シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
夏休みも明日で終わってしまう八月の三十日。
ぼくはハーレイから素敵なプレゼントを貰ってしまった。
真夏の太陽の光を集めてギュッと閉じ込めたみたいな、綺麗な金色をしたマーマレード。
昨日、ハーレイは夕食を食べずに早めに帰って行ったんだ。隣町にあるハーレイが育った家で、お父さんとお母さんが食事を作って待ってるから、って。
誕生日の次の日だもの、仕方ないよね。誕生日はぼくが独占しちゃったんだもの。
そしたら今日の朝、マーマレードの大きな瓶が入った紙袋を提げて訪ねて来てくれた。
「おふくろと親父が、持って行けってうるさくてな」
ぼくの部屋のテーブルに瓶を置いて、アイスティーとお菓子を持って来たママにも説明をした。
「母が作ったマーマレードです。いつもお世話になっていますし、お召し上がり下さい」
「いえ、そんな…。お世話になっているのはブルーですのに」
「庭に夏ミカンの木があるんですよ。食べ切れないほど作ってますから、ご遠慮なく」
お口に合えばいいんですが、ってハーレイは言うけど、きっと美味しいに決まってる。とろりと溶けた蜂蜜とお日様を混ぜた色。夏の光がいっぱい詰まったハーレイのお母さんのマーマレード。
ママが直ぐに持って行こうとしたから、「待って」って止めた。
せっかく貰ったマーマレード。ハーレイのお母さんの話も聞きたかったし、夏ミカンの木の話も聞きたい。作ってくれた人を思い浮かべながらマーマレードの瓶をよく見てみたい。
後で下まで持って行くから、とテーブルの上に置いたままにしておいて貰った。本当にゆっくり見たかっただけなんだけれど、ママが部屋を出て、階段を下りて。足音が小さくなって消えたら、ハーレイがニッコリ笑ったんだ。「どうして分かった?」って。
「え、何が?」
「なんだ、知ってたわけじゃないのか。これはな、本当はお前に渡したかったんだ。…おふくろも親父もそうしたかったんだが、お前の家ではそれは通用しないしな…」
「何の話?」
キョトンとしたぼくに、ハーレイはパチンと片目を瞑ってみせた。
「将来、俺の……その、なんて言うんだ? 嫁さんと言っていいのかどうか…。とにかく俺の結婚相手になるお前に、って親父とおふくろが持たせてくれたマーマレードなのさ」
…お嫁さん。ぼくがハーレイのお嫁さん…。
いつかハーレイと結婚するんだって決めているけど、パパにもママにも話していない。
でもハーレイはお父さんたちに話してくれたんだ。ぼくのことを。ぼくと結婚することを…。
「お前のパパとママはそういう事情は知らないからなあ…。だから表向きは俺が世話になっている御礼ってコトにしといたが、本当はお前宛なんだよ。親父もおふくろも喜んでたさ」
とても可愛い子供が一人増えた、ってな。
そう聞いてぼくは真っ赤になった。
ハーレイと結婚したら、ハーレイのお父さんとお母さんはぼくのお父さんとお母さんだ。
まだ結婚もしていないのに、もう子供だって言って貰えた。お母さんが作ったマーマレードまで貰ってしまった。
嬉しいけれど、ちょっと恥ずかしい。だから耳まで赤く染まった。
ハーレイのお父さんとお母さん。ハーレイから時々、話を聞くだけのお父さんとお母さん。
どんな人たちなんだろう? ぼくのためにってマーマレードをくれた人たちは…。
ドキドキしながらハーレイに訊いた。ぼくのことをいつ話したの、って。
「ん? 前から話はしてあったがな…。事情があってチビの守り役をする、とな」
「チビは酷いよ!」
「お前、本当にチビだろうが。俺と会ってから少しも育たん」
そう言ってハーレイは笑うけれども、昨日の夜にお父さんとお母さんの前で宣言したらしい。
年を取るのはもうやめる、って。これからも誕生日を迎える度に年を取るけど、外見の方は今の姿で止めておく、って。
その約束はハーレイがぼくと再会した時にしてくれた。キャプテン・ハーレイだった頃と同じに見える今の姿を保ってぼくが育つのを待つ、と。
ハーレイが年を取るのをやめにするから、お父さんとお母さんも年を取るのを止めるんだって。
流石ハーレイのお父さんたちだ。ハーレイはぼくに会わなかったらまだまだ年を取る予定だったと前に話してくれたし、年を取るのが好きな家系なのかな?
今の時代はみんなミュウだから、若いままの人も多いのにね。ハーレイくらいの年になったら、自分のお父さんたちと見た目の年が変わらないなんて、ごくごく普通のことなのに。
ハーレイのお父さんたちは、ハーレイがぼくの守り役になったことは知っていたけど、恋人とは思っていなかったから凄くビックリしたらしい。
こんなに小さいのにもう恋人で、もう結婚すると決めているのか、と。
ぼくの年には驚いたのに、ぼくが女の子じゃないってことは全く気にしていなかったって。
ハーレイが一日遅れの誕生日を祝いに帰った家で、ぼくのことをきちんと話してくれたっていうのが嬉しかった。ハーレイのお父さんとお母さんが喜んでくれたことも。
お父さんには「小さな子供に手を出すなよ」って釘を刺されたみたいだけどね。
ハーレイ、ぼくの姿もちゃんと思念でお父さんたちに伝えてくれたんだ。
「可愛いだろう」って自慢したって威張ってた。
庭に大きな夏ミカンの木がある家のリビングで、ぼくの話をして、姿も伝えて。
夏ミカンの実で作るマーマレードが自慢のお母さんは、ぼくが女の子じゃなかったことには少しガッカリしたかもしれない。マーマレード作りが好きな男の子は、ぼくの友達には一人もいない。ぼくもマーマレードを作りはしないし、ちょっぴり申し訳ない気がした。
いつかハーレイと結婚したら。
ハーレイと一緒に暮らせるようになったら、ハーレイのお母さんの家に出掛けてマーマレードの作り方を習わなくっちゃ。
ぼくのために、ってマーマレードをくれたお母さんの隣でエプロンを着けてマーマレード作り。お鍋に沢山の金色が溢れて、庭ではハーレイが夏ミカンの実を採っているだろう。キッチンに次の夏ミカンの山が届けられたら、洗って、むいて、皮を刻んで…。
そういう時間もきっと楽しい。
ハーレイのお母さんも「女の子じゃなくても楽しいわね」って思ってくれると嬉しいな。
幾つも並んだマーマレードが詰まったガラス瓶。
ハーレイのお父さんたちが家で食べる分と、ぼくとハーレイとで食べる分。ぼくのパパとママに届けて食べて貰う分。
うん、結婚してハーレイの家で暮らすんだったら、三軒分のマーマレードが要りそうだよね。
夏ミカンの木はとても大きいらしいし、それだけ作っても余るんだろう。余った分はハーレイのお母さんが知り合いの人たちに配って回る。新しく出来た子供と一緒に作りました、って。
想像しただけで胸がじんわり暖かくなった。
ぼくはハーレイのお父さんたちの新しい家族になって、夏ミカンの大きな木がある家でテーブルを囲んで食事なんかも出来るんだ。隣町にあるハーレイが育った家で。
ちょっとヒルマンに似ているっていうハーレイのお父さんは、ぼくを川遊びとかキャンプとかに連れて行きたいと言ってくれた。
釣りが大好きなお父さん。海釣りもするけど、今の時期だと川でアユの友釣り。オトリのアユを使って釣る方法は本で読んだことがあるだけで、ぼくは普通の釣りさえしたことがない。
ぼくの身体が弱いと聞いたお父さんは「可哀相にな」って心配してくれて、「そういう子供でも元気に遊べる川やキャンプ場に連れて行ってやりたいな」とハーレイに言ったらしいんだけど。
ハーレイはぼくが大きくなるまで、お父さんたちに会わせてくれないんだ。
「親父たちの家まで連れて行く途中と帰りの道とが大変だしな?」と頭をポンと叩かれた。
二人きりで車に乗って出掛けることになるから、ハーレイの我慢の限界を超えてしまうって。
キスを許してくれないのと同じで、二人きりのドライブも許してくれない。
せっかくお父さんが釣りに誘ってくれているのに。ぼくは釣りをしたことが一度も無いのに。
キャンプ場に行こうって、お父さんが言ってくれてるのに。
ハーレイのケチ!
マーマレードが自慢のお母さんは、小さなぼくと二人で散歩に行きたいんだって。
一人息子のハーレイはとっくの昔にすっかり大きくなってしまって、連れて歩いても全然可愛く見えないから、って聞いたら可笑しくて少し笑ってしまった。
天気のいい日は、あちこちの家の庭に咲いた花や実をつけた木とかを眺めながら歩いて、公園を幾つも回って歩くお母さん。散歩コースには知り合いの人が大勢いるんだって。
「すっかりおばあちゃんになった私がこの子を連れて歩いたら孫みたいでしょ?」とハーレイにニッコリ笑って、ぼくを連れて行きたいと頼んだらしい。
ぼくと二人で通り道にある家の庭を見ながら歩いて、公園に行って。公園に着いたら搾りたてのミルクで作ったソフトクリームを買って貰って、一休みして、また二人で歩いて。それから小さな喫茶店に入って、お母さんのお気に入りの美味しいものを食べて休憩するんだ。
ホットケーキがうんと分厚いお店や、選んだ果物でフルーツパフェを作ってくれるお店とか。
そういう所にぼくを連れて行きたい、ってお母さんは言ってくれたのに。
季節の花とか果物の木を沢山見せて教えてあげたい、って言ってくれてるのに。
これまたハーレイは許してくれない。
ぼくと二人で隣町までドライブするのは絶対ダメだ、と許してくれない。
お母さんと散歩をしてみたいのに。喫茶店にも行ってみたいのに。
ハーレイのドケチ!
庭に大きな夏ミカンの木がある、隣町のハーレイが育った家。
その家だって見てみたい。
ハーレイが子供だった頃には真っ白な猫のミーシャをお母さんが飼っていた。ハーレイがぼくに似ていると言ってた甘えん坊のミーシャ。登った木から下りられなくなってしまってミャーミャー鳴いて、お父さんが梯子をかけて助けに行った。
ミーシャが下りられなくなった木はどんなのだろう?
枝を四方に広げる木なのか、真っ直ぐ上に伸びる木なのか。ミーシャが下りられなくなった時はハーレイはまだ子供だったというから、木はその頃よりグンと大きくなっただろうか。
夏ミカンの木はその木の隣にあるのかな?
真っ白な花の匂いが風に乗って道まで届く大きな木。夏ミカンが枝いっぱいにドッサリ実って、沢山のマーマレードが作れる木。
ぼくも夏ミカンをもいでみたいけど、ハーレイは「届かないぞ」と笑って言った。
下の方の枝なら小さなぼくでも採ることが出来る。だけど夏ミカンが山ほど実る木はハーレイの背よりもずっと高くて、全部採るには長い柄がついた専用のハサミが要るらしい。それでも一番上まで届かないから、梯子の出番。
ぼくの手が届きそうな辺りの夏ミカンはお母さんが採って一番最初のマーマレードが作られる。ハーレイはそれを貰いに出掛けて、お父さんと二人で残りの夏ミカンを全部採るんだ。
つまり、ハーレイがぼくを連れて行ってくれても手の届く所に夏ミカンは無い。
「一つだけ残しておいてもらうか? お前用に」
いつか行こう、とハーレイがぼくの頭を撫でる。
「大きくなったら連れて行ってやるさ。その年は下の方の枝に残しておくよう頼んでやろう」
「約束だよ? ぼくも採りたいんだから」
「ああ。…下の方の枝に一個ポツンと残っていたら、なんだか木守りみたいだな」
「木守り?」
その言葉をぼくは知らなかった。
実をつける木の天辺の方に実を一個だけ残すんだって。来年もよく実るようにと祈りをこめて。
ハーレイの家の夏ミカンの木にも木守りの一個が残してあって、次の年の実が実る頃になってもまだ天辺にくっついてる年もあるそうだ。
夏ミカンの実を全部もいでも、最後に一個だけ残ってる。ぼくの知らない、遠い遠い昔の地球にあったらしい実のなる木のためのおまじない。
そういうことを大切にする家で育ったから、ハーレイは古典の先生の道を選んだのかな?
七夕とか、端午の節句だとか。昔の習慣を教えてくれる授業は歴史じゃなくて古典だものね。
天辺に木守りの実を一個残した夏ミカンの木。
どのくらい大きな木なのか、その下に立って上を見上げる日が楽しみだ。
ぼくが初めて出会う季節は花の頃かな、それとも実がまだ青い頃?
夏ミカンは秋の終わりに黄色くなり始めるけれど、その時に食べても酸っぱいだけなんだって。すっかり熟して美味しくなるのは初夏の頃。だから夏ミカンと呼ばれるらしい。
どの季節にハーレイが育った家の庭に立てるのか、夏ミカンの木に会えるのか。
ハーレイのお父さんとお母さんに初めて会える日はいつなのか…。
その時が来たら、ぼくはハーレイが運転する車で隣町に行く。ドライブと呼ぶには短すぎる距離でも、ぼくにとっては特別な旅になるんだろう。
隣町に着いて、庭に夏ミカンの大きな木がある家に着いたら、新しいお父さんとお母さんになる人たちがぼくを迎えてくれる。
ぼくの背が伸びてソルジャー・ブルーだった頃と同じになったら、その家に行ける。
そしてハーレイと結婚するんだ、ハーレイの新しい家族になるために。
今度こそ二度と離れないよう、手を繋いで歩いてゆくために…。
ハーレイのお母さんが庭の夏ミカンで作った自慢のマーマレード。
金色のお日様を閉じ込めた瓶を、ぼくの部屋でハーレイと過ごす間に何度も眺めた。ハーレイのお父さんとお母さんがくれたマーマレード。
パパとママはぼくがハーレイと結婚するなんて思ってないから、表向きはハーレイがぼくの家で休日を過ごしたりしていることへの御礼で、家族みんなで食べるためのもの。
でも、本当は違うんだ。
ハーレイのお父さんとお母さんは、ぼくのためにとマーマレードをくれた。
いつかハーレイと結婚するぼくにプレゼントしてくれたマーマレード。
見ているだけで幸せな気持ちになってくる。ハーレイのお父さんとお母さんの優しさが詰まった金色に輝くマーマレード。どんなに甘くて美味しいんだろう?
ハーレイは「夏ミカンだから少しビターだぞ。大人向けかもな」と言うけれど、きっと食べたら甘いと思う。
だって、ハーレイのお父さんとお母さんがくれたんだもの。
新しい家族になるぼくに、って。
一日中、飽きずに瓶を眺めて、ハーレイと一緒に夕食を食べる時に持って下りてママに渡した。パパとママも同じテーブルで食べる夕食。このテーブルにハーレイのお父さんとお母さんも加わる日はいつになるんだろう?
早くその日がくればいいな、と思いながらハーレイが「また、明日な」と帰ってゆくのを家の前まで出て見送った。大きな影が見えなくなるまで手を振り続けて、ハーレイが何度も振り返って。
夏休みはまだもう一日ある。明日がハーレイと丸一日過ごせる最後の平日。
(…あと一日しか残ってないけど、まだ一日も残っているし!)
明日はハーレイとどんな話をしようか。
天気が良ければ庭の木の下の白いテーブルと椅子でゆっくり過ごすのもいいかもしれない。
ぼくの家の庭に夏ミカンの木は無いし、猫のミーシャが下りられなくなった木ももちろん無い。だけどハーレイが作ってくれた特別な場所が木の下のテーブルと椅子なんだ。
最初はハーレイが持って来てくれたキャンプ用のテーブルと椅子だった。それが夏休みの間に白いテーブルと椅子に変わって、今ではぼくのお気に入りの場所。
夏休みの最後の一日だから、あの椅子にも座ってみたいよね…。
ママに頼んでスコーンを焼いて貰おうかな?
ハーレイのお父さんとお母さんがくれたマーマレードをたっぷりとつけて食べるんだ。
木漏れ日が模様を描く木の下のテーブルで見たら、マーマレードはお日様の光そのものだろう。ママのスコーンと、ハーレイのお母さんのマーマレード。お母さんが二人分の味。
(…うん、いいかも…!)
明日の朝、起きて晴れだったなら、ママにスコーンをお願いしなくちゃ!
八月三十一日、ぼくの夏休みの最後の日。
目を覚まして窓のカーテンを開けると空は綺麗に晴れていたから、ママにスコーンを焼いて貰うために急いで階段を下りて行った。生地を休ませる時間が要るから、早めに頼んでおかないと…。
「ママ、おはよう!」
トーストが焼ける匂いがしてくるダイニングの扉を開けた瞬間、ぼくの目に信じられない光景が飛び込んで来た。テーブルの真ん中に昨日貰ったマーマレードの大きな瓶。蓋が開いてて、パパが齧ってるトーストの上にマーマレードが乗っかっている。
「おはよう、ブルー。美味いぞ、ハーレイ先生に貰ったマーマレード」
「……もう開けちゃったんだ……」
ぼくのマーマレード、という言葉をグッと飲み込んだ。ハーレイのお父さんとお母さんがぼくにくれた夏ミカンのマーマレード。でも…。
「どうした、ブルー? こういうものはな、頂いたら早めに食べて御礼を言うもんだ」
「そうよ、ブルー。ハーレイ先生、今日も来て下さるでしょう?」
美味しいわよ、と微笑むママのトーストにもマーマレードが塗られていた。ハーレイのお母さんの自慢のマーマレード。ぼくが貰ったマーマレード…。
パパが言うことは間違いじゃないって分かってる。それに表向きはハーレイからパパとママへの御礼で、パパとママがぼくよりも先に食べていたって仕方ない。ぼくに文句を言う権利は無い。
でも、ぼくが一番に開けたかったんだ。
だって、ハーレイのお父さんとお母さんに貰ったマーマレード。ぼくが貰ったマーマレード…。
ガッカリしたけど、俯いていたってどうにもならない。
「ブルー? ホントに美味しいマーマレードよ?」
もう一枚トーストを食べたくなるわね、と嬉しそうなママと、二枚目のトーストを齧るパパと。二人揃って美味しい、美味しいと食べているから、ぼくも食べてみることにした。マーマレードの瓶を開けられてしまったことはショックだったけど、貰ったのはパパとママなんだから…。
ママにトーストを焼いて貰って、金色のマーマレードをスプーンで掬って乗せた。齧ってみるとハーレイが言ってたとおりに少しビターで、でも蜂蜜の甘さが優しくて。
「……美味しい……」
「でしょ? ハーレイ先生に御礼を言わなくっちゃね」
御機嫌なママと、「うん、美味かった。さて、行ってくるかな」と会社に出掛けるパパと。
マーマレードの瓶は大きいけれども、こんな調子で食べられちゃったらアッと言う間に空っぽになってしまうかも…。
あっ、いけない! ママにスコーンを頼まなくっちゃ!
「…なるほどな。それで先に食べられてしまっていた、と」
ハーレイが可笑しそうに笑う姿を見ながら、ぼくは頬っぺたを膨らませた。
庭で一番大きな木の下の白いテーブル、ママの焼きたてのスコーンとハーレイのお母さん自慢のマーマレードと。最高のティータイムになる筈だったのに、マーマレードの一番乗りをパパたちに取られてしまったぼく。金色のマーマレードが盛られたガラスの器が恨めしい。
「ハーレイ、笑いごとじゃないってば! せっかくぼくが貰ったのに…」
「お前用だとは確かに言ったが、表向きは違うとも言っただろうが」
「でも…! パパもママも美味しいって喜んでるから、すぐ無くなっちゃう…」
せっかくハーレイに貰ったのに。
ハーレイのお父さんとお母さんがぼくにくれたのに、アッと言う間になくなりそうだ。
そう言ったら、ハーレイは割ったスコーンにマーマレードをたっぷりと乗せて頬張りながら。
「俺の家にまだまだ沢山あるぞ。無くなったらまた持って来てやるさ」
「そうじゃなくって!」
どうして分かってくれないんだろう。
同じマーマレードでも、全然違うということを。
ぼくはハーレイのお父さんとお母さんがぼくにくれたマーマレードが嬉しかったのに…。
ハーレイと結婚するぼくに、ってプレゼントしてくれた特別なマーマレードだったのに…。
「分かった、分かった。そう膨れるな、またその内に貰って来てやるさ」
「…パパとママとが食べちゃうのに?」
「負けないように沢山食べろ。前から言っているだろうが」
しっかり食べて大きくなれよ、とハーレイがぼくの頭をクシャクシャと撫でた。
髪の毛がスコーンとマーマレードの匂いになったかもだけど、嫌な気持ちは全然しない。
ぼくの大好きなハーレイの手。
この褐色の大きな手ならば、マーマレードの瓶だって簡単にポンと開けちゃうんだろう。
パパとママとがうんと苦労して開けたと言ってた、固く閉まった瓶の蓋でも。
明日から、また学校が始まっちゃう。
ハーレイと毎日のように家で会えてた夏休みが今日で終わってしまう。
それが残念でたまらないけど、ハーレイと結婚出来る日までの残り日数は夏休みの分だけ減って少なくなったんだ。そう思って我慢するしかない。
開けられてしまったマーマレードも、減った分だけハーレイと結婚出来る日が近付いてくる。
ぼくは少しずつしか食べられないから、パパとママに殆ど食べられちゃうけれど…。
でもいつか、ハーレイのお父さんとお母さんが住む隣町の家の庭で、夏ミカンがドッサリ実った大きな木を見上げる日が来て、ぼくのために残しておいて貰った一個を採ることが出来る。
その木にぼくが初めて出会う日は、白い花の頃か、青い実の頃か。それともマーマレード作りが始まる季節になるんだろうか…。
ハーレイのお父さんとお母さんの家まで、ハーレイが運転する車でドライブする日。
それまでに何度、この金色のマーマレードが詰まった瓶を貰うんだろう。
早くパパとママに「これはぼくのだ」って言える日が来るといいんだけれど…。
夏休みの間も、ぼくの背丈は一ミリさえも伸びてはいない。
ソルジャー・ブルーだった頃のぼくと同じくらいに大きくなるには、食べなくちゃ。
ハーレイのお父さんとお母さんに貰ったマーマレードで、トーストをおかわりしなくちゃね。
うん、頑張って食べてみよう。
少しビターだけど、蜂蜜たっぷりのマーマレード。
お日様の光を集めたような金色を毎日しっかり食べたら、きっと大きくなれるよね?
ねえ、ハーレイ…?
マーマレード・了
※ハーレイのお母さんの手作り、夏ミカンの実のマーマレード。
これから何度もブルーの家へと届けられることになるのでしょう。そして毎朝の食卓に。
トーストにたっぷりと塗り付けるブルー君、きっと幸せ一杯ですねv
毎日更新の「シャングリラ学園生徒会室」にて、作者の日常を公開中。
公式絵のキャプテン・ハーレイと遊べる「ウィリアム君のお部屋」もそちらにあります。
お気軽に覗いてやって下さい、拍手部屋の方もよろしくです~。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
←拍手、コメントなどお待ちしてますv
御礼ショートショートが置いてあります、毎月1回、入れ替えです!
←ウィリアム君のお部屋、直通はこちらv
「外へ出す」と、ほんのりハレブル風味になる仕様です~。
パパに強請って買って貰った写真集。
歴史の彼方に消えたシャングリラの写真を集めた豪華版。ぼくのお小遣いでは買えない値段。
「ほら、ブルー。お前が言ってた写真集だ」
「ありがとう、パパ!」
「…パパにはピンとこない本だが、お前はこの船に居たんだな」
「うんっ!」
これがぼくの部屋、とページをめくって青の間を見せた。パパは「ほほう…」とビックリして。
「この家を丸ごと入れても余りそうだが、自分で掃除してたのか?」
「…ちょっとだけね」
「そうだろうなあ、こいつは掃除も大変そうだ。しかし、お前がソルジャー・ブルーか…」
「今はパパの子だよ」
そう言ったらパパは嬉しそうな顔をして、ぼくの頭をクシャクシャと撫でた。
「うんうん、パパとママの大事な宝物だな。写真集、大切にするんだぞ」
「うん! それでね、此処がブリッジでね…」
ぼくはリビングで写真集を広げて、パパとママとにうんと自慢した。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握った船を。
この写真集はハーレイが先に見付けて買ってて、ぼくに教えてくれたんだ。「ちょっと高いが、懐かしい写真が沢山あるぞ」って。
自分の部屋に戻った後も、ぼくは写真集を夢中で眺めた。パパとママも一緒に見ていた時には、ぼくは船内の案内係。天体の間だとか公園だとか、船の設備を主に説明してたから…。
(んーと…。ホントに色々載ってるよね)
ハーレイが航宙日誌を書いていた部屋や、ヒルマンが授業をしていた教室。いろんな写真の隅の隅までを見ると、様々なものが見えてくる。ハーレイの机には羽根ペンが小さく写っているし…。
(あっ、あった!)
ジョミーが決めた次のソルジャー、トォニィの部屋にチョコンと小さな木彫りのウサギ。
トォニィは前の生でぼくが眠っている間に自然出産で生まれた最初の子供で、ハーレイが誕生を祝って彫った木彫りがこのウサギだ。
残念なことに、ソルジャー・ブルーだったぼくは木彫りのウサギを見ていない。
(…確か、お守りなんだよね?)
ウサギは沢山の子供を産むから、ずっと昔は卵と同じで豊穣のシンボル。イースター・エッグとセットでイースター・バニーがあるほどだしね。
そんなウサギをハーレイが彫って、一番最初の自然出産児だったトォニィに贈った。これからも沢山のミュウの子供が生まれますように、っていう願いがこもったウサギのお守り。
シャングリラは流れた時間が何処かへ連れ去ってしまったけれども、ウサギは残った。
今では宇宙遺産になってるハーレイのウサギ。ミュウの歴史に燦然と輝く御大層なウサギ。
本物は地球で一番大きな博物館が所有していて、研究者だってそう簡単には見られない。
一般公開は百年に一度、この前の公開は五十年ほど前のことだからハーレイだって見ていない。
前のぼくが知らないハーレイのウサギ。
彫っている所を見てみたかった。そしてトォニィに贈る所も…。
宇宙遺産になってしまったハーレイのウサギ。
どんな気持ちで何処で彫ったのか、知りたかったからハーレイに訊いた。ぼくの部屋でテーブルを挟んで向かい合いながら。
「ねえ、ハーレイ。…あのウサギって何処で彫ったの?」
「ウサギ?」
ハーレイは変な顔をした。
「ウサギがどうかしたのか、ブルー?」
「ウサギだってば、ハーレイのウサギ! トォニィに彫ってあげた木彫りのウサギ!」
「…あ、ああ……。アレか」
アレな、と返事をしてくれたけれど、なんだか困ったような表情。
「ハーレイ、変だよ? …ウサギの話は嫌だった?」
「い、いや…。その、なんだ……」
ますますおかしい。どうしてだろう、と疑問が膨らむ。ハーレイをつついてみたくなる。
「なんでウサギで困るわけ? 宇宙遺産になっちゃったから恥ずかしいとか?」
「いや、そうじゃなくて…。アレはウサギじゃなくてだな…」
ハーレイは頬っぺたを真っ赤にしながら、言いにくそうにこう言った。
「…ナキネズミのつもりだったんだ。今じゃウサギになっちまったが」
「嘘…。アレって、ウサギじゃなかったんだ…」
何処から見ても立派なウサギ。宇宙遺産のハーレイのウサギ。
なのに本当はナキネズミだなんて、それじゃお守りだっていうのも間違い?
「ウサギのお守りって聞いているけど…。ホントのホントにナキネズミなの?」
「悪かったな、ウサギにしか見えないヤツで!」
あれでも精一杯頑張ったんだ、とハーレイは耳まで真っ赤になった。
「俺がブリッジで彫ってた時からブラウに馬鹿にされたんだ。「どの辺がどうナキネズミだい?」なんて言われて、笑われて…。トォニィに贈る時にも横からウサギだと言ってくれてな」
「ハーレイ、訂正しなかったの?」
「…お前、訂正出来ると思うのか? カリナが「ほら、トォニィ。ウサギさんよ?」とトォニィに触らせてやっているのに「ナキネズミだ」なんて誰が言えるか、場の雰囲気が台無しになる」
「それでそのままになっちゃったんだ…」
ぼくの目は丸くなってたと思う。
宇宙遺産の木彫りのウサギ。それがウサギじゃなかったなんて…。
ナキネズミはウサギにされちゃったけれど、あれを彫った時のハーレイの気持ちは聞けた。
トォニィが幸せになれますように、って思いをこめて彫られたウサギ。
ウサギじゃなくってナキネズミだけど、トォニィの幸せを祈る気持ちは変わらない。
ただ…。
「ミュウの子供が沢山生まれますように、っていうのは無しだったんだね?」
宇宙遺産のウサギとセットの解説。確かめてみたら苦い笑いが返って来た。
「…まるで無かったとは言えんがな…。そうなるといいなと思ってはいたが、ナキネズミだしな? ウサギみたいに沢山子供を産むわけじゃないし、お守りの意味は全く無いな」
「じゃあ、解説とかが全部間違ってるんだ? 宇宙遺産のハーレイのウサギ」
「そうなるな。そもそもウサギじゃないんだからな」
しかし俺には責任は無いぞ、とハーレイは腕組みをして開き直った。
「ウサギだと決めたヤツらが悪い。俺にとってはナキネズミだ」
「だけどウサギは宇宙遺産だよ?」
「勝手にウサギと決め付けるからだ! ナキネズミだったら宇宙遺産じゃなくてオモチャだ」
「…それはそうかも……」
ハーレイが彫ったナキネズミ。ちゃんとナキネズミに見えていたなら、御大層な解説つきで宇宙遺産にされる代わりにオモチャ扱い、歴史の彼方に消えていたと思う。
シャングリラが消えてしまったように。青の間が無くなってしまったように。
でも、ナキネズミは立派に残った。ウサギになって宇宙遺産で、博物館が持っていて…。
ソルジャー・ブルーだったぼくは見られずに死んじゃったけれど、今のぼくなら見に行ける。
博物館の奥の収蔵庫に収められているナキネズミ。ウサギになったナキネズミを。
百年に一度しか見られないウサギ。前の公開から五十年も経っていないし、まだ先だけど。
「ハーレイ。…次に公開される時には見に行かなくっちゃね、ハーレイのウサギ」
「ナキネズミだ!」
俺が言うんだからナキネズミだ、とハーレイは頑として譲らない。
ナキネズミってことにしてもいいけど、宇宙遺産のウサギはウサギだと思うんだけどな…。
木彫りのウサギが公開されて見に行く頃には、ぼくはハーレイと結婚している。
手を繋いで一緒に見に行けるんだ。
そして展示用のケースを覗き込みながら喧嘩なんかもするかもしれない。
「これは絶対にナキネズミだ」「絶対ウサギだ」って、傍から見たら馬鹿みたいなことで。
宇宙遺産の木彫りのウサギ。
ぼくの前世がソルジャー・ブルーで、ハーレイはキャプテン・ハーレイだったと公表したなら、ウサギは直ぐにナキネズミだと訂正出来るだろうけれど。
そんな予定は当分無いから、ウサギはウサギのままなんだ。
ウサギじゃなくってナキネズミなのに。
宇宙遺産のハーレイのウサギ。
本当はアレはナキネズミです、ってコトになったら大変だよね。
ありとあらゆる歴史の本とか美術書だとか。アレを載せてる教科書なんかもあるだろう。それを全部ウサギからナキネズミに書き換えなくちゃいけない上に、意味までまるっと変わってしまう。
ナキネズミはウサギみたいに沢山の子供を産まないし…。イースター・バニーって言葉まであるウサギとは別の生き物なんだし、お守りの意味が無くなってしまう。
木彫り一つで学者も出版社も博物館も、上を下への大騒ぎ。
ハーレイの木彫りの腕前が下手くそなことを放って凄い騒動になっちゃいそうだ。
ウサギにしか見えないナキネズミを彫ったハーレイが悪いと思うけれども、ハーレイは悪いとも思っていない。勘違いした方が悪いとか、決め付けたブラウたちが悪いとか言って笑ってる。
いったい、誰が悪いんだろう?
ハーレイかな? それとも最初にウサギだと言ったブラウかな? 間違えたみんな?
考えてみたけど分からない。
ぼくもウサギだと思ってたんだし、やっぱりハーレイが一番悪い?
ウサギになったナキネズミ。
宇宙遺産になってしまった、博物館に居る木彫りのナキネズミ。
百年に一度の公開だなんていう立派すぎるウサギがナキネズミだと知ってしまうと、この世界は色々と難しそうだ。自分にそういうつもりがなくても、周りが凄い勘違いをする。
ハーレイが彫ったナキネズミがウサギに見えたばかりに宇宙遺産。
こうなってくると、ぼくの前世がソルジャー・ブルーなことは伏せておいて正解だったと思う。
何処かで勝手に勘違いされて、伝説が一人歩きをしていたりしたら恥ずかしいもの。
ハーレイの木彫りが宇宙遺産になったみたいに、ぼくも何かをやったかも…。
ぼくは何にも残してないけど…。
多分、残していないんだけれど。
死んでから今までの歴史の全部に責任を取れるようになるまで、黙っているのがいいのかな?
ハーレイみたいに変な宇宙遺産を残しているとは思わないけれど。
ウサギじゃなくてナキネズミだ、と言い張るハーレイを見ながら考え続けてハッと気付いた。
(いけない、ハーレイとぼくは恋人同士!)
今の生でもまだ明かせないハーレイとの仲。それは教師と生徒だからで、ぼくが十四歳になったばかりの子供だからというのもある。ぼくがソルジャー・ブルーと同じくらいの姿に育って、今の学校を卒業したなら堂々と結婚出来るけれども、前の生では全く違った。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが恋人同士だったなんて誰も知らない。
シャングリラを守るソルジャーだったぼくと、シャングリラの舵を握るキャプテンのハーレイ。ミュウの未来を左右する立場に居たぼくたちが恋人同士だと知れてしまったら、長老たちを集めた会議でさえも円滑に運びはしなかっただろう。
ぼくが意見を出し、ハーレイがそれを承諾する。その逆もあったし、意見が分かれて纏まらないことも何度もあった。ソルジャーとキャプテンとして立っていたから、長老たちもシャングリラのクルーもぼくたちを信じてくれたけれども、恋人同士だとそうはいかない。
意見は一致するのが当然、分かれる時は一種の痴話喧嘩。そう取られても仕方が無い。そういう風に見られたが最後、誰もぼくたちを心の底から信頼してはくれないだろう。
だから恋人同士であることを伏せた。最後の最後まで隠し通したから、ぼくはメギドへ飛び立つ前にハーレイとキスすら交わせなかった。別れの言葉さえ告げられなかった。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは恋人同士。
これが前世のぼくが抱え込んでいた最大の秘密で、明かせばそれこそ歴史が変わる。
宇宙遺産の正体がナキネズミだったこととは比べようもない大きすぎる秘密。
今のぼくには明かすだけの度胸も覚悟も無い。
だって、ぼくはまだ十四歳の子供。
三百年以上もの歳月を生きたソルジャー・ブルーがやったことまで責任なんか取れないよ…。
今のぼくには背負い切れない前の生。
とりあえず今はソルジャー・ブルーの生まれ変わりだと知っている人はハーレイを入れても四人だけだし、まだ責任は取らなくていい。
でも、ちょっと待って。
ぼくがハーレイと結婚してから「実はソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイです」なんて言おうものなら、前の生でも恋人同士だったんだろうと思われるよね?
前世のぼくたちは恋人同士じゃありません、って主張しても説得力が無い。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイの評価が地に落ちるとまでは思わないけれど、影響無しとも思えない。好意的に受け止めて貰えるか、その逆なのか。
ぼくには全く分からない。きっとハーレイにも分かりはしない。決めるのは他の人たちだから。
(…なんだか怖い……)
やっぱり一生、黙っていようか。
ぼくが誰なのか、ハーレイは本当は誰なのかを。
そしたらハーレイが彫ったナキネズミは訂正出来ずにウサギのままで宇宙遺産だ。
そう考えたらなんだか可笑しくなってくる。
同じ前の生で出来た秘密でも、どうしてこうも違うんだろう。
ぼくとハーレイが恋人同士だったことを公表しても、あるいは笑われて終わりかもしれない。
終わり良ければ全て良しだと言ってくれる人だってあるかもしれない。
ぼくもハーレイも、前の生ではやるべきことを全力でやった。
メギドを沈めて死んでいったぼくと、シャングリラを地球まで運んで行ったハーレイと。
自分の責任をちゃんと果たして、ぼくたちは地球に生まれ変わった。
だから文句を言う人は無いかもしれない。
いつか、覚悟が出来たなら…。
きちんと本当のことを言おうか、「ぼくはソルジャー・ブルーでした」と。
ハーレイが彫ったナキネズミのせいで、前の生まで考える羽目に陥ったぼく。
そんなこととも知らないハーレイは、のんびり紅茶を飲んでいたから。お菓子もしっかり食べていたから、少し苛めてやろうと思った。
「ハーレイ、宇宙遺産のウサギだけれど…。やっぱりハーレイが悪いと思うな」
「どうしてそうなる?」
「下手くそなモノを作るからだよ、自分で酷いと思わない? 世界中の人を騙すだなんて」
宇宙遺産のウサギを見るには入場料だって要るんだから。
百年に一度の特別公開は入場料も高いんだから、と指摘してやった。
「宇宙遺産のウサギを見られた、って喜んだ人たちを騙したんだよ、ハーレイは! その人たちに返してあげてよ、入場料を! それと博物館までの交通費!」
遠くから来た人は宿泊料だってかかってる。
うんと沢山お金を払って、時間もかけて博物館まで。ウサギだったら値打ちもあるけど、ウサギじゃなくてナキネズミ。おまけにハーレイの下手くそな木彫りを見せられるんだ。
「酷い目に遭う人が増えないように、木彫りの趣味はもうやめてよね!」
どうせ下手くそなんだから、と言ってやったら「今は木彫りはやってないぞ」だって。
似ているようでも前の生とは何処かが違う、今のぼくたち。
違うんだったら責任は取らなくていいのかな?
ハーレイが宇宙遺産のウサギのことを「俺は知らん」と涼しい顔をしてるみたいに、ぼくたちが前の生で恋人同士だった大きな秘密も、放っておいてもかまわないのかな?
そうだといいな、と思いたい。
だって、宇宙遺産になったウサギを彫ったハーレイは知らん顔だもの。
ぼくが苛めても「見る目が無いから騙されるんだ」なんて、平気な顔して言ったんだもの。
「ねえ、ハーレイ」
「なんだ?」
「ハーレイのウサギ、見に行きたいな」
五十年後の公開までじっと待つのも楽しいけれども、レプリカだったら置いてるし…。
強請ってみたら、案の定、「お父さんに連れてって貰え」と突き放された。
「引率の先生と生徒でもダメ?」
「ウサギに関しては、断固、断る。…自分を保てる自信が無いしな」
教師として振舞うのを忘れそうだ、とハーレイは博物館にぼくを連れて行くのを断った。
でも、見に行くならハーレイとがいい。
絶対、ハーレイと二人で見たい。
宇宙遺産なんて御大層なことになってしまった下手くそな木彫りのナキネズミ。
(そっか、当分、行けないんだ…)
ぼくの背丈がソルジャー・ブルーと同じになるまで。
本物の恋人同士になれる時まで、ハーレイと一緒に博物館には行けないらしい。
(…でも、それならそれで…)
手を繋いで博物館でデートって、ちょっといいよね。
ミュージアムショップでレプリカのウサギを買って帰って家に置こうよ、ねえ、ハーレイ?
「…分かった。ついでに五十年後だかの特別公開ってヤツも俺と一緒に見に行くんだな?」
「うんっ! 一番乗りで見ようね、ハーレイ」
「馬鹿か、お前。何日前から待つつもりなんだ、アレを見るための行列はだな…」
博物館をぐるっと取り巻くくらいに人が並ぶらしい特別公開。
それなら尚更、見なくっちゃ。
うんと出世して宇宙遺産になってしまった木彫りのナキネズミ。
ハーレイと二人で行列に並んで、展示ケースの前に立ったら覗き込んで喧嘩するんだよ。
「やっぱりウサギだ」「いや、ナキネズミだ」って、周りの人たちに呆れられながら。
だって、どう見てもウサギだもの。ナキネズミに見える方がおかしい。
ハーレイ、それまでに訂正しておく?
「あれは私が彫りました。正真正銘、ナキネズミです」って。
そうするなら、ぼくも付き合うよ。「ぼくはソルジャー・ブルーでした」って。
木彫りのウサギ・了
※宇宙遺産になってしまった木彫りのウサギ。訂正される日は来そうにないですねえ!
次の特別公開の頃にはハーレイ先生は90歳前後、ブルー君も還暦超えです。
全員がミュウな世界では、まだまだ若造。バカップルでも許されるよ、きっと。
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ぼくの前世はミュウの長だったソルジャー・ブルー。
でも、知っている人はパパとママと、ぼくを診てくれたハーレイという苗字のお医者さんだけ。
そしてもう一人、お医者さんの従兄弟でぼくの学校の古典の先生、ハーレイもぼくの前世が誰か知っている。そのハーレイが前世でのぼくの恋人なんだ。もちろん今も恋人だけど。
ぼくとハーレイは蘇った青い水の星、地球の上に生まれ変わって再会したんだ。
今、ぼくたちが暮らす地域は遙かな昔に日本という国があった場所。
前の生の頃、SD体制の時代には古い習慣とか伝統なんかは廃れていたように思われてるけど、そんな時代でも神様という概念はあってクリスマスもちゃんと残ってた。
それから長い年月が経って、今、ぼくたちが暮らす地球では、SD体制よりも前の時代の色々な風習を復活させて味わい、楽しんでいる。
例えば、ぼくがハーレイと再会した日の二日後は五月五日で端午の節句。
五月の三日に前世の記憶を取り戻したぼくは、それと同時に血まみれになった。前の生の最期にメギドで撃たれた時の傷痕。お医者さんは聖痕現象と診断したけれど、身体には何の傷も無いのに沢山の血が流れ出したそれ。
あまりに出血が酷かったからと、その週は学校を休むことになった。そのせいで五月五日も家に居たぼくは、ハーレイの授業を聞き損なって…。
次の週にようやく登校出来て、友達に聞いてガッカリしたんだ。端午の節句について習う授業は歴史じゃなくて古典の管轄。ハーレイの授業で柏餅と粽が配られて、みんなで食べたんだって。
柏餅と粽はお店で買えるけど、ハーレイと一緒に食べてみたかった。端午の節句の話を聞いて、柏餅と粽の由来を聞いて。
「先生、桜餅にはどういう由来があるんですか!」なんて質問が飛び出したりして、凄く楽しい時間だったらしい。桜餅には何の由来も無かったけどな、と友達が笑って教えてくれた。
柏餅も粽もハーレイが赴任してくる前から手配されてたお菓子で、ハーレイは古典の授業の一環として食べながら話しただけなんだけど…。授業なんだって分かってるけど、食べたかったな。
だって、大好きなハーレイの授業。ハーレイの声を聞きながら一緒に食べられるだけで、柏餅も粽も特別な味になった筈だと思うから…。
そういう少し変わった授業は当分何も無さそうだな、って思っていたら七夕の話を教わった。
来週が七夕、恋人同士の二つの星が一年に一度、天の川を渡って会う星合いの日だと。
彦星と織姫、アルタイルとベガ。
今では銀河系の中の恒星だって分かってるけど、それを天に住む人だと信じた昔の人たちは幸せだったんだろうなと思う。
その時代、地球は今と同じように、ううん、今よりももっと青くて綺麗だっただろうから。
地球に人が住めない時代が来るなんて誰も思わなかっただろうから。
生活は今よりもずっと不便で厳しい時代だったと思う。でも、地球の上に住んでいられるだけで人間はきっと幸せだったと思うんだ。自分では全く気付いてなくても。
前の生でのぼくとハーレイには地球は無かった。
地球を探して、地球に行きたくてシャングリラで宇宙を彷徨っていた。
そんな記憶があるからだろうか、ぼくは地球に居られればそれで充分かな。友達は将来、何処か他の星で暮らしてみたいとか話してるけど、ぼくは地球しか知らなくてもいい。
遠い昔にシャングリラが潜んだ雲海の星、アルテメシアにも行ってみたいとは思わないし。
アルタイルもベガも、ぼくがシャングリラで長い眠りに就いていた間に地球を探して立ち寄ったらしい。地球が属するソル太陽系の座標が全く掴めなかったから、恒星はもれなく探索の対象で。
だけどアルタイルもベガも、地球を連れてはいなかったんだ。
ハーレイの授業でシャングリラの話が出るわけもなくて、習ったものは七夕に纏わる言葉など。
ぼくたちの年ではもうやらないけど、小さな頃には七夕といえば笹飾りを作って家に飾った。
折り紙の細工や、願い事を書いた短冊を吊るして七夕を待った。七月七日は晴れますように、と天気予報を心配してた。雨が降ると彦星と織姫は会えなくなるって聞いていたから。
七月七日に降る雨のことを何と呼ぶのか、ハーレイの授業で初めて知った。催涙雨だって。天の川の水が増えてしまって会えない二人が泣くからだとか、二人が流す涙だとか。
天の川を渡るための橋も何で出来てるのか知らなかった。カササギという鳥が翼を広げて一列に並んで作る橋。その橋を詠んだ遠い昔の人の歌も出て来た。
一年に一度しか架からない橋。
もしも、ぼくとハーレイが一年に一度しか会えなかったら?
ぼくは前の生の終わりにハーレイの温もりを失くしてしまって、独りぼっちになってしまったと泣きながら死んだ。もう会えないと、ハーレイには二度と会えないんだと…。
だから一年に一度しか機会が無くても、会えるのならそれで充分嬉しい。
でもやっぱり……一年に一度しか会えないだなんて悲しいとも思う。
きっと、ぼくは欲張りになったんだろう。
この地球の上でまたハーレイに会えて、独りぼっちじゃなくなったから。
ハーレイと二人で地球に居るのに、一年に一度じゃとても足りない。学校で会って、ぼくの家で会って、殆ど毎日会っているけど、それでもまだまだ足りないんだから…。
七夕の授業があった週の土曜日、いつものようにハーレイが訪ねて来てくれて。
「ねえ、ハーレイ。七月七日は晴れるといいね」
そう言ったら「昔は雨になることが多かったんだぞ」って教えてくれた。古典の授業の範囲じゃないけど、昔、この場所に在った日本という国では七月七日は雨の季節の真っ最中で。梅雨という言葉まで存在したほど、雨ばかり続いていたんだって。
「ふうん…。それだと一年に一度会うのも難しそうだね。もしかして毎年、催涙雨だった?」
「さあな? しかしだ、そのまた昔は雨の季節じゃなかったそうだぞ」
「えっ?」
今のこの場所に梅雨が無いのはSD体制崩壊後の地殻変動で地形が変わったせいだと聞くのに、それよりも前に大規模な変動があったんだろうか?
それは全然知らなかったな、と首を傾げたら。
「ブルー、変わったのは地形じゃなくて暦だ。カレンダーだな」
「え? …カレンダー?」
一年が十二ヶ月のカレンダー。SD体制の前も、SD体制の頃も、今の時代もカレンダーは同じ十二ヶ月だと思ってた。地球の公転で決まる筈のそれが変わるだなんて初耳だけど…。
「ずっと昔はカレンダーが別のものだったんだ。今でも売っているだろう? 月のカレンダーを」
「…月齢カレンダーっていうヤツのこと?」
あまり馴染みは無かったけれども、月の満ち欠けを書いたカレンダーなら知っている。
「そうさ、昔はそっちを使っていたんだ。その暦だと七夕の頃には雨の季節は終わった後だ」
「…そうだったんだ…」
なんだか頭がぐるぐるしてきた。
遙か昔のこの地域では、七夕は梅雨で雨ばかり。だけどそのまた前の時代は雨が降らない時期の七夕で、いったいどっちが正しいんだろう?
太陽のカレンダーの方? それとも月のカレンダー?
地球は太陽の周りを一年かけて回ってるんだし、太陽のカレンダーが正しいのかな?
でも、でも、でも。
太陽のカレンダーだと七夕が雨の季節になるなら、月のカレンダーの方がいいな、と思う。
だって、雨の七夕ばかりが続くと彦星と織姫は何年も会えなくなっちゃうから。
彦星はアルタイル、織姫はベガで、神様じゃなくて恒星なんだって分かってるけど…。
でもでも、会えないより会える方がいい。
催涙雨ばかりになってしまいそうなカレンダーより、断然、月のカレンダー。
そう思ったから「月のカレンダーにしてあげたいな」とハーレイに言ったら「そうだな」という答えが返って来た。
もしも、ぼくとハーレイとの間に天の川があって、一年に一度しか会えなかったなら。
その日に雨が降ってしまったら、カササギは橋を架けてくれない。
橋が無くても前のぼくならサイオンの力で飛び越えられたし、会えた筈。
でも、今のぼくは空を飛ぶことも瞬間移動も出来ないんだから、飛び越えられない。
天の川なんかがあったら困る。
一年に一度しか会えない七夕の日が雨になったら、泣いて、泣いて、涙が催涙雨になる。
だけど…。
「ハーレイなら天の川、泳いで渡ってしまえるかもね」
水泳が大好きなぼくの恋人。
学生時代は選手だったほどに泳ぎが上手くて、身体も丈夫なハーレイだったら…。
「お前に会うために泳ぐのか? それなら泳ぐさ、どんなに川幅があったとしてもな」
「…そっか…」
自信あるんだ、と嬉しくなった途端にふと思い出した。
七夕の日に天の川に架かる橋はカササギの橋。沢山の鳥が翼を広げて一列に並んで作る橋。
カササギは小さな鳥だけれども、ハーレイみたいに大きな身体でも大丈夫かな? 重さに負けて潰れないかな、と少し心配になったから。
「…ハーレイは泳いだ方がいいかも…。カササギの橋、ハーレイの体重に耐えられるかな?」
「こら、お前!」
コツン、と頭を小突かれた。
「俺がカササギの橋を踏み抜くってか?」
「踏み抜きそうだよ?」
「お前な…。お前、俺に会いたいのか、会いたくないのか、どっちなんだ」
橋を踏み抜いたら俺はお前に会えないわけだが、とハーレイがぼくを睨んでる。腕組みまでして怖そうな顔をしてみせてるけど、怒っていないって分かってしまう。鳶色の瞳が笑ってるから。
「…ハーレイ、答え、知ってるくせに」
天の川が大雨で溢れていたって、ぼくはハーレイを信じてるから泣かないよ。
きっとハーレイなら泳いでくると思うから。
カササギが橋を架けてくれなくっても、ぼくは泣かない。
泣かずに待っていれば必ず、ハーレイが泳いで来てくれるから…。
「ずいぶんと信用されたもんだな、俺も」
天の川を泳いで渡り切ろうってほどの勢いか、とハーレイは苦笑しているけれど。
「…来てくれないの?」
「いや、泳ぐ。お前が向こう岸に居るなら、どんな川でも俺は泳いで渡ってみせる」
向こう岸が見えないような川でも泳ぎ渡る、と鳶色の瞳の色が深くなった。
「ブルー、お前に会えるんだったら、俺は必ず泳いで行く」
ハーレイが右手を差し出してきて、ぼくの右の手をキュッと握った。
前の生で最後にハーレイに触れた手。ハーレイの温もりを最期まで覚えていたかったのに、銃で撃たれた傷の痛みで温もりを失くしてしまった右の手。
その手を握って、ハーレイはぼくを真正面から真剣な瞳で見詰めた。
「…本当はメギドまで追いたかったんだ。お前を追い掛けて飛びたかった」
「……それはダメだよ、ハーレイはキャプテンだったんだから」
「そう思いたかっただけかもしれん。全てを捨て去る覚悟があったら、あの時、俺は飛べたんだ」
シャングリラもキャプテンの制服も何もかもを…、とハーレイが苦しげな顔になる。
ぼくが飛び去って直ぐに追い掛けていれば、自分もメギドに行けた筈だと。
そうすることが可能な船が格納庫に何機も在ったのだから、と。
「…あの時、俺とお前の間には溢れた天の川があったんだろう。…実際、宇宙があったんだがな。溢れた川を渡る勇気を俺は持ってはいなかった。そしてお前を喪ったんだ」
「違うよ、ハーレイ。…ぼくはジョミーを頼むと言ったよ、君はそのために残ってくれた」
「俺もそうだと思っていた。…しかしな、お前のことを最優先で考えるのなら、俺はお前を追うべきだった。俺がお前を追わなかったから、お前の右手は凍えてしまった」
この手だ、とハーレイはぼくの右手を大きな両手で包み込んだ。
「俺は二度と後悔したくない。天の川を渡らなかった自分の馬鹿さ加減に涙するのはもう沢山だ。…だから俺は渡る。どんなに広い川であろうと、俺はお前の所まで泳ぐ。…いいな?」
「…うん……。ぼくも待ってる。ハーレイが来る、って信じて待ってる」
催涙雨なんか降らせないよ、と言ったけれども。
ぼくの瞳からは大粒の涙がポロリポロリと零れて落ちた。
この涙はぼくの涙だけれども、ぼくはぼくでも前のぼくの涙。
ハーレイと離れて独りぼっちで死んでいったソルジャー・ブルーが天の川のほとりで零した涙。
もうハーレイには会えないのだと、右の手が凍えて冷たいと泣いた。
だけど、向こう岸からハーレイが来る。泳いで渡って来てくれるのだ、と…。
ハーレイとそんな話をしたから、少し切ない気持ちになった。
天の川のほとりに立ち尽くしたまま、ハーレイが泳いでやってくるのを待った前の生のぼく。
本当にハーレイが川を渡って来てくれたから、ぼくたちは地球の上で会えたんだと思う。
だけどそれまでに、ソルジャー・ブルーは一人きりで何度泣いたのだろう。
どのくらいの涙が瞳から零れて雨になったのか、どのくらい一人で待っていたのか…。
前の生でのハーレイの命が尽きたら直ぐに会えたんだろうか?
きっと会えたと思いたい。
そうでなければ悲しすぎる。今年こそ会える、今年こそ…、って泣きながら待っているなんて。
ソルジャー・ブルーがメギドを沈めた後、数年が経ってSD体制は崩壊した。
だから前のぼくが独りぼっちで待った時間は数年だけだと思いたいけれど…。
催涙雨は数年分しか降っていないと思いたいけれど、こればかりはぼくにも分からない。
生まれ変わって来るまでの間は何処に居たのか、それすらも分からないんだから。
翌日の日曜日には七夕も催涙雨もすっかり忘れてしまって普段どおりのぼくだったけれど、その週の半ば、学校からの帰り道で七夕飾りを見かけた。
バス停から家まで歩く途中にある家の玄関先に、ぼくの背丈くらいの笹飾り。きっと小さい子が居る家だろう、色とりどりの紙の飾りや短冊が幾つも結んであった。
それを見たら思い出したんだ。
ハーレイと話した天の川のこと、天の川のほとりで涙を零していた前のぼくのこと。
今のぼくはハーレイと毎日のように会えるけれども、会えなかったなら…。
一年に一度しか会える日が無くて、その日に会えなかったなら。
どれほど悲しくて寂しいだろう、と考えただけで涙が零れてしまいそうだから。
青く晴れた夏の空を見上げて、心の中で願いをかけた。
催涙雨が降りませんように。
どうか今夜は晴れますように、って。
だって、会えないだなんて寂しすぎるし、悲しくて辛い。
ハーレイは天の川でも泳いで渡ると言ってくれたけど、彦星にそれは難しそうだ。
彦星と織姫がカササギの橋を渡って会えるようにとぼくは祈って、七夕の夜は綺麗に晴れた。
そして次の日に気が付いた、ぼく。
七夕の笹に結ぶ短冊。お願い事を書いて吊るしておくのが七夕だった、と。
背が伸びますようにと頼めば良かった。
お願いするのを忘れただなんて、ちょっと間抜けで誰にも言えない。
失敗だった、ぼくの七夕。
でもハーレイには今日も会えたし、いつかは一緒に暮らせるんだから焦らなくても大丈夫。
天の川でも泳いで渡るとハーレイは言ってくれたから。
ぼくたちは二度と離れないから……。
催涙雨・了
※天の川でも泳いで渡ろうというハーレイ先生。川幅、どのくらいあるんでしょうね?
それでもハーレイは泳ぐのでしょう、二度と後悔しないために。
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青い地球の上に生まれ変わったブルーとハーレイが再会してから、あと少しすれば三ヶ月。
ハーレイが教師を務め、ブルーが通っている学校もとうに夏休みに入った七月の末。夏休み前はハーレイがブルーの家を訪ねて来る日は土曜と日曜、平日は滅多に来てくれなかった。その来訪が夏休みのお蔭で劇的に増えて、平日でも朝から夜まで一緒に過ごせる日も多い。
研修や柔道部で丸一日が潰れない限り、毎日のように自分の家でハーレイに会える。天気のいい日は庭で一番大きな木の下に据えられたテーブルと椅子でお茶を飲んだり、食事することも。もう嬉しくてたまらない日々だが、ブルーには切実な悩みがあった。
それは全く伸びない背丈。今の学校に入学した春、ブルーの身長は百五十センチちょうど。その後の測定で伸びていることを期待したのに、一ミリも伸びはしなかった。
自分の部屋のクローゼットに鉛筆で微かに引いた線。床から百七十センチの所に付けた印が前の生でのブルーの背丈で、そこまで大きく育たなければハーレイと本物の恋人同士になれないのだ。
ハーレイ曰く、ブルーは「立派な子供」。
子供相手に前世でのような深い関係を持つつもりはなく、キスすらもまだ早いと言われた。額と頬にはキスしてくれるが、そのキスは子供向けのキス。幼い頃から父と母がしてくれるキスと全く変わらず、恋人同士のキスではない。
ブルーがハーレイにして貰いたいキスは唇へのキスで、前の生では唇を重ねるだけと違って更に深くて甘いもの。そういうキスを交わしたいのに、唇すらも重ねられないこの現実。
何度も何度もキスを強請っては「駄目だ」と叱られ、断られてきた。
再会を果たして間もない頃には会う度にキスをしようとして果たせず、酷く寂しい思いをした。流石に三ヶ月近く経った今では「キスは許して貰えないらしい」ともう諦めているのだけれど。
(…でも……)
毎日のように自分の家で会える夏休みが始まったことで、再び欲が出始めた。学校があった頃は平日は教師と生徒だったし、家ならともかく、学校ではベッタリ甘えるわけにはいかない。それが今では平日だって甘え放題、うんと距離が縮まった気がするわけで。
(…それなのにキスも出来ないだなんて…)
せっかく恋人同士で過ごしているのに、キスも無し。これではあんまり寂しすぎる。前の生での深くて甘いキスは無理でも、せめて唇を重ねるくらい…。
(ほんのちょっと、ちょっぴりだけでいいから唇にキス…)
して欲しいな、とブルーは思った。背丈が百七十センチに満たないどころか百五十センチのままでは恋人同士のキスは絶対に無理。それでも大好きなハーレイと唇を重ねてみたい。触れるだけのキスでかまわないから、唇にキスが欲しかった。
ほんの少しだけ、恋人気分。きっと幸せが胸一杯に満ちるだろうに…。
(ハーレイのキス…。ホントに欲しいな…)
そう思うけれど、どうすれば唇へのキスを貰えるだろう?
ハーレイは前に確かにこう言った。「お前へのキスは頬と額だけだと決めている」と。
(…だけど……)
自分が前世と同じ背丈に育つまでは駄目だと告げたハーレイ自身も、心の奥では揺れている筈。現にブルーがハーレイの家に呼んで貰えない理由は「ハーレイの抑えが利かなくなるから」。
つまりハーレイも本当の所はブルーにキスをしたいし、その先のこともしてみたいのだ。我慢に我慢を重ねているだけ、大人らしく振舞っているだけで…。
(……だったら可能性はゼロじゃないよね)
何か方法がある筈だ、とブルーは考えを巡らせ始めた。今までにキスを断られ、叱られた経験は多数。強請っては断られ、キスしようとして叱られ…。
(…ぼくの方からキスしようとするからダメなんだよ、うん)
どうもそういう気がしてきた。
ずっとずっと昔、前の生でハーレイと本物の恋人同士であった頃。キスを交わす時はハーレイがブルーの顎を捉え、あるいは身体ごと組み敷いて熱い唇を重ねてきた。もちろん自分から強請ったこともあったが、キスは圧倒的に「貰うもの」であり、求めずとも与えられるもの。
(ということは……)
ブルーからキスを持ち掛けるよりも、ハーレイがブルーにキスしたくなるようにするのが正しいやり方なのだろう。ブルーはキスを受け取るだけで、主導権はあくまでハーレイに。
(ハーレイがぼくにキスをしたいと思うようにすれば上手くいくかも!)
そういう方向で考えたことは一度も無かった。ひたすらキスを強請るばかりで、ハーレイがどう思っているかは微塵も考慮していなかった。
ハーレイだってきっとキスをしたい気分でいる時もあれば、そうでない時もあるだろう。自分は間違えたのかもしれない。キスして欲しいと強請るタイミングだとか、雰囲気だとかを。
(…そういうものって絶対あるよね…)
今のブルーにはよく分からないけれど、前世でソルジャー・ブルーだった頃は色々とハーレイに気を遣っていた。青の間に来て欲しいと誘う時にも、ハーレイの部屋へ行きたいと強請る時にも。
二十四時間、いつでも遠慮なく逢瀬を重ねていたわけではない。ハーレイの方もそれは同じで、互いに相手を思いやっては、同じベッドで眠りはしても「おやすみのキス」だけの日もあって。
(…でも、おやすみのキスは貰えたんだよ)
あれも唇へのキスだった。唇が触れ合うだけの優しいキス。ああいうキスでいいから欲しい。
でも……。
キスが欲しいと強請っても駄目、「キスしていいよ」と言ってみても駄目。
ハーレイにも「キスをしたい気持ち」はあるというのに、未だにキスをして貰えない。雰囲気がまずいのか、強請るタイミングを間違えているか。
(どうすればキスして貰えるんだろう?)
ハーレイがブルーにキスしたい気持ちになりさえすれば、キスを貰えそうに思うのだけど…。
(…ぼくから頼んでもダメだってことは、ハーレイが自分からそういう気持ちにならないと…)
そんなことってあるのだろうか、とブルーは前の生での膨大な記憶を遡ってみる。
本物の恋人同士の時間を過ごす時のキスは論外、何の参考にもなってはくれない。当然のようにキスを何度も交わしていたし、強請ればいくらでもキスしてくれた。強請るまでもなくキスの雨が降り、唇だけでは済まなかった。
(えーっと…。他に頼まなくてもキスされた時は…)
そちらも星の数ほどあったが、キスを貰ったら恋人同士の時間の始まり。ハーレイの逞しい腕に抱き上げられてベッドに行くのが普通だったし、これまた全く参考にならず…。
(…キスだってして貰えないのに、キスの先までセットだなんて…)
おやすみのキスだけで充分なのに、と思ったけれども、ハーレイと一緒に寝ていない以上、そのキスは貰えそうにない。本当に触れるだけのキスでいいのに…。
(……あっ!)
そういえば触れるだけのキスを何度も貰った。おやすみのキスとは違って、起きる前のキス。
ハーレイと同じベッドで眠って、ハーレイが先に目覚めた時。今と同じ虚弱体質だったブルーはいつもハーレイのキスで起こされていた。「もう朝ですよ」と。「起きられますか?」と。
恋人同士の熱い時間を過ごした翌朝は言うに及ばず、ただ寄り添い合って眠っただけの次の日もハーレイはブルーの身体を気遣う言葉をかけつつ、唇にキスをしてくれた。ブルーがしっかり目を覚ますまで、幾度も幾度も、触れるだけのキスを。
(…そっか、寝ている時ならいいかも!)
もしもブルーが眠っていたなら、ハーレイは思い出すかもしれない。前の生でブルーが目覚めるまでキスを繰り返したことを。まるで小鳥がついばむかのように、優しいキスを降らせたことを。
(うん、キスしたくなるかもしれないよね!)
なにより自分はぐっすり眠っているわけなのだし、キスされたことにも気付かないように見えるだろう。慎重なハーレイだけに声をかけてみて、それで反応が返らなかったら…。
(……ぼくにこっそりキスをするかも!)
その可能性は大いにある、とブルーは自分の素晴らしいアイデアに拍手を送りたくなった。
唇に欲しい触れるだけのキス。ぐっすり眠ったふりをして待てば、優しいキスを貰えるかも…!
名案を思い付いたからには、少しでも早く実行したい。つらつらと考えごとをしていたこの日はハーレイが午後から訪ねて来る日。午前中は柔道部を指導し、昼食の後にプールで軽く泳いでからブルーの家へ。
夏真っ盛りの日射しの下を学校から歩いて来たハーレイは全く疲れの色も無いのだが、ブルーは母が運んで来たアイスティーを半分だけ飲んでわざと欠伸をしてみせた。
「どうした、ブルー? 今日は眠そうだな」
「うん…。昨夜、ちょっと夜更かししちゃって」
欠伸も夜更かしも、もちろん嘘だ。しかしハーレイは疑いもせずに。
「いかんな。いくら夏休みでも生活は規則正しく、だ。それでは丈夫になれないぞ」
「でも…。この本を見てると止まらないんだもの」
「なるほどな。…お前の気持ちは分からんでもない」
ブルーが差し出した本は父に強請って買って貰ったシャングリラの写真集だった。歴史の彼方に消えた白い船だが、ミュウの始まりの船だけあって資料は豊富に残されている。懐かしい青の間、天体の間にブリッジ、公園。そして様々な角度から撮られた船体の背景は宇宙空間や惑星で。
「ね? どの写真だって何時間でも飽きずに見ていられるから…」
「しかし夜更かしは感心せんぞ」
眉間の皺を深くするハーレイの前で、ブルーはもう一度小さな欠伸をした。
「つい、うっかり…。気が付いたら二時になっちゃってたんだ」
「馬鹿! それで欠伸か、疲れたんだろう」
「…そうみたい…。ちょっとだけベッドで寝てきてもいい?」
ダメかな? と上目遣いに見上げれば、ハーレイは「そう言ってる間にさっさと寝ろ」と壁際のベッドを指差した。
「適当なトコで起こしてやる。…今から寝るなら四時頃か?」
「三時半でいいよ、ママがおやつを持ってくるから」
「分かった、分かった。食い意地だけは張ってるんだな、いいことだ」
おやつでもいいから沢山食べろ、と笑うハーレイに「これ」とシャングリラの写真集を渡した。
「ハーレイも同じの持ってるよね? だけどハーレイが暇を潰せそうな本、これしか無いんだ」
「そうか。じゃあ、遠慮なく借りておくとしよう。早く寝てこい」
「…うん。ごめんね、ハーレイ」
そう言ってベッドにもぐり込み、目を閉じる。おやすみのキスは貰えなかったが、作戦は上手くいきそうだ。とにかく寝たふり、眠っているふりをしなければ…。
ぱらり。ハーレイが写真集のページをめくる音が時々聞こえる。ブルーと同じでハーレイもあの写真集に見入っているのだろう。ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握った船を。
ハーレイが見ている写真はどれだろうか、と想像するだけで意識が冴えるから眠ってしまう心配はない。その計算もあって選んだ本だ。
(ブリッジかな? キャプテンの席かな、それとも舵?)
あるいは青の間なのかもしれない。かつて二人で眠ったベッドの写真を見ているかも、と思うと胸の鼓動が早くなる。それでも懸命に寝たふりを続けている内に、ノックの音と母の声がして。
「あら? まあまあ、この子ったら…。申し訳ありません、ハーレイ先生」
「いえ、私ならかまいませんよ。ソルジャー・ブルーは十五年も眠っていましたからね。…あれに比べたら丸一日でも短いものです」
「それもそうかもしれませんわね。でも、お行儀の悪い子ですみません」
起きたら叱ってやって下さい、と母が去ってから五分ほど経った頃だろうか。
「おい、ブルー。三時半だぞ、おやつも来たが?」
軽く肩を叩かれ、「うーん…」と身じろぎだけして丸くなる。
「ブルー? こら、ブルー!」
「…んん……。ハーレ……イ…。もう…ちょっと……」
この台詞には自信があった。前の生で起きたくないと甘える時に何度も口にした言葉。ついでに表情も再現するべく、瞼は閉じたままで唇を微かに開けて柔らかな笑みを。
ハーレイが息を飲んだのが気配で分かった。
「…ブルー……?」
僅かに掠れたハーレイの声。低く、耳元で囁くように。
「……ブルー?」
「……ん……。あと……少し……」
眠い、と告げて「いや、いや」と首を左右にゆっくりと振れば、ハーレイの大きな手が頬を包み込む。そう、この後がブルーが待ちに待った優しい口付け。「起きる時間ですよ」と告げて温かい唇でブルーの唇を覆い、目覚めを促すための口付け。
(やった…!)
釣れた、と歓喜するブルーの唇に口付けは降って来なかった。代わりに頬を両側からギュウッと押されて、多分、とんでもない顔にされたと思う。見た人がたまらず吹き出すほどの。
「ちょ、ハーレイ!」
何するの、と叫んだブルーに答えが返った。
「残念だが、そいつは俺の台詞だ。…よくも騙したな、このハコフグめが」
よりにもよってハコフグだなんて。押し潰された自分の顔を形容するあまりな言葉に、ブルーはグウの音も出なかった。
「うん、実に見事なハコフグだったな」
ハコフグが嫌ならヒョットコでもいい、とハーレイは更に酷いモノを持ち出してきた。どちらにしてもブルーの顔は見られたものではなかったのだろう。
唇にキスを貰うどころか顔をオモチャにされたブルーは拗ねて唇を尖らせたけれど、ハーレイは「いいのか、ますますハコフグになるぞ」と笑いながらブルーの頬を指でつついた。
「膨れるともっと似ると思うが、お前、ハコフグになりたいのか? あれもなかなか可愛いが」
「ハコフグじゃないし!」
プウッと頬っぺたを膨らませてしまい、ますますハーレイの笑いを誘う。
こんな筈ではなかったのに。予定通りならハーレイの優しいキスをせしめて御機嫌で目を覚ます筈だったのに…。恋人を捕まえてハコフグだなんて、どうしてこうなってしまったんだろう?
自己嫌悪に陥りそうなブルーだったが、ハーレイの方は心得たもので。
「ん? …まあ、ハコフグに右の手は無いな」
ほら、と右手をキュッと握られた。
前の生で最後にハーレイに触れた手。生の最期に撃たれた痛みでその温もりを失くし、冷たいと泣いたブルーの右の手。その手を握って貰うと嬉しい。ハーレイの温もりがとても嬉しい…。
癪だけれども、嬉しくなる。ハコフグ呼ばわりもどうでもよくなるくらいに。
「…で、お前は何を企んでたんだ? 夜更かしからしてどうやら嘘のようだが」
「…………」
そこまで喋ってたまるものか、とブルーは黙り込んだのに。
「言えないのなら俺が代わりに言ってやろうか? …お前、俺を釣ろうとしていただろう」
「えっ?」
「図星だな。正直、俺も騙されかけた。いや、前世のお前を思い出したと言うべきか…。だがな、そう簡単には釣られんぞ。お前の心は正直すぎだ。前のお前なら考えられんが」
ハーレイが息を飲んだのを聞いた直後から、ブルーの心は期待に溢れた喜びの思念を振り撒いてしまっていたらしい。ゆえにタヌキ寝入りをしているとバレて、その目的まで見抜かれた次第。
「……バレちゃってたんだ…」
「そういうことだ。どうだ、文句があるか、ハコフグ」
「……ごめんなさい……」
シュンと俯いたブルーの頭をハーレイはポンポンと軽く叩いた。
「俺がお前にキスをしない理由は何度も教えたな? なのに釣ろうとは二十三年ほど早いんだ」
もう少し経てば二十四年か、と自分とブルーとの年の差を挙げてニヤリと笑う。
「俺を釣るには色気と修行がまだまだ足りない。大きく育って出直してこい。…なあ、ハコフグ」
ハコフグは釣るんじゃなくって釣られる方か、と散々笑われ、ブルーの企みは見事に砕けた。
大好きなハーレイの台詞でなければ泣いたかもしれないハコフグ呼ばわりのオマケつきで。
優しいキスを貰う夢は破れて、頬っぺたまで潰されてしまったけれど。
ハコフグにされてしまったけれども、それでもハーレイを大好きな気持ちは変わらない。
「…ねえ、ハーレイ。ハコフグって、本物、見たことあるの?」
図鑑でしか知らない魚の名前を尋ねてみたら。
「あるぞ、それも水族館じゃない。海に行けばな、運が良ければ出会えるんだ」
「ハーレイ、釣ったの?」
「いや、本当に出会ったのさ。俺が潜って泳いでいたらな、バッタリとな」
俺も驚いたが向こうもビックリしたと思うぞ、と懐かしそうな目をするハーレイは海の中で岩の角を曲がった途端にハコフグと対面したらしい。
「今の地球の海はハコフグまで棲んでいるんだな。…俺がシャングリラで辿り着いた頃には青い海すら無かったのにな…。おまけに今の地球だと陸の上にまでハコフグが居るな」
「…それ、ぼくのこと?」
「ああ。俺の大事なハコフグのことさ、銀色の髪で赤い瞳のな」
ゆっくりでいいから大きくなれよ、とハーレイの手がブルーの両の頬を優しく包んだ。
「俺を見事に釣り上げられる美人に育つ日を待ってるからな。…それまではキスはお預けだ」
「…うん……」
「もっとしっかり返事しろ。しっかり食べて大きくなったら、嫌というほどキスしてやるから」
……それまではキスは額と頬だけだ。
いいな、ハコフグ。
酷い呼び名をつけられたけれど、好きでたまらないハーレイの声でそう呼ばれるとハコフグでもいいと思ってしまう十四歳の小さなブルー。
ハコフグ扱いは多分、今日だけ。
しかし欲しくてたまらない唇へのキスは、いつ貰えるのか分からなかった。
けれどいつかは必ず貰える。死の星だった地球の海でさえ、今はハコフグが棲むのだから。
その地球の上に生まれ変わってハーレイと再会を果たしたブルーの夢が叶わない筈が無い……。
貰いたいキス・了
※ブルー君、キスを貰い損ねた挙句にハコフグですが…。チビですからねえ?
今月は第5月曜がございますので、年末にもう一度更新がありますです。
そして、ハレブル別館とは無関係ですけど、作者が書き手になったルーツ。
諸悪の根源だか、原点だかのコメディが毎年クリスマスの公開となっております。
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←悪戯っ子「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお話v
六月初めのある日、登校したブルーは朝のホームルームで今後の人生を左右するであろう大切なプリントを受け取った。他の生徒にとっては何ということもなく、話題にもならない一枚の紙。
それはプールの授業の開始を控えて保護者が記入する、生徒の健康調査票。
六月半ばから体育の授業は水泳になるが、プールに入れる状態かどうかを確認するための調査がこのプリントだ。入れない生徒は事情に応じて見学、もしくは教室で自習。
生まれつき身体の弱いブルーは毎年、これで引っ掛かる。入れないわけでは無かったけれども、実に細かい注意が必要。
最たるものが「十分ごとに水から上がって五分の休憩」。他にも気温や水温、天候などに応じてプール禁止の指示が出たりするが、一番重要とされているのが休憩だった。
ブルーは体温の調節が上手く出来ない。体温よりも低い水に入れば当然のように体温が下がり、下がりすぎると体調を崩すことになる。それゆえに水から上がっての休憩が必須。
世の中便利に出来ているもので、ブルーがプールに入る時には浮遊型の小型ロボットがピタリとくっついて追って来た。十分ごとに審判よろしく「休憩!」とプールサイドへ追い上げ、五分間は水に入らないようキッチリ監視。
去年までは大して気にしなかったし、追い上げられる前に疲れてしまって休んでいることも多々あったけれど、今年は違った。
普通の生徒は体育の教師の指示があるまでプールの中に入りっ放しで、それが当たり前。
ブルーは「プールに入りっ放し」の世界を体験したくなったのだ。
忘れもしない五月の三日に再会を果たした前世での恋人。
ソルジャー・ブルーだった自分が愛したキャプテン・ハーレイ。ミュウたちの船、シャングリラの舵を握っていた船長。
そのハーレイがブルーと同じく青い地球の上に生まれ変わって、ブルーが通う学校に教師として姿を現した。出会った瞬間、ブルーの身体に浮かび上がった前の生での最期の傷痕。聖痕現象と診断された大量出血が切っ掛けとなってブルーとハーレイの前世の記憶が蘇り…。
以来、週末ごとに逢瀬を重ねて、平日もハーレイの時間が取れれば束の間の逢瀬。
そんな日々の中で、ブルーは知った。今のハーレイの充実した生を、自分と出会うまでの年月、何を楽しみにしていたのかを。
運動が好きな今のハーレイ。特に柔道と水泳は賞を取ったり記録を更新したりするほどの腕で、どちらも捨て難いらしい。学校の教師を始めてからも柔道部か水泳部の顧問をやってきたという。現にブルーが通う学校でも柔道部の顧問を務めていた。
ハーレイが大好きなスポーツの世界。知りたかったし憧れもしたが、身体が弱くて運動も苦手なブルーには些か敷居が高すぎた。柔道なんか出来はしないし、水泳だってろくに泳げはしない。
(でも……)
プールくらいなら入れるよね、とブルーは考え始めていた。
泳げなくてもプールに入れば水の世界が近くなる。ハーレイが自由自在に水を掻いて泳ぐ世界に自分も足を踏み入れられる。
けれど、十分ごとにブルーをプールサイドへと追い上げてしまう小型ロボットが邪魔だった。
ピタリとブルーの頭上にくっついて進み、「休憩!」とうるさく繰り返すそれ。そんな邪魔者が追って来たのでは水の世界に浸るどころか、興醒めとしか言いようがない。
(…アレさえなければいいんだよ、うん)
監視されずに思う存分、ハーレイの大好きな水の世界を満喫したい。
そう考えるブルーの目指す所は監視ロボット抜きでの水泳の授業。その前提として必要なものが今日配られた健康調査票だ。自分の人生を左右する紙を、ブルーは大事に鞄に仕舞った。
持ち帰った健康調査票。
母に渡すと、早速かかり付けの医師の診断書を見ながらの記入が始まる。プールに入れる水温や気温、天候などの細かい指示。最たるものが例の休憩なのだが、ブルーは横から注文をつけた。
「ママ。それ、書かないで空けておいてよ」
言い訳はちゃんと練ってある。
「監視ロボットくっつけてるのって、ぼくくらいだよ。…ぼくだってもう十四歳なのに」
「でも、ブルー。こういうのに年は関係ないのよ」
「関係あるって! ちゃんと自分で時計を見るから! 小さい子供じゃないんだから!」
監視ロボットつきだと格好悪い、とブルーは唇を尖らせた。
「あんなの誰も連れていないし、ぼくだけだもの!」
「格好悪いって言ったって…。仕方ないでしょ、ブルーは身体が弱いのよ?」
「でも嫌だ!」
押し問答の末に、母は「そうねえ…」と記入を保留にした。
「パパが帰ったら訊いてみましょう。多分、駄目だと思うけど」
「…でも、嫌だもの…」
格好が悪い。これだけが決め手。
母には全く通じない手だが、父なら了承するかもしれない。此処まではブルーの計算通りに事が運んだ。祈るような気持ちで父の帰宅を待ち、健康調査票を突き付ける。
「ねえ、パパ。…監視ロボット、もうくっつけたくないんだけれど…」
「どうしたんだ? アレが無いと誰も時間を計ってくれないぞ。先生だって忙しいんだ」
そう諭す父に「嫌なんだもの」と訴えた。
「子供みたいでカッコ悪いよ、自分のことなら自分で出来るよ!」
「…うーん、格好悪いと来たか…。確かに気になる年頃かもなあ、身体はうんと小さいけどな?」
「普通だよ!」
「いやいや、充分チビだと思うが、中身はそうじゃないってことだな」
よし、と父の手がブルーの頭をポンと叩いた。
「それじゃ自分で面倒を見ろ。しかしだ、何かあったら次から監視ロボットつきだぞ」
「うんっ!」
ブルーは心で「やった!」と快哉を叫び、父が母に「書かないでやろう」と件の部分をブルーに任せる決断を下す。それを受けて母が「挙手した時に適宜休憩させて下さい」と書いた健康調査票を宝物のように持って、翌日、提出。
これで今年は好きなだけプールに入っていられる。ハーレイが大好きな水の世界に…。
今の学校で初めての水泳の授業は午後からだった。気がかりだった気温も水温もクリア、絶好のプール日和の青空の下で、ブルーは颯爽とプールサイドに繰り出す。
「あれっ、ブルー、監視ロボットは?」
前の学校からの友人に訊かれ、ブルーは「いないよ」と得意げに返した。
「ちょっと丈夫になったから…。無しで大丈夫になったから!」
「へえ…! そいつはいいよな、アレ、うるさいしな!」
ニッと笑って親指を立てた友人は、自由時間にブルーと遊んでいて監視ロボットに邪魔をされた経験多数であった。遊びが最高潮に達していたって「休憩!」とうるさく叫ぶロボット。無視していれば気付いた教師が駆け付け、ブルーを引っ張って連れて行ってしまう。
「アレがいなけりゃ自由ってことだな、今年から?」
「うん!」
満面の笑みで答えるブルーは御機嫌だった。キラキラと日射しを反射する水も、真っ青に晴れた雲ひとつ無い空も、きっとハーレイが大好きなもの。そして満々と水を湛えたプールも…。
準備運動を終えて水に入って、最初は自由に過ごせる時間。泳ぐ者やら、水のかけ合いに興じる者やら。ブルーは満足に泳げないから、首だけを出して身体を沈めてみる。浮力で軽くなる身体。
(…わあっ…!)
前の生で空を飛んでいた時の記憶が蘇ってきた。今は飛ぶなんて出来ないけれども、飛べたならこんな感じだろうか?
(……んーと……)
こうかな? と身体の力を抜いたら、プカリと仰向けに水面に浮いた。去年までは出来なかった技。前の生での感覚が役に立ったのだろうか。見上げる空も、揺れる身体も気持ちいい。
「ブルー、すげえな! 浮かべるようになったのかよ?」
泳いで近付いてきた友人に褒められ、気分は上々。これがハーレイの好きな水の世界なんだ、と嬉しくなった。この調子なら下手な泳ぎも上手になっているかもしれない。
(そうだといいな…)
泳ぎたいな、と期待したのだが、そうは上手くは運ばなかった。浮かべば泳げるというものではなく、それなりの技術が欠かせない。前世の記憶はまるで役立たず、水泳の技量を調べるタイムは悲惨な結果に終わってしまった。でも…。
(…ハーレイは凄く速いんだよね? ホントに凄いや…)
一番速いタイムを出した生徒でもハーレイには敵わないだろう。その生徒の速さをプールサイドではなく、同じ水の中で体感出来たことが嬉しい。監視ロボットつきであったら何度も休憩時間を挟まれてしまい、タイム計測の間中ずっとプールに居るなんて出来ないわけで。
(良かったあ…)
長い間プールに入っていられて、とブルーは大感激だった。休憩のことなどすっかり忘れ去り、水の世界に浸ったままで。
ハーレイが大好きな水の世界は思った以上に気持ちが良くて。以前のブルーが監視ロボットつきだったことを知る友人たちの心配を他所に、うんと泳いで沢山遊んだ。
もっともブルーの泳ぎは下手くそ、友人たちの指導を受けても全く上達しなかったけれど。失敗して何度も水を飲んだし、かなり疲れてしまったけれども、それでも水の世界は楽しい。
(…ハーレイは上手に泳ぐんだよね…)
こんな風かな? とイメージどおりに泳ごうとしては失敗ばかり。ゴボッと沈んだり、ゲホゲホ噎せ返る羽目になっても、ハーレイが大好きな水の世界に居るだけで心に幸せが満ちる。
(ハーレイが好きな世界なんだ…)
前の生で自分が焦がれた地球。今はその地球の上に居るけれど、あの頃に地球を思っていた時のような気持ちでハーレイは水の世界に惹かれるのだろうか…。
その水の世界に自分が居る。なんて幸せなんだろう。なんて気持ちがいいんだろう…。
(…これがハーレイの大好きな世界…)
ずっと居たいな、と思ってしまう。けれど授業には終わりがあって、チャイムが鳴って。
後ろ髪を引かれるような思いでブルーはプールを後にした。水を湛えて光るプールが遠くなる。ハーレイの大好きな水の世界が…。
(でも、またプールの時間があるもんね!)
監視ロボットに邪魔をされずに過ごした時間は最高だった。次のプールの授業では友人たちから泳ぎのコツを沢山々々教えて貰おう。
少しでもハーレイに近付きたいから。ハーレイの大好きな世界を味わいたいから…。
(ふふっ、今日はホントに楽しかったな)
プールを満喫したブルーは大満足の内に終礼を終えて、弾む足取りで学校を出た。ハーレイにも帰り際に廊下で出会って挨拶出来たし、もう嬉しくてたまらない。その気分のまま家の方に向かうバスに乗り込み、空いていた席に座って暫く経って。
(…あれ?)
ちょっと寒い、とブルーは肩を震わせた。空いていればいつも好んで座る窓際の席。こんな風に寒さを感じたことなど無かったように思うのだけれど…。
(冷房、効きすぎてるのかな?)
バスの空調は乗客の人数や居場所を計算した上で弾き出される。常に最適な気温になるよう調整されている筈だったが、たまにはこんな日もあるのだろう。
(機械は完璧なんかじゃないしね)
そのことは誰よりもよく知っている。かつてSD体制が敷かれていた時代、許し難い過ちを犯し続けてミュウを迫害したマザー・システム。あれに比べればバスの空調ミスなど可愛いものだ。
(…でも、もう一枚、シャツがあればいいのに)
でなければ肩に羽織れるタオルとか。生憎と水泳のために持って来たタオルは濡れてしまって、羽織れば逆に冷えるだけ。
(アルタミラよりはマシなんだけどね…)
人体実験で放り込まれた絶対零度のガラスケースや、超低温の実験室。あの時の寒さに比べればマシ、と車内の寒さに震えるブルーは知らなかった。
バスの空調は狂ってなどおらず、快適に保たれていることを。
自分が寒いと感じる理由は、長時間を過ごしすぎたプールで体温を奪われたせいであることを。
十分ごとに水から上がって休憩を五分。体温が下がりすぎてしまわないよう、ブルーが守るべきプールでのルール。
何のために監視ロボットが自分を追っていたのか、ブルーは理解しているつもりで実は出来てはいなかった。自分の身体の弱さを棚に上げ、やりたいことを最優先。その辺りが十四歳の子供たる所以で、結果は実に惨憺たるもの。
家に帰り付いても震えは止まらず、あまりの寒さに制服のままベッドにもぐり込んだ。上掛けを頭の上まで被って身体を丸めて、懸命にやり過ごそうとするのだけれど。
(……寒い……)
それに冷たい、とブルーは右手をキュッと握った。
前の生で最後にハーレイに触れた手。その手に残ったハーレイの温もりを最期まで覚えていたいと願っていたのに、撃たれた傷の痛みの酷さで失くしてしまって悲しくて泣いた。
ハーレイに会えた喜びの中でいつしか薄れた悲しみの記憶。けれど右手が冷たいと感じた時には思い出さずにいられない。
(…冷たいよ、ハーレイ…。とても冷たい…)
冷たくて痛い、と凍える右手と胸の奥深くに蟠る深い悲しみとを涙を流して訴えてみても、側に求めるハーレイは居ない。ブルーは冷たいベッドにただ一人、独りぼっちで丸くなるだけ。
同じ地球の上に、同じ町にハーレイが居るというのに温めてくれる手は何処にも無かった。
(…寒いよ…。ハーレイ、手が冷たいよ…)
泣きながら眠ってしまったブルーの体温は戻らず、母が様子を見に来たことにも気付かないまま眠り続けて、やがて夕食の時間になって。
「ブルー、晩御飯よ? どうしたの、ブルー!?」
真っ暗な部屋と、ベッドにもぐって死んだように動かないブルー。慌てて駆け寄った母の悲鳴で目覚めたブルーは「…ママ……」と弱々しい声を返すのが精一杯だった。
発熱とは違い、その反対。ぐったりとしたブルーの冷え切った身体は平熱どころか下がりすぎていて、母に上掛けを追加された上、熱すぎるほどのホットミルクまで飲まされた。
「…ブルー。プールで休憩を忘れたんでしょう?」
「……ごめんなさい……」
蚊の鳴くような声で答えたブルーは母に叱られ、翌日の登校も禁止されるという有様。ハーレイに会うために無理をしてでも行きたい学校。それなのに…。
(…ハーレイに会えない……)
こんなに右手が冷えて冷たくて、凍えるのに。こんな時だからこそ会いたいのに。
(……ハーレイ……)
冷たいよ、と母に押し込まれたベッドでブルーは右の手を握り、ハーレイの名を何度も繰り返し呼び続けた。温もりを失くしてしまった手が冷たい、と…。
その夜は悲しい夢ばかりを見ていたような気がする。
右の手が冷たかったから。前の生の最期に冷たくて泣いた、右の手が凍えてしまっていたから。
目覚める頃には体温も戻り、身体もずいぶん軽くなっていたが登校は許して貰えなかった。それどころか母は学校に欠席の連絡を入れるついでに健康調査票の訂正を届け出たと言う。
「格好悪いとか、そういう問題じゃないのよ、ブルー。身体が一番大切でしょう!」
母の怒りはもっともなもので、ブルーは反論する術が無い。父も「そういう約束だったしな」と母の肩を持ち、水泳の授業は次から監視ロボットつき。
ハーレイが好きな水の世界と無制限に戯れられる機会を奪われ、ブルーの気分はドン底だった。おまけに今日一日はハーレイに会うことも出来ず、家で大人しくしているしかない。
(……あんなに楽しかったのに……)
プールは本当に楽しかった。いつまでも入っていたいと思った。
けれど憧れた水の世界はブルーの身体に合わないもの。体温を奪い、悲しい記憶まで呼び起こすほどの非情さすらも帯びた世界で、厳しいもの。
(…でも、ハーレイの大好きな場所なんだ…)
そのことが酷く辛くて悲しい。
ハーレイが好きな水の世界が自分には向いていない事実も、自由に入ってゆけないことも。
日が暮れるまでベッドの中で、あるいは上で膝を抱えて丸くなっていた。
弱すぎる身体も悲しくて情けなかったし、ハーレイに会えずに終わる一日も辛い。すっかり暗くなってしまった部屋で涙がポロポロと頬を伝った。
(……ハーレイ……)
自分とハーレイとの間に横たわる距離。現実の距離も、水の世界で隔てられた距離も、今のブルーには遠すぎる。どうすればいいと言うのだろう。どうすれば距離が縮まるのだろう?
答えが見つかる筈も無かった。
ブルーは水には長く入っていられないのだし、ハーレイの家は何ブロックも離れた先で。今日が休日なら家を訪ねて来てくれるけれど、平日に来てくれることは少なくて…。
(…ハーレイ……)
会いたいよ、と昨夜一晩中、凍えていた右の手をキュッと握って呟いた時にチャイムが鳴った。客人の来訪を告げる門扉の脇にあるチャイム。
もしや、とブルーの心臓が跳ねる。もしかしたらハーレイが来てくれたのかも、と。
間違っていたら悲しすぎるから、期待はしないようにしていた。それでも胸がドキドキ脈打つ。階段を上がる足音がしないか、扉をノックする音がしないか。
好きでたまらないハーレイの声が自分の名前を呼びはしないか…。
「……ブルー?」
軽いノックの音が聞こえて、部屋の扉がカチャリと開いた。そして明かりが点けられる。絶対に聞き間違えはしない声。見間違う筈もない褐色の肌の、大きな身体をした恋人。
「…大丈夫か、ブルー? 明日は学校に来られそうか?」
ハーレイがベッドの脇に置かれた椅子に腰掛け、穏やかな声で問い掛けた。
「プールで冷えすぎちまったそうだな。また食事をしてないんじゃないかと、スープを作りに来てやったんだが…。どうする、俺のスープにしておくか?」
前の生でハーレイが作ってくれていた素朴なスープ。何種類もの野菜を細かく刻んで、味付けは基本の調味料だけ。青の間のキッチンでコトコトと煮込まれたそれが大好きだった。
今の生でもブルーが寝込むとハーレイがたまに作りに来てくれる。ハーレイ曰く「野菜スープのシャングリラ風」。そのスープの味も捨て難かったが、今、欲しいものは…。
「…スープもいいけど……」
手が冷たい、と差し出した右手をハーレイがギュッと握ってくれた。ハーレイはブルーの右手が凍える理由を知っている。何故冷たいのか、どうして凍えてしまうのかを。
自分の温もりを移すかのように大きな両手で包み込みながら、時折、擦ったりもして。ブルーの心が温もりに満たされ、その頬が幸せに緩むのを待って、ハーレイはもう一度尋ねてきた。
「もう充分に温かそうだが、明日も休む気か? それとも俺のスープを飲むか?」
「…明日も休むのは嫌だけど…。今日はスープより、ハーレイの手がいい」
まだ冷たくて凍えそうだから、とブルーは右の手を温めてくれとハーレイに強請る。
「まったく…。そもそも、なんだってプールで無茶をしたんだ」
「……ハーレイの好きな水だったから」
「は?」
「…ハーレイが大好きなプールだったから、同じ世界を感じたかった…」
失敗をしてしまったけれど。
そう言ったブルーの言葉にハーレイの手が一瞬、微かに震えて。
「……大馬鹿者が」
お前は馬鹿だ、と罵ったくせに、ハーレイの腕はブルーを広い胸へと抱き込んだ。
「…本当に馬鹿で無茶だ、お前は。…何も変わっていやしない」
一人でメギドへ飛んだお前だ、と息が止まるほどに強く抱き締められて。
「…何もかも一人で勝手に決めて、無茶をして…。俺はお前に一緒に生きて欲しいと思うが、俺と全く同じ道を歩けとは決して言わない。俺の道がお前にもピッタリ合うとは限らないんだ」
「……そうみたいだね…。ぼくにプールは無理みたいだけど、それでも嬉しかったんだ」
…少しだけハーレイの世界が分かった。
そう話したらハーレイの腕の力がもっと強くなり、息をするのも苦しいほどで。でも…。
「…ハーレイ、ぼくが温めて欲しいのは右手。…それにね…」
やっぱり野菜スープも欲しいかな。
「それだけ我儘が言えるようなら、もう平気だな」
出来るまで少し待ってろよ、とハーレイが野菜スープを作りに階下のキッチンへ下りてゆく。
部屋を出てゆくその背を見ながら、ブルーはそれは幸せそうな笑みを浮かべた。
(…ハーレイ…。無茶をしちゃってごめんね、ハーレイ)
野菜スープを作りに来てくれてありがとう。
ぼくの凍えてしまった右手を温めてくれてありがとう…。
君の大好きな水の世界はぼくの身体には厳しすぎたけど、それでも体験出来て良かった。
あれが今の君が大好きな世界。ふわりと身体が浮き上がる世界。
君が大好きな世界だったから、無茶をしてでも見たかった。
もう学校では次の機会は無さそうだけれど、いつか大きくなったなら…。
君と一緒に暮らせる時が訪れたならば、もう一度、君と見てみたい。
無茶だと君は怒るだろうけど、見たいんだ。だって、君の大好きな世界だから……。
君の好きな世界・了
※お読み下さってありがとうございました!
ブルー君を追い掛けていた「浮遊型の小型ロボット」のモデル、お気付きでしょうか。
アニテラでジョミーがサッカーしていた時の審判ロボットですv
作品世界を壊さないよう、私語は控えておりますが…。
コメントとか頂くのは大好きであります、拍手部屋からお気軽にどうぞ。
毎日更新の「シャングリラ学園生徒会室」の方でレスつけさせて頂きます。
お心当たりの方は「拍手レス」をクリックなさって下さいねv
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