほぼ解決。
 人間関係の深い悩みは無くなり、医学の進歩で苦痛もすっかり軽減された。
 そういう世界に睡眠薬など要りはしなくて、眠れない夜にはハーブティー。自分好みのハーブを選んで淹れて一杯、でなければ酒。
 睡眠薬は今でも病院に行けばあるのだろうか?
 少なくとも薬局では全く見かけない時代、名前自体を聞かない時代。
 眠れないと言えばハーブティーを勧められるのが常、子供でも飲めて安全そのもの。
 扱いを間違えれば死に至ることもある睡眠薬のような物騒な薬は見かけない。処方して貰ったという人に出会ったこともない。
 ハーブティーだけで事足りる世界、カモミールやラベンダーなどを淹れて飲むだけで。



(前の俺は持っていたんだが…)
 今は名前すら耳に入らない睡眠薬を。
 前の自分は引き出しに隠し持っていた。愛用していた木で出来た机、その引き出しの奥に。
(文字通り隠し持つってヤツだな)
 管理していたドクター・ノルディの目をも誤魔化し、キャプテン権限で薬の残量のデータを書き換え、こっそりと。処方して貰った薬ではなく、密かに持ち出した睡眠薬。
 眠れなかったからではない。
 死ぬだけのために。
 自分の心臓を止めるためにだけ、致死量を超える睡眠薬を手に入れた。そして引き出しの奥へと隠した。誰にも気付かれないように。それを使う時まで知られぬようにと、奥の奥へと。



 前の自分が愛した恋人、ソルジャー・ブルー。
 かの人の葬儀をキャプテンとして取り仕切り、見送ったなら。
 愛してやまないブルーの魂を宇宙へ送り出したら、眠るように追って逝くつもりでいた。
 そのために持っていた睡眠薬。ブルーを送ったらそれを飲もうと、ブルーを追って旅立とうと。
(俺はそのつもりだったんだ…)
 ブルーとの約束を守るために。
 在りし日にブルーに誓った言葉を守って追い掛けるために。



 白いシャングリラの中、長い歳月を共に暮らして。
 死んでしまう、と泣き出したブルー。
 自分の身体はもう持たない、と。地球に着くまでは生きられないと。
(…あいつ、本当に子供みたいに泣いていたんだ…)
 ハーレイの広い胸に縋ってブルーは泣いた。恋人の腕の中、ただ泣きじゃくった。
 別れたくないと、離れたくないとブルーは泣いて。
 自分もまたブルーと同じ気持ちであったから。
(離れるだなんて、出来るわけがない…)
 ブルーの寿命が尽きるからといって、ただ見送るなど出来はしなくて。
 共に逝こう、とブルーに誓った。
 決してブルーを離しはしないと、命が尽きるなら自分も追ってゆくまでだと。
 そうして何処までも共にゆくのだと、離れはしないと幾度も誓った。
 ブルーが涙を零す度に。死んでしまうと泣きじゃくる度に。
 華奢な背を何度も撫でてやっては、口付けを交わしてはブルーに誓いを立て続けた。何処までも自分が共にゆくからと、離れることなど決してないから、と。



 ブルーを追うには自分の命を絶たねばならない。
 自分の最期が苦痛に満ちたものであったら、ブルーはきっと悲しむから。
 そうならないよう、睡眠薬を持ち出して隠した。眠りながら逝くならいいであろう、と。
(なのに…)
 ブルーは鼓動を止める代わりに長い眠りに就いてしまった。
 いつ目覚めるとも誰にも分からぬ、思念すらも感じ取れない眠り。
 追って逝こうにもブルーの肉体は生きているのだし、どれほどに辛い毎日だったか。行方不明の魂を追って死のうかとすら思ったほどに。
 それでも眠り続けるブルーに子守唄を歌い、いつか来る日を待ち続けた。
 ブルーの鼓動が止まってしまって、彼を見送る日が来るのを。彼の葬儀を終える日を。
 その日が来たら、と薬を持って生きていたのに。睡眠薬を引き出しの奥に隠していたのに…。



(あいつを失くしてしまったんだ…)
 ようやく目覚めてくれたブルーは、再会を喜ぶ時間さえも持てないままで宇宙に散った。
 メギドを沈めに飛んで行ってしまって、二度と帰っては来なかった。
 しかも、メギドへと飛び立つ直前。
 ジョミーを頼む、と言い残されて死ねなくなった。ブルーを追っては行けなくなった。
(あいつに言われちゃ、俺が死ぬわけにはいかないからな…)
 何度も立てた誓いがあっても、優先されるべきは遺言。ブルーが最後に残した言葉。
 ブルーが逝ってしまった時のために、と持ち続けていた薬には意味がなくなった。
 睡眠薬を飲み、ブルーを追ったら、彼の願いを叶えることが出来ないから。
 ジョミーを支えて生きねばならぬ、と唇を噛んで耐えるしかなかった。飲む筈だった引き出しの奥の薬を見詰めて、ブルーに何度も心で詫びた。
 今は行けないと、こうして薬は持っているけれど、今はまだ追っては行けないと。



 もしも薬を持っていたなら、発作的に飲んでしまうかもしれないから。
 ブルーの夢を見て飛び起きてしまった夜中などには追ってゆきたくてたまらないから。
 危険な薬は処分せねば、と涙ながらに宇宙に捨てた。
 夜勤の者以外はいない夜中に、宇宙へ繋がる細い管へと放り込んだ。キャプテンと一部の者しか知らないパスを打ち込み、暗い宇宙に通じる管を開け、薬を漆黒の世界へと撒いた。
 散らばってゆく薬は見えなかったけれど、展望室からその方角を眺めて泣いた。
 ブルーの名を呼び、いつか行くからと。
 いつかはブルーの側にゆくから、その日まで信じて待っていてくれと。



(もう一度、薬を手に入れるつもりだったんだが…)
 地球に辿り着いて、自分が要らなくなったなら。
 ブルーが遺した言葉を守って、ジョミーを支える役目を見事に果たしたなら。
 けれどその日は来なかった。
 睡眠薬の残量のデータを書き換え、盗み出す日は来なかった。それを飲む日も。
(死んじまったからな)
 死の星だった地球の地の底で、落ちて来る瓦礫に押し潰されて。
 何がどうなったのかも分からないまま、前の自分の命は其処で終わってしまった。直ぐ隣に居たブラウを咄嗟に庇ったけれども、死の瞬間には。
(これで行ける、と思ってたよなあ…)
 ブルーの許へと、メギドで独りで逝ってしまったブルーが待っている死の世界へと。



 そしてブルーとまた出会った。
 前の自分が死に際に思った死の世界ではなくて、青い地球の上で。
 アルタミラで初めて出会った時のような少年の姿のブルーに、十四歳のブルーに巡り会えた。
 すっかり子供になってしまったブルーだけれども、愛おしい。ただ愛おしくてたまらない。前のブルーよりも幼いけれども、生きて戻って来てくれたから。腕の中に帰って来てくれたから。
(あいつは知っていたんだろうか…)
 前のブルーは知っていたのだろうか、前の自分が薬を持っていたことを。机の引き出しの奥深く睡眠薬を隠して、それを飲む日を思い描いていたことを。
 ブルーが逝ったら、キャプテンとして葬儀を無事に済ませたら追って逝こうと。二度と目覚めぬ旅に出ようと薬を用意していたことを。
 そういえば話していないかもしれない。
 前のブルーに共に逝こうと誓ったけれども、そのための策を講じたことは。
(明日は土曜か…)
 訊いてみようか、小さなブルーに。
 薬のことを。
 前の自分が隠し持った末に、ブルーの名を呼び、暗い宇宙に捨てるしかなかった薬のことを。



 覚えておかねば、とハーブティーの広告を載せた新聞をダイニングのテーブルに置いて眠った。
 翌朝、見るなり思い出したから、もう大丈夫だとオムレツを焼いて、ソーセージも。コーヒーも飲んで腹ごしらえを済ませ、いい天気だからブルーの家まで歩いて出掛けた。
 道中、ハーブを育てている家の庭を見付けては頬を緩めながら。
 ハーブティーの元になるハーブが生えているなと、このハーブは何に使うのだったかと浮き立つ心で考えながら。
 今の時代は睡眠薬など要りはしなくて、眠れない夜にはハーブティー。
 けれどもハーブの使い道は多く、ラベンダーを植えているからといって住人が眠るためにそれを育てているとは限らない。カモミールもしかり。
 ローズマリーなら一番に浮かぶのが肉料理。小さなブルーの家の庭にも植わっていた。ブルーの母が作ったハーブガーデン、小さなブルーがローズマリーの小枝を使っておまじないもした。
(未来の結婚相手に会おうとしてたな、あいつ)
 そういうおまじないがあるのだ、と知って実践したブルー。
 傑作なことにキースと結婚する羽目に陥ってしまい、夢の話なのに当たり散らしていた。自分を助けに来てくれなかったと、結婚式場から攫う代わりに列席者の立場で祝福されたと。
 そんなブルーに会いにゆく。
 青い地球に生まれ変わったブルーに、幸せな時代に生まれたブルーに。



 物騒な睡眠薬は頭にあったけれども、あちこちに植わったハーブを探しながらの散歩道。終点は小さなブルーが両親と一緒に住んでいる家、緑の生垣に囲まれた家。冬でも葉を落とさない種類の木が植えてあるから、秋といえども艶やかな緑。
 門扉の脇にあるチャイムを鳴らすと、二階の窓からブルーが覗いて手を振った。手を振り返して待っている間に、ブルーの母が門扉を開けにやって来る。そうして二階へ案内されて…。



 ブルーの部屋で二人、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせ。
 暫くは途中で見て来たハーブの話や、庭の花々の話などをして時を過ごして。やおら話題を切り替えた。前の自分が引き出しの奥深く、隠し持っていた睡眠薬へと。
「ブルー。俺が持っていた薬を知っているか?」
「ハーレイ、病気?」
 小さなブルーは目を丸くした。頑丈そうなのに何の病気かと、薬を飲まねばならないのかと。
「いや、前の俺だ。今の俺は薬なんぞは無縁だ」
「前のハーレイ?」
 病気だったの、前のぼくは聞いていないけど…。
 薬なんかを持っていたくらい、何処か具合が悪かったの?
「ということは、お前、知らないんだな。薬でピンと来ないってことは」
「何を?」
「前の俺が引き出しに持っていた薬だ」
 うんと沢山持ってたんだが、お前、どうやら知らないようだな。
「何の薬?」
 沢山だなんて、やっぱり病気?
 ハーレイ、元気なふりをしてただけで、いつもドクターに診て貰っていたの?



 何の薬かとブルーが問うから、睡眠薬だと答える代わりに持っていた錠剤の名前を告げた。
 これだ、と言えばブルーの顔色が変わる。
 前のブルーは豊富な知識を持っていたから、それが何かも分かったようで。
「なんのために持ってたの、それ」
 ハーレイ、沢山持ってたって言うけれど…。キャプテンの仕事で眠れなかった?
 飲んでいる所を見たことないけど、青の間でもコッソリ飲んでいたの?
「いいや。何のためか、ってことになったら、お前のためだな」
「えっ…?」
 どうしてぼくのために持ってたの、それを?
 ハーレイが持っておかなきゃいけないだなんて、そんなこと…。



 ぼくはきちんと眠れていたよ、とブルーが言うから。
 ハーレイが側に居てくれたお蔭でいつも眠れたと、そうでない時はドクターに薬を貰っていたと言うから。
 何故ハーレイが持っていたのか分からない、と不思議がるから。
「違う、お前に飲ませるための薬じゃないんだ」
 俺がお前を追って行くためだ、うんと沢山必要だろうが。
「ハーレイ、それって…」
 死んでしまうよ、そんな薬を沢山飲んだら。それを飲んでぼくを追い掛けるって…。
「そうさ、お前との約束だった。何処までも一緒だと誓っただろうが」
 お前が破ってしまったがな。
 ジョミーを頼む、と俺に言い残してアッサリと。
 お前だけ独りで逝ってしまって、俺には追うなと言うんだからな。



「ハーレイ…」
 小さなブルーの赤い瞳がゆらゆらと揺れた。今にも涙が零れ落ちそうな瞳の色。
 桜色の唇を小さく震わせ、ハーレイを見上げて尋ねてくる。
「…死ぬために薬を持っていたの?」
 前のぼくが死んだら追い掛けるために、ぼくと一緒に来てくれるために。
「ああ。俺が追い掛けて行ってやらんと、お前は独りぼっちだろうが」
 一緒に行ってやると誓った、何処までもな。
 前のお前が寿命が尽きると泣く度に何度も誓っただろうが、俺も一緒に逝くからと。
 直ぐには逝けんが、お前の葬儀を済ませたら逝こうと決めていた。
 俺が苦しんで死んだらお前はきっと悲しむだろうし、そのために睡眠薬だったんだ。眠ったまま二度と目覚めないなら、何も苦しみはしないだろうが。
 手に入れるために少し苦労したがな、キャプテン権限で薬の残量を書き換えるとかな。ついでにノルディがいない間にメディカルルームに忍び込むとか。
「そうなんだ…。ハーレイ、そこまで考えていてくれたのに…」
 ぼくを追おうとしてくれてたのに、ぼくはなんにも知らなくて…。
 ハーレイが薬を用意していたなんてことも知らずに、ぼくだけ勝手に死んじゃった…。
 それだけじゃなくて、ぼくはハーレイに…。
「仕方ないさ、知らなかったんならな」
 前の俺の覚悟を知らなかったんだから仕方ない。
 俺はお前に話さなかったし、お前も俺の心は読まない。
 気付かなくっても仕方なかったさ、俺が薬を用意していたことなんかはな。



「その薬…。知っていたら、ぼくはどうしただろう?」
 ハーレイが薬を持っていたこと、知っていたならどうしただろう?
「ん? 言えなかったか、ジョミーを頼むと」
 支えてやってくれと頼む度胸は無かったのか?
 俺がお前を追おうと薬を持っていたなら。使うつもりで持っていることを知っていたなら。
「言えなかった……かもしれない」
 だって言えないよ、生きろだなんて。
 ハーレイはぼくを追うつもりなのに。ぼくとの約束、守るつもりで薬まで用意してるのに。
「それでもお前は言ったんだろう? ジョミーを頼むと、俺に向かって」
 俺の方の気持ちは置いておいても、お前の方。
 どんなにお前が俺に追って来て欲しいと思っていたとしても、そうは言わずに。
 薬は使うなと、生きてジョミーを支えてくれと言ったんじゃないのか、ソルジャーとして?
「どうだろう…?」
 あの時はそう言って行ったけれども、ハーレイの覚悟を知っていたなら。
 ソルジャーとしての言葉は言えずに終わっていたかもしれない。
 ハーレイの腕に触れて、その温もりを最後まで持って行こうとしたのが前のぼくだよ?
 そのハーレイは死ぬ気なんだ、と知っていたなら、甘えていたかも…。
 誰もハーレイを引き留めないなら、必要だと泣いて縋らないなら追い掛けて来てと。
 そう言いたいのをグッと堪えて、もうそれだけで精一杯で。
 ジョミーを頼む、と言えたかどうかは分からないよ。
 だって、そう言ったら、ハーレイは決してぼくを追い掛けて来てはくれないんだものね…。



 分からない、とブルーは言ったけれども。
 前の自分が薬の存在を知っていたなら、追って来て欲しいと思ったのかも、と言ったけれども。
 それはもう遠く遥かな昔の話で、今の自分たちは生きているから。
 青い地球の上で巡り会って再び生きているから、小さなブルーはこう念を押した。
「ハーレイ、今度はそんな薬は無しだよ」
 変な薬は用意しないでよ、そんなの必要無いんだから。
「分かってるさ。今度こそ一緒に行くんだろ?」
 俺もお前も、二人一緒に。今度は絶対に離れないで。
「うん。ぼくたちが来た場所へ一緒に戻るんだよ」
 何処に居たのか分からないけれど、此処へ来る前に二人で居た場所。
 其処へハーレイと二人で帰って行くんだ、今の命が終わったら。
 二人一緒だから、薬は無し。
 先も後もなくて同時に命が終わるんだったら、薬なんかは要らないんだもの。
 だから薬は用意しちゃ駄目。そんな悲しい使い方の薬、絶対に用意しないでよね。



「うむ。薬は用意しないと約束するが、だ」
 俺の方が先だと思うがな?
 今度はお前よりも年上なんだし、俺の方が先に寿命が尽きると思うんだが…?
「言わないで! ぼくも一緒に行くから!」
 ハーレイが先だと言うんだったら、ぼくも一緒に連れて行ってよ。
 だけど薬とかを使うんじゃなくて、ホントに一緒。
 ハーレイの心臓が止まる時にはぼくの心臓も同時に止まって、二人一緒に死ねるのがいい。
 そのために心を結んでおいてよ、ぼくとハーレイとの心を一つに。
 ぼくのサイオンは不器用すぎるから、ハーレイにお願い。
 ぼくたちの心の何処かをきちんと結び合わせておいたら、きっと心臓も同時に止まるよ。
「そういう約束、したっけな。…俺とお前の心を結ぶという約束」
 結婚する時に結んでおくか、って言っておいたが、お前、覚えていたんだな。
 心を結ぶなんて方法、サイオンの一部を絡めておくしかないんだろうが…。
 それでいいのか、お前、本当に俺の命に引き摺られるぞ?
 俺の寿命が尽きちまった途端、お前まで死んでしまうんだがな?



「ぼく、本気だよ?」
 もしもハーレイが心を結んでくれないままで、ぼくよりも先に死んじゃったら。
 ぼくは追い掛けて直ぐに死ぬから、そっちの方が可哀相だと思わない?
 いくら直ぐでも、ハーレイが死んじゃって悲しい思いをするんだよ、ぼくは。
 そんなの嫌だし、独りで泣くよりハーレイと一緒。
 寿命が前より短くっても、ハーレイと一緒がいいんだよ。
「そうだろうな」
 お前だったらそうなんだろうな、独りで残って生きていたって仕方がないと言うんだろうな。
 せっかく地球に生まれて来たのに、そいつもアッサリ捨てちまうんだ。
 俺がいなけりゃ意味が無いんだと、地球なんかはもうどうでもいいと。
「ハーレイ、分かっているじゃない」
 それなら、ぼくが薬を用意しなくていいようにしてね、ちゃんと一緒に死ねるように。
 ハーレイが心を結んでくれなきゃ、ぼくは薬を飲むしかないし…。
 泣きながら薬を飲むのは嫌だよ、ハーレイと一緒に行くんだよ。
 もうちょっとくらい生きたかったな、なんて言いはしないから、何処までも一緒。
 ぼくに薬を用意させないでよ、約束だよ?



「そこまで言われちゃ、俺も約束を破るわけにはいかないな」
 前のお前には破られちまったが、だからと言って仕返しに約束を破りはしないさ。
 結婚したなら、お前の望み通りに心を結ぼう。二人で一緒に死ねる仕掛けをしておこう。
 お前が薬を用意しなくても済むように。
 泣きながら独りで飲む羽目になってしまわないように。
 だがな…。今じゃああいう薬は無いぞ。少なくとも普通の病院で貰えるものではないな。
「そうなの? 前のぼくたちの頃でもノルディが管理していたけれど…」
 もっと管理が厳しくなったの、病院で頼んでも貰えないの?
「そうじゃなくてだ、眠れないなら薬の代わりにハーブティーらしい」
 お前みたいなチビが飲んでも安心設計の薬だな。
 いや、ハーブティーだから飲み物か…。
 とにかく色々な種類があってだ、そいつを好みで選んで飲んだら眠れる時代だ。睡眠薬みたいに激しい効き方はしないんだろうな、自然な眠りが売りらしいしな。
 俺はそいつを飲んだことはないが、朝までぐっすり眠れるらしいぞ。
「へえ…!」
 薬じゃなくってハーブティーなんだ、ハーブは元々、薬だったと言うものね。
 ハーブティーを飲むだけでしっかり眠れるんなら、危険な薬はもう要らないよね…。



 それだと何杯必要なの、とブルーが訊くから。
 眠るためのハーブティーの飲み過ぎで死ぬような事故が起こるとしたらどのくらいなの、と興味津々で訊いてくるから。
「前の俺が持っていた薬の量に匹敵するほどの致死量のことか?」
「そうだよ、飲み過ぎで死んじゃうこともあるのかなあ、って」
 ハーブも元はお薬なんでしょ、どうなのかな、と思ったんだよ。
「うーむ…。俺もそれほど詳しくはないが、前の俺がハーブティーを飲んで、前のお前を追い掛けようと考えたならば…」
 死ぬよりも先に眠っちまうことだけは間違いないな。
 なにしろ効き目が自然な上に、何十杯と飲んだくらいじゃ死なないだろうし…。
 飲み過ぎて腹がふくれて来たから一休みだ、と思った途端に寝てるんじゃないか?
 そりゃあ盛大にイビキでもかいて、目覚めた時には朝になってて振り出しに戻るというヤツだ。
「ふふっ、死ねないんだ。ハーブティーだと」
 眠れないって言っても、今の時代は死ねないようなハーブティーしか無いんだね。
 うんと平和な時代なんだね、死ぬための薬が見付からないほど。
「うむ。今はそういう世の中らしい」
 前の俺が必死に探し回っても、薬は何処にも無いってな。
 ついでにお前を追って逝こうと頑張らなくても、お前は帰って来たんだからな。



 いい時代だな、とハーレイは笑う。
 前の自分が持っていた薬は使えないままで捨てるより他に無かったけれども、追えなかった筈のブルーと一緒に青い地球まで来られたから。
 生きて再び、地球の上で巡り会えたから。
 そして今度は置いて逝くことも、置いて逝かれることもしないで二人一緒に。
 この地球の上で幸せに生きて、いつか二人で一緒に旅立つ。
 生まれ変わる前に二人で暮らしていたのであろう、二人きりで幸せに過ごせる場所へと。
 其処へ還ってゆくためにと。
 前の自分が用意していた睡眠薬などはもう要らない。
 眠りたいならハーブティー。
 そんな穏やかな世界でブルーと生きよう。いつか二人で旅立つ日まで…。




            眠るための薬・了

※前のハーレイが用意していた睡眠薬。いつかブルーを追ってゆくために、と。
 それを捨てるしかなかった運命。今のブルーとは、命が終わる時も、その後も一緒です。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv




夏休みといえば、柔道部の合宿で始まるもの。その間、ジョミー君とサム君が璃慕恩院へ修行体験ツアーに行くのも毎度お馴染みのコースです。男の子たちが全員いなくなりますから、その間、スウェナちゃんと私は会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、フィシスさんと遊んで暮らして。
「かみお~ん♪ 今日のプールも楽しかったね!」
会長さんの家で女性多めの夕食会。フィシスさんが来ているから、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が口当たり軽めのコース料理を作ってくれて、美味しく食べた後はデザート。イチゴのスープ仕立てですけど、こうした日々も今日までで…。
「明日はみんなが帰って来るのね…」
残念なような楽しみなような、とスウェナちゃん。
「賑やかなのは嬉しいけれど、のんびりとは程遠いわねえ…」
「うん、多分…」
明日はジョミー君の愚痴祭りから始まるでしょう。璃慕恩院で如何に酷い目に遭ったかを語り、二度と御免だと言うわけですけど、夏休みが来る度に璃慕恩院送りになっています。会長さんが勝手に申し込み、強制的に行かせてしまうお約束。
「気にしない、気にしない!」
賑やかにいこう、と会長さんは明るい笑顔。
「みんなが戻って三日もすればマツカの山の別荘だしね? きっと今年も素敵だよ、うん」
「わぁーい、別荘! 馬に乗りたぁーい!」
今年も乗るんだ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大はしゃぎ。馬と言ってもポニーなのですが、乗馬クラブで乗せて貰うのがお気に入りです。ハイキングに湖でのボート遊びと盛りだくさんな山の別荘。今年は何をして遊ぼうか、と男の子たちの行動にも思いを馳せていたら。
「…山の別荘なのだけれど…」
フィシスさんが少し心配そうに。
「何だか荒れそうな予感がするのよ、予感だけれど」
「荒れそうだって?」
どんな風に、と会長さん。
「空模様なら気を付けないと…。ハイキングでも遭難する時はするし、ボートも怖いし」
「どうなのかしら? 勘だけでは、ちょっと…」
「じゃあ、占ってくれるかい?」
「…ええ。詳しく分かればいいのだけど…」
フィシスさんは奥の部屋からタロットカードを持って来ました。会長さんの家にも置きカード。流石は会長さんの恋人、そんなものまでキッチリ揃っているんですってば…。



「結局、分からなかったわねえ?」
翌日、スウェナちゃんと私は待ち合わせ場所のバス停で顔を合わせてフウと溜息。もうすぐジョミー君やキース君たちも来る筈ですけど、まだ私たちしかいなかったために昨日の続き。
「荒れはするけど、別荘はちゃんと行けるんだっけ?」
「そうそう。だけど、その別荘で波乱がどうとか」
なんだろう? と顔を見合わせてみても分かるわけがなく、フィシスさんから貰った言葉は「気を付けて」ではなくて「楽しんできてね」。占った結果、荒れはしても結果オーライというか、別荘ライフは楽しめそうだという結論が出たのです。
「どう荒れるのかしら、やっぱりお天気?」
「そっちは無いって言ってなかった?」
そういうカードは出なかった筈。会長さんも「開き直って楽しめってことかな?」と念を押してましたし、フィシスさんの答えは「ええ」。だから何とかなるのであろう、と前向き思考。
「あっ、あのバス!」
「ジョミーが来るわね、それにサムとか」
バス停に滑り込んで来たバスから疲れた顔のジョミー君が降り、続いてサム君。愚痴祭りは会長さんのマンションに着くまで始まりませんし、まずは「お久しぶり」と挨拶から。そこへキース君たちのバスも到着して全員集合、みんなで歩き始めたのですが。
「えっ、荒れる?」
なんで、と不思議そうなジョミー君。
「山の別荘って大抵、平和だと思ったけどなあ…」
「お前のお蔭で心霊スポットに行っちまった年もあったがな?」
迷惑だった、とキース君がしかめっ面。
「フィシスさんの予言が出ている以上は自重しろ。今年はお前の意見は聞かん」
「意見も何も、特に無いけど…」
とりあえず馬に乗りたいだけ、とジョミー君が言い、サム君も。
「行動パターンは決まってるよなあ? それによ、あっちは俺たちだけで出掛けるんだしよ」
「ですね、余計な人は来ません」
シロエ君が大きく頷きました。
「荒れると言っても、きっと海の別荘よりマシですよ。あっちは毎年、大荒れです」
「…大荒れと言うか、迷惑と言うか…」
バカップルだな、とキース君。結婚記念日合わせで海の別荘に押し掛けて来るソルジャー夫妻は毎年迷惑、あれに比べればバカップル抜きの山の別荘は荒れてもたかが知れているかも…。



会長さんの家に着いた後は、予想通りにジョミー君の愚痴祭りという名の独演会。今年の璃慕恩院は如何にハードで厳しかったかを滔々と語るわけですけれども、そこは全員、慣れたもの。「分かった、分かった」とスル―しながらティータイムで。
「ところで、だ」
キース君が会長さんに切り出しました。
「ジョミーの愚痴は放置するとして、予言があったと聞いているが」
「フィシスのかい? あれはぼくにも分からなくてねえ…。今年の山の別荘ってヤツは荒れるけれども楽しめるらしい。命の危険は無いと言うから、開き直れという意味かな、と」
会長さんの答えに、キース君は。
「あんた自身はどう思うんだ? 俺としてはだ、余計な阿呆が来ない分だけマシと踏んだが」
「ブルーたちだろ? ブルーは山の別荘にも突発的に湧いてくれるけど、おやつ目当てで来るだけだしねえ…。貰う物を貰ったら消えてくれるし、荒れる要素はブルーではないと思うんだ」
「俺も同意だが、荒れても楽しめると言われるとな…」
サッパリ意味が掴めんのだが、とキース君が考え込むと。
「荒れても毎年、楽しんでるじゃない!」
ジョミー君が食ってかかりました。
「ぼくがあんなに苦労したのに、みんな笑って聞いてるだけだし! 今年なんか罰礼やらされたんだよ、もういい加減慣れただろう、って!」
罰礼、すなわち五体投地。南無阿弥陀仏に合わせてやるため、スクワットに匹敵するとも聞かされています。キース君がアドス和尚に食らう時には百回だったりするのですけど、ジョミー君は三十回コースで食らったそうで。
「他の子たちはやってないんだ、ぼくだけなんだよ! おまけに姿勢がなってないって叱られちゃったし、来年までに覚えてこいって!」
「そりゃ良かったな。毎日練習するのが吉だぞ、身体で覚えろ」
さあ頑張れ、とキース君。
「とりあえず其処でやってみろ。姿勢は遠慮なく指導させて貰う」
「ほら、遊んでるし! ぼくにとっては悲劇だったのに、楽しんでるし!」
山の別荘もそんな調子だ、とジョミー君はギャーギャーと。
「もしかしなくても、ぼくのことじゃないの? 罰礼の回数が段階的に増やされるとか!」
「それでお前が脱走するのか? 楽しめそうだな」
山狩りだな、というキース君の台詞に大爆笑。ジョミー君が大脱走で皆で追うなら大荒れです。なおかつ充分に楽しめそうですし、フィシスさんの予言ってこれのことかな?



荒れても楽しめるらしい山の別荘。どう荒れるのかを予想し合って賭けるという案も出て来ましたが、ジョミー君の大脱走で意見の一致を見てしまったため、それでは賭けになりません。蓋を開けてのお楽しみとなり、翌日も会長さんの家に遊びに来たのですけど。
「…あれっ?」
お客様かな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ピンポーンと玄関チャイムの音が。
「ブルー、聞いてた? お客様?」
「いや、ぼくは…。嫌な予感しかしないんだけど…」
開けなくていい、と会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出ようとするのを止めました。
「フィシスが来るとは聞いていないし、もちろん他にも予定は無い。このマンションに入って来られる人は限られているし、宅配便なら管理人さんが受け取るしね?」
「そだね、連絡、来るもんね!」
サイオンを持った仲間だけしかいないマンション。最上階の会長さんの部屋はソルジャー仕様で、二十光年の彼方を航行中のシャングリラ号との連絡設備を備えたものです。それだけに部外者は管理人さんが入口で止めて、中へ連絡してくる仕組み。宅配便だって例外では無く…。
「…また鳴ってますよ?」
シロエ君が玄関の方へ目をやる間もチャイムの連打。会長さんは「間違いない」と苦い顔つき。
「このしつこさといい、心当たりは一人しか無い。ぼくは留守だよ」
「えとえと、お留守?」
なんだったっけ、と尋ねる「そるじゃぁ・ぶるぅ」に「居留守!」と一言。
「この部屋には今は誰もいないし、出るわけがない。出入りの記録が無かったとしても、ぼくはドアなんか使わずに出掛けられるしね?」
「かみお~ん♪ 瞬間移動でお出掛けだもんね!」
で、誰なの? と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「お留守にしておくお客様って、誰?」
「この手の馬鹿は一人しかいないさ、ハーレイだよ」
「「「あー…」」」
なるほど、と私たちは納得しました。会長さん一筋、片想い歴が三百年以上の教頭先生。夏休みだけに電撃訪問も大いにありそう、管理人さんにも顔パスですし…。
「花束つきでしょうか?」
シロエ君の読みに、サム君が。
「菓子とかもついているんじゃねえか? ついでに何かプレゼントな」
うんうん、実にそれっぽいです。チャイムはガンガン鳴ってますけど、ここで扉を開けてしまったら負けですよねえ?



チャイムは無視して留守のふりだ、と知らん顔をする私たち。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飲み物のおかわりの注文を取り始めましたが。
『馬鹿野郎!』
俺だ、と部屋に響いた思念波。
「「「えっ!?」」」
この思念波って……キース君?
『誰と間違えてやがるんだ! いいからさっさと中に入れてくれ!』
「…き、キース?」
今日は卒塔婆じゃあ、とジョミー君が玄関の方を窺いながら。
「確か山の別荘に出掛けるまでは卒塔婆書きだよね、お盆の準備で」
「そう聞いてますが…。でも、この思念波は先輩ですね」
教頭先生では有り得ませんよ、とシロエ君も玄関の方を見ています。
「会長、玄関にいるのはキース先輩じゃないですか?」
「…う、うん…。ハーレイだとばかり思ってたけど…」
違ったらしい、と会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「居留守、撤回! 開けて入れてあげて」
「オッケー!」
飛び跳ねて行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、直ぐにキース君を連れて戻って来ました。キース君は不機嫌MAX、機嫌の悪さが顔にしっかり出ています。
「よくもサックリ無視してくれたな、みんな揃って!」
「ごめん、ごめん。つい、ハーレイかと思ってしまって…」
まあ座って、と会長さんがソファを勧めながら。
「ぶるぅ、キースのレモンパイは大きめに切ってあげてよ、居留守のお詫び」
「うんっ! セットでアイスコーヒーだね!」
キッチンへ駆けてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」ですが、キース君は。
「あんたな…。落ち着いている場合じゃないと思うぞ」
「えっ、どうして?」
「俺に居留守を使ってくれたが、俺と間違えたという教頭先生の最新の消息、知らんようだな」
「知らないけど?」
知る必要も無いことだしね、と涼しい顔の会長さん。
「そのハーレイがどうかしたのかい?」
「どうかしたも何も!」
ダンッ! とテーブルを叩くキース君。教頭先生、何かなさっておられるんですか?



会長さん一筋な教頭先生、積極的なアタックに出られることもありがちです。夏休みともなれば開放的な気分になって当たって砕けろもありそうですけど、何故にキース君が教頭先生の消息なんかに詳しいと…?
「シロエ、お前は聞いてないのか?」
キース君の問いに、シロエ君は。
「何をです?」
「だから、事件だ!」
「「「事件?」」」
何事なのか、と目を見開いた私たち。教頭先生の最新の消息って、事件性のあるものだとか?
「キース先輩、事件というのは教頭先生絡みですか?」
「当然だろうが! マツカ、お前も聞いてないのか、誰からも?」
「…えーっと…。キース、それは柔道部からの情報でしょうか?」
マツカ君が携帯端末を取り出し、チェックしてみて。
「ぼくには何も…」
「ぼくもですね」
何も無いです、とシロエ君。
「キース先輩には誰かが何かを?」
「…くっそお、俺が坊主だからか? だから来たのか?」
「「「はあ?」」」
事件で、おまけにお坊さん。何のことやら謎ですけれども、もしかしなくても…。
「キース、まさかの枕経とか…?」
ジョミー君が声を震わせて。
「教頭先生、事件に巻き込まれてお亡くなりとか…? それでキースが枕経?」
「「「ええっ!?」」」
まさか、と仰け反る私たち。枕経は人が亡くなった時に最初に唱えられるお経で、お坊さんが出掛けてゆくものです。教頭先生に枕経なんて事態だったら、そりゃキース君も慌てますが…。
「なんで其処まで飛躍するんだ、事件と坊主で!」
「違うわけ?」
「当たり前だ!!」
もうちょっと考えて物を言え、とキース君は握った拳をブルブルと。
「まだ其処までは行っていないと思いたい。…思いたいんだが!」
実にヤバイ、と顔色が良くないキース君。枕経では無いようですけど、限りなくそれに近いとか?



「…柔道部の主将から電話が来たんだ、俺の所へ」
キース君は「そるじゃぁ・ぶるぅ」が運んで来たアイスコーヒーを一口飲んで。
「夏休み中は朝練をやっているだろう? 俺たちは見事にサボッているが」
「そうですねえ…。サボリと言うか、実力が違いすぎるせいで自主欠席と言うか」
自主トレだけで充分ですし、とシロエ君。柔道部三人組は元から凄かったキース君とシロエ君に加えて、マツカ君も今や実力者。頼まれない限り、休み中の朝練などは欠席です。
「その朝練。…教頭先生も顔を出されることが多いが、昨日はお休みなさったらしい」
「別にいいんじゃないですか?」
「俺もそう言ったんだが、合宿の総括をする予定だったと言われてみれば…な」
何かが変だ、とキース君。
「俺たちは合宿は参加するだけだし、その後のことまでは知らないが…。総括となれば報告もあるし、教頭先生が御欠席というのは有り得んぞ」
「急な研修が入ったとかもありますよ」
シロエ君の発言に、会長さんも「うん」と頷きました。
「その線もあるし、シャングリラ号の方かもしれない。夏休み中は大規模な人員交代があるからねえ…。ハーレイはあれでもキャプテンなんだし、呼び出しがかかる時だってあるさ」
「それなら連絡なさると思う。…ところが全く連絡無しでの無断欠席、携帯端末も繋がらなかったらしくてな」
あれは宇宙でも繋がる筈だ、と言われてみればその通り。会長さんや先生方の携帯端末は特別仕様で、ワープ中でない限り二十光年の彼方にいようが連絡は取れる仕組みです。
「…繋がらないって?」
逃げたかな、と会長さんが人差し指を顎に当て…。
「自由な夏休みを満喫するべく、携帯端末も放ってトンズラ! いつだったかグレイブがやらなかったっけ? ミシェルとセットで南の島でのリゾートライフ」
「俺は知らんが、あったのか?」
「あったんだよねえ…。いけない、一般の仲間には秘密だったかな? あの二人のサボリ」
喋っちゃった、とペロリと舌を。
「忘れといてよ、今の件はさ。…ハーレイもそういうヤツじゃないかな、小心者だから近場の温泉くらいだろうけど」
「…書き置きが置いてあってもか?」
「「「書き置き!?」」」
それってアレですか、捜さないで下さいとか、そういう書き置き? 教頭先生、家出したとか?



「書き置きだって? それはまた…」
ゴージャスだねえ、と会長さんは感心したような口調でのんびり。
「何処へ消えたかな、やっぱり温泉? それとも南の島のリゾート…」
「あんた、どういうつもりなんだ! それでも俺たちのソルジャーなのか!?」
キース君が憤然と。
「教頭先生が行方不明なんだぞ、書き置きを置いて! 柔道部の主将に行方を聞かれたゼル先生が見に行ってだな、「捜さないで下さい」と書いたヤツを書斎で見付けたとかで!」
「うーん…。でもねえ、ぼくは聞いていないし」
緊急性は皆無であろう、と会長さんは断言しました。
「今までお世話になりました、と書いてあったなら多少はマズイ。場合によっては枕経の出番もあるだろう。…だけど「捜さないで下さい」だけだと、温泉か南の島くらいかと」
北の大地でグルメもアリか、と会長さん。
「ゼルから連絡が無いってことはさ、ソルジャーのぼくに知らせる必要は無いっていう意味。それどころか知らせない方がいいと判断したんじゃないかな、ゼルたちは」
行方不明なら長老に連絡が回る筈だ、というのが会長さんの見解でした。連絡網とでも呼ぶのでしょうか、教頭先生を含めた五人の長老の先生方のネットワークがあるのだそうです。其処で協議してソルジャーである会長さんに知らせるかどうかを決めるとか。
「ぼくが思うに、捜さないで下さいっていうのは形だけだね。実際の所はその逆かと」
「「「逆?」」」
「捜して下さい、ってパフォーマンスさ。ぼくに心配してくれっていうメッセージ」
そうに決まっている、と手厳しい読み。
「恐らく、ゼルたちはその辺の事情に気付いたんだと思うわけ。…ぼくは書き置きを見ていないけれど、残留思念で真意が読めることもある。でなきゃ何らかの動かぬ証拠が在ったとか…。ハーレイの場合はやってそうだよ、リゾートホテルの予約を取った形跡とかね」
「…なるほどな…」
慌てた俺が馬鹿だったろうか、とキース君。
「緊急事態だと思い込んだから、卒塔婆書きを放って飛び出してきたが…。分かった、帰って真面目に続きを書こう」
「そうしたまえ」
会長さんが「ぶるぅ、レモンパイをお土産にあげて」と促し、キース君の卒塔婆書きのお供に二切れほどが箱詰めされて。
「頑張って卒塔婆を書くんだね。山の別荘も近いんだしね」
あと一日半、と送り出されるキース君を私たちも笑顔で見送りました。ご苦労様です、キース君!



キース君が元老寺へと帰って行った後、会長さんが腕組みをして。
「さてと…。これかな、フィシスが言ってた件は」
「「「え?」」」
「山の別荘は荒れるってヤツだよ、まさかハーレイが消えるとはねえ…。山の別荘には呼んでないけど、その辺も関係しているかもね?」
ぼくと憧れのリゾートライフ! と妙な台詞が飛び出したからビックリです。会長さんとのリゾートライフが何ですって?
「例の書き置きだよ、捜して欲しいって言わんばかりに消えちゃって…。ゼルから連絡が無いのが怪しい。だけどキースやシロエたちがいるし、柔道部の方からいずれは知れる」
ハーレイの狙いは多分そこだ、と会長さん。
「ぼくに捜して欲しいわけだよ、ついでに心配して欲しいわけ。捜したんだよ、と迎えに来たぼくを引っ張り込んでさ、そのまま夢のリゾートライフを」
「「「リゾートライフ?」」」
「海だか山だか知らないけどねえ、ぼくと満喫しようと思って何処かに隠れていそうだけれど? 捜し出したが運の尽きってヤツで、ぼくも付き合わされるんだ」
その線で絶対に間違いは無い、と会長さんは教頭先生の家がある方を睨んで。
「ハーレイが隠れた場所によるけど、山の別荘は行き先変更になるかもしれない。…ぼくが捜すのを待っているなら、是非とも行ってあげないと…。でもって夢をブチ壊す!」
「…壊すのかい?」
いきなり後ろから聞こえた声に、私たちがバッと振り返ると。
「こんにちは」
紫のマントがフワリと翻り、ソルジャーが姿を現しました。
「ハーレイが消えたって言うから覗き見してたら、ブルーが追い掛けて行くんだって? それなのに愛の告白じゃなくて、ハーレイの夢を壊すだなんて…」
酷すぎないかい、とソルジャー、溜息。
「捜してくれって言わんばかりに消えたんだろう? だったら捜して愛の告白! そういうのを期待してると思うな、こっちのハーレイ」
「それっぽいから壊すんじゃないか、迷惑極まりない夢を!」
山の別荘に行こうと言うのに用事を増やしてくれちゃって、と会長さんは不愉快そうに。
「ぼくは楽しみにしてたんだってば、マツカの山の別荘行き! それなのにハーレイ捜しだよ?」
「だからと言って壊さなくても…」
楽しめばいいと思うけどねえ、とソルジャーは大きく伸びをすると。
「ハーレイも山の別荘だよ? ただし自前じゃないけどね」
「「「山の別荘!?」」」
何ですか、それは? ソルジャー、教頭先生の行き先をしっかり掴んでますか?



降ってわいたソルジャーのお目当ては昼食タイム。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が用意していたスパイスたっぷりエビ入り焼きそばとガーリック風味のスパイシーなお粥、どちらも好きなだけ食べ放題。早く食べたいと騒いだ挙句に、ダイニングのテーブルに陣取っています。
「いいねえ、夏はこういうのが美味しいってね」
お粥もいいし焼きそばもいい、と食べていますが、会長さんは。
「昼御飯は出したし、例の情報! ハーレイは何処に隠れてるって?」
「目と鼻の先って言うのかなあ? けっこう近いよ」
あっちの方向に車なら多分二時間ほど、とソルジャーはスプーンでお粥を掬って。
「君もソルジャーなら分からないかな、ハーレイの居場所」
「積極的には知りたくないし! 楽をして分かるならそれで充分だし!」
「やれやれ、ハーレイも報われないねえ…。君が推測していた通りに予約した形跡を残しているし、こっちのゼルたちも調べがついてるようだけど…」
肝心の君が捜してあげないなんて、と深い溜息。
「まあ、いいけどね? 教えたら捜しに出掛けるだろうし、それから愛を育んでくれれば…」
「育まないっ!」
会長さんは即答でした。
「そんな予定は何処にも無いし、これからも無い! それで何処なのさ、隠れてるのは」
「言っただろう? 山の別荘だってば!」
とても素敵な別荘なのだ、と微笑むソルジャー。
「マツカの別荘には敵わないけど、丸ごと一軒借りられるタイプ。近くに綺麗な川もあるしさ、庭ではバーベキューも出来るという場所!」
「…そんな所に隠れたわけ?」
「君が来るのを今か今かと待ち焦がれてるよ、寝室もしっかりあるものだから」
こういう所、とソルジャーがパチンと指を鳴らすと宙からヒラリとリーフレットが。
「ハーレイの書斎に突っ込んであったよ、こっちのゼルたちは気付かなかったみたいだけれど」
「「「…貸し別荘…」」」
アルテメシアからそう遠くない山あいの村の貸し別荘。教頭先生が書き置きを残して向かった先は、何棟かの二階建ての貸し別荘が点在する緑豊かな谷間でした。川遊びに魚釣りなど自然を満喫できる場所。貸し別荘は家族やグループ用で、収容人数も多くって。
「うーん…。十人超えでもいけるって? そこに一人で隠れるとはねえ…」
無駄に広すぎ、と会長さんが呆れた口調で言えば、ソルジャーが。
「ハーレイのお目当てはコレだと思うよ、夫婦用の部屋も備えてます、って」
ダブルベッド! と指差す箇所にそういう部屋がありました。教頭先生、先走り過ぎ…。



会長さんに捜して貰って引っ張り込むべく、ダブルベッドの部屋を備えた貸し別荘に隠れた教頭先生。ソルジャーに呆気なくバレた理由は、ダダ漏れの思念という話。
「隠れたと言うから軽く捜してみようかと…。ちょっと思念を研ぎ澄ましてみたら引っ掛かったよ、ハーレイの思念! 君の到着をワクワク待ってる」
「…馬鹿じゃないかと思うけどねえ?」
捕まえた、と冷たい笑みの会長さんも教頭先生の居場所を掴んだようです。
「ぼくが捜しに来たら歓迎しようと準備万端整えてるよ。ジビエが自慢のレストランまで連れて行こうか、それとも出張料理を頼む方か、と決めかねてる部分もあるようだけど…」
「ジビエはいいよね、ぼくも御馳走になりたいな」
ソルジャーが自分の唇をペロリと。
「君のふりをして出掛けようかな、捜しに来たよ、って。…君じゃないって直ぐにバレるとは思うんだけどさ、ぼくの場合は色々と美味しいオマケが付くからねえ…」
「付けなくていいっ!」
「そうかなあ? あんなに期待して隠れてるのに?」
「要らないってば!」
どうせなら燻し出してやる、と会長さん。
「出て来るしかないように仕向けてやるとか…。通報するのもいいかもねえ?」
「「「通報?」」」
「何とでも言えるさ、襲われそうになりましたとか! 一度踏み込まれてみればいいんだよ、警察に!」
「…そ、それはマズイんじゃないですか?」
シロエ君が止めに入りました。
「仮にも教頭先生ですし、警察は…。それに悪戯通報を誰がしたのかも調べられますよ」
「バレない自信はあるんだけれど? たかが警察の捜査くらいは!」
警察が怖くてソルジャーが出来るか、と会長さんの過激な理論。そりゃあ確かにシャングリラ号どころか専用空港さえもバレないシャングリラ学園、警察くらいは軽くかわせるのでしょうが…。
「やっぱり警察はどうかと思うよ」
ジョミー君も止める方向で。
「もっと平和な方法にしようよ、教頭先生に何かするなら」
「平和な方法? 相手はぼくを引っ張り込もうと目論んでいるハーレイなのに?」
「だからさ、ぼくが代わりに行くって!」
そしてジビエを食べるのだ、とソルジャーが割って入りました。食い気が第一、ついでに色気。あわよくば教頭先生を味見しようとしている態度が顔に出てますが…?



教頭先生を燻し出すとか通報するとか、とにかく苛めたい会長さん。ソルジャーの方は自分が会長さんの代わりに出掛けて美味しい思いを、と企んでいるため、二人の会話は平行線で。
「なんでハーレイに素敵な思いをさせる方向に行くのかな、君は!」
「君の方こそロクな発想にならないし! もっと別荘を楽しまなくちゃ!」
山の別荘より断然こっち、とソルジャーは教頭先生が隠れた貸し別荘のリーフレットを指し示しました。
「どうせなら君が乗っ取れば? 君用の寝室もあるみたいだしさ、ダブルベッドの!」
「乗っ取る…?」
「山の別荘は荒れるという予言もあったんだろう? これだって山の別荘なんだよ」
こっちに行くべし、とソルジャーの主張。
「君はこっちで別荘ライフを満喫するのがいいと思うよ、ハーレイの愛人扱いが嫌なら寝室に一人で立て籠るとか…。そうやっておいて美味しいトコだけ持って行く!」
「…ジビエとか?」
「そう! そして君がハーレイの方に行くなら、ぼくが代わりにマツカの山の別荘へ!」
君の代わりにグルメ三昧、と言い出したソルジャー、けっこう本気。マツカ君を捕まえて「ぼくでも待遇はブルー並みだよね?」と念を押したり、私たちに「よろしく」とウインクしたり。
「ぼくのシャングリラはハーレイがいれば大丈夫だから、山の別荘を楽しみたいな。ハイキングに乗馬にボート遊び!」
「ちょ、ちょっと待った! ぼくの代わりは勘弁してよ!」
会長さんが悲鳴を上げて。
「君はマナーの類が最悪なんだよ、ぼくの評判が地に落ちるってば!」
「じゃあ、ぼくも一緒にハーレイの山の別荘は?」
一緒にジビエを食べに行こう! とソルジャーはアッサリ方向転換。
「どっちの別荘でもかまわないんだよ、地球で過ごす休日には代わりないしね? 十人以上も泊まれるんだし、全員で押し掛けてバーベキューとか川遊びというのも面白そうだ」
「「「全員!?」」」
ゲッと仰け反った私たちですが、会長さんは「いいね」とコックリ。
「考えないでもなかったよ、それ。…ぼく一人だとハーレイの相手がうっとおしいから御免だけれども、君が来るならハーレイは君に丸投げってことで」
「本当かい!? だったら是非ともお邪魔したいな」
大勢いれば遊び放題! とソルジャーがブチ上げ、会長さんも。
「了解。山の別荘は行き先変更、ハーレイの隠れ家を目指すってことで!」
早速キースに連絡しよう、と携帯端末を取り出しています。山の別荘、荒れるどころか行き先が別の山の別荘。こんな展開、誰も想像しませんでしたよ~!



本来、マツカ君の山の別荘へと出掛ける筈だった二日後の朝。卒塔婆書きのノルマを終えたキース君が来るのを待って、マツカ君が手配してくれたマイクロバスでいざ出発。ソルジャーも私服で乗っていますし、お泊まり用の荷物もしっかり。
「かみお~ん♪ あの山の向こうだね!」
とっても楽しみ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。教頭先生の書き置きの件は未だ全く問題にならず、柔道部の方にはゼル先生から「心配無い」との連絡があったという話。
「キース先輩、それじゃ教頭先生は旅行中っていう扱いですか?」
「主将の話じゃそうらしい。御旅行でした、と笑っていたな」
それで話が通っている、とキース君は超特大の溜息を。
「…振り回された俺がババを引いたというオチのようだ。ブルーの家では居留守を使われ、心配したのも俺一人だし…。書き置きと聞いたら非常事態かと普通は思うが…」
「職業病だよ、副住職」
会長さんがサラリと言ってのけました。
「書き置きくらいで枕経まで心配するとは、君はハーレイを分かっていない。ついでに副住職として人生相談もやったりするから解釈暗めで、大袈裟な方に行くんだな」
「…それはそうかもしれないが…」
「心配した分までハーレイから大いに毟りたまえ。ジビエ料理は食べなきゃ損だし、バーベキューもコースが色々あるみたいだしね? 一日一食、バーベキュー! それとジビエ料理!」
食べなきゃ損々、と会長さんが発破をかければ、ソルジャーも。
「そうだよ、滞在型の別荘だからさ、美味しい店が近所に沢山あるらしい。石窯で焼いたピザの店とか、評判のステーキハウスとか!」
ソルジャーはバッチリ下調べをして来たようです。山あいの村と言ってもアルテメシアからほんの二時間、近くには他にも市街地が。ドライブがてら食事という人に人気の都市部から気軽に行けるリゾート、飲食店も経営が成り立つらしくって…。
「こっちのハーレイ、下心があって隠れてますってバレバレだよねえ…。本当に心配して欲しいんなら、何も無さそうな場所がお勧めだけどね?」
ソルジャーの指摘に、会長さんも。
「うん、分かる。…書き置きを残して山奥のお寺の宿坊にでも泊まっていればね、世を儚んで引っ込んでいるとゼルたちだって多少は心配していたかもだよ」
そしてぼくにも一報が…、と会長さん。
「そっちの方なら、燻し出すだけで終わってたのに…。こんなに大勢で毟り取りには行かないんだけどね? 今となっては手遅れってね」
行け行けゴーゴー! と目指すは山あいの別荘地。間もなくマイクロバスは山を越え…。



教頭先生が隠れているという別荘は直ぐに分かりました。周りを緑の木々に囲まれ、お洒落な二階建ての立派な家が。私たちを降ろしたマイクロバスは最終日に迎えに来てくれますけど、それまでは此処で別荘ライフで…。
「ふふ、ハーレイは気付いてないねえ…」
会長さんがクスクスと。
「君たちは庭に隠れていたまえ、ブルーもね。…ぼくが話をつけてくるから」
返事をする代わりに私たちはサッと四方に散って、別荘の庭にコソコソと。それを確認した会長さんが玄関の呼び鈴を鳴らし、教頭先生が中から出て来て…。
「ブルー!? ど、どうして此処が…?」
「ハーレイ…。元気そうで良かった、心配したんだ。…何があったわけ?」
あんな書き置きを残すなんて、と会長さんは見事な役者っぷり。教頭先生は見事に騙され、「そのう…」と頭を掻きながら。
「すまん。お前は今年も山の別荘かと思うと、どうにもやり切れない気分になって…。いっそお前が側に居るつもりで別荘ライフを過ごそうかと…」
「それで書き置き? 言ってくれれば良かったのに…」
そしたら君と一緒に来たのに、と会長さんは別荘の建物を振り仰いで。
「…今からでもまだ間に合うかな? 君と一緒の別荘ライフ…。良かったら、だけど…」
「き、来てくれるのか? お前用の部屋もあるにはあるが…」
「部屋があるなら喜んで。…もっと大勢泊まれそうだけど」
「ああ、此処か? 寝室は沢山あるんだぞ。まあ、入ってくれ」
遠慮するな、と教頭先生が会長さんの肩を抱くのと、会長さんが庭を振り向くのは同時でした。
「聞いたかい!? 寝室は沢山あるってさ! 入ってくれって!!」
「「「はーいっ!!!」」」
返事は大きく、元気よく。ダッと飛び出した私たちは「お邪魔します」と教頭先生の脇をすり抜け、別荘の中へ。わあっ、幾つも部屋があります。どれにしようかな?
「かみお~ん♪ ぼく、此処がいいな!」
「キース先輩、この部屋、どうです? 凄く眺めがいいですよ!」
あっちだ、こっちだ、と好きに駆け回って部屋を確保し、教頭先生の下心満載のダブルベッドのお部屋には…。
「素晴らしいねえ、気に入ったよ、此処」
今夜はうんとサービスするね、とソルジャーがちゃっかり入り込んでしまってニコニコと。教頭先生は唖然呆然、会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」と同じ部屋に行ってしまいましたし…。



「…す、すまん…。書き置きの件は悪かった!」
このとおりだ、と土下座する教頭先生の立場は既に最悪。会長さんは聞く耳を持たず、別荘の管理人さんに豪華バーベキューのコースを注文中。その一方ではソルジャーがジビエ料理の予約を人数分でブチ込んでますし、今日の食費だけでも凄そうで…。
「頼む、明日以降はなんとか自炊にならないだろうか…」
「ならないねえ?」
ぼく一人なら御馳走してくれる筈だったんだろ、と会長さん。
「それにキースは君の枕経まで心配していたんだよ? 枕経を頼めばそれなりに…ね」
「らしいね、お布施は高いんだってね?」
ソルジャーが横から口添えを。
「お盆の卒塔婆書きだっけ? それを中断して走ったキースの分のお布施もよろしく!」
ついでに美味しい思いをしたければこっちにも、と自分を指差し…。
「滞在中はダブルベッドで待ってるから! いつでもOK!」
「き、君は…! 余計なことはしなくていいっ!」
「君の代わりにサービスだってば、御馳走して貰えばいくらでも…ってね」
書き置きをして家出な度胸で、ぼくと一発! と妖艶な笑みを浮かべるソルジャーに、教頭先生、一気に鼻血。今年の山の別荘は荒れると聞いてましたが、どうなるのでしょう。教頭先生の財布が空になるのか、はたまた鼻血で失血死か。
「荒れるからには失血死だね」
枕経なら任せておけ、と会長さんが伝説の高僧、銀青モードに入っています。お盆も近いですし、此処はやっぱり枕経? 教頭先生のご冥福を祈って、お唱えしましょう、南無阿弥陀仏…。




          真夏の失踪劇・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 生徒会長に捜して欲しくて、書き置きまでして隠れた教頭先生だったんですけど…。
 思い通りにはいかない世の中、何もかもがパアという悲惨な結末。ある意味、お約束?
 シャングリラ学園、来月は普通に更新です。いわゆる月イチ。
 次回は 「第3月曜」 5月15日の更新となります、よろしくです~! 

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 こちらでの場外編、4月は、まだ出てもいないスッポンタケに追われる羽目に…?
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