シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
天使が通る時
(えーっと…?)
困っちゃった、とブルーが瞬かせた瞳。
今日は土曜日、訪ねて来てくれたハーレイと過ごしていたのだけれど。部屋のテーブルを挟んで向かい合わせで、のんびりと昼食の後のお茶。その最中に途切れた会話。
何をしたわけでも無かったのに。楽しく話が弾んでいたのに、何かのはずみにプッツリと。
(ハーレイだって…)
黙っちゃった、と向かい側に座る恋人を見詰めた。どうしよう、と。
ハーレイの瞳もこちらを見ている。「どうしたんだ?」と尋ねるように。けれど会話は途切れてしまって、それっきり。ハーレイからは何も話してくれない。
(何か、話さないと…)
せっかく二人で過ごせる休日、黙って座ったままなんて、嫌。甘えてくっつく時ならともかく、こうして離れていたのでは。…間にテーブルがある状態では。
なんでもいいや、とミーシャの話をすることにした。ハーレイの母が飼っていた猫。ハーレイがまだ子供だった頃に、隣町の家で。真っ白で甘えん坊だったミーシャ。
思い付いたからミーシャのこと、と。「ミーシャのお話、何か聞かせて」と強請ろうと。
「えっとね…」
口を開いたら、「それでだな…」と重なって来たハーレイの言葉。まるで同時に、合図でもして二人で話し始めたように。ハーレイも何か思い付いたのだろうか、話の種を?
それを聞く方が断然いいよ、と「先に喋って」と促したけれど。
「お前が先でいいだろう。話したいこと、あるんだろうが」
優先してやる、と譲って貰っても困る。大したことではないわけなのだし、ハーレイが先に話をすべき。なのにハーレイは、後からでいいと言うものだから…。
「じゃあ、同時に喋ればいいじゃない」
それで決めようよ、ぼくが先なのか、ハーレイが先か。
話の中身を少し聞いたら、どっちを優先すればいいのか、きっと分かると思うから。
それがいいよ、と提案した。お互いの話を口にしてみて、中身のありそうな話を先にしようと。
ハーレイも賛成してくれたから、合図して声を揃えたのだけれど。同時に話し始めたけれども、蓋を開けたら、ハーレイの方もミーシャのこと。「何か知りたいことはあるか?」と。
二人揃って吹き出した。どちらもミーシャだったのだから。
「ビックリしちゃった、ハーレイもミーシャの話だなんて」
それも話があるんじゃなくって、訊きたいことはあるかだなんて。面白いよね。
「俺も驚いちまったが…。お互い、ネタに詰まっちまったらミーシャなんだな」
お前も俺も、と可笑しそうなハーレイ。「此処にミーシャはいないんだがな?」と。
「そうみたい…。だけど、ミーシャは可愛いから…」
前に見せて貰った写真もそうだし、今までに聞いた話もだよ。
生のお魚は嫌いで焼いて欲しがるとか、木から下りられなくなっちゃったとか。
「確かに山ほどあるんだよなあ、ミーシャの話は。…それに間違ってもいないだろう」
ミーシャも今では天使なんだし、この選択で正しいってな。
「え? 天使って…」
どうして天使、と目を丸くした。ミーシャが天使だと、どうかしたのだろうか?
「それはまあ…。死んじまったから、猫の天使だ。生まれ変わっていなければ、だが」
死んだら天使になると思うぞ、猫だって。…もちろん、ミーシャも。
「それでミーシャは天使なんだね、今は天国の猫だから。…今も天国で暮らしてるんなら」
だけど、なんでミーシャで正しいわけ?
ぼくとハーレイがお喋りするのに、二人揃ってミーシャだったこと…。どう正しいの?
分からないよ、と傾げた首。本当にまるで謎だったから。
「天使が通って行ったからさ」
当たり前のように返った答え。ますます意味が掴めない。
「なにそれ?」
天使が通って行くって何なの、ぼくは天使なんか見なかったよ?
「知らないか?」
そういう言葉があるんだが…。ずっと昔の言葉だがな。
会話が不意に途切れた時。さっきのように急に静かになってしまった、その時間のこと。
それを「天使が通って行った」と言うらしい。人間が地球しか知らなかった遠い昔の言葉。
「今の場合はミーシャなんだな、猫の天使だ」
俺もお前も、ミーシャの話を始めたってことは、そうなんだろう。…きっとミーシャだ。
もっとも、ミーシャは何処かに新しく生まれちまって、別の天使かもしれないが…。
ミーシャの名前が出て来たってだけで、本物の天使が通ったかもな。絵とか彫刻にいる天使。
とにかく天使だ、とハーレイが教えてくれたこと。「天使が通る」という言葉。
「なんだか素敵な言葉だね。それにミーシャなら…」
猫の天使なら、きっと可愛いよ。背中に翼が生えている猫。
「そうだな、ミーシャは真っ白だったし…。白い翼だって似合うだろう」
三毛だのブチだの、そういう猫なら、どんな翼が生えるんだろうな?
猫の天使の翼はどれでも白いんだったら、似合わない猫もいると思うぞ。
「模様によるよね、もしかしたら翼も模様つきかも…。ブチとか、トラとか」
どっちにしたって、白いミーシャが一番似合うよ、天使の翼。毛皮も翼も真っ白だから。
通って行ったの、ミーシャだったら、どっちに歩いて行ったのかな?
庭の方から入って来たのか、ドアの方から来て窓から出て行ったのか…。
天使は空を飛べるんだものね、二階の窓でも入口で出口。
「さてなあ…。俺たちの目には見えないからなあ、天使ってヤツは」
それに本物の天使だったかもしれないぞ。ミーシャじゃなくて、人の姿の方の天使だ。
「何かの用事で通ったわけ?」
「そうなるんだろうな、守護天使なら側にいるモンだろうし」
俺やお前を側で見守るのが仕事なんだから、今だって側にいなくちゃな。
「通って何処かに行きはしないよね、守護天使なら」
離れちゃったら、天使のお仕事、出来ないし…。通り過ぎるわけがないもんね。
「そういうこった。…だからさっきのは、通りすがりの天使だな」
ミーシャにしたって、本物の天使の方にしたって。…猫の天使でも本物と言うかもしれないが。
しかし、普通に「天使」と言ったら、そいつは絵とかでお馴染みのヤツで…。
待てよ…?
天使の定義ってヤツはともかく、とハーレイは顎に手を当てた。「その天使だ」と。
「ずっと昔に、こういう話をしなかったか?」
そう訊かれたから、キョトンとした。
「話って…。天使?」
ハーレイと天使の話をしたわけ、今日みたいに…?
「そうだ、今日のと全く同じだ。猫の天使か、本物の天使かは別にしてだな…」
天使が通って行くというヤツ。話が途切れちまった時には、天使が通っているんだ、とな。
「…今じゃなくって、前のぼくたち?」
今のぼくは初めて聞いた話だし、前のぼくたちのことだよね…?
「そうなるな。…話したという気がするんだが…。さっき天使が通ったな、といった具合に」
話が途切れたら、天使が通る。…そういう話をしてた気がする。
「それって、青の間? それよりも前?」
青の間が出来る前にしてたの、天使の話を?
まだハーレイとは恋人同士じゃなかった頃かな、天使が通って行ったのは…?
「どうだったんだか…。俺たちの間を通ったのかどうか…」
あんな風だった、と思いはするんだが…。もっと大勢いたような…。二人きりじゃなくて。
青の間でも集まることはあったし、青の間なのかもしれないが…。
違うな、あれは青の間じゃなかった。…会議室だ。
「会議室?」
あの部屋だよね、と思い浮かべた会議室。白いシャングリラでゼルたちとよく会議をしていた。てっきりそうだと考えたのに、ハーレイは「前の会議室だぞ」と付け加えた。
「白い鯨になる前の船だ、あそこにも会議室があっただろうが」
覚えていないか、ヒルマンのヤツが言い出したんだ。…其処で会議をやっていた時に。
正確に言うなら会議の後だな、雑談の時間といった所か。
「ああ…!」
ホントだ、天使が通ったんだよ。あの時も、さっきみたいにね。
思い出した、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で通り過ぎた天使。自分たちの前を。
まだ白い鯨ではなかった船で。元は人類のものだった船に「シャングリラ」と名付けて、宇宙を旅していた頃のこと。
とうにソルジャーだった前の自分と、キャプテンだった前のハーレイ。それにゼルたち、長老と呼ばれ始めていた四人。その六人で色々と会議をしたものだった。会議室と呼んでいた部屋で。
あの時は何の会議だったか、船のことか、それとも物資などのことか。
いつものように会議を進めて、終わった後も会議室に残って話していたら、急に途切れた会話。六人もいるのに、プッツリと。
静かになってしまった部屋。何の前触れもなく声が途絶えて、ただ沈黙が流れるばかり。空気は和やかなままなのに。…誰が怒ったわけでもないのに。
(…どう話そうか、って…)
今日の自分と全く同じ。何の話を持ち出せばいいか、どうすれば自然に会話が戻って来るか。
見回してみれば、皆がタイミングを考えているのが分かる。何を話そうかと、いつがいいかと。
(他のみんなも考えてたから…)
様子を見た方がいいのだろうか、と思っていたら…。
「通って行ったね」
ヒルマンが口にした不思議な言葉。何も通ってはいないのに。人も、その他の生き物も。
白い鯨になる前の船に、人間以外の生き物はいない。誰か入って来たならともかく、それ以外で何か通りはしない。
「ちょいとお待ちよ、あんた、頭は確かかい?」
ブラウの質問は当然のもので、誰も「失礼だ」と止めはしなかった。「頭は確かかい?」という酷い言葉でも。…それをブラウが言わなかったら、他の誰かが言っただろうから。
だから遮られずに続けたブラウ。「誰も通っちゃいないよ、此処は」と。
「それとも外の通路をかい?」
あんた、余所見をしていたわけかい、そんなに退屈だったかねえ…?
退屈だったら部屋に帰ればいいじゃないか、とブラウは容赦なかったけれども、ヒルマンは余裕たっぷりに言った。
「違うね、通ったのは此処をだよ。…天使が通って行ったんだ」
今のように会話が途切れた時には、そう言ったそうだ。人間が地球にいた頃にはね。
遠い昔に地球で生まれた、「天使が通る」という言葉。賑やかな会話が急に途切れて、代わりに訪れる静かすぎる時間。そうなる理由は、天使が其処を通ってゆくから。
「天使が此処を通っただって?」
それは素敵だ、と前の自分は考えた。「此処を天使が通ったのなら、嬉しいな」と。
天使が通って行ったと言うなら、シャングリラにも天使がいるということ。たとえ通っただけにしたって、訪れなければ通りはしない。船に入らないと会議室には来られないから。
一日に何度か船に来るのか、それとも船に住んでいるのか。どちらにしても、天使はいる。人類から隠れ続ける船でも、何処にも寄らずに暗い宇宙を飛んでゆくだけのシャングリラでも。
そう話したら、ヒルマンは「なるほどねえ…」と髭を引っ張った。
「天使が通って行ったのならば、それは天使がいるからだ、と…」
我々にも天使がついているという証明なのだね、さっき天使が通ったことは?
「いい考えだと思わないかい?」
天使だなんて、皆は笑うだろうけれど…。ぼくは信じてみたいと思うよ。
神様がいるなら、天使も何処かにいるんだろう。…この船を天使が通ってゆくなら、神様が船を見て下さっているということだ。そう信じたいよ、この船にも天使はいるんだ、とね。
「あたしだって、もちろん信じたいさ」
笑いやしないよ、とブラウが応じて、「わしもじゃな」とゼルが頷いた。エラも「ええ」と。
人類に迫害されていたのがミュウ。星ごと滅ぼされそうになった所を、懸命に宇宙へと逃げた。人類が捨てた船を見付けて、乗り込んで。…シャングリラと名付けて、今も宇宙を流離うだけ。
そんな船にも天使が来るなら、誰だって信じてみたくなるもの。その存在を。神の使いを。
もしも天使が通ったのなら、と弾んだ話。
さっきの沈黙が嘘だったように、それは賑やかに話し続けた。会議室を通った天使のことを。
天使が通り過ぎた時には、会議は済んでいたのだけれど。とうに終わって雑談していた時だったけれど、その前から天使はいただろう。いつ通ろうかと、この会議室の何処かに立って。
天使が見ていたろう会議。何を話すのか、何を相談しているのかと。
会議の中身も天使は聞いたに違いないから、神に伝えてくれるといい。この船のことを、此処で生きているミュウたちのことを。
これからも上手くいくように。この船で生きてゆけるようにと、神に頼んでくれたらいい。この船に住んでいるのなら。…住んでいなくても、訪れるなら。
それが最初に「天使が通って行った」時。シャングリラの中を、神の使いが。
(…猫の天使じゃなかったけれど…)
今の平和な時代と違って、そんな夢を描けはしなかった時代。猫も船にはいなかった。白い鯨になった後にも、猫がやっては来なかった。
けれど、シャングリラにもいた天使。時々、通ってゆく天使。会話や会議の最中に、スッと。
「天使が通ると縁起がいい、って話にもなっていなかった?」
いいことがあるよ、って思っていたよ。…前のぼく、何度もそう思ってた。
今日は天使が通ったんだし、きっと何もかも上手く行くんだ、って。
「あったな、そういう話もな。最初は俺たちの間だけだったが…」
シャングリラ中に広がったっけな、とハーレイも思い出してくれた天使のこと。シャングリラで喜ばれた天使。さっきのように通り過ぎたら、急に静けさが訪れたなら。
天使が通った会議の議題。…会議の途中や、終わった後に天使が通って行った時。
上手くゆく案件が多かったから、「天使が神に伝えるのだ」と言い始めたのは誰だったか。神に伝えてくれたお蔭で、あの時の件は上手く運んだ、と。天使が力を貸してくれたと。
そう言ったのはエラだったろうか、それともブラウだったのか。
今では思い出せないけれども、いつの頃からか、そういうことになっていた。会議に常に集まる六人、前の自分とキャプテン、それに長老の四人の間では。
「今日の会議は天使が通ったから大丈夫だ」といった具合に。難しい案件だった時にも、天使が通れば上手くゆくように思えた会議。…駄目なことも、もちろん多かったけれど。
(いつも、そうやって話してたから…)
白い鯨への改造のために、大人数での会議が増え始めた時。いつもの六人以外の仲間も交えて、様々なことを決め始めた頃。
何かの会議で、やはり同じに天使が通って、しんと静まり返った席。どうしようか、と慣れない仲間が顔を見合わせる中で、ゼルが沈黙を打ち破った。
「なあに、大丈夫じゃ。天使がついておるからな」
今も通って行ったわい、とやったものだから、たちまちざわついた仲間たち。天使どころか何も通っていなかったのに、と。
皆の反応は、最初に「天使が通った」時と同じもの。ずっと昔に、六人だけの会議の席で。
ヒルマンとエラが説明するまで、ゼルは正気を疑われていたことだろう。「気は確かか?」と。
他の仲間が天使の話を知った時。不意に会話が途切れた時には、天使が通ってゆくということ。
もうその頃には、「縁起がいい」と前の自分やゼルたちは思っていたものだから…。
「あれから船中に広がったよね。…天使のことも、通ると縁起がいいってことも」
ヒルマンたちも上手く説明してくれたけれど、あの会議、上手くいったから…。
何を決めていたかは忘れたけれども、結果がとても良かったから。
みんな信じてくれたんだよ、と今でも思い出せること。
「天使が通るといいことがある」と、船に一気に広まった噂。会話が急に途切れた時には、神の使いが通ってゆく。天使は話を聞いていたから、上手く運ぶよう、神に伝えてくれるのだと。
「アッと言う間に、みんなに伝わっちまったな。通ってくれると縁起がいい、と」
天使が通って行ってくれたら、神様に伝えて貰えるんだから。
上手くいきそうもないことで悩んでいたって、呆気なく解決しちまうだとか。
まさしく神様のお蔭なんだ、と思っちまうのが人間だ。天使が伝えてくれたからだ、と。
しかし、そいつを狙って沈黙してみたってだ、駄目なんだよなあ…。
今、黙ったなら、天使が通ってくれる筈だ、と口を噤んでも、他の誰かが喋っちまって。
心理的な効果ってヤツを狙って、何度も仕掛けてみていたんだが…。
キャプテンだしな、とハーレイが言っている通り。
「天使が通ると上手くゆく」と仲間たちは思っているわけなのだし、上手い具合に話が途切れてくれれば「縁起がいい」と考える。「きっと上手くいく」と前向きにもなる。
前のハーレイはそれを狙ったけれども、何故か失敗してばかり。天使が通りはしなかった。
「不思議だったよね、あれ…。通る時には通るのにね、天使」
会議の時でも、食堂とかで話していた時も。…休憩室でも、白い鯨のブリッジでもね。
どんなに話が弾んでいたって、会議で意見が飛び交ってたって、天使が通っちゃうんだよ。
誰も黙ろうと思ってないのに静かになるから、「あれ?」って見回しちゃったほど。
こんなに大勢で喋っているのに、どうして全員、話すのをやめてしまったんだろう、って。
あれは本当に不思議だったよ、と今の自分でも思うこと。
前のハーレイが何度仕掛けても、天使は通らなかったのに。…会話は途切れなかったのに。
白い鯨でも、そうなる前のシャングリラでも。
通って欲しいと願ってみたって、天使は通りはしなかった。静けさの中を通る天使は。
何の前触れもなく下りる沈黙、其処を通ってゆく天使は。
願っても通りはしなかった天使。通るようにと仕向けてみたって、起こらなかった急な静けさ。
それがあったら、仲間たちも喜んだだろうに。困難に立ち向かってゆく時は、特に。
「…どうして駄目だったんだろう…?」
前のハーレイが仕掛けてみたって、静かにならなかったんだろう…?
会議の途中に、「また失敗だ」って顔をしてたよ、何回もね。天使が通らなかったから。
通るようにハーレイが仕掛けているのに、誰かが喋って駄目にしちゃって。
一度も成功しなかったっけ、と見詰めたハーレイの鳶色の瞳。「どうしてかな?」と。
「だからこそだろ、本当に天使が通るんだ、って気がしてたのは」
狙ってみたって、通ってくれはしないんだ。…今、頼む、と俺が思っても。
このタイミングで急に静かになったなら、と何度仕掛けても、上手くいくことは無かったな。
俺の努力では、どうしても作り出せなかったもの。そいつが天使が通り過ぎる時の静けさだ。
自由に作り出せていたなら、俺は天使をきちんと信じていられたかどうか…。
疑わしいぞ、とハーレイがフウとついた息。「俺が天使がいるように演出してたんではな」と。
「そうなんだけど…。それが出来ていたら、偽物の天使だったんだけど…」
前のハーレイが作った偽物の天使。「今、通ったぞ」って仲間たちに言うためだけの。
みんなが大喜びをしたって、ハーレイは知っているわけだから…。偽物なことを。
前のぼくだって、ちゃんと気付くよ。ハーレイが作った偽物なんだ、って。
だけど、天使は作れないまま。ハーレイもぼくも、天使を信じていたけれど…。シャングリラの仲間たちも信じていたけど、天使は通っていたよね、きっと。
急に静かになってしまうのは、其処を天使が通って行くから。…ヒルマンも、今のハーレイも、おんなじことを言ったけれども…。
天使、いるよね?
本物の天使は何処かにいるよね、ぼくたちの目には見えないだけで…?
シャングリラの中も、さっきのぼくの部屋も、ホントに天使が通ったんだよね…?
「いるに決まっているだろう。…天使がいないわけがない」
お前の聖痕、誰がくれたのかを考えてみれば分かるだろうが。
そいつは神様が下さったもので、本当に奇跡そのものだってな。…誰が見たって。
神様がいらっしゃるとなったら、天使も同じにいるってことだろ?
天使は神様のお使いなんだし、神様の御用であちこちに飛んで行くんだから。
前の俺たちが生きてたシャングリラにも、今の地球にも…、とハーレイは言った。天使は宇宙の何処にでもいるし、何処へでも飛んでゆくのだと。
純白の翼を広げて天から舞い降りて来ては、神に与えられた用を済ませて、天へ帰ってゆく。
「必要だったら、何往復でもするんだろう。…一日の間に忙しくな」
お前に聖痕が現れた時も、天使は見に来ていたんじゃないか?
守護天使の他にも、神様が寄越したお使いの天使。…ちゃんと聖痕が現れるかどうか、俺たちが無事に出会えるかどうかを確かめるために。
きっと俺たちが出会った後には、真っ直ぐに飛んで行ったんだろう。神様に報告するために。
聖痕がきちんと現れたことと、俺たちが再会出来たことをな。
そういう天使がきっといたさ、というのがハーレイの意見。天使は大勢いるんだから、と。
「…さっき通ったのは、その天使かな?」
猫のミーシャの天使じゃなくって、ぼくの聖痕を見に来た天使。
ぼくがハーレイと再会出来るか、神様のお使いで確かめに来ていた天使なのかな…?
「どうだかなあ…。俺もお前も、ミーシャの名前を出しちまったが…」
猫の天使が通っていたのか、本物の天使か、其処の所は分からんな。…見えないんだから。
俺たちの目に天使の姿は見えんし、通り過ぎたことが分かるってだけだ。さっきみたいに。猫の天使でも、本物の天使の方でもな。
だが、さっきのが、聖痕の時に神様が寄越した天使だとしたら…。
俺たちの様子を見に来たってか?
あの時と同じ天使が通って行ったと言うなら、仕事は俺たちを見ることだよな?
「そう。ぼくたちが幸せにしてるかどうかをね」
ハーレイとぼくが、どうしているかを見に来たんだよ。神様のお使いで、ぼくの家まで。
それなら此処も通って行くよね、ぼくの部屋の中を確かめないと駄目なんだから。
「神様が偵察に寄越したわけだな、この家まで」
今日は土曜で、俺が確実に来る日だから。…俺に用事が入ってないのも確認して。
「うん。ハーレイに他の用事があったら、土曜日でも来られないものね」
天使はきちんと知ってるんだよ、ハーレイの予定も、ぼくの家も、部屋も。
それでね、天使、まだその辺にいそうだから…。
こう横切って、そっちの方にいると思う、と指差した窓とは反対の方。天使は窓からこの部屋に入って、今も部屋の中にいる筈だよ、と。
(…天使は部屋にいるんだし…)
ぼくたちの様子を見に来たんだし、と考えたこと。
聖痕の時に来た天使だったら、自分たちが幸せに過ごしているのを喜ぶ筈。天使を寄越した神様だって、その報告を待っているだろうから…。
「キスをしてよ」とハーレイに強請ってみることにした。恋人同士の唇へのキス。
椅子から立って、ハーレイが腰掛ける椅子の方に行って、その膝の上にチョコンと座って。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくにキスして」
天使が部屋にいる間に。ぼくはとっても幸せだよ、って神様に報告して貰えるから。
ハーレイとちゃんと恋人同士で、キスだってして貰ってたから、って…。
だからお願い、と見上げた恋人の鳶色の瞳。「早くしないと、天使が行っちゃう」と。
「分かった、キスだな?」
俺たちが幸せにしてるってことを、神様に報告して貰うための。
うんと心のこもったキスだな、俺の大切な恋人用の…?
「そうだよ、恋人同士のキス」
恋人同士のキスでなくっちゃ駄目だよ、挨拶のキスじゃ神様もガッカリしちゃうでしょ?
天使も報告するのに困るよ、本当にぼくが幸せかどうか、挨拶のキスじゃ分からないから。
ぼくの唇にキスをしてよね、と念を押してから、閉ざした瞼。
「これでハーレイのキスが貰えるよ」と。
いつも「駄目だ」と叱られるキスが、恋人同士の唇へのキスが。
きっと貰える、とワクワクしながら目を閉じたのに。
神様に報告して貰うためのキスだし、間違いなく唇にキスの筈だ、と考えたのに…。
唇ではなくて、額に貰ってしまったキス。
ハーレイの温かな唇がそっと落とされた先は、額の真ん中。
唇に貰える筈だったのに。…そういうキスを頼んでいたのに、いつもと同じに額へのキス。
とても優しいキスだったけれど。
ハーレイの想いは伝わったけれど、欲しかったキスとは違うのだから…。
あんまりだ、と見開いた瞳。ハーレイをキッと見上げて怒った。
「これは違うよ!」
ぼくが頼んだキスと違うし、恋人同士のキスじゃなくって挨拶のキス…。
こんなの駄目だよ、天使だってきっと呆れているよ。…ぼくたち、仲が良くないかも、って。
ハーレイはぼくを恋人扱いしていないんだし、これじゃ神様もガッカリしそう、って…。
やり直してよ、と睨んだ意地悪な恋人。「せっかく天使が来てくれたのに」と。
けれど、ハーレイは動じなかった。大きな手でクシャリと撫でられた頭。
「チビにはこれで充分だ。神様もそう仰るさ」
天使がキスの報告をしたら、「子供にはそれで丁度いい」とな。幸せそうで良かった、とも。
「ハーレイ、酷い!」
ちゃんとしたキスでも、神様、喜んでくれる筈だよ…!
ぼくはチビでも、前はハーレイと何度もキスをしてたんだから。…ぼくも覚えているんだから!
チビでも、普通のチビじゃないんだよ、ぼく。
なのにチビ扱いしてるだなんて、ハーレイ、ホントに酷いんだから…!
「俺に言わせりゃ、お前みたいなチビにだな…」
子供相手にキスをする方が、よっぽど酷い。キスが何かも分からないような子供にな。
だからお前にキスはしないし、前のお前と同じ背丈に育つまでは駄目だと言ってある。
俺は間違ってはいない筈だぞ、神様だって俺の味方をして下さると思うんだがな…?
いい恋人だ、と褒めて貰えそうな気もするぞ。お前が何と言っていたって、キスしないから。
ケチと言われようが、睨まれようがな。
俺が正しい、と譲らないのがハーレイだから、「ハーレイのケチ!」と叫んでやった。
ついでに胸をポカポカ叩いて、「ハーレイの馬鹿!」と。
恋人の気持ちも分からない馬鹿で、おまけにケチ。こんなに酷い恋人なんて、と。
天使だって呆れて飛んで行きそうと、神様に「酷い恋人です」と報告されたいの、と。
キスもくれない恋人だなんて、誰が聞いても酷いから。
きっと神様も「酷い」と思うだろうし、天使も「幸せそうでした」とは言えないだろうから。
そうなる前にやり直して、と迫ったキス。額ではなくて、唇に。
「頬っぺたにキスっていうのも駄目だよ、ちゃんと唇!」
恋人同士のキスは唇だっていうこと、チビでも知っているんだから…!
天使が神様に「ハーレイは酷い」って言いに行く前に、やり直しのキス…!
でないと「酷い恋人」になっちゃうからね、とハーレイを睨み付けたのに。ハーレイの膝の上に座って、プンスカ怒ってやったのに…。
「キスはともかく、今のお前は幸せだろ?」
違うのか、よくよく考えてみろ。…前のお前はどうなったんだ、俺とキスしていたお前は?
あんまり思い出させたくはないが、お前は泣きながら死んじまった。メギドで独りぼっちでな。
それに比べりゃ、今のお前はずっと幸せで、おまけに青い地球にある家で暮らしてる。
俺だって同じ町に住んでるだろうが、キスは駄目だというだけで。
これでも幸せじゃないと言うのか、お前は充分、幸せに生きてる筈なんだがな…?
どうなんだ、と尋ねられたら、とても言えない。「幸せじゃない」などという言葉は。
唇へのキスが貰えないだけで、「不幸だ」と言えるわけがない。
いくらハーレイがケチな恋人でも。…キスをくれない、意地悪で酷い恋人でも。
「…そうだけど…。ぼくは幸せなんだけど…」
前のぼくだった頃よりも、ずっと。…メギドで死んじゃった時よりは、ずっと。でも…。
ハーレイのキス、と肩を落としているのに、キスはやっぱり貰えなかった。「分かってるな」と見据えられて。
「チビのお前に、キスはまだまだ早いんだ。…早すぎるってな」
幸せなんだと分かっているなら、天使に報告して貰え。神様の所へ行って貰って。
お前は俺と、幸せに暮らしているんだとな。この地球の上で、それは幸せに。
色々と文句も言っちゃいるがだ、ケチな恋人でもいないよりかはマシだろう?
今の幸せを神様に報告して貰うことが大切だ。…お前に聖痕を下さった、神様にな。
天使が報告してくれたならば、もっと幸せになれるんだぞ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
今よりもずっと、前よりも遥かに幸せに…、と。
「俺と一緒に暮らし始めたら、もう最高に幸せだろうが」
その幸せを神様から貰うためには、天使の報告が大切なんだ。お前は幸せに生きている、とな。
不幸だなんて言っていたんじゃ、神様もムッとなさっちまうぞ。
「分かってるけど…。その幸せって、いつかは、でしょ?」
今すぐ貰えるわけじゃなくって、まだずっと先…。
ハーレイと結婚出来る年が来ないと、最高の幸せ、貰えないんだけれど…。
「いつか必ず叶うんだ。其処の所を忘れちゃいかん」
シャングリラの会議で通った天使も、そうだったろうが。直ぐに願いは叶わなかったが…。
白い鯨は立派に出来たし、他にも色々、願いを叶えてくれたんだから。
天使が通った会議は縁起がいい、と言われたくらいにな。…天使はきちんと聞いていたんだ。
神様にどれを伝えればいいか、どの願いを叶えて貰うべきかを。
今のお前の幸せだって、それと同じだ。天使が通って行ったからには、叶うってな。
何でもかんでも叶いやしない、というわけで、今はキスは駄目だが。
「そうだったっけね…」
叶わなかったこともあったけれども、天使が通った会議の中身は、沢山叶えて貰えたよ。
神様にちゃんと届いてたんだね、前のぼくたちがお願いしたかったこと。
白い鯨を作り上げることも、いつか地球まで行くってことも。
ミュウと人類が手を取り合える世界は、どうすれば手に入るのかも…。
白い鯨になる前の船で、白いシャングリラで、何度も何度も重ねた会議。雲を掴むような議題の時だってあった。座標も分からない地球のこととか、人類との和解の方法だとか。
そうした会議を開いていた時、スイと黙って通り過ぎた天使。皆の言葉が不意に途切れて、ただ静けさが満ちている中を。
(…天使、何度も通ってたっけ…)
姿は誰にも見えなかったけれど、気配も感じはしなかったけれど。
それでも天使は通り過ぎたし、会議の途中に通った天使は願いを届けてくれたのだろう。どれを届けるべきかを選んで、神の所に。白い翼を広げて天へと飛び立って行って。
(前のぼくたちのお願い、天使が神様に届けてくれていたから…)
青い水の星は何処にも無かったけれども、白いシャングリラは地球まで行けた。
地球には行けずに終わった自分も、青い地球まで来ることが出来た。聖痕を持って、ハーレイと再び巡り会って。…前の自分とそっくり同じに育つ身体と命を貰って。
「…ぼくのお願い、いつか叶えて貰えるんだし…」
欲張りだったら、神様の罰が当たっちゃうかもしれないね。
こんなに幸せに生きているのに、幸せじゃない、って膨れっ面で怒っていたら。
天使が神様に報告しちゃって、ぼくの幸せ、減らされるかも…。
「分かったか? チビ」
今度も願いを叶えて貰いたかったら、キスはだな…。
どうするんだっけな、とハーレイが訊くから、「我慢だよね」と頷いた。
本当はキスを貰いたいけれど、それは欲張りらしいから。
「…前のぼくと同じに大きくなるまで、我慢する…」
ハーレイのキスは欲しいけれども、ぼくは充分、幸せだから…。
前のぼくよりずっと幸せで、もっと幸せになれるんだから…。
我慢するよ、と見上げた恋人の顔。まだ膝の上に座ったままで。
いつか大きくなった時には、ハーレイから貰える唇へのキス。
今はまだキスは貰えないけれど、キスは駄目でも幸せだよ、と見えない天使に呼び掛けた。
部屋を横切って行った天使に、幸せかどうかを見に来ただろう天使に。
(ぼくはホントに幸せだから…)
幸せ一杯に過ごしているから、ちゃんと神様に伝えてね、と。
ハーレイに「ケチ」と言ったけれども、それは自分の小さな我儘。
本当はハーレイはとても優しくて、唇にキスをくれないだけ。
たったそれだけ、チビの自分はとても幸せ。
ハーレイと二人で過ごせる時間は幸せなのだし、これからもずっと幸せだよ、と…。
天使が通る時・了
※会話が急に途切れる時には、天使が通って行ったのだ、という遠い昔の地球の言い伝え。
シャングリラでは、「会議の時に天使が通ると縁起がいい」と、皆に喜ばれていたようです。
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困っちゃった、とブルーが瞬かせた瞳。
今日は土曜日、訪ねて来てくれたハーレイと過ごしていたのだけれど。部屋のテーブルを挟んで向かい合わせで、のんびりと昼食の後のお茶。その最中に途切れた会話。
何をしたわけでも無かったのに。楽しく話が弾んでいたのに、何かのはずみにプッツリと。
(ハーレイだって…)
黙っちゃった、と向かい側に座る恋人を見詰めた。どうしよう、と。
ハーレイの瞳もこちらを見ている。「どうしたんだ?」と尋ねるように。けれど会話は途切れてしまって、それっきり。ハーレイからは何も話してくれない。
(何か、話さないと…)
せっかく二人で過ごせる休日、黙って座ったままなんて、嫌。甘えてくっつく時ならともかく、こうして離れていたのでは。…間にテーブルがある状態では。
なんでもいいや、とミーシャの話をすることにした。ハーレイの母が飼っていた猫。ハーレイがまだ子供だった頃に、隣町の家で。真っ白で甘えん坊だったミーシャ。
思い付いたからミーシャのこと、と。「ミーシャのお話、何か聞かせて」と強請ろうと。
「えっとね…」
口を開いたら、「それでだな…」と重なって来たハーレイの言葉。まるで同時に、合図でもして二人で話し始めたように。ハーレイも何か思い付いたのだろうか、話の種を?
それを聞く方が断然いいよ、と「先に喋って」と促したけれど。
「お前が先でいいだろう。話したいこと、あるんだろうが」
優先してやる、と譲って貰っても困る。大したことではないわけなのだし、ハーレイが先に話をすべき。なのにハーレイは、後からでいいと言うものだから…。
「じゃあ、同時に喋ればいいじゃない」
それで決めようよ、ぼくが先なのか、ハーレイが先か。
話の中身を少し聞いたら、どっちを優先すればいいのか、きっと分かると思うから。
それがいいよ、と提案した。お互いの話を口にしてみて、中身のありそうな話を先にしようと。
ハーレイも賛成してくれたから、合図して声を揃えたのだけれど。同時に話し始めたけれども、蓋を開けたら、ハーレイの方もミーシャのこと。「何か知りたいことはあるか?」と。
二人揃って吹き出した。どちらもミーシャだったのだから。
「ビックリしちゃった、ハーレイもミーシャの話だなんて」
それも話があるんじゃなくって、訊きたいことはあるかだなんて。面白いよね。
「俺も驚いちまったが…。お互い、ネタに詰まっちまったらミーシャなんだな」
お前も俺も、と可笑しそうなハーレイ。「此処にミーシャはいないんだがな?」と。
「そうみたい…。だけど、ミーシャは可愛いから…」
前に見せて貰った写真もそうだし、今までに聞いた話もだよ。
生のお魚は嫌いで焼いて欲しがるとか、木から下りられなくなっちゃったとか。
「確かに山ほどあるんだよなあ、ミーシャの話は。…それに間違ってもいないだろう」
ミーシャも今では天使なんだし、この選択で正しいってな。
「え? 天使って…」
どうして天使、と目を丸くした。ミーシャが天使だと、どうかしたのだろうか?
「それはまあ…。死んじまったから、猫の天使だ。生まれ変わっていなければ、だが」
死んだら天使になると思うぞ、猫だって。…もちろん、ミーシャも。
「それでミーシャは天使なんだね、今は天国の猫だから。…今も天国で暮らしてるんなら」
だけど、なんでミーシャで正しいわけ?
ぼくとハーレイがお喋りするのに、二人揃ってミーシャだったこと…。どう正しいの?
分からないよ、と傾げた首。本当にまるで謎だったから。
「天使が通って行ったからさ」
当たり前のように返った答え。ますます意味が掴めない。
「なにそれ?」
天使が通って行くって何なの、ぼくは天使なんか見なかったよ?
「知らないか?」
そういう言葉があるんだが…。ずっと昔の言葉だがな。
会話が不意に途切れた時。さっきのように急に静かになってしまった、その時間のこと。
それを「天使が通って行った」と言うらしい。人間が地球しか知らなかった遠い昔の言葉。
「今の場合はミーシャなんだな、猫の天使だ」
俺もお前も、ミーシャの話を始めたってことは、そうなんだろう。…きっとミーシャだ。
もっとも、ミーシャは何処かに新しく生まれちまって、別の天使かもしれないが…。
ミーシャの名前が出て来たってだけで、本物の天使が通ったかもな。絵とか彫刻にいる天使。
とにかく天使だ、とハーレイが教えてくれたこと。「天使が通る」という言葉。
「なんだか素敵な言葉だね。それにミーシャなら…」
猫の天使なら、きっと可愛いよ。背中に翼が生えている猫。
「そうだな、ミーシャは真っ白だったし…。白い翼だって似合うだろう」
三毛だのブチだの、そういう猫なら、どんな翼が生えるんだろうな?
猫の天使の翼はどれでも白いんだったら、似合わない猫もいると思うぞ。
「模様によるよね、もしかしたら翼も模様つきかも…。ブチとか、トラとか」
どっちにしたって、白いミーシャが一番似合うよ、天使の翼。毛皮も翼も真っ白だから。
通って行ったの、ミーシャだったら、どっちに歩いて行ったのかな?
庭の方から入って来たのか、ドアの方から来て窓から出て行ったのか…。
天使は空を飛べるんだものね、二階の窓でも入口で出口。
「さてなあ…。俺たちの目には見えないからなあ、天使ってヤツは」
それに本物の天使だったかもしれないぞ。ミーシャじゃなくて、人の姿の方の天使だ。
「何かの用事で通ったわけ?」
「そうなるんだろうな、守護天使なら側にいるモンだろうし」
俺やお前を側で見守るのが仕事なんだから、今だって側にいなくちゃな。
「通って何処かに行きはしないよね、守護天使なら」
離れちゃったら、天使のお仕事、出来ないし…。通り過ぎるわけがないもんね。
「そういうこった。…だからさっきのは、通りすがりの天使だな」
ミーシャにしたって、本物の天使の方にしたって。…猫の天使でも本物と言うかもしれないが。
しかし、普通に「天使」と言ったら、そいつは絵とかでお馴染みのヤツで…。
待てよ…?
天使の定義ってヤツはともかく、とハーレイは顎に手を当てた。「その天使だ」と。
「ずっと昔に、こういう話をしなかったか?」
そう訊かれたから、キョトンとした。
「話って…。天使?」
ハーレイと天使の話をしたわけ、今日みたいに…?
「そうだ、今日のと全く同じだ。猫の天使か、本物の天使かは別にしてだな…」
天使が通って行くというヤツ。話が途切れちまった時には、天使が通っているんだ、とな。
「…今じゃなくって、前のぼくたち?」
今のぼくは初めて聞いた話だし、前のぼくたちのことだよね…?
「そうなるな。…話したという気がするんだが…。さっき天使が通ったな、といった具合に」
話が途切れたら、天使が通る。…そういう話をしてた気がする。
「それって、青の間? それよりも前?」
青の間が出来る前にしてたの、天使の話を?
まだハーレイとは恋人同士じゃなかった頃かな、天使が通って行ったのは…?
「どうだったんだか…。俺たちの間を通ったのかどうか…」
あんな風だった、と思いはするんだが…。もっと大勢いたような…。二人きりじゃなくて。
青の間でも集まることはあったし、青の間なのかもしれないが…。
違うな、あれは青の間じゃなかった。…会議室だ。
「会議室?」
あの部屋だよね、と思い浮かべた会議室。白いシャングリラでゼルたちとよく会議をしていた。てっきりそうだと考えたのに、ハーレイは「前の会議室だぞ」と付け加えた。
「白い鯨になる前の船だ、あそこにも会議室があっただろうが」
覚えていないか、ヒルマンのヤツが言い出したんだ。…其処で会議をやっていた時に。
正確に言うなら会議の後だな、雑談の時間といった所か。
「ああ…!」
ホントだ、天使が通ったんだよ。あの時も、さっきみたいにね。
思い出した、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で通り過ぎた天使。自分たちの前を。
まだ白い鯨ではなかった船で。元は人類のものだった船に「シャングリラ」と名付けて、宇宙を旅していた頃のこと。
とうにソルジャーだった前の自分と、キャプテンだった前のハーレイ。それにゼルたち、長老と呼ばれ始めていた四人。その六人で色々と会議をしたものだった。会議室と呼んでいた部屋で。
あの時は何の会議だったか、船のことか、それとも物資などのことか。
いつものように会議を進めて、終わった後も会議室に残って話していたら、急に途切れた会話。六人もいるのに、プッツリと。
静かになってしまった部屋。何の前触れもなく声が途絶えて、ただ沈黙が流れるばかり。空気は和やかなままなのに。…誰が怒ったわけでもないのに。
(…どう話そうか、って…)
今日の自分と全く同じ。何の話を持ち出せばいいか、どうすれば自然に会話が戻って来るか。
見回してみれば、皆がタイミングを考えているのが分かる。何を話そうかと、いつがいいかと。
(他のみんなも考えてたから…)
様子を見た方がいいのだろうか、と思っていたら…。
「通って行ったね」
ヒルマンが口にした不思議な言葉。何も通ってはいないのに。人も、その他の生き物も。
白い鯨になる前の船に、人間以外の生き物はいない。誰か入って来たならともかく、それ以外で何か通りはしない。
「ちょいとお待ちよ、あんた、頭は確かかい?」
ブラウの質問は当然のもので、誰も「失礼だ」と止めはしなかった。「頭は確かかい?」という酷い言葉でも。…それをブラウが言わなかったら、他の誰かが言っただろうから。
だから遮られずに続けたブラウ。「誰も通っちゃいないよ、此処は」と。
「それとも外の通路をかい?」
あんた、余所見をしていたわけかい、そんなに退屈だったかねえ…?
退屈だったら部屋に帰ればいいじゃないか、とブラウは容赦なかったけれども、ヒルマンは余裕たっぷりに言った。
「違うね、通ったのは此処をだよ。…天使が通って行ったんだ」
今のように会話が途切れた時には、そう言ったそうだ。人間が地球にいた頃にはね。
遠い昔に地球で生まれた、「天使が通る」という言葉。賑やかな会話が急に途切れて、代わりに訪れる静かすぎる時間。そうなる理由は、天使が其処を通ってゆくから。
「天使が此処を通っただって?」
それは素敵だ、と前の自分は考えた。「此処を天使が通ったのなら、嬉しいな」と。
天使が通って行ったと言うなら、シャングリラにも天使がいるということ。たとえ通っただけにしたって、訪れなければ通りはしない。船に入らないと会議室には来られないから。
一日に何度か船に来るのか、それとも船に住んでいるのか。どちらにしても、天使はいる。人類から隠れ続ける船でも、何処にも寄らずに暗い宇宙を飛んでゆくだけのシャングリラでも。
そう話したら、ヒルマンは「なるほどねえ…」と髭を引っ張った。
「天使が通って行ったのならば、それは天使がいるからだ、と…」
我々にも天使がついているという証明なのだね、さっき天使が通ったことは?
「いい考えだと思わないかい?」
天使だなんて、皆は笑うだろうけれど…。ぼくは信じてみたいと思うよ。
神様がいるなら、天使も何処かにいるんだろう。…この船を天使が通ってゆくなら、神様が船を見て下さっているということだ。そう信じたいよ、この船にも天使はいるんだ、とね。
「あたしだって、もちろん信じたいさ」
笑いやしないよ、とブラウが応じて、「わしもじゃな」とゼルが頷いた。エラも「ええ」と。
人類に迫害されていたのがミュウ。星ごと滅ぼされそうになった所を、懸命に宇宙へと逃げた。人類が捨てた船を見付けて、乗り込んで。…シャングリラと名付けて、今も宇宙を流離うだけ。
そんな船にも天使が来るなら、誰だって信じてみたくなるもの。その存在を。神の使いを。
もしも天使が通ったのなら、と弾んだ話。
さっきの沈黙が嘘だったように、それは賑やかに話し続けた。会議室を通った天使のことを。
天使が通り過ぎた時には、会議は済んでいたのだけれど。とうに終わって雑談していた時だったけれど、その前から天使はいただろう。いつ通ろうかと、この会議室の何処かに立って。
天使が見ていたろう会議。何を話すのか、何を相談しているのかと。
会議の中身も天使は聞いたに違いないから、神に伝えてくれるといい。この船のことを、此処で生きているミュウたちのことを。
これからも上手くいくように。この船で生きてゆけるようにと、神に頼んでくれたらいい。この船に住んでいるのなら。…住んでいなくても、訪れるなら。
それが最初に「天使が通って行った」時。シャングリラの中を、神の使いが。
(…猫の天使じゃなかったけれど…)
今の平和な時代と違って、そんな夢を描けはしなかった時代。猫も船にはいなかった。白い鯨になった後にも、猫がやっては来なかった。
けれど、シャングリラにもいた天使。時々、通ってゆく天使。会話や会議の最中に、スッと。
「天使が通ると縁起がいい、って話にもなっていなかった?」
いいことがあるよ、って思っていたよ。…前のぼく、何度もそう思ってた。
今日は天使が通ったんだし、きっと何もかも上手く行くんだ、って。
「あったな、そういう話もな。最初は俺たちの間だけだったが…」
シャングリラ中に広がったっけな、とハーレイも思い出してくれた天使のこと。シャングリラで喜ばれた天使。さっきのように通り過ぎたら、急に静けさが訪れたなら。
天使が通った会議の議題。…会議の途中や、終わった後に天使が通って行った時。
上手くゆく案件が多かったから、「天使が神に伝えるのだ」と言い始めたのは誰だったか。神に伝えてくれたお蔭で、あの時の件は上手く運んだ、と。天使が力を貸してくれたと。
そう言ったのはエラだったろうか、それともブラウだったのか。
今では思い出せないけれども、いつの頃からか、そういうことになっていた。会議に常に集まる六人、前の自分とキャプテン、それに長老の四人の間では。
「今日の会議は天使が通ったから大丈夫だ」といった具合に。難しい案件だった時にも、天使が通れば上手くゆくように思えた会議。…駄目なことも、もちろん多かったけれど。
(いつも、そうやって話してたから…)
白い鯨への改造のために、大人数での会議が増え始めた時。いつもの六人以外の仲間も交えて、様々なことを決め始めた頃。
何かの会議で、やはり同じに天使が通って、しんと静まり返った席。どうしようか、と慣れない仲間が顔を見合わせる中で、ゼルが沈黙を打ち破った。
「なあに、大丈夫じゃ。天使がついておるからな」
今も通って行ったわい、とやったものだから、たちまちざわついた仲間たち。天使どころか何も通っていなかったのに、と。
皆の反応は、最初に「天使が通った」時と同じもの。ずっと昔に、六人だけの会議の席で。
ヒルマンとエラが説明するまで、ゼルは正気を疑われていたことだろう。「気は確かか?」と。
他の仲間が天使の話を知った時。不意に会話が途切れた時には、天使が通ってゆくということ。
もうその頃には、「縁起がいい」と前の自分やゼルたちは思っていたものだから…。
「あれから船中に広がったよね。…天使のことも、通ると縁起がいいってことも」
ヒルマンたちも上手く説明してくれたけれど、あの会議、上手くいったから…。
何を決めていたかは忘れたけれども、結果がとても良かったから。
みんな信じてくれたんだよ、と今でも思い出せること。
「天使が通るといいことがある」と、船に一気に広まった噂。会話が急に途切れた時には、神の使いが通ってゆく。天使は話を聞いていたから、上手く運ぶよう、神に伝えてくれるのだと。
「アッと言う間に、みんなに伝わっちまったな。通ってくれると縁起がいい、と」
天使が通って行ってくれたら、神様に伝えて貰えるんだから。
上手くいきそうもないことで悩んでいたって、呆気なく解決しちまうだとか。
まさしく神様のお蔭なんだ、と思っちまうのが人間だ。天使が伝えてくれたからだ、と。
しかし、そいつを狙って沈黙してみたってだ、駄目なんだよなあ…。
今、黙ったなら、天使が通ってくれる筈だ、と口を噤んでも、他の誰かが喋っちまって。
心理的な効果ってヤツを狙って、何度も仕掛けてみていたんだが…。
キャプテンだしな、とハーレイが言っている通り。
「天使が通ると上手くゆく」と仲間たちは思っているわけなのだし、上手い具合に話が途切れてくれれば「縁起がいい」と考える。「きっと上手くいく」と前向きにもなる。
前のハーレイはそれを狙ったけれども、何故か失敗してばかり。天使が通りはしなかった。
「不思議だったよね、あれ…。通る時には通るのにね、天使」
会議の時でも、食堂とかで話していた時も。…休憩室でも、白い鯨のブリッジでもね。
どんなに話が弾んでいたって、会議で意見が飛び交ってたって、天使が通っちゃうんだよ。
誰も黙ろうと思ってないのに静かになるから、「あれ?」って見回しちゃったほど。
こんなに大勢で喋っているのに、どうして全員、話すのをやめてしまったんだろう、って。
あれは本当に不思議だったよ、と今の自分でも思うこと。
前のハーレイが何度仕掛けても、天使は通らなかったのに。…会話は途切れなかったのに。
白い鯨でも、そうなる前のシャングリラでも。
通って欲しいと願ってみたって、天使は通りはしなかった。静けさの中を通る天使は。
何の前触れもなく下りる沈黙、其処を通ってゆく天使は。
願っても通りはしなかった天使。通るようにと仕向けてみたって、起こらなかった急な静けさ。
それがあったら、仲間たちも喜んだだろうに。困難に立ち向かってゆく時は、特に。
「…どうして駄目だったんだろう…?」
前のハーレイが仕掛けてみたって、静かにならなかったんだろう…?
会議の途中に、「また失敗だ」って顔をしてたよ、何回もね。天使が通らなかったから。
通るようにハーレイが仕掛けているのに、誰かが喋って駄目にしちゃって。
一度も成功しなかったっけ、と見詰めたハーレイの鳶色の瞳。「どうしてかな?」と。
「だからこそだろ、本当に天使が通るんだ、って気がしてたのは」
狙ってみたって、通ってくれはしないんだ。…今、頼む、と俺が思っても。
このタイミングで急に静かになったなら、と何度仕掛けても、上手くいくことは無かったな。
俺の努力では、どうしても作り出せなかったもの。そいつが天使が通り過ぎる時の静けさだ。
自由に作り出せていたなら、俺は天使をきちんと信じていられたかどうか…。
疑わしいぞ、とハーレイがフウとついた息。「俺が天使がいるように演出してたんではな」と。
「そうなんだけど…。それが出来ていたら、偽物の天使だったんだけど…」
前のハーレイが作った偽物の天使。「今、通ったぞ」って仲間たちに言うためだけの。
みんなが大喜びをしたって、ハーレイは知っているわけだから…。偽物なことを。
前のぼくだって、ちゃんと気付くよ。ハーレイが作った偽物なんだ、って。
だけど、天使は作れないまま。ハーレイもぼくも、天使を信じていたけれど…。シャングリラの仲間たちも信じていたけど、天使は通っていたよね、きっと。
急に静かになってしまうのは、其処を天使が通って行くから。…ヒルマンも、今のハーレイも、おんなじことを言ったけれども…。
天使、いるよね?
本物の天使は何処かにいるよね、ぼくたちの目には見えないだけで…?
シャングリラの中も、さっきのぼくの部屋も、ホントに天使が通ったんだよね…?
「いるに決まっているだろう。…天使がいないわけがない」
お前の聖痕、誰がくれたのかを考えてみれば分かるだろうが。
そいつは神様が下さったもので、本当に奇跡そのものだってな。…誰が見たって。
神様がいらっしゃるとなったら、天使も同じにいるってことだろ?
天使は神様のお使いなんだし、神様の御用であちこちに飛んで行くんだから。
前の俺たちが生きてたシャングリラにも、今の地球にも…、とハーレイは言った。天使は宇宙の何処にでもいるし、何処へでも飛んでゆくのだと。
純白の翼を広げて天から舞い降りて来ては、神に与えられた用を済ませて、天へ帰ってゆく。
「必要だったら、何往復でもするんだろう。…一日の間に忙しくな」
お前に聖痕が現れた時も、天使は見に来ていたんじゃないか?
守護天使の他にも、神様が寄越したお使いの天使。…ちゃんと聖痕が現れるかどうか、俺たちが無事に出会えるかどうかを確かめるために。
きっと俺たちが出会った後には、真っ直ぐに飛んで行ったんだろう。神様に報告するために。
聖痕がきちんと現れたことと、俺たちが再会出来たことをな。
そういう天使がきっといたさ、というのがハーレイの意見。天使は大勢いるんだから、と。
「…さっき通ったのは、その天使かな?」
猫のミーシャの天使じゃなくって、ぼくの聖痕を見に来た天使。
ぼくがハーレイと再会出来るか、神様のお使いで確かめに来ていた天使なのかな…?
「どうだかなあ…。俺もお前も、ミーシャの名前を出しちまったが…」
猫の天使が通っていたのか、本物の天使か、其処の所は分からんな。…見えないんだから。
俺たちの目に天使の姿は見えんし、通り過ぎたことが分かるってだけだ。さっきみたいに。猫の天使でも、本物の天使の方でもな。
だが、さっきのが、聖痕の時に神様が寄越した天使だとしたら…。
俺たちの様子を見に来たってか?
あの時と同じ天使が通って行ったと言うなら、仕事は俺たちを見ることだよな?
「そう。ぼくたちが幸せにしてるかどうかをね」
ハーレイとぼくが、どうしているかを見に来たんだよ。神様のお使いで、ぼくの家まで。
それなら此処も通って行くよね、ぼくの部屋の中を確かめないと駄目なんだから。
「神様が偵察に寄越したわけだな、この家まで」
今日は土曜で、俺が確実に来る日だから。…俺に用事が入ってないのも確認して。
「うん。ハーレイに他の用事があったら、土曜日でも来られないものね」
天使はきちんと知ってるんだよ、ハーレイの予定も、ぼくの家も、部屋も。
それでね、天使、まだその辺にいそうだから…。
こう横切って、そっちの方にいると思う、と指差した窓とは反対の方。天使は窓からこの部屋に入って、今も部屋の中にいる筈だよ、と。
(…天使は部屋にいるんだし…)
ぼくたちの様子を見に来たんだし、と考えたこと。
聖痕の時に来た天使だったら、自分たちが幸せに過ごしているのを喜ぶ筈。天使を寄越した神様だって、その報告を待っているだろうから…。
「キスをしてよ」とハーレイに強請ってみることにした。恋人同士の唇へのキス。
椅子から立って、ハーレイが腰掛ける椅子の方に行って、その膝の上にチョコンと座って。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくにキスして」
天使が部屋にいる間に。ぼくはとっても幸せだよ、って神様に報告して貰えるから。
ハーレイとちゃんと恋人同士で、キスだってして貰ってたから、って…。
だからお願い、と見上げた恋人の鳶色の瞳。「早くしないと、天使が行っちゃう」と。
「分かった、キスだな?」
俺たちが幸せにしてるってことを、神様に報告して貰うための。
うんと心のこもったキスだな、俺の大切な恋人用の…?
「そうだよ、恋人同士のキス」
恋人同士のキスでなくっちゃ駄目だよ、挨拶のキスじゃ神様もガッカリしちゃうでしょ?
天使も報告するのに困るよ、本当にぼくが幸せかどうか、挨拶のキスじゃ分からないから。
ぼくの唇にキスをしてよね、と念を押してから、閉ざした瞼。
「これでハーレイのキスが貰えるよ」と。
いつも「駄目だ」と叱られるキスが、恋人同士の唇へのキスが。
きっと貰える、とワクワクしながら目を閉じたのに。
神様に報告して貰うためのキスだし、間違いなく唇にキスの筈だ、と考えたのに…。
唇ではなくて、額に貰ってしまったキス。
ハーレイの温かな唇がそっと落とされた先は、額の真ん中。
唇に貰える筈だったのに。…そういうキスを頼んでいたのに、いつもと同じに額へのキス。
とても優しいキスだったけれど。
ハーレイの想いは伝わったけれど、欲しかったキスとは違うのだから…。
あんまりだ、と見開いた瞳。ハーレイをキッと見上げて怒った。
「これは違うよ!」
ぼくが頼んだキスと違うし、恋人同士のキスじゃなくって挨拶のキス…。
こんなの駄目だよ、天使だってきっと呆れているよ。…ぼくたち、仲が良くないかも、って。
ハーレイはぼくを恋人扱いしていないんだし、これじゃ神様もガッカリしそう、って…。
やり直してよ、と睨んだ意地悪な恋人。「せっかく天使が来てくれたのに」と。
けれど、ハーレイは動じなかった。大きな手でクシャリと撫でられた頭。
「チビにはこれで充分だ。神様もそう仰るさ」
天使がキスの報告をしたら、「子供にはそれで丁度いい」とな。幸せそうで良かった、とも。
「ハーレイ、酷い!」
ちゃんとしたキスでも、神様、喜んでくれる筈だよ…!
ぼくはチビでも、前はハーレイと何度もキスをしてたんだから。…ぼくも覚えているんだから!
チビでも、普通のチビじゃないんだよ、ぼく。
なのにチビ扱いしてるだなんて、ハーレイ、ホントに酷いんだから…!
「俺に言わせりゃ、お前みたいなチビにだな…」
子供相手にキスをする方が、よっぽど酷い。キスが何かも分からないような子供にな。
だからお前にキスはしないし、前のお前と同じ背丈に育つまでは駄目だと言ってある。
俺は間違ってはいない筈だぞ、神様だって俺の味方をして下さると思うんだがな…?
いい恋人だ、と褒めて貰えそうな気もするぞ。お前が何と言っていたって、キスしないから。
ケチと言われようが、睨まれようがな。
俺が正しい、と譲らないのがハーレイだから、「ハーレイのケチ!」と叫んでやった。
ついでに胸をポカポカ叩いて、「ハーレイの馬鹿!」と。
恋人の気持ちも分からない馬鹿で、おまけにケチ。こんなに酷い恋人なんて、と。
天使だって呆れて飛んで行きそうと、神様に「酷い恋人です」と報告されたいの、と。
キスもくれない恋人だなんて、誰が聞いても酷いから。
きっと神様も「酷い」と思うだろうし、天使も「幸せそうでした」とは言えないだろうから。
そうなる前にやり直して、と迫ったキス。額ではなくて、唇に。
「頬っぺたにキスっていうのも駄目だよ、ちゃんと唇!」
恋人同士のキスは唇だっていうこと、チビでも知っているんだから…!
天使が神様に「ハーレイは酷い」って言いに行く前に、やり直しのキス…!
でないと「酷い恋人」になっちゃうからね、とハーレイを睨み付けたのに。ハーレイの膝の上に座って、プンスカ怒ってやったのに…。
「キスはともかく、今のお前は幸せだろ?」
違うのか、よくよく考えてみろ。…前のお前はどうなったんだ、俺とキスしていたお前は?
あんまり思い出させたくはないが、お前は泣きながら死んじまった。メギドで独りぼっちでな。
それに比べりゃ、今のお前はずっと幸せで、おまけに青い地球にある家で暮らしてる。
俺だって同じ町に住んでるだろうが、キスは駄目だというだけで。
これでも幸せじゃないと言うのか、お前は充分、幸せに生きてる筈なんだがな…?
どうなんだ、と尋ねられたら、とても言えない。「幸せじゃない」などという言葉は。
唇へのキスが貰えないだけで、「不幸だ」と言えるわけがない。
いくらハーレイがケチな恋人でも。…キスをくれない、意地悪で酷い恋人でも。
「…そうだけど…。ぼくは幸せなんだけど…」
前のぼくだった頃よりも、ずっと。…メギドで死んじゃった時よりは、ずっと。でも…。
ハーレイのキス、と肩を落としているのに、キスはやっぱり貰えなかった。「分かってるな」と見据えられて。
「チビのお前に、キスはまだまだ早いんだ。…早すぎるってな」
幸せなんだと分かっているなら、天使に報告して貰え。神様の所へ行って貰って。
お前は俺と、幸せに暮らしているんだとな。この地球の上で、それは幸せに。
色々と文句も言っちゃいるがだ、ケチな恋人でもいないよりかはマシだろう?
今の幸せを神様に報告して貰うことが大切だ。…お前に聖痕を下さった、神様にな。
天使が報告してくれたならば、もっと幸せになれるんだぞ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
今よりもずっと、前よりも遥かに幸せに…、と。
「俺と一緒に暮らし始めたら、もう最高に幸せだろうが」
その幸せを神様から貰うためには、天使の報告が大切なんだ。お前は幸せに生きている、とな。
不幸だなんて言っていたんじゃ、神様もムッとなさっちまうぞ。
「分かってるけど…。その幸せって、いつかは、でしょ?」
今すぐ貰えるわけじゃなくって、まだずっと先…。
ハーレイと結婚出来る年が来ないと、最高の幸せ、貰えないんだけれど…。
「いつか必ず叶うんだ。其処の所を忘れちゃいかん」
シャングリラの会議で通った天使も、そうだったろうが。直ぐに願いは叶わなかったが…。
白い鯨は立派に出来たし、他にも色々、願いを叶えてくれたんだから。
天使が通った会議は縁起がいい、と言われたくらいにな。…天使はきちんと聞いていたんだ。
神様にどれを伝えればいいか、どの願いを叶えて貰うべきかを。
今のお前の幸せだって、それと同じだ。天使が通って行ったからには、叶うってな。
何でもかんでも叶いやしない、というわけで、今はキスは駄目だが。
「そうだったっけね…」
叶わなかったこともあったけれども、天使が通った会議の中身は、沢山叶えて貰えたよ。
神様にちゃんと届いてたんだね、前のぼくたちがお願いしたかったこと。
白い鯨を作り上げることも、いつか地球まで行くってことも。
ミュウと人類が手を取り合える世界は、どうすれば手に入るのかも…。
白い鯨になる前の船で、白いシャングリラで、何度も何度も重ねた会議。雲を掴むような議題の時だってあった。座標も分からない地球のこととか、人類との和解の方法だとか。
そうした会議を開いていた時、スイと黙って通り過ぎた天使。皆の言葉が不意に途切れて、ただ静けさが満ちている中を。
(…天使、何度も通ってたっけ…)
姿は誰にも見えなかったけれど、気配も感じはしなかったけれど。
それでも天使は通り過ぎたし、会議の途中に通った天使は願いを届けてくれたのだろう。どれを届けるべきかを選んで、神の所に。白い翼を広げて天へと飛び立って行って。
(前のぼくたちのお願い、天使が神様に届けてくれていたから…)
青い水の星は何処にも無かったけれども、白いシャングリラは地球まで行けた。
地球には行けずに終わった自分も、青い地球まで来ることが出来た。聖痕を持って、ハーレイと再び巡り会って。…前の自分とそっくり同じに育つ身体と命を貰って。
「…ぼくのお願い、いつか叶えて貰えるんだし…」
欲張りだったら、神様の罰が当たっちゃうかもしれないね。
こんなに幸せに生きているのに、幸せじゃない、って膨れっ面で怒っていたら。
天使が神様に報告しちゃって、ぼくの幸せ、減らされるかも…。
「分かったか? チビ」
今度も願いを叶えて貰いたかったら、キスはだな…。
どうするんだっけな、とハーレイが訊くから、「我慢だよね」と頷いた。
本当はキスを貰いたいけれど、それは欲張りらしいから。
「…前のぼくと同じに大きくなるまで、我慢する…」
ハーレイのキスは欲しいけれども、ぼくは充分、幸せだから…。
前のぼくよりずっと幸せで、もっと幸せになれるんだから…。
我慢するよ、と見上げた恋人の顔。まだ膝の上に座ったままで。
いつか大きくなった時には、ハーレイから貰える唇へのキス。
今はまだキスは貰えないけれど、キスは駄目でも幸せだよ、と見えない天使に呼び掛けた。
部屋を横切って行った天使に、幸せかどうかを見に来ただろう天使に。
(ぼくはホントに幸せだから…)
幸せ一杯に過ごしているから、ちゃんと神様に伝えてね、と。
ハーレイに「ケチ」と言ったけれども、それは自分の小さな我儘。
本当はハーレイはとても優しくて、唇にキスをくれないだけ。
たったそれだけ、チビの自分はとても幸せ。
ハーレイと二人で過ごせる時間は幸せなのだし、これからもずっと幸せだよ、と…。
天使が通る時・了
※会話が急に途切れる時には、天使が通って行ったのだ、という遠い昔の地球の言い伝え。
シャングリラでは、「会議の時に天使が通ると縁起がいい」と、皆に喜ばれていたようです。
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