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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

(わあ…!)
 通り雨が上がった後での下校時間。バス停で帰りのバスを待っている時に、見上げた方向の空に虹を見付けた。七色に輝く大きな虹。さっきの通り雨のせいだろう。もう青空が出ているから。
(綺麗な虹…)
 それに、と虹が架かった場所を眺めて嬉しくなる。ぼくの家とハーレイの家がある辺りの真上を虹のアーチが横切っていた。大きな虹だから何ブロックも離れていたって一跨ぎで、同じ虹の下。まるで神様がセットで架けてくれたみたいに。
(もっと小さな虹だったら…。ぼくの家とハーレイの家とが繋がったのかな?)
 そういう虹もきっと素敵だ。虹の橋を渡ってぼくの家からハーレイの家へ。ううん、二人同時に自分の家から虹の橋を渡って、真ん中で出会って抱き合ってキス。
(…今だと「キスは駄目だ」って、叱られそうだけどね?)
 ついでに虹の橋、渡れないってことは分かっているけど。あれは細かい細かい水の粒にお日様の光が反射して出来る自然の魔法で、渡れもしないし触れもしない。でも…。
(あれを渡ってハーレイの家まで行けたらいいのになあ…)
 渡りたいな、と虹の橋を見ていたらバスが来た。乗り込んで、ちょうど空いていたから虹の橋が見える方の窓際に座る。大きな虹はハーレイの家とぼくの家とを繋ぐ代わりにセットで上を跨いでいるわけだけれど、あの虹でぼくたちの家が繋がっていたら、と夢を思い描く。
(ハーレイの家には行っちゃいけないって言われてるけど、橋が架かったら話は別だよ)
 虹の橋を渡って来たら着いちゃったんだ、と庭とかに下りたらハーレイだってきっと断れない。お茶くらい飲ませてくれるだろう。
(橋が消える前に急いで帰れ、とは言いそうだけどね?)
 だけど、今、見えている大きな虹の橋。まだ消えそうになくて綺麗な七色。消えるまでに充分にお茶を飲めそうで、もしかしたらお菓子も食べられるかも…。



(…虹の橋、渡って行きたいなあ…。ぼくの家からハーレイの家まで)
 今のぼくは前のぼくみたいに空を飛ぶことが出来ないから。
 瞬間移動だって出来やしないし、一度だけメギドの夢を見た時にハーレイのベッドまで瞬間移動した事件はあったけれども、あれ以来、再現不可能なまま。またいつか行けると思っていたのに、ぼくは全然ハーレイの家まで飛んでいけない。
 ハーレイは「瞬間移動で俺の家まで飛んじまったし、もう大丈夫だと安心したんだろう」なんて笑って言ってる。ついでに「お前、美味しい思いをしたしな? 下心があると無意識の内は二度と飛べんな、残念ながら」と言われてしまってグウの音も出ない。
 だって、美味しい思いをしたことは本当だから。ハーレイのベッドの上で目が覚めて、朝御飯はハーレイの手作りで。それからハーレイの車で送ってもらって、ぼくの家まで夢のドライブ。
(…またやりたい、って思ってるからダメなんだろうな、瞬間移動…)
 ハーレイの家まで飛んでしまった時は、素敵な目標も夢も無かった。メギドで死んでしまう夢を見てしまって、今のぼくは幻なのかと思った。死んだソルジャー・ブルーの魂が地球へ行きたくて紡いでいる夢。その夢がぼくの居る世界なのかもしれない、と。
(ホントのホントに怖かったんだよ、何もかも消えてしまいそうで…)
 あれは夢だと言って欲しくて、ハーレイに会いたいと泣きながら眠った。気付いたらハーレイのベッドの上に居て、瞬間移動をしたのだと知った。
(あのくらい怖い思いをしないと飛べないんだろうな…)
 ハーレイの家まで飛びたいけれども、怖い思いはしたくない。メギドの悪夢は今だって見るし、夜中に泣きながら目を覚ますことも何度もあるから、これ以上は勘弁して欲しい。
(…虹の橋なら怖くないしね?)
 神様が気まぐれに架けてくれる橋。それがぼくの家とハーレイの家とを繋いでいたなら、渡って出掛けても叱られはしない。七色に輝く虹の橋を見て渡りたくならない方がおかしい。
(ハーレイの家まで虹の橋を渡って行ってみたいよ)
 水の粒と光で出来た虹の橋。歩いて渡るなんて無理だってことは分かっているけれど、それでも虹の橋を渡ってハーレイの家まで出掛けたかった。
(あんなに綺麗な橋なんだもの…)
 渡って行ければきっと幸せ、ハーレイの家に下りて行ければきっと幸せ。
 空に架かった大きな虹はバスが家の近くのバス停に着いても、まだ見事なアーチを描いていた。
(うん、お茶を飲む他にお菓子を食べる時間もありそうだよね?)
 虹を渡ってハーレイの家に出掛けて、お茶とお菓子と。それから虹の橋を渡って帰るんだ。
(…そういう虹があればいいのに…)
 渡りたいな、と家に帰ってからも何度か窓から虹を眺めた。消えるまでの間、何度も、何度も。



 シャングリラでは見られなかった虹。
 常に雲海に潜んでいたから、虹なんか見られるわけが無かった。
 ぼくたちが保護したミュウの子供たちは画用紙に虹の絵を描いていたけれど、それは子供たちがまだ地上に居た頃に目にした虹の絵。養父母と暮らした幸せな時代の暖かな記憶。
 アルタミラの研究所で成人検査よりも前の記憶を奪われてしまった前のぼくたちは、虹を見た記憶も持っていなければ、本物の虹も見られなかった。
 ソルジャーとして外の世界へ出ることのあったぼくは、アルテメシアの虹に出会ったこともあるけれど、ハーレイや長老たちはシャングリラの中で生きていたから見ていない。他のミュウたちも虹を見られる機会が無いから、「今日、虹を見たよ」とは告げられなかった。
 シャングリラの一角に設けられていた展望室。本当だったら外の景色が窓いっぱいに広がる筈の展望室の向こうは、いつだって、雲。昼の間は真っ白な雲、夜になったら闇を含んだ重たい灰色。
 展望室に太陽の光は射しはしないし、虹だって見えはしなかった…。
(ハーレイだって本物の虹は一度も見てない筈だよね…)
 おやつを食べた後、二階のぼくの部屋に戻って勉強机の前で考える。
 机に飾ったフォトフレームの中、ぼくの隣で笑顔のハーレイ。左腕に今のぼくが両腕でギュッと抱き付いた写真。この写真のハーレイは今日のぼくみたいに虹を何度も見てるだろうけど…。
(…前のハーレイは見ていないよね?)
 前のぼくが外で見て来た虹の記憶は前のハーレイに何度も見せた。ぼく一人だけの秘密のままで隠しておくより、二人で共有したかったから。
 ハーレイはぼくの恋人で、誰よりも大切だったから…。
 幸せな記憶を分かち合いたくて、虹を見た時の記憶をハーレイにだけは渡していた。二人きりの青の間で手を握り合って、あるいは額をくっつけ合って。
 その度に「綺麗ですね…」と呟いていたハーレイ。
 本物の虹は見られないまま、死の星だった地球の地の底で死んだハーレイ…。
(ハーレイも、ゼルも、ヒルマンも…。エラもブラウも本物の虹は知らないままだよ…)
 やっぱり、ぼくだけ「虹の橋を渡りたい」なんて夢を見てたら駄目なんだろうか?
 それとも生まれ変わったからには時効だろうか、などと考えていたらチャイムが鳴った。
(…お客さんかな?)
 窓の方へ行って見下ろしてみたら、門扉の前にスーツのハーレイ。ガレージを見るとハーレイの車が入ってる。
(来てくれたんだ…!)
 学校の帰りに寄ってくれたんだ、と胸が高鳴る。
 今日の夕食はハーレイと一緒。パパとママも一緒の夕食だけれど、ハーレイと一緒…。



 夕食までは少し時間があるから、ママがハーレイをぼくの部屋まで案内して来た。いつも二人で向かい合わせで座るテーブル、其処に紅茶とクッキーが少し。夕食に差し支えない程度のおやつ。ハーレイと二人、紅茶を飲みながらクッキーを摘み、「あのね」とぼくは虹の話をした。
「とても綺麗な虹だったんだよ、それに大きかった」
「ほほう…。俺は二重の虹というヤツも見たことがあるが、お前はどうだ?」
「二重の虹!? ハーレイ、見たの?」
 写真でしか知らない二重の虹。ハーレイは何回か見ているらしい。
「ダテに年は食ってないからな? お前の二倍と十年分だ。お前もこれから見られるさ」
 運が良ければ、と付け加えられたけれども、いつか見られるといいな、と思う。ハーレイの隣で一緒に見上げられたらいいな、と夢が膨らんだ所で肝心のことを思い出したから。
「えっと…。今のハーレイは二重の虹も見てるけれども、前のハーレイ、知らないよね?」
「何をだ?」
「虹だよ、空に架かった本物の虹。…ハーレイもゼルたちも見ていないよね…」
 シャングリラは雲海の中だったから。虹なんか何処からも見られるチャンスが無かったから…。
「いや、本物の虹なら見たが? 俺も、もちろんゼルたちもだ」
「えっ!?」
 ぼくは驚いて目を見開いた。
 シャングリラから虹は見られなかった筈だというのに、ハーレイは虹を見たと言う。しかも他の長老のみんなも見ていただなんて、いったい何処で…?
 どう考えても分からないから、疑問をぶつけることにした。
「虹って…。何処で?」
「ナスカさ」
 お前の知らない赤い星だ、とハーレイの答えが直ぐに返って来た。
「前のお前は降りもしなかったし、第一、眠ったままだったしな? どんな星だったのかもろくに知らずに逝っちまったが、今のお前はそこそこのことは知ってるだろうが」
 あれこれ話してやったしな、という言葉どおりに思い出話は色々と聞いた。前のぼくが深く深く眠っている間にナスカで起こった様々なこと。
 若者たちと長老たちとの対立なんていう深刻な話から、他愛ない日々の出来事まで。
 そうか、ナスカなら虹も見られただろう。恵みの雨が降り注ぐから、とジョミーがナキネズミに「レイン」と名付けた、あの星ならば。



「…ハーレイ、ナスカで虹を見たんだ…。ゼルやヒルマンも」
「俺たちだけじゃないぞ? もれなく全員見てる筈だな。フィシスだって多分、見ただろう」
 最初の間はナスカへ降りなかったと聞いているフィシス。
 ジョミーが遠い昔に入植した人類が残した肖像画と墓碑とを見せてから後、降りるようになっていたらしい。肖像画と墓碑はハーレイも知っていて、何度か足を運んだそうだ。
 今のぼくより少し小さいか、同じくらいの年頃の子供と両親を描いた肖像画。遠い昔の展望台を思わせる廃墟と化した家の直ぐ前に、白いプラネット合金の墓碑。肖像画の子供のための墓碑。
 其処に刻まれた、風化して消えそうな文字に心を打たれたと聞いた。「誰が私に言えるだろう。私の命が何処まで届くかを」。ハーレイには前のぼくの思いそのままだと感じられた、その言葉。SD体制よりも遙かな昔の詩人、リルケによって書かれた詩の一節。
 ハーレイも案外ロマンチストだと思ったのだけれど、その墓碑があったナスカの虹。今の地球の虹とよく似ていたのか、あんまり似てはいなかったのか…。
「ハーレイ、ナスカの虹は地球のと似てた?」
「そりゃまあ、虹は七色だしな? しかしなあ…。如何せん、空の色がな」
 ラベンダー色だったというナスカの空。
 アルテメシアでも地球でも空は青いから、ぼくにはちょっと想像出来ない。ハーレイの前世での記憶を見せて貰ったことはあるけれど、なんだか不思議な色の空。
 あの空に虹が架かったとしたら、紫なんかは見えにくいのかな?
「いや、見えにくくはなかったな。ちゃんと七色の虹だった」
「何回か見たの?」
「ああ。雨上がりによく架かっていた」
 虹が目当てで雨の降りそうな日を狙って視察に降りたこともあった、とハーレイは笑う。
 そして散歩に出掛けたのだ、と。
「…散歩?」
 ぼくはキョトンと首を傾げた。
 虹はともかく、雨の降りそうな日に散歩だなんて…。普通は晴れた日じゃないんだろうか?



 散歩は天気のいい日が似合う。暑すぎも寒すぎもしない、穏やかに晴れた日。強い日射しに弱いぼくでも、散歩をするなら晴れた日が好き。ぼくくらいの年の男の子はあまり被らない、大きくてつばの広い帽子を被って家の近くを歩いてみるとか。
 今のハーレイだって、ぼくの家まで歩いて来る日は晴れた日が多い。晴れた日の散歩が好きだという証拠。それなのに、前のハーレイはナスカで雨の降りそうな日を狙っての散歩。虹が出たって地面は濡れるし、絶対に歩きにくいと思う。どうにも不思議でたまらない。
「ハーレイ、前は雨の日の散歩が好きだったの?」
「そういうわけではないんだが…。虹を見たいなら雨が降りそうな日が狙い目だしな」
 雨が上がって虹が架かったら出発だ、とハーレイは鳶色の瞳に懐かしそうな光を湛えて。
「空気が薄いからシールドを張って、それから虹を目指すんだ。…何度も何度も虹の橋のたもとを探しに行った」
「なんで?」
 虹の橋のたもとって、何だろう?
 七色に輝く虹の端っこ。それを探してどうするんだろう?
「ん? 虹の橋のたもとには宝物が埋まっているという話だからな?」
 ヒルマンがそう言ったんだ。ナスカで初めての虹が話題になった時に、皆に説明してくれた。
 だから宝物を探しに出掛けた。
 虹が架からないと行けないからなあ、雨の降りそうな日を選ばないとな?
 まさかキャプテンがナスカに常駐しているわけにもいかんだろう。シャングリラを放って下には居られん。あまり行けないナスカだからこそ、虹の架かりそうな日にしたかった。



 ハーレイが大真面目な顔で言うから、ぼくは宝物とやらが気になってきた。
 ヒルマンは「宝物が埋まっている」とSD体制よりも古い時代の伝説を披露しただけで、宝物が何を指すのかは特に話していなかったという。
 だけどハーレイは宝物を探しに何度も出掛けた。わざわざ虹が架かりそうな時を選んでナスカに降りてまで、虹の橋のたもとを探しに行った。
 ハーレイが探した宝物って何だろう?
 それに宝物を見付けることって、出来たんだろうか?
「ねえ、ハーレイ。その宝物って、何だったの? 人類の隠し財産か何か?」
 そういうものならハーレイが頑張って探していたのも分かる。
 ナスカに基地を築いたとはいえ、ミュウは追われる種族だったから、資材はいくらあっても充分ではない。宝物の中身が何であっても探し出すだけの価値はある。皆の命を預かるキャプテンともなれば、率先して探したかっただろう。そう思ったのに…。
「残念ながら、人類の隠し財産などという噂も資料も無かったな」
 それに、とハーレイの瞳が真っ直ぐにぼくを見詰めて。
「…俺の宝物と言ったら一つしかない。そして如何にも虹が似合いそうな…」
 お前だ、とハーレイは真剣な眼差しでぼくの瞳を覗き込んだ。
「今の俺にとっては宝物と言えばお前なんだが…。前の俺には前のお前だ」
「…前のぼく?」
 宝物と呼んで貰えたことは嬉しいけれども、どうしてぼくを探しに行くわけ?
 わざわざ虹が架かるのを待ってまで、虹の橋のたもとに探しに行くわけ?
 前のぼくはナスカじゃなくってシャングリラの中で眠っていたのに。
 宇宙に浮かんだシャングリラの青の間で眠っていたのに、ぼくを探してどうするわけ…?



 ナスカには居ないぼくを探しに、虹の橋のたもとを目指したハーレイ。
 どうしてだろう、と目を丸くしたままハーレイの顔を見ていたら。
「不思議でたまらない、って顔をしているな。そりゃそうだろうな、俺の勝手な思い込みだし」
「……思い込み?」
「虹はあんなに綺麗だろうが。そして虹の橋のたもとに宝物だぞ」
 お前の魂が埋まっていそうな気がしたんだ。
 見付けたらお前が目覚めるかと思って何度も探した。虹が架かる度に、何度も、何度も…。
 お蔭で沢山散歩が出来た、とハーレイは褐色の頬を緩めた。
 ナスカで生活していた者たちを除けば、自分が恐らく一番沢山の距離を歩いただろうと。
「虹が架かったら、とにかく探しに行かんとな? ジョミーみたいに飛んだりは出来んし、自分の足だけで虹を目指した。今度こそは、と虹の橋のたもとを探した」
 しかしだ、相手は水と光が空に描き出す幻の橋だ。
 俺がどんなに歩き続けても、橋のたもとには決して辿り着けなかったんだがな…。
「いつだって消えてしまうんだ。俺がたもとまで辿り着く前に」
「……ごめん……」
 ハーレイがどれだけの距離を歩いたのか、どれだけの悪路だったのか。
 それを話してはくれなかったけれど、道のりが楽でなかっただろうことは想像出来る。そうして歩いて歩き続けても、虹の橋のたもとには着けなくて。
 宝物が埋まった虹の橋のたもとには辿り着けなくて、ぼくの魂も見付からなかった。
 眠ったままのぼくは目覚めず、ハーレイを独りきりで孤独に放り出したまま眠り続けて、やっと意識が戻った時にはナスカの惨劇の直前で。恋人同士の時間なんかは持つことも出来ず、語らいの時すら持てないままで運命の時が来てしまった。
 ぼくはハーレイを残してメギドへと飛び、それっきり二度と戻らなかった…。



「……ごめん。…ごめん、ハーレイ…」
 ハーレイは懸命にぼくを探してくれたのに。
 眠り続けるぼくが目覚めないかと、宝物だというぼくの魂を探しに歩いてくれたのに。
 虹の橋のたもとを探し出すなんてこと、不可能に近いと分かっているのに、探し続けてナスカの大地を何処までも歩き回ってくれたのに…。
 ぼくはハーレイの想いに応えて目覚めるどころか、シャングリラに独り置き去りにした。
 メギドへ飛んだぼくも辛かったけれど、ハーレイの温もりを失くしてしまって独りぼっちで死ぬ羽目になったけれども、前のぼくの生は其処までで終わり。
 でも、ハーレイの生は終わりじゃなかった。
 ぼくがいなくなった後も独りきりで生きて、白いシャングリラを遠い地球まで運んで行った。
 ハーレイはどんなに辛かっただろう。どんなに悲しかっただろう…。
「…ごめん、ハーレイ…。宝物を探してくれていたのに…」
 それなのに宝物を見付けるどころか、失くしてしまった前のハーレイ。
 ぼくのせいで失くした前のハーレイ…。
「探さなくても良かったのに…。そんな宝物、探さなくても良かったのに…」
 ポロリと涙が零れて落ちた。
 虹の橋のたもとを探して沢山の距離を歩いたハーレイ。
 散歩だと言って出掛けるのだから、もちろんキャプテンの制服と靴で出掛けただろう。あの靴は雨上がりのぬかるみや、岩だらけだったと聞くナスカの大地を長時間歩ける仕様ではない。恐らくハーレイの足は痛んで、もしかしたらマメだって出来たかもしれない。
 それでもハーレイは虹の橋のたもとを探し続けることをやめなかった。
 探しても無駄だと分かっているのに。
 ぼくの魂は其処には埋まっていないし、虹の橋のたもとに辿り着くことなど不可能なのに…。



 ポロリと零れた、ぼくの涙。
 ハーレイの褐色の指が「泣くな」と、そうっと拭ってくれた。
「探したのは俺の思い込みだと言っただろう? それと我儘だな、宝物欲しさの」
「でも…。でも、ハーレイ…。探したって何処にも無いんだよ?」
 宝物も、虹の橋のたもとも。
 どちらもナスカ中を探しても無くて、ただハーレイの足が疲れて痛くなってしまっただけで…。
「いや、違うな。…俺は探しに行っておいて良かったと今では思う」
「どうして? 見付かるどころか逆だったのに…」
「…前の時はな」
 だが、今は違う。
 俺はお前をちゃんと見付けた。だからお前が今、目の前にいるんだろうが?
「あの時、頑張って探していたから。…神様がそれを見ていて下さったから、俺はお前にもう一度会うことが出来たんだろう。この地球の上で」
 青い地球の上でお前に会えた、とハーレイはぼくの大好きな笑顔を見せた。
 虹の橋のたもとも、宝物もちゃんと見付かったのだ、と。



 遠い遠い昔に、遠いナスカでハーレイが探しに行ってくれた虹。
 どうしても辿り着けなかったと話すハーレイが追い掛けた虹の橋のたもとに埋まっていたのは、ぼくの魂という名の宝物。
 前のハーレイは見付けられずに終わったけれども、今のハーレイはそれを見付けたと言う。
 だからハーレイとぼくは青い地球の上で再び出会えて、こうして向き合っていられるのだと。
(…ハーレイ、虹の橋のたもとに行けたんだ…)
 きっと今のハーレイが生まれて来る前、何処かで虹の橋のたもとを見付けた。
 虹の橋のたもとを頑張って掘って、埋まっていたぼくの魂を其処から掘り出してくれた。
(うん、きっとそうだよ、ハーレイが探しに来てくれたんだよ…)
 ナスカで虹の橋のたもとを探し歩いていたように。
 岩だらけのナスカの悪路を歩くには全く向かないキャプテンの靴で、足が痛むのもかまわないで歩き続けたように。雨上がりのぬかるみの中を「散歩」と称して出掛けたように。
 ハーレイならきっと、どんな所へでもぼくを探しに来てくれただろう。
 ぼくの魂が埋まっている虹の橋のたもとを探しに、何処へでも、どんな道であっても。
(…虹の橋のたもと、ハーレイは何処で見付けたのかな…?)
 今のぼくには分からないけれど、なんだか嬉しい。
 嬉しすぎてまたポロリと涙が転がり落ちた。
 辿り着くことなど不可能に近い、七色に輝く虹の橋のたもと。
 其処に埋まったぼくの魂を探し出すために、ハーレイがずうっと探し続けていてくれたことが。
 探して探して、辿り着いてくれたから、ぼくとハーレイとは地球の上に居る。
 何処だったんだろう、ハーレイが見付けた虹の橋のたもと。
 見付けて貰ったぼくの魂も、きっときっと、幸せだったと思う。
 覚えていないけど、幸せだったと思うから……ハーレイに「ありがとう」と御礼を言った。
 虹の橋のたもとを探しに行ってくれてありがとう。ぼくはとっても幸せだよ、って…。




          虹の橋のたもと・了

※雨上がりのナスカでハーレイが探した宝物。虹の橋がかかったら、いそいそ出掛けて。
 ブルーの魂が埋まっているかも、と頑張ったハーレイ。ブルーは幸せ者ですよね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv






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(…なんだか、だるい…)
 それに寒い、とブルーは震えながらベッドで目を覚ました。
 今は秋。今朝は早い冷え込みが来るというから、風邪を引かないよう昨夜は早めに休んだのに。
 だるくて、少し熱っぽい。喉にも違和感。
(…手遅れだった?)
 昨日、学校でクシャミが何回か立て続けに出た。虚弱体質のブルーにはありがちな風邪の前兆。ただし本物の風邪に至らない時だってある。気温が急に変わった時などに多いクシャミの連発。
 風邪を引いてはたまらないから、終礼が済んだら急いで帰ろうと思ったのだけれど。教室を出て校門へと向かう途中の廊下でハーレイとバッタリ出会ってしまった。
 大好きなハーレイに会えたからには会釈や挨拶だけで帰りたくない。「ハーレイ先生!」と声を掛けて暫く立ち話をした。人気の高いハーレイは他の生徒に捕まることだって珍しくない。今日は自分の番なのだ、とばかりに話し込んでいたら、ハーレイが「すまん」と遮った。
「今日はこれから柔道部でな。着替えて稽古に付き合わないと」
 ブルーの胸がドキンと高鳴った。
(これから行くんだ…!)
 朝にはよく見る柔道着のハーレイ。朝練を指導した帰りのハーレイに何度も出会った。けれど、帰る時には滅多に見かけない柔道着を纏ったハーレイの姿。
 部活をしていないブルーの下校時刻が早過ぎて、ハーレイが出掛ける時間と合わないのだ。



(そっか、これから柔道部なんだ…)
 これは貴重だ、と思ったブルーは思い切って頼み込んでみた。
「少し待ってていいですか? ハーレイ先生が着替えて出掛けるまで」
「なんだ、柔道部を見学したいのか?」
 ハーレイが目を丸くしつつも、見学だなんて言ってくれたから。
「えっ、見に行ってもいいんですか?」
「少しならな。…だが、動いていないと体育館は冷える。ちゃんと早めに帰るんだぞ?」
「はいっ!」
 朝のグラウンドでの走り込みしか見たことがない柔道部。もちろん柔道という武道があることは知っていたけれど、その程度。
 初めての世界を大好きなハーレイつきで見学出来ると聞いたブルーは狂喜した。更衣室まで行く道のりもハーレイと一緒。はしゃぎながら着いた更衣室の前の廊下でハーレイが着替えてくるのを待った。柔道着の上から締めた黒い帯。有段者の印なのだと教えて貰った。
「この上に赤帯もあるんだが…。俺の年ではまだ取れないな」
「そうなんですか?」
「赤帯は九段と十段なんだ。だが、八段が満四十二歳からってことになってるからなあ…」
 当分無理だ、と聞かされて指を折ってみる。ハーレイは今、満三十八歳。八月二十八日が誕生日だったから、四十二歳まで残り四年近く。
(あと四年かあ…)
 八段まででも四年もあるんだ、と驚いたけれど。
(そうだ、四年後って…!)
 四年経ったら、ブルーは十八歳になる。結婚が法律で認められた歳。
 十八歳になったらハーレイと結婚するのだ、と心の中ではとうに決めていた。つまりハーレイが赤帯の前段階の八段とやらを取れる歳になる時には、多分結婚出来ている筈。ということは…。
(ハーレイが赤帯を貰える時って、絶対、結婚出来てるよね?)
 柔道着の上から締められた黒帯。この黒帯が赤になる頃には、自分がハーレイの隣に居る。赤い帯に届く前の八段とやらも、結婚してから取って欲しいなと思う。
(だって、四年後だよ?)
 あと四年。十八歳まで、あと四年…。
 ハーレイの黒帯に胸をときめかせながら、ブルーは柔道部の練習場所へと連れて行って貰った。



 体育館の中の広い一室、其処が柔道部の練習場所。
 ハーレイがブルーと一緒に入った時には既に稽古が始まっていて、最上級の四年生が後輩たちの練習を指導していた。主将だという一番大柄な生徒がハーレイの姿を認めて皆に指示を飛ばす。
「ハーレイ先生がいらっしゃったぞ、全員、礼っ!」
 大勢の部員がザッと動いて、全員が正座をしての深い一礼。
(…うわあ……)
 凄い、とブルーは息を飲んだ。一糸乱れぬ動きも凄いが、彼らの礼はハーレイに対してのもの。ただ顧問というだけの教師だったら、ここまでの尊敬を集めることは出来ないだろう。柔道の道に秀でたハーレイだからこそ、練習場所に現れただけで皆が一斉に敬意を表する。
 そのハーレイはブルーの肩をポンと叩いて、柔道部員たちに呼び掛けた。
「今日はお客さんが来ているぞ。恥ずかしくないよう、気合を入れてやれよ!」
「はいっ!」
 稽古に戻る部員たち。ブルーは一番端に畳んで置かれたマットの上へと案内された。
「此処に座って見ているといい。このマットは今日は使わんからな」
「はい、ありがとうございます!」
 ペコリとお辞儀し、膝を抱えてマットに座った。厚みがあるから床からの冷えは伝わらない。
(…ふふっ)
 素敵な見学場所を貰ったブルーは、初めて目にする柔道部員の練習風景に夢中になった。指導に出掛けたハーレイが檄を飛ばす中、技を掛け合う部員たち。
 ハーレイがブルーの守り役なことは知られているから、皆、きびきびと頑張っている。見学中の来客に熱意溢れる姿を披露せねば、と懸命になっているのが分かる。
「こらあっ、そんな技で相手が倒せるか!」
 しっかりやれ、とハーレイが叫び、「かかってこい」と何人かの部員を名指しした。殆ど同時にハーレイに飛び掛かる部員たち。恐らくは柔道部の中でも指折りの腕を持つ彼ら。もちろん主将も入っている。それをハーレイは軽くあしらい、次々にマットの上へと投げた。
(ハーレイ、凄い…!)
 投げられた部員たちが起き上がって再びかかってゆく。ハーレイは軽々と投げたり倒したり。
(凄い、凄いよ…!)
 ほんの少しだけ見学するつもりで来たというのに、ハーレイの技の凄さに惹き付けられて。
 柔道の技など全く分からないなりに見惚れている内に、またしても…。



 クシャン!
 その音を立てたブルーは慌てて自分の口を塞いだが、ハーレイが気付かないわけがない。稽古をつけていた部員たちに「後は皆でやれ」と指示を下して、ブルーの方へと歩いて来た。
「こら! 此処は冷えるから早めに帰れと言っただろうが」
「…ハーレイ先生…」
 もう少しだけ見ていたいんです、とブルーは頭を下げたけれども。
「駄目だ。クシャミをしたのを聞いた以上は帰って貰う」
 風邪を引く前に家に帰れ、と腕を掴まれて立ち上がらされた。それだけではない。帰ったふりをして外からこっそり覗いていたのでは意味が無いから、とハーレイ自らブルーに付き添い、校門の外まで送り出された。後戻りをして来ないように、と校門の前で腕組みをしての仁王立ち。
「いいか、真っ直ぐ帰るんだぞ? 暫くは此処で見張ってるからな」
「…はい…。ありがとうございました、ハーレイ先生」
 未練たらたらで柔道着姿のハーレイにお辞儀し、しおしおと学校を後にした。
 それが昨日の夕方のこと。
 思った以上にひんやりとしていた外気に包まれながら家の方へ行くバスを待って乗り込み、帰り着くなり直ぐにウガイをして、熱いホットミルクを飲んだのに。
 冷えた身体が温まるようにとホットミルクにたっぷりの蜂蜜、シナモンだって入れたのに…。



(……風邪引いちゃった……)
 あっさりと風邪を引いてしまった弱すぎる身体。誤魔化そうにも喉の違和感と熱っぽさ。階下に下りたブルーの不調は両親に一目で見抜かれてしまい、その場で熱を測らされた。案の定、微熱があることを無情に告げる体温計。
「駄目でしょう、ブルー! 熱があるわよ」
「口を開けてみろ。…喉が赤いな、風邪を引いたな? 病院に連れて行って貰いなさい」
 病院が開く時間まで暖かくして寝ているように、と自分の部屋へと追い返される。少ししてから母がトーストとホットミルクの朝食を持って来たけれど、学校はもちろん休まされてしまった。
(今日はハーレイの授業がある日だったのに…)
 ブルーは泣きそうな気持ちだったが、どうにもならない。
 朝食を済ませたら暖かい服に着替えさせられ、病院に連れて行かれて、注射に薬。
 身体の弱いブルーにとってはどちらも慣れたものだけれども、早く効かないならどちらも嫌だ。注射も薬も、前の生で嫌というほど試された。アルタミラでの研究所時代の過酷な人体実験で。
 悲惨だった前世を思い出させる注射と薬。けれど学校へ早く行けるのならば、と我慢した。
 それなのに…。
 痛い注射も、その場で飲まされた苦い薬も我慢した上、家で飲む薬もドッサリあるのに。
 大事を取って明日も休めと言われてしまった。付き添って来た母は素直に頷いている。
(明日も休むの!?)
 酷い、とブルーは涙を浮かべた。注射が痛かったからではない。苦い薬のせいでもない。
 二日もハーレイに会えないなんて。
 二日間もハーレイに会えないだなんて…!



 結局、一日、ベッドの中。
 ハーレイの授業が行われた筈の学校には行けず、明日も登校禁止の刑。ハーレイの授業は明日は無いけれど、学校に行ければハーレイに会える。ハーレイに会える筈だったのに…。
(…明日もハーレイに会えないなんて…)
 大した風邪ではないと思う。喉が少し変だというだけ、微熱があるというだけの風邪。
 けれどブルーの身体は弱い。健康な子供だったら二日くらいで治りそうな軽い風邪をこじらせ、肺炎を起こしたことも何度もあった。あわや入院かという騒ぎ。
(…病院の先生が言ってることも分かるんだけど…)
 分かるのだけれど、それでも悔しい。この程度の風邪で二日も休まなくてはいけない身体。前の生と同じに弱く生まれた、直ぐに壊れる弱すぎる器。
(…耳だけはちゃんと聞こえるけれども、他はおんなじ…)
 もっと健康に生まれたかった。ハーレイと毎日会える身体に生まれたかった。
(…この身体でなくちゃ駄目だってことは分かってるけど…)
 弱いけれども、前の生とそっくり同じ姿に出来ている身体。
 ハーレイが「さよならも言えなかった」と悔やみ続けた前の自分と同じ姿に育つ筈の身体。
 文句を言ってはいけないのだと、この身体だから意味があるのだと分かってはいても涙が出る。風邪を引いたくらいで二日間もハーレイに会えない弱すぎる身体…。



 日が落ちても明かりを点ける気になれず、ベッドの中で涙ぐんでいたらチャイムが鳴った。
(…ハーレイ、もしかして来てくれた!?)
 もしかしたら、と心が躍った。
 しかし、待っていても階段を上がって来る足音はしなくて、どうやらただの来客だったらしい。
(……ハーレイだったら良かったのに…)
 あのチャイムがハーレイでなかったのなら、今日はもう駄目。学校帰りのハーレイが立ち寄れる時間を半時間以上も過ぎてしまった。こんな時間から来てはくれない。
(今日はお見舞い、来てくれないんだ…)
 とうとうハーレイに会えなかった。会えずに一日が終わってしまう。
 それに身体もだるくて重い、と寝返りを打って丸くなる。
 昨日は幸せだったのに。
 あんなに幸せだったのに…。



 ポロリと涙が零れた時。
 階段を上がって来る足音を聞いた。母とは違う重い足音。父とも違った、聞き慣れた足音。
(まさか……ハーレイ?)
 チャイムの音を聞いてはいない。
 なんで、とブルーが思う間も無く扉がノックされ、開けられた。暗かった部屋にパッと明かりが点いて。
「起きてるか? ブルー」
 間違えようもない恋人の声と、背が高く頑丈な大きい身体。ブルーはパチリと目を見開いた。
「ハーレイ!?」
「こらこら、起きるな。風邪だそうだな、早く帰れと言ったのに」
 俺のせいか、とハーレイが扉を締めた後、入口の側に立ったままで済まなそうに謝るから。
「…ううん、もっと前にクシャミ…」
 ぼくのせいだ、とブルーは素直に詫びた。
 風邪の兆候かもしれないと思っていたのに、直ぐに帰らずに学校に居た、と。
「ハーレイは悪くないんだよ…。悪いのは、ぼく」
「そうなのか? なら、いいが…」
 俺のせいかと心配したぞ、と表情を和らげてベッドに近付いて来るハーレイ。
(…あれ?)
 ハーレイが持っているトレイ。
 嗅覚は落ちている筈だけれども、懐かしい野菜スープの香り。
 懐かしいけれど、いつものと違う。
 何故、と訝るブルーに向かってハーレイが穏やかな笑みを浮かべた。
「気付いたか? 野菜スープのシャングリラ風、名付けて風邪引きスペシャルだ」



 ほら、とブルーの目の前に差し出されたトレイ。
 少しとろみがつけられた野菜スープにふんわりと溶いてある卵。細い糸のように見えるくらいに溶きほぐされた卵と、細かく刻んで煮込んだ野菜と。
(……風邪引きスペシャル……)
 そんな名前は無かったけれども、遠い記憶に刻まれたスープ。
 シャングリラで卵が貴重品だった時代に、風邪を引いて寝込んでしまったことが何回かあった。その時にハーレイが作って食べさせてくれた、卵が入った野菜のスープ。
 喉を通りやすいようにとろみをつけて、貴重品の卵を落としたスープ。
(…ぼくに食べさせるんだから、って卵を貰って来たって言っていたっけ…)
 まだ鶏が数えるほどしかいなかった時代。卵は本当に貴重品だった。一人で一個を食べるなんて贅沢、誰も思いはしなかった。
 多分、ぼくだから貰えた卵。ぼく以外には戦える者が居なかったから一人で一個貰えた卵。
(でも、ハーレイが頼まなかったら貰えもしないし、食べられもしないね…)
 野菜スープのシャングリラ風は野菜だけしか入らないけれど、これは風邪引きスペシャル。
 栄養がつく卵が入ったスープ。それも贅沢に丸々一個。
(そういえば、この味も好きだったっけ…)
 一番素朴な基本の調味料だけで煮込んだ野菜のスープと、この卵入りと。
 この二つだけはどんな時でも喉を通った。
 弱り切った時も、風邪を引いた時も、ハーレイの野菜スープと卵入りの野菜スープがあった…。



 ブルーはゆっくりと身体を起こした。このスープなら食べられそうだ、という気がしたから。
 起き上がってベッドの端に腰掛けると、ハーレイが側に置いてあったカーディガンを肩に優しく着せかけてくれた。テーブルが寄せられ、スープを満たした皿とスプーンが置かれる。
「卵入りのスープ、思い出したか? しっかり食べろよ」
 もう一つ、取って来るから待っていろ。
 そう言ってハーレイは部屋を出てゆき、ブルーはキョトンと首を傾げる。
(…もう一つ?)
 何だろうか、と考えてみたが分からなかった。
 病気の時には野菜スープのシャングリラ風。でなければ、卵入りの野菜のスープ。
(…何なのかな?)
 記憶には残っていない食べ物。
 卵入りの野菜スープを飲んだら思い出せるか、とスプーンで掬って口に運んでも思い出せない。とろみのついた野菜スープは懐かしいけれど、他に何か食べた記憶は無い。
(…ぼく、忘れちゃった?)
 そんな筈はないんだけれど、と悩む内にハーレイがトレイを手にして戻って来て。
「ほら、それと粥だ」
 テーブルに載せられた器の中身は、とろとろに煮込んだ粥だった。米だけではなくて、ほぐした鶏のささみと細く刻んだ白ネギを加えて煮込まれた粥。味付けはチキンスープだという。それから隠し味に胡麻油を少し、刻み生姜とニンニクも少し。
「食欲は落ちてないそうだしな? こいつは俺のおふくろの風邪引きスペシャルなんだ。…ネギは風邪に効くと言うんだぞ」
 生姜とニンニクも効くらしいな、とハーレイはブルーに粥を勧めた。
 ブルーは知らない味だろうけれど、今の自分には馴染み深い味の粥なのだ、と。



(…ハーレイのお母さんのお粥なんだ…)
 しみじみと粥の入った器を見詰めて、ふと気が付いたからハーレイに問う。
「これ、シャングリラには無かったよ? ぼくのママには何て言ったの、嘘ついて来たの?」
 ハーレイが野菜スープのシャングリラ風を作る時にはブルーの家のキッチンを借りる。この粥もキッチンで作ったのだろう。
 ブルーが他の客人かと思ったチャイムが実はハーレイで、スープと粥とを作っていたなら計算は合う。ブルーの両親は野菜スープのシャングリラ風を何度も目にしているから、卵入りがあっても多分、驚きはしない。
 けれども、粥は前例が無い。「こういう粥も作っていました」と言えば納得するだろうけれど、この粥はハーレイの母が作る粥。シャングリラで作っていたと申告すれば真っ赤な嘘だが、これは大嘘の産物だろうか…?
(嘘でも、ぼくは嬉しいけどね?)
 ハーレイの母の味が食べられることは、とても嬉しい。ただ、ハーレイが嘘をついて来たなら、後で両親にバレないように口裏を合わせておかなければ…。
 そう考えたブルーだったけれど、ハーレイは「俺は嘘なんかつかなかったぞ」と片目をパチンと瞑ってみせた。
「いつもは野菜スープのシャングリラ風ばかりだからな。お前のお母さんは俺の料理の腕を疑っていそうで、そいつはどうにも癪じゃないか。たまには真っ当な料理もしておきたい」
 俺のおふくろの直伝です、と言って作って来た。
 まあ、この程度では簡単すぎてだ、誤解を解くには至らん訳だが…。
 しかし少しくらいは評価が上がったと思いたい。あくまで俺の願望だがな。



 そう話しながら、ハーレイは粥の器をブルーが食べかけていたスープの器の直ぐ側に寄せた。
「食ってみるか? 俺のおふくろの風邪引きスペシャル」
「うん…」
 スープ用とは別に添えられたスプーンで一匙掬って、口にしてみて。
 病人食のお粥とは思えない、滋味深い味わいに驚いた。
「美味しい…!」
 ホントに美味しい、とブルーは温かい粥を掬って口へと運ぶ。細かくほぐされた鶏のささみと、柔らかくクタクタに溶けた白ネギ。チキンスープを含んだとろとろの米に、ほのかに香る胡麻油。ニンニクと生姜のせいなのだろうか、病人食と言うより、お粥と名の付く料理のようだ。
「ハーレイ、風邪を引いた時にはこれだったんだ?」
「俺は食欲不振になるような繊細なタチじゃなかったからな。とにかくしっかりと飯を食ってだ、栄養をつけてサッサと治した。お前も見習え」
 しっかり食べろ、と促しながらハーレイが尋ねる。
「スープはどうだ? 野菜スープのシャングリラ風の風邪引きスペシャル」
「美味しいよ。ハーレイのスープもとっても美味しい」
 お粥も、野菜スープのシャングリラ風も、どちらの風邪引きスペシャルもいい。
 とても美味しい、とブルーはスプーンで口に運んだ。風邪のせいで違和感がある筈の喉を傷めず通過してゆく卵の入った野菜スープと、ハーレイの母の味だという粥と。
「そうか、美味いか。じゃあ、早く治せ」
 風邪引きスペシャル、せっかく作ってやったんだしな。
 ハーレイは微笑んでくれるけれども、ブルーは明日も登校禁止を言い渡された身だったから。
「うん…。でも、ぼく、明日も…」
 明日も行けない、と涙ぐむブルーの銀色の頭をハーレイの大きな手がポンポンと叩いた。
「分かった、分かった。…明日も作りに寄ってやるから、明後日は元気に登校しろよ?」
「うんっ!」
 約束だよ、とブルーが右手の小指を差し出し、ハーレイが「ああ」と褐色の小指を絡めた。
「風邪引きスペシャル、スープと粥とのダブルだな? まあ、任せておけ」
「他には? ハーレイ、他には風邪引きスペシャル、無いの?」
「その元気だったら大丈夫だな。今回は二つもあれば充分、元気になれるさ」
 欲張りめが、とコツンと額を軽く小突かれ、ブルーは「ふふっ」と首を竦める。
 こういう風邪なら悪くない。また軽いのを引いてみようか、ハーレイの料理が食べられるなら。
 他にも何かあるかもしれない、ハーレイの美味しい風邪引きスペシャル……。




         風邪を引いたら・了

※ハーレイ先生の風邪引きスペシャル、スープもお粥も美味しそうですよね。
 こんなオマケがついてくるなら、ブルーが軽い風邪を引きたくなるのも無理ないかも?
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「…遅くなってしまって悪かったな、ブルー…」
 寂しかったか、とハーレイは呟く。
 窓から海が見える研修先の宿で鞄から取り出した日記と一冊の写真集。窓の向こうの海はとうに暗くて、沖に漁火が瞬いていた。
 海水浴の季節はもう過去のもので、海に入るには寒すぎる秋。夜更けともなれば吹く風も冷たいことだろう。そう思いながら机の上に日記を置く。それの隣に写真集を、そっと。
 青い地球を背景にしたソルジャー・ブルーの写真が表紙に刷られた『追憶』という名の写真集。世間に一番広く知られた、正面を向いたソルジャー・ブルー。強い意志を秘めた瞳の底に微かに揺らめく憂いと悲しみ。
 キャプテン・ハーレイであった頃のハーレイがブルーを失くした後に懸命に探し、ついに見出すことが叶わなかったブルーの表情。皆の前では見せることが無かったブルーの真の姿を、悲しみと憂いとを捉えた一枚の写真。恐らくは残された映像の中の、ほんの一瞬。
 前世の記憶を取り戻す前は「ソルジャー・ブルーといえば、この写真」としか思わなかった。
 しかし今では「これこそがブルーだ」という気がする。
 前の生で愛したソルジャー・ブルー。美しく気高く、その身をも捨てて皆を守ったミュウの長。
 全身全霊で愛した恋人。
 何処までも共に、と誓っていながら守ってやれずに失くした恋人…。



 その恋人の悲しすぎる最期を収めた最終章を持つ『追憶』の名の写真集。
 シャングリラの写真集を探しに行った書店で偶然、見付けた。その場では最後のページまで開く勇気はとても無かった。買って帰って書斎で開いて、前の生の記憶に取り込まれて泣いた。
 ブルーの最期を直接写してはいないけれども、人類軍が記録していた映像から起こした何枚もの写真。青いサイオンの尾を長く曳いて暗い宇宙を駆けるブルーの最後の飛翔。メギドの厚い装甲を破り、中へと消えた後はブルーの姿は見えない。
 一番最後に、爆発するメギドの青い閃光。ブルーの身体をこの世から消してしまった青い閃光。その瞬間までブルーが生きていたのか、それとも既に息絶えてしまっていたものか。ハーレイには今も分からない。
 けれども胸を締め付けられる。この時、ブルーを失くしたのだ、と。
 あまりにも辛い写真を収めた写真集だから、滅多にページを繰ることはない。それでもブルーの悲しみを思うと、「ハーレイの温もりを失くした」と泣きじゃくりながら死んだと話した小さなブルーの言葉を思うと、この写真集を忘れることなど出来る筈もなくて。
 まして何処かに押し込めてしまうなど出来るわけもなくて、日記と一緒に引き出しに仕舞った。
 一日に一度は開ける書斎の机の引き出し。
 其処へ仕舞って、自分の日記を上掛けのように被せてやった。
 悲しみと憂いを秘めた瞳のソルジャー・ブルーを守るかのように、日記を被せた。
 今度こそは自分が守ってやるから、と。



 一泊二日での研修に向けての荷造りの時に、引き出しから日記を取り出した。覚え書きのような日記はこれまでも何処へ行くにも持って出ていたし、旅先でも必ず書いていたから。
 荷物に入れようとした日記の下から姿を現した写真集。『追憶』という名の写真集。
 表紙のソルジャー・ブルーの瞳がとても切なく、寂しげに見えて。
 記憶にある声で呼ばれた気がした。
 ハーレイ、ぼくを独りにしないで、と。
 ソルジャー・ブルーだった頃のブルーが幾度となく口にしていた言葉。
 青の間で独りになるのは嫌だと、側に居て欲しいと願った言葉。
 本当にそれを思っただろう運命の時、メギドへ飛ぶ時は欠片すらも言いはしなかったくせに。
(……ブルー……)
 表紙の写真に、切ない瞳に縋り付かれた。
 そうでなくても、やがて寒さの冬へと向かう人恋しい季節。
 たった一晩だけだとはいえ、引き出しの中にブルーを残して出掛けられないと心が叫んだ。
 上掛け代わりの日記を剥がして置いて出ることなど出来なかった。
「…ブルー、お前も一緒に来るか?」
 そうかまってはやれないんだが、と言い訳しながら写真集を旅の荷物に仕舞った。
 表紙のブルーが傷まないよう、そうっと日記を被せてやって。



 研修旅行に来た宿の机、其処に置かれたソルジャー・ブルーが表紙になった写真集。
(…ブルーの写真は置いて来たのにな)
 この時間にはもう眠っただろう、小さなブルーを思い浮かべる。
 生まれ変わって再び出会ったブルーはソルジャー・ブルーではなく、十四歳の幼い少年だった。ただひたすらにハーレイを慕い、側に居たいと願ってくれる小さな恋人。
 蘇った青い地球の上に二人で生まれて、同じ学校の教師と生徒としてまた巡り会った。あまりにブルーが幼すぎるから、キスさえ交わせはしないのだけれど。それでもブルーは確かに恋人。
 普通ならば研修に持って来るなら、小さなブルーの写真だろう。
 しかし小さなブルーが写った写真は一つだけしか持ってはいない。夏休みの最後の日にブルーの家の庭で写した、二人一緒の記念写真。ハーレイの左腕に小さなブルーが抱き付いた写真。
 最高の記念写真だけれども、あの写真はブルーと揃いのフォトフレームにしか入れてはいない。
 飴色をした木製のフォトフレーム。
 ハーレイが写真を入れたフォトフレームはブルーの家に、ブルーが写真を入れた方はハーレイの家に、交換し合ってそれぞれ納まっていた。ブルーとの写真はその一枚だけ。
 あの写真のデータはカメラの中にあるし、何枚もシャッターを切ったからそのデータもある。
 けれどプリントアウトしたのは自分の分とブルーの分との、一枚ずつだけ。
 データも他の媒体に移してはおらず、フォトフレーム以外の何処にも写真は存在しない。
 他人に見られて困るような写真を撮ったわけではなかったけれども、ブルーと恋人同士なのだと意識しているからこそ入れられない。入れてはいけないし、持ってもいけない。
 だから小さなブルーの写真は研修には連れて来ていない。
 小さなブルーはハーレイの家に残されたフォトフレームの中、ハーレイの左腕に抱き付いた姿で笑っている。それは嬉しそうに、幸せそうに…。



 この研修は二日間とも平日だから、小さなブルーはさほど寂しくないだろう。
 幸い、ブルーのクラスで授業をする日と重なる日程にもならなかった。学校に自分の姿が無いというだけの二日間だし、仕事の後でブルーの家を訪ねられない平日が続くのもよくあること。
(……しかし……)
 『追憶』の名を持つ写真集。
 その表紙から自分を見詰めるブルーを家に置いては来られなかった。
 強い意志を見せる赤い瞳の底、悲しみと憂いを秘めたブルーを独りきりにはさせられなかった。
 メギドで逝ってしまったブルー。
 最後まで覚えていたいと願ったという、ハーレイの腕に触れたブルーの右手に残った温もり。
 銃で撃たれた痛みの酷さのあまりに、その温もりをブルーは失くした。ハーレイの温もりだけを抱いていたいと、それさえあれば一人ではないとブルーは思っていたというのに。
 最期まで持っていたいと願った温もりを失くし、独りきりになってしまったブルー。
 独りぼっちになってしまったと泣きながら死んでいったブルーはきっと、この『追憶』の表紙のブルーとそっくり同じ瞳をしていた。
 強い意志を宿した瞳の奥深く揺れる悲しみ。
 癒えることの無かったこの悲しみが強く出た瞳をしていただろう、と考えただけで胸が塞がる。
(……ブルー……)
 ハーレイは痛む自分の胸を押さえた。
 実際はブルーの右の瞳は失われていたと知っているけれど、その姿はどうしても思い描けない。
 ハーレイの胸の中、独りぼっちで泣きじゃくるブルーは右の瞳を失ってはいない。
 両の瞳から涙を流して、「温もりを失くした」と独りで泣いている。
 ハーレイがそれを思い出した時は、いつも、いつも、いつも…。
 そうして独り泣きじゃくるブルーを、どうして家に独りぼっちで置いて来られよう?
 写真集の表紙といえども、其処にブルーは居るのだから。



(…本物のブルーは家でぐっすり寝てるんだがな…)
 写真集の表紙を飾るどころか、すっかり小さくなってしまった幼い恋人。
 アルタミラで出会った頃そのままの十四歳の姿で帰って来てくれた小さな恋人。
 本当はブルーは写真集の表紙などには居なくて、地球の上で生きているのだけれど。ハーレイが暮らしている町と同じ町に住んで、毎日のように学校で、ブルーの家で会っているのだけれど。
 それなのに『追憶』の表紙のブルーに囚われる。
 悲しげな瞳のソルジャー・ブルーがブルーだと錯覚してしまう。
 小さなブルーがちゃんと居るのに、生まれ変わった本物のブルーが居るというのに。
(…今のあいつには家も暖かいベッドもあるし、優しい両親だっているんだし…な)
 けれど、『追憶』の表紙に刷られたブルーには自分しかいない。
 真っ暗な宇宙に散ってしまった孤独な魂に寄り添ってやれる者は自分しかいない。
 あの日にメギドについて行けなかった分、こうして連れ歩いてやるしかない。
 悲しい瞳をしたブルーには帰る家もなく、シャングリラにも帰れなかったのだから。瞳に宿した悲しみの色を消してやるには、側に居てやるしかないのだから…。
(あいつがそっくり同じ姿に育つまでは……な)
 こうして連れ歩くことになるのだろう。
 此処にブルーの魂は無いと分かってはいても、今日のように連れて歩くのだろう。
 十四歳の小さなブルーがこの姿と同じ姿になるまで、重ねることはけして出来ないのだろう…。



「ブルー。…遅くなったが、飯にするか?」
 ハーレイは『追憶』の表紙のブルーに呼び掛けた。
「俺は研修で食って来たんだが、お前も腹が減っただろう。この辺りはこれが美味いんだぞ」
 俺はこの町には詳しくてな、と愛しい前世の恋人に鳶色の瞳を細めてみせた。
 学生時代から何度も通った海沿いの町。
 ハーレイの生まれ育った町や住んでいる町からは少し遠いが、日帰り出来ないこともない距離。
 夏ともなれば海へ泳ぎに来た。
 学生時代は仲間と遊びに、教師になってからも何度も。もちろん今の両親とも海水浴が目当てで訪れた。泊まったことも二度や三度ではない。
 ハーレイの気に入りの海がある町。遠浅の海岸も、潜って楽しめる岩場も在った。
「ほら、ブルー。これがカニ飯というヤツだ。シャングリラには無かっただろう?」
 この町の名物弁当の一つのカニ飯。
 悲しい瞳のブルーを一緒に連れて来ようと思った時から、これを買おうと決めていた。
 カニ飯は酢でしめられたものが多いのだけれど、この町のものはカニ味噌なども炊き込んである味わい深い炊き込み御飯仕立てが売りだ。カニの身も上にたっぷりと乗せられている。容器のまま温めると炊きたての風味に近くなるから、包装紙だけを剥がして軽く温めた。
 蓋を取れば温かな湯気が立ち昇る。
 小さなブルーはカニを何度も食べているだろうが、前のブルーは知らないままで逝ってしまった海の幸。地球の海で採れたカニの匂いがふわりと部屋に漂った。
「ブルー、お前が行きたがっていた地球のカニだぞ」
 このくらいだったら俺も夜食に食えるしな。



 机に向かって弁当を広げ、食べながら『追憶』の表紙を飾るブルーと語り合う。
 印刷に過ぎないブルーは喋りはしないけれども、それでも応える声が返ってくる気がした。
「ほら、見えるか? あれが地球の海だ。夜だからかなり暗いがな…」
 指差してやれば、ブルーも一緒に夜の海を眺めているような気分になった。
 ブルーが焦がれた青い地球の海。
 前の自分が辿り着いた時には何処にも無かった、生命を育む海に覆われた母なる地球。
 其処へ自分は還って来た。そうしてブルーと海を見ている。
 地球に生まれて来た小さなブルーと一緒にではなく、辿り着けなかった方のブルーと。
「…沖の明かりか? あれは星じゃない、漁火だ。漁船の灯だな。ああやって魚を集めるんだ」
 この季節だと何だろうなあ、夏だとイカ釣り船なんだが…。
 すまん、俺は夏しか詳しくないんでな。そういう漁も出来る時代になったんだ。このカニもだ。
「ん? カニは今の季節はまだ獲れん。もう少し先だ、冬になったらカニを獲るんだ」
 だから名物がカニ飯でな、とブルーに説明してやった。
 悲しげな瞳が少し穏やかになったように思える。それは錯覚に過ぎないけれども、ハーレイにはブルーの孤独が和らいだ証なのだと感じられた。
 ブルーを家に置いて来なくて良かった。
 引き出しの中に置いて来ないで、連れて来てやって本当に良かった…。



 窓の向こう、夜の海の彼方に浮かぶ漁火。その上に広がる夜空には、幾つもの星。
 キャプテン・ハーレイだった頃に着いた地球では、赤く濁った月くらいしか見えなかった。夜の空を彩る筈の星座は汚染された大気に阻まれて見えず、季節の星すら分からなかった。
 それが今では、時期さえ良ければ天の川も見える。澄んだ大気が戻って来た地球。水の星として蘇った地球…。
 ブルーが地球を目指したからこそ、今の地球が在るとハーレイは思う。
 前のブルーが、『追憶』の表紙の悲しい瞳をしているブルーが命を懸けてミュウを守ったから。
「いい星だろう、お前が行きたかった地球。…お前がミュウも、地球も守った」
 なのにお前は地球まで行けもしなかった。
 赤いナスカさえろくに見もせずに、降り立ちもせずに逝っちまった。
 お前がメギドを沈めたからこそ、青い地球が此処に在るっていうのに…。
 誰よりも地球に行きたかったお前が地球を見ないで、俺たちだけが地球を見ているなんてな…。
「酷いもんだな、お前は来られなかったのにな?」
 だから食べろよ、とハーレイは名物のカニ飯を頬張る。
「俺の奢りだ。カニ飯くらいは好きなだけ食え、ついでに海もしっかり見とけよ」
 なあ、とブルーに語り掛ければ、「うん」と返事が聞こえた気がした。
 それはかつてのソルジャー・ブルーの声にも、今の小さなブルーの声にも思える声で。
「…分かっているさ、お前も俺と一緒に地球まで辿り着いたんだっていうことはな」
 分かっているさ、と瞼に浮かんだ小さなブルーに、『追憶』の表紙に頷き返す。
「しかし、俺は未だにお前を忘れられないんだ」
 ソルジャー・ブルーだった時代のお前を。
 地球へ行きたいと願い続けて、辿り着けなかった前のお前を。
 お前の瞳から最後まで消えることが無かった、深い悲しみと孤独の色を……。



 小さなブルーは自分のベッドで眠っている筈の時間だけれど。
 ハーレイは前のブルーの姿が刷られた『追憶』の名を持つ写真集の表紙と一緒に夜の海を見る。暗い海に揺れる漁火の群れと、夜空に鏤められた秋の星座と。
 名物のカニ飯をブルーと食べて、「美味いだろう?」と問い掛けてやって。
「なあ、ブルー。次の研修も泊まりだったら一緒に行こうな」
 連れてってやろう、と微笑みかける。
 遠い昔に宇宙の彼方で、メギドで逝ってしまったブルーに。
 そのブルーは生まれ変わって地球の上に生きているのだけれども、今はまだ二人が重ならない。十四歳の小さなブルーは今のブルーで、『追憶』の表紙のブルーはソルジャー・ブルー。
 全く同じ二人の筈で、同じ魂だと分かっているのに、どうしても二人を重ねられない。
 小さなブルーを前にしていてさえ、その後ろに前のブルーの姿が見えてしまう時があるほどに。
 いつかは寸分違わず重なり、一人のブルーになるだろうけれど。
 今はまだ二人、ブルーが二人。悲しい瞳で見詰めるブルーが、自分しか側に寄り添ってやれないブルーが『追憶』の表紙に独りきりで居る。
 いつもは机の引き出しの中で静かに眠っているブルー。ハーレイの日記を上掛け代わりに着て、守られて眠っているブルー。
 このブルーを家に独り置いては来られない。それに…。
「俺も一人より二人がいい。あいつは俺と一緒に旅をするには小さすぎるしな?」
 恋人なのだと主張している小さなブルー。
 ハーレイも小さなブルーを恋人だと思っているのだけれども、旅に連れては来られない。研修のための旅であっても、世間に認められた伴侶だったなら「研修に支障を来さない範囲で」自費での同行が認められるし、空いた時間に観光をしてもいいというのに。
 残念なことに小さなブルーは文字通り小さすぎだった。伴侶になるには年齢も不足。
 どうやら当分、ハーレイの研修の旅に同行するのは『追憶』の表紙の悲しげなブルー。いつかは小さなブルーが育って重なり、代わりについて来るようになるのだろうけれど…。



「ブルー、当分、よろしく頼むぞ」
 明日は焼きカニ飯を買って帰るか、とハーレイは旅の相棒のブルーに笑顔を向けた。
「カニの足を殻ごと炙ってあるんだ。…殻つきは食うのが少し面倒なんだが、それを充分に補える美味さだ、俺が保証する」
 買って帰って二人で食おうな。小さなお前には内緒だぞ?
 あいつ、一人前に嫉妬するしな、相手がお前だと余計にな。だから内緒だ。
 …そうか、お前を連れて旅に出たのも内緒にせんとな。あいつにバレたら大惨事だしな?
 喋るんじゃないぞ、と『追憶』の表紙に片目を瞑る。
「あいつが育って、お前そっくりになった時には、あいつの中に入って一緒に来い」
 ずっと一緒だ、とハーレイは『追憶』の表紙に刷られたブルーを指先で撫でた。
「俺はお前を忘れはしない。この瞳のお前を忘れはしない」
 お前自身が全てを忘れられる時が来るまで。
 生まれ変わったお前の右手が、あいつの右手が二度と凍えなくなる日まで…。
 その日が来るまで、俺はお前を決して忘れてしまいはしない。
 お前自身が望む時まで前のお前の悲しい瞳を忘れはしないし、いつだってお前の側に居てやる。
 今日みたいに二人で旅もしような、地球の美味い物を色々食わせてやるから。
「でないとお前が寂しいだろう? そんな悲しい目をしたままじゃあな…」
 ……ブルー。
 いつまでも、何処までもお前を連れてってやるさ。
 お前が望む間は………ずっと。



             研修の夜・了

※小さなブルーには内緒で、前のブルーと研修の旅に出たハーレイ。写真集を持って。
 今でも忘れられない、大切な人。小さなブルーが気付いたら、嫉妬は確実ですね。
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(あっ、ホットケーキだ!)
 土曜日の朝、起きて行ったらテーブルに焼き立てのホットケーキ。少ししか食べられないぼくに合わせてママが小さめのリングで焼いてくれる、それ。「一枚だとつまらないでしょう?」と二枚重ねてお皿に載せるために、パパやママのよりも一回り小さめに仕上げてくれるホットケーキ。
 熱々を食べたいから、急いで上にバターを乗っけた。それからメープルシロップもたっぷりと。ナイフで切って、フォークで口に運ぶとふんわり軽くて甘い。
(うん、美味しい!)
 ホットケーキは特に珍しくもないんだけれども、今日はなんだか胸がときめく。
(…どうしてかな?)
 同じテーブルで食べているパパとママとはいつもどおりで、特に変わった様子は無い。土曜日はハーレイが来てくれる日だけど、だからといってホットケーキにときめく理由が分からない。
(ハーレイが来てくれる日はいつもドキドキなんだけど…)
 でも、朝御飯にまではときめかないよ?
 不思議だな、とホットケーキを頬張っていたら、ふと思い出した。
(そうだ、ホットケーキ!)
 今のぼくには、ホットケーキはごくごく普通の朝御飯。おやつに食べる日だってある。
 だけど、前のぼく…。
 ソルジャー・ブルーだったぼくにとっては、ホットケーキは特別だった。



 ホットケーキに本物のメープルシロップ。合成じゃなくてサトウカエデから採れた本物。それをたっぷりとかけて、地球の草を食んで育った牛のミルクのバターを添えて。
 それが前のぼくが夢に見ていた朝御飯。
(…今、食べてるのがそうなんだけど…)
 そうなんだけど、と、ぼくはバターが染み込んだホットケーキをメープルシロップに浸す。
 シャングリラでは採れなかったメープルシロップ。公園にも居住区の庭にもサトウカエデの木は無かったし、いつだって合成のメープルシロップ。
 あの頃のぼくは、地球に行けば本物のサトウカエデの森があるって信じていたんだ。
 夏は涼しくて冬は寒さが厳しい所に広がるというサトウカエデの森。雪深い冬から春先にかけて木が吸い上げる沢山の水が甘い樹液に変わって、その樹液を煮詰めてメープルシロップが出来る。
 知識だけはちゃんと持っていたから、地球に行けば本物のメープルシロップがあると思ってた。
 本当は無かったんだけど。
 本物のメープルシロップもサトウカエデの木が広がる森も、何処にも無かったんだけど…。
 ぼくが夢見た地球は死の星で、有毒の大気と水と、砂漠化した大地。
 そうとも知らずに夢を見ていた。地球は青いと、美しい母なる星なのだと。
 本当のことを知らないままで、地球に行きたいと夢を見たままで死んでいったぼくは、今にして思えば多分、幸せだったんだろう。
 地球の真の姿を知っていたなら、迷いなくメギドへ飛べはしなかった。
 ミュウの未来が大切なのだと分かってはいても、きっと迷った。
 その一瞬が命取りになって、何もかも終わっていたかもしれない。シャングリラは地球を見ずに沈んで、ミュウは誰一人として地球に着けなくて。
 地球だって蘇ることもないまま、今も死の星だったかもしれない…。
(…そう考えると、思い込みって凄いよね?)
 今だから分かる、前のぼくの凄い勘違い。
 地球は青いと信じていたから前に進めたし、命だって宇宙に捨ててしまえた。
 最後の最期で後悔したけど、ほんのちょっぴり後悔したけど…。
 ハーレイの温もりを失くしてしまって独りぼっちで泣いたけれども、もう後悔はしなくていい。だってハーレイと二人で地球に居るんだし、今日だってハーレイが来てくれる。
 朝御飯を食べて部屋の掃除が終わった頃に、ハーレイが門扉の横のチャイムを鳴らしてくれる。
 ホットケーキの朝御飯。
 前のぼくが夢見た、本物のメープルシロップと地球の草を食んで育った牛のミルクのバターとを添えた、ふんわりと焼けたホットケーキ。



 シャングリラで一番最初に作られた、贅沢で豊かな気持ちになれる朝食。
 それがホットケーキを二枚重ねたものだった。
(このホットケーキよりも大きかったけどね)
 今のぼくが食べるホットケーキは小さめのリングで焼いたもの。
 シャングリラの食堂で皆に出されたホットケーキは、普通サイズのリングで焼かれた。
(パパたちのと多分、おんなじくらい?)
 多分そうだね、と思って眺める。
 アルタミラを脱出した直後は船に最初から積まれていた食材だけで遣り繰りをして、その食材が無くなった後は人類側の物資を奪った。だけど、それでは危険が伴う。第一、奪いに行ける人材はぼく一人だけ。
 そんな方法をいつまでも続けてはいられないから、自給自足の道を目指した。船の中を整備し、農場を作って野菜や家畜を育てていこうということになった。
 皆で頑張って自給出来るようにはなったけれども、最初はパンを焼くのが精一杯。
 其処から少しずつ進歩を遂げた結果、ホットケーキはまずお菓子として一人一枚で誕生した。
(…一枚きりだったけど、それでもホットケーキだったよ)
 合成のメープルシロップはまだ無かったから、砂糖を煮詰めたシロップをかけた。バターだって無くて、合成だった。それでも充分に美味しく感じた、お菓子として食べたホットケーキ。
 これを朝御飯に何枚も食べられるようになったらいいね、と皆で話した。
 成人検査よりも前の記憶を失くしてしまった前のぼくたちだったけれども、記憶の底の何処かで覚えていたんだ。
 幸せだった子供時代の記憶。何枚も重ねたホットケーキの朝御飯…。



 前のぼくたちの夢が叶うまでにはかなりかかった。
 小麦粉も卵も牛乳も大切な食料だったし、ホットケーキを作るには沢山の砂糖だって要る。
 充分な数のパンを毎日焼けるようになって、卵も牛乳も充分な量が皆に行き渡るようになって。
 やっと朝食にホットケーキを食べられる時がやって来た。
 皆が待ち焦がれた夢の朝食。おやつではなくて、朝御飯のテーブルにホットケーキ。
 一人二枚だったけど、充分な厚みのホットケーキに、シャングリラで採れた蜂蜜とバター。
 あの日の朝の食堂で目にした皆の笑顔は忘れられない。
(みんな本当に嬉しそうだったものね、「ホットケーキの朝御飯だ」って)
 だからホットケーキには思い入れがあった。
 当たり前に食べられる時代になっても、ぼくにとっては特別なもの。
 何度食べても、幸せな気持ちがこみ上げて来るホットケーキの朝御飯。



(…朝御飯はホットケーキが一番ってくらいに好きだったかも…)
 沢山食べられるぼくじゃないけれど、今のぼくみたいに小さめのサイズで焼いて貰って、何枚も重ねて食べていたことも珍しくはない。
 何枚も重なったホットケーキは「こんなに沢山食べられる時代になったんだ」という満ち足りた気分を運んで来るから好きだった。
 そんなぼくと青の間で朝食を共にしていた前のハーレイは普通サイズで何枚も。
 ぼくたちの幸せな朝御飯。
 ホットケーキ以外のメニューの時でも、朝御飯は大抵、ハーレイと一緒。
 ハーレイが青の間でぼくと朝御飯を食べているのは、一日の始まりに打ち合わせなどをしておくための会食なのだと皆が頭から信じていたから、二人きりでも大丈夫だった。
(食事を持って来てくれるクルーも全然気付いていなかったしね?)
 青の間の奥のキッチンで係のクルーが最後の仕上げをする朝食。焼き立てのホットケーキなどの食卓を整えた後は部屋を出てゆくから、本当にハーレイと二人きり。
(あの頃もハーレイは今と同じで沢山食べられたんだよね…)
 ハーレイは何枚も重ねたホットケーキの他にもソーセージや卵料理を食べていたっけ。
 ぼくはミルクか紅茶があればそれで充分、お腹いっぱい。
 紅茶も香り高くはなかったけれども、シャングリラの中で育てた木の紅茶だから充分、贅沢。



 そんな朝御飯が幸せな時間だったから。
 いつか地球まで辿り着いたら、人類にぼくたちの存在を認めて貰えたなら。
 憧れの地球で、朝御飯にホットケーキを食べてみたかったんだ。
 焼き立てのホットケーキに、たっぷりと本物のサトウカエデのメープルシロップ。
 地球の草を食んで育った牛のミルクのバターを添えて。
(…ホントのホントに、いつかは食べてみたかったんだよ…)
 本物のメープルシロップと、地球の草で育った牛のミルクで作ったバター。
 どちらもありはしなかった。
 夢の朝御飯は食べられなかった。
 ぼくは地球まで行けなかったし、ハーレイが辿り着いた地球は死に絶えた星のままだった。
 だけど今では青い地球の上で、ぼくもハーレイもホットケーキを好きなだけ食べられる。
(……でも……)
 ハーレイと一緒にホットケーキの朝御飯。
 二人で朝御飯を食べたいとママに頼めば何とかなるけど、それじゃダメ。
(庭のテーブルなら二人きりだけど、それじゃダメなんだよ)
 ハーレイと二人、同じ家に住んで。
 同じベッドで二人で眠って、朝になったらゆっくり起き出して、ホットケーキの朝御飯。
 ぼくは多分、普通サイズなら二枚が限界。
 ハーレイはきっと、今でも沢山。
 何枚もホットケーキを重ねて、ソーセージだとか卵料理も食べるんだ。
 そういう朝御飯を二人で食べたい。
 前のぼくが何度も夢見た、憧れの地球に生まれて来たんだから…。



 朝御飯のホットケーキを見て思い出した、ソルジャー・ブルーだった頃のぼくの夢。
 ハーレイも覚えているのか知りたくなって、ぼくの部屋で向かい合って直ぐに尋ねてみた。
「ねえ、ハーレイ。…ホットケーキの朝御飯のこと、覚えてる?」
「ホットケーキ?」
「ぼくが食べたかった朝御飯だよ、前のぼくの夢」
 覚えてる? と首を傾げてみせたら、ハーレイは思い当たったみたいで。
「そういえば…。お前、地球で食べたいと言ってたんだな、夢の朝飯」
 本物のメープルシロップと地球で育った牛のミルクのバターつきで……だったな?
 今もお前の夢なのか、それが?
 俺たちは地球に来ちまったわけで、お前はそういうホットケーキを食ってる筈だが…。
「思い出したんだよ、ついさっき! それにぼくの夢、半分だけしか叶ってないよ」
「…半分だけ?」
 ハーレイは変な顔をした。それはそうだろう、本物のメープルシロップも地球の草を食んだ牛のミルクで作ったバターもあるのに、何処が半分だけなのか、と。
 けれど、ぼくにとっては本当に半分だけしか夢は叶っていないから…。
「半分なんだよ、だってハーレイと一緒に朝御飯を食べられないんだもの…」
 ハーレイと一緒に地球まで行って、夢の朝御飯を食べたかったのに。
 せっかく二人で地球に生まれて来たのに、家もベッドも別々だなんて。
「…ぼくはハーレイと食べたいのに…。ぼくの夢だったホットケーキの朝御飯…」
 ぼくはガックリと項垂れる。
 ハーレイと二人、青い地球の上に生まれてホットケーキの朝御飯くらい食べ放題。
 本物のメープルシロップも地球で育った牛のミルクのバターもあるのに、ハーレイがいない。
 朝御飯のテーブルにハーレイがいない……。



 ぼくの気持ちはちゃんとハーレイに伝わったらしい。
 鳶色の瞳が細められて、ぼくの大好きな穏やかな笑みが唇に乗る。
「分かった、分かった。俺と一緒に住めるようになったら、朝飯にホットケーキを食うんだな?」
「うん。本物のメープルシロップとバターをたっぷりつけて」
「本物のメープルシロップか…。お前、サトウカエデの森に憧れてたな」
 ハーレイは覚えていてくれた。
 ぼくが夢見た、サトウカエデの大きな森。地球にはあると信じていた森。
「お前が見たかったサトウカエデか…。そういう森は俺たちの国には無いようだがな?」
「だけど、地球の何処かにあるんだよね? メープルシロップ、売っているもの」
 他の星からの輸入品ではないメープルシロップ。地球産のマークがついたメープルシロップ。
 でも、何処の地域のものだっただろう?
 当たり前に食べていたから、考えたこともなかった今のぼく。
「知らないのか? 地域としてはカナダ辺りだ、SD体制の前と同じだ」
 地形はかなり変わったらしいが、とハーレイが採れる場所を教えてくれた。
 SD体制の時代よりも遙かな昔から、メープルシロップが採れるサトウカエデで知られた地域。其処にカナダという国が在った頃には国旗の模様がサトウカエデの葉だったほどに。
 地球が蘇った後もサトウカエデの森が広がり、雪の季節から春先にかけてがメープルシロップの原料になる樹液を集めるシーズンで…。
「よし、結婚したらサトウカエデの森を見に行ってみるか?」
 雪がある季節なら、出来たてのメープルシロップをかけてホットケーキが食えるかもしれん。
「いいね。メープルシロップの元が採れる所を見てみたいな」
 どうせだったらサトウカエデの森だけ見るより、樹液を集めている所。
 前のぼくの夢だった本物のメープルシロップの原料を集める所を見てみたい。
 ハーレイと二人でサトウカエデの森に出掛けて、ワクワクしながら眺めてみたい…。



 前よりも大きく膨らんだ夢。
 本物のメープルシロップだけじゃなくって、サトウカエデが生えている森。
 サトウカエデから樹液を集めて、メープルシロップを作る所だって見てみたい。
 うんと欲張りになった、ぼく。
 こんなに欲張っていいのかな、と思ってるのに、ハーレイが笑顔でこう言ったんだ。
「知ってるか? 樹液を煮詰めてキャンディーが作れるそうだぞ、雪の上に流してな」
「キャンディー?」
 雪とキャンディーが結び付かなくて、ぼくはキョトンとしたんだけれど。
「熱いシロップを雪で冷やすと柔らかく固まる。そいつを棒に巻き付けてやれば、キャンディーが出来るっていう仕組みだな」
「それ、やってみたい!」
 なんて面白そうなんだろう。
 キャンディーなんかを自分で作れるとは思わなかった。
 本物のサトウカエデの樹液からメープルシロップを作るまでの間に、棒付きキャンディー。雪の上に煮詰めた樹液を流して、冷やして固めて棒付きキャンディー。
 前のぼくが知らないままで終わったサトウカエデの森からの恵み。
 あの時代の死に絶えた地球には無かった、サトウカエデからの素敵な贈り物。
 瞳を輝かせて「やりたい」と強請ったら、ハーレイは「ああ」と大きく頷いてくれた。
「前からのお前の夢だったしなあ、ホットケーキとメープルシロップ。それにキャンディーを追加なんだな、今のお前は」
「うん、せっかく地球に生まれたんだもの。ホットケーキの朝御飯に本物のメープルシロップで、それとキャンディーを作ってみたい」
 欲張りなぼくの願いごと。
 前よりも一つ増えているのに、「うん、うん」と答えてくれるハーレイの優しさが嬉しい。
「行くとするか、サトウカエデの森に」
 褐色の大きな手が伸びて来て、頭をクシャクシャと撫でられた。
「連れて行ってやるから、その前にしっかり食べて大きく育ってくれよ。…でないと結婚出来ないからな?」
「うん。…うん、ハーレイ…」
 約束だよ、とハーレイの手をガシッと掴んで、褐色の小指とぼくの小指を絡ませた。
 サトウカエデの森を見に行く約束。
 出来たてのメープルシロップをかけたホットケーキと、煮詰めたサトウカエデの樹液を雪の上に流して作るキャンディー。前よりも増えた夢を叶えるための約束…。



 前のぼくの夢だったホットケーキの朝御飯。
 青い地球の上でハーレイと二人、ホットケーキの朝御飯。
 本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球の草で育った牛のミルクのバターを添えて。
 どうやら夢は叶いそうなんだけれど…。
 サトウカエデの森を見に行ける上に、煮詰めた樹液を雪の上に流して棒付きキャンディーを作るオマケまでつきそうなんだけど、その前にぼくの背丈が問題。
 ハーレイと再会した時の百五十センチから未だに一ミリも伸びない背丈。
 クローゼットに微かに付けた小さな印、ソルジャー・ブルーの背丈の百七十センチに届かない。其処まで届いてくれないことにはハーレイとキスさえ出来ないどころか、結婚なんて夢のまた夢。
 結婚出来ないとサトウカエデの森には行けない。
 ハーレイと一緒に夢の朝御飯だって食べられない。
 ホットケーキの朝御飯はもちろん、トーストだって一緒に食べられやしない。
(…大きくなれないと困るんだけど…)
 早く大きくなりたいんだけど、と切実な悩みがまた大きくなる。
 夢を叶えるには、まずは背丈を伸ばすこと。ソルジャー・ブルーと同じ背丈を手に入れること。
 しっかり食べて大きくなれよ、とハーレイは口癖のように言うけれど。
 キャプテン・ハーレイだった頃から沢山食べていたハーレイには簡単なことだろうけど。
(…沢山食べるのって難しいんだよ…)
 ハーレイと再会してから、沢山食べようと頑張ってみては失敗多数で挫折も多数。
(でも、ホットケーキだったら食べられるかな?)
 前のぼくの夢だった朝御飯。憧れだった地球でのホットケーキの朝御飯。
 朝御飯にホットケーキを沢山食べたら早く大きくなれるかな?
 頑張って三枚食べてみようか、前のハーレイにはとても敵わないけれど。
 三枚は基本で、多い時には四枚重ねだって食べていたハーレイ。
 それにソーセージと卵料理まで食べるだなんて、ぼくには絶対、無理だけれども…。



 一日でも早く大きく育って、ハーレイと結婚したいから。
 抱き合って二人キスを交わして、それから、それから……。
 ハーレイと本物の恋人同士になって、一緒に暮らして、二人一緒の朝御飯。
 いつもはトーストでもかまわないけど、一番の夢はホットケーキ。
 前のぼくがずっと夢に見ていた、ハーレイと二人で地球の上で食べるホットケーキの朝御飯。
 ハーレイがサトウカエデの森に行こうと言ってくれたから、夢は大きく膨らんだ。
 メープルシロップの原料の樹液を集めるのを見て、煮詰めた樹液でキャンディー作り。
 膨らんだ夢を叶えるためには、沢山食べて早く大きくならなくちゃ…。



 ホットケーキに本物のメープルシロップ、地球の草で育った牛のミルクのバターを添えて。
 前のぼくが夢見た朝御飯。
 地球に着いたら、食べたいと願ったホットケーキの朝御飯。
 ぼくは青い地球の上に生まれて来たから、本物のメープルシロップをたっぷりとホットケーキにかけられる。もちろんバターは地球の草を食んで育った牛のミルクで作ったバター。熱でトロリと溶けたバターを好きなだけホットケーキに塗り付けられる。
(夢の朝御飯が食べられるんだもの、頑張らなくちゃね?)
 早く大きくなりたかったら、御飯を沢山食べなくちゃ。
 何でも沢山……は難しそうだから、夢の朝御飯だったホットケーキくらいは多めに食べよう。
 前のぼくの夢だった、地球の上でのホットケーキの朝御飯。
 ハーレイと一緒に食べたいと願っていた夢の朝御飯。
 今はハーレイの姿が足りないんだけど、そのハーレイと一緒に朝御飯を食べるために頑張る。
 ホットケーキくらいは少し多めに、しっかりと食べて背を伸ばすために。
(…ちょっとずつでも、頑張ったらきっと背が伸びるよね?)
 夢のホットケーキはあるというのに、足りないハーレイ。
 今のぼくの夢はホットケーキの朝御飯じゃなくて、ハーレイつきの朝御飯。
 ハーレイと一緒に、二人きりで食べる朝御飯。
 シャングリラに居た頃と「当たり前にあるもの」が逆になってしまった。



(…地球のホットケーキの朝御飯はあるのに、ハーレイが一緒にいないだなんて…)
 ハーレイと二人、一緒に暮らして、ゆっくりと起きて朝御飯。
 普段はトーストでもかまわないけど、休日はホットケーキを何枚も焼いて食べるんだ。
 本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球の草を食んでのんびりと育った牛のミルクのバターを添えて。
 きっと幸せな朝御飯。
 ハーレイと一緒に地球の上で食べる、幸せな夢の朝御飯。
(…まだ半分だけしか叶わないだなんて…)
 前のぼくの夢が叶ったのはホットケーキの部分だけ。
 肝心かなめのハーレイがいなくて、夢のホットケーキを食べるテーブルにはぼく一人。
 パパとママとが居てくれるけれど、ハーレイがいないと独りな気分。
(残り半分は、背が伸びないと叶わないんだけど…)
 百五十センチから少しも伸びない、情けないぼくの小さな背丈。
 ハーレイとサトウカエデの森を見に行きたいのに、伸びてくれない今のぼくの背丈。
 前のぼくからの夢の朝御飯は、まだまだ当分、叶いそうにはないんだけれど。
 だけどいつかはきっと叶うよ、サトウカエデの樹液を煮詰めて作るキャンディーつきで……。




           ホットケーキ・了

※ソルジャー・ブルーだった頃の夢の朝御飯は食べられるのに、足りないハーレイ。
 でも、いつか一緒に行けるのです。サトウカエデの森まで、キャンディーを作りに…。
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 ママが焼いてくれたフルーツケーキ。ラム酒に漬けたレーズンやアプリコット、プルーンとかがたっぷり入って、真っ白なアイシングがかかってる。アイシングの上に載った紫色のアクセント。スミレの花の砂糖漬け。雪の中から顔を出したかのような紫のスミレ。
 ぼくの部屋でハーレイと向かい合わせでのティータイム。ハーレイがフォークで紫色のスミレをチョンとつついた。
「…スミレもこうすれば食えるんだよなあ、面白いもんだ」
 口に入れればスミレの香りがふうわりと広がる砂糖漬け。ママの手作りではなかったけれども、お菓子のデコレーションとしてお気に入り。ケーキに添えたり、ラスクに載せたり。小さな頃から何度も目にした。そう、今日みたいに。
「シャングリラでは作らなかったよね、砂糖漬け。子供たちが花束にしてたくらいで」
「ああ。こういう洒落た菓子を作って食えるほど優雅な日々でもなかったしな」
 シャングリラにもお菓子はあったし、ハーレイと過ごすお茶の時間もあったのだけれど。紅茶は今のように香り高くはなく、お菓子もお洒落なものではなかった。
 もっとも、そんなティータイムでも充分すぎるほどに贅沢なもの。アルタミラでの研究所時代を思えばお茶の時間が持てるというだけで夢のようだったし、幸せだった。
 そういう暮らしをしていたぼくたちが、今は青い地球の上でティータイム。地球の太陽を浴びて育ったスミレの花の砂糖漬けが載ったケーキを二人で食べてる。なんて幸せなんだろう。こんなに幸せでいいんだろうか。
 スミレの花を食べるだなんて、シャングリラに居た頃は思い付かなかった。
 公園にスミレは沢山咲いていたけれど、あくまで目で見て楽しむもの。子供たちが摘んで花束にするもの。たまに愛らしいスミレの花束を子供たちがくれた。



「ハーレイも子供たちから貰っていたよね、スミレの花束」
「うんうん、ゼルもブラウも貰っていたな。クローバーとかと一緒で摘み放題だったしな」
 子供たちが摘んで作ったスミレの花束。香りがいいから、貰うとガラスのコップに挿して枕元のテーブルに飾っていた。ハーレイは航宙日誌を書いていた机の上に飾った。
「実にいい香りがしたんだよなあ、あの花束は」
「あんなに小さな花なのにね。貰うと幸せな気分になれたよ」
「そうだな、部屋に公園が引っ越して来たような感じがしたな」
 限られた空間しか無かったシャングリラの中。公園と居住区に散らばる庭だけが自然を思わせる緑のスペース。其処で咲いたスミレの花束は外の世界も運んで来てくれたように思えたものだ。
「ぼくは好きだったよ、スミレの花束。地面の上に居るような気持ちがしたから」
 新しく見付けたミュウの救出や戦闘の時しか、シャングリラの外には出なかった。ぼくの力なら自由に何処へでも行けたけれども、他の仲間たちはそうではないから。
 ぼくだけが自由に出歩くことはしたくなかった。そうやって自分に課した禁を破って出るようになったのは、偶然フィシスを見付けた時だけ。フィシスの地球を見に通った時だけ。
 だからスミレの花が咲く地上でゆっくりと過ごしたことは無い。シャングリラの中だけがぼくの世界で、スミレの花束は外の世界を夢見るための小さな小道具。
「いつかスミレが咲いている地上で過ごしたいな、と思っていたよ。ハーレイは?」
「俺も同じだ。子供たちを思い切り走らせてやれる時が来ないかと願っていたな」
 シャングリラの公園じゃなくて、広い大地で。
 走っても走っても果てが無いような、花いっぱいの野原を何処までも……な。



 遙かに過ぎ去った時を懐かしんでいたハーレイが「ん?」と顎に手を当てて。
「そうか、しまった…。お前と出会うのが遅すぎたな」
「えっ?」
 そりゃあ、再会は早ければ早いほど良かったけれど。
 ハーレイともっと早く会えていれば嬉しいけれども、その分、ぼくは今よりもっと小さな子供。ハーレイは何をしたかったんだろう?
 小さなぼくを連れて野原へ行こうと思ったんだろうか、スミレを摘みに?
 キョトンとするぼくの目の前、ハーレイはスミレの砂糖漬けをフォークでつつきながら呟く。
「もう二日ほど早ければ…。いや、四月の間に出会うべきだった」
「なんで?」
 たったの二日ほど早いだけでいいの?
 四月の間だとか、ほんの少ししか早くないけれど…。
「忘れちまったか? 俺たちが会ったのが五月三日で」
「そうだけど?」
「五月一日と言えばスズランの花束の日だったろうが。この地域には無いようだがな」
「あっ…!」
 それを聞くまで忘れていた。五月一日はスズランの日だった。
「今もフランスではやってるらしいぞ、今の地球でのフランス地域だ。…いわゆる文化の復活ってヤツで」
「そうなんだ…」
 SD体制の時代には無かった、かつてフランスと呼ばれた地域。地球が青い星として蘇った後、その名を冠した地域が生まれた。ぼくたちの住む地域が日本で通っているように、フランスだって地球の上に在る。遙かな昔のフランスの文化を追い求めて楽しんでいる地域。
「お前に堂々と贈っても問題無いんだよなあ、今の世界じゃ。なにしろ日本にはスズランの文化が無いからな? …ついでにスズランも山ほどあるんだ、シャングリラと違って」
「うん…」
 あるね、とぼくは頷いた。
 鈴の形をした白い花を沢山つけるスズラン。
 シャングリラでは公園に咲いていただけだけれど、今の世界なら公園だけじゃなくて個人の家の花壇やプランター、もちろん花屋さんにだってある。
 珍しくもないスズランの花。でも、シャングリラでは特別だった。



 愛する人への五月一日の贈り物。
 贈られた人に幸運が訪れますように、と祈りをこめて贈るスズランの花を束ねた花束。
 シャングリラの公園で初めてのスズランが花開いた年に、ヒルマンが皆に説明してくれた。
 恋人同士で贈り合ったり、夫から妻へ、妻から夫へ。
 遠い昔には、わざわざ森までスズランの花を探しに出掛けて摘んでいた時代もあるらしい。森に咲くスズランは香りが高くて希少価値があるから、と後の時代には五月一日には高値で売られた。子供たちが森まで採りに出掛けて、たった一本のスズランが栽培種の花束と同じ値だったり。
 小さなスズランの花を前にして、ヒルマンが語った遙か昔の素敵な習慣。
 ぼくはハーレイにスズランの花束を贈りたくなった。
 沢山の幸運が訪れるようにと祈りをこめて、五月一日にスズランを摘んで。
 ハーレイはぼくに贈りたくなった。
 ぼくが幸せになれるようにと、五月一日にスズランの花を摘んで束ねて。
 でも、スズランの花は花束に出来るほど沢山咲いてはいなかった。
 増えて来た頃にはそれを必要とするカップルたちがいて、ぼくとハーレイの分は無かった。
 ぼくたちは誰にも仲を明かせない、秘密の恋人同士だったから。
 五月一日にスズランの花束を作りたいのだと、誰にも言えはしなかったから…。



 スズランの株は順調に増えて、花束を幾つも作れるようになったのに。
 五月一日になると恋人たちが公園や居住区の庭で摘んでいるのに、ぼくたちはそれを微笑ましく見守るだけの立場で、スズランの花束は手に入らない。
 いくらスズランの花が増えても、贈りたい人に贈れはしない。
 五月一日が何度も巡って、ある年、ハーレイが「やはり今年も無理でしたね」と溜息をついて。
「いっそ私の部屋で育てようかとも思うのですが…。そうすれば私の分ですから」
「バレるよ、掃除に来たクルーに」
 ハーレイの気持ちは嬉しかったけれど、部屋にスズランの鉢だかプランターだかを置くなんて。何をしているのか直ぐに知られる。スズランは特徴があり過ぎるから。
「私が好きで育てている花だと言えば問題無いかと」
「それはそうだけど、五月一日に花がそっくり消えた理由を何と説明するんだい?」
 シャングリラでは広く知られた五月一日の恋人たちの贈り物。ハーレイがスズランの花を好きかどうかはともかくとして、五月一日を境に花が消えれば誰かに贈ったということになる。この船の何処かに恋人が居て、その恋人のためにスズランを育てていたのだと知れる。
「どう考えても直ぐにバレるよ、恋人用のスズランだった、と」
「…確かに…。そうではない、と言い訳するのは難しいかもしれませんね…」
 いい考えだと思ったのですが、とハーレイが残念そうな顔をするから。
「ぼくの青の間でも同じなんだよ。…君がスズランを育てて贈ってくれると言うなら、ぼくだって君に贈りたいけれど…」
 この部屋はこんな造りだから。
 スズランを育てられそうな自然な光が降り注ぐ場所はもれなく人が入って来る。ベッドの周りは言わずもがなだし、奥のキッチンとかにも人が入るし…。
 君のためにスズランを育てたくても、こっそり育てられそうにない…。



 二人して自分の部屋でスズランを育てられないことを嘆いて、残念がって。
 それでもお互いに贈りたかった。
 贈られた人に幸運が訪れるという、五月一日の恋人たちの贈り物。スズランの花を束ねた花束。ぼくはハーレイに贈りたかったし、ハーレイはぼくに贈りたかった。
 いつかは贈ってみたいものだ、と語り合った末に。
「いつか…。そうですね、いつか、地球に着いたら」
 ハーレイの鳶色の瞳がぼくを見詰めた。
「そうしたらスズランもきっと沢山手に入るでしょう。その時はあなたに贈りますよ」
 いつか地球に着いて、五月一日が巡って来たら。
 あなたのためにスズランの花束を作って、幸運が訪れるようにと祈りをこめて…。
「うん、ぼくも。…ぼくもスズランの花束をプレゼントするよ」
 ハーレイのためにスズランを探すよ、ヒルマンが言ってた希少価値が高いという森のスズラン。地球の森が広くても、ぼくなら探せる。ハーレイには無理でも、ぼくは出来るよ。
「お気持ちはとても嬉しいのですが…。それでは私の愛が足りないような気がするのですが…」
 ハーレイが困ったように口ごもるから、「いいんだよ」とぼくは微笑んだ。
「いいんだよ、それで。ハーレイはぼくに沢山の愛をくれているもの、それに沢山の幸せだって。ぼくはハーレイを幸せにしてあげたいんだ、いつも貰ってばかりだから」
「いえ、私こそあなたを幸せにして差し上げたい。あなたはいつも、皆のためにだけ…。御自分のことはいつも後回しで、皆の幸せばかりを祈っていらっしゃるから…」
「ううん、その分の幸せは皆からも、そしてハーレイから沢山貰っているよ」
 ハーレイが居てくれるから幸せなんだよ、ぼくはシャングリラの誰よりも…。



 いつか地球へ行って、お互いにスズランの花束を贈り合う。
 それがぼくたちの夢だった。五月一日が巡って来る度に白いシャングリラでそれを思った。
 恋人たちのためのスズランの花を束ねた花束。
 ぼくたちが贈りたいと願い続けて、贈れずに終わった夢の花束。
 ハーレイがスミレの砂糖漬けを眺めながらフウと大きな溜息をつく。
「…いつの間にかお前は眠ってしまって、五月一日どころじゃなかった…」
「うん…。寝てしまったね、アルテメシアから旅立って直ぐに」
 眠るつもりは無かったのだけれど、弱り切った身体はそれを許してくれなかった。
 毎晩、青の間に来てくれていたハーレイに「おやすみ」といつものように言って眠って、まさかそれきり目覚めないだなんて思わなかった。
 深い深い眠りの底に沈んでしまった、前のぼく。
 それでもハーレイは毎晩、ぼくを訪ねて来てくれた。眠り続けるぼくに語り掛けてくれた。
 子守唄まで歌ってくれていたことを、夏休みの間にハーレイから聞いた。
 今のぼくが小さな頃に大好きだった「ゆりかごの歌」。前のぼくが眠りの底で聞いていた歌。
 眠っていたぼくには一瞬とも思えた時だったけれど、ハーレイにとっては十五年間。
 十五年もの間、ぼくはハーレイを独りきりにして眠ってしまった…。
「…ごめんね、ハーレイ…。十五年も眠ってしまったままで」
「初めの間は直ぐに起きると思ったんだがな…。そう深刻には考えなかった」
 なのに、お前は何年経っても一向に目覚める気配すらなくて。
 五月一日にブリッジから見ると、公園でスズランを摘んでいる恋人たちが目に入るんだ。
 幸せそうにしている恋人たちを見るのが辛かった。俺の恋人は眠っているのに、と。
 しかしだ、ものは考えようだ。
 お前は深く眠っていたから、もしかしたら……と俺は思った。
 体力的にとても無理だと諦めていたが、お前は地球まで行けるんじゃないか、と。
 もしもお前が俺と一緒に地球まで辿り着けたなら。
 そうしたらお前にスズランの花束を贈るんだ、とな。



 そういう夢を見ていたんだ、とハーレイが昔語りをするから。
 夢が叶わなかったことを知っているぼくは、「ごめん」と俯くしかなかった。
「…ごめん。いなくなってしまって、本当にごめん…」
 ぼくは地球まで行けなかった。
 ハーレイのささやかな夢にも気付くことなく、一人でメギドへと飛んでしまった。
 別れの言葉すら告げもしないで、「頼んだよ、ハーレイ」と次の世代を託しただけで。
「…ごめん。…ごめん、ハーレイ……」
「いや、いいんだ。俺の勝手な夢だったしな」
 それに俺には思い出している暇など無かった。
 五月一日どころじゃなくなってしまったからな、シャングリラ中が。
 地球を目指して進むことと戦いだけに明け暮れていたし、いつだって空気が張り詰めていた。
 スズランを摘んでいた恋人たちの中の何人もをナスカで亡くして、トォニィたちの世代はきっとスズランの花束なんぞは知らなかったろう。
 トォニィの恋人はアルテラだったが、あいつらがスズランを摘んでいるのは見なかった。もしも見ていたなら五月一日だと気付いた筈だし、お前との約束も思い出していたんだろうが…。
 とうとう一度も思い出さないまま、俺は地球まで行ってしまった。
 地球に着いても、その地球があの有様ではな…。
 スズランの咲く森など在りはしないし、水も大気も酷いもんだった。
 お蔭で俺は思い出しもせず、地球の地の底で死んじまった。
 そして今頃になって思い出したというわけだ。
 五月一日といえばスズランの花束を贈る日だったな、と…。



「まったく…。なんで今まで忘れてたんだか」
 情けないな、とハーレイは眉間の皺を指先で揉んで。
「…五月一日はとっくに過ぎちまった上に、出会ってもいなかったんではどうしようもないな」
「そうだね、二日ほど遅かったよね…」
 ぼくがハーレイと再会した日は五月の三日。スズランを贈る日は終わってしまった後だった。
 今、ぼくたちが住んでいる地域にスズランを贈り合う習慣は無いから、それよりも前に出会っていたって思い出さずにいた可能性も高いんだけれど…。
 でも、ハーレイは思い出したから悔しいらしい。
「来年の五月に覚えているといいんだが…。この地域にスズランの花束を贈る文化が無いだけに、思い出せるか微妙だな」
 その代わり、覚えていたら堂々とお前に贈れるわけだが。
「ママにはなんて説明するの? ぼくにスズランの花束なんて…」
 ぼくだって一応、男の子だから。
 花束を貰うのは変だと思う。何かのお祝いならばともかく、普通の日に花束、それもスズラン。
 だけどハーレイは「ん?」と、ちょっぴり悪戯っ子みたいな表情で。
「恋人に贈るって部分は省略だ。幸運が来ると聞いていまして、って言って持って来るさ」
 もしもお前のパパやママに気付かれてしまったって、だ。俺の勘違いだと思われて終わりだ。
 俺は古典の教師だしな?
 日本の文化なら間違えはしないが、フランスの文化は範疇外だ。
「ハーレイ、勘違いで済ませる気なんだ?」
「それが一番安全だろうが、お前との仲がバレるよりかは勘違いで恥をかく方がマシだ」
 もっとも、勘違いで通りそうな古典の教師ってだけに。
 来年の五月一日にスズランの花束を覚えている自信も無いわけなんだが…。



 忘れていたらすまん、とハーレイが謝る。
 本当に済まなそうな顔をしていて、心がキュッと痛くなったから。
「お互い様だよ、ぼくだって忘れていると思うよ」
 大丈夫、とぼくはハーレイに笑ってみせる。
 思い出したばかりの今はスズランの花束のことがとても懐かしくて、五月一日よりも二日遅れで再会したことが残念だけれど、きっと夜には忘れていそう。フルーツケーキに乗っかったスミレの花の砂糖漬けで思い出したけれども、これを食べ終えたら忘れていそう。
 ママのお気に入りのデコレーション。甘いスミレの砂糖菓子。
「ハーレイ、忘れてしまってもいいよ。ぼくも忘れてしまうと思うし」
「…そうか? 来年の手帳はまだ買っていないが、カレンダーに覚え書きを書いておいても…」
 新しい年のカレンダーを買う度に、前の年のカレンダーと突き合せながら必要な予定を書き写すことにしているらしいハーレイ。
 今年の五月一日の所に「スズランの花束の日」と書いておけば忘れない、と言うのだけれど。
 帰宅するまでに忘れないように、メモを書いてポケットに入れようと言ってくれたのだけれど。
「ううん、こういうのって「思い出す」からいいんだよ」
 思い出した時が幸せなんだよ、とハーレイの嬉しい申し出だけを貰っておくことにした。
 カレンダーにもメモにも書かなくていい。
 ぼくたちの思い出は沢山あるから、いちいち予定にしなくてもいい。
 予定を書いたら縛られてしまって、嬉しい気持ちが少しだけ減ってしまうから…。
 何かの機会にまた思い出して、その日が五月一日だとか。
 五月一日の前の日だったとか、そういう方が絶対いい。
 幸運は何処からかやって来るもので、予定を決めて来るものじゃない。
 だから忘れてしまっていい。
 スズランの花束をぼくにくれる五月一日は、ひょっこり思い出した時でいい。



「でも、ハーレイ…」
 今日はこのまま忘れてしまっていいんだけれど。
 ぼくもきっと忘れてしまうんだけれど。
 いつか二人で思い出そうね、そしてスズランを採りに行こうよ。
「いいな、二人で採りに行くのか?」
「うん。どうせ贈るんなら、お店に売ってるスズランよりも、森のスズランがいいと思わない?」
 ヒルマンが言ってた森のスズラン。
 栽培種のスズランよりも希少価値が高い、いい香りがする森のスズラン。
 何処にスズランの咲く森があるのか、ぼくは全く知らないんだけど…。
「そうだな、今の地球なら俺だって森のスズランを見付けることが出来そうだしな」
 行くか、とハーレイはぼくの大好きな笑顔になった。
「もっとも、お前が大きく育ってくれんことには二人で出掛けられないわけだが」
「ぼく、頑張って大きくなるよ。だから二人で採りに行こうよ、森のスズラン」
「ふむ…。この辺りだと何処に咲くのか、きちんと調べておかんとな?」
 そしてお前より沢山採るぞ、とパチンと片目を瞑るハーレイ。
 ぼくの花束よりも大きなスズランの花束を作って、ぼくに贈ってくれるって。
「ぼくもハーレイより沢山見付ける! ハーレイに沢山幸せになって欲しいもの!」
 前のぼくだってそう決めてたもの、と決意表明しておいた。
 こんな風に約束し合って、意地を張り合っても、明日にはきっと忘れてるんだけど…。
 それでもいつか、ぼくたちはきっと思い出す。
 思い出して二人、手を繋いで春の森へと出掛けてゆくんだ。
 森に咲いている香り高いスズランの花を探しに、五月一日に二人一緒に…。




       スズランの花束・了

※シャングリラにあった、スズランの花束を贈り合う習慣。恋人たちが摘んで。
 ソルジャーとキャプテンでは無理でしたけれど、今度はスズランを贈り合えるのです。
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