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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(さて、と…)
 ブルーの家へ出掛ける日の朝。週末といえども、習慣で早い時間に目覚めるのが常。
 まずは新聞、届いたばかりのを取って来てから朝食の支度。
(目玉焼きにするか、スクランブルエッグか…)
 何にするかな、と暫し思案してからオムレツに決めた。ハーブの風味が際立つソーセージを昨日買って来たから、それも何本か焼いて添えよう。
 後はサラダに、オニオンスープ。薄切りのタマネギをバターで炒めて、コンソメを入れて。
(よし、そんなトコだな)
 サラダ用にと野菜を刻んで、それからタマネギ。小鍋で軽く炒めた後は様子を見るだけ。茶色くなるまで時々混ぜながら他の作業を。
 ソーセージはオムレツの後に同じフライパンを使って焼くのが手間いらずだ。
 オムレツにかかるか、と卵をボウルに二個、割り入れて…。



(三個でやっても良かったかもな?)
 もう一個増やすか、ソーセージを多めに焼くことにするか。
 今の段階なら卵を一個増やすくらいは何でもない。味に変化が出るわけでもない。なにしろ卵は割ったばかりで、箸で溶いている真っ最中。塩コショウすらもしてはいないし…。
 足すんだったら今の内だな、などと考えていて。
(ん?)
 何の気なしに混ぜていた箸。
 卵を溶く時はいつも使っている、料理用の箸。食卓で使う箸とは違った、木の箸だけれど。
(おいおい、こいつは…)
 有り得んぞ、と箸を置いてフォークを取って来た。金属製の大きなフォーク。パスタを食べたりする時に使う、ごくごく普通の大きなフォーク。
 箸の代わりにフォークを握って、ボウルの卵に挑戦した。
 それで溶こうと、黄身と白身を万遍なく上手に混ぜてみようと。



 カシャカシャとキッチンに響く音。箸の音とは異なった音。
 ボウルにフォークが何度も当たって、黄身と白身が混ざってゆく。オムレツを作るならしっかりかき混ぜ、偏らないようにしなければ。
 黄身と白身では火の通りが変わるし、上手く混ざっていなかった時は出来栄えが悪い。切ったら一目で素人にも分かる下手なオムレツ、此処が白身だと分かるオムレツ。
(出来んことはないが…)
 うーむ、とハーレイは低く呻いた。
 フォークで卵を溶きほぐすことは可能なのだが、どうにも効率が良さそうにない。箸を一本しか持たずにやったらこうなるか、といった感じで頼りない。
 前の自分は確かにフォークで卵を溶いたが、今となっては信じ難い、それ。
 厨房に居た頃、幾つもの卵を溶きほぐしたのに。
 前のブルーが殻に入った卵を奪って来た時は、こうしてフォークで溶いていたのに。



(箸の方がうんと優れものだぞ?)
 信じられん、と箸に持ち替えたら、アッと言う間に卵は混ざった。実に頼もしい調理器具。
 卵をフライパンに流して、手際よくオムレツに仕上げていって。
 皿に移したら、お次はハーブ風味のソーセージを炒め、その間にオニオンスープも出来た。味を確かめ、カップに移して、やおら朝食。
 「いただきます」と合掌してから食べ始めるのも習慣だった。
 誰も居なくても、必須の挨拶。食べ物への感謝の気持ちをこめて。
 生まれ育った家で、柔道や水泳の先輩たちからも叩き込まれた「いただきます」。今でも決して忘れはしないし、外食する時も合掌はする。
 しかし…。



(忘れちまっていたぞ、卵をフォークで溶いてただなんて…)
 箸で溶くのに慣れた今では、なんとも不便な調理器具。箸でやったら直ぐ出来ることに、無駄な時間を取るフォーク。一本の箸で混ぜているようだ、とまで思ったフォーク。
 けれども、無かった。
 前の自分が生きていた時代に、二本の棒を並べた箸は。
(箸というものからして無かったのか…!)
 SD体制の時代に消された文化。今は復活を遂げて身の回りにある、小さな島国、日本の文化。遥かな昔にこの地域に在ったと言われる様々な文化。
 それと前の自分が生きた時代の文化との間の多くの違いに、何度も驚いて来たけれど。
 食べ物に関しても、幾度も気付いて来たのだけれど。
 その食べ物を口に運ぶ道具。食べるための道具。
(まさか、箸自体が無かったとはなあ…)
 すっかり慣れてしまっていたから、箸が無かったとは全く思いもしなかった。
 青い地球の上に生まれた時から箸は馴染んで来た道具だから。
 物心つくかつかない内から、いつも周りに在ったから。
 幼かった日に、母が「ほら」と小皿の上に乗せてくれた味見用の欠片も、箸でつまんで。
 父が「食うか?」と口に入れてくれた酒のつまみも、箸で運ばれた。
 幼稚園などに持って出掛けた弁当箱にも、箸入れがセット。
 スプーンやフォークも日常に使うものだけれども、無ければたちまち困る箸。
 味噌汁を作ってもスプーンで飲んだら味気ない気分がするだろう。刺身をフォークで食べるのも嫌だ。煮魚をナイフでカットするのも。



(衝撃の事実というヤツだな…)
 オムレツもソーセージもフォークで口へと運ぶけれども。
 オニオンスープはスプーンで掬っているのだけれども、サラダには箸。それが今の普通。
(だが、シャングリラだと、こうはいかんぞ)
 サラダもフォークで食べるものだった。それが普通だと考えていたし、箸などは無いし…。
(今日の話題は箸で決まりだな)
 ブルーと二人でこれを話そう、と割り箸を荷物に忍ばせた。
 箸は幾つも家にあるのだが、あえてオマケに貰った箸。無料で貰った、ただの割り箸。
 仕事の帰りにたまに買って帰る、美味しいと評判の近所の寿司屋。店でも食べられて、持ち帰りサービスも充実している。そこの店名が刷られた紙の袋に入った割り箸を、一つ。
 箸は一膳、二膳と数えるけれども、この際、一つでかまわない。ブルーと話したいことは呼び名ではなくて、箸という存在そのものだから。



 いい天気だから歩いて出掛けて、ブルーの家に着いて。
 二階の部屋に案内されて、テーブルを挟んで向かい合わせに座ると、早速笑顔で切り出した。
「土産話を持って来たぞ」
「お土産じゃなくて?」
 小さなブルーがそう返したから。
「そうそう土産があると思うか?」
 お前は期待をし過ぎていないか、土産なんぞは滅多に持っては来ないだろうが。
「お土産、毎回、あったっていいと思うんだけど…。ぼく、ハーレイの恋人だよ?」
 いつもプレゼントを貰えたっていいと思うけどなあ、恋人なんだし。
「自分が置かれた状況ってヤツを考えろよ?」
 此処は青の間じゃなくて、お前の家で、だ。
 お前と俺とが恋人同士だなんてことは全く知らないお父さんとお母さんが一緒だろうが。
 何度も土産を提げて来たなら恐縮される。今のペースが限界ってトコだ。
 今日の所は土産話で我慢しておけ、本物の土産はまた今度だな。
 今度と言ってもこの次じゃないぞ、そのくらいのことは分かるな、お前?



「うー…」
 ブルーは唇を尖らせたけれど、ハーレイは譲ってやらないから。
 諦めたらしく、まだ不満さが溢れる瞳で尋ねてきた。
「土産話って、ハーレイ、何処かに行ったっけ?」
 ぼくは気付かなかったけれども、日帰りで研修か何かに行って来たの?
「いや?」
「だよねえ…。それなのに土産話って、何?」
「ん? それはな…」
 これだ、と割り箸を取り出して見せた。例の割り箸をテーブルに置く。
「えーっと…。これって、お寿司屋さんの?」
 聞いたことがあるよ、この名前。ハーレイの家から近かったの?
「そうだが」
 けっこう近いぞ、仕事帰りにたまに買って帰る。店で食ってることもあるなあ、美味いんだぞ。
「連れてってくれるの?」
「誰が!」
 なんでお前を連れて行かなきゃならんのだ。
 第一、お前がチビの間は外で一緒に食事はしないと言っただろうが。
 その代わりに、って持って来てやったのが庭のテーブルと椅子の始まりなんだぞ、忘れたのか?



「…じゃあ、この次のお土産だとか?」
「寿司がか?」
「巻き寿司でも握り寿司でも好きだよ。ちらし寿司だって」
 このお店の一番人気のお寿司は何なの、ハーレイのお勧めのお寿司もいいなあ…。
 どっちがいいかな、一番人気とハーレイのお勧めのお寿司だったら。
「なんでそういう話になるんだ」
「お土産」
 買って来てくれるつもりなんでしょ、ここのお寿司を。
 だから割り箸を持って来て見せてくれたんでしょ?
 どれがいいんだ、って。お土産に買うなら何のお寿司が欲しいんだ、って。
「土産話だ!」
 誰も土産だとは言っていないぞ、一言も。
 土産と土産話とは違う。俺が持って来たのは土産話で、土産とはまるで関係ないぞ。



 欲張りめが…、と苦笑しながら、ハーレイは割り箸を指でつついた。
「お前、何とも思わないか?」
「何が?」
「割り箸だが」
 こいつを眺めて何も思わないのか、土産に寿司だという他には?
 割り箸ってヤツについてはどうなんだ。寿司じゃなくって、割り箸の方だ。
「んーと…。これって普通の割り箸だよね?」
 変わった割り箸には見えないけれども、これがどうかした?
「なら、袋から出してよく見てみろ。手に取ってな」
「袋から…?」
 ブルーは割り箸を持ってみたのだけれど。
 言われた通りに袋から出して見てみたけれども、ごくごく見慣れた普通の割り箸。店名が刻んであるわけでもなく、袋が無ければ寿司屋のものとは誰にも分からないだろう。
 だから…。



「普通だけど…?」
 ぼくには普通の割り箸に見えるよ、この割り箸。
 それとも何処かが特別なの?
 お寿司によく合う木で出来てるとか、そういうこだわりの割り箸なの?
「その手のヤツなら店の名前を入れてるさ。そいつも売りになるからな」
 残念ながら何処にでもあるような割り箸なんだが、その割り箸。
 前のお前になったつもりで持ったらどうなる?
「えっ?」
「使い方、お前、分かるのか?」
 箸はどうやって使うものなのか、そもそも何に使うのか。食事に使うって分かるのか?
「えーっと…」
 変な棒だと思っちゃうかも、食べる道具だとは思わないかも…。
「こいつをパキンと割る所からして謎だろうが」
 二本入っていりゃ、二本の棒を何かに使うと見当がつくが…。
 こんな風にくっついた割り箸が出たら、間にメモでも挟んでおくのかと考えそうだぞ。わざわざ割ろうとは、まず思わん。こういう道具だと思うだけだな。
「そうかも…」
 間に挟んでおくための道具。前のぼくでも、そう思いそう。
 割り箸なんかは知りもしないし、お箸だって全く見たことがないし…。
 土産話って、それなわけ?
 今の今まで気付かなかったよ、前のぼくたちはお箸を知らずに暮らしてたなんて。
 ハーレイ、凄いね。
 お箸なんて今では当たり前なのに、どうやってそれを思い出したの?
 前はお箸は無かった、って。前のぼくたちが生きてた頃にはお箸は存在しなかった、って…。



「今朝、オムレツを作ろうとしていて気が付いたんだ」
 卵を箸で溶きほぐしてたら、前はこいつじゃなかったな、とな。
 それでフォークを持ち出したんだが、フォークはなかなか難儀だったぞ。箸のようには扱えん。今の俺には腹立たしいだけの道具だったな、フォークはな。
「前のハーレイ、フォークだったよ?」
 フォークで卵をかき混ぜていたよ、ボウルを抱えて。
 ちゃんと上手に混ぜていたけど、フォークじゃ駄目なの、卵を混ぜるの。
「それしか無ければ慣れるもんだし、コツを掴めば楽なんだろうが…」
 箸で混ぜるのに慣れちまった俺に「フォークで混ぜろ」と言われてもなあ…。
 それにだ、卵を混ぜるだけじゃなくて。
 揚げ物をするなら、断然、箸だな。
 小さなものから大きなものまで自由自在にヒョイとつまめて、裏返すのにも便利な道具だ。
 料理をするにも便利なものだし、食うにも便利だと思わんか?
 色々なサイズのナイフやフォークを用意しなくても、箸だけあったらいいんだからな。



「ホントだね」
 このお魚は大きいから、って大きなお箸に持ち替えなくても平気だし…。
 御飯を食べるのとおかずを食べるのに別のお箸、ってこともないよね。
「そうだろう? 箸ってヤツはだ、和風の料理ってヤツに関しては万能らしいぞ」
 和風の料理でなくても、だ。
 こいつが無ければラーメンも食えん。ナイフやフォークでラーメンは無理だ。
「無理そうだね…」
 お箸、元々はラーメンの国から来たのかな?
 日本っていう国の文化は中国の方から来たのも多い、って教わるものね。
「うむ。箸が生まれたのはその辺りだな」
 周りの国にも広がっていって、日本もその中の一つだったわけだ。
 今の時代は和食と一緒にあちこちの地域に普及してるが、どうして消えてしまってたんだか…。
「SD体制が消してしまったんでしょ?」
 マザー・システムが統治しやすいように。
 いろんな文化を纏め上げるのは厄介だから、って一つに統一しちゃった時に。
「それは分かるんだが、箸ってヤツはだ…」
 調理器具としても優れものだが。
 箸があるだけで調理が楽になる料理も多いと思うんだがなあ…。
「お料理するのに便利だから、って道具としてだけ残しておくのは難しそうだよ」
 何かのはずみに「ホントは食事に使った道具だ」って気付かれちゃったら困るんじゃない?
 お箸で食べようと思い付かれたら記憶処理だよ、面倒だよ?
「まあ、そうだろうな」
 SD体制の時代に箸で食べてたら、そいつは異端だ。
 それを切っ掛けに何に気付くか分からないしな、そうなっちまう前に記憶消去が必要か…。
 たかが調理器具のせいで手間が増えるより、最初から無いのが一番だな、箸。



 機械が人間を統治していた、SD体制が敷かれていた頃。
 多様な文化は認められなくて、たった一つしか文化は無かった。何処の星へ行っても同じ生活、同じ文化に食文化。
 人類の世界から弾き出されたミュウであっても、元がそういう世界で育った人間だから。
 あえて別の文化を築き上げようとは思わなかったし、技術が別になっただけ。
 シャングリラに独自の改造を加え、サイオンを大いに生かしたけれども、それが限界。
 人類とは違う生き方をしよう、と誰も思いはしなかった。
 目指した生活は「人並みの生活」、すなわち人類と同レベルのもの。
 そうやって完成させた楽園、シャングリラは言わば箱庭だった。人類が暮らす世界の縮小版。
 ゆえに人類と同じ文化で、食文化も同じ。
 箸などは無くて、それを作ろうと考えた者さえいなかったから…。



「前の俺は箸を扱えていたと思うか?」
「調理器具のお箸?」
 卵を溶くとか、揚げ物だとか。そういうのに使う、道具のお箸?
「いや、食べる方だ」
 今の俺だと、目玉焼きなんかも箸で食おうと思えば食えるが…。
 スクランブルエッグなら楽々なんだが、前の俺にも出来たと思うか、そういう食べ方?
「無理じゃない?」
 落っことしちゃうとか、つまめないとか。困りそうだよ、卵料理じゃなくっても。
 一口サイズに切ったお肉でも、お箸で食べろって言われちゃったら突き刺しそうだよ。
「やはりそうか?」
 グサリと刺すしかないと思うか、肉の場合は。
「うん。前のぼくだって無理そうだもの」
 はい、ってお箸を渡されたとしても、持ち方からして変だと思うよ。
 二本纏めてギュッと握って、それでグサッと刺していくだけ。刺せない食べ物はサイオンだよ。刺してます、って見せかけておいて、サイオンで支えて口に運ぶしかなさそうな感じ。
 今のぼくだとそっちの方が無理なんだけど…。
 サイオンで支えるなんて芸当、出来っこないから、絶対に無理。その分、お箸は使えるけどね。前のぼくには想像もつかない持ち方のお箸、いつも使っているんだもの。



 ぼくも時代も変わっちゃった、とブルーはペロリと舌を出した。
 前の自分は箸が使えず、今の自分は箸は使えてもサイオンの方がサッパリ駄目だと。
「でも…。前のぼくには使えなくっても、便利なのにね、お箸」
 ぼくはお料理しないけれども、お料理にもとっても便利なんでしょ?
「うむ。それに、食う方にしても箸は偉大な道具だぞ?」
 箸が無くても、そういうサイズの棒が二本あったら食えるしな。
 それこそ木の枝を適当に切って、箸の代わりに使えるわけだ。箸なんか持ってなくてもな。
「ホントだ…!」
 木の枝だなんて、ハーレイ、やったの?
 お箸の代わりに木の枝を使って食べたの、ハーレイ?
「ガキの頃に親父と釣りに行ってな。弁当は忘れずに持ってたんだが、箸を忘れた」
 おふくろが忘れたって言うんじゃなくって、俺が自分で包み忘れただけなんだがな。
 これじゃ食えない、と青ざめていたら、親父がその辺の木の枝を切って箸を作ってくれた。
「そっか…!」
「木さえ選べば便利なもんだぞ、木の枝の箸」
「選ぶの?」
 使いやすいような枝を選ぶとか、そういう意味?
「そうじゃなくって、毒の有無だな。下手に触ったらかぶれちまう木とかがあるからな」
 毒のある木を箸に使ったら大変じゃないか。
 SD体制の頃なら毒のある動植物を排除してたし、その手の心配は無かったらしいが。
「その代わり、お箸が無かったよ?」
 お箸になる木は選び放題でも、お箸を知らなきゃ使えないよ。
 木の枝のお箸、SD体制の時代には作り方さえ誰も知らないから使わないよ…。



 もしもお箸があったなら…、とブルーが首を傾げて尋ねた。
「ゼルたち、上手く使えたかな?」
 シャングリラでこれを使ってみよう、って誰かがお箸を思い付いたら。
 ゼルやブラウは使えたのかな、握ってグサリと刺したりせずに。
「そいつは無理だろ。ゼルは手先は器用だったが、いきなり箸を渡されてもなあ…」
 ナイフやフォークで慣れているんだ、どうしても握っちまうだろう。
 ブラウの方だと迷うことなく握ってグサリだ、豪快な性格だっただけにな。
「やっぱり…? エラだったら少しはマシだったかな?」
「エラの場合は手本にならねばと完璧を目指していたと思うぞ、箸の使い方」
 シャングリラに箸を持ち込むとしたら、ヒルマンかエラか、どちらかだ。
 案外、ヒルマンたちは知ってたかもなあ、箸という道具。
「知らなかったんじゃないの?」
 見たことがないよ、シャングリラでお箸。
 ヒルマンやエラが知っていたなら、試してみそうな気がするんだけど…。
「分からんぞ。データベースの資料に「使いづらい」と書いてあったら、わざわざ作るか?」
 作り上げても使うのに苦労するような代物、誰も喜びはしないだろうが。
 調理器具としては便利なんだと気付くなんてことも無いだろうしな、箸が使えないと調理器具の本領は発揮されないままなわけだし。
「そうだね、食べるのに使うだけなら面倒かも…」
 便利なナイフやフォークがあるのに、お箸だなんて。困っちゃうよね、使うことになったら。
「実際、難しいらしいしな? 慣れていないと」
 俺たちみたいに生まれた時から周りにあった、って地域以外じゃ苦労するらしい。
 寿司なんかを食べに店に入って、箸が出て来ても上手く使えなくて。
 頑張った挙句に「ナイフとフォークを出して下さい」って頼むケースもあるそうだしな。
「それは分かるよ」
 前のぼくでも、サイオン抜きなら似たようなことになったと思うよ。
 お箸じゃとても食べられないから、ナイフとフォークを出して欲しい、って。



 それで…、とブルーはテーブルの割り箸を指差した。
「ハーレイ、このお箸、ぼくにくれるの?」
 お土産はお箸の話らしいけど、この割り箸は貰ってもいいの?
「寿司屋で貰った割り箸だぞ?」
 持ち帰り用のただの割り箸で、寿司屋の名前の袋が無ければ何処の店のかも謎なんだが?
「でも、ハーレイが持って来てくれた割り箸だよ?」
 ハーレイが貰った割り箸なんだし、ハーレイのものだと思うんだ。だから、ちょうだい。
「そんなものでも欲しいのか、お前?」
「欲しいよ、これはハーレイの割り箸なんだから」
 くれるんだったら記念に欲しいな、ハーレイとお箸の話をしていた記念に。
 ちゃんと引き出しに仕舞っておくから、要らないんだったら、ぼくにちょうだい。
 お寿司を買ったら貰えるんでしょ、この割り箸。
 これからも幾つも貰うんだろうし、今日の記念に欲しいんだけど…。



 ちょうだい、と瞳を輝かせている小さな恋人。
 割り箸が欲しいと、持ち帰り寿司に付いて来た割り箸が欲しいと強請る恋人。
 貰えるものだと思っているらしいが、ハーレイはやおら腕組みをして。
「駄目だな、こいつは高級品の割り箸だからな」
 お前にはやれん。持って帰るさ。
「なんで?」
 ハーレイ、普通の割り箸なんだって言ったじゃない!
 特別な木で出来てるわけでもないって言っていたくせに、なんで高級品?
「地球の木材で出来てるからな」
 俺たちにとっては高級品でも何でもないが、だ。
 他の星に住んでるヤツらからすれば、地球の木材で出来た家具とかは特別扱いの高級品だぞ。
「それは家具とかになる木材でしょ!」
 割り箸になる木は違うじゃない!
 なんて言ったっけ、間伐材?
 家具とかに使う木を育てる間に間引いていく木で作ると聞いたよ、だから安い、って!
「間伐材には違いないが、だ。それでも地球で育った木だぞ?」
 そいつで作った割り箸なんだ。前のお前には高級どころか貴重品だぞ、この割り箸。
 何処かで見たならフィシスみたいに攫ったんじゃないのか、割り箸でも?
「…そうかも…」
 地球の木で作った割り箸なんだ、って分かったら欲しくて盗んでいたかも…。
 何に使う道具か分からなくっても、地球の木で出来ているんだったら。
「ほら見ろ、高級品だったろうが」
 前のお前が無理をしてでも盗みそうなものなら高級品だな、間違いない。



 だからやらん、と言われてブルーは膨れたけれど。
 「ケチ!」と叫んで膨れたけれども、割り箸ごときを大切にしたい恋人だからこそ、渡せない。
 持ち帰り寿司に付いてくるような割り箸を欲しいと強請った小さな恋人。
 記念に欲しがる、小さなブルー。
 前の生から愛し続けた恋人のために、ブルーのために贈るものなら、もっといいものを。
 そう思ったから、こう約束した。
「膨れなくっても、いつか買ってやるさ。割り箸なんかより素敵な箸をな」
 ちゃんとした箸を買おうじゃないか。専門店でな。
「ホント?」
「本当だとも。ただし、結婚したらな」
 それまで待ってろ、あと数年の辛抱だろうが。
「酷い…!」
 待たせるんなら、高級品の割り箸、ちょうだい。意地悪しないで、それをちょうだい。
「酷くないだろ、俺と揃いの箸にしようと言っているんだ」
 夫婦箸っていう箸があるんだぞ。夫婦で持つよう、二つセットの箸なんだ。
「そんなのがあるの?」
「ああ。大きめの箸と、それより少し小さい箸とのセットだな」
 色が違ったり、模様が少し変えてあったり、サイズが違うだけだったり。
 そりゃあ色々な夫婦箸があるさ、そういう箸を二人で買おうと言ってるんだが…。
 夫婦箸よりも割り箸がいいか?
 それなら止めんし、この割り箸をプレゼントさせて貰ってもいいが。
「ううん、割り箸、返しておくよ」
 もう欲しいって強請らないから、そっちのお箸。
 二つセットのお箸を買ってよ、ハーレイとお揃いのお箸がいいよ。
 結婚したら二人で買いに行こうよ、ハーレイにもぼくにも似合いそうなお箸。



 約束だよ、とブルーは割り箸を素直に諦めてくれたから。
 欲しいと強請るのをやめて返してくれたから。
(夫婦箸なあ…)
 いつか二人で持つのだったら、どんな箸がいいか、とハーレイは笑みを浮かべて考える。
 前の生では存在さえも知らずに終わった箸というもの。
 今は馴染みの、当たり前になった食事の道具。
 それを二人で使えるのだから、こだわりの箸を選びたい。
 素材も、細工も、もちろん色も。
 この愛らしい恋人と揃いにするなら、どういう箸を二人で選びに出掛けようかと…。




          お箸・了

※シャングリラの時代には、無かった箸。今では当たり前に使っているものなのに。
 そして「夫婦箸」が欲しくなってしまったブルー。いつかはハーレイと買いに行けますね。
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 学校から帰っておやつを食べながら、ふと見たダイニングのテーブルの上。端っこの方に普段は無いもの。おやつの時間には消えているもの。
 お塩と胡椒と。
 二つお揃いのガラスの器で、胡椒はペッパーミルになってる。
 おやつにお塩と胡椒は要らない。食事だって要るとは限らないから、使う時だけ棚から出て来る筈なんだけれど。
(ママ、仕舞い忘れた?)
 きっとそうなんだ。
 ぼくが学校に行っている間にお昼御飯を一人で食べて、そのまんま。
 お買い物に出掛けて忘れちゃったか、お客さんがチャイムを鳴らしたか。お皿とかをキッチンに持ってった後でテーブルを拭いていたなら、忘れちゃうこともあるだろう。
 後で、って思って、それっきり。
 テーブルの端っこに乗っかってたって、特に邪魔にはならないんだから。
(ママのお昼御飯、何だったのかな?)
 ぼくは学校でランチ定食、今日は大好きなハンバーグを食べて来たんだけれど。
 お塩と胡椒は使わなかったし、ママが一人でハンバーグってことも無いんだろうし…。
(スパゲティとか?)
 茹でて、好みの具材やソースをかけて。仕上げにお塩と胡椒っていうのは如何にもありそう。



 ママが置き忘れたペッパーミル。
 ガラスの器の中に詰まった色とりどりの胡椒の粒たち、ママのお気に入り。
 黒いの、白いの、それから赤いの。緑色のも混じってる。熟した時期とかで違うんだっけ?
 とにかく色々、いろんな色をした胡椒のミックス。
 ぼくの家では食卓にはこれ。もう一味、って時にはガリッと挽いて。
 シチューに振ったり、使い方は一杯あるんだけれど。
 ママのお昼御飯はスパゲティだったかも、って考えちゃったら。



(トォニィ好みのスパゲティ…)
 そういう謳い文句の料理があったっけ、って可笑しくなった。
 前にハーレイに食べに出掛けて貰ったシャングリラの歴代ソルジャーの食事。それの再現という楽しいイベント。
 レストラン部門を併設しているパン屋さんの企画で、この町では人気のチェーン店。ハーレイの家の近所にもあって、偶然チラシを貰ったとかで、ぼくの家まで持って来たんだ。
 前のぼくの分は、よりにもよってアルタミラの餌だったオーツ麦のシリアルがメイン。目玉焼きなんかもついていたけど、メインは餌。
 どんな感じか知りたかったから、ハーレイに頼んで行って貰った。アルタミラの餌はヘルシーが売りなだけで味は最悪、流石のハーレイも嫌だったみたい。「あれだけは無理だ」って呻いてた。
(でも、トォニィのはリンゴのタルトまでついてたんだよ)
 ハーレイは食べていないけれども、チラシで見たから知っている。トォニィが好きだったというスパゲティ。根拠はトォニィへの当時のインタビュー。
 お塩と胡椒だけで味付けしたスパゲティ、ってことになっていた。リンゴのタルトも好物って。
 とてもシンプルな、お塩と胡椒だけのスパゲティ。
 もっと色々なスパゲティの食べ方、沢山ありそうなんだけれども。



(お塩と胡椒があれば、大抵…)
 スパゲティに限らず、パラッと一振り、魔法みたいに美味しさが増す。
 ある意味、調味料の王様みたいなお塩と胡椒。
 それだけで味付けしたスパゲティが本当にトォニィの好みだったら、案外、グルメだったかも。あれこれ工夫を凝らしたものより、スパゲティ本来の味を生かした食べ方が好みだったなら。
(忙しくって食べてる時間がありません、ってわけじゃないものね?)
 それはジョミーの方だった。
 食事を再現するイベントの時も、「昼食を摂る時間が無い日に食べた」と謳ったサンドイッチがメインになったほどに。
 トォニィは最後のソルジャーなんだし、多忙と言ってもたかが知れてる。スパゲティをゆっくり味わう時間くらいは充分にあった。食材だって豊富に手に入ったろうし…。
(グルメなソルジャー?)
 スパゲティは色々食べて来たけど、お塩と胡椒が一番いい、って言ったとしたなら通だと思う。いわゆるグルメ。他のスパゲティは食べ飽きました、っていう感じ。
(かっこいいかも…)
 スパゲティにお塩と胡椒だけ。それが大好きだったソルジャーだなんて。



(お塩と胡椒…)
 ペッパーミルの中、赤や緑や白の胡椒の粒。食卓に欠かせない胡椒。
 和風の食事とかだと要らないけれども、お料理によっては無くてはならない調味料。
 キッチンにだって常備してあるし、ママがお料理に合わせてブラックペッパーだとか、ホワイトペッパーって使い分けてる調味料。
 お料理用ならハーブソルトも置いてあるけど、必ず胡椒が入ってる。ローズマリーとかタイム、セージなんかといったハーブと一緒に、胡椒も入る。
(お塩だけだと…)
 ちょっぴり足りない、料理の味付け。
 もう一味、って時にお塩じゃ話にならない。それだと塩辛さが増すっていうだけ。アクセントが欲しいなら、お塩だけでは駄目なんだ。胡椒をパラリと、それが大切。
 だけど…。
(…シャングリラには胡椒、無かったんだよ)
 胡椒が無かったんだっけ、って考えながらおやつを頬張った。
 当たり前のような顔してテーブルに乗ってる、ママが仕舞い忘れたペッパーミル。
 これが無かった船だった、って。
 色とりどりの胡椒どころか、一粒の胡椒も無かったっけ、って。



 おやつを食べ終えて、お皿やカップをキッチンのママに返しに行って。
 二階のぼくの部屋に戻って、勉強机の前に座って考えの続き。
(今じゃ胡椒は普通なんだけど…)
 この家の子供に生まれて来てから、胡椒が無くって困った覚えは一度も無いんだけれど。小さい時には胡椒なんかは食べていなかったけれど、それでも家には在った筈。パパやママが使っていた筈の胡椒。お料理に、食べる時にパラッとアクセントに、って。
 そういう便利な胡椒が無かったシャングリラ。
 ほんのちょっとの間だけだったけれど、胡椒は無かった。
 船の中の何処を探し回っても、胡椒は存在しなかったんだ。



 シャングリラを本物の楽園にしよう、って自給自足を目指した船。
 人類から奪って生きていたのでは自立出来ないと、船もそのために大きく改造するのだと。
 もう奪わない、って決めた時には大量の岩塩を備蓄していた。小惑星から採った岩塩。
 人間には塩分が必要なのだと、お塩があったら生きて行ける、と。
 それで充分、食事にはこれで足りる筈だと思ったのに…。



「やっぱり一味足りないねえ…」
 ブラウがぼやいた。
 何か足りないと、何処か物足りないような気がしてならないと。
「贅沢は言わんが、やはり足りんのう…」
 どうも何かが、ってゼルも言ったし、ぼくにもそういう気持ちは分かった。
 自給自足の食生活を始めて、暫く経ったらブチ当たった壁。
 深刻な問題じゃないんだけれども、食事する度に引っ掛かってくる違和感とでも言うのかな?
 もう少し、って感じる味。
 決して不味いとは思わないけど、足りない何か。
 それが何なのか、よく分からない。何故なのか理由が掴めない。
 トマトを煮込んでベースにしたって、なんだか足りない。お塩はきちんと入っているのに。
 これは困った、とぼくも思ったから、ゼルやヒルマンたちに招集をかけた。
 いずれは家畜も飼う予定なのに、一味足りない味のままでは大変だから。
 きちんと原因を究明せねばと、何が足りないのかと長老会議。
 当時は長老って呼ばれるほどには年寄りじゃなかった彼らだけれど。



 ゼルにヒルマン、ブラウにエラ。それにキャプテンのハーレイと、ソルジャーのぼく。
 シャングリラの改造は順調だったし、それに関する議題についても話し合った後で。
 ぼくは「ところで…」と話題を変えた。
 食事に一味足りなくはないかと、どうもそういう気がするけれど、と。
 直ぐに反応したのはゼルで。
「うむ。塩さえあったら充分じゃろうと思ったんじゃが…」
 何か足りない気がするのう…。トマトをたっぷり使ってあっても、どうも何処かが違うんじゃ。
「あたしも全く同感だね」
 塩味が足りていないんじゃあ、って足してみたけど辛くなっただけさ。
 まったく何が足りないんだか…。最低限の砂糖は確保出来てる筈なんだけどね?
「ふうむ…。私は心配していたのだがね」
 気がかりだった、とヒルマンが言ったら、「私もです」とエラが頷いたから。
「どういうことだい?」
 ヒルマン、君には予想がついていたのかい?
 こうなるだろうと、塩だけがあっても駄目なのだと。
 分かっているのなら、その原因を話して貰って解決策を急いで考えないとね。



「これだ、と思うものならあるねえ…。ハーレイ、君なら分からないかね?」
 どうして一味足りないのか、とハーレイに視線を向けたヒルマン。
 何故ハーレイに訊くんだろう、と不思議だったけれど、ハーレイは意外にも口を開いて。
「もしかしたら…、とは思いますが」
 推測の域を出ないのですが、これではないか、と思うものなら確かにあります。
「何なんじゃ、それは?」
 わしにはサッパリ分からんというのに、ハーレイ、お前は分かるとでも?
「…当たっているかどうかは謎ですが…。胡椒ではないかと」
「胡椒だって?」
 ぼくは思わず声を上げてた。
 胡椒と言ったら、人類から奪って生きていた頃は食卓にあった調味料。パラリと振ってただけの代物で、細かい粉だとクシャミが出たり。
 そんなものが重要なんだろうか、と思ったけれど。
 ハーレイは真面目な顔で続けた。足りないものとは胡椒なのではないだろうか、と。
「厨房に居た頃、料理と言ったら塩と胡椒でした」
 下拵えの段階で使う時もあれば、料理の途中で入れる時も。もちろん仕上げも塩と胡椒です。
 味見してから塩を足したり、胡椒を振って味を整えたりと。
 塩だけでは足りないということになれば、胡椒だろうと思うのですが…。



「なるほどのう…。塩と胡椒はセットじゃった、と」
「言われりゃそうかもしれないねえ…」
 あたしも胡椒を振ってたもんだよ、胡椒がテーブルにあった頃はね。
 だけど好みで振ってたんだし、無くてもいいかと思ったけどねえ…。料理する時点で塩と胡椒を使っていたなら、足りないのはやっぱり胡椒かねえ?
「それで正解だよ、ハーレイの言う通り胡椒なのだよ」
 入れるだけで料理の風味が変わる。魔法のように料理を美味しくするから、遠い昔には貴重品とされていたらしい。遠く離れた別の国からの輸入品でね。そうだったね、エラ?
「ええ。胡椒は金と同じくらいに貴重だったということです」
 同じ重さの金と取り引きされたと言います、それだけの価値があったのです。
「金と同じって…。そこまで貴重なものだったのかい?」
 唖然とした、ぼく。
 たかが胡椒と思ったけれども、金と同じじゃ凄すぎる。
 でも、ヒルマンとエラは「そうだ」と答えた。遥かな昔は本当に金と同等の価値があった、と。
 王侯貴族のための食卓から始まった胡椒の歴史。
 肉に、魚に欠かせないスパイス、料理を美味しくする調味料。防腐作用もあったという。
 塩も高価なものだったらしくて、胡椒と合わせて専用の凝った容器が作られたほど。
 食卓に豪奢な塩と胡椒入れ、塩と胡椒は料理を美味しく食べるために欠かせない品だったから。



「それじゃ、塩だけじゃ物足りない料理を美味しくしたかったら…」
 胡椒が必要だということかい?
 塩や砂糖だけではまるで駄目だと、胡椒を入れない限りは駄目だと…?
 ぼくがそう訊いたら、ヒルマンは「うむ」と答えを返した。
「解決するには胡椒しか無いということになるね」
 シャングリラで胡椒を栽培する。それ以外に道は無いのだろうね。
「胡椒は育てられるのかい?」
 この船の中で、胡椒の栽培は可能なのかい?
「暖かい地方の植物だからね、温室があれば育つだろう」
 ゼル、温室は作れそうかね?
 胡椒専用の温室などは改造計画には入っていなかったが…。
「そのくらいのことは可能じゃろう。農業用のスペースは充分に取っておるからな」
 要るんじゃったら早速、設計に取り掛からんとな。
 どのくらいの大きさがあればいいんじゃ、その温室は?



 ヒルマンは胡椒の性質などを話し始めた。
 蔓だけれども、育てば蔓は木の幹のように堅くなるらしい。支柱を作って巻き付けて育て、人の背丈の倍以上の高さになった辺りで成長は止まる。
 それから後はかなりの年数、同じ蔓から胡椒を収穫できるけれども。
「ただし、問題が一つあってね…」
「なんだい?」
「種から育てても、上手くいかないらしいのだよ」
「そいつはおかしいんじゃないのかい?」
 種じゃないか、とブラウが割って入った。
 胡椒があった頃には種のようなものを挽いて料理に振りかけていたし、胡椒は種だと。
 なのに種から育たないだなんて、記憶違いをしていないかい、と。
「それが、どうやら挿し木で増やす植物らしくて…。種からは発芽しにくいようだ」
 種が手に入ればやってはみるが、と難しい顔をしたヒルマン。
 入手するなら種の方が恐らく簡単だろうが、発芽するという保証は無いと。
「すると、確実に育てたかったら、挿し木した苗が要るのかい?」
「そうなるね」
 手っ取り早いのはその方法だ。
 発芽するかどうかを試しているより、期間も短縮出来るのだし。



 ぼくは急いで奪いに出掛けた。
 料理に足りないものが何なのか分かったからには、胡椒を奪いに。
 シャングリラに無い植物の種や苗、飼う予定の家畜や魚なんかは奪わないと手に入らない。
 これは奪って生きるのとは違う。奪ったもので生きてゆくのとは違う。
 いわば初期投資で、最初の一つを奪いさえすれば、後はシャングリラで増やすのだから。
(種から育てられるんだったら、輸送船を狙えばいいんだけれど…)
 物資を奪って生きていた頃に、色とりどりの胡椒を手に入れたことが何回かあった。赤い胡椒は完熟した実だと言うから、発芽するならそうした胡椒を奪えばいい。
 けれど、胡椒は種からではなくて挿し木で育てる。種では駄目で、苗が必要。
(何処の星でも…)
 人類が住んでいるなら、何処の星でも胡椒を育てるための農園が存在するという。大規模に栽培している星からの輸入が主だけれども、万一の時に備えて農園。
 人類がそうするくらいなのだし、胡椒は本当に欠かせない調味料なのだろう。
 そんなことを考えながら、シャングリラから一番近い星まで宇宙を駆けて行った。胡椒の農園はどんなものかをデータベースの資料で調べて、奪うべき苗のデータも調べて。



 そうして奪った、胡椒の苗。
 たった一本では心許ないから、五本まとめて失敬して来た。
 シャングリラの方では、ゼルが「これで二十本は育てられるわい」と温室を完成させていた。
 だけど…。
「ちょいと、三年もかかるんだって?」
 本当なのかい、とオッドアイの目を見開いたブラウ。「そのようだ」と唸ったヒルマン。
 ぼくが奪った五本の胡椒はホントに苗木で、実を付けるまでに三年かかるという勘定。それでは今年は採れはしないし、来年になっても胡椒は採れない。
「奪い直して来ようか、大きいのを?」
 苗木はこういう大きさのヤツしか無かったけれども、育った木ならば沢山あったし…。
 あれなら今でも実を付けていたし、奪って来れば直ぐに充分な量の胡椒が採れるよ。
「根付かなかったらどうするんじゃ!」
 デカイんじゃろうが、育った胡椒は。
 そうなってくると環境が変われば枯れる恐れが出て来るわい。苗木じゃったら大丈夫じゃがな。頑固になるほど育っておらんし、適応力だけはあるじゃろうて。
「私もゼルに賛成だよ」
 大きい木よりは苗だろうねえ、シャングリラで育ってくれそうなのはね。
 苗で行こう、とヒルマンも地道な努力の道を選んだから。
「じゃあ、三年も待つってことになるんだね。それまでの間は…」
「胡椒無しかい、しょうがないねえ…」
 諦めるしかないか、ってブラウが大きな溜息をついたら。
「どうせ今まで無かったんじゃ。気付かなかったら、この先もずっと無いんじゃぞ?」
 無いよりはずっとマシじゃろうが。三年待ったら手に入るんじゃ。
「それはそうかもしれないねえ…」
 待つとしようか、気長にね。あと三年の辛抱なんだねえ…。



 三年待ったら、手に入る胡椒。それまで三年、我慢するだけ。
 足りないものが何だったのかが分からなかった間は、分からないから気にしなかった。
 でも、それが何だか気付いてしまうと胡椒が欲しい。
 あの味だ、って思い出したら欲しくなる。料理に一振りしたくなる。
(少し振るだけで変わるんだものね、お料理の味が…)
 美味しくなる魔法の調味料。それが胡椒だ、と気付けば食べたくなるのが人情。
 その胡椒の苗が船にやって来た、ということは誰もが知っているから。三年待ったらあの胡椒が採れると分かっているから、船中の期待がそれに集まる。
 温室の中の胡椒の苗。
 まだ柔らかい蔓を支柱に巻き付け、支えてせっせと世話をした。
 その係じゃない仲間までが。「手伝おうか」と声を掛けては、宝物を育てるように胡椒を。



 順調に進んでゆく、自給自足の楽園に向けての改造や整備。
 家畜も来たけど、鶏がやって来て卵も産むようになったんだけれど。
「オムレツは出来ても、胡椒がねえ…」
 パラリと一振りしたいもんだね、目玉焼きにもね。それだけでグンと変わるのにさ。
 惜しい、とブラウが残念がって。
「まだまだじゃな」
 卵は充分、行き渡るようになったんじゃがのう…。胡椒は暫く待たされそうじゃのう。
 そもそも三年経った時にも、どれほどの量が採れるものやら…。
 気軽にパラリと振れる日までは、三年どころじゃなさそうじゃぞ。
 やれやれ、と頭を振っていたゼル。
 ゼルの予言のせいじゃないけど、三年も待ってやっと採れても、たっぷり使える量ではなくて。
 船の仲間が好きなだけ使える量には届かなくって。
 収穫された胡椒は色とりどりとはいかなかった。
 料理との相性なんかも考えた末に、完熟前の実を乾燥させたブラックペッパー、黒胡椒。胡椒の実は全部ブラックペッパーになって、厨房で管理をすると決まった。
 使い道は当然、料理のためで。個人が持ち出してオムレツや目玉焼きには振れない。この料理に胡椒をもう少し、と思っても厨房からブラックペッパーの瓶が届きはしない。
「ここで一振りしたいんじゃがのう…」
 ヒルマンやエラが言った通りに貴重品じゃな、厨房から一歩も出て来ないわい。
 いや、胡椒じゃから一粒かのう? それとも一つまみと言うべきかのう…。
「その通りだねえ…」
 あたしも一振りしたいんだけどさ、交換しようにも同じ重さの金なんか何処にも無いってね。
 何年待ったらいいんだろうねえ、気軽にパラリと胡椒を振れる日までさ。



 まだか、まだか、と誰もが心待ちにしていた胡椒。
 もっと大きく育たないかと、沢山の実を付けてくれないものかと世話に通った温室の胡椒。
 ようやっと一人前の丈に成長して、ブドウみたいに実が連なった房が幾つも付いて。
 それを収穫して、収穫時期や加工方法によって黒の他にも赤、白、緑。
 色とりどりの胡椒が入ったペッパーミルが食堂に置かれる日が来たんだけれど。
 カラフルな胡椒を贅沢に使えるようになるまで、相当な時間と手間とがかかったと思う。けれど胡椒の効果は抜群、料理はぐんと美味しくなった。たった一振り、それで変わった。
 シャングリラで育てていた胡椒。
 一粒の胡椒がうんと貴重だった、そんな時期があったシャングリラ…。



 胡椒が貴重品だったっけね、って考えていたら、ハーレイが仕事帰りに寄ってくれたから。
 ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせに座って、訊いてみた。
 「シャングリラの胡椒、覚えてる?」って。
「胡椒?」
「うん。…シャングリラに胡椒が無かった頃。お塩だけしか無かった頃だよ」
 お砂糖は少し作っていたけど…。
 なんだか味が物足りないね、ってヒルマンたちと会議をしていた時。
 前のハーレイ、気が付いたよね。足りないものは胡椒だ、って。
「まあな」
「やっぱりレシピを見てたから? 大抵のお料理はお塩と胡椒、って書いてあったの?」
「その辺もあるが…。料理人としての勘でもあるな」
 胡椒ってヤツは塩よりもずっと僅かな量でだ、料理の味をまるで変えちまう。
 塩は充分に確保してたし、それで何かが足りないとくれば胡椒だろう。
 ドカンと入れる類のものじゃないから、料理をやらない奴にしてみれば好みで振るだけのものに過ぎんが、料理していた方からすればな…。
 塩コショウの胡椒を忘れただけでだ、味が全く決まらなくって「入れ忘れたぞ」ってことになるわけだ。試作していて、何度やったか分からないなあ、その手のうっかりミスってヤツな。
 最終的には辻褄が合うが、胡椒を忘れた料理っていうのは味見してみたら間抜けなもんだぞ。



「そっかあ…。胡椒ってとっても大事なんだね、そこまで変わってくるんだったら」
 お塩と胡椒だけで味付けしました、っていうお料理なんかは、あの頃はとても作れないし…。
 トォニィ好みのスパゲティの話が本当だったら贅沢だよね。
 前にハーレイの家の近くのパン屋さんでやっていたでしょ、ソルジャーの食事の再現イベント。トォニィが好きだったっていうスパゲティの味付け、お塩と胡椒だけだったもの。
「そうだな、昔のシャングリラでそいつを食っていたらな」
 周りのヤツらが腰を抜かすぞ、なんて豪華なスパゲティなんだ、と。
「やっぱり平和な時代のソルジャーっていうのは凄いよね」
 スパゲティなんかに胡椒で味付けするんだよ?
 それだけの量の胡椒があったら、もっと有効な使い道がいくらでもありそうなのに…。
「おいおい、ジョミーだってまるで知らなかったぞ?」
 胡椒が無かった時代なんぞは。どんな料理にも気軽に胡椒を振ってた筈だが?
「そうだったっけ…」
 胡椒はすっかり定着してたね、食堂にあるのが当たり前だっけね。
 ぼくの青の間にだって置いてたんだし、ジョミーはそういう苦労話は知らなかったかもね…。



 今のぼくが胡椒が無い生活なんてしたこと無いのと同じで、ジョミーも胡椒は当然のように白い鯨で使ってた。目玉焼きにも、シチューにもパラリ。もう一味、って胡椒をパラリ。
 今のぼくだって、もうちょっと…、って胡椒を振ってる日も多いから…。
「ねえ、ハーレイ。もしも今、胡椒が無くなっちゃったら…」
 ハーレイ、どうする?
「俺は早速、明日から困るぞ。…いや、困らんか」
「えっ?」
「別の文化があるってこった」
 胡椒が無ければ山椒を使えばいいじゃない、とな。
「なに、それ?」
 女の人みたいな喋り方だよ、それって特別な意味でもあるの?
「知らないか? SD体制よりもずうっと昔の有名な話さ。フランスって国の王妃様のな」
 国民が飢えててパンも食えやしない、って聞かされてこう言ったそうだ。
 「パンが無いならお菓子を食べればいいのに」と。
「へえ…!」
 王妃様らしい話だね。国民の生活がどうなってるかなんてこと、知らずに暮らしていたんだね。
「作り話だっていうことだがな。それと、お菓子の意味が違うんだって説もあるそうだぞ」
 王妃様が言ったお菓子な、そいつはクグロフだった、って話。王妃様の故郷の国のお菓子だ。
 クグロフだったらブリオッシュ風の生地だし、パンに似てないこともない。
 パンが無いならそっちにすれば、と思ったとしても不思議じゃないよな。
「ハーレイ、フランスなんかにも詳しいの?」
「いや? 俺はクグロフの方を調べていただけだ。そしたらついでに出て来たのさ」
 菓子も作ると言っただろうが。
 こいつも作れんことはないな、とデータベースを漁ってる間に出くわしたってな、王妃様に。



 王妃様の話はともかく…、ってパチンと片目を瞑ったハーレイ。
「まあ、胡椒が無ければ山椒だ。でなきゃ七味だ、どっちも使える」
 意外な料理に合うんだぞ。ステーキだって七味で食えるし、山椒ソースもあるからな。
「そうかもね。ピリッと辛いのを上手く生かせば使えそうだね」
 ハーレイだったら色々と工夫出来るかも…。
 だけど、前のぼくたちはどっちも知らないよ? 山椒も七味も。
「だから胡椒で困ったんだろうが」
 とにかく苗を奪って育てて、って実に気の長い話だよな。
 山椒も育てるのに時間はかかるが、葉っぱだけなら一年目でも味見くらいは出来るんだ。
「うん。…胡椒、貴重だったから野菜スープにも入ってないしね」
 ハーレイの野菜スープのシャングリラ風。お塩だけだよ、胡椒は無いよ。
「あれはお前が入れるなと!」
 レシピを変えるな、とうるさく言うから、胡椒を入れずに終わっただけだぞ、間違えるなよ?
「分かってるよ。あれも胡椒をパラッと振ったら…」
「劇的に美味くなると思うぞ、試してみるか?」
「ううん、要らない」
 前のぼくが食べないままで終わった味付けのスープは要らないよ。
 美味しくなっても別物になったら、それはぼくが好きだったスープじゃないんだもの。



 あれはあれでいいよ、って笑ったけれど。あのままでいいよ、って言ったけれども。
 もしもあのまま胡椒無しなら、シャングリラは楽園じゃなかったと思う。
 物足りない味が続いていたなら、胡椒を育てて解決しよう、っていう方向に行かなかったら。
 食事はやっぱり大切なんだし、美味しくなくっちゃ楽園気分になれないから。
「胡椒の名前…。天国の種子って言ってたっけ?」
「ヒルマンとエラがな。そういう名前で呼ばれていた、って言っていたなあ…」
 同じ重さの金と取り引きされていた頃に。
 前の俺たちは胡椒で取り引きをしてはいないが、まさに天国の種子だった、ってな。
 食事が劇的に美味くなったし、美味い食事を食えるからこそ楽園だろうが、名前通りの。
「そうだよね。食事が不味くちゃ、毎日が楽しくないものね」
 アルタミラの餌よりは遥かに美味しかったけど。
 それでも胡椒が無かった食事は、ちょっぴり寂しい味だったものね…。



 胡椒を育てて、ぐんと美味しく変身を遂げたシャングリラの食事。
 最初の収穫を迎えるまでに三年もかかってしまった胡椒。
 みんなが好きなだけ使えるようになったのはもっと後だった、貴重品の胡椒。
 それが今では色とりどりの胡椒がペッパーミルに入って家に置かれてて、ハーブソルトなんかも揃ってる。ハーブとお塩と胡椒のミックス。
 おまけに地球産、青い地球の上で育った胡椒。
「ハーレイ、今の胡椒は全部、地球産だよ?」
 ぼくの家のも、ハーレイが普段に使ってるのも、全部、地球産。
「地球の胡椒か…。そいつはとてつもない貴重品だな」
「同じ重さの金どころじゃない値打ちだね」
 ペッパーミルに一杯分のを前のぼくたちが買おうとしたら。
 どれだけのお金が必要なのかな、ちょっと想像もつかないよね…?
「うむ。ミュウと取り引きしてくれる所があったとしても…」
 無理なんじゃないか、前の俺たちがそいつを買うのは。…胡椒の値段が高すぎてな。



 あのシャングリラを売り飛ばしたって買えないね、ってハーレイと二人で笑い合った。
 トォニィの時代に売り払ったって、地球の胡椒は絶対に買えやしないんだ。
 青い地球なんか何処にも無いから。
 それこそホントに天国の種子で、買おうとしたって見付かりやしない。
 その地球の上に生まれ変わったぼくたちの特権、胡椒がたっぷり。
 どんなお料理にもパラッと一振り、地球の胡椒を好きな時にパラッと、欲しいだけの量を…。




           胡椒・了

※白い鯨を作り上げたものの、一味足りなかったもの。その正体は胡椒だったらしいです。
 「ミュウの楽園」が出来上がるまでの道は手探り。今では、地球の胡椒を使い放題。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv




今年も夏休みがやって来ました。初日の今日は会長さんのマンションに集まって毎年恒例の打ち合わせです。柔道部の合宿とジョミー君とサム君の璃慕恩院での修行体験ツアーは重ねてあるのがお約束ですから、それ以降の分を組むわけですけど…。
「さーて、ジョミーは明日から璃慕恩院と…。ぼくの顔に泥を塗らないように!」
会長さんがウキウキと。
「サムは毎年覚えがいいけど、ジョミーはねえ…。いいかい、老師にも報告は行っているんだ、無駄なあがきはしないで欲しいね」
「そうだぜ、ジョミー。お前、毎年、逆らいすぎだって!」
サム君も会長さんの肩を持っています。
「麦飯は嫌だとか、パンが食いてえとか…。いい加減無駄だと分かってるだろ!」
「言うくらいいいだろ、ストレス解消なんだから!」
知るもんか、と脹れっ面のジョミー君。これも毎年の光景なだけに、放置とばかりにキース君が。
「それでだ、俺たちの合宿と璃慕恩院とが此処で終わってだ、山の別荘に行くんだったな?」
「そうです、そうです」
シロエ君がマツカ君の方を見ながら。
「マツカ先輩、いつでもOKでしたっけ?」
「ええ。電車の手配も任せて下さい」
「やったね!」
躍り上がっているジョミー君。このためだけに修行体験ツアーを耐え抜くと言っても過言ではなく、みんなが苦笑しています。さて、お楽しみの山の別荘は…。
「間は三日も開ければいいな。毎年そうだし」
「キース先輩次第ですよ。お盆の卒塔婆書きがありますからね」
「今年は前倒しで頑張っている。間は二日でも大丈夫だぞ」
俺は計画的にやる、と親指を立てるキース君の姿は実に頼もしく、山の別荘行きの日取りも決まりました。海の別荘の方は夏休み前にソルジャーが押し掛けて来て決めてしまいましたし、予定の方は大体これで大丈夫かな?
「あ、山の別荘に行くまでの間にちょっといいかな?」
会長さんがカレンダーを覗き込みました。
「三日あるから、真ん中でいいか…。良かったら付き合って欲しいんだけど」
「「「は?」」」
「ワケありでねえ…」
うん、と頷いている会長さん。ワケありって何か予定でも?



「何さ、それ! 変なモノならお断りだし!」
特にお寺と坊主関係、とジョミー君が声を上げました。
「ただでもお盆が近いんだから! イヤな予感しかしてこないっ!」
「うんうん、ジョミーもお坊さんらしくなってきたねえ、嬉しいよ」
直ぐにお盆と出て来るあたり、と会長さんがニッコリと。
「それでこそぼくの弟子なんだけれど、お寺ってだけで却下しないで欲しいな。他のみんなも」
「お寺ですか?」
それはちょっと、とシロエ君が。
「抹香臭いお付き合いは、あまり…。お断りします」
「私もあんまり…」
スウェナちゃんが言い、私も乗っかり、他のみんなも次々と。しかし…。
「お寺はお寺でも君たちに行けと言ってはいない。もちろんぼくが行くわけでもない」
「「「へ?」」」
「ついでに、この家からは一歩も動かない予定なんだよ。向こうからやって来るからね」
「お寺がですか!?」
どういう意味です、とシロエ君が目を剥き、キース君が。
「出開帳か? あんた、そういうのを頼んだのか!?」
「ううん、全然。…来るのはハーレイ」
「「「教頭先生!?」」」
何処がお寺だ、と顔を見合わせる私たちですが。
「ハーレイから相談に乗って欲しいと言われてねえ…。お寺関係で」
「ま、まさか、教頭先生、世を儚んで出家とかではないでしょうね?」
会長が冷たくあしらうせいで、とシロエ君。
「それに付け込んでお寺へ送り出すっていう企画だったら断固止めます!」
「だよなあ、それは俺だって気が咎めるぜ」
止めに来よう、とサム君も。けれど会長さんは「うーん…」と腕組み。
「そっちだったら喜ばしいけど、むしろその逆?」
「「「逆?」」」
「ぼくとの仲を深めたいから、この際、神仏に縋りたいらしい。それで相談、いわゆる願掛け」
「「「願掛け!?」」」
それについては嫌と言うほど酷い思い出がありました。一年の計は元旦にあり、と教頭先生が神社仏閣を回りまくって会長さんとの結婚祈願をした年が…。あのお正月は大変でしたが、そのイベントの再来ですか?



教頭先生が数年前の元日にやらかした迷惑な願掛け。効果が出る前に消して回る、と会長さんが騒いでいたのに、今回は願掛けの相談に乗ると?
「そうなんだよねえ、ハーレイはぼくの許可を取るべきだと判断したんだ。勝手にやったらぼくが怒るし、願掛けの効果も消して回られておしまいなんだ、と学習したと言うべきか…。それで今回は公認を目指す!」
「あんた公認で願掛けなのか? 結婚祈願で?」
キース君が呆れた顔で。
「それの相談に乗るのか、あんたは」
「え、だって。思い切り面白そうだしねえ…」
腕が鳴るよ、と会長さん。
「ぼくは助言を惜しまない。そしてハーレイは大いに頑張る! これが面白くなければ何だと!」
「あんた、正気か!? 願掛けが成功したらどうする!」
「そりゃあ、その時は結婚するさ。成功すれば…ね」
会長さんの唇に意味深な笑みが。もしや願掛け、成功しない自信があるとか?
「決まってるだろう、でも成功率の高さにかけてはピカイチっていうのを紹介するさ」
「「「ピカイチ?」」」
「そう。どんな無理難題も叶うと噂の願掛け方法!」
「何処の寺だ?」
その手の寺は色々あるが、とキース君。
「あんたが紹介するほどの寺だ、是非とも聞いておきたいが」
「知りたかったら、ハーレイが来る日に君も来たまえ。ぼくとぶるぅじゃ心許ないし、大勢いた方がぼくは安心。なにしろ相手はハーレイだから」
「………。分かった、そういうことなら来よう」
卒塔婆書きを頑張って片付けるまでだ、とキース君が決意し、私たちも野次馬根性全開で。
「ぼくも来ますよ、キース先輩!」
「俺も興味が出て来たぜ! なあ、ジョミー?」
「…ぼくが直接関係ないなら、お寺の話でも別にいいかも…」
はい、はい、はいっ! と参加表明。山の別荘へのお出掛け前には会長さんの家で教頭先生の願掛け相談見学会だと決まりました。教頭先生、夏休みに願掛けをするのでしょうか? ただでも暑い夏に結婚祈願で願掛け三昧って、暑苦しそう…。



柔道部の合宿と璃慕恩院の修行体験ツアーの間は男の子たちは全員、お留守。スウェナちゃんと私は会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、それにフィシスさんも一緒にプールに出掛けたり、会長さんの家でのんびりしたり。アッと言う間に日は過ぎて…。
「ただいま~…」
今年も死んだ、とゲッソリした顔のジョミー君。お坊さんに一歩近づいたサム君、それに柔道部で鍛えてきた三人組も揃って、慰労会をした翌日が会長さんと教頭先生との約束の日です。教頭先生は午後からおいでになると聞いていますし、まずは集まってお昼御飯から。
「かみお~ん♪ 夏はやっぱり夏野菜カレー!」
スパイシーだよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が盛り付けてくれて、昨日の焼肉パーティーとは違う味わいに舌鼓。いろんな味のラッシーもあって至れり尽くせり、美味しく食べたその後は…。
「もうすぐハーレイが来るからさ。リビングの方に移動しようか」
「「「はーい!」」」
元気に返事し、勝手知ったる他人の家とばかりにワイワイと移動したのですけど。
「「「!!?」」」
リビングのドアをガチャリと開けた先頭組がピタリと止まって硬直中。何事なのか、と肩越しに顔を突っ込んだ私たちの目に嫌というほど見慣れた姿が。
「こんにちは。お邪魔してるよ」
夏野菜カレーは食べ損ねたけど、と私服姿のソルジャーがソファに腰掛けています。
「急いで来ようと思ったんだけど、ちょっとハーレイと盛り上がっちゃって…」
「真昼間にか!?」
キース君が怒鳴れば、ソルジャーは。
「出ようとしてた所へ報告に来たから、ちょっと息抜きしていかないか、って誘ったら乗って来たんだよ、うん」
「「「………」」」
「あっ、ぼくとハーレイとの昼御飯なら大丈夫! こういった時に備えて栄養剤も常備してるし、栄養補給はバッチリってね! 心も身体もエネルギー充填、午後の時間も溌剌と!」
「分かったから!」
その先は言うな、と会長さんが苦々しい顔で。
「それで、君は何しに来てるわけ?」
「もちろん見学! こっちのハーレイが結婚祈願の願掛けの件で来るんだろう?」
どんなアドバイスをするのか興味あるんだ、と笑顔全開。会長さんは深い溜息をつきましたけれど、来てしまったものは仕方なく…。かくして野次馬が一人増殖、教頭先生を待つのみです。



間もなく玄関のチャイムがピンポーン♪ と。出迎えに行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が足取りも軽く飛び跳ねて来て。
「かみお~ん♪ ハーレイ、来たよ!」
「すまないな、邪魔をして…。なんだか人数が多いようだが」
玄関の靴の数で気付いていたらしい教頭先生、照れておられるみたいです。それでも相談せずに帰る気は無いようで。
「ブルー、この間から頼んでいた件だが…」
「ああ、それね。モノがぼくとの結婚だけにさ、ぶるぅと二人っきりではちょっと…。それで付き添いをお願いしたらこの人数に」
「そ、そうか…。では、真面目に相談に乗ってくれるのだな?」
「うん、その点はぼくも心得てるよ」
相談されたのは銀青だから、と会長さん。
「君も頭を使ったねえ…。ぼくに相談されたら却下だ。でも銀青への相談となると、伝説の高僧の面子にかけて断れないし」
そう言いつつも何故か右手がスッと前へと。
「地獄の沙汰も金次第。…坊主の場合は分かっているね?」
「もちろんだ。言われたとおりに用意してきた」
教頭先生、袱紗包みを取り出し、中から分厚い熨斗袋を。
「お納め下さい、銀青様」
「悪いね、ハーレイ。…坊主はこれがお約束ってね。ぶるぅ、向こうに片付けておいて」
「はぁーい!」
タタタ…と駆けていく「そるじゃぁ・ぶるぅ」が運んで行った包みの中身は半端な額ではないでしょう。これが目的だったのか、と唖然呆然、そして納得。お金をドカンと貰えるのなら妙な相談でも引き受けそうなのが会長さんで。
「ブルー、熨斗袋、片付けてきたよ!」
「御苦労さま。中身は確認してくれたよね?」
「うんっ! お金、キッチリ入ってた!」
「よし。相談料も貰ったことだし、それじゃ相談に乗るとしようか」
まあ座って、と会長さんが教頭先生に向かい側のソファを勧めました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が人数分のアイスティーを用意し、ついでにマンゴーのムースケーキも。教頭先生の願掛け相談、どんな中身になるのでしょうね?



「ハーレイ。最初に聞いておきたいんだけど…」
会長さんが切り出しました。
「願掛けをしたいって話だったね、ぼくとの結婚祈願で良かった?」
「そのとおりだ。前は勝手にやってしまって悪かった。…それで今回はお前の許可を貰った上で、効果的な方法を教わりたいと」
よろしく頼む、と深々と頭を下げる教頭先生。会長さんは「分かった」と真面目な顔で。
「その願掛け。叶う可能性が限りなく低いってことは分かっているよね?」
「承知している。だからこそ銀青であるお前の知恵を是非借りたい、と」
お百度でも何でもする覚悟だ、と教頭先生は拳を握り締めました。
「夏休みの間なら祈願に集中できるし、どんな苦行も厭わない。相談に応じてくれたからには何かいい手があるのだろう?」
「あるんだけどねえ…。正直、素人さんにはお勧めしかねる代物でさ。その代わり、効果は抜群だよ? どんな無理難題でも聞いて下さる、そういう仏様がおいでなわけ」
「紹介してくれ!」
教頭先生はガバッと絨毯に頭を擦り付けて。
「そういう有難い仏様なら、是非頼む!」
「でもねえ…。本当に難しいと言うか、何と言うか…」
「難しいことは覚悟の上だ! 何処のお寺に行けばいいんだ!」
「お寺もあるけど、其処だと他の信者さんも多数。願掛けとなれば費用の方も高くつく。個人的にお祭りするなら格安コースで、ご利益バッチリ!」
どっちにする? と会長さんは尋ねました。
「お寺に出掛けてお坊さんに頼むか、個人的にお祭りして自分で頼むか。…ただしリスクは高くなるねえ、自前のコース。その代わりご利益一人占めってね」
「一人占めか…」
それは美味しい、と呟く教頭先生。
「個人的にお祭りと言うと、アレか、仏壇みたいなものか?」
「そうなるね。その仏様の好物を供えてお祭りすればいいわけだけど…。ご利益を貰うにはリスクがつきものって仏様でさ、ドジを踏んだら祟られるんだ。そういう仏様でも良ければ」
「ドジを踏まなきゃいいんだろう? お前を嫁に貰うためなら頑張れる!」
「了解。覚悟があるなら直ぐに渡してあげられるけど?」
用意はあるんだ、と会長さんは教頭先生を真顔で見詰めました。
「その仏様を受け取ったら君は頑張るしかない。自信が無いならお返ししておく。失礼にならない間にね」



お祭りするのにドジを踏んだら祟ると言われる仏様。会長さんは用意したそうですが、教頭先生はどうなさるのか…。唾を飲み込む私たちの前で、教頭先生は決然と。
「お祭りさせて頂く! 持って帰って今日から直ぐに!」
「なるほどねえ…。それじゃ後悔しないようにね」
はい、と空中に何処からか取り出された両手で持てるほどの小さな御厨子。会長さんはサイオンで宙に浮かせたままで、受け取るようにと促しました。教頭先生がそれを手に取って押し頂くと、会長さんが重々しい声で。
「これで御縁は結ばれた…ってね。あまり祟りが酷いようなら、ぼくに返さずにペセトラに行ってくれるかな?」
「ペセトラ?」
「そう、ペセトラ。あそこの郊外の山に有名なお寺があってさ、其処でお祭りされているのがその仏様。個人的にお祭りをして失敗した人は其処に預けに出掛けるようだよ」
「お、おい…」
声を上げたのはキース君でした。
「今、ペセトラとか言ってたな? そいつはもしかして聖天様か?」
「おや、知ってた?」
「坊主なら一応、知ってるだろう! 俺たちの宗派とは無縁だが!」
「それはそれは。ハーレイ、この通り有名な仏様だから」
キースでも一発で分かるくらいに、と会長さんは綺麗な笑みを。
「聖天様はね、もうご利益が絶大なんだ。君も聞いたことはあるだろう?」
「うむ。象の頭の仏様だな」
「それだけじゃないよ。象の頭の仏様が二体、抱き合っておられるのが本当の形! でなきゃ象の頭の仏様と観音様とが抱き合う像だね、その名も歓喜天ってね」
夫婦和合にも御利益が…、と会長さんが言った途端にソルジャーが。
「それ、ぼくも欲しい!」
「「「は?」」」
「夫婦和合に効くんだったら欲しいんだけど! ご利益バッチリなんだろう?」
キラキラと輝く赤い瞳は教頭先生が持った御厨子に注がれ、横取りしかねない勢いですが。
「…素人さんにはお勧めしないと言っただろう」
だからダメだ、と会長さん。
「ハッキリ言うけど、この後、ハーレイはエライ目に遭う。今となっては手遅れだけどね、思い切り受け取ってしまったからね」
「「「………」」」
もはや手遅れとはこれ如何に。御利益絶大と聞いてましたが、どうなると?



「…た、祟るのか、これは?」
教頭先生が震える声を絞り出しました。
「いや、確かに祟ると聞いてはいたが…! しかしだ、きちんとお祭りすれば…!」
「そうなんだけどねえ、君の場合はお願い事が問題なんだよ」
ぼくとの結婚祈願だから、と会長さん。
「ブルーの場合はお祭りの仕方が適当すぎて祟られそうだから止めたけれども、君はきちんとお祭りしてても危ないわけ。なにしろお願い事がお願い事だし」
「結婚祈願が問題なのか?」
顔色が悪い教頭先生に、会長さんは。
「普通の結婚祈願だったら特に問題ないんだよ。でもさ、ぼくとの結婚祈願は普通なら絶対に叶わないヤツで、そういう場合は願掛けになる。その願掛けにはお約束が一つ!」
「約束?」
「いわゆる断ち物。好物を断って願を掛けるって、よく聞くだろう?」
「ああ、あるな…」
酒とかだな、と教頭先生。
「お前との結婚が叶うんだったら酒くらい…。もちろん肉でも魚でも断つぞ」
「甘いね、聖天様の場合はそうはいかない。一番の好物を断たなきゃ駄目でさ、君の場合はぼくになるかと」
「…お前だと!?」
「そう、このぼくだよね」
好物だろう? と会長さんは自分の顔を指差して。
「ぼくが今のを口にしなけりゃ、あるいはお酒でもいけたかも…。だけど聖天様の耳には入った。君の一番の好物はぼくで、願掛けするならそれを断つんだ、と!」
「…そ、そんな…。そういうことになってしまったのか?」
「だから最初に言っただろう? リスクが高いけどそれでもいいか、と。いやもう、祟りが楽しみだねえ…」
「ちょっと待て!」
キース君が割って入りました。
「あんた、最初からその勘定で相談に乗ったんじゃないだろうな!?」
「そうだけど?」
会長さんの唇に浮かぶ悪魔の微笑み。
「せっかく楽しい夏休みなんだ。娯楽は増やしてなんぼなんだよ、君も大いに楽しみたまえ」



会長さんが教頭先生に授与した御厨子の中身は聖天様。祟りが凄いらしいのですけど、会長さんは教頭先生が祟られる方向を目指したそうで。
「いいかい、ハーレイ? ぼくとの結婚祈願を頼む以上は、ぼくを断つ! ちょうど夏休みだし、会わずに済むよね、学校で」
「そうなるのか? お前を断つとは会わないことか?」
「はい、自分で宣言したってね。言わなかったら、ぼくを押し倒したりしない限りは大丈夫だった筈なんだけど…。女断ちとかをする場合にはさ、女性とよろしくやらなかったら無問題だし」
ただし、と会長さんは御厨子をビシィッと指差して。
「君がお祭りする聖天様はお聞きになってしまわれたわけ! ぼくと会わずに願を掛けます、と君は約束したわけだ。ぼくの家から出て行った後は会わないようにするしかないねえ…」
「お前と結婚するまでか!?」
「それは流石に無理だろうから、ぼくが結婚を承知すればいい」
そこで願い事が成就するし、と会長さんはニコニコと。
「ぼくからの電話か、あるいは手紙か。それとも思念か謎だけれどさ、何らかの手段で君と結婚してもいいよ、と連絡があるまで頑張るんだね」
「まさかお前の声を聞くのも駄目なのか!?」
「あーあ、またまた自分で言ってるし…。はい、声を聞くのもアウトだよね、これで」
全部聞こえているからねえ、と御厨子を眺める会長さん。
「断ち物の約束を破ると派手に祟るよ、聖天様は。ぼくから結婚の連絡があるまで根性で頑張っていくしかないかと」
「お、お前の写真を眺めるくらいは許されるんだな?」
「さあ、どうだか…。自分で危ないと思うんだったらやめておけば? ついでに、ぼくをオカズにして楽しむのもヤバイと思うよ、それじゃ断ち物になってないから」
そこで会長さんは大きく声を張り上げて。
「お聞きになっておられますかー!? こういうルールで頑張るそうです!」
「ちょ、待ってくれ! ブルー、今のは!?」
「君の代わりにガッツリ約束! これでバッチリ!」
銀青がお願いしてあげたから、と会長さんは笑顔ですけど、教頭先生、徹底的に追い込まれた上にドツボにはまっておられませんか…?



約束を破ると祟ると噂の仏様。その恐ろしい聖天様を相手に会長さんが教頭先生の代理とばかりにガンガン約束、それも断ち物というエゲツなさ。
「というわけでね、君は聖天様に約束したのさ、ブルー断ちをね」
「…ブ、ブルー断ち……」
無理だ、と呻いた教頭先生の後ろで「あーっ!」という悲鳴。アイスティーのおかわりを注ぐべく、ポットを持って歩いていた「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお盆がグラリと傾き。
「「「!!!」」」
懸命にポットを押さえた「そるじゃぁ・ぶるぅ」の努力も空しく、教頭先生の頭にバシャッと冷たい紅茶がかかりました。
「ご、ごめんなさいっ! でもでも、なんで…」
タオルを持って来た「そるじゃぁ・ぶるぅ」は教頭先生に手渡しながら泣きそうな顔。
「ぼく、ちゃんとお盆を持ってたのに…。ハーレイ、ホントにごめんなさい…」
「いや、そんなに濡れてはいないしな」
大丈夫だ、と教頭先生、タオルで頭をガシガシと。
「それにだ、私が床に座っていたのも悪い。きちんと椅子に座っていればポットよりも頭の方が高かったからな」
教頭先生は会長さんに頭を下げた時のままで床に座っておられました。柔道は基本が正座ですから、長時間でも苦にならないのが強みです。そういうやり取りを見ながら、会長さんが。
「あーあ、早速お叱りが来たね」
「お叱り?」
「さっき無理だと言っただろう? ブルー断ちがさ」
「い、言ったが、それが…?」
どうかしたのか、と返す教頭先生に、会長さんは「その前に!」と厳しい声を。
「ハーレイ、御厨子!」
「は?」
「床にじか置き! 大事な御厨子が!」
「床?」
ああ、と教頭先生の手が絨毯の上に置かれた御厨子の方へ。さっきまで手に持っておられたのですが、頭を拭くためのタオルと引き換えに床に置かれてしまっていました。それを取ろうと屈み込まれた教頭先生の足に濡れタオルを持って来た「そるじゃぁ・ぶるぅ」が躓いて…。
「キャーッ!」
ベシャッ! という音と共に、アイスティーで濡れた頭用だった濡れタオルは教頭先生の背中にヒットしました。水分多めに絞ってあっただけにシャツの背中がグッショリと。これってまさかの祟りでしょうか? 教頭先生に水難の相が?



「ごめんなさい、ハーレイ、ごめんなさいーっ!」
わざとじゃないよう、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は半泣きでしたが、会長さんが「うん」と教頭先生の代わりに返事し。
「ぶるぅは何も悪くない。悪いのは全てハーレイってね」
早く御厨子を手に持つべし、と教頭先生に命令を。
「背中も頭も濡れたままでいいよ、それがお叱りというヤツだ。聖天様からの有難い御指導」
「指導?」
水難がか、と困惑顔の教頭先生に、会長さんは。
「今回は水難の形で出たけど、お叱りは色々あるらしいよ? こうすべし、と叱って下さるわけだよ、道を誤らないように! 最初のお叱りは「無理だ」と言ったことに対するお叱り。しっかりやれ、と言っておられる。二度目のは床にじか置きのお叱り」
会長さん曰く、聖天様は穢れを嫌う仏様だそうで、御厨子を床に置くことなどは言語道断。お祭りする場所は清潔に保ち、お供え物も絶やしてはならず。
「いいかい、ハーレイ。家に帰ってお祭りしたらね、大根を供えるのを忘れずに!」
「大根だと?」
「聖天様の好物なんだよ、何が無くても大根は必須! それも左右に一本ずつ!」
「わ、分かった…。大根なのだな」
教頭先生は真剣でした。御利益を頂くどころか早々に水難、それが祟りではなく御指導とくれば、祟りがどれほどのレベルなのかは想像に難くありません。お祭りを失敗して祟りが来たら大変だという気持ちが表情に出ています。
「と、ところで、ブルー…。祟られた時はどうするんだった?」
「もう忘れた? ペセトラのお寺に持って行くんだよ、ペセトラの聖天様で検索すればすぐ分かる。でもねえ、初日からお返しすることを考えていては御利益も何も」
「そ、そうだな、まずは御利益だったな。お前との結婚をお願いするんだ、少々のリスクは覚悟しないといけないな」
「その調子! それじゃ今日から頑張って。ブルー断ちはもう絶対なんだし、用が済んだら帰った方がいいと思うよ」
会長さんがリビングのドアを示しましたが、教頭先生は「待ってくれ」と。
「そっちのブルーはどうなるんだ? もう一人いるが、あちらもブルーに含まれるのか?」
「ああ、そういえば其処にいたねえ、ぼくそっくりのが…。でもって君には学習能力が皆無のようだね、これで墓穴は幾つ目かな?」
ニンマリと笑う会長さん。
「君が「含まれるのか」と訊いた時点で聖天様にカウントされてるよ。あれもブルーの内である、とね」
ゲッと仰け反る教頭先生、見事な墓穴。ブルー断ちの対象がまた増えましたか、そうですか…。



聖天様に願を掛けるには断ち物が要るという話。一番の好物を断たねばならず、普通だったらお酒や食べ物で済むというのに教頭先生の場合はブルー断ち。会長さんに誘導される形で墓穴を掘りまくり、ソルジャーまでもがブルー断ちとやらの対象となって。
「…ハーレイ、君も大変だねえ…。自分で選んだ道だとはいえ、ぼくも感動」
「ほ、本当にこれでお前と結婚出来るのだろうな?」
「それはもちろん。…ただし、途中で放り出したら命が無いから」
「「「命?」」」
教頭先生どころか私たちまでも訊き返した中、キース君が沈痛な面持ちで。
「…聖天様は本気で怖いんだ。専門に祈願する行者で天寿を全うした者は無いとまで聞く」
「せ、専門家でもヤバイのかよ?」
サム君がうろたえ、シロエ君が。
「じょ、冗談ですよね、キース先輩? まさかそこまで…」
「いや、本当だ。…普通の祈願ならお叱り程度の祟りで済むが、願い事が難しくなればお叱りも大きくなっていくんだ。行者は代理でそういう祈願を引き受けるだけにリスクが高い」
聖天様はハイリスク、ハイリターンの仏様だ、とキース君は御厨子から目を逸らすように。
「そもそも御厨子に入っておられる時点でヤバイ。行者は開けて直接拝むが、その分、リスクも高くなる。普通は秘仏の扱いだからな」
「「「秘仏…」」」
「そうだ。住職でさえも御厨子の前では目を伏せる。そして決して扉を開けない」
開けたら思い切り終わりなのだ、と言われましても。それって祟りが来るという意味?
「祟りに決まっているだろう! しかしだ、開けずに拝むだけでも願掛けの途中で投げるのはヤバイ。たとえ何年かかろうともだ、願い事が叶うまで信仰しないと祟ると聞くぞ」
「そ、それじゃ教頭先生は…」
ジョミー君の声が引き攣り、教頭先生も真っ青な顔で。
「わ、私はブルーと結婚出来るまでブルー断ちだということか? どちらのブルーに会ってもアウトで、声を聞いたりするのもアウトで、写真を飾ったりすることも…」
「…そうなります…」
キース君の言葉は教頭先生には死刑宣告のように聞こえたでしょう。ウッカリ願を掛けたばかりに、会長さんとの結婚が叶う時までブルー断ち。しかも途中で放り出したら祟られる上に、命の危機かもしれないわけで。
「ほ、放り出したら命が無いというのも本当なのか?」
「…そういう噂も確かにあります。少なくとも口から出まかせの嘘ではないかと」
この俺が止めるべきでした、とキース君が言っても時すでに遅し。教頭先生は聖天様に願を掛けた上、断ち物も誓ってしまいましたってば…。



その御利益が絶大な分、祟りも凄い聖天様。祟りだかお叱りだかの一端は教頭先生の水難で証明済み。たったあれだけで水難とくれば、願掛けの途中でやめてしまったら命が無いのも本当っぽく。
「…わ、私にブルー断ちで一生行けと…」
ガクガクと震え始めた教頭先生、それでも御厨子を離すわけにはいきません。床に落としたら祟られますし、放置して逃げたら命の危機。どうあっても有難く拝むしかなく、それが嫌なら遙かペセトラまで返しに行くという道があるのみ。
「嫌ならやめていいんだよ?」
お好きにどうぞ、と会長さん。
「君が願掛けをしたいというから相談に乗った。リスクが高くても拝むと言うから、御厨子も渡してあげたんだ。…どうしても命が惜しいと言うなら、やめる助けはしてあげるけど?」
「…で、出来るのか?」
「ぼくは専門の行者じゃないけど、此処からペセトラまで瞬間移動で御厨子を運ぶくらいはね。元々、御厨子も失礼のないよう保管してたし、その程度なら」
お安いご用、と微笑みつつも、会長さんは。
「でもねえ…。君の願掛けって、ブルー断ちも出来なきゃ命の危機も避けたいだなんて、もう呆れるしかないってね。おまけに結婚したい相手のぼくにさ、聖天様の始末をしろって?」
「そ、それは…!」
「ぼくでも細心の注意を払って運ぶ必要があるんだよ、それ。…せめて自分で返しに行くとか」
それも出来ないようではねえ…、と会長さんの声は氷点下。
「もっとも、その前に拝んで欲しいと思うけどね? 夏休み中にお百度を踏んでもいいと思っていたんだったら、夏休み中くらい拝んでみたら? 駄目で元々!」
「…だ、駄目で元々…」
「そう! ひょっとしたら叶うかもしれないと思わないわけ? 聖天様は御利益を疑うことも御嫌いになる。こうしている間も君はお叱りの種を貯めているわけで」
「お、お叱り…」
教頭先生が言い終わらない内に「あっ!」とソルジャーの声が上がって。
「「「わぁっ!!」」」
高みの見物とばかりにアイスティーのグラスを弄んでいたソルジャーの手からグラスが離れて宙を飛び…。グラスは辛うじて割れなかったものの、教頭先生、またも頭からビショ濡れです。
「…ご、ごめん、ハーレイ、手が滑った…」
申し訳ない、と謝るソルジャーと、顔面蒼白の教頭先生と。
「…ま、またしてもお叱りなのか…。ご、御利益を疑ったからか、そうなのか…?」
なんという、と御厨子を捧げ持って教頭先生、平謝り。もはや拝むしか無さそうな気が…。



こうして教頭先生は御利益と祟りが背中合わせな聖天様の御厨子を持って家に帰る羽目になってしまわれました。夏休みの間くらいは拝んでみろ、と言われてしまえば他に選択肢はありません。ついでにキッパリ、ブルー断ちで。
「いいねえ、今年の夏休みは実に爽やかになりそうだ」
ハーレイの影が皆無なひと夏、と会長さんが大きく伸びを。あれから私たちは山の別荘ライフを堪能した後、アルテメシアに戻って夏休みを存分に楽しんでいます。キース君の卒塔婆書きも無事に終わって、今日は朝からプールに出掛けて、さっき帰って来たところ。
「かみお~ん♪ フルーツパフェとチョコレートパフェ、とっちにする?」
「俺、フルーツパフェ!」
「ぼくはチョコレートパフェでお願いします!」
お昼御飯はプールの帰りに食べましたから、会長さんの家でおやつタイム。フルーツだ、チョコだ、と賑やかな注文が飛び交う中で。
「チョコレートパフェの大盛り、リキュール多めで!」
フワリと翻る紫のマント。優雅に姿を現したソルジャーがストンとリビングのソファに腰掛けて。
「いやあ、ハーレイ、頑張ってるねえ…。ブルー断ちとか」
「そりゃまあ、ぼくとの結婚と自分の命が懸かってるしねえ?」
お蔭でアヤシイ電話も来ないし静かでいい、と会長さん。
「あれから祟りに遭ってない分、もうすぐ願いが叶いそうだと燃えているんじゃないのかな」
「祟りなら、さっき祟られてたけど?」
ソルジャーがクッと喉を鳴らして。
「此処に来る前に寄って来たんだ、陣中見舞いに。ぼくが姿を見せた途端に満面の笑みさ、ブルー断ちに入って長いから…。それで「お茶でも如何ですか」と言った瞬間、運の尽きだよ」
教頭先生、冷蔵庫から出した緑茶のボトルを引っくり返してズボンがビショ濡れ、床の絨毯も悲惨なことになったのだそうで。
「…嘘だろ、なんでそうなるわけ!?」
会長さんが叫んで、ソルジャーが。
「ブルー、尻尾が出てるけど? お叱りじゃなかったのかい、水難ってヤツは」
「で、でも…!」
「聖天様は存在しないって?」
「「「えぇっ!?」」」
どういう意味だ、と私たちは顔を見合わせたのですけれど。



「空っぽなんだよ、あの御厨子はね」
ソルジャーがチョコレートパフェにスプーンを突っ込みながらパチンとウインク。
「何も入っていやしない。…ハーレイの水難はブルーがサイオンで細工していたのさ、ぶるぅも気付かない高度なレベルで! ぼくにはバレバレだったけどね」
「じゃ、じゃあ、最後のアイスティーは…?」
ジョミー君が言うアイスティーとはソルジャーが手を滑らせた分。ソルジャーは「あれね」とニッコリ笑って。
「その場のノリって大切じゃないか。ぼくも一緒に遊んだだけだよ、ブルーは知ってる」
「うん、絶妙のタイミングでやってくれたよね」
「あの時は綺麗に合わせて来たのに、此処で尻尾を出すなんて…。ぼくが祟られてたと言った以上は祟り認定しなくっちゃ!」
「し、失敗した…」
ぼくとしたことが、と悔しそうな顔の会長さん。ということは、ソルジャーが教頭先生の家で見て来た祟りというのもソルジャーが? あの御厨子は本当に空っぽだと?
「空っぽに決まっているじゃないか。ブルーはリスクは冒さないと見た」
「そういうわけでもないけれど…。ぼくも一応、高僧だしね。仏様で遊びはしないよ」
まして聖天様ともなれば…、と会長さんは肩をブルッと。
「聖天様は本気でシャレにならない。ぼくが言ったこともキースの話も、この世界ではよく知られた話さ。…ついでにハーレイ、自分でもあれこれ調べたようだよ」
教頭先生、聖天様の祟りは本当かどうかを独自に調査。調べた結果は会長さんとキース君の話を裏付けた上に、更なる恐怖を与えたらしく…。
「いやもう、失礼があったら命が無いって震え上がったみたいだね。でも御利益の凄さも分かってしまって、諦め切れずに拝む日々ってね」
「うんうん、見た、見た! ハーレイの家のリビングに祭壇があって、大根を差した大きな花瓶がドッカンと!」
実にシュールだ、と笑うソルジャー。
「それで、これからどうするわけ? 空っぽの御厨子」
「夏休みが明けてもブルー断ちとはいかないからねえ…。折を見てストップをかけようかと」
「ふうん? 結婚を承諾するとか?」
「まさか! ハーレイが音を上げるしかない祟りの連続」
それしかないだろ、と会長さんはニヤニヤニヤ。
「ペセトラのお寺に納めに行くしかないって形でエンドマークさ。そこでもう一度巻き上げる!」
お寺まで運ぶのを引き受けてドカンと大儲けなのだ、と会長さんが挙げた金額は目の玉が飛び出るようなものでした。空の御厨子を授けて儲けて、引き取り料で更なる大儲け。



「…おまけにブルー断ちで安泰な夏休みかあ…」
君も鬼だね、とソルジャーは呟きましたけれども、派手な祟りをやらかす時には一枚噛むとか言い出して。
「どうかな、海の別荘行きの辺りでこう、色々と」
「いいねえ、あそこは君の結婚記念日合わせで日を組んでるし」
「だろ? 今年は祝いに来てくれないのか、と声を掛けに行くから、そのタイミングで!」
是非やるべし! と持ち掛けるソルジャーと、その気になった会長さんとの悪辣な打ち合わせは夕食の席でも続いていました。教頭先生を見舞う不幸は空恐ろしいものばかりで。
「…キース先輩、どうなんです、アレ…」
「聖天様ならどれもアリだが、御厨子が空というのがな…」
「教頭先生、最初から最後まで騙されたままでおしまいなんだ?」
南無阿弥陀仏、とジョミー君が合掌しています。イワシの頭も信心からとは言いますけれども、空の御厨子を拝みまくって祟られる場合は何と言うんだか…。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花?」
「饅頭怖い?」
「それは全然違うと思う…」
何なんだろう、と首を傾げる私たちを他所に、まだ続いている祟りの相談。そうとも知らずに教頭先生、今も絶賛ブルー断ち。会長さんとの結婚のために命を懸けての願掛けですけど、御厨子の中には空気だけ。お気の毒としか言えない展開、心からお悔やみ申し上げます~!




            祟りと願掛け・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 教頭先生が「エライ目に遭われた」聖天様。実際、御利益と祟りが半端ないそうで…。
 管理人の家の近所にも「いらっしゃる」んですけど、絵馬を書く勇気はナッシングです。
 今月は月2更新ですから、今回がオマケ更新です。
 次回は 「第3月曜」 2月20日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、2月は、恒例の「七福神めぐり」。無事にお寺に行けますかねえ…?
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv










「千羽鶴?」
 なあに、それ? とブルーは首を傾げた。
 学校があった日の夕方、仕事帰りに訪ねて来てくれたハーレイの台詞。
 ブルーの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせでお茶とお菓子を楽しんでいたら、唐突にそういう言葉が出て来た。
 千羽鶴。ブルーが初めて耳にする言葉。



「折鶴のことだが、知らないか?」
 こう、折り紙を折って作る鶴。幼稚園あたりで教わるんじゃないかと思うがな?
「知ってるよ? でも、折鶴を千羽鶴って言うの?」
 センバって何なの、どういう意味?
「千羽は千羽だ、千の数の鶴っていう意味さ。小さな折鶴を千羽作るのが千羽鶴だ」
 そいつを端から糸に通して、折鶴が何羽も連なった紐にするんだな。千羽だと紐は何本くらいになるんだか…。束ねればドッサリの折鶴ってわけだ、千羽分のな。
 遥かな昔の日本にあった、とハーレイは語る。
 今、ブルーとハーレイが暮らしている地域。その辺りに遠い昔に存在していた小さな島国。
 千羽鶴はその国にあった習わしで、祈りのこもったものだったという。
 長寿だとか、病気平癒だとか。そういう願いをこめて作られていたものだった、と。
 千羽もの鶴を折るには大変な手間がかかるから。
 病気や怪我をしたクラスメイトへのお見舞いに、とクラスの生徒が手分けして折って、病院まで届けに出掛けるケースも多かったらしい。
 早く学校に戻れるようにと、怪我や病気が治るようにと。



「そうなんだ…。ハーレイ、千羽鶴、折ってくれるの?」
 ぼくに千羽鶴。折鶴を千羽って、とっても愛がこもっていそう。
「なんでお前に折ってやらねばならんのだ」
 折るような理由が無いと思うが、千羽鶴なんぞ。
「お見舞いなんでしょ?」
 長寿も祈るって言っていたけど、お見舞いに作って貰えるものでしょ、ぼくも欲しいな。
 風邪とかで学校を休んじゃったら、千羽鶴。
 ハーレイが作ってくれた千羽鶴を飾って眺めるんだよ、早く学校に行けますように、って。
「入院するような重病や怪我の見舞いに作るものだぞ」
 たかが風邪くらいで作ってどうする。お前、弱いが、でかい病気はしないんだろうが。
「ハーレイのケチ!」
 ぼくの病気なんかどうでもいいんだ、お見舞い、作ってくれないんだ!
「お前なあ…。どのくらいの手間がかかると思っているんだ、千羽鶴」
 いいか、千羽だぞ、折鶴を千羽。それだけの鶴を折らねばならん。
 俺がせっせと折ってる間にお前が登校して来るだろうが。
 まさか一日中、朝から晩まで、夜も寝ないで折るってわけにもいかないんだからな。
「そうかも…」
 百羽も出来ない間に治ってしまっちゃうかも、ぼくの風邪とか。
 千羽鶴を貰おうと思うんだったら、うんと長い間、お休みしなくちゃいけないね…。
 それじゃ学校でハーレイの顔を見られないんだし、そんなのはちょっと困るかな。



 でも…、とブルーは考え込んだ。
「ハーレイ、作ってくれる気も無いのに、どうして千羽鶴だなんて言い出したの?」
 ぼくはそんなの知らなかったし、聞かなかったら欲しいって言いもしないのに。
「データベースで偶然、見付けちまってな…。千羽鶴ってヤツを」
 こいつは知らんな、と読み進めていたら、長寿祈願に病気平癒と来たもんだ。
 それを読んだら、お前に作ってやりたくなった。…間違えるなよ、今のお前のためじゃない。
 俺はな、前のお前のために千羽鶴を作って祈りたかった。今となっては手遅れだがな。
「前のぼく?」
 どうして前のぼくのために千羽鶴なの、今のぼくにくれるなら分かるけど…。
「俺が祈ってやりたかったのは、死んでしまう、って泣いていたお前。身体が急に弱ってしまって寿命が尽きると気付いて泣いたろ、何度も、何度も」
 俺と一緒に地球には行けない、って泣いてたお前だ。あのお前に作ってやりたかったんだ。
「お見舞いに?」
「長寿祈願だ、お前の寿命が延びるようにと」
 俺と地球まで辿り着けるようにと、千羽鶴。
 お前の命が尽きないようにと、千羽鶴を作ってやりたかったと思ってな…。



 たかが折り紙の鶴なんだが…、とハーレイの鳶色の瞳が深くなった。
「毎日せっせと、ブリッジや部屋で小さな鶴を何羽も折って。千羽出来たら、お前に渡して」
 糸で連ねて束ねた鶴を青の間のお前に届けに行くんだ、千羽鶴だ、と。
 こんなに出来たと、千羽もあるから寿命もしっかり延びる筈だと。
「それ、効いた?」
 折り紙の鶴だよ、そんなのが効くの? 前のぼくの寿命がそれで延びるの?
「効いただろうと思うんだ。生き延びてくれ、と祈りと願いをこめて作った千羽鶴だしな」
 現に、前のお前。
 ジョミーの思いで生き延びたんだろ、アルテメシアの空から落っこちて来た後は?
 「生きてくれ」と願ったジョミーの思いだけで、生きてナスカまで行けたんだろう?
 アルテメシアを脱出した後には眠っちまったが、その状態でも十五年間も。
「そうだけど…」
「俺にそこまでの力は無かった。お前に直接、生きて欲しいと働きかけるだけの力は無かった」
 しかし、俺の願いと祈りを形に出来ていたら。
 生きて欲しいと、お前の寿命を伸ばしたいんだと千羽鶴を作って前のお前に渡していたなら…。
 そうしていたなら、どうなったと思う?
「生きられたかもね…。ハーレイの千羽鶴のお蔭で」
「そうだろう?」
 折り紙で作っただけの鶴でも、お前が信じてくれれば、きっと。
 これで寿命を延ばせるんだ、と俺を信じてくれたならば、きっと…。



 だから千羽鶴を作りたかった、とハーレイは語る。
 前の自分が知っていたなら、千羽鶴を作っていただろうに、と。
「お前、ジョミーと俺なら、どっちを信じた?」
 シャングリラのこととか、仲間のこととか。そういったことではなくって、だ。
 お前のためにと言い出した意見が食い違っていたら、どっちの意見を信じたんだ?
「決まってるでしょ、ハーレイだよ」
 ハーレイが正しいに決まっているもの。ぼくの恋人だというのは別にしたって、ジョミーよりも長く生きていたしね。キャプテンとしての経験だって、何百年分もあったんだから。
 ジョミーとハーレイ、どっちか一人なら、ハーレイの方を信じるよ。
 とんでもない意見に聞こえたとしても、ハーレイがきっと正しいから。
「お前自身がそう思っていたなら、千羽鶴を作れば、俺にだってジョミーの真似が出来たんだ」
 生きろと、鶴の数だけ生きろと。
 お前はそれだけ生きなきゃならんと、俺が祈っているんだから、と。
「そう言われたなら、死ねないかも…」
 ハーレイに「生きろ」って言われちゃったら、ジョミーの思いで生きたのと同じ。
 強い思いがぼくを生かすのなら、ハーレイの千羽鶴でも効き目は変わらなかったのかもね…。



「な、そんな気持ちがしてくるだろう? 生きられたかも、と」
 あの頃の俺が知っていたらな、千羽鶴っていうのをな…。
 お前の身体が弱ってしまって眠っている日が多くなっても、その間に。
 ブリッジや部屋でせっせと折るんだ、青の間でもな。
 そうして、お前が目を覚ましたなら「これだけ折ったぞ」と見せてやるんだ。
「目が覚めたら鶴があるんだね?」
 増えてるんだね、寝てる間に。眠る前よりも数が増えてて、うんと沢山。
「ああ。何羽も何羽も鶴を折り続けて、千羽揃ったら、ベッドの周りに掛けてゆくのさ」
 糸に通して、千羽束ねて。そいつをベッドの周りのカーテンレールに吊るすんだ。
 千羽鶴なら誰も怪しまないからな。
 前のお前と俺との仲をな…。



「それ、子供たちが真似しない?」
 ソルジャーにお見舞いの千羽鶴を作ってプレゼントしよう、って頑張りそうだよ。
 他の仲間たちだって、みんなで幾つも届けてくれそう。
 ベッドの周りは直ぐに一杯になってしまうよ、みんなが作った千羽鶴で。
「そうならないよう、キャプテン権限で俺の分だけをベッドの周りに吊るすことにする」
 他の千羽鶴は別の場所だ。いくら増えようが、ベッド周りは絶対、譲らん。
「それって、ちょっぴり酷くない?」
 みんなの願いがこもっているのに、ベッドの側には飾れないだなんて。
「いや、そのくらいでないと俺の気持ちがお前に届かん」
 ただの見舞いというわけじゃないんだ、生きて欲しいと祈りと願いがこもったヤツだ。
 他の奴らが作ったヤツとは思いの強さがまるで違うってな。
 お前に向かって「生きろ」と伝える、俺の心の叫びなんだからな。
「そうかもね…」
 他の千羽鶴とは違って効くよね、ぼくの寿命を延ばすために。
 そういうヤツなら、ベッドの周りを独占してても当然ってことになるんだろうね…。



 だけど…、とブルーは呟いた。
「前のぼくたちが生きていた頃に、折鶴なんかは無かったね」
 折り紙自体が無かったのかな、鶴以外のも見たこと無かったしね。
「うむ。ナプキンの洒落た折り方なんかはあったようだが、折り紙はなあ…」
 そんな時代に千羽鶴なんぞは何処にも無いしな、前の俺も知りようが無かったってな。
 お前のために作ってやりたくっても、知らないんじゃなあ…。
「今は折り紙も、折鶴も普通にあるけれど…」
 ぼくたちの地域だけかもしれないけれども、折り紙と折鶴、普通だよね?
「ああ。だが、千羽鶴が無いってな」
 データベースでお目にかかるまで知らなかったし、千羽鶴は一度も見たことがない。
「ホントに無いの?」
 折鶴を千羽、糸に通して束ねるだけでしょ? それなのに無いの?
「調べてみたんだが、無いようだ。存在した、というデータだったら沢山あったが」
 SD体制に入るよりも前の、この辺りが日本だった頃。
 その頃には幾つも作られたようだが、どうやら復活してないらしいな。



 ハーレイが調べたデータベースに、今も実在する千羽鶴のデータは一つも無かった。
 昔はあったと、かつてはこうだ、と写真などのデータが残っていただけ。
 色とりどりの折鶴を連ねて束ねた千羽鶴なるものが記録に在っただけ。
 今は何処にも無いというから、ブルーも今日まで全く知らずに来たというわけで…。
「なんで無いのかな、千羽鶴?」
 今、ハーレイが思念で見せてくれた写真。
 とっても綺麗で素敵だったのに、どうして作られていないんだろう…?
「折鶴を千羽も作らなければいけないんだぞ?」
 手間と時間が沢山かかるし、第一、寿命がとてつもなく延びてしまっただろうが。長寿を祈って作らなくても、皆、長生きをするからなあ…。
 見舞いにしたって、こいつを作って見舞いに行くほど深刻な病気っていうヤツも無いし。
 少しばかり入院が長引いたって、だ。元通りに元気で退院するのが普通だろうが。
 千羽鶴に縋る時代じゃない、っていうことだな。
 昔の文化を復活させるのが流行りとはいえ、必要無いものは復活しないさ。



「そっか…。じゃあ、ハーレイが復活第一号をやらない?」
「はあ?」
「千羽鶴だよ、記念すべき復活第一号をハーレイが作ればいいじゃない」
 ぼくに作ってよ、千羽鶴。折鶴を千羽、糸に通して、束ねて来てよ。
「何のためにだ?」
「だから、お見舞い」
 ぼくは身体が弱いんだから。しょっちゅう休むし、お見舞いに千羽鶴を作って欲しいな。
「入院してから言ってくれ。当分は学校に戻れません、ってほどの病気になってからな」
「それは嫌だよ!」
 学校に行けなくなってしまったら、ハーレイに会えなくなるじゃない!
 お見舞いに来てくれた時だけしか!
「ふうむ、入院をするつもりは無い、と。だったら全く要らないだろうが、千羽鶴」
 折鶴を千羽も作っていられるほどに長い間、寝込んでくれていないとな。
 作る時間があるからこその千羽鶴だしな、千羽作ってもまだまだ退院して来ない、と。
「うー…」
 ハーレイの千羽鶴、欲しいんだけど…。
 作って欲しいんだけれど、学校に行けなくなるのは嫌だよ…。



「なら、潔く諦めるんだな、我儘を言っていないでな」
 ついでに、家で寝ている程度の病気で千羽鶴をくれと言われた場合。
 俺が折鶴を折っていたなら、お前の大好きなスープの方がお留守になるが?
 野菜スープのシャングリラ風はとても無理だな、俺は鶴を折るのに忙しいしな。
「ええっ!? で、でも…!」
 前のぼくなら千羽鶴を折ってくれるって…。
 そっちだとスープはお留守にならないんでしょ? スープも作ってくれるんでしょ?
「もちろんだ。スープも作るし、千羽鶴だってせっせと折るさ」
 前のお前は寿命が尽きかけていたんだからなあ、重病どころの騒ぎじゃないぞ。
 深刻さが違うし、俺も真剣に千羽鶴を折って、お前のためにスープも作って頑張るわけだ。
 それこそブリッジでも暇を見付けて幾つでも折るな、千羽鶴のための折鶴をな。
 しかし、今のお前はピンピンしてるし、千羽鶴を作るならスープは無しだ。
「…千羽鶴…。ぼくも欲しいのに…」
「欲しけりゃ自分で作っておけ」
 千羽作って糸に通して、部屋に飾っておけばいいだろ。
「何のために?」
「自己満足だな、これだけ折った、と」
 折鶴を千羽も作ったんだ、と自分で自分に自慢するんだな。そいつが一番の早道だ。
 ただ千羽鶴が欲しいだけなら、自分で作って自分で飾れ。



「自分で千羽も!? 飾るためだけに?」
 そんなの無理だよ、何か目標でもあったら折るかもしれないけれど…。
 千羽折ったら御褒美があるとか、そんな感じで。
「俺は千夜も通わないからな?」
「なに、それ?」
「百夜通いというのがあってな。古典ではないが、ずうっと昔の日本の有名な伝説だな」
 絶世の美女に恋をした男が求婚したらだ、「百日の間、毎晩通って来られたら認めてもいい」という返事をされた。それで頑張って通うわけだが、百日目の夜に行き倒れたっていう結末だ。
 その男が毎晩、通ってた間、美女の方ではカヤって木の実に糸を通して数えてた。一日に一個、カヤの実を糸に通すんだ。
 そんな感じで、俺が毎晩、通ってくる度に鶴を一羽折って、いつかは千羽。
「ハーレイ、千夜も通ってくれるの?」
「通わんと言ったぞ、お前が何の意味かと訊くから答えた」
 どうして千夜も通わないと言ったか、それを教えてやっただけだな。
 お前が千羽鶴を作るなんていう目標に付き合って通ってくるほど暇じゃないぞ、俺は。
「それじゃ千羽も折れないよ!」
 目標も無いのに、千羽だなんて。
 ハーレイが毎晩来てくれる度に一羽だったら、楽しく折れるかもしれないけれど…。



 千羽は無理だ、とブルーが嘆く。とても作れないと、折れはしないと。
 けれども千羽鶴は欲しいらしくて、諦め切れないようだから。
 欲しいと顔に書いてあるから、ハーレイは笑ってこう持ち掛けた。
「そんなに欲しいなら、折ってみるか? 俺が訪ねて来た日の数の分だけ千羽鶴」
「えっ?」
 ハーレイ、通ってくれるの、千回?
 さっきは嫌だって言っていたけど、気が変わった?
「さてな? いいから、少し計算してみろ」
 俺が毎日続けて千回、訪ねて来たなら。
 それは何年分になる勘定なんだ?
「えーっと…。毎日が千回、千日だから…。一年が三百六十五日で…」
 ブルーは懸命に指を折りながら、「二年と…」などと数えている。
 その様子にクックッと喉を鳴らして、ハーレイは「計算、終わったか?」と恋人を見詰めた。
「俺も厳密に計算してはいないが、二年半より多いんだがな?」
 それだけの間、続けて訪ねて、千回目に届こうっていう頃には…。
 お前、幾つだ?
 何歳になっているんだ、お前?
「ぼく? 今から二年半ほど先だと…。十七歳にはなっていそう?」
 もしかして、婚約出来そうな年?
 今から千回通って貰って鶴を一羽ずつ折っていったら、それくらいの年になってるの、ぼく?
 千羽目の鶴が出来る頃には?
「そういう話が出ても可笑しくないってことだな」
 さあ、どうする?
 一羽ずつ折るか? 俺が訪ねて来られない日も当然あるしな?
 訪ねて来た日にだけ一羽折るなら、千羽目の頃には本当に婚約の話くらいは出ていそうだが?
 あるいは千羽に届く前に結婚しちまうとかな。



 今日から一羽ずつ折ったらどうだ、と提案されたブルーは瞳を輝かせた。
 ハーレイが訪ねて来てくれる度に鶴を一羽折って、千羽鶴を目指す。
 鶴の数が千羽に届く頃にはプロポーズされて婚約するとか、それまでに結婚出来そうだとか。
(鶴が千羽になる頃には…)
 素敵な未来が待っていそうで胸が高鳴り、千羽鶴を作りたくなった。
 一羽折っては大事に仕舞って、数が纏まったら糸に通して。
(百羽くらいで通してやったらいいのかな?)
 まずは百羽で折鶴を連ねた紐の一本目。それが目標、まず百羽から。
 百羽を連ねた紐を増やして、二本、三本と作っていって。
 十本目に糸を通す頃には、ハーレイとの恋は何処まで進んでいるのだろう?
 婚約を済ませて結婚式の日を待ち侘びながら千羽目の鶴を折っているのか、それまでに結婚式を挙げてしまって千羽鶴など忘れてしまっているか。
 忘れ去られた折鶴の束が転がっているという未来もいい。
 百羽ずつ連ねて何本目かまでは仕上げたけれども、これ以上はもう折らなくていい、と。



(うん、千羽まで折らずに終わっちゃうかも…!)
 ハーレイが来てくれない日も多いのだから、その可能性は大いにある。
 千羽鶴が仕上がる日を夢見ながら、ハーレイが来てくれた回数を折り上げた鶴で数えて何日も。もう百回も会ったのだ、と百羽を連ねた紐を撫でたり、まだ連ねていない鶴を数えたり。
(ハーレイが来てくれた日の数だけ、鶴…)
 いいかも、とブルーは思ったけれど。
 鶴を折り続けて結婚の日を待ち焦がれるのもロマンティックだと思ったけれど。
(…でも、ぼくの背丈…)
 ハーレイと出会った五月の三日から、一ミリも伸びてくれない背丈。
 百五十センチで止まったままで、前の自分の背丈との差が二十センチから縮まらないまま。
 前の自分と同じ背丈にならない限りは、ハーレイとキスさえ出来ないというのが残酷な決まり。
 懸命に鶴を折っていたって、ハーレイが訪ねて来てくれる度に一羽ずつ折っていったって。
 それで千羽鶴が出来上がった時に、背丈が伸びていなかったなら…。



 急に心配になって来たから、ブルーは訊いた。
 千羽鶴を作りたいのなら目標はコレだ、と案を捻り出した恋人に。
「ねえ、ハーレイ。…もしも千羽目の鶴が出来上がった時に…」
 ハーレイが千回目に訪ねて来てくれた時に。
 ぼくの背丈が足りなかったらどうなっちゃうの?
 前のぼくとおんなじ背丈になっていなかったなら、十七歳になっていたって婚約は無し?
 千羽鶴が立派に出来上がるだけで、婚約の話は出てこないまま?
「うん? …お前がチビのままだった時か?」
 そりゃあ、婚約は無いだろうなあ、チビのままじゃな?
 きちんと大きく育っていたなら、俺は喜んでプロポーズするが…。婚約もするが、チビではな。
 もう少し待てと、せめて結婚出来る年になるまで待ってくれ、と言うしかないな。
「やっぱり!?」
 だったら、千羽目が出来上がった時に十八歳を越えていたって、チビだった時はお預けなの?
 結婚どころか婚約も無しで、大きくなれよ、って言われちゃうだけ!?
「そう怒るな。俺は日頃から言ってるだろうが、ゆっくり大きくなるんだぞ、って」
 ゆっくりのんびり育てばいいだろ、結婚を急がなくてもな?
 それにだ、千羽鶴を折っても充分に間に合う可能性ってヤツもゼロではないぞ。
 俺が訪ねて来られる回数、千回になるのは何年先だか分からないしな?
 その時にお前の背丈が前のお前と同じになればだ、千羽鶴と一緒にゴールインじゃないか。



 実にめでたい、とハーレイは言ったけれども、ブルーにしてみればそれどころではない。
 千羽鶴の方が背丈が伸びるよりも先に出来上がってしまえば悲しいだけ。
 ましてや、その時に婚約出来そうな十七歳やら、結婚出来る十八歳なら泣くしかないから。
 こんな筈ではなかったのに、と涙が溢れて千羽目の鶴など折れないから。
「千羽鶴なんか作らない!」
 絶対折らない、とブルーは叫んだ。
 折ってたまるかと、悲劇に終わりそうな千羽鶴など作るものかと。
「おいおい、お前、欲しいんだろうが?」
 千羽鶴が欲しいなら折らないとな?
 少しずつでも折っていかんと、千羽はなかなか難しそうだぞ?
「ハーレイが折ってよ、ぼくにお見舞い!」
 千羽作ってプレゼントしてよ、お見舞いに!
「何の見舞いだ?」
 風邪とかの見舞いと千羽鶴とは両立しないと言ったがな?
 野菜スープがお留守になるぞと言った筈だが、それでも見舞いに千羽鶴なのか?
「風邪とかじゃなくって、もっと切実! うんと重病!」
 ぼくの背、ちっとも伸びないんだから!
 ハーレイと会ってから一ミリだって伸びてないから、背が伸びるように千羽鶴!
 それなら充分にお見舞いになるでしょ、ぼくはホントにとっても困っているんだから!
「いつか伸びるさ、いつかはな。そいつは病気じゃないだろうが」
 お前の心や身体に合わせてゆっくり、ゆっくり育ってるだけだ。
 病気だったら健康診断の時に引っ掛かるだろ、何も心配要らないってな。千羽鶴も要らん。
 前のお前になら千羽鶴を作って祈ってやったが、今のお前には要らないさ。
 背丈ぐらいしか悩みが無いんじゃ、千羽鶴の出番も皆無だってな。



 欲しいなら自分で作っておけ、とハーレイは笑って取り合わなかった。
 そのハーレイが両親も交えた夕食を食べて、お茶を飲んでから「またな」と帰って行った後。
 見送ってから二階の部屋に戻ったブルーは、また千羽鶴を思い出した。
 折鶴を千羽、連ねて、束ねて千羽鶴。
 とても綺麗なのに、今の時代は何処にも無いらしい千羽鶴。
 前の自分に作ってやりたかった、とハーレイが話してくれた千羽鶴。
 やっぱり欲しい。鶴を連ねた飾り物。
 祈りも願いもこめなくていいから、沢山の折鶴を連ねた飾り。



(千羽鶴…)
 ハーレイが訪ねて来てくれる度に一羽ずつ折れば、千羽揃う頃には婚約か結婚。
 そういう勘定になりそうなのだし、ハーレイのアイデアは悪くない。
 今日で一羽、と折ろうかとブルーは思ったけれど。
 前の学校で使った折り紙を仕舞ってあるから、取り出して一羽、折り紙の鶴。
 それもいいな、と引き出しに一旦、手を掛けたけれど、問題が一つ。
(今日はいいけど…)
 この先、一羽ずつ折り続けていって。
 ハーレイが来てくれた日の数だけの鶴を折って連ねて、束ねていって。
 これで最後だ、という千羽目を折る時、背丈が足りなかったなら。
 前の自分と同じ背丈になっていなかったら、結婚はおろか婚約も無しと言われたのだった。
 ゆっくり育てと、焦らずにゆっくり大きくなれと。



(ハーレイの馬鹿!)
 千羽鶴を折るためのアイデアはとても素晴らしかったけれども、その後が悪い。
 出来上がる頃には婚約か結婚が待っていそうだ、と夢だけかき立てておいて、実際の所は背丈が充分に無かった場合は婚約すらもして貰えないらしい。
 ホントに酷い、とハーレイの写真に向かって怒りそうになって。
 フォトフレームの中、笑顔のハーレイに怒りをぶつけそうになってしまって。
(でも、前のぼくに…)
 折ってやりたかった、と言ったハーレイ。
 あの頃に千羽鶴を知っていたなら、ブルーの寿命が延びるように作ったと語ったハーレイ。
 ブリッジでも折って、糸に連ねて、青の間のブルーのベッドの周りに千羽鶴。
 幾つも幾つも千羽鶴を作って掛けて祈った、と聞かされた言葉。
 それは本当の想いだったろうと思うから。
 前のハーレイが知っていたなら、千羽鶴が沢山、青の間に在ったと思うから。



(もしも、ぼくの背が伸びなかったら…)
 あんな風に笑ったハーレイだけれど、あの大きな手で幾つも折ってくれるのかもしれない。
 背が伸びるようにと、祈りをこめて折鶴を。
 願いのこもった折り紙の鶴を。
 前のブルーに作れなかった分まで、幾つも、幾つも鶴を折っては糸で連ねて、千羽鶴。
 そうだとしたら、その千羽鶴をプレゼントされる日が来るのだろうか?
 「ゆっくりでいいから、大きくなれよ」とハーレイの手から千羽鶴。
 俺が作ったと、お前のものだと、祈りのこもった千羽鶴を…。




           千羽鶴・了

※千羽鶴が欲しくなってしまったブルー。使い道は色々、と思ったわけですけれど…。
 ハーレイからは貰えそうにもありません。でも、いつか折って貰える日が来るのかも。
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「それ、お土産?」
 ワクワクしながら訊いた、ぼく。
 土曜日の朝、ハーレイが提げて来た紙袋。ロゴとかは入っていないけれども、お土産っぽい。
 だって、普段はこんな袋は持って来ないもの。どうなのかな、って頬が緩んじゃう。
 お土産だといいな。そうだといいな。



 ハーレイは苦笑いしながら、自分が座ってる椅子の脇の床に置いた紙袋にチラリと目を遣って。
「そんなトコだな」
 これも一種の土産だろう、うん。
「食べるものなの?」
「もちろん食えるが」
「わあっ!」
 ぼくの心はたちまち跳ねてしまって、嬉しさ一杯。ハーレイのお土産、食べられるお土産。
 お菓子なの、って尋ねてみた。ドキドキしながら訊いてみた。
 袋の外からじゃ分からない。テーブルのせいで、ぼくの席からは袋の中身を覗けない。
 ハーレイと向かい合わせに座るテーブル、今日はちょっぴり邪魔者な気分。
 そのテーブルにはママがお茶とお菓子を置いて行ったから、紙袋の中身はぼく専用のお菓子?
 ハーレイと二人で食べるものなら、ママに渡して「今日はこれです」って言いそうだもの。
 そういうお土産を貰う日もある。
 お菓子だったり、お昼御飯に食べられるような何かだったり。



(ママに渡していないってことは…)
 ぼくの部屋に大事に仕舞っておいて、一人で取り出して食べられるお菓子とか?
 個別包装のクッキーだとか、もしかしたら甘いチョコレートだとか。それともキャンディー?
 どんどん想像が膨らんでゆく中、耳に届いたハーレイの声。
「菓子なのか、と訊かれれば…。菓子にしている人もいるがな」
 人それぞれだな、こいつの場合は。
「なに、それ…」
 ハーレイのお土産、いったい何なの?
「お前の年では菓子じゃないだろうな」
「えっ?」
「多分、菓子という認識じゃないさ。手を加えれば立派に菓子になるがな」
 ほら、とハーレイが手を突っ込んだ紙袋から出て来たガラスの瓶。
 テーブルに置かれたガラスの瓶。
 中にびっしり、金色の丸い実。親指と人差し指をくっつけて作る丸よりも小さな丸い実。それにシロップ、金色を映したシロップに浸かった金色の実たち。



「えーっと…。これって、金柑?」
 金柑の実なの、瓶に一杯…。
「おっ、知ってたか?」
 知らないかもな、と思ってたんだが、知っていたのか、金柑の実を。
「おせちに少しだけ入っていない?」
 ほんのちょっぴり、三つくらい。こういうシロップ漬けの金柑。
「まあ、世間的にはそうしたモンだな、その程度の付き合いの家が多いな、金柑」
 わざわざ買ってまで甘煮にしよう、って人も少なきゃ、こういった甘煮を瓶で買う人も無いな。彩りにするには何個かあれば充分なんだし、おせちの季節に少しってトコか。
 同じ買い込んで甘煮にするなら普通は栗だな、栗の甘露煮って家が多いだろう。あっちの方なら使い道も多いし、なにより見た目にデカくて立派だ。



 だが、ってハーレイは金柑の瓶を指差した。
「この金柑。こいつを持って来たのは俺だが、これは親父たちからのプレゼントだぞ」
 もちろん、お前へのプレゼントだ。昨日、親父が届けに来てくれたんだ。
「ホント!?」
 ハーレイのお父さんたちからのプレゼントなの? ぼくに?
「お前、夏ミカンのマーマレードを取られちまったってしょげてたろう?」
 先に開けられて食べられていたと、一番最初に食べ損ねたと。お前のお父さんたちも気に入ってしまったから、このままだと直ぐに無くなりそうだと。
 マーマレードはあれから何度も追加の瓶を届けちゃいるが、だ。
 親父たちはお前が「取られちゃった」とガッカリしたのを知っているしな、それで金柑だ。
 お前の身体が弱いというのも知っているから、そっちの意味でもプレゼントなんだが。
「それ、お薬なの?」
「金柑の甘煮は風邪に効くんだ、喉にもいいぞ」
 食べれば風邪の予防にもなる。菓子代わりに食って風邪を防ごう、って人もいるくらいだ。俺の家でも親父とおふくろが冬になったら食ってるなあ…。
「もしかして、手作り?」
「おふくろのな」
 金柑の実が色づき始めたら、こいつを作る。黄色くなった実から順に採ってな。



 庭に金柑の木があるんだ、ってハーレイはぼくに教えてくれた。
 隣町の、ハーレイのお父さんとお母さんが住んでいる家の庭。其処に金柑。
 夏ミカンの木ほどには大きくないけど、ハーレイの背よりも大きな木。枝を広げた金柑の木。
 金柑の木にしては大きい部類に入るんだって。
「今年はこれからがシーズンだな。こいつが最初のヤツなんだ」
 最初に採った分で作ったから、って親父が届けに来たわけだ。
「そうなの?」
 いっぺんに黄色くなるわけじゃないの、金柑の実って?
「陽の当たり具合とかで変わってくるのさ、実が色づいていく順番もな」
 小さい木ならば、全部が黄色く色づいた後に採るんだろうが…。
 デカイ木だしなあ、黄色くなったヤツだけを先に選んで採っても充分な量があるってな。
「うん…。この瓶、けっこう大きいよね」
「マーマレードの瓶ほどにはデカくないがな」
 金柑の実が色づき始めたら、色づいた分から順に採ってだ、おふくろが甘煮にするわけだ。砂糖たっぷりで煮た甘露煮だな。
 実を食えば風邪の予防で、薬。このシロップだって喉にいい。
 実を食って良し、シロップを飲んでも良し、っていう優れものだぞ、金柑の甘煮。
 こいつはホントにお前用なんだ。マーマレードと違って薬だからな。



 しっかり食えよ、ってハーレイは金柑が詰まった瓶の蓋を指でトンと叩いた。
 これはお前のだと、親父たちからのプレゼントだと。
(貰っちゃった…!)
 ハーレイのお父さんとお母さんから、ハーレイのお嫁さんになるぼくへのプレゼント。夏休みの最後の日に貰ったマーマレードもそうだったけれど、あれは表向きはぼくの家への贈り物だった。
 だからパパとママに先に開けられちゃったし、遠慮なく食べられちゃったけれども。
 今度はお薬。ぼくへのお薬、身体が弱いぼくのための薬。
 そういう理由で貰ったんなら、独占したって怪しまれない。お薬なんだし、それで当然。
 パパやママには取られない金柑。
 ぼくだけのための金柑の甘煮。
 ハーレイのお母さんが作った甘煮で、ハーレイのお父さんが届けてくれた。
 ぼくのために、って、金柑の瓶。ハーレイのお嫁さんになるぼくのために、って金柑の甘煮。
(すっごく幸せ…)
 うんと大事にしなくっちゃ、って金柑の金色を見詰めていたら。
「おい。幸せそうな顔をしてるのはいいが、大事にし過ぎて風邪を引くなよ」
 風邪の予防になるんだからな。後生大事に取っておかずに、ちゃんと早めに食うんだぞ。
「うんっ!」
 風邪を引きそうになったら食べるよ、引かないように。
 せっかく貰ったお薬なんだもの、風邪の予防に食べなくっちゃね。



 風邪のお薬になる金柑。食べれば風邪の予防にもなる、金柑の甘煮。
 ハーレイは「そいつは食べるものなんだからな」と念を押して帰って行ったんだけれど。
 でも…。
「ブルー、いいもの頂いたわね?」
 ぼくが夜に金柑の瓶を持ってダイニングに行ったら、ママが早速声を掛けて来た。ぼくの部屋にあるのをママは知ってたから、ハーレイに御礼も言っていた。
 だけど、この金柑はぼくのだから。
「ぼく専用の金柑だよ?」
 取らないでね、って言った、ぼく。マーマレードで懲りているから。
 そうしたらママも、見ていたパパも「薬は取らない」って笑ってる。ただの金柑の甘煮だったらつまむけれども、お薬用までは取らない、って。
「お前の薬は食べないさ。ハーレイ先生に頂いたんだろ?」
「ママも食べないわよ、そんなに心配しなくてもね」
 その代わり、きちんと食べるのよ。金柑は風邪に効くんだから。
「はぁーい!」
 分かってるよ、って返事した、ぼく。
 金柑の瓶を何処に置こうか、考えるために部屋から下りて来た、ぼく。
 暖かすぎる場所は駄目だとハーレイに聞いたから、ぼくの部屋では駄目なんだ。ぼくの身体には優しい暖房、寒くなったら入れる暖房。それが金柑の瓶には大敵。
 ママに相談して、キッチンの貯蔵用の戸棚に仕舞った。其処なら充分に涼しいから。



 大切な金柑の置き場所を決めて、部屋に戻って。
 明日もハーレイが来てくれるから、って早めにお風呂で、パジャマに着替えてベッドの端っこに腰を下ろした。ハーレイと二人で座る椅子とテーブルが見える場所。
 ハーレイに貰った金柑の瓶が置いてあったテーブルが見える場所。
 金柑の瓶はキッチンに引っ越したけれど…。
(ぼく専用…)
 ハーレイのお母さんが作った金柑の甘煮。ハーレイのお父さんが届けてくれたという瓶。
 金色のまあるい実が幾つも詰まった素敵な瓶は、マーマレードと違って、ぼく専用。
 パパもママも絶対、食べやしないし、ぼくだけが食べる金柑の甘煮。
 だけど、金柑の甘煮には問題が一つ。
 入れてるシロップの濃さのせいなのか、それとも金柑がデリケートなのか。
 金柑の甘煮はマーマレードみたいに一年間も持たないらしいんだ。
 三月に最後の実を取った後は、夏になるまでに食べ切ってしまわないと駄目。傷むんだって。
(そこから今頃までってことは…)
 新しい実が熟し始める頃まで、かなり長い間、金柑は無し。
 金柑の甘煮は手に入らない。欲しいと思っても、届いてくれない。
 夏には風邪なんか、よっぽどでないと流石のぼくでも引かないけれど。
 それとこれとは別問題。風邪のお薬になるっていうのと、金柑の甘煮の存在は別。
 夏になる前にお別れしなくちゃいけない、ぼく専用の金柑の甘煮。
(大事にしないと…)
 一年中、いつでも会えるってわけじゃないんだから。
 味見に一個、って気軽に食べられる感じじゃない。そんな食べ方、もったいない。
 必要な時しか食べちゃいけない、って思っちゃう。
 期間限定、夏になるまでに「さよなら」が待ってる金柑だから…。



 明くる日もハーレイと楽しく過ごして、日曜日をうんと満喫した。
 パパとママも一緒の夕食の後も、ぼくの部屋でお茶を飲んだりして。
 「またな」って帰ってゆくハーレイを見送りに外へ出た時、風がちょっぴり冷たかったけど。
 夜中に強い風が庭の木や窓を鳴らしたりして、なんだか冷え込んで来たんだけれど。
(右の手…)
 冷えてメギドの夢を見ちゃったら困るものね、って右手にサポーターを着けて眠った。医療用の薄いサポーター。ハーレイに貰ったサポーター。
(ハーレイが握ってくれてるみたいだ…)
 右手がじんわり暖かい。ハーレイの手が握ってくれる時の強さで出来てるサポーターだから。
 これで安心、って油断した、ぼく。
 少し寒い、って思ってたくせに、右手がしっかり暖かかったから安心し切って眠ってしまった。
 厚めのパジャマに着替えたりもせずに、上掛けを追加したりもせずに。



 メギドの悪夢はサポーターのお蔭で襲って来なくて、朝は御機嫌で目が覚めた、ぼく。
 顔を洗って制服に着替えて、いつものように学校に行って…。
「クシャン!」
 授業中に口から飛び出したクシャミ。
 風邪かな、と思ったんだけど。
 そういえば昨夜は寒かったかも、と思い出したんだけれど。
(風邪の予防に…)
 効くんだぞ、ってハーレイが言ってた金柑。瓶に詰まった金柑の甘煮。
 帰ったらあれを食べてみようか、風邪を引く前に。
(でも、もったいない…)
 食べたら減ってしまうもの。
 一個食べたら、一個分、減る。二つ食べたなら、二つ分。
 食べた分だけ減っちゃう金柑。
 今はいいけど、夏が来る前に「さよなら」しなくちゃいけない金柑の甘煮。
 もったいなくって、食べられやしない。たった一回くらいのクシャミで。



 こんな程度じゃ食べないんだから、って決心した、ぼく。
 学校では二度とクシャミは出なくて、やっぱり風邪ではなかったみたい。
 家に居たなら、あそこで金柑を一個出して食べてしまっていたかも、と思うと学校で良かった。風邪でもないのに大事な金柑、食べちゃっていたらもったいないもの。
(ホントに学校でクシャミで良かった…!)
 家じゃなくってホントに良かった、と思ったのに。
 学校が終わって家に帰って、着替えた途端に立て続けにクシャミ。
(なんで?)
 今のクシャミはママにも聞こえていたかもしれない。風邪なんだろうか?
(金柑…)
 そう思った時、気が付いた。制服を脱いだら、ちょっぴり寒かったんだっけ。部屋の空気が。
 出掛けてる間に部屋が冷えてて、きっとそのせいで出たクシャミ。
 急に温度が下がったよ、って身体がビックリしちゃったんだ。
(うん、風邪じゃないよ)
 そういうクシャミが出る日もあるから。いきなり冷えたら、クシャンと出るから。
 だから金柑は食べなくていい。大事な金柑、食べずに残しておく方がいい…。



 食べないんだから、って階段を下りてダイニングに行った。ママのおやつが待ってる時間。
 そしたら、ママはぼくのクシャミを聞いてたみたいで。
「ブルー、ハーレイ先生の金柑、食べたら?」
 風邪に効くのよ、予防にもなるし…。引き始めだったら良く効くわよ?
「ううん、あれは風邪で出たクシャミじゃないから」
 制服を脱いだら部屋が冷えてて、それで出たクシャミ。だから金柑、要らないよ。
「そう? 寒かったんなら、身体をしっかり温めないとね」
 ママはホットミルクを作ってくれた。
 シナモンを入れてマヌカ多めで、いわゆるセキ・レイ・シロエ風。
 ハーレイに教えて貰って初めてママに頼んだ時には、お薬っぽい味がして困ったんだけど。今はマヌカの種類が変わって、お薬の味はしなくなった。少し癖があるだけの蜂蜜入りのミルク。
 マヌカも風邪にはいいって言うから、何かと言えばママが作ってくれる。
 シロエ風のホットミルクをお供におやつを食べて。
 それっきりクシャミもすっかり忘れていたんだけれど…。



(あれ…?)
 夜中にちょっぴり、喉に違和感。
 そんな気がして目が覚めた。
(喉…?)
 変な感じにくすぐったい。喉の奥がザラザラしている感じ。
 痛みは無くって、痒いとでも言えばいいのかな?
 やたらと唾を飲み込みたくなる、喉の入口から奥にかけての妙な感じが喉をくすぐる。こういう時には大抵の場合、数時間も経てば…。
(喉をやられて風邪を引いちゃう…)
 なんとかしなくちゃ、と思った、ぼく。
(金柑…)
 風邪に効くっていう、金柑の甘煮。
 キッチンに出掛けて一粒か二粒、それだけでかなり違うと思う。
 でも、夜中。
 せっかくの金柑を夜中になんて。初めて食べるのが夜中だなんて。
(キッチンだって真っ暗なんだよ…)
 明かりを点ければ昼と変わらない明るさになるけど、窓の外。庭が真っ暗。
(もったいないよ…)
 金色の金柑を食べるんだったら、お日様の光が射してる昼間。
 そうでなければ、パパやママの居る時がいい。あったかい雰囲気が漂う部屋が。
 こんな真っ暗な夜中にキッチンで独り、頬張るのはもったいなさすぎる。
(そんなの、嫌だよ…)
 ハーレイに貰った大事な金柑、ハーレイのお父さんとお母さんからぼくへの贈り物。
 うんと大切に、特別な時に食べなくっちゃ、と思ったから。
 夜中のキッチンで食べたくないな、と思ってしまって、そのまま眠りに捕まった、ぼく。起きてウガイさえしなかった、ぼく。



 朝、目が覚めたら風邪だった。
 身体が重くて喉も痛くて、疑いようもない風邪の症状。微熱だけれども、熱まであった。とても学校に行けるわけがなくて、休んじゃうことになった、ぼく。
(ハーレイに会えなくなっちゃった…)
 学校を休んだら、ハーレイに会えない。学校でハーレイに会えない一日。
 ハーレイの仕事が早く終われば、お見舞いに寄ってくれるだろうけど…。
(どうなっちゃうの…?)
 来てくれるかどうかは分からないハーレイ。
 きっとハーレイにだって分かりやしない。仕事が終わる時間にならなきゃ、分かりやしない…。



(金柑、食べておけば良かった…)
 夜中に変だと思った時に。
 もったいないだなんて思っていないで食べれば良かった、とベッドで丸くなっていたら。
「ブルー、これも食べておきなさい」
 お薬だけより早く治りそうよ、ってママが金柑を持って来てくれた。
 小さなお皿に乗っけて、三個。
 此処に置くわね、って、ぼくの枕元に。
(……金柑……)
 ママが部屋から出て行った後で、それを眺めて悲しくなった。
 ぼくが貰った贈り物。ぼくだけの金柑の甘煮の瓶。
 ぼくじゃなくって、ママが蓋を開けて最初の金柑を出しちゃったんだ。ぼくの瓶なのに。ぼくが貰った瓶だったのに…。
(また失敗…)
 自分で瓶さえ開けられなかった。胸を弾ませて開ける予定の金柑の瓶を。
 全部、自分が悪いんだけれど。
 もったいないから、って食べなかったぼくが悪いんだけれど…。



 すっかり手遅れ、開けられてしまった金柑の瓶。
 だけど中身はぼくだけの金柑の筈だから、って気を取り直して、寝たまま一粒口に入れてみた。
 ママが刺しておいてくれた爪楊枝で運んで、口の中へ。
 甘いけれども、ほろ苦い味。夏ミカンのマーマレードの味に何処となく似てる。
(…甘いんだけど…)
 金柑の風味なんだろう。ほんの少しの、この苦味は。
 苦味が風邪に効くんだろうか、それとも甘みの方なんだろうか。
 痛い筈の喉を優しくスルリと滑り落ちてゆく、金柑の味。金柑の甘煮。
 熱っぽいのも、喉の痛みも引いてゆきそうな気がするけれど…。



(ベッドに寝たまま金柑だなんて…)
 こんな状態で初めての金柑。ハーレイに貰った大事な金柑。
 なんだか情けなくって悔しい。
 風邪でやられた喉で味わうのが、最初の金柑になっちゃったなんて。
(ハーレイのお母さんの金柑なのに…)
 ぼくのために、ってプレゼントしてくれたのに。
 ハーレイのお母さんが作った甘煮を、ハーレイのお父さんが届けてくれたと聞いたのに。
(ぼくって馬鹿だ…)
 ポロリと涙が零れてしまった。
 今日はハーレイの授業は無いけど、ハーレイはきっと知ってるだろう。
 ぼくが休んだと、風邪なんだと。ハーレイはぼくの守り役だから。



(金柑は効かなかったのか、って思っていそう…)
 ハーレイをガッカリさせてしまったかも、って涙がポロポロ零れて落ちた。
 貰ったお薬を、風邪の予防にもなる金柑の実を無駄にした、ぼく。
 大事にしなくちゃ、と思うあまりに食べるタイミングを逃した、ぼく。
 もっと早くに食べれば良かった。ベッドで初めて食べるよりかは、よっぽどマシ。大切な金柑の瓶をママに開けられてしまった結末よりもマシで、遥かにマシ。
 予防に食べるくらいで良かった。昨日のおやつの時に食べれば良かったんだ。
(そしたら瓶だって、自分で開けて…)
 蓋が固すぎて開けられなかったかもしれないけれど。
 ママに頼むことになっていたかもしれないけれども、自分で挑戦したんだったら、それでいい。力不足で開かなかっただけ、自分で開けられなかっただけ。
 ぼくがベッドで寝ている間にママが開けるのとは全然違う。目の前で開けて貰うんだから。
(ぼくのバカ…)
 欲張って失敗しちゃった、ぼく。
 金柑の甘煮を大事にし過ぎて、食べるタイミングも開けるチャンスも逃してしまった。
 だけど後悔先に立たずで、風邪の薬になる金柑の甘煮はお昼にも三個、ママが持って来た。あの瓶から出して、お皿に乗っけて、爪楊枝を刺して。
 朝とお昼とで六個も食べてしまった金柑。
 それが効いたのか、喉はマシになって来たけれど…。随分と楽になったんだけれど。
 やっぱり自分は馬鹿だと思う。
 もっと早くに食べていたなら、半分の三個で風邪を防げたかもしれないのに…。



 ぼくがしょげていたら、夕方、ハーレイが仕事の帰りに来てくれて。
 部屋に入るなり、第一声がこれだった。
「お前、やっぱり欲張ったな?」
 おふくろの金柑、食わずに残しておいたんだってな?
 お母さんに聞いたぞ、昨日にクシャミを連発したのに食わなかった、と。
 早めに食えって言っただろうが。
 朝からきちんと食ってるんなら、喉もいつもよりマシになるのが早い筈だと思うがな?
「そうだけど…。だけど金柑、六個も減ったよ…」
 朝に三個で、お昼も三個。喉は楽にはなって来たけど、金柑、六個も減っちゃった…。
「瓶にはまだまだある筈だぞ? 第一、早めに食っていたなら、もう少しだな…」
 治りも早いと言うもんだ。休むトコまで行っちまったから、もっと食わんといけないが…。
 引き始めだったら、六個も食ってりゃ酷くならずに済んだんじゃないか?
 予防にも食えと言っといたのに…。
「もったいないよ、って思ったから…」
 最初の金柑の瓶なんでしょ?
 予防に食べたら、アッと言う間に無くなりそうだよ…。
「これからが金柑のシーズンなんだと言っただろうが」
 次から次へと黄色くなるんだ、じきに全部が黄色い実になる。
 そいつを親父とおふくろが採って、おふくろが甘煮を作るってわけだ。ドッサリとな。



 いくらでも届けて貰えるから、ってハーレイは言った。
 夏ミカンのマーマレードと違って、ご近所さんには配っていない、って。
「トーストに塗ったり、ちょいと料理に使ったり、ってわけにはいかないからなあ、金柑」
 貰っちまっても持て余すだろうが、好きで食おうって人は別だが。
 しかし金柑の実はドッサリ実るし、実を採らないで放っておいたら次の年には実らなくなる。
 そんなことをしたら木が可哀相だろ、せっかく実をつけてくれたのにな?
 だから親父たちはせっせと採ってだ、おふくろが端から甘煮にしてる。
 毎年、ドカンと出来るからなあ、風邪を引いた人にはプレゼントするが…。欲しいという人にも分けているんだが、最終的には余っちまってケーキになったりしてるんだ。
 金柑の甘煮が入ったパウンドケーキとか、金柑たっぷりのタルトだとかな。
 いいか、余ればケーキやタルトになっちまうんだぞ?
 もったいないなんて考えてないで、どんどん食っとけ。
 お前が毎日食い続けたとしても、一冬分くらいは充分あるから。



 風邪を引きそうだと思ったら食え、って言われて、また涙が出た。
 ハーレイのお父さんたちが暮らす家で実った金柑の甘煮を、ぼくだけ、特別。
 ご近所さんにも配ってないのに、ぼくだけ、特別…。
「おいおい、毎年、余ってるんだぞ、食い切れないほど」
 最後はケーキやタルトに化けてしまうと言った筈だが?
「でも、特別…」
 風邪を引く前から分けて貰えるのはぼくだけなんでしょ?
 頼んでないのに、風邪なんか引いてもいない内から。
「まあな。俺の未来の嫁さんだしな?」
 親父もおふくろも、お前には元気でいて欲しいのさ。風邪を引かずに元気に、ってな。
 そのために親父が金柑を届けに来たんだ、今年一番最初の分を。
 お前のお母さんには「おふくろの手作りで風邪の薬になりますから」としか言ってないがな。
 守り役でキャプテン・ハーレイですから、これくらいは当然の務めです、ってな。
 いいな、金柑、しっかり食えよ?
 おふくろは次から次へと作るし、親父もせっせと届けにやって来る筈だからな。
 チビで弱いお前が風邪を引かないよう、引いても早めに治るようにな。



 それじゃスープを作ってくる、って出てったハーレイ。
 ぼくが寝込んだ時の特別なスープ、野菜スープのシャングリラ風を。
 「喉が大丈夫なら風邪引きスペシャルにはしなくていいな」って。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ優しいスープ。
 卵を落として、とろみもつけた風邪引きスペシャルではないらしいけれど。
(ハーレイのスープ…)
 野菜スープのシャングリラ風を乗っけたトレイの脇には、きっと。
 また金柑の甘煮が三個、しっかりくっついてくるんだろう。
 「こいつも食って早く治せよ」って。
 そうやって部屋に運ばれて来たなら、ハーレイに頼んで食べさせて貰おうか、金柑の甘煮。
 爪楊枝で刺して、「ほら」って、口に。
(うん、いいかも…)
 食べさせて貰ったら、きっと美味しい。何倍も、何百倍も美味しい。
 冬に向かって、ちょっぴり特別、金柑の甘煮。
 ほんの少しだけ苦いけれども、ぼく専用の甘い素敵な風邪薬…。




         金柑・了

※ブルーが貰った、金柑の甘煮。マーマレードと違って、ブルーだけのための贈り物。
 大事にし過ぎて逃してしまった、食べるタイミング。次からは早めに食べるべきですね。
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