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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

 もうすぐクリスマスなんだもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がワクワク見上げたもの。
 シャングリラの公園に聳え立つ大きなクリスマスツリー、とっくに済んだ点灯式。毎晩、綺麗にライトアップされるツリーだけれども、今は昼間だから飾りだけ。
 それでも充分に華やかなツリー。天辺には星が煌めいているし、オーナメントも盛りだくさん。見ているだけで心が弾む光景、人類が住む都市にも負けてはいない。
(ブルーにもツリー、ちゃんとプレゼントしたもんね!)
 今年もうんと綺麗なヤツを、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大好きなブルーを思い浮かべる。青の間に似合うツリーを買うのも楽しみの一つ。このシーズンの。
 あの部屋は昼間も暗いのだから、クリスマスツリーの光がよく映える。自分の部屋に置いておくより、断然、青の間の方がいい。ブルーも喜んでくれるから。
(えーっと、今日は、と…)
 何を食べようかな、と瞬間移動で外の世界へと飛び出した。クリスマスツリーは堪能したから、次は人類の世界でクリスマス気分、と。
 アルテメシアの街にヒョイと降り立ち、あちこちの店を覗き込む。おろしリンゴが入ったホットレモネードも美味しそうだし、クリスマス期間限定のケーキなんかもいい。
 今日はデザートを食べまくりたい気分で、甘くて幸せになれる食べ物をお腹一杯。
(ちゃんと食べたよ、って言えばブルーは叱らないもんね?)
 御飯よりお菓子が多めでもね、とクリスマスの飾りが溢れる街を歩いていたら…。



「ママ、サンタさんはステーションにも来てくれるの?」
 耳に入った子供の声。十歳くらいの男の子。母親と一緒に歩いているから、今日は学校が早めに終わったのだろう。
(ステーションって…?)
 なんだっけ、と首を捻った所で、男の子の母が笑顔で答えた。
「そうねえ…。いい子にしてれば来るかしら? でも…」
 目覚めの日が来たら、大人の仲間入りでしょう?
 大人になっても、サンタクロースが来る方がいいの?
 多分、普通の大人の人には来ないわよ。だから、立派な大人になりたかったら…。
 サンタクロースは卒業かしら、と聞かされた男の子の方は…。
「そっか、大人になるんだっけね! じゃあ、サンタクロースが来なくなったら立派な大人?」
「ええ、そうよ。ステーションだと、色々な人がいるわよ、きっと」
 サンタクロースが来る人もいれば、来ない人だって。
 もしかしたら、サンタクロースが来ている間は、ステーションを卒業できないのかしら?
 ママの周りにはいなかったけれど、そういう人もいるのかしらねえ…。
「卒業できないって…。そんなの嫌だよ!」
 それじゃ大人になれないんだから、地球に行くことも出来ないよね?
 地球に行けるの、大人だけでしょ?
 ぼく、そんなのは困るから…。ステーションには来て欲しくないかも…。
「あらあら、今からそんな心配しなくても…」
 大丈夫よ、誰でもちゃんと大人になれる筈だから。
 ステーションで頑張って勉強したなら、サンタクロースも来なくなるわよ。
 だけど子供の間は、いい子の家にはサンタクロース、と微笑んだ母親。
 「今年もいい子にしていましょうね」と、「でないとプレゼントが貰えないわよ?」と。
「やだ、困る!」
 プレゼントは欲しいよ、えっと、今年は…。



 これとあれと…、と欲張りなお願いを並べ立てながら、歩き去って行った男の子。クリスマスに欲しいと思うプレゼントを幾つも挙げて。
(んーと…?)
 ぼくは今年は何にしようかな、と思い浮かべた「お願いツリー」。クリスマスツリーとは別に、ツリーがあるのがシャングリラ。
 大人の所にサンタクロースは来てくれないから、代わりにみんなで贈り合う。そのための注文を書いて吊るすのが「お願いツリー」で、子供の場合は…。
(サンタクロースが注文を見に来てくれるんだよ)
 今までに幾つも叶えて貰った、クリスマスの素敵なプレゼント。だから今年も、と算段を始めるサンタクロースへのリクエスト。
 此処にしようかな、と入った店のテーブルで。ケーキを端から注文しまくり、飲み物も幾つも。胃袋に限界が無いのが自慢で、いくらでも入るものだから。
(こういうお店を注文できたらいいのにね…)
 サンタクロースに、と思うけれども、それは流石に無理だろう。もっと他に、とリクエストする品を考える内に…。
(さっきの子供…)
 ステーションにもサンタクロースは来てくれるのか、と尋ねた子供。今から思えば、あれは教育ステーションのこと。人類の世界では、目覚めの日が来ると…。
(みんな行くんだっけ…)
 よく分からないけれど、成人検査というものを受けて。
 シャングリラで暮らすミュウとは相性が悪い検査だけれども、人類だったらパス出来る。検査が済んだら大人の世界へ一歩前進、教育ステーションへと旅立つわけで。
(サンタクロースは、其処にも行くけど…)
 いつまでもサンタクロースが来ている子供は、其処を卒業できないらしい。大人ではなくて子供だから。サンタクロースは子供の所に来るのだから。
(…それじゃ、サンタさんは…)
 大人になったら来ないんだよね、と今頃になってようやく気付いた。シャングリラにあるお願いツリーは、プレゼントが欲しい大人のためでもあったんだっけ、と。



(ぼくは毎年…)
 プレゼントを貰っているけれど、と指折り数えた、今までに迎えたクリスマス。生まれた年から貰い続けて、今度のクリスマスで九歳の自分。
(みんなとは少し違うから…)
 一歳の誕生日だった、初めてのクリスマスの朝もよく覚えている。今の姿と変わらなかったし、赤ん坊ではなかったから。けれど、よくよく考えてみれば…。
(最初の頃に、お願いツリーで一緒だった子…)
 さっきの男の子と同じくらいの年だった子供は、とうに育って十四歳を過ぎていた。あの子も、この子も、と頭に浮かんだサンタクロースが来なくなった子。
 シャングリラに成人検査は無いのだけれども、人類と同じで十四歳で変わる教育。ヒルマンが教える子供のための授業は終了、専門の教師に習うようになる。その子が将来やりたい職業、それに合わせて選ぶ先生。
(そっちのコースに移ってった子は…)
 サンタクロースがくれるプレゼントの対象外。欲しいプレゼントはコレ、と書いてあるカードをお願いツリーに吊るしておいても、サンタクロースは来ないのだった。
(クリスマスの日に、係の人から貰ってる…)
 その子が欲しかったプレゼントを。もっと大きな大人たちと一緒の扱いになって、「君の分」と係が渡しているプレゼント。十四歳になった子供にサンタクロースは来ないから。
(…シャングリラ、人類の世界より厳しいの…?)
 教育ステーションの方なら、子供によっては来てくれるらしいサンタクロース。いつまでも来てくれるようなら、ステーションを卒業できないけれど。
(だけど、そっちの方が良くない?)
 十四歳になった途端に、来なくなってしまうシャングリラよりは。
 やっぱりミュウの船だからかな、と溜息をついて「おかわり!」とケーキの注文をした。人類の世界は、シャングリラよりも恵まれているらしいから。
 前から薄々思ったけれども、サンタクロースの方でも、人類は恵まれていたのか、と。
(ケーキも山ほど食べられるんだし…)
 人類はなんて幸せだろう、と羨ましい気分。ミュウより優遇されてるよね、と。



 十四歳を過ぎてもサンタクロースにプレゼントを貰える人類はいいな、と考えながら瞬間移動で戻った船。散々おやつを食べまくった後で、クリスマスツリーが見える所へと。
(プレゼント、何を貰おうかなあ?)
 今年は何を注文しようか、と大きなツリーを見上げていたら、ハタと気付いた。もうすぐ九歳になる自分。クリスマスの朝が来たら九歳。
(十四歳から九歳を引くと…)
 五歳、と出て来た引き算の答え。
(あと五回しか貰えないの?)
 サンタクロースからのプレゼントは、と腰が抜けるほどビックリした。それから慌てて、小さな指を一本、二本と折ってみて。
(十四歳になった子供は、サンタクロースが来ないんだから…)
 クリスマスの日に十四歳を迎える自分は、その日もギリギリ、なんとかプレゼントを貰えそうな感じ。サンタクロースがプレゼントを配る夜には十四歳になっていないから。
(でも…)
 十四歳になったその日で打ち止めらしいプレゼント。次の年からは、もう…。
(お願いツリーに頼むしかないの?)
 そうなったのでは、凄いお願い事は出来ない。プレゼントをくれるのはシャングリラに住む仲間たちだし、スペシャルなことを頼んでも無理。
(劇場でリサイタルをやりたいです、って書いて吊るしても…)
 「ぶるぅの歌は勘弁だな」とカードを破って捨てる仲間が見えた気がした。誰もに迷惑がられる自分のカラオケ、それに歌声。きっとカードは見なかったことにされるだろう。
(そうなっちゃったら、お揃いのヤツ…)
 望み通りのプレゼントを手に入れられない仲間もいるのがシャングリラ。そういう人には、係が揃いのプレゼントを配る。今年はこれ、と色々な物をラッピングして。
 自分もそうなってしまうのだろうか、十四歳になった後には?
 人類の世界だったら、サンタクロースは教育ステーションまで来てくれるけれど…。
(シャングリラは無理…)
 十四歳でキッチリおしまい、残り五回のプレゼント。何度数えても十四から九を引いた答えは五だったから。今年のクリスマスが来たら九歳になるのだから。



 たったの五回、と溜息をついたサンタクロースからのプレゼント。生まれた年から何度も貰って来たのに、一歳から貰い続けて来たのに、もうすぐおしまい。たった五回で。
(九回の半分よりかは多いけど…)
 けれど九回には全然足りない、これから貰えるプレゼント。ほんの五回しか無いのだから。五回貰えばそれで終わりで、次の年からは…。
(お願いツリー…)
 願い事を書いて吊るしてみたって、「ぶるぅだからな」と破り捨てそうな仲間たち。いつも悪戯ばかりするから、余計に破られるかもしれない。リサイタルをしたいと書かなくても。
(他の子だったら、聞いて貰えそうなお願い事でも…)
 ぶるぅだから、と破られて終わりになりそうなカード。クリスマスの日に貰えるものは、頼んだ品物が手に入らなかった仲間たちのための、お揃いのヤツ。
(…そんなの嫌だよ…)
 あと五回だけでおしまいなんて、と涙が出そうなサンタクロースからのプレゼント。もっと色々欲しいのに。十四歳になった後にも、サンタクロースに来て欲しいのに。
(人類だったら、教育ステーションまで行ってあげるくせに…)
 シャングリラは駄目って酷いんだけど、と文句を言っても始まらない。サンタクロースは、元は人類のために橇を走らせていたのだから。SD体制が始まるよりもずっと前から。
(ミュウの船にも寄ってくれるだけマシなんだよね…)
 十四歳でおしまいとはいえ、ちゃんとシャングリラに来てくれるのがサンタクロース。ミュウの船なんかは知らないよ、と無視はしないで、きちんと橇で。
(トナカイの橇で宇宙を走って…)
 来てくれるのだし、文句は言えない。トナカイの橇も、サンタクロースも、ちゃんと見たから。追い掛けようとしていた年やら、捕まえようとした年やらに。
(サンタさん、ホントに凄いんだけど…)
 地球に行く夢は叶えてくれないけれども、他の願い事は叶えてくれた。とても頼もしくて頼りになるのがサンタクロースで、どんな奇跡でも起こせそうなのに。
(あと五回だけ…)
 残りは五回、と泣きそうな気分。五回だけしかお願い事が出来ないなんて、と。



 衝撃の事実に気が付いた日から、せっせと考えた「そるじゃぁ・ぶるぅ」。残りは五回しかない願い事の数、何を頼めばいいのだろう。今度頼めば、残りは四回。
(その次に頼んだら、残りは三回…)
 どんどん願い事の残りは減って、十四歳になったらゼロ。後はお願いツリーしかない。そんなの嫌だ、と叫んでみたって、人類の世界とミュウの船とは違うから。
(十四歳になったら、もう来てくれない…)
 いくら自分が子供のままでも、十四歳は十四歳。今が八歳なのと同じで、誕生日が来たら増える年の数。十四歳になったらプレゼントは来ない、サンタクロースからの。此処はシャングリラで、人類のための教育ステーションのようにはいかない。
(ぼくが小さくても、十四歳になったらおしまい…)
 誕生日が来ちゃったら駄目なんだよ、と思った所で閃いた。それは素晴らしいアイデアが。
(そうだ、誕生日…!)
 年の数がどんどん増えてゆくのは、誕生日が来てしまうから。誕生日が来る度に一つ増えるのが年の数。今年で九歳、来年は十歳、そうやって増えて十四歳になるわけだから…。
(誕生日が消えてなくなっちゃったら、来年も八歳…)
 九歳ではなくて八歳のままで次のクリスマス、と嬉しくなった。願い事の残りは減らないまま。たったの五回には違いなくても、それより減らない。
(十四歳にならなかったら、サンタクロースは来てくれるんだし…)
 これに限る、と思い付いたのがスペシャルすぎる願い事。サンタクロースなら、きっと願い事を叶えてくれる。地球に行くより簡単なのだし、相手はサンタクロースだから。
(これにしようっと…!)
 決めたんだもん、と部屋を飛び出した。目指すは例のお願いツリー。瞬間移動で行くのも忘れてパタパタ走って、辿り着いて。
(カード、カード、っと…!)
 側に置かれている専用のカード、それを一枚引っ掴んで…。
(これで良し、っと!)
 精一杯の字で読みやすく書いたお願い事。クリスマスにはこれを下さい、と。
 それをお願いツリーに吊るして、大満足で何度も眺めて、引き揚げた。これでサンタクロースが叶えてくれると、凄いプレゼントを貰うんだから、と。



 お願いツリーでサンタクロースに願い事をして得意満面、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はワクワクと帰って行ったのだけれど。自分の素晴らしいアイデアに酔っていたのだけれど…。
「ぶるぅは今年も派手に来たねえ…」
 どうするつもりなんだろう、とソルジャー・ブルーがついた溜息。青の間の冬の風物詩の炬燵に入って、向かいに座ったキャプテンにミカンを勧めながら。
「さあ…。ヤツの発想は、この私にも分かりかねます」
 ですが本当にコレですから、とハーレイが差し出したカードの写し。本物はまだお願いツリーに吊るされたままで、クリスマス・イブの直前に回収されるのだけれど…。
「うーん…。ぶるぅの頭を覗いた方がいいんだろうねえ?」
「他に方法は無いかと思われますが?」
 それとも此処に呼びますか、とハーレイの指がトントンと叩くお願い事。カードに書き殴られた願い事の写し、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお願い事はこうだった。
「ぼくの誕生日を消して下さい」。
 どう考えても変な願い事で、誕生日が消えたら困るのは「そるじゃぁ・ぶるぅ」だろうに。
「…誕生日が消えたら、バースデーケーキも無さそうだけどね?」
「ええ、御馳走もありませんとも。誕生日パーティーも消え失せますが…」
 今年は地味にやりたいだとか、とハーレイの眉間の皺が深くなる。地味にやっても、いいことは何も無さそうですが、と。
「同感だよ。…その分、何処かで別のお祝いをしたいんだろうか?」
「誕生日を別の日に振り替えですか…?」
 クリスマスとセットなのが気に入らなくなって来たのでしょうか、とハーレイも悩む妙な注文。誕生日を消したら何が起こるのか、どう素晴らしいのかが謎だから。
「振り替えねえ…。夏に誕生日を祝って貰って、アイスケーキでも食べたいのかな?」
 超特大のアイスケーキ、とブルーも考え込む有様。そういうことなら、船の設定温度を変えれば今でも充分出来そうだけれど、と。
「アイスケーキですか…。他に誕生日を移動させるメリットがありますか?」
「ぶるぅだからねえ…」
 ちょっと覗いてみた方がいいね、とブルーが飛ばしてみた思念。誕生日を消して下さいと願った理由は何かと、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の頭の中を覗こうと。そして…。



「かみお~ん♪ 呼んだ?」
 何かくれるの? と青の間に瞬間移動して来た「そるじゃぁ・ぶるぅ」。おやつかな、と期待に胸を膨らませたのに、ブルーが「座って」と指差す炬燵。上にはミカンくらいしか無い。ついでにハーレイも帰った後だし、「なあに?」と炬燵に入ったら。
「ぶるぅ、計算の問題だけど…。十四から九を引いたら、幾つ?」
 ギョッとさせられた、その質問。何度も自分で数えた数字。十四歳から九歳を引くと…、と。
「んーと…。五だけど…」
「よく出来ました。それで、ぶるぅは何歳なのかな?」
「えっと、えっとね、もうすぐ九歳!」
「そうだね、クリスマスが九歳の誕生日だと思うんだけど…。誕生日、要らないんだって?」
 御馳走もケーキもパーティーもかな、と訊かれて真ん丸になってしまった目。そこは全く考えに入っていなかったから。
(嘘…。お誕生日が消えちゃったら…)
 八歳のままだ、と喜んだけれど、誕生日が消えればバースデーケーキも消えるのだった。山ほどある筈の御馳走も消えるし、誕生日パーティーも消えてしまうわけで…。
(ぼく、お願い事、間違えちゃった?)
 焦るけれども、誕生日が来るというのも困る。来てしまったら九歳になって、次の年には十歳になって、たった五回しかサンタクロースのプレゼントを貰えないままで…。
(十四歳になっちゃうんだよ…!)
 人類の世界とは違うシャングリラは、十四歳になったらサンタクロースが来てくれない。それは困るし、十四歳になるわけにはいかない。
(誕生日、サンタクロースに消して貰わないと…)
 困るんだけれど、と思うけれども、バースデーケーキも御馳走も、パーティーも誕生日と一緒に消えてしまうというから、どうしたものか。
(ケーキとかは残したままで誕生日だけ…)
 消せないかな、と考えてみても、誕生日だからバースデーケーキや御馳走、パーティーなんかがセットになってついてくるもの。
 その誕生日を消さなかったら、十四歳になってしまって、サンタクロースは…。



 サンタクロースと誕生日と御馳走、バースデーケーキを秤にかけて悩んでいたら。どうするのがいいか、小さな頭を悩ませていたら、「計算を間違えているよ」と声がした。
「ぶるぅ、十四から九を引くのはいいんだけれど…。その計算は合ってるけれどね」
 今度のクリスマスで九歳なんだし、引くのは九じゃないんだよ。そこは八だね。
 サンタクロースがくれる贈り物、残り五回というのは間違いだけど?
 九歳の今年も入れて六回、とブルーは指を順番に折った。「九歳の年と、十歳と…」と。確かにブルーと数え直したら、残りは六回あるらしい。だったら、今年の誕生日は…。
(オマケなんだし、消さなくてもいいかな?)
 五回なんだと思っていたから、オマケの一回、と前向きになった「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
 サンタクロースが来なくなるのは困るけれども、誕生日だって欲しいから。バースデーケーキも御馳走も。パーティーだって、やっぱり欲しいし…。
「誕生日を消して下さい、とお願いするのはやめるかい?」
 ぼくはどっちでもかまわないけどね、とブルーが言うから。
「えとえと…。今年のは消さなくってもいいけど、来年からのは…」
 消して貰わなくちゃ、と答えたのに。
「ふうん…? まあいいけどね、厨房のみんなも楽が出来るから」
 超特大のバースデーケーキも御馳走も作らなくていいし、きっと大喜びだろうけど…。
 でもね、ぶるぅ。シャングリラが人類の世界と違っていたって、サンタクロースは来るんだよ。
 ちゃんと本物の子供がいたら、その子の所へ。
 年が幾つになっていたって、サンタクロースは来てくれる。十四歳を超えていてもね。
「えっ、ホント!?」
 ホントなの、ブルー!?
 でもでも、ぼくの知っている子は、みんな十四歳になったらサンタクロースが来なくって…。
 クリスマスの日に係の人からプレゼントを貰っているんだけれど…。
「それは大人になろうとしている子供だからだよ」
 ぶるぅみたいに悪戯とグルメだけで充分、っていう世界で満足できない子供たち。
 大きくなったら素敵なことがありそうだよね、と思って大人を目指し始めて、サンタクロースを卒業したんだ。みんな、自分でそう決めたんだよ。
 だからね、ぶるぅがサンタクロースに来て欲しい内は、ずっと来てくれるよ、サンタクロース。
 他の子供たちにプレゼントを配るついでもあるから、何年でもね。



 三百年だって来てくれる、と大好きなブルーに教えて貰った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は喜んだ。もう誕生日を消さなくていい、と飛んだり跳ねたり、それは大喜びしたのだけれど。
「…ソルジャー、例のお願いカードですが…」
 ヤツは見事に忘れましたね、とハーレイが呟いたクリスマス・イブの夜。サンタクロースの服に身を包んで、これから「そるじゃぁ・ぶるぅ」の部屋までプレゼントを背負って配達に。
「忘れたままになっちゃったねえ…。喜び過ぎて」
 誕生日を消して欲しいというのがプレゼントになっているわけで…、とブルーは笑う。
 せっかくサンタクロースに頼んだのだし、聞いて貰えるのが一番だよね、と。
「ですが、本当に大丈夫ですか? そんなプレゼントで…」
 怒って暴れないでしょうか、と悪戯小僧を恐れるキャプテンに「これ」とブルーが渡した封筒。
「サンタクロースからの手紙だよ。これを一緒に置いて来ればいい」
 他のプレゼントとセットでね。そうすれば、ぶるぅは暴れるどころか喜ぶから。
「はあ…。では、行ってまいります」
 今年は罠も無さそうですし、と大きな袋に長老たちからのプレゼントを詰めて、ハーレイは夜の通路に出て行った。毎年恒例、キャプテンのサンタクロース便。
 次の日の朝、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「クリスマスだーっ!」と勇んで飛び起きたけれど。



「あれ…?」
 ひい、ふう、みい…、と数えたプレゼントの数。いつもの年より一つ足りない。
(ゼルがケチッたかな?)
 それともハーレイが悪戯の罰に取りやめたかな、とラッピングされた箱を何度も数える内に…。
「あーーーっ!!!」
 プレゼントの注文に失敗したんだ、と思い出したのが例のお願いカード。誕生日は消さなくても大丈夫だから、とブルーに教えて貰って大喜びして、それっきり…。
(書き直しに行くの、忘れちゃってた…)
 それで無いのだ、と気付いたサンタクロースからのプレゼント。サンタクロースは願いを叶えてくれたのだから、それがプレゼント。つまりは消えた誕生日。
(ケーキも、御馳走も、パーティーも…)
 全部自分で消しちゃったんだ、とブワッと涙が溢れた所へ届いた思念。ブルーからの。
『どうしたんだい、ぶるぅ?』
「あのね、誕生日が消えちゃった! お願いカードを書き直すのを忘れたから!」
 サンタクロースが消しちゃったんだよ、ぼくの誕生日、クリスマスプレゼントで消えて…。
 バースデーケーキも御馳走も無しで、プレゼントも無し、と泣き叫んだら。
『おやおや…。だけど、パーティーの用意は出来てるよ? おかしいねえ…。あっ?』
 ぶるぅ、手紙が落ちてないかい? プレゼントの横に。
 サンタクロースからの手紙じゃないかな、開けて読んでごらん。
「手紙…?」
 本当だ、と見落としていた封筒を拾って開けたら、こう書いてあった。サンタクロースから。
「誕生日はね、消せないんだよ、ぶるぅ君。そんな悪戯をしたら、私が神様に叱られるよ」
 でも、プレゼントを配るのが私の仕事だからね。どうしようかと考えて…。
 君が悪戯小僧なことは知っているから、今年はプレゼントをあげないことに決めたんだ。
 悪い子には鞭を置いて行くのが約束だけれど、鞭は無しでね。
 来年は鞭を貰わないよう、ちゃんといい子にするんだよ。…悪戯小僧のぶるぅ君へ。



 サンタクロースより、と終わっていた手紙。すると、今年のプレゼントは…。
『無いみたいだね、ぶるぅ。…残念だけれど、その方が良かったんじゃないのかい?』
 誕生日は消えなかったから、というブルーの思念に「うんっ!」と返して万歳したら。
 「お誕生日だあ!」と躍り上がったら、一斉に届いた仲間たちの思念。
『『『ハッピーバースデー、そるじゃぁ・ぶるぅ!!!』』』
 九歳のお誕生日おめでとう、と幾つもの拍手がシャングリラ中に湧き起こる。それに、いつもの年と同じに、超特大のバースデーケーキも御馳走も用意されているようで…。
『ぶるぅ、ぼくと一緒に公園に行こう。パーティーをしなきゃ』
 パーティーには主役がいないとね、と大好きなブルーに誘われたから。
「良かったぁ…。消えてなかった、ぼくの誕生日…」
 プレゼントは貰えなかったけど、お誕生日は残っていたよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は急いで駆け出した。瞬間移動をするのも忘れて、青の間へ。大好きなブルーとパーティーだよ、と。
 クリスマスプレゼントを貰わなかったことが、今年は最高のクリスマスプレゼント。
 誕生日は消えてしまわなかったから、今年もみんなに祝って貰える誕生日。
 生まれた時からずっと子供で、これからも子供の「そるじゃぁ・ぶるぅ」。来年も、その次も、そのまた次も。三百年でも、ずっと子供で、サンタクロースが来てくれる子供。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」、本日をもって満九歳。
 悪戯は少しもやみそうもなくて、これからもグルメ三昧で好き放題の子供だけれど。
 ハッピーバースデー、「そるじゃぁ・ぶるぅ」。九歳のお誕生日、おめでとう!




          困った誕生日・了

※「そるじゃぁ・ぶるぅ」お誕生日記念創作、お読み下さって感謝です。
 悪戯小僧な彼との出会いは、2007年の11月末。
 葵アルト様のクリスマス企画で出会って、せっせと彼の話を捏造。BBSで。

 その投稿が初創作だった管理人。気付けば8年経っていました、アッと言う間に。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」と出会わなかったら、読み手で終わっただろう人生。
 BBS投稿からシャン学が生まれ、流れ流れて、とうとう此処まで。

 原点になった、悪戯小僧の「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
 年に一回、お誕生日は祝ってあげなきゃ駄目でしょう。
 クリスマス企画の中で満1歳を迎えましたから、今年9歳になるんです。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」、9歳のお誕生日、おめでとう!

※過去のお誕生日創作は、下のバナーからどうぞです。
 お誕生日とは無関係ですけど、ブルー生存EDなんかもあるようです(笑)
  ←悪戯っ子な「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお話v








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 朝御飯のテーブルに目玉焼き。
 でなければオムレツとかスクランブルエッグ。
 朝食には欠かせない卵。ぼくはトーストやホットケーキだけでお腹いっぱいになってしまって、食べ切れない時もあるけれど…。パパに「食べてよ」ってお皿ごと渡すことも多いんだけれど。
 それでも朝御飯の席の卵料理は当たり前のように毎朝あるもので、無い時の方が珍しい。
 好き嫌いが全く無いぼくだから、お腹が一杯にならない限りは目玉焼きも半熟玉子も、もちろん他の卵料理も出されたものは綺麗に食べる。
 ハーレイと再会してからは、前よりも頑張って食べるようになった。だって卵は栄養たっぷり。早く大きくなれますように、と背丈を伸ばすためのミルクと同じで祈りをこめて食べてるのに…。
(…全然、大きくなれないんだよね)
 一向に伸びる気配も見せない、百五十センチのままのぼくの身長。
 ハーレイと会った春とおんなじ、一ミリさえも伸びてはいない。とっくに秋になってるのに…。
 草木がすくすくと育つ若葉の季節も、太陽の光が溢れてた夏も、ぼくの背丈には関係無かった。これから冬へと向かってゆくのに、ぼくの背丈はどうなるんだろう?
 ただでも冬場はあまり背丈が伸びないと聞くし、ぼくの経験上も、そう。よく伸びる季節は春と夏。劇的に伸びた経験は無いけど、その時期が一番伸びる時期。
(……もう駄目かも……)
 今年は伸びてくれないのかも、と悲しくなるけど、諦めない。
 背が伸びないとハーレイとキスも出来ないから。
 前のぼくと同じ背丈の百七十センチにならない限りは、ハーレイとキスが出来ないから…。



 一所懸命に努力してるのに、食べた効果が背丈に反映されない小さなぼく。
 学校から帰って、クローゼットに付けた印を見上げて溜息をついた。床から百七十センチの所に鉛筆で微かに引いた線。前の生でのぼくの背丈を示す線。
 ドキドキしながら線を引いた頃は、そこまでの距離は日が経つにつれて短くなってゆくものだと信じていた。毎日は無理でも毎月ごとに少しずつ差が縮まるんだと思っていた。
(…まさか一ミリも伸びないだなんて…)
 どうしてこうなっちゃったんだろう。
 頑張って食べて、ミルクも飲んで、神様にお祈りもしてるのに。
 早く大きくなれますように、ってお祈りするのを忘れた日なんか一度も無いのに伸びない背丈。
(…ハーレイは今のぼくも好きだって言ってくれるけど…)
 大好きなハーレイは、小さなぼくが「可愛い」とお気に入りだけど。
 「急がないでゆっくり大きくなれよ」とも言ってくれるけど、ハーレイにはきっと分からない。ぼくがどんなに悲しんでいるか、背が伸びないことが悲しくてたまらないのか分からない。
 ハーレイはとっくに立派な大人で、いつだって余裕たっぷりだから。
 大きな身体に見合った心はとても広くて、ぼくがどんなに八つ当たりしても「うんうん、お前の気持ちは分かった」って苦笑しながら受け止めてくれる。
 大人で心も広いハーレイ。ぼくと違って、余裕がいっぱい。
 ぼくの背丈が伸びないくらいはハーレイにとっては些細なことで、いつも言ってる「俺は何十年だって待てるさ」っていうのも多分、本当。ぼくの背が伸びてキスが出来るようになって、本物の恋人同士になれる時まで何十年だってハーレイは待てる。
 でも、ぼくの方はそうはいかない。
 ハーレイと違って大人の余裕も広い心も、小さなぼくは持っていないから。
(…持ってるつもりでいたんだけどな…)
 前のぼくの三百年以上もの記憶があるから、大人なんだと何度も思った。ハーレイにだってそう主張した。だけど流石に何ヵ月も経てば自分でも分かる。ぼくはやっぱり子供なんだと。
(早く大きくなりたいのに…)
 背丈も、子供になってしまったらしい心も。
 そのためには食べて背丈を伸ばすしかなくて、近道なんかはありそうにない。毎日のミルクと、食事をしっかり。それしか無いって分かってるけど…。



 悩んでいたって仕方ないから、宿題を済ませて気晴らしに本を読むことにした。その内に薄暗くなってきて、じきに真っ暗。パパが仕事から帰って来る夜。ガレージにパパの車が入って、ママが呼ぶ声が聞こえて来た。「ブルー、御飯よ!」って。
 階段を下りてダイニングに行ったら、夕食は卵を沢山使った具だくさんのオムレツがメイン。
 ママがお皿に取り分けてくれた分を全部食べようと頑張ったけれど、ジャガイモやソーセージがいっぱい入ったオムレツはとても食べ切れなくて。
「なんだ、ブルー。また残すのか?」
 パパに訊かれたから「うん…」と答えたら、「寄越せ」と自分のお皿に移し替えるパパ。ぼくが残したオムレツをペロリと平らげて、ママにおかわりまで頼んでる。凄い、と感心するしかない。パパの背がハーレイとあまり変わらないのも当然だよね、と思ってしまう。
 ぼくもパパみたいに食べることが出来たら、背だってきっと伸びるのに…。
 羨ましそうに眺めるぼくに、パパは「お前はもっと食べないとな」とウインクした。
「でないと大きくなれない上に、料理だってもったいないぞ。パパが食べるから残りはしないが、そうでなければ食べ残しはゴミになるだろう?」
「…うん……」
 パパのお決まりの台詞だけれども、何かが心に引っ掛かった。
 心の何処かに、クイッと何かが。



(…何だったのかな?)
 引っ掛かったものは何だったろう、と食事の後で部屋に帰って考えていて。
(あっ…!)
 パパが言ってた「もったいない」だと気が付いた。
 今日の夕食の具だくさんのオムレツ。ぼくが残してしまった卵を沢山使ったオムレツ。なんとも思っていなかった上に、卵は朝御飯のテーブルの定番だから特に気にしていなかったけれど。
(シャングリラでは卵が貴重品だった時代があったんだっけ…)
 パパの「もったいない」という言葉と、具だくさんのオムレツが運んで来た記憶。
 遠い遠い昔に、ぼくが暮らしていたシャングリラ。
 ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 虐げられていたミュウたちを乗せた、あの頃のぼくの世界の全て…。



 この間、風邪を引いてしまったぼくにハーレイが野菜スープを作ってくれた。
 いつもの「野菜スープのシャングリラ風」は何種類もの野菜を細かく刻んで基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープだけれども、それにとろみをつけて卵を落とした特別なスープ。
 ハーレイ曰く、野菜スープのシャングリラ風の風邪引きスペシャル。
 とろみのあるスープに細い糸みたいな溶き卵。
 卵が贅沢に丸々一個。
 今のぼくたちにとっては卵はごくごく普通の食材、贅沢なんかじゃないんだけれど。
 ぼくたちがシャングリラで暮らしていた頃、ハーレイが初めて卵入りのスープを作った時代には卵は貴重な食材だった。
 そう、卵の入った野菜スープはぼくだけのための特別なメニュー。
 ソルジャーだったから貰えた卵。
 ただ一人きりの戦えるミュウだったから貰えた卵。
 貴重品の卵を野菜スープに丸々一個…。



 前のぼくが卵入りの野菜スープをハーレイに初めて作って貰った頃。
 シャングリラでは栄養価の高い卵は貴重品で大切、一人で一個なんかは食べられなかった。目玉焼きでもオムレツでも一人分に卵が半個あったら上等な方。
 身体の大きいハーレイなんかは卵一個の半分なんかじゃ全然足りなかっただろう。他にも食べるものはあったから、お腹が空くわけじゃないんだけれど…。
 卵が一人に一個の半分。
 地獄としか呼べないアルタミラの研究所に居た時ですら、餌の卵は一人に一個あったのに。
 そのアルタミラを脱出した直後は卵があった。脱出に使ったシャングリラの前身だった船の中に保存食の卵が積み込まれていた。
 いわゆる卵って言うんじゃなくって、フリーズドライ?
 とにかく保存食用の乾燥卵で、殻なんか無くて。お湯で戻して料理をしていた。それなりに卵の味がしたから、そこそこ使える食品だった。
 だけど保存食の卵を使い切った後は、卵は一気に貴重品になった。
 鶏さえいれば卵はいくらでも産み落とされるから、何処の惑星でも簡単に自給自足が出来るし、新鮮な卵が手に入る。他の惑星から輸入しなくても済む、食料品の中の優等生。
 そんな卵を大量に乗せた輸送船なんかが宇宙を飛んでいるわけがない。
 ぼくがせっせと奪い取っていた食料の中に卵を積み込んだコンテナや箱などは無くて、保存食の卵も保管場所が違うから滅多に奪って来られない。
 まさか卵が食べられなくなるなんて、誰も思っていなかった。
 アルタミラの研究所に居た時代でさえ、餌に卵があったのだから。



 食べたくても食べられない卵。貴重品になってしまった卵。
 そんな中、ぼくが食料を奪いに出た時、どういうわけだか大量の卵を手に入れたことがあって。
 誰もが大喜びで卵を食べた。保存用の卵は作れなかったから、せっせと食べた。
 もう食べ飽きたと笑い合いつつ、それでも卵料理のバリエーションがいくらでもあった。食料の在庫を管理していたハーレイがメニューの選定を頑張り、厨房にだって立っていた。
 だけど卵はいつか無くなる。
 奪って来たって、じきに無くなる。
 どうしても卵が欲しいなら…。栄養価が高くて調理法も多い卵を手に入れたいなら、鶏を育てて産ませるしかない。
 けれど、鶏をどうやって育てればいいのか。
 鶏を飼うためのスペースが要るし、餌だって要る。環境も整えてやらないと…。



 出来はしないと皆が思った。卵なんかは無理だと思った。
 でも、問題は鶏だけじゃなかった。
 食料も物資も今は人類から奪っているけど、それが出来るのはぼく一人だけ。奪いに行くための船だって無い。
 シャングリラと名付けた船の格納庫には救命艇とシャトルだけしか無かった。武装している船が無ければ、奪った後に逃げることさえ出来ない。
 つまりは、ぼくが倒れてしまえば食料も物資も補給不可能。
 そういう面でも非常に弱いし、人類から奪った物でしか生きられないなら、そんな種族に未来は無い。シャングリラなんていう御大層な名前の船に住んでいたって、名前だけ。正真正銘の楽園に住みたかったら、シャングリラを本物の楽園に造り替えてゆくしかない。
 奪う生活から、自給自足の生活へ。
 人類が持っている物資に頼らず、ぼくたちだけの力で生きてゆける世界を創り出すこと。それが出来て初めてミュウは一つの種族になれる。
 ただの理想だ、と言う者は一人もいなかった。
 きっと誰もが心の底ではとうに分かっていたのだろう。自分たちの足で立たねばならぬと、今のままでは駄目なのだと。



 そうして正式にキャプテンが選ばれ、ぼくはソルジャーと呼ばれる立場になった。
 ハーレイの指揮の下、衣食住の全てを自分たちで賄える船を目指して改造が始まる。住む場所は元からの船室があったけれども、それも将来、人数が増えることを見越して改装を。
 服も一から作り出せるように、設備などを整えてゆかねばならない。
 そして何よりも肝心の食料。スペースの限られた船内に農場を設け、まずは簡単に栽培が出来て収穫量の多い野菜を植えた。上手くいったら別の野菜を、それが採れたらまた別のものを。



 野菜の収穫のサイクルが出来て、シャングリラの中だけでパンが焼けるようになった頃。
 船の改造もずいぶん進んで、皆に余裕が出来てきた。
 自分たち以外の生き物が船に乗っていたって、気に障らないだけの心の余裕が出来た。そういう余裕が無い環境では船で家畜はとても飼えない。
 そろそろ良かろう、とハーレイやゼルたちと話し合いをして、ぼくは鶏を奪いに出掛けた。鶏を飼っていそうな大型の船を探して、つがいで五組。全部で十羽。
 ようやっと手に入れた十羽の鶏。つがいが五組。
 卵を産んだ時には食べたかったけれど、みんながグッと我慢した。
 鶏を育てて増やさないことには、卵は無くなってしまうから。雛を育てないといけないから。
 卵が孵って雛が育って、一人前のシャングリラ生まれの鶏のつがいが何組も出来た。
 近親交配にならないように気を付けて、頑張って世話をして。
 シャングリラで育った鶏たちが卵を産むようになった。ついに食べてもいい卵が出来た。
 それでも次の世代を育てなくては、と全部を食べたりはしなかった。



 一週間に一個くらいなら、二個くらいなら…、と少しずつ増えていった食べるための卵。
 皆で分けたら一人に一個は行き渡らなくて、二人で目玉焼きが一つだったり、オムレツが二人で一個だったり。
 そんな貴重な卵の中からハーレイが一個貰って来てくれた。
 寝込んでしまったぼくに飲ませる野菜スープに入れるためにと、丸々一個。
 二人で一個の卵だった時代に、贅沢に丸々一個の卵…。
(…あのスープ、とっても美味しかったっけ…)
 野菜を煮込んだだけの素朴なスープも好きだったけれど、とろみをつけて溶き卵を入れてあったスープも大好きだった。とても力がつきそうな気がした。
 今では「風邪引きスペシャル」という名前になってしまった卵入りのスープ。
 ハーレイが作ってくれる「野菜スープのシャングリラ風」よりも豪華な卵入りのスープ。
 あの頃にはとても贅沢だった、卵を丸ごと一個も入れて作った野菜のスープ…。
(…そういえば…)
 ぼくのためにと貴重品の卵を一個貰ってくれたハーレイ。
 そのハーレイはいつ、一個の卵を食べたんだろう?
 シャングリラ産の卵をハーレイが一人で丸ごと一個、口にしたのはいつなんだろう…?
(…いつだったのかな?)
 ぼくの記憶には全く無い。
 ハーレイは身体が大きいんだから、早い時期だとは思うけれども…。



 初めの間は贅沢品だったシャングリラ産の鶏の卵。
 ぼくが丸ごと一個を野菜スープに入れて貰っていた頃、他のみんなは二人で一個。もっと少ない日もあったろう。
 シャングリラ産の鶏の卵を一番最初に丸ごと一個食べられた幸運な人間は、前のぼく。
 そのぼくに卵を貰ってくれたハーレイは、いつ一個の卵を食べられたのかが気になったから。
 次にハーレイが来てくれた時に訊こうと思ってメモを貼っておいた。
 ハーレイとお茶を飲むテーブルの上にペタリと「卵」と書いたメモ用紙。
 卵の文字は卵型の枠線でぐるっと囲んだ。
 こうしておけば忘れないだろうし、ハーレイだって気付くだろうし…。



 メモを貼った次の日、仕事帰りのハーレイが車で訪ねて来てくれた。夕食が出来るまでの時間をぼくの部屋で過ごすから、ママが部屋まで案内して来て、テーブルにお茶を置こうとして。
「あらっ、卵? なあに、このメモ」
「うん、ハーレイに訊こうと思って。シャングリラに居た頃の卵の話」
「ああ、シャングリラね」
 きっと楽しいお話なのね、とママは紅茶とクッキーを置くと「ごゆっくりどうぞ」とハーレイに軽く頭を下げて出て行った。
 ママもパパも、ぼくたちの前の生の話に基本的には立ち入らない。ぼくやハーレイが夕食の席で話す時には興味津々で聞いているけれど、それ以外の時は自分たちから話題にはしない。
 ぼくとハーレイへの気遣いなんだと思うけれども、ちょっぴり申し訳ない気分。
 だって、ママたちがキャプテン・ハーレイだと信じているハーレイは、本当はキャプテンである前にぼくの恋人。ソルジャー・ブルーだった頃のぼくの恋人。
 おまけに今も恋人同士で、本物の恋人同士じゃないだけ。キスさえ出来ない関係なだけ。
 ごめんね、ママ。
 ぼく、ママとパパに内緒で恋人と会っているんだよ。
 卵の話も、ハーレイがぼくの恋人でなかったなら、メモを貼るほどの話じゃないかも…。



 ぼくの頭は卵からズレた方向へ行ってたみたいで、ハーレイに「おい」と声を掛けられた。
「なんだ、このメモは? 卵って、なんだ」
「えーっと…」
 咄嗟に考えが纏まらなくって、「んーと、えーっと…」と繰り返してから、やっとのことで。
「ハーレイ、シャングリラで育った鶏の卵、初めて一個食べたのはいつ?」
「卵?」
「うん、卵。ぼくのスープに入れるために一個貰って来てくれたよね?」
 あの頃は、一人一個は食べられない時代だったから…。
 ぼくのために一個貰って来てくれたハーレイが丸ごと一個を食べられたのはいつなのかな、って思ったから…。
「俺か? 俺は最後に決まってるだろう」
「最後?」
 それって、どういう意味だろう?
 キョトンとするぼくに、ハーレイは「最後と言ったら最後だろうが」と返して来た。
「卵の数が少しずつ増えて、みんなが一個ずつ食べられる時代が来てからだ。全員が一個ずつ卵を貰ったのを確認してから、俺の分を貰いに行ったんだ」
 だから最後だ、とハーレイが微笑む。
 俺が一番最後なんだ、と。



 思いもよらなかったハーレイの答え。
 一番身体が大きかったハーレイはもっと早くに貰ったものだと思っていた。
 どうしてそういうことになったのか、本当に分からなかったから。
「なんで? …なんでハーレイが一番最後?」
 尋ねたぼくに、鳶色の瞳が片方パチンと閉じられて。
「キャプテンだったからさ」
 そうでなければ食えたんだろうが…。
 この身体だから、うんと早めに食えたんだろうと思うがな。
 現にみんなも食えと何度も言ってくれたが、キャプテンだしな?
「キャプテンってヤツは船のみんなが快適に過ごせるようにと気を配るもんだ。そのキャプテンが先に食ったら駄目だろう?」
 最後の最後でいいんだ、俺は。
 みんなに卵が行き渡ったのを見届けて初めて、食える立場がキャプテンなんだ。
「そうだったんだ…」
 ぼくの知らなかったハーレイの世界。
 キャプテンとして色々と気を配っていたことは知っているけれど、卵までとは思わなかった。
 メモを貼っておいて良かったと思う。卵の話を訊いて良かったと思う。
 責任感の強いハーレイ。
 前のぼくが好きだったキャプテン・ハーレイ。
 最後まで卵を食べずにいたほど、シャングリラのみんなを大切に考えていたハーレイ…。



 シャングリラ産の鶏の卵。
 贅沢品だった頃の卵を最初に一人で一個食べられたのが前のぼく。ハーレイが最後まで食べずに我慢していたってことは…。
「ねえ、ハーレイ。それじゃ卵を一個丸ごと食べたの、ぼくが最初でハーレイが最後?」
「そうなるな」
「…ふふっ、シャングリラの卵事情の最初と最後はぼくたちなんだね」
 ぼくはなんだか嬉しくなった。
 ハーレイの責任感の強さを物語るエピソードを聞けたことも嬉しいけれども、卵が一人一個ずつ行き渡るまでの時間の最初と最後がぼくとハーレイ。最初がぼくで、最後がハーレイ。
 本当に嬉しくてたまらない。そんな所でもハーレイとぼくがしっかり繋がっていたことが。
 だからハーレイに訊いてみる。一番最後まで待って一個の卵を口にしたと語ったハーレイに。
「ハーレイ、今も卵は好き?」
「好きだな、前に一番最後まで食えなかったせいではないと思うが…」
 卵料理は実に美味い、とハーレイが穏やかに微笑むから。
「今は山ほど食べられるね、卵」
「そうだな、好きな数だけ食い放題だな、それも地球で育った鶏の卵だ」
 うんと美味い卵を食いに行こうか、と鳶色の瞳が煌めいた。
「いつか二人で、俺の車で」
「ホント!?」
「ああ。平飼いの鶏の卵が美味い農場があってな、オムレツやケーキが食べられるんだぞ」
「行きたい!」
 連れて行って、と頼んだら「よし」と褐色の小指が伸びて来た。
「大きくなったら連れてってやろう。しっかり食べて大きくなれよ」
「うんっ!」
 約束だよ、と小指を絡めたぼくに、ハーレイは友達と出掛けたという農場の話をしてくれた。
 なだらかな丘で沢山の鶏を放し飼い。鶏たちは好きに歩いて餌をついばんで、黄身がこんもりと盛り上がった卵を産むという。地球の太陽を浴びて育った鶏の卵。



(…きっとシャングリラの卵の何百倍も何千倍も美味しいんだよ)
 それをハーレイと一緒に、ハーレイの車で食べに行く。
 シャングリラ産の鶏の卵を丸ごと一個食べるのを一番最後まで我慢していたハーレイと。
 そのハーレイが好きなだけ卵料理を食べる姿を見ていたら、きっと幸せな気持ちになれる。
 ぼくたちは二人で地球に来たんだと、美味しい卵を幾つ食べてもいいのだと…。
(…だけど、ぼく…。オムレツとかケーキとか、そんなに沢山食べられるかな?)
 ちょっぴり心配になったけれども、ハーレイがいるから大丈夫。
 食べ切れなかった分はきっとハーレイが綺麗に平らげてくれるから。
 うん、食べたいメニューは全部注文したっていいよね?
 ねえ、ハーレイ…?




         贅沢だった卵・了

※シャングリラでは贅沢品だった時期があった卵。鶏がいないと卵は難しかったのです。
 こういう前世の記憶のお蔭で、地球の卵も美味しく食べられるんですね。うんと贅沢に。
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 暑いという言葉をすっかり聞かなくなった秋。残暑も終わって爽やかな秋晴れの土曜日のこと。ブルーは朝から部屋の掃除を済ませてハーレイが来るのを待っていた。
 天気のいい日はハーレイは徒歩。まだか、まだかと二階の窓から見下ろしていた生垣の向こうの通りに颯爽と歩くハーレイの姿。大きく手を振れば、窓を見上げて振り返してくれる。
(…ふふっ)
 今日もいい日になりそうだ、と母が門扉を開けに出掛けてハーレイを部屋まで案内してくるのを待った。庭のテーブルでお茶もいいけれど、今の季節は午後でも充分、外でお茶に出来る。だから午前中は自分の部屋でいい。ハーレイと向かい合わせで座って、ゆっくりと。



 母がハーレイを連れて来てくれて、テーブルの上にお茶とお菓子と。部屋の扉が外からパタンと閉められ、母の足音が階段を下りて消えたら二人きりの時間。軽い足音がトントンと階段を下りてゆく間、聞き耳を立てるのがブルーの習慣。
 ハーレイと微笑み交わしながら耳を澄ます時も、赤い瞳は恋人をじっと見詰めている。前の生で運命に引き裂かれてしまった記憶があるから、どんな時でもハーレイの姿を見ていたい。
 もっとも、何度もこうして会っている内に、余裕も出来てはきたのだけれど。ハーレイが居ても窓の外の何かに気を取られたり、目の前のお菓子に夢中になったりもするのだけれど。
 それでも二人きりの時間の始まりは見詰めることから。
 今日のハーレイはどんな風だろうか、と表情を眺めたり、服装を見たり。其処でブルーはハタと気付いた。
(あっ……)
 ハーレイが着ているラフなシャツの袖。
 窓から手を振っていた時は全く意識していなかった。学校では普通に見かける格好だから。
 夏休みが終わって学校が再開された時から、ハーレイは長袖のワイシャツだった。半袖の教師も少なくないのに、長袖を着て、ボタンも襟元まできちんと留めて。
 思えば夏休みに入るまでの暑い間もハーレイのワイシャツは長袖だったし、ボタンも全部留めていた。ブルーの家を訪れる時には半袖のシャツを着ていたのだから、学校で着る長袖はハーレイの流儀。教師たるもの、服装も隙の無いように。恐らく、そういう考えなのだろう。
 前の生でもキャプテンの制服を常にカッチリと着込んでいた。長老たちだけの寛いだ席では他の者たちがマントを外すこともよくあったけれど、ハーレイは上着を脱がなかった。その頃の記憶が意識の底に在るのだろうか、とブルーに思わせた夏の間のハーレイの長袖。
 そのワイシャツではないが、長袖のシャツがハーレイの腕を覆っていた。半袖のシャツから外に出ていた褐色の腕が、逞しい腕が見えなくなってしまった…。



 夏休みの間中、半袖姿を見慣れていたハーレイ。
 それが学校が始まった途端、学校では夏休み前と同じ長袖のワイシャツになってしまったから。「暑くないの?」と尋ねてみたら「柔道着に半袖なんかは無いぞ」と涼しげな答えが返った。
 それでもブルーの家を訪ねて来る時は半袖だったから、やはり暑いものは暑いのだろう。そんな暑さでも学校では長袖で通すハーレイを「ハーレイらしい」と思ったものだ。
 キャプテンだった頃と変わっていないと、前のハーレイと同じハーレイなのだ、と。
 そのハーレイがついにプライベートでも長袖になってしまった事実。
 ブルー自身はとうに長袖になっていたけれど、ハーレイの腕が全く見えないことは悲しい。
 すっかり見慣れた、筋肉を纏ったガッシリした腕。細っこいブルーの腕とはまるで太さが異なる腕。ハーレイの動きに合わせて筋が動いて、時には筋肉が盛り上がっていた。
 夏休みの最後の日に二人で写した記念写真。
 庭で一番大きな木の下で、ハーレイの腕に両腕でギュッと抱き付いて撮った。
 あの時の感触をブルーは今でも忘れられない。
 逞しかったハーレイの腕。弾力があるのに、同時に硬くて頼もしさを感じた強い腕。
 写真は大切に机の上に飾ってあったし、写真のハーレイは変わらず半袖。
 なのに目の前のハーレイは違う。あの腕は長袖に隠れてしまって、手しか見えない…。



 母の足音が聞こえなくなった後も、ブルーはハーレイの腕に見入ったまま。
 言葉の一つも口にしないから、ハーレイが不審そうに「どうした?」と訊いた。その声で現実に引き戻されたブルーは、ハーレイの腕を見ながらポツリと呟く。
「…ハーレイの袖…」
「ん?」
 一瞬、意味を掴みかねたハーレイだったが、直ぐに「ああ」と思い当たって。
「長袖のことか。…流石にこういう季節になったら半袖はな」
 ジョギングにでも行くならともかく、とハーレイはブルーに言ったのだけれど。
 ブルーは「うん」と頷く代わりに、違う言葉を紡ぎ出した。
「……腕が見えない」
「そりゃ見えんだろう、長袖だぞ?」
「なんだか寂しい!」
 そう叫ぶなり、ブルーが立ち上がる。テーブルの横をぐるりと回って移動し、ハーレイの椅子の所まで行くと、恋人の膝の上に座って腕を掴んだ。
 まずは右腕。両手でしっかり捕まえておいて、袖をグイグイとまくってゆく。
「お、おい…」
 何をするんだ、と慌てるハーレイを無視してグイグイまくって、肘の辺りまでまくり上げると、次は左の腕を捕えた。そちらの袖も肘までまくって、「よし!」と満足そうな笑顔をみせる。
「この部屋の中は暖かいから、これでいいよ」
 こうしていてよ、とブルーは自分がまくり上げた袖から覗いた腕をポンと叩いた。
(ハーレイの腕が戻って来たよ)
 半袖と違って肘から先しか見えないけれども、ハーレイの腕。
 褐色の肌の下にしっかり筋肉をつけた、鍛え上げられたハーレイの腕。
 それを再び見られることをブルーは喜び、大満足で自分の椅子へと戻った。しかし…。



「お前なあ…」
 変わるもんだな、とハーレイに感慨深げに言われてキョトンとする。
「何が?」
「お前だ、お前」
 ハーレイはブルーと視線を合わせた。鳶色の瞳の奥に宿った悪戯っぽく輝く光。宿した煌めきを隠そうともせずに、笑みまで浮かべてブルーに問う。
「俺が初めて半袖のシャツで此処に来た時、お前は俺に何て言ったんだ?」
「えっ?」
 ブルーは答えを返せなかった。質問の意味は理解できるが、何の記憶も残ってはいない。初めてハーレイが半袖で来た日がいつだったのかも覚えていないし、何があったのかも分からない。
(…えーっと…。夏休みよりも前だったのは確かだけれど…)
 其処から先が思い出せない。その日に何があったのだろう、と懸命に記憶を遡ってみても欠片も出て来ず、「うーん…」と顎に手を当てる小さなブルー。
 本当に覚えていないらしいブルーの姿に、ハーレイはクックッと喉を鳴らして。
「忘れちまったか? 「デリカシーに欠けているってば!」と叫んだぞ、お前」
「あっ…!」
 その言葉を耳にして鮮やかに蘇る記憶。
(そ、そうだったっけ…!)
 前の生では愛し合う時しか見ることが無かったハーレイの腕。褐色の皮膚に覆われた逞しい腕。それを惜しげもなく晒すハーレイの半袖姿に頬が熱くなり、なのに全く気付きもしないで両の手で頬に触れて来た恋人に文句を言わずにはいられなくなって…。
(…八つ当たりしちゃったんだよ、ハーレイに…!)
 ブルーは耳まで真っ赤になった。
 あの日、確かにハーレイに向かって言い放ったのだ。
 さっきハーレイが言ったとおりに、「デリカシーに欠けているってば!」と。



 恥ずかしさのあまり俯くしかないブルーを前にして、ハーレイは余裕の腕組みをした。
「思い出したか? …俺に言わせれば、お前の方がよほどデリカシーに欠けているがな? よくも俺の服を脱がせやがって」
 コレだコレ、とハーレイが袖をまくられた両方の腕を腕組みをしたまま軽く叩いてみせるから。ブルーは真っ赤に染まった顔で、消え入りそうな声で言い返した。
「……脱がせてないよ……」
 ハーレイの服を脱がせた覚えなど無い。
 腕が見たくて両方の袖をまくり上げただけで、断じて服を脱がせてはいない。
 言いがかりだ、と抗議したいけれども、まだ恥ずかしくて滑らかに喋れそうもない。
 もの言いたげにモゴモゴと唇だけを動かすブルーを、ハーレイが楽しそうに観察しながら。
「ふうむ、脱がせてないってか? まあ、脱がせ方としては間違ってるな。こんなやり方では全く脱がせられない」
 俺の脱がせ方、覚えているだろ?
 袖はまくり上げるんじゃなくて肩から抜くんだ。
 前のお前の服の場合は、まずファスナーを下げてだな…。
「…あ、あれは…!」
 もちろんブルーも覚えていた。
 白地に銀の模様があったソルジャーの上着も、黒いアンダーも褐色の手がファスナーを下げて、それから胸と肩とを露わにされて…。
(ダメダメダメ~~~っ!)
 考えただけで恥ずかしすぎる。
 自分はハーレイのシャツの袖をまくり上げただけで、脱がそうなどとは考えていない。
 それなのに服の脱がせ方など、わざわざ話してくれなくたって…!



 茹でダコのようになってしまったブルー。
 元の顔色に戻るまでにはかなりかかって、その間中、ハーレイはずっと笑っていたのだけれど。
 ようやくブルーが落ち着いた頃に、「なあ、ブルー」と優しく微笑みかけた。
「デリカシーに欠けることではあるが、だ。…だが、俺としては嬉しくもある」
 この袖まくり、と肘まで見える左腕を同じ状態の右腕の指先でトントンと叩き。
「お前が俺の腕に馴染んでくれていたことと、見えなくて寂しいと思ってくれたことと…な」
 光栄だな、と笑顔のハーレイ。
 そこまでこの腕を気に入ってくれてとても嬉しいと、鍛え上げておいた甲斐があったと。
「しかしだ。今日みたいな普段着の時ならかまわないんだが、学校帰りにワイシャツで来た日には絶対にやってくれるなよ?」
 皺になったら厄介なんだ。
 ワイシャツは俺の仕事着だからな。
「…ハーレイ、自分でプレスしてるの?」
 ブルーは驚いて目を丸くした。
 今の時代はワイシャツのプレスは全自動。ブルーの父でもそうなのだけれど、専用のハンガーに掛けてセットしておけば襟まで綺麗に仕上がる。洗うのだって機械任せで、よほどこだわりのある人くらいしか自分でプレスしたりはしない。専門のクリーニング店だってあるし…。
 ハーレイはこだわるタイプだったのか、とシャツをまじまじと見詰めていれば。
「いや、俺は放り込むだけなんだが…。後は機械の仕事なんだが、俺はきちんとしたい口でな」
 皺だらけのままで突っ込みたくない。
 目についた皺は出来るだけ伸ばして、それから入れたいタイプなんだ。
「ハーレイ、それって…。キャプテンだった頃と同じだね」
「そうだな、全く変わっていないな。…言われてみれば」
 専用の係がちゃんといたのに、キャプテンの制服を自分でプレスしようとしていたハーレイ。
 何度も泊まりに行っていたから、ブルーも鮮明に覚えている。
(やっぱりハーレイはハーレイなんだ…)
 そういうことなら、ワイシャツの袖をグイグイまくって皺だらけにしてはいけないだろう。
 普段着だったらかまわないとは言われたけれども、それは自分の我儘だから。
 ハーレイが長袖を着る季節になったからには、また慣れるしか…。



 褐色の逞しいハーレイの腕。
 肘から先だけしか見えていなくても、充分に強そうなハーレイの腕。
 それを見られるのは今日でおしまいなのか、とブルーは名残惜しげに眺めながら。
「…そっか…。ハーレイの腕と暫くお別れなんだ……」
「俺は腕まくりでも気にはしないが、半袖の服が見たけりゃ来年の夏まで待ってることだな」
「夏…!?」
 ついこの間、終わったばかりの夏という季節。
 次に半袖の夏が巡ってくるまで、いったい何ヵ月あるというのか。
 愕然としたブルーは「長すぎるよ、それ…!」と嘆きの声を上げたが、ハーレイの方は。
「長いって…。今日のシャツはまだ薄い方だが、今にもっと生地が分厚くなるぞ。…それに上から服だって着る。そうなったら袖はそう簡単にはまくれないな」
 袖をまくっても上着の袖が被さってくるとか、そういう季節がやって来るさ。
 秋の次には冬が来るだろうが。
「そうだよね…。その内に、キャプテンの制服を着てた頃みたいになっちゃうんだね…」
 ブルーは残念でたまらなかった。
 恋人同士として愛し合う夜にしかハーレイの腕を見られなかった頃。
 半袖の服を着たハーレイは何処にも居なくて、キャプテンの制服ばかりだった頃。
 けれど、その頃でも夜になったら見ることが出来た。
 自分を抱き締めてくれる逞しい腕を、褐色の肌に覆われた筋肉が盛り上がるハーレイの腕を…。



(……来年まで見られないなんて……)
 あの腕を来年まで見られないなんて、と肘から先だけを無理やり袖から引っ張り出してしまった褐色の腕をブルーは見詰める。
 もう袖をグイグイとまくることはすまい、と決心したけれど、やっぱり寂しい。
 今日で見納めになるのかと思うと、本当に寂しくてたまらなくなる。
(…ハーレイの腕…)
 もっと見ていたい。
 もっともっと触れて、もっと触って、腕の硬さを確かめてみたい。
 前の生では毎晩のように触れて眺めて、抱き締めて貰った腕だから。
 いつだって自分の直ぐ側にあって、それがどんなに力強いかを身体中が知っていた腕だから…。
 その腕がもう見られなくなる。
 来年の夏まで、また半袖の季節が来るまで見られなくなる…。



 しょんぼりと項垂れるブルーの頭を、ハーレイの手が伸びて来てクシャクシャと撫でた。
「おいおい、そんなに名残りを惜しまなくても、あと数年の辛抱だろうが」
 結婚したら見放題だぞ、俺の腕くらい。
 半袖の季節を待たなくっても、年がら年中、見放題だろうが。
 前と違って夜に限ったことでもないしな、俺たちの仲を隠さなくてもいいからな?
 家に鍵さえかけておけばだ、真昼間だって見ていいんだぞ?
「…真昼間…?」
 ハーレイの言葉をオウム返しに訊き返してから、ブルーの顔はまたしても真っ赤に染まった。
 昼日中からハーレイと二人、恋人同士で愛し合う時間を持つなんて…!
 前の生では全く考えられなかったことだけれども、確かに今なら不可能ではない。
 それは恥ずかしくもあり、また嬉しくもあったのだけれど、それはそれ。
 今よりもずっと未来の話で、今のブルーには夢物語。
 ハーレイとキスさえ交わすことが出来ない、背丈が百五十センチしかないブルーにとっては夢のまた夢。
 だからブルーは悲しくなる。
 ハーレイの腕との別れを思って、寂しくて悲しくてたまらなくなる…。



「どうした、ブルー? 俺と結婚するんだろうが? でもって腕も見放題だぞ」
 な? とハーレイが頭を撫でてくれるから。
 寂しい気持ちを訴えたくて、ブルーは赤い瞳を揺らして見上げる。
「…そうだけど…。そうなんだけど……」
 だけど、それまでは待つしかないもの。
 次の半袖の季節が来るまで、ハーレイの腕は見られないもの…。
「うん? そりゃまあ、そういうことにはなるんだが…。結婚するまではそうなんだが…」
 だが、とハーレイは片目をパチンと瞑ってみせた。
「そうしょげるな。来年の夏くらい、直ぐにやって来るさ」
 うんと幸せに暮らしていればな、アッと言う間に日が経つもんだ。
 楽しい時間は直ぐに過ぎると言うだろう?
 それと同じだ、じきに来年の夏になる。
 お前、充分に幸せだろうが。前のお前の時と違って、幸せ一杯の毎日だろうが?
 違うのか、ブルー…?



 ハーレイに穏やかに諭されたけれど、ブルーにはピンと来なかった。
 毎日が幸せで溢れた今。
 前の生とはまるで違って、幸せだけで出来ているような暖かく、そしてまろやかな時間。
 それはブルーをふうわりと包み、ゆっくりとゆったりと流れてゆく。
 今日の続きにはまた明日があって、明日が来ることが当たり前の平和な世界。
 シャングリラの中だけが世界の全てだった頃と違って、明日が来ないことを恐れることなど全く必要ない世界。
 そんな世界に生まれて来たから、充分すぎるほどに豊かな時間はとても長くて、果ての見えない大河のよう。二十四時間の一日でさえも、前の生での一ヶ月とも一年だとも感じるくらいに。
 三百年以上もの長い時を生きた前の自分が刻んだ時より、十四歳の自分の方が長く生きたと思うくらいに…。
 だからブルーは首を傾げる。
「そうなのかな? ぼくにはうんと長かったけど…」
 ハーレイに会ってから今日までの長さ。
 うんと幸せだったけれども、全然、短くないんだけれど…。
 幸せすぎると時間って長く感じるものだよ。
 前のぼくが生きてた間の幸せな時間を全部合わせても、ハーレイと会ってからの分の半分くらいしか無かったような気がするよ…。



「ふうむ…。幸せすぎると時間が長いか」
 ハーレイは「うむ」と頷くと、ブルーの大好きな笑顔になった。
「なら、幸せをうんと楽しんでおけ。毎日が長いのはいいことだ、うん」
 前のお前の分まで楽しめ。
 三百年以上も生きたお前が幸せだった分の倍以上をもう味わったのなら、何十倍も何百倍も。
 そうやって幸せに生きていたなら、人生、うんと値打ちが出るしな。
 だから幸せな時間を楽しんで生きろ。
「俺の腕なんかにこだわらずに……な」
 そう囁かれて、ブルーは即座に「やだ!」と叫んだ。
「ハーレイの腕だって幸せの内だよ、見られたのも幸せの内なんだってば!」
 大好きな腕だもの、こだわりたいよ。
 好きなだけ見られた今日までの時間も幸せだったし、来年の半袖も楽しみなんだよ!
 絶対こだわる、とブルーが小さな拳を握ると、ハーレイが「うーむ…」と難しい顔で。
「お前、とことん変わったなあ…。確かに言われた筈なんだが?」
 デリカシーに欠けている、と、お前の声で。
 夏の初めの話だったと記憶しているが、記憶違いか?
「その話は無し! もう時効!」
 時効なんだから、とブルーは懸命に主張する。長い時間が流れ去ったから、もう時効だと。
「お前にとっては長かったのかもしれないが…。生憎と年寄りは時間が経つのが早くてな」
 二十四歳も年上の俺にとっては一瞬だったし、時効どころか昨日ぐらいの感覚だな。
「酷い!」
 ハーレイ、酷い、とブルーは声を張り上げたけれど、時効は成立しなかった。
 十四歳の小さなブルーの倍以上もの年を重ねた恋人は可笑しそうに笑い続けるだけ。
 デリカシーに欠けると怒っていたブルーも変わったものだと、人間、変われば変わるものだと。



「うー…」
 膨れっ面になってしまったブルー。
 それでもハーレイの逞しい腕を、ブルーがまくり上げた袖から覗いた褐色の腕を見ないで過ごすことは出来ない。今日で見納め、来年の夏まで見られない腕。
(…ハーレイ、意地悪なんだから…!)
 まだ笑っている恋人を睨むと、「おっ、もうおしまいにしていいのか?」と折角まくっておいた袖を元に戻そうとするふりをするから、そうそう睨むわけにもいかない。
 睨みたいけれど、睨めない。
 それに笑われても、時効ではないと笑いの種にされても、褐色の肌をしたハーレイが好きだ。
 ハーレイも、ハーレイの褐色の腕も、何もかもが好きでたまらない。
 だから笑われても、苛められても、ハーレイをじっと見ていたい。
 今日で見納めになる逞しい腕はもちろん、笑い続ける意地悪な恋人のハーレイの顔も。
 そしてまた、ハーレイに笑われる。
 デリカシーに欠けると叫んだブルーも、本当に変われば変わるものだと……。




        秋に着る物・了

※ハーレイの服の袖をせっせとまくったブルー。腕が見たくて頑張る所が可愛いですよね。
 なのにハーレイには笑われる所が可哀相と言うか…。いじらしいと思うんですけれど。
 「デリカシーに欠ける」と叫ぶお話は、第26弾の『夏に着る物』です。
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 土曜日の朝、普段通りの朝食の席。父と母と、そしてブルーと。休日だからゆったりと。
 父のマグカップは大きめのもので、母はソーサー無しのティーカップを深くしたようなタイプのカップ。ブルーは一度に沢山飲めないから小さなマグカップ。
 それぞれに決まったカップと、その日によって変わる飲み物とがあるのだけれど。紅茶だったりコーヒーだったり、ミルクだったり。
(そうだ、カップ…)
 何気なく見ていたブルーは、ふと思い出した。ハーレイの家で目にしたマグカップ。
 たった二回しか見ていないけれど、父のカップと同じくらいの大きめサイズのマグカップ。
 一度だけ遊びに出掛けた時にはティータイムと昼食の席で、メギドの悪夢を見て瞬間移動をして飛び込んでしまった時には朝食の席で。
 二回とも同じマグカップだったから、あれがハーレイのお気に入り。
 ハーレイのためのマグカップ。ハーレイの大きな褐色の手によく似合っていたマグカップ。



(…ハーレイの好きそうなカップは分かるんだけどな…)
 それにハーレイは週末の度に訪ねて来てくれるし、仕事の後に訪ねてくれる平日もある。夕食を一緒に食べることは珍しくもなく、ブルーが寝込んでしまった時には両親と食卓を囲んだり。
 家族の一員と言っていいほどのハーレイなのに、ブルーの家にはハーレイ専用のカップは無い。専用のカップは三人分だけで、両親の分とブルーの分。
(やっぱり家族じゃないからだよね?)
 どんなに親しく付き合っていても、ハーレイはブルーの家族ではない。家だってハーレイの家は何ブロックも離れた所に在るし、其処で一人で暮らしている。自分専用のカップと共に。
(…ハーレイのカップ…)
 今は家には無いハーレイのカップ。
 けれどブルーは思い出した。前にハーレイと約束をした。
 いつか結婚して二人で暮らす時が来たなら、お揃いのカップを家に置こうと。互いに相手が家に居なくても、「この家で一緒に暮らしています」と分かる目印になるように。
 家で留守番をしている間に、寂しさを覚えないように。
 二つ揃っているのが当たり前のカップ。文字通りのお揃いのデザインでなくても、二つで一対になるカップ。二人でお茶を飲んだりする時、一緒に出て来る二つのカップ。
 どんなカップがハーレイと二人で囲む食卓やお茶のテーブルに並ぶのだろう?



(もしかしたら、ぼくのカップが追加になるとか?)
 ハーレイの家で暮らすことになったら、元から家にあるハーレイのカップを買い直す必要はないかもしれない。愛用のカップはもうあるのだから、ブルーの分だけを買い足せばいい。
 それともハーレイがブルーの家で一緒に暮らして、ハーレイのために新しくカップを買うか。
(ぼくのカップをハーレイの家に持って行くっていうのもいいよね)
 今、使っている小さなマグカップ。
 それまでに割れて代替わりしてしまっていなければ、だけれど。
 ハーレイが愛用しているカップも、割れていなければ新しく買わなくていいかもしれない。
 どちらの家で暮らすにしたって、絶対に揃えたい二人分のカップ。二つで一対になるカップ。
 それなのに今は、それぞれの家に、それぞれのカップ。
 二つ並べて置きたいけれども、まだ別々に置いておくしかないカップ。
(…ぼくのカップも、ハーレイのカップも、ちゃんとあるのに…)
 そんなことをつらつらと考えながら朝食を食べる。
 今日はトースト、こんがりとキツネ色に焼けたパンにマーマレードをたっぷりと塗って。両親もお気に入りのマーマレードは少しビターで、夏ミカンの実から作られたもの。
 隣町にあるハーレイの実家の庭に大きな夏ミカンの木。その実からマーマレードが沢山出来る。大きな瓶が空になったらハーレイが新しい瓶を持って来てくれる、ハーレイの母の手作りの味。
 将来、ハーレイが伴侶に迎えるブルーのために、とハーレイの両親が贈ってくれたのが最初。
 それ以来、朝の食卓の定番になって、ブルーのお気に入りの味。お日様の光を集めて閉じ込めたような金色を食べると、すくすくと背丈が伸びそうな気もした。
(早く大きくなれますように…)
 カップは結婚するまで並べられなくても、せめてキスくらいは出来る背丈になりますように、とブルーは祈る。前の自分と同じ背丈になったら、ハーレイとキスが出来るから。



 そうやってトーストを食べながら祈る間に、お揃いのカップのことはすっかり忘れてしまって。
 部屋を掃除してハーレイを待って、庭の生垣の向こうに見えたハーレイに窓から手を振る。母がハーレイを部屋まで案内して来たら、二人きりで過ごせる時間の始まり。
 お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで、様々なことを話して、笑って。
 今の生でのこと、前の生のこと。
 シャングリラの中だけが世界の全てだった頃には想像もつかなかった幸せな時間。
 どれだけ話をしても飽きない。他愛ないお喋りも、懐かしく思い出す昔語りも。
 ブルーの部屋で二人で昼食を食べて、食後のお茶に、午後のお茶。
 両親も一緒の夕食の後は、二階のブルーの部屋に戻って食後のお茶を。ハーレイが仕事の帰りに来てくれた時は食後のお茶は夕食と同じテーブルに出てくるけれども、翌日も休みの土曜の夜にはブルーの部屋で、ということも多い。
 向かい合わせでゆっくりと話して、ハーレイが帰る時間になったから。
 ブルーは一緒に階段を下りて、「またね」とハーレイを表まで出て見送った。本当はハーレイの姿が見えなくなるまで通りで手を振っていたいのだけれど、いつも「入れ」と言われてしまう。
 仕方なく門扉を閉めて入って、生垣越しに庭から手を振る。ハーレイの後ろ姿が見えている間は一所懸命、庭の端まで行って手を振る。
 ハーレイは何度も振り返ってくれて、手を振って。最後に大きく手を振って道の向こうへと姿を消した。足音ももう聞こえないけれど、ハーレイが車で来た日には持てない別れのひと時。寂しいけれども、何処か心が温かくなる見送りの時間。
 また次があると、また来てくれると手を振り続ける幸福な時間。
 明日があるかさえも定かでなかったシャングリラでは考えもしなかった幸せな時間。
 今日は土曜日だし、次は直ぐそこ。明日にはハーレイがまた来てくれる…。



 それから二階の部屋に戻って、お茶のカップを下げようとして。
 ブルーの手がトレイを持ったままで止まった。
(…ハーレイのカップ…)
 ほんの少しだけ、底に紅茶の跡が微かに残ったカップ。
 ハーレイの席に置かれたカップ。
 其処にハーレイはもういないけれど、いつもハーレイが座る側の椅子の直ぐ前、テーブルの上に残された紅茶のカップとソーサー。カップの横には砂糖を混ぜていたティースプーン。
 ブルーの席にあるものと形も模様も同じだけれども、ハーレイが使っていたカップ。
(今日はこれがハーレイのカップなんだ…)
 ハーレイ専用のカップではないが、ハーレイのために出されたカップ。つまりは今日のハーレイ専用、ハーレイが食後のお茶を飲むのに使ったカップ。
 ついさっきまでハーレイのものだったカップ。



(ハーレイのカップだったんだよね…)
 トレイを脇に置き、おずおずと右手を伸ばしてカップの取っ手に触れてみた。
 ハーレイの褐色の指が触れていた取っ手。大きな手の温もりを残しているような気がする。
(…そっか、右の手…)
 遠い昔にハーレイの温もりを失くした右の手。
 メギドで冷たく凍えてしまって、悲しくて泣きながら死んでいくしかなかった右の手。
 今でもハーレイがよく温めてくれる右手にほんのり、ハーレイの温もり。
 本当はあるわけが無いのだけれど。
 すっかり空になってしまった磁器のカップの取っ手が温かいわけがないのだけれど。
(…でも、温かい気がするんだよ…)
 そうっと右手で取っ手を摘んで持ち上げてみて、眺めてみて。
(…ハーレイ、これで飲んでたんだよね?)
 母のお気に入りのカップの一つ。
 模様や形が同じカップとお皿を何客か揃えたセットが幾つか、その中の一つ。どの時間にどれを使うかは厳密に決まっているわけではなく、このカップだって午前のお茶に出る時もあれば、今日みたいに一日の終わりに出ることもある。
 白地にグリーンの模様のカップ。
 ハーレイが紅茶を飲んでいたカップ。



(…………)
 あの温かいハーレイの唇が触れたのはこの辺りだろうか?
 今はまだ頬と額にしか貰えないキス。
 優しい唇が紅茶を飲むために触れていたカップ。
(……この辺りだよね、きっと……)
 右手で摘んだ取っ手の位置から、おおよその場所の見当がついた。
 唇で触れてみたかったけれど、そう考えただけで頬が熱くなる。
 ハーレイの唇。
 まだ触れられない、額と頬にしかキスしてくれない唇が触れたハーレイのカップ。
 見れば見るほど、触れたくてたまらなくなるのだけれど。
(…いきなり唇って恥ずかしいよね…)
 まるでハーレイにキスをするようで。
 自分からハーレイにキスをするようで、それはちょっぴり恥ずかしい。
 同じキスならハーレイから先にして欲しい。自分からキスをするなら、その後。
(うん、ハーレイからキスして欲しいよ)
 だったら、カップを間に挟んでのキスもハーレイが先。
 この辺りかな、とハーレイの唇が触れていそうな辺りを指で触って、その指を自分の唇に持っていこうとして。
(………)
 躊躇っていたら、階下から母に呼ばれた。「お片付けはまだ?」と。
「はーい、持ってく!」
 何をしていたかを見抜かれたようで、恥ずかしくて。
 大慌てで二人分のカップをトレイに乗せると急いで階段を下りていったから、指からハーレイの唇の名残りは消えてしまった。
 恐る恐る右手の指先で触れて、唇に持っていこうとしていた磁器のカップの縁の感触。



 母にトレイごとカップを渡して、お風呂に入ってパジャマに着替えて。
 部屋でベッドの縁に腰掛け、ブルーはしょんぼりと項垂れた。
(……失くしちゃったよ……)
 ハーレイの温もりじゃないけれど、とハーレイの唇の名残りを失くした右手を眺める。
 メギドでハーレイの温もりを失くしてしまった時の悲しみとは比較にならないけれども、失ったことに変わりはない。ハーレイの唇が触れたカップの感触。
(あの時、ママに呼ばれなかったら唇まで持っていけたのに…)
 ハーレイの唇が触った名残りを指先で唇に運べたのに。
 こんな結末になるのだったら、指じゃなくて唇で触っておけばよかった。
(…恥ずかしいけど、でも、やっぱり…)
 ハーレイの唇が触れていたカップ。
 温かな唇が何度も触って、紅茶を飲んでいたティーカップ。
 唇の名残りが欲しかった。
 今はまだ唇には貰えないキス。その代わりに唇の名残りに触れればよかった。
 恥ずかしいなどと躊躇っていないで、唇でカップに触ればよかった…。



 触り損ねてしまったカップ。
 指ではなんとか触ったけれども、ハーレイの唇の名残りはすっかり失くしてしまった。
 自分の唇までそれを運ぶ前に、母に呼ばれて失くしてしまった。
 メギドで失くしたハーレイの温もりに比べれば些細なものでも、今のブルーには充分大きい。
 ハーレイから唇へのキスを貰いたいのに、いつ貰えるかもまるで見当がつかないのだから。
 それを思えば、あのカップ。
 取っ手と縁とに触れてみただけの、白地にグリーンの模様のカップ。
(…いいな、あのカップ…)
 ハーレイに何度もキスして貰えた幸せなカップ。
 まだ唇には触れて貰えない自分の目の前で、何度も何度もハーレイの唇が触れていたカップ。
 もちろんカップは紅茶を人の唇へと運ぶためのもので、カップはそのためにあるのだけれど…。
 頭では分かっているのだけれども、それでもカップが羨ましい。
 ハーレイのキスを貰って当然、唇で触れて貰って当然といった顔をしていたカップが。
(カップに表情も何もないんだけれど…)
 そうは思っても、すまし顔だったような気がするカップ。
 これが自分の役目とばかりに、ハーレイのキスを幾つも貰った白地にグリーンの模様のカップ。
 ブルーは唇へのキスを貰えないのに、ハーレイの唇に触れるのが仕事。
 カップに残った唇の名残りすら、ブルーは失くしてしまったのに。



(…ぼくには何にも残らなかったし、カップもママに洗われちゃった…)
 ハーレイの唇が何度も触れたカップは洗われてしまって多分、棚の中。
 白地にグリーンの模様のカップは何客もあるから、どれがそれだか分かりもしない。ハーレイが使ったカップがどれなのか、どれがブルーの分だったのかも。
(…そうなってくると…)
 ブルーは「ちょっと待って」と考えてみる。
 棚に幾つも母が並べているお気に入りのカップとお皿のセット。その時々の気分やお菓子の種類などから一種類を選んで、お茶の時間や食後のお茶にと登場させているわけだから…。
(ひょっとしたら、明日はぼくの所にハーレイのカップが回って来るとか?)
 白地にグリーンの模様の磁器のカップは、ハーレイがブルーの家で丸一日を過ごす時には大抵、一度は出て来るもの。出て来ない日もたまにあるけれど、母のかなりのお気に入り。
 多分、明日の日曜日も使われるだろう。
 手描きの模様はよくよく見れば微妙に異なる部分もあったが、それこそ比べて見詰めない限りは区別がつかない。今日ハーレイが使ったカップはどれだったのか、と訊かれても模様なんかは見ていなかったから本当にどれだか分からない。
 明日、母があのカップを出して来たなら、ハーレイが何度もキスをしていたカップが自分の所に来るかもしれない。今までにもそういう素敵なカップで紅茶を飲んでいたのかも…。



(…だけど、ぼくには分からないよね…。ハーレイが使ったカップがどれなのか…)
 残留思念を読み取る術は忘れてしまった。
 前の自分はそれを得意としていたけれども、今のブルーにその技は無い。
 それに綺麗に洗って片付けられたカップなどには残っていないものかもしれない。
 知りたくてたまらないのに、ブルーには見付けることが出来ないハーレイが使っていたカップ。そのカップが自分用として目の前に置かれたとしても、気付く術さえ無いカップ。
 そんなカップが幾つもある。
 母が来客用にと出して来るカップの種類と数だけ、ハーレイの唇が触れたかもしれないカップがブルーの家の中に存在している。いろんな模様や形のカップが、それぞれの場所に。
(ハーレイが来る度に、いろんなカップがキスして貰ってるんだよね…)
 まだハーレイのカップは無いから。
 この家にハーレイ専用のカップは置かれていないから…。
 それが出来るまで、ハーレイのキスを貰えるカップは色々。
 母の気分やお菓子の種類に合わせて棚から出されて、ハーレイの前に「どうぞ」と置かれる。
 ハーレイはコーヒーが好きだけれども、ブルーに合わせて紅茶が殆ど。
 だからティーカップはもれなくハーレイのキスを貰える可能性を秘めた幸運なカップ。
 コーヒーのカップだって、そう。
 たまにハーレイのためにと夕食の後で母が淹れるコーヒー。両親も一緒にコーヒーを飲むから、来客用のコーヒーカップ。父と母も普段使っているマグカップではなく、来客用のカップを使う。
 その時々で選ばれるコーヒーカップは違うし、コーヒーカップだって幸運なカップ。
 ハーレイの温かい唇で触れて貰える幸運なカップ…。



(……いいな……)
 ブルーは心底、家にあるカップたちが羨ましくなった。
 両親と自分が普段使いにしているマグカップ以外のカップたちは皆、ハーレイの唇に触れて貰う栄誉に浴する機会があるらしい。
 それがいつかは分からない上に、選ぶ母次第になるのだけれど。
 母に選ばれても、ハーレイの前に置いて貰えるか、ブルーの前に置かれるのかで明暗が分かれてしまうのだけれど、それでもチャンスは巡って来る。
 今日は駄目でも、また次の時に。次が駄目でも、そのまた次に…。
(…待っているだけで、ハーレイがキスしてくれるかもしれないんだよ…)
 小さすぎるからとキスさえして貰えない自分と違って、カップはハーレイに断られない。
 ハーレイの前に置かれさえすれば、温かな唇で触れて貰えてキスが貰える。
 今日が駄目でも、また次の時に。
 待っていればキスを貰えてしまう。ブルーと違って、待っているだけでハーレイのキスを貰えるカップ。「大きくなるまでキスは駄目だ」と言われないで済むカップたち。
(今日が駄目でも、待つだけなんだ…)
 待つという点ではブルーも同じだけれども、ブルーの場合は前の生と同じ背丈に育つまで。何年かかるか考えただけで悲しくなるのに、カップの場合は運の問題。
 母に選ばれて、ハーレイの前に置かれる時だけを待てばいい。
 よほど運の悪いカップでない限り、ブルーほどには待たされないで済むだろう。
 カップが何客セットなのかを考えてみても、運が最悪のカップであってもブルーが唇へのキスを貰うより先にハーレイのキスを貰うのだろうし…。



(…ぼくって、カップに負けちゃってるんだ…)
 運が最悪のカップにも負けるだなんて、と考えた所で思考が別の方へと向いた。
 キスして貰える幸せなカップは、ハーレイが来る度に次々に変わっているのだろうか?
 それとも何度も繰り返し使って貰った幸運なカップがあるのだろうか?
(…絶対に無いとは言い切れないよね?)
 そんなカップがあるのだったら、ちょっと唇で触れたい気もする。
 ハーレイが使った直後のカップは恥ずかしくてとても無理だけれども、綺麗に洗われて棚の中に並んだカップなら。
 その中にハーレイが何度も何度も使ったカップがあるなら、使ってみたい。
 おやつの時間に何気ない風で棚から出して、いつものマグカップの代わりに紅茶を注いで。
 きっとママだって何も言わない。たまには気分を変えたいんだろう、って思うだけ。
 ハーレイが何度も使ったカップに紅茶を注いで、それがぼくのカップ。
 そしてハーレイの唇が触れた辺りに、唇でそっと触れられたなら…。



 そういう夢を思い描いたけれども、肝心のことが分からない。
 ハーレイが何度も繰り返し使ったカップがあるのか、そうでないのかが分からない。
(…ぼくのサイオン、不器用だしね…)
 けれど未練はたっぷりとある。
 ハーレイにキスして貰える幸せなカップ。
 自分が貰えない唇へのキスを当たり前の顔をして貰える幸せなカップ。
(…明日はどのカップが幸せなカップになるんだろう?)
 今日と同じか、別のカップか。
 それともハーレイ専用とばかりに、何度も繰り返し使われている幸運すぎるカップなのか。
 一度でいいから、白地にグリーンの模様の磁器のカップを全部ズラリとテーブルに並べて紅茶を注いで飲んでみようか、とブルーは欲張って考えてみる。
 全部のカップで飲んでみたなら、どれかがきっと幸せなカップ。
 ハーレイの温かな唇が触れた、キスを貰った幸せなカップ。
 何度も繰り返しキスを貰ったカップがあるなら、そのカップから紅茶を飲んでみたいけれど。
 きっと、両親にうんと叱られるだろう。
 おやつの食べ過ぎならばともかく、紅茶の飲み過ぎとは何事なのか、と。
 それ以前に、そんなに沢山飲めない。
 幸せなカップには会いたいけれども、紅茶を山ほど飲むなんて無理。
 だけど会いたい、幸せなカップ。
 ハーレイ専用のカップがもしもあるなら、それで紅茶を飲んでみたいよ…。




        幸せなカップ・了

※ハーレイとの間接キスを狙っていたのに、躊躇っている内に逃したチャンス。
 カップの方がぼくより幸せ、と思うブルーも可愛いですよね、お子様ならでは。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv




シャングリラ号でゴールデンウィークの後半を過ごし、今日から再び授業スタート。連休で弛んだクラスメイトたちはグレイブ先生のお気に召さなくて、1年A組、朝のホームルームから叱られまくり。お蔭で放課後は全員で掃除をする羽目になり…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
遅かったね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎え。掃除の時間が長引いたために柔道部三人組も部活に行き損ね、私たちと一緒に来ています。
「やあ。たっぷり掃除をして来たようだね」
お疲れ様、と会長さんに労われ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大量の焼きそばを作ってくれて。
「みんな、お腹が空いたでしょ? 庭までお掃除してたもん」
「ああ、すまん。…流石の俺も今日は疲れた」
なんで業者さんの担当区域まで掃除になるんだ、とキース君までが疲れた顔。私たちは焼きそばで体力をチャージし、それから今日のおやつの蜂蜜シフォンをパクパクと。気力が戻って愚痴祭りも終わり、いつものお喋りが始まりましたが…。
「ウチって火渡り、しないんだよねえ?」
ジョミー君の唐突な台詞に全員が「は?」と。
「なんだよ、それ? ウチの学校にはそんなのねえぞ」
サム君が目を剥き、シロエ君が。
「そもそも火渡りって何なんです? もしかして火の上を歩くアレですか?」
「そう、それ、それ! 昨日パパがさ、テレビで見てて…。ジョミーはコレはやらないのか、って訊くんだよ! 璃慕恩院には無いよね、アレ?」
「無いねえ…」
「無いな」
会長さんとキース君が同時に答えて、会長さんがその先を。
「あれは山伏の修行の一つだし、山伏と関係の深い宗派のお寺でないと…。でも火渡りをやりたいんだったら紹介するよ? 精神修養をしたいと言うなら大歓迎さ」
「要らないし! あんなのまで絶対やりたくないから!」
無いんだったら安心だし、と言うジョミー君は未だにお坊さんの修行どころか、会長さんの家での朝のお勤めにも出ていません。精神修養に火渡りなんかをやりたがる筈ないですってば…。



ジョミー君の発言が引き金になって話題は一気に火渡りへ。私もテレビでしか知りませんけど、火の上を裸足で歩くだなんて、火傷したりはしないのでしょうか?
「しないよ、初心者でもきちんと歩けば」
小さな子供でも大丈夫、と会長さん。
「素人さんがやる時は山伏さんが一緒に歩いてくれる。注意を守れば安全だね。あれは焦って走ったりするとマズイんだよ、うん」
「かみお~ん♪ ぼくもやったことある!」
ブルーと一緒に歩いたもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は得意そう。そっか、会長さんも「そるじゃぁ・ぶるぅ」もバッチリ体験済みなんだぁ…。
「そりゃあ、修行の一環としてね。璃慕恩院ではやらないけれども、ぼくは恵須出井寺にも行ったから…。あっちの宗派じゃ火渡りもアリさ。よかったら君たちも体験してみる?」
今からだったら此処と此処と…、と場所を挙げ始める会長さんに、ジョミー君が。
「お断りだし! やりたくないって最初に言ったし!」
「そう? 他のみんなは?」
「「「……うーん……」」」
どうだろう、と目と目で見交わし、経験者の「そるじゃぁ・ぶるぅ」をチラチラと見つつ。
「……遠慮しときます」
お坊さんコースは結構です、とシロエ君が返し、サム君が。
「俺、まだ璃慕恩院の方でも一人前になっていねえし…。またの機会ってことにしとくぜ」
「…興味がゼロだとまでは言わんが、他の宗派の行事はマズイな」
もう少し修行を積んでからだ、とキース君も。キース君たちの宗派はお念仏が第一、他の宗派に心動かす事なかれ、という厳しい教えがあるのだそうで。
「勿論、他の宗派も尊重するが…。ブルー並みの境地ならともかく、俺のレベルでは他の教えに転びそうだと看做される。実際、転んだら大惨事だ」
まるで前例が無いわけではない、と語るキース君によると、お寺の息子さんが別の宗派のお坊さんになってしまうケースもあるそうです。それだけにウッカリ火渡りをしてハマるとマズイ、と思うらしくて。
「残念だが、今は遠慮しておく。だが、他のヤツがやるなら見学は行くぞ」
「いえ、ぼくも今回はパスしておきます」
みんなやらないようですし、とマツカ君が逃げ、スウェナちゃんと私も断りました。会長さんはガッカリしたようですけど、他を当たって下さいよ~!



「面白いんだけどねえ、火渡り…」
本当に誰もやらないのかい、と会長さんは未練たらたら。そんなに言うなら「そるじゃぁ・ぶるぅ」と行けばいいじゃないか、と思うのですけど、初心者にやらせてなんぼだそうで。
「あんなの出来るわけがない、と逃げ腰な人がおっかなびっくり足を踏み出すのが醍醐味なんだよ。君たちだったらピッタリなのに…」
「それじゃ教頭先生は?」
初心者だよね、とジョミー君。おおっ、自分が逃げるためなら教頭先生を売りますか! でも…教頭先生、初心者でしょうか?
「ハーレイかぁ…。確かに誘ったことは無いねえ…」
「じゃあ、教頭先生でいいじゃない! ぼくも応援に行くからさ」
教頭先生なら絵になると思う、とジョミー君が言い出し、私たちも賛成しました。火渡り自体は興味深いですし、教頭先生が参加なさるのだったら是非とも見学したいです。
「…ハーレイねえ…。悪くはないけど後がマズそう」
お寺に迷惑がかかりそうだ、と会長さん。えっ、なんで?」
「火傷だよ。…普通は絶対火傷しないけど、雑念だらけだと危険なわけ。そしてハーレイを連れてった場合、頭の中はもれなく妄想。男を上げてぼくのハートを射止めようとか、そういう系で」
「「「あー……」」」
それはありそう、と容易に想像がつきました。そんな理由で火傷されても責任はお寺に行くでしょう。次から火渡り禁止になったら謝って済む問題では無く。
「…だからハーレイには無理ってね。妄想まみれの男に修行は向かない。ぼくが主催の火渡りだったら、救護班設置で火渡り三昧させるんだけどさ…」
モノが宗教行事なだけに妄想男を担ぎ出すための開催はちょっと、と残念そうな会長さん。
「ぼくが銀青でさえなければねえ…。いわゆるヒラの坊主だったら娯楽のための火渡り大会もアリなんだけども」
運動会の感覚で…、と溜息をついた会長さんは諦め切れないみたいです。とはいえ、火渡りは宗教行事。ヒラのお坊さんならキース君ですが、他の宗派の行事には参加出来ないと言っている以上、主催どころじゃないですし…。
「うーん…。何か無いかな、妄想ハーレイを追い込む方法…」
火渡りでなくてもいいんだけれど、と腕組みをして考え込んでいる会長さんは既に思考がズレていました。教頭先生を苛め倒して遊びたい、という目的が見え見えです。これはロクでもないことになりそう、と戦々恐々として見守っていると。
「そうだ、アレ!」
アレが使える、と赤い瞳に悪戯っぽい煌めきが。何か閃いちゃいました…?



「火の反対は水なんだよ、うん。でもって集中力が大切!」
人差し指を立てる会長さんに、キース君がすかさず突っ込みを。
「教頭先生は古式泳法の達人でいらっしゃるんだぞ? そう簡単にはいかんと思うが」
「…水泳ならね」
違うんだな、と会長さんはニヤニヤと。
「前にニュースで見たんだよ。外国のイベントで、プールの上に斜めになった柱が突き出してるわけ。その先っぽに旗がついてて、柱を駆け登って行ってそれを取ったら優勝ってヤツ」
「「「???」」」
簡単そうに聞こえますけど、傾斜が半端じゃないのでしょうか? それとも水面からの高さが凄くて、グレイブ先生みたいに高所恐怖症の人だと登るどころじゃなかったり…?
「傾斜の方は普通かな。高さの方は、まあ、そこそこ…。高飛び込みの台くらいだしね」
でも問題は其処じゃない、と会長さん。
「その棒、たっぷりと油が塗ってあるんだよ。歩いても滑る、走っても滑る。滑ったら最後プールにドボンで失格なオチ」
「あんた、教頭先生にやらせるつもりか!?」
もしかしなくても一人参加か、と噛み付くキース君に、会長さんは。
「ハーレイが一人じゃ可哀相なら、君もやる? 他にも参加希望者がいればハードルを低くしてもいい。…プールにカミツキガメを放すコースは諦めるさ」
「「「カミツキガメ?!」」」
「うん。ただドボンだけじゃ面白くないし、火傷の代わりにガブリガブリと…。ハーレイは防御に優れたタイプ・グリーンだ、カミツキガメでも怪我はしないよ」
外すのに苦労するだけで…、とクスクス笑う会長さん。
「顎の力が凄いらしいね、カミツキガメは。でもハーレイの馬鹿力なら剥がすのも案外、簡単かもだし…。どうかな、誰か参加する? それならカミツキガメはやめておくけど」
「…お、俺は謹んで遠慮させて貰う」
カミツキガメがいなくてもな、とキース君が逃げ、他の男の子たちも大却下。スウェナちゃんと私が参加する筈もなく、教頭先生の一人参加が決定で。
「いいねえ、計画どおりってね。一人参加だからドボンした時はやり直しのチャンスを認めよう。カミツキガメのプールから脱出するには蜘蛛の糸! ギャラリーな君たちの人数分を用意するけど、エロい考えを起こしたが最後、プツンと切れてドボンといくわけ」
いろんな意味で集中力が欠かせないよね、と会長さんの瞳が輝いています。これって火渡りよりも大変なんじゃないですか? 油を塗った棒とか、カミツキガメとか…。



ウキウキと火渡りならぬ水渡りもどきのプランを練っている会長さん。仲間が経営しているフィットネスクラブの飛び込み用のプールを貸し切り、柱をセットするつもりです。教頭先生を呼び出す方法もバッチリだそうで。
「頑張って旗をゲット出来たら、ぼくからキスのプレゼントってね。単なる祝福のキスってヤツでさ、頬っぺたにチュッとやるだけだけど…。ハーレイはそうは思わない。思いっ切りのディープキスを夢見て、釣られてノコノコ出て来るわけだよ」
そして滑ってプールに落ちたら蜘蛛の糸、とニヤニヤニヤ。
「エロいことを考えたら切れると分かっていてもね、御褒美がぼくのキスだろう? プツンと切れるのは間違いないさ。人数分の蜘蛛の糸を無駄にしちゃうか、心頭滅却して這い上がるか。火渡りよりも遙かにスリリングな精神修養の世界だってば」
火傷代わりのカミツキガメも控えているし、と会長さんは壁のカレンダーを眺め、吉日を選び出しました。フィットネスクラブに連絡をして臨時休業の約束を取り付け、決定した日は来週の土曜日。それまでに教頭先生を釣り上げ、柱なんかも用意して…。
「いいねえ、ぼくも見学していい?」
「「「!!?」」」
誰だ、とバッと振り返った先に会長さんのそっくりさんが。スタスタと部屋を横切り、ソファに腰掛けて蜂蜜シフォンを御注文。
「ハーレイが精神修養だって? 面白そうだし、見たいんだけど」
「…止めないけどさ…」
ハーレイの苦労は増えそうだねえ、と会長さん。
「君がハーレイにエールを送ると、蜘蛛の糸がプツプツ切れまくりそうで」
「その蜘蛛の糸! どんなシステムにするつもりなわけ?」
「タコ糸をサイオンで強化して柱から垂らしておこうかなぁ、と思ってる」
落っこちた場所にサイオンで結び付けて、という会長さんの答えに、ソルジャーは。
「それじゃイマイチ面白くないよ。蜘蛛の糸ってアレだろ、誰だったっけ…。偉い人が天国から垂らしてくれるんだろう?」
「お釈迦様だよ、それに天国じゃなくって極楽!」
間違えるな、と会長さんは苦い顔ですが、ソルジャーはまるで気にせずに。
「そうだっけ? 何でもいいけど、そのオシャカ様? それの係をぼくがやりたい!」
「「「は?」」」
お釈迦様の役を希望とは、これ如何に? ソルジャーは何をやりたいと?



降ってわいたソルジャーですけど、蜂蜜シフォンをフォークで切って頬張りながらニコニコと。
「エロい考えを起こしたら切れるって言っていたよね、蜘蛛の糸! 単に柱に結んであるんじゃエロい考えになりにくいから精神修養になってない。君そっくりのぼくが糸を握って垂らしていたとしたら、どうなると思う?」
「そ、それは……。結んだパターンよりも厳しいかと…」
「だろう? おまけに励ましの言葉も付ければバッチリだよね」
糸はプツンと切れまくり、と微笑むソルジャー。
「ぼくは基本的にはハーレイを応援してるんだけど…。君と結婚してくれたらなぁ、と思ってるけど、それには精神修養ってヤツも必要なのかもしれないしね。さっき話してた火渡りだっけ? それも出来ないような男に君が惚れるとは思えない」
「うん、有り得ない」
銀青としては認められない、とキッパリ言い切る会長さん。ソルジャーは深く頷いて。
「そうだろうねえ、だからハーレイには精神力をつけて欲しいんだ。ぼくが絡んでも見事に旗をゲット出来たら、少しは株が上がりそうだし」
「…まあ、少しはね…」
ほんの少しね、と嫌々といった感じの会長さんですが、ソルジャーの方は御機嫌で。
「やっぱり株が上がるんだ? それじゃ大いに励まさなくっちゃ! ぼくの蜘蛛の糸の誘惑に負けず、エロい考えを封じまくって立派にゴールインするんだよ、って!」
それでこそハーレイの男が上がる、とブチ上げたソルジャー、蜘蛛の糸なタコ糸を垂らす係を会長さんから任命されることに。
「…どんなエールを送るつもりか知らないけどねえ、ハーレイの苦難が増えるんだったら大歓迎! あ、ズルをしてハーレイを助けるパターンは無しだよ?」
「心配しなくても今回は無し! ハーレイの男を下げるだけだし」
頑張りまくって自力でクリア出来てこそ、とソルジャーは会長さんに約束しました。お助けアイテムな蜘蛛の糸はソルジャーのせいで切れ易くなってしまいそうですが、教頭先生、大丈夫かな…。
「さあねえ? ぼくは最初からハーレイで遊ぶつもりだったしね」
ブルーのお蔭で楽しさ倍増、と会長さんは教頭先生を呼び出すための手紙の文面を考えています。曰く、君の本気を見てみたいだとか、精神修養で男を上げた君にキスを贈ろうとか…。
「そこはさ、もう一歩突っ込んで! キスの先まで行きたい気持ちにさせてくれるのを期待していると書いとくべきだよ」
「その案、採用!」
乗った、と会長さんの唇に悪魔の笑みが。ソルジャーの参加でハードルは上がりまくりです。教頭先生、来週の土曜日は受難の日になるんじゃないですかねえ…。



火渡りに端を発した水渡りもどき。教頭先生は会長さんの手紙にアッサリと釣られ、次の週の土曜日、私たちが待ち受けるフィットネスクラブにやって来ました。
「来たね、ハーレイ。敵前逃亡しなかったんだ?」
まだ今からでも逃げられるけど、と笑みを浮かべる会長さんですが。
「いや、逃げるような真似はせん。要は精神修養だろう? 水渡りだったか…。初耳だが」
頑張るまでだ、と胸を叩いた教頭先生はイベントの内容を全く知らされていませんでした。手紙で指示されたとおり水着持参でいらしただけで、油を塗った柱のこともカミツキガメも、蜘蛛の糸も何も御存知無くて。
「いい覚悟だねえ…。それじゃ後悔しないようにね」
まずは水着に着替えて来て、と言われた教頭先生、更衣室へと向かわれました。颯爽と戻って来られた時にはキリリと赤い褌が。その姿にソルジャーが見惚れています。
「カッコイイねえ、赤褌! ぼくのハーレイだと締めても披露する場所が無くてさ」
「あ、ありがとうございます…。精神修養と聞いたからには、やはり褌だと思いまして」
締めると気持ちが引き締まるので、と教頭先生。そのやり取りを聞いていた会長さんがクスッと笑って。
「緊褌一番って所かい? それじゃルールを説明するから会場の方へ」
こっち、と先頭に立ってプールに向かう会長さん。フィットネスクラブは臨時休業の名目で本日貸し切り、すれ違う人は誰もいません。重いドアを開けて入ったプールには競泳用の大きなプールと、飛び込み用の深いプールが。
「ハーレイ、水渡りは向こうのプールになるんだ。あそこに柱が見えるだろう?」
上の方だよ、と会長さんが指差す先に、飛び込み台の代わりに取り付けられた平均台より少し太いくらいの四角い柱が。長さ六メートルくらいでしょうか、急な坂レベルの傾斜付き。
「あの柱をね、駆け登って先に付けてある白い旗を取ってくればいい」
「…それだけか?」
「そう、それだけ。ただし柱には油が塗ってあるから滑るよ? 滑ったらプールにドボンとね」
「なるほど…。それで水渡りなのか」
気を付けて行こう、と顔を引き締める教頭先生に、会長さんは。
「火渡りの方は知っているよね? 雑念があるとペースが乱れて火傷する。水渡りも同じさ、精神統一が出来ていないと滑りやすい。そして落ちたら噛み付かれるから」
「は?」
「カミツキガメだよ。タイプ・グリーンの力があるから怪我はしない筈!」
でも噛まれたら剥がれないんだよね、と会長さん。教頭先生、プールを覗いて真っ青ですよ…。



「…ブ、ブルー…。大きな亀がウジャウジャいるのだが…」
アレがそうか、と震える声の教頭先生の後ろからプールを覗き込んだ私たちも息を飲みました。甲羅の長さが五十センチはありそうな亀が無数に泳いでいます。全部カミツキガメですか?
「うん、あれがカミツキガメだけど? 攻撃されると噛むらしいんだよ」
君が落ちて来たら攻撃と見なして噛むだろうねえ、と可笑しそうに笑う会長さん。
「でもね、落ちたら終わりってコトじゃないんだな。此処で見ているギャラリーの人数分だけ蜘蛛の糸がある」
「蜘蛛の糸だと?」
「そのまんまの意味さ、キースたち七人グループに因んで七本の糸を用意した。お釈迦様の役目はブルーが引き受けてくれてるんでね、ブルーが垂らした糸を掴んでプールから柱まで攀じ登ればいい。…ただし!」
この先が肝心で…、と会長さんは指を一本立てました。
「昔話の蜘蛛の糸ってヤツは自分のことしか考えなかった罰でプツンと切れるよね? 君を助ける糸も同じさ。精神修養だってことを忘れてエロい考えを起こした途端にプッツンだ。ぼくとブルーが君の心を監視する。エロさを感じたら容赦なく切る!」
カミツキガメの上に落っこちてしまえ、と言われて顔面蒼白の教頭先生。
「…そ、そんな…。で、では、私は……」
「えっ、簡単なことだろう? 精神統一して駆け登って行けば旗を取るのは簡単だ。運悪く滑っても蜘蛛の糸がある。それも七本! これだけのフォローがあっても水渡りが成功しないようなら、最初から望みは無いんだよ。ぼくのキスなんて夢のまた夢」
今すぐ棄権も認めるけれど、と会長さんが最後のチャンスをチラつかせましたが。
「い、いや…! 私も男だ、此処まで来たのに逃げるわけには…。あの旗を取って水渡りを成功させるまでだ!」
拳を握り締める教頭先生。覚悟のほどは御立派ですけど、どうなったって知りませんよ? 会長さんもフンと鼻を鳴らして。
「そこまで言うなら頑張りたまえ。いいね、集中力が大切! 旗を取ることだけを考えるんだね、そうすれば自然と道は開ける。精神修養とはそういうものさ」
火渡りも水渡りも心頭滅却! と発破をかけられ、教頭先生は飛び込み台へと向かわれました。決意も固く登ってゆかれて、いざ、柱へと。平均台より少し太いだけの幅な上に油で滑りますから、気合を入れて一気に走って下さいね~!



何回か大きく深呼吸をして、ダッと駆け出した教頭先生。一歩目からツルッと滑りましたが、両手を広げてバタバタと必死にバランスを取って二歩、三歩。あらら、走れるものなんだ…。
「へえ…。なかなかやるねえ、こっちのハーレイ」
ぼくの出番は無かったりして、とソルジャーが感心した途端にツルリと踏み出した足が宙に浮き。
「「「あーーーっ!!!」」」
二メートルくらい駆け登っていた教頭先生、体勢を崩して真っ逆さまにプールへと。ドッパーン! と派手な水飛沫が上がり、続いてバシャバシャと激しい水音。
「た、助けてくれーっ!!」
亀が、亀が、と浮かび上がった水面で手を振り回している教頭先生。カミツキガメが丈夫な顎で身体のあちこちに噛み付いています。会長さんがプールサイドで声を張り上げて。
「亀のフォローはしてないんだよ! まず剥がしてから救助要請! そしたら蜘蛛の糸!」
「な、なんだって!?」
「タイプ・グリーンなんだし、平気だろ? とにかく剥がす!」
君の馬鹿力で、と会長さんが叫び、教頭先生は懸命に姿勢を保ちながらカミツキガメに立ち向かいました。指くらいなら噛み切る力があるそうですから口を開けさせるのも簡単ではなく…。おおっ、拳を振り上げていらっしゃいます、ここは一発、殴るんですね?
「バーカ」
会長さんが小馬鹿にした口調で言い放つなり、大声で。
「総員、退避ーーーっ!!!」
「「「えっ?」」」
事情を飲み込む前に張られたシールド。ソルジャーまでが会長さんのシールドに包まれ、目を白黒とさせています。
「なっ、何?! 何があったわけ?」
「最後っ屁!」
会長さんの言葉と指差す方向。プールの中では苦悶の表情の教頭先生がカミツキガメと戦っています。顔が思い切り歪んでますけど、最後っ屁って何のことですか?
「カミツキガメはね、危険を感じると足の付け根から悪臭を出す習性があるんだな。ハーレイがガツンと殴っただろう? あれで最後っ屁をかましたわけさ」
当分シールドを解きたくはない、と会長さんが言い終える前に再び最後っ屁が放たれた模様。群がる亀を引き剥がすまでにオナラを何発食らわされるのか、あまり数えたくなかったり…。



鼻が曲がるほどに臭くて凄まじいらしいカミツキガメの最後っ屁。散々にやられた教頭先生はズタボロでしたが、お身体の方に怪我は無く。
「…か、亀はなんとか剥がしたぞ…!」
今の間に引き上げてくれ、と仰向けに浮いていらっしゃる教頭先生。攻撃されなければ噛まないというカミツキガメは周囲にウヨウヨいるのですけど…。
「えーっと、行ってもいいのかな? まだ臭そう?」
だったら一応シールドを、とソルジャーが尋ね、会長さんが。
「もう散ってると思うけど…。換気を強めにしておいたから」
「じゃあ、行ってくる。蜘蛛の糸、まずは一本目だね」
トン、とプールサイドを蹴って飛んだソルジャー、棒の上の宙にフワリと浮いて。
「ハーレイ、聞こえる? 今から糸を垂らすから! これに掴まって登ってきたまえ」
蜘蛛の糸だよ、とソルジャーの手から白いタコ糸が。ええ、文字通りのタコ糸です。スルスルと伸びて教頭先生の前まで降りて来たものの、教頭先生、心許ない表情で。
「…い、糸か…。これは本当に切れないのか?」
「疑ってると切れるかもねえ?」
君は信心が足りなさすぎだ、と会長さん。
「救いの糸だよ、信じて登る! そしたら足を滑らせた場所までちゃんと登っていけるから!」
「わ、分かった、登ればいいのだな?」
お前の言葉を信じよう、とタコ糸を掴んだ教頭先生の腕に筋肉がググッと盛り上がりました。ソルジャーが垂らす糸を頼りに腕を伸ばしてグンと攀じ登り、もう一方の腕を上へと。
「すげえや、糸でも登れるのかよ!」
揺れていねえぜ、とサム君が感心すれば、会長さんが。
「サイオンで強化してあるからねえ、糸でも強度はロープ以上さ。揺れの方はブルーが抑えてる。エロい妄想をしたならともかく、揺れてドボンじゃ気の毒だ…ってね」
「ほほう…。あいつらしいな」
惚れた相手には手加減するのか、というキース君の台詞に、会長さんの訂正が。
「惚れていないよ、ハーレイにはね。自分の伴侶と同じ顔には手加減する、の間違いだってば!」
「そうだった…。同じ顔だというだけだったな」
間違えた、とキース君が苦笑した所へソルジャーからの思念波が。
『ブルー、どうする? もう少しで君のキスをゲットだ、ってハーレイの心が零れてるけど』
「ぼくのキス!? その発想はエロいって!」
ぶった切れ、と会長さんが指示を飛ばして、蜘蛛の糸はそこでプッツンと。半分ほど登った教頭先生、カミツキガメが群れるプールへと落下してゆかれたのでした…。



せっかくの救いの糸をフイにしてしまわれた教頭先生。落ちたプールでカミツキガメに噛まれ、最後っ屁をかまされまくった末に二本目の糸をゲットし、今度は無事に棒の上まで。ソルジャーに励まされて「頑張ります!」と駆け出したものの…。
「また落ちたか…」
でも半分までは行ったのか、と会長さん。教頭先生はプールの中でカミツキガメに囲まれ、容赦なく最後っ屁を食らっています。とはいえ、既に半分まで走ったからには残り半分、行けないことはないのかも…。
「まあね。体力さえ持てば残り半分をクリアすることは出来るだろう。蜘蛛の糸も五本も残っているし…。ただね、ゴールに近づけば近づくほど、妄想も入りやすくなる」
その妄想を追い出せてこその水渡りだ、と会長さんは冷ややかな目で。
「どう思う、ブルー? ハーレイは最後まで行けそうかな?」
「うーん、どうだろ…。ぼくのハーレイと似てるんだったら、詰めは非常に甘そうだ。最後の最後でツルッと滑ってドボンと落ちてしまいそうだよ」
「やっぱりねえ…。まあ、仮に成功したとしてもさ、祝福のキスしか無いわけだけど」
そうとも知らずに頑張ってるねえ、とプールを眺める会長さん。
「その先のことを期待したくなるように努力しろ、と書いておいたから妄想だけは山ほどある筈! ゴールが近くなれば自然と気分がそっちの方に」
「だろうね。そして心が乱れて滑って落ちるか、蜘蛛の糸をプツンと切られるか。ぼくとしては妄想にしっかり蓋をしといてゴールインして欲しいけど…」
ちょっと無理かな、と首を振り振り、ソルジャーは亀を引き剥がした教頭先生のために蜘蛛の糸を垂らしに出掛けました。さっきみたいに登り切れるか、一度目のように切られるか。ハラハラしながら見守っていると、会長さんへのお伺いもなく糸がいきなりプッツンと…。
「うわぁーーーっ!!!」
野太い悲鳴と共に教頭先生はプールにドボン。カミツキガメは「落ちて来るものは敵」と学習したらしく、噛み付くと同時に最後っ屁までもお見舞いしている模様です。教頭先生、まさに踏んだり蹴ったりですけど、ソルジャーはどうして糸を切ったの?
「え、聞くまでもなかったからね」
スイッとプールサイドに下りて来たソルジャーが蜘蛛の糸を持っていた右手をヒラヒラと。
「せっせと無心で登る間に蜘蛛の糸の話を思い出したらしい。極楽から垂らされた糸だったな、と考える内に頭の中が理想の蓮に…ね」
「「「は?」」」
「アレだよ、ぼくの理想の蓮! キースにお願いしてあるヤツさ」
阿弥陀様から遠い場所に在ってハーレイの肌の色が映えるヤツ、と言われて浮かんだソルジャー夫妻の夢の極楽。来世はそういう蓮に生まれてヤリまくるのが夢でしたっけ…。



「…君の蓮の花を連想したのか…。それじゃ水渡りは絶望的かな?」
蜘蛛の糸はこの先プツンプツンと切れまくり、と会長さんが嘲笑い、ソルジャーが。
「そうなりそうだね、ぼくも手加減する気は無いし。…残り四本だったっけ? 無我の境地で登り切れるのが何本あるか…。そして最後に登り切った場所が旗の近くかどうかって所が運なのかな」
もしかしたら根性で腕を伸ばして旗を取るかも、と僅かな可能性に賭けるソルジャー。けれど蜘蛛の糸を垂らす係がソルジャーであり、そのソルジャーが理想の蓮を常に夢見ているとなっては…。
「絶望だよな?」
まず無理だよな、と油を塗った棒を見上げるサム君。
「あと半分も残ってるしよ…。糸の数だけでいけば無理とも言い切れねえけどよ」
「カミツキガメで消耗する分もあるしね…」
噛むし、おまけに最後っ屁だし、とジョミー君が肩を震わせています。
「ぼくだったらとっくにギブアップだってば、水渡りなんて…」
それくらいなら火渡りでいい、とお坊さん嫌いのジョミー君が言い出すくらいにカミツキガメは強烈でした。泳ぎも力も並みの人より優れている筈の教頭先生でさえ、脱出までにかなりの時間がかかるのです。おまけに臭いと来た日には…。
「まさに地獄というヤツか…。蜘蛛の糸は地獄に仏なんだが…」
それを活用出来るかどうかが勝負だな、とキース君が言い、マツカ君が。
「教頭先生ならこの逆境を乗り越えられると思いたいですけど…。どうでしょう…」
「賭けますか?」
ちょっと不謹慎ではありますけれど、というシロエ君の提案に賛同する人はいませんでした。教頭先生が旗をゲット出来る可能性は限りなくゼロに近そうです。そっちに賭けて当たった場合は大穴ですけど、負ける可能性の方が遙かに高いわけでして…。
「ブルー、君はハーレイに賭けてあげないのかい?」
男を上げて欲しいんだろう、と会長さんがソルジャーに水を向けましたが。
「嫌だよ、ぼくは確実に勝てる戦いしかしたくないんだ。負けるなんてこと、たとえ賭けでも縁起が悪い。それに不正は厳禁だよね?」
ハーレイのエロい妄想を見逃したりしちゃダメなんだろう、と尋ねられた会長さんがコックリと。
「当たり前! 君の役目は蜘蛛の糸を厳しく管理すること!」
いくらハーレイに肩入れしたって不正は厳禁、と会長さん。教頭先生をカミツキガメのプールから救える蜘蛛の糸を垂らすソルジャーの夢は理想の蓮。それに気付いた教頭先生、もう地獄へと真っ逆さまに落ちまくるしかないですってば…。



頑張るだけ無駄と思われた教頭先生だったのですけれど。大量のカミツキガメに噛まれまくって最後っ屁を山ほど浴びせられたことが結果的には良かったらしく。
「かみお~ん♪ 凄い、凄いよ、登ってるー!」
今までで一番速いよね、と感激している「そるじゃぁ・ぶるぅ」。最後に残った七本目の蜘蛛の糸を教頭先生はグイグイ攀じ登っていました。腕に加えて足の力もMAXです。赤褌だけを締めた身体に盛り上がる筋肉、そして無我の境地。
『…うーん、登ることしか考えてないや…』
頭の中は亀地獄からの脱出だけ、と蜘蛛の糸を垂らしているソルジャーの思念。頭の中から妄想の山を駆逐するほどにカミツキガメのプールは生き地獄だったみたいです。この糸を無事に登り切ったら旗までの距離は一メートル弱。滑ったとしても腕を伸ばせば届くかも…。
「おい、ひょっとしてひょっとするのか?」
シロエの賭けに乗るべきだったか、とキース君が呻き、ジョミー君も。
「うわぁ、賭ければ良かったよ~。いけるよ、絶対いけるって!」
「だよなあ、俺も賭けときゃ良かった…」
あと少しだぜ、と見上げるサム君。賭けを口にしていたシロエ君も残念そうで。
「…ぼく一人でも賭けるべきでしたね、大穴に…。ゴールで間違いなさそうです」
「うーん…。ぼくはハーレイに祝福のキスを贈るわけ?」
まあいいけどね、と会長さんがブツブツブツ。教頭先生はぐんぐん登って棒まで辿り着きました。ソルジャーがトンとプールサイドに飛び降りるのと、バランスを確かめていた教頭先生が旗を目指してダッシュしたのとは殆ど同時で。
「「「!!!」」」
ダダダッと勢いよく駆け登っていった教頭先生、気が焦ったのか腕を伸ばすのが速すぎた様子。右腕が旗を掠めて空を切り、左足がツルンと真上に滑って…。
「「「おぉぉっ!!!」」」
墜落する、と思った次の瞬間、教頭先生は二本の足でガシッと棒を捕えました。グググ…と身体を曲げ、上半身を起こして旗を取ろうと懸命です。
『く、くっそぉ…。諦めてたまるか、なんとしても私はブルーのキスをっ!!』
ギリギリと歯を食いしばる教頭先生の思念がビンビンと。そっか、蜘蛛の糸じゃなければ妄想が原動力になっていたって大丈夫というわけですか…!
「や、やばい…。やっぱりキスかな…」
会長さんの呟きにソルジャーが。
「諦めたまえ。立派に水渡りを成し遂げたんなら仕方ないだろ、キスくらい!」
減るモンじゃなし、と背中を叩かれた会長さんがガックリと肩を落とした時。



「ブルー、今いくぞーっ!!!」
上体をグイと曲げて旗を掴もうとした教頭先生の身体を支えていた足がツルリと油で滑りました。筋肉隆々、金色の脛毛に覆われた二本の足が空中で無様に開かれ、体勢を立て直す暇も無く…。
「ブルーーーっ!!!」
腹の底からの叫びを残して、教頭先生はその頭からプールに突っ込んでゆかれました。カミツキガメの甲羅に激突するゴツンという音が鈍く響くなり、一斉に放たれる最後っ屁。文字通りこれで最後です。蜘蛛の糸はもう無く、旗は空しくプールの上に翻り…。
「…派手にやったねえ……」
プール中の亀が最後っ屁なんじゃないのかい、とシールドを張りつつ、ソルジャーが。
「そうみたいだねえ…。キスせずに済んで良かったよ。ハーレイの精神修養はともかく、君に背中を押されるのだけは避けたいし!」
キスだけで済むとは思えないから、と苦笑いをする会長さん。
「ついでにデートとか余計なオマケがついて来そうだ、ハーレイが水渡りに成功してたら」
「あっ、分かった? 色々と考えていたんだけどねえ…」
「ぼくも色々考えていたよ。君の注文にどう切り返すか、ハーレイをどう封じるか…。でもねえ、ハーレイは当分、そういう妄想をする余裕は無いかと」
失敗のダメージは大きいんだよ、と会長さんが指摘するとおり、教頭先生はカミツキガメに噛み付かれたままプカプカと浮いておられました。唇が小さく動いてますけど、会長さんの名前を呼んでいるとか…?
「違うね、あれは「臭い」と言っているんだよ」
最後っ屁が、と会長さんが笑って答えて、ソルジャーも。
「うん、そうとしか聞こえない。頭の中まで「臭い」で一杯、救出するのは後でいいかな」
匂いがすっかり抜けてから…、と笑い合っている会長さんとソルジャーと。教頭先生の努力の甲斐無く、水渡りは成功しませんでした。せめて最後に呟いていたのが会長さんの名前だったら…。「臭い」なんていうモノじゃなかったら、少しは希望があったんですかねえ…?




        精神力で勝て・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 カミツキガメはね、噛むだけじゃなくて最後っ屁なんですよ、本当です。
 近所の池にもいるらしいですが、挑む勇気は無いですね…。
 今月は月2更新ですから、今回がオマケ更新です。
 次回は 「第3月曜」 12月21日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、12月は、迷惑な外来種というヤツの話題で始まり…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv





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