忍者ブログ

シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

「ブルー、爪が少し伸びてるわよ」
 切っておきなさいね、と母に言われた。
 学校から帰って、ダイニングでおやつを食べようとした時、それを運んで来た母に。
「はあーい!」
 返事を返して、シフォンケーキにフォークを入れたら。
「忘れないでよ? 後でちゃんと切るのよ」
 食べてる間に切りなさい、とは言わないけれど…。そっちの方がお行儀が悪いものね。
 でも、ママに切って貰うような小さな子供じゃないんだから。
 忘れないで、と念を押されたから。
「うんっ!」
 食べ終わったら、忘れずに切るよ。ぼくの手だもの、忘れないって!



 おやつを食べ終えて、空になったお皿やカップをキッチンに居た母に返しに行った。
 それから爪切りを取り出し、桜貝のような爪を切ろうとして。
(ちょっぴり伸びてる…)
 爪の先、白くなっている部分。気を付けていたつもりだけれども、そういえば最近、爪を切った覚えが全く無かった。
 自分の部屋には置いていない爪切り。階段を下りないと切りに行けない爪。
 後でいいや、と思ってしまえば、それきり忘れてしまうのだろう。こうして伸びてしまうまで。母に注意をされてしまうまで。
(ママに切って貰うような子供、って…)
 そこまで幼くはないけれど。
 自分で切るのを忘れるようでは、そう言われても仕方ない、とクスッと笑いかかった所で。



(…あれ?)
 前のぼく、と遠い記憶が蘇って来た。
 切って貰っていたじゃない、と。
 幼い子供ではなかったのに。今の自分よりも、ずっと大きくなっていたのに。
(ハーレイ…)
 そう、ハーレイに切って貰っていた。伸びていた爪を。
 病気で寝込んでしまった時とか、身体が弱ってしまっていた時。
 ジョミーを後継者として迎える頃には、すっかりハーレイに任せていた。起き上がることすらも億劫な日が多かったから。
 ベッドの中から手を差し出すだけで、「爪を切って」と頼むだけで切ってくれたハーレイ。
 大きな褐色の手をブルーの手に添えて、そうっと、そうっと切ってくれていた。
 切り終えた後も引っ掛からないかと指で触って、滑らかに削って整えていた。爪切りのヤスリの部分を使って、それは丁寧に、爪を傷つけないように。



(爪、あんな風に切って欲しいな…)
 あの大きな手で切って欲しいな、と自分の小さな両手を眺めた。
 またハーレイが切ってくれたらと、この爪を切ってくれたなら、と。
(前のぼくより小さい手だけど…)
 切れないこともないだろう。赤ん坊の手と比べたなら、立派な大人と言ってもいい手。前よりも小さな手ではあっても、そこそこ大きさはあるのだから。
(もしハーレイが来てくれたなら…)
 頼んでみよう、と決心した。断られたって、それはその時。
 頼むだけの価値は充分あるから、爪切りを持って部屋に戻った。
 ハーレイが仕事帰りに来なかったならば、あるいは「駄目だ」と断られたなら。
 その時は後で自分で切ろうと、明日までに切ればいいのだから、と。
 爪切りはそうそう使うものではないから、部屋に持って行っても叱られたりはしないだろうし。



(…今日はハーレイ、来てくれるかな?)
 爪切りを机の引き出しに仕舞って、ドキドキしながら待つことにした。
 ハーレイが来たなら、「爪を切って」と手を見せようと。
 上手くいくといいな、と心を躍らせ、どうかチャイムが鳴りますように、と。
 門扉の脇にあるチャイム。いつもハーレイが鳴らしているチャイム。
 そろそろ鳴るかと、それとも駄目かと、気もそぞろだから、読んでいる本が全く頭に入らない。文字の上を目が辿るだけ。ページの上を滑ってゆくだけ。
(…ハーレイ、来るかな?)
 窓の方へと目を向けてみたら、チャイムが鳴った。慌てて窓辺に駆け寄ってみれば、門扉の前で手を振る人影。間違えようもない長身の影。
(やった!)
 来てくれたよ、と大きく手を振り返した。
 少しだけ爪が伸びている手を、母に言われた爪を切らずにコッソリ残しておいた手を。



 ハーレイを部屋に案内して来て、お茶とお菓子を運んで来た母。
 その母に見付かってしまわないよう、さりげなく隠した爪の伸びた手。
 母が出て行った後で、テーブルを挟んで向かい合ったハーレイに手を出してみせた。両方の手をテーブルに乗せて、爪が伸びていると分かるようにして。
「ハーレイ、切って」
「何をだ?」
 何を切るんだ、お前の菓子か? そいつをフォークで切ればいいのか?
「ううん、ケーキのことじゃなくって…。ぼくの爪だよ」
「爪!?」
 なんだ、とハーレイは驚いたけれど。鳶色の瞳が丸くなったけれど。
 伸びてるんだよ、と左手の爪を指差した。
 両手とも爪が伸びているのだと、母に「切りなさい」と注意された、と。



「…ハーレイ、前のぼくの爪、切ってくれてたでしょ?」
 あんな風に切って欲しいんだよ。ハーレイが切ってくれていたっけ、って思い出したから。
 前のぼくより小さな手だけど、赤ちゃんの手よりはずっと大きくて爪も大きいし…。
 きっと切れると思うんだけれど、切ってくれない?
 …駄目なの、ハーレイ?
「お前、自分じゃ切るつもり、ないな?」
 お母さんに切れと言われたというのに放っておいた、と。
 俺が来るとは限らないのに、切りもしないで俺が来るのを待っていたな…?
「…駄目なんだったら、ハーレイが帰った後で切るけれど…」
 ちゃんと自分で切ることにするよ、伸びたままにはしておけないから。
 …本当は切って欲しいんだけどな…。
「要するに今は切らないんだな?」
 俺がいる間には切らないってわけだ、爪を切る時間も惜しいと思っているんだな?
 仕方ない、とハーレイは溜息をついた。
 切ってやるから爪切りを此処に持ってこい、と。
「ホント!?」
 爪切りはとっくに用意したんだよ、そのために持って来ておいたから。
 ちょっと待ってね、今、引き出しから取ってくるから…!



 母に内緒で持ち出した爪切り。勉強机の引き出しに仕舞っておいた爪切り。
 それを取りに行き、ハーレイに「はい」と手渡した。
 ハーレイは爪切りの手触りを確かめ、何度か動かしてみた後で。
「よし、手を出せ」
 こらこら、お茶やお菓子に飛んじまったらどうするんだ、爪。
 もっとお前がこっちに来てだな…。うん、それでいい。そんな具合でじっとしてろよ?
 まずは右手だ、と大きな手で右手を掴まれた。
 親指を押さえられたかと思うと、パチンと爪を切り取る音。懐かしい音。
 爪を切る音は今の自分も知っているけれど、それとは違ったように聞こえた。遠い昔にこの音を聞いたと、ハーレイが爪を切ってくれる時には聞こえていたと。
 パチン、パチンと切り取られてゆく爪の音。
 親指の次は人差し指で、それが済んだら中指で。薬指に小指、と順に移ったハーレイの指と爪を切る音と。右手が終われば左手の番で、そちらも順番にパチン、パチンと。
(そう、この音…。それに、この感じ…)
 もう懐かしくてたまらなかった。ワクワクしながら切って貰った。
 こんな風だったと、こんな音だったと、もう本当に嬉しくて。前の自分に戻ったようで…。
(うん、これも!)
 切り終わったハーレイが爪の先を指で確かめてゆく。ギザギザしてはいないか、と。
 確認してから、軽くヤスリをかけられた。滑らかな爪に仕上げるために。
(こんなの、ぼくはやっていないよ…)
 爪を切ったら切りっ放しで、ヤスリで整える所まではしない。前の自分も、今の自分も。
 ハーレイならではの心遣いで、それは丁寧に、両方の手の爪を一枚、一枚。



 全部の爪を整え終わったハーレイが「済んだぞ」と爪切りを返して来たから。
「ありがとう!」
 ブルーはピョコンと頭を下げると、爪切りを引き出しに仕舞いに行った。元の椅子に戻って腰を下ろすと、改めて御礼を言ったのだけれど。
「いや…。まあ、前のお前よりも小さな手だしな、少し怖かったが」
 お前の指まで切っちまわないかとハラハラしてたぞ、お前は気付かなかったようだが。
「うん。ハーレイ、余裕たっぷりに見えたもの。でも…」
 思ったよりもアッサリ切ってくれたし、嬉しかったよ。
 絶対ダメだ、って断られるかと思ってたんだよ、だってハーレイなんだもの…。
「普通だったら断るんだがな、夜に切られちゃたまらんからな」
 俺が帰った後に切るなら、とっくに夜になってるだろうが。
 そんな時間に切られたんでは困るんだ。爪だけにな。
「えっ?」
 時間って…。爪を切るのに時間が何か関係するわけ、ねえ、ハーレイ?
「ああ、まあ…な」
 夜は駄目だな、そいつが俺の信条だってな。



 爪は夜には切るものではない、と聞かされた。
 夜は駄目だと、夜に切ってはいけないのだ、と。
「…なんで?」
 爪を切るくらい、いつでもいいと思うんだけど…。
「そりゃ、かまわんさ。俺が言うのは古典の世界の話だからな」
 SD体制が始まるよりも昔の話だ、この辺りに日本って国があった頃だな。そこで伝わっていた話じゃ、夜に爪を切ると寿命が縮んでしまうと言うんだ。
 親の死に目に会えないとも言われた、寿命が縮めば親よりも先に死んじまうだろうが。
 夜に爪を切るから、「よづめ」。世が詰まるんだな、自分が生きてる世界ってヤツが。
 だから駄目だ、とハーレイは小さなブルーに教えた。
 単なる昔の語呂合わせ。根拠など無い、古い迷信。
 しかし縁起は担ぐ方だと、知ったからには避けたいのだ、と。



「前の俺なら夜専門だったわけなんだが…」
 自分のはともかく、お前の爪。夜にしか切っていなかったしな。
 もっとも、あの頃は古典の教師でもないし、夜に爪を切ったら駄目だと思いもしなかったが。
「…覚えてた?」
 夜だったってこと、ちゃんと覚えてた?
「当たり前だ」
 お前の爪を切っていたことを思い出したら、芋づる式に出て来るさ。
 いつも夜なんだ、仕事が終わって青の間に行ったら「爪を切って」と頼まれるんだ。
 お前、自分じゃ切らなかったからな、と笑われた。
 病気の時には切らされていたと、身体がすっかり弱った後にも切らされたと。
 これはハーレイの係だからと、ぼくの爪を切るのはハーレイだから、と。



「俺の特権だとまで言いやがって…」
 何が特権だ、俺をこき使うための口実だろうが。
 爪を切ってくれと、自分じゃ切れないと甘えやがって、いつも、いつも…。
「だって、前のぼくはいつも手袋をはめていたから…」
 手袋の下の手はハーレイにしか見せなかったよ、ハーレイだけが見ていたんだよ。
 後はノルディと医療スタッフくらいだったよ、手袋をはめてちゃ治療とかだって出来ないし…。
「その医療スタッフでいいんじゃないかと思うがな?」
 あいつらの方が上手かった筈だ、そういったことの専門家だぞ?
 ベッドから全く動けないヤツらの世話をするのも医療スタッフの仕事だからな。
「ううん、断然、ハーレイだよ」
 恋人の方が上手いに決まっているよ。
 誰よりもぼくのことを詳しく知ってるんだし、爪を切るのも上手だってば。



 前のブルーがそう考えたのはいつだったか。
 ハーレイと恋をして、同じベッドで眠るようになって。
 あれこれ我儘を言って困らせてみたり、甘えたりして、二人、幸せに暮らしていた頃。
 弱かった身体が悲鳴を上げたか、はたまた病に捕まったか。
 ベッドで臥せる羽目になってしまって、医療スタッフが身の回りの世話をしてくれていた。髪を整えたり、身体を拭いたり、それは丁寧に心をこめて。
(だけど退屈なんだよね…)
 身体はとても重いけれども、熱にうかされてはいなかったから。
 元気でさえあれば、視察と称してブリッジに顔も出せるのに。ハーレイに会いに行けるのに。
 それが全く叶わない日々、夜になるまで恋人の顔を見られない日々。
 病の床にあるソルジャーに定時以外の報告は来ないし、キャプテンは青の間を訪ねては来ない。一日の勤務が終わる時まで、定時報告を兼ねてやって来るまで。
 あまりに退屈で、それに寂しくもあったから。
 ふと思い付いて、医療スタッフに「自分で切るから」と言って爪切りを置いて行かせた。具合のいい時に自分で切るから、気分転換にもなるから、と。
 そしてその夜、ハーレイに手と爪切りとを差し出した。
 「君が切って」と。
 医療スタッフは断ったのだと、代わりに切って欲しいのだけれど、と。



 ハーレイの方は面食らった。
 自分の爪しか切ったことが無いのに、ブルーの爪。華奢な手をしたブルーの爪。
 それは無理だと断ったけれど、ブルーは頑として譲らなかった。
 恋人だったら切ってくれないかと、この手は君にしか見せない手なのだから、と。
 押し問答をしていた所で、ブルーは諦めそうもないから。ただでも寝込んでしまっているのを、余計に疲れさせるから。
 仕方なく爪切りを手にしたハーレイ。嬉々として右手を差し出したブルー。
「お前の手だしな、怪我をさせたらどうしようかと…」
 爪切りだって、失敗しちまえば切り過ぎるだとか、肉まで切るとか。
 おまけに自分の手じゃないからなあ、サッパリ加減が分からなくってな。
「おっかなびっくりだったものね」
 ハーレイ、怖々、切っていたっけ。
 パチンって音が一回する度にぼくに訊くんだ、「大丈夫ですか?」って。
 「痛みませんか」って、「余計に切れてはいませんか」って。
 切り終わった時には座り込んでたよね、もう動けない、って感じで椅子に。



 細心の注意を払って爪を切り続けて、すっかり消耗したハーレイ。
 精神的な緊張と疲れが身体にまで及び、文字通り椅子にへたり込むことになったのだけれど。
 ブルーの方では味を占めてしまって、これに限ると内心小躍りしていた。
 医療スタッフに任せておくよりもいいと、ハーレイに切って貰う方がずっと気持ちがいいと。
 自分を気遣う心が伝わってくるのがいい。医療スタッフもそれは同じだけれども、恋人の心とは質が異なる。
 それに、添えられた手の温もり。
 寝込んでいる間は添い寝だけしかして貰えなくて、身体を重ねられないけれど。
 まるでそうしているかのように、ハーレイと溶け合ってしまったかのように感じられた手。今は自分の手はハーレイのものだと、ハーレイの意のままにされて扱われているのだと。
 そんな錯覚さえをも引き起こしたほどに心地良かった。
 ハーレイに己の手を任せるのは、任せて爪を切って貰うのは。
 もうハーレイにしようと決めた。寝込んだ時に爪を切るなら、それはハーレイに任せようと。



 こうしてハーレイはブルー専属の爪切り係になった。強引に任命されてしまった。
 ソルジャーではなくて、恋人の方のブルーによって。ハーレイにだけは甘えるブルーによって。
 いくら断っても、「君が切って」と差し出された手。それと爪切り。
 「切らないと、ぼくが医療スタッフに叱られるよ」と。「自分で切ると言ったんだから」と。
 最初の間は緊張し切って、パチンと一回音がする度にドキリとしていたハーレイだけれど。
 キャプテンになる前は厨房で料理をしていたほどだし、けして不器用なわけではなかった。
 木彫りの才能は無かったけれども、どちらかと言えば器用な手先。
 慣れてしまえば医療スタッフよりも上手かった。
 丁寧に切って、ヤスリで仕上げて、「如何ですか?」と微笑んだものだ。
 「暇を持て余したあなたがせっせと手入れをしたようでしょう」と、「これで医療スタッフにも小言を言われませんよ」と。



「お前の爪…。俺が切ってるとは誰も気付いていなかったんだよな…」
 お前、爪切りを置いて行って、としか医療スタッフには言わないんだしな?
 退屈したソルジャーが爪の手入れをして遊んでいると、暇つぶしだと思われていたわけで…。
「ふふっ、そうだね」
 よく言われてたよ、「今日も綺麗に切ってありますね」って。
 これじゃ医療スタッフの出番なんかは何処にも無いって、爪の手入れでは敵いません、って。
「そうだろうなあ…。だがな、お前が寝ちまった後…」
 アルテメシアから逃げ出した後は、お役御免になっちまった。
 お前は深く眠ってしまって、医療スタッフから爪切りを奪うどころじゃなくて。
 俺が呼んでも目を覚まさなくて、思念さえも掴めなかったんだ。
 それっきり二度と、お前の爪を切らせては貰えなかったんだよなあ…。
 俺だけの仕事だったのに。俺が専属だったのに…。



 寂しそうな瞳の色のハーレイ。鳶色の瞳に揺れる悲しみ。
 もうブルーには触れられなかったと、手は握れても爪の手入れは出来なかったと。
「そっか、医療スタッフ…」
 ぼくは眠ったままで目覚めないんだし、爪を切るのは医療スタッフの仕事だよね。
 着替えとか身体を拭くのと同じで、医療スタッフがやってたんだね。
 ぼくが仕事を取り上げる前にはやってたことだし、ぼくが起きないなら爪も切るよね…。
「うむ。本来の所に戻ったわけだな、爪切り係が」
 本当を言えば、やってやれないこともなかった。俺の部屋には爪切りだってあったしな。
 そいつを持って行きさえしたなら、もちろんお前の爪だって切れた。
 青の間にあった爪切りだってだ、持ち出して使えばいいだけのことだ。
 ただ…。
 医療スタッフが切っていないのに、お前の爪がいつも綺麗に切られていたなら。
 誰がやったのかということになるし、当然、白状しなけりゃならん。
 そうなった時に、キャプテンの俺が切ってるとなれば、何のことかと思われるからな。どうして俺が爪を切るのか、そんな仕事をしているのか、と。
 俺が厨房出身じゃなくて、ノルディの部下なら何の問題も無かったろうが…。
 昔取った杵柄ってヤツでやっているんだと、このくらいはと言い抜けることも出来ただろうが。



 きちんと手入れされたブルーの手を見るのが悲しかった、とハーレイは言った。
 ソルジャーの正装で眠っていた日も多かったけれど、訪問者の予定が無ければパジャマ。そんな時には白い手が見えたと、切り揃えられた爪が目に入ったと。
「俺がせっせと手入れをしていたばかりに、お前、爪にはこだわりがあると思われたんだな」
 いつも綺麗に切ってあったし、切り口もヤスリで仕上げてあった。
 指先でいくら触ってみたって、引っ掛かりさえしないんだ。そりゃあ綺麗なモンだったさ。
 あれは俺だけの役目だったのに…。お前の爪は俺しか切れなかったのに。
 俺はそいつを取られちまって、手を握ることしか出来なかった。
 トォニイが生まれた後にはそうして子守唄を歌っていたなあ、眠るお前の手を握ってな。
 お前が夢の中でも聞こえていた、って言ってくれた歌。ゆりかごの歌だ。
 お前の手を握って、何度も、何度も。
 爪を切る代わりに歌っていたんだ、あの歌をな…。



 前のハーレイが歌った『ゆりかごの歌』。
 それはブルーの記憶にもある。微かに、微かに残った歌声。育ての母の歌かと思った子守唄。
 けれども、それを歌っていたハーレイの心の中を思うと、謝ることしか出来ないから。
「…ごめん…」
 眠ってしまって、本当にごめん。
 「爪を切ってよ」なんて我儘、言わなかったらよかったね…。
 そしたら少しはマシだったのにね、同じようにぼくが眠ったとしても。
「いいさ、また切らせて貰ったからな」
 お前の爪をもう一度切れるとは思わなかった。
 目覚めたお前は、俺に爪を切ってくれと言い出すよりも前にメギドに行っちまったし…。
 爪なんか二度と切れないどころか、俺はお前を失くしちまった。手が届かなくなっちまった。
 なのに、こうしてまた会えたんだ。
 その上、爪まで切らせて貰った。
 俺はすっかり忘れちまっていたのになあ…。前のお前の爪切り係をしていたことをな。



 思い出させて貰った上に切らせて貰った、とハーレイの顔が綻んだ。
 それも前より小さな爪をと、前のお前より小さくなった手の爪を切らせて貰った、と。
 さっき悲しみの色を湛えた瞳が、今は優しい色だから。
 ブルーは綺麗に爪を切って貰った両手を揃えて差し出した。
「じゃあ、また切ってくれる?」
 この次、爪が伸びちゃった時は、ハーレイにお願いしてもいい?
 ちゃんと爪切り、用意するから。ぼくの部屋に持って来ておくから。
「…そいつはなあ…」
 次と言われても、爪なんて直ぐに伸びるしな?
 前のお前だって、俺にばっかり切らせてたわけじゃないだろう?
 普段は自分で切ってた筈だぞ、俺の真似をしてヤスリまでかけてキッチリとな。時間だけは充分あったからなあ、前のお前は。
 こんな感じだと、ハーレイの真似をしてみたんだと自慢したじゃないか、最初の頃は。
 いつの間にやら当たり前になって、それこそ暇つぶしに手入れしていたみたいだが。
 だからだ、お前も前のお前を見習っておけ。
 爪が伸びたら自分で切る。俺のやり方を真似したいんなら、仕上げはヤスリだ。



 切ってやる方はまたいつかな、とはぐらかされた。
 普段は自分で手入れをしろと、そうそう切らされてはたまらないと。
「いいか、いくら恋人同士でもだ。爪まで切るのは…」
 そこまでするのはどうかと思うぞ、お前みたいなチビを相手に。
「…今だと切るのが難しい?」
 ぼくの手、小さくなっちゃったから…。
 前のぼくの手とはやっぱり違って、小さい分だけ切りにくいの?
 赤ちゃんの手なんか、どうやって爪を切ったらいいのか、ぼくだって悩んじゃうものね…。
「チビの手だから難しいだとか、そういう問題じゃなくてだな…」
 今の俺だって手先は器用だ、現に今日だって上手く切ったろ?
 そういう点では全く問題無いんだが…。前の俺の記憶もある分、爪は切ることが出来るんだが。
 爪は上手に切れたとしてもだ、俺の方が我慢の限界だ。
 分かるか、俺が耐えられないんだ。



 爪を切るだけでは済まなくなってしまいそうだ、と苦笑された。
 だから断ると、もっと大きく育ってからだと。
 キスを交わせるだけの背丈に、前のお前と同じ背丈にならんと駄目だ、と。
 つまりはハーレイも前のブルーと思いが重なっていたということ。
 爪を切る間、ブルーの手を握っている間。
 ハーレイもまた、溶け合うような感覚を抱いていたということ。
 手と手を通して繋がっていると、この手は自分のものでもあると。
 その思いまでが同じだったと気付いたというのに、断られてしまった爪を切ること。次に伸びた時も切って欲しいと頼んでいるのに、駄目だと苦い顔のハーレイ。
 せっかく思い出したのに、とブルーは諦め切れないから。
 また切って欲しいと思うものだから、唇を尖らせて膨れてみせた。
 ハーレイがチビだと断るからには、チビらしく。チビはチビらしく、うんと我儘に。



「今日はちゃんと切ってくれたのに…」
 断らなかったじゃない、ぼくがチビでも!
 次だって別に変わりやしないよ、また切ってくれればいいじゃない!
「縁起は担ぐと言っただろうが」
 俺が切ってやらなきゃ、お前は夜に爪を切ることになったんだしな?
 夜は駄目だと知っているのに、黙っているわけにはいかないだろうが。たとえ迷信でも、縁起は担いでおきたいんだ。俺は古典の教師だからな。
「じゃあ、次も夕方!」
 頼む時には夕方にするよ、爪を切って、って。
 そうすればハーレイが切ってくれるんでしょ、断ったらぼくは夜に切ることになるんだから。
 そうなると知ってて放っておくほど、ハーレイ、冷たくない筈だものね。
「いや、この次からはお前に切らせる」
 俺が監視して、「さっさと切れよ」と促すまでだな、夕方に頼まれた時にはな。
 お茶を飲みながら待っててやるから、その爪、早く切ってしまえと。
 今日のが例外だったんだ。次は自分で切って貰うぞ。



 切ってやるのは一回限りだ、と突き放されたけれど。
 今日だけの特別サービスなのだ、と鼻で笑われてしまったけれど。
 思い出してしまった、ハーレイに爪を切って貰うこと。それがとても心地良かったこと。
 そうして今日も切って貰えて、爪切りの音が嬉しかったから。
 パチン、パチンと爪を切る音と、ハーレイの手の温もりが今も心を離れないから。
 チビだと言われた小さなブルーは、意地悪な恋人に問い掛けた。
「…結婚したら、また切ってくれる?」
 今日みたいにぼくの爪が伸びたら、ハーレイが爪切り、してくれる?
 ぼくが病気で寝てない時でも、元気に起きている時でも…?
「もちろんだ」
 断る理由は何も無いなあ、お前と結婚した後ならな。
 お前の爪をまた切れるんだったら、お前専属の爪切り係をもう一度拝命するまでさ。
 ベッドに寝てないお前の爪なら、さぞ切り甲斐があるんだろうなあ…。
 ソファとかにお前と一緒に座って、甘えてくるのを「邪魔だぞ」と叱ってみたりしてな。
 これじゃ切れないと、大人しくしろと。
 指まで一緒に切られたいのかと、怪我をするぞと言いながらな…。



 そういうお前の爪を切りたいと、切らせてくれ、と頼まれたから。
 今は駄目だと断ったハーレイの口から、いつか切りたいという熱い言葉を引き出せたから。
(ふふっ、爪切り…)
 切って貰おう、とブルーの心が温かくなる。
 次にハーレイに爪を切って貰う時はきっと、ハーレイの家に居るのだろう。
 結婚して二人、幸せに暮らしているのだろう。
 そんな日々の中で爪が伸びたら、切って貰って、キスを交わして。
 ソファに居たなら、そのまま其処に居るかもしれない。
 あるいはハーレイの腕に抱かれて、寝室に移動するのだろうか。
 そうして二人、恋人同士。
 ブルーが夢見る、本物の恋人同士の時間。
 前の自分たちがそうだったように、重なり合って、溶け合って、もう離れない。
 爪切りから始まる、至福の時。
 ハーレイに「爪を切ってよ」と強請って、甘えて。
 その後はもう、二人だけの世界。
 重なり合わせた手と手から溶けて、互いに互いのものになって溶けて…。




              爪切り・了

※前のブルーが、ハーレイに切って貰っていた爪。医療スタッフは断ってまで。
 けれど、長い眠りに入った後には、爪切りは医療スタッフが。久しぶりの爪切りです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







PR

(…ん?)
 この曲は、とハーレイは首を傾げて聴き入った。
 閉店間際の食料品店、流れ始めたいつもの曲。買い物客が慌てないよう、閉店の三十分前からは必ずこの曲、それが繰り返し流れる決まり。
 今日は土曜日、ブルーの家で夕食後もゆっくり過ごしたから。それから歩いて帰って来たから、店に入って暫くしてから流れ始めた閉店の曲。
 まだ半時間は閉まらないけれど、買い物をするには充分だけども。その曲が何故だか懐かしい。耳に馴染んだハープが奏でるメロディ。遅い時間に寄ったら聞く曲。
(よく聞いてるしな?)
 この町に越して来てから何度となく聞いた。耳にして来た。家から近くて便利な店だし、豊富な品揃えも気に入っている。食料品を買うなら此処だ、と決めているから、閉店間際にも何回も。
(こいつが鳴ったら閉店前だ、って分かってるしな)
 そのせいだろう、と考えたけれど、それだけではないような気がしないでもない。
(何処か別の所で聞いたか、これを?)
 今までの勤務先だった学校で流れていただろうか?
 昼休みの終わりや、下校時刻を告げるメロディの一つだったろうか?
 自分にとっては食料品店の曲だけれども、この学校では違う意味だと思って聴いていたろうか?



(どうも分からんな…)
 そもそも音楽全般に疎い。名曲だろうが流行りの曲だろうが、買って聴こうと思わない。楽器の演奏だってからっきしだし、歌も滅多に歌わない。鼻歌はたまに歌うけれども。
(…はてさて、何処で聞いたんだったか…)
 この店以外の何処だったろう、と考えながら野菜や肉などを選んで籠に入れていった。店に備え付けの籠に色々、それをレジへと運んで、会計。
 袋に詰めて貰った食料品を提げて、さて、と出口に向かった時。
(アルフレート…!)
 あの曲だった、と思い出した。遠い記憶が蘇って来た。
 フィシスの世話をしていた楽士。自分よりも濃い肌の色をしていたアルフレート。
 彼が竪琴で奏でた曲だと、彼が作った曲だったと。
(…そうだったのか…)
 袋を提げたまま、出口に立って。曲が終わるまで、何度も繰り返し流れ続けて閉店のチャイムがそれに重なるまで聴いていた。ハープのメロディを聴き続けた。
 この曲だったと、白い鯨で、シャングリラで聞いていたのだった、と。



 買い込んだ食料品を提げて家に帰って、冷蔵庫や棚にそれらを仕舞って。
 一息つこうとコーヒーを淹れて、愛用のマグカップを傾けながら先刻の曲を思い浮かべた。
 前の自分の記憶が戻ってかなり経つのに、あの店にも何度も行ったのに。
 白い鯨で聞いた曲とは気付かなかった。閉店を知らせるメロディだとばかり思っていた。曲名も知らず、あの店で流れる曲なのだ、とだけ。ハープのメロディが流れ始めたら、あと三十分、と。
(俺が今日まで忘れてたってことは…)
 全く気付かず、買い物をしていたということは。
 小さなブルーも同じだろうか?
 アルフレートが奏でていた曲を、白いシャングリラで耳にした曲を忘れたろうか?
 自分よりは多く耳にしていた筈だけれども。
 フィシスの所に出入りする度、あの曲を聞いていただろうけれど。
(それにしたって…なあ?)
 ブルーが所望しない限りは、アルフレートは曲を続けはしなかったろう。ソルジャー・ブルーのご訪問だ、と奥の部屋へと下がっただろう。
 ブルーの目的はフィシスに会うこと、フィシスが抱く地球を見ること。二人で話したり、お茶を飲んだり、そうした時間がブルーの望み。他の人間など要りはしないし、音楽も同じ。
(…そうそう聞いてはいなかったろうな、アルフレートの曲…)
 気に入っていたなら、青の間にも呼んでいただろう。個人的に奏でさせただろう。
 つまりは前のブルーにとっても、さほど興味は無かった曲。忘れてしまった可能性も高い。



(明日、訊いてみるか…)
 せっかくだから、と心に決めた。
 このメロディをお前は覚えているかと、何の曲だか知っているか、と。
 もしも明日まで覚えていたなら、アルフレートの曲を思い出したと、忘れずに目が覚めたなら。
(…しかし…)
 どうやって訊いたものだろう?
 小さなブルーに聞かせようにも、歌は名人の部類ではないし、楽器の方もまるで駄目だし…。
(ハープなんかは論外なんだ!)
 触ったことすら無いハープ。楽器とくればせいぜい縦笛、後はオカリナにハーモニカ程度。早い話が学校で習った楽器が限界、アルフレートのようにはいかない。
 歌も下手ではないのだけれど。音痴とも言われていないけれども、好き好んでは歌わない。耳で聞いただけの曲を歌声に乗せて披露出来るほど、いい声だとも思っていない。
(…そうなってくると、鼻歌か?)
 試しにフフン、と歌ってみた。閉店のメロディの出だしを、さわりを。
(ふむ…)
 これなら出来ないこともない。歌詞も無い曲を野太い声で歌うよりかはマシだろう。
(続きがこうで…)
 こんな曲で、と練習する内、それらしいものになってきた。白い鯨で聞いた竪琴とも、ハープの音色とも違うけれども、アルフレートが奏でた曲に。
 これならブルーに聞かせられるし、明日も忘れていないだろう。練習を重ねてものにした曲は、きっと何処かに残るだろうから。



 日記を書いて、ベッドに入って。次の日の朝、顔を洗おうとして思い出した。
 鏡に映った自分の顔を見て、その鼻を見て。
 昨夜、何度も歌った鼻歌。こう歌うのだ、と淀みなく歌えるようになるまで繰り返した歌。白い鯨で、白いシャングリラでアルフレートが奏でていた曲。
 それをブルーに聞かせるのだったと、覚えているかと訊くのだった、と。
(どんな具合だ?)
 上手く歌えるか、と顔を洗った後、パジャマのままで歌ってみて。
(俺としては上出来の部類なんだが…)
 充分に聞ける出来だと思う。あの曲だと分かって貰えると思う。アルフレートの竪琴とは違って鼻歌だけれど、ハープの音とも違うけれども、あのメロディだと。
 とはいえ、楽器で奏でるのではなくて鼻歌だから。
(あいつに笑われなきゃあいいがな…)
 それだけが少し心配だった。
 小さなブルーが吹き出さないかと、アルフレートの曲だと思い出すより前に、と。



 着替えを済ませて朝食を食べて、天気がいいから今日も歩いてブルーの家へ。
 あの食料品店の前を通って、鼻歌を軽く歌いながら。アルフレートが奏でた曲を。
 生垣に囲まれた家に着いたら、二階の窓から手を振るブルー。
 部屋に通され、ブルーの母がテーブルの上にお茶とお菓子を置いて去って行った後で。
「おい。お前、この曲、覚えているか?」
 下手なんだが、と例の鼻歌を聞かせてやれば。
 小さなブルーは首を傾げて聴き入った。笑う代わりに、赤い瞳をパチクリとさせて。
「…なんだったっけ? 聞いたような気もするけれど…」
 覚えてるか、って言われても…。それ、学校で教わる曲なの、有名な曲?
「本物の曲は鼻歌じゃなくて、ハープなんだが」
「ハープ?」
「竪琴だ、竪琴。こう、弦を張った」
 あるだろ、そういう類の楽器。形は色々あるらしいけどな。
「えーっと…」
 ハープで聴かせる曲なの、それ?
 そんなの、何処かで聞いたかなあ…。えーっと、ハープ…。ハープの曲…。



 ハープの演奏会に出掛けた覚えは無いし、とブルーは考え込んでいたけれど。学校で習った曲の中にも入っていない、と呟いたけれど。
 もう一度、聞かせてやったらば。「こういう曲だ」と鼻歌を披露してやったら。歌い終える前にブルーは叫んだ。思い出した、と。
「アルフレート…!」
 天体の間で聞いたよ、その曲。アルフレートがいつも弾いていたよ。
「そうだ、あいつの曲なんだ」
 俺もすっかり忘れていたがな、しょっちゅう聞いていたのにな?
 昨日、此処から帰る途中で聞いたら思い出したんだ。アルフレートの曲だった、とな。
「帰る途中って…。何処で聞いたの?」
「食料品店だ、俺がしょっちゅう行ってる店だ」
 閉店の三十分前になったら流すのさ。そっちはきちんとハープの音でな。
「食料品店って…。なんで、そんなトコ?」
 どうして食料品店で流れてるわけ、あの曲が?
「さてなあ?」
 店主の趣味だか、どうなんだか…。長年あそこに通ってるんだが、昔からだな。
「一応、有名な曲ではあるの?」
「俺も詳しくないんだが…」
 そいつは調べてくるのを忘れた、鼻歌を練習していたもんでな。
 あの曲をお前に聞かせるには…、と頑張ったんだが、今、気が付いた。思念で伝えりゃハープの曲を伝えられたと、俺の記憶をそのまま流せば良かったと。
 迂闊だったな、サイオンってものを忘れちまってた。普段に使っていないと駄目だな、全く。
 しかしだ、有名な曲だと言うなら、もっと他でもあの曲を聞いているだろう。
 お前よりかは長く生きてるし、食料品店の曲だという形で覚えちゃいないと思うぞ、あれを。



 さほど有名な曲ではないのだろう、と推測を述べた。
 あの店以外で耳にしたなら、よく聞く曲なら、曲名を知らずとも耳に残るに違いないから。何の曲だろうと、本来は何処で披露されるべき曲なのだろうと思うだろうから。
 たとえばハープ奏者の演奏会とか、交響曲の一節だとか。
 好きな人ならピンとくる曲で、知らない人でも「何の曲だった?」と尋ねたくなる曲。そういう曲とは違うようだと、あの店でしか聞かないから、と。



「第一、アルフレートがな…」
 あまり知られていないじゃないか。俺たちは前の記憶があるから、直ぐに分かるが…。
 音楽の教科書にも名前が載ってはいないんじゃないか、アルフレートは?
「そういえば、そうだね」
 音楽の歴史は習うけれども、アルフレートは出てない筈だよ。
 上の学校に行って詳しく習えば、出て来るのかもしれないけれど…。
「そんな感じの扱いだろうな、俺は習っちゃいないがな」
 音楽なんぞとは縁の無い学生生活だったし、その手の授業は受けてないんだ。アルフレートには一度も会わずに来たなあ、あの店で曲を聞いてただけでな。
 もっとも、アルフレートの影が薄いというのは、シャングリラに居た頃も同じだったが。
「うん。目立つ方ではなかったよ」
 みんなの制服とはまるで違うのを着てたけれども、それだけだもの。
 竪琴にしたって、演奏会をやりたいタイプじゃなかったものね。



 前のブルーがアルテメシアで保護した少年。引っ込み思案のアルフレート。
 成人検査を受ける年にはまだ遠かった。養父母の通報でミュウと判断されたけれども、幼かった彼はそれさえも知らず、ユニバーサルの職員に捕えられる直前に救出されてシャングリラに来た。
 右も左も分からない場所に、養父母も友達もいない所に。
 普通はそれでも慣れるものだけれど、アルフレートはそうはいかなくて。
 機嫌を取ろうと「欲しいものは?」「食べたいものは?」と養育部門の者が尋ねても黙るだけ。
 けれども、ブルーがアルフレートに会った時。
 ソルジャーに不可能なことは無いに等しいと教わったからか、俯き加減でこう口にした。
 「竪琴が欲しい」と、この船に竪琴は無さそうだけど、と。
「あいつ、竪琴を習ってたんだよなあ…。通報される前は」
「そう。だから竪琴を欲しがったんだよ、懐かしい思い出に繋がってるから」
 竪琴を教える教室に通ったこととか、そこに居た音楽をやる友達とか。
 家で練習していた時にも、お父さんやお母さんに聞いて貰っていたんだものね…。



 白いシャングリラに竪琴という楽器は無かったけれど。
 話を聞いたゼルが「わしがなんとかしてやるわい」と名乗りを上げた。楽器といえども仕組みは機械と似たようなものだと、設計図どおりに作れば出来ると。
 ヒルマンが竪琴の構造を調べて、ゼルが「金属よりかは柔らかいんじゃ」と木を加工して作った骨組み。ニスを塗って仕上げて、特製の弦を張って音を確かめ、渡してやった。
 「これでどうじゃ」と、「お前の竪琴が出来たんじゃが」と。
 アルフレートは大喜びして、何度も「ありがとう」と頭を下げた。竪琴をくれたゼルに、周りで見守る長老たちとキャプテン、それにブルーに。
 これが欲しかったと、やっと竪琴が弾けるようになったと、アルフレートの顔が語っていた。
 引っ込み思案の子供だったから、「ありがとう」の言葉だけしか言えなかったけれど。



 喧嘩を吹っかけられれば負けるし、それを恐れて子供たちの群れには近付かないし。
 ヒルマンの授業が終わった途端に逃げるように去ってゆく子供だったけれど。
 何かといえば泣いてばかりで、唯一の友は貰った竪琴。
 それを上手に奏でる他には特技も何も持ってはいなくて、おまけに極度の引っ込み思案。
 船での役目もろくに務まりそうにないから、成長した後は天体の間に配属された。
 母なる地球の四季の星座を映し出す部屋。皆の憩いの場でもあるから、音楽係がいるというのもいいだろう、と。それならば竪琴を弾いていられるし、立派な仕事と見做されるから。
 制服も一人だけ、皆とは違ったデザインで。
 間違って仕事を言いつけられたりしないように、とアルフレート専用の衣装が出来た。それさえ着ていれば何処に行っても「音楽係だ」と一目で分かるし、他の用事は頼まれない。
 シャングリラでの仕事は多岐に亘って、手が足りなければ通りかかった者を使いもする。これを取って来て貰えないかと、あるいは伝言を頼めるか、などと。
 アルフレートにはそれも難しそうだ、と音楽係。
 わざわざ制服のデザインまでも変えて、無用のトラブルに巻き込まれることがないように、と。



「そのアルフレートが、だ…」
 フィシスが来てから変わったんだよな、劇的にな。
 竪琴を弾くことだけしか出来ないヤツだと思っていたのに、フィシス専属になるとはなあ…。
 「世話を頼んでもかまわないかい、って言っただけなんだけどね、前のぼくは」
 フィシスの居場所は天体の間がいい、と決めていたから、アルフレートに言わなくちゃ、って。
 小さな女の子が一人増えるから、出来れば世話をしてくれるかな、って。
 断られちゃうと思っていたのに、フィシスを見るなり引き受けちゃったよ、アルフレートは。
「そうなんだよなあ、俺もあれには驚いたもんだ」
 アルフレートだけに、自分の居場所を変えちまうかと思ったが…。
 展望室にでも引越すだろうと思ってたんだが、いともあっさり「はい」と答えたと来たもんだ。
 その後はもう一所懸命にフィシスを世話して、音楽係の方がオマケってな。



 引っ込み思案で人見知りだったアルフレートに託されたフィシス。幼いフィシス。
 アルフレートにとって、フィシスの世話はどうやら天職だったらしくて。
 身の回りの世話は女性の係がついたけれども、その他は全部アルフレートがやっていた。部屋を訪問して来た者を取り次ぐことから、船内を移動する時の付き添いまで。
「お茶を淹れるのもあいつだったよなあ、何をするにも、何処に行ってもフィシス様、と」
 フィシスがこんなに小さな子供の頃から、もうフィシス様、フィシス様でな。
「あれにはぼくも敵わなかったよ、フィシスしか見えていないんだもの」
 前のぼくとアルフレートと、どっちがフィシスを大事に扱っていたんだろう、って訊かれたら。
 圧倒的にアルフレートの勝ちだよ、ぼくよりもね。
「…そうなのか?」
「うん。アルフレートにかかったらフィシスはお姫様だよ」
 ぼくが敵うわけないじゃない。一日中、フィシスの側には居られないしね。
「敵わないって…。あいつのライバル、お前だったが?」
「なんで?」
 どうしてぼくがライバルになるわけ、アルフレートの?
「お前、フィシスの王子様だろうが」
「そうだっけ?」
「自覚、無かったのか…」
 お前には自覚が無かったんだな、王子様のくせに。何処から見たってそう見えたのに…。
 今の時代でも、フィシスと言ったらお前とセットにされてるのにな?



 それにフィシスの方ではそのつもりだったぞ、とハーレイは頭を抱えたけれど。
 自分を助け出してくれて、守ってくれている王子様だと思っていたぞ、と言ったけれども。
 キョトンとしている小さなブルー。
 フィシスは女神だから、そのように扱っていただけだと。
 青い地球を抱く女神らしくと、ミュウの女神に相応しく衣装もそのように、と。
「後は攫って来た負い目かなあ…」
 ぼくがサイオンを与えなかったら、ぼくと出会っていなかったなら。
 失敗作でも、データを次に生かすためにと、寿命を迎えるまで生きられた可能性もあったしね。
 研究者たちしか知らないままでも、ミュウになるのとは別の人生。
 それを潰したのが前のぼくだったんだよ、フィシスの人生を強引に変えてしまってね。
「おいおい、お前がそれを言うのか?」
 どうしても欲しいと攫って来たお前が、フィシスが欲しいと攫ったお前が。
「だって、王子様って言われても…。ぼくには恋人、とっくにいたしね?」
 フィシスを攫って来てもいいか、って相談した相手もその恋人だよ、前のハーレイだよ?
「確かにそうではあるんだが…」
 お前は俺に相談に来たし、俺が許したわけなんだが…。
 フィシスはそうやって船に来たんだが、それにしたって、フィシスの王子様はだな…。



 シャングリラでの評価はお前の言うのとは違っただろう、とハーレイは嘆く。
 ブルーとフィシスで対だったろう、と。アルフレートとフィシスではなくて、と。
「まあ、いい隠れ蓑にはなったがな。…フィシス」
 お前と俺との仲を隠すにはピッタリだったな、フィシスの存在。
「…そうだったの?」
「うむ。俺が必死に顔に出さないよう頑張らなくても、みんなフィシスを見ていたからな」
「フィシスは美人だったしね?」
 誰だってじっと見ていたくなるよ、フィシスが通り掛かったら。
「そうじゃなくてだ、お前の恋人…。俺だとバレたら大変だったが、フィシスが来たら、だ」
 明らかにフィシスの方がお前に似合いだ、誰が見たって似合いの二人だ。美男と美女でな。
 俺なんかは誰も疑いやしない、フィシスって美人が来ちまったらな。
 なにしろ薔薇のジャムが誰よりも似合わん男だ、クジ引きの箱にだって素通りされたんだ。
 そんな俺がお前の恋人だなどと、間違ったって誰も思わんな。フィシスがお前の側にいればな。



 誰の目にもフィシスに似合いだと映っていたブルー。ソルジャー・ブルー。
 アルフレートも例外ではなくて、ブルーにだけは敵わないと思っていたのだろうに。
 生まれ変わった当のブルーは、小さなブルーは自覚も無ければ、それと気付いてもいなかった。
 ハーレイの話にポカンとするだけで、信じられないと驚くだけで。
「…前のぼくがアルフレートのライバルだったなんて…」
 知らなかったよ、今の今まで。
 アルフレートったら、一人で勝手に思い込んでて、勝てないと決めてしまっていたんだ?
 じゃあ、前のぼくが死んじゃった後は、もうアルフレートのものだよね、フィシス。
 ライバルはいなくなったんだから。
 寂しがってるフィシスの世話をして、慰めてあげて…。
 アルフレートが一人占めに出来るよ、前のぼくはもういないんだから。



 きっとそうだ、とブルーが言うから。
 小さなブルーの頭の中では、ハッピーエンドな結末が描かれているようだから。
「お前なあ…。そうなっていたら、アルフレートも伝説だぞ?」
 今みたいに影が薄いどころか、有名人だ。あの曲を作った作曲家な上に、音楽家としてな。
「どうして?」
「有名な幼稚園の先生の旦那様だぞ、フィシスと結婚出来ていればな」
 フィシス先生の像とセットで、アルフレートも竪琴を抱えた像があったろうさ。あちこちの星で子供たちに竪琴を弾いてやっただろうしな、いろんな曲をな。
 フィシスは今でも像があるほど、伝説の幼稚園の先生だろうが。音楽家の旦那様が一緒に旅して回っていたなら、そっちも間違いなく有名人だ。
「…それじゃ、アルフレートは何処に行っちゃったの?」
 何処に消えちゃったの、フィシスと一緒に幼稚園に行かなかったのなら?
「さあなあ、フィシスが作った幼稚園にはカナリヤの子供たちがセットだしなあ…」
 あの子供たちと一緒に幼稚園を作ったんだ、って話は今でも残っちゃいるが…。
 幼稚園で竪琴を弾いてた男がいたとは伝わってないし、アルフレートは何処へ消えたんだか…。
 もしかしたら、竪琴、弾いていたかもしれないけどな。
 フィシスの旦那様なら覚えて貰って有名人になれたんだろうが、ただの竪琴弾きではなあ…。
「…忘れられちゃった?」
 幼稚園の先生になったフィシスの世話をしてても、フィシスと結婚しなかったから。
「そうかもなあ…」
 ちゃんと世話係で、竪琴も弾いて、幼稚園までついて行ったのかもなあ…。
 それなのに忘れられてしまったかもなあ、引っ込み思案のアルフレートだしな?
 目立ちたいタイプとは全く違うし、最後の最後まで裏方のままで消息が途絶えてしまった、と。



 だが、曲だけは今も残っているさ、とハーレイは鼻歌を歌ってやった。
 昨夜、何度も練習した曲。アルフレートが弾いていた曲。
 下手だけどな、と。思念波で伝え直そうか、と。
「ううん、その歌の方がいい。アルフレートの曲も懐かしかったよ」
 でもね…。
 それをハーレイが聴かせてくれた方が嬉しいよ、と小さなブルーが微笑むから。
 ハーレイの鼻歌で聴けて良かったと、思念波で伝えて貰うよりもいい、と顔を綻ばせるから。
「…アルフレートも気の毒なヤツだな、お前がライバルだっただなんてな」
 ライバルどころか、戦う必要さえも全く何処にも無かったんだが…。
 いくらフィシスがお前を見てても、お前の方ではフィシスに恋しちゃいなかったのにな。
「仕方ないよ。ぼくとハーレイとが恋人同士ってことは、誰にも秘密だったんだから」
 フィシスだって気付いていない筈だよ、気付いていたなら、もっと何か…。
 なんだったっけ、占い師は自分のことは占ってはいけないんだったっけ?
 だからフィシスは恋占いは一度もしなかったろうし、前のぼくが誰に恋をしてたかも気付いてはいない筈なんだよね。
 ぼくの恋の行方を占ってみたって、相手が誰かは読めないんだから。
「なるほどなあ…。フィシスとしては、お前の恋の相手は自分のつもりでいられるわけか」
 占ってみても、俺の名前はカードには書いてないからなあ…。
「そういうことだよ。悲しい恋、って出ていたとしても、それだけなんだよ」
 ぼくがメギドで死んでしまって、それでおしまい。占いで出来ることはそこまでだけ。
「すると、あいつは被害者なのか?」
 前のお前をライバル視したのに、そのライバルには俺がいたというオチ。
 俺は恨まれても仕方ないのか、コソコソしてずに表に出て来いと。
 そうすりゃフィシスも目が覚めちまって、自分の方を向いてくれるかもしれないのに、と。
「…そうだったかも…」
 被害者だったかもね、アルフレートは。
 前のハーレイが隠れてたせいで、恋の相手を逃してしまった気の毒な被害者。



「おいおいおい…」
 恨まれたんではたまらないな、とハーレイは苦笑したけれど。
 アルフレートの方は、最後まで気付きもしなかったろう。それにフィシスも。
 自分とブルーが秘密の恋人同士だったことに。
 前のブルーが恋をしていたのはフィシスではなくて、ハーレイだったということに。
 誰が見ても美人のフィシスがブルーには似合いの恋人だけども、ブルーの恋人は薔薇のジャムが似合わないと言われたハーレイ。シャングリラで薔薇のジャムが作られる度に希望者が引いたクジ引きの箱が、前を素通りしていたハーレイ。
 最後まで誰も気付かなかった。
 ブルーの恋人が本当は誰か、誰がブルーの恋した相手だったのか。
 それは今でも知られないままで、ソルジャー・ブルーと対になるのはフィシスのままで。
 だからきっと、アルフレートも知らずに終わって、時の彼方に消えたのだろう。
 前のブルーを恋のライバルだと思い込んだまま、あの曲だけを今に残して。



「前のぼくとハーレイが恋人同士だったってこと…」
 今度も秘密のままなのかな?
 ぼくはハーレイと結婚するけど、前のぼくの記憶を話さなければ、ぼくはぼくだし…。
 ソルジャー・ブルーにそっくりっていうだけの、ただのブルーだし。
 ハーレイだってそうだよね?
 二人揃って黙っていたなら、前のぼくたちのことは知られないままで終わるんだけど…。
「どうするかなあ…。平凡に暮らしたければ、秘密だな」
 記憶のことなんか喋りもしないで、普通に暮らしていれば普通の恋人同士だ。
 前の俺たちとはまるで無関係で、今の平和な時代だけを楽しんでいけばいいってな。
 学者たちにも取り囲まれないし、インタビューされることだって無いし…。
「…そうしようか?」
 黙っていようか、ぼくたちの記憶。
 なんにも知らないふりをしちゃって、知らん顔で生きて行くのがいいかな…?
「お前の好きなようにすればいいさ」
 喋りたければ、喋っちまっていいんだぞ?
 俺はお前に合わせてやるから。黙ってるにしても、喋るにしても。
「うん、そうする」
 今は黙っていたいって気分。
 前のぼくの記憶は懐かしいけれど、ハーレイと二人で懐かしめれば充分だよ、って。



 そして二人で買い物に行こう、とブルーは笑顔になった。
 いつかハーレイと結婚したなら、手を繋いで二人で買い物に行こうと。
 懐かしいアルフレートの竪琴を聴きに、閉店間際の食料品店へ。
 曲を奏でる人はアルフレートではないけれど。きっと別人が奏でたハープの音色だろうけれど。
 あれこれと買い物をしてから家へ帰って、二人でゆっくり夕食を…、と。
 買い込んで来た食材でハーレイが美味しい料理を作って、ブルーと皿に盛り付けて。
 誰にも邪魔をされずに夕食、時にはキスを交わしたりもして。
 そう、今はそんな風に暮らせる平和な世界。結婚して二人で暮らせる世界。
 あの曲を奏でたアルフレートはもう、何処を探してもいないけれども…。




          遠い竪琴・了

※ハーレイが思い出した、アルフレートが奏でていた曲。ゼルに作って貰ったハープで。
 今の時代は曲が残っているだけですけど、食料品店が閉まる前には、いつも流れるのです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(んーと…)
 金曜日の夜、眠る前にサポーターを着けようとしていたブルー。
 今夜は少し冷えそうだからと、メギドの悪夢を見てしまってはたまらないから、と。ハーレイがくれたサポーター。医療用の薄いサポーター。
 秋の初めに夜中の冷え込みで毎晩のようにメギドの夢を見た。右の手が冷えて冷たくなるから。前の生の最後にハーレイの温もりを失くしてしまって、凍えた記憶が蘇るから。
 それを防ぐための助けになれば…、とハーレイがサポーターを贈ってくれた。右手用に、と。
 自分がブルーの右手を握る時の力加減を再現したと、そのように作って貰ったと。
 着ければハーレイに右手を握られているような感覚になれるサポーター。初めて着けて眠った夜には、メギドの夢にハーレイが現れたほどに。
 幻のハーレイだったけれども、凍えた右手にそっと移してくれた温もり。ハーレイの幻が消えた後にも温もりは残って、悲しくなかった。独りぼっちではないと、もう一人ではないのだと。
 そういう夢を見せてくれたり、悪夢そのものを防いでくれたり。
 なんとも頼もしいサポーターではあったけれども、不意に浮かんで来た疑問。



(ハーレイ、何処で買ったんだろう?)
 激しいスポーツも遊びもしないから、サポーターなどのお世話になったことは無かった。
 生まれつき身体が弱いものだから、馴染みの医師はいるけれど。何度となく近所の病院へ通ったけれども、そこでは多分、こういったものは作らない。
 風邪を引いたの、腹痛だのと、そういった患者を対象に診ている町の医師。ブルーが知っている医師はそういう医師。
(あの病院には怪我をした人は行かないし…)
 当然、医療用のサポーターを貰って帰る患者もいない。だから分からない、サポーターの出処。ハーレイが何処で作って来たのか、何処で注文したのかが。
(…やっぱり怪我のお医者さんだよね?)
 骨折だとか、捻挫だとか。ブルーには縁の無い世界。せいぜい擦り傷、切り傷くらい。わざわざ病院に出向かなくても、家で手当てが出来る怪我しかしたことが無い。
 しかし、ハーレイはスポーツをする。水泳はそうでもないだろうけれど、柔道は身体をぶつけるスポーツだから。投げたり、投げられたりする武道だから、怪我も付き物なのかもしれない。
 もしかしたら、ハーレイも怪我をしたことがあるのだろうか?
 そのせいで馴染みの医師がいるのだろうか、怪我を専門に扱う医師が?



(…骨折しちゃったこともあるとか…?)
 そうした話は一度も聞いてはいないけれども、あったかもしれない。
 今のハーレイの人生では骨折や捻挫の一つや二つや、あるいは日常茶飯事くらいに。
(身体が丈夫でも怪我はするよね?)
 運が悪ければ、自分の技が拙いものであったりすれば。
 プロの選手にならないか、と声がかかったほどの腕であっても、始めた頃には初心者だから。
(…やっぱり、怪我して知り合っちゃった?)
 このサポーターを作ってくれた医師と、捻挫や骨折を切っ掛けにして。
(前のハーレイは骨折も捻挫もしなかったけれど…)
 キャプテンはブリッジで指揮を執るだけだし、キャプテンになる前は厨房にいたし、そういった怪我とは無縁の立場。今のハーレイは違うのだろうか、何度も怪我をしたのだろうか?
(切り傷くらいは前のハーレイもやってたけれど…)
 骨折は無かった。捻挫だって、多分。
 今のハーレイならではの経験かも、と気になってきたから、メモに書き付けた。
 「サポーターとお医者さん」と。
 明日は土曜日だから、訊いてみようと。
 ハーレイが来たら、何処でサポーターを作ったのかと。



 勉強机の上にメモを置いて、一晩ぐっすり深く眠って。朝、目を覚ますと例のメモ。
(訊かなくっちゃ…!)
 ハーレイの武勇伝のオマケもついて来そうな素敵な質問だから。
 朝食を済ませて部屋の掃除もして、待ち受けていたらチャイムの音。門扉の所に立つハーレイに大きく手を振り、部屋まで上がって来てくれるのを待った。
 母がテーブルにお茶とお菓子を置いて去るなり、早速、質問。あのサポーターも持って来て。
「ハーレイ、このサポーターなんだけど…」
 切り出す前にハーレイが「効かなかったか?」と心配そうな瞳になった。昨夜はメギドの悪夢が来たかと、サポーターは役に立たなかったか、と。
「ううん、昨日は夢は見てないんだけど…。夢とは全く関係ないんだけれど…」
 このサポーターは何処で作って貰ったの、と尋ねてみた。医療用だから病院なのかと、何処かの病院で頼んだのか、と。
「そりゃあ、まあ…。いわゆる病院って所だが?」
 薬局とかでも売ってはいるがな、力加減の調整をするなら病院に出掛けて作らないとな?
 俺の握力とかを測ってもらって、それに合わせて。



「病院って…。ハーレイ、怪我をしたの?」
 予想通りの答えだったから、そう問い返せば。
「何故だ? なんだって俺が怪我になるんだ」
「病院だから…」
 その病院、怪我のお医者さんでしょ?
 お腹が痛いとか、風邪を引いたとか、そういう時に行く病院じゃなくて。
「ははっ、そうか! そういう理屈で怪我になったか、なるほどな」
 こいつを作った病院の世話にはなっていないな、と笑ったハーレイ。
 大きくなってからは怪我をしていないと、ガキの頃なら隣町の病院に行っていた、と。
「その怪我って…。骨折もした?」
「そこまではやらんさ、せいぜい捻挫といったトコだな」
 慣れてない間は捻っちまうもんだ、ちょっとしたはずみに手首とか、足。
 放っておいたら癖になるから、早めにきちんと治さないとな。大したことはないと甘く見ないで医者に駆け込む、それが頑丈な身体作りに繋がるんだ。



 故障しやすい身体になってしまわないよう、早めの処置。それが大切だ、と話すハーレイ。
 このサポーターを作った病院もお蔭で馴染みだと、何回となく駆け込んだのだ、と。
「俺の教え子どもの御用達なのさ、この病院はな」
 大したことはありません、と言ってやがっても、俺もプロだし見りゃ分かる。医者に診せる方がいいか、保健室の湿布で済ませておくか。
「そういうものなの?」
 見ただけで分かるの、自分の身体のことじゃないのに?
「慣れていればな。こう動かしたら痛むか平気か、どんな具合に痛むのか、って訊いてやるんだ」
 こいつは駄目だ、と判断したなら、俺の車で病院行きだ。
 俺も学校を幾つも変わっているしな、学校から遠けりゃ別の病院に行くが、近けりゃ其処だな。
 名医なんだぞ、と教えられた。
 この手の怪我にはとても強いと、頼れる医師だと。
 まだハーレイが隣町に住んでいた頃に世話になった医師の友人なのだ、と。



「ふうん…。お医者さん同士で友達なんだね、それも腕のいいお医者さん同士」
 そういえば、ハーレイの従兄弟にもいたんだっけね、お医者さん。
「ああ。怪我を診る医者ではないんだけどな」
「うん、知ってる。ぼくの聖痕を診てくれたお医者さんだし…」
 怪我が専門ってわけじゃないよね、目や身体から血が出ていたって、怪我じゃないから。痛みは確かにあったけれども、怪我したり事故に遭ったわけではなかったものね。
「…お前だから教えてやるけどな。あいつの夢はな、ノルディなんだ」
 ドクター・ノルディだ、シャングリラのな。
「…ノルディ? なんでノルディが出て来るわけ?」
「ノルディだぞ? あいつ、病人も怪我人も診ていただろうが、一人でな」
 もちろん医療スタッフはいたが、ノルディが最高責任者で何でもこなしていただろう?
 あんな風に何でも診られる医者さ。そういった医者になるのが夢なんだそうだ。



 いずれは町の病院へ、と思っているらしいハーレイの従兄弟。
 大病院で専門の診療科に居るより、何でも診られる町の病院の医師になりたい、と。
「病気から怪我まで扱いたいらしい、手広くな」
 それで儲けようってわけじゃなくって、頼りにされる医者になりたいらしいぞ。怪我も病気も、あの先生なら治してくれると、安心して全部任せられる、と言われる医者にな。
「それでノルディが目標なんだね、ノルディは何でも出来たから」
 怪我の手術も、病気の手術も。どんな薬を飲ませたらいいか、塗ったらいいかも分かってたし。
「そういうこった。実に頼れる医者だったよな、あいつ」
 たまに訊かれてしまうんだよなあ、従兄弟にな。どうすればノルディみたいになれるのかと。
「そっか、ハーレイの記憶…」
 前のハーレイの記憶が戻ったってことも、あのお医者さんは知ってるものね。
「うむ。あれ以来、何度も訊かれるんだが…。コツは無いのかと、何か無いかと」
 そうは言われても困っちまうんだ、俺としてもな。ノルディのことは覚えちゃいるが、だ…。
「習うより慣れよ、って感じだったしね、ノルディの場合は」
 ぶっつけ本番、どんな怪我でも病気の人でも、これが最初のケースです、っていうのが必ず…。
 最初は必死でなんとかこなして、だんだん慣れたっていうだけだものね。
「俺もそう言うよりなくってなあ…。要は慣れだと、沢山こなせと」
 なにしろノルディには学ぶ師匠もいなかったしな?
「あえて言うならデータベースだよね、ノルディの先生」
 船のデータベースから情報を貰って、やり方を覚えていっただけだもんね…。



 アルタミラから脱出して間もない頃のシャングリラ。
 薬も色々と載ってはいた。怪我の薬も、病気の時に使う薬も。
 最初の間は、各自が勝手に症状に応じて持ち出しては使っていたけれど。服用したり、塗ったり貼ったり。けれど…。
「シャングリラって名前がついた頃にはあいつがいたな」
 薬と言ったらノルディなんだ、っていう具合にな。
「うん。ノルディに頼めば必要な薬が届く、って。ちょっとした怪我の手当てなんかも」
 包帯を巻くとか、他にも色々…、とブルーはコクリと頷いた。
 あの頃、食料や備品の管理はハーレイがやっていたのだけれど。前のブルーが奪って来た物資を仕分けして倉庫に入れたのだけれど。
 「見当たらないものがあるならハーレイに訊け」と言われたほどの管理人だったハーレイの所へ薬を取りに来る者がいた。何かと言えば、薬を倉庫から出して貰いに。



「病気なんだと思ったんだよな、最初はな」
 見かけの割に身体が酷く弱いらしいと、また何か病気をやらかしたな、と。
「そりゃあ、思うよ。いろんな薬を持って行くんじゃあ…」
 同じ薬なら分かるけれども、効能が違う薬を色々。
 頭痛が治ったら腹痛なのかと、それが治ったら今度は熱が出ちゃったのか、と。
「あいつ、医者向きだったんだよなあ…。面倒見はいいし、几帳面だし」
 具合が悪いと聞かされたら黙っちゃいられなかったようだな、どんな感じかを律儀に訊いて。
 それから薬を貰いに来るんだ、そいつにピッタリ合いそうなヤツを。
 でもって飲ませて、様子を見て。追加で貰うか、もうやめていいか、そんなトコまであれこれと面倒を見たりしてな。
 俺に言わせりゃ、自分の面倒は自分で見ろってモンだったが。
 まだ治らないか、もう治りそうか、それくらいは自分で判断しろと。薬だって他人に頼まないで自分で取りに来いとな。



 倉庫の管理人でもあったハーレイにしてみれば、なんとも不思議だったノルディの行動。
 自分用に薬を貰っているのではない、と気付いた後には余計に謎だと思ったものだが、それでもノルディはせっせと薬を取りに来た。飲み薬や塗り薬、様々な病気や怪我の薬を。
 成人検査で誰もが記憶をすっかり失くしていたけれど。成人検査の前の記憶は無かったけれど。
 そうした中で、病人が出たと聞けば駆け付けるのがノルディだった。怪我人でも同じ。それから薬を貰いに出掛ける。ハーレイが管理していた倉庫へ。
 自分でも何故そうするのか分からないが、とノルディ自身にも掴めはしなかった理由。
 病人や怪我人を放っておけずに、世話をせずにはいられなかったノルディ。
 元々、志していたのだろうか。医師になる道を。
 成人検査でミュウと判断され、記憶を失ってしまう前には、医師を目指していたのだろうか。
 ノルディは何度も薬を取りに来た末に、薬の注文もつけるようになった。
 データベースで情報を調べていたのだろう。
 こういう薬は手に入らないかと、これがあればもっと便利なのだが、と。



「薬を注文されちゃったから…」
 あれとこれと、って幾つも希望を出されちゃったから…。
「お前、山ほど盗って来たよな、薬も、ついでに医療器具も。
「うん。そういう荷物を載せた輸送船を狙って飛んで行ってね」
 食料とかを積んでる船とはまた違うから…。載せている船を探して貰って行って来たよ。これで足りればいいんだけれど、ってコンテナを幾つも持って帰って。
「お前、派手にやらかしてくれたからなあ、シャングリラで病院が開けるほどにな」
 医療用のベッドまで奪って来やがって…、と苦笑するハーレイ。
 その大量の薬や医療器具の類を嬉々として整理したのがノルディだった。
 どうせやるなら、と専用の部屋を一つ貰って、医療用のベッドを設置したのが後のメディカル・ルームの始まり。ノルディはその部屋の責任者となった。



「あいつ、水を得た魚とでも言うか…。めきめきと腕を上げやがって」
 気が付きゃ注射も手慣れたモンで、血液検査だってこなすようになっていやがったし…。
「ハーレイがキャプテンになるよりも先に、ノルディはドクターだったよね?」
 誰が呼び始めたのかは覚えてないけど、お医者さんだからドクターだ、って。病気になったら、ノルディの所。怪我をしたって、ノルディの所。
「うむ。俺よりも先に確固とした地位を築いていたなあ、俺は所詮は厨房だしな?」
 倉庫の管理を任されちゃいても、ただの厨房の責任者ってヤツだ。ドクターはノルディだけしかいないが、厨房だったら、そこそこ料理が上手けりゃなあ…?
「だけどハーレイ、ちゃんとキャプテンになったじゃない」
 元は厨房に居たけれど…。「フライパンも船も似たようなものさ」ってキャプテンになったよ、どっちも焦がしちゃ駄目なんだ、って。
「まあな。そして長老って呼ばれる面子にも入ってしまったわけだが…」
 ノルディは長老にはならなかったんだ、人数制限があったわけでもないのにな。
「資格は充分、あったのにね」
 船の中で誰も代わりになれる人がいない立場で、自分の意見もちゃんと言えたし…。
「そうなんだがなあ…」
 本人が嫌だと言っているのを、どうすることも出来んしな?
 あいつが長老になっていたなら、長老会議のテーブルに席が一つ余計にあったんだが。



 長老になってくれないか、と声を掛けられたノルディは即座に断った。
 のんびり会議に出ている間に急患が出たらどうするのか、と。
 ブラウは「医療スタッフに任せりゃいいじゃないか」と言ったものだし、ヒルマンも「そういう時には会議を抜けてくれれば…」と提案したのに、ノルディは首を縦には振らなかった。
 自分の居場所はメディカル・ルームで、決して会議室ではないと。会議に行くためだけに白衣を脱げはしないと、医者にはそんな暇などは無いと。



「あいつ、見た目もけっこう若かったからな、偉いと知らない仲間もいたよな」
 アルテメシアに来てから救出したヤツら、大人になってもきっと気付いちゃいなかったぞ。
 実は発言権は大きいと、ノルディがこうだと決めたら誰も文句は言えない、ってこと。
「ドクター・ストップだけだったものね、ノルディが決めたら長老でも反対出来ないのは」
 お医者さんが言うのなら守らなくっちゃいけないし…。
 そんなものだと思ってたろうね、後から船に来た仲間たちはね。お医者さんだから、って。
「まったくだ。…本当の所は長老のなり損ないだっただけなのにな?」
 一つ間違えたら、あいつも長老だったんだがなあ、ゼルたちと揃いの制服を貰って。
「しかも断った方だったんだよ、なり損なったって言ってもね」
 誰かが反対してなれなかったってわけじゃなくって、自分で嫌だと断っちゃって。
「なりたいってヤツはいただろうになあ…」
 シャングリラの最高機関だったしな、長老会議。
 もしも自分が長老だったらあれもやりたい、これもやりたいってヤツはいた筈だぞ、きっと。
 欲が無いと言うか、とことん職務に忠実だったと言うべきか…。
 長老になってりゃ、自分の意見も希望も言えただろうにな、メディカル・ルームの設備をもっと充実させたいとかな。



「でも、そのお蔭で長生きしたよね、ノルディはね」
 長老にならなかったお蔭で。
「そうだな、あいつは地球には降りなかったしな」
 人類との会談の席に医者は要らんし、キャプテンの俺も連れて行こうとは思わなかったし…。
 長旅だったら医者も要るだろうが、ほんの一日か二日、留守にするっていうだけだしな。それに医者なら人類の方にだって居るだろうが。
「それはそうだね、えーっと、ユグドラシルだっけ?」
 リボーンの人たちが常駐している施設だったらお医者さんもいるし、きっと設備だって…。
 ハーレイの判断は正しかった筈だよ、ノルディは船に残しておこう、って。
 長老だったら、みんな会談に参加しないと全く話にならないけどね。



 自ら長老になるのを断ったがゆえに、地球に降りずに残ったノルディ。
 グランド・マザーが破壊されて地球が燃え上がった後、シャングリラからは何基ものシャトルが地球へと向かった。逃げ遅れた人類を救うために。
 シャトルに拾われ、命からがら逃げ延びて白いシャングリラに来た人類たち。彼らの多くは傷を負っていて、重症の者も少なくなかった。
 ノルディは彼らを全て手当てし、必要な者には手術もした。人類の船に戻れるレベルに回復するまで治療を続けて、無事に仲間たちの許へと返した。
 ミュウの船でこれだけのことが出来るのか、と人類の医師たちに驚かれたノルディ。
 閉ざされた船の中でしか生きられなかったミュウだというのに、高度な技術を持っていたと。
 そしてノルディは伝説となった。
 病人から怪我人まで何でも診られた凄い医者がいたと、それも独学の医者だったと。



「ノルディだったら、このサポーターも…」
 作れてたのかな、作ってくれって頼みさえすれば。
「そりゃ、作るさ。必要とあらば何でも工夫して技術を編み出していたんだからな」
 ついでに、お前がメギドから戻れさえしていたら…。
 瀕死の重傷を負ってはいてもだ、シャングリラに戻ることさえ出来れば…。
「助かったのかな、あの傷でも?」
 何発も撃たれてしまってた上に、ぼくの体力も殆ど残っていなかったのに…。
「ノルディならきっと治していたさ。何としてもな」
 船中のヤツらから血をかき集めて、輸血をして。その一方で緊急手術だ、飲まず食わずで立ったままでな。あいつならやった筈だと思う。そして必ず成功させたと。
 もちろん右目も元通りだ、と自信たっぷりに語るハーレイ。
 眼球の移植再生手術はシャングリラでは例の無いものだったけれど、ノルディならば、と。
 データベースから引き出した情報を頼りにやったであろうと、赤い瞳も視力も元の通りに。
 残念ながらそうはならなかったがと、そうしようにも肝心の患者が戻って来ないのでは、と。



「ねえ、ハーレイ。もしも、前のぼくを助けていたら、ノルディの伝説…」
 増えてたのかな、今よりももっと?
「間違いなく増えたな、死神の手から一人取り戻したってことになるんだからな」
 それもソルジャー・ブルーをだ。
 ミュウの最初の長の命を救っていたなら、それでお前が地球まで辿り着いたなら。
 キースはそれこそ腰を抜かすし、ミュウの医療技術の凄さを心底思い知らされただろうさ、船の中だけで何もかも出来るヤツらだと。
 …ただなあ、そのシナリオだと、その後の地球がどうなったやら…。
 燃え上がらないで死の星のままで、ノルディの出番は全く無くて。伝説どころかミュウの医者というだけで終わったかもなあ、腕前も独学で仕入れた知識も披露できずに一生を終えて。
「…そっか、そうなっちゃうってこともあるよね」
 前のぼくが生きて地球まで行ったら、いろんなことが変わっただろうし…。
 今でも地球は青い星にはなっていないかもね、あんな荒療治は出来ないままで。
 少しずつテラフォーミングをするにしたって、これほど劇的には回復しなかったかもね…。



「そういうことだな、ノルディの伝説も出来ないままでな」
 お前、知っているか?
 ノルディの写真な、医者たちが大勢集まるようなデカイ建物には必ず飾ってあるらしいぞ。
 写真の代わりにレリーフだとか、そういったこともあるらしい。
「ホント?」
 ノルディの写真って、お医者さんにとっては大事なものなの?
「ああ。ミュウの最初の医者だからな」
 伝説の医者っていうのもそうだが、ミュウと人類では違う部分もあるからなあ…。外見はまるで変わりはしないが、サイオンを持っている分だけな。
「そうだったんだ…。ノルディ、神様みたいなもの?」
「それに近いな。ああなりたいと、あんな医者になろうと志すヤツも多いってわけだ」
 例えば、俺の従兄弟みたいに。
 目標はドクター・ノルディなんだ、という医者は少なくないらしい。何でもやろうと、どういう患者が運び込まれても適切な治療が出来るだけの腕を身に付けようと頑張る医者だな。
 それから、ノルディは凄い大発明をしている。ミュウの最初の医者ならではの…な。
「…どんな発明?」
 前のぼくはなんにも聞いていないよ、ノルディの凄い発明だなんて。
「だろうな、シャングリラではごく当たり前のことだったしな」
 アレだ、サイオンで病室を遮蔽するヤツだ。病人の苦痛が外に漏れたら仲間に伝染するからな。思念波があるから、簡単に同調しちまうし…。
 もっとも、その素晴らしい発明なんだが。
 ナスカでトォニィが生まれた時にはシールドの強度を読み誤ってな、凄い騒ぎになったってな。この俺どころか、ゼルまでが出産の痛みってヤツを体験しちまったんだぞ、男なのにな?
「それ、歴史の本で前に読んだことがあるよ」
 どんなのだったの、ねえ、ハーレイ?
 子供を産んだって実感できた?
「馬鹿! 俺はひたすら痛かっただけだ、子供なんか産んでないのにな!」
 生んだんだな、って充足感は確かにあったが、所詮は男だ。未知の感覚で、かつ痛いだけだ!



 今では常識の病室のシールド。
 病院によっては待合室で簡易シールドの器機を貸し出したりもする。診察待ちをしている患者の苦痛が伝わらないよう、熱が高くて泣きじゃくっている子供などに。
 もちろん急患は最優先で診察だけれど、そういう病人が重なってしまうこともあるから。
 そのシステムを最初に考え出して使ったドクター・ノルディ。
 サイオンを持った患者はただ病室に入れるだけではなくて、苦痛の思念を漏らさないように工夫すべきだと気付いたノルディ。
 ミュウだったからこそ出来た発見、研究熱心だったからこそ開発させて設けたシールド。
 シャングリラでは普通のことだったけれど、その外側に居た人類にとっては驚きであって、次の世代を担ったミュウたちからすれば偉大な発明。
 病人が出たならこうするのだと、病室を作ったらシールドを必ず設置しなくてはならないと。



 伝説と功績を残したノルディ。
 本来だったら長老と呼ばれる立場の所を、生涯、一人の医師として生きたドクター・ノルディ。
 その写真は今もあるというから、医師が集う建物には写真やレリーフがあるというから。
 小さなブルーは首を傾げてこう呟いた。
「…ノルディも何処かにいるのかな?」
 ぼくたちみたいに生まれ変わって、地球か何処かの星にいるかな…?
「いるかもなあ…」
 あの顔は会ったら一目で分かるが、ガキの頃だとどうなんだか…。
 お前みたいなチビのノルディだったら、分からないかもしれないな。
 しかしだ、きっとあいつは医者だぞ。でなければ医者を目指すガキだな、そんな気がする。



 生まれ変わっても、あのノルディならば。
 成人検査で記憶を奪われてもなお、シャングリラで薬の手配をしていたノルディならば。
 相も変わらず医者なのだろう、とハーレイとブルーは頷き合った。
 もしもノルディが何処かにいるなら、きっと医者だと。でなければ医者の卵か、医者を目指して勉強に励んでいる子供。
 そういうノルディがいるに違いないと、生まれ変わっているならば、と。
「会ってみたいね、そういうノルディ」
 何処かにいるなら、会ってみたいと思わない?
「…患者としてか?」
 お前、注射をして欲しいのか、ノルディに会って?
 注射は嫌いだと聞いた筈だと思うんだが…。ノルディの注射は別物なのか?
「それは嫌だよ!」
 ぼくが注射は大嫌いだってこと、ハーレイだって知ってるくせに!
 アルタミラで懲りて嫌いなんだよ、前のぼくの記憶が戻る前から大嫌いだよ!
 いくらノルディと何処かで出会えて、お医者さんと患者だったとしても。
 ぼくは注射は断固拒否するし、ハーレイと結婚した後だったら、ハーレイ、約束したじゃない!
 「こいつは注射が嫌いなんです」って、「注射は無しでお願いします」って頼んでやるって!
「…俺の近所の医者ってヤツはだ、問答無用で打つタイプだとも言った筈だが?」
「ノルディは違うかもしれないじゃない!」
「いいや、違うな。あいつも問答無用でブスリとやってたタイプだからな」
 前のお前の腕にブスリと、「これで治ります」と注射を一発。
 だからだ、何処かで出会って患者だったら諦めろ。これは注射だと、注射をされると。
「酷い…!」
 今度のノルディも注射をするわけ、このぼくに?
 注射は嫌いだって言っているのに、ハーレイも横で「苦手なんです」って言ってくれるのに…!



 ノルディと出会ったらまた注射なのか、と顔を顰めたブルーだけれど。
 注射は勘弁願いたいけども、懐かしいドクター・ノルディの名前。
 白いシャングリラに居た、一番最初のミュウの医者。
 シャングリラがまだ白い鯨にならない頃から、ドクターと呼ばれていたノルディ。
 注射も含めて何度もお世話になったけれども、御礼を言えなかったから。
 メギドに飛ぶ前、十五年ぶりに目覚めた時の治療と、眠り続けていた間にしてくれただろう医療チェックや色々なことの御礼を言いそびれたままで終わったから。
 言えないままで前の自分の命は終わってしまったから…。



(ねえ、ノルディ…。ぼくは地球の上で幸せだよ?)
 ちゃんと元気にしているから、とブルーは窓の向こうの空を仰いだ。
 晴れ渡った秋の高い空。青い地球の色を反射させたような、何処までも澄んだ青い空。
 この空の彼方、今も何処かにドクター・ノルディがいるのなら。
 今も医者として生きているなら、今も患者を診ているのなら。
(大丈夫だよ、ノルディ。…今度こそ本当に大丈夫)
 無茶をするソルジャーはもういないからと、「大丈夫」と嘘をつきはしないからと。
 今度はハーレイの言うことを聞いて、きちんと病院へも行くと。
 問答無用で注射を打たれるのは嫌だけれども、それで病気が治るのならば。
 効くのだったら、我慢する。
 ハーレイに心配をかけるよりかは、早めに病気を治したいから。
 だから今度こそ大丈夫。ハーレイと二人、何処までも幸せに青い地球で生きてゆくのだから…。




              最初の医師・了

※今の時代は、お医者さんたちの目標になっているドクター・ノルディ。偉大な医師として。
 シャングリラでも、実は長老格だったらしいです。意外な一面があるものですね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










(ほほう…)
 今日は風船だったのか、とハーレイは鳶色の目を細めて眺めた。
 週末の土曜日、歩いてブルーの家へと向かう途中の道筋にある食料品店、行きつけの店。家から近くて便利だから、と何かと世話になっている店。
 その店の前でやっている催し物。子供連れの客に風船のサービス。赤や黄色や、色とりどりに。フワフワと浮かぶ風船の中から好きに選んで、渡して貰えるようなのだけれど。
「あっ…!」
 目の前で上がった小さな悲鳴。貰ったばかりの風船を手から飛ばしてしまった幼い子供。幼稚園くらいの男の子はたちまち泣き顔になった。飛んでしまった黄色い風船。
 みるみる昇ってゆくけれど。食料品店の軒の高さへ、更に上へと飛んでゆくけれど。
「ほら、泣かないの」
「わあ…!」
 子供の母親が風船をスイと指差し、その指をクイと手前に引いた。風船はピタリと上昇を止めて戻って来る。逃げようとしていた青い空から。
「はい、風船さん、捕まえたわよ」
「ママ、すごーい!」
 サイオンで風船を戻した母親。「しっかり持って」と子供に風船の糸を握らせ、細い手首に一周クルリと回してやった。そうすれば風船は簡単に飛んで行かなくなるから。
「ありがとう、ママ!」
「どういたしまして」
 さあ帰りましょ、と子供の手を引いて歩き出す母親。風船を手にして嬉しそうな子供。



(あのくらいの年の子供だったら…)
 飛んでしまった風船を自分の力で戻せないのが普通だろう。
 それを取り戻してくれた母への尊敬の眼差し。「すごーい!」と輝いていた瞳。
 子供たちはそうやってサイオンを覚えてゆくのだけれど。
 自分の中に眠る力をどう操るのか、どういう場面で使えばいいのか、自然に学んでゆくけれど。
(あいつの場合は…)
 未だに無理かもしれないな、と思い浮かべた小さな恋人。
 風船が飛んだらそれっきりのような、小さなブルー。
(とことん不器用になっちまったしな、あいつ)
 前の生と同じタイプ・ブルーに生まれて来たのに、サイオンの扱いが上手くゆかない。とことん不器用、思念波でさえもロクに紡げない、十四歳の小さなブルー。
 ソルジャー・ブルーの生まれ変わりだとは思えないほどの不器用さだけども、それが可愛いし、嬉しくもあった。今度は自分がブルーを守れると、守ってやることが出来るのだと。
(前の俺だと、守ると言っても口約束に過ぎなかったしなあ…)
 ブルーの方が力が上だったから。比較にならない強さのサイオンを誇っていたから。
 それが今ではすっかり逆様、小さなブルーはタイプ・グリーンの自分にも劣る。けれども不自由してはいないし、ブルーは少しも困っていない。たまに膨れているだけで。
(あいつの力が要らない世界になったんだ…)
 平和になって、ソルジャーなどは要らなくなって。
 前のブルーの強すぎたサイオンも必要ない世界。今の時代はタイプ・ブルーが増えたけれども、彼らはサイオンを自分のためにだけ使っている。守り、戦うためではなくて。



(ふむ…)
 不器用なブルーも、さっき見かけた子供のように風船を飛ばしてしまったろうか?
 前のブルーなら考えられないことだけれども、「飛んでしまった」と泣いただろうか?
(…前のあいつなら、風船くらい…)
 サイオンで引っ張って戻すどころか、追い掛けて飛んでゆくことも出来た。いとも簡単に、息をするのと変わらないように。
 シャングリラの公園でそれをしていたブルーを見た。ブリッジからも何度も見かけた。
 子供たちが飛ばしてしまった風船を追って飛び、「捕まえたよ」と戻るブルーを。
 時にはわざと高くまで飛ばして、それから追い掛けて飛び立った。遥か上にある窓の高さにまで飛んで昇って、「ほら」と風船を抱いて戻った。
(しかしだ、今のあいつだと…)
 空は飛べないし、サイオンも上手く扱えないから、風船はきっと、飛んで行ったまま。
 追って飛ぶなど夢のまた夢、泣きべそをかいて見上げていたのに違いない。
 今よりもずっと幼いブルーが、風船を欲しがった頃のブルーが。



(何か思い出が聞けるかもな?)
 小さなブルーの子供時代の思い出話。
 同じ町に住んでいたというのに、ブルーとは何故か出会えなかった。ブルーが生まれたと聞いた病院の側を何度もジョギングしたというのに、生まれた瞬間にすら立ち会えなかった。
(あいつを見たかも、っていう気はしてるんだがなあ…)
 生まれて間もないブルーが退院してゆく日に。春の雪が降る日に、病院の前で。
 ストールにくるまれた赤ん坊を抱いた母親に確かに出会った。その時のものだというストールをブルーの家で見かけたけれど。雪の日の記憶が蘇ったけれど。
(…ストールの色を覚えてないんだ…)
 だから決め手に欠けている記憶。
 あの赤ん坊はブルーだったと思うけれども、そうだと言い切れない記憶。
 それから後の日々にしたって、何処かでブルーと会っていたかもしれないけれど。ジョギングの途中で幼いブルーが手を振ってくれて、自分の方でも振り返したかもしれないけれど。
(…そういう記憶も無いんだよなあ…)
 十四年も同じ町で暮らして、十四歳になったブルーと出会うまで。
 五月の三日にブルーの教室に足を踏み入れるまで、一度も出会えはしなかった。ブルーがどんな日々を生きたか、どう幸せに生きていたのか、目で確かめるチャンスが無かった。
 ブルーに出会えていなかったから。記憶が戻っていなかったから…。



 そんなわけだから、ブルーの子供時代を知りたい。自分の知らないブルーを知りたい。
 風船を飛ばしてしまって泣いたかどうかを尋ねてみたい、と思ってしまう。たったそれだけの、ほんの些細なことだけれども、ブルーの思い出。ブルーが過ごした子供時代。
 それを聞きたい、と風船の方へと近付いて行った。子供連れでなくても貰えないかと、あるいは売っては貰えないかと。
(おっ…!)
 側に寄ってみれば、風船は売り物でもあった。子供を連れては来られないけども、欲しいという人も多いのだろう。近くに住む孫にプレゼントなどもあるかもしれない。
(こいつは運がいいってな!)
 一つ選んで買うことが出来る。自分も風船を手に入れられる。ブルーへの土産に風船を一つ、と色とりどりの風船を束ねた糸を見上げた。



(どれにするかな…)
 ふわふわと揺れている風船。様々な色の風船の束。
 シャングリラの白か、ブルーの瞳を映した赤か。前のブルーのマントの色だった紫もいいし…。
 決めかねている間に、また別の子供が風船を貰って弾む足取りで帰って行った。可愛いピンクの風船を持って。男の子なのに、その子はピンクが好きらしい。
(あいつだったら、どういう風船が好きだったんだか…)
 幼かった頃の色の好みを聞いてはいない。今の好みもそういえば聞いてはいなかった。
(さてなあ…。いったい、何色だったんだ?)
 記憶が戻るよりも前のブルーが好きだった色。好きそうな感じの風船の色。
(そういや、ウサギ…)
 ウサギになりたかった、と聞いたことがあった。真っ白で赤い瞳のウサギに。将来の夢はウサギだったと、ウサギになろうと思っていたと。
(…ウサギ色でいいか)
 それにするか、と白を選んだ。青空の色に映える白。シャングリラの白。
 この色でいいと、これにしようと。



 ふうわりと揺れる白い風船。渡して貰った白い風船。
 それを手にして、いつもの道を歩いて向かった。ブルーが待っている家へと。
 大きな身体にいかつい顔をした自分。風船を持って道を歩くとまるで似合っていないけれども。
(きっと子供への土産物だと思われるんだ)
 子供がいたって可笑しくはない年だから。
 風船を土産に家へ帰れば、「パパ!」と駆け寄って来そうな子供が待っていたとしても。
(…子供への土産には違いないがな?)
 少し大きい子供だけれど。
 風船を飛ばしてしまったから、と泣き顔になるには大きすぎる年の子供だけれど。



 白い風船を連れて、ブルーの家に着いて。
 門扉の脇のチャイムを鳴らすと、ブルーの母が迎えに出て来た。風船は直ぐに目に付くから。
「あら、風船ですか?」
 何処かで配っていましたの、それ?
「途中の食料品店の前ですよ。ブルー君にも思い出があるかと思いましてね」
 こういった風船に纏わる思い出。今はもう風船を欲しがる年でもなさそうですが…。
「ああ、あの子…!」
 いつも失くしてばかりでしたわ、と予想通りの返事が返った。
 サイオンの練習にもなるだろうから、と持たせてやっても飛んで行ったと。
 風船を失くしたと泣きじゃくるから、また買うことになったのだと。
 自分たちが側に居る時だったら飛んで行っても戻せるけれども、そうでない時は…、と。



 二階のいつもの部屋に入ると、窓からハーレイに手を振って待っていたブルーの笑顔。
 母がお茶とお菓子を置いて去るなり、ブルーは真っ白な風船をじっと見詰めた。ハーレイの手に糸を握られ、ふわりと浮いている風船を。
「風船、くれるの?」
「ああ。此処へ来る途中で売ってたからな」
 ほら、と差し出せば、ブルーは嬉々として受け取った。少し考えてから、勉強机から持って来た自分の腕時計。それに風船の糸の端を巻き付け、重石代わりにしてテーブルに置いた。
「これでよし、っと…!」
 テーブルから飛んで行かないよ、と眺めているから。満足そうに見上げているから。
 本当は子供用のオマケだったんだが、と話してやった。
 子供連れの客には無料でサービスだったと、貰っていた子供を何人か見た、と。
 お前の風船の思い出はどうだと、いい思い出を持っているかと。



「風船…。とても好きだったし、大事に持っていたんだけれど…」
 買って貰ったら、いつもしっかり持ったんだけど…。
「ん? それでも失くしちまっていたのか、風船?」
 飛んで行っちまったのか、お前が持ってた風船は?
「そう。…転んだ時とか、飛んでっちゃうんだ」
 転んだはずみに手が離れちゃって、ほんの一瞬。アッと言う間に飛んでっちゃって…。
「それで?」
「ママたちが側にいればいいけど…」
 サイオンで戻して貰えるんだけど…。そうじゃない時は、ぼくだけか、他にも居たって子供か。
 風船を戻せる人はいなくて、ぐんぐん昇って行っちゃったんだよ…。



 大抵は飛んで行ったままだった、と項垂れるから。
 風船を失くしそうだと思ったブルーの子供時代は、ハーレイが想像した通りだったから。
 持って来た甲斐があったと心が温かくなる。ブルーの思い出を一つ拾ったと、拾い上げたと。
 自分が出会っていなかった頃の小さなブルー。幼かったブルー。
 風船が飛んで行ってしまったと泣いている所に、もしも自分が通り掛かったなら。ジョギングの途中で出会っていたなら、「何処だ?」と尋ねてやっただろうに。
 まだサイオンが届く所を飛んでいたなら、「ほら」と呼び戻してやれただろうに。
 けれどもブルーとは出会っていなくて、風船は飛んで行ったままだったから。
 幼いブルーの手から離れた風船は何処かへ消えたというから。



「その風船…。手紙、つけときゃよかったな」
「手紙?」
 キョトンとしている小さなブルー。手紙とは何のことなのか、と。
「風船に手紙をつけるのさ」
「なに、それ?」
 風船に手紙って、普通の手紙?
 ポストに届くみたいな手紙を風船につけておくっていう意味?
「似たようなもんだな、あんまりデカイ手紙は駄目だが。それに今ではそういう文化は無いが…」
 ずうっと昔はあったそうだ、と教えてやった。
 SD体制が始まるよりも遠い遥かな昔の地球。まだ地球の大気が澄んでいた頃。
 人はサイオンなど持ってはいなくて、風船を意のままに操れはしなかった時代の遊び。
 風船に手紙をつけて飛ばしたと、「拾った人は手紙を下さい」と名前や住所を書いたのだ、と。
 そうして風船を空に放って、人の住んでいる場所に落ちたなら。
 見知らぬ人から手紙が来るのだと、時には風船が辿り着いた所の名物のお菓子なども添えて。
 其処から始まる新たな交流、それが何年も何十年も続いて、深い縁になることもあったのだと。



「凄いね、風船で友達とかが出来たんだ…」
 全然知らない町に住んでいる人と、友達になったり出来ただなんて…。
「失くす風船も捨てたモンじゃあないだろう?」
 今じゃ戻せるのが珍しくないから、そういう遊びも無いんだが…。
 そもそもSD体制の時代に入るよりも前に無くなっちまってそれっきりだが、風船には手紙って文化があった。お前もつけときゃよかったな、手紙。
「うん。名前と住所は書けばよかった…」
 風船を失くしてた頃のぼくだと、住所はそんなに詳しく書けなかったかもしれないけれど…。
 名前と住所を書いておいてよ、ってママかパパに頼めばよかったかな?



 手紙…、とブルーは幼かった自分が失くした風船に思いを馳せているようで。
 あの風船に手紙をつけておいたなら、と暫し考えてから。
「ハーレイのトコまで飛んでったかな?」
 ぼくの風船。ハーレイの所にも飛んで行けたのかな?
「俺?」
「うん。ハーレイの家の庭に落っこちるんだよ、ぼくの風船」
 そしたらハーレイからぼくに手紙が来るんでしょ?
 庭で風船、見付けて、拾って。
「おいおい、そいつは近すぎないか?」
 歩くには少し距離があるがだ、風船が萎んで落ちるほどには遠くはないぞ。
 俺の家の庭は無理じゃないかと思うんだが…。
「上手くパチンと弾けちゃったら、落っこちるよ?」
 ハーレイの家の庭の真上でパチンと。割れたら手紙もストンと落ちるよ?
「鳥とかがつついて割るってか?」
「そう!」
 風船をつつくのが好きな鳥だって、きっと何処かにいるんじゃないかな。
 ぼくの風船をつついてくれたら、ハーレイの家でも届いたんじゃないかと思うんだけれど…。
「お前、どれほど凄い偶然ってヤツに賭けているんだ?」
 まずはそういう風船好きで悪戯好きの鳥が飛んでいて…、だ。
 その鳥とお前が飛ばした風船、俺の家の真上で出会わないことには話にならんぞ、割れてもな。まるで全く知らない人の家の庭に落っこちてくのが普通だろうが、お前の風船。



 そうそう上手くいくものか、とハーレイは笑い飛ばしたけれど。
 風船の手紙で出会おうだなんて難しすぎる、と大いに笑ったのだけど。
「…待てよ、親父の家ならアリか」
 俺は無理でも、俺の親父やおふくろだったら、可能性がゼロっていうこともないな。
「そうなの?」
 ハーレイのお父さんやお母さんから手紙が来るってこともあったの、ぼくが風船に手紙をつけておいたら。住所と名前を書いておいたら。
「隣町だしな、俺の家よりは着きやすいだろう」
 飛ばして直ぐってわけじゃない分、届く確率はグンと上がるな。
「そこまでは飛ぶの、風船の手紙?」
 隣町って言ってもかなり遠いよ、車じゃないと行けない場所だよ?
「もっと遠くても風船の手紙は飛んで行けるさ」
 うんと高い所まで昇って、そこで風があれば。
 運んでくれる風さえあったら、信じられないほどの距離でも飛んでくそうだぞ、風船はな。



 飛んだ高さと風向き次第の旅なんだ、とブルーに話して聞かせていて。
 ふっと脳裏を過った記憶。遠い日の記憶。
「…待てよ?」
 親父の家で風船、見たな。誰かが飛ばしちまった風船。
「それ、いつの話?」
 ハーレイが子供の頃のことなの、お父さんの家に風船が飛んで来ていたのって?
「いや。俺は教師になっていたから…」
 ガキの頃じゃないな、とっくに大人だ。あれは教師になってから…。
 何年目だ、と記憶を遡りながら指を折って数えた。
 隣町の父の家で目にした風船。長い旅をして疲れました、といった風に見えた萎んだ風船。まだ少しだけ膨らんではいたのだけれども、もう飛ぶ力は無かった風船。
 教師という職についてこの町に引越して、四年目か、五年目あたりの春。



「うん、教師生活の四年目か五年目、そんなトコだな」
 だからお前はもう生まれてるな、三歳か四歳か、そのくらいのチビか。
 春休みに親父の家に行ったら、庭の木に風船が絡まってたんだ。最初は親父が何かつけたのかと思ったんだが、風船だった。萎んで元気は無くなってたがな。
「庭の木って…。何処に?」
 ぼくでも分かる木にくっついていたの、その風船?
「うむ。お前も馴染みの夏ミカンの木さ、おふくろがマーマレードを作ってる木だな」
 あの木は夏ミカンにしてはデカイが、木としてはそれほど大木っていうわけじゃない。
 もっと高い木もあるのにな、と親父たちと笑って見たモンだった。
 夏ミカンの実を仲間だと思ったか、それとも友達になりたかったか。そんな具合に見えたんだ。黄色い実の中に風船が一つ、混じって揺れているんだからな。
 まるで狙って来たようだったぞ、あの風船。
 あんまり仲良く見えたもんだから、親父もおふくろもこう言ったもんだ。
 「すっかり萎むまで外さずにつけておいてやろう」と、「せっかく旅して来たんだから」と。
 流石に次に行った時には、外されちまって無かったけどな。
 手紙はついちゃいなかったんだろうなあ、そういう話は聞いてないしな。



「その風船…。どんな色だった?」
 何色だったか覚えてる?
 夏ミカンと友達になってた風船なんだし、やっぱり黄色?
「いや、白かったな、こいつみたいに」
 だから親父が何かつけたのかと思ったわけだ。
 果物の木だと、実に紙袋をかけたりすることがあるだろうが。袋をかけたら美味くなるかと一個だけ袋に入れてみたか、と見上げてみたら風船だったというオチさ。
 そのせいで今でも覚えてるってな、あの木に風船がくっついてたことも、風船の色も。
「ハーレイ、それ…。ぼくの風船だったかも…」
「なんだって?」
「白かったんなら、ぼくの風船かもしれないよ。ぼくが三歳か四歳の頃の話だったら…」
 よく風船を買って貰って持ってた頃だし、よく失くしてた。
 転んでしまって、パパもママも大人の人もいなくて、そのまま飛んでっちゃったんだよ。
 ハーレイがさっき言ってたみたいに、風に乗って隣町まで飛んで行った風船もあったかも…。
 白い風船、大好きだったから、何度も買って貰っていたし…。
 他の色のも好きだったけれど、白い風船を一番沢山持ってたと思うよ、小さかったぼく。
 失くした数もきっと一番。持ってた数が多いんだもの。



 きっとシャングリラの白だったのだ、とブルーは言った。
 記憶は戻っていなかったけれど、白い鯨を、あのシャングリラを自分は覚えていたのだと。心の何処かで、戻らない記憶が閉じ込められていた心の奥で。
 空を飛ぶものには白が似合うと考えていたと、風船にも白が似合うのだと。
 そう感じるから、選ぶ風船は白が多くて、白が大好きで。
 手から離れて飛んで行ってしまっても、白い風船なら何故か嬉しい気もしたと。
 どんどん高く昇ってしまって手が届かない白い風船。呼び戻して貰えない白い風船。
 白い点になって消えてゆくのを見送っていたと。
 何処までも飛んでと、行きたい所まで飛んで行って、と。



「ぼくは気付いていなかったけど…。白がシャングリラの色だったなら…」
 きっと地球へって思ってたんだね、小さかったぼくは。
 そのまま真っ直ぐに地球まで飛んで、って。遠い地球まで飛んで行って、って…。
「なるほどなあ…。お前がシャングリラを見送ってたなら、そうなるか…」
 お前、一人でメギドに行っちまったから、シャングリラ、見送っていないよなあ…。
 前のお前の記憶の続きで見送ってたんだな、シャングリラを。
 無事に地球まで飛んでくれよと、行ってくれよ、と。
 お前が見送ってたのはシャングリラじゃなくて、白い風船だったわけだが。
「うん、きっと。前のぼくのつもりで見てたんだと思う」
 ちゃんと飛べたと、地球へ行くんだと。ぼくは行けない青い地球まで。
 あんなに遠くへ飛んでゆくから、きっと着けると思ってたんだよ。
「その地球は此処で、小さかったお前の足の下に地面があったんだがなあ…」
 シャングリラが着いた頃と違って、青い星に戻った地球の地面が。
 そうとも知らずに白い風船を見上げていたのか、地球へ行ってくれ、と。
 お前らしいと言えばそうだが、生まれ変わってまで見送ってたのか、シャングリラを…。



 白い風船のシャングリラか…、とハーレイはテーブルの上で揺れている風船を仰いだ。
 自分が持って来た白い風船。これを買おうと選んだ風船。
 シャングリラの白を選んで良かったと思う。小さなブルーの思い出話が聞けたから。
 幼かったブルーが白いシャングリラをそれと知らずに見送っていたと、思わぬ話が聞けたから。
 その上、好きだった風船の色。何度も失くした白い風船。
 何処までも遠く…、と幼いブルーが願った白い風船が高く昇って、風に運ばれて…。
「それで、そいつが俺の親父の家の庭まで来たってか?」
 お前が失くした白い風船、親父の家に着いたのか?
 夏ミカンの木に絡まってたのは、お前の風船だったと言うのか、確かに白い風船だったが。
「絶対に違うとは言えないよ?」
 ぼくは風船に名前も住所も書かなかったし、誰かが拾ってもぼくの風船かどうかは謎。
 それにハーレイのお父さんの家に届いた風船、誰のか分からなかったんでしょ?
 ぼくのじゃなかったってどうして言えるの、ぼくは生まれていたんだから。
 その頃だったら、白い風船、しょっちゅう失くしていたんだから…。
「うーむ…」
 違うと言い切ることは出来んな、あの風船。
 お前が飛ばしちまった風船が旅して来たかもしれんな、隣町の親父の家までな。



 そうかもしれない、と思うけれども、証拠が無いから。
 遠い日に夏ミカンの木に絡まっていた白い風船、それがブルーの風船だという証拠が無いから。
「お前、やっぱり、手紙をつけときゃよかったな」
 風船を失くしてばかりいたなら、風船を買ったら手紙をつけて。
 そうすりゃ、あちこちに知り合いが出来ていたかもしれん。うんと遠い町に友達だってな。
「ぼくの住所と名前を書くとか?」
 この風船はぼくのです、って分かるようにしておけば手紙が貰えた?
「それじゃ駄目だな、短くっても手紙だな」
 拾った人は手紙を下さい、って、それだけでいいんだ、それと名前と住所とな。
 そんな風船なら、失くした風船じゃないんだと分かる。誰かに手紙を出したんだ、とな。拾った人が風船の手紙を知らなくっても、返事を出したくなるだろう?
 お前はそいつを書くべきだったな、「ぼくに手紙を下さい」と。
 こういう所に住んでいますと、ぼくの名前はブルーといいます、と。



 もしも幼かった日のブルーが手紙を書いていたなら。
 風船を買って貰う度に短い手紙を書いては、糸の端っこに結んでいたならば。
 そうすればもっと早くにブルーと出会えた、という気がした。
 隣町の父の家の庭で見付けた風船。夏ミカンの木に絡み付いていた、小さくなった白い風船。
 あの風船に幼かったブルーが書いた手紙が、名前が、住所がついていたなら、と。
「いいか、お前が手紙を書いてたとして、その風船が親父の家に届いたら…」
 親父は返事を書いただろうなあ、もちろん、おふくろも書いたと思うぞ。
 そしてこの町には俺が住んでるし、手紙をポストに入れるよりかは届けた方がいいだろう?
 親父ならきっとそうしろと言ったな、この手紙を届けに行って来い、と。
 そういうわけでだ、俺が親父の返事をお前に届けに来て、だ…。
「ぼくとハーレイ、友達になるの?」
 手紙をくれたのはハーレイのお父さんたちでも、ぼく、ハーレイと友達になれた?
「そりゃあ、間違いなく友達になれたさ」
 多分、土産も持って来てたな、マーマレードかどうかは分からないがな。
 もっと子供の好きそうな菓子を持って来たかもしれないが…。
 俺が子供に好かれやすいこと、お前なら充分、分かるだろ?
 きっとお前も懐いただろうし、手紙と土産を届けただけでは終わらないってな。



 風船を見付けたと、隣町まで旅をしていたと、幼いブルーの家まで報告に来て。
 父たちからの手紙と土産を渡して、後は肩車でもしてやったろうか?
 それとも四つん這いになって背中に座らせて、馬になって遊んでやっただろうか?
 自分に兄弟はいなかったけれど、幼い子供との遊び方なら幾らでも知っていたのだから。
 ブルーに懐かれるだけの自信はあった。「また来てね」とせがまれるであろうという自信も。
 そうしていたなら、ブルーとはもっと早くに出会えて、何度も一緒に遊んだりも出来て…。
「…惜しいことをしたな、風船の手紙…」
 あれがお前の風船だったら、十年は早く出会えてたのにな?
「だけど聖痕、まだ無いよ?」
 ぼくの記憶は戻らないままで、ハーレイだっておんなじだよ?
 ただの友達で、子供のぼくには「いつも遊んでくれるおじさん」だよ、きっと。
「おじさんって…。そこはお兄さんじゃないのか、おじさんなのか?」
「おじさんだと思うよ、パパとあんまり変わらないんだもの」
 ハーレイおじちゃん、って呼んでいたんじゃないかな、ハーレイのこと。
 お兄ちゃんっていうのは、もっと年下の人のことだよ、ぼくだってうんと小さいんだから。
「おじちゃんなあ…。ついでに記憶も戻ってないなら、そういうことだな」
 俺にとってもお前はチビだし、間違っても恋人なんかじゃないなあ…。
 出会えていたって、そこが問題になるってわけか。お互い、相手が分かってないしな。



 そういう出会いも困ったものだ、とハーレイは苦笑したけれど。
 本当に早く出会えていたなら。
 自分の父と母も含めて家族ぐるみの付き合いだったら、もっと変わっていたろうか?
 ブルーが聖痕現象を起こし、記憶が戻って来た後も。
 今よりももっと距離が近くて、親しく出入り出来ただろうか?
 隣町にある両親の家へもブルーと一緒に何度も出掛けて、まるで昔からの親戚のように。
(…そうなっていたら、ブルーもとっくに夏ミカンの木に会えてただろうに…)
 今はまだ会わせてはいない、両親ともとうに顔馴染みで。
 記憶が戻っても、それまでと変わらず、あの家に自由に出入りをして。
 いつか大きく育った時には、本物の新しい家族になる。両親の新しい子供となって。



(…風船の手紙、ホントについてりゃよかったなあ…)
 こういう白い風船だった、とテーブルの上の風船を見ながら遠い日の風船を思い出す。
 空の旅に疲れて舞い降りた風船、夏ミカンの木に降りた風船。
 父が夏ミカンの実にかけた袋かと見間違えたほどに、萎んでしまった白い風船。
 その頃、ブルーは幾つも風船を失くしてしまっていたというから。
 白い風船が大好きだったと、よく失くしたとも聞かされたから。
(あの風船は…)
 幼いブルーが飛ばした風船。
 遠くまで飛べと、何処までも飛べと見送っていたという白い風船。
 あれがそうだったのだ、とハーレイは思う。
 きっとそうだと、あの風船はブルーよりも先に隣町の家に着いたのだ、と。
 いつか、あの家にブルーを連れて行ったなら。
 指差してやろう、あそこだったと。
 あそこにお前の風船があったと、お前よりも先に着いていたぞ、と…。




             思い出の風船・了

※幼かった頃のブルーが好きだった、白い風船。記憶は無くても、きっとシャングリラの姿。
 ブルーが失くしてしまった風船、隣町まで行ったようです。ブルーよりも先に。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










「パパ!」
「わっ!」
 ビックリしたぞ、と振り返った父。夕食前に廊下で見付けた背中に飛び付いてみた。
 ブルーよりも先を歩いていたから、気付いていなかったようだから。
 突然やりたくなった悪戯。脅かしてやろうと、大きな背中に飛び付いてやろうと。
「まったく、もう…。腰が抜けそうになるじゃないか」
 父は苦笑いを浮かべたけれども、「久しぶりだな」と頭をクシャリと撫でてくれた。
 こういう悪戯も可愛らしいと、「やっぱりパパのブルーだな」と。
「悪戯なんかをするってことはだ、ソルジャー・ブルーってわけでもないな」
「パパの子だもの」
 前のぼくのことは関係ないもの、パパの子だよ?
 ソルジャー・ブルーにはパパの記憶が無かったんだよ、ぼくのパパはパパしかいないんだよ。
「そうだっけなあ…。それでお前はパパの子だ、と」
「前のぼくにパパの記憶があっても、パパはパパだよ」
 ぼくのパパだよ、ぼくだけのパパ。だから大好き!
「そう言われると嬉しくなるな、うん。お前はパパのブルーだ、ってな」
 いい子だな、と頬にキスをくれた父は、それは御機嫌で夕食のおかずも譲ってくれた。「これも好きだろう?」と、「もっと食べていいぞ」と。
 食が細いブルーには有難迷惑だったけれども。お腹一杯になってしまったけれど。



 その夜、お風呂に入ってパジャマに着替えて、部屋に戻ってから。
 ようやっとお腹が落ち着いて来たと、食べ過ぎちゃったとベッドの端に腰掛けながら。
(パパの御褒美…)
 おかずを譲ってくれた父は本当に嬉しかったのだろう。前世の記憶を取り戻した後も、ブルーはブルーのままだから。それを再認識出来たから。
(パパはホントにパパなんだけどな…)
 生まれた時から側に居てくれた父。抱っこに、おんぶに、肩車。
 前の自分が知らない幸せを沢山与えてくれた父。今も暖かな家を、優しい毎日をくれている父。
(パパの背中…)
 飛び付いた背中は大きかった。脅かしたらビクンとなったけれども、揺らがなかった。大きくて逞しい背中。両手を広げて飛び付いた背中。
 広くて大きな背中だよね、と思ったけれど。
 もっと大きい背中を自分は知っている。父よりも大きくて広い背中を。



(ハーレイの背中…)
 そういえば、ハーレイにも何度もやった。夕食前に父にやったようなことを。
 白いシャングリラの中、周りに人がいない通路を歩くキャプテン。そういう姿を青の間から目にして、何度も飛んだ。瞬間移動でハーレイの後ろへ。
 何の前触れもなく現れ、飛び付き、抱き付いていた。あの背中に。
 濃い緑色のマントに隠れた、広くて逞しいハーレイの背中に。
 けれど。
(…もしかして…)
 せっかくハーレイと再会したのに、青い地球の上で巡り会えたのに。
 再会してから長く経つのに、今の生ではまだ一回もやってはいない。飛び付いていない。
 今の自分はハーレイを背中から脅かしていない。
 あんなに何度も会っているのに、前の生ではあんなに何度もやっていたのに。



(やってみないと…!)
 今度もやってみなくっちゃ、と思ったけれど。
 あの広い背中に飛び付いて脅かしてやらなければ、と思ったけども。
 でも、どうやればいいのだろう?
(チャンスさえあれば…)
 学校では絶対に出来ないけれども、家でならば、と考えたものの。
(足音がしちゃう…)
 前の自分が得意としていた瞬間移動が出来ないから。歩いて近付いてゆくしかないから。
 父が相手なら上手くいったけれど、ハーレイならば、きっと。
(足音でバレる…)
 そんな気がした。今度のハーレイはきっと気付くに違いない、と。
 気配だってバレてしまうだろう。いくら足音を隠せたとしても、気配でバレる。
 はしゃいでいる時の自分の心はハーレイに筒抜けらしいから。
 心の中身が零れてしまって、何をしようとしているのかが手に取るように分かるらしいから。



(…できっこない…)
 ハーレイの背中に飛び付くなんて、とシュンとしてから気が付いた。
 飛び付くどころか、抱き付くどころか、あの背中自体がご無沙汰なのだ、と。後ろからいきなり脅かすどころか、ハーレイの背中に抱き付いたことが無いのだ、と。
(胸は何度も…)
 抱き締めて貰ったし、自分から抱き付いて甘えもした。
 椅子に座ったハーレイの膝にチョコンと乗っかり、そのままギュウッとくっついたりした。
 「甘えん坊だな」と呆れられたほどに、何度も、何度も。
 最近でこそ、向かい合わせで座っていることが多いけれども。ベッタリ甘えはしないけれども。
(でも、背中…)
 背中の方には甘えるチャンスがまるで無かった。一度も無かった。
 前の生なら飛び付いてそのまま、顔を埋めたりもしていたのに。ハーレイが振り返ったらキスをくれると分かっていたのに、背中の広さを味わいたくて。その温かさを感じていたくて。
 二人でベッドで過ごした後にも、起き上がったハーレイの背にもたれていた。
 大きな背中に自分の身体を預けてしまって、その温もりに酔っていた…。



(ハーレイの背中…)
 どうして忘れていたのだろう、と何度となく二人で座ったテーブルと椅子に目を遣って。
 其処に原因を見付け出した。ハーレイがいつも座っている椅子。しっかりした木枠に籐を編んで張ってある、椅子の背もたれ。ハーレイがもたれてもビクともしない堅固な背もたれ。
 それが背中を隠していた。ハーレイの背中にくっついて自分の邪魔をしていた。
 これでは思い付かないだろう。背中に後ろから飛び付くなんて。抱き付くだなんて。
(でも、背中…)
 気になり始めたら止まらない。思い始めたら止まらない。
 あの背中がいい、と。ハーレイの背中に甘えてみたいと、抱き付いてみたいと。
(明日は土曜日…)
 ハーレイが訪ねて来てくれる日だから。
 頼んでみようか、背中がいいと。背中に甘えたいのだけれど、と。



 一晩眠っても、消えてくれなかった背中への思い。ハーレイの背中に甘えたい気持ち。
 朝食を食べても、部屋を掃除しても、それは一向に消えてはくれずに、大きくなるだけ。背中がいいと、あの背中だと。
 やがてハーレイが来てくれたけれど。いつものように向かい合わせで座ったけれど。
(背中…)
 お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、向かいに座ったハーレイの背中。
 やはり背もたれが邪魔をしていた。触らせてなるか、と背中を丸ごとガードしていた。其処から肩は出ているけれども、大きな身体も両脇にはみ出してはいるのだけれど。
 飛び付きたい背中は背もたれの向こう、抱き付きたい背中は背もたれの向こう。
 どうすればいいというのだろう?
 頑丈な背もたれが邪魔をしている向こうの背中に甘えたければ…?
(…相談してみる?)
 当のハーレイに。
 不意打ちで脅かすことは出来なくなってしまうけれども、どうせ脅かすだけ無駄だから。
 足音で、それに気配で何もかもが直ぐにバレてしまって、前のようにはいかないから。



 相談しよう、と心を決めて切り出してみた。他愛ない会話を交わす間に、「ハーレイ」と。
「えっと、背中…」
「背中?」
 ハーレイは反射的に後ろを振り返ってから、ブルーの方へと向き直って。
「俺の背中に何かついてるのか? …って、お前に分かるわけがないか」
 サイオンの方はサッパリだっけな、前のお前と違ってな?
「うん、ハーレイの背中なんかは見えないよ」
 椅子から立ってハーレイの後ろに回らない限り、ぼくには全然見えないんだけど…。
「じゃあ、なんだ?」
 俺の背中が何だと言うんだ、急に背中と言われてもなあ…。
「背中にご無沙汰してるんだよ。ハーレイの背中に」
「はあ?」
 ご無沙汰ってなんだ、どういう意味だ?
 お前、俺の背中と知り合いだったか、挨拶を交わすような仲だったのか?
 そもそも背中は喋らんと思うが、挨拶なんてヤツも全くしないと思うんだがな…?



 挨拶する時に出て来るのは背中じゃないだろうが、と訝るハーレイ。
 お辞儀するなら前に身体が傾くものだと、背中の方へは傾かないと。どうして背中にご無沙汰ということになるのか、とハーレイにはまるで通じていなかったから。
 ブルーは懸命に説明した。
 実はこうだと、こうなのだと。
 前の生では馴染み深かった背中に、今度は一度も飛び付きも抱き付きも出来ていない、と。
「そうなんだってば、ハーレイだって考えてみれば分かるでしょ?」
 ぼくが背中にくっついてたこと、一度も無いっていうことが。
 ハーレイの背中がとても好きだったのに、まだ一回も飛び付いて挨拶していないんだよ。
 ご無沙汰なんだよ、本当に。
 ハーレイの背中は其処にあるのに、今だって背もたれの向こうなんだよ…。



「俺の背中なあ…」
 そういえば何度もやられたっけな、とハーレイの目が細くなった。
 シャングリラの通路を歩いていた時に急襲されたと、後ろからいきなり飛び付かれたと。
「そう。…でも、今のぼくだとハーレイの後ろに飛べないし…」
 瞬間移動で飛んで行けないから、前のぼくみたいにはいかないよ。
「飛んでも無駄だぞ、今の俺はな」
 驚きやしないな、お前が後ろに出たってな。
「なんで?」
 瞬間移動だよ、一瞬だよ?
 今のぼくには出来ないけれども、さっきまで誰もいなかった場所に出るんだよ?
「それでもだ。今の俺はだ、前の俺より勘がいい」
 出たな、と直ぐに分かっちまうさ、お前が来たなと、現れたなと。
 つまり驚かなくて済むんだ、何がいるかが最初から分かっているんだからな。



 柔道で鍛えてあるもんでな、と余裕たっぷりに微笑まれた。
 気配に敏いと、脅かそうとして後ろに飛んでも前のようにはいかないと。
「お前が飛び付いてくる前に、だ。俺がクルリと後ろを向くかもしれないな?」
 お前は背中に飛び付く代わりに、俺に受け止められるってわけだ。悪戯者めが、と俺の腕の中に閉じ込められちまって、それっきりだな。
「じゃあ、脅かすのは…」
 前みたいにハーレイを後ろからビックリさせるのは…?
「まず無理だってな、相手が今の俺ではな」
 瞬間移動を覚えた所で、多分、役には立たないだろうさ、そういう風に使いたくてもな。
 俺に捕まって背中とは縁が無いままだってな、振り向かれて逃しちまってな。



 自信に溢れているハーレイ。今度の自分は脅かされないと、後ろを取られはしないのだと。
 それでは背もたれが無かったとしても、ハーレイの背中に飛び付けはしない。抱き付くことも。
 けれども諦められない背中。ハーレイの大きくて逞しい背中。
 ご無沙汰したままでは悲しいから。甘えてみたくてたまらないから。
 ブルーはなんとかならないものかと問い掛けた。
「…だったら、背中にくっつくのは?」
 飛び付くんじゃなくて、脅かすのでもなくて、くっつくだけ。
 ハーレイの背中にくっつきたいな、と思うんだけど…。
「どうやってだ?」
 俺はこうして座ってるわけで、背中は後ろになるわけなんだが…。
 背中の方を向けるんだったら、お前は俺の背中に向かって喋るしかないわけだがな?
 椅子ごと後ろを向いちまうんだし、背もたれ越しの背中にな。
「…やっぱり、背中、無理だよね…」
 ハーレイごと後ろを向いてしまって、ぼくはそっぽを向かれるんだね?
「うむ。背中と腹とは入れ替わらんしな」
 背中を向けては喋ってやれんな、そいつは絶対、出来やしないと分かるだろうが?
「…そっか…」
 ハーレイの背中、無理なんだ…。
 くっつきたくても、背もたれつきの背中しか向けて貰えないんだ…。



 残念、と深い溜息をついたブルーだけれど。
 今の生では背中は無理かと、ハーレイの背中には甘えられないのかと肩を落として萎れるよりも他に無かったけれど。
「ふうむ…。そんなに俺の背中がいいのか…」
 こんなのの何処がいいんだか、とハーレイが肩越しに自分の背中を軽く叩いた。
 固いだけだと、やたら筋肉がついてるだけなんだが、と。
「でも、好きなんだよ、ハーレイの背中…!」
 好きだったんだよ、前のぼくは。
 後ろからいきなり飛び付いてた時、よくそのままでくっついてたよ?
 ハーレイが振り向こうとしたってギュッと押さえて、背中にそのまま。手を一杯に広げて背中にくっつくのが好きで、顔を埋めてるのも好きだったよ。
 ハーレイの背中は温かいな、って。ぼくの背中よりもずっと大きいよね、って…。



 あの背中がとても好きだったのに、と訴えた。
 それなのに今度はくっつけないのかと、背もたれが間に挟まるのか、と。
「…ハーレイの背中、ホントのホントにご無沙汰なのに…」
 くっつきたいのに、どうすることも出来ないの?
 脅かす方は無理だとしたって、くっつくくらいは出来たらいいな、と思ってたのに…。
「そこまで俺の背中にこだわりたいのか、今日のお前は?」
 今までに背中と言われたことは無いんだがなあ、どうして背中になっちまったんだ?
「…パパを脅かしたんだよ、昨日の夜に…」
 廊下で前を歩いていたから、後ろから「パパ!」って飛び付いただけ。
 その時には思い出さなかったけど、後からどんどん思い出しちゃって…。ハーレイにも後ろから飛び付いたよね、って、抱き付いて甘えていたんだよね、って。
 そしたら背中に甘えたくなって、ご無沙汰してたってことに気が付いたんだよ。
 今度は一度もやっていないし、一度も背中に甘えていない、って。



「なるほどなあ…。そういうことか」
 それで背中と言い出したのか、とハーレイが腕組みをして暫く考え込んだから。
 もしかしたら、とブルーは淡い期待を抱いた。
 背中を向けて貰えるのかもと、背中に飛び付かせて貰えるのかも、と。そうしたら…。
「俺の背中だが。…お茶もお菓子も無しでいいなら何とか出来んこともない」
 より正確に言えば、俺の方はお茶も飲めるし、お菓子だって食える。
 しかしだ、お前はそういうの抜きで、それでもいいなら背中を貸せないこともないな。
「…お菓子抜き? お茶も?」
 なあに、とブルーが目を丸くすると。
「ん? 百聞は一見に如かず、ってな」
 こうするのさ、とハーレイは椅子から立ち上がった。丈夫な木枠に籐を張った背もたれのついた椅子から。前のハーレイのマントの色を淡くしたような座面の椅子から。
 小さなブルーの腕には重たいその椅子を軽々と抱え、前後を逆に置き替えた。背もたれがついた方がテーブルを向くように。座面がテーブルにそっぽを向けてしまうように。
 その椅子にハーレイはドカリと座った、テーブルの方を向いて。背もたれの上に腕を乗っけて。
 逞しく強い両足の間に、背もたれを挟むようにして。



 テーブルの向こう、ブルーと向かい合わせに座るハーレイ。
 けれどもテーブルとハーレイとの間に背もたれ、籐が張ってある丈夫な背もたれ。編まれた籐の隙間からハーレイの身体が透けて見えていて、それは背中ではない側で。
「どうだ? こういう俺のだ、背中にだったら後ろに回ればくっつけるぞ?」
 お前が座れるスペースなんぞは残ってないしな、後ろに立つしかないわけだが…。
 くっつきたければ貼り付くしかなくて、お前の口にはお茶もお菓子も入らないんだが…。
 それで良ければくっついてみるんだな、俺の背中に。
「くっつく…!」
 ブルーは椅子からガタンと立った。
 ハーレイの後ろに回ってしまえば、テーブルはグンと遠ざかるけれど。お茶にもお菓子にも手が届かなくて、どうにもならなくなるけれど。
 そんなことなど、どうでも良かった。
 ハーレイの背中にくっつけるのなら、ご無沙汰していた大きな背中にくっつけるのなら。



(くっつける…!)
 背中、とハーレイが座った椅子を回り込んで、後ろに行った。
 ハーレイの後姿は何度となく目にして来たのだけれども、どうして忘れていたのだろう。大きな背中を、広い背中を、大好きだった背中のことを。
「ん? どうした…?」
 くっつかないのか、と聞こえたハーレイの声。こちらを向いてはいないままで。テーブルの方に顔を向けたハーレイの短い金髪、それしか見えない。
(この声だって…)
 久しぶりだ、と胸が熱くなった。いつもと同じ声だけれども、いつもと違う。向かい合って聞く時の声とは違う。
(学校だったら、何度も聞いてる筈なんだけど…)
 授業の時には背を向けて話していることも多いから。教室の前の大きなボードに書いている時、ハーレイは背中を向けているから。
(…でも、違うんだよ)
 こうして頭の向こう側から聞こえて来る声。
 自分に向けられた声だけれども、自分の方を向いて発せられてはいない声。
 前の生で何度聞いただろう。何度こういうハーレイの声を、前の自分は聞いたのだろう…。



(ハーレイ…!)
 たまらなくなって、ギュウッと両腕を回してくっついた。
 ハーレイが向けてくれた背中に、背もたれが邪魔をしていない背中に。
 座りたくてもスペースは本当にほんの僅かしか空いていないから、座ることは諦めてしがみつくだけ。被さるようにしてしがみつくだけ、大きな背中に。
「…どんな具合だ、俺の背中は?」
 お気に召したか、こだわりの背中。ご無沙汰らしいが、挨拶はしたか?
「今、してる所…」
 身体中で、とブルーは答えた。ハーレイの背中に挨拶してると、ぼくの身体が挨拶してると。
 懐かしくて温かい背中。前のハーレイの背中と同じに広くて逞しい背中。
 違う所はマントが無いこと。いつも顔を埋めた、濃い緑色のマントが何処にも無いこと。
(でも、この方が…)
 こっちがいい、と抱き付いた。
 ハーレイの背中をより近く感じられるから。厚いマントに隔てられてはいないから。



 それにハーレイの声、とブルーは背中に耳をピタリとくっつけた。
 さっき聞いたよりも懐かしい声。ハーレイの大きな身体の中から響いてくる声。
 「俺の背中は期待通りか」と、「もう挨拶は済んだのか?」と。
 ハーレイの腕の中で聞く声とは違う。胸に抱かれて聞く声とは違う。
 前の生では何度も耳にしたけれど、生まれ変わってからは初めてこの声を聞いた。大きな身体の中を通って耳に届く声を、ハーレイの背中の中から聞こえる声を。
「挨拶はもう済んだけど…。ハーレイの声…」
 いつもと違うね、もっと、ずうっと深い所から聞こえてくるね。
 こんな風に聞こえる声だってことを忘れていたよ。背中にくっついてたら、こう聞こえること。
「そりゃまあ、なあ…。背中の中で喋っているしな?」
 胸にくっついてりゃ、俺の声はお前の頭の上からお前の耳に届くんだろうが…。
 この状態だと、間に背中が入るんだしな?
 俺が身体の中から出している声、口から出てても背中の中から出てるようなもんだ。身体の中で響くわけだな、お前の耳まで届く前にな。
「…うん、きっと…」
 とても温かく聞こえるんだよ、耳の側で喋っているみたいに。
 ううん、もっと近く、まるでハーレイがぼくの中で喋っているみたい…。
 この声のことも忘れていたなんて、ホントにご無沙汰しちゃっていたんだ、ハーレイの背中。
 前のぼくはあんなに好きだったのに…。
 ハーレイの背中を何度も追い掛けて、飛び付いて、抱き付いていたのにね…。



 あまりにも懐かしい背中だったから。温かい響きの声だったから。
 ハーレイが「お茶はいいのか?」と訊こうが、「俺は飲むぞ?」と念を押されようが、ブルーは背中にくっついていた。
 大きな背中の向こう、ハーレイがお茶を飲んでいる音も、お菓子を口にする音も。
 全て聞こえているように思えた、耳に響いて来ているように。
 お茶をゴクリと、ケーキをフォークで切り取って口に運んで、モグモグ、ゴクンと。
 ハーレイの気配が伝わる背中。何をしているのか、ちゃんと伝わってくる背中。
(ホントのホントに久しぶりだよ…)
 声も気配も、と身体中でハーレイの背中を感じ取ろうとくっついた。
 お茶もお菓子も抜きのまんまで、食べに戻ろうと思いもせずに。



 そうやって、どのくらいの間、背中の温もりを、大きさを満喫していただろう。
「もう少し経ったら戻れよ、お前」
 お母さんが様子を見に来るぞ、とハーレイの声が促した。背中の中から。
 昼食の前にお茶のおかわりは如何と訊きに来るから、お菓子をきちんと食べておけよ、と。
「分かってる…。でも、もうちょっと…」
 あと少しだけ、いいでしょ、ハーレイ?
 背中、ホントにうんとご無沙汰だったんだから。次はいつ会えるのかも分からないんだから…。
「ふむ…。こいつはそうそう出来んが、だ」
 椅子は置き方を変えにゃならんし、お前はお茶もお菓子も手が出せないし…。
 とても褒められたモンじゃないしな、俺の背中はそう簡単にはお前に提供してやれん。
 それは分かるな?
「…うん、分かる…」
 膝なら降りたらおしまいだけれど、こっちは椅子の置き方が逆になっちゃってるしね。
 ママの足音が聞こえてからでは、元に戻せそうもないものね…。
「そういうことだ。おまけにお前はお茶もお菓子も手付かずなんだし、お母さんに変に思われる」
 何があったのかと、どうなったのかと。だから、そうそう出来ないが…。
 お前がそんなに気に入ったのなら、たまにはしてやる。
 たまに、だがな。



「ホント!?」
 くっついていいの、とブルーは両腕で強く背中にしがみついた。
 今日限りでお別れになるのではなくて、またくっついてもいいのかと。こう出来るのかと。
「…たまにだぞ?」
 会う度にっていうわけにはいかんな、たまにだな。お前がご無沙汰だと言い始めたらな。
「言ってもいいの? 背中にご無沙汰してるって」
「たまにならいいさ。いいか、本当に、ごくたまに、だぞ?」
 それから、お前のお母さんにバレないような時だな、そいつも大事だ。なにしろ椅子がな…。
 椅子の置き方がまるで逆では、俺はお行儀の悪い先生になっちまう。
 この座り方はお世辞にも行儀がいいとは言えんし、俺だってどうも落ち着かないんだ。
 とはいえ、今はこれくらいしかしてやれないからなあ、背中にご無沙汰だと言われたってな。
 そのくらいはお前にも分かるだろうが?



 恋人としてベッドの上でもたれさせてはやれないし…、とハーレイが笑う。
 後ろから飛び付いて抱き付こうにも、そういうチャンスも全く無いと。
「だからだな…。結婚するまではこいつで我慢しておけ、俺の背中は」
 お前がご無沙汰してると言い出して、俺が「そうだな」と納得したら。
 今日みたいにこうして座ってやるから、後ろから背中にくっつくんだな。
「…うん。またご無沙汰になったら言うから、これ、やってよね」
 この背中でも充分幸せだから。
 …ハーレイの背中と、身体の中から聞こえる声と。それだけでぼくは幸せになれるよ、とっても大きな背中だから…。
「そりゃ良かった。…そろそろ戻れよ、お茶もお菓子も放ったままだぞ」
 早く戻って減らしてくれ。俺も元通りに座りたいしな、椅子本来の座り方でな。



 次の機会が欲しいんだったら早く戻れ、と言われたから。
 促されたから、ブルーは背中に別れを告げた。最後にギュッと強く抱き付いて、「さよなら」と「またね」と身体で背中に挨拶をして。
 いつもの自分の椅子に戻る間に、ハーレイは椅子を元の通りに置き直してしまった。背もたれを正しい方向に向けて、座面がテーブルの方を向くように。
(んーと…)
 ブルーは椅子に腰掛けたけれど、もうハーレイの背中は見えない。ついさっきまで独占していた広い背中はもう見えない。次に会える日はいつになるかも分からないけれど…。
「ハーレイ、今はご無沙汰しないと背中に会わせて貰えないけど…」
 結婚したら、もっとくっつけるんだよね?
 前のぼくが色々やってたみたいに、背中にくっつき放題だよね…?
「当たり前だろうが。運が良ければ脅かせるかもしれないぞ」
 俺は後ろを取られはしないが、お前が相手だと油断するかもしれないな。
 後ろからパッと飛び付かれた途端に、「うわっ!」と叫んでしまうかもなあ?
「頑張ってみる…!」
 ハーレイと一緒に暮らしてるんだし、きっとチャンスは転がってるよ。
 瞬間移動が出来なくったって、ハーレイを後ろから脅かすチャンス。



 今はこれしか出来ないけれど。
 椅子の向きを逆に据えて貰って、お茶も飲まずにくっつくことしか出来ないけれど。
 いつかは身近になる背中。
 同じ家で暮らして、側にあるのが当たり前になるハーレイの背中。
 父にやったように廊下で後ろを歩いて、脅かすことだって出来るだろう。前をゆく背中にパッと飛び付いて、前触れもなく抱き付いて、ハーレイを。
 「前の俺のようにはいかないぞ」と自信満々の、気配に敏いハーレイを。
 だからブルーは訊いてみる。赤い瞳を煌めかせて。
「ねえ、ハーレイ。…驚かせられたら、御褒美、くれる?」
 ぼくが後ろから、ハーレイを「わっ!」と言わせられたら。
「もちろんだ」
 今の俺の後ろ、取れたヤツは一人もいないんだからな、今のレベルになってからはな。
 その俺よりもだ、お前が優れた技を見せたら、そいつは称賛に値する。
 当然、御褒美をやらんといかんな、参りましたと、一本取られてしまいました、と。



 柔道で一本取るというのは「勝った」の意味だとハーレイに教えて貰ったから。
 一本取れたら何でもやるぞ、と言われたから。
(ふふっ、御褒美…)
 もしも首尾よく、ハーレイを後ろから驚かすことが出来たなら。
 その時は思い切り甘えてみよう。御褒美が欲しいと強請ってみよう。
 どんな我儘でもハーレイは叶えてくれるだろうけれど、とびきりの我儘な注文を。
 一緒に仕事場に連れて行ってだとか、今日は一日側に居て、だとか。
 ハーレイの背中と離れないために。
 大きくて広くて、逞しい背中。
 前の自分が追い掛け続けた広い背中を、今度は誰にも隠すことなく堂々と追ってゆくために…。




          会いたい背中・了

※今のブルーは飛び付くことが出来ない、ハーレイの背中。前の生では、よくやったのに。
 なんとかくっつけましたけれども、次の機会はいつになるやら。懐かしい背中に会える日は。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








Copyright ©  -- シャン学アーカイブ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]