シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
来客を知らせるチャイムの音。この時間だと…、と部屋の窓から庭の向こうの門扉を見下ろす。生垣を隔てた表の通りに見慣れた人影。
(やっぱり…!)
ママが夕食の支度を始める時間帯。ママの友達が来るには遅いし、パパの友達は平日には滅多に訪ねて来ない。今頃の時間に来るお客さんといえば、ご近所さんか、そうでなければ…。
(ふふっ)
ぼくは急いで部屋を飛び出し、階段を駆け下りて玄関へ走った。着くのと同時に外側から開いた玄関の扉。ママが「どうぞ」と中へ促すお客さん。
「ハーレイ…!」
「おう。今日の放課後以来だな」
元気にしてたか? と挨拶しながら大きな身体が入ってくる。学校を出る前、廊下ですれ違って挨拶を交わした「ハーレイ先生」。ぼくの家だと、ただの「ハーレイ」。
ハーレイはママに「すみません、こんな時間から」って、お決まりの挨拶をしているけれども、ママはちっとも気にしていない。ハーレイはとっくに家族みたいなものだから。
「こちらこそ、ブルーがお世話になります。どうぞごゆっくり」
直ぐにお茶をお持ちしますから、とママが言い終えるのを待って、ぼくも「来てよ!」と階段の方へと駆け出した。走らなくてもいいんだけれども、いつもパタパタ走ってしまう。階段の途中で後ろを振り向いて、歩いてくるハーレイに「早く!」と叫んで。
もちろんハーレイは走ってくれない。他所の家で走るだなんて、大人はしない。
分かってるけど、走ってしまう小さなぼく。前のぼくなら走りはしないと思うけど…。
(でも、走りたくなっちゃうものは仕方ないよね)
部屋の扉を開けて入って、テーブルと椅子を目でチェックした。窓際に置いてある、ハーレイと二人で腰掛けるための指定席。今日みたいに急に来ることも多いから、毎日掃除は欠かさない。
(よし!)
ちゃんと出来てる、と満足した所でハーレイがようやく到着した。
テーブルに向かい合わせで座って、ママがお茶とお菓子を運んで来るのを待って。
それが届いたら夕食に呼ばれるまでの間は二人きりの時間。ママは決して部屋には来ない。前はそうだと気付いていなくてドキドキしたけど、パターンが分かったら寛ぎの時間。
(うん、今日もハーレイとゆっくり出来るよ)
ママの足音が階段を下りて消えていく。二人きりの時間の始まりだよ、とハーレイを見たら。
(あ…!)
学校帰りにぼくの家に寄った時、ハーレイが一番最初にしていること。
正確に言うなら、挨拶とかを終えて落ち着いた後で、必ずすることって言うのかな?
スーツの上着はママが預かって掛けておくから、上着を脱ぐのは家に入ったら直ぐにすること。スーツじゃない先生も多いけれども、ハーレイはスーツ。パパと同じで大人の制服。
その制服の上着も脱ぐけど、なによりネクタイ。
ママの足音が消えて行ったら、ハーレイの褐色の手が自分の襟元に行く。
キッチリと結んであったネクタイを緩めて、ホッと寛いだ表情を見せるハーレイ。
学校では決して見られない顔。
(…ママが出て行くまで緩めないよね…)
それでもパパやママが「どうぞお楽に」って言うよりも前に緩めるようになっただけマシ。誰も何にも言わなくっても、ネクタイを緩めてくれるハーレイ。
ぼくの家に通うようになってから暫くの間、ハーレイはネクタイを緩めなかった。パパとママが「楽になさって下さい」と声を掛けるまで、きちんと結んだままだった。
休日に訪ねて来てくれた時はネクタイなんかはしてなかったから、学校帰りの時だけれども。
そのネクタイを今では勝手に緩めてくれるのが嬉しい。
ぼくの家を出る前には元通りに締めて、上着も着て帰ってゆくけれど。それが大人の制服だって分かっているから、ネクタイを緩めて制服にサヨナラしてくれると思うととても嬉しい。
ぼくの家では制服を着なくていいんだと、楽にしていいんだと思ってくれているんだから…。
その、ネクタイ。
緩める姿はすっかり見慣れたけれども、ぼくはネクタイをしたことがない。ぼくの学校の制服にネクタイは無いし、小さな頃に改まった場所へ着て行った子供スーツは蝶ネクタイ。それも子供が自分で簡単に出来るようにとボタンでパチンと留めていただけ。
(んーと…)
ハーレイがネクタイを緩める時の表情からして、あれって首筋がきついんだろうか?
パパは毎朝、ダイニングの壁に掛かった小さな鏡の前でキュッと締め直して出掛けるけれども、首筋がギュウギュウ締まるんだろうか?
ぼくには分からない、大人の制服。前のぼくだってネクタイは締めたことがない。どんな感じか訊いてみよう、とハーレイに尋ねることにした。
「ねえ、ハーレイ」
「なんだ?」
「ネクタイって、やっぱり首がきついの?」
緩めてるよね、ぼくの家に来たら。学校ではきちんと結んでいるけど…。
「まあな。首が締まるっていうほどじゃないが、緩めると楽なものではあるな」
「キャプテンの制服とネクタイだったら、どっちがきつい?」
どっちだろう、と訊いてみた。
前のハーレイが着ていたキャプテンの制服。仕事で機関部の奥までチェックに入るとか、特別な事情がある時は制服の代わりに繋ぎの作業服なんかを着ていたけれども、普段は制服。背中に深い緑色のマントがついた制服。
前のぼくの上着よりも重たい上着に、マントつき。しかも襟元までカッチリしていた。前のぼくみたいに戦闘に出てゆくわけじゃないから、活動的なデザインには出来ていなかった。
生地だって重いし、伸縮性だって前のぼくの上着とかには敵わない。
ネクタイと制服、どっちがハーレイにとってはきつかったかな、と好奇心。
「さてなあ…。どっちも慣れだしな?」
俺にとっては大差ないな、とハーレイらしい答えが返って来た。
「毎日着てれば慣れて来るものさ。キャプテンの服もネクタイもスーツも、要は慣れだな」
ただ、キャプテンの制服はネクタイみたいに人前で緩められはしなかったしな?
お前だって覚えてるだろう、あのデザイン。
首がきついな、と緩めてみろ。だらしないどころの見た目じゃないぞ。
前のお前の前でくらいしか緩められなかったなあ、ついでに上着も脱げなかったな。
「……上着……」
どういう時にハーレイが上着を脱いでいたのか、一瞬で思い出したから。
前のぼくとキスして、それから上着を脱いでいたのを思い出してしまって、真っ赤になったぼくだけれども。
ハーレイは「また余計なことを考えてるな?」って、ぼくの額を指で弾いた。
「お前がそういう良からぬ発想にならない分だけ、ネクタイの方がマシらしいな」
俺にとってきついかどうかはともかく、緩める度に赤くなられちゃ落ち着かん。
スーツの上着も、お前の目の前で脱いでいたってお前の顔は赤くならないからな。
ネクタイの方が断然マシだ、と結論付けてしまったハーレイ。
ぼくはプウッと膨れたけれども、お構いなしで澄ました顔。ネクタイの話を続けてくれる。
「キャプテンの制服は変えようが無かったが、ネクタイは色々と変えられるしな」
その日の気分で色も模様も選べるって辺りが優れものだ。
締めて行く場所に合わせてこの色で、って約束事はあるが、それ以外は自由というのがいい。
自分だけのための決まり事なんかも作れるからな。
節目の時にはこれを締めようとか、部活の大会の付き添いの時は勝利を祈ってコレだとかな。
「そういう約束、作ってるんだ…」
「気付かなかったろ? 俺だけの決まりだ、傍目にはまず分からんな」
いつかはお前も覚えるだろうが…。
俺に「あのネクタイは何処だった?」と訊かれる立場になったならな。
「えっ?」
「俺の嫁さんになるんだろ? その後のことさ」
俺が出勤して行く時にはネクタイを締めるし、それをお前が渡してくれる日もあるだろう。
そうして何度も渡したり探したりしている内にだ、俺の決まりも覚えてしまうさ。
俺がこうだと教えなくても、その日にピッタリのネクタイを渡してくれたりな。
まだまだ先の話なんだが、俺としてはその日が待ち遠しいな。
「えーっと…」
ネクタイの決まりを覚えられるほど、ぼくに余裕はあるんだろうか?
ハーレイと一緒に暮らせるだけで幸せ一杯、そんなトコまで気が付かないっていう気もする。
(…お嫁さんがそれじゃいけないのかな?)
ダメなのかな、って思うけれども、覚えられない可能性が高い。だけど楽しみにしているらしいハーレイ。これは話題を変えなくちゃマズイ。
(ネクタイの話で、だけど模様とかとは違う話で…)
何か無いかな、と懸命に考えて思い付いた。それをそのままぶつけてみる。
「ハーレイ、ぼくの家ではネクタイを緩めてるけど、帰る時には締めて帰るね」
なんでそのまま帰らないの?
締め直さないと上着が着られないってことはないよね、上着を着てなかった季節も締めてた。
どうしてわざわざ締めて帰るの?
「そりゃまあ…。お前のお父さんとお母さんに挨拶しなくちゃいけなしな?」
「締めていないと駄目なものなの、挨拶の時は?」
そういえばハーレイは、ママがお茶とお菓子を出し終わるまでは決して緩めたりしない。あれも挨拶が終わるまで待っているんだろうか?
ネクタイってそんなに面倒なのか、と思うけれども。
「駄目と言うより、だらしないってことになるからなあ…」
本来、きちんと締めているためのものだしな?
お前のお父さんだってそうだろ、会社に行くのに緩めていたりはしないだろう?
「それはそうだけど…。学校の先生たちは色々だよ?」
緩めてる先生も何人もいるし、ネクタイをしていない先生もいるよ。
「その点は俺のこだわりだな。教師はネクタイって決まりなんかは無いからな」
言わば今の俺の仕事用の制服って所か、ネクタイとスーツ。
ネクタイを締めると「これから仕事だ」って気が引き締まるような感じがするな。
気持ちの切り替えに丁度いいんだ、ネクタイってヤツは。
こんなに小さな布の紐だけで制服気分とは大したもんだ、とハーレイは笑う。
ネクタイに比べればキャプテンの制服は大層だったと、スーツと比べても立派すぎたと。
「あれを着てた頃にはそういうモンだと思っていたがな、今になるとなあ…」
よくも毎日着ていたもんだ。律儀にマントまでくっつけてな。
「肩章までついていたもんね」
「まったく、誰の趣味だったんだか…」
其処まで凝らなくてもいいだろう、と溜息をついてるハーレイだけれど。
「でも、似合ってたよ? キャプテンらしくてカッコ良かったよ、あの肩章」
「前のお前でも肩章なんかは無かったのに…」
「その分、マントが長かったよ。大袈裟なんだよ、あのマント」
防御力がどうとかって言ってたけれども、あんなの無くても平気だったのに。
シールドがあればマントなんかは出番無しだし、役に立ったの、一回だけだよ。
メギドで背中から撃たれた時には防弾チョッキ代わりになったけれども…。
よく考えたら上着だって同じ仕様だったし、やっぱり要らなかったよ、マントは。
「お前、嫌がってたもんなあ…。あのマント」
「ソルジャーの上着はともかく、マントはね…。そんなに偉くはないんだもの」
大して偉くはないよ、ソルジャー。たまたま力があったってだけで。
「そいつは俺だって同じことだな」
キャプテンに担ぎ上げられちまったが、元々は調理担当なんだぞ?
それ専門ってわけじゃなかったが、食材管理の責任者のつもりだったんだがなあ…。
何処で間違えちまったんだか、気付けばキャプテンになっちまってたさ。
挙句の果てにマントまでついた制服を着せられちまってな。
「そっか…。今度はネクタイで済んで良かったね」
それとスーツと。
ネクタイもスーツも、キャプテンの服と違って目立たないものね。
「そうだな、おまけにただの教師だ。キャプテンなんかと違って気楽だ」
お前も普通の制服だしなあ、ソルジャーの服と違ってな。
「うん。友達もみんな一緒の服だよ」
ぼくだけ特別って服じゃないから、制服は全然気にならないよ。
家に帰ったら脱ぎたくなるけど、きついからってわけではないし…。
多分、生徒のぼくと普通のぼくとを切り替えてるんだ、ネクタイと一緒。
ハーレイがネクタイで気分を切り替えるみたいに、ぼくは制服で気分の切り替え。
制服だったら学校の生徒で、普通の服だとパパとママの子供。
そしてハーレイの恋人なんだよ、普通の服の時は。
きっとそうだよ、と口にしてから、ふと浮かんで来た将来のこと。
今は学校の生徒だけれども、いつまでも生徒で子供じゃない。いくらぼくの背が百五十センチのままだったとしても、いつかは伸びる。前のぼくと変わらない背丈に伸びる。
そうなったら、ぼくはどうなるんだろう?
学校の制服を着ている代わりに、ネクタイを締めることになるんだろうか?
「ハーレイ…。ぼくもいつかはネクタイなのかな?」
ネクタイって、きつい?
緩めたくなるほどきついものなの、ネクタイって?
「ふむ…。俺ので良ければ締めてみるか?」
お前の今のシャツならネクタイが出来んこともない。
「いいの?」
「百聞は一見に如かずだからなあ、体験するのが一番ってことだ」
チビのお前には少しデカイが、締め方なんぞは同じだからな。
感じは分かるさ、ネクタイを締めたらどんな気分か。
ハーレイは自分の首からネクタイを外して、ぼくの首に「ほら」と掛けてくれた。
思いがけない、ハーレイのネクタイ。今の今まで、ハーレイの首にあったネクタイ。
胸がドキドキするのを隠して、ネクタイの端を掴んでみたけど。
「えーっと…」
締め方がまるで分からなかった。こんな風かな、と紐みたいに結ぼうとしたら。
「違う、違う。ネクタイってヤツはそうじゃなくって…」
こうだ、こう。
そう言いながらハーレイの手がぼくの後ろから伸びて来た。ぼくの肩越しに褐色の手が手際よくネクタイを結んでゆく。
(…ネクタイって、なんだか難しそう…)
ただ結んであるだけじゃないのか、と複雑に重なってゆくネクタイを見てた。折って、重ねて、回して、通して。ハーレイやパパの襟元で見慣れた独特の結び目が出来上がってゆく。
「これで大体、出来上がりだな」
ハーレイに結んで貰ったネクタイ。嬉しくて、ちょっぴりくすぐったい。
(…ハーレイのネクタイ…)
貸して貰って、結んで貰った。幸せだな、って頬を緩ませていたら、「そら」とネクタイの端を握らせてくる手。
「此処をキュッと引っ張れば、きちんと締まるってわけだ」
「こう?」
ハーレイの大きな手と一緒にキュッと引っ張ったけれど。
ぼくの首筋もキュッと締まった。やっぱりきつい。ボタンで留めてた蝶ネクタイとは全然違う。
「きついよ、これ…」
「そうか? 緩めるとこんな感じになるんだ」
太い指がネクタイの結び目を緩めて、一気に楽になった首筋。
「わあ…!」
ハーレイがネクタイを緩める気持ちがよく分かった。
こんなに首筋が軽くなるなら、断然、緩めの方がいい。緩めてもかまわない場面だったら、絶対緩める方がいい。首筋がキュッと締まってるより、楽な感じがする方がいい…。
子供にはちょっと早すぎだな、ってハーレイはネクタイをサッサと外してしまったけれど。
自分の首へと結び直して、キュッと締めてから直ぐに緩めているんだけれど。
(…ハーレイがネクタイを緩めるのって…)
楽だからってだけじゃないんだろうな、と考えた。
キャプテンの制服と大差は無いな、って言ってたネクタイ。今のハーレイのための制服。
そのネクタイを緩める時には、きっと責任が緩むんだ。
キャプテンの服を着ていない時がそうだったように、背負っている重さが緩むんだ…。
(前のハーレイはキャプテンだったけど、今は先生…)
重さは全然違うけれども、仕事に対する責任は同じ。
自分がやってる仕事に対して、責任があるって点では同じ。
ぼくもいつかはネクタイを締めて、責任ってヤツを背負うんだろうか?
前のぼくほどではないにしたって、何かの責任。
今度はうんと軽いだろうとは思うけれども、やっぱり背負わなくてはならない。
そう考えたらとても不安で、凄く心配になってきた。
ソルジャーのそれよりは軽かったとしても、その責任をぼくは背負えるだろうか。
潰されずに背負っていけるんだろうか…。
(今のぼく、ペシャンと潰れちゃうかも…)
ぼくは前ほど強くない、って分かってる。
不器用すぎるサイオンもそうだけど、心の強さが前のぼくとは比較にならない。一人きりで死が待つメギドへと飛べた、前のぼくほど強くはない。
それなのに背負わなくてはいけない責任。背負えなかったら潰れてしまう。背負える程度のものならいいけど、どんな責任を背負うことになるのか分かりもしないし、見えもしないし…。
背負えるのかな、と俯いていたら、ハーレイが「どうした?」って訊いてくるから。
心配なんだ、って返事をした。
今度のぼくはどんな責任を背負うんだろう、って。
ネクタイを締めて、スーツを着て。
どんな責任を背負って歩くんだろうと、背負い切れなったらどうしようか、と。
「背負わなくていいさ」
「えっ?」
ハーレイがまるで挨拶みたいに簡単に投げて寄越した言葉。ぼくの重たすぎる疑問に答えるには軽い、あまりに軽すぎる言葉なんだけれど。
でも、そう言ってのけたハーレイの鳶色の瞳は優しくて深くて、真剣なもの。
冗談なんかを口にするには相応しくない瞳の色。
「お前は何も背負わなくていいさ」
ハーレイはもう一度、念を押すように言って笑顔になった。
「責任なんかは背負わなくっていいんだ、今度のお前は」
もしもお前が仕事をしたいと思うんだったら、俺は止めない。
どんな仕事でも、やりたいことなら好きなだけやって責任も背負え。
…だがな、やりたいことが無いなら俺の嫁さんだけをやってりゃいい。
俺と暮らして俺を見送って、ただ出迎えてくれればいい。お前の責任はそれだけだ。
「…でも…」
それって、ちょっとあんまり過ぎない?
無責任にも程があるって気がするんだけど…。
「馬鹿」
それでいいんだ、と頭をポンと叩かれた。
「前のお前は普通の人の何人分を働いたんだ? 今度はゆっくり休んでおけ」
今度のお前は休むのが仕事だ、どうしても仕事をしたいのならな。責任も休むことだけだ。その程度だったら背負えるだろうが、寝転がっていたって背負えるからな。
「だけど、ハーレイは今度も仕事をしているのに…」
キャプテンの制服は着ていないけれど、ネクタイを締めて先生だよ?
ハーレイはちゃんと仕事をしてるし、責任だって前と同じで背負っているのに。
「俺はいいのさ、好きな仕事に好きな部活の顧問だからな」
それで給料を貰えているんだ、キャプテンよりも充実してるぞ。
キャプテンは責任ばかり重くて無給だったぞ、前のお前も給料無しだが…。
そいつを思えば今の仕事は俺にとっては遊びと変わらん。
「本当に?」
「ああ。趣味が仕事になったようなもんだ」
古典の教師が俺の趣味と見事に重なってるのは、普段から見てりゃ分かるだろ?
柔道部の顧問も趣味の世界だし、他の学校でやってた水泳部の顧問だって同じだ。
今の俺には楽しい仕事で、責任も大したことじゃないのさ。
生徒を預かる立場ではあるが、何処からも攻撃は来ないしな?
シャングリラのキャプテンをやってた頃には、俺がミスをしたら船中の仲間の命が無かった。
前のお前が眠ってた間も、どれだけ危ない橋を渡ったか…。
三連恒星の重力干渉点からワープするなんて荒技までやっていたんだぞ?
太陽に投身自殺する気かとゼルに怒鳴られたりしたっけなあ……。
そして…、とハーレイはぼくの大好きな笑顔で笑いかけてくれた。
「お前が嫁に来てくれるんなら、嫁さんのために頑張れる、ってな」
お前のお父さんだってそうだろうが。
お母さんとお前のためにって仕事に出掛けているんだろう?
嫌そうに見えるか、お父さんの背中。
それと同じだ、大事な人が居てくれるだけで責任もグンと軽くなるのさ、身体の底から力が湧き上がってくるからな。
前のお前もそうじゃなかったか?
シャングリラの仲間を守るためなら、力が湧いて来なかったか?
そのせいでメギドまで行っちまったわけだな、あんなに弱ってフラフラだったくせにな。
「…そうだったかも…」
確かにハーレイの言う通りかも、と納得していたら。
「そうだろう? だから今度のお前はネクタイなんかは締めなくていい」
お前が締めたいと思わないならな、と大きな手で頭を撫でられた。
「お前は今度は責任なんかは背負わなくていい」
その分まで俺が背負ってやる。
お前ごと全部背負ってやるから、お前は俺の隣に居るだけでいい。
今度こそ俺が背負いたいんだ、前のお前を背負い切れなかった分までな…。
約束だぞ、と優しく笑ってくれたハーレイ。
ぼくごと背負うと、ぼくの責任まで全部自分が背負いたいのだと。
ネクタイは締めなくてもいいらしい、ぼく。
男としてはどうなんだろう、と思ったけれども、どうせハーレイのお嫁さん。
ハーレイが背負ってくれると言うんだったら、背負って貰って生きるのもいい。
やりたい何かが出てこない限り。
ネクタイを締めて、責任を背負って、やりたい何かが出てこない限り。
それに、今のぼくがやりたいものはお嫁さんだけ。
ハーレイのお嫁さんだけなんだから…。
ネクタイ・了
※ハーレイにネクタイを締めて貰ったブルー。けれど、育った後にも要らないネクタイ。
今度は責任を背負わなくてもいいのです。ハーレイの側にいれば、それで充分。
次回更新日の3月31日は、ブルー君のお誕生日です!
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ハーレイと二人、ぼくの部屋でのお昼御飯に天麩羅いろいろ。
ぼくとハーレイが再会してから、どのくらい経った頃だったろうか。休日にハーレイが家に来てくれて、パパとママも一緒の夕食の席。テーブルに揚げ立ての天麩羅があった。ハーレイがそれを見て言ったんだ。「シャングリラに天麩羅は無かったですね」と。
ぼくたちが生まれ変わって来た青い地球の上。
SD体制の頃には無かった様々な文化が復活していて、ぼくたちの住んでいる地域だと日本風。ずっと昔にこの地域に在った小さな島国、日本の文化を楽しみながら暮らしている。
天麩羅は日本にあった料理で、SD体制前の地球では有名だったらしいんだけど。人気も高くて日本以外の場所でも食べられたほどで、お寿司と併せて「スシ、テンプラ」って言われたくらいに代表的な料理だったらしいんだけれど…。
マザー・システムが支配する世界に地域色なんかは要らなかった。独自の文化も要らなかった。
そういったものは個性を作り出す。画一化された社会に個性は要らない。支配する側には個性は邪魔なものでしかない。誰もが判で押したように同じ思考を持つ方が便利。
ついでに特定の地域への愛着も必要なかった。地球への思慕さえあれば良かった。
その上、地球は滅びたままだったから。マザー・システムは「地球は元通りに復活している」と嘘をついていたから、地球の特定の地域を愛する人間が出てくると都合が悪い。そんな場所は全く存在しないのだから。
そうした理由で抹殺された地域の文化。人間は地球だけを慕えばいい。青い水の星だけを慕えばいい。その星にかつて何が在ったか、それはデータの形で残して夢だけ見させておけばいい。遠い昔はこうであったと、今の地球ではそうではないと。
広い宇宙に散らばった星を統治し、支配するためには画一的な文化がいい。統一された食生活や文化、前のぼくたちが「地球と同じだ」と信じて疑わなかった文化。
それを作り出すために幾つもの文化が、地域性が消され、誰も変だとは思わなかった。
マザー・システムから弾き出された、居場所の無かった前のぼくたちでさえも。
前のぼくとハーレイが暮らしたシャングリラ。白い鯨の形の楽園。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
船のデータベースから様々な情報を引き出していたし、SD体制よりも前の時代の本を読んだり歌を歌ったり、色々なことをしていたのに。
自給自足の生活のために食材も料理も調べていたのに、マザー・システムが作り上げた食文化の枠から外へは出られなかった。そんな発想は全く無かった。
多分、成人検査とその後の人体実験で奪われてしまった記憶よりも奥、無意識よりもずっと深い場所に刷り込まれてしまっていたんだろう。統一された文化に疑問を持たないように。他にも何かあるかもしれない、と決して考えないように。
それを考えると、ナスカで自然出産に挑んだジョミーは凄いと思う。機械が植え付けた意識へのコントロールを振り切り、誰も持たなかった異質な発想を勝ち取ったのだから。
(…ひょっとしたら、成人検査の途中で逃げ出せたからなのかな?)
前のぼくと違って、記憶を消されていなかったジョミー。その分、心が柔軟に出来ていたのかもしれない。前のぼくよりも自由な心を、縛られない心を持っていたかもしれない。
(だったら、やっぱりジョミーを選んで正解だったよ)
前のぼくより、断然、ジョミーの方が前向き。機械の支配を跳ね返せる分、ぼくよりも強い。
(…ジョミーだったら、お寿司と天麩羅にも挑めそうだよ)
そっちの方向へ行かなかっただけで、と可笑しくなった。
ジョミーが地球を目指すことに全力を傾けていなかったならば、有り得たかもしれない食文化の改革。自然出産の方が偉大だけれども、食文化だって大切だもの。
「どうした、ブルー?」
何を笑ってる、と向かいに座ったハーレイが不思議そうな顔をするから。
「天麩羅だな、って思ってた。…ハーレイが前に言ったから、ママ、天麩羅に凝ってるなって」
「そういや、今日のもこだわりだなあ…」
たかが俺たちの昼飯なんだが、とテーブルの上を眺めるハーレイ。
シャングリラに天麩羅は無かったという話を耳にして以来、ママは天麩羅の時は工夫を凝らす。ちょっと変わった食材を揚げたり、衣に抹茶を混ぜて緑色の天麩羅を作ってみたり。
今日は材料に凝っていると言うより、食べ方の方。天つゆじゃなくてお塩で食べる天麩羅。そのためのお塩を入れた小さな器がテーブルの上に整列していた。
普通のお塩だけじゃなくって、藻塩に岩塩。それから山椒粉や抹茶や七味唐辛子、柚子の皮の粉とかを混ぜたお塩の器。どれを付けて食べるかは、ぼくたちの自由。
「ママのこだわり、今日はお塩だね」
色々あるよ、と海老の天麩羅に抹茶のお塩を付けていたら。
「塩も色々だが、大元の塩がなあ…。実にバラエティー豊かだよなあ、シャングリラの頃には塩は一種類しか無かったのにな?」
もっとも抹茶も山椒粉も無かったんだが、とハーレイも天麩羅に七味入りのお塩を付けている。
「シャングリラは岩塩だったものね…」
前のぼくが食料を奪いに出ていた頃には、岩塩じゃないお塩もあったんだけれど。
自給自足の生活を始めるにあたって、岩塩が採れる星を探して採って、大量に船に積み込んだ。当分は塩に困らないよう、うんと沢山積み込んでおいた。
船の中での循環システムが上手くいったから、前のぼくが長い眠りに入ってしまう前にも岩塩は充分に残っていたんだけれど。ハーレイの話し方だと、最後まで岩塩だったみたいだから。
「前のぼくたちが採った岩塩、地球に着くまで残ってたとか?」
「うむ。アルテメシアを落としてから後なら、海の塩も補給出来たんだろうが…」
生憎と、キャプテンの俺にその発想が無かったからな。
前のお前が逝っちまった後は、ただ淡々と仕事をしていただけだしな?
アルテメシアでもノアでも、他の星でも海を見たのに、海の塩は考えなかったなあ…。
「そっか…」
前のぼくが死んでしまったせいで最後まで岩塩だったのか、と思ったけれど。
海で採れるお塩を味わい損ねた仲間たちには申し訳ないし、キャプテンだったハーレイの心から余裕を奪ってしまったことも申し訳ないと思ったんだけど…。
でも、お塩。
後生大事に岩塩を抱えていたシャングリラだけど、アルテメシアには海があったから。
「…アルテメシアの海のお塩も作りたかったな、やれば良かった」
きっと美味しいお塩が出来た、と言ったら「馬鹿」と返された。
「どれほどの海水が要るんだ、そいつから塩を作るのに」
「やっぱりダメ?」
「塩が全く無いなら別だが、岩塩が山ほどあったんだ。作る必要は無いだろう」
海水から塩を作り出すには思い切り手間がかかるんだ。
岩塩みたいに掘り出して終わりってわけじゃない。
海水を煮詰めて塩の結晶を作り出さんと、使える塩にはなってくれない。
やってみたいっていう軽い気持ちで挑むと絶対、後悔するぞ。
手間も時間もうんとかかるし、岩塩の方が遥かに楽だ。
岩塩は掘ってくれば直ぐに使える、とハーレイが言うとおり、手間要らずだった岩塩の塊。
不純物の混じったものがあっても、取り除く作業は簡単なもの。
それに比べると海のお塩は無駄が多すぎて無理があったか、と思っていたら。
「もっとも、わざわざ海水から塩を作って遊ぼう、って暇人も昔は居たらしいがな?」
「えっ?」
誰のことだろう、と首を捻ると、「SD体制よりもずっと昔さ」と答えが返った。
「百人一首に歌があるだろ、知らないか?」
来ぬ人を松帆の裏の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ、とな。
この歌を詠んだ人が塩作りの遊びをやってたかどうかは分からないが…。
そういう時代は遠い海から海水を運ばせて、自分の家の庭で塩を作って遊んでいたんだ。
塩釜っていう塩作り専用の釜まで庭に作らせてな。
「…そこまでやるの?」
「ああ。そいつは貴族の優雅な趣味だが、シャングリラでそういう塩は作れん」
「やれば出来たんじゃあ…」
「手間がかかると言ってるだろうが、効率ってヤツが悪すぎだ」
それともお前が趣味でやるのか、ずっと昔の貴族みたいに?
前のお前は確かに基本は暇だったけどな。
ソルジャーとしての役目がある時以外は、暇にしていた前の生のぼく。
キャプテンだったハーレイは常に仕事があったけれども、ぼくはのんびりしていたから。
皆の命を預かるという点ではハーレイと全く同じだった割に、仕事の無い日が多かった。仕事が無いからと保育部に出掛けて、子供たちと遊んでいたほどに。保育部のクルーの手伝いだか、補助だか。それを日常にしていたくらいに…。
そんなぼくだったから、暇はたっぷり。海水からお塩を作る遊びにかかる時間には困らない。
「えーっと…。青の間で塩釜?」
「燃料によっては煙が出るが…。換気設備は完璧だったし、出来んことはない」
大量の海水も前のお前なら軽いもんだろうが、いくらでも調達出来たよな?
「うん。どうせだったら、青の間の水。あれを全部、海水にしておいて毎日、塩釜」
きっと沢山のお塩が作れたよ。
ぼくが暇な時に作る分だけで、月に一回くらいは海のお塩で料理が出来たかも…。
青の間の水って、海水に変えてもシャングリラに影響は出なかったよね?
「うーむ…」
ハーレイは腕組みをして、少し考え込んで。
「青の間の水はあの中だけで循環してたし、海水に変えても影響は無いが…」
海水にすることに意味があるのか、前のお前が塩釜で塩を作る以外に?
「真水でも海水でも、どっちでも良かったんだと思うんだけど…」
青の間の水、非常用の貯水槽でも何でもないよ?
ぼくのサイオンが水と相性が良さそうだから、って水だらけの部屋になっただけだよ。
それに半分以上は見た目重視の部屋だよね、あそこ。
海水に変えて塩釜をやっても、問題なかったと思わない?
「使い道としては無問題だろうが、海水って所が問題だな」
「腐食とか? そういうコーティングは完璧だったんじゃないの、シャングリラは」
宇宙には腐食性のガスとかもあるから、対策には念を入れていた筈。
ぼくのベッドの枠とかだって、耐久性に優れた素材。
青の間の水が海水に入れ替わってしまっても大丈夫だと思ったんだけど。
「潮風だ、潮風」
お前のベッドのリネン類まで潮臭くなるぞ、と真顔で言われた。
真水だったから何の匂いもしなかっただけで、海水だとそうはいかないと。
青の間が潮臭くなってしまう、と指摘された海水。
だけど塩水。しょっぱいだけの水で、真水と変わらないんじゃないかと思う。
今、天麩羅に付けてるお塩も、抹茶とか七味唐辛子が混ざってなければ匂いは無いと思うから。
「海水ってそんなに匂いがしたっけ?」
ただの塩水だよ、と言ったんだけど。
「潮臭いだろうが。ただの塩水とは違うんだぞ」
岩塩を真水に溶かすのとは全く違うんだ。
アルテメシアの海の水を持って来ようというなら、そういうことだ。
「…そういえば潮の匂いがしてたよ、海の側だと」
「忘れてたのか、お前? 潮の匂いを」
海水浴に行ったら嫌というほど潮風の匂いがするだろうが。
塩の他にも色々なものが入っているから、ああいう匂いがするんだな。
「…ぼくは海水浴はあんまり…」
「チビの頃に行ってただけだったか?」
「うん。…ぼく、長い間は入っていられないしね、海もプールも」
だから殆ど忘れちゃってた、潮風の匂い。
青の間が潮臭くなってしまったらちょっと困るかな、ぼくはいいけどゼルとかが。
会議とかで来る度に「変な匂いだ」って言い出しそう。潮風の匂い、みんな記憶に無いものね。
「それを言うなら前の俺だって同じだな」
何の匂いですか、と質問しそうだ。
今の俺だと海も潮風も馴染みの深いものだが、前の俺は全く知らないんだしな。
変な匂いだと言われてしまうらしい、潮風の匂い。
潮風だけでその有様だと、前のぼくが塩釜をやっていたなら変な趣味だと思われるだろう。
岩塩は充分足りているのに、青の間を変な匂いで満たして、時間をかけて塩まで作って。
美味しいお塩が出来ていたなら理解も得られそうだけど…。海水から出来たお塩は味が違うと、青の間は変な匂いがするけど、美味しいお塩が出来る場所だと。
「…前のぼくが青の間で塩釜をやったら、美味しいお塩が出来てたと思う?」
「出来たんじゃないか? …ちゃんと作れば」
美味い塩が売りの場所もあるしな、今の時代は。
この藻塩とかもそうだぞ、きちんと海水を汲み上げて作っているからな。
藻塩ってヤツはだ、ただ海水っていうんじゃなくって海藻も使う。
潮風の匂いの原因の一つだ、海藻はな。
海に生えている海藻が波に乗って、空気に触れて。その海藻から漂う匂いも潮風の匂い。海藻の他にも小さな小さなプランクトンとか、色々なものが混ざって混じって、潮風になる。お塩を水に溶かしたものとは全く違った匂いになる。
ハーレイが言うには、藻塩を作るのに使う海藻はホンダワラ。昔の貴族が遊びでやってた塩釜に使っていたかどうかはともかく、今は塩釜にはホンダワラらしい。
海水を煮詰めてお塩を作るための大きな釜。その上にホンダワラをたっぷりと乗っけて、上から海水を注いで、かけて。その過程で美味しい藻塩のための成分が出来るらしいんだけど…。
塩釜は其処から先が大変。
釜一杯の海水を何時間もかけてゆっくり煮詰めて、それから冷ます。釜ごと水に浸けるのも風を送って冷やすのも駄目で、自然に冷めてゆくのを待つ。
そうしたら釜の中に勝手に出来てくるという、大きなサイズの塩の結晶。角砂糖よりもずうっと大きな、三センチくらいもあるような結晶。
その結晶でもいいんだけれども、美味しい藻塩を作りたかったら、結晶が出来た後の上澄み。
それを掬って釜で煮詰めて、やっと藻塩の出来上がり。丸一日はかかるという藻塩。
手間は沢山かかりそうだけど、面白いな、と聞き入っていたら。
「おい。…前のお前は海水から塩を作り損ねたが、塩釜、やるか?」
やってみたいか、とハーレイに訊かれた。
「塩釜って…。何処で?」
ぼくの家の庭でやるんだろうか、と目を丸くしたら。
「いつか俺と一緒に海で、だ」
「海!?」
ハーレイと一緒に海で塩釜。凄く素敵だと思ったけれども、海と言ったら海水浴の季節。
「…楽しそうだけど、夏は暑そうだよ?」
ぼく、暑い季節は苦手なんだよ。暑いのがダメなの、知ってるくせに…。
「もちろん承知だ。だから暑くない季節でないといかんな、春とか秋とか」
塩釜をやるのにピッタリのシーズンに出掛けないとな?
それから美味い魚も釣らないと。
海辺で塩でバーベキューだ。
せっかく藻塩を作るからには、海の見える場所で味見しないとな?
「わあっ…!」
なんて素敵なアイデアだろう。
藻塩を作るってだけじゃなくって、バーベキュー。
塩釜で作ったお塩を使って、ハーレイが釣った美味しい魚でバーベキュー…。
お塩だけを使ったバーベキューでも美味しそう、と思った所で気が付いた。
バーベキューで焼くもの、魚の他にも海の中には棲んでいる筈。水泳が得意なハーレイが潜って獲れそうな貝とか、ウニだとか…。
これは絶対に焼いて食べなくちゃ、と強請ることにした。
「ハーレイ、バーベキューには魚だけなの? 潜って獲って来てくれないの?」
サザエとかアワビ。
ウニだっているし、焼いてお塩を振っただけでも美味しそうだよ。
「おいおい、潜るって…。夏じゃなくって、塩釜が出来る季節にか?」
「シールドを張ったら寒くないと思うよ?」
「そう来たか…」
まあ、サーファーなんかは年中いるしな、海に入っても変な顔は誰もしないと思うが…。
それにだ、俺は寒中水泳だってやっていたから、短時間ならシールドは要らん。
お前が獲って欲しいと言うなら、アワビもサザエも獲って来てやるぞ。
そういや、お前、ウニは憧れだったんだよな?
前のお前は栗のイガを見ては、ウニが食いたいって言ってたもんなあ…。
よし、とハーレイはバーベキューにするウニとかも獲ると約束してくれて。
「そうだ、俺の親父も一緒に出掛けるか?」
釣り名人だから色々と釣ってくれるぞ、お前の師匠にもなってくれるさ。
お前のためにと新しい釣竿も買って来そうだ、仕掛けもあれこれ作ってな。
「えーっと…」
ハーレイのお父さんと釣りをするのは楽しそうだけれど。
新品の釣竿でハーレイも一緒に、ハーレイのお父さんと並んで釣るのも良さそうだけど…。
わざわざ海まで出掛けてゆくのに、大問題が一つ。
「ハーレイのお父さんと一緒じゃ、ハーレイと二人でくっついてられない…」
「宿の部屋は別にしてやるさ。塩釜をやるには泊まりがけでないとな」
丸一日はかかると言ったろ、釣りをしながら塩釜の番だ。
煮詰めたのを冷ます間はともかく、煮詰める間は誰かが釜についていないと。
そうなると適任は俺のおふくろだ、俺たちが釣りに出掛ける間も見ていてくれるぞ。
親父とおふくろを連れて行ったら実に便利だと思わんか?
それにだ、お前、いつまで俺にくっつくつもりだ。
「一生だよ!」
決まってるよ、と答えたぼく。
どんなにハーレイと一緒に居たって、くっついてたって、飽きることなんて有り得ない。
満足だってきっとしないし、いつまでだって、一生だって…。
でも…、と、ぼくは考えた。
いつまでもくっついていたいと思うハーレイだけれど、ハーレイのお父さんは釣り名人。釣りが大好きで、小さなぼくを釣りに連れて行きたいと言ってくれた人。
優しい、ハーレイのお父さん。隣町の庭に夏ミカンの大きな木がある家に住んでいるお父さん。そのお父さんも一緒に釣りに行くのもいいかもしれない。ハーレイの子供時代の話なんかも色々と聞けそうな気がしてきたから。
「んーと…。ハーレイのお父さんとも行きたいかな、釣り」
「おっ、そうか? 親父は楽しみにしているからなあ、お前を釣りに連れて行くのを」
いつか絶対に連れて行くぞ、と今から計画を練っているんだ。
まずは川で釣って、慣れたら海にも行こうとな。
それにキャンプ場だって諦めていないぞ、何処がいいかと思案中だし…。
俺たちが塩釜をやると言ったら勇んで来そうだ、そういうのは親父もおふくろも好きだ。
賑やかに家族旅行といこうじゃないか。
「家族旅行かあ…」
それならぼくのパパとママも、と言ってしまってから「うーん…」と唸った。
「ハーレイのお父さんとお母さんに、ぼくのパパとママと…。人数、多すぎ!」
ホントにハーレイとくっつけないよ。
そんなに大勢で一緒に行ったら、くっついてる暇が全然ないよ…。
「お前なあ…。本当にいつまで俺にくっつきたいと…」
「一生だってば!」
さっきも言ったけど、一生、くっつく。
一生、ハーレイにくっついていたいよ、前のぼくがくっつき損ねた分まで…。
だから、とぼくはハーレイに言った。
「パパやママが見てても平気でキスが出来るようになったら、みんなで塩釜」
気にせずにくっついていられるくらいに平気になったら、みんなで家族旅行に行こうよ。
それまではハーレイと二人がいい。
ちょっと面倒でも、ハーレイと二人で塩釜で藻塩を作るんだよ。
「俺を独占したいってか?」
欲張りめが、と軽く睨まれたけれど、怒ってないってちゃんと分かるから。
「だって、ハーレイはぼくのハーレイだよ?」
そして、ぼくはハーレイのものなんだよ。
だからずうっと二人がいいんだってば、基本は二人。
「ふむ…。お前も俺のものだと言うなら、それでもいいか…」
俺もお前を存分に独占したいしな?
早くお前を連れて来い、と何度も言ってる親父とおふくろに取られんようにな。
「ね、ハーレイだってそう思うでしょ?」
でもね…。
ぼくはパパとママに取られっぱなしなんだよ、ハーレイを。
晩御飯の度に取られちゃうんだ、パパとママに取られてしまうんだよ…。
「仕方ないだろ、俺は「ハーレイ先生」なんだ」
お母さんたちに悪気は全然無いんだ、俺がお前の相手で疲れただろうと気遣ってくれてる。
晩飯の間くらいは大人と喋りたいだろう、と俺と話をしてくれるんだ。
いくらお前が元はソルジャー・ブルーだと言っても、今は立派な子供だからな。
「…そうなんだけど…」
それは分かっているんだけれど、とぼくは大きな溜息をついた。
ハーレイのためにと天麩羅を揚げてくれたママ。何種類ものお塩を用意してくれたママ。パパも優しいし、文句なんか言ったら罰が当たるというものだけど。
「でも…。早くハーレイを独占したいよ、ハーレイの時間をぼくが独占」
「俺もなんだが…。道は長いぞ?」
まだまだ我慢の日々が続くぞ、と脅されたから。
「十八歳になったら結婚出来るよ、それまでの我慢」
「その前にだ。お前と結婚出来るよう、お前のお父さんたちに申し込まんといかんのだが…」
お許しを貰えるのはいつになるやら…。
いきなり「出て行け」とか「帰れ」と放り出されるかもなあ、お前の家から。
「ハーレイがうんと頑張ってよ。そういうのは大人の役目だと思うよ」
ぼくは子供だから、待ってるだけ。許して貰えるまで待ってるだけ…。
「こらっ! お前も結婚出来る年なんだろうが、俺と一緒に努力をしろ!」
「お酒が飲めない子供だよ、まだ。二十歳までお酒は飲めないよ」
だから大人はハーレイだけだよ、ハーレイがうんと頑張らなくちゃ。
「………。都合のいい時だけ子供なのか、お前」
なんてヤツだ、とハーレイは両手を広げてお手上げのポーズを取ったけれども。
そうやって呆れ顔をしてくれたくせに、目だけは優しく笑っていて。
「まあいいが……な」
子供なんだな、と唇にも浮かんだ小さな微笑み。
それが綻んで笑顔になった。ぼくの大好きな笑顔のハーレイ。
笑顔で天麩羅をお箸で摘んで、器の藻塩をチョイチョイと付けて。
「藻塩、二人で作りに行こうな、結婚したら」
まずは二人で藻塩作りで、いずれは家族旅行で賑やかに塩釜やるんだな?
「うんっ!」
二人きりで塩釜をする時も、魚を釣ってバーベキューだよ?
ぼくは塩釜の番をしてるから、ハーレイが釣って、貝とウニも獲ってね。
うんと美味しい藻塩が出来たら、魚とかに振って食べようね?
「…お前は塩釜の番をするだけか? ずいぶんと人使いの荒いヤツだな」
「えっ? ハーレイも塩釜の番をするでしょ、交代で?」
「俺をそこまでこき使う気か…!」
塩釜なんか教えるんじゃなかった、とハーレイは大袈裟に天井を仰いでいるけれど。
本当はとても嬉しいんだってこと、顔を見てれば簡単に分かる。
いつかはハーレイと二人で塩釜。
パパやママが一緒でも平気になったら、ハーレイにくっついて家族旅行で、みんなで塩釜。
そんな日が早く来るといい。
海辺でのんびり塩釜をやって、美味しい藻塩を作れる日が……。
塩と塩釜・了
※シャングリラでは岩塩だった塩。海水から採れる塩は使っていなかったらしいです。
青の間で塩釜も凄いですけど、今の時代なら、のんびりゆっくり塩釜で遊べそうですね。
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「うーん…」
休日の朝、目覚めたブルーは鏡に映った自分の姿に溜息をついた。
ピョコンと跳ねてしまった頭の天辺、髪の一房。銀色の髪がピンと真上に立ち上がっている。
(間抜けだよ、これ…)
好き勝手な方向に跳ねているようにも見えるブルーの髪だが、ちゃんと決まった方向があった。髪を切りに行けば理容師が丁寧に癖を見極めながらカットし、整えていた。
前の生では名前など無かった髪型だけれど、今の時代は「ソルジャー・ブルー風」という立派な名前が付いてしまって、町を歩くと同じ髪型をたまに見かける。それだけに妙な風に跳ねると寝癖なのだと一目で分かるし、それが悩ましい点でもあって。
(…ジョミーだったら普通なんだけどなあ…)
コレ、とブルーは跳ねた髪の毛を引っ張った。
前の自分が見付けた後継者のジョミー・マーキス・シン。性格をそっくり表したような金の髪は明るく、光そのもの。ブルーよりも短かった彼の髪だが、何故か一房跳ねていたものだ。
(多分、寝癖じゃないんだよね?)
ああいう髪の癖なんだよね、とブルーは思う。十五年もの長い眠りから覚めて出会った、青年の姿に育ったジョミー。その髪もやはり一房ピョコンと跳ね上がっていた。
それがジョミーのお決まりの髪型だったから、今も何枚も残る写真はそういう髪。男性も女性も「ソルジャー・シン風」だの「ジョミー・マーキス・シン風」だのと真似たがる。
(アレだったら跳ねてても普通なのに…)
この状態が普通なのに、と寝癖のついた髪を引っ張るブルーは知らない。ジョミーと同じ髪型の人たちが「ピョコンと一房」跳ねさせるために毎朝努力していることを。どの辺りを上手く真上に向かって跳ねさせようかと、鏡に向かっていることを…。
ジョミーだったら「普通」だとブルーが信じる寝癖。跳ね上がってしまった自分の髪。
それは「ソルジャー・ブルー風」の髪型では変にしか見えず、とにかく寝癖を直すしかない。
(うー…)
前の自分の髪もよく跳ねていたが、前のブルーなら何でもなかった。サイオンで直せば良かっただけ。サイオンを宿らせた指で軽く撫でれば良かっただけ。
しかし今では事情が違った。とことん不器用になってしまったブルーのサイオン。寝癖を直せる技などは無くて、撫でたって何も起こらない。
(…全然ダメだよ…)
こんな風に、と理想のスタイルを思い描きながら何度撫でても、髪はピョコンと跳ねたまま。
ブラシを握って梳いてみても無駄、ブラシを濡らして梳いてみても駄目。
(直らないよ…)
休日で時間はたっぷりあるから、と努力したものの成果はゼロで。
(…やっぱりママに頼まなくっちゃ…)
登校する日についた寝癖は母が蒸しタオルを使って直してくれるから、そうして貰おうと階下に下りて行ったのに。
「あれっ、ママは?」
焼き立てのトーストの匂いが漂うダイニングに母は見当たらなかった。父だけが新聞を手にしてテーブルに着いて、空いた方の手には齧りかけのトースト。
父が食べている目玉焼きとソーセージが乗っかった皿も、ブルー用の小さなオムレツもきちんと用意されているし、サラダを盛り付けたボウルもあるのに。ハーレイに貰ったマーマレードの瓶も置かれているのに、母の分の皿は何処にも無い。
代わりに自分で焼けとばかりに皿に載せられたスライスしたパン。厚みは明らかにブルー用。
母は何処に、と見回すブルーに父が新聞から顔を上げて言った。
「ママなら朝市に出掛けて行ったぞ。朝刊にチラシが入っていたんだ」
たまに来るだろ、郊外の農場の販売車。
新鮮な野菜も果物もあるって書いてあったし、いそいそとな。
「そうなんだ…。いつ帰るかな?」
「さあな? 朝御飯は其処にあるだろう」
オムレツは軽く温め直して、トーストは焦げ過ぎないように気を付けろよ。
バターは其処で、ハーレイ先生のマーマレードも此処にあるから。
父の言葉通り、オムレツを温め、トーストを焼いて。
背が伸びるようにと毎朝飲んでいるミルクも冷蔵庫から出してカップに注いだ。食べている間に母が戻ってくるであろう、とトーストにマーマレードをたっぷりと塗って齧っているのに。
「…ママ、まだかなあ?」
一向に帰って来ない母。壁の時計の針が進んでゆく。一時間もすれば多分、ハーレイが来る。
(こんな頭じゃ困るんだけど…)
とても困る、と母の帰りを待ち侘びながら「まだかなあ?」と何度も繰り返して。
「もうすぐハーレイが来ちゃうよ、パパ」
「そりゃそうだろうさ。そのために朝市に行ったんだぞ、ママは」
ハーレイ先生に美味しい食事をお出ししたい、ってな。
おいでになる時間には間に合うように帰ってくると言っていたから心配しなくても大丈夫だぞ。
「えーっ!?」
心配事は其処ではない、とブルーは悲鳴にも似た叫びを上げた。
ハーレイに出すお茶は間に合うだろうが、間に合わないかもしれない自分の頭。
しっかりと寝癖がついてしまった自分の頭…。
一人息子の素っ頓狂な声に、父は新聞をバサリと閉じると向き直った。
「どうした、ブルー?」
「…ぼくの髪の毛…」
この世の終わりのような顔で跳ねた毛先を指差すブルーだったが、父は事も無げに。
「寝癖か、自分で直せるだろう?」
「…パパ、直せないの、知ってるくせに…」
恨めしそうに上目遣いで父を睨めば、「はははっ」と笑い声が返った。
「そのままでいいだろ、いらっしゃるのはハーレイ先生なんだから」
校長先生とかじゃないしな?
それにお前のために来て下さるんだ、何も問題ないだろう?
たまにはありのままのお前の姿を見て貰え、と父は涼しい顔だけれども。
(ありのまま過ぎて笑われるんだよ!)
ハーレイは前の自分の寝癖を知っている。
ソルジャー・ブルーの髪が朝にはどうなっていたか、どんな具合に跳ねていたのか。
それに寝癖をサイオンで簡単に直したことも。
(…ぼくが不器用なの、これ以上バラしたくないんだってば…)
たかが髪の毛、たかが寝癖のほんの一房。
けれどブルーにとっては大問題で、何としても寝癖を直したかった。
ピョコンと跳ね上がった一房の髪を、ハーレイがやって来る前に。
まだか、まだかと時計を見ながらオムレツを食べて、トーストも食べて。サラダもミルクも胃に収めたのに、母は戻って来なかった。
朝市の場所は近所の公園。其処で出会ったご近所さんと話が弾んでいるのだろう。
(…ママ、ギリギリまで帰らないかも…)
ハーレイが来る日だと知っているのだし、時計も持って出掛けた筈。何時に戻れば来客のための準備が出来るか、母は充分に分かっている。そして準備に必要な時間の中にはブルーの寝癖を直す時間は含まれていない。
(…ママが帰って来ても、直して貰う時間は無いかも…)
どうやって直すんだったかな、とブルーは母の手順を頭の中で追ってみた。
(えーっと…)
まずは必須の蒸しタオル。
母は給湯器から出る一番熱い湯を使っていた。火傷しないよう気を付けて絞り、湯気が立つ間にブルーの頭に載せていた。
そう、ピョコンと跳ねてしまった辺りに。
(うん、乗っければいいんだよね!)
後は何度かタオルを外して跳ね具合をチェックしていたと思う。
ちょうどいい具合に髪が収まるまで、寝癖がついた辺りをタオルの熱で温めながら。
(蒸しタオル…)
ついでだから、と父と自分が使った食器の後片付けをして、テーブルを拭いた。それから仕事に取り掛かる。キッチンの蛇口から出る湯の温度の目盛りを最高まで上げて、タオルを濡らして。
「あつっ…!」
手にシールドを張れないブルーには熱すぎる温度。絞るだけでも一苦労だった。
ともあれ、蒸しタオルはこれで出来上がったから。
(…こんなものかな?)
ホカホカと湯気を立てるタオルを頭に載せると、ダイニングへと戻って行った。
(少ししたら外して、ちょっと見てみて…)
ダイニングの壁には小さな鏡が掛かっているから、それを覗けばいいだろう。待ち時間はどんなものだったろうか、と考えながら遊ばせた視線の先。
(あっ!)
父が再び広げていた新聞に可愛らしい猫の写真を見付けた。読者投稿欄のペットの写真。
(ミーシャだ…!)
カメラの方を向いてチョコンと座った真っ白な猫。ハーレイの母が飼っていたというミーシャにそっくりな白い猫の写真。
「パパ、ちょっと見せて!」
父の肩越しに覗き込んでみると、写真の猫の名前も奇しくもミーシャ。
(猫のミーシャだ…)
ハーレイの母が飼っていたミーシャはずうっと昔に死んでしまっていないけれども、ハーレイが色々と思い出話をしてくれる。
甘えん坊な所がブルーに似ている、などと懐かしそうに目を細めて。
(本物じゃないけど、本物のミーシャ…)
いいな、とブルーは夢中でミーシャの写真とセットの投稿を読んだ。まるでハーレイが過ごした子供時代を見ているよう。投稿者は子供ではなかったけれども、猫と飼い主との素敵な触れ合い。
(ホントにミーシャにそっくりだよ)
家族全員で可愛がっているという甘えん坊のミーシャ。
子供の頃のハーレイもきっと、こんな風にミーシャと過ごしたのだろう…。
うっとりと想像の世界に浸っていたブルーは、父が呼ぶ声で我に返った。
「ブルー、蒸しタオル、載せすぎじゃないか?」
「えっ?」
忘れ果てていた、頭の上に載せた蒸しタオル。熱すぎるほどだった熱はとっくに無い。
(大変…!)
まさか、と覗き込んだダイニングの壁に掛かった鏡の中。
(……嘘……)
呆然と赤い瞳を見開く。
ピョコンと跳ねていた一房は無かったけれども、頭は見事にペシャンコだった。いつもふわりと広がっている筈の銀色の髪が頭の上だけペシャリと平らにへしゃげている。ソルジャー・ブルー風どころか、何が何だか分からない髪型。何処から見ても可笑しな髪型。
ブルーは半ばパニックになって、慌てて父に助けを求めた。
「どうしよう、パパ…! これ、直せない?」
「うーん…。シャンプーしてブローしないと無理なんじゃないか、それは?」
お前、タオルでしっかり蒸しちまったろう。
そう簡単には直らないぞ、きっと。
「パパのサイオンとかは?」
「出来んこともないが、パパの髪の毛じゃないからなあ…」
失敗したらどうするんだ。パパには加減が分からないからな。
「…そんな……」
どうしたらいいの、と泣きそうになった所へ母が帰って来た音がしたから。
ブルーは急いで玄関の方へと駆けて行った。
買い込んだ荷物が多かったらしく、勝手口には回らないで玄関の扉から入って来た母。ブルーの住む地域は家の中では靴を履かないから、玄関の床は土足の場所より一段高くなっている。其処に敷かれた絨毯の上に、野菜や果物が詰まった袋。
普段のブルーなら母を手伝って荷物を奥へと運ぶけれども、今はそれどころの話ではなかった。
「ママ!」
見てよ、と袋を持とうともせずに自分の頭を指差した。母はまだ靴を脱いでいる最中なのに。
「ぼくの髪の毛、大変なことになっちゃった…!」
「あらあら、すっかりペッシャンコねえ…」
何をしたの、と上がってブルーを見下ろす母。身長が未だに百五十センチしかないブルーよりも母の方が背が高いから、自然とそういう形になる。
「寝癖を直そうとして失敗しちゃった…」
ママがなかなか帰って来ないから、蒸しタオル、自分で作ったんだよ。
だけど頭に乗っける時間が長すぎちゃった…。
「そうだったの? でもねえ、ブルー」
美味しそうな野菜と果物を沢山買ったわ、お昼も夜も御馳走よ。
ハーレイ先生もいらっしゃるから、ママ、張り切ってお料理するわね。
「それより、ママ…!」
ぼくの頭、と訴えた時にチャイムが鳴った。母が「あら?」と客人を映し出す画面を見て。
「いらっしゃったわ、ハーレイ先生」
ブルー、荷物をキッチンに持って行っておいて。
ママは門扉を開けに行くから。
「え? えええっ?」
母は靴を履き直して出て行ってしまい、ブルーは一人残された。
(ハーレイ、来ちゃった…!)
頭はペシャンコのままなのに。
玄関には野菜と果物が詰まった袋が置かれて、それを運ばねばならないのに。
髪を直して貰うどころか、母の手伝いをする間に時間切れだなんて…!
「…ふうむ。それでペシャンコになっちまった、と」
ハーレイは二階の自室に逃げ帰っていたブルーを見るなり吹き出したけれど、声を上げて笑いはしなかった。流石は大人と言うべきだろうか、「すまん」と謝り、いつも通りに挨拶もしてくれたけれども。
ブルーの母がお茶とお菓子を置いて去るなり、ハーレイの顔から教師の威厳は吹き飛んだ。目の前のブルーのペシャンコになった頭をしげしげと眺め、クックッと懸命に笑いを堪える。
大きな身体を二つに曲げんばかりにして肩を震わせるハーレイの姿にブルーは唇を尖らせ、今に至るまでの事情を説明したというのに止まらない笑い。
だから頬っぺたをプウッと膨らませ、悲劇の原因を改めて口にした。
「本当にミーシャだったんだよ! ちゃんと真っ白の!」
それに本物のミーシャみたいに甘えん坊で。
お魚だって生は嫌いで、焼いてくれってトコまでそっくり…。
「おいおい、ミーシャのせいにしないでくれ。それはお前の不注意ってヤツだ」
蒸しタオルを載せてる間くらいは時間に注意していろ。
よそ見をするからそんなことになる。
実に間抜けとしか言いようがないぞ、お前の髪型。
とんだソルジャー・ブルーもあったもんだ、とハーレイが笑い続けるから。
笑われてもペシャンコになった頭はどうにも元に戻せないから、ブルーは仏頂面で尋ねる。
「…ハーレイ、ぼくのこと笑ってるけど、ハーレイは寝癖つかないの?」
「お前、その辺はよくよく知ってる筈だよな?」
前と同じだ、何も変わらん。
キャプテン・ハーレイも俺も寝癖は同じだ。
「逆立つんだっけ?」
確かツンツン立っていたな、とブルーは遠い記憶の底を探った。
青の間のベッドで眠っていた時も、ハーレイの部屋に泊まった時にも、寝癖がついたら逆立っていたと記憶している。短い髪を両手でかき混ぜ、指で上へと伸ばしたように。
「その通りだが、俺の場合はブラシで何回か梳けば直るぞ」
髪質の違いというヤツだな。
それにブラシで直せなければ、スタイリング剤を使うって手もあるし。
「ずるい!」
なんでハーレイはブラシだけで直せてしまうわけ?
おまけに直す薬っていうの?
そんなのまでちゃんとあるなんて、ずるい!
不公平だ、とブルーは頬を膨らませた。
自分は寝癖も直せなくなってしまったというのに、何故ハーレイは前と同じで直せるのかと。
二人で地球に生まれて来たのに、どうして違いが出て来るのかと。
ハーレイは「お前なあ…」と呆れ顔でブルーの苦情を聞いていたけれど、ふと思い付いたように褐色の大きな手を伸ばして。
「じゃあ、こんな髪の方がいいのか、お前」
ブルーの銀色の髪に指を差し入れ、前髪を額の上へと梳きながら。
「今の髪型よりコレにしとくか? どうなんだ、ブルー?」
こんな感じで、と何度か撫でられたブルーの髪はオールバックになっていた。
何か変だ、と気付いたブルーが鏡を覗けば、其処にはペシャンコよりも酷い頭の自分が居て。
「ハーレイ、これ…!」
「ん? 俺の髪型と同じヤツだが、文句があるのか?」
お前の大好きなお揃いってヤツだ。
キャプテン・ハーレイ風と呼ぶには少し長いが、悪くないだろう?
「……こんなお揃い……」
酷い、とブルーは鏡の向こうの別人のような自分を見詰めた。
好き勝手な方へ跳ねているようでも、ソルジャー・ブルー風の髪型はそうではないのに。たった一房の髪が真上に跳ねただけでも変になるのに、オールバック。
いくら大好きなハーレイとお揃いであっても、これだけは御免蒙りたかった。この髪型を作った理容師の方をクルリと振り向き、「直してよ!」と突っかかってゆく。
「直してよったら、嫌だよ、こんなの!」
ねえ、とハーレイが腰掛ける椅子の脇に膝を付き、広い胸を、逞しい腕や足をポカポカと叩いて頼んでいるのに、悠然としている酷い理容師。「知らんな」と素知らぬ顔の理容師。
「ママに見られたら笑われるよ…!」
「お前、そのママにいつも頼んでるんだろ、寝癖直しを?」
ハーレイ先生にやられたと言っとけ。
生憎と俺にも直せんからなあ、お前の寝癖は。
お母さんに頼んで直して貰うのがいいと思うぞ、蒸しタオルで。
それが一番確実なのさ、とハーレイはブルーの悲惨な頭を笑いながら眺めているものだから。
「ホントは上手に直せるくせに!」
大嘘つき、とブルーは自分の髪型を変えてしまった理容師の腕を、胸を叩いた。
「コレが出来たんだから、絶対、直せる!」
直せないだなんて、嘘なんだから!
嘘に決まっているんだから…!
お茶もお菓子もそっちのけにして、ポカポカ叩いて、叩き続けて。
ようやっとハーレイが「仕方ないな」とブルーの髪に手を伸ばすまではかなりかかった。褐色の指がそうっとそうっと髪を解きほぐし、ゆっくりと梳いて。
「…どうだ、こんなもんか?」
鏡を見て来い。
ついでにペシャンコも直しておいたぞ、ソルジャー・ブルー風になったと思うがな?
「えーっと…」
立ち上がって鏡を覗きに行ったブルーは驚いた。オールバックの髪の自分は何処にも居なくて、代わりに普段とまるで同じ姿。ペシャンコになった髪はもとより、ピョコンと跳ねていた寝癖まで綺麗に直っている。
「…凄い……」
ホントに凄い、と感嘆するブルー。
「今度のハーレイ、器用なんだ…」
「違うぞ、前の俺だった頃から出来たぞ?」
変わっていないと言っただろうが。
寝癖も髪質も、寝癖直しの腕前も前の俺のままだ。
「嘘!」
そんな話は聞いていない、とブルーは反論したのだけれど。
前の自分の、ソルジャー・ブルーの記憶の中にはハーレイのそんな技などは無い、と。
けれどハーレイはいとも簡単にサラリと答えた。
「出番が無かったというだけだ」
前のお前には必要無かった技だろうが。
お前、自分で直してたしなあ、寝癖くらいは一瞬でな。
出番が無ければ使う機会も無いものなのだ、とハーレイは笑う。
この技は前から持っていたのだと、今でもスタイリング剤を切らした時には使っていると。
「俺は基本的にサイオンは使わないことにしているからな」
サイオンよりかはスタイリング剤が好みだな。
まずはブラシで、そいつが駄目ならスタイリング剤だ。
しかしだ、俺が使っているヤツはお前の髪には合わないだろうし、髪型もまるで違うしな?
将来、お前に「ずるい」と言われても貸しようがないな、スタイリング剤。
「えっと…。将来って?」
そう尋ねてから、ブルーはハタと気が付いた。
ハーレイ愛用のスタイリング剤を「貸してくれ」とゴネられそうな場面は一つしか無い。それはハーレイと共に暮らす家で、其処の洗面所の鏡の前あたりで口にする台詞。
自分の髪は寝癖で跳ねたままなのに、寝癖をサッサと直してしまったハーレイはずるいと、秘密兵器のスタイリング剤を貸してくれてもいいのにと。
「そっか…。借りられないんだ、今のハーレイが使ってる、えーっと…」
「スタイリング剤だ。お前みたいな子供が使うのは早すぎだな」
だから蒸しタオルになるんだろう。
将来的にも蒸しタオルかもなあ、お前の髪質と髪型に合うヤツが無ければな。
「ずっと蒸しタオルかもしれないの?」
ぼくがやると失敗してしまうのに、とブルーは嘆いた。
母が居なかったから髪がペシャンコになったと、一生これが続くのかと。
「こらこら、勝手に悲観するな」
お前、一人で暮らす予定は無いんだろ?
俺の嫁さんになると決めてるんだろ、違うのか?
「でも、蒸しタオル…。ママがいないと失敗しちゃう…」
「だからだ、お前のママの代わりに直してやる羽目になるんだろうなあ、この俺が」
朝っぱらから蒸しタオルを作って、お前の頭に乗っけるんだ。
うっかりペシャンコにしちまわないよう、チェックするのも忘れずにな。
「ハーレイが直してくれるんだ…」
ママの代わりに、とブルーの頬が幸せで緩む。膨れてばかりだった頬が幸せで桜色になる。その嬉しさのままに「ふふっ、幸せ」と微笑んだけれど。
頼もしい寝癖直し係はニヤリと笑ってこう言った。
「場合によってはオールバックに仕上げるからな?」
俺とお揃いだ、いいだろう?
さっきお試しでやってみたよな、ああいう感じだ。
「酷い!」
寝癖を直してくれるんじゃないの、と食って掛かったブルーに、ハーレイは片目を軽く瞑った。
「冗談だ。さっきはともかく、冗談以外でやらかすわけがないだろう」
やらんさ、お前には今の髪型が一番似合うんだからな。
ソルジャー・ブルー風が似合う俺のブルーだ。
ブルーには、コレだ…。
…そうだろう、ブルー?
前のお前からずっとコレだし、寝癖くらい俺がいくらでも直してやる。
お前の姿を側で見ていられるなら、毎朝だって直してやる。
だから安心して俺の所に来てくれ。いつかお前が、ちゃんと大きく育ったならな……。
寝癖の直し方・了
※今は寝癖を自分で直せないブルー。将来も自分で直すのは難しそうです、前と違って。
ハーレイに頼めばきちんと直して貰えそうですけど、たまにはオールバックかも?
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庭で一番大きな木の下に据えられた白いテーブルと椅子とのセット。ブルーのお気に入りの場所なのだけれど、今日は少しばかり事情が違った。
ハーレイと午後のお茶にしようと、母に頼んでティーセットとお菓子を運んで貰ったのに。
いつも通りに向かい合わせで、ハーレイもブルーも今や指定席となってしまった互いの椅子へと腰掛けたのに。
のんびりとお茶を飲みながら他愛ないお喋りを始めて間もなく、ブルーの足元に忍び寄る気配。ズボンの裾から覗いた足首あたりに、何かが触れようとしている気配。
あれっ、とブルーが思った時にはチクリと微かな痛みがあって。
(刺されちゃった…!)
蚊だな、と直ぐに気付いたけれども、ハーレイがブルーの大好きな笑顔で自分の子供の頃の話をしてくれていた最中だったから。屈み込んで蚊を追い払うだとか、叩くだとかで話の腰を折りたくなかった。此処は我慢だ、とテーブルの下で足首を軽く擦り合わせた。
それで刺した蚊が逃げてくれるか、あるいは上手く潰せるか。そのどちらかを願っていたのに、ブルーの目論見は見事に外れた。
逃げてゆく羽音は聞かなかったけれど、満足するまで血を吸った挙句に、蚊は悠然と飛び去って行って。ブルーの足首には蚊の置き土産の痒みだけがしっかり残ってしまった。
ハーレイは身振り手振りも交えて楽しい話をしてくれている。お行儀悪く身体を屈めたりしたくなかったけれども、刺された場所が痒くて我慢の限界。
どうにも我慢がし切れなくなって、ブルーは「ごめん」とテーブルの下を覗き込んだ。
直ぐに痒み止めの薬を塗らなかったから、ぷっくりと赤く腫れ上がってしまった刺された箇所。長い靴下を履いておけば良かった、と思うけれども既に手遅れ。ズボンの裾と短い靴下との間から覗いた僅かな隙間を小さな吸血鬼に思う存分吸われてしまった。
屈んだままで手を其処に伸ばして、爪の先でポリポリと引っ掻いて。
「…痒い……」
思わず唇から漏れた泣き言で、ハーレイは何が起きたか悟った。
「刺されたのか?」
向かい側からテーブルの下を覗いて、ブルーが掻いている足首を見る。それから「掻くなよ」とブルーを止めると、椅子から立って庭の隅へと歩いて行った。
「…ハーレイ?」
「ちょっと待ってろ、確かこの辺りに…。うん、あった、あった」
しゃがんで、何かの濃い色の葉をプツリと一枚、毟り取ってテーブルに戻ってくる。ハート形をした小さな草の葉。
「なに、それ?」
「ドクダミだ、匂いで分からんか?」
「ああ…!」
ハーレイは独特の匂いを漂わせているドクダミの葉を太い指先で揉んで潰すと、ブルーの椅子の脇に屈んで「足、見せてみろ」と刺された方の足を出すように言った。
「足?」
「痒み止めの薬を塗るのもいいんだが、こいつも効くんだ」
「ドクダミが?」
「そうさ、痒み止めなんかを持ってない時には一番なんだぞ、覚えておけ」
蜂やアブにも効くんだからな、と潰したドクダミの汁を赤く腫れ上がった箇所に擦り込む。この雑草は何処にでもあるから、覚えておくと便利なのだと。
ブルーの家では雑草扱いされているドクダミ。それでも白い花は涼しげだから、とブルーの母は根絶しないで庭の隅っこに残していた。
まさか薬になるなんて、と驚くブルーに「ドクダミは立派な薬草だぞ?」とハーレイが元の椅子へと座りながら笑う。
「まあ、知らなくても無理はないがな…。ドクダミにはジュウヤクって名前もあるんだ、十の薬という意味だ。生の葉は化膿や切り傷にも効くし、乾かしたヤツは神経痛とかに効くんだぞ」
「ホント?」
「本当だとも。SD体制よりもずっと昔の人間たちの知恵ってヤツだな」
誰もが薬を買えた時代じゃないからな?
薬は今よりうんと高くて、普通の人には手が出なかった。だから色々と知恵を絞って、こういう薬を見付けてきたのさ、自然の中で。
一度は地球と一緒に滅びちまったが、今じゃこうして誰でも使える。
どうだ、痒みはマシになったか?
「うん。…ハーレイ、ドクダミも古典の授業の範囲内なの?」
「授業で教える範囲の内には入らんなあ…。それに俺のは親父に教えて貰ったヤツだ」
釣りが趣味だと言っただろ?
虫の多い場所で釣ることも多いし、虫除けも痒み止めも必須ではあるが、だ。
忘れて出掛ける時もあるしな、こういった知識も必要になる。
釣り仲間の間じゃ常識らしいぞ、虫に刺されたらドクダミだ、ってな。
「そうなんだ…」
ブルーは感心して聞いていたけれど。
痒みも引いてきたのだけれども、さっきの蚊。ハーレイの思わぬ薀蓄が聞けて、ドクダミの葉で薬まで作って貰ったとはいえ、刺されたことには腹が立つから。
「ハーレイ、何処も刺されていないの?」
「俺の方には来なかったな」
お前の方が美味そうなんだな、柔らかいしな?
それに俺よりずっと若いし、蚊も刺す相手を選ぶんだろうさ。
「夏の間は一度も刺されなかったのに!」
何度も此処に座っていたのに、と膨れっ面になったブルーに、ハーレイは「ふうむ…」と視線を巡らせると。
「其処のゼラニウム、刈ったからじゃないか?」
テーブルから近い庭の一角を指差した。
この間まで其処にゼラニウムが茂っていた筈だ、と。ゼラニウムには虫除けの効果が高い種類もあるから、植わっていたのはそれなのだろう、と。
「ママは何にも言ってなかったよ、趣味で植えてたヤツだと思うよ?」
「そうだろうなあ、刈っちまったんだし…。親父の家では虫除けに植えているんだが」
庭にもあるんだが、鉢植えのもな。
蚊が多い季節は玄関先とかに置いておくんだ、人が出入りする時に虫が一緒に入らないように。
其処に植わっていたヤツと似てるし、あれも虫除けになってたんだろうな。
「…虫除けの草が無くなったんなら、ぼく、これからも刺されちゃうの?」
「そうかもなあ…。よし、明日は虫除けを持って来てやろう」
お前、明日も此処でお茶を飲もうと思っているだろ?
顔に出てるぞ、此処に来たいが蚊は嫌だとな。
秋の蚊ってヤツはキツイからなあ、俺の虫除けに期待していろ。
(ハーレイが持って来てくれる虫除けかあ…)
虫除けスプレーみたいなものかな、とハーレイが帰った後でブルーは想像してみた。それとも、蚊が嫌がるという匂いを仕込んだブレスレットみたいなものだとか。
どれも虫除けとしてはポピュラーなもので、小さな頃には両親と一緒に郊外の山に出掛ける時に使っていた。そういう類の、きっとハーレイ御用達の品。
(どんなのだろう?)
ハーレイの大きな身体にはブレスレット型は無理かもしれない。きっとスプレーか、薬の匂いが染み込んだシール。服などに貼っておく虫除けのシール。
期待していろ、と言われたからにはお勧めの品に違いない、と翌日を楽しみにしていたのに。
「…なんなの、それ…」
午後のお茶の支度が出来た、と母に呼ばれて返事をした後。
ハーレイが提げて来ていた袋の中から出て来た物体に、ブルーの瞳は真ん丸になった。
しかしハーレイの方は平然として。
「蚊取り線香、知らないのか?」
「…知ってるけど…」
蚊取り線香は知っているけど、と言っている間に、蚊取り線香もちゃんと出て来た。渦巻き型の深い緑色。ハーレイは煙草を吸わないけれども、ライターも。
手際よく蚊取り線香の端を炙って火を点け、煙が上がるのを確認してからハーレイは「よし」と頷いた。
「行こうか、ブルー。これで虫除けになる筈だぞ、うん」
親父の気に入りのメーカーのでな。
除虫菊とか、天然の原料だけで出来ているんだ、混ぜ物は無しだ。
蚊取り線香はこうでなくちゃな、前の俺たちの時代には無かったけどな。
ハーレイは蚊取り線香のある今の文化を褒めちぎりながら階段を下りて、庭のテーブルと椅子へ向かったけれど。遠い昔の人間たちの知恵が詰まった虫除けなのだ、と語るけれども。
ブルーにも蚊取り線香の良さは分かるし、地球の自然にも優しそうだと思うのだけれど…。
(うーん…)
どうにもこうにも、理解不可能な謎の物体。
ハーレイが「此処でいいな」とテーブルの真下に据え付けた、生まれて初めて見る物体。それはコロンと丸い形で、蚊取り線香が入っていた。開いた穴から立ち昇る煙。
どう見ても蚊取り線香を入れる道具だけれども、あまりにも変なものだったから。
「…その入れ物、なに?」
テーブルの下を覗き込みながら、そう訊かずにはいられなかった。
これもハーレイの趣味なのだろうか?
しげしげと蚊取り線香の入れ物を眺めるブルーに、ハーレイはいとも簡単に。
「蚊遣り豚だ」
「…えっと…?」
「聞こえなかったか? 蚊遣り豚と言う名前だ、これは」
蚊遣りは蚊を追い払うって意味の言葉だってことは分かるだろう?
中に蚊取り線香を入れるための豚だから、蚊遣り豚だな。
SD体制よりも前の時代の定番だったらしいぞ、蚊遣り豚は。
この辺りにあった日本って国では、夏の夕涼みの絵なんかにも描かれていたくらいにな。
「そんなに古いの?」
「蚊取り線香を入れるならコレだ、ってくらいの伝統はあったみたいだぞ」
「この豚が…?」
ブルーは丸っこい豚をポカンと見詰めた。
白い陶器で出来ている豚。お尻の部分と鼻の部分とに穴が開いていて、ハーレイはお尻の方の穴から蚊取り線香を入れていた。
その蚊取り線香から出て来る煙が豚の鼻から立ち昇っている。
鼻から煙を漂わせる豚。ユーモラスな形の丸っこい豚…。
「意味があるの、これ?」
豚の形に、とブルーは尋ねた。
遠い昔の定番だったなら豚でなければいけないものかと、蚊取り線香には豚なのかと。
「さてなあ…。養豚場で生まれたって説もあるようだがな」
土管の中に蚊取り線香を置いて、蚊を追い払っていたらしい。
その土管から出る煙の加減を工夫する内に豚の形が出来上がった、っていう話があるのさ。
徳利の底を抜いて蚊取り線香を入れていたのが豚の形に似ていたから、というのが一番の有力説らしいし、俺もそうかと思いはするが…。
昔の蚊取り線香は今ほど安全じゃなくて火事の原因になりやすかったし、火伏せの神様。火事を防いでくださる神様のお使いのイノシシに似た豚にしたとか、豚は水の神様のお使いだとか…。
そういった昔の信仰と結び付いた説も、古典の教師としては魅力的だな。
「それじゃ、これだって決め手は無いんだ?」
「どうやら昔から謎だったらしい。そんな具合で諸説あるが、だ」
豚という動物は世界的に縁起が良かったらしいぞ。
幸運を運んで来ると言われたり、お金が貯まると言われたりしてな。
豚の形をした貯金箱が多かった地域もあるんだ、もちろんSD体制よりも昔の地球だ。
そんな幸運のアイテムと聞けば、蚊遣り豚への愛着も深まると思わんか?
親父もおふくろも昔からこいつを使っているしな。
ハーレイは豚が幸運のシンボルとされた理由を幾つか挙げた。
沢山の子供を産むからだとか、肉になる豚は大きな財産であって、お金持ちの象徴だったとか。幸運が舞い込んだ時の慣用句が「豚を手に入れた」だった地域もあったくらいなのだ、と。
「というわけで、豚は幸運を運んで来るそうだからな。俺もこいつを愛用している」
俺の家でのバーベキューには定番の豚だ。
お前は今日まで出会えなかったが、柔道部のヤツらは夏休みに対面していたぞ。
柔道部のヤツらもお前と同じで、「何ですか、これ?」と訊いていたがな。
「そっか…。ハーレイの大事な幸運の豚の入れ物なんだ?」
よろしくね、とブルーは蚊遣り豚にペコリと頭を下げた。
「ぼくが刺されないよう、今日はよろしく」
挨拶が遅くなっちゃったけれど、これからもきっと何度も会うから。
いつかはハーレイの家で会えるようになるから、ぼくのことをちゃんと覚えておいてね。
忘れないでね、きっとハーレイの家まで会いに行くから…。
丸っこい蚊遣り豚に挨拶を終えて、ブルーは椅子に座り直した。
テーブルを挟んだ向かい側にはハーレイが座り、テーブルの下には蚊遣り豚。頼もしい虫除けの煙の匂いがするから、今日は刺されたりしないだろう。
けれども、自分が刺された昨日。テーブルの下にはハーレイの足もあったというのに、どうして自分だけが刺されたのか、と不公平な気分になったから。
「ねえ、ハーレイ。昨日の蚊、なんでハーレイは刺されなかったの?」
ぼくだけ、たっぷり血を吸われたよ。
ハーレイの足だって刺してもいいのに、なんでぼくだけ…?
「タイプ・グリーンを馬鹿にするなよ?」
気配がしたからシールドを張った。
蚊に刺されそうな気がしたテーブルの下だけ、俺のガードはバッチリだったさ。
「そういう使い方、出来るんだ!」
サイオン・シールドで虫除けなんて、とブルーはビックリ仰天した。
今の自分は満足にシールドも張れないけれども、前の自分は巧みに張れた。しかし、シールドはあくまで攻撃や危険から身を守るために展開するもの。
(…蚊みたいに小さな虫を相手に張るなんて思いもしなかったよ…)
爆発の恐れがある場所で張るとか、それこそメギドの火を防ぐとか。
前の自分が最後に張ったシールドで防ごうとしたものは、キースが撃って来た銃弾で…。
かつての自分のシールドに比べると平和に過ぎる蚊よけのシールド。
本当に思い付かなかった、と蚊遣り豚の持ち主を尊敬の眼差しで見上げていると。
「前のお前はどうしていたんだ? そういう虫除け」
ハーレイに訊かれ、「やってなかったよ」とブルーは答えた。
「アルテメシアに蚊はいなかったし、山に降りても要らなかったよ」
「なるほどなあ…」
必要が無かったからシールドなんかは張らなかった、と。
アルテメシアは上手くテラフォーミングされた星だったが、やはり人工の星だったってことか。
蚊は害虫って話もあったし、SD体制よりも前の地球では病気を媒介したとも言うし…。
そんな虫まで放さなくてもいいと判断したんだろうなあ、マザー・システムは。
しかし今ではこの地球の上で、害虫の蚊までしっかり生きてる。
野菜を食べる青虫もいるし、その青虫が綺麗な蝶になってヒラヒラ飛んでるんだしな。
自然は実に偉大なもんだと思わんか?
たとえお前が蚊に刺されても、だ。
虫除けのシールドを展開できるか出来ないかも大きな違いだが、とハーレイは笑う。
「昨日も言ったが、お前の方が俺より美味いんだろう」
子供だから肌も柔らかいしな、肉だってずっと柔らかい。
蚊だって美味い方を選ぶさ、同じ刺すなら美味そうな方にしたいだろうが。
「…ぼく、シールドは下手なんだけど…。大きくなったら刺されなくなる?」
ハーレイと二人でいたって刺されなくなる?
ぼくがハーレイよりも美味しそうに見えなくなったなら。
「おいおい、俺と同じくらいに年を取るつもりか?」
前のお前と同じ姿で成長を止めるつもりだったら、せいぜい十八歳ってトコだぞ。
十八歳じゃあ酒も飲めないし、立派に子供の部類だと思うが?
結婚出来る年ではあっても、蚊の目から見たら美味い子供だと思うがなあ…?
「………」
あんまりだ、とブルーは唇を尖らせた。
「ぼくって一生、蚊に刺されるわけ?」
「嫌ならサイオンを鍛えることだな、虫除けのシールドを張れるようにな」
でなきゃ蚊遣り豚のお世話になっとけ。
さっき挨拶していただろうが、「よろしく」ってな。
「…そうだけど…」
そうなんだけど、とブルーは顔を曇らせた。
昨日、ハーレイが蚊に刺された足を手当てしてくれたドクダミの葉を潰したもの。
ハーレイが父から教わったという天然の薬は良く効いた。夜には腫れも赤みも無くなり、まるで薬局で売っている虫刺されのよう。
そうした知識をハーレイの父は豊富に持っているのだろう。釣りが趣味だと聞くハーレイの父。ブルーを釣りに連れて行ってやりたいと言ってくれたとも聞いていた。釣りにキャンプに川遊び。ブルーのためにと提案してくれたハーレイの父。
その人と一緒に出掛けてみたい。大きくなったら出掛けたいのに、釣りやキャンプにはもれなく蚊までがついてきそうで。
「ぼく、ハーレイのお父さんと釣りに行きたいのに…」
それにキャンプも、川遊びも。
蚊遣り豚、そんな所には持って行けないよ。
持って行けても、あちこち連れては歩けないよ…。
刺されちゃうよ、とブルーは嘆いた。蚊遣り豚を持っていない自分は蚊の餌食だと。
ブルーの悩みを聞いたハーレイが喉の奥でクックッと笑い出す。
「安心しろ、腰から下げるタイプの蚊取り線香入れもある」
蚊遣り豚の形はしていないんだが、向きが変わっても火は消えないという優れものだぞ。
それにだ、虫除けの道具も色々あるだろ、それこそ虫除けスプレーだとか。
「でも、ハーレイのお父さんたち、蚊取り線香派だよね?」
「それと虫除けのゼラニウムだな。お前の家にもこの前まであったし、お前はゼラニウムとかでもいいんじゃないか?」
天然素材を目指すんだったら、ゼラニウムを編んで腕とかに巻くって手もあるが。
別にそいつでかまわないじゃないか、蚊取り線香にこだわらなくても。
「ハーレイとお揃いがいいんだよ!」
蚊取り線香にこだわりたいよ、とブルーは叫んだ。
釣りに行くなら、ハーレイお勧めの腰から下げるタイプの蚊取り線香。
普段もゼラニウムよりも蚊取り線香の方がいいのだと、幸運の豚の入れ物がいいと。
「なら、お母さんに頼んで蚊遣り豚を買って貰うのか?」
子供が持つには渋い趣味だが、欲しいんだったら売っている店を教えてやるぞ。
「…どうしよう……」
「笑われるだろうなあ、お前が蚊遣り豚を連れて家の中をウロウロしてたらな」
お前の家では蚊取り線香も見かけないしな、最新式の虫除けを使っているんだろう。
そんなお父さんとお母さんが居る家で、子供のお前が蚊遣り豚なあ…。
憧れのハーレイ先生とお揃いの蚊遣り豚なんです、で通すのも俺は止めないが。
(…蚊遣り豚…)
ハーレイがコロンと丸い豚を持って帰っていった後で、ブルーは悩んだのだけど。
蚊取り線香にこだわりたいのだ、と両親に強請って買って貰おうかと思ったのだけれど。
ブルーが庭で蚊に刺されたことを知った母は後日、しっかりとゼラニウムを植え直したから。
苗を売っている店で虫除け効果の特に高いものを選んで買ったと言っていたから。
(…おまけに大きな株なんだよ、あれ…)
母が刈り取ってしまったゼラニウムは一年草だったらしいが、今度の株は多年草。直ぐに効果を発揮するものを、と立派な株を買われてしまった。前に植わっていたものに負けない大きさ。
それほどの大きさで虫除け効果も高いとくれば、庭の椅子でも二度と刺されはしないだろう。
二度目が無ければ蚊取り線香を買う必要は無くて、蚊遣り豚は頼めそうにない。
(…欲しいんだけどなあ、蚊遣り豚…)
夏のバーベキューでは大活躍だという蚊遣り豚。
ハーレイの家に居る気分になれるんだけどな、とブルーは悩む。
それにハーレイとお揃いの持ち物が一つ増えるし、あの豚が欲しい。
コロンと丸くて、鼻から煙を出していた豚。
火を点けた蚊取り線香をハーレイがお尻から入れて、庭まで連れて行っていた豚。
(ホントのホントに欲しいんだけどな…)
両親には笑われるかもしれないけれども、愛嬌たっぷりの蚊遣り豚。
幸運を運ぶ豚の形の蚊遣り豚。
ハーレイとお揃いで一つ欲しいと、インテリアに買って貰おうかな、と…。
蚊遣り豚・了
※ハーレイ愛用の虫よけグッズは蚊遣り豚。レトロな趣味は今も健在らしいですね。
蚊遣り豚に惚れ込んだブルーですけど、インテリアに買うのはどうなんでしょうか…。
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デザートに生のパイナップル。
美味しかったから、食べ過ぎちゃって。舌がちょっぴりヒリヒリとする。生のパイナップルだとそうなるんだってこと、忘れてた。
(うーん、失敗…)
お風呂に入って歯磨きも済ませたら、すっかりマシになったから。きっと明日の夜も食べ過ぎてヒリヒリするんだろうな、とベッドに転がって考えていて。
(パイナップル…)
そういう事件があったっけ、と思い出した。
遠い遠い昔、ぼくがまだ前のぼくだった頃に。
白い鯨は出来ていなくて、アルタミラを脱出して間もなかった頃に…。
名前だけがシャングリラだった、元は人類のものだった船。
自給自足で生きるどころか、食料も物資も人類側から奪っていた。足りなくなったら前のぼくが奪いに出掛けてゆく。食料なんかは行き当たりばったり、とにかくコンテナごと全部。
計画性も何も無いから、食材が偏ることは珍しくなくて、キャベツばかりとかジャガイモだらけとか。その度にハーレイが奮闘していた。皆を飽きさせないよう、調理方法を懸命に調べて。
そんな中、大量に奪ってしまったパイナップル。缶詰じゃなくて生のパイナップル。
パイナップルは記憶に残っていたから、皆、大喜びで食べたんだけれど。
「おい、舌がヒリヒリしていないか?」
「もしかして毒が入っていたの?」
食堂に広がってゆく不安。毒物だったら…、と恐ろしくなった。みんなパイナップルを口にしていたし、前のぼくだって舌がヒリヒリしていた。
人類がパイナップルに仕込んだ毒物。ぼくたちの命は此処で終わるんだろうか?
(でも…)
パイナップルを積んでいた船は、ごくごく普通の輸送船だった。ぼくたちが奪うことを見越して毒を仕込むなんて有り得ない。たまたま近くを通りかかっただけの船なのだから。
毒ではなくて何かある筈、と船のデータベースを調べてみて。
生のパイナップルを食べ過ぎると舌がヒリヒリするのだと知った。
「なんだ、正真正銘の生のパイナップルって証明か!」
「もっと食おうぜ、美味いんだから」
分かってしまうと誰も怖がらず、ヒリヒリしたってパイナップルは人気。
もっとも、少し経ってしまうと飽きてきちゃって、またハーレイが苦労することになっちゃったけれど。パイナップルを使った料理は何か無いかと、格闘する羽目になったんだけれど…。
「お前ら、たまには生も食べろよ!」
「そりゃ食べるけどよ…。他の食い方も頼むぜ、ハーレイ」
パイナップルを入れた炒め物やら、煮物やら。他の食材と照らし合わせながら頑張っていた前のハーレイ。料理が得意というんじゃなくって、食材の管理や使い方が実に上手かった。
(もちろん料理も上手だったけどね)
不味い料理を大量に作ってしまわないよう、いつもきちんと試食をしていた。上手く出来たら、手の空いた者を動員しながら完成品の料理をドッサリ作る。それがぼくたちの食卓に上る。
「へえ…。パイナップルで料理も色々出来るもんだな」
「生のも食えと言ってるだろうが!」
今日のノルマだ、とカットしただけの生のパイナップルの山。完熟してくると舌がヒリヒリすることはなくなったけれど、そうなるとヒリヒリが懐かしい。
養父母の家で食べていただろう、生のパイナップル。パパやママに「ヒリヒリするよ」と言っていたのだろうか、と思うけれども思い出せない。
そんなささやかな記憶さえも失くしてしまったほどに、アルタミラでの日々は過酷だった。
直接記憶を奪い去ってゆく人体実験も惨かったけれど、与えられる餌と、それから孤独。
調理すらされていない食べ物。栄養分だけ摂れればいいとばかりに檻に突っ込まれる固形物や、水。水は必要に応じてだろうか、添加されるもので色や味わいが異なったけれど、ただそれだけ。美味しくするための加工ではなくて、薬などを入れて溶かしただけ。
これは餌だと、人間扱いされていないのだと誰にだって分かる。
アルタミラを脱出した直後に食べた非常食でさえ、「食べ物なのだ」と思えたくらいに。
密閉されたパッケージを破れば温まる仕様の非常食。
それだけで「料理なのだ」と思った。研究所では温かいものなど一度も食べたことが無かった。
非常食用のパンだって同じ。
焼き立てに比べれば落ちたのだろうけど、パッケージを破るとパンがふんわりと膨らんだ。餌の中にこんなふっくらとしたパンなど無かった。シリアルにも劣る餌ばかりだった。
それに一緒に食べられる仲間。「美味い!」と顔を綻ばせている仲間たち。
誰かと食事を共にすることなど、誰だって忘れ果ててしまっていたから。
皆でワイワイと食べられるだけで、非常食だって美味しかった。
食べ物の味を語り合える仲間が側にいるなんて、なんて素敵なことなのだろうか…。
研究所で閉じ込められていた檻は個室と言えば聞こえはいいけど、ただの独房。最低限の設備が設けられただけの、ベッドさえも置かれていない独房。
それに音やサイオンも封じ込められ、上下左右に檻があるのに何の物音も聞こえてはこない。
実験のために檻から出されて、また入れられて。その時に隣の檻に居る者を目にはしたけれど、次に見た時には顔が違った。死んでしまったのだ、と直ぐに分かった。
ミュウは増えれば相乗効果でサイオンの力が増すと分かっていたから、研究者たちは決して接触させなかった。
檻から出されて実験室に行くまでの間は、サイオン制御のリングを首に嵌められるけども。そのリングを首に嵌めてあっても、本当にただの一度でさえも。
実験室に連れてゆかれる時にも通路を分けられ、出会わないよう管理されていた。
ぼくに分かったのは強い残留思念だけ。実験室で死んでいった仲間の苦悶の声だけ。
それから檻に出入りする時に僅かに感じる、垣間見える隣の住人の姿。
他には何一つ分からなかった。
研究所の中に何人のミュウが居るというのか、それさえも知りようが無かったぼく。
脱出なんかは考えなかった。
一人で逃げてもどうしようもないし、逃げ方だって分からなかった。
逃げ出して何処へ行けばいいのかすらも…。
ぼくたちがアルタミラの惨劇と呼んだ、アルタミラが星ごと砕かれた日。
人類が忌まわしいメギドを使ってミュウを殲滅しようとした日。
あの運命の日に、ぼくは初めて生きている仲間たちに出会ったんだ。
逃げ出すことが出来ないように、と厳重にロックされたシェルターの一つ。元々は人の命を守るためのシェルターを、研究者たちは虐殺用の檻に転用した。
メギドの破壊力の前にはシェルターなど役に立ちはしないし、ミュウを確実に閉じ込めておいて星ごと滅ぼしてしまうことが出来る。個別の檻だと惑星崩壊前の地震で壊れてしまって扉が開き、逃亡される恐れがあると考えた彼らはシェルターを使うことにした。
何も知らずに檻から引っ張り出されたぼくに、研究者は笑ってそう告げて。
「お前たちの研究は全て終わった」と引き摺るように連れてゆかれて、シェルターの中へと放り込まれた。グランド・マザーの命令なのだと、もう生かしておく意味は無いと。
引き摺られてゆく途中、「ミュウは全て殺す」と残酷な宣言を聞かされた時、仲間たちが生きていると分かった。
此処から逃げねば、と初めて思った。
でも、どうやって…?
ぼくが放り込まれたシェルターは直ぐに扉が閉ざされ、何重にもロックしてから研究者は其処を立ち去った。丸い窓の向こうは見えるけれども、閉じた扉は開かない。
振り返れば何人もの仲間たちが居て、誰の顔にも絶望があった。
彼らを見た時、ぼくが何とかするしかないのだと考えた理由。
長い年月を孤独に過ごしていたのに、「救わなければ」という使命感が湧き上がってきた理由。
それは多分、「タイプ・ブルー・オリジン」と呼ばれ続けた名前のお蔭。
ぼくの本当の名前もブルーだったけれど、神の悪戯か、タイプ・ブルー・オリジン。
研究者たちが繰り返す名前のお蔭で、最強のミュウだと頭に叩き込まれていた。
ぼくが最強なら、皆を救うことは恐らくぼくにしか出来ない役目。
だから闇雲に窓を叩いて、叫んで。
ヒビすら入らない窓を拳で何度も叩く間に、首のリングが無いことに気付いた。檻から出された時に嵌められた記憶はあるのだけれども、閉じ込める時に外したのだろうか?
そういえばリングは貴重なのだと研究者が前に言っていた。希少な金属で出来ているから、お前たちには勿体ないと。無駄に高価な飾りなのだと嘲笑っていた。
彼らは用済みになったリングを回収して逃げて行ったのだろう。
星ごと砕いてしまうには高価すぎるリングを回収した後、悠々と脱出したのだろう…。
リングが無いなら、サイオンを使うことが出来るかもしれない。
檻の中や実験室にはサイオンが使えないよう仕掛けが施されていたのだけれども、此処は普通のシェルターだから。本来は人類が避難するための設備なのだから…。
(此処なら使えるかもしれない)
超高温や真空などのガラスケースに放り込まれた時、無意識に使っていたサイオン。自分の身を守るためだけにしか使った経験がなくて、それも無意識。
自分の意志で発動させたことは一度も無いし、どう使うのかが分からない。
でもシェルターを壊したい。壊さなければ、皆が死んでしまう。
使い方すらも分からないまま、夢中でぶつけた感情の爆発にも似た何か。ぼく自身ですら思わず目を瞑ったほどの閃光と衝撃とが空間を揺るがし、シェルターの扉は吹っ飛んでいた。
なんとか壊すことが出来たシェルター。
逃げ出してゆく仲間たちの背中を見ながら、魂が抜けたように座り込んでいたら。
「お前、凄いな」
小さいのに、と助け起こしてくれたのがハーレイだった。
たまたま同じシェルターに押し込まれていた、ハーレイの顔。窓の向こうしか見ていなかったと思う前のぼくだけれども、その顔立ちには確かに見覚えがあって。
助けられて良かった、と安堵の息をついた。シェルターはすっかり空だったけれど、此処に居た仲間は逃がせたのだと、最後の一人が彼なのだと。
それが前のハーレイと、ぼくとの出会い。
ハーレイはぼくの身体を支えて立ち上がらせて、それから大きな身体を屈めて。
「お前のお蔭で助かった。…だが、他にもこれと同じようなヤツがあると思うぞ」
「うん。助けて、って声が聞こえる」
崩れ始めたアルタミラの大気に仲間の悲鳴が混じっていた。助けを求める仲間たちの思念。
研究所の建物はとうに崩れて、空も地面も赤々と燃え上がっていたのだけれど。
ぼくとハーレイは思念を頼りに、幾つものシェルターを開けて回った。ロックを解除し、重たい扉を二人がかりでこじ開けて。
歪んでしまって開かないシェルターがあれば、ぼくがサイオンをぶつけて壊した。必死に走って駆け付けたけれど、間に合わなかったシェルターもあった。
星が壊れるほどの衝撃は想定されていないシェルター。引き裂かれた大地に飲まれたものやら、押し潰されてしまったものやら。
けれど死んだ仲間たちを悼む時間も惜しんで、ぼくたちは走った。
助けなければ、他の仲間たちをシェルターから脱出させなければ、と。
アルタミラから脱出する手段は先に逃がした仲間たちが既に確保していた。
こっちだ、と呼び掛ける複数の思念波。
飛べる宇宙船を一つ見付けたと、なんとか離陸出来そうだと。
赤く染まった空の下でハーレイがボソリと呟く。
「もう誰も居ないか…」
「うん、感じない」
助けを求める思念は無かった。
ぼくはサイオンを使い果たしてしまっていたけど、思念波を拾うことは出来たから。燃え上がる世界に目を凝らしたけれど、仲間の気配は感じなかった。
「なら、行くか。でないと俺たちも死んじまうぞ」
「……うん」
ハーレイに半ば抱えられるようにして走って、歩いて。
やっとの思いで船に乗り込んで、それからも声で、思念で仲間たちを呼んだ。
間違った方向に逃げた仲間が何人か居たから、こっちなのだ、と。
船があるからこっちに来るんだ、と。
乗降口でそうやって呼び掛ける間に離陸の準備が整った船。
操縦室の仲間が「もう誰もいないか」と思念で訊いてくるから、「いない」と答えて、それでも乗降口の扉は開けたままで。
そのまま離陸すると危険だとは誰も気付かなかった。逃げ遅れた仲間がまだ居るかもしれないと燃え盛る世界を見詰めるばかりで、扉を閉めようとは思わなかった。
操縦室に居た仲間の方でも、宇宙船の操縦などは初めてだから。
船のコンピューターが示す手順どおりに実行しただけで、扉にまで気が回らなかった。そうして悲劇は起こってしまった。開いたままの乗降口から放り出されたゼルの弟。
ゼルが掴んだ弟の手。「死にたくない」と、「兄さん」と叫んでいたハンス。
ハーレイたちがゼルの身体を押さえて落下を止めたけれども、ハンスの身体を引き上げるだけの力は無かった。ぼくのサイオンも既に残っていなかった。
ぼくたちはただ見ていただけ。
ゼルの、ハンスの手から力が失われていって、離れてゆくのを見ていただけ。
ハンスの身体は燃える地獄へと落ち、吸い込まれていった。「兄さん」という声を最後に。
弟の名を叫んで伸ばされたゼルの手が、呼び声が空しく届かないままに…。
乗降口は誰かが手動で閉ざした。それから間もなく船は大気圏から離脱したと思う。
気付けば、外は真っ暗な宇宙。
ぼくたちが居た乗降口の辺りはオレンジ色の照明が灯っていたけど、その暖かさも、逃げ出せた喜びも感じるだけの余裕は無かった。
弟の名を繰り返しながら泣き崩れるゼル。
助けられなかったと、自分の力が足りなかったと泣き続けるゼル。
声を上げて泣くゼルのすぐ横で、ぼくも膝を抱えて顔を埋めて、深い自己嫌悪に陥っていた。
あと少しだけのサイオンがあれば。
ほんの少しだけ、皆がゼルに力を貸して引き上げられる所までハンスの身体を運べていたら…。
どうしてぼくは肝心の時にサイオンを使えなかったんだろう。
使い果たしたつもりでいたけど、もしかしたら。
膝を抱えて蹲っているぼく。ちゃんと意識を保っているぼく。
意識を失くしてしまうほどのレベルまでサイオンを発揮していたならば。
ハンスを助けられていたかもしれない。
引き上げた後にぼくが倒れてしまっていたって、それで死ぬわけではないのだろうし…。
どうしてサイオンを使わなかったのか。限界まで使おうとしなかったのか、と自分を責めた。
シェルターを幾つも壊せたサイオン。
ハンスの身体を引き上げるくらい、きっと何でもなかった筈で…。
(…ぼくのせいだ)
ぼくが頑張らなかったから。
精一杯の力を使わずにいたから、ゼルは弟を喪った。ハンスは地獄に飲まれてしまった。
ぼくのせいだ、と丸くなっていたら、ぼくの肩にポンと大きな手が置かれた。
「お前のせいじゃないさ」
(…えっ?)
ぼくの心を読んだかのような声が聞こえて顔を上げたら、ハーレイが覗き込んでいて。
「事故はお前のせいじゃない。それに、お前…」
何人、助けた?
俺も含めて、何人助けた?
なあ、とハーレイは隣に屈んで語り掛けて来た。
「お前が落ち込むことはないだろ、この船のヤツらはみんなお前が助けたんだからな」
これから先も俺たちは多分、お前の世話になるだろう。
そうなっちまう、という気がする。
先なんか見えやしないんだがな。
…予知する力は無いんだけれどな、そうなるだろうと思うんだ…。
ハーレイの言葉をぼくは目を丸くして聞いていた。
ぼくがみんなの世話をするだなんて、本当だろうか?
ハンスを助けることさえ出来なかったぼくに、みんなの世話など出来るのだろうか。
けれどハーレイは心からそう思っていたのか、あるいはぼくを元気づけるためだったのか。
蹲ったままのぼくの腕を取り、「だが」と、その手に力をこめた。
「お前の世話になる前に、礼ってヤツの先払いだ」
グイと起こされ、立ち上がらされて。
此処に居るな、と誰も居ない部屋へと引っ張って行かれて、好きなだけ泣いていいと言われた。見ている者は誰もいないから、好きなだけ泣けと。
辛いなら辛いだけ、悲しいのなら悲しい分だけ、好きなだけ泣いていいのだと。
「此処には俺とお前しかいない。お前が泣いていたって誰も気付かない」
この先、お前は皆の前では、多分、泣けなくなるだろう。
その分まで今、泣いておけ。
俺がこうして抱いててやるから、泣きたいだけ泣いておくんだ、ブルー。
「…ハーレイ…」
シェルターを壊して回った間に、名前を教え合ってはいたけれど。互いに呼び合って仲間たちを助けて回ったけれども、初めて「ブルー」と呼ばれた気がした。「ハーレイ」と呼ぶのも、これが最初だという気がした。
本当はアルタミラで互いに何度も呼んでいたのに、初めてだと感じたその不思議さ。
ハーレイの思いの、その優しさと暖かさ。
逞しい腕がぼくを広い胸へと抱き込んでくれて、大きな手が背中を擦ってくれた。
好きなだけ泣けと、自分しか見てはいないのだから、と。
「…うん…。うん、ハーレイ…」
じわりと涙が滲んで、溢れて。堰を切ったら、もう止まらなくて。
ぼくは初めて泣いた気がする。成人検査で振り落とされて、あの檻の中に閉じ込められてからは何度も泣いていたというのに、初めて零れた温かな涙。嬉しくて流した初めての涙。
辛く悲しかった日々を洗い流すかのように、そうやって泣いて、泣き続けて。
どのくらいそうしていたんだろう…。
「おい、飯らしいぞ」
声と共に扉がノックされた時には、ぼくの涙はもう尽きていた。まだハーレイの広い胸に縋ったままだったけれど、すっかり気持ちが落ち着いていた、ぼく。
行こう、とハーレイがぼくの手を引いて、皆の気配がしている方へと連れて行ってくれた。船の真ん中あたりだっただろうか、元からの食堂と思しき場所。
研究所から逃げ延びた仲間たちが顔を揃えている中、ゼルの顔も見えた。ぼくはハンスのことを思い出して入口で立ち竦んだけれど、ゼルは泣いてはいなかった。
代わりにペコリと下げられた頭。他のみんなも、一斉に頭を下げたから。
ぼくは慌てて「いいよ」と叫んだ。
たまたま力を持っていたから、自分の役目を果たしただけ。
お礼だったらハーレイに言ってと、ハーレイが手伝ってくれたから大勢助けられた、と。
でも、ハーレイは「こいつが頑張ってくれたんだ。小さいのにな」と譲らないから、結局、笑い合って終わりになった。
あの地獄から逃げられて良かったと、無事に脱出できて良かったと。
それから皆で食べた食事の温かさを、ぼくは今でも忘れない。
ハーレイの隣に座って食べた。
人間らしい初めての食事をハーレイの隣で一緒に食べた。
パッケージを開けるだけで温まる仕様になった非常食と、パッケージを開ければ膨らむパンと。
温かい食事と、柔らかなパン。
どちらも美味しくて、ハーレイと何度も頷き合った。
「美味しいね」と、「うん、美味いな」と。
食事はこんなに美味しいものかと、皆と一緒に食べられるだけで更に何倍も美味しくなると…。
あれからずうっと時が流れて、ぼくは生まれ変わってしまったけれど。
前のぼくはメギドで死んでしまって、今のぼくが青い地球の上に生まれて来たけど…。
ハーレイと一緒の町に生まれて再会出来たんだけれど、そのハーレイにいつ恋をしたのか、今も明確に答えられない。これだ、という決め手が見付からない。
でも、多分。
アルタミラでのあの瞬間も、大切な一つだったのだろう。
「お前、凄いな」と助け起こしてくれた大きな手。
二人で開けて回ったシェルター。
それから、「礼の先払いだ」と、ぼくを泣かせてくれたハーレイ。
広い胸に抱き締めて、ぼくの涙が出なくなっても背中を、頭を撫でてくれたハーレイ。
そんなハーレイの隣で食べた、初めての食事は美味しかった。
非常食でも、まるで御馳走みたいに美味しかった…。
(うん、本当に美味しかったんだよ)
パッケージを開けるだけで温まっていた非常食。ふんわり膨らんでくれたパン。
前のぼくたちがシャングリラの名前さえついていなかった船で、初めて食べた記念すべき食事。
それから頑張って生きてゆく中、非常食から料理の日々へと。
奪って来た食材の偏りのせいでジャガイモだらけとか、キャベツだらけとか…。
(…舌がヒリヒリする生のパイナップルもね)
あの日のハーレイの予言通りに、ぼくは皆を世話する立場になったんだけれど。
それが出来たのはハーレイのお蔭。
「礼の先払いだ」と泣かせてくれた、優しくて温かいハーレイのお蔭。
「生も食べろよ!」と山ほどのパイナップルと格闘していたハーレイのお蔭…。
そのハーレイと一緒に生まれ変わって、ぼくたちは青い地球の上。
今度こそ、うんと幸せになる。
ちゃんと結婚して、ハーレイといつも二人で美味しい食事を食べて。
何処までも、何処までも二人で歩いて行くんだ、手をしっかりと繋ぎ合わせて……。
アルタミラの記憶・了
※前のハーレイとブルーの出会い。アルタミラが滅ぼされた日に初めて出会った二人です。
やっと此処まで来ました、二人の過去の物語。回想形式、書くには便利ですけどね。
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