シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(まだ育たないよ…)
土曜日の朝、ハーレイが訪ねて来る前に部屋の掃除を終えたブルーはクローゼットに付けた印を見上げて溜息をついた。床から百七十センチの所に鉛筆で微かに引いた線。ソルジャー・ブルーの背丈と同じ高さに引いた線まで育たない限り、大好きなハーレイとキスも出来ない。
(本当に全然、育たないんだけど…)
ハーレイと出会った時の百五十センチから伸びない背丈。一ミリさえも伸びてはくれない。印の高さに届いてくれる日はいつになったら来るのやら…。
そこまで背丈が伸びた時には、クローゼットに付けた印も忘れているかもしれないけれど。今のブルーには大問題で、クローゼットを見上げれば溜息しか出ない。
(クローゼットかあ…)
印を付けるまでは特に気にしていなかった。ただ其処に在るというだけの家具。
(でも…)
そういえば、と遠い日の思い出が蘇って来た。このクローゼットに纏わる思い出。子供の頃に、此処に隠れた。幼稚園から学校に入って間もない頃に、クローゼットに。
その頃、学校で流行ったかくれんぼ。
ブルーは隠れるのが下手で、いつも真っ先に見付かってしまうから。
両親はどうだか試したくなった。隠れた自分を見付けられるか、見付けることが出来ないのか。
(ちょっとだけ…。ちょっと試してみたいだけだよ)
小さな子供は下校時刻が早かったから、帰宅時間は午後のおやつの時間よりも前。ブルーが家に帰り着いた時には、母がお菓子作りの真っ最中のことも多かった。
「ブルー、もう少ししたらケーキが焼けるわよ」
待っていてね、と母が声を掛けて来たから「うんっ!」と返事をして、二階にある自分の部屋へ入るなり、キョロキョロと周囲を見渡した。
何処に隠れるのが一番なのか、と眺め回してみる。カーテンの陰は直ぐバレそうだし、ベッドの下も覗き込まれたら終わり。
(んーと…)
息を潜めていられそうな場所で、自然に隠してくれそうな場所。
クローゼットの中がいいかもしれない。まさかブルーが入っているとは思うまい。
(…服とかを入れる場所だしね?)
それにクローゼットはブルーの部屋の家具の中でも一番大きい。実に頼りになりそうな家具。
(うん、此処がいいや)
ブルーはクローゼットの扉を開けて中へもぐり込み、内側から扉をパタンと閉めた。途端に暗くなってしまって、サイオンの扱いが不器用なブルーには何も見えなくなったけれども。
(このくらいでちょうどいいんだよ)
自分の手さえ見ることが出来ない真っ暗闇。
これなら充分にブルーを隠してくれるだろう。最高の隠れ場所を見付けた、と嬉しくなった。
両親は自分を見付けることが出来るだろうか…?
隠れている間に階下で父の声が聞こえた。
いつもよりも早い帰宅時間。仕事が早く終わったのだろうか、とブルーの胸がドキンと高鳴る。父は夜まで帰って来ないと思っていたから、クローゼットには二回隠れるつもりだった。一度目は母を試して、二度目が父。思いがけない父の帰宅のお蔭で、隠れるのは一度で済みそうだ。
(パパが捜しに来るのかな? それともママかな?)
どちらが部屋に来るのだろう、とクローゼットの中で膝を抱えて座りながら。
(…まだかな?)
そろそろケーキが焼き上がる頃。父が居るなら直ぐにティータイムだと思うけれども…。
「ブルー! ブルー、おやつよー!」
母が呼んでいる声が聞こえた。普段のブルーなら、これだけで階下へ駆けてゆく。母が部屋まで呼びに来ずとも、待ち兼ねていたおやつ目当てに駆け下りてゆくが。
(…我慢、我慢…)
此処で飛び出したら何のために隠れているのか分からない。おやつのケーキも気になるけれど、それよりも先にかくれんぼ。両親は自分を見付けられるか、無理なのか。
「ブルー? ケーキが焼けてるわよー?」
母がさっきよりも大きな声で呼び掛け、階段を上がって来る足音がした。母の軽やかな足音とは違って、ゆっくりと落ち着いた父の足音。ブルーには音しか聞こえなかったが、やがて部屋の扉がカチャリと開いて。
「ブルー、おやつだぞ?」
おや。…いないのか?
部屋じゃなかったのか、と聞こえた父の独り言。
(やった!)
父には見付けられないのだ、とブルーの心は躍り上がった。
学校でやっているかくれんぼの時は、捜されもせずに見付かっている。ブルーの隠れ場所を目にした鬼は迷わず真っ直ぐに近付いてきて容赦なく「見付けた!」とタッチしてしまう。
けれど、クローゼットを目にしているのに「いないのか」と呟く父はブルーを見付けられない。もう嬉しくて小躍りしそうになったブルーの居場所は、その瞬間に父に知れていた。
かくれんぼが苦手なブルーが見付かってしまう理由は、その思念。「見付かりませんように」と懸命に祈る気持ちが零れ出ていて、鬼に容易く拾い上げられる結果。
今の場合は「見付からなかった!」と大喜びした思念を父に拾われ、父の視線はクローゼットの中の悪戯息子に向けられたのだけれど。
ブルーの意志を尊重するべく、父はそのまま出て行った。
見付かっていないつもりのブルーよりも、父の方が二枚も三枚も上手。階下に戻ると母に息子の隠れ場所を教え、それから二人で捜し回る。あちこちの扉を開けたり閉めたり、ブルーの部屋まで覗きに来たり。ついには庭まで捜している声が聞こえてきて…。
(まだかな、おやつ…)
かくれんぼは上手くいったけれども、少々上手くやり過ぎた。おやつのケーキに辿り着けない。
(…今日のケーキは何なのかな?)
早く見付けて食べさせてよ、と願うブルーは本当にかくれんぼが下手だった。鬼に見付からずに済んだ子たちが姿を現すタイミングが何処かを知らなかった。
いつも真っ先に見付かってしまうから、かくれんぼの終わりは「見付かった時」と頭から信じて疑いもしない。鬼が降参してしまった時には出てもいいのだと気付いていない。
(…パパ、ママ、まだあ…?)
捜す声はとっくに止んでしまって、両親はブルーの分も用意してケーキを食べているのに、全く気付かず出てゆきもしない。かくれんぼは鬼が見付けてくれるまで続くものだと思っているから。その鬼たちが降参するなど、思いもよらないことだったから。
(…ケーキ、まだかな…)
今か今かと待ちくたびれて、おまけにクローゼットの中は暗くて。
いつの間にかブルーはぐっすり眠ってしまって、様子を見に来た父に抱えられて運び出された。眠ったままベッドに横たえられて眠り続けて、揺り起こされた時には夕食の時間。
おやつのケーキは食べ損なった。
かくれんぼに失敗したらしいことも、ベッドで眠っていたから分かった。
なんとも情けない遠い日の思い出。かくれんぼは一向に上達しなくて、流行っていた間はいつも真っ先に見付けられては悔しい思いをする日々で…。
(そうだ、かくれんぼ…!)
ブルーの頭に突如として閃いた思い付き。
(…ハーレイはぼくを見付けられるかな?)
前の生では、ブルーが何処に居てもハーレイは直ぐに見付けてくれた。
かくれんぼをしていたわけではない。ブルーが姿を隠していただけ。かくれんぼではなく、姿を誰にも見られたくなかった。ソルジャーとしての務めの重さに苦しむ姿を、弱い自分を知られてはならないと思って隠れた。
半ば公の場である青の間では弱い姿を見せられないから、誰も来ない倉庫や、機関部の奥の奥、滅多に点検の者たちも来ない狭い通路や。
そうした場所で膝を抱えて蹲っていると、直ぐにハーレイが捜しに来た。捜すというほど時間は経っていないというのに、「捜しましたよ」と微笑みながら。
そしてブルーの隣に黙って座り込んで温もりを分けてくれたり、そうっと肩を抱いてくれたり。ブルーの心が癒えるまで待って、それから外へと連れ出してくれた。
いつもいつも寄り添っていてくれた、優しいハーレイ。
ソルジャー・ブルーだった頃のブルーが愛したキャプテン・ハーレイ…。
(…今だって分かる筈だよね?)
ハーレイだもの、とブルーは確信に満ちた表情になる。ハーレイならきっと見付けてくれる。
ブルーが何処に隠れていようと、今のハーレイでも見付けられる筈。
よし、と隠れることにした。
部屋の窓から外を見下ろし、やって来たハーレイが門扉の前に立つのを確かめてクローゼットの中にもぐり込む。内側からパタンと扉を閉めれば、子供の頃と同じ真っ暗な闇。
(だけど、ちょっとは上手になったものね)
サイオンの扱いは不器用なりに、外の気配くらいは探れるようになった。瞳を扉の方に凝らすと部屋の様子を見ることが出来る。いわゆる透視という能力。滅多に使わないブルーのサイオン。
そうやって見ていると、母がハーレイを案内して来て部屋の扉を開けて。
「あらっ?」
いないわ、と驚きの声を上げる母。
「何処へ行ったのかしら、あの子ったら…」
「直ぐ戻りますよ、他の部屋に用事でもあるのでしょう」
「そうですわね…。ハーレイ先生、どうぞこちらへ」
母はハーレイに椅子を勧めて、「お茶の用意をして来ますわね」と部屋から出て行った。足音が階段を下りて遠ざかり、ハーレイは椅子にのんびりと座る。
(あれっ?)
ハーレイがブルーに気付いた様子は無い。クローゼットの方に視線も向けない。
(…ハーレイ、鈍くなっちゃったのかな? それとも…)
お茶の用意が整った後で、クローゼットを開けて不意打ちだろうか。もしかしたら、父のように抱き抱えて運び出してくれるとか…?
ブルーは暗闇の中で頬を紅潮させた。ハーレイが気付かない筈がないから…。
クローゼットに潜んだブルーの思念は実はハーレイに筒抜けだった。しかしハーレイは素知らぬ顔で椅子に腰掛け、ブルーを待っているふりをする。其処へブルーの母が入って来た。
「ハーレイ先生、お茶とお菓子をお持ちしましたわ。…ブルーは?」
「まだなのですが…。お心当たりは?」
問われた母は困り顔で。
「それが…。書斎には居なかったんですけれど…。もう本当に、あの子ったら、何処に?」
「お気になさらず。私の用事はこちらに伺うことですしね」
もっとも用事の相手が居ないようですが、とハーレイが笑い、母が「戻って来たら叱ってやって下さいね」と息子の非礼を詫びてから部屋の扉を閉める。
「ブルー! ブルー、何処なの?」
ハーレイ先生が待っていらっしゃるわよ、と遠ざかってゆく声。足音も階下へと消え、ブルーは胸を高鳴らせた。
(ハーレイ、来るかな…)
クローゼットの扉を開けての嬉しい不意打ち。それだけで充分嬉しいけれども、逞しい腕に抱え上げられてクローゼットから出して貰えればもっと嬉しい。
(抱えて欲しいな…)
寝たふりをしていれば抱えて出してくれるだろうか?
そうしようか、とドキドキしているのに。
(…えっ、来ない?)
ハーレイはクローゼットの方を見もせず、ゆっくりとティーカップを傾けた。いつものとおりに砂糖を入れて、スプーンで軽くかき混ぜてから。どうやらブルーを待っているらしい。
(…もしかして、全然気付いていないの?)
まさか、とブルーは縋るような視線をクローゼットの扉越しに向けたが、それでも気付く様子は無い。明確な思念は向けていないけれど、こうすれば気配は届きそうなのに…。
(ハーレイ、鈍くなっちゃった?)
前のハーレイなら直ぐに見付けてくれたのに。
ブルーが何処に隠れていようと、捜し出して寄り添いに来てくれたのに…。
一方、紅茶を飲んでいるハーレイはと言えば。
(…本当に不器用になったな、あいつ)
ハーレイはとうに気が付いていた。ブルーがクローゼットに隠れていることも、今この瞬間にもクローゼットの中から自分の方を見ていることにも。
(不器用と言うか、不器用すぎて可愛いと言うか…)
この部屋に足を踏み入れた瞬間、感じたブルーの弾んだ心。
前の生でと同じように自分を見付けて欲しいと、見付けられるであろうという気持ち。もちろん隠れた場所も分かった。ブルーの表情までもが手に取るように。
全てを一瞬で見抜いたハーレイは、ブルーの母にだけ届く思念を送った。
クローゼットに隠れていますよ、ソルジャー・ブルーだった頃も時々姿を消していました、と。
私がブルーを捜すのが得意だったことを思い出してやっているのでしょう、と。
そうやって送った思念の後はブルーの母と一緒に芝居を打っていたわけで。
(…俺がとっくに気付いているのも分かっていないとは天晴れとしか…)
悠然とお茶を飲み、ケーキを食べる。クローゼットには視線も向けない。
(はてさて、いつになったら気が付くやら…)
普段は観察する暇がないブルーの部屋をあちこち眺めて楽しんだ。クローゼットはたまに視界を掠めてゆくだけで、棚に並んだ本の背表紙やら、きちんと整えられたベッドやら。
もっとも、ベッドは其処で眠るブルーを思うだけで身体の奥が熱くなるから少しだけ。それでも上掛けの模様や枕カバーなどの好みがブルーらしくて笑みが浮かんだ。
勉強机の上には自分のと揃いのフォトフレーム。
ハーレイが写真を入れたフォトフレームをブルーの分と交換したから、元は自分の持ち物だったフォトフレームがブルーの机に飾ってある。飴色の木枠のフォトフレームの中、幸せそうな笑顔のブルーと自分。
(あの写真を撮って良かったな)
ブルーがフォトフレームを大切にしていることが一目で分かった。昨夜も眠る前に見詰めていた気配が残っている。自分以外は気付くことすら出来ないだろうブルーの想い。
どんな微かな思念でさえも、ブルーのものなら必ず拾えると自負しているのに。
(まだ気付かんとは恐れ入った)
クローゼットの中の小さな恋人。
見付けて貰えないことが不満で、頬を膨らませつつある小さな恋人…。
ブルーの我慢は限界に達しそうだった。
(酷いよ、ハーレイ! 気が付かないの!?)
ぼくは此処なのに、ぼくよりもお茶とケーキなの?
あんまりだ、と捜してもくれない恋人に腹を立てるブルーと、面白がっているハーレイと。
(鈍いな、ブルー。いい加減、気付け)
ふむ、とハーレイは立ち上がってブルーの勉強机に近付いて行った。家探しをするつもりなどは無いのだけれども、悪戯小僧はこらしめねば。
(えっ、ハーレイ? …何をする気?)
ブルーはギクリと身を強張らせた。
勉強机に引き出しは幾つかあったが、一番上の引き出しの中にブルーの宝物が仕舞ってある。
学校便りの五月号。転任教師の着任を知らせる小さな記事とモノクロ写真のハーレイが載った、ブルーの大切な宝物。いつでも取り出して眺められるよう、一番上にして収めてあった。
(開けられたら直ぐに見付かっちゃうよ…!)
ハーレイの写真が載っているから宝物にした学校便り。それを見られるのは恥ずかしい。
いくらハーレイが相手であっても、恥ずかしいから知られたくない。
あんな小さなモノクロ写真を宝物にして持っているなんて…!
切羽詰まったブルーの思念はもちろんハーレイにも届いてはいたが、その中身まではハーレイもあえて読んではいない。勉強机に何かがある、という程度。
(何か隠しているらしいな?)
ブルーが大切な物を入れていそうな引き出しはどれか、と手近な取っ手に手を掛けてみた。
それが一番上の引き出し。ブルーが危惧した学校便りの入った引き出し。ブルーはとても隠れていられず、クローゼットの扉を乱暴に開けて飛び出した。
「酷いよ、ハーレイ!」
何をするの、と両手で引き出しを開けられないよう押さえ付ければ。
「酷いのはお前の方だろうが」
コツン、とハーレイが拳で軽くブルーの頭を小突いた。
「丸分かりだったぞ、隠れていること。お母さんにも思念で伝えておいたしな」
「えっ…」
息を飲むブルーに、ハーレイは「悪戯者めが」と咎める視線を向けて。
「で、開けられると困るというわけなんだな、この引き出し」
…何を仕舞っているんだ、うん?
問われたブルーは言葉に詰まった。
「…………」
ハーレイの写真が載った学校便りだなどと白状出来るわけがなかった。
どう勘違いをされてもいいから黙っていよう、と覚悟を決めた。
それなのに……。
「ふむ。…お母さんに内緒のラブレターだな、女の子から沢山貰ったんだな?」
ハーレイが口にした言葉のあまりの酷さに、沈黙の覚悟は呆気なく砕けた。
「そんなの、貰ったことないよ!」
たとえラブレターを貰ったとしても、女の子なんかよりハーレイが大事。
ブルーはハーレイのとんでもない誤解を解くべく、慌てて叫んだ。
「そんなものなら直ぐ捨てるけれど、学校便りは捨てないよ!」
「……学校便り?」
ポカンとしていたハーレイだったが、ブルーが絡めばカンが働くのも早い。
あれか、と直ぐに思い至った。ブルーの学校に赴任した直後に配られた筈の学校便りの五月号。自分の着任を知らせる記事とモノクロ写真が載っていた号。
勉強机の上に飾ってあるフォトフレームの写真を撮るまで、ブルーはハーレイの写真を持ってはいなかった。ハーレイの写真が欲しくて「キャプテン・ハーレイの写真でもいいから」と写真集を探しに出掛けた話も聞いている。
そんなブルーが如何にも大切に持っていそうな学校便りの五月号。たった一つきりのハーレイの写真が刷られた、学校便りの五月号…。
「そうか、俺の写真が載ってた学校便りか。…あれがお前の宝物なのか」
「……うん……」
消え入りそうな声で答えたブルーを、ハーレイはグイと抱き寄せた。
もう愛おしくてたまらない。
クローゼットに隠れるような幼くて小さな恋人だけれど、その愛らしさがたまらない…。
力任せの抱擁の後で、ブルーは椅子に腰掛けたハーレイの膝に乗せられた。
かくれんぼをしていた件は不問で、ハーレイはただ嬉しそうな顔でブルーの頭をクシャクシャと撫でる。銀色の髪を何度も何度も、ブルーの大好きな褐色の手で。
「うんうん、お前は実に可愛い。隠れるのが下手でも、隠すのが下手でも、実に可愛い」
「…どうせ、どっちも下手くそだよ…」
隠し通そうとした学校便りは喋ってしまってバレてしまった。
クローゼットに隠れていたのも最初からバレていて、隠れたことにすら全くなっていなかった。
かくれんぼも隠し事も下手くそで不器用なブルーだけれども、なんだか心がドキドキと弾む。
(…やっぱりハーレイは今でも凄い…)
ホントに凄い、とブルーはハーレイの広い胸に頬を擦り寄せた。
隠れていた場所も、隠していたものも、何もかもお見通しとしか言えないハーレイ。
前の生からブルーの居場所を誰よりも早く捜し当てては、そっと寄り添ってくれたハーレイ。
今でもハーレイはやっぱり凄い。
ぼくのことは何でも分かってるんだ、と…。
かくれんぼ・了
※ブルーのことなら、何でもお見通しなのがハーレイ。前のハーレイも、今も。
学校便りが宝物なのがバレてしまっても、ブルーは幸せ一杯です。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
上も下もなく、時すらも無い白い空間。
ただ暖かく、穏やかな光に包まれて二人きりで過ごす恋人たち。
「好きだよ、ハーレイ」
「俺もだ、ブルー。…お前さえいれば何も要らない」
ただ二人きり、甘やかな言の葉を交わし、幸せな想いを、他愛ない言葉を交わしては互いに寄り添い合って眠り、また目覚めては微笑み合って…。
そんな優しくも満たされた時が、どれくらい流れていったのだろう。
いつしかブルーは願うようになった。
もう一度ヒトの姿で生まれてみたいと、失くしてしまったヒトの身体でハーレイの温もりと共に生きてみたいと。死の星であった地球が蘇っているのなら、その地球の上で。
ブルーの願いを、望みを知ったハーレイもまた祈るようになった。
神が存在するというなら、その身を、命をミュウの未来に捧げて散った愛しい者の切なる願いを叶えて欲しいと。
そうして二人、共に生きたいと願い、祈り続けてどのくらいの時が過ぎていったのか。
時すらも無い場所では分からないけれど、穏やかな白い光に満たされ、二人だけのために閉じた筈の世界を清しい風が吹き抜けていった。
白い光がふうわりと揺れて、彼方まで見通せたような気がした。
ほんの一瞬のことだったけども、恋人たちには直ぐに分かった。時が来たのだと。
「…ハーレイ、今の…」
「ああ。…風が吹いたな、お前の夢が叶うらしいな」
行くか、とハーレイがブルーの手を取る。
「お前が焦がれた青い地球に行こう。今度こそ俺はお前を離しはしない」
「ぼくも。…ぼくも今度こそ離れはしない」
けして一人で行きはしない、とブルーはハーレイの手を強く握った。
遠い日にメギドでハーレイの温もりを失くしてしまって凍えた右手で。今度こそ温もりを忘れはしないと、その手でハーレイの温もりを握り締めながら。
「ハーレイ、ぼくを忘れないでよ? ぼくは必ず思い出すから」
「そう言っていたな、ずっと前から。…俺も必ず思い出してみせる。青い地球の上でお前に会った時には、必ず全てを思い出してみせる」
「うん…。うん、ハーレイ…」
それまで少しお別れだね、とブルーの瞳が僅かに揺れて。
想いをこめて恋人の唇に唇を重ねた。それに応えてハーレイの腕がブルーを抱き締め、長い長い口付けを交わし合った後で。
「今度もさよならは言わないよ。…ぼくたちに「さよなら」は要らないから」
「ああ、今度は本当に要らないな。俺たちは出会うために行くんだからな」
「そうだよ、離れるわけじゃないから。…二度と会えないわけじゃないから」
前と違って。
メギドへ飛び立った前と違って、今度こそ「さよなら」の言葉は要らない。
あの時には言えなかった「さよなら」の言葉。交わせずに終わった別れの言葉。
今度も「さよなら」は言わないけれども、それは再び出会えることが分かっているから。
青い地球の上で、もう一度ヒトの身体で巡り会えるから…。
「行こう、ブルー。…早くお前の姿を見たい。今と全く同じ姿に生まれたお前を」
「ぼくもだよ。今と変わらないハーレイに会って、早く一緒に過ごしたいよ…」
お互い、何処に生まれるのだろう。
どうやって、何処で出会えるのだろう。
まるで見当もつかなかったけれど、必ず会えるとお互いにちゃんと分かっていたから。
別れには何の不安も無かった。それに…。
(…たとえ忘れても、ぼくは思い出せる)
ブルーが魂に刻んだ傷痕。メギドで撃たれて、ハーレイの温もりを失くした時に受けた傷痕。
全てを忘れてしまっていたとしても、あの傷の痛みで思い出せる。
(…もしもハーレイを忘れていたなら、会った時にぼくに思い出させて。ハーレイなんだ、と)
魂に刻み付けた見えない傷痕に強い願いを、祈りを託して、ブルーはハーレイに口付けた。
傷痕のことは何も告げずに、ただ恋人への想いをこめて。
長い口付けと抱擁を終えて、二人、互いを見詰め合って微笑む。
「次のキスは地球の上で…だね」
「そうだな、青い地球の上で会おう」
もう一度、恋人同士として。
ヒトの身体を持った今とそっくりの恋人同士として巡り会い、再びキスを交わそう。
それまでの間、ほんの少しの間の「さよなら」。
でも、「さよなら」と別れを告げるつもりなど互いに無いから。
「…さよならじゃなくて、「またね」がいいかな」
「いいな。また会おう、ブルー。…少しでも早く、地球の上でな」
「うん。…またね、ハーレイ。ああ、まだ暫くは一緒なのかな」
互いの手を握り合い、指を絡め合って、吹き込んで来た暖かな風に乗る。
ハーレイの左手がブルーの右手を、ブルーの左手がハーレイの右手を。
互いに寄り添い、抱き合って二人は白い風に乗った。
「…好きだよ、ハーレイ…」
「俺もだ、ブルー。…いつまでも俺にはお前だけだ」
甘やかな言葉を交わし合いながら、互いの想いを確かめ合いながら、少しずつ風に溶けてゆく。
まるで眠りに落ちるかのように、暖かな想いに満たされたままで。
何の不安もありはしないし、二人、いつまでも一緒だから。
何処までも二人、離れずに居るための旅立ちだから…。
いつお互いの手が離れたのか、寄り添い合った魂が離れていったのか。
ブルーにもハーレイにも分かりはしなくて、ただ一つだけ、確かなこと。
上も下も無く、時すらも無い白い空間からの旅立ち。
其処に時など有りはしないし、生まれ落ちる場所と時間がどんなに隔たっていても、其処からの旅立ちは二人一緒に。
先に生まれる者も、後から追う者も、旅立つ時には一緒だった。
時の流れなど無い場所だから。
前も後も其処では意味を持ってはいないから…。
恋人たちは共に、同時に旅立ち、新たな生を得るために地球へと向かった。
ブルーが焦がれて止まなかった地球。
ハーレイが辿り着いた時には死に絶えた星であった地球。
遙かな時を経て青く蘇った地球の上へと、二人は共に旅立って行った。
ブルーの願いを、ハーレイの祈りを聞き届けた神の導きのままに。
上も下も無く、時すらも無い白い空間を後に、また恋人として巡り会うために……。
閉じた世界で二人きりで過ごした恋人たちは知らなかったのだけれど。
魂は懐かしい者を見付けては寄り合い、また次の生へと旅立つまでの時を共にするもの。
彼らが生きてきた幾つもの生で、最高だったと思う時の仲間を見付けたがるもの。
次の旅立ちを待つ者たちが集まって過ごす光の世界に、漣のように広がってゆく気配。
(…誰だろう、あれは)
(誰が旅立つというのだろう)
未だかつて見たこともない、神に祝福された魂。
神の御使いの胸に抱かれ、生ある者たちが生きる世界へと降りてゆく青く美しく輝く魂。
(……ソルジャー・ブルー?)
(ソルジャー・ブルー…?)
知らない者など誰一人いない、あまりにも知られた伝説にも等しいミュウの長の名。
誰からともなく囁きが零れ、あちこちでその名が口へと上る。
その身と引き換えにミュウの未来を守り、メギドに散ったソルジャー・ブルー。
彼に逢った者は今の今まで、誰一人として居なかった……。
「…ブルーなのかい?」
あれは、と遠い昔にブラウと呼ばれていたシャングリラの長老が呟いた。
「そうらしいのう…。今まで何処におったものやら」
かつてゼルと呼ばれた長老が応じる。
「ブルーに違いないわね、あれは」
間違えはしない、とエラであった魂の声が重なり、穏やかなヒルマンの声も重なる。
「そうか、ブルーは地球へ行くのだね…。前と全く同じ姿に生まれるのだね」
「おや、本当だよ。あの赤ん坊が今度のブルーなのかい」
赤ん坊ですらないんだけどね、とブラウが笑った。
母の胎内に宿ったばかりの小さな命。人の形すら持たない器へと神の御使いが降りてゆく。
けれど魂だけの者たちには分かる。
その器がいつか、かつてのソルジャー・ブルーと同じ姿に育つものだと。
「…しかし、解せんのお…」
なんで今まで何処にもおらんかったのじゃ、とゼルが腕組みをして。
他の長老たちもしきりに首を捻った。
今までブルーは何処に居たのかと、何故今になって地球へ行くのか、と…。
ブルーの魂が地球に降りた後、折に触れては見守っていたかつての長老たちだったけれど。
母の胎内で眠るブルーの魂が不意に飛び跳ねる時があると気が付いた。
けして目覚めるわけではないのだが、喜びの気配を確かに感じる。何ゆえなのかと訝りつつも、眠る魂を見守り続けて…。
「あら、また跳ねたわ」
「何だろうねえ、喜びそうなものは何も無いんだけどねえ?」
定期健診で病院を訪れているブルーの母。待合室の椅子に座った彼女の胎内でブルーが跳ねた。眠りながらもその嬉しさを隠そうともせずに。
「夢なのかしらね?」
「そうかもねえ…」
いったい何の夢なんだか、とブラウが病院の外に向けた意識が公園を捉えた。病院からほど近い所に広がる大きな公園。親子連れや散歩中の人々が行き交う中をタッタッと駆けてゆく頑丈そうな体格の若者。褐色の肌に金色の髪。その面差しに見覚えがあった。
「ちょっと、エラ! あれをご覧よ」
「…まさか、ハーレイ?」
「それ以外の誰に見えるってんだい? ちょいと若いけどさ」
かつてアルタミラを脱出した頃のハーレイにそっくりな姿の若者。その身に宿る魂はハーレイのものに間違いない、と直ぐに分かった。ヒルマンとゼルも寄って来る。
「おやおや、ずいぶん若くなったものだ」
「若づくりと言うんじゃ、若すぎじゃ、あれは!」
もっと老けんかい、と毒づくゼルは自分ではとても気に入っているらしい禿げ頭で。ヒルマンもまた白髪に白い髭、ブラウとエラも長老だった頃そのままの姿。
そんな姿を好む彼らを他所に、若いハーレイが走ってゆく。ブルーの母が居る病院との間が近くなるにつれて、ブルーの魂が喜びに跳ねる。
「…ハーレイを待っているのかい?」
「さあ…?」
ブラウとエラが言い交わす間に、ハーレイは軽快に公園を駆け抜けて道路の方へと出て行った。するとブルーの魂は何も無かったかのように眠ってしまって、それきり跳ねることは無かった。
「…やっぱりハーレイだったのかねえ?」
「どうなのかしらね?」
いずれ分かるといいのだけれど、とエラが返して。それから間もなく、彼らは気付いた。
ブルーの魂に逢った者は今までに誰一人いない。ハーレイもまた、そうではなかったかと。
「…いつの間にか消えておったんじゃ」
最初は居たんじゃ、とゼルが遙かに過ぎ去った地球が燃え上がった日に思いを馳せる。あの日、地球の地の底で命尽きた直後は長老たちは揃っていた。ハーレイも彼らの中に居た。
それがいつの間に見えなくなったか、誰の記憶も定かではない。
しかしハーレイはいつしか姿を消していた。誰と挨拶を交わしもせずに、いつの間にか何処かへ消えてしまった。
多分、何処かに新しく生まれたものであろうと思ったから。
誰も探しに行きはしなかったし、そうしたものだと考えていたが…。
「そう言えば一度も逢っていないか…」
あれきり逢いはしなかったか、とヒルマンが白い髭を引っ張る。
「私は一度も逢っていないが、誰かハーレイに逢ったかね?」
「あたしは一度も逢っていないよ」
「私もだわ」
「わしもじゃ」
では、何処に。長老たちの視線が交差した。
地球が蘇るほどの長い長い間、自分たちは幾度も顔を合わせた。今のように揃うことも珍しくはなく、ジョミーやキースまで居たこともある。
それなのに一度も、誰も逢わなかったというハーレイ。
ブルーと同じで、見た者が誰も無いハーレイ。
「…ブルーと一緒に居たのかねえ?」
なんでまた、とブラウが軽く頭を振った時、ブルーの魂が跳ねる気配が届いた。皆で見た先に、タッタッと軽快に走るハーレイ。彼とすれ違う、病院帰りのブルーの母。
その瞬間に、彼らはようやく思い至った。
何故、ハーレイは何処にも居なかったのか。ブルーの魂が喜びに跳ねるのは何故なのか。
「…そうだったのかい…。あんたたち、恋人同士だったのかい…」
知らなくてごめんよ、とブラウの瞳から涙が零れた。
「ブルー、ホントに辛かったろう…。知ってたらメギドにゃ行かせなかったよ…」
「うむ。水臭い奴らじゃ、いつか会ったら、うんと叱ってやらんとのう…」
馬鹿者どもが、と言葉は酷いけれども、ゼルもまた涙ぐんでいた。
遠い遠い昔、別れの抱擁さえも交わすことなく死に別れてしまった恋人たち。
彼らが今まで何処に居たのかは分からないけれど、もう一度地球で巡り会うのだ。
青い地球の上で二人巡り会うためにだけ、ブルーの魂は地球へと降りて行ったのだ……。
誰にも仲を悟られることなく、隠し通した恋人たち。
皆の前では最後までソルジャーとキャプテンであったブルーとハーレイ。
二人は恐らく、二人だけで何処かに居たのだろう。
新しい命を授かりもせずに、長い長い時を、ただ二人きりで何処かで過ごした。
その果てに多分、二人で願った。
青い地球に生まれて巡り会いたいと、恋人同士として再び二人で生きてみたいと。
前と全く同じ姿で、ブルーが焦がれた青い地球の上で…。
神は御使いにブルーの魂を託し、先に生まれたハーレイから近い場所へと送り出した。
いや、最初から定まっていたのだろう。
ハーレイが今の身体に生まれて来た場所も、ブルーの魂が宿った場所も。
彼らが再び巡り会うのがいつになるのかは分からないけども…。
「あたしたちと会うことは、これから先も無いんだろうねえ…」
「無いじゃろうなあ…」
会ったらハーレイを一発殴りたいんじゃが、とゼルが自分の拳を擦る。
何も言わずにブルーをメギドに行かせてしまったハーレイを殴りたい気分なのだ、と。
「知っておったら止めておったわ、挙句に今頃泣かねばならん」
「ホントだよ。…まったく、何年経ったと思っているのさ…」
「ええ。でも、また二人で何処かへ消えるのでしょうね」
「そうなるだろうな…」
私たちの所へは来ないだろう、とヒルマンも頷く。
まだ出会ってもいない恋人同士の二人は再び巡り会い、今度こそ幸せになるであろうけれど。
彼らの生が終わった時にもこの世界には来ないであろう、と。
何処に行くのか分からないけれど、彼らには二人きりで過ごした世界が在った筈。
二人は其処へと共に還って、二人だけの時を過ごすのだろうと…。
それが彼らの決めたことならば、それでいい。
巡り会えないことは寂しいけれども、恋人たちが幸せでいられるのならば……。
青い地球の上で時は流れて、季節は移る。
神の御使いがブルーの魂を抱いて地球へと降りた時には青葉の頃だった、若いハーレイが暮らす町。彼が古典の教師となって一年目の年度の終わりは三月の末。
「…明日から新年度が始まるしな」
リフレッシュして気分を引き締めねば、とハーレイは朝早くからジムに向かった。二年目となる教師生活。担任をすることも覚悟していたが、そちらの不安は三月半ばに解消された。ハーレイが顧問を務める柔道部の成績が上々だったため、担任は持たずに柔道部と共に大会を目指す。
任された以上は、全力で。自分の体調管理も大切な仕事。
ジムのプールで思い切り泳いで、それからジョギングに出発した。走るコースは何通りもあり、どれを行くかはその日の気分。
(…そろそろ桜が咲いてくる頃か…)
公園の方に行ってみるか、とハーレイは町を走り始める。麗らかに晴れた三月の一番最後の日。明日から四月というだけはあって、日射しはすっかり春のものだ。
あちこちの家の花壇やプランターに花が咲き始め、街路樹もうっすらと芽吹きの緑。吹いてゆく風も肌に心地よく、走るには最高のジョギング日和。
手を振ってくれる子供たちに手を振り返しながら颯爽と走り、公園が近付いてくると胸が次第に高鳴って来た。桜のせいだ、とハーレイは思う。今の季節は桜がいい。
(チラホラとでも咲いていると実に幸先がいいんだが…)
古典の教師だからこそ知っている。SD体制よりも遙かに遠い昔の合格電報、「サクラサク」。合格したい試験は無いが、柔道部を大会に出してやるなら「サクラサク」。
咲いているといいな、とハーレイが公園を目指していた頃、公園から見える病院へと走ってゆく一台の車があった。ブルーの父がハンドルを握っている車。初めての子供が生まれそうだと報せを受けて病院へと急ぐブルーの父の車。
ブルーの父の車はハーレイを追い越し、ハーレイはそれとも気付かなかった。公園から目に入る病院の建物に誰が居るのか、誰が生まれて来ようとしているのかにも気付かない。
けれど心は高鳴ってゆく。公園で待っている素敵な出来事。
(…おっ!)
咲いているな、と遠目に捉えた桜の木の枝に目を細めた。いわゆる咲き初め、チラホラと咲いた白に近く見える桜の花。
(サクラサク、か…!)
最高の気分で公園を駆け抜けてゆくハーレイは夢にも思わない。
たった今、産声を上げた小さな命。それが前世で愛した恋人のもので、胸が高鳴っていた本当の理由は生まれる直前のブルーの魂と共鳴したからなのだとは…。
「鈍い! あんた鈍いよ、ハーレイ!」
どの辺がサクラサクなんだい、と見守っていたブラウが詰る。
「仕方ないわよ、ブルーだってもう分かってないもの」
エラが吐き出した微かな溜息。
産声を上げる少し前まで、ブルーの魂は飛び跳ねていた。ハーレイが近付いてくるのを感じて、喜びに弾んで小躍りしていた。
そのハーレイが最も病院に接近してから次第に離れてゆきつつあるのに、ブルーの魂は跳ねたり弾んだりする代わりに母の方へと向いている。生まれてしまったのだから魂ではなく心だろうか、それが向く先は母と、その傍らでブルーに指を握らせている父と。
「おやまあ…。普通の赤ん坊になっちまったのかい?」
「そうみたい…。ハーレイばかりを責められないわ」
「ふむ…。すると恋人同士になるとしてもじゃ、暫く時間がかかるのかのう?」
「そうなるだろうな…」
私たちが揃っている間に見届けてやりたいものなのだがね、とヒルマンが言えば。
「どの辺までだい?」
覗きは御免蒙るよ、とブラウがツンとそっぽを向き、「確かにのう…」とゼルが応じる。
「わしも悪趣味な覗きは御免じゃ、第一、なんで今頃あてられにゃいかん」
「ならば、この辺でやめておくかね?」
「そうねえ、今ならキリがいいわね」
このまま見ていればズルズルと…、というエラの意見に長老たちは皆一様に頷いた。
もう少しだけ、という気持ちは募ってゆくのに決まっている。
恋人たちの悲しすぎた別れを知っているからこそ、見届けたくなるに決まっている。
けれど彼らは自分たちの所に戻っては来ない。
享けて間もない生が終われば、また二人だけの世界へと還る。
ブルーが無事に生まれる所までは見届けたのだし、後は二人きりにしておくべきだろう…。
「今度こそ幸せにおなりよ、ブルー」
「ブルー、ハーレイと幸せにね?」
「うんと幸せになるんじゃぞ。前の分もじゃ」
「幸せにな、ブルー…」
皆がそれぞれの言葉をブルーに投げ掛け、心からの祝福を生まれたばかりの赤ん坊に告げて。
二度と見まい、と遙か離れた魂の世界からの優しく暖かな見守りは終わった。
サクラサクと公園を駆け抜けて行ったハーレイに呆れ果てながら…。
咲き初めの桜を楽しんだハーレイのジョギングコースは、自分の家が終点だった。教師になると決めた時に父が買ってくれた一戸建て。両親は隣町に住んでいるから、庭つきの家に今はハーレイ一人。いずれは妻や子供が一緒に住むのだろうが…。
(今の所は俺一人だしな?)
気ままな一人暮らしも気に入っていた。鍵を開けて入り、軽くシャワーを浴びたら鼻歌交じりに料理を始める。桜も咲き始めていたし、こんな日は少し豪華な夕食もいい。
「よし、明日から始まる新年度と柔道部の前途を祝して、晩飯はステーキで一杯やるか」
ならば昼食は簡単に。オムライスにサラダ、ソーセージでも焼けば上等だ。食べ終えたら店まで買い出しに行こう。ステーキ肉と、それに合う赤ワイン。重いのがいいか、軽めがいいか。
(…いっそ見た目で選んでみるかな)
赤という色に心が躍る。ステーキ肉も今日はレアにしようか、明日からの活力が漲る気分。
(うん、赤がいいな。血の色の赤だ、肉もワインも)
何故か血の赤に心が惹かれた。血気盛んと言うくらいだから、きっと健康の証だろう。血の色のワインとレアステーキで更に体力をつけて、新しい年度に備えなければ。
買い出しと夕食の段取りをしているハーレイを長老たちが見たなら、罵声が飛んだに違いない。
血の色の赤はソルジャー・ブルーの瞳の色。
生まれたばかりの恋人の瞳の色に惹き付けられているのに、其処でワインとステーキなのかと。
けれど長老たちの見守りは終わり、ハーレイが気付くわけもない。
前世からの恋人が生まれ落ちたことも、その瞬間に自分が近くに居たことも。
そしてハーレイと魂を共鳴させていたブルーの方も、何も知らずに眠っていた。
前の生から焦がれた地球に生まれて来たことも、その地球の同じ町に運命の恋人が居ることも。
ハーレイが自分でも気付かない意識の底で垣間見た、血の色を映した瞳を閉じてブルーは眠る。母のベッドの隣に置かれた小さなベッドの中ですやすやと、本当に何も知らないままで。
前の生での名前は忘れた。
恋人が居たことも忘れてしまった。
上も下も無く、時すらも無い白い空間で共に過ごした褐色の肌を持った恋人。
鳶色の瞳の優しい恋人。
それでもいつの日か、ブルーはきっと思い出す。
柔らかな肌の下、その魂に刻まれた傷。
恋人と共に過ごす間に、秘かに刻んだ見えない傷痕。
その傷痕から鮮血が溢れ出す時、痛みがブルーの忘れ去った記憶を呼び覚ます筈。
いつかハーレイと出会う時が来るまで、傷痕は見えはしないのだけれど。
時の無い場所を出て、時の有る場所へ戻って来て二人巡り会うために、その魂に刻んだ傷痕。
流れ出す血と、その痛みとで恋人を思い出すために…。
そんな傷痕を持っていることさえ知らないままでブルーは眠る。
ハーレイが買いに出掛けた赤ワインの色の瞳を閉ざして、青い地球に生まれた幸せの中で……。
時の有る場所で・了
※ハーレイとブルー、ちゃんと出会っていたのです。ブルーが生まれて来るよりも前に。
運命の二人なんですけれども、本当に会えるまでが長かったよね、というお話。
第17弾の『時の無い場所で』と対です、やっと公開出来ました~!
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ぼくの勉強机の上。ハーレイとお揃いのフォトフレーム。ハーレイのと、ぼくのとを交換して、ハーレイの手が写真を入れていたフォトフレームがぼくのものになった。ぼくが写真を入れた分はハーレイの家の何処かにある。
飴色をした木枠のフォトフレームの中、笑顔で写ったハーレイとぼく。ハーレイの左腕に両腕でギュッと抱き付いた、ぼく。夏休み最後の日に庭で写した記念写真。
眺めるだけで幸せな気持ちが溢れて来るから、毎晩こうして机の前に座る。ハーレイとぼくとが同じ写真の中に居るなんて…。
(…また撮りたいなあ、ハーレイと二人一緒の写真…)
次の機会はいつになるかも分からないのに、もう欲張りになっているぼく。
前はハーレイのカラー写真さえも持っていなくて、学校便りの五月号を宝物にしていたくせに。転任教師の着任を知らせる小さなモノクロのハーレイの写真。スーツ姿の生真面目な顔。それでも唯一のハーレイの写真だったから、何度も何度も取り出して見ていた。
その状態から一足飛びに笑顔のハーレイのカラー写真で、ぼくも一緒に写っている。もう最高の宝物なのに、次の写真が欲しくなる。
なんて欲張りなんだろう。ずっと長いこと、学校便りしか持っていなかったくせに…。
(…そういえば…)
自分の欲深さに呆れ果てていたら、ふと懐かしく思い出した。欲張りなぼくの一学期の夢。
(ハーレイの似顔絵が欲しかった頃があったんだよね…)
夏休みに入る前、まだ学校便りの五月号しかハーレイの写真が無かった頃。欲しくて欲しくて、なんとか手に入れる方法は無いかと頑張り続けたハーレイの似顔絵。
そう、似顔絵でいいから欲しかった。ハーレイの姿に繋がるものが。
(…似顔絵でもいいって思ってたくせに、写真を撮ったらもう次が欲しくなるなんて…)
本当に欲張りで欲深いぼく。
ハーレイの顔を、姿を見られるものなら何でも欲しくなる欲張りなぼく。
もっとも、前のハーレイの写真だけは、ちょっと…。
(いい顔をしているハーレイの隣には必ず前のぼくがいたんだもの!)
本屋さんでソルジャー・ブルーの写真集を何冊も積み上げて探してみたのに、腹が立っただけ。前のぼくが独占していたハーレイの写真なんかは要らない。
(…だからハーレイなら何でもいいってわけじゃないけど…)
何でもかんでも見境なしに欲しいわけではないんだから。
酷い欲張りじゃないと思いたい。欲が深くても、底無しじゃないと思いたい。
だけど似顔絵でも欲しかった頃があったんだ。ハーレイの姿を見られるのなら…。
年度初めに少し遅れて赴任してきた古典の教師。ぼくとは五月三日に出会った。ハーレイの姿を見るなり、ぼくは右の瞳や両肩とかから大量出血を起こしてしまって、それが切っ掛けで二人とも前世の記憶が戻った。
聖痕現象と診断された謎の出血。ソルジャー・ブルーが最期にメギドで負った傷痕からの出血。二度と同じことが起こらないよう、ハーレイはぼくの守り役になった。出来る限りぼくの側に居ることがハーレイの役目。
お蔭で前世で恋人同士だったぼくたちは頻繁に会えて、ぼくの家で会う時は甘え放題だけど…。学校ではあくまで教師と生徒。其処はどうしても崩せない。学校ではハーレイを独占できない。
ハーレイは滅多に怒らない上、雑談を上手く交えて授業を楽しく進めてゆくから、絶大な人気を誇っていた。授業が終わった後も追い掛けて行って、話しながら廊下を歩く生徒も多くって…。
男子にも女子にも人気のハーレイ。嫌いだと言う生徒などいないハーレイ。
そんなハーレイの似顔絵を授業中に描く子たちがいた。男子も女子も、よく描いていた。
特徴を掴んでデフォルメするのが上手いのが男子。格好良く描くのが上手いのが女子。
授業が終わって休み時間になると話題になるそれは、どれもハーレイを巧みに捉えていて。
ぼくは欲しくてたまらなかった。似顔絵だけれど、ちゃんとハーレイに見えるから。
(…みんなホントに上手かったしね)
なのに描いてある場所がとても問題。
ノートだの教科書だのに描かれたハーレイ。その箇所を破って譲ってくれなんて絶対言えない。ノートも教科書も破り取るなんて論外だったし、第一、ぼくがハーレイを好きなことがバレる。
(ホントのホントに欲しかったんだけどな…)
特に上手に描いていた子の作品は今でも鮮やかに思い出せる。
喉から手が出そうな思いで覗き込んでいたノートや教科書。ハーレイが描かれた素敵なページ。
譲って貰うことが不可能ならば自分で描こう、と決意した。
何人もがサラサラと描いているのだし、自分にだって描ける筈。幸い美術の成績はトップ。コツさえ掴めば簡単だろう、とチャレンジしたのに、いくら頑張っても似てくれなかった。ハーレイの姿を捉えるどころか、誰を描いたのかも謎の落書き。似顔絵を描くのと美術の成績は別物らしい。
(頑張ったんだけどなあ、ハーレイの似顔絵…)
ノートと教科書に描き込んでみては溜息な日々。家に帰って改めて眺めても、ハーレイの顔には見えない似顔絵。
そして教室の前に立つハーレイは授業中に生徒が何をしているか、神様よろしくお見通しで。
ある日、唐突に言われてしまった。
平日の夕方、仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれた時に、部屋で向かい合って座った途端に。
「おい、ブルー。お前、古典の教科書とノートを此処に出してみろ」
ハーレイがテーブルを指差した。夕食前だから紅茶と僅かなクッキーが置かれたテーブル。
「えっ…」
古典の教科書とノートだなんて。今日もハーレイの似顔絵を描いて、今までの作品も消さないで残してある教科書とノート。とても見せられる状態じゃない。
けれどハーレイはぼくを見詰めて。
「どうした、後ろめたいことが無ければ見せられる筈だが?」
今すぐ出せ、と腕組みをして睨まれると、ぼくも否とは言えない。仕方なく鞄から取り出して、あえて開かずにテーブルに置いた。それをハーレイの褐色の手が開いてパラリと捲って…。
(…ダメダメダメ~~~っ!)
捲らないで、という願いも空しく、教科書もノートも見られてしまった。ハーレイの似ていない似顔絵で埋まった、ぼくのとんでもない作品集を。
(…………)
もう駄目だ、と項垂れるぼくにハーレイの言葉。
「…これは俺か?」
今日描いたばかりの下手くそな似顔絵を褐色の指がトントンと叩く。
これは何かの嫌がらせか、とハーレイの眉間に皺が寄るほどに似ていない似顔絵。
どうすればいいと言うんだろう。
嫌がらせじゃなくて精魂こめて描いた似顔絵で、だけど下手くそな失敗作だなんて…。
黙り込んでしまったぼくの姿に、ハーレイは怖い顔をした。
「俺の授業はそんなに退屈だったのか? かなり前から描いているようだが」
「……そうじゃなくって……」
これ以上、誤解されてはたまらないから、覚悟を決めて口を開いた。
「…みんな似顔絵が上手いんだよ。ぼくよりもずっと…」
「それで毎回、練習なのか? お前な…。いったい俺をどうしたいんだ」
こういう顔になれと言うのか、と似ていない作品を指差された。変な顔になったハーレイなんか要らない。今のハーレイの顔がいい。ぼくの下手くそな似顔絵そっくりな顔のハーレイは嫌だ。
でも、ハーレイの似顔絵が欲しいんだけど、と白状する勇気なんかとても無くって。
似顔絵が上手くなりたいと言った。他の子たちみたいに上手に描いてみたいのだ、と。
「…お前なあ…。教師の似顔絵が上手く描けても成績は上がらないんだぞ?」
「……分かってるけど……」
だけどハーレイを上手く描きたい。
誰を描いたのか一目で分かる、ハーレイの似顔絵をぼくも描きたい…。
嫌がらせかとまで言われてしまった、ぼくの下手すぎるハーレイの似顔絵。
それを描かれた気の毒なモデルは「うーむ…」と低く一声唸って。
「生憎と俺も、そっち方面の才能ってヤツはサッパリでな…」
しかしだ、特徴を上手く掴んで描けば似てくると昔、上手いヤツらが言ってたな。
俺がお前くらいの年の頃かな、今のお前たちみたいに似顔絵を落書きしていたもんだ。
「ハーレイも?」
「まあな。皆がやっているとやりたくなるだろ、ガキってヤツは」
夢中になり過ぎて先生に見付かったこともあったな、とハーレイが笑う。「そこの馬鹿者!」とボードに書くためのペンが机に飛んで来たらしい。それは素晴らしいコントロールで、狙い違わず目標にヒット。只者ではない、と投げられたハーレイも周りの友達も驚いていたら。
「往年の名投手だったんだそうだ、その先生は。いやもう、あの時は散々だったな」
お前も将来苦労するぞ、と叱られたんだが、まさか本当にそうなるとは俺も思わなかった。
教師になった上に、こんな酷い出来の似顔絵を描かれてしまうとはなあ…。
「…ごめん。ホントにわざとじゃないんだってば…」
「そうらしいな? それでだ、お前、俺の顔だと、何が特徴だと思うんだ?」
まずは其処だ、とハーレイがポイントを指導してきた。
特徴を掴んでしっかりと描く。それが似顔絵のコツなのだ、と。
「えーっと…」
ハーレイの特徴と言われても咄嗟に思い付かない。
褐色の肌……は特徴だけれど、似顔絵を描くのに肌の色は関係無いだろう。色つきの似顔絵など誰も描いていないし、それでもハーレイを描いた似顔絵なのだと分かるのだから。
「髪型…とか? 前のハーレイとおんなじだけど…」
「ああ、まあ…。教師になって暫くしてからはずっとこうだし、特徴の一つではあるだろうな」
最初の間は違ったんだぞ、とハーレイは思わぬ昔話をしてくれた。今よりもずっと若い頃には、今みたいなオールバックと違って、髪の長さも少し長めで。ハーレイ自身にも不思議らしいけど、アルタミラを脱出した頃の髪型にそっくりだったという話。
「自分じゃ似合うと思ってたんだが、まさか前の俺とそっくり同じにしていたとはな」
「なんでだろうね? ぼくも前のぼくとそっくりおんなじだよ?」
ママが選んでくれた髪型。パパも「似合うぞ」と言ってくれた髪型。ソルジャー・ブルーだった頃と少しも変わらず、物心ついた時にはとっくに今の髪型。
ハーレイもぼくも本当に不思議でたまらない。二人とも前世の記憶が戻るまではどんな髪型でも出来た筈なのに、前と同じになっていたことが。
「俺は断じてキャプテン・ハーレイの髪型を真似ていたわけではないぞ」
こんな風にして下さい、と写真を持って行って理容師に頼んだことはない、と話すハーレイ。
キャプテン・ハーレイは知っていたけれど、好んで真似たわけではないと。
「仕事柄、こういうのがスーツに似合うかと思ったんだが…」
「ぼくのはママが決めてくれたよ、こんな風にするのが似合いそうね、って」
「なるほどなあ…。お前の場合はまるっきりソルジャー・ブルーだしな?」
生まれた時からアルビノだろう、と指摘されて「それでこの髪型になったのかな?」と考えた。ぼくの名前はソルジャー・ブルーから取ったものだし、髪型も同じにしたかもしれない。
小さかった頃は「あらまあ、可愛いソルジャー・ブルーね」って色々な人からよく言われたし、ぼくも悪い気はしなかった。ソルジャー・ブルーは英雄だから。
もっとも、ぼくに「可愛い」と言ってくれた人の半分以上は女の子と間違えていたんだけれど。
いけない、昔話の時間じゃなかった。ハーレイの特徴を見付けないと…。
「鳶色の瞳!」
ハーレイの瞳は優しいから好きだ。厳しい時でも、何処か優しい。
「おいおい、そこは目の形だとか…。似顔絵に目の色は関係無いぞ」
「でも……」
ハーレイの大きな鼻も好きだよ、それに大きな唇も。
前のぼくだった頃から好きだった。ソルジャー・ブルーだった頃から…。
(…キスの時とかね)
鼻が軽く触れ合って、それから唇。温かくて意外に柔らかいハーレイの大きな唇。
そう思ったらもう、たまらなくなって。
「ねえ、ハーレイ…」
「なんだ?」
「…ちょっとだけ、キス…」
お願い、と椅子から立ってハーレイが座っている椅子に近付き、膝の上へと腰掛けた。
「こらっ! 誰がキスの話をしている!」
「だから、ちょっとだけ…。頬っぺたか、額でかまわないから」
「そこしか駄目だと言ってるだろうが!」
苦い顔をしながらも、ハーレイは頬っぺたにキスしてくれた。
うん、この唇の感触が好き。
ぼくの大好きなハーレイの唇…。
もっと、と強請ろうとハーレイの胸にすり寄った途端に、階段を上ってくる足音。ぼくは慌てて自分の椅子に戻り、ママが扉をノックした。開けはしないで、声だけ掛かった。
「ブルー、もうすぐ御飯が出来るわよ? 出来たら呼ぶからハーレイ先生と降りていらっしゃい」
「はーい!」
元気よく返事を返したぼく。ママの足音が階段の下に消えたらハーレイに睨まれた。
「それで、似顔絵はどうなったんだ。俺の特徴ってヤツはどうした?」
ハーレイの眉間に寄せられた皺。この皺はいつもあるんだけれども、睨んだりすると深くなる。
「…その皺かな?」
「分かった、晩飯の後でチャンスをやろう。特別にモデルになってやる」
ただし、だ。…上手く描けたら、授業中には二度とやるなよ?
お前が俺を熱心に描いているかと思うと、どうにも気分が落ち着かんからな。
ぼくはハーレイにチャンスを貰った。堂々と似顔絵を描いていい時間。盗み見しながらの授業中じゃなくて、似顔絵を描くためにある時間。
(頑張らなくっちゃ…)
高鳴る胸を抑えて、平静なふりを装って。
パパとママも一緒の夕食を終えて、ハーレイと一緒に二階に戻った。ママが食後の紅茶を持って来てくれて、テーブルの上にティーカップが二つとおかわり用の紅茶が入ったポット。
明日も学校があるから、ハーレイは遅い時間まで居られない。だけど自分の車で来たってことは帰り道に余計な時間は不要。九時頃くらいまでは居てくれる筈。
(一時間ほどあるもんね?)
よく観察して、しっかり特徴を掴んで描こう。せっかくだからスケッチブックに大きめに。
でも、いざハーレイと向き合ってスケッチブックを広げてみたら。
(…なんだか凄く恥ずかしいんだけど……)
下手くそなぼくの絵を見られることも恥ずかしいけれど、ハーレイがモデル。
テーブルを挟んで向かい側に座ったモデルがハーレイ。
大好きな瞳に、鼻に、唇…。
特徴を捉える前に心臓がドキドキ脈打ち始める。ぼくの大好きなハーレイがモデル。
いっそ似顔絵じゃなくて、肖像画に挑戦しちゃおうか?
スケッチブックに大きくハーレイの肖像画。
(……いいかも……)
似顔絵なんかより肖像画。
石膏デッサンは得意なんだし、きっと素敵な絵が描ける。
もっと微笑んでくれるといいな。ぼくの大好きな笑顔がいいな……。
とにかくデッサン、とハーレイの大まかな輪郭を描こうとスケッチブックに向かったけれど。
真っ白な紙があるだけのスケッチブックよりもモデルの顔に惹き付けられる。
デッサンするような暇があったら、もっとハーレイを見ていたい。
いつもは甘えたりお喋りしたりと忙しいから、顔をゆっくり見るどころじゃない。それが今なら好きなだけ観察していられるし、しげしげ見たってモデルだから別に問題無いし…。
(…ふふっ、顎とか…。ちゃんと剃ってるけど、ハーレイの髭って伸びてきた時に触るとチクチクするんだよね)
今のハーレイの顎のチクチクをぼくは知らない。
あれは朝までハーレイと一緒に過ごした、前のぼくだけが知っている手触り。
手触りと言うより肌触りだろうか、よく頬っぺたを擦り寄せていた。自分の頬でチクチクとする髭の感触を楽しんでいた。
前のぼくには生えなかった髭。きっと今のぼくも髭は生えない。大きくなっても髭なんか無くて子供みたいな手触りのまま。
(…前のハーレイ、よくぼくの頬っぺたとか顎とかを撫でていたっけ…)
ぼくがハーレイの顎や頬のチクチクを触りたがる度に「あなたの頬は滑らかですから」と大きな褐色の手で撫でられた。「この滑らかさが好きなのですよ」と、何度も何度もそうっと優しく。
大好きでたまらないハーレイ。
前も今も誰よりもハーレイが好きで、いつまでだって見ていたい。
ぼくの大好きな鳶色の瞳。
大きな鼻に大きな唇、眉間に刻まれた癖になった皺も、何もかもが好きでたまらない…。
「おい、手がお留守になってるぞ」
似顔絵はどうした、とハーレイが白紙のままのスケッチブックを鼻で笑った。
「これだけの時間をかけても線の一本も描けんのか…。駄目だな、お前は似顔絵どころか画家にも向かん。どっちも諦めて勉強の方に専念しろ」
上手い生徒はササッと描くぞ、とハーレイが挙げるクラスメイトの名前。ぼくが似顔絵を譲って欲しいと秘かに思った男子や女子の名が次々と挙がる。
授業中のハーレイはたまに机の間の通路を歩いてゆくけど、基本は教室の一番前。ボードに字を書きながらの説明だとか、教科書片手の解説だとか。
一番前から殆ど動くことが無いのに、似顔絵の上手下手まで知っているなんて、いつの間に?
流石は教師で、生徒のやることは何もかも全部お見通しだ。ぼくがハーレイの似顔絵を描こうと頑張っていたのがバレていたように。
「ふむ。残念だが、もう時間切れだな。そろそろ家に帰らねばならん」
時計を眺めたハーレイが立ち上がろうとするから、引き止めてみた。
「まだ描けてないよ!」
上手く描けるとは思わないけれど、もっとハーレイを見ていたい。
あと五分だけ、ううん、三分でも一分でもかまわないから、ハーレイを観察していたい…。
「時間切れと言ったら時間切れだ」
俺は帰る、とハーレイはカップに残った紅茶を綺麗に飲み干して椅子から立った。
「スケッチブックが白紙のままとは恐れ入った。これからも授業中に描くつもりなんだな、お前というヤツは」
「……だって……」
欲しいんだもの、とは言えなかった。欲しくてたまらない似顔絵だけれど。
「だっても何も、お前の場合は描きまくっても致命的に似ないと思うがな?」
俺とも思えん絵が出来るだけだ、とクックッと喉の奥で笑ってハーレイは家に帰ってしまった。
残されたものは白紙のスケッチブック。
ハーレイの肖像画に挑戦どころか、似顔絵すらも描けずに終わった。
でも……。
「…今は写真を持っているから、もう似顔絵は要らないものね」
ハーレイと二人で写した写真。夏休みの記念に写した写真。笑顔で写ったハーレイと、ぼく。
その写真をうんと堪能してから、古典の教科書とノートを取り出して開いてみた。
写真を撮る前の一学期。
ハーレイと再会してから夏休みまでの間の授業中に描いた似顔絵。
ぼくが必死で描いた似顔絵。
ハーレイの似顔絵欲しさに描いていたものの、あまりの似ていなさに自分で吹き出す。
(…ハーレイが眉間に皺を寄せたの、無理ないかも…)
嫌がらせか、と尋ねられたほどの悲惨な出来栄え。
とてもハーレイには見えないどころか、顔を歪める呪いをかけているのかと誤解されそうな酷い似顔絵。それでもぼくは頑張ったんだ。
時間切れだな、と告げられたあの日から後も積み重ねられた、ぼくの空しい努力の跡。
まるっきり似ていないハーレイの似顔絵が鏤められた教科書とノート。
そうやって奮闘したぼくだけれど、二学期に入ってからのノートと教科書にハーレイの似顔絵は一つも無い。似顔絵つきのページ作りは一学期だけで卒業した。
何故って、ぼくは最高のハーレイの写真を手に入れたから。
ハーレイの左腕にぼくが両腕で抱き付いていて、おまけにフォトフレームはハーレイのもの。
もう似顔絵は要らないんだ。
他の子たちが描く上手い似顔絵も、もう欲しいとは思わない。
学校便りの五月号は今でも宝物にしているけれど…。
だって、あれが一番最初のハーレイの写真。生真面目な顔の小さなモノクロの写真だけれども、最初に貰ったハーレイの写真。
学校で配られたプリントだけど。ハーレイに貰った写真じゃないけど…。
それでもハーレイが写った最初の写真。ぼくが手に入れた一番最初のハーレイの写真。
きっといつまでも宝物だよ、学校便りの五月号。
五月の三日から始まった、ぼくとハーレイとの青い地球での新しい生。
それを運んで来てくれた五月に貰った、学校便りの五月号。
あの日の朝のホームルームで配られた学校便りの小さな写真。
其処にハーレイが載っていることに気付いたのはずっと後だったけれど、大切な宝物なんだ…。
似顔絵・了
※美術の成績はトップだというのに、似顔絵の腕前は破壊的だったらしいブルーです。
それでも頑張って描きたかった気持ち、いじらさを分かってあげて下さい。
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ふと目に入った父のスーツ。学校から戻っておやつを食べていたリビングの一角。風を通すためなのだろうか、上着だけがハンガーに掛けてあった。いつも父が仕事に着てゆくスーツ。
(やっぱり大きい…)
ハーレイの体格には及ばないものの、ブルーの父も背は高い方。従ってスーツも大きいサイズ。ハンガーに掛けられたそれは、ブルーの制服の上着とはまるで大きさが違う。文字通りの大人用と子供用と言っても差し支えは無く、ブルーはその大きさが羨ましくなった。
(…早く大きくなりたいんだけど…)
父ほどの大きさにはならなくていい。前の生と同じ背丈の百七十センチがあれば充分。そこまで育てば上着のサイズも今ほどの差は開かないだろう。
(でも…。ハーレイはパパよりももっと大きいよね?)
いつか自分が大きくなっても、ハーレイの上着と並べて掛けたら大きさの違いが分かりそうだ。今の父と自分ほどには違わないだろうけれど、きっとブルーのよりずっと大きい。
(大きい上着かあ…)
自分の体格よりも大きな上着。それを着てみたらどんな感じがするのだろう?
背伸びして大人になった気持ちか、あるいは一人前の大人な感覚か。子供には縁の無いスーツ。制服を着るまでは改まった外出用に子供用のを持っていたけれど、それはあくまで子供用。仕事に出掛けるわけではないし、行儀よくしているためだけの服。
(…ちょっとだけ着てもかまわないよね?)
大人に少し近付けるかも、とブルーは父の上着に手を伸ばした。背が高い父の上着を羽織れば、いいおまじないになりそうだ。そのサイズには届かないまでも、大きくなれる力が宿っていそう。
(んーと…)
手に取るとズシリと重かった。制服の上着とは全く違う。袖を通して羽織ってみたら。
(…うわあ…。ホントに大きいよ、これ)
肩にかかる重さもさることながら、余りすぎの肩幅に長すぎる袖。裾だって腰よりもかなり下にあり、案の定、ブカブカとしか言いようがない。
上着と呼ぶより、これではガウン。上掛け代わりに着て寝られそうなほどに大きな上着。
(…分かってたけど、ぼくって小さい…)
早く大きくなりたいな、と溜息をついて上着をハンガーに戻しておいた。一日も早くハーレイと一緒に暮らせる背丈になれますように、と願いをこめて。
父のスーツで勝手なおまじないをしていたことは綺麗に忘れたけれども、その夜、パジャマ姿で自分のベッドに腰掛けた途端に思い出した。
ガウン代わりになりそうだった父の上着。着て寝られそうだった大きな上着。
今は秋だから、これから少しずつ寒くなってくる。パジャマ一枚で夜更かし出来る季節はやがて終わって、羽織るものが要るようになるのだけれど。
(…あれ?)
なんだか着ていたような気がする。カーディガンや子供用のガウンではなくて、もっとズッシリした上着。パジャマの上から確かに羽織っていたような…。
(でも…)
父のスーツを持って来たりはしない筈。ガウン代わりに父が貸してくれるわけがないから、もし着たとしたら、それは悪戯。目的も無いのにスーツで悪戯なんかはしない。なのに着ていた記憶がある。
両肩に微かに残った感触。自分には重くて大きすぎる上着。
(…いつなんだろう?)
もしかしたら父が着せかけてくれたとか?
お風呂上がりにパジャマ一枚で遊んでいたら「風邪を引くぞ」と羽織らせてくれた?
そういうこともあるかもしれない、と懸命に記憶を手繰っていて。
(…あっ…!)
引っ掛かって来た遠い日の記憶。今の家とは違う場所の記憶。
(前のぼくだ…!)
着ていたものは父のスーツの上着ではなくて、キャプテンだったハーレイの上着。ソルジャーの上着とお揃いの模様があしらってあったキャプテンの制服の上着を着ていた。
ソルジャー・ブルーだった頃のブルーには大きくて重かった、ハーレイの上着。それを羽織って青の間に居た。ソルジャーの上着とマントの代わりに、ハーレイの上着をしっかりと着て…。
蘇ってくる懐かしい記憶。ブルーはそれを夢中で追った。
ソルジャーだったブルーは大抵、青の間に一人。
戦いや新しく見付けたミュウの救出に出掛けない時は、シャングリラの中を一巡すればその日の役目はおしまいだった。アルタミラを脱出して間もない時代は皆と賑やかに過ごしていたけれど、ソルジャーとなり、青の間に住まうようになった頃には普通の役割は無くなっていた。
唯一の戦える存在であって、同時に行く手を指し示すソルジャー。
年若い者たちにとっては神にも等しい立ち位置となってしまったブルーに、一般のミュウと同じ仕事は回ってこない。戦闘も救出作戦も無くて暇だからといって農作業の手伝いをしようとしても視察扱い、却って作業の手を止めてしまう。掃除を手伝おうとしても同じこと。
ブリッジに行けばソルジャーの巡視とばかりに皆が緊張するのが分かるし、機関部に出掛けても今の状況を説明するべく誰かが作業を抜けて来てしまう。
あれこれと色々試してみた末、子供たちの相手をして遊ぶことが一番問題が少ないと分かった。保育部の者たちは恐縮するけれど、子供たちはブルーに懐いてくるから仕事の手伝いをすることは出来る。ブルーが子供たちの相手をしている間に他の作業が可能だから。
とはいえ、子供たちは眠りに就くのも早い。大人たちより早い時間に夕食を済ませ、ブルーより先に眠ってしまう。ブルーが見付けた小さな仕事は子供たちが夕食に行けばおしまい。
夜ともなれば船内の巡回にも出掛けられない。公園で散歩は出来るけれども、それ以外の場所を歩いていれば、出会った者に「ご用でしょうか?」と気を遣わせてしまうのが目に見えている。
仕方ないから、夜になったら本当に青の間で一人きり。
恋人のハーレイがブリッジでの勤務を終えて来てくれるまでは、たった一人で青の間で過ごす。そのハーレイが忙しい時は独り寂しく待つしかない。本を読むのに飽きてしまっても、一人で飲む紅茶が美味しくなくても、ハーレイにはキャプテンという大切な任務があるのだから。
そうやって待って、ハーレイを迎えて、愛を交わしたり、ただ添い寝して貰うだけであったり。二人一緒にベッドで眠って、朝になったらハーレイをブリッジへ送り出す。その後はブルーは独りになる。どんなに仲間が大勢いようと、心の底から幸せを感じられる時間は夜まで来ない。
それが日常だった、ある朝のこと。起き出して制服を着込んだハーレイが言った。
「今夜はこちらに来られないかもしれません」
「…忙しいの?」
「ええ。色々と片付けなければならないことが重なりまして…」
でも、心配は御無用です。一つ一つは大したことではありません。ただ…。
私の帰りがあまり遅くなると、あなたがお休みになれませんから。
「理由はそれだけ?」
ブルーの身体を気遣う言葉は嬉しかったけれど、従うつもりにはなれなかった。「そうです」と答えたハーレイに「遅くてもかまわないから来て」と自分の望みを口にする。
「それだけなら、ぼくは待っているよ」
先に眠ってしまっているかもしれないけれども、一人にしないで。
朝に独りで目を覚ますのは嫌なんだ。
夜中に目覚めて独りぼっちだと気付くのも嫌だということ、君は充分知ってるだろうに。
「…分かりました」
遅くなるかもしれませんが、とハーレイは約束をして出掛けて行った。
そういう会話を交わしていたから、遅くなっても仕方がないとは思っていた。けれど…。
(…まだ来てくれない…)
本当にハーレイが戻るのが遅い。覚悟していたけれど、本当に遅い。
とっくの昔にシャワーを済ませて、もう長いことベッドに腰掛けて待っているのに。
(寂しいよ、ハーレイ…)
サイオンで軽く気配を探ると、ハーレイはまだ忙しそうで。どうやら幾つかの部署から幾つもの案件が同時に持ち込まれたらしく、どれもキャプテンの決裁が必要だからと急いでいる。如何にも生真面目なハーレイらしい。明日や明後日に持ち越したって支障の無いものも多そうなのに。
(…そういう所も好きなんだけどね…)
シャングリラの仲間たちの暮らしが少しでも快適であるようにと、心を砕く優しいキャプテン。ブリッジで見せる厳めしい顔とは正反対の温かい心を持ったハーレイ。
だからハーレイが好きになった。自分のことよりもブルーのことを大切に思い、いつだって側に居てくれたから。本当に側に居られる時間は短いものでも、心ごと寄り添ってくれたから…。
(まだかな、ハーレイ…)
早く仕事が終わらないかな、と探ってみれば、また別件でハーレイの部屋を訪ねてゆくクルーの姿が見えて。他にも幾人か順番待ちらしき気配があった。夜間シフトの者も含まれているようだ。これでは半時間やそこらで全て片付きそうもない。優に一時間、あるいはもっと…。
先に眠るべきかと思うけれども、眠る時にはハーレイが隣にいないと寂しい。
ハーレイと二人寄り添い合って、生まれたままの姿か、アンダーだけか。
どちらの格好で眠るにしても、ハーレイの温もりが側に無いとあまりに寂しすぎる。
シャワーを浴びた後でマントも上着も脱いでいるから、ベッドにもぐれば眠れるのだけれど…。
どうにも眠ろうという気持ちになれない。
少しでいいからハーレイの優しい温もりが欲しい。
ブルーの身体を暖かく包んでくれるもの。包み込んでくれる何かが欲しい…。
眠れないままに、自分を包んでくれそうな温もりを頭の中であれこれと探し求めていて。
(そうだ、上着…!)
ハーレイがいつも着ているキャプテンの上着。ブルーとお揃いの模様をあしらった上着。
あれを羽織れば大きくてきっと暖かい。ブルーはガウンを持っていないけれど、ガウンみたいに暖かく包んでくれると思う。ハーレイの大きな身体を包む上着だし、充分ガウンに出来る大きさ。あれならばハーレイの温もりを身近に感じられそうだ。
(…えーっと…)
青の間からは少し離れたハーレイの部屋をサイオンで覗く。何度も泊まったことがあったから、ハーレイが制服を仕舞っているクローゼットは直ぐに分かった。ハンガーに掛けられて並んでいるクリーニングを済ませた上着。替えの上着は何着もあったし、一つくらいはいいだろう。
(ちょっと借りるよ)
机に向かっているハーレイの背中に心の中だけで声をかけた。もちろん思念に乗せてはいない。仕事の邪魔をしては悪いし、かと言って無断で持ち去るのも良心が咎めたから。
手近な上着を一つ選んで、瞬間移動で失敬した。青の間のベッドに腰掛けたままのブルーの手の中に上着がバサリと落ちて来る。思っていたよりも重たいそれ。同じ模様があしらわれたブルーの上着よりも遙かにズシリと重い。
(大きいし、袖もついてるんだし…)
重くて当然、とブルーは微笑む。この重い上着を軽々と着こなすハーレイの逞しさを思う。
(…こうして見るとホントに大きい…)
両手で持って広げてみれば、彼の人の頑丈で大きな身体が直ぐ目の前にあるかのようで。
(ハーレイはこれを着てるんだ…)
自分のマントと上着はシャワーを浴びた時に脱いでしまって、今はアンダーだけだったから。
手に入れたばかりの素敵なガウンを早速羽織ってみることにした。まずは袖には腕を通さずに、マントのように肩に掛けてみる。それだけで肩と背中が暖かくなった。ハーレイに合わせてある丈だけに、ブルーが羽織るとハーレイのマントくらいの大きさになる上着。
両方の腕を通して着れば、まるでハーレイに包まれているようで。
(…ふふっ)
これを着ていれば寂しくない。ハーレイが側に居てくれるような安心感。
どっしりと重いキャプテンの上着。いつもハーレイが着ている上着。
前を掻き合わせて両方の手でキュッと握って、幸せに浸る。
もう少し待てば、これの持ち主が仕事を済ませて戻って来る。
あと少し、ほんのもう少し…。
ブルーが着込んだハーレイの上着。キャプテンの制服の重たい上着。
今もまだ部屋で仕事をしているハーレイと同じ上着を纏って、その暖かさに包まれて。ブルーは心が安らぐのを覚え、寂しさも和らいだような気がした。
寂しかった心がハーレイの温もりを感じたからか、俄かに眠気が襲って来て。ハーレイの帰りを待とうと思っているのに、小さな欠伸が立て続けに出る。
(…もうすぐハーレイの仕事が終わる…)
終わるまで待っていなくては。眠らずに待って迎えなくては、と堪えても欠伸を止められない。ほんの少しだけ横になろう、とベッドにぱたりと倒れ込んだ。眠るつもりは全く無かった。
横になれば眠気が収まるだろうと、目を瞑らなければ眠りはしないと思って身体を横たえた。
そう、目を開けていれば眠らずに済む。こうして眠気をやり過ごしてやれば欠伸も止まる。
(…少しだけ…。ほんの少しだけ…)
眠気が去ったら起き上がるつもり。それが眠気に捕まってしまい、知らず知らずに瞼が閉じた。ブルーはベッドに倒れ込んだまま、ぐっすりと深く眠ってしまった。
ハーレイの上着を上掛けにして、腰の辺りまですっぽりと包まれたままで…。
「…ブルー?」
いったい何をしているんです、と呼ばれたブルーは「…ん?」と寝返りを打って目を覚ました。眠い目を擦りながら開けば、直ぐ前に恋人の顔があって鳶色の瞳に途惑いの色。
「…遅くなってしまってすみません。ですが、この格好は何ごとです?」
「…格好…?」
何を言われているのか分からず、眠気を払おうと伸ばした腕が目に入った。見慣れた自分の腕の代わりにハーレイの腕。それも不格好に余りすぎた制服を纏った腕。
(………?)
ブルーの半ば寝ぼけた頭が状況を把握する前に、ハーレイの瞳が覗き込んで来た。
「…私の上着が皺くちゃになってしまっているのですが…」
「……君の……?」
なんで、と口にしかかった所でブルーはようやく気が付いた。
無断で借りたハーレイの上着。ガウン代わりに着込んでみたらとても暖かくて、幸せで…。
(…そのまま眠ってしまっていたんだ…!)
カアッと顔が赤くなるのを覚えたけれども、ハーレイに背を向け、ぶっきらぼうに言い放つ。
「君が遅いからいけないんだ。早く包んで」
「…は?」
「上着じゃなくって、君の身体でぼくを包んで。もう遅いから、それだけでいい」
早く、とブルーは恋人を急かした。
「君が来ないから、代わりに上着で寝る羽目になった。これはもういい。早く脱がせて」
上着より君の方がいい。早く脱がせて、君が包んで。
「…ええ、ブルー…」
ハーレイの声に笑いが混じる。この恋人はなんと可愛いのかと、自分が来るのを独りで待てずに上着を持って来てしまったのか、と。愛らしい恋人がしっかりと袖を通して着込んだキャプテンの上着。細くて華奢な身体に纏うには大きすぎて余っている上着。
「ブルー、少し身体を浮かせて下さい。あなたの下敷きでは脱がせられません」
「…うん……」
そう答えつつも非協力的なブルーの身体から上着を剥がすハーレイが小さな吐息を漏らした。
「…おまけに、私の上着を脱がせるというのは、なんとも妙な感じがするのですが…」
「そうかな? でもこれ、気に入ったんだよ」
とても暖かくて、君が側に居るような気がする。また遅くなる時があったら借りるよ。
「はあ…」
困り顔で脱がせていたハーレイ。自分の持ち物のキャプテンの上着を脱がせたハーレイ…。
(借りていたんだ、ハーレイの上着…!)
小さなブルーは思い出した。前の生で過ごしたハーレイとの時間。青の間で過ごしていた時間。
そんなことは滅多に無かったけれども、寂しい夜にはハーレイの上着。
ハーレイの帰りを待ち切れない時、持ち主の部屋からキャプテンの上着を無断で借りた。何着も並んだクリーニング済みの上着の中から一つ選んで、瞬間移動で持ち出していた。
持ち主のがっしりとした身体に相応しい重みと大きさの上着。それが気に入って何度も借りた。たまに昼間にも羽織っていた。急にハーレイに会いたくなったのに、叶わない時に。用を見付けて呼び出そうにも、キャプテンの仕事が多忙だった時に。
(…大好きだったっけ、ハーレイの上着…)
ブルーがそれを着ている度にハーレイは苦笑していたけれども、それでも瞳は嬉しそうだった。
自分の制服を脱がせないと恋人に触れられないとは、と嘆きながらも声に幸せが滲み出ていた。そうしてブルーの身体を包んだ大きすぎるキャプテンの上着を脱がせて、自分の身体で包み込んでくれた。温かくて広い褐色の胸に、逞しい筋肉を纏った腕で。
(本物のハーレイには敵わないけど、上着もとっても好きだったんだよ…)
何回も借りていたハーレイの上着。
ガウン代わりに、上掛け代わりにしていたキャプテンの制服の重たい上着…。
思い出したら、あの上着が急に懐かしくなった。
今はもう何処にも無い上着。時の流れが連れ去ってしまったキャプテンの上着。
ブルーが着ていたソルジャーの上着とお揃いの模様があしらわれていたキャプテンの上着。
存在しないものは着られないから、思考を別の方へと向けた。
(今のハーレイのスーツ、羽織ってみたいな…)
記憶を呼び戻す切っ掛けになった、昼間に羽織った父のスーツの大きな上着。ハーレイほどではなくても長身な父の上着があの大きさ。ハーレイは父よりもずっと肩幅があって背が高い。
(…ハーレイのだと、パパのよりもっと大きいよね?)
ブルーには大きすぎた父の上着。それより遙かに大きいだろうハーレイの上着。
前の生でハーレイの上着を着ていたブルーは今よりも背が高かった。肩幅だって広かった筈。
今のブルーはソルジャー・ブルーだった頃に比べれば小さな子供。そんな自分が前と同じようにハーレイの上着を借りたら、どれほど余ってしまうのだろうか。
今のハーレイのスーツの上着は、キャプテンの制服の上着よりも大きくてきっと暖かい。
(でもって、うんと重たいんだよ)
着てみたいな、とブルーは夢を見るのだけれど。
週末の土曜日や日曜日に来てくれるハーレイはスーツではないし、着たいと頼み込むなら平日。
(…だけど……)
平日にこんな思い出話は出来ない。前の生で愛し合っていた頃の話は出来ない。
(…週末に話して、次にスーツで来てくれた時に着せて貰えばいいのかな…?)
着せてくれるかな、とハーレイのスーツ姿を思い浮かべる。今日も学校でスーツ姿のハーレイに会った。暑い季節にはワイシャツにネクタイだったけれども、今ではスーツが普通のハーレイ。
(ちゃんと頼んだら、着られるかな?)
一度くらい着せて欲しいんだけど、とハーレイの身体を包むスーツの上着に思いを馳せる。
着せて貰うなら今がいい。
結婚したならいつでも着せてくれるのだろうし、勝手に着ることも出来るけれども、今がいい。
前よりも小さな身体だからこそ、着せて貰う価値がありそうだった。ブルーの身体をすっぽりと包み込むハーレイの大きさ、温かさ。今なら前の何十倍にも感じられるに違いない。
(それにハーレイ、キスも許してくれないしね…?)
上着くらいは着せて欲しいよ、とブルーは頑丈な身体を持った恋人のスーツの上着を狙う。
何とかしてあれを着られないか、と懸命に考えを巡らせるけれど、全ては上着の持ち主次第。
小さなブルーはハーレイのスーツの上着を着せて貰えるのか、拒否されるのか。
キャプテンだったハーレイすらも苦笑したそれは、今のブルーには些か難しそうだった……。
羽織ってみた上着・了
※キャプテン・ハーレイの上着をコッソリ拝借していたソルジャー・ブルー。
とても幸せだったでしょうけど、脱がせる方のハーレイは複雑な気分ですよね…?
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
学校へ向かう路線バスの中。
ふと気が付いて通学鞄を覗き込んだブルーは顔色を変えた。
(…えっ?)
いつもの場所にある筈の財布。鞄を開ければ直ぐ分かるそれが見当たらない。まさか、と奥まで手を突っ込んでみたが馴染んだ感触が何処にもない。何度探っても見付からない。
(…そんな……)
路線バスの乗車賃は財布とは別。鞄に付けている小さなカードを機械が自動で読み取る仕組み。財布が無くても困りはしないが、お金が要る場所はバスだけではない。焦って鞄を探っている間にバスは学校の側のバス停に着いた。
(もしかしたら何処かに挟まってるかも…)
祈るような気持ちで教室に行って、机の上に鞄の中身を全部取り出してみたのだけれど。逆さにして何度も振ったのだけれど。
(…やっぱり無い…)
財布は出て来てくれなかった。肩を落として出してあった中身を順に鞄に仕舞い込む。本当なら其処に在った筈の財布。忘れたことなんか無かった財布。
(…なんで?)
どうしてこうなっちゃったんだろう、とブルーは自分の記憶を探った。財布は外でしか使わないから、いつだって通学鞄の中。たまに何処かへ出掛ける時は外出用の鞄に入れ替えて行って、家に帰ったら直ぐに通学鞄に戻す。財布を鞄以外の所に置いておくことは無いのだけれど…。
(…あっ…!)
引っ掛かった小さな記憶の欠片。昨日の夜、母にお小遣いを貰って財布に入れた。通学鞄の中が定位置の財布を確かに鞄から出した。
(…それから何をやったんだっけ?)
母に呼ばれて貰いに行ったお小遣い。ちょうど本を読んでいる時に声を掛けられたから、急いで階下へ下りて行った。鞄から出した財布をしっかりと持って。
ダイニングで渡されたお小遣いを財布に仕舞って、部屋へ戻った所までは確か。通学鞄に入れるつもりで勉強机の前まで行って…。
(…やっちゃった…)
広げたままで机に置いて出た写真集。ハーレイとお揃いで持っている本、シャングリラを収めた写真集。開いたページに載っていた写真が前の生の記憶を運んで来たから、手繰り寄せようとして椅子に座った。持っていた財布は…。
(隣の棚に置いちゃったんだ…!)
ほんのちょっとだけ、懐かしい記憶に浸りたかった。通学鞄を手に取っていたら現実が前の生の記憶を消してしまって追えなくなるかもしれなかったから、写真集の方を優先した。財布は後でもいいと思った。思い出しかけた遠い記憶の方が大切。
そうやって蘇ってきたシャングリラでの日々がとても懐かしくて、もっともっとと夢中になって写真集のページをめくり続けた。此処でこんなことが、此処でこういう会話があった、と。
時の流れが連れ去ってしまったシャングリラ。
ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
ゼルやヒルマンやブラウたちと交わした言葉や、その表情。日常のほんの小さな一コマ。温かな光景が幾つも幾つも胸の奥から湧き上がって来て、幸せな気持ちで眠りについた。シャングリラの写真集をぱたりと閉じて、幸せな気分を仕舞いたくなくて、棚に入れずに机に置いたままで。
(…朝もそのまま置いて来ちゃった…)
昨夜の幸せを覚えていたから、学校から戻ったら遠い記憶を追おうと思った。心を空っぽにしてページをめくって、浮かび上がってくる記憶の欠片を拾ってみようと。
写真集を棚に戻さなかったから、棚の方なんか見ていない。財布を置いた棚なんか見ない。
探していた財布は今も家に在って、ブルーの部屋の棚の上。母が気付いてくれたら届けてくれる可能性もあったけれども、生憎と部屋の掃除はブルーの習慣。ブルーが学校に行っている間に母が部屋に入ることなど滅多に無い。
(……どうしよう……)
これではランチが食べられない。
ノートなどを買う予定は無いから、財布が要る場所は食堂だけ。食の細いブルーは昼休みに少し食べれば充分、それ以外に食堂は使わないけれど、食堂で食べるにはお金が必要。いくらブルーの食が細くても、何も食べずに放課後まではとても持たない。
こうなった以上、ランチ仲間にお金を借りるしか無さそうだ。誰に頼もうかと思案していて。
(そうだ、ハーレイ!)
この学校にはハーレイが居る。
校内ではあくまで教師と生徒で「ハーレイ先生」と呼ばねばならないが、そのハーレイは誰もが認めるブルーの守り役。ある意味、保護者とも呼べる立ち位置。
(…友達に借りるより、ハーレイだよね?)
ランチ仲間は万年金欠の傾向が強い。特に今の時期、お小遣いを貰っていればいいけれど、まだ貰ってはいなかった場合、ブルーに貸すのは大変そうだ。下手をすればランチ仲間全員が少しずつ出してくれて一人分を捻り出すのがやっとかも…。
そんな迷惑をかけてしまうより、ハーレイに頼んだ方がいい。財布を忘れたと言わねばならないことは恥ずかしかったが、自分の始末は自分で付けねばならないだろう。
幸いブルーは登校時間が早い方。
柔道部の朝練を終えたばかりのハーレイと出くわすこともしばしばで。
この時間なら他の先生たちも忙しくしてはいない筈だから、大急ぎで職員室へと駆け込んだ。
「ハーレイ先生!」
目指す人影は職員室の中でもひときわ目立つ大きな体格。出勤してきた他の先生たちと立ち話の最中で、手には熱いコーヒーが入ったマグカップ。そのハーレイがブルーの声で振り返る。
「どうした、ブルー? 朝早くから」
「……えっと……」
職員室中の教師の視線を一身に浴びたブルーは真っ赤になって俯いた。ブルーの担任の先生まで居る。この状況で口にするのは本当に勇気が要ったけれども。
「…すみません。財布を忘れて来たんです。少しでいいから貸して下さい」
消え入りそうな声では失礼だから、精一杯に搾り出した声。ハーレイが「ふむ」と呟いて。
「昼飯用か?」
「……そうです……」
買えないんです、と顔を上げられないままのブルーに、ハーレイは「よし」と答えてくれた。
「分かった。昼休みに準備室に来い」
「えっ?」
「準備室だ。古典の準備室、知ってるだろう?」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
返事を貰った以上は礼儀正しく、きちんと御礼を言わなければ。他の先生たちの耳にも聞こえる声で答えて、御礼を言って。ペコリと頭を下げたブルーは職員室を出て、扉を閉めた。
(…は、恥ずかしかったあ…)
まだ心臓が激しく脈打っている。ウッカリ者の自業自得な情けない末路。とはいえ、心配の種は無くなった。ランチ仲間に無理を言ってお金を借りなくて済む。
(…でも……。準備室に来いって、どういう意味かな?)
もしかするとハーレイが食堂について来て、その場で支払ってくれるのだろうか?
考えてみれば、理に適った正しいやり方だった。ブルーがいくらのランチを買って食べるのか、今の時点では分からない。ブルーは嘘を言ってお釣りを懐に入れたりはしないけれども、そういう生徒も絶対いないとは言い切れない。同行して必要な分を支払う方が貸すよりもいい。
きっとそうだ、とブルーは思った。ハーレイが食堂まで一緒に来てくれる。
(…どうせなら一緒に食べてくれたらいいんだけどな…)
流石にそれは無理だろうけど。ハーレイにはハーレイの都合があるのだろうし…。
そして昼休みがやって来た。ランチ仲間には「財布を忘れたから」と真実を告げて、待たないで食べてくれるようにと言った。昼休みの食堂はまさに戦場。出遅れれば売り切れるものも多いし、いい席となれば奪い合い。纏まった数の席を取るのは大変だけれど、一人分なら何とでもなる。
(…ホントはハーレイと二人で食べてみたいんだけどな…)
食堂の隅っこの席でいいから。教師と生徒の会話でいいから、ハーレイと二人…。
そんなことを考えながら校舎の中を歩いて、辿り着いた古典の準備室。職員室とは別に教科別に設けられた教師の居場所。授業のある時間帯は準備室で待機し、質問なども受け付ける。
「失礼します」
扉をノックし、カチャリと開けたブルーは目を見開いた。
(あれっ?)
何人か居る筈の先生たちが一人もいない。正確にはブルーの方を振り向いたハーレイ一人だけ。机は幾つか並んでいるのに、ガランとした古典の準備室。途惑うブルーに声がかかった。
「来たか。…まあ入れ、今日は俺だけだ」
「えっ?」
扉を閉めたものの、ブルーはキョロキョロと周囲を見回す。他の先生は何処へ消えたのだろう?
「お前、いいカンしているな。実は不器用じゃないんじゃないか? お前のサイオン」
ハーレイが「来い」とブルーを手招きした。
「他の先生は研修でな。今日は一日、隣町だ」
まさか全員がいないわけにもいかんだろうが。俺は別の日に済ませたんだ。
そう言いながら、ハーレイは自分の隣の席から持ち主が留守の椅子を引っ張り出した。
「というわけで、今日は一人だから豪華弁当と洒落込むつもりだったんだが…。そしたら、お前が来ちまった。御馳走するしかないだろうが」
「ええっ?」
「ついでに人目も無いからな。ハーレイ先生じゃなくてハーレイでいいぞ」
座れ、と椅子を用意されたブルーは信じられない思いで腰掛けた。
ハーレイと二人で食堂どころか、準備室で二人で食事だなんて。しかもハーレイ先生ではなく、ハーレイと呼んでいいなんて…。
本当に此処は学校だろうか?
夢を見ているのではないのだろうか…。
「遠慮しないで食って行け。自慢のクラシックスタイルなんだぞ」
ハーレイが四角い風呂敷包みを取り出した。机の上に置いて風呂敷を解けば、中から二段重ねになった弁当箱が現れる。行楽の季節に見かけるような黒く塗られた弁当箱。金色の模様も描かれたそれは、まさにクラシックスタイルそのもの。
「…なんだか凄いね…」
SD体制の時代よりも遙かに古いスタイル。前の生では情報だけしか知らなかった。実物を目にしたことが無かった。その点はハーレイも同じ筈だが、今の好みはこうなのだろうか?
「ははっ、驚いたか? 俺の親父とおふくろはこの手の弁当も好きなんだ。春の桜や秋の紅葉にはピッタリだろうが、こういうヤツが」
せっかくの文化を楽しまないとな?
此処は地球だし、ずうっと昔は日本という名の島国だ。由緒ある場所に生まれて来たんだ、昔の人たちが愛した文化を俺たちもうんと楽しむべきだぞ。
もちろん今風の飯も美味いし、そっちの味だって捨て難いんだが…。
「どうだ、中身もクラシックスタイルというヤツだ。ちなみに全部、俺が作った」
見ろ、とハーレイが自慢げに開けた二段重ねの弁当箱。上の段には魚の焼き物や野菜の煮物など何種類ものおかずが詰められ、下の段にはキノコたっぷりの炊き込み御飯。行楽弁当として売られているものにも引けを取らない、ハーレイの手作りがぎっしり詰まった豪華弁当。
「ほら、食べろ。お前、好き嫌いは無いんだろうが。…俺と同じで前世の記憶を引き摺っちまって贅沢を言えない舌なんだしな」
「そうだけど…。ぼく、食べていいの? これ、ハーレイのお弁当でしょ? お腹、空かない?」
「安心しろ。俺の非常食ならこっちにある」
ハーレイが机の下から引っ張り出した袋に詰まったサンドイッチやホットドッグ。授業の合間に買って来たらしいそれはブルーからすれば驚くほどの量だったけれど。
「柔道部の指導は腹が減るしな、いつも買うんだ。今日は多めに買っておいた」
だから好きなだけ弁当を食べろ、とハーレイは割り箸を机の引き出しから出して来た。ついでに準備室に備え付けの棚から陶器の皿。これまたクラシックな形と模様のもの。
「…これもハーレイのお皿なの?」
「まあな。俺の私物だ。他の先生も色々置いてるぞ。…茶碗も要るか?」
炊き込み御飯には茶碗が似合う、とハーレイが棚から取って来た茶碗。それもハーレイの私物の茶碗で、持ち主の手に相応しい大きな茶碗。
「これに一杯はお前は無理だな、好きなだけ入れろ。おかずも好きなだけ取っていいぞ」
取り分けるための割り箸も用意され、ブルーは感激で胸が一杯だった。普段ハーレイが使う器で食べられる上に、ハーレイの手作りのお弁当。本当に夢じゃないんだろうか…。
お弁当とはいえ、本格的な和風のおかずと炊き込み御飯。ハーレイ御自慢の豪華弁当。
(…どれを貰ったらいいんだろう?)
ブルーは嬉しい悩みを抱えて所狭しと詰まったおかずを眺めた。さっきハーレイが言った通りにブルーには好き嫌いが無い。前の生でアルタミラの研究所で食事とも呼べない餌を与えられ、脱出した後も耐乏生活が長く続いた。そのせいか、ハーレイともども好き嫌いが全く無いのだが…。
(それとこれとは話が別だよ…)
出来ることなら全部食べたい、ハーレイ手作りの豪華弁当。しかしブルーの食は細くて、とても全部は食べられない。魚の焼き物を一切れと炊き込み御飯を茶碗に半分も貰えば満腹、他には入りそうもない。美味しそうなおかずが沢山あるのに、どれを選べばいいのだろう?
「おいおい、遠慮しなくていいんだぞ? 好きなだけ食え」
「…食べたいんだけど…。ぼく、沢山は食べられないよ…。ほんの少しでお腹一杯」
どれにしようか迷っているのだ、とブルーは悩みを打ち明けた。全種類を制覇したいけれども、その前に満腹してしまう。だからお勧めのおかずがあったら教えて欲しい、と。
「ハーレイのお勧めのおかずにするよ。それと御飯を少しでいいよ」
「なるほどな…。お前、少ししか食わないからなあ、しっかり食べろと言っているのに」
だから大きくなれないんだぞ、と苦笑しながらハーレイは魚の焼き物に割り箸を入れた。小さく割れた端っこをブルーの皿に取り分け、次は野菜の煮物を少し。それから玉子焼きを半分。
「何してるの?」
「試食サイズだ。これなら全種類でもいけるだろうが。気に入ったのがあって入るようだったら、また後で取れ。炊き込み御飯は自分で入れろよ、俺には適量が分からんからな」
自分で調理したと言うだけあって、ハーレイが取り分けた試食サイズとやらは立派な盛り付けとなってブルーの前に供された。ブルーがお弁当のおかずにするには充分な量。
「お前が食べるならこのくらいか? どれも美味いぞ」
「ありがとう、ハーレイ! このくらいだったら食べ切れるよ、ぼく」
「だったら炊き込み御飯も取っとけ、一緒に食うのが美味いんだ」
「うんっ!」
ブルーの手には大きすぎるサイズのハーレイの茶碗。其処にキノコの炊き込み御飯を取り分け、ハーレイと二人で「いただきます」と合掌をして。
ドキドキしながら、ブルーはハーレイが最初に盛り付けてくれた魚の焼き物を頬張った。普通の付け焼きとばかり思っていた鮭。ハーレイ曰く、幽庵焼きとかいう付け焼き。醤油や味醂のタレに柚子を入れてあるのだと聞いて納得した。どおりでほのかに柚子の香りがする筈だ…。
そうした調子で、ハーレイお手製の豪華弁当は作り方まで凝っていた。煮物も揚げ物もひと手間かけた本格仕上げ。もちろん炊き込み御飯も風味豊かで、冷めているのに気にならない。
「凄いね、ハーレイ。…こんなの作ってこられるんだ…」
「そう毎日はやってられんがな、普段はかき込むだけだしな?」
一人だからこそゆったり食えるし、豪華にやりたくなるもんだ。
俺の秘かなお楽しみだ、とハーレイは笑う。部屋を独占して豪華弁当を食べ、ちょっとした行楽気分に浸るのだと。今までの学校でもやってきたというリフレッシュ。旬の素材を自分で調理し、二段重ねの弁当箱に詰めて風呂敷に包んでクラシックスタイルの豪華弁当。
「そして弁当には箸でないとな。…箸の使い方も上手いな、お前」
「パパとママが厳しかったんだ。ちゃんと持てないと恥ずかしいぞ、って」
「うんうん、そいつはいいことだ。俺の親父とおふくろが聞いたら大いに喜ぶ」
親父は釣りが好きだからなあ、アユなんかは箸で食わんとな?
早くお前に釣った魚を食わせたい、と言っていたから、上手に食ったら大感激だぞ。
「…ホント?」
「本当だとも。親父は自分でアユを焼くから、綺麗に食べて驚かせてやれ。箸を上手に使ってな。…ところで、だ。味噌汁も飲むか?」
「そんなのもあるの?」
まさか味噌汁まで作ってきたとは思わなかったから、ブルーは驚いたのだけれども。
「いや、味噌汁は此処の常備品だ。…いわゆるインスタントだな。すまし汁もあるぞ、好きな方を選べ。種類も色々揃っているんだ」
棚の奥から出て来た何種類もの味噌汁、すまし汁。そのくらいなら、まだ食べられる。ブルーは最中みたいな皮の中に具が詰まっているというすまし汁を選んだ。お湯を注げば花の形の麩などが出て来て面白いのだとハーレイが言うから。
「よし、こいつだな? 器は、と…」
お湯を沸かす間に棚から二つ出されたお椀。そっくり同じ形だったから、ハーレイの私物が二つあるのかとブルーは思ったが、そうではなかった。
「こいつは此処の備品でな。歴代の古典教師が揃えた、いわばコレクションだ」
古典の教師は和風の食事が好きな人が多く、インスタントの味噌汁やすまし汁もそのために皆で資金を出し合って揃えているのだという。
ハーレイはブルーが食べ切れなかった分のお弁当を食べ、ブルーとお揃いのすまし汁を飲んで、「実に美味かった」と御馳走様の合掌をして。
「さて、ブルー。…ここまで来たら食後は緑茶で締めんとな?」
これまた棚の奥から出て来た急須と湯呑み。ハーレイが湯を適温に冷まして緑茶を淹れる。
「とっておきの玉露なんだぞ、生徒用ではないんだが…。俺の客だし、許されるさ」
買う時には俺だって出資したしな?
パチンと片目を瞑るハーレイは悪戯っ子のような瞳をしていた。
嬉しそうなハーレイと二人、すっきりとした味わいの緑茶で喉を潤し、ブルーのランチタイムは終わった。お腹一杯になったけれども、幸せだった昼休み。
「御馳走様でした、ハーレイ先生!」
「ああ、気を付けて教室に戻れよ、食い過ぎで走ると腹が痛くなるぞ」
「はいっ!」
ブルーはペコリと頭を下げて廊下に出た。
夢のようなランチタイムは終わって、教師と生徒に戻ったけれど。
ハーレイの手作りのお弁当を一緒に食べて、いつもハーレイが教師仲間と食べているすまし汁や玉露も御馳走になった。幸せ過ぎて、誰彼かまわず喋りたくなるような素敵なランチ。
たまには財布を忘れるのもいいな、と弾む足取りで教室に戻ってゆくブルーはやはり子供で。
ハーレイの方は、思いがけない来客を迎えた喜びと幸せを一人になった部屋で噛み締めていた。自分以外には誰もいない古典の準備室。教師としての自分の居場所。
(…俺の家だとこう冷静には振る舞えないしな?)
ブルーに手料理ならぬ手作り弁当を食べて貰えて、しかも二人きりでのランチタイム。
孤独な昼休みが素敵で豪華な時間に化けた。
たまには研修の留守番もいい。また次の機会に引き受けてみようか、留守番役を。
もっとも、ブルーが財布を忘れない限り、二人でランチは出来ないけれど…。
幸運な忘れ物・了
※財布を忘れてしまったお蔭で、ハーレイと二人で昼御飯。幸運だったブルーです。
ハーレイ自慢のクラシックスタイルのお弁当、美味しかったでしょうね。
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