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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

 ぼくが寝込んでしまった時には、よくハーレイがスープを作りに来てくれる。凝ったスープとかいうんじゃなくって、ハーレイ曰く「野菜スープのシャングリラ風」。
 前のぼくが好きだった野菜のスープ。ソルジャー・ブルーだったぼくが体調を崩して食欲が全く無くなった時にも、このスープだけは喉を通った。
 初めてハーレイが作ってくれたのが、シャングリラ中で物資が不足していた時代だったから。
 細かく刻んだ野菜を基本の調味料でコトコト煮込んだだけの、素朴なスープが精一杯。だけど、食べさせてくれるハーレイの優しさと心遣いとがとても嬉しくて、何よりも素敵な御馳走だった。どんなに弱ってしまった時でも、このスープだけは「欲しい」と思った。
 ぼくの身体が、舌が覚えてしまったんだろう。
 調理方法に工夫を凝らせるようになっても、昔のままの素朴な味わいが好み。ミネストローネ風とか、色々とハーレイが試してみたけど、それはそれで美味しかったのに最初の味が一番好み。
 そういうわけで、前のぼくのためにハーレイが作る野菜スープは最後まで基本の調味料だけ。
 今のぼくに作ってくれるスープも、全く同じ。ぼくのママは今でこそ慣れて何も言わないけど、最初の頃はハーレイに味付けなんかをあれこれアドバイスしたがったみたい。



 野菜スープのシャングリラ風。
 この間、ぼくが休んだ時にもハーレイが作りに来てくれた。ぼくの部屋まで持って来てくれて、ベッドに座って食べたんだけれど。その時にふと気が付いたんだ。
 何故だか、前より凄く美味しい。
 レシピは変わっていない筈なのに、凄く美味しいと舌が、身体が、心が弾んだ。
 そういえば、前に食べた時にも「とても美味しい」と思った気がする。ぼくにとっては懐かしい味で、心に染み込むスープだったから、そういうものだと深く考えてはいなかったけれど…。
(…野菜と塩くらいしか入ってない筈だよ?)
 隠し味に砂糖を少し入れると聞いた程度で、本当に基本の調味料だけ。煮込んだ野菜ならではの優しい味わいもあるだろうけど、それより他には何も無いスープ。
 ママが作ってくれるポタージュスープやコンソメスープに敵うわけがないのに、どうして「凄く美味しい」と思うんだろう?
 ひょっとしてハーレイ、レシピを変えた?
 ぼくに内緒で、今の地球風の味にこっそりアレンジしちゃったとか…?



(…それはそれで別にいいんだけれど…)
 今の今まで全く知らずに飲んでたわけだし、それで納得していたんだから、かまわないけれど。ぼくのために作りに来てくれるんだし、文句なんかは言わないけれど…。
 ちょっぴり寂しいような気もした。
 前のハーレイが、ぼくのためにしか作らなかったという野菜のスープ。ぼくのためだけの特別なスープ。その味がいつの間にか変わっていたなら、少し寂しい。
(…今のぼく専用の別のスープになっちゃった?)
 前のぼく用とは違った味付けのスペシャルなスープも悪くはないけど、前のぼくのためのスープだって特別な味なんだ。前の生からのハーレイとの絆をそのまま受け継いだスープだから。
(…ハーレイと恋人同士になるよりも前から作ってくれてたスープだものね…)
 まだハーレイが「優しくて頼りになる親友」で、恋人とは思っていなかった頃。心の底では既に恋をしていたんだろうけど、それとは気付いていなかった頃。
 そんな頃から素朴な野菜スープは在った。ぼくとハーレイとの恋の始まりも、初めてのキスも、あのコトコトと煮込まれたスープは憶えているのに違いないんだ。
 そういうスープの味が変わったなら、なんだか寂しい。ぼく専用でも、やっぱり寂しい。
(…ホントの所はどうなんだろう?)
 ハーレイはレシピを変えてしまったのか、それともぼくの勘違いなのか。
(作ってる所を見られれば解決するんだけどね…)
 前のぼくなら、スープを作っているハーレイが見えた。青の間のベッドに横たわったままでも、サイオンを使って見ることが出来た。
 青の間の奥にあった小さなキッチン。其処で褐色の手が何種類もの野菜を器用に細かく刻んで、鍋でコトコト煮込んでいた。塩を入れて味を見て、それから多分、砂糖を少し。
(前のぼくは何度も見ていたのに…)
 サイオンに関しては不器用すぎる、今のぼく。
 近い所ならなんとかなっても、一階にあるキッチンなんて頑張ったって何も見えやしない…。



 覗き見することは不可能なのだ、と分かっているから。
 レシピを変えたか訊くのもいいけど、どうせなら強請ってみようと思った。遙かに遠い記憶しか無い、スープを作っているハーレイの姿。それを目の前で見たいと思った。
 そうすればレシピが変わったのかどうか一目で分かるし、料理をするハーレイも見られるし…。一石二鳥の素敵なアイデア。これは頼んでみないといけない。
 早速、週末に来てくれたハーレイとぼくの部屋で向かい合いながら切り出した。
「ねえ、ハーレイ。この間、作ってくれた野菜のスープだけれど…」
「シャングリラ風か? どうした、この前のは不味かったか?」
「ううん、そうじゃなくて…」
 美味しかったよ、と御礼を言ってから「お願い」とペコリと頭を下げた。
「ハーレイ、一度作る所をぼくに見せてよ。あれを作っている所」
「スープをか?」
 ハーレイはポカンと口を開けた。
「おいおい、お前のお母さんに何て説明すればいいんだ。キッチンを借りて、お前の前でスープを作るって…。そいつは調理実習か?」
 俺は古典の教師なんだが。
 古典の授業に調理実習は含まれていないと思うんだが…。
 昔の行事に関連している菓子なんかを持ち込むことはあるがだ、俺が作って出すわけじゃない。



 なんだってスープを作って見せねばならないのだ、とハーレイに呆れられてしまった。
 一石二鳥になる筈だった、ぼくのアイデアは微塵に砕けた。
 だけど料理をするハーレイの姿を見てみたかったし、諦めずに果敢に挑戦してみた。
「じゃあ、お菓子とか…。古典の授業で出て来るようなお菓子なら、いい?」
「柏餅だの粽だのか?」
「うん、そういうのでかまわないよ」
 柏餅と粽。ぼくとハーレイが再会した二日後、五月五日の古典の授業で出されたお菓子。ぼくは聖痕現象とかいう前の生での最期に撃たれた傷痕からの大量出血のせいで学校を休んでいたから、食べ損ねてしまって悔しかったお菓子。
 ハーレイの居る教室で食べられる筈だった柏餅と粽。
 それがいいや、と喜んだのに。
「お菓子だったら、お母さんに習えばいいだろう。柏餅も粽も季節外れだが、なんとかなるさ」
「ぼくはハーレイが作る所を見たいんだよ!」
 ハーレイは自分の家で料理をしている。一度だけ遊びに出掛けた時には、お昼御飯にシチューを御馳走してくれた。メギドの夢を見たぼくが眠ったままハーレイの家まで瞬間移動をしてしまった時は、朝御飯にオムレツを作ってくれた。
 それから、ぼくが財布を忘れて登校した日に食べさせて貰った豪華弁当。ハーレイのこだわりの煮物や焼き物、炊き込み御飯まで詰まっていた。
 料理が得意な今のハーレイ。
 前のハーレイも料理は得意だったけれど、キャプテンになってからは野菜スープを作る程度で、アルタミラからの脱出直後にやっていたような食料の在庫を睨みながらの料理はしなかった。
 あの時代のハーレイの料理は実に見事で、同じジャガイモでも茹でたり揚げたり、手を加えては皆を飽きさせないようにしていたものだ。その気配りも後にキャプテンに選ばれた理由の一つ。
 今のハーレイは楽しんで料理をしているのだから、前よりも遙かに腕が上がっているだろう。
 野菜スープのシャングリラ風のレシピを変えたかどうかはともかく、ハーレイの料理を見たいと思う。作る料理は何でもいいから、キッチンに立っている姿。



「お願い、ハーレイ。…一度でいいから見てみたいんだよ、ハーレイが料理している所…」
 一度だけでいいよ、と頼んだのに。ハーレイの返事は素っ気なかった。
「前のお前にも見せていないと思うんだが? 俺がキャプテンになるより前はともかく」
「えっ?」
 ハーレイがキャプテンになる前は確かに見ていた。限られた食材で様々な料理を作り出してゆくハーレイを手伝って、ジャガイモの皮を剥いたこともあった。涙をこらえてタマネギも刻んだ。
 それはぼくがハーレイと一緒に厨房に立っていた時代。茹でたりする隣に居た時代。
 でも、キャプテンになって調理担当から外れた後にも野菜スープを作ってくれたし、いつだってそれを眺めていた。野菜を細かく刻んでゆくのも、コトコト煮込んでいる所も。
「ハーレイ、ぼくはちゃんと見てたよ? 野菜スープを作ってる所」
「…そいつはお前が勝手に見ていただけだろう?」
 お前、キッチンには居なかったぞ。
 ベッドで寝込んでいたんじゃないのか、だからこその野菜スープだろうが。
「そうだっけ?」
 そんな筈ないよ、とハーレイの思い違いを正そうと口を開きかけて思い出した。
 ぼくはハーレイの隣で見ていたわけじゃない。サイオンでキッチンを眺めていただけで、ぼくの身体はベッドの上。ハーレイは青の間のキッチンで一人でスープを作っていたっけ…。
「…そうだったみたい…。ぼく、サイオンで見ていただけなんだ…」
「ほら見ろ、俺は嘘なんか言わん」
 俺が料理をしている所を見たいのなら、だ。
 四の五の言わずにサイオンを磨け。
 そうすれば俺が野菜スープを作りに来た時、いくらでも覗き放題だろうが。
「そうなるわけ? ハーレイ、見せてくれないの?」
「俺は古典の教師であって、だ。調理実習は担当外だ」
 どうしても見たいならサイオンを磨いて頑張るんだな、目標は一階のキッチンだ。
 あっちの方だ、と指差されたけど、やっぱり何にも見えなかった。ママがお昼御飯の用意をしている姿も、どんな食材が並んでいて何が出来そうなのかも。
 絶望的に不器用なぼくのサイオン。
 ハーレイがキッチンに立ってくれても、何も見えそうにないぼくのサイオン…。



 心底ガッカリしたんだけれども、出来ないものは仕方ない。
 サイオンを磨けと言われたところで、磨き方だって分からない。もうお手上げになった、ぼく。
 料理をするハーレイの姿は見られそうもないから、切っ掛けになった気になることだけをズバリ訊いておくことにした。これだけは絶対に知りたかったし、訊かなくちゃ…。
「ハーレイ、料理は諦めるから…。一つ教えてよ」
「何をだ?」
「えっとね…。ハーレイ、今の野菜スープって、レシピは変えていないよね?」
「レシピ?」
 ハーレイは怪訝そうな顔をした。
「なんだそれは? いったい、何の話だ」
「野菜スープのシャングリラ風だよ」
 いつものスープ、とぼくはハーレイの鳶色の瞳を見詰めて尋ねた。
「この間も作りに来てくれたよね? その後で気が付いたんだけど…。見た目は前の野菜スープとおんなじなのに、前よりも凄く美味しいんだ。…なんで?」
「前って、その前に作ったヤツか?」
「ううん、前のぼくが飲んでた野菜スープよりもずっと美味しいんだよ」
 ハーレイ、レシピは変えていない、って最初の時に言ったのに…。
 だから変えないだろうと思っていたのに、知らない間に変えちゃった?
 ぼくが気付いていなかっただけで、ずいぶん前から変わっちゃってた…?



「なるほどなあ…。そういうことか」
 それで作る所が気になり始めて、欲張って俺が料理する所を見たくなったな?
 ハーレイの言葉は図星だったから、ぼくはコクリと頷いた。そしたらハーレイは「はははっ」と可笑しそうに笑って、ぼくの頭をクシャクシャと撫でた。
「うんうん、お前は実に可愛い。欲張りな所も可愛くていいな」
 それから嬉しそうに目を細めながら。
「俺はレシピを変えていないぞ、前のお前との約束だしな? あの味がいいと言っただろうが」
「でも…。でも違うんだよ、ホントのホントに変えてない?」
「ああ、変えていない」
 お前に黙って変えはしない、とハーレイはキッパリ断言して。
「それでも味が違うと言うなら、そいつは多分…。地球のせいだな」
「地球?」
 どうして地球のせいなんだろう。
 圧力は料理に関係するけど、シャングリラの気圧は地球と同じに調整してあった筈。座標すらも知らなかった地球だけれども、アルテメシアの気圧は地球のそれと同じ。地獄だったアルタミラの気圧も地球と同じで、それが人間が暮らす惑星の基本。
 ナスカの空気は希薄だったと今のハーレイに聞いたけれども、そのナスカなら与圧しないと味が変わるだろうけど、地球のせいで味が変わるだなんて…。



 変な話だ、と首を傾げて考え込んでいたら、ハーレイは「分からないか?」と窓のガラスを軽く叩いた。窓の外に何かあっただろうか?
「見ろ、本物の地球の太陽だろうが。味を変えたのは地球の光だ、それに水と土だ」
 シャングリラの中とは違うんだ、とハーレイが穏やかな笑みを浮かべる。
「人工の光や本物の風が吹かない畑で育った野菜は、どんなに上手に育てても違う。…俺たちにはそれが普通だったし、それが野菜の味だと思っていたんだが…」
 ナスカの野菜は美味かったんだぞ。
 ゼルはトマトを投げ捨てたりもしたが、本当はとても美味かった。
 本物の地面で育った野菜は、まるっきり味が違うんだ。
「ナスカじゃ空気が薄すぎたからな、露地栽培は出来なかったが…。それでも格段に美味かった。それがどうだ、今じゃ本物の地球の太陽を浴びて育った野菜を使った野菜スープだ」
 美味くないわけがないだろう?
 前のお前が食ってた野菜の何十倍、いや、何百倍も美味い野菜を贅沢に使うんだからな。
「そっか…。美味しいのは地球のせいだったんだ…」
 野菜スープの味を変えたのはレシピじゃなくって、使われた野菜の味だった。
 前のぼくが焦がれた青い地球。前のぼくたちが生きていた頃には何処にも無かった青い地球。
 蘇った地球の水と大地と、降り注ぐ本物の地球の太陽とで育った野菜。
 前のぼくが夢見た、青い地球の野菜。
 ハーレイが言う通り、それが美味しくないわけがない。
 野菜スープのシャングリラ風は野菜も味の決め手なのだし、美味しい野菜なら美味しく出来る。わざわざレシピを変えなくっても、最高の味が出来上がる。
 そうか、地球か、と、ぼくは納得したのだけれど…。



(…地球だけじゃないよ)
 青い地球で育った美味しい野菜。
 地球の大地で地球の水を吸い上げて、太陽の光をふんだんに浴びて育った野菜。
 前のぼくの夢だった地球で採れた野菜は、野菜スープのシャングリラ風の最高の調味料だけど。最高の旨味成分だけれど、それだけじゃない。
 他にもっと、もっと大切な調味料があったと気が付いた。
 野菜でさえも信じられないくらいに美味しく育つことが出来る、青い水の星、地球。
 その地球の上に、前のぼくが焦がれた青い地球の上に、ハーレイと二人。
 人が皆、ミュウとなって争いもSD体制も無くなった平和な宇宙に、ハーレイと二人。
 ハーレイと一緒に生まれ変わって来て、毎日のように地球の上で会える。
 まだ二人一緒には暮らせないけれど、今日みたいに会えて、二人で幸せな時間。
 そんな暮らしが、そんな毎日が野菜スープを美味しくするんだ。
 ハーレイが作ってくれる野菜スープのシャングリラ風を、シャングリラに居た頃よりも、もっと美味しく、ずっと美味しく…。
 そう、この幸せな日々と時間が何にも勝る調味料。
 地球で育った野菜よりももっと大切で素敵な、美味しくするための調味料…。



「ハーレイ、野菜スープが美味しくなったの、野菜が美味しいからだけじゃないよ」
 分かったんだよ、と大発見をハーレイに笑顔で話した。
 ハーレイと二人で地球に居るから、野菜スープは美味しくなった、と。
 前の生での何倍も何十倍も、ううん、何百も何千倍も。
「絶対、ハーレイと一緒だからだよ。ぼくがとっても幸せだからだよ」
「なるほどな…。今でもそうなら、俺と結婚した暁には更に美味くなるというわけか」
 ハーレイが「そういうことだな?」と訊いてくれたから、「うん」と大きく頷いた。
 大好きなハーレイと結婚したら。
 一緒に暮らせるようになったら、野菜スープのシャングリラ風は今よりももっと美味しくなる。ハーレイが作ってくれる所も、きっと見られるようになる。
 もっとも、せっかくハーレイと暮らしているのに、あまり寝込みたくはないけれど。
 それでも身体の弱いぼくだから、やっぱり寝込んでしまうんだろう。そしてハーレイがスープを作ってくれる。野菜スープのシャングリラ風を、地球の美味しい野菜を使って。



(…そうだ、野菜…!)
 素晴らしいアイデアが閃いたから、ぼくはハーレイに提案した。
「野菜スープを作るんだったら、庭で作った野菜だったらもっと美味しいと思わない?」
 ハーレイと二人で美味しい野菜を育ててみたい。
 もちろん沢山は作れないだろうし、野菜スープを何回か作れば無くなってしまいそうだけど。
「ふむ。…お前用の野菜スープ専用の野菜を育てる畑か」
 いいかもしれんな、とハーレイの唇に楽しげな笑みが浮かんだ。
「農作業は健康にいいんだぞ? お前も丈夫になるかもしれんな、野菜スープが要らんくらいに」
 そうなったら野菜は二人で食うか。
 サラダも美味いが、野菜の料理は実にバラエティー豊かだからな。
 煮て良し、焼いて良し、炒めて良しだ、とハーレイはパチンと片目を瞑った。
「野菜スープが要らなくなったら、美味い料理を食わせてやろう。四季折々の野菜もあるしな」
「えっと…」
 それって、野菜スープが要らなくなることが前提だろうか?
 ぼくが丈夫にならなかったら、ハーレイ御自慢の野菜料理の出番は無いの…?
 ちょっと困る、と縋るような目でハーレイを見たら。
「なんだ、普通に野菜料理も食いたいのか? 野菜のスープだけじゃなくて、か」
「うん…。ハーレイの得意料理を食べてみたいよ」
「よし。なら、頑張って早く大きくなってくれ。結婚したら食わせてやるから」
「うんっ!」
 結婚して一緒に住むようになったら、ハーレイお得意の野菜の料理。
 ぼくとハーレイと二人で育てた庭の野菜で、野菜スープだけじゃなくって野菜の料理…。



(…どんな料理が食べられるのかな?)
 野菜スープが今よりもグンと美味しくなるに違いない、ハーレイと二人で暮らす家。
 その家の庭で採れた野菜でハーレイが料理をしてくれる。前のハーレイより料理の腕が上がったハーレイ。こだわりの豪華弁当だって作れるハーレイ。
(きっと最高に美味しくて、幸せになれる料理なんだよ)
 ハーレイと二人で食べられるのなら、簡単な料理でもきっと美味しい。
 トウモロコシを茹でただけでも、ジャガイモをふかして塩やバターで食べるだけでも。
 凝った料理も素敵だけれども、食材の良さを生かした素朴な料理も美味しいと思う。
 野菜スープのシャングリラ風はそういう料理で、前のぼくのお気に入りだったから。今のぼくも大好きで、レシピが変わったかもしれないと考えただけで寂しくなったくらいだから。
(…レシピが変わってなくて良かった…)
 ハーレイとぼくとを遠い昔から繋いでくれていた絆の料理の、野菜スープのシャングリラ風。
 恋人同士になるよりも前から、ハーレイが作ってくれていたスープ。
 今も変わらないレシピが嬉しい。
 それなのに美味しく変えてしまった、青い地球の恵みと幸せという名の調味料。
 いつかハーレイと暮らす家で味わう時には、もっともっと美味しく感じるだろう。
 寝込んでしまってもきっと幸せ、ハーレイと一緒に居るというだけで最高に幸せな未来のぼく。
 庭にはハーレイと二人で作った家庭菜園があるに違いない。
 何を植えようか、育ててみようか。ねえ、ハーレイのお勧めは、なに……?




         美味しさの秘密・了

※地球で育った野菜の美味しさ。野菜スープのシャングリラ風も美味しくなるのです。
 素朴すぎる野菜スープなだけに、味の違いが分かりやすいのかもしれませんね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv





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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv





今年も夏休みが始まりました。柔道部の合宿と、その期間に合わせたジョミー君とサム君の璃慕恩院での修行体験ツアーも無事に終わって、まずはマツカ君の山の別荘へ。高原の澄んだ空気の中、ハイキングや乗馬なんかをしているのですが。
「…帰ったらまた卒塔婆書きか…」
キース君が夕食の席でボソリと。シェフが腕を奮ったチキンの香草焼きに卒塔婆はまるで似合わない発言です。とはいえ、キース君はシャングリラ学園特別生であると同時に元老寺の副住職。お盆を控えたこの時期、卒塔婆書きは欠かせない仕事なのでした。
「卒塔婆、残っているのかい?」
大変だねえ、と会長さん。
「ノルマを決めてキチンと書いてると聞いていたけど、また増えたとか?」
「ああ、いつものパターンというヤツだ。親父が押し付けてきやがった。お前は遊びに出掛けるんだから親孝行しろとか抜かしやがって!」
よくも、とキース君が唸るパターンももはやお馴染み。卒塔婆書きはハードな作業だけあって、アドス和尚はあの手この手でキース君に自分のノルマを押し付けようとするのです。断ったら最後、雷が落ちるか禁足令が出て外出禁止か。キース君にとってこの時期はまさに地獄と言えるかも…。
「しかも今年は卒塔婆の数が多いんだ! 親父め、最初からそういうつもりで適当にサボッていやがったらしい。俺が合宿に行っている間、一本も書いていないな、あれは」
もう嫌だ、と泣きの涙のキース君。
「家に帰ったら卒塔婆がズラリと待っているんだ…。あれだけの数、いくら俺でもお盆の直前までかかるだろうな。棚経までに一日休みが取れるかどうか…。しかも今年は猛暑なんだ!」
卒塔婆書きでスタミナが尽きたら棚経の途中で倒れてしまう、とキース君は嘆いています。
「おふくろは栄養ドリンクを買っておくとか言ってるんだが、それでもな…。サムかジョミーが資格さえ取ってくれていたなら、少しは手伝って貰えるのに…」
「あー、悪い…。俺もお盆の卒塔婆はまだ書けないしよ」
頑張れよ、とサム君が励まし、ジョミー君も。
「ほら、棚経はフォローするからさ…。どうせ今年も行かされるんだし、倒れた時には救急車くらい呼んであげるよ」
「……シャレになってないぞ……」
本当に救急車の世話になりそうだ、とぼやきつつチキンを頬張るキース君。この様子では山の別荘ライフの間に英気を養って卒塔婆書きに挑んで貰うしかなさそうです。マツカ君も「明日からスタミナがつく料理にしますか?」とか訊いていますし、そっち方面に期待ですよね…。



別荘のシェフはキース君のためにメニューに工夫をこらしてくれました。高原らしく軽やかでお洒落な料理が多かったのが食べ応えのある内容になり、ガーリックなども多めに使用。それでもキース君の帰宅後のノルマが減るわけではなく、明日は帰るという夜になって。
「…なんで寺なんかに生まれたんだ…。世間はお盆休みだというのに、俺の家は!」
どうしてこうなる、と夕食後に集まって遊ぶ広間の畳に突っ伏すキース君。
「ガキの頃から俺の家にはお盆休みなんか無かったんだ! 同級生は田舎に帰ったり家族旅行に行っていたのに、俺の家ときたら棚経だの墓回向だの施餓鬼供養だの…。それでも今よりはマシだった! 今の俺にはお盆と言えば卒塔婆書きに棚経、墓回向…」
それに施餓鬼、と指折り数えて。
「文字通り逆さ吊りの日々がこの先、一生…。俺は一生、逆さ吊りなんだぁーっ!!!」
「「「…逆さ吊り?」」」
それは穏やかじゃありません。卒塔婆書きのノルマを果たせなかったらアドス和尚に逆さ吊りにされてしまうのでしょうか? 御本尊様の前とかで…。それはコワイ、と震え上がった私たちですが、会長さんがクッと笑って。
「おやおや、ジョミーはともかくサムも知らない? 逆さ吊りと言えばお盆のことだよ」
「「「は?」」」
「お盆の正式名称が盂蘭盆会というのは知ってるだろう? これはお釈迦様の国の言葉のウラバンナを漢字で表したもので、ウラバンナの意味が逆さ吊り。逆さ吊りの苦しみに遭っているような人を救う法要ってことなんだな」
その由来は知りませんでした。なるほど、それで逆さ吊り、と…。卒塔婆書き三昧に棚経三昧、猛暑の中の墓回向とくれば気分は逆さ吊りかもです。ですが、キース君が元老寺に生まれた上に副住職となると、頑張ってとしか言える筈も無く。
「キース先輩、逆さ吊りですか…。今年も頑張って下さいね」
シロエ君が励まし、スウェナちゃんも。
「どうせ一生やるんでしょ? その内に慣れてなんとかなるわよ」
「そうだぜ、それに何十年か待っててくれたら俺とジョミーも手伝うからよ」
それまでの間は我慢しろな、とサム君が背中を叩いたのですが。
「…何十年…。俺の悩みはまさにソレなんだ、終わる見込みが無いんだからな!」
次の代に譲るという選択肢が無い、とキース君は拳を握りました。
「年を取らないから跡継ぎの子供も生まれない。俺は一生、親父の下でこき使われて逆さ吊りの苦しみを味わい続けるだけなんだーっ!!」
「「「………」」」
言われてみればそうでした。後継者に譲って楽隠居って道、キース君には無かったですね…。



気の毒だとは思いましたが、こればっかりは救う方法がありません。サム君とジョミー君が助っ人に使えるレベルになるまで待って貰うより道は無し、と私たちは苦悶しているキース君に背を向け、広間の机に用意されていたお菓子や軽食に手を伸ばしました。
「…相当追い詰められてるね、あれは」
重症だよ、と会長さんがポテトチップスを口に放り込み、サム君はサンドイッチをガブリと。
「仕方ねえよな、お寺に生まれちまったんだしよ…。待っててくれれば俺とジョミーが」
「誰もやるなんて言っていないし!」
ぼくは坊主はお断り、とカナッペを口に頬張ったままでジョミー君がモゴモゴ。
「やりたきゃサムが一人で行ってよ、ぼくは絶対行かないからね!」
「…お前なあ…。それこそ一生逃げちゃいられねえぜ、ブルーの弟子だろ?」
人間、諦めが肝心だぜ、とサム君がジョミー君の肩を掴んだ時です。
「これが諦めていられるかぁーっ!」
背中を丸めて落ち込んでいたキース君がガバッと勢いよく身体を起こして。
「俺は諦め続けてきたんだ、それこそガキの頃からな! 寺を継がないと言ってた時でも、おふくろに頼まれて墓回向だけは手伝ってきた。お盆が無かった年は一度も無いんだ、一度くらいは俺はお盆から逃げ出したい!」
「「「えっ?」」」
「しかし今更逃げると言っても、卒塔婆書きは待ってくれんだろう。それは書く! だが棚経だの墓回向だの施餓鬼供養だのが続く期間に俺は休みが欲しいんだ! 世間一般で言うお盆休みが!」
人並みのお盆というヤツが欲しい、と叫ぶキース君は我慢の限界に達してしまったみたいです。副住職がお盆を放棄って、アドス和尚が許さないでしょうに…。
「うーん…。いわゆる病欠かい?」
それなら文句は言えないよね、と会長さんが口を挟みました。
「和尚さんが棚経の途中で熱中症でギブアップというケースを聞いたことがあるよ。どこのお寺も忙しい時期だし、急に代役は見付からない。後日、檀家さんに謝って回ったみたいだね。…そんな感じで仮病を使えば休めるかと」
「病気で寝込めばお盆休みにならんだろう! 親父にブツブツ文句を言われるし、おふくろにも迷惑をかけそうだ。…要するに俺はお盆の期間は元老寺から離れていたいんだ!」
「家出するとか?」
後の始末が大変だけど、と会長さんが尋ねると、キース君はバッと畳に土下座。
「頼む、誰か名案を考えてくれ! 親父に文句を言われずに済んで、お盆をスル―する方法を! このとおりだ!」
頼む、と頭を下げられましても。…アドス和尚は怖いんですから、誰も片棒担ぎませんよ…。



「…合法的にお盆脱出ねえ……」
普通の方法じゃまず無理だろうね、と重々しく告げる会長さん。
「お寺の責任は重いんだ。檀家さんのお布施で食べさせて貰って、住まいに困らないのも檀家さんのお蔭。その代々の檀家さんたちを供養するのがお盆ってヤツで…。そこを疎かにして逃げようだなんて、それこそ坊主失格だけど」
「…分かっている。だが、本当に俺のお盆は一生続くんだ! 三百年以上も生きて来たあんたには大したことではないかもしれんが、俺はまだ悟りの境地に至ってもいない若造なんだ!」
それに、とキース君は続けました。
「俺はウッカリ真面目に副住職になってしまったが、同期のヤツには自由を謳歌しているヤツらも大勢…。ついこの間も「海外の聖地巡りをしています」という暑中見舞いが送られてきて…」
日焼けして楽しそうな笑顔だった、と羨ましそうに遠い目をするキース君。そっか、大学を卒業したら誰でもすぐに副住職とか住職ってわけじゃないんですね。
「…なるほどねえ…。それは少々こたえるかもね」
卒塔婆書きに忙殺されている君にはキツかったかも、と会長さんが相槌を打てば、キース君も。
「そうだろう? 他にも自転車で旅をしているヤツとか、バックパッカーで世界一周だとか…。見聞を広めるためと言われれば文句は言えんが、世間から見ればいい御身分だ」
俺ももう少し遊びたかった、と肩を落とすキース君に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「えとえと…。キース、高校生だし、学校あるでしょ? でも夏休みとかもちゃんとあるよね」
「…そこなんだよな…。普段は高校生でいられるという所で油断した。兼業で副住職をやれと言われてOKしたが、猶予を貰えば良かったんだ…」
せめて同期の連中が自坊に腰を据えるまで、とキース君は自分の判断の甘さを呪っています。とはいえ、副住職になってしまった以上はもはや手遅れ。会長さんの言葉通りに責任ある身で、お盆を放棄して逃亡だなんて檀家さんに対する裏切りとしか…。
「…本当に俺が甘かった。甘かったんだが、一度でいい。一度きりでいいから、逆さ吊りから逃げて自由なお盆というのは叶う筈もない夢なんだろうか…」
俺は一生この道なのか、と縋るような目で見回されても、助け舟なんか出せません。キース君を匿えそうな場所をこの国どころか世界のあちこちに持っているであろうマツカ君だって、困惑しきった顔でキース君と目を合わさないようにしてますし…。
「……やっぱり駄目か…。俺は一生、このままなんだな…」
明後日からまた卒塔婆書きか、とキース君が自虐的な笑みを浮かべた時です。
「…方法はまるで無いこともない」
会長さんが口を開きました。もしかして何か手がありますか? シャングリラ号で宇宙の彼方へ高飛びするとか、それなら追手もかかりませんよね!



普段は二十光年の彼方を拠点にしているサイオンを持った仲間たちの宇宙船、シャングリラ号。夏休みは大規模な人員交代の時期で地球の近くに来ています。そこへ逃げ込めば絶対安全、アドス和尚も手も足も出ないというわけで。
「シャングリラ号に乗せちゃうわけ?」
いい手だよね、とジョミー君が言い出し、シロエ君も。
「ですよね、期間限定のボランティアとかなら誰も文句は言えませんよ。シャングリラ号の順調な航行に必要となれば駆け付けなくっちゃいけませんしね」
キース先輩なら交代要員に相応しい能力が充分にありそうです、と太鼓判。確かに真面目なキース君なら、ブリッジクルーは流石に無理でも様々な部門で役立ちそうで。
「シャングリラ号かよ、あそこなら安全圏だよな!」
でもってゲスト扱いでのんびり出来るぜ、とサム君が頷きつつ会長さんに。
「キースがシャングリラ号に行くんだったら、俺も一緒に行きてえなあ…。キースが元老寺にいねえってことは俺もジョミーも棚経の手伝いがねえってことだし、暇だしよ」
「あっ、ぼくも! ぼくも乗りたい!」
棚経が無いならシャングリラ号、とジョミー君も挙手。こうなってくると私たちだって便乗しない手はありません。あの船はとても快適ですから、乗り込んで素敵なお盆休みをゲットです。我先に手を挙げ、私も、ぼくも、と頼み込んだまではいいのですけど。
「…誰がシャングリラ号に乗せるって言った? まあ、君たちは歓迎だけどね」
唇に笑みを湛える会長さん。
「「「は?」」」
シャングリラ号じゃないんですか? だったらキース君を何処へ逃がすと?
「合法的に、と言っただろう? 副住職としての責任を放棄しようと言うんだ、なまじのことではアドス和尚が納得しない。檀家さんの方は例え理由が大学の同期と海水浴でも快く許してくれるだろうけど…。まだ若いしね」
それでもアドス和尚は駄目だ、と会長さんは再度繰り返して。
「頑固で融通の全く利かないアドス和尚を納得させて、なおかつキースの副住職の面子を保つ方法は一つ! 元老寺のお盆より格の高い行事を正面からガツンとぶつけるだけだよ」
「「「…正面から?」」」
どんな行事があると言うのだ、と顔を見合わせる私たち。キース君は暫し考えてから。
「…璃慕恩院へ行けと言うのか? 確かに親父からは逃れられるが、それ以上に!」
親父よりも厳しい先輩方が目を光らせている、と逃げ腰になるキース君。けれど会長さんはニッコリと笑い、人差し指を立てて。
「此処に居るだろ、璃慕恩院の老師も頭を下げる伝説の高僧、銀青が……ね」
それでどう? と尋ねる会長さん。えーっと、それってどういう意味?



「早い話がぼくの家でさ、お盆期間の見習いってことで」
表向きは、と会長さんは計画を語り始めました。
「銀青が指導するとなったら、アドス和尚の頭の中では「箔がつく」ってことになるだろう。檀家さんが無いから棚経は無くても、他に色々と学ぶべきことが多そうだ。喜んで送り出してくれるさ、「失礼の無いよう頑張ってこい」と」
そして指導の実態は…、とニヤリと笑う会長さん。
「シャングリラ号で過ごそうなんて話も出てたし、みんな揃って泊まりにおいでよ。お盆はいつも暇にしてるし、たまには帰省で人が溢れて民宿みたいになるお盆気分もいいものさ」
「かみお~ん♪ それって楽しそう! お客様だぁ~!」
いっぺんやってみたかったんだ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」も飛び跳ねています。お盆と言えば帰省ラッシュに里帰り。田舎なんかだと何家族もが帰省してきて民宿並みだと聞きますし…。
「そうか、あんたの家でお盆の見習いか…。それなら親父も文句は言えんな」
「いい理由だろ? ぼくから一筆書いてあげるよ、御子息とサムとジョミーをお預かりして面倒見ます、と」
任せておけ、と会長さんは宙から巻紙と硯箱などを取り出し、早速墨を磨り始めました。それから間もなく見事な筆さばきで書かれた手紙が出来上がり…。
「はい、キース。これを持って帰ってアドス和尚に渡したまえ。迎え火を焚く十三日から御子息をお借りして指導をさせて頂きます、と書いといた。サムとジョミーもセットでね。…お盆の行事を最後まで見せたいのでお返しするのは十七日です、と」
これでお盆の期間中は君は自由だ、と告げられたキース君の嬉しそうな顔といったら! ジョミー君も万歳三唱です。例年、暑さや疲労や膝の痛みと戦ってきた地獄の棚経が今年は無し。代わりに会長さんの家でのんびりとくれば、もう極楽というもので。
「やったあ、今年はブルーの家だあ! 棚経無しだぁーっ!!」
手放しで喜ぶジョミー君の隣で、キース君が頭を深々と。
「…礼を言う。寺に生まれて初めてお盆の無い生活だ。…なんだか夢を見ている気分だ」
「それはどうも。ぼくの名前が役に立つなら嬉しいよ」
その代わり卒塔婆書きは頑張って、という会長さんの激励に表情を引き締めるキース君。
「勿論だ。十三日までにはフリーになるよう、誠心誠意、努力する。その代わり、お盆はよろしく頼む」
「了解。君の人生で多分最初で最後のお盆休みだ、思い切り羽を伸ばすことだね」
有意義なお盆を過ごしたまえ、と微笑む会長さんにキース君はピシリと正座し、もう一度頭を下げました。伝説の高僧、銀青様にしか出来ない究極のお盆脱出方法。私たちもキース君と一緒のお盆休みは最初で最後になりそうですから、悔いのないよう過ごさなくっちゃ!



キース君のお盆脱出という前代未聞の計画を秘めて山の別荘ライフは終わりました。会長さんが書いた手紙が功を奏してジョミー君にもサム君にも棚経を控えての呼び出しはかからず、キース君はせっせと卒塔婆書き。夏休みを満喫している間に十三日が訪れて…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
卒塔婆書きを終えたキース君も交えて面子が揃った私たち七人グループは朝から会長さんが住むマンションへ。最上階に着いて玄関のチャイムを鳴らすと「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎えです。
「今日からみんなでお泊まりだよね! ブルーも楽しみに待ってるんだよ♪」
入って、入って! と促されてリビングに行くと、クーラーの効いた部屋で会長さんがソファに座ってティータイム中。
「やあ、来たね。ぶるぅも朝から張り切っているし、何と言ってもキースのためのお盆休みだ。のんびりゆっくり楽しまなくちゃ。…最低限の行事はするけど」
アドス和尚の手前もあるし、と殊勝なことを口にする会長さん。
「とりあえず今日は迎え火かな。ぼくにも一応、供養するべき家族はいるから」
「「「………」」」
アルタミラで亡くなった家族の人か、と私たちは少ししんみり。会長さんの故郷の島、アルタミラは火山の爆発で海に沈んでしまいました。家族を一人残らず亡くした上に、島の人たちも全滅で…。その人たちの供養のために会長さんはお坊さんになったと聞いています。
「あ、そんなつもりで言ったわけじゃあ…。ずっと昔の話だからね」
気にしないで、と会長さんが笑顔になって、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飲み物の注文を取ってくれました。アイスティーにアイスコーヒー、オレンジスカッシュ。お昼までは少しあるから、とレモンの皮をくりぬいた中に詰まったレモンババロアも。
「…これが普通のお盆休みか…」
いいもんだな、とキース君。例年だったら明日の早朝に始まる棚経に向けての準備と、裏山の墓地を訪れる檀家さんのための墓回向とで汗だくになっている頃だそうです。
「喜んで貰えて嬉しいよ。ぼくの名前が役に立ったなら何よりだ」
お盆休みをたっぷり満喫したまえ、と会長さんが応じた時。
「…ぼくも満喫したいんだよね」
「「「???」」」
あらぬ方から声が聞こえてバッと振り返る私たち。紫のマントが優雅に翻り、ソルジャーが姿を現しました。
「今日からお盆休みだってね、ぼくにも是非!」
素敵なお盆休みをよろしく、とパチンとウインクするソルジャー。なんでソルジャーが出て来るんですか? 第一、ソルジャーの住んでる世界にお盆休みなんかがありましたっけ?



例年、夏休みになると必ずやって来るのがソルジャー夫妻。マツカ君の海の別荘で結婚して以来の伝統です。結婚記念日と重ねたいからと日付指定で押し掛けて来ますが、海の別荘行きはまだ先の話。なのにどうしてソルジャーが…? 会長さんもそこは疑問に思ったらしく。
「君の休暇はまだだろう? 海の別荘に来るんだからさ」
「それは勿論。だから今日のは別件で!」
お盆休みが欲しいんだよね、とソルジャーは空いていたソファに腰掛けました。おもてなし大好き「そるじゃぁ・ぶるぅ」がアイスティーとレモンババロアを用意し、ソルジャーは至極満足そう。
「これこれ、これが醍醐味ってね。今日からおもてなし三昧になるんだろう?」
お盆ってそういうものなんだってね、と語るソルジャー。
「キースがお盆休みって連呼してたし、ノルディに訊きに行ったんだ。ぼくの世界には無い行事だし、ライブラリーの古い本を調べてみてもお盆はあってもお盆休みは載っていなくて」
「……そうだろうねえ…」
お盆休みはこの国限定、と会長さんは疲れた口調。
「仏教のある国にお盆はあっても、お盆休みの習慣は無い。君の世界の記録には無くて当然かと」
「そうなんだ? …とにかくノルディに質問したら、「時間があるなら体験なさるといいですよ」って言われたんだよ。明日からいいかな、ぼくとハーレイ」
「「「は?」」」
会長さんだけでなく私たちまでが「は?」と返すしかありませんでした。お盆休みの体験はともかく、何処からキャプテンが湧くのでしょうか?
「かまわないかなって訊いてるんだよ、ぼくたちの休暇は調整したし」
海の別荘の分が近いから休暇をもぎ取るのに苦労した、とソルジャーは大袈裟に両手を広げて。
「ホント、ゼルたちはうるさいったら…。今の時点で特に気になる案件は無いし、人類側との小競り合いもない。休暇が少々増えたくらいで困りはしないと思うんだけどね?」
それに今回はぶるぅを残しておくんだから、と話すソルジャー。
「海の別荘の方はぶるぅもセットで休暇を取るから、不安というのはまだ分かる。お盆休みはぶるぅが残るし、万一の時の初動は問題ないかと…。ぶるぅはパワー全開で三分は保つし、三分あったら態勢も充分整うからね。…というわけで、お盆休みをもぎ取って来たさ」
「…もぎ取った?」
まさか明日から来る気なのでは、という会長さんの問いに、ソルジャーは。
「決まってるだろ、お世話になるよ。気心の知れた実家に帰ってのんびりするのがお盆だってね? ぼくに実家というのは無いけど、此処が実家のようなものだとノルディがね…」
ついでに夫婦でお邪魔するのが本筋だとか…、と一方的に喋りまくったソルジャー、おやつを食べ終えるなり「それじゃ帰省の準備があるから」とお帰りに。その帰省先っていうのが此処なんですか、そうですか…。



よりにもよってソルジャーどころかソルジャー夫妻が押し掛けて来るらしいお盆休み。紫のマントが空間の向こうに消え失せた後も私たちは呆然としていましたが。
「…おい。なんでこういうことになるんだ?」
俺の休みはどうなるんだ、とキース君。
「お盆休みを満喫するとか言ってやがったな、あいつ、いったい何をする気だ?」
「知らないよ、ぼくに訊かれても!」
ぼくも青天の霹靂なんだ、と会長さんがソルジャーが消えた辺りを見詰めて。
「ハーレイも連れて来るとか言っていたっけ…。おまけに帰省のつもりらしいし、上げ膳据え膳を希望と見たね。…いわゆる夫婦で里帰りのパターン」
「ちょ、ちょっと…」
それってぼくたちの立場の方は、とジョミー君が声を上げ、シロエ君も。
「キース先輩のお盆休みは無かったことになっちゃうんですか? 一生に一度のチャンスとやらがフイになる気がするんですけど…」
「……残念ながらそのパターンかな……」
相手が悪すぎ、と額を押さえる会長さん。
「だけどブルーが夫婦で帰省を気取ってるんなら、まるで望みが無いこともない。お盆休みの花は嫁と姑、それに小姑のバトルだという話もある。幸か不幸かブルーたちは未だにぶるぅのママの座を決定してないようだし、そうなってくれば二人とも嫁だ」
「「「嫁?」」」
「そう、嫁。そして此処が実家だと言うならぼくの立場は姑かな? 君たちは小姑として派手にバトルを繰り広げたまえ。気配りが足りないとか、当家の家風にそぐわないとか」
「…そ、それは……」
相当に無理がありすぎないか、とキース君が口ごもりながら。
「家風も何も、あいつは普段から自由に出入りしているぞ? 突っ込みどころを探せと言われても、そう簡単には見付からない気が…」
「普段ならね」
今はお盆だ、と即座に切り返す会長さん。
「お盆の行事から逃亡してきたキースには少々申し訳ないけど、この時期、やる家はやってることだし…。ぼくも長年適当にやってきたんだけれども、今年は真面目にお膳を作ろう」
「「「お膳?」」」
「そう、お膳。御先祖様にお供えする食べ物のお膳を朝昼晩の三食分! これの手伝いを嫁にやらせることにする」
まあ見ていろ、とほくそ笑んでいる会長さんですが、果たして上手く行くのでしょうか?



ソルジャー夫妻の来訪を明日に控えて戦々恐々としつつ、私たちは夕食前に「そるじゃぁ・ぶるぅ」がお仏壇の前にお供えするお膳を用意するのを見学しました。御飯はともかく和え物に煮物などなど本格的です。しかも全てが精進料理。
「えっとね、お料理はきちんと作らなくっちゃいけないけれど…。そのままのサイズだと器からはみ出してしまうでしょ?」
だから材料は小さく切るんだよね、との解説つきで出来上がったお膳はミニサイズ。それでも品数が多いですから作る作業は大変そうです。これを明日からソルジャー夫妻が?
「そういうこと!」
厳しくチェックしていびりまくれ、と会長さん。
「いいかい、どの器に何を盛り付けるかも大切なんだよ。そこも突っ込むポイントだね。おまけに精進料理なんていうモノ、ブルーたちはロクに分かってない筈!」
妙な素材を使おうとしたらネチネチと…、と小姑の心得を叩き込まれて、お膳をお供えしたら迎え火の時間。本物の火を焚くと火災報知機が鳴り出しますから、これは香炉で代用です。会長さんの家族やアルタミラの人たちに手を合わせた後に夕食で。
「夕食の前に確認しとく。明日からはブルーたちが来る。お客様面して後片付けもせず、のんびりまったり過ごしてるようなら小姑攻撃を繰り広げたまえ。気が利かないとか、なってないとか…。ブルーは駄目でもハーレイの方は確実に音を上げるかと」
そして早めにお帰り頂く、との会長さんの作戦はなかなかに使えそうでした。ソルジャーの面の皮の厚さは天下一品、会長さんでも太刀打ち出来ないレベルです。しかしキャプテンは真面目な上に気配りの人。嫌味攻撃を続けていれば早々に帰ってくれるかも…。
「いいね、とにかく粗探し! キースの平穏なお盆休みのためにも努力あるのみ!」
会長さんの檄に「頑張りまーす!」と拳を突き上げる私たち。最初で最後かもしれないキース君の貴重なお盆休みを根性で守ってみせますとも!



翌朝、キース君は大学に入って以来初めてだという棚経の日の朝寝坊なるものを満喫しました。大学に入学した年からアドス和尚のお供で棚経を始めましたから、この日は遅くとも午前四時起床。それが日の高くなる頃まで寝放題で。
「あ~、よく寝たぜ。…なんだ、もう朝飯を食ってるのか?」
早いんだな、と起きて来たキース君が席に着き、みんなでワイワイ朝御飯。元老寺では棚経の日は精進料理と決まっているため、ジョミー君とサム君にも久しぶりの肉OKな日というわけです。
「今日も思い切り暑そうだよねえ…。棚経、休めて良かったなぁ…」
毎年こんな中を肉も食べられずに棚経だもんね、とジョミー君。ベーコンエッグやソーセージなどをお皿に山盛り、もちろんキース君とサム君も。
「美味いな、禁断の肉だと思うと美味さの方も倍増だ。お盆だなんて夢のようだぜ」
世間にはこんなお盆があるのか、とキース君の感激はひとしおでした。朝食の後はリビングに移動し、ゆったり過ごしていたのですけど。
「…えっ、ブルー? …まさか…」
なんで、と会長さんが窓際の方へ。何ですか、ソルジャーがどうかしましたか? 空間移動で部屋に直接来るかと思えば外へ来たとでも言うのでしょうか?
「なんだ、どうした?」
外か、とキース君が窓の方へ行き、私たちも揃って見下ろせば。
「…あ、あれ…。あそこの車…」
会長さんが指差す先に深いグリーンの高級そうなスポーツタイプの車が停まっていました。やがてドアが開き、助手席側から私服のソルジャーが下りて、運転席から…教頭先生? いえ、雰囲気が違います。あれは私服のキャプテンでは? そのキャプテンがドアに鍵をかけていますけど…?
「…此処まで運転してきたんですか?」
そもそも誰の車ですか、とシロエ君がうろたえ、会長さんが。
「ノルディに借りてきた車らしいね、ブルーの得意そうな思念が零れてる。運転技術もノルディのをコピーしたようだ。ついでに免許証はこっちのハーレイのを元に偽造したらしい」
何故そこまで、と会長さんが読み取れない部分をあれこれ推測している内にチャイムが鳴って。
「こんにちは。お盆休みの間、よろしくね」
「…お世話になります。こちらは皆さんで召し上がって下さい」
お口に合えばよろしいのですが、とキャプテンが差し出すお菓子の箱。なんと手土産つきですか!
「ノルディに教わって来たんだよ。手土産はあった方がいいですねって話だったし」
ノルディお勧めのゼリー詰め合わせ、とソルジャーはニッコリ。この段階ではいびれないかも…。



「そもそも、なんで車で来たわけ? ノルディのだろ、アレ!」
全然理解出来ないんだけど、という会長さんの問いに、ソルジャーは。
「…お盆休みについて調べたんだよ、こっちでね。帰省ラッシュが名物らしいけど、混んだ電車は御免だし…。道路渋滞もちょっと困るな、と思っていたらアルテメシアは逆に空くんだって?」
ノルディに聞いた、と胸を張るソルジャー。
「郊外はともかく中心部とかは空きますよ、と教えて貰って、車を貸しましょうかと言われたんだ。いつもドライブはノルディとだしねえ、ハーレイの運転で帰省したら気分が出ますよ、って」
「そうなのです。御親切に運転技術もブルー経由で私に教えて下さいまして」
この免許証はシャングリラの潜入部門で作らせました、とキャプテンが顔写真入りの免許証を。元の免許証の持ち主の教頭先生、一時的に消えていたことも全く御存知ないそうです。
「…ブルーを乗せて初めての運転ということで、少し緊張しましたが…。慣れればシャングリラの舵を握るより簡単でしたよ」
乗り心地のいい車ですし、とキャプテンが褒める車はエロドクターが何台も所有している中の一台。教頭先生の愛車とは比較にならない高級車で。
「うん、助手席でも快適なんだ。…というわけでさ、お盆休みの間は借りる約束」
ハーレイとドライブに行くんだよ、とソルジャーは夢見心地です。
「これで実家に顔も出したし、これから早速行ってくる。お昼頃には戻って来るから、ぼくとハーレイのお昼をよろしく」
「ちょっと待った!」
その前に、と会長さんが引き止めた理由は当然、お昼の精進料理のお膳作りだったわけですが。
「え、何? …あっ、そうか…。ぼくとハーレイが泊まる部屋だね、ダブルベッドの部屋ってあったっけ? 無ければ広い部屋にベッドを入れておいてよ、ベッドのアテはあるだろう?」
マツカの別荘から瞬間移動で借りるとか…、とソルジャーの喋りは一方通行。
「ついでに荷物も運んでおいて。ぼくとハーレイの分でこれだけ!」
二つしか無いから楽勝だろう、と床に置いてあったボストンバッグを指差すと、ソルジャーはクルリと背中を向けました。
「行こうよ、ハーレイ。まずはノルディのお勧めの喫茶店! フルーツパフェとパンケーキとが美味しくってさ…。お前は甘いものが苦手だけれど、コーヒーも美味しい店だから!」
お前の運転する車で乗り付けられたら最高だよね、とキャプテンと腕を絡め合ってイチャつきながら出て行ってしまったバカップル。えーっと、お膳はどうなるのでしょう? 色々と注文つけられまくりは私たち小姑組のようですが…?



エロドクターの愛車を借りて帰省してきたソルジャー夫妻は歯の立つ相手ではありませんでした。午前中のドライブから戻ったかと思うと昼食もそこそこに午後のドライブ。いっそ渋滞に巻き込まれてしまえ、と誰もが思ったのですけれど。
「…ダメだね、ブルーが最強のカーナビなんだよ。渋滞している筈の所も裏道を縫ってスイスイ走るし、向かう所に敵なしってね」
おまけに下手に文句をつけられない、と歯軋りをする会長さん。
「…お膳作りを押し付けていびる計画、しっかりバレていたらしい。二人して「できる嫁」を演出するべく、夜のお膳作りに備えて下準備中」
「「「えっ?」」」
「ノルディの家にはシェフがいるだろ? ちゃっかり頼んで最高の出来の精進料理を詰め合わせて貰う魂胆らしい。盛り付ける器の解説付きで」
「…それは最強と言わないか?」
いびりようがないぞ、とキース君が呻けば、マツカ君も。
「プロが相手じゃ無理ですね…。素材もキッチリ選ぶでしょうし」
「そうなんだよねえ…。おまけにさ…」
より困るのはこっちの方、と会長さんが深い溜息を。
「いびりまくったら宿泊先を変えるようなんだ。ハンドルの向くまま、気の向くままにラブホテルをハシゴするつもり。…それくらいだったら腹は立つけどダブルベッドを用意するしか…」
「「「………」」」
いびったら最後、エロドクターの高級車でドライブがてらラブホテル巡りと来ましたか! それはマズイ、と誰もが青ざめ、シロエ君が。
「…ナントカに刃物ってよく言いますけど、バカップルに車でしたか…」
「今回限りにしといて欲しいよ、ぼくとしてもね」
キースのお盆休みの筈だったのに何処で方向を間違えたんだか…、と会長さんの嘆き節。
「だけどキースのお盆休みはキッチリ満喫させてあげたい。あの二人、お盆休みにかこつけてドライブ三昧でデートをしたいだけらしいから、いびるのはやめてヨイショしておこう」
そうすれば上げ膳据え膳で迷惑なだけの帰省組、と説明されて、お盆の帰省でイラつくという迎える側の気持ちってヤツが少し分かった気がします。
「くっそぉ…。俺はお盆休みのそんな部分まで求めたわけではないんだが…!」
違うんだが、とキース君が唸った所で勝手知ったるソルジャー夫妻が玄関の扉を開けて御帰還。
「ただいまぁ~! お膳だったっけ、用意してきたよ!」
「ええと、どちらにお供えすればいいのでしょう? 盛り付け方も聞いて来ました」
明日の朝の分もぬかりなく用意しております、とクーラーボックスを抱えて笑顔のキャプテン。キース君の長年の夢で一生に一度かも知れないお盆休みは、小姑気分を味わいながら過ごす期間になりそうです。でも貰えただけマシというもの、キース君、今年はお盆休みを楽しんで~!




         休みたいお盆・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとございます。
 キース君の念願だったお盆休みですけど、ソルジャー夫妻のせいで悲惨なことに。
 美味しい話はそうそう無いのか、キース君に運が無さすぎるのか…。

 でもってシャングリラ学園番外編は、去る11月8日で連載開始から7周年でした。
 まさか7年も続くとは思いもしませんでしたよ、こんな阿呆な連載が…。
 来月は第3月曜更新ですと、今回の更新から1ヶ月以上経ってしまいます。
 よってオマケ更新が入ることになります、12月も月2更新です。
 次回は 「第1月曜」 12月7日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、11月は、巨大スッポンタケをもう一度、とソルジャーが…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv




「ブルー? ママはお買い物に行って来るから」
 学校から帰って来て、制服から家で着る服に着替えて。階段を下りてダイニングに入ったら声を掛けられた。普段ならぼくが学校に行っている間に済ませる買い物。今日はお客さんが来ていて、行けなかったみたい。
「おやつは其処よ。飲み物は自分で好きなのを入れて」
 食べ過ぎちゃ駄目よ、と念を押してママは出掛けて行った。ダイニングで一人でおやつの時間。お客さんに出したケーキの残りなんだろう、マロンクリームたっぷりのモンブラン。
(えーっと…)
 モンブランはお腹が一杯になりやすいから、小さめに切ったらいいのかな?
 いつも食べるケーキがこのくらいだから、モンブランはそれより小さめ…、と切ってお皿の上に乗っけて。お湯を沸かして紅茶も淹れた。ミルク多めでお砂糖も多め。
(モンブランは甘いものね)
 甘いミルクティーは思ったとおりによく合った。美味しく食べて、ミルクティーも飲んで。
(…もうちょっとだけ食べようかな?)
 ほんの一センチか二センチくらい。それなら食べ過ぎにならないと思う。モンブランはとっても美味しかったし、もう少し…。
(ちょっとくらいなら平気だよね?)
 晩御飯さえきちんと食べれば大丈夫。よし、とナイフを取りに行こうとしたら。



(えっ?)
 ゴツン、と変な音がした。コツン、だったかもしれないけれど。
 ダイニングの窓の方から聞こえた。庭が見えるように、ぼくの背丈よりも大きなガラスを嵌めた掃き出し窓が並んでいる辺り。
(…ゴツン?)
 何の音だろう、と見に行って窓から覗いてビックリ。
 窓ガラスにぶつかってしまったらしくて、外のテラスに小鳥がコロンと転がっていた。仰向けに転がって動かない小鳥。白いお腹と小さな足はピクリともしない。
(死んじゃった?)
 ぼくが慌てて窓を開けたら、その音で気が付いたんだろう。小鳥はなんとか起き上がった。
 だけど、まん丸。
 身体中の羽根がプウッと膨れてしまって、ふくら雀みたいにまん丸な小鳥。
(…縮むのかな?)
 多分、驚いて羽根が逆立っているんだとは思うけれども。
 直ぐに縮むと思った小鳥の身体は縮まなくって、まん丸のままで突っ立っている。クルンとした目はちゃんと開いているけれど、動きもしないし、瞬きもしない。
(もしかして打ちどころが悪かったとか…?)
 お医者さんに連れて行くべきだろうか、と眺めていて不意に「あっ」と思った。
(青い鳥だよ)
 白いお腹をしていた鳥の他の部分は瑠璃色の羽根に覆われていた。
 艶々と輝く、目の覚めるような綺麗な青。空の青よりもっと深い青。
 前のぼくが憧れた地球よりもずっと、青い青い羽根を纏った本当に本物の青い鳥…。



 遠い遠い昔、前のぼくがシャングリラで暮らしていた頃。
 シャングリラの中だけがぼくたちの世界だった頃。
 なんとか余裕が出来てきたから、本とかを読める時間が取れるようになった。
 それまでは本を読むと言っても必要な知識を仕入れることが最優先で、娯楽としての読書の時間じゃなかった。それぞれが得意とする分野の本だけを懸命に読み込んだ時代。
 そういう時代がどうにか終わって、気の向くままに色々な本を読めるようになったから。ぼくは普通の本も読んだけど、童話なんかにも手を出した。成人検査とアルタミラでの過酷な人体実験で失くしてしまった昔の記憶が蘇るかも、という気がしたから。
 幼かったぼくが何を読んだのか、どんな本や絵本を好んでいたのか。小さな欠片でも思い出してみたくて、折に触れては絵本や童話を手に取っていた。
 そんな日々の中、出会ったSD体制が始まるよりも前に書かれた物語。小さな兄妹が夢の世界で幸福の象徴の青い鳥を探しに出掛ける話。
 前のぼくが幼い頃にそれを読んだのか、そうでないのかは分からなかったけれど。
 青い鳥に無性に心を惹かれた。
 幸せを運んで来てくれる青い鳥。青い地球の色を宿した鳥。



 シャングリラで青い鳥を飼いたくなった。
 青い地球まで行けるようにと、幸福を運んで来てくれるようにと。
 だけど…。
「そんなものは何の役にも立たんわ」
 まだ若かったゼルにバッサリと切って捨てられた。
「本当に幸福を運んで来るなら使えるだろうが、ただの青い鳥なんか厄介なだけだ」
 …ゼルが言う通り。
 青い鳥は何の役にも立たない。餌を食べるだけで世話が必要なだけ。
 それでも欲しくて、あれこれと調べてみたのだけれど。
(…卵が美味しいとか、そういう青い鳥がいれば良かったんだけどね?)
 役に立つ青い鳥は見付からなかった。
 青い色の鳥が沢山いることは分かったけれども、どれも生活に役立つものじゃなかった。小鳥を飼っても子供たちしか喜ばないだろうし、公園に放すわけにもいかない。
 前のぼくの憧れの青い鳥。幸せを運ぶ、地球と同じ色の羽根をした青い鳥。
 いくらソルジャーでも、我儘を言って青い鳥を飼うことは褒められたことじゃなかったから。
(…諦めるしかなかったんだよね、青い鳥…)
 その代わり、ナキネズミを開発した時に青い毛皮をしたのを選んだ。
 開発途中では白とか茶色の個体もいたんだけれども、毛皮の色で能力に差は生じないとの説明を聞いて青い毛皮の個体を推した。絶対に青がいいと思った。
 だって、幸せの青い鳥と同じ青だから。
 ミュウに幸福を運んで来てくれるようにと、願いをこめて青を選んだ。
 そういうわけで、ミュウが創り出した思念波を操る生き物、ナキネズミは青い毛皮を纏うことになった。幸せの青い鳥の代わりに…。



(前のぼくは青いナキネズミが精一杯だったんだけどね?)
 ぼくはテラスでまん丸になったままの青い小鳥を見詰めた。
 流石は地球だ。
 ぼくがおやつを食べてる所へ、青い鳥が降って来るなんて。
(ホントに本物の青い鳥だよ)
 お腹は白いけど、他は全身、見事な瑠璃色。染めたわけじゃなくて、自然の瑠璃色。
 ぼくの所へ飛び込んで来てくれた青い鳥。
 前のぼくの憧れだった幸せの青い鳥。
 ハーレイにも見せてあげたいな、と思うけれども…。
(…もし来てくれても、学校の帰りに寄ってくれる時間は夕方だしね…)
 そんな時間まで飛び立てなかったら小鳥はおしまいだと思う。
 暗い中では目が見えない鳥も多いって聞くし、ねぐらに帰れなくなるとか、迷うとか…。森には小鳥を餌にしているフクロウとかも棲んでいる。見付かってしまったらそれでおしまい。
(早く飛べるようになるといいんだけれど…)
 ぼくのサイオンがもっとマシなら「元気出してね」って言ってあげられるかもしれないのに。
 お医者さんに連れて行くべきかどうか、調べられるかもしれないのに。
 ママにもそういうサイオンは無い。それに、そのママは今、買い物で留守。
(……どうしよう……)
 青い小鳥は嬉しいけれども、死んでしまったらそれどころじゃない。
(家に鍵を掛けて、お医者さんまで連れて行く?)
 だけど、小鳥を診てくれるお医者さん。
 獣医さんに行けば診てくれるだろうけど、ぼくは獣医さんに行ったことがない。
(…人間の病院と同じかな? お願いします、って言えばいいのかな…)
 とにかく連れて行ってみようか、と入れ物を探すことにした。
 ペット専用のケージなんかは家に無いから、普通の箱でもいいんだろうか。
(えーっと、空き箱…)
 何処にあるかな、と立ち上がった途端にチャイムの音。
 お客さんだろうと思ったのに…。



「はーい!」
 返事したぼくは、お客さんが誰か分かって目を見開いた。
「えっ、ハーレイ!?」
 大慌てで玄関の扉を開けて飛び出し、門扉を開けに庭を走って行った。チラリと見たガレージにハーレイの車。生垣の向こう、門扉の脇でハーレイが軽く右手を上げている。
「すまんな、お前しかいなかったのか?」
「うん。ママは買い物」
 門扉を開けて、ハーレイが庭に入って来て。
 玄関まで二人並んで庭を歩きながら、ぼくはハーレイに尋ねてみた。
「なんで早いの? まだ夕方にもなっていないよ」
「今日は特別だ。柔道部がお疲れ休みというヤツなんだ」
 昨日は大会だったからな、と話すハーレイと一緒に玄関から入る。ハーレイは靴を脱いで上がる途中で、先に上がっていたぼくを見上げてニッと笑った。
「お前と一緒に帰って来てもいいくらいだったな、この時間だとな」
「そうだね、学校で待ってれば良かったのかも…」
 待っていればハーレイの車に乗せて貰って家まで帰って来られたかもしれない。
 それはちょっぴり残念だけれど、こんなに早い時間にハーレイが家に来てくれるなんて…。
(もしかして、これが青い鳥の幸せ?)
 ホントに幸せを運んで来たよ、と嬉しくなった。
 でも…。
 その青い鳥は、テラスでまん丸。
 動かないままで、ふくら雀みたいに膨れてまん丸。
 お医者さんに行こうとしてたんだっけ、と思い出した。
(ハーレイが来てくれたことは嬉しいけれども、命懸けで幸せを運ばなくてもいいんだよ…)
 それじゃ、ぼくと同じ。
 ミュウの未来を守るためにメギドを沈めて死んでしまった前のぼくと同じ。
 そこまで頑張らなくてもいい。
 いくら幸せの青い鳥でも、そこまで頑張ってくれなくていい……。



 きっとぼくは悲しそうな顔になったんだろう。ハーレイが「どうした?」と訊いて来た。
「どうしたんだ、ブルー? 急に元気が無くなったぞ?」
「……ぼくの青い鳥……」
「青い鳥?」
 ハーレイは怪訝そうな顔をして問い返したから、ぼくはハーレイの腕をグイと掴んだ。
「こっち! 大変なんだよ、ぼくの青い鳥…!」
 大きな身体をグイグイ引っ張って、ダイニングの窓際へ連れて行った。
 青い小鳥はやっぱり、まん丸。
 膨らんだままでテラスに突っ立っている。そう、魂が抜けてしまったみたいに。
「ハーレイ、これ…」
 指差すと、ハーレイは「オオルリか」と小鳥の名前を口にした。
「なるほど、ガラスにぶつかったのか…。映った景色を本物の景色と間違えたんだな」
「…オオルリって言う鳥なんだ?」
「ああ。綺麗な鳥だが、鳴き声の方も有名なんだぞ? ウグイスにも負けない綺麗な声だ」
 しかし、この状態では鳴くどころではなさそうだな…。
 どれ、とハーレイが窓際に屈み込んで大きな手を差し出しても、青い小鳥は動かない。膨らんだ身体も縮みはしないし、ハーレイの手が真上に来たって動かない。
「うーむ…」
「大丈夫そう?」
「さてな…。俺もこの手のサイオンってヤツは、だ…」
 あまり得意じゃないからな、と言いながらも褐色の手からふわりと淡い緑のサイオン。そうっと青い小鳥をサイオンで包むようにして、直接触らずに暫く探っていたけれど…。
「どうやら驚いているだけのようだ。人間で言えば腰が抜けたといった所か」
 深刻なダメージは受けていない、と聞かされて心の底からホッとした。
 命懸けで幸せを運んで貰ったとしたら、申し訳ないなんてものじゃないから。
 ぼくに幸せをくれたんだったら、青い鳥にも幸せになって欲しいから…。



 ほうっと息をついて膨らんだ小鳥を眺めていたら、ハーレイが訊いた。
「それにしても、お前…。この程度のことも出来なくなっちまったのか? こいつがどんな状態かくらい、前のお前なら一瞬で分かった筈なんだがな?」
「うん…」
 とことん不器用になってしまった、ぼくのサイオン。前のぼくと同じタイプ・ブルーのくせに、何ひとつ満足に出来やしないし、思念だって上手く紡げやしない。だから小鳥を見詰めて呟く。
「小鳥が大丈夫か調べるどころか、青い鳥が来ることも分からなかったよ」
「青い鳥って…。そりゃ青いだろう、オオルリだぞ?」
「そうじゃなくって、青い鳥だよ。幸せの青い鳥、覚えていない?」
「そっちの方の青い鳥か…」
 前のお前だな、とハーレイは懐かしそうな瞳になった。
「お前、飼いたがっていたっけなあ…。シャングリラで」
「うん。思い出したんだよ、この鳥を見たら。…青い鳥だ、って」
 前のぼくが欲しかった青い鳥。
 憧れの地球と同じ青い色をした、幸せを運ぶ青い鳥。
 でも、青い鳥は何の役にも立たなかったから、ナキネズミで我慢するしかなかった。
 青い毛皮のナキネズミを飼って、ミュウの幸せを祈ることしか出来なかった。
 欲しくて欲しくてたまらなかった青い鳥。
 その青い鳥が降って来た。
 今のぼくの前に空からコツンと、あるいはゴツンと、窓のガラスにぶつかって。



 オオルリという名前を持っているらしい青い鳥。
 ウグイスに負けない綺麗な声で鳴くとハーレイに聞いた青い鳥。
 腰を抜かしているだけだったら、お医者さんには連れて行かなくてもいい。それに…。
「ねえ、ハーレイ。この鳥、飼ってもかまわないかな?」
 ぼくの所へ飛び込んで来てくれた青い鳥。
 前のぼくが欲しくて欲しくてたまらなかった青い鳥。おまけに地球の青い鳥。
 飼っていたら幸せを沢山貰えそうだから、飼ってみようと思ったのに。
「そいつは駄目だぞ。自然の鳥は自然のままに…、だ」
 自然の中で生きるのが一番なんだ、とハーレイにピシャリと言われてしまった。
「お前だって籠に閉じ込められたら嫌だろう? 籠じゃなくってシャングリラでも……だ」
 シャングリラの中しか無かった時代より今の方がずっと幸せだろうが。
 違うのか、ブルー?
「…そうだけど…。でも、せっかく青い鳥が家まで来てくれたのに…」
「幸せの青い鳥だと言うなら、なおのこと自由にさせてやらんと駄目だと思うぞ」
 こいつは幸せを配達中の青い鳥なんだ。
 お前の所の用事が済んだら、次の幸せを配りに行くんだ。
「それなのに、お前、まだ幸せをくれって欲張るつもりか? 家に閉じ込めて」
「……そっか……」
 ハーレイの言葉で思い当たった。
 ママが買い物でいない間に、空から降って来た青い鳥。
 青い小鳥が降って来たから、いつもより早く来てくれたハーレイと一緒に幸せな時間。
 ハーレイと二人きりで過ごせる場所は家の中ではぼくの部屋だけで、ダイニングで二人きりでの時間が持てるだなんて一度も考えたことが無かった。一階のダイニングもリビングもパパとママも一緒の食事やお茶の時間に使う場所。ハーレイと二人きりで独占するなんて不可能な場所。
 そのダイニングでハーレイと二人、青い小鳥を見守っている。
(これ以上、欲張っていたら駄目だよね…)
 もっと幸せが欲しいだなんて願ったら神様に叱られそうだ。
 幸せなんて数えるほどしか持っていなかった前のぼくなら大丈夫だけど、今のぼくだと青い鳥を自分で飼いたいだなんて充分、欲張り。
 飛んで来てくれただけで幸せなんだし、空へ返してあげなくちゃ…。



 ふくら雀みたいに膨らんでいた鳥は、少しずつ縮んで普通になって。
 ぼくとハーレイとが見ている間に羽を何回かパタパタさせてから飛び立っていった。テラスから真っ直ぐ青い空へと。瑠璃色の羽根より薄い色をした、まだ充分に明るい空へと…。
「良かったあ…。まだフクロウには見付からないよね」
「そうだな、もう一軒くらい幸せを配達しに行けるんじゃないか?」
 窓ガラスにぶつからなければな。
 お前みたいな欲張りに捕まっちまって、籠に入れられなければいいな。
「酷いよ、ぼくは入れなかったよ!」
「どうだかな? 俺が来なかったら入れたんじゃないか?」
「箱に入れて獣医さんに持ってくだけだよ、大丈夫か診て貰うだけだってば!」
 言い返したものの、もしもハーレイが来なかったなら。
 獣医さんに連れて行って、診察して貰って、飼い方を訊いて。
 もしも鳥籠を扱っていたならその場で籠に入れて貰って、餌も買って帰っていたかもしれない。獣医さんに鳥籠が無かったとしたら、帰り道でペットショップに寄って鳥籠と餌。
(…飼っちゃってたかもね…)
 だって、前のぼくが欲しかった青い鳥。
 ぼくだって見たら欲しくなったし、飼いたくなったことは間違いないから。
 そうして青い鳥を飼っていたなら、家に来たハーレイが鳥籠を見付けて訊いて来るんだ。「その青い鳥はどうしたんだ?」って。
(欲張りめが、って呆れられるね…)
 ぼくが大切に世話をしていても、ハーレイはきっと呆れた顔をしただろう。
 青い鳥が欲しかった前のぼくよりも幸せなくせに、まだ幸せが欲しいのかと。
 幸せを一人占めしようと思って青い鳥を捕まえて飼っているのか、と。
(…呆れられるより、逃がしてあげて多分正解だったんだよね?)
 ハーレイを早い時間に連れて来てくれた青い鳥。
 ハーレイと二人、ダイニングで過ごす幸せをくれた青い鳥…。



 青い鳥が飛んで行った後、ママが帰って来て、ハーレイが早く来ていることにビックリして。
「ブルー、ハーレイ先生にお茶とお菓子をお出しした?」
「えっ?」
 訊かれるまでもなく、テーブルを見れば一目瞭然。
 モンブランは置いてあるけれど、食べた後のお皿はぼくが使った分だけ。紅茶のカップもぼくの分だけで、ハーレイのお皿もカップも無い。
 ママは恐縮してバタバタとお茶の用意を始めて、ぼくとハーレイは二人で二階へ。ダイニングはママも居る普段の空間に戻ってしまった。
 解けてしまった、青い鳥が運んで来てくれた幸せの魔法。
(青い鳥も何処かへ飛んでったしね…)
 だけど、いつもと違う場所でハーレイと二人きりで色々と話せたから。
 青い鳥が欲しかった前のぼくの思い出話も出来ちゃったから。
(…やっぱり幸福の青い鳥だよ)
 間違いないよ、と確信した。
 ぼくの所へ飛び込んで来てくれた青い鳥。
 幸せを運んで来てくれそうだからと、前のぼくが欲しがった青い鳥…。



 窓の外の木の枝を覗いてみたけど、青い小鳥の姿は無かった。
 ぼくに幸せを配り終わって次の家へと飛んで行ったか、明日に備えて眠るために森に帰ったか。
(…もう一度ぼくに幸せってことはないよね、今日の間は…)
 明日はどうかな、と考えていたら、ハーレイに「こらっ」と軽く頭を小突かれた。
「お前、まだ青い鳥がいないか探しているな? 欲張りめが」
「分かっちゃった?」
「俺の方を見ないで庭ばかり見てれば馬鹿でも分かる」
 それで、青い鳥の方がいいのか?
 俺よりもそっちがいいと言うなら今日は早めに帰ることにするが。
「そ、それは無しだよ、せっかく早く来てくれたのに!」
「なら、欲張るな。今日は充分幸せだろうが、お前というヤツは本当に…」
 青い鳥を飼おうとするとか、また来ないかと探しているとか。
 何処まで欲が深いんだか、とハーレイは呆れているんだけれど…。
(えっと、オオルリだったっけ?)
 元気に森へ飛んで行ってね、ぼくの青い鳥。
 今度は窓にぶつかったりせずに、また幸せを運んで来てね。
(そして綺麗な鳴き声も聞けるといいんだけれど…。ハーレイが来てくれている時に)
 ハーレイに欲張るなって言われてるのに、また欲張りになっているぼく。
 自分でも酷いって思うけれども、青い鳥は前のぼくが欲しかった夢の鳥だから…。
(……欲しくなっても仕方ないよね?)
 幸せも、幸せを運んで来てくれる青い小鳥も。
 空から降って来た幸せの鳥。
 青い鳥、またぼくの家に飛んで来てくれるといいんだけれど…。
 ぼくの幸せの青い鳥。鳥籠には絶対閉じ込めないから、いつか鳴き声をぼくに聞かせて。
 ハーレイと二人で聞ける時間に、庭に来て綺麗な声を聞かせて。
 お願い、ぼくの幸せの小鳥。瑠璃色の羽根をした、まん丸だったオオルリ……。




          青い鳥・了

※ブルーに幸せを運んで来てくれた青い鳥。無事に飛んで帰れて良かったですよね。
 前のブルーが飼いたがっていた青い鳥が落ちてくるのも、地球ならではの幸せかも…。
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(わあ…!)
 通り雨が上がった後での下校時間。バス停で帰りのバスを待っている時に、見上げた方向の空に虹を見付けた。七色に輝く大きな虹。さっきの通り雨のせいだろう。もう青空が出ているから。
(綺麗な虹…)
 それに、と虹が架かった場所を眺めて嬉しくなる。ぼくの家とハーレイの家がある辺りの真上を虹のアーチが横切っていた。大きな虹だから何ブロックも離れていたって一跨ぎで、同じ虹の下。まるで神様がセットで架けてくれたみたいに。
(もっと小さな虹だったら…。ぼくの家とハーレイの家とが繋がったのかな?)
 そういう虹もきっと素敵だ。虹の橋を渡ってぼくの家からハーレイの家へ。ううん、二人同時に自分の家から虹の橋を渡って、真ん中で出会って抱き合ってキス。
(…今だと「キスは駄目だ」って、叱られそうだけどね?)
 ついでに虹の橋、渡れないってことは分かっているけど。あれは細かい細かい水の粒にお日様の光が反射して出来る自然の魔法で、渡れもしないし触れもしない。でも…。
(あれを渡ってハーレイの家まで行けたらいいのになあ…)
 渡りたいな、と虹の橋を見ていたらバスが来た。乗り込んで、ちょうど空いていたから虹の橋が見える方の窓際に座る。大きな虹はハーレイの家とぼくの家とを繋ぐ代わりにセットで上を跨いでいるわけだけれど、あの虹でぼくたちの家が繋がっていたら、と夢を思い描く。
(ハーレイの家には行っちゃいけないって言われてるけど、橋が架かったら話は別だよ)
 虹の橋を渡って来たら着いちゃったんだ、と庭とかに下りたらハーレイだってきっと断れない。お茶くらい飲ませてくれるだろう。
(橋が消える前に急いで帰れ、とは言いそうだけどね?)
 だけど、今、見えている大きな虹の橋。まだ消えそうになくて綺麗な七色。消えるまでに充分にお茶を飲めそうで、もしかしたらお菓子も食べられるかも…。



(…虹の橋、渡って行きたいなあ…。ぼくの家からハーレイの家まで)
 今のぼくは前のぼくみたいに空を飛ぶことが出来ないから。
 瞬間移動だって出来やしないし、一度だけメギドの夢を見た時にハーレイのベッドまで瞬間移動した事件はあったけれども、あれ以来、再現不可能なまま。またいつか行けると思っていたのに、ぼくは全然ハーレイの家まで飛んでいけない。
 ハーレイは「瞬間移動で俺の家まで飛んじまったし、もう大丈夫だと安心したんだろう」なんて笑って言ってる。ついでに「お前、美味しい思いをしたしな? 下心があると無意識の内は二度と飛べんな、残念ながら」と言われてしまってグウの音も出ない。
 だって、美味しい思いをしたことは本当だから。ハーレイのベッドの上で目が覚めて、朝御飯はハーレイの手作りで。それからハーレイの車で送ってもらって、ぼくの家まで夢のドライブ。
(…またやりたい、って思ってるからダメなんだろうな、瞬間移動…)
 ハーレイの家まで飛んでしまった時は、素敵な目標も夢も無かった。メギドで死んでしまう夢を見てしまって、今のぼくは幻なのかと思った。死んだソルジャー・ブルーの魂が地球へ行きたくて紡いでいる夢。その夢がぼくの居る世界なのかもしれない、と。
(ホントのホントに怖かったんだよ、何もかも消えてしまいそうで…)
 あれは夢だと言って欲しくて、ハーレイに会いたいと泣きながら眠った。気付いたらハーレイのベッドの上に居て、瞬間移動をしたのだと知った。
(あのくらい怖い思いをしないと飛べないんだろうな…)
 ハーレイの家まで飛びたいけれども、怖い思いはしたくない。メギドの悪夢は今だって見るし、夜中に泣きながら目を覚ますことも何度もあるから、これ以上は勘弁して欲しい。
(…虹の橋なら怖くないしね?)
 神様が気まぐれに架けてくれる橋。それがぼくの家とハーレイの家とを繋いでいたなら、渡って出掛けても叱られはしない。七色に輝く虹の橋を見て渡りたくならない方がおかしい。
(ハーレイの家まで虹の橋を渡って行ってみたいよ)
 水の粒と光で出来た虹の橋。歩いて渡るなんて無理だってことは分かっているけれど、それでも虹の橋を渡ってハーレイの家まで出掛けたかった。
(あんなに綺麗な橋なんだもの…)
 渡って行ければきっと幸せ、ハーレイの家に下りて行ければきっと幸せ。
 空に架かった大きな虹はバスが家の近くのバス停に着いても、まだ見事なアーチを描いていた。
(うん、お茶を飲む他にお菓子を食べる時間もありそうだよね?)
 虹を渡ってハーレイの家に出掛けて、お茶とお菓子と。それから虹の橋を渡って帰るんだ。
(…そういう虹があればいいのに…)
 渡りたいな、と家に帰ってからも何度か窓から虹を眺めた。消えるまでの間、何度も、何度も。



 シャングリラでは見られなかった虹。
 常に雲海に潜んでいたから、虹なんか見られるわけが無かった。
 ぼくたちが保護したミュウの子供たちは画用紙に虹の絵を描いていたけれど、それは子供たちがまだ地上に居た頃に目にした虹の絵。養父母と暮らした幸せな時代の暖かな記憶。
 アルタミラの研究所で成人検査よりも前の記憶を奪われてしまった前のぼくたちは、虹を見た記憶も持っていなければ、本物の虹も見られなかった。
 ソルジャーとして外の世界へ出ることのあったぼくは、アルテメシアの虹に出会ったこともあるけれど、ハーレイや長老たちはシャングリラの中で生きていたから見ていない。他のミュウたちも虹を見られる機会が無いから、「今日、虹を見たよ」とは告げられなかった。
 シャングリラの一角に設けられていた展望室。本当だったら外の景色が窓いっぱいに広がる筈の展望室の向こうは、いつだって、雲。昼の間は真っ白な雲、夜になったら闇を含んだ重たい灰色。
 展望室に太陽の光は射しはしないし、虹だって見えはしなかった…。
(ハーレイだって本物の虹は一度も見てない筈だよね…)
 おやつを食べた後、二階のぼくの部屋に戻って勉強机の前で考える。
 机に飾ったフォトフレームの中、ぼくの隣で笑顔のハーレイ。左腕に今のぼくが両腕でギュッと抱き付いた写真。この写真のハーレイは今日のぼくみたいに虹を何度も見てるだろうけど…。
(…前のハーレイは見ていないよね?)
 前のぼくが外で見て来た虹の記憶は前のハーレイに何度も見せた。ぼく一人だけの秘密のままで隠しておくより、二人で共有したかったから。
 ハーレイはぼくの恋人で、誰よりも大切だったから…。
 幸せな記憶を分かち合いたくて、虹を見た時の記憶をハーレイにだけは渡していた。二人きりの青の間で手を握り合って、あるいは額をくっつけ合って。
 その度に「綺麗ですね…」と呟いていたハーレイ。
 本物の虹は見られないまま、死の星だった地球の地の底で死んだハーレイ…。
(ハーレイも、ゼルも、ヒルマンも…。エラもブラウも本物の虹は知らないままだよ…)
 やっぱり、ぼくだけ「虹の橋を渡りたい」なんて夢を見てたら駄目なんだろうか?
 それとも生まれ変わったからには時効だろうか、などと考えていたらチャイムが鳴った。
(…お客さんかな?)
 窓の方へ行って見下ろしてみたら、門扉の前にスーツのハーレイ。ガレージを見るとハーレイの車が入ってる。
(来てくれたんだ…!)
 学校の帰りに寄ってくれたんだ、と胸が高鳴る。
 今日の夕食はハーレイと一緒。パパとママも一緒の夕食だけれど、ハーレイと一緒…。



 夕食までは少し時間があるから、ママがハーレイをぼくの部屋まで案内して来た。いつも二人で向かい合わせで座るテーブル、其処に紅茶とクッキーが少し。夕食に差し支えない程度のおやつ。ハーレイと二人、紅茶を飲みながらクッキーを摘み、「あのね」とぼくは虹の話をした。
「とても綺麗な虹だったんだよ、それに大きかった」
「ほほう…。俺は二重の虹というヤツも見たことがあるが、お前はどうだ?」
「二重の虹!? ハーレイ、見たの?」
 写真でしか知らない二重の虹。ハーレイは何回か見ているらしい。
「ダテに年は食ってないからな? お前の二倍と十年分だ。お前もこれから見られるさ」
 運が良ければ、と付け加えられたけれども、いつか見られるといいな、と思う。ハーレイの隣で一緒に見上げられたらいいな、と夢が膨らんだ所で肝心のことを思い出したから。
「えっと…。今のハーレイは二重の虹も見てるけれども、前のハーレイ、知らないよね?」
「何をだ?」
「虹だよ、空に架かった本物の虹。…ハーレイもゼルたちも見ていないよね…」
 シャングリラは雲海の中だったから。虹なんか何処からも見られるチャンスが無かったから…。
「いや、本物の虹なら見たが? 俺も、もちろんゼルたちもだ」
「えっ!?」
 ぼくは驚いて目を見開いた。
 シャングリラから虹は見られなかった筈だというのに、ハーレイは虹を見たと言う。しかも他の長老のみんなも見ていただなんて、いったい何処で…?
 どう考えても分からないから、疑問をぶつけることにした。
「虹って…。何処で?」
「ナスカさ」
 お前の知らない赤い星だ、とハーレイの答えが直ぐに返って来た。
「前のお前は降りもしなかったし、第一、眠ったままだったしな? どんな星だったのかもろくに知らずに逝っちまったが、今のお前はそこそこのことは知ってるだろうが」
 あれこれ話してやったしな、という言葉どおりに思い出話は色々と聞いた。前のぼくが深く深く眠っている間にナスカで起こった様々なこと。
 若者たちと長老たちとの対立なんていう深刻な話から、他愛ない日々の出来事まで。
 そうか、ナスカなら虹も見られただろう。恵みの雨が降り注ぐから、とジョミーがナキネズミに「レイン」と名付けた、あの星ならば。



「…ハーレイ、ナスカで虹を見たんだ…。ゼルやヒルマンも」
「俺たちだけじゃないぞ? もれなく全員見てる筈だな。フィシスだって多分、見ただろう」
 最初の間はナスカへ降りなかったと聞いているフィシス。
 ジョミーが遠い昔に入植した人類が残した肖像画と墓碑とを見せてから後、降りるようになっていたらしい。肖像画と墓碑はハーレイも知っていて、何度か足を運んだそうだ。
 今のぼくより少し小さいか、同じくらいの年頃の子供と両親を描いた肖像画。遠い昔の展望台を思わせる廃墟と化した家の直ぐ前に、白いプラネット合金の墓碑。肖像画の子供のための墓碑。
 其処に刻まれた、風化して消えそうな文字に心を打たれたと聞いた。「誰が私に言えるだろう。私の命が何処まで届くかを」。ハーレイには前のぼくの思いそのままだと感じられた、その言葉。SD体制よりも遙かな昔の詩人、リルケによって書かれた詩の一節。
 ハーレイも案外ロマンチストだと思ったのだけれど、その墓碑があったナスカの虹。今の地球の虹とよく似ていたのか、あんまり似てはいなかったのか…。
「ハーレイ、ナスカの虹は地球のと似てた?」
「そりゃまあ、虹は七色だしな? しかしなあ…。如何せん、空の色がな」
 ラベンダー色だったというナスカの空。
 アルテメシアでも地球でも空は青いから、ぼくにはちょっと想像出来ない。ハーレイの前世での記憶を見せて貰ったことはあるけれど、なんだか不思議な色の空。
 あの空に虹が架かったとしたら、紫なんかは見えにくいのかな?
「いや、見えにくくはなかったな。ちゃんと七色の虹だった」
「何回か見たの?」
「ああ。雨上がりによく架かっていた」
 虹が目当てで雨の降りそうな日を狙って視察に降りたこともあった、とハーレイは笑う。
 そして散歩に出掛けたのだ、と。
「…散歩?」
 ぼくはキョトンと首を傾げた。
 虹はともかく、雨の降りそうな日に散歩だなんて…。普通は晴れた日じゃないんだろうか?



 散歩は天気のいい日が似合う。暑すぎも寒すぎもしない、穏やかに晴れた日。強い日射しに弱いぼくでも、散歩をするなら晴れた日が好き。ぼくくらいの年の男の子はあまり被らない、大きくてつばの広い帽子を被って家の近くを歩いてみるとか。
 今のハーレイだって、ぼくの家まで歩いて来る日は晴れた日が多い。晴れた日の散歩が好きだという証拠。それなのに、前のハーレイはナスカで雨の降りそうな日を狙っての散歩。虹が出たって地面は濡れるし、絶対に歩きにくいと思う。どうにも不思議でたまらない。
「ハーレイ、前は雨の日の散歩が好きだったの?」
「そういうわけではないんだが…。虹を見たいなら雨が降りそうな日が狙い目だしな」
 雨が上がって虹が架かったら出発だ、とハーレイは鳶色の瞳に懐かしそうな光を湛えて。
「空気が薄いからシールドを張って、それから虹を目指すんだ。…何度も何度も虹の橋のたもとを探しに行った」
「なんで?」
 虹の橋のたもとって、何だろう?
 七色に輝く虹の端っこ。それを探してどうするんだろう?
「ん? 虹の橋のたもとには宝物が埋まっているという話だからな?」
 ヒルマンがそう言ったんだ。ナスカで初めての虹が話題になった時に、皆に説明してくれた。
 だから宝物を探しに出掛けた。
 虹が架からないと行けないからなあ、雨の降りそうな日を選ばないとな?
 まさかキャプテンがナスカに常駐しているわけにもいかんだろう。シャングリラを放って下には居られん。あまり行けないナスカだからこそ、虹の架かりそうな日にしたかった。



 ハーレイが大真面目な顔で言うから、ぼくは宝物とやらが気になってきた。
 ヒルマンは「宝物が埋まっている」とSD体制よりも古い時代の伝説を披露しただけで、宝物が何を指すのかは特に話していなかったという。
 だけどハーレイは宝物を探しに何度も出掛けた。わざわざ虹が架かりそうな時を選んでナスカに降りてまで、虹の橋のたもとを探しに行った。
 ハーレイが探した宝物って何だろう?
 それに宝物を見付けることって、出来たんだろうか?
「ねえ、ハーレイ。その宝物って、何だったの? 人類の隠し財産か何か?」
 そういうものならハーレイが頑張って探していたのも分かる。
 ナスカに基地を築いたとはいえ、ミュウは追われる種族だったから、資材はいくらあっても充分ではない。宝物の中身が何であっても探し出すだけの価値はある。皆の命を預かるキャプテンともなれば、率先して探したかっただろう。そう思ったのに…。
「残念ながら、人類の隠し財産などという噂も資料も無かったな」
 それに、とハーレイの瞳が真っ直ぐにぼくを見詰めて。
「…俺の宝物と言ったら一つしかない。そして如何にも虹が似合いそうな…」
 お前だ、とハーレイは真剣な眼差しでぼくの瞳を覗き込んだ。
「今の俺にとっては宝物と言えばお前なんだが…。前の俺には前のお前だ」
「…前のぼく?」
 宝物と呼んで貰えたことは嬉しいけれども、どうしてぼくを探しに行くわけ?
 わざわざ虹が架かるのを待ってまで、虹の橋のたもとに探しに行くわけ?
 前のぼくはナスカじゃなくってシャングリラの中で眠っていたのに。
 宇宙に浮かんだシャングリラの青の間で眠っていたのに、ぼくを探してどうするわけ…?



 ナスカには居ないぼくを探しに、虹の橋のたもとを目指したハーレイ。
 どうしてだろう、と目を丸くしたままハーレイの顔を見ていたら。
「不思議でたまらない、って顔をしているな。そりゃそうだろうな、俺の勝手な思い込みだし」
「……思い込み?」
「虹はあんなに綺麗だろうが。そして虹の橋のたもとに宝物だぞ」
 お前の魂が埋まっていそうな気がしたんだ。
 見付けたらお前が目覚めるかと思って何度も探した。虹が架かる度に、何度も、何度も…。
 お蔭で沢山散歩が出来た、とハーレイは褐色の頬を緩めた。
 ナスカで生活していた者たちを除けば、自分が恐らく一番沢山の距離を歩いただろうと。
「虹が架かったら、とにかく探しに行かんとな? ジョミーみたいに飛んだりは出来んし、自分の足だけで虹を目指した。今度こそは、と虹の橋のたもとを探した」
 しかしだ、相手は水と光が空に描き出す幻の橋だ。
 俺がどんなに歩き続けても、橋のたもとには決して辿り着けなかったんだがな…。
「いつだって消えてしまうんだ。俺がたもとまで辿り着く前に」
「……ごめん……」
 ハーレイがどれだけの距離を歩いたのか、どれだけの悪路だったのか。
 それを話してはくれなかったけれど、道のりが楽でなかっただろうことは想像出来る。そうして歩いて歩き続けても、虹の橋のたもとには着けなくて。
 宝物が埋まった虹の橋のたもとには辿り着けなくて、ぼくの魂も見付からなかった。
 眠ったままのぼくは目覚めず、ハーレイを独りきりで孤独に放り出したまま眠り続けて、やっと意識が戻った時にはナスカの惨劇の直前で。恋人同士の時間なんかは持つことも出来ず、語らいの時すら持てないままで運命の時が来てしまった。
 ぼくはハーレイを残してメギドへと飛び、それっきり二度と戻らなかった…。



「……ごめん。…ごめん、ハーレイ…」
 ハーレイは懸命にぼくを探してくれたのに。
 眠り続けるぼくが目覚めないかと、宝物だというぼくの魂を探しに歩いてくれたのに。
 虹の橋のたもとを探し出すなんてこと、不可能に近いと分かっているのに、探し続けてナスカの大地を何処までも歩き回ってくれたのに…。
 ぼくはハーレイの想いに応えて目覚めるどころか、シャングリラに独り置き去りにした。
 メギドへ飛んだぼくも辛かったけれど、ハーレイの温もりを失くしてしまって独りぼっちで死ぬ羽目になったけれども、前のぼくの生は其処までで終わり。
 でも、ハーレイの生は終わりじゃなかった。
 ぼくがいなくなった後も独りきりで生きて、白いシャングリラを遠い地球まで運んで行った。
 ハーレイはどんなに辛かっただろう。どんなに悲しかっただろう…。
「…ごめん、ハーレイ…。宝物を探してくれていたのに…」
 それなのに宝物を見付けるどころか、失くしてしまった前のハーレイ。
 ぼくのせいで失くした前のハーレイ…。
「探さなくても良かったのに…。そんな宝物、探さなくても良かったのに…」
 ポロリと涙が零れて落ちた。
 虹の橋のたもとを探して沢山の距離を歩いたハーレイ。
 散歩だと言って出掛けるのだから、もちろんキャプテンの制服と靴で出掛けただろう。あの靴は雨上がりのぬかるみや、岩だらけだったと聞くナスカの大地を長時間歩ける仕様ではない。恐らくハーレイの足は痛んで、もしかしたらマメだって出来たかもしれない。
 それでもハーレイは虹の橋のたもとを探し続けることをやめなかった。
 探しても無駄だと分かっているのに。
 ぼくの魂は其処には埋まっていないし、虹の橋のたもとに辿り着くことなど不可能なのに…。



 ポロリと零れた、ぼくの涙。
 ハーレイの褐色の指が「泣くな」と、そうっと拭ってくれた。
「探したのは俺の思い込みだと言っただろう? それと我儘だな、宝物欲しさの」
「でも…。でも、ハーレイ…。探したって何処にも無いんだよ?」
 宝物も、虹の橋のたもとも。
 どちらもナスカ中を探しても無くて、ただハーレイの足が疲れて痛くなってしまっただけで…。
「いや、違うな。…俺は探しに行っておいて良かったと今では思う」
「どうして? 見付かるどころか逆だったのに…」
「…前の時はな」
 だが、今は違う。
 俺はお前をちゃんと見付けた。だからお前が今、目の前にいるんだろうが?
「あの時、頑張って探していたから。…神様がそれを見ていて下さったから、俺はお前にもう一度会うことが出来たんだろう。この地球の上で」
 青い地球の上でお前に会えた、とハーレイはぼくの大好きな笑顔を見せた。
 虹の橋のたもとも、宝物もちゃんと見付かったのだ、と。



 遠い遠い昔に、遠いナスカでハーレイが探しに行ってくれた虹。
 どうしても辿り着けなかったと話すハーレイが追い掛けた虹の橋のたもとに埋まっていたのは、ぼくの魂という名の宝物。
 前のハーレイは見付けられずに終わったけれども、今のハーレイはそれを見付けたと言う。
 だからハーレイとぼくは青い地球の上で再び出会えて、こうして向き合っていられるのだと。
(…ハーレイ、虹の橋のたもとに行けたんだ…)
 きっと今のハーレイが生まれて来る前、何処かで虹の橋のたもとを見付けた。
 虹の橋のたもとを頑張って掘って、埋まっていたぼくの魂を其処から掘り出してくれた。
(うん、きっとそうだよ、ハーレイが探しに来てくれたんだよ…)
 ナスカで虹の橋のたもとを探し歩いていたように。
 岩だらけのナスカの悪路を歩くには全く向かないキャプテンの靴で、足が痛むのもかまわないで歩き続けたように。雨上がりのぬかるみの中を「散歩」と称して出掛けたように。
 ハーレイならきっと、どんな所へでもぼくを探しに来てくれただろう。
 ぼくの魂が埋まっている虹の橋のたもとを探しに、何処へでも、どんな道であっても。
(…虹の橋のたもと、ハーレイは何処で見付けたのかな…?)
 今のぼくには分からないけれど、なんだか嬉しい。
 嬉しすぎてまたポロリと涙が転がり落ちた。
 辿り着くことなど不可能に近い、七色に輝く虹の橋のたもと。
 其処に埋まったぼくの魂を探し出すために、ハーレイがずうっと探し続けていてくれたことが。
 探して探して、辿り着いてくれたから、ぼくとハーレイとは地球の上に居る。
 何処だったんだろう、ハーレイが見付けた虹の橋のたもと。
 見付けて貰ったぼくの魂も、きっときっと、幸せだったと思う。
 覚えていないけど、幸せだったと思うから……ハーレイに「ありがとう」と御礼を言った。
 虹の橋のたもとを探しに行ってくれてありがとう。ぼくはとっても幸せだよ、って…。




          虹の橋のたもと・了

※雨上がりのナスカでハーレイが探した宝物。虹の橋がかかったら、いそいそ出掛けて。
 ブルーの魂が埋まっているかも、と頑張ったハーレイ。ブルーは幸せ者ですよね。
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(…なんだか、だるい…)
 それに寒い、とブルーは震えながらベッドで目を覚ました。
 今は秋。今朝は早い冷え込みが来るというから、風邪を引かないよう昨夜は早めに休んだのに。
 だるくて、少し熱っぽい。喉にも違和感。
(…手遅れだった?)
 昨日、学校でクシャミが何回か立て続けに出た。虚弱体質のブルーにはありがちな風邪の前兆。ただし本物の風邪に至らない時だってある。気温が急に変わった時などに多いクシャミの連発。
 風邪を引いてはたまらないから、終礼が済んだら急いで帰ろうと思ったのだけれど。教室を出て校門へと向かう途中の廊下でハーレイとバッタリ出会ってしまった。
 大好きなハーレイに会えたからには会釈や挨拶だけで帰りたくない。「ハーレイ先生!」と声を掛けて暫く立ち話をした。人気の高いハーレイは他の生徒に捕まることだって珍しくない。今日は自分の番なのだ、とばかりに話し込んでいたら、ハーレイが「すまん」と遮った。
「今日はこれから柔道部でな。着替えて稽古に付き合わないと」
 ブルーの胸がドキンと高鳴った。
(これから行くんだ…!)
 朝にはよく見る柔道着のハーレイ。朝練を指導した帰りのハーレイに何度も出会った。けれど、帰る時には滅多に見かけない柔道着を纏ったハーレイの姿。
 部活をしていないブルーの下校時刻が早過ぎて、ハーレイが出掛ける時間と合わないのだ。



(そっか、これから柔道部なんだ…)
 これは貴重だ、と思ったブルーは思い切って頼み込んでみた。
「少し待ってていいですか? ハーレイ先生が着替えて出掛けるまで」
「なんだ、柔道部を見学したいのか?」
 ハーレイが目を丸くしつつも、見学だなんて言ってくれたから。
「えっ、見に行ってもいいんですか?」
「少しならな。…だが、動いていないと体育館は冷える。ちゃんと早めに帰るんだぞ?」
「はいっ!」
 朝のグラウンドでの走り込みしか見たことがない柔道部。もちろん柔道という武道があることは知っていたけれど、その程度。
 初めての世界を大好きなハーレイつきで見学出来ると聞いたブルーは狂喜した。更衣室まで行く道のりもハーレイと一緒。はしゃぎながら着いた更衣室の前の廊下でハーレイが着替えてくるのを待った。柔道着の上から締めた黒い帯。有段者の印なのだと教えて貰った。
「この上に赤帯もあるんだが…。俺の年ではまだ取れないな」
「そうなんですか?」
「赤帯は九段と十段なんだ。だが、八段が満四十二歳からってことになってるからなあ…」
 当分無理だ、と聞かされて指を折ってみる。ハーレイは今、満三十八歳。八月二十八日が誕生日だったから、四十二歳まで残り四年近く。
(あと四年かあ…)
 八段まででも四年もあるんだ、と驚いたけれど。
(そうだ、四年後って…!)
 四年経ったら、ブルーは十八歳になる。結婚が法律で認められた歳。
 十八歳になったらハーレイと結婚するのだ、と心の中ではとうに決めていた。つまりハーレイが赤帯の前段階の八段とやらを取れる歳になる時には、多分結婚出来ている筈。ということは…。
(ハーレイが赤帯を貰える時って、絶対、結婚出来てるよね?)
 柔道着の上から締められた黒帯。この黒帯が赤になる頃には、自分がハーレイの隣に居る。赤い帯に届く前の八段とやらも、結婚してから取って欲しいなと思う。
(だって、四年後だよ?)
 あと四年。十八歳まで、あと四年…。
 ハーレイの黒帯に胸をときめかせながら、ブルーは柔道部の練習場所へと連れて行って貰った。



 体育館の中の広い一室、其処が柔道部の練習場所。
 ハーレイがブルーと一緒に入った時には既に稽古が始まっていて、最上級の四年生が後輩たちの練習を指導していた。主将だという一番大柄な生徒がハーレイの姿を認めて皆に指示を飛ばす。
「ハーレイ先生がいらっしゃったぞ、全員、礼っ!」
 大勢の部員がザッと動いて、全員が正座をしての深い一礼。
(…うわあ……)
 凄い、とブルーは息を飲んだ。一糸乱れぬ動きも凄いが、彼らの礼はハーレイに対してのもの。ただ顧問というだけの教師だったら、ここまでの尊敬を集めることは出来ないだろう。柔道の道に秀でたハーレイだからこそ、練習場所に現れただけで皆が一斉に敬意を表する。
 そのハーレイはブルーの肩をポンと叩いて、柔道部員たちに呼び掛けた。
「今日はお客さんが来ているぞ。恥ずかしくないよう、気合を入れてやれよ!」
「はいっ!」
 稽古に戻る部員たち。ブルーは一番端に畳んで置かれたマットの上へと案内された。
「此処に座って見ているといい。このマットは今日は使わんからな」
「はい、ありがとうございます!」
 ペコリとお辞儀し、膝を抱えてマットに座った。厚みがあるから床からの冷えは伝わらない。
(…ふふっ)
 素敵な見学場所を貰ったブルーは、初めて目にする柔道部員の練習風景に夢中になった。指導に出掛けたハーレイが檄を飛ばす中、技を掛け合う部員たち。
 ハーレイがブルーの守り役なことは知られているから、皆、きびきびと頑張っている。見学中の来客に熱意溢れる姿を披露せねば、と懸命になっているのが分かる。
「こらあっ、そんな技で相手が倒せるか!」
 しっかりやれ、とハーレイが叫び、「かかってこい」と何人かの部員を名指しした。殆ど同時にハーレイに飛び掛かる部員たち。恐らくは柔道部の中でも指折りの腕を持つ彼ら。もちろん主将も入っている。それをハーレイは軽くあしらい、次々にマットの上へと投げた。
(ハーレイ、凄い…!)
 投げられた部員たちが起き上がって再びかかってゆく。ハーレイは軽々と投げたり倒したり。
(凄い、凄いよ…!)
 ほんの少しだけ見学するつもりで来たというのに、ハーレイの技の凄さに惹き付けられて。
 柔道の技など全く分からないなりに見惚れている内に、またしても…。



 クシャン!
 その音を立てたブルーは慌てて自分の口を塞いだが、ハーレイが気付かないわけがない。稽古をつけていた部員たちに「後は皆でやれ」と指示を下して、ブルーの方へと歩いて来た。
「こら! 此処は冷えるから早めに帰れと言っただろうが」
「…ハーレイ先生…」
 もう少しだけ見ていたいんです、とブルーは頭を下げたけれども。
「駄目だ。クシャミをしたのを聞いた以上は帰って貰う」
 風邪を引く前に家に帰れ、と腕を掴まれて立ち上がらされた。それだけではない。帰ったふりをして外からこっそり覗いていたのでは意味が無いから、とハーレイ自らブルーに付き添い、校門の外まで送り出された。後戻りをして来ないように、と校門の前で腕組みをしての仁王立ち。
「いいか、真っ直ぐ帰るんだぞ? 暫くは此処で見張ってるからな」
「…はい…。ありがとうございました、ハーレイ先生」
 未練たらたらで柔道着姿のハーレイにお辞儀し、しおしおと学校を後にした。
 それが昨日の夕方のこと。
 思った以上にひんやりとしていた外気に包まれながら家の方へ行くバスを待って乗り込み、帰り着くなり直ぐにウガイをして、熱いホットミルクを飲んだのに。
 冷えた身体が温まるようにとホットミルクにたっぷりの蜂蜜、シナモンだって入れたのに…。



(……風邪引いちゃった……)
 あっさりと風邪を引いてしまった弱すぎる身体。誤魔化そうにも喉の違和感と熱っぽさ。階下に下りたブルーの不調は両親に一目で見抜かれてしまい、その場で熱を測らされた。案の定、微熱があることを無情に告げる体温計。
「駄目でしょう、ブルー! 熱があるわよ」
「口を開けてみろ。…喉が赤いな、風邪を引いたな? 病院に連れて行って貰いなさい」
 病院が開く時間まで暖かくして寝ているように、と自分の部屋へと追い返される。少ししてから母がトーストとホットミルクの朝食を持って来たけれど、学校はもちろん休まされてしまった。
(今日はハーレイの授業がある日だったのに…)
 ブルーは泣きそうな気持ちだったが、どうにもならない。
 朝食を済ませたら暖かい服に着替えさせられ、病院に連れて行かれて、注射に薬。
 身体の弱いブルーにとってはどちらも慣れたものだけれども、早く効かないならどちらも嫌だ。注射も薬も、前の生で嫌というほど試された。アルタミラでの研究所時代の過酷な人体実験で。
 悲惨だった前世を思い出させる注射と薬。けれど学校へ早く行けるのならば、と我慢した。
 それなのに…。
 痛い注射も、その場で飲まされた苦い薬も我慢した上、家で飲む薬もドッサリあるのに。
 大事を取って明日も休めと言われてしまった。付き添って来た母は素直に頷いている。
(明日も休むの!?)
 酷い、とブルーは涙を浮かべた。注射が痛かったからではない。苦い薬のせいでもない。
 二日もハーレイに会えないなんて。
 二日間もハーレイに会えないだなんて…!



 結局、一日、ベッドの中。
 ハーレイの授業が行われた筈の学校には行けず、明日も登校禁止の刑。ハーレイの授業は明日は無いけれど、学校に行ければハーレイに会える。ハーレイに会える筈だったのに…。
(…明日もハーレイに会えないなんて…)
 大した風邪ではないと思う。喉が少し変だというだけ、微熱があるというだけの風邪。
 けれどブルーの身体は弱い。健康な子供だったら二日くらいで治りそうな軽い風邪をこじらせ、肺炎を起こしたことも何度もあった。あわや入院かという騒ぎ。
(…病院の先生が言ってることも分かるんだけど…)
 分かるのだけれど、それでも悔しい。この程度の風邪で二日も休まなくてはいけない身体。前の生と同じに弱く生まれた、直ぐに壊れる弱すぎる器。
(…耳だけはちゃんと聞こえるけれども、他はおんなじ…)
 もっと健康に生まれたかった。ハーレイと毎日会える身体に生まれたかった。
(…この身体でなくちゃ駄目だってことは分かってるけど…)
 弱いけれども、前の生とそっくり同じ姿に出来ている身体。
 ハーレイが「さよならも言えなかった」と悔やみ続けた前の自分と同じ姿に育つ筈の身体。
 文句を言ってはいけないのだと、この身体だから意味があるのだと分かってはいても涙が出る。風邪を引いたくらいで二日間もハーレイに会えない弱すぎる身体…。



 日が落ちても明かりを点ける気になれず、ベッドの中で涙ぐんでいたらチャイムが鳴った。
(…ハーレイ、もしかして来てくれた!?)
 もしかしたら、と心が躍った。
 しかし、待っていても階段を上がって来る足音はしなくて、どうやらただの来客だったらしい。
(……ハーレイだったら良かったのに…)
 あのチャイムがハーレイでなかったのなら、今日はもう駄目。学校帰りのハーレイが立ち寄れる時間を半時間以上も過ぎてしまった。こんな時間から来てはくれない。
(今日はお見舞い、来てくれないんだ…)
 とうとうハーレイに会えなかった。会えずに一日が終わってしまう。
 それに身体もだるくて重い、と寝返りを打って丸くなる。
 昨日は幸せだったのに。
 あんなに幸せだったのに…。



 ポロリと涙が零れた時。
 階段を上がって来る足音を聞いた。母とは違う重い足音。父とも違った、聞き慣れた足音。
(まさか……ハーレイ?)
 チャイムの音を聞いてはいない。
 なんで、とブルーが思う間も無く扉がノックされ、開けられた。暗かった部屋にパッと明かりが点いて。
「起きてるか? ブルー」
 間違えようもない恋人の声と、背が高く頑丈な大きい身体。ブルーはパチリと目を見開いた。
「ハーレイ!?」
「こらこら、起きるな。風邪だそうだな、早く帰れと言ったのに」
 俺のせいか、とハーレイが扉を締めた後、入口の側に立ったままで済まなそうに謝るから。
「…ううん、もっと前にクシャミ…」
 ぼくのせいだ、とブルーは素直に詫びた。
 風邪の兆候かもしれないと思っていたのに、直ぐに帰らずに学校に居た、と。
「ハーレイは悪くないんだよ…。悪いのは、ぼく」
「そうなのか? なら、いいが…」
 俺のせいかと心配したぞ、と表情を和らげてベッドに近付いて来るハーレイ。
(…あれ?)
 ハーレイが持っているトレイ。
 嗅覚は落ちている筈だけれども、懐かしい野菜スープの香り。
 懐かしいけれど、いつものと違う。
 何故、と訝るブルーに向かってハーレイが穏やかな笑みを浮かべた。
「気付いたか? 野菜スープのシャングリラ風、名付けて風邪引きスペシャルだ」



 ほら、とブルーの目の前に差し出されたトレイ。
 少しとろみがつけられた野菜スープにふんわりと溶いてある卵。細い糸のように見えるくらいに溶きほぐされた卵と、細かく刻んで煮込んだ野菜と。
(……風邪引きスペシャル……)
 そんな名前は無かったけれども、遠い記憶に刻まれたスープ。
 シャングリラで卵が貴重品だった時代に、風邪を引いて寝込んでしまったことが何回かあった。その時にハーレイが作って食べさせてくれた、卵が入った野菜のスープ。
 喉を通りやすいようにとろみをつけて、貴重品の卵を落としたスープ。
(…ぼくに食べさせるんだから、って卵を貰って来たって言っていたっけ…)
 まだ鶏が数えるほどしかいなかった時代。卵は本当に貴重品だった。一人で一個を食べるなんて贅沢、誰も思いはしなかった。
 多分、ぼくだから貰えた卵。ぼく以外には戦える者が居なかったから一人で一個貰えた卵。
(でも、ハーレイが頼まなかったら貰えもしないし、食べられもしないね…)
 野菜スープのシャングリラ風は野菜だけしか入らないけれど、これは風邪引きスペシャル。
 栄養がつく卵が入ったスープ。それも贅沢に丸々一個。
(そういえば、この味も好きだったっけ…)
 一番素朴な基本の調味料だけで煮込んだ野菜のスープと、この卵入りと。
 この二つだけはどんな時でも喉を通った。
 弱り切った時も、風邪を引いた時も、ハーレイの野菜スープと卵入りの野菜スープがあった…。



 ブルーはゆっくりと身体を起こした。このスープなら食べられそうだ、という気がしたから。
 起き上がってベッドの端に腰掛けると、ハーレイが側に置いてあったカーディガンを肩に優しく着せかけてくれた。テーブルが寄せられ、スープを満たした皿とスプーンが置かれる。
「卵入りのスープ、思い出したか? しっかり食べろよ」
 もう一つ、取って来るから待っていろ。
 そう言ってハーレイは部屋を出てゆき、ブルーはキョトンと首を傾げる。
(…もう一つ?)
 何だろうか、と考えてみたが分からなかった。
 病気の時には野菜スープのシャングリラ風。でなければ、卵入りの野菜のスープ。
(…何なのかな?)
 記憶には残っていない食べ物。
 卵入りの野菜スープを飲んだら思い出せるか、とスプーンで掬って口に運んでも思い出せない。とろみのついた野菜スープは懐かしいけれど、他に何か食べた記憶は無い。
(…ぼく、忘れちゃった?)
 そんな筈はないんだけれど、と悩む内にハーレイがトレイを手にして戻って来て。
「ほら、それと粥だ」
 テーブルに載せられた器の中身は、とろとろに煮込んだ粥だった。米だけではなくて、ほぐした鶏のささみと細く刻んだ白ネギを加えて煮込まれた粥。味付けはチキンスープだという。それから隠し味に胡麻油を少し、刻み生姜とニンニクも少し。
「食欲は落ちてないそうだしな? こいつは俺のおふくろの風邪引きスペシャルなんだ。…ネギは風邪に効くと言うんだぞ」
 生姜とニンニクも効くらしいな、とハーレイはブルーに粥を勧めた。
 ブルーは知らない味だろうけれど、今の自分には馴染み深い味の粥なのだ、と。



(…ハーレイのお母さんのお粥なんだ…)
 しみじみと粥の入った器を見詰めて、ふと気が付いたからハーレイに問う。
「これ、シャングリラには無かったよ? ぼくのママには何て言ったの、嘘ついて来たの?」
 ハーレイが野菜スープのシャングリラ風を作る時にはブルーの家のキッチンを借りる。この粥もキッチンで作ったのだろう。
 ブルーが他の客人かと思ったチャイムが実はハーレイで、スープと粥とを作っていたなら計算は合う。ブルーの両親は野菜スープのシャングリラ風を何度も目にしているから、卵入りがあっても多分、驚きはしない。
 けれども、粥は前例が無い。「こういう粥も作っていました」と言えば納得するだろうけれど、この粥はハーレイの母が作る粥。シャングリラで作っていたと申告すれば真っ赤な嘘だが、これは大嘘の産物だろうか…?
(嘘でも、ぼくは嬉しいけどね?)
 ハーレイの母の味が食べられることは、とても嬉しい。ただ、ハーレイが嘘をついて来たなら、後で両親にバレないように口裏を合わせておかなければ…。
 そう考えたブルーだったけれど、ハーレイは「俺は嘘なんかつかなかったぞ」と片目をパチンと瞑ってみせた。
「いつもは野菜スープのシャングリラ風ばかりだからな。お前のお母さんは俺の料理の腕を疑っていそうで、そいつはどうにも癪じゃないか。たまには真っ当な料理もしておきたい」
 俺のおふくろの直伝です、と言って作って来た。
 まあ、この程度では簡単すぎてだ、誤解を解くには至らん訳だが…。
 しかし少しくらいは評価が上がったと思いたい。あくまで俺の願望だがな。



 そう話しながら、ハーレイは粥の器をブルーが食べかけていたスープの器の直ぐ側に寄せた。
「食ってみるか? 俺のおふくろの風邪引きスペシャル」
「うん…」
 スープ用とは別に添えられたスプーンで一匙掬って、口にしてみて。
 病人食のお粥とは思えない、滋味深い味わいに驚いた。
「美味しい…!」
 ホントに美味しい、とブルーは温かい粥を掬って口へと運ぶ。細かくほぐされた鶏のささみと、柔らかくクタクタに溶けた白ネギ。チキンスープを含んだとろとろの米に、ほのかに香る胡麻油。ニンニクと生姜のせいなのだろうか、病人食と言うより、お粥と名の付く料理のようだ。
「ハーレイ、風邪を引いた時にはこれだったんだ?」
「俺は食欲不振になるような繊細なタチじゃなかったからな。とにかくしっかりと飯を食ってだ、栄養をつけてサッサと治した。お前も見習え」
 しっかり食べろ、と促しながらハーレイが尋ねる。
「スープはどうだ? 野菜スープのシャングリラ風の風邪引きスペシャル」
「美味しいよ。ハーレイのスープもとっても美味しい」
 お粥も、野菜スープのシャングリラ風も、どちらの風邪引きスペシャルもいい。
 とても美味しい、とブルーはスプーンで口に運んだ。風邪のせいで違和感がある筈の喉を傷めず通過してゆく卵の入った野菜スープと、ハーレイの母の味だという粥と。
「そうか、美味いか。じゃあ、早く治せ」
 風邪引きスペシャル、せっかく作ってやったんだしな。
 ハーレイは微笑んでくれるけれども、ブルーは明日も登校禁止を言い渡された身だったから。
「うん…。でも、ぼく、明日も…」
 明日も行けない、と涙ぐむブルーの銀色の頭をハーレイの大きな手がポンポンと叩いた。
「分かった、分かった。…明日も作りに寄ってやるから、明後日は元気に登校しろよ?」
「うんっ!」
 約束だよ、とブルーが右手の小指を差し出し、ハーレイが「ああ」と褐色の小指を絡めた。
「風邪引きスペシャル、スープと粥とのダブルだな? まあ、任せておけ」
「他には? ハーレイ、他には風邪引きスペシャル、無いの?」
「その元気だったら大丈夫だな。今回は二つもあれば充分、元気になれるさ」
 欲張りめが、とコツンと額を軽く小突かれ、ブルーは「ふふっ」と首を竦める。
 こういう風邪なら悪くない。また軽いのを引いてみようか、ハーレイの料理が食べられるなら。
 他にも何かあるかもしれない、ハーレイの美味しい風邪引きスペシャル……。




         風邪を引いたら・了

※ハーレイ先生の風邪引きスペシャル、スープもお粥も美味しそうですよね。
 こんなオマケがついてくるなら、ブルーが軽い風邪を引きたくなるのも無理ないかも?
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