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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

 ハーレイはその日、紙袋を提げてやって来た。ぼくの部屋に入るなり、それを持ち上げてニッと笑って、こう言ったんだ。
「たまにはこういうのもいいと思ってな」
「えっ?」
 こういうのって、何のことだろう?
 キョトンとしてたら、ママがお茶を運んで来てくれた。ハーレイに「ごゆっくりどうぞ」と頭を下げて、ママは階段を下りて行ったけれども。
 ハーレイとぼくとが向かい合わせで挟んだテーブル。その上に、ママが持って来たお茶。
 いつもの紅茶とかココアじゃなくって、熱いほうじ茶。緑茶でもないって……なんで?
 ほうじ茶はぼくも飲んだりするけど、緑茶と違って普段に飲むお茶。お客様用のお茶じゃない。ママがハーレイにほうじ茶を出すなんて、有り得ない。
 だけど、テーブルの上にはほうじ茶。おかわりが入っているであろう大きな急須の中身も、多分ほうじ茶。どう見ても普段用だもの。お客様用の急須じゃないんだもの…。
(…なんで?)
 ぼくは好き嫌いが無いから、ほうじ茶でも緑茶でも気にしないけど。
 コーヒーみたいに苦すぎてそのままじゃ飲めないってわけでもないから、いいんだけれど…。
(ハーレイにほうじ茶?)
 和風の食事を出した時の食後のお茶だって、緑茶なのに。ほうじ茶なんか出て来ないのに。
 それに、お菓子用のお皿が無い。ハーレイとぼくとに一枚ずつある筈のお菓子用のお皿。
 代わりとばかりに、テーブルの真ん中に木製の深めの菓子鉢。中身は空っぽ。
(…えーっと…)
 たまにハーレイがお菓子を持って来てくれることがあるから、お菓子が無いことは珍しくない。
 けれど、菓子鉢。おまけにほうじ茶。
 ハーレイがお饅頭とかをくれる時にはこうじゃない。何かが違う。
 原因はあの紙袋なんだと思うけれども、何なんだろう…?



 テーブルの端に置かれた紙袋。お店の名前と袋のデザインだけでは中身がまるで分からない。
 まじまじと見てたら、ハーレイが袋に手を突っ込んで。
「ほら、ブルー」
 何枚食べる?
「えっ?」
 袋から出て来た褐色の手には、個別包装の平たい物体。
 ハーレイが持って来た袋の中身はお煎餅だった。一枚、二枚、と菓子鉢に盛られるお煎餅。
「…なんでお煎餅?」
 ぼくはお煎餅が好きだと話した覚えなんか無いし、好きでたまらないってわけでもない。好きなお菓子には違いないけれど、ハーレイがわざわざ買って来た理由が分からない。
 なのにハーレイは「まあ、食ってみろ」とお煎餅を一枚、差し出して来た。
「食えば分かるさ、俺が煎餅を持って来た理由」
「…そうなの?」
 受け取った袋の端をピリリと破って、顔を覗かせたお煎餅の端っこを一口齧った。
(あ…!)
 本当だ。
 ぼくはすっかり忘れていたけど、舌はきちんと覚えてた。
 懐かしい味。凄く懐かしい味と記憶を運んで来てくれた、お煎餅…。



「ハーレイ、これ…」
 ずっと昔にシャングリラで食べた。こんなお煎餅を確かに食べてた。
 ハーレイが「思い出したか?」と笑顔になる。ぼくの大好きな笑顔になる。
「シャングリラのうんと初期のおやつだ、これもあったろ?」
「うん、あった!」
 ぼくはお煎餅をパリンと齧って、懐かしい味が口いっぱいに広がった。
 塩味の素朴なお煎餅。香ばしく焼けたお煎餅だけど、シャングリラの味。
 まだ名前だけがシャングリラだった頃の、白い鯨が出来上がる前の時代のおやつ。
 あの頃、船はずっと小さくて、白い鯨の六分の一も無かっただろうか。
 アルタミラから脱出する時、たった一隻だけ残っていた船。とにかく乗り込んで空を目指した。飛び立つ術さえ知らなかったから、船のコンピューターにあった手順どおりに実行した。
 そのせいでミスもあったんだけど。
 本来なら離陸と同時に閉めなくちゃいけない、乗降口。
 どうやって閉めるのか、操縦室に居た仲間たちには分からなかった。開いたままだったことさえ気付かなかった。
 乗降口に居たぼくたちにしても、生存者が居るならギリギリまで待ちたかったから。置き去りにしてゆくことだけは避けたかったから、もう生き残りは居ないと分かっていたのに待った。爆発が続く炎の地獄から誰か走って来るんじゃないかと、船を目指して来るんじゃないかと。
 そうやって最後まで待っていたから、手動で乗降口を閉める装置を見もしなかった。離陸すれば直ちに閉めねばならない乗降口。開いたままだと危険なことさえ、誰の頭にも浮かばなかった。
 そうして悲劇は起こってしまった。
 浮上する船でバランスを崩したゼルの弟、ハンス。ゼルが慌てて手を掴んだけど、乗降口の外へ放り出されたハンスの身体を引き上げるだけの力は無かった。ぼくも力を貸せなかった。すっかり使い果たしてしまったサイオンはもう、使えなかった。
 今でも耳に残っている。「死にたくない」と叫んでいたハンス。「兄さん」という叫びを残して燃え盛る地獄へ落ちて行ったハンス。その名を絶叫していたゼル。
 ぼくたちはあまりに未熟だった。
 船の一隻すらも満足に操れないほど、何も分からなくて無知だった…。



 やっとの思いで手に入れた船。ぼくたちを救ってくれた船。
 コンピューターには船の名前が登録されていたし、そういう名なのかと思ったけれど。
 せっかく自由の身になったのだし、人類が船につけた名前は捨ててしまいたいと誰もが思った。この船はぼくたちの船なのだから。ミュウのためにある船なのだから。
 シャングリラと名付けた、ぼくたちの船。名前だけを聞けば立派な楽園。
 けれど改造するだけの技術も無かった頃のシャングリラは本当に名前だけの楽園。
 大きさは白い鯨の六分の一もありはしなかったし、設備だって最低限のもの。名付ける前の船にあった設備が全てで、食料だって同じ。
 積まれていた食料は直ぐに底を尽いた。自給自足のための設備は無かった。
 だけど食べねば生きてゆけない。とにかく何か食べねばならない。
 ぼくは近くを航行している船を探させて、一人で食料を奪いに出掛けた。名前だけの楽園に船はあってもシャトルと救命艇だけだったのだし、それで海賊行為は出来ない。あまりにも危険。
 けれども、ぼくなら真空の宇宙空間でも飛べるから。
 奪う先の船に侵入せずとも、瞬間移動で物資を奪って逃げられるから。
 食料も他の物資も、奪いに出るのはぼく一人だけ。
 選んでいるだけの余裕が無くって、コンテナごと全部失敬することもしばしばだった。
 手に入れた食料が偏ることなど珍しくなくて、キャベツだらけとかジャガイモだらけだとか。
 それでも食料があるだけマシ。工夫すれば色々な料理に化けるし、あっただけマシ…。



 限られていた食料品。
 奪って来なければ無かった食料。
 最初の間は食料さえあれば何でも良かった。アルタミラの研究所に居た頃、食事はただの「餌」だったから。調理されたものなど出はしなかったし、それに比べれば天国だった。
 温かい料理を温かい間に食べられる生活。餌ではなくて料理が出る日々。
 そうやって人間らしい食生活を送り始めると、だんだんと思い出して来る。一日に三度の食事の他にも何か食べていたと、成人検査の前に養父母と暮らした家では食べていたのだと思い出す。
 食事の他に何を食べたか、薄れて欠けた記憶の底を捜さなくても答えはあった。
 奪って来た物資に混ざっていることがある嗜好品。いわゆる、お菓子。
 物資に混ざっているくらいだから、保存の利く焼き菓子やキャンディーなど。一度口にすれば、もう忘れない。この世にはお菓子というものがあると、食事の他にも食べ物があると。
 胃袋を満たすための食事と違って、息抜きのおやつ。一度食べればまた欲しくなる。
 食べ物は本来、三度の食事だけではない筈なのだと、おやつが欲しい、と思い始める。
 もっともっと、今よりも人間らしく。
 人間らしく生きてみたいと、嗜好品だって食べたいのだと。



 だけど、シャングリラの中では作れないお菓子。技術も材料も全く無かった。
 それでもパンや食事だけでは飽きて来る。おやつが欲しい、と皆の心が求め始める。
 出来上がったお菓子は奪えたけれども、奪うことは簡単だったけれども。
 ぼくがお菓子を奪いに出掛けようとする度、ハーレイが止めた。
 たかがおやつでぼくを危険に晒せはしないと。
 そんなものを奪いに出なくてもいいと、食料は足りているのだからと。
 ハーレイの気持ちは分からないでもなかった。
 あの頃のぼくは、今と同じで小さい姿だったから。見た目だけは子供だったから。
 それでも食事だけしかない日が続くと、船の空気が澱んでくる。皆に生気が無くなってくる。
 生き生きとしていた瞳が曇って、まるで脱出した直後のよう。
 そんな仲間たちを見ていたくなくて、ぼくはついつい、奪いに出掛ける。食料は足りているのを承知で、何かお菓子を手に入れるために。皆の心を満たすために。
 そしてお菓子を手に入れて戻り、ハーレイを深く悲しませる。
 危ないから出掛けて欲しくないのにと、此処に武装した船さえあったら自分が行くのに、と。



 そうは言われても、ぼくは大切な船の空気を澱ませたくはなかったから。
 お菓子を奪いに出掛けて行っては、ハーレイが嘆く。
 行かせたくないのにと、出来ることなら自分が代わりに出掛けるのに、と。
 そういった日々の繰り返し。
 ぼくを危険に晒さないために、ハーレイは懸命に頑張った。船にある食材を常に把握し、料理の方法をあれこれ調べて作れる料理を増やそうとした。同じ食材でも違う料理を、様々な料理を。
 皆が飽きないよう、バラエティーに富んだ料理が出来たのだけれど。
 やはり料理とお菓子とは違う。やっぱり違う、と誰もが思う。
 パンとは違った、甘い焼き菓子。ふんわりと空気を含んだお菓子や、口の中でサクッとほどけるクッキー。食事とは違った味わいのお菓子。
 それらが食べたい、と願う気持ちは止められない。
 人間らしい生活を取り戻したいと、この楽園でそうしたいのだと願い始めたら止まらない…。



 ぼくがお菓子を奪いに出掛けて、ハーレイが何度も嘆いた末に。
 お菓子もなんとか作るしかないと、料理以外に作るしかないという結論になった。
 自給自足が始まる前のシャングリラ。
 まだ名前だけだった楽園の中で、ぼくが奪った食料をあれこれと工夫してお菓子を作った。
 けれど砂糖はキャンディーになって、他のお菓子には回されなかった。
 長い間食べていられるキャンディーはとても貴重な存在。甘いお菓子はこれに限る、と風味だけ変えて何種類ものキャンディーが出来た。
 砂糖が余ればキャンディーを作る。他のお菓子は作られない。
 甘い砂糖はバラエティー豊かなお菓子にはならず、残る調味料は塩だった。
 その塩で作られたお菓子の一つで、人気だったものがお煎餅。
 齧ればパリンと音がしていた、塩味の素朴なお煎餅…。



 ハーレイが「ほら」と持って来てくれたお煎餅の味は、まさにその味。
 シャングリラが名前だけの楽園だった時代に、皆が楽しみにしていたおやつ。
 前のぼくが奪いに出掛けなくても、シャングリラの中で作れたおやつ…。
「ふふっ、懐かしい」
 これが出来るまではハーレイに何度も叱られたっけね。
 お菓子なんか奪いに行かなくていいと、食料だけで充分だから、と。
「当たり前だろう! なんで命懸けで菓子を調達せにゃならんのだ」
「ぼくには簡単なことだったよ? 命なんかは懸けていないよ」
「お前にとってはそうかもしれんが、傍で見てれば命懸けにしか見えんだろうが!」
 宇宙服も着ないで飛び出して行ってしまうんだからな。
 いくら俺たちでも、宇宙空間で長時間のシールドは出来ん。船の外に出るだけで命懸けだ。
 それなのに前のお前ときたら…。
「だって、命は懸かってないもの。それよりも船の雰囲気が大事」
「気持ちは分かるが、たかが菓子だぞ」
 菓子くらい無くても死にやしないし、欲しがる方がどうかと思うが。
 アルタミラに居た頃は食事さえも無くて、餌しか食えない日々だったのにな。
「でも、ハーレイ。…ぼくたちは楽園を手に入れたんだよ、人間らしく生きたいじゃない」
「しかしだ、其処で菓子になるのか…」
「お菓子作りでうんと素敵になったよ、シャングリラの中」
 同じ塩味ならこれも出来るとか、色々と楽しみが増えたじゃない。
 塩加減でもキャンディーの味でも、料理には口を出さない人までああだこうだと言ってたよ?
 もっと塩味が濃いのがいいとか、こんなキャンディーを作らないか、とか。



「そうだな、みんな口出ししたがったっけな…」
 嗜好品の菓子だったからだろうな、とハーレイが笑う。
 料理の味に文句をつけたら「なら、食べるな」と言われて終わりだろうけど、お菓子だから。
 嫌いだったら食べなくてもいいお菓子だったから、誰もが口出ししたがったと。
 自分好みの味にしたくて、美味しいおやつを食べてみたくて、普段は口数の少ない仲間も厨房に出掛けて注文をつけた。こんなのがいいと、それが駄目ならこういうのを、と。
「ねえ、ハーレイ。このお煎餅は人気だったよね、特に調整しなくっても」
「ああ。しかし、まさか煎餅が普通にある場所に来ちまうとは思わなかったよなあ…」
「シャングリラではお煎餅って言わずにライスクラッカーだったっけ?」
「そんな名前で呼んでたな、うん」
 前のぼくはお煎餅という単語を知っていたけれど。
 当時の世界じゃ馴染みが無かった、今、ぼくとハーレイとが住んでる地域で使われる名前。
 耳慣れない単語を使うよりはと、お煎餅じゃなくてライスクラッカー。
 ハーレイが持って来てくれたお煎餅みたいな、お米の粉で作ったお煎餅ではなかったけれど。
 小麦粉を使って焼き上げられた、塩味のお煎餅だったけど…。



「今だとライスクラッカーの方が通じないね?」
「まったくだ。そいつを俺が店で言っても出て来ないかもな、煎餅は」
 ついでに煎餅の種類も増えたな、とハーレイは袋の中から一枚の紙を取り出した。
 塩味のお煎餅を買って来た店で扱っているというお煎餅の種類が書かれてる。写真がついてて、名前と説明。どんな味付けか、何処にこだわって作ったかとか。
 その一覧を覗き込みながら、ぼくは「これ!」と一つを指差した。
「ザラメのお煎餅は貴重だよね? 前のぼくたちには、これは貴重品だよ」
「貴重品以前に作れんぞ。シャングリラにザラメは無かったしな」
 お前だってザラメなんぞは何処からも奪って来なかったろうが。
「そういうお砂糖、無かったしね…。そもそも存在しなかったかもね?」
「うむ。和食の文化と同じで復活してきた砂糖かもしれんな、ザラメはな」
 俺もそこまで詳しくはないが。
 料理は好きだが、料理研究家を自称するレベルじゃないからな。
「トウガラシのお煎餅も貴重かも…」
「トウガラシか…。あるにはあったが、煎餅にたっぷりとまぶすほどには使えんな、うん」
 あれは貴重なスパイスってヤツだ。
 シャングリラで採れた数少ないスパイスの一つだったな、トウガラシは。
「胡麻煎餅は作れそうだね」
「こいつは簡単に出来ただろうなあ、前の俺たちが胡麻煎餅ってヤツを知らなかっただけで」
 実に惜しいことをしたかもしれん。
 胡麻煎餅は美味いからなあ、塩煎餅にも負けていないしな?
「醤油煎餅もシャングリラじゃ無理かあ…」
「醤油は作っていなかったしなあ…。そも、醤油自体が無かったぞ」
 あの頃の文化に醤油は無かった。
 そいつは俺でも断言出来るぞ、醤油は和食の文化と一緒にこの地球の上に再び戻って来たんだ。一度は消えちまった調味料なのさ、昆布の出汁が消えたみたいにな。



 SD体制の時代には消えた味だったり、あってもシャングリラでは貴重だったり、無かったり。
 ハーレイと二人、お煎餅の写真と名前を見ながら何が貴重かを語り合っていて。
「ハーレイ、これ! 海苔煎餅!」
 すっごく貴重、と、ぼくは叫んだ。
 海苔が貼ってあるだけのお煎餅だけれど、貴重品。とてつもなく貴重なお煎餅。
「うーむ…。シャングリラの中では有り得んな、これは」
「アルテメシアでも絶対、無理だよ!」
 青い海がある地球に行ったら海苔煎餅を作れたかも、っていうどころの話じゃなかった。海苔を食べるという文化が無かった。
 昆布の出汁が無かったみたいに、海苔だって誰も作りはしないし、食べなかった。
 アルテメシアにも海はあったのに。
 作り物の海でも海藻は生えていたと記憶してるけど、昆布の出汁も海苔も何処にも無かった。
 海苔のお煎餅は美味しいのに…。
 それと同じで、醤油煎餅だって美味しいのに…。
 どちらも前のぼくたちが全く知らなかった味。
 手に入るとか入らない以前に、海苔も醤油も何処にも存在しなかった世界。
 そんな世界に居た、前のぼくたち。
 塩煎餅を作っていたのに、海苔煎餅も醤油煎餅も夢見ることさえ無かったぼくたち…。



 そういう話を二人でしてたら、ハーレイが「うむ」と重々しく口を開いた。
「どの煎餅が一番貴重かという話で行ったら、醤油煎餅に海苔の組み合わせが最高かもな」
 醤油味のお煎餅に、ペタリと海苔。
 ハーレイが持って来た塩煎餅の店の商品にもちゃんと入っている、定番中の定番のお煎餅。
「…普通なんだけどね?」
 多分、一番普通のお煎餅だよ。
 お煎餅の絵を描きなさい、って子供に言ったら描くんじゃないかな、そのお煎餅。
「違いない」
 次はそいつを買ってくるか、って言い出したハーレイと二人で笑い合った。
 すっごく貴重なお煎餅。
 シャングリラの中では作れなかった、存在すらも知らなかった海苔と醤油のお煎餅。
 塩味のお煎餅が貴重なおやつだった時代が終わって、白い鯨が完成したって無理だった。
 青の間まで出来上がったシャングリラは見事な自給自足の世界で、お菓子も色々とあったのに。薔薇の花びらのジャムまで有志が作っていたのに、海苔と醤油のお煎餅は無理。
 海苔も醤油も何処にも存在しなかった上に、あったとしたって海苔だけは無理。
 海苔は海でしか採れないから。
 シャングリラに海は無かったから…。



 前のぼくたちの時代には貴重どころか、存在しなかった海苔と醤油のお煎餅。
 今では当たり前にお店で買える。
 小さな子供が握り締めて出掛けそうなお小遣いのコインで充分に買える。
 それも青い地球の海で採れた海苔をペタリと貼り付け、地球で採れた大豆の醤油の味のが。
「…すっごく貴重なお煎餅だね…」
 地球の海の海苔と地球のお醤油。
 とびっきり貴重なお煎餅だよ、と感嘆の息をついたら、ハーレイが塩煎餅を齧りながら。
「それを言うなら、この煎餅だって貴重だぞ」
 地球の海の塩だ、と言われて「ああ…!」と大きく目を見開いた、ぼく。
「そうだね、地球の海の味だね…」
 塩辛いよ、と懐かしい味の塩煎餅をパリンと齧ってみた。
 ごくごく普通の塩味な上に、とっても素朴なんだけど。
 お菓子なんかは殆ど無かった初期のシャングリラで作ってたほど、素朴なお煎餅だけど。
 今、ぼくが食べてるお煎餅の味は地球の海の味。
 前のぼくが行きたいと焦がれ続けた、青い地球の海から採れた塩の味…。
(…ふふっ、塩煎餅なのに貴重品だよ)
 シャングリラでは一番素朴な味だった、初期のお菓子の塩煎餅。白い鯨が完成した後には、誰も欲しいと言い出さなかった塩煎餅。他にお菓子は沢山あったし、誰だってそっちの方がいい。
 その塩煎餅が地球で贅沢に化けた。青い地球の海から採れた塩を纏って贅沢に化けた…。



(なんて幸せなんだろう…)
 ハーレイと二人、なんて幸せな場所に生まれ変わって来たんだろう。
 前のぼくたちには贅沢過ぎる、貴重品のお煎餅がごく当たり前にある世界。
 海苔と醤油のお煎餅とか、地球の海で採れた塩を使った塩煎餅とか。
(それに塩煎餅、ハーレイが思い出してくれたんだしね?)
 ぼくはすっかり忘れていたのに、懐かしい味を思い出させてくれたハーレイ。
 塩煎餅を手にして「ん?」と笑顔を向けてくれるハーレイ。
(…ハーレイと一緒に地球に来られたから、ぼくはホントに幸せなんだよ…)
 ハーレイが持って来てくれたお煎餅から幸せな気持ちが広がってゆく。
 ぼくたちは青い地球に来られたと、幸せな世界に生まれて来たと。
 塩煎餅はうんと贅沢に化けたけれども、その贅沢が出来る世界でハーレイと一緒。
 贅沢なお煎餅が普通な世界で、青い地球でハーレイといつまでも一緒……。




          お煎餅・了

※シャングリラの時代だと、とても贅沢だった海苔と醤油のお煎餅。今は普通なのに。
 何故かアルタミラ脱出の辺りがちょろっと書かれてますけど、このタイトルでいいんです!
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv





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「あっ…!」
 ざあっ、と梢を鳴らして吹いて来た風。
 庭の木々を揺さぶった風は開け放ってあった窓から部屋へ吹き込み、ブルーとハーレイが向かい合って座るテーブルの上を軽々と越えて。
 ブルーが思わず瞑ってしまった目を開けるよりも早く、勉強机に重ねて置いてあったプリントがバサバサと音を立てて部屋中に舞った。それらは床へ、ベッドへと無秩序に落ちる。
「あーあ…」
 ほんの一瞬で散らかった部屋。
 ブルーは椅子から立ち上がってプリントを拾い、机に戻して重石代わりにとペン立てを乗せた。乱暴な風にそう何回も飛ばされたのではたまらない。



「派手にやられたな」
「うん」
 片付ける間、黙って見ていたハーレイが椅子に戻ったブルーを「お疲れ様」と労い、窓の外へと視線を向けて。
「…風の音にぞ驚かれぬる、か」
 相変わらず風は吹いていたけれど、先刻のような突風ではなくて穏やかな風。葉ずれの音さえも微かでしかない風だったから、さっきの風を指しているのだとは思うけれども。
 聞き覚えの無い言い回しだから、ブルーは首を傾げて尋ねた。
「なに、それ?」
「ん? 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる、だな」
 古今集の歌さ。
 藤原敏行って人が詠んだ和歌なんだ、百人一首には入ってないがな。
「風の音でビックリするの? さっきみたいに?」
「秋が来ていることを目ではっきりとは見られないが、だ。風の音で秋の気配を感じて驚いた、といった意味の和歌だな」
「ふうん…。だけど百人一首じゃないんだ?」
「同じ人の歌は入っているんだが…。まるで別の和歌だ、秋の歌じゃない」
 全く違う、とハーレイが挙げた和歌は確かに別物だった。
「住の江の岸に寄る波、夜さへや夢の通ひ路人目よくらむ。…恋の歌だな」
「そうなの?」
「気になるんだったら、後で自分で調べておけ」
 俺は藪蛇は御免蒙る。
 如何にもお前が詠みそうな歌だ、そして文句をつけてくるんだ。
「えーっ?」
 ケチ、とブルーは唇を尖らせたけれど、ハーレイの解説は聞けなかった。



 百人一首。
 ブルーとハーレイが住んでいる地域に遙かな昔に在った小さな島国、日本で選ばれた百首の歌。
 古典の授業の範囲ではあるが、全部の歌を習いはしない。
 ソルジャー・ブルーだった頃のブルーも、その存在を何処かで目にした程度。内容までは興味を持たなかったし、百首の歌を見た覚えも無い。
 ゆえにハーレイが口にした歌の意味など見当もつかず、仕方ないから質問を変えることにした。
「百人一首には秋の歌って色々あるの?」
「あるぞ。吹くからに秋の草木の萎るれば、むべ山風を嵐と言ふらむ、とかな」
 こいつはさっきの風よりも酷い。
 風が吹いた端から草木が萎れていくと言うから、歌の通りに嵐だな。
 その時代の言葉で呼ぶなら野分だ。
「野分…。それ、台風のことだったっけ?」
「そうだ、流石によく覚えてるな。もっとも今じゃ本物の台風ってヤツは無いそうだがな」
 SD体制が崩壊した時、地球の地形も変わっちまった。
 ずうっと昔には二百十日なんて言ってだ、台風が来やすい時期を指した言葉もあったんだが…。
 梅雨と同じで消えちまったなあ、台風も二百十日もな。
 もっとも、秋に来る嵐なら野分でいいかもしれん。
 二百十日の頃に野の草を吹き分けてゆくという強風だからな、二百十日は秋だしな?



 他にも秋の風を詠んだ歌は百人一首にあるんだぞ、とハーレイは挙げた。
「秋風にたなびく雲の絶え間より漏れいづる月の影のさやけさ」
「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり」
 この二つだけでなく、まだ幾つか。
 雲がたなびくだけの風から、紅葉を散らす嵐まで。
 なんと沢山の風があるものか、とブルーは思う。
「ねえ、ハーレイ。秋の風だけでも色々な風があるんだね」
「そりゃまあ…。なあ? 秋の風も春も、夏や冬の風もあるだろうが」
 有名なトコだと、春なら東風か。冬は木枯らしだな。
 四季がある地域ならではだ。
「うん。此処に生まれて良かったよ、ぼく」
「まったくだ。四季がある上、海に行ったら潮風があるし、山の風も気持ちいいからな」
 実にいい所に生まれたものだ、とハーレイも大きく頷いた。
 四季折々の地球の息吹を感じられると、この地域に生まれ変わることが出来て良かったと。



 二人して、四季と風とを語り合っていたのだけれど。
 不意にハーレイがブルーの瞳を覗き込んだ。
「そういえば…。お前はどういう風なんだろうな?」
「えっ?」
 ぼく? とブルーが目を丸くすれば、ハーレイは「ああ」と笑みを浮かべた。
「今のお前なら可愛らしいし春風だろうが、前のお前は何だろうなあ…」
「…なんで前のぼく?」
 どうして其処でソルジャー・ブルーの話になるのか、ブルーにはまるで分からなかった。
 今の自分がどういう風かを話題にするなら自然だけれども、ソルジャー・ブルー。
 遙か遠い昔に死んでしまった前の自分を、何故ハーレイが持ち出すのだろう?
「すまん、驚いたか? だが、風の話で思い出したんでな」
「何を?」
「ナキネズミのヤツが言ったんだ。「ブルーは風の匂いがしたね」と」
 お前が逝ってしまった後で。
 俺が青の間を何度も訪ねたって話は前にしていただろう?
 たまに先客がベッドに居たと。
 丸くなって寝ていたナキネズミを起こして、お前の思い出話をしたと…。



 言われてみればブルーにも覚えがあった。
 前の自分が死んでしまった後、独りぼっちになったハーレイ。
 シャングリラに仲間たちは大勢いたのに、ハーレイは孤独の只中に居た。
 癒し難い苦しみと悲しみを抱え、ブルーが居なくなった青の間を訪ねては泣いた。その青の間のベッドで寝ていたらしいナキネズミ。
 たった一匹のナキネズミがベッドに居るだけで、ハーレイは泣かずに済んだという。在りし日のブルーに共に思いを馳せ、懐かしむことが出来たから。
 けれど…。
「えーっと…。ハーレイ、ナキネズミは風の匂いなんかを知っていた?」
 シャングリラ生まれの動物だけど、とブルーは尋ねた。
 ナキネズミは思念波を中継させるために作った生き物だったし、シャングリラでしか育たない。交配も世代交代も全てシャングリラの中。
 ジョミーに渡して「レイン」と名付けられたナキネズミも例外ではなかった筈なのだが…。
「はて…。そう言えば、あいつは風を知らんか…」
 ハーレイともども、首を捻って。
 そうか、とブルーが思い至ったこと。
「それ、もしかしたらナスカの風のことかな?」
「そうかもしれん。…いや待て、それだけは有り得んな」
 あいつは風がお前の匂いだと言った。
 お前、ナスカには降りていないぞ。眠ったままだったお前の匂いと比較は出来ん。
「そっか…。じゃあ、シャングリラの風なわけ?」
「人工のか? そいつは有難味が無さ過ぎるぞ」
 俺はてっきり自然の風だと…。
 如何にもお前に似合いそうだと、そう思って聞いていたんだが…?



 またしても二人、ナキネズミが話したという風の正体について考え込む羽目に陥った。
 ナスカの風とは違うらしいし、シャングリラの公園に吹く人工の風でも無いのだとしたら。
「…ハーレイ。あれ、いつ地上に下ろしたっけ?」
「あいつか? ジョミーの成人検査に間に合うように、馴染ませないといけなかったし…」
 成人検査より半年くらいは前だったろうか、とハーレイが記憶を遡る。
 人類の世界には存在しないナキネズミ。
 それを巧みに紛れ込ませてデータを操作し、宇宙の珍獣だと思い込ませた。
 ジョミーの成人検査の時期に合わせて公開されるよう、ジョミーの目に触れて出会えるように。
「あいつはリオが運んで行ったんだったか?」
「うん、ぼくがサイオンで細工したケージに入れてね。その時なのかな?」
「ケージの中では風が吹いても分からんだろう」
 それに輸送は小型艇だ。
 あの船の中にも風は吹かんぞ、凄い速さで飛ぶ密室だからな。
「だったら、地上? …でも、リオはユニバーサルのデータを操作して、ナキネズミをケージごと動物園に…」
「その筈だよな?」
 風に触れさせる暇など無かった筈だ、とハーレイは顎に手をやった。
 ナキネズミはケージごと動物園に収容されて宇宙の珍獣になったのだから、と。



 まるで分からない、ナキネズミと風との接点なるもの。
 ブルーは前の自分が目にした動物園の様子を思い浮かべて、ポンと手を打った。
「うん、何処かで自然に生きてたかも! 風の入る檻って言うの? 屋根のない場所で」
 そういう区画は幾つもあった。
 子供たちが動物と触れ合えるように作られた広場や、囲いの中を歩き回る動物たちや。
 夜になれば飼育用の小部屋に戻されるけれど、昼の間は風が吹き抜ける場所に居た生き物たち。ナキネズミもそうに違いない、と考えたブルーだったけれども。
「おいおい、宇宙の珍獣だぞ?」
 ナキネズミは一匹だけなんだ。
 貴重な動物をウサギやポニーなんかと一緒にするなよ?
 ライオンだってだ、一頭しかいないってわけじゃないんだ、珍しさの桁が違いすぎる。
「うーん…。自然の区画は無理かあ…」
 考えてみれば、ジョミーがナキネズミと出会った時にも密閉された檻だった。
 換気用の設備は整っていたものの、狭苦しい檻。
 アルタミラで押し込まれていた檻を思い出させる、ろくに動けもしない檻……。



 前の自分が立てた作戦とはいえ、ブルーの胸が微かに痛んだ。
 シャングリラの中で生まれ育ったナキネズミ。
 そのシャングリラでさえ閉ざされた狭い世界であったというのに、更に狭い檻へと送り込まれたナキネズミ。ろくに動けず、風さえ吹かない檻に入れられ、ジョミーを待っていたナキネズミ…。
 あの狭苦しい檻に入れられる前は、ナキネズミは何処に居たのだろう?
 アルテメシアには一匹しかいない宇宙の珍獣。
 人類が暮らす宇宙全域でも数えるほどしか存在しない、と偽りのデータを送っておいた。
 それほどに貴重なナキネズミ。
 自然の風が入る場所では、感染症で死ぬかもしれない。病気に罹ってしまうかもしれない。
 もしも自分がナキネズミを預かる飼育係ならどうするだろう、と想像してみて。
 密閉した部屋で飼うしかないと思った。
 外からウイルスが入らないよう、換気設備の完璧な部屋で。
 だとすると……。



「ひょっとして、ジョミーが外に出すまで、ナキネズミは風を知らなかった?」
「有り得るな…」
 大いに有り得る、とハーレイとも意見の一致を見たのだけれど。
 其処でブルーはとんでもない事実に気が付いた。
「ちょ、ちょっと待って。まさか風って、ジョミーが派手に銃撃されてた時の!?」
「なんだって!?」
 ハーレイが鳶色の目を見開いた。
「硝煙の匂いの風だと言うのか、ナキネズミが言っていた風は?」
 まさか、と目を剥くハーレイだったが、ジョミーが銃撃されていたことは否定できない。そして現場にナキネズミが共に居たことも。
 ジョミーはナキネズミを檻から出した直後に取り囲まれたし、銃撃された。
 それから後はリオに救われ、小型艇の中。
 そんな場所では風は吹かない。ナキネズミが風を感じただろう場所では激しい銃撃。



 ブルーは呆然として今の自分の身体を眺めた。
 可愛らしいから春風のようだ、とハーレイが言った小さな身体。
 けれども、ソルジャー・ブルーだった頃の自分が纏っていたという風の匂いは…。
「…ぼくってそんなに…」
 硝煙の匂いがしただろうか、と呟いた途端に蘇る記憶。
 あんまりと言えばあんまりな記憶。
「そうだ、ナキネズミに…。レインに会ったの、格納庫だ…」
 キースの脱走騒ぎの時の。
 あそこでキースに逃げられた後でレインが来たから、思念波をブリッジに届けて貰って…。
「うーむ…」
 そうだった、とハーレイが腕を組んで唸った。
 子供が一人仮死状態だから医療班を寄越してくれと、自分もナキネズミの力を借りねば思念波を送ることさえ覚束ない、とブルーからブリッジに届いた思念。
 あの時は腰が抜けそうだったが、今なら冷静に思い出せるし、笑いも出来る。
「キースは硝煙臭かったろうな、爆発騒ぎの後だったしな?」
「その匂い、ぼくにも移っていたかも…。全然、意識していなかったけど…」
 キースからブルーの身体に移ったかもしれない硝煙の匂い。
 ナキネズミがジョミーと一緒に銃撃された時、嗅がされたであろう硝煙の匂い…。



「前のぼくの匂いって、まさか、硝煙…」
「それだけは無いと俺は思いたいが…」
 あまりにも酷すぎる風の匂いに、愕然とするブルーと、ハーレイと。
 硝煙では無かったと思いたいけれど、考えるほどに硝煙の匂いが怪しい上に有力候補。
 しかしソルジャー・ブルーが常に硝煙の匂いを纏っていたわけではなかったから。
 違ったことをハーレイは誰よりも知っていたから、こう提案した。
「そうだ、雨だと思っておかないか?」
「雨?」
「雨上がりの風だ。水が少なくて乾いたナスカじゃ、そいつが一番いい風だった」
 あいつ、名前がレインだったからな。
 たまにナスカで雨が降って来ると、雨上がりに外へ駆け出して行ってたもんだ。
 空気が薄くても平気だったな、やっぱり動物は強いもんだな。
「雨上がりの風かあ…。硝煙よりかはそっちがいいかな」
 それがいいな、とブルーは嬉しくなったのだけれど。
 ナキネズミが語ったと聞く「風の匂い」。
 その風がどういう匂いだったのか、ハーレイは尋ねなかったのだろうか?



 硝煙だったのか、ナキネズミが好きだった雨上がりの風か。
 どちらが前の自分の匂いなのか、とブルーはもう一度ハーレイに向かって訊いてみた。
「ハーレイ、確認しなかったの? 風の匂いって、どんな匂いか」
「いい話だと思っていたからな。風の匂いだと聞いたら、そうかと思うさ」
「……そんなものなの?」
 いい話だから、と思ってナキネズミに訊き返さなかったハーレイ。
 ソルジャー・ブルーは風の匂いがした、と聞かされて「いい話だ」と思ったらしいハーレイ。
 ということは…、とブルーはアッと息を飲んだ。
「それじゃ、ハーレイも風の匂いで納得したわけ?」
 そういえば、ハーレイもアルタミラから後は本物の風なんか知らないよね?
 アルタミラって言えば、空まで届きそうに燃え上がる炎と爆風が渦巻く地獄だったし…。
 やっぱり硝煙?!
 前のぼくの匂いって、硝煙なんだ…?



 打ちのめされたブルーだけれども、ハーレイが「こらこら」と苦笑した。
「落ち着け、馬鹿。俺だってナスカの風を知ってる。雨上がりが一番と言っただろうが」
 それにアルテメシアに居た頃には、だ。
 シャングリラの周りの風の匂いだって俺は知ってたさ。キャプテンだからな。
 必要とあらばハッチだって開けて覗かにゃならん。
「シャングリラの周りって…。凄い風だったよ?」
「だが、本物の風には違いあるまい?」
 油断したら身体ごと吹っ飛ばされそうな風でも、本物の風だ。
 前の俺は本物の風の匂いを知っていたんだ、アルテメシアのも、ナスカのもな。
「…だったら風の匂いって、硝煙の匂いじゃないかもしれないんだ?」
「まあな。…ナスカはともかく、アルテメシアじゃいつだって雲の中だったんだが…」
 あの頃の、元気だった頃のお前が風の匂いだと俺は思った。
 はて、何故なんだか…。



 何故、と顎に手を当てて遠い記憶を探っていたハーレイが「あれか」と声を上げた。
「…そうだ、湿り気を含んだ風だ。シャングリラの周りにはいつも雲があった」
 雲は細かい水の粒だしな、風だって自然と湿り気を帯びる。
 じっとりと重い風じゃなくって、しっとりと肌に馴染むんだ。
 もの凄い強さで吹き付けて来るのに、「外の空気だ」と身体が喜んでいたな。
 やはりナスカの雨上がりの風があれに近いか…。
 あいつ、きちんと言い当てていたか、お前の匂いを。
「本当に? ハーレイ、本当に硝煙じゃなくて?」
「間違いない。俺が保証する」
 前のお前からしていた匂いは風の匂いだ、ナスカで一番だった雨上がりの風の。
 ナキネズミが言ってた風の匂いは、そいつで絶対、間違いはない。
 俺にしてみれば、雨上がりの風でなくてもいいんだがな。
 アルテメシアでシャングリラのハッチから顔を出した時の、雲の中の風。
 あの時に感じた風の匂いが、前のお前の匂いだったんだがな…。



 硝煙の匂いではなかったらしいソルジャー・ブルー。
 けれど雨上がりの風の匂いだと言われても、やはりブルーには分からない。
 ジョミーに渡したナキネズミが生まれた頃には既に弱っていたソルジャー・ブルー。それゆえにナキネズミと触れ合う時間などは無かったのだし、地上へ送り出す前に少し会った程度。
 ほんの少ししか会わなかったナキネズミが匂いを覚えているものだろうか?
 キースと対峙した後の格納庫でなら濃密な触れ合いがあったけれども、それなら硝煙の匂いだと思われる筈。
 殆ど面識が無いに等しいナキネズミが何故、雨上がりの風だと考えたのか。
 それをハーレイが言うのだったら、不思議でも何でも無いのだけれど…。
 だから疑問を口にしてみる。
 雨上がりの風だと保証してくれた、褐色の肌の恋人に向かって。
「ねえ、ハーレイ。ぼくはナキネズミと殆ど会ってないのに、なんで風の匂いがしたんだろう?」
「そいつは多分…。俺が思うに、青の間じゃないか?」
「青の間?」
「お前は知らないだろうがな。あいつ、青の間に何度も来てたぞ」
 前のお前が寝ていた間に、ジョミーの肩に乗っかってな。
 お前は黙って寝ていただけだが、ナキネズミには青の間がお前の部屋だと分かっていた。
 其処で馴染んだ匂いと良く似ていたのが、ナスカの雨上がりの風だったんだろう。
 ……忘れちまったか?
 青の間にはたっぷりとあった筈だぞ、雲の湿り気や雨上がりの風とそっくりなものが。
「そうか、水…!」
 広大な青の間に満々と湛えられていた大量の水。
 ナキネズミはそれの匂いを覚えたのか、とブルーはようやっと安堵の吐息をついた。
 ソルジャー・ブルーの匂いだとナキネズミが言った風の匂いは雨上がりの風。
 乾き切ったナスカの大地を潤した雨が運んで来た風…。



「…良かった…。硝煙の匂いじゃなくて」
「俺もホッとしたさ、そんな物騒な匂いのことだったのかと焦ったぞ」
「ハーレイがちゃんと確かめておかないからだよ、ナキネズミに!」
 ぼくだって焦ったんだから、とブルーは文句を言ったけれども、本当はとても幸せだった。
 ハーレイが覚えていてくれた、ソルジャー・ブルーだった頃の自分の匂い。
 雨上がりの風の匂いに似ていたという、元気だった頃のソルジャー・ブルーの匂い…。
 どんな匂いがしたのだろうか、と考えていたら。
 サアッ、と風が吹き抜けていって、遠くの空に雲が湧いている。
 ハーレイもそちらの方を眺めて、「ふむ…」と遠い雲に目を凝らした。
「さて、こいつは後で一雨来るかな」
「どうなんだろうね?」
 天気予報では降るとは言っていなかった。
 けれども秋の天気は気まぐれ。
 遙かな昔のような野分こそ今では来ないけれども、変わりやすいことは今でも同じ。
 ハーレイが雲を見やって、それからブルーの方を見て。
「降るとしたら夜だな、俺が帰った後だろうな」
 お前と一緒に雨上がりの風の匂いは確かめられないか…。
 こんなのだったぞ、と言ってやろうにも、帰った後ではどうにもならんな。
「ぼくは自分の匂いなんかは知らないよ!」
 そんなの知らない、と照れ隠しに叫んだ小さなブルーだったけれども。
 本当の所は、ハーレイと一緒に雨が降るまで、雨が上がるまで一緒に居たかった。
 そして二人で確かめたかった、とブルーは遠くの雲を見詰める。
 雨上がりの風の匂いがしていたという、ソルジャー・ブルー。
 前の自分からはどんな匂いがしたのか、雨上がりの風はどんな匂いを運んで来るのか。
 それをハーレイと確かめたかった、とブルーは思う。
 前の自分から漂ったという、湿り気を帯びた風の匂いを……。




         雨上がりの風・了

※風の匂いがした、ソルジャー・ブルー。なんとも不思議な匂いです。風の匂いは本当に色々。
 雨上がりの風の匂いで良かったですよね、硝煙の匂いだと酷すぎですから。
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 明日は必ず、帰りに寄るから。
 ハーレイが学校帰りに寄ってそう言ったことをブルーは不思議に思っていた。
 夕食を食べてゆくには遅い時間だから、と両親の誘いを固辞して帰って行ったハーレイ。明日の予定だけを告げて帰ったハーレイ。
(…御飯、食べてってくれれば良かったのに…)
 母の「今日は多めに作りましたから、ハーレイ先生の分もありますよ」という言葉は来客向けのものではなくて事実だったし、ブルーたちは既に食べ始めていたのだけれども、ハーレイが食卓に着きさえすれば一緒に食事は出来た筈。それが残念でたまらない。
(…ハーレイにはキッチンの中までは分からないしね…)
 ハーレイは母が追加で料理をせねばならなくなることを気遣って帰ったのだろう。今日の夕食は本当に多めに作ってあったのに。
 余れば明日の朝に父が食べるから、と大皿一杯のキッシュ。スープだって鍋にたっぷり。もしもハーレイが食べたとしたって、明日の朝食が普段通りの卵料理になるだけなのに…。
(ホントに残念…)
 せっかくハーレイの顔を見られたというのに、明日の約束だけ。
 ブルーが胸を高鳴らせたハーレイの愛車のエンジン音は夜の向こうへと消えてしまった。
 夕食を終えて、お風呂に入って。
 ベッドの端にチョコンと腰掛けても、まだ残念な気持ちが残る。夕食を一緒に食べたかった。
 けれど、それ以上に気になってたまらないこと。
 何故、ハーレイは「明日は寄るから」とわざわざ言いに寄ったのだろう?



 明日は普通に学校がある日。
 ハーレイの訪問は休日が基本だからだろうか、とも思ったけれども、平日は「時間が出来た」と寄ってゆくのだし、突然の来訪はよくあること。
(…なんで、予告?)
 何の記念日でも無い筈なのに、とブルーは首を傾げて考え込んだ。記念日だったとしたら、必ず来ようとハーレイが決めていたとしても分かる。けれどブルーには覚えが無い。
(んーと…)
 いくら考えても、ハーレイが帰りに寄った理由が分からない。
 明日に約束をしたという記憶も無ければ、前の生での記念日の類でも無さそうだ。しかし、二日続けての急な訪問は特に珍しくないのに、帰り道に寄っての予告付き。
 よほど特別な日なのだろうとしか思えない。
(…何の日だろう?)
 もしかしたら自分が忘れているだけで、前の生での記念日だろうか?
 どうにも気になってたまらないから、ブルーは記憶を遡ってみることにした。



(…ハーレイとの記念日…)
 もちろん忘れてなどいない。生まれ変わっても忘れはしない。
 ハーレイとシャングリラで過ごした日々。閉ざされた世界だけが全てだったけれど、ハーレイが居てくれたから幸せだった。二人一緒だったから幸せだった…。
(…キスした日かな?)
 初めて貰った唇へのキス。触れ合うだけだった優しいキス。
 今でも鮮やかに思い出せるけれど、その日は明日ではなかったと思う。
(…ハーレイと初めて…?)
 ハーレイが初めて青の間に泊まって行った日。本物の恋人同士として結ばれた夜。
 その日も違う。明日とは違うと記憶している。
 想いを打ち明けられた日でもなかった……と思う。
(…それとも、ぼくが覚え間違ってる?)
 キスさえ出来ない今の生ではこだわるだけ無駄だと思っていたから、ハーレイには一度も話していない。確認だってしていない。
 それに今度は、どの記念日も確実に違う日になるだろうと考えていたし…。



(…やっぱり、明日は記念日なのかな?)
 もしかして、と胸がときめいた。
 自分の記憶が間違っているだけで、実は記念日なのかもしれない。
(…そうなのかも…)
 記念日だったら、キスは駄目でも何か素敵なこと。
 ハーレイは予告までして行ったのだし、大いに期待していてもいい。
 両親も一緒の食卓では何も無いだろうけれど、食後のお茶の時にブルーの部屋で何か。
 キスは駄目でも甘い言葉とか、優しい抱擁。
(だって、大切な記念日だしね?)
 恋人同士ならではのイベントが何かあるかもしれない。
 そう、プレゼントを貰うとか…。
(ハーレイとのお揃いが一つ増えるかも!)
 二つだけしか無い、ハーレイとブルーのお揃いの持ち物。
 その片方はシャングリラの豪華版の写真集。ハーレイが先に買って来て、教えてくれて。自分のお小遣いで買うには高すぎたから、父に強請って買って貰った。
 もう片方は勉強机の上に飾ってあるフォトフレーム。夏休みの最後の日にハーレイと二人、庭で一番大きな木の下で写した記念写真が入っている。ハーレイがプレゼントしてくれたお揃いの品。お互いのフォトフレームを交換して持っている、大切な飴色の木製のそれ。
(…三つ目のお揃いが出来るのかも…)
 しかも記念日に貰えるとなれば、嬉しさは何十倍、何百倍にも膨らみそうだから。
(何か貰えると嬉しいんだけど…)
 考えただけで胸が弾むし、笑みだって零れそうになる。
 きっとドキドキして眠れない、とベッドにもぐり込んだのに、いつの間にか眠って朝だった。



(…ふふっ、記念日…)
 いよいよ今日だ、と制服に着替えて学校に行って。
 ハーレイの授業がある日だったから、脈打つ心臓を懸命に抑えて教室の扉が開くのを待った。
 学校ではあくまで教師と生徒。それは分かっているのだけれど。
(今日はハーレイが家まで来てくれるんだよ、記念日だから)
 緩みそうになる頬を引き締め、現れたハーレイを迎えたのに。
 褐色の肌をした恋人は、開口一番、こう言った。
「さて、今日は何の日か知ってるか?」
(えっ?)
 どうして、と驚くブルーの方を特に見もせず、ハーレイは教室の前のボードに「仲秋の名月」と大きく書いた。SD体制よりも遙かな昔、この地域にあった月を愛でる習慣。
(……お月見……)
 記念日ではなくてこれだったのか、と愕然としたブルーだけれど。
 遠い遠い昔、貴族と呼ばれた偉い人たちは月を直接見上げる代わりに池や杯の酒に映して眺めていたとか、仲秋の名月を見たなら翌月の十三夜の月も見ないと片月見とされて忌まれたとか。
 月にはウサギが住んでいて餅をついているとか、大きな桂の木があるのだとか。
 そういった話は面白かったから、それはそれで楽しかったと思う。
 でも……。



(…何の記念日でもなかったよ…)
 帰宅したブルーは部屋でしょんぼりと肩を落としつつ、それでもハーレイの来訪は確実だから。大好きな恋人が来てくれることは間違いないから、早く来てくれないかと待ち侘びていた。
(学校の帰りだし、車だよね?)
 いつもハーレイの車が来る方向を窓から見下ろしていると、暗くなった道路に見慣れた車。深い緑色をした車体の色までは分からないけれど、間違えはしない。
 車が駐車スペースに入って、門扉の前に大きな人影。チャイムが鳴って母が出て行って…。
(あっ…!)
 ハーレイの授業で教わったススキ。仲秋の名月に供えると聞いた穂のついたススキ。ハーレイがそれを庭のテーブルの上に飾っている。庭で一番大きな木の下が定位置の白いテーブルと椅子とを動かし、月が見えそうな場所へと移して。
(もしかして、御飯…。外なのかな?)
 それは考えてもみなかった。
(そういえば…)
 おやつの後で覗いたキッチンに枝豆が置いてあっただろうか?
 ハーレイの授業で聞いた枝豆。仲秋の名月に供えていたという枝豆、それに栗と里芋。
(…ハーレイ、昨日、ママにも何か話してたよね?)
 特に気に留めていなかったけれど、今夜の相談だったかもしれない。
 仲秋の名月に相応しい料理を作って欲しい、と母に頼んでいたのかも…。



「ブルー、ハーレイ先生がいらっしゃったわよ!」
 お庭で食事よ、と母に呼ばれてブルーの心臓がドキリと跳ねた。
 ハーレイと二人きりでの夕食。庭のテーブルを使うなら、そういうこと。
 何の記念日でもなかったけれども、夕食を二人で。
 いつもは必ず両親も一緒に食べる夕食をハーレイと二人、両親抜きでの庭での夕食。
 夏休みに一度経験したきりの特別な席。
(ハーレイと二人…!)
 記念日でなくてもかまわないや、とブルーは急いで階段を下りた。
 仲秋の名月だから、とハーレイが母に提案してくれたのだろう。
 もうそれだけで嬉しくなる。
 大好きなハーレイと二人きりでの夕食だったら、立派にデートな気分だから。



 月が見える場所へと移されたテーブルに、ハーレイが持って来てくれたススキを生けた花瓶。
 ほんのりとテーブルを照らし出す母のお気に入りのランプ。月明かりを邪魔しない控えめな光。
 庭の向こうから昇って来た月は見事に丸くて、煌々と光り輝いていた。
 月とランプとが照らす食卓に、栗御飯と茹でた枝豆、里芋の煮物。授業で聞いたとおりの献立。それだけではハーレイには足りないからと、他の料理もあるのだけれど。
 ハーレイが美味しそうに栗御飯を頬張り、月を仰いだ。
「地球に来たからには月見をせんとな。一年で一番綺麗な月だぞ、今夜の月は」
 前の俺は地球の満月を見てはいるんだが、残念なことに季節が違った。
 ついでに月も赤かったしな。
 汚染されちまった酷い大気を通して見てもだ、こんな綺麗な月にはならん。
「そうだったんだ…。今はピカピカのお月様だよ、鏡みたいだね」
 ホントにウサギが住んでいそうだし、大きな桂の木だってありそう。
 でも…。



 でも、とブルーは口ごもった。
 月を見ながらのデートは素敵だけれども、記念日なのかと勘違いして期待したから。
 残念な気持ちが残っているから、それをハーレイに告げたくなる。
「…ぼく、勘違いをしてたんだけど…」
 お月見だなんて思わなかった。
 何かの記念日かと思っていたのに。前のハーレイと、ぼくとの記念日…。
「記念日なあ…」
 ハーレイは苦笑しつつも、「なら、記念日にしておくか?」と月を見上げた。
「これから毎年、月見をするとか。それもまた良し、だ」
「ホント!?」
 嬉しい、とブルーは笑顔になった。
「それに、来月もお月見、出来るんだよね? 今日の月だけだと駄目なんでしょ?」
 片月見になる、ってハーレイが授業で言ってたじゃない。
「ああ、あれな。あれはなあ…。つまらん説もあるから、却下だ。やらなくてもいい」
「つまらないって…。なんで?」
「遊郭から始まった習慣だという話がある。遊郭という言葉は知ってるだろう?」
「…知ってるけど…」
 そんな場所から生まれた習慣だったとは、とブルーは驚く。
「ホントにそうなの?」
「さあな? SD体制よりも前の話だ、本当の所は分からんさ」
 しかし授業でわざわざ教えることもあるまい。片月見だけで充分だ。
「そっか…」
 月見が記念日に加わるとしても、次回は来年。来月の十三夜とやらは月見が出来ないらしい、と少し悲しい気持ちになる。
 ハーレイと二人、夜の庭で月を見ながらのデート。それが年に二回だと思ったのに。
「片方だけを見たんじゃ駄目、って、お月様を池に映して見るのと同じくらいにロマンチックだと思ったんだけど…。それ、駄目なんだ…」
「あんまり褒められた由来じゃなさそうだしな? しかしだ、月を映して見る方は、だ」
 そっちの月見は是非、しないとな?



 ほら、とテーブルの上に杯。まるでお正月の御屠蘇に使う杯のよう。
 ハーレイは「これでなければ気分が出ない」と片目を瞑った。そのために出して来たのだ、と。
「御屠蘇くらいでしか見ないだろうがな、月を映していた頃の杯はこういう形だ」
「ふうん…。だけど、前のぼくたちの頃にはこんな杯、無かったよね?」
「無かっただろうな、地球と一緒に復活してきた文化の一つさ」
 これも今の時代の地球ならではだ、とハーレイがテーブルの端に置いてあった器から杯に何かを注ぐ。ブルーは酒かと思ったのだけれど、それとは違った不思議な匂い。けれど…。
「お前は酒は駄目だしな? 俺は酒で、だ。お前は自分のグラスに月を映しておけ」
 やはり中身は酒だったらしい。確かに未成年のブルーには飲めないけれども、水のグラスに月を映しても素敵ではないし、面白味もない。
 月を映すならこの杯でないと、と言ったハーレイではないが気分が出ない。
 だから唇を尖らせた。
「なんで杯、一つだけなの? ぼくの水を入れる分も持って来て欲しかったのに…」
「杯に水を入れるだと? お前、別れたいのか、俺と」
「えっ?」
 なんで、と尋ねたブルーは水杯という言葉と意味とを聞かされて心底震え上がった。
 今生の別れに際して汲み交わす杯が、酒の代わりに水を満たした水杯。そんな恐ろしい杯などは遠慮したいから、つまらなくても水の入ったグラスでいい。
 そうは思うが、ハーレイが美味そうに傾ける酒。
 今のブルーも、酒に弱かったソルジャー・ブルーにも飲めない酒。



(…いいな…)
 杯の酒に映った月は、グラスの水に映る月よりも綺麗に見えるから。
 それを酒と一緒に飲み干せるハーレイはいいな、と羨ましく眺めていたのだけれど。
(…あれ?)
 ハーレイは車でやって来た。駐車スペースに停めるのを部屋の窓から確かに見ていた。
 酒を飲んだら飲酒運転になってしまうのでは、とハタと気付いて青ざめる。
(そうだよ、飲酒運転だよ!)
 飲酒運転は法律で禁止。違反したなら運転免許は取り消しになるし、なにより危ない。
(…ハーレイ、飲酒運転なんかはしないよね?)
 前のハーレイは無免許で巨大なシャングリラを動かしていたが、それはそれ。あの頃は無免許になってしまった理由があったし、無免許でも熟練のキャプテンだった。酒を飲んでシャングリラの舵を握ることなど決して無かった。
(うん、今のハーレイだって絶対しないよ)
 車は置いて帰るのかも、と嬉しくなった。それならば明日の朝、ハーレイと一緒に登校出来る。
 きっと朝一番に車を取りに来るから、頼めば乗せてくれるだろう。



 そう思ったから、ブルーは早速、ハーレイに強請ることにした。
「ハーレイ、明日はぼくも学校まで車に乗せてってくれる?」
「なんでだ?」
 ハーレイが杯を片手に怪訝そうな顔をするから。
「なんでって…。車、明日の朝に取りに来るんでしょ?」
「いや、乗って帰る」
 サラリと返したハーレイに、ブルーはギョッと息を飲んで叫んだ。
「ハーレイ、それって飲酒運転…!」
「…ははっ、バレたか。実はこいつは酒じゃなくて、だ。ノンアルコールの日本酒ってヤツだな、この地域の昔ながらの酒が日本酒だ。月見には日本酒でないと気分が乗らない」
 ノンアルコールじゃイマイチだからな、味を付けてみた。屠蘇風味だ。
「そっか、御屠蘇…」
 不思議な匂いがしたのはそれだったのか、と酒の正体ともども納得したブルーなのだけど。
 本物の酒ではないと聞いたら、欲しくなる。
 酒は飲めない自分だけれども、酒でなければ飲めるのだから。
 ハーレイが仲秋の名月を映して飲んでいる酒。それを自分も飲みたいと思う。
 だから…。



「お酒でないなら、ぼくにもちょうだい。お月見、したいよ」
「うーむ…」
 子供のお前には思い切り不味いと思うがな?
 いくら好き嫌いが無いと言っても、こいつは御屠蘇だ。薬臭いと思うのがオチだ。
 それに杯は一つだけしか無いんだが…。
「パパに頼んで借りて来る!」
 ブルーは急いで家に駆け込み、父がたまに楽しんでいる酒杯を一つ借りて来た。ハーレイの手にある杯とは違って、陶器の杯。いわゆるお猪口。
 お猪口でも月はグラスよりも綺麗に映るし、ハーレイと同じものを注いで貰って大満足で口へと運んだブルーだけれど。
「うー…」
 本当に薬の味がする、と顔を顰めれば、「俺も本物の酒の方がいい」とハーレイが笑った。
 アルコール抜きでは気分が出ないと、屠蘇風味に仕立ててみても雰囲気だけだ、と。



 それでも二人、杯とお猪口に満たした酒に仲秋の名月を映してみた。
 雲ひとつ無い夜空に昇った月。
 その月が小さな水面で輝く。まるで夜空を切り取ったように、酒の中に月が宿ったように。
「綺麗だね…」
 ホントに綺麗、とブルーが呟けば、ハーレイも「ああ」と杯に映った月を眺めた。
「まさに名月だな、一番綺麗な月だと言うだけはある。これで本物の酒ならばもっと…」
「そこでお酒?」
 ブルーは「本当にハーレイはお酒が好きだ」と自分には理解しかねる嗜好に首を捻ったけれど。今のハーレイも前のハーレイも酒好きなのだし、好きな人にはこたえられない味なのだろう。
 遙かな昔の貴族とやらも月を杯などに映して見ていた、と今日の授業で教わった。
 池に映った月を眺めるか、こうして杯の酒に映すか。昔の偉い人たちの月見はずいぶん変わったものだったのだな、と思うけれども、悪くはない。それに…。
「ねえ、ハーレイ。こんな風にしてお月見してると、ちょっと偉い人になった気分だよね」
「偉い人か…。ソルジャーとキャプテンだったら、どうだ?」
 問われて、暫し考えてみる。
 シャングリラに居た頃の自分とハーレイも偉い立場ではあったと思う。
 皆を導くソルジャーだったブルーと、シャングリラのキャプテンだったハーレイ。
 どちらが欠けても船は守れず、その立場ゆえに恋人同士であったことを伏せねばならなかった。
 時の流れが連れ去ってしまったシャングリラ。
 ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 あの頃の自分たちも偉い立場ではあったけれども、今となっては既に当時の比ではない。
 ソルジャー・ブルーもキャプテン・ハーレイも、歴史の教科書に名が載るレベル。
 ブルーに至っては、学校の先生の長い挨拶で名前と共に「感謝しましょう」と言われる有様。



「……凄く偉いね……」
 偉すぎだよ、とブルーが嘆けば、「そのようだ」と笑いを含んだ声が返った。
「とてつもなく偉くなっちまったらしいな、お前も俺も。特にお前は」
 偉い人になっちまった前の俺たちに敬意を表して、もう一杯、綺麗に飲み干しておくか。
 二人で乾杯といかんか、ブルー?
 前の俺が見た赤い月から数えて何度目の満月になるかは知らんが、地球の月にな。
「うん。とっても薬臭い飲み物だけどね」
「お前にはな。俺にはちゃんと御屠蘇の味がする。…アルコール分が無いから物足りんがな」
 それでも酒だ、とハーレイは月を映した杯を掲げた。
「乾杯!」
 ブルーも自分のお猪口を掲げて「乾杯!」と唱和し、飲んでみたけれど。
 屠蘇風味の飲み物は薬臭くて、美味しいとはとても思えなかった。
 月を映したものでなければ、ハーレイと二人で飲むのでなければ、飲み物ならぬ薬の味。
 好き嫌いの無いブルーであっても、好んで飲みたいとは思わぬ飲み物。
 これなら水の方がよっぽど…、と思ったけれども、杯に水は厳禁だから。
 ハーレイに教わった水杯は御免だから、と頑張って酒を飲み干した。
 そうしたら再び酒が注がれ、お猪口に仲秋の名月が映る。
「まだ飲むの?」
「いや。飲めとは言わんが、こうしないと気分が出ないだろうが」
 飲まなくていいから、せっかくの月を映しておけ。
 月はこうして見るものなんだぞ、前の俺たちみたいに偉い人はな。



 今のブルーには薬だとしか思えない味の、お猪口の中の飲み物だったけれども。
 いつか二人で本物の御屠蘇をちゃんと飲もうな、とハーレイが笑う。
 お前は酒に弱いけれども、御屠蘇は縁起物だから、と。
「うん…。うん、ハーレイ…」
 ブルーの期待した記念日の類では無かったけれども、気分は充分に特別だった。
 ハーレイと二人、庭での夕食。
 仲秋の名月の夜に二人きり。ススキを飾って、栗御飯に枝豆、里芋の煮物なんかを食べて。
 それに杯とお猪口に、月。
 遙かな昔の偉い人たちがしていたように、月を映して眺めて、飲んで。
(…こんなお月見が出来るだなんて…)
 ソルジャー・ブルーだった頃には思いもよらなかった、ハーレイと二人きりでの月見。
 焦がれ続けた地球の上に居て、空には仲秋の名月があって。
 青い地球に生まれて来られた幸せを思い、ブルーは澄んだ夜空を見上げる。
 ハーレイが地球に降りた夜には赤かったという月。その月が白く煌々と輝く下で…。




        名月の夜に・了

※ハーレイとブルー、二人でお月見。地球から月を見上げられる世界に来たのです。
 前のハーレイが見た赤い月とは違う月。あれから幾つ目の満月でしょうか…。
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(…ふふっ、サッパリした!)
 バスルームから自分の部屋に戻ったブルーは、パジャマ姿で大きく伸びをした。
 体調を崩して学校を欠席してしまった上、昨日は母に止められた入浴。やっと入れた、と嬉しくなる。たった一日だけだったけれど、お風呂に入れないと気分が落ち着かない。
 高熱を出して寝込んでいたって、何故かお風呂に入りたくなる。それも小さな頃からずっと。
(やっぱりお風呂は気分がいいよね)
 御機嫌でベッドの端っこに腰掛けた。今日はお風呂に入れたのだし、明日は学校に行けるといいのだけれど…。大好きなハーレイに会うことが出来る学校に。
(…行きたいな、学校…。ハーレイに会いに)
 もっとも、学校の中では大好きなハーレイとは教師と生徒の関係になってしまうから、名を呼ぶ時には「ハーレイ先生」。話す時にも敬語が必須。それでもブルーはハーレイに会いたい。
 そのハーレイなら昨日、スープを作りに来てくれたのだけれど。何種類もの野菜を細かく刻んで基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴なスープ。前の生からブルーが好んだ、ハーレイが作る野菜のスープ。ハーレイ曰く、「野菜スープのシャングリラ風」。
 昨日はそれを作って貰って、今日も見舞いに寄ってくれたのだけれど…。
 それでもブルーには足りなさすぎる。
 もっとハーレイの顔を見ていたい。大好きなハーレイの声を聞いていたい。
 明日こそ学校に行きたいけれども、生まれつき弱い身体だから。お風呂に入れたくらいで明日の健康が保証されているわけではない。あまりに弱すぎるブルーの身体。



(もしも明日も休まなくっちゃいけなくっても、ハーレイに会う前にサッパリ出来たよ)
 お風呂に入れて良かった、と思う。
 母はあまり良い顔をしなかったけれど、もう諦めているのだろう。それに父だって。
 熱が高くて足元が危ういような時でも「お風呂に入りたい」と訴えるのだし、少し熱が下がれば入ろうとする。母がタオルで拭いてくれても、それよりお風呂に入りたいと願う。軽くシャワーを浴びるどころか、バスタブに浸かってゆっくりと。
(今日は浸からせて貰えて良かった!)
 ホントに良かった、ともう一度伸びをし、湯冷めしないようベッドに入った。まだ眠るつもりは無いから明かりは点けたまま、寛いだ気分で天井を見上げる。
 気持ちが良かった二日ぶりのお風呂。
(…ふふっ)
 やっぱりお風呂は気分がいい。無理をしてでも入るだけの価値は充分にある。
 ずっと幼い子供の頃から、お風呂に入るのが好きだった。赤ん坊の頃から好きだったと聞くし、筋金入りのお風呂好き。
 お気に入りのオモチャを浮かべて遊んだ頃ならともかく、今は浸かっているだけだけれど。特に何をするというわけでもないのに、入らずにいられないお風呂…。



(…そういえば…)
 どうしてお風呂好きなのだろうか、と記憶を遡っていて思い出した。
(前のぼくもお風呂が好きだったよね)
 ソルジャー・ブルーだった頃にも好きだったお風呂。
 今と同じでシャワーよりもバスタブに浸かる方が好きで、青の間の広いバスルームでゆったりと手足を伸ばして浸かっていた。
(うん、ドクターに文句を言われても入ってたっけ)
 前の自分が「お風呂くらいはかまわないだろう?」と言う度、苦い顔をしていたシャングリラの医師。ブルーの主治医だったドクター・ノルディ。何度叱られたか分からない。
 彼が「駄目です」と言っているのに、お風呂に入っては叱られた。それでも懲りなかった覚えがある。「自分の身体は自分が一番分かるんだよ」などと言い訳をしては入っていた。
 体調がかなり良くない時でもハーレイの手を借りて入浴していたのだから、その頃の記憶が今も何処かに残っているのかもしれない。自分でも気が付かないような意識の底に。
(…そうなのかもね?)
 だからお風呂が好きなのだろうか、とブルーはクスッと小さく笑った。
 お風呂好きだったソルジャー・ブルー。
 ドクターに止められてもコッソリ入って、何度も叱られていたソルジャー・ブルー。
(今のぼくと一緒で綺麗好きだったんだよ)
 部屋の掃除も自分でしていたソルジャー・ブルー。
 広い青の間を全部は無理だし、部屋付きの係も居たから少しだけ。ハーレイと二人で使っていた洗面台とか、キッチン周りとかの掃除をしては「私たちの仕事が無くなります」と部屋付きの係を困らせていた。
 お風呂好きなのもそれと同じで、綺麗好きゆえだと思い込んでいたのだけれど。



(…あれ?)
 何かが記憶に引っ掛かる。
 ソルジャー・ブルーだった頃には、今の自分よりもずっとお風呂が好きだったような…。
 どうにもそういう気がしてならない。
 ハーレイの手を煩わせてまで入浴しようとしていたのだから、今の自分の比ではない。今ならば自力で入れなければ諦める。もちろん両親が手を貸してくれないこともあるけれど…。
(だけど、パパとママが「入れてあげる」って言ってくれても、入るかなあ…?)
 そこまでしてお風呂に入るよりかは、身体を拭いて貰うだけの方が楽だろう。お風呂に浸かれる時間は魅力的だが、どちらかと言えば楽な道の方を選びたい。
 しかし記憶の彼方のソルジャー・ブルーはバスタブに浸かる方が好きだったのだ。今のブルーを遙かに上回るお風呂好き。ベッドで身体を拭いて貰う楽な道より、お風呂が好き。



(なんで?)
 そこまでのお風呂好きが完成するまでに至った理由が気になってきた。今の自分にも少なからず影響が出ているようだし、追究せずにはいられない。
(…宇宙船の中だったからかな?)
 白い鯨のようだった巨大なシャングリラが完成した後ならともかく、それ以前は水の量に限りがあった可能性もある。特に初期の頃は。
 限られた量の水しか使えないなら、当然、お風呂どころではない。
 青の間が出来上がった頃には水もお湯も自由に使い放題、広いバスルームも備えられていたし、其処でお風呂の気持ちよさに目覚めて大好きになってしまったとか…?
(でも…)
 そういった理由ではないような気もする。
 いくら青の間のバスルームの居心地と使い心地が良くても、それだけで「何が何でもバスタブに浸かりたい」ほどのお風呂好きになるとは思えない。
 確かにバスタブに浸かればホッとするけれど、其処へ至るまでの道を思えば一日や二日くらいは浸かれなくてもいい気がするのが今の自分だ。
 ソルジャー・ブルーだって楽な道の方を選べばいいのに、そうしなかった。
 無理をしてでもバスタブに浸かってゆったりする方が好きだった。
 何故だろう、とブルーは考える。
 前の自分はどうしてそんなにお風呂好きだったのか、バスタブに浸かりたがったのかを。



(…前のぼくと、お風呂…)
 遠い記憶を手繰り寄せれば、とても幸せな気分でバスタブに浸かっていたソルジャー・ブルー。気持ちよく寛いでいると、ハーレイが「湯加減は如何ですか?」と訊いたりしていた。
 温度は自動で調節出来たし、望めば常に適温を保っておけるのだけれど。
 わざわざ装置をオフにしておいて、冷めて来たら熱いお湯を足すのも大好きだった。
(うん、冷めたお湯を少し抜いて減らして、代わりに熱いのを沢山入れて…)
 シャングリラの水の循環やエネルギーの供給が上手くいっているからこその贅沢。
 やはりその点が大きいだろうか、と首を捻って、湯加減を訊いていた恋人に思い至った。
(…ひょっとして、ハーレイと一緒に入ってたとか?)
 どうだったろう、と記憶を遡るまでもなく脳裏に蘇った遠い日の思い出。
(…………)
 ブルーは耳まで赤く染まった。
 ハーレイと一緒にお風呂に入った記憶が山のようにある。そればかりか…。
(ダメダメダメ~~~っ!)
 二人でバスタブでふざけ合った記憶まで蘇って来た。
 ゆったりと二人で浸かれる大きなバスタブ。
 褐色の肌をした恋人と其処でキスを交わして、それから、それから…。
(……ベッドの中だけじゃなかったんだ……)
 本物の恋人同士だからこそ持つことが出来る、幸せな時間。
 バスルームでも、バスタブの中でもハーレイと本物の恋人同士。
 幸せな記憶はそのせいなのか、と思ったけれども。
 それがあるからお風呂好きだったのか、と納得しかかったブルーだけれど。



(…ハーレイが居ない時でも幸せだったよ?)
 キャプテンだったハーレイは青の間に来るのが遅くなることも多かったから。
 そういう時には湯加減を訊いてくれる優しい声も無いまま、一人でバスタブに浸かっていた。
 一人ゆったりと手足を伸ばして、温度の自動調節をオフにして…。
(やっぱり、ホントにお風呂好きだよ)
 どうしてだろう、と更に記憶を遡った先で。
 ブルーは思わず首を竦めた。
「ぐずぐずするな!」
「さっさとしろ!」
 男たちの荒々しい怒鳴り声。
 今の生では聞いたこともない、蔑みに満ちた男たちの声。
(……アルタミラ……)
 過酷な人体実験の後で放り込まれた、バスルームならぬ洗浄用の小部屋。
 服を剥がされ、蹴り込まれた。
 家具ひとつ無い部屋の天井から、壁から、容赦なく吹き付ける洗浄液や水。
 そう、実験の内容によってはお湯ですらなくて水だった。
(…寒い…)
 ブルーはブルッと身体を震わせ、上掛けの下で右手をキュッと握り締める。
 温もりが逃げていかないように。
 ハーレイが何度も褐色の手で温めて移してくれた、温もりが逃げていかないように…。



(…あれのせいだ…)
 アルタミラでの記憶のせいだ、と思い当たった。
 来る日も来る日も、引き摺り出されては繰り返される人体実験。
 人間扱いさえもされずに、実験動物のように洗われた。あの研究所にはシャワーもバスルームも無くて、洗浄のための小部屋だけ。
 湯の温度どころか水量すらも調節は出来ず、洗浄が終わればタオルの代わりに乾燥用の風が四方の壁と天井から吹き付けて来る。酷い火傷を負っていようが凍傷だろうが、肌へのダメージなどは考慮されない。それはまた別に為されること。実験動物の洗浄と治療はまるで別のこと。
 痛みに呻きながら床に倒れ伏していれば、治療用の部屋へと移される。そうして傷が癒えるのを待って、再び実験の日々が始まる。
 実験が終われば洗われる日々。実験動物のように洗われる日々…。



 そんな扱いの中で、いつしかシャワーもバスタブも忘れてしまっていたから。
 アルタミラから脱出した後、初めて船で浴びたシャワーに感激した。その心地よさに涙が出た。
 エネルギーの使用量を最小限に抑えていたから、シャワーの温度はあくまでぬるめ。その水量も少なかったけれども、自分の意志で浴びられるシャワー。洗いたいように洗えるシャワー。
 それはアルタミラが崩壊してゆく地獄の中で被った埃を洗い落とすには充分すぎるものだった。
 ぬるい水を浴びながら、ブルーは何度思ったことか。
 身体を洗うことはこんなにも嬉しいものかと、こんなにも心地よいものなのか、と。
(…あれでお風呂が大好きになったんだ…)
 思い出した、と小さなブルーは遠い記憶の海を漂う。
 最初の間は温度も水量も、使用時間も限られていたシャワー。船にバスタブはあったけれども、満たすだけのお湯は使えなかった。いつか使えるといい、と思って見ていた。
 船での暮らしが軌道に乗って、設備も次第に充実してきて。
 初めてバスタブに浸かれた時には、またしても涙が出そうになった。
 自分たちもようやく此処まで来られたと、実験動物のように洗われることはもう無いのだ、と。
(順番に入るお風呂でも、お風呂には自分で入れるんだしね?)
 放り込まれるのでもなく、蹴り込まれるのでもなく、自分の足で歩いて入れるお風呂。使用規則さえ守れば、どんな入り方をするのも自由。ゆったり浸かるのも、さっさと上がるのも…。
(うん、あれだよ。前のぼくがお風呂好きになっちゃった理由)
 青の間が出来てシャワーもバスタブも一人で好きなように使えるようになった時、どれほど幸せだったことか。どれほど嬉しく思ったことか。
 そう、まだハーレイと結ばれていなかった頃から、ソルジャー・ブルーはお風呂好きだった…。



(筋金入りのお風呂好きが出来上がるわけだよ)
 ちょっと凄すぎ、と小さなブルーは前の自分に思いを馳せる。
 あれだけの目に遭った後なら、お風呂好きにもなるだろう。体調が悪くても浸かりたいほどに、ドクターが顔を顰めようとも入りたいほどに。
 それほどに幸せな記憶があったお風呂だから、記憶が戻る前のブルーもお風呂好きだった。
 赤ん坊の頃から大好きだった、と両親が話してくれるお風呂好きな子供になった。学校を休んだ時にも入りたいほどに、高熱があっても入りたいほどに…。
(…ハーレイもお風呂、好きだったよね?)
 前のハーレイはブルーと同じで大好きだった。シャワーよりも断然、バスタブ派。大きな身体をゆったりと沈め、気持ち良さそうに浸かっていた。青の間でも、自分の部屋のバスルームでも。
(今のハーレイはどうなのかな?)
 そういえば、訊いてみたことが無かった。
 是非訊かねば、と小さなブルーの心が好奇心で一杯になってゆく。
 今のハーレイも自分と同じでお風呂好きなのか、それとも今は違うのか…。



 次の日、登校は出来なかったけれども、仕事帰りのハーレイが見舞いに寄ってくれたから。
 ベッドで終日、退屈していたブルーはしっかり覚えていたから、問い掛けた。
「ハーレイ、今もお風呂は好き?」
「風呂?」
 唐突な問いに鳶色の目を瞬かせたハーレイだけども。
 ブルーに「ぼくはお風呂が大好きだけれど、ハーレイは?」と重ねて訊かれて、遠く過ぎ去ったアルタミラの話まで持ち出されて「ふむ…」と腕組みをした。
「そういえば俺もガキの頃から風呂が好きだな」
 てっきりスポーツをやってるせいかと思ってたんだが、アルタミラか…。
 そんな時代もあったっけな。



 忘れていたな、とハーレイが笑う。
 ブルーよりも長く生きている分、なかなか思い出すだけの余裕が無い、と。
「なんたって今の俺として生きて三十八年近くの間は前の記憶がゼロだったしな? なかなか昔を懐かしむ所まで到達出来ん。その前に今の記憶に捕まっちまう」
 風呂の話にしたってそうだ。
 今じゃ風呂上がりのビールが美味いわけだが、ガキの頃の俺はビールなんかは飲めんしな。
 風呂上がりのビールが飲める幸せってヤツに浸っちまって、風呂まではなあ…。
「風呂が幸せって前にビールだ、そいつが俺だ」
「そういうものなの?」
「まあな。枝豆でも茹でればもう最高だな」
 そう言っているくせに、前の生での幸せな記憶をハーレイは幾つも思い出してくれる。
 こんなこともあった、これもそうだ、と。
 幾つもの幸せな記憶を手繰り寄せてくれるハーレイのことがブルーは好きでたまらない。
 そのハーレイがブルーが尋ねた言葉を切っ掛けに、遠い昔を、アルタミラを語る。本当に悲惨な時代だったと、よく生き残って脱出できた、と。
「いや、実に酷い記憶だとしか言いようがないな、アルタミラは」
「お風呂くらいゆっくり入りたいよね、自分の好きな時に」
「まったくだ。実験が終われば丸洗いだしな」
 あのせいで俺は風呂好きなのか、とハーレイは苦い笑いを浮かべた。
 あの時代に比べれば今は天国のような生活だと、風呂上がりにビールまでついてくるから、と。



「ハーレイはお風呂、楽しんでるんだ…」
 いいな、とブルーは羨ましくなった。
 自分もお風呂好きではあるけれど、入りたいというだけのこと。
 入れば身体も気持ちもサッパリするものの、ハーレイのビールのようにお風呂とセットの素敵なお楽しみは無い。お風呂は確かに好きなのだけれど、ハーレイには負けている気がする。
 ゆったりと浸かることは好きでも、それでは前の生の自分の頃と変わらない。
 ハーレイはお風呂上がりのビールという新しい楽しみ方を見付けて満喫しているのに…。
 ちょっぴり羨ましくなってしまったから、ブルーは「いいな」とポツリと零した。
「ハーレイは今の自分のお風呂を楽しんでるのに…。ぼくは前のぼくと変わってないみたい」
 お風呂好きな所はそっくりなんだよ、入ると気分はいいんだけれど…。
 ぼく、今だって身体の具合が悪い時でも入りたくなるくらいに引き摺ってるよ、前の記憶を…。



 ハーレイはいいな、と呟いたブルーに、ハーレイが驚いた顔をする。
「そうだったのか? 具合が悪くても入るのか、お前」
「うん…。ママに止められなかったら、だけどね」
 昨日もお風呂に入ったんだよ、でも今日は学校に行けなかった。
 そんな時でも入りたいほど、ぼくはお風呂が好きなのに…。
 好きだってだけで何もオマケが付いて来ないよ、ハーレイのビールみたいな何か。
「俺のビールなあ…」
 お前は酒は苦手だろうが、とハーレイは首を捻ったけれども。
 前のブルーは酒が飲めなかったから、今のブルーが酒を飲める年齢になっても無理であろう、と考え込んだのだけれど。
 ふと閃いた、とある考え。
 それをハーレイは口にしてみる。



「だったら、アレだ。お前が風呂を楽しめるように、結婚したら温泉巡りに行くか?」
「温泉?」
 キョトンとするブルーに「温泉はいいぞ」とハーレイは片目を瞑ってみせた。
「お前、殆ど旅行はしてないらしいしな? 温泉巡りもしてないだろう?」
「うん…」
「温泉巡りはいいもんなんだぞ。あちこちにあるし、行った先でも何種類も温泉があったりする」
 同じ場所なのに、湯が違うんだ。
 色が違ったり、湯の成分が違ったりもするぞ。
「聞いたことはあるよ。でも、見に行ったことは無いかも…」
 うんと小さい頃なら行っているかもしれないけれど、とブルーが言うから。
「なら、行くとするか。いろんな種類の湯に入れる上、温泉卵なんかもあるしな」
「温泉卵は知ってるよ? 半熟のでしょ?」
 美味しいよね、とブルーが微笑む温泉卵は温泉卵という名の料理だった。それはハーレイが意図するものとは違う。
 ハーレイがブルーを連れて行きたい温泉の卵はそれではない。
 そしてブルーはどうやら知らないようだったから、ハーレイは大いに満足した。
 お風呂の楽しみ方が広がらないことを嘆く恋人には、やはり温泉巡りがピッタリだろう。



「違うぞ、ブルー。そういう卵のことじゃなくて、だ」
 俺が言うのは本物の温泉でしか作れん温泉卵だ。
 温泉のお湯に浸けて茹でたり、蒸気で蒸したりして作るんだ。
「本物の温泉で卵を茹でるの!?」
 ブルーの赤い瞳が丸くなる。
「ああ。蒸す方は危ないから観光客は見ているだけだが、茹でる方なら自分で作れる所もあるぞ」
「それ、やりたい!」
 茹でてみたい、と瞳を煌めかせる小さな恋人。ハーレイの読みは見事に当たった。
 ブルーのお風呂の楽しみ方は温泉巡りで広がりそうだが…。
「ふむ。まずは温泉卵を作るのか、お前? 俺と一緒に風呂ではなくて、だ」
 温泉地に行けば風呂も沢山あるんだが?
 宿の部屋でも入れたりするのに、俺と一緒に風呂に入るより温泉卵がいいんだな?
(え?)
 たちまちブルーは思い出した。
 前の生でハーレイと青の間で入ったお風呂。二人で浸かって、それから、それから…。
(…え、えーっと……)
 何と返事をしたらいいのか分からない。
 ブルーは耳まで赤くなったが、ハーレイは「卵でいいさ」と可笑しそうに笑った。
 今のブルーには温泉卵くらいで丁度いいのだと、無理して背伸びをしなくてもいいと。
(…ぼく、背伸びなんかしていないのに…)
 けれど、温泉と聞いて浸かるよりも先に、温泉卵に釣られてしまったことは事実だから。
 それもいいな、とブルーは考える。
 今の所は、温泉卵。
 いつかハーレイと結婚したなら、二人で温泉。
 お風呂上がりにビールを楽しむハーレイお勧めの温泉巡り。お風呂の楽しみ方が広がる温泉。
 地球の恵みの温泉に行って、ハーレイと二人で熱いお湯に卵を浸けてみよう、と…。




         大好きなお風呂・了

※ブルーがお風呂好きだった理由は、アルタミラの悲惨な体験のせい。可哀相かも。
 けれど、今度は温泉巡りに行けるのです。温泉卵も作ってみたいですよね。
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「ブルー。右の手、温めてやろうか?」
 庭の木の葉が色づき始めて、朝晩は肌寒く感じる日も混じり始めたから。休日にブルーの部屋を訪れたハーレイが問えば、「うん」と嬉しそうに小さな右手が差し出された。
 お茶とお菓子が置かれたテーブルを間に挟んで、ハーレイの大きな右手がブルーの手をそうっと握って包む。
「ふふっ、温かい」
 くすぐったそうに微笑みながらもブルーの心が幸せに満ちてゆくのが、ハーレイの心にも握った手を通して伝わって来た。
 遠く過ぎ去った遙かな昔に、前の生の最期に、温もりを失くしてしまったブルーの右の手。
 忌まわしいメギドでハーレイの温もりを失くした右の手。
 ソルジャー・ブルーだった時のブルーが最期まで覚えていたいと願った、シャングリラを離れる前にハーレイの腕に触れた手に感じた確かな温もり。それを抱いて逝きたいと願った温もり。
 けれどもブルーは失くしてしまった。銃で撃たれた痛みの酷さがブルーから温もりを奪い去ってしまった。
 最期まで共に在りたいと願ったハーレイの温もりを失くしてしまって、メギドにブルーはたった一人きり。恋人の温もりは消えてしまって、ハーレイはもう何処にも居ない。
 もう会えないと、独りぼっちになってしまったと、泣きじゃくりながらブルーは逝った。右手が冷たいと、凍えて冷たいと泣きじゃくりながら、温もりを取り戻す術も無いまま…。



 ソルジャー・ブルーだった自分の悲しい最期を今のブルーも覚えている。
 右の手が冷たく凍えた記憶は小さな胸に深く刻まれている。
 だから小さな右の手はハーレイの温もりを求め、幾度も幾度も縋って来た。前の自分が失くした温もりを取り戻すかのように、それが欲しいと縋って来た。
 再会した春から暑い夏を経て、秋までの月日を共に過ごして。
 ずいぶん落ち着いたブルーだけれども、今でもやはり右の手の温もりは特別なまま。
 以前ほどに強請って求めはしないけれども、こうして問われれば右手を差し出して来る。それが欲しいと、ハーレイの温もりを移して欲しいと。
 今も右の手を包み込まれて、ブルーは幸せそうだから。
 利き手を握られているというのに、何の不自由も無いとばかりに湯気の立ち昇る紅茶のカップを放っているから、ハーレイは前のブルーがどれほどの寂しさと悲しみの中で逝ってしまったのかを思わずにはとてもいられない。
 こうして今もなお、自分と向かい合っていてさえ、ブルーの心は癒えていないのかと。
 熱い紅茶を楽しむことより、失くした温もりを取り戻す方が大切なのかと…。
 そうしてハーレイは溜息をつく。
 前のブルーを失くした自分がどうであったかを思い出したから。



「…人の思いとは分からんものだな」
 ハーレイの口から零れた言葉に、ブルーが「何が?」と小さく首を傾げる。
 不思議そうに見詰める赤い瞳を見詰め返して、ハーレイは言葉の続きを紡いだ。
「まさか温もりとは思わなかった」
 前のお前が最期に欲しかったものが、温もりだったとは思わなかった。
 前の俺は勘違いをしていたようだ。
 てっきり灯りだと思っていたんだがな…。
「灯り? …なんで?」
 なんで灯り、と小さなブルーが目を丸くした上、パチクリと瞬きまでもしているから。
 それも忘れてしまったのか、とハーレイは恋人の手をキュッと握って。
「忘れちまったか? お前が俺に教えたんだろうが、遙か昔には蝋燭だった、と」
「……蝋燭?」
 ますます意味が分からない、といった体のブルーだったけれども。
 暫くしてから「ああ…!」とコクリと頷いた。
 忘れていたことを思い出したと、ソルジャー・ブルーだった頃の話だった、と。
 遠い遠い昔に、白いシャングリラで暮らしていた頃。
 ブルーは確かにそれを口にした。
 蝋燭を灯してやりたいのだと、死んでいったミュウたちのために灯りを灯してやりたいのだと。



 SD体制の時代を迎えて、人を弔う習慣も変わった。
 そもそも家族が存在しない。家族はあっても、ままごとのような作り物の家族。
 育英都市では養父母と、人工子宮から生まれた子供の組み合わせ。
 その他の大人が暮らす都市では、夫婦と息子や娘のいる家族。老夫婦から孫の世代までが揃う家族さえ存在したのだけれども、それらは養子縁組が成された結果。血縁関係などは無かった。
 養子縁組をして家族になっても、気が合わなければそれでおしまい。家族関係は終了となって、息子や娘はまた別の家へと移ってしまう。それが普通で誰も咎めず、不義理だとさえ思わない。
 本物ではない作り物の家族。組み合わせが上手くいった時だけ、孫世代までの家族が出来る。
 そうやって生まれた家族の中では死者を悼み、泣くこともあったけれども。
 死者を葬った墓地を幾度も訪ねて花を手向ける者たちもあったけれども、そうはしない者たちも数多く居た。
 死んでしまえばそれで終わりだと、墓標さえ作る必要は無いと。
 まして葬儀など要りはしなくて、社会的に必要な最低限の死亡通知と広告のみ。それさえも全て機械任せで、骸はマザー・システムが派遣して来る係が処理した。
 そう、弔うのではなくて「処理」だった。人類たちはそれで良しとしていた。



 けれどシャングリラに居たミュウたちは皆、家族にも似た存在であったから。
 人類たちと違って死者を深く悼み、墓碑も花を手向ける習慣もあった。
 居住区に散らばる庭の一つに設けられた墓碑。
 死んでいった仲間たちの名が刻まれた墓碑は木々や花に囲まれて静かに其処に佇んでいた。
 亡き仲間たちを思い出した時は、誰もが出掛けて祈りを捧げる。其処に眠る仲間たちを知らない子供たちも「大切な場所」だと分かっているから、遊びの合間に花を摘んで飾ったりもした。
 何人ものミュウたちが訪れる場所。死者に祈りを捧げにゆく場所。
 亡き仲間たちを前のブルーは大切に思い、決して忘れはしなかったから、幾度となく墓碑の前を訪れ、静かに祈りを捧げていた。ハーレイも共に何度も祈った。
 シャングリラに咲いた花を手向けて、亡き仲間たちが安らかであるようにと。
 そんな中でブルーが零した言葉。
 アルタミラで死んでいった仲間の数だけ、蝋燭を灯してやりたいのに…、と。
 それなのに数が分からないのだと、正確な数が分からないのだ、と。



「蝋燭ですか?」
 青の間でブルーからそれを聞かされた時、ハーレイは酷く驚いた。
 何故、蝋燭などとブルーが言うのか分からなかった。
 シャングリラに蝋燭はあったけれども、それを弔いの場で使ってはいない。墓碑のある庭も花を手向ける場所はあっても、蝋燭を灯す場所などは無い。
 首を捻ったハーレイに、ブルーは「蝋燭だよ」と静かな声音で繰り返した。
「遠い昔には、蝋燭を亡くなった人の数だけ灯して祈った。蝋燭でなくても、灯りだった。小さな器に灯りを灯して、幾つも並べた」
 そんな時代があったんだよ。
 ずっとずっと遠い昔の地球には、そうやって亡くなった人を悼んだ時代があったんだよ…。
「どうして蝋燭だったのでしょう?」
 ハーレイにとって蝋燭は光源だったのだけれど。優しい光だとは思ったけれども、あくまで光を生み出すための道具の一つだったのだけれど。
「さあ…?」
 ぼくにも由来は分からないんだ、とブルーは少し困った風で。
「だけど、ホタルを知っているかい? 暗闇で光る小さな虫だよ。そのホタルを人の魂だと考えた時代があったり、正体の分からない光を人魂と呼んだりもした」
 魂は灯りと結び付きやすいものだったんだろう。だから蝋燭だったんじゃないかな。
 あるいは、亡くなった人が暗闇で迷わないように。
「暗闇?」
「死者の世界へ向かう道はね、暗いと思われていたんだよ。そのための灯りかもしれないね」
 蝋燭を灯して、この灯りを持って行って下さい…、と。
 暗い道でも、蝋燭の光で足元を照らしながら迷わずに歩いて行けるように、と…。



 遠い日にそんな話を交わしていたから、ハーレイは灯りだと思ったと言う。
 ブルーをメギドで失くしたその日に、灯りを届けてやらねばと気付いて、そうしたかったと。
「お前のために灯りを灯してやりたかった。お前が暗闇で困らないように」
 だが、俺の部屋には蝋燭は無くて、貰いに行こうにも、もう深夜だった。
 蝋燭を何処に保管しているのか、それが分かればキャプテンの権限で何とか出来たが…。生憎と俺は知らなかったし、係のクルーはとっくに眠った後だった。
「叩き起こしてまでは訊けんしな? …遅くなったのは俺が悪いんだしな…」
 ハーレイは苦しげに呟いた。
 ジョミーがアルテメシアへの進攻を決めたから、会議や航路の策定などで遅くなったと。
 それだけでも遅い時間になっていたのに、ブルーの面影を求めて訪ねた青の間。ブルーの形見が何か無いかと、それを探しに出掛けた青の間。
 其処でハーレイを待っていたものは、塵一つ無く綺麗に掃除され、整えられた部屋で。
 ブルーの銀色の髪の一本すら落ちていなくて、ベッドには皺の一つも無かった。ブルーが最後に水を飲んだのか、それさえ分からない新しい水を満たした水差し。洗われて光を反射するグラス。
 あまりの衝撃に、ハーレイは声さえ出せなかった。
 其処でどのくらい独り立ち尽くして泣いていたのか、ブルーを失くしたと泣き続けたのか。
 ようやっと我に返って部屋に戻って、ブルーのために灯りを灯さねばと気付いたのに。
 気が付いたのに、とうに深夜になっていた。
 ハーレイの手元に蝋燭は無くて、蝋燭の在り処も分からなかった…。



「…お前が逝ってしまったというのに、俺は灯りの一つも灯してやることが出来なかったんだ」
 俺の部屋には蝋燭が無かった。
 お前のために灯りを灯してやらなければ、と気付いたのに俺は灯せなかった。
 それに、お前の形見すらも。
 お前の髪の一筋さえも手に入れることは出来なかったし…。
「酷い甲斐性なしだろう? 前の俺は…」
 ハーレイの手がブルーの右手を握る。
 甲斐性の無い自分だったから、ブルーを失くした。
 ブルーを追ってメギドへも飛べず、引き止めることも出来ずに失くしてしまったのだ、と。
「甲斐性なしの俺には祈ることしか出来なかった。祈るだけしか出来なかった…」
 お前のために灯す蝋燭も無くて、お前に灯りを渡せないから。
 ただ泣きながら祈り続けた。
 お前が暗い道で迷わぬようにと、真っ直ぐに幸せな地へと歩いて行けるようにと…。



 なのに、とハーレイは辛そうに顔を歪めた。
「…本当に人の思いは分からんものだ。お前が欲しかったものは灯りじゃなかったというのにな」
 お前は温もりが欲しかった。
 温もりを失くしたと泣きながら死んだお前には、それが必要だったのに。
 灯りなんかじゃなかったというのに、俺は灯りだと思い込んでいた。
 俺にはお前の気持ちさえも分からなかったんだ。
「どうしようもない甲斐性なしだな、前の俺はな。…温もりと灯りじゃ大違いだ」
 独り善がりにもほどがある、と呻いたハーレイだったけれども。
 小さなブルーがその顔を見上げて問い掛けた。
「ハーレイ、どうやって祈っていたの?」
「…どうって…」
「祈ってた時のポーズって言うの? …どんな風にしてたのかなあ、って」
「ああ…。あの時の俺か?」
 すまん、と断ってハーレイはブルーの右手を包んでいた手を離すと、祈る形で組み合わせた。
「…こうだったが?」
 どうかしたのか、と訊くとブルーは「うん」と微笑み、「それで合ってる」と嬉しげに言った。
「ハーレイ、それで合ってるんだよ」
 そう言われても、ハーレイには何のことだか分からないから。
 「何がだ?」と怪訝な顔で尋ねれば、「それで正解」と答えるブルー。
「その手の形で正解なんだよ。そのお祈りの形が正解」
 前のぼくが欲しいと思っていたもの。
 ハーレイがくれるなら、それしかないよ。
 そうやって両手を組み合わせないと、手から温もりは生まれて来ないよ…。



 灯りよりもそれの方が正しい、とブルーは幸せそうな笑みを浮かべた。
 ハーレイの祈りは正しかったと、それこそが前の自分が本当に欲しかったものだ、と。
 しかしハーレイには自信が無かった。
 ブルーが正解なのだと言っても、偶然の一致としか思えないから。
 温もりを届けたいと思って祈ったわけではないから、組み合わせていた両手を離すと、もう一度ブルーの右手を包む。そうやって包み込み、温めながらブルーに訊く。
「…だが……。俺の温もりはちゃんとお前に届いただろうか?」
 暗闇を照らす灯りの代わりに、お前の所に届いただろうか?
 お前の手を温められたんだろうか…。
「んーと…。ぼくは覚えていないけれども、届いた筈だよ」
 ちゃんと届いたよ、とブルーは笑顔になった。
「今はハーレイの本物の温もりが此処にあるもの。ぼくの所にはちゃんと届いた」
 届いたから右手が温かいんだよ、今も温かくて幸せだもの。
 甲斐性なしだってハーレイは言うけど、それは間違い。
 ハーレイは前のぼくが本当に欲しかったものを、ちゃんと分かってくれてたんだよ。
 蝋燭の灯りより、温もりがいいと。



「…そうだろうか?」
 ハーレイには全く自信が無いのに、ブルーは「そうだよ」と笑みを湛える。
「ハーレイはちゃんと分かっていたから、祈ってくれた。ぼくに温もりをくれたんだよ」
「…蝋燭が無かっただけだと思うが…」
 その通りだから、そう言ったけれど。
 小さなブルーが「ううん」と首を左右に振った。
「違うよ、ハーレイ。蝋燭が無かったのは、ほんの偶然。もしも蝋燭があったとしたって、灯りを灯したら、それでおしまいにはしないよね?」
「…それはまあ…。蝋燭を灯して、それからやっぱり祈っただろうな」
「ほらね」
 合ってるじゃない、と赤い瞳が煌めいた。
「ハーレイにはちゃんと分かってたんだよ、前のぼくは何が欲しかったのか」
 ぼくは蝋燭の灯りなんかより、ハーレイの温もりが欲しかった。
 右手が凍えて冷たかったから、温もりを分けて欲しかった。
 それを大切に持って、灯りの代わりにしっかりと抱いて。
 そうやって歩いて行きたかったんだよ、行き先が何処かは分からなくても…。



 ハーレイにはぼくの気持ちが通じていたよ、とブルーは微笑む。
 暗闇を照らす灯りの代わりに、ハーレイから届いた優しい温もり。
 それが自分を導いて来たと、青い地球まで連れて来たのだと。
「だからハーレイと一緒に地球まで来られた。青い地球まで来られたんだよ…」
 ぼく一人では来られないよ。
 地球までの道も分からなければ、どうやって行くのかも分からないもの。
「絶対、ハーレイのお蔭なんだよ。前のハーレイは地球まで行ったんだもの。地球まで辿り着いたハーレイが道案内して、連れて来てくれたんだとぼくは思うよ」
「おいおい、神様じゃなくってか?」
 其処は神様の出番だろう、とハーレイは慌てて遮ったけども、ブルーの答えは「両方」だった。
「神様とハーレイと、両方とも。…ハーレイが祈ってくれたからだよ、ぼくのために。前のぼくが神様の所へ行けるようにと」
 前のぼくは神様の所へ行って、其処で地球へ行って来たハーレイと会って。
 それから二人で地球に来たんだよ、ハーレイが道案内をして。
「…そうなのか? そうだといいが…」
 まだ自信の無いハーレイだったが、ブルーは「そうだよ」と自信たっぷりに頷いた。
「きっと、そう。ぼくにはそれしか思い付かない」
 ハーレイに温もりを届けて貰って、ぼくの右手が温かくなって。
 その右の手を引いて貰って、ぼくは地球まで来たんだと思う。
 地球はこっちだ、って引っ張って貰って、ハーレイと一緒に二人で歩いて…。



「だからね、ハーレイ。ぼくはハーレイからちゃんと貰ったよ、欲しかったものを」
 この手がくれる温もりだよ、とブルーは自分の右手を包み込んだ褐色の手を左手で撫でた。
「前のハーレイがくれた温もり。灯りよりも欲しかった、ハーレイの温もり…」
 蝋燭も灯りも要らなかったよ、とブルーの小さな手がハーレイの大きな手に重ねられる。
 この温かな温もりだけが自分を導く。
 暗闇を照らす灯りの代わりに、何処までも導いてくれるのだ…、と。
「ぼくを地球まで連れて来てくれたのも、ハーレイの手だよ」
「それならいいがな…」
 俺には本当に自信が無いが。
 前のお前に温もりを届けた自信も無ければ、道案内が出来た自信も無い。
 蝋燭さえも灯せなかったような俺にだ、其処までのことが出来たんだろうか…?
「出来たと思うよ、ハーレイだもの」
 だって、ハーレイはキャプテンだもの。
 あんなに大きかったシャングリラの進路も、ハーレイが決めていたんだもの。
 舵を握って運んでいたんだもの…。
 小さなぼくの行き先を決めて、連れて行くくらいは何でもないよ。
 ぼくはシャングリラよりもずっと小さくて、ハーレイの腕でも持ち運び出来る大きさだもの。
 地球までの道が遠くて歩き疲れたら、きっと背中に背負ってくれた。
 もしかしたら抱き上げて運んでくれたかもしれないね。
 「あと少しで地球に着くからな」って。
 「地球が見えたら、ちゃんと自分の足で歩くんだぞ」って…。
 そんな風にハーレイに運んで貰って、地球までの道を教えて貰って。
 二人で地球まで来たんだと思うよ、この青い地球に。
 きっと二人で、ずっと遠くから青い地球を見て。
 あれが地球だと教えて貰って、ぼくは感激して泣いたと思う。
 やっと地球まで来られたんだと、青い地球をホントに見られたんだ…、と。



 でもね、とブルーはハーレイの手を、小さな左手と包み込まれた右手でキュッと握った。
「地球に来られたことも嬉しいけれども、ぼくの一番はハーレイだよ?」
 ハーレイと一緒に地球に来られたから嬉しいんだよ、と小さな両手に力をこめる。
 褐色の大きな手には敵わないけれど、ブルーの力の精一杯で。
「蝋燭の灯りを貰うよりも温もりが欲しかった。それを届けてくれた手が大好きだし、ハーレイの温もりも、ハーレイも大好き。ぼくはハーレイのことが誰よりも好き」
 だから、この手を離さないで。
 ぼくの手を握って、絶対に離さないで…。
「ホントに離さないっていうのは無理だし、お茶を飲むにも離さなくっちゃ駄目だけど…」
 だけど、約束。
 前のぼくはハーレイの前から勝手に消えちゃったけれど、今度は消えない。
 今度はハーレイの手を離さないから、ハーレイもぼくの手を離さないで。
「ねえ、ハーレイ。二人で何処までも一緒に行こうよ、地球まで二人で来たみたいに」
 ハーレイがぼくを連れて来てくれたみたいに、何処までも一緒。
 蝋燭の灯りよりも欲しかったものを分かっててくれたハーレイと一緒…。
「ふむ…。本当に俺が分かっていたのかどうかは、正直、自信が無さ過ぎるんだが…」
 お前を地球まで案内してきた自信ってヤツも、俺には全く無いんだが…。
 そんな俺でも、お前が一緒に歩いてくれると言うんだったら。
 俺と一緒に歩きたいなら、光栄だ。
 ブルー、今度こそ二人一緒に歩いて行こう。
 今度こそお前と一緒に行こうな、お前の右手が凍えないように。
 右手が冷たかったことさえ思い出せなくなっちまうくらいに、俺が幸せにしてやるから。
 俺がお前の手を引っ張って歩いてやるから、ずうっと幸せに歩いて行こうな。
 お前さえ側に居てくれるのなら、頑張って道を案内するさ。
 幸せ一杯の道へ案内するから、一緒に行こう。
 なあ、ブルー……。




        温もりと灯り・了

※蝋燭の灯よりも、温もりが欲しかった前のブルー。それをハーレイから貰った筈、と。
 そう信じられる今のブルーは幸せです。ハーレイが地球に連れて来てくれた、と…。
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