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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

 学校から帰っておやつを食べながら、ふと見たダイニングのテーブルの上。端っこの方に普段は無いもの。おやつの時間には消えているもの。
 お塩と胡椒と。
 二つお揃いのガラスの器で、胡椒はペッパーミルになってる。
 おやつにお塩と胡椒は要らない。食事だって要るとは限らないから、使う時だけ棚から出て来る筈なんだけれど。
(ママ、仕舞い忘れた?)
 きっとそうなんだ。
 ぼくが学校に行っている間にお昼御飯を一人で食べて、そのまんま。
 お買い物に出掛けて忘れちゃったか、お客さんがチャイムを鳴らしたか。お皿とかをキッチンに持ってった後でテーブルを拭いていたなら、忘れちゃうこともあるだろう。
 後で、って思って、それっきり。
 テーブルの端っこに乗っかってたって、特に邪魔にはならないんだから。
(ママのお昼御飯、何だったのかな?)
 ぼくは学校でランチ定食、今日は大好きなハンバーグを食べて来たんだけれど。
 お塩と胡椒は使わなかったし、ママが一人でハンバーグってことも無いんだろうし…。
(スパゲティとか?)
 茹でて、好みの具材やソースをかけて。仕上げにお塩と胡椒っていうのは如何にもありそう。



 ママが置き忘れたペッパーミル。
 ガラスの器の中に詰まった色とりどりの胡椒の粒たち、ママのお気に入り。
 黒いの、白いの、それから赤いの。緑色のも混じってる。熟した時期とかで違うんだっけ?
 とにかく色々、いろんな色をした胡椒のミックス。
 ぼくの家では食卓にはこれ。もう一味、って時にはガリッと挽いて。
 シチューに振ったり、使い方は一杯あるんだけれど。
 ママのお昼御飯はスパゲティだったかも、って考えちゃったら。



(トォニィ好みのスパゲティ…)
 そういう謳い文句の料理があったっけ、って可笑しくなった。
 前にハーレイに食べに出掛けて貰ったシャングリラの歴代ソルジャーの食事。それの再現という楽しいイベント。
 レストラン部門を併設しているパン屋さんの企画で、この町では人気のチェーン店。ハーレイの家の近所にもあって、偶然チラシを貰ったとかで、ぼくの家まで持って来たんだ。
 前のぼくの分は、よりにもよってアルタミラの餌だったオーツ麦のシリアルがメイン。目玉焼きなんかもついていたけど、メインは餌。
 どんな感じか知りたかったから、ハーレイに頼んで行って貰った。アルタミラの餌はヘルシーが売りなだけで味は最悪、流石のハーレイも嫌だったみたい。「あれだけは無理だ」って呻いてた。
(でも、トォニィのはリンゴのタルトまでついてたんだよ)
 ハーレイは食べていないけれども、チラシで見たから知っている。トォニィが好きだったというスパゲティ。根拠はトォニィへの当時のインタビュー。
 お塩と胡椒だけで味付けしたスパゲティ、ってことになっていた。リンゴのタルトも好物って。
 とてもシンプルな、お塩と胡椒だけのスパゲティ。
 もっと色々なスパゲティの食べ方、沢山ありそうなんだけれども。



(お塩と胡椒があれば、大抵…)
 スパゲティに限らず、パラッと一振り、魔法みたいに美味しさが増す。
 ある意味、調味料の王様みたいなお塩と胡椒。
 それだけで味付けしたスパゲティが本当にトォニィの好みだったら、案外、グルメだったかも。あれこれ工夫を凝らしたものより、スパゲティ本来の味を生かした食べ方が好みだったなら。
(忙しくって食べてる時間がありません、ってわけじゃないものね?)
 それはジョミーの方だった。
 食事を再現するイベントの時も、「昼食を摂る時間が無い日に食べた」と謳ったサンドイッチがメインになったほどに。
 トォニィは最後のソルジャーなんだし、多忙と言ってもたかが知れてる。スパゲティをゆっくり味わう時間くらいは充分にあった。食材だって豊富に手に入ったろうし…。
(グルメなソルジャー?)
 スパゲティは色々食べて来たけど、お塩と胡椒が一番いい、って言ったとしたなら通だと思う。いわゆるグルメ。他のスパゲティは食べ飽きました、っていう感じ。
(かっこいいかも…)
 スパゲティにお塩と胡椒だけ。それが大好きだったソルジャーだなんて。



(お塩と胡椒…)
 ペッパーミルの中、赤や緑や白の胡椒の粒。食卓に欠かせない胡椒。
 和風の食事とかだと要らないけれども、お料理によっては無くてはならない調味料。
 キッチンにだって常備してあるし、ママがお料理に合わせてブラックペッパーだとか、ホワイトペッパーって使い分けてる調味料。
 お料理用ならハーブソルトも置いてあるけど、必ず胡椒が入ってる。ローズマリーとかタイム、セージなんかといったハーブと一緒に、胡椒も入る。
(お塩だけだと…)
 ちょっぴり足りない、料理の味付け。
 もう一味、って時にお塩じゃ話にならない。それだと塩辛さが増すっていうだけ。アクセントが欲しいなら、お塩だけでは駄目なんだ。胡椒をパラリと、それが大切。
 だけど…。
(…シャングリラには胡椒、無かったんだよ)
 胡椒が無かったんだっけ、って考えながらおやつを頬張った。
 当たり前のような顔してテーブルに乗ってる、ママが仕舞い忘れたペッパーミル。
 これが無かった船だった、って。
 色とりどりの胡椒どころか、一粒の胡椒も無かったっけ、って。



 おやつを食べ終えて、お皿やカップをキッチンのママに返しに行って。
 二階のぼくの部屋に戻って、勉強机の前に座って考えの続き。
(今じゃ胡椒は普通なんだけど…)
 この家の子供に生まれて来てから、胡椒が無くって困った覚えは一度も無いんだけれど。小さい時には胡椒なんかは食べていなかったけれど、それでも家には在った筈。パパやママが使っていた筈の胡椒。お料理に、食べる時にパラッとアクセントに、って。
 そういう便利な胡椒が無かったシャングリラ。
 ほんのちょっとの間だけだったけれど、胡椒は無かった。
 船の中の何処を探し回っても、胡椒は存在しなかったんだ。



 シャングリラを本物の楽園にしよう、って自給自足を目指した船。
 人類から奪って生きていたのでは自立出来ないと、船もそのために大きく改造するのだと。
 もう奪わない、って決めた時には大量の岩塩を備蓄していた。小惑星から採った岩塩。
 人間には塩分が必要なのだと、お塩があったら生きて行ける、と。
 それで充分、食事にはこれで足りる筈だと思ったのに…。



「やっぱり一味足りないねえ…」
 ブラウがぼやいた。
 何か足りないと、何処か物足りないような気がしてならないと。
「贅沢は言わんが、やはり足りんのう…」
 どうも何かが、ってゼルも言ったし、ぼくにもそういう気持ちは分かった。
 自給自足の食生活を始めて、暫く経ったらブチ当たった壁。
 深刻な問題じゃないんだけれども、食事する度に引っ掛かってくる違和感とでも言うのかな?
 もう少し、って感じる味。
 決して不味いとは思わないけど、足りない何か。
 それが何なのか、よく分からない。何故なのか理由が掴めない。
 トマトを煮込んでベースにしたって、なんだか足りない。お塩はきちんと入っているのに。
 これは困った、とぼくも思ったから、ゼルやヒルマンたちに招集をかけた。
 いずれは家畜も飼う予定なのに、一味足りない味のままでは大変だから。
 きちんと原因を究明せねばと、何が足りないのかと長老会議。
 当時は長老って呼ばれるほどには年寄りじゃなかった彼らだけれど。



 ゼルにヒルマン、ブラウにエラ。それにキャプテンのハーレイと、ソルジャーのぼく。
 シャングリラの改造は順調だったし、それに関する議題についても話し合った後で。
 ぼくは「ところで…」と話題を変えた。
 食事に一味足りなくはないかと、どうもそういう気がするけれど、と。
 直ぐに反応したのはゼルで。
「うむ。塩さえあったら充分じゃろうと思ったんじゃが…」
 何か足りない気がするのう…。トマトをたっぷり使ってあっても、どうも何処かが違うんじゃ。
「あたしも全く同感だね」
 塩味が足りていないんじゃあ、って足してみたけど辛くなっただけさ。
 まったく何が足りないんだか…。最低限の砂糖は確保出来てる筈なんだけどね?
「ふうむ…。私は心配していたのだがね」
 気がかりだった、とヒルマンが言ったら、「私もです」とエラが頷いたから。
「どういうことだい?」
 ヒルマン、君には予想がついていたのかい?
 こうなるだろうと、塩だけがあっても駄目なのだと。
 分かっているのなら、その原因を話して貰って解決策を急いで考えないとね。



「これだ、と思うものならあるねえ…。ハーレイ、君なら分からないかね?」
 どうして一味足りないのか、とハーレイに視線を向けたヒルマン。
 何故ハーレイに訊くんだろう、と不思議だったけれど、ハーレイは意外にも口を開いて。
「もしかしたら…、とは思いますが」
 推測の域を出ないのですが、これではないか、と思うものなら確かにあります。
「何なんじゃ、それは?」
 わしにはサッパリ分からんというのに、ハーレイ、お前は分かるとでも?
「…当たっているかどうかは謎ですが…。胡椒ではないかと」
「胡椒だって?」
 ぼくは思わず声を上げてた。
 胡椒と言ったら、人類から奪って生きていた頃は食卓にあった調味料。パラリと振ってただけの代物で、細かい粉だとクシャミが出たり。
 そんなものが重要なんだろうか、と思ったけれど。
 ハーレイは真面目な顔で続けた。足りないものとは胡椒なのではないだろうか、と。
「厨房に居た頃、料理と言ったら塩と胡椒でした」
 下拵えの段階で使う時もあれば、料理の途中で入れる時も。もちろん仕上げも塩と胡椒です。
 味見してから塩を足したり、胡椒を振って味を整えたりと。
 塩だけでは足りないということになれば、胡椒だろうと思うのですが…。



「なるほどのう…。塩と胡椒はセットじゃった、と」
「言われりゃそうかもしれないねえ…」
 あたしも胡椒を振ってたもんだよ、胡椒がテーブルにあった頃はね。
 だけど好みで振ってたんだし、無くてもいいかと思ったけどねえ…。料理する時点で塩と胡椒を使っていたなら、足りないのはやっぱり胡椒かねえ?
「それで正解だよ、ハーレイの言う通り胡椒なのだよ」
 入れるだけで料理の風味が変わる。魔法のように料理を美味しくするから、遠い昔には貴重品とされていたらしい。遠く離れた別の国からの輸入品でね。そうだったね、エラ?
「ええ。胡椒は金と同じくらいに貴重だったということです」
 同じ重さの金と取り引きされたと言います、それだけの価値があったのです。
「金と同じって…。そこまで貴重なものだったのかい?」
 唖然とした、ぼく。
 たかが胡椒と思ったけれども、金と同じじゃ凄すぎる。
 でも、ヒルマンとエラは「そうだ」と答えた。遥かな昔は本当に金と同等の価値があった、と。
 王侯貴族のための食卓から始まった胡椒の歴史。
 肉に、魚に欠かせないスパイス、料理を美味しくする調味料。防腐作用もあったという。
 塩も高価なものだったらしくて、胡椒と合わせて専用の凝った容器が作られたほど。
 食卓に豪奢な塩と胡椒入れ、塩と胡椒は料理を美味しく食べるために欠かせない品だったから。



「それじゃ、塩だけじゃ物足りない料理を美味しくしたかったら…」
 胡椒が必要だということかい?
 塩や砂糖だけではまるで駄目だと、胡椒を入れない限りは駄目だと…?
 ぼくがそう訊いたら、ヒルマンは「うむ」と答えを返した。
「解決するには胡椒しか無いということになるね」
 シャングリラで胡椒を栽培する。それ以外に道は無いのだろうね。
「胡椒は育てられるのかい?」
 この船の中で、胡椒の栽培は可能なのかい?
「暖かい地方の植物だからね、温室があれば育つだろう」
 ゼル、温室は作れそうかね?
 胡椒専用の温室などは改造計画には入っていなかったが…。
「そのくらいのことは可能じゃろう。農業用のスペースは充分に取っておるからな」
 要るんじゃったら早速、設計に取り掛からんとな。
 どのくらいの大きさがあればいいんじゃ、その温室は?



 ヒルマンは胡椒の性質などを話し始めた。
 蔓だけれども、育てば蔓は木の幹のように堅くなるらしい。支柱を作って巻き付けて育て、人の背丈の倍以上の高さになった辺りで成長は止まる。
 それから後はかなりの年数、同じ蔓から胡椒を収穫できるけれども。
「ただし、問題が一つあってね…」
「なんだい?」
「種から育てても、上手くいかないらしいのだよ」
「そいつはおかしいんじゃないのかい?」
 種じゃないか、とブラウが割って入った。
 胡椒があった頃には種のようなものを挽いて料理に振りかけていたし、胡椒は種だと。
 なのに種から育たないだなんて、記憶違いをしていないかい、と。
「それが、どうやら挿し木で増やす植物らしくて…。種からは発芽しにくいようだ」
 種が手に入ればやってはみるが、と難しい顔をしたヒルマン。
 入手するなら種の方が恐らく簡単だろうが、発芽するという保証は無いと。
「すると、確実に育てたかったら、挿し木した苗が要るのかい?」
「そうなるね」
 手っ取り早いのはその方法だ。
 発芽するかどうかを試しているより、期間も短縮出来るのだし。



 ぼくは急いで奪いに出掛けた。
 料理に足りないものが何なのか分かったからには、胡椒を奪いに。
 シャングリラに無い植物の種や苗、飼う予定の家畜や魚なんかは奪わないと手に入らない。
 これは奪って生きるのとは違う。奪ったもので生きてゆくのとは違う。
 いわば初期投資で、最初の一つを奪いさえすれば、後はシャングリラで増やすのだから。
(種から育てられるんだったら、輸送船を狙えばいいんだけれど…)
 物資を奪って生きていた頃に、色とりどりの胡椒を手に入れたことが何回かあった。赤い胡椒は完熟した実だと言うから、発芽するならそうした胡椒を奪えばいい。
 けれど、胡椒は種からではなくて挿し木で育てる。種では駄目で、苗が必要。
(何処の星でも…)
 人類が住んでいるなら、何処の星でも胡椒を育てるための農園が存在するという。大規模に栽培している星からの輸入が主だけれども、万一の時に備えて農園。
 人類がそうするくらいなのだし、胡椒は本当に欠かせない調味料なのだろう。
 そんなことを考えながら、シャングリラから一番近い星まで宇宙を駆けて行った。胡椒の農園はどんなものかをデータベースの資料で調べて、奪うべき苗のデータも調べて。



 そうして奪った、胡椒の苗。
 たった一本では心許ないから、五本まとめて失敬して来た。
 シャングリラの方では、ゼルが「これで二十本は育てられるわい」と温室を完成させていた。
 だけど…。
「ちょいと、三年もかかるんだって?」
 本当なのかい、とオッドアイの目を見開いたブラウ。「そのようだ」と唸ったヒルマン。
 ぼくが奪った五本の胡椒はホントに苗木で、実を付けるまでに三年かかるという勘定。それでは今年は採れはしないし、来年になっても胡椒は採れない。
「奪い直して来ようか、大きいのを?」
 苗木はこういう大きさのヤツしか無かったけれども、育った木ならば沢山あったし…。
 あれなら今でも実を付けていたし、奪って来れば直ぐに充分な量の胡椒が採れるよ。
「根付かなかったらどうするんじゃ!」
 デカイんじゃろうが、育った胡椒は。
 そうなってくると環境が変われば枯れる恐れが出て来るわい。苗木じゃったら大丈夫じゃがな。頑固になるほど育っておらんし、適応力だけはあるじゃろうて。
「私もゼルに賛成だよ」
 大きい木よりは苗だろうねえ、シャングリラで育ってくれそうなのはね。
 苗で行こう、とヒルマンも地道な努力の道を選んだから。
「じゃあ、三年も待つってことになるんだね。それまでの間は…」
「胡椒無しかい、しょうがないねえ…」
 諦めるしかないか、ってブラウが大きな溜息をついたら。
「どうせ今まで無かったんじゃ。気付かなかったら、この先もずっと無いんじゃぞ?」
 無いよりはずっとマシじゃろうが。三年待ったら手に入るんじゃ。
「それはそうかもしれないねえ…」
 待つとしようか、気長にね。あと三年の辛抱なんだねえ…。



 三年待ったら、手に入る胡椒。それまで三年、我慢するだけ。
 足りないものが何だったのかが分からなかった間は、分からないから気にしなかった。
 でも、それが何だか気付いてしまうと胡椒が欲しい。
 あの味だ、って思い出したら欲しくなる。料理に一振りしたくなる。
(少し振るだけで変わるんだものね、お料理の味が…)
 美味しくなる魔法の調味料。それが胡椒だ、と気付けば食べたくなるのが人情。
 その胡椒の苗が船にやって来た、ということは誰もが知っているから。三年待ったらあの胡椒が採れると分かっているから、船中の期待がそれに集まる。
 温室の中の胡椒の苗。
 まだ柔らかい蔓を支柱に巻き付け、支えてせっせと世話をした。
 その係じゃない仲間までが。「手伝おうか」と声を掛けては、宝物を育てるように胡椒を。



 順調に進んでゆく、自給自足の楽園に向けての改造や整備。
 家畜も来たけど、鶏がやって来て卵も産むようになったんだけれど。
「オムレツは出来ても、胡椒がねえ…」
 パラリと一振りしたいもんだね、目玉焼きにもね。それだけでグンと変わるのにさ。
 惜しい、とブラウが残念がって。
「まだまだじゃな」
 卵は充分、行き渡るようになったんじゃがのう…。胡椒は暫く待たされそうじゃのう。
 そもそも三年経った時にも、どれほどの量が採れるものやら…。
 気軽にパラリと振れる日までは、三年どころじゃなさそうじゃぞ。
 やれやれ、と頭を振っていたゼル。
 ゼルの予言のせいじゃないけど、三年も待ってやっと採れても、たっぷり使える量ではなくて。
 船の仲間が好きなだけ使える量には届かなくって。
 収穫された胡椒は色とりどりとはいかなかった。
 料理との相性なんかも考えた末に、完熟前の実を乾燥させたブラックペッパー、黒胡椒。胡椒の実は全部ブラックペッパーになって、厨房で管理をすると決まった。
 使い道は当然、料理のためで。個人が持ち出してオムレツや目玉焼きには振れない。この料理に胡椒をもう少し、と思っても厨房からブラックペッパーの瓶が届きはしない。
「ここで一振りしたいんじゃがのう…」
 ヒルマンやエラが言った通りに貴重品じゃな、厨房から一歩も出て来ないわい。
 いや、胡椒じゃから一粒かのう? それとも一つまみと言うべきかのう…。
「その通りだねえ…」
 あたしも一振りしたいんだけどさ、交換しようにも同じ重さの金なんか何処にも無いってね。
 何年待ったらいいんだろうねえ、気軽にパラリと胡椒を振れる日までさ。



 まだか、まだか、と誰もが心待ちにしていた胡椒。
 もっと大きく育たないかと、沢山の実を付けてくれないものかと世話に通った温室の胡椒。
 ようやっと一人前の丈に成長して、ブドウみたいに実が連なった房が幾つも付いて。
 それを収穫して、収穫時期や加工方法によって黒の他にも赤、白、緑。
 色とりどりの胡椒が入ったペッパーミルが食堂に置かれる日が来たんだけれど。
 カラフルな胡椒を贅沢に使えるようになるまで、相当な時間と手間とがかかったと思う。けれど胡椒の効果は抜群、料理はぐんと美味しくなった。たった一振り、それで変わった。
 シャングリラで育てていた胡椒。
 一粒の胡椒がうんと貴重だった、そんな時期があったシャングリラ…。



 胡椒が貴重品だったっけね、って考えていたら、ハーレイが仕事帰りに寄ってくれたから。
 ぼくの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせに座って、訊いてみた。
 「シャングリラの胡椒、覚えてる?」って。
「胡椒?」
「うん。…シャングリラに胡椒が無かった頃。お塩だけしか無かった頃だよ」
 お砂糖は少し作っていたけど…。
 なんだか味が物足りないね、ってヒルマンたちと会議をしていた時。
 前のハーレイ、気が付いたよね。足りないものは胡椒だ、って。
「まあな」
「やっぱりレシピを見てたから? 大抵のお料理はお塩と胡椒、って書いてあったの?」
「その辺もあるが…。料理人としての勘でもあるな」
 胡椒ってヤツは塩よりもずっと僅かな量でだ、料理の味をまるで変えちまう。
 塩は充分に確保してたし、それで何かが足りないとくれば胡椒だろう。
 ドカンと入れる類のものじゃないから、料理をやらない奴にしてみれば好みで振るだけのものに過ぎんが、料理していた方からすればな…。
 塩コショウの胡椒を忘れただけでだ、味が全く決まらなくって「入れ忘れたぞ」ってことになるわけだ。試作していて、何度やったか分からないなあ、その手のうっかりミスってヤツな。
 最終的には辻褄が合うが、胡椒を忘れた料理っていうのは味見してみたら間抜けなもんだぞ。



「そっかあ…。胡椒ってとっても大事なんだね、そこまで変わってくるんだったら」
 お塩と胡椒だけで味付けしました、っていうお料理なんかは、あの頃はとても作れないし…。
 トォニィ好みのスパゲティの話が本当だったら贅沢だよね。
 前にハーレイの家の近くのパン屋さんでやっていたでしょ、ソルジャーの食事の再現イベント。トォニィが好きだったっていうスパゲティの味付け、お塩と胡椒だけだったもの。
「そうだな、昔のシャングリラでそいつを食っていたらな」
 周りのヤツらが腰を抜かすぞ、なんて豪華なスパゲティなんだ、と。
「やっぱり平和な時代のソルジャーっていうのは凄いよね」
 スパゲティなんかに胡椒で味付けするんだよ?
 それだけの量の胡椒があったら、もっと有効な使い道がいくらでもありそうなのに…。
「おいおい、ジョミーだってまるで知らなかったぞ?」
 胡椒が無かった時代なんぞは。どんな料理にも気軽に胡椒を振ってた筈だが?
「そうだったっけ…」
 胡椒はすっかり定着してたね、食堂にあるのが当たり前だっけね。
 ぼくの青の間にだって置いてたんだし、ジョミーはそういう苦労話は知らなかったかもね…。



 今のぼくが胡椒が無い生活なんてしたこと無いのと同じで、ジョミーも胡椒は当然のように白い鯨で使ってた。目玉焼きにも、シチューにもパラリ。もう一味、って胡椒をパラリ。
 今のぼくだって、もうちょっと…、って胡椒を振ってる日も多いから…。
「ねえ、ハーレイ。もしも今、胡椒が無くなっちゃったら…」
 ハーレイ、どうする?
「俺は早速、明日から困るぞ。…いや、困らんか」
「えっ?」
「別の文化があるってこった」
 胡椒が無ければ山椒を使えばいいじゃない、とな。
「なに、それ?」
 女の人みたいな喋り方だよ、それって特別な意味でもあるの?
「知らないか? SD体制よりもずうっと昔の有名な話さ。フランスって国の王妃様のな」
 国民が飢えててパンも食えやしない、って聞かされてこう言ったそうだ。
 「パンが無いならお菓子を食べればいいのに」と。
「へえ…!」
 王妃様らしい話だね。国民の生活がどうなってるかなんてこと、知らずに暮らしていたんだね。
「作り話だっていうことだがな。それと、お菓子の意味が違うんだって説もあるそうだぞ」
 王妃様が言ったお菓子な、そいつはクグロフだった、って話。王妃様の故郷の国のお菓子だ。
 クグロフだったらブリオッシュ風の生地だし、パンに似てないこともない。
 パンが無いならそっちにすれば、と思ったとしても不思議じゃないよな。
「ハーレイ、フランスなんかにも詳しいの?」
「いや? 俺はクグロフの方を調べていただけだ。そしたらついでに出て来たのさ」
 菓子も作ると言っただろうが。
 こいつも作れんことはないな、とデータベースを漁ってる間に出くわしたってな、王妃様に。



 王妃様の話はともかく…、ってパチンと片目を瞑ったハーレイ。
「まあ、胡椒が無ければ山椒だ。でなきゃ七味だ、どっちも使える」
 意外な料理に合うんだぞ。ステーキだって七味で食えるし、山椒ソースもあるからな。
「そうかもね。ピリッと辛いのを上手く生かせば使えそうだね」
 ハーレイだったら色々と工夫出来るかも…。
 だけど、前のぼくたちはどっちも知らないよ? 山椒も七味も。
「だから胡椒で困ったんだろうが」
 とにかく苗を奪って育てて、って実に気の長い話だよな。
 山椒も育てるのに時間はかかるが、葉っぱだけなら一年目でも味見くらいは出来るんだ。
「うん。…胡椒、貴重だったから野菜スープにも入ってないしね」
 ハーレイの野菜スープのシャングリラ風。お塩だけだよ、胡椒は無いよ。
「あれはお前が入れるなと!」
 レシピを変えるな、とうるさく言うから、胡椒を入れずに終わっただけだぞ、間違えるなよ?
「分かってるよ。あれも胡椒をパラッと振ったら…」
「劇的に美味くなると思うぞ、試してみるか?」
「ううん、要らない」
 前のぼくが食べないままで終わった味付けのスープは要らないよ。
 美味しくなっても別物になったら、それはぼくが好きだったスープじゃないんだもの。



 あれはあれでいいよ、って笑ったけれど。あのままでいいよ、って言ったけれども。
 もしもあのまま胡椒無しなら、シャングリラは楽園じゃなかったと思う。
 物足りない味が続いていたなら、胡椒を育てて解決しよう、っていう方向に行かなかったら。
 食事はやっぱり大切なんだし、美味しくなくっちゃ楽園気分になれないから。
「胡椒の名前…。天国の種子って言ってたっけ?」
「ヒルマンとエラがな。そういう名前で呼ばれていた、って言っていたなあ…」
 同じ重さの金と取り引きされていた頃に。
 前の俺たちは胡椒で取り引きをしてはいないが、まさに天国の種子だった、ってな。
 食事が劇的に美味くなったし、美味い食事を食えるからこそ楽園だろうが、名前通りの。
「そうだよね。食事が不味くちゃ、毎日が楽しくないものね」
 アルタミラの餌よりは遥かに美味しかったけど。
 それでも胡椒が無かった食事は、ちょっぴり寂しい味だったものね…。



 胡椒を育てて、ぐんと美味しく変身を遂げたシャングリラの食事。
 最初の収穫を迎えるまでに三年もかかってしまった胡椒。
 みんなが好きなだけ使えるようになったのはもっと後だった、貴重品の胡椒。
 それが今では色とりどりの胡椒がペッパーミルに入って家に置かれてて、ハーブソルトなんかも揃ってる。ハーブとお塩と胡椒のミックス。
 おまけに地球産、青い地球の上で育った胡椒。
「ハーレイ、今の胡椒は全部、地球産だよ?」
 ぼくの家のも、ハーレイが普段に使ってるのも、全部、地球産。
「地球の胡椒か…。そいつはとてつもない貴重品だな」
「同じ重さの金どころじゃない値打ちだね」
 ペッパーミルに一杯分のを前のぼくたちが買おうとしたら。
 どれだけのお金が必要なのかな、ちょっと想像もつかないよね…?
「うむ。ミュウと取り引きしてくれる所があったとしても…」
 無理なんじゃないか、前の俺たちがそいつを買うのは。…胡椒の値段が高すぎてな。



 あのシャングリラを売り飛ばしたって買えないね、ってハーレイと二人で笑い合った。
 トォニィの時代に売り払ったって、地球の胡椒は絶対に買えやしないんだ。
 青い地球なんか何処にも無いから。
 それこそホントに天国の種子で、買おうとしたって見付かりやしない。
 その地球の上に生まれ変わったぼくたちの特権、胡椒がたっぷり。
 どんなお料理にもパラッと一振り、地球の胡椒を好きな時にパラッと、欲しいだけの量を…。




           胡椒・了

※白い鯨を作り上げたものの、一味足りなかったもの。その正体は胡椒だったらしいです。
 「ミュウの楽園」が出来上がるまでの道は手探り。今では、地球の胡椒を使い放題。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







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「千羽鶴?」
 なあに、それ? とブルーは首を傾げた。
 学校があった日の夕方、仕事帰りに訪ねて来てくれたハーレイの台詞。
 ブルーの部屋で二人、テーブルを挟んで向かい合わせでお茶とお菓子を楽しんでいたら、唐突にそういう言葉が出て来た。
 千羽鶴。ブルーが初めて耳にする言葉。



「折鶴のことだが、知らないか?」
 こう、折り紙を折って作る鶴。幼稚園あたりで教わるんじゃないかと思うがな?
「知ってるよ? でも、折鶴を千羽鶴って言うの?」
 センバって何なの、どういう意味?
「千羽は千羽だ、千の数の鶴っていう意味さ。小さな折鶴を千羽作るのが千羽鶴だ」
 そいつを端から糸に通して、折鶴が何羽も連なった紐にするんだな。千羽だと紐は何本くらいになるんだか…。束ねればドッサリの折鶴ってわけだ、千羽分のな。
 遥かな昔の日本にあった、とハーレイは語る。
 今、ブルーとハーレイが暮らしている地域。その辺りに遠い昔に存在していた小さな島国。
 千羽鶴はその国にあった習わしで、祈りのこもったものだったという。
 長寿だとか、病気平癒だとか。そういう願いをこめて作られていたものだった、と。
 千羽もの鶴を折るには大変な手間がかかるから。
 病気や怪我をしたクラスメイトへのお見舞いに、とクラスの生徒が手分けして折って、病院まで届けに出掛けるケースも多かったらしい。
 早く学校に戻れるようにと、怪我や病気が治るようにと。



「そうなんだ…。ハーレイ、千羽鶴、折ってくれるの?」
 ぼくに千羽鶴。折鶴を千羽って、とっても愛がこもっていそう。
「なんでお前に折ってやらねばならんのだ」
 折るような理由が無いと思うが、千羽鶴なんぞ。
「お見舞いなんでしょ?」
 長寿も祈るって言っていたけど、お見舞いに作って貰えるものでしょ、ぼくも欲しいな。
 風邪とかで学校を休んじゃったら、千羽鶴。
 ハーレイが作ってくれた千羽鶴を飾って眺めるんだよ、早く学校に行けますように、って。
「入院するような重病や怪我の見舞いに作るものだぞ」
 たかが風邪くらいで作ってどうする。お前、弱いが、でかい病気はしないんだろうが。
「ハーレイのケチ!」
 ぼくの病気なんかどうでもいいんだ、お見舞い、作ってくれないんだ!
「お前なあ…。どのくらいの手間がかかると思っているんだ、千羽鶴」
 いいか、千羽だぞ、折鶴を千羽。それだけの鶴を折らねばならん。
 俺がせっせと折ってる間にお前が登校して来るだろうが。
 まさか一日中、朝から晩まで、夜も寝ないで折るってわけにもいかないんだからな。
「そうかも…」
 百羽も出来ない間に治ってしまっちゃうかも、ぼくの風邪とか。
 千羽鶴を貰おうと思うんだったら、うんと長い間、お休みしなくちゃいけないね…。
 それじゃ学校でハーレイの顔を見られないんだし、そんなのはちょっと困るかな。



 でも…、とブルーは考え込んだ。
「ハーレイ、作ってくれる気も無いのに、どうして千羽鶴だなんて言い出したの?」
 ぼくはそんなの知らなかったし、聞かなかったら欲しいって言いもしないのに。
「データベースで偶然、見付けちまってな…。千羽鶴ってヤツを」
 こいつは知らんな、と読み進めていたら、長寿祈願に病気平癒と来たもんだ。
 それを読んだら、お前に作ってやりたくなった。…間違えるなよ、今のお前のためじゃない。
 俺はな、前のお前のために千羽鶴を作って祈りたかった。今となっては手遅れだがな。
「前のぼく?」
 どうして前のぼくのために千羽鶴なの、今のぼくにくれるなら分かるけど…。
「俺が祈ってやりたかったのは、死んでしまう、って泣いていたお前。身体が急に弱ってしまって寿命が尽きると気付いて泣いたろ、何度も、何度も」
 俺と一緒に地球には行けない、って泣いてたお前だ。あのお前に作ってやりたかったんだ。
「お見舞いに?」
「長寿祈願だ、お前の寿命が延びるようにと」
 俺と地球まで辿り着けるようにと、千羽鶴。
 お前の命が尽きないようにと、千羽鶴を作ってやりたかったと思ってな…。



 たかが折り紙の鶴なんだが…、とハーレイの鳶色の瞳が深くなった。
「毎日せっせと、ブリッジや部屋で小さな鶴を何羽も折って。千羽出来たら、お前に渡して」
 糸で連ねて束ねた鶴を青の間のお前に届けに行くんだ、千羽鶴だ、と。
 こんなに出来たと、千羽もあるから寿命もしっかり延びる筈だと。
「それ、効いた?」
 折り紙の鶴だよ、そんなのが効くの? 前のぼくの寿命がそれで延びるの?
「効いただろうと思うんだ。生き延びてくれ、と祈りと願いをこめて作った千羽鶴だしな」
 現に、前のお前。
 ジョミーの思いで生き延びたんだろ、アルテメシアの空から落っこちて来た後は?
 「生きてくれ」と願ったジョミーの思いだけで、生きてナスカまで行けたんだろう?
 アルテメシアを脱出した後には眠っちまったが、その状態でも十五年間も。
「そうだけど…」
「俺にそこまでの力は無かった。お前に直接、生きて欲しいと働きかけるだけの力は無かった」
 しかし、俺の願いと祈りを形に出来ていたら。
 生きて欲しいと、お前の寿命を伸ばしたいんだと千羽鶴を作って前のお前に渡していたなら…。
 そうしていたなら、どうなったと思う?
「生きられたかもね…。ハーレイの千羽鶴のお蔭で」
「そうだろう?」
 折り紙で作っただけの鶴でも、お前が信じてくれれば、きっと。
 これで寿命を延ばせるんだ、と俺を信じてくれたならば、きっと…。



 だから千羽鶴を作りたかった、とハーレイは語る。
 前の自分が知っていたなら、千羽鶴を作っていただろうに、と。
「お前、ジョミーと俺なら、どっちを信じた?」
 シャングリラのこととか、仲間のこととか。そういったことではなくって、だ。
 お前のためにと言い出した意見が食い違っていたら、どっちの意見を信じたんだ?
「決まってるでしょ、ハーレイだよ」
 ハーレイが正しいに決まっているもの。ぼくの恋人だというのは別にしたって、ジョミーよりも長く生きていたしね。キャプテンとしての経験だって、何百年分もあったんだから。
 ジョミーとハーレイ、どっちか一人なら、ハーレイの方を信じるよ。
 とんでもない意見に聞こえたとしても、ハーレイがきっと正しいから。
「お前自身がそう思っていたなら、千羽鶴を作れば、俺にだってジョミーの真似が出来たんだ」
 生きろと、鶴の数だけ生きろと。
 お前はそれだけ生きなきゃならんと、俺が祈っているんだから、と。
「そう言われたなら、死ねないかも…」
 ハーレイに「生きろ」って言われちゃったら、ジョミーの思いで生きたのと同じ。
 強い思いがぼくを生かすのなら、ハーレイの千羽鶴でも効き目は変わらなかったのかもね…。



「な、そんな気持ちがしてくるだろう? 生きられたかも、と」
 あの頃の俺が知っていたらな、千羽鶴っていうのをな…。
 お前の身体が弱ってしまって眠っている日が多くなっても、その間に。
 ブリッジや部屋でせっせと折るんだ、青の間でもな。
 そうして、お前が目を覚ましたなら「これだけ折ったぞ」と見せてやるんだ。
「目が覚めたら鶴があるんだね?」
 増えてるんだね、寝てる間に。眠る前よりも数が増えてて、うんと沢山。
「ああ。何羽も何羽も鶴を折り続けて、千羽揃ったら、ベッドの周りに掛けてゆくのさ」
 糸に通して、千羽束ねて。そいつをベッドの周りのカーテンレールに吊るすんだ。
 千羽鶴なら誰も怪しまないからな。
 前のお前と俺との仲をな…。



「それ、子供たちが真似しない?」
 ソルジャーにお見舞いの千羽鶴を作ってプレゼントしよう、って頑張りそうだよ。
 他の仲間たちだって、みんなで幾つも届けてくれそう。
 ベッドの周りは直ぐに一杯になってしまうよ、みんなが作った千羽鶴で。
「そうならないよう、キャプテン権限で俺の分だけをベッドの周りに吊るすことにする」
 他の千羽鶴は別の場所だ。いくら増えようが、ベッド周りは絶対、譲らん。
「それって、ちょっぴり酷くない?」
 みんなの願いがこもっているのに、ベッドの側には飾れないだなんて。
「いや、そのくらいでないと俺の気持ちがお前に届かん」
 ただの見舞いというわけじゃないんだ、生きて欲しいと祈りと願いがこもったヤツだ。
 他の奴らが作ったヤツとは思いの強さがまるで違うってな。
 お前に向かって「生きろ」と伝える、俺の心の叫びなんだからな。
「そうかもね…」
 他の千羽鶴とは違って効くよね、ぼくの寿命を延ばすために。
 そういうヤツなら、ベッドの周りを独占してても当然ってことになるんだろうね…。



 だけど…、とブルーは呟いた。
「前のぼくたちが生きていた頃に、折鶴なんかは無かったね」
 折り紙自体が無かったのかな、鶴以外のも見たこと無かったしね。
「うむ。ナプキンの洒落た折り方なんかはあったようだが、折り紙はなあ…」
 そんな時代に千羽鶴なんぞは何処にも無いしな、前の俺も知りようが無かったってな。
 お前のために作ってやりたくっても、知らないんじゃなあ…。
「今は折り紙も、折鶴も普通にあるけれど…」
 ぼくたちの地域だけかもしれないけれども、折り紙と折鶴、普通だよね?
「ああ。だが、千羽鶴が無いってな」
 データベースでお目にかかるまで知らなかったし、千羽鶴は一度も見たことがない。
「ホントに無いの?」
 折鶴を千羽、糸に通して束ねるだけでしょ? それなのに無いの?
「調べてみたんだが、無いようだ。存在した、というデータだったら沢山あったが」
 SD体制に入るよりも前の、この辺りが日本だった頃。
 その頃には幾つも作られたようだが、どうやら復活してないらしいな。



 ハーレイが調べたデータベースに、今も実在する千羽鶴のデータは一つも無かった。
 昔はあったと、かつてはこうだ、と写真などのデータが残っていただけ。
 色とりどりの折鶴を連ねて束ねた千羽鶴なるものが記録に在っただけ。
 今は何処にも無いというから、ブルーも今日まで全く知らずに来たというわけで…。
「なんで無いのかな、千羽鶴?」
 今、ハーレイが思念で見せてくれた写真。
 とっても綺麗で素敵だったのに、どうして作られていないんだろう…?
「折鶴を千羽も作らなければいけないんだぞ?」
 手間と時間が沢山かかるし、第一、寿命がとてつもなく延びてしまっただろうが。長寿を祈って作らなくても、皆、長生きをするからなあ…。
 見舞いにしたって、こいつを作って見舞いに行くほど深刻な病気っていうヤツも無いし。
 少しばかり入院が長引いたって、だ。元通りに元気で退院するのが普通だろうが。
 千羽鶴に縋る時代じゃない、っていうことだな。
 昔の文化を復活させるのが流行りとはいえ、必要無いものは復活しないさ。



「そっか…。じゃあ、ハーレイが復活第一号をやらない?」
「はあ?」
「千羽鶴だよ、記念すべき復活第一号をハーレイが作ればいいじゃない」
 ぼくに作ってよ、千羽鶴。折鶴を千羽、糸に通して、束ねて来てよ。
「何のためにだ?」
「だから、お見舞い」
 ぼくは身体が弱いんだから。しょっちゅう休むし、お見舞いに千羽鶴を作って欲しいな。
「入院してから言ってくれ。当分は学校に戻れません、ってほどの病気になってからな」
「それは嫌だよ!」
 学校に行けなくなってしまったら、ハーレイに会えなくなるじゃない!
 お見舞いに来てくれた時だけしか!
「ふうむ、入院をするつもりは無い、と。だったら全く要らないだろうが、千羽鶴」
 折鶴を千羽も作っていられるほどに長い間、寝込んでくれていないとな。
 作る時間があるからこその千羽鶴だしな、千羽作ってもまだまだ退院して来ない、と。
「うー…」
 ハーレイの千羽鶴、欲しいんだけど…。
 作って欲しいんだけれど、学校に行けなくなるのは嫌だよ…。



「なら、潔く諦めるんだな、我儘を言っていないでな」
 ついでに、家で寝ている程度の病気で千羽鶴をくれと言われた場合。
 俺が折鶴を折っていたなら、お前の大好きなスープの方がお留守になるが?
 野菜スープのシャングリラ風はとても無理だな、俺は鶴を折るのに忙しいしな。
「ええっ!? で、でも…!」
 前のぼくなら千羽鶴を折ってくれるって…。
 そっちだとスープはお留守にならないんでしょ? スープも作ってくれるんでしょ?
「もちろんだ。スープも作るし、千羽鶴だってせっせと折るさ」
 前のお前は寿命が尽きかけていたんだからなあ、重病どころの騒ぎじゃないぞ。
 深刻さが違うし、俺も真剣に千羽鶴を折って、お前のためにスープも作って頑張るわけだ。
 それこそブリッジでも暇を見付けて幾つでも折るな、千羽鶴のための折鶴をな。
 しかし、今のお前はピンピンしてるし、千羽鶴を作るならスープは無しだ。
「…千羽鶴…。ぼくも欲しいのに…」
「欲しけりゃ自分で作っておけ」
 千羽作って糸に通して、部屋に飾っておけばいいだろ。
「何のために?」
「自己満足だな、これだけ折った、と」
 折鶴を千羽も作ったんだ、と自分で自分に自慢するんだな。そいつが一番の早道だ。
 ただ千羽鶴が欲しいだけなら、自分で作って自分で飾れ。



「自分で千羽も!? 飾るためだけに?」
 そんなの無理だよ、何か目標でもあったら折るかもしれないけれど…。
 千羽折ったら御褒美があるとか、そんな感じで。
「俺は千夜も通わないからな?」
「なに、それ?」
「百夜通いというのがあってな。古典ではないが、ずうっと昔の日本の有名な伝説だな」
 絶世の美女に恋をした男が求婚したらだ、「百日の間、毎晩通って来られたら認めてもいい」という返事をされた。それで頑張って通うわけだが、百日目の夜に行き倒れたっていう結末だ。
 その男が毎晩、通ってた間、美女の方ではカヤって木の実に糸を通して数えてた。一日に一個、カヤの実を糸に通すんだ。
 そんな感じで、俺が毎晩、通ってくる度に鶴を一羽折って、いつかは千羽。
「ハーレイ、千夜も通ってくれるの?」
「通わんと言ったぞ、お前が何の意味かと訊くから答えた」
 どうして千夜も通わないと言ったか、それを教えてやっただけだな。
 お前が千羽鶴を作るなんていう目標に付き合って通ってくるほど暇じゃないぞ、俺は。
「それじゃ千羽も折れないよ!」
 目標も無いのに、千羽だなんて。
 ハーレイが毎晩来てくれる度に一羽だったら、楽しく折れるかもしれないけれど…。



 千羽は無理だ、とブルーが嘆く。とても作れないと、折れはしないと。
 けれども千羽鶴は欲しいらしくて、諦め切れないようだから。
 欲しいと顔に書いてあるから、ハーレイは笑ってこう持ち掛けた。
「そんなに欲しいなら、折ってみるか? 俺が訪ねて来た日の数の分だけ千羽鶴」
「えっ?」
 ハーレイ、通ってくれるの、千回?
 さっきは嫌だって言っていたけど、気が変わった?
「さてな? いいから、少し計算してみろ」
 俺が毎日続けて千回、訪ねて来たなら。
 それは何年分になる勘定なんだ?
「えーっと…。毎日が千回、千日だから…。一年が三百六十五日で…」
 ブルーは懸命に指を折りながら、「二年と…」などと数えている。
 その様子にクックッと喉を鳴らして、ハーレイは「計算、終わったか?」と恋人を見詰めた。
「俺も厳密に計算してはいないが、二年半より多いんだがな?」
 それだけの間、続けて訪ねて、千回目に届こうっていう頃には…。
 お前、幾つだ?
 何歳になっているんだ、お前?
「ぼく? 今から二年半ほど先だと…。十七歳にはなっていそう?」
 もしかして、婚約出来そうな年?
 今から千回通って貰って鶴を一羽ずつ折っていったら、それくらいの年になってるの、ぼく?
 千羽目の鶴が出来る頃には?
「そういう話が出ても可笑しくないってことだな」
 さあ、どうする?
 一羽ずつ折るか? 俺が訪ねて来られない日も当然あるしな?
 訪ねて来た日にだけ一羽折るなら、千羽目の頃には本当に婚約の話くらいは出ていそうだが?
 あるいは千羽に届く前に結婚しちまうとかな。



 今日から一羽ずつ折ったらどうだ、と提案されたブルーは瞳を輝かせた。
 ハーレイが訪ねて来てくれる度に鶴を一羽折って、千羽鶴を目指す。
 鶴の数が千羽に届く頃にはプロポーズされて婚約するとか、それまでに結婚出来そうだとか。
(鶴が千羽になる頃には…)
 素敵な未来が待っていそうで胸が高鳴り、千羽鶴を作りたくなった。
 一羽折っては大事に仕舞って、数が纏まったら糸に通して。
(百羽くらいで通してやったらいいのかな?)
 まずは百羽で折鶴を連ねた紐の一本目。それが目標、まず百羽から。
 百羽を連ねた紐を増やして、二本、三本と作っていって。
 十本目に糸を通す頃には、ハーレイとの恋は何処まで進んでいるのだろう?
 婚約を済ませて結婚式の日を待ち侘びながら千羽目の鶴を折っているのか、それまでに結婚式を挙げてしまって千羽鶴など忘れてしまっているか。
 忘れ去られた折鶴の束が転がっているという未来もいい。
 百羽ずつ連ねて何本目かまでは仕上げたけれども、これ以上はもう折らなくていい、と。



(うん、千羽まで折らずに終わっちゃうかも…!)
 ハーレイが来てくれない日も多いのだから、その可能性は大いにある。
 千羽鶴が仕上がる日を夢見ながら、ハーレイが来てくれた回数を折り上げた鶴で数えて何日も。もう百回も会ったのだ、と百羽を連ねた紐を撫でたり、まだ連ねていない鶴を数えたり。
(ハーレイが来てくれた日の数だけ、鶴…)
 いいかも、とブルーは思ったけれど。
 鶴を折り続けて結婚の日を待ち焦がれるのもロマンティックだと思ったけれど。
(…でも、ぼくの背丈…)
 ハーレイと出会った五月の三日から、一ミリも伸びてくれない背丈。
 百五十センチで止まったままで、前の自分の背丈との差が二十センチから縮まらないまま。
 前の自分と同じ背丈にならない限りは、ハーレイとキスさえ出来ないというのが残酷な決まり。
 懸命に鶴を折っていたって、ハーレイが訪ねて来てくれる度に一羽ずつ折っていったって。
 それで千羽鶴が出来上がった時に、背丈が伸びていなかったなら…。



 急に心配になって来たから、ブルーは訊いた。
 千羽鶴を作りたいのなら目標はコレだ、と案を捻り出した恋人に。
「ねえ、ハーレイ。…もしも千羽目の鶴が出来上がった時に…」
 ハーレイが千回目に訪ねて来てくれた時に。
 ぼくの背丈が足りなかったらどうなっちゃうの?
 前のぼくとおんなじ背丈になっていなかったなら、十七歳になっていたって婚約は無し?
 千羽鶴が立派に出来上がるだけで、婚約の話は出てこないまま?
「うん? …お前がチビのままだった時か?」
 そりゃあ、婚約は無いだろうなあ、チビのままじゃな?
 きちんと大きく育っていたなら、俺は喜んでプロポーズするが…。婚約もするが、チビではな。
 もう少し待てと、せめて結婚出来る年になるまで待ってくれ、と言うしかないな。
「やっぱり!?」
 だったら、千羽目が出来上がった時に十八歳を越えていたって、チビだった時はお預けなの?
 結婚どころか婚約も無しで、大きくなれよ、って言われちゃうだけ!?
「そう怒るな。俺は日頃から言ってるだろうが、ゆっくり大きくなるんだぞ、って」
 ゆっくりのんびり育てばいいだろ、結婚を急がなくてもな?
 それにだ、千羽鶴を折っても充分に間に合う可能性ってヤツもゼロではないぞ。
 俺が訪ねて来られる回数、千回になるのは何年先だか分からないしな?
 その時にお前の背丈が前のお前と同じになればだ、千羽鶴と一緒にゴールインじゃないか。



 実にめでたい、とハーレイは言ったけれども、ブルーにしてみればそれどころではない。
 千羽鶴の方が背丈が伸びるよりも先に出来上がってしまえば悲しいだけ。
 ましてや、その時に婚約出来そうな十七歳やら、結婚出来る十八歳なら泣くしかないから。
 こんな筈ではなかったのに、と涙が溢れて千羽目の鶴など折れないから。
「千羽鶴なんか作らない!」
 絶対折らない、とブルーは叫んだ。
 折ってたまるかと、悲劇に終わりそうな千羽鶴など作るものかと。
「おいおい、お前、欲しいんだろうが?」
 千羽鶴が欲しいなら折らないとな?
 少しずつでも折っていかんと、千羽はなかなか難しそうだぞ?
「ハーレイが折ってよ、ぼくにお見舞い!」
 千羽作ってプレゼントしてよ、お見舞いに!
「何の見舞いだ?」
 風邪とかの見舞いと千羽鶴とは両立しないと言ったがな?
 野菜スープがお留守になるぞと言った筈だが、それでも見舞いに千羽鶴なのか?
「風邪とかじゃなくって、もっと切実! うんと重病!」
 ぼくの背、ちっとも伸びないんだから!
 ハーレイと会ってから一ミリだって伸びてないから、背が伸びるように千羽鶴!
 それなら充分にお見舞いになるでしょ、ぼくはホントにとっても困っているんだから!
「いつか伸びるさ、いつかはな。そいつは病気じゃないだろうが」
 お前の心や身体に合わせてゆっくり、ゆっくり育ってるだけだ。
 病気だったら健康診断の時に引っ掛かるだろ、何も心配要らないってな。千羽鶴も要らん。
 前のお前になら千羽鶴を作って祈ってやったが、今のお前には要らないさ。
 背丈ぐらいしか悩みが無いんじゃ、千羽鶴の出番も皆無だってな。



 欲しいなら自分で作っておけ、とハーレイは笑って取り合わなかった。
 そのハーレイが両親も交えた夕食を食べて、お茶を飲んでから「またな」と帰って行った後。
 見送ってから二階の部屋に戻ったブルーは、また千羽鶴を思い出した。
 折鶴を千羽、連ねて、束ねて千羽鶴。
 とても綺麗なのに、今の時代は何処にも無いらしい千羽鶴。
 前の自分に作ってやりたかった、とハーレイが話してくれた千羽鶴。
 やっぱり欲しい。鶴を連ねた飾り物。
 祈りも願いもこめなくていいから、沢山の折鶴を連ねた飾り。



(千羽鶴…)
 ハーレイが訪ねて来てくれる度に一羽ずつ折れば、千羽揃う頃には婚約か結婚。
 そういう勘定になりそうなのだし、ハーレイのアイデアは悪くない。
 今日で一羽、と折ろうかとブルーは思ったけれど。
 前の学校で使った折り紙を仕舞ってあるから、取り出して一羽、折り紙の鶴。
 それもいいな、と引き出しに一旦、手を掛けたけれど、問題が一つ。
(今日はいいけど…)
 この先、一羽ずつ折り続けていって。
 ハーレイが来てくれた日の数だけの鶴を折って連ねて、束ねていって。
 これで最後だ、という千羽目を折る時、背丈が足りなかったなら。
 前の自分と同じ背丈になっていなかったら、結婚はおろか婚約も無しと言われたのだった。
 ゆっくり育てと、焦らずにゆっくり大きくなれと。



(ハーレイの馬鹿!)
 千羽鶴を折るためのアイデアはとても素晴らしかったけれども、その後が悪い。
 出来上がる頃には婚約か結婚が待っていそうだ、と夢だけかき立てておいて、実際の所は背丈が充分に無かった場合は婚約すらもして貰えないらしい。
 ホントに酷い、とハーレイの写真に向かって怒りそうになって。
 フォトフレームの中、笑顔のハーレイに怒りをぶつけそうになってしまって。
(でも、前のぼくに…)
 折ってやりたかった、と言ったハーレイ。
 あの頃に千羽鶴を知っていたなら、ブルーの寿命が延びるように作ったと語ったハーレイ。
 ブリッジでも折って、糸に連ねて、青の間のブルーのベッドの周りに千羽鶴。
 幾つも幾つも千羽鶴を作って掛けて祈った、と聞かされた言葉。
 それは本当の想いだったろうと思うから。
 前のハーレイが知っていたなら、千羽鶴が沢山、青の間に在ったと思うから。



(もしも、ぼくの背が伸びなかったら…)
 あんな風に笑ったハーレイだけれど、あの大きな手で幾つも折ってくれるのかもしれない。
 背が伸びるようにと、祈りをこめて折鶴を。
 願いのこもった折り紙の鶴を。
 前のブルーに作れなかった分まで、幾つも、幾つも鶴を折っては糸で連ねて、千羽鶴。
 そうだとしたら、その千羽鶴をプレゼントされる日が来るのだろうか?
 「ゆっくりでいいから、大きくなれよ」とハーレイの手から千羽鶴。
 俺が作ったと、お前のものだと、祈りのこもった千羽鶴を…。




           千羽鶴・了

※千羽鶴が欲しくなってしまったブルー。使い道は色々、と思ったわけですけれど…。
 ハーレイからは貰えそうにもありません。でも、いつか折って貰える日が来るのかも。
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「それ、お土産?」
 ワクワクしながら訊いた、ぼく。
 土曜日の朝、ハーレイが提げて来た紙袋。ロゴとかは入っていないけれども、お土産っぽい。
 だって、普段はこんな袋は持って来ないもの。どうなのかな、って頬が緩んじゃう。
 お土産だといいな。そうだといいな。



 ハーレイは苦笑いしながら、自分が座ってる椅子の脇の床に置いた紙袋にチラリと目を遣って。
「そんなトコだな」
 これも一種の土産だろう、うん。
「食べるものなの?」
「もちろん食えるが」
「わあっ!」
 ぼくの心はたちまち跳ねてしまって、嬉しさ一杯。ハーレイのお土産、食べられるお土産。
 お菓子なの、って尋ねてみた。ドキドキしながら訊いてみた。
 袋の外からじゃ分からない。テーブルのせいで、ぼくの席からは袋の中身を覗けない。
 ハーレイと向かい合わせに座るテーブル、今日はちょっぴり邪魔者な気分。
 そのテーブルにはママがお茶とお菓子を置いて行ったから、紙袋の中身はぼく専用のお菓子?
 ハーレイと二人で食べるものなら、ママに渡して「今日はこれです」って言いそうだもの。
 そういうお土産を貰う日もある。
 お菓子だったり、お昼御飯に食べられるような何かだったり。



(ママに渡していないってことは…)
 ぼくの部屋に大事に仕舞っておいて、一人で取り出して食べられるお菓子とか?
 個別包装のクッキーだとか、もしかしたら甘いチョコレートだとか。それともキャンディー?
 どんどん想像が膨らんでゆく中、耳に届いたハーレイの声。
「菓子なのか、と訊かれれば…。菓子にしている人もいるがな」
 人それぞれだな、こいつの場合は。
「なに、それ…」
 ハーレイのお土産、いったい何なの?
「お前の年では菓子じゃないだろうな」
「えっ?」
「多分、菓子という認識じゃないさ。手を加えれば立派に菓子になるがな」
 ほら、とハーレイが手を突っ込んだ紙袋から出て来たガラスの瓶。
 テーブルに置かれたガラスの瓶。
 中にびっしり、金色の丸い実。親指と人差し指をくっつけて作る丸よりも小さな丸い実。それにシロップ、金色を映したシロップに浸かった金色の実たち。



「えーっと…。これって、金柑?」
 金柑の実なの、瓶に一杯…。
「おっ、知ってたか?」
 知らないかもな、と思ってたんだが、知っていたのか、金柑の実を。
「おせちに少しだけ入っていない?」
 ほんのちょっぴり、三つくらい。こういうシロップ漬けの金柑。
「まあ、世間的にはそうしたモンだな、その程度の付き合いの家が多いな、金柑」
 わざわざ買ってまで甘煮にしよう、って人も少なきゃ、こういった甘煮を瓶で買う人も無いな。彩りにするには何個かあれば充分なんだし、おせちの季節に少しってトコか。
 同じ買い込んで甘煮にするなら普通は栗だな、栗の甘露煮って家が多いだろう。あっちの方なら使い道も多いし、なにより見た目にデカくて立派だ。



 だが、ってハーレイは金柑の瓶を指差した。
「この金柑。こいつを持って来たのは俺だが、これは親父たちからのプレゼントだぞ」
 もちろん、お前へのプレゼントだ。昨日、親父が届けに来てくれたんだ。
「ホント!?」
 ハーレイのお父さんたちからのプレゼントなの? ぼくに?
「お前、夏ミカンのマーマレードを取られちまったってしょげてたろう?」
 先に開けられて食べられていたと、一番最初に食べ損ねたと。お前のお父さんたちも気に入ってしまったから、このままだと直ぐに無くなりそうだと。
 マーマレードはあれから何度も追加の瓶を届けちゃいるが、だ。
 親父たちはお前が「取られちゃった」とガッカリしたのを知っているしな、それで金柑だ。
 お前の身体が弱いというのも知っているから、そっちの意味でもプレゼントなんだが。
「それ、お薬なの?」
「金柑の甘煮は風邪に効くんだ、喉にもいいぞ」
 食べれば風邪の予防にもなる。菓子代わりに食って風邪を防ごう、って人もいるくらいだ。俺の家でも親父とおふくろが冬になったら食ってるなあ…。
「もしかして、手作り?」
「おふくろのな」
 金柑の実が色づき始めたら、こいつを作る。黄色くなった実から順に採ってな。



 庭に金柑の木があるんだ、ってハーレイはぼくに教えてくれた。
 隣町の、ハーレイのお父さんとお母さんが住んでいる家の庭。其処に金柑。
 夏ミカンの木ほどには大きくないけど、ハーレイの背よりも大きな木。枝を広げた金柑の木。
 金柑の木にしては大きい部類に入るんだって。
「今年はこれからがシーズンだな。こいつが最初のヤツなんだ」
 最初に採った分で作ったから、って親父が届けに来たわけだ。
「そうなの?」
 いっぺんに黄色くなるわけじゃないの、金柑の実って?
「陽の当たり具合とかで変わってくるのさ、実が色づいていく順番もな」
 小さい木ならば、全部が黄色く色づいた後に採るんだろうが…。
 デカイ木だしなあ、黄色くなったヤツだけを先に選んで採っても充分な量があるってな。
「うん…。この瓶、けっこう大きいよね」
「マーマレードの瓶ほどにはデカくないがな」
 金柑の実が色づき始めたら、色づいた分から順に採ってだ、おふくろが甘煮にするわけだ。砂糖たっぷりで煮た甘露煮だな。
 実を食えば風邪の予防で、薬。このシロップだって喉にいい。
 実を食って良し、シロップを飲んでも良し、っていう優れものだぞ、金柑の甘煮。
 こいつはホントにお前用なんだ。マーマレードと違って薬だからな。



 しっかり食えよ、ってハーレイは金柑が詰まった瓶の蓋を指でトンと叩いた。
 これはお前のだと、親父たちからのプレゼントだと。
(貰っちゃった…!)
 ハーレイのお父さんとお母さんから、ハーレイのお嫁さんになるぼくへのプレゼント。夏休みの最後の日に貰ったマーマレードもそうだったけれど、あれは表向きはぼくの家への贈り物だった。
 だからパパとママに先に開けられちゃったし、遠慮なく食べられちゃったけれども。
 今度はお薬。ぼくへのお薬、身体が弱いぼくのための薬。
 そういう理由で貰ったんなら、独占したって怪しまれない。お薬なんだし、それで当然。
 パパやママには取られない金柑。
 ぼくだけのための金柑の甘煮。
 ハーレイのお母さんが作った甘煮で、ハーレイのお父さんが届けてくれた。
 ぼくのために、って、金柑の瓶。ハーレイのお嫁さんになるぼくのために、って金柑の甘煮。
(すっごく幸せ…)
 うんと大事にしなくっちゃ、って金柑の金色を見詰めていたら。
「おい。幸せそうな顔をしてるのはいいが、大事にし過ぎて風邪を引くなよ」
 風邪の予防になるんだからな。後生大事に取っておかずに、ちゃんと早めに食うんだぞ。
「うんっ!」
 風邪を引きそうになったら食べるよ、引かないように。
 せっかく貰ったお薬なんだもの、風邪の予防に食べなくっちゃね。



 風邪のお薬になる金柑。食べれば風邪の予防にもなる、金柑の甘煮。
 ハーレイは「そいつは食べるものなんだからな」と念を押して帰って行ったんだけれど。
 でも…。
「ブルー、いいもの頂いたわね?」
 ぼくが夜に金柑の瓶を持ってダイニングに行ったら、ママが早速声を掛けて来た。ぼくの部屋にあるのをママは知ってたから、ハーレイに御礼も言っていた。
 だけど、この金柑はぼくのだから。
「ぼく専用の金柑だよ?」
 取らないでね、って言った、ぼく。マーマレードで懲りているから。
 そうしたらママも、見ていたパパも「薬は取らない」って笑ってる。ただの金柑の甘煮だったらつまむけれども、お薬用までは取らない、って。
「お前の薬は食べないさ。ハーレイ先生に頂いたんだろ?」
「ママも食べないわよ、そんなに心配しなくてもね」
 その代わり、きちんと食べるのよ。金柑は風邪に効くんだから。
「はぁーい!」
 分かってるよ、って返事した、ぼく。
 金柑の瓶を何処に置こうか、考えるために部屋から下りて来た、ぼく。
 暖かすぎる場所は駄目だとハーレイに聞いたから、ぼくの部屋では駄目なんだ。ぼくの身体には優しい暖房、寒くなったら入れる暖房。それが金柑の瓶には大敵。
 ママに相談して、キッチンの貯蔵用の戸棚に仕舞った。其処なら充分に涼しいから。



 大切な金柑の置き場所を決めて、部屋に戻って。
 明日もハーレイが来てくれるから、って早めにお風呂で、パジャマに着替えてベッドの端っこに腰を下ろした。ハーレイと二人で座る椅子とテーブルが見える場所。
 ハーレイに貰った金柑の瓶が置いてあったテーブルが見える場所。
 金柑の瓶はキッチンに引っ越したけれど…。
(ぼく専用…)
 ハーレイのお母さんが作った金柑の甘煮。ハーレイのお父さんが届けてくれたという瓶。
 金色のまあるい実が幾つも詰まった素敵な瓶は、マーマレードと違って、ぼく専用。
 パパもママも絶対、食べやしないし、ぼくだけが食べる金柑の甘煮。
 だけど、金柑の甘煮には問題が一つ。
 入れてるシロップの濃さのせいなのか、それとも金柑がデリケートなのか。
 金柑の甘煮はマーマレードみたいに一年間も持たないらしいんだ。
 三月に最後の実を取った後は、夏になるまでに食べ切ってしまわないと駄目。傷むんだって。
(そこから今頃までってことは…)
 新しい実が熟し始める頃まで、かなり長い間、金柑は無し。
 金柑の甘煮は手に入らない。欲しいと思っても、届いてくれない。
 夏には風邪なんか、よっぽどでないと流石のぼくでも引かないけれど。
 それとこれとは別問題。風邪のお薬になるっていうのと、金柑の甘煮の存在は別。
 夏になる前にお別れしなくちゃいけない、ぼく専用の金柑の甘煮。
(大事にしないと…)
 一年中、いつでも会えるってわけじゃないんだから。
 味見に一個、って気軽に食べられる感じじゃない。そんな食べ方、もったいない。
 必要な時しか食べちゃいけない、って思っちゃう。
 期間限定、夏になるまでに「さよなら」が待ってる金柑だから…。



 明くる日もハーレイと楽しく過ごして、日曜日をうんと満喫した。
 パパとママも一緒の夕食の後も、ぼくの部屋でお茶を飲んだりして。
 「またな」って帰ってゆくハーレイを見送りに外へ出た時、風がちょっぴり冷たかったけど。
 夜中に強い風が庭の木や窓を鳴らしたりして、なんだか冷え込んで来たんだけれど。
(右の手…)
 冷えてメギドの夢を見ちゃったら困るものね、って右手にサポーターを着けて眠った。医療用の薄いサポーター。ハーレイに貰ったサポーター。
(ハーレイが握ってくれてるみたいだ…)
 右手がじんわり暖かい。ハーレイの手が握ってくれる時の強さで出来てるサポーターだから。
 これで安心、って油断した、ぼく。
 少し寒い、って思ってたくせに、右手がしっかり暖かかったから安心し切って眠ってしまった。
 厚めのパジャマに着替えたりもせずに、上掛けを追加したりもせずに。



 メギドの悪夢はサポーターのお蔭で襲って来なくて、朝は御機嫌で目が覚めた、ぼく。
 顔を洗って制服に着替えて、いつものように学校に行って…。
「クシャン!」
 授業中に口から飛び出したクシャミ。
 風邪かな、と思ったんだけど。
 そういえば昨夜は寒かったかも、と思い出したんだけれど。
(風邪の予防に…)
 効くんだぞ、ってハーレイが言ってた金柑。瓶に詰まった金柑の甘煮。
 帰ったらあれを食べてみようか、風邪を引く前に。
(でも、もったいない…)
 食べたら減ってしまうもの。
 一個食べたら、一個分、減る。二つ食べたなら、二つ分。
 食べた分だけ減っちゃう金柑。
 今はいいけど、夏が来る前に「さよなら」しなくちゃいけない金柑の甘煮。
 もったいなくって、食べられやしない。たった一回くらいのクシャミで。



 こんな程度じゃ食べないんだから、って決心した、ぼく。
 学校では二度とクシャミは出なくて、やっぱり風邪ではなかったみたい。
 家に居たなら、あそこで金柑を一個出して食べてしまっていたかも、と思うと学校で良かった。風邪でもないのに大事な金柑、食べちゃっていたらもったいないもの。
(ホントに学校でクシャミで良かった…!)
 家じゃなくってホントに良かった、と思ったのに。
 学校が終わって家に帰って、着替えた途端に立て続けにクシャミ。
(なんで?)
 今のクシャミはママにも聞こえていたかもしれない。風邪なんだろうか?
(金柑…)
 そう思った時、気が付いた。制服を脱いだら、ちょっぴり寒かったんだっけ。部屋の空気が。
 出掛けてる間に部屋が冷えてて、きっとそのせいで出たクシャミ。
 急に温度が下がったよ、って身体がビックリしちゃったんだ。
(うん、風邪じゃないよ)
 そういうクシャミが出る日もあるから。いきなり冷えたら、クシャンと出るから。
 だから金柑は食べなくていい。大事な金柑、食べずに残しておく方がいい…。



 食べないんだから、って階段を下りてダイニングに行った。ママのおやつが待ってる時間。
 そしたら、ママはぼくのクシャミを聞いてたみたいで。
「ブルー、ハーレイ先生の金柑、食べたら?」
 風邪に効くのよ、予防にもなるし…。引き始めだったら良く効くわよ?
「ううん、あれは風邪で出たクシャミじゃないから」
 制服を脱いだら部屋が冷えてて、それで出たクシャミ。だから金柑、要らないよ。
「そう? 寒かったんなら、身体をしっかり温めないとね」
 ママはホットミルクを作ってくれた。
 シナモンを入れてマヌカ多めで、いわゆるセキ・レイ・シロエ風。
 ハーレイに教えて貰って初めてママに頼んだ時には、お薬っぽい味がして困ったんだけど。今はマヌカの種類が変わって、お薬の味はしなくなった。少し癖があるだけの蜂蜜入りのミルク。
 マヌカも風邪にはいいって言うから、何かと言えばママが作ってくれる。
 シロエ風のホットミルクをお供におやつを食べて。
 それっきりクシャミもすっかり忘れていたんだけれど…。



(あれ…?)
 夜中にちょっぴり、喉に違和感。
 そんな気がして目が覚めた。
(喉…?)
 変な感じにくすぐったい。喉の奥がザラザラしている感じ。
 痛みは無くって、痒いとでも言えばいいのかな?
 やたらと唾を飲み込みたくなる、喉の入口から奥にかけての妙な感じが喉をくすぐる。こういう時には大抵の場合、数時間も経てば…。
(喉をやられて風邪を引いちゃう…)
 なんとかしなくちゃ、と思った、ぼく。
(金柑…)
 風邪に効くっていう、金柑の甘煮。
 キッチンに出掛けて一粒か二粒、それだけでかなり違うと思う。
 でも、夜中。
 せっかくの金柑を夜中になんて。初めて食べるのが夜中だなんて。
(キッチンだって真っ暗なんだよ…)
 明かりを点ければ昼と変わらない明るさになるけど、窓の外。庭が真っ暗。
(もったいないよ…)
 金色の金柑を食べるんだったら、お日様の光が射してる昼間。
 そうでなければ、パパやママの居る時がいい。あったかい雰囲気が漂う部屋が。
 こんな真っ暗な夜中にキッチンで独り、頬張るのはもったいなさすぎる。
(そんなの、嫌だよ…)
 ハーレイに貰った大事な金柑、ハーレイのお父さんとお母さんからぼくへの贈り物。
 うんと大切に、特別な時に食べなくっちゃ、と思ったから。
 夜中のキッチンで食べたくないな、と思ってしまって、そのまま眠りに捕まった、ぼく。起きてウガイさえしなかった、ぼく。



 朝、目が覚めたら風邪だった。
 身体が重くて喉も痛くて、疑いようもない風邪の症状。微熱だけれども、熱まであった。とても学校に行けるわけがなくて、休んじゃうことになった、ぼく。
(ハーレイに会えなくなっちゃった…)
 学校を休んだら、ハーレイに会えない。学校でハーレイに会えない一日。
 ハーレイの仕事が早く終われば、お見舞いに寄ってくれるだろうけど…。
(どうなっちゃうの…?)
 来てくれるかどうかは分からないハーレイ。
 きっとハーレイにだって分かりやしない。仕事が終わる時間にならなきゃ、分かりやしない…。



(金柑、食べておけば良かった…)
 夜中に変だと思った時に。
 もったいないだなんて思っていないで食べれば良かった、とベッドで丸くなっていたら。
「ブルー、これも食べておきなさい」
 お薬だけより早く治りそうよ、ってママが金柑を持って来てくれた。
 小さなお皿に乗っけて、三個。
 此処に置くわね、って、ぼくの枕元に。
(……金柑……)
 ママが部屋から出て行った後で、それを眺めて悲しくなった。
 ぼくが貰った贈り物。ぼくだけの金柑の甘煮の瓶。
 ぼくじゃなくって、ママが蓋を開けて最初の金柑を出しちゃったんだ。ぼくの瓶なのに。ぼくが貰った瓶だったのに…。
(また失敗…)
 自分で瓶さえ開けられなかった。胸を弾ませて開ける予定の金柑の瓶を。
 全部、自分が悪いんだけれど。
 もったいないから、って食べなかったぼくが悪いんだけれど…。



 すっかり手遅れ、開けられてしまった金柑の瓶。
 だけど中身はぼくだけの金柑の筈だから、って気を取り直して、寝たまま一粒口に入れてみた。
 ママが刺しておいてくれた爪楊枝で運んで、口の中へ。
 甘いけれども、ほろ苦い味。夏ミカンのマーマレードの味に何処となく似てる。
(…甘いんだけど…)
 金柑の風味なんだろう。ほんの少しの、この苦味は。
 苦味が風邪に効くんだろうか、それとも甘みの方なんだろうか。
 痛い筈の喉を優しくスルリと滑り落ちてゆく、金柑の味。金柑の甘煮。
 熱っぽいのも、喉の痛みも引いてゆきそうな気がするけれど…。



(ベッドに寝たまま金柑だなんて…)
 こんな状態で初めての金柑。ハーレイに貰った大事な金柑。
 なんだか情けなくって悔しい。
 風邪でやられた喉で味わうのが、最初の金柑になっちゃったなんて。
(ハーレイのお母さんの金柑なのに…)
 ぼくのために、ってプレゼントしてくれたのに。
 ハーレイのお母さんが作った甘煮を、ハーレイのお父さんが届けてくれたと聞いたのに。
(ぼくって馬鹿だ…)
 ポロリと涙が零れてしまった。
 今日はハーレイの授業は無いけど、ハーレイはきっと知ってるだろう。
 ぼくが休んだと、風邪なんだと。ハーレイはぼくの守り役だから。



(金柑は効かなかったのか、って思っていそう…)
 ハーレイをガッカリさせてしまったかも、って涙がポロポロ零れて落ちた。
 貰ったお薬を、風邪の予防にもなる金柑の実を無駄にした、ぼく。
 大事にしなくちゃ、と思うあまりに食べるタイミングを逃した、ぼく。
 もっと早くに食べれば良かった。ベッドで初めて食べるよりかは、よっぽどマシ。大切な金柑の瓶をママに開けられてしまった結末よりもマシで、遥かにマシ。
 予防に食べるくらいで良かった。昨日のおやつの時に食べれば良かったんだ。
(そしたら瓶だって、自分で開けて…)
 蓋が固すぎて開けられなかったかもしれないけれど。
 ママに頼むことになっていたかもしれないけれども、自分で挑戦したんだったら、それでいい。力不足で開かなかっただけ、自分で開けられなかっただけ。
 ぼくがベッドで寝ている間にママが開けるのとは全然違う。目の前で開けて貰うんだから。
(ぼくのバカ…)
 欲張って失敗しちゃった、ぼく。
 金柑の甘煮を大事にし過ぎて、食べるタイミングも開けるチャンスも逃してしまった。
 だけど後悔先に立たずで、風邪の薬になる金柑の甘煮はお昼にも三個、ママが持って来た。あの瓶から出して、お皿に乗っけて、爪楊枝を刺して。
 朝とお昼とで六個も食べてしまった金柑。
 それが効いたのか、喉はマシになって来たけれど…。随分と楽になったんだけれど。
 やっぱり自分は馬鹿だと思う。
 もっと早くに食べていたなら、半分の三個で風邪を防げたかもしれないのに…。



 ぼくがしょげていたら、夕方、ハーレイが仕事の帰りに来てくれて。
 部屋に入るなり、第一声がこれだった。
「お前、やっぱり欲張ったな?」
 おふくろの金柑、食わずに残しておいたんだってな?
 お母さんに聞いたぞ、昨日にクシャミを連発したのに食わなかった、と。
 早めに食えって言っただろうが。
 朝からきちんと食ってるんなら、喉もいつもよりマシになるのが早い筈だと思うがな?
「そうだけど…。だけど金柑、六個も減ったよ…」
 朝に三個で、お昼も三個。喉は楽にはなって来たけど、金柑、六個も減っちゃった…。
「瓶にはまだまだある筈だぞ? 第一、早めに食っていたなら、もう少しだな…」
 治りも早いと言うもんだ。休むトコまで行っちまったから、もっと食わんといけないが…。
 引き始めだったら、六個も食ってりゃ酷くならずに済んだんじゃないか?
 予防にも食えと言っといたのに…。
「もったいないよ、って思ったから…」
 最初の金柑の瓶なんでしょ?
 予防に食べたら、アッと言う間に無くなりそうだよ…。
「これからが金柑のシーズンなんだと言っただろうが」
 次から次へと黄色くなるんだ、じきに全部が黄色い実になる。
 そいつを親父とおふくろが採って、おふくろが甘煮を作るってわけだ。ドッサリとな。



 いくらでも届けて貰えるから、ってハーレイは言った。
 夏ミカンのマーマレードと違って、ご近所さんには配っていない、って。
「トーストに塗ったり、ちょいと料理に使ったり、ってわけにはいかないからなあ、金柑」
 貰っちまっても持て余すだろうが、好きで食おうって人は別だが。
 しかし金柑の実はドッサリ実るし、実を採らないで放っておいたら次の年には実らなくなる。
 そんなことをしたら木が可哀相だろ、せっかく実をつけてくれたのにな?
 だから親父たちはせっせと採ってだ、おふくろが端から甘煮にしてる。
 毎年、ドカンと出来るからなあ、風邪を引いた人にはプレゼントするが…。欲しいという人にも分けているんだが、最終的には余っちまってケーキになったりしてるんだ。
 金柑の甘煮が入ったパウンドケーキとか、金柑たっぷりのタルトだとかな。
 いいか、余ればケーキやタルトになっちまうんだぞ?
 もったいないなんて考えてないで、どんどん食っとけ。
 お前が毎日食い続けたとしても、一冬分くらいは充分あるから。



 風邪を引きそうだと思ったら食え、って言われて、また涙が出た。
 ハーレイのお父さんたちが暮らす家で実った金柑の甘煮を、ぼくだけ、特別。
 ご近所さんにも配ってないのに、ぼくだけ、特別…。
「おいおい、毎年、余ってるんだぞ、食い切れないほど」
 最後はケーキやタルトに化けてしまうと言った筈だが?
「でも、特別…」
 風邪を引く前から分けて貰えるのはぼくだけなんでしょ?
 頼んでないのに、風邪なんか引いてもいない内から。
「まあな。俺の未来の嫁さんだしな?」
 親父もおふくろも、お前には元気でいて欲しいのさ。風邪を引かずに元気に、ってな。
 そのために親父が金柑を届けに来たんだ、今年一番最初の分を。
 お前のお母さんには「おふくろの手作りで風邪の薬になりますから」としか言ってないがな。
 守り役でキャプテン・ハーレイですから、これくらいは当然の務めです、ってな。
 いいな、金柑、しっかり食えよ?
 おふくろは次から次へと作るし、親父もせっせと届けにやって来る筈だからな。
 チビで弱いお前が風邪を引かないよう、引いても早めに治るようにな。



 それじゃスープを作ってくる、って出てったハーレイ。
 ぼくが寝込んだ時の特別なスープ、野菜スープのシャングリラ風を。
 「喉が大丈夫なら風邪引きスペシャルにはしなくていいな」って。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ優しいスープ。
 卵を落として、とろみもつけた風邪引きスペシャルではないらしいけれど。
(ハーレイのスープ…)
 野菜スープのシャングリラ風を乗っけたトレイの脇には、きっと。
 また金柑の甘煮が三個、しっかりくっついてくるんだろう。
 「こいつも食って早く治せよ」って。
 そうやって部屋に運ばれて来たなら、ハーレイに頼んで食べさせて貰おうか、金柑の甘煮。
 爪楊枝で刺して、「ほら」って、口に。
(うん、いいかも…)
 食べさせて貰ったら、きっと美味しい。何倍も、何百倍も美味しい。
 冬に向かって、ちょっぴり特別、金柑の甘煮。
 ほんの少しだけ苦いけれども、ぼく専用の甘い素敵な風邪薬…。




         金柑・了

※ブルーが貰った、金柑の甘煮。マーマレードと違って、ブルーだけのための贈り物。
 大事にし過ぎて逃してしまった、食べるタイミング。次からは早めに食べるべきですね。
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 ママは料理が得意なんだけれど。もちろん、お菓子も。
 毎日、いろんな美味しい料理やお菓子を作ってくれてる、ぼくのママ。
(んーと…)
 おやつを食べながら考えてみた。学校から帰って、いつものダイニングのテーブルで。
 ぼくにおやつを出してくれた時、「今日は餃子よ」って言ってたママ。ぼくの家の餃子は当然、手作り。沢山の餃子をママがせっせと包むんだ。
(たまに皮まで作るよね、ママ…)
 普段は買って来た皮だけれども、色付きの餃子を作りたい時にはママは皮から作ってる。緑色は確かホウレン草。ターメリックを入れて黄色とか、トマトジュースを入れたピンク色とか。
 今日は普通の餃子だろうけど、その餃子。
 この頃では「ハーレイ先生がいらっしゃるかもしれないから」って多めに作るのがママの定番。沢山食べるハーレイのために餃子も沢山、余った時には次の日に取っておいて別の食べ方。
 元々、ママは食事の時間に合わせて餃子を焼いたり蒸したりしてるし、余ったって全く大丈夫。餃子鍋とか、少なめだったらスープの具だとか、使い方は沢山あるんだから。



(今日はハーレイ、来るのかな?)
 分からないけど、もしハーレイが来るんだったら。
 仕事帰りに寄って、晩御飯をぼくの家で食べてくれる嬉しい日だったら。
(手作り餃子…)
 ママの自慢の手作り餃子。
 買って来た皮を使っていたって、中の具はママがきちんと作る。色々な野菜や、お肉や海老や。その日の気分で決めて、刻んで、うんと美味しい具の出来上がり。それを綺麗に皮で包んで…。
(えーっと…)
 学校の調理実習くらいしか経験していない、ぼく。
 料理のお手伝いは出来ないけれども、餃子を包むくらいだったら手伝えそう。ママに教わったら出来ると思うし、包んで餃子の形に出来たら、その餃子はぼくが作った餃子。中身はママが作ったヤツでも、餃子の形はぼくが完成させたもの。
(具だけだったら、それは餃子じゃないもんね?)
 餃子なんです、って主張するなら形が大切。皮で包んで仕上げて、餃子。
 包み方も色々と種類があるけど、ママは何種類もの包み方を知っているけれど。
(ぼくが手伝う、って言ったら基本の包み方を教えてくれるよね?)
 ごくごく普通の餃子の形。それに仕上がる包み方。
 教えて貰って具を包んだなら、「作ったんだよ」ってハーレイに出せる。
 今日の餃子はぼくが作った餃子だよ、って。ママに習って包んだんだよ、って。



 パパとママも一緒の夕食だけれど、ハーレイと二人きりってわけじゃないけど。
 それでも、其処で「ぼくが作ったよ」ってハーレイに言っても平気じゃないかと思うんだ。
 これがぼくの餃子、ってハーレイの前に出したって。
(調理実習だってあるんだもの。作ったんだよ、って自慢したって…)
 パパもママも変だとは思わないだろう。
 だってハーレイは先生なんだし、ぼくの守り役で、前はキャプテン・ハーレイなんだし…。
 小さなぼくが「餃子を作った」と得意満面なだけで、ハーレイに食べて貰いたいだけ。こんなに上手に包んだんだ、って、ぼくが作った餃子なんだ、って。
 そう考えるのが、きっと自然で当たり前。パパもママも絶対、気付きやしない。
 ぼくが恋人に食べて欲しくて餃子を包んでいたなんて。
 大好きな恋人のハーレイのために餃子を作っていたなんて。



(よし!)
 決めた、とぼくは決意した。
 もしもハーレイがやって来たなら、手料理を御馳走するチャンス。
 ぼくが作った餃子なんだよ、って教えて食べて貰える絶好のチャンス。
 ハーレイは料理が得意だけれども、ぼくの手料理も食べて欲しいし、餃子はピッタリ。
 パパやママの視線を気にせずに出せて、ハーレイに食べて貰える料理。
 包むだけだけど。
 ぼくの出番は料理じゃなくって、餃子を包むってトコしか無いけど、それで餃子が出来るから。包めば餃子の形になるから、もう充分にぼくの手作り。
 作りました、ってハーレイに言える。包んだんだよ、って自信満々で出せる。
 このチャンスを大いに生かさなくっちゃ、と決めたぼく。
 ハーレイのために餃子を作ろうと、今日の餃子はぼくが包もう、と。



 食べ終えたおやつのお皿とかをキッチンに返しに行ったら、ママは餃子の具を刻んでた。
 トントンと響く包丁の音と、ボウルに入った挽肉や野菜。
「ママ、餃子、包むの?」
 ドキドキしながら訊いてみた。
 ボウルの中身を覗いた感じじゃ、変わり餃子ではなさそうだから。凝った包み方をしそうな感じじゃないから、これならぼくでも包めそうだ、って胸が高鳴る。
 ママはぼくの心臓の音に気付きもしないで、手を止めてぼくに向かって笑顔。
「もう少ししたら包むのよ。下味が馴染むまで寝かせてあげないと」
 混ぜて直ぐよりその方がいいの、美味しくなるのよ。
「ぼくも手伝う!」
 餃子を包むの、手伝いたいよ。ママに習って包んでみたい!
「あらあら…」
 調理実習の練習なの、って尋ねられちゃったから。
 ちょっと興味、って答えておいた。
 餃子の包み方に興味を持ったと、一度経験してみたいんだ、って。



(そっか、下味…)
 馴染ませなくっちゃいけないのか、と餃子について一つ賢くなった。
 ケーキとかクッキーを寝かせているのは知っていたけれど、コロッケだって寝かせるけれど。
 餃子もそれとおんなじらしくて、寝かせる時間があるみたい。今日のレシピだと三十分。ママはまだ材料を混ぜてもいなくて、「混ぜ合わせてから三十分よ」って言われたから。
 ちょっと時間がかかるよね、って部屋に戻って本を読んでたら、ママの呼ぶ声。階段の途中まで上がって来たらしい、ママの声。
「ブルー、そろそろ包むわよ!」
「はぁーい!」
 返事して、本に栞を挟んで。
 それから急いで部屋を飛び出して、階段を下りてキッチンに行った。
 ママが待ってる、餃子を包んで綺麗な形に仕上げるための大切な舞台。
 ハーレイのための餃子がこれから生まれる舞台。



 はい、ってエプロンを渡された、ぼく。
 せっかくやる気になったんだから、ってママがニコニコ笑ってる。お料理には形も大切なのよ、って。調理実習をしているつもりでエプロンもね、って。
(本格的だよ…)
 ぼくが調理実習の時に学校に持ってくエプロン。ママのエプロンを借りたわけじゃない。
 これから料理を始めるんだ、って気分が高まる。
 餃子を包むだけの作業なんだけど、これで一気に料理する気分。ハーレイのために手作り餃子。
 ぼくの初めての手料理なんだし、うんと頑張らなくっちゃね。
「ブルーは初めてだから、最初の間は見ていなさいね」
 こうよ、って見本を見せて貰った。
 ママの手が餃子の皮を一枚、手のひらに乗っけて、その上にスプーンで具を乗せて。
 それから縁にクルリと水を塗り付けた。水が接着剤になるんだな、って分かった、ぼく。ママの指が皮の端っこを摘んで合わせて、襞を寄せながら何度も畳んでいって。
 最後まで襞を畳んで閉じたら、襞の無い方を押して形を整えた。半月みたいな餃子の形。いつも見ている餃子の形。
「どう、分かった?」
「だいたい…」
 どうするのかは分かったけれども、それって畳むの難しい?
 襞を作って畳んでいくトコ。
「そうねえ…」
 習うよりも慣れね、ってママは答えて、もう一度お手本。
 左の手のひらに皮を乗っけて、ぼくにも分かりやすいように、って少しゆっくり。
 接着剤になる水が乾いてしまうと駄目だし、あまりゆっくりとはいかなかったけれど。



 五つほど見本を見せて貰って、ぼくも挑戦することになった。
 左の手のひらに皮を一枚、見よう見真似でボウルの具材をスプーンで掬って…。
「そんなに入れたら、はみ出すわよ?」
「えっ?」
 ママが入れてたのと変わらない量を掬ったつもりだったんだけど。
 駄目なのかな、って首を傾げながら皮の縁に水を塗ってみた。
(充分いけると思うんだけど…)
 端っこを寄せてくっつけて…、って皮を合わせたらちゃんとくっつく。うん、大丈夫。
(次はこうして…)
 襞を寄せて、って一つ目の襞。我ながら上手く出来たと思う。気を良くしながら、二つ、三つと畳んだ所でママの言ってた意味に気付いた。
(なんだか中身が…)
 閉じてない方の端っこに寄って来ちゃってる。つまりは多すぎ、入れ過ぎってこと。
(だけどボウルに戻せないし…!)
 なんとかなるよ、って無理やり閉じた。もう襞は作れなくて、くっつけただけ。
 具がはみ出すっていう悲劇は回避出来たけれども、半分だけしか襞が寄ってない餃子。おまけに半月、三日月っぽい半月じゃなくて、ホントのホントに半分に欠けたお月様。
(…餃子って言うより…)
 出来損ないのヨモギ餅だろうか、ぼくが作った初めての餃子。
 ママが隣で作ってるヤツとはまるで違った、みっともない餃子。



(うんと下手くそ…)
 具材を入れ過ぎてしまった、ぼく。
 半分だけしか襞が畳めなくて、お月様の形に整えることも出来なかった餃子。
(中に入れる量、気を付けなくちゃ…)
 今度は失敗しないんだから、って慎重にスプーンで掬った中の具。皮の縁に水をくるっと塗って端っこを合わせて、襞を畳んで…。
(…もしかして、今度は足りなかった?)
 余裕がありすぎる餃子の皮。襞をたっぷりと畳めちゃう皮。
(今から中身を追加するのは…)
 どう考えても絶対に無理。スプーンで具を押し込めるだけの幅はもう無いんだから。
 仕方ないから、襞を畳んで畳んで端まで閉じて。
 襞の無い方をギュッと押してみたけど、お月様の形にはなったけれども。
(痩せっぽっちのお月様…)
 ママの餃子の隣に置いたら、ぼくの餃子は痩せっぽちだった。中身少なめ、皮だけ多め。
 またまた失敗しちゃった、ぼく。
 入れ過ぎの次は足りなさ過ぎって、どんなに才能が無いんだろう?



 ママが手早く器用に作ってゆく横で、精一杯、努力したんだけれど。
 形が揃った餃子にしようと、整ったお月様を幾つも並べていこうと頑張って包んでたんだけど。
(全然ダメだよ!)
 中身が多すぎ、少なすぎとか、襞が綺麗に畳めてないとか。
 ぼくの餃子はうんと不揃い、ぼくが作ったと一目で分かるほど酷い出来栄え。
 綺麗に揃ったママのとは違う。整列しているお月様の形の餃子とは月とスッポン。
(うーん…)
 ホントに月とスッポンだよ、って情けなくなった。
 ぼくが作った餃子の形がスッポンの形っていうんじゃなくって、同じ餃子とも思えない出来。
「ブルーは餃子は初めてだもの。これでも充分、餃子の形よ」
 パパが喜んで食べるわよ、ってママは笑顔で励ましてくれた。
 ぼくが初めて作った餃子なんだし、そう言えばパパは大喜びだ、って。
「…ホント?」
「本当よ。ブルーの初めての餃子でしょう?」
 ブルーが作ってくれたんだな、って大感激よ、パパは。
 もちろん、ママもね。



 今夜の食卓はきっと素敵よ、ってママはウインクしてくれたけれど。
 失敗しちゃった、ぼくの下手くそな餃子。
 ハーレイにはとても出せない餃子。
 エプロンを外して部屋に戻った後、ぼくは勉強机の前で祈った。
(どうかハーレイが来ませんように…)
 不揃いどころか、みっともない餃子。
 あんなのをハーレイに見られたくないし、見せたくもない。
 料理が得意だと聞いてるハーレイ。前のハーレイだって、キャプテンになる前は厨房に居た。
 とんでもない出来の餃子なんかを披露するには、ハーレイの腕が凄すぎる。
 だから来て欲しくないハーレイ。
 いつもだったら来てくれないかと窓の方ばかり気にしているけど、今日はそうじゃない。
 餃子が上手に出来ていたなら、来て欲しくってお祈りしたんだろうに。
 まるで逆様のお願い事。来て欲しい筈のハーレイが来ませんように、と必死のお祈り。
 そうしたら、チャイム。鳴って欲しくなかった、チャイムの音。
(ハーレイ、来ちゃった…!)
 ママはぼくが作った失敗餃子を隠しておいてくれるだろうか?
(…だけど…)
 今度こそは、って頑張り過ぎた、ぼく。途中で投げ出さなかった、ぼく。
 失敗作の餃子は沢山出来た。ママが作った餃子よりかは少ないけれども、かなりの数。
 あれだけの数を隠しちゃったら、餃子の数が足りなくなっちゃう。
 だって、ハーレイが来たんだもの。
 ハーレイが食べる分の餃子が、確実に必要なんだもの…。



 やっちゃった、って溜息をついても始まらない。
 ぼくが作った酷い出来の餃子は、ハーレイに披露される運命。
 変な形の餃子の理由をママは喋りはしないだろうけど、でもハーレイは気付くんだろう。料理が上手なママが失敗するわけがないと、あの餃子には何か理由があると。
(ちょっと考えれば分かることだよ…)
 誰が餃子を失敗したのか、ヘンテコな形にしちゃったのかを。
 せめて悪戯ではなかったんだと気付いて欲しい。分かって欲しい。
 ハーレイに手料理を御馳走したくて頑張ったんだ、って見抜いて欲しいと思うけれども。
(でも、下手くそ…)
 ぼくの腕前を知られたくない。
 餃子も上手に包めないなんて、ハーレイにはとても話せやしない。
 それを考えると、やっぱり気付いて欲しくない。あの餃子は誰が作ったのかってこと。



 ぼくがぐるぐるしている間に、ママがハーレイを部屋に案内して来て。
 テーブルを挟んで向かい合わせで、お茶とお菓子もあるんだけれど。二人きりの時間が始まったけれど、ぼくの頭は餃子で一杯、失敗作の餃子で一杯。
 ハーレイが話し掛けてくれても、うわの空で返事をしちゃったみたいで。
「変だぞ、お前。どうかしたのか?」
 何処か具合でも悪いのか、って鳶色の瞳で覗き込まれて。
「……餃子……」
「はあ?」
 怪訝そうな顔をしたハーレイだったけど、「ああ!」と思い付いたように手を打った。
「そうか、餃子か…。前の俺たちの頃には無かったな、餃子」
「そういえば…!」
 無かったんだよ、シャングリラに餃子。
 今じゃすっかり普通だけれども、あの頃に餃子は見なかったよ…。



 ぼくの頭から失敗作の餃子は消えてしまって、二人で餃子の話になった。
 前のぼくたちが生きてた頃には無かった餃子。消されてしまっていた食文化。
 もしも餃子があったなら…、って色々と。
 ハーレイは「餃子があったら、酒のつまみになったんだがなあ…」なんて言い出して。
「あの手の料理は作らなかったな、前の俺はな」
「餃子自体が無かったんだもの、作れるわけがないよ」
 レシピを見たって、どんな料理かまるで見当も付かないんだもの。
 ちょっと試しに作ろうか、って試作するには手間もかかるし…。皮からだしね。
「うむ。パイ皮で包むような洒落た料理も作ってないしな」
 パイ皮だったら、それ自体の味は充分に分かっていたんだが…。
 そいつを作ってわざわざ包んで食わせなくても、普通に料理をしておけばいいと思っていたな。
 シャングリラは船で、レストランとは違うんだしな?
 凝った料理を作った所で無駄と言うべきか、食えれば充分と言うべきか…。
「今はそういう料理も作るの、ハーレイ?」
「たまにな。もっとも、食うのが俺一人だしな、普段はシチューに被せるくらいか…」
 ポットパイだな、パイ皮の帽子を被ったシチュー。寒い季節はあれが美味いんだ。これから寒くなって来たなら、シチューにはパイの帽子だな。
 だが、大勢で食うんだったら。魚のパイ包みなんかはおふくろの得意料理だぞ。
「ハーレイのお父さんが釣った魚で?」
「そういうことだな。スズキとかタイに魚の形に作ったパイ皮を被せてな」
 大皿にドカンと載せるようなサイズのパイ包み。
 その内にお前にも御馳走したがると思うぞ、親父とおふくろ。
 魚を釣るのが親父だからなあ、切り分ける役目は親父なんだな、お前の皿にも盛ってくれるさ。
 沢山食べろと、こいつは実に美味いんだから、と。



 パイ皮はあったけど、餃子の皮なんてまるで無かったシャングリラ。
 白い鯨が出来上がった後にはパイ皮を使った料理もあった。ごく簡単な料理だけれど。
 だけど無かった、餃子の皮。餃子自体が消されてしまっていた世界。
 餃子の皮があったらあったで戦争だ、ってハーレイが笑う。
 船の仲間たちの胃袋を満たすだけの数の餃子を包むなんてとても大変だぞ、って。
「うん、分かる。なかなか綺麗に揃わないものね」
 餃子の形。何人もで分けて包むんだったら、同じ形に揃うようになるまでが大変そうだよ。
「まったくだ。どうしても癖が出るだろうしな、最初の間は」
「そうでしょ、具を包む量だって人それぞれだし」
「うむ。このスプーンで、って決めておいても掬えば狂いが出てくるな」
 それに襞もだ、寄せ方に個人差というヤツがな。
「最後に形を整える時に、なんとか揃えばいいんだけどね…」
「なかなか上手くは揃わんだろうな、包んだヤツらの数だけ個性が出そうだが…」
 って、お前、餃子を作るのか?
 素人にしては詳しすぎだぞ、いつも餃子を包んでたのか?
「あっ…!」
 い、いつもってわけじゃないんだけれど…。
 いつもだったら良かったんだけど…!



 自分で墓穴を掘っちゃった、ぼく。
 餃子の包み方をウッカリ喋ってしまって、しっかり墓穴を掘った、ぼく。
 仕方ないから白状した。
 ママが包むのを手伝いに行ったと、今日の夕食は餃子なんだと。
「俺に手料理?」
 それで餃子を包んでいたのか、今日のお前は。
「うん。でも、失敗…」
 ママのみたいに揃わなくって、入れ過ぎたのとか、足りないのだとか。
 襞も形もうんと不揃いで、ママのとは月とスッポンなんだよ…。
「そいつは是非とも、お前のを御馳走にならんとな?」
「えっ?」
 下手くそなんだよ、これが餃子かって笑われそうなくらいに変な形だよ、ぼくの餃子は。
「しかしだ。初めての手料理という所までは行かんが、お前が包んでくれたんだろう?」
 俺のためにと、俺に御馳走しようと餃子を包んでいたんだろう?
「そうだけど…」
「だったら、食わない手は無いな。お前が包んでくれた餃子だ」
 形が崩れた餃子を選んで食ったら、それが当たりというわけだ。そればかり食えばいいんだな?
「パパとママが絶対、怪しむよ!」
 どうして崩れた餃子なのか、って。なんでぼくが作った餃子を選んで食べてるのか、って…。
「問題無いさ、教師の仕事の内だしな。生徒が作った料理を食うのは」
「そうなの?」
 ぼくは先生に料理を作ったことなんて無いよ、本当なの?
「本当だとも。学校によっては担任に試食を持ってくるんだ、調理実習の」
 焦げていようが、砂糖と塩とを間違えていようが、食わねばならん。教師の仕事だ。
「へえ…!」
 知らなかったよ、ハーレイ、そういう学校で試食してたんだ?
 ぼくの餃子は形はとっても変だけれども、味はママのだから美味しい筈だよ。
 晩御飯にお料理するのもママだし、焦げたりなんかはしないよ、絶対。



 ぼくが作った下手くそな餃子。失敗作のみっともない餃子。
 ハーレイは食べてくれると言うから嬉しくなった。
 そして…。
 「晩御飯の支度が出来たわよ」ってママに呼ばれて、ハーレイと二人で階段を下りて。
 ダイニングに入ってテーブルに着いたら、ハーレイの席に綺麗に揃った餃子のお皿。
 ママが作った餃子がハーレイのお皿や、パパやママやぼくのお皿に整列していて、おかわり用の餃子が盛られた大皿の一つに、ぼくのとんでもない餃子。月とスッポンみたいな餃子。
 ハーレイはぼくの大好きな笑みを浮かべて、ぼくの餃子を眺めて言った。
「あちらを御馳走になりますよ」
 せっかく盛り付けて頂いたのに、取り替えて頂くことになりますが…。申し訳ありません。
「ハーレイ先生?」
 でも、あれは…、ってママが困ったような顔になったら。
「ブルー君から聞きましたので」
 餃子作りに挑戦してみたと、難しくて上手く包めなかったと。
 あの餃子がブルー君の作った分でしょう?
 話を聞いてしまったからには頂きませんとね、これでも一応、教師ですから。



 調理実習の試食も仕事の内です、って笑顔で宣言してくれたハーレイ。
 パパとママが「大変そうなお仕事ですね」って可笑しそうに返して、ぼくが初めて作った餃子は無事にハーレイの所に行った。
 ママが持って来た新しいお皿に盛り付けられて、ママの餃子と取り替えられて。
 みっともない出来の餃子を頬張ったハーレイの顔が緩んで、ぼくたちをぐるりと見回しながら。
「美味しいですね」
 こちらで御馳走になる餃子はいつも美味しいのですが、今日の餃子も美味しいですよ。
「まあ、形は味に関係ないですからな」
 誰が包もうが、味は変わりはしませんよ。
 そこが救いと言うべきですねえ、今日の所は。
 ハーレイ先生、餃子で命拾いをなさいましたな、ってパパが本当のことを言ったけど。
 餃子が美味しいのはママのお蔭で、ぼくの下手くそな包み方は影響していない、って真実を暴露してくれたけれど、ハーレイは「そうですねえ…」って頷いて。
「形が綺麗に揃っていたなら、見た目の美味しさが増しそうですね」
 それに、この後、鍋やスープに入れたかったら。
 もっと大きさを揃えて作ってやらないと駄目ですねえ…。火の通りが違ってきますから。



「ハーレイ先生、詳しくてらっしゃいますわね」
 餃子と、餃子を使ったお料理。餃子もお作りになりますの?
 お一人分でも、ってママが訊いたら。
「ええ、気が向いたら作りますよ」
 この身体ですしね、一人分でも量としてはけっこう沢山作るんですよ。
 夕食に食べて、夜食にも食べて。
 次の日になったらスープに入れたり、鍋にしてみたり…。二日間ほど楽しめますから。
「そうですの…。でしたら、変わり餃子なんかも?」
「やりますよ。たまには凝りたくなりますからね」
 気ままな一人暮らしだからこそ、凝った料理もいいもんです。もちろん、餃子も。
 具にも凝りますし、皮の色とか包み方にも凝りますねえ…。
 皮の素材も変えるんですよ、なんてハーレイが言ったら、ママがぼくを見て。
「ブルー、いつかハーレイ先生に教えて頂く?」
「えっ?」
「餃子よ、餃子の作り方」
 ママに教わるのもいいと思うけど、ハーレイ先生に教えて頂くのも良さそうよ?
 先生、餃子にお詳しそうよ。
 皮の素材まで変えて作るって、男の人では珍しい方じゃないかしら?



 教わったら、ってママに訊かれて、ドキンとしちゃった、ぼくだけれども。
 もちろんハーレイに習いたくない筈なんか全く無いんだけれど。
「餃子の作り方ですか…」
 古典の範疇外ですね。流石に私の授業で餃子の作り方までは…。
 それに餃子を扱った古典の作品などは授業では全く出て来ませんし。
「ほほう…。餃子の出て来る作品なんかもありますかな?」
 私は古典には疎いんですが、名作の中には餃子が出て来る作品なども?
「いえ、この地域では…。日本という国では餃子は単なる食べ物だったようですねえ…」
 もっとも、日本に影響を与えた隣の国。
 中国の方では、餃子は縁起のいい食べ物だったという話がありますから。
 お正月には餃子を食べたというほどですから、あちらの作品なら餃子の出番もありそうです。
「なるほど…。そうなってくると、餃子作りは課外授業になりますか…」
 そういった餃子の背景も含めて、ブルーに教えて頂く、と。
 悪くないですなあ、餃子作りの課外授業も。



 パパとハーレイが盛り上がってるな、って眺めていたら。
 ママの餃子を頬張りながら見てたら、ハーレイがぼくに視線を向けて。
「いつか作るか、課外授業で?」
 俺と一緒に作ってみるか、餃子?
「いいの?」
「気が向いたらな」
 教えてやるさ、俺の知ってるいろんな餃子。
 こういう普通の餃子から始めて、変わり餃子も色々とな。
 もっとも、お前が俺の授業について来られたら、という話だが…。
 不揃いな餃子を作ってる内は、変わり餃子なんぞは逆立ちしたって無理だからな。



 やってみるか、って笑ったハーレイ。
 ママが「キッチンはいつでもお使い下さいね」って言っているけど。
 パパも「ハーレイ先生にしごいて貰え」ってママと二人で頷き合ったりしているけれど。
 ハーレイの顔に書いてある。
 ぼくだけに通じる、魔法の微笑み。ハーレイの顔に浮かんでる。
 「いつかお前と結婚したらな」って。
 そう、ハーレイと結婚したなら、教えて貰って餃子を作る。
 普通の餃子も、ぼくが普通ので腕を上げたら、ハーレイお得意の変わり餃子も。
(ハーレイが教えてくれるんだよ、餃子)
 今日は失敗しちゃったけれども、楽しみな餃子。いつかハーレイと作る予定の餃子。
 うんと沢山作って、並べて。
 焼いたり、蒸したり、スープやお鍋に入れたりするんだ、ハーレイと二人で暮らす家で…。




           餃子・了

※ブルーが頑張って作った餃子。ハーレイに食べて欲しくて、懸命に包んでみたものの…。
 失敗作の餃子の方を、選んで食べてくれたハーレイ。いつかは二人で作れますよね。
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 ぽつり。
 パジャマ姿で寛いでいたブルーの耳に届いた音。何かが屋根に当たって、ぽつりと。
 ベッドの端っこに腰掛けたままで、窓の方へと視線を向けた。
 夜だからカーテンが閉まっているけれど。
 今のブルーには厚いカーテンに閉ざされた向こうを透視する力は無いのだけれど。
(雨…?)
 今のは雨の音だったろうか、と考えた所へ、また、あの音。
 ぽつり。
 今度ははっきりと耳が捉えた。
 雨の音だと、雨粒が屋根を叩いたのだと。



(降って来ちゃった…)
 そんな予報では無かったのに。
 この週末は晴れの予報で、絶好の行楽日和だと言っていたのに。
(外れちゃったよ…)
 前の生で暮らしたシャングリラの中では、雨などは降らなかったから。四季の変化も自分たちで全て調節したから、こういった事態は一度も無かった。
 けれども、今のブルーが暮らす地球。
 青く蘇った地球の上では天気も気温も自然の意のまま、地球に任せて手出しはしない。人工降雨などの技術はもちろんあったが、それはテラフォーミングが必要な他の星でのこと。
 地球では天候への干渉は禁止。
 ゆえに気まぐれな地球が雨だと思ってしまえば、どんなに願っても雨は降るもの。天気予報とて万能ではなく、こうした時には地球の偉大さと人の小ささを思い知らされることになる。
 本来、タイプ・ブルーともなれば、雲さえも散らすことが可能だけれど。
 雨雲を散らし、雨を止めるなど簡単なことではあったけれども。
 それをしようという者は無い。
 人は人らしく、それが今の世の中の約束事。
 地球でなくとも、人は自然に決して干渉してはならない。自分一人の意志では、決して。
 それこそ天変地異でも起こらない限り、タイプ・ブルーの力を自然に向けてはならない。自然は神が創り上げたもの。神の恵みで息づくもの。
 たとえテラフォーミングされた星であっても、自然は神の領域だから、と。



(雨だなんて…)
 ベッドから腰を上げ、窓辺に寄ってカーテンの向こうを覗いてみた。二階から見える黒々とした庭にもう色は無くて、夜の闇が支配する世界。
 其処に灯った庭園灯が描いた淡い光の輪の中、降り注ぎ始めた無数の雨粒。
 幾筋もの細い糸が光を横切り、下へ下へと落ちてゆく。後から後から、暗い夜空から。



(明日は庭の椅子、座れないかも…)
 庭で一番大きな木の下、据えられた白いテーブルと椅子。
 最初はハーレイが持って来てくれたキャンプ用のテーブルと椅子だった。初夏の日射しが明るい庭で、木漏れ日の下でデートをした。初めてのハーレイとのデート。
 それが気に入って、庭に置かれたテーブルと椅子とが大好きになって。
 いつもハーレイに持って来て貰うのは悪いから、と父が買ってくれた白いテーブルと椅子。今も庭園灯の光を受けてほのかな白が見えている。此処に在ると、此処に置かれていると。
(ハーレイと座りたかったのに…)
 午後のお茶は外のテーブルにするから、と夕食の時に母に頼んだ。外で食べるのが似合う菓子がいいと、飲み物もそれに合わせて欲しいと。
 「いいわよ」と笑顔で応えてくれた母。何を作ってくれるのだろう、と心が躍った。
 それなのに、雨。後から後から降ってくる雨。
 もしも朝までに止んでくれれば、午後には庭の木々もすっかり乾いて外でティータイムが出来るだろうと思うけれども。
 この季節の雨は、急な冷え込みを連れて来てしまうこともあるから。
 そうならないよう、早い間に止んでしまって欲しい雨。庭を濡らすだけで過ぎて欲しい雨。



(止んで欲しいな…)
 出来るだけ早く止みますように、と暗い空を見上げて願ってしまう。祈ってしまう。
 降り注ぐ銀の糸の群れが止まらないかと、ぴたりと止んでくれないかと。
(てるてる坊主…)
 幼かった頃に何度も作った。幼稚園で教わった、紙の人形。紙だけれども、頼もしい神様。雨を止ませてくれる神様。
 ティッシュペーパーを丸めて、上から一枚、ふわりと被せて糸で縛って、目鼻を描いて。
 そうして吊るせば晴れになるのだと習って作った。作って吊るした。
 遠足の前や、両親とハイキングなどに出掛ける時や。
 効いたかどうかは忘れたけれども、何度も作って吊るしたのだし、きっと効いたに違いない。
 ユーモラスな形のてるてる坊主。
 前の自分が生きた頃には、何処にも無かった紙の神様。晴れた空を運んで来てくれる神様。



(ハーレイ、作ってくれているかな?)
 予報に無かった急な雨だし、明日は二人で会う日なのだし、てるてる坊主。
 庭のテーブルと椅子が使えるよう、てるてる坊主を作ってくれているといいのだけれど。
(てるてる坊主も作りそうだもんね?)
 SD体制よりも遥かな昔に、この地域に在った小さな島国。日本と呼ばれていた島国。
 其処の文化を復活させては楽しんでいるのが、今のブルーたちが住む地域。
 一時はすっかり失われていた日本の文化や、古い習慣。それが好きな家で育ったハーレイ。古い道具や習慣を愛する両親に育てられた、今のハーレイ。
 隣町にあるハーレイが育った家のシンボルとも言える大きな夏ミカンの木。マーマレードになる実を採る時、梢に一つだけ残すと聞いた。木守りという遠い昔の習慣。翌年の豊作を祈って一個。
(木守りの実だってあるんだものね…)
 てるてる坊主も幼い頃から作っていたに違いない。
 幼かった頃のハーレイならばきっと、出掛けるとなったら前の夜にはてるてる坊主。釣り好きの父と釣りにゆく時も、海や川へ泳ぎに出掛ける時も。



(てるてる坊主かあ…)
 作ろうかな、と思うけれども、母に見られたら恥ずかしい。
 作って、吊るして、明日の朝は綺麗に晴れていたなら。てるてる坊主に御礼を言うのは忘れずにいそうな自分だけれども、嬉しさのあまり吊るしたままにしておきそうで。
 頑張ってくれた神様を外して捨てるだなんて、と窓辺に残したままにしそうで。
 そんな部屋へ母がハーレイを案内して来たら。
 窓辺のテーブルにお茶とお菓子を運んで来たなら、てるてる坊主に気が付くだろう。
 まあるい頭に白い衣装のてるてる坊主に、晴れを運んで来る神様に。
 「明日の午後のお茶は外にしたいよ」と母に頼んだから、もちろん意味にも気付かれる。きっと母は笑って言うだろう。これを吊るすほどハーレイ先生と庭に出たいのと、庭のテーブルで先生とお茶にしたかったの、と。
(ブルーはハーレイ先生のことが大好きだものね、って言うんだよ、ママは)
 それは本当のことだけど。
 ハーレイが好きなことは本当だけれど、「好き」の意味がまるで違うから。
 母が思っている「好き」とは違って、恋人としての「好き」だから。
 てるてる坊主を吊るしていたのが見付かったならば、恥ずかしい。恋を知られてしまったような気がして、きっと耳まで赤くなる。
(子供っぽいことをしたのがバレたからだな、ってママは思うんだろうけど…)
 そう考えるのが普通だけれども、本当は恋。
 子供っぽいどころか、十四歳という年を考えれば早熟に過ぎる今の自分の恋心。
 知られたらとても恥ずかしいから、てるてる坊主は作れない。吊るしたくても作れない。



(他におまじない…)
 雨が止むようなおまじないは無いか、と考えたけれど、何も浮かんで来なかった。
 残念なことに、他には知らない。てるてる坊主の他には知らない。
 仕方がないから、降る雨に向かって小さな声で歌ってみた。
「てるてる坊主、てる坊主…。あした天気にしておくれ…」
 幼稚園で教わって歌っていた歌。てるてる坊主を吊るした時には歌った歌。
(ハーレイが作ってくれていたなら、この歌がきっと効く筈なんだよ)
 作ってくれているかもしれない、てるてる坊主。まあるい頭のてるてる坊主。
 歌に晴れへの願いを託して、歌い終えてから窓を離れた。
 明日までに雨が止みますようにと、明日はいいお天気になりますようにと。



 部屋の明かりを消し、ベッドにもぐって丸くなったら。
 てるてる坊主の歌を歌ったのに、雨だれの音。降る雨が軒を叩く音。
(まだ降ってる…)
 止まないんだ、と思った所で遠い記憶が頭を掠めた。
(雨の音…?)
 シャングリラでは聞こえて来なかった。こんな音は、雨が滴り、地面を、軒を打つ音は。
 雲海の中に居たシャングリラ。
 雨も嵐もあったけれども、それらの音は届かなかった。
 巨大な白い鯨の船内は常に快適に保たれ、船を動かすエンジンの音すら聞こえては来ない。人の耳に邪魔だと感じられる音、騒音の類を完璧に遮断していた防音壁。
 それは素晴らしかったけれども、ゆえに雨音も聞こえなかった。どんなに雨が叩き付けようとも雨粒と共に音も弾かれ、船の中には届かない。船体を打つ雨音は、けして。



(ぼくは雨の音、知っていたけど…)
 アルテメシアに降り立った時に降っていたなら、その雨の音を聞いていた。ただし、シールドに落ちる雨。身体の周りに張ったシールドを叩く雨。
 主にその音を聞いていたから、今の雨音とは少し違った。ただ降り注ぐ雨の音とは違った。
 それでも自分は聞いていたけれど、ハーレイたちはどうだっただろう?
 アルテメシアへの潜入班なら雨にも何度も出会っただろうが、ハーレイたちは…?



(ナスカの雨…)
 前の自分は一度も降りずに終わってしまった赤い星。
 あの星には雨が降ったという。トォニィが生まれた時にも降り始めた雨。だからジョミーがまだ名の無かったナキネズミにレインと名前を付けた。恵みの雨のレイン、と。
(ハーレイは、確か…)
 ナスカで虹を探したと聞いた。
 虹の橋のたもとには宝物が埋まっていると言うから、宝物を求めて雨上がりの虹を。雨が止んで空に虹が懸かれば、その虹の橋のたもとを目指して歩いていたと。
(ハーレイが探した宝物って…)
 それは金銀財宝ではなく、眠ったままだった前の自分の魂。ブルーの魂。
 見付け出したならば目覚めてくれるかと、目覚めるのではないかと虹を探した。其処にブルーの魂が埋まっていないかと、虹の橋のたもとに宝物のように埋まっていはしないかと。



 雨が降る度、虹の懸かりそうな雨が降る度、ナスカに降りたと語ったハーレイ。
 キャプテンだけに、そういった条件の日には必ず、とはいかなかっただろうけれど。降りようと思っても降りられなかった日も少なくなかっただろうけれども。
 そのハーレイが降りたナスカに、優しい雨音はあっただろうか?
 ただ軒を打つだけの、止んだ後には晴れ上がった空を連れて来るだけの雨音は。
 地面を、軒をただ叩くだけの、しとしとと降り注ぐ雨の雫は。



(きっと無かった…)
 そんな気がする。
 赤いナスカに根を下ろしたとはいえ、地球は遠くて。
 降りしきる雨の音だけを聞いて、これが止んだら晴れ上がるのだと何もしないで過ごす余裕など無かったと思う。
 雨であったなら、上がった後を見越しての作業。あるいは雨の日ならではの作業。
 夜の雨でも、きっと翌日が気にかかったろう。何をすべきかと、明日の作業はどうなるのかと。
 それにナスカに在った居住地。人類が放棄した基地に手を加えたもの。
 前の自分は肉眼で見てはいないけれども、あんな建物では軒を打つ優しい雨音はしない。地面を叩く雨の雫も、その音が中まで届いたかどうか…。
(明日、ハーレイに…)
 訊いてみよう、とブルーは思った。
 ナスカに雨の音はあったか、今のような雨音はしていたのかと。
 メモに書くほどの大事なことでもないから、覚えていれば。
 このまま眠って、明日の朝まで覚えていれば…、と。



 翌朝、雨は止んでいたけれど。
 いつの間に雨雲が去っていたのか、雨が残していった雫で庭がきらきらと煌めいていたけれど。
 雨上がりの澄んだ景色を窓から見ながら、ふと思い出してブルーは嬉しくなった。
(この景色だってナスカには無かったよ、きっと)
 雨の後には細かい塵が落ちてしまって、こんな風に大気が澄むのだったか。
 ナスカでもそれは同じだったろうが、太陽に煌めく木々が無かった。庭など在りはしなかった。もちろん木の下に据えたテーブルも、それとセットの白い椅子たちも。
(雨の音が無いだけじゃなかったよ、ナスカ…)
 ハーレイに訊いてみなければ。
 ナスカに優しい雨音はあったか、ハーレイはそれを聞いていたのか、と。



 朝食を食べに階下へと降りて、母に午後の外でのお茶のためのお菓子を改めて頼んで。
 「晴れて良かったわね」と微笑まれて「うんっ!」と笑顔で応えた。
 父は「放っておいても乾くんだろうが、拭いておくかな」と、庭のテーブルと椅子を乾いた布で拭くと約束してくれた。
 木の枝から滴って落ちる雫が無くなったならば、テーブルと椅子に付いた水滴を拭っておくと。外でのお茶の時間に支障が無いよう、太陽の下にも暫く出して干しておこうと。
「ありがとう、パパ!」
「なあに、大した手間ではないからな」
 ハーレイ先生の方がよっぽど手間をかけて下さっていたよ、木の下のテーブルと椅子は。
 今のを買うまで、いつも持って来て下さっていたし…。
 畳んで車に積み込むだけでもひと手間かかるぞ、それに比べれば拭くくらいはな?
 干すのにしたって、ハーレイ先生が運んで下さっていた距離を思えばちょっぴりだ。
 パパは庭の真ん中まで運ぶだけだが、ハーレイ先生はガレージから運んで下さっていたんだぞ。
 お前があれが大好きだから、って何度も何度も、家から持って来て下さってな。



 本当に優しい先生だよ、という父の言葉がブルーの胸の中でくるくると回る。
 その通りなのだと、ハーレイは優しい恋人なのだと。
 部屋に戻っても胸は弾んで、ついつい顔が綻んでしまう。それを抑えて掃除を済ませて、窓辺の椅子から見下ろしていれば。
(あっ、ハーレイ…!)
 今日はもう、雨は降りそうにない予報だから。
 ハーレイが颯爽と道を歩いてやって来た。軽く手を上げ、ブルーに笑顔を向けながら。



 そのハーレイが部屋に来た後、母が置いて行ったお茶とお菓子が乗ったテーブルを挟み、向かい合わせで訊いてみる。
「ハーレイ、昨日、雨の音を聞いた?」
「ああ。急に降り出したし、予報に無かった雨だしな…」
 止まないかもな、と心配してたが、すっかり止んだな。いい天気だ、今日は。
「てるてる坊主、作ってくれた?」
 雨が止むように吊るしてくれてた、てるてる坊主を?
「なんで分かった?」
 ハーレイは鳶色の瞳を丸くした。
 自分がてるてる坊主を吊るしていたことが何故分かったのか、と。
「作ってくれたの?」
 ハーレイ、ホントに作ってくれたの、てるてる坊主。晴れますように、って、てるてる坊主…。
「ああ。お前、庭の椅子、逃したくないだろうと思ってな」
 寒くなったら、あそこでのんびりお茶ってわけにもいかないし…。貴重なチャンスだ、無駄には出来ん。いくらお前が冬でもあそこでお茶だと言っても、出来るかどうかは謎だからな。



「良かった…!」
 ぼく、ハーレイが作ってくれているかも、って思ったから…。
 作ってくれているならいいな、って歌ったんだよ、てるてる坊主にお願いする歌。
 あした天気にしておくれ、って。
「俺は歌までは歌っていないな。作って吊るしておいただけだな、てるてる坊主を」
「そうなの?」
 ハーレイは歌を歌わなかったの、てるてる坊主を作ったのに…?
「この年ではなあ…。てるてる坊主の歌を歌っちゃ可笑しいだろうが」
 それにだ、歌なんていうのは俺の柄ではないからな。
「ハーレイの歌、いいと思うけど…。うんと素敵だと思うんだけれど」
 前にゆりかごの歌を聞かせてくれたよ、前のハーレイがぼくに歌ってくれていた歌。
 今のぼくにも聞かせてよ、って頼んだ時の歌、とっても素敵な歌だったけれど…。
「あれは例外というヤツだ!」
 俺は歌なぞ、そうそう歌わん。まして可愛い歌ともなればな、俺には全く似合わんだろうが。
 しかし、お前は似合いそうだな、てるてる坊主の歌なんかもな。
 今日はお前との合わせ技で綺麗に晴れたってわけか、俺が作ったてるてる坊主と、お前の歌と。
「そうみたいだね」
 すっかりお天気、雨が降ってたのが嘘みたい。
 庭が雫で濡れてなかったら、夢でも見たのかと思いそうだよ。雨が降る夢。



 それでね…、とブルーはハーレイに尋ねた。
 昨夜から気になっていたことを。今朝になっても、忘れずに覚えていたことを。
「ハーレイ、ナスカで雨の音を聞いた?」
「雨の音?」
「うん。地面に降る音は聞いただろうけど、屋根や軒に落ちる雨の音」
 雨が降ってるな、って感じるだけの優しい音だよ、昨日の夜にハーレイだって聞いたでしょ?
 最初にポツッて雨の粒が落ちて、それから幾つも、幾つもに増えて。
 軒を打ったり、滴って地面で跳ね返ってみたり、そういう音。
 流れるような音もするでしょ、屋根から伝い落ちていく時には…?
「そいつは無いな…」
 前の俺はそれは聞いていないな、ナスカでも、地球へ向かってゆく途中の星でも。
 そんな余裕は無かったと言うか、一軒の家に住んでいなかったと言うべきか…。
 ナスカの居住地とか、落とした星の地上だとかで。
 雨には遭ったが、ああいった音を耳にした覚えは一度も無いな。
「やっぱり無い?」
「うむ。言われてみればそいつは無かった」
 雨なんだな、と眺めてただけで、音を聞くより仕事だな。まずはそいつが第一だ。
 ついでに、屋根とか軒だとか。
 雨の音を優しく伝えてくれるような類のものとは、まるで縁の無い生活だしな?
 ナスカじゃああいう居住地だったし、落とした星でも入る建物は立派なビルばかりでな…。



「じゃあ、今ならではの音なんだね」
 軒とか屋根を叩く雨の音。降って来たな、って直ぐに分かるのも屋根と軒のお蔭。
「そのようだな」
 全く意識はしていなかったが、前の俺とは縁が無かった音なんだな、あれは。
「だったら平和な音ってことだね、雨の音って。嫌っちゃ駄目だね…」
 雨だなんて、って怒っていたら駄目だね、あれは平和の音なんだから。
「そうだな、罰が当たりそうだな」
 降りやがって、と文句を言っていたなら。
 シャングリラじゃ雨音は全く聞こえなかったし、ナスカでもあそこまで優しい音はなあ…。
「前のぼくはアルテメシアでシャングリラの外に出ていたけれども…」
 雨の日に外へ出たこともあるけど、あんな風に優しい音がするのは知らないよ。
 シールドに当たる音とか、そういうのだけ。
 屋根とか軒を叩いてる音は、前のぼくは一度も聞かなかったよ。
 素敵な音だね、雨の音って。
 前のぼくたちが知らなかった音が聞こえてくる日なんだね、雨の降る日は。



「音もそうだが…。この景色も前は無かったんだな、雨上がりのな」
 まだあちこちで光っているよな、雨の雫が。
 澄んだ空気と、光る雫と。うんと爽やかな景色ってヤツだ、普段は見られん。
「あっ、ハーレイも気が付いた?」
 雨上がりは景色がとても綺麗だって、庭がきらきら光ってる、って。
「ああ。ナスカじゃ外にはこうした緑はロクに無かったしな」
 赤い土が剥き出しの地面が殆どだったし、木なんかは影も形もな…。
「少しだけだよね、ナスカで何も覆いをかけずに育てられたもの」
 専用の建物を使わなくっても、地面で直接育てられた緑。
「雑草以外は強い植物だけだったなあ…」
 一番最初に根付いてた豆は、けっこう丈夫に広がったんだが。
 ユウイが育てたアレくらいだったか、場所を選ばずに植えても育った植物はなあ…。



「地球に来たから楽しめるんだね、雨の音とか」
 それに雨上がりの景色とか。雨の音も、雨が止んだ後に見られる綺麗な景色も。
「他の星でも雨は降るがな」
 そういった星で屋根と軒とがある家に住んでりゃ、雨音は充分に聞けるわけだが。
 俺やお前の家みたいな家を建てて住んでさえいれば、いくらでも雨音は楽しめるがな…?
「でも、地球の雨がきっと一番優しい音がするんだよ」
 水の星だもの、地球は。
 人が住める星は沢山あるけど、一番最初に人が生まれた星なんだもの。
 いくら一度は滅びた星でも、やっぱり地球。
 地球に降る雨が一番優しい音を立てるよ、広い宇宙の中で一番。
「そうかもしれんな、人間の耳には一番かもな」
 この星から人が生まれたんだし、一番馴染んだ音かもしれん。
 俺たちにそういう自覚は無くても、俺たちの身体。それに一番合うかもしれんな、地球の雨音。



「そんなに素敵な音がするなら、てるてる坊主で止めちゃ駄目かな?」
 雨が降るのを止めたら駄目かな、てるてる坊主で?
「それはいいだろ、てるてる坊主は昔からあるものだしな」
 人間の都合で雨を降らせたり、晴れにしてみたり。
 そういった技術が無かった時代に生まれた神様がてるてる坊主だ、前の俺たちが生きていた頃は無かったが…。SD体制に消されちまって無かったんだが、由緒正しい神様だろうが。
 そいつを使って雨が止むなら、それは自然なことってわけだ。
 てるてる坊主で止む程度の雨さ、神様が雨を止めて下さる程度のな。
「じゃあ、この次に雨が降っても吊るしてくれる?」
 てるてる坊主を作って吊るしてくれるの、ハーレイ…?
「それでお前の喜ぶ顔が見られるんならな」
 晴れて良かったと、雨じゃないんだと。
 雨が止んで良かったと笑顔になるなら、幾つでも作るさ、てるてる坊主を。



「ぼくも作りたかったんだけど…」
 てるてる坊主、作ろうかな、って思ったんだけど…。
「ん?」
 お前、歌だけは歌ったんだろう?
 歌を歌うなら、てるてる坊主も作って吊るせば良かったのに。
「…ママに見られちゃったら、恥ずかしいしね…」
 ママは子供っぽいことをしてるんだな、って思うだけだろうけど。
 でも、絶対に言われちゃうんだ、「ハーレイ先生と庭に出たかったのね」って。
 昨日からお菓子を頼んであるから、外で食べるのにぴったりのお菓子。
「なるほどなあ…。それを言われたら、お前はすっかり真っ赤になる、と」
「うん、多分…」
 ママが思ってるように子供っぽいことをしたからじゃなくて。
 ハーレイと庭でデートをしたくて、雨を止めたくて作ったてるてる坊主だから…。
 ママの口から「ハーレイ先生」って言葉が飛び出した途端に真っ赤になっちゃう。ママの口癖、こうなんだもの。
 「ブルーは本当にハーレイ先生のことが大好きなのね」って。
 好きの意味が全然違うんだけどな、ママが思っているのとは…。ぼくはハーレイと恋人同士で、庭で一緒にお菓子を食べるのはデートの時間のつもりなんだけどな…。



「ふうむ…。どうする、俺と結婚した後」
 明日は出掛けるぞ、っていう時に雨になったら。
 昨日みたいに予報が外れて急に降り出したら、お前はいったいどうするんだ?
「てるてる坊主を吊るすに決まっているじゃない!」
 ハーレイと二人で作って吊るすよ、てるてる坊主を。
 二人で一個か、一個ずつかは分からないけど、てるてる坊主。ちゃんと吊るしてお願いするよ。あした天気にしておくれ、って歌も歌うよ、晴れますように、って。
「そう来たか…。俺と一緒に家でゆっくりっていう選択肢は無いのか、お前の中には」
 ハーレイがフウと溜息をつくから、ブルーは首を小さく傾げた。
「家でゆっくり?」
 それって家から出ないことなの、出掛ける予定はどうなっちゃうの?
「予定は中止で、家でゆっくり過ごすってことだ」
 てるてる坊主で晴れにするのが基本なんだろうが、たまには雨も悪くないとは思わんか?
 今の俺たちだからこそ聞ける平和な雨音。
 そいつを聞きながら二人で一日、のんびりと…な。
「それもいいかも…!」
 朝からゆっくり朝御飯を食べて、出掛けないから雨が止まなくてもかまわなくって…。
 一日中、雨が止まなくっても、ハーレイと二人。
 地球の雨の音は平和でいいね、って家でゆっくり過ごすんだね…。



 いつか結婚して一緒に暮らせる時が来たなら、天気はてるてる坊主に任せて。
 晴れれば二人で外に出掛けて、雨ならば家で。
 屋根を、軒を打つ雨音を聞きながら時を過ごすのもいいかもしれない。
 止みそうにないね、と語り合いながら、キスを交わして。
 それからベッドに入るのもいい。
 明るい内から愛を交わして、合間に頬を、肩を寄せ合って。
 雨音だけが聞こえる部屋の中で二人、暮れてゆくまで、雨の音がしなかった遠い昔の思い出話を交えながら微笑み、シーツの海で語らい続けるのも…。




          雨音・了

※ナスカでは聞こえなかったという雨音。今の地球だからこその音で、優しい音。
 てるてる坊主で止めてしまうより、じっと聞き入りたくなる音なのかもしれませんね。
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