シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(ハーレイのスープ…)
少し冷えるな、と思った夜。
ふと恋しくなった、ハーレイのスープ。野菜スープのシャングリラ風。
お風呂から上がって、ベッドに入る前に飲みたくなった。あの温かい野菜のスープが。
(だけど病気はしてないし…)
ぼくの具合が悪い時だけ、ハーレイが作ってくれる特別食。前のぼくだった頃から、ずっと。
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴なスープ。優しくて懐かしい味わいのスープ。
今は「野菜スープのシャングリラ風」なんてハーレイは呼んでいるけれど。
地球の太陽と水と土とで育った野菜を使っているから、うんと美味しくなったんだけれど。
(…でも、あの味付けでなくちゃ駄目なんだよ…)
凝った味付けなんかは要らない。今のぼくのママがビックリしたほど、素朴すぎる味のスープがいい。前のぼくだって、そうだった。レシピを変えて欲しくはなかった。
シャングリラが立派な白い鯨になっても。
食材に不自由しなくなっても、レシピは最初のままが良かった。
野菜スープのシャングリラ風。前のハーレイがぼくのためにだけ作っていたというスープ。
あのスープをいつから飲んでいたんだろうか。
シャングリラと名付けた、前のぼくとハーレイが暮らしていた船。世界の全てだった船。
其処でいつから、ハーレイが作る野菜のスープを飲むようになっていったんだろうか…。
前のぼくが好きだった野菜のスープ。
どんなに弱り果てた時でも、あのスープだけは喉を通った。何も食べたくない時でも。
いつから飲んでいたんだろう、って遠い記憶を手繰ってみる。
(ハーレイが厨房に居た頃は…)
キャプテンになる前は、厨房で料理をしていたハーレイ。食材を管理し、船にあるもので作れる料理をあれこれ工夫し、皆を飽きさせないように頑張っていた。
前のぼくが奪って来た食材が偏り過ぎてて、ジャガイモ地獄やキャベツ地獄になった時でも。
とはいえ、あの頃は奪いさえすれば豊富にあった様々な食材。
野菜はもちろん、肉も魚も。調味料だって沢山あったし、香辛料も。
(そんな時には作らないよね、あのスープ…)
材料はたっぷりあるんだから。
スープの中身は野菜だけでも、スープを工夫出来た筈。ブイヨンだって作れた時代。
(…野菜と基本の調味料だけ…)
たったそれだけ、味付けは塩と野菜の旨味だけ。
えーっと、とスープの材料から考えていってみたんだけれど。
(…そうだ…)
シャングリラに塩と野菜くらいしか無かった頃。
自給自足の生活の初期。
(もう奪わないって…)
キャプテンだったハーレイに、ヒルマンとエラ、ブラウにゼル。それに前のぼく。
何度も会議を重ねた末に、そう決めた。
人類から奪った物資に頼っていたんじゃ、ミュウは決して自立できない。新しい種として生きてゆくなら、いつか人類に存在を認めて貰いたいのなら。
自分たちの力で生きていかねばと、自分たちの足で立たなければ、と。
もうこれ以上は奪うまい。自分たちの力でやってゆこうと、生きてゆこうと決めたけれども。
それが本当に上手くいくかは分からない。
宇宙船の中で、シャングリラの中だけで出来るのかどうか分からない。
自給自足の船を目指して改造案が幾つも出ていて、後は煮詰めて実行するだけの段階だけれど。机上の空論という言葉もあるのだし、それらの案が使えるものとは限らない。
慎重に進めてゆかなければ、と出来ることから手を付けてみた。
まずは改造に取り掛かる前に、自給自足でやっていけるかどうかの試験期間を、と。
船の中を整理し、スペースを設けて作り始めていた野菜。それは軌道に乗っていた。畑を広げて収穫量だって充分に増えた。
計算の上では、船のみんなの胃袋を満たせるだけの野菜がある筈。種類も多いし、上手く回せば何とかなる、とヒルマンたちが太鼓判を押した。
それでも準備期間を設けて、保存食用に加工した野菜も倉庫に沢山蓄えておいた。
後は調理に欠かすことが出来ない調味料。合成するにはまだ早すぎると、船の改造が進まないと駄目だと、塩だけで調理しようと決めた。
畑からはトマトなんかも採れるし、塩さえあれば工夫次第で料理を作れるだろうと。
塩は岩塩を含んだ小惑星からの採取が可能。
武装していない小型艇やシャトルしか持たないシャングリラだけど、岩塩くらいは採掘のために出てゆくことが出来るから。
ぼくがサイオンで採って来たって良かったんだけど、小型艇を出して採った岩塩。
それと畑から採れる野菜と、それらだけで暮らしてゆこうとして…。
シャングリラはたちまち行き詰まった。
食料は充分に足りているのに、食べるものはあるのに、食べることが出来なくなった様々な物。
「もっと広い畑でないと無理だ。当たり前の野菜しか無いじゃないか」
「肉が食いたい」
「魚が何処にも無いだなんて」
アルタミラでは餌と水しか無かったというのに、長く続いた平和な時間に船の誰もが慣れ過ぎていた。肉も魚もあって当前、野菜もあれこれ種類が欲しい。
おまけに調味料は塩しか無くって、トマトベースの煮込みくらいしか違った味が食べられない。
日々、募ってゆく不満の中。
(ぼくは…どうすればいいんだろう)
ソルジャーと呼ばれるぼくだけれども、こういう時には役に立たない。
みんなが生きるための物資を奪っていたから、ぼくがいなければ食べるものや着るものに不自由するから、ソルジャーの称号を貰っただけ。
こんな時にぼくが役立つとしたら、皆の不満を逸らすための物資を人類の船から奪うことだけ。
(だけど…)
奪うことはすまい、と決めたんだった。今はそのための試験期間中。
此処で物資を奪って来たなら、振り出しに戻ってしまうんだ。
でも…。
怒りをぶつけられるハーレイの姿を知っていた、ぼく。
不平不満の矢面に立つのはいつもハーレイ、このシャングリラのキャプテンだから。陳情やら、面と向かっての文句に怒声。
それらの全てに穏やかに応じ、ただ黙々と仕事をこなすキャプテンの姿をいつも見ていた。
(…ハーレイに怒っても仕方ないのに…)
今はみんなが我慢をすべき時なのに、と思うけれども、それを言いには行けない、ぼく。
皆を鎮める力は無くって、逆に「物資を奪って来て欲しい」と頼まれてしまいそうな、ぼく。
だから、ハーレイの仕事が終わった時間に思念を飛ばした。
ぼくの部屋まで来てくれないかと、相談したいことがあるから、と。
暫くしてから扉が開いて、やって来たハーレイ。扉が閉まるなり、ぼくは尋ねた。
「不満の声が高まって来ているけれど…。ぼくがもう一度、奪って来ようか?」
みんなが喜びそうなもの。食料と、それに調味料を。
「駄目です」
ハーレイは即答したけれど。そう言うだろうと分かっていたから、重ねて言った。
「でも…。一度だけ」
本当に一度だけでいいんだ、そうすれば船の中が落ち着く。食べたいものを充分食べれば、我慢出来るようになるだろうから。
「一度が二度。二度が三度。一度きりの筈が、そうやって全て元に戻ってしまうのです」
あなたの力に頼る暮らしに。あなたが物資を奪わなければ、誰一人生きていけない日々に。
「だけど…。それでみんなが生きていけるのなら」
幸せに生きてゆけるのだったら、ぼくは幾らでも奪って来るよ。
こんな風に皆が無理を重ねて不満だらけで暮らすよりかは、その方が余程…。
「お分かりだったと思いますが?」
それでは駄目だと。そんな生き方しか出来ないようでは、ミュウに未来などありはしないと。
「…そうなんだけど…」
これも一種の非常事態だよ、今のシャングリラは普通じゃない。船の空気が殺伐としてる。
ミュウは精神の生き物だからね、一人の不満が次から次へと皆に伝わり、増幅してゆく。それを止めるためにも、一回だけ。
負へと傾いてゆく流れを止めたい。充分な内容の食事があったら止められるんだ。
「駄目です、許可は出来ません」
食料を奪う必要などはありません。皆が食べるだけの量は確保しています。
「ソルジャーは、ぼくだ」
君よりもぼくの方が上。ぼくが奪うと言っている。
「いいえ。船のことはキャプテンの私が決めます」
この船に関する、全責任は私にあります。私が最高責任者です。
たとえソルジャーのお言葉であっても、シャングリラの今後を左右する行為は認められません。
「ハーレイ…!」
ぼくに逆らうのか、と思わず怒ってしまったけれど。
ハーレイを助けたくて言い出したことを否定されたから、ついつい怒鳴ってしまったけれど。
直ぐに気が付いて「…ごめん」と謝ったぼくに、ハーレイは「いいえ」と応えて、まるで小さな子供にするように、そうっとぼくの右手を取った。両手で握って、諭すように語った。
「…ソルジャーのお気持ちは分かりますが…」
いつまでもあなたに頼っていたのでは、ミュウという種族は生きていけない。
そのことは御自身が一番お分かりでらっしゃるでしょうに。
あなた無しでは生き延びることさえ出来ない種族に、未来があるとお思いですか?
…遠い昔に、食料が尽きかけてしまった時。
飢え死にするしか道が無かった私たちを救って下さった。まだ少年の姿だったあなたが。
そのことは感謝しています。
あなたの力が無かったとしたら、今日まで生き延びられたかどうか…。
ですが、今の私たちは自分たちの力で生きてゆく術を身に付けなくてはなりません。
そういう時が来ているのです。
どんなに辛くて厳しい日々が続いたとしても、乗り越えなければならない時です。
私の言うことはお分かりですね?
物資を奪いにお出になることは必要ありません。これはキャプテンとしての命令です。
やんわりと、けれど厳しい表情で断られてしまった物資の調達。
勝手に奪っては来られない。ぼくには簡単なことだけれども、ハーレイは奪った食料などを全て廃棄してしまうだろう。今のシャングリラには必要無いと。
そうなれば余計に船の中は荒れる。せっかくの物資をキャプテンが捨てたと、何もかもを捨ててしまったのだと。
(…ハーレイの立場が今よりも悪くなるだけだ…)
だから出来ない。ぼくの独断で物資を奪いに出られはしない。
試験期間を無事に乗り越えて、船の改造に入ったならば。
シャングリラの改造が完了したなら、船は本当に自給自足のミュウの楽園になる。改造を終えていない時期でも、食料事情は今よりもずっと改善されて豊かになる筈。
そうすれば軌道に乗るんだろうけど…。食べたいものを食べられるようになるんだろうけど。
船のみんなも、そのことは充分、分かっている。何の説明もせずに始めた試験期間じゃない。
今は過渡期で辛いだけ。乗り越えた先には、また色々と食べられる日々が待っている。
けれど、一度は楽園だった船。それが奪った物資であっても、満ち足りていた食事と生活。
後戻りは辛い。誰もが辛い…。
物資を全く奪わなくなって、ぼくの仕事は警備だけ。
その警備だって、人類の船がレーダーに映れば逃げているのだし、まるで必要とされていない。
ソルジャーと言っても、もう名前だけ。
ただのお飾り、今のシャングリラでは何の役にも立たないソルジャー。
(こんな服…)
仰々しいマントに、頭の補聴器。誰も着ていない、白と銀との目立ちすぎる上着。
同じ立派な衣装であっても、ハーレイの服はいいんだけれど。キャプテンとしてシャングリラの舵を握って船を預かるハーレイの服はいいんだけれど。
ぼくの服は無駄。
仕事なんか全然していないくせに、やたら偉そうなソルジャーの衣装。
この服のせいでウッカリ畑にも出られない分、本当に無駄。
脱いでいいなら、畑仕事を手伝うのに。
水をやったり、耕したり。みんなと一緒に野菜を育てられるのに…。
(ぼくは何のために居るんだろう…)
このシャングリラに、何のために。
ソルジャーなんて尊称で呼ばれて、畑仕事を手伝いもせずに、ただ食べるだけ。
皆が不満を零す食事に、文句を言ったりはしないけれども。不満も無いけど、食べているだけ。
(…何の役にも立ってやしない…)
ただ食べるだけの役立たず。
ごくつぶしだとか、無駄飯食いとか。ぼくにピッタリの言葉が渦巻く。頭の中で繰り返し。
何の役にも立ちはしないと、食べては寝ているだけの日々だと。
来る日も来る日もぐるぐるしていて、それも身体に悪かったんだろう。
いわゆるストレス、精神の生き物のミュウにとっては万病の元。
(なんだか重い…)
ある朝、起きたら鉛みたいに重かった身体。熱は無さそうだったけれども、身体が重い。自分の身体ではないような重さ。ほんの少し腕を動かすだけでも辛かった。
だけど心配かけちゃいけない。
ただでもみんなの役に立たないのに、余計な心配までさせちゃいけない。
なんとか起きて、いつもよりずっと重く感じるマントも着けて、食堂までは出掛けて行った。
「ソルジャー?」
何処かお加減でも、って訊いたハーレイ。何故分かったのか、ぼくを見るなり。
ううん、と答えておいたけれども。
食事も辛うじて食べられたけれど、もうそれだけで精一杯で。ふらつかないように気を張って、懸命に歩いて部屋に戻るなりベッドに倒れた。文字通りバタリと倒れ込んだ。
(身体が重い…)
それに眠くて、引き摺り込まれるように意識を手放した。目を覚ました時には、もう昼時。
お昼御飯に行かなくちゃ、と思ったことまでは覚えている。
だけど…。
「ソルジャー?」
「…ハーレイ…?」
ぼくを呼ぶ声と思念で優しく揺り起こされた。心配そうに覗き込んでいるハーレイ。
「昼食をお持ちしましたが…。お召し上がりになれそうですか?」
「…無理みたいだ…」
ハーレイが持って来てくれた食事。トレイに載せられた野菜の料理。
首を横に振った。今日は要らないと、食べたくないと。
「決して無理にとは申しませんが…」
少しくらいはお食べ下さい。でないと、お身体が弱ってしまいますよ。
「…いいんだ、本当に食べたくないから」
どうせ眠っているだけだから、と言ったら、ハーレイは「またご様子を見に参ります」と部屋を出て行ったんだけれども。
(ますます役に立たなくなった…)
忙しいハーレイに食事を運ばせた上に、その食事まで食べなかった、ぼく。
これが役立たずでなければ何だろう…。
元々、そんなに丈夫な方ではなかったけれど。
虚弱な身体は無理が利くものではなかったけれども、アルタミラで鍛えられたと言うのかな?
長いこと地獄で生きていたから、弱い身体でも元気でいられた。
たまに倒れても、ゆっくり眠れば元に戻った。ある意味、病気知らずだった身体。
みんなのために頑張らなくちゃ、と思っていた分もきっと力になっていた。
それがプツリと切れたんだろう。
役立たずになってしまったから。何の役にも立たない存在になってしまったから…。
ハーレイが何度か覗きに来ていたけれども、ぼくは目を開けるだけの気力も無かった。額の上に手が置かれたって、多分、睫毛が震えた程度。
眠くて眠くて、身体が重くて。どうしようもなくて眠っていただけ。
何度目に覗きに来た時だろうか、ハーレイがマントと上着を脱がせてくれても、ぼくは腕さえも動かそうとせずに人形みたいにぐったりしてた。
意識はあったし、楽になったとも思ったんだけど、御礼も言わずにまた眠った。ベッドに沈んでしまいそうなほどに重い身体は、ただ眠りだけを欲していたから。
泥のように眠っていたかったから…。
そんなぼくだから、夜になっても気力は回復していなくって。
「ソルジャー、お夕食ですが」
今度こそ起きて頂きます、とハーレイに抱え起こされた。
熱は無いのだから食べなければと、でなければ本当に病気になると。ベッドの上で上半身だけを起こした状態、仕方なく重い瞼を上げれば、ハーレイがトレイを差し出していて。
ぼくが食べる間、持っていようとでも言うのだろうか。トレイを支える褐色の手。野菜ばかりの質素な食事。スプーンもフォークも添えてあったけれど。
「…食べたくない…」
意地を張ってるとかじゃなくって、本当に要らなかったんだ。食べたい気持ちがしなかった。
だけど野菜しか使われていない料理でも、食事は食事。食べればお腹が満たされる食事。
ぼくの分は船のみんなが食べてくれればいいと思った。
だからハーレイにそう言った。
役立たずなぼくの分の食事は他のみんなに分けてあげて、って。
「役立たずだなどと…!」
どうしてソルジャーが役立たずだということになるのですか?
いったい誰がそのようなことを…!
「誰も言わないよ、ぼくが自分で気付いたこと」
ぼくは全く役に立たない。今のこの船に、ぼくは必要無いんだよ…。
「そんな馬鹿な!」
「でも、そうなんだよ…」
実際、誰にも必要とされていないし、眠っていたって誰も困らない。そうだろう…?
「ですが、ソルジャー…!」
「そのソルジャーだって、名前だけだよ…」
何の役にも立ってないから、ってベッドに身体を預けたぼく。もう眠るから、って起こしていた身体を倒してしまった、役立たずのぼく。
ハーレイは深い溜息をついて、頭を振って出て行った。
ぼくが手を付けようともしなかった食事を載せたトレイを両手で持って。
(…ごめん、ハーレイ…)
ドアが閉まって、ハーレイがいなくなった後。
ベッドで丸くなって、ごめん、って泣いた。涙がポロポロと零れて落ちた。
(…ごめん、ハーレイは悪くないのに…)
悲しませてしまったか、呆れられたか。
何もかも、ぼくの八つ当たり。役立たずなぼくの八つ当たりだ、って。
そうして泣いて、涙がようやく収まったから。
真っ暗な部屋で一人で寝てた。ハーレイが点けておいてくれたんだろう、天井や壁をほんのりと浮かび上がらせていた常夜灯。それもサイオンで消してしまって、暗闇の中で。
そうしたら…。
いきなり部屋のドアが開いて、パッと明かりが灯されて。
「おい、入るぞ!」
(えっ?)
ドカドカと足音を立ててベッドに近付いて来た人影。ベッドの脇の椅子にドッカリと座る。
「起きろ、この馬鹿! 役立たずにはそれなりの食事があるってな!」
「…ハーレイ…?」
何を言われたのか全部は掴めなかったけれども、叱られたことは分かったから。
起きろと怒鳴られたことも分かっていたから、慌てて起きた。身体の重さは忘れていた。とても眠くてたまらなかったことも。
「ふん、ちゃんと起きられるじゃないか。なら、食えるな?」
ほら、と差し出されたトレイの上。
ぼくの膝の上に置かれたトレイに、湯気を立てている野菜のスープ。
さっきハーレイが運んで来ていた夕食のスープとは、見た目が全く違ったスープ。
夕食のスープはポタージュだったと思うけれども、そのスープはまるで別物のようで…。
「…なんだい、これは?」
「役立たずだと仰るソルジャー用のお食事ですが」
貴重な野菜を使用するのは、もったいないかと考えまして。
夜勤の者たちの食事用に使った野菜のくずを刻んで、煮込んで来ました。それと塩だけのスープです。野菜くずと水と塩しか使っていません。
「…これを君が…?」
「ええ。厨房の隅を借りて作りました」
お召し上がり下さい。
材料は確かに野菜くずですが、何種類も入っていますから。それに細かく刻んであります。
充分に柔らかく煮込みましたし、野菜の旨味が出ているのですよ。
役立たず用だと申し上げましたが、味見した限り、不味いスープではなかったですね。
どうぞ、とハーレイの手がトレイを支えていてくれるから。
添えられたスプーンで一匙掬って、零さないように口に運んでみたら。
(…美味しい…)
煮込まれた野菜はトロトロになってて、舌の上でホロリと溶けてゆきそうで。野菜くずだなんてとても思えなくて、野菜の一番美味しい部分を選んで使ってあるような味。
優しい甘み。ハーレイが言ってた野菜の旨味なんだろう。それと塩味とが深く絡み合って。
(…野菜くずと塩と水だけだ、って…)
役立たず用の食事だ、と渡されたけれど。野菜くずと水と塩だけのスープなんだけど。
それは本当に美味しかった。
涙が零れてしまいそうなほどに、美味しくて優しいスープだった。
「如何ですか、ソルジャー?」
お口に合いましたでしょうか、役立たず用にと特別に作って参りましたが…。
「美味しいけれど…。美味いか、って訊いてくれないんだ…?」
そう言って訊いて欲しかったのに。昔のハーレイみたいな言葉で。
「あの口調はもう無理ですよ」
こちらで慣れてしまったんです。この方が話しやすいんですよ。
「…でも、これを持って来てくれた時のハーレイは…」
昔みたいに普通だったよ?
「入るぞ」だとか、「起きろ」だとか。それに「食えるな?」とも言ってた筈だよ。
ちゃんと普通に喋っていたのに…。
「腹を括って来ましたからね。なんとしてでも食べて頂こうと」
あなたが弱っていらっしゃったのは、身体ではなくて心の方でしょう?
そうではないか、と薄々感じておりましたが…。
役立たずだなどと仰いましたから、間違いないと確信しました。放っておいたら、もっと弱ってしまわれる。そうなる前に、と起きて頂くことに決めたのですよ。
無理にでも起こして食べて頂く。それが一番の薬です。
役立たずだなどと仰るのならば、そのように。けれど、心のこもった食事を。
ハーレイの口調は懐かしいものには戻ってくれなかったけど。
乱暴な言葉で叩き起こされて渡されたそれが、優しいスープの始まりだった。
役立たず用だなんて言ったけれども、ハーレイの心がこもったスープ。
野菜くずと水と塩だけで出来た、何種類もの野菜の旨味が滋味深く溶け込んでいたスープ。
(これくらいは食べてもかまわないんだ、って思ったんだっけ…)
何の役にも立たないぼくでも、ごくつぶしで無駄飯食いのぼくでも。
お飾りのソルジャーに過ぎないぼくでも。
だって、役立たず用に作られたスープ。野菜のくずから作られたスープ。
そんなものくらいは食べていいんだ、って心も身体もホッとしたのを覚えてる。
弱っていたのは身体じゃなくって、ぼくの心で。それを見抜いてくれたハーレイ。役立たず用のスープを作って、鉛みたいに重かった心を、身体をふわりと軽くしてくれたハーレイ。
スープを食べながら、何度も御礼を言った、ぼく。
「いいんですよ」って笑ってくれたハーレイ。
「私にくらいは甘えて下さっていいんですよ」と優しく微笑んでくれたけれども。
ハーレイの口調は元に戻らなくて、ぼくが眠りに落ちてゆくまでずっと敬語のままだった。
それから何度、あのスープを作って貰っただろう。
ぼくのためだけに、厨房の隅でハーレイが作る特別食。
どんなに気分が落ち込んでたって、元気が出て来た役立たず用の野菜のスープ。
シャングリラの改造が始まる頃には、ぼくは役立たずじゃなかったけれど。改造中の船は進路を急に変えられないから、ぼくがシールドで隠して守っていたんだけれど。
そうして再び、ぼくの力が必要になる日まで、ぼくが元気でいられた秘密。
ぼくはお飾りのソルジャーなんだ、って押し潰されずにいられた秘密。
それがハーレイの野菜のスープで、野菜のくずと水と塩しか使っていないというスープ。
(…ホントは途中から、普通の野菜になってしまっていたんだろうけど…)
シャングリラが白い鯨になった後でも、ぼくがあのスープを欲しがったから。
ぼくが寝込んだらハーレイが作ってくれていたけど、材料は野菜のくずじゃなかった。
青の間のキッチンで作っていたから、ぼくだってちゃんと承知の上。
でも、そのスープは最初と変わらず、優しい甘みと塩味が複雑に絡み合ったもの。とろけそうなほどに煮込まれた野菜の旨味が美味しかったスープ。
(…ひょっとしたら、最初から野菜のくずとは違ったとか…?)
どうなのかな、と思うけれども、今のぼくにはハーレイの心を読む力が無い。
前のハーレイが「野菜くずだ」って言ったからにはそうなんだろう、と思うしかない。
違ったんじゃないかな、と気になった所で知りようがないし、ハーレイはきっと言わないから。
本当はどっちだったのかなんて、教えてくれっこないんだから…。
だって、相手はあのハーレイ。
前のぼくにスープを食べさせるためにだけ、乱暴な言葉で叩き起こした。
ぼくよりも役者が上なんだもの。
ちゃんとした野菜で作ったスープを「野菜くずだ」って言うくらい、きっと簡単なこと。
「起きろ」と怒鳴ったハーレイだから。「馬鹿」と怒鳴ったハーレイだから。
丁寧な敬語でしか話せないくせに、あの時だけは言葉遣いが昔に戻ったハーレイだから。
(今じゃ普通に昔の口調で喋ってるけどね?)
ぼくを「お前」って呼ぶハーレイ。自分のことを「俺」って言ってるハーレイ。
だけど変わらない、野菜のスープ。
ぼくの大好きな、野菜スープのシャングリラ風。
昔とそっくり同じレシピで、細かく細かく刻んだ野菜を基本の調味料で煮込んだスープ。
地球の野菜を使っているから、うんと美味しくなっちゃったけれど。
なんだか食べたくなってきちゃった、ハーレイのスープ。
本当に食べてみたいんだけれど、昔も今も、あれは病人食だから。
(…仮病、使ってみようかな?)
こんな風に冷える夜には、恋しくなる味。
ハーレイが作る野菜スープが飲みたくなるから、もしもハーレイの家がお隣だったら。
学校を休まなくてもお隣から直ぐに届くんだったら、たまに仮病も使ってみたい。
心も身体も温まるスープ。
その始まりを、こんな風に懐かしく思い出してしまった秋の夜には…。
あの味の始まり・了
※ブルーが今も大好きな「ハーレイが作る野菜のスープ」。味付けは塩だけの素朴なもの。
「役立たずなソルジャー用に」と生まれたのです、それがハーレイの優しい心遣い。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
閑古鳥。
ガランとしている劇場だとか、お客さんのいない店だとか。
そういうのを閑古鳥が鳴くって言うけど、閑古鳥はカッコウのことだったんだ。ものの例えだと思っていたのに、実在していた閑古鳥。カッコウの名前。
(…架空の鳥だと思ってたのに…)
実はカッコウだったなんて。カッコウの別名が閑古鳥だなんて。
今日のハーレイの授業で教わった話。
SD体制よりもずうっと昔に、この地域にあった日本っていう名の小さな島国。その国にあった短歌、俳句で有名な芭蕉って人の歌に詠まれた閑古鳥。
「憂き我を寂しがらせよ閑古鳥」って。
前のボードに書かれた時には、変な歌だと思ったんだけど。わざわざ寂れた劇場とかに出掛けて何をするんだとクラスのみんなが思ったんだけれど、正解はカッコウのことだった。
遠い昔の日本でお馴染みだった鳥。
ハーレイは「昔の和歌だとホトトギスと間違えて書かれていたりもしたんだぞ」って「郭公」という字もボードに書いた。
(カッコウ…)
幼稚園で習った古い歌。SD体制よりも遥かな昔の地球にあった歌。
静かな湖畔の森の影から、って始まる歌で、カッコウの鳴き声が出て来るんだ。
もう起きちゃいかが、って、カッコウ、カッコウ、って。
(可愛い鳥だと思ってたのに…)
本当は閑古鳥だったなんて、可愛いどころかとんでもない。
小さかったぼくが幼稚園のみんなと歌った「カッコウ、カッコウ」っていう鳴き声の繰り返し。其処が問題、昔の人たちにはカッコウの声が「物寂しい」って思えたらしいんだ。
そのカッコウが鳴いてるみたいに寂しいお店や劇場だから「閑古鳥が鳴く」って言われちゃう。カッコウは閑古鳥だから。
(いい声なのにな、カッコウって…)
小さな頃に森で聞いた声。パパやママと出掛けた、明るい森の中で。
カッコー、カッコー、って。
パパとママに教えて貰わなくても、直ぐに分かった。カッコウなんだ、って。
幼稚園で歌った歌に出て来たカッコウが鳴いているんだな、って。
姿が見えないか、キョロキョロ探した。可愛いカッコウを見付けたくって。
(でも…)
よく考えてみたら、カッコウは可愛くない鳥だった。
未だにチビのぼくだけれども、カッコウの歌を歌ってた頃よりは大きくなって知識も増えた。
托卵。
カッコウがやってる、独特の子供の育て方。
自分で卵を温める代わりに、他の鳥の巣に卵を産み付けて行く。巣の持ち主が気付かないよう、元からあった卵を一個だけ捨てて、それの代わりに自分の卵を一個、コロンと。
それだけでも充分酷いというのに、卵から孵ったカッコウの子供。
巣の持ち主の卵よりも早く孵化して、最初にすることが巣の乗っ取り。他の卵を押し出して巣の外へ全部捨てちゃうんだ。自分よりも先に孵ったヒナがいたなら、そのヒナまでも。
そうして自分がドッカリ居座る。巣の持ち主の子供なんです、って顔で住み着く。
騙された親鳥は、カッコウの子を…。
(自分の子供だって思い込んだまま、育てるんだよ)
一所懸命に餌を運んで、せっせとカッコウの子を育てる。本当の子供と卵を捨ててしまった酷いヤツだと気付きもしないで、これが自分の子供なんだ、って。
自分の身体よりもずうっと大きく育ってしまったカッコウの子にも、頑張って餌を運ぶ親鳥。
大きくっても、餌を欲しがるヒナだから。
まだ飛べもしない雛鳥だから、って何度も何度も餌を取って来て、大人になるまで。カッコウの子が巣立つ時まで、自分の子供だと信じたまんまで。
とてもずるくて酷いカッコウ。
親も親だけど、子供も酷い。巣にあった卵を全部放り出して、自分を育てさせるだなんて。
ホントに酷い、と思ったんだけれど。
(…それって、ぼく…?)
ソルジャー・ブルーだった、ぼく。ソルジャー・ブルーの生まれ変わりだった、今のぼく。
ママがお腹の中で大切に大切に育てて、産んで。
うんと可愛がって育ててくれていたのに、ソルジャー・ブルーになっちゃった、ぼく。
十四歳まで普通の子だった、ブルーって子供は消えてしまった。
ママの大事なブルーはいなくなっちゃったんだ。
何も知らずに育ったブルーは、ソルジャー・ブルーの記憶が無かったブルーは。
(…ぼくって、カッコウ?)
そんなつもりは無かったんだけど。
ママのブルーを捨ててしまって、代わりに住み着いたつもりは微塵も無かったんだけど。
(…だけど、カッコウ…)
ぼくがやっちゃったことは、カッコウと同じ。
ママがお腹の中から育て続けた大事なブルーを、一人息子のブルーを奪った。
前のぼくとそっくり同じに育つ身体が欲しいと奪った。巣の中に卵を置いて行く代わりに、前のぼくの記憶を送り込んで。
他の卵やヒナを捨てる代わりに、ママの大事なブルーの身体をそっくりそのまま乗っ取った。
(…ママのブルーを捨てちゃった…)
巣からポイッと放り出して。
澄ました顔して、ママの子供を気取っているぼく。ママのブルーを装ってる、ぼく。
(…ママ、ぼくがやっちゃったことに気付いてる…?)
それとも気付いていないんだろうか、カッコウの子供を育てる親鳥が気付かないのと同じで。
あるいはとっくに気が付いてるけど、人間の子供だから捨てられないとか…?
(…どっちなの、ママ…?)
怖くて訊けない。ママには訊けない。
今日もぼくの大好きなおやつを作って、帰るのを待っていてくれたママ。
いつだって優しい、今のぼくのママ。
そのママはカッコウの子供を育てる親鳥みたいな心境なんだろうか?
これは違うと、自分の子供じゃないようだけど、と思いながら育てているんだろうか…?
今の今まで考えたこともなかった、ぼくがやらかしちゃったこと。
ママのブルーを捨ててしまって、代わりにちゃっかり住み着いた、ぼく。カッコウの子供。
(…どうしよう…)
とてもママには言えやしない、と勉強机の前で頭を抱えて俯いていたら。
「ブルー!」
部屋のドアの向こう、多分、階段の途中あたりからママの声。ぼくの名前を呼んでいる声。
「なあに?」
普通のふりして、訊き返したぼく。充分にずるい、カッコウの子供。
だけどママの方は、そんなこととは知らないから。
「下りてらっしゃい、珍しいものを頂いたわよ!」
「えっ?」
「お菓子よ、ブルーが好きそうなお菓子!」
おやつは済んだけど、見にいらっしゃい。食べられそうなら食べていいのよ、せっかくだから。
ママの呼ぶ声は、いつもと変わらない優しい声で。
ぼくの大好きなママの声だから、知らんぷりなんて出来るわけがない。
(…カッコウの子供でも、ママが大好きならいいんだよね…?)
心の中で言い訳しながら、階段を下りていった、ぼく。ママはダイニングで笑顔で待ってた。
テーブルの上に、綺麗な缶。何のお菓子が入ってるんだろう、小さな缶が置いてある。ママは、その缶の蓋をパカリと開けて。
「ドラジェよ、可愛らしいでしょ?」
「…ドラジェ?」
「お砂糖をかけて作った甘いお菓子よ、中にアーモンドが入っているの」
ほら、って見せて貰った缶の中。桃の花みたいな淡いピンク色の丸っこいお菓子が詰まってた。お砂糖の甘い衣を纏ったアーモンド。それが沢山。
何処から貰ったお菓子なのかな、と思ったら、ご近所さんだった。そういえばチャイムが鳴っていたっけ、ハーレイが来るには早すぎる時間だったから外を覗きもしなかったけれど。
「女の子だからピンクのドラジェなのよ」
「…女の子?」
「そうよ。お孫さん、女の子が生まれたんですって」
お祝い事の時に、こういうお菓子を配る所で。女の子だとピンク、男の子なら水色。
そんな決まりがあるんですよ、って教えてくれたわ、色々なお祝いにドラジェを配るの。
(…お孫さん…)
なんてタイミングなんだろう。
そのお孫さんは普通のお孫さんで、普通の赤ちゃん。ぼくみたいなカッコウの子供じゃない。
大きくなっても、ご近所さんのお孫さんのまま。いつまで経っても、ちゃんとお孫さん…。
「…ブルー?」
どうしたの、ブルー? こういうお菓子は好きじゃなかった?
「ううん…」
「何だか変よ、お腹、痛いの?」
どうかしたの、具合が悪いんだったら早くお医者さんに行かないと…。
「……カッコウ……」
「えっ?」
ポロッと口から零れてしまった、カッコウの名前。そうなったらもう、止まらない。
ぼくは黙っていられなくなって、何もかも全部、話してしまった。
ママはカッコウの子供でもいいの、って。
ママの大事なブルーを家から放り出しちゃった、カッコウの子供のぼくでもいいの、って。
「…馬鹿ね」
お馬鹿さんね、ってママは微笑んだ。
ママの隣の椅子に座って、べそをかきそうになっていたぼくに。
「ブルーはカッコウなんかじゃないわ。最初からブルーよ」
ママの子供の、大事なブルー。カッコウの子供なんかじゃないのよ。
「でも…。今のぼくって、ソルジャー・ブルーで…」
「ソルジャー・ブルーでも、名前はブルー。そうじゃないの?」
同じブルーでしょ、何処が違うの?
「だけど、ママのブルー…」
ママがお腹の中で育てて、産んだブルーが何処にもいないよ。ぼく、カッコウの子供だから。
「此処にいるでしょ、ママのブルーも」
それともブルーは忘れちゃったの、ソルジャー・ブルーじゃなかった自分。
ソルジャー・ブルーになるよりも前の、色々なこと。全部忘れてしまっちゃったの?
「…ううん」
覚えてるよ、全部。赤ちゃんの時のは無理だけれども、小さい頃のことも覚えているよ。
「ほら、ちゃんとブルーはママのブルーよ。ママのブルーはいなくなっていないわ」
ブルーの中にちゃんといるのよ、ママのブルーも。
放り出されたわけじゃなくって、ブルーの中に一緒にいるのよ。
だからブルーは、ママのブルー。ソルジャー・ブルーでも、ママのブルーよ。
大丈夫、ってママは頭を撫でてくれた。柔らかな手で、うんと優しく。
ぼくの記憶が戻った時には怖かったんだ、って話してくれた。
ソルジャー・ブルーだったことを思い出したぼくが、ママの前から消えちゃうかも、って。
何処かへ姿を消してしまって、二度と戻って来ないんじゃないかと思って怖かったんだ、って。
「だけどブルーは何処にも行かなかったでしょ?」
「…ぼくの家、此処だよ」
それに独りじゃ、とっても生きていけないもの…。住む家も御飯も無くなっちゃったら。
…ぼくってやっぱり、カッコウなのかな?
この家でママとパパに育てて貰わないと、大きくなれないカッコウなのかな…。
「違うわ、ママのブルーだからよ。だから独りじゃ生きていけないのよ」
ママのブルーを育てるのはママでしょ、ママがいないとブルーは大きくなれないの。
それにね、ママはカッコウの子供でもかまわないのよ。
カッコウの子供を預けられた鳥は、カッコウの子供を自分の子供だと思って育てるの。ちゃんと大人にしてあげなくちゃ、って自分よりも大きくなったヒナでも。
そうやって頑張って育ててあげても、カッコウの子供は何処かへ行ってしまうんだけれど。誰が自分を育てたのかなんて、すっかり忘れてしまうんだけれど…。
ブルーはパパやママを忘れないでしょ?
それに、この家で大きくなったんだっていうことも。
「うん。忘れていないし、忘れないよ」
「ほらね、だからソルジャー・ブルーでもいいの。カッコウの子でもかまわないのよ」
ママが育てたブルーだから。ママをママだと思ってくれているなら、それがママのブルー。
ソルジャー・ブルーがカッコウの子でも、ママにとってはママのブルーよ。
何も心配しなくていいの、ってママはドラジェをぼくにくれた。
缶から取り出して、ぼくの手のひらに一つ。
「今日のおやつは済んじゃったけれど、せっかく頂いたんだから…。お祝いのお菓子」
貰った人にも幸せを運ぶお菓子ですよ、って下さったんだし、食べなくちゃね。
ブルーにも幸せが沢山、来るように。
それから、オマケ。
「…オマケ?」
「心配事が消えますように、ってオマケをあげるわ」
そう言って、オマケのドラジェをくれたママ。
カッコウだなんて言い出しちゃったから、心配事が幸せに変わるようにオマケに二つ、って。
ダイニングで食べた、三粒のドラジェ。
甘くて、中のアーモンドがカリッと香ばしかったピンクのドラジェ。
美味しいでしょ、ってウインクしてくれたママ。
「心配事を幸せに変えてくれる魔法のお菓子よ、それは」って言ってくれたママ。
ぼくはカッコウの子供じゃないって思ってもいい…?
ママのブルーを追い出してないって、放り出してはいないんだ、って。
そんな事件があった日の夕方、暮れて来た頃に鳴らされたチャイム。
部屋に戻ってたぼくが窓から覗くと、門扉の所にハーレイが居た。ぼくが大好きな、前のぼくの頃からの大事な恋人。ソルジャー・ブルーだったぼくが愛したキャプテン・ハーレイ。
今はキャプテン・ハーレイじゃなくて、閑古鳥の話を授業でしていた古典の先生なんだけど。
ただのハーレイ先生だけれど、ぼくにとっては誰よりも大切な恋人なんだ。
そのハーレイが部屋に来てくれて、ママが紅茶とお菓子のお皿を持って来てくれた。テーブルに置かれたお菓子のお皿に添えられたドラジェ。ピンク色のお砂糖の衣を纏ったアーモンド。
それがお皿に一粒ずつ。ぼくとハーレイ、それぞれのお皿に。
「ほほう…。何処かでお祝い事があったのか?」
ハーレイはドラジェを知っていた。お祝い事に配るお菓子なんだということを。今のぼくよりも二十四年も長く生きてるから、貰ったことがあるみたい。
「ご近所さんに貰ったんだよ、お孫さんが生まれたんだって」
「お孫さんか。ピンク色なら女の子だな」
「当たり!」
男の子だと水色だって。それでね、普段だったら珍しいな、って食べるんだけど…。
「どうかしたのか?」
「あのね…」
半分はハーレイのせいなんだよ、ってカッコウの話をしてみた、ぼく。
授業で閑古鳥の話なんかをするから、色々なことをぐるぐる考えちゃったんだ、って。
カッコウの鳴き声だけでは済まなくなって、托卵のことまで思い出した、って。
「…それで?」
「ぼくってカッコウの子供なのかも、って思ったんだよ」
「カッコウの子供?」
「そう。ママの子供を巣から放り出して、代わりに居座っちゃったカッコウ」
だってそうでしょ、ママにしてみれば騙されたようなものなんだもの。
自分の子供だって信じていたのに、育ててみたらソルジャー・ブルーになっちゃったなんて。
まるで違う子供になっちゃったんだよ、へんてこな記憶まで取り戻して。
カッコウの子供みたいでしょ?
育てた親とは全然似てない、大きくて可愛くないヒナが巣に乗っかってて、餌を貰って。
「なるほどなあ…。それでお前はどうしたんだ?」
「カッコウの子かも、って考えていたら、ママに呼ばれた…」
珍しいものを貰ったから、って呼ばれたんだよ。それがこのドラジェ。
ぼくはドラジェがどういうお菓子か知らなかったから、ママが説明してくれて。お砂糖をかけたアーモンドだっていう所までは何も問題無かったんだけど…。
「出産祝いで引っ掛かったか?」
お孫さんだしな。お前、カッコウの子供で悩んでいたんだものな?
「うん。そのお孫さんは本物だよね、って思った途端に、頭の中がカッコウで一杯…」
それで口から出ちゃったんだよ、カッコウ、って。
言っちゃったらもう止められなくって、ママに喋ってしまったんだ。
ぼくはカッコウの子供なんだ、って。ママの子供を放り出して代わりに住み着いたんだ、って。
そんなぼくでもかまわないの、って、カッコウの子供でもママはいいの、って…。
「ふうむ…。そう話した後はどうなったんだ?」
お母さんはビックリしたと思うが、なんて答えてくれたんだ?
俺を迎えに出て来てくれた時には、いつもと全く変わらない様子だったんだがな?
「…ぼくは最初からぼくだ、って。ママのブルーで、カッコウの子供なんかじゃない、って」
ぼくはママの子供を放り出していないし、ママの子供で間違いないって。
それにソルジャー・ブルーだとしても、カッコウの子供でもかまわないって。
ママをママだと思ってるんなら、カッコウの子供でもママのブルーになるんだって。
カッコウの子供を育てる親鳥は、それが自分の子供のつもりで大切に育てるんだから、って…。
そう言ってくれたよ、ってハーレイに話した。
心配事が消えますようにってドラジェもくれたと、心配事が幸せに変わるようにとオマケに二つ貰ったんだ、と。
「魔法のお菓子よ、ってママは言ったんだけど…。心配事を幸せに変えてくれるのよ、って」
「それで、お前に幸せは来たか?」
「うん。今、気が付いたけど、ちゃんと来てたよ。ハーレイが来てくれたんだもの」
カッコウの子かも、って考えちゃったのはハーレイの授業のせいなんだけど…。
でも、ハーレイが来てくれるとぼくは嬉しいし、幸せはちゃんと来ていたみたい。ママが魔法のお菓子だって言ったの、本当だったよ。
「そうか、幸せは来たんだな。心配事の方はどうなった?」
「やっぱりカッコウの子供かもね、って思うけれども…。ママがいいなら、それでいいかな」
カッコウの子供でもママのブルーだって言ってくれたし、気付いた時ほど心配じゃないよ。
ママのブルーを追い出しちゃったかも、って思った時には本当に心配だったんだ。
こんなことママには言えやしないって、どう思ってるのか訊けもしない、って。
でも、訊いちゃった…。
うっかりカッコウって言っちゃったから…。
「だが、お母さんはきちんとお前の話を聞いて。…そして答えてくれたわけだな」
お前がカッコウの子供かどうかを。カッコウの子供でも、自分の子供に間違いないと。
いいお母さんじゃないか。心配事が幸せに変わるようにと、魔法のお菓子までくれたんだろう?
お前はいいお母さんを持ったと思うぞ、それにお前も素直ないい子だ。
たとえカッコウの子供だとしてもな。
「どうして?」
カッコウの子供って…。それでどうしていい子になるの?
ママがいいママだってことは分かるけど、カッコウの子供はあまりいい子じゃないと思う…。
「お前、自分でカッコウの子かも、と言ったんだろう?」
「言ったけど…」
「其処だ、其処がお前の素直な所で、いい子な所だ」
お母さんにきちんと打ち明けられるのが素直な証拠さ。
カッコウの子供は育ての親に向かって喋りはしないぞ、自分はカッコウの子供です、とはな。
本物の子供と卵は捨てました、なんて本当のことを白状してみろ、自分の命が無くなっちまう。親鳥は子育てをやめて逃げてしまうし、そうなれば餌が貰えないだろう?
餌が来なけりゃ飢えて死ぬしか道が無いんだ、本物のカッコウは最後まで親を騙すわけだな。
しかし、お前はきちんと話した。
お母さんが「自分の子供じゃない」って気付いてしまうかもしれないのにな…?
偉いぞ、ってハーレイがぼくの頭をポンポンと叩いてくれたから。
ぼくの幸せはグンと膨らんで、嬉しくてたまらなくなった。
ハーレイに褒めて貰えるなんて。いい子だって褒めて貰えるだなんて、もう幸せでたまらない。ママに貰ったドラジェの魔法は本物なんだ、って頬が緩んだ。
心配事が幸せに変わる、魔法のお菓子。ママがオマケにと二個くれたお菓子。
一つはハーレイを連れて来てくれて、もう一個はハーレイに褒めて貰えた。素敵な魔法をかけてくれたお菓子。幸せを運んだ、ピンクのドラジェ。
カッコウの子供でも、どうでもよくなる。
そのカッコウの子に、ママが魔法の幸せのドラジェをくれたんだから…。
(ふふっ、幸せ…)
カッコウの子供でもかまわないや、って考えた途端、ハーレイが「実はな…」と口にした言葉。
「俺はな、現役のカッコウなんだ」
「えっ?」
現役のカッコウって、どういう意味なの?
それにハーレイがカッコウって…なに?
「お前と同じさ、俺だっておふくろが産んだ子供とは違う中身になっちまったろうが」
おまけに、お前は記憶が戻って直ぐに、お父さんとお母さんに自分が誰かを話したが…。前世の記憶を持っていることも、ソルジャー・ブルーだってことも話しているが、だ。
俺はまだ、親父にもおふくろにも全く話していないってな。
実はキャプテン・ハーレイでした、っていうことを。
つまり、今でもカッコウなんだ。親鳥を騙して自分の子供だと思い込ませているカッコウだな。
「ハーレイ、それって…。酷くない?」
お父さんとお母さん、ハーレイに餌を運んでるわけじゃないけれど…。
ハーレイは一人で暮らしているけど、カッコウの子です、ってことを黙っているのは酷くない?
「酷いかもしれん。だが、お前を嫁さんに貰うわけだしな?」
それだけでも充分、驚かせたんだ。
一度にあれこれ話しちまったら、親父もおふくろも腰を抜かすと思わないか?
折を見て順番に話さないと…、って言ってるハーレイ。
まだまだ当分、お父さんとお母さんには話すつもりが無いハーレイ。
(…まさか、ぼくと結婚する時まで内緒のままってことはないよね…?)
いくらなんでも、それまでには多分、話すんだろうと思うけど。
こんなカッコウの子供がいるんだったら、ぼくなんか可愛い方かもしれない。
だって、ぼくはたったの十四歳。
ハーレイみたいに三十八年もカッコウをやっていないから。
実はカッコウの子供なんです、って言いもしないで、巣に居座ってたわけじゃないから。
(…ぼくは素直に言っちゃったものね、ソルジャー・ブルーだったんだよ、って…)
前のぼくの記憶を取り戻して直ぐに、パパとママに話してしまった、ぼく。
それが普通だと思っていたのに、ハーレイはキャプテン・ハーレイだったことを内緒にしてる。大人には大人の考え方があるから、それも正しいのかもしれないけれど。
(…それでも、いつかは話さなきゃ駄目なんだけどね? カッコウの子供だったこと…)
ハーレイがキャプテン・ハーレイだったこと。ぼくと同じでカッコウの子供とそっくりなこと。
だけど、ハーレイのお母さんたちも、きっとハーレイを許すんだろう。
ハーレイはカッコウなんかじゃない、って。
カッコウの子供でも自分の子供とまるで同じで、ちゃんと自分の子供なんだ、って。
(ぼくもハーレイも、産んで貰った子供だものね)
人工子宮から生まれた前のぼくたちと違って、お母さんのお腹から生まれた子供。
機械が選んだ養父母じゃなくて、本当の親が育ててる子供。
だからぼくのママも、ぼくはママのブルーに間違いないって自信を持って言えるんだ。
今度のぼくたち、ちゃんと本物のパパとママ。
たとえ子供がカッコウの子でも…。
カッコウ・了
※他の鳥の卵を捨ててしまって、自分の卵を産んでゆくカッコウ。知らずにそれを育てる親鳥。
自分もカッコウのようなものかも、と思ったブルー。優しいお母さんで良かったですね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あ…)
学校から帰って、おやつを食べて。ダイニングで広げた新聞の中。
タイトルと写真がぼくの目を引いた。地上絵の描き方。そんな名前が付いた記事。それに大きな鳥の絵が写った一枚の写真。
(…地上絵…)
遠い昔の地球にあった絵。人が住めない乾いた大地に描かれた地上絵。
地上から見れば石だらけの地面に溝が走っていただけなのに、遥か上空から見れば幾つもの絵があったという。ハチドリにコンドル、様々な動物や図形なんかが。
SD体制が始まるよりも前に失われてしまって、今はデータしか無いんだけれど。
地上絵が発見された時代の人にも、どうやって描くのかまるで分からなかったんだけれど。
(…色々な描き方があるんだ、これ…)
下の学校の子供たちが挑戦している様子が記事になってた。
学校のグラウンドに白い線で再現された地上絵。画鋲が一個と糸だけがあれば可能だという拡大方法。もちろんサイオンなんかは抜きで。
歩数で計って描く方法もあった。向かい合わせの子との距離を目で測りながら、ぐんぐん歩いて元の絵を大きく描いていくんだ。二人一組で、半分ずつを。
子供たちがそうやって描いた絵たちが新聞に載っているんだけれど。
(…ナスカ…)
ナスカの地上絵。そう呼ばれていた、巨大な絵たち。
本来、地球の地名の一つだったナスカ。
なのにどうして、あの星がナスカだったのか。
ジョミーたちが降りた、あの赤い星が。トォニィたちが生まれた星が。
前のぼくはナスカの地上絵を知っていたけれど、それをシャングリラにも描かせたんだけれど。白い鯨の甲板に大きく、ナスカの地上絵のハチドリの絵を。
(このハチドリだよ…)
子供たちが再現した地上絵の写真にも写っている鳥。不思議な形に描かれたハチドリ。
本物のそれが発見された時、描いた人たちはもう居なかったから。本当にハチドリを描いた絵かどうかは永遠に謎のままなんだけれど。
本物の絵だって前のぼくが生きてた頃には無かったんだけど、それでもハチドリ。白い鯨の背に描かせた絵。
(でも、なんでナスカ…?)
白い鯨はナスカの地上絵と同じ絵を背負って飛んでいたけれど、何故、あの星がナスカなのか。赤い星がナスカと呼ばれていたのか。
(確か、フィシスが名付けたって…)
フィシスが名前を付けた星だと学校で習う。ミュウの歴史に欠かせない大切な星だから。
だけど理由は教わらない。何故ナスカなのか、それは学校では教えてくれない。
(なんで…?)
ナスカの名前と、シャングリラの甲板に描いてあった絵と。
無関係なのか、そうじゃないのか、どうにも気になってたまらない。新聞を閉じて部屋に戻った後もぐるぐる考えていたら、お客様が鳴らすチャイムの音。
(ハーレイ?)
窓に駆けて行って、下を覗いた。庭を隔てた門扉の向こうに大きな人影。やっぱりハーレイ。
(うん、ピッタリのタイミング!)
丁度いい所に来てくれたよね、と嬉しくなった。ぼくの部屋でテーブルを挟んで向かい合わせに座って、紅茶のカップを傾けながら早速、質問。
「ハーレイ、ナスカの名前の由来って、知ってる?」
赤い星だよ、あの星の名前。
「フィシスが付けたが? あの星に降りようと決まった時に」
名を授けようとか言っていたなあ、赤き乙女とも言ってたか…。あの星に可能性を見出したと。
「それ以外に、何か。フィシスが付けたっていうのは学校の授業で教わるもの」
「いや、俺は知らん。お前こそ知っているんじゃないのか、フィシスなんだから」
ナスカでお前が目覚めた時には、俺は忙しくてお前と個人的に会える機会が全く無かったが…。
フィシスは特に役目も無かったんだし、お前と話すための時間は充分にあったと思うがな?
「…聞きそびれちゃった…」
あの星にナスカって名前を付けた、って話はちゃんと聞いたんだけれど。
他にも色々と話をしたけど、どうしてナスカって名前にしたかは聞かなかったんだよ。
そして今まで気付かなかった、と話した、ぼく。
ナスカと言ったら地球のナスカの地上絵なんだ、と。今でも子供たちが描こうとするほど有名な絵だから、あの赤い星にナスカと名前が付いた理由は地球のナスカじゃなかったのか、って。
「そういや、シャングリラの甲板にあったデカイ鳥の絵…」
「うん。ナスカのハチドリ、地上絵の鳥だよ」
ハチドリの絵をそのまま写して描かせた鳥がシャングリラの背中に乗っかってたよ。
「お前、あの絵をフィシスに見せたか?」
「シャングリラに連れて来た時にね」
それから後には見せていないと思うけど…。船の外には出していないし、出たっていつも雲海の中で甲板の絵までは見えはしないよ。
「その辺の記憶はあったんだったな、フィシスにも?」
「フィシスの記憶は其処からだよ。前のぼくが連れて来て、シャングリラの姿が見えてから」
その前の記憶は全部消した。何処に居たのか、どうやって連れて来られたのかも。
フィシス自身が望んだって言って、すっかり消してしまったんだけど…。
「ふうむ…。あの時もシャングリラは雲海の中に潜んでいたが、だ」
お前、フィシスにどういう船なのか見せたんだな?
フィシスは元々、視覚に頼っていなかったし…。雲の中でもシャングリラ全体を見られた、と。
「そう。普段だったら其処まではしない。でも、あの時は見て欲しかったんだ」
ぼくたちの船だと、今日から此処で暮らすんだ、と。
シャングリラの姿を見せたかったから、ぼくがサイオンを導いて雲に隠れた所まで、全部。
「なら、甲板の絵もフィシスは見たってわけだ」
それで、お前はあの絵が何かを説明したのか?
「ぼくたちの夢の鳥なんだよ、って」
シャングリラに描いてあったものは全部見せたよ、自由の翼も、ミュウを示す文字も。それからフェニックスの羽根のシンボルマークも、見せて何なのか説明したよ。
甲板の鳥もフェニックスだと、不死鳥の絵だと。
ずいぶん変わった形なのね、って不思議がったから、モデルはナスカの地上絵だよ、って…。
「それじゃないのか?」
フィシスがあの鳥の由来を聞いていたのなら。知っていたのなら、ナスカは其処から来たんじゃないのか…?
「やっぱり、ハーレイもそう思う?」
フィシス、覚えていたのかな…。一度きりしか見せていないのに。
「多分な。ナスカの地上絵を何処まで理解したかは知らんが、シャングリラの鳥だと覚えたんだ」
船に描いてあるフェニックス。
そいつのモデルがナスカって所に存在するらしいと、シャングリラの鳥はナスカの鳥だと。
フィシスは小さな子供だったから、どういう風に記憶の底に沈んでいったかは分からないが…。
ナスカはとても素敵な名前だと、その鳥がシャングリラに描いてあるんだと思っただろう。その時の記憶も、何だったのかも忘れ去っても、ナスカという名だけは何処かにあった、と。
「…それでナスカって名前を付けたんだ…」
ミュウに相応しい、ぼくたちの船に相応しい名前だと何処かで思っていたんだろうね。自分でもそれが何かは知らずに、思い出せずに、ナスカって付けた。いい名前だ、と。
「そういうことになるんだろうなあ、今から思えば」
「あの鳥がナスカの地上絵だってこと、知らない仲間が多かったのにね…」
描いた頃には居なかった仲間、後からずいぶん増えちゃったものね。
「俺だって綺麗に忘れちまってたが?」
「ぼくもなんだけど…」
赤い星の名前がナスカだと聞いても、いい名前だな、って思っただけで。
同じ名前の場所から貰った鳥の絵がシャングリラの背中に乗っかってることは忘れていたよ…。
ホントのホントに忘れちゃってた、と頭をコツンと叩いたんだけど。
ハーレイが「仕方ないだろ」って。
「そんなもんだろ、灯台下暗しって言葉がずうっと昔からあるくらいだしな」
ヒルマンあたりは気付いていたかもしれないが…。ナスカの地上絵と同じ名前だと。
「そういう話は聞いていないの?」
「俺の記憶には全く無いな」
まるで覚えていないからには、一度も聞いていないんだろう。ナスカはナスカだ、赤い星だ。
「だけどあの鳥、ヒルマンとエラがデータベースで探し出して来た絵なんだよ?」
二人揃って気付かなかったか、気付いていても黙ってたのか。どっちなんだろう…?
「さてなあ…。若い連中が浮かれていたから、気付いていたって黙ってたかもな」
ゼルは頑固に反対してたし、全員一致でナスカに降りたってわけじゃない。
ナスカの名前はシャングリラとも無関係ではないんだってことを下手に言ったらマズイしな?
大義名分を与えちゃいかんと黙っていた可能性もある。
ナスカに着いても、根を下ろしたとしても、シャングリラは大切な船なんだ。あの船が無ければ宇宙を旅することは出来んし、他のミュウたちを救いにも行けん。
ナスカとの縁は無い方がいいと、切り離しておいた方がいいんだと思ったかもなあ…。
「そうかもね…」
実際、ナスカにしがみ付きすぎて死んじゃった仲間も大勢いたし。
シャングリラとナスカは鳥の絵で繋がっているんです、ってことになってたら、もっと離れ難い星になってて、被害が大きくなってたかもね…。
前のぼくもハーレイも気付いてなかった、シャングリラとナスカの共通点。
もしもヒルマンとエラが気付いていたなら、語らなかった二人に感謝しなくちゃ駄目だろう。
踏みしめる大地を手に入れただけで、あれほどの仲間がナスカに残ろうとしたのだから。人類に発見されたと知っても、攻撃が来ると分かっていても。
ただのナスカでも、その始末。
これがシャングリラと縁の深い名前の星だったならば、そう簡単には捨てて行けない。なんとか残そうと、残したいのだと頑張る仲間も出て来ただろう。
若かった仲間だけじゃなくって、古い仲間たちも。
長く暮らしたシャングリラにゆかりの名を持つ星であったなら、離れ難くて、去り難くて。
ナスカの名前と同じ由来の鳥が、シャングリラの背に在ると気付いていたなら…。
「あの鳥、お前が欲しいと言い出したんだっけな、甲板に描こうと」
自由の翼とは別に、鳥の絵。鳥の全身を描いた絵が欲しいと言ったんだったか…。
「そうだよ、シャングリラが鯨の形になっちゃったから」
完成したら鯨みたいな形になるんだ、って説明されたから鳥が欲しかった。
「鯨は空を飛べないから、ってことだったよな?」
「うん。気分だけでも鳥にしよう、って」
あやかりたいって言うのかな?
何処へでも自由に飛んで行ける鳥。それがシャングリラに欲しかったんだよ…。
様々な機能を搭載していった結果、鯨になったシャングリラ。
うんと大きく改造しちゃった船体はともかく、あの形には意味があったんだ。
ステルス・デバイスだの、サイオン・シールドだのを効率よく施すためには最適な形。
だけど鳥からは離れてしまった。空を自由に飛ぶ鳥からは。
せめてと船にあしらおうと決めた翼の模様。自由の翼。
けれど足りない。それでも足りない。
羽根をシンボルマークに決めたフェニックスではなくてもいいから、何処かに鳥の絵。鳥の姿が欲しかった。
ゼルたちと意見交換した末、選ばれた場所があの甲板。
シャングリラに降りる小型艇やシャトルの誘導用を兼ねて、甲板の上に鳥の模様を、と。
何でもいいから、と頼んだ鳥の絵。そうは言っても、シャングリラに描く鳥なんだから。
「あれは、地球の鳥の絵を片っ端から探したんだったか?」
「有名な鳥の絵を探したんだ、って言ってたよ。ヒルマンとエラは」
データベースを隅から隅まで調べたんだ、って言ってたと思う。時間もずいぶんかかったし…。
そうして調べて、持って来たのがあの絵だったよ。
ぼくとキャプテンだったハーレイ、それにゼルたちが顔を揃えた会議の席。
ヒルマンとエラが自信ありげに広げた図面に、後にシャングリラの甲板に描かれた絵があった。鳥と言われれば鳥に見えるし、何かの模様だと言われればそうも見える絵。
「…ハチドリだって?」
この絵がかい?
本物のハチドリにお目にかかったことはないけれど…。飛びながら花の蜜を吸う鳥だったかな?
「そのハチドリだと言われていた、というだけなんだがね」
ハチドリと決まったわけではないのだ、とヒルマンは言った。そう呼ばれているだけなのだと。
「ぼくにはハチドリのようには見えないけれど…」
「フェニックスでも通りますでしょう?」
鳥の絵ですから、とエラに説明されて眺めてみれば、フェニックスにも見えて来たから。
「そうだね、フェニックスだと言われれば…。そんな風にも見えるかな、うん」
これがハチドリだって言うんだったら、フェニックスだと言い張ったとしても通りそうだね。
「如何ですか、ソルジャー? この鳥を甲板に描くというのは」
「どういう絵だい、これは?」
なんとも奇妙な鳥だけれども…。何か有名な鳥の絵なのかな?
「地球で最大の鳥の絵の中の一つだよ」
ナスカの地上絵と呼ばれていてね。地面に直接描かれたのだよ、それはとてつもない大きさで。
何が描いてあるかは、空から見ないと分からない。
誰が何のために描いた絵なのか、それすらも謎だと言われた絵だね。
「空からしか見えないほどの絵だって?」
「ええ。残念ながら、SD体制に入るよりも遥かな昔に失われてしまったそうですが…」
このハチドリが一番有名な絵だったそうです。
もっと大きな地上絵も幾つかあったようですが、これが一番、鮮明に見えたと伝わっています。
空からしか見られない、神秘の鳥の絵。
甲板に描くにはこの鳥がいいと思うのですが…。
ナスカの地上絵。
それが地球の上に在った頃でさえ、多くの謎が解かれないままだった巨大な地上絵。
今は失われ、地球から消えてしまった鳥の絵。
ハチドリのようにも、フェニックスのようにも見える鳥の絵。
地球に行きたいと願っていた前のぼくが、惹かれないわけが無かったから。
その絵を見付けたヒルマンとエラも、もちろん地球に焦がれていたから。
遠い昔の地球に在った絵は、ハーレイたちにも支持されて甲板に描かれることになった。改造が済んだら船の甲板に、誘導用として大きく描こうと。
「…出来上がったシャングリラに描かせたんだっけ、あれ…」
これだけ大きな船に描くんだから、本物にも負けていないかも、って思ったんだった。
甲板の上に立ったくらいじゃ全体の形は分からないよね、って。
「そして綺麗に忘れちまった、と」
シャングリラの甲板にはナスカの地上絵があるってことを。
前のお前がフェニックスでも通ると言ってた、ハチドリの絵が描かれているってことを。
「ナスカの地上絵って所をね」
忘れちゃってたんだよ、ナスカって地名。
「本当か?」
鳥の絵そのものを忘れちゃいないか、ナスカだけじゃなくて?
「…忘れていたかも…」
シャングリラはいつも雲海の中だし、外に出る時もぼくは甲板からは出なかったし。
船の周りを飛んだ時には見えていたけど、シャングリラの一部だという感覚で。
「まあ、俺もだがな。キャプテンのくせに」
滅多に見ることは無かったからなあ、あれの全体。
ナスカに着くまでは俺は船から離れちゃいないし、映像でしか知らんと言うべきか。
たまに甲板の様子を覗きに行っても、其処からじゃ鳥の姿は見えないからなあ…。
「本物の地上絵と同じだね、それ」
絵が描いてある場所に立っていたって、何の絵なのか分からない、って。
「まったくだ」
ついでにナスカに居た間にも、だ。
シャトルで何度も地上とシャングリラを行き来してたが、操縦してたのは俺じゃないしな。誘導用に描かれた絵なんぞ見るチャンスは無い。
窓からチラリと絵の一部分が見えたと思ったら、もう格納庫の中なんだからな。
「それじゃ、ハーレイだって忘れるわけだね…」
船の全体を把握するのがハーレイの仕事で、甲板だけじゃないんだものね。あの鳥の絵が消えてしまいそうだから、って補修作業でもしない限りは頭に無いよね…。
「そんな所だ。人類軍の攻撃のせいで甲板の修理ってケースはよくあったんだが…」
全体の被害が大きすぎてな、修理の進捗状況を報告させて目を通すだけで精一杯だ。甲板の絵にどういう被害が出ているかなんて、いちいち報告も上がっちゃ来ない。
修理が必要で直ぐ始めます、って報告の次は修理完了までの日数だとか、完了したとか。つまり絵なぞは任せっ放しだ、絵よりはその下の甲板なんだ。
「そうなるだろうね…」
あの絵は無くても何とかなるけど、甲板は急いで修理しないと大変だから。
「うむ。…しかしだ、そういう状況だった俺はともかく…」
お前は俺よりも遥かに多く見ていた筈だぞ、あの絵をな。それを忘れるとはボケちまったのか?
「そうかも…」
だけど、ナスカで目が覚めた時には十五年ぶりだし、船の外にも出なかったしね?
あの赤い星の名前はナスカなんだ、って聞かされたら素直に納得しちゃうと思わない?
素敵な名前を付けたんだな、って。…しかもフィシスが付けたんだものね。
仕方ないよ、と唇を尖らせた、ぼく。
ボケちゃってたのかもしれないけれども、あの時はナスカで納得したんだ。ミュウが手に入れた赤い星だと、あの星で新しい命が幾つも生まれたんだ、と。
シャングリラの甲板に描いてあった鳥まで思い出さない。ナスカの地上絵どころじゃない。
だって、ミュウが初めて踏みしめた大地。新しい命を生み出した大地。
それほどの重みを持っていた星と、シャングリラの甲板のちっぽけな絵なんか重なりやしない。同じナスカでも全然違う。星と、甲板の小さな絵では。
それに…。
「ハーレイ、前のぼくがボケてたなんて言うけれど…」
確かにウッカリしてたかもだけど、前のぼくとは違って、プロ。歴史を調べるプロの人たち。
ミュウの歴史を研究している学者たちだって、あの絵とナスカを結び付けてないよ?
ナスカの地上絵、今でもデータは残っているのに。
下の学校の子たちがグラウンドに描いて新聞記事になるほど、あの絵はうんと有名なのに…。
「誰も接点を語らなかったら、偶然ってことで片付けるじゃないか」
学者ってヤツはそうしたもんだぞ、資料が残っていないものなら自分なりの説を唱えるが、だ。きちんと資料が残っているなら、それを踏まえて研究せんとな。
ナスカって星の名前が付いた日のことは、前の俺が航宙日誌に書いている。其処に甲板に在った鳥の絵について何も書かれていなかったならば、それが全てだ。
ナスカは、ナスカ。フィシスがナスカと名を付けた星で、ナスカの地上絵とは無関係なんだ。
「そういうことかあ…」
資料があるなら、そうなっちゃうね。ただの偶然、ナスカはナスカ。
フィシスはSD体制が崩壊した後も、カナリヤの子供たちを育てて幼稚園を創って、サイオンもちゃんと取り戻して。
あの姿のままで長生きしたって聞いているけど、そのフィシスだって何も証言してないし…。
やっぱりフィシスもナスカの地上絵のことは忘れてたんだね、甲板の鳥の絵。
「うむ。そうだと思うぞ、フィシスも最後までナスカはあの星の名前だと思っていたんだろう」
前のお前に教えて貰った、ハチドリの絵のことは思い出さずに。
シャングリラの甲板に描かれた鳥は、ナスカの地上絵がモデルだってことは忘れたままで。
付けたフィシスが思い出さないからには仕方ないよな、ナスカの名前が何処から来たかは…。
こればっかりはどうしようもないな、ってハーレイが腕組みしてるから。
眉間に皺まで寄せているから、ぼくも盛大な溜息をついた。
ナスカの地上絵と、赤い星。シャングリラの甲板に描いてあった鳥と、赤い星ナスカ。
「…ナスカの鳥の絵、前のぼくだって忘れがちだったしね…」
ぼくが描こうって言い出したくせに、自由の翼は覚えていたってナスカの鳥は忘れるんだよ。
甲板に描いて誘導用の絵にしちゃったからかな、シャングリラの一部分だとしか思ってなくて。
「俺も同じだ、あれは甲板の付属品みたいなモンだったからな」
甲板が無事ならそれでいいんだし、やられちまったら修理しないと。
其処に描いてある絵の修理だって、甲板の修理の内だからなあ…。あれは甲板の一部だ、うん。
「やっぱり、甲板?」
「ああ、甲板だ」
鳥の絵よりも先に甲板なんだ。
それ以上でも以下でもなくって、あの鳥の絵も丸ごと含めてシャングリラの甲板だったってな。
間違いなく甲板の一部だった、って言うハーレイと二人、開いてみたシャングリラの写真集。
ぼくとハーレイがお揃いで持ってる、豪華版の立派な写真集。
見開きのページにシャングリラ。白い鯨が大きく写った、宇宙空間が背景の写真。
あの鳥が甲板に浮かんでいた。
フェニックスみたいだと前のぼくが描かせた、ナスカの地上絵のハチドリの姿がくっきりと。
今日の新聞に載ってた写真とそっくりなハチドリ、ナスカの地上絵。
「…この絵、ナスカの地上絵だけどね?」
「何処から見たって、その絵だなあ…」
立派にナスカだ、あの赤い星と同じナスカって名前で、地上絵の方が古いってな。
「フィシスも忘れてしまってたんだし、偶然だとしか言えないけれどね…」
「シャングリラがナスカを背負ってることを思い出していたら、俺は一層辛かったろうな」
お前がいなくなっちまってから。
前のお前を失くしちまってから、もしもそいつに気付いていたら。
シャングリラにはナスカが付き物なんだと気付いていたなら、毎日が酷く辛かったろう。
船にはナスカが乗っかってるのに、肝心のナスカは燃えちまった。そのせいでお前まで失くしてしまって、それなのに俺は生きているのか、と。ナスカを背負ったシャングリラでな。
「じゃあ、忘れちゃってて良かったんだ?」
「そういうことになるんだろうな」
一度も思い出さなかったし、気付かなかった。
だからナスカの地上絵を乗っけた甲板を何度も修理しながら、地球を目指して。
前のお前に頼まれたとおりに地球を目指して、なんとかシャングリラを運べたってことだ。
ナスカのハチドリに気付いて落ち込む目には遭わずに、地球までな。
見事に思い出さなかった、ってハーレイが写真を眺めているから。
ナスカの地上絵のハチドリを描いたシャングリラの甲板を見詰めているから、訊いてみた。
「ぼくたち、明日まで覚えてるかな?」
赤い星の名前は、この甲板の絵から付いたってことを。
ナスカって名前は、ナスカの地上絵からフィシスが知らずに貰って来たっていうことを…。
「忘れるんじゃないか?」
明日になったら、綺麗サッパリ。
前の俺たちがこの絵の存在を知っていながら、忘れ果ててしまっていたのと同じで。
ナスカはナスカだ、赤い星の名前がナスカだったと明日になったら思っているさ。
「うん…」
ぼくもハーレイも、ボケるには早すぎるんだけど…。
今の所は、ちゃんとナスカの地上絵だけど…。
明日になったらそうなるだろうね、って笑い合った。
前のぼくたちでさえも気付かなかった、赤いナスカと白いシャングリラの甲板の絵の共通点。
どちらもナスカの地上絵から来て、遥かな昔の地球に在った巨大なハチドリなのに。
ハチドリの絵からナスカの名前が生まれて来たのに、誰も知らない歴史の秘密。
きっと明日には忘れちゃってる。ハーレイもぼくも、忘れちゃってる。
そしてナスカは、またナスカになる。
フィシスが名付けた赤い星に…。
ナスカの鳥・了
※赤い星、ナスカの名前の由来は、遠い昔の地球の「ナスカ」から。地上絵があった場所。
その地上絵を元にシャングリラの甲板に描かれた鳥。フィシスもそれを見ていたのです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(こいつも有り得ない食べ物なんだな…)
改めて思えば、とハーレイはブルーの家へと向かう途中で苦笑した。
食料品店の表に出ている特設屋台。食欲をそそる匂いが漂う、大して珍しくもない食べ物。今のハーレイにとっては幼い頃から馴染んだものだが、前の自分には想像もつかないものだから。
(土産に買って行ってやるとするか)
屋台の前に立ち、十個入りを一つ注文すれば、パックに収まって並べられていた商品ではなく、出来立てをその場で詰めてくれた。客の少ない時間帯ならではのサービスだろう。
(熱々だな)
出来立てならば、ブルーの家でも温め直さずに食べられる。今の季節なら充分に。
袋を提げて颯爽と歩き、辿り着いた生垣を巡らせた家。門扉の横のチャイムを鳴らして見上げた二階の窓から、ブルーが大きく手を振っていた。
門扉を開けに来たブルーの母に「今日はこれを買って来ましたから」と袋を見せると、「お茶はほうじ茶がよろしいかしら?」と問い掛けられて。
「そうですね…。紅茶は多分、合わないでしょうね」
「合いませんわよね?」
熱いほうじ茶をお持ちしますわ、と応えたブルーの母は、ハーレイを二階に案内した後、ほうじ茶だけを運んで来た。お菓子は無しで、ハーレイの土産を取り分けるための皿だけをつけて。
いつもとは違うティータイム。ブルーが「ほうじ茶?」と首を傾げるから。
「緑茶ってほどに気取った食い物でもないからな」
こいつの匂いで分からないか?
パックに詰まってこうして袋に入っていてもだ、匂いがしてると思うんだがな?
「えーっと…。これって、ソースの匂い?」
美味しそう…。ハーレイ、何を持って来てくれたの?
「見れば一発で分かるヤツだ。ほら」
袋から取り出した透明なパック。其処に詰まった、丸い形をした食べ物たちはまだ熱い。
「タコ焼きだったの?」
どうしてタコ焼きがお土産なの?
パックには何も書いてないけど、何処か有名なお店のタコ焼き?
「そこまでは知らん。通り掛かったら焼いていただけで、美味そうな匂いがしていたからな」
「ふうん…?」
「まあ、食ってみろ。焼き立てを詰めてくれたからなあ、まだ充分に熱い筈だぞ」
ほら、とブルーの取り皿に一つ入れてやった。爪楊枝が刺さっていた分を、一個。
爪楊枝付きのは二個あったから、もう一個を自分の皿へと載せる。ブルーの母が用意してくれたフォークの出番は無さそうだ。
ブルーは促されるままに口へと運んで、「美味しい!」と顔を輝かせた。
「そりゃ良かった。どれ、俺も一つ食ってみるかな」
齧ってみれば、出来立てだからか皮の表面がパリッとしていた。なのに中身はこれぞタコ焼きといった風情で、トロリとした食感と、存在を主張するタコと。
大当たりだった、と嬉しくなったが、買って来た理由はタコ焼き談義をするためではない。
ブルーに「美味いなら、残りは全部食ってもいいぞ」と微笑みながら、一つ質問を投げ掛けた。
「お前、タコは好きか?」
生き物としてのタコじゃなくって、食べる方。
タコ焼きは中に小さく一切れだけだが、刺身とか煮物とか、タコの食い方は色々あるだろ?
「好き嫌いが無いの、知ってるでしょ?」
何でも食べるよ、タコのお料理。タコ焼きだって、もちろん大好き。
タコは嫌いって友達なんかでもタコ焼きだけは好きだって言うよ、嫌いな人っているのかな?
「そういや、俺もタコ焼きが嫌いだってヤツにお目にかかったことは無いなあ…」
タコが嫌いな友達はいたが、タコ焼き屋で「タコを入れずに焼いてくれ」とは言わなかったか。
しかしだ、前のお前の話。
今のお前はタコを美味しく食べるようだが、前のお前はタコを食ったりしない筈だぞ。
「シャングリラにタコは無かったってば!」
タコなんか養殖していなかったし、食べるも何も…。無い食べ物は食べられないよ。
「確かにタコはいなかったんだが、その前に、タコを食いたかったか?」
もしもシャングリラでタコを飼えたなら、お前、養殖して食べたかったか?
「シャングリラで、タコ…?」
そんなの、考えたことも無かったけれど…。タコが飼えたら、食べたかったかな…?
タコのお料理、あの頃、どんなのがあったんだっけ…?
ブルーは懸命に遠い記憶を探ったけれども、まるで引っ掛からないタコ料理。
目の前にあるタコ焼きは存在しなかったろうが、マリネやフライは前の自分が生きていた頃にもポピュラーだった調理法。シャングリラでも養殖していた魚のマリネやフライがあった。
(…だけど、タコって…)
青い水の星、地球の海にとても焦がれていたから、海の幸にも憧れた。其処に居るだろう沢山の魚や貝といったものを食べてみたかった。トゲだらけのウニも。
けれども、タコの記憶が無い。タコを食べたいと思った記憶が何処にも無い。
(忘れちゃった…?)
あんなに印象的な姿をしているタコを忘れただなんて。
食べたいと願った気持ちごと忘れてしまったなんて、とブルーは愕然としたのだけれど。
「どうだ、あったか、タコの料理?」
前のお前が食いたいと思ったタコの料理は、何処にも一つも無いんじゃないか?
いくら探しても出て来ないだろう、とハーレイの瞳に悪戯っぽい光が浮かんでいるから。
「…タコのお料理、思い出せなくっても不思議じゃないの?」
ぼくが忘れてしまったんじゃなくて、思い出せない理由でもあるの?
どうしてなのか、ハーレイはそれを知っているわけ…?
「まあな。だからタコ焼きを買って来たんだ、前の俺たちには信じられない食い物だからな」
お前がタコの料理を思い出せないのと同じで、俺だって何一つ記憶が無い。
キャプテンになる前は厨房に立ってた俺の中にも、タコのレシピは一つも無いのさ。
あの時代には何処にも無かった文化だ、タコを食うのは。
「ハーレイ、それって…。SD体制の基礎になった文化の地域じゃ食べないってこと?」
其処ではタコを食べなかったの、だからタコのお料理、消えちゃったの?
「全く食わないってわけじゃなかったんだが…。多様性は消しておけってな」
地球が滅びて、何処の星でもテラフォーミングで海を作るしかなくて。
そんな時代だ、食べる魚の種類は少なめにしておいた方が管理する方も楽だろう?
わざわざタコまで食う必要は無いってことだ。
「…SD体制の基礎に使ってた文化、タコは滅多に食べなかったの?」
「基本に選ばれた文化の地域の半分ではな」
もう半分では普通に食べていたそうなんだが、そっちの文化は無かったことにしちまった。前のお前がタコの料理を思い付かなかったのはそのせいさ。
「タコ、食べなかった文化もあるんだ…」
もったいないね、美味しいのに。
同じ文化を持ってた地域の半分では食べていたんだったら、試しに食べれば良かったのに。
「その辺が面白い所なんだな、人間っていう生き物の」
隣同士で文化も繋がった地域に住んでて、片方じゃタコを美味しく食ってた。
ところが、もう片方の地域で暮らしてたヤツらは、タコを化け物だと思ってたんだぞ。
「嘘…!」
どうしたらタコが化け物になるの?
ハーレイ、それって本当の話?
「本当さ。其処ではタコはイカと並んで化け物なんだ。誰も化け物なんかを食おうと思わん」
海の化け物でクラーケンというのがいてな。
そいつが巨大なタコやイカだと考えられてて、でっかいタコが船を襲う絵があったりするんだ。
「タコが船を襲うの?」
「もちろん想像の産物だろうが、帆船に絡みついてる大きなタコの絵を本で見かけたな」
実際、でっかいタコはともかく、巨大なイカなら今の地球の海にもいるんだが…。
「ダイオウイカでしょ、マッコウクジラと戦うんだよね?」
「戦うと言うより、逃げようと必死に頑張っていると言ってやった方が正しいな」
マッコウクジラはダイオウイカの天敵なんだ。出会ったら最後、ほぼ食われちまう。
だがな、ダイオウイカよりもっと大きいダイオウホウズキイカってヤツなら逃げることもある。
吸盤の代わりに鉤爪を持っているからな。そいつで傷だらけにされたマッコウクジラが衰弱死という例もあったそうだし、一方的に負けっ放しと決まったわけでもなさそうだが…。
「へえ…!」
マッコウクジラを倒しちゃうイカもいるんだね。逃げるだけじゃなくて、ちゃんと勝つんだ…。
鯨はとても大きいのに、と感心していたブルーだったけれど。
「えっと…。それじゃあ…」
「なんだ?」
「人類の船にクラーケンっていうのは無かったの?」
「はあ?」
唐突な問いにハーレイは何を訊かれたのか分からなかったが、ブルーは続けた。
「でなきゃダイオウ……ホウズキイカ?」
そういう名前の付いている船。クラーケンとか、ダイオウホウズキイカだとか。鯨も倒しちゃう生き物なんでしょ、でなきゃ化け物…?
「鯨って…。そうか、シャングリラか、モビー・ディックか!」
「そう、それ!」
ぼくはキースの心を読んだ時に初めて知ったんだけれど…。
シャングリラをそう呼んでいたなら、鯨に勝てそうな名前の船を造ってくれば良かったのに。
無かったの、ハーレイ、そういう名前が付いてた船は?
「クラーケンはともかく、ダイオウホウズキイカってか…。タコもアリだな、クラーケンなら」
そんな名前の船が来てたら、俺はセンスを疑ってたぞ。人類のネーミングセンスってヤツを。
「駄目かな、とっても強そうじゃない?」
ぼくたちにしてみれば、強い船が来たら困るけど…。
負けちゃったらとっても困るんだけれど、モビー・ディックに勝つならクラーケンとかだよ?
人類軍にモビー・ディックと呼ばれたシャングリラ。白い鯨だったシャングリラ。
それに挑むなら、船の名前はクラーケンだのイカだのと付けるべきだ、と言い出したブルー。
ハーレイ自身も面白いとは思ったのだが、人類軍の船の名を考えてみれば。
「…駄目だな、あいつらの船は基本がなあ…。タコやイカとはお馴染みでな」
「えっ?」
どういう意味なの、タコやイカって名前の船があったっていう意味じゃないよね?
それなら駄目にはならないものね。
「前のお前は殆ど知らなかったろうが、今のお前は知っているよな、あいつらの船の名」
最後の戦いで旗艦だった船がゼウスで、他の船にしたってアルテミス級とか、そんな呼び方だ。ゼウスもアルテミスもギリシャ神話の神様だろう?
「そうだけど…。それって、タコとかイカと関係があるの?」
「ギリシャ神話が生まれた地域。あの辺りはSD体制よりもずっと昔に、タコとかイカを食ってた地域だ。もちろん文化が復活して来た今でも食ってる」
俺たちの住んでる地域の文化とはちょっと違うな、って食い方は其処のが多いんじゃないか?
シーフードマリネにはタコとイカとが欠かせないって聞くからな。
「それがマザー・システムが消していた文化?」
タコもイカも普通に食べるんです、って文化。ぼくたちが住んでる地域みたいに。
「そういうことだな」
美味いらしいぞ、海辺の食堂でタコの炭火焼きとか。
いつかお前と行くのもいいなあ、この地域とは違う食い方をあれこれ試しに出掛けて行くのも。
「美味しそうだね、タコの炭火焼き。でも…」
そんな風に普段から食べてた地域の文化だったら、タコもイカも化け物に出来ないね…。
いつも美味しく食べているのに、化け物だなんて思わないよね。
「思わんだろうな、化け物ってヤツは気味が悪いと感じる気持ちが生み出すんだから」
たまには巨大なタコやイカなんてものを考えたとしても、基本的には化け物じゃない。食べると美味い海の幸だな、タコもイカもな。
「ほらね。そういう地域の神話の名前を船に付けるから負けるんだよ」
鯨に勝てるかもしれない化け物を美味しく食べちゃっていたら、勝てやしないよ。タコもイカも凄い化け物なんだ、って信じてた地域の名前を付けなきゃ。
同じ神話の名前にしたって、タコとイカが化け物になっていた地域の神話のを。
だけど本気でシャングリラに勝とうと思うんだったら、クラーケンかタコかイカなんだよ。
「おいおい、其処でそうなるのか?」
ヤツらがタコだのイカだので来たら、それはシャングリラに勝てるのか?
「さあ…?」
運が良ければ、少しくらいはマシだったかもね?
ダイオウホウズキイカだったっけ、鉤爪で頑張って鯨を倒したイカもいたって言うんだから。
人類軍も縁起を担げば良かったのに、とブルーが可笑しそうに笑う。
白い鯨に、モビー・ディックに勝ちたいのならば、勝てそうな名前を付けるべきだ、と。
「だって、たった一隻の白い鯨が相手なのに勝てなかったんだよ?」
名前だけでも強そうな船を造るべきだよ、でなきゃ改名して来るとか。
それくらいはしててもいいと思うんだけどなあ、シャングリラに手を焼いていたんだったら。
「ふうむ…。それでクラーケンだのタコだのイカだのって船が来てたら大笑いだが」
クラーケンならまだしも、タコとイカはなあ…。凄いのが来たな、と笑うしかないな。
「シャングリラ、勝てる?」
そういう名前の船が来てても。タコだのイカだのがシャングリラを攻撃して来ても。
「意地でも勝つさ、前のお前の仇はキッチリ取らないとな」
「…ぼくの仇って…。ハーレイ、そういう発想で戦ってたわけ?」
地球を目指そうとか、ジョミーを支えて地球に行こうとか、そういう考えじゃなかったの?
「それはもちろんだが、お前の仇。そいつは取りたいと思っていたなあ…」
前のお前を失くしちまって、俺の生きる意味も無くなっちまった。
お前がジョミーを頼むと言い残したから、俺はひたすら地球を目指すしかなかったんだが…。
負けるわけにはいかない、ってな。負けたらお前が無駄死にじゃないか。
お前を無駄死ににさせないためにも、仇は取るのが筋だろうが。
「じゃあ、前のぼくが寝ていた間だったら?」
その間にクラーケンとかタコとかイカって名前の船が襲って来てたら?
「ヤツらがシャングリラをモビー・ディックと呼んでいることは知っていたが、だ」
とにかく逃げろと考えていたし、戦いは必要最低限だな。退路を確保したなら逃げる。どういう名前の船であろうが一目散だ。
クラーケンだろうが、タコだろうが。三十六計逃げるに如かず、だ。
逃げ切った後で「よく逃げられた」とホッと一息つくってわけだな、それから相手の船の名前を思い返して心底震え上がるんだ。
とんでもない船が来てたもんだと、あれはモビー・ディックを追い掛けるための船なんだと。
人類軍も本気を出して来たなと、ミュウを倒すための船を造って来やがったな、と。
「そっか、その頃だと逃げるんだ…」
でも、前のぼくが死んじゃった後。
ナスカが燃えてしまった後だと、逃げずに戦う方なんだ?
クラーケンでも、タコでもイカでも。シャングリラを倒すぞ、って名前が付いた船でも。
「当然だろうが。前のお前の仇を取るには地球に行かんと。地球に辿り着くことが敵討ちなんだ、何よりのな。前のお前は個人的な敵討ちなんかは全く望んじゃいなかったろうが?」
もっとも、そいつは俺の推測に過ぎなかったんだが…。
キースがお前に何をしたかを知らなかったから、そんな風に考えていただけなんだが…。
「それで合ってるよ、間違いじゃないよ」
ぼくはキースを恨んじゃいないし、敵討ちだって要らなかった。それよりも地球へ。
生き延びて地球まで行って欲しいと、人類と手を取り合って欲しいと思っていたけど…。
だけど、とブルーは赤い瞳を悲しげに伏せた。
「そうやって地球まで行ってくれたのに。長い戦いの末に、やっと地球まで行けたのに…」
地球は青くなくて、死んだ星のままで。…ごめんね、ハーレイ。
前のぼくが「頼んだよ」ってお願いしたから、ハーレイ、頑張ってくれたのに…。
がっかりしたでしょ、地球を見た時。青くない地球を見てしまった時…。
「いいさ、今では青い地球の上だ。ちゃんとお前までくっついて来たし」
今はチビだが、いずれは育って前のお前とそっくり同じになるんだしな。
そんなお前とタコ焼きが食える。もう最高の贅沢ってもんだ、これ以上は望みようがない。
「…それでいいの?」
前のハーレイ、うんと辛い目に遭ったのに…。それだけでいいの?
「俺は充分だと思っているが?」
お前だってこれでいいんだろうが。前のお前の辛かった気持ちを思い出すより、今の幸せだろ。
「そうだけど…」
ぼくは充分幸せだけれど、ハーレイの分。
前のぼくがいなくなった後、独りぼっちで生きるしかなかったハーレイの分はホントにいいの?
「ああ。シャングリラを無事に地球まで運んで行けたし、それでいいんだ」
クラーケンにもタコにもイカにも沈められずに、ちゃんと地球まで運んで行けた。
地球がどういう星であっても、前のお前の仇は討てたと思っている。
シャングリラを地球まで運べたってことは、戦いに勝てたってことなんだしな。
「…それならいいけど…」
負けちゃった方の、人類の方。
シャングリラに勝てそうな名前を付けた船、思い付いていれば良かったのにね、キース。
名前だけで勝てるってわけじゃないけど、クラーケンでもタコでもイカでも。
「其処でキースか?」
キースになるのか、そのとんでもない名前を船に付けて来るヤツは。
「最後の国家主席なんだよ、キース。船の命名権はあったと思うな、改名する権利も」
「うーむ…。旗艦ゼウスの代わりにクラーケンなら幾らかマシだが…」
タコだのイカだのはどうしろと言うんだ、最悪なセンスとしか言いようがないぞ。
「でも、その船の名前。マードック大佐のお蔭で有名になるよ?」
メギドから地球を守って沈んだんだし、ちゃんと歴史の教科書に載るよ。英雄だったマードック大佐とパイパー少尉が乗ってました、って。地球を守った船なんです、って。
「なるほどなあ…。たとえタコって名前の船でも格好はつくか」
「うん。歴史を習ったみんなが覚えて、今の時代まで名前が伝わる有名な船になるんだよ」
だけど、前のハーレイはそのオチまでは知らないしね?
「違いない。そうなった前か後かは知らんが、地球の地の底で死んじまったしな」
センス最悪な船で来やがったのかと思ったままだな、タコだなんて。
誰が付けたんだと、もっとマシなのは無かったのかと呆れ果てたままで死んだんだろうなあ…。
「船の名前に付けるんだったら、タコってセンスは最悪だけど…」
ぼくもクラーケンの方がまだマシだなって思うけれども、タコ、美味しいよ?
タコ焼きも、タコの煮物もお刺身も。マリネも好きだし、フライも大好き。
ハーレイが言ってたタコの炭火焼きだって、きっと食べたら美味しいんだろうな…。そのタコ、海辺の食堂で食べるんだったら獲れたてでしょ?
「うむ。獲れたてのタコは活きがいいから、うんと美味いぞ」
「ハーレイ、獲れたてのタコを食べたことがあるの?」
「あるぞ、何度も。親父が釣るから、何度もな」
釣ったばかりの活きのいいタコは歩くんだ。あの足を使って陸の上でも。
「タコが歩くの!?」
「信じられないって顔をしてるが、本当だぞ。実はな、俺がガキの頃にな…」
親父の車で釣りに出掛けて、あれこれ釣って。
その中にでっかいタコもいたから、持って帰って家で食おうとクーラーボックスに入れたんだ。そいつを車のトランクに積んで、意気揚々と帰り着いてな。
さて、料理だとキッチンに運んで蓋を開けたら、タコが何処にも居なかった、ってな。
「居なかったって…。入れ忘れたの、タコを?」
「いや。親父はきちんと入れたって言うし、おふくろも俺も見ていたんだぞ」
それなのに他の魚だけしか入っていなくて、タコはドロンと消えちまった。そんな馬鹿な、ってガレージに戻って、車のトランクを開けてみたら…、だ。
なんとトランクの蓋の裏側にベッタリ、例のタコが吸盤でくっついていたと来たもんだ。
「ええっ!?」
ブルーの赤い瞳が真ん丸になった。
タコが歩くと聞いただけでも信じられないと思っていたのに、クーラーボックスから逃げ出したタコ。食べられてたまるかと、車のトランクの蓋の裏側にくっついて隠れていたタコ。
「ハーレイ、それってタコの大脱出?」
どうやって逃げたの、クーラーボックスなんかから。蓋は閉まっていたんでしょ?
「運び出した時には閉まっていたなあ、気付かなかったわけだしな?」
多分、蓋が緩んでいたんだろうが…。タコが通れる隙間が開いて逃げたんだろうが、親父も俺もビックリしたさ。おふくろだってポカンとトランクを眺めていたなあ、くっついたタコを。
「そのタコ、それからどうなったの?」
「食っちまったさ、予定通りに」
トランクから剥がして、親父が茹でて。
逃げようってほどのタコだ、活きが良くって美味かったぞ。
「あははっ、タコでもハーレイに負けて胃袋行きになっちゃうんだね」
前のハーレイじゃないけれど。記憶が戻る前のハーレイだけれど、タコに勝つんだ?
「キャプテン・ハーレイが勝ったわけではないんだが…。ついでにタコって名前の船は、だ…」
前の俺の記憶には入ってないがな?
そんな名前の人類の船がシャングリラに向かって来てはいないぞ、クラーケンもイカも。
タコという名前の船は無かった、とハーレイはブルーに言ったけれども。
小さなブルーに言ったけれども、愛らしい恋人は船の名前よりも本物のタコに夢中のようで。
「ハーレイ、いつかハーレイのお父さんと一緒に釣りに行ったら、タコも釣ろうね」
クーラーボックスに入れて、車のトランクに乗っけるんだよ。
「大脱出を見てみたいのか?」
「ちょっぴりね」
タコが歩くのも見たいけれども、大脱出。そっちもとっても面白そうだよ、消えちゃうタコ。
「分かった、それならクーラーボックスの蓋は緩めにな」
逃げてくれるとは限らないが、だ。お前が見たいなら試してみるさ。
「うん、お願い!」
そのタコで何が食べられるかな?
タコ焼きにしたら何個分くらいになるタコなのかな、だけどお刺身でも美味しいかも…。
活きがいいならお刺身なのかな、煮物とかにするよりお刺身かな…?
どうやって食べることにしようか、と釣れる予定のタコに思いを馳せている恋人。
人類軍の船の名前はタコにすべきだったと、愉快なアイデアを出した恋人。
(…うん、タコ焼きを買って来ただけの甲斐はあったな)
思いもよらない方へと話が行っちまったが、とハーレイは顔を綻ばせた。
青く蘇った、母なる地球。タコが歩いて逃げる地球。
あの頃を思えば夢のようだと、まるで天国に来たかのようだと。
死に絶えた星と、喪ったブルー。
失くした筈のものを手に入れた上に、青い地球で二人、タコ焼きを頬張る時が来るとは、と…。
タコと白い鯨・了
※シャングリラをモビー・ディックと名付けた人類軍。実は縁起が悪い名前だったかも。
名前のせいで負けたわけでもないんでしょうけど、勝てそうな名前の船を建造すべきです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(…ふむ)
秋なんだな、とハーレイはブルーの家へと歩き始めて間もなく目を細めた。住宅街を抜けてゆく中、印象的な垣根を設けた家が一軒。
レース細工のように繊細な葉を茂らせた蔓草、カスミ草を思わせる小さな白い花。それから丸く膨らんだ無数の丸い実、風に揺れる軽くて重さの無い実たち。
風船カズラ。
この家の夏のシンボルマーク。夏の間は緑一色だった実が、かなり茶色く変わって来た。中身の種が熟した印。緑から黄色へと色を変えた実や、薄い茶色になった風船や、すっかり焦げた茶色で萎んでしまった風船やら。
まだ涼やかな緑色をしている風船カズラの蔓だけれども、秋が深まるとシーズンを終える。沢山実った風船も全て、翌年のための種を宿して萎むのだけれど。
(そういえば…)
シャングリラでは植えていなかった風船カズラ。白い鯨には無かった蔓草。
それが今では…。
(ブルーは多分、知らんだろうしな?)
よし、と庭の手入れをしていた家人に声を掛け、その実を幾つか分けて貰った。淡い緑色の風船ではなく、茶色く乾いた風船を。
まだふんわりと空気を中に閉じ込め、手のひらに乗せれば触れ合ってカサコソと鳴る風船を。
道中で壊れてしまわないよう、透明な袋を膨らませた中に入れて貰って。
「すみません、庭仕事でお忙しいのに」
「いえいえ、楽しんで頂けると嬉しいですよ」
好きで植えてるヤツですからね、と庭仕事をしていた主人は笑顔で返してくれた。風船カズラは一年中楽しめるものではないから冬は垣根が寂しくなるのだが、やめられないと。
別のものに変えるつもりはないから、来年も沢山の風船が垣根に鈴なりに揺れるだろうと。
分けて貰った風船カズラ。
まるで重さを感じさせない袋を手にして、あちこちの庭や公園を眺めながら着いたブルーの家。
二階のブルーの部屋に案内され、テーブルを挟んで向かい合って座り、紅茶のカップを前にして訊いた。例の袋を開け、茶色く乾いた軽い風船を一つ取り出しながら。
「ブルー、こいつを知っているか?」
「えーっと…?」
「風船カズラの実なんだが…。もっとも、こいつはすっかり乾いてしまっているがな」
「うん、知ってる。ハーレイが来るのとは反対の方に、毎年植えてる家があるから」
乾いちゃう前は薄緑色で、コロンと丸くてホントに風船みたいだよね。
こうして茶色に変わっちゃっても、まだまだ風船なんだけど…。風が吹いたら揺れているけど。
ハーレイ、これをどうするの?
「植えようと思ったわけではないが…。
お前、風船カズラの種って、見たことがあるか?」
「無いけど…。ぼくの家では植えていないし、パパもママも植えようって言わないし」
だから毎年、見てるだけだよ。
今年も風船が沢山あるな、って。触ったりつついたりはしてるけれども、中身は知らない。
「うむ、持って来た甲斐があったってな」
ご近所さんに頼んで貰って来たんだ、もしかしたらお前は知らないかもな、と思ってな。
「えっ?」
ブルーはキョトンと目を丸くした。見慣れた風船カズラの実。空気を閉じ込めて膨らむ風船。
可愛らしい実が売りの植物だと思っていたのに、種にも何か素敵な仕掛けがあるのだろうか?
「一つ、自分で開けてみろ。幾つも分けて貰ったからな」
ほら、と差し出された茶色い風船。乾いて皺が寄った風船。
「…この中、種が一杯なの?」
「いいから、そいつを開けるといい。何処から破っても種が出て来る」
「…んーと…」
細かい種が部屋に飛び散ってはたまらない、とブルーは紅茶のカップをテーブルに移すと、下のソーサーを受け皿代わりに風船をそうっと注意しながら破ったのだが。
「あれっ?」
三つだけしか入っていないよ、風船の中身。
小さな種が三つだけだよ、それに三つとも真ん中にしっかりくっついてる。
もっと一杯、詰まってるかと思ったのに。砂粒みたいな種がドッサリかと思っていたのに…。
風船カズラの実は三つの小部屋に分かれていた。
三つの区画に分かれた風船、一つの小部屋に五ミリくらいの黒い種が一つ。真ん丸な種が。
小部屋は互いにくっつき合って育つらしくて、三つの種も実の真ん中で背中合わせにくっついているのだけれど。
風船が揺れても外れないよう、しっかりとくっついているのだけれど…。
「その種は、だ。三つだけしか入っていないが、其処から外すと…」
ちょっと面白いことになるんだ、外してみろ。こんな種かとビックリするぞ。
「そうなの?」
「うむ。とにかく外してみるんだな」
簡単に外れる筈だから、と言われたブルーは「ふうん?」と黒くて丸い種を一個、外してみて。
「わあっ!」
凄い、と他の二つも外して、ソーサーに置いてまじまじと眺めた。
真ん丸な黒い種に、くっきりと白いハートのマーク。
風船にくっついていた種の背中の部分がハートの模様。
「この種、ハートマークがくっついてるよ!」
凄いや、綺麗なハートの形。風船を破っただけだとハートマークだって分からないんだね。
「やっぱりお前は知らなかったか、風船カズラのハートマークを」
「うん。ハートマークがくっついた種が入ってるなんて、今の今まで知らなかったよ」
どういう種の植物なのかも考えたことが無かったかも…。
風船みたいな実が出来るんだし、ちょっとくらいは不思議に思ってもいいのにね。
「この模様がついてるせいなんだろうな、心臓の種って学名らしいぞ、風船カズラ」
ハートマークだから、ハートで心臓。風船って名前はついてないんだ。
「心臓なの? 心臓よりかはハートがいいなあ、愛してます、って学名だとか」
せっかくハートのマークなのに。
心臓の種なんて名前じゃ、そのまんまじゃない。もっと素敵な名前を付ければ良かったのに…。
ハートマークの種は三つだけだったから、ブルーはそうっとテーブルに置いて。
転がらないように破った風船の中に収めて、紅茶のカップを元のソーサーの上へと戻した。
小さくて黒い、白いハートが描かれた種。
ハーレイがわざわざ持って来てくれて、開けてみろと勧めた風船の中から出て来たから。期待に胸を膨らませながら、向かい側に座る恋人に向かって訊いてみた。
「それで、これってプロポーズなの?」
「そう思うか?」
「だって、ハートのマークがついた種だよ、それを渡されて開けてみろって言われたよ?」
どう考えても、これってプロポーズでしょ?
それとも、いつかプロポーズするための練習だった?
ハートのマークを中に隠してプレゼントなんて、ぼく、想像もしなかったよ…!
案の定、ブルーは大喜びではしゃいでいるから。
何処に植えようかと、来年はこれを庭に植えるのだと、ハートの種をつついているから。
ハーレイは喉をクッと鳴らすと、小さな恋人に風船カズラの真実を教えることにした。
「その種なあ…。プロポーズに使おうってヤツもいるんだが…」
「いるんだが…って?」
プロポーズ以外の使い道があるの、この種に?
もしかしてハーレイ、違う意味の方で使おうと思って持って来たとか?
「そんな所だ。実はな、三つ入ってる種の一つがお前だっていう話もあってな」
前のお前だ、ソルジャー・ブルーだ。三つの種の一つがそうだと言うらしいぞ。
「嘘!」
なんでそういうことになるわけ、前のぼくだなんて。
前のぼくと、この種のハートのマークは関係無いと思うけど…。
これが入ってた風船カズラだって、前のぼくとは何の関係も無いんだけれど…!
「まあな」
普通に考えれば無関係だな、とクックッと笑いを漏らしながら。
ハーレイは小さな恋人を見詰めた。前の自分と風船カズラは無縁だと言い張る小さなブルーを。
「お前、烏瓜っていうのを知ってるか? 秋に赤い実が出来るヤツだが」
「知ってるけど…」
風船カズラと同じで垣根とかに絡んでいる蔓草でしょ?
食べられるかどうかは知らないけれど…。
「毒ってわけではないんだが…。不味いらしいし、食うヤツはいない。しかし人気のある実だぞ」
あれの種がな、縁起物でな。わざわざ探しに出掛けようって人もいるほどだ。
「そうだったの?」
「種の形が打ち出の小槌に似ているのさ。だから財布に入れておきたくなるってわけだ」
打ち出の小槌だ、振れば宝物が出るんだからな。財布に入れればお金が増えるという縁起物だ。
「ハーレイ、入れてる? 烏瓜の種」
「俺は其処まで欲張らんぞ」
別のを入れているからな。烏瓜の種まで突っ込まなくても今の所は間に合っている。
「銭亀だっけね、ハーレイのお財布に入っているのは」
「うむ。だが、親父の家には打ち出の小槌が無いこともない」
「えっ?」
「親父が釣り仲間に貰った烏瓜が庭に植わっているからな」
秋になったら勝手に実るさ、打ち出の小槌。その内に枯れて萎んで、何処かに落ちる。そういう打ち出の小槌が転がっちゃいるが、親父たちの財布には入っていないな。
「そういう意味かあ…」
お父さんたちは打ち出の小槌も入れているのかと思っちゃったよ、お財布に。
古いものとかが好きだと聞くから、烏瓜の種の打ち出の小槌も好きなのかなあ、って。
「まるで嫌いではないんだろうなあ、烏瓜を植えてる所をみると」
たまに通り掛かった人に頼まれて、実をプレゼントしているらしいぞ。打ち出の小槌を知ってる人には気前よく、ってな。
その烏瓜の種の他にも…、とハーレイはブルーに種の話をしてやった。
「梅の種には天神様って神様が入っているだとか。遠い昔の日本って国には、種を何かに見立てる文化があったわけだな」
種が落ちれば、其処から新しい木だの草だのが生えて来る。硬いだけの塊に見えてもな。
そういった不思議さが種ってヤツをだ、天神様とか打ち出の小槌にしたのかもしれん。その種の文化を復活させて来た人たちの中の誰かが思い付いたんだろうな、風船カズラも。
「だから、何なの? 風船カズラ」
打ち出の小槌とは全然違うよ、ハートマークのプロポーズの実だよ?
「お前だと言ったろ、前のお前だと」
「なんで前のぼく?」
ハートマークも風船カズラも、前のぼくは関係ないってば!
前のぼくの服にハートマークはついてなかったし、風船カズラだって植えてなかった。あの草は何処にも無かった筈だよ、シャングリラの。
「そりゃそうだろうな、あくまで見立てているわけだしな」
前のお前がハートマークだとも、風船カズラを植えていたとも言っちゃいないさ、その話は。
それで一つ、訊くが。
前のお前や俺たちのための記念墓地。あれの構造、どうなっている?
「記念墓地?」
「ノアのでも、アルテメシアのでもいい。要は配置だ、記念墓地での墓碑の場所だな」
前のお前のが一番奥に一つだけ立ってて、別格で…。
「そうだよ、ぼくだけ独りなんだよ!」
酷いよ、その前にあるジョミーとキースのは並んでいるのに。二人並べて作ってあるのに。
「それはともかく、それ以外の連中は俺も含めて、その他大勢って扱いだよな?」
「そうだけど…。その記念墓地がどうかした?」
「三人分だけ、特別だろう?」
前のお前と、ジョミーとキース。
SD体制崩壊の立役者だった二人と、其処までに至る全ての始まりだった前のお前と。
今の世界を作った三人。その三人の心臓がこいつに入ってるってな、風船カズラの実の中に。
なにしろ必ずハートの種が三個入っているんだし…。
三人の英雄の心臓が入った神秘の実なんだ、風船カズラは。
「こじつけだよ!」
そんな種だと言われても困る、とブルーは叫んだ。
いくら英雄扱いの三人であっても、由緒正しい烏瓜の種の打ち出の小槌には敵わないと。
死の星だった地球が蘇るほどの時が流れても、歴史と重みがまるで違うと。
「そうさ、前のお前たち三人が生きてた頃にもあったからなあ、風船カズラは」
シャングリラじゃ育てていなかっただけで、ごくごく普通に庭に植えられていた馴染みの植物。
だから定着しなかったってな、新しい説を唱えてみても。
「なんでハーレイが知ってるの、それを?」
定着したってわけでもないのに、何処で聞いたの、風船カズラと前のぼくたちの話なんかを?
「烏瓜の種を調べていた時、偶然な」
俺の記憶が戻る前の話さ、お前と出会うよりもずっと昔に何処かで読んだ。
それっきり忘れちまってたんだが、今日になって思い出したんだ。
おかしなもんだな、風船カズラを貰って来た家、毎日のように前を通っているんだが…。いつも沢山実がついてるな、と眺めてるんだが思い出さないままだった。
もしかしたら神様が教えて下さったのかもなあ…。
前のお前たちの心臓が入った実だから、この大切な風船カズラを広めなさい、とな。
「そんなの、定着しなくていいから!」
風船カズラなんか広めなくっていいんだから、とブルーが頬を膨らませる。
自分は全く嬉しくないのだと、三人分の心臓が入った風船カズラの実は要らないと。
「いいと思うが…。実に見事な、いいこじつけだと思うがな?」
実際、前のお前は頑張ったんだし、そのくらいの御褒美、貰っておけ。本当に英雄なんだから。
「……ぼくとジョミーとキースが最悪」
「は?」
怪訝そうな顔をしたハーレイに、小さなブルーは大真面目な瞳で風船カズラを示して言った。
「種が三つが最悪なんだよ。二つしか入っていなかったら、許す」
ぼくと、ハーレイ。
二人分の心臓が入っているなら、風船カズラの種が前のぼくでも許してあげるよ。
「それは有り得んぞ!」
どうして前のお前と俺になるんだ、種が二つで。
前のお前とセットで二つの種だと言うなら、其処はジョミーかフィシスじゃないのか?
キャプテン・ハーレイは絶対に出ない。
ジョミーか、でなけりゃミュウの女神のフィシスしか無いぞ、前のお前と二つセットの心臓は。
無理があり過ぎる、と唸るハーレイだったけれども。
小さな恋人は風船カズラの種をつつきながら、澄ました顔で。
「うん、誰も見立ててくれないだろうけど…。ハーレイとぼくっていうのは無理だろうけど…」
前のぼくとジョミーとキースの三人で、風船カズラのハートの種。
そんなヘンテコな話があるなら、二つしか種が入っていない風船カズラ。
種が入る部屋が二つしか無い、二つだけの種の風船カズラ。
それが前のぼくとハーレイの実だよ、探してきてよ。
そういう形の風船カズラの実を探し出して、「これだ」ってぼくに見せてよ、ハーレイ。
「どうするつもりだ、そんなのを探して?」
絶対に無いとは言わないが…。
何かのはずみに三つある筈の部屋が二つになっちまった風船カズラの実があるかもしれんが…。
それを探してどうするんだ?
「決まってるでしょ、プロポーズだよ!」
前のぼくとハーレイが入っている実を見付けたから、って。
ハートのマークがくっついた実をプロポーズに使う人、いるんでしょ?
ピッタリの実だよ、種が二つの風船カズラ。前のぼくとハーレイの心臓が入った風船カズラ。
それがいいな、とブルーが言うから。
見付けて来てよ、と小さなブルーが言うから、ハーレイは苦い顔をした。
「おいおいおい…。チビのお前には早すぎるだろうが、プロポーズは」
探さないからな、種が二つの風船カズラ。なんで探してまで、チビのお前に渡さねばならん。
「そう言うと思った」
ハーレイ、探してくれそうにないし。
ぼくが小さくてチビの間は、絶対探してくれないんだ。プロポーズだってしてくれなくて。
「ふむ…。だったら、お前、こいつを育ててみるか?」
この種を来年、庭に蒔いておけば風船カズラが生えて来る。今から蒔いておいてもいいぞ。芽が出る季節まできちんと眠って、春にヒョッコリ生えて来るから。
芽が出て来たなら、水をやって大きく育ててやって…。
実をドッサリとつけさせてやれば、望み通りの種が二つの実が一個くらいは出来るかもな。
そしたらその実を俺に教えて、「あれを取って来て」と言えばいいんだ。
「やだ」
「何故だ?」
お前が欲しがってる、種が二つの実じゃないか。
チビのお前にプロポーズは出来んが、プロポーズごっこなら付き合ってやるぞ?
「プロポーズごっこは嬉しいんだけど…。本物のプロポーズだと、もっと嬉しいんだけど…」
その前に、ぼくとジョミーとキースが沢山。三人分の心臓が入った実が沢山。
二つしか種の無い風船カズラが出来るかどうかも謎なんだよ?
出来なかったら何年育てても、ぼくとジョミーとキースの実ばかり。
いつまで経ってもハーレイとぼくの心臓が入った実が出来なくって、腹が立つから。
「じゃあ、お前、この実は要らないんだな?」
テーブルの上の、その種だって。
前のお前とジョミーとキースの実だっていうだけで欲しくないんだ、と。
「腹が立つしね」
ジョミーやキースと一緒にされても、ぼくはちっとも嬉しくないし!
三人仲良く同じ実の中に詰まってるなんて、悪夢だよ。
同じ実の中に部屋を作って、くっつくんなら断然、ハーレイ。部屋は二つだけあればいいんだ。
「ふうむ…。だったら、俺がプロポーズに風船カズラの実を持って来ても断るんだな?」
プロポーズにとハートのマークの種を渡されたら、受ける場合は貰うそうだが…。
それを大切に残しておいてだ、結婚してから新居の庭に植えるそうだが、お前は要らん、と。
俺のプロポーズごと突っ返すんだな、ジョミーとキースがセットの実なんか要らない、ってな。
「…ど、どうしよう…」
要らないって言ったら、そのプロポーズまで断ったことになっちゃうの?
ひょっとしてハーレイ、プロポーズのつもりで持って来てたの、風船カズラ?
ぼく、断ったことになってないよね、風船カズラの実のプロポーズ…?
まさかプロポーズを断ってしまったのではないだろうか、と慌てふためく小さなブルー。
プロポーズだったらどうしようか、と赤い瞳が揺れているから。
不安の色を湛えているから、ハーレイは「大丈夫さ」と銀色の頭を褐色の手でポンと叩いた。
「そういうプロポーズの形はあるがだ、お前にはまだ早すぎだ、ってな」
だから、お前は断っちゃいない。断るようにも俺は仕向けていない。
風船カズラの実は持って来ただけだ、面白い話を思い出したから教えてやろうと思ってな。
「本当に? その実、受け取らなくてもいいの?」
「腹が立つんだろ、ウッカリ植えたら。種が三つの風船カズラがドッサリ出来たら」
ジョミーやキースと一緒の家だと、三人分の部屋がセットだと、お前、嬉しくないんだろうが。
今日の所は持って帰るさ、プロポーズのための実じゃないんだからな。
「持って帰るって…。ぼくの代わりに育ててくれるの?」
「ご近所さんの庭に放り込んでおく」
「えっ?」
「こいつを貰ったご近所さんの庭さ、風船カズラが大好きな家の」
さっき教えたろ、今から蒔いても大丈夫だって。
其処の家では種を蒔いてるわけじゃないんだ、秋に落ちた種が春に芽を出して育つんだ。垣根の所に放り込んでおけば、来年の春にちゃんと生えて来る。
そうして夏には大きく育って、小さな緑の風船ってヤツが垣根一杯に揺れるわけだな。
運が良ければ、お前の望み通りの実だってあるかもしれない。
前のお前と、前の俺の心臓が入った風船カズラ。
種が二つだけの風船が一個、何処かに混じってフワフワと揺れているかもなあ…。
「前のぼくとハーレイの心臓が入った風船カズラかあ…」
部屋が二つしか無い風船カズラの実って、どんな形になるんだろう?
ハーレイ、あったら直ぐに気が付く?
もしもそういう実が混じってたら、沢山の中に一つだけでも見付け出せる…?
「そりゃまあ、なあ…。こんな話になっちまったからには、見付けた時には嬉しいだろうが…」
「ぼくたち、来年の風船カズラの実が出来る頃まで覚えてるかな?」
今日の話を。種が二つの、部屋が二つの風船カズラは特別だってこと。
前のぼくとハーレイの心臓が入った、素敵な風船カズラなんだってことを…。
「忘れてるだろ、何処かにデカデカと書いて張り紙でもすれば話は別だが」
「やっぱり?」
忘れちゃうかな、そういう風船カズラの実が欲しかった、ってことも綺麗に。
ぼくは子供だから忘れそうだし、ハーレイも色々と忙しいから忘れそうだよね…。
「うむ。お互い、明日には忘れてそうだな」
風船カズラを何処かで見たって、前のお前とジョミーとキースの実だってことも思い出さずに。
ハートのマークの種が入っているんだってことも、実だけ見てたら思い出さずに。
しかしだ、種が二つしかない風船カズラの実に出会ったなら、俺は途端に思い出すだろうな。
前のお前と俺のための実だと、二人分の心臓が入った実だと。
お前はどうだ?
そういう実、見付けたら思い出さないか…?
「思い出すに決まっているじゃない!」
これをハーレイに教えなくちゃ、って目印を付けるよ、実のある所に。
そして「取らないで下さい」って札も付けるよ、誰かが持ってってしまわないように。
それから、風船カズラを育ててる人にちゃんとお願いするんだよ。
この実を下さいって、この実を分けて欲しいんです、って。
風船カズラの膨らんだ実には、一粒の種が入った部屋が三つずつ。
一つの風船に種は三つで、ハートのマークがついた種は心臓。SD体制を倒した英雄たちを表す心臓の種が三つ入って、前のブルーと、ジョミーとキース。
今はプロポーズにも使われる実の中に、三人の英雄の心臓があると言うのだけれど。
ソルジャー・ブルーの生まれ変わりのブルーは不満でたまらない。
種は二つで充分なのだと、前の自分とハーレイの心臓だけが入った実がいいのだと。種が入った部屋は二つだけ、三つ目の部屋は要りはしないし、欲しくもないと。
「ホントのホントに、種は二つでいいんだけどなあ…。風船カズラ」
「俺もお前と二人で入れる実がいいんだがな、ジョミーとキースに取られるよりはな」
「そうでしょ? 前のぼくとハーレイの部屋だけあったら充分なんだよ、風船の中」
「違いない。ジョミーとキースには出てって貰って、俺が住むとするか」
変な形の実になっちまおうが、知ったことではないからな。
風船カズラの実に前のお前が入っているなら、強引に俺が住み着くまでだ。
ジョミーとキースは追い出しちまって、お前と二人で住むための部屋だけ作ってな。
風船カズラの種が入った部屋が三つだからこそ、前のブルーとジョミーとキースなのだけれど。
部屋が二つで種が二つでは、誰も彼らを思い出してはくれないのだけれど。
もしもそういう実が出来たなら…、とハーレイとブルーは笑い合う。
たとえ二人とも、今日の話を忘れ去ってしまった後であっても。
その時には思い出すであろうと、この実が前の自分たちを表す実なのだ、と。
二つの部屋で、二つだけの種。前のブルーとハーレイの心臓が入った風船カズラ。
そうして二人、それを眺めて幸せに浸る。
プロポーズはもう、とうの昔に済んだ後かもしれないけれど…。
風船カズラ・了
※風船カズラの中には心臓が三つ。前のブルーと、ジョミーと、キース。そういうお話。
素敵ですけど、広まらなかったみたいです。風船カズラの種についてるハートのマーク。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv