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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

「あっ…!」
 おやつの時間の後、手を滑らせてしまったコップ。
 学校から帰ってケーキと一緒に冷たいミルクを飲んでいたコップ。今日は暖かかったから。外を歩けばポカポカ陽気で、制服の上着を着込んでいたら暑いくらいの日だったから。
 熱い紅茶よりもミルクがいいと思った。シロエ風のホットミルクではなくて、冷たいミルク。
 だから自分で冷蔵庫から出してコップに注いだ。大きな瓶からコップに一杯。
 幸せの四つ葉のクローバーが描かれた瓶から、自分にちょうどいい量を。
 これで背丈も伸びるといいな、とケーキを食べながら飲んでいたミルク。毎朝必ず飲むミルク。おやつにも飲めば一日に二杯、きっと背丈を伸ばしてくれるに違いない、と考えた。
 なのに…。
 床でガシャンとコップが割れた。
 キッチンの母の所へ返しに行こうと持っていた手からツルリと滑って。
 飛び散ったガラス、ミルクの残りも散らばったろう。残りと言っても雫だけれど。一滴か二滴、コップの底に貼りついて残った分だけれども。



(割っちゃった…)
 呆然と立ち尽くしていたら、音が聞こえたのか駆けて来た母。「どうしたの?」と。
「ママ、ごめんなさい…」
 割っちゃった、と謝った。割ってしまってごめんなさい、と。
「いいのよ、それより怪我はなかった?」
「平気…」
「だったら心配しなくていいわ。コップくらいは大したことないの」
 お客様用のコップじゃないし、と手際よく掃除を始めた母。「動かないで」と指図をして。
 砕けたガラスを踏んでしまったら怪我をするから、そこから動かないように、と。
 そう言われたから、手伝うことも出来ないから。
 ケーキ用だった空のお皿を手にして、見ていただけ。床を掃除する母を眺めていただけ。自分がやったことだというのに、迷惑を掛けてしまった母。自分では片付けられない状況。
 母は割れたコップの欠片を拾い集めて、専用の厚いシートで包んだ。床も拭いて、仕上げに軽く手でサッと撫でてみて。
「はい、もう歩いても大丈夫よ」
 すっかり綺麗になったから。ガラスの欠片が落ちてはいないわ。
「ごめんね、ママ…」
 コップ、割っちゃって。お片付けだって、手伝えなくて…。
「いいのよ、ブルーには無理だものね」
 落っことしたコップを割れてしまう前に止められないでしょ、ブルーの力じゃ。
 お掃除だって、まだ無理よ。手を切っちゃったら、もっと大変。サイオンで手を守れないから。
「うん…」
 ごめんなさい、とブルーはもう一度謝った。
 サイオンで拾えないコップ。落下を止められないコップ。
 落とせばおしまい、今日のように床で砕けてしまう。相手はガラスなのだから。



 片付けてくれた母に御礼を言って、部屋に帰って。
 勉強机の前に座って大きな溜息をついた。
(失敗しちゃった…)
 コップを割ってしまうだなんて。
 せっかく美味しくおやつを食べて、今日は二杯目になるミルクもきちんと飲み干したのに。
 背丈が伸びてくれるといいな、と冷たいミルクで喉を潤していたというのに。
 四つ葉のクローバーの幸せまでが粉々な気分。
 幸せの四つ葉のマークが描かれた牛乳の瓶を割ったわけではないけれど。ミルクも無駄にしてはいないけれども、沈んだ気持ち。幸せが砕けてしまったような気がする、コップと一緒に。
 前の自分なら、コップは割れなかったのに。
 ガッカリした気分にだってならない、今の自分みたいな気持ちには、けして。
(だって、割ったりしないんだもの…)
 コップを落としはしないから。
 落とすことは何度もあったけれども、落としても拾ってしまうから。
 床でガシャンと砕け散る前に、床と接触する前に。



(前のぼくは、こんな惨めな気持ち…)
 きっと知らないに違いない、と思ったけれど。
 それは一瞬、直ぐに気付いた。
 前の自分が持っていた記憶。膨大な記憶の中に幾つも、無数に散らばる悲惨な記憶。惨めとしか形容出来ない記憶。
 アルタミラで檻に入れられていた頃、毎日が惨めなものだった。餌と水しか与えられずに、檻の中だけで暮らしていた。檻の外へと出された時には、実験という名の生き地獄。
 人間としては扱われなくて、ただの動物、実験動物。あの日々の記憶に比べれば…。
(コップくらい…)
 きっと大したことではないのだ、と自分自身を慰めた途端。
 フイと頭を掠めた記憶。通り過ぎて行った、遠い遠い記憶の中の一コマ。



(割った…?)
 透き通ったガラスのコップか、グラスか。
 それが粉々に砕けた記憶。割れて飛び散ったという記憶。
 前の自分が、どうやら割った。コップか、グラスか、そういったものを。
 そして…。
(楽しかったわけ?)
 やたらとはしゃいでいた記憶。弾んだ心が、楽しげな気分が蘇ってくる。
 割れたと、割れてしまったと。
 粉々に割れて木端微塵だと、見事に割れてしまったと。
(なんで…?)
 何故、楽しいのか分からない。楽しかったのかが思い出せない。
 今の自分はコップを割ったと気分がすっかり沈んでいたのに、同じことをしても逆の気分らしい前の自分が理解出来ない。謎でしかない。
(何か変だよ?)
 何処か変だと、奇妙すぎると不思議でたまらなくなる記憶。前の自分が持っていた記憶。
 どういう仕掛けがあるのだろうか、と懸命に遠い記憶を手繰れば、片付けをしているハーレイの姿。割れてしまったコップかグラスか、砕けた欠片を拾い集めているハーレイ。
 それを見てケラケラ笑っていた。前の自分が笑い転げていた。
 割れたと、跡形もなく割れて砕けてしまったと。



(…どうしてあれが楽しいわけ?)
 不名誉な記憶の筈なのに。
 今の自分と全く違って、コップなど割りはしなかった自分。最強のサイオンを持っていた自分。
 落としてしまった皿やコップは端からサイオンで拾っていた。割れてしまう前に。床に当たって砕ける前に。
 そんな自分が失敗したなら、コップかグラスを割ったのならば。
 今の自分が味わった以上に惨めな気分になるのだろうに。
 「ぼくとしたことが…」と頭を抱えて悩んだとしても、少しもおかしくないというのに。
 上手く拾えずに割ってしまったなら、それはサイオンを意のままに操れなかったから。
 今なら不器用でも許されるけれど、何の不自由もありはしないけれど、前の自分は違っていた。病に倒れた時であっても、サイオンは研ぎ澄ませておかねばならなかった。
 白いシャングリラを守るソルジャーだったから。ソルジャー・ブルーだったから。
 僅かなミスさえ許されない筈で、何より自分が許さない筈。失敗するなど。
 コップを割ったら楽しいどころか、きっと慌てて猛特訓を始めたことだろう。鈍ったサイオンを元に戻すべく、懸命に。
 それなのに自分は笑っているから。記憶の中の前の自分は楽しげだから。
(記憶違い…?)
 それとも、あれは夢だったろうか?
 前の自分が夢の中で出会ったものだったろうか、あの光景は?
 あまりに愉快な夢だったから、と忘れずに覚えていたのだろうか…?



 どういう記憶なのだろう、と何度も首を捻っている内に、チャイムの音がして。
 仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで座ったから。
「ハーレイ、今日ね…」
 コップを割った、と報告をした。手を滑らせて割ってしまったのだ、と。
 案の定、笑い出したハーレイ。お前らしいと、前のお前なら有り得ないな、と。
「前のお前なら一瞬で拾うぞ、そういうのはな。床に落ちる前に」
 俺が厨房に立ってた頃にもそうだったろうが、皿洗いを手伝ってくれた時とか。お前ときたら、手伝いはするが落とすんだ。サイオンでヒョイと拾っちまって、一枚も割りはしなかったがな。
「そうだよね…」
 前のぼくなら割らなかったよね、コップもお皿も。もちろん、今日のコップだって。
「うむ、割らん。そいつは俺が保証する」
 間違いない、とハーレイが太鼓判を押したから。
「それじゃ、やっぱり、記憶違い…」
「はあ?」
 なんだ、と怪訝そうな顔のハーレイ。それはそうだろう、今の話では通じはしない。
 前の自分の記憶の話も、それが何だか分からないことも。
 だから説明することにした。謎の記憶を、夢かどうかも掴めないままのコップの記憶を。



「あのね、ハーレイ…。前のぼくの記憶なんだけど…」
 コップを割っちゃった後で落ち込んでいたら、ひょっこり思い出したんだけど。
 割って直ぐには出なかったけれど、コップが割れた、って楽しい記憶があるんだよ。
 コップじゃなくって、グラスかな?
 とにかく割ってしまった記憶で、それなのにちっとも困ってなくて…。
「ほう…?」
 そいつは実に興味深いな、前のお前が割ったってか?
 有り得ないっていう気がするなあ、前のお前は割らないだろうが。コップもグラスも。
「だよねえ? だからぼくにも不思議なんだよ、その記憶」
 おまけに、それが割れちゃった後。ハーレイが床で片付けをしてて、ぼくは笑って見てるんだ。
 「ごめんなさい」って謝りもせずに、何もかもがとても楽しくて…。
 あれはやっぱり夢なのかな?
 前のぼくが見た夢の一つなのかな、特別だから覚えていたのかな…?
 実際には起こりもしない夢を見たから、前のハーレイにも話して聞かせていたのかも…。
 こんな夢を見たよ、って、ハーレイが割れたコップを片付けてたよ、って。
 そういう話を覚えていない?
 前のぼくが話した、変な夢の話。



「いや、そいつは…。俺も覚えちゃいるんだが…。たった今、思い出したんだが…」
 お前には夢で俺には違うな、と妙な答えが返って来た。笑みを浮かべたハーレイから。
「えっ?」
 それってどういう意味なの、ハーレイ? ぼくの寝言で聞いたとか…?
「いや、そうじゃなくて…。一応、そいつは現実なんだ」
「一応って…。ぼくにとっては夢なんでしょ?」
 それがどうして現実になるの、ハーレイ、ぼくが見ている夢を覗いた?
 おかしな寝言を言ってるから、って覗き込んだの、ぼくの夢の中を?
「…やって出来ないこともないがだ、俺はそこまで悪趣味じゃないぞ。お前の夢を覗くなんてな」
「でも、夢だって…」
「お前、その場所、思い出せるか?」
 コップだかグラスを割ったって場所だ、いわゆる現場だ。それもお前は思い出せたか?
「ううん、全然」
 何処で割ったか分からないんだよ、割れたってだけで。楽しくて仕方ないだけで。
 だから夢だと思うんだけど…。
「違うな、その夢の場所は俺の部屋なんだ。キャプテン・ハーレイの部屋の中だな」
「ハーレイの部屋…?」
 だけど夢でしょ、夢の場所って言ってるものね?
 ハーレイの部屋で夢を見ちゃって、寝言ですっかり喋っちゃってた…?



 キョトンと目を見開いたブルーだけれど。
 寝言で長々と喋る人もいると知っているから、前の自分もそうだったのかと思ったけれど。
 ハーレイは「夢じゃないな」と否定した。前の自分の部屋で起こったことだと、現実なのだと。
「お前、記憶が飛んじまってるんだ、前後のな」
 割っちまう前と、割った後と。どっちもお前は忘れちまって、記憶に残っちゃいないのさ。
 忘れるも何も、最初から覚えるつもりなんかは無かったろうが。
「…何があったの?」
 前のハーレイの部屋で何が起こって、そういうことになっちゃってるの?
 まるで覚えていないだなんて…。ぼくの記憶が飛んじゃうなんて。
「一言で言うなら、俺の酒を飲んで酔っ払った」
「ぼくが?」
「ああ。山ほどあるだろ、二日酔いの記憶」
 飲めもしないくせに、俺が美味そうに飲んでるから、って手を出して。
 挙句の果てに頭が痛いだの、胸やけがするだのと、派手に二日酔い。
「うん…」
 だってハーレイ、美味しそうに飲んでいたんだもの。
 飲んでみたい気持ちになるじゃない。ぼくにも少し分けて欲しい、って。
「そう言っては、お前、二日酔いになって後悔するんだ」
 なのに全く学習しないで、何度も同じことを繰り返してた、と。
 俺の酒を横から奪って飲んでは、二日酔い。何度やったか、俺も数えちゃいなかったが…。



 その一つだな、とハーレイは笑った。
 合成のラム酒を一息に飲んで酔っ払ったと、それは楽しそうな酔い方だったと。
 酔っ払ったから記憶が無いのも当然、一部を覚えていたというだけでも奇跡のようだと。
「もう、あの時のお前ときたら…。普段とはまるで違っていたぞ」
 俺の肩をバンバン叩いてくれてな、ゼルと飲んでるみたいだったぞ。愉快だったが。
「ゼルって……。ぼくが?」
 じゃあ、喋り方もああだったわけ? 「ぼく」じゃなくって「わし」って言って。
「いや、そこまでは酷くなかった。お前はゼルの真似をしていたわけじゃないしな」
 単に御機嫌で酔っ払ってだ、その酔い方がゼルに似ていた。
 「もっと飲まなきゃ」と俺にどんどん酒を注いで、自分のグラスにも勝手に入れて。
 それを飲んでは、一緒に歌を歌わないかと持ち掛けて来たり、一人で先に歌い出したり。
 踊ってもいたな、何処で覚えた踊りなんだか、即興なんだか。
「…踊ってたの?」
「踊ってるつもりというヤツだな。歌に合わせてステップだしな?」
 もっとも、すっかり酔っているから、ステップにもなっちゃいないわけだが。
 あっちへヨロヨロ、こっちへヨロヨロ、千鳥足というヤツで踊り回ってた。
 ゼルもそういうタイプだったし、今日のお前はゼルのようだな、と見てたってな。
「…ぼくがゼル…」
 一人で歌って、踊ってたわけ?
 ハーレイの部屋で酔っ払って踊って、ハーレイにそれを見られていたわけ…?



 ブルーは愕然とするしかなかった。
 ハーレイの方にはある記憶。自分の中では失われた記憶。酔って覚えていなかった記憶。
 その中の自分があまりにとんでもなかったから。歌って踊っていたというから。
(…ハーレイ、そんなの覚えてなくても良かったのに…!)
 覚えているなんて不公平だ、と膨れっ面になった所へ。
「…それでな、挙句の果てにグラスを落としてガシャンと割ってくれたんだ」
「酔っ払って…?」
 ぼくが割ったの、本当に? 夢じゃなくって?
「夢だった方が良かったなあ…。俺の気に入りのグラスだったからな」
 お前が落としてしまったグラス。大事にしていたヤツだったんだが…。
「そうだったわけ?」
 ぼくはグラスかコップなのかも覚えてないほど曖昧なのに…。
 割ってしまったヤツ、ハーレイのお気に入りだったんだ…。



 なんということをしたのだろう、と小さなブルーは申し訳ない気持ちで一杯になった。
 前のハーレイのお気に入りのグラス。
 木で出来た机を愛用していたハーレイのグラス。
 誰も見向きもしなかった机を暇を見付けては磨いていたようなハーレイだから。磨けば磨くほど味が出るから、と手入れしていたハーレイだから。
 どんな物でも大切にしたし、きちんと手入れを欠かさなかった。
 キャプテンになる前、倉庫の備品を管理していた頃も、毎日のように点検していた。食品ならば期限はどうかと、それ以外の物も手入れが必要な時期かどうかと見回っていた。
 まして自分の私物ともなれば、木の机はもちろん、羽根ペンだって。
 使った後にはインクを綺麗に洗い落として、翌日に備えた。ペン先にインクが残ったままだと、こびりついてしまって取れなくなるから。ペン先の寿命が縮むから。
 替えのペン先は山ほどあったし、律儀にインクを落とさなくても全く問題無かったのに。駄目になったペン先を再生できるだけの技術も、白いシャングリラにはあったのに。
 そんなハーレイのお気に入りだったグラスともなれば、さぞ大切に扱われていたことだろう。
 使う度に丁寧に洗って、拭いて。
 曇りの一つも出来ないようにと、埃もついたりしないようにと、棚の奥。
 仕舞い込んでおいて、一人で、あるいはグラスを使うのに相応しい客人が訪れた時に、其処から取り出して酒を注いで…。
 宴が済んだら、また棚の奥へ。自分が納得するまで洗って、拭いて、仕舞って。
 そういうグラスを自分が割った。前の自分が酔っ払った末に。



(やっちゃった…)
 今の自分が割ったわけではないけれど。前の自分が割ったのだけれど、いたたまれない気持ちに変わりはない。
 よりにもよって、前のハーレイのお気に入りのグラス。
 今日、割ったコップとは比較にならない、特別なグラス。それを自分が割っただなんて。
 しかも普段なら決して割りはしないのに、酔っていたばかりに割ったというのが申し訳なくて、穴があったら入りたいような気分だけれども、時すでに遅し。
 割った自分は前の自分で、とうの昔に済んでしまった出来事だから。
 グラスを割った前の自分も遠い昔に死んでしまって、白いシャングリラももう無いのだから。



(前のハーレイのお気に入り…)
 どんなグラスだったかも覚えてはいない。コップだったかグラスだったか、それすらも定かではない記憶。どうしようもなく情けない記憶。
 ハーレイは覚えているのだろうに。
 グラスの形も、其処に刻まれていた模様なども。
 前の自分が割ったのと同時に消えてしまった、グラスの模様やカットなど。
 ただのガラスになってしまった。割れて砕けて、ガラスの破片に。
 シャングリラの中で他のガラスの製品になって、生まれ変わりはしただろうけれど。廃棄処分で宇宙のゴミにはならなかったと思うけれども、元のグラスに戻ってもいまい。
 作り直せるようなものなら、前のハーレイのお気に入りではなかったろうから。
 シャングリラでは作れないグラス。きっと人類の船から前の自分が奪ったグラス。
 他の物資を奪ったついでに紛れ込んでいたグラスのセットで、希望者が無くてハーレイが貰った品物の一つ。ハーレイ好みのレトロなグラス。
 きっとそうだ、という気がした。
 施された細工が繊細すぎて「実用的ではない」と皆が嫌ったか、手入れが面倒だと思われたか。
 いずれにせよ、ハーレイだけが価値を見出し、大切にしていたのだろうグラス。
 覚えてもいない自分が割った。前の自分が割ってしまった…。



 シュンと項垂れてしまったブルー。小さなブルー。
 謝ろうにも、前後の記憶を失くすくらいに酔っ払った前の自分のことでは、どう謝ればいいのか分からない。「ごめん」でいいのか、謝っても白々しく聞こえるだけなのか。
 どうすれば…、とグルグル考えるけれど、出て来てくれない解決策。
(なんて言ったらいいんだろう…)
 困り果てていたら、ハーレイに顔を覗き込まれた。「しょげるヤツがあるか」と鳶色の瞳で。
「あのグラスだが…。前のお前だが、いつもなら絶対、割らないからな」
 割れる前に拾っちまうだろう? サイオンでヒョイと。
「うん…」
 そうとしか答えられなくて。
 それが出来なかったことを詫びる言葉が見付からないまま、頷いたのだけれど。
「お前、普段がそうだったからな。割るなんてことが無かったヤツだったから…」
 割っちまったのがやたら楽しかったらしくて、それはそれは機嫌が良かったぞ。
 ただでも酔ってて上機嫌だしな、お前にとっては楽しい見世物だったんだ、あれは。木端微塵に割れるグラスなんて、前のお前が目にするチャンスはそうそう無かっただろうしな?
 他のヤツらが落としたコップや皿の類も、お前、気付けば割れる前に拾ってやってたし…。
「…前のぼくは楽しかったかもしれないけれど…。ハーレイは…?」
 …ハーレイはどうなの、どうだったの?
 お気に入りのグラスをぼくに割られちゃって、ショックだったんじゃないの、ハーレイ…?
「そりゃまあ、なあ…? 気に入りのヤツが割れちまったし、正直、参った気分だったが…」
 割ったお前が、あんまり楽しそうだったから…。
 俺が床にしゃがんで片付けていても、それが面白いと声を上げて笑っていたもんだから…。
 ガックリ来ている俺が馬鹿みたいに思えるじゃないか。
 どうせグラスは割れちまったんだし、元に戻りはしないんだしな?
 溜息をついても仕方ないだろ、結果が変わってくれない以上は俺の気分を変えなくちゃな。
 と、いうわけで、だ…。



 許すことにした、と言うハーレイ。
 グラスが割れたと笑い転げていたブルーを。前のブルーを。
 お気に入りのグラスを割られたというのに、それを許したらしいから。小さなブルーは大慌てでペコリと頭を下げた。謝るなら今だと、謝らねばと。
「ご、ごめんなさい…」
 ぼくが謝るのも変だけれども、前のぼくだって、ぼくだから…。
 ごめんね、ハーレイの大事なグラスを割っちゃって。きっと大切にしてたグラスだったのに…。
 割っちゃった上に、謝りもしないで笑って見ていてごめんね、ハーレイ…。
「いや、詫びならたっぷり貰ったからな」
 お前が謝らなくてもいいさ。グラスの件なら、とうの昔に解決済みだ。前のお前が、もう充分に返してくれた。思い出したからって謝る必要は何処にも無いってな。
「ぼく、同じグラスを奪って来てハーレイに返してた?」
 どんなグラスか覚えてないけど、ちゃんと奪って返したのかな?
 人類の船なら大抵積んでるグラスの一つで、探さなくても直ぐに見付かったから忘れたかな?
 うんと苦労して探したんなら、今でも覚えているんだろうけど…。
「そうじゃない。もう人類の船からは奪わなくなった後だったしな」
 シャングリラはすっかり出来上がっていたし、人類の船の物資は奪っちゃいない。
 前のお前が割ったグラスは、人類から奪ったヤツだったがな。
 洗うのに手間がかかりそうだ、と誰も貰って行かなかったから俺が貰っておいたってだけで。



「じゃあ、どうやって…」
 前のぼくはどうやって割ったグラスのお詫びをしたわけ?
 シャングリラの中で作り直せるようなグラスだったの、割れちゃったのは?
「…まるで作れないってこともなかったろうが…」
 手先の器用なヤツもいたしな、割れていないグラスを見本に渡せば出来たかもしれん。こういうグラスを作ってくれ、とな。
 しかしだ、キャプテンの俺の私物が一つ足りなくなったからって、そいつはなあ…。
 キャプテンたるもの、グッと堪えて我慢してこそだろ、皆の手本になる立場だしな?
「奪ってもいなくて、作らせてもいないって…」
 それじゃグラスのお詫びってヤツは?
 ハーレイのお気に入りのグラスに似たのを、ぼくが倉庫で探したのかな…?
「それも違うな、教えてやろうか?」
 お前は覚えちゃいないんだろうが…。
 グラスを割った前後の記憶は無いと言うから、床を掃除していた俺しか知らないだろうが…。
 割れたグラスの代償ってヤツは、お前に払って貰ったのさ。
 そいつが一番、早い方法だったしな?



 お前自身に、と片目を瞑られた。
 御機嫌のお前と楽しくやったと、新鮮だったと。
「…やったって…。何を?」
 何をやったの、ハーレイも一緒に歌って踊ったりしたの?
「ははっ、そう来たか! 今のお前だとそうなっちまうか、うん、そうだろうな」
 歌と踊りな、そいつも確かに悪くはないかもしれないが…。
 俺の気に入りのグラスの分をだ、弁償して貰おうって時に歌って踊るよりかはなあ…?
 もっと素敵にいきたいじゃないか、美味いものを食って。
 チビのお前だとそうはいかんが、前のお前なら話は全く別ってモンだ。
 俺が美味しく食っちまっても問題は無いし、お前が俺の部屋に来ている時点で食ってもいいって意味なんだしな?
 有難く食わせて貰っておいたさ、グラスの分だけ。俺のベッドに運び込んでな。
「……それって……」
「そうさ、お前が憧れてるヤツ。本物の恋人同士というヤツだ」
 面白かったぞ、お前、ベッドでも笑いっぱなしで。
 割れた、割れた、と笑っていたのが別の言葉に変わっただけだ。
 俺に脱がされたと言って笑って、俺が脱ぐのを見て笑って。
 それから後もな、ありとあらゆる場面でケラケラと笑い転げていたぞ。どう可笑しいのか、普通だったら悩んじまうような所でな。
 あんなお前はそうそう食えんし、実に珍しい御馳走だった。まさに珍味といったトコだな。
 次の日のお前は二日酔いですっかり潰れちまって、食える状態ではなかったがな。



 だが、あの美味さは忘れられん、とハーレイはニヤリと笑みを作ってみせた。
 酔っ払ったブルーは美味しかったと、割れたグラスの分は返して貰ったと。
 小さなブルーは顔を真っ赤に染めたけれども、生憎と戻らない記憶。グラスを割った前後の分が綺麗に飛んでしまって、グラスの代償を支払った記憶も残ってはいない。
 その手の話題を避けるハーレイが自分から口にするだけはあって、ほんの小さな欠片でさえも。
「…ぼくは覚えていないのに…」
 そう言われたって、ぼくはグラスを割ったことしか思い出せないのに…!
「かまわんだろうが、前のお前のことなんだからな。今のお前とは関係無いんだ」
 グラスを割ったのも前のお前で、弁償したのも前のお前だしな?
 おまけに、お前は割ったことしか覚えていない。チビのお前には似合いの記憶だ。
 ついでに今度のお前ってヤツは、普通のコップを割っちまっただけで惨めな気分になるんだろ?
 前のお前みたいに笑い転げる方じゃなくてな。
「当たり前だよ!」
 今のぼくだと落としたら最後、割れちゃうんだから!
 普通のコップも大事なグラスも、落っことしたら終わりなんだよ…!
「ふうむ…。だったら慰めてやらんといかんな」
 今日のお前が割ったコップは俺の知らない間に割れたし、俺のコップでもないだんが…。
 俺がお前と結婚した後、お前がコップを割ったなら。
 落ち込んでたなら、キスをプレゼントして、その先も…だ。お前の気分が直るようにな。
 気分を直すには何処へ行くのか、何をするのか、もう分かるだろう?



 どっちにしたって役得だ、と微笑まれた。
 慰める方も、割れてしまったグラスを弁償して貰う方も。
 今度も戸棚に入っているらしい、ハーレイお気に入りのグラスなるもの。
 それをブルーが割った時には、また支払って貰うから、と。代償は無論、ブルー自身で。
(ハーレイのグラス…)
 今のハーレイのお気に入りのグラス。まだ出会っていない、見ていないグラス。
 割ってもいいのか、割らない方がいいものなのか。
 前の自分は割っても許して貰えたというから、今度も許して貰えるものか。
 小さなブルーにはまだ分からない。
 大人の心になっていないから、身体もチビのままだから。
 ハーレイが口にした役得とやらも、どういうものだか今一つ分かっていないから。
(…気を付けなくちゃ…)
 今日みたいに割ってしまわないように、と自分に言い聞かせるブルー。
 前の自分と同じ失敗はやらかすまい。
 ハーレイお気に入りのグラスを自分が使う時には、丁寧に。
 間違っても割ってしまわないように、割った挙句に笑うなんかは論外だよ、と…。




              落としたコップ・了

※ブルーが割ってしまったコップ。前のブルーなら、割らない筈だと考えたのに…。
 酔っ払った末に、前のハーレイのグラスを割っていたようです。今では笑い話ですけど。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








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「ママ、どこ?」
 学校から帰ったものの、見当たらない母。
 玄関を入って「ただいま!」と叫んで、部屋へ着替えに行ったのだけれど。
 思い返せば「おかえりなさい」の声を聞かなかった。洗面所で手を洗ってウガイをする間にも。
(…二階にはいなかったと思うんだけど…)
 部屋に居た時、そういう気配はしなかったから。第一、階段を上って行ったら足音がするから、母の方から出て来るだろう。「おかえりなさい」と。
 その母がいない。ダイニングにも、リビングにも、キッチンにも。
 何処だろうか、とブルーは探し回ったけれど。客間まで覗いてみたのだけれども、いない母。
 何処にも姿が見えない母。
(でも、玄関の鍵は開いてたし…)
 いつも通りに開いた扉。持たされている鍵の出番は無かった。鍵がかかっていなかったのだし、母は出掛けてはいない筈。この家にいる筈なのだけれど…。



 何処、と懸命に探していたら。
 念のためにと二階も探して、やっぱりいない、と戻って来たら。
「あら、帰ってたの?」
 気付かなかったわ、と声がした。「ママはお庭よ」と。
「ママ!?」
 庭は盲点だったから。まるで探していなかったから。
 失敗だった、とダイニングの掃き出し窓から外の母へと手を振った。「ただいま」と、「ぼくは帰っているよ」と。
「ごめんなさいね。すぐにおやつの用意をするわ」
 今行くわね、と母が手にして横切った箒。庭を掃くための大きな箒。
(お掃除…)
 後で続きをするのだろうか、と思ったけれども、母は箒を仕舞ったらしい。芝刈り機や箒、庭の手入れのための道具が入れてある方へ行ったから。続きをするなら、箒は置いておくだろうから。



 お待たせ、とダイニングに入って来た母。
 飲み物は何にするの、と訊いてケーキも切って来てくれた。ブルーの分と、自分の分と。
 母も一緒のティータイム。熱い紅茶を淹れて貰って。
「ママ、箒って…。庭のお掃除?」
 掃除してたの、もしかして、ずっと?
「まさか。ほんの少しよ、一時間もやってはいないわよ」
 落ち葉の季節にはまだ早いもの。少しだけね。
 そういえばブルーは好きだったわね、と言われたから。
「…庭掃除?」
 ぼく、庭掃除が好きだったの?
 ママのお手伝い、たまにしかやっていなかったように思うけど…。
「違うわ、箒よ。ブルーは箒が好きだったでしょ」
「箒?」
 何故、とブルーは目を丸くした。
 まるで記憶に無い箒。好きだったと聞いても思い出せない、箒なるもの。
 幼かった頃には、自分専用のスコップやバケツを貰って遊んでいたけれど。子供サイズのものを手にして庭を掘ったりしていたけれど。
(箒って…)
 それは全く覚えが無かった。
 子供用の遊び道具の類に、箒なんかもあったのだろうか?
 小さな身体に見合ったサイズの箒を手にして遊んだろうか?
 庭掃除をする母の隣で自分も箒で掃いたのだろうか、子供用のでは役に立ちそうもないけれど。いくら落ち葉を集めたくても、沢山掃けそうにないのだけれど…。



 どうにも思い出せないから。
 箒の記憶が抜け落ちてしまって、好きだったことさえ欠片も残っていないから。
 幼い自分は箒で何をしていたのかと気になって母に尋ねてみた。
「…なんで箒?」
 ぼくって、どうして箒なんかが好きだったの?
 庭掃除、してた? 子供用の小さな箒を持ってたの、ぼくは?
「あらまあ…。ブルーは忘れちゃったの、あんなに箒が好きだったのに?」
 引っ張り出しては遊んでいたでしょ、子供用じゃなくて普通の箒。ママがさっき持っていたのと同じ箒よ、ああいう箒。
「大きい箒? 子供用じゃなくて?」
 あんなの、ぼくには大きすぎだよ、あれでどうやって遊んでたわけ?
「本当に忘れちゃったのねえ…。ブルーのお気に入りだったのに」
 飛ぶんだって言っていたでしょう、とクスクス可笑しそうな母。
 タイプ・ブルーだからきっと飛べると、これで飛べると頑張っていたと。
 幼稚園から家に戻ったら、早速、箒を引っ張り出して。休日も庭に出たなら、箒。
「飛ぶって…。箒で?」
「そうよ、箒で」
 飛んでやるんだって張り切ってたわよ、忘れちゃった?
 あの頃のブルーは箒を持っては、空を飛ぶんだと頑張ってたのに。



 魔法使いは箒で空を飛ぶものね、と言われた途端に思い出した。
 忘れ去っていた箒の記憶。大きな箒と幼かった自分。
 毎日のようにやっていたことを。
 幼稚園の頃、よく晴れた日には箒を手にして空を目指していたことを。
「…ホントだ、箒…」
 忘れちゃってた、箒のこと。いつも箒を持っていたっけ…。
「飛んでいたでしょ?」
 大きな箒で飛んでいたでしょ、庭の芝生で一所懸命。
「あれは引き摺っていたんだよ!」
 とても飛んだとは言えない自分。幼かった自分。
 芝生から離陸できなかったから。空へと飛び立てなかったから。
 箒に跨って跳ねていただけ。小さな足でも飛べる高さでピョンピョン飛ぶのが精一杯で。
 空を飛ぶどころか箒を引き摺り、芝生をあちこち跳ね回っていた。いつか飛べると、この箒さえあれば空を飛べると、何度も何度も、飽きることなく。
「とうとう飛べないままだったわねえ…」
 ほんの少しも浮き上がれないで、最後まで箒を引き摺ってたわね。可愛かったけれど。
「言わないでよ!」
 情けなくなるから、と思い出に蓋をしようとしたら。
「そうねえ、箒を使っても空を飛べないソルジャー・ブルーだったわねえ?」
 ソルジャー・ブルーなら飛べる筈なのに、箒があっても駄目だったわねえ…。
「ママ…!」
 前のぼくのことは言いっこなしだよ、今のぼくはサイオン、上手に使えないんだから!
 中身はソルジャー・ブルーだけれども、箒があっても飛べないんだよ…!



 笑い続けている母に「御馳走様」と御礼を言って、部屋に戻って。
 勉強机の前に座って、フウと大きな溜息をついた。
(ぼくって、ソルジャー・ブルーごっこは…)
 やっていないと思っていた。信じていた。
 下の学校の頃に流行った空を飛ぶ遊び。大英雄のソルジャー・ブルーを気取って飛ぶ遊び。
 タイプ・ブルーではない子供たちも飛ぼうとして怪我をしたものだ。二階の窓から飛ぼうとした子や、高い木の上から飛んだ子供や。
 何処の学校でも「やめておきましょう」と注意するというソルジャー・ブルーごっこ。それでも人気で必ず流行って、どの学年にも怪我をした子の一人や二人はいて当たり前。
 ブルーの友人にも何人もいた。ソルジャー・ブルーを真似て飛んだ子も、怪我を負った子も。
(やろうと思わなかったんだけど…)
 どうせ怪我をするに決まっているから、誘われたって断っていた。「ぼくには無理!」と。
 タイプ・ブルーだから出来る筈だと羨望の眼差しで見られた時にも「やらないよ!」と。
 確かにやってはいなかったけれど。
 いわゆるソルジャー・ブルーごっこは、一度もしないで終わったけれど。



(もっと前に…)
 ソルジャー・ブルーごっこを始める年頃よりも早く、自分は空を目指していた。
 まだ幼い頃、ソルジャー・ブルーがどういう人かもまるで知らなかった幼稚園の頃。
 それも箒で。
 飛べると信じて、庭掃除に使う大きな箒に夢を託して。
(タイプ・ブルーは空を飛べるって…)
 父が話してくれたのだったか、それとも母か。自分の秘められた能力を知った。空を飛べると。
 けれども、肝心の飛び方については聞かなかったから。
(箒で飛ぶんだ、って思ったんだっけ…)
 幼稚園で絵本を読んだか、それとも子供向けの映画でも見せて貰ったのか。
 魔法使いは箒に跨って空を飛ぶのだと知っていたから、箒が必要なのだと信じた。空を飛ぶには箒が欠かせず、それが運んでくれるのだと。
 だから跨っていた箒。これで飛ぼうと庭の芝生で引き摺って跳ねて回った箒。
(あれでいいんだと思ってたんだよ)
 いつか箒で空を飛べると、空に向かって舞い上がれると。
 幼い子供の勘違い。小さかった自分の可愛い間違い。
 両親は訂正してくれなかった。箒を使っても飛べはしないと誤りを正しはしなかった。
 危なくないからいいと思っていたのだろう。
 箒で空を飛べはしないし、飛び跳ねた挙句に庭で転んでも、芝生が受け止めてくれるから。



(箒で離陸…)
 それは無理だと今なら分かる。
 箒は魔法使いの道具で、サイオンを補助する力などは無い。空を飛ぶ手伝いをしてはくれない。
 魔法の力を持たない箒は、空を飛ぶなら単なる飾り。演出のための小道具の一種。これを使って飛んでいます、と魔法使いを気取るための道具。
 つまりは持った箒の重さの分だけ、余計な力が必要になる。箒を空に浮かべる力が。
 そういったことも、今の自分なら分かるのだけれど。
 ソルジャー・ブルーだった頃の記憶が戻って来たから、頭では理解出来るのだけども。
(でも、飛べないし…!)
 箒を手にして舞い上がろうにも、そもそも飛べない。今の自分は全く飛べない。少しだけ身体を浮かせることなら出来るけれども、その力さえも頼りないもの。意のままに扱えないサイオン。
 それとも箒に跨ったならば、感覚が戻るというのだろうか?
 魔法使いが飛ぶという箒、それに跨ってみたならば。
 かつてはこうして空を飛んだと、自由自在に飛んでいた頃の感覚が戻ってくるだとか…。



 箒に頼って飛べるものなら、と一瞬、考えたのだけど。
(有り得ないし!)
 魔法で浮き上がる箒ならともかく、ただの箒では何も起こらない。起こりそうにない。幼かった自分がやっていたように、ピョンピョンと足で跳ねるだけ。自分の足を使って飛び上がるだけ。
(空を飛んでた頃の感覚…)
 今の学校でのプールの授業。一番最初にそれがあった時、少し思い出した。水の浮力で。飛んでいた頃の感覚を頼りに、水面に身体を浮かべて遊べた。去年までは出来なかったのに。
 それにハーレイも、プールで感覚を取り戻すといいと言っていた。
 ソルジャー・ブルーはどうやって飛んだか、空を飛ぶにはどうするのかを。
 けれど、感覚が戻っても。
 こうだったのだ、と空を飛んでいた時の力加減などが戻って来ても。
(きっと飛べない…)
 サイオンの扱いが不器用だから。
 戻った感覚とサイオンの使い方とが噛み合ってくれず、空へ飛び立てはしないだろう。青い空に向かって舞い上がることなど出来ないだろう。
(だけど…)
 もしも飛べるようになったなら。
 前の自分がそうだったように、軽々と空を飛んでゆけるようになったなら。
 箒でも空を飛んでみようか?
 魔法使いよろしく箒に跨り、ふわりと空へ。箒に乗っかって、スイスイと空を。
 そんな姿を披露したなら、ハーレイは喜んでくれるだろうか?
 魔法使いを見ているようだと、箒に跨って飛ぶのもいいな、と。



(ハーレイ、箒でも喜ぶかな?)
 飛ぶ姿を見たいと言ったハーレイ。さぞかし美しいのだろう、と。
 今の自分は飛べないのだ、と打ち明けたけれど、約束もした。ハーレイと見上げた天使の梯子。雲間から射す光で出来ている天使の梯子。いつの日か、それを昇ってみせると。
(天使の梯子を昇るのもいいけど、箒だって…)
 魔法使いのようで素敵だとハーレイは思ってくれるだろうか?
 つらつらと箒で空を飛ぶことを考えていたら、チャイムの音が鳴ったから。チャイムを鳴らして仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから…。



 お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合いながら、訊いてみた。
「ねえ、ハーレイ。箒は好き?」
「はあ?」
 俺の好みが何だって?
「箒だよ! ハーレイ、箒は好きなのかなあ、って…」
「俺に今すぐ帰れってか?」
 来たばかりなんだが、さっさと帰った方がいいのか? 晩飯の支度が出来ちまう前に。
「なんでそうなるの?」
 箒は好きかって訊いただけだよ、どうしたら帰る話になるの?
「知らないのか、お前。…箒ってヤツのおまじない」
 お前のクラスではしてないかもなあ、この雑談。SD体制が始まるよりも前の時代の話だが…。
 いいか、この辺りに日本って島国が在った頃。其処じゃ箒を使ったおまじないがあったんだ。
 来た客がなかなか帰らない時や、早く帰って欲しい時。
 そういう時には箒を逆さに立てておくのさ、「早く帰れ」と逆様にな。
 俺は客ではないかもしれんが、箒を逆さに立てておきたい気分なのかと訊いたわけで…。
「そうじゃないから!」
 箒を逆さに立てようだなんて、ハーレイが来た時に考えたりはしないから!
 帰りがゆっくりになるおまじないなら、やってみたいけど…。
 箒を普通に立てておいたら、お客さんが長居をしてくれるのなら直ぐに箒を持って来るけど…!



 箒を逆さに立てるつもりは全く無い、と帰るふりをするハーレイを懸命に止めて。
 実は箒で飛ぼうとしていたのだ、と白状した。
 幼かった自分がそれをやったと、箒に跨って飛ぼうとしたと。
「…ぼくは忘れていたんだけれど…」
 ママが覚えていたんだよ。箒で飛ぼうとしていたでしょ、って。
 幼稚園の頃に頑張ってたんだ、タイプ・ブルーは飛べるって聞いて、箒で飛ぶんだと思っていたから…。魔法使いは箒で飛ぶしね?
 だから箒を引っ張り出しては、跨って庭で飛んでたんだよ、ピョンピョンって。
「そりゃ可愛いな」
 飛んでるお前を見てみたかったな、箒に跨ったチビのお前を。
「やっぱり?」
 空はちっとも飛べてなくても、ハーレイ、ぼくを見てみたかった?
「もちろんだ。そんなに小さな頃のお前が努力して空を目指してるんだろ?」
 その頃のお前に会いたかったな、箒で飛んでるお前にな。
 ジョギングの途中で通り掛かったなら、「頑張れよ」と手を振って声を掛けたさ、間違いなく。
 「飛べるといいな」と、小さな魔法使いにな。



 惜しいことをしたな、とハーレイが言うから。
 この辺りもジョギングするべきだった、と残念そうにしているから。
「今のぼくが飛ぶなら、どっちがいい?」
 ハーレイは箒の方が好きなの?
 箒の話がズレちゃったけども、箒は好きか、って訊いたでしょ?
「どういう意味だ?」
 俺が箒を好きかどうかが、何処に関係してくるんだ?
 箒で庭を掃くのも好きだが、箒が好きかと言われると…。どうなんだかなあ、箒で掃いてる時の気分が好きなのかもな。綺麗になったと、もっと掃くかと、ついつい頑張っちまうんだ。
「えーっと、箒そのものの話じゃなくて…。空を飛ぶなら、って意味なんだよ」
 ぼくは全く飛べないけれども、もし、飛べるようになったなら。
 何も持たずに飛ぶ方がいいか、箒に跨って飛ぶのがいいか。
 ハーレイはどっちのぼくが見たいの、箒つきのぼくか、箒無しのぼくか。
 飛べるようになったら出来る筈なんだよ、箒に跨って飛ぶ方だって。
 ハーレイ、どっちを見てみたい…?



 魔法使いのような姿が見たいか、ただ飛ぶだけで満足なのか。
 どちらがハーレイの好みだろうか、とブルーは答えを待ったのだけれど。
「…飛ばなくていい」
 ハーレイの言葉は意外すぎるもので、ブルーはキョトンと赤い瞳を見開いた。
「なんで?」
 飛ばなくていいって、どうして、ハーレイ?
 箒で飛ぶのは好きじゃない、って言うんだったら分かるけど…。普通に飛ぶのも要らないの?
 まだ飛べないけど、いつか飛ぼうと思っているのに…。
「お前、一生分、飛んじまったろうが。だからお前は飛ばなくていい」
 メギドだ、とハーレイの眉間に刻まれた皺。普段よりも深くなった皺。
 あの時に一生分を飛ばれてしまった、と辛そうに歪んだハーレイの顔。まるであの日に魂だけが戻ったように。あの日のブリッジに居るかのように。
 前のブルーは命が尽きるまで飛んで行ったと、飛んで行って帰って来なかったと。
 だから飛ぶなと、箒だろうが、その身一つであろうが、もう飛ぶなと。



「でも、ハーレイ…」
 前に言ったじゃない、ぼくが飛ぶのを見たい、って…。
 飛んでいた時の感覚を思い出すまで、飛べるようになるまで、プールで教えてくれるって…。
 プールだったら教えてやれるって、水の中で飛んでみればいい、って…!
「そうは言ったが、だ」
 お前がカンを取り戻したいなら、プールがいいとは言ってやったが…。
 付き合ってやるとも言いはしたがだ、出来れば飛んで欲しくない。
 俺はメギドで懲りたんだ。お前が飛べたらどうなっちまうか、あの時に思い知らされたんだ…。
 もしもお前が飛べなかったら、メギドまで行きはしなかったろうが?
「…そうだけど…。でも、前のぼくは…」
 飛べたからこそソルジャーだったし、メギドを沈めることだって出来た。
 前のぼくに飛ぶだけの力が無かったとしたら、シャングリラは出来ていなかったんだよ?
 アルタミラから脱出したって、船に載ってた食料が尽きたらそれでおしまい。
 みんな揃って飢え死にするしか道は無くって、そうなっていたらメギドどころか…。
 ハーレイと恋人同士になる暇も無くて、ただの友達のままでおしまい。
 ぼくもハーレイも二人揃って飢え死にしちゃって、今の地球にも来られていないよ。
 一生分を飛んでしまった、ってハーレイは言うけど、前のぼくの命。
 メギドで使うために延びてたんだと思うよ、あのナスカまで。
 神様がそこまで延ばしてたんだよ、この命は本当に必要な所で使いなさい、って。
「それはそうかもしれないが…」
 否定はしないし、お前が言うのが多分、正しいことなんだろう。
 それでも俺は今でも辛い。前のお前を失くしちまった、あの日のことを思い出すとな…。



 だから飛ぶな、とハーレイはまた繰り返した。
 今のブルーが元々自由に飛べていたなら、空を飛ぶ姿を見たいけれども。
 努力してまで飛んで欲しくないと、出来ないことは出来ないままでいいのだと。
「…お前が箒に乗って飛ぶのも、見たくないとは言わないんだがな…」
 前のお前はそんな技を見せちゃくれなかったし、遊びで飛んではいなかった。
 子供たちの前で飛んでは見せたが、あれを遊びと呼んでいいかどうか…。
 お前は遊んでいるつもりでもな、養育部門の連中からすりゃ、それも仕事の内なんだ。子守りの仕事を代わりにやってくれている、と思って眺めていたんだろうさ。
 お前自身が心の底から楽しむためだけに飛んでいたこと、実は一度も無いんじゃないか?
「…そう言われちゃうと、ぼくも自信が無くなっちゃうかも…」
 飛びたいな、って思い付いて勝手に飛んでったことは無いかもしれない…。
 フィシスを攫ってくるよりも前は、フィシスに会いに空を何度も飛んでったけれど…。行き先も言わずに飛び出したけれど、あれは楽しみとは違うよね…。
「うむ。お前はフィシスに会おうと思って飛んで行ったわけで、遊びではないな」
 目的があって飛んでいたなら、そいつは遊びに入らんだろう。
 飛んで出掛ける方が楽しいから、と送り迎えを断ったわけじゃないんだからな。



 ハーレイに改めて指摘されると、楽しみのために飛んだことは一度も無いかもしれない。
 飛ぶこと自体が楽しくてたまらずに飛び出したならば、様々な飛び方をしたことだろう。障害物など何も無くても、高く昇ったり、急降下したり。
 急旋回などもしたかもしれない、宙返りしながら飛ぶことだって。さながら曲芸飛行のように。
(そんなぼくだったら、箒だって…)
 思い付いたら跨っただろう。
 子供たちに見せてやるためではなくて、自分のために。
 箒に跨って空を飛べると、まるで魔法使いになったようだと、雲海の上を飛んだのだろう。箒の魔法で何処へ行こうかと、何処まで空を駆けようかと。
(だけど一度も…)
 魔法使いが出て来る本は白いシャングリラで読んだけれども、箒で飛ぼうと思わなかった。思い付きさえしなかった。
 飛ぶことは遊びではなかったから。
 いつでも何らかの目的があって、そのために空を飛んでいたから…。



「そうか、箒…。前のぼくなら出来たんだ…」
 飛べたんだよ、魔法の箒で空を。それなのに思い付かなかったよ、そうすることを。
 きっと子供たちだって大喜びして、見てくれたんだろうと思うけど…。
「そこで出て来てしまうんだよなあ、子供たちに、っていう台詞がな」
 前のお前を引き摺ってるのさ、こうしてやったらどうなったろう、と。
 箒で飛ぼうって発想は今のお前のヤツだが、前のお前の力なら出来たと思えばそうなっちまう。
 今度のお前は誰のためでもなく、自分のためにだけ生きればいいっていうのにな?
 その調子だから、一生分を飛んじまったと言うんだ、俺は。
 生まれ変わってもまだ、前のお前を引き摺っちまって生きてるだろう?
 右手が冷えれば辛くなるんだし、メギドの悪夢だって見る。全く別の人生なのにな…。
 そういったことを全部忘れて、幸せだけを追い続けられるようになったなら。
 お前が飛びたいと言い出したとしても、俺はもう止めはしないがな。



 その時に飛びたくなったのであれば、それは純粋な楽しみだから、とハーレイは言った。
 タイプ・ブルーに生まれたからには飛んでみたいと思うのならば、と。
「身一つだろうが、箒だろうが、その時は好きに飛んでくれ」
 俺も楽しんで見物するから、好きなだけ技を披露しろ。
 空を飛んでもかまわん場所まで、俺が車で連れてってやるから自由にな。
「じゃあ、プールで飛ぶコツを教わる方は…?」
 それもメギドの夢とかを見ている間は駄目なの、ハーレイ、教えてくれないの?
 プールの中なら、空を飛ぶ感覚、取り戻せるだろうって言ってくれたのに…。
「ん? そいつは約束してあるんだから、連れてってやるがな」
 俺の得意な水の世界だ、プールくらいは連れてってやるし、あれこれ教えてやってもいいが…。
 あくまで遊びに行くだけだ、と微笑まれた。
 特訓をしに出掛けるわけではなくて、水と戯れに出掛けてゆく。長い時間はプールに浸かれないブルーに「そろそろ上がれよ」と注意しながらの水遊び。
 そうやってプールに通う間に、飛ぶコツを思い出したなら。
 飛んでみたいと思い始めて、自分のためだけに飛ぼうと言うなら、その時は好きにしていいと。
「…それだけなの?」
 特訓は無いの、ぼくがもう一度飛ぶための。ハーレイは飛ばせてくれないの…?
「ああ。言ったろう、自分のためだけに飛べと」
 それ以外では、もう飛ぶな。
 お前が心の底から飛びたくなったら、飛んで遊びたくなったなら。
 感覚だって戻るかもしれんし、箒でだって飛べるだろうさ。
 …だがな、お前は飛ばなくていい。飛べないお前で充分なんだ。



 飛ぼうとしたなら、前のお前の辛さや悲しみに囚われるから、と諭された。
 それらを忘れてしまえないなら、空は飛べない方がいいと。
「なにしろ一生分を飛んじまったお前だ、今度は飛べなくて当たり前だ」
 もう一生分、飛んでしまった後だしな?
 前のお前が今のお前の一生分を、メギドまで飛んで使っちまった。
 だからだ、お前が飛べるようになる日は当分来ないさ、いくらプールで練習してもな。
 飛べる日が来るなら、前のお前の悲しみや辛さがすっかり癒えた頃だろう。右手が冷たくなってしまっても、「今日は寒いね」と息を吹きかけて自分で温められるくらいに。
 俺の手で温めてやらなくっても、温もりを自分で作れるくらいに。
 そういう風に幸せに過ごせる時が来たなら、お前だって飛べるかもしれない。箒だろうが、何も持たずに身一つだろうが、それは楽しそうに飛べるってな。
「…そうなのかな?」
 ぼくが飛べる日、ちゃんと来るかな?
 来てくれたら箒で飛んでみたいな、小さかった頃の夢だから。箒で飛べると思ってたから…。
「さてなあ、それは俺にも分からんが…」
 一生、飛べないままかもしれんし、なんとも分からん。
 お前のサイオンが不器用な限り、空は飛べないままかもしれんが…。
 飛べないお前が俺は好きだな。俺が守ってやるしかないんだ、不器用で飛べないお前はな。
「…じゃあ、ぼくは一生、飛べないまま?」
「その方が俺はいいんだがなあ…」
 守り甲斐があるだろ、前と違って。俺の方が文字通り、力がずっと上なんだしな…?



 飛びたいのならば庭で箒に跨っておけ、とハーレイが片目を瞑るから。
 結婚した後に「飛んでみたい」と口にしたなら、箒を渡されてしまうのだろうか。
 飛ぶための感覚を取り戻すためのプール通いの代わりに、箒。
 「お前はこれで飛べると思っていたんだろう?」と幼い頃の話を持ち出されて。
 それでもきっと嬉しいと思う。
 プールに連れて行って貰う代わりに、「ほら」と箒を渡されても。
(だって、ハーレイの家にいるんだものね?)
 幼い日の自分が跳ねていたのとは別の庭。ハーレイの家をぐるりと囲んだ庭。
 箒だって、ハーレイの家にある箒。庭を掃くのに使う箒で、ハーレイの家のためにある箒。
 それに跨り、「見てよ」と「箒で飛んでみせるよ」と庭で跳ねて見せて。
(きっとハーレイ、とびきりの笑顔になるんだよ)
 そうして「うむ、上手いもんだ」と褒めてくれるのだろう。箒に跨ってはしゃぐ姿を。
 箒で飛べたと、飛んでいるのだと跳ねて回れば。
 たとえ一生飛べないままでも、箒に跨って浮き上がることさえ出来なくても。
 ハーレイと二人で暮らす家の庭なら、其処で箒で遊べるのならば…。
(うん、最高に幸せだって!)
 飛び立てなくても、箒で離陸は出来なくても。
 きっと幸せに違いない。
 鳶色の瞳に見守られながら、芝生の上。箒に跨って跳ねるだけでも、心は空高く飛ぶのだろう。
 それは軽やかに、何処までも高く。
 ハーレイと一緒に地球に居るよと、青い地球の上で箒に跨って飛んでるんだよ、と…。




            魔法の箒・了

※幼かった日に、箒で飛ぼうとしていたブルー。飛べる力は持っていないのに。
 前の生では、自分のためには一度も飛んではいなかった模様。今度は箒で充分なのかも。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









「ママ、おやつ!」
「そこにあるでしょ?」
 学校から帰って、着替えをして。
 ダイニングに下りて行ったら、そう答えたママ。テーブルの上に置いてあるケーキ。お皿の上に一人分だけ、ママは一緒に食べないみたい。
「ママはご近所まで出掛けて来るから、紅茶は自分で淹れて飲んでね」
「うんっ!」
 行ってらっしゃい、って手を振った。どうやら用事は焼いたケーキのお裾分け。そういう感じの紙箱を持って出掛けたから。
(何処の家かな?)
 お隣さんかな、それとも向かい?
 ママがケーキを持って行く先はとても沢山、何処の家でもお待ちかね。持って行ったら、其処でお喋り。お茶を御馳走になることも多いから、大抵はぼくが学校に行ってる間に済ませてる。
(今日は通信が入っていたんだよ、きっと)
 お祖母ちゃんとかから。お喋りに夢中になってしまって、お裾分けに行くのが遅れたんだ。遠い地域に住んでるお祖母ちゃん、見た目の年はママとあんまり変わらないけど、お祖母ちゃん。
 ぼくの話もしてたのかな、って考えながらキッチンに行った。飲み物を作りに。



 いつもはママが立ってるキッチンにぼくが一人だけ。
 ママは「ミルクでもいいわよ」って言って出掛けたけれども、どうしよう?
 シロエ風のホットミルクも捨て難い。今日のケーキには合いそうな感じ。マヌカの蜂蜜を多めに入れて、シナモンを振って。
 ミルクパンを手に取ろうとしたけど、ハタと気付いた。
 温めすぎると一気に沸騰しちゃう牛乳。ブワーッと泡が立ってしまって、ミルクパンから溢れて零れる。ママは上手に温めるけれど、ぼくがやったら…。
(早めに止めすぎて温くなっちゃうか、ブワーッと吹きこぼれてしまうか、どっちか…)
 調理実習では習ってないから、自信も無ければコツも知らない。失敗した数が多いだけ。
(ブワッと噴いたら、もう遅いんだよ…)
 ミルクパンは吹きこぼれがついて失敗したのがママにバレるし、キッチンだって汚れちゃう。
 ママは優しいから「あらあらあら…」って眺めるだけで、ぼくを叱りはしないけど…。
(ぼくの自信がまた減っちゃうしね?)
 ホットミルクは失敗するんだ、って変な勲章が増えちゃって。
 それは困るから、紅茶にしよう。お湯を沸かすならケトルにお任せ、牛乳みたいに大変なことになってしまいはしないから。



(えーっと…)
 ケトルに水をたっぷりと入れて、沸かす間にポットを用意した。
 ママもお気に入りの使いやすいポット、お客様用のポットと違って普段用。シンプルな白。
 蓋を開けて紅茶の葉っぱを入れた。このくらいかな、ってスプーンで計って、一人分。
 ミルクと違って目を離してても溢れたりしないし、安心のケトル。沸いたらピーッて音も鳴る。お湯が沸いたら、湯気の力でピーッって音が。
 ポットの用意が出来ても、ピーッと鳴らないケトル。沸いてないお湯。まだ沸かないお湯。
(前のぼくの頃と同じ…)
 ケトルでお湯を沸かすのにかかる時間は、前のぼくが生きてた時代と同じ。
 長い長い時が流れたけれども、死の星だった地球が青くなるほどの時間が経ったけれども。今の時代もお湯を沸かすのにかかる時間は変わらない。
 ちょっぴりシステムは変わっているかもしれないけれど。熱源の仕組みは違うかもだけど。
(でも…)
 ケトルを乗っけてお湯を沸かす間、待つのは同じ。入れたお湯の分だけ、時間がかかる。沢山のお湯なら、時間も沢山。水がブクブクと沸騰するまで待たされる。
 それも楽しみの一つだから。沸くまでの間、のんびり待つのも幸せな気分。



(すぐに沸いちゃうお湯なんてね?)
 あまり有難味が無いものね、ってケトルを見てたら、沸々とお湯が沸き始めた音。まだ沸騰していないけど。この音がもっと大きくなったら、ピーッって音が鳴り出して…。
(沸いた!)
 紅茶を淹れるなら沸騰したお湯、ブクブクと泡を立てて滾ったお湯。
 暫くピーッと鳴らしておいてから、よく沸いたお湯をポットに注いだ。勢いよく。
(後は葉っぱが開いたら…)
 紅茶は飲み頃、ちょうどいい濃さ。おかわりするなら濃くなった紅茶を薄めなくっちゃ、と差し湯の用意も。
 ダイニングに運んで、カップに紅茶を注いで、お砂糖。軽く混ぜてから一口飲んで。
(うん、上出来!)
 ケーキもフォークで切って口へと、こっちも美味しい。ママがお裾分けに持って行くんだから、最高に美味しいに決まってる。
 紅茶を飲みながらのんびりと食べて、紅茶もおかわり。濃くなってたから、お湯で薄めて。
 飲み終えた所へママが「ただいま」って帰って来たから、「御馳走様」って空になったカップとお皿をキッチンに運んで行った。
 「ケーキ、とっても美味しかったよ」って、「また作ってね」って。



 部屋に戻ってから、勉強机に頬杖をついて考えた。
 さっき沸かしてた、お湯のこと。ケトルがピーッと音を立てるまで、待ってたキッチン。
(ホントに変わっていないよね…)
 前のぼくの頃から、キッチンとかは。食器もケトルも、まるで別物になってはいない。
 記憶が戻って来た後のぼくも、あまり驚いたりしない。こんなのじゃない、と思いはしない。
 そのキッチンで出来上がる料理は違うけれども。うんと種類が増えたけれども。
(前のぼくの頃に、和風の料理は無かったしね?)
 お茶だって種類が増えちゃった。
 前のぼくがお茶と言ったら紅茶で、緑茶なんかは何処にも無かった。紅茶も緑茶も、同じお茶の木から出来るのに。同じ葉っぱから作るのに。
 種類がグンと増えたお茶だけれども。
(沸かす手間は同じ…)
 お茶を淹れるためにお湯を沸かすって所は同じ。かかる時間も前とおんなじ。
 それでこそだ、と思っちゃう。
 お湯が沸くのを待ってる時間も、お茶を飲むには大切なんだ、って。



(前のハーレイだって…)
 言っていたっけ、直ぐに出来上がってしまう料理は楽しくないって。
 手間をかけた分だけ美味しくなるって、作る時から楽しんでこそだ、って。
 まだ厨房に立っていた頃に、キャプテンになる前にフライパンとかお鍋を手にしてそう言った。
 ゼルが「一瞬で料理が出来る機械を作ってやろうか」って話を持ち出した時も。
 発明好きだったゼルの提案、何処まで時間を短縮できるかやってみたい、という提案。
 ハーレイは蹴った。その場で「邪道だ」と却下しちゃった。
(一瞬で出来るオムレツなんてね…)
 卵をセットしたらボタン一つでパッとオムレツ、そんなの、ちっとも楽しくない。便利そうでもワクワクしない。フライパンの上で引っくり返して、焼き上げてこそのオムレツだから。
 「ほら、出来たぞ」って、ホカホカのをお皿にポンと移すのがいいんだから。
 お茶だって、お湯を沸かしてこそで。
 ケトルに入れたお湯が沸くまで、沸騰するまで待っていてこそで。
(一瞬でお湯が沸くなんて…)
 邪道だよね、と前のハーレイの台詞を頭の中でなぞってみた。
 そう思ったけど、一瞬でお湯が沸くケトルなんかは味気ない、って思ったけれど。



(…あれ?)
 蘇って来た、遠い遠い記憶。
 一瞬でお湯を沸かしていた、ぼく。
 サイオンを使って、ポットに注ぐためのお湯をケトルで一瞬で。
 ほんの一瞬で沸騰したケトル。待ち時間などはまるで無くって、アッと言う間にブクブクと。
(あれって…)
 前のハーレイと恋人同士になった後。
 ブリッジでの仕事を終えたハーレイが青の間に来て、一日の報告が済んだら二人でお茶を飲んでいた頃。ぼくはソルジャーの衣装の手袋を外して、素手で紅茶を淹れていた。
 青の間の奥にあったキッチン、其処でケトルでお湯を沸かして、ポットに注いで二人分。
 白いシャングリラで採れたお茶の葉から作った紅茶を二人分。
 香り高くはなかったけれど。
 前のぼくが人類から奪っていた頃の紅茶の香りには遠く及ばなかったけれども、立派な紅茶。
 ちゃんと紅茶の色をしていて、味もそんなに悪くはなかった。足りなかったものは香りだけ。
 宇宙船の中で育てていたから、霧が出たりはしなかったから。朝と夜との気温の差だって、外の世界と同じようには出来なかったし、香り高い葉は生まれなかった。
 白いシャングリラの紅茶。香りこそ足りない紅茶だったけど、前のぼくたちの船で作った紅茶。
 それを淹れようとして、ふと思ったんだった。
 ケトルで沸かそうとしていたお湯。
 サイオンで沸かしたら一瞬だよねと、そういうのもたまにやりたいよね、と。
 ちょっとしたぼくの悪戯心。
 前のぼくだったからこそ出来た芸当。



 ケトルを見詰めて、ホントに一瞬。
 沸かそうと頭で考えただけで、魔法みたいに一瞬で沸いた。
 沸騰したお湯をポットに注いで、カップとかと一緒に持って行ったら、驚いたハーレイ。
「早かったですね、私が来る前に一度沸かしてあったのですか?」
 報告をしに来るとお気付きになって、先に沸かしておかれたとか…。そして保温を?
 保温しておいて温め直せば早いですしね。
「ううん、君が嫌がりそうなお湯だよ」
「は?」
 嫌がりそうとは、それはどういう…。
「一瞬で沸かしてしまったからね」
 ケトルで沸くのを待つんじゃなくって、一瞬で。…それじゃ味わいが無いんだろう?
 君の言う邪道というヤツだろう、って微笑んでみせた。
 料理だって一瞬で出来たら邪道なんだし、お湯を沸かすのも同じだろう、と。
「それはまあ…。ゼルが機械を作ったのですか?」
 一瞬でお湯が沸く機械を。
 ゼルならば作りそうですが…。作ってみたんじゃ、と一番に此処に持ち込みそうですが。
「そうじゃなくって…」
 機械なんかは貰っていないよ、ゼルからも、他の誰からも。
 種も仕掛けも無いと言えば無いね、一瞬でお湯を沸かすには。



 こう、ってカップに注いだ紅茶を沸かしてやった。
 二つ並べて置いたカップの片方を。
 指差しただけでボコボコと泡立った紅茶。沸騰してしまった、カップの中身。
 ハーレイが目を剥いたから。
 信じられないという顔で沸いた紅茶と、ぼくの顔とを見比べてるから。
 ぼくは沸騰させるのをやめて、まだ細かい泡がフツフツと沸き上がるカップを手に取った。
「分かったかい? サイオンなんだよ、これなら一瞬で沸いてしまうんだ」
 でもね…。これは美味しくないと思うし、淹れ直すよ。
 沸騰したお湯で淹れたお茶ならともかく、そのお茶をもう一度沸かしたからね。ただでも少ない香りがすっかり飛んでしまって、きっと不味いと思うから。
 キッチンに行って捨てて来る、と言ったんだけれど。
「いえ、頂きます」
 私が飲みます、と止めたハーレイ。
「…君が? この不味そうな紅茶をかい?」
 それくらいなら、ぼくが飲むよ。
 やってしまった責任を取って、ぼくが飲む。そうするべきだと思うけどね…?



 君が飲まなくてもかまわない、とカップをテーブルにコトリと置いたら。
 ぼくの方へと引き寄せようとしたら、「いえ」とハーレイの手がカップを取った。ソーサーごと自分の前に移して、唇に笑み。
「もったいないからではないのですよ」
 私が飲もうと言っているのは、紅茶が無駄になってしまうのを防ぐためではありません。
 もちろん責任の問題でもなくて…。
 要は味わってみたいのですよ、この紅茶を。さて…。
 どんな味でしょうか、と熱すぎる紅茶の湯気を息で飛ばして、一口飲んで。
 「美味しいですよ」と微笑んだハーレイ。吹いて冷ましながら飲んだハーレイ。
 この紅茶はぼくが淹れた紅茶で、ぼくが沸かした紅茶だから、って。
 それが美味しくない筈がないと、不味い紅茶になるわけがないと。



「本当に美味しい紅茶ですよ。…私にとっては」
 どんな紅茶よりも美味しいのですが、他の者が飲んだらどう評するかは分かりません。あなたがお飲みになったとしても、美味しいとは仰らないのでは…。
「それがどうして美味しいということになるんだい?」
 君の言い方だと不味い紅茶だとしか聞こえないけれどね、その紅茶は。
「美味しさに秘密があるのですよ。あなたの愛情入りだと言えればいいのでしょうが…」
 そうではなくて悪戯でしょうね、一瞬でお湯を沸かしてみたのも、カップの紅茶が沸いたのも?
「悪戯だけど…。やったらどんな顔をするかな、と試してみたくて沸かしたけれど…」
 愛情入りというのは何だい、それはどういう意味なんだい…?
「そういう言い回しがあるそうですよ。愛情をこめて作りました、という意味で」
 手料理などを指すようですね、と笑ったハーレイ。
 恋人のためにと作った料理は愛情入り。愛情がこもった料理なんだから、愛情入り。
 このシャングリラでも手料理を作っている恋人たちがいるんですよ、と。
 厨房で材料を分けて貰って、空いた時間に手料理作り。
 そうやって出来た料理やお菓子は愛情入りだと、だからぼくが悪戯で沸かした紅茶も愛情入り。
 ぼくがサイオンで沸かしたから。
 普通に淹れた紅茶と違って、お湯も紅茶も、ぼくのサイオンで沸いたから。



「愛情入りねえ…」
 ふうん、と感心してしまった、ぼく。
 きっと不味いだろう紅茶を美味しいと飲んでくれたハーレイ。
 初めて耳にした「愛情入り」という言葉の響きも、それに例えたハーレイの温かな心も、とても嬉しくて心が弾んだものだから。
 それから時々、お茶を淹れる時にはお湯を一瞬で沸かしていた。ケトルのお湯をサイオンで。
 カップに注いだ紅茶の方は、二度と沸かしはしなかったけれど。
 紅茶の香りが飛んでしまうと分かっているから、それはやらずにお湯の方だけ。ポットにお湯を注ぐ前なら、どんな風に沸こうが、紅茶の味に影響は出ない筈だから。
 このくらい、とケトルに入れた水を一瞬で沸騰させてしまって、ポットに注いで運んでゆく。
 ハーレイの分とぼくの分とのカップを添えて、トレイに載せて。
「はい、ハーレイ。今日の紅茶は愛情入りだよ?」
 そう前置きしてカップに注いで、ハーレイの前に差し出したら。
 褐色の手がそうっとカップを持ち上げ、紅茶をゆっくりと口に含んで。
「美味しいですね」
 やはり一味違いますよ。あなたのサイオンで沸かして下さったお湯で淹れた紅茶は。
「いつもの紅茶なんだけれどね?」
 何も違わないよ、この船で作った紅茶なんだし…。香りが薄くて、色と味しか無い紅茶。
「それでもです。本当に美味しく思えるのですよ」
 あなたのサイオンで沸かして下さったお湯が、味に深みを出すのでしょう。
 文字通りあなたの愛情入りです、あなたのサイオンが無ければ淹れられない紅茶なのですから。



(思い出した…!)
 前のぼくがハーレイのために淹れてた、愛情入りっていう謳い文句の紅茶。
 サイオンを使って一瞬で沸かした、ケトルに入った愛のお湯。愛情入りの沸騰したお湯。
 何度もハーレイに淹れてあげたし、ハーレイも喜んで飲んでくれた。「美味しいですよ」って。
 でも…。
(今のぼくには無理…)
 前と同じにタイプ・ブルーに生まれたけれども、サイオンの扱いが不器用なぼく。思念波さえもロクに紡げないレベルで、とことん不器用。
 そんなぼくには出来ない芸当、逆立ちしたって無理な芸当。
 サイオンでお湯を沸かすなんて。ケトルの水を一瞬で沸騰させるだなんて。
 ボコボコと沸騰させるどころか、泡の一つも立たないだろう。
 いくらケトルを睨み付けても、お湯にもならずに水のまま。温度は一度も上がりやしない。
 そうなることが分かり切ってる、今のぼく。
 愛情入りのお茶は淹れられない。
 紅茶も緑茶も、愛情入りのを淹れられやしない。
 前のぼくなら簡単に出来たことだったのに。愛情入りだよ、って淹れられたのに…。



 どんなに頑張って格闘したって、もう淹れられない愛情入りのお茶。
 悪戯じゃなくて大真面目にやっても、ハーレイのために愛情入りのお茶を淹れられはしない。
 ぼくのサイオンは不器用になってしまったから。
 タイプ・ブルーだなんて名前ばかりで、無いも同然のサイオンだから。
(ハーレイ、忘れているといいんだけれど…)
 前のぼくが淹れてたお茶のことを。「愛情入りだよ」と一瞬で沸かしたお湯のことを。
 もしもハーレイが覚えていたって、あれはもう作れないんだから。
 淹れてあげたいと挑戦したって、ケトルの水はぬるま湯にさえもなってはくれないんだから。
(…ハーレイ、覚えていないよね…?)
 ぼくの家で何度も出してる紅茶。ママが運んで来てくれる紅茶。
 ハーレイにとっては馴染みの飲み物、ぼくの部屋で何度も飲んでいるけど、お湯の話は今までに一度も出ていない。一瞬で沸かしたお湯かどうかも、話題になんかなってはいない。
(忘れているとは思うんだけど…)
 それとも黙っているだけだろうか、今のぼくには出来っこないから。
 忘れているなら、愛情入りの紅茶を二度と淹れられなくても何の問題も無いけれど。
 覚えているなら、「今度はあれは飲めないのか」と思っているなら、大いに問題。
 ぼくの愛情が足りないってことにならないだろうか、ハーレイへの愛が?
 愛情入りの紅茶が淹れられない分、愛情不足ってことになったら…。



(どうしよう…)
 ハーレイが愛情入りのお茶を覚えていたなら、ぼくはどうすればいいんだろう?
 今度のぼくには淹れられないのに、一瞬でお湯を沸かせないのに。
(愛情不足になっちゃうわけ…?)
 どうなんだろう、と心配になってきた所へチャイムの音。
 仕事帰りに寄ってくれたハーレイ、いつものようにママが運んで来た紅茶とお菓子。ハーレイとぼくのために置かれたカップ、ママが注いだ紅茶が入ったカップが二つ。それにポットも。
(前のぼくなら愛情入り…)
 カップの紅茶も、ポットの中身のおかわり用も愛情入り。
 サイオンで一瞬で沸かしたお湯を使って、淹れて。愛情たっぷりの紅茶に出来た。同じ紅茶でも違う紅茶に、ハーレイにだけは味の違いが分かる紅茶に。
 そう、前のぼくには分からなかった。どう違うのかが、いくら飲んでも。
(きっと今だって…)
 サイオンで一瞬で沸かしたお湯でも、ケトルのお湯でも、ぼくに違いは分からないと思う。
 ママはサイオンでお湯を沸かせはしないけど。そこまでのサイオン、持ってないけど。



(同じお湯なら、やっぱりケトル…)
 沸くまで待ってる時間がいい。ゆっくり、のんびり待つのがいい。
 今日だってゆっくり待ってたんだし、と思い出したから、ついついウッカリ。
「ねえ、ハーレイ。一瞬で沸くお湯なんかきっと、つまらないよね?」
「はあ?」
 鳶色の瞳が丸くなったから、付け加えた。
「えーっと…。お茶を飲むなら、お湯を沸かす時間も大切だよね、って」
 まだかな、って沸くのを待ってる間も楽しみの内だよ、お茶を淹れる時の。
 一瞬でボコッと沸いてしまったら、お茶を淹れる楽しみ、減っちゃわない…?
「ああ、あれな…!」
 前のお前の愛情入りな、ってハーレイがポンと手を打ったから。
 失敗した、って気が付いたけれど、もう遅い。そういう話になってしまったら戻れない。きっとハーレイは覚えていたんだ、あのことを。
 今日まで黙っていただけで。今のぼくには無理そうだから、って沈黙を守っていただけで。
 お湯の話を始めたぼくが馬鹿だったんだ、と俯き加減で呟いた。
「…覚えてたの?」
 だけど今まで言わなかったの、あのお茶のこと?
「いや? たった今、思い出したんだが」
 一瞬で沸かした湯じゃつまらない、と聞いた途端に思い出した。前のお前がやっていたな、と。
「えっ…」
 それじゃすっかり忘れていたわけ、ハーレイも?
 愛情入りのお茶ですね、って自分で言い出したくせに、ハーレイも忘れてしまってたんだ…!



 墓穴を掘ってしまったぼく。
 ハーレイは忘れてしまっていたのに、思い出させてしまった、ぼく。
 前のぼくがハーレイのために淹れてた、サイオンで沸かしたお湯のお茶。愛情入りのお茶。
 もうあのお茶は淹れられないのに。
 今のぼくがどんなに頑張ってみても、愛情入りのお茶を淹れることなんか出来はしないのに…。
(…ハーレイ、思い出しちゃった…)
 思い出したからには、愛情入りのお茶が無理なことにも気付くだろう。
 今のぼくには淹れられないって、愛情入りのお茶を飲むことはもう出来ないんだ、って。
(…愛情不足…)
 今度のぼくには愛が足りない。ハーレイにあげられる愛が足りない。
 愛情入りのお茶を淹れられない分、ぼくのハーレイへの愛は足りない。
 ハーレイが好きでたまらなくても、結婚するんだともう決めていても、決定的に足りない愛情。
 だって、淹れられない、愛情入りのお茶。
 ハーレイのためにとサイオンで一瞬でお湯を沸かしてあげられない。
 こんなにハーレイが好きなのに。
 ハーレイのことが誰よりも好きで、愛はいっぱいの筈なのに…。



 それでも愛情不足なんだ、と落ち込んでいたら。
 紅茶のカップに目を落としたまま、何も言えずに項垂れていたら。
「…どうした?」
 何を黙ってしょげているんだ、せっかく懐かしい昔話が出て来たのに…。
 前のお前の愛情入り。何度も飲ませて貰ったよなあ、仕事が終わって一日の報告を済ませたら。
 お前がいそいそとトレイを手にして持って来た日は愛情入りなんだ、同じ紅茶でも。
 あれは不思議に美味い気がしたな、お前がサイオンで沸かしたってだけで。
 一瞬で出来る料理はつまらん、と言った俺だが、あれに関しては話は全く別だってな。
「…ごめん、ハーレイ。ぼく、あのお茶はもう…」
 ぼくのサイオン、不器用になってしまったから…。
 ケトルをどんなに睨んでも、きっと…。
「うんうん、淹れられないってな」
 分かるぞ、お前には無理だってこと。あんな芸当、今のお前には出来ないんだろう?
 淹れられなくても当たり前だな、サイオンが上手く扱えないんじゃな。
「…ごめん…」
 ごめんね、愛情不足なぼくで。愛情入りのお茶も淹れられないぼくで…。
 ハーレイのことは大好きだけれど、今度は愛が足りないみたい。
 愛情入りのお茶が淹れられない分だけ、ぼくの愛、今度は足りないんだよ…。
「何を言うんだ、この馬鹿者が」
 前のお前よりも愛情が足りていないってか?
 そんなことがあるか、今のお前も愛情ってヤツはたっぷりだろうが。
 足りてないのはサイオンだけだな、それでかまわないと俺は何度も言った筈だが?
 今度のお前はそれでいいんだと、その分、俺が守るから、と。
 もっとも、前のお前と違って。
 命の危機ってヤツから守るのは無理な世界になっちまったがな。
 敵なんかは何処にもいないからなあ、うんと平和に暮らせる世界を前のお前が作ったお蔭で。
 お前は違うと言うんだろうが、前のお前がメギドを沈めて、そのお蔭で今の世界がある。
 ミュウが主役になった世界も、青い地球もお前が作ったんだ。
 ソルジャー・ブルーが大英雄なことは、お前だって学校で習うんだろうが…?



 不器用なお前でかまわないのさ、ってハーレイはウインクしてくれた。
 その方が俺にも守り甲斐があると、今度こそ守ってやるからと。
「いいな、俺はお前が居てくれるだけで充分なんだ」
 不器用だろうが、愛情入りのお茶が淹れられないレベルのサイオンだろうが、俺は気にせん。
 俺の嫁さんになってくれるんだろう?
 今度のお前は、俺の嫁さんに。
「そうだけど…。だけど、愛情不足だよ?」
 愛情入りのお茶が淹れられなくても、ハーレイ、残念だと思わない?
 前のぼくの方が愛情たっぷりで良かったのに、って心で溜息ついたりはしない…?
「まったく、もう…。お前、なんだって愛情入りのお茶にこだわるんだか…」
 思い出したんなら、こだわりたい気持ちも分からないではないんだがな。
 しかしだ、今じゃ出来ないことをだ、振り返って嘆いてみたって何にもならんだろうが。
 前のお前と今のお前は繋がっちゃいるが、出来ないことまでやれとは言わん。
 それで愛情が不足してるとも、足りないとも俺は言わないぞ。
「…本当に?」
 あのお茶が飲みたい、って思ったりしない?
 前のぼくなら淹れられたのに、ってポットを眺めてガッカリしない…?



 愛情入りのお茶を淹れられないことは本当だから。
 これから先だって、きっと進歩はしそうにないから、何度も念を押してたら。
 大丈夫なのかと、それでいいのかと訊き続けてたら、「大丈夫さ」と髪を撫でられた。大好きな褐色の手でクシャリと髪を。そして笑っている鳶色の瞳。
「そんなに心配しなくってもなあ…?」
 心配無用だ、愛情入りのお茶なら俺が淹れてやるから。
 紅茶だろうが、緑茶だろうが、今度は俺が淹れる番だな、愛情入りで。
「愛情入りって…。ハーレイ、出来るの!?」
 今度のハーレイは愛情入りのお茶を淹れられるの?
 一瞬でお湯を沸かせるっていうの、ハーレイはタイプ・グリーンなのに…?
「落ち着け、愛情入りって言葉の本当の意味を覚えているか?」
 シャングリラにタイプ・ブルーは何人いたんだ、あれが流行っていた頃に?
 お前の他には誰一人としていはしなかったろうが、なのにどうして愛情入りって言葉を前の俺が知っていたんだっけな?
「…え? えーっと…。確か、手料理…」
 愛情をこめて作りました、っていう意味だった…んだよね、元々は…。
「そうさ、そいつが本来の意味だ」
 前のお前の愛情入りってヤツが少々ズレてしまっていたんだ、言葉自体の持つ意味からな。
 でもって、シャングリラで流行っていた方の愛情入りなら、俺でも出来る。
 お前のためにと愛情をこめてお茶を淹れれば、立派に愛情入りだってな。
「それだったら、ぼくにも淹れられそう…!」
 愛情入りのお茶は、今度のぼくでも淹れられるよ。
 ハーレイのために淹れるんだ、って心をこめてお茶を淹れたら愛情入りになるんだね。
 サイオンで一瞬でお湯を沸かさなくても、愛情入り。
 そっちの方のお茶で頑張ってみるよ、うんと美味しく淹れられるように…!



 今度のぼくでも、ちゃんと淹れられそうなお茶。
 前のぼくが淹れてた愛情入りのお茶は無理だけれども、本当の意味での愛情入り。
 ハーレイのために、って心をこめて淹れるお茶。
 サイオンじゃなくてケトルでお湯を沸かして、一瞬じゃなくて時間をかけて。
 ハーレイを少し待たせちゃうけど、前のぼくみたいに「はい」って直ぐには出せないけれど。
(…だけど、愛情入りだしね?)
 愛をこめてきちんと淹れてる分だけ、時間だってかかる。
 前のぼくと違って不器用な分だけ、お湯が沸くまでの分だけ、時間がかかる愛情入りのお茶。
 ハーレイに「美味いな」って言って欲しいから。
 「今度のお前の愛情入りのお茶も実に美味いな」って、顔を綻ばせて欲しいから。
 お茶の淹れ方、ママに頼んで習っておこう。
 今は適当に淹れているけど、まずは紅茶の淹れ方から。
 なんだったっけか、ポットの分にもお茶の葉をスプーンに一杯分?
 それからポットにお湯を注ぐ時には、葉っぱが中で動き回れるように充分、勢いをつけて。
 他にも色々、何かあるかもしれないから。
 ママが変だと思わない程度に少しずつ。
 習って、覚えて、うんと美味しい紅茶の淹れ方、マスターしなきゃ。
 不器用なぼくでも気にしない、って言ってくれてるハーレイのために。
 「愛情入りのお茶なら俺が淹れるさ」って、約束してくれたハーレイのために。
 ぼくからも愛情入りのお茶。
 お湯をケトルでしっかり沸かして、愛情入りのお茶をハーレイのカップに注ぐんだ。
 心をこめて淹れたお茶。
 ハーレイのことが大好きだよ、って愛情をこめて、丁寧に淹れたお茶をカップにたっぷりと…。




           愛情のお茶・了

※前のブルーなら、一瞬で沸かせたケトルのお湯。それで淹れていた愛情入りの紅茶。
 今度は淹れられないことに気付いたブルーですけれど…。心をこめればいいんですよね。
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(ふうむ…)
 無いのか、とハーレイは棚を覗き込んだ。
 仕事帰りに寄った、いつもの食料品店。備え付けの籠にあれこれ入れたけれども、足りない品。
 買おうと思った品が見当たらない。端から端まで眺め回しても、何処にも無い。
 四つ葉のクローバーのマークの牛乳。幸せの四つ葉のクローバーがシンボルマークのメーカー。
 その牛乳が一つも無かった。瓶入りはおろか、パック入りまで売り切れたらしい。
 他には色々と並んでいるのに。バラエティー豊かに揃っているのに。



(特にこだわりはしないんだが…)
 美味しい牛乳には違いないけれど。巷での評判も高いけれども、特別高価でもない牛乳。
 値段は他のとさほど変わらないし、高級な牛乳とはまた違う。牧草にまでこだわって育てた牛のミルクというわけでもない、ごくごく平凡なミルクの一種。
 他のメーカーの牛乳も、以前だったら買ったのだけれど。
 どれを買おうと特には決めずに、目に付いたものを買っていたけれど。
 今では少し事情が違った。四つ葉のクローバーのマークを買わねば、と探してしまう。味わいに惹かれたわけではないから、こだわりと言っていいのかどうか。
 それでも、いつも棚から取るのは四つ葉のクローバーのマークの牛乳。
 これにしようと、これを買って家に帰るのだと。



(あいつが飲んでるヤツだからなあ…)
 小さなブルーが飲んでいるミルク。背丈を伸ばそうと祈りをこめて、毎日、せっせと。
 最初の間は笑って聞いていただけだった。「まあ、頑張れ」と。
 何処のミルクかは気にもしなかったし、訊こうとも思わなかったのだけれど。
 ひょんなことからメーカーを知った。
 四つ葉のクローバーのマークなのだと、幸せの四つ葉のクローバーだ、と。
 小さなブルーが庭のクローバーの茂みで見付けた四つ葉。それは嬉しそうに話したものだ。庭にあったと、ハーレイの家にもきっとあるよ、と。
 それを聞いて帰って、翌朝、一番に探してみた。まだ朝露が光っている庭で。
 そうして見付けた幸せの四つ葉のクローバー。幸運の印。自分の家の庭にもあった。前の生では何度探しても、決して見付からなかったのに。
 自分もブルーも、白いシャングリラの公園で何度探したことか。
 けれども四つ葉のクローバーは無くて、何故だか自分たちが探した後の場所で子供たちが探すと見付かっていた。どうしたわけだか、どう頑張っても出会えなかった四つ葉。
 クローバーは予言をしたのかもしれない。前の自分たちの悲しい別れのことを。
 運命に引き裂かれてしまう恋だと、最後まで共にいられはしないと。



 ところが、今度は簡単に見付かった幸せの四つ葉のクローバー。
 ブルーの家の庭にも、自分の家の庭にも、幸せの四つ葉。
 それを探そうとブルーが思い立った切っ掛けが、ミルクの瓶に描かれたマークだったらしい。
 今度は見付けられるかも、と庭に向かったと顔を輝かせていた小さなブルー。
 「ハーレイもきっと見付けられるよ」と言われた通りに、四つ葉のクローバーが見付かった。
 前の自分たちは一度も出会えなかった四つ葉が、幸運の印のクローバーの葉が。
 あれ以来、買うなら四つ葉のマークがついた牛乳。小さなブルーも飲んでいるミルク。
 たまに今日のように買い逃すけれど。
 牛乳が並んだ棚に行っても、売り切れてしまっているけれど。



(…こっちでいいか)
 売れてしまったものは仕方ないから、見覚えのあるものを手に取り、籠へと入れた。
 かつては何度も買ったメーカー。瓶入りも、パック入りもよく買っていた。濃厚な味わいも気に入っていたし、四つ葉のクローバーの牛乳に引けを取らないものだと分かってはいる。
 けれども損をしたような気分。
 幸運を一つ逃したような。四つ葉のクローバーが運ぶ幸運を、一つ落としてしまったような。
(…本物の四つ葉じゃないんだがなあ…)
 そいつは家にある筈なんだが、とレジに向かった。
 本物の四つ葉のクローバーなら自分の家の庭にあるから、牛乳くらい、と。
 たまにはこういう日だってあるさと、大したことではないのだから、と。



 ミルクとして飲む他に、料理などにも使ったから。
 牛乳は早めに減って行ったし、また買わねばと二日後に店に入ってみれば。
(また無いのか…)
 棚に四つ葉のクローバーは無かった。他のメーカーのものは並んでいるのに、四つ葉だけが。
 金曜日の夜に寄ったというのに。
 明日は週末、ブルーの家で過ごす土曜日が待っているのに、無い四つ葉。幸せの四つ葉。
 またしても幸運を逃した気がした。四つ葉のクローバーの幸運を。
(仕方ないがな…)
 売り切れたものは戻って来ないし、牛乳は買わねばならないし。
 諦めて他のメーカーのものを籠に入れると、早めに飲んでしまおうと決めた。
 今日、買って帰るこの牛乳が空になったら、今度は四つ葉。次こそ四つ葉のマークを買おうと、早く飲もうと決心した。



 週末の土曜と日曜日はブルーの家で過ごしていたから、自分の家では朝食だけ。
 それで飲み切れる量の牛乳を買って、朝食用に焼くオムレツにも入れてみたりして。
 四つ葉のマークの無い牛乳はちゃんと減ったから、月曜日の夜に食料品店に出掛けたけれど。
(…またなのか?)
 いったい誰があれを買いに来るというのだろう?
 選んで買って行かれたかのように無い、四つ葉のマーク。瓶入りも、それにパック入りも。
 こうも続くと気になってくるから、店員に訊くことにした。ちょうど補充をしに係が来たから、その男性を捕まえて。
「すみません。四つ葉のマークの牛乳ですが…」
 最近、いつ来ても売り切れなんですが、入荷する量が減りましたか?
「いえ、同じですが」
 たまたまでしょう、と答えが返った。
 今日も朝から入荷しましたと、さっきまでは棚にありましたよ、と。
(…たまたまでもなあ…?)
 三度続けて出会えなかった四つ葉のクローバー。
 本物のクローバーの葉とは違って、瓶やパックに描かれたシンボルマークに過ぎないけれど。
 乳製品の棚を覗けば、同じマークのバターなどが並んでいるのだけれど…。



 これだけ続けば、運が悪いという気がして来た。
 幸運を三度も、三つも逃してしまったのでは、と。たかが牛乳、けれども四つ葉。
 前の生では見付けられなかった幸せの四つ葉のクローバー。
 気にかかったまま、次の日、仕事が早く終わって、ブルーの家に寄れたから。
 小さなブルーと向かい合ったら、牛乳のことを思い出したから、問い掛けてみた。
「お前、ミルクは飲んでるか?」
 頑張って毎朝飲むと聞いたが、今朝も飲んだか?
「うん!」
 帰ってからホットミルクも飲んだよ、ハーレイに教わったシロエ風。
 ママがマヌカをたっぷり入れてくれたよ、薬っぽくなくて美味しいマヌカを。
「そうか、お前は飲んだんだな…」
 フウ、と思わず漏れた溜息。ブルーが気付かない筈がなくて。
「ハーレイ、どうかした?」
「いや…」
 そう答えたものの、心配そうな顔をしているブルー。何かあったかと、赤い瞳が揺れるから。
 大したことではないんだが、と例の事件を打ち明けた。
 四つ葉のマークが見付からないのだと、もう三回も続いていると。



「見付からないって…。売れちゃったの?」
 ハーレイよりも先に誰かが買っちゃった?
「そうらしい。…入荷量は変わっていません、と言われたんだが…」
 俺の運が悪いか、でなけりゃ誰かが気に入って沢山買うようになったか。
 そうだとしたら、いずれ入荷量を増やしてくれるかもしれないが…。一時的なものだってこともあるから、増やしてくれるとしてもいつのことやら…。
 俺は当分、あれに出会えないかもしれないなあ…。
「それなら、家に直接、届けて貰えば?」
 ぼくの家みたいに、とブルーが言った。
 四つ葉のクローバーのミルクは配達の人が朝に運んで来てくれてるから、と。一日おきに家まで届いて、その時に空になった瓶も持って帰ってくれるんだよ、と。
「配達なあ…。俺も知ってはいるんだが…」
 そいつじゃ俺には多すぎるんだ。一日おきの配達でもな。
「そうなの?」
 ぼくの家だと足りなくなっちゃって、ママが買いに行ってることもあるけど…。
 お菓子には沢山使うものね。お料理にだって。
「生憎と、俺は一人暮らしだしな」
 お前の家みたいに毎日のように菓子を作りはしないしなあ…。料理だって一人分だけだ。
 俺が飲む量にしたって、そうそう多くはないからな。
「そっか…」
 ハーレイ、配達、無理なんだ…。あれなら間違いなく届くんだけどな、四つ葉のマークが。
 だけど、無理なら仕方がないね…。



 でも…、と悲しそうに俯くブルー。
 ハーレイとお揃いじゃなくなったんだ、と桜色の唇から零れた言葉。
「はあ?」
 お揃いってなんだ、何がお前とお揃いじゃないんだ?
「ミルク、お揃い…」
 ハーレイが四つ葉のマークのを買ってくれていたら、お揃いのミルクが飲めるのに。
 この間までお揃いで飲めていたのに、ミルク、お揃いじゃなくなっちゃった…。
「ミルクがお揃いって…。お前の頭ではそうなるのか?」
 持ち物がお揃いだったら分かるが、なんでミルクでお揃いなんだ。
 飲んじまったらそれでおしまいだぞ、手元には瓶かパックだけしか残らないんだが?
 その瓶とかだって返しに行くしな、次のミルクを入れるために回収してるだろうが。
「でも、ハーレイだってそうなんでしょ?」
 お揃いとは思ってなさそうだけれど、ぼくが飲んでるから四つ葉のマーク。
 前は違うのを買っていたなら、お揃いのつもりで買っているんだと思うんだけどな…。
「そう……かもしれんな」
 俺に自覚は全く無かったが、お前に合わせて買っているなら、そうなるのか?
「そうだよ、お揃いのミルクなんだよ」
 四つ葉のマークのミルクだったら、ぼくとお揃い。ぼくが毎朝、飲んでるミルク。



 早く買えるといいね、と言われた。
 ハーレイとお揃いのミルクがいいから早く買ってね、と。
(…言われなくてもな?)
 今度こそは見付けて買ってやる、と次に出掛けた食料品店。
 他の買い物は後回しにして、真っ先にミルクの棚に向かえば、最後の一本に出くわした。幸せの四つ葉のクローバーのマーク。ブルーの家に届くミルクとお揃いの瓶。
(うん、こいつだ!)
 やっと見付けた、と幸運を籠に突っ込んだ。
 他の誰かに取られてなるかと、この幸運は俺のものなのだから、と。
 それから肉や野菜などを選んで、弾んだ心で颯爽とレジへ。牛乳の瓶が籠から出されて、買った品物を入れるための袋に移される時も心が躍った。
 今日は四つ葉を見付けられたと。幸運の印を持って帰れると。
 何より、ブルーとお揃いのミルク。
 幸せを運んでくれそうに見えて来た。とびきりの幸せをこいつが運んでくれそうだ、と。



 その週末。土曜日にブルーの家に出掛けてゆくと、真っ先に訊かれた。「牛乳、買えた?」と。
「ハーレイ、四つ葉のクローバーの牛乳、買えたの?」
「お蔭様でな」
 なんとか買えたぞ、お前とお揃いのミルクをな。
 最後の一本だったが買えた、と報告したら。
「そうなんだ…。じゃあ、配達にすればいいのに」
 四つ葉のクローバーに決めてるんなら、それが一番確実だよ。
「だから俺には多すぎるんだと言っただろう」
 一人暮らしで牛乳を頼んでも、どうにもならん。ドカンと使った時なら別だが…。
 余っちまうだけだ、そいつをどうして使ったもんかと悩む羽目になるのが見えてるからな。
「ううん、コースがあるんだって」
 一人暮らしの人用の、とブルーは得意げに説明し始めた。
 三日に一本、大きな瓶入りの牛乳が届く。ブルーの家に二日毎に届くのと同じものが。
 一人暮らしにはピッタリの量だけれども、それでも余ったりはする。そうした時には配達を一回休めるコース。逆に、多めに欲しい時には増やして貰うことも出来るらしい。
 牛乳が届く専用の箱にメモを入れるだけで。
 一回休みでとか、次は多めにとか。



 ブルーがスラスラと淀みなく話すものだから。
 まるで自分が牛乳配達の仕事をしているかのように、仕組みを教えてくれるものだから。
「お前、やたらと詳しいな」
 この間は「無理だね」って頷いてたくせに、何処で調べて来たんだ、そんなの。
「ママに話をしたんだよ。ハーレイが牛乳、買えないみたい、って」
「おい…。お揃いと言ってはいないだろうな?」
 俺がお前とお揃いの牛乳を飲みたがってる、とお母さんに喋っちゃいないだろうな、お前?
「そんな失敗、ぼくはしないよ。絶対、しない」
 ハーレイと恋人同士だってことがママにバレたら、大変なことになっちゃうもの。
 お揃いだなんて言いやしないよ、それがホントのことでもね。
 四つ葉の牛乳が気に入ったみたいと言っておいたよ、と微笑むブルー。
 そうしたら母が訊いてくれたと、配達をする店に尋ねてくれたのだと。



「ハーレイ、配達、頼んでみる?」
 一人でもこれなら余らないでしょ、沢山欲しい時だって頼めば増やして貰えるし…。
 牛乳を沢山使ってお料理したい、って思った時にも大丈夫だよ。先に予定が決まっていれば。
 その日に急に思い付いたら、買いに行くしかないけれど…。それはママだって同じだもの。
「そうだなあ…」
 確実に買えるって言うんだったら、そいつがいいかもしれないな。
 今までは普通に店で買えていたから、たまに品切れでも何とも思わなかったんだが…。
 あれだけ続けて手に入らないと、どうもツイてない気がしてな。
 俺は幸運を一つ逃したんじゃないかと、知らずに逃げられたんじゃないかと思っちまうんだ。
 この際、頼んでみるとするかな、アレの配達。
「ホント!? 配達、頼むことにするの?」
「ああ。俺もお揃いにしたい気持ちになって来たしな」
 お前が言った通りに、俺もお揃いだと何処かで思っていたんだろう。
 お前が飲んでいるのと同じミルクだと、これを買おうと四つ葉のマークを探してた、ってな。
「じゃあ、ハーレイの分、頼んであげる」
「頼む?」
 どういう意味なんだ、頼むってのは?
「ハーレイ、配達のお店、知らないでしょ?」
 調べれば分かるとは思うけど…。
 ママがね、ハーレイが頼むんだったら、コースを選べる申込書を貰ってくれるって。
 直ぐに送って来てくれるから、書き込んでぼくの家から送っていい、って。



 ぼくの家の通信機を使ってよ、と期待に満ちたブルーの瞳。
 ハーレイがお揃いの牛乳の配達を頼むんだったら、ぼくの家から申し込んで、と。
「そしたら申し込みまでお揃いになるよ、ぼくの家のと」
 同じ通信番号を使って申し込むんだもの、配達の始まりからもうお揃いだよ?
「おいおい…。お前の家の通信機を使うのはいいんだが…」
 その申込書を送るのは俺で、書き込む通信番号も住所も俺のなんだが?
 店にしてみれば、何処から送られた通信だろうが、気にしていないと思うがな…?
「ぼくがこだわりたいんだよ!」
 ハーレイの家に四つ葉の牛乳を届けて貰うための申込書だよ、ぼくの家から送りたいよ!
 ぼくの家から送りたいから、ハーレイの分を頼ませてよ!
「うーむ…。お前がそこまで言うならなあ…」
 どうせ頼もうかと思ってるんだし、そいつも悪くはないかもな。
「ぼくの家から頼んでくれる?」
「うむ。お前、最初からそのつもりだろ?」
 俺に配達の話を持ち出した時から、頼もうと思っていたんだろうが。
 実際に通信機で送ってくれるのは、お前のお母さんってことになるんだろうがな。
「やった!」
 申し込みからお揃いに出来るよ、四つ葉の牛乳。
 ママに申込書を頼まなくっちゃ!



 飛び跳ねんばかりに喜んだブルー。
 「ママー!」と階下へ駆けて行ったブルー。
 ハーレイが「参ったな…」と苦笑している間に、ブルーは一枚の紙を手にして戻って来た。
 四つ葉のクローバーのマークが描かれた牛乳配達の申込書を。
「えーっとね…。ここにコースが書いてあるから…」
 届けて貰う日と、何本届けて貰うのか、と。ママが言ってた一人暮らし用は…。
「これだな、このコースをこっちに書けばいいんだな」
 ふむ、とハーレイは申込書を読んでみた。配達用のコースは色々、どうせならブルーの家に届く日と重なっている曜日のコースがいい。
 そう考えて「お前の家には何曜日と何曜日に届くんだ?」と訊くと、ブルーは「えっとね…」と指を折ってから。
「ハーレイ、それも合わせてくれるの?」
「そいつも揃えたいだろう? 三日に一度と二日に一度じゃ、そうそう上手くは重ならんが…」
 この日はお前の家にも届いたんだな、って思える日に受け取りたいじゃないか。
 同じ配達を頼むんならな。
「だったら、これだよ、こっちのコース!」
 これ、とブルーが申込書を指差した。自分の家に届くコースがこっちなのだから、曜日が重なるコースはこれだ、と。
「なるほどな。…それじゃ申込書を書くとするか」
 お前のペンを借りるとするかな、そうすりゃペンまでお揃いだしな?
「やだ! ハーレイ、ペンは持ってるでしょ!」
 お休みの日でも、いつものあのペン。手帳と一緒に持ってるってこと、知ってるもの!
 あれで書いてよ、あれで書いた字を通信機で送りたいんだよ…!



 小さなブルーは頑として譲ろうとしないから。
 「そこはお揃いでなくていいのか?」とクックッと笑いながら愛用のペンを取り出した。
 ずっと昔に気に入って買った、瑠璃色のペン。人工のラピスラズリで出来たペン。一目惚れして買った時には夜空のようだと思っていた。散らばった金色の粒が星のようだと。
 その星空の中に星座は無いのか、と小さなブルーに尋ねられたのはいつだったか。地球の星座が無いということは知っていたのだが、ブルーに問われて見詰め直したら。
 ペンの中の夜空に星座があった。小さなブルーも、前のブルーも知らない星座が。
 今の自分も見たことは無くて、今の時代にはもう無い星座が。
 星が動いたという意味ではない。その星座が見えた星が消えてしまった。跡形もなく砕け散ってしまったナスカの星座。赤いナスカで仰いだ星座。
 それは種まきの季節に昇った七つの星だった。前の自分が見上げていた。赤いナスカで何度も、何度も。あの星の地上で、その季節に夜を迎える度に。



 ナスカの星座が鏤められたペンは、小さなブルーもお気に入りで。
 ハーレイ自身も「この星座が自分を呼んだのか」と、今となっては感じているペン。同じペンが何本もあった中からこれを選んだ。これが手に馴染むと、一番いいと。
 そうして小さなブルーと出会って、「星座は無いの?」と無邪気に訊かれて。
 地球の星座の他にも星座はあるからと、アルテメシアやノアの星座も、と言われるままに調べてナスカの星座を見付け出した。あの星座だと。
 前の自分がそれを仰いだ頃、前のブルーは深く眠っていたのだけれど。
 一度もナスカに降りることなく、前のブルーはメギドに飛んでしまったのだけれど…。
 赤いナスカも砕けてしまって、あの星座はもう見られない。
 種まきの季節を迎える星が無いから、昇るための空を持たないから。



 今はもう無い、七つの星を結んだ星座。それが隠されたペンで申込書を書き込んだ。
 まずは希望の配達コースを、それから住所と自分の名前に通信番号。
(…ナスカに居た頃には、こんな日が来るなんて夢にも思わなかったよなあ…)
 青い地球に住んで、地球で育った牛のミルクが自分の家に届く生活。
 それを申し込むための紙をブルーの家で書いている。ブルーの部屋のテーブルで。
 ナスカであの星座を仰いだ時には、長い眠りに就いてしまっていたソルジャー・ブルー。まるで魂が失われたかのように思えて、その魂を探していた。
(虹のたもとを追い掛けてな…)
 七色に輝く虹の橋のたもとには宝物が埋まっていると言うから。そこに辿り着けばブルーの魂が埋まっているかと、雨上がりの虹を追って歩いた。赤い星の上を。
(…前の俺は見付けられなかったが…)
 やっと目覚めてくれたブルーも、メギドへと飛んでしまって失くした。失くしてしまった。
 けれども、ブルーは小さくなって帰って来てくれて。
 自分と一緒に青い地球の上に生まれて来てくれて、今はワクワクと眺めている。牛乳配達を頼むためにと申込書に書き込む自分を。
 ナスカの星座が隠れているペンで、住所や名前を書く自分を。



「…よし、こんなトコだな」
 書けたぞ、とブルーに見せると、「ママに渡して来る!」と部屋を飛び出して行った。申込書をしっかり掴んで、階下の母に送って貰うために。
 階段を駆け下りて行った足音が消えて、お茶を飲みながら待っていると。
「送って来たよ! これはハーレイが持って帰ってね!」
 はい、と申込書を渡された。これが控えになるから、と。
「すまんな、お母さんに世話をかけちまって…」
「ううん、ママがね、お役に立てて嬉しいです、って!」
 これでハーレイ、いつでも飲めるよ、四つ葉のクローバーのマークの牛乳。
 週明けからホントのホントにお揃いで配達になるんだから!
「そうなるなあ…。ちゃんと曜日も合わせたしな?」
「重ならない曜日もあるけどね」
 だけど覚えたよ、週の最初の配達日はハーレイの家とおんなじなんだよ。
 ぼくの家に牛乳の瓶が届いたら、ハーレイの家にも届くんだよ。
 牛乳もお揃い、配達もお揃い。それにハーレイ、ぼくの家から申し込んでくれたし…。
 すごく楽しみ、あの牛乳が届くのが。
「そりゃ良かったな。頑張って牛乳、飲むんだぞ?」
 背を伸ばすんだろ、しっかりと飲んで。その割にサッパリ伸びないけどな。
「これでも頑張ってるんだよ!」
 毎朝、ミルクは飲んでるし…。シロエ風のホットミルクも飲むし!
 きっとその内にグングン伸びるよ、ハーレイとお揃いのミルクを飲めば…!



 ハーレイはとても背が高いもの、と称賛の眼差しで見詰められた。
 そのハーレイとお揃いのミルクを飲んでいたなら背丈も伸びるに違いない、と。
「お前なあ…。俺はお前が四つ葉のクローバーの牛乳だっていうのを聞いて以来、だ」
 ずっとそいつを買ってたわけだが、お前の背丈は伸びてないだろうが。
 お揃いの牛乳だった筈だぞ、もう長いことな。
「それはね、ぼくが気付いてなかったからだよ、きっと」
 お揃いだって分かったんだし、これからはお揃いで届くんだし…。きっと伸びるよ、ハーレイとお揃いのミルクだから。
「そいつに関しては、俺は責任、持たないからな?」
 お前の家から申し込んでは貰ったが…。お前の背丈が伸びるかどうかは責任は持てん。
 まあ、あれだ。お前の努力次第ってヤツだな、背の方はな。
「頑張らない筈がないじゃない!」
 お揃いのミルクが飲めるんだから。うんと頑張って背を伸ばすんだよ、出来るだけ早く。
 でないとハーレイとキスが出来ないし、ぼくだってとても困るんだから…!



 きっと背丈を伸ばしてみせる、とブルーは宣言していたけれど。
 そうそう上手くいかないだろう、と夕食を御馳走になっての帰り道でハーレイはクスリと笑う。
 牛乳で簡単に伸びるのであれば、とっくに伸びていそうだから。前のブルーと同じ背丈とまではいかないとしても、何センチかは確実に。
(ゆっくり大きくなるんだぞ、って言ってあるしな…)
 前のブルーと同じ姿を早く見たいとは思うけれども、その一方で、今のブルーも愛おしかった。
 小さなブルー。愛くるしいブルー。
 幸せそうな笑顔を眺めていたい、と思ってしまう。ゆっくり、ゆっくり育って欲しいと。
 牛乳配達がお揃いになると、お揃いのミルクが飲めるようになると手放しで喜んでいたブルー。
 申し込むなら自分の家の通信機からと、そうすれば申し込みまでお揃いになるから、と強請ったブルー。小さなブルー。
 申込書は持って帰ってしまうのに。通信機の中を通過して行っただけなのに。
(ああいう所も可愛らしいんだ…)
 ブルーのペンを借りて書いたのならば、そのペンを宝物にして仕舞い込みそうなくせに、それは嫌だと、いつものペンで、と主張したのも愛らしくて。
(…あいつの中では何処までがお揃いで、どの辺までが俺専用ってことになるんだろうな?)
 まるで予想がつかない所が子供らしくて、可愛くて。
 そんなブルーを見ていたいと思う。十四歳の小さなブルーを、その愛らしい発想を。



(…うん、確かに来たな、四つ葉の幸せ)
 最後の一本だった四つ葉のクローバーの牛乳の瓶がくれた幸せ。
 とびきりの幸せが来たと思える。
 ブルーの家で牛乳配達の申込書を貰って、書いて。その場で送って貰うことが出来た。
 もうこれからは「品切れなのか…」とガッカリすることも無いだろう。幸運を一つ逃した気分になることも。
 お揃いの牛乳が届くのだから。ブルーの家に届く牛乳と同じものが、いつも。
 一人暮らし用のコースだけれども、四つ葉のクローバーのマークが描かれた牛乳の瓶が。



 日曜日もブルーの家に出掛けて、過ごして。
 週明けの朝、庭に出てみると家の前に配達用のケースが置かれていた。
 四つ葉のクローバーのマークのケース。蓋を開けてみれば、四つ葉のクローバーの牛乳の瓶。
 よく冷えたそれを取り出しながら、ふと思い出した。
(そういや、あいつの家の前にも…)
 あったのだった、同じ箱が。ブルーの家の前に、この箱が。
 それだけで心が温かくなった。
 ブルーに一歩近付けたような気持ちがした。
 今はまだチビで小さなブルーで、愛くるしい子供の姿だけれど。
(あいつと結婚した後も…)
 前のブルーと同じに育ったブルーがこの家にやって来た後も、この箱が活躍するのだろう。
 配達して貰う量や回数を今より増やして、二人分で。
 毎朝のミルクに、日々の料理に。
 前の生では見付けられなかった四つ葉のクローバーのマークの牛乳。
 そうして二人、幸せに笑い合って生きてゆく。この地球の上で、手をしっかりと繋ぎ合って…。




          幸せの牛乳・了

※ハーレイが買い損ねてしまった牛乳。三度も続くと、やはり気になってしまうもの。
 それが御縁で、ブルーの家と同じ牛乳の配達が来ることに。幸運の四つ葉のマークの牛乳。
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「ブルー、予約をしておいたわよ?」
「えっ?」
 母の言葉にキョトンとしてしまったブルーだけれど。
 学校から帰ったばかりなのだけれど、母はブルーにこう告げた。
「髪の毛、伸びているでしょう? そろそろ切りに行かなくちゃね」
 美容室に予約を入れてあるという。ブルーの都合もあるだろうから、時間に少し幅を持たせて。
 母は笑顔で畳み掛けるように。
「おやつにするの? それとも先にカットに行ってくる?」
 どっちでもいいのよ。予約してあるから、行ったら直ぐに切ってくれるわ。
「そんな…」
 今日なの、とブルーは驚いたけれど。いきなり宣言されても困るのだけれど。
 予約されたものは仕方ないから、ダイニングに暫し突っ立った後で。本当だったら、テーブルでおやつの筈だったのに、と恨めしそうに何の用意も出来ていない其処を眺めた後で。
「先に行く!」
「やっぱりね…」
 行ってらっしゃい、と送り出された。カットの代金が入った財布を持たされて。
 おやつも食べていないのに。制服から着替えたというだけなのに。



(でも、おやつを先に食べてしまったら…)
 カットに行くのが遅くなる。帰って来る時間も当然、おやつを食べていた分だけ遅れる。
(ぼくがカットに行ってる間に、もしもハーレイが来ちゃったら…)
 仕事帰りに寄ってくれたら、留守にしていたら大変だから。
 ハーレイが母とお茶を飲みながら待っていてくれるとは限らない。留守だと聞いたら、さっさと帰ってジムへ泳ぎに行くかもしれない。
 そうなってからでは手遅れなのだし、おやつよりも、カット。
 カットも時間がかかるけれども、ハーレイが来るよりも先に終わってくれる筈だから。
(早く行ったら、早く終わるよ…!)
 急がなくちゃ、と財布を入れたポケットをポンと押さえて早足で急いだ。住宅街の中を、歩いて数分の美容室へと。
 母も行っている美容室。お洒落なガラス張りになった店。美容師も多くて、いつ行っても先客が何人かいる。カットしている間にも客が次々と入って来るのが当たり前の店。



(うー…)
 来ちゃった、とブルーは店の手前で立ち止まって中を窺ってみた。順番待ち用の椅子に腰掛けた人が数人、つまりは客が多いということ。
 予約してあるから、其処に座れば間もなく呼んで貰えるのだとは分かっていても…。
(今日もいっぱい…)
 誰もいなければ良かったのに、と思い切って店に入ってゆけば。
「いらっしゃいませー!」
 美容師たちが一斉に振り向いた。おまけに椅子に座った客たちも。
 そしてそのままブルーを見ている、美容師ならぬ他の客たち。あからさまにではなく、前の鏡に映ったブルーを見詰めていたり、雑誌に目を落としながらチラチラと見たり。
(…今日もだよ…)
 この雰囲気が苦手なのだけれど。
 美容師たちの間に流れる弾んだ空気も困るのだけれど。
 手が空いているのは誰だろうか、と目と目で牽制し合っている気配。ブルーは係を指名したりはしないものだから、誰でもカットもシャンプーも出来る。手が空いていれば。



 バチバチと見えない火花が飛び散った後で、一人の女性が前に出て来た。
 ブルーも顔馴染みの若い女性だけれど、物心ついた頃から全く姿が変わっていない。年を止めてしまっているということで、他の美容師たちも似たようなもの。若いけれども、年齢は不明。
「今日はいつもの?」
 にこやかに尋ねられたから。
「うん…。ううん、はいっ!」
 子供だと思われないように、と「はい」と言い直した途端に「可愛い!」と上がった声。仕事をしている美容師たちや、他の客たちの間から。
(…また言われちゃった…)
 これが嫌なのに。
 ウッカリ声を上げようものなら、たちまち店中の注目の的。カットの最中の客と美容師との間で始まるブルーの話題。可愛らしいとか、まるでソルジャー・ブルーだとか。



(…酷いんだから…!)
 小さな頃から苦手だったけれど、記憶が戻ったら余計に苦手になった。
 自分は自分で、人気俳優とは違うのに。どんなに騒いで貰ったとしても、いいことなどは何一つ無いのに。カット代がタダになるというわけでもないし…。
(好きでやってる顔なんじゃないよ…!)
 ハーレイのためなら、この顔が必要なのだけれど。
 前の生からの恋人と向き合うためには必要な顔で、これでなければいけないけれど。
(…ぼく、見世物じゃないんだってば…)
 そうは思っても、口に出すだけの度胸は無かった。小さい頃から、ずっとそう。
 だから未だに美容師たちに可愛がられて、ブルーの係は奪い合い。
 勝ち抜いたスタッフにシャンプーして貰って、さっきの美容師が待つ鏡の前の椅子に座って。
 あれこれと話し掛けられる間にもテキパキと仕上がってゆく、いつものソルジャー・ブルー風。
 要するに前と変わっていないのだけれど。
 鏡に映る自分を見たって、何処がどう変わったのか、サッパリ分からないのだけれど。
 それでも床には、着せられた理髪マントの上には切られた銀糸が落ちているから。
 プロの目で見れば、それに「カットに行きなさい」と言った母もきっと見分けがつくのだろう。前と変わったと、これでスッキリしたのだと。



 家では使わない艶出し用のヘアスプレーを吹き付けられて、ブラッシングされて、カット終了。
 鏡の前の椅子から解放されて代金を支払い、ドアに向かうと美容師たちの声。
「ありがとうございましたー!」
 カットしてくれた美容師が表まで見送りに来てくれたけれど。
(やっぱり嫌だ…)
 出てゆく時まで注目される。待っている人や、カット中の人の視線が追ってくる。それに声も。
 小さなソルジャー・ブルーが出来たと、可愛らしいと、賑やかな声。
 本当に恨めしい気分だけれども、時間がけっこう経ったから。カットした分だけ、過ぎたから。
(ハーレイが来ちゃう…!)
 美容室にかまっていられるものか、と急いで家へと歩き始めた。
 ハーレイが来てくれるとは限らなくても、チャンスを逃したくはないから。
 出掛けているなら、と帰られてしまってはたまらないから…。



 家に帰り着いて、手を洗ってきちんとウガイもして。
 キッチンを覗くと、「ママ、おやつ!」と叫んだけれど、振り返った母は時計を指差して。
「ハーレイ先生は?」
 いらっしゃるとしたら、もうすぐよ。おやつ、食べるの?
「…そっか…」
 駄目だよね、と素直に納得した。
 もしもハーレイが来てくれたならば、必ず出されるお茶とお菓子と。
 こんな時間におやつを食べてしまえば、ブルーの分はお茶だけになってしまうだろう。その後の夕食に差し支えないように、紅茶だけ。
 それでは寂しい。ハーレイと一緒にお菓子を食べたい。
 おやつを食べるのは諦めよう、と部屋に戻ろうとしたら、「このくらいはね」と母はシロエ風のホットミルクを作ってくれた。マヌカの蜂蜜で甘みをつけて、シナモンを振って。



 それだけを飲んで、「御馳走様」と母にカップを返して。
 二階の自分の部屋に戻ると、おやつが足りないと訴えるお腹を抱えて待った。
(ハーレイ来るかな?)
 来てくれるかな、と首を長くしていれば、チャイムの音。この時間ならば、と窓に駆け寄ると、手を振るハーレイ。
(良かった、先にカットに行って…!)
 おやつを食べてから出掛けていたなら、まだ戻ってはいなかったろう。ホットミルクだけ飲んで部屋に戻って、さほど時間は経っていないから。
 自分の選択は正しかった、とハーレイに大きく手を振り返した。待っていたよと、早く部屋まで上がって来てねと。



 仕事帰りに寄ってくれたハーレイと、テーブルを挟んで向かい合わせ。
 母がお茶と一緒に置いて行ったケーキは、ブルーの分がいつもより明らかに大きめで。おやつを抜いた分を加えておいてくれたのだろう。
 ハーレイが鳶色の目を細めて。
「ほほう…。うんうん、カットに行って来たんだな?」
「分かるの?」
 どうして、と驚くブルーに、ハーレイは「分かるとも」と片目を瞑った。
「匂いとケーキのサイズでな」
 お前の髪から普段とは違う香りがしてるし、ついでにケーキのサイズが大きい。おやつを食べる代わりにカットに出掛けていたんだな、と簡単に推理出来るってな。
「…見た目じゃないんだ…」
 見た目で違うって分かったのかと思ったのに…。ぼくは自分でも分からないのに。
「お前の髪型でそうそう変わるか」
 まるで別のにしちまったんなら、少し切っても分かるだろうが…。
 いつもと同じじゃ分からんな。ソルジャー・ブルー風がジョミー風になったら別なんだが。



 俺だって全く変わらないだろうが、と言われればそうで。
 いつ見てもキャプテン・ハーレイ風のヘアスタイルだから訊いてみた。
「ハーレイはこの前、いつ切ったの?」
 その髪、切りに行ったのはいつ?
「先週だが?」
 お前の家には寄れなかった日だな、仕事の帰りに行って来たが。
「気が付かなかった…!」
 短くなったなんて分からなかったよ、ぼくはちっとも…!
「ほらな、そういうモンだってな」
 伸びて来たな、と思ったから切って来たんだが…。
 お前にしてみりゃ気付かなかったわけで、それと同じだ。俺にもお前の髪が伸びたかどうかは、見た目だけでは分からないなあ…。



 うんと伸びれば分かるだろうが、とハーレイが腕組みをしているから。
 そのハーレイの髪は、前のハーレイとまるで変わりはしないから。キャプテン・ハーレイだった頃とそっくりだから、興味が出て来た。ハーレイはどんな店でカットをするのだろうか、と。
 興味津々、疑問をそのままぶつけてみる。
「ハーレイは何処で切ってるの?」
 髪の毛、何処へ切りに出掛けてるの、どうやって髪型、注文するの?
「ん? 行きつけの店があってな、俺の家の近くに」
 黙っていたってこうされる、と短い金髪を指差すハーレイ。
 いつでもキャプテン・ハーレイ風だ、と。



「なんで?」
 どうしてキャプテン・ハーレイ風になるわけ、何も注文しなくっても?
「ああ、それはな…。店主の趣味というヤツだ。ファンなんだそうだ」
「誰の?」
「前の俺のだ、いわゆるキャプテン・ハーレイだ」
「えーっ!」
 前のハーレイのファンって、珍しくない?
 それじゃ、キャプテン・ハーレイにそっくりのハーレイが来たから、その髪型なの?
 キャプテン・ハーレイにしようと思ってカットしてるだなんて、なんだか凄すぎるんだけど…!



 そういう趣味の持ち主もいるのか、とブルーが仰天していると。
 ハーレイは「それだけじゃないぞ」とニヤリと笑った。
「お前の髪も切りたいそうだぞ、その店主」
 俺よりも年上の紳士って感じの店主なんだが、そう言ってるな。
「ぼく? 何処からぼくが出て来るの?」
 どうしたらぼくの髪の毛を切りたいってことになるわけ、そのおじさんは?
「お前が俺の恋人だからだ。二人セットでカットしたいと言ってたが…」
「それだけなの?」
「いや。お前の髪型にこだわりがあってな、ソルジャー・ブルー風にしたいそうだ」
 ショートカットが嫌いでなければやってみたい、という話だが。
「ソルジャー・ブルー風って…。どうしてソルジャー・ブルーになるの?」
 前のぼくの髪型、それも大好きなおじさんなのかな…?
「店主が言うには、似合いだそうだぞ」
「何が?」
「前の俺と、お前」
 並んでいると絵になる二人だ、とても似合いだと熱く語ってくれてたなあ…。
「えっ…?」
 絵になるって、それ…。似合うだなんて、前のぼくとハーレイが並んでいたら…?
 それって恋人同士に見えるっていう意味なの、そういうこと…?



 バレちゃってるの、とブルーは目を真ん丸にしたけれど。
 前の生では隠し通したハーレイとの恋を見抜かれたのか、と息を飲んだのだけれど。
「いや、まだそこまではバレてはいない」
 固い信頼関係で結ばれた二人で、並ぶと絵になると言っていただけだ。けしからぬ仲だったとは思わないとも話していたから、恋人同士だったという所までは気付いていないな。
 ただしだ、お前をあの店に連れて行ったら…。
 いずれバレるかもしれないが、と鳶色の瞳が柔らかくなった。
 恋人同士で顔を出せばと、二人一緒に出掛けてゆけば、と。
「そうなんだ…。ぼくの顔、ソルジャー・ブルーだものね…」
 バレてしまうかもね、前のハーレイと前のぼくともホントは恋人同士だった、って。
「まあな。だが、あの店主は喋らんだろうさ」
 気付いたとしても誰にも喋りはしないな、そういうタイプの人間だ。
 自分だけが気付いた歴史の秘密だ、と大切に仕舞い込んでおくのさ、発表せずにな。
「良かったあ…」
 それならバレても大丈夫だよね、歴史の本だって変わらないよね。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは実は恋人同士でした、って書かれないよね…。



 ホッと安堵の吐息をついて、ブルーは尋ねた。
「じゃあ、ぼくもいつかはそのお店でカットすることになるの?」
 ハーレイの家から近いんだったら、そのお店になる?
「そうなるだろうな、俺の趣味だけにレトロな店だが…」
 店主が一人でやっているだけで、手伝いの人もいないんだが…。
 腕は確かな店主だからなあ、客はけっこう来るみたいだぞ?
「そっちの方が今より良さそう!」
 ぼくが行ってるお店、美容師さんが一杯で…。ぼくの係を取り合いなんだよ、いつ行っても。
 他のお客さんだって「ソルジャー・ブルーだ」ってジロジロ見てるし、カットに行くのが苦手になって…。今日だって仕方ないから行って来たんだ、ママが予約を入れちゃったから。
 でも、ハーレイが行ってるお店なら、そういうことにはならないよね。
 断然、そっちのお店がいいよ。行くなら、そっち!



 たとえソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが恋人同士とバレたって、と嬉しくなった。
 その店主ならば誰にも喋らないようだし、前の自分たちの恋を大切に思ってくれそうだから。
 誰にも言えずに終わってしまった恋を誰かに知って貰うのも、きっと悪くはないだろうから。
(それに、ソルジャー・ブルー風にしてみたい、っていうほどの人だしね?)
 自分を見たなら、この銀色の髪を見たなら、きっと見事に仕上げてくれるのだろう。
 今と変わらないソルジャー・ブルー風に、前の自分と同じ髪型に。
 鏡の前の椅子に座れば、それは手際よく、かつ丁寧に。
 今の店と違って騒ぎ立てる客もいそうにないから、カットが好きになるかもしれない。仕方なく出掛けてゆくのではなくて、自分から「行きたいな」と思うくらいに。
 ハーレイに「そろそろカットして貰いに行こうよ」と声を掛けたくなるくらいに。



(キャプテン・ハーレイのファンのおじさんだものね)
 ハーレイをこの髪型にしちゃうなんて…、と出会った頃を思い浮かべた。
 記憶が戻っていなかったというのに、ハーレイは今の髪型だった。キャプテン・ハーレイと寸分違わぬ、撫で付けられた短い金髪。
 まるで別の髪型をしていたとしても、ハーレイだと気付きはしたのだろうけれど…。どうせなら同じ方がいい。この地球の上で巡り会うなら、前のままのハーレイの髪型がいい。
 そう考えてから気が付いた。前のハーレイの髪型は最初から今と同じものではなかったことに。
 アルタミラで初めて出会った時には違っていた。今よりも長く、波打っていた。
 あれは前のハーレイの好みだったろうか?
 自分と同じで成人検査を受ける前から、あの髪型をしていたのだろうか?
 十四歳の子供には似合わないような気もするのだけれども、その頃のハーレイの顔立ちだったら似合う髪型だったのだろうか…?



 気になり始めたら、確かめてみたい。前の自分も知らなかったハーレイの髪型のこと。
 三百年以上も一緒に居たのに、気にもしていなかったハーレイの髪型。
 前の自分は成人検査の前からずっと同じで、一度も変わりはしなかったから。
 アルタミラの研究所で檻に居た頃は、係がそのように切っていた。勝手に切られて、成人検査の前と同じで暮らしていた。
 だから誰もがそうだと思い込んでいて、尋ねようとも思わなかった。
 ハーレイも、ゼルも、ブラウも、エラも。ヒルマンだって成人検査の前から髪型は同じなのだと信じ込んでいて、そのままになってしまったけれど。
 今にして思えば、ゼルたちはともかく、ハーレイは十四歳の子供らしくはなかったような…。
 この際だから、とゴクリと唾を飲み込んだ。
 訊いてみようと、確かめようと。
 髪型の話になったついでに。



「えーっと…。前のハーレイの髪型のことなんだけど…」
「ん?」
 なんだ、と鳶色の瞳が穏やかな光を湛えているから。
「ハーレイの髪型、成人検査を受ける前からアレだった?」
「はあ?」
 アレって、どれだ? 何の話だ?
「ぼくたちが初めて会った時の…。アルタミラで会った時のだよ」
 ハーレイ、ずっとあの髪型をしていたの?
 成人検査を受ける前から、アレだった? あの髪型が前のハーレイのお気に入りだった?
「いや?」
「違うの、あれじゃなかったの?」
 あの髪型をしてたんじゃないの、成人検査を受けた時には?
「うむ。その頃はもっとガキっぽかったな、あれよりももっと短めでな」
 見た目はまるで違った筈だぞ、あんな髪型ではなかったな、うん。
「じゃあ、成長に合わせて髪型が変わっていったわけ?」
「そのようだ」
 俺の記憶もそんなにハッキリしてはいないし、あの髪型がいつからか、って訊かれても覚えちゃいないんだが…。成人検査の時には違った。それだけは間違いないってな。



「…そうだったんだ…」
 知らなかった、とブルーは溜息をついた。前の自分も知らなかったと、初めて聞いたと。
「ぼくはそのままだったから…。みんな同じだと思ってた…」
 だから訊こうとも思わなかったよ、前のハーレイはどんな髪型をしていたの、って。
 ゼルたちだってそうだったのかな、会った時とは違う髪型で成人検査を受けてたのかな…?
「そうだろうなあ、俺も確認しちゃいないがな」
 お前の場合は、全く成長しないんだから…。髪型だって同じでいい、ってことだったろうさ。
 しかし、俺みたいにデカく育ったヤツがだ、ガキの頃だった髪型のままだと似合わんぞ?
 いくら実験動物にしても、研究者だって気持ちよく研究したいよな?
 まるで似合わない髪型をした、みっともない動物を扱うよりかは、見た目がもっとマシなもの。そういった動物を使いたかっただろうと思うぞ、同じ実験をするのならな。
「見た目にマシって…。髪型、誰が決めてたんだろう?」
 伸びて来たから切らなくちゃ、っていうんだったら分かるけど…。
 切るだけじゃなくて、似合わなくなってきたから変えよう、って、誰が決めたのかな?
 コンピューターが決めてたのかな、それとも人間だったのかな…?



「さてなあ…。どっちが決めてたんだか…」
 データを入力されてた機械がこうだと弾き出したか、あるいは現場の人間だったか。
 実験動物の髪を切るのを仕事にしていたヤツもいただろうしな、そいつの感覚かもしれん。この動物にはこれが良さそうだと、これにするかと思い付きでな。
 もっとも、機械が決めてたにせよ、人間にせよ、だ。
 肝心の俺たちに選ぶ自由が無かったってことだけは確かだがな。
「そうなの?」
 選べなかったの、自分の髪の毛のことなのに?
「お前、選ばせて貰えたか?」
「ううん、なんにも考えてなかった…」
 切りに来たな、って思ってただけ。こうして欲しいとか、これがいいとか思わなかったよ。
 ハサミを持った人間が待っているから、今日は髪を切る日なんだな、って思っていただけ。
「…お前、本当に何もかも止めてしまっていたんだなあ…」
 成長も、心も、感情も。
 自分の髪の毛が切られるっていうのに、ボーッとしていただけだなんてな…。
「ハーレイは髪型、選びたかったの?」
 勝手にチョキチョキ切られるんじゃなくて、あれこれ注文したかったの?
「特にそうとも思わなかったが、髪の毛の持ち主の俺を放って切られてしまうというのはなあ…」
 どうなってるのか、どうされるのか。
 ハサミの音がしているだけではまるで分からん、落ちた髪の毛を見たってな。
 極端な話、丸坊主にでもされない限りは、自分のことなのに分からないわけだ。俺の好みとか、そういう以前の問題だな。自分の姿が把握出来ないのは歯痒いんだ。



 せめて鏡に向かいたかった、とハーレイが自分の顔を指差すから。
 どういう髪型にされつつあるのか、鏡を前にして見ていたかった、と金色の髪を撫でるから。
「鏡の前で切って貰えてたら美容室だよ、研究所じゃなくて」
 有り得ないけど、一部屋、そういう部屋があったらアルタミラ美容室って言うのかな?
 御大層な名前がついてそうだよ、「今日は美容室だ」って係に引き摺って行かれるんだよ。
「今の俺は美容室じゃなくって、理髪店だがな」
 アルタミラ理髪店ってことになるなあ、俺が引き摺って行かれる時にはな。
 しかしだ、どんな場所であっても、鏡さえ其処にあったらなあ…。
 それだけで気分が違ったろうに、と言われたから。
 殺風景な研究所の中であっても鏡があれば、という言葉は確かに当たっていたから。
「そういえばそうだね、鏡があるだけで違うよね…」
 ぼくの顔だ、って見ながら髪を切られているのと、そうじゃないのと。
 どっちがいいか、って尋ねられたら、鏡がある方。
 その方がきっとホッとするもの。もうすぐ切り終わるのかどうかも分かるし…。
 どんな風に切ろうとしているのかな、って想像することも出来るしね。
「そういう自由は俺たちには全く無かったがな」
 鏡を前にして美容室だの理髪店だの、そんな気分にさせちゃくれなかった。
 そもそも鏡が無かったってな、髪を切る時でなくてもな。



 自分を客観的に見られるチャンスなんぞは作らんだろう、と指摘されれば、そうだった。
 実験動物だったミュウが自我をしっかり持ったなら。
 サイオンを持った生き物なだけに、余計な力を得るかもしれない。サイオンは精神の力だから。心と結び付いていると分かっていたのだから。
 自分が何者であるかを教えてはならない。自我など確立させてはいけない。
 彼らの方針が功を奏して、ブルーですらもアルタミラが滅ぼされたあの日までサイオンを揮いはしなかった。自分の中に眠る力を知らずに成長すらも止めてしまったまま、檻の中に居た。
 前のブルーの力があったなら、研究所くらい粉微塵にしてしまえただろうに。
 指先一つで研究者たちの息の根を止め、仲間を救って脱出することも出来ただろうに。
 そうさせないために、鏡さえも無かったアルタミラ。
 自分の姿を見ることさえも叶わなかった、実験動物として生きていた日々。



「それじゃ、前のハーレイは育っていく自分…」
 髪型もそうだけど、身体だって。
 どんな風に大きくなっていったか、変わって行ったか、自分じゃ分からなかったんだ…?
「ああ。…断片的にしか知らないな」
 手とか足とか、目に入る部分は分かるんだが…。
 顔や身体は分からなかったな、見ようにも鏡が無いんだからな。
 検査機器とかに映った時にだ、今の俺はこういう姿なのか、と気付く程度だ。
 こんな風になったかと、デカくなったな、とチラッと思うが、直ぐにそいつも忘れてしまう。
 実験が始まれば、感慨なんぞは完全に吹っ飛んじまうからなあ…。



 飛び飛びにしか覚えていないんだ、と語るハーレイは少し寂しそうで。
 ブルーは「ごめん…」と謝ったけれど、「いいさ」と答えが返って来た。優しい声で、いつものハーレイの顔で。
「前の俺の成長記録ってヤツは、無いに等しいようなモンだが…」
 その分、今の俺の記録が山ほどあるってな。記憶も写真も、それこそ山ほど。
「だけど、その頃のハーレイ、記憶は戻っていなかったじゃない」
 当たり前みたいに育っただけでしょ、前のハーレイの記憶は無いんだから。
「育つ最中にはそうだったが、だ。今はすっかり思い出したしな」
 記憶が戻ればグンとお得だ、前の俺もきっとこうだったんだ、と思えるだろうが。
 全く同じ姿形に育ったからには、育つ途中も似たようなものに違いない。
 成人検査で失くしちまった子供時代からズラリと続いた成長記録だ、途切れちゃいないぞ。前の俺が失くした記憶の分まで、今度はしっかり持ってます、ってな。
 髪型だってだ、生まれたての赤ん坊の時から今に至るまで分かるってわけで…。
 お得でなければ何だと言うんだ、今の俺の記憶と成長の記録。
「そうかもね…」
 ぼくは前と同じで髪型、一回も変えていないけど…。
 ちっちゃな頃からソルジャー・ブルー風でそのままだけれど、ハーレイは色々選べたんだね。
「うむ。今の店でもコレになる前は違ったからなあ」
 アルタミラでお前に出会った頃のアレさ、あの髪型の俺だった。
 それよりも前は…。まあ、色々とやってみたよな、自分に似合う髪型ってヤツを探してな。
 もっとも、これから先はもう変えないが…。
 お前と釣り合う髪型にするなら、キャプテン・ハーレイ風しか無いんだからな。



 アルタミラでは選べなかった髪型。鏡で見ることも出来なかった髪型。
 それを今度は好きに選んで、ハーレイは今の髪型になって。
 ブルーはずうっと同じだけれども、これから先も。
 ハーレイの行きつけの店に行くようになって、鏡の向こうの自分を見ながら髪を切って貰う。
 今はこの辺りを切っているのだ、と鏡に映った自分の姿を眺めながら。
「ねえ、ハーレイ。…鏡を見ながら切って貰えるって、幸せだよね?」
 それに鏡にハーレイも映るね、ハーレイと一緒にカットに行くなら。
 …今はカットは嫌いだけれども、そのお店、きっと好きになるよ。
「そりゃ良かったな。お前を連れて行く甲斐があるってな」
 あそこの店主も待ってるらしいし、ソルジャー・ブルー風で仕上げて貰えよ?
 俺とお前と、どっちが先に切って貰うかも考えなきゃなあ…。
「うんっ!」
 それは交代でもいいんじゃないかな、ハーレイとぼくと、交代で先に。
 だけど最初にお店に行く時はどうしよう…?
 ハーレイが切って貰うのを見てからがいいかな、ぼく、そのお店は初めてだしね?
「よしきた、まずは紹介からだな」
 俺の恋人はこいつです、って紹介するから、俺が切って貰ってる間に話して仲良くなるんだな。
 そうすりゃ切って貰う時にもリラックスしていられるだろう?
 ソルジャー・ブルーにそっくりですね、って言いながら切ってくれるぞ、丁寧にな。
「その前にビックリ仰天じゃない?」
 だって、行く頃にはチビじゃなくって、前のぼくと同じに育っているもの。
 キャプテン・ハーレイがソルジャー・ブルーを連れて来た、って、ビックリだよ、きっと。



 連れてってくれるのを楽しみにしてる、とブルーは笑顔になった。
 前の自分たちが恋人同士だったと気付くかもしれない、ハーレイお気に入りの理髪店の店主。
 その人に早く会ってみたいと、美容室は早く卒業したいと。
 ハーレイと結婚か、婚約するまでは連れて行って貰えない理髪店。
 其処へ行けばきっと、カットが好きになるだろう。
 「そろそろ髪を切りに行こうよ」とハーレイを誘いたくなるほどに。
 今は苦手なカットだけれども、ハーレイお気に入りの店に行けば、きっと…。




           苦手な美容室・了

※ブルーの苦手な美容室。注目の的になってしまうからですけれど、ふと気付いたこと。
 前の生では、ハーレイたちの髪型はどうなっていたのか、と。今ならではの疑問なのかも。
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