忍者ブログ

シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

 ハーレイの家から歩いて行ける食料品店。ハーレイでなくても、女子供でも楽に歩ける近さ。
 以前は気が向くままに出掛けて覗いたり、散歩がてらに立ち寄ったりと頻繁に出掛けた店だったけれど。この春から事情はガラリと変わった。正確に言えば五月の初旬、勤務先の学校が変わってから後。
 其処で出会った十四歳の小さなブルー。前世で愛した大切な恋人の生まれ変わり。
 幸運にもブルーの家を頻繁に訪ねることを許され、それがハーレイの表向きの役目ということになった。休日はもちろん、学校のある日も仕事が早く終われば立ち寄る。
 そういう生活が始まって以来、買い出しはブルーの家に出掛けない日に済ませておくのが習慣。今日も行かねば、と帰宅してガレージに車を入れたハーレイは着替えて家を出た。
 仕事は早めに終わったけれども、ブルーの家には昨日も行った。そうそう毎日行けはしないし、今日は買い物。



(…あいつなら来いと言うんだろうが…)
 昨夜、「また今度な」と手を振った時に「また来てね!」と叫んだ恋人。今日の放課後、学校の廊下ですれ違った時にも期待に満ちた瞳をしていた。家に来てくれるといいな、という瞳。
 ブルーの両親もハーレイの来訪を待っているだろうが、流石に悪いという気がする。一家団欒の夕食の席に余計な一人。しかも食欲旺盛なハーレイのための食事はいつも大盛り。
(結婚してたら毎日だって行けるんだろうが…)
 食事が一緒でも普通なんだが、と考えてから浮かんだ苦笑い。
(それでは同居と変わらないじゃないか)
 毎日夕食をブルーの両親と共に食べるとなったら、同居とさほど変わらない。食事の後で自分の家に帰ってゆくのか、部屋に帰ってゆくかの違い。
(…ブルーがそうしたいと言い出したならば、同居もいいがな)
 言わないだろうな、と小さな恋人を思い描いた。
 事あるごとに「早くハーレイと結婚したいよ」と訴えて来る小さなブルー。早くハーレイを独占したいと、両親に取られたくないと。
 そんなブルーが両親との同居や、毎日一緒の食事の時間を望むとはとても思えない。
(うんうん、あいつは俺にベッタリくっつきたいんだ)
 食事の時間も、それ以外の時も。
 ハーレイさえ居ればそれでいいのだと、満足そうな顔が目に浮かぶようだ。
 小さな小さな、幼い恋人。十四歳にしかならない、小さなブルー…。



 子供らしい我儘を炸裂させるのも得意になってしまったブルー。
 ソルジャー・ブルーだった頃にもハーレイにだけは甘えたものだが、今は両親にも甘え放題。
 そういう姿も気に入っていた。
 ソルジャーの重荷を背負っていなければ本来こうかと、これが本当のブルーなのかと。
 今度は甘えさせてやりたいと思う。
 前の生では叶わなかった分、甘えさせて、我儘も沢山言わせて。
 そんなブルーを守ってゆこうと、今度こそ自分が守るのだと。



(さて、と…)
 買わねばならない物は何だったか…、と考えを切り替えて歩いてゆく。
 家にある食材は一通りチェックを済ませて来たから、あれと、これと…、と。他にも目に付いた品があったら買うのもいい。
 新鮮さが命の刺身だとか、早めの調理が旨味を引き立てる野菜だとか。
 何を作って食べるのもいい、気楽な自分一人の食卓。今夜の献立もまだ決めてはいない。買った食材の種類次第で何にするかを考えればいい。
(ブルーと一緒に飯を食うのも楽しいんだが、両親付きはなあ…)
 昼食はブルーの部屋で二人で食べることが多かったけれど、夕食は両親も一緒の食卓。ブルーの相手ばかりでは大変だろう、と気遣ってくれるブルーの両親。大人同士で話したいだろうと、心を配ってくれるブルーの両親。
 平日に訪ねて行った時にはブルーが食卓の王様だったし、ハーレイを独占していたけれど。王様ではなくて王子様だろうか、自分が話題の中心なのだと、それが当然だと笑顔のブルー。
 ハーレイの名を連発するブルーを両親は温かく見守っていたし、居心地はけして悪くなかった。
 ただ、ブルーの両親が考えているような「キャプテン・ハーレイ」ではない自分。
 ソルジャー・ブルーの右腕だったと伝わるだけではない自分。
(…実はブルーの恋人だなんて、夢にも思っていないだろうしなあ…)
 たまに後ろめたい気分になったりするから、一人きりの食卓も気楽でいい。
 気の向くままに料理を作って、のんびりと時間を過ごしながら。



(…こんな考えがバレたら、あいつは怒るな)
 四六時中ベッタリくっついての暮らしも気にしないどころか、それを熱望する小さな恋人。
 結婚したなら買い物に行くのも二人一緒になるのだろう。
 軽く歩いて行ける距離でも、必ず一緒。
(あいつが寝込んだら、俺は買い物禁止になっちまうのか?)
 買い物の代わりに看病よろしく外出禁止を仰せつかって世話だろうか、と可笑しくなった。
 ブルーだったら言いかねないなと、買い物に出掛ける暇があったら側に居てくれと。
(そうして野菜スープを作らされる羽目になるんだな)
 家にある野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んで。
 野菜スープのシャングリラ風が出来上がったならば、ブルーのベッドに運んで行って…。



 その、野菜。
 いつもの食料品店に足を踏み入れると、実に豊富な品揃え。
(シャングリラでは出来なかった贅沢だよなあ、季節外れの野菜も山ほどなんてな)
 今が旬ではない野菜も多い。けれども、どれも食べれば美味しい。地球の光と水と土とが育てた野菜は、露地物でなくても豊かな味わい。
(これと、これと…)
 こいつも美味い、と店の入口で手に取った買い物用の籠に入れてゆく。野菜のコーナーを巡った後は肉類を選んで、それから魚や貝の売り場へ。
(うん、今日もいいのが入っているな)
 魚介類が水揚げされる港から毎日入荷する海の幸。海が荒れた時には品数が減るが、今日は色々揃っている。どれにするかな、と覗き込んで、好みの品を選んで、籠へと。
 もしもブルーが一緒に居たなら、どんな買い物になるのだろうか、と選びつつ考えたりもして。
(好き嫌いが無いのが俺たちの売りだが、それでも何か言いそうだよな?)
 この魚を焼いて食べるのがいいとか、こっちを買って煮付けだとか。
 タコを買って今日は刺身で食べて、明日はタコ焼きを作って食べたいだとか。
 我儘も言うだろう、生まれ変わって来たブルー。
 ソルジャー・ブルーだった頃とは違って、我慢が基本ではないブルー…。



 今はまだ小さな恋人の未来の姿を想像しながら、店内をぐるりと一回りして。
 買いそびれた物は無いかと確認してから会計を済ませ、買った品物を詰めた袋を提げて出ようとしていた所で、後ろに女性。両手に提げている、重そうな荷物。
「お先にどうぞ」
 自動ドアではあったけれども、扉の幅には限りがあるから、女性優先。社会の一員になって間もない頃からのハーレイの習慣。大先輩だった紳士な教師がやっていたのを見て以来。
 女性は笑顔で会釈してドアを通って行った。



(…ふむ…)
 荷物を提げて店の外へとドアをくぐって、ふと考えた。
 ブルーと暮らすようになったら、こうした時にはやはりブルーが優先だろう。ブルーの手に何も荷物が無くとも、先に通してやらねばと思う。
 けれど…。
(今度はあいつが先ではないのか)
 先に扉を通らせてやっても、ブルーは出てすぐの場所で自分が来るのを待っていそうだ、という確信。先に歩いて行ったりしないで、笑顔で待っているのだろうと。
(…前はあいつが先だったのに)
 ハーレイの前を行くのがソルジャー・ブルーだった頃のブルーの歩き方。
 常にハーレイを後ろに従え、シャングリラの中を歩いて行った。視察の時も、それ以外の時も、ハーレイと共に歩く時にはソルジャー・ブルーが先だった。



 しかし、今度の小さなブルー。
 自分と一緒に青い地球の上へと生まれ変わった小さなブルー。
 将来、大きく育ったとしても。
 ソルジャー・ブルーと同じ背丈に育って自分と一緒に暮らす日々が来ても、きっとブルーは…。
(あいつは俺より先には行かない)
 二人で買い物に出掛けたとしても、ブルーが歩く場所は隣か、後ろか。
 自分よりも前を歩きはしない、と小さなブルーを思い浮かべる。
(…あいつが俺より先に行くのは…)
 ブルーの家を訪ねると「早く!」と先に立って自分の部屋へ駆けて行ったりするのだけれども、ハーレイが帰る段になったら決して先には行ったりしない。先に階段を下りてはゆかない。
 庭にある白いテーブルと椅子で過ごして、家へと戻る時にも同じで、先には行かない。
(…そうだ、今のあいつは俺の後ろからついてくるんだ)
 でなければ、隣。手を繋いだりはしないけれども、隣に並んで歩いていた。
 学校で出会って話しながら廊下や校庭を歩く時にも隣か、後ろか。
(絶対に前を歩きはしないな、今のあいつは)
 あまりにもそれが普通だったから、気が付かなかった。
 前の生では必ず前を歩いていた筈のソルジャー・ブルー。
 ハーレイが後ろに付き従うのが常だった筈のソルジャー・ブルー…。



(…いつからだった?)
 いつからブルーは自分の前を行くようになったのだろうか、と遥かな昔の記憶を手繰った。
 最初はそうではなかった筈。アルタミラから脱出した直後はそうではなかった。
 いつ変わったのか、と考える間に、家の前まで辿り着く。
(…前のあいつか…)
 玄関の鍵を開け、提げて来た荷物を注意して置いた。
 卵を割ったりしないように。ぶつけると傷みやすくなる品物に衝撃を与えないように。
 そうした品々をキッチンへ運び、所定の位置に片付けながら夕食の献立を考える。
 新鮮な刺身を買って来たから、それに合うものを。
 味噌汁にするか、澄まし汁にするか。
 野菜の料理は何にしようか、他に作って食べたいものは…。



 ふむ、と献立と手順とを決めて、料理の支度にかかったけれど。
(いつからだった…?)
 意識は再び、前のブルーへと引き戻された。
 いつから自分よりも先に行くのが常になったかと、いつからそのように変わったのかと。
(…あの頃は俺の後ろにいたな)
 前の自分がキャプテンではなく、調理を担当していた頃。食材の管理が上手だからと献立作りも任されてしまい、船にある食料で作れそうなものをと色々と工夫を凝らした日々。
 調理担当の者は他にも何人もいたが、陣頭指揮はハーレイだった。今日の昼食はこれで、夕食はこれ。明日の朝食にこれを作って、その次は…、と在庫を睨んで計画を立てて。
 そうやって鍋やフライパンと戦っていた頃、「何が出来るの?」と興味津々でハーレイの仕事を覗きに来ていた小さなブルー。
 身体が小さかっただけで年はハーレイよりも上だったけれど、まだハーレイの後ろにいた。船の中を二人で歩く時には後ろから来たし、前を歩きはしなかった。
 脱出直後の小さかったブルー。
 ハーレイを手伝ってジャガイモの皮を剥いたりしていた、小さなブルー。



(あいつが食料を奪いに行っていた頃も、俺の後ろに…)
 船にあった食料が底を尽いた後、ブルーはたった一人のタイプ・ブルーとして食料を奪いに出るようになった。人類の船が近くを通れば、とにかく何かを奪いに出掛けた。
 選ぶ余裕などありはしないから、キャベツだらけとか、ジャガイモだらけだとか。偏った食材と格闘するのがハーレイの仕事で、ブルーは食材の調達係。
 食料の他にも必要な物資をブルーが奪って、ハーレイがそれを調整しながら分配していた。皆に公平に行き渡るように、必要とする者たちの手に渡るように。
 ブルーの力が無ければ生きていけない日々だったけれど、ブルーが歩く場所はハーレイの後ろ。
 シャングリラと名付けた船全体の面倒を見るようになっていた、ハーレイの後ろ。



(…俺がキャプテンになった頃には、まだ…)
 後ろだった、と思ってから「違う」と気が付いた。
 まだソルジャーの尊称こそ無かったけれども、リーダーと目され始めたブルー。
 もう後ろにはいなかった。
 ハーレイが後ろを歩かなかっただけで、ブルーは後ろにはいなかった。
 リーダーの自分が幼子のようにハーレイの後ろをついて歩いては駄目であろうと判断したのか、はたまたキャプテンの仕事の邪魔は出来ないと考えたのか。
 いずれにしても自分の後ろにはもういなかったし、ついて歩きもしなかった。



(俺があいつの後ろを歩き始めたのがソルジャー以降か…)
 ソルジャーと呼ばれ、紫のマントや白と銀の上着を身に着けるようになっていたブルー。
 背丈も伸びて、小さなブルーではなくなっていた。気高く美しく育ったブルー。
 シャングリラの改造もすっかり終わって、白い鯨が完成していた。
 ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 巨大な船となったシャングリラの中を視察して回ったソルジャー・ブルー。
 船内を隈なく歩くブルーにキャプテンとして付き従った。
 そうやって自分が後ろになった、と思い出す。
 視察以外で通路や居住区などを歩く時にも、ブルーはソルジャー。
 誰もが認めるミュウたちの長。
 キャプテンが前を歩けはしない。ソルジャーよりも前を歩けはしない。
 その必要が無い限りは。
 先に立って案内する必要が生じない限り、ハーレイはブルーの後ろを歩いた。



(あいつの方が偉かったからな…)
 キャプテンよりも遥かに上の立場であったソルジャー。
 シャングリラの航路も、仲間たちの命も、ブルー無しでは続きはしない。キャプテンはそれらを握ってはいても、ただ「預かっている」というだけのこと。
 守る力も戦う力も持ってはいないし、いざという時はブルーに頼るしかない。ソルジャーだった前のブルーしか、そういう力は持たなかった。
 だからキャプテンの地位がソルジャーの次でも、天と地ほどの開きがあった。
 ハーレイはそれを自覚していたから、ブルーの後ろを歩き続けた。
 けれどシャングリラの中、誰も周りにいない通路をハーレイが一人で歩いていた時、瞬間移動で背後に現れ、いきなり抱き付いて来たブルー。
 後ろから抱き付き、キスを強請ってきたブルー。
 何度もそういう場面があった。
 ブルーはいつも唇に笑みを浮かべていたから、悪戯なのだと思っていた。
 自分の驚く顔が見たくて不意打ちをしてくるのだろうと、恋人同士ならではの悪戯だろうと。
 何度もブルーが起こした悪戯。
 白いシャングリラで起こした悪戯。
 けれど、もしかしたら。
 悪戯なのだと前の自分は思ったけれども、もしかしたら…。



(…あいつは俺の後ろに居たかったんだろうか?)
 前を行くより、本当は後ろに居たかったのだろうか。
 否応なく前を行っていただけで、前のブルーも後ろについて来たかったのだろうか…。
 今のブルーが後ろを歩きたがるように。
 小さなブルーがハーレイの後ろについてくるように、前のブルーも。
 ソルジャーだったブルーも、もしもハーレイが許したならば。
 後ろを歩いていたのだろうか、と遠い昔に思いを馳せた。
 シャングリラの中を歩いてゆく時、ブルーの居場所が違ったならば、と。



(…もしも、ブルーが俺の後ろを歩いていたら…)
 そう出来ていたら、と考える。
 自分の後ろが定位置のブルー。常に後ろについてくるブルー。
(前のあいつがそうだったなら…)
 ハーレイの後ろに居たがるブルーは、メギドへと飛んで行ったのだろうか?
 たった一人で死が待つメギドへ、そんなブルーは飛べたのだろうか?
(…それでもあいつは飛んだんだろうが…)
 きっと不安な目をしただろう、とハーレイは思う。
 自分に託した言葉は「頼んだよ」と一方的に告げた遺言だったと思いはするが、その時の瞳。
 見上げる瞳が違っただろう。
 笑みさえ湛えていたように見えた瞳の代わりに、縋るような目をしただろう。
 一人で行かねばならないけれども、前を歩いてくれる背中が欲しいと。
 その背を追いかけて歩きたいのだと、ハーレイの背中があればいいのにと。



(…そうして俺が追いかけていたな)
 キャプテンの務めをブリッジの長老たちに託して、シャングリラの舵をシドに託して。
 格納庫に走って、ギブリに乗った。ブルーを追いかけてメギドへと飛んだ。
 人類軍の攻撃を躱して飛ぶだけの腕はあったと思う。そうでなければシャングリラのキャプテンなど務まりはしない。巨大な船を動かせはしない。
 砲撃を躱し、ギブリをメギドに降ろすことも出来た。中へ入り込むことも恐らく出来た。
 その後は兵士たちの攻撃をシールドで防いで、ブルーを追うだけ。ブルーが通ったであろう道を探して、追いかけて彼に追い付くことだけ。
(俺なら追えた筈なんだ…)
 きっとブルーがキースに遭遇するよりも前に追い付けた。追い付いて共にメギドを壊せた。
 ブルーは「何故来た」と怒鳴って怒っただろうが、その一方で泣いたと思う。
 緊張の糸が緩んで泣いたであろう、と。
 前を歩いてくれる背中が出来たと、ハーレイが前を歩いてくれる、と…。



(…俺は間違えていたんだろうか…)
 歩く場所を、と思ったけれど。
 互いの立場を考えたならば、その順番はあり得ない。
 ソルジャーだったブルーが歩くべき場所はハーレイの前で、キャプテンの位置はブルーの後ろ。
 入れ替えることなど出来はしないし、シャングリラに居た頃は仕方が無かった。
 けれど、ブルーの本当の望み。
 ソルジャーだった頃のブルーの本当の望み。
(あいつも気付いてはいなかったんだろうが…)
 自分の後ろをきっと歩きたかったのだろう、と思ってしまう。
 育ってもなお、ハーレイよりも遥かに小さな身体をしていたブルー。
 華奢で細かったソルジャー・ブルー。
 ハーレイが前を歩いていたなら、ブルーの身体は広い背中にすっぽりと隠れていただろう。
 自分の背を追いかけていたかったろう、とアルタミラから脱出した直後のブルーを思った。
 「何が出来るの?」と鍋を、フライパンを覗き込んでいた、小さかったブルー。
 自分の後ろをついて歩いていた、ジャガイモの皮むきをしていたブルー…。



 本当は後ろを歩いていたかったのだ、と今頃になって気付いたけれど。
(…それ以上に俺の隣を歩きたがるんだろうな、今度はな)
 きっとそうだな、と出来上がった料理を手際よく器に盛り付けた。
 野菜の煮物は深めの鉢に。
 刺身だけでは物足りないから、と作ったアサリの酒蒸しは汁の量に見合った深さの皿に。
 味噌汁を注いで、刺身は活きの良さが映える器に移してテーブルに置いた。
(これでよし、と)
 炊き上がった白米を茶碗に盛って、椅子へと座る。
 ブルーの家でも今頃は夕食の時間だろう。
 小さなブルーは心の中では不満たらたら、「ハーレイが来てくれなかったよ」と膨れっ面をしていそうだけれども、そうそう顔には出さないと思う。
 ハーレイが本当は前の生からの恋人なのだと両親に知られてしまわないよう、不平不満は小さな胸の奥に押し込め、愛らしい顔でチョコンと座っていることだろう。



(…すまんな、行ってやれなくて)
 だが、毎日は行けないからな、と小さな恋人に心で詫びた。
 自分の後ろを歩くのが好きな、いずれは隣を歩きたがりそうな小さなブルーに。
(前のお前も本当は、きっと…)
 後ろを歩きたかったのだろうと思うし、隣も歩きたかっただろう。
 ハーレイと並んで前も後ろもなく、手を繋いで歩いてみたかっただろう。
 けれどもソルジャーとキャプテンだった前の生では、並んで歩けはしなかった。
 恋人同士であったことさえ、誰にも明かせはしなかった…。



 今の生でも、まだ手を繋いで並んで歩けはしない。
 ブルーの両親がハーレイがブルーの恋人なのだと知らない間は、歩けはしない。
(…当分は俺の後ろだな、うん)
 小さなブルーはハーレイの後ろを歩いて満足しているし、手を繋ぎたいとも言っては来ない。
 しかし隣に並んで歩いてゆくことを、いつかブルーが覚えたならば。
 其処がブルーの定位置だろう。
 ハーレイの隣に立って腕を絡めて、あるいは手をしっかりと握り合わせて。
(そうか、今度は後ろですらないのか)
 隣なんだな、とハーレイは小さなブルーを想った。
 小さな恋人の背丈が前のブルーと同じに伸びて、気高く美しく育ったならば。
 二人一緒に歩く時には、どちらが前でも後ろでもない。
 あえてどちらかが前に立つなら、其処はハーレイ。
 ブルーを先に通してやるためにドアを開けてやり、先に通ったブルーは其処で止まって待つ。
 ハーレイがやって来るまで待つ。
 そうして二人、並んで歩く。
 ついさっきまでがそうだったように、二人並んで歩いてゆく…。



(…歩く順番からして変わってくるのか…)
 今度はまるで違うんだな、とハーレイの唇に笑みが浮かんだ。
 買い物に出掛ける時も二人一緒に、手を繋いで。
 そう考えてはいたのだけれども、前の生との明確な違いを認識してはいなかった。
 歩く順番が変わってくるとは、まったく気付いていなかった。
 前の生ではブルーが前を行き、ハーレイが後ろ。
 変えることなど出来はしなかった、ソルジャーの、そしてキャプテンの場所。
 けれど今度は並んで歩ける。
 二人仲良く、手を繋いで並んで歩いてゆける。
 それがどれほど幸せなことか、今まで以上に分かった気がする。
 前の生では叶わなかったと、今度は並んで歩けるのだと。
(…早くあいつと一緒に歩きたいもんだな)
 ついでに食事も二人なんだな、とハーレイは刺身を頬張った。
(食事も一緒で、歩くのも一緒か…)
 今度は二人で並んで歩こう。
 買い物でも、近所への散歩でもいい。
 前も後ろも順番も無くて、二人並んでの幸せな道を…。




           歩きたい場所・了

※並んで歩くことは出来なかった、キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルー。
 今度は並んで歩くことが出来るのです。手を繋いで。その日が来るのがとても楽しみ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv






PR

「うーん…」
 なんだか変、と夜の夜中に目が覚めた。
 ベッドの感じがいつもと違う。寝心地が違うって言うのかな?
(なんで?)
 どうして、と思ったぼくの頭の下、無くなってる枕。ぼくのお気に入りの大きな枕。ふんわりと頭を受け止めてくれる筈の枕が消えちゃってる。
 あれっ、と手さぐりで探しても無い。少なくとも頭の近くには無い。
(何処…?)
 ゴソゴソしてたら目が冴えちゃうよ、と目を瞑ったままで探すけれども、無いみたい。
 こういった時に前のぼくなら簡単に解決出来たのに。
 わざわざベッドを探らなくても、枕、って考えたらちゃんと出て来た。前のぼくの得意技だった瞬間移動で何処からか、パッと。
 だから全然困らなかったし、目も冴えないで眠り直せた。大きな枕に頭を預けて、起きる時間が来るまでの間、眠りの世界に戻ってゆけた。



(…寝相は悪くはなかったんだけどね?)
 前のぼくの寝相は良かったと思う。今のぼくみたいに枕が消えたりはしなかったと思う。寝てる間に上掛けを蹴飛ばしてしまうことも無かったと思うんだけど…。
(……でも……)
 青の間で一緒に眠ったハーレイが起きて行った後。
 枕が頭の下に無いこともあった。頭の下はシーツということがあった。
 そんな時には瞬間移動でヒョイと戻して、頭の下に入れた。前のぼくが使っていた大きな枕を。今のぼくの枕よりも大きかった、青の間のベッドに見合った枕を。
 あれほどに大きな枕が行方不明になるってことは…。
(…悪かったっけ?)
 前のぼくの寝相。
 悪かったなんて自覚はゼロだし、寝ていた間は、枕はきちんと頭の下に…。



 いつだって頭の下に在ったと記憶している枕。
 それがどうして消えたんだろう、と考え始めたぼくの意識はとっくに冴えていたけれど。眠気は飛んでしまっていたけど、気になる前のぼくのこと。
 眠っている間中、前のぼくの頭を支えていた枕。
 ハーレイが起きて行った後には消えてたってことは、犯人はハーレイだったんだろうか?
 同じベッドで眠ったのだし、起き出す時にウッカリ触って何処かへ動かしてしまっていたとか。あれだけ大きい身体なんだもの、腕に引っ掛けただけで枕は動いてしまうと思う。足でも同じ。
(…うん、ハーレイが犯人なのかも…)
 腕とかで連れて行っちゃったんだよ、と連れ去られた枕と犯人の腕を思い浮かべた。逞しかった褐色の腕。あの逞しい腕に引っ掛けられたら、大きな枕でもひとたまりも無かったことだろう。
(持って行っちゃったなら、元に戻してくれればいいのに)
 頭の下に入れてくれればいいのに、と気配りの足りない前のハーレイに文句を言いたくなった。
 だけど大抵は枕は頭の下にあったし、きっと忙しかったりしたんだろう。前のぼくの枕の面倒を見ていられないほど、急いで起きなきゃ駄目だったとか。



(…朝一番にブリッジに行ってた日もあったしね?)
 朝食は青の間でハーレイと一緒に。
 それがソルジャーとしてのぼくの習慣で、キャプテンだったハーレイの仕事。様々な報告などをしながら会食をするのだと誰もが信じていた。二人分の朝食を用意する係も居た。
 その朝食の時間よりも前に、キャプテンの制服を纏ってブリッジに出掛けたハーレイ。緊急事態とかではなかったけれども、打ち合わせだとか、夜勤のクルーからの引き継ぎだとか。
 そうした時には急いでいたから、ぼくに「おはよう」のキスもしないで出掛けて行った。ぼくの方でも分かっていたから、「ああ、出掛けたな」と気付いた時でも起きはしないでベッドの中。
 大きな枕に頭を預けて、上掛けをすっぽり被り直して。
(そういえば…)
 ハーレイが出掛けた後、ヒョイと直していた枕。
 急ぎの用事で早く起きて行った日が多かったかな、と思い出す。でも…。
(…普通の日だって、消えてなかった?)
 ぼくはもう少し眠りたいのに、「朝ですよ」って起こす前のハーレイ。啄むようなキスを何度も落として起こしたハーレイ。「もうちょっと…」と駄々をこねた、ぼく。ハーレイが溜息をついてベッドから出ても、「もう少しだけ」と寝ようとしたぼく。
 どうせバスルームは一つしか無いし、ハーレイがシャワーを浴びて身支度を整えるまでは眠ったままでもかまわないから、と眠り直した。
 何処かに行ってしまった枕を探して、頭の下にヒョイと戻して。



(暇があった時にも消えてたなんて…!)
 ぼくの枕を連れ去るだなんて、しかも放って知らんぷりだなんて、酷い恋人だと詰りたくなる。ウッカリ動かしてしまったんなら、元に戻せと怒りたくなる。
(普段は戻してくれたんだろうけど、こういうのって…)
 一事が万事。
 忘れ果ててシャワーに出掛けるなんて心配りが足りなさすぎだ、と頬をプウッと膨らませた。
 犯人は此処には居ないけれども、いつか文句を言ってやろうと。
(今度やったら絶交なんだよ)
 一日ハーレイと口を利かないとか、そういうの。
 前と違って今度は結婚するんだから。うんと大事にして貰わなきゃ、と思うから。
 ぼくの枕を行方不明にしてしまう酷い恋人は論外、おまけに今のぼくは枕をヒョイと戻せない。今みたいに意識が冴えてしまって眠れなくなるし、それでは困る。
(忘れないで枕を入れておいてよ)
 今度は絶対、と考えた所で「あれっ?」と思った。
 忘れずに入れておいて欲しい枕と、枕が連れ去られてしまう前。
 感触が違ったような気がする。前のぼくの頭の下にあった枕の感触。柔らかい枕と、硬いのと。枕を二つ持っていたのだろうか、と遠い記憶を探ろうとして。
(違った…!)
 一晩中、前のぼくの頭を支えていた枕。硬かった枕。
 あの枕は枕なんかじゃなくて。
(…前のハーレイの腕だったんだ…)
 どおりで朝には消えていた筈。
 ハーレイが本物の枕を代わりに置いてくれたんだろう。
 たまに忘れて枕が無い時、ぼくが自分で探していた。瞬間移動でヒョイと探して置いた…。



(…いつもハーレイの腕だったんだよ、夜の間は)
 いつ目が覚めても、ハーレイの腕がぼくの頭を支えていた。ぼくの頭の下にあった。
 一晩中、前のぼくの頭を支えて眠っていたハーレイ。ぼくを抱き締めて眠ったハーレイ。ぼくの頭が腕に乗っかったままで一晩だなんて、ハーレイは重たくなかったんだろうか?
(…えーっと…)
 訊いてみたことがあったっけ、と思い出した。
 ハーレイと結ばれて、同じベッドで眠るようになって。ハーレイの腕が枕代わりになっていると気付いて、何度か訊いた。
 こんなことをして腕が痺れないかと、重くないのかと。
 ヒトの頭が重いことくらい、前のぼくはちゃんと知っていたから。
 五キロくらいはあるんだってこと、充分に承知していたから。



 きっと重いに違いない、と心配しながら尋ねたのに。
「私の宝物ですからね」と笑ったハーレイ。
 宝物は重いほど価値がありますから、と。
 シャングリラは宝物と縁が全く無かったけれども、金や宝石。そういったものはとても重いし、金の塊は見た目よりもずっと重いものだと。
「ずっしりと重いそうですよ。ほんのこのくらいの大きさでも」
 生憎と手に取ったことはありませんが、とハーレイが金塊の大きさを手で示したから。
 前のぼくの頭なんかより遥かに小さなものだったから。
「…重いのかい? ぼくの頭は」
「いいえ」
 ハーレイは笑顔でそう答えた。「いいえ」なら、つまり軽いということ。宝物は重いほど価値があるなら、ぼくの頭は…。
「じゃあ、軽いのなら宝物の価値が…」
 宝物としては失格だろう、と項垂れたぼくに、「まさか」と直ぐに返したハーレイ。
「この世の中には軽い宝物だってありますからね」
「…どんな?」
「それは色々ありますよ」
 今の時代には何がそうかは分かりませんが…。
 遠い昔には、同じ重さの金よりも高い値段で取引された。そんな品物も沢山あったそうです。
「ああ…。香料とかだね、本で読んだよ」
「そういうものなら、軽くても宝物ですよ」
 重い宝物の金よりも軽い。
 それなのに値段は金よりも高い、うんと軽くて価値の高い宝物ですとも。



 重いほど価値がある宝物。ずっしりと重い、金や宝石。
 その一方で、金よりもずっと軽いものでも宝物。金よりも高い宝物。
 どちらも宝物だと言うなら、ぼくの頭はどうなんだろう、と余計に気になるものだから。
「…ねえ、ハーレイ。ぼくの頭は重いのかい?」
 それとも軽い?
 君は一晩中、ぼくの頭を腕に乗っけているけれど。
 重いのかい、それとも軽いのかな?
「さあ…?」
 どちらでしょうね、とハーレイは微笑んだだけで答えてくれなかったけど。
 重かったのかな、前のぼくの頭。
 それともハーレイの逞しい腕なら軽かった?
 五キロという重さは見当がつくし、ぼくには軽いと思えないけれど。
 サイオンでとてつもない重量の物体を運ぶことが出来た前のぼくでも、自分の腕を使うのならば五キロは「軽い」とは言えない重さ。スプーンを持ったりするのとは違う。
 五キロはそういう重さなのだ、と思うけれども。
 でも、いつだって前のぼくの頭の下にはハーレイの腕。
 夜中に目覚めても、朝の微睡みの中でも、ハーレイがベッドに居てくれた間はハーレイの腕…。



(…今のぼくなら前より軽いと思うんだけど…)
 小さい分だけ、頭だってきっと軽いと思う。
 キロ単位で違うかどうかは分からないけれど、絶対に前のぼくよりも軽い。ハーレイが腕を枕に貸してくれたら、「これは軽いな」と気付く筈。
 でも試してはくれないよね、と悲しくなった。
 ぼくの頭が重いか軽いか、ハーレイに言っても試してくれない。
 今のぼくはハーレイと同じベッドで眠れないから。
 腕を枕に借りるどころか、キスさえ許して貰えないんだから。
(軽い宝物も試して欲しいのに…)
 腕に乗っけて楽なのかどうか、軽い頭も試して欲しいと思うのに。
 せっかく今なら軽い頭を持っているのに、試してくれさえしないだなんて。
 腕を枕に貸すぼくの頭は、前とおんなじ重さでなければいけないだなんて…。



 残念だよ、と思ったけれど。
 今のぼくの軽くて小さな頭も腕に乗っけてみて欲しいよ、と思うけれども。
(でも、どうだろう…?)
 ぼくの小さな頭を乗せるには、ハーレイの腕の枕は太くて大きすぎかもしれない。
 あの腕を借りて枕にするのに丁度いいサイズが、前のぼくの頭だったかもしれない。
 ハーレイの腕にピッタリの頭。あの腕の枕にピッタリの頭。
(…うーん…)
 何かと言えばハーレイに言われる、「大きくなれよ」って、お決まりの台詞。
 「しっかり食べて大きくなれよ」とか、「ゆっくりでいいから大きくなれ」とか。
 大きくなれ、っていう言葉の中には頭のサイズも入っているのかな?
 今は小さい、ぼくの頭。前のぼくより軽い筈の頭。
 この頭も小さすぎてダメかもしれない。
 前のぼくの頭がいいのかもしれない。
 重たくっても、ハーレイが腕に乗っけておくには丁度いいとか…。



 どうなんだろう、と知りたくてたまらない頭の重さ。
 ハーレイが「私の宝物ですからね」と笑っていたぼくの頭の重さ。
 重たかったのか、軽かったのか。
 どう思っていて、ハーレイの腕には丁度良かったのか、そうではないのか。
 とても知りたくてたまらないのに。
 重かったならば「今のぼくの頭は軽いよ?」って言ってみたいし、軽かったのなら大きくなった後も安心して枕に出来るんだけど…。
 前のぼくが毎晩借りてたみたいに、頼もしくて硬い腕の枕を。
(…ハーレイ、絶対、教えてくれないんだよ)
 訊いてみたって、教えてくれない。「知らんな」って言われるか、無視されるか。
 前のぼくだって宝物の話で誤魔化されて終わっていたんだから。
 重いか軽いか、教えてくれなかったんだから。
 今のぼくに教えてくれっこない。
 腕の枕を貸す必要も無い、小さなぼくには教えてくれない…。



(ハーレイの腕の枕…)
 一晩中、前のぼくの頭を支えていてくれた腕。太くて逞しい褐色の腕。
 絶対に逃げていかない枕。
 前のぼくの寝相がどうだったとしても、逃げて行きはしなかった頼もしい枕。
 いつだって、前のぼくの頭の下にきちんと在った。
 ハーレイが起きて行ったら無くなったけれど、代わりに普通の枕が貰えた。ハーレイがウッカリ忘れない限り、急いでいて忘れてしまわない限り、腕の代わりに普通の枕を置いて貰えた…。



(…ぼくの枕は?)
 普通の枕を思い浮かべるまで忘れちゃってた、今のぼくの枕。行方不明になっちゃった枕。
 すっかり忘れてしまっていたけど、身体の周りを探って、見付けて。
(…蹴飛ばしちゃってた?)
 ベッドから落っこちかけていたのを腕を伸ばして引っ張り戻した。
 これで良し、と頭の下に入れた所で、違和感。
 お気に入りの枕だというのに、違和感。
(…ハーレイの腕と全然違うよ…)
 あの腕がいい。ハーレイの腕の枕が断然、いい。
 少しでも近づけようと思って、枕を二つに折ってみたって、違う。
 丸めてみたって、全然違う。
 枕は、枕。
 今日まで何とも思わなかったし、柔らかすぎるなんて思いもしない。頭がふわりと沈む感じも、頭を支える力加減も、ぼくにピッタリだったのに。
 とても眠りやすいと思っていたのに、頼りなさすぎる大きな枕。
 大きいばかりで、役に立たない。
 ぼくの頭を受け止めるには役に立たない、見掛け倒しの大きな枕…。



(…あのハーレイの腕がいいのに)
 あの腕がとても良かったのに、と溜息をついた。
 前のぼくがとても好きだった枕。安心して眠っていられた枕。
 ハーレイが側に居てくれるのだと、ぼくのために腕を枕に貸してくれていると…。
 寝心地としては、実際、どうだったのかは分からないけれど。
 前のぼくがぐっすり眠れるようにと計算し尽くされていた青の間のベッド専用の枕と、どっちが前のぼくの頭に合っていたかは分からないけれど。
 好きだった枕はハーレイの腕。前のハーレイが貸してくれた腕。
 ハーレイもきっと分かってくれていたんだろう。
 ぼくが好きな枕は自分の腕だと、ベッドとセットの専用の枕よりも好きなのだと。
 だから重たくても、ぼくの頭を乗せるために腕。
 前のぼくの頭が重たくっても、腕に乗っけて眠ってくれた。
 重たいだなんて一度も言わずに、一晩中、枕に貸してくれていた…。



(でも…)
 ハーレイの逞しい腕には、前のぼくの頭は軽かったかもしれない。
 ぼくが「重いだろうな」と勝手に思ってただけで、ハーレイには重くなかったかもしれない。
(…どうだったんだろう?)
 分からないや、と誤魔化されてしまった答えを思う。
 重くても軽くても宝物だと、どちらも宝物に違いないのだと。
 軽かったのか、逆に重かったのか。
 前のハーレイが教えてくれなかった、前のぼくの頭の本当の重さ。
 ハーレイがどんな風に感じていたのか、聞けないままで終わった重さ…。



(…今のハーレイだと、どうなるんだろう?)
 今のハーレイも、前のハーレイと見た目は全く同じ。
 がっしりとした大きな身体も、逞しい腕も前のハーレイと全く同じ。
 だけど前よりも、もっともっと鍛え上げた腕。
 見た目には前と変わらないけれど、鍛え方がまるで違う腕。
 前のハーレイは体調管理に気を付けていたし、体力や筋力が衰えないように運動することも日課ではあった。シャングリラがうんと狭かった頃も、出来る範囲で運動していた。
 それでも運動はキャプテンの仕事じゃないから、あくまで健康維持のため。身体を鍛えるのとは全然違うし、人と競えるレベルじゃなかった。ミュウにしては頑丈だったというだけ。
 けれども、今のハーレイは違う。運動が好きで、柔道も水泳も、大会に出たり記録を出したり。今だって指導が出来る腕前、ジョギングだって凄い距離を走っていくことが出来る。
 選手をやってる人にも負けない、鍛え上げられたハーレイの身体。
 力強く水を掻いて泳げて、柔道だと相手を軽々と投げてしまえる腕。筋肉の強さが前とは違う。そんな腕をぼくに枕代わりに貸してみたなら、どうなるだろう?
(…前より軽いって思うかもね?)
 それとも同じ?
 ぼくはぼくだから、感じる重さも前とおんなじ?
 ハーレイは今度も「宝物だ」と言って思ってくれるんだろうし、宝物なら前とおんなじ?
 どうなんだろう、と凄く気になる。
 だけど前のぼくでも教えて貰えずに終わった答え。
 今度だって絶対教えてくれやしないし、今の小さなぼくだと訊くだけ無駄なことだし…。



 とても知りたい、ハーレイの答え。
 ぼくの頭が重いか軽いか、知りたくてたまらないハーレイの腕が感じる重さ。
(…今度の目標にしようかな?)
 せっかく二人で生まれ変わって来たんだもの、と考える。
 ハーレイの腕には重いか、軽いか。
 訊き出してみるのもいいかもしれない。
 普段は絶対無理だろうけど、ハーレイが寝ぼけている時だったら訊けるかもしれない。
(今のハーレイはキャプテンじゃないものね?)
 キャプテンだった頃のハーレイは時間厳守で、いつだって目覚まし時計をセットしていた。青の間に泊まる時だって同じ。
 ベッドに入る前には、前のぼくも好きだったアナログ式の置時計のアラームを必ず確認してた。次の日の朝、それが鳴ったら、起きて身支度。
 ぼくが枕にしていた腕もベッドから出て行っちゃうから、代わりに枕を置いてってくれた。
 たまに忘れるとか、急いでいてウッカリしてたとか。そういう時には枕が無かった。
 時間通りに律儀に動いたキャプテンだけれど、今度は違う。今のハーレイはただの先生。
 何の用事も無い休みの日にまで目覚まし時計をセットしたりはしないだろう。
 朝寝坊だってするかもしれない、寝坊したって何の問題も無いんだから。



 ぼくとベッドで恋人同士の幸せな夜を一緒に過ごして、それから眠って。
 もちろん、ぼくはハーレイの腕を枕に貸して貰って、目覚ましもかけずに二人で眠って。
 次の日の朝、運良くぼくが先に起きたら、まだ眠っているハーレイに小声で訊いてみるんだ。
 しっかりと腕を枕にしたまま、「重い?」って。
 「ぼくの頭、ハーレイの腕に乗っかってるけど、これって重い?」って。
 重いと答えが返って来たなら、きっと嬉しい。
 重たくても支えてくれていたんだ、って、ずうっと支えてくれてたんだ、って。
 腕が重くても、乗っかってるのが宝物だから。
 ぼくの頭はハーレイの宝物なんだ、って胸がじんわり熱くなると思う。
 もしかしたら、ぼくは泣くかもしれない。涙が一粒、ポロリと零れて落ちるかもしれない。
 幸せすぎて、とても嬉しくて。
 ハーレイの宝物だと言って貰えたと、嬉しすぎて涙が出るかもしれない。
 逆に「軽い」と返って来たって、ぼくはやっぱり嬉しくなる。
 軽いものは扱いが大変だから。
 ぼくの枕が行方不明になったみたいに、軽かったら何処かへ失くしてしまう。
 その「軽いもの」を一晩中、しっかりと腕に乗せてくれているなら、失くさないよう気を付けてくれているってことだから。
 とても大事に、何処かへ失くしてしまわないように、そうっと、そうっと。
 そんな風に扱ってくれているんだと分かったらきっと、ぼくは嬉しくて、幸せで泣く。
 幸せな涙がポロリと零れて、ハーレイの腕の枕に落ちる…。



(…どっちなのかな?)
 ハーレイが自分の腕に感じる、ぼくの頭の本当の重さ。
 重いのかな?
 それとも、軽いのかな?
 今度こそ答えを訊き出さなくちゃ。
 キャプテンじゃなくなったハーレイが寝ぼけてポロッとホントのことを言うまで、何回も訊いて頑張って。
 そのために早起きになるかもしれない、今度のぼく。
 ハーレイよりも早く起きようと、空が白くなったらパチリと目を覚ます癖がつくかも…。
(頑張らなくちゃね、前のぼくが聞けなかった答えを聞くためだもんね?)
 だけどハーレイも負けずに早起きするかもしれない。
 ぼくに喋ってたまるものか、って頑張って起きて、早起き競争になるかもしれない。
(でも、負けないしね?)
 時間はたっぷりあるんだから。
 前のぼくたちと違って目覚ましの要らない朝が沢山、のんびりと過ごせる朝が沢山。
 そんな幸せな世界に生まれて、頑張れないなんて有り得ない。
 ぼくは絶対、ハーレイに勝つ。
 勝って答えを訊き出さなくっちゃ、ぼくの頭は重いか、軽いか。



(よし、頑張る!)
 今度の目標はこれだ、と決めた。
 まずはハーレイと二人で眠れる背丈に育って、結婚しなくちゃいけないんだけど…。
 早く訊きたい、ハーレイの答え。
(ぼくの頭、重いか、軽いのか、どっち?)
 そして早くハーレイの腕の枕が欲しいよ、こんな枕じゃ頼りないから。
 お気に入りの枕が、ちょっぴり寂しい。
 ぼくの本当のお気に入りの枕は、何ブロックも離れた場所にあるから。
 ハーレイの身体にくっついたそれは、ハーレイの家のベッドでぐっすり眠っている筈だから…。




         お気に入りの枕・了

※前のブルーのお気に入りだった、ハーレイの腕という枕。いつも頭の下にあったもの。
 ハーレイが「重い頭だ」と思っていたのか、軽かったのか。気になりますよね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv





(えーっと…)
 何なんだろう、とブルーはテーブルに置かれたものをまじまじと眺めた。ブルーの部屋の窓際、ハーレイと向かい合わせで座る場所。
 ハーレイが訪ねて来るとお茶とお菓子や、昼食などの器が鎮座するのが普通だけれど。
 母が運んで来た緑茶。それにお煎餅が盛られた菓子鉢。
 緑茶とお煎餅は特に不思議ではないが、どうしたわけだか、その他に空のお茶椀が二つ。一つはブルーが使っているもので、もう一つの茶碗は来客用。
 お箸も二組、おまけに御杓文字。
(なんでお茶碗?)
 お煎餅を食べるのに要りはしないし、お箸も同様。御杓文字だって。
 何が起きたというのだろう、と見詰めていると、ハーレイが「これだ、これ」と提げて来ていた紙の袋を持ち上げてみせた。
「此処へ来る途中で買って来たんだ」
 まあ食ってみろ、と出て来る包み。四角い箱だけれど、包装されていては中身が分からない。
 箱の感じからしてお菓子だろうか、と考えていたら。



「…お赤飯?」
 何かのお祝いだったっけ、とブルーは赤い瞳を見開いた。
 遠い昔にハーレイと暮らしたシャングリラにお赤飯は無かったけれども、生まれ変わってからは馴染みのもの。ブルーとハーレイが住んでいる地域では、お祝い事の時に炊かれるお赤飯。
「祝いってわけじゃないんだが…」
 通りかかったら、出来上がった所だったんだ。
 此処のは栗がたっぷりでな。元から塩味がついているから、塩を振りかけなくてもいい。
 その塩加減がまた絶妙なんだ。
 「美味いんだぞ」と勧めるハーレイ。
 祝い事でなくてもたまに食べたくなるのだと。
「でも、ぼく…。さっき、朝御飯…」
「食べたトコだってか?」
 それくらい、俺にも分かっているさ。
 昼飯用にと買って来たんだが、出来立てのヤツも味見してみろ。
 まだ温かいから、とびきり美味い。温め直すより、断然、こっちが美味いんだ。
「…ふうん?」
 それなら少し食べようかな、とブルーは思った。
 ハーレイお気に入りの味というのも、是非味わってみたかったから。



「よし、それじゃ味見といこうじゃないか」
 ハーレイが赤飯の包みを開けると、ありがちなパックなどとは違って薄い木で作られた箱が出て来た。いわゆる折箱。それだけでも店のこだわりが分かる。
 折箱の蓋が取られると、ぎっしりと詰まった栗赤飯。南天の葉もきちんと添えてあった。
 本物だぞ、というハーレイの言葉通りに、作り物ではない艶やかな本物の南天の葉。
「この辺りもおふくろのこだわりに似ていてな」
「え?」
「俺のおふくろだ。赤飯を炊いて折箱とかに詰める時には、南天の葉っぱを添えるんだ」
 庭の南天の葉を採って来てな。
 南天は難を転じると言うから縁起がいい。そしてお裾分けだと配るわけだな。
「へえ…!」
「祝い事でなくても作ってるなあ、好きなんだろうな?」
 しかも炊くと言っても実際には蒸して作るんだ。こういった店と同じでな。
 だから此処のは同じ味なんだ、おふくろが作る赤飯の味だ。
 こういう味だ、とハーレイが杓文字で茶碗に入れてくれた栗赤飯をブルーは早速味わってみた。口に入れると、ほんのり塩味。
「美味しい…!」
「そうだろ、此処のは本物だからな」
 赤飯を専門に扱う店は何処もそうだが、とハーレイも自分の分を頬張る。
 他のお弁当などと一緒に店頭に並ぶものは些か違うものだと、色の付け方からして違うのだと。



「色の付け方? …お赤飯って赤い御飯でしょ?」
 これも赤いよ、とブルーは指差したけれど。
「どうだかな? 如何にも赤って感じがしないか、くすんでいなくて」
「…そうかも…」
 言われてみれば御飯粒の赤に透明感があるようにも見えた。透き通ってはいないが、艶々と光る御飯粒。普通はもう少し暗めの赤だったかな、という気がする。
「この赤色はどうやってつけるか知ってるか?」
「小豆の色でしょ?」
 赤い豆だもの、あの色だよ。
 お赤飯を炊いてる間に、小豆の色が移るんだよ。
「違うぞ、こいつはキビガラというヤツを使っているんだ」
「キビガラ?」
「キビっていう穀物の一種だな。そいつの実の殻を煮出すと赤い水が出来るから、その水に糯米を浸けておく。そうやって赤くするわけだ」
 キビガラを使わないと本物の赤飯の色にはならん。着色料なんかは論外だな、うん。
 もちろん、おふくろもキビガラ派だぞ。



 ブルーはお赤飯をほんの少しと、栗を一個が限界だったけれど。
 栗赤飯を持ち込んだハーレイの方は、軽くとはいえ茶碗に一杯を盛り付けていて。
「この赤飯に入ってる栗もだ、こうして鮮やかな黄色にするには秘訣があるんだ」
 ちゃんと自然の素材だぞ。クチナシの花は知ってるだろう?
「クチナシ?」
 強い香りがする白い花ならブルーも知っていた。
 しかしクチナシは白い花だし、何処から黄色になるのだろう?
 キビガラとやらのように煮るのだろうか、と尋ねてみたら。
「煮るっていうのは間違ってないが、花じゃない」
 花が咲いた後に出来る実だ。
 白い花からはまるで想像出来ないだろうが、あの花の実から綺麗な黄色が出て来る。
 おふくろはサツマイモを煮る時なんかにも使うぞ、美味そうな黄色になるからな。
「…黄色って、サフランだけじゃないんだ…」
「おっ、サフランは知ってたか?」
「ママが使うもの、サフランライスとかパエリアだとか」
 サフランの花の雌しべだよね、とブルーは母が常備している乾燥したものを思い浮かべた。
 赤い糸のようにも見えるサフラン。
 赤いのに黄色い色が出るのか、と幼い頃には不思議だった。



「サフランなあ…。昔はとてつもなく高かったそうだぞ、金よりもな」
「そうだったの?」
 あんなものが、とブルーは驚いたのだが、「本当だとも」と答えが返る。
「同じ重さの金よりも高い時代があったという話だ」
 SD体制よりもずっと昔だ、今はそこまで高くはないがな。
「そうなんだ…。キビガラだとか、クチナシだとか。いろんな自然の着色剤があるんだね」
「ああ。自然の色はいいぞ、自然と共に生きてるっていう感じがするからな」
 中にはユニークなのもある。ツユクサなんかは面白いぞ。
「青いんでしょ?」
「ただ青いっていうだけじゃない。染物の下描きに使える優れものだ」
 下絵を描いた後で布を蒸すとか、水に浸けるとか。
 それで下描きが綺麗に消えちまうそうだ、ちゃんと青色で描いたのにな?
「消えちゃうんだ…」
 凄い、とブルーは感心した。
 SD体制よりもずっと昔の時代に、今、ブルーたちが住んでいる地域にあった小さな島国。その国で染物の下描きに使われたというツユクサの文化も今では復活しているらしい。
 キビガラで染めるお赤飯が復活したのと同じで、日本らしさを楽しんでいる地域の文化…。



 昔の人の知恵はなんと素晴らしいものだろうか、とブルーは呟く。
 シャングリラにはそうした自然の着色剤は何も無かったと、全て合成のものだったと。
「そういう発想、前のぼくには全然無かったよ…」
「俺もだが…。シャングリラにも木とか草はあったし、前の俺たちが頑張っていれば草木染とかは出来たかもなあ…」
 タマネギの皮でだって染物は出来る。
 データベースで色々調べて工夫してれば、自然の染料が作れたかもな。
「それで制服なんかも作れたのかな?」
「出来たかもしれんが、お前のマントがとびきり高そうな感じだな」
「なんで?」
 どうしてマント、とブルーが訊くと「紫だからさ」とハーレイは答えた。
「紫ってヤツはSD体制よりもずっと昔は高貴な人しか着られなかった。何故だか分かるか?」
 染めるのが高くつくからだ。簡単に作れる色なら高くはならん。
 日本じゃ草の根っこで染めたが、貝で染めてた地域もあったそうだ。
「貝!?」
 ブルーはビックリ仰天した。
 どうやって染めるのかは分からなかったが、シャングリラで貝は飼育していなかったから。
「…それ、シャングリラじゃ無理そうだね…」
「無理だな、マントを染めるためだけに貝を飼うなんぞはな」
 草の根っこにしてもそうだぞ、野菜ってわけじゃないからな。
 食えもしないのに育てられるか、シャングリラの中じゃ植える場所に限りがあるってもんだ。
 それでも紫草……そういう名前の草だったんだが、そいつを育ててマントを染めたら。
 ソルジャーだけが使える色だな、とびきり高貴な色だったってな。



「うーん…」
 ブルーだけしか使えない紫。
 前の自分はソルジャーだったけれど、その地位を示す色を特別に作らせるほど偉くはなかったとブルーは思う。他の仲間たちと同じでも一向に構わなかったし、それでいいとも思っていた。
 けれども纏っていたソルジャーの衣装。前のハーレイのキャプテンの制服などと同じく、立場を表すための服装。区別が出来ればそれで充分、紫のマントにこだわらなくても…。
「ねえ、ハーレイ。自然の素材で服を染めてたら、地味だったかな?」
 服の形でしか区別出来なかったかな、ぼくとか、前のハーレイとか。
 マントを着けているのがぼくとか、その程度の違いしか無かったかな?
「いやいや、色なら沢山あったさ。昔の日本じゃ色の組み合わせの決まりもあった、と俺の授業で教えただろう?」
 この話をした日は色付きの紙のセットが飛ぶように売れる、と言ってた昔の人のラブレターさ。
 あれこれと紙の色を選んで、花を添えて出してた手紙だな。
「あったね、そういう手紙の話」
「思い出したか? あの時は手紙の話だけだが、服の色にも決まりがあったのさ」
 この色とこの色を重ねて、こういう花を表します、とか。
 同じ花でも咲き始めの頃と盛りの頃とで色を変えます、とか、こだわったわけだ。
「そこまでしてたの!?」
「他にも季節に合わせて色々とな。秋の紅葉とか、冬の氷とか」
 もちろん自然素材の色だぞ、合成の染料なんかは無かった時代だ。
 それだけバラエティー豊かに染めていたんだ、地味どころかうんと華やかだったさ。



 遥かな昔には自然の染料だけで様々な色があったと言うから。
 シャングリラの中でも同じことが出来たかもしれない、とブルーは考えた。
「そっか…。だったら、シャングリラでも沢山の色を作れていたかも…」
「努力してれば出来たかもなあ、前のお前の苦労が増えるが」
 あの頃のシャングリラにあった植物だけでは全然足りなかっただろうしな。
「苗を調達しろってことだね、草とか、木とかの」
「そういうことだ。色を染める以外にも役に立つ植物と言ったら紅花とかか」
「紅花って油を採るんじゃないの?」
 食用油として有名だったから、それしか知らなかったブルーだけれど。
「あれは本来、染料だ。紅花という名前があるくらいだから、赤色だな」
 ジョミーのマントを染めるんだったら紅花になるか…。
 もっとも染料は油と違って簡単には出来ん。
 油は種を搾れば出来るが、染料の材料は花びらなんだ。
 そいつを摘んで、うんと手間暇をかけて赤い染料が出来上がる。
 サフランと同じで高価だったそうだ、沢山の花からほんのちょっぴりしか採れないからな。



「紅花から赤が採れるんだったら、お赤飯も出来る?」
 ジョミーのマントみたいに鮮やかな赤だ、とハーレイに訊かされて、そう思ったのに。
 「油はともかく、染料の方は食用じゃない」と笑われた。
 食べても害は無いのだろうが、お赤飯を染めるには高価に過ぎると。復活してきた文化の一つで今も作られてはいるのだけれども、手間がかかる分、値段も張ると。
「紅花の赤で赤飯を染めたら高いだろうなあ、色は鮮やかかもしれんがな」
「キビガラだったらうんと安いの?」
「そりゃなあ、キビの実の殻だしな?」
 本来は捨てるような部分だ、高くなるわけがないだろう。
「キビガラでも充分綺麗だしね」
 それに美味しい。
 キビガラの味かどうかは知らないけれども、美味しいお赤飯だったよ。
「おっ、そうか?」
 お前、少ししか食わなかったから心配だったが…。
 そうか、美味いか。
 俺のおふくろもキビガラ派で、作り方はコレと同じだからな。
 楽しみにしてろよ、いずれ食わせてやるからな。



 きっと張り切って作るだろう、とハーレイはブルーに微笑みかけた。
「うんと沢山作ると思うぞ、お前を連れて行ったらな」
 親父と二人で糯米を蒸して、ドッサリだ。
 栗の季節なら栗もたっぷり入れるだろうなあ、クチナシで染めて。
「…ぼく、そんなに沢山食べられないよ?」
 お茶碗に一杯くらいだと思うよ、二杯は無理。
 沢山作らなくてもいいって言っておいてよ、お母さんたちに。
「お前が食うかどうかはともかく、配って回らんといけないからなあ…」
「えっ?」
 どうして配るの、と驚くブルーに、ハーレイがパチンと片目を瞑る。
「俺が未来の嫁さんを連れて行くんだぞ?」
 目出度いじゃないか、親父とおふくろにしたら。
 これを祝わずにどうするんだっていうことになるだろ、幸せな気分をお裾分けしなきゃな。
 そりゃもう沢山の赤飯を作って、隣近所に配って回るだろうさ。
 ちゃんと庭の南天の葉っぱも添えてな。
 マーマレードを配っている範囲に配りに行くのは確実だな、うん。



「そうなるわけ!?」
 ブルーの頬が真っ赤に染まった。
 いつか隣町にあるハーレイの両親の家に出掛けて行ったら、作られるというお赤飯。
 おめでたいからと隣近所に配られるらしい、南天の葉を添えたお赤飯…。
 嬉しいけれども、恥ずかしい。
 ハーレイのお嫁さんになれることはとても嬉しいのだけど、お赤飯を配られてしまうだなんて。
「…それじゃ、ハーレイが結婚すること、アッと言う間にご近所さんに…」
「広がるだろうなあ、お前が俺の家でのんびり赤飯を食ってる間に」
 ついでにお前を見たいって人も多いと思うぞ。
 俺がガキだった頃から馴染みのご近所さんたちだ。
 どんな嫁さんを貰うことにしたのか、見ようと集まってくるかもな?
「…そうなっちゃうの?」
「生垣越しに中を覗いている人がいたらだ、庭に出て手を振ってやるといい」
 とびきりの笑顔で手を振ればいいさ、向こうさんだって手を振ってくれる。
 なんたって俺の未来の嫁さんだからな。
「手を振るだけでいいの? ご挨拶じゃなくて?」
「そこまで堅苦しいことは要らんさ、昔の地球じゃないんだからな」
 俺が嫁さんを貰う、それだけのことだ。
 挨拶はいずれ道とかで会った時でいいのさ、ペコリと頭を下げるだけでな。



 ずっと昔は挨拶も大変だったらしいが、とハーレイはSD体制よりも遥かな昔の習慣をブルーに教えてくれた。
 近所や親戚の家を回って結婚の報告をしていたものだと、菓子折りなども持って行ったのだと。
「何を持って行くかは、同じ日本でも場所によって違ったという話だが…」
 その時の作法も色々なんだが、とにかく面倒なものだったんだ。
 お前がそういう挨拶を是非やりたい、と言うんだったら調べてやらないこともない。
 親父もおふくろも昔の習慣とかが好きだし、喜んで協力してくれるだろう。
 お前、そういった挨拶をして回りたいか?
「それ、ハーレイも一緒に来てくれるの?」
「お前が行きたいんだったら止めはしないし、必要とあらば一緒に行くが?」
「えーっと…」
 それって、ちょっぴり恥ずかしくない?
 ぼくがハーレイのお嫁さんです、って顔を見せに出掛けて行くんでしょ?
 お嫁さんだったら、ホントに本物の恋人同士…。



 前の生ではハーレイと結ばれていたブルーだったけれど、今はキスすら出来ない仲。
 晴れて本物の恋人同士となり、それを公表できる機会が結婚。
 そういう仲になったんです、と隣近所に挨拶をしに行ける度胸はブルーには全く無かった。
 ところが結婚相手となるハーレイの方は澄ましたもので。
「恥ずかしいだと? 俺はお前をあちこち自慢して回れるんだから、何ともないが?」
「平気なの!?」
 どうしよう、とブルーは耳の先まで真っ赤になった。
 挨拶は出掛けなくてもかまわないとして、ハーレイの母が作って配るというお赤飯。隣町にある家を訪ねたら、「ハーレイがお嫁さんを貰うから」と配られるらしいお赤飯。
 お赤飯を貰った人たちはブルーがハーレイと何をするのか、当然、知っているわけで。
 ハーレイがどういう相手とそれをするのか、ブルーの顔を見に来るわけで…。
(…ど、どうしよう…)
 恥ずかしすぎる、と俯くブルーに、ハーレイがクックッと喉を鳴らして。
「その調子だと挨拶回りは無理だな、おふくろの赤飯に期待しておけ」
 ご近所さんにドカンと配ってくれるさ、うちの息子が今度結婚するんです、とな。
 キビガラで沢山の糯米を染めて、庭の南天の葉っぱを添えて。
「もしかして、初めて行ったらそれなの!?」
 悲鳴にも似たブルーの声に、ハーレイはプッと吹き出した。
「まさか。最初は遊びに行けばいいのさ、普通にな」
 そして親父と釣りに行くとか、キャンプ場に遊びに出掛けるとか。
「…良かったあ…」
 ホントに良かった、とブルーは安堵したのだけれども。



「良かった、か…。いつまでそう言っているものやら…」
 今年いっぱい持つかどうか、とハーレイが難しい顔をしてみせるものだから。
 「なんで?」と首を傾げたブルーに、笑いを含んだ答えが返った。
「俺が思うに、じきに変わるぞ、お前の台詞」
 早く赤飯、と俺にせっつくんだ。
 親父とおふくろの家に早く連れて行けと、そして赤飯を配って貰うんだと。
 お前の夢は結婚だろうが、その前に赤飯を配らないとな?
「そ、そっか…」
 じゃあ、お赤飯! とブルーは叫んだ。
 早くお赤飯を配って欲しいと、ハーレイの母にキビガラで染めるお赤飯を作って欲しいと。
 専門の店と同じように蒸して作った、絶妙な塩加減のお赤飯。栗の季節ならばクチナシで染めた黄色い栗がたっぷりと入るお赤飯。
 庭にある南天の葉っぱを添えて、折箱に詰めて配って欲しい。
 今度ハーレイが結婚するのだと、おめでたいからお赤飯を沢山作ったのだ、と。



「ふむ…。この赤飯はまさしくおふくろの味なわけだが」
 そして本格派の赤飯なんだが、とハーレイはテーブルに置かれた折箱を指差した。
「俺はとりあえず軽く一杯食ったが、お前は少ししか食ってないしな?」
 お前のお母さんに昼もこれにします、と言っておいたから、昼飯には温め直してくれるだろう。「お赤飯にピッタリのおかずを作りますわね」とも言っていたなあ、お母さんは。
 何を作ってくれるのか知らんが、一つそいつで前祝いといくか?
 いずれお前が俺の家に来て、おふくろが赤飯を配りに行く日の前祝いだ。
「気が早すぎだよ!」
 何年先の話になるわけ、とブルーは頬を膨らませたけれど。
 いつかはハーレイの母がキビガラで染めた糯米を蒸して、お赤飯をドッサリ作ってくれる。
 ハーレイがブルーを嫁に貰うのだと、お祝いなのだと隣近所に配ってくれる。
 その日が来たなら、ハーレイとの結婚はもうすぐそこ。
 今はまだチラリとも見えない何年も先の話だけれども、ハーレイと結婚して一緒に暮らせる。
 百五十センチしかない自分の背が伸び、百七十センチになったなら。
 ソルジャー・ブルーだった前の自分と同じ背丈になったなら…。



(それと、結婚出来る年だよ)
 十四歳の小さな自分が十八歳の誕生日を迎えたら結婚出来る年。
 背が伸びて、十八歳になったらハーレイと結婚することが出来る。
(…お赤飯、早く配って欲しいな…)
 キビガラで染めたお赤飯。
 ハーレイが買って来てくれたお赤飯と同じ味がする、南天の葉を添えたお赤飯。
(もうちょっとだけ食べてみようかな?)
 ほんの少し、と杓文字で掬って、自分の茶碗に二口分ほど入れてみた。
 箸で口へと運んでみれば、ほんのりと感じる優しい塩味。
 本物はいつになるのか分からないけれど、これがハーレイの母の味かとブルーは思う。
 早く配りたいような、恥ずかしいような、と頬をちょっぴり桜色に染めて……。




         お赤飯・了

※いつかハーレイと結婚する時は、配られるらしいお赤飯。ハーレイの母が炊いたのが。
 今は恥ずかしがるブルーですけど、その時が来たら、幸せ一杯の筈ですよね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv





「ハーレイっ…!」
 嫌だ、と泣き叫ぶ自分の声で目が覚めた。
 失くしてしまったハーレイの温もり。青い光の中、独りぼっちで死んでゆく自分。
 遠い遠い昔、前の生での最期を迎えたメギドの悪夢。
「……ハーレイ……」
 常夜灯だけが灯った部屋は暗くて、涙に濡れた声で呼んでも恋人の声は返ってこない。どんなに泣いても会えはしないし、声すら聞けない闇が降りる夜。小さなベッドに独りきりの真夜中。
 ブルーは枕に顔を埋めて、右の手をキュッと握り締めた。
(…どうして…)
 あの夢は見たくないというのに。
 自分は青い地球に生まれ変わって、ハーレイと同じ町に居るというのに。
 夢を見る度に怖くなる。今の自分は幻ではないかと、死んでしまったソルジャー・ブルーの魂が紡ぐ夢ではないかと。
(冷たいよ…)
 右手が冷たい、と強く握り締めながら震えるけれども。
 前の生の最期に失くしてしまったハーレイの温もりを取り戻そうとして握るのだけれど、恋人の温かな手は此処には無いから。
 自分の小さな手しか無いから、懸命に恋人を思い浮かべる。
 いつも温もりを移してくれる手。大きな手をした、優しい恋人。
 自分と一緒に生まれ変わって来た、ずうっと年上の恋人を想って耐えるしかない。
 今までに貰った温もりを心に思い描いて、手が温まるのを待つしかない…。



 そうやってベッドで丸くなっていると、カーテンの向こう、暗い庭から聞こえて来た声。
 人の声ではなく、獣でもなくて、夜のしじまを震わせる声。
 ゴッホウ、ゴロッケ、ゴゥホウ。
(…フクロウ…)
 あの声のせいか、と思い当たった。
 独特の低い声で鳴く鳥。
 直ぐ近くから聞こえて来たから、庭の木のどれかに居るのだろう。
(…嫌だ…)
 なんで、とブルーは上掛けを頭から被った。
 早く何処かへ行って欲しいと、声の聞こえない場所へ行って鳴いて欲しいと。



(フクロウだなんて…)
 初めて見た日は、ずっと幼い頃だった。
 星を見ようと思ったのだろうか、夜の庭に出ていて出会ったフクロウ。
 羽音も立てずに飛んで来た鳥の影を、ただ見上げていた。木の枝に止まった大きな鳥。丸い頭の大きな鳥だ、と真っ黒な影を見ていただけ。何かも知らずに見上げていただけ。
 その後のことは覚えていない。飛び去るまで庭で眺めていたのか、自分が家に入ったのか。あの時の鳥がフクロウだったと気付いたのはずっと後のこと。何年か経った頃のこと。
 けれど、幼かったブルーが目にしたフクロウ。
 それは近所に住み着いたらしく、影を見てから間もない日の夜中に聞こえた気味の悪い声。
 ゴッホウ、ゴロッケ、ゴゥホウ。
 子供の耳には恐ろしすぎた、暗い夜の部屋に響いてくる声。
 泣きながら父と母とを起こした。庭の方から変な声がすると、あれはオバケに違いないと。



 両親は「オバケ?」と直ぐに起きてくれたが、其処へあの声。
 父は笑い出し、母も「あれはオバケじゃないのよ、ブルー」と頭を撫でてくれた。
 「フクロウの声よ、庭に来たのね」と優しく涙を拭いてくれた母。
 可愛くて縁起のいい鳥なのよ、と教えられたけれども、怖いものは怖い。オバケと同じ。両親は何故平気なのかと、庭で鳴く声に怯えて震えた。
 ゴッホウ、ゴロッケ、ゴゥホウ。
 一度オバケの声だと思うと、もうそうとしか聞こえない。真っ暗な庭で鳴く、オバケの鳥。
(ホントのホントに怖かったんだよ…)
 気味の悪い声で鳴く、恐ろしい鳥。
 ずいぶん大きく育つ頃まで、あの鳴き声が怖かった。何度も両親を起こして泣いた。



 ゴッホウ、ゴロッケ、ゴゥホウ。
 聞きたくないのに、また庭の方から響いてくる声。
 フクロウは暫く来るのだろうか?
 その度にメギドの悪夢を見るのだろうか、と怖くなる。
 ゴッホウ、ゴロッケ、ゴゥホウ。
 お前は死んだと、メギドで死んでしまったのだ、と繰り返すかのようなフクロウの声。
 もう死んだのだと、今のお前はただの夢だと、呪いをかけているような声。
 幼い頃にオバケだと思っていたから、今もオバケの声に聞こえる。
 フクロウなのだと分かっているのに、オバケの声だと思えてしまう。
(…やっぱり怖いよ…)
 フクロウなんて、と幼かった頃の恐怖を思い出す。雷よりもずっと怖かった…。



 そんな思いをした次の日、仕事帰りのハーレイが来て両親も一緒に夕食を食べた。食後のお茶を母がブルーの部屋に運んでくれたから、ハーレイと二人で窓際に座る。
 テーブルを挟んで向かい合わせで、窓のカーテンはまだ開けたまま。昨夜フクロウが鳴いていた木は分からないけれど、黒々と木々の梢が見えていた。ブルーは微かに肩を震わせ、恋人に問う。
「ねえ、ハーレイ。…フクロウ、怖い?」
「はあ?」
 ハーレイはポカンと口を開けたが、ブルーの説明と体験を聞くと腕組みをして頷いた。
「なるほどなあ…。子供には確かに怖いかもなあ、正体不明の声というのは」
 ずっと昔は鵺という鳥が気味悪がられていたそうだしな。
「鵺?」
「頭がサルでタヌキの胴体、虎の手足に蛇の尻尾の化け物だ」
 SD体制よりも遥かな昔に、そういう化け物が出たというんだが…。
 そいつの声だと思われていたのが夜に鳴く鵺で、いわゆる不吉の象徴ってヤツだ。
 声が聞こえたら凶事が起こると信じられていてな、鳴き声がする度に祈祷をしたそうだ。
 正体はトラツグミっていう鳥だったんだが、昔の人にとっては怪鳥だった。
 お前が言うオバケみたいなもんだな。



「…フクロウ、ぼくには鵺と同じくらいに怖かったんだよ」
 鵺っていう鳥は初めて聞いたけれども、それとおんなじ。
 オバケの声にしか聞こえなかったし、フクロウだなんて言われても…。
「だろうな。鵺を信じていた昔の人たちに「トラツグミです」と言っても無駄だろうしな」
 怖いものは怖い、といった所か。
 フクロウやトラツグミに限らず、夜に鳴く鳥はけっこう多い。
 ホトトギスなんぞは風流だがなあ、ずっと昔の歌にも詠まれているくらいにな。
 しかし…。
 しかし、とハーレイは眉間に深い皺を寄せた。
「フクロウの声がメギドの悪夢を連れて来るなら、お前にとってはまさしく鵺か」
「うん…」
 ホントに不吉の象徴なんだよ。
 あんな夢、二度と見たくないのに。
 それなのにフクロウのせいで見ちゃった、フクロウが庭で鳴いていたから…。



 怖い、とブルーは訴える。
 あの鳴き声が怖くてたまらないのだと、また聞こえたらどうしようかと。
 恐ろしそうに庭の方をチラチラと眺めるブルーの姿に、ハーレイの心は痛んだけれども。小さな恋人がどんなに怖いと訴えようとも、夜通し傍には居られはしない。
 どうしたものか、と思案しながら尋ねてみた。
「それで、お前はフクロウそのものも怖いのか?」
「…あの声だな、って思うと、ちょっぴり…」
 だって、本当にオバケだと思っていたんだもの。
 パパとママが「フクロウだから」って言ってくれても、ぼくにはオバケの声だったもの…。
「ふうむ…。いい思い出ってヤツが無いんだな、フクロウの」
「…うん……」
「俺の親父の家にはフクロウも居るがな」
「えっ?」
 何故、と目を見開いたブルーに、ハーレイは「本物じゃないさ」と微笑んだ。
「お前のお母さんが言った、縁起のいいヤツだ」
 フクロウは不苦労とも聞こえるからなあ、福の詰まった籠で福籠っていう音にもなる。
 苦労しないとか、幸福が来るとか。
 幸運のお守りってことで、親父とおふくろがフクロウの置物を飾っているんだ。
 SD体制よりもずうっと昔の日本の文化の一つだな。
 お前もそいつを買って貰っていたら、フクロウも怖くなかったかもなあ…。



「そっか、置物…」
 売られているのを見たことがあるな、とブルーは思った。確か百貨店の文具売り場で見かけた、ペーパーウェイト。陶器のフクロウが並んでいたから、変な形だと眺めたものだ。自分にとってはオバケの鳥なのに、欲しがる人もいるものなのかと。
「ハーレイ、くれる? ぼくにフクロウ…」
 ぼくが知ってるのはペーパーウェイトで大きかったけど、小さいのでいいから。
 置物じゃなくても、何かフクロウ。
 ハーレイがくれたら大事にするから、フクロウ、怖くなくなるかも…。
「フクロウか…。そうだな、買ってやってもいいが…。ん?」
 待てよ、とハーレイは首を捻った。
 フクロウでヒョイと引っ掛かって来た、遠い遠い記憶。
 遥かな昔にブルーと暮らした、白い船での懐かしい記憶。
 それをぶつけることにした。自分の向かいの椅子に座った、小さなブルーに。



「ブルー。…お前、ヒルマンの部屋にはよく行ってたか?」
 シャングリラに居た頃の、前のお前だ。
 俺の部屋にはよく来たもんだが、ヒルマンの部屋はどうだった?
「行かないよ、なんで?」
 怪訝そうなブルーに「一度もか?」と重ねて訊くと、「そうでもないけど…」と途惑う表情。
「用がある時には行っていたけど、ヒルマンの部屋がどうかしたの?」
「なら、奥の部屋までは入っていないんだな」
「寝室の方?」
 行ってないよ、とブルーは答えた。
「手前の部屋から見てただけだよ。ベッドがあるな、ってチラッと見えたくらいで」
 それがどうかしたの?
 ヒルマンの部屋の写真もシャングリラの写真集にあるけど、寝室のは無いよ。
 寝室に何かあったの、ハーレイ?



 ねえ、と好奇心に駆られた様子のブルー。よし、とハーレイは心で頷きながら。
「実はな…。あの部屋にフクロウが居たんだ、うん」
「フクロウって…」
 まさか、とブルーが赤い瞳を丸くする。
「シャングリラで鳥は飼えなかったよ、そういう鳥は」
 だから諦めるしかなかったんだもの、青い鳥。
 幸せの青い鳥が欲しかったのに…。
「もちろん本物のフクロウじゃない。置物さ」
「幸運のフクロウ?」
「いや、そいつはヒルマンが知ってたかどうか…」
 もしかしたら知っていたかもしれんが、少なくとも俺は聞いてはいない。
 そういう注文じゃなかったからな。
「注文?」
「ああ。フクロウを彫ってくれと言われた」
「ハーレイに!?」
 ブルーの声が引っくり返った。
 キャプテン・ハーレイの趣味は木彫りだったが、お世辞にも上手とは言えない腕前。スプーンやフォークといった実用品の類はともかく、写実的なものや芸術性を要するものは破壊的と言っても差し支えの無い酷い出来栄え。
 証拠は今でも残っていた。宇宙遺産に指定されている、キャプテン・ハーレイが彫ったウサギのお守り。その正体がウサギではなく、ナキネズミだと聞かされたブルーの衝撃といったら…。



 下手の横好きとしか言いようがなかった、キャプテン・ハーレイの木彫りの趣味。
 ハーレイ自身も自覚がゼロというわけではないから、ブルーの素っ頓狂な声に苦笑いをする。
「おいおい、馬鹿にしてくれるなよ?」
 下手な彫刻家には間違いないがな、キャプテンだからな?
 キャプテン・ハーレイが彫るとなったら有難味だけはあったんだ。
 現にナキネズミは立派な宇宙遺産になったぞ、俺が彫ったからこそ出世を遂げた。
 それにだ、ヒルマンは俺の飲み友達だ。俺に注文して何が悪い?
「…そうだけど…。ハーレイに頼むなんて酔狂だね」
「だから馬鹿にするなと!」
 キャプテン手ずから彫るんだぞ?
 おまけに注文となれば特注品だし、値打ちもグンッと増すってもんだ。
「そういうことにしてもいいけど…」
 いいんだけれど、とブルーは首を傾げた。
「それでヒルマン、なんでフクロウを注文したわけ?」
「ミネルヴァのフクロウだと言っていたな。知恵の神様のお使いなのだと」
 お前もミネルヴァは知っているだろ、戦いの女神で知恵の女神だ。
 俺にミネルヴァを彫るのは無理だからなあ、それでフクロウだったんだろうな。
「なんだ…。ヒルマンもちゃんと分かってるじゃない」
 ハーレイの木彫りの腕の限界。
 ミネルヴァを頼んでこない辺りが。



「こらっ!」
 ハーレイの拳がブルーの頭に軽くコツンと落とされた。ブルーは「痛いよ!」と大袈裟に両手で頭を押さえて、さも痛かったと言わんばかりに撫でさすりながら。
「…それでフクロウ、彫ってあげたの?」
「もちろんだ」
 威張るハーレイに「どんなの?」と問えば、暫しの沈黙。
「………」
「ねえ、どんなの?」
 見せて、と伸ばされた小さな右手。思念で見せろという意味をこめた手。
 ハーレイは渋々といった様子でその手に自分の手を絡めると。
「………。こういう形だ」
「えーっと…。何処がフクロウ?」
 どの辺が、と首を傾げるブルーに、ハーレイが呻く。
「ヒルマンにも言われた、これはトトロだと」
「トトロ?」
「そういうのが居たんだ!」
 SD体制よりもずっと昔の人気者だ、とハーレイは開き直って言い放った。
 トトロは子供に人気の映画に出て来るオバケで、子供たちにとても愛されたのだと。
 人間が自然と幸せに共存していた時代を見事に描いた映画なのだ、と。



「いい映画だったぞ、トトロの映画は」
「ハーレイ、観たんだ?」
 ブルーの問いに、ハーレイは「いいや」と首を左右に振った。
「ヒルマンに頼んでデータを見せて貰った。観たわけじゃない」
 トトロだと言われりゃ気になるじゃないか、トトロってヤツが。
 知らないままより知りたいからなあ、俺が彫ったフクロウの何処がトトロなのかを。
「それ、どんな映画?」
「もう一度手を出してみろ。見せてやるから」
 ハーレイが差し出した手を握ったブルーは思わず「わあ…!」と歓声を上げた。
 大きな褐色の手から流れ込んで来る、鮮やかな世界。
 地球が一度滅びるよりも前、遠い遠い昔の失われた地球。広がる田畑や、深い深い森。
 断片しか残っていないトトロの映画。それを集めて読み物の形に起こしたもの。
 子供たちが眺めて楽しめるように、絵を中心にして編まれたデータ。
 森の奥に住む、オバケのトトロ。
 フクロウに似ていないこともない姿の、大きなトトロ…。



 心がじんわり温かくなるような、遠い昔に作られた映画。
 ブルーはトトロの世界を満喫した後、手を離してからクスッと笑った。
「ホントにトトロだね、ハーレイのフクロウ」
 バランスが変だよ、下の方が大きすぎるんだよ。
 フクロウならコロンと丸くなくっちゃ、デフォルメするにしても。
「俺がフクロウだと言ったらフクロウなんだ!」
「うん、ナキネズミもそう言ってたね。宇宙遺産のウサギだけどね」
「ヒルマンも納得はしてくれたんだぞ、トトロではあるがフクロウだと」
 ついでにちゃんと飾ってくれたし…。あの部屋の写真が残ってないのが残念だな。
「じゃあ、ハーレイの記憶でいいよ?」
 それを見せて、と手を絡めたブルーに伝わって来たキャプテン・ハーレイの記憶。
 ヒルマンの寝室の奥、置時計の隣に飾られたトトロ。ハーレイが彫ったフクロウのお守り。
「これはホントにお守りなんだね、宇宙遺産のウサギと違って」
「そうだな、お守りでもないのに勘違いっていうわけではないな」
 お守りと言うか、神様と言うか…。あの時代には邪道なお守りだがな。
「今は?」
「ミネルヴァの信者は流石にいないが、別の意味ではお守りだろ?」
 知恵の神様のお使いじゃなくって、幸運が来るフクロウだろうが。
 俺の親父の家にだって居るし、お前のお母さんも縁起のいい鳥だと言ったんだろう?
 フクロウはちゃんとお守りなんだ。
 ヒルマンが彫ってくれと頼んだのもそうだし、今の時代のフクロウもそうだ。
 シャングリラがあった頃から、それよりもずっと遠い昔からフクロウはお守りだったんだ…。



 だから、とハーレイはブルーの頭をポンと叩いた。
「今日からフクロウは俺の彫ったヤツだと思っておけ」
 見た目はトトロだが、ヒルマンも認めたフクロウで知恵のお守りだ。
 そうして今は幸運のお守りだと俺が知っている以上、幸運のフクロウでもあるな。
 こいつを心に仕舞っておくんだ、俺がフクロウの置物を買ってくるよりずっと役に立つ。
 シャングリラと一緒に消えちまったが、キャプテン・ハーレイが彫ったフクロウだ。
 注文で彫ったフクロウなんだぞ、有難味ってヤツもたっぷりだ。
「…駄目だったらフクロウ、買ってくれる?」
 メギドの夢をまた見ちゃった時は、フクロウの置物、ぼくに買ってくれる?
 フクロウが怖くなくなるように。
 あの声がしても、怖い夢を見なくなるように…。
「それはかまわないが、嘘をついても直ぐバレるからな?」
 本当は夢なんか見なかったくせに、見たと嘘を言ってフクロウをせしめようとするとかな。
 お前ってヤツはやりかねないんだ、俺からのプレゼント欲しさにな。
 いいか、良からぬ考えを持つんじゃないぞ?
 前のお前のガードは堅くて破れなかったが、今のお前の心の中身は筒抜けだからな。



 しっかりとブルーに釘を刺したハーレイは、「頑張れよ」と手を振って帰って行った。
 フクロウが鳴いても怖がらなくていいと、あれは幸運のお守りの鳥なのだと。
(…フクロウ…)
 今夜もフクロウは来るのだろうか、と怯えていたブルーだったけれども。
 話は思わぬ方へと転がり、フクロウは前のハーレイが彫ったトトロもどきのお守りと重ねられる結果になってしまった。フクロウに見えない木彫りのフクロウ。ナキネズミが宇宙遺産のウサギになったのと同じで、トトロになった木彫りのフクロウ。
 ヒルマンが知恵の神様のお使いだから、と注文して彫って貰ったフクロウが、今では下手くそな彫刻家曰く、幸運のお守りのフクロウということになるらしい。
(…効くのかな、アレ)
 お守りが効いてメギドの悪夢を見なかったならば、作戦成功。
 効かずに夢を見てしまった時は、ハーレイからフクロウの置物が貰える。
 どちらに転んでも、ブルーには嬉しい話だったけれど。
(…どっちかと言えば、フクロウの置物が欲しいかな…)
 メギドの悪夢は嫌だけれども、副産物としてハーレイからのプレゼントがつくなら一度くらいは我慢しよう、とブルーは思う。
 ハーレイに買って貰ったフクロウの置物を飾ってみたいし、毎日眺めて触ってみたい。
 きっとフクロウが大好きになるに違いない、とまだ見ぬ置物に思いを馳せる。
 どんな置物が貰えるだろうかと、どんなフクロウがやって来るのかと。



 フクロウの置物を貰えるか、メギドの悪夢が退散するか。
 怖かった筈のフクロウが来る予定の庭を窓からドキドキ眺めて、ブルーはベッドに潜り込んだ。メギドの悪夢も今夜ばかりは待ち遠しいと、フクロウの置物を貰わなければ、と。
(…我慢したらフクロウの置物なんだよ)
 ほんの四発ほど銃弾を食らって、右手が冷たいとちょっぴり泣いて。
 泣きじゃくりながら目を覚ましたなら、凍えた右手をいつも温めてくれる恋人からの素敵な贈り物が貰える。幸運のお守りのフクロウの置物。飾って眺めて、撫でて触れる大事なフクロウ。
(フクロウ、絶対、貰わなくっちゃ…)
 だから我慢、と自分自身に言い聞かせながら眠りに落ちたブルーだったけれど。



(…あれ?)
 気が付くとブルーは夜の庭に出ていて、しとしとと雨が降っていた。
 庭で一番大きな木の下、ハーレイと座るための白いテーブルと椅子がある辺り。けれども椅子もテーブルも無くて、何故か代わりにバス停があって。
(こんな所にバスは来たっけ?)
 でも便利だな、と考える。わざわざバス停まで出掛けなくても、バスが家まで来るのだから。
(学校の行き帰りが楽になるよね)
 今のように雨が降っていたって、それほど濡れずにバスに乗れるし…。
(傘を忘れて家を出たって、ママが庭まで迎えに来てくれるよ)
 今はきちんと傘を差しているけれど、と頭上に広げた傘を見上げた時に。
(えっ?)
 隣に傘を持たない相客。
 木の下だからずぶ濡れにはならないだろうが、雨が降る夜に傘が無くては大変そうだ。ブルーの家は其処にあるのだし、自分の傘を貸そうと思った。バスが来るまでに家に走って別の傘を取ってくればいい。
 そうしよう、と傘を渡すべく相客に声を掛けようとして。
(トトロ!?)
 ブルーはビックリ仰天した。
 傘を持っていない相客は、トトロ。見上げるように大きなトトロ…。



「トトロ!?」
 なんで家の庭にトトロが、と驚いた途端にパチリと覚めた目。
(……夢……?)
 ハーレイが変な話を聞かせるからだ、と瞬きした時、カーテンを閉めた窓の向こうから。
 ゴッホウ、ゴロッケ、ゴゥホウ。
 低い声で鳴く、フクロウのオバケ。昨夜と同じに鳴いているフクロウ。
(…夢だけど、メギドの夢じゃなかった…)
 トトロだった、とブルーはガックリした。
 フクロウが鳴いてもメギドの悪夢を見ずに済んだら、フクロウの置物は貰えない。子供の頃から怖かったオバケは鳴いているけれど、メギドの悪夢は来なかった。
 代わりに見てしまったトトロの夢。
 フクロウはオバケではなくなってしまい、前のハーレイが彫ったトトロに化けた。雨が降る夜の庭のバス停で傘を貸さねば、と思ったトトロに。



 ゴッホウ、ゴロッケ、ゴゥホウ。
 庭でオバケは鳴いているけれど、オバケはオバケでもオバケのトトロ。
 メギドの悪夢を運んで来ていた、鵺のようなフクロウはいなくなってしまった。
(…フクロウの置物…)
 ブルーは残念でたまらなかったが、貰えなくなってしまったフクロウの置物。
 自分がどういう夢を見たのか、ハーレイにはバレるに決まっているから、もう貰えない。
 飾って眺めて可愛がりたかった、フクロウの置物のプレゼントは来ない。
 けれど、フクロウは怖くなくなった。
 遠い昔にハーレイが彫った、トトロみたいなフクロウのお蔭で…。




        フクロウ・了

※ブルーが嫌いなフクロウの鳴き声。まるでオバケの声のようだから、と。
 けれどトトロに化けたフクロウ、置物は貰い損ねたとはいえ、きっと幸せになれる筈。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







 秋の日の午後。庭で一番大きな木の下の白いテーブルと椅子で、ブルーはハーレイと二人きりの時間を過ごしていた。
 自分の部屋に居る時のようにハーレイの膝に座ったり、抱き付いたりは出来ないけれども、この場所はブルーの大のお気に入り。初めて「ハーレイとデートをした場所」だったから。
 べったりとくっついて甘えられなくても、話すことなら沢山あった。前の生のこと、今の生での色々なこと。家であったことも、学校で起こった様々なことも。
 今日のブルーも上機嫌だったのだけれど、ふと思い出した週の半ばに見舞われた不幸。以前なら大したことではなかった、珍しくもなかった学校に行けなかった二日間。
 生まれつき身体の弱いブルーは小さな頃から幼稚園も学校も休みがちな子供で、入院するほどの大病はしない代わりに頻繁に欠席を余儀なくされた。そういうものだ、と大人しく休んでいたのが今では違う。学校に行けないことは、ハーレイに会えないことを意味していたから。
(休んじゃったら会えないんだもの…)
 ハーレイはブルーが通う学校の教師。登校すれば大抵は何処かで顔を見られる。ハーレイが受け持つ古典の授業が無い日であっても、廊下で、校庭で、中庭などで。
 だから学校を休まなくて済むよう、ブルーは懸命に努力していた。体調管理にも気を配ったし、少し眩暈がした程度ならば無理をしてでも登校するとか。
 それなのに先日、休んでしまった二日間。熱が出てしまっては誤魔化しも出来ず、かかりつけの病院に連れてゆかれて、そのまま欠席。
 あまつさえ、ブルーが休むと「大丈夫か?」と見舞いに来ては野菜スープを作ってくれる優しいハーレイも来てくれなかった。忙しいのだと分かってはいても、寂しくてたまらなかった二日間。
(それに…)
 そういう時に限って酷い目に遭うんだ、と病院での出来事を思い返した。幼い頃から顔馴染みの医師が、「早く治すにはこれが一番」とブスリと打ってくれた注射を。



 ブルーは注射が大嫌いだった。
 幼稚園の頃には泣き叫んで抵抗したほどの注射嫌いで、今でも変わらず注射は嫌い。昔のように泣き喚いたりはしないけれども、注射針の痛さも、注射器を見るのも出来れば御免蒙りたい。
 幼かった頃に初めて打たれた注射が余程痛かったか、痛みというものに弱いのか。
 注射嫌いの子供は珍しくないし、その部類だと思い込んでいた。両親も、ブルー本人でさえも。それがどうやら違ったらしい、と気が付いたのは前の生の記憶が戻った後。
 先日と同じように熱を出してしまって学校を休み、母と近所の病院に行った。いつもの主治医が「打っておきましょう」と取り出した注射器を見た瞬間に覚えた恐怖。今までの「嫌い」どころの騒ぎではない、明確な「嫌だ」と拒絶する心。
 それが何なのかを思い出す前に、ブルーの注射嫌いを知っている医師と母は手際よく作業をしてくれた。母がブルーの服の袖を捲って「我慢しなさい」と諭す間に、医師が慣れた手つきで消毒を済ませ、注射針が腕にグサリと刺さる。
(嫌だ…!)
 注射は嫌だ、と叫ぼうとしたが、「はい、おしまい」という医師の声。薬剤はとっくにブルーの身体の中で、大嫌いな時間は終わっていた。
 なのに収まらなかった恐怖。医師が笑顔で「じきに熱が下がりますよ」と告げるのを聞くまで、震え出しそうだったほどの激しい恐怖。
 その原因が何だったのかを遠い記憶として手繰り寄せ、納得した時はとうに家へと帰っていた。母が「大人しくして寝ていなさい」と上掛けを掛けてくれ、部屋を出て行った後で気付いた。
 どうして注射があれほど怖いか、幼い頃から嫌いだったのか。



(…全部アルタミラのせいなんだよ)
 タイプ・ブルー・オリジンと呼ばれ、人体実験を繰り返された前の生で居た研究所。
 薬剤に対する抵抗力を調べるためだとか、行われる実験の目的に合わせた薬物を注入するために打たれる注射。打たれて直ぐに苦痛が襲うこともあれば、実験開始と共に生き地獄のような苦悶に見舞われたり。
 もちろんブルーを死なせないため、治療用の注射も実験の後で幾度となく打たれていたけれど。身体が楽になる注射もあった筈だけれど、ブルー自身に記憶は無い。
 注射は苦痛を齎すもの。直ちに苦痛に見舞われなくとも、確実に苦痛が襲ってくるもの。実験が始まるまでの間が待ち時間であったり、遅効性の薬物の時であったり。
 どう転んでも逃れられない激しい苦痛。それを運んでくる注射。
 嫌いにならないわけがなかった。注射器を見ただけで震え上がるのも、打たれた痛みで泣くのも当然。自分の身に何が起ころうとしているのか、嫌というほど体験して来たのだから。
(今の注射は大丈夫だって分かっているんだけどな…)
 記憶が戻ってから初めて打たれた注射は医師が効能を告げてくれるまで怖かったけれど、今では其処まで怖くはない。治すための注射だと自覚しているし、現に打った方が治りが早い。
 分かってはいても、未だに消えてくれない恐怖。前の生で心に刻まれた恐怖。
(…ノルディは知っててくれていたしね?)
 白いシャングリラで暮らしていた頃も、注射は苦手だったから。
 戦闘に赴くソルジャーが注射如きを恐れていては、と耐えていたけれど、顔には出るから。
 それが何ゆえかを知っていたノルディは、あれこれと心を配って注射を極力打たない方向で治療してくれたが、今の生でのブルーの主治医はお構いなし。
 体調を崩して病院に行けば、問答無用で注射一発。
 どんなに嫌いでたまらなくても、自分の前世を言えはしないし…。



 酷い目に遭った、と打たれた注射を思い返して、ブルーはハーレイに泣き言を言った。大嫌いな注射を打たれたのだと、今でも注射が嫌いなのだと。
「…熱が下がるって分かっていたって嫌なんだよ、注射…」
「お前、アルタミラで沢山打たれたらしいしなあ…」
 可哀相に、とハーレイが顔を曇らせる。
 生まれ変わっても注射嫌いになるほど打たれたのかと、それほどに苦しかったのかと。
「ハーレイは注射は少なめだったんだよね?」
「俺は耐久実験の方が多かったからな」
 ミュウには珍しく頑丈に出来ていたからだろうな、ひたすら耐えてりゃ良かっただけだ。
 タイプ・グリーンは幾らでもいるし、薬物実験はそっちでやりゃいい。
 お前みたいに一人しかいないタイプ・ブルーだと、被験体も一人きりだからなあ…。
 色々と集中しちまったんだな、実験の方も。
「…うん、多分…。お蔭で死なずに済んだけれども」
 他にもタイプ・ブルーが大勢いたなら、殺されていたかもしれなかった。
 どうすれば死ぬのか、どんな風にして死んでゆくのか、それを調べる実験も存在していたから。
 その果てに殺された仲間たちの残留思念を幾度も拾った。
 彼らのようにならずに済んだ理由は唯一のタイプ・ブルーだったから。
 ブルーが死んだらタイプ・ブルーのデータが取れない。実験しようにも被験体がいない。
 だから苦しめ、痛めつけても治療をされた。次の実験に役立てるために。
 そうして何本も打たれ続けた注射。
 実験薬に、実験の準備にと打たれた注射。苦痛しか齎さなかった注射…。



「…ホントに嫌な思い出なんだよ、あの注射」
 今になっても引き摺るくらい、と嘆いてブルーは立ち上がった。
 こんなに平和な地球に来たのに、ハーレイと二人でのんびりとお茶を楽しめる世界に生まれたというのに、どうして注射を恐れなくてはならないのか。
 父と母が居る暖かな家があるのに、午後の柔らかな光が降り注ぐ庭もあるのに。
「なんで今でも注射器を見ただけでダメなんだろう…」
 あの針が嫌だ、と銀色に光る忌まわしい凶器を頭の隅へと追いやりながら、自分の目を現実へと向かわせる。
 庭で一番大きな木。幼い頃から見上げていた木。太く頼もしい幹と、四方に広げた枝葉と。この木の下にハーレイと二人で座る場所が在って、母がお茶やお菓子を届けてくれる。これが現実。
 そう、アルタミラはもう遠い遠い昔。
 其処に居た自分は遥かな昔に死んでしまって、今は地球に住んでいる子供の身体。まだ十四歳にしかならない小さな身体で、ソルジャー・ブルーだった頃とは違う。
(手だって、小さくなっちゃったんだよ)
 そのせいでハーレイとの恋に支障があるのだけれども、「前の自分とは全く違う」ことを教えてくれる姿ではある。
 小さな手と、庭にどっしりと根を張った木と。
 二つを重ね合わせれば「今」が見えて来るよ、とブルーは木の幹を撫で擦った。ざらざらとした感触が「木は此処に在る」と教えてくれる。ブルーの手が其処に触れていることも。



(…ぼくは此処に居るんだ…)
 ちゃんと青い地球の上に生きているんだ、と何度も何度も木の幹を撫でる間に。
「いたっ…!」
 チクリと指先に走った痛み。注射のそれとは違うけれども、不愉快な痛み。
「どうした?」
 椅子から腰を浮かせるハーレイに、白い指先に視線を落としながら「棘…」と短く答えた。棘のある種類の木ではなかったし、今までに刺さったこともない。
 けれども運が悪かったのか、撫で擦る内に木の皮が浮いてしまったのか。右手の人差し指の先に刺さった小さな棘。左手で抜こうとしても抜けない。
(刺さっちゃった…)
 抜こうと左手で引っ張るブルーに、ハーレイが「見せてみろ」と声を掛け、招き寄せて。
 自分が腰掛ける椅子の側に立たせて、小さな手を掴んで白い指先を検分しながら。
「すっかり入り込んじまったか…」
 刺抜きじゃ無理だな、こいつは針だな。
「針!?」
 父に何度か針で抜かれたことがある棘。それと同じだと気付いたブルーは悲鳴を上げた。
「やだ…!」
「しかし、こいつは抜けないぞ?」
「でも、針は嫌だ。注射みたいで怖いんだよ…!」
 絶対に嫌だ、と慌てて右手を引っ込めようとしたが、ハーレイの力は緩まなかった。
 捕まったままでブルーは「嫌だ」と首を左右に振る。針は嫌だと、注射みたいな針は嫌だと。



 涙まで滲ませて訴えてみても、一向に緩まないハーレイの力。棘が刺さった指先の不快な痛みは嫌だったけれど、針の方がもっと嫌だから。
 針で棘を抜かれることだけは避けたかったから、「サイオンは?」と泣きそうな声で尋ねる。
「ハーレイ、サイオンで抜けないの、これ?」
「…瞬間移動が出来るヤツにしか無理だろう。病院に行けば出来る医者だっているが…」
 この程度の棘、そんな先生の出番を待つ前に針だと思うぞ。
 普通なら病院に行かずに家で抜こうってレベルの棘だし、病院でも同じ程度の扱いだな。
「…そんな……。そうだ、テープは?」
 テープで抜けると友人が言っていたのを思い出して訊いてみたけれど、ハーレイはフウと溜息をついて答えた。
「刺さって直ぐなら抜けたかもしれんが…」
 今じゃ無理だな、もぐっちまっているからなあ…。
 テープで抜くには棘の端っこが見えていないと駄目なんだ。
 こうなっちまうと針で引っ張り出すしかない。この際、針を克服しておけ。
「えっ?」
「注射は無理でも針くらいはな」
 俺がやるのでも針だけは嫌か?
 病院に行ってお医者さんに針で抜いて貰うか、その方がいいか?
(…ハーレイにやって貰うか、お医者さんか…)
 どちらも針しか無いのだったら、考えるまでもないことだから。
 恋人に抜いて貰う方がマシに決まっているから、ブルーは「ハーレイでいいよ」と呟いた。
 針は見たくもないのだけれども、ハーレイが抜いてくれるのならば、と。



「よし。…うん、泣き喚くだけのガキじゃないってことだな」
 偉いぞ、とハーレイの手がブルーの頭をポンと叩いて。
「此処じゃ抜けんな、お前の部屋でやるか。…柚子の木があると良かったんだが…」
「柚子の木?」
 庭に柚子の木は無かったから。どういう意味か、とブルーはキョロキョロと庭を見回す。
「それ、何にするの?」
「針の代わりだ」
 ハーレイに言われても、まだピンと来ない。
「針?」
「柚子の木の棘さ。針みたいにデカイ棘があるんだ、柚子の木にはな」
 俺の家では棘が刺さった時の定番だったぞ、柚子の木の棘。
 ガキの頃には親父が抜いてくれていたもんだ。
 柚子は殺菌作用があるんだ、実だけじゃなくって木の皮とかにも。
 もちろん棘だって、青いヤツなら消毒済みっていうわけさ。
 生えてから何年も経っちまった棘だとそうはいかんが、生えてから間もない青い棘だな。



 そうした棘を使って抜くのだ、とブルーの気を逸らしながら、ハーレイは家の方へと戻った。
 玄関を入り、リビングに居たブルーの母に声を掛ける。
「すみません、ブルー君が指に棘を刺してしまいまして…。薬箱と針をお借り出来ますか?」
「針ですか?」
「ええ。これから部屋で抜きますので」
 ハーレイが言うなり、ブルーの母は「それは…」と言葉を濁してから。
「ブルー。ハーレイ先生が抜いて下さるのなら、ちゃんとお礼を言わなきゃ駄目よ?」
 泣くんじゃないのよ、大きいんだから。
 十四歳になったんでしょうが。
「…うん、ママ……」
 シュンと項垂れるブルーの姿に、ハーレイは今日までにこの家で起こったであろう騒動が容易に想像出来た。注射も針も嫌いなブルーが泣き叫んだか、はたまた涙を零したか。たかが棘抜きとは思えないほどの騒ぎだったに違いない。
(…よっぽど針が苦手で嫌いなんだろうが…)
 ブルーの両親は今も理由を知らないのだろうな、とハーレイは思う。
 小さなブルーは泣き虫だけれど、前世を思わせる気丈な部分も存在していた。両親を心配させることが明らかなアルタミラでの悲惨な過去など、きっと話しはしないだろう。
 注射嫌いで針も嫌いな弱虫のレッテルを貼られたままでも、その方がいいと思うのだろう。
 そんな健気な小さなブルーに、針くらいは克服させてやりたい。
 注射は無理でも、針を使った刺抜きくらいは…。



 ブルーの母が用意してくれた、刺抜き用の道具と薬箱。ハーレイはそれを手にして、先に立って階段を上って行った。普段だったらブルーがパタパタと先に駆け上る階段を。
「こら。ぐずぐずしてても棘は抜けんぞ」
 早く来い、とブルーを急かして、すっかり馴染みの部屋に入るとテーブルの上に薬箱を置いた。いつも自分が座る側の椅子に腰掛け、借りて来た針とライターを持つと立ち竦むブルー。
 部屋の入口で止まったブルーの顔には「嫌だ」と書いてあったけれど、ハーレイはやめるつもりなど無い。ライターを点け、針の先を炙りながら「来い」と命じる。
「ほら、消毒が済んだぞ、ブルー。針を克服するんだろうが」
 いつまでも弱虫でいいのか、お前。
 俺は一向に構わないんだが、棘が刺さる度に泣くのはお前なんだぞ、ブルー?
「……痛くない?」
 怖々といった様子で前に立ったブルーに「そりゃ痛いさ」とハーレイは返した。
「針なんだからな、少しは痛い。気を付けはするが、全く痛くないとは言わん」
 だが、我慢しろ。こいつは治療で、アルタミラとは違うんだ。
 俺を信じて右手を出せ。
 …よし、それでいいから動かすなよ、指。
 怖いからって逃げたりしたらだ、針がグサリと刺さっちまうからな。



 ハーレイはブルーの右手をしっかりと掴むと、棘が刺さった人差し指の先を針で慎重にそうっと探った。此処だ、と見定めた場所に針を入れれば、ブルーの手がビクリと強張って。
「いたっ…!」
「こら、逃げるな!」
 直ぐだ、と刺さっていた棘を針で取り除いた。自分に刺さった棘も、教え子の棘も何度も抜いた経験があるから、手際よく抜ける。ほんの一瞬とまでは言わないけれども、僅かな時間。
「ほら、取れたぞ。…痛かったか?」
「…ちょっとだけ…」
 チクッとした、と訴えるブルーの指先に化膿止めの薬を付けてやる。刺抜き用の針はライターで消毒してあったけれど、刺さっていた棘はそうではないから。小さな棘でも侮れないから、後から膿んだりしないようにと。
「これで終わりだ。…ちゃんと見てたか、さっきの針を」
「…ハーレイの手を見てた……」
 針は殆ど見ていなかった、とブルーは俯いたけれど。
「少しでも見たなら、それでいいさ」
 針だけだったら普段も見るしな、家庭科の授業でも使うだろう。
 そういう針は平気だろ、お前?
 自分の身体に刺さってくる針が嫌なんだろう?
 …だがな、身体に刺さる針もこうして役に立つんだ、注射も同じだ。
 痛い分だけ、ちゃんと良くなる。
 それをきちんと覚えておけ。そうすりゃ怖くはなくなってくるさ。



 棘抜きと手当てを終えたハーレイが薬箱などを返しに行くと、ブルーの母が心配そうな顔をしていたから。
 ハーレイは「ブルー君は我慢強かったですよ」と伝えることを忘れなかった。棘を抜くのに針を刺しても泣かなかったし、痛いと叫びもしなかったと。
 ホッとしたらしいブルーの母は「ありがとうございました」と深く頭を下げ、それから間もなく二階へお茶とお菓子を持って来てくれた。庭で使っていたものとは別のティーセット。
「ブルー、ハーレイ先生にちゃんとお礼を言った?」
「うんっ!」
 笑顔で答えたブルーは「ぼく、泣かなかったよ」と自慢したけれど、母は「当たり前でしょ」と苦笑して部屋から出て行った。ブルーが前の生で受けた仕打ちを知らないのだから仕方ない。
 母の足音が階段を下りてゆくのを聞きながら「我慢したのに…」と残念そうに呟くブルー。
 注射が嫌いで、針も嫌いな小さなブルー。
 ハーレイは「仕方ないだろ、お母さんにとってはお前はただの弱虫なんだし」と言いつつ、手を伸ばしてブルーの頭を撫でてやった。
「お前がきちんと我慢したのは俺が見てたさ、それでいいだろ?」
 前のお前が惨い目に遭ったことも、俺は知ってる。
 だから針が怖くてたまらない理由も知っているがな、人生、うんと長いしな?
 克服しといて損は無いんだ、針も、それから注射もな。
 出来れば克服して欲しいんだが…。



 しかし、とハーレイは片目を瞑って微笑んだ。
「どうしても無理なら、結婚した後は俺が病院についてって医者に注文してやるさ」
 こいつは注射が嫌いなんですと、注射は抜きでお願いします、と。
「ホント!?」
 嬉しい、と喜んだブルーだったが、それに対するハーレイの言葉は。
「もっとも、俺が行ってる近所の医者もだ、問答無用で打つ方なんだが」
「嘘…!」
「残念ながら、本当なんだ」
 俺がそういう好みだからなあ、とにかく早めに治したい、ってな。
 滅多に病院の世話にはならんが、たまに行くなら早く治せる医者がいい。
 のんびり優しく治療してくれる病院よりもだ、注射一本、その日限りの御縁がいいな。
「…そういうお医者さんなんだ…?」
「俺の行きつけと言うか、かかりつけと言うか…。馴染みの医者はそういうタイプだ」
 ブスリと注射で、後は飲み薬を三日分ほどと言った所か。
 それでピタリと治っちまうなあ、名医と評判の先生なんだぞ?
 だが、待合室で女性と子供は見かけないから、優しい医者ではないってコトか。
 お前、どうする?
 俺は優しいと評判の先生の病院は生憎と全く知らないんだが…。



(…ハーレイの行ってる病院の先生も注射だなんて…)
 しかも問答無用だなんて、とブルーは頭を抱えたくなった。
 どうやらハーレイと結婚した後も、注射からは逃れられないらしい。
 注射の無い病院は無いのだろうか、と悩むブルーだけれども、注射が一番早いのだから。
 早く確実に治したいなら注射なのだと分かっているから、問答無用の方針も分かる。
 そうした病院で注射をされずに済ませるためには、ハーレイの「お願い」に期待するのみ。
 こいつは注射が駄目なんですと言ってくれるよう、なんとか打たない方で済むよう。
(…でも…)
 針を克服するんだな、と指に刺さった棘を抜いてくれたハーレイが持つ針は怖くなかった。
 大きな手が器用に棘を抜く間、自分の指に刺された針をチラリと見られた。
 父が同じことをしてくれた時には泣き喚いた針。
 大して痛くはなかったというのに、大声で泣いてしまった針。
(…ハーレイの手と一緒だったら怖くなかったよ、針が刺さっても)
 たった一度で克服出来たとは思わないけれど。
 もしかしたら針が身体に刺さることに対する恐怖も、いつかは本当に消えるかもしれない。
 注射も平気になるかもしれない。
 そうなるといいな、とブルーは思う。
 アルタミラの注射の記憶を忘れて、幸せに生きていけたらいいと…。




        大嫌いな注射・了

※幼かった頃から注射嫌いのブルー。多分、アルタミラ時代の記憶のせいで。
 今もやっぱり苦手ですけど、怖くなかったハーレイが持つ針。いつかは注射嫌いも克服?
 そして、今日、3月31日は、聖痕シリーズのブルーの誕生日。
 ブルー君、お誕生日おめでとう!
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv





Copyright ©  -- シャン学アーカイブ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]