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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

 ママは料理が得意なんだけれど。もちろん、お菓子も。
 毎日、いろんな美味しい料理やお菓子を作ってくれてる、ぼくのママ。
(んーと…)
 おやつを食べながら考えてみた。学校から帰って、いつものダイニングのテーブルで。
 ぼくにおやつを出してくれた時、「今日は餃子よ」って言ってたママ。ぼくの家の餃子は当然、手作り。沢山の餃子をママがせっせと包むんだ。
(たまに皮まで作るよね、ママ…)
 普段は買って来た皮だけれども、色付きの餃子を作りたい時にはママは皮から作ってる。緑色は確かホウレン草。ターメリックを入れて黄色とか、トマトジュースを入れたピンク色とか。
 今日は普通の餃子だろうけど、その餃子。
 この頃では「ハーレイ先生がいらっしゃるかもしれないから」って多めに作るのがママの定番。沢山食べるハーレイのために餃子も沢山、余った時には次の日に取っておいて別の食べ方。
 元々、ママは食事の時間に合わせて餃子を焼いたり蒸したりしてるし、余ったって全く大丈夫。餃子鍋とか、少なめだったらスープの具だとか、使い方は沢山あるんだから。



(今日はハーレイ、来るのかな?)
 分からないけど、もしハーレイが来るんだったら。
 仕事帰りに寄って、晩御飯をぼくの家で食べてくれる嬉しい日だったら。
(手作り餃子…)
 ママの自慢の手作り餃子。
 買って来た皮を使っていたって、中の具はママがきちんと作る。色々な野菜や、お肉や海老や。その日の気分で決めて、刻んで、うんと美味しい具の出来上がり。それを綺麗に皮で包んで…。
(えーっと…)
 学校の調理実習くらいしか経験していない、ぼく。
 料理のお手伝いは出来ないけれども、餃子を包むくらいだったら手伝えそう。ママに教わったら出来ると思うし、包んで餃子の形に出来たら、その餃子はぼくが作った餃子。中身はママが作ったヤツでも、餃子の形はぼくが完成させたもの。
(具だけだったら、それは餃子じゃないもんね?)
 餃子なんです、って主張するなら形が大切。皮で包んで仕上げて、餃子。
 包み方も色々と種類があるけど、ママは何種類もの包み方を知っているけれど。
(ぼくが手伝う、って言ったら基本の包み方を教えてくれるよね?)
 ごくごく普通の餃子の形。それに仕上がる包み方。
 教えて貰って具を包んだなら、「作ったんだよ」ってハーレイに出せる。
 今日の餃子はぼくが作った餃子だよ、って。ママに習って包んだんだよ、って。



 パパとママも一緒の夕食だけれど、ハーレイと二人きりってわけじゃないけど。
 それでも、其処で「ぼくが作ったよ」ってハーレイに言っても平気じゃないかと思うんだ。
 これがぼくの餃子、ってハーレイの前に出したって。
(調理実習だってあるんだもの。作ったんだよ、って自慢したって…)
 パパもママも変だとは思わないだろう。
 だってハーレイは先生なんだし、ぼくの守り役で、前はキャプテン・ハーレイなんだし…。
 小さなぼくが「餃子を作った」と得意満面なだけで、ハーレイに食べて貰いたいだけ。こんなに上手に包んだんだ、って、ぼくが作った餃子なんだ、って。
 そう考えるのが、きっと自然で当たり前。パパもママも絶対、気付きやしない。
 ぼくが恋人に食べて欲しくて餃子を包んでいたなんて。
 大好きな恋人のハーレイのために餃子を作っていたなんて。



(よし!)
 決めた、とぼくは決意した。
 もしもハーレイがやって来たなら、手料理を御馳走するチャンス。
 ぼくが作った餃子なんだよ、って教えて食べて貰える絶好のチャンス。
 ハーレイは料理が得意だけれども、ぼくの手料理も食べて欲しいし、餃子はピッタリ。
 パパやママの視線を気にせずに出せて、ハーレイに食べて貰える料理。
 包むだけだけど。
 ぼくの出番は料理じゃなくって、餃子を包むってトコしか無いけど、それで餃子が出来るから。包めば餃子の形になるから、もう充分にぼくの手作り。
 作りました、ってハーレイに言える。包んだんだよ、って自信満々で出せる。
 このチャンスを大いに生かさなくっちゃ、と決めたぼく。
 ハーレイのために餃子を作ろうと、今日の餃子はぼくが包もう、と。



 食べ終えたおやつのお皿とかをキッチンに返しに行ったら、ママは餃子の具を刻んでた。
 トントンと響く包丁の音と、ボウルに入った挽肉や野菜。
「ママ、餃子、包むの?」
 ドキドキしながら訊いてみた。
 ボウルの中身を覗いた感じじゃ、変わり餃子ではなさそうだから。凝った包み方をしそうな感じじゃないから、これならぼくでも包めそうだ、って胸が高鳴る。
 ママはぼくの心臓の音に気付きもしないで、手を止めてぼくに向かって笑顔。
「もう少ししたら包むのよ。下味が馴染むまで寝かせてあげないと」
 混ぜて直ぐよりその方がいいの、美味しくなるのよ。
「ぼくも手伝う!」
 餃子を包むの、手伝いたいよ。ママに習って包んでみたい!
「あらあら…」
 調理実習の練習なの、って尋ねられちゃったから。
 ちょっと興味、って答えておいた。
 餃子の包み方に興味を持ったと、一度経験してみたいんだ、って。



(そっか、下味…)
 馴染ませなくっちゃいけないのか、と餃子について一つ賢くなった。
 ケーキとかクッキーを寝かせているのは知っていたけれど、コロッケだって寝かせるけれど。
 餃子もそれとおんなじらしくて、寝かせる時間があるみたい。今日のレシピだと三十分。ママはまだ材料を混ぜてもいなくて、「混ぜ合わせてから三十分よ」って言われたから。
 ちょっと時間がかかるよね、って部屋に戻って本を読んでたら、ママの呼ぶ声。階段の途中まで上がって来たらしい、ママの声。
「ブルー、そろそろ包むわよ!」
「はぁーい!」
 返事して、本に栞を挟んで。
 それから急いで部屋を飛び出して、階段を下りてキッチンに行った。
 ママが待ってる、餃子を包んで綺麗な形に仕上げるための大切な舞台。
 ハーレイのための餃子がこれから生まれる舞台。



 はい、ってエプロンを渡された、ぼく。
 せっかくやる気になったんだから、ってママがニコニコ笑ってる。お料理には形も大切なのよ、って。調理実習をしているつもりでエプロンもね、って。
(本格的だよ…)
 ぼくが調理実習の時に学校に持ってくエプロン。ママのエプロンを借りたわけじゃない。
 これから料理を始めるんだ、って気分が高まる。
 餃子を包むだけの作業なんだけど、これで一気に料理する気分。ハーレイのために手作り餃子。
 ぼくの初めての手料理なんだし、うんと頑張らなくっちゃね。
「ブルーは初めてだから、最初の間は見ていなさいね」
 こうよ、って見本を見せて貰った。
 ママの手が餃子の皮を一枚、手のひらに乗っけて、その上にスプーンで具を乗せて。
 それから縁にクルリと水を塗り付けた。水が接着剤になるんだな、って分かった、ぼく。ママの指が皮の端っこを摘んで合わせて、襞を寄せながら何度も畳んでいって。
 最後まで襞を畳んで閉じたら、襞の無い方を押して形を整えた。半月みたいな餃子の形。いつも見ている餃子の形。
「どう、分かった?」
「だいたい…」
 どうするのかは分かったけれども、それって畳むの難しい?
 襞を作って畳んでいくトコ。
「そうねえ…」
 習うよりも慣れね、ってママは答えて、もう一度お手本。
 左の手のひらに皮を乗っけて、ぼくにも分かりやすいように、って少しゆっくり。
 接着剤になる水が乾いてしまうと駄目だし、あまりゆっくりとはいかなかったけれど。



 五つほど見本を見せて貰って、ぼくも挑戦することになった。
 左の手のひらに皮を一枚、見よう見真似でボウルの具材をスプーンで掬って…。
「そんなに入れたら、はみ出すわよ?」
「えっ?」
 ママが入れてたのと変わらない量を掬ったつもりだったんだけど。
 駄目なのかな、って首を傾げながら皮の縁に水を塗ってみた。
(充分いけると思うんだけど…)
 端っこを寄せてくっつけて…、って皮を合わせたらちゃんとくっつく。うん、大丈夫。
(次はこうして…)
 襞を寄せて、って一つ目の襞。我ながら上手く出来たと思う。気を良くしながら、二つ、三つと畳んだ所でママの言ってた意味に気付いた。
(なんだか中身が…)
 閉じてない方の端っこに寄って来ちゃってる。つまりは多すぎ、入れ過ぎってこと。
(だけどボウルに戻せないし…!)
 なんとかなるよ、って無理やり閉じた。もう襞は作れなくて、くっつけただけ。
 具がはみ出すっていう悲劇は回避出来たけれども、半分だけしか襞が寄ってない餃子。おまけに半月、三日月っぽい半月じゃなくて、ホントのホントに半分に欠けたお月様。
(…餃子って言うより…)
 出来損ないのヨモギ餅だろうか、ぼくが作った初めての餃子。
 ママが隣で作ってるヤツとはまるで違った、みっともない餃子。



(うんと下手くそ…)
 具材を入れ過ぎてしまった、ぼく。
 半分だけしか襞が畳めなくて、お月様の形に整えることも出来なかった餃子。
(中に入れる量、気を付けなくちゃ…)
 今度は失敗しないんだから、って慎重にスプーンで掬った中の具。皮の縁に水をくるっと塗って端っこを合わせて、襞を畳んで…。
(…もしかして、今度は足りなかった?)
 余裕がありすぎる餃子の皮。襞をたっぷりと畳めちゃう皮。
(今から中身を追加するのは…)
 どう考えても絶対に無理。スプーンで具を押し込めるだけの幅はもう無いんだから。
 仕方ないから、襞を畳んで畳んで端まで閉じて。
 襞の無い方をギュッと押してみたけど、お月様の形にはなったけれども。
(痩せっぽっちのお月様…)
 ママの餃子の隣に置いたら、ぼくの餃子は痩せっぽちだった。中身少なめ、皮だけ多め。
 またまた失敗しちゃった、ぼく。
 入れ過ぎの次は足りなさ過ぎって、どんなに才能が無いんだろう?



 ママが手早く器用に作ってゆく横で、精一杯、努力したんだけれど。
 形が揃った餃子にしようと、整ったお月様を幾つも並べていこうと頑張って包んでたんだけど。
(全然ダメだよ!)
 中身が多すぎ、少なすぎとか、襞が綺麗に畳めてないとか。
 ぼくの餃子はうんと不揃い、ぼくが作ったと一目で分かるほど酷い出来栄え。
 綺麗に揃ったママのとは違う。整列しているお月様の形の餃子とは月とスッポン。
(うーん…)
 ホントに月とスッポンだよ、って情けなくなった。
 ぼくが作った餃子の形がスッポンの形っていうんじゃなくって、同じ餃子とも思えない出来。
「ブルーは餃子は初めてだもの。これでも充分、餃子の形よ」
 パパが喜んで食べるわよ、ってママは笑顔で励ましてくれた。
 ぼくが初めて作った餃子なんだし、そう言えばパパは大喜びだ、って。
「…ホント?」
「本当よ。ブルーの初めての餃子でしょう?」
 ブルーが作ってくれたんだな、って大感激よ、パパは。
 もちろん、ママもね。



 今夜の食卓はきっと素敵よ、ってママはウインクしてくれたけれど。
 失敗しちゃった、ぼくの下手くそな餃子。
 ハーレイにはとても出せない餃子。
 エプロンを外して部屋に戻った後、ぼくは勉強机の前で祈った。
(どうかハーレイが来ませんように…)
 不揃いどころか、みっともない餃子。
 あんなのをハーレイに見られたくないし、見せたくもない。
 料理が得意だと聞いてるハーレイ。前のハーレイだって、キャプテンになる前は厨房に居た。
 とんでもない出来の餃子なんかを披露するには、ハーレイの腕が凄すぎる。
 だから来て欲しくないハーレイ。
 いつもだったら来てくれないかと窓の方ばかり気にしているけど、今日はそうじゃない。
 餃子が上手に出来ていたなら、来て欲しくってお祈りしたんだろうに。
 まるで逆様のお願い事。来て欲しい筈のハーレイが来ませんように、と必死のお祈り。
 そうしたら、チャイム。鳴って欲しくなかった、チャイムの音。
(ハーレイ、来ちゃった…!)
 ママはぼくが作った失敗餃子を隠しておいてくれるだろうか?
(…だけど…)
 今度こそは、って頑張り過ぎた、ぼく。途中で投げ出さなかった、ぼく。
 失敗作の餃子は沢山出来た。ママが作った餃子よりかは少ないけれども、かなりの数。
 あれだけの数を隠しちゃったら、餃子の数が足りなくなっちゃう。
 だって、ハーレイが来たんだもの。
 ハーレイが食べる分の餃子が、確実に必要なんだもの…。



 やっちゃった、って溜息をついても始まらない。
 ぼくが作った酷い出来の餃子は、ハーレイに披露される運命。
 変な形の餃子の理由をママは喋りはしないだろうけど、でもハーレイは気付くんだろう。料理が上手なママが失敗するわけがないと、あの餃子には何か理由があると。
(ちょっと考えれば分かることだよ…)
 誰が餃子を失敗したのか、ヘンテコな形にしちゃったのかを。
 せめて悪戯ではなかったんだと気付いて欲しい。分かって欲しい。
 ハーレイに手料理を御馳走したくて頑張ったんだ、って見抜いて欲しいと思うけれども。
(でも、下手くそ…)
 ぼくの腕前を知られたくない。
 餃子も上手に包めないなんて、ハーレイにはとても話せやしない。
 それを考えると、やっぱり気付いて欲しくない。あの餃子は誰が作ったのかってこと。



 ぼくがぐるぐるしている間に、ママがハーレイを部屋に案内して来て。
 テーブルを挟んで向かい合わせで、お茶とお菓子もあるんだけれど。二人きりの時間が始まったけれど、ぼくの頭は餃子で一杯、失敗作の餃子で一杯。
 ハーレイが話し掛けてくれても、うわの空で返事をしちゃったみたいで。
「変だぞ、お前。どうかしたのか?」
 何処か具合でも悪いのか、って鳶色の瞳で覗き込まれて。
「……餃子……」
「はあ?」
 怪訝そうな顔をしたハーレイだったけど、「ああ!」と思い付いたように手を打った。
「そうか、餃子か…。前の俺たちの頃には無かったな、餃子」
「そういえば…!」
 無かったんだよ、シャングリラに餃子。
 今じゃすっかり普通だけれども、あの頃に餃子は見なかったよ…。



 ぼくの頭から失敗作の餃子は消えてしまって、二人で餃子の話になった。
 前のぼくたちが生きてた頃には無かった餃子。消されてしまっていた食文化。
 もしも餃子があったなら…、って色々と。
 ハーレイは「餃子があったら、酒のつまみになったんだがなあ…」なんて言い出して。
「あの手の料理は作らなかったな、前の俺はな」
「餃子自体が無かったんだもの、作れるわけがないよ」
 レシピを見たって、どんな料理かまるで見当も付かないんだもの。
 ちょっと試しに作ろうか、って試作するには手間もかかるし…。皮からだしね。
「うむ。パイ皮で包むような洒落た料理も作ってないしな」
 パイ皮だったら、それ自体の味は充分に分かっていたんだが…。
 そいつを作ってわざわざ包んで食わせなくても、普通に料理をしておけばいいと思っていたな。
 シャングリラは船で、レストランとは違うんだしな?
 凝った料理を作った所で無駄と言うべきか、食えれば充分と言うべきか…。
「今はそういう料理も作るの、ハーレイ?」
「たまにな。もっとも、食うのが俺一人だしな、普段はシチューに被せるくらいか…」
 ポットパイだな、パイ皮の帽子を被ったシチュー。寒い季節はあれが美味いんだ。これから寒くなって来たなら、シチューにはパイの帽子だな。
 だが、大勢で食うんだったら。魚のパイ包みなんかはおふくろの得意料理だぞ。
「ハーレイのお父さんが釣った魚で?」
「そういうことだな。スズキとかタイに魚の形に作ったパイ皮を被せてな」
 大皿にドカンと載せるようなサイズのパイ包み。
 その内にお前にも御馳走したがると思うぞ、親父とおふくろ。
 魚を釣るのが親父だからなあ、切り分ける役目は親父なんだな、お前の皿にも盛ってくれるさ。
 沢山食べろと、こいつは実に美味いんだから、と。



 パイ皮はあったけど、餃子の皮なんてまるで無かったシャングリラ。
 白い鯨が出来上がった後にはパイ皮を使った料理もあった。ごく簡単な料理だけれど。
 だけど無かった、餃子の皮。餃子自体が消されてしまっていた世界。
 餃子の皮があったらあったで戦争だ、ってハーレイが笑う。
 船の仲間たちの胃袋を満たすだけの数の餃子を包むなんてとても大変だぞ、って。
「うん、分かる。なかなか綺麗に揃わないものね」
 餃子の形。何人もで分けて包むんだったら、同じ形に揃うようになるまでが大変そうだよ。
「まったくだ。どうしても癖が出るだろうしな、最初の間は」
「そうでしょ、具を包む量だって人それぞれだし」
「うむ。このスプーンで、って決めておいても掬えば狂いが出てくるな」
 それに襞もだ、寄せ方に個人差というヤツがな。
「最後に形を整える時に、なんとか揃えばいいんだけどね…」
「なかなか上手くは揃わんだろうな、包んだヤツらの数だけ個性が出そうだが…」
 って、お前、餃子を作るのか?
 素人にしては詳しすぎだぞ、いつも餃子を包んでたのか?
「あっ…!」
 い、いつもってわけじゃないんだけれど…。
 いつもだったら良かったんだけど…!



 自分で墓穴を掘っちゃった、ぼく。
 餃子の包み方をウッカリ喋ってしまって、しっかり墓穴を掘った、ぼく。
 仕方ないから白状した。
 ママが包むのを手伝いに行ったと、今日の夕食は餃子なんだと。
「俺に手料理?」
 それで餃子を包んでいたのか、今日のお前は。
「うん。でも、失敗…」
 ママのみたいに揃わなくって、入れ過ぎたのとか、足りないのだとか。
 襞も形もうんと不揃いで、ママのとは月とスッポンなんだよ…。
「そいつは是非とも、お前のを御馳走にならんとな?」
「えっ?」
 下手くそなんだよ、これが餃子かって笑われそうなくらいに変な形だよ、ぼくの餃子は。
「しかしだ。初めての手料理という所までは行かんが、お前が包んでくれたんだろう?」
 俺のためにと、俺に御馳走しようと餃子を包んでいたんだろう?
「そうだけど…」
「だったら、食わない手は無いな。お前が包んでくれた餃子だ」
 形が崩れた餃子を選んで食ったら、それが当たりというわけだ。そればかり食えばいいんだな?
「パパとママが絶対、怪しむよ!」
 どうして崩れた餃子なのか、って。なんでぼくが作った餃子を選んで食べてるのか、って…。
「問題無いさ、教師の仕事の内だしな。生徒が作った料理を食うのは」
「そうなの?」
 ぼくは先生に料理を作ったことなんて無いよ、本当なの?
「本当だとも。学校によっては担任に試食を持ってくるんだ、調理実習の」
 焦げていようが、砂糖と塩とを間違えていようが、食わねばならん。教師の仕事だ。
「へえ…!」
 知らなかったよ、ハーレイ、そういう学校で試食してたんだ?
 ぼくの餃子は形はとっても変だけれども、味はママのだから美味しい筈だよ。
 晩御飯にお料理するのもママだし、焦げたりなんかはしないよ、絶対。



 ぼくが作った下手くそな餃子。失敗作のみっともない餃子。
 ハーレイは食べてくれると言うから嬉しくなった。
 そして…。
 「晩御飯の支度が出来たわよ」ってママに呼ばれて、ハーレイと二人で階段を下りて。
 ダイニングに入ってテーブルに着いたら、ハーレイの席に綺麗に揃った餃子のお皿。
 ママが作った餃子がハーレイのお皿や、パパやママやぼくのお皿に整列していて、おかわり用の餃子が盛られた大皿の一つに、ぼくのとんでもない餃子。月とスッポンみたいな餃子。
 ハーレイはぼくの大好きな笑みを浮かべて、ぼくの餃子を眺めて言った。
「あちらを御馳走になりますよ」
 せっかく盛り付けて頂いたのに、取り替えて頂くことになりますが…。申し訳ありません。
「ハーレイ先生?」
 でも、あれは…、ってママが困ったような顔になったら。
「ブルー君から聞きましたので」
 餃子作りに挑戦してみたと、難しくて上手く包めなかったと。
 あの餃子がブルー君の作った分でしょう?
 話を聞いてしまったからには頂きませんとね、これでも一応、教師ですから。



 調理実習の試食も仕事の内です、って笑顔で宣言してくれたハーレイ。
 パパとママが「大変そうなお仕事ですね」って可笑しそうに返して、ぼくが初めて作った餃子は無事にハーレイの所に行った。
 ママが持って来た新しいお皿に盛り付けられて、ママの餃子と取り替えられて。
 みっともない出来の餃子を頬張ったハーレイの顔が緩んで、ぼくたちをぐるりと見回しながら。
「美味しいですね」
 こちらで御馳走になる餃子はいつも美味しいのですが、今日の餃子も美味しいですよ。
「まあ、形は味に関係ないですからな」
 誰が包もうが、味は変わりはしませんよ。
 そこが救いと言うべきですねえ、今日の所は。
 ハーレイ先生、餃子で命拾いをなさいましたな、ってパパが本当のことを言ったけど。
 餃子が美味しいのはママのお蔭で、ぼくの下手くそな包み方は影響していない、って真実を暴露してくれたけれど、ハーレイは「そうですねえ…」って頷いて。
「形が綺麗に揃っていたなら、見た目の美味しさが増しそうですね」
 それに、この後、鍋やスープに入れたかったら。
 もっと大きさを揃えて作ってやらないと駄目ですねえ…。火の通りが違ってきますから。



「ハーレイ先生、詳しくてらっしゃいますわね」
 餃子と、餃子を使ったお料理。餃子もお作りになりますの?
 お一人分でも、ってママが訊いたら。
「ええ、気が向いたら作りますよ」
 この身体ですしね、一人分でも量としてはけっこう沢山作るんですよ。
 夕食に食べて、夜食にも食べて。
 次の日になったらスープに入れたり、鍋にしてみたり…。二日間ほど楽しめますから。
「そうですの…。でしたら、変わり餃子なんかも?」
「やりますよ。たまには凝りたくなりますからね」
 気ままな一人暮らしだからこそ、凝った料理もいいもんです。もちろん、餃子も。
 具にも凝りますし、皮の色とか包み方にも凝りますねえ…。
 皮の素材も変えるんですよ、なんてハーレイが言ったら、ママがぼくを見て。
「ブルー、いつかハーレイ先生に教えて頂く?」
「えっ?」
「餃子よ、餃子の作り方」
 ママに教わるのもいいと思うけど、ハーレイ先生に教えて頂くのも良さそうよ?
 先生、餃子にお詳しそうよ。
 皮の素材まで変えて作るって、男の人では珍しい方じゃないかしら?



 教わったら、ってママに訊かれて、ドキンとしちゃった、ぼくだけれども。
 もちろんハーレイに習いたくない筈なんか全く無いんだけれど。
「餃子の作り方ですか…」
 古典の範疇外ですね。流石に私の授業で餃子の作り方までは…。
 それに餃子を扱った古典の作品などは授業では全く出て来ませんし。
「ほほう…。餃子の出て来る作品なんかもありますかな?」
 私は古典には疎いんですが、名作の中には餃子が出て来る作品なども?
「いえ、この地域では…。日本という国では餃子は単なる食べ物だったようですねえ…」
 もっとも、日本に影響を与えた隣の国。
 中国の方では、餃子は縁起のいい食べ物だったという話がありますから。
 お正月には餃子を食べたというほどですから、あちらの作品なら餃子の出番もありそうです。
「なるほど…。そうなってくると、餃子作りは課外授業になりますか…」
 そういった餃子の背景も含めて、ブルーに教えて頂く、と。
 悪くないですなあ、餃子作りの課外授業も。



 パパとハーレイが盛り上がってるな、って眺めていたら。
 ママの餃子を頬張りながら見てたら、ハーレイがぼくに視線を向けて。
「いつか作るか、課外授業で?」
 俺と一緒に作ってみるか、餃子?
「いいの?」
「気が向いたらな」
 教えてやるさ、俺の知ってるいろんな餃子。
 こういう普通の餃子から始めて、変わり餃子も色々とな。
 もっとも、お前が俺の授業について来られたら、という話だが…。
 不揃いな餃子を作ってる内は、変わり餃子なんぞは逆立ちしたって無理だからな。



 やってみるか、って笑ったハーレイ。
 ママが「キッチンはいつでもお使い下さいね」って言っているけど。
 パパも「ハーレイ先生にしごいて貰え」ってママと二人で頷き合ったりしているけれど。
 ハーレイの顔に書いてある。
 ぼくだけに通じる、魔法の微笑み。ハーレイの顔に浮かんでる。
 「いつかお前と結婚したらな」って。
 そう、ハーレイと結婚したなら、教えて貰って餃子を作る。
 普通の餃子も、ぼくが普通ので腕を上げたら、ハーレイお得意の変わり餃子も。
(ハーレイが教えてくれるんだよ、餃子)
 今日は失敗しちゃったけれども、楽しみな餃子。いつかハーレイと作る予定の餃子。
 うんと沢山作って、並べて。
 焼いたり、蒸したり、スープやお鍋に入れたりするんだ、ハーレイと二人で暮らす家で…。




           餃子・了

※ブルーが頑張って作った餃子。ハーレイに食べて欲しくて、懸命に包んでみたものの…。
 失敗作の餃子の方を、選んで食べてくれたハーレイ。いつかは二人で作れますよね。
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 ぽつり。
 パジャマ姿で寛いでいたブルーの耳に届いた音。何かが屋根に当たって、ぽつりと。
 ベッドの端っこに腰掛けたままで、窓の方へと視線を向けた。
 夜だからカーテンが閉まっているけれど。
 今のブルーには厚いカーテンに閉ざされた向こうを透視する力は無いのだけれど。
(雨…?)
 今のは雨の音だったろうか、と考えた所へ、また、あの音。
 ぽつり。
 今度ははっきりと耳が捉えた。
 雨の音だと、雨粒が屋根を叩いたのだと。



(降って来ちゃった…)
 そんな予報では無かったのに。
 この週末は晴れの予報で、絶好の行楽日和だと言っていたのに。
(外れちゃったよ…)
 前の生で暮らしたシャングリラの中では、雨などは降らなかったから。四季の変化も自分たちで全て調節したから、こういった事態は一度も無かった。
 けれども、今のブルーが暮らす地球。
 青く蘇った地球の上では天気も気温も自然の意のまま、地球に任せて手出しはしない。人工降雨などの技術はもちろんあったが、それはテラフォーミングが必要な他の星でのこと。
 地球では天候への干渉は禁止。
 ゆえに気まぐれな地球が雨だと思ってしまえば、どんなに願っても雨は降るもの。天気予報とて万能ではなく、こうした時には地球の偉大さと人の小ささを思い知らされることになる。
 本来、タイプ・ブルーともなれば、雲さえも散らすことが可能だけれど。
 雨雲を散らし、雨を止めるなど簡単なことではあったけれども。
 それをしようという者は無い。
 人は人らしく、それが今の世の中の約束事。
 地球でなくとも、人は自然に決して干渉してはならない。自分一人の意志では、決して。
 それこそ天変地異でも起こらない限り、タイプ・ブルーの力を自然に向けてはならない。自然は神が創り上げたもの。神の恵みで息づくもの。
 たとえテラフォーミングされた星であっても、自然は神の領域だから、と。



(雨だなんて…)
 ベッドから腰を上げ、窓辺に寄ってカーテンの向こうを覗いてみた。二階から見える黒々とした庭にもう色は無くて、夜の闇が支配する世界。
 其処に灯った庭園灯が描いた淡い光の輪の中、降り注ぎ始めた無数の雨粒。
 幾筋もの細い糸が光を横切り、下へ下へと落ちてゆく。後から後から、暗い夜空から。



(明日は庭の椅子、座れないかも…)
 庭で一番大きな木の下、据えられた白いテーブルと椅子。
 最初はハーレイが持って来てくれたキャンプ用のテーブルと椅子だった。初夏の日射しが明るい庭で、木漏れ日の下でデートをした。初めてのハーレイとのデート。
 それが気に入って、庭に置かれたテーブルと椅子とが大好きになって。
 いつもハーレイに持って来て貰うのは悪いから、と父が買ってくれた白いテーブルと椅子。今も庭園灯の光を受けてほのかな白が見えている。此処に在ると、此処に置かれていると。
(ハーレイと座りたかったのに…)
 午後のお茶は外のテーブルにするから、と夕食の時に母に頼んだ。外で食べるのが似合う菓子がいいと、飲み物もそれに合わせて欲しいと。
 「いいわよ」と笑顔で応えてくれた母。何を作ってくれるのだろう、と心が躍った。
 それなのに、雨。後から後から降ってくる雨。
 もしも朝までに止んでくれれば、午後には庭の木々もすっかり乾いて外でティータイムが出来るだろうと思うけれども。
 この季節の雨は、急な冷え込みを連れて来てしまうこともあるから。
 そうならないよう、早い間に止んでしまって欲しい雨。庭を濡らすだけで過ぎて欲しい雨。



(止んで欲しいな…)
 出来るだけ早く止みますように、と暗い空を見上げて願ってしまう。祈ってしまう。
 降り注ぐ銀の糸の群れが止まらないかと、ぴたりと止んでくれないかと。
(てるてる坊主…)
 幼かった頃に何度も作った。幼稚園で教わった、紙の人形。紙だけれども、頼もしい神様。雨を止ませてくれる神様。
 ティッシュペーパーを丸めて、上から一枚、ふわりと被せて糸で縛って、目鼻を描いて。
 そうして吊るせば晴れになるのだと習って作った。作って吊るした。
 遠足の前や、両親とハイキングなどに出掛ける時や。
 効いたかどうかは忘れたけれども、何度も作って吊るしたのだし、きっと効いたに違いない。
 ユーモラスな形のてるてる坊主。
 前の自分が生きた頃には、何処にも無かった紙の神様。晴れた空を運んで来てくれる神様。



(ハーレイ、作ってくれているかな?)
 予報に無かった急な雨だし、明日は二人で会う日なのだし、てるてる坊主。
 庭のテーブルと椅子が使えるよう、てるてる坊主を作ってくれているといいのだけれど。
(てるてる坊主も作りそうだもんね?)
 SD体制よりも遥かな昔に、この地域に在った小さな島国。日本と呼ばれていた島国。
 其処の文化を復活させては楽しんでいるのが、今のブルーたちが住む地域。
 一時はすっかり失われていた日本の文化や、古い習慣。それが好きな家で育ったハーレイ。古い道具や習慣を愛する両親に育てられた、今のハーレイ。
 隣町にあるハーレイが育った家のシンボルとも言える大きな夏ミカンの木。マーマレードになる実を採る時、梢に一つだけ残すと聞いた。木守りという遠い昔の習慣。翌年の豊作を祈って一個。
(木守りの実だってあるんだものね…)
 てるてる坊主も幼い頃から作っていたに違いない。
 幼かった頃のハーレイならばきっと、出掛けるとなったら前の夜にはてるてる坊主。釣り好きの父と釣りにゆく時も、海や川へ泳ぎに出掛ける時も。



(てるてる坊主かあ…)
 作ろうかな、と思うけれども、母に見られたら恥ずかしい。
 作って、吊るして、明日の朝は綺麗に晴れていたなら。てるてる坊主に御礼を言うのは忘れずにいそうな自分だけれども、嬉しさのあまり吊るしたままにしておきそうで。
 頑張ってくれた神様を外して捨てるだなんて、と窓辺に残したままにしそうで。
 そんな部屋へ母がハーレイを案内して来たら。
 窓辺のテーブルにお茶とお菓子を運んで来たなら、てるてる坊主に気が付くだろう。
 まあるい頭に白い衣装のてるてる坊主に、晴れを運んで来る神様に。
 「明日の午後のお茶は外にしたいよ」と母に頼んだから、もちろん意味にも気付かれる。きっと母は笑って言うだろう。これを吊るすほどハーレイ先生と庭に出たいのと、庭のテーブルで先生とお茶にしたかったの、と。
(ブルーはハーレイ先生のことが大好きだものね、って言うんだよ、ママは)
 それは本当のことだけど。
 ハーレイが好きなことは本当だけれど、「好き」の意味がまるで違うから。
 母が思っている「好き」とは違って、恋人としての「好き」だから。
 てるてる坊主を吊るしていたのが見付かったならば、恥ずかしい。恋を知られてしまったような気がして、きっと耳まで赤くなる。
(子供っぽいことをしたのがバレたからだな、ってママは思うんだろうけど…)
 そう考えるのが普通だけれども、本当は恋。
 子供っぽいどころか、十四歳という年を考えれば早熟に過ぎる今の自分の恋心。
 知られたらとても恥ずかしいから、てるてる坊主は作れない。吊るしたくても作れない。



(他におまじない…)
 雨が止むようなおまじないは無いか、と考えたけれど、何も浮かんで来なかった。
 残念なことに、他には知らない。てるてる坊主の他には知らない。
 仕方がないから、降る雨に向かって小さな声で歌ってみた。
「てるてる坊主、てる坊主…。あした天気にしておくれ…」
 幼稚園で教わって歌っていた歌。てるてる坊主を吊るした時には歌った歌。
(ハーレイが作ってくれていたなら、この歌がきっと効く筈なんだよ)
 作ってくれているかもしれない、てるてる坊主。まあるい頭のてるてる坊主。
 歌に晴れへの願いを託して、歌い終えてから窓を離れた。
 明日までに雨が止みますようにと、明日はいいお天気になりますようにと。



 部屋の明かりを消し、ベッドにもぐって丸くなったら。
 てるてる坊主の歌を歌ったのに、雨だれの音。降る雨が軒を叩く音。
(まだ降ってる…)
 止まないんだ、と思った所で遠い記憶が頭を掠めた。
(雨の音…?)
 シャングリラでは聞こえて来なかった。こんな音は、雨が滴り、地面を、軒を打つ音は。
 雲海の中に居たシャングリラ。
 雨も嵐もあったけれども、それらの音は届かなかった。
 巨大な白い鯨の船内は常に快適に保たれ、船を動かすエンジンの音すら聞こえては来ない。人の耳に邪魔だと感じられる音、騒音の類を完璧に遮断していた防音壁。
 それは素晴らしかったけれども、ゆえに雨音も聞こえなかった。どんなに雨が叩き付けようとも雨粒と共に音も弾かれ、船の中には届かない。船体を打つ雨音は、けして。



(ぼくは雨の音、知っていたけど…)
 アルテメシアに降り立った時に降っていたなら、その雨の音を聞いていた。ただし、シールドに落ちる雨。身体の周りに張ったシールドを叩く雨。
 主にその音を聞いていたから、今の雨音とは少し違った。ただ降り注ぐ雨の音とは違った。
 それでも自分は聞いていたけれど、ハーレイたちはどうだっただろう?
 アルテメシアへの潜入班なら雨にも何度も出会っただろうが、ハーレイたちは…?



(ナスカの雨…)
 前の自分は一度も降りずに終わってしまった赤い星。
 あの星には雨が降ったという。トォニィが生まれた時にも降り始めた雨。だからジョミーがまだ名の無かったナキネズミにレインと名前を付けた。恵みの雨のレイン、と。
(ハーレイは、確か…)
 ナスカで虹を探したと聞いた。
 虹の橋のたもとには宝物が埋まっていると言うから、宝物を求めて雨上がりの虹を。雨が止んで空に虹が懸かれば、その虹の橋のたもとを目指して歩いていたと。
(ハーレイが探した宝物って…)
 それは金銀財宝ではなく、眠ったままだった前の自分の魂。ブルーの魂。
 見付け出したならば目覚めてくれるかと、目覚めるのではないかと虹を探した。其処にブルーの魂が埋まっていないかと、虹の橋のたもとに宝物のように埋まっていはしないかと。



 雨が降る度、虹の懸かりそうな雨が降る度、ナスカに降りたと語ったハーレイ。
 キャプテンだけに、そういった条件の日には必ず、とはいかなかっただろうけれど。降りようと思っても降りられなかった日も少なくなかっただろうけれども。
 そのハーレイが降りたナスカに、優しい雨音はあっただろうか?
 ただ軒を打つだけの、止んだ後には晴れ上がった空を連れて来るだけの雨音は。
 地面を、軒をただ叩くだけの、しとしとと降り注ぐ雨の雫は。



(きっと無かった…)
 そんな気がする。
 赤いナスカに根を下ろしたとはいえ、地球は遠くて。
 降りしきる雨の音だけを聞いて、これが止んだら晴れ上がるのだと何もしないで過ごす余裕など無かったと思う。
 雨であったなら、上がった後を見越しての作業。あるいは雨の日ならではの作業。
 夜の雨でも、きっと翌日が気にかかったろう。何をすべきかと、明日の作業はどうなるのかと。
 それにナスカに在った居住地。人類が放棄した基地に手を加えたもの。
 前の自分は肉眼で見てはいないけれども、あんな建物では軒を打つ優しい雨音はしない。地面を叩く雨の雫も、その音が中まで届いたかどうか…。
(明日、ハーレイに…)
 訊いてみよう、とブルーは思った。
 ナスカに雨の音はあったか、今のような雨音はしていたのかと。
 メモに書くほどの大事なことでもないから、覚えていれば。
 このまま眠って、明日の朝まで覚えていれば…、と。



 翌朝、雨は止んでいたけれど。
 いつの間に雨雲が去っていたのか、雨が残していった雫で庭がきらきらと煌めいていたけれど。
 雨上がりの澄んだ景色を窓から見ながら、ふと思い出してブルーは嬉しくなった。
(この景色だってナスカには無かったよ、きっと)
 雨の後には細かい塵が落ちてしまって、こんな風に大気が澄むのだったか。
 ナスカでもそれは同じだったろうが、太陽に煌めく木々が無かった。庭など在りはしなかった。もちろん木の下に据えたテーブルも、それとセットの白い椅子たちも。
(雨の音が無いだけじゃなかったよ、ナスカ…)
 ハーレイに訊いてみなければ。
 ナスカに優しい雨音はあったか、ハーレイはそれを聞いていたのか、と。



 朝食を食べに階下へと降りて、母に午後の外でのお茶のためのお菓子を改めて頼んで。
 「晴れて良かったわね」と微笑まれて「うんっ!」と笑顔で応えた。
 父は「放っておいても乾くんだろうが、拭いておくかな」と、庭のテーブルと椅子を乾いた布で拭くと約束してくれた。
 木の枝から滴って落ちる雫が無くなったならば、テーブルと椅子に付いた水滴を拭っておくと。外でのお茶の時間に支障が無いよう、太陽の下にも暫く出して干しておこうと。
「ありがとう、パパ!」
「なあに、大した手間ではないからな」
 ハーレイ先生の方がよっぽど手間をかけて下さっていたよ、木の下のテーブルと椅子は。
 今のを買うまで、いつも持って来て下さっていたし…。
 畳んで車に積み込むだけでもひと手間かかるぞ、それに比べれば拭くくらいはな?
 干すのにしたって、ハーレイ先生が運んで下さっていた距離を思えばちょっぴりだ。
 パパは庭の真ん中まで運ぶだけだが、ハーレイ先生はガレージから運んで下さっていたんだぞ。
 お前があれが大好きだから、って何度も何度も、家から持って来て下さってな。



 本当に優しい先生だよ、という父の言葉がブルーの胸の中でくるくると回る。
 その通りなのだと、ハーレイは優しい恋人なのだと。
 部屋に戻っても胸は弾んで、ついつい顔が綻んでしまう。それを抑えて掃除を済ませて、窓辺の椅子から見下ろしていれば。
(あっ、ハーレイ…!)
 今日はもう、雨は降りそうにない予報だから。
 ハーレイが颯爽と道を歩いてやって来た。軽く手を上げ、ブルーに笑顔を向けながら。



 そのハーレイが部屋に来た後、母が置いて行ったお茶とお菓子が乗ったテーブルを挟み、向かい合わせで訊いてみる。
「ハーレイ、昨日、雨の音を聞いた?」
「ああ。急に降り出したし、予報に無かった雨だしな…」
 止まないかもな、と心配してたが、すっかり止んだな。いい天気だ、今日は。
「てるてる坊主、作ってくれた?」
 雨が止むように吊るしてくれてた、てるてる坊主を?
「なんで分かった?」
 ハーレイは鳶色の瞳を丸くした。
 自分がてるてる坊主を吊るしていたことが何故分かったのか、と。
「作ってくれたの?」
 ハーレイ、ホントに作ってくれたの、てるてる坊主。晴れますように、って、てるてる坊主…。
「ああ。お前、庭の椅子、逃したくないだろうと思ってな」
 寒くなったら、あそこでのんびりお茶ってわけにもいかないし…。貴重なチャンスだ、無駄には出来ん。いくらお前が冬でもあそこでお茶だと言っても、出来るかどうかは謎だからな。



「良かった…!」
 ぼく、ハーレイが作ってくれているかも、って思ったから…。
 作ってくれているならいいな、って歌ったんだよ、てるてる坊主にお願いする歌。
 あした天気にしておくれ、って。
「俺は歌までは歌っていないな。作って吊るしておいただけだな、てるてる坊主を」
「そうなの?」
 ハーレイは歌を歌わなかったの、てるてる坊主を作ったのに…?
「この年ではなあ…。てるてる坊主の歌を歌っちゃ可笑しいだろうが」
 それにだ、歌なんていうのは俺の柄ではないからな。
「ハーレイの歌、いいと思うけど…。うんと素敵だと思うんだけれど」
 前にゆりかごの歌を聞かせてくれたよ、前のハーレイがぼくに歌ってくれていた歌。
 今のぼくにも聞かせてよ、って頼んだ時の歌、とっても素敵な歌だったけれど…。
「あれは例外というヤツだ!」
 俺は歌なぞ、そうそう歌わん。まして可愛い歌ともなればな、俺には全く似合わんだろうが。
 しかし、お前は似合いそうだな、てるてる坊主の歌なんかもな。
 今日はお前との合わせ技で綺麗に晴れたってわけか、俺が作ったてるてる坊主と、お前の歌と。
「そうみたいだね」
 すっかりお天気、雨が降ってたのが嘘みたい。
 庭が雫で濡れてなかったら、夢でも見たのかと思いそうだよ。雨が降る夢。



 それでね…、とブルーはハーレイに尋ねた。
 昨夜から気になっていたことを。今朝になっても、忘れずに覚えていたことを。
「ハーレイ、ナスカで雨の音を聞いた?」
「雨の音?」
「うん。地面に降る音は聞いただろうけど、屋根や軒に落ちる雨の音」
 雨が降ってるな、って感じるだけの優しい音だよ、昨日の夜にハーレイだって聞いたでしょ?
 最初にポツッて雨の粒が落ちて、それから幾つも、幾つもに増えて。
 軒を打ったり、滴って地面で跳ね返ってみたり、そういう音。
 流れるような音もするでしょ、屋根から伝い落ちていく時には…?
「そいつは無いな…」
 前の俺はそれは聞いていないな、ナスカでも、地球へ向かってゆく途中の星でも。
 そんな余裕は無かったと言うか、一軒の家に住んでいなかったと言うべきか…。
 ナスカの居住地とか、落とした星の地上だとかで。
 雨には遭ったが、ああいった音を耳にした覚えは一度も無いな。
「やっぱり無い?」
「うむ。言われてみればそいつは無かった」
 雨なんだな、と眺めてただけで、音を聞くより仕事だな。まずはそいつが第一だ。
 ついでに、屋根とか軒だとか。
 雨の音を優しく伝えてくれるような類のものとは、まるで縁の無い生活だしな?
 ナスカじゃああいう居住地だったし、落とした星でも入る建物は立派なビルばかりでな…。



「じゃあ、今ならではの音なんだね」
 軒とか屋根を叩く雨の音。降って来たな、って直ぐに分かるのも屋根と軒のお蔭。
「そのようだな」
 全く意識はしていなかったが、前の俺とは縁が無かった音なんだな、あれは。
「だったら平和な音ってことだね、雨の音って。嫌っちゃ駄目だね…」
 雨だなんて、って怒っていたら駄目だね、あれは平和の音なんだから。
「そうだな、罰が当たりそうだな」
 降りやがって、と文句を言っていたなら。
 シャングリラじゃ雨音は全く聞こえなかったし、ナスカでもあそこまで優しい音はなあ…。
「前のぼくはアルテメシアでシャングリラの外に出ていたけれども…」
 雨の日に外へ出たこともあるけど、あんな風に優しい音がするのは知らないよ。
 シールドに当たる音とか、そういうのだけ。
 屋根とか軒を叩いてる音は、前のぼくは一度も聞かなかったよ。
 素敵な音だね、雨の音って。
 前のぼくたちが知らなかった音が聞こえてくる日なんだね、雨の降る日は。



「音もそうだが…。この景色も前は無かったんだな、雨上がりのな」
 まだあちこちで光っているよな、雨の雫が。
 澄んだ空気と、光る雫と。うんと爽やかな景色ってヤツだ、普段は見られん。
「あっ、ハーレイも気が付いた?」
 雨上がりは景色がとても綺麗だって、庭がきらきら光ってる、って。
「ああ。ナスカじゃ外にはこうした緑はロクに無かったしな」
 赤い土が剥き出しの地面が殆どだったし、木なんかは影も形もな…。
「少しだけだよね、ナスカで何も覆いをかけずに育てられたもの」
 専用の建物を使わなくっても、地面で直接育てられた緑。
「雑草以外は強い植物だけだったなあ…」
 一番最初に根付いてた豆は、けっこう丈夫に広がったんだが。
 ユウイが育てたアレくらいだったか、場所を選ばずに植えても育った植物はなあ…。



「地球に来たから楽しめるんだね、雨の音とか」
 それに雨上がりの景色とか。雨の音も、雨が止んだ後に見られる綺麗な景色も。
「他の星でも雨は降るがな」
 そういった星で屋根と軒とがある家に住んでりゃ、雨音は充分に聞けるわけだが。
 俺やお前の家みたいな家を建てて住んでさえいれば、いくらでも雨音は楽しめるがな…?
「でも、地球の雨がきっと一番優しい音がするんだよ」
 水の星だもの、地球は。
 人が住める星は沢山あるけど、一番最初に人が生まれた星なんだもの。
 いくら一度は滅びた星でも、やっぱり地球。
 地球に降る雨が一番優しい音を立てるよ、広い宇宙の中で一番。
「そうかもしれんな、人間の耳には一番かもな」
 この星から人が生まれたんだし、一番馴染んだ音かもしれん。
 俺たちにそういう自覚は無くても、俺たちの身体。それに一番合うかもしれんな、地球の雨音。



「そんなに素敵な音がするなら、てるてる坊主で止めちゃ駄目かな?」
 雨が降るのを止めたら駄目かな、てるてる坊主で?
「それはいいだろ、てるてる坊主は昔からあるものだしな」
 人間の都合で雨を降らせたり、晴れにしてみたり。
 そういった技術が無かった時代に生まれた神様がてるてる坊主だ、前の俺たちが生きていた頃は無かったが…。SD体制に消されちまって無かったんだが、由緒正しい神様だろうが。
 そいつを使って雨が止むなら、それは自然なことってわけだ。
 てるてる坊主で止む程度の雨さ、神様が雨を止めて下さる程度のな。
「じゃあ、この次に雨が降っても吊るしてくれる?」
 てるてる坊主を作って吊るしてくれるの、ハーレイ…?
「それでお前の喜ぶ顔が見られるんならな」
 晴れて良かったと、雨じゃないんだと。
 雨が止んで良かったと笑顔になるなら、幾つでも作るさ、てるてる坊主を。



「ぼくも作りたかったんだけど…」
 てるてる坊主、作ろうかな、って思ったんだけど…。
「ん?」
 お前、歌だけは歌ったんだろう?
 歌を歌うなら、てるてる坊主も作って吊るせば良かったのに。
「…ママに見られちゃったら、恥ずかしいしね…」
 ママは子供っぽいことをしてるんだな、って思うだけだろうけど。
 でも、絶対に言われちゃうんだ、「ハーレイ先生と庭に出たかったのね」って。
 昨日からお菓子を頼んであるから、外で食べるのにぴったりのお菓子。
「なるほどなあ…。それを言われたら、お前はすっかり真っ赤になる、と」
「うん、多分…」
 ママが思ってるように子供っぽいことをしたからじゃなくて。
 ハーレイと庭でデートをしたくて、雨を止めたくて作ったてるてる坊主だから…。
 ママの口から「ハーレイ先生」って言葉が飛び出した途端に真っ赤になっちゃう。ママの口癖、こうなんだもの。
 「ブルーは本当にハーレイ先生のことが大好きなのね」って。
 好きの意味が全然違うんだけどな、ママが思っているのとは…。ぼくはハーレイと恋人同士で、庭で一緒にお菓子を食べるのはデートの時間のつもりなんだけどな…。



「ふうむ…。どうする、俺と結婚した後」
 明日は出掛けるぞ、っていう時に雨になったら。
 昨日みたいに予報が外れて急に降り出したら、お前はいったいどうするんだ?
「てるてる坊主を吊るすに決まっているじゃない!」
 ハーレイと二人で作って吊るすよ、てるてる坊主を。
 二人で一個か、一個ずつかは分からないけど、てるてる坊主。ちゃんと吊るしてお願いするよ。あした天気にしておくれ、って歌も歌うよ、晴れますように、って。
「そう来たか…。俺と一緒に家でゆっくりっていう選択肢は無いのか、お前の中には」
 ハーレイがフウと溜息をつくから、ブルーは首を小さく傾げた。
「家でゆっくり?」
 それって家から出ないことなの、出掛ける予定はどうなっちゃうの?
「予定は中止で、家でゆっくり過ごすってことだ」
 てるてる坊主で晴れにするのが基本なんだろうが、たまには雨も悪くないとは思わんか?
 今の俺たちだからこそ聞ける平和な雨音。
 そいつを聞きながら二人で一日、のんびりと…な。
「それもいいかも…!」
 朝からゆっくり朝御飯を食べて、出掛けないから雨が止まなくてもかまわなくって…。
 一日中、雨が止まなくっても、ハーレイと二人。
 地球の雨の音は平和でいいね、って家でゆっくり過ごすんだね…。



 いつか結婚して一緒に暮らせる時が来たなら、天気はてるてる坊主に任せて。
 晴れれば二人で外に出掛けて、雨ならば家で。
 屋根を、軒を打つ雨音を聞きながら時を過ごすのもいいかもしれない。
 止みそうにないね、と語り合いながら、キスを交わして。
 それからベッドに入るのもいい。
 明るい内から愛を交わして、合間に頬を、肩を寄せ合って。
 雨音だけが聞こえる部屋の中で二人、暮れてゆくまで、雨の音がしなかった遠い昔の思い出話を交えながら微笑み、シーツの海で語らい続けるのも…。




          雨音・了

※ナスカでは聞こえなかったという雨音。今の地球だからこその音で、優しい音。
 てるてる坊主で止めてしまうより、じっと聞き入りたくなる音なのかもしれませんね。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(ふうむ…)
 ハーレイは目の前の菓子を眺めた。
 仕事帰りに寄ったブルーの家で出されたマドレーヌ。
 それ自体は特に珍しくもなく、型によって大きさや形が変わる程度でよく出てくる菓子。今日は小さめ、ホタテ貝の貝殻を思わせる形。円形ではなくて細長い形。
「マドレーヌだな」
 それも小さなマドレーヌか…、と呟くとブルーが首を傾げた。
「どうかしたの?」
 ハーレイ、今日はマドレーヌを食べたい気分じゃなかった?
 それとも学校でおやつに食べたの、他の先生がおやつに買って来たとか。今日のハーレイ、もうマドレーヌは充分だった?
「いや…。そういうわけではないんだ、うん。マドレーヌだな、と思ってな」
 それでだ…、とハーレイは小さなマドレーヌを手に取った。
 ブルーの母の手作りのそれをしみじみと眺め、ホタテ貝の端を一口分ほどのサイズに割って。
 「少し行儀が悪いんだが…」と小さなブルーに断ってから、そのマドレーヌを紅茶に落とした。一口分に割ったマドレーヌの欠片を、カップに入った紅茶の中へ。
 ポチャン、と微かな音を立てて沈んだマドレーヌの欠片。カップの底へと沈んだ欠片。



「何をしてるの?」
 ブルーの瞳が丸くなった。
 それはそうだろう、マドレーヌはそのままで食べるもの。紅茶に浸すものではない。
 第一、ハーレイがこういったことをしたこと自体が、今までに一度も無かったのだから。
 けれども、ハーレイは穏やかな笑みを浮かべてブルーに尋ねる。
「思い出さんか?」
 このマドレーヌ。紅茶にマドレーヌを入れるというヤツで何かを思い出さないか?
「何を?」
 それにどうするの、そのマドレーヌ。
 ちょっと浸すのなら分かるけれども、沈んじゃったよ?
「ん、こいつか?」
 こうするのさ、と紅茶ごとマドレーヌをスプーンで掬って見せてやったが、ブルーはキョトンとしているだけで。
 ハーレイがそれを口に入れても、不思議そうな顔で見ているだけで。



「ハーレイ、そういう食べ方、好きなの?」
 お行儀が悪いって言っていたから、今日まで我慢していただけとか?
 お客様の前とか、お店だとか。そういう所でやっていたなら、確かにお行儀、悪そうだし…。
 それをぼくの家ならやってもいい、って思えるくらいに馴染んでくれたの、ぼくの家に?
「さてな?」
 やっぱりこいつは行儀が悪いな、紅茶にポトンと落とすんだしな?
 端を浸して食べる程度なら、人前でやっても通用するかもしれないが…。焼き上げた菓子に酒を染み込ませて食うって方法もあるからな。その菓子はマドレーヌってわけではないんだが…。
「そんなのがあるの?」
 わざわざお酒を染み込ませて食べるの、焼き上がったお菓子に?
「うむ。サバランって菓子だ、ブリオッシュに酒をたっぷりと…な。下手に食ったら飲酒運転って噂なんだぞ、それほどの量の酒を吸わせる。お前には無理だな」
「お酒はね…。ぼくも無理だし、前のぼくも無理。だけどちょっぴり美味しそうだよ」
 マドレーヌに紅茶もそれとおんなじ?
 端っこを浸すだけじゃなくって、そんな風に紅茶に沈めちゃったら美味しいの?
「美味いかどうかは、自分で試してみるんだな」
「うんっ!」
 お酒を染み込ませるっていうお菓子を聞いたら、うんと興味が出て来たよ。
 サバランだっけ、ハーレイが好きそうなお菓子だよね。お酒がたっぷり。



 マドレーヌだとどうなるのかな、とブルーは一切れ千切って紅茶に落とした。
 カップの底に沈んでいったそれを眺めて、興味津々で問い掛けてくる。
「これって、ハーレイのオリジナル?」
 サバランを食べるには小さすぎた頃に、お酒が飲めなかった子供の頃に考え出したの?
 お酒が駄目なら紅茶にしようと、マドレーヌに紅茶たっぷりだ、って。
「いや。俺のオリジナルというわけではないが」
「だったら、お父さんの趣味?」
 お父さんに教えて貰ったとか?
 こうやって食べると美味しいんだぞ、って教えてくれた?
「親父でもないな、残念ながら」
「じゃあ、お母さん?」
 お菓子作りも好きだって聞くし、ハーレイのためにサバランをアレンジしてくれた?
 紅茶で食べるならブリオッシュよりもマドレーヌがいいって、子供向けのサバランはこんな風に作って食べればいい、って。
「おふくろってわけでもないんだが…」
 だが、マドレーヌだ。紅茶に落として食おうってわけだ。
「ふうん…?」
 知らないけれども流行りなのかな、こういう食べ方。
 ちょっと美味しいって評判なのかな、お行儀はあまり良くなくっても。



 カップの中を見ているブルーに「もういいだろう」と声を掛けた。
「充分、紅茶を吸っただろうしな。スプーンで掬って飲んでみるんだ」
「飲むって…。マドレーヌと一緒に紅茶も飲むの?」
 マドレーヌだけを掬うんじゃないの、余分な紅茶が混じらないようにスプーンでそうっと。
「その辺は注意しなくてもいい。ただマドレーヌを掬うだけだ」
 紅茶も一緒に掬っちまうし、そいつは捨てずに飲めばいいんだ。
「お酒じゃないから、飲んでも問題ないんだろうけど…」
 紅茶たっぷりのマドレーヌだけを食べてみるより、紅茶もセットにするのがいいの?
「そこがこいつの肝なのさ」
 マドレーヌは特に意識しないで、紅茶のついでにスプーンで掬ったような感じで。
 そうやって食うのが俺のお勧めだ、紅茶に浸したマドレーヌのな。
「そっか…」
 紅茶ごとだね、どんな感じの味がするかな?
 サバランを浸すお酒と違って紅茶なんだね、ブリオッシュの代わりにマドレーヌで。



 紅茶の味かな、とブルーはスプーンでマドレーヌを掬って、口へと運んだ。
 柔らかくなったマドレーヌの欠片を紅茶と一緒に含んで、食べて。
 その表情が不意に変わって、赤い瞳が見開かれた。
「あっ…!」
 これ、知ってるよ。この食べ方、ぼくも知っていたよ…!
「思い出したか、マドレーヌ?」
「シャングリラだ…!」
 あそこで食べたよ、白い鯨で。
 紅茶に浸したマドレーヌの欠片、シャングリラで何度も食べていたよ…!
「そうさ、こいつはヒルマンの趣味だ。俺の飲み友達だったヒルマンのな」
 あいつが最初に始めたんだ、とハーレイは笑う。
 それを思い出したと、真似てみたのだと。
 サバランは何の関係も無くて、ただのマドレーヌ。紅茶に浸したマドレーヌだった、と。
「ホントだね!」
 あの頃はサバランなんかは無くって、一度も作っていなかったっけ。
 合成のお酒はあったけれども、サバラン、一度も作らなかったね。
 ハーレイがサバランなんて言うから、シャングリラだなんて思わなかった。今の地球にある食べ方なんだと思い込んでいたよ、紅茶に浸したマドレーヌ…。



 シャングリラが巨大な白い鯨へと改造されて、自給自足の生活が完全に軌道に乗って。
 日々の食事の他に菓子も作れる余裕が充分に出来てきた頃。
 誰もが菓子を口にし始め、お茶の時間も当たり前になってきた頃のこと。
 ある日、長老が集まった会議の席で菓子にマドレーヌが付いて来た。紅茶と一緒にマドレーヌ。ホタテ貝の形に焼き上げられたそれを一切れ千切って、紅茶のカップに落としたヒルマン。
 誰もが唖然と眺めていた。
 何をするのかと、マドレーヌを紅茶に落とすなどと、と。
 ヒルマンがそれを紅茶ごとスプーンで掬って口に運ぶのも、ゆっくりと味わっている姿をも。
 マドレーヌはそのままで食べる焼き菓子、あんな食べ方をしてどうするのか、と。
 しかしヒルマンは気にもしない風で、そのマドレーヌを飲み下してから溜息をついた。



「やはり無理か…」
 溜息に混じったその一言に、ブラウが怪訝そうに問い掛けた。
「無理って、何が無理なんだい?」
 今の食べ方、随分と奇妙だったけどねえ、あんたの口には合わなかったというわけかい?
 どうせデータベースの何処かで仕入れた食べ方だろうと思うけれどさ…。
 合いやしないよ、マドレーヌを紅茶にどっぷりだなんて。そのままで食べるのが一番だよ。
「いや、こうすれば思い出せると…」
 食べ方が云々というのではなくて、失った記憶。
 それが戻るというんだがねえ、マドレーヌを紅茶に浸して食べると。
「へえ?」
 そりゃまたどういうわけなんだい?
 どういう仕掛けで失くした記憶を思い出すんだい、マドレーヌのそんな食べ方なんかで?
「それはだね…」
 必ず戻るというわけではなくて、現に私も戻らなかったが。
 食べたマドレーヌが切っ掛けになって、遠い昔に自分が送った日々の記憶が蘇ってくる。
 そんな話を読んだわけだよ、ライブラリーでね…。



 SD体制が始まるよりも遥かな昔に、そういう小説があったという。
 「失われた時を求めて」というタイトルの。
 作者の自伝にも似た小説。
 その小説の中で主人公の記憶が戻る切っ掛け、それが紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだ瞬間だった。プチット・マドレーヌの欠片を紅茶に落として、柔らかくしたものを食べた瞬間。一匙の紅茶と共に口へ運んで、含んだ瞬間。
「プチット・マドレーヌと言うから、小さなマドレーヌのことかと思ったのだがね…」
 そうではない、という説もあったね、マドレーヌとはまた別の菓子だと。
 けれども、マドレーヌだと考える者たちが多かったようで、マドレーヌ派が多数だね。
 マドレーヌを見て、一連の話をふと思い出したものだから…。
 この機会に一つ試してみよう、と食べたわけだよ、紅茶に浸したマドレーヌを。
 残念ながら、何も戻っては来なかったがねえ…。
 機械に消された記憶ともなると駄目なものなのか、私にはマドレーヌの記憶自体が全く無いか。
 しかしマドレーヌの記憶が無いにしたって、切っ掛けにはなってくれそうだがねえ…。
 それで記憶が蘇ったという小説に感銘を受けたのだから。



 ヒルマンの言葉に皆は一様に、マドレーヌへの思いを深くした。
 妙なことをすると観察していた、ヒルマンの変わった食べ方にも。
 紅茶に浸したマドレーヌを食べた瞬間、失ってしまった記憶が鮮やかに蘇ってくるという小説。
 誰もが記憶を失くしていたから、それに惹かれた。真似てみたくなった。
 ブラウも、エラも、ゼルも。ハーレイもブルーも、ヒルマンを真似た。
 マドレーヌの欠片を紅茶に落として、浸して。スプーンで掬うと胸を高鳴らせて口へと入れた。
 しかし記憶は戻って来なくて、誰の記憶も戻りはしなくて。



 マドレーヌの最後の欠片を食べ終えた後で、ブラウが残念そうに頭を振った。
「戻らなかったねえ、ほんのちょっとでいいから戻って欲しいと思ったんだけどね…」
 機械に消されてしまった記憶じゃ無理なのかもねえ…。
 自分が勝手に忘れてしまった、自然に忘れた記憶じゃないと。
「駄目だと決まったわけでもなかろう」
 まだ分からんわい、とゼルが返した。
「紅茶に浸して食べておったものがマドレーヌじゃとは限らんからのう、そう思わんか?」
「他の菓子か…。可能性はゼロということもないな」
 人によってはビスケットもあるな、とヒルマンが頷き、ブラウが「トーストはどうだい?」と。
「あれは朝食の定番だよ。トーストを浸した可能性もあるよ」
「トーストならば…」
 それならば、とエラが微笑んだ。
「人によっては紅茶ではなくて、スープにパンかもしれませんね」
 スープに固めのパンを浸して、柔らかく。
 そういう食べ方が好みだった人も、中にはいるかもしれません。
 けれども、スープにパンを浸した時にではなくて、紅茶にマドレーヌを浸した時でも。そういう時でも「自分も似たようなことをしていた」と思い出すかもしれませんよ?
 自分は紅茶ではやらなかったと、スープにパンを浸していたと。



 エラの考えには一理あったから、次にシャングリラで菓子にマドレーヌが出された時。
 休憩時間にそれを食べてよい、という日が来た時、ヒルマンをはじめ長老たちが食堂に出掛け、例の食べ方を実践してみせた。
 ライブラリーにこういう小説があったと、その小説ではマドレーヌが記憶を呼び戻すのだと。
 皆は子供のように喜び、それから暫く、マドレーヌのそういう食べ方が流行った。
 一欠片を千切って紅茶に浸して、スプーンで掬って紅茶ごと。
 食堂で、あるいは休憩室で。
 許可を得て紅茶とマドレーヌを持ち出し、自室で試してみる者もあった。
 紅茶に浸したマドレーヌ。それで記憶が戻らないかと、失くした記憶が蘇らないかと。
 まさに小説のタイトルのとおり、「失われた時を求めて」といった風情の大流行。
 マドレーヌは紅茶に浸すものだと、スプーンで掬った一匙の紅茶と一緒に口へと運ぶものだと。



 シャングリラ中が熱狂していた食べ方なだけに、ソルジャーだったブルーも例外ではなくて。
 青の間に「本日のお菓子はこれになります」とマドレーヌが届けられた時には試していた。熱い紅茶をカップに満たして、一欠片のマドレーヌをそれに浸して。
 マドレーヌが幾つか纏めて届けられた時には、ハーレイと。
 一日の報告のために青の間を訪れたキャプテンを労い、紅茶と一緒にマドレーヌを出した。このマドレーヌで記憶が戻るといいね、と声を掛けながら。
 けれど…。
「戻らないものだね、そう簡単には…」
 今日で幾つめのマドレーヌだろうね、こうして紅茶に浸してみるのは。
 何度もこうして食べているのに、一向に戻って来てくれない。ぼくの記憶はどれほどに遠い所へ行ったか、まるで戻って来てくれないね…。
「お互いに…ですね」
 私の記憶も同じですよ。何処まで旅をしに出掛けたのか、旅の途中で行き倒れたか。
 何度マドレーヌを口にしてみても、紅茶に浸しても音沙汰なしです。



「でも、これで記憶が戻って来た人もいるんだってね?」
 ぼくは耳に挟んだだけだけれども、感激のあまり泣き出した人もいるそうじゃないか。
 食堂で突然記憶が戻って、マドレーヌも紅茶も放り出して。
 これが自分の子供時代だと、欠片だけれども思い出した、と。
「そのようです。私も現場に居合わせたわけではありませんが…」
 周りの者たちは大騒ぎだったそうです、記憶が戻ったことを祝福しようとお祭り騒ぎで。
 そうした騒ぎにならないようにと、こっそり打ち明けた者もいましたが結果は全く同じです。
 やはり誰でも祝ってやりたくなりますから。
 どんな些細なものであろうと、失くした記憶が戻って来たなら。
 消された筈の記憶が蘇ったならば、それは喜ぶべきことなのですから。ですが…。
 残念ですね、とハーレイは少し寂しげに笑った。
 何人もの記憶が戻っているのに、ブルーのそれが戻って来ないと。
 ブルーが失くした記憶の欠片を取り戻せれば、とマドレーヌを一緒に口にする度、心の中で強く願って祈り続けているのにと。
「ぼくはハーレイの記憶を戻してあげたいんだけれど…」
 だからマドレーヌを取っておくんだよ、何個か纏めて貰った時には。
 君に紅茶を淹れてあげようと、マドレーヌを浸して食べるための紅茶を君のために。
「私はあなたの記憶を戻して差し上げたいのですよ」
 ですから、こうして、ゆっくり、ゆっくり。
 マドレーヌを少しずつ割って浸しては、紅茶と一緒に掬うのですが…。
 あなたが寛いでお召し上がりになれるよう。
 もっとゆっくり食べていいのだと、心ゆくまでマドレーヌを紅茶に浸して思う存分、食べる時間ごとお召し上がりになれるように、と。



「マドレーヌかあ…」
 忘れちゃってた、とブルーはホタテ貝の形の菓子を見詰めた。
 母が焼いてくれた小さなマドレーヌ。これがヒルマンの言ったプチット・マドレーヌかどうかは分からないけれども、ハーレイがそれを思い出してくれた。
 遠い日にシャングリラでこの菓子を食べたと、変わった食べ方をしていたのだと。
 マドレーヌが幾つか届けられる度、ハーレイのためにと取っておいた自分。
 一緒に食べようと、ハーレイの記憶が戻る切っ掛けを作れればいい、と紅茶を淹れていた自分。
「あの頃、まだ前のぼくたちは…」
 ソルジャーとキャプテンで、友達同士で。
 二人でマドレーヌを食べていたって、食べ終わったら「おやすみなさい」で…。
「うむ。ただの友達だったんだがなあ…」
 御馳走になるのは紅茶とマドレーヌだけで満足しちまって。
 食い終わったら「御馳走様でした」と礼を言ってから「おやすみなさい」と帰っちまったなあ、前のお前を食いもしないで。
 うんと美味そうなお前がいるのに気付きもしないで、マドレーヌだけか。
 とんだ馬鹿だな、前の俺もな。
 前のお前と二人きりでゆっくり茶を飲んでたのに、ただマドレーヌを食ってたとはなあ…。



「ハーレイもそうだけど、前のぼく…」
 きっとハーレイのことが好きだったんだよ、あの頃にはきっと、とっくの昔に。
 そうだったからハーレイの記憶を取り戻してあげたくて、マドレーヌを貰ったら残しておいて。
 ハーレイが来たら紅茶を淹れては、マドレーヌを出して勧めてたんだ。
 君の喜ぶ顔が見たくて、記憶が戻ったと喜ぶ姿を見たくって。
「俺もお前を好きだったんだろうな、自分じゃ気付いていなかっただけで」
 お前の記憶が戻ってくれたら、とマドレーヌを食う度に祈っていた。
 記憶が戻ったと喜ぶお前を見たかった。
 友達だからと思い込んでいたが、違ったんだな…。
 友達なんかよりも、もっと大事な片想いの相手。俺が恋したお前のために、と祈ってたんだな。
「ハーレイもぼくも、恋だってことにもっと早くに気付いていればね…」
 記憶なんかはどうでもいいから、恋だってことに気付けば良かった。
 気付いていたなら、あの頃からずっとハーレイの側に居られたのに…。
 マドレーヌを紅茶に入れてた頃から、恋人同士でいられたのに。
「そうだな、前の俺たちが過ごしたよりも長く恋人同士でいられたな…」
 あの頃に恋だと気付いていたなら、俺がお前に打ち明けていたら。
 もっと長い時間をお前と一緒に過ごせたんだな、マドレーヌだって違う食べ方が出来た。紅茶に浸してスプーンで掬うのは変わらなくても、恋人同士で食べていられた。
 一欠片食べてはキスをするとか、手を握り合って見詰め合うとか。
 そうして食べたら、もしかしたら。
 何かのはずみにヒョイと記憶が戻って来たかもしれないなあ…。
 マドレーヌとはまるで関係なくても、記憶の欠片。
 育ての親と一緒に暮らしてた頃の、温かな記憶の断片がな…。



 とんでもない回り道をしちまったもんだ、とハーレイは苦い笑みを浮かべる。
 前の自分たちは恋だと気付かず、長い時間を無駄に過ごしてしまったと。
「本当にとんだ馬鹿だったよなあ、マドレーヌだけを食って帰った俺は…」
 毎晩お前の部屋に行きながら、お前の気持ちに気付きもしないで。
 わざわざ紅茶を淹れて貰っても、取っておいたマドレーヌを出されてもな。
 いくらお前が気付いてなくても、俺がもう少し注意していたら見抜けた筈だと思うんだがな…。
「今度はどうだろ、今も回り道しているんだけど…」
 ぼくがチビだからキスも出来なくて、結婚だって出来なくて。
 恋をしてるのに恋じゃないんだよ、本物の恋人同士になれないんだから。
「スタートが早すぎだ、お前の場合は」
 前のお前がこういう姿をしていた頃には、俺に恋なんかしちゃいない。
 あの頃のお前の本当の年が何歳だったかを考えてもみろ。
 今度のお前はませているなんていうレベルじゃない。恋をするのが早すぎなんだ。もっと遅くて充分だろうと俺は思うが、お前にとっては今でも充分遅いわけだな。
「そうだよ、回り道がまだまだ続くんだよ!」
 だけど、ぼくには早すぎだなんて言うのなら。
 今度のハーレイはどうだっていうの、ぼくを好きになった早さというヤツ。
 ハーレイは遅いの、それとも早い?
「前の俺との年の違いを考えるんなら、俺だってかなり早すぎなんだが…」
 俺は見かけがこれだしな?
 それほど早いってわけでもないなあ、年相応って所だな。
 だから今度は回り道とも思っちゃいないさ、お前が育つまでの時間をゆっくり楽しむ。
 恋はしてるし、それが実るのをのんびり待つんだ、お前の背丈が前のお前とそっくり同じになるまでの間、あれこれと思い出しながらな。
 今日のマドレーヌの食い方みたいに、ちょっとしたことを。



「マドレーヌの食べ方、ホントにすっかり忘れていたね」
 今までに何度もおやつに出たのに、ハーレイは思い出さなかったし。
 ぼくだって全然思い出しもせずに、紅茶は紅茶で飲んでただけだよ、マドレーヌの欠片を紅茶に入れるなんてこと、ホントのホントに忘れていたよ…。
「うむ。俺も今日まで忘れ果ててたわけだしな」
 マドレーヌは紅茶に浸して食べるものだと、シャングリラじゃ一時期、流行っていたと。
 前のお前にも何度となく御馳走になっていながら、綺麗に忘れた。
 記憶なんてのはそんなものだな、忘れちまったら思い出すまでは無いのと同じだ。
 とはいえ、前の俺たちの場合。
 マドレーヌを何度紅茶に浸してみたって、記憶が戻りはしなかったがな…。



「そうだったね…。それは今でも残念だけれど…」
 前のぼくはともかく、ハーレイの記憶。
 それを戻してあげたかったし、戻らなかったのが今でも残念でたまらないけれど…。
 今度はいろんなもので出来るね、この遊び。
 失くした記憶を呼び戻すための遊び、紅茶に浸したマドレーヌの他にも山のようにあるよ。今は当たり前のように見ている何かが、ある日突然、前の記憶に結び付くから。
「おいおい、こいつは遊びと言うのか?」
 紅茶にマドレーヌを浸すってヤツ。
 それで記憶が戻ったと言って泣き出した奴が居たほどの真面目な食い方なんだが?
「さあ…?」
 前のぼくたちは真剣にやっていたけれど…。流行ってた間は、大真面目にやっていたけれど。
 それもいつの間にか忘れてたんだし、前のぼくたちでも忘れていたこと。
 前のぼくたちでも忘れたんだもの、今度は遊びみたいなものだよ。
 懸命に思い出さなきゃならない、思い出したい消された記憶は今度は一つも無いんだから。
「そうかもな」
 生まれ変わって忘れちまっただけで、機械に消されたわけじゃないしな。
 切っ掛けさえありゃあ思い出すんだ、こいつも今では遊びなんだな…。
 こうやって記憶を戻そうとしたと、前の俺たちはそうしていた、って懐かしく思い出すだけの。
 マドレーヌはこうして食うものなんだと、紅茶に浸して食っていたな、と。



「ねえ、ハーレイ…」
 ブルーがマドレーヌの最後の欠片を紅茶に浸して、スプーンで掬い上げながら。
「今日はマドレーヌがハーレイの記憶の切っ掛けになってくれたけれども、この次は…」
 何を切っ掛けに思い出すだろ、前のぼくたちがやっていたこと。
 思い出すのはハーレイなのかな、それとも今度はぼくの番かな…?
「さあなあ…」
 そればっかりは俺にもサッパリ分からんな。
 早ければ今日の晩飯を食った時かもしれんし、何とも言えん。
 ただ、晩飯の時だった場合、それが前のお前との恋に纏わる記憶だったら。
 その場でしっかりお蔵入りだな、お前のお父さんとお母さんの前では話せないからな。
「えーっ! そういう時にはメモしておいてよ、用事を思い出したふりをして!」
 ちゃんと手帳に書いておいてよ、ハーレイ、手帳を持ってるんだから。
 次に二人で話せる時まで覚えておいてよ、その話。
 ハーレイのペンでしっかりと書いて、ナスカの星座が入ってるペンで。
 種まきの季節のナスカの星座が入っているペン、ハーレイ、いつでも持っているでしょ…!



 ハーレイが愛用しているペン。持ち歩いている瑠璃色のペン。
 人工のラピスラズリのそれには、ナスカの星座が一つだけ鏤められていた。種まきを始める春の星座にそっくりな形の金色の粒の配列が。
 両親が居て話せない時に思い出した記憶はそれで必ず書き留めてくれ、とブルーは強請って指を絡めて約束させて。
 それから空になったマドレーヌの皿に残った小さな欠片を指先で摘んでカップに落とした。もうスプーンでは掬えそうもなくて、ただの屑にしかならなさそうな小さな粒を。



「マドレーヌ、明日には忘れてそうだね…」
 紅茶に浸して食べるってこと。スプーンで掬って食べてたんだ、っていう記憶…。
「明日どころか今夜の内かもしれん」
 賑やかに晩飯を食ってる間に消えてしまいそうだぞ、この記憶。
 スプーンがついてくるような献立だったら、掬った途端に綺麗サッパリ。
「うん…。それはあるかも…」
 スープを掬ったら忘れましたとか、茶碗蒸しで忘れちゃったとか。
 如何にもありそうなことだけれども、そうやって忘れて、また思い出して。
 色々な記憶を取り戻しながら、ずうっと恋人同士なんだね、今度は長く。
「前は気付かずに過ごしていた分、うんと長くな」
 前の俺たちが無駄に過ごしてしまった分まで、恋人同士でいないとな。
 今度はお前と出会った時から、お互い、恋だとちゃんと気付いているんだからな。
「そうだよ、ハーレイと結婚してね」
 前のぼくたちには出来なかった結婚、ぼくは楽しみにしてるんだから。
 ハーレイとずうっと二人一緒で、おんなじ家で暮らすんだから…。



 そうして、結婚した後も。
 同じ家で暮らすようになっても、ふとした折にこうして思い出すのだろう、と微笑み交わす。
 マドレーヌは紅茶に浸して食べるものだ、と蘇った遠い記憶のように。
 自分たちはそれを食べていたのだと、マドレーヌは紅茶に入れるものだと思い出したように。
 二人、幸せに生きてゆく中で、何かのはずみに、失われた時を。
 それを拾い上げて語り合おう、と微笑みを交わす。
 時の彼方に流れ去ってしまった、前の生での思い出たちを。
 其処で出会った人々や、様々な出来事などや。
 それらがあるから今があるのだと、青い地球の上に二人で生まれて来られたのだと…。




         マドレーヌ・了

※シャングリラで流行った、マドレーヌの食べ方。「プルースト効果」と呼ばれるものです。
 この時代には、その言葉は無かったようですけれど。遠い記憶が蘇るのは、幸せなこと。
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(んーと…)
 キョロキョロとテーブルを見回した、ぼく。
 学校から帰っておやつの時間で、ケーキを食べようとしてるんだけど。
 ケーキのお供にママが淹れてくれた熱い紅茶とティーポット。それに小さなミルクピッチャー。
 ママに「紅茶はレモンかミルクかどっち?」と訊かれて、ミルク。
 特に考えたわけじゃなくって、なんとなくミルク。
 プレーンなシフォンケーキにはどっちでも合うし、ミルクでもレモンでもかまわなかったんだ。
 だけど突然、ふと思ったこと。



(もっと大きめ…)
 ケーキは充分な大きさだけれど、ミルクピッチャー。小さいサイズのミルクピッチャー。
 これじゃ足りない、という気がしてきた。大きなミルクピッチャーがいい、と。
 朝御飯の時とか、パパも一緒のお茶の時間に置いてある大きなミルクピッチャー。カップ一杯分くらいのミルクが楽々と入るミルクピッチャー。
(あれがいいんだけど…)
 ほんのちょっぴりしか入らないような、小さなミルクピッチャーじゃなくて。
 もっとしっかり、どっしりとした大きなミルクピッチャーがいい。
(ミルクが沢山入るのがいいよ)
 何故だか紅茶にミルクをたっぷり入れたくなった。
 普段はそんなに入れないのに。
 ママが用意してくれた量のミルクで丁度いいのに。



(確か、この辺…)
 食器棚の中を覗き込んでいたら、ママがダイニングに入って来た。
「どうしたの? 何か探し物?」
「ミルクピッチャー…」
「出してあるでしょ? ミルクも入れて」
 ちゃんとあそこにあるじゃない、って不思議そうなママ。でも…。
「もっと大きいのが欲しいんだけど…」
 ミルクが沢山入るのがいい、って言った、ぼく。大きいミルクピッチャーがいいよ、と。
「ああ、あれね」
 此処よ、ってママは直ぐに棚から取り出してくれた。白い陶器のミルクピッチャー。飾りなんか無くて実用本位の、たっぷりと入るミルクピッチャー。
 テーブルに置いて、冷蔵庫からミルクを持って来た。幸せの四つ葉のクローバーが描かれた瓶に入ったミルク。ぼくが毎朝、飲んでいるミルク。
 大きな瓶から、ミルクピッチャーになみなみと入れて…。



 よし、とテーブルに着いて、カップに熱い紅茶を注いだ。それからミルクもたっぷりと。
 お砂糖を入れて、一口飲んで。
(うん、この味!)
 紅茶は薄くなっちゃったけれど、ミルクの風味がうんと優しい。柔らかで甘い口当たり。飲むとなんだか懐かしい気分。この味だよ、って心が跳ねてる。
 だけど、紅茶を飲むぼくを見ていたママは。
「ミルクを沢山って…。背を伸ばしたいの?」
「えーっと…。なんにも思っていなかったけれど…」
 そうなのかも、っていう気もした。
 ミルクと言ったら、背を伸ばすもの。背を伸ばしたくて、ぼくが毎朝飲んでいるもの。
(懐かしい気がするってことは…)
 ミルクたっぷりの紅茶は多分、前のぼくのお気に入りなんだろう。
 ぼくと同じで背を伸ばすため?
 前のぼくも背丈を伸ばしたくって、紅茶にミルクをたっぷりだった…?



(どうだったのかな…?)
 おやつを食べる間中、ぼくは半分、うわの空。
 シフォンケーキを頬張る間も、ミルクたっぷりの紅茶をコクリと飲み込む時も。
 前のぼくの遠い記憶を探って、お茶の時間の記憶も探って。
 なのに掴めない、紅茶の記憶。
 紅茶が薄くなってしまうほどに沢山、ミルクを注いで飲んでいた記憶。
 食べ終わっても記憶は戻って来なくて、キッチンのママにお皿とカップを返しに行った。大きなミルクピッチャーも。
 「御馳走様」って渡したけれども、記憶はやっぱり戻らなかった。
 ミルクたっぷりの紅茶の記憶。うんと沢山のミルクを紅茶に入れてた記憶。



 部屋に帰ってから勉強机の前に座って考えたけれど、思い出せない。戻らない記憶。
 気になるけれども、前のぼくって。
 前のぼくは背なんか伸ばしたかった?
 紅茶にミルクをたっぷりなほどに、頑張って背丈を伸ばしたかった…?
(頑張らなくても勝手に伸びたよ?)
 アルタミラでは長いこと成長を止めてたぼくだけれども、脱出した後は順調に伸びた。止めてた反動なんかじゃなくって、ごくごく自然に伸びていった背丈。
 しっかり食べろよ、ってハーレイに言われて。
 チビだったぼくに「食わなきゃ大きくなれないからな」って何度も言っては、自分が厨房で工夫した料理をあれこれ盛り付けて食べさせてくれた。いろんな料理を。
 食材が偏ってキャベツ地獄やジャガイモ地獄になった時でも、ちゃんと料理が色々出て来た。
(もっと食えよ、って、おかわりも盛り付けられちゃったっけ…)
 ハーレイは配膳係じゃなかったけれども、係を呼び止めて「こっちも頼む」って入れさせてた。ぼくが少しでも多く食べるよう、一緒に食べながら目を光らせてた。
 ハーレイがキャプテンになっちゃった後も。
 自分で料理をしなくなった後も、「しっかり食えよ」って。
 そのお蔭だろうか、前のぼくの背はぐんぐんと伸びて、チビじゃなくなったんだった。



(じゃあ、なんでミルク?)
 ミルクも飲めよ、ってハーレイに言われた記憶は無い。
 前のぼくがいつも聞いてた言葉は、「しっかり食べろよ」とか「もっと食べろ」とか。
 ハーレイは食事をうるさく言っていたけど、ミルクについては覚えが無い。
(…前のぼくの好み?)
 ミルクをたっぷり入れた紅茶は前のぼくが好んだものだったろうか?
 そうやって飲むのが好きだったろうか?
(前のぼくが紅茶を飲んでいた時は…)
 お茶の時間をゆっくり楽しむようになった頃には、青の間に居た。
 ソルジャー専用のミュウの紋章入りのカップやポットで、のんびりと紅茶を飲んでいた。紅茶はもちろんシャングリラ産。白い鯨の中で栽培したもの。
(ストレートの紅茶も、レモンティーも…)
 ミルクティーも、それぞれ気分で選んだ。その日の気分や、お菓子に合わせて。
 この飲み方が特に好きだ、っていうのは無かった筈なんだけど。
 無かったように思うんだけれど…。



(でも、ミルクたっぷり…)
 あの味が懐かしいと思うからには、きっと何かがあったんだ。
 それが何だか思い出せない、と頭を悩ませていたら、チャイムが鳴った。窓に駆け寄ったぼくの目に映った、手を振るハーレイ。庭を隔てた門扉の向こうで、大きく右手を振ってるハーレイ。
(ハーレイだったら覚えてるかな?)
 どうなのかな、って思ったけれども、ぼくでさえ分からない記憶。
 いつのものかも分からないんだし、ハーレイにだって無理に決まってる。
(せめて時期でも分かっていればね…)
 前のぼくがそれを好きだった時期。
 だけど覚えていないし、訊けない。ハーレイだって困ってしまうだろう。
 諦めよう、って思ったけれども。



 ハーレイを部屋まで案内して来たママがテーブルの上に置いてった紅茶。お菓子と一緒に並べた紅茶。今日はミルクティー、ポットの隣に少し大きめのミルクピッチャー。
 二人分のミルクが入るサイズのそれを目にしたら、閃いた。
(そうだ!)
 もう一度ミルクたっぷりで飲んだら、今度は思い出せるかも。
 前のぼくの恋人のハーレイも目の前に居るし、さっきよりかは条件がいい。
 だから…。
「ねえ、ハーレイ。ハーレイ、ミルクはあっても無くてもいいんだよね?」
 紅茶に入れるミルク。ミルク無しでも飲めるんだよね?
「そうだが?」
「じゃあ、ちょうだい。ハーレイの分のミルク」
 ぼくにちょうだい、ハーレイの分も。
「それはかまわないが、何なんだ?」
「えーっと…」
 見れば分かるよ、ぼくがしたいこと。ハーレイの分のミルクを欲しがった理由。



 ぼくはカップに紅茶を半分だけ淹れて、もう半分はミルクを注いだ。
 ミルクピッチャーの中身のミルクをたっぷり、濃いめの紅茶が薄くなるほどに。
「お前、そんなに入れるのか?」
 いつもそんなに沢山入れてたか、ミルク?
「入れたくなった…」
 なんでかな、って思い出したくて、もう一度。
 おやつの時間に急に飲みたくなったんだ。ミルクをたっぷり入れた紅茶が。
 ママに頼んで、ミルクピッチャー、大きいのを出して貰ったよ。
 それでミルクが沢山入った紅茶を飲んだら、とても懐かしい気分になって…。
 前のぼくだ、って直ぐに分かった。
 でもね、どうしてミルクたっぷりの紅茶なのかが分からないんだ。
 そういう紅茶が好きだった、って記憶が全く無いんだよ。
 考えていたらハーレイが来たし、もう一度、って試してみたんだけれど…。



「ふうむ…。で、思い出せたか?」
 どうだ、戻って来そうか、記憶?
 前のお前が飲んでいたらしい、ミルクたっぷりの紅茶とやらは?
「駄目みたい…。ハーレイも覚えてなさそうだよね?」
「すまんが、俺の記憶にも無い。前のお前は確かに紅茶が好きではあったが…」
 こうでなければ、という飲み方のこだわりとなったら全く知らん。
 とにかく紅茶が好きだったな、という程度でしかない。
「ぼくもなんだよ、自分のことなのに覚えてなくて…。何なんだろう、ミルクたっぷりって…」
 この味が好きって、紅茶よりもミルクが大事だったとしか思えないんだけれど…。
「うむ。そんな感じの飲み方ではあるな」
 紅茶よりもミルク、そういった感じが強いんだが…。
 前のお前は今のお前ほど、ミルクにこだわる理由なんか無いと思うがな?



 身長を伸ばそうとしていたわけでもあるまいし、ってハーレイも同じ意見だけれど。
 それでもミルクが大事だったらしい、前のぼく。
 紅茶よりもミルク、って思ってたらしい、ミルク沢山の紅茶の飲み方。
 そうなってくると…。
「ハーレイ。シャングリラの紅茶、ミルクたっぷりで誤魔化さなきゃいけない年ってあった?」
「はあ?」
「紅茶の出来だよ、シャングリラの紅茶は香りが高いってわけじゃなかったし…」
 味まで駄目だった年があるのかな、色だけなんです、っていう酷い出来。
 やたら渋いとか、そんなのだったらミルクたっぷりで飲むしか道が無かったかも…。
「そいつは無いだろ、流石にな」
 出来が悪くても、紅茶は紅茶だ。飲めないほどの出来になったら覚えているさ。
 キャプテンの所には農作物の出来に関する情報も上がってくるからな。
 今年は駄目だと、とても飲めないと言って来たなら、流石の俺も…。
 ん…?



 待てよ、ってハーレイは首を捻った。顎に手を当てて、考え込んでる。
 ぼくの紅茶の記憶の端っこ、ハーレイは見付け出したんだろうか?
 そうだといいな、とドキドキしながら考え事の邪魔をしないようにしていたら…。
「そいつは紅茶の記憶じゃないな。ミルクの方だ」
「ミルク?」
 なんでミルク、って、ぼくの瞳は真ん丸になった。
 前のぼくもやっぱり、背丈を伸ばそうとミルクを飲んでいたんだろうか、って。
 そしたらハーレイは「そうじゃないさ」と笑みを浮かべて話の続きを教えてくれた。
「自給自足の生活を始めて、船で牛を飼って。ミルクが取れるようにはなったが…」
 船のみんなに充分な量が行き渡るようになるまで、ミルクティーなんかには使えなかった。
 余分に使えるミルクってヤツが出来て初めて紅茶に回せるようになったろ?
「うん」
 最初の間は飲む分だとか、料理用だとか…。
 紅茶に入れてもいいんです、ってミルクが取れるようになるまで、暫く時間がかかったね。
「そのミルクが、だ。沢山取れるようになったから、と前のお前にドッカンと…」
「ああ、あった…!」
 思い出したよ、その話。
 とても沢山のミルクを貰ってしまったんだっけ…。ぼくの紅茶用に。



 シャングリラでの牛の飼育が軌道に乗ってから、どのくらい経った頃だっただろう?
 青の間に食事を運ぶ係がトレイに乗っけて、恭しく運んで来たミルク。
 いつもの小さな器じゃなくって、ぐんと大きなミルクピッチャー。
 それにたっぷり入ったミルクが届けられた。
 紅茶用のミルクをお持ちしましたと、ご自由にお使い下さいと。
 報告がてらハーレイまでがくっついてたから、何事なのかと思って尋ねた。
「これはまた…。ずいぶん多いけど、一日分かい?」
 今日はミルクティーを何度も楽しめそうだね、ありがとう。
「いいえ、ソルジャー。一回分です」
 お使いになれるようでしたら、午前中のお茶にお使い下さい。午後になりましたら、また新鮮なものを運ばせますから。
「一回分って…。こんなに沢山?」
「ミルクはまだまだございますので、午後の分も夜の分もお持ち出来ます」
 牛たちが立派に育ってくれました。宇宙船での生活にも慣れて元気一杯に暮らしております。
 ミルクの生産も安定しました、これからは毎日ミルクを三回運ばせますから。
 量はこれだけ、それを三回です。
 もしも多すぎるとお思いでしたら、その時は調整いたします。



 飲み切れなかったら冷蔵で保存しておいて下さい、と言われたミルク。
 ハーレイと係が出て行った後で、早速、使ってみることにした。
 お湯を沸かして、ポットに紅茶の葉を入れて。熱いお湯で紅茶の葉が開くのを待って、カップに半分注いでみた。濃い目の紅茶をカップに半分。
 其処にミルクをうんとたっぷり、紅茶が冷めない程度にたっぷり。
 今まで飲んでたミルクティーとはまるで違った、ミルクが勝っているほどの紅茶。ミルクの白に紅茶の色を混ぜたような、優しい色合い。
 いつもと同じ量の砂糖を落として、スプーンで混ぜてから口に運んだら。
(美味しい…!)
 ぼくが知ってたミルクティーとは違った味わい。ミルクのコクがふんわり広がってゆく。
 柔らかい味って言うのかな?
 同じミルクを入れた紅茶でも、前のと全然違うんだ。優しくて甘くて、温かい味。一度飲んだら癖になる味、やみつきになってしまう味。
 ぼくはすっかり虜になって、その日はもちろん、その次の日も。
 そのまた次の日も沢山のミルクを運んで貰って、ミルクティーばかりを楽しんでいた。レモンの存在なんかは忘れて、ストレートで飲むことも忘れてしまって。



 それからレモンやストレートの紅茶を思い出すまで、ミルクたっぷりで飲んでいたぼく。
 ハーレイと紅茶を楽しむ時にも、ミルクたっぷりのミルクティーをせっせと勧めていたぼく。
 まだハーレイとは友達同士で、恋人同士じゃなかったけれど。
 そうやってハーレイにミルクティーを御馳走してたら、ある日、訊かれた。
「ソルジャー、ミルクが後ですか?」
「駄目なのかい?」
 二つ並べた紅茶のカップにミルクを注ごうとしていた、ぼく。
 ミルクは先に注ぐものだったのか、と驚いて手を止めてしまったんだけれど。
「いえ、後だと駄目だというわけではなく…。食堂で少し論争が」
 食堂でも、こういうミルクティーを楽しめるようになりましたから。
 そうしたら二通りに分かれてしまったのです、ミルクを入れるのが先か後かに。
 先に入れる者たちは「絶対に先だ」と言って譲らず、後の者たちは「絶対、後だ」と。どちらも自分のやり方が正しいと主張し、日々、論争の種になっていましたね。先だ、後だと。
 結局、ヒルマンとエラが調べて、なんとか落ち着いたのですが…。
「そうだったんだ…。それで、正解はどっちだったの?」
「正解と言うべきかどうかが難しいのですが…」
 元々、紅茶は特権階級の飲み物だったとのことで、その階級ではミルクは後に入れるもの。後に庶民に広がった時に先に入れる方法が生まれたそうです。
 理由は定かではないらしいですが、熱い紅茶でカップが割れてしまわないよう、先にミルクだという説などもあったとか。
 もっとも、SD体制に入ろうかというような頃には先も後も無かったそうですけどね。それこそ個人の好み次第で、後でも先でも、どちらも間違いではなかったという話でした。



「なるほど、正解は後だけれども、今の時代はどちらでもいい、と」
 ぼくはたまたま正解なんだね、誰に習ったわけでもないんだけれど…。
 なんとなく後だという気がしていて、後に入れてただけなんだけれど…。
 でも、そういうのでもめるんだ…?
 ミルクは先なのか、後なのか、って食堂で毎日論争になって、ヒルマンとエラまで引っ張り出す騒ぎになっちゃったんだ?
「半分以上は論争と言うより、お祭り騒ぎだったんですがね」
 誰に教わったわけでもないのに、先に入れるか後に入れるかの二つに分かれる。自分はこれだと思い込んでいて、変えるつもりにならない入れ方。
 これは失くした記憶なんだろう、と皆が喜んでいるのですよ。
 育った家の記憶はすっかり失くしてしまったけれども、こんな所に残っていたと。
 身体が覚えていてくれていたのだと、紅茶のミルクは先か後かを。
「そういうことか…。だったら、ぼくのも育ててくれた人たちの入れ方なんだ…」
 ミルクは後で、っていう人たちがぼくを育ててくれたんだね。
 紅茶のミルクは後で入れてた、その入れ方が好きな人たちの家で大きくなったんだ、ぼくは。
「恐らくは。でなければ特に考えもせずに、自然に後にはならないでしょう」
 ミルクの量が少なかった頃には、誰もが後から入れたのですが…。
 たっぷりと入れられるようになった途端に、先と後とに綺麗に分かれてしまいましたからね。
「じゃあ、ハーレイはどっちなんだい?」
 紅茶のミルクは、先なのか後か。君はどっちが好きだったんだい?
「後のようです」
 沢山あっても、ついつい後に…。キャプテンですから、どちらにもつかずに中立で、と思ってはいても身体が勝手に動くのですよ。ミルクは後だ、と。
「それなら、ぼくと同じだね」
 ハーレイもぼくと同じなんだね、ミルクは後から入れるんだね。



 ふふっ、って嬉しくなった、ぼく。
 まだ恋人同士ではなかったけれども、ハーレイと同じ入れ方だというのがお気に入りで。
 ハーレイもぼくもミルクは後だと、紅茶のミルクは後に入れるのだと喜んでいた。
 そうして紅茶にたっぷりとミルク。
 ハーレイが青の間にいない時でも、一人でゆっくりと紅茶にミルクを注いでた。
 ミルクは後から、って。
 これはハーレイも同じなんだと、同じ好みの人たちに育てられたんだ、って。



「思い出した…!」
 ミルクだった、と叫んだ、ぼく。
 紅茶にミルクをたっぷり入れてた前のぼくの記憶は、紅茶じゃなくってミルクの方。
 ミルクを沢山入れられる時代がやって来た時に、せっせとミルクを入れては飲んでいたんだ。
 その味ももちろん好きだったけれど、ハーレイと同じミルクの入れ方。
 ぼくもハーレイもミルクは後だと、後からなんだと噛み締めるようにミルクを紅茶の後から。
 そうして生まれたカップの中身をスプーンで混ぜては、幸せ一杯。
 ハーレイもぼくもこれで育ったと、こういう習慣の人たちに育てられたんだ、と。



「思い出せたか、そりゃ良かったな」
 前のお前に付き合わされて、ミルクティーばかり飲んでた甲斐があったってな。
 お前、あれから暫くの間、紅茶と言ったらミルクをたっぷり入れていたしな。
 ミルクたっぷりの紅茶が好きだと言うわけじゃなくて、ミルクの入れ方の問題だったが。
「…そんな理由だったから思い出せないんだよ…」
 ああいう紅茶が好きだったのなら、簡単に思い出せただろうけど…。
 ミルクの入れ方なんて無理だよ、それこそ身体の記憶なんだもの。身体が覚えていたんだもの。
 前のぼくの記憶はすっかり消されていたのに、ミルクの入れ方は覚えていたもの…。
「そうかもしれんな、食堂で派手にもめたくらいに大切な記憶らしいんだがな」
 育ての親と育った家の記憶だ、うんと大事なものなんだろうが…。
 意識して覚えていたわけじゃないし、生まれ変わったら余計に記憶から抜けちまうってな。
 それに、今のお前。
 前のお前と全く同じで、ミルクは後かららしいしな?
「うん…。小さい頃からずっとこうだよ、パパもママも後から入れているしね」
 ハーレイは今度はどっちなの?
 今はミルクは先なの、後なの、今の家ではどっちだったの?
「気になるか?」
「ならない筈がないじゃない!」
 たっぷりのミルクを出したことが無いから分からないよ、どっち?
「今も後だな。親父もおふくろもそうだったからな、俺も釣られて自然にな」
「じゃあ、同じだね」
 今度もハーレイと同じなんだね、ミルクの入れ方。
 紅茶にミルクを入れる順番、今度もハーレイとおんなじなんだね…。



 今度も同じ、って心がほんのり温かくなった。
 前のぼくとハーレイを育てた人たちの記憶は、お互い、失くしてしまったけれど。
 機械に消されてしまったけれども、ミルクの入れ方を身体が覚えていてくれた。紅茶にミルクを後から入れる人たちが育ててくれていたんだ、って覚えてた。
 そのぼくたちが生まれ変わっても、おんなじミルクの入れ方の家。前のぼくたちの養父母と同じ習慣を持った人たちの子供に生まれて来た。
 ぼくもハーレイも、前と同じに育ってる。
 見た目の姿もそうだけれども、ミルクの入れ方。
 紅茶にミルクを入れる順番が前と全く同じだったなんて、もう嬉しくてたまらない。
 神様はちゃんと選んでくれたと、ぼくたちが何処に生まれるべきかを選んでくれていたんだと。
 ハーレイもぼくも、基本の部分は前とおんなじ、そうなるように生まれ変わって…。



「ハーレイ、紅茶にミルクをたっぷり…じゃないよね?」
 そういう飲み方が好きってわけではないよね、今のハーレイも?
「お前にミルクを譲れるくらいの人間だからな」
 譲ってくれと言うから譲ってやったが、まさか前のお前の記憶を探していたとはなあ…。
 俺の記憶が役に立ったようで何よりだが。
「ハーレイが好きなの、コーヒーだもんね…」
 シャングリラでもコーヒー、飲んでたし…。
 あれは代用品だったけれど。キャロブのコーヒーだったんだけれど…。
「ガキの頃には流石に違うがな」
 いくら本物のコーヒーが飲める世界に来てもだ、ガキの舌にはコーヒーは合わん。
 親父たちが飲んでいるのを強請って後悔したことが何度もあったな、これは飲めんと。
 だから多少はお前の気持ちってヤツが分かるさ、コーヒーが苦手なお前の気持ち。



 そうは言ったけど、育ったら前のハーレイと同じでコーヒー好きになってしまったハーレイ。
 寝る前に飲んでも全く平気で、夜の書斎で大きなマグカップに一杯の熱いコーヒー。
 前と全くおんなじハーレイ。
 コーヒーが好きで、紅茶にミルクを入れるんだったら後だと思っているハーレイ。
 でも…。
「ねえ、ハーレイ。ぼくたち、前のぼくたちと色々な所がそっくりだけれど…」
 前とは違うって所も沢山あるよね、今のぼくたち。
 何処が違うのか、咄嗟には何も出てこないけれど…。
「多分な。何より今度は結婚だろ?」
 結婚だけは前の俺たちには不可能だったぞ、逆立ちしてもな。
「そうだっけ!」
 うんと違うね、結婚だものね。
 前のぼくたちには出来ないどころか、恋人同士っていうのも秘密。
 それが今度は結婚なんだし、前のぼくたちとは違うんだよね…。



 今度のぼくたちは結婚する。結婚式を挙げて、一緒に暮らす。
 そこが一番、大きな違い。
 前のぼくたちとの大きな違い。
 結婚して二人で歩いてゆくんだ、手を繋ぎ合って離れないで。
 何処までも二人一緒の未来。ハーレイと二人、いつまでも一緒。
(ハーレイと二人で暮らすんだよ…)
 もう少ししたら、ぼくの背丈が前のぼくと同じになったなら。結婚出来る年になったなら。
 前と同じに育った後にやってくる、前よりもずうっと大きな幸せ。
 恋人同士ってだけじゃなくって、ちゃんと結婚出来るんだ。
 そう、ぼくたちは前とは違う。
 紅茶にミルクを入れる順番は変わらなくっても、前と違って幸せな未来があるんだから…。




          紅茶とミルク・了

※ブルーが思い出した、ミルクティーのこと。紅茶にミルクを入れるのは、先か後なのか。
 前のハーレイとは「お揃い」だったミルクの入れ方。今度もやっぱりお揃いです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv




春はやっぱり桜が一番。今年は週末にバッチリ見頃になりました。会長さんのサイオン裏技で場所取り完璧、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の特製お花見弁当で食事も豪華に。その勢いで夜桜ライトアップまで粘って、打ち上げとばかりに会長さんのマンションへやって来たのですが。
「かみお~ん♪ コーヒーの人は手を挙げてーっ!」
「「「はいっ!」」」
パパッと上がった手を数えたら、お次は紅茶の注文取り。ホットココアなんかもあって至れり尽くせり、その中で…。
「ホットココアに砂糖多めで、ホイップクリーム山盛りで!」
「「「………」」」
どう考えてもソレは合わないんじゃなかろうか、と注文主に視線が集中。
「ん? 美味しいよ、豪華お好み焼き! それと焼きそば」
どっちも非常に捨て難い、と屋台グルメならぬ帰り道の店で買い込んで来た持ち帰り用の器をキープする人、その名も会長さんのそっくりさんのソルジャーです。私服でキメて来ていますけども、すれ違う人が思わず振り返る超絶美形がお好み焼きにホットココアって…。しかも激甘。
「もうちょっとマシなチョイスにしたまえ、飲み物くらい!」
会長さんが怒鳴り付けても何処吹く風。
「いいじゃないか、飲むのはぼくなんだしね? 美味しく食べて美味しく飲む!」
「はいはい、分かった。ぶるぅ、激甘ココアだそうだ」
「了解~♪」
キッチンへ跳ねて行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、間もなく全員分の飲み物を持って戻って来ました。ソルジャーの他にも面子は大勢、広いリビングは実に賑やか。
「はいどうぞ!」
「ありがとうございます」
コーヒーを受け取る私服のキャプテン。
「どういたしまして~! ゆっくりお泊まりしていってね!」
「お世話になります、よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げたキャプテン、今夜は私たちと一緒にお泊まり。大食漢の「ぶるぅ」も来ています。更には教頭先生までがお泊まり組で、これだけ聞けば大荒れしそうな感じですけど、何故か滅多に荒れないお花見。満開の桜は場の雰囲気も癒すのかも…。
「「「カンパーイ!!!」」」
紅茶やコーヒーで乾杯も何もないですって? いいじゃないですか、宴会、宴会!



夜桜の後も会長さんの家でワイワイガヤガヤ。ピザだ、うどんだ、いやラーメンだ、と夜食もお菓子もどんどん食べて騒いでいると。
「んーと…。ぼくね、この前、凄いもの見たの!」
唐突に叫んだ「そるじゃぁ・ぶるぅ」ならぬ悪戯小僧の「ぶるぅ」の方。ガツガツとピザを頬張りながらの台詞です。
「「「凄いもの?」」」
「うんっ! すっごく美人の!」
「「「美人?」」」
なんじゃそりゃ、と皆でオウム返しに返したら。
「凄い美人のブルーだったのーっ!!!」
「「「は?」」」
視線はもれなくソルジャーの方に。確かに美形は美形ですけど、見慣れた今ではどうと言うことも…。「ぶるぅ」はもっと見慣れている筈で、凄いも何も無さそうですが?
「…美人?」
ぼくが? と自分を指差すソルジャー。
「すっごく美人って、いつのことかな? それは是非とも参考に聞いておかないと!」
「えとえと、ブルーのことじゃなくって!」
「「「へ?」」」
今度は皆で会長さんの顔を眺めました。凄く美人って、会長さんが? けれど「ぶるぅ」は。
「そっちも違うーーーっ!!」
「「「ええっ!?」」」
ソルジャーでも無し、会長さんでも無し、されども凄く美人のブルー。そんなブルーが何処に居るのか、と暫し悩んでいたところ。
「察するに、それは夢オチだな?」
キース君がズバリと指摘しました。
「凄い美人のブルーが出て来る夢を見たってオチだろう?」
「違うよ、ホントに見たんだもん!」
「何処でですか?」
シロエ君の問いに、「ぶるぅ」はエヘンと胸を張り。
「シャングリラ!」
「「「シャングリラ?」」」
なんだ、やっぱり夢オチってヤツじゃないですか! シャングリラ号とソルジャーや会長さんはセットもの。夢と現実を混同するって、小さな子供にありがちですよね?



夢オチだったか、と回れ右とばかりに宴会モードに戻ろうとした私たち。しかし「ぶるぅ」は「ホントなんだもん!」と脹れっ面で、放置した場合は大惨事っぽい予感がヒシヒシ。なにしろ悪戯小僧です。御機嫌を損ねたらどうなるか…。
「分かったよ。…何処で見たわけ?」
会長さんが尋ねました。宴会場かつお泊まり場所の提供者としては惨事を回避したいのでしょう。
「シャングリラだよ、何処のか分かんないけど!」
「「「え???」」」
「適当に飛んだら落っこちたの!」
きちんと目標を定めずに空間移動をしようとした「ぶるぅ」は、こちらの世界に飛び込む代わりに謎のシャングリラに落ちたのだそうで。
「こっちの世界にもシャングリラはあるって聞いていたから、それかと思って…。だったら見学しとこうかな、って歩いてたんだよ、船の中を」
「それで?」
会長さんが先を促し、ソルジャーが。
「其処に居たわけ? 凄い美人のブルーというのが」
「うんっ! こっちのシャングリラだったら青の間は誰もいないよね、って瞬間移動したら人がいたからビックリしてシールドで隠れたんだけど」
ふむふむ。誰もが興味津々です。別の世界とはまた面白いネタで。
「でね、シールドの中から覗いてみたらブルーがいたの! 用事があって来てたのかな、って思って見てみたんだけど、なんか違うし…」
「美人だったわけ?」
このぼくよりも、と会長さん、些か不満そう。自分の美貌に絶大な自信を持っているだけに、同じ顔形で「凄い美人」と称される別の世界のブルーとやらに対抗心を燃やしているのでしょう。
「んとんと、ブルーよりも、ブルーよりも美人だったあ!」
「「………」」
ブルーの沈黙、二人前。会長さんとソルジャー、憮然とした顔をしています。
「なんでぼくより!」
「ぼくより美人って有り得ないだろ!」
同じ顔だ、とハモった声に、「ぶるぅ」は「でも…」と二人を交互に眺めてから。
「あっちのブルーが美人だった! すっごい美人!」
「「ちょっと!!」」
許すまじ、とばかりに「ぶるぅ」を睨み付けるブルーが二人。お気持ちはよく分かりますけど、凄い美人も気になりますよね?



自分の顔には自信満々の会長さんとソルジャーよりも美人だという何処ぞのブルー。青の間に居たということは間違いなく別の世界のブルーだったわけで、凄い美人だとはこれ如何に。
「ぶるぅ。…ちょっと訊くけど」
ソルジャーが「ぶるぅ」をジト目で見ながら。
「実はこっちのブルーだったってオチじゃないだろうね、特殊メイクの」
「特殊メイクって何さ! ぼくは素顔で勝負だってば!」
会長さんが喚き、「ぶるぅ」の方も。
「…特殊メイクはどうか知らないけど、こっちのブルーじゃなかったよ?」
「なんだ、特殊メイクかもしれないんだ?」
ホッと安堵の吐息のソルジャー。
「それなら美人でも分かるかも…。ぼくもブルーもメイクはしないし」
「えとえと、特殊メイクって、お化粧?」
「化粧の内に入るだろうねえ、塗るものが普通と違うだけでさ」
「…だったら特殊メイクじゃないかも…」
塗ってなかったし、と考え込んでいる「ぶるぅ」。
「頬っぺたとか唇とか綺麗だったけど、お化粧って感じじゃなかったもん!」
「…頬っぺた?」
「唇?」
ソルジャーと会長さんが顔を見合わせ、相手の顔のパーツをガン見してから声を揃えて。
「「なんかムカつく!!」」
「でもでも、美人だったんだもん! こんなのだもん!」
通じないことに業を煮やしたか、「ぶるぅ」が宙に噂のブルーの映像を。こ、これは確かに凄いかもです。会長さんたちと全く同じ顔形なのに、更に美しく透き通るような肌、ほんのり紅をさしているのかと勘違いしそうな桜の唇。それほどなのに、どう見てもすっぴん、ノーメイクで。
「「「……スゴイ……」」」
度肝を抜かれた私たちの横で別の反応が二通り。
「素晴らしすぎる…」
「ええ、本当に…」
凄いブルーです、とキャプテンと教頭先生が熱い溜息、その一方で。
「同じブルーで、なんで此処まで!」
「差がつくわけ!?」
許せねえ、と言わんばかりのブルーが二人。会長さんとソルジャーは映像の中の美人なブルーに牙を剥いてますが、そりゃまあ、こんなに差がついたら……ねえ?



凄い美人なブルーの証拠を示した「ぶるぅ」は映像をパッと消しましたけれど、収まらないのが二人のブルー。特にソルジャーは自分の伴侶なキャプテンが「凄い」発言をして教頭先生と共に見惚れていたのがショックだったらしく。
「…何か秘訣があるんだろうか?」
どう思う? と話を振った先は会長さんで。
「秘訣だなんて言われても…。美肌には規則正しい生活と栄養バランス…」
「その辺、ぼくはガタガタだよ! それでも君との差はついてないし!」
「…其処なんだよねえ、ぼくにもサッパリ謎なんだけど…」
他に何か、と会長さんの視線が私たちに。
「誰か知らない? 美肌の秘訣」
「あんたにだけは訊かれたくないが」
キース君が切り返しました。
「顔には自信アリなんだろうが! 俺たちに訊くな、俺たちに!」
「そうなんだけどさ、この際、何でも意見があればと」
「……サプリでしょうか?」
シロエ君がおずおずと。
「色々あると聞いてますから、あの世界には凄いのがあるかもしれません」
「なるほど、サプリか…」
「それはあるかも…」
至極真面目なブルーが二人。劇的に差がつくアイテムとなればサプリか、はたまた基礎化粧品か。でも、どちらにしても…。
「…あの世界にしか無いわけだよね?」
「無いんだよねえ?」
せめてサンプルの一つでもあれば、と超特大の溜息が二つ。サンプルさえあればソルジャーの世界で分析するとか、エロドクターに分析させるとか…。けれど「ぶるぅ」の空間移動は適当すぎて、件の美人が居たシャングリラには二度と辿り着けそうもないらしくって。
「…サンプルは無理か…」
「せめて盗み出しておいて欲しかった…」
どうして其処で悪戯小僧の本領を発揮しなかったのだ、と残念MAXな二人のブルー。
「他所のシャングリラだからと遠慮しなくても、派手にやらかしてくれればねえ…」
「いや、本当に…」
「えとえと、サンプル?」
サンプルって? と「ぶるぅ」が首を傾げました。
「なんか不思議なお薬だったら、勝手に貰って来ちゃったんだけど…?」



ちょろまかして来たという不思議な薬。それこそが美貌の秘訣なのでは、と私たちは考え、渦中の人な二人のブルーも当然のように思い至ったわけで。
「「それだ、ぶるぅ!」」
重なったブルー二人分の声に、「ぶるぅ」はキョトンと。
「サプリって、お薬のことだったの?」
「薬と言うのか、何と言うか…。とにかく飲んだらいろんな効果が!」
「そうそう、肌が綺麗になるとか!」
サプリは何処だ、と二人が詰め寄り、「ぶるぅ」は「えーっと…」と後ずさりながら。
「怒らない? …悪戯したって怒らない?」
「「怒らない!!」」
むしろ褒める、と二人がタッグ。何としてでもその薬を、と狙っているのが丸分かり。「ぶるぅ」は「分かった」と頷いてから「はい」と空間移動で大きな瓶を取り出しました。中には真珠のような色と形の錠剤がビッチリ、分析するには充分すぎる量があります。
「…こんなデカイのを盗って来たわけ?」
ジャムの徳用瓶もかくやな大きさの瓶。もっと小さい瓶は無かったのか、と突っ込みたい気持ちは分からないでもないのですけど、「ぶるぅ」は「うんっ!」と澄ました顔で。
「悪戯するならスケールはドカンと大きくだもん! あっちのハーレイ、凄く大事そうに持っていたから、小瓶を盗るより大瓶だもん!」
「「「…ハーレイ?」」」
凄い美人なブルー用の薬じゃなかったんですか、この大瓶。ハーレイと言えばもれなく船長、そんな人用の薬を盗っても何の役にも立たないんじゃあ?
「…ハーレイ用の薬だったか…」
「意味が無いねえ…」
バカバカしい、と二人のブルーが言った途端に。
「違うもん!」
ブルー用だもん、と「ぶるぅ」が敢然と反論しました。
「ハーレイがコレを飲ませてたんだよ、美人のブルーに! はいどうぞ、って!」
「「「は?」」」
何処のシャングリラかは分からないものの、船長が美人なブルーにお薬。それはサプリの一種であっても、どちらかと言えば栄養剤では…?



「…健康維持のための薬か…」
「それっぽいねえ…」
こりゃ駄目だ、と匙を投げてしまったブルーが二人。ところが「ぶるぅ」は「そうじゃないし!」と叫んで、真珠の粒が沢山詰まった大きな瓶をリビングのテーブルにドカンと置くと。
「栄養剤なんか盗らないもん! 不思議なお薬だから盗ったんだもん!」
「…不思議な薬?」
そういえばそういう話だったか、とソルジャーが首を捻りつつ。
「その薬はどう不思議なわけ?」
「えっとね、ハーレイがコレをブルーに飲ませるとねえ…」
「「うんうん」」
聞き入っている二人のブルー。ただでも美人な例のブルーが更に美人とか、そういう薬?
「もっと美人になっちゃうの!」
「なんだって!?」
「あれ以上まだ!?」
それはスゴイ、と食らいつく二人。サンプルは「ぶるぅ」が徳用瓶サイズでガッツリ盗み出しましたから、後は分析あるのみでしょうか。
「もっと美人になる薬ときたよ…」
「普段からそれを飲んでいるなら、あのレベルでも納得かも…」
是非飲むべし、と意見が一致するブルーが二名いるのですけど、「ぶるぅ」が「うーん…」と。
「ホントに飲むの?」
「「飲む!!!」」
「…飲んでもいいけど、胸がおっきくなっちゃうよ?」
「「「胸?」」」
二人のブルーに私たちの声も加わりました。胸が大きくと聞こえましたが?
「うん、胸が大きくなるお薬なの!」
「「「はあ?」」」
「だからね、ブルーの胸がうんと大きくなるの! そしたらハーレイが服を脱がせて」
「ちょ、ちょっと待った!」
会長さんが「ぶるぅ」を制止してから。
「そ、それはもしかして女性並み? あのブルーはまさか女になるとか?」
「うんっ!」
元気よく返事した「ぶるぅ」の声に全員、ドン引き。まさかまさかの性転換薬、それが目の前の徳用瓶だと…?



よりにもよって女性になる薬。美人になるのも納得です。日頃からそんなアヤシイ薬を飲んでいたなら、効き目が切れている時にだって美人要素を引き摺るでしょう。男性と女性、どちらがお肌がしっとりツヤツヤ、唇の色も美しいかは考えるまでもないことで…。
「……お、女……」
会長さんの声が震えて、ソルジャーが。
「ぶ、ぶるぅ…。そのハーレイは、まさか女のぼくを…」
「なんか大人の時間だったよ、すっごく胸のおっきなブルーと!」
「「「うわー…」」」
ひでえ、と誰が言ったのか。教頭先生とキャプテンも眉間の皺を深くしながら。
「…それは立派な変態ですね…」
「まったくです。わざわざブルーに薬を飲ませて女にするなど、変態でしか有り得ませんよ」
そりゃそうだろう、と私たちも頷いたのですけれど。
「………ん?」
一番最初に矛盾に気付いたのが会長さんで。
「薬を飲ませて男を女に、というのは確かに変態だけどさ…。ぼくもドン引きしちゃったけれども、それって結果は普通じゃないかな?」
「「「普通?」」」
「うん。…男同士の方が変だよ、男と女なら普通だってば!」
「「「あー…」」」
それはそうかも、と目から鱗がポロリンと。凄い美人の男なブルーと大人の時間をやらかすよりかは、女なブルーとやっている方が普通かもです。してみれば、例の薬を美人なブルーに飲ませる船長、至って普通な趣味の持ち主なのかもで…。
「…変態ってわけじゃなかったんだ?」
ジョミー君が言い、サム君が。
「言われてみればそうかもなあ…。いやまあ、俺は男のブルーの方が好みだけどよ」
「サム先輩もそっちの人ですしねえ…。でも、普通だったら其処は女ですよ」
シロエ君の指摘に、マツカ君も。
「…性別を変える件はともかく、普通は女性が相手ですよね?」
「真っ当な趣味をしているのかしら、ぶるぅが見てきた別の世界のハーレイって人は?」
スウェナちゃんの意見は至極正論、性転換の件さえなければその船長はいわゆるノーマル。教頭先生やキャプテンなどより正常な人になるわけで…。
「変態どころか正常ねえ…」
だけど理解の範疇外だ、と会長さん。それはどういう意味合いで…?



「えっ? まず一番はハーレイとやろうって辺りだよ、うん」
会長さんは凄い美人なブルーの嗜好を真正面から否定しました。
「ハーレイなんかが趣味っていうのが理解出来ない。しかもハーレイがノーマルだからって、自分の性別まで変えるなんてねえ…。いやもう、変態はブルーの方かと」
「その点は同意」
深く頷いているソルジャー。
「この身体でヤッてなんぼなんだよ、なんでわざわざ女になるわけ? おまけにハーレイの好みで女になってるわけだろう? ぼくは受け身はお断りだってば!」
自分の意志で女になるならともかく、とソルジャー、ブツブツ。
「凄い美人は羨ましいけど、女はねえ…」
「ぼくも美貌は羨ましいけど、そこまでしてねえ…」
リスク高すぎ、と二人のブルーの意見が一致。ところが人数がこれだけいれば、ズレている人もいるわけでして。
「…私も同じ意見だな。お前は断然、男でないと」
教頭先生が会長さんの肩をガッシリと掴み、真剣な愛の告白を。
「女になってくれとは言わない。…確かにあれほどの美人は捨て難いのだが、女となったら興醒めだしな。お前は今のままがいいんだ、俺は男のお前が好きだ」
「ちょ、ちょっと…!」
「だからだ、あそこの薬を飲まなくてもいい。お前は今のままで充分、美人だ。女なお前より断然、男だ。…是非とも嫁に来て欲しいのだが」
「お断りだし!」
この変態が! と会長さんは教頭先生の腕を振りほどくと。
「君の場合はその変態を治すべきだね、その方がいい」
「女になってくれるのか?」
「なんでそういうことになるのさ!」
都合のいいように解釈するな、と柳眉を吊り上げる会長さん。
「ぼくが女に変化するより、最初から女性を探したまえ! 君に釣り合う女性ってヤツを!」
「私にはお前しか考えられん。だからだな、お前が女になるというなら私もこの際」
「……この際?」
「女なお前を相手に出来るよう、自分をキッチリ鍛えるまでだ!」
教頭先生の思考は斜め上というヤツでした。まずは会長さんありき。会長さんが男だったら最高であって、万一、女になってしまったなら、自分の好みを変えるんですか、そうですか…。



「うーん…。ある意味、天晴れだよねえ」
ソルジャーがしみじみ呟きました。会長さんは教頭先生の発言のズレっぷりに頭を抱えて呻いていますが、ソルジャーにとっては違ったようで。
「ハーレイ、今のを聞いたかい? ブルーが男であるのが一番、それがダメなら自分もそっちに合わせるそうだ。…お前の場合はどうなんだろうね、ぼくが女になってしまったら?」
「努力します!」
キャプテンは即答、ソルジャーはそれは満足そうに。
「なるほど、お前も努力をする、と。…ぼくも大いに愛されてるねえ」
「もちろんです! 一刻も早く元に戻るよう、あらゆる努力を惜しみません!」
「…元に戻る?」
「そうです、早く男に戻って頂きませんと!」
グッと拳を握るキャプテン。その表情は先ほどの愛の告白な教頭先生と同様、とても真剣なのですけれど。
「…ぼくに男に戻れって?」
「はい! でないと大いに楽しめませんし!」
「…ちょっと待って。それって、お前が楽しめないっていう意味なんじゃあ?」
「あなたもです! 萎えたままでは如何なものかと!」
ヌカロクどころではありませんし、と謎の単語を発したキャプテンに向かって、ソルジャーが氷点下に冷えた瞳で。
「…萎えたまま? つまり、女のぼくでは欲情しない、と」
「当然でしょう! 男のあなたが最高なんです、女では気分が乗りません!」
男が最高、と讃える所まではキャプテンも教頭先生と同じ。ただ、その先が違いました。女だったらそれに合わせて自分を変える、と言ってのけたのが教頭先生、元に戻す努力をすると答えた方がキャプテンで…。
「分かった。…要するに、お前は自分の好みが優先である、と」
良く分かった、とソルジャーの声は絶対零度な氷の響き。
「お前の好みに合わせるために、ぼくの性別を変化させるというわけだな?」
「い、いえ、そうではなく…! あなたは本来、男ですから、元に戻すと…!」
「いや、違う。女になったぼくに合わせるつもりは毛頭無くて、自分自身が萎えないようにと女のぼくを男にするんだ。…それは凄い美人なぼくを作ったという変態と同じレベルだけど?」
ぼくの身体を自分好みにカスタマイズ、とソルジャーはキャプテンに指を突き付けました。
「ぼくの身体より自分が優先、もう最低な変態だってば!」



女になった相手に合わせて自分を変えるか、相手の身体を元に戻すか。どっちの方が変態なのかと尋ねられても困ります。世間一般には男と女で、自分を変えても女相手が正しい選択。しかし元から男同士のカップルの場合、元に戻して男にしないと変態じみたことになるかも…。
「とにかくお前が変態なんだよ、間違いない!」
それは絶対、と主張するソルジャーが正論なのか、はたまた女になった会長さん相手でも努力あるのみと言い切った教頭先生が変態なのか。教頭先生とキャプテン、どちらが真の変態なのかは判定が難しすぎました。でも…。
「変態と言ったら変態なんだよ、お前の方が!」
ギャーギャーと喚くソルジャーはキャプテンを変態と決め付け、夫婦の危機というヤツです。此処はキャプテンの肩を持たないとヤバイのかも、と思えてきました。
「…どうすりゃいいんだ、この状況を」
キース君がヒソヒソ声で尋ね、シロエ君が。
「いっそ飲ませたらどうでしょう? 例の薬を」
「「「えぇっ!?」」」
「シーッ! 聞こえたら命が無いですよ?」
お静かに、とシロエ君が声をひそめてヒソヒソヒソ。
「今は机上の空論ですから、マズイ方向にしか行かないわけで…。実際、薬を飲んでしまったら分かるでしょう。そのままの状態で夜を過ごすか、何が何でも元に戻すか」
「しかしだ、元に戻す薬は無いんだぞ?」
其処をどうする、とキース君。
「あいつがそのまま女だったら、俺たちの命は確実に無い」
「その内、勝手に元に戻りますよ。ぶるぅが盗ってきた薬の量の多さからして、効果があるのは長い時間ではない筈です。せいぜい一粒で一晩かと。…それと飲むのはお任せコースで」
「「「お任せコース?」」」
「ぼくたちが飲ませたら殺されますよ? 自分で飲んで頂きましょう」
ちょっと煽って、とシロエ君は恐ろしいことを言い出しました。
「どのくらい愛されているのか試してみれば、と横から煽れば飲みますよ」
「…し、しかし…」
あいつが女に、と腰が引けているキース君。私たちだって同様でしたが、そんな状態がソルジャーにバレない筈がなく。
「……面白そうな相談だねえ?」
赤い瞳が私たちをひたと見据えました。もしかして人生、終わりましたか…?



「ふうん…。実際に飲んでみて愛を試す、と」
面白い、と真珠そっくりの粒が詰まった瓶を手に取るソルジャー。
「女になっても愛せるかどうか、そこの所を確かめるんだね?」
「…ま、まあ…。そういうトコです……」
間違ってません、とシロエ君。ビッシリと汗をかいてますけど、ソルジャーの方は涼しい顔で。
「そうだってさ。はい、ブルー」
どうぞ、と瓶を差し出した先には会長さんが。
「とりあえず君が飲んでみたまえ、君なら問題ないだろう? こっちのハーレイは究極のヘタレ! 君が女に変わった所で急にコトには及べない。女になった君を相手に熱烈な言葉を吐けるかどうか、そこだけ分かれば充分だよ、うん」
「な、なんでそういうことになるわけ!?」
「君だと実害ゼロだから! こっちのハーレイが熱い台詞を吐いていようが、女の君を押し倒したりは出来ないし…。君もハーレイも変な趣味に目覚める心配は全く無いよね」
其処の所を是非確かめたい、とソルジャーは会長さんに詰め寄りました。
「でもって君のハーレイの愛が実証されたら、ぼくのハーレイは愛情不足! 男のぼくしかダメというのはよろしくない。結婚までした夫婦だよ? 許されないとは思わないかい?」
「だ、だったら君も飲むんだろうね? 許されないなら!」
「なんで?」
これ以上夫婦の危機を深めてどうする、というのがソルジャーの意見。
「ただでも夫婦の危機なんだよ? これで女になったぼくを相手にヤれないとなったら最低最悪、もう別れるしかないんじゃないかと!」
「じゃ、じゃあ、ぼくにだけ飲ませてどうするつもりさ!」
「えっ? そりゃもう、あの愛の深さを見習えと! 冷え切った夫婦の仲を燃え上がらせるべく今夜は励めと!」
ねえ? とソルジャーはキャプテンに視線を向けました。
「こっちのハーレイに愛の深さで負けたとなったら、お前には後が無いわけだしねえ? もうヌカロクは基本中の基本、今夜は徹夜で励むしかないと思うけど?」
「は、はいっ! 頑張らせて頂きますっ!」
「うんうん、その勢いで男のぼくを相手に、ね。…というわけで、ブルー、よろしく」
夫婦の危機を回避するための着火剤になれ、とソルジャーは瓶を会長さんに突き付けました。
「一錠、飲んでみてくれる? 美人になれるのは間違いないしね」



飲めば美人になる薬。凄い美人が出来上がるものの、もれなく胸がついてくるとか。それも立派な女性の胸で、どうやら男が女になってしまうという薬。いくら実害ナッシングでも、会長さんが女になりがたるわけがなく…。
「嫌だってば! ぼくは飲まない!」
「凄い美人になるんだよ? 君も見ただろ、あの美人を! 羨ましいって言ったじゃないか!」
「言ったけれども、それとこれとは話が別で!」
飲む、飲まないで押し問答になりつつある中、ソルジャーがキラリと目を光らせて。
「嫌なら口に突っ込むまでか…。サイオン勝負なら、ぼくに分がある」
「ちょ、ちょっと!」
「自発的に飲むか、飲まされるかの違いだってば! どっちがいい?」
「どっちも嫌だーーーっ!!」
必死に逃げを打つ会長さんと、瓶を片手に「さあ飲め」と迫るソルジャーと。サイオン勝負なる言葉が出た以上、会長さんの負けは見えていました。サイオンで口を開けさせられて薬を一錠放り込まれるか、口の中にポイと瞬間移動か。
「…ま、マズイですよ、このままだと…!」
「シロエ、お前が言い出したんだぞ!」
「そんなことを言ってる場合じゃないですってば、キース先輩!」
なんとかしないと、と叫ぶシロエ君を筆頭に焦りまくりの私たち。このまま行けば会長さんは凄い美人で女なコースへまっしぐらです。それが分かっているのか否か、女でもそれに合わせると言い切っただけに気にしていないのか、動かないのが教頭先生。
「ブルーへの愛はどうなったのさ!」
助けに来れば、とジョミー君が毒づく声すら聞こえているのかサッパリ謎。腕組みをして見ているだけで、止めるわけでもなさそうで…。
「誰か助けてーーーっ! ぶるぅーーーっ!!」
会長さんの悲鳴に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が動きかけると、ソルジャーが。
「ぶるぅ、これは美人になる薬! ブルーも欲しいと言っていただろ、そういうサプリ!」
「え? でもでも、ブルー、嫌がってるよ?」
「それは副作用があるからで! 知っているだろ、副作用を恐れちゃ薬は飲めない」
「そっかあ! 風邪薬とかで眠くなるよね♪」
分かったぁー! とアッサリ丸め込まれて、タイプ・ブルーな援軍、轟沈。ソルジャーはウキウキと瓶の蓋を開けにかかりました。もうダメだ、と私たちが目を瞑りかけた時。



「ブルーーーっ!!!」
マッハの速さでソルジャーにタックルをかました人影。よろけたソルジャーの手から瓶を奪い取り、キュキュッと蓋を開けるその人は…。
「「「教頭先生!?」」」
「ブルーが危ないのはよく分かった。嫌がっているのも分かったのだが、どうするべきかで悩んでな…。この薬さえ無かったならば!」
「「「…無かったならば?」」」
読めない教頭先生の行動。ソルジャーもポカンと眺めるだけで、瓶を取り返しには行かないようです。教頭先生は蓋を開けると、会長さんにニッコリ微笑みかけました。
「これさえ無ければブルーの身体が危機に陥ることはない。私が全部消し去ってやる」
「…ど、どうやって?」
会長さんの疑問はもっともなもの。教頭先生に瞬間移動の技は無い上、あの錠剤を燃やしたりする能力も皆無の筈ですが…?
「分かり切っている、こうするまでだ! 飲んでしまえば何も残らん!」
「「「えぇぇっ!?」」」
ザラザラザラ…ッと瓶から溢れた真珠の粒が、教頭先生が大きく開けた口の中へと。まさかまさかの教頭先生が凄い美人で、おまけに胸までドッカンですか? しかも徳用瓶じみた大きな瓶に一杯分だと、効き目はいつまで続くのやら…。
「つまんなーーーいっ!!!」
真っ白な灰になりかかっていた私たちの耳に届いた「ぶるぅ」の叫び。パアァァァッ! と青いサイオンが迸り、部屋が一瞬ユラリと揺れて。
「「「…い、今のは…?」」」
そして教頭先生は、と目をやった先に先刻までと寸分違わぬ大きな姿。美人でもなく大きな胸も無く、何処から見ても立派な男性。ただ、違っている点が一つだけ…。
「あれっ、薬は?」
ジョミー君がキョロキョロ、教頭先生も自分の手をじっと見詰めて「どうなったのだ?」と。薬の瓶がありません。真珠の粒がビッチリ詰まった徳用瓶が影も形も…。
「飛ばしちゃったもん!」
なんか面白くないんだもん、と「ぶるぅ」がプウッと頬っぺたを膨らませて。
「ブルーが美人になる薬なのに、ハーレイが美人じゃつまんないし! もっと面白くなりそうな所に飛ばしたんだもん、美人になれます、って!」
「「「………」」」
それは何処だ、と訊きたい台詞を全員がグッと飲み込みました。なにしろ相手は災難を運んでくる薬。何処かへ消えたなら万々歳で、触らぬ神に祟りなしです…。



こうして迷惑な薬は消え失せ、お花見の夜は更けて無事にお開き。ソルジャー夫妻は自分たちのゲストルームに引っ込み、「ぶるぅ」は「そるじゃぁ・ぶるぅ」と土鍋を並べてお泊まりで。
「…ハーレイ、一応、御礼は言っとく」
助かった、と会長さんが教頭先生に差し出したものは花見団子の残りを盛ったお皿でした。
「これ、ぼくの気持ち。…夜食に食べてよ、これくらいしか無くってごめん」
「い、いや…。お前が無事ならいいんだ、うん」
「ありがとう。これも綺麗に食べてくれると嬉しいな。明日になったら乾いてしまって味が落ちるし、美味しい間に…。此処のはホントに美味しいんだよ」
遠慮しないで、と極上の笑みの会長さん。教頭先生は恐縮しつつも御礼を言っておられますけど、心の中では泣いておられることでしょう。甘いものが苦手な教頭先生、花見団子は一つも食べておられません。それなのにお皿に山盛りだなんて…。
「ハーレイ、ホントにありがとう! 朝になったら御礼に緑茶を運んであげるね、その時にお皿を下げるから!」
「「「………」」」
鬼だ、と私たちは顔を見合わせました。会長さん手ずから目覚めの一服は嬉しいでしょうが、それまでに花見団子を完食の刑。身体を張って会長さんを救おうとしたのに、この始末。これでは例の薬を本当に飲んで女性化してても、ロクなことにはならなかったような…。



何処かのシャングリラから「ぶるぅ」が盗んだ、凄い美人なブルーとやらが出来上がる薬。何処へ消えたかも大騒ぎすらも遠いものとなった数日後の放課後、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋にソルジャーがフラリと現れました。
「こんにちは。…この前の薬、覚えてる? ほら、凄い美人なぼくが出来ると噂のアレ」
「ああ、アレな」
見付かったのか? とキース君が訊けば、ソルジャーは「まあね」と頷いて。
「ぶるぅの人選は見事だったよ、お蔭でぼくのシャングリラは笑いの渦だ」
「「「は?」」」
「特にブリッジと機関部が酷い。なにしろゼルがフサッてるから」
「「「へ?」」」
なんのこっちゃ、と首を傾げた私たちですが。
「分からないかな、ゼルがフサフサなんだってば! ゼルの頭にフサフサと毛が!」
「「「えぇっ!?」」」
「ぶるぅはゼルが美人になったら笑えるだろうと単純に考えただけらしいんだけど…。モノが女になる薬だけに、女性ホルモン爆発なのかな? もうアフロかっていう勢いでフサフサなんだよ」
こんな感じ、とソルジャーが見せてくれた映像の中には頭がモコモコの羊状態なゼル先生ならぬゼル機関長が立っていました。髭は直毛、ソルジャーの記憶では若い頃には癖毛じゃなかった筈のゼル機関長が真っ白なアフロヘアーでモコモコ、フワフワ。あまつさえ…。
「本人、この薬のせいで生えてきたって分かってるからガンガン飲むしね? すっかり美人になってしまって、どうしようかと…」
「……これは酷いね……」
会長さんが打った相槌のとおり、ゼル機関長は美老人と化していました。
「ね、君だってそう思うだろ? でもねえ、ゼルはまずは髪の毛らしいんだ。それであちこちで言ってるんだよ、「フサりたいけど女はキツイのよ~」って! 「キツイのう」ですらない状態」
「「「うわー…」」」
御愁傷様としか言いようのない事態になったようです。ソルジャーは懸命に「ぶるぅの悪戯だから」と火消しをしているらしいですけど、最悪の場合はシャングリラ中の記憶消去しかない模様。
「……最悪ですね?」
シロエ君が呟き、キース君が。
「いや待て、ブルーが女よりかはこっちの方が…。いや、しかし…」
変態カップル登場がマシか、美老人なゼル機関長か。どちらも記憶を消去するしか後始末が出来そうにありません。「ぶるぅ」が盗んだ妙な薬と、凄い美人なブルーが住むというシャングリラ。二度と遭遇しませんようにと祈るより他は無いような…。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。




            飲んで美人に・了

※新年あけましておめでとうございます。
 シャングリラ学園、本年もよろしくお願いいたします。
 新年早々、強烈な話でスミマセンです、でも、こういうのがシャン学というヤツですから!
 「女体化の危機か」と思われた方もあるかもですけど、「その趣味は、ねえ!」と。
 来月は第3月曜更新ですと、今回の更新から1ヶ月以上経ってしまいます。
 よってオマケ更新が入ることになります、2月は月2更新です。
 次回は 「第1月曜」 2月6日の更新となります、よろしくです~!

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 こちらでの場外編、1月は、除夜の鐘の存在意義と「ありよう」を巡って論争中…。
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