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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(レインちゃん…)
 あのレインだよ、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
 遠く遥かな時の彼方で、ジョミーがペットにしていたレイン。青い毛皮のナキネズミ。レインが新聞にいるのだけれども、同じ名前だというだけのこと。あのレインと。
 新聞でお馴染み、自慢のペットの紹介コーナー。其処に掲載されているレイン。でも…。
(似てるの、青い所だけ…)
 其処だけだよね、と見詰めたペット。セキセイインコのレインちゃん。水色の羽根は、レインにそっくり。毛皮か羽根かというだけの違い、ただし姿はまるで別物。セキセイインコは鳥だから。
 飼い主の指に止まった写真。つぶらな瞳のレインちゃん。
 添えられた文に「恵みの雨のレインです」と書いてあるから、間違いなくレイン。ナキネズミのレインも、名前の由来はそうだった。
(セキセイインコなら、肩に乗ったりするもんね?)
 きちんと手乗りに育ててやったら、ナキネズミのレインがそうだったように。いつもジョミーの肩に乗っていたレイン、今の時代も写真が幾つも残っている。
 セキセイインコのレインはといえば、手乗りでお喋りもするらしい。本物のレインも話すことが出来た。思念波を使って、人間と。
(お喋りさせたくて、レインって名前にしたのかな?)
 そうかもしれない、と飼い主の気持ちを想像してみる。「青いからレインじゃないかもね」と。
 セキセイインコは色々なのだ、と鳥に詳しい友達に聞いた。下の学校に通っていた頃に。
 喋る種類の鳥は多いけれど、セキセイインコは「喋るのもいる」という程度。教えさえすれば、喋るわけではないらしい。どんなに頑張って教えても。
(ちっとも言葉を覚えないのも、手乗りになってくれないのも…)
 珍しくないのがセキセイインコ。手乗りにしようと育ててみたって、途中で失敗するだとか。
 それで「レイン」と名付けただろうか、「あの有名なレインみたいに仲良くしたい」と。
(レインちゃんは上手くいってるよね?)
 ちゃんと手乗りで、飼い主の指と一緒に写っているのがその証拠。お喋りもすると書かれている記事、新聞の中から声は聞こえて来なくても。レインちゃんの声はしなくても。
 飼い主の人が願った通りに、ナキネズミのように育った青いセキセイインコ。名前はレイン。



(ナキネズミはもう、いないけど…)
 本物のナキネズミは時の流れに消えてしまって、何処にもいない。前の自分たちが作った動物、それがナキネズミだったから。…自然に生まれた動物とは違うものだったから。
(繁殖力が衰えていって、消えちゃった…)
 絶滅の危機に瀕していた時、人間は理由に気が付いていた。どうすれば絶滅を防げるかにも。
 けれど滅びを止めるためには、遺伝子レベルでの操作が必要。元気な個体を交配したって、もう戻らない繁殖力。ただ衰えてゆくだけで。
 それを無理やり元に戻すのは不自然だ、と判断したのがナキネズミを調べた研究者たち。人間が生命に手を加えることは許されない、と。
(ナキネズミはもう、必要の無い時代だったから…)
 このまま見守るだけにしよう、と獣医も飼育係も思った。最後の一匹が消えて行っても、彼らが幸せならいいと。ナキネズミの役目はもう終わったから、と。
(最後のナキネズミも、きっと幸せ…)
 人間と一緒に仲良く暮らして、思念波を使ってお喋りをして。我儘も言って。
 もしかしたら最後にいたナキネズミは、自分を「人だ」と思い込んで生きていたかもしれない。他に仲間を知らないのならば、「ちょっと姿が違う人間」といった具合で。
 そういう動物は多いらしいから。犬でも猫でも、鳥なんかでも。
(人が育てたら、自分も人だと思っちゃうんだよ)
 鏡を覗いて自分の姿が映っていたって、「誰なの?」という顔をするペット。同じ種類の仲間に会っても、知らんぷり。なにしろ自分は「人間」なのだし、「こんな仲間は知らないよ」と。
(レインちゃんだって、そうかもね?)
 生まれた時から人間と一緒で、手乗りだから。お喋りもするセキセイインコだから。
 今の時代は幸せなレインたちがいる。ジョミーのペットだったレインよりも、ずっと。
 青い地球の上で暮らすレインや、他の星で暮らしているレインやら。
 新聞で出会ったセキセイインコのレインの他にも、きっと沢山。
 犬やら猫やら、いろんな動物、色々な姿のレインが生きているのだろう。広い宇宙に何匹も。
 なんと言っても、「レイン」は人気の名前だから。
 人間の子供の名前はともかく、ペットの方では大人気。ジョミーと暮らしたレインのお蔭で。



 この町だけでも何匹も暮らしていそうなレイン。ナキネズミのレインと同じ名前のペットたち。種類も様々だろうけれども、犬や猫よりセキセイインコがレインっぽいかな、と考えながら戻った二階の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
 勉強机の前に座って、さっきの写真を思い浮かべる。青いセキセイインコのレイン。他の色々な動物よりも、ナキネズミに一番近そうな感じ。見た目だったら、リスの方が近いのだけれど。
(思念波じゃないけど、セキセイインコは喋るから…)
 それに青くて、手乗りだから肩にも乗っかってくれる。本物のナキネズミがしていたように。
 あの飼い主は上手に名前をつけたよね、と感心しきり。レインのように育てたかったか、羽根の色でレインに決めたのか。どちらにしたって、今では立派に「レインみたいなペット」。
 同じ名前はペットの名前で人気だけれども、本物のレインを思わせるものは、そうそういないと思うから。喋って、肩にも乗っかってくれて、青い色を纏っているレイン。
 セキセイインコのレインは上出来、と思ったけれど。とてもお似合いだと思うけれども。
(…インコじゃなくって、本物のレイン…)
 本家本元のレインの方は、気の毒なことに名前を持っていなかった。青い毛皮のナキネズミは。
 ずっとジョミーと暮らしていたのに、レインは名前を貰わないまま。
 赤いナスカで、トォニィが生まれたその日まで。自分の名前を「お前」だと皆に名乗るまで。
(お前からトォニィにおめでとう、って…)
 そう言ったのがナキネズミ。
 SD体制が始まって以来、初めての自然出産で生まれたトォニィに。「おめでとう」と。
 誰もがトォニィを、母のカリナを祝福するから、ナキネズミだってお祝いしたい。生まれて来た子に、父のユウイが「トォニィ」と名付けたばかりの子供にあげたい「おめでとう」の言葉。
 だからナキネズミが紡いだ思念。「赤ちゃんトォニィ、おめでとう」と。
 尻尾を振って、トォニィを祝福したナキネズミ。「お前からトォニィにおめでとう、言う」と、何処かおかしな言い回しで。
 「お前とは誰のことだろう?」と誰もが思うし、トォニィの母のカリナも思った。
 それでカリナが尋ねた名前。「あなた、名前、無いの?」と。まさか、とそれは不思議そうに。
 そしたら答えが、「ぼく、名前、お前」。自分の名前は「お前」だと信じていたナキネズミ。
 カリナが「それは名前じゃないわ」と言うまで。ジョミーに名前を確認するまで。



 誰もが呆れた、名前が無かったナキネズミ。「そりゃ酷いな」と皆が失笑したという。ジョミーときたら、「名前…。つけていなかったっけ」と言ったものだから。
 最初から名前が無かったのなら、「お前」にだってなるだろう。ナキネズミの名前。ジョミーも含めて皆が呼ぶのだし、「ぼくの名前は、「お前」なんだ」と。
(名前が無くって、「お前」だなんて…)
 あんまりだよね、と可哀想すぎて溜息が出そう。自分の名前を「お前」だと思っていたレイン。十三年もジョミーの側にいたのに、名無しのままで暮らしたなんて。
(今日のペットのコーナーだって…)
 セキセイインコのレインの他にも、色々な名前のペットたち。可愛い名前や、かっこいい名前。今のハーレイの母が飼っていた真っ白な猫にも、「ミーシャ」という名前があったのに。
 ペットを飼うなら、名前は基本。一番最初に名付けるもの。
(誰かに貰って来たペットでも…)
 子猫や子犬を貰って来たって、誰だって名前を付けたがる。「この子の名前は…」と飼っていた家での名前を聞いても、「こっちがいい」と新しい名前を付けるとか。
(イメージじゃないのって、あるもんね?)
 こうです、と教えて貰っても。血統書には別の名前があっても、ピンと来ないなら新しい名前。これがいい、と思った名前をつけてやったら、ペットの方でも覚えるから。
(レインの時だって、そうだったのに…)
 名前が無かったナキネズミ。それは考えがあったから。…前の自分に。
 とうに見付けていたジョミー。青の間から思念で探る間に、「この子だ」と思った後継者。前の自分の命が尽きたら、代わりにミュウを導く子供。白いシャングリラに迎え入れて。
(…ジョミーほど強い子供なら…)
 そう簡単にユニバーサルには発見されない。深層心理検査をしようが、ミュウとはバレない。
 ただ、その分だけ、厄介なことも生まれるもの。
 強すぎるジョミーは、まるで自覚が無いだろうから。「自分は変だ」と気付きもしないで、成人検査に臨む筈。其処で自分が妨害したって、やはり同じに気が付かないまま。異分子なことに。
 ミュウの母船に迎え入れても、きっと「異分子」なのだろう。自分がミュウだと悟らないなら、白いシャングリラは箱舟どころか、ジョミーにとっては冷たい牢獄。



 そうなるだろう、と前の自分は読んでいた。ジョミーをシャングリラに連れて来たって、きっと馴染みはしないだろうと。あまりにも「人類」に近すぎる子供なのだから。
(そうならないように、ナキネズミ…)
 思念波を上手く操れない子供のためにと、白いシャングリラで作り出したのがナキネズミ。側にいるだけで思念を中継してくれるのだし、コミュニケーションの役に立つ、と。
 それをジョミーに与えておいたら、その内に分かってくれる筈。シャングリラで暮らすミュウの思考も、ジョミー自身も「思念波を持ったミュウ」の一人であることも。
(ナキネズミを一匹、ジョミーのペットにしなくっちゃ、って…)
 船に来たジョミーが孤立しないよう、最初からナキネズミを側に。自然な形で出会った後には、一緒に船に来るように。
 そう計算して、地上に降ろしたナキネズミ。名前はあえてつけないままで。
 ジョミーのペットになるのだから、と最初から名前は与えなかった。シャングリラで生まれて、すくすく育つ間にも。「この子には名前をつけないように」と、飼育係たちにも命じて。
(きっとジョミーが、素敵な名前をつけるだろうし…)
 好みの名前もあるだろうから、名前をつけずにおいたのに。
 最初から持っている名前があったら、ジョミーの方でも遠慮するだろうと考えた上で、名無しのままにしておいたのに。
(ジョミー、名前をつけるどころか…)
 なんという名前か、尋ねることさえしなかった。
 ドリームワールドにあった小さな檻から、自分が逃がしたナキネズミに。自分と一緒に小型艇に乗って、シャングリラまで来たナキネズミに。
 ジョミーのことを恋しがるから、とリオが渡して、文字通り「ペット」になった後にも、一度も訊いたりしなかったジョミー。「お前、名前は?」と。後に「お前」になったレインに。
 たった一言、質問したなら、「名前?」と首を傾げたろうに。まだ幼かったナキネズミは。
(ナキネズミ、けっこう長生きだから…)
 身体は育って一人前でも、ジョミーのペットになった頃には中身は子供。
 きっとその頃に尋ねられても、「ぼく、お前」と答えただろう。人類の世界でも、ナキネズミに名前は無かったから。誰も名付けはしなかったから。



 ジョミーが「名前は?」と訊きさえしたなら、名前を貰えたナキネズミ。「ぼく、お前」という答えを聞いたら、ジョミーも笑っただろうから。「それは名前じゃないと思うよ」と。
 ナキネズミの名前を尋ねなくても、「これでいいかな?」と名前の候補。ジョミーがつけたいと思う名前が、ナキネズミにも喜んで貰えるかどうか。
 そんな具合に、名付けただろうと思っていた。ペットになったナキネズミに。
 きっとシャングリラに来てから直ぐに。「家に帰せ」と直訴した挙句、船を出てゆくより前に。
(前のぼくでも、其処までは気が付かないよ…)
 ジョミーには気を配っていたのだけれども、側に置かせた、あのナキネズミの名前にまでは。
 成人検査を妨害した疲れで、殆ど眠っていたのだから。青の間のベッドに横たわって。
(…ジョミーが船から出て行った後は…)
 生きて戻れはしないだろう、と覚悟して後を追い掛けた自分。アルテメシアの遥か上空まで。
 ジョミーのお蔭で船に戻れても、それからはずっと臥せっていた。あの状態では、ナキネズミの名前のことまではとても…、と考えたけれど。
 其処まで気を配る余裕など無いし、余力だって無いと思ったけれど。
(ジョミーが連れて来てたっけ…)
 前の自分が暮らした青の間。ベッドから起き上がれないほどに弱っていた頃も、ジョミーが顔を出した時にはナキネズミが一緒。大抵の時は、肩に乗っかって。
 そう、何回も連れて来ていた「お前」。レインではなかった、名前を持たないナキネズミ。
(いつも、「お前」って呼んでいたから…)
 まるで不思議に思わなかった。名前があっても「お前」と呼ぶのは、誰にでもあることだから。
 ペットでなくても、人間だって。
 シャングリラで長く共に暮らした仲間たちだって、親しい仲なら「お前」と呼んでいたりする。友達の名前を口にするより、先に出てくるのが「お前」。「お前、食事は?」といった具合に。
 前の自分も、仲間たちを「お前」と呼ぶことは無かったのだけど…。
(牛とかだったら、「お前」だもんね?)
 元気かい、と声を掛けていたもの。白いシャングリラにいた動物たちに。もちろんナキネズミにだって。「お前の御主人は、今は何処だい?」と訊いたりもして。



 前の自分でさえ、何処かでナキネズミにバッタリ会ったら、「お前」と呼ぶのが当たり前。船の子供たちの側にいるものも、農場でのんびりしているものも。
 それでも彼らに名前はあったし、ジョミーが「お前」と呼んでいたって、それが名前だと気付くわけがない。未だに名前を貰っていなくて、自分の名前は「お前」だと思っていたなんて。
 でも…。
(ぼくはちょっぴり…)
 ほんの僅かしかジョミーと一緒に過ごしはしないで、深い眠りに就いてしまった。自分自身でも気付かないまま、何の前触れも無く。
 アルテメシアを命からがら脱出してから、どのくらいで眠ってしまったろうか。あの状態では、ナキネズミの名前どころではない。周りの様子は何も分かっていなかったから。
(…前のハーレイが歌っていたのも、ただ聞いていたっていうだけで…)
 歌声の主さえ知らずにいたのが「ゆりかごの歌」。トォニィのための、赤いナスカの子守歌。
 今のハーレイがよく話題にする、三連恒星からの脱出劇さえ前の自分は全く知らない。人類軍の船に追われて、重力の干渉点から亜空間ジャンプで逃れたという、シャングリラの危機。
 危うく宇宙の藻屑だった、と聞かされたって、「あの時かな?」と思いさえしない。深い眠りの底にいたから、船の揺れにも気付かないまま。
 それほどの眠りの中にいたなら、もうナキネズミの姿は見えない。名前があろうと、名前無しで放っておいたジョミーが、赤いナスカで皆に笑われていようとも。
 けれど、自分ではなくてハーレイならば。…キャプテン・ハーレイだったなら。
(ずっとジョミーを見てた筈だよ?)
 前の自分が深く眠ってしまった後にも、キャプテンとして。
 船を纏めるキャプテン・ハーレイ、前の自分が恋をした相手。誰よりも信頼していたハーレイ。恋は抜きでも、右腕として。
 だからソルジャー候補になったジョミーを、何度もハーレイに会わせていた。いつかジョミーがソルジャーになれば、頼りになるのはキャプテンだから、と。
 それにハーレイなら、ゼルのように頭から怒鳴りはしない。エラやヒルマンなら顔を顰めても、ハーレイは眉を寄せる程度で抑える。ブラウみたいに、歯に衣を着せない物言いもしない。
 キャプテンは常に、冷静でないといけないから。船の仲間たちに信頼されてこそだから。



 穏やかだったキャプテン・ハーレイ。長老たちほど厳しくはないし、感情的なことも言わない。其処まで見据えて、ジョミーに話した。「何かあったら、ハーレイに相談するといい」と。
 前の自分が深い眠りに就いた後にも、ジョミーが相談していたハーレイ。人類に向けての思念波通信を思い立った時も、ジョミーはハーレイの所に出掛けた。何処よりも先に。
 そう、ハーレイが唯一のジョミーの相談相手。…未来を占うフィシス以外では。
(フィシスもウッカリ者だけど…)
 天体の間にもレインを連れて行っていたよね、と思うから。フィシスの前でも、ジョミーは肩に乗っけたナキネズミを「お前」と呼んだのだろうから。…名前ではなくて、「お前」とだけ。
 フィシスも気付かないなんて、と溜息が零れてしまうけれども、ハーレイはもっとウッカリ者。何度となくジョミーの相談に乗って、ナキネズミにも出会っていた筈。
 なのに名無しだと気付きもしないで、「お前」のままにしておいたなんて。白いシャングリラを纏め上げていたキャプテンのくせに、まるで知らずにいたなんて。
 その内にこれでハーレイを苛めてやろう、と考えていたら、聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事帰りに来てくれたから、もう早速に切り出した。テーブルを挟んで向かい合うなり。
「あのね、ハーレイ、レインの名前を知っている?」
「はあ? レインって…?」
 どうかしたか、とハーレイは怪訝そうな顔。「ジョミーのペットのナキネズミだろう?」とも。
「そのレインだけど…。今はペットに人気でしょ。レインって名前をつけるのが」
 今日はセキセイインコだったよ、新聞のペットの紹介コーナー。
 青いヤツでね、おまけに手乗りで喋るんだって。…思念波ってわけじゃないけどね。
「ほほう…。上手いこと名付けたもんだな、似てるじゃないか。ナキネズミに」
 あれも手乗りのようなモンだし、青くて喋る動物だから。鳥とは全く違うんだがな。
 そういや、前のお前が青い毛皮のを選んだんだ、と懐かしそうな瞳のハーレイ。幸せの青い鳥の代わりに、青い毛皮のナキネズミだった、と。
「そうだよ、青い鳥を飼うのは無理だったから…。何の役にも立たないから、って」
 だから青いのを選んだんだけど…。ナキネズミの血統を決める時にね。
 それは抜きでも、セキセイインコのレイン、とってもいい感じでしょ?
 犬とか猫をレインにするより、ずっと本物みたいだから。肩に乗っけて、お喋りが出来て。



 ホントの会話は無理だけどね、とクスクス笑った。セキセイインコは覚えた言葉しか喋らない。それに言葉も理解しないし、ナキネズミのように意思の疎通は出来ないから。
「だけど、雰囲気はレインにピッタリ。青いセキセイインコだもの」
 それでね、今はレインっていうのはペットに人気の名前だけれど…。
 名前の由来に「恵みの雨の」ってくっついていたら、もう間違いなくナキネズミだけど…。
 セキセイインコもそのレインだったけど、本物のレインは名無しだよね?
 ずっと「お前」だと思ってたんでしょ、自分の名前。…トォニィが生まれて来るまでは。
 とても有名な話だよね、と今のハーレイの顔を見詰めた。ナキネズミのレインが名前を持たずに過ごした話は、今の時代も広く知られているから。「レイン」の名前とセットになって。
「その通りだが…。ジョミーも間抜けなモンだよな」
 十三年も一緒にいたのに、名前をつけずにいたなんて。…普通は名前をつけるモンだろ?
 こいつの名前は何だっけか、と一度も思わなかったというのが凄すぎるぞ。大物だな。
 あれくらいでなきゃ、地球まで行けるソルジャーは無理かもしれないが…、とハーレイの考えが他所に向くから、「ジョミーだけじゃないよ」と引き戻した。元の話に。
「ジョミーだけなら、大物なのかもしれないけれど…。間抜けだったの、ハーレイもだよ」
 何度も相談に乗っていたでしょ、ジョミーのね。思念波通信の時もそうだし、他にも色々。
 ジョミーがハーレイの所に来たなら、レインも一緒にいた筈だけど?
 そしたら気付くと思うんだけど…。「もしかしたら、名前が無いんじゃないか?」って。
「…ジョミーのお供か…。くっついていたな、確かにな」
 ブリッジに顔を出さなくなった頃にも、俺の部屋には来たりしていた。…たまにだがな。
 いつもレインを連れて来ていたが、「お前」と呼んでいたもんだから…。
 全く変だと思わなかったな、「お前は其処で待っていろ」といった具合で、自然だったから。
 誰だって「お前」と呼んだりするだろ、親しい友達だったりしたら。
 前の俺だって、お前がソルジャーになる前は「お前」だったからな、と言われれば、そう。
 ソルジャーの肩書きがついた途端に、「あなた」に変わったのだった。ソルジャーと話す時には敬語で、とエラが徹底させたから。
 キャプテンは船の仲間の模範になるべき立場なのだし、ハーレイは綺麗に変えてしまった。常に敬語で話さなくては、と「お前」を封印してしまって。



 そうだったっけ、と懐かしく思い出したこと。「前のぼくも「お前」だったんだよ」と。自分の名前だとは思っていなかったけれど、あの呼び方が好きだった。「あなた」よりも、ずっと。
(だけど、元には戻せなくって…)
 恋人同士になった後にも、「お前」は戻って来なかった。ハーレイはいつも敬語で話し続けて、「お前」ではなくて「あなた」のまま。…今は「お前」と呼んでくれるけれど。
 そういう優しい「お前」があるから、ハーレイも気付かなかったのだろう。ナキネズミが名前を持っていなくて、「お前」とだけ呼ばれていたことに。
 そうは言っても、無かった名前。前のハーレイが呼ぼうとしても、名前は無かったのだから…。
「ハーレイ、レインだけに会ったことはないの?」
 ジョミーと一緒じゃないレイン。…そういうレインには会っていないの、一回も…?
「いや、何回も会ってるが?」
 レインだって、いつもジョミーと一緒じゃなかったからな。離れていることもよくあった。
 ずっと後にはそれが災いして、トォニィたちに捕まったりもしていたが…。尻尾を掴んで逆さに吊られて、オモチャ代わりにされたりな。
 そうなるまでにも、よく一匹で歩いていたぞ。シャングリラの中を、好き勝手に。
 視察中の俺と何度も出くわしたな、とハーレイが言うから、訊いてみた。
「その時、なんて呼んでいたわけ?」
 無視して通るわけがないでしょ、ジョミーのペットなんだから。…なんて呼んだの?
「呼ぶと言うより、声を掛けるといったトコだな。「お前、一人か?」とか、そんな調子で」
 一匹で歩いているわけなんだし、ジョミーの方は何処へ行ったかと思うじゃないか。
 ジョミーの様子を尋ねがてらという感じだな、と返った答え。ナキネズミだけに出会った時の、前のハーレイの呼び掛け方。
「…ハーレイも「お前」だったんだね?」
 前のぼくがソルジャーになる前は、ぼくのことも「お前」だったから…。それとおんなじ。
 ナキネズミに会っても「お前」だったら、ジョミーと少しも変わらないよね…。
「そのようだ。…俺も一役買っちまってたか」
 あいつが自分を「お前」だと思い込むまでに。…俺だって名前を呼んでないしな。
 ジョミーが「レイン」と名付けた後には、そっちで呼ぶこともあったんだが…。



 俺も犯人の一人だったか、とハーレイが苦笑する「お前」。ナキネズミが名前だと思ったもの。皆が「お前」と呼び掛けるから、それが自分の名前なのだと。
「…フィシスはどうかな、「お前」じゃないよね?」
 ハーレイが「お前」って呼んでいたのは分かるけれども、フィシスはどうだろ…?
 お前って呼ぶかな、いくら相手がナキネズミでも…?
 どうだったかな、と遠い記憶を手繰ってみる。幼かったフィシスを農場などに連れて行った時、なんと呼び掛けていただろう。其処にいた牛や鶏たちに…?
「フィシスだったら、「あなた」だろうな」
 ナキネズミに敬語は使わなくても、その部分は俺と同じだろうさ。「お前」なんていう呼び方はせずに、丁寧に「あなた」と呼んだと思うぞ。
 俺は現場を見てはいないが、目に見えるような光景じゃないか。そう思わんか…?
 フィシスなんだぞ、と言われたら納得出来た。幼かったフィシスも、牛や鶏たちを「あなた」と呼んでいたから。見えない瞳で覗き込んでは、「あなた、牛さんね?」と身体を撫でたりして。
「そうだね、フィシスは「あなた」だね…。牛たちをそう呼んでたよ。小さかった頃に」
 大きくなっても同じだろうし、ナキネズミにも、きっと「あなた」だよね。
 それで余計に、名前が「お前」になっちゃった…?
 ハーレイやジョミーに呼ばれる時には「お前」だけれども、フィシスは「あなた」なんだから。
 「あなた」は「お前」と全然違うし、そっちは自分の名前じゃないよ、って…。
 余計に間違えちゃったのかな、とナキネズミの気持ちを考えてみる。「お前」と呼ぶ人が何人もいる中、「あなた」と呼ぶ人もいるのだったら、「お前」が名前だと思うだろうか、と。
「そいつは大いに有り得るなあ…。名前じゃないのに、そうだと思い込んじまうこと」
 船のヤツらが呼び掛ける時は、誰もが「お前」か「あなた」だろうし…。
 それに「お前」の方が遥かに多かっただろう。「あなた」と呼んでた人間よりも。
 男だったら、前のお前も含めて、みんな「お前」と呼んだだろうしな?
 「あなた」なんぞは、女性陣しか使いそうにない呼び名なんだが…。生憎と、その女性がだ…。
 ブラウなんかを想像してみろ、あいつが「あなた」と呼ぶと思うか、ナキネズミを?
「…ブラウも、絶対、「お前」だよね…」
 お前って呼ぶよ、見掛けた時は。でなきゃ「あんた」で、「あなた」じゃないよね…。



 白いシャングリラの仲間たち。彼らがナキネズミをなんと呼んだのか、考えるほどに「お前」が名前でも、おかしくないから酷すぎる。一番酷いのは、名付けなかったジョミーだけれど。
「…ナキネズミの名前、「お前」なんだって間違えていても、仕方ないけど…」
 それで少しもおかしくないけど、ジョミー、ホントに酷いよね。名前をつけなかっただなんて。
 あんまりだってば、十三年も「お前」で放っておくなんて…。名前を訊いてあげもしないで。
 それにレインってつけた名前も、よく考えてつけたんだったらいいけれど…。
 思い付きでしょ、レインっていうの。たまたま雨が降っていたから、恵みの雨のレイン、って。
「そうなるんだが…。その場で慌てて考えたんだが、その雨、馬鹿にしたモンでもないぞ」
 まさに恵みの雨だったんだ。ナキネズミに名前をつけた時には、まだ降り始めたばかりでな…。
 それから後に、ゼルとエラが目撃しちまった。一瞬の内に現れた花園というヤツを。
 あのナスカでだ、とハーレイが語った花園。
 雨が降る中、シャングリラに戻ろうとシャトルに向かったゼルとエラ。途中で止まって、ゼルは降る雨を体験してみた。シールドを解いて。
 そして滑って転んだ話は聞いている。服は泥だらけになったけれども、楽しそうだったとエラが話していたと。エラも一緒にシールドを解いて、雨の中に立ってみたのだとも。
 そうする内に上がった雨。二人は其処で花園を見た。何も生えてはいなかった場所に、幾つもの芽が顔を出すのを。見る間に育って、鮮やかな緑の花園が出来上がるのを。
「花園…。雨が止んだら、そんなのが…?」
 凄い速さで育ったっていうの、何も無かった場所の土から…?
「ああ。俺も後で見て驚いたが…。いつの間にこんな緑が、と」
 砂漠に現れる花園と同じ仕組みだな。雨で芽吹いた種たちだ。
 いつか降る雨をじっと待ち続けて、降った途端に一気に芽吹く。砂漠の花園、そうだろうが。
「地球の砂漠はそうらしいけど…。ナスカにもそういう仕掛けがあったの?」
「仕掛けなんかは無いと思うぞ、少なくともミュウの仕業じゃない。誰も植えてはいないから」
 あそこは人類が放棄した植民惑星だ。人類が植えて、そのまま撤退したのが芽吹いたんだろう。
 もう緑なんか育ちやしない、と捨てて行った星の土からな。
 何十年ぶりだか、もっとなんだか…。あの花たちが芽を出せるだけの纏まった雨が降ったんだ。
それで花園が出来たわけだな、みるみる内に。



 そりゃあ立派な花園だった、と今のハーレイも覚えている花園。赤いナスカの土から芽吹いた、雨を待ち続けていた古い種たち。人類が其処を離れた時から、見る者は誰も無かった花園。
「そっか…。それじゃホントに恵みの雨だね」
 ジョミーが苦し紛れに言ったとしたって、ちゃんと花園が出来ちゃった…。恵みの雨で。
「うむ。ソルジャーの伝説がまた増える、とエラも言っていたから、そうなんだろうな」
 トォニィが生まれた途端に雨で、花園が出来たわけだから。…伝説にもなるさ、ソルジャーの。
 しかしゼルには辛かったらしい。ジョミーの伝説が増えてゆくほど、地球が遠のいちまうから。
 皆がナスカにしがみついて…、とハーレイは溜息をつくけれど。
「ううん、雨って凄いと思うよ。それに恵みの雨が降ってくるナスカもね」
 前のぼくは思いもしなかったもの…。ミュウのために星を手に入れるなんて。
 雨が降る地面は欲しかったけれど、ミュウだけのための星があったら出来たことだよ。その星に降りて暮らし始めたら、いくらでも雨は降るんだから。
 どうして思い付かなかったんだろう、と頭を振った。ジョミーは思い付いたのに、と。
「それはお前がミュウの未来にこだわったからだ。…シャングリラの仲間だけじゃなくてな」
 アルテメシアを離れちまったら、もうミュウの子供は救出できない。
 そうでなくても、前のお前は気にしてた。他の星にもミュウの子供がいるだろうに、と。
 人類のいない星に行くなど、ミュウの未来を見捨てて行くのと同じだろうが。
 シャングリラの仲間たちは良くても、それから後に生まれて来るミュウの子供たち。誰も助けてくれはしなくて、死んじまうしかないんだから。
「…そのせいなのかな、一度も思い付かなかったの…」
 地球に行くことしか考えてなくて、雨を見るなら地球で見るんだ、と思ってたのも。
 前のぼくは地球の雨を見たかったよ、青い空から降ってくるのを。
 みんなにも見せてあげたかったけれど、ジョミーがみんなに見せちゃったね。赤いナスカで。
 それも奇跡の花園付きで…、と思い浮かべたナスカの花園。どんなに鮮やかだったろう、と。
 どれほど皆が惹かれただろうと、本当に恵みの雨だったのだ、と。レインの名前の由来の雨は。
「まあな…。ジョミーは恵みの雨を見せたな、船の中しか知らなかったヤツらに」
 それで余計に、ナスカを離れたがらない連中が増えてしまったが…。
 撤退命令に従わなかった連中のせいで、前のお前まで失くしてしまうことになったんだがな…。



 メギドの攻撃を食らった後まで残りやがって…、とハーレイが眉間に寄せた皺。恵みの雨が降る星に必死にしがみついた挙句に、幾つ命を無駄にしたんだ、と。
 地獄の劫火を受けた後には、星は滅びるしかないというのに。その現実さえ見えないくらいに、あの雨は皆を惹き付けたのか…、と。
「恵みの雨も善し悪しだ。いい方に転べば花園が出来るが、裏目に出たなら滅びるってな」
 そういや、メギド…。あれは徹底的に破壊兵器だな、間違いなく。…恵みの雨どころか。
 焼いて滅ぼすだけの兵器だ、と急に話を変えたハーレイ。雨から地獄の劫火の方へ。
「ハーレイ、いきなりどうしたの?」
 恵みの雨が降っちゃったせいで、ナスカを離れない仲間がいたのは分かるけど…。メギドが惑星破壊兵器なのは、誰が見たって間違いないよ。わざわざ今頃、言わなくたって。
「そうでもないぞ。…お前、アルタミラで雨を見てたか?」
 炎の地獄の中にいた時だ、俺と一緒に走っていた時。お前、雨粒を目にしてたのか…?
「雨って…。そんなの見てないよ?」
 稲光は見たのを思い出したけど、雨なんて…。降っていたっけ?
 覚えてないよ、とキョトンとした。燃えるアルタミラに、空から雨は降っただろうか…?
「いいや、一粒も降ってはいない。ナスカでも雨は降ってないんだ、稲光だけで」
 其処がメギドの破壊兵器たる所以だな。あれだけ燃えても、雨は一粒も無しってトコが。
「…どういうこと?」
 燃えるのと雨が関係あるわけ、燃えたら雨が降ってくるわけ…?
 雨なんか降って来ないでしょ、と傾げた首。炎の地獄と恵みの雨は、正反対のものなのだから。
「それがそうでもないってな。…山火事の時には雨が降るんだ、昔からよく知られてた」
 山火事の激しい炎と煙で、雲が出来ると言われてる。モクモクと空に湧き上がってな。
 火山が爆発した時にだって、雲が出来たりするんだが…。
 そういう雲を火災積雲、雷がゴロゴロ鳴り出す雲なら、火災積乱雲と呼ぶ。
 デカイ雲だから、そいつが出来たら雨が降り出すことがあって、だ…。
 火が消えちまうこともあるんだ、なんたって凄い雨が降るから。
 もう文字通りに叩き付けるような激しい雨だし、どんな火だって水には勝てやしないだろうが。



 人間が地球しか知らなかった頃から、火災積雲は知られていたという。雷を伴う火災積乱雲も。
 けれど星を滅ぼすメギドの炎は、大規模な火災積乱雲を生み出しただけ。
 空を覆った炎の色の雲は、ただ雷鳴を轟かせるだけで、雨を降らせはしなかった。たった一粒の雨粒さえも、地上に落としはしなかった雲。あれだけの雲が湧いていたのに、降らなかった雨。
「多分、其処まで計算済みの兵器だったんだ。…メギドってヤツは」
 絶対に雨を降らせないよう、計算ずくで星を焼くんだな。雨が降ったら火が消えるから。
 元は惑星改造用のシステムだったのを、国家騎士団が破壊兵器に転用したって話だが…。
 どうやら本当らしいな、うん。あれだけ燃やして雷が鳴っても、雨は無しなら。
 普通だったら雨になるから、とハーレイが言うメギドの炎が生み出した雲。空を切り裂く稲光は確かに見たのだけれども、雨は降ってはいなかった。アルタミラの炎の地獄では。
「…アルタミラで雨…。もしも降っていたら、恵みの雨に見えたかな?」
 花園なんかは出来なくっても、空から雨が降って来てたら。
「そりゃそうだろう。降れば少しでも火が消えるからな、地面の熱もマシになるんだし…」
 星の滅びは止められなくても、救われた気分にはなっただろうさ。少しだけでも。
 しかし、恵みの雨は無かった。メギドってヤツが、そういう風に出来ていたせいで。
「メギド…。あんなの、なんで作ったんだろうね?」
 惑星改造用だったんなら、テラフォーミングの道具だろうに…。星を滅ぼしてどうするの?
 何の役にも立たないじゃない、と零れた溜息。砕けた星は、元には戻せないのだから。
「さあな? いったい、何だったんだか…」
 今となっては謎だらけだが、あんなものは二度と作られやしない。作るヤツらもいないから。
「要らないよね、今の時代には。…メギドなんかは」
 ナキネズミだって、いないくらいの時代だもの。
 本物のナキネズミは何処を探しても、もう一匹もいないんだもの…。
「不自然なものは必要ない、っていうのが今の時代だからな」
 ナキネズミがどんなに可愛らしくても、ペットとしては優れものでも、もう作らない。
 それと同じで自然に手だって加えやしないし、メギドも作られないわけだ。
 ナキネズミとメギドじゃ違いすぎるし、ナキネズミのレインは恵みの雨って名前でだ…。
 メギドの炎が作った雲だと、恵みの雨さえ降らないんだがな。



 今の時代はセキセイインコのレインくらいで丁度いいんだ、とハーレイが微笑む。
 同じレインという名前でも、自然に生まれて来た生き物。青い羽根を持った。
 思念波でお喋りは出来ないレインで、肩に乗って好きに喋るだけ。自分が覚えた言葉だけを。
 そういうレインがお似合いの今。青い毛皮を持ったナキネズミは、もう生まれなくて。
 今は平和で、青い地球まで宇宙に戻った時代だから。
 誰もが自然を愛しているから、不自然に手は加えないから。
 メギドが生み出す火災積雲、そんなものは無くて自然の積雲。ムクムクと空に湧き上がる雲。
 それが生まれて雨が降るのが、今の地球。宇宙に散らばる他の星でも。
 恵みの雨が何処の星にも降り注ぐのが、平和になった今の宇宙。
 レインの名前と同じ雨たちが、奇跡の花園を乾いた砂漠に生み出したりもする恵みの雨が…。




              恵みの雨・了


※ジョミーが名前を付けないままで、十三年も放っていたナキネズミ。恵みの雨のレイン。
 けれど名前が無かった理由は、今から思えば、そう不自然でもないのです。呼ぶ機会がゼロ。
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(昔の地球…)
 ふうん、とブルーが眺めた新聞広告。学校から帰って、おやつの時間に。
 子供向けに書かれた本の広告、「昔の地球」というタイトルの本。小さかった頃に自分も読んでいた本で、中身のことを覚えている。流石に今は部屋の本棚には無いけれど。子供向けだから。
 ずっと昔の地球の様子が描かれた本。一度滅びてしまう前の。
(生き物は何もいなかった地球に、植物が生まれて、恐竜とかの時代が来て…)
 彼らの時代が終わった後には人間の時代。サルから進化した人間。
 二足歩行をするようになって、進化を遂げたら人間になって、文化を築いてゆくけれど。地球のあちこち、様々な文明が生まれて栄えていったのだけれど。
(やり過ぎちゃって…)
 滅びてしまった、青い地球。昔の人間たちが気付いた時には、やり直すにはもう遅すぎた。
 人間は地球を離れるしかなくて、SD体制の時代に入る。完全な管理出産の時代、子供も機械が人工子宮で育てる時代に。
 それでも元に戻らなかった地球。人間そのものを機械に委ねて、コントロールしようと頑張ってみても。人間の欲望を抑え込んでも。
 遠い昔の反省をこめて、今は色々な制限がある。自然に手を加える時は。
 地球だけではなくて、何処の星でも。テラフォーミングして作った自然を壊さないように。
(…滅びちゃった地球は、壊れないと蘇らなかったほどだから…)
 厳しい制限付きになるのも当然だろう。人間が好き勝手をしないようにと。
 SD体制が崩壊した後、ミュウと人類とで決めた規則がその始まり。いつか蘇るだろう、母なる地球にも当てはめるために。
 予兆は見えていたらしいから。…激しい地殻変動が収まった後には、きっと、と。
 当時の学者たちが思った通りに、青い地球は宇宙に帰って来た。気が遠くなるほどの長い歳月をかけて、あらゆる毒素を洗い流して。
 海も大陸もすっかり違う形に変わったけれども、青い水の星に戻った地球。植物の時代や恐竜の時代は全部飛ばして、最先端のテラフォーミングの技術を生かして。
 最初から人間が住める星として、ただし多くの制限付きで整備されたのが今の地球。



 SD体制に入る前の時代の人間たちは、「この方法で地球は蘇るだろう」と考えたけれど。青い地球が戻ってくるのだと信じていたから、全てを機械に委ねたけれど。
 地球を離れて広い宇宙に散った彼らが思った以上に、困難だった地球の再生。
(グランド・マザーが六百年かけても…)
 少しも進まなかったらしい、死に絶えた地球を元の姿に戻すこと。
 白いシャングリラが辿り着いた地球は、赤茶けた死の星のままだった。汚染された海と、砂漠化した大地。その上、朽ち果てたままで打ち捨てられた高層建築の群れ。
(ユグドラシルのこと、ゼルが毒キノコって…)
 揶揄したくらいに、何処も癒えてはいなかった地球。緑の欠片も見当たらなくて。
 それを思えば、SD体制の終わりと同時に燃え上がった後は早かった。みるみる形を変えてゆく陸地、蒸発して雨に姿を変えては降り注ぐ海にあった水。
 落ち着くまでには長い長い時が流れたとはいえ、グランド・マザーに任せておくよりは…。
(ずっと早くて、自然だったよね?)
 地球を再生させること。
 機械は介在していなかったし、何もかも地球が持っていた力。火山の噴火も地殻変動も、何度も降り注いだ雨も。
 そうやって青さを取り戻した地球に、今の自分は生まれて来られた。
 前の自分が焦がれ続けて、ついに見られずに終わった地球。最後まで見たいと願った星。宇宙の何処かにあると信じた青い地球。死の星だとは夢にも思わないままで。
(だけど、本物の青い地球だよ)
 まだ宇宙からは見ていないけれども、正真正銘、本物の地球。今の自分は地球生まれの子。
 この星の上で、ハーレイと一緒に暮らしてゆける。今は別々の家だけれども、いつか結婚したら同じ家で暮らす。前の自分たちが何度も夢見た、「青い地球の上にある家」で。
 しかも地球生まれの今の自分には…。
(ちゃんと本物のパパとママ…)
 血の繋がった両親がいて、トォニィと同じ自然出産児。今は当たり前のことだけれども、誰もがそういう子供だけれど。…人工子宮も管理出産も、とうの昔に無くなったから。
 本物の家族しかいない時代で、子供は誰でも母親から生まれて来るものだから。



 そういったことを考えてゆけば、生まれ変わって来た今の自分は…。
(前のぼくより、うんと幸せ…)
 なんて幸せなんだろう、と戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、母に「御馳走様」と返して。
 勉強机の前に座って、さっきの続きを考えてみる。今の地球や昔の地球のこと。
(前のぼくだって、青い地球のことを夢見てたけど…)
 シャングリラで様々な本を読んでは憧れたけれど、前の自分が夢見たよりも、遥かに素晴らしい地球に来られた。生まれ変わって、時を飛び越えて。
 今では人間は誰もがミュウだし、平和で穏やかになった宇宙。戦争も武器も何処にも無い。SD体制の影も形も無い世界。マザー・システムも、グランド・マザーも、何一つとして。
 何もかもが遠い昔の通りで、まるで大昔の地球のよう。便利になってはいるけれど。人間は広い宇宙に散らばり、宇宙船も飛んでいるのだけれど。
(前のぼくの夢だと…)
 いくら青い地球の夢を描いても、SD体制の時代の影を引き摺っていた。どうしても消すことが出来なかったもの。
 そういう時代に生まれたせいで。…自分の生まれがそうだったせいで。
 本物の両親などはいないし、養父母に育てられただけ。人工子宮から生まれた子供は、そうして育つものだから。おまけに失くした、幸せな子供時代の記憶。成人検査と、その後に繰り返された過酷な人体実験のせいで。
 それが寂しくて、たまに思った。こんな時代でなかったら、と。
(ずっと昔の、大昔の地球に生まれていたら、って…)
 夢を見たのが前の自分。白いシャングリラでソルジャー・ブルーと呼ばれた自分。
 SD体制の時代ではなくて、もっと前の時代に生まれたかった。人間が地球で生きた時代に。
 たとえ火を絶やせない洞窟で暮らして、狩りをしながら生きる世界でも。木の実を集めて食べる時代で、飢えや寒さと背中合わせでも。
 家などは無い時代でもいい、洞窟が家の時代でいい。本物の家族の中に生まれて、地球の自然に囲まれて暮らしてゆけたなら、と。



 前の自分が描いた夢。大昔の地球で生きること。洞窟暮らしの日々でいいから。
(あの話、前のハーレイにする度に…)
 いつも可笑しそうに笑われていた。「ご自分で狩りをなさるのですか?」と。サイオンも無しでそれは無理だと。
 洞窟で暮らして狩りをした時代は、武器と言ってもせいぜい石器。それを頼りに、様々な動物を追い掛けて狩る。時には獰猛な動物と戦う時だって。
 サイオンも持たない「ただの人間」なら、細っこくて華奢な身体しか持たないのが自分。いくら頑張っても狩りなどは無理で、襲い掛かってくる動物から走って逃げるのも無理。
(それに、生きられないでしょう、って…)
 前のハーレイはそう言った。洞窟で暮らす一家の中に、前の自分が生まれたら。
 生まれた時から弱すぎる子供、それに恐らくはアルビノの子供。前の自分は成人検査が引き金になってアルビノに変化したのだけれども、前のハーレイが知るのはその姿だけ。
 「本当のぼくは、こうだったよ」と金髪と水色の瞳の姿の記憶を見せても、「そうでしたね」と笑ったハーレイ。「けれども、仮の姿でしょう?」と。
 前のハーレイと出会った時には、とうにアルビノだったから。アルビノとして生きた歳月の方が遥かに長くて、自分でもそのつもりだったから。
 「今の姿が本物のあなたの姿ですよ」というのが前のハーレイの持論。ミュウになったら色素が抜けたし、それが本当の姿だろうと。それまでの姿は仮の姿で。
(最初からアルビノの子供だったら…)
 普通の子供よりも遥かに弱いし、幼い間に死んでしまって、育つのは無理だと何度も言われた。
 「ずっと昔に生まれたかったよ」と口にする度に、「狩りは出来ないでしょう?」という言葉と併せて。「とても無理です」と、「あなたは生きてゆけませんよ」と。
 それでもいいから、と言い募ったのが前の自分。
 短い寿命で終わったとしても、幼い間に死んでしまってもかまわない。運よく育っても、狩りが出来ずに肩身が狭くてもいいから、と。「狩りが無理なら、木の実を集めて頑張るから」と。
 どんなに苦労をしてもいいから、地球に生まれてみたかった、とハーレイに夢を語っていた。
 ずっと昔の地球に生まれて、家などは無しで洞窟でも。狩りをしないと飢える暮らしで、地球の気まぐれな天候のせいで、寒さに震える厳しい冬があったとしても。



 そういう夢を見てたんだっけ、と思い出した。白いシャングリラで前の自分が。
 遠い昔の地球でいいから、其処に生まれて生きること。洞窟で暮らす時代でいいから。
(…ホントに地球に生まれちゃったよ…)
 前のぼくの夢が叶っちゃった、と見回した部屋。洞窟ではなくて、今の自分のためにある部屋。夢に見たより、ずっと素敵な世界に来ていた。本物の家族がいる地球に。
 弱く生まれたアルビノの子供でもちゃんと育って、ハーレイまでがついて来た。前の自分が恋をした人。いつまでも共に、と誓い合った人。
(前のぼくの夢、そんなのまで叶っちゃったんだ…)
 地球に生まれたかった夢とは別に、「ハーレイと行きたかった」地球。白いシャングリラで辿り着いたら、あれをしようと、これもしようと幾つもの夢を描いた星。
 そのハーレイと二人で地球に生まれて、とても幸せに生きている今。
 洞窟に住んで狩りをする時代じゃないけどね、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、大発見を話すことにした。
「あのね、ハーレイ…。前のぼくの夢、叶っていたよ」
 叶うわけがないと思っていたけど、とっくに叶っていたみたい。ぼくは気付いてなかったけど。
 本当に凄い夢なんだよ、と頬を紅潮させたら、「今度は何だ?」と尋ねたハーレイ。
「お前の夢は幾つも叶っているわけなんだが、いったい何が叶っていたんだ?」
「前のハーレイに笑われてたヤツ…。それは無理です、って」
 いつ話しても言われちゃったんだよ、前のぼくの夢。…昔の地球に生まれたかったよ、って。
 洞窟で暮らす時代でいいから、地球に生まれたかったんだけど…。
 大昔だったら人間は地球に生まれるものだし、家族だって本当に本物の家族。成人検査で別れてしまう家族じゃなくって、お父さんもお母さんも本物で…。
 そういう時代に生まれたかった、って話をしてたの、覚えてる?
 家なんかは無くて洞窟暮らしで、狩りをして獲物を捕まえる時代でかまわないから、って。
「あれか…。あったっけな、前のお前の夢」
 サイオンも無しじゃ獲物はとても捕まえられんぞ、と思ったもんだ。お前、身体が弱いから。
 おまけにアルビノに生まれて来たんじゃ、育つだけでも難しそうだし…。
 いったい何を言い出すんだか、と前の俺は呆れてたんだがなあ…。



 聞かされる度に無理だと笑っていたんだが…、とハーレイは少し困り顔。「俺の負けだ」と。
「前のお前の夢、叶っちまったな。お前は地球に生まれちまった」
 昔じゃなくて未来の地球だが、本物の家族も揃っていると来たもんだ。前のお前の夢を聞く度、無茶なことを言うと思ってたのに…。
 とびきりの夢が叶ったんだな、とハーレイも思い出してくれた夢。白いシャングリラで、何度も語って聞かせていた夢。「ぼくの夢だよ」と。
「ね、凄いでしょ? 前のぼくの夢、本当に叶っていたんだよ」
 洞窟で暮らす世界じゃなくって、普通の家に住んでるけど…。ぼくの部屋までくっついてる家。
 狩りをしなくても暮らせる時代で、木の実を集めて蓄えなくてもいいけれど…。
 お蔭で、ちゃんと育ったよ。生まれた時からアルビノのぼくでも。
 前のハーレイが言ってた通りに、本当のぼくは最初からアルビノみたいだけれど…。
 身体は弱いままだけれども、今だから育って来られたよ、と自慢した自分の細っこい手足。前と同じに弱い身体でも、今の時代だから此処まで大きくなれたんだよ、と。
「そのようだな。しょっちゅう寝込むようなチビでも、元気ではある」
 大きな病気はしてないそうだし、注射嫌いでも今の時代なら安心だ。怖い伝染病も無いしな。
 前のお前の夢が叶って良かったじゃないか、と微笑むハーレイの言葉で、ふと思ったこと。前の自分の夢は未来で叶ったけれども、過去の方ならどうだったろう、と。
「えっとね…。ぼくたち、未来に来ちゃったけれど…」
 前のぼくの夢は、こんな未来で叶ったけれども、過去の方だったら、ハーレイ、どうする?
 夢が叶うの、未来の代わりに過去だったなら…、と問い掛けた。
「過去だって?」
 なんだそれは、とハーレイが怪訝そうな顔をするから、「過去だってば」と繰り返した。
「過去は過去だよ、前のぼくの夢が叶う場所だよ」
 前のぼくの夢はこれなんだから、って神様が昔の地球に連れて行ってくれてたら…。
 夢が叶う場所が此処じゃなくって、ずっと昔の地球の方なら、色々と変わって来ちゃうでしょ?
 そしたらハーレイはどうするの、と鳶色の瞳を見詰めて訊いた。
 夢が叶って二人一緒に地球の上でも、大昔の地球の上だったなら…、と。



 どうなると思う、とハーレイにぶつけてみた質問。二人で生まれ変わって来たのが、今とは違う遠い昔の地球だったなら、と。
「おいおいおい…。二人揃って大昔の地球って…。前のお前が言ってた夢か?」
 洞窟で暮らして狩りをする時代に生まれていたら、ということなのか?
 俺もお前も、そういう時代にいるってことか、とハーレイは驚いているけれど。あまりに時代が違いすぎるから、ピンと来ていないようだけれども…。
「そうだよ、うんと昔だってば。人間が洞窟に住んでいたような」
 大昔の地球でも、神様が連れて行ってくれるんなら、ぼくも育つと思うんだけど…。
 アルビノの子供に生まれていたって、神様が守ってくれそうだから…。
 だってハーレイと二人だしね、と瞳を輝かせた。ハーレイに会うには、今と同じ姿に育たないと駄目だと思うから。…洞窟生まれの弱いアルビノの子でも。
「うーむ…。お前はきちんと育ってゆくかもしれないが…」
 どうなんだかなあ、と腕組みしたハーレイ。「それでもお前と出会えるんだろうか」と。大昔の地球に生まれ変わっても、今のように巡り会えるだろうか、と。
「会えると思うよ、ぼくには聖痕があるんだから」
 神様がくれた聖痕があるから、大丈夫。…今と同じで思い出せるよ、ハーレイもぼくも。
 前のぼくたちはホントは誰だったのか、誰のことが好きで、どう生きたのか。
 アッと言う間に思い出せるし、きっと会えるよ。ぼくに聖痕が現れたら。
 もしかしたら、最初から同じ洞窟に住んでいるのかも…。あの時代は人間が少ないものね。
 何も知らずに焚火を囲んで、話しているかもしれないよ。ぼくに聖痕が出るまでは。
 聖痕が出たら、お互いのことを思い出すんだよ、と夢見心地で言ったのだけれど。大昔の地球で出会っていたなら、きっとそうだと考えたけれど…。
「洞窟で暮らして、動物の毛皮を着ているような時代に聖痕なあ…」
 お前の身体中から血が噴き出すわけだな、いきなり何の前触れもなく…?
 本当に怪我したわけじゃないから、大昔でも死んじまうことはないんだろうが…。
 病院に運んで手当てしなくても、お前の意識が戻りさえすれば、もう心配は要らんだろうが…。
 その聖痕が問題だよなあ、洞窟暮らしの時代なら。
 聖痕なんて言葉も無ければ、聖痕の元になった傷を負った神様も生まれていないわけで…。



 こいつは色々と難しいぞ、とハーレイが眉間に寄せた皺。「今のようにはいかないだろう」と。
「お前の聖痕で出会えたとしても、其処から後の俺たちが大いに問題だ」
 周りの連中から孤立しちまうだろうな、あらゆる意味で。…それまでは普通に暮らしていても。
 俺もお前も、前の俺たちの記憶が戻った途端に、中身は未来の人間だから。
 考え方からして、他の連中とは違ったものになるんだろう。記憶が戻ってしまったら。
 元のようにはいかないぞ、とハーレイが指摘する仲間たちとの関係。家族はともかく、同じ洞窟暮らしの仲間とは距離が出来るかもしれないな、と。
「それって、大変…?」
 ぼくもハーレイも周りに溶け込めなくって、困るって言うの?
 頑張ってみんなに合わせてみたって、中身が違ってしまっているから…。一緒に何かをしようとしたって、前のようにはいかないだとか…?
 前のぼくの記憶が、それまでのぼくを変えちゃって…、と曇らせた顔。今の自分はストンと今の器に落ち着いたけれど、それは未来の世界だから。ソルジャー・ブルーを知らない人など、一人もいない今の世界。前の自分が生きた時代の遥か未来でも、続きは続き。同じ世界の。
 けれど、大昔の地球だと違う。前の自分とは何も繋がらない、遥かな昔で目覚めるだけ。此処は何処かと見回してみても、ハーレイだけしか前と同じものは見付からないのだから。
(ちょっぴり困っちゃうかもね…)
 いくら前のぼくの夢が叶う世界でも、大昔の地球だとビックリするかも、と瞬かせた瞳。恋人の他には何一つとして、馴染みのものなど無いとなったら。
 それでも頑張ればなんとかなるよ、と前向きに考えようとしていたのに…。
「お前、生贄にされかねないぞ。聖痕が出たら」
 とんでもない言葉をハーレイが言うから、「えーっ!?」と喉から飛び出した悲鳴。
 せっかく神様がくれた聖痕、それのお蔭でハーレイとまた巡り会えたのに、生贄だなんて。
 今の自分たちのような日々を送る代わりに、生贄にされてしまうだなんて。
「なんで生贄なの、どうしてぼくが殺されなくっちゃいけないの…?」
 聖痕は神様がくれたものだし、それが出ないとハーレイに会えない筈なのに…。
 ハーレイに会えたと思った途端に、ぼくは生贄にされてしまうわけ?
 そんなの酷いよ、殺されちゃったら、ハーレイに出会えた意味が無くなってしまうじゃない…!



 生贄だなんて、と抗議したけれど、自分でも薄々分かってはいる。生贄にされてしまう理由。
 今の自分が得た知識ではなくて、ソルジャー・ブルーだった頃の知識のお蔭で。
 人間が地球しか知らなかった時代は、遠い昔ならそういう世界。神や自然の怒りを恐れて、人が捧げていた生贄。大抵は動物なのだけれども、特別な場合は生きた人間。
(…特別な生贄は、神様にうんと喜ばれるから…)
 綺麗な子供を選び出しては、生贄に捧げた国があったと伝わるほど。贅沢三昧で育てた後には、祭壇の上で殺してしまって。
 記録が残る時代でもそういう具合だったし、それよりも古い時代となったら、なおのこと。
 傷も無いのに、いきなり大量の血を身体から流した変わった子供は、生贄にされても仕方ない。神の怒りに触れた不吉な子供と判断されるか、神が生贄に欲しがっていると思われるか。
(凄い血だから、どう考えても生贄にピッタリ…)
 不吉な方でも、特別な子供を捧げる方でも。
 アルビノに生まれただけのことなら、生贄の道は免れたとしても、聖痕では無理。洞窟の仲間は生贄にしようとするのだろう。今のハーレイが言った通りに。
「…どうしよう、ハーレイ…。ぼく、殺されちゃう…」
 ハーレイが言ったみたいに生贄にされちゃう、聖痕のせいで。…生贄にするのにピッタリの子供なんだから。変な子だったら殺さなくちゃ駄目だし、特別な子供の方でもおんなじ…。
 ミュウじゃないのに、サイオンなんか持ってないのに…。
 サイオンが無いから逃げられもしないよ、みんなが殺しにやって来たって。
 せっかくハーレイに会えたのに…、と泣きそうな気持ち。本当にそうなったわけではなくても、想像の中だけの世界でも。
 大昔の地球で暮らすのは自分の夢だったから。…前の自分の夢の世界に生まれられても、自分は殺されるらしいから。今の平和な時代と違って、洞窟で暮らす時代なら。
「安心しろ、俺がついてるだろうが」
 お前に聖痕が現れたのなら、間違いなく俺が一緒にいる。前の俺の記憶を取り戻してな。
 着ている服は動物の毛皮にしたって、中身は今の俺と同じだ。何処も全く変わりやしない。
 お前を抱えて逃げ出してやるさ、生贄にしようと皆が捕まえにかかったら。
 生贄にするんだと騒ぎ始めたら、迷わずお前を抱え込んで。



 俺がお前を助けてやる、とハーレイは請け合ってくれたけれども、生贄の子供を助けたら。皆が生贄に選んだ子供を助けて逃げたら、危うくなるのがハーレイの立場。
 同じ洞窟の仲間だったら、もう洞窟には戻れない。生贄を逃がすのは、掟に背くことだから。
 他の洞窟から来ていたにしても、その洞窟にも「そちらの仲間が生贄を逃がした」と使いが走ることだろう。「戻って来たなら、生贄と一緒に引き渡せ」と。
 大昔の地球では、生贄はとても大切なもの。捧げ損ねたら神の怒りを買うことになるし、生贄に決まった人間を逃がすなど許されない。逃がした者を捕まえて一緒に生贄にしても、神が許すとは限らないから。…もっと多くの生贄を捧げ、詫びねばならないかもしれないから。
 その筈だった、と覚えているから、心配になるのがハーレイのこと。想像の世界の話でも。
「…いいの? ぼくを助けて逃げてしまったら、大変なことになっちゃうよ…?」
 ハーレイも洞窟にいられなくなるよ。同じ洞窟の仲間にしたって、他所の洞窟から来てたって。
 生贄を逃がしたら、そうなっちゃうでしょ。神様の怒りを買うんだから。
 「一緒に捕まえて生贄にしろ」って、洞窟のみんなが大騒ぎだよ。別の洞窟に住んでいたって、そっちにも知らせが行くもんね…。「生贄と生贄泥棒を渡せ」って。
 事情が分かれば、誰も助けてくれないよ。ハーレイ、生贄泥棒なんだから。
 ぼくと一緒に生贄にしようと追い掛けられるよ、と震わせた肩。「大昔の地球は怖い所だ」と。聖痕がハーレイに会わせてくれても、生贄にされてしまうだなんて。
「そりゃまあ、ただでは済まんだろうが…。俺の方もな」
 お前と同じ洞窟の住人だったら、二度と戻れやしないだろう。別の洞窟に住んでいたって、俺を待ってるのは仲間に追われる人生だろうな。
 しかし、そいつはお前も同じだ。生贄の子供が逃げ出したんなら、追われるんだから。
 そうなった時は、俺もお前も、居場所が無くなっちまうということで…。
 住む場所が無くなっちまったんなら、新しい場所を探せばいいだろ。
 なあに、頑張って探し回れば見付かるさ。あの時代は人間の数が少ないから、きっと何処かに。
 二人で一緒に逃げている内に、丁度いい洞窟が見付かるんじゃないか?
 神様が下さった聖痕があるなら、洞窟だってあるだろう。
 大勢の仲間と暮らしてゆくには狭すぎるヤツで、追手にも見付からないようなヤツ。
 お前と二人で、其処で暮らしていける筈だと思うんだがな…?



 神様が過去に連れてったんなら、そういう用意もありそうだぞ、というのがハーレイの読み。
 「大昔の地球に生まれたかった」という夢を叶えるなら、二人で暮らしてゆける小さな洞窟も。
 新しい住まいが見付かったならば、洞窟の中に焚火を一つ。獣が襲って来ないようにと、焚火で肉も焼けるようにと。
「まずは焚火だ、そいつが無いと安心出来ないからな」
 お前が留守番するにしたって、焚火無しでは不用心だから…。薪もドッサリ集めて来ないと。
 焚火さえあれば、獣は中に入って来ないし、俺は狩りをしに行くとするかな。俺一人でも、何か獲物は獲れるだろう。大勢で狩るようなヤツは無理でも。
 お前は火の番をしていればいいが、退屈になったら木の実でも集めて来るといい。あまり遠くへ行ったりしないで、洞窟の側で。
 狩りの獲物と木の実で充分やっていけるさ、とハーレイが語る洞窟生活。二人きりでも、仲間は誰もいなくても。…二人分なら、食料も多くは要らないから。
「そういうのも、いいかも…」
 ハーレイと二人分の食事だけなら、きっとなんとかなるものね。大勢だったら、狩りをするには便利だけれど、獲物も沢山必要だから…。みんなの家族が飢えないように。
 二人分なら、量はそんなに要らないよ。ぼくは少ししか食べないだろうし、木の実だけでもお腹一杯になりそうだから。
 獲物が少なくなる冬だって、ハーレイなら上手くやれるでしょ?
 大昔の人たちには思い付かない、罠だって作れそうだから。…中身が前のハーレイなら。
 今のハーレイと違って、自然の知識は少なそうだけど、と肩を竦めてみせた。青い地球で育ったハーレイだったら、川での釣りはお手の物だし、罠の知識もありそうだから。
「確かになあ…。前の俺だと、今の俺がやるようなわけにはいかんな」
 今の俺なら、狩りをする前に罠を考え出しそうなんだが…。獣たちの通り道を見付けて。
 魚だって釣りを始めるだろうな、闇雲に川に入る代わりに。…網だって工夫するかもしれん。
 しかしだ、前の俺の方だと、自然の中での経験が何も無いんだから…。
 キャプテンの知識で何処までやれるか、ちょいと心配ではあるな。
 とはいえ、罠なら本とかで知っていたわけなんだし、「やってみるか」と作るだろうさ。
 木彫りに使うナイフは無くても、石で木を削って檻を作ってやるとかな。



 キャプテン・ハーレイだった俺の知識でも、洞窟生活の時代には無い筈の罠くらいは…、と今のハーレイが笑う。「なんとかなるさ」と、「今の俺ほど器用じゃなくてもな」と。
「お前を食べさせていくためだったら、頑張らないと。まだまだチビの子供なんだし」
 前の俺たちがやったみたいに、お前をきちんと育てないとな。飢えないように食わせてやって。
 俺が一人で育てるわけだが、料理の知識はあるんだから…。
 前の俺の記憶が戻ったんなら、美味い物を作ってやれるかもしれん。焚火生活でも、工夫すりゃ料理も出来るだろうから。
 大昔の地球で、お前と二人で駆け落ちか…。生贄にされる所を助けて逃げて。
 お前と一緒に生きていけるんなら、俺はそれでもかまわないがな。…大昔の地球で洞窟でも。
 快適な家も車も何も無くても…、とハーレイは頷いてくれたから。今の平和な地球でなくても、仲間から追われてしまったとしても、一緒に暮らしてくれるらしいから…。
「ぼくもかまわないよ。とても大変な暮らしになっても、ハーレイと二人なら平気」
 二人で暮らせる洞窟があったら、それで充分。…お腹が減らないだけの食事と。
 食事が足りなくなってしまったら、ハーレイ、ぼくに譲ろうとするでしょ?
 それは嫌だから、食事は無いと困るけど…。他は大変でも平気。大勢だったら暖かい筈の冬に、二人しかいない洞窟だって。
 ハーレイとピッタリくっついていたら、きっと暖かいと思うから。…焚火もあるから。
 うんと幸せに生きていけると思うけど…。ハーレイがいればいいんだけれど…。
 でも、ぼくたちがミュウじゃないなら、その内に年を取っちゃうのかな?
 サイオンで止められないものね…、と気掛かりになった身体のこと。前の自分は若い姿のままで外見の年を止めていたけれど、今の自分もそのくらいのことは出来る筈。サイオンは不器用でも、無意識の内に使っている分があるのだから。アルビノでも光に弱くないのは、そのお蔭。
 けれど、サイオンがまるで無ければ、年を重ねてゆくのだろうか。洞窟でハーレイと暮らす間に年老いていって、想像も出来ない姿になってしまうとか。
「いや、神様が大昔に連れて行って下さったんなら、年は取ったりしないだろう」
 前のお前と同じくらいで止まっちまって、若いままだと思うがな。…俺も恐らくこの姿だ。
 そいつを思うと、逃げ出して正解かもしれん。「あいつらは全く年を取らない」と周りの仲間の噂になったら、やっぱり生贄コースだからな。



 聖痕を上手く乗り切ったとしても、老けないことで生贄か…、とハーレイはお手上げのポーズ。
 「どうやら俺たちには、そのコースしか無いらしい」と。大昔の地球に生まれ変わっていたら、何処かで来るのが生贄の危機。結局二人で逃げるしかなくて、洞窟で二人きりの日々。
 それも悪くはないんだけどね、と考えていたら、ハーレイがこう口にした。
「俺もお前も老けないとしても、寿命の方は短いのかもしれんがな」
 神様も寿命までは面倒を見て下さらないんだろうし…。生まれた時代に相応しく生きろ、と他の人間と同じくらいになるかもしれん。前の俺たちや、今の時代みたいに長寿じゃなくて。
 ミュウなら三百年は軽いもんだが…、と言われた人間の寿命。今の時代はもう何処にもいない、人類と呼ばれた種族の寿命は、百年にも満たなかった筈。SD体制の時代でさえも。
 大昔の人間が進化したのが人類なのだし、洞窟生活だった頃の人間の寿命も短かっただろう。
「…その時代だと、何年くらい?」
 何年くらい生きていられたわけなの、洞窟で暮らして狩りをしていた人間たちは…?
 長生き出来たらどのくらい、と長めの寿命を訊いてみた。平均寿命は短いだろうし、子供の間に死んでしまうケースも多かった筈だから。「長生きする人はどのくらいなの?」と。
「俺も詳しくはないんだが…。四十年も無いかもなあ…」
 日本の国の江戸時代でさえ、平均寿命が四十年だと言われてる。洞窟の時代じゃないのにな。
 もっと昔なら、どんどん短くなるわけで…。たまに長生きの人がいたって、百には届かん。
 確かな記録が残る時代でそれなんだから、洞窟の時代じゃ四十年も生きたら長生きじゃないか?
 孫だっていた年だろう、と聞かされたから仰天した。四十歳でも長寿だなんて、と。
「たったそれだけ!?」
 長生き出来ても四十年なの、洞窟で生きてた時代って…。そのくらいの寿命しか貰えないわけ、年は取らないままにしたって…?
「仕方ないだろう、大昔の地球は厳しいんだ。自然ってヤツも、人間が生きる環境も」
 アルビノのお前は育つことさえ出来ないだろう、と前の俺だって何度も言っただろうが。
 前のお前が「大昔の地球に生まれたかった」と言い出す度に、それは無茶だと。
 どうする、洞窟で長生き出来ても、四十年ってトコなんだが…。
 お前がきちんと育った後には、寿命の残りは二十年ほどしか無いんだが…。
 前のお前と同じに育つの、十八歳くらいになるんだろうしな。どう頑張っても。



 四十年しか生きられなくてもかまわないのか、と問い掛けられた。大昔の地球に生まれ変わっていたなら、寿命は少ないかもしれない。ほんの四十年でおしまい。
 けれど、忘れてはならないこと。四十年しか寿命が無くても、洞窟で暮らす自分の側には…。
「四十年でもいいよ、ハーレイと一緒なんだから」
 短い間しか生きられなくても、ハーレイが一緒にいるんだもの。生贄コースから助けてくれて。
 それに本物の地球の上だし、ぼくは幸せ。洞窟で暮らして、うんと短い寿命でも。
 どっちかを好きに選べるんなら、今の地球の方がいいけどね。
 今だって地球はちゃんと青いし、本物のパパとママがいてくれるんだから、と今の自分の幸せを思う。前の自分は過去の地球に幸せを探していたのだけれども、未来に幸せがあったから。
「俺もだ、断然、今の地球だな。お前とたっぷり生きられるのが最高じゃないか」
 前と同じにミュウなお蔭で、寿命は山ほどあるってな。お互い、まだまだヒヨコってトコだ。
 それに駆け落ちもしなくていいのが有難い。
 お前に聖痕が現れたって、みんな心配しただけだ。大昔の地球なら、お前は生贄にされてるぞ。俺が抱えて逃げない限りは、下手すりゃその日に命が無い。…あの時代はそんな時代だから。
 物騒な時代に生まれて来なくて良かったな、とハーレイは言ってくれるのだけれど。
「そうかもだけど…。生贄にされてしまいそうだけど…」
 ほんのちょっぴり大昔の地球に行けるんだったら、洞窟で暮らしてみたいかな…。
 ハーレイと二人で逃げ出した後に、二人きりで暮らす小さな洞窟。
「何故だ?」
 逃げ出すってことは生贄の危機で、お前は懲りていそうなんだが…。地球は怖い、と。
 俺と一緒なら幸せだと言っても、今よりもずっと大変な暮らしが待ってるんだぞ、その時代は。
 なのにどうして洞窟なんだ、とハーレイが訊くから笑顔で答えた。
「ハーレイ、かっこよさそうだから」
 一人で狩りに出掛けるんでしょ、ぼくと二人で食べる獲物を捕まえるために。
 「こんなに獲れたぞ」って担いで帰って来そうだし…。何が獲れるか分からないけど、ハーレイなら沢山捕まえられそう。獲った獲物の皮を剥いだり、お肉にしたり…。
 きっと、とってもかっこいいんだよ、学校で先生をしているよりも。
 凄くかっこいいに決まっているから、そういうハーレイ、見てみたいよね…。



 ちょっぴり行ってみたいんだよ、と前の自分の夢と重ねる。大昔の地球にハーレイと生まれて、二人きりで暮らしてゆける洞窟。ハーレイが狩りをして、自分は焚火の番をして。
「お前がそういう夢を見るのは勝手だが…。好きにしていればいいんだが…」
 俺は四十年しか生きられない世界は御免蒙る、お前と一緒にのんびり長生きしたいんだから。
 たったの四十年で終わってたまるか、今、気付いたが、俺は二年しか生きられないぞ。
 お前と出会って逃げた後には、二年しか残っていないんだが…。
 俺の寿命は、とハーレイが苦い顔をするから、首を傾げた。どうして二年になるのだろう?
「なんで?」
 ぼくとハーレイが出会った後には、たったの二年って…。それは何処から出て来たの?
「俺の年をよく考えてみろ。今で三十八歳なんだ」
 四十年しか生きられないなら、残りは二年しか無いわけで…。
 お前が前のお前と同じ姿に育つ頃には、寿命を迎えていそうなんだが…。十四歳のお前は、二年経っても十六歳にしかならないからな。
 其処でお前とお別れらしい、とハーレイが告げた寿命の残り。四十年なら、そういう計算。
「それ、困るよ…!」
 たったの二年でハーレイがいなくなっちゃうだなんて、あんまりだってば…!
 辛すぎるってば、二年しか一緒にいられないなんて…!
 そんなの辛いよ、と泣き出しそうになった、ハーレイと別れてしまうこと。離れ離れどころか、寿命でお別れするなんて。ハーレイの命が尽きるだなんて。
 狩りに出掛けるハーレイがどんなにかっこよくても、それでは辛い。たったの二年で、何もかも終わってしまうだなんて。独りぼっちで残されるなんて。
 前の自分が憧れていた、大昔の地球での洞窟生活。あの頃から前のハーレイに笑われたけれど、実現したなら厳しすぎる世界。…大昔の地球は。
 弱く生まれたアルビノの自分が生き延びられても、聖痕が現れたら生贄にされる。不吉な子だと恐れられるか、特別な子だからと神に捧げられるか、どちらかで。
 ハーレイに助けて貰って逃げても、二人で暮らせる場所を見付けても、たったの二年で終わりが来る。長生き出来ても四十年なら、ハーレイが寿命を迎えてしまって。
 大昔の地球で生きてみたいと、前の自分は夢見たのに。洞窟生活でいいと思っていたのに。



 あれは間違いだっただろうか、と今だから思う前の自分の夢。前のハーレイに「無理ですよ」と何度も言われ続けた、大昔の地球で生きてゆくこと。
「…前のぼくの夢、やっぱり間違っていたのかな…?」
 洞窟で生きてゆくっていうのは、とっても大変そうだから…。ハーレイと二人で洞窟で暮らしていけても、じきに終わりが来そうだから…。ハーレイの寿命が短すぎて…。
 四十年しか無いんだったら、ホントに直ぐにお別れだもんね、と悲しい気分。本当にそうなったわけでもないのに、胸がツキンと痛くなって。
「間違っていたんだろうと思うぞ。前のお前が言ってた時から、俺は笑っていたろうが」
 サイオンも無しで狩りをする気か、と無茶だと指摘してたんだがな?
 それにアルビノだと育つだけでも大変だから、と身体のことも。
 お前が夢見た地球での暮らしは、未来の地球で丁度いいんだ。地球で暮らすのも、本物の家族の中に生まれて来るというのも。
 あの頃の俺たちには想像もつかない世界だったが、今がその未来になってるわけで…。
 神様はきちんと考えた上で、行き先を決めて下さったってな。お前が生まれ変われる場所を。
 大昔じゃ駄目だと、未来の地球に…、と話すハーレイがきっと正しい。
 神様は前の自分が夢見た世界を、今の自分にくれたから。地球での暮らしと本物の家族、自分は両方手に入れたから。大昔ではなくて、ずっと未来で。
「そうみたい…。洞窟の夢は諦めるよ」
 狩りをするハーレイは見てみたいけれど、たった二年でお別れだなんて、辛すぎるから…。
「是非、そうしてくれ。次の人生が洞窟になったら、たまらんからな」
 これがお前の夢なんだろう、と神様が願いを叶えて下さったりしたら困るだろうが。
「ホントだ、大変すぎるよね…。そうなっちゃったら」
 ハーレイもぼくも、とっても大変。
 駆け落ちはちょっぴりしてみたいけれど、神様が間違えてしまったら大昔だから…。
 次に生まれたのが洞窟だったら、悲しいことになっちゃうから…。



 前のぼくの夢は、もう見ないことにしておくよ、と今のハーレイに誓いを立てた。
 大昔の地球での洞窟生活を「無茶です」と止めたのが、前のハーレイ。
 サイオンも無しで狩りは無理だと、アルビノの子供が育つのも難しいからと。
 今のハーレイから聞かされたことは、生贄にされるとか、たったの二年でハーレイの寿命が来てお別れだとか、前とは違った色々な話。大昔の地球の暮らしはこう、と。
 夢と現実は違うらしい、と今度の生でも気付かされたから、大昔の地球の洞窟生活は諦めよう。
 前の自分が夢に見たより、ずっと素敵な未来の地球に来たのだから。
 本物の家族と一緒に暮らして、いつかハーレイとも結婚して家族になれるのだから…。



            憧れた大昔・了


※前のブルーが憧れていた、大昔の地球で暮らすこと。本物の地球の上で、本物の家族と。
 それは無理だ、と前のハーレイも、今のハーレイも厳しい現実を指摘。大昔よりは今の地球。
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(んーと…)
 温室だよね、とブルーが眺めた小さな建物。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中で。
 いつも見ている家だけれども、今日はたまたま目に付いた。庭の奥の方、ひっそりと建っているガラス張りの建物。物置ではなくて、きっと温室。
(何を育てているのかな?)
 温室だったら、中身は植物。物置みたいに何かを仕舞っておくのではなくて。
 この地域の気候が合わない植物、もっと暖かい地域で育つ植物を育てるために作る温室。高めの温度を保ってやって、寒い季節も凍えないように。
 温室で育てる植物は色々、個人の家なら趣味で集めていそう。サボテンばかり並んでいるとか、華やかな花が咲くものだとか。
(…サボテンだって種類が一杯あるものね?)
 綺麗な花が咲くサボテンもあるし、そういう温室かもしれない。サボテンだからトゲだらけ、と入ってみたら鮮やかな花たちに迎えられるとか。
(なんだろ、あそこに入っているの…)
 気になるけれども、サイオンで覗くことは出来ない。自分のように不器用でなくても、覗いたり出来ない家の中。今の時代は誰もがミュウだし、そういう仕組みになっている筈。
(思念波を飛ばしても、弾かれちゃうって…)
 プライバシーは大切だからと、個人の家を保護する仕掛け。透視されたりしないようにと。
 温室だって家と同じで、道から覗けはしないだろう。どんなに中が気になったって。
(気が付いちゃうと、気になっちゃうよ…)
 あそこに温室、と目に付けば。見慣れた家でも、温室の存在に気が付いたなら。
 けれども、覗けない中身。ガラス張りの建物は外の光を弾くだけ。中には鉢が並んでいるのか、地面に直接、植えているのかも分からない。
(ひょっとしたら、熱帯睡蓮とかかも…)
 池を作って、カラフルな花が咲く睡蓮。この地域に咲く睡蓮は白や淡いピンクの花だけれども、暑い熱帯に咲く睡蓮は違う。青や黄色や、鮮やかなピンク。植物園で見たことがある。
 睡蓮の池があるのかもね、と興味は更に増すけれど。温室の中を覗きたいけれど…。



 道からは何も見えない温室。建物を覆うガラスだけ。いくら御主人と顔馴染みでも、留守の間に勝手に入って行けはしないし…、と生垣の側に突っ立っていたら。
「ブルー君、今、帰りかい?」
 何か気になるものがあるかな、と家の中から出て来た御主人。留守だったわけではないらしい。何処かの窓から見ていただろうか、自分が此処に立っているのを。
 それなら話は早いから、と庭の奥の建物を指差した。気になってたまらない温室。
「あそこの建物…。ガラス張りだから、温室だよね?」
 何を育てている温室なの、おじさんの趣味の植物なんだと思うけど…。サボテンとか?
 それとも池で熱帯睡蓮を植えているとか…、と興味津々。答えはいったい何だろう、と。
「なるほど、中身が知りたいんだね? 変わった物は育てていないんだけどね…」
 気になるんなら見て行くかい、と誘われたから頷いた。見せて貰えるならそれが一番、願ってもないことだから。温室の中に入れるなんて。
 御主人の案内で庭を横切り、扉を開けて貰えた温室。側に立ったら、思ったよりも大きい建物。頭を低くしなくても扉をくぐってゆけるし、御主人の頭も天井には届かないのだから。
 そうは言っても、植物園の温室ほどではないけれど。個人の家だし、趣味の温室。
 中に入って見回してみたら、サボテンだらけではなかった中身。熱帯睡蓮の池も無かった。鉢に植わったランなどが主で、ちょっぴり花屋さんのよう。今が盛りの鉢もあるから。
「綺麗だね…。花が咲く鉢が一杯あるよ」
 花屋さんに来たみたいな感じ。向こうの鉢のも、あと何日かしたら咲きそう。
 全部おじさんの趣味の花でしょ、凄いね、プロの人みたい…。
 こんなに沢山育ててるなんて、と瞳を輝かせたら、「ありがとう」と嬉しそうな御主人。
「褒めて貰えて光栄だよ。下手の横好きなんだけれどね」
 花のプロなら、もっと上手に育てる筈だよ。同じように温室を持っていたって、腕が違うから。
 プロにはとても敵わないけれど、素人ならではの楽しみもあってね。
 この温室は、冬にはもっと面白くなるんだ。なにしろ、趣味の温室だから。
「え…?」
 面白くなるって、冬になったら何が起こるの、この温室で…?
 花が溢れるくらいに咲くとか、そういう意味なの…?



 冬の寒さが苦手な花を育てるためにある温室。御主人が並べている鉢は様々、正体が分からない鉢も幾つも。それが一度に咲くのだろうか、と冬の温室の光景を想像したのだけれど。
「違うよ、それじゃ普通の温室と変わらないだろう?」
 咲いて当然の花が咲くんじゃ、花屋さんのと同じだよ。趣味でやってる意味がない。
 もっとも、花屋さんの方でも、似たようなことをやるんだけどね。…花を売るのが仕事だから。
 正解は季節外れの花だよ、この暖かさを生かすんだ。早めに花を咲かせてやるのさ、温室用とは違う花たちを此処に入れてね。
 この辺りにも、冬の間は咲かない花が色々あるだろう?
 そういった花を温室に入れれば、外よりも早く花が咲く。桜だって咲くよ、鉢植えのがね。
 今はまだ入れてないけれど、と御主人が手で示してくれた鉢の大きさ。「このくらいだよ」と。抱えて運んでくるそうだから、桜の木だってチビの自分の背丈の半分ほどもあるという。
「…桜、いっぱい花が咲きそう…。小さい木でも」
 盆栽はよく分からないけど、小さくても花が沢山咲くように育てられるんでしょ?
 その桜の木もおんなじだよね、ちょっぴりしか花をつけない木とは違って…?
 ちゃんと桜に見える木なんでしょ、と確かめてみたら「その通りだよ」と笑顔の御主人。
「小さいけれども、立派な桜さ。花が咲いたら、今度は家に運んだりもするよ」
 お客さんが来るなら、自慢しないと。…とっくに桜が咲いてますよ、と飾ってね。
 桜の他にも、温室で育てて早めに咲かせるのが冬だ。花が少ない季節なんだし、一足お先に春の気分で。此処に入ればもう春なんだ、という感じかな。
 せっかく温室を作ったからには楽しまないとね、あれこれ育てて遊んだりもして。
 温室育ちの花だけじゃつまらないだろう、というのが御主人の意見。温室でしか育たないのが、此処よりも暖かい地域で生まれた花たち。温室からは出られないから、温室育ち。
 温室育ちの花もいいんだけどね、と御主人は鉢の花たちを説明してくれた。
 「このランは外では難しいかな」だとか、「こっちなら夏の間は外でも大丈夫」とか。
 一年中、温室から出られない花もあるらしい。夏の盛りなら大丈夫そうでも、この地域の気候が合わないらしくて、弱る花。気温は同じでも、湿度が違えば条件が変わるものだから。
 温室で育つ花は色々、其処でしか生きてゆけない花なら温室育ち。冬の間だけ中に入って、一足お先に花を咲かせる逞しい花も幾つもあるようだけれど。



 温室を見せて貰った後には家に帰って、おやつの時間。制服を脱いで、ダイニングに行って。
 ダイニングから庭が見えるけれども、この家の庭には温室は無い。簡易式の小さなものさえも。
(ぼくに手がかかりすぎたから…?)
 それで温室は無いのだろうか、と眺める庭。母は庭仕事が好きで、花が沢山植えてある。花壇の他にも薔薇の木などが。花壇の花は季節に合わせて植え替えもするし、楽しんでいる庭仕事。
(花を飾るのも好きだしね…)
 玄関先や客間や食卓、花を絶やさないようにしている母。庭で咲いた花たちも、もちろん飾る。花を沢山つけない時でも、一輪挿しに生けたりして。
 そのくらい花と庭仕事が好きなら、温室も持っていそうなもの。テント風の簡易式とは違って、さっき入って見て来たようなガラス張りのを。
(熱帯睡蓮とか、サボテンじゃなくても…)
 温室で育てたい花は幾つもあるだろう。花が大好きな母なら、きっと。
 けれども、母の所に生まれて来たのは弱すぎた息子。温室育ちの花と同じで、身体が弱くて手がかかる子供。寒い季節はすぐ風邪を引くし、夏の暑さも身体に毒。少し疲れただけで出す熱。
 そんな自分が生まれて来たから、温室の花まで手が回らなかったのかもしれない。父と結婚して此処に住む時は、温室を作る予定があったとしても。
(ごめんね、ママ…)
 弱く生まれた自分のせいで、温室を作るのを諦めたなら。「とても無理だわ」と、温室で育てる花たちの苗を諦めたなら。
 苗を買おうと店に行ったら、目に入るだろう温室の花。「如何ですか?」と苗を並べて、世話のし方もきちんと書いて。
 もしかしたら今も、母は見ているかもしれない。「こういう花も育てたかったわ」と。苗の前に立って暫く眺めて、違う苗を買いにゆくのだろう。家に温室は無いのだから。
(今、温室を作っても…)
 やっぱり何かと手がかかる息子。丈夫な子ならば今の時間はクラブ活動、まだまだ家には帰って来ない。母はのんびり庭仕事が出来て、温室の世話も出来た筈。
 弱い息子がいなければ。…もっと丈夫に生まれていたなら、母は温室を持てただろう。この庭の何処かにガラス張りのを、色々な花を育てられるのを。



 きっとあったよ、と思う温室。弱い息子が生まれなければ、母の好みの花が一杯。ガラス張りの小さな建物の中に、温室で育つ花たちが。
(…ママだって、温室、欲しかったよね…)
 今だって欲しいかもしれない。「うちでは無理よね」と、色々な苗を見ては心で溜息をついて。
 母は少しもそんなそぶりは見せないけれども、温室で花を育てることも好きそうだから。自分が丈夫な子供だったら、温室を持っていそうだから…。
(ぼくがお嫁に行った後には、温室の花を楽しんでね)
 弱い息子を世話する代わりに、うんと素敵な花たちを。温室でしか育てられない花から、寒さを避けて冬は温室に入れる花まで、様々なのを。
 温室の中でしか生きられない花たちの世話は難しそうでも、母ならばきっと大丈夫。温室育ちの花たちよりも厄介なものを、ちゃんと育てているのだから。
(ぼくって、人間だけれど、温室育ち…)
 温室育ちって言うんだよね、と自覚はしている。弱い身体に生まれて来たから、両親に守られて育った自分。危ないものやら、危険な場所から遠ざけられて。
(公園に行っても、そっちは駄目よ、って…)
 怪我をしそうな遊具の方へ行かないようにと、母がいつでも目を配っていた。ブランコだって、幼い頃には母に見守られて乗っていたほど。転げ落ちたら大変だから。
 他所の子たちは好きに遊んで、大泣きしていた子もよく見掛けたのに。ブランコから落っこちて泣いた子供や、ジャングルジムから落っこちた子供。
(怪我をしちゃって、血が出てたって…)
 「そんな怪我くらいで泣かないの」と叱られている子も多かった。また公園で遊びたいのなら、泣かずに我慢するように、と。
 けれど、弱かった自分は別。転んだだけでも母は大慌てで、直ぐに出て来た絆創膏や傷薬。
 学校に行く年になっても、体育の授業は見学ばかり。最初から見学する時もあれば、途中で手を挙げて見学に回る時だって。…それは今でも変わらない。
 今でも手がかかる弱い子が自分、これからもきっと弱いまま。
 温室育ちの弱い息子がお嫁に行ったら、母に楽しんで欲しい温室。庭の何処かにガラス張りのを作って、母の好みの花たちを植えた鉢を並べて。



 ぼくがお嫁に行っちゃった後は、ママだって、と思う温室のこと。庭仕事も花も大好きな母が、自分の温室を持てますように、と。今は眺めているだけの苗を買って来て、育てられるように。
(今度はハーレイが大変だけどね…)
 温室育ちのお嫁さんを貰うわけだし、手がかかるから。それまでは母が世話していたのを、世話する羽目になるのだから。
 でもハーレイなら大丈夫、と帰った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
 温室育ちの自分がお嫁に行っても、ハーレイには無い園芸の趣味。ハーレイの家にも庭も芝生もあるのだけれども、やっているのは芝生の刈り込みくらいだろう。それと水撒き。
 花壇は作っていない筈だし、鉢植えの花たちも育てていない。だからハーレイが面倒を見るのは温室育ちのお嫁さんだけ。花たちに手はかからないから。
(芝生の刈り込みは毎日じゃないし、水撒きはすぐに出来ちゃうし…)
 ハーレイの家の庭の手入れは簡単そう。母のようにせっせと世話をしなくても、きちんと綺麗に保てるだろう。たまに芝生を刈り込んでやって、水不足の時には水撒きすれば。
(ぼくが温室を作っちゃうとか…?)
 ハーレイが仕事に行っている間は暇なのだから、ガラス張りの小さな温室を一つ。小さくても、ちゃんとハーレイも中に入れるくらいのを。
 熱帯睡蓮を植えてみるとか、庭では無理な花たちを色々育てて楽しむ。苗を買って来て。
 それも素敵だと思ったけれども、相手は温室の花たちだから…。
(ぼくが風邪とかで寝込んじゃったら、ハーレイが温室の花の世話まで…)
 しなくてはいけないことになる。芝生の刈り込みや水撒きだったら、少しくらいは先延ばしでも何も問題ないのだけれども、温室は駄目。きちんと世話をしてやらないと。
 寝込んでいる自分の世話に加えて、温室の世話では申し訳ない。ハーレイが作った温室とは違うわけだから。自分が「欲しい」と作って貰って、勝手に始めた趣味なのだから。
 それの世話までするとなったら、ハーレイがあまりに気の毒すぎる。「俺はかまわないぞ?」と笑っていたって、手がかかるのは間違いないから。
 そう考えたら、母が温室を作らなかったように、自分もやっぱり作らないのがいいのだろう。
 ハーレイに迷惑をかけたくなければ、趣味のためだけの温室などは。



 駄目だよね、と分かってはいても、魅力的なガラス張りの建物。植物を育てるための温室。
(家にあったら、素敵なんだけど…)
 真冬でも温室の中に置いたら、春の花たちが咲いたりもする。今日、聞いて来た桜みたいに。
 温度を高めに調節したなら、夏の花だって咲くだろう。雪の季節に太陽を思わせるヒマワリも。
(いいな…)
 冬でも夏の花なんて。花屋さんに出掛けたわけでもないのに、自分の家の庭で見られるなんて。その上、外は冬だというのに、温室の中は汗ばむほどの夏の暑さに包まれて輝いているなんて。
 本物の夏の暑さは苦手だけれども、温室だったら話は別。冬から夏へとヒョイと旅して、暑さに飽きたら戻って来られる。冬の世界へ。
(植物園の温室だったら、夏よりもずっと…)
 暑く感じる場所だってある。この地域の夏より気温が高い、熱帯雨林を再現している温室なら。ああいう気分を家でも味わえそうなのに。庭に温室があったなら。
(雪の日に手入れをしに入っても…)
 きっと汗だくになっちゃうよね、と夢を描くガラス張りの小さな建物。庭に作ってある温室。
 入る時には上着も手袋も全部外さないと、本当に直ぐに汗だくだろう。夏真っ盛りの暑い気温を作り出すよう、設定してある温室ならば。
 中の季節が外とは逆の真夏だったら、冬はガラスが白く曇っているかもしれない。外は寒くて、温度が遥かに低いのだから。
 冬の季節に家の窓ガラスが曇ってしまって、指先で絵などを描けるみたいに。
(温室用なら、曇り止めのガラス…)
 そういうガラスを使っている可能性もある。すっかり曇ってしまわないよう、寒い季節も外から中がよく見えるように。
 家の窓ガラスも曇るのだから、もっと暖かい温室のガラスはきっと曇ってしまう筈。霧みたいに細かい水の雫がびっしり覆って、真っ白くなって。
 それでは駄目だし、曇り止めのガラスで建てる温室。中がどんなに暖かくても、外が寒くても、ガラスは透き通っているように。…中に置かれた鉢や花たちを外から覗けるように。
 今日、見学した温室だって、そんな仕掛けがあるかもしれない。雪がしんしん降っている日も、曇りはしないで透明なガラス。中の花たちが透けて見える温室。



 きっとそうだよ、という気がしてきた。温室には詳しくないけれど。曇り止めのガラスで作ってあるのか、注文しないと曇り止めのガラスは嵌まらないのか。
 けれど料金が少し高くても、大抵の人は曇り止めのガラスを選びそう。自分が温室を持つことになったら、もちろん曇らないガラス。一面の雪景色が広がる日でも。
(ガラスの向こうが見えないと、つまらないものね?)
 別世界のような温室の中。雪が降る日に咲くヒマワリやら、南国の色鮮やかな花たち。外側から見れば夢のようだし、そういう仕掛けをしておきたい。
 着ぶくれたままで中に入ったら汗だくになるし、そうしないと花が見えないよりは。花の世話をしに入る時以外でも、通りかかったら中を見られる方がいい。曇っていないガラス越しに。
 やっぱり花が見えないと…、と思った所で掠めた記憶。遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたもの。温室に少し似ていたもの。
(とても暑かったガラスケース…)
 透き通っていたガラスの地獄に入れられたんだ、と蘇って来た前の自分の記憶。
 あれはアルタミラで実験動物だった頃。今と同じにチビだったけれど、心も身体も成長を止めて過ごしていたから、本当の年は分からない。子供だったか、子供と呼べない年だったかは。
 それでも心は子供だったし、身体も子供。
 檻から引っ張り出される度に怯えて、実験室を見たら震え上がった。何が起こるのかと、どんな酷い目に遭わされるのかと。
 研究者たちは容赦なく「入れ」と顎で命じたけれど。ガラスケースに押し込めたけれど。
(低温実験をされる時だと、ガラスに氷の花が咲くけど…)
 中の温度が下がっていったら、咲き始めたのが氷の花。命を奪おうと咲いてゆく花。
 それとは逆に高温の時は、ガラスケースは蒸気で曇った。研究者たちが見守るケースの外より、中が遥かに暑いから。冬に窓ガラスが曇るみたいに、内側の方から真っ白に。
 どういう風に曇っていったか、中の自分は観察してなどいないけれども、見えなくなった外側にいた研究者たち。中の温度が上がり始めたら、酷い暑さに襲われたならば、見えない外。
 研究者たちが曇り止めの装置を作動させるまで、いつも曇ったままだったガラス。
 曇りが消えたら、彼らは外で観察していた。温室の中の花を眺めるみたいに、覗き込んで。中で苦しむ自分を見ながら、記録したり、何かを話していたり。



 温室みたい、と今だから思う強化ガラスのケース。前の自分が苦しめられた高温実験。ガラスの外は少しも暑くないのに、内側は凄まじい暑さ。真夏どころではなかった温度。
(前のぼく、温室に入れられちゃってた…)
 それも曇り止めのガラスの温室、外から中を覗けるものに。前の自分は花ではないのに、暑さに苦しむ人間なのに。…研究者たちの目から見たなら、単なる実験動物でも。
 たとえ温室の花だとしたって、研究者たちは酷い扱いはしなかったろう。美しい花ならば愛でて楽しみ、適切な温度にしてやった筈。少しでも長くその美しさを保てるように。
 けれど実験動物は違う。何処まで耐えることが出来るか、それを調べていたのだから。ケースの中で倒れて動かなくなるまで、温度を上げてゆくだけだから。
(見てたのだって、ぼくの変化を調べてただけ…)
 どのくらいで肌が赤くなるのか、火ぶくれや火傷はいつ出来るのか。観察するには、白く曇ったガラスではまるで話にならない。向こう側が透けて見えないと。
 だから使われた曇り止めの装置。ガラスケースが白く曇れば、スイッチを入れて。
 いったい何度まで上がっただろうか、あの時のガラスケースの中は。温度計など内側にはついていなかったのだし、前の自分は何も知らない。どれほどの暑さに包まれたのか。
 息も出来ないほどに暑くて、真っ赤になっていった肌。日焼けしたように。
 其処を過ぎたら肌は火傷して、幾つも火ぶくれが出来たと思う。熱さと痛みで泣き叫んだのに、研究者たちは何もしなかった。淡々と記録し続けるだけで、けして下げてはくれなかった温度。
(床にバッタリ倒れちゃっても…)
 焦げそうに熱い床に倒れ伏しても、まだ上がる温度。喉の奥まで焼け付くようで、息を吸ったら肺の奥まで入り込む熱。身体の中から焼き尽くすように。
 それでも温度は上がり続けるから、「これで死ぬんだ」と薄れゆく意識の中で思った。焼かれて此処で死んでしまうと、きっと黒焦げになるのだと。
(死んじゃうんだ、って思ってたのに…)
 気が付いたら、また檻の中にいた。自分の他には誰もいなくて、餌と水が突っ込まれる檻に。
 身体のあちこちが酷く痛くて、呼吸をするのも辛いほど。治療が終わって檻に戻されても、まだ癒えたとは言えない身体。火傷の痕があったりもした。明らかにそうだと分かるものが。
 死んではいなかったのだけど。命は潰えていなかったけれど、その手前までは行ったのだろう。



 酷かったよね、と今でも身体が震える。一人きりのタイプ・ブルーでなければ、きっと殺されていたのだと思う。死の一歩手前で止めはしないで、どんどん温度を上げ続けて。
 死体になっても、もう動かなくなった身体が真っ黒に焦げてしまうまで。炭化して崩れて、灰になってケースの中に舞うまで。
(今のぼくだと、温室育ちの子供なのに…)
 弱い子供だから、過保護なくらいに守られて育って来たというのに、同じに弱かった前の自分は温室で酷い目に遭った。あれを温室と呼ぶのなら。曇り止めの装置が備えられていた、あれも温室だったなら。…アルタミラにあった、強化ガラスのケース。
 あの中だって適温だったら、きっと暖かかったのだろうに。心地よい温度に保ち続けることも、使いようによっては出来た筈。研究者たちが、そうしてみようと考えたなら。
 春の陽だまりみたいな温度。それを保った、温室のようなガラスのケース。そういうケースに、檻の空調が壊れて寒かった日に入れて貰えたなら、とても幸せだっただろうに。
 同じケースでも全く違うと、床で丸くなってまどろみさえもしたのだろうに。
(ホントに上手くいかないよね…)
 実験動物だったから仕方ないけど、と思い出しても悲しい気分。温室の中で育つ花なら、寒さで凍えて震えていたなら、暖かい場所へ移されたのに。「花が傷む」と大急ぎで。
 とりあえず此処でいいだろうかと、少しでも暖かい部屋へ。花を飾るような場所ではなくても、鍋が置かれたキッチンでも。
(実験動物だっていうだけで、ガラスケースの気持ちいい温室も無し…)
 適温だったケースなんかは知らないよ、と前の自分の不幸を嘆いていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ぼくって温室育ちだよね?」
 ぼくみたいなのを、そう言うんでしょ?
 パパとママに守られてぬくぬく育って、うんと過保護に育って来たと思うから…。
 ホントの温室では育ってないけど、温室育ち。外の厳しさを知らないから。
「温室育ちなあ…。間違いなくそうだと俺も思うが、どうかしたのか?」
 今のお前は正真正銘、温室育ちのチビだよな。前のお前だった頃と違って。
 幸せ一杯の温室の花だが、なんでいきなり温室なんだ…?



 分からんぞ、と怪訝そうな顔をしているハーレイ。「何処から温室が出て来たんだか」と。
「お前の家には温室は無いだろ、俺の家にも無いんだが…。新聞にでも載ってたか?」
 植物園か何かの記事が出てたか、温室の定番は植物園だし。
 其処から温室育ちなのか、と尋ねられたから「ううん」と横に振った首。「帰りに見た」と。
「学校の帰りに歩いていたら、温室がある家に気が付いて…。見てたら中にどうぞ、って」
 それで温室を見せて貰って、素敵だよね、って家に帰っても思ってて…。
 真冬に桜を咲かせたりする、って聞いたから。ちょっといいでしょ、温室があったら雪の季節にヒマワリだって咲くものね。
 だけど、うちには温室は無いし…。ぼくが弱すぎる子供だったから、ママは諦めちゃったかも。温室の世話までしていられない、って温室作り。
 そんなこととか、いろんなことを考えていたら思い出しちゃった。…前のぼくのことを。
 今のぼくは温室育ちだけれども、前のぼくは温室で酷い目に遭わされたんだっけ、って。
「はあ? 温室って…」
 シャングリラにあった温室のことか、白い鯨には農作物用の温室もちゃんとあったしな。規模はそんなに大きくないから、嗜好品までは無理だったが…。コーヒー豆とかカカオ豆とかは。
 お前、あそこで何かあったか、酷い目に遭ったなんて言うからには…?
 そんな記憶は全く無いが、とハーレイが首を捻っているから、「もっと前だよ」と遮った。
「シャングリラだったらいいんだけれど…。閉じ込められても、すぐ出られるから」
 瞬間移動で飛び出さなくても、「誰か助けて」って思念で呼んだら、開けに来るでしょ?
 ソルジャーのぼくが覗いている間に、扉が勝手に閉まっちゃったとかいう事故ならね。
 白い鯨なら、酷い目に遭う前に出られるけれども、アルタミラ…。実験動物だった頃だよ。
 温室って言うには暑すぎたけれど、高温実験用のガラスケースのこと。…ガラス張りな所は温室そっくり、曇り止めまでついてたってば。中の様子が見えるようにね。
 前のハーレイは入れられていないの、あの暑かったガラスケースには…?
 地獄みたいに暑い温室、と尋ねてみたら、「あれなあ…」とハーレイが眉間に寄せた皺。
「温室って言うから何かと思えば、高温実験のガラスケースのことか…」
 俺だって一応、経験はあるが、お前ほどではなかったな。
 前のお前から聞いた話じゃ、死ぬかと思うほど酷い目に遭っていたそうだから…。



 お前がそれなら、俺はせいぜいサウナ止まりってトコだったろうさ、という答え。サウナ程度のガラスケースしか知らないぞ、と。
「こりゃ死ぬな、と考えたことは無かったからな。…俺の場合はサウナだろう」
「…サウナ?」
 なにそれ、前のハーレイが受けてた実験、そういうのなの…?
「ものの例えというヤツなんだが…。お前もサウナは知ってるだろう。言葉くらいは」
 シャングリラにサウナの設備は無かったわけだが、今の時代はお馴染みのヤツだ。前の俺たちが生きてた頃にも、人類の世界にはあった筈だぞ。
 ただしサウナも、お前には少し暑すぎるがな。…高温実験のケースほどじゃなくても。
 今のお前ならゆだりそうだ、とハーレイが言うから頷いた。本当にその通りだから。
「うん、ちょっぴりなら入ってみたよ。小さかった頃に、パパと一緒に」
 ホテルのサウナ、と話した幼い頃の体験。両親と出掛けた旅先のホテルで起こった出来事。父がサウナに行くと言うから、「ぼくも行きたい!」とくっついて行った。
 どんな場所かも知らないくせに。「暑いんだぞ?」と父に脅かされても、「おっ、サウナか」と顔を輝かせた父を目にした後では効果など無い。「きっと素敵な場所なんだ」と考えるだけで。
 それで強請って一緒に出掛けて、母が後ろからついて来た。「ブルーには無理よ」と。
 サウナの前でも「本当に入りたいのか、ブルー?」と念を押されたのに、張り切って入ったのが幼かった自分。父と一緒に楽しもうと。
 けれど二人で入ったサウナは、もう本当に暑かったから。とんでもなく暑い部屋だったから…。
(クラクラしちゃって、すぐにパパに抱えられて外に出て…)
 まだ楽しみたい父から母に引き渡された。「やっぱりブルーには暑すぎたな」と。
 父は一人でサウナに戻って、暑さにやられた幼い自分は暫くの間、母にもたれて廊下のソファでぐったりとしていたのだけれど。「目が回りそう」と、目をギュッと瞑っていたけれど…。
 身体の熱さが引いていったら、アイスクリームを強請った記憶。「冷たいものが食べたい」と。
 サウナはとても暑かったのだし、身体を冷やすのにアイスクリーム。
 ホテルだからアイスクリームもあるよね、と母に強請って、アイスクリームどころかパフェ。
 とても食べ切れないようなサイズの、大きなパフェを前にして御機嫌だった覚えがある。一人で全部食べていいんだと、「このパフェはぼくのものなんだから」と。



 多分、食べ切れなかっただろうパフェ。どう考えても大人サイズで、今の自分でも食べ切れるかどうか怪しいから。
 きっと「美味しそう!」とパクパクと食べて、早々に降参したのだろう。「もう入らない」と。残りは母が食べてくれたか、サウナから戻った父が笑って平らげたのか。
「なるほど、サウナで参っちまった後にはパフェを強請った、と…」
 本当に今のお前らしいよな、我儘なのも。…サウナに行くと頑張る所も、その後のパフェも。
 そういうお前も可愛らしいが、サウナ、けっこう暑かったろうが。お前が参っちまうくらいに。
 今の俺はよくジムで入るんだが、前の俺がやられた高温実験だって恐らくサウナ程度だろう。
 もっとも、実験の時に温度計なんぞは無かったから…。正確な所は分からないがな。
 何度も実験を受ける間に、慣れてしまうってこともあるから。身体の方が。
 しかしだ、俺の場合は耐久実験だったわけで、どれくらいの時間を耐えていられるかが、研究者どもの興味の的だった。飲み物も無しでサウナに入っていられる時間。
 だから温度はそれほど高くはなかっただろう。…前のお前の場合は温度が高かったんだが。
 気を失うまで上げたんだよな、とハーレイが顔を曇らせる。「チビの子供に酷いことを」と。
「そう…。もう死んじゃう、って思っていたよ。いつも、とっても暑かったから」
 息も出来ないくらいに暑くて、肌が真っ赤になっちゃって…。
 酷い時だと火傷もしてたし、火ぶくれだって幾つも出来ちゃった…。
 ホントに酷いよ、いくら実験動物でも…。後で治療をするつもりでも、あんまりだよね。
 前のぼく、見た目は子供だったし、中身も子供だったのに…。
 ガラスケースの中で「熱い」って泣いていたのに、止めてくれさえしなかったよ。
 今のぼくだと、同じぼくでも本物の温室育ちなのに…。
 実験用のガラスケースじゃなくって、ガラス張りの温室の方なのに。ちゃんと身体にピッタリの温度で、世話だってきちんとして貰えて。
 そういう温室、ちょっぴり憧れるんだけど…。
 花を育てるための温室、素敵だよね、って思ったんだけど…。



 いつかハーレイと暮らす家に温室が欲しいけれども、難しいよね、と溜息をついた。温室育ちの自分がそれを欲しがったなら、ハーレイの手間が増えそうだから。
 具合が悪くて寝込んだ時には、温室の世話までハーレイがすることになるから。
「そうだな、お前の世話をするだけで手一杯かもしれないなあ…」
 俺の仕事が多い時だと、そうなることもあるだろう。お前の世話しか出来ないような日。
 そうなったら花が可哀想だしな、一日くらいは世話を休んでも大丈夫だとは思うんだが…。
 何日か続けば、命が危うくなっちまう。温室育ちの花は弱くて、こまめな世話が必要だから。
 お前の夢も分かるんだがなあ、前のお前が温室で酷い目に遭った分だけ、憧れるのも。
 同じにガラスで出来たヤツでも、温室の方が遥かに素敵だからな。
 家で温室は無理となったら、デートに行くしかないってことか…。植物園の温室まで。
 あそこだったらデカイ温室があるぞ、とハーレイも思い付いた場所が植物園。やっぱり其処しか無さそうなのが、ガラスで出来た大きな温室。
「ハーレイも植物園だと思う?」
 そんな楽しみ方しか出来そうにないね、ガラス張りの温室…。家じゃ無理なら。
「うむ。せっかくアルタミラの地獄とは違う時代に生まれて来たのになあ…」
 本物のサウナを楽しめる時代で、俺はサウナをジムで満喫してるのに…。
 今よりもずっとチビだったお前も、サウナに懲りてパフェを食ったりしたのにな…?
 温室の方は植物園しか手が無いというのが、なんともはや…。
 前のお前の辛い記憶が吹っ飛ぶくらいの素敵な何かが、何処かにあればいいんだが…。
 温室と言ったら植物園しか無さそうだよなあ…。
 なんたってモノが温室なんだし、植物を育ててやるための部屋で…。
 いや、待てよ?
 温室ってヤツにこだわらなければ、似たようなヤツでアルタミラ風で…。うん、あれだ!



 植物園よりも面白い施設があるんだった、とハーレイはポンと手を打った。
「温室じゃないが、地球のあちこちの気候を再現している所なんだ」
 焼け付くような砂漠だったり、雪と氷の世界だったり。…そういう部屋が並んでる。
 うんと暑い部屋から出て来た途端に、「次はこちら」と氷の世界に続く扉があったりしてな。
 扉を開けて入らない限りは、空調の効いた普通の建物なんだが…、という説明。いながらにして地球のあらゆる気候を体験、それが売りの施設。
「砂漠とか、雪と氷とか…。面白いの?」
 植物園とは違うみたいだし、木とかは植わってなさそうだけど…。凄く極端な温度なだけで。
「俺たちにとっては楽しい施設じゃないか?」
 特にお前だ、高温実験も低温実験もされていたのが前のお前だろうが。…死にそうなほどの。
 それが今だと、暑い部屋にも寒い部屋にも、遊びで入って行けるんだからな。
 其処の施設に行きさえすれば。
 服とかも貸して貰えるんだぞ、防寒用のを。サイオンでシールドしたりしないで、自分の身体で寒さを体験したいなら。…暑い方の部屋なら、暑気あたり防止用のグッズも借りられるから。
 入っている時間も自分の好きに決めていいんだ、とハーレイが教えてくれたから。
「それ、行ってみたい…!」
 植物園の温室とかより、ずっと幸せな気分になれそう。今は遊びで入れるよ、って。
 ガラスケースじゃないけれど…。部屋の中に入って行くみたいだけど。
「なら、行くとするか。いつかお前と一緒にな」
 俺の車でドライブがてら、デートに出掛けて行くとしようか。アルタミラの気分を味わいにな。
 砂漠の暑さや氷の世界の寒さくらいじゃ、前のお前の体験にはとても及ばんが…。
「ううん、充分、素敵だってば。遊びで行けるアルタミラだね」
 こんな実験をされていたよね、って暑い部屋とか寒い部屋に入って行くんでしょ?
「俺たちにとっては、そういう施設になっちまうなあ…。本当の所は体験用の施設なんだが」
 地球には豊かな気候があります、と味わうための所なわけで…。
「どんな所でもいいじゃない。入るぼくたちが、実験動物じゃないのなら」
 自分で決めて入って行くなら、ガラスケースでも今は温室なんだよ?
 今のぼくにはガラスの温室、ちょっぴり憧れなんだから…。



 いつか二人で遊びに行こうね、とハーレイと約束の指切りをした。大きくなった時の約束。
 温室育ちの今の自分だけれども、今度は遊びで体験できる。
 高温実験や低温実験用のガラスケースの代わりに、暑すぎる部屋も、寒すぎる部屋も。
 家にガラス張りの温室を作って楽しむ代わりに、ハーレイと二人で遊びにゆく。地球のあらゆる場所の気候を体験できる施設まで。
 「地球は素敵な星だけれども、地球の上にも暑すぎる所があるんだね」などと言いながら。
 「寒すぎる場所はとても寒いね」と、着ぶくれて笑い合いながら。
 今は平和な時代なのだし、そんな所に出掛けて行っても、怖いことなど何もない。
 暑すぎる部屋で疲れた時には、大きなパフェを強請ってみよう。「暑かったよ」とハーレイに。
 幼かった自分がサウナでクラクラした時みたいに、我儘に。
 きっとハーレイは、気前よく許してくれるだろうから。
 「食べ切れるのか?」と可笑しそうに笑って、とても大きなパフェを注文してくれるから…。



               温室とガラス・了


※温室のガラスで、実験動物だった頃を思い出してしまったブルー。高温に晒される実験。
 けれど今では、高温の世界を楽しめる施設があるのです。酷寒の世界も、今の地球ならでは。
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「あれっ、ハーレイ?」
 どうしたの、と恋人に向かって尋ねたブルー。休日の午後に。
 今日は土曜日、午前中からハーレイが家に来てくれた。お昼御飯もこの部屋で二人、ゆっくり。午後のお茶は庭か部屋かと迷って、部屋の方を選んだ。
 庭で一番大きな木の下、据えてある白いテーブルと椅子。其処に行くのも素敵だけれど、庭だと気になる両親の視線。ダイニングからも庭は見えるし、リビングからも。一階の他の場所からも。
 ハーレイと初めてデートした場所が、庭で一番大きな木の下。
 特別な場所には違いなくても、両親の視線は避けられないから、やっぱり部屋の方がいい。そう思ったから、いい天気だけれど部屋でお茶。恋人同士で過ごすなら此処、と。
 そのハーレイとお茶を飲んでいたら、起こった事件。褐色の肌の恋人の上に。
「いや、ちょっと…」
 大したことはないんだがな、とハーレイは微笑んでいるけれど。
 瞬きをしたら零れた涙。鳶色をした瞳の片方、其処から溢れて頬を伝って。つうっと、一粒。
「涙って…。もしかして、ゴミが入っちゃった?」
 片方だけが涙だもんね、と問い掛ける間も、ハーレイはパチパチと瞬きしながら。
「そのようだ。…何処かに入っちまったんだな」
 上手く流れりゃいいんだが…。俺の目玉がデカイ分だけ、入り込める場所も多いから。
 お前の目玉に負けていないぞ、とハーレイが飛ばす愉快な冗談。「お前の目玉は大きいが」と。チビでも目玉はやたらデカイと、「俺の目玉と変わらんだろうが」と。
 確かにそうかもしれないけれども、ハーレイの目玉に飛び込んだゴミ。宙に浮かんだ小さな埃。
「…ごめん、ぼくの掃除…」
 朝にきちんと掃除したけど、埃、残っていたのかも…。
 テーブルの下に落っこちてたとか、ぼくが見落としちゃっていたとか。
 それがハーレイの目に飛び込んじゃった、と項垂れた。「ぼくのせいだよ」と謝って。
「お前のせいって…。そうでもないだろ、小さいのは何処にでも浮かんでるモンだ」
 綺麗に掃除したての場所でも、運が悪けりゃ飛び込まれちまう。目に見えないから防げないし。
 避けようがないなら、こうなるのは運の問題で…。
 しかしだな…。



 まだ取れないか、とハーレイが繰り返している瞬き。何処へ入ったのか分からない埃。
(涙、ポロポロ…)
 洗面所に行った方がいいんじゃあ、と思うくらいに零れる涙。瞬きの度に目から溢れて。幾つも頬を伝ってゆくのに、埃は一向に流れてくれないらしいから…。
(洗った方が早いよね?)
 小さな涙の粒に頼るより、蛇口からザアザア流れる水。それで洗えば、アッと言う間に何処かへ流れてゆくだろう。何処にあるのか謎の埃でも、目ごと洗ってやりさえすれば。
 泣いているよりそっちがいいよ、と「洗面所に行く?」と提案しようとして。
(ハーレイの涙…)
 まだ泣いてるよ、と眺めたらドキリと跳ねた心臓。「ゴミのせいだ」と思っていた時は、まるで気付いていなかったこと。…ハーレイの涙。
 片方の目からしか零れていないし、原因は小さな埃だけれど。ハーレイは埃を洗い流すために、涙を使っているのだけれど。
(だけど、涙は涙だもんね…?)
 泣いているのとは違っても。目玉の掃除に使うものでも、涙は涙。ハーレイの目から零れる涙。悲しい時には流れ出すもので、嬉しい時にも溢れたりする。頬を濡らして落ちる涙は。
(…ハーレイの涙、いつ見たんだっけ…?)
 考えてみれば、前の自分だった頃に見たきりのような、ハーレイの涙。褐色の頬を伝う涙を見た覚えが無い。鳶色の瞳が潤むのも。…今の自分は。
(今のハーレイ、泣かないから…)
 まるで記憶に無い、今のハーレイが泣く所。もしかしたら、涙が滲む瞳も。
 きっとハーレイの涙を見てはいないと思う。笑顔はすっかりお馴染みだけれど、泣き顔の方。
 この地球の上で、ハーレイと再会した時ですらも。
(…ハーレイ、泣いていなかった…)
 そうだったよね、と手繰ってみる記憶。
 教室で聖痕が現れた時は、仕方ないとも思うけれども、その後のこと。家まで訪ねて来てくれた時に、ハーレイは泣きはしなかった。
 「ただいま」と恋人に呼び掛けたのに。「帰って来たよ」と、思いをこめて告げたのに…。



 あの時もハーレイは泣かなかった、と今頃になって気が付いた。前の自分たちが別れた時から、長い長い時が経ったのに。…やっと再会出来た二人だったのに。
 それでも泣かなかったのがハーレイなのだし、ちょっとしたことで泣くわけがない。ハーレイの涙は知らなくて当然、「見たことがない」と思って当然。
(ぼくは、しょっちゅう泣いているのに…)
 泣かないなんて、なんだかズルイ、と見詰めてしまった恋人の顔。洗面所のことなど、すっかり忘れて。瞬きする度に零れる涙に目を奪われて。
 そうする間に、止まった涙。ハーレイが手でゴシゴシと擦っている頬。ついでに目元も。
「よし、もういいぞ。厄介だったが、取れてくれたようだ」
 こんなに時間がかかるんだったら、洗面所を借りれば良かったな。洗えば一発なんだから。
 俺としたことがウッカリしていた、席を外したくなかったもんだから…。
 せっかくお前と二人きりなのに、「ちょっと行ってくる」というのもなあ…?
 しかし、話も途切れちまってたし、俺がいたって大して意味は無かった、と。…瞬きばかりで、ゴミを取るのに夢中になって、結局だんまりだったんだから。…ん?
 なんだ、お前、変な顔をして…、とハーレイに覗き込まれた瞳。「どうかしたのか?」と。
「えっと…。ハーレイの涙を見てる間に、気が付いたんだけど…」
 今のハーレイ、泣かないよね。
 目にゴミが入った時の涙じゃなくって、ホントの涙。…今のハーレイ、泣かないでしょ?
「はあ? 泣かないって…」
 俺のことなのか、とハーレイが指差す自分の顔。「今の俺か?」と確認するように。
「そうだよ、今のハーレイのこと。…ハーレイの涙、一度も見たことがないよ」
 ぼくは何度も泣いちゃってるのに、ハーレイは泣いていないんだよ。
 さっきはポロポロ泣いていたけど、あれはゴミのせいで、本当に泣いたわけじゃないもんね。
 涙の中には入らないよ、と数えてやらない、さっき見た涙。数は沢山あったけれども。
「泣いていないって…。そうだったか?」
 今の俺は一度も泣いていないか、お前の前では…?
「うん、知らない。ハーレイの涙は、さっきが初めて」
 泣いてる内には入らないけど、あれだって涙。でも、本当の涙は一度も見ていないんだよ。



 ゴミじゃなくって、心のせいで出てくる涙、と話した「本当の涙」の意味。悲しい時も、嬉しい時にも涙は零れてくるものだよね、と。
「そういう涙を、今のハーレイは流してないよ。ただの一度も」
 ぼくに初めて会った時にも、ハーレイは泣かなかったじゃない、と指摘してやった。教室でも、この家を訪ねて来た時だって、と。
 ようやく会えて、「ただいま、ハーレイ」と言ったのに。「帰って来たよ」と、愛おしい人に。
「そういや、そうか…」
 泣いていないな、あの時の俺は。…教室の方は、驚いちまってそれどころではなかったが…。
 最初は事故だと思ってたんだし、お前、教え子なんだしな?
 教師の俺が先に立つぞ、とハーレイが持ち出した自分の立場。「教室では泣けん」と。
「それは分かるけど、ぼくの家に来た時は違うでしょ?」
 記憶はすっかり戻ってるんだし、ぼくが誰かも分かってるから…。
 他の先生には「生徒の様子を見に行ってくる」って言っていたって、ハーレイの中では生徒じゃないでしょ?
 恋人に会いに出掛けるんだよ、ずっと昔に別れたきりの。…シャングリラで別れて、それっきり会えていなかった、ぼくに。
 部屋に入ったら、そのぼくがちゃんといるんだから…。「ただいま」って挨拶したんだから…。
 それでも少しも泣かないだなんて、ハーレイ、とっても酷いじゃない。
 感動の再会だったのに涙も流さないなんて…、と恋人を責めた。目の中に入った小さなゴミで、今のハーレイは涙を流したから。…涙が溢れる瞳を持っているのだから。
「そうは言うがな、あの時のことをよく思い出してみろよ?」
 泣かなかったのは俺だけじゃない。…お前だって泣いていなかったぞ。
 メギドじゃ散々泣いたそうだが、あの時は涙の一粒も無しだ。…デカイ目は大きめだったがな。
 いつもよりかは大きかった、とハーレイが言うのは当たっている。零れ落ちそうに見開いていた覚えがあるから。…泣くよりも前に。
 二度と会えない筈のハーレイ、そのハーレイにまた会えたのだから。
 「本当に本物のハーレイなんだ」と、現れた恋人を見詰めていたのが自分だから。
 確かに泣いてはいなかったけれど。…自分の方も、涙を流して恋人を迎えはしなかったけれど。



 とはいえ、あの時、泣かなかったことには理由がある。…泣けなかったと言うべきか。
「…ぼくだって泣きたかったよ、ホントは…。またハーレイに会えたんだもの」
 教室の時には、聖痕の傷がとても痛くて、泣く前に気絶しちゃったけれど…。泣いていたって、きっと「痛いよ」っていう方の涙だったと思うけど…。
 ハーレイが家に来てくれた時は、ママがいたから我慢しただけ。
 あそこでウッカリ泣いてしまったら、涙、止まらなくなりそうだから…。ハーレイと恋人同士なことまで、ママに知られてしまいそうだから…。
 恋人同士だってバレてしまったら大変だものね、と明かした理由。ハーレイは実は恋人なのだと母に知れたら、二人きりにはして貰えない。…せっかく再会出来たのに。少しでいいから、二人で一緒に過ごしたいのに。
「俺の方も同じ理由だが…?」
 事情はお前と全く同じだ、泣くわけにはいかなかったこと。…俺の方がお前より大変だったぞ。
 学校じゃ生徒が山ほどいたから、感動の再会どころじゃない。教師の俺を優先させないと。
 お前の付き添いで乗った救急車の中でも、俺はあくまで教師だからな。
 救急隊員が側にいるのに、涙なんか流していられるもんか。…いい年をした大人の俺が。
 若い女の先生だったら、泣きながら生徒の手を握ってても、救急隊員も分かってくれそうだが。先生だってパニックなんだ、と。「大丈夫ですよ」と慰めてくれもするだろう。
 しかし俺だと、「頼りない先生もいたもんだ」と、呆れられちまうのがオチなんじゃないか?
 それじゃ困るし、俺は泣けずに付き添いだ。…「頑張れよ」とお前に声を掛けながら。
 病院に着いて「大丈夫らしい」と分かった後には、学校に戻らなきゃいけなかったし…。
 お前の守り役になることも含めて、色々な仕事を片付けてホッとしたものの…。
 やっとお前の家に行ったら、お母さんがお前の部屋にいた。…お前と同じ理由で涙は駄目だ。
 俺が涙を流しちまったら、お前も一緒に泣いちまう。それまでは我慢してたって。
 マズイ、と涙を堪えたわけでだ、おあいこだな。
 あの時の俺は、お前と同じ理由で泣けなかったんだから、というのがハーレイの言い分。
 もしも涙を流したならば、目の前の恋人も、きっと泣き出すだろうと懸命に堪えていた涙。
 お互い、涙を流していたなら、利かなくなるだろう心の歯止め。会いたかったと繰り返す内に、恋人同士なことだって知れる。…部屋に出入りする母の耳に入って、聞き咎められて。

 泣かなかった理由は同じなのだ、と言われてみれば一理あるから、再会した時は仕方ない。涙のせいで母に恋が知れたら、ハーレイは出入りを禁じられるか、制限されるか。
(…ぼくはチビだし、恋をするには早すぎる年で…)
 いつもハーレイに言われていること、それをそのまま両親が口にしていただろう。もっと大きく育ってから恋をするように、と。…「子供に恋はまだ早い」とも。
 恋の相手は分かっているから、近付けないようにされるハーレイ。二人きりで会うなど、きっと厳禁。二人でお茶を飲むにしたって、「客間にしなさい」と厳命されて監視付きとか。
 そうなっていたら、前の自分たちの恋の続きを楽しむどころか、まるで引き裂かれた恋人同士。どんなにハーレイのことが好きでも、甘えることさえ出来そうにない。
(…あの時、ハーレイが泣いちゃっていたら、そういうコース…)
 辛い恋をする羽目になっていそうだし、涙を堪えたハーレイを評価せねばならない。自分たちの恋を守るためにと、ハーレイは泣かなかったのだから。
「…分かったよ。あの時にハーレイが泣かなかったのは、きっと正しいだろうけど…」
 それで正解なんだろうけど、その後のことはどうなるの…?
 前のぼくたちのことを、幾つも二人で思い出したよ。シャングリラで暮らしていた頃のことを。
 だけど、ハーレイ、何を思い出しても、ちっとも泣いたりしないじゃない…!
 泣き出すのはいつも、ぼくばかりだよ。…ハーレイは慰めてくれるけれども、泣かないよ。
 今のハーレイ、ホントは心が冷たいんじゃないの、と意地悪い言葉をぶつけてみた。
 「泣かないなんて冷たすぎるよ」と、「ぼくと二人きりの時でも、絶対、泣かないものね」と。
 いくら記憶を探ってみたって、覚えが無いのがハーレイの涙。
 前のハーレイなら泣いていたのに、前のハーレイが流した涙は、今も記憶にあるというのに。
 まさか本当に冷たいわけでもないだろうに…、と見据えてやったら、ハーレイも心外そうな顔。
「おいおい、俺が冷たいってか…?」
 前より冷たくなったと言うのか、泣くのはお前ばかりだから。…思い出話をした時だって。
 そいつはお前の勘違いだな、今の俺だってちゃんと泣いてる。
 悲しくなったら、涙は溢れてくるもんだ。…俺がどんなに堪えてみたって、さっきみたいに。
 もっともゴミのせいではないがな、そういう時に出てくる涙は。



 目にゴミなんかが入らなくても、泣く時は泣く、とハーレイが言うものだから。今のハーレイも泣くらしいから、「何処で?」と問いを投げ掛けてみた。
 今の自分はハーレイの涙を見たことが無いし、涙の理由も分からないから。
「…ハーレイ、何処で泣いてるの?」
 ぼくの前では泣いてないよね、いったい何処で泣いているわけ…?
「お前が知らない所でだ。…いつも一緒にいるわけじゃないしな、俺の家は違う場所だから」
 俺が一人で家にいる時、とうしているのか、お前、全く知らないだろうが。
 機嫌よく飯を食ってる時だってあるが、泣いちまう時もあるってことだ。…一人きりだと。
 酒に逃げちまうほどに泣きたい気分の時もあるから、と聞かされてキョトンと見開いた瞳。今の時代は平和な時代で、前の自分たちが生きた頃とは違うのに。
 今のハーレイの毎日は充実していて、泣きたくなるような悲しみとは縁が無さそうなのに。
「一人きりだと泣いちゃうって…。なんで?」
 ハーレイの家には、悲しいことなんて無さそうだけど…。今のハーレイの暮らしにも。
 仕事とかで大変な時はあっても、そんなことくらいで泣きはしないでしょ?
 お酒を飲みたくなってしまうくらいに悲しいだなんて、普通じゃないよ。…お酒、楽しく飲んでいるんじゃなかったの…?
 地球の水で作ったお酒だもんね、と瞳を瞬かせた。前のハーレイも酒が好きだったけれど、今のハーレイも大好きな酒。…合成ではない本物の酒を、楽しんでいる筈だから。前のハーレイが見た死の星とは違う、青く蘇った地球の水。それで仕込んだ酒は格別だと聞いたから。
 もっとも、酒の美味しさは分からないけれど。…子供になった今の自分はもちろん、前の自分も飲めなかった酒。何処が美味しいのかまるで分からず、悪酔いしていたソルジャー・ブルー。
 それでもハーレイが酒を愛する気持ちは分かるし、同じ酒なら、断然、楽しく飲む方がいい。
 悲しい酒を飲むよりも。…悲しみを酒で紛らわすよりも、楽しい酒の方が素敵だろうに。
 それなのに何故、と不思議に思うこと。悲しい酒を飲むハーレイもそうだし、そうなる理由も。
「…俺が泣いちまうのは何故か、ってか…?」
 確かに地球の酒は美味いし、俺にとっては最高の酒だ。…前の俺の記憶が戻ってからは。
 地球の水で仕込んだ酒だと思えば、どの酒も美酒になるんだが…。もう格別の美味さなんだが。
 そいつが悲しい酒になるのは、前のお前が原因だな。…前の俺が失くしちまったお前。



 前のお前を思い出しちまった夜は駄目だ、と呟くハーレイ。「悲しい酒になっちまう」と。
「…酒に逃げたい気分になるんだ、前の俺じゃなくて今の俺がな」
 俺はこうして平和な時代に生きてるわけだが、いなくなっちまったソルジャー・ブルー。
 前のお前が、今も何処かで寂しがってるような気がしてな…。独りぼっちで、膝を抱えて。
 そういう気持ちに捕まった夜は、俺だって泣きたい気持ちになる。前のお前に引き摺られて。
 どうして止めなかったんだ、と最後に見た背中を思い出してな…。
 泣き始めたらもう止まらない、と今のハーレイを悲しませるらしいソルジャー・ブルー。悲しい酒を呷らせるほどに、前の自分が今のハーレイを悲しみの淵の底に沈めるらしいから…。
「…ぼく、此処にいるよ?」
 死んじゃったけれど、新しい命を貰って生きてるよ。生まれ変わって来て、前のぼくも一緒。
 ぼくの中には、ちゃんと前のぼくも入っているから…。中身は同じなんだから。
 寂しいだなんて思ってないよ、と前の自分の代わりに言った。ハーレイと会い損なった日には、少し寂しくなるけれど。同じ家で一緒に暮らせないことも、たまに寂しく思うけれども。
「それは分かっちゃいるんだが…。前のお前は、お前の中にいるってことはな」
 俺だって充分、承知してるが、そのお前。…前のお前を魂の中に持っているお前も、前のお前に嫉妬して膨れているだろうが。「前のぼくなら、こんな風に扱わないくせに」と。
 それと同じだ、俺にとっても前のお前はまだ特別だ。
 今のお前がそっくり同じ姿になったら、前のお前もすっかり溶けてしまうんだろうが…。幸せに生きてる今のお前と重なっちまって、何処かに消えるんだろうがな。
 だが今は無理だ、とハーレイの心を占めているらしいソルジャー・ブルー。一人きりの夜には、涙さえ流させるほどに。…地球の酒さえ、悲しい酒になるほどに。
「…前のぼく、今のぼくより特別?」
 ハーレイの中では、特別だって言ったよね…?
 ぼくが生きてハーレイの前にいたって、前のぼくの方が特別なの…?
 前のぼくだって、ぼくなのに…、とチリッと胸が痛むけれども、これだって嫉妬。どうして前の自分の方が特別なのかと、ハーレイの心を惹き付けるのかと。
 ハーレイの答えを知りたい気持ちと、聞きたくないと思う気持ちと。
 二つに分かれて乱れる心も、前の自分に嫉妬しているせいなのだろう。前の自分も自分なのに。



 今のハーレイが「特別だ」と言うソルジャー・ブルー。遠く遥かな時の彼方で生きていた自分。
 ハーレイは何と答えるだろうか、自分の問いに。「今のぼくより特別なの?」という質問に。
 どうなのだろう、とチリチリと痛む胸を抱えて待っている内に、ハーレイがフウと零した溜息。
「…お前には悪いが、特別だろうな。今の俺にとっても、前のお前は」
 前のお前が、今のお前よりも可哀想だった分だけ、特別になる。
 幸せに生きてた時間が少なかった分だけ。…前のお前はそうだったろうが、長く生きていても。
 今のお前よりも遥かに長い時間を生きたが、幸せは少なかったんだ。…今のお前よりも。
 それがソルジャー・ブルーだろうが、とハーレイの鳶色の瞳が翳る。時の彼方で失くした恋人、逝ってしまった恋人を想う悲しみで。
 その恋人は、今の自分の中にいるのに。…ソルジャー・ブルーは、確かに自分だったのに。
 チリリと痛む小さな胸。前の自分に対する嫉妬。「前のぼくだって、ぼくなのに」と。
 どうして今のハーレイの心を縛るのだろうと、今もハーレイの特別のままでいるのだろうと。
「…ぼく、前のぼくに勝てないの…?」
 今のハーレイの特別になれるの、前のぼくで今のぼくじゃないよね…?
 ぼくは前のぼくに勝てないままなの、いつか大きくなるまでは…?
 ハーレイが前のぼくの姿を、今のぼくに重ねられるようになる時までは…、と俯いた。その日が来るまで、今の自分は負けっ放しのようだから。前の自分に敵わないままで、ハーレイの涙も前の自分のもの。ハーレイは前の自分を想って泣いても、今の自分の前では泣いたりしないから。
「お前なあ…。俺はきちんと説明したぞ。前のお前は、どうして俺の特別なのか」
 今のお前よりも可哀想だった分だけ特別なんだ、と話した筈だ。ついさっき、今のお前にな。
 お前、可哀想さで勝ちたいと言うのか、前のお前に?
 俺の特別になりたいのならば、そうする以外に方法は無いと思うがな…?
 今よりもずっと可哀想なお前になりたいのか、と尋ねられた。ソルジャー・ブルーの人生よりも辛い人生、それをお前は生きたいのか、と。
「…前のぼくより可哀想って…。それは嫌だよ…!」
 生きたくないよ、と悲鳴を上げた。前の自分はハーレイと恋をしていたけれども、それ以外では悲しい記憶が多かった生。アルタミラでの地獄はもちろん、白いシャングリラにも悲しい思い出。
 最期を迎えたメギドともなれば尚更のことで、あんな人生は二度と御免だから。



 今もハーレイの特別らしいソルジャー・ブルー。…今のハーレイが涙を流して想う人。
 ハーレイの涙は見たいけれども、前の自分には敵わない。同じようにも生きられはしない。今の自分は平和な時代に生まれた子供で、甘えん坊のチビなのだから。
「…ハーレイの涙、前のぼくしか見られないんなら、見られなくても仕方ないかも…」
 前のぼくより可哀想になれる生き方なんか、今のぼくには無理だもの。…弱虫だから。
 だけど前のぼくは幸せだよね。今もハーレイに泣いて貰えるほど、ハーレイに覚えて貰ってて。
 可哀想だった、って言って貰えて、今もハーレイの特別のままで…。
 あれっ、でも…。前のハーレイの涙って…。
 最後に見たのはアルテメシアだよ、ぼくがジョミーを追い掛けて行って、船に戻った後。
 あの時、ハーレイ、泣いていたっけね、青の間に来て。
 とっくに日付が変わってたけど…、と思い出した前のハーレイの涙。ジョミーの騒ぎが起こった時は夜で、前の自分が飛び出して行ったのも夜の闇の中。遥か上空で意識を失ったのも。
「そりゃまあ、なあ…?」
 泣きもするだろうが、前のお前が船の仲間に、あんな思念を送るから…。
 俺が勘違いしたのも無理はあるまい、あれが最期の言葉なんだと。お前の魂は逝ってしまって、船を離れてゆくんだとな。
 あの時の言葉を思い出してみろ、と今のハーレイに睨まれた。「最初の所を、きちんとな」と。
「…ごめん…。前のぼくの言い方、悪かったよね…」
 死んじゃうようにしか聞こえないよね、と蘇って来た前の自分の言葉。船の仲間に伝えた思念。
 「長きにわたる友よ、家族よ。そして仲間たちよ」とシャングリラの仲間に語り掛けた。自分の力はもう尽きようとしている、と。人類との対話を望んでも時間が足りないようだ、とも。
 あの言い方では、勘違いされても仕方なかったと思う。「遺言なのだ」と。
 考えてみれば、あれから時が流れた後にも…。
(ホントに死んじゃう前にも、おんなじ…)
 メギドへ飛ぶ時、同じように心で仲間たちに語り掛けていた。もうシャングリラは遠く離れて、思念さえ届かないと分かっていても。
 「長きにわたる私の友よ。…そして、愛する者よ」と、何処か似ている言い回しで。
 不思議なくらいに重なった言葉。前のハーレイは、むろん後のを知らないけれど。だから…。



 自分でも遺言だったのだと思う、前のハーレイが勘違いした言葉。アルテメシアの遥か上空から落下した後、前の自分が抱いた気持ち。…今の今まで、すっかり忘れていたのだけれど。
「…ぼくの言い方、悪かったけど…。あの時は、死ぬかもって思ってたんだよ、ぼくだって」
 勘違いしてたの、ハーレイだけじゃないってば。…前のぼくだって、同じだったよ。
 死んじゃうんだと思ったんだから…、と告げたら、向けられた疑いの眼差し。「本当か?」と。
「嘘をついてはいないだろうな? 前の俺が勘違いして泣いたってことを言ったから」
 今の俺もお前を睨んだしな、とハーレイが疑うのも分かる。けれども、これは本当のこと。
「嘘じゃないってば、本当に。…だってね、メギドに飛んだ時にも…」
 おんなじ言葉を送ってたんだよ、シャングリラに。届かないのは分かっていたけど。
 最初の所がそっくりだったよ、「長きにわたる私の友よ」って。…ジョミーの時と同じでしょ?
 別の言葉に聞こえるの、と聞かせた前の自分の言葉。メギドに向かって飛んで行った時の。
「うーむ…。確かに同じに聞こえるな…。細かい所は少し違うが…」
 お前、気に入っちまっていたのか、あの言い回しが。船の仲間たちを「友」と呼ぶのが。
 昔からの仲間は友達みたいな船だったがな…、とハーレイが思い返す船。アルタミラからずっと一緒の仲間は、最初の頃には誰もが友達だったから。肩書も何も無かった頃は。
「どうだったのかな、分かんないけど…。気に入ってたのかな、前のぼく…」
 でもね、前のハーレイを泣かせちゃった時には、死んじゃうかも、って思ってた…。
 シャングリラには戻って来られたけれども、ぼくの命はおしまいかな、って…。
 力は本当に残っていなくて、あの思念だけで精一杯…、と前の自分の心を思う。ジョミーに後を託さなければと、最後の力で紡いだ思念。でないと船は長を失い、ミュウの未来も潰えるから。
「そうは言うがな、あれを聞かされた俺の身にもなってくれ」
 お前の所へ駆け付けようにも、俺はブリッジにいたわけで…。
 持ち場を離れられる状態じゃなくて、なのにお前の遺言が聞こえて来るんだぞ…?
 お前の顔も見られないままで…、とハーレイが眉間に寄せた皺。「俺の辛さが分かるか?」と。
「ぼくだって悲しかったってば!」
 ハーレイだけじゃないよ、ぼくだって悲しかったんだよ…!
 これで死ぬんだ、って思っていたって、ハーレイは側にいなかったから…。
 青の間に来て欲しくったって、そんなこと言えやしなかったから…!



 前の自分が懸命に思念を紡いでいた時、側にいたのは看護師たち。それからノルディ。
 長老たちさえ一人も姿が無かったのだし、キャプテンを呼べるわけがない。いくらソルジャーの最期と言っても、シャングリラの方が大切だから。
 人類軍の注意を逸らすために浮上し、猛攻を浴びたシャングリラ。あちこち大破し、怪我をした者も多かった。そんな状態では、キャプテンは持ち場を離れられない。一個人のためには。
 ソルジャーといえども、シャングリラと秤にかけた時には、負ける存在。
 それだけにハーレイを呼ぶことは出来ず、怯えていたのが前の自分。
「…ホントだよ? ハーレイが側に来てくれるまでに、死んでしまったらどうしよう、って…」
 とても怖かったよ、もしもハーレイが間に合わなかったら、独りぼっちで死ぬんだから。
 いくらノルディや看護師がいても、ハーレイがいないと独りぼっちで…。
 本当に会いたい人に会えずに死んじゃう、と思い出しただけで震える身体。あの時のことを。
「そうだったのか…。しかし、お前は無事に生き延びたんだよな」
 皆に遺言を伝えたくせにだ、死なずに持ち堪えてくれた。臥せったままにはなっちまったが。
「うん、自分でも死んじゃうと思っていたのにね…」
 あの言葉をみんなに伝えた時には、おしまいなんだと思ってた。…もう死ぬんだ、って。
 最後にハーレイに会いたいけれども、もう無理だよね、って思っていたよ、と話したら辛そうな顔のハーレイ。それはそうだろう、ハーレイも勘違いをしたのだから。遺言なのだ、と。
「俺は寿命が縮むどころじゃなかったぞ。…お前の思念が終わった後は」
 どう聞いたってあれは遺言なんだし、時間の問題だと思うじゃないか。お前の命が終わるのは。
 ソルジャーはまだ御無事なのか、と誰かを捕まえて訊きたくてもだ…。
 シャングリラが爆撃でボロボロなんだぞ、そっちのことを訊かなきゃならん。何処の区画が破壊されたか、無事な部分で代わりに使える場所はあるのか。
 キャプテンの仕事は次から次へとやって来るから、どうにもならない状態だった。
 お前の消息は聞こえて来なくて、誰も伝えに来てくれない。…口を開けば船のことだし、通信が来ても船の修理をしているヤツらのばかりで…。
 それでも流石に、お前が死んだら、何処からか聞こえて来るだろう。
 そういう知らせが来ない間は、無事だと思っておくしかない。…まだ生きている、と。



 俺は確認さえ出来なかったんだぞ、と今のハーレイがぼやく前の自分の生死。意識はあるのか、瀕死なのかも分からないままで、務めに忙殺されたハーレイ。
 ようやく青の間に行ける時間が取れた頃には、とうに日付が変わっていた。ノルディや看護師も引き揚げた後で、前の自分は青の間に一人。
「…青の間に走って行った時には、お前がちゃんと生きているってことは知ってたが…」
 ノルディから「御無事だ」と知らされちゃいたが、顔を見るまで安心は出来ん。
 生きていたって、どんな状態かは分からないからな。…昏睡状態ってこともあるんだから。
 そしたら、お前が目を開けたから…。俺の名前を呼んでくれたから…。
 あれで一気に緊張が解けて、お前の前で泣いてしまったんだ。お前が生きていてくれたから。
 皆に遺言まで伝えてたくせに、お前はちゃんと生きていたから…、と語るハーレイが流した涙を覚えている。前のハーレイの涙だけれど。
「…ぼくも一緒に泣いちゃったけどね」
 またハーレイに会えたのがとても嬉しくて…。独りぼっちで死なずに済んだんだ、って…。
 本当に嬉しかったんだよ、と今でも忘れてはいない。ハーレイの涙も、前の自分の涙のことも。
 生きて会えたことが嬉しかったから、二人、抱き合って泣き続けた。夜が更けた部屋で。
 前のハーレイには、「無茶をなさらないで下さい」と叱られもした。生きて戻れたから良かったけれども、そうでなければ、船は大混乱なのだから、と。
 ジョミーが船に戻ってくれても、前の自分が次のソルジャーに指名しなければ、問題児が増えるだけのこと。何一つ解決しないどころか、シャングリラの未来も見えはしない、と。
 それがハーレイの涙を見た最後。
 あれからも自分は生きていたのに、目にしたという覚えが無い。遠い記憶を手繰ってみたって、一つも無いハーレイの涙の記憶。
 アルテメシアを後にしてからも、ハーレイとは何度も会っていたのに。
 メギドに向かって飛んでゆくまで、何度となく会って、言葉を交わしていた筈なのに。



 そう思ったから、今のハーレイに訊いてみた。前のハーレイの涙のことを。
「…前のぼく、あれから後には一度も、ハーレイの涙を見てないよ?」
 アルテメシアで見たのが最後で、それきり見てないみたいだけれど…。忘れちゃったのかな?
 あの時ほど派手には泣いていないから、ぼくが覚えていないだけかな…?
 死にかけたわけじゃないものね、と首を傾げたら、「今と同じだ」と返った答え。
「今のお前は、俺の涙を知らないだろうが。…お前の前では泣かないから」
 それと似たような状態だってな、前のお前は深い眠りに就いちまったから。…十五年もの。
 俺はお前が知らない間に泣いてたってわけだ、お前は目覚めてくれなかったから。
 青の間のお前の側でも泣いたし、俺の部屋でも泣いていたな、と今のハーレイは話してくれた。目覚めない前の自分を想って、ハーレイが何度も流した涙。前の自分が知らない間に。
「ナスカでぼくが起きた時にも、泣いていないの?」
 ハーレイ、お見舞いに来てくれてたでしょ。あの時も泣いていなかったっけ…?
「よく思い出せよ、再会の場にはゼルたちも揃っていたんだが…?」
 俺とお前の二人きりじゃなかった、お前は俺の恋人じゃなくてソルジャー・ブルーだったんだ。感動の再会が台無しってヤツだな、残念なことに。
 あいつらがいたんじゃ泣けるもんか、とハーレイが苦い顔をする通り。泣いても許されるだろうけれども、恋人同士の涙の再会は無理。一番の友達同士なだけ。
「そっか…。ハーレイの部屋では泣かなかったの?」
 ぼくの目が覚めたら嬉しいだろうし、こっそり一人で泣かなかった…?
「あの時は泣いていなかったな。これからはお前と一緒なんだ、と勘違いしたもんだから」
 お前の寿命が残り少なくても、暫くは側にいられるだろうと…。前と同じに。
 アルテメシアにいた頃みたいに…、とハーレイが言う勘違い。目覚めた意味を読み違えたこと。
「前のハーレイ、あの時も勘違いをしたの…?」
 遺言なんだと思い込んでた時のも勘違いだけど、前のぼくが目覚めた時だって…?
「誰が気付くんだ、死ぬために目覚めて来たなんて」
 そのためだけにお前が目を覚ますなんて、前の俺が気付くと思うのか?
 フィシスでさえも気付いていなかったんだぞ、気付いていたなら俺に知らせていただろうから。
 「ソルジャー・ブルーを止めて下さい」と、シャングリラのソーシャラーとして。



 前のお前を失うわけにはいかないからな、と今のハーレイが言うのも分かる。フィシスが未来を読んでいたなら、前の自分は軟禁されていただろう。青の間から一歩も出られないように。
 フィシスでさえも読めなかったなら、ハーレイにはとても無理なこと。前の自分が目覚めた真の理由に気付くなどは。
「…勘違いでなくても、思わないよね…」
 目覚めたら直ぐに死んじゃうだなんて、そうするために起きただなんて…。
 誰も気付いていなかったお蔭で、前のぼくの「ナスカに残った仲間の説得に行く」っていう嘘、バレずに出して貰えたんだもの。…シャングリラから。
「そういうことだな。前の俺が涙を流した時には、お前はいなくなっちまってた」
 何もかも終わっちまった後まで、キャプテンの俺は泣けなかったんだ。…天体の間に移るまで。
 前のお前には散々泣かされちまって、今も泣かされ続けてる。
 ふとしたはずみに思い出しては、俺の家で独りぼっちでな。今のお前が知らない間に。
 うんと悲しい酒なんだぞ、と今もハーレイが想い続けるソルジャー・ブルー。今でもハーレイは前の自分を忘れない。「可哀想だった」と、心の中の特別な場所を与え続けて。
「ホントにごめんね…。前のぼくのこと」
 ハーレイを何度も泣かせてしまって、最後は独りぼっちにしちゃって。
 でも、ハーレイの涙、懐かしかったよ。片目だけしか見られなかったの、惜しいから…。
 泣いてみせてくれない、ほんのちょっぴり。…今度は両目で。
「なんだって?」
 泣けって言うのか、今、此処でか?
 それも両目で、わざと泣くのか、とハーレイが驚いた顔をするから、「お願い」と強請った。
「思い出したら泣けるんでしょ? 前のぼくのことを」
 可哀想だった前のぼくを思い出して泣いてよ、少しでいいから。
 メギドの時だと酷すぎるから、他の何かで。アルタミラでも何でもいいから。
「…思い出したくても、お前が目の前にいたんじゃ無理だ」
 お前は元気に生きてるんだし、今も我儘一杯だからな。俺に涙を注文するほど。
「えーっ!?」
 酷いよ、思い出せないだなんて…。ぼくがいたら、それだけで泣けないなんて…!



 ケチ、と膨れても断られた。「俺の涙は見世物じゃない」と。
「見世物じゃないって…。そんなの酷い…」
 だったら、いつか見せてくれるの、今のハーレイが泣く所を…?
 両目にゴミとか、そんなのじゃなくて、ちゃんと前みたいに流してる涙…。
「頼まなくても、見られる筈だと思うがな?」
 今のお前なら見られるだろう、とハーレイが言うから「いつ?」と訊いてみた。今は駄目らしいハーレイの涙、それを見られる日はいつなのか、と。
「見られる筈だって言ったでしょ? それって、いつなの?」
「さてなあ…?」
 お前と結婚できた時には、確実だろうと思っているが。結婚式の日には見られるんじゃないか?
 嬉し涙を流す俺の姿を、もうたっぷりと。
「…本当に?」
「ああ、人前では泣かんがな。…そうそう大盤振る舞いは出来ん」
 一世一代の涙なんだから、と笑うハーレイだけれど、二人きりになれた途端に泣くだろう、との読みだから。嬉し涙を流してくれるらしいから…。
 今のハーレイの涙は楽しみに取っておくことにしよう、今は無理やり見ようとせずに。
 可哀想な前の自分に譲って、今の自分は見られないままで。
 「見せて」とハーレイに強請らなくても、いつか幸せで流す涙を自分は見られる筈だから。
 その時は自分も泣くだろうから、ハーレイと二人、幸せの涙を流して泣こう。
 いつかハーレイと結婚したら。
 可哀想な前の自分の姿が、今の自分と重なって溶けて、ハーレイの前から消える日が来たら…。



              ハーレイの涙・了


※今のブルーは見たことが無い、今のハーレイの涙。ブルーの前では泣かないのです。
 ハーレイが涙を流すのは、前のブルーを想う時だけ。いつかブルーが大きく育つ時までは…。
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(あれ?)
 降ってるの、とブルーが見上げた空。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中に。
 空は確かに曇り空。バスを降りた時には気付かなかったけれど、頬に微かに感じた水滴。
(小糠雨…)
 まるで見えないような雨粒、それが漂い、落ちてくる空。鞄に入れている折り畳み傘を、広げるほどではないけれど。この程度ならば、家に帰るまで大丈夫。本当に霧のようだから。
 小糠雨というのは霧雨のことだと、ハーレイの授業で教わった。いつだったかは忘れたけれど。
(授業じゃなくて、雑談だっけ?)
 ハーレイの授業で人気の雑談、そっちの中身の方かもしれない。あるいは授業か、記憶は定かでないのだけれども、小糠雨を習ったのは本当。
 これがそうか、と思った雨。濡れないくらいに細かい雨粒。
 生憎と自分は糠の方を殆ど知らないけれど。精米した時に出来る粉だ、という程度の知識。
(糠を使って、お漬物…)
 今はお漬物もある時代。遠い昔の日本の文化を復活させている地域なのだし、色々なのが。糠を使って漬けるお漬物もあるのだけれども、母はキッチンで漬けてはいない。糠漬けなんかは。
 つまり家では出番が無い糠、自分とは馴染みが薄すぎる。家で精米する人もいるらしいけれど、それとも縁の無い家だから。
 料理上手の母だとはいえ、其処まではしない。精米機を買って、自分の好みで精米なんて。
(ハーレイもそう言っていたかな?)
 小糠雨について説明する時、「家に糠のあるヤツ、少ないだろうな」と。
 この地域の主食は米だけれども、普通は店で買ってくるだけ。精米されて袋に入っているのを、必要な分だけ買って来て炊く。家族が多いとか、食べ盛りの子供がいるなら配達を頼んだりして。
(お米、とっても重たいもんね…)
 小さな袋でもズシリとするから、大きな袋は買い物のついでに持って帰るのは無理だろう。今の自分には馴染み深い米、けれどそこまで。精米までは家ではしなくて、見かけない糠。
 ならば、やっぱり雑談だったろうか、ハーレイの授業の小糠雨。授業で話題にしたのだったら、本物の糠を持って来そうなのがハーレイだから。「これが糠だ」と。



 雑談かもね、と思う小糠雨。たまたま授業中に降っていたとか、雨が降りそうな空だったとか。大粒ではなくて、こういう雨が。傘が無くても、少しの距離なら濡れずに歩いてゆける雨。
(…雨の名前…)
 小糠雨の他にも、今は色々。霧雨はもちろん、村雨だとか時雨だとか。同じ雨でも春なら春雨、秋なら秋雨、そんな具合に。
 挙げていったら幾つでもある雨たちの名前。季節の雨やら、雨の降り方を表す言葉。沢山の名は日本ならではだと、こちらは古典の授業で聞いた。遠い昔の日本人たちが名付けた雨。
 他の国だと、大抵はただの雨なのに。雨は「雨」とだけで、細かく分かれてはいないのに。
(何処の国でも、いろんな降り方…)
 しそうだけどね、と考えながら帰った家。熱帯だったら、叩き付けるように降り出すスコール。渇いた砂漠をしっとりと潤す雨だってきっと、あるのだろうに。
(昔の日本の人たちが繊細だったのかな…?)
 移り変わる季節を歌に詠んでいた日本人。花たちも木々も、その上に降って来る雨も。
 自然を細かく観察したなら、色々な名前も生まれるだろうか。この雨はこう呼ぶのがいい、と。一人がそれを思い付いたら、歌を通して伝わるだろう。様々な人が見て、それを口にして。
(そういうトコから出来た名前かな…?)
 幾つもの雨の名前たち。ダイニングでおやつを食べる間も、小糠雨は降っていたものだから…。
 二階の自分の部屋に戻って窓から見たら、しっとりとしている庭の木々の枝。それに葉っぱも。いくら細かい霧のような雨でも、これだけ長く降り続いたら、そこそこの量になってくる。
(今はこうだけど、本降りになったら…)
 もしもハーレイが来てくれたならば傘だよね、と思う「本降り」。
 仕事の帰りに寄ってくれたら、車を降りるなりハーレイは傘を広げるだろう。傘を差さないと、濡れてしまうから。門扉の所でチャイムを鳴らして待っている間に、ずぶ濡れだから。
 その「本降り」も遠い昔の日本で生まれた言葉。本格的に降る雨のこと。
 細かい霧雨、小糠雨を降らせる時間はおしまい、と音を立てて空から落ちてくる。もっと激しい雨になったら、土砂降りと呼ばれる時だって。
 傘では防ぎ切れない雨が土砂降り、地面で跳ね返って靴などを濡らしたりもする酷い雨。



 ハーレイが来た時に土砂降りだったら大変だよね、と思うけれども、様々な雨の名前たち。空の上から落ちてくる雨、それに名前が幾つもある。
(なんだか素敵…)
 雨の名前が多いのは日本の文化だけれども、それだけ色々な降り方をするのが地球の雨。空から地上に降り注ぐ時に、小糠雨やら、土砂降りやら。
(前のぼくが暮らしたシャングリラだと…)
 雨さえも降りはしなかった。船での暮らしに雨は不要で、それを真似た散水システムも無し。
 前の自分が提案してみても、「非効率的だ」と反対された。白いシャングリラの公園に水を撒くシステムは今のが一番だから、と。
 長老たちと協議した末、決まったのがランダムな時間に散水すること。それまでは夜間に撒いていたのを、「何日の何時」とも決めないで。
 いきなり公園に降り注ぐ水は人気を集めたけれども、あくまで雨の紛い物。本物ではないから、小糠雨が降りはしなかった。土砂降りの雨も。
 人工の雨でさえなかったものね、と考えていたら聞こえたチャイム。この時間なら、ハーレイが来たのに決まっている、と駆け寄った窓。
(ハーレイ、傘かな?)
 小糠雨でも、雨は雨。きっと傘だ、と庭を隔てた門扉の向こうを見下ろしたのに。
 こちらに手を振るハーレイは傘を持ってはいなくて、母が出てゆくのが見えた。門扉を開けに。その母の手に、男物の傘。父が持っている傘の中の一つ。
(パパの傘…)
 此処まで声は聞こえないけれど、「どうぞ」と渡しているのだろう。受け取ったハーレイが頭を下げて、その傘をポンと広げたから。母の傘より大きな傘を。
(…ぼく、一階にいれば良かった…)
 ダイニングでもリビングでも。キッチンでもいいから、とにかく一階。
 其処にいたなら、今のチャイムで出てゆけたから。母の代わりに「ぼくが行くよ」と。
 そうしていたら、きっとハーレイと相合傘。母はハーレイの分の傘を手にして行ったけれども、傘を一つだけ持って出掛けて。二人で入れる傘を一本だけ差して。
 土砂降りではなくて小糠雨だし、傘は無くてもかまわない程度の霧雨だから。



 父が差している傘は大きくて、小糠雨なら二人で一本でも充分。ハーレイを迎えに門扉の所まで出て行ったならば、「濡れるから入って」と言えばいい。濡れないくらいの小糠雨でも。
 ハーレイと二人で傘を一本、門扉から玄関までの庭を歩くだけの距離でも相合傘。
 チビの自分が傘を持っていたって、ハーレイの背には届かない。傘をハーレイの手に「はい」と渡して、自分は隣に入って歩く。ハーレイと二人、仲良く並んで。
(相合傘、前に一回だけ…)
 折り畳みの傘を忘れて登校した時、ハーレイに傘を借りに出掛けた。サイオンが不器用すぎて、シールドではとても防げない雨。学校で借りられる傘も一本も残っていなくて、困り果てて。
 「傘を貸して下さい」と職員室へ頼みに行ったら、「ほら」とハーレイが貸してくれた傘。その上、バス停まで送ってくれた。ハーレイが差す傘に入れて貰って、相合傘で。
(貸してくれた傘、バスに乗るまで使わなくって…)
 家から近いバス停で降りて、初めて差した。ハーレイの肩は濡れていたのに、気にも留めないでバス停まで送ってくれた。バスに乗る時も傘を差し掛けてくれて。
 それが一度きりの相合傘。あれっきり二度と出来ていないから、今日のチャンスを逃したことが残念な気分。「一階にいれば良かったよ」と。
 そう思うから、ハーレイが部屋に来てくれてテーブルを挟んで向かい合うなり、口にした。
「ぼくが迎えに行きたかったな…。ママの代わりに」
 チャイムが鳴ったら、門扉のトコまで。…一階にいたら行けたのに…。
「はあ?」
 なんでお前が迎えに出るんだ、いつだって部屋で待っているだろ。窓から俺に手を振るだけで。
 いったいどういう風の吹き回しだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「何かあるのか?」と。
「相合傘だよ、ぼくが行ったら出来たでしょ?」
 ママが傘を持って迎えに行くのが見えたから…。パパの傘を。
 ちょっぴりだけど、雨が降っているもの。
 小糠雨でも雨は雨だよ、ハーレイを迎えに出て行くんなら傘を持たなくちゃ。
 でもね、ぼくはママとは違うから…。持って行く傘は一本だけ。
 二人で差してくればいいでしょ、相合傘で玄関まで。



 傘はハーレイが持ってくれればいいものね、と話した相合傘のこと。母の代わりに自分が迎えに行っていたなら、きっと出来た筈の相合傘。門扉の所から玄関まで。
 けれど、ハーレイは「無理だと思うが」と外にチラリと目をやった。窓の向こうに。
「まだ降っちゃいるが、こんな雨だと…。お前と相合傘はしないな」
 お前が傘を差していたって、俺は並んで歩くだけだ。お前の傘には入らないで。
「入らないって…。なんで?」
 雨だよ、ママだってパパの傘を渡しに行ったじゃない…!
 ハーレイが傘を持ってないから、濡れないようにパパの大きな傘…。
 だから、ぼくでも同じでしょ、と首を傾げた。傘を借りるか、相合傘かの違いだけだよ、と。
「そいつはお前の考え方で、俺にとってはそうじゃないってな」
 確かに雨は降ってたんだが、この雨だったら傘は要らないと思ったから持っていなかった。
 車には積んでおいたんだがなあ、あの程度なら降ろすまでもない。小糠雨だから。
 ついでに、俺が此処から帰る頃には、すっかり止んでいるだろうしな。
 酷くなりそうなら傘を持って降りたが、というのがハーレイの返事。傘が要らない小糠雨。
「傘は要らないって…。ハーレイの予報?」
 この雨は夜までに止んじゃうから、って傘を車に置いて来たわけ?
「そんなトコだな。天気予報でも、雨だとは言っていなかったから」
 今朝見た予報も雨じゃなかったし、車の中で聞いたのもそうだ。…明日の予報も雨じゃない。
 こういう雨なら、単なる空の気まぐれだな。ちょっと降らすか、といった具合で。
 それで車に傘を置いて来たんだが、お母さんがわざわざ傘を届けに来てくれたから…。
 「要りません」なんて言えやしないだろ、お母さんの好意が台無しだ。
 有難く借りて差してこそだな、せっかく「どうぞ」と俺に渡してくれたんだから。
 お母さんだったから、俺は傘を借りたが…。
 もしもお前が一人で迎えに出て来ていたなら、お前の傘は借りないな。
 「パパの傘だけど」と別のを渡された時は、「すまんな」と広げて差すんだろうが…。
 お前が「入って」と一本きりの傘を差し出したら、俺は決して受け取らないぞ。
 「濡れちまうから、お前が一人で差しておけ」って、断るだけで。



 お前は傘を差して、俺は隣で傘無しで玄関まで行くってだけだな、というのがハーレイの意見。小糠雨なら傘には入ってくれないらしい。ハーレイ用にと別の傘があれば、差してくれても。
「それ、つまらないよ! なんで入ってくれないわけ?」
 どうして相合傘は駄目なの、前に一度だけやったじゃない!
 ぼくが折り畳みの傘を忘れて困っていた時に、ハーレイ、バス停まで送ってくれたよ?
 あの時は学校の帰りだったのに、と食い下がらずにはいられない。学校だったら出来た相合傘。先生と生徒でも出来たというのに、家だとそれが出来ないなんて、と。
「相合傘なあ…。確かに一度送ってやったが、あれを狙っているのか、お前?」
 俺と相合傘がしたくて、今日も迎えに出たかった、と。…一階にいて、俺に気付いたら。
 傘を持ってはいないと分かれば、お前の分の傘を一本だけ差して。
 俺用の傘は持たないで…、とハーレイが確認するものだから、「うん」と素直に頷いた。
「そうだけど…。駄目?」
 今日みたいな雨だと断られちゃうなら、もっと降ってる日じゃないと無理…?
 でも、本降りの雨の日だったら、ハーレイ、傘を持ってるよね…。車に置いて来たりしないで。
「当然だろうが、でないと濡れてしまうからな。…ジョギング中なら気にしないんだが」
 学校の帰りだと、スーツが駄目になっちまう。シールドするのも、この年だとなあ…。
 お前くらいのガキならともかく、大人ってヤツはシールドだけで雨の中を歩きはしないから。
 つまり、お前の家では無理だな、俺と相合傘をするのは。
 だからと言って、わざと傘を忘れて学校に来るのは許さんぞ。不幸な忘れ物なら許すが。
 わざと忘れたなら、傘だけ持たせて放り出すからな、と睨むハーレイ。「送ってやらん」と。
「そんなこと、絶対やらないってば。わざと忘れて行くなんて」
 だけど、ぼくだって人間だから…。忘れる時には忘れちゃうんだってば、気を付けていても。
 本当だよ、と言ったけれども、「どうなんだか…」とハーレイは疑いの眼差し。
「今日の出来事が切っ掛けになって、やるかもしれんって気がするんだが?」
 午後から雨が降りそうです、と予報を聞いて、鞄から傘を出しちまうこと。チャンス到来、と。
 もっとも、お前の企みは顔に出るからな…。でなきゃ心の中身がすっかり零れちまうか。
 俺には全てお見通しだぞ、と鳶色の瞳で見据えられた。「悪だくみをしても無駄だからな」と。



 傘を忘れて学校に行っても、わざとだったら断られるらしい相合傘。ハーレイは傘を「ほら」と渡して、それっきり。相合傘でバス停までは送ってくれない。「わざとだろう?」と睨まれて。
(…嘘をついてもバレちゃうもんね…)
 相合傘は無理なんだ、と残念でガックリ落とした肩。家では無理だし、学校でも無理。ウッカリ傘を忘れない限り、二人で入ってゆけない傘。一本の傘で相合傘で歩くこと。
 こんな雨でも駄目なんだよね、と眺めた窓の向こうの庭。まだ降っている小糠雨。
「ハーレイ、この雨、小糠雨だよね?」
 相合傘とは関係ないけど、前にハーレイが教えてくれたよ。学校で、古典の授業の時に。
 細かくて糠みたいに見える雨だから小糠雨…、と指差したガラスの向こう側。霧のような雨。
「おっ、覚えてたか? 小糠雨のこと」
 雑談で話しただけだったんだが、よく覚えてたな。授業とは関係無かったのに。
 ただの糠の話だったのにな、とハーレイは嬉しそうな顔。「ちゃんと聞いててくれたか」と。
「雑談だって、ハーレイの話ならきちんと聞くよ。他の生徒も雑談の時間は大好きだよ?」
 授業の時には居眠ってる子も、雑談の時には起きるんだから。
 でもアレ、授業じゃなかったんだ…。小糠雨、授業だったかも、って思ってて…。
 ちょっぴり自信が無かったんだよ、と白状したら、「そうだろうな」と返った笑み。
「まるで関係無くはなかった。あの時の授業には雨も出て来ていたから」
 授業のついでに脱線しておくことにしたんだ、糠ってヤツを教えてやろうと。
 お前たちには馴染みが薄いモンだろ、小糠雨はともかく、糠の方は。
 米の飯を食ってりゃ、その前に糠がある筈なんだが、と教室で聞いた話の繰り返し。精米したら出来るのが糠で、白い御飯を食べようとしたら糠は必ず出来るもの。…目にしないだけで。
「授業でもそう言ってたけれど…。糠って何かの役に立つの?」
 美味しいお米を食べるためには、くっついていない方がいいから取り除いて糠になるんでしょ?
 お米の邪魔者みたいなもので、お店でお米を買って来る時は、もうくっついていないもの。
 わざと残したお米もあるけど、普通はくっついていないんだよね…?
 白い御飯に糠の部分は無いんでしょ、と忘れてはいない糠のこと。御飯粒が光る御飯の時だと、糠の元になる部分は取り除かれた後だから。
 糠の元を纏ったままだと玄米、好き嫌いが分かれてしまう米だとハーレイの授業で聞いたから。



 真っ白な御飯にならないらしい米が玄米、お店に並んでいるお米は綺麗に精米したものが殆ど。健康志向で玄米を食べる人はいたって、それ以外で糠が役立つかどうか。
 普通はお目にかからないし…、と思った糠。多分、家にも無いだろうから。
 そうしたら…。
「授業でも言ったぞ、漬物に使うと。…糠漬けだな」
 糠漬けは糠が無いと作れん、他の物じゃ駄目だ。糠で漬けるからこそ、糠漬けなんだし。
 そいつを馬鹿にしちゃいけないぞ、とハーレイが言うから驚いた。糠漬けは漬物の一種なのに。
「…糠漬け、そんなに大事なの?」
 馬鹿にしちゃ駄目だ、って言うくらいに大切なお漬物なの、糠漬けは…?
 お漬物の中の一つじゃないの、と不思議でたまらない糠漬け。お漬物は和風の料理に欠かせないけれど、糠漬けでなくても良さそうな感じ。お漬物なら何でもいいんじゃないの、と思うから。
「今はそうでもないんだが…。漬物ってヤツも色々あるから、好みで選べばいいんだが…」
 うんと昔は、漬物とくれば糠漬けだった。そして大切だったんだ。
 糠味噌女房って言葉があったくらいに、糠漬けは毎日の生活に欠かせない漬物だったらしいぞ。
「…なにそれ?」
 糠漬けはなんとなく分かったけれども、糠味噌女房って何のことなの…?
 分かんないよ、とキョトンと見開いた瞳。「女房」なのだし、糠味噌女房は奥さんだろうか?
 まるで初耳な言葉だけれど。…糠味噌と言われてもピンと来ないけれども。
「知らんだろうなあ、糠味噌女房は。…古典の授業じゃ、そうそう出番が無いから」
 しかし昔の日本って国では、馴染みの言葉だったんだ。糠漬けと同じくらいにな。
 糠漬けを作るには、糠床っていうヤツが要る。それに使うのが糠味噌だ。糠に塩と水を加えて、混ぜ合わせて発酵させるんだが…。
 ずっと昔は、何処の家にも糠床があった。今みたいに沢山の料理が無いから、おかずは糠漬け。それしか無いって家も珍しくなかったほどだ。おかずは糠漬けだけだ、ってな。
 その糠漬けを作る糠味噌、そいつの匂いがしみつくくらいに、長い年月、一緒に暮らす奥さん。
 糠味噌女房はそういう女性を指す言葉なんだ、長年連れ添った大事な女性だとな。
 ところが、途中で勘違いをして、けなす言葉だと間違えたヤツらも多かった。所帯じみた女性を指しているのが、糠味噌女房なんだとな。



 それは間違いだったんだが…、とハーレイが浮かべた苦笑い。「本当は褒め言葉なんだぞ」と。
「匂いがしみつくって辺りで誤解が生まれたんだろうな、所帯じみてると」
 だが、実際の所は違う。糠味噌の匂いがしみついたのは何故なのか、という理由が大切なんだ。
 糠味噌は毎日世話をしないと、腐って駄目になっちまう。腐ったら糠漬けはもう作れない。
 そうならないよう、糠味噌の世話を決して忘れないからこそ、匂いが身体にしみつくわけで…。
 手抜きをしない気の利いた女性という意味なんだな、糠味噌女房の本当の意味は。
 そんなわけだから、もしも前のお前が、俺の嫁さんだったなら…。
 まさに糠味噌女房ってトコだな、長い長い間、ずっと一緒にいたんだから。
 糠味噌の世話はしていなかったが、シャングリラを守っていた自慢の嫁さんだ。糠味噌よりも、ずっと大事な俺たちのミュウの箱舟を。
 本当に気の利いた嫁さんだった、とハーレイは懐かしそうな顔。前の自分たちが恋をしたことは誰にも話せなかったし、最後まで秘密だったのだけれど。…結婚式も挙げていないのだけれど。
 それでも「気の利いた嫁さんだった」と言って貰えるのがソルジャー・ブルー。
 今のハーレイが思い出しても、「糠味噌女房だった」という褒め言葉が直ぐに出てくる人。
 それに比べて、今の自分はどうだろう?
 シャングリラを守って生きるどころか、本物の糠味噌さえも知らない有様。糠味噌を守ることも出来ない、情けない「お嫁さん」になりそうな自分。
「…今のぼくだと、どうなっちゃうの?」
 前のぼくは糠味噌女房になれるけれども、今のぼくだと無理みたい…。
 シャングリラを守る代わりに糠味噌の方を守ってろ、って言われても…。ぼくは糠味噌、触ったこともないよ。糠だってよく分かってないから、糠味噌、作るのも無理そうだけど…。
 お塩と水は分かるんだけど、と項垂れた。肝心の糠の知識が無いから。
「ふうむ…。今度は本物の糠味噌女房になるのも難しそうだ、というわけか」
 糠ってヤツは、なかなかの優れものなんだがなあ…。米にとっては邪魔者だが。
 真っ白な飯を炊きたかったら、糠の部分は取っちまわないと駄目なんだが…。
 そうやって出来た糠の方はだ、漬物を作る他にも使えるんだぞ。
 料理をするなら、タケノコのアク抜きに大活躍だ。タケノコを茹でる時に糠を入れるんだな。
 糠を入れずにタケノコを茹でても、美味いタケノコにはなってくれんし。



 茹でるなら糠を入れてやらんと、とハーレイが教えてくれたタケノコの茹で方。茹でるのに糠が要るのだったら。この家にも糠があるかもしれない。タケノコが出回るシーズンならば。
「そっか、タケノコにも糠なんだ…。ハーレイ、糠に詳しいんだね」
 雑談の種にしただけじゃなくて、本物の糠にも詳しそう。…タケノコ、糠で茹でたりするの?
 一人暮らしでも茹でているの、と尋ねたら。
「それは流石にやらないなあ…。けっこう手間がかかるもんだし、俺は貰って来る方だ」
 おふくろが好きでな、春になったら茹でるから…。そいつの瓶詰を分けて貰って使ってる。
 親父が釣りのついでに沢山採って来たのを、茹でては端から保存用の瓶に詰めるんだ。
 そのおふくろは、実は糠漬けも得意でな。色々なものを漬け込んでいるぞ、旬の野菜を中心に。
 俺にも届けてくれるんだ、とハーレイ自慢の「おふくろの味」。隣町の家で、毎日世話をされているのが糠味噌。美味しい糠漬けが食べられるように。
 きちんと世話をしてやらないと、糠味噌は腐ってしまうから。腐ったら糠漬けが作れないから。
 ということは、糠漬けが得意なハーレイの母は…。
「ちょっと待ってよ、ハーレイのお母さんが糠漬けが得意だってことは…」
 ハーレイのお母さんは糠味噌女房になるの、そういうことなの?
 本物の糠味噌女房だよね、と確認したら、「そうなるな」という返事が返って来た
「俺の嫁さんじゃなくて、親父の嫁さんではあるが…。立派に糠味噌女房だろう」
 糠味噌を腐らせたこともないしな、俺の記憶にある限り。…糠床はいつも働いてるから。
 親父たちの家で活躍中だ、と聞かされた糠床。…美味しい糠漬けが生まれる糠味噌。壺に入っているらしいそれは、ハーレイが幼かった頃から隣町の家にあるそうだから…。
「…ハーレイのお母さんが糠味噌女房だったら、ぼく、どうなるの…?」
 ぼくが糠味噌、使えなかったらどうなっちゃうの…?
 ハーレイのお嫁さんになっても、糠漬けが作れないままだったら…?
 今のままだとそうなっちゃうよ、と心配でたまらない未来のこと。糠さえも縁が無い自分。
 糠味噌女房になれやしない、と不安な気持ちがこみ上げてくる。
 前の自分は糠味噌女房だったのに。…糠味噌ではなくてシャングリラだけれど、立派に守って、世話を欠かさなかったのに。



 今度の自分は駄目かもしれない、と気掛かりな糠味噌女房のこと。今のハーレイに褒めて貰える糠味噌女房、それにはなれないかもしれない、と。
 けれどハーレイは気付いていないらしくて、「何の話だ?」と逆に問い返して来た。
「お前がいったいどうなると言うんだ、何の話をしてるんだ、お前…?」
 俺にはサッパリ分からないんだが、と思い当たる節が無いらしい。ソルジャー・ブルーを糠味噌女房だったと褒めて、ハーレイの母も糠味噌女房だと語っていたというのに。
 それを言う前には、糠味噌女房は褒め言葉だと説明してくれたのに。…理由もきちんと。
 だからおずおずと問い掛けた。糠味噌女房になれそうもない今の自分のことを。
「…あのね、今のぼく…。駄目なお嫁さんだ、っていうことになってしまわない…?」
 糠漬けなんかは作れそうになくて、シャングリラだって守ってなくて…。
 前のぼくなら糠味噌女房になれたけれども、今のぼくだとホントに駄目そう…。
 糠漬けが作れないようなお嫁さんだったら、と俯き加減。本当にそうなってしまいそうだから。
「おいおい、糠漬けって…。お前、最初から料理はしないだろうが」
 何度もそういう話になったぞ、お前は何もしなくていいと。料理も掃除も、何一つとして。
 お前が嫁さんになってくれるだけで俺は幸せだし、お前は何もしなくていいんだ。
 前のお前は頑張りすぎたし、今度はのんびりすればいい。家のことなんか、何もしないで。
 それに料理は、俺の方が上手なんだから。…前の俺だった時からな。
 なんたって厨房出身だぞ、とハーレイが威張るキャプテン・ハーレイ時代。シャングリラの舵を握る前にはフライパンを握っていたわけなのだし、料理は昔から得意だと。前のハーレイが料理をしていた時代も、「お前は見ていただけだろうが」と。
「そうだけど…。前のぼくも料理はしていないけど…」
 今のぼくはソルジャー・ブルーじゃないから、いいお嫁さんになれるんだったら、頑張らないと駄目なのかな、って…。
 糠味噌女房になるためだったら、糠漬けも作れた方がいいかな、って…。
 ちっとも自信が無いけれど、と今も分からない糠漬けのこと。糠味噌の作り方だって。
「お前が糠味噌女房なあ…」
 その心意気は大したもんだが、お前、本気なのか?
 なにしろ相手は糠味噌なわけで、糠床の世話が日課になるわけなんだが…?



 糠味噌の匂いがしみつくのが糠味噌女房だぞ、と鳶色の瞳に覗き込まれた。「本気か?」と。
「お前が糠床の世話をするのか、どうにも似合っていないんだが…」
 なんたってアレは臭いからなあ、とハーレイが言うから目を丸くした。糠味噌の匂いとだけしか聞いていないけれども、臭いのだろうか、糠味噌は…?
「えっと…。糠味噌、臭いの?」
 ホントに臭いの、何かの例えで臭いって言ってるわけじゃなくって…?
 ただの匂いじゃないと言うの、と重ねて訊いたら、「こんな匂いだが?」とハーレイが思念波で送って来たイメージ。プンと鼻をついた独特の匂い。…確かに臭い。
「いいか、こいつを毎日、手で掻き回すのが糠床の世話ってヤツだぞ。…出来るのか?」
 蓋を開けては中を掻き回して、いい具合に漬かったヤツを取り出す、と。
 糠漬けになった野菜ももちろん臭いからなあ、匂わないよう、糠味噌をきちんと落とすんだ。
 そういう作業を毎日やってりゃ、糠味噌臭くもなるだろうが。
 糠味噌女房はそういうモンだが、お前、そいつになりたいのか、と尋ねられた。こういう匂いを嗅いだ後でも、まだ頑張って目指すのか、と。
「…ぼく、無理かも…。毎日世話するくらいだったら、って思っていたけど…」
 臭いだなんて思わないから、糠漬けも作れた方がいいかな、って…。糠味噌女房、今のぼくでもなれるなら、って…。前のぼくみたいなのは絶対、無理なんだけど…。
 この糠味噌も無理みたい、と音を上げざるを得ない糠味噌の匂い。いい香りとは呼べないから。
「ほら見ろ、無理はしなくていい。この俺だって漬けていないぞ、糠漬けは」
 臭いからっていうのはともかく、一人分だと面倒だしな。…漬かりすぎちまって。
 お前と結婚した後も、おふくろのを貰えばいいだろう。今まで通りに、「分けてくれ」とな。
 糠漬け、お前も食べるんだったら、お前の分も。
 おふくろは喜んで分けてくれるさ、とハーレイは保証してくれたけれど。ハーレイの母ならば、きっとそうだろうけれど、その糠漬け。
「でも…。糠漬けが上手に作れたら…」
 糠床の世話がきちんと出来てて、美味しい糠漬けを漬けられたら褒めて貰えるんでしょ?
 ちゃんと糠味噌女房なんだし、ハーレイだって自慢出来るだろうから…。



 糠味噌女房のお嫁さん…、と思ったけれど。ハーレイの自慢のお嫁さんになれると、そのために努力するべきだろうと考えたけれど…。
「そりゃまあ…。褒めて貰えるだろうな、おふくろにな」
「え?」
 なんでハーレイのお母さんなの、褒めてくれる人…?
 ハーレイのお嫁さんのぼくを褒めるの、どうしてハーレイのお母さんになるの…?
 もっと他にも大勢いるでしょ、と思い浮かべたハーレイの友人や知人たち。家に来た人に御馳走したなら、本当に立派な糠味噌女房になれそうなのに…。
「他のヤツらがどう褒めるんだ? 俺の友達は滅多に家に来ないぞ」
 普段から出入りするのは親父とおふくろ、もちろん親父も褒めるだろう。「いい嫁さんだ」と。
 だがな、他に何度もやって来るのは、俺の教え子たちだから…。
 お前、糠漬けを御馳走するのか、柔道部員や水泳部員といった連中に…?
 あいつらは確かに食べ盛りだが、と挙げられたハーレイの教え子たち。運動部員で、スポーツに励む男の子たち。
(えーっと…?)
 どうだろう、と考えてみなくても分かる。今の自分も、あまり馴染みのない糠漬け。他にも色々あるお漬物も、子供の口に合いはしないだろう。好き嫌いが無い自分はともかく、あれこれ好物を選んで食べたがる子供たちには。
「…ハーレイのクラブの生徒だと…。糠漬け、喜ばれそうな感じじゃないね…」
 遠慮なくどうぞ、って沢山出しても、殆ど残ってしまうのかも…。
「当たり前だろうが。バーベキューだの、宅配ピザだのでワイワイやるのが定番なんだぞ?」
 そんなメニューに糠漬けが合うのか、同じキュウリならピクルスだろうと思うがな?
 糠漬けで出して貰うよりは…、とハーレイが苦笑している通り。きっと運動部員たちが大喜びでつまむ漬物はピクルスの方。同じキュウリでも、糠漬けよりは。
「…ぼくもピクルスだと思う…」
 糠漬けを美味しく食べて貰うのは無理そうだよ。
 バーベキューとかピザが台無し、ぼくが糠漬けを山ほど運んで行ったらね。



 いくらハーレイも自慢の糠漬けでも…、とションボリせざるを得ない糠漬けの末路。臭い糠床でせっせと漬けても、ハーレイの教え子たちには喜ばれない。同じキュウリなら断然、ピクルス。
「そう思うんなら、糠漬けはやめておくんだな」
 お前がドッサリ漬けてみたって、来る日も来る日も糠漬けだらけになるだけなんだし…。
 毎日続くと飽きるだろうが。少しずつなら、ちょいと楽しみってことにもなるが。
 食べたい時にサッと出て来てこそだ、とハーレイが言うから、それも糠味噌女房の条件だろう。長年一緒に暮らしているから、何も言われなくても、好みの物を「これだ」と出せること。
「ハーレイのお母さんはどうやってるの?」
 沢山漬けすぎたりはしないんでしょ。普段はお父さんと二人で暮らしているんだから。
「おふくろか? そこは長年やってる達人だから、加減が上手い」
 漬かりすぎない内に出しておくのも、次のを漬けるタイミングもな。
 だが、お前が同じことをやり始めても、そういうコツを掴むまでには、色々失敗もありそうだ。
 もっとも、おふくろに教わって糠漬けを始めると言うんなら…。
 何度も失敗したとしたって、上手く漬かれば、おふくろの味になるんだがな。
 俺のおふくろの味の糠漬けに…、とハーレイは自信たっぷりだから。
「それ、簡単なの?」
 糠漬け、難しそうなのに…。そんなのでハーレイのお母さんの味、ぼくでも出せるの…?
「うむ。下手な料理より簡単だろうな、糠漬けだったら」
 糠床は家によって違うし、出来る糠漬けもその家の味になるらしい。
 塩と水を混ぜて発酵させると言っただろ?
 それぞれの家の菌があるんだ、糠床を発酵させてるヤツが。…それぞれの場所で。
 糠床は腐らせなければ子々孫々まで受け継げるという話だからなあ、おふくろの糠床もそうだ。
 親父と結婚しようって時に、家から持って来たんだから。
 おふくろの家にあった糠床を少し分けて貰って、同じ菌で発酵するようにとな。
「ええっ!?」
 だったら、ハーレイのお母さんに糠漬けを習えば、同じ糠床を分けて貰えるわけで…。
 ぼくがきちんと世話をしてたら、ハーレイのお母さんとおんなじ糠漬けが作れるんだよね…?



 糠床を分けて貰いさえすれば、隣町に住むハーレイの母のと同じ味になるという糠漬け。世話を忘れさえしなければ。きちんと毎日、掻き混ぜたなら。
 そうと聞いたら、それを受け継ぐのが「おふくろの味」の早道だろうか。同じ味になる糠床さえあれば、後は世話だけなのだから。漬けるタイミングをしっかり覚えて。
「ぼく、やってみたい!」
 ハーレイのお母さんの糠床を分けて貰えば、ぼくの糠漬け、おふくろの味になるんでしょ?
 それなら作るよ、ハーレイのために。…頑張って糠味噌女房になるよ。
 今度のぼくも、と意気込んだ。白いシャングリラを守る代わりに糠床だよ、と。
「いいのか、おふくろの味と言っても、糠漬け限定になっちまうんだが…?」
 お前のお母さんが焼くパウンドケーキだけでいいんだがなあ、俺の場合は。…おふくろの味。
 あれと同じ味のをお前が焼いてくれたら、もう最高だと思うわけだが…。
 糠床の管理は大変なんだぞ、毎日、掻き混ぜないといけないから。でないと腐っちまうしな。
「ハーレイのお母さん、旅行の時にはどうしているの?」
 旅行にも持って行って混ぜるの、まさか其処までしていないよね…?
 留守の間は誰かに預けてるとか…、と投げ掛けた問い。でないと駄目になる糠床。なのに…。
「それはだな…。預かった方も大変だろうが」
 同じ糠漬け仲間がいるならいいがだ、いない人だっているんだろうし…。
 今の時代は秘密兵器があるんだ、糠床を管理してくれる機械。
 ダテにSD体制の時代を経ちゃいないようだ、と笑うハーレイ。留守の間は機械の出番だ、と。
「糠床専門の機械だなんて…。それがあるなら簡単じゃない!」
 ぼくでも出来るよ、機械が番をしてくれるんなら。…忘れていたって、代わりに管理。
「それは駄目だな、普段から機械に手伝わせるだなんて。そんな糠床は俺は認めん」
 毎日自分で掻き混ぜるのが、糠漬け作りの基本なんだ。糠床をしっかり管理すること。
 臭くても、手にも身体にも糠味噌の匂いがしみついてもな。
 どうするんだ、糠味噌女房、目指すか?
 今度こそ本物になると言うなら、おふくろには俺から頼んでやるが…?
 いつかお前と結婚した時は、糠床を分けて貰うこと、とハーレイは請け合ってくれたけれども。



「どうしよう…?」
 糠床、分けて貰ったんなら、途中で投げ出しちゃ駄目だよね…?
 臭いから嫌だって言っても駄目だし、毎日混ぜるのが面倒になってしまっても駄目…。
 どうしようかな、と思う糠漬け作り。ハーレイの母に糠床を分けて貰って頑張ること。
 難しそうな気もするけれども、せっかくだから挑んでみようか。
 白いシャングリラを守り続けた前の自分には、けして出来ないことだったから。糠床などは無い時代だったし、糠味噌女房になりたくてもハーレイと結婚出来なかったから。
「…考えておくよ、糠漬け作り…」
 ハーレイと結婚する頃までには、作るかどうかを決めておくから、作るんだったら頼んでね。
 お母さんが自分の家から持って来た糠床、ぼくにも分けて貰えるように。
「もちろんだ。…それに、おふくろの糠漬けを食ってから決めてもいいと思うぞ」
 俺のおふくろの味を食ってみてから、お前も欲しいと思ったら。…あの味をな。
 おっ、小糠雨、止んでしまってるじゃないか。糠味噌の話をしている間に。
 木の葉が乾き始めているぞ、とハーレイが指差す窓の外。細かい雨はもう止んだ後。
「ホントだ。ハーレイ、傘を持って来なくて正解だったね」
 車に乗せたままで来たこと。…帰りも傘なら、送って行こうと思ってたのに…。相合傘で。
 ちょっと残念、と思ったけれども、仕方ない。小糠雨は止んでしまったから。
「当たるだろうが、俺の天気予報」
 今日は相合傘は無しだが、いつかはお前と相合傘だな。…小糠雨でも。
「糠味噌女房になっちゃっていても?」
 せっせと糠床の世話をしているお嫁さん。…なるかどうかは分かんないけど。
 糠床は難しそうだから、と舌を出したら、「まあな」と笑うハーレイ。「無理かもな」とも。
「しかしだ、本当に糠味噌を掻き混ぜているかどうかは、ともかくとして…」
 今度こそなってくれてこそだろ、糠味噌女房。…前のお前は、俺の嫁さんになれなかったから。
 お前とはいつまでも一緒なんだし、正真正銘、俺の糠味噌女房だってな。



 ちゃんと嫁さんになってくれよ、と言うハーレイと指切りしたから、いつまでも一緒。
 青く蘇った、この地球の上で。
 今度はいつまでも二人一緒に暮らして、糠味噌女房になれたら素敵だと思う。
 同じハーレイのお嫁さんになるなら、糠味噌の匂いがしみつくくらいの糠味噌女房。
 出来れば本物の糠床を世話して、おふくろの味のパウンドケーキも焼いて。
 今のハーレイが喜ぶ「おふくろの味」を、ちゃんと作れる糠味噌女房になれたら、きっと幸せ。
 ハーレイとしっかり手を繋ぎ合って、いつまでも何処までも、青い地球の上で二人一緒で…。




               小糠雨・了


※前のハーレイの糠味噌女房だった、ソルジャー・ブルー。糠漬けは作っていなくても。
 本物の糠味噌女房になりたいブルーですけど、どうなるのでしょう。糠床の世話は大変かも。
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