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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

 今日は学校が早く終わったから。ぼくの家から近いバス停に着くのも早くて、のんびり散歩。
 あちこちの庭や生垣をキョロキョロしながら歩いていたら、幼稚園バスが追い越してった。昔はぼくもお世話になってた幼稚園バス。
 少し先で停まって、ちっちゃな子供が降りて来た。お迎えのお母さんもいる。
(ふふっ)
 さようなら、ってバスに手を振る男の子。制服も幼稚園の帽子も可愛らしいけど。
 肩から下げた通園バッグの他に持ってる小さな袋。お母さんの手作りだろうか、あの中にきっとお弁当。そんなサイズの布袋。
 男の子は袋と通園バッグを揺らしながら家に入って行った。お母さんとしっかり手を繋いで。
 お弁当箱が弾んでる音が聞こえそうなほど、はしゃいでピョンピョン飛び跳ねながら。



(お弁当箱…)
 幼稚園の頃はぼくも持ってた。お気に入りの模様のお弁当箱。お箸とフォークとスプーン入りの箱と一緒にランチョンマットに包んで貰って、袋に入れて。
 あんまり沢山食べられないから、お弁当箱は小さかったけど。その代わり中身は色とりどりで、ママが工夫を凝らしてくれた。
(リンゴのウサギとか、タコのウインナーとか…)
 一口で食べられそうなサイズのコロッケ、ピックに刺さったハム巻きだとか。
 色々と入れて貰って食べてたお弁当だけど、広げるのが楽しみだったんだけれど。
(お弁当、なくなっちゃったんだよ)
 学校に上がったら、お昼御飯は給食だった。お弁当の出番はなくなっちゃった。遠足とかに行く時しか持てなくなってしまって、お弁当箱とも滅多に会えなくなっちゃって。
(お弁当箱だって、すっかり普通…)
 幼稚園の頃みたいに模様なんかはついていなくて、サイズが優先。誰でも持っていそうな感じのお弁当箱、「ぼくのだよ」って得意になれはしなかった。中身は素敵なんだけど。
 今の学校は給食も無くて、お昼は食堂で食べるもの。
 部活のある子がランチだけでは足りないから、って休み時間に食べるためのお弁当を持ってたりするけど、学校でお弁当箱はあんまり見ない。もちろん、ぼくも持っては行かない。
(お弁当かあ…)
 懐かしいよね、って男の子が入ってった家を眺めて通り過ぎた。
 ぼくもあんなに小さかったかな、って。お弁当箱もずいぶん小さいよね、って。



 家に帰って、制服を脱いで、それからおやつ。
 ママが焼いてくれたケーキを食べながら、ダイニングの窓から庭を見ていて…。
(あれ?)
 ぼくはあそこに座っていたよ、って懐かしい記憶が戻って来た。
 庭でお弁当を広げていた、ぼく。
 うんと小さな、それこそ幼稚園くらいの子供の頃に。
 庭の真ん中、ぼくが一人でお弁当。ママはいなくて、パパもいなくて、ぼくだけ一人。
 だけどちっとも寂しくはなくて、一人で楽しく食べているんだ。まるで遠足に行ったみたいに、それは御機嫌でニコニコしながら。
(なんで?)
 パパもママも一緒にいないというのに、どうして楽しかったんだろう?
 お喋りしようにもパパとママは家の中にいるんだし、ぼくは庭だし、無理に決まってる。それに喋ってた覚えもない。ぼくは一人が好きだったんだ。一人きりで食べるお弁当が。
(…お弁当、一人で食べて楽しい?)
 幼稚園では友達と食べてた。見せ合いっこして、おかずを交換したりもしてた。一人ぼっちじゃつまらないと思うし、お弁当は賑やかに食べるもの。学校の遠足の時だって、そう。
 なのに小さなぼくは一人で、庭の真ん中で楽しくお弁当。
 しかも何かを探してた。
 お弁当を食べながら何かを探してた記憶。
(…何を?)
 一人でお弁当を食べてるだけでも変だというのに、探し物。
 食べながら何を探すというのか、座ったままで何が庭で見付かるのか。
(小鳥でも来た?)
 それとも生垣の間をくぐって猫でも遊びに来てたんだろうか?



 一人で何かを探していた、ぼく。
 それが何だか思い出せなくて、いくら考えても出て来なくって。
 おやつをすっかり食べ終えちゃっても端っこさえも掴めないから、カップやお皿をキッチンまで返しに行ったついでに訊くことにした。
「ママ! あのね…」
「なあに?」
 カップとかを洗い始めたママが手を止めて、タオルで濡れた手を拭いて。
 どうしたの、って身体ごと振り向いてくれたから、早速、質問。
「ぼく、庭でお弁当を食べていた?」
「よく食べてたでしょ、ハイキングとかに行けなくなっちゃった時に」
 ブルーは身体が弱かったから。
 ハイキングに行くのはちょっと無理ね、って時にはお弁当だけ庭で食べていたじゃない。
「そうじゃなくって、ぼくだけ一人でお弁当…」
 一人きりだよ、パパもママもいなくて、ぼくだけ一人。
 庭の真ん中で一人で食べていた気がするけど、夢だったのかな?
 それともホントにやってたのかなあ、一人で食べてもつまらないような気がするんだけど…。
「ああ、あれね」
 食べていたわね、って微笑んだママ。
 ぼくはホントに一人で食べてたみたいだけれども、どうして一人?



「ママ、ぼくが一人で食べたがった理由、知ってるの?」
 ぼくは全然思い出せないけど、ママはどうしてなのか知ってる?
「ええ、知ってるわよ。一人でなくっちゃ駄目なんだよ、って言っていたもの」
 パパやママが一緒じゃ駄目だって言って、お弁当を持って出て行くの。
 そうしてネズミさんを探していたわよ、庭に座って。
「ネズミ?」
「そうよ、おにぎりを分けてあげなくちゃ、って」
「えっ…?」
 なんでおにぎり、ってビックリしちゃった、ぼくだけれども。
 思い出しちゃった、ネズミのお話。
 幼稚園で聞いて来たのか、それとも絵本を読んだのか。ネズミの国に出掛けたお爺さんのお話。
(おにぎりを落っことすんだっけ…)
 おむすびころりん、っていう話だった?
 お爺さんが落としたおにぎりがコロコロ転がって行って、ネズミの巣穴に落ちちゃって。
 追い掛けて巣穴に入ったお爺さんは、おにぎりの御礼に宝物を貰って帰るんだった。
 お爺さんみたいにネズミの国に行きたいな、って庭でお弁当を食べていたぼく。
 ネズミが喜ぶのはおにぎりだから、って必ずおにぎりを入れて貰った。
 そうだったっけ、と鮮やかに蘇って来た記憶。



 おむすびころりん。
 そういうお話だったと思う。
 ママもお爺さんの話は知ってて、悪いお爺さんのことも覚えてた。
 宝物を貰ったお爺さんのことが羨ましくって、ネズミの巣穴におにぎりを押し込んだお爺さん。欲張りなお爺さんは酷い目に遭って、宝物も貰えないっていう結末。
 ぼくはおにぎりを押し込むつもりは全く無くって、ネズミが来るのを待っていただけ。
 おにぎりが好きなネズミが出て来て、下さいと頼んでくれないかな、って待っていただけ。庭は平らでおにぎりは転がって行かないから。落っことしたって転がらないから。



「ブルーはネズミさんの宝物が欲しかったわけじゃないみたいね?」
 宝物の話は聞かなかったわ、ママは一度も。
 ネズミさんを待っているんだよ、って言っては一人で出掛けて行くのよ、おにぎりを持って。
「うん…。宝物はどうでもよかったんだよ」
 ネズミの国に行ってみたかっただけ。
 おにぎりをあげれば行けるんだよね、って庭でお弁当を食べていたのに…。
 ネズミはとうとう来なかったみたい、ぼくの所へ。
「それはそうでしょ、ネズミの国に行って来たなら、ブルーは得意でお喋りするもの」
 だけどママはブルーから聞いていないものね、ネズミの国のお話は。
 いつ頃までやっていたのかしらねえ、庭で一人でお弁当。
 「ママ、おにぎり」って何度も何度も頼まれたわよ。
 「他のおかずは何でもいいから、おにぎりは絶対入れておいてね」って。



 小さかったぼくの憧れだった、ネズミの国。
 地面の下にある、ちょっと不思議なお伽話の世界に憧れてたんだ。
 そこへ行こうと、せっせとおにぎり。庭で一人でお弁当。
(ぼく、頑張っていたみたい…)
 何回くらいやっていたんだろう?
 ママが覚えているくらいだから、幼稚園が無い日はいつもやってた?
 自分のことだけど傑作だよね、って微笑ましくなる。部屋へ戻る途中も笑いが零れる。
(おむすびころりん…)
 ぼくの家でコロコロ転がすんなら、階段くらいしかないんだけれど。
 真っ平らな庭でおにぎりを食べながらネズミが来ないか待っていたなんて、流石は子供。部屋に入って窓から庭を見下ろしてみた。
 小さなぼくが座っていたのはあの辺りかな、って。
 おにぎりを持って、一人で座って、今日こそネズミさんに会うんだよ、って。



 窓から離れて、勉強机の前に座って頬杖をついた。
(おにぎり…)
 ママがぼくのために何個作ったか、何回くらい作ってくれたのか。おにぎりが入ったお弁当。
 それを持って庭に座っていたのに、見付からなかったネズミの国。
 とうとうネズミは来てくれなくって、行きそびれてしまったネズミの国。
(…行きたかったんだけどな、ネズミの国…)
 身体が弱くてハイキングさえも滅多に行けないぼくだったけれど、冒険の旅がしたかった。家の庭から出発するなら、ネズミの巣穴に入るだけなら弱くても出掛けられるから。
 行って来ます、って家の庭からネズミの国へ。
(おにぎりをあげて、巣穴に入って…)
 宝物なんかはどうでもいいんだ、ネズミの国さえ見られたなら。冒険の旅が出来たなら。
 だって、ちょっぴり英雄気分。
 ネズミの国まで行って来たなら。地面の下まで出掛けてネズミの国を見たなら。
 英雄になってみたかった、ぼく。
 幼稚園でも胸を張って得意でいられる英雄になりたかった、ぼく。



(それどころじゃない英雄だったんだけど…!)
 実は本物の英雄だった、誰もが知ってる大英雄だった、チビのぼく。
 ぼくじゃなくって、前のぼくだけど。
 ソルジャー・ブルーを知らない人なんて誰もいなくて、世界を救った大英雄。正真正銘、本物の英雄、今の世の中、英雄と言えばソルジャー・ブルー。
 あの頃のぼくはネズミの国へ出掛けるどころか、星から星へだって飛んで行けてた。生身で宇宙空間を駆けて、とんでもない距離でも一瞬で飛べた。
 だけど今のぼくは…。
(おにぎりでネズミの国が限界…)
 自分の力で行くんじゃなくって、ネズミの国からの御招待待ち。
 招待して貰うために渡すおにぎりだってママのお手製、ぼくが作ったわけじゃない。
 なんとも情けない英雄。
 しかもそうやって行くつもりだったネズミの国すら行けていないし…。



 あまりにも情けなさすぎるかも、って思っていたら、チャイムが鳴って。
 窓に駆け寄ってみたら、やっぱりハーレイ。ぼくの恋人。前のぼくだった頃からの恋人。
 そのハーレイが部屋に来てくれて、ママがお茶とお菓子を置いてってくれたテーブルを挟んで、二人、向かい合わせ。
 もしかしたらハーレイも小さな頃におにぎりを庭で食べていたかも、って気になったから訊いてみることにした。
「ハーレイ、ネズミの国って探した?」
 小さかった頃におにぎりを持って、ネズミを探していなかった?
「はあ?」
 なんだ、それは。小さかった頃というのはともかく、おにぎりだとか、ネズミだとか。
「おむすびころりん…。ハーレイ、知らない?」
 おにぎりを落としたらネズミの国に行けるんだよ。おにぎりの御礼に呼んで貰えるって…。
「ああ、あれか。お爺さんがおにぎりを落とす話だな」
 お前、ネズミを探してたのか?
 あの話みたいにネズミの巣穴に入ってみたくて、おにぎりを持って探していたのか?
「うん。まだ幼稚園に行ってた頃に…」
 ぼくの家の庭で探してたんだよ、ネズミがいないか。
 会えたら御馳走してあげなくちゃ、って庭で一人でおにぎり食べてた。
 おにぎりが入ったお弁当だよ、おかずは何でも良かったんだけど、おにぎりは必ず要るんだよ。
 ネズミにあげるには、おにぎりが無くちゃ。



「おにぎりを一人で食っていただと? いや、おにぎり入りの弁当か…」
 チビが一人で弁当だなんて、そこまでして行きたかったのか?
 ネズミの国に行きたかった理由を聞きたいもんだな、出掛けて行って何をするんだ?
「別に何も…。行ければいいな、って思っただけだよ」
 ネズミの国まで行って来たなら英雄でしょ?
 地面の下の世界で冒険なんだよ、家の庭から冒険の旅に行ったんだよ、ってみんなに自慢できるもの。身体の弱いぼくでも、冒険。
「なんだ、宝物を貰いに行くんじゃないのか」
 てっきりそうかと思ったんだが、宝物はどうでもいいんだな?
 ネズミの国に行くことが大事で、冒険したかっただけってわけだな。
「そう。行って来た証拠に何か欲しいけど、それで充分」
 宝物までは要らないよ。ネズミの国に行って来ました、って分かる何かがあればいいんだ。
「欲の無い奴だな、せっかく出掛けて行ったのに…」
 まあ、幼稚園くらいの子供だったらそういうものかもしれないが。
 宝物よりも先に冒険かもなあ、別の世界を見に行けるだけで充分なのかもしれないな。



「ハーレイは?」
 一人でお弁当、食べてなかった?
 おにぎりを持って、家の庭で一人。
「俺は一度もやっていないな。いや、庭で一人で弁当を食ったことはあるかもしれないが…」
 そもそもネズミを探していない。
 ネズミの国に行こうと思っていないし、ネズミにおにぎりをやろうとも思っていなかったな。
「そうなの?」
 おにぎりをあげたらネズミの国に連れてって貰えるのに…。ハーレイ、おにぎり、あげないの?
「ネズミにプレゼントするつもりは無い」
 握り飯は自分で食うもんだ。俺の好みの具が入ってれば尚更だな。
 ただの塩おにぎりにしたって、俺の弁当なんだから。
 なんでネズミにくれてやらんといかんのだ。うっかり地面に落としたのなら仕方がないが…。
 お前が言ってる話にしたって、おにぎりがネズミの穴に落っこちたのは偶然だろうが。
 握り飯をネズミの巣穴に無理やり押し込んじまったら駄目なんだぞ。
 ネズミを探してプレゼントとなると、お前、おにぎり、押し付けてないか?
「…そうなのかも…」
 だからネズミは来なかったのかな、おにぎりなんか要らないよ、って。
 間に合ってます、って断られたかな、ぼくのおにぎり…。
「そうなんじゃないか?」
 連れてってくれ、と用意したなら、そいつは巣穴に押し込んでるのと変わらんだろう。
 小さかったお前は気付いてなくても、ネズミにしてみりゃ押し売りだってな。
 おにぎりをやるから迎えに来い、と偉そうに言われても出てはこないさ。



「そんなつもりじゃなかったんだけど…」
 親切の押し売りをやってたのかな、あの頃のぼく。
 おにぎりを用意してネズミが来るのを待っていたなら、立派に押し売り?
「でなきゃ罠とも言うかもしれんな、ネズミ用の罠」
 おにぎりが餌で、そいつを食ったら案内するしかないっていう罠。
 チビの頃のお前を自分の国まで、どうぞいらして下さいとな。
「押し売りどころか罠だったの、あれ?」
 なんだか自分が悪者みたいな気がして来たよ。悪いお爺さんと変わらないほど酷い欲張り。
「いいんじゃないか? 小さな子供はそんなもんだろ」
 自分が王様みたいなもんだ。思い込んだら一直線だし、そいつはそいつで可愛いじゃないか。
 おにぎりを食え、って庭でふんぞり返っていてもな。



 どうやらネズミに向かって押し売りをやっていたらしい、ぼく。
 おにぎりを食べに出て来たら最後、ぼくを案内しなくちゃいけない罠を仕掛けたらしい、ぼく。
 それじゃネズミは来てくれないよね、って自分に溜息が出そうだけれど。
(おにぎり、真剣だったんだけどな…)
 押し付けた気持ちは全く無くって、押し売りでも罠でも何でもなくて。
 ネズミの国に行ってみたいよ、って思ってだけで、ネズミを困らせるつもりなんかは…。
(でも、連れてってくれ、って頼んでるなら困っちゃうかも…)
 あんなに何度も用意したのに、無駄だったらしいぼくのおにぎり。
 ママが作ってくれたおにぎり。
 お弁当に詰めて、これが大事だと庭で一人で食べてたおにぎり…。



(…おにぎり?)
 其処で初めて気が付いた。
 ハーレイはなんて言ったっけ?
 握り飯とも言っていたけど、確か…。
「ハーレイ。ねえ、ハーレイもおにぎりだよね?」
「はあ?」
 なんだ、って鳶色の瞳が丸くなったから、「おにぎりだよ」って繰り返した。
「おにぎりの名前。ハーレイもおにぎりって言っていたでしょ?」
 おむすびって言うんじゃなくて、おにぎり。ぼくもおにぎりって呼んでいるけど…。
「ああ、握り飯の呼び方か。おにぎりと呼ぶか、おむすびと呼ぶか」
 今じゃどっちでもいいみたいだなあ、好みで呼んでいるんじゃないか?
 ただし、おむすびころりんの話。
 あの話を「おにぎりころりん」と呼んだ奴には、お目にかかったことが無いがな。
「それじゃ、元々はおむすびなの?」
 おむすびって呼ぶのが正しかったの、ずうっと昔は?
 おにぎりじゃなくて、おむすびだった?
「そうと決まったわけでもないが…。おむすびころりんの話が出来た頃には、だ」
 おむすびと呼ぶ時は形が決まっていたそうだ。
 よくある三角形のおにぎり、あの形だけがおむすびだ、とな。
「へえ…!」
 三角形のおにぎり、転がりにくい形だと思うんだけど…。
 それがコロコロ転がったんなら、ネズミの巣穴に落っこちたなら。
 ホントに凄い偶然なんだね、小さかったぼくが庭で待ってもネズミは来なくて当然だよね。



 うーん…、と自分の欲深さを思い知らされた、ぼく。
 宝物が欲しかったわけじゃなくても、ネズミの国に案内してよ、って言ってるだけでネズミからすれば充分に迷惑だっただろう。
 家の庭でお弁当を広げてるだけのチビが「連れて行って」って待っているんだから。
 ネズミの国に行ってみたくて、冒険したくて待っているチビ。
 そんなのを案内しなくちゃいけない義理なんか無いし、ネズミは笑って見ていただろう。
 今日も馬鹿なチビがお弁当を一人で広げてるよ、って、おにぎりを用意しているよ、って。
 英雄になりたくて頑張るチビだと、今日も一人でお弁当だと。
(…英雄どころか間抜けだったよ…)
 ネズミにさえ鼻で笑われてしまうか、迷惑がられただろう幼稚園時代の小さなぼく。
 前のぼくなら大英雄なのに、ネズミの国を旅した英雄にさえもなれなかった、ぼく。
 そんなぼくが一人で庭で食べてた、大事なおにぎり。
 お弁当に必ず入れて貰った、ママのおにぎりなんだけど…。



「ハーレイ。前のぼくたちの頃には無かったね」
 御飯を握って作るおにぎり。白い御飯を食べる時代じゃなかったものね。
「うむ。そういう文化が無かったからな」
 おにぎりも無ければおむすびも無いな、三角形をした一番有名なヤツでさえもな。
 海苔だって無い時代だったし、おにぎりなんかは作りようがない世界だったんだなあ…。
「今じゃおにぎり、普通なのにね」
 お弁当って言ったら、おにぎり。
 普通の御飯を入れていた子もたまにはいたけど、小さい頃には大抵、おにぎり。
 家によって形は色々だったし、入ってる具だって色々だけれど…。
 でも、お弁当の定番だよ?
 ぼくがネズミにあげたかった時は、ママがサンドイッチとかを作っちゃったら困るから注文しただけで、御飯が入るお弁当だったら普通はおにぎり。
 学校に入ってもお弁当の時はおにぎりが多かったかな。
「俺はお前くらいの年になっても、おにぎりを持って学校に行ってたもんだが?」
 食堂が開く昼休みまでは腹が持たんからなあ、弁当だったり、おにぎりだったり。
 そいつを休み時間に食うんだ、お前のクラスにもそういう生徒がいるだろう?
 おにぎりの日の俺のおにぎりは大きかったぞ、なにしろ弁当の代わりだからな。



 このくらいだ、ってハーレイが両手の親指と人差し指で作ってみせた三角形。
 ハーレイの手も大きいけれども、その手が示したおにぎりもビックリするほど大きい。ぼくなら半分も食べられやしない、と思ったのに、ハーレイはそれを二個だって。
 大きすぎるおにぎりに具を詰めて貰って二個持って、そして学校へ。お昼休みまでの休み時間に二つとも食べて、お昼はもちろん食堂で食べていたっていうから凄すぎる。
 しかも大きいだけじゃない。御飯をギュウギュウに固めたおにぎり、それが二個。お昼御飯とは別に二つも、そのおにぎりを持ってない日はお弁当。
(ハーレイ、大きく育つ筈だよ…)
 前のハーレイは何を食べて大きく育ったんだろう、って気になるほど。
 だけど、その話は訊いちゃいけない。
 前のハーレイの記憶は機械に消されて残っちゃいないし、成人検査よりも後に育った分の栄養は餌から摂ったに決まっているから。不味くても栄養だけは満点だった餌のオーツ麦のシリアル。
 でも、シリアルで大きく育つためには基礎になった頑丈な身体がある筈。
 その身体を作ったお弁当や食事は、前のハーレイを育てたお母さんが作ったんだろう。
 あの頃だったらサンドイッチか、それともランチボックスを余計に持たせていたか。
 気になるけれども訊いちゃいけない、訊いてもハーレイは答えられない。
(だって、覚えていないんだもの…)
 もしも訊いたら、ハーレイだって悲しくなるに決まってる。思い出せない、って。
 だから質問を変えなくちゃ。
 同じ訊くなら、楽しいことを。ハーレイが笑顔で答えられることを。
 せっかくなんだし、やっぱり、おにぎり。



「今のハーレイも、そんなおにぎり食べてるの?」
 うんと大きな、そのおにぎり。今でもたまには食べてたりする?
「親父と一緒に釣りに行くなら、持って行ってることもあるなあ」
「お弁当に?」
「いや、おやつだ。釣りってヤツは朝が早かったりするからな」
 弁当を持って出掛けて行っても腹が減る。
 そういった時には握り飯だな、昼飯までに出して食うんだ。釣りをしながら片手で食えるし。
「釣りの途中に食べてるんなら、ハーレイ、ネズミに会えそうだね」
 おにぎりを落っことしちゃって、コロコロ転がって行くんだよ。
 ネズミの巣穴にコロンと落ちたら、ハーレイ、ネズミの国に行けるよ。
「俺のおやつだぞ、おやつは自分で食うもんだ。落としてたまるか」
 腹が減るだろうが、それにおにぎりもネズミにくれてやるにはもったいない。
「もったいないって…。ハーレイのおにぎり、上等なの?」
 ネズミには分けてあげられないほど、上等な中身が詰まってる?
 いいお肉で作った時雨煮だとか、新鮮なイクラがたっぷりだとか。



「そこまで具には凝っちゃいないが、釣りに持って行く時の握り飯にはこだわってるのさ」
 俺のはクラシックスタイルなんだ。握り飯じゃなくて入れ物がな。
「えっ?」
 何か特別なお弁当箱?
 おにぎり専用っていうのがあったりする?
「特別と言えば特別だな。弁当箱の売り場には置いてないからなあ、竹の皮」
「竹の皮?」
「タケノコは知っているだろう? あれの皮だな」
 竹が生えてくる時に被っている皮。そいつを使って包むんだ、俺は。昔の人の知恵だってな。
「なんで?」
 おにぎりを包むのに丁度いい大きさとか幅のものなの、竹の皮って?
「そういった面ももちろんあるがだ、殺菌作用がバッチリなんだ」
 衛生面で優れてるんだな、昔の人がどうやって見付け出したかは知らないが…。
 ついでに雰囲気もいいだろう?
 竹の皮の包みを開いて食うには、釣りに出掛けるような野外が一番似合っているからな。
「それ、食べてみたい…!」
 竹の皮に包んだおにぎり、食べてみたいよ。一度、作って持って来てよ。
「いつかはな」
 俺の自慢の具を入れて、お前が食べられそうなサイズに握って。
 ちゃんと竹の皮に包んでやるがだ、まだまだ当分、先のことだな。
「おにぎりのお土産も駄目なの、ハーレイ?」
「当然だろうが。おにぎりといえども、俺が作って包む以上は俺の手料理になるからな」
 お前のお母さんの手前もあるから、おにぎりは駄目だ。諦めるんだな。
「そんな…!」
 御飯を握るだけじゃない!
 握って固めて海苔を貼るだけでも手料理になるの、ただの御飯の塊なのに…!



 酷い、って頬を膨らませたけど、ハーレイは聞いてくれなくて。
 駄目なものは駄目だとしか言ってくれないから、ぼくはプウッと膨れたままで。
「おにぎり、結婚してからなの?」
 でなきゃ婚約するまで駄目なの、ちょっと御飯を握って固めるだけなのに…。ハーレイのケチ!
「ケチと言われても、そこは譲れん。その代わり、いずれ美味いのを作ってやるから」
 それまで待ってろ、俺のおにぎり。
「どんなおにぎり?」
「そうだな、焼きおにぎりとかもいいなあ」
 醤油でもいいし、味噌でも美味い。焼き立ては実に美味いんだぞ。
「ホント!?」
 ハーレイがおにぎり焼いてくれるの、御飯を固めるだけじゃなくって?
「ああ。そして竹の皮に包んだおにぎりってヤツもやろうじゃないか」
 俺の分はデカイ包みで、お前の分は小さめで。そいつを二人で並んで食おう。
「何処で?」
「親父と釣りに行く時だ。お前も連れて行ってやりたいと何度もうるさく言っているしな」
「わあっ…!」
 それじゃ何処かの山の中かもしれないね。
 おむすびを落としたらネズミの巣穴にコロンと転がって入っちゃいそうな、山の中。
 竹の皮の入れ物が似合いそうだね、そういう所で食べるおにぎり。
 ハーレイと二人で並んで座って、おにぎりを食べながら釣りなんだね…!



 小さかったぼくが庭で待ってたネズミに出会えそうな、いつかハーレイと釣りに行く場所。
 ハーレイのお父さんが連れてってくれる、きっと何処かの山の中。
 竹の皮で包んだおにぎりを持って出掛けて行くけど、ちゃんとおにぎり、持ってるけれど。
 でも、おにぎりは落とさない。
 間違ったって落としやしないし、しっかり掴んで食べなくちゃ。
 だって、ハーレイが作ってくれたおにぎり。
 ネズミなんかにはあげられないんだ、ぼくの大事なおにぎりだから…。




         おにぎり・了

※幼かった頃のブルーが行こうとしていたネズミの国。子供らしい夢ではあります。
 いつかはハーレイが作ってくれた「おにぎり」を持って二人でお出掛け。素敵ですよね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









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(わあ…!)
 鯨、とブルーは新聞の記事を覗き込んだ。
 学校から帰って、おやつの後に広げた新聞。シロエ風のホットミルクを飲みながら。
(とっても綺麗…)
 海を思わせる青いイルミネーションが輝く広場に浮かんだ鯨。写真に添えられた解説によると、ザトウクジラという種類。
 夜の広場に浮かび上がったザトウクジラは本物そっくり、空中を泳いでいるかのようで。
(これって実物大なんだ…)
 しかも鯨は動くという。新聞の写真では分からないけれど、海で見られる姿さながら、尾びれや身体をダイナミックにくねらせて空を泳ぐのだと。



 水族館の前の広場で立体映像を投影中。
 ただし夜のみ、夜に水族館まで来ようという人への御礼の期間限定イベントなるもの。
 立体映像だけに、鯨が泳ぎ回る範囲は広場の上空だけなのだけれど。
(見たいな…)
 水族館のイベントだから、様々な鯨が投影される。ありとあらゆる種類の鯨。
 中でも目玉は最大の動物と名高いシロナガスクジラで、それが泳ぐさまを見られるという記事がブルーの心を惹き付けた。
 シロナガスクジラ。
 前の生で暮らした白い鯨にそっくりだという巨大な鯨。
 シャングリラは鯨によく似ていた。意図したわけではなかったけれども、改造の過程でそういう形に落ち着いた。
(人類軍にも鯨に見えてたみたいだしね?)
 彼らが名付けたシャングリラの名前はモビー・ディック。SD体制よりも遥かな昔の小説に出てくる白い鯨から取られた名前。
(モビー・ディックはシロナガスクジラじゃないんだけどな…)
 シャングリラでキースと対峙した時、彼の心を読んでモビー・ディックの名を知った。キースに逃亡されてから後、ナスカの悲劇に至るまでの間に気付いて苦笑したものだ。
(あっちはマッコウクジラなんだよ)
 人類のネーミングセンスはなかなかだったが、モビー・ディックはマッコウクジラ。元になった小説にマッコウクジラとあった筈だ、と些か可笑しく、愉快でもあった。
 シャングリラはマッコウクジラに見えはしないと思うのだが、と。



(このイベントだと…)
 マッコウクジラも見られるのだろう。
 投影の順番は分からないけれど、広場で夜空を見ていれば、きっと。
 シャングリラを思わせるシロナガスクジラに、モビー・ディックなマッコウクジラ。
(見に行きたいなあ…)
 水族館まで行ってみたいな、と記事と写真を何度も眺める。鯨の立体映像を見に、水族館へ。
 ブルーの住む町に海は無かったが、代わりに大きな水族館。
 巨大な水槽を泳ぎ回る魚や、色とりどりのイソギンチャクなどの生物も居た。幼い頃には両親と一緒にイルカのショーを見ていたものだ。
 充実した水族館だったけれども、流石に鯨はいなかった。水族館で飼うには大きすぎる鯨。
 小さな種類の鯨は飼えても、シロナガスクジラはとても飼えない。マッコウクジラも。
 だから立体映像で見て貰おうという夜のイベント、夜空を泳ぐ鯨たち。
 青いイルミネーションに彩られた広場に浮かぶ姿は、どれほど素敵な光景だろう。次から次へと映し出される実物大の鯨たち。
 シロナガスクジラにマッコウクジラ。
 前の自分が守った船にゆかりの鯨が実物大で。



(どっちも見たことないんだよ…)
 今の自分も知らないけれども、前の自分も本物の鯨を知らなかった。
 シャングリラを白い鯨のようだと思ってはいても、それは知識を持っていただけ。データベースから得ていた知識で、生きて泳いでいた鯨は知らない。
(わざわざ探しに行けないしね…)
 アルテメシアの海に鯨は居たらしいのだが、泳ぐ姿は見かけなかった。海の上を飛んだり、海に潜って隠れたりもしたのに、出会わなかった。
 シャングリラそっくりのシロナガスクジラに会えはしなくて、影さえ一度も見られなかった。
(海の中には居た筈なのに…)
 運が良ければ出会えそうだ、と思っていたのに、とうとう会えずに終わってしまった。あの星に辿り着いた時には「鯨が見られるかもしれない」と心躍らせていたというのに。



 シャングリラを白い鯨に仕上げた時には、まだ海さえも見ていなかった。
 メギドに滅ぼされたアルタミラが在った星、ガニメデに海があったかどうかも覚えてはいない。だから知らない、海というもの。もちろん鯨も知りはしなくて。
 いつかは地球の海で本物の鯨を見たいものだ、と夢を見ていた。
 母なる地球でシャングリラと鯨が出会えればいい、と。
 けれども地球への道は遠くて、辿り着いたのが雲海の星。それでも海はあったから。
 そこに鯨がいないものかと、見られないものかと期待したのに、雲海からは海は見えない。外に出た時しか見られはしない。
(偶然に賭けるしかなかったんだよ、アルテメシアで鯨に会うには)
 シャングリラが堂々と海の上を飛べたら、きっと鯨も見られただろうが、出来ない相談。
 だから更なる夢へと広がる。
 鯨を見るならいつか地球でと、青い水の星で鯨を見ようと。
(だけど…)
 地球には行けずに終わってしまった。前の自分はメギドで散った。
 本物の鯨も見られないまま、ただの一度も出会えないままに。



(鯨…)
 見たかったんだけどな、と零れた溜息は前の自分のものだろう。
 冷めてしまったホットミルクの残りを飲み干し、名残惜しげに新聞を閉じた。
 キッチンの母にお皿やカップを返しに行って、階段を上がって自分の部屋に戻ってから。
(本物の鯨…)
 今だと何処で出会えるだろう、と勉強机の前に座って考えた。
 水族館には鯨はいない。シャングリラを思わせる巨大なシロナガスクジラを飼ってはいない。
 鯨に会うなら、本物の海。何処までも広がる海に行かないと出会えない鯨。
 しかも鯨は大きいから。
 砂浜に泳いで来たりはしないし、海水浴に出掛けて見られるわけでもなさそうだ。もっと深くて船が通ってゆくような海。そういう所を鯨は自由に泳ぐのだろう。
(ハーレイ、見たことあるのかな?)
 水泳が得意な今のハーレイ。
 海が好きだし、普通の人なら泳がないような沖にまで泳いで出てゆくと聞いた。
 それにハーレイの父は釣りをするから、船に乗って遠い遥かな沖へも一緒に出掛けている筈だ。
(もしかしたら…)
 ハーレイは鯨を見たかもしれない。
 この地球の上で、シャングリラそっくりのシロナガスクジラが泳ぐ姿を。



 出会ったかもね、とブルーが思いを巡らせていたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。窓から下を見下ろしてみれば、門扉の向こうで手を振る人影。ブルーの大切な想い人。
 母に案内されたハーレイが部屋を訪れ、テーブルを挟んで向かい合わせ。
 ブルーは早速、鯨の話を切り出した。
「ハーレイ、鯨を見たことはある?」
「何を今更…。そりゃまあ、俺は見たことが無いが」
 前の俺には馴染みだったぞ、シャングリラ。もっとも、大抵は俺は鯨の中だったがな。
「シャングリラじゃなくて、本物の鯨」
 大きなヤツだよ、シロナガスクジラを何処かで見てない?
「今の俺がか?」
「そう。ハーレイ、シロナガスクジラに会ったかなあ、って…」
 海が好きだから、一度くらいは会ってるかも、って思うんだけど…。
「生憎と俺は見てないなあ…」
「シロナガスクジラ、ハーレイが行くような海にはいないの?」
 もっと遠くに行かなきゃ駄目なの、簡単に行ける海では無理?
「そういうわけでもないんだが…」
 運の問題っていうヤツもあるな、親父とおふくろは見てるんだがな。
 でかかったぞ、って話してくれたが、俺は一緒じゃなかったんだよな、その時にはな。



「そっか…。ハーレイも知らないなら、連れてってくれない?」
 シロナガスクジラ、見たいんだよ。だから連れてって欲しいんだけど…。
「何処にだ?」
「水族館」
 この町にあるでしょ、あの水族館。
「はあ?」
 ハーレイは鳶色の瞳を丸くした。あの水族館にそんな大きな鯨がいたかと、シロナガスクジラを飼っているなど一度も聞いてはいないのだが、と。
「違うよ、本物の鯨じゃなくて…」
 立体映像の鯨なのだ、とブルーはハーレイに説明した。
 実物大の様々な鯨が夜の広場を泳ぐイベント。それの目玉がシロナガスクジラで、是非とも夜に行ってみたいと。暫くはやっているようだから、と。



「夜だって?」
 おまけに水族館の前の広場か、とハーレイは苦い顔をした。
「俺にはお前をデートに連れて行く義務なんぞ無いと思うがな?」
 どうしてわざわざ出掛けて行かんとならんのだ。お前を連れて。
「先生と生徒でいいんだよ!」
 水族館に出掛けるんだから、引率の先生と生徒で充分。恋人同士じゃなくていいから。
 ぼくは鯨を見に行きたいだけで、デートだなんて思ってないから!
「だが、そのイベント。夜しかやっていないんだろうが」
「そうだけど…」
 イルミネーションとセットで夜だよ、夜に水族館に出掛けた人だけ見られるんだよ。
「お前の家の門限、何時だ?」
「んーと…。ぼくは門限なんて一度も言われてないけど、何時だろう?」
 でも、門限があったとしても。
 ハーレイと一緒だったら延びると思うよ、遅い時間になったって平気。きっと、十時でも。
「十時だと? それは相当遅いだろうが」
「でも、鯨…。いろんな鯨を投影するから、何度も見てたら遅くなりそう」
 シロナガスクジラ、一回だけ見て帰ってくるなんてつまらないものね。二回は見たいし、時間があるなら三回だって、四回だって。
 ハーレイが一緒に行ってくれるんなら、十時を過ぎてもパパもママも何にも言わないよ。だって先生と一緒なんだし、帰りも家まできちんと送ってくれるに決まってるものね。



「家に帰るのが十時を過ぎるとは不健全だな、デートだからな」
 子供のデートは門限までには帰るもんだし、それ以前にお前のその年で、だ。
 デートなんぞに行こうというのは好ましくないな、おまけに夜のデートとくれば論外だ。
「デートじゃなくて引率だってば!」
 先生と生徒で見に行くだけだよ、手を繋ぎたいとか言わないから!
 ハーレイとはぐれないように服の裾とかを掴むだけにするから、先生の立場で連れてってよ!
「お前は先生と生徒のつもりでいいかもしれんが…」
 俺がそういう気にならないんだ、デートだとしか思えないから駄目だ。
「なんで?」
 水族館だよ、学校からでも見学に行ったりする所だよ?
 前の学校の時にも行ったし、今の学校でも何年生かで出掛ける筈だと思うんだけど…。
 引率の先生、大勢行くから、古典の先生が水族館でも全然おかしくないと思うよ?
「確かに俺も今までに何度か引率で生徒を連れては行ったが…」
 そいつは昼間だ、生徒を連れて見学するのは学校があるような時間だろうが。
 しかしだ、夜の水族館はな、デートコースの王道なんだ。
「嘘…!」
 ハーレイ、嘘をついてない?
 ぼくを連れて行くのが嫌だから、って口から出まかせ言ってるんでしょ…!



 ただの鯨の投影なのに、とブルーは怒ったのだけれども。
 ハーレイが言うには、ブルーが何も知らないだけで。
 夜の水族館と前の広場は本当に有名なデートコースで、カップルの姿が目立つ場所。立体映像もイルミネーションも、そういう来客が増えるようにと行われるイベントの一環らしい。子供たちは夜にはあまり来ないし、カップル向け。
「…そんな…。あの鯨、デート用だったの?」
 実物大だよ、本物そっくりの映像だよ?
 デートじゃなくても見たいって人が沢山いそうなイベントなのに…。
「もちろん、一般客も狙っているさ。期間中はデート目当てじゃない客だって増えるだろう」
 それこそ鯨が好きそうなチビも見に行きそうだぞ、帰りはすっかり寝ちまってそうな幼稚園児。
 だからお前もお父さんかお母さんに連れてって貰え。
 門限の心配は要らんわけだし、ついでに外で食事もするとか。
「でも…。ハーレイと晩御飯、食べられないよ」
 鯨の投影を見に出掛ける日は、ハーレイと食事が出来ないんだけど…。
「そこは潔く諦めるんだな。お前、鯨が見たいんだろうが」
 鯨と俺とは両立しない、ってコトで鯨を選んでおけ。
「えーっ!」
 酷いよ、ぼくはハーレイと食事をしたいのに!
 ハーレイが家に来てくれる日に、留守になんかはしたくないのに!



 仕事帰りのハーレイが寄ってくれる日は決まってはいない。仕事が早く終われば会えるし、その逆ならば会えずに終わる。夕食の席にハーレイの姿があるかどうかは神様次第。
 もしも鯨を見に出掛けた後、ハーレイが家を訪ねて来たなら、食事の機会が一つ無くなる。鯨を眺めに行ったばかりに、ハーレイと食事が出来なくなる。
 それだけは嫌だ、とブルーは鯨を頭から追い出しにかかったのに。
 見に行きたかった鯨を忘れようと思っているのに、ハーレイは「うーむ…」と腕組みをして。
「留守にしたくないと言うんだったら、俺が来られない日を教えてやろうか?」
 この日はちょっと難しそうだな、と思ってる日があるからな。
 頑張って仕事を片付ける計画を立てちゃいたがだ、その日は俺は仕事をして。お前はお父さんやお母さんと一緒に水族館に行けばいいだろ、そうすりゃ全て解決だ。
 俺との食事を逃しはしないし、鯨だって見に行けるってな。門限の心配も要らんからなあ、気が済むまで何度でも見られるぞ、鯨。
「やだ」
「何故だ? いいアイデアだと思ったんだが」
 俺は仕事で来られないんだし、丁度いいだろ、その日に行けば。
「ハーレイが来られない日に決まってるから、って遊びに行くのは嫌だよ、ぼく」
「なんでそうなる」
 来られないって言っているんだ、遊びでも何でも自由に過ごせばいいだろうが。
「ぼくはそこまで不真面目じゃないから」
「はあ?」
「ハーレイが頑張って仕事をしてる、って分かっているのに、ぼくだけ、遊び」
 そんなの不真面目に決まっているでしょ、恋人が仕事をしてる間に遊ぶだなんて。家で大人しく過ごすべきだよ、そういう日には。
「お前なあ…」
 チビのくせして何を言うんだか、普段は普通に過ごしてるだろ?
 俺が帰りに寄らないからって、家の手伝いとか勉強ばかりをしてるってわけじゃないだろうが。
 本を読むのも立派な遊びだ、水族館へ行くのと大して変わりはしないが?



 鯨の投影を見たいんだろうが、とハーレイに勧められたけれども。
 確かに鯨は見たかったけれど、そんな方法でしか見られない鯨は要らないから。
 ハーレイの仕事と引き換えの鯨は嬉しくないから、ブルーは未練を追い払って言った。
「鯨、諦めるよ…」
 きっと御縁が無かったんだよ、最初から。
 たまたま記事を見付けたけれども、もしも新聞を読まなかったら、知らなかったと思うから。
「見たかったんじゃないのか、シロナガスクジラ」
 シャングリラそっくりの鯨だからなあ、お前、見たくてたまらないだろうに。
 諦めちまって後悔しないか、考え直すんなら今の内だぞ。俺が来られない予定の日は、だ…。
「いいよ、その日は知らなくっても。その日、ハーレイが来られなくてもかまわないよ」
 水族館に行っておけば良かった、なんて考えたりはしないから。
 ハーレイが仕事で来られないって分かっているのに、ぼくだけ遊びに行けないから。
「しかしだな…。せっかく見られるチャンスなんだし…」
 行っておけばいいと思うんだがなあ、チビはチビらしく、お父さんたちと。
「いいんだってば、いつかハーレイとデートで見るから」
「デート?」
「夜の水族館、デートコースだから連れて行けないって言ったじゃない」
 ハーレイとデートが出来るようになった頃に、またイベントをするかもしれないし…。
 そしたらハーレイと見に出掛けるから、その時でいいよ。
 デートでゆっくり好きなだけ見るんだ、シロナガスクジラ。モビー・ディックなマッコウクジラとか、他の鯨も沢山、沢山。
「ふうむ…。またイベントをやるって可能性は大いにあるなあ…」
 新聞に載ってたくらいなんだし、多分、新しいイベントだろう。
 好評だったら定番になって、年に何度もやるようになる。
 俺たちがデートに出掛けられる頃にもやっていたなら、二人で行くとするか。俺の車で夜の町を走って水族館まで、お前の知らない鯨を見にな。



 そういうデートをしようじゃないか、とウインクしたハーレイが「そうだ」と手を打った。
 いいアイデアを思い付いたと、これぞデートだと。
「なあ、ブルー。いつかデートで見ると言うなら、本物の鯨を見に行かないか?」
 立体映像もいいが、本物の鯨。水族館じゃなくて、ちゃんと海でな。
「なに、それ?」
 そんなのがあるの、海で鯨を見られるの?
 いつも必ず鯨がいます、って決まってる場所でも知っているわけ?
「ホエールウォッチングというヤツなんだが…。聞いたことないか?」
「…ホエール…?」
「ウォッチングだ、鯨を見に行くツアーさ」
 船に乗って鯨が見られる場所まで行くんだ、いろんな鯨に会えるのが売りだ。
「鯨を見に行くって…」
 船に乗っていれば鯨に会いに行けるの、いろんな鯨に?
 海に出るなら、うんと大きな鯨もいるよね、それこそシロナガスクジラとかも…!
「うむ。親父とおふくろはそれで見たんだ、釣りの途中ってわけじゃなくてな」
 俺に自慢していた、シロナガスクジラ。
 ただし、あくまで運らしいんだが…。
 この前は見られたから今回も、って風にはいかんらしいな、相手は野生の生き物だしな。



 どんな鯨に出会えるのかは、運と鯨の気分次第。
 ホエールウォッチングとはそういったものだ、とハーレイはブルーに説明してから。
「どうだ、俺と一緒に出掛けてみるか? ホエールウォッチング」
 シロナガスクジラに会えるかどうかは、本当にお前の運次第だがな。
「行く!」
 夜の水族館でデートもいいけど、ホエールウォッチングも行ってみたいよ。
 ハーレイと一緒に船に乗って行って、シロナガスクジラに会えたらいいな。とっても大きな鯨に会えたら、それがシロナガスクジラだよね?
「ちゃんと説明してくれる人だっているさ、鯨の種類を」
 プロだからなあ、影を見ただけで分かるそうだぞ、鯨の名前。
 そうして鯨が逃げて行かない距離を保って見せてくれるのさ、ゆっくりとな。
「絶対、行きたい!」
 連れて行ってよ、そういうデート。
 ハーレイと一緒に本物の鯨に会いに行けるツアー。
 立体映像のシロナガスクジラも素敵だけれども、本物の方がいいに決まっているもの…!



「分かった、いつかは連れてってやるさ。ただし、結婚してからだぞ?」
 日帰りで行くには遠すぎるからな、泊まりの旅行になっちまうからな。
「泊まりのデートは駄目なの、ハーレイ?」
 デートに行けるってことは、ぼくは大きくなってるんだし…。
 前のぼくと同じ背丈になってるんだし、泊まりでもいいと思うんだけどな。
 結婚してからだなんて言っていないで、デート出来るんなら連れて行ってよ。
「おい。お前を泊まりで連れ出すだなんて、お前のお父さんたちに何と言い訳すればいいんだ」
「えっ、先生と生徒で旅行くらいは普通でしょ?」
 ハーレイは家族みたいなものだし、ぼくを旅行に連れてってくれても問題無いよ。
 パパもママも「行ってらっしゃい」って言ってくれるよ、大丈夫。
「そのまま教師と生徒で行くならかまわないが、だ」
 いずれ結婚するんだろうが。
 その時に俺がうんと気まずい立場になるんだ、お前を旅行に連れて行ったりしてればな。
 旅行の間は何をしてたか、どういう関係だったのか。
 お父さんとお母さんの前で脂汗だぞ、「あの時はすみませんでした」とな。
「えーっと…。それじゃ、結婚よりも前に泊まりの旅行は駄目ってこと?」
「当然だ!」
 結婚しないと言うなら別だが、俺と結婚したいんだったら。
 その辺はきちんとしておかないとな、デートは日帰りの範囲ってことだ。



 元が教師と生徒だからな、とハーレイは厳しい顔をする。
 泊まりの旅行などには行かずに、デートは日帰り、門限も厳守。
 いくら恋人同士になっても、付き合いはあくまで健全に、と。
「ちょっと待ってよ、健全にだなんて…」
 それじゃ、本物の恋人同士になれるのはいつ?
 日帰りで門限厳守のデートじゃ、いい雰囲気になれそうな所が少なそうだよ…!
「そういったことは結婚するまでお預けだってな」
 お前が大きく育ったからって、すぐにやらなきゃいけないわけでもないんだし。
「そんな…!」
 嘘でしょ、ハーレイ?
 ぼくがまだまだチビだから、って嘘を言ってるだけだよね?
「いや? 少なくとも、俺はそのつもりだが?」
 嘘も冗談も言っちゃいないぞ、お前とそういう関係になるなら結婚式を挙げてからだな。
「酷い…!」
 ぼくの背丈が伸びたなら、って言ったじゃない!
 どうしてそういうことになるわけ、結婚するまで駄目だなんて…!
「酷くないだろ、お前と一生、付き合うんだからな」
 ちゃんと結婚して、一緒に暮らす。お前は俺の嫁さんになる。
 誰もが認めるカップルってわけだ、前の俺たちとは違うってな。
 秘密の恋人同士じゃない分、けじめはきちんとしておきたい。
 お前のお父さんたちに堂々とお前を下さいと言える立場で申し込みたいからなあ、不埒な行為は厳禁だ。泊まりの旅行は論外だな、うん。



 結婚前でもキスくらいはな、と笑うハーレイ。
 キスくらいならば許してもいいが、その先のことは決して駄目だと。
「ハーレイ、酷いよ…。背が伸びたら、って言ってたくせに…」
 前のぼくとおんなじ背丈になるまで我慢しろ、って言うから我慢してるのに…。
 背が伸びてもキスしか出来ないだなんて、酷すぎない?
 結婚するまで泊まりの旅行も、本物の恋人同士になることだって禁止だなんて…!
「間違えるなよ? 我慢するのはお前だけじゃなくて、俺もだからな」
 お前がチビでガキの間は俺も余裕で笑ってられるが、お前が育ち始めたら。
 前のお前と同じ姿に育っちまったら、俺だって我慢大会だ。
 しかし、お前と結婚したけりゃ耐えるしかないと思ってるわけだ、やましいことはしたくない。
 お前のお父さんとお母さんに顔向け出来ないことをしちまったらマズイだろうが。
 俺はお前の立場も考えた上で言ってるんだが、お前は不満そうだってことは。
 そういう関係になりたいから俺と付き合いたいのか、その関係がお前の目的なのか?
 俺と一緒に暮らすことより、俺と結婚することよりも。
「違うけど…」
 ハーレイのお嫁さんになって一緒に暮らすのが夢なんだけど…。でも…。
「でもも何もない。そいつが夢なら、まず結婚だ」
 それが一番大事なことだろ、俺と一緒に生きてゆくなら。
 まずはそいつをクリアせんとな、お前のお父さんとお母さんにきちんと申し込んで。



 その代わり…、とハーレイはブルーの銀色の頭をポンと叩いた。
 褐色の大きな手で軽く、優しく、そっと諭すように。
「いつか、お前と結婚したら。俺とお前は、あちこちへ旅をするんだろう?」
 宇宙から二人で青い地球を見て、その地球の上も気が向くままに。
 もちろん、ホエールウォッチングも。
「うん」
「いろんな所へ泊まりで行けるさ、もう遠慮なんかは要らないんだからな」
 何処へ行っても恋人同士だ、誰にも隠さなくてもいいだろ?
 前の俺たちとはまるで違って、何処でもいつでも恋人同士でいられるってな。
 そうしたかったら、まずは結婚。
 分かるな、俺とお前の名前を並べて書けるようになるのが大切なんだということは。
「うん…」
 結婚してから旅行なんだね、ハーレイと二人。
 いろんな所へ出掛けるんだね、泊まりの旅行で二人一緒に…。



 鯨も見ようね、とブルーは微笑む。
 シャングリラそっくりのシロナガスクジラを見に行ける旅に、船に乗って海へ出る旅に。
 そんな旅へと出掛ける日までは、立体投影の鯨が限界。
 日帰りで行けて、門限までに家へ帰れる水族館のイベントくらいがデートの限界。
(…ハーレイ、凄く早い時間に家まで送ってくれそうだよ…)
 それこそ引率教師と生徒さながらの早い時間に、家の前まで。
 名残惜しくて胸に縋っても、キスでお別れ。
(…せっかく二人でデートなのに…)
 キスよりも先はお預けだなんて、まるで思いもしなかった。
 背丈が伸びれば、前の自分と同じに伸びれば、前と同じに愛し合えると信じていた。
(…だけど、お預け…)
 結婚するまでお預けはとても悲しいけれども、ハーレイの言う「けじめ」は分かるから。
 誠心誠意、向き合ってくれているからこその言葉だから。
(結婚までは我慢しなくちゃ…)
 我慢、と自分に言い聞かせた。
 もっとも、明日にはすっかり忘れてまた言うのかもしれないけれど。
 ハーレイがそれを口にする度、唇を尖らせて、プウッと膨れて、子供ならではの我儘で。
 それは酷いと、結婚するまでお預けだなんて酷すぎるよ、と…。




          水族館の鯨・了

※立体投影の鯨をハーレイと一緒に見に行きたい、と思ったブルーですけれど…。
 夜のデートは「まだ駄目」だそうで、将来も「早い時間に」帰ることになりそう。でも幸せ。
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 学校から帰って、おやつを食べて。それから広げてみた新聞。ニュースも色々載っているけど、その他にも。
(お鍋…)
 カラーで刷られたお鍋の特集。でも、お料理の記事でもレシピでもなくて、旅行の広告。紅葉を見に行く旅がズラリと並んでる横に季節を先取り、冬の旅行も受け付け中。
 冬って季節を実感するには早いからだろうか、多分、食べ物で目を引こうってことなんだろう。お鍋を食べに出掛けませんか、っていう旅の広告、お鍋の特集。
(…お鍋だけってことはないよね?)
 ぼくは身体が丈夫じゃないから、こういうツアーは経験が無い。申し込んでから体調を崩したらキャンセルとかが面倒だから、旅行する時はパパとママとが計画を立てて連れてってくれた。
 うんと小さい頃からそうだし、旅行の広告とかを見たって行きたいと思ったことが無いけれど。
 ちょっぴり惹かれる、お鍋の写真。
(どんな旅なの?)
 コースの説明を読んでみた。お鍋はどうやら夜の食事で、昼の間は好みの所へ観光へ。あちこち出掛けて宿に着いたら、お鍋の夕食が待ってる仕組み。
 行き先が何処かでお鍋も変わる。食べたいお鍋を選んで、旅行。
(いろんなお鍋があるみたい…)
 名物のお鍋が沢山あるけど、多いのはカニとか牡丹鍋。カニなら海辺で、牡丹鍋なら山の方。
(んーと…)
 前世の記憶を取り戻してから、旅行ってヤツに行ってない。
 本当だったら夏休みの間に行く予定だった、宇宙から地球を眺める旅にも行きそびれちゃった。パパが約束してくれてたのに、思い出しさえしなかった、ぼく。行きたいと言わなかった、ぼく。
 ハーレイと会うことに夢中になってて、夏休みだってそれで頭が一杯で。
 夏休みになったら平日でもハーレイが家に来てくれる、って舞い上がってしまって、宇宙旅行は綺麗に忘れた。お蔭でぼくは未だに地球を見たことが無い。宇宙に浮かんだ青い真珠を。



(青い地球もいいけど、海も山もいいよね)
 冬だと海は青くないかもしれないけれど。雪が舞ってて灰色なのかもしれないけれども、地球の海。青い水の星を覆った海。これは是非とも見てみたい。
 山だって、そう。冬の寒さで山の木は枯れて、雪がしんしん降り積もるだけの景色だとしても、地球の山。前のぼくが辿り着けずに終わった地球の大地に聳えてる山。
 前のハーレイたちが地球に着いた時は、地球は死の星だったんだけれど。
 つまりは前のぼくが生きて地球まで行っても、青い海も緑の山も何処にも無かったんだけど。
 それが今ではちゃんとあるんだし、ぼくはその地球の上に生まれたんだし…。
(海とか山もしっかり見たいよ)
 ぼくの中に居る、前のぼくと一緒に。
 おんなじ一人の人間のくせに、一緒って言ったらおかしいかな?
 だけど今のぼくにとっては当たり前のことに、ぼくは時々、驚いてるから。
 「前のぼくはこんなの知らなかった」ってビックリするから、前のぼくと今のぼくは二人で一人だと思うんだ。一人だけれども、二人分の記憶、二人分の心。
(二人分って、得した気分だよね)
 それに何より、前のぼくが居たからハーレイに会えた。
 誰よりも好きで、好きでたまらないハーレイと地球で巡り会えた。
 これが一番、素敵なこと。
 あの五月の日に起こった奇跡で、ぼくの聖痕が起こした奇跡。
 ぼくは今度こそ、ハーレイと二人で生きて行くんだ。結婚して同じ家で暮らして。



(いつかハーレイと、こういう旅行に行きたいなあ…)
 宇宙から青い地球を見に行く旅行は、ハーレイが「行こう」と約束してくれた。地球をゆっくり見るだけの旅に、青い地球を見るためだけの旅行に。
 そっちはとっくに約束したから、海や山の旅。この広告に載ってるみたいな旅もしてみたい。
 ハーレイと二人、旅先でのんびり景色を眺めて、観光をして。
 宿に着いたら、お鍋の夕食。海ならカニ鍋、山の方なら牡丹鍋。
(牡丹鍋はイノシシなんだよね?)
 今のぼくも牡丹鍋は食べたことが無いけど、前のぼくたちはそれどころじゃない。
 カニすらも食べたことが無かった、前のぼく。
 カニもイノシシも、前のぼくたちは食べてないから。一回も口にしていないから…。
(ハーレイと食べに行くのもいいよね、いろんなお鍋を)
 牡丹鍋とカニ鍋の他にもお鍋は色々、行き先だって選び放題。
 いつかハーレイと結婚したなら、二人で旅行で、二人でお鍋を食べに行くんだ。
(好き嫌いを探しに出掛けよう、って約束もしたし…)
 ぼくもハーレイも、好き嫌いってヤツが全く無いから。
 前のぼくたちが食べ物で苦労していたせいなのか、何でも食べられるみたいだから。
 それでは人生つまらないぞ、ってハーレイが言い出したんだった。「俺たちでも食えないような何かを探しに行こうじゃないか」って。
 そういう食べ物が見付からないなら、「また食べたい」って思う何かを見付けに旅をしようと。
(いろんなお鍋を食べに行くなら…)
 好き嫌い探しの旅の一環ってコトになるのかな?
 それとも単なる旅行なのかな、地球の景色を見に行ったついでにお鍋なのかな?



 どっちだとしても素敵だよね、って思ったんだけど。
(まだまだ先の話だったよ…)
 フウと溜息をついた、ぼく。
 広告のツアーに年齢制限なんかは無くって、赤ちゃんから大人まで誰でも行ける。申し込みさえすれば誰でも、好きな日にちに行きたい旅行に行けるというのに…。
(ぼくはチビだし…)
 パパとママに連れて行って貰うんだったら、今年の冬だって行けるけれども。
 ぼくが一緒に行きたいハーレイと二人で申し込むには、年も背丈もまるで足りない。
(ハーレイとキスも出来ないチビだと、旅行なんかは…)
 絶対に無理に決まってる。外で食事をしたいと言っても断られちゃった、ぼくだから。
 ハーレイと再会した五月の三日から、ちっとも伸びてくれない背丈。
 百五十センチで止まったままで、一ミリも伸びない、チビのままのぼく。
 これが順調に伸び始めたとしても、ハーレイがキスを許してくれると言った背丈は遠すぎる。
 前のぼくの背丈と同じの百七十センチ、そこまで伸びないとキスは出来ない。たった一年で二十センチも伸びるわけがないし、あと何年かはかかっちゃう。
(ハーレイとお鍋はまだまだ先…)
 ホントに何年先なんだか、って情けなくなった、ぼくだったけれど。



 溜息混じりに夢のお鍋の広告が載った新聞を閉じて、部屋に戻って。
 勉強机の前に座ってから、ハタと気付いた。
(お鍋…?)
 冬になったら、お鍋の季節。
 お鍋が売り物の旅の広告が載ってるくらいに、冬と言ったらお鍋の季節。
 寒い季節は身体が芯から温まるお鍋。雪が降ってる夜もホカホカ、湯気を立ててる温かいお鍋。
 ぼくの家でも冬はお鍋の日が多いから。
 ママがあれこれ食材を買って、お出汁やスープを工夫したお鍋が色々、沢山。
 ハーレイが仕事帰りに寄ってくれた日も、きっとお鍋があるんだろう。味噌仕立てだとか、醤油仕立てだとか。お肉や魚や、野菜を入れて。
(ハーレイが来るって分かっている日は豪華なんだよ)
 カニ鍋とまで行くかどうかは分からないけど、普段のお鍋よりも豪華な具材。
 ハーレイはとうにお客様じゃなくて家族みたいな存在だけれど、パパとママは歓迎してるから。ちょっぴり特別、お客様向け。
 予告無しにハーレイがやって来た日も、冬ならお鍋。
 パパもママも一緒の食卓だけれど、お鍋の種類は選べないけど、ハーレイとお鍋。



(ハーレイと同じお鍋から食べられるんだよ…!)
 テーブルの真ん中、ぐつぐつ煮えてるお鍋を囲んで、みんなで夕食。お鍋は一つ。
 大きなお鍋がテーブルに一つ、そこから自分が食べる分だけ器に取って。
(大皿料理より凄くない?)
 盛り付けてあるのを取り分けるんじゃなくて、お鍋で煮えているんだから。
 お料理している真っ最中、って感じのトコから取って、掬って。
 お皿に盛られた料理だったら、次に取る人が「やだな」って気持ちにならないように、行儀よく綺麗に取って行かなきゃいけないけれども、お鍋は別。
 気軽に掬えて、お鍋って器をみんなで共有、同じ器から一斉に食べているようなもの。
(それって凄い…!)
 ハーレイとおんなじ器から食べてもいいなんて。
 普段だったら絶対出来ない、素敵な食べ方が出来るらしいお鍋。



(これからの季節だと、おでんだって…)
 おでんもテーブルの真ん中にお鍋。みんなで囲んで一つのお鍋。
 温めておかないと冷めてしまうから、おでんのお鍋ごとドカンと出て来る。玉子に大根、練り物色々、コンニャクとかを自分で掬うんだ。
 だけど、おでんは、お箸が別。
 煮えたぎってるお鍋じゃないから、沸騰したお出汁で消毒ってわけにはいかないから。
 取り分けるためのお箸がつく。それで取るのが、おでんのルール。
(でも、お鍋だと…)
 具を入れるお箸は別だけれども、煮えた具材を器に取る時は自分のお箸。
 ぼくは自分のお箸をお鍋に突っ込むわけだし、パパやママもそう。
 ということは、ハーレイだって自分のお箸を突っ込むわけで…。
(ホントにハーレイと一緒のお鍋!)
 ハーレイがお箸を突っ込んだお鍋。好きな具材を取って行ったお鍋。
 そのお鍋にぼくもお箸を突っ込む。どれを取ろうか、って選んで、取って。
 きっと同時にお鍋の中を覗いてる時もあるだろう。ぼくがお箸を突っ込んでいたら、ハーレイも横から突っ込んでるとか。
(ハーレイが何か取ってる時を狙って、ぼくがお箸を突っ込んだって…)
 誰も変だと思わない。お鍋はそういうものだから。
 煮えた具材は次々に取らなきゃ煮えすぎるんだし、二人同時に取っては駄目だ、なんてルールも無いんだし…。
(ハーレイとおんなじお鍋で、同時…)
 想像しただけで心臓がドキドキしてくる。
 パパとママとが一緒にいたって、ハーレイと二人でお鍋な気分。
 二人きりとはいかないけれども、気分はハーレイと二人でお鍋って感じ。



(それにハーレイ、料理が得意…)
 ママがどんなお鍋を用意したって、具材に火が通るタイミングとかを掴めると思う。どれを先に入れて煮ればいいのか、どのくらい煮たら食べるのに丁度いい頃合いだとか。
(そういうの、絶対、得意そうだよ)
 鍋奉行って言うんだったっけ?
 お鍋の時に、ああだこうだと張り切って指図をしたがる人。
 ハーレイはそういうタイプじゃないけど、お鍋の加減が掴めているなら、ぼくが取り分ける時に世話を焼いてくれる可能性大。あれが煮えてるとか、これを取れとか。
 今までだったら、そういう役目はママがしてくれていたんだけれど…。
(ママよりもハーレイに世話して欲しいな)
 せっかく料理が得意なんだし、遠慮してないで、「しっかり食えよ」って。
 お肉も魚も、ハーレイに「ほら」って言われちゃったら、きっと頑張って食べられそう。ママやパパなら「お腹いっぱい」って答える所を、もうちょっと、って。
 だってハーレイと一緒のお鍋で、ハーレイはもりもり食べるんだから。
 「これも美味いぞ」とか、「もう食わないのか?」なんて、ぼくにせっせと声を掛けながら。
 そうやってどんどん食べてるんだし、もしかしたら…。
(食えよ、って取ってくれるかも…!)
 ハーレイのお箸で、ぼくの器に。
 お勧めの具材をヒョイとつまんで、ホカホカと湯気が立っているのを。



(ハーレイに入れて貰うだなんて、前のぼくだって未経験だよ…!)
 シャングリラでお鍋はやってないから。
 ポトフやシチューはあったけれども、あれは最初から器に取り分けてあるものだから。
(シャングリラに居た頃は、お鍋なんていう料理、何処にも無いしね…)
 みんなでワイワイお鍋を囲む機会は無かった。
 お鍋が無いから、ハーレイと二人でお鍋を食べることも無かった。
 本物の恋人同士だったけれども、ハーレイが「どうぞ」と具材を取ってはくれなかった。
 前のぼくたちは一緒に食事をしていただけ。
 キャプテンからソルジャーへの朝の報告、っていう名目で二人で朝御飯を食べていただけ。



(えーっと…)
 好き嫌いが無かった、前のぼく。
 朝御飯に嫌いな料理なんかがあるわけもなくて、残そうだなんて思わなかった。パンも卵料理もサラダもスープも、出されたものは何でも食べた。
 だけど前のぼくも、今のぼくと同じで食が細かったから、多すぎて食べ切れない時もあって。
 そんな時にはハーレイに「これも食べて」とお願いしたら、お皿は綺麗に空っぽになった。半分残した卵料理も、手を付けなかったサラダの器も。
(ハーレイはぼくのお皿の料理を食べていたけど…)
 ぼくが半分食べてしまったオムレツなんかも、何度も食べていたんだけれど。
 その逆の方は全く無かった。一度も無かった。
(ハーレイの分まで貰っちゃおう、っていうほどの好物も無かったから…)
 そういうのがあれば、あるいは強請って貰っていたかもしれないけれど。
 生憎、そこまでしたい料理は何も無くって、前のぼくはハーレイのお皿から料理を分けて貰ったことが無い。ハーレイの分まで欲しいんだ、って一度も思わなかったから。



(おんなじ器から食べる、って方は…)
 二人一緒にサンドイッチの夜食をつまんでいたりしたけれど。
 青の間からブリッジのハーレイに思念を飛ばして、来る時に持って来て貰った色々な出前。
 ぼくのために、と注文を受けた厨房のスタッフが作った夜食を二人で食べた。サンドイッチなら同じお皿に手を伸ばしては、一切れずつ取って食べていた。
 器に盛られたカットフルーツも二人でフォークを突っ込んでたけど、お鍋じゃないから。
 ぼくが食べようとしている所へハーレイのフォークが来ることは無いし、逆だって無い。相手の様子を見ながら食べてて、同じ器から食べてるんです、ってドキドキ感はまるで無かった。
 カットフルーツもサンドイッチも、食べ方自体は大皿に盛った料理と変わりはしない。
 お鍋と違って遠慮のあるもの、行儀が優先されてしまうもの。
(これを食べろ、ってハーレイが取ってくれることだって無かったものね)
 フルーツやサンドイッチを「どうぞ」と譲られたことはあったけれども、取ったのは、ぼく。
 「ありがとう」ってフォークで刺したり、手に取って口へ運んだり。
 ハーレイがフォークで刺してくれたり、手に持ってぼくのお皿に入れたりなんかは無かった。
(前のぼくでも未経験なんだ…)
 ほら、ってハーレイが自分のカトラリーや手で料理を取り分けてくれること。
(だけど、お鍋だとハーレイのお箸で取ってくれるとか…)
 それは絶対ありそうだよ、って思うから。
 パパとママも「面倒見のいい先生だな」って笑顔で見ているだけだろうから。
 お鍋に大いに期待が高まる。
 ハーレイに世話して貰わなくっちゃ、って。
 まだ二人きりのお鍋じゃないけど、素敵な気分で食べられるよね、って。



 お鍋がいいな、って夢を見てたら、チャイムの音。
 仕事帰りのハーレイが来たから、ぼくは嬉しくなっちゃって。
 ハーレイと二人、テーブルを挟んで向かい合わせに座るなり、「ねえ」って切り出した。ママが置いてってくれた紅茶とお菓子も気になるけれども、それより、お鍋。
「あのね…。お鍋の季節が楽しみなんだよ」
 まだ先だけれど、冬になったらお鍋でしょ?
 新聞に広告が載ってたんだよ、いろんなお鍋が目玉の旅行。それでお鍋の季節が楽しみ。
「鍋の季節って…。何かあるのか?」
 お前、鍋料理を食べに旅行に行くのか、冬休みとかに?
 珍しいなあ、お前が俺と会うよりも食い物の方が優先だとは…。旅行の間は会えないしな?
「違うよ、広告は見てただけだよ、行かないよ!」
 せっかくのお休み、ハーレイと一緒に過ごしたいもの。旅行なんかは行かなくていいよ。
「だが、楽しみだと言わなかったか? 鍋の季節が」
 鍋を食いに出掛けて行くんでなければ、どう楽しみだと言うんだ、お前?
「冬になったら、ぼくの家でも夕食にお鍋が出て来るんだもの」
 今日はお鍋だ、っていう時にハーレイが寄ってくれたら、ハーレイとお鍋が食べられるんだよ。お休みの日でも、ママがお鍋にしようと思ったら、ハーレイとお鍋。
 パパとママも一緒に食べるけれども、おんなじお鍋から自分のお箸で食べるんだし…。
 それってドキドキしてこない?
 ハーレイもぼくも、おんなじお鍋に自分のお箸を突っ込むんだよ?
 そんな食べ方、前のぼくたちは一度もやっていないんだから。
 恋人同士だっていう気分がするでしょ、おんなじお鍋で、自分のお箸。



「なるほどなあ…。鍋を囲んで恋人気分か」
 確かにそいつはそうかもしれん。前の俺たちは鍋なんて食ってはいないからな。
 同じ器に自分のフォークやスプーンなんかを突っ込むなんぞはマナー違反だし、やろうと思いもしなかったしな…。
「そうでしょ、ぼくも思い付きさえしなかったよ」
 何度もハーレイと食事をしたのに、同じ器から食べていたのってサンドイッチとフルーツだよ?
 あれってつまんでいただけだものね、二人で一緒に食べるお鍋とは全然違うよ。
「うーむ…。鍋の方が親しい感じはするなあ、今の世界じゃ親睦とくれば鍋だしな」
 俺も友達とよくやったもんだ、鍋ってヤツを。
 大勢で鍋を囲んだ後はだ、大いに仲良くなっていたなあ、その日に初めて会った奴でも。
「…ぼくはそういうお鍋の経験、無いけれど…」
 お鍋で友達になれるんだったら、恋人同士にもなれそうだよね?
 恋人同士で食べに行くにもピッタリなんだよ、お鍋は、きっと。
 パパとママはぼくとハーレイが恋人同士ってことは知らないけれども、ハーレイとお鍋。
 恋人気分で食べられそうだし、お鍋の季節が楽しみなんだよ。



「ふうむ…。お前のお母さんは何も知らずに鍋料理を用意するわけだな?」
 お前がワクワク待っているとも思いもしないで、寒い季節にいい料理だと。
「別にいいでしょ、ぼくがお鍋にしてって頼みに行くわけじゃないんだから」
 たまたまお鍋が出て来るだけだよ、ハーレイが家に来てくれた日に。
「それはそうだが…。お前、ろくでもないことを考え付いたな、鍋の広告を見ただけでな」
「お鍋じゃなくって、旅行の広告! お鍋を食べに出掛ける旅行!」
 間違えないでよ、ハーレイと旅行に行きたいなあ、って眺めていたから気が付いただけ!
 お鍋って素敵な料理だよね、って。恋人同士で食べるのに良さそうな感じだよね、って。
「分かった、分かった。要するに、俺と一緒に鍋なんだな?」
「そう! それでね、ハーレイ、料理が得意って聞いているから…」
 お鍋の中身が煮えてるかどうか、見分けるのも得意そうだよね?
 ぼくにお鍋を取り分けてくれる?
 この辺りの具が煮えているぞ、ってハーレイのお箸で、ぼくの器に。
「そのくらいは別にかまわんが」
 しっかり食えよ、と入れてやったらいいんだろう?
 お前、放っておいたら取りそうにないし、火が通った分をどんどん取って。
「ホント?」
 ぼくの代わりに取ってくれるの、お肉や野菜。ハーレイが器に入れてくれるの、ぼくが取らずに座っていたら?
「お安い御用だ、チビの世話だろ」
「チビ!?」
 恋人じゃなくてチビなわけ!?
 ハーレイ、恋人の世話じゃなくってチビの世話だと思っているの!?



 酷い、とぼくは怒ったけれど。
 恋人を捕まえてチビ呼ばわりなんてあんまりだ、って怒ったけれど。
 ハーレイはクックッと可笑しそうに喉を鳴らして、こう言った。
「その発想がチビだからなあ…」
 チビの世話だと言ったまでだが、そいつがお気に召さないってか?
 そうなってくるとホントにチビだな、もうチビだとしか言いようがない。
「何処が?」
 ぼくの発想の何処がチビなの、お鍋は恋人気分になれる、ってハーレイ、認めていたじゃない!
 それに気付いたの、ぼくなんだよ?
 チビじゃないから気が付いたんだよ、お鍋は素敵なお料理なんだ、って!
「鍋そのものに関しちゃそうだが、取り分けてくれ、っていう辺りがな」
 お前、俺の箸であれこれ取り分けてくれ、と頼んで来たが、だ。
 俺と二人きりで鍋をやってる時ならどうするんだ?
「もちろん堂々と世話して貰うよ、ハーレイに!」
 パパやママがいたら、たまには自分で取らなきゃ変だと思われそうだけど…。
 二人きりならハーレイに全部やって貰って、ぼくは食べるだけ。
「俺が具を煮て、煮えたヤツからお前の器に入れてやってか?」
「そうに決まっているじゃない!」
 誰も見てないなら、ハーレイに任せておくんだから。
 恋人気分で世話して貰って、美味しいお鍋を食べるんだよ。ハーレイと二人きりなんだしね。



 自信満々で答えた、ぼく。
 だけどハーレイは鳶色の瞳に悪戯っぽい光を湛えて。
「うん、間違いなくチビだってな」
 今の答えで得意満面になってるようでは、正真正銘、お前はチビだ。
「なんで?」
 ハーレイに世話して欲しいって強請ってるんだよ、うんと我儘な恋人だよ?
「二人きりでも、俺は取り分ける係なんだろ?」
 これも食えよ、って、お前の器に。
 お前が自分の世話をしない分、俺にせっせと世話させるんだろ?
「そうだよ、うんと堂々とね」
 何処から見たって恋人なんです、って直ぐに分かるよ、ハーレイが世話をしてくれていたら。
 恋人のために取ってあげているんだな、って。
 見ている人なんか誰も無くても、うんと熱々の恋人同士でお鍋なんだよ。
「だからチビだと言うんだ、お前は」
 俺が器に入れてやるだけで大満足だという所がな。
「どうして?」
 ハーレイに世話して貰えるんだよ、もう最高だと思うけど…。
 ぼくはお鍋を食べるだけで良くて、自分で取ったり、煮えてるかどうか確かめたりとかは何一つしなくていいんだもの。
 恋人に甘やかして貰えるっていうの、誰だって嬉しい筈だけどな。



「その発想を否定はしないが、詰めが甘いぞ、チビだけあって」
 まだまだ甘いな、お前は立派にチビだってな。
「そんなことないよ、ちゃんとお鍋を食べさせて欲しいって言ってるじゃない!」
 ハーレイのお箸で取って貰って食べたいっていうの、チビだと思い付かないよ!
「それはそうだが、そこで俺にだ」
 食わせてくれ、と強請ってこない辺りがチビだと言うんだ、俺は。
「えっ?」
 食べさせてよ、って何度も言ったよ、ハーレイに食べさせて貰うんだよ?
 ぼくは自分で何もしないから、ハーレイがぼくの世話をしてよね、って。
「その世話の詰めが甘いんだ。恋人に食わせて貰いたいなら…」
 お前は口だけ開けりゃいいんだ、「あーん」ってヤツだ。
 そうすりゃ俺が口まで運んでやるってな。



「あっ…!」
 まるで考えてもいなかった、ぼく。
 だけどハーレイが言ってるとおりで、恋人だったら口を開けておねだりさえすれば…。
「やっぱり気付いていなかったな、チビ」
 いいか、鍋だと思い切り熱くなってるからなあ、冷ます過程から要るってな。
 俺がフウフウ息を吹きかけて、火傷しないよう冷ましてやって。
 「ほら、熱いから気を付けろよ」と差し出すわけだな、「あーん」とな。
 お前はそいつをモグモグ食ってだ、その間に俺が次のを冷ます、と。
 器の出番は全く無いんだ、せいぜいタレをつけるくらいで。
「それ、やりたい!」
 取り分けて貰うより、そっちがいいよ。口を開けるだけで食べられるお鍋がいいよ!
「生意気を言うな、思い付かなかったチビのくせに」
 俺の箸であれこれ取ってやったら満足なんだろ、チビのお前は。
 口まで運んでやらなくっても、自分の箸でちゃんと食べられるってな、偉いな、お前。
 そこはチビでも褒めるトコだな、自分で鍋を食えるんだからな。
「うー…」
 酷いよ、ハーレイ、そんな話だけ聞かせておいて!
 ぼくだってハーレイに食べさせて欲しいよ、ハーレイのお箸でぼくの口まで!
 器なんかに入れるんじゃなくて、冷まして「あーん」って食べさせてよ!



 お願い、って頭を下げたのに。
 いつかは「あーん」で食べさせて、って頼んでるのに、ハーレイは聞こえていないふり。
 全然、話に乗ってくれなくて、知らんぷり。
 「鍋の季節が楽しみだな」なんて、お鍋の種類を挙げながら。
 「一人で鍋を食ってもつまらんからなあ、今年の冬が待ち遠しいな」って。
 そうやってお鍋の話だけして、「お前はまだまだ普通に鍋だ」って笑うハーレイ。
 パパやママも一緒に、ただのお鍋、って。
 「取り分けるくらいはやってやるから、自分で食えよ」って。



 意地悪なハーレイ。
 恋人同士のお鍋はこうだ、って話だけして、無視するハーレイ。
 ぼくに「あーん」と食べさせてやる、って約束をしてはくれないハーレイ。
 だけどいいんだ、冬になったらハーレイと一緒にお鍋だから。
 夕食のテーブルにお鍋があったら、ハーレイがお箸を突っ込んだお鍋から、ぼくだって食べる。
 ハーレイが自分の使うお箸で、ぼくの器に取り分けてくれる。
 パパとママが「面倒見のいい先生」って思う程度に、ごくごく自然に。
 今はそれだけで充分幸せ、チビのぼくにはきっとピッタリ。
 いつかは「あーん」と食べられるんだし、冬が来たならちょっぴり前進。
 ハーレイと二人っきりでお鍋を食べることが出来る、うんと素敵な未来に向かって…。




         お鍋の食べ方・了

※「ハーレイと食べたい」とブルーが思った鍋料理。けれど、足りていなかった想像力。
 同じ鍋なら「恋人同士の食べ方」の方がいいに決まってます。きっと食べさせて貰えますね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









(あれ?)
 朝顔…、と覗き込んだ、ぼく。
 学校の帰り、バス停から歩いて帰る途中の家。その家の庭に朝顔の花。
 もう秋なのに、朝顔は夏の花なのに。
 だけど一杯、咲いてる朝顔。赤紫って言えばいいのかな、ちょっぴり赤の混じった紫。濃いめの紫の花がいっぱい。
(秋なんだけど…)
 今は秋だし、朝顔の季節じゃないと思うんだけれど。
 前の学校に入ったばかりの年に朝顔を育ててた。幼稚園から上がって、直ぐに。
 学校で配られた朝顔の種。小さなプランターだって、一人に一つずつついてきた。プランターに自分の名前を書いて、土を入れて貰って、朝顔の種をそうっと植えて。
 毎朝、学校で水やりをして、ワクワクしながら育てた朝顔。夏休みに家に持って帰った。学校で書いてた観察日記の続きも書いたし、秋になったら種を集めて学校に持って行ったっけ…。
(先生が丈夫な種を選んで、次の年の子に配るんだよ)
 ぼくの朝顔の種も、きっと一年上の先輩が育てた朝顔の種だったんだ。その先輩も一年上の人が育てた種を貰って育てた筈だと思うから。
(ぼくの朝顔、今も前の学校にあると思うな)
 何代も後の子孫の朝顔。今の季節だと種が出来てて、来年の新入生が育てる種が生まれるんだ。
 そう、朝顔が種を作る季節が秋なんだけれど。



(なんでこの花、今、咲いてるの?)
 元気な朝顔は今でも咲いているんだろうけど、元気すぎ。
 庭に広がった蔓に沢山、あっちもこっちも紫の花。ちょっぴり赤みを帯びた紫。
(それに、夏には気付かなかったよ?)
 夏休みの間は滅多に通りはしなかったけれど、夏休みは八月までだから。九月の初めはまだ夏の内で、暑さの中を歩いてた。今日も暑いな、って日陰を選んで、あちこちの庭を覗きながら。
 だけど、この家の朝顔は知らない。夏の間には見かけなかった。
(他の家には朝顔、幾つもあったんだけどな…)
 見落としたってこともないだろう。こんなに大きく広がっているし、咲いてれば気付く。
 いつから花をつけているかは知らないけれども、絶対、夏からじゃないと思うんだ。元気すぎる花は今が盛りといった感じで、夏じゅう咲いてた朝顔だったら、もっと疲れている筈だから。
(変な朝顔…)
 どうして今頃、生き生きと咲いているんだろう?
 おまけに時間もとっくに午後だし、朝顔の時間は終わってる。
(秋の朝顔、昼間でも咲いていたりはするけど…)
 時間の感覚が狂うんだろうか、うっかり萎み忘れた朝顔。秋にはそういう花も出るけど、全部の花が時間を忘れて咲きっぱなしというのもおかしい。
(花も全然、疲れてないしね?)
 朝から咲いててくたびれました、って印象がまるで無い朝顔。みずみずしさを保った朝顔。
 咲いてる季節も時間も謎だ、と不思議に思って眺めていたら。



「おや、お客さんとは嬉しいね」
 家の中から、庭に出て来たご主人。会ったらいつも挨拶しているご近所さん。
 「綺麗に咲いているだろう?」って朝顔の花を指差したから、謎が解けるチャンス。変な季節に咲いてる朝顔、午後になっても咲いてる朝顔。
 正体を教えて貰わなくっちゃ、と垣根越しに顔を突っ込んだ。
「えーっと、この花…」
 なんていう花?
 とっても綺麗な紫だけれど、どういう名前?
「キース・アニアンだよ」
「えっ?」
 とんでもない名前を聞かされた、ぼく。
 花の名前を訊いたつもりが、そうじゃない名前を聞いてしまった。嫌と言うほど聞き覚えのあるキースの名前。前のぼくを撃った男の名前。
 ご主人はニコニコしているけれども、この花の名前、キースだったわけ…?



「…キース…?」
 ポカンと口を開けちゃったぼくに、ご主人は「そうだよ」と笑顔で応えて。
「キース・アニアンって言うんだけどねえ…。ああ、この花を知らないのかな?」
 花の名前を訊いたんじゃなくて、どういう植物か訊いたのかい?
「朝顔でしょ?」
 ちょっぴり季節が変だけれども、秋に咲くから秋朝顔?
 こんな時間にも咲いているけど、これって朝顔なんだよね?
「うーん…。朝顔みたいに見えるんだけどね、実は昼顔の一種なんだよ」
 だから昼間も咲いているんだ、って教えて貰った。
 ずうっとずうっと昔、この地域が日本って島国だった頃は西洋朝顔って呼ばれてたらしい。その頃には青い花を咲かせる品種が有名だった、って。
 ヘブンリー・ブルーとか、オーシャン・ブルー。ラッキー・ブルーに、クリスタル・ブルー。
 今でも青が、ブルーの花が多い、と言うから。
「ソルジャー・ブルーっていうのもあるの?」
「さあ…? ソルジャー・ブルーねえ、どうなのかな?」
 何を植えようか、と店に行った時に苗がズラリと並んでいてね。この花は種では増えないんだ。挿し木と株分けで増やすそうだよ。
 面白いな、と植えることに決めて、花の写真を見ながら選んで…。
 これにしよう、と気に入った花がキースだっただけで、他の品種は覚えてないねえ…。



 キースって聞いてビックリしたけど、ファンでも何でもないんだって。
 たまたま選んだ花がキースだっただけで、本物のキースは関係ないって。
 ほら、って根っこの辺りの地面から抜いて持って来てくれた札に、花の写真とキースの名前と。
「ホントだ、キース・アニアンなんだ…」
「この花は朝顔と違って、一度植えたら何年も咲いてくれるんだよ」
 冬になったら枯れるらしいけど、春に勝手に芽吹くんだ。
 枯れたように見えても蘇ってくる花でしぶといからねえ、キースなのかもしれないね。この花に名前を付けた人がどうしてキースと名付けたかまでは知らないけどね。
 しぶとい上に繁殖力も強いそうだよ、放っておいたらお隣さんまで行ってしまうほどに。
 そういう強さもキース・アニアンなのかもねえ…。
 花の性質から名付けてるんなら、ソルジャー・ブルーというのは無いかもしれないよ。しぶといイメージの人じゃないから、キースはあってもソルジャー・ブルーは無いんじゃないかな。



 ソルジャー・ブルーは無いかもしれない、と言われて納得しちゃった、ぼく。
 しぶとさだったら、断然、キースの方が上。
 普通の人なら死んでるよ、っていう局面を幾つも乗り越え、国家主席にまで昇り詰めたキース。どう考えても、傍目にはキースの方がしぶとい。
 前のぼくだって実は大概、しぶといんだけど。
 寿命が尽きそうだからジョミーを選んで後を託すと宣言したくせに、そこで死なずにナスカまで行って、挙句の果てにメギドを沈めたくらいなんだし…。
 だけど世間じゃそうは見なくて、ぼくは地球を見られずに死んでしまった悲劇の英雄。しぶといなんて言ってくれずに、儚く消えたというイメージ。
 だからブルーって名前が多い花にもソルジャー・ブルーの代わりにキース。
 青い花じゃなくて紫だけど。赤の混じった紫のキース。
 今年は秋から咲き始めたけど、来年からは夏にも咲くって。一年目だけが秋からの花で、二年目以降は朝顔よりも早いくらいの六月から咲いて、そのまま秋まで。冬が来るまで咲くという花。
 確かにキースだ、とってもしぶとい。
 一年で終わる朝顔どころか、何年も生きて花を沢山咲かせるだなんて。



(強すぎなんだよ、キース・アニアン…)
 家に帰って、おやつを食べながら思い出し笑い。
 うんと逞しくてしぶとい花に名前が付くほど、生命力に溢れたキース・アニアン。地球の男。
 ぼくがクスッと零した笑いに、通り掛かったママが気付いたみたいで。
「どうしたの?」
 何か楽しいことでもあったの、学校で?
「キース・アニアンだよ」
「なあに?」
 キースってなあに、今日はそういう授業だったの?
「ううん、あそこの…バス停の近くの家の朝顔。…昼顔?」
 名前を教えて貰ったんだよ、キース・アニアンっていうんだよ、って。
「あの花、そんな名前だったの?」
「うん。ビックリしちゃった、キースだなんて」
「よく怒らずに帰って来たわねえ…」
 いきなりキースだなんて言われちゃったら、ブルーはカチンと来るでしょうに。
 花の名前でもキースはキースよ、ソルジャー・ブルーの敵だったのよ?
「ぼく、キースのことは別に嫌いじゃないよ、っていつも言ってる」
「そうだけど…」
 ブルーはいつでも、そう言うけれど。
 撃たれちゃったのよ、あんなに酷い傷を幾つも幾つも…。それに右目まで。



 あんまりだわ、って悲しそうなママ。
 キースがソルジャー・ブルーを撃ったって話、ただの仮説で今でも根拠は無いんだけれど。
 ママはぼくの身体に現れた聖痕を見ているから。知っているから、言うのは分かる。
 酷い男だと、前のぼくに酷いことをした悪い奴だ、と思うのも分かる。
 でも…。
 ぼくはキースを嫌ってはいない。
 あの時のキースは自分の役目を果たしただけ。マザー・システムに忠実だっただけ。
 自分の生まれを知った後のキースはすっかり変わって、SD体制をも壊してしまった。ミュウの存在を認めるメッセージをスウェナ・ダールトンに託して死んだ。
 前のぼくを撃った時の、キースの強さ。揺るぎない意志。
 向けられる方向が逆になったら、彼の強さと正義感とはミュウの方へと味方した。異端と断じた筈のミュウへと、かつて自らが滅ぼそうとしたミュウの方へと。
 もしもキースの存在が無ければ、あれほどに早くSD体制を倒せたかどうかは分からない。
 キースだったから全てを変えることが出来たとぼくは思うし、だからキースは嫌いじゃない。
 彼に会えたなら、きっと今なら友達になれると思うから。



 だけどママは、ぼくのママだから。
 聖痕で血まみれになったぼくを見たから、心配になるっていうのも分かる。
 キースなんて名前、ぼくは聞きたくもないんじゃないか、って。
 ママの心配、取り越し苦労で、ぼくは全く平気で、元気。心配ないよ、って言わなくちゃ。
「えっと…。ぼく、本当にキース、嫌いじゃないから」
 強がりで言っているんじゃなくって、ホントだよ。ホントのホントに嫌いじゃないよ。
「なら、いいけれど…」
 それならママも安心だけれど。
 あの朝顔がキースだったなんて、どうしようかと思ったわ。
 見る度にブルーが腹を立ててたら、身体にも良くはないでしょう?
 腹が立つのにグッと我慢して、咲いているのを見ているなんて。
「ぼくがホントに腹が立つなら、我慢して見てないで丸坊主にするよ」
 垣根を越えて庭に入って丸坊主にしちゃうよ、あの朝顔のキース・アニアン。
「丸坊主って…。叱られるわよ?」
「そうだろうけど、子供の悪戯!」
 名前に腹が立ちました、なんて言わないよ。毟りたいから毟っただけだよ、悪戯なんだよ。
 叱られたら急いで逃げて帰って、後から謝りに行くんだよ。ごめんなさい、って。
「あらまあ…。ママも一緒に謝りに行くのね?」
「うんっ!」
 ぼくだけで行くより、ママと一緒の方がいいよね。
 反省してます、ママにもうんと叱られたんです、って言ったら許して貰えそうだし。
「はいはい、ブルーがやっちゃった時はママも謝ってあげるわよ」
 だから本当は腹が立つなら、やってもいいわよ、丸坊主。
 あれはキースなんだから仕方がないわ、ってパパにはママから言ってあげるから。



 どうしたわけだか、朝顔のキースを丸坊主にしちゃってもいいというお許しが出た。
(なんだか凄い…)
 おやつの後で部屋に帰って、その光景を想像してみた。勉強机の前に座って。
(あれを丸坊主にするなんて…)
 しぶとい朝顔のキース・アニアン。来年も咲く予定のキース・アニアン。
 それを根っこから引っこ抜くとか、蔓を全部毟ってしまうとか。生垣を越えて侵入して。
 そんな悪戯、やったことがないぼくだから。
 丸坊主もいいかも、って思っちゃう。
 如何にも悪戯っ子のやること、大事な朝顔を丸坊主。端から毟って丸坊主。
(やらないけどね)
 ママもパパも許してくれるだろうけど、ご近所さんだって謝れば許してくれるだろうけど。
 毟られちゃった花が可哀相だし、引っこ抜かれたら流石のキースも枯れちゃうし…。
 だけどちょっぴりワクワクする。
 ご近所さんの庭で悪戯しようと大暴れしている、ぼくの姿を思い浮かべたら。
 朝顔のキースと大格闘する、悪戯っ子なぼくを想像したら。



 せっせと朝顔退治をする、ぼく。
 朝顔になったキース・アニアンを倒すぼく。
 愉快だよね、って考えていたら、チャイムの音。門扉の脇のチャイムが鳴る音。窓から見たら、やっぱりハーレイ。ぼくに向かって手を振るハーレイ。
 そのハーレイが部屋に来たって、ぼくは朝顔を丸坊主にする悪戯が頭から抜けなくて。
「どうした、えらく楽しそうだな?」
 俺が来たから、っていうのとは少し違うようだが、いいこと、あったか?
「ちょっとね、悪戯」
 ママのお許しが出たんだよ。派手に悪戯してもいい、って。
「おいおい、なんだか穏やかじゃないな」
 何をしようと言うんだ、お前。それにお許しって、何をやらかすんだ?



 鳶色の瞳が丸くなったから、ぼくは得意で披露した。
 ご近所さんの朝顔を毟ってもいいとお許しが出たと、丸坊主にしてもいいんだと。
「ぼくがやっちゃったら、ママも一緒に謝りに行ってくれるんだよ」
「朝顔を丸坊主にするってか?」
「昼顔だけどね、ホントは朝顔じゃなくて」
 そっくりに見えるけど、ホントは昼顔。秋にも咲いてる朝顔なんだよ。
「何処のだ?」
「ハーレイが見たかどうかは知らないけれど…。バス停からウチの方に少し入ったトコだよ」
 ぼくは今日、気付いたんだけど…。紫の花が沢山咲いていたよ、帰ってくる時も。
「そういや、派手に咲いてたな。あそこで車を寄せていたんだ、向こうから一台来たもんでな」
 やたら元気な朝顔だな、と思ってたんだが、昼顔だったか。
 それなら咲いてて当たり前だな、おまけに秋にも咲く花だってか。
「あの花の名前、キースらしいよ?」
「なんだって!?」
「キース・アニアンっていう名前だったよ、ちゃんと札も見せて貰ったよ」
 でも、ご近所さん、キースのファンだから植えたわけではないんだって。
 これにしよう、って選んだ品種がキースだっただけで、ただの偶然。
 だけどビックリ、ご近所さんがキースを植えちゃうだなんて。



「なるほどなあ…。朝顔のキースが植わっちまったから、丸坊主なのか」
 どおりでお許しが出されるわけだな、丸坊主にしたいならやってしまえと。
「ママにね、腹が立たないのかって訊かれたんだよ」
 あんな所にキースの名前の花が咲いてるのを見ても大丈夫なの、って。
「そりゃあ訊くだろう、キースだけにな」
 お前、平気なのか?
 丸坊主だなんて言っちゃいるがだ、丸坊主にしに行くつもりなのか?
「やらないよ。悪戯はちょっぴり魅力的だけど、キースは嫌いじゃないからね」
 それに朝顔、可哀相でしょ?
 せっかく綺麗に咲いているのに、丸坊主なんかにされちゃったら。



 咲かせておいてあげないと、って言ったぼく。
 だけどハーレイの眉間に皺。いつもより深めの皺が寄ってる。
「お前はよくても、俺の方が腹が立って来たんだが…」
「ハーレイが?」
 なんでハーレイが腹が立つわけ、あの朝顔で?
「朝顔じゃなくて、そいつの名前だ。キースって名だ」
 俺はキースに貸しが山ほどあるからな。
 あいつが前のお前に何をやったか、知らなかったばかりに殴り損ねた。殴るどころか、ウッカリ挨拶しちまったってな、地球であいつに会った時にな。
 そうしてそのまま逃げられちまった、死んで何処かへ逃げやがった。
 一発殴ってやりたいもんだが、朝顔に化けて堂々と咲いてやがるとなったら腹が立つ。キースが朝顔に生まれ変わったわけじゃないだろうが、キースの名だけで腹立たしいぞ。
「丸坊主にする?」
 あそこのキースを、ぼくの代わりに丸坊主にしちゃう?
「いや、やらん。やりたい気持ちは山々なんだが…」
 お前の家に迷惑がかかりそうだしな。
 俺がお前の家にしょっちゅう通っているのは知られてるんだし、あの家だって顔馴染みだ。
 あの朝顔を丸坊主にしたなら、まずはお前の家に苦情だ、間違いない。次に学校といった所か。
 キースめ、よくもあんな所にはびこりやがって…!



「まだまだはびこると思うよ、キース」
 今年はどうだか分からないけど、繁殖力が凄いんだって。お隣さんまで伸びて行くほど育つって聞いたし、もっと大きく育つ筈だよ。
「ほほう…。なら、垣根まで出て来るのか?」
 今は庭の中だけで咲いてるようだが、いずれ垣根まで来るのか、あれは?
「今年は無理でも来年あたりは来るんじゃないかな」
 ご近所さんが蔓を切らなかったら、垣根でも沢山花が咲きそう。
「そうか、そいつは目出度いな」
 うんうん、垣根まで伸びて来るんだな、奴は。
「ハーレイ、なんだか嬉しそうだよ?」
「キースだと聞いてしまったからな」
 この際、八つ当たりだと言われたとしても。
 逃げやがったキースに仕返しするチャンスが俺の前に転がって来たってな。
「毟るつもり?」
 丸坊主にはしないって言っていたくせに、気が変わったの?
「それはやらんさ、お前の家にも学校にも迷惑はかけられないし…。だから待つわけだ」
 キースの野郎が俺の前まで出て来るのをな。
「垣根まで伸びて来ちゃった時?」
「そうだ」
 奴が垣根から首を出したら、年貢の納め時ってな。



 朝顔の花を一つ毟って引き裂きながら歩いてくる、って言ったハーレイ。
 キースの名前がついた朝顔の花を毟ると宣言したハーレイ。
「引き裂くって…」
 朝顔の花をビリビリと裂くの、潰しちゃうの?
「うむ。八つ裂きの刑というヤツだ」
 そうしてポイと捨ててくるのさ、何処かの家で肥やしになるよう生垣にでも捨てるとするか。
 本当を言えば、お前の目の前で処刑してやりたいくらいだが?
 しかし本物のキースじゃないしな、花には罪は無いからなあ…。キースの名前がついてるだけの朝顔なんだし、俺がコッソリ処刑しておく。
「そこまで嫌い?」
 キースの名前の朝顔の花を引き裂いちゃうほど、キースが嫌い?
「好きにはなれんな、いくらお前が許しててもな」
 あいつがお前に何をしたのか、今の俺はよくよく知ってるからな。
 あの野郎、俺たちが何も知らないと思って謝りさえもしなかったんだ。前のお前を撃ったということ。謝るどころか、おくびにも出さずに涼しい顔をしていやがった。
 そういう野郎だ、キースってヤツは。俺は一生、水に流してはやらないからな!



 よくも俺のブルーを撃ちやがって…、ってハーレイがブツブツ怒ってる。
 だけどキースはもういないから、朝顔のキースを処刑する、って。
 垣根まで蔓が伸びて来たなら、一輪、毟って八つ裂きの刑にしてやるんだ、って。
 前のぼくの仇、って怒る気持ちは分かるけど。
 キースを好きになれないっていうのも、分からないではないけれど。
(朝顔のキースを八つ裂きだなんて…)
 そうしたいほどに、前のぼくのことを大事に思ってくれてるハーレイ。
 キースを憎まずにはいられないハーレイ。
 前のぼくを想ってくれていることは嬉しいけれども、朝顔に罪は無いんだけどな…。
 たまたま、名前がキースなだけで。
 キース・アニアンって名前を付けられただけで、朝顔は何もしていないのにね…。



 ハーレイに命を狙われているとも知らない、朝顔のキース。
 垣根まで蔓を伸ばして咲いたら、花を一輪、毟られて八つ裂きにされちゃうキース。
(ぼくでも丸坊主にしないのに…)
 八つ裂きだなんて、って思っちゃうから。
 次の日、学校の行き帰りに見て、夕方にまた見に行ってみた。
 そろそろハーレイが来そうな時間なんだよね、って出迎えがてら。
(少し待ってハーレイが来ないようなら、今日は駄目な日…)
 ハーレイの仕事が早く終わってくれなかった日。ぼくの家には寄れない日。
 そういう日だって多いんだから、朝顔を見に行って戻るだけ。ほんのちょっぴり、夕方の散歩。
 外の風は少し冷たいけれども、風邪を引くってほどでもないから。
 のんびり歩いて朝顔の咲いてる家の所まで行ったんだけれど。
(まだ咲いてるよ…)
 昨日、ハーレイが見たって言ってたし、そうじゃないかとは思ったんだけど。
 薄暗くなって来てるのに咲いてる、朝顔のキース。
 元気いっぱい、萎みもしないで夕方の風に揺れてるキース。
(ホントにしぶとい…)
 流石はキース、って感心するしかない咲きっぷり。
 朝顔そっくりの花のくせして、秋まで咲いて。その上、朝から夕方になるまで萎まない花。
(うーん…)
 名は体を表す、って言葉はこういう時に使うんだろうか?
 キース・アニアン、秋に咲く朝顔。うんとしぶとい、秋の朝顔…。



 花を見たらすぐに戻るつもりが、ついつい立ち止まって覗き込んでいたら。
 クラクションが鳴って、車が停まった。ぼくの後ろで。
「おい、ブルー?」
 窓が開いて、ハーレイの顔が覗いた。薄暗くても分かる、前のハーレイのマントの色をした車の窓から。
「ハーレイ?」
「何してるんだ、こんな所で」
 もう夕方だぞ、散歩ってわけでもなさそうだがな?
「お迎え…。ハーレイが来そうな時間だな、って思ったから」
「ほう…。そいつは実に嬉しいな、と言いたいトコだが、アレを見に来たな?」
 其処の朝顔。今日も元気に咲いてやがるが、お前、キースを見に来たんだろう?
「うん…」
「やはり毟る!」
「ええっ!?」
「お前がキースを気にするとなれば、俺はますます腹が立つしな」
 たとえ朝顔のキースだろうが、キースはキースだ。俺にとってはキース・アニアンだ。



 早く垣根までやって来い、ってファイティングポーズを取ってるハーレイ。
 運転席から朝顔のキースを睨んで闘志満々の、スーツを纏ったキャプテン・ハーレイ。
 そう、ハーレイはキャプテン・ハーレイの貌になっていた。
 だけど「いつか倒してみせるからな」って、ぼくに片目を瞑った時にはいつものハーレイ。
 ちょっとおどけた、笑顔のハーレイ。
 朝顔のキースが垣根まで来たら、八つ裂きにするって言ったハーレイ。
 垣根に向かってファイティングポーズまで取っていたけど、何処まで本気なんだろう?
 キースが好きだか、嫌いなんだか…。
 朝顔のキースでも倒したいほど、今でもホントに嫌いっぽいけど…。
(キース、悪者じゃないんだけどね?)
 朝顔のキースも、本物のキースも。
 だってホントに悪者だったら、ぼくはキースの心配なんかしない。
 こんな夕方に朝顔のキースの様子なんかは見に来ない。
 本物のキースを悪者だなんて思ってないから、こうして朝顔を見に来たりする。
 ママが「丸坊主にしてもいいわよ」と言った朝顔のキースを、ハーレイが八つ裂きの刑にすると言ってた朝顔のキースを。



「こら、ブルー。いつまでボケッと朝顔を見てる」
 俺の方が先に行っちまうぞ、ってハーレイの車が動き出したから。
「待ってよ、ハーレイ!」
 家まで乗せてってくれないの?
 ぼく、お迎えに来てあげたのに。此処で今まで待っていたのに…!
「知らんな、お前が勝手に散歩に出て来て、偶然出会っただけってヤツだろ」
 家は近いんだから歩け、歩け。お前、学校だってバス通学でロクに歩いちゃいないだろうが。
 お前のペースで走ってやる、ってノロノロ運転で走り始めたハーレイの車。
 本当は隣に並んで歩きたいけれど、「危ないぞ」ってハーレイに窓から叱られたから。
 車の後ろを歩くことにして、ぼくにしては速足、急ぎの散歩。
 「置いて行ったら怒るからね!」って車に向かって文句を言いながら。
 バックミラーで見て笑ってるらしい、ハーレイの声が窓から漏れるのを聞きながら。



 そうやって車の後ろを追い掛ける途中、肩越しに後ろを振り返った。
 朝顔のキースが咲いている家。
 薄暗い中で、少し冷たい夕方の風に紫の朝顔が揺れている家。
 何も知らない朝顔のキース。秋だというのに元気一杯、しぶとい朝顔のキース・アニアン。
 冬になったら枯れるらしいけど、来年も芽吹いてぐんぐん蔓を伸ばすというから。
 垣根の所まで伸びて来たなら、ハーレイが一輪、毟って八つ裂きにすると言うから。
 ぼくは朝顔のキースにこっそり、心の中で声を掛けてやった。
(殺されちゃうから、垣根まで出て来ちゃ駄目だからね?)
 それから何食わぬ顔してハーレイの車についていく。濃い緑色の車の後ろに。



 ぼくが朝顔のキースを庇ったと知ったら、ハーレイは嫉妬で全部刈り込んじゃうかもしれない。
 花を一輪毟るどころか、蔓ごと、丸ごと。
 「お邪魔します」って庭にズカズカ踏み込んで行って、朝顔退治。
 「これには事情がありまして」なんて言い訳しながら、綺麗サッパリ、根こそぎ、全部。
 朝顔のキースは丸坊主になって、あの家の人はポカンと見ているだけだろうけど。
 あんまりハーレイが堂々としてて、怒るどころじゃないんだろうけど。
(ハーレイ、「すみませんでした」って頭を下げて、お菓子を渡して帰るんだよ)
 お詫びのお菓子まで用意しておいて、朝顔のキースを丸坊主。
 根っこから抜いて、二度と生えてこないように退治する。
 そんなハーレイの姿も、きっと嬉しい。
 嫉妬で朝顔のキース退治も、ぼくは嬉しくなるんだろう。
 大人げないけど、八つ当たりな上に嫉妬まで入っているんだけれど。
 ハーレイがぼくをどれほど大切に思ってくれてるか、朝顔が消えたら分かるから。
 朝顔のキースが丸坊主にされて消えてしまったら、キースの影だって消えるんだから。
 ハーレイとぼくと、手を繋いで二人で歩く未来にキースは要らない。
 お互いがいればそれで充分、キースなんかは朝顔の花でも出て来なくっていいんだから…。




          秋の朝顔・了

※秋に咲く朝顔の名前が「キース・アニアン」。きっと人気の品種なんだと思います。
 けれど、ハーレイにとっては憎らしい花。いつかは愛でられる日が来るんでしょうけどね。
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(さて、と…)
 明日は土曜日、ブルーの家に出掛ける日。
 今日は仕事が遅くなって寄れずに帰って来たから、帰宅時間はブルーの家に寄って来た日よりも数時間早い。その代わり、自分で夕食の支度から始めなければならないが。
 とはいえ、料理をするのは好きだし、食材を確かめて調理に取り掛かる。御飯が炊き上がる頃に合わせて出来上がるように。
(家で食事もいいもんだしな?)
 毎日では侘しくなってくるけれど、今の自分にはブルーという小さな恋人がいる。まだ幼くて、おまけにチビで。ブルーがいつも主張している十八歳での結婚が叶うかどうかは全くの謎。
 それでもいずれは結婚して一緒に暮らすのだから、その日を胸に思い描くだけで幸せになれるというものだ。いつかはブルーと二人の食卓、二人で食事。
(未来の嫁さんと週に何度かは一緒に飯だし…)
 ブルーの家で昼食と夕食を食べる休日、仕事帰りに寄って夕食。
 そういう機会も少なくはないし、お蔭で家で一人の食事も苦にはならない。
(メリハリがあっていいってな、うん)
 それに元々、気ままな独身生活を楽しんでいたのが自分だから。
 振り返ってみれば、一人の食卓が侘しいと思ったことなど一度も無かったような気もした。
(…するとブルーに出会ったばかりに、一人が続くと侘しいってか?)
 人の心とは面白いものだな、と苦笑した。
 なまじ恋人が出来たばかりに、一人きりの食事が続くと寂しくなるらしい。
 早くブルーと暮らしたいものだと、いつも一緒に食べたいものだと。



 そうは言っても、侘しさを感じてしまうほどにはブルーと離れていないから。
 週に何度かは一緒の夕食、ブルーの両親も交えた食卓。
 ゆえに一人で夕食を食べる日が訪れても、ブルーと出会う前の自分に戻ったかの如く、あれこれ料理を作ったりして楽しむだけの余裕があった。
 今日も出来立ての料理と炊き立ての御飯を並べて「いただきます」と合掌をして。
 ゆっくりと夕食を味わった後は、片付けを済ませてコーヒーも淹れた。
(ふうむ…)
 ブルーの家に寄った日ならば、この時間にはまだ帰宅していない。自分の時間がたっぷり取れる日、その上、明日は土曜で休日。
(一杯やるかな)
 やらねばならないことを済ませて、日記も書いて。それからのんびり酒を飲むのもいいだろう。
 よし、と立ち上がって書斎へ向かった。まずは仕事と、習慣の日記。



 すっかり馴染んだ羽根ペンで今日の日記を書き終え、引き出しの中へ。
 引き出しの中、前のブルーの一番有名な写真が表紙に刷られた、ソルジャー・ブルーの写真集。『追憶』というタイトルのそれに上掛けよろしく日記を被せて、「いい夢を見ろよ」と優しく語り掛けてやって。
 書斎の明かりをそうっと消してから、ダイニングの方へと戻ってゆく。
 一杯やろうと、一人の夜を満喫しようと。
(時間は充分あるんだし…)
 つまみに何か作ってみようか。
 チーズやナッツといった酒のアテは色々あるのだけれども、時間があるならひと手間かけたい。何にしようか、と考えながらキッチンに足を踏み入れた途端に閃いた。
 大根ステーキ。
 ガーリックも添えて、バター醤油で。



(熱々を食うのが美味いってな!)
 少し冷え始めた秋の夜には丁度いい。酒のお供にもピッタリの味。
 それに決めた、と大根を出して、二切れ切った。三切れでもいけるが、今夜は二切れ。皮を薄く剥き、下ごしらえはミルクを温めたり料理を温め直したりするレンジにお任せ。
 大根を加熱している間に、ガーリックを手際よく薄切りに。
 レンジが仕上がりを告げて来たから、フライパンの出番。
 油をひいて、大根とガーリックを一緒に焼いて。先に火が通ったガーリックを大根の上にヒョイヒョイと乗せた。放っておいたら焦げてしまうし、こうすれば大根に風味も移る。
(そろそろだな)
 大根を裏返し、ガーリックは大根の焼けた面の上へ。ジュウジュウと音を立てる大根をじっくり焼いたら、バターと醤油を全体に絡めて大根ステーキの出来上がりだ。
 もちろんガーリックを乗せておくのも忘れない。ガーリック風味が肝なのだから。



 飴色に焼き上がった大根ステーキ。
 ダイニングのテーブルで熱々を頬張る。酒を片手に寛ぎの時間。
 香ばしく焼けたガーリックが実に食欲をそそり、三切れ作っても良かったか、とも思った。夜は長いし、三切れにしておくべきだったろうか?
 暫く食べていなかったから、この味が如何に後を引くかを忘れていた。
(チーズを乗せても酒に合うんだ)
 ガーリックの代わりに、とろけるチーズ。
 大根は寒さへと向かうこれからの季節が美味しいから。ぐんと旨味が増してくるから。
 暑い季節には忘れ去っていた大根ステーキの出番も増えて来るだろう。
 夜食に、つまみに、大根ステーキ。



(夏だったら野菜スティックなんだがな)
 同じ大根のつまみでも、と考えた所で頭に引っ掛かったもの。
(野菜スティック…?)
 夏の間はよく食べた。旬のキュウリに、セロリやニンジン、大根などなど。
 ディップも自作で味噌を入れたり、バラエティー豊かに楽しんで味わっていたのだが…。
(前の俺も食ったな、野菜スティック)
 シャングリラの食堂でもよく出されていた野菜スティック。
 火を通さない生野菜は新鮮さが売りで、自給自足の生活が順調であることの証でもあった。畑で採れたばかりの野菜を切って揃えて野菜スティック。
 生野菜のサラダも定番だったし、火を通した野菜料理も色々と作られていたのだけれど。
(…大根ってヤツが無かったんじゃないのか?)
 そんな馬鹿な、と愕然とした。
 しかし記憶に全く無い。野菜スティックにも、サラダにも。他の料理にも無かった大根。お目にかかった覚えが無かった。あの真っ白な大根なるものに。



(大根だろう…?)
 さっき焼き上げて、頬張っている飴色の大根ステーキ。
 これも大根だし、料理に、おろしに、刺身のつまにと、大根の出番は非常に多い。
 今では欠かせない馴染みの野菜。
 買い出しに行けば、必ずと言っていいほど選んで買ってくる大根。
(まるで気付いていなかったぞ…!)
 あまりにも当たり前に日々の暮らしにある野菜だから。
 初対面とは思わなかった。
 青い地球の上に生まれ変わって初めて会ったとは気付かなかった。
(前のあいつも…)
 自給自足の生活になるまでは、食料品や物資を奪いに出ていたブルー。
 その頃は後のシャングリラでは作り出せなかった食材も豊富に揃っていたものなのだが、大根は一度も船に来ていない。前のブルーは人類の船から大根を奪ってはいない。
 恐らく、無かったのだろう。
 大根という野菜自体が、それを食材と認識するような食文化が。



(で、どうなんだ?)
 実際の所はどうだったろう、と食べ終わった後で書斎に戻って調べてみれば。
 やはり無かったらしい大根。
 植物としては種の保存のためにと残されていても、食べる文化が何処にも無かった遥かな昔。
 前の自分が生きた頃には、大根は食卓に上らなかった。SD体制とマザー・システムが消した。
 ゆえに前の自分は大根を知らず、食べたことすら無かったわけで。
(なんてこった…!)
 今の今まで気付かなかったとは恐れ入る。
 シャングリラでは調理人だったくせに、と自分で自分に呆れ果てもしたが。
(…厨房は初めの頃だけだしな?)
 キャプテンになった後なら、厨房のことは管轄外だ。食料の管理は係がいたし、前の自分は届く報告に目を通すだけ。食料が足りているか否かをチェックするだけ。
 いや、しかし…。
(食料はともかく、農作物の出来のチェックも…)
 それもキャプテンの仕事だった。
 作物の出来や、次に作る作物は何にするか、といった報告も見ていた筈で。
(たまに畑も見回っていたし、シャングリラで何を栽培してるか、俺は知ってた筈なんだ)
 把握していたのに、なんたる迂闊さ。
 これほどの大物にまるで気付いていなかったとは。
 野菜売り場では直ぐに目に入る、独特の姿の大きな大根。
 それがシャングリラに無かった事実に、今まで気付きもしなかったとは…。



(ブルーも気付いていないだろうなあ…)
 明日の話題にしたいものだが、相手は大根。
 どうやって話を持って行ったものか。
 単に「大根は無かったんだぞ」と話すだけでは面白味に欠けるし、新鮮さも無い。ここは大根を持ってゆきたい所だけれども、丸ごとの大根を提げて出掛けるのは些か間抜けだ。
(かと言って、俺の手料理というのもマズイしなあ…)
 調理された大根を手土産にしたい、と考えたものの。
(おでん大根…)
 咄嗟に浮かぶものはそれくらい。
 持ち帰りも出来る近所の食堂で美味しそうに煮えているけれど。大根だけでも買えるけれども、おでん大根はおやつではない。お菓子代わりに食べられはしない。提げてゆくなら昼食におでん。
(おでんだと焦点がボケそうだしなあ…)
 大根のために買って来たのだ、と告げても大根の影が薄すぎる。他の具材の方に目が行く。
(俺は大根を強調したいんだが…)
 やはりおでんの大根だけを持って行くしかないのだろうか?
 練り物や玉子を入れて貰う代わりに、おでん大根ばかりを買って昼食用に提げてゆくとか。少々偏った昼食になるが、それしかないか、と首を捻って。
(待てよ?)
 そうだ、と閃いた別のアイデア。それにしよう、と頷いた。
 明日はこれだと、これを土産に持って行こうと。



 次の日の朝、ブルーの家を訪ねる土曜日の朝。
 朝食を終えて、いい天気だから歩いて出掛けてゆく途中。
 近所で人気の中華料理の店の前へと差し掛かった。店主の方針で朝が早いから、営業している。店に入って、目当ての品があるのを確認してから注文をした。
「二つ下さい」
 持って帰るので、と言えば包んで袋に入れてくれた。それを提げてブルーの家まで歩いて、門を開けに来たブルーの母に「買って来ました」と渡して中身を説明して。
 二階のブルーの部屋に案内されて椅子に腰掛けた後、ジャスミンティーが運ばれて来た。それと先刻、渡した手土産。温めて貰った大根餅。



 この家では珍しいジャスミンティーの香りがふわりと漂い、大根餅の匂いと混ざり合う。
 ブルーはキョトンとした表情で大根餅を指差した。
「なに、これ?」
 ママが「ハーレイ先生が下さったのよ」って言っていたけど、何なの、これ?
「大根餅だが」
 食ったことないか、大根餅。美味いんだぞ。
「大根餅なら知っているけど…。此処、美味しいの?」
 評判のお店の大根餅なの?
「まあ、食ってみろ」
「ふうん…?」
 ブルーは素直に一口齧って、「美味しい!」と顔を綻ばせた。
「そりゃ良かったな。俺の近所じゃ人気の店の大根餅だ」
「お土産なんだね、ありがとう!」
 これ、美味しいから、他にも美味しいものが色々ありそう。またお土産に買って欲しいな。
「ただの土産じゃないんだがな」
「えっ?」
 どういう意味なの、これって特別?
 今日だけの限定品で次に行っても売ってないとか、そういう特別な大根餅…?



「その大根。お前、変だと思わないか?」
「大根餅が?」
 やっぱり特別? 何か珍しい材料とかが入っているの?
「いや、俺が言うのは大根だが」
「大根餅には大根でしょ?」
 何処が変なの、この大根餅、変わった大根を使って出来ているとか…?
「ごくごく普通の大根だろうと思うがな?」
 しかしだ、当たり前で普通な大根ってヤツ。
 前の俺たちはそいつを知っていたか、ということだ。
 いいか、よくよく考えてみろ。シャングリラでは大根を普通に食っていたのか?
「あっ…!」
 確かに変かも、大根を食べるなんていう話を前のぼくが聞いても何のことだか分からないよ。
 大根がお店に並んでいたって、食べるものだとは思わないかも…。
「ほら見ろ、大根、変だったろうが」
 前の俺が大根を渡されて、食えるものだと聞いたなら。
 それなら料理も工夫しただろうが、何も知らずに大根だけを前にしたなら、料理はしないな。
 食えるかどうかも分からないんだし、毒でもあったら大変だからな?
 他に食うものが何も無いとか、そういう状況に追い込まれた時は毒の有無を調べるトコからだ。間違ってもいきなり料理はしないし、試作品だって作らないってな。



「そっか、大根…。毒かどうかも分からないんだね、前のぼくたち」
 美味しそうに見えても毒のあるもの、沢山あるし…。大根なんかはホントに謎だね、見た目じゃ判断つかないどころか、食べ方だって見当つかないよ。
 今のぼくなら、大根の食べ方、分かるんだけど…。
 大根無しなんて考えられない食べ物も沢山あるんだけれど…。
「俺もだ。大根がメインの料理も今では作るわけだが…」
 ゼルたちだと、大根はどうだかなあ…。
 メインでなくても食わないかもなあ、大根を出してやったって。
「えーっと…。メインでなくても食べないだなんて、お刺身は?」
 大根はつまで添えてあるだけだよ、好みで食べればいいんだよ?
「あいつらが刺身を食うと思うか?」
 生の魚だぞ、大根以前に刺身自体が駄目だと思うが。
「大根おろしは?」
「ヘルシーだろうな、ドレッシングに入れてもいいしな」
 だがな、大根おろしが合うドレッシング、前の俺たちの時代にはまるで無かったぞ?
 そして大根おろしを添えた焼き魚を出したとしたって、大根おろしだけが残っていそうだ。
 これは食えんと、魚の味が薄くなるだけだ、とな。



「大根おろしも食べないだなんて…」
 まさかゼルたち、大根は全然食べられないとか?
 前のぼくでも困りそうではあるけれど…。あの頃に大根おろしとかがお皿に載っていたら。
「ちょっと変わった食い物ってことで、挑戦してみて口に合うとしたら、だ」
 大根ステーキくらいじゃないか? レシピによっては美味いと思うのもあるだろうさ。
 でなけりゃ野菜スティックだな。それこそディップやドレッシングで好きに出来るしな。
「そうなっちゃうの?」
 大根の食べ方、大根ステーキか野菜スティックくらいってことになっちゃうの?
「思い切り馴染みが無いからな」
 普段の食い物の味に近付けるしかないってこった。ソースの味とか、ディップの味でな。
「でも、大根…。おろしでもつまでも、アルタミラの餌よりマシだと思うよ?」
 少なくとも生の野菜なんだし、あんな餌よりずっとマシだよ。
 野菜スティックだって餌よりはマシで、ちょっとは野菜を食べてる気分。
「マシどころか実に美味いんだがなあ、大根ってヤツは」
 生だと美味さに限界があるが、料理してやりゃ食い方は色々あるってな。
 そいつを知らずに生きていたとは、前の俺たちはどれほどの損をしていたんだか…。
 まさかシャングリラに無かったなどとは思わなかったさ、大根っていう野菜がな。



「ホントだね…。今のぼくには当たり前の野菜なんだけど…」
 ママが買って来ても、わざわざ「なあに?」って訊かなくっても、大根だって分かるもの。何を作るのかな、って考えるだけで、大根を変だとは思わないもの。
「俺もそうだな、自分で買い物に出掛けて行っては大根を買っているからな」
 もうすぐ切れるから買っておかんと、と迷わずに買って帰る野菜だ。大根があるのと無いのとで飯の美味さも変わっちまうぞ、ここで大根おろしがあれば、っていう風にな。
 大いに使える野菜だがなあ、前の俺が全く知らなかったとは呆れるより他にないってもんだ。
「そうだよね…。前のぼくだって同じだよ」
 大根、シャングリラに似合いそうなのに…。シャングリラっぽい野菜なのに…。
「はあ?」
 シャングリラっぽいって、大根がか?
 大根の何処がシャングリラっぽくて、シャングリラに似合いそうなんだ?
「白いトコだよ、真っ白なトコ」
 シャングリラは白い鯨なんだよ、だから真っ白な大根が似合うと思うんだけど…。
 ああいう真っ白な大きな野菜はシャングリラの畑に無かったよ?
 白い大根が畑でドッサリ育っていたなら、シャングリラのシンボルになりそうなのに。
 シャングリラは大きな白い鯨で、畑には白い大根なんだよ。



「なるほどなあ…」
 あの頃には大根を食おうって文化が無かったんだし、大根畑は無理そうだが…。
 大根がシャングリラに似合うというなら、今度シャングリラに挑戦するかな、大根で。
「シャングリラ?」
 大根でシャングリラに挑戦するって、何をするの?
 シャングリラはもう何処にも無いのに、大根なんかで何をするつもり?
「ちょいと彫刻してみるのさ」
 野菜彫刻だ、ベジタブルカービングっていうヤツだ。
 大根は木よりも柔らかいしな、そいつでシャングリラを彫ろうかと…。
「そんなの出来るの?」
 前のハーレイ、木彫りは下手くそだったじゃない。
 大根だったら上手く彫れるの、ちゃんとシャングリラが出来上がるの?
「さてなあ、ベジタブルカービングはやってみたことがないからな」
 大根を綺麗に細かく彫ってあるのとか、そういった写真を見たことがあるというだけで。
 ついでに今の俺は木彫りも全くやっていないし、カンが戻るかどうかも分からん。
 だが…。
 上手くシャングリラが彫り上がったとしても、食っちまうのはあんまりかもなあ…。
 しかし野菜を無駄にするのも勿体ないから、其処が悩ましい所だな。
「煮込んだら白くなくなるよ?」
 大根で彫ったシャングリラ。お醤油たっぷりのお出汁で煮込めば、もう白くないよ。
 白くなければ食べても問題ないんじゃないかな、白い鯨じゃないんだから。
「茶色く汚れたシャングリラか?」
 確かにそいつはシャングリラじゃないし、偽物だな、と思って食えるが…。出汁の味がしみてて美味いんだろうが、汚れちまったシャングリラなあ…。
「シャングリラじゃないでしょ、白くない鯨」
 あちこち補修が必要な時は、ちょっぴり茶色い部分も出来てはいたんだろうけれど…。
 丸ごと茶色くなるようなことは無かった筈だよ、だからお出汁で煮込んでしまえば平気だよ。
 白くない鯨は、もうシャングリラじゃないんだから。



 大根を彫って出来たシャングリラは煮込めばいいよ、とブルーが微笑む。
 そうすれば遠慮なく食べてしまえるし、大根も無駄にはならないから、と。
「だけど、ハーレイが大根でシャングリラを作るんだったら…」
 ぼくも見たいな、大根で出来たシャングリラ。
 ハーレイの木彫りの腕は知ってるし、シャングリラに見えないかもしれないけれど。宇宙遺産のウサギみたいに、目指したものとは別になっちゃうかもしれないけれど…。
「おいおい、ナキネズミがウサギに化けたみたいに、シャングリラも別物になるってか?」
 ギブリくらいで済んだらまだマシで、鯨どころかウナギになるかもしれないってか?
「ウナギだったら、まだ魚だけど…」
 白いからハツカネズミとか。下手に彫ったらハツカネズミが出来上がりそうだよ、大根の。
「こらっ、お前は俺がヘンテコな失敗作を作る方向で期待しているな?」
 ウナギが出来るか、ネズミが出来るか。
 シャングリラなんて出来やしないから、うんと笑おうと思って「見たい」と言っているんだな?
「笑うだなんて言っていないよ、ハーレイの彫刻が見たいんだよ!」
 ベジタブル…カービングだっけ、野菜の彫刻。
 今のハーレイ、木彫りはしないって聞いているから、もう見られないと思っていたけど…。
 楽しそうに木彫りをしていたハーレイ、また見てみたいと思ったんだよ、野菜でいいから。
 大根を彫ってるハーレイでいいから、ナイフ片手に彫刻するトコ。
 それを見たいよ、下手くそだなんて馬鹿にしないから。
 シャングリラがウナギやネズミになっても、ちゃんとシャングリラだと思って見るから。



「そう来たか…」
 俺が彫刻している所を見学したい、と、そういうことだな?
 木彫りじゃなくてもかまわないから、何かを彫ってる俺の姿を。
「うん。大根を彫ってるハーレイでいいよ、懐かしいな、って見学するから」
 前のハーレイも彫ってたよね、って。
 今度のハーレイは大根を相手に彫っているけど、やっぱりハーレイはハーレイだよね、って。
「ふうむ…。なら、結婚してから大根に挑戦してみるとするか」
 お前もゆっくり見学できるし、あれこれ口も出せるしな?
 そんな風に彫ったらウナギになるとか、ネズミになるとか、好き放題に。
「ハーレイが真剣に彫っているのに、横から悪口は言わないよ?」
「馬鹿。俺は楽しんで彫っているんだ、お前が黙って見ていちゃ、つまらん」
 凄いだろう、と感想を求めて訊いてやるから、お前は好きなように言えばいいのさ。
 下手くそだとか、とてもシャングリラには見えないだとか。
 せっかく今度は結婚するんだ、遠慮しないで悪口もどんどんぶつけるといい。
 もちろん俺だって黙っちゃいないぞ、言いたい放題、言い返すからな?
 そうやって二人で作ろうじゃないか、大根彫刻のシャングリラ。
 お前が余計な口を出すからウナギになったとか、ネズミに化けてしまったとかって責任逃れだ。
 そしてお前は俺の腕が下手だと詰ればいいのさ、生まれ変わっても変わりやしないと。
 ナキネズミがウサギに化けるだけあって今度も酷いと、これはウナギだ、ネズミなんだと。



「ふふっ、そういうのも楽しそうだね」
 ハーレイが大根でシャングリラを彫るの、凄く楽しみになってきたかも…。
 ウナギやネズミに化けてしまうの、お互いのせいにするんだね?
 ハーレイはぼくのせいだって言って、ぼくはハーレイが下手だって言って。キッチンか何処かで喧嘩しながら大根のシャングリラが出来上がるんだね?
「うむ。俺は精魂こめて彫るから、そりゃあ立派なヤツが出来るさ」
 ウナギに見えるかネズミかは知らんが、シャングリラだ。
 大根で作った食えるシャングリラが出来上がるんだし、後は二人で食うだけだってな。
「いいね、お鍋に入れてみる?」
「鍋か…。澄んだ出汁なら汚れないから、白いシャングリラのままなんだが?」
 白けりゃ偽物のシャングリラにならんし、良心が痛む気もするが…。
「二人で食べるんならいいんじゃない?」
 白いシャングリラでも、ハーレイとぼくが食べるんだったら。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイがお鍋にしたなら、許されそうだと思うけど…。
 だから食べようよ、分けて、二人で。
「俺たちが食うならかまわないってか?」
 そうかもしれんが、どう分けるんだ?
 ウナギだかネズミだかに見えるシャングリラを二人で食うなら、どう分ければいい?
「えーっと…。切り方はハーレイに任せるよ」
 キャプテンなんだもの、シャングリラのことならキャプテンが決めるのが一番だよ。真っ二つに切るとか、三つに切るとか、食べやすいように切ってくれればいいと思うな。



「分かった、俺が決めるんだな?」
 シャングリラの命運は大根になっても俺が決める、と。此処で切るかと、こう分けるかと。
 どうせなら大きな大根を買って彫刻してみるか、とハーレイは笑う。
 何処で切ろうか悩むくらいの大きなシャングリラが彫れる大根。
 そういう大きな大根を彫って、ブルーが横から口出しをして。
 二人で賑やかに楽しく言葉を交わして、大根彫刻の白いシャングリラが出来上がる。どう見てもウナギやネズミでしかない、シャングリラ。鯨に見えないシャングリラ。
 大きな大根彫刻なのだし、あれこれと料理してみるのもいい。
 彫る時に出来た沢山の欠片は野菜サラダや味噌汁の具に。
 シャングリラはハーレイが幾つにも切り分けて、鍋や煮物などに。



「ねえ、ハーレイ。大根ステーキも美味しそうだね」
 ハーレイが昨日、作っていたっていう大根ステーキ。
 白い鯨じゃなくなっちゃうけど、白くなくなっちゃうけれど…。
「デカイ大根を飽きずに食うなら、そいつも俺のお勧めではある」
 鍋でも煮物でも大根ばかりじゃ飽きが来るしな、一部は大根ステーキにするか。
 酒のつまみに丁度いいんだ、お前の場合は酒は無理だし夜食だな。
 俺と二人でのんびりと食うか、シャングリラを切り分けた大根ステーキ。
「うん、食べたい!」
 ウナギかネズミか分からないけど、シャングリラだもの。
 ハーレイが彫った大根彫刻のシャングリラだもの、お酒も飲まなきゃ。
 お疲れ様、って、慰労会。
 大根彫刻、とっても大変だったよね、って。

 

前のハーレイもブルーも知らずに終わってしまった大根なる野菜。
 今では馴染みの野菜の大根。
 それと前のハーレイの趣味だった木彫りを合わせて、大根彫刻のシャングリラ。
 ウナギが出来るかネズミが出来るか、ブルーと二人で笑い合いながらハーレイが彫って。
 出来上がったら幾つにも切って、鍋に煮物に、彫った時の欠片は味噌汁などに。
 そうして料理を堪能したなら、大根ステーキで慰労会。
 ハーレイの酒の肴を作って、大根彫刻の慰労会。
 切り分けた大根のシャングリラの上にチーズを乗せたり、バター醤油で絡めたり。
 ブルーは酒は飲めないけれども、ハーレイの隣で夜食を頬張る。
 大根彫刻のシャングリラが化けた、ハーレイお手製の美味しい大根ステーキを…。




         知らない大根・了

※大根を食べる文化が無かった、シャングリラの時代。もちろん大根ステーキも無しで。
 今は大根を彫ってシャングリラが作れる時代です。上手く彫れたら綺麗でしょうね。
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