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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(今日はハーレイの授業があったし…)
 幸せだったよね、とブルーが浮かべた笑み。とうに学校から家に帰った後。
 制服を脱いで、おやつも食べて、戻って来た二階の自分の部屋。勉強机の前に座って、学校でのことを思い出す。ハーレイが教える古典の授業。
 あの時間が好きでたまらない。ハーレイの姿を見られる上に、声もたっぷり聞けるから。
(困ってた子もいたけれど…)
 当てられて、答えられなくて。「聞いてたか?」とハーレイに軽く睨まれたりもして。きちんと授業を聞いていたなら、其処で詰まりはしないから。そういう質問だったから。
 その子を叱って座らせた後に、「仕方ないな」とハーレイが始めた雑談の時間。生徒の集中力が切れて来た時に繰り出す必殺技。居眠りしていた生徒も起きるし、人気の雑談。
(雑談、みんなに人気だけれど…)
 自分は普通の授業でもいい。延々と授業が続くだけでも。難しい質問をされるだけでも。
 答えられるだけの自信はあるから、何度でも当てて欲しいくらい。ハーレイの授業なのだから。
(他の先生の授業だったら…)
 当てて欲しいとまでは思わない。成績はいいし、当てられても困りはしないけれども、アピールしたいタイプではない。自分の方から「それ、出来ます!」とサッと手を挙げもしない。
(でも、ハーレイだと…)
 張り切って手を挙げてしまう。難問でなくても、音読係を募集中でも。
 「ぼくは此処だよ」と、「当てて欲しい」と。「ぼくにやらせて」と、「お願いだから」と。
(これって、珍しいタイプ…?)
 お気に入りの先生の授業だから、と張り切る生徒。自分の方を向いて欲しいと頑張る子。
 あまりいないかとも思ったけれども、どの生徒にも「お気に入りの先生」はいる。学校の廊下で会ったりしたら、呼び止めて立ち話をしたい先生。
(授業の時間に、当てて欲しいかは別だけれどね)
 もしも当たったら困るくらいにテストの点数が酷い科目でも、先生は好きという生徒。クラブの顧問の先生だとか、単に人柄が気に入ったとか。
 何度叱られても、好きな先生。授業中に「馬鹿か?」と呆れられても、テストで酷い点数ばかり取った挙句に、放課後などに呼び出しを食らっても。



 いくらでもいる、先生が好きな生徒たち。「また補習だよ」とぼやいていたって、先生を嫌いになったりはしない。「たまには勉強の話もしろよ?」と苦笑されても、廊下なんかで立ち話。
(ぼくがハーレイを好きな気持ちとは違うけど…)
 その生徒たちは、先生に恋はしていないから。
 もっとも、見た目は自分も変わらないけれど。ハーレイに会ったら呼び止めたりして、せっせと話をしている自分。多分、傍目には「ハーレイ先生がお気に入りの生徒」に見えることだろう。
(ぼくの他にも、ハーレイが好きな生徒は沢山…)
 柔道部員以外でも。男子も、それに女子たちも。
 ハーレイの授業を受けた生徒は、全員がハーレイを好きだと言ってもいいくらい。嫌いだという声を一つも聞かない、人気のハーレイ。「来年は担任して欲しい」と夢を見ている生徒も大勢。
 前の学校で急な欠員が出来て、着任するのが少し遅れたから、ハーレイは担任をやっていない。長く教師をしているのだから、着任して直ぐに担任をすることもある筈なのに。
 来年はきっと、何処かのクラスの担任になる。ハーレイのクラスになりたい生徒が何人も。
(ハーレイのクラス…)
 なれるのだったら、来年は其処のクラスがいい。ハーレイが担任になるのなら。
 ハーレイは柔道の腕がプロ級、柔道部の指導が優先されたら、担任をしないこともあるらしい。今までの学校で何度かあったと聞いているから、まだどうなるかは分からないけれど…。
(担任になって、ぼくの学年だったら、ハーレイはぼくのクラスかも…!)
 ハーレイは自分の守り役なのだし、その方が何かと便利だろう。側にいられる時間が増えたら、充分に目を配れるから。朝と帰りのホームルームで、必ず顔を合わせるのが担任の先生。
(聖痕、あれっきり出ていないけど…)
 二度と出ないと思うけれども、両親と病院の先生以外は知らない前の自分のこと。聖痕の理由は外見のせいだと信じているから、学校は今も心配な筈。「ハーレイを側に置かないと」と。
 そんな具合だから、ハーレイが担任するのなら…。
(きっと、ぼくの学年…)
 それにぼくのクラスだよね、という気がする。守り役を自分につけておくために。
 持ち上がりで順に上がってゆくなら、最後までハーレイのクラスだろう。卒業式を迎える時までハーレイのクラス。ずっとハーレイが担任のまま。



 ハーレイが担任をするのだったら、きっとそうなる。柔道部の指導が優先されなかったら。
 卒業式には、ハーレイに向かって御礼の言葉。大勢のクラスメイトと一緒に、花束を渡したりもして。寄せ書きをした色紙なんかも。
(それで卒業して、十八歳になった途端に、ハーレイと結婚しちゃったら…)
 なんだか複雑な気分だけれども、ハーレイならきっと大丈夫。「担任の先生」の顔は卒業、次は恋人で結婚相手。「お嫁さん」にしてくれる人。
 変な噂も、ハーレイだったら立たないと思う。みんな祝福してくれる筈。ハーレイの同僚の先生たちも、自分と一緒に卒業したクラスメイトたちも、学校に残っている生徒たちも。
(聖痕が出ちゃったせいで、守り役になって貰って、仲良くなって…)
 何度も家に通って貰って過ごす間に恋が生まれても、けして変ではないだろう。ただでも人気のハーレイなのだし、人柄に惹かれても不思議ではない。「いい人だよね」と。
 守り役だったハーレイの方でも、まるでペットを可愛がるように世話する間に情が移って、恋に落ちるということだって。
 男同士のカップルだけれど、恋の前には些細なこと。好きなものは好きで、恋は恋。
(前のぼくたちだって、最初はホントに友達同士…)
 燃えるアルタミラで初めて出会って、行動を共にしたけれど。大勢の仲間たちが閉じ込められたシェルター、それを端から開けて回って、逃がしたけれど。
(息がピッタリ合うんだってこと…)
 あの時から気付いて、その後も一緒。ハーレイが厨房担当だった頃も、手伝いながら色々な話をした。試食なんかもさせて貰って、ハーレイの「一番古い友達」。
 ソルジャーになってしまった後にも、誰よりもハーレイを頼りにしていた。キャプテンに推したくらいなのだし、当然のこと。…キャプテンの方が、ソルジャーよりも先に誕生したけれど。
 あまりにも仲良く過ごしていたから、これは恋だと気が付くまでにはかなりかかった。
 シャングリラと名付けた船が白い鯨に改造されても、友達同士でいた二人。
 ようやく恋だと分かった頃には、長い年月が経っていた。初めて出会った、あの日から。燃えるアルタミラで声を、思念を掛け合いながら、懸命に走り続けた日から。
 なんとも遅咲きだった恋。前の自分たちの恋はそうだった。



 気が長すぎる恋だよね、と自分でも思う前の恋。いったい何年かかっただろう、と。互いに特別だった二人で、会った時から一目惚れだと恋が実った後に気付いた。間抜けな話なのだけど。
 とはいえ、今度は最初から恋人同士の二人が出会ったのだから…。
(恋に落ちるのも早いよね?)
 元々、恋人同士だった二人。前の自分たちの記憶が戻れば、ストンと恋に落っこちる。一目惚れとも言うかもしれない。互いが互いを認識したなら、もう一度恋に落ちるだけ。
 前の自分たちの恋の続きを、新しい身体で生きるよう。新しい命で恋の続きをしてゆけるよう。
 だから二人は恋人同士で、十八歳になったら結婚。今度こそ恋を実らせるために。
(パパとママには、説明、大変そうだけど…)
 いつからハーレイに恋をしたのか、どうして結婚したいのか。上の学校に行きもしないで、結婚できる年になった途端に。…普通だったら、まだ遊びたい盛りだろうに。
 それに両親は知っている、前の自分の正体。前世の記憶を持っていること。ハーレイのことも、前のハーレイがキャプテン・ハーレイだったことも。
 そんな二人が結婚なのだし、ソルジャー・ブルーだった頃からの恋だと打ち明けるのか、それは隠しておくことにするか。前の自分たちが恋をしたことは、まるで知られていないから。
(うーん…)
 どうなんだろう、と思う今の自分の恋。
 ただの先生と生徒の恋なら、両親だって驚きはしても「結婚したいほどだったら…」と、きっと納得してくれる。男同士でも、やたら早すぎる結婚でも。
(ちゃんとしっかり考えたのか、って何度も確かめられそうだけど…)
 とりあえず上の学校に行ってみたらどうか、とも言うかもしれない。急がなくても、一年くらい視野を広げに通ってみたら、と。
(もう考えた、って言ったら、許して貰えそうなんだけどね…)
 問題は其処に至るまで。
 前世の記憶を持っているから、そちらの方をどうしたものか。ソルジャー・ブルーだった自分がキャプテン・ハーレイと結婚したいと思う現実。二人を知っている人にとっては青天の霹靂。
 今度は友情が恋になったみたい、と話すことにするか、前から恋をしていたのだと明かすのか。嘘は簡単につけるけれども、恋は初めてだと誤魔化しておけばいいのだけれど…。



 難しいよね、と思う恋のこと。先生と生徒の恋で通すか、前の自分たちだった頃からの恋だと、両親にきちんと話すべきなのか。
 先生と生徒の恋なら簡単だったのにね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「ねえ、ハーレイ。…先生と生徒が結婚したっておかしくないよね?」
 ちゃんと卒業した後だったら、珍しくないと思うんだけど…。先生と結婚する生徒。
 お気に入りの先生だったのが恋に変わって、結婚しちゃう人もいるよね?
 それはちっとも変じゃないでしょ、と投げ掛けた問い。そんなカップルもいる筈だから。
「先生と生徒の結婚か…。お前が言うのは俺たちのことか?」
 いずれそうなる予定だからなあ、おかしくないかと訊いてるんだな?
 先生と生徒の結婚ってヤツ、とハーレイが質問の意味を確認するから頷いた。
「そう。…ぼくとハーレイのことも含めて」
「教師をやってりゃ、特に珍しくもないってトコか。…教え子と結婚するケースはな」
 俺たちの場合は男同士だが、別にかまいはしないだろう。結婚しようと思ったんなら、誰からも文句は出ない筈だぞ。男同士のカップルだってあるんだから。
 俺たちだって結婚したっていいと思うが、どうかしたのか?
 そんな話を持ち出すなんて、何か気になることがあるのか、と逆に問われた。「何故だ?」と。
「…パパとママには、どう言えばいいのか、分かんなくて…」
 ハーレイと結婚したい、ってお願いするのはいいんだけれど…。お願いしなくちゃ駄目だから。
 だけど、いつからハーレイに恋をしたかが問題。
 前のぼくたちのことがあるでしょ、そっちの話をどうすればいいか…。
 あの頃から恋人同士だったことをね、ちゃんと話すか、隠しておくか。何も言わないで。
 先生と生徒の間の恋なら、少しもおかしくないんだから…。
 前のぼくたちのことは黙っておくのがいいのかな、と鳶色の瞳を見詰めた。「どう思う?」と。
「それか…。今の俺たちのことはともかく、前の俺たちの恋の方だな」
 実は俺にも、そいつが難しい所でなあ…。
 正直、答えが出せていなくて、先延ばしにしたまま、今も抱えているってわけで…。



 お蔭で、親父たちにも話せやしない、とハーレイがフウとついた溜息。
 まだハーレイが両親に明かしていないこと。前世の記憶を取り戻したことと、未来の結婚相手の正体。キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーが、いつか結婚するということ。
「お前と結婚するって話は、とっくの昔にしてあるんだが…」
 どうしてお前を選んだのかは、まだ話せないままなんだ。お前が俺を選んでくれた理由もな。
 下手に話せば、前の俺たちの恋のことまで、明かしちまうことになるからなあ…。
 お前と同じで悩んでるんだ、とハーレイも持っていなかった答え。前の自分たちの恋を隠すか、打ち明けるのか。
「そうなんだ…。ハーレイにも出せていないんだ、答え…」
 ハーレイでも無理なら、ぼくがちょっぴり考えたくらいで答えが出るわけないよね。パパたちになんて話せばいいのか、先生と生徒の恋だってことにしておくか。
「すまんな、少しも頼りにならない恋人で。まあ、時間だけはたっぷりあるんだから…」
 ゆっくり考えていけばいいじゃないか、前の俺たちの恋をどうするか。今度も隠すか、前からの恋だと話しちまうか。
 最初は「違う」と言っておいてだ、後で明かすって手もあるし。
 結婚してから二人で色々話し合った末に、「やっぱり話そう」と思ったならな。
 何十年も経ってから打ち明け話をしたって、まさか叱られやしないだろう、という意見にも一理ある。急いで決めてしまわなくても、ゆっくり考えてから出す結論。
「その方法も使えそうだね。二人で一緒に考えるんなら、いいアイデアが浮かびそう」
 パパやママたちがビックリしなくて、「そうだったんだ」って分かってくれる打ち明け方とか。
 その時が来るまで黙っておくなら、今度は先生と生徒の恋だね、ぼくたちの恋。
 先生に恋をしちゃったぼく、と微笑んだ。前の自分たちの恋を隠しておくなら、そうなるから。
「そいつも悪くないと思うぞ、俺は。先生に恋でも、男同士のカップルでも」
 友情から恋になっちまうんなら、前の俺たちも同じだから。最初は友達だったんだしな?
「それはおんなじなんだけど…。ハーレイ、今は先生なんだよね」
 先生と仲良くなってしまって、それから恋人。…前は最初から友達同士だったのに。
 前のハーレイと出会った時には、先生と生徒じゃなかったものね。



 ハーレイは大人で、ぼくが見た目も中身もチビだっただけ、と今の自分たちとの違いを挙げた。前の自分の本当の年はともかくとして、大人と子供の間の友情。
「前のハーレイ、先生じゃなかったんだから…。ぼくは敬語を使っていないよ」
 ハーレイの方がずっと大人でも。…ぼくよりも、うんと大きくてもね。
 今のハーレイだと、学校では「ハーレイ先生」だから、と話したチビの自分の立ち位置。先生と生徒の間柄では、敬語の出番もやって来る。学校で出会った時だけにしても。
「其処が大きな違いだよなあ…。前の俺たちが出会った時と、見た目は変わっていなくても」
 お前にとっては俺は教師で、学校の中で話すとなったら、敬語が欠かせないからな。前の俺たちなら、いくらお前がチビの子供でも、言葉は普通で良かったんだが…。
 そういや、前の俺たちの場合。学校では出会えていないんだよなあ、燃えるアルタミラだから。
 炎の地獄で出会っちまった、とハーレイが浮かべた苦笑い。「一目惚れには似合わないな」と。
「ちっとも似合っていないよね…。地獄で一目惚れなんて」
 お互い、気付いていなかったけど。…あそこで恋をしちゃったことに。
 おまけに、ぼくの方がハーレイよりもずっと年上。とても生徒になれやしないよ、年上だもの。
 生徒だったら年下でしょ、という点も前の自分たちとの違い。今の自分はハーレイよりも年下。
「それなんだがな…。お前が年下だったとしたって、学校ってトコでは会えないぞ」
 出会えない上に、一目惚れをするチャンスも無いな、とハーレイが言うから首を傾げた。
「なんで? 前のぼくの方が年下だった時のことでしょ?」
 学校で会えると思うけど…。ハーレイが先生をしているのなら。今と同じで。
「そうはいかないのが、前の俺たちが生きた時代だ。…ミュウかどうかは抜きにしてだな…」
 俺が教師をしてるとなったら、俺は成人検査をパスしていないと駄目だから。
 ついでにお前も成人検査をパスして来ないといけないな。
 つまり、今より育ったお前になるわけだ。成人検査を通過しているわけだから。
 ほんのちょっぴりだけにしてもな、というのが出会いのための条件。成人検査をパスすること。
「…ぼくもなの?」
 パスする前でも、かまわないように思うんだけど…。
 前のぼくたちが出会った頃みたいな姿で会うなら、成人検査はあまり関係無さそうだけど…。



 パスすることは必須じゃないでしょ、と思った忌まわしい成人検査。ミュウはパス出来ない検査だけれども、今、話している「もしも」はミュウは抜きなのだから。
「ミュウかどうかは関係無いなら、成人検査はどうでもいいよ?」
 どうせ受ければパスするんだから、それよりも前にハーレイに会ってもいいじゃない。
 学校の先生をやってるハーレイにね、と言ったのだけれど、「それは甘いぞ」と返った声。
「いいか、成人検査を受ける前には何処にいたんだ? 前の俺たちが生きた頃には」
 俺たちは記憶をすっかり失くしちまって覚えていないが、アルタミラにあった育英都市だ。成人検査にパスするまでは、育英都市の学校に通うのが義務だったわけで…。
 育英都市だと、教師と生徒の恋というのは有り得んな。…ああいう時代だったんだから。
 どう転んでも恋は出来ん、とハーレイに畳み掛けられた。「育英都市にある学校だぞ?」と。
「育英都市…。あそこの学校、子供のための学校で…」
 大人の社会に旅立つ前の勉強の場所で、純粋で無垢な子供を育てる学校だから…。
 其処で先生に恋をしたって、成人検査を受けた後にはお別れで…。
 それに本気で恋をするなんて、子供には相応しくないって判断されちゃうだろうし…。
 ハーレイに恋をしちゃ駄目なんだよね、と気が付いた。
 あの時代には、恋をするなら教育ステーションに行ってから。大人の社会への入口になる場所、其処に進んでゆかないと無理。子供はあくまで子供らしく、と機械が定めていたのだから。
 それまでは恋に憧れるだけ。大人になったら、素敵な人を見付けて恋をしようと。
 育英都市にあった学校は、そういう子供が通う場所。大好きな先生に恋をしてみた所で…。
(その恋、実らないどころの騒ぎじゃなくって、カウンセリングルーム…)
 アタラクシアでジョミーを見守っていた時、何度も覗いたカウンセリングルーム。呼び出されて叱られるジョミーの姿も、ションボリと出てゆく時の姿も。
 あれと同じで、もしも自分が学校でハーレイに恋をしたなら、きっと食らってしまう呼び出し。自分を担任する教師はもちろん、場合によっては当のハーレイまでが其処に現れて…。
 指導を受けて、諦めさせられることになる。ハーレイに恋をすることを。
 それで駄目なら、記憶の処理もされるのだろう。
 恋など忘れて、子供らしく健全に生きてゆくよう。二度とハーレイに恋をしないよう、恋をする切っ掛けになった出来事や、育んだ想いを全て消されて。



 育英都市の学校で先生に恋をするのは無理だ、と思い知らされた。目覚めの日を迎えて、学校や先生に別れを告げるよりも前に、恋そのものが出来なかった場所。
 其処でハーレイが教えていても。…ハーレイのことを好きになっても、けして実りはしない恋。子供時代を過ごす間は、恋は相応しくないものだから。
「…先生のハーレイに会いたかったら、教育ステーションなんだ…」
 会うだけだったら、育英都市の学校でだって会えるけど…。ハーレイに恋をしたいなら。
 恋が出来る場所で出会うんだったら、成人検査をパスした後…。
 今のぼくより、ちょっぴり育ったくらいかな、と眺める手足。前のハーレイとは、こういう姿で出会ったけれども、あの時代に「ハーレイ先生」に会うなら、教育ステーションなのだろう。
「そうなっちまうな、E-1077かもしれないぞ」
 前の俺とお前が出会う場所。…前の俺は本物を見てはいないがな、E-1077そのものは。
 すぐ近くまでは行ったんだが、というのはシロエの船をキースが落とした時のこと。ジョミーが試みた思念波通信、それを行うための航行の真っ最中。
「E-1077って…。どうしてなの?」
 キースやシロエがいた場所だから、って言うんじゃないよね、時代が全く違うんだもの。
 ぼくが行ってもキースは生まれてさえもいないよ、と思い出すのはフィシスのこと。人類を導く指導者として、機械が無から創った生命。フィシスが最初に作り出されて、遺伝子データを使ってキースが作られた。E-1077に場所を移して、エリート候補生として。
 その実験がまだ始まってもいなかった時代、それが前の自分が成人検査を受けた頃。検査にパスしてE-1077に行っても、大して意味は無さそうだけれど…。
「俺があそこを挙げた理由か? キースの野郎は関係無いぞ」
 もちろんシロエも、サムやスウェナも。
 お前、頭が良かったからなあ、あそこじゃないかと思ったんだが…。成人検査をパスしたなら。
 待てよ、頭の方は良くても、身体が駄目か。弱い身体じゃ、訓練についていけないからな。
 それじゃメンバーズになれやしないし、E-1077は対象外になっちまうのか…。
「そうみたい…」
 他のステーションになると思うよ、前のぼくなら。
 成人検査をパスしていたって、E-1077に行く人間には選ばれないよね。



 あそこは駄目、と肩を竦めたら、浮かんだ他の可能性。教育ステーションなら幾つもあったし、身体の弱い子供用のも、多分、存在したのだろうけれど。
 そういう場所なら、そのステーションに似合いの教師が配属されて教えた筈。同じように身体が弱い教師や、弱い子供を教えるのに向いている教師。
(…今のハーレイは古典の先生だけど…)
 それは今のハーレイが選んだ仕事。柔道や水泳のプロの選手にならずに、教師になろうと決めた職業。けれど、前の自分たちが生きた時代は、自分で仕事を選べなかった。進みたい道も。
 弱い身体ではE-1077に行けないのと同じで、前のハーレイにも機械が割り当てる道。この職業に就くように、と。そんな時代に、ハーレイが教師になったなら…。
(古典の先生なんかじゃなくって、うんとハードな体育とかの…)
 教師の道が待っていそう。それこそE-1077でも通用しそうな、激しい訓練担当の。身体の弱い子供たちが行くステーションには、ハーレイは来ない。きっと配属されたりはしない。
「…前のぼく、ハーレイが教えてくれるような教育ステーションには、行けそうにないよ…」
 ハーレイはE-1077でも教えられそうだから、ぼくみたいな弱い子供が行くような場所にはいないと思う。…もっと丈夫な子供が行く教育ステーションの先生だよ、きっと。
 それに、先生じゃない可能性の方が高いかも…。仕事、自分で選べなかったんだもの。
 機械が勝手に決めてしまって、と話したら、ハーレイも「そうかもなあ…」と軽く手を広げた。
「俺もそういう気がして来た。どうやら教師は無理なようだ、と」
 あの時代だったら、ミュウじゃない俺は、有無を言わさずスポーツ選手にされてたかもな。何の選手になったかは知らんが、プロを養成する教育ステーションに送られちまって。
 でなきゃパイロットといった所か、才能はあったようだから…。
 前の俺が自分じゃ気付いていなかっただけで、キャプテンに向いていたようだしな?
 プロの選手にせよ、パイロットにせよ、そういう道に進んじまったら、引退した後に教師の道があったとしても…。
 まだ充分に若かったとしても、お前が来そうなステーションには…。
「いないでしょ、ハーレイ?」
 ぼくはスポーツのプロも無理だし、パイロットになるのも無理そうだから…。
 どっちも丈夫な身体が要るから、ハーレイが先生になっていたって、会えないんだよ…。



 先生のハーレイがいるステーションには行けないよ、と溜息をついたら、ハーレイも「うむ」と相槌を打った。「どう考えても、それは無理だよな」と。
「今のお前が柔道部員になれないみたいに、向き不向きってのがあるもんだから…」
 SD体制の時代は適性を機械が判断してたし、例外ってヤツは無いだろう。こいつは此処だ、と決めちまったら、そのコースを進ませるだけで。
 前のお前は、成人検査をパスしていたって、教師の俺には出会えないんだな。俺とお前の適性が違い過ぎるから。
 そして俺だって、生徒のお前には出会えないままになっちまう、と。成人検査を通過出来ても、俺たちの道は重なりそうにないからなあ…。
「…それじゃやっぱり、ミュウ同士で出会うしかないの?」
 せっかく恋が出来る教育ステーションに行っても、先生のハーレイがいないなら。
 …ぼくを教えてくれないのなら、アルタミラの地獄で会うしか無かった…?
 先生と生徒は無理だものね、と消えてしまった可能性。前の自分たちの、別の出会い方。
「そうかもしれんな、違う道なら何処かにあったかもしれないが…」
 教師と生徒でなくていいなら、宇宙は広いし、出会えた可能性もある。一目惚れ出来るチャンスだってな。…それこそ何処かへ旅する途中に、宇宙船の席が隣同士になったとか。
 しかし今だと、こうして出会えた。…ちゃんと、お前に。
 前の俺たちは行けずに終わっちまった、教育ステーションって所でな。
 俺は教師で、お前は俺の教え子だろうが、とハーレイは笑みを浮かべるけれども、ステーションではない学校。…教育ステーションという名前でもないし、宇宙に浮かんでもいない学校。
「ステーションじゃなくて、学校だよ?」
 ハーレイと会ったの、学校だってば。…先生と生徒なのは間違いないけど、普通の学校。
 義務教育で行く最後の所で、教育ステーションなんて名前はついていないよ…?
 今の時代は、教育ステーションっていうのも無いでしょ、何処を探しても。
 SD体制が無くなった後は、あのシステムも無くなったから…。
 人類もミュウも、自分で好きな道を選んで、行きたい学校に行くようになってしまったから。
 教育ステーションは廃止されたんだってことを習うよ、歴史の授業で。



 SD体制が崩壊した後、真っ先に廃止されたのが教育ステーション。成人検査を廃止するなら、教育ステーションだけを残しておく意味は何もない。
 同じ水準の教育をしようというなら、宇宙ではなくて何処かの星で。大人も子供も一緒に暮らす社会の中に、学校を作ればいいのだから。ちゃんと家から通えるように。
 自分の家から遠すぎる子なら、寮に入ればいいだけのこと。そして学校が休みの時期には、家に帰って家族と暮らす。…もう目覚めの日が来て、引き離されはしない養父母たちと。
(初めの間は、養父母が本物のパパやママっていう時代になって…)
 自然出産の子供が混じり始めて、じきに本当の家族ばかりになった。血が繋がった両親と子供、そういう家族しかいない世界。成人検査も教育ステーションも、時の彼方に消えてしまって。
 今は人間は全てミュウになったし、地球さえも青く蘇ったほど。そんな時代に教育ステーションなどという言葉自体が無い筈なのに、と首を捻って考えていたら…。
「分からないか? 俺がどうして教育ステーションだと言ったのか」
 お前の学校は教育ステーションじゃないが、あれはとっくに無くなったんだが…。
 あの時代の流れを継いでいるんだ、今の時代の学校も。
 成人検査も教育ステーションも廃止されたが、子供を教える学校は無いと駄目だしな?
 暫くの間は混乱していて、何処の学校も、休校みたいになっていた時期もあったそうだが…。
 じきに新しいのに整え直して、教師をしていた人間も配属し直した。新しく出来た学校に。
 今のお前が通っているのが、元は教育ステーションだったヤツなんだ。其処で教えていた教師を連れて来て、あちこちの星に置かれた学校。…教える中身も、教科書も変えて。
 お前の学校、十四歳で入って、四年間で卒業するだろう?
 在籍期間は教育ステーションってヤツと全く同じだ、気付かなかったか…?
 ステーション時代の名残なんだな、と聞かされた今の学校を卒業するまでの年数。それから入学する時の年も。
「本当だ…!」
 十四歳になったら通うんだものね、目覚めの日も十四歳だっけ…。
 それに教育ステーションで過ごすの、四年間っていう決まりだったよ。
 E-1077でも、何処でも同じ。四年経たなきゃ、どんなに優秀でも卒業は無理…。
 義務教育みたいなものだったんだね、あの時代の教育ステーションって…。



 今の自分が通う学校と、教育ステーションとの共通点。入学の年と在籍年数が同じ。ハーレイに聞くまで、まるで気付いていなかった。そっくりそのまま真似ているのに。
 前の自分には、教育ステーションは関係の無い場所だったから。子供たちを教育ステーションに送り出すための、振り分けを兼ねた成人検査を酷く憎んでいただけだから。
(…教育ステーションまで行ける子供は、みんな人類…)
 ミュウの子供は弾き出されて、その場で処分されてしまうか、研究所に送られて実験動物になる道を歩むか。どちらも人類と機械の都合で、そうならないよう救出したミュウの子供たち。
 前の自分の役目は其処まで、教育ステーションに気を配りはしない。どうせ人類しかいない場所だし、ステーションによっては、ミュウの天敵とも言えるメンバーズを育てていたのだから。
 少しも興味が無かった場所。目を向けさえもしなかった教育ステーション。
「…ハーレイ、なんで知ってるの?」
 ぼくの学校、教育ステーションを元にしてるんだ、って…。
 教えてることは違うけど。あの頃みたいに、色々な仕事のプロを育ててはいないけど…。
 もっと沢山勉強するなら、上の学校に行かないと教えて貰えないから。
「簡単なことだ、教師にとっては常識だってな。学校の仕組みと歴史ってヤツは」
 基礎の基礎だと言ってもいい。…何の科目の教師になるにも、一番最初に教わることだ。
 お前が通っている学校は、元は教育ステーションだった学校なんだな。教える中身と、場所とが変わってしまっただけで。
 つまりだ、今のお前は教育ステーションにいるってことだ。成人検査は全く抜きで。
 お前の学校、宇宙に浮いてはいないがな。…何かの仕事のプロに育ててもくれないが。
 義務教育だし、そんなモンだ、とハーレイは笑う。「SD体制の頃とは時代が違うから」と。
「ぼく、教育ステーションに入れたんだ…」
 前のぼくは門前払いになってしまって、入れて貰えずに終わったけれど…。
 どんなステーションに行ける才能を持っていたのか、それも知らないままだったけど…。
「お互い様だな、俺も教師になれたようだぞ」
 前の俺には門前払いを食らわせてくれた、教育ステーションって所でな。
 何になりたいかを選ばせて貰って、プロのスポーツ選手の道とか、パイロットとかはお断りで。



 俺とお前は教育ステーションで出会ったようだ、とハーレイはパチンと片目を瞑った。
 「教育ステーションってヤツは、今は何処にも無いんだがな」と。
「俺は教師で、お前は生徒。…E-1077とはいかなかったが、教育ステーションなんだ」
 前の俺たちの考え方だと、そういうことになるんだろう。…今の俺たちの出会いはな。
「そう考えると面白いね。前のぼく、教育ステーションには行けなかったけど、今は学校」
 それに、ハーレイまでくっついて来たよ。教育ステーションの先生になって。
 前のぼく、そんなの、夢にも思っていなかったよ。やり直せて教育ステーションなんて。
 其処に行ったら、ハーレイが先生をしてるだなんて…。
 夢よりもずっと凄い未来になっちゃった、と輝かせた顔。「ホントに凄い」と。
「俺も思いやしなかった。…考えたことさえ無かったってな」
 こういう人生も悪くないなあ、俺は教師で、お前は生徒。
 教育ステーションでバッタリ出会っちまって、一目惚れして、今度は結婚出来るだなんて。
 …教師と生徒になっちまったから、結婚します、と宣言するタイミングが難しそうだが…。
 お前のお父さんたちにとっては、俺はあくまで「ハーレイ先生」なんだから。
 その俺がお前と結婚か…、とハーレイが腕組みしているから。
「パパたちに頼むの、ハーレイに任せちゃってもいい?」
 結婚したいと思ってます、って頼む時にはハーレイにお願い出来る…?
 ぼくだとタイミングが掴めないしね、と頼んでみた。ハーレイの方が遥かに年上なのだし、肝も据わっている筈だから。
「そのつもりだが…。場合によっては、お前にも努力して貰わんと」
「努力って?」
「お父さんたちに反対された時だな。絶対に駄目だ、と俺が叩き出されたら、お前の出番だ」
 俺は家にも入れて貰えないし、お前が説得してくれないと…。なんとか入れて貰えるように。
 通信を入れても切られそうだしな、家から叩き出されてしまった時は。



 問答無用というヤツで、とハーレイが恐れる両親の反対。「結婚は駄目だ」と、一人息子を嫁に欲しがる男を家から叩き出すこと。訪ねて来たって家には入れずに、通信も切るという有様。
「…パパたち、其処まで反対するかな?」
 ハーレイを家から叩き出すほど、酷いことをやったりすると思うの…?
「どうだかなあ…?」
 こればっかりは、蓋を開けてみないと分からんし…。俺が本当に叩き出されたら、お前を頼りにするしかない。お父さんたちに会えないことには、話のしようが無いんだから。
 土下座するにしたって、会えないと出来はしないんだぞ、とハーレイは最悪のケースを予想しているけれど。父と母とに放り出されて、結婚の許可が下りないことを恐れているけれど…。
 前にそういう夢を見た。
 ハーレイと結婚したいから、と思い切って父に打ち明ける夢を。
 夢の中の父は少し怖かったけれど、最後は結婚を許してくれたし、現実もきっと…。
「パパとママなら許してくれるよ、ハーレイと結婚するのなら」
 ずっとハーレイと一緒に過ごして、先生と生徒で結婚したくなったんならね。
 ハーレイを叩き出したりなんかはしないよ、きっと話をきちんと聞いてくれるってば。
「そうなってくれればいいんだが…。どうなるんだか…」
 俺の方だと、親父たちはもう知ってるからなあ、お前を嫁に貰うってこと。
 親父たちに反対されなかった分、お前の家で苦労をする羽目になるかもしれないが…。
 お前の努力が必要な立場になっちまっても、俺も全力で努力しよう、とハーレイは結婚のために頑張ってくれるらしいから。
 先生と生徒の恋が実るよう、結婚式を挙げられるように力を尽くしてくれるから…。
 両親もきっと結婚を許してくれるし、それまでは恋を楽しもう。
 キスもデートも出来ないけれども、今はステーション時代だから。
 前の自分は行けなかった場所でハーレイと出会って、今は毎日、幸せな恋をしているから…。




              先生と生徒・了


※今のハーレイとブルーの恋は、先生と生徒の間の恋。今の時代だから、可能なのです。
 SD体制の時代だったら、制約がありすぎて叶わない恋。それが出来る今を楽しまないと…。
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(ふうん…?)
 夢なら持っているけれど、と小さなブルーが眺めた新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
 その紙面の中、「夢は大きく持ちましょう」と書いてあるコラム。子供向けにと書かれた記事。夢は大きく持つべきだ、という中身。夢を大きく持てば持つほど、可能性も広がるものだから。
 どんな夢でも、大きく持つもの。小さい夢だと、未来も小さくなってしまうから。
(当然だよね?)
 わざわざ書いて貰わなくても分かってるよ、と思ったけれど。相手は子供向けの記事だし、下の学校に通う生徒が対象だろう。自分の年なら分かって当然、教えて貰うようでは駄目。
(先生だって、よく言ってたから…)
 下の学校に通っていた頃に。今の学校でも、入学式の時に聞いたと思う。「夢は大きく」と。
 自分の夢なら、とうに決まっているけれど。あまり大きくないのだけれど…。
(お嫁さん…)
 結婚できる年になったら、ハーレイのお嫁さんになることが夢。十八歳になったら結婚式。
 お嫁さんだけに、誰でもなれそうな感じだけれども、本当はとても…。
(大きくて、叶えるのが難しすぎた夢なんだよ…)
 それに叶わなかったんだから、と今の自分は知っている。「お嫁さんになる」ことが、どれほど難しい夢だったのか。叶えたくても、困難を伴うものだったのか。
(今のぼくなら、簡単だけれど…)
 十八歳になれば結婚、ハーレイのプロポーズを受けるだけ。結婚式を挙げればいいだけ。
 けれど、そのハーレイと恋をしていた前の自分は、結婚式を挙げるどころか…。
(ハーレイに恋をしてたのも内緒…)
 お互いの立場がそうさせた。白いシャングリラを守るソルジャーと、船を預かるキャプテンと。船の頂点に立っていた二人、恋人同士だと明かせはしない。もしも知れたら、誰一人として…。
(ついて来てなんか、くれないものね…)
 船を私物化しているのだ、と背を向けて。何を言っても、そっぽを向かれて。
 そうなることが分かっていたから、明かせないままで終わった恋。地球まで辿り着いたなら、と夢見た結婚、それも叶わずに死んでいった自分。
 結婚さえも出来なかったのが前の自分で、だから今度の夢は大きい。小さいようでも大きな夢。



 前の自分の夢が叶うから、充分に大きく持っている夢。結婚するというだけの夢でも。
(ハーレイのお嫁さんになれるんだものね?)
 ぼくには大きすぎる夢、と幸せな気分で閉じた新聞。なんて大きな夢なんだろう、と。ついでに言うなら、前の自分の夢だって大きかったから、と考えながら戻った自分の部屋。
(前のぼくの夢、今よりもずっと…)
 大きくて凄かったんだものね、と勉強机の前に座って思い出す。前の自分が描いた夢を。
 遠く遥かな時の彼方で、ソルジャー・ブルーと呼ばれた自分。白いシャングリラで見ていた夢。
(いつか必ず、地球に行こう、って…)
 青い地球にも焦がれたけれども、それは自分の個人的な夢。青く輝く星への憧れ。
 それとは違って、ミュウの未来を手に入れるために、地球に行こうと考えていた。青い地球まで辿り着けたなら、きっと未来を掴める筈。人類に追われない未来。ミュウが殺されない世界を。
 だから地球へ、と目指そうとした青い水の星。
 前のハーレイと恋に落ちた後には、もう一つ夢が加わった。ミュウの未来を手に入れたならば、白いシャングリラの役目も終わる。もう要らなくなるミュウの箱舟。
 シャングリラが役目を終える時には、ソルジャーもキャプテンも必要なくなる筈だから…。
 船の仲間たちに恋を明かして、二人で生きようと思っていた。シャングリラを降りて、何処かで二人。ほんの小さな家でいいから、青い地球の上に住める所を手に入れて。
 ミュウの未来を掴み取ることと、ハーレイと二人で暮らすこと。そのために行きたかった地球。
(どっちも叶わなかったけど…)
 前の自分が持っていた夢は、どちらも叶いはしなかった。
 ミュウの未来も、ハーレイと二人で生きてゆける家も、前の自分は手に入れられずに、地球さえ見ずに宇宙に散った。ハーレイからも遠く離れたメギドで、独りぼっちで。
(本当に全部、夢だったまま…)
 何も叶わなかったんだよ、と思うけれども、繰り返し描き続けた夢。いつか必ず、と。
 前の自分が夢を大きく持っていたから、神様は叶えてくれたのだろう。ずいぶん時間がかかったけれども、それは仕方ない。前の自分が生きた頃には、青い地球が無かったのだから。
 白いシャングリラが辿り着いた地球は、赤茶けた死の星だったのだから。



 前の自分が夢見た通りに、地球で開けたミュウたちの未来。
 地球は燃え上がって、ジョミーも、前のハーレイたちも命を落としたけれども、機械が支配する時代は終わった。SD体制が倒れた後には、もう人類もミュウも無かった。同じ人間なのだから。
(地球は、メチャメチャになっちゃったけど…)
 大規模な地殻変動を起こした地球。ユグドラシルと呼ばれた地球再生機構の建造物さえ、地の底深く沈んだという。海も大陸も全てが壊れて、燃えて崩れていったのだけれど…。
 それが再生への引き金。何も棲めない死の星だった地球は再び蘇った。青い星として。
 気が遠くなるほどの時が流れて、今の時代は人が住んでいる地球。自分は其処に生まれて来た。前とそっくり同じに育つ身体を貰って、ハーレイも先に生まれて来ていた。同じ姿で。
 地球はとっくに手に入れているし、次はハーレイと暮らす未来。今度は結婚できるから。
(そっちも沢山、夢は大きく…)
 持たなくっちゃ、と記事の通りに考える。ハーレイとの未来に描く夢。
 結婚式のことはよく分からないけれど、その前に、まずはプロポーズ。結婚を申し込まれる時。どんなプロポーズになるのだろうか、ハーレイは何をしてくれるだろう?
(ガラスの靴が欲しいよね、って思ったことも…)
 あるのだけれども、他にも夢を見ていそう。こういうプロポーズもいいね、とハーレイに伝えてありそうな夢。すぐには思い出せないだけで。
(だから、プロポーズも夢だよね?)
 きっと素敵なサプライズ。その日が来たなら、きっと感激で胸が一杯。ガラスの靴を貰っても。他の形で結婚を申し込まれても。
 プロポーズされたら、もちろん「嫌」とは言わない自分。両親が結婚を許してくれたら、晴れてハーレイの婚約者。結婚式の用意も始めて。
 婚約したら、忘れないようにシャングリラ・リングを申し込む。白いシャングリラの船体だった金属の一部、それを使って作られる結婚指輪。申し込みのチャンスは一度きりだから…。
(シャングリラ・リング、当たりますように…)
 それが最初の大きな夢。指輪の形に姿を変えた、シャングリラを指に嵌めること。
 前のハーレイと二人で暮らした白い船。懐かしい船が生まれ変わった指輪を、ハーレイと二人で結婚式で交換して。お互いの左手の薬指に嵌めて、そうして交わす誓いのキス。



 ウェディングドレスで結婚するのか、ハーレイの母が着たと聞いている白無垢か。何を着るのか分からないけれど、誓いのキスはあるだろう。結婚指輪の交換だって。
(結婚式が終わったら…)
 もうハーレイのお嫁さん。誰に紹介される時にも、「俺の嫁さんだ」とハーレイが言ってくれる筈。ハーレイの父や母たちだったら、「うちの息子のお嫁さんです」と。
 考えただけで弾む胸。「ハーレイのお嫁さん」になるということ。前の自分が夢に見たこと。
 夢が叶って結婚したら、新婚旅行は地球を見に行く。それもハーレイとの約束。
(ぼくは宇宙に出たことが無いし…)
 まだ見てはいない、青い地球。足の下には地球があるのに、宇宙に浮かぶ地球を知らない。前の自分が焦がれ続けた、銀河の海に浮かぶ真珠を。
 だからハーレイとの新婚旅行は、宇宙から地球を眺める旅。青い真珠のような地球。それが良く見える部屋に泊まって、ハーレイと二人、心ゆくまで地球を見詰めて、キスを交わして…。
 きっと何日も飽きずに過ごし続けるのだろう。月にも火星にも行きはしないで、地球の周りしか飛ばない旅でも。…地球を見るだけで終わる旅でも。
 前の自分の夢の星だし、そういう旅でかまわない。何処の宙港にも降りない旅で。
(そんな旅行でも、疲れちゃったら大変だから…)
 せっかく新婚旅行に行くのに、寝込んでしまったら意味が無い。いくら窓から地球が見えても、ハーレイが側にいてくれても。
(看病して貰って、船のお医者さんに注射されちゃったりもして…)
 きっとハーレイは優しく看病してくれるけれど、問題は船のお医者さん。大嫌いな注射を宇宙の旅で打たれるのは御免蒙りたい。青い地球が見える医務室で注射されるとしたって。
(嫌いなものは嫌いなんだよ!)
 前の自分も嫌った注射。アルタミラでの酷い体験のせいで。
 新婚旅行で注射は嫌だし、寝込んだら旅も台無しになる。地球を見ながらの食事なんかも、全部お流れになってしまって、ベッドで寝ているだけになるから。
 そうならないよう、元気に旅に出掛けられること、それも大切。
 前と同じに弱い身体に生まれたけれども、新婚旅行の間は健康を損ねないこと。それだって夢。



 元気一杯で出掛けなくちゃ、と夢を抱くのが新婚旅行。ハーレイと青い地球を見る旅。宇宙から青い地球を見ようと、何度ハーレイと語ったことか。…白いシャングリラで暮らした頃に。
 その夢が叶う新婚旅行。しかも結婚してから見られる青い地球。前の自分が描いた夢だと、結婚するのは地球に辿り着いてからだったのに。
 夢よりも素敵になった現実。ハーレイのお嫁さんになって、新婚旅行で地球を見に行くなんて。
(旅行の約束、他にも一杯…)
 今のハーレイと交わした約束。前の自分だった頃から夢を見た旅も、新しく出来た旅の予定も。
 好き嫌い探しに出掛けてゆくのは、今の約束。好き嫌いが全く無い二人だから、あちこち回って苦手なものやら好物やらを探す旅。好き嫌いが無いのは、多分、前の生の影響だろうと思うから。
(砂糖カエデの森も見に行かなくちゃね…)
 前の自分が地球で食べたかった、夢の朝食。ホットケーキを食べること。地球の草で育った牛のミルクで作ったバターと、本物のメープルシロップを添えて。
 今のハーレイにそう話したら、砂糖カエデの森を見に行く約束が出来た。雪の季節が終わる頃に始まる、メープルシロップになる樹液の採取。その季節に二人で行ってみようと。
(ヒマラヤの青いケシだって…)
 出来るものなら、高い山に咲く本物を見たい。前の自分が夢見たように、空を飛んでは行けないけれど。今の自分は空を飛べないから、ヤクの背に乗って運んで貰うしかないのだけれど。
 そして、ハーレイと今の地球で結婚するのなら…。
(マードック大佐のお墓にだって…)
 挨拶に行ってみたいと思う。マードック大佐とパイパー少尉の墓碑がある場所へ。
 SD体制が崩壊した時、地球を破壊しようとした六基のメギド。トォニィやキースの部下たちが防ぎに飛び立ったけれど、残ってしまった最後の一基。
(マードック大佐の船が体当たりして…)
 メギドを止めたと今も伝わる。退艦しないで船に残ったパイパー少尉がいたことも。
 青い水の星が蘇った後、風化したメギドが発見された。二人の墓碑は其処にあるという。墓碑は森の奥にあるらしいけれど、その入口まで行く恋人たちが今も大勢。結婚の報告をするために。
 花束や花輪を捧げて祈る恋人たち。マードック大佐たちのように最後まで共に、と。
 知ったからには、挨拶をしたい二人の墓碑。「パパのお花」が咲く季節に。



 今の時代は「パパのお花」と呼ばれている花。淡い桃色の豆の花。
 幼かったトォニィがそう呼んだから、シャングリラ育ちだった豆にその名が付いた。トォニィが種子を残させた豆。「いつか地球へ」と、願いをこめて。
 その種子が根付いたのが「パパのお花」だから、マードック大佐たちに挨拶するなら、花が咲く季節。墓碑がある地域に自生する花で、他の地域にはあえて広げないと聞いたから。
(夢は大きく…)
 うんと沢山持たなくっちゃね、と思う旅行だけでも数え切れない。ハーレイと二人で行く旅行。デートの約束だって山ほど、もう本当に山のよう。
(新婚旅行は地球を見るんだ、って決まってるけど…)
 次の旅行は何処にしようか、それも楽しみでたまらない。結婚してさえいない内から。こうして夢を見る間から。
 前の自分の夢を叶える旅に出るのか、今の自分たちが交わした約束を叶えにゆくか。青い地球を見る新婚旅行から帰ったら直ぐに、もう計画を立てていそう。ハーレイとお茶でも飲みながら。
(今度は何処に出掛けようか、って…)
 旅の計画、きっと最初は近い場所。新婚旅行は、ハーレイが長く休める時期に行くのだろうし、学校が休みになっている間。春休みだとか、夏休み。
 同じ休みの間にまた行けそうな場所にするなら、家からもきっと近い筈。休みが終わってからの旅となったら、もう本当に近い場所。
(週末に行って、一泊二日で帰れる所…)
 そんな感じ、と思う行き先。一泊二日で行ける所も色々あるから、何処にするかで大いに迷ってしまいそう。海に行くのか山に行くのか、旅の目的は何なのか。
(観光するのか、名物を食べに行くのかも…)
 同じ行き先で回る所が変わってくるから、目的選びも大切なこと。充実した旅にするのなら。後から「しまった」と思わないよう、きちんと下調べもしておいて。
(せっかく行ったのに、知らずに帰って来ちゃったよ、っていうのは残念…)
 食べ物にしても、観光名所にしても。
 ハーレイと二人で旅をするなら、夢は大きく、欲張りに。あれもこれもと詰め込んで。御馳走を食べて観光だって、とギュウギュウ詰めになるだろう夢。



 旅行するにも夢は大きく持たなくちゃ、と思ったけれど。夢は山ほど、と思うけれども、旅行に出掛けてゆく前に…。
(新婚旅行の次の旅行に行く前に、デート?)
 結婚したら一緒に暮らすのだから、二度目の旅に出る前にデート。間違いなく、そう。
 同じ家に住む二人なのだし、思い付いたら直ぐにデートに出掛けてゆける。時間さえあれば。
(ハーレイと食事をしに行くとか…?)
 食事くらいなら、新婚旅行から戻った次の日にだって、と膨らむ夢。ハーレイとデート。食事に行くのはハーレイの家の近所の店だっていいし、ドライブに行くというのもいい。
 車で少し走って行ったら、幾らでも選べる食事できる店。「此処がいいな」と思い付きだけで、選んで車を駐車場に停めて。
 家の近所の店に行くなら、ハーレイと歩いてゆくのもいい。手を繋ぎ合って、のんびりと。
(夢は大きく…)
 それに沢山、と思った所で気が付いた。次の旅行やデートの夢を見ていたけれど…。
 ハーレイと結婚して、新婚旅行に出掛けた後。宇宙から青い地球を眺めて、大満足の新婚旅行が終わった後には、ハーレイの家で暮らすことになる。今の自分の家ではなくて。
 旅行が済んだら、帰ってゆく先はハーレイの家。二人で家に帰り着いた時には、一番最初に何をすることになるのだろう…?
(ただいまのキス…?)
 二人一緒に帰ったのだし、「おかえりなさい」ではないけれど。どちらが迎える側でもないのに「ただいま」は変かもしれないけれども、ただいまのキス。
 二人きりの家に帰って来られた、と抱き合ってキスを交わすのだろう。これからはずっと一緒に暮らしてゆけるし、此処が二人の家なのだ、と。
(キスは絶対、しそうだけれど…)
 結婚している二人だったら、ただいまのキスは挨拶代わり。「最初にすること」と考えるには、足りない重み。今の自分なら、キスは大切なのだけど。
(…ハーレイ、キスしてくれないものね…)
 子供にキスは絶対しない、と言われているから憧れのキス。けれど結婚した二人ならば、キスは当たり前のように交わす筈のもので、「最初にすること」には数えられないほどだろうから…。



 キスは違う、と考えた「家に帰ったら最初にすること」。ただいまのキスの後が問題。
 新婚旅行はもう終わったから、ハーレイと一緒に過ごすのだけれど。結婚している恋人同士で、夜はもちろん同じベッドで眠るけれども…。
(いくらなんでも、帰って直ぐにベッドになんか…)
 行かないだろうという気がする。帰って来たのが夜だとしても。宙港に着いた時間によっては、家に着いたら夜更けなのかもしれないけれども、直ぐにシャワーを浴びに行くのも…。
(あんまりだよね?)
 二人で暮らす家に着くなりシャワーだなんて、夢もロマンも無い感じ。どう考えても、ベッドに入る準備だから。「早くベッドに行かなくちゃ」と宣言するようなものだから。
 二人一緒でも狭くないだろう、ベッドには行きたいのだけれど…。
 それとこれとは話が別。家に帰って最初にすることがシャワーだと、恥じらいさえも無さそう。
(ハーレイ、きっと結婚するまで…)
 キスしかしないままなのだろう、と思ってはいる。何故だか、そういう予感がするから。
 婚約した後もキスだけで我慢していたのならば、ベッドに行きたくなりそうだけれど。
(だけど、新婚旅行だったんだし…)
 二人で旅行に出掛けたのなら、とうにベッドに行った筈。青い地球が見えるだろう部屋で。
 大きな窓越しに地球を眺めて、何度もキスを交わした後には、やっと本物の恋人同士。長いこと我慢させられていた分、満ち足りた時を過ごせる筈。
(朝御飯なんかは、抜きでいいから…)
 ハーレイとベッドで抱き合っていたい。今の幸せに酔いしれながら、愛を交わして、甘い睦言を交わし合って。
(旅行とセットの御飯、何度も抜けちゃったって…)
 きっと二人とも気にしない。豪華な料理を食べそびれても、ルームサービスばかりでも。食事をするより、二人一緒にいたいから。前の生からの夢が叶って、ようやく結婚出来たのだから。
 そういう旅行をして来たのならば、家に帰ってまでベッドなんかに急がなくてもいいだろう。
 もっとのんびり、家でゆっくり。
 此処が二人の家なのだから、と前の生から夢に見ていた地球にある家で。



 前の自分たちが夢見た地球。いつか地球まで辿り着いたら、欲しいと思った小さな家。青の間のように広くなくていいから、ほんの小さな家でいいから。
 その夢を叶えてくれるのが今のハーレイの家。この町で教師になろうと決めて、ハーレイの父に買って貰ったらしい家。其処にハーレイと二人で帰ったら…。
(家の中、色々…)
 案内して貰えるのだろうか。一度だけ遊びに行った時にも、案内はして貰ったけれど…。それはあくまでチビの自分用、他の生徒を案内するのと大して変わりはしなかった筈。
 けれど、一緒に暮らすとなったら、必要だろう様々な案内。それこそキッチンの棚の中まで。
 ちゃんと案内して貰わないと、直ぐに困ってしまうだろうから。「あれは何処?」とハーレイに尋ねなくては、日用品さえ見付けられなくて。
(最初にすること、家の案内?)
 そうなのかもね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから、早速ぶつけてみた質問。テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね、最初は何をすると思う?」
「はあ?」
 最初って何だ、お前が何かしたいのか、とハーレイは目を丸くした。「意味が分からん」と。
「ごめん、色々すっ飛ばしちゃった…。ぼくは長いこと考えてたから」
 おやつの後から考え続けて、そしたら気になり始めちゃって…。
 いつかハーレイと結婚するでしょ、ぼくが十八歳になったら。…結婚できる年になったら。
 その時のことだよ、訊いているのは。…最初は何かな、って思ったから。
 ハーレイと結婚してから、ぼくが一番最初にすること。
 何だと思う、と訊いたら顔を顰めたハーレイ。眉間の皺まで深くして。
「その手の話はお断りだが?」
 お前はチビだし、まだ早すぎる。…何度言ったら分かるんだ?
 キスも駄目だと言ってる筈だな、とハーレイが怖い顔をするから、慌てて首を左右に振った。
「違うってば…!」
 ぼくは真面目に訊いてるんだよ、叱られるような話じゃないんだってば…!
 ホントのホントに違う話で、ただ気になってただけなんだから…!



 キスとかの話は全部抜きで、とハーレイに懸命に説明をした。どうして質問したのかを。
 夢は大きく持ちたいから、と新聞のコラムを読んだお陰で、膨らませてしまった未来の夢。新婚旅行から帰った後には、最初は何をするのだろう、と。
「えっとね…。最初にすること、ハーレイの家の中の案内?」
 そうじゃないかと思ったんだけど、それで合ってる…?
 ねえ、とハーレイの瞳を覗き込んだら、「なんでそうなる?」と返った言葉。
「家の案内って、何処から思い付いたんだ。それが最初にすることだなんて…?」
「それが一番大事かな、って…。ぼく、ハーレイの家の中には詳しくないし…」
 何度も遊びに行ってる柔道部員とかの方が詳しそうだよ。何処に何があるか、棚まで覗いて。
 ぼくは一度しか、家の中、案内して貰ってないし…。
 ハーレイと一緒に帰ってみたって、直ぐに困ってしまいそう。分からないことばっかりで。
 だから案内、と自信を持って答えたのに。
「おいおい、そいつは今だけだろう?」
 確かにお前は、俺の家には全く詳しくないよな、うん。…柔道部のヤツらの方が詳しい。
 あいつら、遠慮なく家探しするから、冷蔵庫の中まで覗いて勝手に中身を飲み食いするし…。
 だがな、お前も俺と結婚するとなったら、嫌というほど来るだろうが。
 一度も来ないで結婚ってことは絶対に無いぞ、考えてみろよ?
 俺の家でデートもするだろうし、と言われてみればそうだった。婚約したなら、ハーレイの家は未来の自分の家になる。今と違って出入りも自由。
「そっか、ハーレイの家でデートもあるよね…」
 ハーレイが作ってくれるお料理とか、お菓子を食べに行くだとか…。
「お前を家に呼びもしないで、結婚ってことは有り得んな。デートでなくても来て貰わんと」
 俺の家に引越して来るんだろうが、俺と一緒に暮らすんだから。
 結婚の準備を進めるためには、お前が俺の家に来ないと始まらない。
 お前の部屋を決めなきゃならんし、荷物だって運び込まないと…。でないとお前、宿無しだぞ?
 この部屋からは出るんだろうが、というハーレイの言葉でやっと気付いた。
 ハーレイの家で暮らしてゆくのだったら、それまでに準備。新婚旅行から帰ったら直ぐに、荷物などを置ける自分用の部屋が要るのだから。



 まるで気付いていなかった、とポカンと開けてしまった口。結婚して同じ家で暮らすためには、先に必要なのが引越し。今のこの部屋から、ハーレイの家へ。
 自分の引越しは新婚旅行の後だけれども、荷物は先に運ばれてゆく。それの置き場や、貰う部屋やら、決めるべきことが幾つもあった。…ハーレイの家まで出掛けて行って。
 何度も出入りしていたならば、家の中のこともすっかり覚えてしまうだろう。新婚旅行から家に帰った途端に、困ってしまわない程度には。
「…最初にすること、家の中の案内じゃなかったんだ…」
 きっとそれだと思っていたのに、違ったなんて…。もう案内は要らないだなんて…。
 ぼくは色々覚えちゃってて、と零した溜息。「ぼくの考え、間違ってたよ」と。
「そのようだな。…あれこれ夢を見てはいたって、チビはチビだということだ」
 まるで必要無い、家の案内が最初だと頭から考えちまうようでは。…チビならではの発想だな。
 そんなお前の質問ってヤツに、あえて真面目に答えてやるとしたなら、だ…。
 新婚旅行から帰った後に、一番最初にすることは何か、それが知りたいわけだよな…?
 俺が思うに、お前、ペタンと座り込んじまって、何もしようとしないんじゃないか?
 最初も何も…、とハーレイが唇に浮かべている笑み。ちょっぴり悪戯小僧の顔で。
「何もしないって…。なんで?」
 どうしてそういうことになるわけ、新婚旅行から一緒に帰って来たんだよ?
 やっとハーレイと二人で暮らせる家に帰って来られたのに…!
 何もしないなんてこと、絶対に無い、と主張したのに、「そうか?」と腕組みをしたハーレイ。
「俺はそうなると思うがなあ…。まず間違いなく、そのコースだと」
 お前が何もしない理由は、エネルギー切れというヤツだ。
 身体中の力が抜けちまうんだな、家に帰ってホッとしたから、緊張の糸が切れたみたいに。
 小さな子供がよくやるだろうが、何処かへ出掛けて、はしゃぎ過ぎた後に眠っちまうとか。
 それと同じだ、お前の場合は眠る代わりに座り込むんだ。
 新婚旅行ではしゃぎ過ぎちまった分がドカンと来るんだな、と指摘されたら反論出来ない。多分そうなるだろうから。
 自分では注意しているつもりでいたって、新婚旅行の間中、はしゃいでいそうだから。
 宙港から宇宙へ飛び立つ前から、もうワクワクが止まらない筈。結婚式の時から、ずっと。



 きっとそうなっちゃうんだよ、と気付いてしまったエネルギー切れ。
 ハーレイと結婚式を挙げて出掛けた新婚旅行で、青い地球だの、二人きりの時間だのと、存分に味わい過ぎて。来る日も来る日もはしゃぎ続けて、体力も気力も、すっかり限界。
 自分では気付いていなくても。…まだまだ元気は充分にあると思っていても。
 ハーレイの家に着いた途端に、プツンと切れるエネルギー。それこそ床にペタンと座って、もう動けないといった具合で。
「…エネルギー切れって…。じゃあ、それが最初にすることなの?」
 ぼくがハーレイの家で最初にすること、エネルギーが切れて座っちゃうこと…?
 床にペタンと座り込んじゃって、「動けないよ」って情けない声を出すしかないの…?
 悔しいけれど、と認めざるを得ない、エネルギー切れで座り込むこと。きっと自分はそうなった末に、ハーレイの顔を見上げることしか出来ないから。
「そうなるだろうと思うんだが? …流石に床では可哀想だし…」
 ちゃんと椅子には座らせてやる。玄関先でへたり込んだら、リビングとかまで抱えて運んで。
 後は紅茶を淹れてやるとか、疲れが取れそうなホットココアとか…。
 そういう飲み物をお前に渡して、時間によっては俺は飯の支度を始めるってトコか。
 帰りは多分、夜なんだろうが、もっと早い時間に到着する便もあるからなあ…。晩飯は家で、と思って帰って来たなら、手早く何か作らんと。
 お前は座って待ってるだけだな、紅茶やココアを淹れるにしても、飯の支度をする方にしても。
 エネルギー切れが治るまでゆっくり座っていろ、とハーレイは微笑む。最初にすること、これで決まったも同じだろうが、と。
「ハーレイが言うの、当たっていると思うんだけど…。エネルギー切れになりそうだけど…」
 それじゃホントに、役に立たないお嫁さんだよ。
 せっかくハーレイと結婚したのに、最初から座っているだけなんて…。
 ぼくだって、ハーレイに何かしてあげたいよ、と言ったのに…。
「何もしなくていいと何度も言ってるだろうが」
 俺の嫁さんになってくれれば、それだけでいいと。…お前は何もしなくても。
 料理も掃除も俺がするから、お前は威張っていればいいんだ。
 俺の所へ嫁に来てやったと、こうして嫁に来てやったんだし、うんと丁重に扱えとな。



 座り込んだまま動けなくても、座っていられるなら充分だ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 「座れるんなら、まだエネルギーが残っているからな」と。
「そういうことだろ、自分の身体を支える力はあるわけだ。椅子には座れるんだから」
 もっと力が無くなっちまえば、お前は倒れてしまうってわけで…。
 新婚旅行から帰ってくるなり倒れて寝込んじまって、早速スープの出番じゃ困る。
 俺が最初に作ってやる料理が、野菜スープのシャングリラ風になっちまったら。
 料理の腕の揮い甲斐さえ無いだろうが、とハーレイが恐れるエネルギー切れの酷いもの。最悪の場合は、倒れることだって起こり得るから。
「それだと、ぼくも困ってしまうよ…!」
 やっとハーレイと暮らせる家に着いたのに…。座り込むどころか、寝込むだなんて…!
 ハーレイに作って貰うお料理、野菜スープが最初だなんて…!
 そんなの嫌だよ、と身体が震え上がりそう。新婚旅行の素敵な思い出、それがすっかり台無しになってしまいそうだから。…寝込んでしまえば、そうなるのだから。
「俺も勘弁願いたいんだが…。寝込むお前も悲しいだろうが、俺も同じに悲しいからな」
 せっかくお前を嫁に貰って、薔薇色の日々が来たっていうのに、野菜スープを煮込むだなんて。
 そいつは勘弁して欲しいからな、お前がはしゃぎ過ぎないように注意はするが…。
 それでもお前は疲れちまって、エネルギー切れを起こすんだろう。軽く済むよう、祈ってくれ。
 防ぐ方法はそのくらいしか無いってわけだが、お前が疲れちまうとなると…。
 そうだな、俺の車が要るかもしれないな。
 俺の車だ、とハーレイは至って真剣な顔。「アレの出番が来るかもしれん」と。
「車って…?」
 ハーレイの車の出番って、何処で?
 まさか病院に連れて行くわけ、ぼくに注射を打って貰いに…!?
 酷い、と上げてしまった悲鳴。ハーレイの家から近い病院の医師は、注射好きだと聞いたから。問答無用でブスリと注射で、「これで治る」というタイプだと前に聞かされたから。
 新婚旅行から帰った途端にエネルギー切れも嫌だけれども、それを治すのに注射だなんて。
 ハーレイの車に押し込まれた上に、病院へ連れて行かれるなんて…!



 酷すぎるよ、と抗議した車の出番。注射を打たれてしまうよりかは、寝込んだ方がマシだから。最初の食事が野菜スープのシャングリラ風でも、注射を打たれるよりはいいから。
 そうしたら…。
「何を勘違いしているんだか…。お前の注射嫌いくらいは、俺だってよく知っている」
 俺の家での最初の思い出、注射に連れて行かれたことになったら、お前に恨まれちまうしな…。
 いきなり車を出しやしないさ、暫くは様子を見てやるから。…病院は無しで治るかどうか。
 だからだ、俺が言っているのは違う車の使い方だ。
 お前、宙港からの帰り道には、とっくに疲れていそうだし…。
 タクシーの中で俺にもたれて寝るのと、俺の車の助手席で寝るのと、どっちがいい?
 好きに選べよ、と訊かれたこと。新婚旅行に出掛けた帰りに、家までの道をどうするか。
「えーっと…?」
 タクシーの中だと、ハーレイの肩にもたれて寝られるけれど…。
 それは嬉しいけど、タクシーだったら、運転手さんが乗っているよね、運転席に。
 バックミラーで見えてしまうかな、ぼくがハーレイにくっついてるの…。わざわざ見たりはしていなくても、何かのはずみに。
 それって、ちょっぴり恥ずかしいかも…。運転手さんは、お仕事だけど…。
 見られちゃった、って後で真っ赤になるより、ハーレイの車の方がいいかも…。
 ハーレイの肩では寝られないけど、寝ちゃっていたって恥ずかしいことは無いものね…。
 そっちの方がいいのかも、と選びたくなったハーレイの車。新婚旅行から帰る時には。
「ほらな、選びたくなっただろうが。俺の車を」
 新婚旅行に出掛ける時もそうするか?
 タクシーに乗って行くんじゃなくって、最初から俺の運転で。
 そうするんなら、車を宙港まで運んで貰うサービスも要らなくなるからな。
「うん、ハーレイと二人がいいよ」
 ハーレイが運転してくれるんなら、ハーレイと二人で行きたいな…。
 せっかく結婚出来たんだものね、前のぼくたちの話もしたいよ。
 運転手さんには聞こえなくても、タクシーの中では、やっぱり話しにくいから…。



 車を出してくれるんだったら、その方がいい、と頼んだ車。ハーレイの車で出掛ける宙港。
「よし。それなら俺の車の出番だ、俺たちだけのシャングリラのな」
 そいつで出掛けて帰って来るなら、家に着いたらガレージに停めて、荷物を降ろして…。
 おっと、その前に、疲れちまってるお前を家に入れてやらんといけないな。
 荷物は後だな、お前の休憩が先だから。
 ペタンと床に座り込む前に、抱き上げて家に運び込んでだ…。
 お疲れ様、と椅子に座らせてやって、何か飲み物を渡してやって…。
 それをお前が飲んでる間に、俺が荷物を降ろして来る、と。…俺のも、お前の荷物も、全部。
 そんなトコだな、とハーレイが立てている段取り。椅子に座っているだけらしい、自分。
「…ハーレイの家で最初にすること、椅子に座ること?」
 床に座り込む方じゃなくても、やっぱり座ることなんだ…?
 ハーレイに椅子に座らせて貰うのが最初、と尋ねた「一番最初にすること」。ハーレイの家で。
「さっきも言ったろ、そうなっちまいそうな気がしているんだが…」
 それじゃ不満か、最初にすること。もっと劇的な何かを期待してるのか…?
 劇的に倒れるのは無しで頼むぞ、とハーレイに念を押されたから。
「ぼくだって嫌だよ、そんなのは…! それにね…」
 不満じゃないよ、うんと幸せだと思う。座ってることしか出来なくっても。
 此処が今日からぼくの家だよ、って胸が一杯になっちゃって。
 ハーレイが荷物を降ろしている間も、幸せ一杯。…椅子に一人で座っててもね。
 きっと幸せ、と弾けた笑顔。最初にすることは椅子に座っているだけにしても、ハーレイと結婚出来るのだから。ずっと一緒に暮らすのだから。
「なら、決まりだな。…新婚旅行に出掛ける時には俺の車で宙港までだ」
 今の所は、そういうことにしておこう。お前もそうしたいらしいから。
 いつかお前と二人で行こうな、宇宙から地球を見る旅に。
 しかしだ、何処でどう変わるかが分からないから面白いんだぞ、夢ってヤツは。
 今のお前の夢の形が、明日も同じとは限らない。
 もっと大きく育った時には、俺の車よりもタクシーがいいと言い出すってこともあるからな。



 まあ、存分に夢を見ておけ、と言われた新婚旅行のこと。家で最初にすることも。
 けれど、夢なら幾らでもあるし、前の自分の一番大きな夢は必ず叶うから…。
「前のぼくの夢、叶うんだよ。…ハーレイと結婚できるから」
 それに叶ってる夢もあるもの、青い地球に生まれて来ちゃったから。
 まだ宇宙からは見ていないけれど、前のぼくが見たかった地球まで来られちゃったよ。
「ふうむ…。前のお前の大きかった夢が、二つとも叶うというわけか」
 それで今度も欲張るわけだな、あれもこれもと。
 俺と新婚旅行はもちろん、他にも山ほど夢を抱えて。
「そう!」
 夢は沢山持たなくっちゃね、でないと何も叶わないから。…未来もちっぽけになっちゃうから。
 今度のぼくも欲張りだよ、と欲張り自慢。夢は本当に山ほどだから。
「いいさ、お前の夢なら全部叶えてやるから」
 どれも端から、と請け合ってくれた、頼もしい恋人。優しいハーレイ。
「…ハーレイの夢は?」
 ハーレイも夢を持っているでしょ、どんな夢なの?
「俺の夢か? そいつはお前と一緒に叶えていくんだ、これからな」
 なにしろ今度は、前の俺の夢も叶うんだから。お前と結婚出来たらな。
 前の俺の一番の夢だった、とハーレイの夢も結婚すること。白いシャングリラで生きた頃から。あの船で地球を夢見た頃から。
「そうだよね…!」
 ハーレイの夢もおんなじだったよね、前のぼくのと。
 いつか地球まで辿り着いたら、きっと結婚出来るんだから、って…。



 同じだったね、と思う前の自分とハーレイの夢。いつか結婚するということ。地球に行くこと。
 夢は大きく持たなければ、と改めて思う。
 前の自分の大きな夢が叶うのだから、今度も沢山、幾つもの夢を。
 前よりはささやかな夢だけれども、持っていればきっと、夢は叶うと知っているから。
 最初の夢は、ハーレイと結婚式を挙げて新婚旅行に行くこと。
 宇宙から青い地球を眺めて、旅を終えたら、ハーレイの家に二人で帰ってゆくこと。
 それから二人で暮らし始めて、幾つもの夢を叶えてゆく。
 前の自分だった時からの夢も、今の自分が持っている夢も。
 ハーレイは全部叶えてくれるし、ハーレイの夢も二人で全部叶えてゆけるから。
 今度は二人で生きてゆけるから、どんな夢でも、青い地球なら何もかも叶う筈なのだから…。




               夢は大きく・了


※夢は大きく持つべきだ、という記事を読んだブルー。前の生での夢なら、大きなもの。
 けれど今度は、前に比べると小さな夢ばかり。それでも夢は幾つも持って、二人で叶えて…。
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(ふふっ、お休み…)
 今日は土曜日、と目覚めたブルー。自分の部屋のベッドの上で。
 休みなんだ、と思った途端に幸せな気分。「ハーレイが来てくれるんだよ」と。仕事が何も無い週末なら、午前中から来てくれるハーレイ。いつの間にか出来た約束事。
 カーテンの隙間から射し込む光で、いい天気だと分かる朝。こういう日には、歩いてやって来るハーレイ。何ブロックも離れた所に家があるのに、楽々と。
(回り道までしちゃうんだから…)
 早すぎる時間に着きそうだったら、遠回りをするのが常らしい。「お母さんに悪いしな?」と。両親は「よろしかったら、朝食も」と言うのだけれども、ハーレイは来てはくれない朝食。
(たまには一緒に食べてくれてもいいのにね?)
 朝御飯も、と考えたって、ハーレイの流儀なら仕方ない。その内に来てくれるのだから、と顔を洗って着替えて朝食。キツネ色のトーストを齧る間も心が弾む。もうすぐ会える筈の恋人。
 食べ終わったら部屋の掃除で、そちらの方も張り切った。いつもハーレイと使うテーブルの上を綺麗に拭いて、椅子の置き場所も整えて。
(これで良し、っと!)
 後はハーレイの到着を待つばかり。この時間なら、とっくに家を出ているだろう。どの辺りまで歩いて来たのか、それとも回り道しているか。
(今日はミーシャの家かもね?)
 自分は見たことが無いのだけれども、真っ白な猫が日向ぼっこをしている家があるらしい。此処まで歩く途中の道に。何通りもあるルートの一つで、ハーレイのお気に入りの場所。
 ハーレイが子供だった頃には、家に本物のミーシャがいたから。ハーレイの母が飼っていた猫。甘えん坊だった白いミーシャの写真を前に見せて貰った。
(ミーシャにそっくりの猫に会えたら、楽しいものね?)
 きっとハーレイは声を掛けてやって、撫でてやったりもするのだろう。何度も顔を合わせる間にすっかりお馴染み、ミーシャの方でも「来ないかな?」と待っていたりして。
 「お休みの日には通る人だ」と、「今日も通ってくれないかな?」などと。



 そう、今日は休みで午前中からハーレイが家に来てくれる。用があるとは聞いていないし、母に通信も来なかったから。「明日は伺えません」という悲しい通信。
(ハーレイに用事が無くて良かった…)
 ホントに良かった、と心から思う。学校の用事や、柔道部の生徒たちとの行事。そういう予定が入った時には、ハーレイは来てはくれないから。
 ハーレイに何も用事が無ければ、週末は此処で一緒に過ごせる。土曜日も、それに日曜だって。明日も予定は入っていない筈だから…。
(二日も一緒!)
 午前中から二人一緒で、夕食の後のお茶が済むまでハーレイと二人。夕食は両親も一緒の席で、食後のお茶も両親つきになることだってあるけれど。
 それでも朝から晩までハーレイと一緒、幸せな日が二日も続く。今日と明日との二日間。二日も続けて休みなのだし、どうせなら泊まって欲しいけれども…。
(ママたちに頼めば、きっと大丈夫だと思うんだけどな…)
 来客用のゲストルームもあるから、両親も歓迎だと思う。ハーレイはすっかり家族の一員、平日だって仕事の帰りに寄ってくれたら一緒に夕食。お客様用の御馳走ではない普段の料理で。
(ハーレイ専用の御飯茶碗とお箸が無いだけ…)
 そんなハーレイが泊まるとなったら、大歓迎だろう父と母。「ごゆっくりどうぞ」と、お風呂も一番に入って貰ったりもして。
 そうは思っても、ハーレイが断るに決まっているから、頼むだけ無駄。「泊まりに来てよ」と。
 誘ってみたって、断られるだけ。「お母さんたちに迷惑かけられないしな?」と、やんわりと。
(でも、今日は夜までゆっくりで…)
 土曜日なのだし、ハーレイが帰る時間も遅め。平日の夜に比べたら。
 明日は日曜、今日と同じで午前中からハーレイと一緒。夕食の後のお茶が済むまで。
 ハーレイが泊まりに来てくれなくても、それで充分。会えて、二人で過ごせるなら。ハーレイに用事が入っていなくて、二日も続けて会えるのならば。
(泊まりに来て、っていうのは無理でも…)
 幸せ一杯の週末になる。今日に続けて、明日もハーレイに会えるのだから。



 土曜と日曜、学校に行かなくてもいい日。時間を好きに使える週末。
(ぼくだって用事、作らないから…)
 友達と遊びに出掛けてゆくより、断然、家で過ごすのがいい。ハーレイが家に来てくれるなら。駄目だと分かっている時だったら、友達と遊びもするけれど。
 そうでない時は、土曜も日曜もハーレイと一緒。午前中から夜になるまで、ずっと。
(週末があって良かったよね)
 ハーレイと二人で過ごせる週末。それにハーレイは学校の先生、その点でもとてもツイている。自分と同じで、週末は休みになるのだから。
(パパの仕事も…)
 週末が休みになっているけれど、違う仕事も色々ある。週末も開いている店などだったら、働く人の休みは違う日。スポーツ選手なんかも同じ。週末も試合が当たり前のようにあるのだから。
(ハーレイがプロの選手になっていなくて良かった…)
 柔道と水泳、どちらもプロの選手になれた筈のハーレイ。プロの選手になっていたなら、今日も試合があったかもしれない。週末に人気のスポーツ観戦、出掛ける友達も多いから。
 もしもハーレイがプロの選手だったら、二人で過ごせはしない週末。ハーレイは試合で、自分は観戦しているだけ。他の地域や他所の星での試合だったら、観戦すらも出来ない始末。
 そうならなくてホントに良かった、と思った所で気が付いた。
(今のハーレイは、土曜と日曜がお休みだけど…)
 教師ではなかった前のハーレイ、キャプテンの休日はいつだったっけ、と。
 前の自分と恋をしていたキャプテン・ハーレイ。きっと休日は二人で過ごしていたのだろうに、思い出せない休日のこと。それが何曜日だったのか。
(土曜と日曜…?)
 休日といえば直ぐに浮かぶのが週末だけれど、そんな筈はなかったと思う。週末以外の曜日だとしても、キャプテンは連休などは取れない。…多分。
(シャングリラは毎日、飛んでたんだし…)
 降りる地面を持たなかった船、前の自分が生きていたのはそういう船。けして休みはしない船。漆黒の宇宙を飛んでいた時も、アルテメシアに着いた後にもシャングリラは停まりはしなかった。
 白い鯨への改造のために惑星に降りても、動き続けていたエンジン。でないと酸素や水の供給、照明などの設備も止まってしまうから。



 船に休みが無いのだったら、キャプテンの方も二日続けて休むことなど出来そうにない。休みの間も船は休まず動き続けて、刻一刻と状況が変わってゆくのだから。
 宇宙でも、アルテメシアの雲の中でも、事情は同じ。キャプテンの指示が必要な場面の方でも、時を選びはしないから。いつ呼び出しがかかったとしても、走ってゆかねばならないキャプテン。
 前のハーレイはそういう仕事で、取れそうにないと思う連休。それが週末でなくたって。
(それとも、取れた…?)
 ブリッジの仲間が頑張っていたら、キャプテンも休めたかもしれない。急な呼び出しがあったとしたって、基本は休みになる二日間。週末だとか、ブリッジの他の仲間とずらして平日だとか。
 どうだったろう、と考えてみても思い出せないキャプテンの休み。
 その上、前の自分にしても…。
(土曜と日曜、お休みだった?)
 ソルジャー・ブルーと呼ばれた自分。シャングリラで一番偉い立場で、ミュウたちの長。
 そのソルジャーに休みがあったという覚えがない。この曜日、と決まっていた休み。此処は必ず休みだから、と自分でも承知していた休日。週末にしても、平日にしても。
 どうにも思い出せない休日、曜日も、それに連休が取れていたかも分からない。もしかしたら、休みは無かったろうか。前のハーレイが休めなかったように、ソルジャーだって。
(ソルジャーもキャプテンと同じだったかもしれないけれど…)
 それにしたって、休みがまるで無いというのもどうだろう。今の時代は、誰でも持っているのが休日。幼稚園にも休みはあったし、休日は多分、欠かせないもの。どんな仕事でも。
(いくらソルジャーでも、休みが無いってことなんか…)
 あったのかな、と頭を悩ませていたら、ハーレイが訪ねて来てくれた。思った通りに、青い空の下をのんびり歩いて。
 回り道して、ミーシャとも遊んで来たらしい。家の表で日向ぼっこをしていたから。
 ついでに朝にはジョギングまで。早い時間に目が覚めたからと走りに出掛けて、足の向くままに公園などを。まだ土曜日の午前中なのに、休日を満喫しているハーレイ。
 そうとなったら、やはり訊かねばならないだろう。前の自分たちの休日のことを。



 まずは質問、とテーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。鳶色の瞳の恋人に。
「あのね、ハーレイは今日、お休みだよね?」
 土曜日だから仕事はお休み。何も用事が入ってなければ、ハーレイが好きに使える日でしょ?
「そうでなければ、俺は此処にはいないんだが?」
 お前だって今日は休みだろうが、と当然のように返った答え。「学校は週末は休みだしな」と。
「それなんだけど…。ハーレイに訊いてみたくって…」
 前のハーレイ、お休みはいつ?
「はあ?」
 休みってなんだ、キャプテン・ハーレイだった頃の俺の休みを言っているのか…?
 仕事が休みになる日のことか、と質問の意図は通じたらしい。訊きたいことはそれだから。
「うん、キャプテンのお休みのこと。土曜と日曜じゃなかっただろうと思うんだけど…」
 週末がお休みってことはないよね、と確認してみた。そういう記憶は自分には無い。
「違うだろうな、キャプテンは週末は休みじゃなかった」
「やっぱりそう? それでね、ぼくのお休みも思い出せなくて…」
 ハーレイ、覚えているのかな…。それを訊こうと思ったんだよね、気になったから。
「訊きたいって何だ、お前は何が気になってるんだ?」
 俺で分かるなら教えてやるが、とハーレイは怪訝そうな顔。「休みがどうかしたのか?」と。
「お休みだってば、前のぼくたちの。…今は土曜と日曜がお休みだけど…」
 ぼくもハーレイも、週末が休みになっているけど、前のぼくたちはどうだったかな、って。
 いつだったのかが思い出せなくて、朝から考えていたんだよ。
 前のハーレイのお休みの日と、前のぼくの休み。…今はお休み、誰でもあるでしょ?
 シャングリラでも、きっとあっただろうし…。
 何曜日だったか、ハーレイ、覚えていないかな…?
 覚えてるんなら教えてよ、と頼んでみたのに、ハーレイの方は「おいおいおい…」と呆れ顔。
 「前の俺たちの休みだって?」と。
 「ソルジャー・ブルーと、キャプテン・ハーレイの休みだよな?」と、念まで押して。



 答えを教えてくれる代わりに、「大丈夫か?」と覗き込まれた顔。正気を疑うかのように。
「お前、寝ぼけていないだろうな? 俺が此処に来る少し前まで寝ていただとか…」
 寝ぼけてるんなら、その質問でも俺は全く気にしないがな。
 休みはいつかと尋ねられても、前のお前はソルジャーだったし、俺はキャプテンだったんだが?
 忘れてるわけじゃないだろうな、と出された前の自分の肩書き。ハーレイの分も。
「それがどうかした? 忘れるわけがないと思うけど?」
 ぼくは寝ぼけてなんかいないよ、ちゃんと起きたから気になって訊いているんだってば。
 朝、起きた時に、「今日は土曜日でお休みだよね」って、とても嬉しくなったから…。
 土曜と日曜はハーレイに用事が入らなかったら、絶対に会える日なんだもの。
 幸せだよね、って考えてる内に、シャングリラにいた頃のお休み、気になっちゃって…。
 そのお休みが思い出せないから訊いてるんだよ、と重ねて尋ねた。「お休みはいつ?」と。
「お前なあ…。全く分かっていないようだな、なら訊くが…」
 ノルディの休日、いつだったのかを覚えているか?
 答えてみろ、とハーレイにぶつけられた問い。今の話とは、まるで関係無さそうなのを。
「え? ノルディって…?」
「ノルディと言ったら、ドクター・ノルディだ。病院にも休みはあるだろう?」
 今のお前が世話になってる、近所の病院なんかでも。診察は無しで、閉まっている日が。
「あるけれど…。今日は土曜だから午前中だけで、日曜日は休み」
 後は、木曜日もお休みかも…。急患だったら、先生がいたら診てくれるけど。
 そうだったと思う、と思い浮かべた診察券。裏に休日や診療時間が書いてあるから。
「俺の近所の病院もそんな具合だが…。シャングリラって船はどうだった?」
 ノルディはメディカル・ルームにいたわけなんだが、あそこに休みはあったのか?
 今の俺たちの言葉で言うなら休診日だな、と訊かれた休み。
 白いシャングリラにあったメディカル・ルーム。其処が閉まっていた日はいつだ、と。
「えーっと…?」
 お休みの日だよね、メディカル・ルームの…?
 すっかり閉まって急患だけしか診ない時とか、午後は閉まっていた日とか…?



 思い出そうとしたのだけれども、今の自分が行く病院とはまるで違ったメディカル・ルーム。
 シャングリラの病院と言えば病院、けれど無かった診察券。船の顔ぶれは誰もが承知で、顔さえ見れば誰だか分かる。診察券を持って出掛けなくても、診て貰えたのがメディカル・ルーム。
(診察券があったら、お休みの日が書いてあるけれど…)
 大抵の病院はそういう仕組み。規模の大きな病院だったら、診察券の裏に書かずに分かりやすい場所にプレートがある。玄関の脇や、診察室の前などに。診療科目が沢山あるから。
(眼科は休みでも、内科は診察してるとか…)
 大病院なら珍しくない、診療科によって異なる休み。だからプレート、「此処が休み」と。
 けれどシャングリラの病院の方は、プレートも出されていなかった。自分の記憶にある限りは。
 お蔭で掴めない手掛かり。メディカル・ルームが休みだった日を問われても。
「…いつがお休みだったっけ?」
 覚えていないよ、診察券が無かったから…。お休みの日を書いたプレートも無かったから。
 思い出せなくても仕方ないでしょ、と開き直ったら、ハーレイが浮かべた苦笑い。
「寝ぼけてるんだか、そうじゃないんだか…。まったく、今日のお前ときたら…」
 メディカル・ルームに休みなんかがあるわけないだろ、あそこは年中無休だったろうが。
 病人と怪我人、いつ来るか分からないからな。
 他に病院があるならともかく、シャングリラにはメディカル・ルームしか無かったんだから。
 最初に医務室が出来た頃には、ノルディが一人で寝泊まりしていたぞ、と言われればそう。
 白い鯨になる前の船で、ノルディが医務室を開設した時。
 ノルディは独学で医者になったし、初期のシャングリラでは一人きりの医者。ヒルマンも医者の真似事くらいは出来たけれども、ノルディの腕には及ばなかった。
 そんな船だから、ノルディの助手たちが育つまでの間は、ノルディの住まいは医務室そのもの。
 頼りになる助手たちが立派に育った後にも、ノルディはいつも…。
「…メディカル・ルームにいたんだっけ…。昼間はずっと」
 あそこに住んではいなかったけれど、直ぐ側の部屋で暮らしてたよね。
 誰か病気になった時には、駆け付けないと駄目だから…。助手や看護師に呼ばれたら。
 ノルディのお休み、無かったかも…。
 メディカル・ルームに休みが無いなら、ノルディが休める日だって無いよね…。



 今日は休み、と閉めるわけにはいかなかったのがメディカル・ルーム。その前身の医務室も。
 病院が幾つもあるのだったら、閉めても問題無いけれど。…患者は他の病院に行くし、急ぐなら救急病院もある。年中無休で二十四時間、医師が詰めている救急病院。
 メディカル・ルームはそれと似たようなもので、違いは医師が一人だったこと。ノルディだけが医者で、他は看護師と助手ばかり。つまりノルディには無かった休み。
「ほら見ろ、ノルディですらもそうだったんだ」
 休み無しだぞ、年中無休で。…週末どころか、平日も休みじゃなかったってな。
 シャングリラはそういう船だったんだし、ソルジャーとキャプテンに休みがあると思うのか?
 もっともお前は、白い鯨が出来上がってからは暇そうだったが…。
 物資を奪いに行く必要が無くなったせいで、暇を持て余しては子供たちと遊んでいたんだが…。
 俺はそれまでよりも忙しくなったぞ、船が大きくなった分だけ。
 おまけに自給自足の世界だ、船で全てを賄う以上は、キャプテンの仕事も増えるってな。報告が次々上がってくる上、目を配らないといけない場所もドカンと増えたんだから。
 目の回るような忙しさだった、とハーレイは両手を広げてみせた。
 「キャプテンだって年中無休だ」と、「メディカル・ルームと同じだよな」と。
 やはり無かったキャプテンの休み。前の自分もそうらしいけれど、本当にそうだっただろうか?
「前のぼくたち、お休みの日は無かったんだ…。だけど、ホントにそうだった?」
 シャングリラって、お休みが無い船じゃなかったように思うんだけど…。
 船のみんなが年中無休で、ずっと働いてたわけじゃないような気がするんだけれど…。
「当然だろうが、あの船にだって休みはあった。でないと疲れてしまうからな」
 毎日が同じような船でも、メリハリってヤツは必要だ。
 いつでも全力で走っていたんじゃ、ここぞという時に走れやしない。力を発揮出来ないんだ。
 それに何処かで休憩しないと、走り続けることも出来ない。…すっかり力を使い果たして。
 船の仲間たちがそれじゃ困るし、全力の時と休む時とを作ってやった方がいい。
 あれはヒルマンが言い出したんだったか…。
 シャングリラにも、平日と休日を作るべきだと。白い鯨じゃなかった頃にな。
 お前だって、まだリーダーだった頃の話だぞ。ソルジャーじゃなくて。
 俺も厨房担当だったな、キャプテンになっちゃいなかった。そんな話も無かったんじゃないか?



 船であの話が出て来た時は…、というハーレイの言葉で蘇った記憶。「そうだったっけ」と。
 アルタミラから脱出した後、名前だけがシャングリラだった船。もう人類のものではないから、新しい名前の船にしようと皆で名付けた。
 船の名前を変えるほどだし、各自の持ち場も出来ていた頃。前のハーレイならば厨房、ゼルならブリッジといった具合に。
 持ち場があるなら仕事も当然あるのだけれども、まだ平日も休日も無かった船。予定表が食堂の壁に貼られていただけ。カレンダーの形で、主な予定を書き込むものが。
 そんな日々の中、ある日、夕食後にヒルマンがそれを指差した。
「あのカレンダーを、もっと生かすべきだと思うんだがね。…せっかく貼ってあるのだから」
 予定を書き込むだけではなくて、と言うから、ブラウが首を傾げた。
「生かすって、何のことなのさ?」
 もう充分に生かしているだろ、みんなの予定がビッシリじゃないか。けっこう先の方までね。
「書くスペースのことではなくて…。曜日の方だよ、カレンダーには曜日がつきものだ」
 日曜日を是非、生かしたい。それに土曜日もだね、この二つだ。
 カレンダーというものがあるからにはね、とヒルマンが挙げた日曜と土曜。続きに並んだ曜日というだけ、他には何ということもない。
「日曜に土曜? 何の意味があるというんだ、それに?」
 ただの曜日の呼び名だろうが、と若かったゼルも訝しがった。「あれが何だと?」と。
「休日だよ。…日曜日は本来、休むためにあったものらしい」
 世界を創った神様も日曜は休んだと伝えられている。神様さえも休んだくらいだ、人間も日曜は休まないとね。ずっと昔は、日曜は仕事をしない決まりもあったそうだよ。
 日曜日に働くことは悪いことだったのだ、という話に皆が驚いた。働くことが悪いなんて、と。
「へえ…? いいことのように思うけどねえ…」
 働くことは、とブラウが言ったけれども、ヒルマンは「そうでもないだろう」と返した。
「人類の世界でも、日曜は休みが基本のようだ。…仕事によって変わりはしても」
 この船でも取り入れるべきだと思うよ、日曜日は休むという習慣を。
 ああしてカレンダーもあるから、じきに定着するだろう。
 そうすればこの船も変わると思うね、いい方向へと劇的に。



 きっと変身する筈だ、とヒルマンが提案した休日。カレンダーの通りに休むこと。日曜日には。更に日曜日の前の土曜日、その日も出来れば休むべき。一日は無理なら、午後だけでも。
 そのようにすれば船は変わる、というものだから、ブラウが飛ばした質問。
「どう変わるって言うんだい? 休日ってのを船で作ったら?」
 まさか神様が褒めてくれるわけでもないだろうに、と茶化すのもブラウは忘れなかった。ずっと昔は、日曜日は仕事をしないことが正しかったのだから。
「簡単なことだよ。休みを作れば、その日を励みに頑張れる。どんな仕事でもね」
 もうすぐ休みが貰えるんだから、と思えば辛い仕事でも軽くなるだろう?
 今のこの船では、疲れが溜まって来たら、自分の判断で休む形になっているんだが…。
 そうなる前に、休みの日を決めておけばいい。休む日が初めから決まっていたなら、力の配分も楽になる筈だよ。じきに休みだ、と頑張るのも良し、まだ先だからと無理をしないのも良し、だ。
 いい方法だと思うのだがね、というヒルマンの案に皆が頷いた。
「なるほどなあ…!」
 そいつは俺も賛成だ。同じ仕事なら、自分の力に合わせてやるのが効率的だしな。
 いいじゃないか、とゼルが真っ先に高く挙げた手。他の仲間も賛成する中、決まった休み。
 まだ重要な役職も無かった時代だったし、日曜日は大抵の者が休みになった船。土曜日も殆どの者が休みで、午後だけ休む者たちも。
 日曜日は大切な休日だから、と休むためのシフトも組まれたほど。同じ持ち場でも交代で休み、仕事への英気を養うために。
「しかしだな…。俺がキャプテンになった頃から、風向きがだ…」
 変わっていったぞ、「休める時に休め」という風に。
 ノルディは一人で医者の仕事を頑張っていたし、俺もノルディを見習ったし…。
 休まないのが偉い、といった雰囲気になりかかったんだ、船全体が。
 俺やノルディはともかくとして、休める立場にいた連中まで休まないのはマズイだろうが。
 休み無しだと、ブッ倒れるヤツも出て来るからなあ…。頑張りすぎて、限界を越えて。
 それでは皆が倒れてしまうし、そうなったら船の暮らしにも響いてきちまうから…。
 なんとかして休ませないと駄目だろ、頑張りすぎてる連中を。
 休んでも問題がない仕事のヤツらは、決めた通りに日曜日はキッチリ休むってことで。



 それでだな…、とハーレイの話は続いた。日曜日はきちんと休む習慣、それを取り戻そうとしたシャングリラ。皆が頑張り続けたままだと、いつか倒れる時が来るから。
「お前は物資の調達の都合で、休めない時もあるもんだから…」
 ヒルマンたちが休みを取ったんだ。ヒルマンとゼルとブラウとエラ。あの四人がな。
 まだ長老にはなってなかったが、船じゃリーダー格だったから…。
 日曜は休む、と四人で宣言したってわけだ。緊急の仕事以外は一切受け付けない、と。
 あいつらが完全に休むとなったら、連絡が必須の仕事をやっても意味なんか全く無いだろう?
 お蔭でまた日曜日が復活したんだ、シャングリラにな。
 それからはずっと日曜日があったし、土曜日も半日休むヤツらが多かった、という懐かしい船の思い出話。一度は消えて、また復活した日曜日。それに土曜日も。
「あったね、そういう事件もね…。せっかく作った日曜日が消えてしまったこと」
 本当に消えて無くなる前に、ちゃんと戻って来たけれど…。ヒルマンたちの作戦のお蔭で。
 だけど、前のハーレイと、前のぼくとは…。
 あれから後もお休みは無しで、日曜日も土曜日も無くて…。
 他の曜日も決まった休みは無かったっけ、と蘇った前の自分の記憶。週末は休みだった船でも、休みが無かったソルジャー・ブルー。それにキャプテン・ハーレイだって。
「俺たちだけじゃないぞ、ノルディもだからな。其処の所を忘れてやるなよ」
 その代わり、いつでも休めるという特権も持っていたっけな。日曜だろうが、平日だろうが。
 日頃、仕事を頑張っているから、此処で休ませて欲しい、と言えば休みが取れたんだ。
 もっとも、俺は殆ど使っていなかったが…。
 キャプテンの役目ってヤツを思えば、そうそう休んでいられやしない。
 俺の指示が無いと全く進まないことや、始められさえしない仕事が山のようにあった船だから。白い鯨になった後には、そいつがドカンと増えたってわけで…。
「覚えてるよ、ハーレイが頑張ってたこと」
 仲間たちが色々尋ねるんだものね、ハーレイに。「これをやってもいいでしょうか」って。
 ハーレイがブリッジで仕事してても、別の場所から呼ばれたり…。
 その度に走って行っていたものね、やってた仕事をキリのいい所までやって。
 「直ぐに行くから、ちょっと待ってろ」って、どんな時でも。



 前のハーレイはそうだった、と忙しかったキャプテンの姿を思い出す。まるで無かった、日曜と土曜。殆どの者たちが休んでいたって、仕事をしていた仲間がいたから。週末だって。
 シャングリラが宇宙を、雲の海の中を飛んでいる限り、キャプテンの仕事に終わりは無い。船と一緒に生きるのがキャプテン、船の全てを掴んでいないと話になりはしないから。
「前のハーレイ、決まった休みは無かったけれど…」
 特別に取れる休みも滅多に使ってないけど、前のぼくだって使っていないよ。
 白い鯨になった後には暇だったから、お休みみたいなものだったかもしれないけれど…。
 改造前の船だった頃も、お休みは使っていないんだよ。…ハーレイが頑張っていたんだもの。
 ハーレイをキャプテンにしたのは、前のぼくだったんだし…。
 キャプテンが休んでいないんだったら、ぼくだけ休むのは悪いような気がしてたから…。
 でも、寝込んじゃったら、お休みと一緒…。
 白い鯨じゃなかった船でも、前のぼく、休んじゃってたね、と肩を竦めた。今と同じに弱かった前の自分の身体。弱い身体は、休み無しだと悲鳴を上げてしまうから。
 そうなった時はベッドで休んでいるしかなくて、休暇ではなくても事実上の休み。ソルジャーにしか出来ない仕事は少なかったけれど、休んだことには変わりはない。
 たとえ仕事が無かった日でも。…船の中をウロウロ歩いてみたって、手伝う仕事も見付からないような日曜日や暇な日だったとしても。
「前のお前は休んでたっけな、休むつもりがまるで無くても」
 寝込んじまったら、自動的に休みになっちまうから。…ソルジャーでも、それにリーダーでも。
 前の俺もそういう休みだけだな、ノルディもだが。
 いくら頑丈でも、俺も人間には違いない。…たまにはダウンしちまうこともあるってな。
 ゼルやブラウには「鬼の霍乱」と言われたもんだが、と笑うハーレイ。
 実際、前のハーレイが寝込んでしまったことなど、滅多に無かった。
 寝込むと言うより、大事を取っての早めの休み。
 キャプテンの仕事に判断ミスは許されないから、疲れが溜まった時などに。
「…ハーレイ、寝込んでいないよね…」
 前のぼくみたいに、ホントに動けなくなっちゃうような形では。
 部屋のベッドで寝てたってだけで、ちゃんと自分で食事もしてたし、休みも一日程度だから。



 凄かったよね、と感心してしまう前のハーレイのこと。週末どころか、決まった休みも取りさえしないで働き続けたキャプテン・ハーレイ。
「俺も改めて考えてみると、凄い働きぶりだったんだな…」
 我ながらよく頑張ったもんだ、休みも無しで。…週末は全く無かった上に、他の日にも決まった休みは貰っていなかったわけで…。
 前のお前もそうだったんだな、病気で寝込んだ時くらいしか休みは無しだ。
 とはいえ、お前は、白い鯨じゃ暇だったんだが。
 物資を奪いに出掛けなくても、何もかも船で賄えていたし…。大抵は暇そうだったよな。
 ミュウの子供を助け出す時は、お前の出番だったんだが…。
 あれにしたって、救出班が出来た後には、お前はサポート役だったから。…それと情報収集と。
 毎日が休みみたいなモンだな、とハーレイが言うのは当たっている。白いシャングリラに思念の糸を張っていたって、それの出番も殆ど無かった。船の中は平和だったから。
「…ぼくはのんびり過ごしていたけど、ハーレイは忙しかったじゃない」
 シャングリラを改造しちゃった後には仕事が増えた、ってハーレイも自分で言ってたものね。
 船が大きいと仕事も増えるし、仲間の数も増えていったから…。
 アルテメシアに着いた途端に、ミュウの子供たちが船に来るようになったから。
 最初の間は、キャプテンが子守りもしていたでしょ、と今の自分も覚えていること。養育部門を立ち上げる前は、キャプテン自ら子供たちの相手を務めたりもした。
 他にも仕事があったのに。
 子供たちの相手に時間を割いたら、その分、ハーレイが使える時間が減ってゆくのに。
「まあな、色々やったよなあ…」
 あれも仕事だと思っていたから、子守りもやっていたんだが…。
 子供と言っても、シャングリラに乗って来たってことはだ、立派な乗組員なんだ。
 キャプテンが世話をしないでどうする、知らん顔など出来ないぞ…?
 どんな船でも、キャプテンって仕事は、船に乗ってる全員の面倒を見るモンだからな。
「そうなんだけど…。でも、ハーレイは凄すぎたよ」
 お休みも無しで頑張り続けて、それで倒れもしなかったなんて。
 ちょっと疲れたら早めに休んで、ベッドで一日寝ていた後には、仕事に戻っていたなんて…。



 ホントに凄すぎ、と前のハーレイを手放しで褒めた。休み無しで働いたキャプテン・ハーレイ、疲れた時にも少し休んだらブリッジに戻ったキャプテンを。
「ハーレイのお休み、前はホントに無かったんだね…。船のみんなは休んでたのに」
 シャングリラでも週末はお休み、って決まっていたのに、前のハーレイにはお休みは無し…。
 そんなのでよく頑張れたよね、と考えるほどに偉大なキャプテン・ハーレイ。同じように休みが無かった前の自分は、寝込んで休みを取っていたのに。
「あれを思うと今は天国だな、土曜も日曜もあるってな。…カレンダーの通りに」
 ついでに俺は教師だからなあ、夏休みとかもあると来たもんだ。春と夏と冬に長い休みを貰えるわけだな、他の仕事の連中よりも。
「そうだね、先生も夏休みとかは休みだもんね…」
 今のハーレイ、お休みが無くなったら困る?
 夏休みとかは例外にしても、土曜日と、それに日曜日。…どっちも休みじゃなくなったら。
「当たり前だろう、俺も人間だぞ?」
 休み無しの生活なんぞは考えられんな、前の俺だって休みは取っていたんだから。
 傍目には休み無しに見えても、俺自身もそう思っていても。…きっと何処かで、きちんとな。
 だからだ、今の俺だって休みが消えたら困る。休みは無しで頑張ってくれ、と言われたら。
 そいつは断固、御免蒙る、とハーレイは休みが欲しいらしい。今は休みの週末の日々が。
「…プロのスポーツ選手だったら?」
 今のハーレイ、そういう話も来ていたんでしょ?
 プロの選手は日曜日だって試合をしてるよ、お休みの日が無さそうだけど…。
 試合が無い日も練習だものね、プロはそういうものだ、って…。
 練習しないと身体が駄目になるんでしょ、と尋ねたら「そうなんだが…」とハーレイは笑う。
「そうは言っても、プロのスポーツ選手にしたって、休みはちゃんとあるもんだ」
 体力が落ちてしまわないよう、自主的に練習したりはするがな。
 今の俺がジョギングしているみたいに、身体を保つための運動。休みの日にはその程度だ。
 休み無しの仕事なんかは無いだろうなあ、宇宙の何処を探しても。
 人間、何処かで休まないことには、力を保てやしないから。



 前の俺だって、何処かで休んだ筈なんだ、というのが今のハーレイの話。休み無しで働き続けたキャプテン・ハーレイ、そう見えていた前のハーレイも休んだだろう、と。
「前の俺たちが生きた時代でも、休み無しの仕事なんていうのは…」
 無かっただろうな、人類どもの世界にしても。
 ミュウとの戦いが始まってからの人類軍の連中くらいか、休みが無かった人間と言えば。
 それでも休んでいたとは思うが…。移動の途中の船とかではな。
 なんと言っても、ミュウの方でも休んでいたんだ、あの時だって。
 週末の休みは何処かへ消えてしまっていたがだ、シャングリラにも休みはあったんだぞ。
 ジョミーは見て見ぬふりをしていたっけな、とハーレイが言うものだから。
「…本当に?」
 人類と戦っていた最中でも、シャングリラにお休み、ちゃんとあったの…?
「前に言ったろ、買い物に出掛けたヤツらもいたって話。人類の住む星を落とした時は」
 船のヤツらに、ちゃんと休みは取らせてた。もちろん、トォニィたちにもな。
 土曜や日曜が駄目だった時は、他の曜日に代休だとか…。
 星を落としたら、其処で休みにするだとか。そんな具合で、休みにしたんだ。
 船の連中の休みを確保するのも、キャプテンの大切な仕事だろうが、と微笑むハーレイ。休みが無ければ、人は疲れてしまうから。
「そっか…。お休みって、とても大切なんだね」
 人類軍との戦いの中でも、ハーレイが休みを作ってたなら…。船のみんなを休ませたのなら。
 ハーレイはお休み無しのままでも、船の仲間には、きちんとお休み。
「俺も改めて実感したぞ。…休みってヤツの大切さをな」
 今の俺だと、前の俺の一生分を休んでしまったかもなあ、とうの昔に。…もしかしたら。
 週末は大抵休みなんだし、他の仕事には無い夏休みや春休みまであるんだから。
 ちょいと休みを取り過ぎだろうか、とハーレイは苦笑するけれど。
「いいじゃない、今度は沢山お休み」
 前のハーレイが頑張った分までお休みなんだよ、今のハーレイは。
 これからもお休みは沢山あるでしょ、夏休みも、春休みも、冬休みだって。
 ハーレイ、先生なんだから。



 結婚したら、お休みには旅行に行ったりしようね、と強請ってみた。前の自分たちには、旅行は出来なかったから。船で宇宙を旅しただけで。
「いろんな所に行けると思うよ、ハーレイのお休み、長いんだから」
 夏休みが一番長いけれども、他にもお休み、沢山あるしね。
「もちろんだ。まだまだ沢山休めるからなあ、今の俺はな。キャプテンだった頃と違って」
 お前と二人で、あちこち出掛けて行かないと…、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 「今度こそ地球で、前の俺たちの沢山の夢を叶えよう」と。
 前の自分たちが行きたかった場所は山ほどあるから、其処へ二人で出掛けてゆこうと。
 キャプテンだった前のハーレイに休日は無かったけれども、今度は沢山ある休み。
 前のハーレイの分まで楽しんで貰おう、そして自分も楽しもう。今のハーレイが貰える休みを。
 土曜も日曜も、他の休みも。一番長くなる休みの夏休みも。
 今のハーレイは、もうキャプテンではないのだから。
 ただの教師で、土曜と日曜は休みになるのが当たり前の暮らしなのだから…。




             無かった休日・了


※前のブルーとハーレイには、決まった休日が無かったのです。立場上、仕方ないですが。
 けれどシャングリラの仲間たちには、ちゃんと休日がありました。土曜と日曜は、休みの日。
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(うーん…)
 ちょっぴり熱い、と小さなブルーが顰めた顔。学校から帰って、おやつの時間に。
 熱いと感じたものは紅茶で、本当は「ちょっぴり」どころではない。カップからホカホカと立ち昇る湯気は、まだ衰えてはいないから。
(これじゃ飲めない…)
 珍しく喉が渇いているから、ゴクゴク飲みたい気分なのに。水みたいに飲んでしまいたいのに、熱すぎる紅茶。母が淹れてくれたカップの中身は、さっき注がれたばかりだから。
(冷ましながらだと…)
 息を吹きかけて飲んでゆくなら、少しずつ。一口分ずつ時間をかけて。
 それでは乾きが癒えてくれないし、飲み終えて次を飲もうとしたら、また熱い紅茶なのだろう。おかわり用のポットの中身も、同じに熱い筈だから。
 指で触れてみたら、やっぱり熱い陶器のポット。「中身も熱いですよ」と知らせるように。
(蓋を取っても、あんまり効果ないよね?)
 きっとそうだ、と眺めるポット。蓋の部分は小さいのだから、そうそう冷めないポットの中身。まだ熱いカップの中の紅茶をやっとの思いで飲んだ後にも、熱いままだろう母が淹れた紅茶。
(これじゃゴクゴク飲めないよ…)
 冷やさなくちゃ、とキッチンに行くことにした。
 ポットの中身の方はともかく、カップに注がれた紅茶だけでも冷やしたい。今ある一杯、これを一息に飲んでしまえたら、乾きが少し癒えそうだから。
(飲んじゃっても喉が渇いていたら…)
 その時はまた冷やせばいい。おかわり用に注いだ分を。
 カップの紅茶を冷やすくらいは、自分でも出来る簡単なこと。キッチンに行けば氷があるから、それをポチャンと落とすだけ。熱い紅茶に。
 冷凍庫の氷を、母は切らしはしないから。
(お料理で、急いで冷やさなきゃ駄目なものもあるしね?)
 そういった時に困らないよう、夏でなくても氷は沢山。熱い紅茶に幾つか入れたら、飲みやすい温度に冷める筈。「冷たい」と思うくらいにだって。



 よし、と出掛けて行ったキッチン。カップを手にして、それに氷を入れようと。
 キッチンには母がいたのだけれども、気にせずに開けた冷凍庫。「氷は此処」と。そうしたら、音で振り向いた母。
「あら、ブルー? どうしたの、冷凍庫を開けて」
 アイスクリームの季節じゃないわよ、と軽くたしなめられた。冷凍庫の中にはアイスクリームの器も入っているものだから。アップルパイなどに添えたりもするし、そのためのものが。
「アイスじゃなくって、普通の氷…」
 紅茶、熱くて飲めないんだよ。だから氷が欲しくって…。
 入れに来ただけ、と指差したカップ。冷凍庫からの冷気を浴びても、消えない湯気。
「そのくらい、直ぐに冷めるでしょ。夏じゃないんだから」
 今の季節はそれでいいの、と母に言われたけれども、自然に冷めるのを待てないから来た。喉は今でも乾いたままだし、中身を一気に飲みたいのだから。
「…喉が渇いてて、待てないんだもの…」
 少しずつ飲んでも、飲んだ気分がしないから…。いっぺんに飲んでしまわないと。
 だから氷、と強請ったものの、冷凍庫の扉は仕方なく閉めた。中の氷などが溶けないように。
「紅茶だったら、ミルクを入れれば冷えるわよ」
 冷蔵庫の方に入っているでしょ、いつものミルク。そっちを入れておきなさいな。
 カップに少し入れるだけでも違うわよ、という母の意見も分かるのだけれど。冷蔵庫のミルクは冷たいのだから、紅茶も冷えてくれそうだけれど…。
「…今日は普通の紅茶がいいよ」
 ミルクティーじゃなくって、このままがいい、と少し我儘。本当にそのままで飲みたかったし、ミルクティーはまたの機会でいい。
(…ミルクを飲むと背が伸びるって言うけれど…)
 毎朝、「早く大きくなれますように」と祈りをこめて飲んでいるけれど、それとこれとは問題が別。今の気分はミルクティーより、普通の紅茶。
 いくらミルクが背を伸ばすための魔法でも。頼もしい力を持つ飲み物でも、今の所は見られない効果。チビの自分の背は伸びないから、紅茶に少し入れたくらいでは、きっと効かない。
 効くのだったらミルクティーでもいいのだけれども、効果が無いなら普通の紅茶。



 背を伸ばしたい祈りのことは、母は知らない。背丈が伸びて前の自分と同じになったら、恋人にキスして貰えることも。その恋人がハーレイなことも。
(早く大きくなりたいよ、って所までしか…)
 母は全く知らないのだから、「ミルクティーの気分じゃない」と言っても、「仕方ないわね」と困ったような顔をしただけ。「今日はミルクじゃ駄目なのね」と。
「ミルクが嫌なら氷ってことね、分かったわ」
 じゃあ、これだけ、と冷凍庫を開けて、母がポチャンと入れてくれた氷。たったの一個。それも大きくないものを。自分で入れようと開けた時には、幾つも入れたかったのに。
「…これだけなの?」
 一個しか入れてくれないの、とカップの中を覗いたけれども、もう閉められた冷凍庫。氷の数は増えてくれない。カップの中では氷が溶けてゆく所。紅茶の方が熱いから。
「冷たすぎるのは良くないの。…お腹も身体も冷やしちゃうのよ」
 丈夫だったら冷えてもいいけど、ブルーは身体が弱いでしょう?
 だから氷は一個でいいのよ、それ以上は駄目。…そうそう、ポットの紅茶も熱すぎるのね?
 今日のブルーの気分だと、と母が訊くから、ここぞとばかりに頼んでみた。
「そうなんだけど…。氷、入れてもいい?」
 ポットの分の氷もくれるんだったら、持って行って自分で入れるから。
 氷、何かに入れてちょうだい、と指差した食器たちの棚。紅茶のカップは片手で持てるし、もう片方の手で氷を運んでゆけばいいから。適当な器に入れて貰って。
 そのつもりなのに、「駄目よ」と返した母。
「氷を持って行くのは駄目。ポットを此処に持って来て」
 紅茶のポットよ、そのままでね。…熱い紅茶は困るんでしょう?
「ポット…?」
 ママが氷を入れてくれるの、ぼくだと沢山入れすぎちゃうから…?
 これだけ、って渡して貰った氷を、全部ポットに入れそうだから…?
「それもあるけど、紅茶の方が問題なのよ」
 冷めるとお砂糖、溶けにくいでしょ。
 ブルーは甘い紅茶が好きだし、お砂糖を入れずに飲んだりしていないものね。



 ポットごと持って来なさいな、と母が言うから運んで行った。氷を入れて貰ったカップを、元のテーブルに戻してから。…ダイニングにある大きなテーブル。
 それから母にポットを渡して、また戻って来て飲んでみた紅茶。椅子に座って。
(氷、一個しか貰えないなんて…)
 もう溶けちゃった、と溜息を零していたのだけれども、舌に熱くはない感じ。火傷しそうだった熱は取れてしまって、ぬるくなったと思える温度。
(さっきほど熱くないかな、これ)
 冷ましながらでなくても飲めそう、とコクコクと飲んで、乾きが癒えてくれた喉。良かった、とホッと息をついたら、おかわり用もやって来た。母が運んで来てくれたポット。
 それは嬉しいことなのだけれど、ポットがさっきのとは違う。「氷、お願い」とキッチンの母に届けた、熱すぎた紅茶のポットとは。…大きさはともかく、模様も形も。
「ママ、ポットは?」
 持って行ったポットはどうなっちゃったの、このポット、違うポットだよ…?
 冷たい紅茶にしてくれたの、と尋ねてみたら、「少しだけね」と微笑んだ母。
「ほんの少しよ、冷たいっていうほどじゃないわね」
 ポットごと中身を冷やして来たのよ、冷たいお水で。…その前にちゃんとお砂糖も入れて。
 今はアイスティーの季節じゃないでしょ、カップの紅茶にシロップはちょっと…。
 似合わないから、最初から甘くしてみたの。
 ブルーが入れたいお砂糖の量は、ママだって知っているものね。このくらい、って。
 熱い間にお砂糖を溶かして、溶けたらポットごと冷やすんだけど…。
 さっきのポットは熱くなってたから、早く冷えるように入れ替えたのよ。冷たいポットに。
 最初から冷えたポットだったら、冷えてくれるのも早くなるでしょ、と母は説明してくれた。
 「お砂糖を入れなくても甘い筈よ」と、置いて行ってくれたポットの中身は…。
(ホントだ、熱くなくって、甘い…)
 カップに注いで一口飲んだら、直ぐに分かった。
 アイスティーの冷たさとは違った、ぬるめの紅茶。氷を一個落として貰ったカップと、似ている温度。母が「身体にいい」と思う温度がこれなのだろう。
 それに甘さも丁度いいもの、自分の好み。甘すぎもしなくて、甘さが足りないほどでもなくて。



 流石はママ、とゴクゴクと飲んだカップの中身。喉の渇きは消えていたけれど、せっかくだから一息に、と。これでカップに二杯も飲んだし、充分、満足。
 次はケーキ、と母が焼いてくれた美味しいケーキを頬張った。喉が渇いていた間には、ケーキな気分ではなかったから。
 ケーキをフォークで口に運んで、眺める新しいポット。母が入れ替えて来てくれたもの。
(アイスティー、こうやって淹れていたっけ…)
 夏の間に見た光景。
 熱い季節は紅茶もアイスティーだったけれど、淹れた時には当然、熱い。紅茶を美味しく淹れるためには欠かせないのが熱いお湯。いくら夏でも、うだるような暑さが続いていても。
 夏の室温では、熱い紅茶はなかなか冷めない。冷房を入れてある部屋でも。
(だから、ポットごと…)
 母は急いで冷やしていた。茶葉が開きすぎてしまわない間に、冷たい水にポットごと浸けて。
 ポットを浸けた水がぬるくなる前に、捨てては注いだ冷たい水。時には氷も加えたりして。
 きちんと冷えたら、紅茶を移したガラスのポット。とても涼しげに見えるから。
(ガラスのポットでも、紅茶は淹れられるんだけど…)
 フルーツティーを作る時なら、母はガラスのポットを使う。茶葉と、色々なフルーツを入れて。中の果物がよく見えるようにガラスのポット。熱いお湯でも割れないガラス。
 夏に何度も飲んだアイスティーは、そういうポットに入っていた。冷えているから、沢山の露を纏ったガラスのポットに。
 あの時はシロップ入りの小さな器が、ポットに添えられていたけれど…。
(お砂糖を先に入れておく方法、あったんだ…)
 熱い間に溶かしてしまえば、充分に甘くなる紅茶。シロップ無しでも。
 考えてみれば、そう難しくはないのだろう。出来上がりの甘さが分かっているなら、必要な量の砂糖を溶かして冷やすだけ。
(ママ、お砂糖の量、ちゃんと分かってくれているしね?)
 だからこういう作り方だって出来るんだ、と思った紅茶の冷やし方。
 シロップは無しで、初めからつけておく甘み。冷めた紅茶だと砂糖は溶けてくれないのだから、考えてくれた優しい母。自分が勝手にやっていたなら、氷を放り込んだだろうに。



 母のお蔭で美味しく飲めた、甘くしてあったポットの紅茶。ケーキも食べ終えて、戻った二階の自分の部屋。勉強机の前に座って、考えてみた紅茶のこと。
(さっきの紅茶はぬるかったけれど、アイスティーだって…)
 きっと母なら同じように手早く作るのだろう。最初から甘くしてあるものを。シロップ無しでも充分に甘い、自分の舌にピッタリなのを。
(アイスティーがいいな、って急に言っても…)
 淹れて貰えるだろうと思う。自分の身体が弱くなければ、それこそ冬の最中でも。家まで走って帰って来たから暑かった、と注文すれば。「冷たい紅茶がいいんだけれど」と言ったなら。
 弱い身体に毒でさえなければ、アイスティーもホットも注文出来る。その日の気分で。
(もうちょっと丈夫だったらね…)
 今日だってもっと冷たい紅茶、と思ったら不意に掠めた記憶。
 冷たいのがいい、と強請った自分。幼かった頃の記憶ではなくて、遠く遥かな時の彼方で。
(前のぼく…?)
 いったい誰に言ったのだろう、と首を傾げてしまった記憶。誰に強請っていたのだろう、と。
 今日の自分がやっていたように、「冷たいのがいい」と強請ったソルジャー・ブルー。それともチビの頃だったろうか、まだソルジャーではなかった頃の。
 シャングリラにも紅茶はあったけれども、その紅茶。あの船で淹れていた紅茶なら…。
(食堂だったら、アイスかホット…)
 白い鯨になった船なら、好みの方を選べた筈。誰でも、それを注文すれば。
 紅茶も、それにコーヒーだって、アイスかホットか、好きに選んで飲めた食堂。シャングリラで栽培された紅茶は、香り高くはなかったけれど。コーヒーは代用品だったけれど。
(…紅茶は本物のお茶の葉っぱで、コーヒーはキャロブ…)
 今の時代はヘルシー食品になっているキャロブ、イナゴ豆とも呼ばれる豆。元はチョコレートの代用品で、コーヒーやココアも作れるからと栽培していた。合成よりは代用品の方がいい、と。
 贅沢を言いさえしなかったなら、紅茶もコーヒーもあった船。
 アイスクリームまで作っていた船なのだし、食堂には常に氷が沢山。皆が気軽に注文していた、氷が入った冷たい飲み物。
 白い鯨なら、強請る必要など無かっただろう。「冷たいのがいい」と、船の誰かに。
 食堂に出掛けて「アイスで」と言えばいいのだから。強請るのではなくて、注文するだけ。



 前の自分はソルジャーだったけれど、食事は青の間で食べていたけれど。
 食堂に行ったこともあったし、注文したって誰も困りはしない。頼んだ物が出て来るだけ。
(改造前の船だって…)
 飲み物を冷たくするかどうかは、充分に選べたと思う。氷を作って入れる程度ならば、それほど手間はかからないから。
 船での暮らしに馴染んで来たなら、誰でも自由に頼めただろう。食堂に出掛けて、好きな温度の飲み物を。その日の気分で、ホットでも、氷をたっぷりと入れた冷たいアイスでも。
(休憩室にも…)
 飲み物を淹れられる設備はあったし、氷も備えられていた。あの時代ならば、コーヒーは本物のコーヒー豆から出来たコーヒー。紅茶もコーヒーも、全て略奪品だったから。
 前の自分が人類の船から奪った物資で、皆の暮らしを維持していた船。自給自足の白い鯨とは、まるで違っていた生き方。
 それでも自由に頼めた飲み物、アイスもホットも。休憩室で淹れるのだったら、自分たちの手で好きに作れた。熱い紅茶も、氷で冷たくしたものも。
(前のぼくでも、冷たいの…)
 作ろうと思えば作れた筈で、作っていたという覚えもある。青の間でだって。
 青の間で食べた三度の食事は、食堂の者たちが作りに来ていた。小さなキッチンで出来る料理は其処で作って、時間がかかる料理だったらキッチンでは最後の仕上げだけ。
 だから常駐していなかった料理人。食事の時だけ、当番の者がやって来た。
 部屋付きの係も掃除などが済んだら帰ってゆくから、大抵は一人で過ごしていた部屋。
(何か飲みたくなったから、って…)
 わざわざ係を呼びはしないし、自分で淹れていた紅茶。冷たい紅茶が飲みたくなったら、冷凍庫から出した氷を入れた。シロップも多分、あったのだろう。
(前のぼく、ママとは違うから…)
 先に砂糖を加えることなど、思い付きさえしなかった筈。熱い紅茶を氷で冷やして、シロップを入れて、それで満足。「甘くなった」と、「今日は冷たい紅茶の気分」と。
 前の自分でも、好きに選べただろう飲み物。熱いホットか、冷たいアイスか。
 白い鯨になる前の船でも、青の間の住人になった後でも。



 その筈なのに、誰に強請っていたのだろうか。「冷たいのがいい」と、あの船で。
 誰に向かって言っていたのか、自分でもちゃんと作れたのに。注文することも出来たのに。
(前のハーレイくらいしか…)
 思い付かない、強請った相手。
 燃えるアルタミラで出会った時から、ハーレイは一番の友達だった。恋人同士になる前から。
 他の仲間には遠慮したって、ハーレイには甘えていた自分。頼み事でも、相談でも。
 ハーレイをキャプテンに推した時でも、ハーレイだから遠慮しなかった。他の誰よりも、自分と息が合うハーレイ。そのハーレイにキャプテンになって欲しかったから…。
(なってくれるといいな、って…)
 頼んでみよう、とハーレイの部屋に行ったほど。
 厨房を居場所にしていたハーレイ、キャプテンとはまるで無縁な持ち場。フライパンを扱うのと船の操舵は違いすぎるのに、「似たようなものだと思うけどね?」とまで言った自分。
 あれがハーレイでなかったならば、そんな無茶はしていないだろう。厨房からブリッジに移ってくれと、とんでもない転身を頼むことなど。
(…ハーレイだから、無理を言えたんだけど…)
 そんな調子で色々なことを頼んだけれども、今、気になるのは冷たい飲み物。前の自分が誰かに強請った、「冷たいのがいい」という言葉。
 たかが冷たい飲み物なのだし、わざわざハーレイに頼まなくても…。
(飲めるよね?)
 冷えた飲み物くらいだったら、食堂で、それに休憩室で。白い鯨になる前の船でも、ハーレイの手を煩わせないで飲めた筈。
 青の間が出来た後の時代も、自分で好きに淹れられた。思い立った時に、氷を入れて。
 そう思うけれど、強請っていた記憶。
 かなり我儘に「冷たいのがいい」と、子供が駄々をこねるみたいに。
 そこまでのことをやっていたなら、相手はハーレイしか有り得ない。いくら親しくても、ゼルやブラウたちを相手に言うとは思えないから。
 けれど、問題はそれを強請った理由。冷たい飲み物は自由に飲めたし、食堂に行けば係が作ってくれたのだから。



 白い鯨でも、改造前の船でも、いつでも飲めた冷たい飲み物。欲しいと思いさえすれば。
 簡単に飲むことが出来たというのに、何故、ハーレイに強請ったのか。
(チビだった頃かな…?)
 今の自分と変わらないチビで、前のハーレイの後ろにくっついていた時代。あの頃ならば、船の仲間たちに遠慮もあったし、食堂の係が忙しくしていたならば…。
(冷たい飲み物、欲しくても…)
 頼みにくくて、ハーレイに強請ったかもしれない。「冷たいのが欲しい」と、食堂へ食事をしに行った時に。自分では少し言い辛いから、代わりに頼んで貰おうと。
(…ありそうな話なんだけど…)
 そう思うけれど、もっと育っていた気もする。「冷たいのがいい」と強請った自分。
 遠い記憶を探る間に、浮かび上がって来たソルジャー・ブルー。しかも青の間、其処で強請っていた記憶。一度ではなくて、何度でも。…きっとハーレイを相手にして。
(なんで青の間で強請るわけ…?)
 青の間だったら、それこそ何時でも飲み放題。食事を作る係が来ていなくても、部屋付きの係がいなくても。…自分で紅茶を淹れさえしたなら、後は氷を放り込むだけ。欲しい分だけ。
 紅茶は自分で淹れていたのだし、氷は係が切らさないようにしていた筈。食事係は必ずチェックしていたし、部屋付きの係も忘れはしない。それも仕事の内なのだから。
(氷が切れちゃうなんてことは、絶対に無いし…)
 思い当たらない、ハーレイに強請っていた理由。
 青の間では自由に飲めた飲み物、強請る必要など何処にも無い。紅茶でなくても、冷蔵庫の中にあった飲み物。欲しい時には飲めるようにと、冷やされていたジュースなど。
(ジュースだったら、注ぐだけだよ?)
 淹れる手間さえ省けるジュース。これにしよう、と冷蔵庫から出してグラスに注ぎ入れるだけ。あれも係が補充したから、切れることなど無かったと思う。
(いっぺんに全部、飲んじゃったって…)
 食事係か部屋付きの係、どちらかが気付いて新しいのを入れるだろう。そうでなくても、減って来たことに気付いたならば、新しいものを追加する。
 飲みたい時に足りなかったら、ソルジャーに対して失礼だから。前の自分が咎めなくても、係の方では平謝りになったろうから。



 飲み物に関しては何の不自由もなく、青の間で暮らしたソルジャー・ブルー。
 冷たい飲み物が欲しくなったら、自分で作るか、冷蔵庫のジュースをグラスに注ぐか。どちらも自分の好み次第で、前のハーレイに強請らなくても、好きなだけ飲んで良かったもの。
(だけど、「冷たいのがいい」って…)
 強請った記憶が確かにあるから、それが不思議でたまらない。「なんだか変だ」と。遠い記憶をいくら探っても、出て来ない答え。冷たい飲み物を強請った理由。
(何か勘違いをしてるとか…?)
 そうなのかも、と思っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。前のぼく、ハーレイに注文してた?」
「はあ? …注文だって?」
 何を注文するというんだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「注文と言っても色々あるが」と。
「えっとね、冷たい飲み物なんだけど…」
 前のぼく、ハーレイに注文したかな、冷たい飲み物がいいんだけど、って。
「冷たい飲み物…。それは飲み物の種類じゃなくてだ、温度の方か?」
 紅茶よりもジュースがいいとかじゃなくて、アイスかホットか、そういう意味のことなのか?
 どうなんだ、と問い返されたから、「そう」と答えた。
「それだよ、冷やしてある飲み物。…ぼく、頼んでた?」
「いつの話だ、俺が厨房にいた頃だったら、作ってやっていたと思うが」
 俺は厨房担当なんだし、冷たいのがいいと注文されたら氷だが…。お前のグラスにたっぷりと。
「だよね…。その頃だったら、ぼくも頼んだかもしれないけれど…」
 ハーレイが料理を作ってる時に、厨房を覗きに行ったりしたら。
 でもね、あの頃よりもっと後だよ、青の間なんだよ。…ハーレイに注文したらしいのは。
 厨房だったら分かるんだけど、と話したら、ハーレイが眉間に寄せた皺。ただの癖だし、怒ったわけではないのだけれど。
「青の間だってか? そいつは妙だな…」
 あそこだったら、お前、自分で作れただろうが。冷たい飲み物はいくらでも。
 冷蔵庫にジュースも入ってたんだし、好きな時に飲めた筈なんだがな…?



 なんだって俺に頼むんだ、とハーレイにも分からないらしい。その注文をされた理由が。
「俺に頼むよりも早いと思うぞ、お前が自分で用意した方が」
 ジュースだったら注ぐだけでいいし、冷たい紅茶にしてもだな…。
 湯から沸かして淹れるにしたって、俺を呼び出すより、断然、早い。
 いいか、俺の居場所はブリッジなんだ。「ソルジャーがお呼びだ」と抜けるにしても…。
 青の間まで急いで行ったとしたって、それから紅茶を淹れて冷まして、どれだけかかる?
 お前が自分で淹れるんだったら、俺が青の間に着いた頃には、冷ます段階に入っているぞ?
 間違いなくな、とハーレイも指摘した、冷たい飲み物が出来るまでの時間。ハーレイが来てから作り始めたなら、飲めるまでには余分な時間がかかる筈。ハーレイの到着を待った分だけ。
「ハーレイもそう思うよね? ぼくも変だと思ってて…」
 それで訊いたんだよ、前のハーレイに注文してたのか。冷たい飲み物が欲しい、って。
 やっぱり何かの勘違いかな、ハーレイに頼む理由が何処にも無いもんね…?
 お願い、って強請ってたように思うんだけれど、夢だったのかな…?
 そういう夢を何度も見ていたのかな、と捻った首。「それとも、本当にあったのかな?」と。
「本当も何も…。冷たい飲み物を強請ったってか?」
 有り得んだろうが、青の間だったら飲み放題だぞ、冷たいのも。
 紅茶を冷やす氷は係が切らしやしないし、ジュースも冷えているんだし…。
 元から冷えてるジュースの中にも、氷はいくらでも入れられたんだ。好きなだけな。
 誰もお前を止めやしないし、お前は好きに飲めるってわけで…。
 待て、強請ったと言ってたか…?
 お前は俺に強請ったのか、と瞳を覗き込まれた。「強請ったんだな?」と、念を押すように。
「そんな気がして仕方ないんだけれど…。ちっとも思い出せないんだよ」
 ハーレイは何か思い出したの、前のぼくはホントに強請っていたの…?
 冷たい飲み物が欲しいんだけど、ってハーレイに…?
「…思い出したとも」
 嫌というほど思い出しちまった、前のお前がやらかしたこと。
 冷たい飲み物が欲しくなったら強請って来たんだ、前の俺にな。…あの青の間で。



 実に厄介なソルジャーだった、とハーレイがついた深い溜息。
 厄介だなどと言われるだなんて、前の自分はハーレイに何をしたのだろう…?
「えっと…。前のぼく、何処が厄介だったわけ…?」
 冷たい飲み物を頼んだだけだよ、それだけだったら厄介じゃないと思うけど…。
 ハーレイがブリッジから走って来たなら大変だけれど、そんな無茶な注文、しない筈だよ…?
 仕事の邪魔をするわけないよ、と自信を持って言えること。前の自分の立場はソルジャー、前のハーレイは船を預かるキャプテン。
 恋人同士になった後にも、お互い、きちんと弁えていた。いくらハーレイに甘えたくても、前の自分は呼び付けはしない。…ハーレイが仕事をしているのならば、どんなに寂しい気分でも。
 だから冷たい飲み物くらいで呼ぶわけがない、と考えたのに…。
「厄介も何も、前のお前の我儘ってヤツだ」
 あんな我儘なヤツは知らんな、ソルジャーのくせに。…とてもソルジャーとは思えなかった。
 他のヤツらには見せられやしない、まるで示しがつかないから。
 ソルジャーは皆の手本でないと、と顰められた眉。「あれをやったお前は我儘すぎだ」と。
「我儘って…?」
 冷たい飲み物が欲しかっただけで、なんで我儘になっちゃうの?
 前のぼく、ハーレイが仕事中の時は、邪魔はしてない筈なんだけど…。
 その筈だけど、と揺らぎ始めた自信。ハーレイの邪魔をしたのだろうか、前の自分は…?
「仕事中ではなかったが…。お前に仕事の邪魔をされてはいなかったんだが…」
 厄介な注文には違いなかった、前のお前が冷たい飲み物を強請るのは。
 普段だったら、俺も困りはしないんだが…。紅茶だろうがジュースだろうが、欲しいと言うなら好きなだけ飲ませてやるんだが…。
 覚えていないか、お前が俺に強請っていたのは、ノルディが駄目だと言ってた時だ。
 お前が体調を崩しちまって、色々な制限がかかっていた時。
 食事はもちろん病人食だが、俺のスープしか飲めないわけではなかったな。
 しかし冷たい飲み物は禁止で、「飲まないように」とノルディが釘を刺してたんだが…?



 それでも欲しがったのがお前だ、と見据えられたら思い出した。前の自分と冷たい飲み物。
(…冷たいの、欲しかったんだっけ…)
 あれだ、と蘇って来た記憶。前の自分が熱を出して寝込んでしまった時。
 熱を下げることは大切だけれど、冷えすぎると身体を弱らせるから、冷たい飲み物を飲むことは禁止。熱っぽい喉には心地良さそうな、冷蔵庫や氷でキンと冷やした飲み物は全部。
 けれど、欲しくて強請ったのだった。
 食事係や部屋付きの係には断られるのが分かっているから、大人しくしていた前の自分。冷たい飲み物がいくら欲しくても、彼らが差し出す温かいスープなどを飲んで我慢して。
 そうやって夜まで続けた我慢。「夜になったら、ハーレイが此処に来るんだから」と。
 あの我儘を言った頃には、もうハーレイとは恋人同士。夜はハーレイが青の間に泊まるか、前の自分がキャプテンの部屋に泊まりにゆくか。
 具合が悪くなった時でも、ハーレイは添い寝してくれた。ソルジャーへの報告は手短に終えて、前の自分を気遣いながら。
 だからハーレイがやって来るなり、「欲しい」と駄々をこねた飲み物。ノルディが禁じた冷たい飲み物、それまで我慢していたものを。
「…あれって、ハーレイ、くれないんだよ」
 ぼくが欲しがっても、「いけません」って怖い顔をして。…睨んだりもして。
 ハーレイが来るまで我慢してた、って言ってみたって、「駄目なものは駄目です」って、絶対に飲ませてくれないんだから。
 前のハーレイもケチだったよ、と上目遣いに睨んでやった。今のハーレイはキスをくれないケチだけれども、前のハーレイもケチだったっけ、と。
「今のお前のことはともかく、前のお前の方なら、あれが当然だろうが」
 ノルディが駄目だと言った以上は駄目なんだ。お前の身体に悪いんだから。
 お前がコッソリ飲まないようにと、食事係や部屋付きの係にも徹底させていただろうが。
 上手いことを言って、係を騙して飲みかねないしな、悪知恵の働くソルジャーは。
 俺だって、お前が何を言おうが、その手には乗りやしないんだが…。
 身体に良くない飲み物は駄目で、飲ませるなんぞは論外ってことになるんだが…。



 お前というヤツは知恵をつけやがって…、と肩を竦めているハーレイ。「あれには参った」と。
 参ったと口にしているからには、前の自分は冷たい飲み物を飲ませて貰えたのだろうか?
「…知恵って、なあに?」
 それでハーレイ、飲ませてくれたの、ノルディは禁止していたけれど…?
 ぼくが欲しかった冷たい飲み物、と水を向けたら、「まったく、前のお前ときたら…」と零れた溜息。「あれは反則だと思うがな?」と。
「お前が使ったのは悪知恵ってヤツだ。…もう長くないと言い出すんだ」
 俺が「駄目だ」と苦い顔をしたら、途端に言うのが「もうすぐ死んでしまうのに」だった。
 まだ充分に寿命があった頃から、「死ぬ前に飲ませてくれ」なんだから。
 重病ってわけでもなかったくせに、と今のハーレイも呆れ顔。前のハーレイと全く同じに。
「そうだっけ…。前のぼくのお願い、それだったっけね…」
 よくハーレイを困らせていたよ、「じきに死ぬから、ぼくの最後のお願い」だってね。
 少しでいいから、冷たい飲み物をぼくに飲ませて欲しいんだけど、って。
 それでもハーレイ、くれなかったよ。…ぼくの最後のお願いなのに。
 前のハーレイもやっぱりケチだ、と唇を少し尖らせてやった。芝居とはいえ、前の自分の最後の頼みを無視したハーレイ。冷たい飲み物は貰えなかったし、前のハーレイもケチなのだから。
 どっちのハーレイもケチはおんなじ、と思ったのだけれど…。
「ケチ呼ばわりをされる覚えはないな。…俺は飲ませてやったんだから」
 そうだ、きちんと飲ませたぞ。前のお前の最後の望みだ、それは叶えてやらんとな。
 もっとも、あまり思い出して欲しくはないんだが…。
 お前が調子に乗るだけだしな、とハーレイが妙なことを言うから、キョトンとした。
「え…?」
 最後のお願い、ハーレイは聞いてくれたんだよね?
 ぼくが欲しかった冷たい飲み物、ちゃんと飲ませてくれたんでしょ…?
「其処だ、言いたくないのはな。…確かに飲ませてやったんだが…」
 冷たい飲み物を飲ませたんだが、冷たくなかったというわけだ。
 お前の身体に障らないよう、適温になっていたからな。
 早い話が、俺がお前に飲ませた時には、そこそこ温まっていたもんだから。



 「冷たかったが、冷たくなかった」というのがハーレイの言葉。
 どうやら温まっていたらしい飲み物、それでは欲しがる意味が無い。最後の望みだとまで言って強請っても、冷たい飲み物を貰えないなら。
「なんなの、それ?」
 ぼくが強請っても、ハーレイ、違うのを寄越してたわけ…?
 温かい飲み物を飲ませてたくせに、「ちゃんと飲ませた」って威張っているの…?
 覚えていないと思って酷いんだから、と膨れたけれども、ハーレイはまるで動じない。
「そう思うのはお前の勝手だ、これ以上は言わん」
 とにかく俺はお前に飲ませてやったからな、と結ばれた唇。それ以上のことは聞けないらしい。
(んーと…?)
 頼れるのは自分の記憶だけなのか、と懸命に探ることにした。前の自分の遠い記憶を。
 ハーレイに飲ませて貰えたけれども、
冷たくなかった冷たい飲み物。
 ノルディが指示していった通りに温まっていて、今のハーレイは思い出して欲しくはなくて…。
 どうやって飲ませたのだろう、と思う飲み物。
 冷たい飲み物を欲しがったのだし、温まっていたら、怒りそうなものだと考えたけれど。
 差し出されても素直に飲み込むどころか、突き返しそうだと思ったのだけど…。
(…口移し…!)
 キスだ、と気付いた冷たい飲み物の飲ませ方。前の自分の「最後のお願い」。
 これが最後のお願いだから、と言ってやったら、ハーレイはちゃんと飲ませてくれた。冷蔵庫にあった冷たいジュースや、冷やして冷たくした紅茶を。
 グラスやカップに注ぎ入れたら、ハーレイが自分の口に含んでから、ゆっくりと。
 そうっと唇を合わせて重ねて、キスをする代わりに流し込んで。
(…強請るわけだよ…)
 あんな飲み方をしていたのならば、酷い我儘を言ってまで。
 「ぼくはもうすぐ死んでしまうから、これが最後のお願いだよ」と困らせてまで。
 死にそうな気分はしていないのに、さほど重病でもなかったのに。
 それを口実に強請った飲み物、「冷たいのが欲しい」と。
 温かい飲み物は欲しくないからと、「冷えているのを最後に飲みたい」と。



 そうだったのか、と合点がいった、前の自分が強請ったもの。冷たい飲み物を欲しがった理由。
「思い出したよ、ハーレイが飲ませてくれてたんだよ」
 冷たいのを、ちょっと温めてから。…それなら冷たいままじゃないから。
 ジュースも、それに冷たい紅茶も…、と幸せな気分に包まれた。前の自分がそうだったように。
「分かったか、チビ。前の俺はケチじゃなかったとな」
 俺はきちんと飲ませていたんだ、前のお前の注文通りに。
 「ぼくの最後のお願いだよ」と強請られる度に、ジュースも、冷たい紅茶ってヤツも。
 少しもケチではないだろうが、とハーレイが胸を張るものだから。
「…もう冷たくはなかったけどね?」
 ジュースも紅茶もぬるくなってて、ちっとも冷たくなかったんだけど…。
 ぼくは冷たいのと言ったのに、と苦情を述べたけれども、ハーレイはフンと鼻を鳴らした。
「お前の身体には、あれくらいで丁度だったんだ!」
 言われた通りに飲ませていたなら、お前、具合が悪くなったに決まってるだろう…!
「…そうかもだけど…。今のぼくには?」
 病気の時にね、お願いしたら飲ませてくれるの、前みたいに…?
 冷たい飲み物が駄目な時は、と期待したのに、「まだ早い!」と叱られた。言った途端に。
「お前はチビで子供だろうが、前のお前のようにはいかん!」
「…じゃあ、育ったら飲ませてくれる?」
 ぼくが病気になっちゃった時は。…冷たい飲み物、禁止された時は。
 今のぼくでも前と同じで飲ませてくれるの、と見詰めた恋人。「ケチじゃないんでしょ?」と。
「…駄目とは言わんが…。そうなった時は飲ませてやるが…」
 そうなる前にだ、まずは丈夫になってくれ。
 せっかく新しい身体なんだし、「最後のお願い」なんてことは言えない身体にな。
 よく言うだろうが、「殺しても死にそうにないようなヤツ」と。
 そっちで頼む、とハーレイは半ば本気のようだけれども…。
「無理!」
 知っているでしょ、今のぼくも身体が弱いってこと。
 そんなに丈夫になれやしないよ、前と同じで弱くて死にそうになるんだってば…!



 病気になったら、すぐ死にそうになるんだよ、と返してやった。
 本当は其処まで弱くないけれど、今の自分もきっと育っても弱いまま。前と同じに。
 だから病気になった時には、ハーレイに強請ってみることにしよう。
 「冷たいのがいいよ」と、「ぼくの最後のお願いだから」と、前の自分が何度も言った台詞で。
 今度はハーレイと結婚してずっと一緒だけれども、死ぬ時も二人一緒だけれど。
 前の自分たちは、一度は死んで離れてしまったのだから…。
(ハーレイだって、きっと前より優しい筈だよ)
 それに、本当に寿命の残りが少なかった頃のぼくまで知ってるものね、と浮かべた笑み。
 前のハーレイと同じに優しいだろう今のハーレイ、もっと優しい筈のハーレイ。
 いつか病気になった時には、そのハーレイに冷たい飲み物を飲ませて貰おう。
 きっといつかは、口移し。
 結婚した後に病気になったら、冷たい飲み物は駄目だと言われてしまったら…。




                冷たい飲み物・了


※前のブルーがハーレイに強請った、冷たい飲み物。ノルディに禁止されても我儘な注文。
 ハーレイは、ちゃんと飲ませてくれたのです。口移しで、体温で温めて。強請ったのも当然。
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(星空テラス…)
 ふうん、とブルーが眺めた新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
 星空テラス、そういう名前のバーの紹介。たまに見かける、記者たちが書く店などの記事。
(なんだか素敵…)
 名前に惹かれてしまったお店。星空テラスだから夜だけの店。バーだけに、当然と言えば当然。
 けれども、ソフトドリンクも沢山あるという。アルコールが入っていないカクテル。女性たちに人気で、お酒は全く注文しないでソフトドリンクだけの人も多い店。
 その上、店の名前通りに…。
(一面の星…)
 庭に面した大きなガラス窓の外。街の中だから、見える星の数は郊外ほどではないけれど。天の川だって無理なのだけれど、それでも星が瞬く夜空。外にはテラス席だって。
 天気が良ければ星空の下で傾けるグラス。寒い冬でも希望したならテラス席。冬は空気が澄んでいるから、夏よりも星が綺麗だという。凍えそうな夜も、客が絶えないのがテラス席。
(多分、シールドするんだろうけど…)
 今の時代は人間は一人残らずミュウ。自分のようにサイオンが不器用でなければ、簡単に張れてしまうシールド。もっとも、シールド越しに眺める星は色がつくかもしれないから…。
(本当に星が好きな人だと、シールドは無しで厚着かも…)
 そんな感じがしないでもない。サイオンの光を帯びた星より、夜空に見えるままの星。そっちの方が遥かにいい、と外に座っていそうな人たち。
 テラス席の上には星空だけれど、空が無い店の中だって…。
(天井が星空…)
 星空テラスの名前通りに、暗い店内を彩る星たち。バーは照明が控えめだから、それを生かした店作り。天井を使って、プラネタリウムのように見せる季節の星空。
 春には春の星座が昇るし、夏に秋にと変わってゆく。本物の空の星座と同じに。
 いつでも星が見えるものだから、ロマンチックで恋人たちにも人気の店。一人で出掛けて、星を眺めながらゆったり楽しむ常連客も。
 隅っこの方で、有名人が飲んでいることもあるらしい。誰にも知られず、ひっそりと。



 ちょっといいよね、と熱心に読んでしまった記事。チビの自分は、バーの客にはなれないのに。
(いつかハーレイと…)
 行きたい気がする星空テラス。お酒を飲める年ではなくても、デートに行けるようになったら。結婚出来る年は十八歳でも、お酒は二十歳まで禁止。
 結婚しようという頃になったら、バーに行ってもいいだろう。ハーレイはお酒が飲める年だし、お酒は飲めない自分の方も…。
(アルコール抜きのソフトドリンク…)
 それを注文すればいい。お酒が飲めなくても、星空テラスに行く人たちはいるようだから。
 行ってみたいな、と考えながら戻った二階の自分の部屋。おやつを食べ終えて、新聞を閉じて。
(星空テラスっていうのが素敵…)
 名前だけでも惹かれたけれども、中身の方も素敵なバー。お酒が駄目でも憧れの店。今の自分もお酒は多分、まるで飲めないような気がしているけれど。
(前のぼく、少しも飲めなかったし…)
 ハーレイの真似がしたくて飲んでも、すぐに酔っ払ったソルジャー・ブルー。翌日の朝には酷い二日酔い、頭痛などに苦しめられていた。今の自分も、きっと変わりはしないだろう。
 そうは思っても、行きたくなるのが星空テラス。恋人たちに人気で、星が一杯。
 テラス席なら本物の星空、大きなガラス窓の向こうも星が幾つも瞬く夜空。それが売りのバー。窓辺の席に座らなくても、店の天井に輝く星たち。
(ロマンチックだよね…)
 曇りや雨が降る夜にだって、店の中には星空がある。天井を仰げば季節の星空。春ならば春の、夏には夏の星座を映した店の天井。
(プラネタリウムとおんなじ仕掛け…)
 きっとそういう仕組みだろう。プラネタリウムのような、ドーム型の天井ではなくたって。
 投影機さえあれば映し出せるのが季節の星座。ドームになっていないのならば、機械を調整してやればいい。上手い具合に映るようにと。



 ドームでなくても映し出せること、それを自分は知っている。正確に言うなら、前の自分が。
(天体の間だって、そういうやり方…)
 あの広かった部屋の天井は、ドームにはなっていなかった。夜になったら。投影していた地球の星座たち。地球で夜空を仰いだならば、こう見えるのだ、と皆が仰いだ季節の星座。
 北半球のも、南半球のも自在に映せた投影機。前の自分もハーレイと眺めていたけれど…。
(あれ…?)
 もしかしたら、と気付いたこと。
 前のハーレイとは、天体の間に映し出される星座を何度も見に行ったのに…。
(本物の星空、見ていない…?)
 夜空に幾つも煌めく星たち。地球のそれとは違う星でも。
 考えてみたら、アルテメシアではシャングリラは雲の中にいた。消えることのない雲の海の中、それでは星を仰げはしない。星座でなくても、暮れ始めた空に最初に輝く一番星でも。
 船の外へと出た時だったら、雲の海の上にアルテメシアの星があっても…。
(ハーレイ、一緒じゃなかったから…)
 キャプテンは船を守るのが仕事、前の自分のように外へ出はしない。出たとしたって、せいぜい船体の確認程度で、前の自分と二人で出掛けることは無かった。ただの一度も。
 だからハーレイとは、星空などは見ていない。アルテメシアの夜空に輝く星は。
 それよりも前の、瞬かない星が幾つも散らばる宇宙を旅していた時代には…。
(恋人同士じゃなかったから…)
 二人で星を眺めただけ。友達同士で、船から見える星たちを。
 白い鯨になる前の船なら、窓の側を通りかかった時に。ブリッジからも星は見えていた。改造が済んで展望室が出来た後なら、あそこの大きなガラス窓から。
 アルテメシアに辿り着くまで、星は何度も二人で見ていたのだけれど…。
(…恋人同士で見ていないんだ…)
 夜空を彩る宝石箱。煌めき、星座を作る星たち。
 アルテメシアの星座でさえも、前の自分たちは仰いでいない。本物の星が輝く場所では、一度も過ごしていなかった。アルテメシアから逃げ出した後は、前の自分は臥せっていたから。
 あの時なら、星もあったのに。…展望室の窓の向こうに、瞬かない星があっただろうに。



 前のハーレイとは星を見ていなかった、と思い至ったら、俄かに行きたくなって来た。
 さっき新聞で見ていたバー。「ちょっといいよね」と記事を読んでいた星空テラスという店に。
(今はチビだから、無理だけど…)
 いつか絶対、ハーレイと二人で行かなくちゃ、と思う星空テラス。前のハーレイとは恋人同士で見ていなかった、本物の星空。その分を二人で取り戻さなくちゃいけないよ、と。
(大変…!)
 今の今まで、それに気付いていなかったなんて。一日も早く大きくなって、ハーレイとデートに行かないと、と考えていたらチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、急いで用件を切り出した。テーブルを挟んで向かい合うなり、もう早速に。
「あのね、デートの話だけれど…」
 行きたい場所が、と言った所で、ハーレイに「はあ?」と呆れられた。
「デートって…。いつの話をしてるんだ、お前。ずいぶんと気の早いヤツだな」
 今は駄目だと言ってるだろうが、何度言ったら分かるんだ?
 前のお前と同じ背丈に育ってから言え、と聞く耳さえも持たない恋人。「寝言なのか?」とも。
「寝言なんかじゃないってば…! それに駄目なことも知ってるよ」
 チビのぼくだと、ハーレイとデートに行けないことは…。育たないと駄目っていうことも。
 それは分かっているんだけれど…。星空テラスってお店、知ってる?
 バーなんだけど、と尋ねてみたら、「聞いたことはあるな」という返事。
「けっこう知られたバーの筈だが…。星空が売りで、店の中にも星空らしいな」
 生憎と俺は行っていないが…。そういう機会が無かったから。
「そうなんだ…。じゃあ、今の間に下見しといて」
 お願い、と恋人の瞳を見詰めた。「星空テラスを下見してよ」と。
「下見だと?」
「そう。ぼくとデートに行く時のために、今から下見」
 他の先生とか、友達とかとバーに行くなら、星空テラスに出掛けて欲しいな。
 ハーレイだったら大人なんだし、バーに行くこともありそうだものね。
「なんだって?」
 俺に下見に行けと言うのか、わざわざ「行くなら其処にしよう」と誘ってまで…?



 どうして俺が下見に行かなきゃならんのだ、と訊かれれば答えは決まっている。
「デートで行ってみたいから!」
 星空テラスがいいんだってば、ハーレイとデートに行くんなら…!
 だから下見、と食い下がった。チビの自分はまだ行けないから、先に下見をしておいて、と。
「下見って…。何かいいもの見付かったのか?」
 星空テラスはバーなんだが、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前、酒なんか飲めないのに」と。「前のお前は飲めなかったし、今度も多分、同じだろう?」と。
 「俺が誘うんだったらともかく、お前が酒か?」と、不思議がられても譲れない。
「バーだけれども、ソフトドリンクもある筈だよ?」
 アルコール抜きのカクテルだとか。お酒が飲めない人もいるしね、バーに行っても。
「そりゃ、あるが…。ソフトドリンクも出せないバーでは、まるで話にならないんだが…」
 飲めない女性も多いからなあ、カップルで来て欲しい店なら用意しないと。
 男ばかりの店でいいなら、そんなのは抜きでいいんだが…。花が欲しけりゃ女性も要るから。
 しかしだ、お前、そんなのを何処で見たんだ?
 いきなり店の名前を名指しで、ソフトドリンクなんて言葉まで…。チビらしくないぞ?
 お前の年だとソフトドリンクとは言わん筈だが、という質問。「ジュースってトコだろ?」と。
「…新聞に記事が載ってたんだよ」
 こういうお店があるんです、っていう紹介。広告じゃなくて、記者とかが書くヤツ。
 ソフトドリンクも其処に書いてあったよ、アルコール抜きのカクテルです、って。
 沢山あって、それしか飲まないお客さんも多いんだって。…女の人たちみたいだけれど。
「なるほど、新聞で知識を仕入れて来たわけか」
 その記事の中に、美味そうなカクテルが載っていたんだな?
 チビのお前でも飲めそうな感じの、甘そうなヤツ。でもって、見た目も綺麗なのが。
 そいつを飲みに行きたいんだな、とハーレイは勘違いしてくれた。カクテルの味は関係なくて、お店の方が大切なのに。
「違うよ、そういうのじゃなくて…。ぼくが行きたいのは、お店だってば」
 とっても素敵なお店なんだよ、名前を聞いたら分かりそうだと思うんだけど…。



 星空テラスなんだもの、とハーレイに店の説明をした。新聞の記事で読んだ通りに。
 庭に面した大きなガラス窓の向こうは星空。本物の星が見える夜には。そういう日ならば、外にあるテラス席に座って星空の下。夜空に輝く幾つもの星。
 曇り空や雨が降っている夜も、店の天井にある季節の星たち。まるでプラネタリウムみたいに、映し出される様々な星座。
「ね、本当に星空テラスでしょ? テラス席なら本物の星で、お店の中にも星座なんだよ」
 星が一杯で、うんと素敵だと思わない?
 行きたくなるのが分かるでしょ、と瞬かせた瞳。「星空テラスなんだから」と。
「ロマンチックな感じではあるな、店の名前もピッタリだ」
 いい雰囲気の店なんだろう、と見当はつく。カップルの客が多そうだがな、とハーレイは見事に言い当てた。名前しか知らないと口にしたくせに。
「それなんだってば、恋人たちに人気のお店。凄いね、ハーレイ、当てちゃった…」
 デートに行くのにちょっといいよね、って考えていたら、気が付いたんだよ。
 ハーレイと星を見ていなかった、って…。
「星だって? 見たじゃないか、ちゃんと夏休みに」
 お前の家の庭で、夜に飯を食いながら。…中秋の名月も見た筈だがな?
 あれは月見で主役は月の方だったが、というのがハーレイの言い分。確かに二人で見上げた星。家の庭からならば、何度も。夜にハーレイを見送りに出たら、頭の上には星があるから。
「見たけれど…。あれは今でしょ、前のぼくだよ」
 前のぼくだと、ハーレイとは星を見ていないんだよ。二人一緒には、一回もね。
「今度は何を言い出すんだか…。お前、本当に寝ぼけてないか?」
 でなきゃ新聞記事のお蔭で、ちょいとカクテル気分とばかりに紅茶にブランデーだとか。
 それで酔っ払っているというなら、妙な台詞を吐くのも分かる。
 前のお前と俺とだったら、星なんかは腐るくらいに見たぞ。それこそ掃いて捨てるほどだ。
 船の外には星だらけだった、とハーレイも気付いていないらしい。二人で一緒に星を見たのは、いつの時代のことだったのか。
「…アルテメシアに着く前でしょ、それ」
 星は一杯あったけれども、ぼくとハーレイ、友達同士だったんだよ…。



 恋人同士になってからは一度も見てはいない、と話した星たちのこと。宇宙に散らばる瞬かない星も、アルテメシアの夜空に輝く星たちも。
「アルテメシアにも、星はあったんだけど…。ぼくは何度も見ていたけれど…」
 ハーレイは船を離れていないよ、キャプテンは船の側にいなくちゃ。…どんな時でも。
 だからね、前のぼくとハーレイ、一緒に星を見ていないんだよ。
 恋人同士になった時には、アルテメシアに着いていたから…。そうだったでしょ?
「そういや、そうか…。あそこだと、いつも雲の中だな、シャングリラは」
 雲海が船の隠れ蓑だし、出てゆくことは一度も無かった。ジョミーを助けに浮上するまでは。
 星が見られるわけがなかったんだな、雲の中では。
 お前とは見ていなかったのか…、とハーレイもようやく気付いてくれた。恋人同士で星を眺めたことなどは無い、と。
「展望室からも、もう見られなかったよ。夜に行っても、雲だけしかね」
 アルテメシアに着く前だったら、あそこから星が見えたんだけど…。前のハーレイとも、何度も見に行ったんだけど。せっかくの展望室だから。
 でも、あの頃には友達同士で、恋人同士になった後には、星は無くって…。
 こういう星をいつか見たいよね、って天体の間のを見ていただけ…。
 夜になったら映していたでしょ、あそこの天井に地球の星座を。
「お前とも見たな、あの部屋で…」
 人気だったからなあ、天体の間の地球の星座は。デカイ投影機も置いてあったし、天体の間って名前通りの部屋だった。あそこに行けば星が見えるから。…夜だけだが。
「基本は集会室だったしね。大きなホールも必要だから」
 それだけだと何だか味気ないから、ああいう仕掛けがしてあっただけ。
 まさか雲海の星に潜むことになるとは思わなかったし、地球の星座が見られればいい、っていう考えで作ったけれど…。
 何処からも星が見えない船だと、人気が出るのも無理はないよね。
 展望室に行ってみたって、窓の外に星は無いんだから。…重たそうな夜の雲海だけで。



 星が見えなかったシャングリラ。白い鯨から星は見えなくて、天体の間にしか無かった星空。
 投影されただけの星でも、仲間たちには人気があった。季節に合わせた地球の星座たち。
 前のハーレイとは、皆が寝静まった後によく二人で出掛けた。地球の星座を眺めるために。今の季節はこう見えるのかと、もう少し経てば次の季節の星が昇ると。
 幻の星空だったけれども、「いつか本物を地球で見よう」と仰いでいた。きっと行けると思っていたから、地球は青いと前の自分は信じていたから。
「ハーレイとキスもしていたっけね、こっそりと」
 ぼくたちの他には誰もいなかったから、「いつか二人で地球に行こう」って。
「…俺は子供にキスはしないぞ、何を言われても」
 地球に来たから記念のキスだ、と注文されても、断固、断る。お前は子供なんだから。
 前と同じに育ってからだ、とハーレイが怖い顔をするから、慌てて「違うよ」と横に振った首。
「今のは思い出話だってば、前のぼくのね。…ホントだよ?」
 キスが駄目なのは分かっているから、我儘なんかは言わないってば。
 でもね、ハーレイと二人で地球まで来ちゃったから…。地球の星座も見られるから…。
 せっかく素敵なバーがあるんだし、星空テラスに連れて行ってよ。
 ハーレイとデートが出来るようになったら、あそこに行ってみたいんだけど…。
 お願い、とピョコンと頭を下げた。「ハーレイと一緒に星空テラス」と。
「かまわんが…。いくらでも連れて行ってやるがだ、店だとキスは出来ないぞ」
 人前でのキスは御免蒙る、二人きりの場所じゃないんだからな。
 天体の間の頃のようにはいかんぞ、と念を押されて頷いた。「分かってるよ」と。
「ちゃんとデートに行けるんだったら、キスは帰ってからでいいから」
 家の庭でも見えるでしょ、星は。…お店でなくても、星は頭の上にあるもの。
「違いないなあ、本物の地球の星座がな」
 正真正銘、地球の星座というヤツだ。前の俺たちの夢の通りに、二人で夜空を見放題だな。
 俺たちは地球の上にいるんだし、星座も本物の星で出来てて…。
 ん…?
 今の俺たちの頭の上には、本物の地球の星座でだな…。本物ってことは、星なんだから…。
 どれもこれも星で出来てるわけで…。



 どの星座だって星なわけだ、と当たり前のことをハーレイが言い出したから、首を傾げた。
 夜空に散らばる幾つもの星を、様々な形に見立ててゆくのが星座。遠い昔に考え出されて、今の時代も空にある。ギリシャ神話から生まれた星座や、中国生まれの二十八宿などが。
「ハーレイ、星がどうかした?」
 急にいったいどうしちゃったの、何か気になることでもあるの…?
「いや、ちょっと…。星座ってヤツは地球の星だよな?」
 今の俺たちが見ている星座は、まさにそのものズバリなんだが…。
 ずっと昔に、前の俺たちが天体の間で見てたヤツなんだが…、と考え込んでいるハーレイ。今は本物が頭の上にあるわけで…、と。
「そうだよ、前のぼくたちが地球で見たかった星座。天体の間のとホントにそっくりだよね」
 シャングリラの自慢の設備だったよ、あそこにあった投影機。船の中だったけど、夜はいつでも地球の星座が見られたから。
 あれで覚えたよね、いろんな星座を。季節の星座も、北半球のも、南半球のも…。
 今のぼくたちが見ている星座は北半球の星座だけれど、と窓の向こうを指差した。まだ昇ってはいないけれども、日がとっぷりと暮れた後には輝く星たち。今夜もきっと見えるだろう。
「その星座だ。北半球でも、南半球でもいいんだが…」
 星座は何で出来ているんだ?
 何が星座を作ってるんだ、とハーレイが訊くから、「星だよ」と胸を張って答えた。
「星に決まっているじゃない。星を幾つも繋いだのが星座」
 こういう形に見えるよね、って覚えやすい形に繋いで、名前をつけてあるんだよ。
 ずっと昔の人が考えて、それを今でも使ってて…。星占いにも使ってるよね、今の時代でも。
 ぼくは牡羊座だったかな…、と少し自信がない星座。あまり興味が無いものだから。
「何座でもいいが、その星座を作っている星たち。どれを取っても分かりやすいよな」
 そこそこ明るい星でないとだ、何処ででも見えるわけじゃないから。
 見えない星座じゃ意味が無いんだし、どの星も地球からよく見えるんだが…。
 星座になってる、その星はだ…。
 明るい星でも惑星じゃなくて、どれでも全部、恒星なわけで…。



 なんてこった、と呻くハーレイ。「俺としたことが」と。
 深く刻まれた眉間の皺。それを指先で押さえているから、「どうしたの?」と問い掛けた。
「何があったの、星座が星だと何か駄目なの…?」
 古典の授業で習う時には、星が人だったりするけれど…。彦星も織姫もそうなんだけど…。
 授業で何か間違えちゃったの、教える時に…?
「それどころの騒ぎじゃないってな。授業だったら、訂正すればいいんだから」
 前に教えたのは間違いだった、と頭を下げれば済むことだ。教師としては赤っ恥でも。
 しかし、こいつはそうじゃない。…痛恨のミスだ、もう時効だが。
 とっくの昔に時効なんだが…、と言われても意味が掴めない。前の学校での出来事だろうか?
「時効って…。前の学校でやっちゃったとか?」
 それとも、もっと前の話で、訂正したくても、生徒は卒業しちゃってるとか…?
「生徒を相手にやらかしたんなら、痛恨のミスとまで言いはしないぞ」
 やっちまった、と頭を抱えておくか、ゴツンとやっておけばいい。それで生徒に笑われたって、笑い話になるだけだしな。他の先生にも広まったって。
 とうに時効だと言っただろうが。…前の俺なんだ、ミスをしたのは。
 今となっては取り返しがつかん、とハーレイは溜息をつくのだけれども、そんなミスなど自分は知らない。キャプテン・ハーレイはミスを犯さなかったし、常に冷静だったから。
「前のハーレイって…。何をやったわけ?」
 ぼくは報告を受けてもいないし、ミスをしたかも、と思ったことは一度も無かったけれど…?
 それにブラウやゼルたちもいたよ、何かあったら気付くってば。「それは変だ」って。
 直ぐに訂正させてただろうし、ハーレイがミスをするなんてことは…。
 有り得ないよ、と否定したミス。実際、それは起こり得なかったことだから。
 けれどハーレイは、「いいや」と首を左右に振った。「本当にやっちまったんだ」と。
「もう取り返しがつかないが…。今頃になって気付いた所で、俺はどうにも出来ないんだが…」
 地球の座標だ、前の俺たちが必死になって探していたヤツ。
 あれのヒントは、いつでも側にあったってな。…前の俺たちの、直ぐ目の前に。
「え…?」
 ヒントって、地球の座標のヒント…?
 それがあったら、地球の座標が分かったってこと…?



 いったい何処にあったわけ、と目を丸くした。そういう風にしか聞こえないから。
(地球の座標は、謎だった筈で…)
 前の自分が生きた間には、ついに得られないままだった。いくら努力を重ねてみたって、まるで無かったその手掛かり。座標の一部分さえも。
 テラズ・ナンバー・ファイブを倒して、やっと手に入れたと歴史の授業で教わる。今のハーレイからもそう聞いた。アルテメシアを落としただけでは、地球の座標は掴めなかったと。
 それほど厳重に隠されていたのが、前の自分が生きた時代の地球の座標。国家機密よりも重要なもので、ヒントなどがあったわけがないのに。
「地球の座標のヒントだなんて…。そんなの、何処にも無かった筈だよ?」
 あったとしたって、シャングリラにあるわけないじゃない。
 元は人類の船だけれども、ただの民間船だから…。軍の船なら違っていたかもしれないけどね。
「だからミスだと言っているんだ、今の俺がな」
 キャプテンなら気付くべきだった。直ぐ側にあった座標のヒントに。
 俺のミスだ、と繰り返されても分からない。ハーレイが言うヒントとは何のことなのか。
「気付くべきだったって…。何に?」
 シャングリラにどんなヒントがあったの、ぼくはそんなの知らないよ…?
 心当たりも無いんだけれど、と首を捻ったら、「天体の間だ」と返った答え。
「あそこで見ていた地球の星座だ。…俺もお前も、何度も見たヤツ」
 星座が恒星で出来ているなら、あれを詳細に分析すれば…。
 ああいう具合に繋がって見える場所は何処にあるかを、きちんと計算してゆけば…。
 地球の座標を弾き出せたんだ、と言われれば、そう。
 星座を作る星の中には有名な恒星が幾つもあったし、それが何処からどう見えるのかを、細かく計算してゆけば。星と星とがどう繋がるのか、星間距離も考慮してゆけば。
(白鳥座が白鳥に見える場所とか、北斗七星が柄杓に見える場所とか…)
 それを計算していったならば、地球の座標が明らかになる。全ての星座が揃う地点は、銀河系の中に一ヶ所しかない。ソル太陽系の第三惑星がある所しか。
 人間の手だけで計算するなら、途方もない手間がかかるけれども…。



 そうだったのか、と目から鱗が落ちるよう。地球の座標は、天体の間が常に知らせていた。夜の天井に輝く星たち、投影されていた地球の星座が。
「…ハーレイ、地球の座標なんだけど…」
 船のコンピューターに解析させたら、簡単に分かっていたのかな?
 星座のデータを全部放り込んで、この通りに見える座標を出せ、って計算させたら…?
「多分な。そういう作業は、コンピューターの得意技だから」
 アッと言う間に出せたんじゃないか、地球の座標はこれだ、とな。
 前の俺が其処に気付いていたなら、前のお前もきっと地球まで行けたんだろう。堂々と降りては行けないとしても、ワープして一瞬、側を掠めて飛ぶとかな。
 もっとも、そうして出掛けていたなら、前の俺たちは地球という星を諦めたのかもしれないが。
 なんと言っても、あの有様だ。青い地球の代わりに、死の星が転がっていたんだから。
 誰があんな地球を欲しがるもんか、とハーレイは苦い顔をする。「俺は要らんぞ」と。
「そうなのかも…。前のぼくだって、青くない地球を見ちゃったら…」
 地球に行こう、って思うのはやめて、他の星を探していたかもね。人類の船なんか来ない辺境の星で、ナスカみたいにミュウが暮らしていける星。
 あれっ、だけど…。
 恒星がある場所は分かってたっけ、と投げ掛けた問い。
 星座を詳細に解析したなら、得ることが出来る地球の座標。そのために使う、地球の星座を構成していた恒星の位置は分かっていたのか、と。アルタイルだとか、ベガだとか。
「それはまあ…。基本の中の基本だからな?」
 キャプテン稼業をやっていたなら、「知りません」では済まないぞ。
 座標を丸ごと暗記するのは流石に無理だが、この辺りのコレだ、と見当はつく。
 アルテメシアから逃げ出した後は、宇宙を放浪していたついでに地球を探していたんだし…。
 あちこちの恒星系を回って、地球は無いかと確認してた。有名どころは端からな。
 …ありゃ?
 そういや、アルタイルが地球を連れているわけがなかったんだな、考えてみれば。
 あそこにも行って来たんだがなあ、第三惑星は青い地球じゃないかと。



 妙だぞ、とハーレイが顎に手をやる。「何故、アルタイルに行ったんだ?」と。
 アルタイルと言ったら、鷲座のアルファ星。今も昔もそれは変わらず、明るく輝く一等星。日本では彦星と呼ばれていた星、七夕の夜に天の川を渡ると伝えられた星。
 地球の夜空にある筈の星が、地球を連れているわけがない。空に瞬く小さな恒星、それが地球のあるソル太陽系の中心になりはしないのだから。
「…俺は確かに地球を探していたんだが…」
 地球があるかもしれないからな、とアルタイルに行ってしまったんだが…。
 どう間違えたら、アルタイルに行こうと思うんだ?
 アルタイルが地球から見えるんだったら、地球の太陽では有り得ないことになるんだが…。
 どういうことだ、とハーレイの眉間の皺が深くなる。「地球を探しに行っただなんて」と。
「ほらね、変だと思わない?」
 アルタイルに行っても、そんな所に地球は無いんだよ?
 地球からアルタイルが見えているなら、地球からはずっと遠いんだから。…何光年もね。
 なのに、どうして其処に行ったの、と尋ねてみたら、ハーレイは「分からん」と両手を広げた。
「俺にもサッパリ分からないんだが、それでいいんだと思っていた」
 アルタイルは有名な恒星だったし、地球がある可能性はかなり高いと踏んだんだが…。
 そのアルタイルは鷲座で光ってたわけで、天体の間でもお馴染みの星と来たもんだ。
 其処に向かって行ったってことは、もう間抜けとしか言いようがないし…。
 これまたミスってことになるのか、航路設定をしていたキャプテン・ハーレイの?
 だが、ゼルたちも反対しなかったしなあ、ヒルマンもエラも。
 誰も「アルタイルは違う」と言わなかったぞ、とハーレイにも解けないミスの理由。有り得ない場所へ、地球を探しに出掛けて行ったシャングリラ。
「どうなんだろう…。それって、もしかして機械のせい?」
 マザー・システムの仕業なのかな、シャングリラがアルタイルに行っちゃったのは…?
 SD体制があった時代は、地球の正確な地図も作れなかったじゃない。機械がデータをすっかり隠して、正確な位置をぼかしてしまって。
 そんなことをしていた機械だったし、地球の星座を見るのは許してくれたって…。
 星座を分析していけば分かる、地球の座標を引き出す方法とかは…。



 考え付かないように、思考をブロックされていたのかも、と話してみた。
 あの時代の子供は人工子宮から生まれていたから、胎児の間に細工は出来る。地球の座標を割り出す方法、それに気付きはしないよう。…恒星の位置と地球の座標を、決して結び付けないよう。
「そうだとしたなら、ハーレイたちがアルタイルに行った理由も分かるよ」
 天体の間で何度アルタイルを見ても、それは星座の星だというだけ。
 地球からどういう風に見えるか、そんな所までは考えられないようにされていたなら…。
 昔から有名な恒星なんだ、っていうだけの理由で、地球を探しに行くと思うよ。
 有名な星なら、本当に地球がありそうだもの。…アルタイルの第三惑星としてね。
「そうなのかもなあ…。生まれる前からブロックされてりゃ、そうなっちまうのも当然か…」
 ヒルマンもエラも、ゼルもブラウも、揃って同じ生まれなんだし…。
 ジョミーにしたって其処は全く同じだからなあ、変だとは思わないだろう。
 あの頃はブリッジに顔を見せない日も多かったが、行き先くらいは俺が報告していたから。
 もしも妙だと思ったんなら、「検討し直した方がいい」と言ってはいたんだろうし…。
 待てよ、そうなってくると、トォニィなら思い付いたのか?
 トォニィが急な成長をしちまった後は、もう天体の間で投影してはいなかったんだが…。
 地球を目指しての戦いだからな、そんな娯楽は必要無い、とジョミーが止めさせちまったから。
 だが…。
 それから後も、あそこに地球の星座があったなら…、というハーレイの言葉は一理ある。
「思い付いたかもね、トォニィがあれを見ていたら」
 トォニィは自然出産で生まれて来た子供だから…。機械の影響を全く受けていなかったから。
 あそこで地球の星座を見てたら、ピンと来たかもしれないね。地球の座標が分かるかも、って。
 育つ前にしか見ていなかったし、結び付けたりしなかっただけで。
 小さい子供には、ナスカの星座も地球の星座も、きっと同じに見えただろうから。
 どっちも星が光ってるだけで、どういう風に繋がってるかの見え方が違うだけなんだもの。
「ふうむ…。トォニィだったら、星座のカラクリにも気付けたのか…」
 天体の間にずっと昔から転がってたのに、誰も気付かなかった凄い宝物の地図。
 それの読み方に気付けたんだな、投影をやめずに、地球の星座を毎晩あそこに映していたら…。



 やめちまったのは失敗だったか、とハーレイは惜しそうな顔をしたけれど。
 「ジョミーがやめろと言った後にも、投影しとけば良かったか?」とも、ぼやいたけれど…。
「そうでもないよな、あのまま投影を続けていたとしたって、だ…」
 トォニィがお宝に気付く頃には、あの忌々しいテラズ・ナンバー・ファイブもだな…。
 そろそろ年貢の納め時ってトコだったかもな、という結論。それほど時間は経っていない、と。
「うん、ジョミーが倒しちゃっているよね」
 あれを倒したら、地球の座標が分かったんだし…。
 トォニィが星座から割り出せることに気付いたとしても、ほんのちょっぴり早いか、遅いか。
 きっとそのくらいの違いしかないよ、地球の星座を手に入れるまでの時間はね。
「あれが宝の地図だったとはなあ…。お前と何度も見てた星座が」
 地球に着いたら本物の星座が見られるんだ、と思っていたのに、間抜けなもんだ。
 そいつが地球の座標を割り出すヒントだったとは気付かなかった、と苦笑するハーレイ。
 「お前も気付いていなかっただろ?」と。
「当たり前だよ、ハーレイが駄目なら、ぼくも駄目だよ」
 船のことなら任せておけ、ってハーレイでも解けなかった謎なんだから。
 ぼくなんかに分かるわけがないでしょ、星座が地球の座標を教えてくれるだなんて。
 …前のぼくたちは星座のヒントに気が付かなくって、宝の持ち腐れになっちゃったけど…。
 今のぼくたちは地球に来たんだし、大きくなったら星空テラスに連れてってくれる?
 二人でゆっくり星を見たいよ、と強請ってみた。「恋人同士で星を見なくちゃ」と。
「その時まで覚えていたならな」
 前のお前とは恋人同士で星を見損ねちまったことと、お前が行きたいバーの話を。
「それなら、下見をしておいてよ!」
 下見をしとけば忘れないでしょ、そういうお店があるってこと。…ぼくと行くことも。
「いや、せっかくいい店があるんだから…」
 他の連中と行っちまうよりは、お前と一緒に行きたいんだが…。駄目か?
 忘れちまうからそれは駄目だ、と言うんだったら、誰かと下見に出掛けてくるが…。
「ううん、嬉しい!」
 最初はぼくと一緒がいい、って言ってくれるんなら、楽しみにしてる。
 忘れちゃっても怒りやしないよ、その内に思い出せるから…!



 思い出したら二人で行こうね、と指切りをした星空テラス。
 チビの自分は行けないけれども、星が一杯の憧れのバー。雨が降る日でも天井に夜空。
 いつか大きく育った時には、ハーレイとデートに出掛けてゆこう。
 今は本物の地球の星座が見えるけれども、前のハーレイとは恋人同士で眺め損ねた本物の星。
(…今度は一緒に見られるんだよ、恋人同士で)
 ハーレイと青い地球に来たから、ロマンチックな星空テラスで、星をゆっくり見上げてみよう。
 遠い昔に天体の間で見た四季の星座を、今は本物の地球の夜空に煌めき瞬く星の姿を…。




              星空と星座・了


※恋人同士で星を見たことは無かった、前のハーレイとブルー。天体の間で投影された星だけ。
 其処で見ていた地球の星座が、実は宝の地図だったのです。地球の座標は、あの星座の中に。
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