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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(…ふむ)
 たまにはこういう昼食もいいか、とハーレイは家のポストに入れられていたチラシを眺めて遠い記憶を思い浮かべた。今となっては懐かしい記憶。
(うん、今だから懐かしいなんて言えるんだな)
 間違いないな、とチラシに刷られた写真を見ながらクックッと笑う。
 小さなブルーは今も覚えているのだろうか?
 懐かしいとさえ思える、遠い遠い記憶。遥かな彼方に流れ去ってしまった、遠い日の記憶…。



 その翌日。たまたま仕事が早く終わった金曜日。
 週末はブルーの家で過ごすのが常なのだけれど、出来得る限り、平日の夕食もブルーの家で。
 最初の間は申し訳なく思っていたものの、ブルーの両親にも「是非に」と誘われ、仕事の帰りにフラリと寄るのがいつしか当たり前になった。夕食の支度に間に合う日ならば、出来るだけ。
 だから明くる日は朝からの訪問になると知りつつ、ブルーの家の来客用のスペースに車を入れて門扉の横のチャイムを鳴らした。ブルーがどれほど喜んだかは言うまでもない。
 両親も一緒の夕食を終えて、ブルーの部屋で食後のお茶を飲んだ後。
 帰り際に「明日の昼食はブルー君と私の分を持って来ますから」と思念で伝えておいた。小さなブルーに気付かれないよう、見送りに出て来た両親にだけコッソリと。
 サイオンの扱いがとことん不器用になったブルーは、こういう時には気付かない。何も知らずに笑顔で手を振る。「またね」と、「明日は早く来てね」と。



(さて、と…)
 土曜日の朝。ブルーの家へ行くと約束した朝。
 分厚いトーストや卵、ソーセージなどで腹ごしらえをして歩いて家を出、先日チラシを見ていた店へと。ブルーの家まで歩く道から外れて、角を曲がって少し行った辺り。
(ほほう…)
 角を曲がるまでは分からなかったが、目指す方向から美味しそうな匂いがふわりと漂ってくる。食欲をそそる、複雑に絡み合った食材の匂い。
 チラシの効果か、はたまた既に評判の高い店なのか。買おうと並んだハーレイよりも前に三人、待つ間に更に後ろに人の列。
(けっこう買いに来るもんだなあ…)
 昼食時にはまだ早いから、今はテイクアウトだけの営業形態。それでもこれだけの人数が並ぶ。併設された食堂が開く時間帯になれば、もっと行列が伸びそうだ。
 順番を待つ間に買う品を決めて、目の前で二人分を作って貰って。出来立てを受け取り、さっき曲がって来た通りの方へと戻って行った。
 其処からは寄り道せずに歩いて、ブルーの家へ。
 買って来た品は、門扉を開けに出て来たブルーの母に預けておいて…。



 家の二階にあるブルーの部屋。案内されて、お茶とお菓子がテーブルの上に揃ったけれど。
「あれ?」
 ハーレイの向かいに座ったブルーが首を傾げた。
「今日のお菓子、なんだか少なくない?」
 ママ、もう一回持ってくるのかな?
 いつもはお茶のおかわりだけれど、お菓子もおかわり出て来るのかな?
「お前の胃袋に合わせてもらったつもりなんだが?」
 せっかく土産を買って来たのに、食べ切れなかったらつまらんだろう。
 なにしろ量を選べなくってな、少なめというのが無かったんだ。
「お土産!?」
 ブルーは顔を輝かせた。
「食べ物なんだね、何を買って来てくれたの?」
「せっかちなヤツだな、昼飯まで待て」
 出来立ての味というわけにはいかんが、温め直しても美味いと思うぞ。
 温め直すならこんな風に、って書いた紙を添えてくれていたしな。



 小さなブルーの頭の中は、お土産で一杯になったらしくて。お茶を飲みながら話を交わす間に、何度も探りを入れようとした。ハーレイは何を買って来たのかと、昼食は何かと。
 けれどハーレイは引っ掛からない。巧みにかわして、話を逸らして。
 ブルーが答えを得られないままに、ティーセットを下げに来たブルーの母がハーレイが持参した昼食の皿をテーブルに置いて「ハーレイ先生、ありがとうございます」と頭を下げた。
 そうして母が階段を下りて行った後、ホカホカと湯気が立ち昇る皿。
「お好み焼きだったの!?」
 どうしてお好み焼きがお土産なの、とブルーが訊くから。
 近所に店が出来たからだ、とハーレイは簡潔に答えてやった。
「この間、チラシが入っていたんだ。お前、好き嫌いは無いって言うしな」
 店で一番の豪華版だぞ、豚と海老とイカが入ってる。それに卵だ。
 ソースも此処の特製らしい。まあ、食ってみろ。
「うんっ!」
 ブルーは嬉しそうにお好み焼きを頬張り、「美味しいね」と顔を綻ばせた。
「凄く美味しいよ、このお好み焼き」
「そりゃ良かった。どおりで行列が出来てた筈だな」
 今頃は食堂が開いているから、もっと並んでいるだろう。
 確かに美味いな、焼き立てを店で食ったらコレよりももっと美味いんだろうなあ…。



 それで…、とハーレイは切り出した。
「ここまで豪華なヤツを食ってたら無理かもしれんが…」
 覚えてるか?
 前の俺たちがシャングリラで食ってたお好み焼き。
「えっ?」
 ブルーの赤い瞳が真ん丸になった。何を言うのか、と驚いた顔。
「お好み焼きって…」
 そんなメニューは無かったよ?
 シャングリラの食堂で作る料理に、お好み焼きなんか無かったよ…?
「うんと最初の頃の話だ、シャングリラって名前だけだった頃だ」
 それとキーワードはキャベツだな。
 キャベツ地獄と言ったら思い出せるか?
「…キャベツ地獄…?」
「そのものズバリだ、行けども行けどもキャベツな地獄だ」
 前のお前がやらかしただろう。
 わざとじゃないのは分かっているがな、食料を奪いに出掛けた時に。
 こんなに沢山どうするんだ、って量のキャベツが詰まったコンテナを持って帰ったろうが。



「ああ…!」
 忘れちゃってた、とブルーはペロリと小さな舌を出した。
 お好み焼きに振りかけてあった、青海苔の粉がくっついた舌を。
「あったね、そういうキャベツ地獄が」
「思い出したか? あの時の俺の苦労の結晶だ」
 あったろ、キャベツのお好み焼き。
 今、俺たちが食ってるようなヤツほど美味くはなかったがな。
「でも…。キャベツ料理の中では人気じゃなかった?」
 シャングリラの厨房に一杯のキャベツ。
 炒めたり茹でたりしていたけれども、お好み焼きは「料理しました」って感じだったよ。
 キャベツそのまんまじゃなかったもの。
 パンケーキみたいな見た目でキャベツたっぷり、好みでお塩を振ったりして。
「料理なんて大層なものでもないがな」
 小麦粉とキャベツで作れたからなあ、小麦粉に水と刻んだキャベツを放り込むだけだ。
 そいつをフライパンで焼いただけだが、キャベツ炒めよりかは人気だったなあ…。
 ナイフとフォークで切って食えるのも料理らしくて良かったんだな。



 ブルーが食料を奪いに出掛けて、ハーレイが調理。
 いつの間にやら、そういう図式が出来ていた。
 シャングリラがまだ名前だけの楽園に過ぎなかった時代。自給自足ではなかった時代。
 奪う食料は選べないから、バランスの取れた品揃えもあれば、キャベツ地獄もジャガイモ地獄も存在した。それでも食べねば生きてゆけない。工夫して食べてゆかねばならない。
 あれが足りない、これが欲しいと願ったところで、天から降ってくるわけではないから。
 前のブルーが宇宙を駆けて奪いに行かねば、何も手に入りはしないから。
 ブルーにとっては奪うくらいは簡単なことで、近くを船が通りさえすればいつでも奪いに行けたけれども。何の危険も冒すことなく、瞬間移動で奪って戻って来られたけども。
 それを良しとはしなかったハーレイ。最低限の食料があればいいと言ったハーレイ。
 皆に我慢をするように説いて、食材を全て管理していた。常に在庫を確認しながら、その食材で出来る料理を調べて、作った。
 船のデータベースにキーワードを打ち込み、作れそうなレシピを幾つも拾った。それらを自分で作って試食し、使えそうだと判断したなら、調理担当の者たちと調理して食卓に出した。
 元々は食料倉庫の管理人のつもりで仕事をしていた、前のハーレイ。
 気付けば食料以外の物資も任される立場になってしまっていて、シャングリラの最高責任者。
 「見当たらない物があるならハーレイに訊け」と言われたほどの生き字引。
 そうやって船全体の面倒を見ていたからこそ、誰もがハーレイをキャプテンに推した。厨房からブリッジへと居場所が変わって、フライパンの代わりに舵を握った。
 操舵も料理もハーレイにとっては大差ないことで、船を傷つけぬように動かしてゆくのも、火にかけた鍋やフライパンを焦がさないのも、同じく細心の注意を払えばいいこと。
 キャプテンの任に就いたからにはと操舵を覚えて、直ぐに誰よりも上手く操る操舵士となった。シャングリラの癖を掴んだとでも言うか、まるで最初から操舵士だったかのように。
 「船もフライパンも似たようなものさ」とハーレイはよく笑ったものだ。
 どちらも上手に御機嫌を取れば、思い通りの結果が出せる。手順を誤れば黒焦げになる所までがそっくりなのだと、焦がすわけにはいかないのだと。



 かつては調理の責任者だった、キャプテン・ハーレイ。
 前のブルーが奪った食材を料理していた、前のハーレイ。
 キャベツだらけの食料庫を睨んで唸った日さえも、今となっては懐かしい過去で。
「前の俺のキャベツのお好み焼きなあ…」
 あれな、とハーレイはブルーに微笑みかけた。
「もっと美味いのを作れただろうな、もしも卵があったならな」
 ただしだ、前の俺が卵を手にしていたなら、お好み焼きは出来ていなかったろうが…。
 キャベツと卵で作れる料理が生まれちまって、お好み焼きは無かったろうなあ…。
「卵が入ると美味しくなるの、あれは?」
 もしかしてハーレイ、試してみた?
 お好み焼きのチラシで思い出したから、キャベツのお好み焼きを家で作ってみたの?
「いや。…そうじゃなくって、食ったことがあるんだ」
「何を? キャベツのお好み焼き?」
「キャベツ焼きだ」
 そういう名前の食べ物があるのだ、とハーレイはブルーに教えてやった。
 学生時代に友人たちと一緒に食べに出掛けたと、お好み焼きとは違うものだと。



「前の俺は全く知らなかったが、キャベツ焼きは立派な食文化の一つだったらしいぞ」
 俺たちが住んでる、この地域のな。
 SD体制よりもずっと昔の、日本って島国だった頃。
 お好み焼きってヤツは種類が豊富で、調理法も名前も細かく分かれていたそうだ。入れる食材が違ってきたなら名前も変わる。キャベツ焼きもそういったものの一つさ。
「そうなんだ…。前のハーレイ、それを見付けていたんだね」
「らしいな、キャベツ焼きという名前に覚えは無いがな」
 古いデータも漁っていたから、レシピを引っ掛けたんだろう。
 何処の料理かも分からないまま、使えると思って作ったんだなあ、キャベツ焼き。
 そして本物のキャベツ焼きには卵を入れる、と今の俺は知っているわけだ。
 仲間とワイワイ食いに出掛けて、焼いてる所を見ていたからな。
「そっか、卵を入れていたなら、もっと美味しくなったんだ…」
「天かすなんかも入るんだぞ。ただし、天かすは前の俺たちの頃は何処にも存在しなかったがな」
 なにしろ、お好み焼きって食い物自体を前の俺たちは知らなかったしなあ…。
 知っていて卵を入れていたなら、シャングリラでも人気メニューになっていたかもな、キャベツ焼き。食材が豊富になっていったらキャベツ焼きからお好み焼きに変身を遂げていたかもなあ…。



「前のぼくたち、ちゃんと日本の料理を食べてたんだね?」
 あの頃は全然知らなかったけれど、キャベツ焼き。
 今は復活してる料理を、復活する前に作って食べてたんだね…。
「そのようだ」
 キャベツ地獄の副産物だが、まさか立派な料理だとはなあ…。
 俺が試しに調べてみたら、だ。
 ヘルシーメニューで「卵無しのキャベツ焼き」なんていうのもあるんだ、今ではな。
「そのまんまじゃない、前のぼくたちのキャベツ焼きには卵が無かったんだし」
「うむ。どおりでキャベツ料理の中では美味いと人気になった筈だな」
 キャベツ地獄が終わった後では作らなかったが、真っ当な料理だったんだ。
 知っていたなら定着させたな、レシピをきちんと残しておいてな。
「前のぼくはキャベツのパンケーキだと思っていたんだけれど…」
 確かにあれはお好み焼きだね、言われてみれば。
「そうだろう? 正確にはキャベツ焼きだがな」
 卵無しのキャベツ焼きってヤツだが、立派な料理でお好み焼きの親戚だな。
 知らないってことは実に罪なもんだな、ちゃんと料理を作っていたのに俺は廃番にしちまった。こんなレシピは残す必要も無いと、キャベツ地獄が終わった後にはもう要らん、とな。



 由緒正しい料理を抹殺しちまったのさ、とハーレイは笑う。
 SD体制が消してしまった昔の料理を復元しながら、残す努力をしなかったと。無知というのは恐ろしいもので、蘇らせた筈のキャベツ焼きを闇に葬ったと。
「やっちまったな、と反省したのと、前の俺たちが食っていたな、という思い出だな、うん」
 お前も思い出しただろ?
 こいつはかなり豪華すぎだが、前の俺たちのキャベツ焼き。
「それでお好み焼き、買って来たんだ…」
「葬っちまったキャベツ焼きへの罪滅ぼしにな」
 キャベツ焼きは今じゃ、それ専門の店で焼かれているんだ。
 お好み焼きって看板じゃなくて、キャベツ焼きって名前で店を出してる。
 生憎と俺の家から此処までの道には店が無くてな、キャベツ焼きは買って来られんなあ…。
 もっとも、俺は自分で作れるがな。
 前の俺が作ったヤツとは違って、卵を入れて。
 天かすも入れて、小麦粉も水じゃなくって出汁で溶いてな。



 美味いんだぞ、とハーレイは片目を瞑ってみせた。
 学生時代に食べたキャベツ焼きが懐かしくなったら焼いているのだと、専門の店に出掛けてゆくより気楽でいいと。
「焼き立てにソースをたっぷり塗ってな、青海苔なんかを振りかけてもいい」
 熱々のヤツを肴にビールを飲むんだ、いいもんだぞ。
「それ、食べたい!」
 ぼくはビールは要らないけれども、キャベツ焼き。
 ハーレイが作ったキャベツ焼きをもう一度食べてみたいよ、うんと美味しくなったのを。
「おいおい、手料理を持って来られるわけがないだろう」
 俺は「ハーレイ先生」だぞ?
 手料理なんかを持って来ちまったら、お前のお母さんが困るだろうが。
 買って来ただけでも恐縮されちまうんだし、手料理となったらどうなることやら…。
 キャベツ焼きを食ってみたいんだったら、お母さんに頼んで作って貰え。
 レシピは調べりゃ見付かるからな。
「それじゃママの味になっちゃうよ…。ハーレイの味がいいんだよ」
 ハーレイが作ったキャベツ焼きだから、食べたくなってしまうんだよ。
 前のぼくがシャングリラで食べていたっけ、って思い出したくなるんだよ。
 キャベツが入ったパンケーキだって思い込んでた、キャベツ焼き。
 シャングリラで食べてたキャベツ焼きを食べてみたいんだよ…。



「あのキャベツ焼きとは違うぞ、今のは」
 さっき中身を教えただろう?
 今の俺が食いたくて作ってるヤツは、シャングリラのよりもうんと豪華だ。
 卵も入るし、天かすも入る。ついでに決め手は小麦粉を出汁で溶くってトコだな。
 昆布だけではコクが足りんから、カツオも入れる。
 もはや別物だぞ、前の俺が焼いてたキャベツ焼きとは。
「そうだろうけど…。でも美味しかったよ、前のハーレイが作ったキャベツ焼きも」
 ソースなんかは塗ってなくって、お塩を振って食べてたけれど。
 卵も入っていなかったけれど、小麦粉とキャベツでちゃんと料理になってたよ?
 名前を間違えてパンケーキだって思ってただけで、美味しいキャベツ焼きだったんだよ。
「どうだかなあ…。なんたって、ああいう時代だったからな?」
 キャベツだらけのキャベツ地獄だの、来る日も来る日もジャガイモだの…。
 調味料だってロクに無かったし、火さえ通せば料理な時代だ。
 アルタミラと違って料理が食えると、料理してあるものが食えると皆が思った時代だぞ?
 不平不満を言いはしてもだ、餌よりはずっとマシだってことを忘れてなかった頃の話だ。
 何でも美味いし、何でも料理だ。
 そんな時代に美味かったものが、今も美味いかどうかは謎だな。



 前の自分が作ったレシピでキャベツ焼きを再現してみたとしても。
 それは美味しくないであろう、とハーレイは遠い記憶を手繰って断言した。
 刻んだキャベツと、水で溶いただけの小麦粉と、塩。
 名前だけがシャングリラだった船で作られたキャベツ焼きの中身はそれが全てで、卵も天かすも入っていないと。昆布とカツオで取った出汁も無くて、何処にも旨味というものが無いと。
「俺は自分で料理をするから分かるがな…。出汁と水との違いはデカイぞ」
 卵の有無でもドカンと変わる。
 うどんに卵を落とせば美味いが、何も入れなきゃ素うどんだろうが。
「でも、前のぼくたちにとっては美味しかったよ?」
 ひょっとしたら、ぼくとハーレイと、二人。
 あれを作って二人で食べたら、懐かしい味で美味しいのかも…。
「そいつはどうだか…」
 思い込みってヤツもあるしな、あれっきり作らずに終わった料理だ。
 前の俺が闇に葬っちまったレシピなんだし、前のお前もあの時しか食ってはいないんだぞ?
「だけど、思い出したら懐かしいんだよ」
 美味しかったよ、前のハーレイのキャベツ焼き。
 いつか試してみようよ、あれ。もう一度食べてみたいんだよ…。
「それで不味かったらどうするんだ?」
「ぼくは今でも好き嫌いは無いよ?」
 前のぼくと同じで何でも食べるよ、焦げていたって。
 ハーレイはキャベツ焼きを焦がさずに焼けるし、それだけで充分美味しいよ。
 フライパンも船も焦がさないのが大切だ、って前のハーレイ、よく言ってたしね?



「ふむ…」
 前の俺たちの時代を懐かしみながらキャベツ焼きってか?
 シャングリラの舵の代わりにフライパンを握って、焦がさんように。
 前と逆だな、前の俺はシャングリラが焦げてしまわないようにと舵を握ってたんだがなあ…。
 今度はフライパンの方が優先なんだな、俺が焦がさないように気を付けるもの。
「そうだよ、シャングリラはもう無いんだものね」
 ハーレイが焦がしちゃいけないものって、フライパンとかお鍋なんだよ。
 だからフライパンでキャベツ焼き。
 前とおんなじレシピでやっても、地球のキャベツだから前より美味しくなるんじゃない?
 野菜スープのシャングリラ風が美味しくなってしまったみたいに、キャベツ焼きだって。
「そうかもなあ…。地球のキャベツを使うんだしな」
 本物の地球の土と光と水で育った美味いキャベツだ、キャベツ焼きも美味くなるかもな。
 ついでに小麦粉も違ってくるなあ、地球の小麦で出来てるからな。
 お前の言う通り、劇的に美味く化けるのかもなあ、あのキャベツ焼きが。



 所変われば品変わるか…、とハーレイは前の自分たちが生きていた頃には無かったお好み焼きを頬張った。あの頃には知らなかった味。知らずに作って、レシピを廃棄したキャベツ焼き。
 ブルーと二人で食べてみたなら、それもまた極上の調味料となってキャベツ焼きを美味しくするかもしれない。あの時代には恋人同士ではなかったブルー。今度は伴侶になるブルー。
 誰よりも愛したブルーと二人で、青い地球の上に生まれて来た。
 野菜が美味しく育つ星の上に、共に生きてゆくために生まれて来た。
 伴侶となったブルーと囲む食卓は、きっと幸せに溢れているから。
 キャベツと小麦粉と塩だけで出来たキャベツ焼きでも、二人の思い出の料理だから…。
「よし。いつか俺たちが結婚したなら、たまに作るか、キャベツ焼き」
 前の俺が作った、レシピを闇に葬っちまったキャベツ焼き。
 もちろん普段は豪華版の方のキャベツ焼きにして、そいつに飽きた時とかな。
 前の俺たちの頃を思えば、実に贅沢な話なんだが…。
「うん。それしか無いっていうんじゃなくって、飽きたら食べようって言うんだものね」
 贅沢なキャベツ焼きに飽きたらなんて…、とブルーはクスクスと可笑しそうに笑った。
 なんて贅沢な話だろうかと、飽きたら質素なキャベツ焼きを作って食べるだなんて、と。
 キャベツと小麦粉と、塩しか無かったキャベツ焼き。
 それをわざわざ作らなくとも、今の自分たちは豪華なキャベツ焼きをいつでも好きなだけ作って食べ飽きるほどに食べられるのに…、と。



 選択肢など無かった、遠い遠い昔。
 白いシャングリラの舵の代わりに、フライパンを握っていたハーレイ。
 そのハーレイの頭を悩ませる食材を調達していた、キャベツ地獄を作ったブルー。
 キャベツ焼きに使う食材を選ぶどころか、選ぶ食材さえ持たなかった。
 質素なのがいいか、豪華に作るか。そんなことさえ選べなかった。
 食べる物さえ選べなかった遠い昔から始まった前の生を生きて、その生を終えて。
 けして安らかとは言えない最期を遂げたというのに、地球に来られた。
 遥かな時を共に飛び越え、蘇った青い地球まで来られた。
 そうして二人で、また生きてゆける。
 何に脅かされることもなく、青い水の星で。
 青い地球の上で、手を握り合って一緒に暮らしてゆける。
 時にはキャベツ焼きを作って、ハーレイがフライパンを握って。
 白いシャングリラを焦がさないように気を付ける代わりに、火加減だけに気を配りながら。
 ブルーと二人で笑い合いながら、同じ屋根の下で、同じキッチンに立って…。




        キャベツの調理法・了

※初期のシャングリラで偶然生まれた、キャベツ焼き。本物とは材料が少し違っても。
 ハーレイがレシピを残していたら、お好み焼きが出来ていたかもしれませんね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







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 今日は学校が早く終わったから。いつもより早い下校時間で、バスに乗るのも早かった。バスで通学している生徒は、ぼくが乗る路線バスでは一人だけ。普通は歩くか、自転車で通う。
 健康な子供には何でもない距離にある学校だけれど、生まれつき身体の弱いぼくには遠い学校。いつだって家の近所のバス停から乗って、帰りは降りて。住宅街を歩いて家との往復。
(時間が早いと景色も違うね)
 日射しが違うって言うのかな?
 同じ道なのに、違う顔。普段見るより鮮やかな花や、艶やかに見える木の葉っぱ。
(ハーレイ、何時に来てくれるかな?)
 学校が早く終わった理由は、先生たちのための行事があるから。会議みたいなものなんだろう。昨日、学校の廊下でハーレイに会ったら「明日は俺も早めに終わるぞ」と言ってて、夜にはママに連絡があった。「明日は帰りに寄りますから」って。
 学校がある日でも、仕事が早く終わった時にはぼくの家まで来てくれるハーレイ。一緒に夕食を食べてくれるハーレイ。
 だけど大抵、予告は無い。先生の仕事は急に増えたりすることもあって、予定を立てても無駄になることが多いから。
 今日みたいに「行きます」って約束してくれる日は滅多に無いから、とても嬉しい。ママだって張り切って夕食の用意をするんだよね、きっと。
 ハーレイは何でも美味しそうに食べるし、好き嫌いだって無いんだけれど。
 それでも予告をしてくれたからには、凝った料理とか、何か珍しい食材だとか。
(晩御飯、何かな?)
 ぼくの足取りまで踊り出しそう。ハーレイが来るって分かっているから、それだけで幸せ。
 ハーレイと一緒に晩御飯だよ、と考えただけで幸せ一杯。
 夕食の前には二人きりで部屋でお茶が飲めるし、その時間が長く取れるといいな、って。



 浮き立つ心で歩いていたら、ぼくを追い越して行った幼稚園のバス。車体に描かれた虹や動物、如何にも子供が好きそうな絵たち。
 小さな頃には乗ってたっけ、と少し先の方で止まったバスを見ながら歩いた。後ろにくっついた丸いプレートには、バスの名前が書いてあるんだろう。キリンとかゾウとか、バスの愛称。
(…ぼくが乗ってたのはキリン号だっけ?)
 それともキリン号の子が羨ましくって、他の動物だっただろうか。流石にちょっと記憶に無い。帰ったらママに訊いてみようかな、と思った所へバスから降りて来た男の子。制服姿のちっちゃな子供。迎えに出ていたお母さんとしっかり手を繋いでる。
 幼稚園バスはまた走り出して、男の子が空いている方の手を大きく振った。
「フィシス先生、さようならー!」
(フィシス!?)
 バスの後ろの大きな窓越しに手を振り返している女の先生。
 その瞬間、思い出したんだ。
 幼稚園にはフィシス先生がいたんだっけ、って。



 フィシスって名前は今では特に珍しくはない。
 前のぼくと同じでフィシスも有名人だから。ミュウの女神だったフィシスの名前を生まれた子に付ける人だって多い。
 幼稚園バスに乗ってた女性が「フィシス先生」でも、不思議でもなんでもないんだけれど。
 ぼくの学校の生徒にだって、フィシスって名前の子はいるんだけれど…。



(なんで忘れていたんだろう…)
 家に帰って、ママとダイニングでおやつを食べて。
 それから二階の部屋に戻って、さっき出会った幼稚園バスとフィシス先生とを思い返した。
 ぼくが行ってた幼稚園に居た、フィシス先生。
 大好きだったフィシス先生。
(すっかり忘れてしまってたなんて…)
 ぼくはきっと、小さすぎたんだ。
 幼稚園に行ってたくらいなんだし、まだ六歳にもなってなかった。三月の一番最後の日がぼくの誕生日だから、六歳になった途端に学校に行った。幼稚園時代は五歳で終わってしまった。
(五歳じゃ記憶も薄れちゃうよね…)
 おまけに今のぼくの中には、三百年を超える前のぼくの記憶。
 普段は表に出て来ないけれど、ふとしたはずみに溢れ出してくる膨大な記憶。
 そんな代物が詰まっていたんじゃ、幼稚園の頃の思い出なんかは薄れて当然なんだけど。
 分かってるけど、ちょっぴりショック。
 フィシス先生を忘れていたなんて…。
 シャングリラの写真集を何度も開いて、天体の間を写した写真を隅から隅まで見ていたのに。
 フィシスのことだって考えてたのに、今と繋がってはいなかった。



(…フィシス先生…)
 今のぼくより、うんと小さかった頃のぼく。
 制服のズボンが半ズボンだった、幼稚園バスに乗っていた頃のぼく。
 キリン号だか、違う名前のバスだったのか。ママに見送られて乗り込んだバスに揺られて、他の子たちを乗せながら着いた幼稚園。広い園庭や遊具、出迎えてくれる先生たち。
 其処の中庭にあった、真っ白な像。凄く髪の長い女性の像で、長い服の裾が足を隠してた。立ち姿じゃなくって、椅子に座ったみたいな形。上半身を屈めて、子供と視線を合わせる形。
 女神様みたいだと思ってた像。だけど女神様とは違って、先生。
 文字を覚えたら読めるようにと「フィシスせんせい」って書いてあったプレート。
 小さかったぼくには誰のことだか全然分かっていなかったけれど、ずっと昔のとても優しかった先生なんだ、って教えて貰った。
 ぼくたちみたいな子供の世話をするのが大好きな人で、女神様みたいな人だったんだ、って。



(フィシス先生、好きだったっけ…)
 前のぼくの記憶が無かったぼくには、ただの彫像だったけど。
 シャングリラに居た頃のままの衣装を纏った「フィシス先生」の像がお気に入りだった。それを見るのが好きなんじゃなくて、ホントのホントにお気に入り。大好きだったフィシス先生。
(ちょうどいい場所にあったんだよ、あれ)
 小さかったぼくは、中庭にあった小鳥の家とか、ウサギの小屋が好きだったから。
 小鳥やウサギを眺めに出掛けて、他の子供たちで混んでいる時はフィシス先生の膝に座ってた。
 そう、小さな子供がよじ登れるように、フィシス先生は両手を差し出してくれていたんだ。その手を伝って、膝に登って。真っ白な像の膝にチョコンと座った。
 他の子たちよりも高い場所から、小鳥の家やウサギの小屋を見ていた。ホントは近くで見たくて仕方ないけど、混んでいる間は待つしかないから。フィシス先生の膝で待つしかないから。
 早く空かないかな~、って待ってる間中、フィシス先生はぼくのために日陰を作ってくれた。
 夏は日陰で、冬は陽が当たるポカポカ暖かなフィシス先生の膝の上。
 そうなるように設置してあったんだろう。
 膝に座る子供が快適な時間を過ごせるようにと、季節によって向きが変わるとか。



 フィシス先生の像の目は閉じていたけれど、何も不思議に思わなかった。
 優しそうな笑みを湛えた顔だけで充分、笑ってる時に目が細くなる人も多いから。そういう顔を写した像だと、フィシス先生は笑ってるんだと思ってた。
 目が見えないだなんて知らなかったし、幼稚園では教わることもなかったから。
 学校に行って、ミュウの歴史で習った時には「そうだったんだ」と驚いたけれど…。
 フィシス先生の像が目を閉じてた理由にビックリしたけど、それっきり。
 忘れちゃってたフィシス先生。大好きだったフィシス先生の像。
 今でも幼稚園の中庭にフィシス先生の像はあるんだろうか?
 小さかった頃のぼくみたいな子を、膝に乗っけて中庭に座っているんだろうか…。



 前のハーレイと、ゼルにヒルマン、ブラウにエラ。
 地球の地の底に向かったジョミーを探して、地上にあったユグドラシルから下へと向かった長老たちとフィシス。彼らは途中で子供を見付けた。大勢の人類の子供たちを。
 今のハーレイに聞いた話では、みんな仰天したらしい。どうして子供が地下にいるのかと、地の底で何をしているのかと。
 だけど、ハーレイたちはミュウだったから。
 絶え間ない地震で揺れ動く地の底で、明かりさえも消えてしまった所で泣きじゃくるだけの子供たちの心を読むことが出来た。
 カナリヤと呼ばれて、地球の浄化が終わる時まで地の底深くで育てられる子たち。地球の本当の姿を知らされていない、「外へ出られる日は近いのだ」と信じ込んでいた子供たち。
 幼い子たちを見殺しになんか出来はしないと、ハーレイたちは頑張った。一人一人のサイオンは弱く、瞬間移動は不可能だけれど、力を合わせれば出来る筈だと。子供たちを地球の上空に浮かぶシャングリラまで無事に送ってやれる筈だと。
 そうして彼らはやり遂げたんだ。カナリヤの子たちを白い鯨へ送り届けた。そればかりか、更にフィシスも送った。「あなたは生きろ」と、自分たちのことを覚えていてくれと…。
 前のハーレイたちの命は其処で終わったけれども、フィシスは生きた。ハーレイたちが命懸けで守ったカナリヤの子たちを乗せた箱舟で、白いシャングリラでフィシスは生きた。



 カナリヤの子たちを育てていたから、彼らがミュウに育てられた最初の人類の子供たち。人類とミュウは同じなのだと、兄弟なのだという確かな証明。
 宇宙の星々もそれに倣った。人類がミュウを、ミュウが人類の子供を育てて一緒に暮らしてゆく世界。誰も反対しなかった。気味が悪いとも思わなかった。
 ミュウは敵だと、忌むべきものだと教えるシステムはもう無かったから。
 グランド・マザーに立ち向かう前にキースが残して行ったメッセージもまた、そうせよと説いたものだったから。
 フィシスはそれから長い時を生きて、ミュウの女神から幼稚園の先生へと変身を遂げた。
 ミュウと人類とが一緒に入った一番最初の幼稚園に招かれ、其処の園長先生になった。けれども最後まで普通の先生をやりたがってて、子供たちと遊んだというフィシス。園長先生の仕事をしていない時は、子供たちの相手をしていたフィシス。
 前のぼくがフィシスに与えたサイオンはとっくの昔に無くなっていた筈なのに。前のぼくの死と共に薄れ始めて、消えて無くなる筈だったのに…。
 見えない筈のフィシスの瞳は前と変わらず、周りの世界をきちんと捉えていたという。長かった寿命も、若い姿のままだったことも、フィシスにサイオンがあったことの証拠。
 前のハーレイたちと一緒にカナリヤの子たちを瞬間移動で送った時にも、フィシスはサイオンを使っていたと今のハーレイが話していたから、そういう奇跡もあるんだろう。
 きっとフィシスは神様の力で本物のミュウになったんだろう。
 ぼくとハーレイが青い地球の上に生まれ変わったみたいに、神様にしか起こせない奇跡。
 本物のミュウになった、前のぼくの女神。
 今のぼくがうんと小さかった頃、大好きだったフィシス先生の像…。



 フィシス先生のことは忘れていたな、と考えている内に、来客を知らせるチャイムが鳴って。
 約束通り、ハーレイが仕事帰りに来てくれた。いつもより早い時間の来訪な上に、ぼくの部屋のテーブルに置かれたおやつはパウンドケーキ。ハーレイの大好物のパウンドケーキ。
 ハーレイのお母さんが作るのと同じ味がするというそれを、ママはしっかり準備した。予告つきだったからこそ出来ること。晩御飯もきっと御馳走だよね、と思うけれども、その前に…。
「ねえ、ハーレイ」
 ママの足音が階段を下りていった後、ぼくは早速、訊いてみた。
「ハーレイが行ってた幼稚園にも、フィシスはいた?」
「フィシス?」
 何のことだ、とハーレイが怪訝そうな顔をするから。
「フィシス先生だよ、フィシスそっくりの像は無かった?」
「ああ、あったな…!」
 そういえばあった、と手を打つハーレイ。
 幼稚園の庭に像があったと、今から思えばフィシスなんだな、と。
 やっぱりハーレイも忘れていた。
 幼稚園に居た、フィシス先生。前のぼくたちが知っているフィシスの、その後の姿を。



「ハーレイの幼稚園にあったフィシス先生、どんな像なの?」
「あれか? ほら、手を出せ」
 前のぼくがフィシスの地球を見る時にしていたみたいに、手と手を絡めて。サイオンを合わせて見せて貰ったハーレイの記憶も、ぼくとおんなじフィシス先生。座った姿の真っ白な像。
 おんなじだね、って、ぼくの記憶のフィシス先生の像を送ってみたら。
「この形のが一番多いらしいぞ、幼稚園に置いてある像は」
 他にも何種類かあるみたいだがな、これが基本で一番人気の像らしい。
「…フィシス先生は忘れてたくせに、知っているんだ?」
 どうして、と不思議に思ったけれども、答えは至って単純だった。
「教師として一応、教わるからな」
 幼稚園と学校はまるで違うが、子供が最初に集団行動を覚える所が幼稚園だしな?
 どういう所かくらいは押さえておかんと、生徒の心を上手く掴めん。
 こんなのは幼稚園のレベルだろうが、と叱り付けるには根拠が要るのさ。



 そう言ってハーレイは笑ったけれども、ハーレイは先生。フィシスも先生。
 義務教育の一番最後の学校の先生と、幼稚園の先生じゃ仕事も全然違うだろうけど…。
「ハーレイ…。フィシス、幸せだったのかな?」
 フィシス先生の像は優しい笑顔で、とっても幸せそうだけど。
 前のぼくが死んでしまった後のフィシスは幸せだったんだろうか、前のぼくが渡したサイオンも失くしてしまっただろうに。
 そうなると知ってて何も教えずに、前のぼくはメギドに行っちゃったけれど…。
 フィシスが自分で気付いてくれれば、と生まれさえ教えなかったけれども、間違っていた?
「さあな…。一時期、悩んで塞いでいたが…」
 すまん、俺も余裕が無かったからな。
 フィシスのことまで気が回らないままで終わっちまった、ろくに訪ねもしなかった。
 それでもフィシスは地球に降りると自分で決めたし、地球でも気丈に振舞っていたな。
 トォニィを引っぱたいたりもしたと前に話してやっただろう?
 幸せだったかどうかはともかく、自分の足でちゃんと歩いていたさ。
 前のお前が教えなくても、きっと気付いていたんだろう。
 自分が何者か、何処から来たのか。
 お前が教えずに逝っちまったからこそ、自分で考えて答えを出せた。どう生きるべきかも自分で決めた。そうだったろうと俺は思うぞ、前のお前は間違っていない。
 手とり足とり、こうするべきだと教えてやるより良かったさ。
 お前という保護者を失くしたフィシスは、自分で歩くしかなかったんだからな。



「そっか…。それならいい…」
 前のぼくもそれを望んでいたから。
 サイオンを失くしても強く生きてくれと、幸せに生きろと願っていたから。
 前のぼくの我儘で連れて来たフィシス。前のハーレイだけが正体を知っていたフィシス…。
 だけど神様は奇跡を起こした。フィシスにサイオンを残してくれた。そのサイオンを使って目が見える人と同じように動いて、フィシスはカナリヤの子たちを育てた。
「ハーレイがカナリヤの子たちを送った時には、フィシス先生なんて想像しなかったよね?」
「それどころの騒ぎじゃなかったからなあ…」
 とにかく脱出させなければ、と必死だったな。
 ついでにフィシスを最後に送ろうと、俺たちだけでコッソリ思念を回してたしな?
 フィシスに知れたら失敗するから、そういう意味でも必死だったさ。
 無事に送り出せてホッとしたもんだが、まさかフィシスがフィシス先生になるとはなあ…。
 俺たちに託されたカナリヤの子たちだ、頑張らねばと思ってくれたんだろうな。



「カナリヤの子たち、シャングリラで育てたんだよね?」
「あの子たちが降りたがらなかったらしいな、フィシスに懐いていたんだろうな」
 何処の星でも降りられたのにな?
 シャングリラを降りた仲間も多かったようだが、あの子供たちは乗っていたらしいな。
「ハーレイたちに助けられたんだもの。シャングリラに残ろうって考えそうだよ」
 刷り込みって言うんだったっけ?
 卵から孵った雛鳥が最初に目にした人間のことを親だと思ってついて歩くの。
 それと似たような感じじゃないかな、ハーレイたちに貰った命だものね。
「…そうかもしれんな」
 沢山の雛鳥を拾っちまったなあ、文字通りカナリヤの雛ってヤツだな。
 さぞ賑やかなことだったろうさ、あれだけの子供がいっぺんに増えたシャングリラはな。
 前の俺たちやジョミーがいなくなった分を埋め合わせるには充分だろう。
 寂しいどころか、前よりもうるさくなったんじゃないか?
 トォニィもチビの後輩が一気に増えたらベソをかいてはいられないしな。



 そういう意味でもカナリヤの子たちはシャングリラの役に立っただろうと笑うハーレイ。
 ジョミーを亡くしたトォニィはベソをかきそうだけども、小さな子供が大勢いたなら先輩として頑張らないといけないから。泣いていたんじゃカッコ悪いから…。
「そうだね、泣き虫ソルジャーって渾名がつきそうだものね」
「うむ。子供は容赦がないからな」
 遠慮なく泣き虫呼ばわりだろうさ、泣いていたなら。
 シャングリラの仲間は見逃してくれても、カナリヤの子たちはそうはいかんぞ。
「その子供たちが大きく育ってから幼稚園の園長先生になったんだよね、フィシス?」
 アルテメシアの幼稚園で。
 人類とミュウが一番最初に一緒に入ったっていう幼稚園で…。
「ああ。カナリヤの子たちも何人か一緒に行ったようだな、その幼稚園の先生をやるために」
 そこのやり方が評判になって、あちこちの星に広がって行った。
 幾つもの星に呼ばれて講演なんかもしてたらしいな、フィシスたちはな。
「そうなんだ…」
「お前の年ではまだ知らないさ。それに学校で習うことでもないからな」
 そういったわけで、幼稚園と言えばフィシス先生なのさ。
 だから何処でもフィシス先生の像があるわけだ。
 こういう立派な先生がいたと、偉いけれども優しくて素敵な先生だった、と…。



(…フィシス、そんなに偉かったんだ…)
 前のぼくの像は見たことがない。何処かにあるって話も聞かない。
 ジョミーやキースもそれは同じで、前のぼくたちのためには記念墓地の墓碑。前のぼくの墓碑が一番奥にドカンと立ってて、その次の場所にジョミーとキースのが並ぶ。
 あちこちの星に記念墓地と墓碑があると聞くけど、像は知らない。絶対に無いとは言い切れないけど、フィシスみたいに何処の星でも当たり前にあるわけじゃない。
 幼稚園があれば、庭にはフィシス先生の像。幼稚園を守る女神みたいに、フィシスの像。
 ミュウの女神は幼稚園のための女神になった。
 小さかった頃のぼくみたいな子を、膝に乗っける女神になった…。



 前のぼくには想像もつかなかった、フィシス先生。
 幼稚園を守る女神に変身を遂げた、前のぼくの女神。前のぼくが決めたミュウたちの女神。
 小さかったぼくが大好きだったフィシス先生が、前のぼくのフィシスだっただなんて。
「ねえ、ハーレイ。…ハーレイはフィシス先生、好きだった?」
「はあ?」
 意味が掴めないって感じのハーレイの顔。そうだろうな、ってクスッと笑う。
「あのね…。ぼくね、とっても好きだったよ。フィシス先生の像の膝の上が」
「お前、あそこは登ってたのか?」
 自分の家の木にも登らないお前が、あの像の膝に?
 俺の記憶じゃ幼稚園児にはかなり高い筈だぞ、登れるようには出来ているがな。
「うん。チビのくせに頑張っていたとは思う…」
 だけど周りがよく見えるんだよ、小鳥の家とかウサギの小屋とか。
 前が混んでて行けない時には、あそこに登って空くまで座っていたんだよ…。
「なるほどなあ…。きっと御機嫌で座っていたんだろうなあ、小さなお前が」
 今日も登ったと、得意そうな顔で。
 ぼくの椅子だ、って満足そうに座って、足をぶらぶらさせたりして。
 そうか、チビだった頃のお前がフィシスの膝になあ…。



「傑作だよね、前のぼくは座らなかったのにね?」
 フィシスの膝に座るどころか、その逆だったよ。
 シャングリラに連れて来た頃のフィシスは小さかったし、前のぼくの膝の上に座っていたよ。
「お前の方が保護者だったんだから仕方なかろう」
 フィシスは幼稚園児よりかは大きかったが、それでも子供だ。
 お前だって可愛がって座らせてたろうが、フィシスをうんと甘やかしてな。
「まあね。…前のぼくはフィシスの膝じゃなくって、ハーレイの膝に座ってたんだよ」
「今のお前も変わらんじゃないか」
 何かと言えば座りたがるくせに。
 幼稚園に行ってた頃から変わらないわけだ、フィシス先生の像か、俺かの違いだ。
「…ふふっ、フィシス先生はぼくの恋人とは違うんだけどね?」
 幼稚園の頃から変わらないんなら、フィシス先生の膝の代わりに座ってもいい?
 ハーレイの膝。
「まあいいだろう。…お母さんが晩飯だって呼びに来るまでな」
「うんっ!」
 やった、と自分の椅子から立ち上がったぼく。
 フィシス先生の膝の代わりに、今日はハーレイの膝に座れる。



(いいことを思い出しちゃった!)
 よいしょ、とハーレイの膝に乗っかった。
 いつもはハーレイの膝に座ったら胸に頬を摺り寄せて甘えるけれども、フィシス先生の膝の上に座ってた頃を思い出したから。
 それが切っ掛けでハーレイの膝に乗っけて貰えたんだから、今日はいつもと違う向き。
 ハーレイとおんなじ方向を向いて、背中にハーレイの優しい温もり。
 広くて逞しい胸がぼくの背もたれで、ハーレイの膝がぼくの座る場所。
 ハーレイの腕がぼくの身体をそっと抱き締めて、笑いを含んだ声が訊いてきた。
「おい、フィシス先生の膝と比べてどうだ?」
「やっぱり断然、ハーレイがいいよ」
 そうに決まっているじゃない。
 前のぼくも、今のぼくも、ハーレイが好き。ハーレイのことが一番好き…。
 前のぼくはフィシスが好きだったんだ、って噂もあるけど、それはそれでいいよ。
 実はキャプテン・ハーレイと恋人同士でした、ってことになったら大騒ぎになってしまうもの。
 恋人はフィシスだったんです、って方が平和なんだよ、間違いだけど。
 間違いだけれど、訂正するより平和だろうって気がしてこない?
「まあな。今度も秘密のままなのかもなあ…」
 俺とお前が結婚したって、前世が誰だったかは一生、明かさないままで。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイの仲は今度も秘密で終わるのかもなあ…。



 せっかく二人で生まれて来たのに、とハーレイは苦笑しているけれども、それでいい。
 前のぼくの恋人が本当は誰だったのかなんて、間違えられたままでもいい。
 フィシスか、それともハーレイかなんて、誰一人として知らなくってもかまわない。
 今のぼくは地球で幸せだから。
 ハーレイと二人、青い地球の上に生まれ変わって幸せに生きてゆくんだから。
(…今度は結婚出来るんだよ)
 誰よりも大切で、前のぼくだった頃から好きだったハーレイと今度は結婚出来るんだから。
 幸せだったら、それだけでいい。それ以上のことを望みはしない。
(フィシス、見えてる?)
 君の膝の上に乗ってた、幼稚園の頃のぼくも君には見えてた?
 ねえ、フィシス。
 ぼくはとっても幸せなんだよ、前のぼくが行きたいと夢見た青い地球の上で…。




          幼稚園の女神・了

※幼かった頃のブルーのお気に入りの場所だった、フィシス先生の膝の上。像ですけれど。
 フィシスは幸せに生きたようです、カナリヤの子たちと。そして今では幼稚園の女神。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







(…やっぱり子供だ…)
 お風呂から上がって、パジャマのぼく。洗面台の大きな鏡に映ったパジャマ姿のぼく。
 何処から見たって子供の姿で、前のぼくみたいな姿じゃない。子供の顔をして子供の手足。
 早く大きくなりたいと願い続けているのに、伸びない背丈。ハーレイとキスさえ出来ない背丈。どうして伸びてはくれないんだろう。百五十センチのままなんだろう、と悲しくなる。
(手だって子供の手のままなんだよ)
 前の生の最期にハーレイの温もりを失くした右の手。冷たく凍えてしまった右の手。
 悲しかった記憶は今もあるのに、右手が今も覚えているのに、前のぼくよりも小さくなった手。子供っぽくなってしまった右の手。
(小さい分だけ、悲しさも減ってくれればいいのに…)
 普段はすっかり忘れてるけど、メギドの夢を見ちゃった時には前のぼくの悲しみで潰されそうになってしまうから。悲しくて怖くて、今のぼくはただの幻かもしれないと震える夜も多いから。
 小さな身体に見合った分だけ、悲しい記憶も減って欲しいと思ってしまう。
(だって、こんなに小さいんだよ?)
 前のぼくと手と手を合わせてみたなら、きっと一回りは違うと思う。
 だけど此処には前のぼくは存在していないから。
 こんな感じで、と鏡の向こうのぼくの右手と、ぼくの右手を合わせてみた。鏡は左右を逆に映し出すから、鏡のぼくの手は左手と言うのかもしれないけれど。
 鏡を挟んで重ねた手と手。ぼくの手だからサイズは同じで、ピタリと綺麗に重なるんだけど。
(前のぼくの手だったら重ならないよ!)
 絶対、ぼくより大きい筈の手。
 鏡の向こうに前のぼくが居たなら、一回りは大きい筈の右の手…。



(…あれ?)
 ぼくの記憶に引っ掛かったもの。
 前のぼくもこうして鏡に手を当てていなかったろうか?
 鏡に映った自分の姿と手と手を合わせて、こんな風に覗いていなかったろうか…?
(…なんで?)
 前のぼくは鏡が好きだったろうか?
 小さなぼくは毎日のように覗き込んでは溜息だけれど、前のぼくにそんな必要は無い。鏡に映る自分の姿に不平不満などありはしないし、自分の姿に酔ったりもしない。
(嬉しくて毎日覗き込むほど、美人だってわけじゃなかったものね?)
 前のぼくの姿形を称賛する仲間は多かったけれど、ぼくにとってはどうでもいいこと。
 たった一人が気に入ってくれれば、もうそれだけで充分だった。ハーレイの瞳に綺麗だと映ればそれで充分、それ以上のことを望みはしない。
 自分の何処が綺麗なんだか、特に知りたいとも思わない。鏡を覗いて調べたりしない。
(だけど…)
 こうして手を当てた記憶。鏡の向こうを見ていた記憶。
 何なのだろう、と覗き込んでいたら、ドアを開けてパパが入って来た。
「まだ居たのか? おいおい、そんなに覗いていたって向こう側には行けないぞ?」
 昔の絵本でも思い出したか、って笑いながらシャツを脱ぎ始めたパパ。お風呂に入ろうとやって来たパパ。その瞬間に、ぼくは思い出したんだ。ぼくの記憶が何だったのかを。
「ありがとう、パパ!」
「ん、どうした?」
「何の絵本か思い出したよ、おやすみなさーい!」
「ああ、おやすみ」
 夜更かししないで早く寝ろよ、と笑ってるパパ。ぼくは「うんっ!」と返事したけど。
 ちょっぴり夜更かししちゃうと思う。鏡のことを思い出したから…。



 引っ掛かってた、鏡の記憶。正体は絵本なんかじゃなかった。ううん、半分くらいは絵本の世界からやって来た記憶だったかも…。
(パパが言ったから思い出せたよ)
 自分の部屋のベッドにチョコンと座って、ぼくは遠い日の記憶を追った。
 白いシャングリラで暮らしていた頃。
 ぼくが今よりもずっと大きくて、ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃…。



 何処で知ったのか、今では思い出せないけれど。
 絵本だったか、それとも普通の本だったのか。あるいはデータベースから気まぐれに引き出した情報だったか、今となってはもう分からない。
 ただ、前のぼくが何処かで仕入れた知識。SD体制よりも遥かな昔の地球の言い伝え。
(…最初は絵本で読んだのかもね?)
 鏡の向こうには別の世界があると言うから。
 違う世界があると言うから、前のぼくは青の間の奥にあった鏡をよく見ていた。
 今のぼくがさっきしていたみたいに、洗面台の鏡なんかに手を当てて。
(別の世界に行けるのかも、って見てたんだっけ…)
 向こう側に地球が在りはしないかと、地球への道が鏡を通して開かないかと。
 ワープで時空間を超えてゆくように、一足飛びに地球までの道。
 それが鏡から開かないかと、開いてくれればいいのにと。



「…こちらでしたか」
 鏡の向こう側、前のぼくの後ろに映ったハーレイ。キャプテンの制服を纏ったハーレイ。ぼくの姿が見当たらない時は、こうして奥まで探しに来た。
「また地球ですか?」
「うん。そう簡単に開かないとは思うんだけどね…」
 もしかしたら、と鏡にピタリと手を当てるぼく。
 サイオンで道を開けはしないかと、開くための手がかりでも掴めないかと。
 ワープで時空間を超えられるのだし、鏡の道だって馬鹿には出来ない。ただの伝説だと、作り話だと片付けてしまうには惜しい気がした。
 だから鏡で思い出した時には手を当ててみる。其処から道が開かないかと、青い地球まで飛んでゆける道が不意に開きはしないかと。
 真剣な顔で、時には「夢の話だよ」なんて笑いながら鏡を覗いていた、ぼく。そんなぼくの夢を笑い飛ばしもせず、一緒に悩んでくれたハーレイ。
「開け胡麻とは行かないでしょうしね…」
「ホントだね。呪文でもあればいいのにね…」
 鏡の道を開くための呪文。唱えれば道が出て来る呪文。
 幾つもの古いデータを調べて、ありとあらゆる類の呪文を鏡に向かって試したりした。
 ちょっと違うかもしれないけれど、と考えながらも魔方陣なんかも描いたりした。
 けれど開かない地球への道。
 鏡を通して青い地球へと繋がる道…。



 そうやって努力して、気まぐれに手を当てて念じたりして。
 前のぼくのサイオンでも開くことが出来ない道と格闘しながら、前のハーレイにこう言った。
「鏡の道はきっと、開かない方がいいんだろうけどね」
「何故です?」
 それが出来たら、あなたの夢が叶うのでしょうに。
 どうして開かない方がいいなどとお思いになるのです、ブルー?
「だって、地球だよ? 地球までの道が開くんだよ?」
 開いたらきっと、ぼくは青い地球まで一直線に飛んでゆくだろう。あの青い星へ飛ぶだろう。
 そうしたら帰って来ない気がする。青い地球に着いて、幸せな気分で一杯になって。
 それっきり二度と帰って来ないよ、行ったきりになってしまうと思うよ。
 この船から、ぼくがいなくなったら。…戻らなかったらどうするんだい?
 ソルジャーのぼくが消えてしまったなら、キャプテンの君だってとても困るだろうに。
「いいえ。あなたは帰ってらっしゃいますよ」
「ソルジャーだから? そんなことは忘れてしまいそうだよ」
 地球に辿り着けたという幸せに酔って。
 ソルジャーの務めもシャングリラのことも、何もかも忘れていそうだよ、ぼくは。
「…そうでしょうか? 本当にお一人で大丈夫ですか?」
 地球に私はいないのですが…。あなたの隣に私は立ってはいないのですが。
「それは困るね…」
 最初は舞い上がっていて気付かないかもしれないけれど。
 ハーレイがいないと気付いた途端に、帰りたくなって急いで帰るんだろうね…。
「そうでしょう?」
 ですから鏡の道が開いても安心ですとも。
 地球に繋がっている秘密の近道が出来る、それだけのことではありませんか。



「青の間から秘密の近道ねえ…」
 それもいいね、とぼくは笑った。諜報活動に使えそうだと、便利な道になりそうだと。
「諜報活動と仰いますか…。地球で色々と裏工作をなさるのですか?」
「そうだよ、ぼくはソルジャーだから」
 こっそり出掛けて、あちこちでデータを操作してみたり、地球の中枢に入り込んだり。
 もしかしたら地球の要のグランド・マザーも壊せるかもね?
「お一人でグランド・マザーを…ですか?」
「うん。ぼくなら出来るかもしれないと思わないかい?」
 ぼくは最強のタイプ・ブルーだ。
 グランド・マザーがどれほどのものかは分からないけれど、挑むだけの価値はあると思うよ。
 もしも壊せたら、マザー・システムはそれで終わりだ。ミュウが虐げられる歪んだ世界も其処でおしまい。いいアイデアだと思うんだけどね?
「…それは承服出来ません。私もお連れ頂かないと」
 危険を承知で、あなたをお一人で送り出せるとお思いですか?
 諜報活動ならばともかく、グランド・マザーと戦うとなれば私も一緒にお連れ下さい。
「でも…。この鏡、二人で通れるかい?」
「もちろんです」
 私も映っていますから。
 あなたの隣に、私も映っていますから…。



 違いますか、と微笑んで、ぼくが鏡に当てていた手に、自分の大きな手を重ねたハーレイ。
「こうして、手と手を重ねて映して。そうすれば一緒に通り抜けられると思いませんか?」
「そうだね、そうかもしれないね…」
 二人で道を通ってゆけるのならば。
 鏡の道が開いた時の、記念すべき第一回は君と通れたら嬉しいのに。
「シャングリラはどうなさるのです?」
 ソルジャーも、キャプテンも不在のシャングリラを。
「直ぐに戻るよ、君と二人で。そうして一緒にその先のことを考えるんだよ」
「グランド・マザーの壊し方をですか?」
「そうに決まっているじゃないか」
 地球までの近道が開けたならば。
 グランド・マザーを壊す方法を考えないなんて、ソルジャー失格というものだろう。
 ぼくと一緒に行こうと言う君には、とんだ災難かもしれないけどね。
「あなたと一緒にゆけるのであれば、何が起ころうとも悔いは全くありませんが…」
 何かのはずみに、あなただけが鏡に飲み込まれたら…、と思うと鏡を塞ぎたくなります。
 蓋をするとか、覆いをかけてしまうとか。
「大丈夫。もしも一人で飲み込まれたって、君がいないと気付いたらぼくは戻ってくるよ」
 ぼくは絶対に戻りたくなる。
 何をしてでも、君のいる世界に戻ってくるよ…。



 そんな約束をしていたくせに。
 鏡を通って何処へ行こうとも、必ず戻ると言っていたくせに。
 ぼくはハーレイを残して逝った。
 地球に行ったのならまだマシだけれど、ハーレイを悲しませてしまう死の国に行った。
(…鏡の道を通って行ったわけじゃないけれど…)
 どうして戻ろうと微塵も思わなかったんだろう。
 ハーレイの所へ、ハーレイが居るシャングリラに戻ろうと、考えさえもせずに逝ったのだろう。
 何をしてでも生きて戻ると、戻らなければと、どうしてぼくは……。
 ただの一度さえも思いもしないで、ハーレイを置いて逝ったんだろう。
(…ぼくの命は尽きていたから…)
 ジョミーに救われて生き延びたけれど、本当ならばアルテメシアで尽きていた筈の命。
 赤いナスカまで辿り着ける筈も無かった命。
 だけど、諦めが早すぎたろうか。
 メギドで撃たれて、ハーレイの温もりを失くしてしまって独りぼっちになった、ぼく。
 右の手に持っていた大切な温もりを失くした、ぼく。
 独りぼっちになってしまったと泣きじゃくる代わりに、帰りたいと泣けば帰れただろうか。
 シャングリラまで飛べる、連れて行ってくれる鏡の道が開いただろうか。
(メギドに鏡は無かったけれど…)
 あそこに一枚の鏡があったなら、その鏡にぼくの手を当てて。
 ハーレイの温もりを失くした右の手を当てて、強く願えば飛べただろうか。
 シャングリラを追って、白い鯨を追いかけて鏡の道を通って。



(…鏡の道かあ…)
 通った人の話は幾つもあるのに、開かなかった鏡の道。
 前のぼくが探した地球への道。
 とうとう開かずに終わったけれども、何度も夢見て手を当てていた。
 この鏡から道が開かないかと、青い地球まで行けはしないかと。青の間の奥で、前のぼくが手を当てて願った鏡。その向こうに地球を夢見た鏡。
 通れないままで、開かないままで終わってしまった夢物語だと思ったけれど。
(…もしかして、ぼくは通って来た?)
 今のぼくが居る、青い地球まで。ハーレイと同じ町に住んでいる地球の上まで。
(…前のぼくたちが生きてた頃には青い地球は何処にも無かったんだよ)
 在ると信じていた青い水の星は、マザー・システムが作り上げた偽りの夢にすぎない星だった。前のぼくが残した言葉を守って、懸命に地球まで行ったハーレイ。そのハーレイたちが見た地球は死の星で、朽ち果てた星のままだった。
(そんな地球だとは知らなかったものね、前のぼくは…)
 青い地球へ行こうと、其処へ行きたいと鏡の道を開こうとした。思い付く限りの呪文を唱えて、時には魔方陣まで描いて。
 ぼくが願った青い地球が出来るまで、鏡の道は開かずに閉じたままだった?
 前のぼくが行きたかった先は青い地球だから、鏡の道は開かなかった…?
(そうだったのかも…)
 通りたいと願った鏡の道。
 神様が開いてくれたんだろうか、青い地球が蘇ってくる時を待って。
 前のぼくが何度も願った通りに、鏡から地球へと向かう道を。
 ハーレイと一緒に通れるようにと、神様が開いて、青い地球まで鏡の道を繋げてくれた…?
 青の間の鏡に映っていたぼくと、隣に映っていたハーレイ。
 ぼくたちが全く知らなかっただけで、あの時にはもう用意されていたんだろうか、鏡の道は…。



(…でも…)
 青い地球まで来たのはいいけど、小さくなってしまった、ぼく。
 前のぼくよりずっと小さい、十四歳の子供になってしまった今のぼく。
 百五十センチしかない小さな背丈と、子供っぽい顔と子供の手足。
 ソルジャー・ブルーだった頃の、青の間で鏡を見詰めていた頃のぼくの身体は何処にも無い。
(中身は前とおんなじなのに…)
 悔しいけれども、これが現実。ハーレイとキスさえ出来ない子供の身体。
 鏡には左右が逆に映るように、鏡の向こうに広がる世界はこちらの世界とあべこべになっていることもあると言うから、そういう仕掛けが働いたかな?
 ハーレイは大丈夫だったみたいだけれども、大人だったぼくは小さな子供になったとか…。
(…ひょっとしたら、映った鏡のせいなのかも…)
 ぼくの身体には聖痕がある。ハーレイと再会した時、沢山の血が溢れた傷痕。
 あれっきり二度と出ては来ないけれども、前のぼくがメギドで撃たれたのとそっくり同じ傷痕。
 前のぼくの最期の姿を丸ごと映した鏡だったら、メギドに鏡があったわけだけれど…。
(鏡なんかは何処にも無さそうだったけど…)
 見た覚えが無い、メギドの鏡。
 だけど、人間が見付けた最初の鏡は水だと言うから。水鏡を覗いていたと言うから、姿が映れば何でも鏡。映りさえすれば、何でも鏡になり得るもの。
 青の間よりもずっと眩しい青い光が満ちていたメギドの制御室。あれはメギドの炎と同種の何かだったのだろうか、青い光を中に封じた円筒形のガラスの管。それらを支える金属の枠。
 前のぼくの姿が映りそうなものなら幾つも在った。どれかが前のぼくを映した。ぼくはその鏡を通ったけれども、ハーレイは違う。地球の地の底の何かがハーレイの最期の姿を映した。
 メギドの鏡と、地球の鏡と。
 通って来た鏡がまるで違うなら、ぼくだけ子供になってしまっても仕方ない。ハーレイを最後に映した鏡は何の悪戯もしない鏡で、ぼくの最期を映した鏡があべこべの鏡だったんだから。
(…鏡の道を通して貰えたんだし、文句なんか言っちゃ駄目なんだよ、きっと)
 前のぼくが行きたいと願った、地球に通じる鏡の道。
 青い地球まで近道が出来る、鏡の向こうに繋がってる道…。



(今なら、地球に行ける道よりハーレイの家に行ける道だよ)
 青い地球にはもう住んでいるし、その地球の上にあるハーレイの家。「前と同じ背丈に育つまで来てはいけない」と言われてしまった、ハーレイの家に繋がる道が欲しいんだけれど。
(んーと…)
 鏡、と立ち上がって壁に掛かった小さな鏡を覗き込んだ。学校に行く前に髪が跳ねていないかとチェックしてみたり、制服の襟元を直したりするための小さな鏡。洗面台の鏡よりずっと小さめ。
(だけど、手よりは大きいしね?)
 サイオンがとことん不器用なぼくに、鏡の道が開ける筈も無いんだけれど。
 前のぼくでさえ、生きてる間に開く所なんか見ていないくせに、欲張りなぼくは鏡の表に右手をピタリと当ててみた。前のぼくがやっていたように。青の間の鏡でそうしたように。
(こうやって、手を…)
 それから行き先を思い浮かべて、開くといいな、と呪文を唱える。
 開け胡麻とか、他にも色々。どれが効いたか分からないから、思い出せる限りの呪文を唱えた。前のぼくが使っていた呪文。意味さえ掴めない音だけで編まれた、謎めいた魔法の呪文とかも。
 ハーレイの家へ行けますように。
 鏡を通って、ハーレイの家まで行けますように…。



 うんと頑張って唱えた呪文。だけど鏡の道は開かず、鏡にはぼくが映るだけ。小さなぼくの手とパジャマ姿の子供の顔のぼくと、それからぼくの部屋の中だけ。
 鏡の向こうにハーレイはいない。ハーレイの家も映りはしない。
(…どうせ、ぼくには無理なんだけどね…)
 だけど今度は確実に開く、ハーレイの家まで続いている道。
 いつかハーレイと結婚したなら、ぼくの家からハーレイの家まで行ける道が繋がる。
 鏡なんかを使わなくても、ちゃんと通っていける道。
 ぼくが歩いて行かなくっても、ハーレイの車に乗せて貰って通れる道が。
 前のハーレイのマントと同じ色をしているハーレイの車。
 ぼくが助手席に座れるようになったら、シャングリラと同じ色の白い車に買い替えような、って前にハーレイが言ってたけれども、「向こう五年間はこいつに乗る予定だ」とも聞いたから…。
 結婚する頃には、まだ今の色の車で走っているだろう。その車にぼくも乗るんだろう。
 そうしてハーレイの家まで行くんだ、鏡の道の代わりに本物の道を走って行って。
 でも…。



(車は鏡に映らないよね…)
 大きすぎだよ、と車と鏡の大きさの違いを思うけれども。
 だけど、とちょっぴり考えてみた。
 車をそのまま映そうとするから、入りきらないだけのこと。二階にあるぼくの部屋の窓から庭を隔てた表の通りを鏡に映せば、其処を通ってゆく車を丸ごと映せる。
(うん、充分に映るって!)
 今度ハーレイが車で来たなら、車を鏡に映してみようか。開け胡麻、と呪文を唱えてみようか。
 ぼくをハーレイの家まで連れてってくれる予定のハーレイの車。
 それをしっかり映しておいたら、ぼくが自分の足で歩くよりも早く繋がりそうな鏡の道。
 何ブロックも離れた所に建ってる、ハーレイが一人で暮らす家まで。



(んーと…)
 よいしょ、と壁の鏡を外して、窓際まで持って行ってみたんだけれど。
 夜だから閉めていたカーテンを開けて、表通りを映せるかどうか、少し試してみたんだけれど。
(…ハーレイにバレる?)
 ぼくが角度を調べてる内に通りかかった、ライトを点けた何処かの車。ピカッと反射した小さな光が庭の木と一緒に映ってた。黒々と動かない木々の影とは違った、動いてく光。つまり鏡は外の光を反射する。昼間だったら、お日様の光。
 この部屋からハーレイの車を映していたなら、きっとキラリと光るだろう鏡。
 ハーレイが何かの合図かと勘違いをしてくれればいいけど、前のぼくがやってた鏡の道のことを思い出されたら叱られそう。
 今度はハーレイの家まで近道する気かと、そんな道を作ろうとしているのか、と。
 チビのお前にはまだ早いんだと、ゆっくりゆっくり大きくなれと。
(…ぼくの心、ハーレイには簡単に読まれちゃうものね…)
 頑張って隠そうとすればするほど、何故だかバレる。顔に出てる、と言われてバレる。
 だから鏡の道を目指してハーレイの車を映したことだって直ぐにバレるし、叱られるだろう。
 チビでいいんだと、小さな子供は子供らしいのが一番なんだと。



(ハーレイの車を映してもダメかあ…)
 叱られちゃうよ、と肩を竦めて鏡を元の場所へと戻した。
 鏡の道を早く開きたくても、ハーレイの車を映せない鏡。映したらバレて叱られる鏡。
 その鏡の中、残念そうな顔の子供のぼくが映ってる。前のぼくよりうんと小さくなってしまった今のぼく。あべこべに映る鏡の悪戯で子供の姿になったのかもしれない、小さなぼく。
(…鏡であべこべになるんだったら…)
 小さなぼくを沢山、沢山、鏡に映しておいたなら。
 あべこべになる魔法がぼくにかかって、背がぐんぐんと伸びるんだろうか?
(早く背が伸びて欲しいんだけど…)
 伸ばしたいんだけど、と鏡を覗く。鏡に映ったぼくと、手と手を合わせる。
 お願い、ぼくの小さな鏡。
 青の間にあった鏡よりかは小さいけれども、道があるなら早く開いて。
 青い地球までの道よりはずっと、近くて簡単な筈だから。
(早く開いてよ、道があるなら…)
 ハーレイの家に繋がる鏡の道。
 鏡の道を使わなくっても、今度は行けるって分かってるけど、近道が欲しい。
 少しでも早く行きたいから。ハーレイの所に行きたいから。
 もしも鏡から、道が開いたら。この鏡から道が繋がったなら。
 そうしたら真っ直ぐに歩いて行くんだ、ハーレイが待ってるあの家まで。
 今はまだハーレイが一人で住んでる家まで、大好きなハーレイの腕の中まで……。




          鏡の道・了

※鏡の道から地球へ行きたい、と夢見ていたのが前のブルー。道が開けば、と。
 地球に来た今は、ハーレイの家に行ってみたくなる道。いつかは行けるんですけどね。
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(うーん…)
 今日もダメかあ…、と大きな溜息を吐き出した、ぼく。
 床に這いつくばって頑張ったのに。部屋の隅から隅まで見て回ったのに、全然ダメ。
(…今日も空振り…)
 これ以上、床を這ってても無駄。見てない場所はもう無いから。
 立ち上がって、うーんと身体を伸ばして、それからベッドの上にコロンと転がった。ベッドから床をぼんやり眺めて、また溜息。
(あの床を全部這ったのに…)
 ハーレイが帰って行った後の習慣がコレになってから、もうどのくらいになるだろう。
 始めた時にはその日だけで済むと思ってた。
 まさか今日まで続くだなんて。未だに見付からないなんて…。
(…髪の毛って、そんなに抜けないわけ?)
 ぼくが頑張って探しているもの。
 ハーレイの頭を彩る金髪。少しくすんだ金色の髪。
 ほんの一本、その一本が見付からない。落として行ってはくれないハーレイ。



(…ハーレイが髪の毛の話をした時、貰っておけばよかったよ…)
 ハーレイのじゃなくて、前のぼくの髪の話だったけど。
 前のぼくがメギドで死んじゃった後に、ハーレイは青の間までぼくの欠片を探しに出掛けた。
 ぼくが確かに生きてた証を見たいと、そして形見に一筋の銀色の髪が欲しいと。
 だけど、片付いちゃってた青の間。
 今のぼくもそうだけれども、綺麗好きだった前のぼく。そのぼくが戻ったら綺麗な部屋で寛げるようにと、部屋付きの係がすっかり掃除をしてしまっていた。
 ベッドのリネン類を取り替え、水差しの水も新しいのを満たしてグラスを洗った。ぼくの痕跡は何も残らず、髪の毛なんかは何処にも落ちていなかったんだ。
 ぼくが居た気配が何も無い部屋。空っぽになってしまった青の間。
 ハーレイは其処で泣いたと言った。ぼくの欠片が消えてしまったと、髪の毛さえも自分の手には残らなかったと。
 ぼくは「ごめん」と謝ったけれど、時間を戻せるわけもない。
 前のハーレイはぼくの形見の髪の毛も持てずに、独りぼっちで長い時を生きた。シャングリラを地球まで運ぶためにだけ、前のぼくが残した言葉を守るためにだけ。
 どんなにハーレイが悲しかったか、辛かったか。
 前のぼくの髪が青の間に落ちていたならば…、と申し訳ない気持ちで一杯になった。ハーレイが探しに来ると分かっていたなら、係に一言、「掃除は要らない」と言っただろうに。
 直ぐに戻るから放っておいてと、今日はこのままの部屋がいいのだと…。



 死を覚悟して「これで最後だ」と部屋を見回したくせに、ハーレイへの気配りを忘れたぼく。
 思い残すことなんて無いと、自分自身に言い聞かせることだけで手一杯だった、前のぼく。
 本当は地球を見たかった。
 ハーレイの側に居たかった。
 そんな思いを振り捨てるだけで精一杯だったから、死んだ後のことまで気が回らなかったとでも言うのかな…。
 何か形見を残そうだなんて、まるで思いもしなかった。
 独りぼっちでシャングリラに残ることになるハーレイには何が必要かなんて、ホントに分かっていなかったんだ。ぼくだって一人なんだから。一人きりで死んでゆくんだから…。
 自分のためにと、ハーレイの腕に最後に触れた時の温もりを右の手に持って飛び立ったのに。
 その温もりを最期まで持っていようと、そうすれば独りじゃないとまで思ってたくせに。
 ハーレイのために何かを残そうなどとは考えなかった。あまりに身勝手だった、ぼく。
 神様が罰を当てたんだろうか、ぼくはメギドでハーレイの温もりを失くしてしまった。
 右の手が冷たいと泣きじゃくりながら死ぬ羽目になった。
 それと同じで、前のハーレイも何も持ってはいなかったんだ。前のぼくの欠片。髪の毛の一筋。
 ぼくもハーレイも、互いに失くした。
 誰よりも大切な人の欠片を、誰よりも愛した人の欠片を。



(…あの話の時に思い付いてれば…)
 髪の毛をちょうだい、って頼めばハーレイはきっとくれたと思う。
 自然に抜けた髪じゃなくって、生えているのをプツリと抜いて「ほら」と渡してくれたと思う。ハーレイの髪は短いけれども、長めの部分の一本を抜いて。
 それなのに「ちょうだい」と頼むどころか、髪の毛が欲しいとも思わなかった。あの頃はまだ、机の上にフォトフレームも無かったから。ハーレイとぼくとの記念写真のフォトフレーム。
 ハーレイの写真さえも持っていなくて、一枚だけあった写真は小さな小さなモノクロ写真。転任教師の着任を知らせる学校便りの五月号に載ってた小さな記事だけ。
 学校便りを宝物みたいに大切にしていたぼくだったから、欲が全然無かったのかも…。
 ハーレイの写真も持ってないのに、一足飛びに髪の毛だなんて、思い付く方が変だよね?
 仕方ないとは思うんだけど…。



(夏休みを無駄に費やしたんだよ!)
 自分の間抜けさに腹が立つ。
 前のぼくの髪の毛の話が出ていた頃なら、長い夏休みの真っ最中。ハーレイが何度も来てくれていたし、平日だって二人で過ごした。午前中は柔道部に出掛けたハーレイが午後から来た日も。
(夏休み中に気付いていたなら…)
 拾えたかもね、と楽しかった長い休みを思い返して悔しくなった。
 柔道部を指導した後にプールで泳いでから来てた日だとか、朝から晩まで一緒だった日だとか。庭の白いテーブルと椅子でお茶の時間もあったけれども、ぼくの部屋での滞在時間が一番長い。
(絶対、落ちてた筈なんだよ…)
 くすんだ金色の髪が何処かに。
 なのに考えもしなかったぼくは、せっせと部屋の掃除をしていた。ハーレイが来るから頑張って掃除。いつも以上に張り切って掃除。
 そうやって掃除して、金色の髪も知らない間に捨ててしまったに違いない。
 前のぼくがメギドに飛び立った後に、青の間を掃除した係みたいに。
 銀色の髪の一筋も残さず、綺麗に掃除を終えてしまった部屋付きの係の誰かみたいに…。



(…なんで無いんだろう、ハーレイの抜け毛…)
 ぼくがこんなに探しているのに。ハーレイが来る度に、見送った後で這いつくばって部屋の隅々までチェックするのに、未だに出会えない、くすんだ金色。
 もっとも、ハーレイよりも長い時間を部屋で過ごしている自分の髪の毛も無いんだけれど。
 朝はバスルームの隣の洗面台で髪を梳かすし、寝ている間に抜けた髪は朝一番に屑籠へ。だから滅多に落っこちていない、ハーレイの髪より長めの銀色。
 ぼくの髪だって落ちてないんだから、ハーレイの髪だって難しいとは思うけれども。
(あの髪型が悪いんだよ!)
 キッチリと撫でつけてあるオールバックのヘアスタイル。乱れにくいことはよく知っている。
 前のハーレイがあの髪型に落ち着いた理由も、確かその辺。急ぎの用事でシャングリラの通路を走ったりしても、乱れない髪。キャプテンの威厳を保てる髪型。
(乱れないから、そう簡単には抜け落ちないよね…)
 前のぼくと一緒のベッドで眠っていた頃には、たまに寝癖で逆立っていた。ああいう風になった時なら抜けて落ちるかも、と思ったけれども、ぼくがハーレイの髪をクシャクシャにしちゃったら絶対、叱られるだろう。
(…同じ叱られちゃうんなら…)
 いっそ一本抜いちゃおうか、とまで思ってしまう。
 くすんだ金色のハーレイの髪。欲しくてたまらない、ハーレイの欠片…。



 空振りの日々が続いて、ぼくはとうとう我慢の限界。見付からない欠片に業を煮やして、仕事の帰りに来たハーレイに疑問をぶつけた。ぼくの部屋での食後のお茶の時間。
「ハーレイ、抜け毛は少ない方?」
「はあ?」
 ポカンと口を開けるハーレイ。
「少ない方だが、少なかったら駄目なのか?」
「うん」
「……おい」
 ハーレイのぼくを見る目が咎めるような感じになって。
「お前は俺をゼルのようにしたい、と。そういうわけだな、抜け毛多めで」
「そうじゃなくって!」
 ぼくは慌てて首を横に振った。
 そんなつもりじゃ全然なくって、ハーレイに禿げて欲しいってわけじゃなくって…!
「落ちていないんだよ、ハーレイの髪の毛!」
 いつも頑張って探しているのに。
 ハーレイが帰った後で部屋中の床を探し回るのに、一本も落ちていないんだもの…。
「俺に呪いをかけたいのか?」
 またまたハーレイの怖い顔。呪いだなんて言われても…。
「なにそれ? なんで呪いになるの?」
「知らないのか? 藁で人形を作るんだ。そいつに釘を打ち付けて相手を呪うわけだが…」
 藁人形には呪う相手の髪の毛を入れる。
 そのための一本を探しているのか、と訊いているんだ。
「違うってば!」
 呪ったりしないよ、ハーレイのこと。
 藁人形なんかは知らなかったよ、ホントのホントに知らないってば…!



「なら、何をしてる」
 どうして俺の髪の毛なんだ、とハーレイが睨み付けるから。開き直って言うことにした。
「欲しいんだってば、ハーレイの髪の毛!」
「何故だ?」
「ハーレイの欠片!」
 髪の毛を持ってたら、ぼくはいつでもハーレイと一緒。ハーレイの欠片と一緒だもの。
「…俺はこれから死ぬ予定か?」
「死ぬって…。なんでそうなるの?」
 ぼくが大嫌いな「死ぬ」って言葉。ハーレイの口から聞きたくはない。なのに…。
「いいか、髪の毛を取っておくというのはだ、形見としてのことが多いんだ」
「嘘!」
「本当だ。現に、前の俺だってお前の髪の毛を探していたしな」
 結局、見付からなかったが…。
 掃除されちまった青の間の何処にも、前のお前の髪の毛は落ちていなかったんだが…。
「…ごめんなさい…」
「お前が謝ることではないさ。しかし髪の毛ってヤツは、ほぼ形見だな」
 もちろん例外だって沢山あるぞ。
 ずうっと昔のこの地域には「赤ちゃん筆」というのもあった。
 生まれた子供が初めて髪の毛を切りに行く時、その髪を取っておいて筆にするんだ。
 記念の筆で実用品ではなかったんだが、実際、書きやすい筆ではあったらしいぞ。
 一度も切っていない髪の毛だろう?
 毛先がプツンと切れていなくて、自然に細くなってるからな。



 初めて聞いた「赤ちゃん筆」。今は作ってないのかな、などと考えていたら。
「生きてる間に相手の髪の毛を貰って大感激ってケースとなると、だ」
 結婚宣言だった地域もあるんだが。
 もちろんSD体制の前の時代のことだぞ、大昔だな。
「髪の毛で結婚宣言なの!?」
 言ってみるものだ、と嬉しくなった。大昔のことでも、何処の地域だってかまわない。髪の毛を貰って結婚宣言になるんだったら、貰わなくっちゃと早速おねだり。
「じゃあ、ちょうだい。ハーレイの髪の毛!」
「間違えるんじゃない、お前が俺に、だ」
「えっ!?」
 ぼくが貰える方なんじゃないの?
 あげる方なの、別にそれでもかまわないけど…。結婚宣言するんだしね、と思ったのに。
「ついでに一本や二本じゃないぞ。一房切って貰おうか」
 女性の髪はな、そうそう簡単に切るもんじゃなかった。
 それを一房も切って渡すから意味があるんだ、それほど愛してますって意味だ。
 喜んであなたと結婚します、と。
 どうする、お前?
 結婚宣言出来るか、お前…?



(……えーっと……)
 将来はハーレイのお嫁さんになると決めている、ぼく。
 そのハーレイが教えてくれた、髪の毛を使った結婚宣言。遥かな昔の何処かの習慣。凄く素敵でロマンティックだと思ってしまうし、あやかりたいとも思うけれども。
(髪の毛を一房…)
 ハーレイのためならチョキンと切れる。一房切り取って渡したくなる。
(…やりたいんだけど…)
 今すぐチョキンと切りたいけれども、ぼくの髪の毛は長いと言ってもたかが知れてる。何処かを一房切ってしまったら、ママに一目で見抜かれてしまう。
(どうしたの、って訊かれるよね?)
 ガムをくっつけちゃったから、なんて言い訳したって苦しすぎ。ぼくは自分で切ったりしないでママに助けを求めるタイプ。なんとかして、って慌てて走って行くタイプ。
 だから勝手に切ったり出来ない。自分でチョキンと切り取れない。
(ハーレイのお嫁さん宣言はしたいんだけど…!)
 でも切れない、と悩んでるのに、ハーレイときたら。
「遠慮していないで、まあ、切ってみろ」
 結婚宣言、受け取ってやるぞ。
 なあに、チョキンと一房切り取るだけだ。ハサミは其処だろ、取ってやろうか?
 取ってこようか、とハーレイが椅子から腰を浮かせたから。
「やだっ…!」
 嫌だ、とぼくは悲鳴を上げた。
 髪の毛を切るのはかまわないけど、ママにバレたらとても困ると。
 どうして切ったのか言い訳するのに、とってもとっても困るんだから、と。



 結婚宣言をし損なった、ぼく。チョキンと一房、切ったらバレちゃう髪型のぼく。
 ハーレイはフフンと鼻で笑って、ぼくの頭をクシャリと撫でた。
「確かに何処を切ってもバレるだろうなあ、この髪じゃな?」
 しかしだ、それで俺の髪だけ寄越せというのは虫が良すぎる。
 ついでに遺髪扱いも御免蒙る、俺からは絶対に渡さないからな。
 せいぜい床に這いつくばってろ、と言われたけれども。
(…遺髪だなんて…)
 ハーレイがいなくなったら嫌だ。死んでしまうなんて絶対に嫌だ。
 いつかはそういう時が来るけど、その時はぼくもハーレイと一緒に行くんだと決めているから。独りぼっちで生きていたって仕方ないから、遺髪なんかは絶対要らない。そんな形見だけを持って独りぼっちで残されるなんて、怖くて想像したくもないから。
「…分かった。ハーレイの髪の毛、探すのやめる…」
 縁起でもないって、こういう時に使う言葉でしょ?
 遺髪だなんて言われちゃったら、探したくないし欲しくもないよ…。



「いいことだ」
 そうしておけ、とハーレイの笑顔。ぼくの大好きな笑顔のハーレイ。
「お前、欲しいと言ってるがな…。そういうのは少しの間だけだな」
 どうせいずれは探したいどころか邪魔になるんだ、俺の髪の毛。
「なんで?」
 どうして、とぼくは驚いた。
 ハーレイの髪の毛が邪魔になるなんて有り得ない。だって大好きなハーレイの髪。
 くすんだ金色のハーレイの髪の毛、ハーレイの欠片で大事な一部。
 遺髪だなんて言われなかったら、きっと今でも欲しいと思う。毟っちゃおうかと思ったくらいに欲しくてたまらない髪なのに、何故?
「俺と結婚した後だ。一緒に暮らすようになってからだな」
 こんな所に落ちてたから! と怒鳴りに来るんだ、綺麗好きのお前が掃除中にな。
「やらないよ!」
 前のぼくだって言ってないでしょ、そんなこと!
 ハーレイと一緒に青の間で暮らしていた頃のぼく。ハーレイは夜しかいなかったけど…。
 前のぼくも綺麗に掃除してたけど、ハーレイの髪の毛、邪魔だなんて一度も言っていないよ!



 邪魔だったことなんて絶対に無い、とハーレイに抗議したけれど。
(…あれ?)
 引っ掛かってきた、遠い遠い日のぼくの記憶。
 今のぼくじゃなくて、前のぼく。綺麗好きだったソルジャー・ブルー。
 部屋付きの掃除係がちゃんといたのに、出来る範囲は自分で掃除をしていた青の間。
 そういえば捨てていたかもしれない。
 バスルームは流石に手に負えなかったから、掃除しやすいように軽く片付けてただけ。その時に見付けたハーレイの抜け毛。バスタブの縁とか、たまに一本落っこちていた。
(拾って捨ててたんだよね…?)
 ヒョイと摘み上げて持ち去った記憶。
 こんな所に落として行ったらバレるじゃないか、って苦笑してた、ぼく。
 キャプテンが青の間のバスルームを使っているとバレると、ぼくたちの仲がバレてしまうと。
(…捨てちゃってた…!)
 ついでに邪魔物扱いしてた、と思い出した途端に、ハーレイの声。
「思い出したか? 前のお前の、俺への扱い」
「…うん、思い出した…」
「だったら今度も言うってことだ。髪の毛なんかを落としておくな、と」
 きちんと自分でチェックしておけ、と怖い顔をしてお説教だ。
 それが掃除の基本だろう、とな。



「言わないよ!」
 絶対言わない、とぼくはハーレイに言い返した。
 前のぼくはそれを言っただろうけど、今度のぼくは絶対言わない。
 ぼくたちは結婚するんだから。
 髪の毛を渡して結婚宣言はやり損ねたけど、今度は結婚するんだから。
 白いシャングリラで暮らしていた遠い昔と違って、誰にも内緒にしなくていい。ぼくたちの仲を隠さなくても、秘密にしなくても平気な世界。堂々と結婚出来ちゃう世界。
 そしてハーレイと結婚したなら、家の中にはハーレイの髪の毛が落ちているのが当たり前。家の持ち主の髪の毛が落ちてて当たり前。
 ダイニングだって、リビングだって。青の間の頃みたいにバスルームだって。
(階段とかにも落ちてるかもね?)
 ハーレイが其処に居たって証拠に、家のあちこちに落ちているだろうハーレイの髪。ぴったりと撫でつけてある髪が油断した時に落ちちゃう抜け毛。くすんだ金色の短い髪の毛。
 何処で見付けても、きっと嬉しい。邪魔にする代わりに、きっと嬉しい。
 ハーレイが落とした髪の毛なんだと、一緒に暮らしているんだ、と。
 ぼくの部屋でいくら這いつくばっても見付からなかった髪の毛が沢山。
 いろんな所に、沢山、沢山。
 きっと見付ける度に幸せ。
 此処にもあるって、此処にもあった、って、きっと幸せ…。
「俺の抜け毛が沢山って…。お前は俺をゼルにしたいのか、と!」
「思わないよ!」
 ハーレイは今の姿が一番大好き。
 髪型だって今のが好きだよ、ゼルみたいに禿げたハーレイは嫌だ。
 でもね、もしもハーレイが禿げちゃったとしても…。
 ぼくはハーレイのことが好きなままだよ、だってハーレイはハーレイなんだから。



 ホントはハーレイは禿げたりしない。
 ぼくと再会するのが遅くて、ハーレイが年を取り続けてたら危なかったかもしれないけれど。
 ハーレイはもう年を取るのを止めているから、ゼルみたいに禿げることはない。だから抜け毛も増えたりはしない。
 そういうことは分かっているけど、ついつい二人で笑ってしまった。
 抜け毛を沢山落とすためには、ハーレイはゼルみたいな頭を目指すしかないと。沢山の抜け毛を見付けて幸せなぼくは、ハーレイがすっかり禿げてしまった後は幸せ探しをどうするんだろうと。
「俺の抜け毛で幸せの数を計られてもなあ…」
「大丈夫。抜ける毛がすっかり無くなっちゃったら、他の幸せが降ってくるよ」
 だって、結婚してるんだもの。
 いつまでもハーレイと一緒なんだもの、幸せは増える一方なんでしょ?
「確かにな。うんと幸せになるんだったな、今度はな」
「そうだよ、ハーレイが禿げたとしてもね」
「禿に関しては安心しておけ。俺の親父はヒルマンに少し似てると言っただろうが」
 つまりだ、禿げてないわけだ。
 この間、年を取るのを止めたばかりだってことも知ってるな?
 俺はゼルにはならないわけだな、抜け毛だって増えたりしないってな。



 そんな話で笑い交わして、ハーレイが帰って行った後。
 いつものようにティーカップとかをキッチンにいるママに届けて、テーブルを拭いて。それから椅子の位置を直して、これでいいかな、と床を眺めた時。
(あっ…!)
 ハーレイが座っていた椅子の直ぐ横に、キラリと金色。
 屈み込んでみたら、くすんだ金色の短い糸。ついに見付けた、念願の抜け毛。ハーレイの欠片。
 拾い上げて明かりに透かしてみて。
(…ハーレイの欠片…)
 やっとあったよ、と胸がドキドキしたけれど。
 大切に仕舞っておこうと嬉しい気持ちになったけれども、耳の何処かに残っていた声。
 ハーレイが言ってた髪の毛の話。
 結婚宣言に一房切り取って渡した地域もあったという髪。
 赤ちゃん筆なんかもあったという髪。
 でも、髪の毛を取っておくってことは、大抵は…。



(……遺髪……)
 ブルッと肩を震わせた、ぼく。
 遺髪だなんて耐えられやしない。前のハーレイはぼくの髪の毛さえ手に入れられずに、長い長い時を独りぼっちで生きたけれども、ぼくには無理。
 たとえハーレイの髪があっても、ハーレイがいない世界で生きていけやしない。
 ぼくよりも強かった前のぼくでさえも、独りぼっちになってしまったと泣きながら死んだ。右の手が冷たいと泣きじゃくりながら死んでしまった。
 独りぼっちには耐えられない。ハーレイのいない世界なんて嫌だ。
(…こんなの、縁起でもないってば…!)
 やだ、と屑籠に捨てることにした。昨日までなら欲しかったけれど、今は要らない金色の髪。
 だけど、ハーレイの欠片だから。
 大好きなハーレイが落っことしていった欠片なんだから、ゴミとは違う。



(…ゴミ扱いだなんて、もったいないよ…)
 どうしようかな、と考えた末に、真っ白な紙に大切に包んで、おまじない。
 おまじないには詳しくないから、ぼくの自己流。
(ハーレイの髪の毛を沢山見付けられる日が早く来ますように…)
 家にハーレイの髪の毛が落ちているのが普通になる日が、早く来てくれますように…。
 お祈りをしてから、髪の毛を包んだ紙にキスをして、捨てた。
 屑籠にポイと入れる時にも、「これが普通になりますように」って心で唱えた。
(今度は邪魔物にしたりしないよ、ハーレイの髪の毛)
 ふふっ、と捨てた包みを見下ろした。
 おまじないも出来たことだし、これからもやっぱり探してみよう。
 くすんだ金色の短い糸。
 ハーレイが滅多に落としてくれない、金色の欠片。
 幾つも拾って、紙に包んで、おまじないとキス。
 沢山おまじないをかけておいたら、結婚が早くなりそうだから…。




          金色の欠片・了

※ハーレイの髪の毛が落ちていないか、頑張って探していたブルー。金色の欠片を。
 やっと見付けたものの、保存するのは…。ならば、と今度はおまじないです。
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(あっ、キノコ…!)
 ブルーの視線が捉えたキノコ。庭の芝生にポツンと一本、白いキノコが生えていた。ハーレイと二人で午後のお茶を、と出て来た庭。そういえばキノコの季節だったか、とブルーは思う。
 庭で一番大きな木の下に据えられた白いテーブルと椅子。母がお茶とお菓子を運んで来てくれ、ハーレイと向かい合わせで座ったブルーは「ハーレイ、あれ」とキノコを指差した。
「いつ生えたのかな? 昨日は無かったと思うんだけど…」
 確かに生えてはいなかったと思う。学校から帰って、おやつを食べながら見ていた庭にキノコは無かった。いつの間に、とブルーは不思議でたまらないのだけれど。
「そりゃまあ…。お前が見てない間さ、キノコってヤツは成長が早い」
 一晩もあれば生えて来るさ、とハーレイはブルーに教えてやった。
「その代わり、生えたと思ったら一日くらいで消えちまうキノコもあるからなあ…。キノコ狩りはけっこう大変らしいぞ、種類によっては」
 SD体制よりも前の時代の中国の料理だった中華料理。お前だって店で食ったりしてるだろ?
 あれの食材でキヌガサタケっていうキノコがあるが、だ。
 真っ白なレースみたいな傘を広げる綺麗な姿で有名なんだが、そいつは一日で消えちまうんだ。
「一日?」
「そうさ、たったの一日だ。キノコ狩りのチャンスは一日ってことだ」
 雨上がりに生えることが多いから、そういう日に採りに行くんだな。
 チャンスを逃すと萎んじまったキノコしか無くて、もう食えんそうだ。
「一日だけかあ…」
 なんて慌ただしいのだろうか、とブルーはキノコ狩りへの認識を大きく改めた。幼い頃に読んだ絵本で子供たちが森でキノコを採っていたけれど、その光景はのんびりしたもの。いつ出掛けてもキノコはあるのだと思っていたのに、種類によっては時間との勝負だっただなんて。
(…行ったこと無いから知らなかったよ…)
 絵本でしか知らないキノコ狩り。生まれつき身体の弱いブルーは山を殆ど知らないから。
 でも、ハーレイはどうだろう?
 頑丈な身体のハーレイだったら、キノコ狩りも経験したのだろうか…?



「ねえ、ハーレイ。…キノコ狩りって、行ったことある?」
 ブルーの問いに「あるぞ」と直ぐに返った答え。
「親父とおふくろが好きな方でな、ガキの頃にはよく行ったもんだ」
 今でもたまに誘われるな。明日、行かないかと言って来たりな。
「そうなんだ…。今でも行くんなら楽しいんだね」
「山は気持ちのいいもんだしな。…って、お前、もしかして…」
 行ったことがないのか、キノコ狩り?
 一度も行っていないのか…?
「うん…。学校からはキノコ狩りには行かないし…」
 パパとママと一緒に山に行ったのはハイキングだけ。
 山の天辺までも登れなくって、途中でお弁当を食べて帰って来てたよ、小さな頃は。
「なるほどなあ…。そういう子供にキノコ狩りは無理か…」
 お父さんとお母さんの気持ちも分かる、とハーレイの鳶色の瞳がブルーを映して揺れた。
 キノコ狩りは運に左右されるから、ドッサリ採れたり、まるで採れなかったりすることもある。
 小さなブルーを連れて出掛けて、キノコが見付からなかったなら。ブルーはガッカリするだけで済まず、見付かるまで探すと駄々をこねるに違いない。
 ただでも身体の弱いブルーが山や森の中を歩き続ければ、どんな結果になることか。楽しい筈のキノコ狩りがブルーの身体を壊してしまって、高熱が出たりするかもしれない。
 ブルーの両親はそういったリスクを考えた上で、キノコ狩りに行かなかったのだろう。ブルーの頑固さは前の生から変わっていないし、キノコが無ければ日暮れまで探しそうだから…。



「面白いんだがなあ、キノコ狩りは…」
 しかし頑固で身体の弱いチビには向かないレジャーだ、寝込んじまったら大変だしな。
 お前、キノコが採れなくっても諦めたりはしないだろうが。
「探したと思うよ、見付かるまで。…今はそこまでやらないけれど…」
 小さい頃ならやったと思う。
 パパとママが「帰ろう」って何回言っても、絶対聞かずに探したと思う…。
「そういうガキでも元気だったら連れてって貰えたと思うが、お前はなあ…」
「後で寝込むの、確実だしね」
 行けなくっても仕方ないよね、キノコ狩り。
 だけどキノコはシャングリラの中でも育ててたのに…。
 成長が早いとか、一日でヒョッコリ出て来ちゃうとか、前のぼくは全然知らなかったよ。
「菌床栽培だったからなあ、畑に生えてたわけじゃないしな?」
 前のお前が視察に行っても、さほど関心は無かっただろう。
 栽培用の施設を眺めて、こんなものかと思って終わりだ。
「本当はこんな風に地面から生えるものだよね、キノコ」
「うむ。木の幹とかにも生えるがな」
 歯が立たないような硬いキノコが生えたりもするさ、木の幹だとな。
 うんと硬くて、生えてる所が木の幹だろう?
 サルノコシカケなんて名前がつくんだ、サルが腰掛けていそうだからな。
「ハーレイ、サルノコシカケも見た?」
「見たさ、でっかい木の幹に幾つもくっついていたぞ」
 サルは座っていなかったが…。
 座れそうなサイズではあったな、うん。



 ハーレイが出掛けたキノコ狩りの話を、ブルーは瞳を輝かせて聞いた。落ち葉の下に隠れているキノコの探し方とか、食べられるキノコの見分け方だとか。
 食べられないキノコの方が多くて、食べられるキノコはあまり多くはないというから。
「…食べられるキノコは庭には生えない?」
 あれもダメかな、と芝生の白いキノコを示すと「あれは駄目だな」とハーレイが笑う。
「食ったら死ぬってほどでもないがな、食える類のキノコじゃないな」
 庭に生えるキノコはまず無理だ。
 食えるキノコを探すんだったら、山か森ってことになるなあ…。
「そっか…。庭にキノコはたまに生えるけど、食べられないんだ…」
「前のお前は見ていないのか、キノコ」
 シャングリラの外に出た時に。
 お前、時間を調整する時は山とかに隠れていなかったか?
「あったよ、キノコ。山にも、森にも」
「…惜しいことをしたな、お前。あの時代なら毒キノコは存在しなかったそうだ」
 テラフォーミングの過程で危険な植物などを取り除いていた。
 マザー・システムからの指示でな。
「そうだったの?」
「らしいぞ、俺も親父から聞いただけだが…。キノコ好きの間じゃ有名らしい」
 だからだ、アルテメシアで見付けたキノコを食っていたなら美味かったかもしれん。
 前のお前ならサイオンで簡単に焼けただろ?
 焼き立てのキノコに塩を振ったヤツも美味いモンだぞ、レモン汁をかければもっと美味いな。
「えーっ!」
 知らなかった、とブルーは叫んだ。
 眺めていただけのキノコが美味しかったかもしれないのだ、と聞くと悔しくなってくるから。
「今は? ハーレイ、今のキノコは?」
「残念だが、あの時代のようなわけにはいかんな」
 植生を元に戻してしまったからな。
 毒キノコもきちんと生えているから、どれを食っても安全ってわけではないんだよなあ…。



 かつては存在していなかったのに、今はあるという毒キノコ。
 キノコ狩りをするには厄介だけれど、それが本来の自然というものなのだ、とハーレイに改めて言われなくともブルーには分かる。
 遠い昔に地球を死の星にしてしまった人間が同じ過ちを繰り返さぬよう、あえて元の通りに木や草を植えた。人間に害をなすものであっても、神が創った自然のままに。
 それが正しいと分かってはいるが、前の自分が食べ損ねたらしい無害なキノコ。どうして食べてみなかったのか、と悔しがるブルーに「今も悪いことばかりじゃないぞ?」とハーレイが言う。
「ずっと昔に貴重品だったキノコが今では採り放題ってな」
 SD体制よりもずうっと昔だ、この辺りが日本って島国だった頃の話だな。
「どんなキノコ?」
「松茸だ」
「松茸!?」
 ブルーは赤い瞳を丸くした。秋になれば食料品店に並ぶ松茸。秋しか見かけないキノコとはいえ高価ではないし、他のキノコと変わらない。貴重品だったなどとは思えないのに…。
「あれって貴重品のキノコだったの? 高かったとか?」
「らしいぞ、キノコとも思えん値段がついてたらしいが…。そのまた昔は安かったそうだ」
 学校の食堂でも出て来たくらいに普通のキノコで、つまりは今と同じだな。
 ところが採れなくなっちまってだ、値段がぐんぐん上がっちまった。
「なんで採れなくなっちゃったの?」
「人間が山に入らなくなって、手入れが行き届かなくなったんだ。里山っていう言葉があってな、そういう山では人間と自然が共存していた。松茸は里山のキノコだったからな…」
 山が荒れたら、もう生えないのさ。
 下草を刈ったり、茂りすぎた木を切って明るくしたり。そういったことも時には要るんだ。
「そっか…。自然って、放っておくのが正しいとも限らないんだね」
「上手く共存したいのならな。人間からは何もしないで奪うだけでは駄目だってことだ」
 里山って言葉は使われてないが、手入れされた山はあるだろう?
 今のお前が遠足で出掛けるような山だな、ああいう山が松茸にピッタリの山なんだ。



 遥かな昔には里山と呼ばれた、人と自然とが共に生きる山。
 青く蘇った地球の上には、その里山もまた蘇っていた。適度に手を入れ、自然に親しめる場所として。そうした山に出掛けて行けば…、とハーレイはブルーに話してやる。
「今の季節なら、松茸のフェアリーリングが見られるかもな」
「何それ?」
「この辺りが日本だった時代は、天狗の土俵と呼んでたらしいが…」
 土俵は分かるな?
 前の俺たちの時代には無かった相撲の土俵だ、天狗が其処で相撲を取るんだと思われていた。
 松茸がぐるりと円を描くのさ、そういう形で生えているから天狗の土俵というわけだ。
「フェアリーリングは?」
 そのまんまの意味だ、妖精の輪だな。
 妖精が夜の間に輪を描いて踊った後にキノコが生えると昔の人たちは信じていたんだ。
 そいつに入ると違う世界に行けるそうだぞ、妖精の世界とか、過去や未来に。
「過去と未来かあ…」
 ひょっとして、とブルーはハーレイに問いを投げかけた。
「ぼくたち、それを通って来たかな?」
 何処かでフェアリーリングに出会って、青い地球まで。
 ぼくは全然覚えてないけど、前のぼくとハーレイと、二人でフェアリーリングに入ったとか。
「さてな? そういったものに出会っていたなら…」
 一人で入りはしないだろうなあ、側にお前が居たならな。
 これは何だろう、と言いながら二人で入っただろうな、しっかりと手を繋いでな。



「ねえ、ハーレイ。もしもフェアリーリングに出会ったら…」
 入ったら過去に飛ばされちゃうってことはないよね、メギドとかに。
「それは勘弁願いたいが…」
 結婚したらキノコ狩りに連れてってやろうかと思ったんだが、やめておくか?
 フェアリーリングがあったら困るからなあ、ウッカリ入ってメギドじゃたまらん。
「んーと…。キノコ狩りには行きたいんだけど…」
 フェアリーリングをどうしようか、とブルーは首を捻った。
 入れば過去に飛んでしまうかもしれない、妖精たちが輪になって踊った跡地。
 ただの伝説だと笑えはしない。
 自分もハーレイも遥かな時を超えて地球に生まれ変わって来たのだから。
 遠い昔にはフェアリーリングで時を超えた人がいたかもしれない。
 自分たちだって超えてしまわないとは限らない。けれど…。
(…キノコ狩りには行きたいんだよ!)
 たとえ松茸のフェアリーリングがあろうとも、と思った所で素晴らしいアイデアが閃いた。
「ハーレイ、フェアリーリングの松茸! 採っちゃえば?」
 松茸を全部採ってしまえば無くなるよ、リング。
 入らずに外から採っていくんだよ、フェアリーリングになってる松茸。
「おいおい…。そして松茸、全部食うのか?」
「うんっ!」
 松茸御飯とか、焼き松茸とか。
 ハーレイ、料理は得意なんだし、色々作って食べちゃおうよ。
 フェアリーリングも分解しちゃえば、ただの松茸になるんだものね。



 それがいいよ、と勢いよく宣言してから「でも…」とブルーは考え込んだ。
「松茸の妖精って、どんなのかな?」
「この地域じゃ天狗の土俵だしなあ、チビの天狗かもしれないぞ」
 松茸の上に座れるようなサイズの天狗だ、お前どころじゃないチビだな。
 天狗は空も飛ぶというから、そういう妖精でいいんじゃないか?
「小さな天狗かあ…。可愛いよね」
 フェアリーリングを壊さないよ、って言ってあげたら何か貰えるかな?
 松茸を採らずに見逃してあげたら。
「天狗の団扇か?」
「それって、貰ったらいいことがあるの?」
「その団扇で煽ぐと鼻が伸びるそうだぞ、天狗どころか天まで届くくらいにな」
 伸びた鼻を天の川の橋の杭にされちまったっていう昔話があるからなあ…。
「そんなの、とっても困るんだけど…」
「俺も困るが…」
「そうだよね、天までじゃなくて天狗くらいでも、鼻が伸びちゃったハーレイなんか…」
 なんだか違うよ、ハーレイじゃないよ。
「伸びるのは俺の鼻なのか!」
「酷いや、ハーレイ! 困るって、ぼくの鼻を伸ばす気だったの!?」
 そんなの酷い、と膨れるブルーにハーレイは慌てて謝る羽目に陥った。
 もしもブルーの鼻が伸びたらとても困ると、今のブルーの鼻が好きだと。



 松茸の妖精がくれるかもしれない天狗の団扇。
 煽ぐと鼻が伸びるというだけの団扇らしいから、ブルーは残念そうに呟く。
「同じ伸びるんなら、背が伸びるように出来ていればいいのに…」
 背が伸びるんなら欲しいんだけどな、天狗の団扇。
「そいつは天狗の団扇じゃないな。背が伸びる道具は打ち出の小槌だ」
「打ち出の小槌?」
 耳寄りな道具の存在を聞いて、瞳を輝かせるブルー。
 伸ばしたいと望み続けている背丈。前の自分と同じ背丈になるまでハーレイとキスすら出来ない身なのに、一向に伸びてくれない背丈。
 それを伸ばせる道具がある、と耳にしたから大喜びで訊いた。
「ハーレイ、その…。えっと、ナントカの小槌は何処で貰えるの?」
「貰うんじゃなくて、拾うんだ。鬼が落としていくからな」
 まずは鬼退治をしないと駄目だ。打ち出の小槌は鬼の大事な宝物なんだ。
「…鬼って何処かにいるのかな?」
「お前なあ…。鬼退治って、鬼に勝てるのか?」
「……無理?」
 だけど誰かが勝ったんでしょ、とブルーが今度は勝つ方法を尋ねてくるから。
 ハーレイは「同じチビでもお前には無理だ」と、ブルーよりも遥かに小さな身体で鬼退治をした勇者の話を聞かせてやった。
 お椀の船に箸の櫂。針の刀で鬼に挑んだ、一寸法師の昔話を。



「…分かったか? 鬼が丸飲み出来るサイズのチビだから針で勝てたんだ」
 お前じゃとても勝負にならん。
 前のお前なら楽勝だろうが、打ち出の小槌が欲しいのは今のお前だろ?
 鬼に齧られるのが関の山だな、打ち出の小槌は諦めておけ。
 それにだ、万が一、お前が鬼に勝ったとしても、だ。
 打ち出の小槌を手に入れて背丈を伸ばしたとしても、お前、十四歳だしな?
 中身は立派な子供ってヤツだ、生憎だがキスはしてやれないな。
「…背だけ伸びてもキスは駄目なの?」
「当たり前だろうが」
 現に今だって庭で健全なデートの真っ最中だぞ、お父さんやお母さんから見える場所でな。
 声までは聞こえていないだろうから、こういう話も出来るわけだが…。
 ちょっとデートに出掛けてきます、と家も出られない子供なんだぞ、今のお前は。
 そんな子供が背だけ伸びても、どうにもこうにも…。
 中身の方もきちんと育たないとな?
 十四歳では話にもならん。



 鬼退治を頑張ったとしても、子供だからと相手にして貰えないらしい小さなブルー。
 打ち出の小槌で背丈を伸ばしても、ハーレイとキスは出来ないと言われて肩を落とすブルー。
 中身も育たないと駄目だとなったら、いったい何年かかるのだろうか。
 結婚出来る年は十八歳だけれど、そこまでの年数も十四歳の子供にとっては長いもの。前世では三百年以上も生きたけれども、だからと言って「ほんの一瞬」とは思えはしない。
 今のブルーは子供なのだし、時の流れの感じ方が違う。前の自分とは比べられない。
(…まだまだ何年もかかるだなんて…!)
 なんで、と大きな溜息をつけば、向かいに座った恋人がいとも簡単に。
「そんなに心配しなくってもな?」
 俺と松茸狩りに行ける頃には結婚してるし、キスもしてるさ。
 ほんの数年の我慢だろうが。
「でも…!」
「その数年が待てないってか?」
 だがな、待てば待つほど有難味が増すって言葉もあるだろ?
 反則技で背だけ伸ばして、俺に無視されて悔しがるよりチビのままでいろ。
 お前はゆっくり幸せに育てと何度言ったら分かるんだ?
 前のお前が出来なかった分まで、うんとゆっくり、幸せにな。
 そういうお前を側で見るのも、俺の幸せな時間の一つだ。
 今度のお前はチビでいいんだと、可愛がられてる子供なんだと心が温かくなってくるんだ。
 俺はいくらでも待っててやるから、小さな子供でいてくれ、ブルー。
 打ち出の小槌なんかを貰おうとせずに、そんな道具で背を伸ばさずに…。



 いいな、と何度も念を押した後で、ハーレイは芝生の白いキノコに目を止めた。
 フェアリーリングが出来る原因はキノコの菌糸だと聞いているから。
 この地域では松茸が作り出す天狗の土俵が有名だけれど、他の地域では違うキノコが輪を描いてフェアリーリングを作るというし…。
(…松茸だけとは限らないからな、この辺りでも)
 キノコ狩りには出掛けるけれども、さほどキノコに詳しくはない。芝生の上の白いキノコが食用ではないと分かる程度で、その名前までは分からない。
 もしもフェアリーリングを作る類のキノコだったら、と心配になって、ブルーに「おい」と声をかけた。
「あそこのキノコ…。あれが増えたりすることがあって、だ」
 お前の家の庭にフェアリーリングが出現したって、入るんじゃないぞ?
 伝説ってヤツも馬鹿には出来ん。
 この庭からメギドに繋がっていたら大変だからな。
「ぼくだって嫌だよ、メギドなんて!」
 入らないよ、と震え上がったブルーだけれど。



(…でも、妖精…)
 松茸の妖精は小さな天狗かもしれないから、あまり役には立ちそうにない。
 鼻が伸びるという天狗の団扇を貰っても何もいいことはない。
 けれど、芝生の白いキノコに妖精が住んでいるのなら。
 妖精は不思議な力を持っていると言うから、もしも…、とブルーは考える。
 もしもフェアリーリングが庭に出来たら、いきなり入らずに妖精がいるか探してみようと。
 運よく妖精を見付けられたら、頼んでみたい。
 過去へ、未来へと飛ぶことが出来るフェアリーリング。
 その輪の力を貸して貰って、結婚出来る十八歳まで時を飛び越えられないか、と。
 一気に時間を超えられたならば、きっと背丈も伸びている筈。
 背が伸びてハーレイと結婚出来る日までの道のりをヒョイと飛び越え、未来の自分の家の庭へと降り立つことが出来たなら…。
(うん、結婚式の少し前くらいとか!)
 それとも婚約、それとも初めてのキスの前の日?
 どの辺りまで時を飛び越えようかと、ズルをして未来へ飛んでゆこうかと浮き立つ心から思念が零れる。キラキラと光る欠片がブルーの心から零れて落ちる。
 ブルーの嬉しげに輝く瞳と、弾む心と。
 白いテーブルを挟んで座った恋人がそれに気付かないわけなど無くて。



「馬鹿!」
 この馬鹿者が、とハーレイはブルーを叱り付けた。
「俺と結婚出来る未来まで時を飛び越えてズルをするだと!?」
 そこまでの幸せを捨てるのか、お前。
 この先、お前が大きく育っていくまでの時間。
 俺と何回、こうして庭でお茶を飲んだり、笑い合ったりするんだと思う?
 二階のお前の部屋で何回、飯を食ったりするんだと思う?
 その度に新しい発見があったり、前の俺たちのことを思い出したり…。
 一つ一つは小さなことだが、そうした出来事を積み重ねていって幸せがうんと増すんだからな。
 背が伸びなくって悔しい思いもするだろう。
 俺に子供扱いされたと膨れっ面だってするだろう。
 メギドの夢だって見るかもしれんし、幸せばかりの時間だとは言わん。
 だがな、幸せは過ごした時間の分だけ増えるもんだし、減ったりはしない。
 前のお前だってそうだっただろ?
 寿命が百年減っていたとしたら、どれだけの幸せを逃していた?
 それと同じだ、今だってそうだ。
 お前が生きた時間の分だけ幸せってヤツもついてくるのさ、それを置き去りにするのは馬鹿だ。
 時間を飛び越えて幸せの真っ只中に降りるつもりでいるんだろうがな、ただの馬鹿だ。
 沢山の幸せを捨ててしまった馬鹿になるんだ、それをやっちまったお前はな。



 ハーレイの言葉は当たっていたから。
 小さなブルーにも充分に分かる重みを帯びていたから、ブルーは「うん…」と小さく頷いた。
 馬鹿と言われても仕方ない自分。あまりに考えなしだった自分。
「ふむ。…馬鹿でも物分かりはいいようだな」
 今度からよく考えるんだぞ、と大きな褐色の手がブルーの頭をクシャリと撫でた。
「お前が飛び越えようと思った時間の長さ。俺と出会ってからの時間の何倍分だ?」
 三倍以上は軽くあるだろ、それだけの時間でどれだけの幸せに出会えるんだか…。
 捨てちまうのはもったいない。毎日、きちんと味わってこそだ。
「…分かった。触らないよ、フェアリーリングが出来ても」
 妖精を探して頼みもしないし、未来へ飛んだりしないよ、ハーレイ。
 ちゃんとハーレイと一緒に過ごすよ、ぼくが飛ぼうとしてた先まで…。
「よし。あそこのキノコが輪になって生えても放っておけ」
 そしてだ、いつかキノコ狩りに出掛けて松茸で出来たフェアリーリングを見付けたら…。
 お前が言ってたみたいに端からどんどん採っちまって。
 全部採り尽くして二人でたらふく食おうな、親父たちにも配ってな。
「うんっ! 天狗の団扇は欲しくないしね」
「ああ。お互い、相手の鼻は今の高さが一番だってな」
 もっとも、お前はもう少しばかり伸びた形がいいんだが…。
 背丈に合わせて、前のお前と同じ分だけ、ほんのちょっぴり。
 しかしだ、ズルをするんじゃないぞ?
 打ち出の小槌も、フェアリーリングも使うんじゃない。
 今のお前に見合った時間をかけて、ゆっくりゆっくり伸ばしてくれ。
 いくらでも待っていてやるから。
 お前が前とすっかり同じに育つ時まで、何十年だって待ってやるから……。




          妖精の輪・了

※キノコが作るフェアリーリング。それに入れば、妖精の世界や過去や未来に行けるとか。
 幸せな未来へ、時を飛び越えたいブルーですけど…。其処へ至る時間も大切なのです。
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