シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(絵本、色々…)
いろんな絵本があるんだね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
子供のための絵本特集、広告記事とは違ったもの。様々な絵本を紹介する記事。
(赤ちゃん用から揃っているよ)
文字も読めない赤ちゃん用から、自分で読める子供のための絵本まで。赤ちゃん用だと、紙ではなくて布で出来ている本だって。ページをめくって遊べる絵本。布のオモチャが詰まった中身。
(ぼくも持ってたよね?)
こういう絵本。布だから分厚くなっていた絵本、ページにくっついた小さなオモチャ。剥がして遊んだ布の動物、別の所にくっつけたりして。布のニンジンやリンゴもあったと思う。
文字が入った絵本の方だと、懐かしいものも、知らないものも。
(絵本、卒業しちゃったけれど…)
今の年では読まないけれども、母がきちんと仕舞っている筈。大切なものを入れておく箱に。
誰かにあげていないなら。知り合いに譲っていないのなら。
(あげちゃった本も…)
何冊かあるのかもしれない。小さすぎて覚えていないだけで。
(赤ちゃん用の絵本だったら…)
幼稚園の頃に「この本、あげていいかしら?」と訊かれて、「うん」と。何処かの家に生まれた赤ちゃん、その子に譲ってあげようと。
一人前のお兄ちゃん気取りで、「あげていいよ」と笑顔になって。
(得意な顔して言ってそう…)
赤ちゃん絵本は卒業だから、と大人になったような気分。卒業という言葉は、幼稚園児ではまだ知らないけれど。耳にしたって、意味が分からないほどだけれども。
それでも赤ちゃん絵本は卒業、絵本は他所の家に行く。他の赤ちゃんが読むために。
文字の入った絵本の方も、学校に入る年になったら誰かに譲ったかもしれない。繰り返し読んだ本は手放さなくても、お気に入りは残しておいたとしても。
もう読まないよね、と思った本なら、これから絵本を読むだろう年の子供がいる家に。
ぼくは卒業したんだから、と持っていた絵本を誰かにあげたら、貰った方でも…。
(きっと、大切に何度も読んで…)
その子が絵本を卒業する時、まだ綺麗なら、次の誰かにプレゼント。絵本を読む年の子供がいる家、自分よりも小さな子供の家に。
自分だってまだ小さいくせに、うんと大きなお兄ちゃんや、お姉ちゃんになったような気分で、「あげていいよ」と。読みたい子供に譲ってあげる、と。
(それって、幸せなリレー…)
家から家へと旅をする絵本。欲しがりそうな子供がいる家へ。
赤ちゃん用の絵本だったら、何軒もの家を旅していそう。赤ちゃん絵本は卒業するのも早いし、次の赤ちゃんがいる家へ。お気に入りの絵本が他に出来たら、次の赤ちゃんにプレゼント。
(赤ちゃんだったら、わざわざ「あげていい?」って訊かなくっても…)
様子を見ながら「もう読まないわね」と、譲ることだってあるだろう。絵本で遊ばなくなったら卒業、持ち主だった赤ちゃんの方も、絵本のことは思い出しさえしないまま。
文字が入った絵本になったら、お気に入りは手放さないけれど。
両親だってちゃんと分かっているから、「あげてもいい?」とは訊かないだろうけど。
(ぼくのだよ、って怒るに決まっているもんね?)
大切な本を手放すなんて、とんでもないから。他の誰かにプレゼントなんて出来ないから。
(何処かに隠してしまいそうだよ、幼稚園に行ってる間に消えないように…)
幼稚園児でも、ちゃんと頑張って隠すんだから、と思いながら戻った二階の部屋。ケーキなどのお皿を母に返して、階段をトントン上っていって。
(お気に入りの絵本を誰かにあげられそうになったら、隠してたよね?)
もうこの部屋はあったんだから、と勉強机の前に座って考える。旅をしてゆく絵本のこと。
この家から旅に出た絵本があるなら、赤ちゃん用の絵本か、あげてもいい本。部屋に隠して守る代わりに、「あげてもいいよ」と頷いた本。一人前のお兄ちゃんになった気分で。
(絵本だって、きっと幸せだよね?)
そうやって旅に出る方が。この家で仕舞い込まれているより、他の家へと。
旅をする間に、「あげてもいい本」から「お気に入りの本」になって、見付かる棲み家。絵本の旅は其処でおしまい、読まなくなった後も大切に何処かに仕舞われたりして。
本の好みは人によって色々、同じ絵本でも分かれる反応。
(表紙を見ただけで気に入っちゃうとか、「好きじゃないよ」って思うとか…)
子供の数だけあるだろう個性、どんな絵本でも「気に入ってくれる人」が何処かにいる筈。広い世界の何処かに、きっと。
子供の間は、お気に入りはうんと大切なのだし、隠してでも守り抜きたいほど。幼稚園児の頭で思い付くような隠し場所なら、大人はお見通しだろうけれど。「やっぱり此処ね」と探し当てて、笑って、元通りにしておきそうだけれど。「隠すくらいに大切なんだわ」と。
お気に入りの絵本は、子供にとっては宝物。誰にも譲ってあげない絵本。
(そういう宝物になってるといいな…)
この家から何処かへ旅に出た絵本があるのなら。幼かった自分が読んだ絵本が旅に出たなら。
文字が入った絵本はもちろん、赤ちゃん用の絵本にしたって、あちこち旅をして回って…。
(宝物にはなれないままで、くたびれちゃっても、幸せだよね?)
一番最後に辿り着いた家で、もうこれ以上の旅は無理だ、と卒業の後で捨てられたって、御礼の言葉を貰えるだろう。「うちの子供と遊んでくれて、ありがとう」と。
赤ちゃんや子供は知らん顔でも、その家の大人たちから、きっと。「お疲れ様」と労われて。
(絵本だから、幸せな旅が出来るんだよね?)
家から家へと旅を続けて、何人もの子供たちと出会って、読まれて。
お気に入りの絵本になれたら旅は終わりで、その家の子供と一緒に暮らす。とても幸せに。
けれども、それは絵本だから。
同じ本でも、自分くらいの年に育ってしまっていたなら、お気に入りの一冊があったって…。
(ぼくの本だよ、って抱き締めたりはしないし…)
留守の間に消えないようにと、隠すことだってしないだろう。両親が勝手に誰かに譲ってしまうことなど無いのだから。「あの子にあげよう」と棚から出して。
お気に入りの数も増えてしまって、本棚一杯に詰まった本。
此処から見ても、背表紙だけで本の中身が思い出せるほど。「あの本は…」と、直ぐに。
わざわざ広げて眺めなくても、どの本もお気に入りばかりだから。
これからも何冊も増えてゆくのだろう、お気に入りの本。増えすぎて本棚に入らなくなっても、旅に出たりはしないと思う。どの本も大切なのだから。
(本棚が増えるだけだよね?)
増えた本を入れるための本棚。そしていつかは、父やハーレイのように書斎が出来たりも。本を読むために作ってある部屋、本が暮らしてゆくための部屋。
旅に出掛ける本があるなら、「面白そうだ」と買ってみたのに、つまらなかった本くらい。誰か欲しがる人がいないか、友達に声を掛けたりして。「良かったら、読む?」と。
幼い頃に「欲しい人があるから、あげてもいい?」と訊かれる絵本とは違った旅。「いいよ」と一人前になったつもりで、旅に出すのが絵本だけれど…。
(今の年だと、本も自分で選ぶから…)
買ったけれども失敗だった、と思った本を旅に出すだけ。誰か気に入る人がいれば、と。
絵本を読んでいた頃だったら、新しい絵本を買って貰えるまで、つまらない本でも読んだのに。今ほど沢山の本は無いから、お気に入りばかり読んでいたって飽きるから。
(絵本の方が、普通の本より幸せかも…)
家から家へと旅も出来るし、子供の宝物にもなれる。「ぼくの本だよ」と隠すくらいの。
この年になれば、其処までの本には、そう簡単には出会えない。宝物と呼べるほどの一冊。今のぼくだと大切な本は…、と視線がゆくのが白いシャングリラの写真集。
ハーレイに「いい本があるぞ」と教えて貰って、父に強請った豪華版。お小遣いで買うには高い本だし、「パパ、お願い」と。
あの写真集は、ハーレイとお揃い。ハーレイの家にも同じ写真集があるから、ちゃんとお揃い。
(あれは絶対、誰にもあげたりしないんだから…)
いつかハーレイと結婚する時も、あの写真集を持って行く。ハーレイの家へ運ぶ荷物に、大切に詰めて。運ぶ間に傷まないよう、柔らかい紙か布かでくるんでやって。
ハーレイの書斎に二冊並べて置くことになっても、どちらも宝物の本。ハーレイの分も、自分と一緒に引っ越した本も。
とても大事な宝物だし、「二冊あるから」と誰かに譲りはしない。
高い値段の豪華版だけに、欲しがる人が多くても。「二冊あるなら一冊欲しい」と頼まれても。
もう絶対に、旅には出さない宝物。いつまでも二冊並べておく本。
(欲張りだけど、宝物だしね?)
子供の頃の絵本じゃなくて写真集だけど、と思ったはずみに掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が生きていた頃。あの頃の本はどうだったろう、と。
(絵本、あったっけ…?)
前の自分が暮らしていた船、シャングリラに。あの船に絵本はあったろうか、と。
白い鯨には、もちろんあった。子供たちも乗っていた船なのだし、何冊も揃っていた絵本。養育部門に出掛けて行ったら、本棚に沢山並べてあった。広げて読んでいた子供たちも。
けれど、それより前の時代。白い鯨に改造する前。
(あの頃だったら…)
本は自分たちの手で製本するか、奪った物資に紛れていたのを手に入れて読むか。その二つしか方法は無くて、製本するなら希望者の多い本から順に。「これが欲しい」と声が上がったら、係がせっせと作っていた。データベースにある本の中身を印刷して。
船にいたのは大人ばかりで、チビだったのは前の自分だけ。年だけは誰よりも上だったけれど、心も身体も長く成長を止めていたから。
チビとは言っても、今の自分と変わらなかった姿。絵本を欲しがる子供ではない。
(絵本が読みたい人なんか…)
きっと一人もいなかったろう。「次は絵本を作って欲しい」と係に注文する者などは。
人類の船から奪った物資に絵本が紛れていたとしたって、読もうと思う者は無い。他の本なら、残しておいたら読み手が現れるだろうけれど…。
(絵本、あっても…)
読む人は誰もいないわけだし、物資に紛れて船に来た絵本は処分だったろうか?
役に立たないガラクタと一緒に廃棄処分で、宇宙に捨てる。「これは要らない」と。
(余計な荷物は船に積んではおけないよね…?)
ゴミと同じで邪魔になるだけ、早々に処分されたと思う。誰も読まない絵本なんかを残しておくわけが無いんだから、と分かっているのに、何故だか読んでいたような記憶。
前の自分が、白い鯨になる前の船で。
あった筈もない絵本を広げて、ページをめくっていたような…。
ぱらり、とページを繰っていた記憶。絵本ならではの独特のページ。子供向けだから、ページの数は多くない本。何度かめくれば、じきに最後まで読める本。
それを読んだ、という気がする。白い鯨になる前の船で、子供は一人もいなかった船で。
(なんで…?)
絵本は廃棄処分にしてたんじゃないの、と不思議でたまらない記憶。無かった筈の絵本を読めはしないし、ページをめくれるわけがない。絵本は船に無いのだから。
それなのに絵本を読んでいた自分。白い鯨の時代の記憶と混ざっているとも思えない。白い鯨で読んでいたなら、青の間にいる筈だから。…絵本の記憶はそうではないから。
(青の間が出来てから、そういう夢でも見たのかな…?)
改造前の船にいる夢を、と考え込んでいたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、丁度いい、とぶつけてみた質問。テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね…。絵本は、あっても処分だよね?」
処分するでしょ、誰も絵本を読む人なんかはいないんだもの。
「はあ? 絵本って…」
お前の学校の図書室のことか、何処かから本の寄贈があったら、確かに振り分けするんだが…。家のを丸ごと貰ったりしたら、絵本も混ざっていたりするしな。
しかし処分ということはないぞ、せっかくの好意なんだから。何処に置くのが一番なのか、皆で決めるのが振り分けだ。上の学校に送るのがいいか、下の学校に届けに行くか。
絵本だったら、幼稚園という所だな。…処分したりはしない筈だが、と今のハーレイならではの答え。学校の教師をしているのだから、当然だけれど。
「違うよ、ぼくの学校じゃなくてシャングリラだよ。白い鯨になる前のね」
本は色々揃っていたけど、図書室もちゃんとあったけど…。
置いてあった本は、読む人がいる本ばかりでしょ?
物資に紛れていた本もそうだし、シャングリラで作った本だって。…読みたい人がいる本だけ。
絵本なんかは無かった筈だよ、物資の中に混じっていたって、きっと処分で。
船に置いても、絵本は邪魔になるだけだから、と説明したらハーレイも頷いた。
「だろうな、誰も読みやしないし」
余計な荷物はゴミと同じだ、絵本は処分だったと思うぞ。…白い鯨じゃない頃ならな。
お前の考えで合っている筈だ、と言うハーレイは備品倉庫の管理人を兼ねた時代もあった。まだ厨房にいた頃だったら、キャプテンではなくて備品倉庫の管理人。
倉庫の管理をしていたのだから、其処に入れる物資のことにも詳しい。そのハーレイが「ゴミと同じだ」と断言するなら、絵本はゴミで廃棄処分になるのだけれど…。
「…えっとね…。絵本の扱い、ぼくもそうだと思うんだけど…」
物資の中に紛れていたなら、捨てていた筈なのが絵本なんだけど…。でもね、絵本を読んでいたような気がするんだよ。前のぼくが、改造前の船でね。
そういう記憶があるんだけれど、と話してみたら、「勘違いじゃないのか?」という返事。
「お前が絵本を読んでいたなら、白い鯨の方だろう。子供たちとも、よく遊んでたし…」
養育部門で借りて帰って、青の間で読んでいたんじゃないか?
読みながらウトウト眠っちまって、昔の船にいた頃の夢を見ていただとか…。
ありそうだぞ、とハーレイの読みも似たようなもの。白い鯨で見た夢だろう、と。
「やっぱりそうかな…? 絵本、あるわけないものね…」
だけど、夢にしてはハッキリしてるし、とても不思議で…。ページをめくっていた時の感じが、指先に残っていそうなほどだから。
それでも、あれって夢なのかな…。前のぼくが見ていた夢だったのかな…?
どう思う、と重ねて尋ねた。絵本の記憶は夢だろうか、と。
「うーむ…。やたらとリアルな夢ってヤツは、誰にでも覚えがあるもんだが…」
夢の中でも痛かったとか、食っていた飯が美味かったとか。…その手の夢は確かにある。
しかしだ、今のお前の場合は、生まれ変わって来ているわけで…。夢のことまで覚えているかというのが大いに問題だよなあ、ただの夢まで記憶に残っているかってトコが。
要は絵本で、お前が絵本を読んでいた、と…。白い鯨じゃなかった時代のシャングリラで。
備品倉庫の元管理人だった俺としてはだ…、とハーレイが追っている記憶。
人類の船から奪った物資は直ぐに仕分けを始めるものだし、余計なものは船に積まないが、と。
「そうだよね。無駄な物資のためにスペースを割くわけがないし…」
いつか役立ちそうなものなら、残しておこうって仕舞っておくこともあるだろうけど…。
絵本はそういうものじゃないしね、役立つことも出番も無いから。
本ならともかく絵本なんだし、絵本は子供がいないとね…。
あの船に子供はいなかったから…、と何の気なしに言ったのだけれど。「やっぱり夢かな?」と話を終わらせようとしたのだけれども、「子供だと…?」と腕組みしたハーレイ。
「…子供は確かにいなかったよなあ、前のお前はチビだったんだが…」
それでも成人検査の後だし、あの時代なら子供とは言わん。…俺の目にはチビの子供だったが。
しかし、絵本を欲しがるような年の子供じゃないし…。
子供ってヤツはいなかったんだ、とハーレイが何度も「子供」と繰り返すから。
「ハーレイ、子供がどうかしたの?」
何か気になることでもあるわけ、あの船に子供がいなかったことで…?
「いや、子供って言葉が引っ掛かって…。絵本は子供がいないと駄目なんだ、って所がだな…」
それだ、子供だ!
あの船にも絵本を置いていたんだ、子供用に絵本を残していたぞ。
お前の記憶は合っているんだ、前のお前が読んでいたのは本物の絵本だったんだ。勘違いでも、夢で見たわけでもなくて…、とハーレイが探り当てたらしい記憶。前のハーレイだった時代の。
白い鯨ではなかった船に、絵本が乗っていたという。あの船に子供はいなかったのに。
「…絵本を残しておいたって…。子供用だ、って言ったよね?」
もしかして、前のぼくがチビの子供だったから?
成人検査は受けていたけど、それきり育たないままのチビ。心も身体もチビだったから…。
ハーレイたちが育ててくれたみたいなものだし、絵本もそのためのものだったの…?
ぼくの心の栄養にするのに絵本だったの、と訊いてみた。ハーレイたちは、あれこれ気配りしてくれたから。前の自分を育ててやろうと、食事にも、かける言葉などにも。
絵本もその中の一つかと思った。長い年月を檻で独りぼっちで過ごす間に、心も身体も傷ついた子供。過酷な人体実験の末に、笑うことさえ忘れてしまった前の自分。
そんな自分の心をゆっくり育ててゆくには、絵本が適していたのだろうか、と。
けれど…。
「違う、そうじゃない。…前のお前も関係してはいたんだがな」
船に絵本が乗っていたことと、前のお前は無関係ではないんだが…。
お前のための絵本じゃなかった、そんな時代はとうの昔に終わっていたな。
前のお前は絵本なんかを使わなくても、きちんと育ってくれたから…。ちゃんと大人に。
最初の間は捨てていたんだ、とハーレイが教えてくれた絵本。奪った物資に紛れていたもの。
ハーレイが備品倉庫の管理人だった頃には、「これは要らない」と不用品として廃棄処分。誰も欲しいと言わなかったし、読みたがる者もいなかったから。
けれども、時が流れた船。
ハーレイが船のキャプテンになって、前の自分はソルジャーに。身体も育って、大人になった。痩せっぽちのチビの子供は卒業、誰が見たって立派な大人。華奢で細くはあったのだけれど。
育った後にも、ソルジャーの役目は変わらない。船を守ることと、人類の船から皆が生きるのに必要な物資を奪うこと。
「覚えていないか、お前が奪った物資の中に絵本のセットが混じってたのを」
どういう理由で紛れてたのかは分からない。…育英都市に送る荷物だったのかもしれないな。
子供の成長を追ってゆくように、赤ん坊のための絵本から揃っていたんだが…。
絵だけの本から、少しだけ字が入っている本。…次は短い物語、といった風にな。
珍しいから、と係が俺に報告して来て、お前やヒルマンたちと一緒に見に行ったんだが…。
視察気分で絵本の検分、と聞かされたら蘇って来た記憶。ハーレイたちと見に出掛けた絵本。
物資の仕分けをするための部屋に、備えられていたテーブルの上。絵本のセットは其処に並べて置かれていた。赤ん坊用の本から順に。
「おやまあ…。絵本と言っても、こういうセットもあるんだねえ…」
続き物ではないみたいだけどね、と好奇心一杯で手に取ったのがブラウ。「面白そうだ」と。
「わしらも読んでいたんじゃろうなあ、何も覚えておらんのじゃが…」
これと同じのを読んだかもしれんな、とゼルも開いてみた絵本。「生憎と思い出せんわ」とも。
「仕方ないだろう、我々はすっかり忘れてしまったからね」
成人検査とアルタミラの檻にいた時代にね、とヒルマンにも無かった絵本の記憶。エラも、前の自分も、ハーレイもピンと来なかった。絵本のセットを前にしたって、手に取ったって。
(それでも、きっと、こういう絵本で育ったんだ、って…)
同じ絵本を見たかもしれない、子供時代の自分が養父母に買って貰って。赤ん坊用のも、文字が入っている絵本も。
きっと誰もが似たような気持ちだったろう。何も覚えていないけれども、自分もこういう絵本を読んで育ったのだ、と。
皆でページを繰った本。赤ん坊用から揃った絵本のセット。感慨深く読んだ後には、この船には不要な本だから、と処分用の箱に入れたのだけれど…。
(…ぼくが読んでた絵本を箱に入れようとして…)
先に誰かが放り込んでいた絵本、その上に重ねて置こうとした時。ふと考えた、前の自分。
これは未来を築く本だ、と。捨てては駄目だと、慌てて箱から取り出した絵本。先に入っていた絵本も全部。「この本たちを捨てては駄目だ」と、順に並べたテーブルの上。
「まるで要らない本のようだけれど、ぼくは捨てるのには反対だ」
分からないかい、この本たちは未来を築く本なんだよ。こうしてセットで揃ったお蔭で、これが持っている意味に気付いた。…未来を作るための本だと。
だから捨てずに取っておこう、と提案したらブラウに問われた。「未来ってなんだい?」と。
「なんのことだかサッパリだよ。絵本の何処が未来なんだい、とうに過去じゃないか」
あたしたちは大人なんだからね、というブラウの言葉は間違いではない。絵本を読んでいた子供時代は終わって、二度と戻って来はしないから。その記憶ごと。
けれども、子供たちにとっては「これから」のこと。生まれて育つ子供たちには。
「…今は全く、未来なんかは見えないけれど…。でも、いつか…」
いつかはこういう絵本を読む子が現れるかもしれないよ。人類ではなくて、ミュウの子供が。
この船に絵本を読むような子が来て、この本を読んで育つんだよ。
それが未来で、そのための本。…捨てずに残しておきたいじゃないか、未来のために。
ミュウの子供を育てるためにね、と皆に話した未来のこと。絵本のセットが築くだろう未来。
「夢物語じゃ! 何が未来じゃ!」
何処から子供が来ると言うんじゃ、この船に!
わしらが隠れて生きてゆくだけで精一杯じゃ、とゼルは噛み付いたし、ヒルマンたちもいい顔をしなかったけれど。「現実味が無い」と皆が唱えたけれど。
「それは分かっているけれど…。これも一つの可能性だよ、未来のね」
絵本を捨てずに残しておいたら、いつか絵本が必要な子供が来てくれるかも…。
この本が子供を連れて来るとは言わないけれども、可能性は残しておかなければ。
捨ててしまったら、未来も可能性も捨てることになる。…この船に未来は要らない、とね。
子供を育てる未来が無いなら、この船はいつか終わるんだから。
最後の一人の寿命が尽きたら終わりじゃないか、と厳しい現実を皆に突き付けた。今の船なら、その日は必ずやって来るから。…新しい仲間が、子供たちが船にやって来ないと駄目だから。
未来への夢が一つくらいあってもいいだろう、と渋るゼルたちを説き伏せ、絵本のセットを備品倉庫に置かせた。場所はそれほど取らないから。
今のシャングリラに子供が来る予定は無いけれど。子供を船に迎えるどころか、未来も見えない船なのだけれど。
(でも、いつか、って…)
いつか絵本を読むような子供が来てくれたら…、と倉庫に出掛けて読んでいた絵本。赤ん坊用の絵だけの絵本も、文字が入っている絵本も。
時には部屋にも持って帰って、絵本のページを繰っていた。前の自分の絵本の記憶は、その時のもの。白い鯨ではなかった頃の船で、何度も読んでいた絵本。
「あの本、どうなっちゃったんだろう?」
絵本のセット、倉庫とか部屋で読んでいたけど…。あの本、何処へ行っちゃったかな…?
その後が思い出せないんだけど…、と今のハーレイに訊いたら、直ぐに答えが返って来た。
「それはまあ…。絵本だって、いつかは駄目になるから…」
いくら人類の船から奪った本でも、寿命ってヤツはあるもんだ。頑丈に出来ちゃいないから。
そいつに気付いて、お前、注文をつけただろうが。
今ある絵本がくたびれて来たから、新しい絵本を見付けた時には残しておけ、と。
備品倉庫の管理係に命令していた筈だぞ、とキャプテンの記憶は流石に正確。船の全てを纏めていたのが、キャプテン・ハーレイなのだから。
「そうだっけ…!」
絵本、残しておくように、って仕分けする係に言ったんだっけ…。
セットになってる絵本じゃなくても、端から捨ててしまわずに。処分する前に、必ず報告。
ぼくが自分でチェックするから、絵本は勝手に捨てないこと、って…。
前のぼくが命令したんだっけ、と思い出した「その後」の絵本の扱い方。最初に残させた絵本のセットが、年数を経て古びて見え始めた頃。
赤ちゃん用から少し大きな子供向けまで、いい本があれば残しておいた。自分で中身をチェックした後、倉庫に入れて。そして何度も読んだのだった、白い鯨ではなかった船で。
まだ名前だけがシャングリラだった、改造前の船で読んだ絵本。この本を読むような子供たちを船に迎えられたら、と。…船の未来を築けたらいい、と。
何度ページをめくっただろうか、来るかどうかも分からない未来を思い描きながら。絵本たちの出番がやって来る日を、ページを繰る子供が来てくれる日を。
(絵本、大切に残しておいて…)
くたびれて駄目になった絵本のデータも、製本担当の係に頼んで取っておかせた。もちろん一番最初に船に残した、赤ちゃん用から揃っていたセットのデータだって。
いつか絵本の出番が来たなら、それらのデータが必要だから。
船のデータベースにも絵本はあったけれども、実物となれば重みが違う。データではなくて手に取れるもの。この手でページをめくれるもの。
(ページの重さも、紙の感じも、全部、本物…)
絵本はこういうものなのだ、と形になっているのが絵本。人類の船から奪ったものだし、何処の星でも同じ絵本が印刷されているのだろう。育英都市で育つ子供たちのために、何冊も。
赤ちゃんの数だけ作られていそうな、赤ちゃん用に出来ている絵本。
文字が読めるくらいの子供になったら、養父母たちが選んでやるのだろうか。何種類もの絵本の中から、育てている子の好みに合いそうなものを。
(女の子だったら、こんなのだとか…)
男の子だけれど繊細な子だから、こういう絵本が良さそうだ、とか。
もう少し子供が大きくなったら、本屋に連れてゆくかもしれない。「どの本が欲しい?」と。
幾つも並んだ絵本の中から、好きな絵本を選べるように。あれこれ比べて、お気に入りの一冊を自分で探し出せるようにと。
(絵本なんだし、絵も大事だから…)
好みに合わない絵柄だったら、ガッカリするだろう子供。「もっと違う絵の方がいい」と。
そうならないよう、自分で好きに選ばせて貰う幸せな子供。養父母の手をしっかり握り締めて。
「これがいいよ」と選び出したり、決められないで迷っていたり。
いつまでも選べずに二冊も三冊も比べていたなら、「仕方ないわね」と欲しい本を全部、買って貰える幸運な子もいるのだろう。大喜びして、歓声を上げて。
いつかは別れる養父母だけれど、そんなことさえ知らない幼い子供だから。
買って貰った絵本の包みを、大切に抱えていそうな子供。養父母と家に帰るまで。
もっと幼い子供や赤ん坊なら、「はい」とプレゼントされる絵本。どんなに胸が弾むだろうか、初めてページをめくる時には。
何回も読んでお気に入りの絵本が出来た時には、きっと飽きずに読むのだろう。これが一番、と他の絵本には見向きもしないで、何回も。…一日の内に、何度も繰り返し。
(きっとそうだよ、って思ってた…)
子供時代の記憶は残っていなかったけれど、絵本を何度も見ていれば分かる。育英都市がどんな場所かを、データベースで調べれば分かる。
(成人検査の日が来るまでは…)
子供たちは幸せに育ってゆくもの。養父母の愛情を一杯に受けて。
機械が勝手に決めた家族でも、其処に溢れる愛は本物。養父母たちは子供に愛を注ぐようにと、教育を受けて来ているから。子供を幸せに育ててゆくのが仕事だから。
(…ミュウの子供かもしれない、って思った時には通報すること、って…)
そういう決まりが出来ていたけれど、絵本を準備していた頃の自分はまだ知らなかった。
燃えるアルタミラから脱出した時、グランド・マザーはミュウを滅ぼしたつもりだったから。
元はコンスティテューション号だった船のデータベースに、それから後も生まれ続けるミュウの子供がどう扱われたかのデータは無かったから。
(アルテメシアに着いて、雲海の中でミュウの子供の悲鳴を聞くまで…)
何も知らずに過ごした自分。
何処の星でも、子供たちは幸せに育っているのだと頭から思い込んで。
成人検査を受ける日までは、養父母たちの愛に包まれて育つと信じて、絵本のページをめくっていた。どの子も絵本を買って貰えると、このくらいの年ならこの絵本、と夢を描きながら。
(そうやって幸せに育っているなら、絵本を読むようなミュウの子供は…)
船に来る筈も無いというのに、気付かなかった前の自分。
どうやってミュウの子供を船に迎えるつもりだったのか、今、考えると可笑しいけれど。
自分に都合のいい夢を見ていたらしいけれども、絵本は大切に残しておいたのが前の自分。
これは未来を築く本だと、ミュウの子供を迎えた時には役に立つから、と。
そんな調子で絵本に夢を抱いていたのがソルジャー・ブルー。何処か間抜けな前の自分。絵本のページを何度も繰っては、ミュウの未来を夢見ていた。
絵本を読む子が来てくれる日を、シャングリラに未来が生まれる時を。
(白い鯨を作る時にも…)
自給自足の船が出来たら、もう奪いには行かない物資。…本物の絵本は手に入らなくなる。船にある絵本とデータが全てになってしまって。
(新しい絵本は、もう無理になるけど…)
ちゃんとした絵本を船で作ってゆけるようにと、係の者たちにも本物の絵本に触れておくよう、指示しておいた。「今ある絵本を覚えて欲しい」と、「本物の絵本を忘れないように」と。
その時点で船にあった絵本は、白い鯨にも引き継がれた。いつか子供が来る時のために。
白い鯨は宇宙を旅して、やがてやって来た本物の子供。ミュウの未来を築いてゆく子。
アルテメシアに着いたから。育英都市がある雲海の星に、隠れ住もうと決めたから。
「ぼくが残してた絵本、役に立ったんだっけ…」
ミュウの子供が、本当に船に来ちゃったから。…前のぼくが助けに飛び出して行って。
「助けて!」って悲鳴が聞こえて来たから、瞬間移動で飛び出して…。
何が起こったのか分からなかったけど、助け出すのは間に合ったんだよ。
まさか小さな子供の間に、ミュウを見付けて殺す時代になってたなんてね…。
前のぼくは夢にも思わなかったよ、と溜息をついたら、「俺も同じだ」と零したハーレイ。
「成人検査を受けて初めて、ミュウになるんだと思っていたしな…」
データ不足というヤツだ。アルタミラから後はせっせと逃げていたから、知らないままで。
それでも、お前が助けて来た子は、お前が夢見たミュウの子だったな。絵本を読む子。
まだ小さくて、絵本くらいしか読めない子供だったんだが…。
前のお前が絵本をきちんと残させてたから、そいつの出番がやって来たという所だな。
子供用の本なんか、他には無かったんだから。
大急ぎで「作れ」と係に言ったが、一瞬で出来やしないから…。
役に立つ日が来たんだよなあ、前のお前のコレクション。
お前が自分で選び出しては、何度も読んでた古い絵本が日の目を見る日が来たってトコか。
本当に古くなっちまってたが…、とハーレイも覚えている絵本。白い鯨にあった絵本は、新しいとは言えないもの。前の自分が何度も読んだし、本を作る係も読んでいたから。
けれど、船にはそれしか無かった子供用の本。小さな子供が読める絵本。
「あの子に絵本を渡したんだっけね、前のぼくが」
此処には古い絵本しか無いけど、読んでみるかい、って…。
欲しいんだったら、他にも色々あるからね、って喜びそうな絵本を一冊…。
あれは動物の絵本だったよ、と今でも思い出せる本。小さな子供にプレゼントした絵本。
「喜んで読んでくれたよなあ…。ありがとう、って本を抱き締めて」
それまで泣きそうな顔をしてたのに、絵本で笑顔が戻って来たのが凄かった。
船に来た時は泣きっ放しで、泣き止んだ後も、隅っこの方で塞ぎ込んでたというのにな。
「うん…。絵本、本当に嬉しかったんだね。シャングリラにも絵本があったから」
ぼくの家にも絵本が沢山あったんだよ、って言ってたもの。
パパとママに色々買って貰って、うんと沢山持っていたよ、って…。
あの子をユニバーサルに通報したのは、その養父母かもしれないけれど…。でも…。
そんなことは知らない方がいいよね、幸せに育ってゆくためには。
「違いないよな、物騒なことは知らずにいるのが一番だ」
あの子は絵本で笑顔になったし、それでいいじゃないか。
恐ろしい目に遭ったわけだが、また絵本が読める場所に来られたんだから。
もう誰も銃を向けたりしない場所にな…、とハーレイが言う白いシャングリラ。ミュウの箱舟。
それでも、絵本が無かったとしたら、あの子は笑顔になっただろうか。あんなに早く、ミュウの船に馴染んでくれたのだろうか、大人しかいない箱舟に…?
きっと無理だ、と今の自分でも思うこと。絵本が船にあったからこそ、此処も安心していられる場所だ、と子供なりに理解したろうから。
「古くなってた絵本だったけど、残しておいて良かったね、あれ」
直ぐに渡してあげられたのは、あれを残してあったから…。古くなっても、本物だから。
「まったくだ。本は直ぐには作れないしな」
料理のようにはいかんからなあ、フライパンでサッと作れやしない。
ちょっと待ってろ、と話してる間には出来上がらないのが絵本だってな。
前のお前は、いいものを取っておいたよな、と穏やかな笑みを浮かべるハーレイ。
ミュウの未来を築いてゆくことは出来たんだ、と。
古びた絵本を貰った子供が最初に来た子で、それからは次々に来たミュウの子供たち。
シャングリラは未来を担う子たちを手に入れたから。…絵本を読んで育つ子たちを。
(前のぼく、予知能力は無かったけれど…)
未来も見えない船で絵本を残させたのなら、少しくらいはあっただろうか。
それとも青い地球に抱いた夢と同じで…。
(前のぼくの夢ってことなのかな…?)
あれが予知なのか、夢を描いただけだったのかは、今となっては分からないけれど。
誰に訊いても分からないけれど、あの絵本のことを思い出させてくれたハーレイと地球にやって来た。青く蘇った水の星の上に。
絵本が旅をしてゆく時代に、平和な地球に。
家から家へと絵本が旅をしてゆけるのも、本物の家族が戻って来たから。
SD体制の時代だったら、本は旅などしないから。子供のいる家を旅してゆかないから。
(今のぼくが持ってた絵本だって…)
旅に出た絵本があるのだったら、幸せになってくれている筈。
何処かで誰かに気に入られて。何人もの赤ちゃんたちに読まれて、旅を続けて。
今はそういう時代だから。絵本は幸せに旅してゆけるし、本物の家族がいる時代だから…。
旅をする絵本・了
※今の時代は、家から家へと絵本が旅をしてゆく時代。本物の家族がいる時代だからこそ。
そうではなかった遠い昔に、シャングリラにも絵本があったのです。子供を待っている本が。
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いろんな絵本があるんだね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
子供のための絵本特集、広告記事とは違ったもの。様々な絵本を紹介する記事。
(赤ちゃん用から揃っているよ)
文字も読めない赤ちゃん用から、自分で読める子供のための絵本まで。赤ちゃん用だと、紙ではなくて布で出来ている本だって。ページをめくって遊べる絵本。布のオモチャが詰まった中身。
(ぼくも持ってたよね?)
こういう絵本。布だから分厚くなっていた絵本、ページにくっついた小さなオモチャ。剥がして遊んだ布の動物、別の所にくっつけたりして。布のニンジンやリンゴもあったと思う。
文字が入った絵本の方だと、懐かしいものも、知らないものも。
(絵本、卒業しちゃったけれど…)
今の年では読まないけれども、母がきちんと仕舞っている筈。大切なものを入れておく箱に。
誰かにあげていないなら。知り合いに譲っていないのなら。
(あげちゃった本も…)
何冊かあるのかもしれない。小さすぎて覚えていないだけで。
(赤ちゃん用の絵本だったら…)
幼稚園の頃に「この本、あげていいかしら?」と訊かれて、「うん」と。何処かの家に生まれた赤ちゃん、その子に譲ってあげようと。
一人前のお兄ちゃん気取りで、「あげていいよ」と笑顔になって。
(得意な顔して言ってそう…)
赤ちゃん絵本は卒業だから、と大人になったような気分。卒業という言葉は、幼稚園児ではまだ知らないけれど。耳にしたって、意味が分からないほどだけれども。
それでも赤ちゃん絵本は卒業、絵本は他所の家に行く。他の赤ちゃんが読むために。
文字の入った絵本の方も、学校に入る年になったら誰かに譲ったかもしれない。繰り返し読んだ本は手放さなくても、お気に入りは残しておいたとしても。
もう読まないよね、と思った本なら、これから絵本を読むだろう年の子供がいる家に。
ぼくは卒業したんだから、と持っていた絵本を誰かにあげたら、貰った方でも…。
(きっと、大切に何度も読んで…)
その子が絵本を卒業する時、まだ綺麗なら、次の誰かにプレゼント。絵本を読む年の子供がいる家、自分よりも小さな子供の家に。
自分だってまだ小さいくせに、うんと大きなお兄ちゃんや、お姉ちゃんになったような気分で、「あげていいよ」と。読みたい子供に譲ってあげる、と。
(それって、幸せなリレー…)
家から家へと旅をする絵本。欲しがりそうな子供がいる家へ。
赤ちゃん用の絵本だったら、何軒もの家を旅していそう。赤ちゃん絵本は卒業するのも早いし、次の赤ちゃんがいる家へ。お気に入りの絵本が他に出来たら、次の赤ちゃんにプレゼント。
(赤ちゃんだったら、わざわざ「あげていい?」って訊かなくっても…)
様子を見ながら「もう読まないわね」と、譲ることだってあるだろう。絵本で遊ばなくなったら卒業、持ち主だった赤ちゃんの方も、絵本のことは思い出しさえしないまま。
文字が入った絵本になったら、お気に入りは手放さないけれど。
両親だってちゃんと分かっているから、「あげてもいい?」とは訊かないだろうけど。
(ぼくのだよ、って怒るに決まっているもんね?)
大切な本を手放すなんて、とんでもないから。他の誰かにプレゼントなんて出来ないから。
(何処かに隠してしまいそうだよ、幼稚園に行ってる間に消えないように…)
幼稚園児でも、ちゃんと頑張って隠すんだから、と思いながら戻った二階の部屋。ケーキなどのお皿を母に返して、階段をトントン上っていって。
(お気に入りの絵本を誰かにあげられそうになったら、隠してたよね?)
もうこの部屋はあったんだから、と勉強机の前に座って考える。旅をしてゆく絵本のこと。
この家から旅に出た絵本があるなら、赤ちゃん用の絵本か、あげてもいい本。部屋に隠して守る代わりに、「あげてもいいよ」と頷いた本。一人前のお兄ちゃんになった気分で。
(絵本だって、きっと幸せだよね?)
そうやって旅に出る方が。この家で仕舞い込まれているより、他の家へと。
旅をする間に、「あげてもいい本」から「お気に入りの本」になって、見付かる棲み家。絵本の旅は其処でおしまい、読まなくなった後も大切に何処かに仕舞われたりして。
本の好みは人によって色々、同じ絵本でも分かれる反応。
(表紙を見ただけで気に入っちゃうとか、「好きじゃないよ」って思うとか…)
子供の数だけあるだろう個性、どんな絵本でも「気に入ってくれる人」が何処かにいる筈。広い世界の何処かに、きっと。
子供の間は、お気に入りはうんと大切なのだし、隠してでも守り抜きたいほど。幼稚園児の頭で思い付くような隠し場所なら、大人はお見通しだろうけれど。「やっぱり此処ね」と探し当てて、笑って、元通りにしておきそうだけれど。「隠すくらいに大切なんだわ」と。
お気に入りの絵本は、子供にとっては宝物。誰にも譲ってあげない絵本。
(そういう宝物になってるといいな…)
この家から何処かへ旅に出た絵本があるのなら。幼かった自分が読んだ絵本が旅に出たなら。
文字が入った絵本はもちろん、赤ちゃん用の絵本にしたって、あちこち旅をして回って…。
(宝物にはなれないままで、くたびれちゃっても、幸せだよね?)
一番最後に辿り着いた家で、もうこれ以上の旅は無理だ、と卒業の後で捨てられたって、御礼の言葉を貰えるだろう。「うちの子供と遊んでくれて、ありがとう」と。
赤ちゃんや子供は知らん顔でも、その家の大人たちから、きっと。「お疲れ様」と労われて。
(絵本だから、幸せな旅が出来るんだよね?)
家から家へと旅を続けて、何人もの子供たちと出会って、読まれて。
お気に入りの絵本になれたら旅は終わりで、その家の子供と一緒に暮らす。とても幸せに。
けれども、それは絵本だから。
同じ本でも、自分くらいの年に育ってしまっていたなら、お気に入りの一冊があったって…。
(ぼくの本だよ、って抱き締めたりはしないし…)
留守の間に消えないようにと、隠すことだってしないだろう。両親が勝手に誰かに譲ってしまうことなど無いのだから。「あの子にあげよう」と棚から出して。
お気に入りの数も増えてしまって、本棚一杯に詰まった本。
此処から見ても、背表紙だけで本の中身が思い出せるほど。「あの本は…」と、直ぐに。
わざわざ広げて眺めなくても、どの本もお気に入りばかりだから。
これからも何冊も増えてゆくのだろう、お気に入りの本。増えすぎて本棚に入らなくなっても、旅に出たりはしないと思う。どの本も大切なのだから。
(本棚が増えるだけだよね?)
増えた本を入れるための本棚。そしていつかは、父やハーレイのように書斎が出来たりも。本を読むために作ってある部屋、本が暮らしてゆくための部屋。
旅に出掛ける本があるなら、「面白そうだ」と買ってみたのに、つまらなかった本くらい。誰か欲しがる人がいないか、友達に声を掛けたりして。「良かったら、読む?」と。
幼い頃に「欲しい人があるから、あげてもいい?」と訊かれる絵本とは違った旅。「いいよ」と一人前になったつもりで、旅に出すのが絵本だけれど…。
(今の年だと、本も自分で選ぶから…)
買ったけれども失敗だった、と思った本を旅に出すだけ。誰か気に入る人がいれば、と。
絵本を読んでいた頃だったら、新しい絵本を買って貰えるまで、つまらない本でも読んだのに。今ほど沢山の本は無いから、お気に入りばかり読んでいたって飽きるから。
(絵本の方が、普通の本より幸せかも…)
家から家へと旅も出来るし、子供の宝物にもなれる。「ぼくの本だよ」と隠すくらいの。
この年になれば、其処までの本には、そう簡単には出会えない。宝物と呼べるほどの一冊。今のぼくだと大切な本は…、と視線がゆくのが白いシャングリラの写真集。
ハーレイに「いい本があるぞ」と教えて貰って、父に強請った豪華版。お小遣いで買うには高い本だし、「パパ、お願い」と。
あの写真集は、ハーレイとお揃い。ハーレイの家にも同じ写真集があるから、ちゃんとお揃い。
(あれは絶対、誰にもあげたりしないんだから…)
いつかハーレイと結婚する時も、あの写真集を持って行く。ハーレイの家へ運ぶ荷物に、大切に詰めて。運ぶ間に傷まないよう、柔らかい紙か布かでくるんでやって。
ハーレイの書斎に二冊並べて置くことになっても、どちらも宝物の本。ハーレイの分も、自分と一緒に引っ越した本も。
とても大事な宝物だし、「二冊あるから」と誰かに譲りはしない。
高い値段の豪華版だけに、欲しがる人が多くても。「二冊あるなら一冊欲しい」と頼まれても。
もう絶対に、旅には出さない宝物。いつまでも二冊並べておく本。
(欲張りだけど、宝物だしね?)
子供の頃の絵本じゃなくて写真集だけど、と思ったはずみに掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が生きていた頃。あの頃の本はどうだったろう、と。
(絵本、あったっけ…?)
前の自分が暮らしていた船、シャングリラに。あの船に絵本はあったろうか、と。
白い鯨には、もちろんあった。子供たちも乗っていた船なのだし、何冊も揃っていた絵本。養育部門に出掛けて行ったら、本棚に沢山並べてあった。広げて読んでいた子供たちも。
けれど、それより前の時代。白い鯨に改造する前。
(あの頃だったら…)
本は自分たちの手で製本するか、奪った物資に紛れていたのを手に入れて読むか。その二つしか方法は無くて、製本するなら希望者の多い本から順に。「これが欲しい」と声が上がったら、係がせっせと作っていた。データベースにある本の中身を印刷して。
船にいたのは大人ばかりで、チビだったのは前の自分だけ。年だけは誰よりも上だったけれど、心も身体も長く成長を止めていたから。
チビとは言っても、今の自分と変わらなかった姿。絵本を欲しがる子供ではない。
(絵本が読みたい人なんか…)
きっと一人もいなかったろう。「次は絵本を作って欲しい」と係に注文する者などは。
人類の船から奪った物資に絵本が紛れていたとしたって、読もうと思う者は無い。他の本なら、残しておいたら読み手が現れるだろうけれど…。
(絵本、あっても…)
読む人は誰もいないわけだし、物資に紛れて船に来た絵本は処分だったろうか?
役に立たないガラクタと一緒に廃棄処分で、宇宙に捨てる。「これは要らない」と。
(余計な荷物は船に積んではおけないよね…?)
ゴミと同じで邪魔になるだけ、早々に処分されたと思う。誰も読まない絵本なんかを残しておくわけが無いんだから、と分かっているのに、何故だか読んでいたような記憶。
前の自分が、白い鯨になる前の船で。
あった筈もない絵本を広げて、ページをめくっていたような…。
ぱらり、とページを繰っていた記憶。絵本ならではの独特のページ。子供向けだから、ページの数は多くない本。何度かめくれば、じきに最後まで読める本。
それを読んだ、という気がする。白い鯨になる前の船で、子供は一人もいなかった船で。
(なんで…?)
絵本は廃棄処分にしてたんじゃないの、と不思議でたまらない記憶。無かった筈の絵本を読めはしないし、ページをめくれるわけがない。絵本は船に無いのだから。
それなのに絵本を読んでいた自分。白い鯨の時代の記憶と混ざっているとも思えない。白い鯨で読んでいたなら、青の間にいる筈だから。…絵本の記憶はそうではないから。
(青の間が出来てから、そういう夢でも見たのかな…?)
改造前の船にいる夢を、と考え込んでいたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、丁度いい、とぶつけてみた質問。テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね…。絵本は、あっても処分だよね?」
処分するでしょ、誰も絵本を読む人なんかはいないんだもの。
「はあ? 絵本って…」
お前の学校の図書室のことか、何処かから本の寄贈があったら、確かに振り分けするんだが…。家のを丸ごと貰ったりしたら、絵本も混ざっていたりするしな。
しかし処分ということはないぞ、せっかくの好意なんだから。何処に置くのが一番なのか、皆で決めるのが振り分けだ。上の学校に送るのがいいか、下の学校に届けに行くか。
絵本だったら、幼稚園という所だな。…処分したりはしない筈だが、と今のハーレイならではの答え。学校の教師をしているのだから、当然だけれど。
「違うよ、ぼくの学校じゃなくてシャングリラだよ。白い鯨になる前のね」
本は色々揃っていたけど、図書室もちゃんとあったけど…。
置いてあった本は、読む人がいる本ばかりでしょ?
物資に紛れていた本もそうだし、シャングリラで作った本だって。…読みたい人がいる本だけ。
絵本なんかは無かった筈だよ、物資の中に混じっていたって、きっと処分で。
船に置いても、絵本は邪魔になるだけだから、と説明したらハーレイも頷いた。
「だろうな、誰も読みやしないし」
余計な荷物はゴミと同じだ、絵本は処分だったと思うぞ。…白い鯨じゃない頃ならな。
お前の考えで合っている筈だ、と言うハーレイは備品倉庫の管理人を兼ねた時代もあった。まだ厨房にいた頃だったら、キャプテンではなくて備品倉庫の管理人。
倉庫の管理をしていたのだから、其処に入れる物資のことにも詳しい。そのハーレイが「ゴミと同じだ」と断言するなら、絵本はゴミで廃棄処分になるのだけれど…。
「…えっとね…。絵本の扱い、ぼくもそうだと思うんだけど…」
物資の中に紛れていたなら、捨てていた筈なのが絵本なんだけど…。でもね、絵本を読んでいたような気がするんだよ。前のぼくが、改造前の船でね。
そういう記憶があるんだけれど、と話してみたら、「勘違いじゃないのか?」という返事。
「お前が絵本を読んでいたなら、白い鯨の方だろう。子供たちとも、よく遊んでたし…」
養育部門で借りて帰って、青の間で読んでいたんじゃないか?
読みながらウトウト眠っちまって、昔の船にいた頃の夢を見ていただとか…。
ありそうだぞ、とハーレイの読みも似たようなもの。白い鯨で見た夢だろう、と。
「やっぱりそうかな…? 絵本、あるわけないものね…」
だけど、夢にしてはハッキリしてるし、とても不思議で…。ページをめくっていた時の感じが、指先に残っていそうなほどだから。
それでも、あれって夢なのかな…。前のぼくが見ていた夢だったのかな…?
どう思う、と重ねて尋ねた。絵本の記憶は夢だろうか、と。
「うーむ…。やたらとリアルな夢ってヤツは、誰にでも覚えがあるもんだが…」
夢の中でも痛かったとか、食っていた飯が美味かったとか。…その手の夢は確かにある。
しかしだ、今のお前の場合は、生まれ変わって来ているわけで…。夢のことまで覚えているかというのが大いに問題だよなあ、ただの夢まで記憶に残っているかってトコが。
要は絵本で、お前が絵本を読んでいた、と…。白い鯨じゃなかった時代のシャングリラで。
備品倉庫の元管理人だった俺としてはだ…、とハーレイが追っている記憶。
人類の船から奪った物資は直ぐに仕分けを始めるものだし、余計なものは船に積まないが、と。
「そうだよね。無駄な物資のためにスペースを割くわけがないし…」
いつか役立ちそうなものなら、残しておこうって仕舞っておくこともあるだろうけど…。
絵本はそういうものじゃないしね、役立つことも出番も無いから。
本ならともかく絵本なんだし、絵本は子供がいないとね…。
あの船に子供はいなかったから…、と何の気なしに言ったのだけれど。「やっぱり夢かな?」と話を終わらせようとしたのだけれども、「子供だと…?」と腕組みしたハーレイ。
「…子供は確かにいなかったよなあ、前のお前はチビだったんだが…」
それでも成人検査の後だし、あの時代なら子供とは言わん。…俺の目にはチビの子供だったが。
しかし、絵本を欲しがるような年の子供じゃないし…。
子供ってヤツはいなかったんだ、とハーレイが何度も「子供」と繰り返すから。
「ハーレイ、子供がどうかしたの?」
何か気になることでもあるわけ、あの船に子供がいなかったことで…?
「いや、子供って言葉が引っ掛かって…。絵本は子供がいないと駄目なんだ、って所がだな…」
それだ、子供だ!
あの船にも絵本を置いていたんだ、子供用に絵本を残していたぞ。
お前の記憶は合っているんだ、前のお前が読んでいたのは本物の絵本だったんだ。勘違いでも、夢で見たわけでもなくて…、とハーレイが探り当てたらしい記憶。前のハーレイだった時代の。
白い鯨ではなかった船に、絵本が乗っていたという。あの船に子供はいなかったのに。
「…絵本を残しておいたって…。子供用だ、って言ったよね?」
もしかして、前のぼくがチビの子供だったから?
成人検査は受けていたけど、それきり育たないままのチビ。心も身体もチビだったから…。
ハーレイたちが育ててくれたみたいなものだし、絵本もそのためのものだったの…?
ぼくの心の栄養にするのに絵本だったの、と訊いてみた。ハーレイたちは、あれこれ気配りしてくれたから。前の自分を育ててやろうと、食事にも、かける言葉などにも。
絵本もその中の一つかと思った。長い年月を檻で独りぼっちで過ごす間に、心も身体も傷ついた子供。過酷な人体実験の末に、笑うことさえ忘れてしまった前の自分。
そんな自分の心をゆっくり育ててゆくには、絵本が適していたのだろうか、と。
けれど…。
「違う、そうじゃない。…前のお前も関係してはいたんだがな」
船に絵本が乗っていたことと、前のお前は無関係ではないんだが…。
お前のための絵本じゃなかった、そんな時代はとうの昔に終わっていたな。
前のお前は絵本なんかを使わなくても、きちんと育ってくれたから…。ちゃんと大人に。
最初の間は捨てていたんだ、とハーレイが教えてくれた絵本。奪った物資に紛れていたもの。
ハーレイが備品倉庫の管理人だった頃には、「これは要らない」と不用品として廃棄処分。誰も欲しいと言わなかったし、読みたがる者もいなかったから。
けれども、時が流れた船。
ハーレイが船のキャプテンになって、前の自分はソルジャーに。身体も育って、大人になった。痩せっぽちのチビの子供は卒業、誰が見たって立派な大人。華奢で細くはあったのだけれど。
育った後にも、ソルジャーの役目は変わらない。船を守ることと、人類の船から皆が生きるのに必要な物資を奪うこと。
「覚えていないか、お前が奪った物資の中に絵本のセットが混じってたのを」
どういう理由で紛れてたのかは分からない。…育英都市に送る荷物だったのかもしれないな。
子供の成長を追ってゆくように、赤ん坊のための絵本から揃っていたんだが…。
絵だけの本から、少しだけ字が入っている本。…次は短い物語、といった風にな。
珍しいから、と係が俺に報告して来て、お前やヒルマンたちと一緒に見に行ったんだが…。
視察気分で絵本の検分、と聞かされたら蘇って来た記憶。ハーレイたちと見に出掛けた絵本。
物資の仕分けをするための部屋に、備えられていたテーブルの上。絵本のセットは其処に並べて置かれていた。赤ん坊用の本から順に。
「おやまあ…。絵本と言っても、こういうセットもあるんだねえ…」
続き物ではないみたいだけどね、と好奇心一杯で手に取ったのがブラウ。「面白そうだ」と。
「わしらも読んでいたんじゃろうなあ、何も覚えておらんのじゃが…」
これと同じのを読んだかもしれんな、とゼルも開いてみた絵本。「生憎と思い出せんわ」とも。
「仕方ないだろう、我々はすっかり忘れてしまったからね」
成人検査とアルタミラの檻にいた時代にね、とヒルマンにも無かった絵本の記憶。エラも、前の自分も、ハーレイもピンと来なかった。絵本のセットを前にしたって、手に取ったって。
(それでも、きっと、こういう絵本で育ったんだ、って…)
同じ絵本を見たかもしれない、子供時代の自分が養父母に買って貰って。赤ん坊用のも、文字が入っている絵本も。
きっと誰もが似たような気持ちだったろう。何も覚えていないけれども、自分もこういう絵本を読んで育ったのだ、と。
皆でページを繰った本。赤ん坊用から揃った絵本のセット。感慨深く読んだ後には、この船には不要な本だから、と処分用の箱に入れたのだけれど…。
(…ぼくが読んでた絵本を箱に入れようとして…)
先に誰かが放り込んでいた絵本、その上に重ねて置こうとした時。ふと考えた、前の自分。
これは未来を築く本だ、と。捨てては駄目だと、慌てて箱から取り出した絵本。先に入っていた絵本も全部。「この本たちを捨てては駄目だ」と、順に並べたテーブルの上。
「まるで要らない本のようだけれど、ぼくは捨てるのには反対だ」
分からないかい、この本たちは未来を築く本なんだよ。こうしてセットで揃ったお蔭で、これが持っている意味に気付いた。…未来を作るための本だと。
だから捨てずに取っておこう、と提案したらブラウに問われた。「未来ってなんだい?」と。
「なんのことだかサッパリだよ。絵本の何処が未来なんだい、とうに過去じゃないか」
あたしたちは大人なんだからね、というブラウの言葉は間違いではない。絵本を読んでいた子供時代は終わって、二度と戻って来はしないから。その記憶ごと。
けれども、子供たちにとっては「これから」のこと。生まれて育つ子供たちには。
「…今は全く、未来なんかは見えないけれど…。でも、いつか…」
いつかはこういう絵本を読む子が現れるかもしれないよ。人類ではなくて、ミュウの子供が。
この船に絵本を読むような子が来て、この本を読んで育つんだよ。
それが未来で、そのための本。…捨てずに残しておきたいじゃないか、未来のために。
ミュウの子供を育てるためにね、と皆に話した未来のこと。絵本のセットが築くだろう未来。
「夢物語じゃ! 何が未来じゃ!」
何処から子供が来ると言うんじゃ、この船に!
わしらが隠れて生きてゆくだけで精一杯じゃ、とゼルは噛み付いたし、ヒルマンたちもいい顔をしなかったけれど。「現実味が無い」と皆が唱えたけれど。
「それは分かっているけれど…。これも一つの可能性だよ、未来のね」
絵本を捨てずに残しておいたら、いつか絵本が必要な子供が来てくれるかも…。
この本が子供を連れて来るとは言わないけれども、可能性は残しておかなければ。
捨ててしまったら、未来も可能性も捨てることになる。…この船に未来は要らない、とね。
子供を育てる未来が無いなら、この船はいつか終わるんだから。
最後の一人の寿命が尽きたら終わりじゃないか、と厳しい現実を皆に突き付けた。今の船なら、その日は必ずやって来るから。…新しい仲間が、子供たちが船にやって来ないと駄目だから。
未来への夢が一つくらいあってもいいだろう、と渋るゼルたちを説き伏せ、絵本のセットを備品倉庫に置かせた。場所はそれほど取らないから。
今のシャングリラに子供が来る予定は無いけれど。子供を船に迎えるどころか、未来も見えない船なのだけれど。
(でも、いつか、って…)
いつか絵本を読むような子供が来てくれたら…、と倉庫に出掛けて読んでいた絵本。赤ん坊用の絵だけの絵本も、文字が入っている絵本も。
時には部屋にも持って帰って、絵本のページを繰っていた。前の自分の絵本の記憶は、その時のもの。白い鯨ではなかった頃の船で、何度も読んでいた絵本。
「あの本、どうなっちゃったんだろう?」
絵本のセット、倉庫とか部屋で読んでいたけど…。あの本、何処へ行っちゃったかな…?
その後が思い出せないんだけど…、と今のハーレイに訊いたら、直ぐに答えが返って来た。
「それはまあ…。絵本だって、いつかは駄目になるから…」
いくら人類の船から奪った本でも、寿命ってヤツはあるもんだ。頑丈に出来ちゃいないから。
そいつに気付いて、お前、注文をつけただろうが。
今ある絵本がくたびれて来たから、新しい絵本を見付けた時には残しておけ、と。
備品倉庫の管理係に命令していた筈だぞ、とキャプテンの記憶は流石に正確。船の全てを纏めていたのが、キャプテン・ハーレイなのだから。
「そうだっけ…!」
絵本、残しておくように、って仕分けする係に言ったんだっけ…。
セットになってる絵本じゃなくても、端から捨ててしまわずに。処分する前に、必ず報告。
ぼくが自分でチェックするから、絵本は勝手に捨てないこと、って…。
前のぼくが命令したんだっけ、と思い出した「その後」の絵本の扱い方。最初に残させた絵本のセットが、年数を経て古びて見え始めた頃。
赤ちゃん用から少し大きな子供向けまで、いい本があれば残しておいた。自分で中身をチェックした後、倉庫に入れて。そして何度も読んだのだった、白い鯨ではなかった船で。
まだ名前だけがシャングリラだった、改造前の船で読んだ絵本。この本を読むような子供たちを船に迎えられたら、と。…船の未来を築けたらいい、と。
何度ページをめくっただろうか、来るかどうかも分からない未来を思い描きながら。絵本たちの出番がやって来る日を、ページを繰る子供が来てくれる日を。
(絵本、大切に残しておいて…)
くたびれて駄目になった絵本のデータも、製本担当の係に頼んで取っておかせた。もちろん一番最初に船に残した、赤ちゃん用から揃っていたセットのデータだって。
いつか絵本の出番が来たなら、それらのデータが必要だから。
船のデータベースにも絵本はあったけれども、実物となれば重みが違う。データではなくて手に取れるもの。この手でページをめくれるもの。
(ページの重さも、紙の感じも、全部、本物…)
絵本はこういうものなのだ、と形になっているのが絵本。人類の船から奪ったものだし、何処の星でも同じ絵本が印刷されているのだろう。育英都市で育つ子供たちのために、何冊も。
赤ちゃんの数だけ作られていそうな、赤ちゃん用に出来ている絵本。
文字が読めるくらいの子供になったら、養父母たちが選んでやるのだろうか。何種類もの絵本の中から、育てている子の好みに合いそうなものを。
(女の子だったら、こんなのだとか…)
男の子だけれど繊細な子だから、こういう絵本が良さそうだ、とか。
もう少し子供が大きくなったら、本屋に連れてゆくかもしれない。「どの本が欲しい?」と。
幾つも並んだ絵本の中から、好きな絵本を選べるように。あれこれ比べて、お気に入りの一冊を自分で探し出せるようにと。
(絵本なんだし、絵も大事だから…)
好みに合わない絵柄だったら、ガッカリするだろう子供。「もっと違う絵の方がいい」と。
そうならないよう、自分で好きに選ばせて貰う幸せな子供。養父母の手をしっかり握り締めて。
「これがいいよ」と選び出したり、決められないで迷っていたり。
いつまでも選べずに二冊も三冊も比べていたなら、「仕方ないわね」と欲しい本を全部、買って貰える幸運な子もいるのだろう。大喜びして、歓声を上げて。
いつかは別れる養父母だけれど、そんなことさえ知らない幼い子供だから。
買って貰った絵本の包みを、大切に抱えていそうな子供。養父母と家に帰るまで。
もっと幼い子供や赤ん坊なら、「はい」とプレゼントされる絵本。どんなに胸が弾むだろうか、初めてページをめくる時には。
何回も読んでお気に入りの絵本が出来た時には、きっと飽きずに読むのだろう。これが一番、と他の絵本には見向きもしないで、何回も。…一日の内に、何度も繰り返し。
(きっとそうだよ、って思ってた…)
子供時代の記憶は残っていなかったけれど、絵本を何度も見ていれば分かる。育英都市がどんな場所かを、データベースで調べれば分かる。
(成人検査の日が来るまでは…)
子供たちは幸せに育ってゆくもの。養父母の愛情を一杯に受けて。
機械が勝手に決めた家族でも、其処に溢れる愛は本物。養父母たちは子供に愛を注ぐようにと、教育を受けて来ているから。子供を幸せに育ててゆくのが仕事だから。
(…ミュウの子供かもしれない、って思った時には通報すること、って…)
そういう決まりが出来ていたけれど、絵本を準備していた頃の自分はまだ知らなかった。
燃えるアルタミラから脱出した時、グランド・マザーはミュウを滅ぼしたつもりだったから。
元はコンスティテューション号だった船のデータベースに、それから後も生まれ続けるミュウの子供がどう扱われたかのデータは無かったから。
(アルテメシアに着いて、雲海の中でミュウの子供の悲鳴を聞くまで…)
何も知らずに過ごした自分。
何処の星でも、子供たちは幸せに育っているのだと頭から思い込んで。
成人検査を受ける日までは、養父母たちの愛に包まれて育つと信じて、絵本のページをめくっていた。どの子も絵本を買って貰えると、このくらいの年ならこの絵本、と夢を描きながら。
(そうやって幸せに育っているなら、絵本を読むようなミュウの子供は…)
船に来る筈も無いというのに、気付かなかった前の自分。
どうやってミュウの子供を船に迎えるつもりだったのか、今、考えると可笑しいけれど。
自分に都合のいい夢を見ていたらしいけれども、絵本は大切に残しておいたのが前の自分。
これは未来を築く本だと、ミュウの子供を迎えた時には役に立つから、と。
そんな調子で絵本に夢を抱いていたのがソルジャー・ブルー。何処か間抜けな前の自分。絵本のページを何度も繰っては、ミュウの未来を夢見ていた。
絵本を読む子が来てくれる日を、シャングリラに未来が生まれる時を。
(白い鯨を作る時にも…)
自給自足の船が出来たら、もう奪いには行かない物資。…本物の絵本は手に入らなくなる。船にある絵本とデータが全てになってしまって。
(新しい絵本は、もう無理になるけど…)
ちゃんとした絵本を船で作ってゆけるようにと、係の者たちにも本物の絵本に触れておくよう、指示しておいた。「今ある絵本を覚えて欲しい」と、「本物の絵本を忘れないように」と。
その時点で船にあった絵本は、白い鯨にも引き継がれた。いつか子供が来る時のために。
白い鯨は宇宙を旅して、やがてやって来た本物の子供。ミュウの未来を築いてゆく子。
アルテメシアに着いたから。育英都市がある雲海の星に、隠れ住もうと決めたから。
「ぼくが残してた絵本、役に立ったんだっけ…」
ミュウの子供が、本当に船に来ちゃったから。…前のぼくが助けに飛び出して行って。
「助けて!」って悲鳴が聞こえて来たから、瞬間移動で飛び出して…。
何が起こったのか分からなかったけど、助け出すのは間に合ったんだよ。
まさか小さな子供の間に、ミュウを見付けて殺す時代になってたなんてね…。
前のぼくは夢にも思わなかったよ、と溜息をついたら、「俺も同じだ」と零したハーレイ。
「成人検査を受けて初めて、ミュウになるんだと思っていたしな…」
データ不足というヤツだ。アルタミラから後はせっせと逃げていたから、知らないままで。
それでも、お前が助けて来た子は、お前が夢見たミュウの子だったな。絵本を読む子。
まだ小さくて、絵本くらいしか読めない子供だったんだが…。
前のお前が絵本をきちんと残させてたから、そいつの出番がやって来たという所だな。
子供用の本なんか、他には無かったんだから。
大急ぎで「作れ」と係に言ったが、一瞬で出来やしないから…。
役に立つ日が来たんだよなあ、前のお前のコレクション。
お前が自分で選び出しては、何度も読んでた古い絵本が日の目を見る日が来たってトコか。
本当に古くなっちまってたが…、とハーレイも覚えている絵本。白い鯨にあった絵本は、新しいとは言えないもの。前の自分が何度も読んだし、本を作る係も読んでいたから。
けれど、船にはそれしか無かった子供用の本。小さな子供が読める絵本。
「あの子に絵本を渡したんだっけね、前のぼくが」
此処には古い絵本しか無いけど、読んでみるかい、って…。
欲しいんだったら、他にも色々あるからね、って喜びそうな絵本を一冊…。
あれは動物の絵本だったよ、と今でも思い出せる本。小さな子供にプレゼントした絵本。
「喜んで読んでくれたよなあ…。ありがとう、って本を抱き締めて」
それまで泣きそうな顔をしてたのに、絵本で笑顔が戻って来たのが凄かった。
船に来た時は泣きっ放しで、泣き止んだ後も、隅っこの方で塞ぎ込んでたというのにな。
「うん…。絵本、本当に嬉しかったんだね。シャングリラにも絵本があったから」
ぼくの家にも絵本が沢山あったんだよ、って言ってたもの。
パパとママに色々買って貰って、うんと沢山持っていたよ、って…。
あの子をユニバーサルに通報したのは、その養父母かもしれないけれど…。でも…。
そんなことは知らない方がいいよね、幸せに育ってゆくためには。
「違いないよな、物騒なことは知らずにいるのが一番だ」
あの子は絵本で笑顔になったし、それでいいじゃないか。
恐ろしい目に遭ったわけだが、また絵本が読める場所に来られたんだから。
もう誰も銃を向けたりしない場所にな…、とハーレイが言う白いシャングリラ。ミュウの箱舟。
それでも、絵本が無かったとしたら、あの子は笑顔になっただろうか。あんなに早く、ミュウの船に馴染んでくれたのだろうか、大人しかいない箱舟に…?
きっと無理だ、と今の自分でも思うこと。絵本が船にあったからこそ、此処も安心していられる場所だ、と子供なりに理解したろうから。
「古くなってた絵本だったけど、残しておいて良かったね、あれ」
直ぐに渡してあげられたのは、あれを残してあったから…。古くなっても、本物だから。
「まったくだ。本は直ぐには作れないしな」
料理のようにはいかんからなあ、フライパンでサッと作れやしない。
ちょっと待ってろ、と話してる間には出来上がらないのが絵本だってな。
前のお前は、いいものを取っておいたよな、と穏やかな笑みを浮かべるハーレイ。
ミュウの未来を築いてゆくことは出来たんだ、と。
古びた絵本を貰った子供が最初に来た子で、それからは次々に来たミュウの子供たち。
シャングリラは未来を担う子たちを手に入れたから。…絵本を読んで育つ子たちを。
(前のぼく、予知能力は無かったけれど…)
未来も見えない船で絵本を残させたのなら、少しくらいはあっただろうか。
それとも青い地球に抱いた夢と同じで…。
(前のぼくの夢ってことなのかな…?)
あれが予知なのか、夢を描いただけだったのかは、今となっては分からないけれど。
誰に訊いても分からないけれど、あの絵本のことを思い出させてくれたハーレイと地球にやって来た。青く蘇った水の星の上に。
絵本が旅をしてゆく時代に、平和な地球に。
家から家へと絵本が旅をしてゆけるのも、本物の家族が戻って来たから。
SD体制の時代だったら、本は旅などしないから。子供のいる家を旅してゆかないから。
(今のぼくが持ってた絵本だって…)
旅に出た絵本があるのだったら、幸せになってくれている筈。
何処かで誰かに気に入られて。何人もの赤ちゃんたちに読まれて、旅を続けて。
今はそういう時代だから。絵本は幸せに旅してゆけるし、本物の家族がいる時代だから…。
旅をする絵本・了
※今の時代は、家から家へと絵本が旅をしてゆく時代。本物の家族がいる時代だからこそ。
そうではなかった遠い昔に、シャングリラにも絵本があったのです。子供を待っている本が。
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「今日は面白いものを教えてやろう」
こいつだ、とハーレイが教室の前のボードに書いた文字。「水琴窟」と。
(水の琴…?)
何だろう、と首を傾げたブルー。それに「窟」の字、洞窟の中で奏でるための琴なのだろうか?
洞窟だったら、いい音が響きそうではある。水の琴がいったいどんな琴かは、まるで分からないままだけれども。
古典の授業でお馴染みの雑談、生徒たちの集中力を取り戻すために出される話題。楽しい話や、ためになる話。ハーレイの気分で中身は色々。
前のボードに書かれた三文字、「すいきんくつ」と書き添えられた振り仮名。
「水琴窟は昔の日本の文化だ。江戸時代に出来たと伝わってるな」
こういう仕組みになってるんだ、とハーレイが描いてゆく図解。
土の中に逆さに埋められた甕。底に穴を開けて。甕は空っぽ、水が溜まるように工夫をしてから埋めてゆく。周りに石を詰めていって。
遠い昔の庭の装飾、手水鉢の側にも作られたりした。手水鉢には水が要るから、其処から溢れた水を使って鳴らす音。甕の中に溜まった水と合わせて。
「こうやって甕を埋めておくとだ、甕の中に水が溜まるから…」
其処へ上から水が落ちると、その雫で音がするんだな。甕の中で木霊するように。
その音がとても綺麗だからと、「水琴窟」と呼ぶわけだ。
特別に音も聞かせてやろう、とハーレイが取り出した専用の機械。それが動いたら…。
ピチョーン、と教室に響いた音。澄み切った水の雫の音。
「本物の水琴窟の場合は、こんな大きな音には聞こえないんだが…」
その周りでだけ聞こえればいい、というのが水琴窟なんだ。
小さなものだと、音も小さくなるもんだから…。
音を聴くための竹筒を立てて、その側で耳を澄ませるってこともあったらしいぞ。
この教室の真ん中に水琴窟があったら、端のヤツらには聞こえないかもな。
いい音が鳴っているわけなんだが、途中ですっかり消えてしまって。
昔の日本の文化はそうだろ、華やかなものより控えめな方が人気だったから。
わびさびの世界というヤツで…、と紹介された水琴窟。遠い昔の日本の人たちが好んだ音。
お前たちもそれを暫く楽しんでみろ、と黙ったハーレイ。「一分間ほど静かに聴くように」と。
教室に流れる水琴窟の音。機械が流している音だけれど、水の雫が鳴らす音には違いない。
ピチョーン、コローン、と様々に響く水たちの音色。
(綺麗な音…)
溜まった水に落ちる水滴、それが奏でる澄んだ音。まさに水の琴。
水琴窟とは、本当によくも名付けたもの。それに仕掛けを思い付いたのも凄いと思う。
(日本って凄い…)
遠い昔の小さな島国、独自の文化を誇った国。他の国の人たちが魅せられたほどに。
こんな仕掛けも作ってたんだ、と驚かされた水琴窟。ほんの限られた所までしか届かないのに、その音を愛した日本人。竹筒を通して聴いたくらいに。
いい音だよね、と水琴窟が奏でる音色に聴き入っていたら…。
(え…?)
急に「悲しい」と思った自分。胸の奥から湧き上がって来た深い悲しみ。
とても綺麗な音だというのに、悲しい音のように聞こえる水琴窟。今もいい音がしているのに。
(なんで…?)
どうして悲しい音になるの、と思う間に、ハーレイが「ここまで」と止めた音。消えてしまった悲しい音。水琴窟の音色はもう聞こえない。
「もっとゆっくり聞きたいヤツは、本物を聞きに行くんだな」
この近くで水琴窟があるのは此処と此処だ、と挙げられた場所。水琴窟があるらしい庭園。昔の日本の文化の通りに作られた庭。
(…知らないよね?)
どちらにも自分は行ってはいない。行った記憶がまるで無いから。
それとも、覚えていないくらいに幼い頃に出掛けて…。
(遊ぼうとしてて、何か落っことしたとか?)
大事なおやつを水琴窟の側の地面に落とすとか。キャンディーとか、ソフトクリームとか。
地面に落として、食べられなくなってしまったのなら…。
悲しい音になりもするよね、と思った水琴窟の音。
大切なおやつが駄目になったのに、響き続ける水の音。おやつを落っことす前に自分が流した、水の雫を受け止めて。ピチョーン、コローン、と澄み切った音で。
(それって、とっても悲しいよね…?)
どんなにいい音がしていても。澄んだ水の琴が鳴り続けても。
水琴窟を鳴らそうとしたら、おやつを落としたのだから。小さな柄杓で水を掬って流した時に、落っことしてしまった大事なおやつ。…もう食べられない、駄目になったおやつ。
(ぼくのおやつは駄目になったのに、水琴窟は鳴っているんだから…)
きっとそれだ、と考えた音。「悲しい音だ」と思った理由。
まるで覚えていないけれども、小さかった頃に何かあったんだ、と。…水琴窟の側で。
そう納得して、戻った授業。ハーレイも「続きをやるぞ」とボードの文字を消したから。
授業の続きが始まったらもう、忘れてしまった水琴窟。悲しい音に聞こえたことも。
けれど、学校が終わって帰った家。
ダイニングでおやつを食べていた時に、思い出した水琴窟のこと。悲しい音に聞こえた水音。
(やっぱり、原因、おやつだよね…?)
小さな子供が悲しくなるなら、そのくらいしか思い付かない。水琴窟の側には水があるけれど、大切なオモチャを其処に落としはしないだろう。
(パパかママが預かってくれそうだから…)
オモチャだったら、落とさないように。幼い自分も素直に「お願い」と渡していそう。水の中に落ちたら、濡れてしまうということくらいは分かるから。
(でも、おやつだと…)
大丈夫、と言い張りそうなのが幼い子供。「落っことすわよ?」と言われても。
ソフトクリームを預けようとはまず思わないし、「預けたりしたら、食べられちゃう」と思っていそう。相手は優しい両親でも。
まして頬張っていたキャンディーだったら、預けようさえない代物。
(棒つきだったら、預けることも出来るけど…)
口に含んだキャンディーは無理。それを落としてしまっただろうか、水琴窟の側の地面に。水を流そうと屈んだはずみに、うっかり、ポトンと。
どう考えても、原因はおやつだろうから。きっとそうだという気がするから、通りかかった母を呼び止めて尋ねてみた。
「ママ、水琴窟っていうのを知ってる?」
地面の中に甕が埋まっていて、上から水を流したら音がするんだよ。中で響いて。
この辺りだと、此処と此処にあるって聞いたんだけど…、と伝えた場所。日本式だという庭園。
「知っているわよ、パパと行ったわ」
いい音がするのよ、水琴窟は。遠くまでは響かないけれど、とてもいい音。
「…ぼくは?」
ぼくもママたちと一緒に行ったの、と勢い込んで訊いたのに…。
「ブルーは生まれていなかったわねえ…」
あの頃だとママのお腹の中にも、いなかったんじゃないかしら?
パパとは結婚していたけれど、ブルーはまだだと思うわよ、というのが母の返事だから。
「本当に…?」
ぼくは生まれていなかったなんて、絶対に無いと思うんだけど…。
パパやママたちと行った筈なんだよ、水琴窟のある庭に。
だってね…、と母に話した、古典の時間に起こったこと。悲しい音のように聞こえた水琴窟。
原因は落としたおやつなんだと思う、と説明も。オモチャは預けるだろうから、と。
「あら、そうだった?」
ブルーも連れて行ったのかしらね、ママは覚えていないけど…。
小さな子供を連れて行っても、喜びそうな場所じゃないんだけれど…。あそこの庭は見るだけの場所で、遊べる道具が何も無いから。公園だったら色々あっても、お庭では…。
だから行ってはいないと思うわ、「つまらないよ」って言いそうだもの。
パパの友達を案内するとか、そういうので出掛けたにしても…。
ブルーが其処で泣き出したんなら、きっと忘れはしないわよ。「そうだったわ」って、聞いたら思い出す筈よ。
おやつを落として大変だったとか、泣き止むまでにとても時間がかかったとかね。
ママが忘れるわけがないわ、と母が言うのも一理ある。普段は忘れていたとしたって、水琴窟の側で泣いた筈だと聞かされたら思い出すだろう。
(…ぼく、行ってないの…?)
それじゃ何処で、と考え込んでいたら、「前のブルーの方じゃないの?」と母に問われた。
「ブルーはママのブルーだけれども、その前はソルジャー・ブルーでしょう?」
きっとソルジャー・ブルーだった頃に聞いたのよ。水琴窟の音を、何処かで。
ソルジャー・ブルーなら悲しい思い出も多そうだから、というのが母の推理だけれど。
「…水琴窟って、日本の文化だよ?」
前のぼくが生きてたような時代に、日本の文化は無い筈だから…。機械が消しちゃっていた世界だったから…。
水琴窟なんか、あるわけがないよ。何処を探しても。
「そういえばそうね…。日本の文化は、SD体制の時代には消されていた筈ね…」
でも、似たような音があったんじゃないの?
水琴窟にそっくりな音がするものだとか、水琴窟そのものがあっただとか…。
シャングリラにはユニークな人たちが多かったんでしょ、と微笑んだ母。
「ママは直接会っていないけれど、ブルーから色々聞いているわ」と。その中の誰かが水琴窟を作っていたかもしれないわよね、と。
「…シャングリラに水琴窟があったっていうの?」
それなら、悲しい音に聞こえちゃうこともあったかも…。
普段は「素敵な音だ」と思っていたって、悲しい気分で聞いていた日もありそうだから。
凄いね、ママ。…ママの推理は当たっていそう。水琴窟とか、そっくりな音がする何か…。
「どういたしまして。参考になったなら良かったわ」
後は頑張って思い出してね、シャングリラにあった水琴窟の音。
だけど、ママには話してくれなくてもかまわないわよ。…悲しい思い出みたいだから。
思い出したら、きっとブルーは悲しくなるもの。
おやつを落としたどころじゃないわよ、ソルジャー・ブルーの方ならね。
もしも悲しくなってしまったら、おやつでも食べに来なさいな。
特別に何か食べさせてあげるわ、晩御飯が入らなくならない程度に。…少しだけね。
いつまでも一人でしょげていちゃ駄目よ、と母に念を押されて戻った二階の自分の部屋。悲しい音を思い出したら、元気が出るように貰えるおやつ。…本当に元気が無くなったなら。
これで悲しい音も安心、と勉強机の前に座った。「音の正体を追い掛けよう」と。
水琴窟そのものか、水琴窟にそっくりな音がする何か。…シャングリラにあったらしいもの。
(ヒルマンかな…?)
そういう仕掛けを作ったとしたら、可能性が高いのがヒルマン。それに仕掛けがあった船なら、間違いなく白いシャングリラ。改造を終えて白い鯨になった船。
(水琴窟…)
今日のハーレイの雑談で教わった、綺麗な音がする仕組み。底に穴を開けた甕を地面に埋めて、中に溜まった水の上に落ちる雫の音を響かせる。
仕組みそのものは単純なのだし、日本風の甕が無くても壺で代用出来るだろう。水琴窟に使える壺が無ければ、白い鯨で作れた筈。「こういう壺を一つ」と専門の係に注文すれば。
ヒルマンならば好きそうなものが水琴窟。遠い昔の資料を見付けて、作ってみようと考えたって不思議ではない。思い付くだけなら、エラだって。
(…エラだと、自分で穴を掘ったりしないだろうから…)
きっとヒルマンに話を持ち掛け、船の仲間の力を借りる。「こういう仕掛けを作りたい」と。
船の仲間たちも、ああいう綺麗な音がするなら、大喜びで協力するだろう。穴を掘るのも、壺を埋めるのも、水を引いてくる作業なども。
(作るんだったら、公園だよね…?)
公園には木を植えていたのだし、充分な深さに敷かれていた土。大きな壺でも埋められる。水も当然、供給されるし、其処から引いてくればいいだけ。
小川が流れる公園だったら、その直ぐ側に作っておいたら水を引く手間が省けたろう。
(だけど、悲しい音…)
公園だったら、楽しい音になりそうなもの。悲しい音になるよりは。
気分が沈んでいた時だって、公園に行けば元気な子供たちがいた。はしゃぎ回る子供たちの中に混ぜて貰って、遊ぶ間に癒えていた心。
水琴窟の音が悲しく聞こえていたって、じきに素敵な楽しい音色に変わっただろう。子供たちと一緒に水を掬って、雫の音を聞いていたなら。水の琴で遊んでいたのなら。
好奇心の塊のような子供たち。水琴窟が公園にあれば、きっと鳴らして遊ぶ筈。水を掬う順番で喧嘩になったり、それは賑やかに騒ぎながら。
(…水琴窟の音、聞こえなくなってしまいそうだよ…)
大きな音はしないとハーレイの授業で聞いたし、子供たちの声にかき消されて。水の雫が奏でる音より、子供たちがはしゃぐ声の方がずっと大きくて…、と思った所で気が付いた。
その子供たちの音だったんだ、と。水琴窟の音が悲しい音になるのは、子供たちの記憶に繋がる音だったから。…とても悲しくて、寂しく響いた水の雫の音だったから…。
(ぼくたちが助けた子供だけしか…)
シャングリラには来られなかった。白い箱舟には乗り込めなかった。
養父母たちに通報されたりした子供たち。「この子は変だ」と、ユニバーサルに。直ちに始まるミュウかどうかを調べる調査。場合によっては、その場で処分された子供も。
前の自分も、救助班の者たちも頑張ったけれど、助け損ねた子も多かった。悲鳴が届いた時には手遅れ、それがその子の最期の思念。「助けて」だとか、「パパ、ママ!」だとか。
(他のみんなには聞こえなくても、前のぼくには…)
子供たちの最期の声が聞こえた。銃口を向けられ、助けを求めた子供たち。自分を通報したのが養父母たちとも知らずに、「パパ、ママ!」と。泣き叫ぶように、「助けて」と。
それきり消えてしまった思念。…その子の命は潰えたから。
飛び出して行っても、もう亡骸しか残ってはいない幼い子供。シャングリラに乗れずに終わってしまった、無垢な魂。もしも自分が気付いていたなら、救い出すことが出来ただろうに。
(…青の間から思念で探っていても…)
見付け出せないミュウの子は多い。
サイオンが強い子供だったら「あの子はミュウだ」と分かるけれども、サイオンが弱い子供だと無理。シャングリラから探るだけでは、気配も感じないのだから。
(外に出た時に気を付けてたって…)
やはり見落とす子供たち。
微弱なサイオンを持つだけだったら、それを掴むのは難しい。育英都市に送り込んでいた潜入班でも、強い子供しか見付けられない。どんなに注意して気を配っていても。
救い出せずに、思念だけが胸を貫いていった子供たち。白いシャングリラに乗れなかった子。
そういう子たちを亡くした夜に、あの水音を聞いたのだった。水琴窟の音色に似た音を。
青の間にあった貯水槽。深い海の底を思わせるような部屋に満々と湛えられた水。悲しい気分になった時には、その貯水槽に続く階段を下りていた。部屋の奥から。
普段は係の者くらいしか下りない階段。それを下りていって、一番下の段に座って…。
(水を掬って…)
階段に腰掛けて、手に掬った水。貯水槽から。
水面に屈み込むのではなくて、サイオンを使って、両手に一杯。
サイオンで両手に満たした後には、その力を解いてしまうのが常。サイオンを使わずに手の中に留めようとしたって、水は溜まっていてはくれない。どんなに隙間なく指を重ねても、手のひらを強くくっつけ合っても。
どう頑張っても、手の中から滴り落ちてゆく水。指の隙間から、くっつけ合った手の間から。
滲み出しては水滴になって、貯水槽へと零れ落ちる水。救い損ねたミュウの子供の命のように。
両手一杯に水を満たしても、其処から水は漏れてゆく。一滴、また一滴と雫になって。
滴り落ちては水面に当たって、青の間の闇に澄んだ水音を響かせて。
(…ミュウの子供を、上手く救出できたって…)
首尾よく救って白いシャングリラに連れて来たって、その子供は運が良かっただけ。
間に合わずに救えなかった子供の方が多くて、この水のように滴り落ちる。シャングリラという名の箱舟に乗れずに、小さな命が消えてしまって。
(アルテメシアでさえ、そうなんだから…)
白いシャングリラが雲海に潜む、幸運な星がアルテメシア。ミュウの箱舟が浮かんでいる星。
其処にある二つの育英都市。アタラクシアとエネルゲイアに運んで来られたミュウの子供なら、助かる術もあるけれど。…白いシャングリラに救われるチャンスを持っているけれど。
(どの子供が何処に運ばれるかは…)
機械の判断次第なのだし、ミュウの子供が皆、アルテメシアに来るわけがない。何処の星でも、育英都市があるのならミュウの子供がいる筈。ミュウの箱舟は其処に無いのに、誰も救いに来てはくれないのに。…処分される時の最期の思念も、此処に届きはしないのに。
今日、殺されてしまった子供。助け出すことが出来ないままで。最期の思念だけを残して。
けれど、その子は「助かるチャンス」を持ってはいた。雲海の中にミュウの箱舟が潜む星だし、運が良ければ助かった子供。白いシャングリラに来られた子供。
それが出来ずに死んだ子供は可哀想だけれど、他の星でもミュウの子供は殺されている。助かるチャンスさえ貰えないままで、ミュウの箱舟が無い星で。
(他の星にも、ミュウの子供が此処と同じようにいるのなら…)
自分が、白いシャングリラが救える子供はほんの一部で、この手に一杯に満たした水のように、両手に一杯分のミュウの子供がいるというなら…。
(救い損ねて、落ちてった命…)
手のひらから滴り落ちる水。サイオンでそれを防がないなら、何処からか漏れて滲み出して。
青の間の闇に木霊する水滴の音。子供の命が落ちて行ったように、最期の思念が届いたように。
自分は悲鳴を聞いたけれども、最期の思念が自分の所に届いた子供は、ごく僅かだけ。
落ちて行った水の雫の分だけ、水面を震わせた音の分だけ。
アルテメシアで殺された子しか、シャングリラに思念は届かないから。彼らの悲鳴が胸を貫きはしないから。
(本当は、もっと沢山の命…)
それが喪われているのだろう。宇宙は広くて、育英都市も多いのだから。
いったい幾つ拾い損ねたことだろう。零れ落ちようとするミュウの子供の命を、銃を向けられ、泣き叫ぶ子供たちの命を。「助けて」と、「パパ、ママ!」と泣いた子たちの命を。
それらを拾い損ねた自分は、これからも拾い損ねるのだろう。ミュウの箱舟は此処に在るだけ、他の星の子を救う術など無いのだから。
(…助けられない命、一杯…)
そう思ったら、落ちてゆく水の音が悲しい。滴る音が、零れる雫が、救い出せずに消えていった子供の命のようで。「此処にいるよ」と、「此処にいたよ」と訴えるようで。
(…助けてあげられなくて、ごめんね…)
本当にごめん、と心で詫び続けながら、掬った水が全部落ちるまで、滴る音を聞いていた。
出来るだけ手から零さないよう、指を、手のひらを強く合わせて。
それでも零れてゆく水の音を、澄んだ水音を、まるで水琴窟の音を聞くかのように。
思い出した、と分かった音の正体。水琴窟に似ていた音。前の自分が聞いていた音。
(悲しい音だと思うわけだよ…)
あの音と同じだったなら、と胸の奥から湧き上がる悲しみ。「救えなかった」と。
ソルジャー・ブルーが、白いシャングリラが、救い損ねた大勢のミュウの子供たち。彼らの命が消えてゆく音、それが滴り落ちる水音。
前の自分の両手の中から、青の間の貯水槽へと落ちて響かせていた水の音。澄んだ水音は悲しい音で、確かに水琴窟に似ていた。…音の響きだけは美しかったから。
(忘れてたのに…)
青い地球の上に生まれ変わって、新しい命と身体を貰って、すっかり忘れ去っていたこと。前の自分が救えなかった沢山の命。深い悲しみの中で何度となく聞いた、滴り落ちる水の音のこと。
(…今頃になって思い出すなんて…)
ハーレイのせいだ、と噛んだ唇。母から「悲しくなったら、おやつをあげるわ」と優しい言葉を貰ったけれども、救い損ねた子供たちは、おやつも貰えなかった。
(おやつどころか、大好きなママに通報されちゃった子も…)
ホントに大勢いた筈だもの、と分かっているから、おやつを貰える気分ではない。幸せに生きる今の自分が、おやつを貰いに行くなんて…。
(あの子供たちに悪いんだから…)
申し訳なくて、とても出来ない。「ママ、おやつ!」と駆けてゆくなんて。悲しい気分になってしまったから、おやつが欲しいと頼むだなんて。
(今のぼくのママは、本物のママで…)
産んで育ててくれた母。前の自分が生きた時代の「ママ」より遥かに素晴らしい「ママ」。
そういう母を持っているのに、それで満足しないだなんて。「おやつをちょうだい」と強請りに行くなんて、ただの子どもの我儘でしかない。
悲しい気分になっていたって、殺されるわけではないのだから。…誰も殺しに来はしないから。
(そんな我儘、言えないよ…)
ママにおねだりなんて出来ない、とギュッと握る手。前の生の終わりに凍えた右の手。
こうして生きていられるだけでも幸運だから、と。
あの子供たちよりずっと幸せで、とても優しい「本物のママ」もいるんだから、と。
我慢しなくちゃ、と思うけれども、消えてくれない悲しい気持ち。水琴窟の音で蘇った記憶。
ハーレイがあれを聞かせるからだ、と八つ当たりしたい気分の所へ聞こえたチャイム。水琴窟の話を持ち出したハーレイが訪ねて来たものだから、向かい合うなりぶつけてやった。
仕事帰りの恋人に。テーブルを挟んで向かいに座ったハーレイに。
「ハーレイ、今日の水琴窟の音…」
「いい音だったろ?」
音のいいのを選んだんだぞ、と返った笑顔。こちらが文句を言う前に。本物はもっと素敵な音がするから、とハーレイは勘違いをしているらしい。「水琴窟に興味を持って貰えたようだ」と。
「いい音だなんて…。あんなの、ちっとも素敵じゃないから!」
本物なんか、どうでもいいよ。ぼくは聞きたいとも思わないもの…!
水琴窟なんか大嫌いだ、とハーレイにぶつけた自分の気持ち。あれは悲しい音なのだから。
「なんだ、どうした?」
いきなり何を怒っているんだ、あの音、嫌いだったのか?
オバケでも出そうな音に聞こえたか、洞窟の中だと似たような音もするもんだから…。
気味が悪いと思ったのか、とハーレイはまるで分っていない。今の自分ではないというのに。
「オバケじゃないよ、ぼくには悲しい音だったんだよ!」
最初は綺麗だと思っていたけど、急に悲しくなっちゃって…。
そしたら思い出しちゃったんだよ、水琴窟の音は、ぼくには悲しい音なんだ、って…!
「おいおい、何があったんだ?」
水琴窟に悲しい思い出だなんて、お前、いったい何をしたんだ?
キャンディーでも落としちまったのか、とハーレイが連想したことも今の自分と同じ。水琴窟で遊ぼうとして、何かを落とした子供時代。もちろん、今の自分の思い出のこと。
落っことしたものはキャンディーなのか、とハーレイは気の毒そうな顔。「そりゃ悪かった」と謝ってくれて、「お前、本物、知ってたのか」とも。
小さかった頃に遊びに出掛けて、とても悲しい目に遭ったんだな、と。
今のハーレイの勘違い。自分も似たようなことをしたから、仕方ないとは思うけれども、とても収まらない苛立ち。ハーレイのせいで悲しい思い出が蘇ったことは確かだから。
「悪かった」と謝られたって、謝る相手が違うから。
水琴窟の音が悲しいのは、自分ではなくてソルジャー・ブルーの記憶のせい。ハーレイが誰かに謝るとしたら、前の自分の方なのだから。
「ぼくは知らないってば、本物の水琴窟なんか…!」
水琴窟って言葉も知らなかったし、音を聞いたのも今日が初めて。
あの音が悲しいのは前のぼくだよ、前のぼくの記憶が「悲しい音だ」と思わせるんだよ…!
「…前のお前だと?」
ヒルマン、あんなのを作っていたか?
思い付くだけなら、エラってこともありそうだが…。シャングリラにあったか、水琴窟…?
キャプテンの俺は覚えていないが、と勘違いを続けているハーレイ。「何処の公園だ?」などと訊くから、本当に許せない気分。悲しい音をぼくに聞かせたくせに、と。
「公園じゃなくて…!」
青の間にあった貯水槽だよ、前のぼく、あそこで聞いてたんだよ…!
覚えているでしょ、前のぼくが貯水槽の側まで下りていたのは、どういう気分の時だったか。
部屋の奥にあった点検用の階段だけど、と付け加えた。「一番下に座ってた時」と。
「貯水槽に下りる階段か…。あったな、奥に」
悲しい時にはよく下りていたな、前のお前は。…姿が見えないと思ったら、あそこに座っていたもんだ。階段の一番下の所に。
俺も何度も一緒に座っていたっけな。お前の気分が落ち着くまで。…階段を上がって、上に戻る気になってくれるまで。
あそこで水音、聞いていたのか?
悲しい気分の時に聞いたら、悲しい音にもなっちまうよなあ…。普段は普通の音に聞こえても。
おまけにあそこは、音ってヤツがよく響くしな、とハーレイは自然に落ちる水滴の音だと思っているようだから。実際、たまに水音は響いていたものだから…。
何処かからポタリと滴り落ちて。水琴窟が鳴らす水音のように、澄んだ音色で。
その水音とは違うのに。…自然に滴る音だったならば、悲しい音にはならないのに…。
そうは思っても、前のハーレイも知らなかったこと。あそこで両手一杯の水を掬っていた時は、いつでも一人だったから。…ハーレイは隣にいなかったから。
八つ当たりしても仕方ない、と今のハーレイに語ることにした。悲しい音の正体を。
「…普通に落ちてた水じゃないんだよ、前のぼくがわざと鳴らしてた」
両手に一杯の水を掬って、その水が全部落ちていくまで…。指の間から落ちて無くなるまで。
頑張って零さないようにしてても、いつかは全部、落ちてしまうから。
何処かから少しずつ零れてしまって…、と明かした水音。悲しく響いていた水が滴る音。
「なんだって?」
前のお前が鳴らしてた、って…。手のひらの水が無くなるまでか?
ずいぶん時間がかかりそうだが、そうすることに意味があったのか…?
なんでまた…、と怪訝そうな顔のハーレイ。「わざと悲しい水音を立てていたなんて」と。
「いつもやってたわけじゃなくって、ミュウの子供を救い損なった時…」
救出するのが間に合わなくて、前のぼくにだけ最期の思念が届いた時とか。
そういう時にね、両手に一杯の水を掬ってみるんだよ。…あそこの階段の下に座って。
宇宙に生まれるミュウの子供は、きっとこのくらいいる筈だ、って…。
アルテメシアの他にも育英都市はあるから、其処でも育っていた筈だもの。ミュウの子供が。
その子供たちは助かるチャンスも持っていなくて、ぼくが救えるのはほんの一部だけ。
アルテメシアで見付かったミュウの子供だけでしょ、それも救助が間に合わないと無理。
両手に一杯の水の分だけミュウの子供が生まれていたって、全部は助けられないんだよ。ぼくの手から落ちて零れていくのが殆どだから…。
手のひらから水の雫が落ちていったら、子供の命が消えてくみたいで…。
最期の思念が届くみたいに、水の音が響いてくるんだよ。…水琴窟の音みたいにね。
綺麗だけれど、悲しい音、と零した溜息。「だから悲しい音なんだよ」と。
「うーむ…。前のお前がそういうことをなあ…」
そいつは俺も知らなかったぞ、出くわしたことが無かったから。
お前が手のひらに水を掬って落としているのを、俺は一度も見なかったから。
そうか、悲しい音だったのか…。水琴窟の音、前のお前にとっては。
綺麗な音だと思ったんだが、お前には悲しい音だったんだな…。
すまん、と謝ってくれたハーレイ。「気付かなかった俺が悪かった」と。
いい音だからと教室の生徒に聴かせていたのに、悲しい思いをさせちまったか、と。
「前のお前の悲しい記憶を呼び起こすとは思わなかったんだ。…全く知らなかったから」
水琴窟は日本の文化で、前の俺たちが生きた時代には無かったからな。
お前も喜んでくれるだろうと思っていたのに、逆になっちまうなんて、俺が迂闊だった。
どうすりゃいいかな、お詫びってヤツ。
悲しい思いをさせたらしいし、お前に謝りたいんだが…。
「お詫びだったら、今、聞いたよ?」
ぼくも八つ当たりしちゃっていたから、もう充分。ハーレイは悪くないんだもの。…前のぼくが一人でやってたことまで、ハーレイ、分かるわけないもんね…。
だからいいよ、と自分の方でも謝った。「八つ当たりしちゃって、ごめんね」と。
「いや…。お前の気持ちも分からんではない。前のお前のことなら分かっているからな」
どれほど辛い思いをしてたか、今の俺にも分かるんだ。水音がどんなに悲しく聞こえたのかも。
なのに、そいつと同じ音をだ、いい音のつもりで聴かせたからなあ…。
その埋め合わせに、何かお詫びをしてやりたいと思うわけだが…。
何かあったらいいんだがな、とハーレイが顎に手を当てるから、ここぞとばかりに強請ることにした。母におやつを強請りに行くのは気が引けたけれど、ハーレイならばいいだろう、と。
前の自分もハーレイと恋人同士だったから。…ハーレイには甘えていたのだから。
「じゃあ、お詫びに本物の水琴窟に連れて行ってよ」
ハーレイ、授業で言っていたでしょ、「本物の音を聞きに行くなら此処だ」って場所を二つ。
片方でいいから、ぼくを連れてって欲しいんだけど…。先生と生徒でかまわないから、水琴窟の勉強をしに。
本物の水琴窟の音を聞いたら、きっと悲しくなくなるから。今はいい音があるんだね、って。
庭で素敵な音がするよ、って嬉しくなると思うから…。
「そいつが一番の早道なんだろうとは思うが、先生と生徒と言ってもなあ…」
クラスの全員を連れて行くなら問題は無いが、お前と俺の二人きりだろう?
それじゃデートになっちまうから、連れては行けん。…お前とデートはまだ出来ないから。
本物の水琴窟は駄目だし…、とハーレイは暫く考え込んで、「そうだ」と何かを思い付いた顔。いいアイデアでもあるのだろうか、と鳶色の瞳を見詰めたら…。
「なあ、ブルー。…俺の歌で我慢してくれないか?」
「歌?」
キョトンと見開いてしまった瞳。お詫びはともかく、どうして歌になるのだろう?
「水琴窟は水が奏でる音だからなあ、名前の通りに水の琴だし」
音楽みたいだと思ったわけだな、昔の日本人たちは。それで名前が水琴窟だ。
俺は琴なんか弾けやしないし、代わりに何か聴かせてやろう。…俺の下手くそな歌で良ければ。
何か聴きたい歌はあるか、という申し出。ハーレイが歌ってくれるらしい。水琴窟が鳴らす音の代わりに、大好きでたまらない声で。
(ハーレイが歌ってくれるんだったら、スカボローフェアがいいのかな…?)
前の自分たちの思い出の恋歌、スカボローフェア。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを作った、ソルジャー・ブルー。そういうシャツを作ることが出来たら、本物の恋人だと歌う恋歌だから。…前の自分もハーレイの歌を聴いたから。
(…前のハーレイ、あのシャツを大事に持っててくれて…)
前の自分がいなくなった後も、ずっと大切にしていてくれた。何度もそっと撫で続けて。
スカボローフェアは懐かしい恋歌、それを聞きたい気もするけれども、「ゆりかごの歌」も素敵だろうか。眠り続ける前の自分に、ハーレイが歌ってくれた子守歌。赤いナスカで。
初めての自然出産児だったトォニィのために、探し出された古い歌。前の自分は眠りの中でも、ハーレイの歌を聴いていた。今の自分も「ゆりかごの歌」が一番好きな歌だったほどに。
(前のぼくのママの歌かと思っていたら、ハーレイが歌っていたんだっけ…)
そう聞かされた日に、ハーレイが庭で歌ってくれた。恥ずかしそうに「ゆりかごの歌」を。庭で一番大きな木の下、白いテーブルと椅子の所で。
(頼むんだったら、ゆりかごの歌かな…)
前の自分の悲しい思い出、水琴窟が奏でる音に似ていた音は、救えなかった子供たちの命を思う音だったから。
大勢のミュウの子供たち。おやつも強請れず、養父母たちに通報されたことも知らずに、彼らを呼びながら死んでいった子たち。「助けて」と、「パパ、ママ!」と最期の思念で。
あの子供たちのことを思い出したのだから、聴くのなら子守歌がいい。「ゆりかごの歌」なら、子供たちも喜びそうだから。…きっと喜んでくれるから。
それをリクエストして歌って貰って、ハーレイの歌声に聴き入った後で…。
「ありがとう、ハーレイ。…素敵な歌を歌ってくれて」
ゆりかごの歌は、今は人気の子守歌だけど…。あの子供たちも、地球に着けたかな?
前のぼくたちが助けられなかった、大勢のミュウの子供たち。…殺されちゃった子供たちも。
青い地球まで来られたかな、と尋ねてみたら。
「きっと着いたさ、俺たちよりもずっと先にな」
前と同じに育つ身体だとか、そんな贅沢は言わないだろうし…。うんと早くに。
本物のお母さんに産んで貰って、ゆりかごの歌を聴いて育って、水琴窟だって覗き込んで。
この地域に生まれた子供だったら、水琴窟にも行ったんじゃないか?
おやつを落っことして泣いたりしてな、とハーレイは笑う。「小さな子供にはありがちだ」と。
「水琴窟…。そうだといいな、小さな子供の遊び場じゃないらしいけど…」
ママが「お庭を見に行くだけで、遊び道具は何も無いわよ?」って言ってたけれど…。
水琴窟に行った子供もいるかな、日本に生まれて来た子だったら…?
「間違いなく行ったと思うがな?」
前のお前が聞いてたんだろ、水琴窟に似た音を。…子供たちのことを考えながら。
神様はちゃんと、前のお前の祈りを聞いてて下さった筈だと思うから…。日本に生まれた子供はもれなく水琴窟だな、「いい音がする」と水を掬って鳴らして遊んで。
お前もいつか本物の水琴窟に連れてってやる、とハーレイは約束してくれたから。
前の自分と同じ背丈に育った時には、水琴窟のある庭までデートに出掛けてゆこう。
ハーレイと二人で水琴窟の音を聴きに行ってみよう、今は悲しくない音を。
ミュウの子供たちはもう死なないから、水の音は悲しく響かないから。今は平和な世界だから。
(水琴窟…)
悲しい音だと思ったけれども、今のハーレイと一緒に音を聴けたらいい。
今は幸せな音がするねと、うんと素敵な水の音が、と。
前の自分の悲しい音が、幸せな音に変わればいい。今の時代だから聴ける、素敵な音に。
水の雫たちが奏で続ける、澄んだ響きの琴の音色に…。
悲しい音・了
※ハーレイが古典の授業で流した水琴窟の音。けれどブルーは、悲しい音だと感じたのです。
それはソルジャー・ブルーの記憶。救い損ねたミュウの子供たちを思いながら聞いた水の音。
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こいつだ、とハーレイが教室の前のボードに書いた文字。「水琴窟」と。
(水の琴…?)
何だろう、と首を傾げたブルー。それに「窟」の字、洞窟の中で奏でるための琴なのだろうか?
洞窟だったら、いい音が響きそうではある。水の琴がいったいどんな琴かは、まるで分からないままだけれども。
古典の授業でお馴染みの雑談、生徒たちの集中力を取り戻すために出される話題。楽しい話や、ためになる話。ハーレイの気分で中身は色々。
前のボードに書かれた三文字、「すいきんくつ」と書き添えられた振り仮名。
「水琴窟は昔の日本の文化だ。江戸時代に出来たと伝わってるな」
こういう仕組みになってるんだ、とハーレイが描いてゆく図解。
土の中に逆さに埋められた甕。底に穴を開けて。甕は空っぽ、水が溜まるように工夫をしてから埋めてゆく。周りに石を詰めていって。
遠い昔の庭の装飾、手水鉢の側にも作られたりした。手水鉢には水が要るから、其処から溢れた水を使って鳴らす音。甕の中に溜まった水と合わせて。
「こうやって甕を埋めておくとだ、甕の中に水が溜まるから…」
其処へ上から水が落ちると、その雫で音がするんだな。甕の中で木霊するように。
その音がとても綺麗だからと、「水琴窟」と呼ぶわけだ。
特別に音も聞かせてやろう、とハーレイが取り出した専用の機械。それが動いたら…。
ピチョーン、と教室に響いた音。澄み切った水の雫の音。
「本物の水琴窟の場合は、こんな大きな音には聞こえないんだが…」
その周りでだけ聞こえればいい、というのが水琴窟なんだ。
小さなものだと、音も小さくなるもんだから…。
音を聴くための竹筒を立てて、その側で耳を澄ませるってこともあったらしいぞ。
この教室の真ん中に水琴窟があったら、端のヤツらには聞こえないかもな。
いい音が鳴っているわけなんだが、途中ですっかり消えてしまって。
昔の日本の文化はそうだろ、華やかなものより控えめな方が人気だったから。
わびさびの世界というヤツで…、と紹介された水琴窟。遠い昔の日本の人たちが好んだ音。
お前たちもそれを暫く楽しんでみろ、と黙ったハーレイ。「一分間ほど静かに聴くように」と。
教室に流れる水琴窟の音。機械が流している音だけれど、水の雫が鳴らす音には違いない。
ピチョーン、コローン、と様々に響く水たちの音色。
(綺麗な音…)
溜まった水に落ちる水滴、それが奏でる澄んだ音。まさに水の琴。
水琴窟とは、本当によくも名付けたもの。それに仕掛けを思い付いたのも凄いと思う。
(日本って凄い…)
遠い昔の小さな島国、独自の文化を誇った国。他の国の人たちが魅せられたほどに。
こんな仕掛けも作ってたんだ、と驚かされた水琴窟。ほんの限られた所までしか届かないのに、その音を愛した日本人。竹筒を通して聴いたくらいに。
いい音だよね、と水琴窟が奏でる音色に聴き入っていたら…。
(え…?)
急に「悲しい」と思った自分。胸の奥から湧き上がって来た深い悲しみ。
とても綺麗な音だというのに、悲しい音のように聞こえる水琴窟。今もいい音がしているのに。
(なんで…?)
どうして悲しい音になるの、と思う間に、ハーレイが「ここまで」と止めた音。消えてしまった悲しい音。水琴窟の音色はもう聞こえない。
「もっとゆっくり聞きたいヤツは、本物を聞きに行くんだな」
この近くで水琴窟があるのは此処と此処だ、と挙げられた場所。水琴窟があるらしい庭園。昔の日本の文化の通りに作られた庭。
(…知らないよね?)
どちらにも自分は行ってはいない。行った記憶がまるで無いから。
それとも、覚えていないくらいに幼い頃に出掛けて…。
(遊ぼうとしてて、何か落っことしたとか?)
大事なおやつを水琴窟の側の地面に落とすとか。キャンディーとか、ソフトクリームとか。
地面に落として、食べられなくなってしまったのなら…。
悲しい音になりもするよね、と思った水琴窟の音。
大切なおやつが駄目になったのに、響き続ける水の音。おやつを落っことす前に自分が流した、水の雫を受け止めて。ピチョーン、コローン、と澄み切った音で。
(それって、とっても悲しいよね…?)
どんなにいい音がしていても。澄んだ水の琴が鳴り続けても。
水琴窟を鳴らそうとしたら、おやつを落としたのだから。小さな柄杓で水を掬って流した時に、落っことしてしまった大事なおやつ。…もう食べられない、駄目になったおやつ。
(ぼくのおやつは駄目になったのに、水琴窟は鳴っているんだから…)
きっとそれだ、と考えた音。「悲しい音だ」と思った理由。
まるで覚えていないけれども、小さかった頃に何かあったんだ、と。…水琴窟の側で。
そう納得して、戻った授業。ハーレイも「続きをやるぞ」とボードの文字を消したから。
授業の続きが始まったらもう、忘れてしまった水琴窟。悲しい音に聞こえたことも。
けれど、学校が終わって帰った家。
ダイニングでおやつを食べていた時に、思い出した水琴窟のこと。悲しい音に聞こえた水音。
(やっぱり、原因、おやつだよね…?)
小さな子供が悲しくなるなら、そのくらいしか思い付かない。水琴窟の側には水があるけれど、大切なオモチャを其処に落としはしないだろう。
(パパかママが預かってくれそうだから…)
オモチャだったら、落とさないように。幼い自分も素直に「お願い」と渡していそう。水の中に落ちたら、濡れてしまうということくらいは分かるから。
(でも、おやつだと…)
大丈夫、と言い張りそうなのが幼い子供。「落っことすわよ?」と言われても。
ソフトクリームを預けようとはまず思わないし、「預けたりしたら、食べられちゃう」と思っていそう。相手は優しい両親でも。
まして頬張っていたキャンディーだったら、預けようさえない代物。
(棒つきだったら、預けることも出来るけど…)
口に含んだキャンディーは無理。それを落としてしまっただろうか、水琴窟の側の地面に。水を流そうと屈んだはずみに、うっかり、ポトンと。
どう考えても、原因はおやつだろうから。きっとそうだという気がするから、通りかかった母を呼び止めて尋ねてみた。
「ママ、水琴窟っていうのを知ってる?」
地面の中に甕が埋まっていて、上から水を流したら音がするんだよ。中で響いて。
この辺りだと、此処と此処にあるって聞いたんだけど…、と伝えた場所。日本式だという庭園。
「知っているわよ、パパと行ったわ」
いい音がするのよ、水琴窟は。遠くまでは響かないけれど、とてもいい音。
「…ぼくは?」
ぼくもママたちと一緒に行ったの、と勢い込んで訊いたのに…。
「ブルーは生まれていなかったわねえ…」
あの頃だとママのお腹の中にも、いなかったんじゃないかしら?
パパとは結婚していたけれど、ブルーはまだだと思うわよ、というのが母の返事だから。
「本当に…?」
ぼくは生まれていなかったなんて、絶対に無いと思うんだけど…。
パパやママたちと行った筈なんだよ、水琴窟のある庭に。
だってね…、と母に話した、古典の時間に起こったこと。悲しい音のように聞こえた水琴窟。
原因は落としたおやつなんだと思う、と説明も。オモチャは預けるだろうから、と。
「あら、そうだった?」
ブルーも連れて行ったのかしらね、ママは覚えていないけど…。
小さな子供を連れて行っても、喜びそうな場所じゃないんだけれど…。あそこの庭は見るだけの場所で、遊べる道具が何も無いから。公園だったら色々あっても、お庭では…。
だから行ってはいないと思うわ、「つまらないよ」って言いそうだもの。
パパの友達を案内するとか、そういうので出掛けたにしても…。
ブルーが其処で泣き出したんなら、きっと忘れはしないわよ。「そうだったわ」って、聞いたら思い出す筈よ。
おやつを落として大変だったとか、泣き止むまでにとても時間がかかったとかね。
ママが忘れるわけがないわ、と母が言うのも一理ある。普段は忘れていたとしたって、水琴窟の側で泣いた筈だと聞かされたら思い出すだろう。
(…ぼく、行ってないの…?)
それじゃ何処で、と考え込んでいたら、「前のブルーの方じゃないの?」と母に問われた。
「ブルーはママのブルーだけれども、その前はソルジャー・ブルーでしょう?」
きっとソルジャー・ブルーだった頃に聞いたのよ。水琴窟の音を、何処かで。
ソルジャー・ブルーなら悲しい思い出も多そうだから、というのが母の推理だけれど。
「…水琴窟って、日本の文化だよ?」
前のぼくが生きてたような時代に、日本の文化は無い筈だから…。機械が消しちゃっていた世界だったから…。
水琴窟なんか、あるわけがないよ。何処を探しても。
「そういえばそうね…。日本の文化は、SD体制の時代には消されていた筈ね…」
でも、似たような音があったんじゃないの?
水琴窟にそっくりな音がするものだとか、水琴窟そのものがあっただとか…。
シャングリラにはユニークな人たちが多かったんでしょ、と微笑んだ母。
「ママは直接会っていないけれど、ブルーから色々聞いているわ」と。その中の誰かが水琴窟を作っていたかもしれないわよね、と。
「…シャングリラに水琴窟があったっていうの?」
それなら、悲しい音に聞こえちゃうこともあったかも…。
普段は「素敵な音だ」と思っていたって、悲しい気分で聞いていた日もありそうだから。
凄いね、ママ。…ママの推理は当たっていそう。水琴窟とか、そっくりな音がする何か…。
「どういたしまして。参考になったなら良かったわ」
後は頑張って思い出してね、シャングリラにあった水琴窟の音。
だけど、ママには話してくれなくてもかまわないわよ。…悲しい思い出みたいだから。
思い出したら、きっとブルーは悲しくなるもの。
おやつを落としたどころじゃないわよ、ソルジャー・ブルーの方ならね。
もしも悲しくなってしまったら、おやつでも食べに来なさいな。
特別に何か食べさせてあげるわ、晩御飯が入らなくならない程度に。…少しだけね。
いつまでも一人でしょげていちゃ駄目よ、と母に念を押されて戻った二階の自分の部屋。悲しい音を思い出したら、元気が出るように貰えるおやつ。…本当に元気が無くなったなら。
これで悲しい音も安心、と勉強机の前に座った。「音の正体を追い掛けよう」と。
水琴窟そのものか、水琴窟にそっくりな音がする何か。…シャングリラにあったらしいもの。
(ヒルマンかな…?)
そういう仕掛けを作ったとしたら、可能性が高いのがヒルマン。それに仕掛けがあった船なら、間違いなく白いシャングリラ。改造を終えて白い鯨になった船。
(水琴窟…)
今日のハーレイの雑談で教わった、綺麗な音がする仕組み。底に穴を開けた甕を地面に埋めて、中に溜まった水の上に落ちる雫の音を響かせる。
仕組みそのものは単純なのだし、日本風の甕が無くても壺で代用出来るだろう。水琴窟に使える壺が無ければ、白い鯨で作れた筈。「こういう壺を一つ」と専門の係に注文すれば。
ヒルマンならば好きそうなものが水琴窟。遠い昔の資料を見付けて、作ってみようと考えたって不思議ではない。思い付くだけなら、エラだって。
(…エラだと、自分で穴を掘ったりしないだろうから…)
きっとヒルマンに話を持ち掛け、船の仲間の力を借りる。「こういう仕掛けを作りたい」と。
船の仲間たちも、ああいう綺麗な音がするなら、大喜びで協力するだろう。穴を掘るのも、壺を埋めるのも、水を引いてくる作業なども。
(作るんだったら、公園だよね…?)
公園には木を植えていたのだし、充分な深さに敷かれていた土。大きな壺でも埋められる。水も当然、供給されるし、其処から引いてくればいいだけ。
小川が流れる公園だったら、その直ぐ側に作っておいたら水を引く手間が省けたろう。
(だけど、悲しい音…)
公園だったら、楽しい音になりそうなもの。悲しい音になるよりは。
気分が沈んでいた時だって、公園に行けば元気な子供たちがいた。はしゃぎ回る子供たちの中に混ぜて貰って、遊ぶ間に癒えていた心。
水琴窟の音が悲しく聞こえていたって、じきに素敵な楽しい音色に変わっただろう。子供たちと一緒に水を掬って、雫の音を聞いていたなら。水の琴で遊んでいたのなら。
好奇心の塊のような子供たち。水琴窟が公園にあれば、きっと鳴らして遊ぶ筈。水を掬う順番で喧嘩になったり、それは賑やかに騒ぎながら。
(…水琴窟の音、聞こえなくなってしまいそうだよ…)
大きな音はしないとハーレイの授業で聞いたし、子供たちの声にかき消されて。水の雫が奏でる音より、子供たちがはしゃぐ声の方がずっと大きくて…、と思った所で気が付いた。
その子供たちの音だったんだ、と。水琴窟の音が悲しい音になるのは、子供たちの記憶に繋がる音だったから。…とても悲しくて、寂しく響いた水の雫の音だったから…。
(ぼくたちが助けた子供だけしか…)
シャングリラには来られなかった。白い箱舟には乗り込めなかった。
養父母たちに通報されたりした子供たち。「この子は変だ」と、ユニバーサルに。直ちに始まるミュウかどうかを調べる調査。場合によっては、その場で処分された子供も。
前の自分も、救助班の者たちも頑張ったけれど、助け損ねた子も多かった。悲鳴が届いた時には手遅れ、それがその子の最期の思念。「助けて」だとか、「パパ、ママ!」だとか。
(他のみんなには聞こえなくても、前のぼくには…)
子供たちの最期の声が聞こえた。銃口を向けられ、助けを求めた子供たち。自分を通報したのが養父母たちとも知らずに、「パパ、ママ!」と。泣き叫ぶように、「助けて」と。
それきり消えてしまった思念。…その子の命は潰えたから。
飛び出して行っても、もう亡骸しか残ってはいない幼い子供。シャングリラに乗れずに終わってしまった、無垢な魂。もしも自分が気付いていたなら、救い出すことが出来ただろうに。
(…青の間から思念で探っていても…)
見付け出せないミュウの子は多い。
サイオンが強い子供だったら「あの子はミュウだ」と分かるけれども、サイオンが弱い子供だと無理。シャングリラから探るだけでは、気配も感じないのだから。
(外に出た時に気を付けてたって…)
やはり見落とす子供たち。
微弱なサイオンを持つだけだったら、それを掴むのは難しい。育英都市に送り込んでいた潜入班でも、強い子供しか見付けられない。どんなに注意して気を配っていても。
救い出せずに、思念だけが胸を貫いていった子供たち。白いシャングリラに乗れなかった子。
そういう子たちを亡くした夜に、あの水音を聞いたのだった。水琴窟の音色に似た音を。
青の間にあった貯水槽。深い海の底を思わせるような部屋に満々と湛えられた水。悲しい気分になった時には、その貯水槽に続く階段を下りていた。部屋の奥から。
普段は係の者くらいしか下りない階段。それを下りていって、一番下の段に座って…。
(水を掬って…)
階段に腰掛けて、手に掬った水。貯水槽から。
水面に屈み込むのではなくて、サイオンを使って、両手に一杯。
サイオンで両手に満たした後には、その力を解いてしまうのが常。サイオンを使わずに手の中に留めようとしたって、水は溜まっていてはくれない。どんなに隙間なく指を重ねても、手のひらを強くくっつけ合っても。
どう頑張っても、手の中から滴り落ちてゆく水。指の隙間から、くっつけ合った手の間から。
滲み出しては水滴になって、貯水槽へと零れ落ちる水。救い損ねたミュウの子供の命のように。
両手一杯に水を満たしても、其処から水は漏れてゆく。一滴、また一滴と雫になって。
滴り落ちては水面に当たって、青の間の闇に澄んだ水音を響かせて。
(…ミュウの子供を、上手く救出できたって…)
首尾よく救って白いシャングリラに連れて来たって、その子供は運が良かっただけ。
間に合わずに救えなかった子供の方が多くて、この水のように滴り落ちる。シャングリラという名の箱舟に乗れずに、小さな命が消えてしまって。
(アルテメシアでさえ、そうなんだから…)
白いシャングリラが雲海に潜む、幸運な星がアルテメシア。ミュウの箱舟が浮かんでいる星。
其処にある二つの育英都市。アタラクシアとエネルゲイアに運んで来られたミュウの子供なら、助かる術もあるけれど。…白いシャングリラに救われるチャンスを持っているけれど。
(どの子供が何処に運ばれるかは…)
機械の判断次第なのだし、ミュウの子供が皆、アルテメシアに来るわけがない。何処の星でも、育英都市があるのならミュウの子供がいる筈。ミュウの箱舟は其処に無いのに、誰も救いに来てはくれないのに。…処分される時の最期の思念も、此処に届きはしないのに。
今日、殺されてしまった子供。助け出すことが出来ないままで。最期の思念だけを残して。
けれど、その子は「助かるチャンス」を持ってはいた。雲海の中にミュウの箱舟が潜む星だし、運が良ければ助かった子供。白いシャングリラに来られた子供。
それが出来ずに死んだ子供は可哀想だけれど、他の星でもミュウの子供は殺されている。助かるチャンスさえ貰えないままで、ミュウの箱舟が無い星で。
(他の星にも、ミュウの子供が此処と同じようにいるのなら…)
自分が、白いシャングリラが救える子供はほんの一部で、この手に一杯に満たした水のように、両手に一杯分のミュウの子供がいるというなら…。
(救い損ねて、落ちてった命…)
手のひらから滴り落ちる水。サイオンでそれを防がないなら、何処からか漏れて滲み出して。
青の間の闇に木霊する水滴の音。子供の命が落ちて行ったように、最期の思念が届いたように。
自分は悲鳴を聞いたけれども、最期の思念が自分の所に届いた子供は、ごく僅かだけ。
落ちて行った水の雫の分だけ、水面を震わせた音の分だけ。
アルテメシアで殺された子しか、シャングリラに思念は届かないから。彼らの悲鳴が胸を貫きはしないから。
(本当は、もっと沢山の命…)
それが喪われているのだろう。宇宙は広くて、育英都市も多いのだから。
いったい幾つ拾い損ねたことだろう。零れ落ちようとするミュウの子供の命を、銃を向けられ、泣き叫ぶ子供たちの命を。「助けて」と、「パパ、ママ!」と泣いた子たちの命を。
それらを拾い損ねた自分は、これからも拾い損ねるのだろう。ミュウの箱舟は此処に在るだけ、他の星の子を救う術など無いのだから。
(…助けられない命、一杯…)
そう思ったら、落ちてゆく水の音が悲しい。滴る音が、零れる雫が、救い出せずに消えていった子供の命のようで。「此処にいるよ」と、「此処にいたよ」と訴えるようで。
(…助けてあげられなくて、ごめんね…)
本当にごめん、と心で詫び続けながら、掬った水が全部落ちるまで、滴る音を聞いていた。
出来るだけ手から零さないよう、指を、手のひらを強く合わせて。
それでも零れてゆく水の音を、澄んだ水音を、まるで水琴窟の音を聞くかのように。
思い出した、と分かった音の正体。水琴窟に似ていた音。前の自分が聞いていた音。
(悲しい音だと思うわけだよ…)
あの音と同じだったなら、と胸の奥から湧き上がる悲しみ。「救えなかった」と。
ソルジャー・ブルーが、白いシャングリラが、救い損ねた大勢のミュウの子供たち。彼らの命が消えてゆく音、それが滴り落ちる水音。
前の自分の両手の中から、青の間の貯水槽へと落ちて響かせていた水の音。澄んだ水音は悲しい音で、確かに水琴窟に似ていた。…音の響きだけは美しかったから。
(忘れてたのに…)
青い地球の上に生まれ変わって、新しい命と身体を貰って、すっかり忘れ去っていたこと。前の自分が救えなかった沢山の命。深い悲しみの中で何度となく聞いた、滴り落ちる水の音のこと。
(…今頃になって思い出すなんて…)
ハーレイのせいだ、と噛んだ唇。母から「悲しくなったら、おやつをあげるわ」と優しい言葉を貰ったけれども、救い損ねた子供たちは、おやつも貰えなかった。
(おやつどころか、大好きなママに通報されちゃった子も…)
ホントに大勢いた筈だもの、と分かっているから、おやつを貰える気分ではない。幸せに生きる今の自分が、おやつを貰いに行くなんて…。
(あの子供たちに悪いんだから…)
申し訳なくて、とても出来ない。「ママ、おやつ!」と駆けてゆくなんて。悲しい気分になってしまったから、おやつが欲しいと頼むだなんて。
(今のぼくのママは、本物のママで…)
産んで育ててくれた母。前の自分が生きた時代の「ママ」より遥かに素晴らしい「ママ」。
そういう母を持っているのに、それで満足しないだなんて。「おやつをちょうだい」と強請りに行くなんて、ただの子どもの我儘でしかない。
悲しい気分になっていたって、殺されるわけではないのだから。…誰も殺しに来はしないから。
(そんな我儘、言えないよ…)
ママにおねだりなんて出来ない、とギュッと握る手。前の生の終わりに凍えた右の手。
こうして生きていられるだけでも幸運だから、と。
あの子供たちよりずっと幸せで、とても優しい「本物のママ」もいるんだから、と。
我慢しなくちゃ、と思うけれども、消えてくれない悲しい気持ち。水琴窟の音で蘇った記憶。
ハーレイがあれを聞かせるからだ、と八つ当たりしたい気分の所へ聞こえたチャイム。水琴窟の話を持ち出したハーレイが訪ねて来たものだから、向かい合うなりぶつけてやった。
仕事帰りの恋人に。テーブルを挟んで向かいに座ったハーレイに。
「ハーレイ、今日の水琴窟の音…」
「いい音だったろ?」
音のいいのを選んだんだぞ、と返った笑顔。こちらが文句を言う前に。本物はもっと素敵な音がするから、とハーレイは勘違いをしているらしい。「水琴窟に興味を持って貰えたようだ」と。
「いい音だなんて…。あんなの、ちっとも素敵じゃないから!」
本物なんか、どうでもいいよ。ぼくは聞きたいとも思わないもの…!
水琴窟なんか大嫌いだ、とハーレイにぶつけた自分の気持ち。あれは悲しい音なのだから。
「なんだ、どうした?」
いきなり何を怒っているんだ、あの音、嫌いだったのか?
オバケでも出そうな音に聞こえたか、洞窟の中だと似たような音もするもんだから…。
気味が悪いと思ったのか、とハーレイはまるで分っていない。今の自分ではないというのに。
「オバケじゃないよ、ぼくには悲しい音だったんだよ!」
最初は綺麗だと思っていたけど、急に悲しくなっちゃって…。
そしたら思い出しちゃったんだよ、水琴窟の音は、ぼくには悲しい音なんだ、って…!
「おいおい、何があったんだ?」
水琴窟に悲しい思い出だなんて、お前、いったい何をしたんだ?
キャンディーでも落としちまったのか、とハーレイが連想したことも今の自分と同じ。水琴窟で遊ぼうとして、何かを落とした子供時代。もちろん、今の自分の思い出のこと。
落っことしたものはキャンディーなのか、とハーレイは気の毒そうな顔。「そりゃ悪かった」と謝ってくれて、「お前、本物、知ってたのか」とも。
小さかった頃に遊びに出掛けて、とても悲しい目に遭ったんだな、と。
今のハーレイの勘違い。自分も似たようなことをしたから、仕方ないとは思うけれども、とても収まらない苛立ち。ハーレイのせいで悲しい思い出が蘇ったことは確かだから。
「悪かった」と謝られたって、謝る相手が違うから。
水琴窟の音が悲しいのは、自分ではなくてソルジャー・ブルーの記憶のせい。ハーレイが誰かに謝るとしたら、前の自分の方なのだから。
「ぼくは知らないってば、本物の水琴窟なんか…!」
水琴窟って言葉も知らなかったし、音を聞いたのも今日が初めて。
あの音が悲しいのは前のぼくだよ、前のぼくの記憶が「悲しい音だ」と思わせるんだよ…!
「…前のお前だと?」
ヒルマン、あんなのを作っていたか?
思い付くだけなら、エラってこともありそうだが…。シャングリラにあったか、水琴窟…?
キャプテンの俺は覚えていないが、と勘違いを続けているハーレイ。「何処の公園だ?」などと訊くから、本当に許せない気分。悲しい音をぼくに聞かせたくせに、と。
「公園じゃなくて…!」
青の間にあった貯水槽だよ、前のぼく、あそこで聞いてたんだよ…!
覚えているでしょ、前のぼくが貯水槽の側まで下りていたのは、どういう気分の時だったか。
部屋の奥にあった点検用の階段だけど、と付け加えた。「一番下に座ってた時」と。
「貯水槽に下りる階段か…。あったな、奥に」
悲しい時にはよく下りていたな、前のお前は。…姿が見えないと思ったら、あそこに座っていたもんだ。階段の一番下の所に。
俺も何度も一緒に座っていたっけな。お前の気分が落ち着くまで。…階段を上がって、上に戻る気になってくれるまで。
あそこで水音、聞いていたのか?
悲しい気分の時に聞いたら、悲しい音にもなっちまうよなあ…。普段は普通の音に聞こえても。
おまけにあそこは、音ってヤツがよく響くしな、とハーレイは自然に落ちる水滴の音だと思っているようだから。実際、たまに水音は響いていたものだから…。
何処かからポタリと滴り落ちて。水琴窟が鳴らす水音のように、澄んだ音色で。
その水音とは違うのに。…自然に滴る音だったならば、悲しい音にはならないのに…。
そうは思っても、前のハーレイも知らなかったこと。あそこで両手一杯の水を掬っていた時は、いつでも一人だったから。…ハーレイは隣にいなかったから。
八つ当たりしても仕方ない、と今のハーレイに語ることにした。悲しい音の正体を。
「…普通に落ちてた水じゃないんだよ、前のぼくがわざと鳴らしてた」
両手に一杯の水を掬って、その水が全部落ちていくまで…。指の間から落ちて無くなるまで。
頑張って零さないようにしてても、いつかは全部、落ちてしまうから。
何処かから少しずつ零れてしまって…、と明かした水音。悲しく響いていた水が滴る音。
「なんだって?」
前のお前が鳴らしてた、って…。手のひらの水が無くなるまでか?
ずいぶん時間がかかりそうだが、そうすることに意味があったのか…?
なんでまた…、と怪訝そうな顔のハーレイ。「わざと悲しい水音を立てていたなんて」と。
「いつもやってたわけじゃなくって、ミュウの子供を救い損なった時…」
救出するのが間に合わなくて、前のぼくにだけ最期の思念が届いた時とか。
そういう時にね、両手に一杯の水を掬ってみるんだよ。…あそこの階段の下に座って。
宇宙に生まれるミュウの子供は、きっとこのくらいいる筈だ、って…。
アルテメシアの他にも育英都市はあるから、其処でも育っていた筈だもの。ミュウの子供が。
その子供たちは助かるチャンスも持っていなくて、ぼくが救えるのはほんの一部だけ。
アルテメシアで見付かったミュウの子供だけでしょ、それも救助が間に合わないと無理。
両手に一杯の水の分だけミュウの子供が生まれていたって、全部は助けられないんだよ。ぼくの手から落ちて零れていくのが殆どだから…。
手のひらから水の雫が落ちていったら、子供の命が消えてくみたいで…。
最期の思念が届くみたいに、水の音が響いてくるんだよ。…水琴窟の音みたいにね。
綺麗だけれど、悲しい音、と零した溜息。「だから悲しい音なんだよ」と。
「うーむ…。前のお前がそういうことをなあ…」
そいつは俺も知らなかったぞ、出くわしたことが無かったから。
お前が手のひらに水を掬って落としているのを、俺は一度も見なかったから。
そうか、悲しい音だったのか…。水琴窟の音、前のお前にとっては。
綺麗な音だと思ったんだが、お前には悲しい音だったんだな…。
すまん、と謝ってくれたハーレイ。「気付かなかった俺が悪かった」と。
いい音だからと教室の生徒に聴かせていたのに、悲しい思いをさせちまったか、と。
「前のお前の悲しい記憶を呼び起こすとは思わなかったんだ。…全く知らなかったから」
水琴窟は日本の文化で、前の俺たちが生きた時代には無かったからな。
お前も喜んでくれるだろうと思っていたのに、逆になっちまうなんて、俺が迂闊だった。
どうすりゃいいかな、お詫びってヤツ。
悲しい思いをさせたらしいし、お前に謝りたいんだが…。
「お詫びだったら、今、聞いたよ?」
ぼくも八つ当たりしちゃっていたから、もう充分。ハーレイは悪くないんだもの。…前のぼくが一人でやってたことまで、ハーレイ、分かるわけないもんね…。
だからいいよ、と自分の方でも謝った。「八つ当たりしちゃって、ごめんね」と。
「いや…。お前の気持ちも分からんではない。前のお前のことなら分かっているからな」
どれほど辛い思いをしてたか、今の俺にも分かるんだ。水音がどんなに悲しく聞こえたのかも。
なのに、そいつと同じ音をだ、いい音のつもりで聴かせたからなあ…。
その埋め合わせに、何かお詫びをしてやりたいと思うわけだが…。
何かあったらいいんだがな、とハーレイが顎に手を当てるから、ここぞとばかりに強請ることにした。母におやつを強請りに行くのは気が引けたけれど、ハーレイならばいいだろう、と。
前の自分もハーレイと恋人同士だったから。…ハーレイには甘えていたのだから。
「じゃあ、お詫びに本物の水琴窟に連れて行ってよ」
ハーレイ、授業で言っていたでしょ、「本物の音を聞きに行くなら此処だ」って場所を二つ。
片方でいいから、ぼくを連れてって欲しいんだけど…。先生と生徒でかまわないから、水琴窟の勉強をしに。
本物の水琴窟の音を聞いたら、きっと悲しくなくなるから。今はいい音があるんだね、って。
庭で素敵な音がするよ、って嬉しくなると思うから…。
「そいつが一番の早道なんだろうとは思うが、先生と生徒と言ってもなあ…」
クラスの全員を連れて行くなら問題は無いが、お前と俺の二人きりだろう?
それじゃデートになっちまうから、連れては行けん。…お前とデートはまだ出来ないから。
本物の水琴窟は駄目だし…、とハーレイは暫く考え込んで、「そうだ」と何かを思い付いた顔。いいアイデアでもあるのだろうか、と鳶色の瞳を見詰めたら…。
「なあ、ブルー。…俺の歌で我慢してくれないか?」
「歌?」
キョトンと見開いてしまった瞳。お詫びはともかく、どうして歌になるのだろう?
「水琴窟は水が奏でる音だからなあ、名前の通りに水の琴だし」
音楽みたいだと思ったわけだな、昔の日本人たちは。それで名前が水琴窟だ。
俺は琴なんか弾けやしないし、代わりに何か聴かせてやろう。…俺の下手くそな歌で良ければ。
何か聴きたい歌はあるか、という申し出。ハーレイが歌ってくれるらしい。水琴窟が鳴らす音の代わりに、大好きでたまらない声で。
(ハーレイが歌ってくれるんだったら、スカボローフェアがいいのかな…?)
前の自分たちの思い出の恋歌、スカボローフェア。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを作った、ソルジャー・ブルー。そういうシャツを作ることが出来たら、本物の恋人だと歌う恋歌だから。…前の自分もハーレイの歌を聴いたから。
(…前のハーレイ、あのシャツを大事に持っててくれて…)
前の自分がいなくなった後も、ずっと大切にしていてくれた。何度もそっと撫で続けて。
スカボローフェアは懐かしい恋歌、それを聞きたい気もするけれども、「ゆりかごの歌」も素敵だろうか。眠り続ける前の自分に、ハーレイが歌ってくれた子守歌。赤いナスカで。
初めての自然出産児だったトォニィのために、探し出された古い歌。前の自分は眠りの中でも、ハーレイの歌を聴いていた。今の自分も「ゆりかごの歌」が一番好きな歌だったほどに。
(前のぼくのママの歌かと思っていたら、ハーレイが歌っていたんだっけ…)
そう聞かされた日に、ハーレイが庭で歌ってくれた。恥ずかしそうに「ゆりかごの歌」を。庭で一番大きな木の下、白いテーブルと椅子の所で。
(頼むんだったら、ゆりかごの歌かな…)
前の自分の悲しい思い出、水琴窟が奏でる音に似ていた音は、救えなかった子供たちの命を思う音だったから。
大勢のミュウの子供たち。おやつも強請れず、養父母たちに通報されたことも知らずに、彼らを呼びながら死んでいった子たち。「助けて」と、「パパ、ママ!」と最期の思念で。
あの子供たちのことを思い出したのだから、聴くのなら子守歌がいい。「ゆりかごの歌」なら、子供たちも喜びそうだから。…きっと喜んでくれるから。
それをリクエストして歌って貰って、ハーレイの歌声に聴き入った後で…。
「ありがとう、ハーレイ。…素敵な歌を歌ってくれて」
ゆりかごの歌は、今は人気の子守歌だけど…。あの子供たちも、地球に着けたかな?
前のぼくたちが助けられなかった、大勢のミュウの子供たち。…殺されちゃった子供たちも。
青い地球まで来られたかな、と尋ねてみたら。
「きっと着いたさ、俺たちよりもずっと先にな」
前と同じに育つ身体だとか、そんな贅沢は言わないだろうし…。うんと早くに。
本物のお母さんに産んで貰って、ゆりかごの歌を聴いて育って、水琴窟だって覗き込んで。
この地域に生まれた子供だったら、水琴窟にも行ったんじゃないか?
おやつを落っことして泣いたりしてな、とハーレイは笑う。「小さな子供にはありがちだ」と。
「水琴窟…。そうだといいな、小さな子供の遊び場じゃないらしいけど…」
ママが「お庭を見に行くだけで、遊び道具は何も無いわよ?」って言ってたけれど…。
水琴窟に行った子供もいるかな、日本に生まれて来た子だったら…?
「間違いなく行ったと思うがな?」
前のお前が聞いてたんだろ、水琴窟に似た音を。…子供たちのことを考えながら。
神様はちゃんと、前のお前の祈りを聞いてて下さった筈だと思うから…。日本に生まれた子供はもれなく水琴窟だな、「いい音がする」と水を掬って鳴らして遊んで。
お前もいつか本物の水琴窟に連れてってやる、とハーレイは約束してくれたから。
前の自分と同じ背丈に育った時には、水琴窟のある庭までデートに出掛けてゆこう。
ハーレイと二人で水琴窟の音を聴きに行ってみよう、今は悲しくない音を。
ミュウの子供たちはもう死なないから、水の音は悲しく響かないから。今は平和な世界だから。
(水琴窟…)
悲しい音だと思ったけれども、今のハーレイと一緒に音を聴けたらいい。
今は幸せな音がするねと、うんと素敵な水の音が、と。
前の自分の悲しい音が、幸せな音に変わればいい。今の時代だから聴ける、素敵な音に。
水の雫たちが奏で続ける、澄んだ響きの琴の音色に…。
悲しい音・了
※ハーレイが古典の授業で流した水琴窟の音。けれどブルーは、悲しい音だと感じたのです。
それはソルジャー・ブルーの記憶。救い損ねたミュウの子供たちを思いながら聞いた水の音。
(超新星…)
あったっけね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
超新星、いわゆるスーパー・ノヴァ。寿命を迎えた恒星が最後に起こす爆発。一つの星が起こす大爆発だし、人間が思う「爆発」とは違いすぎるスケール。規模も、衝撃などが広がる範囲も。
今の時代は予測可能で、出現前に避けることが出来る、超新星が現れる宙域。
爆発したなら、宇宙船などには危険だから。爆発に巻き込まれることはもちろん、他にも様々な障害が起きる。通信が繋がらなくなってしまうとか、機器に故障が出るだとか。
そうならないように、避けて飛ぶよう出される指示。影響が出そうな範囲に資源採掘基地などがあれば、撤退させる命令だって。一時退避や、場合によっては基地の放棄も。
(前のぼくたちが生きた頃にも…)
出現の予測は可能だったけれど、それよりも遥か昔のこと。
人間が地球しか知らなかった時代、宇宙の仕組みもまるで分かっていなかった頃。太陽は地球の周りを回っていると信じて疑わなかった時代は、予測どころか星の爆発だとも思わなかった。
ある日いきなり夜空に明るい星が現れるから、新しい星だと思った人間。
前の自分たちが生きた時代にも残った唯一の神が、ベツレヘムの馬小屋で生まれた時にも…。
(夜空に星が現れた、って…)
光り輝く星に導かれて、馬小屋で眠る赤ん坊を訪ねて行った者たち。羊飼いやら、遠い国でその星を見付けた三人の博士。
その時の星も超新星だろうと早い時代から言われていた。他にも超新星の記録は色々、日本でも日記に書き残していた貴族が一人。
遠い昔は、珍しかったスーパー・ノヴァ。
滅多に現れることが無いから、現れた時は観測のチャンス。宇宙の仕組みを調べようと挑んだ、宇宙へ目を向け始めた時代の人間たち。
その時代には、まだ人間は月までしか行っていなかったけれど。
今はお馴染みの火星でさえも、観測用の機械を載せている船を送り込むのが精一杯。それでも、超新星の仕組みだけはもう知っていた。
新しく生まれる星ではないと、星が最後に大爆発を起こして輝くのだと。
超新星が現れる理由を人間たちが掴んだ時代は、銀河系から離れた星を観測していた。超新星が現れたから、と天文台やら、宇宙から飛んでくる粒子を捉えるための施設を総動員して。
それが今では、超新星の出現を予測する時代。「其処は避けろ」と宇宙船などに予報まで。
(銀河系だけでも…)
何十年かに一度は現れる超新星。昔の人間が夜空を仰いだ頃には、それは珍しかったのに。
けれど「増えた」というわけではない。地球が浮かんでいるソル太陽系、其処からは星の爆発が見えなかっただけ。星間物質に邪魔されたりして。
今の時代は銀河系から離れた宇宙に行く船もあるから、超新星の爆発は生きている間に耳にするニュース。「爆発するから、撤退命令が出ているらしい」といった具合に。
その上、人間は誰もがミュウだし、寿命が長いものだから…。どんな人でも、一生の間に何度か出会う。運が良ければ、地球から見える超新星に出会える人も。
(超新星、何処かに出そうなの?)
もしかして地球から見えるのかな、と抱いた夢。自分が住んでいる地域の夜空に、じきに明るい新しい星が出来るとか。
(最初はとても明るくて…)
それが爆発した瞬間。何光年も離れた所で起こるのだから、地球の夜空に輝くまでには何年も。その星までの距離の分だけ、待たないと見られない超新星。
突然夜空に生まれた星は、少しずつ輝きを失っていって、やがて見えなくなるけれど。そういう星が出来るのだろうか、近い間に?
(ぼくが生まれる前の爆発なら…)
超新星のニュースを知るわけがないし、地球で見られるのは何年後なのかも知る筈がない。遠い何処かで爆発した星、それがもうすぐ見えますよ、という記事かと期待したのだけれど。
ワクワクしながら文字を追い掛けたけれど、残念なことにただの読み物。
どうして超新星と呼ぶのか、昔はどういう扱いだったか。
人間が地球しか知らなかった時代に、ついた名前が超新星。「新しい星だ」と思われていた頃、夜空を観察していた何人もの人たちへの思いをこめて。
遠い昔に、不吉な兆しだと思った人やら、素晴らしいことが起こると感激した人やら。超新星の仕組みを知らなかったから、いきなり生まれた星を見上げて、思いは色々。
ふうん、と読み終えて戻った二階の自分の部屋。空になったお皿やカップを母に返してから。
勉強机の前に座って、さっきの記事を思い返した。恒星の爆発で夜空に生まれる星。
ずいぶん昔から、人間はそれを眺めていた。古い時代の記録に残った、超新星。今は現れる前に予測可能な、スーパー・ノヴァ。
(地球の太陽は…)
あの記事によると、超新星にはなれないらしい。恒星はどれも太陽だけれど、種類は様々。同じ太陽でも違う大きさ、それに重量。
地球があるソル太陽系の場合は、大きいようでも恒星としては小さめになる。この地球からは、充分に明るく見えるのに。夏になったら、暑すぎるくらいに眩しいのに。
それでも恒星の中では小さめ、太陽が寿命を迎えた時には、重量不足で赤色巨星になるという。超新星になる星と同じに膨らんでゆくのだけれども、爆発はしない。
膨らんだ後は縮み始めて、うんと小さくなっておしまい。もう輝かない星になってしまって。
とはいえ、その日は遥か先のこと。太陽が生まれてから今までの年数、それと同じほどの歳月が流れ去らない限りは、寿命は来ない。
(まだまだ長持ち…)
たっぷりとある地球の太陽の寿命。何億年どころか、何十億年。
まるで想像もつかない年月、太陽は元気に輝き続ける。滅びを迎える日までは遠い。赤色巨星になってしまう日は、まだずっと先。
太陽がちゃんと空にあるなら、ハーレイと何度でも地球に来られる。この青い地球に。青く輝く澄んだ水の星、太陽が生んだ奇跡の星に。
(ハーレイと一緒に、うんと沢山…)
生まれ変わって地球にやって来ては、あれもこれも、と大きく膨らませる夢。
今の自分は前の自分が地球に描いた夢を端から叶えてゆくから、それで満足だろう人生。沢山の夢が地球で叶ったと、とても幸せな人生だったと。
(そうやってハーレイと生きてた間に、また新しい夢…)
きっと幾つも出来るだろうから、叶える前に寿命が尽きたら、次の人生で夢を叶える。また青い地球に生まれ変わって、ハーレイと出会って、結婚して。
うんと沢山楽しめるよ、と思った人生。何十億年もある太陽の寿命、その間には次のチャンスも何度でも。前とそっくりに育つ身体と新しい命、それを地球の上で貰って生きて。
今の自分たちの待ち時間はかなり長かったけれど、同じように待つことになったって。また青い地球に生まれるためには、同じくらい待つよう神様に言われても、大丈夫。
なんと言っても、太陽の寿命は何十億年もあるんだものね、と考えたけれど。何回だって地球に来られる、と夢を描いていたのだけれど。
(えっと…?)
その太陽がいつか滅びる時。寿命を迎えて膨らみ始めて、赤色巨星になってしまう時。
さっき新聞で読んだ記事では、この地球どころか、火星の軌道までが膨らみ続ける太陽の中に、すっかり飲まれるらしいから…。
(太陽に飲まれてしまうより前に、地球に住めなくなっちゃうよ…)
今でも暑く感じる太陽、それが膨らんで近くなったら。地球にどんどん近付いて来たら。
何十億年も先だけれども、いずれ滅びてしまう地球。
太陽が輝きを失うよりも前に、その熱で青い海を失い、陸地も焼かれて砂漠になる。緑の欠片も残らなくなって、やがて太陽に飲み込まれてゆく地球。膨らみ続ける赤色巨星に。
(大変…!)
無くなっちゃうんだ、と慌てた地球。前の自分が焦がれた星。今の自分が住んでいる星。
何度でも地球に来たいと思っているのに、何度でも来るつもりなのに。…その青い地球が消えてしまった時には、何処へ行けばいいというのだろう?
いつか太陽に飲み込まれる地球。その前に人が住めなくなる地球。太陽に全て焼き尽くされて。
そうなったならば、もはや何処にも無い地球。前の自分が焦がれ続けた青い星。
ハーレイと二人で生まれ変われる、この青い地球が無くなったなら…。
(ぼくたち、もう生まれ変わることは出来ないの…?)
生まれ変わる先が無いのだったら、そういうことになるかもしれない。
今の自分が地球に生まれてくるよりも前に、いただろう何処か。きっとハーレイと片時も離れず二人一緒で、生まれ変われる時を待っていた場所。
其処で永遠に足止めだろうか、生まれ変われないから出られなくなって。青い地球はもう消えてしまって、受け入れてくれはしないから。
そうなるのかも、と気付いたこと。何十億年も先だけれども、宇宙から青い地球が消えたら…。
生まれ変われる場所が無いから、ハーレイと二人で食らう足止め。其処から出られない何処か。
(うんと長いこと、其処にいたから…)
其処で過ごしていた筈だから、永遠に足止めになったとしたって、大丈夫だと思うのだけれど。天国かどうかは分からなくても、辛く苦しい所ではないと感じるけれど…。
(だけど、地球…)
前の自分があんなに焦がれた、青い地球が消えてしまったら。
今の自分も大好きな地球が、この美しい星が無くなったならば、どうすればいというのだろう?
行きたくても二度と行けない星。もうハーレイと生まれ変われない星。
そうなったら、とても困るんだけど、と思っていた所へ、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。地球が無くなったら、どうしたらいい?」
ねえ、どうしたらいいんだと思う、地球が無くなってしまったら…?
「はあ? 地球って…。此処にあるだろ?」
無くなっちまったのはずっと昔だ、人間が駄目にしちまって。…そいつが宇宙に戻ったから…。
もう滅びたりはしない筈だが、とハーレイは真っ当な意見を述べた。青い地球を二度と失わないよう、定められている幾つものこと。同じ過ちはもう繰り返すまい、と。
「そうなんだけど…。人間はちゃんと努力してるけど、そうじゃなくって…」
宇宙の法則は変えられないでしょ、人間がどんなに頑張ってみても。
新聞で読んだよ、超新星の爆発のこと。
地球の太陽は超新星にはならないけれども、いつか滅びてしまうんだもの…。
赤色巨星になってしまって、地球の軌道も飲み込んじゃうよ、と記事の中身を話したら。
「そりゃそうだろうな、太陽だって恒星だから」
何処の太陽でも寿命ってヤツはあるもんだ。もちろん、地球の太陽だって。
超新星爆発は引き起こさないが、いずれは寿命が来るってな。人間よりは遥かに長い寿命だが。
しかし、超新星爆発か…。前の俺だと、気を付けなければいけない代物だったが…。
今は気にさえせずに済むわけで、次に爆発しそうな星があるのは何処だったっけな?
まだ何年か先のことだし、注意するよう言われているだけの超新星の卵。
前に読んだが忘れちまった、とハーレイは至って呑気なもの。超新星の卵が爆発したって、今のハーレイには全く関係無いのだけれども、問題は地球の太陽のこと。
地球の太陽が寿命を迎えた時には、住める所が無くなるのに。青い地球の上に生まれたくても、地球は何処にも無いのだから。
「超新星の卵どころじゃないよ。ぼくたちの居場所、無くなるよ?」
無くなっちゃうよ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。「居場所が無くなるんだけど」と。
「居場所だって?」
俺たちのか、とハーレイは怪訝そうな顔。「此処にあるが?」と言わんばかりに。
「さっきも言ったよ、いつかは地球が無くなるんだ、って」
地球が無くなったら、ぼくたちは何処へ行ったらいいの?
無くなるまでなら、何度でも来られるだろうけど…。またハーレイと一緒に生まれ変わって。
だけど、この地球が無くなっちゃったら、もう行ける場所が無いんだよ?
ぼくたち、出られなくなってしまうの、死んだ後に行く所から…?
此処に来る前にいた所、と恋人にぶつけてみた疑問。地球にいない時は其処にいるだろうから。
「何を言ってるのかと思ったら…。そんなことを心配してたのか」
まだ当分は大丈夫そうだが、地球の太陽。…お前も俺も、地球を満喫出来ると思うぞ。
数え切れないほど生まれて来られそうだ、と心配してさえいないハーレイ。何十億年もあれば、何回ほど地球に来られるのだろう、と。
「でも、いつかは…。いつかは地球は無くなるんだよ?」
「いつのことだと思ってるんだ。そういう所は前のお前と変わらんな。心配性なトコ」
先へ先へと心配事を抱えなくても、案外、なんとかなるもんだ。お前は心配しすぎるんだな。
人生ってヤツは、どうとでもなる、とハーレイは本当に気にしていないようだから。
「そうなの? …ホントに、そんなものなの?」
ぼくは心配でたまらないのに、ハーレイは何とかなるって言うの…?
「そう思うが? …前のお前もミュウの未来を心配してたが、アッと言う間に片付いたろうが」
ジョミーを迎えて、たった一代で全部解決しちまった。
前のお前が山ほど抱えて、どうなるのかと心配していた未来は全部。
あんな展開は誰だって予想もしていなかったぞ、とハーレイが指摘する通り。
SD体制を終わらせるのも、ミュウと人類が共存できる世界を作るのも、自分の代では無理だと気付いた前の自分は…。
(そんな日が来るのは、何百年先か分かりやしない、って…)
思っていたのに、ジョミーを見付けた。人類の強さをも秘めたミュウの少年。もしかしたら、と抱いた夢。ジョミーならば自分の夢を叶えてくれるかもしれない、と。
(…ジョミーの代では無理だとしたって、シャングリラは守ってくれるよね、って…)
そう思って自分の意志を託した後継者。次のソルジャーに指名したジョミー。
明るい金髪と緑の瞳を持ったジョミーは、前の自分の期待以上のことを成し遂げてくれた。彼の代で地球まで辿り着いた上に、SD体制までをも崩壊させた。
前の自分は、それを見届けられなかったけれど。…ジョミーも命を失ったけれど。
「あれと同じだ、なんとかなるさ」
お前がジョミーを見付けたみたいに、きっと心配要らんと思うぞ。今から心配しなくても。
ずっと未来に、地球が無くなっちまったって。
もう一度くらいは行けるだろう、と思っていたのに、太陽の寿命が来ちまってもな。
太陽にすっかり飲み込まれる前に、焼かれて乾いちまうんだろうが…、とハーレイが言う地球。遠い未来に海を失い、灼熱の星になってしまうだろう地球。
せっかく青く蘇ったのに、地球を守ろうと人間が努力したのに、その甲斐もなく。
人の力ではどうしようもない、宇宙の摂理に逆らえなくて。
「…なんとかなるって言うけれど…。心配しすぎだって言われても…」
ホントのことだよ、いつかは地球が消えてしまうのは。
どんどん膨らむ太陽のせいで、人が住めない星になってから滅びちゃうのは。…真っ赤に焼けた地面も海も、全部太陽に飲み込まれて。
それは止めようが無いことなんだよ、誰にも止めることなんて無理。
ぼくもハーレイも、二度と地球には行けないんだから。…どんなに地球に生まれたくても。
今みたいに地球で暮らしたくても、その地球、何処にも無いんだから…。
ハーレイもぼくも出られないんだよ、死んだ後に帰って行く所から…。
其処が何処かは知らないけれど…、と縋るような目で訴えた。前の自分が命尽きた後、魂だけが飛び去った何処か。前のハーレイが来るのを待っていた場所。
今の自分たちの命が終われば、きっと其処へと帰るのだけれど。…またハーレイと二人で地球に来られるまで、其処で過ごすのだろうけれども。
「…地球が無くなったら、ぼくたち、出られなくなっちゃうよ…?」
出られなくなっても大丈夫だって言うの、天国みたいな所から…?
命も身体も持っていなくて、魂だけで住んでいる所から。
ハーレイと一緒なら寂しくないけど、もう新しい身体も命も貰えないんだよ?
今みたいに生きているんだったら、色々なことが出来るけど…。地球の空気も吸えるけど…。
そういうのも全部無くなっちゃうよ、と心配でたまらない未来のこと。地球の太陽が赤色巨星になってゆく時。地球を滅びに巻き込みながら、星の終わりを迎える時。
「全部無くなっちまうってか? そう思うのも無理はないんだが…」
お前は前から心配性だし、其処に気付いたら、どんどん心配になってゆくのも分かるがな…。
なあに、今から心配していなくてもだ、神様って方がいらっしゃる。
お前に聖痕を下さった神様、いらっしゃるのは分かるだろう?
俺たちをこうして生まれ変わらせて、ちゃんと出会わせて下さったのが神様だ。
その神様が放っておいたりはなさらないだろうさ、地球って星を。
人間は地球から生まれたんだし、この地球だって、神様がお創りになった星だと思わんか?
そいつが滅びてゆくというのに、黙って放っておかれるわけがない、とハーレイは神様の助けを信じているけれど。その神様を疑うわけではないけれど…。
(…いくら神様でも、宇宙の決まりを変えることなんて…)
出来ないのでは、という気がする。人間ではなくて神だからこそ、それは無理だと。
かつて人間は地球を壊したけれども、神は青い地球を返してくれた。もう一度、人が地球の上でやり直せるように。地球と共に生きてゆけるようにと。
けれど、そうなる前は死の星だった地球。人間が好き放題をやった挙句に滅ぼした星。
人間がその手で滅ぼした地球を、神は救いはしなかった。人間が地球を求めるまで。人間の手で地球を蘇らせようと敷いたSD体制、それを自ら覆すまで。
神が守るのは宇宙の摂理。人間の都合で変えようとしても、けして変えられはしないもの。
青い地球を人間に返した神だけれども、その地球が太陽と共に滅びるなら、神は救いはしないと思う。太陽が寿命を迎えるように、地球の滅びも寿命だから。
火星の軌道まで膨らむらしい赤色巨星に飲まれてゆくのが、宇宙が定めた地球の最期だから。
「…神様が地球を助けてくれるっていうの?」
地球の太陽が滅びてしまうのに、どうやって地球を助けられるの?
そんなの無理だよ、神様でも無理。…ううん、神様だから無理だと思う。
神様は奇跡を起こすけれども、地球の太陽が滅びるのは宇宙の決まりだから…。それを変えたら神様じゃないような気がするよ。
人間が地球を滅ぼした後に、SD体制を敷いたのと同じ。…ユグドラシルまで造っていたけど、何も変えられなかったじゃない。人間の自分勝手なやり方では。
神様だって、きっとおんなじ…。どんなに人間がお願いしたって、宇宙の決まりは変えないよ。ハーレイはそう思わない…?
神様はきっと、地球を助けてくれないよ…、と恋人に向かってぶつけた思い。いくら神様でも、太陽もろとも滅びゆく地球は、黙って見ているだけだろうから。
「俺だってそれは分かっているさ。地球だけが助かる道なんて無いということは」
地球があるのは、あの太陽のお蔭だからな。…ソル太陽系だったからこそ、地球が生まれた。
他の恒星には作り出せなかった、奇跡の星が地球なんだ。前のお前が憧れた星。
太陽無しでは、青い地球は決して生まれて来ないし、存在することも出来やしない。
だから太陽が滅びる時には、地球も一緒に滅んでゆくのが正しい道だ。太陽から生まれた地球の寿命も、其処で終わるというわけだな。
だが、今の時代でも見付かっちゃいない、第二の地球。…この地球と双子のような星。
その頃までにはきっと見付かる、神様が教えて下さる筈だ。それが必要な時になったら。
俺が言う神様の助けってヤツはそいつだ、とハーレイが挙げた新しい地球。本物の地球が滅びてゆく時、何処かで見付かるだろう星。
前の自分たちが生きた時代にも、人類はそれを探していた。探して、見付けられないまま。
ミュウの時代になり、青い地球が宇宙に蘇って来ても、まだ人間は探し続けている。今は純粋な興味だけで。「地球と同じような星はあるのか」と、「奇跡の星を見付けてみたい」と。
気が遠くなるような長い年月、探し続けても見付からない星。地球に似た星。
本物の地球が滅びる時には、その星がきっとあるのだろう、とハーレイは笑んだ。
「神様は地球で暮らしている人間を、お見捨てになることはない筈だ。きっと見付かる」
第二の地球と呼べるような星が、宇宙の何処かで。…人間が頑張って探し続けていれば。
銀河系の中じゃないかもしれんがなあ…。
かなり昔から探し続けて、大抵の場所は探し尽くしているようだから。
それでも何処かにきっとあるさ、とハーレイが見ている遠い未来の第二の地球。滅びゆく地球の代わりのように、何処かで見付かるだろう星。
「地球そっくりの星が見付かるの?」
それが神様の助けだって言うの、地球の代わりに新しい星…。地球じゃない星。
ぼくもハーレイも其処に行くことになるの、地球が無くなっちゃった時には?
地球とは違う星なんだけど…、と少し寂しい。前の自分が焦がれ続けて、今の自分も何処よりも好きだと思う地球。其処を離れて、別の星に行かねばならない時が来るのか、と。
「お前の気持ちは俺にも分かるが…。本物の地球が一番なのは、俺も同じではあるんだが…」
考えてもみろよ、今の地球だって、実は似たようなモンだってな。第二の地球っていうヤツと。
地球の座標と、ソル太陽系の惑星無しでだ、昔の人間が今のこの地球を見たならば…。
これが地球だと気付くと思うか、青い星には違いないがな。
地球とそっくり同じサイズだというだけの星だぞ、今の俺たちが住んでる地球は。
大陸も海も、形がすっかり違うんだから。…SD体制が始まった時代にあった地球とは。
前の俺が見た地球とも違うな、とハーレイが軽く広げた手。「あれは死の星だったがな」と。
けれど、生き物は何も棲めない星でも、地球の地形はかつてと同じだったという。大陸も海も、人間が地球を離れた時と同じまま。「地球だ」と思わざるを得なかった星。其処に生命の欠片さえ無くても、汚染された海と乾いた砂漠が広がる星でも。
「そういえば、そうかも…」
昔の人たちが宇宙から今の地球を見たって、同じ星だとは気が付かないよね。
青くて地球に良く似ているけど、別の星にしか見えないんだっけ…。
海も大陸も、昔の地球とは違うから。比べてみたって、何処も重ならないんだから。
昔の人たちに見せてあげたら、「地球にそっくりの星を見付けた」って思うよね、きっと…。
今の地球はそういう星だったっけ、と改めて思う蘇った地球。青く輝く水の星。
SD体制が崩壊した時に引き起こされた、地球全体が燃え上がるほどの地殻変動。激しい地震や火山の噴火で、すっかり変わってしまった地形。大陸も海も、何もかもが。
そうやって全てが失われた後、青い地球が宇宙に戻って来た。前とは全く違う姿で、前と同じに水の星として。今の地球でも、地表の七割は海に覆われているのだから。
「分かったか? まるで別物になっちまったのが今の地球だな」
其処でのんびり生きてるんだし、新しい地球に引越す時が来たって、直ぐに慣れるさ。
本物の地球を懐かしく思い出すことがあったとしたって、悲しい気持ちにはならないだろう。
今みたいに生まれて来ることが出来て、新しい命を貰えるんなら。
それにだ、今の地球の姿ってヤツを思えば、これからも地球は変わってゆきそうだよな?
俺たちが次にやって来る時は、陸地の形が違っているかもしれないぞ。
丸ごと変わりはしないだろうが、一部くらいなら有り得るよな、というのがハーレイの読み。
また新しい身体と命を貰えるまでには、長い時間が必要なのかもしれないから。今の自分たちが待っていたのと同じくらいに、待たされることも起こり得るから。
「うーん…。陸地の形が変わっちゃうほど、うんと先のことになっちゃうの?」
次にハーレイと地球に来るのが、そんなに遠い未来だったら…。
そしたら、文化も変わっちゃうかな?
今の間に色々約束したって、それが無くなっちゃっているとか…。
次も日本の文化がいいよね、って思っていたって、お寿司も天麩羅も、もう無いだとか…。
旅行に行こうと思っていた場所の文化も変わっちゃったりしてるのかも、と心配な気分。
前の自分が地球でやりたいと描いた夢は、今の人生で叶いそうなのに。…より素敵になった形で叶う筈なのに、今の自分が夢を見たって、次の人生では叶わないのだろうか…?
「どうなんだかなあ、文化ってヤツは…」
今の文化はSD体制が始まるよりもずっと昔の、色々な地域の文化を復活させてるわけだし…。
そういうやり方がいいと思ってやってるわけだし、今の文化を貫きそうな気もするが…。
時代に合わせて変わりはしたって、基本の部分は変えないままで。
この地球がいい、と誰もが思っているんだから。文化も、それに生き方もな。
どんなに時が流れようとも、そうそう変わりはしないだろう、とハーレイは微笑む。次に二人で地球に来る時も、きっと似たような世界だろうと。
「少しばかり地形が変わっていたって、暮らしている人間は同じじゃないか?」
もちろん顔ぶれは変わる筈だが、それでも同じに今の平和な世界のままで。
…前の俺たちが生きてた時代みたいな世界に、逆戻りしちまうわけがないからな。
今の平和と青い地球とを大切に守って、みんなのんびり地球の上で生きているんだろう。他所の星でも、きっと幸せに。…地球が宇宙の中心で。
「変わらないといいな、今の地球…」
次に来る時も同じだといいな、色々なものが。…いろんな地域も、今の文化も。
やりたいことが山ほどあるもの、これからだって増えていくんだよ。
前のぼくたちの夢を叶えてゆくのが一番だけれど、今のぼくたちの夢も一杯出来るだろうから。
生きてる間に全部叶っても、次もやりたいことが沢山。「また来ようね」っていう約束だとか。
次に来た時も、思い出の場所に行ったりしてみたいよね、と強請ってみた。これからハーレイと行くだろう場所、其処がお気に入りになったなら。何度も行きたい土地になったら。
「そういうのもいいなあ、今の俺たちは、前の俺たちの憧れの場所を目指すんだが…」
其処が気に入りになることもあれば、今の俺たちが旅に出掛けて、気に入る場所もあるだろう。
美味い料理があった場所やら、綺麗な景色に出会った場所やら。
思い出はきちんと取っておこうな、次に来た時も、忘れずに二人で出掛けて行けるように。
俺だって今の地球が好きだからなあ、このまま変わらずにいて欲しいトコだな、この星には。
前の俺が生きてた時代なんかより、断然いいのが今なんだから。
そしてだ、そう思って今の時代を築いているのが、俺たちミュウって種族なわけで…。
キースの野郎が最後に認めた進化の必然、それに相応しく進化したよな。
すっかり丈夫になっちまって…、とハーレイが言うから、「ホントだよね」と頷いた。
今の自分は前と同じに弱いけれども、今の時代は同じミュウでも健康なのが普通だから。かつて人類がそうだったように、健康な身体を持っているから。
前の自分たちが生きた時代は、ミュウは「何処かが欠けている」のが殆どのケースだったのに。頑丈だった前のハーレイでさえも、補聴器が必要だったのに…。
変わったよね、と思うミュウという種族。サイオンを使わないのが社会のマナーだとか、本当に面白い時代。前の自分には、想像すらも出来なかった世界が今の時代。それに青い地球。
「今のぼく、ホントに幸せだよ。ミュウばかりになった世界に来られて」
おまけに地球だよ、本物の青い地球の上に住んでいるなんて…。
地球の太陽はまだまだ沢山寿命があるから、ハーレイと何度でも地球に来ようね。
絶対だよ、と鳶色の瞳を覗き込んだら、「もちろんだ」と頼もしい返事。
「お前と何度も地球に来ないとな、前の俺たちが憧れ続けた星なんだから」
ミュウはこれからも進化し続けてゆくんだろうし、地球と一緒に生きるんだろうが…。
お前が心配している頃には、どんな感じになってるやらなあ…。
あの太陽が滅びようかってほどの遠い未来だ、進化したミュウはどういう姿なんだか…。
なにしろ、人間ってヤツは元が猿だしな、とハーレイが考え込んでいるから。
「…ミュウが進化して、違う姿になっていったら…。今の人間の先へ進んじゃったら…」
ぼくたちの姿も変わってしまうの、其処に生まれて来るんだから。
進化した人間の子供なんだもの、ぼくの姿も変わっちゃう…?
前のぼくとは違う姿になっちゃうだとか…、と見詰めた自分の細っこい手足。いつか育ったら、前の自分とそっくり同じになる筈だけれど。…今の自分はそうだけれども、未来の自分。
地球の太陽が滅びる頃には、自分の姿は今とは違っているのだろうか…?
「お前が別の姿にか…。人間が違う姿になっているなら、無いとは言えんが…」
その方がむしろ自然なんだが、俺の目に映るお前の姿は、ずっとお前のままだろう。
チビの間は今のお前みたいな姿で、育てばソルジャー・ブルーになって。
そんな気がするな、俺の目にはそう見えるんだ、と。
お前が何に生まれて来たって、俺はお前に恋をする、って何度も言っているだろう?
小鳥だろうが、子猫だろうが、必ず見付けて恋をするとな。
ミュウがこれから進化していって、違う姿のお前が地球に生まれて来ても…。
何に生まれてもお前はお前で、人間の姿が変わっちまっても、俺にとってはお前のままだ。
赤い瞳で銀色の髪で、抜けるように白い肌のアルビノ。
そんなトコまで変わらんだろうな、俺の目に映るお前はな…。
お前がどんな姿になっても、お前は変わらずに俺のブルーだ、とハーレイが信じる自分の瞳。
その瞳の色が、形が姿ごと変わってしまったとしても、ハーレイなら見付けてくれるのだろう。今と全く同じ自分を、何処も変わっていない姿で。…今の姿とそっくり同じに映し出して。
ハーレイの瞳がそうだと言うなら、自分の方でも同じこと。ハーレイの姿がどう変わったって、瞳に映って見える姿は今のハーレイと何処も違わない。
「ぼくもハーレイはハーレイなんだと思うよ、いつまで経っても」
人間の姿が変わっちゃっても、ハーレイはハーレイに見えると思う。…ぼくの目にはね。
他の人が見たら、違う姿でも。今のハーレイとは違っていても。
それでもハーレイに見える筈だよ、と確信できる自分の瞳。ハーレイと一緒に生まれ変わって、出会い続けるなら、そうなるから。…きっとハーレイの姿が見える筈だから。
「ほらな、お前もそういう気がするだろう?」
俺とお前は何処までも一緒だ、何度も生まれ変わっても。…人間の姿が変わっちまっても。
だから、俺たちさえ、お互いをきちんと見ていれば…。手を離さないで一緒にいれば…。
地球が滅びてしまったとしても、神様が引越しさせて下さるさ。新しい地球へ。
きっとその頃には見付かってる筈の、誰もが好きになる第二の地球にな。
お前も俺も其処へ行くんだ、とハーレイが話してくれる地球。いつか太陽が寿命を迎えて、今の地球うが滅びてしまう時。…その時は新しい地球に行ける、と。
「本当に?」
ちゃんと行けるの、地球が太陽に飲まれて無くなっちゃっても、新しい地球に?
ぼくたちは其処に引越し出来るの、今の青い地球が消えちゃっても…?
大丈夫かな、と首を傾げたけれども、ハーレイに覗き込まれた瞳。「お前なあ…」と。
「お前、神様を疑うっていうのか、引越しなんかさせて下さらないと?」
俺たちがずっと一緒にいたって、もう新しい地球に生まれ変わらせては下さらない、と。
神様はケチな方ではないと思うがなあ…。「新しい地球には行かせてやらない」と仰るような、心の狭い方ではないと思うんだが…?
「疑ってないよ、ちょっぴり心配になっただけ…」
本当にほんのちょっぴりだけだよ、ぼくは聖痕を貰っているものね。
神様のお蔭でハーレイに会えて、今はとっても幸せだから…。
ハーレイが「行けるさ」と言ってくれるのが、新しい地球。いつか太陽が寿命を迎えた時は。
地球の軌道も飲み込んでしまって、青い地球が消えてしまった時には。
「…いつかハーレイと一緒に行けるね、新しい地球へ」
地球が無くなっちゃった時にも、太陽が地球に近付きすぎて、地球に住めなくなった時にも。
神様の力で引越しなんだね、新しい地球にハーレイと生まれ変われるように。
ハーレイも来てくれるんだよね、と念を押さずにはいられない。自分一人が新しい地球に引越ししたって、意味が無いから。…ハーレイと二人で行きたいのだから。
「当然だろうが、一緒でなくてどうするんだ」
俺はお前を離しやしないし、お前の側を離れやしない。…生まれ変わって出会った時にも、二人一緒に生まれ変われるのを待っている時も。
地球が滅びてしまうどころか、たとえ宇宙が終わってもだな…。
何処までも俺はお前と一緒にいよう、と約束して貰えたから、いつまでも一緒なのだろう。遠く遥かな未来に地球が滅びても。…太陽に飲まれて消えてしまって、新しい地球に行く時にも。
けれど、そうなる時までは…。
「ねえ、ハーレイ。地球が無くなっちゃうまでは…」
太陽の寿命が終わるまでには、何度でも地球に生まれて来ようね。ハーレイと二人で何度でも。
ぼくは青い地球が前のぼくだった頃から好きだったんだし、今も大好きなんだから。
約束だよ、と小指を絡めようとしたら、「こら」と弾かれてしまった手。
「ずいぶんと気の早いヤツだな。お前の人生、これからだろうが」
まずは一度目を満喫しろよ、と小突かれた額。「次の約束まで焦るんじゃない」と。
「分かってるけど、地球でやりたいことが一杯…」
前のぼくたちの夢もそうだし、今のぼくのも。ハーレイと一緒にやりたいことが。
ホントに山ほど、と指切りの約束をしておきたいのに、ハーレイは絡めてくれない小指。
「俺も同じだ。だがな…。大きくなるのはゆっくりだぞ?」
そっちの方も慌てるな、と釘を刺されたから、ゆっくり育とう。子供時代を楽しむために。
いつかこの地球が消えてしまっても、ハーレイとずっと一緒だから。
宇宙が無くなっても一緒なのだし、いつまでも何処までも、けして離れはしないのだから…。
地球の太陽・了
※いつかは滅びる、地球の太陽。その運命は神にも変えることは出来ず、地球も道連れ。
けれども、地球が無くなった後も、ハーレイとブルーは、きっと離れずに生きてゆくのです。
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あったっけね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
超新星、いわゆるスーパー・ノヴァ。寿命を迎えた恒星が最後に起こす爆発。一つの星が起こす大爆発だし、人間が思う「爆発」とは違いすぎるスケール。規模も、衝撃などが広がる範囲も。
今の時代は予測可能で、出現前に避けることが出来る、超新星が現れる宙域。
爆発したなら、宇宙船などには危険だから。爆発に巻き込まれることはもちろん、他にも様々な障害が起きる。通信が繋がらなくなってしまうとか、機器に故障が出るだとか。
そうならないように、避けて飛ぶよう出される指示。影響が出そうな範囲に資源採掘基地などがあれば、撤退させる命令だって。一時退避や、場合によっては基地の放棄も。
(前のぼくたちが生きた頃にも…)
出現の予測は可能だったけれど、それよりも遥か昔のこと。
人間が地球しか知らなかった時代、宇宙の仕組みもまるで分かっていなかった頃。太陽は地球の周りを回っていると信じて疑わなかった時代は、予測どころか星の爆発だとも思わなかった。
ある日いきなり夜空に明るい星が現れるから、新しい星だと思った人間。
前の自分たちが生きた時代にも残った唯一の神が、ベツレヘムの馬小屋で生まれた時にも…。
(夜空に星が現れた、って…)
光り輝く星に導かれて、馬小屋で眠る赤ん坊を訪ねて行った者たち。羊飼いやら、遠い国でその星を見付けた三人の博士。
その時の星も超新星だろうと早い時代から言われていた。他にも超新星の記録は色々、日本でも日記に書き残していた貴族が一人。
遠い昔は、珍しかったスーパー・ノヴァ。
滅多に現れることが無いから、現れた時は観測のチャンス。宇宙の仕組みを調べようと挑んだ、宇宙へ目を向け始めた時代の人間たち。
その時代には、まだ人間は月までしか行っていなかったけれど。
今はお馴染みの火星でさえも、観測用の機械を載せている船を送り込むのが精一杯。それでも、超新星の仕組みだけはもう知っていた。
新しく生まれる星ではないと、星が最後に大爆発を起こして輝くのだと。
超新星が現れる理由を人間たちが掴んだ時代は、銀河系から離れた星を観測していた。超新星が現れたから、と天文台やら、宇宙から飛んでくる粒子を捉えるための施設を総動員して。
それが今では、超新星の出現を予測する時代。「其処は避けろ」と宇宙船などに予報まで。
(銀河系だけでも…)
何十年かに一度は現れる超新星。昔の人間が夜空を仰いだ頃には、それは珍しかったのに。
けれど「増えた」というわけではない。地球が浮かんでいるソル太陽系、其処からは星の爆発が見えなかっただけ。星間物質に邪魔されたりして。
今の時代は銀河系から離れた宇宙に行く船もあるから、超新星の爆発は生きている間に耳にするニュース。「爆発するから、撤退命令が出ているらしい」といった具合に。
その上、人間は誰もがミュウだし、寿命が長いものだから…。どんな人でも、一生の間に何度か出会う。運が良ければ、地球から見える超新星に出会える人も。
(超新星、何処かに出そうなの?)
もしかして地球から見えるのかな、と抱いた夢。自分が住んでいる地域の夜空に、じきに明るい新しい星が出来るとか。
(最初はとても明るくて…)
それが爆発した瞬間。何光年も離れた所で起こるのだから、地球の夜空に輝くまでには何年も。その星までの距離の分だけ、待たないと見られない超新星。
突然夜空に生まれた星は、少しずつ輝きを失っていって、やがて見えなくなるけれど。そういう星が出来るのだろうか、近い間に?
(ぼくが生まれる前の爆発なら…)
超新星のニュースを知るわけがないし、地球で見られるのは何年後なのかも知る筈がない。遠い何処かで爆発した星、それがもうすぐ見えますよ、という記事かと期待したのだけれど。
ワクワクしながら文字を追い掛けたけれど、残念なことにただの読み物。
どうして超新星と呼ぶのか、昔はどういう扱いだったか。
人間が地球しか知らなかった時代に、ついた名前が超新星。「新しい星だ」と思われていた頃、夜空を観察していた何人もの人たちへの思いをこめて。
遠い昔に、不吉な兆しだと思った人やら、素晴らしいことが起こると感激した人やら。超新星の仕組みを知らなかったから、いきなり生まれた星を見上げて、思いは色々。
ふうん、と読み終えて戻った二階の自分の部屋。空になったお皿やカップを母に返してから。
勉強机の前に座って、さっきの記事を思い返した。恒星の爆発で夜空に生まれる星。
ずいぶん昔から、人間はそれを眺めていた。古い時代の記録に残った、超新星。今は現れる前に予測可能な、スーパー・ノヴァ。
(地球の太陽は…)
あの記事によると、超新星にはなれないらしい。恒星はどれも太陽だけれど、種類は様々。同じ太陽でも違う大きさ、それに重量。
地球があるソル太陽系の場合は、大きいようでも恒星としては小さめになる。この地球からは、充分に明るく見えるのに。夏になったら、暑すぎるくらいに眩しいのに。
それでも恒星の中では小さめ、太陽が寿命を迎えた時には、重量不足で赤色巨星になるという。超新星になる星と同じに膨らんでゆくのだけれども、爆発はしない。
膨らんだ後は縮み始めて、うんと小さくなっておしまい。もう輝かない星になってしまって。
とはいえ、その日は遥か先のこと。太陽が生まれてから今までの年数、それと同じほどの歳月が流れ去らない限りは、寿命は来ない。
(まだまだ長持ち…)
たっぷりとある地球の太陽の寿命。何億年どころか、何十億年。
まるで想像もつかない年月、太陽は元気に輝き続ける。滅びを迎える日までは遠い。赤色巨星になってしまう日は、まだずっと先。
太陽がちゃんと空にあるなら、ハーレイと何度でも地球に来られる。この青い地球に。青く輝く澄んだ水の星、太陽が生んだ奇跡の星に。
(ハーレイと一緒に、うんと沢山…)
生まれ変わって地球にやって来ては、あれもこれも、と大きく膨らませる夢。
今の自分は前の自分が地球に描いた夢を端から叶えてゆくから、それで満足だろう人生。沢山の夢が地球で叶ったと、とても幸せな人生だったと。
(そうやってハーレイと生きてた間に、また新しい夢…)
きっと幾つも出来るだろうから、叶える前に寿命が尽きたら、次の人生で夢を叶える。また青い地球に生まれ変わって、ハーレイと出会って、結婚して。
うんと沢山楽しめるよ、と思った人生。何十億年もある太陽の寿命、その間には次のチャンスも何度でも。前とそっくりに育つ身体と新しい命、それを地球の上で貰って生きて。
今の自分たちの待ち時間はかなり長かったけれど、同じように待つことになったって。また青い地球に生まれるためには、同じくらい待つよう神様に言われても、大丈夫。
なんと言っても、太陽の寿命は何十億年もあるんだものね、と考えたけれど。何回だって地球に来られる、と夢を描いていたのだけれど。
(えっと…?)
その太陽がいつか滅びる時。寿命を迎えて膨らみ始めて、赤色巨星になってしまう時。
さっき新聞で読んだ記事では、この地球どころか、火星の軌道までが膨らみ続ける太陽の中に、すっかり飲まれるらしいから…。
(太陽に飲まれてしまうより前に、地球に住めなくなっちゃうよ…)
今でも暑く感じる太陽、それが膨らんで近くなったら。地球にどんどん近付いて来たら。
何十億年も先だけれども、いずれ滅びてしまう地球。
太陽が輝きを失うよりも前に、その熱で青い海を失い、陸地も焼かれて砂漠になる。緑の欠片も残らなくなって、やがて太陽に飲み込まれてゆく地球。膨らみ続ける赤色巨星に。
(大変…!)
無くなっちゃうんだ、と慌てた地球。前の自分が焦がれた星。今の自分が住んでいる星。
何度でも地球に来たいと思っているのに、何度でも来るつもりなのに。…その青い地球が消えてしまった時には、何処へ行けばいいというのだろう?
いつか太陽に飲み込まれる地球。その前に人が住めなくなる地球。太陽に全て焼き尽くされて。
そうなったならば、もはや何処にも無い地球。前の自分が焦がれ続けた青い星。
ハーレイと二人で生まれ変われる、この青い地球が無くなったなら…。
(ぼくたち、もう生まれ変わることは出来ないの…?)
生まれ変わる先が無いのだったら、そういうことになるかもしれない。
今の自分が地球に生まれてくるよりも前に、いただろう何処か。きっとハーレイと片時も離れず二人一緒で、生まれ変われる時を待っていた場所。
其処で永遠に足止めだろうか、生まれ変われないから出られなくなって。青い地球はもう消えてしまって、受け入れてくれはしないから。
そうなるのかも、と気付いたこと。何十億年も先だけれども、宇宙から青い地球が消えたら…。
生まれ変われる場所が無いから、ハーレイと二人で食らう足止め。其処から出られない何処か。
(うんと長いこと、其処にいたから…)
其処で過ごしていた筈だから、永遠に足止めになったとしたって、大丈夫だと思うのだけれど。天国かどうかは分からなくても、辛く苦しい所ではないと感じるけれど…。
(だけど、地球…)
前の自分があんなに焦がれた、青い地球が消えてしまったら。
今の自分も大好きな地球が、この美しい星が無くなったならば、どうすればいというのだろう?
行きたくても二度と行けない星。もうハーレイと生まれ変われない星。
そうなったら、とても困るんだけど、と思っていた所へ、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。地球が無くなったら、どうしたらいい?」
ねえ、どうしたらいいんだと思う、地球が無くなってしまったら…?
「はあ? 地球って…。此処にあるだろ?」
無くなっちまったのはずっと昔だ、人間が駄目にしちまって。…そいつが宇宙に戻ったから…。
もう滅びたりはしない筈だが、とハーレイは真っ当な意見を述べた。青い地球を二度と失わないよう、定められている幾つものこと。同じ過ちはもう繰り返すまい、と。
「そうなんだけど…。人間はちゃんと努力してるけど、そうじゃなくって…」
宇宙の法則は変えられないでしょ、人間がどんなに頑張ってみても。
新聞で読んだよ、超新星の爆発のこと。
地球の太陽は超新星にはならないけれども、いつか滅びてしまうんだもの…。
赤色巨星になってしまって、地球の軌道も飲み込んじゃうよ、と記事の中身を話したら。
「そりゃそうだろうな、太陽だって恒星だから」
何処の太陽でも寿命ってヤツはあるもんだ。もちろん、地球の太陽だって。
超新星爆発は引き起こさないが、いずれは寿命が来るってな。人間よりは遥かに長い寿命だが。
しかし、超新星爆発か…。前の俺だと、気を付けなければいけない代物だったが…。
今は気にさえせずに済むわけで、次に爆発しそうな星があるのは何処だったっけな?
まだ何年か先のことだし、注意するよう言われているだけの超新星の卵。
前に読んだが忘れちまった、とハーレイは至って呑気なもの。超新星の卵が爆発したって、今のハーレイには全く関係無いのだけれども、問題は地球の太陽のこと。
地球の太陽が寿命を迎えた時には、住める所が無くなるのに。青い地球の上に生まれたくても、地球は何処にも無いのだから。
「超新星の卵どころじゃないよ。ぼくたちの居場所、無くなるよ?」
無くなっちゃうよ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。「居場所が無くなるんだけど」と。
「居場所だって?」
俺たちのか、とハーレイは怪訝そうな顔。「此処にあるが?」と言わんばかりに。
「さっきも言ったよ、いつかは地球が無くなるんだ、って」
地球が無くなったら、ぼくたちは何処へ行ったらいいの?
無くなるまでなら、何度でも来られるだろうけど…。またハーレイと一緒に生まれ変わって。
だけど、この地球が無くなっちゃったら、もう行ける場所が無いんだよ?
ぼくたち、出られなくなってしまうの、死んだ後に行く所から…?
此処に来る前にいた所、と恋人にぶつけてみた疑問。地球にいない時は其処にいるだろうから。
「何を言ってるのかと思ったら…。そんなことを心配してたのか」
まだ当分は大丈夫そうだが、地球の太陽。…お前も俺も、地球を満喫出来ると思うぞ。
数え切れないほど生まれて来られそうだ、と心配してさえいないハーレイ。何十億年もあれば、何回ほど地球に来られるのだろう、と。
「でも、いつかは…。いつかは地球は無くなるんだよ?」
「いつのことだと思ってるんだ。そういう所は前のお前と変わらんな。心配性なトコ」
先へ先へと心配事を抱えなくても、案外、なんとかなるもんだ。お前は心配しすぎるんだな。
人生ってヤツは、どうとでもなる、とハーレイは本当に気にしていないようだから。
「そうなの? …ホントに、そんなものなの?」
ぼくは心配でたまらないのに、ハーレイは何とかなるって言うの…?
「そう思うが? …前のお前もミュウの未来を心配してたが、アッと言う間に片付いたろうが」
ジョミーを迎えて、たった一代で全部解決しちまった。
前のお前が山ほど抱えて、どうなるのかと心配していた未来は全部。
あんな展開は誰だって予想もしていなかったぞ、とハーレイが指摘する通り。
SD体制を終わらせるのも、ミュウと人類が共存できる世界を作るのも、自分の代では無理だと気付いた前の自分は…。
(そんな日が来るのは、何百年先か分かりやしない、って…)
思っていたのに、ジョミーを見付けた。人類の強さをも秘めたミュウの少年。もしかしたら、と抱いた夢。ジョミーならば自分の夢を叶えてくれるかもしれない、と。
(…ジョミーの代では無理だとしたって、シャングリラは守ってくれるよね、って…)
そう思って自分の意志を託した後継者。次のソルジャーに指名したジョミー。
明るい金髪と緑の瞳を持ったジョミーは、前の自分の期待以上のことを成し遂げてくれた。彼の代で地球まで辿り着いた上に、SD体制までをも崩壊させた。
前の自分は、それを見届けられなかったけれど。…ジョミーも命を失ったけれど。
「あれと同じだ、なんとかなるさ」
お前がジョミーを見付けたみたいに、きっと心配要らんと思うぞ。今から心配しなくても。
ずっと未来に、地球が無くなっちまったって。
もう一度くらいは行けるだろう、と思っていたのに、太陽の寿命が来ちまってもな。
太陽にすっかり飲み込まれる前に、焼かれて乾いちまうんだろうが…、とハーレイが言う地球。遠い未来に海を失い、灼熱の星になってしまうだろう地球。
せっかく青く蘇ったのに、地球を守ろうと人間が努力したのに、その甲斐もなく。
人の力ではどうしようもない、宇宙の摂理に逆らえなくて。
「…なんとかなるって言うけれど…。心配しすぎだって言われても…」
ホントのことだよ、いつかは地球が消えてしまうのは。
どんどん膨らむ太陽のせいで、人が住めない星になってから滅びちゃうのは。…真っ赤に焼けた地面も海も、全部太陽に飲み込まれて。
それは止めようが無いことなんだよ、誰にも止めることなんて無理。
ぼくもハーレイも、二度と地球には行けないんだから。…どんなに地球に生まれたくても。
今みたいに地球で暮らしたくても、その地球、何処にも無いんだから…。
ハーレイもぼくも出られないんだよ、死んだ後に帰って行く所から…。
其処が何処かは知らないけれど…、と縋るような目で訴えた。前の自分が命尽きた後、魂だけが飛び去った何処か。前のハーレイが来るのを待っていた場所。
今の自分たちの命が終われば、きっと其処へと帰るのだけれど。…またハーレイと二人で地球に来られるまで、其処で過ごすのだろうけれども。
「…地球が無くなったら、ぼくたち、出られなくなっちゃうよ…?」
出られなくなっても大丈夫だって言うの、天国みたいな所から…?
命も身体も持っていなくて、魂だけで住んでいる所から。
ハーレイと一緒なら寂しくないけど、もう新しい身体も命も貰えないんだよ?
今みたいに生きているんだったら、色々なことが出来るけど…。地球の空気も吸えるけど…。
そういうのも全部無くなっちゃうよ、と心配でたまらない未来のこと。地球の太陽が赤色巨星になってゆく時。地球を滅びに巻き込みながら、星の終わりを迎える時。
「全部無くなっちまうってか? そう思うのも無理はないんだが…」
お前は前から心配性だし、其処に気付いたら、どんどん心配になってゆくのも分かるがな…。
なあに、今から心配していなくてもだ、神様って方がいらっしゃる。
お前に聖痕を下さった神様、いらっしゃるのは分かるだろう?
俺たちをこうして生まれ変わらせて、ちゃんと出会わせて下さったのが神様だ。
その神様が放っておいたりはなさらないだろうさ、地球って星を。
人間は地球から生まれたんだし、この地球だって、神様がお創りになった星だと思わんか?
そいつが滅びてゆくというのに、黙って放っておかれるわけがない、とハーレイは神様の助けを信じているけれど。その神様を疑うわけではないけれど…。
(…いくら神様でも、宇宙の決まりを変えることなんて…)
出来ないのでは、という気がする。人間ではなくて神だからこそ、それは無理だと。
かつて人間は地球を壊したけれども、神は青い地球を返してくれた。もう一度、人が地球の上でやり直せるように。地球と共に生きてゆけるようにと。
けれど、そうなる前は死の星だった地球。人間が好き放題をやった挙句に滅ぼした星。
人間がその手で滅ぼした地球を、神は救いはしなかった。人間が地球を求めるまで。人間の手で地球を蘇らせようと敷いたSD体制、それを自ら覆すまで。
神が守るのは宇宙の摂理。人間の都合で変えようとしても、けして変えられはしないもの。
青い地球を人間に返した神だけれども、その地球が太陽と共に滅びるなら、神は救いはしないと思う。太陽が寿命を迎えるように、地球の滅びも寿命だから。
火星の軌道まで膨らむらしい赤色巨星に飲まれてゆくのが、宇宙が定めた地球の最期だから。
「…神様が地球を助けてくれるっていうの?」
地球の太陽が滅びてしまうのに、どうやって地球を助けられるの?
そんなの無理だよ、神様でも無理。…ううん、神様だから無理だと思う。
神様は奇跡を起こすけれども、地球の太陽が滅びるのは宇宙の決まりだから…。それを変えたら神様じゃないような気がするよ。
人間が地球を滅ぼした後に、SD体制を敷いたのと同じ。…ユグドラシルまで造っていたけど、何も変えられなかったじゃない。人間の自分勝手なやり方では。
神様だって、きっとおんなじ…。どんなに人間がお願いしたって、宇宙の決まりは変えないよ。ハーレイはそう思わない…?
神様はきっと、地球を助けてくれないよ…、と恋人に向かってぶつけた思い。いくら神様でも、太陽もろとも滅びゆく地球は、黙って見ているだけだろうから。
「俺だってそれは分かっているさ。地球だけが助かる道なんて無いということは」
地球があるのは、あの太陽のお蔭だからな。…ソル太陽系だったからこそ、地球が生まれた。
他の恒星には作り出せなかった、奇跡の星が地球なんだ。前のお前が憧れた星。
太陽無しでは、青い地球は決して生まれて来ないし、存在することも出来やしない。
だから太陽が滅びる時には、地球も一緒に滅んでゆくのが正しい道だ。太陽から生まれた地球の寿命も、其処で終わるというわけだな。
だが、今の時代でも見付かっちゃいない、第二の地球。…この地球と双子のような星。
その頃までにはきっと見付かる、神様が教えて下さる筈だ。それが必要な時になったら。
俺が言う神様の助けってヤツはそいつだ、とハーレイが挙げた新しい地球。本物の地球が滅びてゆく時、何処かで見付かるだろう星。
前の自分たちが生きた時代にも、人類はそれを探していた。探して、見付けられないまま。
ミュウの時代になり、青い地球が宇宙に蘇って来ても、まだ人間は探し続けている。今は純粋な興味だけで。「地球と同じような星はあるのか」と、「奇跡の星を見付けてみたい」と。
気が遠くなるような長い年月、探し続けても見付からない星。地球に似た星。
本物の地球が滅びる時には、その星がきっとあるのだろう、とハーレイは笑んだ。
「神様は地球で暮らしている人間を、お見捨てになることはない筈だ。きっと見付かる」
第二の地球と呼べるような星が、宇宙の何処かで。…人間が頑張って探し続けていれば。
銀河系の中じゃないかもしれんがなあ…。
かなり昔から探し続けて、大抵の場所は探し尽くしているようだから。
それでも何処かにきっとあるさ、とハーレイが見ている遠い未来の第二の地球。滅びゆく地球の代わりのように、何処かで見付かるだろう星。
「地球そっくりの星が見付かるの?」
それが神様の助けだって言うの、地球の代わりに新しい星…。地球じゃない星。
ぼくもハーレイも其処に行くことになるの、地球が無くなっちゃった時には?
地球とは違う星なんだけど…、と少し寂しい。前の自分が焦がれ続けて、今の自分も何処よりも好きだと思う地球。其処を離れて、別の星に行かねばならない時が来るのか、と。
「お前の気持ちは俺にも分かるが…。本物の地球が一番なのは、俺も同じではあるんだが…」
考えてもみろよ、今の地球だって、実は似たようなモンだってな。第二の地球っていうヤツと。
地球の座標と、ソル太陽系の惑星無しでだ、昔の人間が今のこの地球を見たならば…。
これが地球だと気付くと思うか、青い星には違いないがな。
地球とそっくり同じサイズだというだけの星だぞ、今の俺たちが住んでる地球は。
大陸も海も、形がすっかり違うんだから。…SD体制が始まった時代にあった地球とは。
前の俺が見た地球とも違うな、とハーレイが軽く広げた手。「あれは死の星だったがな」と。
けれど、生き物は何も棲めない星でも、地球の地形はかつてと同じだったという。大陸も海も、人間が地球を離れた時と同じまま。「地球だ」と思わざるを得なかった星。其処に生命の欠片さえ無くても、汚染された海と乾いた砂漠が広がる星でも。
「そういえば、そうかも…」
昔の人たちが宇宙から今の地球を見たって、同じ星だとは気が付かないよね。
青くて地球に良く似ているけど、別の星にしか見えないんだっけ…。
海も大陸も、昔の地球とは違うから。比べてみたって、何処も重ならないんだから。
昔の人たちに見せてあげたら、「地球にそっくりの星を見付けた」って思うよね、きっと…。
今の地球はそういう星だったっけ、と改めて思う蘇った地球。青く輝く水の星。
SD体制が崩壊した時に引き起こされた、地球全体が燃え上がるほどの地殻変動。激しい地震や火山の噴火で、すっかり変わってしまった地形。大陸も海も、何もかもが。
そうやって全てが失われた後、青い地球が宇宙に戻って来た。前とは全く違う姿で、前と同じに水の星として。今の地球でも、地表の七割は海に覆われているのだから。
「分かったか? まるで別物になっちまったのが今の地球だな」
其処でのんびり生きてるんだし、新しい地球に引越す時が来たって、直ぐに慣れるさ。
本物の地球を懐かしく思い出すことがあったとしたって、悲しい気持ちにはならないだろう。
今みたいに生まれて来ることが出来て、新しい命を貰えるんなら。
それにだ、今の地球の姿ってヤツを思えば、これからも地球は変わってゆきそうだよな?
俺たちが次にやって来る時は、陸地の形が違っているかもしれないぞ。
丸ごと変わりはしないだろうが、一部くらいなら有り得るよな、というのがハーレイの読み。
また新しい身体と命を貰えるまでには、長い時間が必要なのかもしれないから。今の自分たちが待っていたのと同じくらいに、待たされることも起こり得るから。
「うーん…。陸地の形が変わっちゃうほど、うんと先のことになっちゃうの?」
次にハーレイと地球に来るのが、そんなに遠い未来だったら…。
そしたら、文化も変わっちゃうかな?
今の間に色々約束したって、それが無くなっちゃっているとか…。
次も日本の文化がいいよね、って思っていたって、お寿司も天麩羅も、もう無いだとか…。
旅行に行こうと思っていた場所の文化も変わっちゃったりしてるのかも、と心配な気分。
前の自分が地球でやりたいと描いた夢は、今の人生で叶いそうなのに。…より素敵になった形で叶う筈なのに、今の自分が夢を見たって、次の人生では叶わないのだろうか…?
「どうなんだかなあ、文化ってヤツは…」
今の文化はSD体制が始まるよりもずっと昔の、色々な地域の文化を復活させてるわけだし…。
そういうやり方がいいと思ってやってるわけだし、今の文化を貫きそうな気もするが…。
時代に合わせて変わりはしたって、基本の部分は変えないままで。
この地球がいい、と誰もが思っているんだから。文化も、それに生き方もな。
どんなに時が流れようとも、そうそう変わりはしないだろう、とハーレイは微笑む。次に二人で地球に来る時も、きっと似たような世界だろうと。
「少しばかり地形が変わっていたって、暮らしている人間は同じじゃないか?」
もちろん顔ぶれは変わる筈だが、それでも同じに今の平和な世界のままで。
…前の俺たちが生きてた時代みたいな世界に、逆戻りしちまうわけがないからな。
今の平和と青い地球とを大切に守って、みんなのんびり地球の上で生きているんだろう。他所の星でも、きっと幸せに。…地球が宇宙の中心で。
「変わらないといいな、今の地球…」
次に来る時も同じだといいな、色々なものが。…いろんな地域も、今の文化も。
やりたいことが山ほどあるもの、これからだって増えていくんだよ。
前のぼくたちの夢を叶えてゆくのが一番だけれど、今のぼくたちの夢も一杯出来るだろうから。
生きてる間に全部叶っても、次もやりたいことが沢山。「また来ようね」っていう約束だとか。
次に来た時も、思い出の場所に行ったりしてみたいよね、と強請ってみた。これからハーレイと行くだろう場所、其処がお気に入りになったなら。何度も行きたい土地になったら。
「そういうのもいいなあ、今の俺たちは、前の俺たちの憧れの場所を目指すんだが…」
其処が気に入りになることもあれば、今の俺たちが旅に出掛けて、気に入る場所もあるだろう。
美味い料理があった場所やら、綺麗な景色に出会った場所やら。
思い出はきちんと取っておこうな、次に来た時も、忘れずに二人で出掛けて行けるように。
俺だって今の地球が好きだからなあ、このまま変わらずにいて欲しいトコだな、この星には。
前の俺が生きてた時代なんかより、断然いいのが今なんだから。
そしてだ、そう思って今の時代を築いているのが、俺たちミュウって種族なわけで…。
キースの野郎が最後に認めた進化の必然、それに相応しく進化したよな。
すっかり丈夫になっちまって…、とハーレイが言うから、「ホントだよね」と頷いた。
今の自分は前と同じに弱いけれども、今の時代は同じミュウでも健康なのが普通だから。かつて人類がそうだったように、健康な身体を持っているから。
前の自分たちが生きた時代は、ミュウは「何処かが欠けている」のが殆どのケースだったのに。頑丈だった前のハーレイでさえも、補聴器が必要だったのに…。
変わったよね、と思うミュウという種族。サイオンを使わないのが社会のマナーだとか、本当に面白い時代。前の自分には、想像すらも出来なかった世界が今の時代。それに青い地球。
「今のぼく、ホントに幸せだよ。ミュウばかりになった世界に来られて」
おまけに地球だよ、本物の青い地球の上に住んでいるなんて…。
地球の太陽はまだまだ沢山寿命があるから、ハーレイと何度でも地球に来ようね。
絶対だよ、と鳶色の瞳を覗き込んだら、「もちろんだ」と頼もしい返事。
「お前と何度も地球に来ないとな、前の俺たちが憧れ続けた星なんだから」
ミュウはこれからも進化し続けてゆくんだろうし、地球と一緒に生きるんだろうが…。
お前が心配している頃には、どんな感じになってるやらなあ…。
あの太陽が滅びようかってほどの遠い未来だ、進化したミュウはどういう姿なんだか…。
なにしろ、人間ってヤツは元が猿だしな、とハーレイが考え込んでいるから。
「…ミュウが進化して、違う姿になっていったら…。今の人間の先へ進んじゃったら…」
ぼくたちの姿も変わってしまうの、其処に生まれて来るんだから。
進化した人間の子供なんだもの、ぼくの姿も変わっちゃう…?
前のぼくとは違う姿になっちゃうだとか…、と見詰めた自分の細っこい手足。いつか育ったら、前の自分とそっくり同じになる筈だけれど。…今の自分はそうだけれども、未来の自分。
地球の太陽が滅びる頃には、自分の姿は今とは違っているのだろうか…?
「お前が別の姿にか…。人間が違う姿になっているなら、無いとは言えんが…」
その方がむしろ自然なんだが、俺の目に映るお前の姿は、ずっとお前のままだろう。
チビの間は今のお前みたいな姿で、育てばソルジャー・ブルーになって。
そんな気がするな、俺の目にはそう見えるんだ、と。
お前が何に生まれて来たって、俺はお前に恋をする、って何度も言っているだろう?
小鳥だろうが、子猫だろうが、必ず見付けて恋をするとな。
ミュウがこれから進化していって、違う姿のお前が地球に生まれて来ても…。
何に生まれてもお前はお前で、人間の姿が変わっちまっても、俺にとってはお前のままだ。
赤い瞳で銀色の髪で、抜けるように白い肌のアルビノ。
そんなトコまで変わらんだろうな、俺の目に映るお前はな…。
お前がどんな姿になっても、お前は変わらずに俺のブルーだ、とハーレイが信じる自分の瞳。
その瞳の色が、形が姿ごと変わってしまったとしても、ハーレイなら見付けてくれるのだろう。今と全く同じ自分を、何処も変わっていない姿で。…今の姿とそっくり同じに映し出して。
ハーレイの瞳がそうだと言うなら、自分の方でも同じこと。ハーレイの姿がどう変わったって、瞳に映って見える姿は今のハーレイと何処も違わない。
「ぼくもハーレイはハーレイなんだと思うよ、いつまで経っても」
人間の姿が変わっちゃっても、ハーレイはハーレイに見えると思う。…ぼくの目にはね。
他の人が見たら、違う姿でも。今のハーレイとは違っていても。
それでもハーレイに見える筈だよ、と確信できる自分の瞳。ハーレイと一緒に生まれ変わって、出会い続けるなら、そうなるから。…きっとハーレイの姿が見える筈だから。
「ほらな、お前もそういう気がするだろう?」
俺とお前は何処までも一緒だ、何度も生まれ変わっても。…人間の姿が変わっちまっても。
だから、俺たちさえ、お互いをきちんと見ていれば…。手を離さないで一緒にいれば…。
地球が滅びてしまったとしても、神様が引越しさせて下さるさ。新しい地球へ。
きっとその頃には見付かってる筈の、誰もが好きになる第二の地球にな。
お前も俺も其処へ行くんだ、とハーレイが話してくれる地球。いつか太陽が寿命を迎えて、今の地球うが滅びてしまう時。…その時は新しい地球に行ける、と。
「本当に?」
ちゃんと行けるの、地球が太陽に飲まれて無くなっちゃっても、新しい地球に?
ぼくたちは其処に引越し出来るの、今の青い地球が消えちゃっても…?
大丈夫かな、と首を傾げたけれども、ハーレイに覗き込まれた瞳。「お前なあ…」と。
「お前、神様を疑うっていうのか、引越しなんかさせて下さらないと?」
俺たちがずっと一緒にいたって、もう新しい地球に生まれ変わらせては下さらない、と。
神様はケチな方ではないと思うがなあ…。「新しい地球には行かせてやらない」と仰るような、心の狭い方ではないと思うんだが…?
「疑ってないよ、ちょっぴり心配になっただけ…」
本当にほんのちょっぴりだけだよ、ぼくは聖痕を貰っているものね。
神様のお蔭でハーレイに会えて、今はとっても幸せだから…。
ハーレイが「行けるさ」と言ってくれるのが、新しい地球。いつか太陽が寿命を迎えた時は。
地球の軌道も飲み込んでしまって、青い地球が消えてしまった時には。
「…いつかハーレイと一緒に行けるね、新しい地球へ」
地球が無くなっちゃった時にも、太陽が地球に近付きすぎて、地球に住めなくなった時にも。
神様の力で引越しなんだね、新しい地球にハーレイと生まれ変われるように。
ハーレイも来てくれるんだよね、と念を押さずにはいられない。自分一人が新しい地球に引越ししたって、意味が無いから。…ハーレイと二人で行きたいのだから。
「当然だろうが、一緒でなくてどうするんだ」
俺はお前を離しやしないし、お前の側を離れやしない。…生まれ変わって出会った時にも、二人一緒に生まれ変われるのを待っている時も。
地球が滅びてしまうどころか、たとえ宇宙が終わってもだな…。
何処までも俺はお前と一緒にいよう、と約束して貰えたから、いつまでも一緒なのだろう。遠く遥かな未来に地球が滅びても。…太陽に飲まれて消えてしまって、新しい地球に行く時にも。
けれど、そうなる時までは…。
「ねえ、ハーレイ。地球が無くなっちゃうまでは…」
太陽の寿命が終わるまでには、何度でも地球に生まれて来ようね。ハーレイと二人で何度でも。
ぼくは青い地球が前のぼくだった頃から好きだったんだし、今も大好きなんだから。
約束だよ、と小指を絡めようとしたら、「こら」と弾かれてしまった手。
「ずいぶんと気の早いヤツだな。お前の人生、これからだろうが」
まずは一度目を満喫しろよ、と小突かれた額。「次の約束まで焦るんじゃない」と。
「分かってるけど、地球でやりたいことが一杯…」
前のぼくたちの夢もそうだし、今のぼくのも。ハーレイと一緒にやりたいことが。
ホントに山ほど、と指切りの約束をしておきたいのに、ハーレイは絡めてくれない小指。
「俺も同じだ。だがな…。大きくなるのはゆっくりだぞ?」
そっちの方も慌てるな、と釘を刺されたから、ゆっくり育とう。子供時代を楽しむために。
いつかこの地球が消えてしまっても、ハーレイとずっと一緒だから。
宇宙が無くなっても一緒なのだし、いつまでも何処までも、けして離れはしないのだから…。
地球の太陽・了
※いつかは滅びる、地球の太陽。その運命は神にも変えることは出来ず、地球も道連れ。
けれども、地球が無くなった後も、ハーレイとブルーは、きっと離れずに生きてゆくのです。
(今日はハーレイの授業があったし…)
幸せだったよね、とブルーが浮かべた笑み。とうに学校から家に帰った後。
制服を脱いで、おやつも食べて、戻って来た二階の自分の部屋。勉強机の前に座って、学校でのことを思い出す。ハーレイが教える古典の授業。
あの時間が好きでたまらない。ハーレイの姿を見られる上に、声もたっぷり聞けるから。
(困ってた子もいたけれど…)
当てられて、答えられなくて。「聞いてたか?」とハーレイに軽く睨まれたりもして。きちんと授業を聞いていたなら、其処で詰まりはしないから。そういう質問だったから。
その子を叱って座らせた後に、「仕方ないな」とハーレイが始めた雑談の時間。生徒の集中力が切れて来た時に繰り出す必殺技。居眠りしていた生徒も起きるし、人気の雑談。
(雑談、みんなに人気だけれど…)
自分は普通の授業でもいい。延々と授業が続くだけでも。難しい質問をされるだけでも。
答えられるだけの自信はあるから、何度でも当てて欲しいくらい。ハーレイの授業なのだから。
(他の先生の授業だったら…)
当てて欲しいとまでは思わない。成績はいいし、当てられても困りはしないけれども、アピールしたいタイプではない。自分の方から「それ、出来ます!」とサッと手を挙げもしない。
(でも、ハーレイだと…)
張り切って手を挙げてしまう。難問でなくても、音読係を募集中でも。
「ぼくは此処だよ」と、「当てて欲しい」と。「ぼくにやらせて」と、「お願いだから」と。
(これって、珍しいタイプ…?)
お気に入りの先生の授業だから、と張り切る生徒。自分の方を向いて欲しいと頑張る子。
あまりいないかとも思ったけれども、どの生徒にも「お気に入りの先生」はいる。学校の廊下で会ったりしたら、呼び止めて立ち話をしたい先生。
(授業の時間に、当てて欲しいかは別だけれどね)
もしも当たったら困るくらいにテストの点数が酷い科目でも、先生は好きという生徒。クラブの顧問の先生だとか、単に人柄が気に入ったとか。
何度叱られても、好きな先生。授業中に「馬鹿か?」と呆れられても、テストで酷い点数ばかり取った挙句に、放課後などに呼び出しを食らっても。
いくらでもいる、先生が好きな生徒たち。「また補習だよ」とぼやいていたって、先生を嫌いになったりはしない。「たまには勉強の話もしろよ?」と苦笑されても、廊下なんかで立ち話。
(ぼくがハーレイを好きな気持ちとは違うけど…)
その生徒たちは、先生に恋はしていないから。
もっとも、見た目は自分も変わらないけれど。ハーレイに会ったら呼び止めたりして、せっせと話をしている自分。多分、傍目には「ハーレイ先生がお気に入りの生徒」に見えることだろう。
(ぼくの他にも、ハーレイが好きな生徒は沢山…)
柔道部員以外でも。男子も、それに女子たちも。
ハーレイの授業を受けた生徒は、全員がハーレイを好きだと言ってもいいくらい。嫌いだという声を一つも聞かない、人気のハーレイ。「来年は担任して欲しい」と夢を見ている生徒も大勢。
前の学校で急な欠員が出来て、着任するのが少し遅れたから、ハーレイは担任をやっていない。長く教師をしているのだから、着任して直ぐに担任をすることもある筈なのに。
来年はきっと、何処かのクラスの担任になる。ハーレイのクラスになりたい生徒が何人も。
(ハーレイのクラス…)
なれるのだったら、来年は其処のクラスがいい。ハーレイが担任になるのなら。
ハーレイは柔道の腕がプロ級、柔道部の指導が優先されたら、担任をしないこともあるらしい。今までの学校で何度かあったと聞いているから、まだどうなるかは分からないけれど…。
(担任になって、ぼくの学年だったら、ハーレイはぼくのクラスかも…!)
ハーレイは自分の守り役なのだし、その方が何かと便利だろう。側にいられる時間が増えたら、充分に目を配れるから。朝と帰りのホームルームで、必ず顔を合わせるのが担任の先生。
(聖痕、あれっきり出ていないけど…)
二度と出ないと思うけれども、両親と病院の先生以外は知らない前の自分のこと。聖痕の理由は外見のせいだと信じているから、学校は今も心配な筈。「ハーレイを側に置かないと」と。
そんな具合だから、ハーレイが担任するのなら…。
(きっと、ぼくの学年…)
それにぼくのクラスだよね、という気がする。守り役を自分につけておくために。
持ち上がりで順に上がってゆくなら、最後までハーレイのクラスだろう。卒業式を迎える時までハーレイのクラス。ずっとハーレイが担任のまま。
ハーレイが担任をするのだったら、きっとそうなる。柔道部の指導が優先されなかったら。
卒業式には、ハーレイに向かって御礼の言葉。大勢のクラスメイトと一緒に、花束を渡したりもして。寄せ書きをした色紙なんかも。
(それで卒業して、十八歳になった途端に、ハーレイと結婚しちゃったら…)
なんだか複雑な気分だけれども、ハーレイならきっと大丈夫。「担任の先生」の顔は卒業、次は恋人で結婚相手。「お嫁さん」にしてくれる人。
変な噂も、ハーレイだったら立たないと思う。みんな祝福してくれる筈。ハーレイの同僚の先生たちも、自分と一緒に卒業したクラスメイトたちも、学校に残っている生徒たちも。
(聖痕が出ちゃったせいで、守り役になって貰って、仲良くなって…)
何度も家に通って貰って過ごす間に恋が生まれても、けして変ではないだろう。ただでも人気のハーレイなのだし、人柄に惹かれても不思議ではない。「いい人だよね」と。
守り役だったハーレイの方でも、まるでペットを可愛がるように世話する間に情が移って、恋に落ちるということだって。
男同士のカップルだけれど、恋の前には些細なこと。好きなものは好きで、恋は恋。
(前のぼくたちだって、最初はホントに友達同士…)
燃えるアルタミラで初めて出会って、行動を共にしたけれど。大勢の仲間たちが閉じ込められたシェルター、それを端から開けて回って、逃がしたけれど。
(息がピッタリ合うんだってこと…)
あの時から気付いて、その後も一緒。ハーレイが厨房担当だった頃も、手伝いながら色々な話をした。試食なんかもさせて貰って、ハーレイの「一番古い友達」。
ソルジャーになってしまった後にも、誰よりもハーレイを頼りにしていた。キャプテンに推したくらいなのだし、当然のこと。…キャプテンの方が、ソルジャーよりも先に誕生したけれど。
あまりにも仲良く過ごしていたから、これは恋だと気が付くまでにはかなりかかった。
シャングリラと名付けた船が白い鯨に改造されても、友達同士でいた二人。
ようやく恋だと分かった頃には、長い年月が経っていた。初めて出会った、あの日から。燃えるアルタミラで声を、思念を掛け合いながら、懸命に走り続けた日から。
なんとも遅咲きだった恋。前の自分たちの恋はそうだった。
気が長すぎる恋だよね、と自分でも思う前の恋。いったい何年かかっただろう、と。互いに特別だった二人で、会った時から一目惚れだと恋が実った後に気付いた。間抜けな話なのだけど。
とはいえ、今度は最初から恋人同士の二人が出会ったのだから…。
(恋に落ちるのも早いよね?)
元々、恋人同士だった二人。前の自分たちの記憶が戻れば、ストンと恋に落っこちる。一目惚れとも言うかもしれない。互いが互いを認識したなら、もう一度恋に落ちるだけ。
前の自分たちの恋の続きを、新しい身体で生きるよう。新しい命で恋の続きをしてゆけるよう。
だから二人は恋人同士で、十八歳になったら結婚。今度こそ恋を実らせるために。
(パパとママには、説明、大変そうだけど…)
いつからハーレイに恋をしたのか、どうして結婚したいのか。上の学校に行きもしないで、結婚できる年になった途端に。…普通だったら、まだ遊びたい盛りだろうに。
それに両親は知っている、前の自分の正体。前世の記憶を持っていること。ハーレイのことも、前のハーレイがキャプテン・ハーレイだったことも。
そんな二人が結婚なのだし、ソルジャー・ブルーだった頃からの恋だと打ち明けるのか、それは隠しておくことにするか。前の自分たちが恋をしたことは、まるで知られていないから。
(うーん…)
どうなんだろう、と思う今の自分の恋。
ただの先生と生徒の恋なら、両親だって驚きはしても「結婚したいほどだったら…」と、きっと納得してくれる。男同士でも、やたら早すぎる結婚でも。
(ちゃんとしっかり考えたのか、って何度も確かめられそうだけど…)
とりあえず上の学校に行ってみたらどうか、とも言うかもしれない。急がなくても、一年くらい視野を広げに通ってみたら、と。
(もう考えた、って言ったら、許して貰えそうなんだけどね…)
問題は其処に至るまで。
前世の記憶を持っているから、そちらの方をどうしたものか。ソルジャー・ブルーだった自分がキャプテン・ハーレイと結婚したいと思う現実。二人を知っている人にとっては青天の霹靂。
今度は友情が恋になったみたい、と話すことにするか、前から恋をしていたのだと明かすのか。嘘は簡単につけるけれども、恋は初めてだと誤魔化しておけばいいのだけれど…。
難しいよね、と思う恋のこと。先生と生徒の恋で通すか、前の自分たちだった頃からの恋だと、両親にきちんと話すべきなのか。
先生と生徒の恋なら簡単だったのにね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「ねえ、ハーレイ。…先生と生徒が結婚したっておかしくないよね?」
ちゃんと卒業した後だったら、珍しくないと思うんだけど…。先生と結婚する生徒。
お気に入りの先生だったのが恋に変わって、結婚しちゃう人もいるよね?
それはちっとも変じゃないでしょ、と投げ掛けた問い。そんなカップルもいる筈だから。
「先生と生徒の結婚か…。お前が言うのは俺たちのことか?」
いずれそうなる予定だからなあ、おかしくないかと訊いてるんだな?
先生と生徒の結婚ってヤツ、とハーレイが質問の意味を確認するから頷いた。
「そう。…ぼくとハーレイのことも含めて」
「教師をやってりゃ、特に珍しくもないってトコか。…教え子と結婚するケースはな」
俺たちの場合は男同士だが、別にかまいはしないだろう。結婚しようと思ったんなら、誰からも文句は出ない筈だぞ。男同士のカップルだってあるんだから。
俺たちだって結婚したっていいと思うが、どうかしたのか?
そんな話を持ち出すなんて、何か気になることがあるのか、と逆に問われた。「何故だ?」と。
「…パパとママには、どう言えばいいのか、分かんなくて…」
ハーレイと結婚したい、ってお願いするのはいいんだけれど…。お願いしなくちゃ駄目だから。
だけど、いつからハーレイに恋をしたかが問題。
前のぼくたちのことがあるでしょ、そっちの話をどうすればいいか…。
あの頃から恋人同士だったことをね、ちゃんと話すか、隠しておくか。何も言わないで。
先生と生徒の間の恋なら、少しもおかしくないんだから…。
前のぼくたちのことは黙っておくのがいいのかな、と鳶色の瞳を見詰めた。「どう思う?」と。
「それか…。今の俺たちのことはともかく、前の俺たちの恋の方だな」
実は俺にも、そいつが難しい所でなあ…。
正直、答えが出せていなくて、先延ばしにしたまま、今も抱えているってわけで…。
お蔭で、親父たちにも話せやしない、とハーレイがフウとついた溜息。
まだハーレイが両親に明かしていないこと。前世の記憶を取り戻したことと、未来の結婚相手の正体。キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーが、いつか結婚するということ。
「お前と結婚するって話は、とっくの昔にしてあるんだが…」
どうしてお前を選んだのかは、まだ話せないままなんだ。お前が俺を選んでくれた理由もな。
下手に話せば、前の俺たちの恋のことまで、明かしちまうことになるからなあ…。
お前と同じで悩んでるんだ、とハーレイも持っていなかった答え。前の自分たちの恋を隠すか、打ち明けるのか。
「そうなんだ…。ハーレイにも出せていないんだ、答え…」
ハーレイでも無理なら、ぼくがちょっぴり考えたくらいで答えが出るわけないよね。パパたちになんて話せばいいのか、先生と生徒の恋だってことにしておくか。
「すまんな、少しも頼りにならない恋人で。まあ、時間だけはたっぷりあるんだから…」
ゆっくり考えていけばいいじゃないか、前の俺たちの恋をどうするか。今度も隠すか、前からの恋だと話しちまうか。
最初は「違う」と言っておいてだ、後で明かすって手もあるし。
結婚してから二人で色々話し合った末に、「やっぱり話そう」と思ったならな。
何十年も経ってから打ち明け話をしたって、まさか叱られやしないだろう、という意見にも一理ある。急いで決めてしまわなくても、ゆっくり考えてから出す結論。
「その方法も使えそうだね。二人で一緒に考えるんなら、いいアイデアが浮かびそう」
パパやママたちがビックリしなくて、「そうだったんだ」って分かってくれる打ち明け方とか。
その時が来るまで黙っておくなら、今度は先生と生徒の恋だね、ぼくたちの恋。
先生に恋をしちゃったぼく、と微笑んだ。前の自分たちの恋を隠しておくなら、そうなるから。
「そいつも悪くないと思うぞ、俺は。先生に恋でも、男同士のカップルでも」
友情から恋になっちまうんなら、前の俺たちも同じだから。最初は友達だったんだしな?
「それはおんなじなんだけど…。ハーレイ、今は先生なんだよね」
先生と仲良くなってしまって、それから恋人。…前は最初から友達同士だったのに。
前のハーレイと出会った時には、先生と生徒じゃなかったものね。
ハーレイは大人で、ぼくが見た目も中身もチビだっただけ、と今の自分たちとの違いを挙げた。前の自分の本当の年はともかくとして、大人と子供の間の友情。
「前のハーレイ、先生じゃなかったんだから…。ぼくは敬語を使っていないよ」
ハーレイの方がずっと大人でも。…ぼくよりも、うんと大きくてもね。
今のハーレイだと、学校では「ハーレイ先生」だから、と話したチビの自分の立ち位置。先生と生徒の間柄では、敬語の出番もやって来る。学校で出会った時だけにしても。
「其処が大きな違いだよなあ…。前の俺たちが出会った時と、見た目は変わっていなくても」
お前にとっては俺は教師で、学校の中で話すとなったら、敬語が欠かせないからな。前の俺たちなら、いくらお前がチビの子供でも、言葉は普通で良かったんだが…。
そういや、前の俺たちの場合。学校では出会えていないんだよなあ、燃えるアルタミラだから。
炎の地獄で出会っちまった、とハーレイが浮かべた苦笑い。「一目惚れには似合わないな」と。
「ちっとも似合っていないよね…。地獄で一目惚れなんて」
お互い、気付いていなかったけど。…あそこで恋をしちゃったことに。
おまけに、ぼくの方がハーレイよりもずっと年上。とても生徒になれやしないよ、年上だもの。
生徒だったら年下でしょ、という点も前の自分たちとの違い。今の自分はハーレイよりも年下。
「それなんだがな…。お前が年下だったとしたって、学校ってトコでは会えないぞ」
出会えない上に、一目惚れをするチャンスも無いな、とハーレイが言うから首を傾げた。
「なんで? 前のぼくの方が年下だった時のことでしょ?」
学校で会えると思うけど…。ハーレイが先生をしているのなら。今と同じで。
「そうはいかないのが、前の俺たちが生きた時代だ。…ミュウかどうかは抜きにしてだな…」
俺が教師をしてるとなったら、俺は成人検査をパスしていないと駄目だから。
ついでにお前も成人検査をパスして来ないといけないな。
つまり、今より育ったお前になるわけだ。成人検査を通過しているわけだから。
ほんのちょっぴりだけにしてもな、というのが出会いのための条件。成人検査をパスすること。
「…ぼくもなの?」
パスする前でも、かまわないように思うんだけど…。
前のぼくたちが出会った頃みたいな姿で会うなら、成人検査はあまり関係無さそうだけど…。
パスすることは必須じゃないでしょ、と思った忌まわしい成人検査。ミュウはパス出来ない検査だけれども、今、話している「もしも」はミュウは抜きなのだから。
「ミュウかどうかは関係無いなら、成人検査はどうでもいいよ?」
どうせ受ければパスするんだから、それよりも前にハーレイに会ってもいいじゃない。
学校の先生をやってるハーレイにね、と言ったのだけれど、「それは甘いぞ」と返った声。
「いいか、成人検査を受ける前には何処にいたんだ? 前の俺たちが生きた頃には」
俺たちは記憶をすっかり失くしちまって覚えていないが、アルタミラにあった育英都市だ。成人検査にパスするまでは、育英都市の学校に通うのが義務だったわけで…。
育英都市だと、教師と生徒の恋というのは有り得んな。…ああいう時代だったんだから。
どう転んでも恋は出来ん、とハーレイに畳み掛けられた。「育英都市にある学校だぞ?」と。
「育英都市…。あそこの学校、子供のための学校で…」
大人の社会に旅立つ前の勉強の場所で、純粋で無垢な子供を育てる学校だから…。
其処で先生に恋をしたって、成人検査を受けた後にはお別れで…。
それに本気で恋をするなんて、子供には相応しくないって判断されちゃうだろうし…。
ハーレイに恋をしちゃ駄目なんだよね、と気が付いた。
あの時代には、恋をするなら教育ステーションに行ってから。大人の社会への入口になる場所、其処に進んでゆかないと無理。子供はあくまで子供らしく、と機械が定めていたのだから。
それまでは恋に憧れるだけ。大人になったら、素敵な人を見付けて恋をしようと。
育英都市にあった学校は、そういう子供が通う場所。大好きな先生に恋をしてみた所で…。
(その恋、実らないどころの騒ぎじゃなくって、カウンセリングルーム…)
アタラクシアでジョミーを見守っていた時、何度も覗いたカウンセリングルーム。呼び出されて叱られるジョミーの姿も、ションボリと出てゆく時の姿も。
あれと同じで、もしも自分が学校でハーレイに恋をしたなら、きっと食らってしまう呼び出し。自分を担任する教師はもちろん、場合によっては当のハーレイまでが其処に現れて…。
指導を受けて、諦めさせられることになる。ハーレイに恋をすることを。
それで駄目なら、記憶の処理もされるのだろう。
恋など忘れて、子供らしく健全に生きてゆくよう。二度とハーレイに恋をしないよう、恋をする切っ掛けになった出来事や、育んだ想いを全て消されて。
育英都市の学校で先生に恋をするのは無理だ、と思い知らされた。目覚めの日を迎えて、学校や先生に別れを告げるよりも前に、恋そのものが出来なかった場所。
其処でハーレイが教えていても。…ハーレイのことを好きになっても、けして実りはしない恋。子供時代を過ごす間は、恋は相応しくないものだから。
「…先生のハーレイに会いたかったら、教育ステーションなんだ…」
会うだけだったら、育英都市の学校でだって会えるけど…。ハーレイに恋をしたいなら。
恋が出来る場所で出会うんだったら、成人検査をパスした後…。
今のぼくより、ちょっぴり育ったくらいかな、と眺める手足。前のハーレイとは、こういう姿で出会ったけれども、あの時代に「ハーレイ先生」に会うなら、教育ステーションなのだろう。
「そうなっちまうな、E-1077かもしれないぞ」
前の俺とお前が出会う場所。…前の俺は本物を見てはいないがな、E-1077そのものは。
すぐ近くまでは行ったんだが、というのはシロエの船をキースが落とした時のこと。ジョミーが試みた思念波通信、それを行うための航行の真っ最中。
「E-1077って…。どうしてなの?」
キースやシロエがいた場所だから、って言うんじゃないよね、時代が全く違うんだもの。
ぼくが行ってもキースは生まれてさえもいないよ、と思い出すのはフィシスのこと。人類を導く指導者として、機械が無から創った生命。フィシスが最初に作り出されて、遺伝子データを使ってキースが作られた。E-1077に場所を移して、エリート候補生として。
その実験がまだ始まってもいなかった時代、それが前の自分が成人検査を受けた頃。検査にパスしてE-1077に行っても、大して意味は無さそうだけれど…。
「俺があそこを挙げた理由か? キースの野郎は関係無いぞ」
もちろんシロエも、サムやスウェナも。
お前、頭が良かったからなあ、あそこじゃないかと思ったんだが…。成人検査をパスしたなら。
待てよ、頭の方は良くても、身体が駄目か。弱い身体じゃ、訓練についていけないからな。
それじゃメンバーズになれやしないし、E-1077は対象外になっちまうのか…。
「そうみたい…」
他のステーションになると思うよ、前のぼくなら。
成人検査をパスしていたって、E-1077に行く人間には選ばれないよね。
あそこは駄目、と肩を竦めたら、浮かんだ他の可能性。教育ステーションなら幾つもあったし、身体の弱い子供用のも、多分、存在したのだろうけれど。
そういう場所なら、そのステーションに似合いの教師が配属されて教えた筈。同じように身体が弱い教師や、弱い子供を教えるのに向いている教師。
(…今のハーレイは古典の先生だけど…)
それは今のハーレイが選んだ仕事。柔道や水泳のプロの選手にならずに、教師になろうと決めた職業。けれど、前の自分たちが生きた時代は、自分で仕事を選べなかった。進みたい道も。
弱い身体ではE-1077に行けないのと同じで、前のハーレイにも機械が割り当てる道。この職業に就くように、と。そんな時代に、ハーレイが教師になったなら…。
(古典の先生なんかじゃなくって、うんとハードな体育とかの…)
教師の道が待っていそう。それこそE-1077でも通用しそうな、激しい訓練担当の。身体の弱い子供たちが行くステーションには、ハーレイは来ない。きっと配属されたりはしない。
「…前のぼく、ハーレイが教えてくれるような教育ステーションには、行けそうにないよ…」
ハーレイはE-1077でも教えられそうだから、ぼくみたいな弱い子供が行くような場所にはいないと思う。…もっと丈夫な子供が行く教育ステーションの先生だよ、きっと。
それに、先生じゃない可能性の方が高いかも…。仕事、自分で選べなかったんだもの。
機械が勝手に決めてしまって、と話したら、ハーレイも「そうかもなあ…」と軽く手を広げた。
「俺もそういう気がして来た。どうやら教師は無理なようだ、と」
あの時代だったら、ミュウじゃない俺は、有無を言わさずスポーツ選手にされてたかもな。何の選手になったかは知らんが、プロを養成する教育ステーションに送られちまって。
でなきゃパイロットといった所か、才能はあったようだから…。
前の俺が自分じゃ気付いていなかっただけで、キャプテンに向いていたようだしな?
プロの選手にせよ、パイロットにせよ、そういう道に進んじまったら、引退した後に教師の道があったとしても…。
まだ充分に若かったとしても、お前が来そうなステーションには…。
「いないでしょ、ハーレイ?」
ぼくはスポーツのプロも無理だし、パイロットになるのも無理そうだから…。
どっちも丈夫な身体が要るから、ハーレイが先生になっていたって、会えないんだよ…。
先生のハーレイがいるステーションには行けないよ、と溜息をついたら、ハーレイも「うむ」と相槌を打った。「どう考えても、それは無理だよな」と。
「今のお前が柔道部員になれないみたいに、向き不向きってのがあるもんだから…」
SD体制の時代は適性を機械が判断してたし、例外ってヤツは無いだろう。こいつは此処だ、と決めちまったら、そのコースを進ませるだけで。
前のお前は、成人検査をパスしていたって、教師の俺には出会えないんだな。俺とお前の適性が違い過ぎるから。
そして俺だって、生徒のお前には出会えないままになっちまう、と。成人検査を通過出来ても、俺たちの道は重なりそうにないからなあ…。
「…それじゃやっぱり、ミュウ同士で出会うしかないの?」
せっかく恋が出来る教育ステーションに行っても、先生のハーレイがいないなら。
…ぼくを教えてくれないのなら、アルタミラの地獄で会うしか無かった…?
先生と生徒は無理だものね、と消えてしまった可能性。前の自分たちの、別の出会い方。
「そうかもしれんな、違う道なら何処かにあったかもしれないが…」
教師と生徒でなくていいなら、宇宙は広いし、出会えた可能性もある。一目惚れ出来るチャンスだってな。…それこそ何処かへ旅する途中に、宇宙船の席が隣同士になったとか。
しかし今だと、こうして出会えた。…ちゃんと、お前に。
前の俺たちは行けずに終わっちまった、教育ステーションって所でな。
俺は教師で、お前は俺の教え子だろうが、とハーレイは笑みを浮かべるけれども、ステーションではない学校。…教育ステーションという名前でもないし、宇宙に浮かんでもいない学校。
「ステーションじゃなくて、学校だよ?」
ハーレイと会ったの、学校だってば。…先生と生徒なのは間違いないけど、普通の学校。
義務教育で行く最後の所で、教育ステーションなんて名前はついていないよ…?
今の時代は、教育ステーションっていうのも無いでしょ、何処を探しても。
SD体制が無くなった後は、あのシステムも無くなったから…。
人類もミュウも、自分で好きな道を選んで、行きたい学校に行くようになってしまったから。
教育ステーションは廃止されたんだってことを習うよ、歴史の授業で。
SD体制が崩壊した後、真っ先に廃止されたのが教育ステーション。成人検査を廃止するなら、教育ステーションだけを残しておく意味は何もない。
同じ水準の教育をしようというなら、宇宙ではなくて何処かの星で。大人も子供も一緒に暮らす社会の中に、学校を作ればいいのだから。ちゃんと家から通えるように。
自分の家から遠すぎる子なら、寮に入ればいいだけのこと。そして学校が休みの時期には、家に帰って家族と暮らす。…もう目覚めの日が来て、引き離されはしない養父母たちと。
(初めの間は、養父母が本物のパパやママっていう時代になって…)
自然出産の子供が混じり始めて、じきに本当の家族ばかりになった。血が繋がった両親と子供、そういう家族しかいない世界。成人検査も教育ステーションも、時の彼方に消えてしまって。
今は人間は全てミュウになったし、地球さえも青く蘇ったほど。そんな時代に教育ステーションなどという言葉自体が無い筈なのに、と首を捻って考えていたら…。
「分からないか? 俺がどうして教育ステーションだと言ったのか」
お前の学校は教育ステーションじゃないが、あれはとっくに無くなったんだが…。
あの時代の流れを継いでいるんだ、今の時代の学校も。
成人検査も教育ステーションも廃止されたが、子供を教える学校は無いと駄目だしな?
暫くの間は混乱していて、何処の学校も、休校みたいになっていた時期もあったそうだが…。
じきに新しいのに整え直して、教師をしていた人間も配属し直した。新しく出来た学校に。
今のお前が通っているのが、元は教育ステーションだったヤツなんだ。其処で教えていた教師を連れて来て、あちこちの星に置かれた学校。…教える中身も、教科書も変えて。
お前の学校、十四歳で入って、四年間で卒業するだろう?
在籍期間は教育ステーションってヤツと全く同じだ、気付かなかったか…?
ステーション時代の名残なんだな、と聞かされた今の学校を卒業するまでの年数。それから入学する時の年も。
「本当だ…!」
十四歳になったら通うんだものね、目覚めの日も十四歳だっけ…。
それに教育ステーションで過ごすの、四年間っていう決まりだったよ。
E-1077でも、何処でも同じ。四年経たなきゃ、どんなに優秀でも卒業は無理…。
義務教育みたいなものだったんだね、あの時代の教育ステーションって…。
今の自分が通う学校と、教育ステーションとの共通点。入学の年と在籍年数が同じ。ハーレイに聞くまで、まるで気付いていなかった。そっくりそのまま真似ているのに。
前の自分には、教育ステーションは関係の無い場所だったから。子供たちを教育ステーションに送り出すための、振り分けを兼ねた成人検査を酷く憎んでいただけだから。
(…教育ステーションまで行ける子供は、みんな人類…)
ミュウの子供は弾き出されて、その場で処分されてしまうか、研究所に送られて実験動物になる道を歩むか。どちらも人類と機械の都合で、そうならないよう救出したミュウの子供たち。
前の自分の役目は其処まで、教育ステーションに気を配りはしない。どうせ人類しかいない場所だし、ステーションによっては、ミュウの天敵とも言えるメンバーズを育てていたのだから。
少しも興味が無かった場所。目を向けさえもしなかった教育ステーション。
「…ハーレイ、なんで知ってるの?」
ぼくの学校、教育ステーションを元にしてるんだ、って…。
教えてることは違うけど。あの頃みたいに、色々な仕事のプロを育ててはいないけど…。
もっと沢山勉強するなら、上の学校に行かないと教えて貰えないから。
「簡単なことだ、教師にとっては常識だってな。学校の仕組みと歴史ってヤツは」
基礎の基礎だと言ってもいい。…何の科目の教師になるにも、一番最初に教わることだ。
お前が通っている学校は、元は教育ステーションだった学校なんだな。教える中身と、場所とが変わってしまっただけで。
つまりだ、今のお前は教育ステーションにいるってことだ。成人検査は全く抜きで。
お前の学校、宇宙に浮いてはいないがな。…何かの仕事のプロに育ててもくれないが。
義務教育だし、そんなモンだ、とハーレイは笑う。「SD体制の頃とは時代が違うから」と。
「ぼく、教育ステーションに入れたんだ…」
前のぼくは門前払いになってしまって、入れて貰えずに終わったけれど…。
どんなステーションに行ける才能を持っていたのか、それも知らないままだったけど…。
「お互い様だな、俺も教師になれたようだぞ」
前の俺には門前払いを食らわせてくれた、教育ステーションって所でな。
何になりたいかを選ばせて貰って、プロのスポーツ選手の道とか、パイロットとかはお断りで。
俺とお前は教育ステーションで出会ったようだ、とハーレイはパチンと片目を瞑った。
「教育ステーションってヤツは、今は何処にも無いんだがな」と。
「俺は教師で、お前は生徒。…E-1077とはいかなかったが、教育ステーションなんだ」
前の俺たちの考え方だと、そういうことになるんだろう。…今の俺たちの出会いはな。
「そう考えると面白いね。前のぼく、教育ステーションには行けなかったけど、今は学校」
それに、ハーレイまでくっついて来たよ。教育ステーションの先生になって。
前のぼく、そんなの、夢にも思っていなかったよ。やり直せて教育ステーションなんて。
其処に行ったら、ハーレイが先生をしてるだなんて…。
夢よりもずっと凄い未来になっちゃった、と輝かせた顔。「ホントに凄い」と。
「俺も思いやしなかった。…考えたことさえ無かったってな」
こういう人生も悪くないなあ、俺は教師で、お前は生徒。
教育ステーションでバッタリ出会っちまって、一目惚れして、今度は結婚出来るだなんて。
…教師と生徒になっちまったから、結婚します、と宣言するタイミングが難しそうだが…。
お前のお父さんたちにとっては、俺はあくまで「ハーレイ先生」なんだから。
その俺がお前と結婚か…、とハーレイが腕組みしているから。
「パパたちに頼むの、ハーレイに任せちゃってもいい?」
結婚したいと思ってます、って頼む時にはハーレイにお願い出来る…?
ぼくだとタイミングが掴めないしね、と頼んでみた。ハーレイの方が遥かに年上なのだし、肝も据わっている筈だから。
「そのつもりだが…。場合によっては、お前にも努力して貰わんと」
「努力って?」
「お父さんたちに反対された時だな。絶対に駄目だ、と俺が叩き出されたら、お前の出番だ」
俺は家にも入れて貰えないし、お前が説得してくれないと…。なんとか入れて貰えるように。
通信を入れても切られそうだしな、家から叩き出されてしまった時は。
問答無用というヤツで、とハーレイが恐れる両親の反対。「結婚は駄目だ」と、一人息子を嫁に欲しがる男を家から叩き出すこと。訪ねて来たって家には入れずに、通信も切るという有様。
「…パパたち、其処まで反対するかな?」
ハーレイを家から叩き出すほど、酷いことをやったりすると思うの…?
「どうだかなあ…?」
こればっかりは、蓋を開けてみないと分からんし…。俺が本当に叩き出されたら、お前を頼りにするしかない。お父さんたちに会えないことには、話のしようが無いんだから。
土下座するにしたって、会えないと出来はしないんだぞ、とハーレイは最悪のケースを予想しているけれど。父と母とに放り出されて、結婚の許可が下りないことを恐れているけれど…。
前にそういう夢を見た。
ハーレイと結婚したいから、と思い切って父に打ち明ける夢を。
夢の中の父は少し怖かったけれど、最後は結婚を許してくれたし、現実もきっと…。
「パパとママなら許してくれるよ、ハーレイと結婚するのなら」
ずっとハーレイと一緒に過ごして、先生と生徒で結婚したくなったんならね。
ハーレイを叩き出したりなんかはしないよ、きっと話をきちんと聞いてくれるってば。
「そうなってくれればいいんだが…。どうなるんだか…」
俺の方だと、親父たちはもう知ってるからなあ、お前を嫁に貰うってこと。
親父たちに反対されなかった分、お前の家で苦労をする羽目になるかもしれないが…。
お前の努力が必要な立場になっちまっても、俺も全力で努力しよう、とハーレイは結婚のために頑張ってくれるらしいから。
先生と生徒の恋が実るよう、結婚式を挙げられるように力を尽くしてくれるから…。
両親もきっと結婚を許してくれるし、それまでは恋を楽しもう。
キスもデートも出来ないけれども、今はステーション時代だから。
前の自分は行けなかった場所でハーレイと出会って、今は毎日、幸せな恋をしているから…。
先生と生徒・了
※今のハーレイとブルーの恋は、先生と生徒の間の恋。今の時代だから、可能なのです。
SD体制の時代だったら、制約がありすぎて叶わない恋。それが出来る今を楽しまないと…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
幸せだったよね、とブルーが浮かべた笑み。とうに学校から家に帰った後。
制服を脱いで、おやつも食べて、戻って来た二階の自分の部屋。勉強机の前に座って、学校でのことを思い出す。ハーレイが教える古典の授業。
あの時間が好きでたまらない。ハーレイの姿を見られる上に、声もたっぷり聞けるから。
(困ってた子もいたけれど…)
当てられて、答えられなくて。「聞いてたか?」とハーレイに軽く睨まれたりもして。きちんと授業を聞いていたなら、其処で詰まりはしないから。そういう質問だったから。
その子を叱って座らせた後に、「仕方ないな」とハーレイが始めた雑談の時間。生徒の集中力が切れて来た時に繰り出す必殺技。居眠りしていた生徒も起きるし、人気の雑談。
(雑談、みんなに人気だけれど…)
自分は普通の授業でもいい。延々と授業が続くだけでも。難しい質問をされるだけでも。
答えられるだけの自信はあるから、何度でも当てて欲しいくらい。ハーレイの授業なのだから。
(他の先生の授業だったら…)
当てて欲しいとまでは思わない。成績はいいし、当てられても困りはしないけれども、アピールしたいタイプではない。自分の方から「それ、出来ます!」とサッと手を挙げもしない。
(でも、ハーレイだと…)
張り切って手を挙げてしまう。難問でなくても、音読係を募集中でも。
「ぼくは此処だよ」と、「当てて欲しい」と。「ぼくにやらせて」と、「お願いだから」と。
(これって、珍しいタイプ…?)
お気に入りの先生の授業だから、と張り切る生徒。自分の方を向いて欲しいと頑張る子。
あまりいないかとも思ったけれども、どの生徒にも「お気に入りの先生」はいる。学校の廊下で会ったりしたら、呼び止めて立ち話をしたい先生。
(授業の時間に、当てて欲しいかは別だけれどね)
もしも当たったら困るくらいにテストの点数が酷い科目でも、先生は好きという生徒。クラブの顧問の先生だとか、単に人柄が気に入ったとか。
何度叱られても、好きな先生。授業中に「馬鹿か?」と呆れられても、テストで酷い点数ばかり取った挙句に、放課後などに呼び出しを食らっても。
いくらでもいる、先生が好きな生徒たち。「また補習だよ」とぼやいていたって、先生を嫌いになったりはしない。「たまには勉強の話もしろよ?」と苦笑されても、廊下なんかで立ち話。
(ぼくがハーレイを好きな気持ちとは違うけど…)
その生徒たちは、先生に恋はしていないから。
もっとも、見た目は自分も変わらないけれど。ハーレイに会ったら呼び止めたりして、せっせと話をしている自分。多分、傍目には「ハーレイ先生がお気に入りの生徒」に見えることだろう。
(ぼくの他にも、ハーレイが好きな生徒は沢山…)
柔道部員以外でも。男子も、それに女子たちも。
ハーレイの授業を受けた生徒は、全員がハーレイを好きだと言ってもいいくらい。嫌いだという声を一つも聞かない、人気のハーレイ。「来年は担任して欲しい」と夢を見ている生徒も大勢。
前の学校で急な欠員が出来て、着任するのが少し遅れたから、ハーレイは担任をやっていない。長く教師をしているのだから、着任して直ぐに担任をすることもある筈なのに。
来年はきっと、何処かのクラスの担任になる。ハーレイのクラスになりたい生徒が何人も。
(ハーレイのクラス…)
なれるのだったら、来年は其処のクラスがいい。ハーレイが担任になるのなら。
ハーレイは柔道の腕がプロ級、柔道部の指導が優先されたら、担任をしないこともあるらしい。今までの学校で何度かあったと聞いているから、まだどうなるかは分からないけれど…。
(担任になって、ぼくの学年だったら、ハーレイはぼくのクラスかも…!)
ハーレイは自分の守り役なのだし、その方が何かと便利だろう。側にいられる時間が増えたら、充分に目を配れるから。朝と帰りのホームルームで、必ず顔を合わせるのが担任の先生。
(聖痕、あれっきり出ていないけど…)
二度と出ないと思うけれども、両親と病院の先生以外は知らない前の自分のこと。聖痕の理由は外見のせいだと信じているから、学校は今も心配な筈。「ハーレイを側に置かないと」と。
そんな具合だから、ハーレイが担任するのなら…。
(きっと、ぼくの学年…)
それにぼくのクラスだよね、という気がする。守り役を自分につけておくために。
持ち上がりで順に上がってゆくなら、最後までハーレイのクラスだろう。卒業式を迎える時までハーレイのクラス。ずっとハーレイが担任のまま。
ハーレイが担任をするのだったら、きっとそうなる。柔道部の指導が優先されなかったら。
卒業式には、ハーレイに向かって御礼の言葉。大勢のクラスメイトと一緒に、花束を渡したりもして。寄せ書きをした色紙なんかも。
(それで卒業して、十八歳になった途端に、ハーレイと結婚しちゃったら…)
なんだか複雑な気分だけれども、ハーレイならきっと大丈夫。「担任の先生」の顔は卒業、次は恋人で結婚相手。「お嫁さん」にしてくれる人。
変な噂も、ハーレイだったら立たないと思う。みんな祝福してくれる筈。ハーレイの同僚の先生たちも、自分と一緒に卒業したクラスメイトたちも、学校に残っている生徒たちも。
(聖痕が出ちゃったせいで、守り役になって貰って、仲良くなって…)
何度も家に通って貰って過ごす間に恋が生まれても、けして変ではないだろう。ただでも人気のハーレイなのだし、人柄に惹かれても不思議ではない。「いい人だよね」と。
守り役だったハーレイの方でも、まるでペットを可愛がるように世話する間に情が移って、恋に落ちるということだって。
男同士のカップルだけれど、恋の前には些細なこと。好きなものは好きで、恋は恋。
(前のぼくたちだって、最初はホントに友達同士…)
燃えるアルタミラで初めて出会って、行動を共にしたけれど。大勢の仲間たちが閉じ込められたシェルター、それを端から開けて回って、逃がしたけれど。
(息がピッタリ合うんだってこと…)
あの時から気付いて、その後も一緒。ハーレイが厨房担当だった頃も、手伝いながら色々な話をした。試食なんかもさせて貰って、ハーレイの「一番古い友達」。
ソルジャーになってしまった後にも、誰よりもハーレイを頼りにしていた。キャプテンに推したくらいなのだし、当然のこと。…キャプテンの方が、ソルジャーよりも先に誕生したけれど。
あまりにも仲良く過ごしていたから、これは恋だと気が付くまでにはかなりかかった。
シャングリラと名付けた船が白い鯨に改造されても、友達同士でいた二人。
ようやく恋だと分かった頃には、長い年月が経っていた。初めて出会った、あの日から。燃えるアルタミラで声を、思念を掛け合いながら、懸命に走り続けた日から。
なんとも遅咲きだった恋。前の自分たちの恋はそうだった。
気が長すぎる恋だよね、と自分でも思う前の恋。いったい何年かかっただろう、と。互いに特別だった二人で、会った時から一目惚れだと恋が実った後に気付いた。間抜けな話なのだけど。
とはいえ、今度は最初から恋人同士の二人が出会ったのだから…。
(恋に落ちるのも早いよね?)
元々、恋人同士だった二人。前の自分たちの記憶が戻れば、ストンと恋に落っこちる。一目惚れとも言うかもしれない。互いが互いを認識したなら、もう一度恋に落ちるだけ。
前の自分たちの恋の続きを、新しい身体で生きるよう。新しい命で恋の続きをしてゆけるよう。
だから二人は恋人同士で、十八歳になったら結婚。今度こそ恋を実らせるために。
(パパとママには、説明、大変そうだけど…)
いつからハーレイに恋をしたのか、どうして結婚したいのか。上の学校に行きもしないで、結婚できる年になった途端に。…普通だったら、まだ遊びたい盛りだろうに。
それに両親は知っている、前の自分の正体。前世の記憶を持っていること。ハーレイのことも、前のハーレイがキャプテン・ハーレイだったことも。
そんな二人が結婚なのだし、ソルジャー・ブルーだった頃からの恋だと打ち明けるのか、それは隠しておくことにするか。前の自分たちが恋をしたことは、まるで知られていないから。
(うーん…)
どうなんだろう、と思う今の自分の恋。
ただの先生と生徒の恋なら、両親だって驚きはしても「結婚したいほどだったら…」と、きっと納得してくれる。男同士でも、やたら早すぎる結婚でも。
(ちゃんとしっかり考えたのか、って何度も確かめられそうだけど…)
とりあえず上の学校に行ってみたらどうか、とも言うかもしれない。急がなくても、一年くらい視野を広げに通ってみたら、と。
(もう考えた、って言ったら、許して貰えそうなんだけどね…)
問題は其処に至るまで。
前世の記憶を持っているから、そちらの方をどうしたものか。ソルジャー・ブルーだった自分がキャプテン・ハーレイと結婚したいと思う現実。二人を知っている人にとっては青天の霹靂。
今度は友情が恋になったみたい、と話すことにするか、前から恋をしていたのだと明かすのか。嘘は簡単につけるけれども、恋は初めてだと誤魔化しておけばいいのだけれど…。
難しいよね、と思う恋のこと。先生と生徒の恋で通すか、前の自分たちだった頃からの恋だと、両親にきちんと話すべきなのか。
先生と生徒の恋なら簡単だったのにね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「ねえ、ハーレイ。…先生と生徒が結婚したっておかしくないよね?」
ちゃんと卒業した後だったら、珍しくないと思うんだけど…。先生と結婚する生徒。
お気に入りの先生だったのが恋に変わって、結婚しちゃう人もいるよね?
それはちっとも変じゃないでしょ、と投げ掛けた問い。そんなカップルもいる筈だから。
「先生と生徒の結婚か…。お前が言うのは俺たちのことか?」
いずれそうなる予定だからなあ、おかしくないかと訊いてるんだな?
先生と生徒の結婚ってヤツ、とハーレイが質問の意味を確認するから頷いた。
「そう。…ぼくとハーレイのことも含めて」
「教師をやってりゃ、特に珍しくもないってトコか。…教え子と結婚するケースはな」
俺たちの場合は男同士だが、別にかまいはしないだろう。結婚しようと思ったんなら、誰からも文句は出ない筈だぞ。男同士のカップルだってあるんだから。
俺たちだって結婚したっていいと思うが、どうかしたのか?
そんな話を持ち出すなんて、何か気になることがあるのか、と逆に問われた。「何故だ?」と。
「…パパとママには、どう言えばいいのか、分かんなくて…」
ハーレイと結婚したい、ってお願いするのはいいんだけれど…。お願いしなくちゃ駄目だから。
だけど、いつからハーレイに恋をしたかが問題。
前のぼくたちのことがあるでしょ、そっちの話をどうすればいいか…。
あの頃から恋人同士だったことをね、ちゃんと話すか、隠しておくか。何も言わないで。
先生と生徒の間の恋なら、少しもおかしくないんだから…。
前のぼくたちのことは黙っておくのがいいのかな、と鳶色の瞳を見詰めた。「どう思う?」と。
「それか…。今の俺たちのことはともかく、前の俺たちの恋の方だな」
実は俺にも、そいつが難しい所でなあ…。
正直、答えが出せていなくて、先延ばしにしたまま、今も抱えているってわけで…。
お蔭で、親父たちにも話せやしない、とハーレイがフウとついた溜息。
まだハーレイが両親に明かしていないこと。前世の記憶を取り戻したことと、未来の結婚相手の正体。キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーが、いつか結婚するということ。
「お前と結婚するって話は、とっくの昔にしてあるんだが…」
どうしてお前を選んだのかは、まだ話せないままなんだ。お前が俺を選んでくれた理由もな。
下手に話せば、前の俺たちの恋のことまで、明かしちまうことになるからなあ…。
お前と同じで悩んでるんだ、とハーレイも持っていなかった答え。前の自分たちの恋を隠すか、打ち明けるのか。
「そうなんだ…。ハーレイにも出せていないんだ、答え…」
ハーレイでも無理なら、ぼくがちょっぴり考えたくらいで答えが出るわけないよね。パパたちになんて話せばいいのか、先生と生徒の恋だってことにしておくか。
「すまんな、少しも頼りにならない恋人で。まあ、時間だけはたっぷりあるんだから…」
ゆっくり考えていけばいいじゃないか、前の俺たちの恋をどうするか。今度も隠すか、前からの恋だと話しちまうか。
最初は「違う」と言っておいてだ、後で明かすって手もあるし。
結婚してから二人で色々話し合った末に、「やっぱり話そう」と思ったならな。
何十年も経ってから打ち明け話をしたって、まさか叱られやしないだろう、という意見にも一理ある。急いで決めてしまわなくても、ゆっくり考えてから出す結論。
「その方法も使えそうだね。二人で一緒に考えるんなら、いいアイデアが浮かびそう」
パパやママたちがビックリしなくて、「そうだったんだ」って分かってくれる打ち明け方とか。
その時が来るまで黙っておくなら、今度は先生と生徒の恋だね、ぼくたちの恋。
先生に恋をしちゃったぼく、と微笑んだ。前の自分たちの恋を隠しておくなら、そうなるから。
「そいつも悪くないと思うぞ、俺は。先生に恋でも、男同士のカップルでも」
友情から恋になっちまうんなら、前の俺たちも同じだから。最初は友達だったんだしな?
「それはおんなじなんだけど…。ハーレイ、今は先生なんだよね」
先生と仲良くなってしまって、それから恋人。…前は最初から友達同士だったのに。
前のハーレイと出会った時には、先生と生徒じゃなかったものね。
ハーレイは大人で、ぼくが見た目も中身もチビだっただけ、と今の自分たちとの違いを挙げた。前の自分の本当の年はともかくとして、大人と子供の間の友情。
「前のハーレイ、先生じゃなかったんだから…。ぼくは敬語を使っていないよ」
ハーレイの方がずっと大人でも。…ぼくよりも、うんと大きくてもね。
今のハーレイだと、学校では「ハーレイ先生」だから、と話したチビの自分の立ち位置。先生と生徒の間柄では、敬語の出番もやって来る。学校で出会った時だけにしても。
「其処が大きな違いだよなあ…。前の俺たちが出会った時と、見た目は変わっていなくても」
お前にとっては俺は教師で、学校の中で話すとなったら、敬語が欠かせないからな。前の俺たちなら、いくらお前がチビの子供でも、言葉は普通で良かったんだが…。
そういや、前の俺たちの場合。学校では出会えていないんだよなあ、燃えるアルタミラだから。
炎の地獄で出会っちまった、とハーレイが浮かべた苦笑い。「一目惚れには似合わないな」と。
「ちっとも似合っていないよね…。地獄で一目惚れなんて」
お互い、気付いていなかったけど。…あそこで恋をしちゃったことに。
おまけに、ぼくの方がハーレイよりもずっと年上。とても生徒になれやしないよ、年上だもの。
生徒だったら年下でしょ、という点も前の自分たちとの違い。今の自分はハーレイよりも年下。
「それなんだがな…。お前が年下だったとしたって、学校ってトコでは会えないぞ」
出会えない上に、一目惚れをするチャンスも無いな、とハーレイが言うから首を傾げた。
「なんで? 前のぼくの方が年下だった時のことでしょ?」
学校で会えると思うけど…。ハーレイが先生をしているのなら。今と同じで。
「そうはいかないのが、前の俺たちが生きた時代だ。…ミュウかどうかは抜きにしてだな…」
俺が教師をしてるとなったら、俺は成人検査をパスしていないと駄目だから。
ついでにお前も成人検査をパスして来ないといけないな。
つまり、今より育ったお前になるわけだ。成人検査を通過しているわけだから。
ほんのちょっぴりだけにしてもな、というのが出会いのための条件。成人検査をパスすること。
「…ぼくもなの?」
パスする前でも、かまわないように思うんだけど…。
前のぼくたちが出会った頃みたいな姿で会うなら、成人検査はあまり関係無さそうだけど…。
パスすることは必須じゃないでしょ、と思った忌まわしい成人検査。ミュウはパス出来ない検査だけれども、今、話している「もしも」はミュウは抜きなのだから。
「ミュウかどうかは関係無いなら、成人検査はどうでもいいよ?」
どうせ受ければパスするんだから、それよりも前にハーレイに会ってもいいじゃない。
学校の先生をやってるハーレイにね、と言ったのだけれど、「それは甘いぞ」と返った声。
「いいか、成人検査を受ける前には何処にいたんだ? 前の俺たちが生きた頃には」
俺たちは記憶をすっかり失くしちまって覚えていないが、アルタミラにあった育英都市だ。成人検査にパスするまでは、育英都市の学校に通うのが義務だったわけで…。
育英都市だと、教師と生徒の恋というのは有り得んな。…ああいう時代だったんだから。
どう転んでも恋は出来ん、とハーレイに畳み掛けられた。「育英都市にある学校だぞ?」と。
「育英都市…。あそこの学校、子供のための学校で…」
大人の社会に旅立つ前の勉強の場所で、純粋で無垢な子供を育てる学校だから…。
其処で先生に恋をしたって、成人検査を受けた後にはお別れで…。
それに本気で恋をするなんて、子供には相応しくないって判断されちゃうだろうし…。
ハーレイに恋をしちゃ駄目なんだよね、と気が付いた。
あの時代には、恋をするなら教育ステーションに行ってから。大人の社会への入口になる場所、其処に進んでゆかないと無理。子供はあくまで子供らしく、と機械が定めていたのだから。
それまでは恋に憧れるだけ。大人になったら、素敵な人を見付けて恋をしようと。
育英都市にあった学校は、そういう子供が通う場所。大好きな先生に恋をしてみた所で…。
(その恋、実らないどころの騒ぎじゃなくって、カウンセリングルーム…)
アタラクシアでジョミーを見守っていた時、何度も覗いたカウンセリングルーム。呼び出されて叱られるジョミーの姿も、ションボリと出てゆく時の姿も。
あれと同じで、もしも自分が学校でハーレイに恋をしたなら、きっと食らってしまう呼び出し。自分を担任する教師はもちろん、場合によっては当のハーレイまでが其処に現れて…。
指導を受けて、諦めさせられることになる。ハーレイに恋をすることを。
それで駄目なら、記憶の処理もされるのだろう。
恋など忘れて、子供らしく健全に生きてゆくよう。二度とハーレイに恋をしないよう、恋をする切っ掛けになった出来事や、育んだ想いを全て消されて。
育英都市の学校で先生に恋をするのは無理だ、と思い知らされた。目覚めの日を迎えて、学校や先生に別れを告げるよりも前に、恋そのものが出来なかった場所。
其処でハーレイが教えていても。…ハーレイのことを好きになっても、けして実りはしない恋。子供時代を過ごす間は、恋は相応しくないものだから。
「…先生のハーレイに会いたかったら、教育ステーションなんだ…」
会うだけだったら、育英都市の学校でだって会えるけど…。ハーレイに恋をしたいなら。
恋が出来る場所で出会うんだったら、成人検査をパスした後…。
今のぼくより、ちょっぴり育ったくらいかな、と眺める手足。前のハーレイとは、こういう姿で出会ったけれども、あの時代に「ハーレイ先生」に会うなら、教育ステーションなのだろう。
「そうなっちまうな、E-1077かもしれないぞ」
前の俺とお前が出会う場所。…前の俺は本物を見てはいないがな、E-1077そのものは。
すぐ近くまでは行ったんだが、というのはシロエの船をキースが落とした時のこと。ジョミーが試みた思念波通信、それを行うための航行の真っ最中。
「E-1077って…。どうしてなの?」
キースやシロエがいた場所だから、って言うんじゃないよね、時代が全く違うんだもの。
ぼくが行ってもキースは生まれてさえもいないよ、と思い出すのはフィシスのこと。人類を導く指導者として、機械が無から創った生命。フィシスが最初に作り出されて、遺伝子データを使ってキースが作られた。E-1077に場所を移して、エリート候補生として。
その実験がまだ始まってもいなかった時代、それが前の自分が成人検査を受けた頃。検査にパスしてE-1077に行っても、大して意味は無さそうだけれど…。
「俺があそこを挙げた理由か? キースの野郎は関係無いぞ」
もちろんシロエも、サムやスウェナも。
お前、頭が良かったからなあ、あそこじゃないかと思ったんだが…。成人検査をパスしたなら。
待てよ、頭の方は良くても、身体が駄目か。弱い身体じゃ、訓練についていけないからな。
それじゃメンバーズになれやしないし、E-1077は対象外になっちまうのか…。
「そうみたい…」
他のステーションになると思うよ、前のぼくなら。
成人検査をパスしていたって、E-1077に行く人間には選ばれないよね。
あそこは駄目、と肩を竦めたら、浮かんだ他の可能性。教育ステーションなら幾つもあったし、身体の弱い子供用のも、多分、存在したのだろうけれど。
そういう場所なら、そのステーションに似合いの教師が配属されて教えた筈。同じように身体が弱い教師や、弱い子供を教えるのに向いている教師。
(…今のハーレイは古典の先生だけど…)
それは今のハーレイが選んだ仕事。柔道や水泳のプロの選手にならずに、教師になろうと決めた職業。けれど、前の自分たちが生きた時代は、自分で仕事を選べなかった。進みたい道も。
弱い身体ではE-1077に行けないのと同じで、前のハーレイにも機械が割り当てる道。この職業に就くように、と。そんな時代に、ハーレイが教師になったなら…。
(古典の先生なんかじゃなくって、うんとハードな体育とかの…)
教師の道が待っていそう。それこそE-1077でも通用しそうな、激しい訓練担当の。身体の弱い子供たちが行くステーションには、ハーレイは来ない。きっと配属されたりはしない。
「…前のぼく、ハーレイが教えてくれるような教育ステーションには、行けそうにないよ…」
ハーレイはE-1077でも教えられそうだから、ぼくみたいな弱い子供が行くような場所にはいないと思う。…もっと丈夫な子供が行く教育ステーションの先生だよ、きっと。
それに、先生じゃない可能性の方が高いかも…。仕事、自分で選べなかったんだもの。
機械が勝手に決めてしまって、と話したら、ハーレイも「そうかもなあ…」と軽く手を広げた。
「俺もそういう気がして来た。どうやら教師は無理なようだ、と」
あの時代だったら、ミュウじゃない俺は、有無を言わさずスポーツ選手にされてたかもな。何の選手になったかは知らんが、プロを養成する教育ステーションに送られちまって。
でなきゃパイロットといった所か、才能はあったようだから…。
前の俺が自分じゃ気付いていなかっただけで、キャプテンに向いていたようだしな?
プロの選手にせよ、パイロットにせよ、そういう道に進んじまったら、引退した後に教師の道があったとしても…。
まだ充分に若かったとしても、お前が来そうなステーションには…。
「いないでしょ、ハーレイ?」
ぼくはスポーツのプロも無理だし、パイロットになるのも無理そうだから…。
どっちも丈夫な身体が要るから、ハーレイが先生になっていたって、会えないんだよ…。
先生のハーレイがいるステーションには行けないよ、と溜息をついたら、ハーレイも「うむ」と相槌を打った。「どう考えても、それは無理だよな」と。
「今のお前が柔道部員になれないみたいに、向き不向きってのがあるもんだから…」
SD体制の時代は適性を機械が判断してたし、例外ってヤツは無いだろう。こいつは此処だ、と決めちまったら、そのコースを進ませるだけで。
前のお前は、成人検査をパスしていたって、教師の俺には出会えないんだな。俺とお前の適性が違い過ぎるから。
そして俺だって、生徒のお前には出会えないままになっちまう、と。成人検査を通過出来ても、俺たちの道は重なりそうにないからなあ…。
「…それじゃやっぱり、ミュウ同士で出会うしかないの?」
せっかく恋が出来る教育ステーションに行っても、先生のハーレイがいないなら。
…ぼくを教えてくれないのなら、アルタミラの地獄で会うしか無かった…?
先生と生徒は無理だものね、と消えてしまった可能性。前の自分たちの、別の出会い方。
「そうかもしれんな、違う道なら何処かにあったかもしれないが…」
教師と生徒でなくていいなら、宇宙は広いし、出会えた可能性もある。一目惚れ出来るチャンスだってな。…それこそ何処かへ旅する途中に、宇宙船の席が隣同士になったとか。
しかし今だと、こうして出会えた。…ちゃんと、お前に。
前の俺たちは行けずに終わっちまった、教育ステーションって所でな。
俺は教師で、お前は俺の教え子だろうが、とハーレイは笑みを浮かべるけれども、ステーションではない学校。…教育ステーションという名前でもないし、宇宙に浮かんでもいない学校。
「ステーションじゃなくて、学校だよ?」
ハーレイと会ったの、学校だってば。…先生と生徒なのは間違いないけど、普通の学校。
義務教育で行く最後の所で、教育ステーションなんて名前はついていないよ…?
今の時代は、教育ステーションっていうのも無いでしょ、何処を探しても。
SD体制が無くなった後は、あのシステムも無くなったから…。
人類もミュウも、自分で好きな道を選んで、行きたい学校に行くようになってしまったから。
教育ステーションは廃止されたんだってことを習うよ、歴史の授業で。
SD体制が崩壊した後、真っ先に廃止されたのが教育ステーション。成人検査を廃止するなら、教育ステーションだけを残しておく意味は何もない。
同じ水準の教育をしようというなら、宇宙ではなくて何処かの星で。大人も子供も一緒に暮らす社会の中に、学校を作ればいいのだから。ちゃんと家から通えるように。
自分の家から遠すぎる子なら、寮に入ればいいだけのこと。そして学校が休みの時期には、家に帰って家族と暮らす。…もう目覚めの日が来て、引き離されはしない養父母たちと。
(初めの間は、養父母が本物のパパやママっていう時代になって…)
自然出産の子供が混じり始めて、じきに本当の家族ばかりになった。血が繋がった両親と子供、そういう家族しかいない世界。成人検査も教育ステーションも、時の彼方に消えてしまって。
今は人間は全てミュウになったし、地球さえも青く蘇ったほど。そんな時代に教育ステーションなどという言葉自体が無い筈なのに、と首を捻って考えていたら…。
「分からないか? 俺がどうして教育ステーションだと言ったのか」
お前の学校は教育ステーションじゃないが、あれはとっくに無くなったんだが…。
あの時代の流れを継いでいるんだ、今の時代の学校も。
成人検査も教育ステーションも廃止されたが、子供を教える学校は無いと駄目だしな?
暫くの間は混乱していて、何処の学校も、休校みたいになっていた時期もあったそうだが…。
じきに新しいのに整え直して、教師をしていた人間も配属し直した。新しく出来た学校に。
今のお前が通っているのが、元は教育ステーションだったヤツなんだ。其処で教えていた教師を連れて来て、あちこちの星に置かれた学校。…教える中身も、教科書も変えて。
お前の学校、十四歳で入って、四年間で卒業するだろう?
在籍期間は教育ステーションってヤツと全く同じだ、気付かなかったか…?
ステーション時代の名残なんだな、と聞かされた今の学校を卒業するまでの年数。それから入学する時の年も。
「本当だ…!」
十四歳になったら通うんだものね、目覚めの日も十四歳だっけ…。
それに教育ステーションで過ごすの、四年間っていう決まりだったよ。
E-1077でも、何処でも同じ。四年経たなきゃ、どんなに優秀でも卒業は無理…。
義務教育みたいなものだったんだね、あの時代の教育ステーションって…。
今の自分が通う学校と、教育ステーションとの共通点。入学の年と在籍年数が同じ。ハーレイに聞くまで、まるで気付いていなかった。そっくりそのまま真似ているのに。
前の自分には、教育ステーションは関係の無い場所だったから。子供たちを教育ステーションに送り出すための、振り分けを兼ねた成人検査を酷く憎んでいただけだから。
(…教育ステーションまで行ける子供は、みんな人類…)
ミュウの子供は弾き出されて、その場で処分されてしまうか、研究所に送られて実験動物になる道を歩むか。どちらも人類と機械の都合で、そうならないよう救出したミュウの子供たち。
前の自分の役目は其処まで、教育ステーションに気を配りはしない。どうせ人類しかいない場所だし、ステーションによっては、ミュウの天敵とも言えるメンバーズを育てていたのだから。
少しも興味が無かった場所。目を向けさえもしなかった教育ステーション。
「…ハーレイ、なんで知ってるの?」
ぼくの学校、教育ステーションを元にしてるんだ、って…。
教えてることは違うけど。あの頃みたいに、色々な仕事のプロを育ててはいないけど…。
もっと沢山勉強するなら、上の学校に行かないと教えて貰えないから。
「簡単なことだ、教師にとっては常識だってな。学校の仕組みと歴史ってヤツは」
基礎の基礎だと言ってもいい。…何の科目の教師になるにも、一番最初に教わることだ。
お前が通っている学校は、元は教育ステーションだった学校なんだな。教える中身と、場所とが変わってしまっただけで。
つまりだ、今のお前は教育ステーションにいるってことだ。成人検査は全く抜きで。
お前の学校、宇宙に浮いてはいないがな。…何かの仕事のプロに育ててもくれないが。
義務教育だし、そんなモンだ、とハーレイは笑う。「SD体制の頃とは時代が違うから」と。
「ぼく、教育ステーションに入れたんだ…」
前のぼくは門前払いになってしまって、入れて貰えずに終わったけれど…。
どんなステーションに行ける才能を持っていたのか、それも知らないままだったけど…。
「お互い様だな、俺も教師になれたようだぞ」
前の俺には門前払いを食らわせてくれた、教育ステーションって所でな。
何になりたいかを選ばせて貰って、プロのスポーツ選手の道とか、パイロットとかはお断りで。
俺とお前は教育ステーションで出会ったようだ、とハーレイはパチンと片目を瞑った。
「教育ステーションってヤツは、今は何処にも無いんだがな」と。
「俺は教師で、お前は生徒。…E-1077とはいかなかったが、教育ステーションなんだ」
前の俺たちの考え方だと、そういうことになるんだろう。…今の俺たちの出会いはな。
「そう考えると面白いね。前のぼく、教育ステーションには行けなかったけど、今は学校」
それに、ハーレイまでくっついて来たよ。教育ステーションの先生になって。
前のぼく、そんなの、夢にも思っていなかったよ。やり直せて教育ステーションなんて。
其処に行ったら、ハーレイが先生をしてるだなんて…。
夢よりもずっと凄い未来になっちゃった、と輝かせた顔。「ホントに凄い」と。
「俺も思いやしなかった。…考えたことさえ無かったってな」
こういう人生も悪くないなあ、俺は教師で、お前は生徒。
教育ステーションでバッタリ出会っちまって、一目惚れして、今度は結婚出来るだなんて。
…教師と生徒になっちまったから、結婚します、と宣言するタイミングが難しそうだが…。
お前のお父さんたちにとっては、俺はあくまで「ハーレイ先生」なんだから。
その俺がお前と結婚か…、とハーレイが腕組みしているから。
「パパたちに頼むの、ハーレイに任せちゃってもいい?」
結婚したいと思ってます、って頼む時にはハーレイにお願い出来る…?
ぼくだとタイミングが掴めないしね、と頼んでみた。ハーレイの方が遥かに年上なのだし、肝も据わっている筈だから。
「そのつもりだが…。場合によっては、お前にも努力して貰わんと」
「努力って?」
「お父さんたちに反対された時だな。絶対に駄目だ、と俺が叩き出されたら、お前の出番だ」
俺は家にも入れて貰えないし、お前が説得してくれないと…。なんとか入れて貰えるように。
通信を入れても切られそうだしな、家から叩き出されてしまった時は。
問答無用というヤツで、とハーレイが恐れる両親の反対。「結婚は駄目だ」と、一人息子を嫁に欲しがる男を家から叩き出すこと。訪ねて来たって家には入れずに、通信も切るという有様。
「…パパたち、其処まで反対するかな?」
ハーレイを家から叩き出すほど、酷いことをやったりすると思うの…?
「どうだかなあ…?」
こればっかりは、蓋を開けてみないと分からんし…。俺が本当に叩き出されたら、お前を頼りにするしかない。お父さんたちに会えないことには、話のしようが無いんだから。
土下座するにしたって、会えないと出来はしないんだぞ、とハーレイは最悪のケースを予想しているけれど。父と母とに放り出されて、結婚の許可が下りないことを恐れているけれど…。
前にそういう夢を見た。
ハーレイと結婚したいから、と思い切って父に打ち明ける夢を。
夢の中の父は少し怖かったけれど、最後は結婚を許してくれたし、現実もきっと…。
「パパとママなら許してくれるよ、ハーレイと結婚するのなら」
ずっとハーレイと一緒に過ごして、先生と生徒で結婚したくなったんならね。
ハーレイを叩き出したりなんかはしないよ、きっと話をきちんと聞いてくれるってば。
「そうなってくれればいいんだが…。どうなるんだか…」
俺の方だと、親父たちはもう知ってるからなあ、お前を嫁に貰うってこと。
親父たちに反対されなかった分、お前の家で苦労をする羽目になるかもしれないが…。
お前の努力が必要な立場になっちまっても、俺も全力で努力しよう、とハーレイは結婚のために頑張ってくれるらしいから。
先生と生徒の恋が実るよう、結婚式を挙げられるように力を尽くしてくれるから…。
両親もきっと結婚を許してくれるし、それまでは恋を楽しもう。
キスもデートも出来ないけれども、今はステーション時代だから。
前の自分は行けなかった場所でハーレイと出会って、今は毎日、幸せな恋をしているから…。
先生と生徒・了
※今のハーレイとブルーの恋は、先生と生徒の間の恋。今の時代だから、可能なのです。
SD体制の時代だったら、制約がありすぎて叶わない恋。それが出来る今を楽しまないと…。
(ふうん…?)
夢なら持っているけれど、と小さなブルーが眺めた新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
その紙面の中、「夢は大きく持ちましょう」と書いてあるコラム。子供向けにと書かれた記事。夢は大きく持つべきだ、という中身。夢を大きく持てば持つほど、可能性も広がるものだから。
どんな夢でも、大きく持つもの。小さい夢だと、未来も小さくなってしまうから。
(当然だよね?)
わざわざ書いて貰わなくても分かってるよ、と思ったけれど。相手は子供向けの記事だし、下の学校に通う生徒が対象だろう。自分の年なら分かって当然、教えて貰うようでは駄目。
(先生だって、よく言ってたから…)
下の学校に通っていた頃に。今の学校でも、入学式の時に聞いたと思う。「夢は大きく」と。
自分の夢なら、とうに決まっているけれど。あまり大きくないのだけれど…。
(お嫁さん…)
結婚できる年になったら、ハーレイのお嫁さんになることが夢。十八歳になったら結婚式。
お嫁さんだけに、誰でもなれそうな感じだけれども、本当はとても…。
(大きくて、叶えるのが難しすぎた夢なんだよ…)
それに叶わなかったんだから、と今の自分は知っている。「お嫁さんになる」ことが、どれほど難しい夢だったのか。叶えたくても、困難を伴うものだったのか。
(今のぼくなら、簡単だけれど…)
十八歳になれば結婚、ハーレイのプロポーズを受けるだけ。結婚式を挙げればいいだけ。
けれど、そのハーレイと恋をしていた前の自分は、結婚式を挙げるどころか…。
(ハーレイに恋をしてたのも内緒…)
お互いの立場がそうさせた。白いシャングリラを守るソルジャーと、船を預かるキャプテンと。船の頂点に立っていた二人、恋人同士だと明かせはしない。もしも知れたら、誰一人として…。
(ついて来てなんか、くれないものね…)
船を私物化しているのだ、と背を向けて。何を言っても、そっぽを向かれて。
そうなることが分かっていたから、明かせないままで終わった恋。地球まで辿り着いたなら、と夢見た結婚、それも叶わずに死んでいった自分。
結婚さえも出来なかったのが前の自分で、だから今度の夢は大きい。小さいようでも大きな夢。
前の自分の夢が叶うから、充分に大きく持っている夢。結婚するというだけの夢でも。
(ハーレイのお嫁さんになれるんだものね?)
ぼくには大きすぎる夢、と幸せな気分で閉じた新聞。なんて大きな夢なんだろう、と。ついでに言うなら、前の自分の夢だって大きかったから、と考えながら戻った自分の部屋。
(前のぼくの夢、今よりもずっと…)
大きくて凄かったんだものね、と勉強机の前に座って思い出す。前の自分が描いた夢を。
遠く遥かな時の彼方で、ソルジャー・ブルーと呼ばれた自分。白いシャングリラで見ていた夢。
(いつか必ず、地球に行こう、って…)
青い地球にも焦がれたけれども、それは自分の個人的な夢。青く輝く星への憧れ。
それとは違って、ミュウの未来を手に入れるために、地球に行こうと考えていた。青い地球まで辿り着けたなら、きっと未来を掴める筈。人類に追われない未来。ミュウが殺されない世界を。
だから地球へ、と目指そうとした青い水の星。
前のハーレイと恋に落ちた後には、もう一つ夢が加わった。ミュウの未来を手に入れたならば、白いシャングリラの役目も終わる。もう要らなくなるミュウの箱舟。
シャングリラが役目を終える時には、ソルジャーもキャプテンも必要なくなる筈だから…。
船の仲間たちに恋を明かして、二人で生きようと思っていた。シャングリラを降りて、何処かで二人。ほんの小さな家でいいから、青い地球の上に住める所を手に入れて。
ミュウの未来を掴み取ることと、ハーレイと二人で暮らすこと。そのために行きたかった地球。
(どっちも叶わなかったけど…)
前の自分が持っていた夢は、どちらも叶いはしなかった。
ミュウの未来も、ハーレイと二人で生きてゆける家も、前の自分は手に入れられずに、地球さえ見ずに宇宙に散った。ハーレイからも遠く離れたメギドで、独りぼっちで。
(本当に全部、夢だったまま…)
何も叶わなかったんだよ、と思うけれども、繰り返し描き続けた夢。いつか必ず、と。
前の自分が夢を大きく持っていたから、神様は叶えてくれたのだろう。ずいぶん時間がかかったけれども、それは仕方ない。前の自分が生きた頃には、青い地球が無かったのだから。
白いシャングリラが辿り着いた地球は、赤茶けた死の星だったのだから。
前の自分が夢見た通りに、地球で開けたミュウたちの未来。
地球は燃え上がって、ジョミーも、前のハーレイたちも命を落としたけれども、機械が支配する時代は終わった。SD体制が倒れた後には、もう人類もミュウも無かった。同じ人間なのだから。
(地球は、メチャメチャになっちゃったけど…)
大規模な地殻変動を起こした地球。ユグドラシルと呼ばれた地球再生機構の建造物さえ、地の底深く沈んだという。海も大陸も全てが壊れて、燃えて崩れていったのだけれど…。
それが再生への引き金。何も棲めない死の星だった地球は再び蘇った。青い星として。
気が遠くなるほどの時が流れて、今の時代は人が住んでいる地球。自分は其処に生まれて来た。前とそっくり同じに育つ身体を貰って、ハーレイも先に生まれて来ていた。同じ姿で。
地球はとっくに手に入れているし、次はハーレイと暮らす未来。今度は結婚できるから。
(そっちも沢山、夢は大きく…)
持たなくっちゃ、と記事の通りに考える。ハーレイとの未来に描く夢。
結婚式のことはよく分からないけれど、その前に、まずはプロポーズ。結婚を申し込まれる時。どんなプロポーズになるのだろうか、ハーレイは何をしてくれるだろう?
(ガラスの靴が欲しいよね、って思ったことも…)
あるのだけれども、他にも夢を見ていそう。こういうプロポーズもいいね、とハーレイに伝えてありそうな夢。すぐには思い出せないだけで。
(だから、プロポーズも夢だよね?)
きっと素敵なサプライズ。その日が来たなら、きっと感激で胸が一杯。ガラスの靴を貰っても。他の形で結婚を申し込まれても。
プロポーズされたら、もちろん「嫌」とは言わない自分。両親が結婚を許してくれたら、晴れてハーレイの婚約者。結婚式の用意も始めて。
婚約したら、忘れないようにシャングリラ・リングを申し込む。白いシャングリラの船体だった金属の一部、それを使って作られる結婚指輪。申し込みのチャンスは一度きりだから…。
(シャングリラ・リング、当たりますように…)
それが最初の大きな夢。指輪の形に姿を変えた、シャングリラを指に嵌めること。
前のハーレイと二人で暮らした白い船。懐かしい船が生まれ変わった指輪を、ハーレイと二人で結婚式で交換して。お互いの左手の薬指に嵌めて、そうして交わす誓いのキス。
ウェディングドレスで結婚するのか、ハーレイの母が着たと聞いている白無垢か。何を着るのか分からないけれど、誓いのキスはあるだろう。結婚指輪の交換だって。
(結婚式が終わったら…)
もうハーレイのお嫁さん。誰に紹介される時にも、「俺の嫁さんだ」とハーレイが言ってくれる筈。ハーレイの父や母たちだったら、「うちの息子のお嫁さんです」と。
考えただけで弾む胸。「ハーレイのお嫁さん」になるということ。前の自分が夢に見たこと。
夢が叶って結婚したら、新婚旅行は地球を見に行く。それもハーレイとの約束。
(ぼくは宇宙に出たことが無いし…)
まだ見てはいない、青い地球。足の下には地球があるのに、宇宙に浮かぶ地球を知らない。前の自分が焦がれ続けた、銀河の海に浮かぶ真珠を。
だからハーレイとの新婚旅行は、宇宙から地球を眺める旅。青い真珠のような地球。それが良く見える部屋に泊まって、ハーレイと二人、心ゆくまで地球を見詰めて、キスを交わして…。
きっと何日も飽きずに過ごし続けるのだろう。月にも火星にも行きはしないで、地球の周りしか飛ばない旅でも。…地球を見るだけで終わる旅でも。
前の自分の夢の星だし、そういう旅でかまわない。何処の宙港にも降りない旅で。
(そんな旅行でも、疲れちゃったら大変だから…)
せっかく新婚旅行に行くのに、寝込んでしまったら意味が無い。いくら窓から地球が見えても、ハーレイが側にいてくれても。
(看病して貰って、船のお医者さんに注射されちゃったりもして…)
きっとハーレイは優しく看病してくれるけれど、問題は船のお医者さん。大嫌いな注射を宇宙の旅で打たれるのは御免蒙りたい。青い地球が見える医務室で注射されるとしたって。
(嫌いなものは嫌いなんだよ!)
前の自分も嫌った注射。アルタミラでの酷い体験のせいで。
新婚旅行で注射は嫌だし、寝込んだら旅も台無しになる。地球を見ながらの食事なんかも、全部お流れになってしまって、ベッドで寝ているだけになるから。
そうならないよう、元気に旅に出掛けられること、それも大切。
前と同じに弱い身体に生まれたけれども、新婚旅行の間は健康を損ねないこと。それだって夢。
元気一杯で出掛けなくちゃ、と夢を抱くのが新婚旅行。ハーレイと青い地球を見る旅。宇宙から青い地球を見ようと、何度ハーレイと語ったことか。…白いシャングリラで暮らした頃に。
その夢が叶う新婚旅行。しかも結婚してから見られる青い地球。前の自分が描いた夢だと、結婚するのは地球に辿り着いてからだったのに。
夢よりも素敵になった現実。ハーレイのお嫁さんになって、新婚旅行で地球を見に行くなんて。
(旅行の約束、他にも一杯…)
今のハーレイと交わした約束。前の自分だった頃から夢を見た旅も、新しく出来た旅の予定も。
好き嫌い探しに出掛けてゆくのは、今の約束。好き嫌いが全く無い二人だから、あちこち回って苦手なものやら好物やらを探す旅。好き嫌いが無いのは、多分、前の生の影響だろうと思うから。
(砂糖カエデの森も見に行かなくちゃね…)
前の自分が地球で食べたかった、夢の朝食。ホットケーキを食べること。地球の草で育った牛のミルクで作ったバターと、本物のメープルシロップを添えて。
今のハーレイにそう話したら、砂糖カエデの森を見に行く約束が出来た。雪の季節が終わる頃に始まる、メープルシロップになる樹液の採取。その季節に二人で行ってみようと。
(ヒマラヤの青いケシだって…)
出来るものなら、高い山に咲く本物を見たい。前の自分が夢見たように、空を飛んでは行けないけれど。今の自分は空を飛べないから、ヤクの背に乗って運んで貰うしかないのだけれど。
そして、ハーレイと今の地球で結婚するのなら…。
(マードック大佐のお墓にだって…)
挨拶に行ってみたいと思う。マードック大佐とパイパー少尉の墓碑がある場所へ。
SD体制が崩壊した時、地球を破壊しようとした六基のメギド。トォニィやキースの部下たちが防ぎに飛び立ったけれど、残ってしまった最後の一基。
(マードック大佐の船が体当たりして…)
メギドを止めたと今も伝わる。退艦しないで船に残ったパイパー少尉がいたことも。
青い水の星が蘇った後、風化したメギドが発見された。二人の墓碑は其処にあるという。墓碑は森の奥にあるらしいけれど、その入口まで行く恋人たちが今も大勢。結婚の報告をするために。
花束や花輪を捧げて祈る恋人たち。マードック大佐たちのように最後まで共に、と。
知ったからには、挨拶をしたい二人の墓碑。「パパのお花」が咲く季節に。
今の時代は「パパのお花」と呼ばれている花。淡い桃色の豆の花。
幼かったトォニィがそう呼んだから、シャングリラ育ちだった豆にその名が付いた。トォニィが種子を残させた豆。「いつか地球へ」と、願いをこめて。
その種子が根付いたのが「パパのお花」だから、マードック大佐たちに挨拶するなら、花が咲く季節。墓碑がある地域に自生する花で、他の地域にはあえて広げないと聞いたから。
(夢は大きく…)
うんと沢山持たなくっちゃね、と思う旅行だけでも数え切れない。ハーレイと二人で行く旅行。デートの約束だって山ほど、もう本当に山のよう。
(新婚旅行は地球を見るんだ、って決まってるけど…)
次の旅行は何処にしようか、それも楽しみでたまらない。結婚してさえいない内から。こうして夢を見る間から。
前の自分の夢を叶える旅に出るのか、今の自分たちが交わした約束を叶えにゆくか。青い地球を見る新婚旅行から帰ったら直ぐに、もう計画を立てていそう。ハーレイとお茶でも飲みながら。
(今度は何処に出掛けようか、って…)
旅の計画、きっと最初は近い場所。新婚旅行は、ハーレイが長く休める時期に行くのだろうし、学校が休みになっている間。春休みだとか、夏休み。
同じ休みの間にまた行けそうな場所にするなら、家からもきっと近い筈。休みが終わってからの旅となったら、もう本当に近い場所。
(週末に行って、一泊二日で帰れる所…)
そんな感じ、と思う行き先。一泊二日で行ける所も色々あるから、何処にするかで大いに迷ってしまいそう。海に行くのか山に行くのか、旅の目的は何なのか。
(観光するのか、名物を食べに行くのかも…)
同じ行き先で回る所が変わってくるから、目的選びも大切なこと。充実した旅にするのなら。後から「しまった」と思わないよう、きちんと下調べもしておいて。
(せっかく行ったのに、知らずに帰って来ちゃったよ、っていうのは残念…)
食べ物にしても、観光名所にしても。
ハーレイと二人で旅をするなら、夢は大きく、欲張りに。あれもこれもと詰め込んで。御馳走を食べて観光だって、とギュウギュウ詰めになるだろう夢。
旅行するにも夢は大きく持たなくちゃ、と思ったけれど。夢は山ほど、と思うけれども、旅行に出掛けてゆく前に…。
(新婚旅行の次の旅行に行く前に、デート?)
結婚したら一緒に暮らすのだから、二度目の旅に出る前にデート。間違いなく、そう。
同じ家に住む二人なのだし、思い付いたら直ぐにデートに出掛けてゆける。時間さえあれば。
(ハーレイと食事をしに行くとか…?)
食事くらいなら、新婚旅行から戻った次の日にだって、と膨らむ夢。ハーレイとデート。食事に行くのはハーレイの家の近所の店だっていいし、ドライブに行くというのもいい。
車で少し走って行ったら、幾らでも選べる食事できる店。「此処がいいな」と思い付きだけで、選んで車を駐車場に停めて。
家の近所の店に行くなら、ハーレイと歩いてゆくのもいい。手を繋ぎ合って、のんびりと。
(夢は大きく…)
それに沢山、と思った所で気が付いた。次の旅行やデートの夢を見ていたけれど…。
ハーレイと結婚して、新婚旅行に出掛けた後。宇宙から青い地球を眺めて、大満足の新婚旅行が終わった後には、ハーレイの家で暮らすことになる。今の自分の家ではなくて。
旅行が済んだら、帰ってゆく先はハーレイの家。二人で家に帰り着いた時には、一番最初に何をすることになるのだろう…?
(ただいまのキス…?)
二人一緒に帰ったのだし、「おかえりなさい」ではないけれど。どちらが迎える側でもないのに「ただいま」は変かもしれないけれども、ただいまのキス。
二人きりの家に帰って来られた、と抱き合ってキスを交わすのだろう。これからはずっと一緒に暮らしてゆけるし、此処が二人の家なのだ、と。
(キスは絶対、しそうだけれど…)
結婚している二人だったら、ただいまのキスは挨拶代わり。「最初にすること」と考えるには、足りない重み。今の自分なら、キスは大切なのだけど。
(…ハーレイ、キスしてくれないものね…)
子供にキスは絶対しない、と言われているから憧れのキス。けれど結婚した二人ならば、キスは当たり前のように交わす筈のもので、「最初にすること」には数えられないほどだろうから…。
キスは違う、と考えた「家に帰ったら最初にすること」。ただいまのキスの後が問題。
新婚旅行はもう終わったから、ハーレイと一緒に過ごすのだけれど。結婚している恋人同士で、夜はもちろん同じベッドで眠るけれども…。
(いくらなんでも、帰って直ぐにベッドになんか…)
行かないだろうという気がする。帰って来たのが夜だとしても。宙港に着いた時間によっては、家に着いたら夜更けなのかもしれないけれども、直ぐにシャワーを浴びに行くのも…。
(あんまりだよね?)
二人で暮らす家に着くなりシャワーだなんて、夢もロマンも無い感じ。どう考えても、ベッドに入る準備だから。「早くベッドに行かなくちゃ」と宣言するようなものだから。
二人一緒でも狭くないだろう、ベッドには行きたいのだけれど…。
それとこれとは話が別。家に帰って最初にすることがシャワーだと、恥じらいさえも無さそう。
(ハーレイ、きっと結婚するまで…)
キスしかしないままなのだろう、と思ってはいる。何故だか、そういう予感がするから。
婚約した後もキスだけで我慢していたのならば、ベッドに行きたくなりそうだけれど。
(だけど、新婚旅行だったんだし…)
二人で旅行に出掛けたのなら、とうにベッドに行った筈。青い地球が見えるだろう部屋で。
大きな窓越しに地球を眺めて、何度もキスを交わした後には、やっと本物の恋人同士。長いこと我慢させられていた分、満ち足りた時を過ごせる筈。
(朝御飯なんかは、抜きでいいから…)
ハーレイとベッドで抱き合っていたい。今の幸せに酔いしれながら、愛を交わして、甘い睦言を交わし合って。
(旅行とセットの御飯、何度も抜けちゃったって…)
きっと二人とも気にしない。豪華な料理を食べそびれても、ルームサービスばかりでも。食事をするより、二人一緒にいたいから。前の生からの夢が叶って、ようやく結婚出来たのだから。
そういう旅行をして来たのならば、家に帰ってまでベッドなんかに急がなくてもいいだろう。
もっとのんびり、家でゆっくり。
此処が二人の家なのだから、と前の生から夢に見ていた地球にある家で。
前の自分たちが夢見た地球。いつか地球まで辿り着いたら、欲しいと思った小さな家。青の間のように広くなくていいから、ほんの小さな家でいいから。
その夢を叶えてくれるのが今のハーレイの家。この町で教師になろうと決めて、ハーレイの父に買って貰ったらしい家。其処にハーレイと二人で帰ったら…。
(家の中、色々…)
案内して貰えるのだろうか。一度だけ遊びに行った時にも、案内はして貰ったけれど…。それはあくまでチビの自分用、他の生徒を案内するのと大して変わりはしなかった筈。
けれど、一緒に暮らすとなったら、必要だろう様々な案内。それこそキッチンの棚の中まで。
ちゃんと案内して貰わないと、直ぐに困ってしまうだろうから。「あれは何処?」とハーレイに尋ねなくては、日用品さえ見付けられなくて。
(最初にすること、家の案内?)
そうなのかもね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから、早速ぶつけてみた質問。テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね、最初は何をすると思う?」
「はあ?」
最初って何だ、お前が何かしたいのか、とハーレイは目を丸くした。「意味が分からん」と。
「ごめん、色々すっ飛ばしちゃった…。ぼくは長いこと考えてたから」
おやつの後から考え続けて、そしたら気になり始めちゃって…。
いつかハーレイと結婚するでしょ、ぼくが十八歳になったら。…結婚できる年になったら。
その時のことだよ、訊いているのは。…最初は何かな、って思ったから。
ハーレイと結婚してから、ぼくが一番最初にすること。
何だと思う、と訊いたら顔を顰めたハーレイ。眉間の皺まで深くして。
「その手の話はお断りだが?」
お前はチビだし、まだ早すぎる。…何度言ったら分かるんだ?
キスも駄目だと言ってる筈だな、とハーレイが怖い顔をするから、慌てて首を左右に振った。
「違うってば…!」
ぼくは真面目に訊いてるんだよ、叱られるような話じゃないんだってば…!
ホントのホントに違う話で、ただ気になってただけなんだから…!
キスとかの話は全部抜きで、とハーレイに懸命に説明をした。どうして質問したのかを。
夢は大きく持ちたいから、と新聞のコラムを読んだお陰で、膨らませてしまった未来の夢。新婚旅行から帰った後には、最初は何をするのだろう、と。
「えっとね…。最初にすること、ハーレイの家の中の案内?」
そうじゃないかと思ったんだけど、それで合ってる…?
ねえ、とハーレイの瞳を覗き込んだら、「なんでそうなる?」と返った言葉。
「家の案内って、何処から思い付いたんだ。それが最初にすることだなんて…?」
「それが一番大事かな、って…。ぼく、ハーレイの家の中には詳しくないし…」
何度も遊びに行ってる柔道部員とかの方が詳しそうだよ。何処に何があるか、棚まで覗いて。
ぼくは一度しか、家の中、案内して貰ってないし…。
ハーレイと一緒に帰ってみたって、直ぐに困ってしまいそう。分からないことばっかりで。
だから案内、と自信を持って答えたのに。
「おいおい、そいつは今だけだろう?」
確かにお前は、俺の家には全く詳しくないよな、うん。…柔道部のヤツらの方が詳しい。
あいつら、遠慮なく家探しするから、冷蔵庫の中まで覗いて勝手に中身を飲み食いするし…。
だがな、お前も俺と結婚するとなったら、嫌というほど来るだろうが。
一度も来ないで結婚ってことは絶対に無いぞ、考えてみろよ?
俺の家でデートもするだろうし、と言われてみればそうだった。婚約したなら、ハーレイの家は未来の自分の家になる。今と違って出入りも自由。
「そっか、ハーレイの家でデートもあるよね…」
ハーレイが作ってくれるお料理とか、お菓子を食べに行くだとか…。
「お前を家に呼びもしないで、結婚ってことは有り得んな。デートでなくても来て貰わんと」
俺の家に引越して来るんだろうが、俺と一緒に暮らすんだから。
結婚の準備を進めるためには、お前が俺の家に来ないと始まらない。
お前の部屋を決めなきゃならんし、荷物だって運び込まないと…。でないとお前、宿無しだぞ?
この部屋からは出るんだろうが、というハーレイの言葉でやっと気付いた。
ハーレイの家で暮らしてゆくのだったら、それまでに準備。新婚旅行から帰ったら直ぐに、荷物などを置ける自分用の部屋が要るのだから。
まるで気付いていなかった、とポカンと開けてしまった口。結婚して同じ家で暮らすためには、先に必要なのが引越し。今のこの部屋から、ハーレイの家へ。
自分の引越しは新婚旅行の後だけれども、荷物は先に運ばれてゆく。それの置き場や、貰う部屋やら、決めるべきことが幾つもあった。…ハーレイの家まで出掛けて行って。
何度も出入りしていたならば、家の中のこともすっかり覚えてしまうだろう。新婚旅行から家に帰った途端に、困ってしまわない程度には。
「…最初にすること、家の中の案内じゃなかったんだ…」
きっとそれだと思っていたのに、違ったなんて…。もう案内は要らないだなんて…。
ぼくは色々覚えちゃってて、と零した溜息。「ぼくの考え、間違ってたよ」と。
「そのようだな。…あれこれ夢を見てはいたって、チビはチビだということだ」
まるで必要無い、家の案内が最初だと頭から考えちまうようでは。…チビならではの発想だな。
そんなお前の質問ってヤツに、あえて真面目に答えてやるとしたなら、だ…。
新婚旅行から帰った後に、一番最初にすることは何か、それが知りたいわけだよな…?
俺が思うに、お前、ペタンと座り込んじまって、何もしようとしないんじゃないか?
最初も何も…、とハーレイが唇に浮かべている笑み。ちょっぴり悪戯小僧の顔で。
「何もしないって…。なんで?」
どうしてそういうことになるわけ、新婚旅行から一緒に帰って来たんだよ?
やっとハーレイと二人で暮らせる家に帰って来られたのに…!
何もしないなんてこと、絶対に無い、と主張したのに、「そうか?」と腕組みをしたハーレイ。
「俺はそうなると思うがなあ…。まず間違いなく、そのコースだと」
お前が何もしない理由は、エネルギー切れというヤツだ。
身体中の力が抜けちまうんだな、家に帰ってホッとしたから、緊張の糸が切れたみたいに。
小さな子供がよくやるだろうが、何処かへ出掛けて、はしゃぎ過ぎた後に眠っちまうとか。
それと同じだ、お前の場合は眠る代わりに座り込むんだ。
新婚旅行ではしゃぎ過ぎちまった分がドカンと来るんだな、と指摘されたら反論出来ない。多分そうなるだろうから。
自分では注意しているつもりでいたって、新婚旅行の間中、はしゃいでいそうだから。
宙港から宇宙へ飛び立つ前から、もうワクワクが止まらない筈。結婚式の時から、ずっと。
きっとそうなっちゃうんだよ、と気付いてしまったエネルギー切れ。
ハーレイと結婚式を挙げて出掛けた新婚旅行で、青い地球だの、二人きりの時間だのと、存分に味わい過ぎて。来る日も来る日もはしゃぎ続けて、体力も気力も、すっかり限界。
自分では気付いていなくても。…まだまだ元気は充分にあると思っていても。
ハーレイの家に着いた途端に、プツンと切れるエネルギー。それこそ床にペタンと座って、もう動けないといった具合で。
「…エネルギー切れって…。じゃあ、それが最初にすることなの?」
ぼくがハーレイの家で最初にすること、エネルギーが切れて座っちゃうこと…?
床にペタンと座り込んじゃって、「動けないよ」って情けない声を出すしかないの…?
悔しいけれど、と認めざるを得ない、エネルギー切れで座り込むこと。きっと自分はそうなった末に、ハーレイの顔を見上げることしか出来ないから。
「そうなるだろうと思うんだが? …流石に床では可哀想だし…」
ちゃんと椅子には座らせてやる。玄関先でへたり込んだら、リビングとかまで抱えて運んで。
後は紅茶を淹れてやるとか、疲れが取れそうなホットココアとか…。
そういう飲み物をお前に渡して、時間によっては俺は飯の支度を始めるってトコか。
帰りは多分、夜なんだろうが、もっと早い時間に到着する便もあるからなあ…。晩飯は家で、と思って帰って来たなら、手早く何か作らんと。
お前は座って待ってるだけだな、紅茶やココアを淹れるにしても、飯の支度をする方にしても。
エネルギー切れが治るまでゆっくり座っていろ、とハーレイは微笑む。最初にすること、これで決まったも同じだろうが、と。
「ハーレイが言うの、当たっていると思うんだけど…。エネルギー切れになりそうだけど…」
それじゃホントに、役に立たないお嫁さんだよ。
せっかくハーレイと結婚したのに、最初から座っているだけなんて…。
ぼくだって、ハーレイに何かしてあげたいよ、と言ったのに…。
「何もしなくていいと何度も言ってるだろうが」
俺の嫁さんになってくれれば、それだけでいいと。…お前は何もしなくても。
料理も掃除も俺がするから、お前は威張っていればいいんだ。
俺の所へ嫁に来てやったと、こうして嫁に来てやったんだし、うんと丁重に扱えとな。
座り込んだまま動けなくても、座っていられるなら充分だ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
「座れるんなら、まだエネルギーが残っているからな」と。
「そういうことだろ、自分の身体を支える力はあるわけだ。椅子には座れるんだから」
もっと力が無くなっちまえば、お前は倒れてしまうってわけで…。
新婚旅行から帰ってくるなり倒れて寝込んじまって、早速スープの出番じゃ困る。
俺が最初に作ってやる料理が、野菜スープのシャングリラ風になっちまったら。
料理の腕の揮い甲斐さえ無いだろうが、とハーレイが恐れるエネルギー切れの酷いもの。最悪の場合は、倒れることだって起こり得るから。
「それだと、ぼくも困ってしまうよ…!」
やっとハーレイと暮らせる家に着いたのに…。座り込むどころか、寝込むだなんて…!
ハーレイに作って貰うお料理、野菜スープが最初だなんて…!
そんなの嫌だよ、と身体が震え上がりそう。新婚旅行の素敵な思い出、それがすっかり台無しになってしまいそうだから。…寝込んでしまえば、そうなるのだから。
「俺も勘弁願いたいんだが…。寝込むお前も悲しいだろうが、俺も同じに悲しいからな」
せっかくお前を嫁に貰って、薔薇色の日々が来たっていうのに、野菜スープを煮込むだなんて。
そいつは勘弁して欲しいからな、お前がはしゃぎ過ぎないように注意はするが…。
それでもお前は疲れちまって、エネルギー切れを起こすんだろう。軽く済むよう、祈ってくれ。
防ぐ方法はそのくらいしか無いってわけだが、お前が疲れちまうとなると…。
そうだな、俺の車が要るかもしれないな。
俺の車だ、とハーレイは至って真剣な顔。「アレの出番が来るかもしれん」と。
「車って…?」
ハーレイの車の出番って、何処で?
まさか病院に連れて行くわけ、ぼくに注射を打って貰いに…!?
酷い、と上げてしまった悲鳴。ハーレイの家から近い病院の医師は、注射好きだと聞いたから。問答無用でブスリと注射で、「これで治る」というタイプだと前に聞かされたから。
新婚旅行から帰った途端にエネルギー切れも嫌だけれども、それを治すのに注射だなんて。
ハーレイの車に押し込まれた上に、病院へ連れて行かれるなんて…!
酷すぎるよ、と抗議した車の出番。注射を打たれてしまうよりかは、寝込んだ方がマシだから。最初の食事が野菜スープのシャングリラ風でも、注射を打たれるよりはいいから。
そうしたら…。
「何を勘違いしているんだか…。お前の注射嫌いくらいは、俺だってよく知っている」
俺の家での最初の思い出、注射に連れて行かれたことになったら、お前に恨まれちまうしな…。
いきなり車を出しやしないさ、暫くは様子を見てやるから。…病院は無しで治るかどうか。
だからだ、俺が言っているのは違う車の使い方だ。
お前、宙港からの帰り道には、とっくに疲れていそうだし…。
タクシーの中で俺にもたれて寝るのと、俺の車の助手席で寝るのと、どっちがいい?
好きに選べよ、と訊かれたこと。新婚旅行に出掛けた帰りに、家までの道をどうするか。
「えーっと…?」
タクシーの中だと、ハーレイの肩にもたれて寝られるけれど…。
それは嬉しいけど、タクシーだったら、運転手さんが乗っているよね、運転席に。
バックミラーで見えてしまうかな、ぼくがハーレイにくっついてるの…。わざわざ見たりはしていなくても、何かのはずみに。
それって、ちょっぴり恥ずかしいかも…。運転手さんは、お仕事だけど…。
見られちゃった、って後で真っ赤になるより、ハーレイの車の方がいいかも…。
ハーレイの肩では寝られないけど、寝ちゃっていたって恥ずかしいことは無いものね…。
そっちの方がいいのかも、と選びたくなったハーレイの車。新婚旅行から帰る時には。
「ほらな、選びたくなっただろうが。俺の車を」
新婚旅行に出掛ける時もそうするか?
タクシーに乗って行くんじゃなくって、最初から俺の運転で。
そうするんなら、車を宙港まで運んで貰うサービスも要らなくなるからな。
「うん、ハーレイと二人がいいよ」
ハーレイが運転してくれるんなら、ハーレイと二人で行きたいな…。
せっかく結婚出来たんだものね、前のぼくたちの話もしたいよ。
運転手さんには聞こえなくても、タクシーの中では、やっぱり話しにくいから…。
車を出してくれるんだったら、その方がいい、と頼んだ車。ハーレイの車で出掛ける宙港。
「よし。それなら俺の車の出番だ、俺たちだけのシャングリラのな」
そいつで出掛けて帰って来るなら、家に着いたらガレージに停めて、荷物を降ろして…。
おっと、その前に、疲れちまってるお前を家に入れてやらんといけないな。
荷物は後だな、お前の休憩が先だから。
ペタンと床に座り込む前に、抱き上げて家に運び込んでだ…。
お疲れ様、と椅子に座らせてやって、何か飲み物を渡してやって…。
それをお前が飲んでる間に、俺が荷物を降ろして来る、と。…俺のも、お前の荷物も、全部。
そんなトコだな、とハーレイが立てている段取り。椅子に座っているだけらしい、自分。
「…ハーレイの家で最初にすること、椅子に座ること?」
床に座り込む方じゃなくても、やっぱり座ることなんだ…?
ハーレイに椅子に座らせて貰うのが最初、と尋ねた「一番最初にすること」。ハーレイの家で。
「さっきも言ったろ、そうなっちまいそうな気がしているんだが…」
それじゃ不満か、最初にすること。もっと劇的な何かを期待してるのか…?
劇的に倒れるのは無しで頼むぞ、とハーレイに念を押されたから。
「ぼくだって嫌だよ、そんなのは…! それにね…」
不満じゃないよ、うんと幸せだと思う。座ってることしか出来なくっても。
此処が今日からぼくの家だよ、って胸が一杯になっちゃって。
ハーレイが荷物を降ろしている間も、幸せ一杯。…椅子に一人で座っててもね。
きっと幸せ、と弾けた笑顔。最初にすることは椅子に座っているだけにしても、ハーレイと結婚出来るのだから。ずっと一緒に暮らすのだから。
「なら、決まりだな。…新婚旅行に出掛ける時には俺の車で宙港までだ」
今の所は、そういうことにしておこう。お前もそうしたいらしいから。
いつかお前と二人で行こうな、宇宙から地球を見る旅に。
しかしだ、何処でどう変わるかが分からないから面白いんだぞ、夢ってヤツは。
今のお前の夢の形が、明日も同じとは限らない。
もっと大きく育った時には、俺の車よりもタクシーがいいと言い出すってこともあるからな。
まあ、存分に夢を見ておけ、と言われた新婚旅行のこと。家で最初にすることも。
けれど、夢なら幾らでもあるし、前の自分の一番大きな夢は必ず叶うから…。
「前のぼくの夢、叶うんだよ。…ハーレイと結婚できるから」
それに叶ってる夢もあるもの、青い地球に生まれて来ちゃったから。
まだ宇宙からは見ていないけれど、前のぼくが見たかった地球まで来られちゃったよ。
「ふうむ…。前のお前の大きかった夢が、二つとも叶うというわけか」
それで今度も欲張るわけだな、あれもこれもと。
俺と新婚旅行はもちろん、他にも山ほど夢を抱えて。
「そう!」
夢は沢山持たなくっちゃね、でないと何も叶わないから。…未来もちっぽけになっちゃうから。
今度のぼくも欲張りだよ、と欲張り自慢。夢は本当に山ほどだから。
「いいさ、お前の夢なら全部叶えてやるから」
どれも端から、と請け合ってくれた、頼もしい恋人。優しいハーレイ。
「…ハーレイの夢は?」
ハーレイも夢を持っているでしょ、どんな夢なの?
「俺の夢か? そいつはお前と一緒に叶えていくんだ、これからな」
なにしろ今度は、前の俺の夢も叶うんだから。お前と結婚出来たらな。
前の俺の一番の夢だった、とハーレイの夢も結婚すること。白いシャングリラで生きた頃から。あの船で地球を夢見た頃から。
「そうだよね…!」
ハーレイの夢もおんなじだったよね、前のぼくのと。
いつか地球まで辿り着いたら、きっと結婚出来るんだから、って…。
同じだったね、と思う前の自分とハーレイの夢。いつか結婚するということ。地球に行くこと。
夢は大きく持たなければ、と改めて思う。
前の自分の大きな夢が叶うのだから、今度も沢山、幾つもの夢を。
前よりはささやかな夢だけれども、持っていればきっと、夢は叶うと知っているから。
最初の夢は、ハーレイと結婚式を挙げて新婚旅行に行くこと。
宇宙から青い地球を眺めて、旅を終えたら、ハーレイの家に二人で帰ってゆくこと。
それから二人で暮らし始めて、幾つもの夢を叶えてゆく。
前の自分だった時からの夢も、今の自分が持っている夢も。
ハーレイは全部叶えてくれるし、ハーレイの夢も二人で全部叶えてゆけるから。
今度は二人で生きてゆけるから、どんな夢でも、青い地球なら何もかも叶う筈なのだから…。
夢は大きく・了
※夢は大きく持つべきだ、という記事を読んだブルー。前の生での夢なら、大きなもの。
けれど今度は、前に比べると小さな夢ばかり。それでも夢は幾つも持って、二人で叶えて…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
夢なら持っているけれど、と小さなブルーが眺めた新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
その紙面の中、「夢は大きく持ちましょう」と書いてあるコラム。子供向けにと書かれた記事。夢は大きく持つべきだ、という中身。夢を大きく持てば持つほど、可能性も広がるものだから。
どんな夢でも、大きく持つもの。小さい夢だと、未来も小さくなってしまうから。
(当然だよね?)
わざわざ書いて貰わなくても分かってるよ、と思ったけれど。相手は子供向けの記事だし、下の学校に通う生徒が対象だろう。自分の年なら分かって当然、教えて貰うようでは駄目。
(先生だって、よく言ってたから…)
下の学校に通っていた頃に。今の学校でも、入学式の時に聞いたと思う。「夢は大きく」と。
自分の夢なら、とうに決まっているけれど。あまり大きくないのだけれど…。
(お嫁さん…)
結婚できる年になったら、ハーレイのお嫁さんになることが夢。十八歳になったら結婚式。
お嫁さんだけに、誰でもなれそうな感じだけれども、本当はとても…。
(大きくて、叶えるのが難しすぎた夢なんだよ…)
それに叶わなかったんだから、と今の自分は知っている。「お嫁さんになる」ことが、どれほど難しい夢だったのか。叶えたくても、困難を伴うものだったのか。
(今のぼくなら、簡単だけれど…)
十八歳になれば結婚、ハーレイのプロポーズを受けるだけ。結婚式を挙げればいいだけ。
けれど、そのハーレイと恋をしていた前の自分は、結婚式を挙げるどころか…。
(ハーレイに恋をしてたのも内緒…)
お互いの立場がそうさせた。白いシャングリラを守るソルジャーと、船を預かるキャプテンと。船の頂点に立っていた二人、恋人同士だと明かせはしない。もしも知れたら、誰一人として…。
(ついて来てなんか、くれないものね…)
船を私物化しているのだ、と背を向けて。何を言っても、そっぽを向かれて。
そうなることが分かっていたから、明かせないままで終わった恋。地球まで辿り着いたなら、と夢見た結婚、それも叶わずに死んでいった自分。
結婚さえも出来なかったのが前の自分で、だから今度の夢は大きい。小さいようでも大きな夢。
前の自分の夢が叶うから、充分に大きく持っている夢。結婚するというだけの夢でも。
(ハーレイのお嫁さんになれるんだものね?)
ぼくには大きすぎる夢、と幸せな気分で閉じた新聞。なんて大きな夢なんだろう、と。ついでに言うなら、前の自分の夢だって大きかったから、と考えながら戻った自分の部屋。
(前のぼくの夢、今よりもずっと…)
大きくて凄かったんだものね、と勉強机の前に座って思い出す。前の自分が描いた夢を。
遠く遥かな時の彼方で、ソルジャー・ブルーと呼ばれた自分。白いシャングリラで見ていた夢。
(いつか必ず、地球に行こう、って…)
青い地球にも焦がれたけれども、それは自分の個人的な夢。青く輝く星への憧れ。
それとは違って、ミュウの未来を手に入れるために、地球に行こうと考えていた。青い地球まで辿り着けたなら、きっと未来を掴める筈。人類に追われない未来。ミュウが殺されない世界を。
だから地球へ、と目指そうとした青い水の星。
前のハーレイと恋に落ちた後には、もう一つ夢が加わった。ミュウの未来を手に入れたならば、白いシャングリラの役目も終わる。もう要らなくなるミュウの箱舟。
シャングリラが役目を終える時には、ソルジャーもキャプテンも必要なくなる筈だから…。
船の仲間たちに恋を明かして、二人で生きようと思っていた。シャングリラを降りて、何処かで二人。ほんの小さな家でいいから、青い地球の上に住める所を手に入れて。
ミュウの未来を掴み取ることと、ハーレイと二人で暮らすこと。そのために行きたかった地球。
(どっちも叶わなかったけど…)
前の自分が持っていた夢は、どちらも叶いはしなかった。
ミュウの未来も、ハーレイと二人で生きてゆける家も、前の自分は手に入れられずに、地球さえ見ずに宇宙に散った。ハーレイからも遠く離れたメギドで、独りぼっちで。
(本当に全部、夢だったまま…)
何も叶わなかったんだよ、と思うけれども、繰り返し描き続けた夢。いつか必ず、と。
前の自分が夢を大きく持っていたから、神様は叶えてくれたのだろう。ずいぶん時間がかかったけれども、それは仕方ない。前の自分が生きた頃には、青い地球が無かったのだから。
白いシャングリラが辿り着いた地球は、赤茶けた死の星だったのだから。
前の自分が夢見た通りに、地球で開けたミュウたちの未来。
地球は燃え上がって、ジョミーも、前のハーレイたちも命を落としたけれども、機械が支配する時代は終わった。SD体制が倒れた後には、もう人類もミュウも無かった。同じ人間なのだから。
(地球は、メチャメチャになっちゃったけど…)
大規模な地殻変動を起こした地球。ユグドラシルと呼ばれた地球再生機構の建造物さえ、地の底深く沈んだという。海も大陸も全てが壊れて、燃えて崩れていったのだけれど…。
それが再生への引き金。何も棲めない死の星だった地球は再び蘇った。青い星として。
気が遠くなるほどの時が流れて、今の時代は人が住んでいる地球。自分は其処に生まれて来た。前とそっくり同じに育つ身体を貰って、ハーレイも先に生まれて来ていた。同じ姿で。
地球はとっくに手に入れているし、次はハーレイと暮らす未来。今度は結婚できるから。
(そっちも沢山、夢は大きく…)
持たなくっちゃ、と記事の通りに考える。ハーレイとの未来に描く夢。
結婚式のことはよく分からないけれど、その前に、まずはプロポーズ。結婚を申し込まれる時。どんなプロポーズになるのだろうか、ハーレイは何をしてくれるだろう?
(ガラスの靴が欲しいよね、って思ったことも…)
あるのだけれども、他にも夢を見ていそう。こういうプロポーズもいいね、とハーレイに伝えてありそうな夢。すぐには思い出せないだけで。
(だから、プロポーズも夢だよね?)
きっと素敵なサプライズ。その日が来たなら、きっと感激で胸が一杯。ガラスの靴を貰っても。他の形で結婚を申し込まれても。
プロポーズされたら、もちろん「嫌」とは言わない自分。両親が結婚を許してくれたら、晴れてハーレイの婚約者。結婚式の用意も始めて。
婚約したら、忘れないようにシャングリラ・リングを申し込む。白いシャングリラの船体だった金属の一部、それを使って作られる結婚指輪。申し込みのチャンスは一度きりだから…。
(シャングリラ・リング、当たりますように…)
それが最初の大きな夢。指輪の形に姿を変えた、シャングリラを指に嵌めること。
前のハーレイと二人で暮らした白い船。懐かしい船が生まれ変わった指輪を、ハーレイと二人で結婚式で交換して。お互いの左手の薬指に嵌めて、そうして交わす誓いのキス。
ウェディングドレスで結婚するのか、ハーレイの母が着たと聞いている白無垢か。何を着るのか分からないけれど、誓いのキスはあるだろう。結婚指輪の交換だって。
(結婚式が終わったら…)
もうハーレイのお嫁さん。誰に紹介される時にも、「俺の嫁さんだ」とハーレイが言ってくれる筈。ハーレイの父や母たちだったら、「うちの息子のお嫁さんです」と。
考えただけで弾む胸。「ハーレイのお嫁さん」になるということ。前の自分が夢に見たこと。
夢が叶って結婚したら、新婚旅行は地球を見に行く。それもハーレイとの約束。
(ぼくは宇宙に出たことが無いし…)
まだ見てはいない、青い地球。足の下には地球があるのに、宇宙に浮かぶ地球を知らない。前の自分が焦がれ続けた、銀河の海に浮かぶ真珠を。
だからハーレイとの新婚旅行は、宇宙から地球を眺める旅。青い真珠のような地球。それが良く見える部屋に泊まって、ハーレイと二人、心ゆくまで地球を見詰めて、キスを交わして…。
きっと何日も飽きずに過ごし続けるのだろう。月にも火星にも行きはしないで、地球の周りしか飛ばない旅でも。…地球を見るだけで終わる旅でも。
前の自分の夢の星だし、そういう旅でかまわない。何処の宙港にも降りない旅で。
(そんな旅行でも、疲れちゃったら大変だから…)
せっかく新婚旅行に行くのに、寝込んでしまったら意味が無い。いくら窓から地球が見えても、ハーレイが側にいてくれても。
(看病して貰って、船のお医者さんに注射されちゃったりもして…)
きっとハーレイは優しく看病してくれるけれど、問題は船のお医者さん。大嫌いな注射を宇宙の旅で打たれるのは御免蒙りたい。青い地球が見える医務室で注射されるとしたって。
(嫌いなものは嫌いなんだよ!)
前の自分も嫌った注射。アルタミラでの酷い体験のせいで。
新婚旅行で注射は嫌だし、寝込んだら旅も台無しになる。地球を見ながらの食事なんかも、全部お流れになってしまって、ベッドで寝ているだけになるから。
そうならないよう、元気に旅に出掛けられること、それも大切。
前と同じに弱い身体に生まれたけれども、新婚旅行の間は健康を損ねないこと。それだって夢。
元気一杯で出掛けなくちゃ、と夢を抱くのが新婚旅行。ハーレイと青い地球を見る旅。宇宙から青い地球を見ようと、何度ハーレイと語ったことか。…白いシャングリラで暮らした頃に。
その夢が叶う新婚旅行。しかも結婚してから見られる青い地球。前の自分が描いた夢だと、結婚するのは地球に辿り着いてからだったのに。
夢よりも素敵になった現実。ハーレイのお嫁さんになって、新婚旅行で地球を見に行くなんて。
(旅行の約束、他にも一杯…)
今のハーレイと交わした約束。前の自分だった頃から夢を見た旅も、新しく出来た旅の予定も。
好き嫌い探しに出掛けてゆくのは、今の約束。好き嫌いが全く無い二人だから、あちこち回って苦手なものやら好物やらを探す旅。好き嫌いが無いのは、多分、前の生の影響だろうと思うから。
(砂糖カエデの森も見に行かなくちゃね…)
前の自分が地球で食べたかった、夢の朝食。ホットケーキを食べること。地球の草で育った牛のミルクで作ったバターと、本物のメープルシロップを添えて。
今のハーレイにそう話したら、砂糖カエデの森を見に行く約束が出来た。雪の季節が終わる頃に始まる、メープルシロップになる樹液の採取。その季節に二人で行ってみようと。
(ヒマラヤの青いケシだって…)
出来るものなら、高い山に咲く本物を見たい。前の自分が夢見たように、空を飛んでは行けないけれど。今の自分は空を飛べないから、ヤクの背に乗って運んで貰うしかないのだけれど。
そして、ハーレイと今の地球で結婚するのなら…。
(マードック大佐のお墓にだって…)
挨拶に行ってみたいと思う。マードック大佐とパイパー少尉の墓碑がある場所へ。
SD体制が崩壊した時、地球を破壊しようとした六基のメギド。トォニィやキースの部下たちが防ぎに飛び立ったけれど、残ってしまった最後の一基。
(マードック大佐の船が体当たりして…)
メギドを止めたと今も伝わる。退艦しないで船に残ったパイパー少尉がいたことも。
青い水の星が蘇った後、風化したメギドが発見された。二人の墓碑は其処にあるという。墓碑は森の奥にあるらしいけれど、その入口まで行く恋人たちが今も大勢。結婚の報告をするために。
花束や花輪を捧げて祈る恋人たち。マードック大佐たちのように最後まで共に、と。
知ったからには、挨拶をしたい二人の墓碑。「パパのお花」が咲く季節に。
今の時代は「パパのお花」と呼ばれている花。淡い桃色の豆の花。
幼かったトォニィがそう呼んだから、シャングリラ育ちだった豆にその名が付いた。トォニィが種子を残させた豆。「いつか地球へ」と、願いをこめて。
その種子が根付いたのが「パパのお花」だから、マードック大佐たちに挨拶するなら、花が咲く季節。墓碑がある地域に自生する花で、他の地域にはあえて広げないと聞いたから。
(夢は大きく…)
うんと沢山持たなくっちゃね、と思う旅行だけでも数え切れない。ハーレイと二人で行く旅行。デートの約束だって山ほど、もう本当に山のよう。
(新婚旅行は地球を見るんだ、って決まってるけど…)
次の旅行は何処にしようか、それも楽しみでたまらない。結婚してさえいない内から。こうして夢を見る間から。
前の自分の夢を叶える旅に出るのか、今の自分たちが交わした約束を叶えにゆくか。青い地球を見る新婚旅行から帰ったら直ぐに、もう計画を立てていそう。ハーレイとお茶でも飲みながら。
(今度は何処に出掛けようか、って…)
旅の計画、きっと最初は近い場所。新婚旅行は、ハーレイが長く休める時期に行くのだろうし、学校が休みになっている間。春休みだとか、夏休み。
同じ休みの間にまた行けそうな場所にするなら、家からもきっと近い筈。休みが終わってからの旅となったら、もう本当に近い場所。
(週末に行って、一泊二日で帰れる所…)
そんな感じ、と思う行き先。一泊二日で行ける所も色々あるから、何処にするかで大いに迷ってしまいそう。海に行くのか山に行くのか、旅の目的は何なのか。
(観光するのか、名物を食べに行くのかも…)
同じ行き先で回る所が変わってくるから、目的選びも大切なこと。充実した旅にするのなら。後から「しまった」と思わないよう、きちんと下調べもしておいて。
(せっかく行ったのに、知らずに帰って来ちゃったよ、っていうのは残念…)
食べ物にしても、観光名所にしても。
ハーレイと二人で旅をするなら、夢は大きく、欲張りに。あれもこれもと詰め込んで。御馳走を食べて観光だって、とギュウギュウ詰めになるだろう夢。
旅行するにも夢は大きく持たなくちゃ、と思ったけれど。夢は山ほど、と思うけれども、旅行に出掛けてゆく前に…。
(新婚旅行の次の旅行に行く前に、デート?)
結婚したら一緒に暮らすのだから、二度目の旅に出る前にデート。間違いなく、そう。
同じ家に住む二人なのだし、思い付いたら直ぐにデートに出掛けてゆける。時間さえあれば。
(ハーレイと食事をしに行くとか…?)
食事くらいなら、新婚旅行から戻った次の日にだって、と膨らむ夢。ハーレイとデート。食事に行くのはハーレイの家の近所の店だっていいし、ドライブに行くというのもいい。
車で少し走って行ったら、幾らでも選べる食事できる店。「此処がいいな」と思い付きだけで、選んで車を駐車場に停めて。
家の近所の店に行くなら、ハーレイと歩いてゆくのもいい。手を繋ぎ合って、のんびりと。
(夢は大きく…)
それに沢山、と思った所で気が付いた。次の旅行やデートの夢を見ていたけれど…。
ハーレイと結婚して、新婚旅行に出掛けた後。宇宙から青い地球を眺めて、大満足の新婚旅行が終わった後には、ハーレイの家で暮らすことになる。今の自分の家ではなくて。
旅行が済んだら、帰ってゆく先はハーレイの家。二人で家に帰り着いた時には、一番最初に何をすることになるのだろう…?
(ただいまのキス…?)
二人一緒に帰ったのだし、「おかえりなさい」ではないけれど。どちらが迎える側でもないのに「ただいま」は変かもしれないけれども、ただいまのキス。
二人きりの家に帰って来られた、と抱き合ってキスを交わすのだろう。これからはずっと一緒に暮らしてゆけるし、此処が二人の家なのだ、と。
(キスは絶対、しそうだけれど…)
結婚している二人だったら、ただいまのキスは挨拶代わり。「最初にすること」と考えるには、足りない重み。今の自分なら、キスは大切なのだけど。
(…ハーレイ、キスしてくれないものね…)
子供にキスは絶対しない、と言われているから憧れのキス。けれど結婚した二人ならば、キスは当たり前のように交わす筈のもので、「最初にすること」には数えられないほどだろうから…。
キスは違う、と考えた「家に帰ったら最初にすること」。ただいまのキスの後が問題。
新婚旅行はもう終わったから、ハーレイと一緒に過ごすのだけれど。結婚している恋人同士で、夜はもちろん同じベッドで眠るけれども…。
(いくらなんでも、帰って直ぐにベッドになんか…)
行かないだろうという気がする。帰って来たのが夜だとしても。宙港に着いた時間によっては、家に着いたら夜更けなのかもしれないけれども、直ぐにシャワーを浴びに行くのも…。
(あんまりだよね?)
二人で暮らす家に着くなりシャワーだなんて、夢もロマンも無い感じ。どう考えても、ベッドに入る準備だから。「早くベッドに行かなくちゃ」と宣言するようなものだから。
二人一緒でも狭くないだろう、ベッドには行きたいのだけれど…。
それとこれとは話が別。家に帰って最初にすることがシャワーだと、恥じらいさえも無さそう。
(ハーレイ、きっと結婚するまで…)
キスしかしないままなのだろう、と思ってはいる。何故だか、そういう予感がするから。
婚約した後もキスだけで我慢していたのならば、ベッドに行きたくなりそうだけれど。
(だけど、新婚旅行だったんだし…)
二人で旅行に出掛けたのなら、とうにベッドに行った筈。青い地球が見えるだろう部屋で。
大きな窓越しに地球を眺めて、何度もキスを交わした後には、やっと本物の恋人同士。長いこと我慢させられていた分、満ち足りた時を過ごせる筈。
(朝御飯なんかは、抜きでいいから…)
ハーレイとベッドで抱き合っていたい。今の幸せに酔いしれながら、愛を交わして、甘い睦言を交わし合って。
(旅行とセットの御飯、何度も抜けちゃったって…)
きっと二人とも気にしない。豪華な料理を食べそびれても、ルームサービスばかりでも。食事をするより、二人一緒にいたいから。前の生からの夢が叶って、ようやく結婚出来たのだから。
そういう旅行をして来たのならば、家に帰ってまでベッドなんかに急がなくてもいいだろう。
もっとのんびり、家でゆっくり。
此処が二人の家なのだから、と前の生から夢に見ていた地球にある家で。
前の自分たちが夢見た地球。いつか地球まで辿り着いたら、欲しいと思った小さな家。青の間のように広くなくていいから、ほんの小さな家でいいから。
その夢を叶えてくれるのが今のハーレイの家。この町で教師になろうと決めて、ハーレイの父に買って貰ったらしい家。其処にハーレイと二人で帰ったら…。
(家の中、色々…)
案内して貰えるのだろうか。一度だけ遊びに行った時にも、案内はして貰ったけれど…。それはあくまでチビの自分用、他の生徒を案内するのと大して変わりはしなかった筈。
けれど、一緒に暮らすとなったら、必要だろう様々な案内。それこそキッチンの棚の中まで。
ちゃんと案内して貰わないと、直ぐに困ってしまうだろうから。「あれは何処?」とハーレイに尋ねなくては、日用品さえ見付けられなくて。
(最初にすること、家の案内?)
そうなのかもね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから、早速ぶつけてみた質問。テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね、最初は何をすると思う?」
「はあ?」
最初って何だ、お前が何かしたいのか、とハーレイは目を丸くした。「意味が分からん」と。
「ごめん、色々すっ飛ばしちゃった…。ぼくは長いこと考えてたから」
おやつの後から考え続けて、そしたら気になり始めちゃって…。
いつかハーレイと結婚するでしょ、ぼくが十八歳になったら。…結婚できる年になったら。
その時のことだよ、訊いているのは。…最初は何かな、って思ったから。
ハーレイと結婚してから、ぼくが一番最初にすること。
何だと思う、と訊いたら顔を顰めたハーレイ。眉間の皺まで深くして。
「その手の話はお断りだが?」
お前はチビだし、まだ早すぎる。…何度言ったら分かるんだ?
キスも駄目だと言ってる筈だな、とハーレイが怖い顔をするから、慌てて首を左右に振った。
「違うってば…!」
ぼくは真面目に訊いてるんだよ、叱られるような話じゃないんだってば…!
ホントのホントに違う話で、ただ気になってただけなんだから…!
キスとかの話は全部抜きで、とハーレイに懸命に説明をした。どうして質問したのかを。
夢は大きく持ちたいから、と新聞のコラムを読んだお陰で、膨らませてしまった未来の夢。新婚旅行から帰った後には、最初は何をするのだろう、と。
「えっとね…。最初にすること、ハーレイの家の中の案内?」
そうじゃないかと思ったんだけど、それで合ってる…?
ねえ、とハーレイの瞳を覗き込んだら、「なんでそうなる?」と返った言葉。
「家の案内って、何処から思い付いたんだ。それが最初にすることだなんて…?」
「それが一番大事かな、って…。ぼく、ハーレイの家の中には詳しくないし…」
何度も遊びに行ってる柔道部員とかの方が詳しそうだよ。何処に何があるか、棚まで覗いて。
ぼくは一度しか、家の中、案内して貰ってないし…。
ハーレイと一緒に帰ってみたって、直ぐに困ってしまいそう。分からないことばっかりで。
だから案内、と自信を持って答えたのに。
「おいおい、そいつは今だけだろう?」
確かにお前は、俺の家には全く詳しくないよな、うん。…柔道部のヤツらの方が詳しい。
あいつら、遠慮なく家探しするから、冷蔵庫の中まで覗いて勝手に中身を飲み食いするし…。
だがな、お前も俺と結婚するとなったら、嫌というほど来るだろうが。
一度も来ないで結婚ってことは絶対に無いぞ、考えてみろよ?
俺の家でデートもするだろうし、と言われてみればそうだった。婚約したなら、ハーレイの家は未来の自分の家になる。今と違って出入りも自由。
「そっか、ハーレイの家でデートもあるよね…」
ハーレイが作ってくれるお料理とか、お菓子を食べに行くだとか…。
「お前を家に呼びもしないで、結婚ってことは有り得んな。デートでなくても来て貰わんと」
俺の家に引越して来るんだろうが、俺と一緒に暮らすんだから。
結婚の準備を進めるためには、お前が俺の家に来ないと始まらない。
お前の部屋を決めなきゃならんし、荷物だって運び込まないと…。でないとお前、宿無しだぞ?
この部屋からは出るんだろうが、というハーレイの言葉でやっと気付いた。
ハーレイの家で暮らしてゆくのだったら、それまでに準備。新婚旅行から帰ったら直ぐに、荷物などを置ける自分用の部屋が要るのだから。
まるで気付いていなかった、とポカンと開けてしまった口。結婚して同じ家で暮らすためには、先に必要なのが引越し。今のこの部屋から、ハーレイの家へ。
自分の引越しは新婚旅行の後だけれども、荷物は先に運ばれてゆく。それの置き場や、貰う部屋やら、決めるべきことが幾つもあった。…ハーレイの家まで出掛けて行って。
何度も出入りしていたならば、家の中のこともすっかり覚えてしまうだろう。新婚旅行から家に帰った途端に、困ってしまわない程度には。
「…最初にすること、家の中の案内じゃなかったんだ…」
きっとそれだと思っていたのに、違ったなんて…。もう案内は要らないだなんて…。
ぼくは色々覚えちゃってて、と零した溜息。「ぼくの考え、間違ってたよ」と。
「そのようだな。…あれこれ夢を見てはいたって、チビはチビだということだ」
まるで必要無い、家の案内が最初だと頭から考えちまうようでは。…チビならではの発想だな。
そんなお前の質問ってヤツに、あえて真面目に答えてやるとしたなら、だ…。
新婚旅行から帰った後に、一番最初にすることは何か、それが知りたいわけだよな…?
俺が思うに、お前、ペタンと座り込んじまって、何もしようとしないんじゃないか?
最初も何も…、とハーレイが唇に浮かべている笑み。ちょっぴり悪戯小僧の顔で。
「何もしないって…。なんで?」
どうしてそういうことになるわけ、新婚旅行から一緒に帰って来たんだよ?
やっとハーレイと二人で暮らせる家に帰って来られたのに…!
何もしないなんてこと、絶対に無い、と主張したのに、「そうか?」と腕組みをしたハーレイ。
「俺はそうなると思うがなあ…。まず間違いなく、そのコースだと」
お前が何もしない理由は、エネルギー切れというヤツだ。
身体中の力が抜けちまうんだな、家に帰ってホッとしたから、緊張の糸が切れたみたいに。
小さな子供がよくやるだろうが、何処かへ出掛けて、はしゃぎ過ぎた後に眠っちまうとか。
それと同じだ、お前の場合は眠る代わりに座り込むんだ。
新婚旅行ではしゃぎ過ぎちまった分がドカンと来るんだな、と指摘されたら反論出来ない。多分そうなるだろうから。
自分では注意しているつもりでいたって、新婚旅行の間中、はしゃいでいそうだから。
宙港から宇宙へ飛び立つ前から、もうワクワクが止まらない筈。結婚式の時から、ずっと。
きっとそうなっちゃうんだよ、と気付いてしまったエネルギー切れ。
ハーレイと結婚式を挙げて出掛けた新婚旅行で、青い地球だの、二人きりの時間だのと、存分に味わい過ぎて。来る日も来る日もはしゃぎ続けて、体力も気力も、すっかり限界。
自分では気付いていなくても。…まだまだ元気は充分にあると思っていても。
ハーレイの家に着いた途端に、プツンと切れるエネルギー。それこそ床にペタンと座って、もう動けないといった具合で。
「…エネルギー切れって…。じゃあ、それが最初にすることなの?」
ぼくがハーレイの家で最初にすること、エネルギーが切れて座っちゃうこと…?
床にペタンと座り込んじゃって、「動けないよ」って情けない声を出すしかないの…?
悔しいけれど、と認めざるを得ない、エネルギー切れで座り込むこと。きっと自分はそうなった末に、ハーレイの顔を見上げることしか出来ないから。
「そうなるだろうと思うんだが? …流石に床では可哀想だし…」
ちゃんと椅子には座らせてやる。玄関先でへたり込んだら、リビングとかまで抱えて運んで。
後は紅茶を淹れてやるとか、疲れが取れそうなホットココアとか…。
そういう飲み物をお前に渡して、時間によっては俺は飯の支度を始めるってトコか。
帰りは多分、夜なんだろうが、もっと早い時間に到着する便もあるからなあ…。晩飯は家で、と思って帰って来たなら、手早く何か作らんと。
お前は座って待ってるだけだな、紅茶やココアを淹れるにしても、飯の支度をする方にしても。
エネルギー切れが治るまでゆっくり座っていろ、とハーレイは微笑む。最初にすること、これで決まったも同じだろうが、と。
「ハーレイが言うの、当たっていると思うんだけど…。エネルギー切れになりそうだけど…」
それじゃホントに、役に立たないお嫁さんだよ。
せっかくハーレイと結婚したのに、最初から座っているだけなんて…。
ぼくだって、ハーレイに何かしてあげたいよ、と言ったのに…。
「何もしなくていいと何度も言ってるだろうが」
俺の嫁さんになってくれれば、それだけでいいと。…お前は何もしなくても。
料理も掃除も俺がするから、お前は威張っていればいいんだ。
俺の所へ嫁に来てやったと、こうして嫁に来てやったんだし、うんと丁重に扱えとな。
座り込んだまま動けなくても、座っていられるなら充分だ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
「座れるんなら、まだエネルギーが残っているからな」と。
「そういうことだろ、自分の身体を支える力はあるわけだ。椅子には座れるんだから」
もっと力が無くなっちまえば、お前は倒れてしまうってわけで…。
新婚旅行から帰ってくるなり倒れて寝込んじまって、早速スープの出番じゃ困る。
俺が最初に作ってやる料理が、野菜スープのシャングリラ風になっちまったら。
料理の腕の揮い甲斐さえ無いだろうが、とハーレイが恐れるエネルギー切れの酷いもの。最悪の場合は、倒れることだって起こり得るから。
「それだと、ぼくも困ってしまうよ…!」
やっとハーレイと暮らせる家に着いたのに…。座り込むどころか、寝込むだなんて…!
ハーレイに作って貰うお料理、野菜スープが最初だなんて…!
そんなの嫌だよ、と身体が震え上がりそう。新婚旅行の素敵な思い出、それがすっかり台無しになってしまいそうだから。…寝込んでしまえば、そうなるのだから。
「俺も勘弁願いたいんだが…。寝込むお前も悲しいだろうが、俺も同じに悲しいからな」
せっかくお前を嫁に貰って、薔薇色の日々が来たっていうのに、野菜スープを煮込むだなんて。
そいつは勘弁して欲しいからな、お前がはしゃぎ過ぎないように注意はするが…。
それでもお前は疲れちまって、エネルギー切れを起こすんだろう。軽く済むよう、祈ってくれ。
防ぐ方法はそのくらいしか無いってわけだが、お前が疲れちまうとなると…。
そうだな、俺の車が要るかもしれないな。
俺の車だ、とハーレイは至って真剣な顔。「アレの出番が来るかもしれん」と。
「車って…?」
ハーレイの車の出番って、何処で?
まさか病院に連れて行くわけ、ぼくに注射を打って貰いに…!?
酷い、と上げてしまった悲鳴。ハーレイの家から近い病院の医師は、注射好きだと聞いたから。問答無用でブスリと注射で、「これで治る」というタイプだと前に聞かされたから。
新婚旅行から帰った途端にエネルギー切れも嫌だけれども、それを治すのに注射だなんて。
ハーレイの車に押し込まれた上に、病院へ連れて行かれるなんて…!
酷すぎるよ、と抗議した車の出番。注射を打たれてしまうよりかは、寝込んだ方がマシだから。最初の食事が野菜スープのシャングリラ風でも、注射を打たれるよりはいいから。
そうしたら…。
「何を勘違いしているんだか…。お前の注射嫌いくらいは、俺だってよく知っている」
俺の家での最初の思い出、注射に連れて行かれたことになったら、お前に恨まれちまうしな…。
いきなり車を出しやしないさ、暫くは様子を見てやるから。…病院は無しで治るかどうか。
だからだ、俺が言っているのは違う車の使い方だ。
お前、宙港からの帰り道には、とっくに疲れていそうだし…。
タクシーの中で俺にもたれて寝るのと、俺の車の助手席で寝るのと、どっちがいい?
好きに選べよ、と訊かれたこと。新婚旅行に出掛けた帰りに、家までの道をどうするか。
「えーっと…?」
タクシーの中だと、ハーレイの肩にもたれて寝られるけれど…。
それは嬉しいけど、タクシーだったら、運転手さんが乗っているよね、運転席に。
バックミラーで見えてしまうかな、ぼくがハーレイにくっついてるの…。わざわざ見たりはしていなくても、何かのはずみに。
それって、ちょっぴり恥ずかしいかも…。運転手さんは、お仕事だけど…。
見られちゃった、って後で真っ赤になるより、ハーレイの車の方がいいかも…。
ハーレイの肩では寝られないけど、寝ちゃっていたって恥ずかしいことは無いものね…。
そっちの方がいいのかも、と選びたくなったハーレイの車。新婚旅行から帰る時には。
「ほらな、選びたくなっただろうが。俺の車を」
新婚旅行に出掛ける時もそうするか?
タクシーに乗って行くんじゃなくって、最初から俺の運転で。
そうするんなら、車を宙港まで運んで貰うサービスも要らなくなるからな。
「うん、ハーレイと二人がいいよ」
ハーレイが運転してくれるんなら、ハーレイと二人で行きたいな…。
せっかく結婚出来たんだものね、前のぼくたちの話もしたいよ。
運転手さんには聞こえなくても、タクシーの中では、やっぱり話しにくいから…。
車を出してくれるんだったら、その方がいい、と頼んだ車。ハーレイの車で出掛ける宙港。
「よし。それなら俺の車の出番だ、俺たちだけのシャングリラのな」
そいつで出掛けて帰って来るなら、家に着いたらガレージに停めて、荷物を降ろして…。
おっと、その前に、疲れちまってるお前を家に入れてやらんといけないな。
荷物は後だな、お前の休憩が先だから。
ペタンと床に座り込む前に、抱き上げて家に運び込んでだ…。
お疲れ様、と椅子に座らせてやって、何か飲み物を渡してやって…。
それをお前が飲んでる間に、俺が荷物を降ろして来る、と。…俺のも、お前の荷物も、全部。
そんなトコだな、とハーレイが立てている段取り。椅子に座っているだけらしい、自分。
「…ハーレイの家で最初にすること、椅子に座ること?」
床に座り込む方じゃなくても、やっぱり座ることなんだ…?
ハーレイに椅子に座らせて貰うのが最初、と尋ねた「一番最初にすること」。ハーレイの家で。
「さっきも言ったろ、そうなっちまいそうな気がしているんだが…」
それじゃ不満か、最初にすること。もっと劇的な何かを期待してるのか…?
劇的に倒れるのは無しで頼むぞ、とハーレイに念を押されたから。
「ぼくだって嫌だよ、そんなのは…! それにね…」
不満じゃないよ、うんと幸せだと思う。座ってることしか出来なくっても。
此処が今日からぼくの家だよ、って胸が一杯になっちゃって。
ハーレイが荷物を降ろしている間も、幸せ一杯。…椅子に一人で座っててもね。
きっと幸せ、と弾けた笑顔。最初にすることは椅子に座っているだけにしても、ハーレイと結婚出来るのだから。ずっと一緒に暮らすのだから。
「なら、決まりだな。…新婚旅行に出掛ける時には俺の車で宙港までだ」
今の所は、そういうことにしておこう。お前もそうしたいらしいから。
いつかお前と二人で行こうな、宇宙から地球を見る旅に。
しかしだ、何処でどう変わるかが分からないから面白いんだぞ、夢ってヤツは。
今のお前の夢の形が、明日も同じとは限らない。
もっと大きく育った時には、俺の車よりもタクシーがいいと言い出すってこともあるからな。
まあ、存分に夢を見ておけ、と言われた新婚旅行のこと。家で最初にすることも。
けれど、夢なら幾らでもあるし、前の自分の一番大きな夢は必ず叶うから…。
「前のぼくの夢、叶うんだよ。…ハーレイと結婚できるから」
それに叶ってる夢もあるもの、青い地球に生まれて来ちゃったから。
まだ宇宙からは見ていないけれど、前のぼくが見たかった地球まで来られちゃったよ。
「ふうむ…。前のお前の大きかった夢が、二つとも叶うというわけか」
それで今度も欲張るわけだな、あれもこれもと。
俺と新婚旅行はもちろん、他にも山ほど夢を抱えて。
「そう!」
夢は沢山持たなくっちゃね、でないと何も叶わないから。…未来もちっぽけになっちゃうから。
今度のぼくも欲張りだよ、と欲張り自慢。夢は本当に山ほどだから。
「いいさ、お前の夢なら全部叶えてやるから」
どれも端から、と請け合ってくれた、頼もしい恋人。優しいハーレイ。
「…ハーレイの夢は?」
ハーレイも夢を持っているでしょ、どんな夢なの?
「俺の夢か? そいつはお前と一緒に叶えていくんだ、これからな」
なにしろ今度は、前の俺の夢も叶うんだから。お前と結婚出来たらな。
前の俺の一番の夢だった、とハーレイの夢も結婚すること。白いシャングリラで生きた頃から。あの船で地球を夢見た頃から。
「そうだよね…!」
ハーレイの夢もおんなじだったよね、前のぼくのと。
いつか地球まで辿り着いたら、きっと結婚出来るんだから、って…。
同じだったね、と思う前の自分とハーレイの夢。いつか結婚するということ。地球に行くこと。
夢は大きく持たなければ、と改めて思う。
前の自分の大きな夢が叶うのだから、今度も沢山、幾つもの夢を。
前よりはささやかな夢だけれども、持っていればきっと、夢は叶うと知っているから。
最初の夢は、ハーレイと結婚式を挙げて新婚旅行に行くこと。
宇宙から青い地球を眺めて、旅を終えたら、ハーレイの家に二人で帰ってゆくこと。
それから二人で暮らし始めて、幾つもの夢を叶えてゆく。
前の自分だった時からの夢も、今の自分が持っている夢も。
ハーレイは全部叶えてくれるし、ハーレイの夢も二人で全部叶えてゆけるから。
今度は二人で生きてゆけるから、どんな夢でも、青い地球なら何もかも叶う筈なのだから…。
夢は大きく・了
※夢は大きく持つべきだ、という記事を読んだブルー。前の生での夢なら、大きなもの。
けれど今度は、前に比べると小さな夢ばかり。それでも夢は幾つも持って、二人で叶えて…。