シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あれっ…?)
ブルーは勉強机の前で首を傾げた。
学校から帰って、いつものように外した腕時計。その瞬間に、感じた違和感。
(なんで?)
部屋に入ったら、まずは一番に鞄を置いて。
次に腕時計を外して机から近い棚の上に置く。制服を脱ぐのは腕の時計を外してから。
そういうコースになっているのだし、自然と身体が動いてゆく。誰に決められた順番でもなく、自分の中で生まれたルール。鞄で、時計で、それから制服。
逆に学校へ出掛ける時には制服を着てから腕時計を付け、鞄を手にして部屋を出る順。
すっかり馴染んだ順番通りに今日も鞄を置いたのに。左腕の時計を外したというのに、どうして何かが違うという気がしたのだろう?
(腕時計のせいかな?)
制服を脱いで着替えながら少し考えてみた。
今でこそ見慣れた腕時計だけれども、前の学校では付けていなかった。
幼稚園の後に入った学校。今の学校に入る年になるまで過ごした学校。幼い子供も多いから、と腕時計は規則で着用禁止。バス通学をするほど遠い距離を通う子供もいないし、時計は要らない。
ブルー自身も前の学校へは歩いて通った。バスには乗っていなかった。
だから腕時計は要りもしなくて、学校の時計があれば充分。登下校の時も、友人たちとの遊びに夢中で時を忘れてはしゃいでいれば、通学路沿いに住む誰かが声を掛けてくれた。
「遅刻しそうだから急ぎなさい」とか、「早く帰らないとお家の人が心配するよ」だとか。
彼らの忠告に従っていれば、時計が無くても大丈夫。遅刻しないし、帰宅が遅すぎて心配されることも無かった。腕時計が欲しいとも思わなかったし、必要だと思いもしなかった。
けれども、春に入った上の学校。十四歳になった子供が通う学校。
其処では腕時計が欠かせないから、今の学校から付け始めた。
バス通学をする子は少なかったが、部活などの時間も長くなる上、給食が無くてランチの時間。各自が時間を管理しなくては上手くゆかない学校生活。
そんな事情で、入学の前に買って貰った腕時計。ごくごく平凡な普通の時計。
(前は付けてはいなかったんだし…)
その頃の自分に一瞬戻っていたのだろうか?
(でも、制服も…)
前の学校には無かったもの。それを脱ぐ時、違和感を覚えはしなかった。
(腕時計で先に引っ掛かったから?)
そう考えれば納得出来るが、どうも違うという気もするから。
鍵は時計だ、という気がするから、一度は棚に置いた腕時計を勉強机の上に移した。
こうしておいたら、目に付いて思い出すだろう。
腕時計だと、腕時計を手首から外した時に妙な感じがしたのだと。
ダイニングで母が用意してくれたおやつを食べて、階段を上がって戻って来て。
部屋に入ると勉強机に腕時計。そうだった、と直ぐに思い出した。
(腕時計だけど…)
あの違和感は何だったのか、と首を捻りながら今一度、左の手首に付けて、外して。
もう一度、と付けた途端に気が付いた。
(無かったんだ…!)
遠い遠い昔、白い鯨で暮らしていた頃。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃。
前の自分は腕時計など付けていなかった。
手首そのものが手袋の下で、左の手首に時計は無かった。
腕時計を付けていなかった時代があまりにも長く、それが普通であったから。
その頃の記憶が告げて来たのだ、あの違和感を。
腕時計を手首から外したことなど一度も無いと。一度もありはしなかったと。
(腕時計…)
何処にでもあるアナログの時計。
デジタル式の腕時計を付けている友人もいたが、ブルーはこれが好きだった。
両親に連れられて出掛けた売り場で「これがいいよ」と選んだけれども、前の自分の好みも同じアナログの時計。それと知らずに惹かれたのか、と時計のガラスをそうっと撫でる。
長針と短針、秒針が時を刻む時計が前の自分のお気に入り。
ハーレイの好みもアナログだったから、どちらが先に持っていたかと問われれば多分、ハーレイだろう。遠い記憶は定かではないが、前のハーレイはレトロなものを好んでいたから。
せっせと磨いていた木の机もだし、羽根ペンもまたレトロ趣味の極み。
正確な時計が必須の宇宙船の中ではアナログの時計は用を成さないが、ハーレイは部屋に置いていた。これが落ち着くと、好きなのだと。
前の自分も青の間にアナログの置時計を置き、時を刻むのを眺めていた。ゆっくりと時が流れてゆくようで、心癒される優しい時計。
けれど…。
(腕時計なんかは持ってなかった…)
手首に付ければ、いつでも何処でも見られた筈のアナログ式の腕時計。今の自分が学校へ付けてゆく時計。
前の自分は付けていなくて、アナログの時計は置時計だけ。
そもそも前の自分ばかりではなく、シャングリラでは誰も腕時計を付けていなかった。
何かとレトロなものを好んだハーレイでさえも。
アナログはおろか、より正確そうに思えるデジタル式の腕時計すらも見当たらなかった。
シャングリラでは時間は重要なもの。
宇宙船の中で生きてゆくには僅かな狂いが命取りになる。正確無比を要求される。
ゆえに時刻を決めて何かをする時は、ブリッジクルーとコンタクトを取った。
何時なのかと、正確な時刻を知らせてくれと。
ブリッジには常に銀河標準時間を刻んでいた時計があったから。
アルテメシアに辿り着いた後は、アルテメシアの時刻を刻む時計も出来た。
前の自分もそれらが知らせる時間を参考に動いたのだし、腕時計の出番は全く無かった。
そんな中でも、レトロな時計を持っている者はいたけれど。
ハーレイや前の自分が好んだように、アナログの時計を持っていた者はいたのだけれど。
制服の時に、手首に時計は付けられない。
部屋でゆったりと寛ぎたい時まで、腕時計を付けて時間に縛られたくはない。
恐らくはそうした理由からだろう、シャングリラの中で腕時計を見たことは一度も無かった。
誰も付けてはいなかった時計。
手首に付けて眺めていられる、小さな小さなアナログの時計。
それが今では…。
(地球の時計だよ)
今の自分の腕時計。いつも学校に付けてゆく時計。
一分かけてクルリと一周してくる秒針、一時間で一周回る長針、半日かかって回る短針。
それらが刻むのは地球の時間で、銀河標準時間ではない。
前の生で焦がれ続けた青い地球の上に住んでいるという確かな証。
銀河標準時間を腕の時計に刻ませたいなら、遥かな昔にイギリスと呼ばれた地域の時間に時計を合わせてやらなければ。其処との時差が生じてくるのが地球での生活。地球での時間。
ブルーの時計は、地球の、かつて日本という名の島国が在った地域の時間を刻む。
半日かかってようやく一周くるりと回る短針や、もっとせっかちな長針や短気な秒針たちが。
(ちょっとくらいは狂っていたって平気なんだよ)
此処はシャングリラの中ではないから。
僅かな狂いが大惨事を引き起こしてしまいかねない、宇宙船の中とは違うから。
腕の時計が二分や三分進んでいたって、遅れていたって、問題はない。
学校生活に支障がなければそれで充分、大いに役立つ腕時計。
(毎日、時間を合わせなくてもいいんだから)
遅れていようが進んでいようが、付ける自分が把握出来ていればそれでいい。
きちんと時報に合わせておいても、気付けば狂いが出ている時計。
高価な時計なら狂いも滅多に出ないのだろうが、十四歳の子供が付ける時計は狂うもの。
いつの間にやら、ずれが生じてしまうもの。
(自分勝手な時計なんだよ)
遅れがちだから、と少し進めておいたら進みすぎたり、その逆だったり。
シャングリラの中では使えそうもない腕時計。
それが自分の左の手首に、今では一緒にくっついてくる。学校へ行く時はいつも一緒に。
前の自分の手首には無かった腕時計。シャングリラには無かった腕時計。
それを付けられる、今の生活。
自分勝手で気まぐれな時計を持てる幸せ。
どれほど平和な世界に生まれたのだろう、今の自分は。
どれほどに優しい世界に生まれて、其処で暮らしているのだろうか。
(こんな日に、ハーレイが来てくれたなら…)
腕時計の話をしてみるのに。
腕時計を外したはずみに気付いた、今の幸せを話したいのに…。
来てくれないものか、と何度も窓の方へと視線をやる内、チャイムの音が聞こえて来た。門扉の脇にあるチャイム。来客を知らせるチャイムの音。
窓から見下ろせば、庭の向こうでハーレイが大きく手を振っていた。
やがて母がハーレイを部屋まで案内して来て、お茶とお菓子をテーブルに置いて行ったから。
ブルーはハーレイと向かい合わせに座ると、早速、自分の発見を語った。
「腕時計なんだよ、大発見だよ!」
「腕時計?」
「うん。前のぼく、付けていなかったんだよ」
今は当たり前に付けているけど、シャングリラに居た頃は付けてなかった。
正確な時間にしか意味が無かったから、腕時計なんて必要だとさえ思わなかったよ。
だけど今では腕時計でしょ?
ハーレイも、ぼくも。
ちょっとくらい時間が狂っていたって、今じゃ問題ないものね。
「確かになあ…」
平和な世界に来ちまったんだな、お前も俺も。
一秒どころか一分、二分と狂っていたって気にもしないでいられる世界か、今の世界は。
正確だとは決して言えない時間を腕時計で見ながら、のんびり暮らしていられるんだな。
「ね、そうでしょ?」
シャングリラには腕時計なんか無かったけれど…。誰も付けてはいなかったけれど。
ハーレイ、腕時計、付けたかった?
前のハーレイ、腕時計を付けてみたかった?
「何故だ?」
思い付きさえしなかったんだが、どうして付けてみたいか訊くんだ?
「レトロなものが好きだったから」
木の机だとか、羽根ペンだとか。時計もアナログのが好きだったでしょ?
だから、そういう腕時計。アナログの腕時計があったら付けそう。
「ふうむ…。アナログの腕時計なあ…」
そいつもいいが、とハーレイはパチンと片目を瞑ってみせた。
「持ち歩ける時計でアナログとくれば、アレだ、懐中時計なんかはどうだ?」
「似合いそう…!」
それってハーレイにとても似合うよ、腕時計よりも。
前のハーレイなら断然、それ。懐中時計がいいと思うな、うんとレトロで。
キャプテンの制服に懐中時計。
似合いそうだ、とブルーは思った。
当のハーレイも同じ考えを抱いたようで、顔を綻ばせて。
「ちょっと格好がついたかもしれんな、キャプテンの俺が持っていたなら」
威厳ってヤツがあったかもなあ、時計が正確かどうかは別にしておいて、演出だな。
「凄く似合うよ、ハーレイの制服に懐中時計」
ポケットから引っ張り出して見てたら、かっこいいと思う。
通路で立ち止まって出すとか、公園とかで時間を確かめるとか。
「ブリッジでも様になってたかもなあ…」
銀河標準時間とは別に、俺用の時計。
今日の勤務時間は何時までだったか、と出して見ていりゃ、公私のけじめに良かったかもな。
俺の仕事はもう終わりだから、と時計を取り出して宣言するんだ、そして帰る、と。
もっとも、ブリッジでの勤務時間が終わっても。
前のお前への報告っていう仕事が残っていたわけだが…。
「まあね」
でも…、とブルーはクスクスと笑う。
一日の報告はいつの間にやら名目になっていなかったか、と。
勤務が終わった後に堂々と青の間へ出掛けるための言い訳になっていなかったか、と。
「それを言うならお前もだろうが!」
俺の報告は機密事項のこともあるから、と部屋付きの係を追い払って待っていたろうが。
そんな報告、滅多に無いというのにな?
係がいると何故、困るんだか…。俺の報告のせいではないと俺は思っているんだがな?
「お互い様だよ、報告の後の時間が大切。だけど…」
作れば良かったね、懐中時計。
個人の時間を管理するには、ちょっとお洒落で良かったかも…。
「俺しか持てないことにならんか?」
制服のポケット、他のヤツらは無かったからな。
いや、ゼルたちも持てるのか…。長老の制服はポケット付きか。
俺だけが持つってわけでないなら、懐中時計を作ってみるのも良かったかもな。
キャプテンと長老たちが持つ懐中時計。
威厳もあって良さそうだ、とハーレイも頷いたのだけれども。
懐中時計を作ったとしても、前のブルーはそれを使えはしなかったから。
「ぼくは無理だね、ソルジャーの服にはポケットが無いし」
ハーレイやゼルたちの特権なのかな、懐中時計。
「うーむ…。前のお前が持てないとなると…」
そういうことなら、要らないような気もしてきたなあ、懐中時計は。
「なんで?」
「ゼルだのヒルマンだのと揃いで持っても、つまらんだろうが」
いや、間違いだと言うべきか…。
時計はペアで持つものだからな。二つでセットだ。
「えっ?」
なあに、それ?
ペアとか、二つセットって、なに…?
「知らないか?」
ペアウォッチと言ってな、同じモデルで男性用と女性用とがセットなんだが…。
懐中時計ってわけじゃなくって、腕時計だがな。
「そうだったの?」
二つセットの腕時計があるなんて話、初耳だよ。
「お前の年では知らないかもなあ、そもそも縁が無いものだしな」
ついでにお前くらいの年なら、腕時計自体が男子用と女子用でまるで違うか。
デザインも色も、何もかもがな。
「たまに似たようなデザインも見かけるけれども、基本は違うよ?」
みんなが腕時計を外して並べておいたら、どれが男子のでどれが女子のか、分かると思う。
それくらい違うよ、セットに出来そうもないんだけれど…。
「大人になったら同じモデルが出来てくるのさ」
見た目は同じで大きさが違うとか、女性用が少し華奢だとか。
色は違うが並べて見たならデザインがそっくり同じだったとか、そんな風にな。
「へえ…!」
知らなかったよ、ペアの腕時計があるなんて。
ぼくは腕時計、まだ付け始めてから一年も経っていないもの。
ちょっぴり大人に近付いたよね、って得意だったけど、大人用の腕時計とは違うんだね。
ペアウォッチだなんて…、とブルーは少し想像してみたけれど。
腕時計との付き合い自体がまだ短いから、どんなものだか分からなくて。
「ぼくのパパとママも持ってるのかな?」
二つセットのペアウォッチっていうのを持っているかな、ぼくは見たことが無いんだけれど…。
パパが仕事に付けてく時計と、ママがお出掛けに付けて行く時計。
何処も全く似てはいないし、ぼくの家にはペアウォッチなんかは無いのかな?
「さてな? そいつは俺には分からんが…」
俺の親父とおふくろの場合は、大事に仕舞い込んでて滅多に出してこないな、ペアウォッチ。
「出してこないって…」
せっかくのペアウォッチなのに付けないの?
それって、なんだかもったいなくない?
「結婚祝いに貰った上等の時計らしくて、親父とおふくろの普段の暮らしに似合わないのさ」
親父は何かと言えば釣りだし、おふくろの趣味は庭仕事だしな?
どっちも腕時計を付けていたなら傷みそうだろ、その方がよほどもったいない。
釣りも庭仕事も、腕時計を付けるなら使いやすい普通のヤツがいいんだ、上等なのより。
「ぼくのパパとママもそうなのかも…!」
ブルーの脳裏に蘇った記憶。
幼い頃に両親と一緒に何処かへ出掛けた、お呼ばれの席。
お洒落をした両親の腕の時計がいつもと違っていたような…。
こんな時計があったかな、と不思議に思って眺めていた。ぼくの知らない時計だけれど、と。
「お前のトコでも仕舞い込んでるのか、ペアウォッチ」
俺の家だけってわけじゃないんだな、使ってる人も多いんだがなあ…。
「ぼくのママ、お料理とお菓子作りが大好きだしね…」
腕時計は滅多に付けてないから、あまり出番が無いんじゃないかな。
買い物で街まで行く時の腕時計をお出掛け用にもしてるし、多分、ホントに出番が無いんだ。
パパと一緒にお洒落しなくちゃ、って時だけ出してくるんだよ、きっと。
せっかくあるのに、ちょっぴりもったいない感じ…。
上等の時計ってそんなものかな、仕舞い込まれちゃうものなのかな?
「その辺は人それぞれだろうな」
使ってる人も多い、と俺は言っただろうが。
二人セットで付けるのがいい、と愛用している人も大勢いるんだ、考え方は色々だってな。
「ぼくたちにも結婚祝いにくれるかな、誰か?」
ペアウォッチ、プレゼントして貰えるかな?
ぼくが女性用のになるんだろうけど、誰かプレゼントしてくれるんならペアで欲しいよ。
「さてなあ、そいつは結婚するまで分かりそうもないな」
貰えるかもしれんし、貰えないかもしれないわけだが…。
上等の時計を貰ってしまって、俺の親父たちや、お前のお父さんたちみたいに仕舞い込むより。
大切な時計だと仕舞っておくより、付けられる時計を買わないか?
「えーっと…。普段に使える時計?」
貰った上等の時計を使うんじゃなくて、それとは別に普段用のを?
「ああ。ペアウォッチと言っても色々あるしな、高い腕時計ばかりじゃないからな」
贈り物にするなら高いのを、と選ぶんだろうが、普段使いにしたいんだったら話は別だ。
同じデザインのペアの時計で、気軽に使えそうなヤツ。
そいつを二人で探して、選んで。
普段から二人で使おうじゃないか、俺もお前も腕に付けてな。
「普段からって…。ハーレイが仕事に出掛けてる日も、ぼく、腕時計を付けるわけ?」
「そうさ。俺が出掛ける前にキッチリ、毎朝、二人で時刻を合わせて」
どっちかの時計が進みすぎだとか、遅れてるとかが無いように。
同じ時間を刻んでくれるよう、きちんと時間を合わせておいたら、有意義な一日を過ごせるぞ。この時間だと何をしてるか、と考えるだけで幸せだろうが。
「ハーレイ、今頃、授業かな、って?」
時間割を見ながら考えるんだね、授業中なのか、休み時間か。
「うむ。お前は今頃はおやつかもな、とな」
「おやつなの?」
其処でおやつなの、ぼくの予定だかスケジュールだか。
ハーレイと結婚して家で留守番してるぼくでも、おやつの時間が予定に入るの?
「お前、おやつを食わないのか?」
結婚したなら食わなくなるのか、おやつは子供っぽいってか?
それでお前は我慢出来るのか、嫁さんだからって、おやつ無しで?
「…食べたいかも……」
おやつの時間、って思ったら食べたくなってくるかも、ケーキやクッキー。
ぼくが自分で焼けばいいのかな、自分のおやつ。
ハーレイの大好きなパウンドケーキは上手に焼けるようになりたいんだけど…。
他のお菓子も作れるかな、ぼく。
自分のおやつを作らなくっちゃ、って頑張ったら色々作れるのかな…?
「そんなに心配しなくっても、だ」
ちゃんと用意してやるさ、お前のおやつ。
時間があったら俺が作るし、暇が無ければ仕事の帰りに次の日の分を買って来てやる。ケーキの美味い店もクッキーの店も、帰り道に幾つもあるってな。
それから、昼飯。
こいつは朝に用意をせんとな、朝飯を作るついでにな。
「お昼御飯って…。ハーレイ、ぼくのお昼まで用意してから出掛けるの?」
それくらいは自分で何とか出来ると思うんだけど…。
いくらぼくでもトーストくらいは自分で焼けるし、何か食べると思うんだけど…。
「本当か? しっかり食えよ、と俺が用意をして行くのがいいと思うがな?」
でないと食わずにいそうだぞ、お前。
俺が出掛けて、おやつを食うのが十時頃か?
それですっかり満足しちまって、腹が膨れた気分になって。
飯の時間に気付きもしないで、本を読んでて食うのを忘れて、その内に俺が帰ってくるとか。
「…やっちゃいそう…」
なんだかやりそう、そういう間抜け。
ハーレイが帰って来ちゃってビックリするんだ、もう夕方になっちゃってる、って。
「ほら見ろ、昼飯を忘れずに食える自信さえも無いと来たもんだ」
だから毎日、俺がおやつと昼飯を用意しておいて。
テーブルにメモを置いて行くのさ、お前の今日のおやつがコレで昼飯がコレ、とな。
時間になったらちゃんと食えよ、って。
「そのために時計?」
ぼくが家でも腕時計を付けるの、そのためなの?
ハーレイが何をしてる時間か考える他に、おやつの時間と昼御飯を忘れないように?
「そうなるな。本に夢中でも腕時計なら、たまには目の端に入るだろうしな」
見りゃあ気付くだろう、飯時だって。三時のおやつも思い出すさ。
壁の時計なら綺麗サッパリ忘れちまうかもしれないが…。
存在自体が目に入らなくて、俺が帰るまで全く見ないってこともありそうなんだが…。
「腕時計なら見るよね、きっと」
ぼくの手首に付いてるんだし、お昼御飯の時間の頃にも一回くらいは。
少し早いとか、お昼の時間を過ぎた後でも、とにかく食べればいいんだよね?
「当然だ。お前が昼飯を忘れないよう、俺が作って行くんだからな」
本の世界から現実に戻って食わんと怒るぞ?
俺が帰った時に昼飯がそのまま置いてあるとか、三時のおやつがそのままだとかな。
昼食とおやつを忘れ果てて読書に耽るというのは、如何にもブルーがやりそうなこと。
今は両親と一緒に暮らしているから、きちんとおやつも食べるけれども。
ハーレイと暮らすようになったら、ブルーは忘れていそうだから。
食事もおやつも忘れそうだから、そのために腕時計を買っておこうか、とハーレイが笑う。
結婚祝いに上等のペアウォッチをプレゼントされたとしても、普段使いのペアウォッチ。
それをブルーの手首に付けようと、時間を忘れてしまわないよう、付けておこうと。
(ペアウォッチかあ…)
食事もおやつも忘れそうだ、と言われた件は少し不名誉だけれど。
ウッカリ者だと指摘されたようで恥ずかしいけども、そのためのものだと思わなければ。
食べる時間を忘れないよう、付ける時計だと考えないでおいたなら。
いつかはハーレイとお揃いの腕時計を付けて過ごすのもいいかもしれない。
デザインなどが同じ、二つセットのペアウォッチ。
ハーレイの時計は男性用で大きめ、ブルーの時計は女性用だから少し小さめ。
毎朝、二人で時刻を合わせて、同じ時間を刻むようにして。
ハーレイが仕事に出掛けた後には、互いに相手が過ごす時間を想い合う。
離れている間も気になる恋人、何をしているかと思いを馳せては愛おしさが増す大切な伴侶。
今は授業の最中だろうか、今はおやつの時間だろうか、と…。
腕時計・了
※腕時計をつけることは無かった、シャングリラの時代。今は腕時計をつけているのに。
そして、いつかはペアウォッチをつけることも出来ます。同じ時間を刻んでくれる時計を。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(新聞か…)
シャングリラには無かったな、とハーレイはまだ暗い庭を眺めた。
生垣の向こうをライトが横切り、新聞配達のバイクが次の配達先へと走り去る音。
こんな休日の朝であっても。
夏ならば明るい時間だけれども、夜の続きの星が瞬く早朝の闇の中でも新聞を配るバイクの音。
今の自分には当たり前のことで、隣町の両親の家に居た頃にも新聞は毎日届いていた。雨の日も雪の日も届く新聞。そういうものだと思い込んでいたが…。
(新聞が届かない人生だったぞ、前の俺はな)
玄関を開けて庭を横切り、ポストから新聞を引っ張り出した。
持って入るとコーヒーを淹れて、新聞を手に取ってみる。朝食にするには早すぎる時間。こんな時には先に新聞、それから朝食の支度というのが習慣だった。
(新聞なあ…)
今でこそ馴染みのものだけれども、前の生では縁が無かった。
アルタミラでミュウと判断される前なら養父母の家で見ていただろう。父が新聞を広げる姿や、母が気になる記事を切り抜く所などを。きっと自分も印を付けたり、色々と。
(子供向けのイベントの情報なんかも多めに載っていたんだろうしな)
アルタミラは惨劇の舞台として歴史に残るけれども、本来はガニメデの育英都市。多くの子供が養父母と暮らし、巣立ってゆくための星だった。
育英都市の主役はあくまで子供。
子育てを終えて引退した夫婦や、子供たちを育てる社会に欠かせない役割を負う者の他は、皆が子育て中の星。ゆえに子供が社会の中心、イベントは大抵、子供がメイン。
(アルテメシアもそうだったからな)
シャングリラに新聞は来なかったけれど、情報は傍受していたから。
人類の新聞がどのようなものかは把握していたから、子供向けの記事も多いと分かる。
(前の俺も子供時代にはきっと…)
そういった記事を養父母に見せては、行きたい場所などを伝えただろう。連れて行って貰って、感動したり、喜んだりもしたのだろうが…。
(消えちまったなあ、記憶ごとな)
成人検査に脱落した後、養父母の記憶は失くしてしまった。子供時代の記憶も消えた。
閉じ込められた檻に新聞は届かず、何の情報も得られなくなった。
外の世界がどうなっているか、自分はどうなってしまうのかすらも。
(研究者どもは新聞も読んでいたんだろうなあ…)
アルタミラがメギドに破壊されるまでは、あの星でも人類が暮らしていた。育英都市を閉鎖する決断が下されるまでは、養父母と暮らす子供たちも居た。
彼らの家には新聞が届いていただろう。
グランド・マザーがアルタミラの殲滅を決定した時も、幾重にも真実を覆い隠した記事が新聞の紙面に大きく刷られて、彼らは納得したのだろう。この星を出ねば、と。
(俺たちにとっては不意打ちだったが、人類は準備してただろうしな?)
子育て中の養父母たちに偽りの情報を告げて、充分な引越し期間を与えて別の星へと。
何の疑いも抱かずに彼らが旅立った後は、グランド・マザーからの命令が出るまで待機状態。
(新聞はいつまであったんだかなあ…)
アルタミラが滅びたその日の朝まで、実は配られていたのだろうか?
寄港中の船もあっただろうから、一般人たちが真実に気付かないように。
あくまで急な決定なのだと、本日付でこの星は滅ぶと、それだけが書かれた新聞が。
(シャングリラの中には、そういう新聞は無かったんだが…)
脱出するのに使った船。まだシャングリラではなかった船。
乗員たちは慌ただしく他の船に移ったらしい、という痕跡はあちこちにあったけれども、それを引き起こした原因は全く見付からなかった。通信も残っていなかった。
(やはり新聞だったのか?)
宙港で急を告げる新聞が配られ、それを握ったまま慌てて船を捨てて行ったか。
足の速い他の船に移れと、直ちにアルタミラから離れるようにと書かれただけの新聞記事。
(そうだったのかもしれないなあ…)
船の中に乗員たちへの脱出命令は何も無かったのだし、そうかもしれない。
もっとも、受けた通信を消去してから脱出したという可能性もゼロではないのだが…。
(前の俺たちには新聞なんかは無かったんだ)
新聞が毎日届いていた筈の、子供時代の記憶は失くした。
研究所の檻に新聞は届きはしなかった。
アルタミラから脱出した後も、定期的に届く刊行物など、何処からも送られては来ない。新聞が届く筈もない。人類の世界から弾き出されたミュウが住む船に新聞は来ない。
もちろん毎日のニュースでさえも。
(ニュースは盗むものだったしな…)
人類の通信を傍受して得た、様々なニュース。
最新版とは限らなかった。通信を交わしている船に左右され、その内容も偏りがちで。
知りたい情報が常にあるとは言えなかった時代。作物の出来や輸送状況、それがニュースになる船などもあった。あるいは客船の予約状況だったり。
アルテメシアに辿り着くまでは、雲海の中に居を定めるまでは、そういう状態。
雲海の星に腰を据えても…。
(ニュースは最新になったんだがなあ…)
いくらでも傍受出来た、アルテメシアの空を飛び交う人類のニュース。
家庭に配られる新聞のための情報も飛び込んで来たのだけれど。
(新聞は刷らなかったんだ…)
人類の世界の出来事などは知りたくもない、という者も多かったから。
アルタミラからの仲間だけでなく、アルテメシアで新しく救出された仲間でさえも。
人類といえば忌まわしいもので、思い出したくもないと思う者たち。
(ニュース映像を傍受したって…)
見ていた者はごく一部だけ。
そう簡単には動揺しない、精神の強い者たちだけ。
(俺やブルーは仕事だったが…)
ソルジャーとして、キャプテンとして、知っておかねばならない情報。
人類の世界が今はどうなのか、どんな方向へ向かってゆくのか。
それを知らねば自分たちの進路も決められないから、ニュースにも目を通していた。
アルテメシアに辿り着く前から。
暗い宇宙を、居場所を求めてあちこち旅をしていた頃から。
(もっとも、情報統制されていたがな)
ニュースといえども、巧みに操作がされていた時代。
支配する機械に、マザー・システムにとって都合がいいように。
裏にある真実を見抜けないように。
そのシステムから弾き出されたミュウだからこそ、見抜けた真実も沢山あった。
(俺たちのことはMだったか…)
アルタミラを脱出した頃から変わらない隠語。
Mの代わりにミュウと呼ばれたなら、明らかな敵意を向けられた証拠。
ミュウという言葉を一般人は知らなかったから。
それを使っているということは、人類が本気でミュウに対する対策を練っている証。
そんなニュースしか見ていなかった時代に比べたら…。
(平和なもんだな)
今、手にしている新聞の中身も。
当たり前のように毎日届くという現実も。
今日だって朝も暗い内から、配達のバイクが走って行った。空にまだ星が瞬く時間に。
(ご苦労様です、と言いたくなるよな)
昔ながらの配達システム。
バイクを走らせて家のポストに配ってゆく。一軒、一軒、配って回る。
朝一番に間に合うようにと。
仕事に、学校に出掛けてゆく前に読めるようにと、その家の人々が目覚める前に。
(朝だけじゃなくて、夕刊もあるし…)
夕刊の方は、帰って来たら届いているのだけれど。
ポストから取り出し、持って入るのが常なのだけれど。
(配達の人に礼を言いたくなってくるなあ…)
早起きして顔を合わせた時には、挨拶を交わして礼を言いながら受け取る新聞。
手渡しで貰ってくる新聞。
その新聞が家に届くことがどれほど平和で嬉しいことなのか、其処に気付いてしまったら。
(どうぞ、と毎朝、菓子をポストに置きたいくらいだ)
お持ち下さいと、配達の途中か終わった後にでも食べて下さいと。
今度、早く起きた日に新聞の嬉しさを思い出したら。
毎朝届くその素晴らしさに、思いを馳せる日があったなら。
熱いコーヒーでも御馳走しようか、配達の人に。
来る時間はほぼ決まっているから、それに合わせてコーヒーを淹れて。
(新聞配達っていうシステムがシャングリラの中にもあったらなあ…)
仲間たちがニュースに向ける視線も変わっただろうか。
毎日、新聞を刷って、配って。
仲間たちの手元に選び抜いたニュースを届けていたら。
アルテメシアで配られる新聞を真似て、ニュースの他にもあれこれと載せて。
(選んだニュースしか載せないとなると、情報統制のようではあるが…)
それでも全く触れないよりかはマシだったろう。
今の人類の世の中はこうだと、こういうニュースがあるようだと。
人類が大多数を占めていた以上、目を逸らしていても弱くなるだけ。彼らを知らねば、と情報を得てこそ強くなれるし、現実に立ち向かう勇気も生まれる。
ニュースだけでは気が滅入る、という者が多いに決まっているから、様々な記事。
シャングリラで起こった愉快な事件や、厨房のメニューのお知らせなど。
書き手を募って連載小説も出来ただろう。
そうした新聞を作っていたなら、娯楽にもなっていたかもしれない。
配達はまだか、と心待ちにする者が少しずつ増えて、外の世界にも関心を持ち始めて。
人類のニュースを多く載せても読めるようになっていたかもしれない。
今はこうだと、今の世の中はこうなのだ、と。
(はてさて、ブルーはどう思うんだか…)
シャングリラで新聞を印刷するなら、まずは会議をする所から。
ゼルやヒルマンたちを集めて、議題を出して。
案が纏まればソルジャーだったブルーが承認を下すわけだが、新聞に賛成してくれたろうか?
小さなブルーに訊いてみよう、と新聞の二文字を頭に叩き込んだ。
新聞を作ってみれば良かったと、作っていれば良かったのに、と。
アイデアの元になった新聞を読んで、朝食を作って美味しく食べて。
時計を見てからブルーの家へと出発した。天気がいいから、もちろん歩いて。
目指す家に着けば、門扉の脇に郵便ポスト。
普段は気に留めていなかったけれど、其処に新聞が届くのだ。
取りに来るのはブルーの母か、それとも父か。
早起きをした日はブルーが取りに出るかもしれない。
「取ってくるよ」と庭を横切り、ポストから新聞を持ってゆく。目を引く記事が載っていたなら読みながら歩いて、両親が待っているダイニングまで。
平和な朝の一コマを思い浮かべながら、ブルーの部屋に案内されて。
お茶とお菓子が載ったテーブルを挟んで向かい合って座り、小さな恋人に微笑み掛けた。
「なあ、ブルー。…新聞が届く生活っていうのはいいもんだな」
「新聞?」
怪訝そうなブルーが外に目を遣る。
新聞というのはポストに届くあの新聞かと、毎日配達される新聞のことなのかと。
「そうだ、幸せだと思わないか?」
毎日、色々なニュースが届く。配達の人が届けてくれる。
そいつを毎日、ゆっくり読むことが出来るんだぞ?
飲み物を片手に読んだっていいし、読むスタイルも好き好きだ。実に贅沢だと思わんか?
最新のニュースが毎日ポストに届くんだからな。好きなだけお読み下さい、と。
「言われてみれば…」
前のぼくたち、新聞は取っていなかったね。
ニュースは人類のを傍受するもので、興味のある人だけが見てたんだよね…。
「その新聞。シャングリラで作れば良かったかもな、と思ってな」
俺たちで載せるニュースを選んで、色々な記事と組み合わせて。
それをみんなに配っていたなら、船の外にも関心を持って貰えたかもな、と思うんだ。
人類のことなど知りたくもない、と逃げていないで、相手のことも知る方向で。
「あの時代も新聞、あったんだよね…」
シャングリラで傍受していた通信の中に、新聞に載せる中身もあったんだっけ。
それを丸ごと印刷したなら、人類が読むのと同じ新聞が出来上がるヤツ。
情報はちゃんと入ってたんだし、新聞、作れば良かったかもね。
ハーレイが言うように、どういう記事を載せればいいかは、きちんと選んで。
真似をしてみれば良かったね、とブルーは微笑んだ。
人類を真似て新聞を作れば良かったと。
ニュースや様々な記事を織り込んで、シャングリラで配れば良かったと。
「毎日、みんなの部屋に届けて、食堂や休憩室にも置いて…。そうだ、人類にも!」
「人類だと?」
なんだ、それは? 人類に新聞を届けるのか?
「うん。ミュウからの定期刊行物だよ、毎朝ぼくが届けに行くんだ」
新聞です、って放り込むんだよ、大勢の人が読んでくれそうな所を狙って。
ユニバーサルが回収する前に読まれてしまいそうな場所に、ミュウが作った新聞を。
「読んで貰うって…。何を書く気だ、その新聞に?」
「ミュウの日常。こういう暮らしをしています、って」
新しい仲間を迎えましたとか、そんな記事もいいね。こういう子です、って紹介記事とか。
「おい、シャングリラの存在がバレるぞ、どんな船なのか」
「肝心の部分はぼかすんだよ。それで大丈夫だったと思うけど?」
ぼくの存在はバレてたんだし、アルテメシアの何処かに隠れ場所があることは確実だしね。
それでもシャングリラは発見されずにいたんだよ?
新聞を作って配っていたって、何処から配りにやって来るかも掴めないってば。
「ユニバーサルとテラズ・ナンバーを刺激するだけだと思うがな?」
また来やがったと迎撃するとか、お前が狙われるだけで何の効果も無いと思うが。
「分からないよ?」
機械にも限度があるんだから、とブルーは笑った。
いくら記憶を処理したとしても、不特定多数が毎日のように目にしてしまうミュウの新聞。
しつこく毎日やっていたなら、人類の方でも覚えてしまうと。
今日もそういう時間ではないかと、自分たちのとは違う新聞が放り込まれる頃ではないかと。
「ミュウからの新聞が届くってか?」
ユニバーサルが血相を変えて回収に来るような新聞が。
存在自体が極秘にされてるミュウが刷ってる新聞なんぞを、人類が毎日読むわけか?
「そう。ミュウっていうのは何だろう、って不思議に思うよ、そして記憶に残るんだ」
記憶をせっせと消しても消しても、新聞は毎日届くんだから。
ミュウって呼ばれる別の種族がいるらしい、って微かに記憶に残るよ、きっと。
そのミュウからの新聞なんだよ、お勧めのレシピなんかも載せて。
「おい、レシピって…。平和すぎないか、その新聞は?」
前のお前の主義主張だとか、そんなのを載せるんじゃなくってレシピか?
「そういう所から始めるんだよ、ミュウに関心を持ってもらうために」
ミュウという存在が意識の上に定着したなら、一歩前進。
レシピなんかを載せた新聞を配ってるんだし、敵じゃない、って思って貰えそうだよ。
ユニバーサルがいくら敵だと言っても、ホントは違うんじゃないかって。
平和な新聞を刷ってるんだし、人類の敵ではなさそうだ、って。
「なるほどなあ…。確かに王道というヤツではある」
流石だな、お前。
ただのチビかと思っちゃいたがだ、やっぱりソルジャー・ブルーだな。
お前が配ると言ってる新聞、やり方としては王道なんだ。
「そうなの?」
「うむ。SD体制の頃にやっていたかどうかは分からんが…」
敵対している相手が勢力を持ってる地域に宣伝用のビラや新聞を撒くって方法があった。
今の支配者は間違ってるとか、自分たちが来たらこういう世の中に変わりますよ、という宣伝。自分たちの地域じゃ生活はこうだと、見本に新聞を撒いたりな。
信じて貰えれば万々歳だし、一般市民を攻撃するより平和な戦法というヤツだ。
「そんな方法、何処で聞いたの?」
まさか古典の範囲じゃないよね、戦争の話みたいだもんね?
「古典ではないな。前の俺だな、ライブラリーで読んでた本の中にあった」
「ハーレイ、言わなかったじゃない!」
そういう方法があるんだってこと!
もしも前のぼくが知っていたなら、絶対、検討してみてたのに!
「あの状況で誰が思い付くか!」
使えそうだなとも思わなかったな、変わった戦法があるものだ、と読んでいただけだ。
いいか、前の俺たちはシャングリラごと雲海の中なんだ。
ミュウの存在すらも知られていない星に居たんだってことを忘れるなよ?
前の俺たちは隠れてたんだぞ、とブルーを諭す。
そんな状況ではミュウの宣伝など出来はしないし、とても無理だと。
けれど、ブルーは残念そうで。
「思い付いていたら、新聞、配りに行ったのに…」
ミュウに気付いて貰うために。敵じゃないんだ、って知って貰うために。
ユニバーサルとかテラズ・ナンバーとの持久戦になるけど、それで人類に知って貰えるのなら。
気長に続けて、ミュウを覚えて貰えるのなら…。
「危険でもか?」
お前が毎日来るとなったら、奴らは間違いなく攻撃を仕掛けてくると思うが。
負けるようなお前じゃないとは思うが、それでも敵地に飛び込むことには違いないしな。
「平気だってば、ソルジャーだしね?」
やられちゃうほど弱くはないよ。逃げ足にだって自信はあるもの、今のぼくとは全く違って。
それに、とブルーは笑みを浮かべる。
いざとなったら瞬間移動で配達できたと、シャングリラから出ずに配れたと。
「ぼくは新聞が印刷できるのを待って、瞬間移動で船の外へと放り出すだけ。行き先を決めて」
人類が集まるターミナルとか、広場だとか。
何処へだって簡単に届けられるよ、前のぼくなら。
瞬間移動で届けてもいいし、空から撒いて逃げてもいいよね、シャングリラ新聞。
「シャングリラ新聞なあ…。そういう名前をつけるからには、俺たちが読むのと共通なのか?」
人類に配ったのと同じ新聞をシャングリラの中でも配るのか?
「それもいいかもね、わざわざ別のを作るよりも」
ホントにホントのミュウの日常、等身大のシャングリラ。
平和に暮らしているんです、って宣伝するなら、同じ新聞が効果的かもね?
「うむ。作ってみていたら良かったかもなあ…」
シャングリラの日々を綴った新聞、まずはシャングリラで評判を見て。
いいようだったら部数を増やして、人類の世界に配りに行って。
ミュウとは何かを知って貰えたなら、アルテメシアからは追われなかったかもしれないなあ…。
前の俺たちの地球への侵攻、アルテメシアから始めたわけだが。
ナスカから舞い戻って始めなくても、アルテメシアから出発できたのかもなあ、ミュウの存在があの星で知られていたならば。
敵じゃないんだと、ミュウもヒトだと、アルテメシアでは認めてくれたのかもなあ…。
もしもシャングリラで新聞を作って、配っていたなら。
それを自分たちだけで読むのではなくて、人類にも配達していたのなら。
ミュウと人類との間の距離は、少しは変わっていたのだろうか?
アルテメシアから追われる代わりに、其処から地球へと旅立てたろうか?
ミュウもヒトだと認めてくれた人類たちに見送られる中、白い鯨は飛び立てたろうか。
隠れ住んでいた雲海から出て、白い船体を煌めかせて。
遥かな地球へと、別の一歩を刻んで飛び立てていたのだろうか…。
「ねえ、ハーレイ。どうだったんだろうね、もしも新聞を配っていたなら」
アルテメシアで人類に新聞を届けていたなら、ぼくたちの道は変わったと思う?
ナスカまでの道を全部すっ飛ばして、地球に向かっていたんだと思う?
「さあな…。そいつはなんとも分からないが…」
それにナスカに寄っていなけりゃ、トォニィたちが生まれていたのかどうか。
トォニィたちがいない状態では、戦ったとしても勝てた自信が無いからな…。
ただ、出発からして別となるとだ、戦いも変わっていたかもしれん。
アルテメシアで何があったか、ミュウとは何かを人類は知ることになるわけなんだし…。
案外、あっさり話し合いのテーブルに着けたってことも有り得るな。
「そうでしょ? 地球がどうなったのかは分からないけれど…」
あんな風に派手に壊れなければ、今の青い地球に戻らないから、其処が問題なんだけど…。
無駄な血を流さずに済んだんだったら、新聞、作っておきたかったな。
せっせと配って、ミュウと人類とは違わないよ、って頑張って宣伝したんだけどな…。
ミュウの日常にお勧めレシピ、とブルーが夢の新聞記事を挙げるけれども。
新聞が実現していたのならば、全ては変わったかもしれないけれど。
ハーレイはフウと溜息をついて、小さなブルーの瞳を見詰めた。
「お前の新聞、悪くないとは思うんだがな…。使えただろうとも思うんだが…」
それを本当に実行していれば、アルテメシアから地球に旅立てて、ナスカなんぞには行かなくて済んで。そうやって旅がまるで変わって、前のお前が死なずに済んでいたのなら。
メギドなんかは出ても来ないで戦いが終わっていたのなら…。
俺は自分の馬鹿さ加減を呪うより他に無いってな。
どうして新聞を思い付かなかったと、知っていたくせに使わなかった、と。
それを後悔するしかないなあ、後悔先に立たずとは言うが。
「じゃあ、無し」
新聞を作って配る話は要らないよ。そんなアイデアだって要らない。
「なんだと?」
お前、配りたかったと言わなかったか?
そういう新聞を作りたかったと、人類に配っておきたかったと。
「言ったけど…。素敵な考えだと思ったけれども、もう過ぎちゃったことだしね?」
作らなかったことをハーレイが後悔するんだったら、新聞は無し。
シャングリラ新聞なんかは無しだよ、実際、作らなかったんだから。
新聞は一度も作らなかったし、誰も読んではいないんだものね、ただの一人も。
だから要らない。
シャングリラの新聞、作らなくてもいいんだよ。
ぼくたちが読むための新聞は今ので充分。
毎日、家のポストに配達されてくる新聞があればそれで幸せ。
新聞は今の平和な世界のがあればいいんだよ、と小さなブルーは歌うように言った。
シャングリラでの新聞は要らなかったと、作る必要も無かったと。
ハーレイが後悔するようなものなら無くていいのだと、夢見る必要も無いものなのだと。
「今は今だよ、無かったものは仕方ないもの」
シャングリラに新聞は無かったんだし、無いものは配れないものね。
夢のお話だよ、ただの夢だよ。
「だが…。あの時、俺が思い付いていたなら…」
「それも無し」
ホントに新聞は今ので充分、毎日届くって幸せだけで充分なんだよ。
今の新聞、ぼくも大好き。
毎日、色々なことが読めるのも楽しくて好きだし、毎日ポストに届くのも好き。
「そうなのか?」
お前が新聞配達を楽しみにしてるというのは初耳だが…?
「えっとね…。怖い夢を見て暗い間に目が覚めた時に、新聞配達、頼もしいんだよ」
メギドの夢で飛び起きた時に、怖くて震えてたらバイクの音が聞こえて来るんだ。
そしたら怖い気持ちが消えるよ、此処は地球だ、って直ぐに分かるから。
新聞配達の人がバイクで走ってる地球で、今日もポストに地球のニュースが届いたよ、って。
「なるほどなあ…」
そいつは確かに頼もしいかもな、前の俺たちには新聞は届きやしないしな。
新聞も無けりゃ、バイクで届くってこともない。
うん、新聞が届くってだけで充分なんだな、青い地球の上で、毎日、毎日。
「そうだよ、いつもニュースを運んでくれるし、それで充分」
前のぼくたちの時代みたいに機械がニュースをコントロールもしてないし…。
今の新聞、読み物としても楽しい記事とかで一杯だものね。
青い地球の上、新聞配達のバイクが配って回る新聞。
今の時代の新聞だからこそ、幸せな気持ちで届くのを待って読むことが出来る。
情報統制をするまでもなくて、平和なニュースしか無い新聞。
人間が全てミュウになった時代の優しい新聞。
たまに悲しい事故などのニュースも載るのだけれど。
そういった時に皆で祈りを捧げられることもまた、平和な時代の証だから…。
いつかはきっと、ブルーとハーレイが共に暮らす家に新聞が届く日が来るだろう。
夏ならば空が明けて来た頃に、夜明けが遅い季節は空に幾つも星がある内に。
表のポストに新聞が届いて、バイクが走り去ってゆく。
朝一番に届いた新聞を取りに出るのはハーレイか、それともブルーの役目か。
二人とも、新聞が届く頃にはまだ夢の中。
幸せな一日の始まりの前の、穏やかな眠りに捕まったままで…。
新聞・了
※今は当たり前のように届く、新聞というもの。それが届かなかった船がシャングリラ。
船で作って人類に配りに行っていたなら、歴史は変わっていたのかも。ミュウも人なのだと。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv
今年も秋がやって来ました。学園祭の準備なども始まっていますが、私たち七人グループが何をやるかはお約束。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を使ってのサイオニック・ドリームによるバーチャル旅行で、その名も『ぶるぅの空飛ぶ絨毯』。毎年恒例だけに準備要らずで。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でダラダラ、これが毎日の過ごし方。柔道部三人組は部活と、たまに学園祭で出す焼きそばの指導。柔道部の名物焼きそば、「そるじゃぁ・ぶるぅ」特製と銘打つだけに作り方は口伝だという念の入れよう。
「ねえねえ、今日は焼きそば指導?」
尋ねられたキース君が「ああ」と些か疲れた口調で。
「…今年の一年生はどうも覚えが悪くてな。あいつらだけに店を任せるのは無理そうだ」
「そんなに酷いの? ぼくの焼きそば、簡単だよ?」
「いや、お前は料理が上手だしな? 合宿でしか料理をしないようなヤツらとは全然違う」
あいつらの腕は絶望的だ、と苦い顔をするキース君の隣でシロエ君も。
「野菜を切るのも危なっかしい手つきですからねえ…。しっかりしごけと言っておきましたが、どうなることやら…」
「俺たちは一応、大先輩だしな? ここぞという所でしか口出ししない方向でないと委縮されても困るしなあ…」
猛特訓は二年生と三年生に任せるそうです。キース君たちは一年生ではありますけれども、特別生。本当はとっくに卒業している筈の大先輩ですから、顧問の教頭先生の次に偉いというポジションらしくて。
「柔道部は特に上下関係に厳しいからな、俺たちへの敬意も半端じゃないんだ」
「ぼくたちへの挨拶の声が小さいと怒鳴られてますしね、一年生…。三年生とかに」
「そ、そうなんだ…」
ジョミー君が驚き、言われてみれば…、と思い返してみる日々の光景。昼休みなんかにキース君たちと歩いている時、やたら大きな声で挨拶している生徒がいるなと思ってましたが、そういう裏があったんですか…。
「まあな。焼きそば指導も苦労するぜ」
「お疲れ様ぁ~! はい、どうぞ!」
焼きそばにするつもりだったんだけど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出してきたものは焼きそば入りのお好み焼き。キース君たちの心の傷への配慮らしいです、うん、美味しい!
お好み焼きを食べつつ、話題は学園祭の方へと。私たちが何をやるかは決まっていますし、部屋の準備は業者さん任せ。気になるサイオニック・ドリームの中身や販売用のメニューなんかは直前で充分間に合いますから、そういう話では全くなくて。
「今年も後夜祭の人気投票、ブルーとフィシスさんで独占だよね?」
ジョミー君が言えば、サム君が。
「他にねえだろ、男子の一番人気はブルーで女子はフィシスさんで決まりじゃねえかよ」
「ですよね、もう毎年の定番ですよ」
番狂わせは有り得ません、とシロエ君。
「何処から見ても会長がダントツで美形なんですし、フィシスさんだって…」
「そうなのよねえ、同じ女子でもフィシスさんって憧れなのよ」
スウェナちゃんの言葉は本当です。そんなフィシスさんと超絶美形の会長さんがステージに並び立つ後夜祭のフィナーレは学園祭の花で、誰もが認める美男美女。今年も溜息の出るような光景だろうな、と考えていたら…。
「問題は美女と野獣なんだよ」
「「「は?」」」
当の会長さんの斜め上な台詞に派手に飛び交う『?』マーク。美女はともかく、会長さんが野獣だなんて誰が言ったの?
「ああ、ごめん、ごめん。そこの野獣はぼくじゃなくって、美女がぼくでさ」
「どういう意味だ?」
キース君の突っ込みに、会長さんは。
「そのまんまだってば、ぼくが美女だと野獣が誰なのか分からない?」
「「「…野獣?」」」
「簡単だろうと思うけどねえ? ぼくに惚れてて、おまけに見かけが野獣とくれば」
そんな人物は二人といない、と言われましても。もしや、それって…」
「…教頭先生のことだったりする?」
ジョミー君が恐る恐る口にしてみて、会長さんが「うん」と即答。
「何処から見たって野獣ってね。体格もそうなら御面相も…ね」
「そいつは誰が言ったんだ?」
ついでにどうして問題なんだ、とキース君。うんうん、其処が知りたいです。美女と野獣だなんてカッ飛んだ発言、教頭先生が会長さんにベタ惚れなことを知ってる人しか言いはしないと思うんですが…?
会長さんに片想い一筋、三百年以上な教頭先生。とはいえ一般生徒は知らない筈で、美女と野獣にたとえようにも発想自体が無い筈です。いったい誰が、と訊きたい気持ちは誰もが同じ。会長さんは「それはねえ…」と重々しく。
「ゼルだよ、そういうことを言うのは」
「ゼル先生か…。確かに如何にも仰いそうだが、その発言の何処が問題なんだ?」
キース君の問いに、「ハーレイだよ」と答える会長さん。
「火のない所に煙は立たないって言葉があるだろう? 美女と野獣だなんて言われるってことは何かやらかしたっていうわけでさ」
「教頭先生が…か?」
「そう。ゼルと飲みに行った席でついついウッカリ、妄想を…ね」
「「「妄想?」」」
それはいつものことなのでは、と思ったのですが、さにあらず。教頭先生とゼル先生の会話、時期が時期だけに学園祭が絡んだようで。
「ハーレイときたら、ぼくとステージに立てればいいのに、と言い出したんだよ」
「「「…ステージ?」」」
「後夜祭のステージだってば、ぼくとフィシスの定位置の…ね」
「「「えぇっ!?」」」
あれって先生でもいけましたっけ? あくまで生徒のイベントでは…?
「当然、生徒のものだよ、あれは。教師は絶対立てないけれども、妄想するのは勝手だしねえ…。そしてゼルに同意を求めたわけだよ、教師でさえなければ立てるのに、とね」
「………無理すぎなんじゃあ?」
正直な意見はジョミー君。
「人気投票で一位を取らなきゃ立てないよ、あそこ。…男子の一位はブルーなんだし、教頭先生が一位になったらブルーは一位から転落だよ」
「うんうん、でもってフィシスさんと一緒に立つことになるんじゃねえのか、教頭先生」
サム君の意見ももっともでしたが、会長さんは。
「其処がハーレイの妄想なんだよ。男子の一位は自分のものでさ、ぼくは女子の方の一位ってことになるらしい」
「フィシスさんの立場はどうなるんですか、それ」
シロエ君が尋ねましたが、会長さんの返事は「さあ?」と一言。
「フィシスのことは綺麗サッパリ忘れてるんだよ、あの馬鹿は。ぼくの女神を忘れるなんてね、なんとも許し難いんだけど」
実に許し難い、と不快そうな顔。…問題って其処のことですか?
後夜祭で会長さんと同じステージに立ちたい教頭先生。妄想とはいえ、人気投票で一位を勝ち取り、会長さんと並びたいとは凄すぎです。そりゃあ何処から見たって美女と野獣で、ゼル先生が仰ることも嫌というほど分かりますけど…。
「ハーレイの妄想、ゼルは「いやはや、美女と野獣としか言えん光景じゃわ」と笑っておしまいだったんだけどさ…」
でもその後のハーレイが、と会長さんは深い溜息。
「なまじ自分の夢を語ったから、もう毎日がドリームってね。「一度でいいからブルーとあそこに立ちたいものだ」と事あるごとに独り言だよ、そして喝采を浴びる自分を妄想」
その独り言を会長さんが盗み聞いてしまい、何事なのかと背景を探ったらしいです。妄想の方は一万歩ほど譲って流してもいいそうですけど、許せないのがフィシスさんの立場が無いらしいこと。ステージで会長さんの隣に立てないとしても、フィシスさんは一位でなければならず。
「ハーレイの隣にフィシスなら許す。…だけど何処にもいないのはねえ…」
「しかし想像は勝手だろうが」
まさか実現するわけでなし、とキース君。
「人気投票はあくまで生徒のものだし、その光景は決して有り得ん」
「そうなんだけどね…。でも本当に腹が立つんだよ、どうしてくれようと思うわけでさ」
会長さんの瞳に不穏な光が。まさか因縁をつける気ですか?
「因縁だって? それじゃ甘いね」
「「「甘い?」」」
「そう、甘い。ハーレイが自分で言い出した以上、ステージに立たせてなんぼなんだよ」
「「「えぇっ!?」」」
ステージって、あの人気投票のステージに? 生徒しか立てない筈ですが…?
「それはもちろん。だから人気投票とは別ってことでステージに立て、と!」
その方向で煽るのだ、と会長さんはグッと拳を。人気投票で使うステージ、学園祭の間はグラウンドに常設ですけど、其処に教頭先生を…?
「キーワードは美女と野獣なんだよ」
ぼくと釣り合わない所が問題、と会長さんは指を一本立てました。
「人気投票で一位を取れるほどの美形でないとね、ステージにも立てない上にぼくと全く釣り合わないし! 美女と野獣だし!」
「…そうなのかな?」
お似合いだろうと思うけども、とズレた意見が何処からか。誰が寝言を言っているのだ、と声がした方を睨み付ければ。
「こんにちは」
会長さんのそっくりさんがソルジャーの正装で立っていました。
「今日はお好み焼きだって? たまにはそういうモノもいいねえ…」
ぼくにもそれ、と部屋を横切り、空いていたソファにストンと腰掛け…。
「かみお~ん♪ お好み焼きの追加一丁~!」
飛び跳ねて行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」がホカホカのお好み焼きを運んで来ました。おかわり用にと沢山焼いてあったのです。私たちも此処で一息とばかりに追加注文、暫くの間はマヨネーズだの青海苔だの鰹節だのとトッピングを巡って賑やかでしたが…。
「ところで、さっきの件なんだけどね」
ソルジャーがお好み焼きを頬張りながら。
「美女と野獣は酷いと思うな、そりゃあ確かに獣なハーレイは好きだけれども」
「退場!!」
会長さんがレッドカードを突き付けました。
「その先は喋らなくてもいいから!」
「えっ、獣なハーレイはパワフルでとてもいいんだけどねえ? あれぞ野獣というヤツなんだよ、ぼくは翻弄されっぱなしで」
「さっさと帰る!」
「ダメダメ、話が済んでないから!」
ハーレイがステージに立つんだってねえ…、とソルジャー、ニッコリ。
「さっきから覗き見してたんだけどさ、ぼくにとってはハーレイはカッコイイんだよ。だけど君はそうではないと言う。でもって君と釣り合う美形に仕立て上げようってプロジェクトだろ?」
大いに興味が、とソルジャーは膝を乗り出しました。
「野獣な今でもカッコイイのに、更に美形になると聞くとさ…。場合によってはぼくのハーレイにも適用したいと思うじゃないか。今よりも更にカッコ良く!」
是非プロジェクトに混ぜてくれ、と瞳を輝かせるソルジャーですけど、これってそういう話でしたか…?
「…ハーレイをカッコ良くとは言ってないけど?」
会長さんの言葉に、ソルジャーは。
「じゃあ、笑い物な方向なのかい? だけどステージに立つんだろう?」
「本人にはそう思い込ませる。でなきゃ頑張ってくれないしねえ?」
「「「頑張る?」」」
何を頑張れと言うのでしょう? 美形になれるよう努力するとか?
「うん、まあ…。そういう感じかな?」
美形になるには努力あるのみ、と会長さん。
「日々の努力で、ぼくと釣り合う美形になるべし! こう、颯爽と、視線を集める素晴らしいキャラに!」
「それってカッコイイって意味なんじゃあ…?」
そうとしか聞こえないけれど、とソルジャーが首を捻っています。私たちにも会長さんの真意が掴めず、ソルジャーの意見に同意ですが。
「…世間で言うならカッコイイかもね。なにしろトップスターだからさ」
「「「トップスター!?」」」
ますますもって意味不明。スターとくればテレビや映画で大活躍の男性ですけど、教頭先生をトップスターの座に押し上げるとか?
「…そういえばトップスターが超絶美形とは限らんな…」
キース君が呟き、サム君も。
「いろんなタイプがあるもんなあ…。教頭先生でもOKなのかもしれねえなあ…」
「だよね、カッコイイって言うより渋いとかさあ、色々あるよね」
ジョミー君の言う通り、スターは色々。誰もが認める二枚目もいれば個性派もあり、輝いていればそれがスターで…。
「そう、ハーレイに必要なものは輝き! それでこそスター!」
会長さんの宣言に、ソルジャーが。
「えっ、輝きまでつくのかい? それは是非ともぼくのハーレイにも欲しいよね、うん」
今のハーレイに輝きオーラがプラス、とソルジャー、ウットリ。
「立っているだけで輝いてるとか、そういうのって素晴らしいよね」
「そりゃまあ…。そういうハーレイを目指すんだけどさ、あまりお勧め出来ないなあ…」
トップスターがちょっと違うし、と会長さん。
「ハーレイが目指すのは男の中の男と言うかさ、男を超えたスターなんだよ。もう現実には絶対いない、っていう勢いの」
輝く男、という話ですが、だったら余計にソルジャーの理想にピッタリなのでは?
「…なんでお勧め出来ないのさ、それ」
案の定、ソルジャーは不満そうに唇を尖らせました。
「男の中の男な上にさ、男を超えたスターだろ? 現実にはいないほどの勢いとなれば、ぼくのハーレイにも見習わせたい! こっちのハーレイだけがスターだなんて!」
それとも何か、と据わった目線。
「君はハーレイには興味ないくせに、凄いハーレイを作り上げて見せびらかそうっていう魂胆? こんなハーレイでも足蹴にします、って優越感に浸りたいとか?」
「…なんでそういうことになるかな…」
深読みするにもほどがあるよ、と会長さんは呆れ顔で。
「ぼくにそういう趣味は無いから! ハーレイを足蹴にするのはともかく」
「だったら、なんで! ぼくのハーレイも男の中の男ってヤツに!」
「…いいのかい? ハーレイが目指すの、男役のトップスターだけども」
「「「男役!?」」」
なんじゃそりゃ、と私たちの声が引っくり返りました。教頭先生、男性だけに男に決まっているというのに、何処から何故に男役と…?
「知らないかなあ、男役」
「男役も何も、教頭先生は最初から男でいらっしゃる!」
キース君が叫びましたが、会長さんはフフンと鼻で笑って。
「ぶるぅ、テレビをつけてくれる? このチャンネルで」
「うんっ!」
大画面のテレビのスイッチが入り、映し出された煌びやかなステージ。もしや、これって…。
「歌劇ってヤツだよ。此処に居るのは全員、女性だ」
会長さんがソルジャーに解説スタート。
「此処のスーツの男性もねえ、実はキッチリ女性なわけ! これが女性に大人気でさ」
「…歌劇ってヤツが?」
「違う、違う、歌劇の男役! 一部のコアな女性にとっては男性以上の男性ってね。女形は知っているだろう? アレは男が極めた女。こっちは女が極めた男。…女形は本物の女性以上に女らしい、と言うんだけどねえ、男役にもソレが当てはまるという話があるわけ」
男のカッコイイ部分を追求した上で極めてるから、と会長さん。
「本物の男じゃ此処まで出来ないキザなポーズとか、色々と…ね。指の先までキマッてるんだ」
「うーん…。確かにちょっと真似たい感じはするね」
この立ち方とか…、と画面に見入っているソルジャー。会長さんと同じ超絶美形なソルジャーだったら男役を真似てもキマるでしょうけど、教頭先生で男役って絵になりますか…?
ソルジャーが興味津々で画面を見守る内に、華やかにレビューが始まりました。実際の歌劇は長いらしいですし、これはダイジェストってヤツなのでしょう。キザな男性を演じていた人が軽やかに踊っていますけれども、それがなんとも格好良くて。
「ね? こんな踊りでもピシャリとキマる。本物の男じゃこうはいかない」
何処かで油断が出て来るから、と会長さん。
「男役のトップスターともなれば、舞台を下りても凄いらしいよ? 歩き方からして颯爽と男、日常生活までが絵になるそうでね」
「それは凄いね…。ぼくだと気合を入れていないと地が出ちゃうから、よくハーレイに文句を言われる。ソルジャーがそれでは困ります、とか」
「そうだろう? ぼくはハーレイに男役の凄さを叩き込もうと思ってるわけ」
それでこそ男の中の男でぼくと釣り合う、とニンマリと。
「元がああいうビジュアルな上に、男らしさのベクトルってヤツがキザとは真逆なハーレイだしねえ? 美形なぼくと並んで立つなら、こういうキマッたポーズが欲しい、と」
指の先まで神経を張り詰め、歩く姿も格好良く! と会長さん。
「ハーレイが男役のトップスター並みにキザが絵になる男になったら、ステージにも立っていいだろうしさ。…学園祭のね」
「あんた、立たせるつもりなのか!?」
キース君の声が裏返りましたが、会長さんは涼しい顔で。
「ステージを目指すと言った筈だよ、ハーレイがぼくと釣り合いたいなら目指して貰う。…男役の花はコレだからねえ、もちろんコレで!」
ビシィッ! と会長さんが指差すテレビ画面はレビューのフィナーレ。男役のトップスターだという女性が…って、見た目は立派に男性ですけど、大きな羽根飾りを背中に背負って大階段を下りてゆきます。足元も見ずに、客席の方に笑顔を向けて。
「この階段がね、難しいらしい。…普通の階段よりも幅が狭い上に傾斜も急だ。そこを足元を一切見ないで格好良く! これでこそスター!」
「…サイオンは?」
ソルジャーの問いに、私たちは声を揃えて。
「「「あるわけないし!!!」」」
「…そ、そうなんだ…」
それじゃぼくにも出来やしない、とソルジャー、感動。男役のトップスターの凄さは分かったようですけれども、これを教頭先生が…?
歌劇観賞が終わってテレビが消され、会長さんは至極真面目な顔で。
「ハーレイがぼくの隣に立ちたいと言うなら、このレベル! 此処まで極めればステージに立てる。その勢いで頑張らせないと…。ハーレイはぼくの女神をコケにしたんだ」
「いや、それはそういう意図ではないと思うが…!」
キース君が擁護に出ましたけれど、会長さんはけんもほろろに。
「意図があったとか無いとかじゃなくて! ぼくはフィシスとセットものなのに、そのフィシスを他所に放り出して自分が前に出たいというのが厚かましい。其処まで言うなら、ぼくと釣り合うレベルの男を目指すまで!」
目標はあくまでトップスター! とブチ上げている会長さん。
「もうね、今日から特訓あるのみ! それが嫌なら妄想を捨てる!」
「と、特訓って…」
どういう特訓? とジョミー君。
「さっきの歌劇みたいに歌って踊って、それでもキザにキメるわけ?」
「当たり前だろ。あの階段を下りるトコまでやって貰うよ、ハーレイにはね。…だから、ブルーの世界のハーレイの方にはお勧めしない、と言ったんだ。…どう、こんなのでもやらせたい?」
「…こ、ここまでは要らないかな…」
ハーレイとは何かが違う気がする、と流石のソルジャーも腰が引け気味。
「どっちかと言えば、これが似合うのはぼくの方かも…。決めポーズだとか、こう、色々と」
「うん、常識で考えた場合、ハーレイよりかはぼくだと思う。…だけど相手はハーレイだしねえ? 思い込んだら一直線だし、自分のキャラに合うかどうかは考えないさ」
だからいける、と会長さんは自信満々。
「そして万が一、やらないようなら話はそこまで! ぼくのフィシスをコケにするような妄想を二度と描けないよう、コテンパンにけなして終わりだから!」
「「「………」」」
それはコワイ、と誰もがブルブル。会長さんの毒舌にかかれば教頭先生の楽しい妄想は木端微塵で、下手をすれば絶望のドン底送り。そうならなかった場合には…。
「…教頭先生が男役か…」
致命的に似合わないと思うのだが、というキース君の指摘は間違いではないと思います。ソルジャーでさえ「何かが違う」と感じたのですし、無理があるなんていうものではなくて…。でも。
「似合わないからこそ、やらせてなんぼ! そしてぼくたちは笑ってなんぼ!」
男役を目指すハーレイを! と会長さん。もはや止められる段階は過ぎてしまって前進あるのみらしいですけど、教頭先生はお断りになるか、はたまたオッケーなさるのか…?
男性以上に男性らしく、目指せ男役のトップスター。そんな恐ろしい提案を教頭先生に持ち掛けるべく、会長さんは私たちを引き連れて行くつもりでした。ソルジャーも面白くなると考えたらしくて同行を希望、お蔭様で夕食は会長さんの家で食べることに。
「かみお~ん♪ お肉、沢山あるからねー!」
どんどん食べてね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大はしゃぎ。おもてなし好きのお客様好き、ホットプレートを沢山並べての焼肉パーティーのお世話もバッチリです。オニオングラタンスープまで作ってくれて至れり尽くせり、大満足の夕食の後は…。
「そろそろいいかな、ハーレイもリビングで寛いでるし」
おまけに頭は妄想モード、と会長さんが舌打ちを。
「ぼくと並んでステージに立って拍手喝采を浴びてるよ、うん。どうすればああいうバカバカしい夢が見られるんだか…。ぼくのフィシスをコケにしてるさ、いや、本当に」
それは言い掛かりというのでは、とは怖くて言えませんでした。会長さんにとってはフィシスさんが女神、ソルジャー夫妻のようなバカップルではありませんけれどお似合いです。そのフィシスさんの立場が無いような妄想は言語道断なのでしょう。
「それじゃ行こうか、ぶるぅ、用意は?」
「いつでもオッケー! ハーレイの家だね!」
お馴染みの「かみお~ん♪」の声を合図に迸る青いサイオン、三人前。野次馬のソルジャーも協力を惜しまず、私たちは瞬間移動で教頭先生の家のリビングへ。
「な、なんだ!?」
仰け反っておられる教頭先生、ソファから半分ずり落ち状態。持っておられた新聞は床に落っこちてますが…。
「こんばんは、ハーレイ」
会長さんがにこやかに挨拶しました。
「聞いたよ、ゼルに酷い悪口を言われたってね? 美女と野獣だとか」
「…あ、ああ…。ゼルはお前にまで言いに行ったのか?」
「そうじゃないけど、地獄耳かな。それで君の意見はどうなわけ? 美女と野獣は悪口だよね?」
それとも認めているのかな、と一歩進み出る会長さん。
「ぼくとは全く釣り合わないと分かってるのか、分かってないか。…其処の所を訊きたくてさ」
「…そ、それは……。私としては自信があるのだが……」
周りから見るとどうだろうか、と教頭先生、あまり自信が無い様子。
「…ゼルの言い分はあのとおりだし、美形だと褒められたこともないしな…」
駄目だろうか、と弱気な台詞。なるほど、妄想全開とはいえ、自分を分かっておられるようで…。
「…やっぱり自信は無いわけなんだ?」
てっきりあるのかと思っていたよ、と会長さんはクスクスと。
「ぼくと結婚が夢らしいから、釣り合うつもりでいるんだとばかり…。そういうことなら、この機会に努力してみないかい?」
「努力?」
「ぼくと釣り合う男になるよう、努力だよ! 美女と野獣なんてもう言わせない、って勢いで!」
自信を持つのだ、と発破をかける会長さん。
「男の中の男を目指して頑張りたまえ。どんな男よりも男らしく!」
「……柔道か?」
「違うってば! それじゃぼくとは釣り合わないだろ、今とおんなじなんだから! 君が目指すのはトップスター!」
「らしいよ、ハーレイ。ぼくも見ていて惚れ惚れしたねえ…」
あれは凄い、とソルジャーが艶やかに微笑みました。
「いやもう、あんなにカッコイイ男がいたら凄いだろうな、と見惚れるしか…。でも現実にはいないんだ。もしも居たなら凄すぎだってば、そんな男を目指さないか、とブルーは言うわけ」
「…現実にはいない男……ですか?」
「うん。男のカッコイイ部分を極めて体現してると言うべきか…。ぼくでさえ真似たくなるほどの凄さ! あんなポーズをキメてみたいと!」
ソルジャーでさえも見惚れる上に、真似をしたくなる男役。男役とは一言も言っていませんけれども、教頭先生がググッと心を惹かれるには充分な言葉であって。
「…あなたでも見惚れたと仰るのですか…」
「そう! おまけに真似たいと思ってしまうね、あのキザさ! あのカッコ良さ!」
「それほどの男を私に目指せと…。出来るのでしょうか?」
「さあねえ、細かい所はブルーに訊けば?」
とにかく本当に凄かった、と称賛しまくっているソルジャー。教頭先生は会長さんの方に向き直り、
「どうなのだ?」と質問を。
「ブルー、私でもそういう男になれるのだろうか? …そのう、現実にはいないとか…」
「いないね、女形の反対だから」
会長さんはサラリと言い放ちました。
「ぼくたちが言うのは男役! 知っているだろ、女性ばかりの歌劇団の!」
「か、歌劇団!?」
アレか、と息を飲む教頭先生。御覧になったことがあるのかどうかは知りませんけど、男役とは何であるかは御存知だったようですねえ…。
よりにもよって歌劇団の男役トップスター。いくら見た目にカッコ良くても、男性よりも男らしいと言っても、教頭先生のキャラとは真逆。会長さんと釣り合う男を目指すためでも承知なさる筈が無いだろう、と思ったのに。
「……あの男役をお手本にすれば、お前と釣り合う男になるのか?」
教頭先生はやる気でした。会長さんが「うん」と大きく頷いて。
「ぼくは美形が売りだしねえ? そのぼくとまるで釣り合わないから、美女と野獣と言われるわけだ。だったら君も美形を目指す! カッコ良さで男の中の男を!」
「…そ、そうか…。具体的にはどうすればいいのだ、男役だなどと言われても…」
教室か何かがあるのだろうか、と教頭先生は大真面目。
「それとも歌劇を見に通うのか? …スターの技は見て盗めと?」
「まずは形から入るのがいいと思うんだけどね、学園祭で」
会長さんはニッコリと。
「ぼくと立ちたい夢のステージだったっけ? 其処で大喝采を浴びられるレベルに仕上げて、上手くいったら日常にもそれを取り入れる! 歩き方まで颯爽とキザに!」
「……ステージだと?」
「そうだけど? トップスターが真価を発揮するのは舞台の上だし、学園祭の特設ステージでスタートを切って自信を持つことをお勧めするね」
それから少しずつ仕上げて行こう、と会長さん。
「もちろん、ぼくも手伝うよ。…ただしステージが成功したら…ね。ああ、ステージの指導はちゃんとするから安心して」
「なるほど、お前と二人三脚でのスタートなのだな、最初の一歩はステージから、と」
「そのとおり! ぼくの指導で真面目にやるなら協力を惜しむつもりはないよ」
頑張ってスターの輝きを目指そう、と会長さんは教頭先生を焚き付けました。
「歩いても良し、立つ姿も良し! そんな素晴らしい男になったら、ぼくともピッタリ釣り合うよ。ねえ、ブルーだってそう思うだろう?」
「まあね。ぼくは元々、ぼくのハーレイと釣り合ってないとは思ってないけど…」
ソルジャーの言葉に真実の欠片が隠れていたのに。釣り合うかどうかは考え次第で、会長さんにその気さえあれば今のままでも釣り合うのだと気付く切っ掛けにはなったというのに、教頭先生は気付かないままで終わってしまいました。そして…。
「よし、やろう! お前に相応しい男を目指して頑張るまでだ!」
指導を頼む、と深々と頭を下げる教頭先生。男役トップスターを華麗に演じるステージとやらへ全力で飛び込んでしまわれましたよ…。
その翌日から教頭先生を待っていたのは地獄の特訓の日々でした。仕事が終わって家へ帰って食事が済んだら、会長さんの家へ瞬間移動で呼び出されて直ぐにレッスン開始。
「ダメダメ、そこはもっと高々と右手を上げて!」
会長さんがシャツとズボンでステップを踏む教頭先生にダメ出しを。
「それと笑顔だね、にこやかに、キザに!」
君の表情はキザとは程遠い、と厳しい指摘が。
「ぶるぅ、鏡を持って来て!」
「かみお~ん♪ テーブルに置くんだっけ?」
「そう、其処でいいよ。ハーレイ、ダンスの前に表情の方の特訓だ」
座って、と椅子を指差し、教頭先生が腰掛けた前には一枚の鏡。それを覗いての表情作りも大切な稽古、基本はキザで、なおかつ男の色気も重要。
「笑って、笑って! そうじゃなくって、こう、カッコよく! うーん…」
「こうじゃないかな、こんな感じで」
教頭先生の背後に私服のソルジャーが立って、褐色の頬を両手でムニュッと。笑顔全開だった教頭先生の顔に渋さが加わり、心なしかキザな味わいも…。
「うん、いいね! ハーレイ、今の表情をキープ! 十秒間!」
「…う、ううう……」
「唸らない! ほらほら、眉間に皺が寄ったし! ブルー、よろしく」
「オッケー! ハーレイ、皺は伸ばして!」
こう、ギュッと! とソルジャー、教頭先生の眉間の皺を広げて、頬なども弄って表情作り。出来上がったそれをキープするべく頑張っている教頭先生の横では「そるじゃぁ・ぶるぅ」がストップウォッチを眺めています。
「五、四、三…。あーーーっ、ダメだよう~!」
戻っちゃった、と悲鳴が上がって表情作りは再び一から。教頭先生の頬が勝手にピクピクするほど顔の筋肉が疲れ果てたら、今度はダンスの指導に戻って…。
「右足はもっと高く上げてよ、あっ、爪先はそんな風には伸ばさない!」
バレエじゃないから、と会長さんの指導がビシバシ。
「革靴を履いたダンスが映えなきゃダメだし、第一、君は女じゃないだろ? バレエのレッスンは女のパートかもしれないけどねえ、こっちは男の踊りなんだよ」
そして色気とキザなポーズを忘れずに! と注文が飛んで、細かい仕種まで直される始末。会長さんったら、何処でそれだけの知識をゲットしたのだろう、と思っていたら…。
「えっ、本職の演出家だけど? ちょっと失礼してサイオンで…ね」
これでバッチリ! と親指を立てていますけれども、男役の技を教頭先生にコピーすることは反則だからしないんですか、そうですか…。
表情を作って、ポーズもキメて。教頭先生はひたすら努力で頑張りまくって、学園祭も近付いてきた頃、ようやく会長さんから「こんなものかな」という言葉が。
「どうかな、ブルー? 君から見てもキザかな、ハーレイ?」
「…そうだね、あんな風にキメてこられたらドキッとするかな、踊りはともかく」
そっちはお笑い、とクスッとソルジャーが零した本音は教頭先生には聞こえておらず、懸命にダンスをしておられます。たまにピタリと止まるポーズがソルジャーの言う「ドキッとする」ものであって、確かに普段よりかはカッコイイかも…。
「ハーレイ、けっこういけてるってさ!」
会長さんが声を張り上げ、教頭先生が振り返って。
「そうなのか?」
するとソルジャーがパチンとウインク。
「いいねえ、今の振り返ったポーズとその表情! ぼくもドキンとしちゃったよ」
「あ、ありがとうございます!」
「…今のお辞儀は地が出ちゃってたね、そっちもキマると良かったんだけど…」
「は、はい…。まだまだ未熟者でして…」
努力します、と頭を下げる教頭先生、今度はポーズがキマりました。もしかしなくても、こんな調子でステージデビューになるのでしょうか? それが見事に成功したなら…。
「…ヤバイんじゃないの?」
ジョミー君が小声で囁き、シロエ君が。
「なんだかサマになってますよね、このまま行ったら充分ステージに立てるんじゃあ…」
「あいつ、どうするつもりなんだ? 二人三脚で男役とやらを極めさせたりは…」
そんなことになったら話が間違う、とキース君。会長さんは教頭先生がフィシスさんをコケにしたから仇討ちとばかりに男役スターへと進ませた筈で、本当のスターに仕上げるつもりは最初から全く無かったのでは…?
「でもよ、もうすぐ学園祭だぜ?」
「そうよね、劇的に引っくり返せるどころかステージで披露するしかないわよ…」
何処で話がズレたのだろう、と私たちは焦っていたのですけど。
「な、なんだって!?」
教頭先生の慌てたような声が響いて、「かみお~ん♪」の叫びと青いサイオン。ちょ、ちょっと待って、瞬間移動な心の準備は全く出来ていないんですけど~!
一瞬の後に、私たちは会長さんが住むマンションの屋上に立っていました。其処には立派な階段が一つ。そう、階段。いつか見たテレビで男役のトップスターが足元も見ずに颯爽と下りた、あの階段を思わせるヤツがドドーンと設置されていて…。
「さあ、ハーレイ。これが最後の特訓なんだよ」
会長さんが煌々と屋上を照らす照明の中で嫣然と。
「男役のトップスターたるもの、この階段を笑顔で下りられてなんぼなんだよ。足元なんて見ちゃいけないよ? 観客だけを真っ直ぐに見る!」
学園祭のステージにもコレを運んで設置するから、とニコニコニッコリ。
「当日は背中に羽根飾りもつく。これがなかなか重くってさ…。そうだよね、ぶるぅ?」
「うんっ! 何キロあるのか計ってないけど、すっごく重いの!」
こんなのだよ、と宙に取り出された羽根飾り。一本の羽根が一メートル近くあるでしょうか。それが何枚も太陽の輝きのように組み上げられて、スターの背中を飾る仕組みで。
「とりあえず今日は羽根はつけずにやってみようか、まず階段の上に登って!」
会長さんが階段を指差し、教頭先生は「そ、それは…」と肩を震わせながら。
「階段の幅が狭いと言わなかったか? ふ、普通よりも…」
「狭いね、とにかく登ってみれば? 自分の足でさ」
「…う、うう……」
無理だ、と悲鳴を上げる教頭先生。一番下の段に乗っけた足はかなりの部分がはみ出しています。
「こ、こんなのを登るのはともかく、下りるのは…! しかも足元を見ないなど…!」
「出来ないんだったらデビューは無しだね、せっかく此処まで来たのにさ」
ついでにぼくとも釣り合わない、と会長さんは悪魔の微笑み。
「学園祭まで頑張ってみるか、此処でアッサリ諦めるか。…今までの努力が水の泡だけど」
「もったいないと思うよ、ぼくは」
ソルジャーが口を出しました。
「転げ落ちたら確実に腰を傷めちゃうけど、その腰、まだまだ出番は無いだろ? ぼくのハーレイが腰を傷めたら困るけれどさ、君は直ぐには困らないんだし、頑張りたまえ」
「そうだよ、なんならクッション代わりに羽根飾りもつけて! デビューあるのみ!」
張り切っていこう! と会長さんとソルジャーがタッグを組んで教頭先生を階段の上へとサイオンで運んだのですけれど…。
「む、無理だぁーーーっ!!!」
絶叫と共に反対側へと飛び降りた教頭先生、後をも見ずに非常階段を駆け下りて脱兎の如く…。会長さん、最初からこれを狙ってましたか?
「…正直、此処まで頑張るとは思わなかったけど…。この階段は流石にねえ?」
無理、無茶、無駄! と笑い合っている会長さんとソルジャーと。男役トップスターを極められなかった教頭先生、どうやら未来は無さそうです。出番が消えた羽根飾りは学園祭の人気投票で会長さんが背負うと言ってますけど、大階段も下りるのでしょうか、楽しみ、楽しみ~!
輝けるスター・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生が特訓を重ねる羽目に陥った「スター」は、もちろん宝塚がモデルであります。
大階段も大変らしいですけど、羽根飾りの重さも半端ないとか。プロって凄い。
シャングリラ学園、来月は普通に更新です。いわゆる月イチ。
次回は 「第3月曜」 3月20日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、2月は、恒例の「七福神めぐり」。やはりエライことに…?
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(美味しい…!)
まだ秋だけれど、赤いリンゴも出回るようになったから。
ぼくが住んでる所よりも北の方では冬が早くて、その辺りで採れたリンゴがお店に並ぶから。
今日のおやつはママのお手製、リンゴのコンポート、赤ワイン煮。
真っ赤なリンゴをくるくると剥いて、カットして赤ワインで煮込んであるんだ、もちろんお砂糖たっぷりで。赤ワインを吸って、半透明になってるリンゴ。赤ワインの色に染まったリンゴ。
アルコールはすっかり飛ばしてあるから、ぼくでも安心。
(ふふっ、ちょっぴり大人の気分!)
まだまだお酒は飲めないけれど。
飲める年になっても、前のぼくと同じでお酒に弱いかもしれないけれど。
だけどワインは大人の飲み物、それを使ったお菓子っていうだけで胸がときめく。
もうちょっと、って。
あと何年か我慢したなら、ぼくは十八歳になる。ハーレイと結婚出来る年に。
お酒は二十歳まで駄目だけれども、結婚したなら大人の仲間入りみたいなものなんだから…。
(もう少ししたら大人なんだよ)
あと何年かで手が届く筈の大人というもの、大人が楽しむ飲み物がワイン。
それで煮込まれた赤いリンゴは憧れの世界の欠片を運んで来てくれる。
赤ワインの赤に染まったリンゴ。アルコール無しでも幸せな気分で酔っ払えそう。
甘いコンポート、ホイップクリームに庭のミントの葉っぱも添えて。
(赤ワイン煮…)
フォークで切っては、口へと運んで。
シナモンの風味も味わいながら、ぼくは御機嫌。
だって赤ワイン煮、大人の飲み物で作って貰ったおやつだから。アルコール分は飛んでいたって背伸びして大人の気分だから。
前のぼくみたいに大きくなったら、ぼくも大人の仲間入り。
ちっとも背丈が伸びてくれないチビのぼくだけど、いつかは大人の仲間入り。
(十八歳までには育つよね、きっと)
そしたら結婚、お酒は飲めない年でも大人扱いして貰える筈。
もうちょっとだよ、って今日は前向き、ひょっとしたら赤ワインで酔っ払ってる?
アルコールは飛んでる筈なんだけれど、赤ワインの味だけで酔っ払えちゃう?
それもいいかも、こんなに心が浮き立つんなら。
前のぼくの背丈、それが目標。
そこまで育てばハーレイがキスを許してくれる。
シャングリラに居た頃は、当たり前のように交わしていたキス。それが今では頬と額にしかして貰えなくて、膨れてばかりのチビのぼく。
そのキスだって、あと少しだけの我慢だよね、って思っちゃう。ホントに前向き、今日のぼく。赤ワインで酔っ払っているんだとしても、うんと幸せ、素敵な気分。
白い鯨でハーレイと一緒に居た頃みたいに、もうすぐ二人で暮らすんだよ、って。
(シャングリラにもワインはあったんだっけ…)
リンゴのコンポートなんかは作ってないけど、一度も作っていなかったけれど。
シャングリラでリンゴは育てていたけど、赤ワイン煮になることは無かった。
ワインは貴重品だったから。
本物のワインはとっても貴重で、お菓子なんかに使えるものではなかったから。
もちろん合成品のワインはあったし、それを使えばコンポートだって作れそうだけれど、合成のワインは嗜好品。飲むのが第一、それと料理用。お菓子にはあくまで風味づけ。
(船のみんなに行き渡るだけのリンゴの赤ワイン煮なんて、凄い量のワインが要るんだし…)
厨房の係は作ろうと思わなかっただろう。もったいない、って。
でも…。
(赤ワインだけは本物のヤツがあったよね)
ブドウを搾って、樽で仕込んだホントに本物の赤ワイン。
合成のお酒ばかりだった中で、あれだけは本物のお酒だったんだ。
懐かしいな、ってリンゴのコンポートを頬張った。
あのワインの味にちょっぴり似てると、お砂糖が入って甘いけれども、確かに似てると。
お酒に弱かったぼくは少しだけしか飲まなかったから、ハッキリ覚えてはいないんだけれど。
おやつを食べ終えて、キッチンのママにお皿やカップを返しに行って。
それから二階の部屋に戻って、勉強机で頬杖をついて。
(リンゴのコンポート、美味しかったな…)
赤ワインたっぷり、お砂糖たっぷり。シナモンも少し。
ホイップクリームにミントの葉っぱも。
ちょっぴり背伸びで大人な気分がしてくるお菓子で、酔っ払ったかもしれないけれど。ぼくには嬉しい大人っぽい味、大人の飲み物の赤ワインの味。
シャングリラでは作らなかったけれども、その気になったら作れたと思う。
材料は揃っていたんだから。
リンゴとお砂糖、シナモン、ミントにホイップクリーム。
もちろん本物の赤ワインだって。
全員の分は絶対無理でも、一人分ならきっと作れた。前のぼくが一人で食べるだけなら。
(ソルジャーの分だけ、っていうのは反則?)
そういったことはしないように、って仲間には言ってあったんだけれど。
ソルジャーだから、って特別扱いをしては駄目だ、と何度も伝えてあったんだけれど。
(でも、赤ワイン煮…)
食べてみたかったような気がしてきた。材料は揃ってたんだ、と思うと。
青い地球の上に生まれ変わった今のぼくだから、そんな我儘を思い付いたりするんだろうけど。
(厨房の係に「作って欲しい」って言ったら、反則…)
喜んで作って貰えたとしても、それだと自分でルールを破ったことになる。
「ソルジャーを特別扱いするな」と言っていたくせに、自分だけのために特別なものを作らせることになるんだから。それも貴重な赤ワインを使って。
それはマズイし、許されそうにないんだけれど。
(ハーレイだったら作ってくれたと思うんだよ)
前のハーレイは厨房出身、料理が得意。青の間には小さなキッチンがあったし、あそこで作れば誰も絶対、気付きやしない。リンゴが一個くらい減っても、生クリームが少し減っても。
前のぼくが「食べてみたいよ」って言ったら、ハーレイはきっと作ってくれた。
甘くて美味しい、赤ワインの色に染まったリンゴのコンポート。
本物の赤ワインを使って、煮込んで。
(ちょっとくらい減ってもバレないんだものね、赤ワイン)
リンゴや砂糖や生クリームが減っちゃったことを言い訳するより、ずっと簡単。
だって、天使が飲んじゃうんだから。
「美味しいね」って飲んでしまうんだから。
実はシャングリラには天使がいたんだ。
お酒の大好きな天使ってヤツが。
年に一回、新年を迎えるイベントの時だけ、シャングリラで飲んだ赤ワイン。
みんなで乾杯していたワイン。
そのためにだけ、ワイン用のブドウを取り分けておいて木の樽に入れて熟成させてた。お祝いに使う大切なワイン、クリスマス生まれの神様の血だと伝わる赤ワイン。
天使はそれを飲んでいた。
誰にも「下さい」なんて言わずに、こっそりと。
前のぼくたちが最初にワインを仕込んだ年。
特別に作った木の樽に入れて、専用の倉庫で熟成させた。温度や湿度の管理も完璧、樽に一杯のワインが出来ると頭から信じていたんだけれど。
「なんで減るんじゃ!」
樽からボトルに移していた日に、用意しておいたボトルが余った。仕込んだワインを入れようと作ったボトルが余って、減っていたことが初めて分かった。
そういう報告が上がって来たから、いつものゼルたちを集めて会議。ハーレイが読み上げた事実なるものに、「どうしてなんじゃ」と頭を振ったゼル。
「倉庫の管理は厳重じゃった筈じゃぞ、勝手に入れはしない筈じゃが」
「そうだよ、それに樽だって封印していた筈だよ」
ブラウも「変だ」と言い出した。
「封印、破れていなかったんだろ? だったら密閉されてたってことさ」
それなのに、なんで減るんだい?
考えたくないけど、ワインをサイオンでコッソリと盗む悪い奴が居たってことなのかい?
「違うね、これはそういうものなのだよ」
減るものだよ、とヒルマンが笑って、エラも穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ、本物のワインだからこそ減るのです」
木の樽から自然に蒸発してゆくのですよ、ああして熟成させている内に。
そうやって樽から消えてしまったワインを、天使の取り分と呼ぶのだそうです。
天使が飲んだと、その分だけ減ってしまったのだと。
「ふうむ、天使の取り分じゃったか…」
仕方ないのう、そういうことなら。しかしじゃ、それは秘密にしておかねばならん。
この件については調査中じゃ、と言わねばな。
ゼルが奇妙なことを言うから、ヒルマンが「何故だね?」と訊いたんだけれど。
「分からんか? そういう言い訳で飲むヤツが出るといかんじゃろうが」
樽のワインは減るものらしい、と広まってみろ。
少しくらいなら、と味見したがる奴が出るわい、サイオンで盗み出せるんじゃからな。
「なるほどねえ…。あたしもちょいと欲しくなってきたね」
そろそろいいだろ、って味見に一口。天使が飲むなら一口くらいは欲しいもんだね、樽の間に。
「わしらが飲んでどうするんじゃ!」
手本にならねばいかん立場じゃぞ、それが盗んで飲みたいなどとは言語道断というヤツじゃ!
「ぼくがシールドしておこうか?」
ワインの樽ごと。そうすれば蒸発して減ることもないし、問題は解決しそうだけれど。
「それでは美味しくならないのでは、と思うのだがね」
自然に蒸発してゆく過程も含めて、ワインの熟成が進むのだろうし。
不自然なシールドを施すよりかは、自然に任せておきたいものだね。
「でも、今後のことを考えると…。天使の取り分、いつかは知られてしまいそうだよ」
知れてしまったら、ゼルが言ってた不心得者。
少しだけ、と考える者が出るかもしれない。その対策としてもシールドは有効そうだけど…。
「そこまでのことは要らんじゃろう」
本当にシールドを張るまでもないわい、ソルジャーが厳重に管理していると広めておけば効果があるじゃろう。それでも減っているようだ、と知れたら天使の取り分の出番じゃな。これは自然に起こることじゃと、防ぎようがない現象なんじゃと。
ぼくはシールドを張らなかったから、毎年、毎年、減っちゃうワイン。
天使が飲んでた赤ワイン。
その内に船でも有名になって、天使の取り分を知らない大人はいなくなった。けれども便乗してコッソリ飲もうという者は無くて、天使だけが飲んでた赤ワイン。
樽で仕込んだワインは毎年、同じ環境で熟成させてる筈なんだけれど、天使の取り分は少しずつ変わる。多めだったり、少なめだったり、気まぐれな天使が飲んだ分だけ。
それがどのくらい続いただろう?
ある日、一日の報告をしに青の間に来たハーレイと二人でお茶を飲んでいたら。
「ソルジャー、天使の取り分ですが…」
今年はどのくらいの量になるのでしょうねえ、毎年、好きなだけ飲まれていますが…。
天使の好みで増減するというのが実に不思議です、まるで人間が抜き取っているかのように。
「そうだね。そういう話を持ち出すってことは、君の分を取って欲しいのかい?」
ぼくは実際には管理してないけど、あの樽の番をしていることになってるし…。
君が飲む分をほんの少しだけ、天使の取り分で抜き取ってくれと?
「いえ、そうではなく…。天使の取り分という現象ですよ」
調べてみましたら、どんな酒でも起こるようですし…。合成の悲しさを思い知らされますね。
「えっ?」
「合成の酒は天使も嫌っているようです。大量に仕込んではあるのですが…」
減らないんですよ、と笑ったハーレイ。
合成のラムも、ウイスキーも、ブランデーも天使は全く飲まないらしい。
知らんぷりをして素通りするだけ、ほんの一口も飲みはしないで。
「天使が飲むような酒は美味いだろうと思うのですが…」
まるで飲まないということになると、合成の酒はそれだけ不味いのでしょう。
天使が取り分を欲しがる酒の美味さは、どれほどでしょうね。
「昔はあったね、そういうお酒も」
人類から物資を奪っていた頃は、お酒も沢山。よく紛れてたし、みんなに配っていたけれど…。
あれが天使の好きな味なんだね、ぼくはお酒は駄目だったけれど。
「いつか飲めたなら、どんな味だったか思い出せるとは思いますが…」
合成の酒に慣れてしまって、あちらの味を忘れました。美味い酒だった、という記憶だけです。どう美味かったか、どんな味わいだったのか。その辺が曖昧になってしまいました。
舌が忘れてしまったようです、とハーレイは少し悲しそうで。
天使も飲まない合成のお酒を飲むしかないのも、気の毒に思えてきたものだから。
「それならラムとかも作ってみようか、本物を?」
ワインみたいに大きな樽を使うんじゃなくて、小さな樽で。
「無理ですよ。ラムの原料はサトウキビですし、ラム酒に回せる分があるなら砂糖を増産するべきでしょう」
ウイスキーにしても同じことです。大麦、ライ麦、トウモロコシなどの穀物が原料ですから。
「ブランデーはブドウじゃなかったかな?」
それで間違いありませんが…。ブドウから作った白ワインを蒸留するのですよ?
赤ワインでさえもギリギリなんです、ブランデーなんかを作れる余裕はありませんよ。
年に一度の赤ワインだけで充分です、って言ったハーレイ。
ぼくの飲み残しを貰っている分、他の仲間より多めに飲めているのですから、って。
そんなハーレイと恋人同士になった後。
ハーレイはぼくの特別になって、大切な人になったから。
シャングリラの仲間の誰よりも大事で、愛おしい人になったから。
天使の取り分が出来るお酒をハーレイに飲ませてあげたいと思ったけれど。なんとかして本物のラムやブランデー、ウイスキーを作れないかと思ったけれど。
でもハーレイが前に言っていた通り、それは不可能。
ラムを作るだけのサトウキビがあるなら、料理やお菓子に欠かせない砂糖を増産すべき。穀物もウイスキーを作れるほどなら、食料の備蓄に回さなければ。
白ワインが原料だというブランデーなどは論外だったし、本物のお酒は作れない。
ぼくがソルジャーでも、そんな命令、下せやしない。
だけどハーレイにお酒をあげたい。
天使が飲むという本物のお酒を、お酒が大好きなハーレイのために。
ハーレイにお酒、って考え続けて、だけどお酒は作れなくって。
(ちょっとだけ…)
赤ワインをほんの少しだけ、ってサイオンで盗み出した、ぼく。
その頃にはワインは樽に詰めてから一年で飲むより、二年、三年、って置いた方がいいって話も出ていて、乾杯用のワインを取り出した後に残ったワインは樽の中。乾杯の時には長く熟成させたワインの方から順に使って、その年のワインはかなりの量が残るもの。
だから樽にはワインがたっぷり、ちゃんと熟成されたワインがたっぷり。
ちょっと考えて、去年のワインを失敬した。樽にけっこう残っていたから大丈夫。
これは天使の取り分だから、って。
その夜、ハーレイが青の間にやって来て、目を丸くした。
「なんですか、これは?」
ぼくが出しておいたグラスが二つ。テーブルの上にグラスが二つ。
どっちも空っぽ、透明なグラスが置いてあるだけ。
「乾杯用だよ」
「は?」
「君との記念日に乾杯するんだ」
あれから一年になる日だものね、って微笑んだ、ぼく。
ハーレイと初めてベッドに入った記念日だから、と。
「覚えてらっしゃったのですか…」
「ぼくが大切な記念日を忘れるとでも?」
そして、これはね…。
内緒だよ、と注いだ赤ワイン。失敬して来た本物のワイン。ハーレイは直ぐに気が付いた。
「ソルジャー、これは…!」
「二人きりの時はソルジャーじゃなくてブルーだけれど?」
それにね、これは天使の取り分。天使がワインを飲んだんだよ。
「しかし…!」
「大丈夫。樽には沢山入っていたから、このくらいならね」
今年の天使は多めに飲んだな、って係が納得するだけだよ。報告だってそれでおしまい。
それとも、君は怒るかい?
ソルジャーが盗みを働いていた、と。
「いえ、共犯にさせて頂きます」
盗み出しておられたらしい、と気付きましたが、誰にも報告いたしません。
犯人蔵匿は立派な罪です、これで私も有罪です。
ワイン泥棒になったソルジャーと、それを匿ったキャプテンと。
二人揃って犯罪者になってしまったけれども、誰も気付きやしないから。
ワインが減ったのは天使の取り分、今年の天使がちょっぴり多めに飲んでしまっただけだから。
ぼくもハーレイも捕まりはしないし、叱られることも絶対に無い。
貴重なワインをグラスに二杯分も盗んだ大泥棒と、匿った悪人なんだけど。
「ハーレイ、今日から犯罪者だね」
「ええ。あなたも犯罪者になられたわけです、二人組のワイン泥棒ですよ」
盗んだ犯人と、犯人を突き出さない私。
おまけにこれから乾杯ですしね、あなたが盗み出した赤ワインで。
「うん。ハーレイが共犯者になってくれたお蔭で、泥棒扱いは免れそうだ」
「大切な恋人を泥棒にしたいような人間はいませんよ」
「そうかもね。お互い、一生、黙っていないと…。相手が犯罪者だったということ」
「もちろんです。航宙日誌にも書きませんとも」
ハーレイが大真面目な顔で言い切った後で、可笑しくて笑い合ったぼくたち。
ソルジャーとキャプテンがワインを盗んで飲んでいたことは誰も知らずに終わるだろう、って。
ぼくが盗んだ天使の取り分、貴重な樽から盗み出して来た赤ワイン。
二つのグラスに注いだけれども、ぼくはもちろん口を付けただけ。
お酒を飲んだら酔っ払うから、ほんのちょっぴり舐めただけ。
残りのワインはハーレイに渡して、ハーレイが二杯飲むことになった。
本物のラムやブランデー、ウイスキーはとても無理だから、せめて本物の赤ワイン。天使が取り分を持ってゆくという、本物のお酒をハーレイに。
「ハーレイにあげたかったんだ」って言ったら、ハーレイは大感激でキスをしてくれた。ぼくを抱き締めて何度も何度も、赤ワインの味がするキスを。
その夜のキスも赤ワインの味が残ってた。
ハーレイとベッドで愛し合う中、何度も交わしたキスに微かな赤ワインの味。
もう残ってはいない筈なのに、赤ワインの味がしていたキス。
それから毎年、記念日はそれ。
こっそり、本物の赤ワイン。
天使が飲んだと言い訳しながら、ぼくがこっそり盗んで乾杯。
恋人同士になれて良かったと、いつまでも離れずに生きてゆこうと…。
(思い出しちゃった…!)
記念日のことを忘れていた、ぼく。
天使の取り分は覚えていたのに、天使じゃなくって自分が盗んでいたことを。
これは天使が飲んだ分だ、って樽からワインを盗んでたことを。
(ハーレイと二人で乾杯して、キス…)
毎年、赤ワインの味がしていたような気がするキス。記念日のキス。
あのキスの味をもう一度確かめたいんだけれど…。
(コンポート…)
ママが作ったコンポート。赤ワインの色に染まったリンゴ。
あれを食べれば赤ワインの味が分かるけれども、今日のおやつはもう食べちゃった。ハーレイが来たらママはお菓子を出して来るんだし、今、コンポートを食べに行ったら…。
(ハーレイが来た時、ぼくの分のお菓子が無いんだよ!)
晩御飯を残すに決まっているから、ママはお菓子を抜きにするんだ。それは寂しい。ハーレイと同じお菓子を食べたい。食べながらあれこれ話をしたい。
そうしたいなら、諦めるしかないコンポート。
赤ワインの味を確かめたくても、おかわりなんかは食べに行けやしない。
(…ハーレイが来たらデザートに出るかな?)
ぼくに同じお菓子を続けて出すより、ママは別のを選びそう。晩御飯のデザートも別のお菓子になってしまうかもしれないけれども、出ないと決まったわけでもない。
(だって、ハーレイはコンポートを食べていないんだものね?)
うん、そうかも。
赤ワインの味、ハーレイも一緒の晩御飯の時に幸せ一杯でしっかり確かめられるかも…!
そうだといいな、と考えていたら、仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから。
ママが出したお菓子はリンゴのコンポートじゃなかったから。
よし、とテーブルを挟んで向かい合いながら訊いてみた。
「ハーレイ、ぼくにリンゴのコンポート、作ってくれる?」
赤ワインたっぷりで煮込んだリンゴ。アルコールをしっかり飛ばしたヤツ。
「今か?」
俺の料理は持って来られないと何度も言ってる筈だがな?
お母さんに恐縮されちまうから、そいつは駄目だと。
「ううん、今じゃなくって前のハーレイ」
今日のおやつがそうだったから…。
美味しかったから、これ、シャングリラでも作れたかな、って考えてたんだ。
前のハーレイなら作れたかもね、って。青の間のキッチンでリンゴを煮込んで。
「お前が欲しいと言っていたらな」
前のお前に頼まれたのなら、それくらいは作ってやっただろうな。
大した手間はかからんわけだし、材料もたかが知れてるからな。
「赤ワインだけど…。合成じゃなくて本物だよ?」
本物の赤ワインで煮たコンポートがいいな、その方が美味しいだろうしね。
「本物だと? お前、盗むつもりか?」
あれは厳重に管理されてて、前のお前が管理責任者みたいなことになっていなかったか?
年に一度しか飲めないワインだ、いくらお前でも菓子を作るために盗むというのは感心せんが。
「平気だってば、天使の取り分」
「おい、お前…!」
天使の取り分だと言ったか、お前?
だから減っても大丈夫だ、と?
ロクでもないことを考えてるな、って睨んだハーレイ。
赤ワインで煮込んだコンポートを食べて知恵がついたな、って眉間に皺を寄せてるハーレイ。
ぼくは天使の取り分としか言ってないのに、この反応。
やっぱりハーレイも思い出したんだ、って分かったから。
記念日に二人で乾杯したことを、本物の赤ワインを飲んでいたことを、ハーレイも思い出したに違いないから、ぼくはニッコリ笑って言った。
「あのね…。今日の晩御飯のデザート、リンゴのコンポートの可能性が高いんだけど」
「なんだって?」
「おやつに食べた、って言ったでしょ? だから出るかも」
今、テーブルの上に載ってないから、晩御飯の後で出て来るのかも…。
ママが作ったコンポート。赤ワインの色で綺麗なんだよ、それにとっても美味しかったよ。
もしも出て来たら味わって食べてね、前のぼくたちの思い出の赤ワインの味がするんだから。
「そいつは勘弁願いたいが…」
このタイミングでか、って呻いたハーレイ。
もう絶対に思い出したに決まってる。記念日の乾杯も、記念日のキスも。
赤ワインの味がしていたあのキスのことを、ハーレイも思い出したんだ…!
ぼくは嬉しくなってしまって、空に舞い上がりそうだった。
ハーレイとのキス、記念日のキス。
それに記念日には乾杯していた。本物の赤ワインを盗んでコッソリ、毎年、二人で。
天使の取り分って言い訳しながら、大泥棒のぼくと泥棒を匿ったハーレイがキスを交わしてた。
他のみんなは年に一度しか飲めないワイン。
前のぼくがキッチリ管理していて、年に一回、新年だけしか飲めなかった貴重な赤ワイン。
好きに飲んでも叱られないのはシャングリラに住んでた天使だけ。
お酒が好きだった天使だけ。
そのお酒好きの天使のせいにして、ぼくとハーレイとが乾杯してた。
本物の恋人同士になった記念日が巡ってくる度、盗み出したワインで二人きりで。
ハーレイも思い出してくれたからには今日は最高、きっと素敵な夕食になる。
デザートにリンゴのコンポートが出たら、二人で視線を交わし合って。
でも…。
(すっかり忘れて食べちゃったよ…!)
夕食の後で、ハーレイと二人でお茶まで飲んで。
「またな」ってハーレイが手を振って帰って行った後で、歯噛みしたぼく。
食べちゃった、リンゴのコンポート。
ママがデザートに用意してくれた、赤ワインで煮込んだ美味しいリンゴ。
赤ワインのことなんか見事に忘れて、無邪気にパクパク食べちゃった、ぼく。
ホイップクリームをたっぷりとつけて、夢中で頬張っちゃったけど…。
ハーレイは覚えていたんだろうか?
前のぼくとの記念日の話、ハーレイはしっかり思い出しながら味わって食べていたんだろうか?
(…ハーレイがぼくを見てたかどうかも覚えてないよ…)
パパとママも交えた夕食の間、ハーレイはいつも笑顔だから。
それを見ているだけで幸せ、コンポートの意味も天使の取り分も頭の中には全く無かった。
赤ワインの味すら噛み締め損ねた、大馬鹿なぼく。
次のチャンスには思い出せるんだろうか、赤ワインの味が何だったのか。
ハーレイとの記念日のキスの味だったんだ、って。これで乾杯してたんだよね、って。
シャングリラに住んでた、お酒好きな天使。
赤ワインに会ったら思い出したい。天使の取り分と、記念日のキスを…。
天使の取り分・了
※ワインを醸造する間に、持ってゆく天使。いわゆる「天使の取り分」ですけれど…。
それにかこつけて、「本物のワイン」で乾杯していたハーレイとブルー。幸せな犯罪者たち。
(…あれ?)
あのストール、ってママの手元に目がいった。
午後から急に冷えて来たから、ママが急いで出して来た箱。ストールを何枚も仕舞ってある箱。
リビングで開けて、どれにしようか選んでるみたい。あれこれと出して、広げてみて。
明日はお出掛けなんだって。
ぼくが学校から帰るまでには戻ってるから、って言ってたけれど。
コートを着るには少し早いし、ストールなのかな?
ふわりと一枚、羽織っておいたらかなり違うと思うんだ。
コートと違って畳める所も便利そう。その辺が多分、選ばれた理由。
ママがストールの箱を持ち出して、色々広げている理由。
ちょっと冷える中、学校から家に帰って来たぼく。
ママはおやつを用意してくれて、ホットミルクも作ってくれた。シナモンミルクのマヌカ多め。ハーレイに教わったセキ・レイ・シロエの好みだったミルク。
それからママは「ちょっとお出掛けの用意をするから」ってダイニングから出て行った。服でも選びに行くのかな、って見送ったけれど、ストールだった。リビングに置かれたストールの箱。
おやつを食べ終わったから、食器をキッチンに返して、御馳走様って言いに行ったんだけど。
リビングを覗いてみたんだけれど。
(あれって…)
ママが広げてみているストール。
花びらみたいに優しい青から淡い水色までを染め上げた、グラデーションになったストール。
なんて言ったかな、普通のストールよりも上等な素材で織られたストール、ママのお気に入り。
「軽いのにとっても暖かいのよ」って何度も聞いた。
小さい頃からママが持ってて、触らせて貰ったら柔らかくって。
(なんだか懐かしい…)
胸の奥からこみ上げて来た、懐かしさ。
ママが羽織っていた姿だけじゃなくて、もっと親しみを感じる何か。
(ぼく、借りてた…?)
覚えてないけど、ぼくもあのストール、使ってた?
なんだかそういう気持ちがするんだ、ぼくにとってもお馴染みだよ、って。
(なんで…?)
どうしてなのかが分からないから、よく見よう、ってリビングに入って行った。
青いストール、小さな頃から見ていただけの筈なのに。
借りたことなんか無い筈なのに…。
「ママ、それ、なあに?」
「えっ?」
ストールを持ったままで顔を上げたママ。
青いグラデーションのストール。軽くて柔らかい、大判のストール。
「そのストール、なあに?」
ママのお気に入りのストールってことは知っているけど…。上等なのも知っているけど。
懐かしい気持ちがするんだよ。そのストール、ぼくも使ったりした?
ぼくは借りたの、って訊いてみた。
大きなサイズのストールだから、小さかった頃に羽織れば明らかに床に引き摺るだろうに。
上等なんだし、オモチャにしたなら「ダメよ」って叱られてしまうだろうに。
それでも懐かしくてたまらないから、このストールにはきっと何かがある。
ぼくの心を捕まえて離さない、思い出か何か。
ママに叱られたオマケつきでも、胸が躍るような素敵な記憶。
「ぼく、それでソルジャー・ブルーごっこでもしてた?」
マントのつもりで着ちゃってた?
床に引き摺ってしまいそうだけど、ソルジャー・ブルーのマントもそうだし…。
紫じゃないけど、そのストールを借りてやったの、ソルジャー・ブルーのマントの真似。
「していないわよ?」
そもそもやっていないじゃない、って言われちゃった。
「ブルーはソルジャー・ブルーごっこなんかはしていないでしょ」って。
子供に人気のソルジャー・ブルーごっこ。
大英雄のソルジャー・ブルーになったつもりで遊ぶんだ。もちろんマントは欠かせない。まずはマントで、家の中ならシーツだったり、毛布だったり。
(男の子なら大抵、やるんだけれど…)
ぼくはソルジャー・ブルーごっこをしたことがない。ただの一度も。
見た目だけなら、ソルジャー・ブルーにそっくりだけれど。
ソルジャー・ブルーごっこで木から飛び降りて、怪我をしちゃった友達だったらいるけれど。
「でも、そのストール…」
ホントのホントに懐かしいんだよ、貸して貰ったと思うんだけど…。
「覚えてるの?」
「えっ?」
今度はぼくが驚く番。
全然覚えていないけれども、「覚えてるの?」って訊かれたってことは借りたんだ。
だけど記憶が全く無い。
借りて幸せ一杯だったら、きっと記憶に残っている筈。それなのに無いということは…。
(忘れたい気持ちとセットなんだよ、うんと叱られちゃったとか…)
記憶ごと消してしまいたい、って思うような悲惨な出来事とセットの思い出、ストールの記憶。
ぼくは綺麗に忘れてしまって、懐かしさだけしか残ってないけど。
黙って持ち出して汚したりした…?
御機嫌で羽織って絵でも描いてて、インクの染みがついちゃったとか…?
「ごめんなさい、ママ…!」
ぼくは慌てて謝った。
忘れちゃっててごめんなさい、って。ストールに悪戯したんだよね、って。
「違うわよ。悪戯なんかをしてはいないわ」
これはブルーの、ってママは優しく微笑んでくれた。
ぼくの最初のストールなんだ、って。
「最初…?」
「そうよ」
一番最初、ってママはストールを広げてくれた。
青いグラデーションの大きなストール、柔らかくて暖かくて軽いストール。
「ママがブルーに着せてあげたの、今よりもずうっと小さな頃に」
このくらいね、ってママが示した大きさ。
うんと小さな身体のぼく。チビどころじゃなくて、赤ちゃんのぼく。
三月の一番最後の日に生まれて、暫くの間は病院に居て。
暖かくなる季節に向かって、お日様がポカポカ射している中で家へと向かう筈だった。退院してママの腕に抱かれて。
それなのに、退院するっていう日。
季節外れの寒波が来ちゃって、桜も咲いているのに白い雪が舞った。
病院の中は暖かいけれど、パパの車も暖房が効いているけれど。車に乗る時と、家に着いて入るまでの間はそうはいかない。肌を刺す冷たい空気が待ってる。
「サイオン・シールドで包んでも良かったんだけど…」
それだとブルーに分からないでしょ、外の空気が。
せっかく初めて外に出るのに、シールドの中だとつまらないでしょ?
だから、ってママは青いストールを両手に掛けて笑顔で言った。
ぼくに着せたと、赤ちゃんだったぼくにこのストールを着せたのだと。
ストールは入院する時に持っては行かなかったから。
パパは仕舞ってある場所が分からないから、思念で伝えて病院まで持って来て貰って。
「これにくるまれてブルーは退院したの」って教えて貰った。
ママに抱っこされて、パパの車で。
季節外れの雪が舞う日に、生まれて初めてのドライブをして。
(あのストール…)
部屋に帰って、勉強机の前に座って考えた。
なんだか大切そうな気がするストール。
懐かしい、って思う気持ちに加えて、大事なものだって気までして来た。
ママの話を聞いたからかな、ぼくの最初のストールなんだ、って。
赤ちゃんだったぼくを包んだ初めてのストールだから、こういう気持ちになるんだろうか?
(でも…)
それだけにしては強すぎる思い。
あれは特別、あのストールは特別なんだ、って胸の奥から湧き上がる気持ち。
(赤ちゃんの時の記憶があるって人もいるよね…)
もしかしたら、ぼくも。
すっかり忘れてしまってるだけで、退院した日の記憶が何処かにあるかもしれない。
病院でママがストールを巻いてくれてた時とか、初めて外を見た時だとか。
それともパパの車から降りて、この家を見ながら入って来た時。
赤ちゃんだったぼくの瞳に映った、庭の木だとか、家とか、玄関。
(そういう記憶を持ってるのかも…)
だとしたら、それを見てみたい。
青い地球の上に生まれ変わって最初の記憶を、一番最初に目で見て経験したものを。
景色も、それから雪が舞う日の冷たい空気も。
あのストールを借りたら思い出せるだろうか、ってママに頼んで借りて来た。
明日のお出掛けは別のストールに決めたと言うから、ちょっとだけ、って。
箱から出して貰って、借りて。
部屋まで持って帰ってふわりと広げた大きなストール。両端に織り糸を捩った房。綺麗に揃った房の色までグラデーション。花びらみたいな青の房から、淡い水色をした房まで。
(これにくるんで貰ったんだから…)
こんな感じ、と羽織ってみたけど、思い出せない。
身体にくるりと巻き付けてみても、ストールに頬っぺたをくっつけてみても。
赤ちゃんだったぼくを包んだストール。
雪の舞う日に、初めて外へ出たぼくを包んでくれたストール。
(暖かかったと思うんだけど…)
寒くなんかなくて、ストールのお蔭でポカポカで。
だけど頬っぺたには冷たい空気が触れていた筈だと思うから。
ストールにくるまっていられる幸せを、赤ちゃんのぼくは分かっていたと思うんだ。
そのせいで特別に思うんだろうか?
これのお蔭で暖かかったと、寒い日だけどとても暖かかったんだ、と。
(暖かかったのが特別だったのかな?)
メギドで凍えた右手の記憶は、赤ちゃんのぼくには無い筈だけれど。
暖かいってことがどれほど幸せで素敵なのかは、微かに感じていたかもしれない。
暖かくなったと、もう寒くないと、幸せなんだと。
(あったかいのが特別だった…?)
だからストールを懐かしく思っているんだろうか。暖かかったと、ぼくを温めてくれたんだと。ママと同じで暖かかったと、この中でとても幸せだったと。
(ストールの刷り込み…)
鳥の中には卵から孵って最初に見たものを親だと思い込むのがいるらしいから。
ぼくもストールをママと同じくらいに特別だと思っちゃったとか?
ママみたいに暖かかったから。
ママと同じに、ぼくを包んで暖かく守ってくれたから。
(そうなのかな?)
だったら、やっぱり思い出したい。
あったかいストールにくるまって見たものや、感じた空気を。
赤ちゃんだったぼくの頬っぺたに空からひとひら落ちたかもしれない、季節外れの雪の結晶を。
なんとかして思い出せないものか、と考えていたら、チャイムが鳴って。
窓から覗いたらハーレイが見上げて手を振ってたから、ストールの思い出は暫くお預け。
ハーレイの方が大切だもの、と畳んで椅子の背もたれに掛けた。勉強机の所の椅子の。
これで汚れる心配は無し、とポンと叩いて、ハーレイが来るのを待ったんだけど。
ママに案内されて来たハーレイは、テーブルを挟んで向かい合うなり、こう訊いた。
「お前、ストール使うのか?」
珍しい趣味だな、お前くらいの年の男の子だったら上着だろうと思うんだが…。
「あれは借りたんだよ、ママのだよ」
ちょっと気になることがあるから、借りて来ただけ。
でも…。ストールを使うのって、珍しいの?
冬は膝掛けに別のを使うよ、ママに貰った厚手のストール。薄くした毛布みたいなのを。
「なるほど、膝掛け代わりになあ…」
お前は弱いし、膝掛けも馴染みのものなんだろう。
しかしだ、元気なガキってヤツはだ、膝掛けなんかは要らないってな。
「そうかも…」
でもね、ママから借りたストール。
あっちの方ならお世話になった子も多いと思うな、寒い冬の日に。
赤ちゃんだった頃なら、ストールを巻いて貰った子供もきっと多いと思うんだよね。
ぼくもそういう話をママから聞いて来たんだけれど…。
このストールがそうだったのよ、って聞いて、その頃の記憶が無いか探しているんだけれど…。
頑張っても思い出せないんだよ、って立ち上がって勉強机の椅子からストールを取った。
「もっと小さかったら思い出せるのかな?」
これですっぽりくるめるくらいに小さかったら、ぼくの記憶も戻るのかな?
忘れちゃってる、赤ちゃんの記憶。
ぼくはチビだけど、もうストールにはくるめないしね…。そこまで小さくないんだもの。
ほらね、ってストールを羽織って見せた。
ストールでくるむには大きすぎだよ、って。
そしたら息を飲んだハーレイ。
ぼくにも聞こえるほど息の音がしたし、鳶色の目だって大きくなってる。
「どうかしたの?」
ぼくにストール、似合わなかった?
「いや…。そういうわけではないんだが…」
「なんだか変だよ?」
ハーレイ、ビックリしたみたいだけど。
ギョッとするほど似合ってないかな、赤ちゃんじゃないぼくには、このストールは…?
「記憶違いかもしれん」
俺の記憶だ、記憶違いだ。
「なに?」
「単なるストールの記憶なんだが…」
「ストール? それにハーレイの記憶違いだなんて…」
ひょっとしてハーレイ、こういうストールを何処かで見たの?
ぼくを見たの、って訊いてみた。
ママと一緒に退院した日に着ていたんだよ、って。
赤ちゃんだったぼくが生まれて初めて、病院の外に出られた日。パパの車でこの家に連れて来て貰った、四月の初め。
雪が降ってて寒かったんだ、って。
桜はとっくに咲いていたけど、季節外れの雪で寒い日だったからストールの中、って。
「雪だと…?」
「うん、雪」
ぼくは全然、ちっとも思い出せないけれど。
雪が降ってたってママが言ったよ、だからストールにくるんだんだ、って。
パパに家から持って来て貰って、このストールに。
その日の記憶が戻らないかな、ってママにストールを借りて来たんだけれど…。
「俺はお前に会ったかもしれない」
「えっ?」
「チビどころじゃない、赤ん坊だった頃の小さなお前だ」
生まれたばかりで、まだ這うことさえ出来ないお前。
自分の家さえ知らないお前に、俺は病院の前で会ってたかもなあ…。
あの日…、ってハーレイは遠い記憶を探る目をして。
「俺はいつもの習慣でジョギングしていた。特にコースは決めていなくて、気の向くままにな」
家を出発して、あちこちに咲いてる桜を眺めながらのコースってトコか。
桜に雪だと、季節外れの雪になったな、と走っていたんだ。
公園を抜けて、側にある病院の前まで来たら、歩道の脇に車が停まってて。
俺くらいの年の男が病院から出て来て、後ろのドアを開けたから。
病人さんが通るんだったら邪魔しちゃマズイな、と足を止めたら、病人さんではなかったんだ。
「ママ…?」
「さてなあ、そいつは分からないが…」
顔までは覚えていないからな。
俺もジョギングの途中だったし、じろじろ見るのも失礼だしな。
ただ、赤ん坊を抱いていた。大事そうにストールでくるんだ子供を、まるで宝物みたいにな。
「ぼく…?」
「そのストールの色が記憶に無い」
全く覚えちゃいないんだが…。見た瞬間にハッとしたんだ、そのストール。
掛けてあった時は何とも思わなかったが、お前が羽織った途端にな。
何処かで見たぞ、と確かに思った。
だが、その時点では何処なのかも謎で、いつだったのかも分からなかった。
ストールを見たな、というだけの記憶だ。それだけでは何の意味も無い。
記憶違いだと言ったのはそれだ、意味すら無いんじゃどうにもならん。
しかし、お前がストールにくるまって退院したとか、季節外れの雪だったとか。
そういった話を聞いていたら記憶が戻って来たんだ、ストールにくるまった赤ん坊だ、と。
母親に抱かれて車に乗り込む所を見たなと、あの時は雪が降っていたな、と。
「まさか、本当にぼくだったの?」
ハーレイが見ていた、その赤ちゃん。
ストールにくるまれていたって赤ちゃん、ぼくだった?
このストールにくるまれてたなら、それはぼくだと思うんだけど…。
いくらなんでも同じような日に同じストールで退院する子は、他にはいないと思うんだけど…。
「分からんなあ…」
肝心のストールの色の記憶が無いからな。
さっきから必死に考えちゃいるが、ストールにくるまれた赤ん坊って所が限界だ。
ストールの色も思い出さなきゃ、母親の顔立ちも思い出せない。父親の方もな。
これではお前だと言い切れはしないし、他の子だって可能性もある。
なにしろあの日は寒かったからなあ、退院する子は誰でも何かにくるまったろうさ。
シールドするって方法はあるが、生まれて初めての外なんだしな?
外の空気を吸わせてやるなら、シールドするよりくるんでやるのがお勧めだ。
ストールの子供、お前の他にも誰か居たかもしれないしな。
「そうだね…。ママもそういうことを言ったよ、シールドの中ではつまらないでしょ、って」
だからストールにくるんだのよ、ってママも言ってた。
他の子のママも同じようなことを考えそうだね、シールドじゃなくてくるめる何か、って。
ハーレイが病院の前で見てた赤ちゃん、ぼくだとは限らないんだね…。
「そういうことだな、俺の記憶がハッキリしてれば絞り込めるんだが…」
ストールの色とか、車の色とか。
その辺が決め手になりそうなんだが、生憎とどっちも覚えてないなあ…。
「ハーレイ、それからどうしたの?」
ストールにくるまった赤ちゃんを立ち止まって見てて、その後は?
止まってたんなら、赤ちゃんが車に乗り込むトコまで見てたんだよね?
「ああ。ちゃんと父親がドアを閉めてやって、運転席に乗り込む所も見てたな」
赤ん坊を乗っけた車が発進するのを見送ってから、俺もジョギング再開だ。
あの子が元気に育つといいな、と颯爽と町を走って行ったな。
俺みたいに丈夫に育ってくれよと、いきなり風邪なんか引くんじゃないぞと。
どういうわけだか男の子だと決めてかかっていたなあ、顔を見たわけでもないのにな?
女の子だったらとんだ迷惑だな、俺みたいに育てと祈られたらな。
「あははっ、そうかもしれないね」
丈夫なのはいいけど、風邪を引かずに育てというのも嬉しいけれど。
ハーレイみたいに、って所は余計だったかもしれないね。
女の子がハーレイみたいに育っちゃったら、とっても大変。
性格とかなら大丈夫だけど、見た目がハーレイみたいだったら恨まれそうだよ、思いっ切り。
「お前なあ…。それが恋人に向かって言うことか?」
「だって、ハーレイなんだもの」
ハーレイの姿、ぼくにはカッコ良く見えるけれども。
シャングリラでは色々と言われていたじゃない。薔薇のジャムが似合わないハーレイだったよ? 似合わないからってクジ引きの箱が素通りしてたよ、ハーレイの前を。
「それは事実だが…。俺も事実を否定はしないが」
もう少しマシな言いようっていうのは無いのか、お前。
自分の目までを否定している気がしてこないか、節穴なんだと。
誰もが認める「薔薇のジャムが似合わない男」がカッコ良く見える自分の目。そいつが実は節穴なんだという方向では考えないのか、お前ってヤツは。
「ううん、ちっとも」
ぼくはぼくだよ、自分の目だってちゃんと自信を持っているもの。
ハーレイのカッコ良さが分からない方が間違いなんだよ、分からない人の目が節穴なだけ。
でもね、女の子がハーレイみたいな姿だったら困るってことはぼくにも分かるよ?
ハーレイにお祈りされた赤ちゃん、女の子でなければいいんだけどね…。
女の子だったら可哀相すぎ、って言ったら、ハーレイがギロリと睨むから。
「まだ言うのか」って眉間に皺を刻んでいるから、話題を戻すことにした。苛めすぎたら仕返しされるし、その前に話を戻さなくっちゃ。
「ねえ、ハーレイ。お祈りされた子、男の子だったら何の問題も無いんだけれど…」
その赤ちゃんって、ぼくだった?
ハーレイはぼくを見たんだと思う?
退院して行くぼくに出会って、元気に育てよって見送ったんだと思ってる?
「さあな? そいつはどうだかなあ…」
何度も言ったろ、決め手に欠けると。
ストールの色か、車の色か。どっちかを俺が覚えていたなら、裏付けってヤツが出来るがな…。
今の状態だと、お前のお父さんやお母さんと記憶を突き合わせたって、上手くは行かん。
俺の方の記憶がボケちまっていて、お母さんたちが見ても首を捻るしかないってな。
あの日に、ぼくを見たのかどうか。
分からないな、とハーレイは慎重に答えるけれど。
パパやママにも確認しようが無いんだけれども、もしもハーレイと出会っていたなら…。
「あのね、ハーレイが見ていた赤ちゃんがぼくだったら…」
ぼくは元気に育ったよ?
退院して直ぐに風邪を引いちゃったなんて聞いていないし、お祈り、効いたよ。
「そのようだな。俺のように、と祈った割にはちょいと弱いがな」
「ハーレイが祈ってくれたからだよ、ぼくが元気に育つように、って」
弱いけれども、大きな病気は一回もしてはいないもの。
ハーレイがお祈りしてくれなかったら、大きな病気に罹っていたかも…。
「あれがお前だとは限らんのだが?」
俺はストールにくるまれた赤ん坊に出会っただけでだ、あの子が男だったかどうかも知らん。
季節外れの雪は降っていたが、お前の他にも退院する子は居ただろうしな。
「でも、ぼくだよ」
ハーレイが会った子、ぼくなんだよ。
このストールを見てハッとしたなら、おんなじストールをその日に見たんだ。
ぼくをくるんだストールなんだよ、赤ちゃんだったぼくをママがくるんでくれたストール。
間違いないってぼくは思うな、あの日、ハーレイに会ったんだ、って。
「俺もそういう気がして来たな…」
そのストール、初めて見た筈なんだが。
どうにもそういう気がしなくってな、あの日に見ていたストールかもなあ…。
俺たちはあの日に出会ったかもな、ってハーレイの顔が綻んだ。
ぼくが生まれて、ママと一緒に退院した日に。
季節外れの雪が降った日、病院の前で。
ハーレイはジョギングの真っ最中で、ぼくを抱いたママのために足を止めてくれて。
ぼくはママのストールにくるまってハーレイの前を通って行った。パパの車に乗り込むために。この家にやって来るために。
(ぼく、ハーレイに会っていたんだ…)
それで特別な気がするんだろうか、このストールは。
ぼくの記憶が戻ってなくても、ハーレイに初めて出会った日。
その日に着ていたストールだから。これにくるまれてハーレイに出会ったストールだから。
(赤ちゃんの時の記憶と言うより、神様が教えてくれたのかな?)
これをハーレイに見せてみなさい、って。
そしたら素敵なことが分かると、これは特別なストールだから、と。
(本当の所は分からないけど…)
ぼくとハーレイ、あの日に本当に出会ったかどうかは分からない。
ハーレイの記憶はぼんやりしていて、パパやママの記憶を確認したって「間違いない」と言える決め手に欠けているから。
他に見ていた人がいたって、その人たちだって記憶はとっくにぼやけているから。
(だけど、ぼくだと思うんだよね)
そんな気がするし、そう信じたい。
あの日、ハーレイと会ったんだ、って。
ママのストールにくるまれたぼくと、ジョギング中のハーレイが病院の前で出会ってた、って。
育ってからなら、会ったかもしれないって思っていたけど。
何処かで颯爽と走ってゆくハーレイに手を振ったかも、って思っていたけど。
ぼくが初めて、生まれた病院から外へ出られた日。
外の空気に生まれて初めて触れたその日に、ハーレイと出会っていたのなら…。
「もし、ハーレイに会っていたなら、運命だよね?」
運命の出会いってよく言うけれども、本当にそれ。
あの日にハーレイと会ったんだったら、運命だったと思わない?
「うむ。まさに運命というヤツだな」
そんな時点で出会っていたなら、運命の出会いを通り越して、だ…。
前の俺たちからの続きで腐れ縁かもな、ってハーレイは笑って言ったけれども。
腐れ縁なんて言われ方でも、あの日にハーレイと出会っていたい。
季節外れの雪が降ってて、ママのストールにくるまれてた日。
生まれ変わってまた巡り会えたぼくたちだからこそ、初めて病院の外へ出られたあの日に…。
ストール・了
※季節外れの雪が舞う日に、初めて「外に出た」赤ん坊のブルー。母のストールにくるまれて。
同じ日にハーレイが出会った「ストールに包まれた」赤ちゃんは…。きっとブルーですね。