シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(あれ?)
似てる、とブルーが眺めた車。学校の帰りに、いつもの路線バスの窓から。
信号停止中の対向車。一番前で。それに瞳を惹き付けられた。「おんなじ色だ」と。
(ハーレイの色…)
前のハーレイのマントの色をした車。深みのある濃い緑色。ハーレイの愛車と同じ色だけれど、そっくりなのは車体の色だけ。
(似てるの、色だけ…)
形はちっとも似ていないよ、と眺めた車。色は本当にそっくりなのに。
止まっている車は、カブト虫みたいにコロンとした車体。可愛い印象。走り出したらコロコロと音が聞こえて来そう。コロコロコロと軽やかな音。本当に可愛らしいから。
(誰が運転しているの?)
今の場所ではまだ見えない。横断歩道とかが間に入って、ちょっぴり離れているものだから。
信号が青に変わったらバスとすれ違うのだし、「まだかな?」と待った青信号。バスも他の車も動き始めたから、興味津々、近付いて来る緑色の車を見ていたら…。
(わあ…!)
運転席には、少し年配のおばあちゃん。助手席に大きな犬を乗っけて。
犬の種類は分からないけれど、お行儀よく座ってシートベルトも。御主人の隣で得意そうな顔。余所見もしないで、クルンとした目で前を見詰めて。
(…犬まで乗ってる…)
ビックリしちゃった、と瞬きする間に、バスの横を通って走り去った車。名残惜しくて後ろを向いて見送った。行っちゃった、と。
遠ざかってゆく車の中には、シルエットになった犬とおばあちゃん。何処まで行くのか、一人と一匹が乗っている車。コロコロと音はしなかったけれど、コロンと丸くて濃い緑色。
車が見えなくなった後。同じ色でも、ハーレイの車とは似てなかった、と不思議な気持ち。色に惹かれて眺めていたのに、形も、乗っている人も。犬まで一緒にドライブしていた。
(ハーレイのお母さん、あんな感じかな?)
不意に頭に浮かんだ考え。隣町で暮らすハーレイの母。庭に大きな夏ミカンの木がある家で。
ハーレイの母が飼っていたのは真っ白な猫のミーシャだけれども、もしも車を運転していたら。今もミーシャが家にいたなら、助手席に乗せて走りそう。落っこちないようにケージに入れて。
(猫だとシートベルトをしたって…)
スルリと抜けてしまうから。さっき出会った犬ほど大きくないのだから。
猫を助手席に乗せてやるなら、ケージに入れてシートベルトをかけるのだろう。ハーレイの母が運転するなら、ミーシャも一緒に乗せてゆく筈。「お出掛けしましょ」と。
(車の免許…)
ハーレイの母が持っているとは聞かないけれども、会えたような気分。
顔も知らないハーレイの母に、バスの窓越しに偶然に。違う人だと分かっていたって、なんだか似ている気がするから。
ついつい惹かれた、ハーレイの車と同じ色の車。それに優しそうだったおばあちゃん。
今日までにハーレイから色々と聞いた、ハーレイの母と重なる印象。コロンとした車も、犬まで乗っけていたことも。
真っ白なミーシャは猫だったけれど、大きな犬なら、あんな風に乗せて走りそうだから。
ホントに何処か似ているかもね、と考えてしまう、行ってしまった車の運転手。ハーレイの母を思い浮かべたおばあちゃん。最初は車の色に惹かれただけなのに。
(こうして見てると…)
色々な車が走っている道路。形も色も、様々な車。全部同じに車だけれども、澄まし顔のとか、悪戯っぽい雰囲気の車とか。どれも溢れている個性。よくよく車を眺めてみたら。
(乗っている人も車と似てる?)
どうなのかな、と注意していると、そういう感じ。大真面目な顔に見える車は、カッチリとしたスーツを着込んだ男性。茶目っ気たっぷりの車の運転席には、ラフな格好の男性だとか。
どの車にも、それが似合いの運転手。男性も女性も、まるで車とセットみたいに。
運転している人と違うんだけど、と思う車は…。
(借りてるのかな?)
家族の車を、その人が。留守の間に乗っているとか、兼用だとか。
あまり車に乗らない家なら、車は一台あればいい。それを貸し借り、その日の都合で。御主人が乗っていない日だったら、乗るのは奥さん。
(だけど、車は御主人の趣味…)
これにするんだ、と御主人が決めた車だったら、奥さんには似合わないだろう。子供にだって。免許を持っている息子さんが借りて乗っていたって、きっと同じに似合わない。
(息子さんの趣味で決めちゃってたら…)
御主人とは違う印象の車。奥さんの趣味で決めたって。
家族で車を兼用するなら、似合わない人も出て来る筈。みんな個性は色々だから。
そうなのかもね、と考えながら降りたバス停。運転する人と車はよく似ていたから、どの車にも個性が出るのだろう、と。それを選んだ人の個性が。
(パパの車も…)
父に似合うし、ハーレイの車もハーレイにピッタリ。どんな服を着て乗っていたって。仕事用のスーツでも、普段着でも。これがそうだ、と一目で分かる気がする車。
バス停から家まで歩く途中の、ご近所さんの家を見ていても…。
(車で分かる人が多いかも…)
ガレージに停まっている車。家の人がいるなら、色々な顔で。澄ましていたり、茶目っ気のある車だったり。
持ち主は誰か、直ぐにピンと来る車たち。どれも個性がある車。色や形や。
気を付けていたら、まるで同じのは無い車。似たように見えていた車だって、近付いてみたら、違っている車体の細かい部分。車には詳しくないけれど。
(きっと、こだわり…)
これにしよう、と車を買う時に。この車よりは、こっちの車、と。
考えてみたら面白い。どんな車も、みんな持ち主の個性が出ているから。大好きな色や、好みの形。そういったものを詰め込んで選んだ車だから。
車があんなに個性的だなんて、と感心しながら家に帰って、おやつの時間。
ダイニングで味わう、母が用意してくれたケーキと紅茶。母は車に乗らないのだから…。
(ママが運転するんだったら、パパの車で…)
母にはあまり似合わない。父が選んだ車なのだし、当然の結果。色も形も、父の個性が出ている車なのだから。
それが似合わない母が乗るなら、どんな車になるのだろう?
母が自分で選ぶなら。運転手は母だ、と誰が見たって思いそうな車に乗るのなら。
(ハーレイのお母さんみたい、って思った車は…)
意外に似合うかもしれない。濃い緑色で、コロンと可愛い形をしていた車。濃い緑色だと母には少し渋すぎるから、それを変えれば。
色次第かも、と想像していた所へ、母が通り掛かったから訊いてみた。
「ママ、車に乗るなら、どんなのが好き?」
運転免許は持っているでしょ、ママが選ぶとしたら、どういう車?
「どんなのって…。ブルーは車に詳しくないでしょ?」
好きな子供は大好きだけれど、ブルーは車に興味が無いから…。分からないんじゃないの?
車の種類を言ったって、と首を傾げながらも側に来てくれた母。隣の椅子に腰を下ろして。話は聞いて貰えそうだから、続けた質問。
「車の種類は分かんないけど…。コロンと可愛い車とか…」
ちょっとカブト虫みたいに見える車は、ママ、好きじゃない?
「好きよ、どうして分かったの?」
「やっぱり…! あの車、ママに似合いそうだと思って…」
どんな色が好き、車の色も沢山あるから…。ああいう形の車に乗るなら、何色がいい?
「そうねえ…。ママがあの車に乗るのなら…」
この色かしら、と母が答えてくれた色。ちょっとお茶目な黄色でもいいし、白も好きよ、と。
どちらも母に似合った感じ。コロンとしていて黄色でも。真っ白でコロコロ走っていても。
思った通り、車は人に似るらしい。それを運転している人に。
当たっていたよ、と思った車。運転手の個性が出る車。
(ふふっ、車は持ち主そっくり…)
選んだ人で決まるんだよね、と二階の自分の部屋に戻って考える。勉強机の前に座って。
今のハーレイが乗っている車も、持ち主の個性が出ている車。形もそうだし、何よりも色。濃い緑色は、前のハーレイの色だから。キャプテン・ハーレイの背中のマントと同じ色。
あの緑色がハーレイの色、と濃い緑色の車を思い浮かべていて気が付いた。
(ハーレイ、次は白だ、って…)
次に車を買い替える時は白にしよう、と言ったハーレイ。白い鯨の、シャングリラの白に。
初めて車を買った時から、ハーレイの車は濃い緑色。白い車も勧められたのに、欲しい気持ちがしなかったという。
(…ぼくが隣にいなかったから、って…)
ハーレイにそう聞かされた。「今から思えば、そうなんだろうな」と。
白いシャングリラは、二人で暮らした船だったから。ハーレイが一人で乗っていたって、寂しい船でしかなかったから。
前の自分をメギドで失った後は、一人きりになってしまったハーレイ。白いシャングリラを地球まで運ぶためだけに、ハーレイは独りぼっちで生きた。恋人はもう乗っていなかった船で。
その悲しすぎる記憶が無くても、ハーレイは白い車を避けた。白い車もいいと思うのに、何故か乗りたくなかったから。「この色じゃない」と思ったから。
代わりに選んだ、青年が乗るには渋すぎる色。今では似合っているけれど。
濃い緑色もハーレイらしくて素敵だけれども、次の車は白になる。白い鯨と同じ色に。
今の車を買い替える頃は、大きく育った自分が隣に乗っているから。助手席に座って、デートやドライブに一緒に出掛けてゆくのだから。
「お前と二人で乗るんだったら、白でなくちゃな」とハーレイが決めた、次に買おうと思う色。
二人だけのために走るシャングリラは白でないとと、白い車に買い替えようと。
ハーレイが運転する車の色は、次の車からガラリと変わる。濃い緑色からシャングリラの白に。正反対と言っていいほど、暗い色から明るい色に。
(だけどハーレイ、白だってちゃんと似合うから…)
大丈夫だよ、とコクリと頷く。まるで違った車の色でも、きっとハーレイらしくなる筈。
庭で一番大きな木の下、ハーレイとお茶を飲む白いテーブルと椅子。褐色の肌が映える色だし、前のハーレイが舵を握ったシャングリラだって白かった。どちらもハーレイに似合う白。
車だってきっと、白に変えてもハーレイの色。
濃い緑をやめてしまっても。形は今のままで白にしたって、その車は白いシャングリラ。
遠く遥かな時の彼方で、前のハーレイが舵を握った船と同じに、ピッタリの車になるのだろう。誰が見たって、今のハーレイに似合いの車に。
「先生、この色も似合いますね!」と、生徒たちだって褒める車に。
きっとそうだ、とハーレイの白い車を思う。白い車も似合う筈だもの、と。
(車が人に似るんだったら…)
運転する人の個性が表れるのなら、本物のシャングリラは前のハーレイに似ていただろうか?
前の自分たちが乗っていた船は。ハーレイが動かしていた白い鯨は。
(似ていたかも…)
あれもハーレイらしかったかも、と懐かしい船を思い出す。楽園という名のシャングリラ。
ミュウの箱舟だったけれども、いつも堂々としていた船。漆黒の宇宙を飛んでゆく時も、雲海に潜んでいた時も。
あの時代に宇宙に存在していた、どの宇宙船よりも大きかった船。
自給自足で生きてゆくには、船の仲間たちの世界を丸ごと乗せてゆくには、それだけの大きさが要ったから。元の船では、船の中だけでは生きられないから。
(改造前のシャングリラだと…)
元は人類のものだった船だと、ハーレイらしいという気はしない。何処にでもある宇宙船。
白い鯨がハーレイの船。
舵を握っていたハーレイのように、どんな時でもビクともしない、その強さ。人類軍の爆撃機に囲まれ、爆弾を山と浴びせられても。船体があちこち傷ついたって。
シャングリラは沈まなかったんだよ、と時の彼方に思いを馳せる。
前の自分が生きていた間も、いなくなった後も、白いシャングリラは飛び続けた。執拗なほどに攻撃されても、損傷した箇所を抱えながらも。
前のハーレイもそうだった。攻撃を受けた時の衝撃、それで額を打ち付けたって。血が流れても手当てもしないで、懸命に指揮を執り続けた。シャングリラが沈まないように。
(やっぱり似ちゃうものだよね…?)
車だけじゃなくて船だって、と考える運転手の個性。ハンドルか舵かの違いというだけ、動かす人に似てくるもの。車も船も、と笑みを浮かべた所へチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり車の話。
「あのね…。車って人に似てるよね」
色々な車が走っているけど、どれも人間にそっくりだよ。
「はあ? 車って…」
おいおい、車は車だろう。人間様とは似ても似つかないと思うがな?
形からしてまるで違うし、第一、車は動きはしたって、生き物ですらもないんだから。
「そういう意味で似てるっていうんじゃなくて…。車の色とか形のこと」
どの車も、それを運転している人に似てない?
借りてる車だと似てないけれども、自分で選んだ車だったら。これがいいな、って。
ハーレイの車はハーレイらしい車だと思うし、パパのも、ご近所さんのもそう。
「ふうむ…。なんだって急に車だなんて言い出したんだ?」
しかも人間に似ているだなんて、お前、車に興味は全く無さそうなんだが…?
「ママにも言われちゃったよ、それ。…ホントに詳しくないんだけれど…」
でもね、今日の帰りに乗ってたバスで…。
こういう車を見たんだよ、と話した例の緑の車。助手席に犬を座らせていた、おばあちゃん。
一度も会ったことは無いけれど、ハーレイのお母さんみたい、と。
「なんだか似てる、って思っちゃって…。なんとなく、だけど」
ハーレイのお母さんの顔なんか、見たことないのにね。…見せて貰ったことが無いから。
だけど車も、犬を乗せてたことだって…。ハーレイのお母さんなら、ミーシャを乗せそう。
「ほほう…。おふくろに似た人が運転してた、と」
どんな車だったんだ、その車は?
お前がおふくろらしいと思うからには、車の色ってだけじゃないよな?
俺の車と似たような色の車だったら、けっこう走っているんだから。
「うん。最初は色で気が付いたんだよ、おんなじ色だ、って」
なのに、色しか似てなくて…。形は全然違ってて。
コロンとしていて可愛らしくて、走ったらコロコロ音がしそうで…。それで見てたんだよ、誰が運転してるのかな、って。
そうだ、ハーレイ、見てくれる?
ぼくが見ていた本物の車、サイオンを使えば見られるでしょ?
この手、とハーレイに差し出した右手。「ぼくの記憶を覗いてみて」と。
「確かにそいつが手っ取り早いな、どんな車かも一目で分かるし…」
運転していた人も、隣に乗ってた犬の顔までそのまま分かるってことか。
よし、見てやるから、きちんと思い出してみろ。
お前が帰りに見たらしい車と、それに乗ってた人と犬をな。
いくぞ、と絡められた褐色の手。「見える?」と頭に浮かべた光景。バスの窓から眺めた、濃い緑色の可愛い車。コロンとしていて、おばあちゃんと犬が乗っていた車。
「こんなのだけど…。車と、おばあちゃんと犬」
どう、ハーレイのお母さんに似てる?
それとも、ちっとも似ていないの、と心配になって尋ねてみた。「これか」と頷いて、もう手を離した恋人に。
「そうだな、おふくろに似てると思うぞ。…顔と言うより雰囲気がな」
おふくろは車を運転しないが、運転したなら、きっとこういう感じだろう。
犬だって乗っけて走るだろうなあ、こんなデカイのを飼っていたなら。
自分一人で出掛けてゆくより、「一緒に行こう」と乗せると思うぞ。同じ乗せるなら、隣にな。
きちんとシートベルトをさせて。運転しながら、色々話し掛けたりもして。
「ホント?」
当たってたんだね、ぼくが思った通りだったよ!
本当にハーレイのお母さんだったら、犬じゃなくって猫だろうけど…。
ミーシャがいたなら、ミーシャを乗せて走るだろうけど。
猫だとシートベルトは無理だし、ケージに入れて。…お出掛けするなら、ミーシャも一緒。
ハーレイのお母さん、ああいう人なんだ…。うんと優しそうで、車に乗るならコロンとした車。
あの車、とっても似合ってたんだよ、あのおばあちゃんに。
大当たりだね、と嬉しくなった車のこと。イメージ通りだったハーレイの母。
顔は似ていないらしいけれども、雰囲気が当たっていれば充分。夏ミカンの実のマーマレードをくれる優しい人。こんな人かな、と何度も想像していたのだから。
(あの可愛らしい車のお蔭…)
ハーレイの車と同じ色のコロンとした車。あれに出会っていなかったならば、気付かないままで車は通り過ぎただろう。同じように犬を乗せていたって、あのおばあちゃんが乗っていたって。
(御主人の車とか、息子さんの車に乗ってたら…)
本当に気付かないでおしまい。ついでに、車が運転する人に似ていることにも気付かない。
「ねえ、今、ハーレイが見てくれた車…」
運転してた人に似てるでしょ?
そう思ったから、他の車も見てたんだけど…。どれも似てたよ、車を運転していた人に。
たまに似てない車もあるけど、あれは借りてる車じゃないかな?
自分が選んだ車じゃなくって、家族の誰かが選んだ車。そうじゃないかと思うんだけど…。
「そりゃまあ、なあ? なんたって車なんだから」
運転するのは自分なんだし、自分の好みの車を買いたくなるってな。色も形も。
そうやって選べば、自然と個性が出て来るもんだ。持ち主に似た車になるってことだな。
自分らしくない車を買うヤツ、普通はいないだろうからなあ…。
「じゃあ、ハーレイの車もそう?」
あの緑色はハーレイの趣味だと聞いたけど…。車の種類とかもハーレイの好み?
「当然だろうが、俺が運転するんだから」
俺が乗りたいと思う車にしないと、ドライブしててもつまらんじゃないか。
こんな車は好きじゃない、って車で走って楽しいか、お前?
「…ぼくは運転出来ないけれど…。そうだよね、乗ってて楽しい車がいいよね」
自分の車だ、っていう気持ちになれる車がいいに決まっているよね。
きっと部屋だって同じだろうし…。
落ち着かない部屋で過ごしているより、ゆっくり出来る部屋がいいもの。自分の部屋は。
分かる気がする、と思った車の選び方。車の中は小さな部屋だから。同じ過ごすなら、気持ちが落ち着く部屋の方がずっといいのだから。
それで車は人に似るのか、と納得したら、頭に浮かんだシャングリラ。前のハーレイに似ていた気がする、ミュウの箱舟。どんな時でもビクともしないで、宇宙を、雲海を飛び続けた船。
「えーっと…。前のハーレイはどうだった?」
やっぱりあれも大好きだったの、今の車が好きなみたいに…?
「前の俺って…。大好きも何も、前の俺は車に乗っていないぞ」
乗せて貰ったことならあったが、俺は運転していない。それにお前は知らんと思うが?
前の俺が車に乗っていたのは、アルテメシアを落とした後だから…。
行った先の星で移動する時に、ジョミーと一緒に乗せて貰っていただけだからな。
「車じゃなくって、シャングリラだよ!」
前のハーレイが動かしてたでしょ、シャングリラは。…車の運転と変わらないじゃない。
動かすのが車か宇宙船かっていう違いだけだよ、だからシャングリラも好きだったかな、って。
白い鯨はハーレイに似てたよ、今のぼくはそう思うけど…。
それにハーレイ、シャングリラのこと、好きな船だったと言っていたから…。
車みたいに大好きだったから、シャングリラはハーレイに似てたのかな、って思うんだけど。
「白い鯨が前の俺だってか?」
俺が鯨って…。海にいる鯨は、俺に似てるか?
身体がデカイって所くらいしか、似ているようには思えんがな…?
「本物の鯨は、ハーレイに似てると思わないけど…。あれは少しも似ていないけど…」
白い鯨だったシャングリラなら、前のハーレイに似ていたよ。改造前だと似ていないけど。
改造した後はミュウの箱舟で、いつもみんなを乗せて飛んでた。…どんな時でも。
ブリッジで指揮を執る時のハーレイみたいにしっかりと立って、ビクともしないで。
仲間たちが安心してられる船で、頼もしくって…。
それって前のハーレイだったよ、みんなが頼れるキャプテン・ハーレイ。
「うーむ…。白い鯨は、確かに頼もしい船だったが…」
こいつさえあれば安心だ、と俺も思っていた船だったが、そいつが俺に似てたってか?
考えたことさえ一度も無いなあ、シャングリラと俺が似ているだなんて。
俺に自覚は全く無いが、という返事。似ていると言われたことさえ無いが、と。
「長年、あれを動かしていたが、誰も言ってはいなかったな」
白い鯨が俺に似ているとも、あれが俺らしい船だとも。
動かし方なら、俺らしいと言われることもあったが…。そいつは大抵、褒め言葉じゃない。
荒っぽいことをやった時だな、三連恒星の重力の干渉点からワープするとか、そういったヤツ。
無茶をやらかしたら、「またかい!」とゼルやブラウが派手に怒っていたもんだが。
「そうなの…?」
前のハーレイに似てはいないの、白い鯨は?
とても似てると思ったのに…。車と同じで、動かしている人にそっくりだよ、って。
「間違えるなよ? 白い鯨はミュウの箱舟だったんだ」
あの船に乗ってた全員のものだ、シャングリラだけが世界の全てだったんだから。
動かしていたのが俺だってだけで、シャングリラは俺の船じゃない。
いくら好きでも、俺の持ち物ではなかったわけだな、白い鯨は。
シャングリラの他には、船は一隻も無かったろうが。…小型艇の方はともかくとして。
たった一隻しか無かった船をだ、俺の船だと考えるのは大きな間違いだってな。
「そっかあ…」
シャングリラ、似てると思ったんだけどなあ、ハーレイに…。
ハーレイらしい船だったよね、って考えちゃって、ホントに感心してたのに…。
違うなんて残念、と崩れてしまった「船も動かす人に似るかも」という考え。
車が人に似るように。運転している人の個性が、色や形に表れるように。
白い鯨は、前のハーレイに似ていたから。舵を握る人にそっくりな船に思えたから。船の仲間を守り続けて、沈まなかったシャングリラ。前のハーレイそのものの船。
けれど「違う」と言われたからには、そうなのかとも思ったものの…。ふと閃いた、逆の考え。船も車と同じなのでは、と気付いたこと。
「待ってよ、ハーレイ。…船は増えたよ、ずっと後から」
前のぼくがいなくなった後だけど…。今のぼくが歴史で習ったことなんだけど。
ゼルたちの船が増えていたでしょ、シャングリラの他に。
ジュピターの上空で戦った時は、もうシャングリラだけじゃなかった筈だよ。
「あれか…。エラとブラウとゼルの船だな」
しかし、人類の船を供出させただけだし、三隻とも形はそっくりだったぞ?
個性も何もありやしないし、車のようにはいかないってな。
「そうかなあ? そっくりだったことは認めるけれど…。でも…」
歴史の授業でも教わることだよ、ゼルの船にだけはステルス・デバイスがあったってこと。
それでコルディッツを救えたんでしょ、人類に全く気付かれないで近付けたから。
一隻だけステルス・デバイスを搭載していただなんて、ゼルらしくない?
あのシステムは、ゼルとヒルマンが開発したヤツだったんだから。
「開発者はそうだが、あれをゼルの船に搭載したのはヤエだったぞ」
ゼルじゃないんだ、ヤエの功績だな。そいつを間違えてやってはいかん。
授業では教えないかもしれんが、歴史好きなら知ってることだ。
「そうなんだ…。だけど、それって、ヤエ一人だけで決められたの?」
ゼルの船だけに搭載するとか、エラたちの船には搭載しないでおくだとか。
船の装備に関することだし、ヤエ一人では無理そうだけど?
「それはまあ…。お前が言ってる通りで合ってる、ヤエの意見では決められん」
其処までの発言権は無かったな、ヤエに。…有能なヤツではあったんだが。
なにしろ年が若いからなあ、発言したって、まずは会議にかけんことには…。だかだらだな…。
ゼルの船にだけ搭載されたステルス・デバイス。そうなった理由はゼルの言葉だという。新しく船を加えて艦隊を組むと決まった時に、漏らした一言。
「わしの船を貰えると言うんじゃったら、欲しいんじゃがな」と。
シャングリラが誇るステルス・デバイス、人類はそれを持ってはいない。だからこそ、ミュウの船には欲しい。新たに船を加えるのなら。艦隊を組んでゆくのなら。
開発者ならではの言葉だけれども、ゼルは無理だとも考えていた。ステルス・デバイスを自分の船に搭載することは出来ないと。
元は人類の船だったものを、転用するだけの改造船。構造からして全く違う。シャングリラでも形状そのものを改造しないと、搭載不可能だったシステム。前の船から白い鯨に。
「お前も覚えているだろう。…ステルス・デバイスを搭載するには、改造が必要だったこと」
白い鯨の形にしないと、あれは使えなかったんだ。もちろんゼルも覚えていた。開発者だしな。
人類の船に搭載出来るわけがない、と最初から諦めていたんだが…。
そいつを解決したのがヤエだ。お蔭でゼルの船にはステルス・デバイスがあったわけだな。
「解決したって…。ヤエはゼルより凄かったの?」
「ステルス・デバイスの研究を続けていたからな。…ゼルの理論を元にして」
どういう具合に改良したなら、他の船でも使えるかと。出番があるとは限らないのに。
ミュウが力をつけない限りは、日の目を見そうにない研究だが…。
好きだったんだろうな、研究自体が。
役に立つとか立たないだとかは全く抜きで、一人でコツコツやっていくのが。
ゼルが「欲しい」と言い出した時に、ステルス・デバイスは搭載出来る、と言ったヤエ。
資料を提出して、三隻ともに可能だろう、とも会議で説明したのだけれど…。
慎重派だったエラは、思い切った改造に乗り気にならなかった。ステルス・デバイスは白い鯨にしか無い機能なのだし、人類の船に搭載すれば不具合が生じるかも、と。
ブラウの方は「急ぐんだろ? 無くてもいいさ」と豪快だった。人類の船に載せねばならない、サイオン・キャノンやサイオン・シールド。それだけでも時間がかかるんだから、と。
余裕が出来たら載せればいいと、最初はゼルのに載せておくだけでいいじゃないか、と。
「…そんなわけでな、ゼルの船にしか無かったんだ」
欲しくないと言うエラには無理強い出来んし、ブラウは「要らん」と断ったんだし…。
「それでゼルだけだったんだ…」
ほらね、やっぱり船にも個性がきちんと出ているじゃない。
エラは慎重だし、ブラウは豪快。…ゼルは欲しいと思ってたものを貰ったんでしょ?
ゼルたちらしいよ、同じ船でも中身が違っていたんだから。
エラとブラウの船にしたって、ステルス・デバイスが無かった理由が違うんだしね。
車みたいだよ、ちゃんと個性があるんだから。
「そうかもなあ…。シャングリラが俺の船だったかどうかは、別の話だが…」
ゼルたちの船には、立派に個性があったってことか。見た目は同じ船だったのに。
すると、あいつらが今、地球にいたなら…。
「車で分かっちゃうんじゃない?」
色や形で、あれはゼルとか、これはブラウの車だとか。
「あるかもなあ…!」
供出させた船と違って、車は好きに選べるんだし…。
大いに個性を発揮しそうだな、エラはともかく、ゼルとブラウは。
あの三人なら、どういう車に乗りたがるだろう、とハーレイと二人で考えてみた。ブラウなら、こういう車だとか。ゼルはこうだとか、エラだったら、とか。
車の色や形の他にも、運転の仕方にも個性が出るのだ、とハーレイが教えてくれたから。慎重に運転するタイプだとか、大らかなタイプがあるそうだから。
「面白そうだね、みんなでドライブに出掛けたら」
ぼくはハーレイの車に乗っけて貰って、ゼルやブラウたちと。もちろんエラもね。
みんな自分の車で来ること、って約束をして。
「そいつは愉快な日になりそうだな、あいつらと一緒にドライブか」
車を連ねて、郊外に出掛けてバーベキューとかもいいもんだ。キャンプに行くとか、色々とな。
そういう時には、普通は誰かが車を出して、他のヤツらはそいつに乗って行くんだが…。
五人だったら充分乗れるが、あえて別々の車で行くのも、うんと楽しくなりそうだ。
向こうに着いたら、変な荷物を積んで来ているヤツがいたりして。
バーベキューなのに、まるで合わない飲み物や菓子を山ほど運んで来るとかな。
「ホントにありそう…。ゼルやブラウなら、きっとやるよね」
そうなったらエラが怒り出すんだよ、「責任を持って食べなさい」って。もったいない、って。
だけどゼルたちなら、ハーレイに全部押し付けそう。好き嫌いが無いのを知っているから。
「ありそうだよなあ、あいつらの場合…」
お前だって好き嫌いは無いのに、俺の所に全部来るんだ。「さあ、食え」と。
そうなるだろうな、貧乏クジは俺だぞ、きっと。
結果が今から見えるようだ、とハーレイが苦笑するドライブ。持ち主の個性が表れる車、それを連ねて出掛けるキャンプやバーベキュー。
懐かしいゼルやブラウたちと。変わらずに口うるさいだろうエラと。
「みんなでドライブ、やってみたいな…」
会えたらいいのに、ゼルやブラウに。…それにエラにも。
「俺もそう思うが、無理なんだろうな…」
お前が食え、とバーベキューには似合わん代物を食わされようが、会えるもんなら…。
あいつらとドライブに行けるんだったら、文句は言わん。
しかし、そいつは難しいだろう。夢物語で、きっと叶いはしないだろうな。
「うん…。ぼくたちだけしかいそうにないよね、記憶を持って生まれて来たのは」
ゼルやブラウもいるんだったら、とっくに会えていそうだから。
「ああ。残念ではあるが、お前さえいれば、充分だっていう気もするし…」
俺にはお前がいればいいから、あいつらのことは思い出話が出来ればいいさ。
「ぼくも、ハーレイがいてくれれば充分」
二人一緒なら、幸せだもの。
それにいつかは、ハーレイのお母さんにも会いにいけるしね。…本当はどんな人なのか。
ハーレイ、教えてくれないんだもの、お母さんの顔。
「お楽しみは取っておくもんだ。その方が値打ちが出るからな」
楽しみにしてろよ、おふくろたちに会いに出掛けるドライブ。
お前を俺の隣に乗っけて、俺の個性が溢れる車で隣町まで走るんだから。
その頃はまだ白い車じゃない筈だがな、とハーレイがパチンと瞑った片目。
買い替える時には白いシャングリラの色に変わる予定の、濃い緑色のハーレイの愛車。
それの助手席に乗せて貰って、ハーレイと出掛けてゆく隣町。
ハーレイの両親に会いにゆくために、「はじめまして」と挨拶するために。
濃い緑色をした車でも、今のハーレイのシャングリラ。
白くなくても、ハーレイに似合う車なのだし、それで一緒に出掛けてゆこう。
とても幸せなドライブに。
隣町へ、庭に夏ミカンの大きな木がある家を目指して、ハーレイの車の助手席に乗って…。
車と個性・了
※持ち主に似ているように見える、とブルーが思った車。前の生でのシャングリラも、と。
ハーレイの船ではなかったのですが、後に増えた三隻の船には、個性があったみたいですね。
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(小鳥…)
一杯、とブルーが眺めた生垣と、その向こうにある庭の木と。
学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で出会った光景。十羽くらいはいそうな小鳥。もっと沢山いるかもしれない。名前も知らない小鳥だけれど。
家族なのか群れか、それすらも分からない小鳥。大きさも姿も、どれもそっくり。少し動くと、見ていた鳥がどれなのかも…。
(分かんなくなっちゃう…)
目まぐるしく入れ替わってゆく小鳥たち。枝から枝へと、木から木へと。生垣にいた鳥が、見る間に庭へと。庭から生垣に来たかと思うと、その中でだって入れ替わる。チョンと飛んでは。
賑やかにさえずって、クルクルと居場所を変える小鳥たち。気の向くままに飛び回って。
その姿がとても楽しそうな上に、どの小鳥たちも愛らしいから。
(来てくれないかな…)
ぼくの所にも、と待っているのに、気にも留めない小鳥たち。どんなに静かに立っていたって、人間は木とは違うから。そうっと片手を出してみたって、小鳥たちはまるで見向きもしない。
自分たちだけの遊びに夢中で。さえずり交わして、生垣の中でかくれんぼで。
沢山いるから、一羽くらいは来てくれたって、と覗いてみても知らんぷり。逃げないけれども、寄っても来ない。人間なんかは知らないよ、と。
(手乗りの小鳥じゃないものね?)
野生の小鳥はこういうもの、と思うけれども、ちょっと残念。友達同士か、大勢だけれど大家族なのか、仲良しらしい小鳥たち。
ほんの少しだけ、一緒に遊んでみたいのに。一羽でいいから、来て欲しいのに。
仲間じゃないから仕方ないけど、と諦めて歩き出した道。いくら待っても、小鳥は来ない。
あまりしげしげ眺めていたなら、怖がらせるかもしれないから。此処は危ない、と慌てて飛んで行ってしまったら、悲しい気持ちになるだろうから。
鳴き交わす声が遠くなっていって、帰り着いた生垣に囲まれた家。庭に小鳥は一羽もいないし、寂しい気分。やっぱり遊んで貰えないよ、と。
「ただいま」と家の中に入って、制服を脱いで、ダイニングに行っておやつを食べて。
小鳥たちのことなどすっかり忘れて、二階の部屋に戻って来たら…。
(あれ…?)
耳に届いた小鳥の声。帰り道に聞いた、賑やかなさえずり。軽やかに、とても楽しげに。
窓の方だ、と駆け寄って覗いたガラスの向こう。庭の木の梢、枝から枝へと飛び移ってゆく影が沢山。小さくて、翼を持った影。
(あの小鳥たち…!)
うちに来たんだ、と嬉しくなった。きっと、おやつを食べている間に、庭から庭へと移動して。次の遊び場は何処にしようかと、生垣や木を幾つも移って。
陽の当たる場所に出て来た時には、影はきちんと小鳥になる。羽根の模様が見えるから。
(何の鳥だろ…?)
野生の鳥には詳しくない。鴨や鷺なら分かるけれども、こんな小さな鳥たちは。
名前は何でもかまわないけれど、遊んでみたい小鳥たち。あんなに沢山来ているのだから、一羽くらいは好奇心の強い小鳥が混じっていてもいい。「此処は何かな?」と覗きに来る鳥。
そういう小鳥が来るといいよね、と窓を開けたけれど、側の枝までやって来るだけ。窓の中には向いてくれない、小鳥たちの目。窓枠にだって来てくれない。
(人間だけじゃなくて、家も駄目なの…?)
少し止まってくれもしないの、と見ている間に、小鳥たちは隣の家の庭へと行ってしまった。
鳴き交わしながら、「今度はこっち」と。「あっちの庭も楽しそうだよ」と。
小鳥たちがいなくなった庭。鳴き声も隣の庭に移って、もう戻っては来ないだろう。お隣の次は別の庭へと行くのだろうし、残念だけれど、これでお別れ。
溜息をついて閉めた窓。勉強机の前に座って、頬杖をついて考える。
(さっきの小鳥…)
帰り道でも遊べなかったし、窓を開けても駄目だった。人間は相手にされないから。小鳥たちは見てもくれないから。木から木へなら、飛び移るのに。木の枝だったら、止まるのに。
(ぼくだと来てもくれないよ…)
人間と木の枝は違うのだから、当然と言えば当然のこと。人間と小鳥も、違う生き物。見た目も言葉もまるで違うし、「おいで」と呼んでも届かない言葉。小鳥たちの耳には、ただの雑音。
(雑音どころか、怖がっちゃうかも…)
人間が来た、とビックリして。捕まるのかも、と大慌てで逃げて行ったりもして。
こちらにそんなつもりは無くても、小鳥には通じないのだから。「おいで」と言ったか、叱っているのか、それさえも分からないのだから。
(…小鳥の言葉…)
小鳥の言葉を喋れたならば、あの小鳥たちは、自分の手にもチョンと止まってくれるだろうか。手から頭へ、頭から肩へ、次から次へと飛び移りもして。
部屋にも遊びに来るのだろうか、窓を開けて小鳥の言葉で呼べば。「こっちだよ」と。
(手乗りの小鳥は…)
どうだったかな、と思い浮かべた愛らしい小鳥。友達の家で何度か出会った。
けれど、友達が小鳥に話し掛けていた言葉は、人間の言葉。「おいで」も、「こっち」も。どの友達の家の小鳥も、人間の言葉を聞いていた。
(そういう訓練、するんだっけ…)
飼い主の友達に教わったこと。手乗りの小鳥の育て方。
卵から孵って、親鳥でなくても世話が出来るくらいになったなら…。鳥籠から出して、手の上で餌を食べさせる。人間の手を怖がらないよう、人間の手は優しいものだと覚えるように。
そうして大きくなった小鳥は、すっかり手乗り。飼い主でなくても、差し出された手にチョンと止まってくれたりもする。飼い主が「ほら」と乗せてくれたら。
(人間を仲間だと思っているのかな?)
小さい頃から一緒に暮らして、親鳥と同じで餌も食べさせてくれるから。身体の大きさがまるで違っても、話す言葉が違っていても。
手乗りでなくても、人工的に卵を孵すと、そうなる鳥もいるそうだから。人間を親だと思い込む鳥。人間の後ろをついて歩いて、一緒に遊んだりもして。
自分が鳥だと気付かないくらいに、人間に慣れる鳥もいるのだと何処かで聞いた。自分の仲間の鳥を見たって、「あれは誰?」と驚いてしまう鳥。
卵から孵ったばかりの時から、人間と一緒だったから。人間に育てて貰ったから。
そういうことでもないと無理かな、と思った鳥と遊ぶこと。小さい頃から世話をするとか、卵を孵してやるだとか。
もしもシャングリラで鳥を飼っていたら、その光景を見られたろうか。人間を仲間だと思う鳥。違う言葉を話していたって、人間も鳥も同じものだと考える鳥。
けれど、シャングリラの鶏たちでは起こらなかった、素敵な出来事。友達になれなかった鶏。
(…鶏、遊びで飼っていたわけじゃなかったから…)
卵を産ませて、肉にもしたのが鶏たち。友達になったら、肉には出来ない。生まれた卵を貰って食べることだって。…卵からは雛が孵るから。食べてしまったら、雛は生まれないから。
(…友達になったら駄目だよね…)
それだと生きていけなくなっちゃう、と思い浮かべたシャングリラ。白い鯨はミュウの箱舟。
船の中だけが世界の全てで、自給自足で生きていた船。鶏の肉も卵も食べられないとなったら、たちまち困ってしまう船。
(鶏と友達になるのは駄目だし、前のぼくたちは鶏しか…)
飼っていなかったから、鳥と遊ぶのは無理、と思ったけれども、不意に頭を掠めた記憶。鶏ではなくて、鳥を見上げていた自分。
今日の自分がやっていたように、枝から枝へと飛び移る鳥を。
シャングリラに鳥はいなかったのに。…欲しかった幸せの青い鳥さえ、シャングリラでは飼えはしなかったのに。
(…なんで…?)
いない筈の鳥を見ていたなんて、と傾げた首。何処で見上げていたのだろう、と。
白いシャングリラには鶏だけしかいなかったのだし、鳥がいたなら、船の外しかないけれど。
(…どうして、鳥…?)
何のために鳥を見ていたろうか、と考える内に思い出したこと。前の自分が見ていた鳥たち。
アルテメシアに降りていた時、山や林で鳥たちが何羽も遊んでいる所に出会ったら…。
(ぼくの所に来ないかな、って…)
一羽くらいは来てくれないかと、姿を見上げていたのだった。今日の自分がしていたように。
楽しげに鳴き交わす鳥の世界には、人類もミュウも無いだろうから。どちらも同じに「人間」なだけで、そういう姿をしている生き物。鳥たちの目には、きっとそう。
だから一緒に遊びたかった。自分を「人」だと思ってくれる鳥たちと。
(…だけど…)
いくら見ていても、来なかった小鳥。少し大きめの鳥たちも。
枝から枝へと飛び移りはしても、自分の方へは来てくれない。手を差し伸べても、「おいで」と思念波で呼び掛けても。
鳥たちは自分の遊びに夢中で、飽きてしまったら飛び去るだけ。次はあっちで遊ぼうと。
どんなに熱心に見上げていたって、「遊ぼう」と思念で呼び掛けたって。
前の自分にも出来なかったらしい、鳥を呼ぶこと。鳥たちと一緒に遊ぶこと。
巧みにサイオンを操った、ソルジャー・ブルー。それでも鳥たちの世界に入ってゆくことは…。
(出来なかったし、今のぼくだと…)
もっと出来ない、とガックリと肩を落とした所へ、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ハーレイも小鳥とは遊べないよね?」
友達みたいに、手とか肩とかに止まって貰って。怖がられないで、遊ぶってこと。
「はあ? 小鳥って…」
俺の身体は確かにデカイが、それと小鳥に怖がられるかは別問題で…。
どちらかと言えば、好かれる方だぞ。俺の家では飼ってないがな、小鳥とかは。
「えっとね…。手乗りじゃなくって、普通の小鳥」
外で生きてる野生の鳥だよ、そういう小鳥はハーレイとは遊んでくれないでしょ?
「それはまあ…。野鳥と手乗りじゃ全く違うな」
あちらの方から寄っては来ないし、人間の手にも止まらない。鳥には鳥の世界があるしな。
人間に育てられた鳥とは、まるで事情が違うってもんだ。
しかし、そいつがどうかしたのか、いきなり鳥の話だなんて…?
「今日の帰りに、小鳥が沢山遊んでて…。ぼくの方にも来ないかな、って見てたのに…」
ちっとも相手にしてくれなくって、木の枝とかに夢中なんだよ。生垣の中でかくれんぼとか。
家に帰ってから、ぼくの家の庭にも飛んで来たから…。窓を開けたけど、やっぱり駄目。部屋の中には来てくれないし、窓枠にも止まってくれないし…。
残念だよね、って思っていたら、前のぼくのことを思い出しちゃった。
前のぼく、鳥と遊びたいと思っていたんだよ。…今日のぼくみたいに、小鳥たちと。
「鳥ってことは…。青い鳥か?」
お前、欲しがっていたからな。幸せの青い鳥ってヤツを。
「青い鳥じゃなくて、普通の鳥だよ」
アルテメシアに棲んでた鳥たち。山や林に降りた時には、出会うこともよくあったから…。
鳥の世界なら、人類もミュウも無い筈なんだし、ぼくと遊んでくれるかな、って…。
人類もミュウも、鳥が見たなら、人間だとしか思わないものね。
遊ぼうと思って頑張ったのに駄目だった、と話したら。思念波を使って呼び掛けてみても、鳥は来てくれなかったのだと、溜息を一つ零したら…。
「そりゃ無理だろうな、人間と鳥じゃ、言葉が全く違うんだから」
思念波で呼んでみたって同じだ、思念波も人間の言葉だからな。声か思念かの違いだけで。
ナキネズミどものようにはいかんさ、鳥が相手では。
「やっぱり無理…?」
前のぼくでも無理だったんなら、今のぼくにも無理だよね…。
今日、会った小鳥、ホントに楽しそうだったのに…。一緒に遊びたかったのに…。
「話をしようというのは無理だな、鳥と俺たち人間ではな」
だが、呼ぶことは出来るんだぞ。野生の鳥でも、「こっちへ来いよ」と。
そうやって沢山呼び寄せていれば、肩に止まったりするのも出て来る。好奇心の強い鳥ならな。
「野生の鳥って…。餌で?」
沢山集めてやるんだったら、餌をたっぷり用意するの?
「呼び寄せた以上は、餌をやるのもいいんだが…。うんと仲良くなれるんだが…」
餌があるから、と呼んでやった所で、鳥に通じやしないだろう?
あちらが見付けてくれない限りは、餌では呼べん。餌場を作ってやるにしたって。
鳥を呼ぶには、鳴き真似なんだ。そいつが一番早いってな。
「鳴き真似…?」
なあに、それ?
鳥の鳴き声の真似をするってことなの、それで合ってる?
「その通りだが?」
もっとも、猫や犬じゃないから、声で真似るのは難しい。…其処の所は、鳥にもよるが。
その辺の小鳥の鳴き真似をするなら、口笛を使うのが定番だな。
こんな具合に、とハーレイが吹いた口笛のウグイス。「ホー、ホケキョ!」と本物そっくりに。
今はウグイスの季節ではないのに、本物が部屋で鳴いたみたいに。
「凄いね、上手い…!」
ハーレイ、本物のウグイスみたい。口笛だなんて、側で見てなきゃ分からないよ。
「そうだろう? こいつには俺も自信があるんだ、昔から」
これを吹いてりゃ、ウグイスがやって来るってな。この声で鳴く季節だったら。
聞こえる所に本物がいれば、聞こえた途端に、俺の所へ。
「本当に? …ウグイスが近い所にいたら?」
聞こえたら直ぐに遊びに来るわけ、ハーレイを仲間と間違えて…?
「ウグイスの場合は、遊びに来るんじゃないんだがな。やって来る理由は喧嘩だ、喧嘩」
俺と喧嘩をしなきゃならん、と大急ぎで飛んで来るってわけだ。
この鳴き声は、オスのウグイスの縄張り宣言みたいなものだから…。
そいつが聞こえて来たってことはだ、他のウグイスが縄張りに入っているわけで…。
自分の縄張りを荒らしに来たな、と慌てて調べにやって来る。どんなヤツだ、と確認しに。
向こうは向こうで、この鳴き声で鳴くんだぞ。何しに来た、という警告だな。
それに応えて鳴いてやったら、「まだいるのか」と向こうも返す。「さっさと出て行け」と。
俺とウグイスとで「ホーホケキョ」と何度も交わしてる内に、どんどん近くなって来て…。
直ぐ近くまで飛んで来るなあ、相手のウグイス。
もっとも、相手が人間様だと気付いちまったら、行っちまうんだが…。
人間様には用は無いしな、追い出さなくてもいいんだから。…縄張り荒らしじゃないんだし。
「遊んでは貰えないんだね…」
せっかくウグイスが側まで来たって、人間だとバレたら行っちゃうなんて。
「元から喧嘩のつもりだからなあ、仕方ないだろ」
鳴いていたのが本物だったら、顔を合わせた途端に喧嘩だ。そりゃあ物凄い喧嘩らしいぞ。
ウグイスの喧嘩は、足まで使うらしいから…。
足で相手の羽根を掴んで、引っ張って毟っちまうんだ。掴み合いの喧嘩だ、鳥のくせに。
だからウグイスの鳴き真似をしても、喧嘩の相手を呼ぶだけなんだが…。
俺の親父は笛を使うな、とハーレイが教えてくれたこと。鳥寄せのバードホイッスル。
名前の通りに、鳥の鳴き声を真似られる笛。
「一種類だけじゃないんだ、バードホイッスルで真似られる鳥は」
色々な鳥の声を真似られる便利な笛だぞ、本物そっくりの音で鳴るから。
「そんなのがあるの?」
笛を吹くだけで鳥の声になるの、ハーレイがやったウグイスみたいに?
「吹くだけでは無理だな、練習しないと。こういう風に、と鳥の声を真似て」
上手く吹いたら、いろんな鳥を呼べるってな。何通りもの音を鳴らしてやれば。
どういうわけだか、猫まで来るが…。
「猫…?」
それは鳥じゃないよ、笛の音とも似ていないように思うけど…。猫の鳴き声。
生まれたばかりの赤ちゃん猫なら、ちょっぴり似ているかもだけど…。
「鳥は餌だろ、猫の場合は。…捕まえられたら、新鮮な肉が食えるんだ」
多分、そいつが狙いなんだろうな、直ぐ近くに美味い餌がいるぞ、と。
笛の音だか、本物なんだか、猫には分からないんだから。
そうやって猫が来てしまったら、呼び寄せた鳥を食っちまうから…。
おふくろがミーシャを飼ってた頃には、親父は家では吹いていないぞ、バードホイッスル。
今も庭で吹こうと思った時には、猫が来ないか見張っているなあ、あちこち眺めて。
隣町の家で、ハーレイの母が飼っていたミーシャ。甘えん坊の真っ白な猫。
ミーシャが家に住んでいた頃は、ハーレイの父は、釣りに行く時にバードホイッスルを吹いた。釣り糸を垂れて魚を待っている間に、鳥寄せの笛を。
子供時代のハーレイを連れて、キャンプなどに出掛けて行った時にも。
「凄いぞ、親父の鳥寄せの腕は」
家で吹いても、鳥が呼べるほどの腕だから…。自然の中だと沢山来るんだ。
呼び寄せた鳥が虫を食うなら、釣り用の餌を分けてやったりしていたな。「食うか?」ってな。
「…その鳥、どれも野生の鳥だよね…」
笛を吹いたら、餌を食べに来てくれるんだ…。鳥の言葉で呼べるんだね、鳥を。
ハーレイも、バードホイッスル、吹ける?
さっきやってたウグイスみたいに、色々な鳥の真似が出来るの?
「教えては貰ったんだがなあ…。こうやるんだ、と」
残念ながら、親父ほどの腕は無かったな、俺は。笛の練習より、釣りやキャンプが面白いから。
子供というのはそうしたモンだろ、練習するより遊ぶ方が好きで。
「そうかも…。ハーレイが練習しなくったって、お父さんが鳥を集めてくれるんだから…」
自分でやろうとは思わないかもね、練習してまで。…直ぐには上手く吹けないんなら。
今はどうなの、前よりも上手い?
「…今か? 長いこと吹いていないんだが…」
柔道と水泳をやっていたんじゃ、鳥とは殆ど縁が無いしな?
まるで駄目だな、吹くチャンスが無い。たまに親父と釣りに行っても、忘れているし…。
親父も俺と出掛ける時には、鳥を呼ぶより俺と話すのが優先だしな。
せっかく親子で釣りなんだから、と言われれば、そう。バードホイッスルを吹くより、あれこれ話をするのだろう。今は離れて暮らしているから、なおのこと。
鳥の鳴き真似で鳥と話すより、親子の会話。そっちの方が、ずっと楽しくて大切だから。
そうは思っても、気になるのがバードホイッスル。色々な鳥を呼べるという笛。
「えっと…。バードホイッスル、ぼくでも吹ける?」
ハーレイのお父さんみたいに上手くなれるかな、沢山の鳥が来るほどに?
呼んだ小鳥に餌をやったり出来るくらいに…?
「そりゃまあ…。お前だって、ちゃんと練習すれば…」
俺みたいに途中で放り出さなきゃ、充分、上手に吹けるんじゃないか?
楽器の笛とは違うわけだし、人を選びはしないだろう。…楽器の笛だと選ぶそうだが。
名人でないと鳴らない笛とか、いい音が出ないって話もあるから。
「じゃあ、やる!」
バードホイッスルの練習、するよ。色々な鳥の声で鳴らせるようになるように。
うんと頑張って練習したなら、ぼくでも鳥を呼べそうだから。
「おいおい、練習するって…。今か?」
この家の庭で練習するのか、バードホイッスルを買って来て…?
「違うよ、もっと先だってば。…もっと大きくなってから」
前のぼくと同じ背丈になったら、ハーレイとデートに行けるでしょ?
ハーレイのお父さんたちにも会いに行けるよ、隣町の家までドライブをして。…それからの話。
ぼくがハーレイや、ハーレイのお父さんたちと釣りに行くようになってからだよ。
バードホイッスルを上手く吹くには、先生がいないと無理そうだもの。
お父さんに習うのが一番いいと思うから…。名人なんでしょ、バードホイッスルも?
釣りだけじゃなくて、そっちも名人。
「ふむ…。それで親父に教わろうってか、いい考えではあるんだが…」
本当の所は、一番の先生は、親父じゃなくって自然だってな。
吹き方の基本を覚えた後には、自然の鳥を真似るんだ。…自然の中で、耳を澄ませて。
どう鳴いてるのか、自分の耳で聴いて覚えて、その通りに吹けるよう練習する、と。
「面白そう…!」
自分の耳で覚えるんだね、鳥の鳴き声。…ぼくの先生、本物の鳥の声なんだ…。
とっても素敵、と思った先生。バードホイッスルの吹き方は鳥が教えてくれる。本物の鳥が。
上手く鳴らせるようになったら、呼べる鳥たち。山や林や、家の庭でも。
前の自分には出来なかったこと。鳥たちを集めて遊ぶこと。
それが出来そう、と嬉しくなった。前の自分とは比較にならない、不器用すぎるサイオンの持ち主の自分でも。思念波もろくに紡げなくても。
バードホイッスルを吹けば、鳥たちが来るのだから。鳥の言葉で呼べるのだから。
「ねえ、ハーレイ…。バードホイッスルで呼べる鳥たち…」
上手に呼べたら、ぼくと遊んでくれるよね?
餌を欲しがる小鳥だったら、餌を用意して待ってれば。…直ぐに他所には行っちゃわないで。
喧嘩しに来る、ウグイスのオスとは違うんだから。
「手や肩に止まってくれるような鳥が、上手く来るかは分からんが…」
野生なんだし、その時の運次第ってトコか。人間を怖がらない鳥が来たなら、遊べるだろう。
ただし、そういう鳥が来たって、怖がらせちまったら駄目だがな。
急に動くとか、いきなりクシャミをしちまうだとか。
「気を付けるってば、鳥をビックリさせないように」
だから練習してもいいでしょ、バードホイッスル?
いつかハーレイのお父さんに習って、自然の中でも一杯練習。…家の庭でも。
やってみたいよ、と頼んだバードホイッスル。いつか大きくなったら、と。
ハーレイと出掛けられるようになったら、ハーレイの父に手ほどきして貰って。基本を覚えて、自然の中で本物の鳥にも教えて貰って。
「いいでしょ、ハーレイ?」
楽しそうだもの、鳥と遊べるなんて。…前のぼくでも出来なかったことが出来るだなんて。
餌を沢山用意して待つよ、虫を食べる鳥のも、パンや果物を食べる鳥たちの分も。
「かまわんが…。俺の留守に庭で練習するなら、猫に注意だぞ」
さっきも言ったろ、あれを吹いたら猫も来るんだ。御馳走が鳴いているんだから。
お前が気付いて追い払わないと、来ている鳥が狙われる。猫にとっては御馳走だからな、どんな鳥でも、捕まえさえすれば。
「そっか…。ぼく一人だと、猫がいたって気付かないかも…」
ハーレイみたいに勘が鋭くないんだもの。それにシールドも張れないし…。
あっ、シールドが張れたとしたって、それじゃ小鳥も入れない…。猫は来ないけど、来て欲しい小鳥の方だって…。
じゃあ、ハーレイが家にいる時以外は、猫がいない所で練習なの?
猫の姿がチラッと見えたら、直ぐに分かるような広い公園の真ん中とかで…?
「そうなっちまうな、小鳥を猫に食われちまいたくなかったら」
猫がいなくて鳥が沢山いる場所だったら、山や林が一番なんだが…。
お前一人じゃ行けやしないし、俺が連れて行ってやらんとな。休みの時に。
だが、その前に…。お前もウグイス、覚えてみないか?
これなら笛は要らないぞ。この部屋でだって練習出来る。
ついでにウグイスがやって来たって、喧嘩しに来るわけだから…。
間違ったって猫に食われはしないな、そうなる前に「なんだ、人間か」と飛んでっちまって。
「えーっと…。ウグイスだったら安心かも…」
喧嘩するのが目的なんだし、猫の心配、要らないね。
それに、バードホイッスルが無くても練習出来るから…。ウグイスの真似…。
今の季節は鳴かないけれど、と吹こうとしたら、「ホー、ホケキョ」と吹けなかった口笛。音が途中で消えてしまって、ハーレイのようにはいかなかった。
「あれ? ウグイス…」
ホーホケキョ、と吹いてみたいのに、「ヒュッ」と鳴るだけの掠れた音。頑張ってみても。
「お前、口笛、下手だったのか…」
今の感じじゃ、まるで吹けそうにないんだが…?
ウグイスが無理なら、ちょっとした曲も吹けないんじゃないのか、口笛では…?
「そうだけど…。ウグイスくらいなら出来るかな、って…」
曲じゃないから、短いし…。息は続くと思ったんだけど…。
「口笛が駄目だということは…。息だけじゃないな、頬の筋肉が弱いんだ」
そのせいで上手く吹けないわけだな、音が途中で消えちまう。
意外だったなあ…。お前、しょっちゅう膨れているから、頬の筋肉、強そうなんだが。
「頬っぺたが弱いって…。そうなの、ぼく?」
だから口笛が上手じゃないわけ、ウグイスの真似も出来ないの…?
「筋肉の問題だと思うがな?」
いいから、プウッと膨れてみろ。いつもやってる、お得意のヤツ。
「ハーレイのケチ!」って時の顔だな、出来るだろ?
「…ぼくがやったら、笑うんでしょ?」
「笑わないから、やってみろ」
いつも通りに、あの顔を。「ハーレイのケチ!」とは言わなくていいから。
膨れっ面は得意だろうが、と促されたから、注文通りに膨れてみせたら、大きな手でペシャンと潰された頬。褐色の手で、両方を。
「うむ。…実に見事なハコフグだな」
前にも言ったが、こうすると似てる。俺の可愛いハコフグだってな、チビのお前は。
「今、笑った…!」
笑わないって言っていたくせに…!
酷いよ、ハーレイ、笑おうと思って潰したんでしょ、ぼくの頬っぺた…!
「そう怒るな。少しくらいは許してくれ。…本当にハコフグなんだから」
可愛いハコフグだと言っているだろ、愛称ってヤツだ。チビのお前にピッタリの。
この頬っぺたを鍛えてやればだ、口笛が吹けるようになる。ウグイスの真似も、曲だって。
そういや、前のお前も口笛は一度も吹かなかったか…。
少なくとも俺は聞いてはいないな、お前、口笛、吹いていたのか?
「…吹いてないと思う。下手だったのかどうかも知らないよ」
吹こうと思わなかったしね。…どうしてなのかな、口笛、吹いても良さそうなのに。
お気に入りだった曲が吹けたら、楽しい気分になれそうなのに…。
前のぼくも口笛、下手だったのかな?
「さてなあ、そいつも俺は知らんぞ。…前のお前から聞いちゃいないし」
鼻歌はたまに歌っていたのに、口笛は無しか…。まるで気付きもしなかった。
しかしだ、ソルジャー・ブルーに口笛ってヤツは似合わんし…。
吹いていなくて正解だったな、今のお前なら練習してても大丈夫そうだが。
「なに、それ…」
前のぼくだと口笛は駄目で、今のぼくだと大丈夫だなんて、どういう意味?
「なあに、簡単なことだってな。前のお前だと、誰もが注目してたから…」
似合いそうにない口笛を吹いて歩いていたなら、エラが叱りに来たかもしれん。威厳が台無しになってしまうから、口笛は直ぐにやめるように、と。
しかし今だと、お前がチビでなくなったとしても、ただのブルーでしかないだろう?
みんなが注目してないってこった、お前が何をしていたってな。
「それはそうかも…」
ソルジャーじゃないから、威厳なんかは要らないね。何をしてても。
前の自分が吹いていたなら、エラに叱られそうな口笛。ソルジャー・ブルーの威厳を損ねると。
けれども、今の自分は違う。チビの今でも育った後にも、ソルジャーではない、ただのブルー。
今度は口笛も吹いていいから、練習したっていいらしいから…。
ハーレイが得意なウグイスの真似から始めてみようか、口笛を吹く練習を。
(頬っぺたの筋肉、鍛えないと吹けないらしいけど…)
口笛の練習を頑張っていたら、頬の筋肉も強くなるだろう。ウグイスの真似も出来るだろう。
そしていつかは鳥寄せの笛、バードホイッスルにも挑戦しよう。
(…ハーレイのお父さんに教えて貰って…)
基本の吹き方をマスターしたなら、自然の中で積む練習。本物の鳥たちを先生にして。どういう声で鳴いているのか、耳を澄ませて、きちんと聴いて。
「口笛もバードホイッスルも練習するから、小鳥、いっぱい呼べるといいね」
ぼくの手から餌を食べてくれるくらいに、好奇心の強い鳥だって。
頭にも肩にも、小鳥、沢山止まってくれるといいな…。
「鳥なあ…。前のお前も遊びたかったと聞いちまうとな…」
シャングリラには鶏だけしか、いなかったせいもあるんだろうな。
お前が欲しがった青い鳥は船じゃ飼えなかったし、余計に惹かれたんだろう。鳥ってヤツに。
そうでなくても、人類もミュウも気にしちゃいない鳥の世界は、大いに魅力的なんだしな。
前のお前の夢だった鳥を山ほど呼ぶか、とハーレイが言ってくれるから。餌も色々用意しようと頼もしい言葉もくれたから。
いつかハーレイと暮らし始めたら、山で、林で小鳥を呼ぼう。色々な鳥を。
最初は口笛で呼べるウグイス、来ても喧嘩が目的だけれど。
綺麗な鳴き声はオスの縄張り争い、その代わり、猫には攫われない。やって来たって、遊ぼうと思っていないから。縄張りを荒らしたオスのウグイス、それと喧嘩をしに来るのだから。
(…ぼくと喧嘩は出来ないんだから、直ぐに行っちゃう…)
鳴き声の主が人間なのだと分かった途端に、飛んで行ってしまう鳥がウグイス。それでも充分、練習は出来る。猫を気にせず、家の庭でも。
口笛でウグイスを真似るのが無理でも、鳥寄せの笛のバードホイッスル。
練習をすれば、きっと上手に吹けるだろう。何種類もの鳥の鳴き声を、その笛で。
「ハーレイ、ぼくがバードホイッスルを吹けるようになったら…」
青い小鳥も来てくれる?
山や林の中で吹いたら、綺麗な青い鳥だって。
「そうだな、オオルリは難しそうだが…」
青い鳥は他にも色々いるから、上手く真似れば来てくれるだろう。
餌も用意しておかんと駄目だな、青い鳥が喜びそうな餌。
でないとお前に恨まれちまう。せっかく青い鳥が来たのに、餌が無いから行っちまった、と。
青い鳥の餌を調べないと、とハーレイも協力してくれる。いつか鳥たちと遊ぶ時には。
前の自分にも出来なかったこと、鳥たちを呼んで遊ぶこと。
それが出来るのが今の自分だから、ハーレイと二人で楽しもう。「こんなに来たよ」と。
山や林でバードホイッスルを吹いて、沢山の鳥を呼び集めて。
地球は凄いねと、青い鳥もいるよ、と。
アルテメシアよりもずっと沢山と、シャングリラには鶏しかいなかったのに、と。
きっと幸せだろうと思う。鳥に囲まれて遊ぶ自分は。
小鳥たちと同じ世界で遊んで、餌をやったり、眺めたり。
満足するまで一緒に過ごした後にも、帰ってゆく先は地球の上。
鳥のいない船に戻ってゆくことはなくて、地球の地面に建っている家。
ハーレイと暮らす家の庭でも、呼んだら鳥は来るのだから。
猫が狙わないよう気を付けていたら、いつでも鳥たちを呼べるのだから…。
鳥たちの言葉・了
※前のブルーにも出来なかったのが、鳥たちを呼んで遊ぶこと。鳥には思念が通じなくて。
今なら、バードホイッスルで鳥を呼べるのです。いつかハーレイと山や林で、沢山の鳥を…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(たまには、のんびり食ってみるかな)
よし、とハーレイが選んで籠に入れたチーズ。これにしよう、と。
ブルーの家には寄れなかった日に、帰りに出掛けたいつもの食料品店で。けれど、食べたいのはチーズそのものだけではなくて…。
(これと、これに…)
これも美味い、と次々に籠に入れてゆく食料品。忘れちゃならん、とパンを扱うコーナーにも。欠かせないのがバゲットだから。これを忘れたら始まらない。
(ついでがあるなら、パン屋に行ってもいいんだが…)
朝食用のパンは買ってあるから、この店のものでいいだろう。専門店とは違うけれども、パンは此処でも焼いているから。種類が少ないというだけのことで、味は充分、いいものだから。
バゲットを買って、他にも色々。メインはチーズ。
支払いを済ませて、詰めて貰った袋。それを手にして、足取りも軽く駐車場へと。其処で待っていた愛車に乗り込み、鼻歌交じりに家へと向かう。
今夜はチーズフォンデュを食うぞ、と。一人だけれども、ちょっと豪華に。明日も仕事がある日とはいえ、ワインなんかも開けたりして。
食べたくなったら、その時が一番美味しい時。料理も、それに食材だって。
家に帰ったら、もう早速に始めた準備。チーズフォンデュに使える鍋を取り出して。野菜などは切って茹でてやる。バゲットも丁度いい大きさにカット。
そういった具材を見栄えよく盛ってゆく大皿。一人分でも手抜きはしない。豊かな時間を味わうためには、手間を惜しまないことも大切。
(ブルーの家でも食ったんだがな…)
両親も一緒の夕食の席で、「どうぞ」と出て来たチーズフォンデュ。色々な具材が揃っていた。それを端からフォークに刺しては、ブルーと、両親と食べた夕食。それは賑やかだった食卓。
けれども、一人でのんびりやるのも悪くないもの。チーズを溶かして、ワインをお供に。
実際、前はよくやっていた。気ままな一人暮らしならではのことで、思い付いたら、帰りに店で食材を買って。あれもこれもと、目に付いたものを籠へと入れて。
ブルーの家へと通う習慣が出来る前には、何度やったか分からない。食卓には自分一人でも。
(寒い冬場は、特に美味いが…)
今の季節だって美味いんだ、と整えた支度。これでいいな、とチェックして。
ダイニングのテーブル、その上にチーズフォンデュに使う鍋。漂う美味しそうな匂いと、鍋からフワリと立ち昇る湯気。溶かしたチーズと、それを滑らかに伸ばすために入れた白ワイン。
これに合うのは…、と選んだワインを開けて、グラスに注いでやって…。
(美味い!)
用意した甲斐があったってもんだ、とチーズを絡めたバゲットを噛む。最初はバゲット、それでチーズの味を見るのが楽しいもの。もう少し緩めた方がいいのか、これでいいのかと。
今日のチーズの出来は上々、他の具材もフォークに刺しては絡めてゆく。次はこれだ、と思ったものを。野菜も、バゲットも、ソーセージなども。
一人だからこそ、要らない遠慮。何を選ぼうが、どう食べようが。
ブルーの家で御馳走になった時には、気を遣うこともある食事。チーズフォンデュの時だって。次はあれを、という気分のままには食べられない。用意されている量があるのだから。
ブルーの母が「これだけあれば」と大皿に盛っていた具材。それの減り具合で、どれを選ぶか、考えなくてはいけないから。同じものばかりを取っていたなら、他の誰かの分が減るから。
その点、家では気楽なもの。選んだ具材が偏っていようが、余ろうが。
(俺の好きに食えばいいってな)
好きに飲んで、と頬張ってゆくチーズフォンデュ。次はこいつ、とフォークに刺して、とろけたチーズを絡めてやって。
用意した具材が残ったならば、明日に自分が使うだけ。それを使って作れそうなものは何か、と考えて。野菜だったら、そのように。バゲットが余れば、朝食の時につまんでもいい。
こういう食事もいいもんなんだ、とワインのグラスも傾けていたら…。
頭に浮かんだ小さな恋人。今日は一緒に夕食を食べられなかったブルー。
(あいつと二人きりだったなら…)
きっと気を遣いはしないのだろう。料理がチーズフォンデュでも。
ブルーも自分も好きに選んで、フォークに刺してゆく具材。気の向くままに。
残りのバゲットが一つになっても、お互い、遠慮などしない。食の細いブルーが其処までついて来られるかどうかは、ともかくとして。
(最後の一個になっちまった、と思っても…)
俺のだ、と刺すかもしれないフォーク。早い者勝ちだ、と手を伸ばして。
ブルーが「酷い!」と叫んだとしても、悠々と絡めていそうなチーズ。「お前が悪い」と。
食べたかったのなら、もっと早くに動くものだ、とニヤニヤ笑って。
そうは言っても、相手はチビのブルーだから。苛めたら膨れそうだから。
(俺のフォークで刺したヤツでも…)
欲しがるのならば、きっと譲ってやるのだろう。「俺のフォークで刺しちまったが」と、膨れるブルーに渡してやって。「このままでいいか?」と。
もしもブルーがチビでなくても、そうやって譲ることだろう。「早い者勝ちだ」と取ったって。そういうルールで食べていたって、愛おしさの方が先に立つから。
気を遣うのとは違う所で、想ってしまうブルーのこと。「こいつを優先しないとな?」と。
前の生から愛したブルーは、今でも宝物だから。大切にしてやりたいから。
(いつか、あいつと食いたいもんだな)
昔のように、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せる。白いシャングリラで暮らした頃に。
朝食はいつも二人だったし、たまに夜食も食べていた。青の間で二人、サンドイッチなどを。
あんな風にブルーと食べてみたい、と思うけれども…。
(チーズフォンデュは…)
食っていないな、と簡単に分かる。白い鯨でブルーと二人で食べてはいない。
朝食にチーズフォンデュは出ないし、凝った夜食も食べられはしない。二人きりでは、こういう手間のかかる夜食は無理だから。
もっと手軽に食べられるもので、後の片付けも簡単なもの。夜食はいつも、そういったもの。
厨房から何か運ばせるにしても、仕事の後で、前の自分が「これを頼む」と作って貰って、青の間まで運んでゆく方にしても。
それに…。
モノがこれだ、と見詰めるテーブルのフォンデュ鍋。一人分でも、必要な鍋。
チーズフォンデュは、常にチーズを温めていないと駄目な食べ物。鍋が無ければ温められない、柔らかく溶けているチーズ。
冷めてしまえばチーズは固くなってしまって、塊に戻る。それでは具材に絡みはしないし、鍋で温め続けるもの。一人用だろうが、何人もで食べる時であろうが。
テーブルに置いた鍋と熱源、それが欠かせないのがチーズフォンデュで、美味なのだけれど…。
(あの船にチーズフォンデュってヤツは…)
無かったのだった、白いシャングリラには。チーズフォンデュという料理は。
船にチーズはあったけれども、食堂で皆に供するためには向かない料理。一人分ずつ出すには、かかりすぎる手間と鍋などの食器。とてもメニューに入れられはしない。
大勢で囲むパーティー料理にも、あの船の場合は向いてはいない。なにしろ船には、仲間たちが大勢いたのだから。一つの鍋では済みはしないし、やっぱりかかりすぎる手間。
(厨房のヤツらが、てんてこ舞いで…)
懸命になって用意したって、きっと追い付かないだろう。
船の仲間たちの胃袋を充分、満たせるだけのチーズフォンデュを作ること。チーズを溶かして、具材を揃えて、食事の後には幾つものフォンデュ鍋を洗って。
今の自分が考えてみても、「無理だ」と即答出来ること。とても作れるわけがない、と。
厨房出身のキャプテンでなくても、チーズフォンデュは無かったと分かるシャングリラ。いくらチーズがあったと言っても、皆の分を作れはしないから。
(前の俺は、食っていないんだよな…)
こういう洒落たチーズ料理は、とフォークで口に運んだバゲット。熱いチーズと中のバゲット、それが奏でるハーモニー。ただのチーズとバゲットだけでは出せない味わい。
今ならではだ、とモグモグと噛んでいたのだけれど。次の具材はどれにしようかと、フォークを握って皿の上を眺めていたのだけれど…。
(待てよ?)
チーズフォンデュ、と聞いた気がする。この料理の名を、遠い昔に。
前の自分が生きていた船で、今はもう無いシャングリラで。
(…チーズフォンデュだと?)
存在した筈が無い料理。あの船では皆に出せない料理。
けれども、確かに「チーズフォンデュ」と耳にした記憶。それも料理の名前として。
(誰だ…?)
チーズフォンデュの名を口にした仲間。誰が自分に言ったのだろう?
船には無かった料理なのだし、ヒルマンだろうか、それともエラか。博識だったあの二人なら、調べて知っていそうではある。
チーズがあったら、こういう料理が作れると。…自分では食べたことが無くても。
いったい何処で聞いたのだろう、と首を捻ったチーズフォンデュという料理。シャングリラでは無理だと分かる料理は、何処から出て来たのだろう、と。
(あそこじゃ作れもしない料理を…)
持ち出したのは誰なのか。どうしてそういう話になるのか、チーズフォンデュは作れないのに。食堂のメニューを決める会議があったとしたって、議題にするだけ無駄なのに。
(…会議?)
それだ、と戻って来た記憶。あれは会議で聞いたのだった、と。
シャングリラを白い鯨に改造した後、開かれた何かの会議の席。長老の四人と、前のブルーと、前の自分の六人が集まるのが常だった。
自給自足の生活が軌道に乗って、乳製品が順調に出来ていた頃。ブルーとも、とうに恋人同士になっていたから、白い鯨は平穏な日々を送っていたのだろう。アルテメシアの雲海の中で。
その日の議題を検討した後も、そのまま残って続いた会話。昔馴染みの六人だから。あれこれと話をしている内に…。
「チーズは充分あるのだがね」と言ったヒルマン。切っ掛けが何かは覚えていない。農場の話を交わしていたのか、それとも食べ物の話題だったか。
どちらにしても、ヒルマンの言葉だけを聞いたら、チーズに関する何かが気がかりらしいから。
「チーズだと?」
何か問題でもあるのだろうか、と尋ねた自分。たとえ些細なことにしたって、キャプテンとして聞いておかねばならない。
チーズは充分あるというのに、何か起こっているのなら。満足のいく品質になっていないとか、味にバラつきがあるだとか。
そういうことなら、手を打つようにと促すのもまた、キャプテンの仕事。チーズ作りの責任者を呼んで、「なんとか出来ないものだろうか」と。
これはキャプテンの出番だろうな、とヒルマンの答えを待ったのに。それ次第では、ブリッジに真っ直ぐ戻る代わりに、乳製品の製造場所へ出向いて行かなければ、と考えたのに。
「そういうことではなくてだね…。チーズ自体には、何の問題も無いのだが…」
このシャングリラでは、出来ない料理もあるという話なんだよ、チーズがあっても。
チーズは充分、足りているとは思うんだがねえ…。
残念だよ、とヒルマンが髭を引っ張るものだから。
「なんだって…?」
シャングリラでは作れないチーズ料理があるのか、その言い方だと…?
確かめなければ、と思ったヒルマンの言葉。チーズはあっても、出来ない料理があるのなら。
せっかく作ったミュウの箱舟、改造を済ませたシャングリラ。
自給自足で生きてゆく日々は順調なのだし、不自由があるなら改善するのも必要なこと。材料のチーズが足りていたって、作れない料理があってはならない。
元は厨房の出身だけに、調理方法の問題だろうか、と考えた。相手はチーズ料理だから。
今の厨房では無理だと言うなら、改装を検討すべきだろう。それを作れるだけの設備を備えた、使い勝手のいい厨房に。もっと広さが要るのだったら、拡張だって。
白い鯨は進化してこそ、より良い船に出来るのだから。
現状に不満を抱いているより、解決して先へ進んでこそ。
それが自分の信条だったし、厨房の改装などは次の会議の議題だろうな、と思ったほど。
此処で話題になった以上は、きちんと対処しなくては、と。
そうしたら…。
「作れないことはないのだがね」と、ヒルマンが軽く広げた両手。今の厨房でも充分だ、と。
「調理方法としては可能なのだよ、問題は無いと言ってもいい」
チーズと同じだ、厨房の方にも問題は何も無いのだが…。今すぐにで作れそうだが…。
問題があるのは料理の方だね、食堂で出すには不向きなのだよ。
不味いとは思えないのだが…。むしろ、歓迎されそうだとも思うのだがねえ…。
しかし無理だ、とヒルマンは最初から諦めているようだから。試しもしないで、無理だと決めてかかっているから、余計に気になったチーズの料理。それはいったい何なのだろう、と。
だからヒルマンにぶつけた疑問。真正面から。
「何なのだ、それは?」
歓迎されそうだと思っているなら、どうして試してみないんだ。厨房の者に訊いてみるとか…。
何もしないで諦めるというのは、この船らしくないと思うが…?
どういう料理が無理だと言うんだ、チーズを使った料理と言っても色々だろうが…。
「チーズフォンデュだよ、知っているかね?」
料理の本とは違う本でも、割によく見る名前だがね。
「あれか…。本で見掛けたことならあるな」
作り方も、と名前だけでピンと来た料理。鍋で溶かしてやったチーズに、野菜やバゲットなどの具材を絡めて食べるもの。
美味しそうだ、と読んだのだった。レシピも、添えてあった写真も、鮮明に記憶に残っている。
チーズを船で作れる今なら、あの料理だって作れるだろう。
ただ…。
なるほどな、と頷かざるを得なかった。チーズフォンデュの材料はあるし、チーズを溶かすのも厨房で出来る。けれど其処まで、食堂で皆が揃って食べるには不向き。
「…この船の皆で、鍋を囲むわけにはいかないか…。専用の鍋が幾つ要るやら…」
それに食事の時間の方も、それぞれの持ち場で違うものだし…。
時間に遅れた、と駆け込んで行ったら、食べるものがろくに残っていない恐れも出て来るな…。
「そうなのです。一人用に作ることも出来るようなのですが…」
全員の分の鍋を用意する手間や、片付けなどを思うと非効率的です、と応じたエラ。
「残念ですが、チーズフォンデュは諦めざるを得ないでしょう」と。
美味しそうな料理なのですが…、とエラも言うから、ゼルとブラウも興味を示した。今の船では出来ないらしいチーズフォンデュとは、どんな料理かと。
前のブルーも黙って聞いてはいたのだけれども、瞳を見れば直ぐに分かった。「無理だ」という答えを知ったがゆえの沈黙なのだ、と。関心が無いわけではないと。
ヒルマンとエラが、ゼルとブラウに訊かれるままに語った料理。チーズフォンデュの作り方。
熱を加えれば、とろけるタイプのチーズを使う料理だと。
それをすりおろすか、細かく刻んで、専用の鍋に入れてやる。熱しながら溶かして、白ワインで伸ばして、具材に絡めるのに似合いの濃度に。
そうやって出来たチーズを絡めて、食べやすいサイズに切られた具材を食べるもの。バゲットや茹でた野菜などを。
鍋のチーズが濃くなりすぎたら、白ワインを足して緩めてやって。
チーズフォンデュはこういうものだ、と説明されたゼルとブラウが漏らした溜息。残念だ、と。
「もったいないねえ、材料は揃っているのにさ」
とろけるチーズは山ほどあるだろ、グラタンとかに使っているんだから。
あれを溶かせば出来ると分かっているのにねえ…、とブラウが嘆けば、ゼルだって。
「まったくじゃて。それに具材もあるのにのう…」
バゲットも、野菜やソーセージもじゃ。どれも、この船で手に入るんじゃが…。
そうじゃ、ワシらだけで食うのはどうじゃ?
会議で集まっている時じゃったら、たまに食事もするんじゃし…。
この部屋で食えば良かろうが、と言い出したゼル。六人分なら手間も材料も、それほどの負担はかからない。厨房の者に頼んで用意をさせるとしても。
「ちょいとお待ちよ、船の仲間に、それで示しがつくのかい?」
あたしだって食べたいと思うけれどさ…。あたしたちだけで食べるなんて、とブラウは反対。
ヒルマンとエラも反対したから、ゼルは新たな意見を述べた。諦め切れずに。
「なら、ソルジャーのための特別料理というのは無理かのう?」
会議の時の食事なんじゃが、ソルジャー用なら誰も文句は言わんじゃろう。
特別な料理が用意されることは、実際、たまにあるんじゃからな。
「それだと食事会になっちまうじゃないか、招待状が無いってだけでさ」
ソルジャー主催の食事会だろ、特別な料理が出るってヤツは。
でもねえ…。誰がそいつを食べていたのか、厨房の連中には分かっちまうよ?
あたしたちだけで食べたってことが。…食事会とは違うことがね。
さっきの意見とどう違うのさ、と指摘したブラウ。「それはマズイよ」と。
「やはり駄目かのう…」
ソルジャー用の特別料理と言うんじゃったら、チーズフォンデュも通りそうじゃが…。
ワシらだけで食うのはマズイじゃろうなあ、皆に示しがつかんからのう…。
美味そうな料理なんじゃがな、とゼルは残念そうだった。六人だけで食べるというのは、やはり後ろめたいものがあるから。諦めざるを得ない料理が、チーズフォンデュというものだから。
「酒のつまみにチーズがあるだけマシとするか」というゼルの言葉で終わった会議。
チーズは色々役立っているし、贅沢を言っては駄目じゃろうな、と。
その夜、青の間に出掛けて行ったら、待っていたブルーに尋ねられた。キャプテンとしての報告などを済ませた後で、「今日の会議のことだけれど…」と。
「会議が済んだら、チーズフォンデュが話題になっていただろう?」
君も知っていたようだけど…。あれは本当に、作るのが難しいのかい?
チーズを溶かす鍋が沢山要るというのは、ぼくにも分かったんだけど…。美味しそうなんだし、船でなんとか出来ないのかな、と思ってね。
「そうですね…。会議の時にもヒルマンたちが言っていましたが…」
色々と手間がかかりそうです、チーズフォンデュという料理は。
もっと人数の少ない船なら、皆で食べても、厨房の者たちの負担は軽いのですが…。
なにしろ大人数の船です、現状では無理がありすぎます。…材料だけでは作れませんよ。
皆には諦めて貰うしか…、と昼間の会議の結論と同じことをブルーに言ったのだけれど。
「それなら、いつか地球に着いたら食べようか」
この船では無理な料理だったら、いつか地球でね。
「地球ですか?」
チーズフォンデュをお召し上がりになりたいのですか、地球に着いたら?
「いい考えだと思うけれどね?」
地球だったら、きっと美味しいチーズもあるよ。地球で育った牛のミルクで作ったチーズが。
「そうなのでしょうね、地球ですから…」
この船で作るチーズなどより、ずっと美味しいことでしょう。
せっかくのチーズフォンデュなのです、いつか本物の地球のチーズで食べてみましょうか。
時間もたっぷりあるでしょうから、鍋でゆっくりチーズを溶かして。
「地球なら、きっと店もあるよね」
チーズフォンデュが食べられる店が。…其処へ行ったら、誰にも迷惑はかからないよ?
厨房の仲間たちにもね。
「店ですか…。確かに地球なら、そういう店もありそうですね」
それでは、いつか地球まで辿り着いたら、二人で行くとしましょうか。
本物の地球のチーズを使った、美味しいチーズフォンデュを食べに。
地球に着いたら、と前のブルーと交わした約束。シャングリラが地球に着いたなら、と。
白いシャングリラが地球に着くには、人類と和解せねばならない。けれども、それさえ済ませてしまえば、ソルジャーもキャプテンも要らなくなる。ミュウは追われはしないのだから。
ソルジャーでもキャプテンでもなくなった後は、ブルーとはただの恋人同士。
隠し続けた仲を明かして、何処へでも二人で出掛けてゆける。ブルーが焦がれた地球の上で。
青い地球まで辿り着いたら、ブルーと一緒にやろうと夢見ていたことの一つ。
シャングリラでは作ることが出来ない、チーズフォンデュを食べに出掛けてゆくこと。
(…あれっきりになっちまったんだ…)
前のブルーも「美味しそうだ」と思ったらしいチーズの料理。本当に船では無理なのか、と。
あれから後にも、白い鯨でチーズフォンデュは作られないまま。材料になるチーズはあっても、食堂で皆に出せる料理ではなかったから。大人数の船の食堂向きではなかったから。
そしてブルーは逝ってしまった。たった一人で、メギドを沈めて。
(…この味なんだな…)
前の俺もブルーも知らなかった、と眺めた目の前のフォンデュ鍋。温かくとろけているチーズ。一人で美味しく食べていたけれど、前の自分たちは知らなかった味。
材料は船に揃っていたのに、食べ損ねたままになっちまった、とチーズを絡めてやるバゲット。今の自分も、今のブルーも知っている。チーズフォンデュはどんな料理か、どんな味かを。
(あいつと二人で…)
小さなブルーと二人きりで食べてみたいけれども、実現は難しいだろう。
ブルーの家では、チーズフォンデュは夕食用の料理だから。両親も一緒に鍋を囲んで、賑やかに食べるものだから。
(しかし、こうして思い出したし…)
今度ブルーの家に行ったら、小さなブルーに話してみようか。「覚えてるか?」と。
それまで自分が覚えていたら。
前のブルーと交わした約束、地球で食べようと夢見たチーズフォンデュのことを。
運良く次の日、早く終わった学校での仕事。チーズフォンデュも、まだ忘れてはいなかった。
丁度いいから、ブルーの家に出掛けて行って、テーブルを挟んで座る恋人にぶつけた質問。
「チーズフォンデュを覚えているか?」
「この前、ハーレイと食べたよね。パパとママも一緒だったけど」
美味しかったよ、あのチーズフォンデュがどうかしたの?
「そうじゃなくてだ…。今の俺たちの話じゃない」
前の俺たちだ、覚えていないか?
「えっ?」
チーズフォンデュって、何のことなの?
そんなの、シャングリラで食べていないと思うけど…。それとも、あった?
「お前の記憶で合っている。…あの船じゃ無理な料理だったな、チーズフォンデュは」
材料は船に揃ってたんだが、船の人数が多すぎた。全員に出せるチーズフォンデュは作れない。
だから、お互い、知ってはいたって、食い損なった料理だってな。
ヒルマンが持ち出した話だったが、最初から「無理だ」ってことだったから。
それでだ、前のお前と約束をして…。例のヤツだな、地球に着いたら、と。
「思い出した…!」
そうだったっけ、いつかハーレイと地球に着いたら…。
シャングリラで地球まで辿り着いたら、チーズフォンデュを食べに行こうって…。
本物の地球のチーズで作った、うんと美味しいチーズフォンデュがあるだろうから。
船の仲間に迷惑をかけてしまわないように、お店に出掛けて食べようね、って…。
忘れちゃってた、と丸くなっているブルーの瞳。
せっかく二人で地球に来たのに、ハーレイと食べたのに忘れていたよ、と。
「…パパとママも一緒だったけど…。本物の地球のチーズフォンデュ…」
食べていたのに、すっかり忘れていたなんて…。
どうしよう、ハーレイと食べたくなって来ちゃった…。今度は二人でチーズフォンデュを。
「俺もなんだが、我儘は言えん」
昨夜、一人で食ってて思い出したんだが…。こいつだった、と。
だがなあ、お前の家だと、チーズフォンデュは夕食の時に出るモンだしな?
「そうだけど…。頼んでみようよ、チーズフォンデュを」
「はあ? 頼むって…」
誰にだ、お前、どうする気だ?
「決まってるじゃない、ママに頼むんだよ」
晩御飯の時に頼んでみるよ。今度、ハーレイと食べたいから、って。
「おい、お前…!」
我儘が過ぎるぞ、俺と二人で食うってか?
お母さんに用意をさせるつもりか、昼飯用にチーズフォンデュを…?
無茶を言うな、と止めたのに。「そいつはチビの我儘だぞ」と軽く叱っておいたのに。
両親も一緒の夕食の席で、小さなブルーはこう持ち出した。
恋人同士だったという話は隠して、「シャングリラで食べ損なった料理がね…」と。
「本当なんだよ、ぼくもハーレイも、食べ損ねたままになっちゃった…」
料理の名前は知っていたのに、シャングリラでは作れなかったから…。
「あら、なあに?」
材料が足りなかったのかしら、と首を傾げたブルーの母。「何のお料理?」と。
「チーズフォンデュ…。材料は船にあったんだけど…」
手間がかかりすぎて、みんなの分はとても作れないから…。お鍋も沢山要りそうでしょ?
ヒルマンたちと会議をしてたら、そういう話になっちゃって…。無理だよね、って。
だけど、とっても美味しそうだし、前のハーレイと食べる約束をしていたんだよ。
いつかシャングリラが地球に着いたら、本物の地球のチーズで作ったのを食べようね、って。
船の仲間に迷惑をかけちゃ駄目だし、お店に行って。
「ほほう…。そいつを思い出したんだな?」
お前もハーレイ先生も、とブルーの父が投げ掛けた問い。「うん」と頷く小さなブルー。
「チーズフォンデュ、ハーレイと食べてみたいのに…」
うちだと晩御飯の時に出て来るから…。ハーレイと二人は無理みたい…。
「なるほどなあ…。前のお前とハーレイ先生の夢だったんだな、チーズフォンデュが」
どうだろう、ママ。今度の土曜日のお昼御飯に、チーズフォンデュをお出しするのは?
「そうね、お昼ならハーレイ先生とブルーだけだし…」
ブルーと食べて頂きましょうよ。ハーレイ先生とブルーの約束のお料理、ブルーの部屋で。
「いいの、ママ?」
本当にいいの、チーズフォンデュを作ってくれるの?
「もちろんよ。お店の味にも負けないのをね」
楽しみに待っていなさいな。今度の土曜日、お昼御飯はチーズフォンデュよ。
ブルーのお部屋に運んであげるわ、という声で決まった、土曜日の昼食。チーズフォンデュを、二階のブルーの部屋で二人で。
その部屋で食後のお茶を飲みながら、呆れ顔で見詰めてしまった恋人。「大した策士だ」と。
「ああいう風に持って行くとはなあ…。食べ損なった、と来たもんだ」
俺とお前と、二人揃って、シャングリラで。
おまけに、いつか地球で食おうと約束してたと言われたら…。
お父さんたちだって、用意しようと思うよな。この家で作れる料理だったら。
「ぼく、上手いでしょ?」
ずっとパパたちと暮らしているもの、おねだり、とっても上手なんだよ。
どういう風にお願いするのが一番いいのか、考えるのだって得意なんだから。
小さい頃から、一杯、お願いしてたしね?
駄目な時は「駄目」って言われちゃうけど、前のぼくたちの約束だったら大丈夫。
だから土曜日はチーズフォンデュだよ、本物の地球のチーズをたっぷり使って。
「うーむ…。俺はお前に感謝しないと駄目なんだろうな」
こんな形で実現するとは思わなかった。
昨夜、一人で食ってた時には、お前と一緒に食えるチャンスは当分無いと…。
ずっと先だと思っていたのに、そうか、今度の土曜日なんだな、俺たちの約束が叶うのは。
何でも言ってみるもんだな、と感心させられたブルーの機転。チビでも、中身はブルーだと。
もっとも、ブルーが子供だからこそ、ブルーの両親は息子に甘いのだけれど。
それでも凄い、と思う間に、やって来た週末。約束の土曜日。
いつものようにブルーの家を訪ねて行ったら、昼食に出て来たチーズフォンデュ。ブルーの母が支度を整えてくれて、二人で過ごす部屋のテーブルに。
「ね、ハーレイ。約束の地球のチーズフォンデュだよ?」
食べようよ、お店じゃないけれど…。ぼくの部屋だけど、それだって素敵。
そんなの、思っていなかったもの。地球の上に、ぼくのための部屋があるなんて。
「まったくだ。…それに約束、叶っちまったな、凄い速さで」
お前のお蔭で、アッと言う間に。…こいつが地球のチーズフォンデュか、本物のな。
「そうだよ、二人で地球まで来られたんだから、食べなくちゃ」
どれにしようかな、一番最初は…。バゲットかな?
「お前の好きに選んでいいぞ。ドッサリ用意をして貰ったしな、こいつの具材」
俺も遠慮しないで食っていくから、お前も好きなの、端から選べよ?
「好き嫌いは無いから、どれも好きだよ。チーズだって、とても美味しいし…」
ホントに本物の地球のチーズで、ハーレイと一緒に食べられるんだし、最高の気分。
でもね…。約束していた頃と違って、ぼくは子供になっちゃったから…。
ハーレイとお店に出掛ける代わりに、此処で食べるしかないみたい…。
「まあなあ…。今は一緒に食うってことしか出来ないよな」
お前をデートに連れても行けんし、こうして二人で食ってるだけか…。チーズフォンデュも。
「でしょ? だから、いつかはハーレイが作ったのを食べたいよ」
ママじゃなくって、ハーレイの。…この前、一人で作っていたのを二人分で。
「そのくらい、お安い御用だってな。それに、食べにも出掛けないと…」
「チーズフォンデュが食べられるお店?」
「ただの店じゃないぞ、こいつの本場に行こうじゃないか」
スイスの辺りになるんだろうなあ、昔のスイスとは違うわけだが…。今でも気候はそっくりだ。
美味いチーズが沢山出来るし、チーズフォンデュも美味いらしいぞ。
「凄くいいかも…」
絶対行こうね、其処のお店も。…いつかハーレイと結婚したら。
うんと楽しみにしているからね、と笑顔のブルー。
フォークを手にした、今日の昼食のチーズフォンデュの立役者。「えっと、次は…」と、具材も気になるらしい恋人、どれを食べようか迷っているのが可愛らしい。
バゲットか野菜か、ソーセージか。野菜も幾つも盛られているから、どれにしようかと。
いつかブルーが前と同じに育った時には、今度こそ本当に二人きり。
ブルーと暮らす家で腕を奮おう、とびきり美味しいチーズフォンデュを食べるために。
美味しいと評判のチーズを買って来て、すりおろして。上等の白ワインを惜しみなく使って。
(こいつはアルコールが飛んじまうから、ブルーも平気で食べられるしな?)
現に今でも酔っ払っていない、小さなブルー。「美味しいね」と、せっせと食べているのに。
この愛おしい人と一緒に暮らし始めたら、「地球で食べにゆく」という約束も叶えてやろう。
白いシャングリラには無かった料理を、チーズフォンデュを、ブルーと二人で食べにゆく。
本場に出掛けて、洒落たシャレーに泊まったりして、綺麗な景色を満喫して。
チーズフォンデュを食べた後には、お土産にチーズも買って帰って、家でも楽しむ。
旅の思い出をブルーと一緒に、本場のチーズをすりおろしながら、語り合って。
「この味だよな」と、「チーズフォンデュはこうでなくちゃな」と。
今度は二人で、地球の上で旅が出来るから。旅の後には、二人で帰れる家もあるから。
前の自分たちが夢に見た地球、その上で二人、幸せに生きてゆけるのだから…。
チーズの料理・了
※シャングリラでは無理だった、チーズフォンデュ。いつか地球で、と夢見た料理の一つ。
ブルーのおねだりで、ハーレイと食べることが叶った休日。結婚したらハーレイが作る約束。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あっ…!)
ブルーが思わず目を瞑った突風。いきなり吹き抜けていった風。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中で。何の前触れもなく、身体の周りを凄い速さで。
ザアッと響いた、木々の葉っぱが風に靡く音。揃って同じ方向へ。耳の直ぐ側を通った風と、風の音。一瞬の内に。
顔に、身体に吹き付けた風は、アッと言う間に去ってしまったようだから…。
(ビックリした…)
行っちゃったかな、と開いた瞳。パチクリと何度か繰り返した瞬き。もう平気かな、と。
いつもより風があるとは思ったけれども、予想もしていなかった突風。空を見上げたら、真っ青なのに。天気が変わるわけでもないのに。
雲の流れは少し速いだろうか、空の上だと風はもっと強くて速いものだから。前の自分が飛んでいた空、アルテメシアの空の上でもそうだったから。
晴れていたって、こういう急な風が吹く日も、たまにある。風は気まぐれだし、青い地球だって気分は色々。突風で人を驚かせるとか、突然に雨を降らせるだとか。
(埃、目に入らなくって良かった…)
風が巻き上げる、とても細かな埃や砂。目を瞑るのが少し遅れていたなら、入ったかもしれない小さな異物。目玉を苛める、青い地球の欠片。
地球は丸ごと好きだけれども、目の中にまでは欲しくない欠片。痛いし、それに涙だって出る。涙で上手く流れなかったら、痛いだけでは済まなくて…。
ぼくの目、真っ赤になっちゃうんだから、と竦めた肩。目の中に入った地球の欠片は、コロコロ転がって目を赤くする。白い部分に細い血管を浮き上がらせて。
ただでも赤い瞳なのだし、白目まで赤くなってしまってはたまらない。
(見た人、みんなビックリだよ)
丸ごと赤い瞳なんて、とパチパチ瞬きをしておいた。念のために、と。
瞬きをすれば、もしも埃が入っていたって、早い間に流れて何処かへ行くだろうから。
もう突風は大丈夫かな、と歩き始めた家までの道。風はやっぱり普段より強い。さっきのような風には気を付けなくちゃ、と思いながらもキョロキョロしながら歩いていたら…。
(お花…)
ふと目に留まった、道端の家。生垣の向こう、花壇に幾つも咲いている花。種類は様々、それに色だって。今の季節に咲く花たちを揃えて植えてある花壇。
綺麗だよね、と眺めたけれども、その花たち。柔らかそうな花びらなのに、どの花も吹いている風に揺れているものだから…。
(破れちゃわない?)
薄い花びら、と心配になった。茎ごと揺れる花と花びら、どれも繊細そうだから。手で触ったら傷みそうなほどで、まるで蝶たちの翅のよう。
もしも突風に襲われたならば、裂けて破れてしまいそう。まだ破れてはいないけれども、次のが来たら無事に済むとは思えない。
(…もう吹かないといいんだけれど…)
あんな風は、と見守る間に、聞こえたゴオッという響き。顔を上げたら、庭の向こうから木々を揺らして吹いて来る風。花たちに襲い掛かるかのように。
(破れちゃう…!)
お花、と思わず目を瞑りそうになったのだけれど。
風が花壇を抜けてゆくから、「もう駄目だ」と心で悲鳴を上げたのだけれど。
(あれ…?)
なんともないよ、と見詰めた花壇。乱暴な風が行ってしまった後で。
風と一緒に靡いた花たち、折れてしまいそうに見えた細い茎。風が過ぎたら元に戻った。風など吹きもしなかったように、シャンと真っ直ぐ。
それに破れていない花びら。薄くて風で裂けそうなのに、どの花もまるで傷んではいない。茎も一つも折れていなくて、怪我をしていない花壇の花たち。
(…弱そうなのに…)
ほんの少しの風で破れてしまいそうなのに、頑丈だった幾つもの花。風に襲われても、どの花も元気に咲いているから…。
なんだか凄い、と感心した。ぼくよりもずっと強いみたい、と。
風が巻き上げた地球の欠片が目に入ったら、大変なのが自分だから。白目は真っ赤で、目だって痛くて涙がポロポロ零れるのだから。
そんな自分より、花たちの方がよっぽど強い。見た目はとても弱そうなのに。
これならばきっと、もっと強い風が吹いてきたって、花びらが破れはしないのだろう。花びらを支える茎も傷んでしまいはしなくて、今みたいに元に戻るのだろう。
頼りなく見えても、丈夫な花たち。花びらも茎も、チビの自分より、ずっと頑丈らしいから…。
(これからも、元気で頑張ってね?)
風に負けずに綺麗に咲いてね、と生垣越しに手を振った。
見かけと違って、強くて丈夫な花たちに。思いがけない逞しさを見せた花びらや茎に。
家に帰って、制服を脱いで、おやつの時間。一階のダイニングに下りて行って。
おやつのケーキと紅茶が置かれたテーブルの上には、母が生けた花。庭で咲いた花たちに、緑の葉たちを幾つか添えて。さっきの花壇で見掛けた花も混じっているから…。
(この花も、うんと頑丈だよね?)
それに他のも、此処には無い庭の花たちも。強い風でも破れない花びら、折れない茎。
きっと元から丈夫な花たち、そんな気がする。花たちの種類のせいではなくて。同じ種類でも、弱い花なら、種の間に駄目になるのだろう。
蒔いてやっても、芽を出さないとか。芽が出たとしても、育たないとか。
(…自然の中だと、勝手に駄目になっちゃうし…)
花壇の花なら、手入れする人が「これは弱いから」と抜いたりもする。混み合っていたら、他の花たちの邪魔になるから。弱い花のせいで、強い花まで駄目になるから。
そういった風に丈夫な株が残って、雨や風にも鍛えられて…。
(グンと丈夫になるんだよね?)
ひ弱そうに見えても、風で破れない強い花びらを持つ花に。倒れない茎を持っている花に。
だから突風でも大丈夫。頑丈に育った花たちなのだし、そう簡単には負けないから。
それを思うと、人間だって同じだろう。持って生まれた身体の他にも…。
(日頃のトレーニングが大切…)
きっとそうだよ、と頬張ったケーキ。人間だって花と同じ、と。
ハーレイを見ていれば良く分かる。前のハーレイは「身体がなまっちまうしな?」と言っては、せっせと走っていた。まだシャングリラの名前も無かった頃から、船の中を。
今のハーレイも子供の頃から鍛えているから、前よりも遥かに強い身体を持っている。プロ級の腕を誇る柔道と水泳が、その証拠。鍛えたからこそ、プロの選手にも負けない身体。
それに比べてチビの自分は、今度も前と同じに弱い。ほんの少しの運動でさえも、身体が悲鳴を上げるくらいに。体育の授業は見学の方が多いくらいに。
(ぼくだって、ちゃんと運動したなら、今より丈夫になれそうだけど…)
そういう気持ちがしてくるけれども、何回となくそれで失敗したから、もう懲りた。ハーレイのようには強くなれない。今になってから頑張ってみても、身体を壊してしまうだけ。
弱い身体は、丈夫な友人たちの動きについていけないから。加減を掴めもしないから。
もっと小さな頃から鍛えておいたなら、と思うけれども…。
(そうしていたなら、今よりマシかも…)
日々の積み重ねだもんね、と風にも負けない花たちを思う。種の頃から頑張った結果、と。
だから自分も幼い頃から頑張っていれば、丈夫になっていたかもしれない。今よりも、ずっと。
けれど、手遅れ。
鍛えようとしないで大きくなったら、弱い自分が出来上がったから。
基礎になる身体が全く出来ていないのに、運動しようという方が無理。…今頃になって。
仕方ないよね、と溜息をついて戻った部屋。座った勉強机の前。
頬杖をついて、花たちのことを考える。あんなに強い風が吹いても、破れなかった薄い花びら。元が丈夫に出来ているから、傷つきさえもしなかった。花びらも、茎も。
花たちの強さは、種の頃から培ったもの。芽が出た時には弱かった株が強く育つことも、自然の中ならありそうなこと。「これは弱い」と、他の株のために人間が抜いてしまわなければ。
(…勝手に生えて来たんだったら、混んでない場所もあるだろうしね…)
運良くそういう場所に生えたら、弱い株でも頑張り次第。雨や風に負けずに力をつければ、強い株にもなれるだろう。頑丈な茎をシャンと伸ばして、繊細そうでも丈夫な花を咲かせて。
(花だって、強くなれるのに…)
今の自分は丈夫な身体になれそうもないし、あの花たちのようにはいかない。弱く育ったから、風が吹いたら破れてしまう花びらの花。折れて倒れてしまう茎。
ぼくはホントに弱い花だ、と零れる溜息。見た目通りに弱くて駄目、と。
何処から見たって、丈夫そうには見えない自分。細っこくてチビで、おまけにアルビノ。色素を持たない真っ白な肌は、弱そうな印象を強くするだけ。
(おんなじように弱く見えても…)
本当は丈夫な花だったならば、きっと素敵に生きられたのに。
今よりもグンと大きく広がる可能性。自分が丈夫に育っていたなら、強い身体を作っていたら。
小さい頃から鍛えて丈夫だったなら、と描いた夢。同じチビでも違う筈だよ、と。
もしも鍛えた身体だったら、一番最初にやりたいことは…。
(柔道部に入って…)
ハーレイと一緒に過ごせる時間を増やすこと。柔道部に入れば、ハーレイが教えてくれるから。
柔道の経験が全く無くても、入れるクラブが柔道部。今の学校から始めた生徒も多い柔道。
(…ハーレイと出会ってからだって…)
きっと入部は出来る筈。五月三日に再会したから、時期としてはまだ早い方。直ぐに「入る」と言ったなら。入部手続きを頼んだならば。
(初めて柔道をやる生徒とだったら…)
一ヶ月も差は開いていないし、充分についていけるだろう。後から入った自分でも。
柔道部に入れば、ハーレイと一緒に朝から練習。走り込みとか、体育館での練習だとか。授業が終わって放課後になれば、本格的な練習の時間。ハーレイの指導で汗を流して。
それが済んだら、ハーレイの車に乗せて貰って家まで帰る。同じ時間までクラブなのだし、後に会議などの仕事が無い日だったら、ハーレイは家に来てくれるのだから。
(今だと、ぼくは家で待つしかないけれど…)
柔道部員になっていたなら、ハーレイと一緒の帰り道。車の助手席にチョコンと座って、家まで二人で話しながら。
家に着いても、ガレージから二階の自分の部屋までハーレイと一緒。
母が門扉を開ける代わりに、「ちょっと待ってね」と自分が開けて。「入って」と、ハーレイを庭に招き入れて。
「ただいま」と家に入って行ったら、ハーレイも後から入ってくる。二人一緒に階段を上って、部屋に入る時もハーレイと二人。
(…制服を着替えてる間だけ…)
外に出て貰うことになるのか、気にせずにエイッと着替えるか。それはハーレイ次第だろう。
「俺は出ていた方がいいよな」と行ってしまうか、「早くしろよ?」と椅子に座っているか。
(…そのまま部屋にいるかもね?)
柔道部の練習は柔道着。それに着替えるなら、ハーレイも同じ更衣室かもしれないから。
いつも着替えを見ているのならば、いくら恋人同士でも…。
気にしないよね、と浮かんだ笑み。チビが着替えているだけなのだし、問題無し、と。
ホントに素敵、と夢は広がる。ハーレイと一緒にクラブ活動、家に帰る時は乗せて貰える車。
今の自分には出来ないことが、簡単に出来る柔道部。…入ることさえ出来たなら。
(お昼御飯も…)
柔道部員たちがやっているように、たまには食堂でハーレイを囲んで昼御飯。ワイワイ賑やかな彼らの姿を、いつも羨ましく見ているけれど…。
(ぼくだって、あれの仲間入り…)
大盛りランチをペロリと平らげ、放課後の部活に備えるのだろう。前に食堂で頼んだけれども、自分には多すぎた大盛りランチ。…ハーレイに食べて貰ったランチ。
けれど柔道部にいる自分だったら、きっと綺麗に食べられる。ランチだけでなくて、授業の間の休み時間にもお弁当。運動部の生徒たちは、そうしているから。
(お弁当、買いに行かなくちゃ…)
家から持って来たお弁当では、短い時間に食べられない。だからパンとか、おにぎりだとか。
ハーレイだって、そういうものを買って来ている。昼食の他にも、何処かの店で。
(学校に行く途中で買えばいいんだよね?)
それが一番、という気がする。
柔道部に入るほど元気なのだし、バスには乗らずに歩いて通学。きっと走って行ったりもする。別に遅れたわけでもないのに、それこそ元気一杯に。走り込みの前から自主練習。
そうやって学校まで出掛ける途中で、その日の気分で買うお弁当。パンやおにぎり、道の途中にある店に入って。
お弁当を買ったら、学校に向かって真っ直ぐ走ってゆくのだけれど…。
(スピードウィルなんか要らないよ)
ジョミーが学校へ急いで行こうと、履いて走っていた靴なんか。裏に車輪がついた靴。
そんな靴など履かなくっても、丈夫だったら、サムみたいに走っていけばいい。体力自慢だったサムはジョミーに追い付いたから。
あれと同じに、みんな追い越して、ぐんぐんと。二本の足の力だけで。
颯爽と走って学校に着いたら、もうハーレイがいるかもしれない。「おっ、早いな!」と笑顔を向けてくれて。「今日も朝から張り切ってるな」と。
柔道着を着たら、ハーレイも一緒に走り込み。それが済んだら、体育館で朝の練習。ハーレイに指導して貰って。「こうだ」と手本も見せて貰って。
(いいよね…)
そんな風に始まる、学校の朝。もしも自分が丈夫だったら、きっと叶っただろう夢。弱い身体に生まれて来たって、ちゃんと鍛えておいたなら…。
手遅れだけど、と考えていたら、聞こえたチャイム。柔道部の指導を終えたハーレイが、仕事の帰りに来てくれたから、もう早速に切り出した。テーブルを挟んで向かい合うなり。
「あのね、ハーレイ…。ぼくが丈夫だったらいいと思わない?」
ぼくの身体だよ。弱いけれども、そうじゃなくて丈夫だったなら、って。
「はあ? なんでまた…」
いきなりそういう話になるんだ、お前、いったい何をしたんだ?
新聞に体力作りの記事でもあったか、それに影響されちまっのたか?
「えっとね…。新聞はちっとも関係無くて…」
今日の帰りに歩いていたら、凄い風が吹いて来たんだよ。ビックリして目を瞑っちゃうほど。
その後、花壇の花を見掛けて…。
花びらがとても弱そうだったから、次の風で破れちゃうかと思って心配してて…。
そしたらホントに強い風が来て、もう駄目だ、って思ったんだけど…。
花びら、破れなかったんだよ。茎だって少しも傷まなくって、風が行っちゃったら元通りで…。
弱そうな花が見た目よりもずっと丈夫だった、と説明した。
あの花みたいに、自分が今と全く同じ姿をしていたとしても、丈夫な身体だったなら、と。
「見掛けは今と同じなんだよ、弱いチビのぼく…」
でもね、ホントはうんと丈夫で、弱い身体じゃないってこと。
「ほほう…。そいつは愉快だな」
同じチビでも、今よりも丈夫に出来てるんだな?
直ぐに倒れて寝込んだりはしない、丈夫な身体を持ったお前か…。
「そう! 素敵でしょ、それ?」
丈夫なんだし、柔道部にだって入れるよ。今の学校から始めた生徒も多いんでしょ?
だからね、ぼくも柔道部。ハーレイに会って、ちゃんと記憶が戻った後は。
他のみんなより遅いけれども、入部届を出しに行くよ。一ヶ月も遅れていないもの。
柔道部に入ったら、朝の練習からハーレイと一緒。
放課後の部活はもちろん一緒で、家に帰る時はハーレイの車に乗せて貰って…。
いいでしょ、ハーレイといつだって一緒。…ぼくの身体が丈夫だったら。
「そりゃいいかもなあ…。お前が柔道部に入ってくれるのか」
少なくとも帰り道の分だけ、二人で過ごせる時間が増えるな。
車に乗ってる時間はうんと短いわけだが、それまでの時間も一緒だしな?
部活が済んだら、お前と二人で駐車場まで歩いて行く、と。
帰る前に職員室に寄る時も、「ちょっと待ってろ」と、廊下までは一緒に行くわけで…。
うん、なかなかに素敵じゃないか。お前が言ってる通りにな。
合宿だって一緒だしな、と言われて胸がときめいた。夏休みにあった、柔道部の合宿。あの時は家でガッカリしていたけれども、柔道部員なら合宿に参加するのが当然。
そうなってくると、ハーレイの家でのバーベキューとかにも…。
「ねえ、合宿に行けるんだったら、ハーレイが家でやってるヤツ…」
柔道部員を呼んでるバーベキューとか、ピザを頼んだりするパーティーだとか…。
ああいうのにも、ぼくも行けるんだよね?
おやつは徳用袋のクッキーだっていう、ハーレイの家でみんながワイワイ集まる時も…?
「そりゃあ、断る理由は無いな」
お前が一人で来るんだったら、今と同じで「駄目だ」と言うが…。
柔道部のヤツらが一緒だったら、事情は全く違うしな?
そうか、お前が柔道部なあ…。
入ってくれたら楽しいだろうな、俺としても指導のし甲斐があるし。…お前だけにな。
「ぼくって…。なんで?」
恋人だからなの、いつも一緒にいられるから?
練習の時も、家まで車で帰る時にも。
「そいつも大いに魅力的だが、俺がやりたいのは、お前を強くすることだ」
柔道部に入ってくれた生徒は、全力で指導するというのが俺の信条だしな?
伸ばせる力は、大いに伸ばしてやらないと…。
お前に柔道の才能があったら、原石を磨く楽しみってヤツが倍増だ。
いや、倍どころの騒ぎじゃないな。…なんたって、原石はお前なんだから。
きっと凄いぞ、とハーレイがパチンと瞑った片目。「騒ぎが目に見えるみたいだな」と。
「こんなに可愛いチビが強いとなったら、間違いなく注目の的ってヤツだ」
たちまち人気者になるんだろうなあ、大勢がドッと押し掛けて来て。
「え…?」
人気者って、どういうこと?
ぼくが強かったら、なんで人気が出るっていうの…?
「簡単なことだ、お前にファンがつくってことさ」
チビなのに強い選手というのは、柔道の世界じゃ人気だぞ?
その上、お前は可愛いし…。ソルジャー・ブルーの子供時代にそっくりだしな。
人気が出ないわけがない。評判を聞いて、ファンが沢山やって来るぞ。
「ぼくのファンって…。学生時代のハーレイみたいに?」
試合や練習を見に来る人が増えるってこと…?
「そういうこった。まだ義務教育の生徒だからなあ、俺の時ほど凄くはないが…」
学校に入るには許可も要るしな、上の学校のようにはいかん。
しかし、学校の外での試合となったら、見に来るヤツらも多いと思うぞ。
でもって、お前は育ってゆくほど、どんどん美人になっていくから…。
そうなったら、もう引っ張りだこだな。…俺の出番も無くなりそうだ。
インタビューとかは、いつもお前ばかりで。俺は後ろで見ているだけで。
その光景も見えるようだな、と腕組みをして頷くハーレイ。「主役はお前だ」と。
「まさしくヒーローというヤツだよなあ、俺の出番は全く無いぞ」
お呼びじゃないってことになっちまって。…とにかくお前、っていうことでな。
「そんなことないでしょ?」
ハーレイだって、柔道の腕は凄いじゃない。ぼくでも勝てそうにないけれど…。
いくら強くても、まだ学校の生徒なんだし…。
「それはそうだが、考えてもみろ。学校新聞の取材をしてるの、誰なんだ?」
生徒だろうが、自分たちで取材して新聞を発行しているわけで…。
教師の俺を取材したって仕方ないしな、読むのは生徒なんだから。
生徒の視線で書くとなったら、お前を取材しないと駄目だ。…インタビューして記事を書く。
そいつを読んだ女子生徒たちが、ドッと押し掛けて来るってな。お前目当てで、体育館に。
柔道部にも、マネージャー希望のヤツらが殺到しちまいそうだよなあ…。
今の時期は募集していません、と張り紙を出さなきゃ断れないほど、それは大勢。
「マネージャー希望って…。そうなっちゃうの?」
ぼくがいるだけで、マネージャーになりたい人が増えるの?
「世の中、そういうモンなんだぞ?」
カッコいい男子が入っている運動部は、マネージャーに苦労しないってな。
わざわざ募集しに行かなくても、向こうからやって来るもんだから…。
それと同じで、お前が柔道部にいるってだけでも、マネージャーになりたいヤツがいそうだ。
しかも、お前は強いわけだし…。
お前がチビのままだったとしても、人気はきっと凄いと思うぞ。
学校新聞の記者が来た時は、俺なんか押しのけて取材だ、取材。お前の記事を書かないと…。
新聞を読んで貰いたかったら、俺の記事よりお前の記事だ。
「…それはちょっと…」
取材に来られても、ぼく、困るかも…。
ハーレイの方は見向きもしないで、ぼくだけ取材をして貰っても…。
なんだか嫌だ、という気がする。自分だけが注目を浴びること。
ハーレイと一緒にインタビューなら、嬉しいのに。記事にもハーレイの名前が出るなら、写真も一緒に撮ってくれるのなら。
「…ぼくに柔道を教えてくれるの、ハーレイだよ?」
強くしてくれたのも、ハーレイなんだし…。それに恋人…。
ホントは恋人同士だってこと、秘密だけれども、記事は一緒でなくちゃ嫌だよ。
「ふうむ…。まあ、師匠抜きでは語れないしな、柔道は」
その辺を記者に説いてやったら、俺の出番もありそうだが…。記事の隅っこの方でもな。
お前が上手く説明したなら、俺の記事も大きくなるかもしれん。学生時代の活躍ぶりとか。
…それで、柔道が強いお前の話なんだが…。
どうするんだ、プロの道に行くのか?
「…プロ?」
それってプロの選手ってことなの、プロになれって?
「なれる可能性は充分、高いだろうと思うがな?」
強いってことは、柔道の素質があるってことだ。そうでなければ、教えても伸びん。
素質があって強いとなればだ、柔道の指導に力を入れてる上の学校に行ってだな…。
其処で一層腕を磨けば、プロになるのも夢じゃない。もちろん、俺も教えてやるし…。
休みの時には、柔道部にいた頃と同じようにだ、個人指導をしてやるってな。
「そんな道には行かないよ!」
上の学校にも、プロの道にも、ぼくは絶対、行かないってば!
「行かないって…。お前、どうする気だ?」
せっかくプロになれそうなのに、いったい何をするつもりなんだ?
「決まってるじゃない、ハーレイのお嫁さんになるんだよ!」
卒業したら、結婚してハーレイのお嫁さん。ぼくはそれしか、やりたいと思ってないんだから!
プロの選手になるなんて…、と膨らませた頬。プロになったら、きっと大変だろうから。
ハーレイと結婚出来たとしたって、毎日、試合と練習ばかり。ろくに一緒に過ごせはしなくて、ただ忙しいだけの日々。家にいたって、ハーレイと練習かもしれない。
「…ハーレイ、ぼくがプロになったら、練習しろって言いそうだよ…」
もっと強くなるには練習だから、って、お休みで家にいたって練習…。
「それはまあ…。そうなるだろうが、お前、そいつは嫌なんだな?」
だからプロにはならない、と…。どんなに才能があったとしても。
ということは、お前、俺と一緒にいるだけのために、柔道部に入部するってか?
「…駄目なの?」
入っちゃ駄目なの、柔道部には…?
強くなったらプロの選手になろうって人しか、入っちゃ駄目…?
「駄目とは言わんが…。プロになれないのが殆どなんだし、其処の所は気にしないんだが…」
もったいないな、と思ってな。…お前に凄い才能があっても、捨てちまうのかと…。
その才能が欲しくてたまらないヤツ、きっと大勢いるんだろうにな。
もっとも、俺もそいつを言えた義理ではないんだが…。
プロの選手になるっていう道、捨てて教師になっちまったから。…柔道も、それに水泳もな。
あまり強くは言えないか…、とハーレイが苦笑しているから。
それでもやっぱり「もったいないと思うがなあ…」とも言うものだから。
「えっとね…。プロの選手にならなくっても、丈夫なぼくなら、いいこともあるよ」
だって、柔道が出来るくらいに丈夫なんだし…。
結婚した後も、ハーレイに迷惑かけないよ。病気になったりしないんだもの。
今のぼくだと、しょっちゅう寝込んで、ハーレイが困ってしまいそう…。
「丈夫なお前だと、俺が楽だってか?」
確かにそうなんだろうがな…。丈夫だったら寝込みもしないし、仕事に行くにも安心だが…。
俺としてはだ、守り甲斐がある方が嬉しいな。
強いお前も悪くないんだが、今みたいに弱いお前の方が。
「…弱いぼくって…。ホントに弱くて、ちょっと無理をしたら倒れちゃうよ?」
ハーレイ、そっちの方が好きなの?
ぼくの身体が丈夫だったら、迷惑かけたりしないのに…。
仕事に行く前に、寝込んでしまったぼくの世話とか、食事の用意とかしなくていいのに…。
「そういう面倒は要らんだろうな、お前が丈夫に出来ていたなら」
ついでに心配も要らないわけだし、仕事の間中、ずっとお前を気にしなくてもいいんだが…。
昼休みとかに学校を抜けて、具合はどうかと家に帰らなくてもいいんだろうが…。
強いお前よりは、弱いお前の方がいい。
…前のお前が強すぎたからな、今度は弱いお前がいいんだ。
俺の好みはそっちの方だ、と言われたけれど。前の自分も、今と同じに弱かった。ひ弱な身体を持っていたから、何かと言えばハーレイに迷惑をかけていた自分。
食事が喉を通らない時には、ハーレイがスープを作ってくれた。青の間の奥のキッチンで。
恋人同士になるよりも前から、何度も作って貰ったスープ。白い鯨が出来る前から。
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ、優しいスープを。
そんな自分が、強かった筈がないわけだから…。
「前のぼく…。ちっとも強くなかったよ?」
今と同じで、弱かったよ。…しょっちゅう寝込んで、ハーレイに野菜スープを作って貰ってた。
野菜スープのシャングリラ風だよ、今も作ってくれてるじゃない。
ぼくが寝込んでしまった時には、仕事の帰りに、わざわざ作りに来てくれたりして。
「前のお前も、身体は間違いなく弱かった。今のお前と、其処は全く同じにな」
チビの間も、育った後にも、前のお前はとても弱くて、強いとは言えやしなかったが…。
強かったのは、お前の中身だ。長いことソルジャーをやっていた分、お前の心は強すぎた。
誰にも弱みを見せはしなくて、俺の前でしか泣きはしなかったほどに。
だから、お前は飛んでっちまった。…たった一人で、メギドへな。
俺に「さよなら」のキスもしないで行っちまうくらい、前のお前は強かったんだ。
後でメギドで泣いたらしいが、それでも後悔してないだろうが?
「…うん、してない…」
ハーレイの温もりを失くしちゃったことは、辛かったけど…。
とても悲しくて泣きじゃくったけど、メギドに飛んだことは後悔してないよ。
「…今でも俺にそう言えるくらい、強かったのが前のお前だな。…何度メギドの夢を見たって」
今のお前はメギドの夢が怖いチビだが、前のお前は違うんだ。強すぎたってな。
強すぎると、お前、無茶をするから…。
そうならないよう、弱いお前の方がいい。俺が何度も面倒を見る羽目になっても。
学校に「少し遅れます」と連絡をしては、お前を病院に連れて行くのが当たり前でも。
病院から連れて帰ったお前をベッドに寝かせて、昼飯を作ってから仕事に出掛けて…。昼休みになったら、飯を食わせに家に帰らなきゃいけなくても。
…そういう弱いお前でいいんだ、その方がいい。
強いお前だと、俺はまたしても、とんでもない目に遭いそうだからな。
あんな思いはもう沢山だ、とハーレイが呻くメギドのこと。前の自分が一人で出掛けて、二度と戻らなかった場所。
…ハーレイを置いて逝ってしまった自分。白いシャングリラに、独り残して。
前の自分は、確かに強かったのだろう。今の自分には無い強さ。とても持てない、強すぎる心。
だから「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「今のぼくなら、平気だってば。…身体が丈夫に出来ていたって」
だって、弱虫なんだもの。一人でメギドに行けやしないし、ハーレイがいないと寂しいし…。
そんなぼくだから、大丈夫。柔道がとても強いぼくでも。
「どうだかなあ…。メギドには行けそうもないんだが…」
それは分かるが、妙な所で頑固だろ、お前。…前と同じで。
丈夫だったら、たまに風邪でも引いたりした時に…。俺に心配かけちゃ駄目だ、と隠して黙って頑張った末に、すっかりこじらせちまうとか。
さっさと病院に行けばいいのに、「大したことはないよ」と我慢しすぎて。
「…それはあるかも…」
ぼくは弱いから、直ぐに倒れて寝込んじゃうけど…。
強かったとしたら、頑張りそう。ハーレイは仕事で忙しいんだし、我慢しなくちゃ、って。
「ほら見ろ、言わんこっちゃない。俺が思った通りだろうが」
そうなっちまうから、お前は弱い方がいい。弱い身体のままのお前で。
弱くても充分、無茶をするだろ、今のお前も。
熱があるのに学校に行こうと頑張ってみたり、体育の時間に無理をしすぎたり。
「そうだけど…。そうなっちゃうのは、ぼくの身体が弱いからで…」
小さい頃からきちんと鍛えて、強い方がいいかと思ったのに…。
柔道部にだって入れるんだし、結婚したって、ハーレイに迷惑かけずに済むから。
「お前なあ…。俺は何回、お前にこれを言ったんだか…」
今度は俺が守るんだ、とな。…今度こそ、俺がお前を守ると。
前の俺はお前を守ると何度も言ったが、いつでも言葉だけだった。…俺は守られていた方だ。
守ると言いつつ、前のお前に守られて生きていたってな。シャングリラごと。
だから、今度はお前を守る。…守るほどの危険が無いような世界に来ちまったがな…。
見掛け通りのお前でいい、と握られた右手。メギドで冷たく凍えた右の手。ハーレイの温もりを失くしてしまって、前の自分が泣きじゃくった手。
それをハーレイは両手で包んで、温かな笑みを浮かべてみせた。
「お前は、弱いお前でいいんだ。…ひ弱な今のお前のままで」
強くなろうなどと、思わなくてもいい。強くないお前で充分だってな。
柔道部に入って貰えないのは残念ではあるが、いつかは一緒に暮らせるんだし。
「本当に…?」
弱くてもいいの、強いぼくなら色々なことが出来そうなのに…。
ハーレイと一緒に柔道が出来て、ジョギングにだって行けそうなのに。
「お前、柔道、続けるつもりは無いんだろ? 凄い才能があったとしても」
俺と結婚するために放り出しちまうんなら、そんな強さも才能も要らん。
今のお前は、俺と旅行に行ける程度の強さがあればいいってな。
それだって足りなきゃ、俺が背負って歩いてやるから。…旅先で倒れちまったら。
「うん…!」
弱いぼくでもかまわないなら、柔道部のことは諦める…。
とっても素敵な夢だけれども、夢は夢だから、うんと素敵に見えるんだものね…。
前のぼくだって、地球に幾つも夢を見てたよ、と握り返したハーレイの手。右手でキュッと。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が描いていた夢。
それはこれから、ハーレイと二人で叶えてゆく。生まれ変わって来た、この地球の上で。
青い地球の上で生きる今の自分は、ひ弱な花でもいいらしい。
帰り道に見た花たちのような強さは無くても、風でペシャンと潰れる花でも。
今度は守って貰えるから。
ハーレイがいつも守ってくれるし、弱い身体のままでいい。
鍛え損なった身体だけれども、ハーレイは弱い身体の方がいいと言ったから。
強い風が吹いたら、負けてしまう花でかまわない。
今の自分は、弱い花。頑張らなくてもペシャンと潰れて、世話をして貰えばいいのだから…。
ひ弱な花・了
※丈夫な身体なら素敵だったのに、と考えたブルー。柔道部に入ることも出来そうです。
けれど、ハーレイの好みは「弱いブルー」。今度こそブルーを守りたいのです、前と違って。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(なんだか色々…)
石鹸なのに、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
天然素材の石鹸、色々。そういう特集。オリーブオイルやアーモンドオイルで作った石鹸、牛乳からも作れる石鹸。様々な石鹸があるのだけれども、驚いたのが世界最古の薬局の石鹸。
(…十三世紀って…)
いつなの、と指を折っても足りないくらいに、遠い昔に生まれた薬局。人間が地球しか知らずに生きていた頃、薬局は修道院だった。薬と言ったらハーブだったから、それを育てる場所が薬局。
そういう修道院の一つから生まれた薬局、其処が作っていた石鹸。何百年も同じ製法で。
修道院での処方そのまま、何も変えずに。天然素材にこだわり続けて、いい石鹸を。
(でも…)
地球の大気が、大地が汚染されていったら、その石鹸も作れなくなってゆく。滅びゆく地球は、緑が自然に育ちはしない。そんな星では、もう材料が手に入らないから。
そうして消えてしまった石鹸。処方だけが後の時代に残った。かつてこういうものがあった、と書き残されて。最古の薬局も、地球から消えた。
ついには人間も離れざるを得なかった、母なる地球。青い水の星を蘇らせるためだけに、機械が治めるSD体制を敷いて。
前の自分が生きていたのは、そういう時代。地球は死の星のままだったという。
(今ならではです、って…)
SD体制が崩壊した後、多様な文化が戻って来た時代。青い地球まである宇宙。
石鹸だって、原料も作り方も自由に出来る。世界最古の薬局が作っていた石鹸も、遠い昔と全く同じに作られるらしい。天然の材料だけを使って。
(石鹸の世界もそうなんだ…)
青い地球の上、あちこちの地域は気候も色々。それぞれの場所に合わせた石鹸、オリーブだとか牛乳だとか。他にも何種類もあるのが石鹸、前の自分が生きた時代には無かったものが。
ふうん、と興味深く読んで、二階の部屋に帰った後。
勉強机に頬杖をついて、石鹸について考えてみた。今の時代は色々なものがあるけれど…。
(前のぼくたちだと…)
アルタミラの檻で生きていた頃は、石鹸どころか洗浄液。お風呂に入れはしなかった。入りたい気持ちも多分、無かった。実験動物のように洗われただけで、それだけが全て。
「入れ」と放り込まれた洗浄用の部屋で、何もかも自動で。酷い火傷を負っていたって、手加減さえもされないで。
(石鹸なんて…)
考えることも無かった筈。身体を洗うためのものなど、自分で使えはしないから。
その地獄から脱出した後、嬉しかったのが初めてのシャワー。やっと人間になれた気がした。
(あれで、お風呂が大好きになって…)
具合が悪くても入っていたほど、前の自分はお風呂好き。そのせいなのか、今の自分も。
お風呂好きだった前の自分だけれども、その時に使っていた石鹸は…。
(一番最初は…)
船のバスルームにあった石鹸。シャワーを浴びに出掛けて行ったら、其処に置かれていた石鹸。それを使って洗った身体。ボディーソープもあったけれども、石鹸を使ったような気がする。
(ボディーソープだと、洗浄液みたいな感じだから…)
避けたのだろうか、無意識の内に。「少し怖い」と。記憶は定かではないけれど。
少し経ったら、石鹸にするか、ボディーソープか、気分で決めるようになっていたから。今日はこっちを使ってみよう、と目に付いた方を。
船に最初からあった石鹸、ボディーソープといったもの。倉庫に山と積まれていたって、使えば消えて無くなってゆく。毎日の暮らしに欠かせないもので、誰もが使うものだから。
船の備品が尽きた後には、前の自分が奪って来た。人類の輸送船から、石鹸だって。他の物資を奪うついでに、「これも」と失敬してしまって。
(いろんな石鹸…)
沢山あったよ、と思い出す石鹸やボディーソープの類。香りも色も、実に様々。
あんな時代だけに、天然素材ではなかったのだろうけれど。天然素材を使っていたって、恐らくほんの少しだけ。オリーブ石鹸と書いてあっても、オリーブオイルは僅かしか入っていないとか。
きっとそうだ、と思うけれども、その石鹸。様々な香りや色の石鹸。
(どうやってたっけ?)
皆の好みが分かれていそうな、石鹸たちの配り方。色も香りも、本当に様々だったから。
希望者を集めて分配したのか、好みは無視してバスルームに置いておいたのか。今度はこれ、と一方的に決めてしまって、個人の希望はまるで聞かずに。
物資が限られていた船なのだし、その可能性も充分にある。流石に花の香りがする石鹸などを、男性用のバスルームに置きはしないだろうけれど。
男性用だと思われるものを、女性用のバスルームに置くことだって。
そうは言っても、やはりあるだろう石鹸の好み。選びたい仲間はきっといた筈。
分配したのか、有無を言わさず備え付けの形だったのか。シャングリラで使っていた石鹸。
(どっちだったの…?)
覚えていない、と首を捻って考え込んでいたら、聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊こうと思った。石鹸のことを。
(…ハーレイだったら、きっと覚えているよ)
キャプテンになる前は、備品倉庫の管理人も兼ねていたのだから。物資を分配する係だって。
訊くのが一番、とテーブルを挟んで向かい合うなり、石鹸の話を持ち出した。
「あのね、石鹸って、色々だよね」
「はあ? 何の話だ?」
お前、石鹸が欲しいのか、と怪訝そうな顔になったハーレイ。慌てて「違うよ」と話の続き。
「欲しいってわけじゃないけれど…。今の時代は石鹸が色々。天然素材の」
今ならではです、って書いてあったよ、新聞に。
天然素材だけで出来てる色々な石鹸、今だから作れるんだ、って…。
「まあ、そうだろうな。前の俺たちが生きてた時代じゃ無理だ」
原料があっても、とてつもなく高くついただろうし…。それに文化も限られていたし。
石鹸なんぞは洗えればいい、と合成だろうな。シャングリラじゃなくて、人類が生きてた世界の方でも。…天然素材ばかりで量産するのは無理だったろう。入っていたって、少しだったろうな。
もっとも、そういう時代にしたって、パルテノンのヤツらは使っていたかもしれないが。
うんと贅沢に作らせた石鹸、まるで無かったとは言えないしな。
「使ってたかな…?」
材料は確かに、無いってわけではないものね…。作ろうとしたら高くつくだけで。
「あいつらは特権階級だからな、やりかねないぞ」
こういう石鹸を作って届けろ、と命令するだけで済むんだから。自分たちが使う分だけ、特別に材料を集めさせてな。
「…それ、アドスとかが…?」
あんな人たちが使っていたわけ、天然素材の石鹸を…?
前の自分は知らないアドス。元老の一人だったけれども、キースに消された。旗艦ゼウスで。
歴史の授業で習う範囲だから、アドスのことは知っている。どう考えても天然素材の石鹸などは似合いそうにない、でっぷりと太っていた男。
ハーレイも「アドスなあ…」と苦笑しているのだから、やっぱり似合わないのだろう。
「あいつが高級石鹸か…。天然素材で贅沢に作った石鹸、アドスが使っていたってか?」
身体を洗ったら、ついでに頭も石鹸で洗っちまいそうな感じだが…。
まさに猫に小判ってヤツだな、アドスが使っていたんなら。
あいつに使わせるくらいだったら、前のお前に使わせてやりたかったよなあ…。高級石鹸。
「前のぼく? …なんで?」
そんなもの使ってどうするの、とキョトンとしたら、「決まってるだろうが」という返事。
「凄い高級石鹸なんだぞ、きっと肌にもいい筈で…。そいつを使えば肌を磨ける」
お前はただでも美人だったし、磨き甲斐があるというもんだ。一層、綺麗になれるんだから。
俺も嬉しいし、船のヤツらも喜んだだろう。
美人のソルジャーがもっと綺麗になってみろ。自慢の種が増えるってな。
「…それはどうでもいいけれど…。高級石鹸を使いたかったとも思わないけど…」
その石鹸だよ。ハーレイ、シャングリラの石鹸の配り方、覚えてる?
「配り方だと?」
「そう。前のぼくが人類の船から奪った石鹸、色々だったよ。色も香りも」
石鹸も、それにボディーソープも、いろんな種類があったでしょ?
これが欲しい、って思った仲間もいただろうけど、バスルーム、一人に一つじゃなかったし…。
石鹸とかも、いつもおんなじ種類があるとは限らないんだし…。
希望者を集めて分配してたか、バスルームに備え付けだったのか。それを覚えていなくって…。
備え付けだと、選ぶ自由は全く無くなっちゃうけれど…。
どうだったのかな、と瞳を瞬かせたら、「なんだ、そんなことか」と笑ったハーレイ。そいつは俺の得意分野だと、ダテに備品倉庫の管理人をやってはいない、と。
「ああいうのは好みが分かれるからなあ…。そういう時には押し付けるよりも…」
配っちまうのが一番だってな、希望者に。これが好きだ、と欲しがるヤツらに。
「そうだったの?」
だけど、それだと、他の人たちの分の石鹸は?
欲しい人たちが持ってっちゃったら、足りなくなってしまわない…?
「其処はきちんと考えてたさ。癖のない石鹸やボディーソープは共用ってことで」
そういうのを先に取り分けておいて、バスルームの方に回すんだ。備え付けって扱いだな。
石鹸の類にこだわらないヤツは、備え付けのを使ってた。洗うだけなら何でもいい、と。
そうでないヤツは、持って出掛けて行ったんだ。バスルームに行く時は、自分用のを。
お前も記憶を辿ってみたなら、思い出せると思うがな…?
あの船の中の石鹸事情、と言われたけれど。
「えーっと…?」
覚えていない、と傾げた首。
バスルームと言えば、初めてのシャワーが嬉しかったことと、ソルジャーになった途端に、皆と分けられてしまったこと。
エラがソルジャー専用のバスルームを設けてしまったから。他の者たちが使うことが無いよう、決められてしまったソルジャー専用のバスルーム。
其処にも石鹸とボディーソープはあった。その程度しか覚えていない石鹸。
ハーレイにそう話したら…。
「そのバスルームを貰う前にはどうだったんだ?」
貰ったと言うか、押し付けられたと言うか…。そうなる前のお前だな。
石鹸を持ってバスルームに出掛けて行ったのか、という質問。着替えの他に、石鹸なども持って行ったのか、と。
「そいつが鍵になるってな。お前、石鹸、持っていたのか?」
バスルームに行くなら、これも、と忘れずに自分の石鹸。部屋の何処かに仕舞ってたヤツを。
「持って行っていないよ、石鹸なんか」
わざわざ持って出掛けなくても、バスルームに置いてあるんだし…。
しないよ、そんな面倒なこと。石鹸が無いなら、持って行かなきゃいけないけれど。
「それはお前がそうだっただけで、こだわるタイプじゃなかったってことだ」
どんな石鹸が置いてあっても、何の不満も無いんだな。今度はこれか、と思う程度で。
しかしだ、そうやって石鹸を持たずに出掛けた、お前の周りはどうだった?
先にシャワーを浴びたヤツに会うとか、次に入ろうとしてやって来たヤツらのことなんだが。
「…思い出した…!」
ホントだ、それが鍵だったよ。凄いね、ハーレイ…。ぼくはすっかり忘れてたのに。
石鹸のことを考えていても、思い出せずにいたことなのに…。
凄い、と感心させられたこと。ハーレイが今も忘れずにいた、希望者たちに配った石鹸。
バスルームに出掛けて行った時には、石鹸やボディーソープを持った仲間たちが何人かいた。
すれ違う時に目にすることもあったし、ふわりと香りがして来たり。
石鹸そのものは見えない時でも、髪や身体から漂った香り。直ぐにそれだと分かった香り。
纏う香りは様々だったし、本当に好みがあったのだろう。希望者に配られる石鹸の中に、それがあったら欲しい香りが。貰わなければ、と名乗りを上げたくなる石鹸が。
前の自分は全くこだわらなかったけれども、仲間たちは違ったらしい石鹸。より正確に言えば、こだわる仲間も少なくなかったらしい石鹸。
ハーレイが言うように、希望者向けの分配の時には、出掛けて行って手に入れていた仲間たち。自分好みの石鹸があれば、「欲しい」と声を上げてまで。
「自分用の石鹸、持っている人、いたっけね…」
石鹸も、それにボディーソープも。きっと分配される時には、必ず覗きに行ってたんだね。
欲しい石鹸とかが出ているかどうか、いつでもチェックしてないと…。
「そういうことだな。好みのヤツが常にあるとは限らんし…」
前のお前が奪った物資の中身次第だし、見付けたら貰っておかなきゃならん。同じ好みのヤツが多けりゃ、尚更だ。貰える時に貰っておかんと、切らしちまうからな。
俺もキャプテンになる前はずっと、配る係をしてたから…。
石鹸のことは良く覚えてる。貰いに来るのは女性の方が多かった。香りがいいのを欲しがって。
男だったら、ゼルがこだわる方だったぞ。
「ゼル…?」
石鹸なんかを貰いに行ったの、あのゼルが…?
ハーレイが配っていた頃なんだし、うんと若かった頃だよね…?
意外な名前を聞かされたけれど、お洒落だったらしい若き日のゼル。自分好みの石鹸が無いか、チェックするのを欠かさなかった。分配の時には必ず出掛けて行って。
考えてみれば、後に髭にこだわったくらいなのだし、その片鱗。きっとあの髭も、石鹸と同じに気を配って手入れしていたのだろう。
髭と言ったら、ゼルと並んでヒルマンも髭が自慢だったから…。
「ヒルマンは…?」
やっぱり石鹸にこだわっていたの、ゼルみたいに?
配られる時には出掛けて行って、欲しい石鹸、貰ってたのかな…?
「あいつは別にそれほどでも…。たまに覗きに来た程度だな」
話の種になりそうなのを探していた、といった感じか。興味津々で眺めてはいたが、貰うことは滅多に無かったからな。
そして、配っていた俺にしてみりゃ、お前が全くこだわらないのが不思議だったぞ。
石鹸をあれこれ奪って来たのは、お前のくせに。
「どれでも全部、同じじゃない。どれも石鹸だよ、洗えればね」
色も香りも、ただのオマケで…。こだわらなくても、少しも困りはしないもの。
「そう言ってたなあ、ずっと後にも」
俺が石鹸を配る係を離れて、キャプテンになって…。それよりもずっと後のことだが。
「後って…?」
「白い鯨になった後だな、シャングリラが。…ずっと後だと言ったぞ、俺は」
お前、ソルジャー専用の石鹸、断っちまったろうが。
石鹸なんかはどれも同じで、洗えればそれでいいんだから、と。
「なに、それ?」
ソルジャー専用の石鹸だなんて、それをバスルームに置こうとしたわけ?
もう青の間は出来ていたから、あそこに置くのにピッタリだとか…?
「それに近いが、少し違うな。石鹸作りが先だったから」
オリーブ石鹸みたいに他の石鹸も作れるだろう、って話が船で出た時だ。
覚えていないか、オリーブ石鹸。
「あったね、そういう石鹸も…」
それで欲張ったんだっけ…。もっと凄いのも作れそうだ、って。
自給自足で生きてゆくために、白いシャングリラで育てたオリーブ。食用油は欠かせないから、何本も植えて世話をして。
オリーブの木たちは大きく育って、どれもドッサリ実をつけた。オリーブオイルが沢山採れて、一部の者たちが挑んでみたのが石鹸作り。オリーブオイルから作る石鹸。
その石鹸がいいと評判になって、欲が出たのが石鹸を作っていた仲間たち。データベースで色々調べて、他の石鹸も作れそうだと考えた。牛乳を使った石鹸なども。
牛乳石鹸が上手く出来たら、作りたくなったのが長い歴史を誇った高級石鹸だった。人間がまだ地球しか知らなかった時代に生まれて、人気を呼んでいた石鹸。
船で材料は揃うのだけれど、オリーブや牛乳のようにはいかない。あっても量が少ない原料。
素晴らしい石鹸が出来上がったって、とても皆には配れない。少しだけしか作れないから。
それでも作りたくなるのが人情。
オリーブ石鹸も牛乳石鹸も評判なのだし、もっといい石鹸を作ってみたい。それが高級石鹸ともなれば、なおのこと。
けれど、作っても皆に配れない所が大いに問題。
石鹸作りをしていた仲間は、考えた末に、エラの所へ出掛けて行った。この案だったら、きっと賛成して貰える、と。
相談を受けたエラの方でも、「これはいい」と思ったものだから…。
ある日、長老たちが集まる会議でエラが提出した議題。それが石鹸、しかもソルジャー専用だと言うから、驚いたのが前の自分。いったいどうして石鹸なのか、と。
「ぼく専用の石鹸だって?」
誰が言い出したんだい、それを。…ぼく専用という意味も教えて欲しいね。
石鹸だけでは分からないよ、とエラに尋ねたら。
「いい案だと思うのですけれど…。言い出したのは、石鹸を作っている者たちです」
御存知でしょう、オリーブ石鹸を最初に作り始めた者たちを。
今では牛乳石鹸も作っております、どの石鹸も評判です。石鹸作りの腕には自信があるとか。
ソルジャー専用の石鹸を作りたいとの話で、私の所にやって来ました。
如何でしょうか、とエラが乗り気になった石鹸。
遠い昔に人気を博した高級石鹸、地球で最古の薬局が作っていたものらしい。その薬局の基盤になった修道院での、処方そのままの作り方で。
天然素材にこだわるだけに、シャングリラでは僅かな量しか作れない。仲間たちに配れるだけの量は無理だし、ソルジャー専用に作ると提案されたけれども。
「ぼくの分しか作れない高級石鹸だなんて…。そんな贅沢なものは要らないよ」
そうでなくても、ぼくは石鹸にこだわるタイプじゃないからね。…昔からずっとそうだった。
石鹸は洗えれば充分なんだし、どんな石鹸でもかまわない。原料も香りも、全部含めて。
その高級な石鹸だけれど…。
どうしても作りたいのだったら、作った人たちが使えばいい。趣味の作品なら、他の仲間に遠慮することはないからね。配らなくては、と考える必要も無いだろう?
ぼくはいいから、作りたい仲間で趣味の品として使うようにと伝えて欲しい。
いいね、ソルジャー専用の石鹸なんかは、ぼくは欲しくはないんだから。
断ってしまった、ソルジャー専用の石鹸を作ること。必要無いと考えた自分。
今から思えば、今日の新聞に載っていた石鹸の中の一つだろう。世界最古の薬局が作った石鹸、それに修道院生まれの処方。エラの話と重なる部分が幾つもあるから。
あの石鹸は、その後、どうなったろう…?
作りたかった仲間たちは本当にそれを作ってみたのか、作らないままになったのか。
「ハーレイ、前のぼくが断っちゃった石鹸だけど…」
ソルジャー専用の石鹸を作る話は消えちゃったけれど、石鹸の方はどうなったのかな?
作りたがってた仲間が作って使っていたかな、そうすればいい、って言っておいたけど…。
「あの石鹸か? お前が断っちまったから…」
諦めちまって、それっきりだ。自分たちで使うのはどうかと考えたんだろう。
しかしそいつが、フィシスが来てから再燃したぞ。丁度いい、と思ったらしくてな。
「…そうだったっけ…」
それもすっかり忘れていたけど、フィシス専用になったんだっけね、あの石鹸。
ソルジャー専用の代わりに、フィシス専用。
「思い出したか?」
フィシスだったらミュウの女神で、ソルジャーに引けを取らないからな。
専用の石鹸を持っていたって、誰も文句を言いはしないし…。
お前も文句は言わなかった。ソルジャー専用の石鹸の時は、一言で切って捨てたくせにな。
「文句なんか言うわけないじゃない。フィシス用だよ?」
フィシスにだったら、素敵な石鹸があったっていいと思ったから…。
そうでしょ、フィシスは特別だったんだもの。前のぼくにとっても、仲間たちにとっても。
青い地球を抱いてて、未来が読めて…。本当に女神そのものだったよ。
機械が無から作ったものでも、フィシスはミュウの女神で特別。
フィシスのために専用の石鹸を作りたい、と再び持ち上がった話。石鹸を作る仲間たちから。
前の自分が船に連れて来た、青い地球を抱く幼いフィシス。彼女が美しく成長してから、彼らは話を持って来た。前と同じにエラを通して。
ソルジャー専用の石鹸などは要らないけれども、フィシス用だったら話は別。こちらから頼みに行きたいくらいで、反対したりはしなかったから…。
嬉々として石鹸作りを始めた仲間たち。必要な材料を全部揃えて、フィシスのための石鹸を。
「…あの石鹸…。フィシスが使っていたんなら…」
フィシスから花の匂いがしたのは、香水じゃなくて石鹸の香りだったのかな?
花の匂いがする石鹸も色々あったから…。フィシス用なら、そういう石鹸にしていそう。
ソルジャー用だと、花の匂いは無しだろうけれど。
「いや、石鹸と香水じゃ、全く違うぞ。石鹸の匂いは長くは持たん」
風呂上がりに会ったら分かる程度の匂いだろう。石鹸だな、と。
前のお前が、バスルームの近くで気付いた他の仲間の石鹸の匂いも、その時だけだろ?
「そっか…。お風呂上がりのフィシスの匂い…」
石鹸の香りはそれなんだ、と気付いたけれども、肝心の香り。
お風呂上がりにフィシスが纏った筈の香りを、前の自分は知らなかった。
会ったことが無かったものだから。…夜はハーレイと一緒だったから、フィシスを訪ねて行きはしなくて、まるで知らない。
フィシスからどんな匂いがしたのか、石鹸の香りは何だったのか。
愕然とさせられた、その事実。何十年もフィシスの側にいたのに、ミュウにしてまで攫って来たほど彼女が欲しかったのに。…フィシスが抱く地球の映像が。
なのに自分は知らないらしい。フィシスに、ミュウの女神に与えた、特別な石鹸が漂わせたろう香り。あの時代には希少だったという高級石鹸、それがどういう香りだったか。
「…前のぼく…。フィシスの石鹸、どんな匂いか知らなかったよ!」
作るように、って注文したのに、匂いを知らずにいたみたい…。
お風呂上がりのフィシスには一度も会ってないから、知らないんだよ…!
「うーむ…。お前、夜には俺と一緒だったし…」
行かないだろうな、フィシスの部屋には。それは不思議じゃないんだが…。
フィシスの石鹸の匂いを知らないままだってか?
そいつは由々しき問題なんだが、生憎と俺も、石鹸の処方は知らんしなあ…。
オリーブ石鹸や牛乳石鹸の作り方だって知らんし、フィシス専用の方を知るわけがない。
まるで興味が無かったもんでな、訊きに行こうとも思わなかった。見学だって。
キャプテンの仕事には入らないだろうが、石鹸作りの方法を書き留めておくというのは。
これが石鹸の配り方なら、場合によっては航宙日誌に書いただろうがな。
石鹸が不足しそうな時でもあったら、後で参考にするために。
前のハーレイの管轄ではなかった石鹸作り。フィシスが使った特別な石鹸、それの香りも成分も知らないらしいキャプテン。知ろうとも思っていなかったから。
ハーレイの記憶に今もあるのは、最古の薬局と修道院生まれの処方だったという言葉だけ。今の自分と全く同じで、何の手掛かりにもなってはくれない。
ただ…。
「えっとね…。あの石鹸、今もありそうだけど…」
フィシス専用に作った石鹸。新聞に書いてあったから…。
今の時代は昔と同じに作れるらしくて、あの石鹸もちゃんと復活しているみたいだよ?
「俺も話に聞いちゃいるがだ、一種類しか存在しないというわけではないぞ」
さっきお前が言っただろうが、フィシス用なら花の匂いにしていそうだと。ソルジャー用だと、花の香りは抜きで作りそうだが…。なんと言ってもフィシス用だし、花の香りは欲しい所だ。
本物の石鹸もそれと同じで、香りが幾つかある筈だから…。
「そうなの?」
一種類しか無いわけじゃないんだ、今は復活している石鹸…。
それじゃ、フィシス用に作っていた石鹸と同じのは…。その中の一つってことになるわけ?
「多分、そういうことだろう」
自信を持ってフィシス用にと言い出したからには、きちんとデータがあっただろうしな。
ソルジャー用に作ろうとしていた時とは違ったんじゃないか、処方ってヤツが。
どういう風に配合するとか、入れる香料はこれだとか。
「だったら、フィシス用の石鹸、どれだったのかは分からないね…」
一種類しか無いんだったら、それに決まっているんだけれど…。
幾つもあるなら香りも違うし、フィシスの石鹸、見付からないよね…。
「残念だがな…」
せっかく同じ石鹸があるというのに、手掛かりが何も無いんじゃなあ…。
この香りだった、と誰かが教えてくれないことには、どうにもこうにも…。
お前も知らないらしいからな、とハーレイがついた大きな溜息。フィシス専用の石鹸の香り。
石鹸は確かにあったのに。作っていた仲間が確かにいたのに、幻になってしまった石鹸。
今の時代は、その石鹸と同じ石鹸が作られるのに。昔と同じ処方のままで。
「…フィシスの石鹸、ホントに残念…」
前のぼく、匂いも知らないままになっちゃって…。今のぼくにも分からないなんて…。
石鹸が一種類しか無いんだったら、買いに行ったら分かるのに…。
「まったくだ。俺も残念だが、こればかりはなあ…」
そうだ、お前がいつか試すか?
端から試せば、もしかしたら見付かるかもしれん。
「えっと…?」
試すって、なあに?
何を試すの、どうやればフィシスの石鹸がどれか見付け出せるの?
「簡単だってな、端から試すと言っただろう?」
例の石鹸、買って使ってみればいいんだ。チビのお前が大きくなったら。
俺と一緒に暮らし始めたら、石鹸を買って使うわけだな。どれかは謎だし、一種類ずつ。
前のお前は、前の俺よりは遥かに沢山、フィシスに会っていたんだし…。
石鹸の匂いを嗅いでいる内に、この香りだ、とピンと来るのがあるかもしれん。
毎日使い続けていたなら、記憶を呼び戻すチャンスも多くなるからな。
石鹸の匂いは長く残りはしないが、微かに残ることもあるから…。お前が忘れてしまった記憶の中に、それが無いとは言い切れない。
でもって、俺も同じ匂いでピンと来たなら、そいつがフィシスの石鹸なんだ。
前の俺だってフィシスとは何度も会っているから、「これだ」と気付くだろうからな。
もっとも、お前が探してくれんと、俺では見付け出せそうもないが…。
石鹸だったら買ってやるから、順に使って探さないか、と言われたフィシスの香り。フィシスのためにと仲間たちが作った、特別な石鹸と同じ石鹸。
その香りを石鹸を使って探す。お風呂で何度も泡立てる内に、戻って来るかもしれない記憶。
小さな泡が弾けたはずみに、石鹸の香りがフイと鼻腔を掠めた時に。
「楽しそうだね、そのアイデア」
石鹸を買って、毎日使って探すだなんて…。そんなの思い付かなかったよ。
だけど、それなら見付かりそう。…これだったよ、って思う石鹸。フィシスの香りも。
「悪くないだろ? それに、相手は石鹸だからな」
お前を磨くことも出来るし、俺にとっても嬉しい話だ。石鹸に感謝しないとな。
「磨くって…。ぼくを?」
ハーレイ、石鹸で何をするつもり?
「分からないか? 磨くと言ったろ、それに石鹸だぞ」
どれがフィシスの石鹸なのかは知らないが…。
お前がそいつを見付け出すまでの間はもちろん、見付けた後にも石鹸で綺麗に磨くんだ。
俺の大事な宝石を。…お前の身体をせっせと磨いて、ピカピカに磨き上げるってな。
「ちょ、ちょっと…!」
ハーレイがぼくを洗うって言うの、ぼくが自分で洗うんじゃなくて?
毎日使えって言っていたから、ぼくが使うんだと思ってたのに…!
「お前が使うのには違いないだろ、その石鹸で洗うものはお前なんだから」
自分で洗うか、洗って貰うかの所が違うというだけだ。
石鹸の香りは変わりやしないぞ、洗おうが、洗って貰おうが。
それにだ、お前がピンと来た時に、俺がお前と一緒にいたなら話は早い。
風呂を出てから、「これだったよ」と報告する手間が省けるぞ?
俺は一緒にいるわけなんだし、その場で「これか」と確認すればいいんだから。
「んーと…」
石鹸はいいけど、ハーレイとお風呂…。
ぼくが自分で洗うんじゃなくて、ハーレイに洗って貰うんだ…?
なんだか恥ずかしい気がするけれども、きっとハーレイと暮らす頃には大丈夫だろう。とっくにチビではなくなっているし、もう結婚しているのだから。
それに、気になるフィシスの石鹸。白いシャングリラで仲間が作った、天然素材の特別な石鹸。
どんな香りか、どれがフィシスの石鹸だったか、分かるものなら知りたいから…。
いつかハーレイと暮らし始めてから、石鹸のことを思い出したら、二人で買いに出掛けようか。
遠い昔に世界最古の薬局が作った、修道院生まれの処方だという石鹸の復刻版を。
種類が幾つもあるらしいから、順番に一つずつ使ってフィシスの石鹸を探す。
これがそうだ、と思う香りが見付かるまで。毎日石鹸を使い続けて。
「…ハーレイ、ホントにぼくを磨いてくれるんだね?」
お風呂で毎日、石鹸で。…洗って、磨いて。
「もちろんだ。俺に任せておけってな」
フィシスよりも綺麗な、俺の自慢の嫁さんになってくれるように、せっせと磨いてやろう。
石鹸を泡立てて、お前を洗って、それこそ月みたいにピカピカにな。
「ぼくにフィシスよりも綺麗になれって…?」
それは無理だと思うけど…。フィシスの方がずっと綺麗だと思うんだけど…。
「他のヤツらはどうだか知らんが、俺にとっては、お前の方が上だった」
フィシスがミュウの女神だろうが、お前の方が遥かに美人だ。
そう思っていたし、今も変わっちゃいないってな。
チビのお前でも、フィシスよりもずっと、魅力的な俺のブルーなんだから。
お前が大きくなった時には、より美しく磨いてやろう、とハーレイが片目を瞑るから。
石鹸を買ったら、本気で磨いてくれそうだから、頬を染めながらも広がる夢。
ハーレイと結婚した時に覚えていたなら、石鹸を買いに二人で出掛けてゆこう。
今の時代だからこそ誰でも手に入れられる、世界最古の薬局が作ったのと同じ石鹸を。
白いシャングリラでフィシスが使った、特別な石鹸と同じらしいのを。
どれがそうなのか分からないから、端から試して、それでハーレイに磨いて貰う。
フィシスよりも綺麗になれるよう。
ハーレイの自慢のお嫁さんになるよう、毎日、二人でお風呂に入って。
遠く遥かな時の彼方の、フィシスの石鹸を探しながら。
これがそうだ、と思う香りに出会える時まで、ハーレイにせっせと磨いて貰って、幸せな時。
フィシスの石鹸が見付かった後も、きっとハーレイは磨いてくれる。
「俺の大事な宝石だからな」と、お月様みたいにピカピカに…。
特別な石鹸・了
※シャングリラで、ソルジャー専用に作ろうとした石鹸。後に、フィシス専用の石鹸に。
今も同じ石鹸があるというのに、分からない種類。結婚したら、二人で見付けたいですよね。
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