シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(本物そっくり…)
凄い、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
造花だという花たちの写真。様々な種類の花たちだけれど、本物と区別がつかないほど。写真のせいではないらしい。側で見ないと、造花だとは気付かないという。
植木鉢に植わった花にも驚きだけれど、透明な花瓶も凄かった。
(水まで入っているんだけど…)
その水までが作り物。本物の水とは違って塊、倒れても水は零れない。花瓶ごとゴトンと倒れるだけで、起こしてやれば元通り。これが本物の花瓶だったら、辺り一面、水浸しなのに。
満たした水も無事だけれども、花たちも無傷。倒れたはずみに花びらが傷むことはない。
(ペットを飼っている家に…)
お勧めらしい造花たち。
家の中で人間と一緒に暮らすペットは色々、中には悪戯者もいる。部屋をあちこち走り回って、花瓶を倒すことだって。テーブルにヒョイと飛び移ったら、代わりに花瓶が落っこちることも。
花瓶が倒れる事故の他にも、花たちを見舞う不幸な出来事。
(齧っちゃうんだ…)
小鳥が花を齧るのだったら分かるのだけれど。…花の蜜が好きで、吸う鳥たちも多いから。
そういう鳥とは食べ物の好みが全く異なる、猫や犬たち。彼らが齧ってしまう花。植木鉢のも、花瓶に生けてある花も。
(きっとオモチャで…)
食べたいわけではないだろう。美味しいとは思えない花びら。
人間だったら、食べるための花も栽培しているとはいえ、そのままで食べはしない筈。お菓子に入れたり、サラダにしたり、工夫を凝らして口に入れるもの。
人間でさえもそうなのだから、猫や犬たちが花を喜ぶわけがない。「美味しいよね」と。
つまり齧られる花はオモチャで、歯ごたえが楽しいだけのこと。端から毟って減ってゆくのも、愉快なのかもしれないけれど…。
それをやられたら、人間の方は肩を落として眺めるしかない。齧られてしまった花たちを。
倒されてしまう花瓶も困るし、蹴散らされる植木鉢だって。齧られて駄目になる花も。その手の悲劇を防ぐためにと、代わりに造花。本物そっくりに出来ているのを。
よく出来ている、と思った造花。今ではペットを飼っている家にお勧めだけれど…。
(元々は…)
違ったらしい、造花の歴史。新聞の記事は、そちらがメイン。どうして造花が生まれたのか。
SD体制が始まるよりも前の時代に、作り出された造花たち。
その原型はかなり古くて、人間が地球しか知らなかった時代に既に存在したという。本物の花が咲かない季節も、家の中で花を愛でられるように。
そうして生まれた造花だけれども、今もある形が完成したのは地球が滅びに向かう頃。
(材料、色々…)
どれが最適かを色々試して、選び出された特殊な布。花たちはそれで出来ている。
本物の花の色そっくりに自由自在に染めることが出来て、専用のコテで花びらなどの姿を作ってゆける布。カーブさせたり、縮れさせたり。
(緑が自然に育たなかったから…)
大気が汚染された地球では、特殊な設備を設けない限り、育てられなくなった植物。
緑の木々も、人間が食べるための野菜も、日々の暮らしに彩りを添える花たちも。それでも家に緑が欲しい、と作られたのが造花たち。
本物の花を育てることは、既に個人の家では難しかったから。
人間が暮らす家の中では育てられても、何種類もの花を植えようとしたら足りないスペース。
それでは花を絶やさないことは難しい。様々な花を、年中、咲かせておくことは。
(代わりに四季の花を作って、季節で入れ替え…)
今の季節はこの花が咲く頃だから、と生ける造花たち。春の花やら、秋の花やら。
造花だったら何種類でも作り出せるし、ふんだんに生けて楽しめる。花瓶から溢れそうなほど。本物の花では、もはや不可能になった贅沢を。
後は気分や場面に合わせて、好きに飾っていた造花たち。冬の最中でも、夏の花とか。
(今だって、やっているものね?)
もちろん本物の花だけれども、温室などで調整して。
緑が育たなくなった地球の人間も、それを造花でやっていた。暮らしに花は欠かせないから。
造花を作るのが主婦の仕事になっていたほど。
市販のものより、気の利いたものを。他所の家には無い花たちを、と作って生けて。
そうだったのか、と驚かされた造花の歴史。遠い昔は、本当に必要だった花たち。家でペットを飼っていなくても、花が欲しいと思うなら。…自分の家だけの花が欲しかったなら。
(ぼく、サイオンは不器用だけど…)
手先は器用な方なのだから、こういう花なら作れそう。専用の布を買って来て染めて、庭にある花の真似をして。「薔薇の花なら、こんな風」と。
前の自分は最強のサイオンを誇ったけれども、裁縫も下手な不器用さ。きっと造花も作れない。どう頑張っても、ソルジャー・ブルーだった前の自分には。
(これなら勝てるよ!)
造花作りの腕前だったら、前のぼくに、と考えたけれど。
サイオンではとても敵いはしない前の自分に、造花作りなら勝てる筈だと思ったけれど…。
(いつ作るわけ?)
ソルジャー・ブルーに勝てそうな造花。「ほらね」と作って誇らしげに。
作れるだろうと思うけれども、今の時代は造花作りはただの趣味。青く蘇った水の星では、緑は自然に育つもの。零れて地面に落ちた種でも、美しい花を咲かせるもの。
(特別な設備は何も要らなくて…)
野原でも、山でも、海辺に広がる砂浜でだって、植物たちが生きている。動物の影さえ見えない砂漠に行っても、其処に適応した植物たち。
(雨が降ったら、花畑だって…)
生まれるらしい、砂漠という場所。ほんの短い間だけ出来る、夢のような砂漠の中の花園。
そんな時代に造花をわざわざ作らなくても、花はいくらでも手に入る。家の庭でも、沢山の花を扱う花屋でも。…野原や山に咲く花が欲しいなら、其処へ出掛けてゆきさえすれば。
今だと造花は、趣味で作って楽しむもの。欠かせない場所があるとしたなら、ペットのいる家。この記事にも「お勧めです」と書かれているから、買っている人も多いだろう。
けれど…。
(ハーレイと暮らす家にペットは…)
多分いないし、造花の出番は全く無い。本物の花を生けた花瓶を蹴倒すペットがいないなら。
まるで必要ない造花などを、作っても褒めて貰えるかどうか。…あのハーレイに。
きっと上手に作れるだろうに。前の自分には作れそうにない、とても素敵なものなのに。
この写真のも作れそう、と眺めた新聞にある造花たち。本物そっくり、それを作ってハーレイに披露してみても…。
(綺麗に出来たな、って言われておしまい…)
そんな感じ、とガッカリしながら食べ終えたおやつ。新聞を閉じて二階の自分の部屋に戻って、造花のことを考える。勉強机の前に座って。
前の自分に勝てそうだけれど、作ってみても出番が全く無い造花。
家でペットを飼っていないなら、造花を飾る必要は無い。本物を飾っておけば済むこと。花瓶にドッサリ生けておいても、倒されることも、齧られることも無いのだから。
同じ花なら、造花よりも本物の花の方がいいに決まっている。地球の光や水が育てた花。生命の輝きをたっぷり宿した、本物の花が。
それに…。
(前のぼくが作っていないから…)
作った所で、比べようもない造花作りの腕前。今の自分の自己満足。「器用なんだよ」と。
前の自分が酷い出来のを作っていたなら、今度は見事な造花を作って威張れるのに。サイオンはまるで不器用だけれど、造花作りならソルジャー・ブルーに負けはしない、と。
(…比べるものが無いんだもの…)
どんなに上手に作り上げても、ハーレイに褒めて貰えるだけ。「頑張ったな」という程度。
今の自分の裁縫の腕なら、ハーレイも認めてくれたのだけれど。
(…今のお前は器用なもんだな、って…)
言って貰えた、裁縫の腕。取れかかっていたシャツのボタンを縫い付けた時に。
ハーレイのシャツの袖口についていたボタン。「取れかかってるよ」と気付いて言ったら、毟り取ろうとしたハーレイ。知らない間に取れてしまって、落として失くすと困るから。
「待って」と止めて、上手に縫い付けた。家庭科で使う裁縫セットで。
(前のぼくだと、失敗なんだよ)
ソルジャー・ブルーがやった大失敗。前のハーレイの上着の袖のほころび、それを直そうとして上手くいかなくて…。
(失敗したから、からかわれて…)
縫い目も針跡も無いシャツを作ってプレゼントした。スカボローフェアの恋歌のシャツを。歌に出て来る言葉通りに、縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを見事に作り上げて。
前の自分がサイオンで作った奇跡のシャツ。縫い目も針跡も無かった亜麻のシャツはもう、今の自分には作れない。とことん不器用になったサイオン、前の自分の真似は出来ない。
けれど、今度は器用な手先。裁縫だって上手くなったし、前の自分よりも遥かに上。
(造花、ぼくなら作れそうなのに…)
きっと出来ると思うけれども、比べようもない前の自分の腕前の方。造花は作らなかったから。
ついでに、造花を作ってみたって、それの出番が無い始末。ペットを飼っていないのならば。
(迷子の子猫を見付けて飼っても…)
じきに飼い主が迎えに来る。小さな子猫が花に悪戯する前に。「造花にしなきゃ」と家中の花を取り替える前に、元の家に帰ってゆく子猫。お母さん猫がいる家へ。
(…造花の出番はホントに無さそう…)
残念だけど、と溜息を零していたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが来てくれたけれど、造花の腕前は自慢出来ない。まだ作ってもいないわけだし、これからも作る予定は無いし…。
考え込むから、途切れた言葉。テーブルを挟んで、向かい合わせで話していても。
「どうした、何か悩み事か?」
黙っちまって、とハーレイに尋ねられたから、思い切って言ってみることにした。
「ハーレイ、造花を知っている?」
「はあ?」
造花って何だ、いきなり何を言い出すんだ…?
分からんぞ、と瞬く鳶色の瞳。「造花がどうかしたのか?」と。
「造花だってば、本物そっくりに出来た花だよ。今日の新聞に載っていて…」
元々は地球が滅びそうだった時代に、緑が欲しくて造花を作ったらしいけど…。
今は本物の花があるから、ペットがいる家にお勧めだって。
ペットは花に悪戯するしね、と記事の受け売り。花瓶を倒したり、花を齧ったりするペット。
「ああ、あれなあ…!」
本物と区別がつかんヤツだな、すぐ側に行って観察しないと。葉っぱの虫食いまで真似るから。
俺の家にもあったっけな、とハーレイは顔を綻ばせた。
まだハーレイが子供だった頃で、隣町の家には猫のミーシャも。ハーレイの母が飼っていた猫、真っ白で甘えん坊だったミーシャ。
その頃だったら俺の家にもあったんだ、とハーレイは懐かしそうだから。
「あったの、造花?」
本物みたいに見える造花が、ハーレイの家にもあったわけ…?
「そりゃまあ、なあ…? ミーシャもやっぱり猫だから…」
甘えん坊でも、猫ってヤツには違いない。猫にしてみれば、飾ってある花はオモチャだしな?
人間様の都合なんかは考えないぞ、と言うだけあって、遊んで駄目にしてしまう花。
齧って花をボロボロにしたり、花瓶ごと引っくり返したり。
普段はそれでもいいのだけれども、来客があった時には困る。楽しんで貰おうと、玄関や客間に飾った花たち。それが台無しになったなら。…油断して目を離した隙に。
そうならないよう、用意されたのが造花たち。本物そっくりに出来ている花。
「…造花、お客様用の花だったんだ…」
いつも造花ってわけじゃなくって、お客様の時だけ飾る花…。
「おふくろは花が好きだからなあ、飾るのも、庭で育てるのも」
綺麗な花が咲いた時には、家の中でも見たいもんだし…。本物の花が一番だ。齧られてもな。
しかし、誰かが来るとなったら、齧られた花じゃみっともないし…。倒れた花瓶は論外だ。
それじゃマズイから、おふくろがせっせと作っていたぞ。
庭の花を切って来たように見せて、玄関や客間に造花ってな。
「ハーレイのお母さん、作れちゃうの?」
本物そっくりに見える造花を作っていたの…?
ミーシャが家にいた頃は、と丸くなった目。ハーレイの母が、造花作りの大先輩だなんて。腕のいい先輩がいるとなったら、挑戦するのもいいだろうか、と考えたのに…。
「すまん、言い方が悪かった。おふくろは生けていただけだってな」
「え?」
生けてただけって…。それじゃ、作っていたんじゃないの?
「そういうこった。お前も新聞で読んだんだろうが、ペットのいる家にお勧めだと」
おふくろだって知っていたから、セットになってる花を買わずに、色々なのを買ってだな…。
そいつを上手く生けていくんだ、花瓶とかに。
庭から切って来たばかりです、といった感じに見えるようにな。
ハーレイの母が買っていた造花。水が入っているように見える花瓶つきの花や、植木鉢がついているのは避けて。庭に咲いている季節の花と同じ種類のを、何本も。
来客の時は、ミーシャが齧りそうな場所には、そういう造花。大きな花瓶に沢山生けたり、一輪挿しに一輪だとか。
「ミーシャが齧ったりしないように造花…」
それに花瓶も、倒されちゃっても大丈夫なように。造花だったら水は要らないものね。
やっぱりペットがいないと駄目かあ…。家に造花を飾るのは…。
ハーレイの家にミーシャが住んでいた頃も、普段は本物の花を飾っていたみたいだし…。
「どうしたんだ、お前?」
やたらと造花を気にしているが、と覗き込んでくる鳶色の瞳。「欲しいのか?」と。
「えっとね…。読んでた記事に、作り方とか歴史が書いてあったから…」
前のぼくだと造花を作るのは無理そうだけれど、今のぼくなら作れそう、って…。
今なら裁縫もちゃんと出来るし、ああいう造花も作れそうだと思わない?
「なるほどな。前のお前は不器用だったし…」
裁縫の腕は不器用すぎて、俺の方が遥かにマシだったからな。お前が下手に努力するより、俺がやった方が早かったんだ。
前のお前が「出来る」と言い張った挙句に出来たの、縫い目も針跡も無いシャツだったから…。
俺にからかわれたのを根に持っちまって、仕返しに作り上げたっけな。
「そう。…前のぼくだと、ああいうことになっちゃうんだよ」
今のぼくはサイオンが不器用になってしまって、あんなシャツは作れないけれど…。
造花は上手に作れそうだよ、作り方をちゃんと覚えたら。
「だろうな、教室もあるそうだから」
今じゃ人気の趣味の一つで、通ってる人も多い筈だぞ。
本物の花を育てるのもいいが、ただの布から本物そっくりの花を作るのも楽しいらしい。
ちょいと工夫すりゃ、自分だけの花が作れるからな。
「だよね、庭に咲いてる花をお手本にすればいいんだから」
そういう教室に通って習えば、凄いのが作れそうだけど…。
でも…。
作っても家では出番が無いよ、と零れた溜息。いつかハーレイと暮らす家では、ペットは飼っていないだろうから。
「そうでしょ、ペットを飼おうっていう話は出てないし…」
ペットを飼ったら、ぼくはペットに嫉妬しちゃいそう。ハーレイが可愛がってるのを見て。
撫でて貰ったり、抱っこされてたり、ハーレイの膝に乗っかってたり…。
そんなのを見たら、「どいて」ってペットを放り出しそう。「ぼくの場所だよ」って。
「…やりかねないよな、お前だったら」
ミーシャに負けない甘えん坊だし、子猫相手でも本気で怒りそうではある。俺を盗られたと。
もっとも、俺の方でも同じことなんだがな。
お前がペットを飼い始めたなら、俺はペットに嫉妬するぞ。お前の愛情がそっちに向くから。
つまりだ、俺もお前も、ペットを飼うには不向きなんだよなあ…。
ちょっと預かるくらいならいいが、という話。誰かが留守にしている間に、預かるペット。
「そのくらいなら…。可愛いだろうし、じきに帰ってしまうんだから…」
ぼくも嫉妬はしないと思う。ハーレイを放って、夢中で世話していそうだけれど…。
だけど、ホントに少しの間だけだから…。造花が無いと、って思うほどではないものね…。
とても残念、と項垂れた。
造花を上手に作れそうな自分。前の自分よりも優れた部分を発見したのに、出番なしになる造花作りの腕前。いくら見事に作り上げても、飾るべき場所も場面も無いから。
「ふうむ…。造花作りの腕前なあ…」
お前が腕を誇りたいなら、場所を作ってやってもいいが。…どうやら家じゃ無理そうだしな。
俺もお前も、ペットを飼う気は無いんだから。
「場所って?」
どういう場所を作ってくれるの、ぼくたちの家じゃないのなら…?
ハーレイの学校とかなのかな、と首を傾げたら、「それに近いな」という返事。
「造花ってヤツは本物と違って頑丈だからな。夏の真っ盛りの暑い時でも萎れないし…」
カンカンと陽が照り付ける場所に飾っておいても、少しも傷みやしないから…。
今の俺は柔道部の顧問なんだが、赴任してゆく学校によっては、水泳部を任されることもある。
俺が水泳部の顧問になった時にだ、夏の大会用の花束をだな…。
造花で作ればいいじゃないか、というのがハーレイが用意してくれる場所。
暑い夏は水の季節なのだし、水泳の大会も開催される。その大会で好成績を収めた生徒が貰える花束。優勝はもちろん、自分の学校の水泳部の中では優れた戦果を挙げた生徒も。
会場になるプールが屋外だったら、燦々と降り注ぐ真夏の日射し。花束には過酷すぎる環境。
大会の間に萎れないよう、置かせて貰える部屋が設けてあるのだけれども、造花だったらプールサイドに飾っておいても萎れない。応援している生徒と一緒に、太陽の下。
「勝ったらコレだ、と花束を掲げて士気を鼓舞するわけだな」
応援ついでに振り回したって、造花は散ったりしないから…。丁度良さそうだぞ、大会用に。
俺が水泳部の顧問になったら頑張ってくれ、と注文された花束作り。造花を束ねて、真夏の太陽にも負けない花束。見た目は本物そっくりなのに、萎れる心配が無い花束。
「そういう風にしか使えないよね…。ぼくが造花を作っても」
ハーレイだって、あんまり褒めてくれそうにないし…。いくら上手に作っても。
大会用の花束だったら、生徒にあげてしまうんだから。
出来上がったら、直ぐに車に積んじゃいそう、と溜息をついた。ろくに眺めてくれもしないで、車のトランクに仕舞うハーレイ。トランクでなければ、後部座席に乗せるとか。
「お前なあ…。出番さえあれば、いいってわけではないんだな?」
だったら俺たちの家に飾ればいいじゃないか。腕前を披露したいのならば。
ペットなんぞは飼ってなくても、お前の趣味の作品ってことで。
そういう人も少なくないぞ、とハーレイは許してくれたのだけれど。本物の花を飾る代わりに、造花を幾つも飾っておいてもいいらしいけれど…。
「ぼくはあんまり楽しくないかも…。造花は作ってみたいけれどね」
家に飾っておくんだったら、本物の花が一番でしょ?
造花よりかは、本物だってば。
ああいう造花が出来た時代は、家に沢山の花を飾るんだったら、造花しか無かったんだけど…。
色々な花を育てたくても、個人の家でやるのは無理だったんだけど…。
今は好きなだけ育てられるよ、庭の花壇でも、鉢植えでも。
本物の花が山ほどあるのに、造花だなんて…。
自分では上手く育てられなくても、花屋さんに行ったら、花はいくらでもあるんだから。
本物があるのに造花なんて、と賛成出来ないハーレイの意見。
造花作りの腕はともかく、家に飾るなら、本物がいいと思うから。造花よりも断然、本物の花。
「だってそうでしょ、今のぼくたちは地球にいるんだよ?」
前のぼくたちが生きてた頃には、青い地球は何処にも無かったけれど…。
今は本物の青い地球だし、其処で育った花が一杯。…造花を飾るより、地球の花だよ。
本物の地球の花がいいよ、と反対意見を述べた。造花作りは魅力的でも、家に飾るための花なら本物。ペットが悪戯しないなら。齧ってしまうペットがいないのならば。
「そう来たか…。お前が言うのも、分からないではないんだが…」
おふくろがミーシャを飼ってた頃でも、普段は本物の花を飾っていたからな。
俺たちだけしか見ないんだったら、齧られていようが、花瓶ごと倒れて水浸しだろうが、問題は何も無いわけだから…。ミーシャはおふくろの猫だったんだし、おふくろがそれでいいのなら。
おふくろ、何度も拭いてたっけな、花瓶が引っくり返った床を。
それでも花は本物に限る、と家の誰もが思っていたから、造花は客が来る時だけでだな…。
待てよ、前のお前も同じことを言っていなかったか?
花は本物に限るってヤツだ、とハーレイが訊くから、キョトンとした。
「なに、それ?」
前のぼくが花の話だなんて、いつのことなの?
ぼくは少しも覚えていないよ、本物の花がいいなんて話をしたことは。
それに造花の話も知らない、問い返した言葉は嘘とは違う。本当に記憶に残っていないし、今の自分は何も知らない。前の自分が本当にそれを口にしたのか、そうでないのかも。
「いつだっけかな…」
ちょっと待ってくれ、俺の記憶もハッキリしてはいないんだ。
聞き覚えがあるな、と思った途端に、前のお前の顔が浮かんで来ただけで…。お前だった、と。
確かにお前だったと思うが、前後がサッパリ思い出せない。
本物の花に限るんだ、と言ったのは前のお前の筈だが…。いったい何処から花の話に…。
前のお前と花見なんかをしてはいないと思うんだがな?
花見ってヤツに出掛けようにも、前の俺たちにはシャングリラだけしか無かったし…。
花見に行くのは無理だったぞ、とハーレイは考え込んでいる。「いつの話だ?」と。
「造花と本物の花を比べていたってことはだ…」
本物の花の方が素敵だ、と前のお前は思ってたんだし、両方があった時代のことか…。
それとも、造花しか無かったか。…本物の花は、船には無くて。
「白い鯨になる前かな?」
あの頃だったら、花なんかは育てていないから…。改造直前の試験期間には、畑もあったけど。
それよりも前は、食料も物資も奪い取るもので、花は物資の中に紛れていた程度…。
本物も造花もたまに混ざっていたよね、食堂とかに飾っていたよ。
みんなが楽しめる場所に、と思い出す遠い昔のこと。あの時代に言った言葉だろう、と。
「そうだと思うが…。花が貴重な頃だったしな」
同じ花なら、本物の方がずっといい、と前のお前が言いそうな時代ではあった。花を奪って飾る余裕は無かった船だし、同じように物資に紛れてるんなら、本物がいいに決まってるしな。
いや、違う…!
白い鯨の時代だった、とハーレイがポンと手を打ったから、「まさか」と見開いた瞳。白い鯨になった船なら、花は充分あったから。どの公園にも、季節の花たち。
「白い鯨って…。ハーレイ、勘違いしていない?」
あの船だったら、花は沢山あったじゃない。造花なんかを作らなくても、いくらでも。
みんなが摘んで帰っちゃったら、すっかり無くなりそうだけれども…。
きちんとルールが決まっていたでしょ、摘んでいい花とか、駄目な花とか。
クローバーの花は摘み放題だよ、と逞しかった花の名前を挙げた。子供たちが摘んでは、花冠を作ってくれた。「ソルジャーにあげる」と、競うようにして。
薔薇や百合などの観賞用の花も、皆が集まる場所に飾るなら切っても良かった。切った後にも、充分な花が残るなら。
白いシャングリラには、幾つもあった花が咲く場所。
ブリッジが見える一番広い公園の他にも、居住区のあちこちに鏤められていた小さな公園。どの公園にも花が咲いたし、造花の出番は無かった筈。
前の自分が「本物の花に限る」と言い出さなくても、本物の花たちが船で育っていたのだから。
きっとハーレイの勘違いだ、と思った前の自分のこと。「本物の花の方がいい」と造花と比べていたのだったら、白い鯨になる前だろう、と。
けれどハーレイは、「間違えちゃいない」と自信たっぷり。「よく聞けよ?」と。
「本当に、白い鯨が出来上がってからの話だったんだ。俺はすっかり思い出したぞ」
船の公園で色々な花が育ち始めて、花があるのが普通になった。
公園は幾つもあったんだからな、何処かで花が咲いてるもんだ。花が終わった場所があっても。
お蔭で、みんなが花を眺めて、「いい時代だ」と喜ぶようになったんだが…。
どんなに花たちが愛されていても、場所によっては花は育てられない。飾ることもな。
此処にも花があればいいのに、と思いはしたって、無理な環境はあるもんだ。
花瓶や植木鉢を置いても、室温がやたらと高い場所では、アッと言う間に萎れてしまう。機関部とかだな、代表格は。
「…それで?」
花が無理だというのは分かるよ、機関部ならね。あそこには高温の場所も沢山あったから。
だけど、前のぼくとどう結び付くわけ、花には向かない場所の話が…?
「そういう所にも花を飾れないか、って声が出て来ちまって…」
花がある暮らしが普通になったら、人間、欲が出てくるってな。此処でも見たい、と。
公園や農場の係だったら、いつだって花は見放題だ。…だが、違う持ち場の仲間も多いから…。
何か方法が無いだろうか、とエラたちが検討し始めてだな…。
考え出したのが造花だった、という昔話。前の自分たちが、白いシャングリラで生きた頃。
人類の船から奪った物資で暮らした時代に、何度か目にしていたのが造花。コンテナに詰まった物資に紛れて、本物そっくりの造花もあった。
あれを作ろう、と思い付いたエラたち。
本物の花が無理な場所には、本物そっくりの造花がいい。造花だったら萎れはしないし、高温の場所でも枯れはしないで咲き続けるから。
データベースで調べた通りに作られた布。思い通りの色に染められて、造花を作ってゆける布。
専用のコテなどもきちんと揃えて、女性たちが器用に作った造花。
それは元々、女性の作業だったから。地球が滅びに向かう時代に、花たちで家を飾ろうと。
白いシャングリラの女性たちが始めた、本物そっくりの造花作り。公園に咲いた本物の花たちを参考にしては、薔薇も百合も見事に作り上げた。布を染めたり、コテを使ったりして。
後には子供たちも手伝うようになった、様々な造花を作ること。複雑なものは作れないけれど、簡単な花なら作れる子たちもいたものだから。
「お前、そいつに混ざり込んだんだ」
子供たちのための造花教室。…遊びを兼ねて開かれてたヤツに、「ぼくもやるよ」と。
ソルジャーお得意の我儘だってな、と笑うハーレイ。「子供たちと遊ぶのも仕事だったし」と。
「思い出した…!」
出来そうな気がしたんだってば、造花を作ることくらい…。
裁縫の腕とは関係無いしね、布を切ってコテで花びらとかに仕上げていくんだから。
小さな子だって作ってたんだし、ぼくにも出来ると思ったんだよ。
教室で教える花くらいなら…、と言ったけれども、そう思ったのは前の自分の勘違い。不器用な手でも作れるだろう、と勇んで参加してみたものの…。
「ソルジャー、大丈夫?」
ちゃんと花びら、作れそうなの、と覗き込んで来た子供たち。格闘中の前の自分の手許を。
「うん、多分…」
大丈夫だと思うけれど、と答えたものの、上手く扱えなかったコテ。こうだろうか、と花びらを曲げてゆこうとしたって、変な具合に曲がってしまう。とても花びらとは思えない風に。
「曲がっちゃったの? それ、直せない…?」
手伝ってあげる、と横から伸びて来た小さな手。「こう直すの」と、「コテをこう当てて」と。
下手くそな出来になっていたのを、それは器用に直してくれた子供たち。まだ小さいのに。
負けてたまるか、と何度も教室に参加したけれど、惨憺たる成績だったソルジャー。
いつも子供たちが手伝ってくれて、失敗したのを直してくれたり、助けたり。
どう頑張っても、一人では完成させられなかった造花たち。ごくごく基本の花さえも。
そんな有様だから、前のハーレイが青の間に来ては笑っていた。
「また失敗をなさったそうで」と。
造花教室が開かれることは、キャプテンも承知していたから。誰が教室に参加したかも、造花をきちんと仕上げることが出来たのかも。
キャプテンの所に届いた報告。造花教室を開催したこと、ソルジャー・ブルーが参加したこと。講師を務めた女性たちが律儀に報告したから、前の自分の失敗談は筒抜けだった。
ただし、女性たちの名誉のために言うなら、報告の中身はソルジャー・ブルーの失敗ではない。子供たちがソルジャーのために尽力したこと、そういう報告。
「どの子たちも、よく頑張りました」と。与えられた課題以上のことをやったと、他の参加者の分も手伝い、それは見事に完成させた、と。
女性たちはそう書いたのだけれど、前のハーレイには直ぐに分かった。「他の参加者」とは誰のことなのか、どうして手伝いが必要なのかも。
それをハーレイに笑われる度に、仏頂面で言っていた自分。
「造花なんてね…。あんなのは紛い物だから。そっくりに見えても、よく見たら布だ」
本物の花が一番なんだよ、布で出来てる花じゃない。自然が作った本物の花が最高なんだ。
この船に自然は無いと言っても、花の命までは作れないだろう?
だから自然の産物なんだよ、この船で咲く花たちも。…あれが本物で、同じ花でも全部違うよ。
本物の花たちを真似ようとするのが間違っているね、真似られないぼくが正しいんだ。
人間の身では神様の真似は出来ないだろう、と屁理屈ばかりこねていた。
「自然に敬意を抱いているから、本物そっくりの造花は作れない」と。
そっくりの造花を作るというのは、神と自然への冒涜だとも。
「お前、そう言ったわけなんだが…」
前のお前は確かに言ったぞ、造花作りに出掛けて失敗してくる度に。
俺が笑わずに教室のことを黙ってた時は、そんな話は全く出ては来なかったんだが…。
本物そっくりの造花が何処にあろうが、機関部の視察で目にしようがな。
「これは駄目だ」とは言わなかっただろうが、と今のハーレイが言う通り。
ソルジャーとキャプテン、その組み合わせで出掛けた視察。機関部に行くことも何度もあった。
其処で造花を目にした時には、「いいものだね」と語り合ったほど。
「こんな所にも、花を置こうと思える時代になって良かった」と。
皆の心に余裕が無ければ、花が欲しいとは思わないから。
本物の花が置けない場所でも、「造花でいいから花があれば」と考えたりはしないのだから。
白いシャングリラの機関部にあった、本物そっくりの様々な造花。季節に合わせて、替えていた造花。春らしい花が置かれていたり、高温の場所とも思えない冬の花があったり。
「前のお前は自然に敬意を抱いていたから、造花を作れなかったらしいが…」
いくら挑んでも、本物そっくりの造花作りは、ついに成功しなかったんだが…。
今のお前がそいつを作れるってことはだ、お前、自然に敬意を抱いていないのか?
青い水の星に戻った地球に来たのに、自然はどうでもいいってか…?
とても上手に造花を作れるらしいじゃないか、とハーレイが浮かべた意地の悪い笑み。前よりも上手に作れるのなら、自然への敬意が無いんだな、と。
「酷いよ、ハーレイ!」
それ、揚げ足を取るって言わない?
前のぼくが言ってたことを持ち出して、今のぼくと比べて苛めるだなんて…!
「これか? より正確に表現するなら、言葉尻を捉えると言うんだが…」
揚げ足を取るって言い方よりかは、そっちの方が正しいぞ、うん。
で、どうなっているんだ、今のお前の敬意の方は?
自然への敬意は前に比べて、どうしようもなく減っているのか…?
青い地球にまで来ておきながら…、と面白そうな顔で見ているハーレイ。「どうなんだ?」と。
「ちゃんと敬意を抱いてるってば…!」
前のぼくよりもずっと多いよ、本物の地球に来たんだから…!
テラフォーミングされた星じゃなくって、生き返った青い地球なんだから…!
「だったら、本物そっくりの造花ってヤツは、作らなくてもいいだろう」
ペットを飼ってて、必要になって来たというなら話は別だが…。
前のお前にも造花作りは無理だったんだし、今のお前が続きを頑張らなくてもな…?
無理をしなくてもいいじゃないか、とハーレイは明らかに楽しんでいる。造花作りのことを。
「前のぼくのは…。あの頃はホントに作れなかったわけで、今のぼくなら…!」
手先がずっと器用になったし、造花だって綺麗に作れるよ。きっと、本物そっくりに。
また教室に行って習えば、今度は本物そっくりの造花…。
「ほほう…? 本物そっくりに作れるとなると…」
自然への敬意ってヤツはどうした、前のお前が抱いていた敬意はどうなったんだ…?
今のお前の自然への敬意は、前のお前より劣るのか、とハーレイに苛められたから。
ソルジャー・ブルーだった頃にこねた屁理屈、それを持ち出されてしまったから。
(今のぼくなら、前のぼくより器用で凄い筈なのに…)
前は作れなかった造花を、本物そっくりに仕上げて自慢出来そうなのに。
「こんなに上手に作れたんだよ」と、ハーレイにも見せびらかしたいのに。
もしも器用に作り上げたら、自然への敬意がどうこうと言った、前の自分が足を引っ張る。
今の自分も自然に敬意を抱いているというのに、それが台無し。…前の自分の屁理屈のせいで。
(前のぼく…)
なんて余計なことを前のハーレイに言ったんだろう、と悔しいけれども、とうに手遅れ。
前の自分は訂正しないで死んでしまって、今のハーレイが思い出したから。
(生まれ変わるなんて、思わなかったし…)
不器用な手先が器用になるとも、まるで思っていなかったのだし、仕方ない。
前の自分に勝てるつもりが、無残に負けた。
造花作りなら、ソルジャー・ブルーだった頃の自分に、鮮やかに勝てる筈だったのに。
前よりもずっと見事に作って、「ぼくの勝ちだ」と誇れる筈だったのに…。
ソルジャー・ブルーは、今の自分に戦わずして勝ちを収めた。
不器用すぎた前の自分の必死の言い訳、それをハーレイが覚えていたから。
今の自分が造花を作ると、自然への敬意が無いことになってしまうから。
(…後悔先に立たず…)
ホントに先に立たなかったよ、と情けない気分。ハーレイのニヤニヤ笑いを前に。
今頃だなんてスケールの大きな後悔だよねと、前のぼくにも未来は見えなかったから、と…。
造花と本物・了
※造花作りなら前の自分に勝てる、と思ったブルー。それは間違いなかったのですが…。
前のブルーが失敗する度、こねていた屁理屈。今のブルーには、造花を作ることは無理そう。
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凄い、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
造花だという花たちの写真。様々な種類の花たちだけれど、本物と区別がつかないほど。写真のせいではないらしい。側で見ないと、造花だとは気付かないという。
植木鉢に植わった花にも驚きだけれど、透明な花瓶も凄かった。
(水まで入っているんだけど…)
その水までが作り物。本物の水とは違って塊、倒れても水は零れない。花瓶ごとゴトンと倒れるだけで、起こしてやれば元通り。これが本物の花瓶だったら、辺り一面、水浸しなのに。
満たした水も無事だけれども、花たちも無傷。倒れたはずみに花びらが傷むことはない。
(ペットを飼っている家に…)
お勧めらしい造花たち。
家の中で人間と一緒に暮らすペットは色々、中には悪戯者もいる。部屋をあちこち走り回って、花瓶を倒すことだって。テーブルにヒョイと飛び移ったら、代わりに花瓶が落っこちることも。
花瓶が倒れる事故の他にも、花たちを見舞う不幸な出来事。
(齧っちゃうんだ…)
小鳥が花を齧るのだったら分かるのだけれど。…花の蜜が好きで、吸う鳥たちも多いから。
そういう鳥とは食べ物の好みが全く異なる、猫や犬たち。彼らが齧ってしまう花。植木鉢のも、花瓶に生けてある花も。
(きっとオモチャで…)
食べたいわけではないだろう。美味しいとは思えない花びら。
人間だったら、食べるための花も栽培しているとはいえ、そのままで食べはしない筈。お菓子に入れたり、サラダにしたり、工夫を凝らして口に入れるもの。
人間でさえもそうなのだから、猫や犬たちが花を喜ぶわけがない。「美味しいよね」と。
つまり齧られる花はオモチャで、歯ごたえが楽しいだけのこと。端から毟って減ってゆくのも、愉快なのかもしれないけれど…。
それをやられたら、人間の方は肩を落として眺めるしかない。齧られてしまった花たちを。
倒されてしまう花瓶も困るし、蹴散らされる植木鉢だって。齧られて駄目になる花も。その手の悲劇を防ぐためにと、代わりに造花。本物そっくりに出来ているのを。
よく出来ている、と思った造花。今ではペットを飼っている家にお勧めだけれど…。
(元々は…)
違ったらしい、造花の歴史。新聞の記事は、そちらがメイン。どうして造花が生まれたのか。
SD体制が始まるよりも前の時代に、作り出された造花たち。
その原型はかなり古くて、人間が地球しか知らなかった時代に既に存在したという。本物の花が咲かない季節も、家の中で花を愛でられるように。
そうして生まれた造花だけれども、今もある形が完成したのは地球が滅びに向かう頃。
(材料、色々…)
どれが最適かを色々試して、選び出された特殊な布。花たちはそれで出来ている。
本物の花の色そっくりに自由自在に染めることが出来て、専用のコテで花びらなどの姿を作ってゆける布。カーブさせたり、縮れさせたり。
(緑が自然に育たなかったから…)
大気が汚染された地球では、特殊な設備を設けない限り、育てられなくなった植物。
緑の木々も、人間が食べるための野菜も、日々の暮らしに彩りを添える花たちも。それでも家に緑が欲しい、と作られたのが造花たち。
本物の花を育てることは、既に個人の家では難しかったから。
人間が暮らす家の中では育てられても、何種類もの花を植えようとしたら足りないスペース。
それでは花を絶やさないことは難しい。様々な花を、年中、咲かせておくことは。
(代わりに四季の花を作って、季節で入れ替え…)
今の季節はこの花が咲く頃だから、と生ける造花たち。春の花やら、秋の花やら。
造花だったら何種類でも作り出せるし、ふんだんに生けて楽しめる。花瓶から溢れそうなほど。本物の花では、もはや不可能になった贅沢を。
後は気分や場面に合わせて、好きに飾っていた造花たち。冬の最中でも、夏の花とか。
(今だって、やっているものね?)
もちろん本物の花だけれども、温室などで調整して。
緑が育たなくなった地球の人間も、それを造花でやっていた。暮らしに花は欠かせないから。
造花を作るのが主婦の仕事になっていたほど。
市販のものより、気の利いたものを。他所の家には無い花たちを、と作って生けて。
そうだったのか、と驚かされた造花の歴史。遠い昔は、本当に必要だった花たち。家でペットを飼っていなくても、花が欲しいと思うなら。…自分の家だけの花が欲しかったなら。
(ぼく、サイオンは不器用だけど…)
手先は器用な方なのだから、こういう花なら作れそう。専用の布を買って来て染めて、庭にある花の真似をして。「薔薇の花なら、こんな風」と。
前の自分は最強のサイオンを誇ったけれども、裁縫も下手な不器用さ。きっと造花も作れない。どう頑張っても、ソルジャー・ブルーだった前の自分には。
(これなら勝てるよ!)
造花作りの腕前だったら、前のぼくに、と考えたけれど。
サイオンではとても敵いはしない前の自分に、造花作りなら勝てる筈だと思ったけれど…。
(いつ作るわけ?)
ソルジャー・ブルーに勝てそうな造花。「ほらね」と作って誇らしげに。
作れるだろうと思うけれども、今の時代は造花作りはただの趣味。青く蘇った水の星では、緑は自然に育つもの。零れて地面に落ちた種でも、美しい花を咲かせるもの。
(特別な設備は何も要らなくて…)
野原でも、山でも、海辺に広がる砂浜でだって、植物たちが生きている。動物の影さえ見えない砂漠に行っても、其処に適応した植物たち。
(雨が降ったら、花畑だって…)
生まれるらしい、砂漠という場所。ほんの短い間だけ出来る、夢のような砂漠の中の花園。
そんな時代に造花をわざわざ作らなくても、花はいくらでも手に入る。家の庭でも、沢山の花を扱う花屋でも。…野原や山に咲く花が欲しいなら、其処へ出掛けてゆきさえすれば。
今だと造花は、趣味で作って楽しむもの。欠かせない場所があるとしたなら、ペットのいる家。この記事にも「お勧めです」と書かれているから、買っている人も多いだろう。
けれど…。
(ハーレイと暮らす家にペットは…)
多分いないし、造花の出番は全く無い。本物の花を生けた花瓶を蹴倒すペットがいないなら。
まるで必要ない造花などを、作っても褒めて貰えるかどうか。…あのハーレイに。
きっと上手に作れるだろうに。前の自分には作れそうにない、とても素敵なものなのに。
この写真のも作れそう、と眺めた新聞にある造花たち。本物そっくり、それを作ってハーレイに披露してみても…。
(綺麗に出来たな、って言われておしまい…)
そんな感じ、とガッカリしながら食べ終えたおやつ。新聞を閉じて二階の自分の部屋に戻って、造花のことを考える。勉強机の前に座って。
前の自分に勝てそうだけれど、作ってみても出番が全く無い造花。
家でペットを飼っていないなら、造花を飾る必要は無い。本物を飾っておけば済むこと。花瓶にドッサリ生けておいても、倒されることも、齧られることも無いのだから。
同じ花なら、造花よりも本物の花の方がいいに決まっている。地球の光や水が育てた花。生命の輝きをたっぷり宿した、本物の花が。
それに…。
(前のぼくが作っていないから…)
作った所で、比べようもない造花作りの腕前。今の自分の自己満足。「器用なんだよ」と。
前の自分が酷い出来のを作っていたなら、今度は見事な造花を作って威張れるのに。サイオンはまるで不器用だけれど、造花作りならソルジャー・ブルーに負けはしない、と。
(…比べるものが無いんだもの…)
どんなに上手に作り上げても、ハーレイに褒めて貰えるだけ。「頑張ったな」という程度。
今の自分の裁縫の腕なら、ハーレイも認めてくれたのだけれど。
(…今のお前は器用なもんだな、って…)
言って貰えた、裁縫の腕。取れかかっていたシャツのボタンを縫い付けた時に。
ハーレイのシャツの袖口についていたボタン。「取れかかってるよ」と気付いて言ったら、毟り取ろうとしたハーレイ。知らない間に取れてしまって、落として失くすと困るから。
「待って」と止めて、上手に縫い付けた。家庭科で使う裁縫セットで。
(前のぼくだと、失敗なんだよ)
ソルジャー・ブルーがやった大失敗。前のハーレイの上着の袖のほころび、それを直そうとして上手くいかなくて…。
(失敗したから、からかわれて…)
縫い目も針跡も無いシャツを作ってプレゼントした。スカボローフェアの恋歌のシャツを。歌に出て来る言葉通りに、縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを見事に作り上げて。
前の自分がサイオンで作った奇跡のシャツ。縫い目も針跡も無かった亜麻のシャツはもう、今の自分には作れない。とことん不器用になったサイオン、前の自分の真似は出来ない。
けれど、今度は器用な手先。裁縫だって上手くなったし、前の自分よりも遥かに上。
(造花、ぼくなら作れそうなのに…)
きっと出来ると思うけれども、比べようもない前の自分の腕前の方。造花は作らなかったから。
ついでに、造花を作ってみたって、それの出番が無い始末。ペットを飼っていないのならば。
(迷子の子猫を見付けて飼っても…)
じきに飼い主が迎えに来る。小さな子猫が花に悪戯する前に。「造花にしなきゃ」と家中の花を取り替える前に、元の家に帰ってゆく子猫。お母さん猫がいる家へ。
(…造花の出番はホントに無さそう…)
残念だけど、と溜息を零していたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが来てくれたけれど、造花の腕前は自慢出来ない。まだ作ってもいないわけだし、これからも作る予定は無いし…。
考え込むから、途切れた言葉。テーブルを挟んで、向かい合わせで話していても。
「どうした、何か悩み事か?」
黙っちまって、とハーレイに尋ねられたから、思い切って言ってみることにした。
「ハーレイ、造花を知っている?」
「はあ?」
造花って何だ、いきなり何を言い出すんだ…?
分からんぞ、と瞬く鳶色の瞳。「造花がどうかしたのか?」と。
「造花だってば、本物そっくりに出来た花だよ。今日の新聞に載っていて…」
元々は地球が滅びそうだった時代に、緑が欲しくて造花を作ったらしいけど…。
今は本物の花があるから、ペットがいる家にお勧めだって。
ペットは花に悪戯するしね、と記事の受け売り。花瓶を倒したり、花を齧ったりするペット。
「ああ、あれなあ…!」
本物と区別がつかんヤツだな、すぐ側に行って観察しないと。葉っぱの虫食いまで真似るから。
俺の家にもあったっけな、とハーレイは顔を綻ばせた。
まだハーレイが子供だった頃で、隣町の家には猫のミーシャも。ハーレイの母が飼っていた猫、真っ白で甘えん坊だったミーシャ。
その頃だったら俺の家にもあったんだ、とハーレイは懐かしそうだから。
「あったの、造花?」
本物みたいに見える造花が、ハーレイの家にもあったわけ…?
「そりゃまあ、なあ…? ミーシャもやっぱり猫だから…」
甘えん坊でも、猫ってヤツには違いない。猫にしてみれば、飾ってある花はオモチャだしな?
人間様の都合なんかは考えないぞ、と言うだけあって、遊んで駄目にしてしまう花。
齧って花をボロボロにしたり、花瓶ごと引っくり返したり。
普段はそれでもいいのだけれども、来客があった時には困る。楽しんで貰おうと、玄関や客間に飾った花たち。それが台無しになったなら。…油断して目を離した隙に。
そうならないよう、用意されたのが造花たち。本物そっくりに出来ている花。
「…造花、お客様用の花だったんだ…」
いつも造花ってわけじゃなくって、お客様の時だけ飾る花…。
「おふくろは花が好きだからなあ、飾るのも、庭で育てるのも」
綺麗な花が咲いた時には、家の中でも見たいもんだし…。本物の花が一番だ。齧られてもな。
しかし、誰かが来るとなったら、齧られた花じゃみっともないし…。倒れた花瓶は論外だ。
それじゃマズイから、おふくろがせっせと作っていたぞ。
庭の花を切って来たように見せて、玄関や客間に造花ってな。
「ハーレイのお母さん、作れちゃうの?」
本物そっくりに見える造花を作っていたの…?
ミーシャが家にいた頃は、と丸くなった目。ハーレイの母が、造花作りの大先輩だなんて。腕のいい先輩がいるとなったら、挑戦するのもいいだろうか、と考えたのに…。
「すまん、言い方が悪かった。おふくろは生けていただけだってな」
「え?」
生けてただけって…。それじゃ、作っていたんじゃないの?
「そういうこった。お前も新聞で読んだんだろうが、ペットのいる家にお勧めだと」
おふくろだって知っていたから、セットになってる花を買わずに、色々なのを買ってだな…。
そいつを上手く生けていくんだ、花瓶とかに。
庭から切って来たばかりです、といった感じに見えるようにな。
ハーレイの母が買っていた造花。水が入っているように見える花瓶つきの花や、植木鉢がついているのは避けて。庭に咲いている季節の花と同じ種類のを、何本も。
来客の時は、ミーシャが齧りそうな場所には、そういう造花。大きな花瓶に沢山生けたり、一輪挿しに一輪だとか。
「ミーシャが齧ったりしないように造花…」
それに花瓶も、倒されちゃっても大丈夫なように。造花だったら水は要らないものね。
やっぱりペットがいないと駄目かあ…。家に造花を飾るのは…。
ハーレイの家にミーシャが住んでいた頃も、普段は本物の花を飾っていたみたいだし…。
「どうしたんだ、お前?」
やたらと造花を気にしているが、と覗き込んでくる鳶色の瞳。「欲しいのか?」と。
「えっとね…。読んでた記事に、作り方とか歴史が書いてあったから…」
前のぼくだと造花を作るのは無理そうだけれど、今のぼくなら作れそう、って…。
今なら裁縫もちゃんと出来るし、ああいう造花も作れそうだと思わない?
「なるほどな。前のお前は不器用だったし…」
裁縫の腕は不器用すぎて、俺の方が遥かにマシだったからな。お前が下手に努力するより、俺がやった方が早かったんだ。
前のお前が「出来る」と言い張った挙句に出来たの、縫い目も針跡も無いシャツだったから…。
俺にからかわれたのを根に持っちまって、仕返しに作り上げたっけな。
「そう。…前のぼくだと、ああいうことになっちゃうんだよ」
今のぼくはサイオンが不器用になってしまって、あんなシャツは作れないけれど…。
造花は上手に作れそうだよ、作り方をちゃんと覚えたら。
「だろうな、教室もあるそうだから」
今じゃ人気の趣味の一つで、通ってる人も多い筈だぞ。
本物の花を育てるのもいいが、ただの布から本物そっくりの花を作るのも楽しいらしい。
ちょいと工夫すりゃ、自分だけの花が作れるからな。
「だよね、庭に咲いてる花をお手本にすればいいんだから」
そういう教室に通って習えば、凄いのが作れそうだけど…。
でも…。
作っても家では出番が無いよ、と零れた溜息。いつかハーレイと暮らす家では、ペットは飼っていないだろうから。
「そうでしょ、ペットを飼おうっていう話は出てないし…」
ペットを飼ったら、ぼくはペットに嫉妬しちゃいそう。ハーレイが可愛がってるのを見て。
撫でて貰ったり、抱っこされてたり、ハーレイの膝に乗っかってたり…。
そんなのを見たら、「どいて」ってペットを放り出しそう。「ぼくの場所だよ」って。
「…やりかねないよな、お前だったら」
ミーシャに負けない甘えん坊だし、子猫相手でも本気で怒りそうではある。俺を盗られたと。
もっとも、俺の方でも同じことなんだがな。
お前がペットを飼い始めたなら、俺はペットに嫉妬するぞ。お前の愛情がそっちに向くから。
つまりだ、俺もお前も、ペットを飼うには不向きなんだよなあ…。
ちょっと預かるくらいならいいが、という話。誰かが留守にしている間に、預かるペット。
「そのくらいなら…。可愛いだろうし、じきに帰ってしまうんだから…」
ぼくも嫉妬はしないと思う。ハーレイを放って、夢中で世話していそうだけれど…。
だけど、ホントに少しの間だけだから…。造花が無いと、って思うほどではないものね…。
とても残念、と項垂れた。
造花を上手に作れそうな自分。前の自分よりも優れた部分を発見したのに、出番なしになる造花作りの腕前。いくら見事に作り上げても、飾るべき場所も場面も無いから。
「ふうむ…。造花作りの腕前なあ…」
お前が腕を誇りたいなら、場所を作ってやってもいいが。…どうやら家じゃ無理そうだしな。
俺もお前も、ペットを飼う気は無いんだから。
「場所って?」
どういう場所を作ってくれるの、ぼくたちの家じゃないのなら…?
ハーレイの学校とかなのかな、と首を傾げたら、「それに近いな」という返事。
「造花ってヤツは本物と違って頑丈だからな。夏の真っ盛りの暑い時でも萎れないし…」
カンカンと陽が照り付ける場所に飾っておいても、少しも傷みやしないから…。
今の俺は柔道部の顧問なんだが、赴任してゆく学校によっては、水泳部を任されることもある。
俺が水泳部の顧問になった時にだ、夏の大会用の花束をだな…。
造花で作ればいいじゃないか、というのがハーレイが用意してくれる場所。
暑い夏は水の季節なのだし、水泳の大会も開催される。その大会で好成績を収めた生徒が貰える花束。優勝はもちろん、自分の学校の水泳部の中では優れた戦果を挙げた生徒も。
会場になるプールが屋外だったら、燦々と降り注ぐ真夏の日射し。花束には過酷すぎる環境。
大会の間に萎れないよう、置かせて貰える部屋が設けてあるのだけれども、造花だったらプールサイドに飾っておいても萎れない。応援している生徒と一緒に、太陽の下。
「勝ったらコレだ、と花束を掲げて士気を鼓舞するわけだな」
応援ついでに振り回したって、造花は散ったりしないから…。丁度良さそうだぞ、大会用に。
俺が水泳部の顧問になったら頑張ってくれ、と注文された花束作り。造花を束ねて、真夏の太陽にも負けない花束。見た目は本物そっくりなのに、萎れる心配が無い花束。
「そういう風にしか使えないよね…。ぼくが造花を作っても」
ハーレイだって、あんまり褒めてくれそうにないし…。いくら上手に作っても。
大会用の花束だったら、生徒にあげてしまうんだから。
出来上がったら、直ぐに車に積んじゃいそう、と溜息をついた。ろくに眺めてくれもしないで、車のトランクに仕舞うハーレイ。トランクでなければ、後部座席に乗せるとか。
「お前なあ…。出番さえあれば、いいってわけではないんだな?」
だったら俺たちの家に飾ればいいじゃないか。腕前を披露したいのならば。
ペットなんぞは飼ってなくても、お前の趣味の作品ってことで。
そういう人も少なくないぞ、とハーレイは許してくれたのだけれど。本物の花を飾る代わりに、造花を幾つも飾っておいてもいいらしいけれど…。
「ぼくはあんまり楽しくないかも…。造花は作ってみたいけれどね」
家に飾っておくんだったら、本物の花が一番でしょ?
造花よりかは、本物だってば。
ああいう造花が出来た時代は、家に沢山の花を飾るんだったら、造花しか無かったんだけど…。
色々な花を育てたくても、個人の家でやるのは無理だったんだけど…。
今は好きなだけ育てられるよ、庭の花壇でも、鉢植えでも。
本物の花が山ほどあるのに、造花だなんて…。
自分では上手く育てられなくても、花屋さんに行ったら、花はいくらでもあるんだから。
本物があるのに造花なんて、と賛成出来ないハーレイの意見。
造花作りの腕はともかく、家に飾るなら、本物がいいと思うから。造花よりも断然、本物の花。
「だってそうでしょ、今のぼくたちは地球にいるんだよ?」
前のぼくたちが生きてた頃には、青い地球は何処にも無かったけれど…。
今は本物の青い地球だし、其処で育った花が一杯。…造花を飾るより、地球の花だよ。
本物の地球の花がいいよ、と反対意見を述べた。造花作りは魅力的でも、家に飾るための花なら本物。ペットが悪戯しないなら。齧ってしまうペットがいないのならば。
「そう来たか…。お前が言うのも、分からないではないんだが…」
おふくろがミーシャを飼ってた頃でも、普段は本物の花を飾っていたからな。
俺たちだけしか見ないんだったら、齧られていようが、花瓶ごと倒れて水浸しだろうが、問題は何も無いわけだから…。ミーシャはおふくろの猫だったんだし、おふくろがそれでいいのなら。
おふくろ、何度も拭いてたっけな、花瓶が引っくり返った床を。
それでも花は本物に限る、と家の誰もが思っていたから、造花は客が来る時だけでだな…。
待てよ、前のお前も同じことを言っていなかったか?
花は本物に限るってヤツだ、とハーレイが訊くから、キョトンとした。
「なに、それ?」
前のぼくが花の話だなんて、いつのことなの?
ぼくは少しも覚えていないよ、本物の花がいいなんて話をしたことは。
それに造花の話も知らない、問い返した言葉は嘘とは違う。本当に記憶に残っていないし、今の自分は何も知らない。前の自分が本当にそれを口にしたのか、そうでないのかも。
「いつだっけかな…」
ちょっと待ってくれ、俺の記憶もハッキリしてはいないんだ。
聞き覚えがあるな、と思った途端に、前のお前の顔が浮かんで来ただけで…。お前だった、と。
確かにお前だったと思うが、前後がサッパリ思い出せない。
本物の花に限るんだ、と言ったのは前のお前の筈だが…。いったい何処から花の話に…。
前のお前と花見なんかをしてはいないと思うんだがな?
花見ってヤツに出掛けようにも、前の俺たちにはシャングリラだけしか無かったし…。
花見に行くのは無理だったぞ、とハーレイは考え込んでいる。「いつの話だ?」と。
「造花と本物の花を比べていたってことはだ…」
本物の花の方が素敵だ、と前のお前は思ってたんだし、両方があった時代のことか…。
それとも、造花しか無かったか。…本物の花は、船には無くて。
「白い鯨になる前かな?」
あの頃だったら、花なんかは育てていないから…。改造直前の試験期間には、畑もあったけど。
それよりも前は、食料も物資も奪い取るもので、花は物資の中に紛れていた程度…。
本物も造花もたまに混ざっていたよね、食堂とかに飾っていたよ。
みんなが楽しめる場所に、と思い出す遠い昔のこと。あの時代に言った言葉だろう、と。
「そうだと思うが…。花が貴重な頃だったしな」
同じ花なら、本物の方がずっといい、と前のお前が言いそうな時代ではあった。花を奪って飾る余裕は無かった船だし、同じように物資に紛れてるんなら、本物がいいに決まってるしな。
いや、違う…!
白い鯨の時代だった、とハーレイがポンと手を打ったから、「まさか」と見開いた瞳。白い鯨になった船なら、花は充分あったから。どの公園にも、季節の花たち。
「白い鯨って…。ハーレイ、勘違いしていない?」
あの船だったら、花は沢山あったじゃない。造花なんかを作らなくても、いくらでも。
みんなが摘んで帰っちゃったら、すっかり無くなりそうだけれども…。
きちんとルールが決まっていたでしょ、摘んでいい花とか、駄目な花とか。
クローバーの花は摘み放題だよ、と逞しかった花の名前を挙げた。子供たちが摘んでは、花冠を作ってくれた。「ソルジャーにあげる」と、競うようにして。
薔薇や百合などの観賞用の花も、皆が集まる場所に飾るなら切っても良かった。切った後にも、充分な花が残るなら。
白いシャングリラには、幾つもあった花が咲く場所。
ブリッジが見える一番広い公園の他にも、居住区のあちこちに鏤められていた小さな公園。どの公園にも花が咲いたし、造花の出番は無かった筈。
前の自分が「本物の花に限る」と言い出さなくても、本物の花たちが船で育っていたのだから。
きっとハーレイの勘違いだ、と思った前の自分のこと。「本物の花の方がいい」と造花と比べていたのだったら、白い鯨になる前だろう、と。
けれどハーレイは、「間違えちゃいない」と自信たっぷり。「よく聞けよ?」と。
「本当に、白い鯨が出来上がってからの話だったんだ。俺はすっかり思い出したぞ」
船の公園で色々な花が育ち始めて、花があるのが普通になった。
公園は幾つもあったんだからな、何処かで花が咲いてるもんだ。花が終わった場所があっても。
お蔭で、みんなが花を眺めて、「いい時代だ」と喜ぶようになったんだが…。
どんなに花たちが愛されていても、場所によっては花は育てられない。飾ることもな。
此処にも花があればいいのに、と思いはしたって、無理な環境はあるもんだ。
花瓶や植木鉢を置いても、室温がやたらと高い場所では、アッと言う間に萎れてしまう。機関部とかだな、代表格は。
「…それで?」
花が無理だというのは分かるよ、機関部ならね。あそこには高温の場所も沢山あったから。
だけど、前のぼくとどう結び付くわけ、花には向かない場所の話が…?
「そういう所にも花を飾れないか、って声が出て来ちまって…」
花がある暮らしが普通になったら、人間、欲が出てくるってな。此処でも見たい、と。
公園や農場の係だったら、いつだって花は見放題だ。…だが、違う持ち場の仲間も多いから…。
何か方法が無いだろうか、とエラたちが検討し始めてだな…。
考え出したのが造花だった、という昔話。前の自分たちが、白いシャングリラで生きた頃。
人類の船から奪った物資で暮らした時代に、何度か目にしていたのが造花。コンテナに詰まった物資に紛れて、本物そっくりの造花もあった。
あれを作ろう、と思い付いたエラたち。
本物の花が無理な場所には、本物そっくりの造花がいい。造花だったら萎れはしないし、高温の場所でも枯れはしないで咲き続けるから。
データベースで調べた通りに作られた布。思い通りの色に染められて、造花を作ってゆける布。
専用のコテなどもきちんと揃えて、女性たちが器用に作った造花。
それは元々、女性の作業だったから。地球が滅びに向かう時代に、花たちで家を飾ろうと。
白いシャングリラの女性たちが始めた、本物そっくりの造花作り。公園に咲いた本物の花たちを参考にしては、薔薇も百合も見事に作り上げた。布を染めたり、コテを使ったりして。
後には子供たちも手伝うようになった、様々な造花を作ること。複雑なものは作れないけれど、簡単な花なら作れる子たちもいたものだから。
「お前、そいつに混ざり込んだんだ」
子供たちのための造花教室。…遊びを兼ねて開かれてたヤツに、「ぼくもやるよ」と。
ソルジャーお得意の我儘だってな、と笑うハーレイ。「子供たちと遊ぶのも仕事だったし」と。
「思い出した…!」
出来そうな気がしたんだってば、造花を作ることくらい…。
裁縫の腕とは関係無いしね、布を切ってコテで花びらとかに仕上げていくんだから。
小さな子だって作ってたんだし、ぼくにも出来ると思ったんだよ。
教室で教える花くらいなら…、と言ったけれども、そう思ったのは前の自分の勘違い。不器用な手でも作れるだろう、と勇んで参加してみたものの…。
「ソルジャー、大丈夫?」
ちゃんと花びら、作れそうなの、と覗き込んで来た子供たち。格闘中の前の自分の手許を。
「うん、多分…」
大丈夫だと思うけれど、と答えたものの、上手く扱えなかったコテ。こうだろうか、と花びらを曲げてゆこうとしたって、変な具合に曲がってしまう。とても花びらとは思えない風に。
「曲がっちゃったの? それ、直せない…?」
手伝ってあげる、と横から伸びて来た小さな手。「こう直すの」と、「コテをこう当てて」と。
下手くそな出来になっていたのを、それは器用に直してくれた子供たち。まだ小さいのに。
負けてたまるか、と何度も教室に参加したけれど、惨憺たる成績だったソルジャー。
いつも子供たちが手伝ってくれて、失敗したのを直してくれたり、助けたり。
どう頑張っても、一人では完成させられなかった造花たち。ごくごく基本の花さえも。
そんな有様だから、前のハーレイが青の間に来ては笑っていた。
「また失敗をなさったそうで」と。
造花教室が開かれることは、キャプテンも承知していたから。誰が教室に参加したかも、造花をきちんと仕上げることが出来たのかも。
キャプテンの所に届いた報告。造花教室を開催したこと、ソルジャー・ブルーが参加したこと。講師を務めた女性たちが律儀に報告したから、前の自分の失敗談は筒抜けだった。
ただし、女性たちの名誉のために言うなら、報告の中身はソルジャー・ブルーの失敗ではない。子供たちがソルジャーのために尽力したこと、そういう報告。
「どの子たちも、よく頑張りました」と。与えられた課題以上のことをやったと、他の参加者の分も手伝い、それは見事に完成させた、と。
女性たちはそう書いたのだけれど、前のハーレイには直ぐに分かった。「他の参加者」とは誰のことなのか、どうして手伝いが必要なのかも。
それをハーレイに笑われる度に、仏頂面で言っていた自分。
「造花なんてね…。あんなのは紛い物だから。そっくりに見えても、よく見たら布だ」
本物の花が一番なんだよ、布で出来てる花じゃない。自然が作った本物の花が最高なんだ。
この船に自然は無いと言っても、花の命までは作れないだろう?
だから自然の産物なんだよ、この船で咲く花たちも。…あれが本物で、同じ花でも全部違うよ。
本物の花たちを真似ようとするのが間違っているね、真似られないぼくが正しいんだ。
人間の身では神様の真似は出来ないだろう、と屁理屈ばかりこねていた。
「自然に敬意を抱いているから、本物そっくりの造花は作れない」と。
そっくりの造花を作るというのは、神と自然への冒涜だとも。
「お前、そう言ったわけなんだが…」
前のお前は確かに言ったぞ、造花作りに出掛けて失敗してくる度に。
俺が笑わずに教室のことを黙ってた時は、そんな話は全く出ては来なかったんだが…。
本物そっくりの造花が何処にあろうが、機関部の視察で目にしようがな。
「これは駄目だ」とは言わなかっただろうが、と今のハーレイが言う通り。
ソルジャーとキャプテン、その組み合わせで出掛けた視察。機関部に行くことも何度もあった。
其処で造花を目にした時には、「いいものだね」と語り合ったほど。
「こんな所にも、花を置こうと思える時代になって良かった」と。
皆の心に余裕が無ければ、花が欲しいとは思わないから。
本物の花が置けない場所でも、「造花でいいから花があれば」と考えたりはしないのだから。
白いシャングリラの機関部にあった、本物そっくりの様々な造花。季節に合わせて、替えていた造花。春らしい花が置かれていたり、高温の場所とも思えない冬の花があったり。
「前のお前は自然に敬意を抱いていたから、造花を作れなかったらしいが…」
いくら挑んでも、本物そっくりの造花作りは、ついに成功しなかったんだが…。
今のお前がそいつを作れるってことはだ、お前、自然に敬意を抱いていないのか?
青い水の星に戻った地球に来たのに、自然はどうでもいいってか…?
とても上手に造花を作れるらしいじゃないか、とハーレイが浮かべた意地の悪い笑み。前よりも上手に作れるのなら、自然への敬意が無いんだな、と。
「酷いよ、ハーレイ!」
それ、揚げ足を取るって言わない?
前のぼくが言ってたことを持ち出して、今のぼくと比べて苛めるだなんて…!
「これか? より正確に表現するなら、言葉尻を捉えると言うんだが…」
揚げ足を取るって言い方よりかは、そっちの方が正しいぞ、うん。
で、どうなっているんだ、今のお前の敬意の方は?
自然への敬意は前に比べて、どうしようもなく減っているのか…?
青い地球にまで来ておきながら…、と面白そうな顔で見ているハーレイ。「どうなんだ?」と。
「ちゃんと敬意を抱いてるってば…!」
前のぼくよりもずっと多いよ、本物の地球に来たんだから…!
テラフォーミングされた星じゃなくって、生き返った青い地球なんだから…!
「だったら、本物そっくりの造花ってヤツは、作らなくてもいいだろう」
ペットを飼ってて、必要になって来たというなら話は別だが…。
前のお前にも造花作りは無理だったんだし、今のお前が続きを頑張らなくてもな…?
無理をしなくてもいいじゃないか、とハーレイは明らかに楽しんでいる。造花作りのことを。
「前のぼくのは…。あの頃はホントに作れなかったわけで、今のぼくなら…!」
手先がずっと器用になったし、造花だって綺麗に作れるよ。きっと、本物そっくりに。
また教室に行って習えば、今度は本物そっくりの造花…。
「ほほう…? 本物そっくりに作れるとなると…」
自然への敬意ってヤツはどうした、前のお前が抱いていた敬意はどうなったんだ…?
今のお前の自然への敬意は、前のお前より劣るのか、とハーレイに苛められたから。
ソルジャー・ブルーだった頃にこねた屁理屈、それを持ち出されてしまったから。
(今のぼくなら、前のぼくより器用で凄い筈なのに…)
前は作れなかった造花を、本物そっくりに仕上げて自慢出来そうなのに。
「こんなに上手に作れたんだよ」と、ハーレイにも見せびらかしたいのに。
もしも器用に作り上げたら、自然への敬意がどうこうと言った、前の自分が足を引っ張る。
今の自分も自然に敬意を抱いているというのに、それが台無し。…前の自分の屁理屈のせいで。
(前のぼく…)
なんて余計なことを前のハーレイに言ったんだろう、と悔しいけれども、とうに手遅れ。
前の自分は訂正しないで死んでしまって、今のハーレイが思い出したから。
(生まれ変わるなんて、思わなかったし…)
不器用な手先が器用になるとも、まるで思っていなかったのだし、仕方ない。
前の自分に勝てるつもりが、無残に負けた。
造花作りなら、ソルジャー・ブルーだった頃の自分に、鮮やかに勝てる筈だったのに。
前よりもずっと見事に作って、「ぼくの勝ちだ」と誇れる筈だったのに…。
ソルジャー・ブルーは、今の自分に戦わずして勝ちを収めた。
不器用すぎた前の自分の必死の言い訳、それをハーレイが覚えていたから。
今の自分が造花を作ると、自然への敬意が無いことになってしまうから。
(…後悔先に立たず…)
ホントに先に立たなかったよ、と情けない気分。ハーレイのニヤニヤ笑いを前に。
今頃だなんてスケールの大きな後悔だよねと、前のぼくにも未来は見えなかったから、と…。
造花と本物・了
※造花作りなら前の自分に勝てる、と思ったブルー。それは間違いなかったのですが…。
前のブルーが失敗する度、こねていた屁理屈。今のブルーには、造花を作ることは無理そう。
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(あれ…?)
なあに、とブルーが澄ませた耳。学校の帰り、バス停から家へと歩き始めて直ぐに。
バス通りを走る車の音はもう聞こえないけれど、代わりに耳に届いた声。住宅街の先の方から。
(猫だ…)
声の持ち主は猫だと思う。子猫ではなくて大人の猫。
けれど尋常ではない鳴き声。お馴染みの「ミャア」や「ニャア」とは違って、「助けて」という悲鳴に聞こえる。喧嘩しているようでもなくて、猫の鳴き声は一匹分。
(どっち…?)
あれは何処から聞こえてくるの、と歩くと近くなって来た声。明らかに悲鳴。猫の身に起こっている何か。助けを求めて、精一杯の声で鳴き続けている。
(何処かに身体が挟まっちゃった?)
前に友達から聞いた。垣根の間を通り抜けようとして、柵に挟まってしまった猫。挟まった猫は怯えてしまって、助け出すのが大変だったという。手を差し出したら、噛もうとするから。
(挟まったかな…?)
この辺りの家は大抵、生垣。緑の木々を茂らせた中に、柵が入っている家も多い。生垣だけではペットが庭から外へ出掛けて、帰って来なくなることもあるものだから。
そういう柵がついている垣根、それを通って入ろうとした他所の家の猫が挟まることも、まるで無いとは言えないだろう。通れるつもりで身体を入れたら、挟まってしまったお尻とか。
(それとも、犬…?)
吠える声は聞こえて来ないけれども、犬に追い詰められているかもしれない。
犬を放している家の庭に、知らずにヒョイと入り込んで。犬と出会って逃げ出す前に、逃げ場を失くしてしまった猫。
驚いてパニック状態だったら、其処に垣根があったとしたって、別の方へと逃げそうだから。
大慌てで側の木に駆け登るだとか、犬は入れそうにない隙間に向かって飛び込むだとか。
(ちゃんと逃げ込めたらいいけれど…)
壁際に追い詰められていたなら、猫の力ではどうしようもない。その家の人が留守だった時は、犬を押さえてくれる人などいないのだから。
垣根に挟まったか、犬に追われているか。どちらにしたって、とても困っているだろう猫。
(こっちの方…)
悲鳴が聞こえてくる方向は、帰り道からは外れるけれども、助けに行った方がいいだろう。今も悲鳴は続いているから、次の角を曲がって、猫を助けに。
(落ち着かなくちゃ…)
走ったら駄目、と足音もあまり立てないように気を付ける。挟まっている猫を驚かせたら、前に友達から聞いたのと同じことになる筈。助けようと手を差し伸べたって、噛もうとする猫。
それでは助け出すのは無理だし、挟まったのではなくて犬がいるのなら…。
(犬がビックリして、猫をガブッと…)
噛むかもしれない、犬は本来、ハンターだから。「うるさい猫のせいで何かが来る」と、二度と悲鳴を上げられないよう、猫を仕留めてしまう犬。
そうなったのでは本末転倒、助けに出掛ける意味がない。とはいえ、相手が犬だったなら…。
(ぼくで何とか出来ればいいけど…)
犬を宥めて、その間に猫を逃がすとか。家の人が留守なら、ご近所の人に助けを求めるだとか。自分は犬と馴染みがなくても、近所の人なら犬と仲良し。「こら!」と止めてもくれるだろう。
どうやって猫を助けようか、と考えながらも「此処だよね?」と角を曲がったら。
(え…?)
猫の悲鳴は確かだけれども、その叫び声はキャリーの中から。猫を運んでやる専用のケース。
キャリーを抱えて家の前にいる、顔馴染みの其処の御主人と奥さん、それから車。
(…どうしちゃったの?)
キャリーの中から悲鳴だなんて、とポカンと道に立ち尽くしていたら、気付いた二人。
「こらっ、ネネちゃん!」
恥ずかしいだろう、とキャリーに向かって叱る御主人。「とうとう人が来ちゃったぞ」と。
静かにしなさい、と御主人がキャリーに声を掛けても、一向に止まらない悲鳴。「助けて!」と中で叫んでいる猫。「此処から出して」と、「誰か助けて」と。
猫に助けを求められても、側にいるのは飼い主たち。柵に挟まったわけではなくて、猛犬だっていはしない。自分の出番はまるで無いのに、猫の悲鳴は止まらないまま。
「えっと…。ネネちゃん?」
どうなっちゃったの、と近付いて行った。御主人たちにも挨拶をして。
「ブルー君、ビックリさせちゃってごめんよ」
あっちの方まで聞こえたんだね、と御主人がポンと叩いたキャリー。「声が凄いから」と。
「ううん、安心したけれど…。ネネちゃん、キャリーの中だから」
助けなくちゃ、って思っていたし…。きっと酷い目に遭ってるんだ、って。
「あらまあ…。やっぱりそうだったのね」
ネネちゃん、心配かけちゃ駄目でしょ、と奥さんも猫を叱っている。「ご迷惑だわ」と。
御主人は申し訳なさそうな顔で、「動物病院に行く所なんだよ」と話してくれた。足にトゲでも刺さったらしくて、引き摺って歩いていたネネちゃん。御主人たちが足を調べても、素人の目ではよく分からない。それで病院に連れて行こうとしたのに…。
「キャリーには入ってくれたんだけどね、いつものお出掛けで慣れているから」
「でもね…。車まで来たら、気付かれちゃったの」
お出掛けではないらしいことにね、と奥さんがついている溜息。
御主人が車を出した所で、ネネちゃんは外の様子に気付いた。お出掛けの時は用意するバッグ、それが何処にも無いことに。
「これなんだけどね…。後から慌てて取りに戻っても、手遅れだったよ」
いつもは持っているものだから、と御主人が指差す小さなバッグ。奥さんが手に提げている。
「おやつ入りなのよ、ウッカリしてたわ」
これさえあったら、ネネちゃんは御機嫌なんだけど…。外でおやつが貰えるから。
欲しくなったら、「ちょうだい」って言えば、バッグから出してあげるのよ。
だから、病院に連れて行く時も、お出掛けのふりでバッグなのに…。
今日は持つのを忘れていたの、と奥さんも御主人も困り顔。キャリーの中から今も聞こえてくる悲鳴。「誰か助けて」と、「此処から出して」と。
動物病院が大嫌いなネネちゃん。痛い注射をされたりするから。
おやつ入りのバッグに騙されて何度も連れて行かれて、ますます嫌いになった病院。お出掛けのつもりで家を出たのに、着いたら苦手な病院だから。お医者さんに注射されたりもして。
すっかり懲りて行きたくないのに、今日は気付いた「バッグが無い」こと。おやつ入りバッグが見当たらないなら、行き先は動物病院だけ。それで始まった、この騒ぎ。
「どうするの?」
ネネちゃん、凄く嫌がってるよ、とキャリーの中を覗いてみたら、猫の毛は全部逆立っていた。尻尾もパンパンに膨れてしまって、「行かない」と叫び続けるネネちゃん。
「連れて行くしかないからねえ…。でないと足を診て貰えないし」
恥ずかしいんだけどね、この騒ぎだから。…病院の人たちは慣れっこでもね。
ブルー君まで来ちゃうほどだし、もっと大勢の人に迷惑をかけてしまわない内に行かないと。
車に乗せればマシになるから、とキャリーと一緒に乗り込んだ御主人。おやつ入りバッグを手にした奥さんも。
ドアがバタンと閉まっても…。
(ネネちゃん…)
微かに聞こえる、この世の終わりのような鳴き声。車の窓の向こうから。
窓はピッタリ閉まっているけれど、もしも開いたら、凄い悲鳴が届くのだろう。「助けて」と、「誰か此処から出して」と。車に乗ってしまった以上は、病院に行くしかないのだから。
けれど御主人がかけたエンジン、車はそのまま走って行った。病院嫌いのネネちゃんを乗せて。
(なんだか凄い…)
誰か助けて、と絶叫しながら動物病院に向かったネネちゃん。キャリーの中で毛を逆立てて。
助けてくれる人は、その病院で待っているのに。
動物病院に到着したなら、足を診てくれるお医者さん。トゲだって直ぐに抜いて貰えて、抜いた後には消毒なども。
病院に行けば、痛かった足が治るのに。引き摺らなくても、楽々と歩けるようになるのに。
きっと今までにも、色々と治して貰ったのだろう動物病院。怪我も、病気も。
病院は助けてくれる場所なのに、ネネちゃんはまるで分かっていない。「助けて」とキャリーの中で悲鳴で、そのまま運ばれて行ったのだから。
動物だから仕方ないかな、と走り去る車を見送った後で帰った家。
制服を脱いでおやつを食べて、二階の自分の部屋に戻って考えてみるネネちゃんのこと。今頃はとうに病院に着いて、トゲだって抜いて貰っただろう。家に帰っているかもしれない。
大嫌いな病院はもうおしまい、と御機嫌で歩いていそうなネネちゃん。悲鳴を上げていたことも忘れて、もう痛くない足でトコトコと。
(ちゃんと言葉が通じたら…)
人間の言葉が分かったならば、ネネちゃんも大騒ぎしたりしないで病院に行くことだろう。足を治して貰える所、と教えて貰って、キャリーに入って。
(足が痛いままで歩いているより、治った方がいいもんね?)
けれど、猫には通じないのが人間の言葉。思念波だって。
おじさんたちも大変だよね、と思っていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速報告することにした。お茶とお菓子が置かれたテーブルを間に挟んで。
「あのね、ハーレイ…。今日の帰りに凄かったんだよ」
「凄かったって…。何がだ?」
何かいいことあったのか、と瞬く鳶色の瞳。「素敵なものでも貰ったのか?」と。
「違うよ、凄い悲鳴が聞こえて…。猫が「助けて」って鳴いていたから、行ったんだけど…」
猫はキャリーの中だったんだよ、動物病院が大嫌いな猫。
足が痛いのに、大騒ぎしてた。病院なんかに行きたくないのに、車に乗せられそうになって。
それでも、乗せて行っちゃったけど…。でないと足は治らないから。
人間の言葉、猫にも分かればいいのにね。
病院に行けば足を治して貰えるんだ、って分かっていたなら、騒がないでしょ?
不便だよね、と言ったのだけれど。「猫にも思念波とかが通じたら…」と考えを伝えたけれど。
「お前なあ…。人間の言葉が通じたとしても、駄目なものは駄目だろ」
その猫は駄目だと思うがなあ…。それだけ叫んでいたんだったら。
「なんで?」
「簡単なことだ。お前、注射に行きたいのか?」
病院に行けば注射なんだろ、あれで病気は良くなるんだが…。
お前、喜んで病院に行くのか、注射を打たれると分かっていても…?
どうなんだ、と覗き込まれた瞳。「お前、病院に行きたいか?」と。
「あ…!」
そうだったっけ、と気が付いた。ネネちゃんは注射が嫌いだけれども、自分も同じで大嫌い。
恐らくは、前の自分のせいで。アルタミラで酷い目に遭わされた注射、その恐ろしさを何処かで覚えていたせいで。…記憶が戻るずっと前から。幼い子供だった頃から、苦手な注射。
それを打たれると分かっているから、病院は嫌い。行けば治療をして貰えると知ってはいても。
「ほらな、お前も嫌いだろうが。…病院と注射」
猫のこと、言えた義理じゃないよな、お前だって。「助けて」と叫ばないだけで。
つまり言葉が通じたとしても、駄目なものは駄目ということだ。病院も、それに注射もな。
それで治ると説明したって、お前も猫も嫌がるだけだ。
一度嫌いになっちまったら無理ってもんだ、と猫と同列にされてしまった。病院が嫌いで騒いでいた猫、車に乗っても叫び続けていたネネちゃんと。
「ぼくは違うよ、病院に行って嫌いになったわけじゃないから…!」
アルタミラのせいで嫌いなんだってば、注射。…前のぼくだって嫌いだったし…!
注射は抜きで、って頼んでいたよ、と前の自分の注射嫌いを指摘した。寝込んでいたって注射を拒否したソルジャー・ブルー。「それは嫌いだ」と、ノルディにプイと背中を向けて。
「それはそうだが…。前のお前も苦手だったし、今のお前もそれを覚えていたんだろうが…」
お前、散々な目に遭ったらしいしな、アルタミラでは。…注射のせいで。
しかし、アルタミラか…。あそこは確かに、地獄みたいな場所だったんだが…。
アルタミラなあ…、とハーレイが顎に手をやるから。何か考えている風に見えるから…。
「どうかした?」
何か気になることでもあったの、アルタミラで?
嫌なことでも思い出したの、と問い掛けた。前のハーレイも、檻に入れられていた実験動物。
「いや…。動物病院ってヤツは、あったんだろうと思ってな」
「動物病院?」
何処に、と丸くした瞳。
あったも何も、ネネちゃんだったら動物病院に行ったから。ハーレイが育った隣町にも、動物のための病院は幾つもあるだろうから。
いったい何処の話だろう、と不思議に思った動物病院。何処の星にもあると思うし、宇宙空間に浮かぶステーションにも、併設されていそうな感じ。客船が立ち寄るステーションなら。
(ペットと一緒に旅行する人、いるもんね?)
旅の途中でペットの具合が悪くなったら、動物病院に行くだろう。そういう時に備えて、病院。遠い星へ飛ぶ大型客船だったら、獣医さんも乗っているかもしれない。
(動物の病院、何処にでもあると思うけど…)
それとも基地か何かの話だろうか。資源採掘用などの基地でも、其処でペットを飼っているなら動物病院が無いとは言えない。基地と聞いたら、まるで無縁に聞こえるけれど。
ハーレイが言うのは、そうした場所かと考えたのに…。
「動物病院があった所か? …アルタミラだ」
アルテメシアにもあっただろうな、ペットを飼う人間がいたならば。…あの時代でも、きっと。
首都惑星だったノアとなったら、もう確実にあっただろう。大切なペットを治療するために。
しかしだ、前の俺たちには…。
病院なんかあったのか、と問い掛けられた。「ミュウを診てくれる病院だ」と。
「…ミュウの病院?」
頭に浮かんだメディカル・ルーム。白いシャングリラには立派な設備が整っていた。
白い鯨に改造する前も、医務室という名でノルディが治療していたもの。手術も立派にこなしたノルディ。独学ながらも、ミュウの時代の医療の基礎を築いたほど。今も名前が残る医師。
けれどハーレイは「ノルディは別にしておけよ?」と言葉を続けた。
「シャングリラの医務室やメディカル・ルームは、数に入れるな」
あそこ以外で、ミュウの治療をしてくれる病院はあったのか?
ジョミーが人類に戦争を仕掛けるよりも前の時代に、宇宙の何処かに。
「あるわけないでしょ、ミュウの病院だよ?」
人類がミュウを治療するわけないじゃない。…ミュウが落とした星となったら別だけど。
そうなったらミュウが支配者なんだし、病院に来たら治療しないと…。
薬が欲しい、って言われた時には、ちゃんと薬も処方して。
だけど、そうなる前は違うよ。ミュウを見付けたら殺してしまうか、実験動物にしたんだから。
病院なんかは要らないよね、と前の自分が生きた時代を思い出す。殺すか、実験動物にするか。人類がミュウにやっていたことは、その二つだけ。
「其処なんだ、俺が引っ掛かったのは」
前の俺たちは実験動物だったわけだが…。アルタミラで檻に押し込められてな。
いいか、動物だぞ、「実験」という言葉はつくが。…ミュウも動物の内だったんだ。
おまけに見た目は人類そっくり、それだけじゃ誰も区別がつかん。サイオンの有無でしか、判断出来なかっただろうが。…人類にも、マザー・システムにも。
それほど人類に似ていたのに、だ…。ミュウの病院は無かっただろう?
「無かったけど…」
あれだけミュウを嫌ってたんだし、治療しようと思うわけがないよ。
実験で死んでしまったとしても、厄介なのが一人減ってくれたと考えるだけ。…あの時代なら。
そうじゃないの、とハーレイの瞳を見詰めたけれども、「その人類だ」と返したハーレイ。
「前の俺たちを、せっせと傷めつけてた人類。…アルタミラでな」
あいつらがペットを飼っていたなら、どうしたと思う?
ペットが病気になった時には。…実験を終えて家に帰ったら、ペットの具合が悪かったら。
「病院でしょ?」
急いで病院に行ったと思うよ、手遅れになったら大変だもの。
病院が開いてる時間だったら、もう大急ぎ。…閉まっちゃってても、連絡しそう。この時間でも診て貰えませんか、って。…駄目なら、家でも出来そうな手当てを教えて下さい、って。
「お前の意見もそうなるか…。俺もそうだと思うんだ」
次の日に研究所に遅刻したって、まずはペットの治療だろうと。
もしも入院が必要だったら、直ぐに入院させただろうな。そして仕事が終わった後には、病院へ見舞いに出掛けてゆくんだ。「良くなったか?」と。
ミュウってヤツはだ、ペット以下だとは思っていたが…。
そいつは前から気が付いていたが、病院も無かったと来たもんだ。
動物だったら、動物病院に行けば診察して貰えたのに…。無論、治療も受けられた。
だが、俺たちは駄目だったんだ。同じ動物でも、ミュウというだけで。
治療されていた実験体は少ないぞ、と言われなくても分かること。
ミュウは実験動物だったし、ペットと違って治療などして貰えない。どんなに具合が悪くても。放っておいたら死んでしまうと、誰の目にも分かるような時でも。
(…前のぼくは治療されていたけど…)
それが例外だっただけ。
前の自分は一人しかいないタイプ・ブルーで、もしも実験で死んでしまえば、二度と得られない様々なデータ。他のミュウでは、タイプ・ブルーのデータを取れはしないから。
唯一の貴重な実験動物。ただ一人きりのタイプ・ブルー。
それを殺してしまわないよう、研究者たちは治療し続けた。手荒に扱い、足蹴にしても。過酷な人体実験をされて、半ば死体と化した時でも。
(これで死ぬんだ、って何度思っても…)
再び目覚めた檻の中。まだ続くのだと思い知らされた地獄。
生きていてもいいことは何も起こらないから、心も身体も成長を止めた。生きる望みも、希望も失くして。未来への夢も、自分自身への励ましさえも。
そうやって、息をしていただけ。研究者たちに生かされただけ。
成人検査よりも前の記憶も失くしてしまって、何もかもどうでも良かった日々。狭い檻の中で、ただうずくまるだけ。檻から外へ出ることさえも、夢に見たりはしなかった。
(同じ檻でも、ハーレイたちは…)
生き延びようとしていたのに。いつか必ず其処を出ようと、その日まで生きて生き抜くのだと。
まるで希望が見えない日々でも、未来を見詰めたハーレイたち。「いつか、きっと」と。
だからアルタミラがメギドの炎に滅ぼされた時、子供だったのは前の自分だけ。
ハーレイたちは檻の中でも育ち続けて、大人の身体を持っていたから。宿る心も、当然、大人。
彼らに助けられなかったら、前の自分は燃えるアルタミラで命尽きたに違いない。
閉じ込められていたシェルターはサイオンで破壊出来ても、するべきことが分からないから。
逃げるべきだと気付きもしないで、座り込んだままでいただろうから。
(ハーレイが助け起こしてくれて…)
他の仲間たちを助けなければ、と促されたから、やっと分かった為すべきこと。
それくらいに子供だったのが自分、前のハーレイたちとは違って。
アルタミラがメギドに焼かれた時には、とうに青年だったハーレイ。
タイプ・グリーンの身では、実験で何が起こったとしても、治療はされなかっただろうに。前の自分が受けていたような、本格的な治療などは。
「…前のハーレイも、治療はされていないんだよね?」
アルタミラにはミュウの病院は無かったんだし、あの頃はノルディも檻の中だし…。
「前のお前みたいに、丁寧な治療じゃなかったな」
死んじまっても代わりはいるから、せいぜい飲み薬って所だったぞ。餌と一緒に突っ込まれて。
自分で飲み込む力が無ければ、其処で終わりというわけだ。
お前だったら、意識が無くても身体中に管を繋いでいたろうが…。必要だったら酸素もな。
しかし、俺たちはそうじゃなかった。運が良ければ生き延びるだろう、って扱いだ。
そいつを飲め、って顎をしゃくっておしまいだから。…餌を突っ込みに来た時に。
「それは治療と言わないの?」
薬を飲ませていたんだったら、治療みたいな気もするけれど…。
自分で飲まなきゃ駄目なんだったら、やっぱり治療じゃないのかな…?
「違っただろうな。積極的に生かすためではなかったから」
無理やりにでも喉に薬を突っ込んでたなら、荒っぽくても治療だろうが…。薬は正しく飲ませたわけだし、治そうという意図はある。俺たちが派手にむせていたって。
だがな、ヤツらはそうしなかった。「飲んでおけ」と檻に突っ込んだだけだ、薬と水を。
這いずってでも自分で飲めるようなら、勝手に治ると思ったわけだな。
データを取っていたかもしれんぞ、「此処までやっても治るようだ」というデータ。
意外にしぶとい、と嘲笑いながら、下等動物のミュウのデータを。
「それって酷い…」
本当にデータを取っていたなら、と顔を曇らせたけれど、ハーレイは「有り得るぞ」と答えた。
「俺のデータを見てはいないが、似たようなデータならあった」
テラズ・ナンバー・ファイブが抱え込んでた、アルタミラのミュウの記録の中にな。
殺す目的でしていた実験もあるし、もう本当に動物以下だ。
ヤツらが家で飼ってたペットは、具合が悪けりゃ病院に連れて行ったんだから。
死ぬか生きるかの病気でなくても、ちょっとした怪我で病院だろう、とハーレイは顔を顰めた。
「お前が帰りに見た猫みたいに、トゲが刺さっただけでもな」と。
「俺たちだったら、トゲどころかモリが刺さっていたって、ヤツらは放っておいただろうが…」
あれだけの怪我だといつ死ぬだろう、とデータを取ったと思うんだが…。
ペットの怪我となったら別だな、小さなトゲでも大騒ぎだ。病院に連れて行かないと、と。
「病院…。前のぼくだって、ちゃんと連れて行ってくれていたなら、もうちょっと…」
あまり病院らしくなくても、治療用の部屋に…。
「どうした?」
いったい何がどうなるんだ、とハーレイが訊くから、「注射だよ」と零した溜息。
「前のぼく、注射嫌いにならなかったかな、って…」
壁とベッドしか無いような部屋でも、檻とあんまり変わらなくても、治療用の場所。
前のぼくが半分死にかけていても、其処に運んで、意識がある間に注射して…。
「これで治る」って言ってくれてたら、治る注射もあるんだってことが分かったよ。…それきり意識を失くしたとしても、次に気が付いたら檻の中でも。
治る注射をしてくれたんだ、って知っていたなら、注射も少しは好きになれそう。
ネネちゃんみたいに騒がないよ、と病院嫌いの猫の名前を挙げたのだけれど。
「何を期待しているんだ、お前。…人類ってヤツに」
人類がそうしてくれていたなら、アルタミラは星ごと滅ぼされていないぞ。
後の時代のミュウにしたって、端から殺しちゃいないってな。人類が情けを持っていたなら。
「そうだよね…。人類にとっては、ミュウは殺してもいいもので…」
殺しちゃうのが正しい道で、殺さないなら実験動物。…病院も無しで、治療も無しで。
だけど悲しいよ、ペット以下だなんて…。
飼ってるペットが病気になったら、大急ぎで病院に連れて行くのに…。
見た目が人類にそっくりのミュウは、治療もしないで死ぬまで放っておかれたなんて…。
自分で薬を飲めなかったら、それっきり。
ちょっと起こして飲ませてくれたら、沢山のミュウが、きっと死なずに済んだのに…。
前のハーレイたちは薬を飲んだけれども、そうして命を繋いだけれど。
それほどの強さを持たなかった者は、檻の中で死んでいったのだろう。「飲め」と突っ込まれた薬を飲んだら、生き延びることが出来たのに。…飲みたいと思いもしたのだろうに。
「…ねえ、ハーレイ…。檻に突っ込まれたっていう薬…」
飲みたくても飲めなかったミュウもいるよね、もう起き上がる力も無くて。
あれが欲しい、って水を見ながら死んでった仲間…。薬だってことも分かってたのに…。
「そりゃいただろうな、一人や二人ではない筈だ」
実験の後で檻に放り込まれて、「飲め」と突っ込んでいくんだから。
俺だって「薬だ」とピンと来たから、迷いもしないで飲んだってわけで…。何処の檻でも、意識さえあれば気付いただろう。「あれで治る」と。
そうは思っても、身体が動いてくれるかどうかは、また別だから…。
あれさえ飲めたら、と思う間に意識を失くして、そのままになった仲間たちの数は多いだろう。
さっきお前が言ったみたいに、ちょいと起こして飲ませてくれたら、命を拾えていたのにな?
それをしないで放っておくって酷いことをだ、平気な顔でやっていたのが人類だ。
もっとも、マザー・システムが無ければ、そうはならなかったかもしれないが。
前にも言ったが、記憶処理が不可能だったなら…な。
「記憶処理…。可哀相だ、って思う人が出て来るってことだね」
ミュウの扱いに疑問を持つ人。…これでいいのか、って考える人。
マザー・システムは、そういう思考を消してしまうことが出来たけど…。記憶を処理して。
これは危険だ、って判断したなら、その考えは消してしまって、それでおしまい。
記憶の処理を続けていたから、ミュウを可哀相だと考える人は出て来ないまま…。
そう思っても、次の朝には消えてるものね、とハーレイの意見に頷いた。ミュウにも治療をしてやるべきだ、と誰かがチラと考え付いても、機械が思考を消していた社会。そういう時代。
「うむ。マザー・システムさえ、あそこに存在していなかったら…」
ミュウの扱いは酷すぎないか、と一度思ったら、後は疑問が膨らむだけだ。
どうも変だ、と気になって来たら、他の人類にも「どう思う?」と訊いてゆくんだろうし…。
その内に考えが変わるわけだな、ミュウの扱いを改善してゆく方向へ。
最初は治療を始めることから。…無闇に殺すのをやめちまったら、次は殺さない方向へとな。
マザー・システムさえ無かったならば、人類はミュウを生かしただろう、とハーレイは語る。
ミュウが初めて現れた頃には忌み嫌っても、やがて考えが変わっていって。
最初は実験動物の治療、無闇に殺さないように。生かしておくことが普通になったら、ミュウを殺そうという考え自体が薄らいでいって。
「動物の病院にしたってそうだな。今じゃ何処にでもあるんだが…」
ペットを連れての旅も多いし、中継基地になるステーションには動物病院がセットなんだが…。
その動物の病院ってヤツが、昔は無かったもんだから。…宇宙の何処を探してもな。
「え…?」
動物の病院、アルタミラにもあっただろう、って、ハーレイ、言っていたじゃない。
アルテメシアにもきっとあった筈で、ノアにあったのは確実だ、って…。
ちゃんとあったよ、動物病院。…前のぼくは覗いていないけれども、きっと沢山…。
無かったなんてことはないでしょ、とハーレイの間違いを指摘したのに。
「前の俺たちの頃じゃない。…もっと昔だ、地球が滅びるよりも遥かに前の時代だ」
人間が地球しか知らなかった頃で、それほど豊かじゃなかった時代。食べていくのが精一杯で。
その時代には、ペットはごくごく一部の人しか飼ってはいなかったんだ。本当のペットは。
犬は猟をしたり家の番をするのが仕事だったし、猫はネズミを捕るのが仕事。
人間様が生きるので精一杯なら、動物のための病院なんかがあるわけがない。今みたいなのは。
牛とか馬とか、財産と呼べる動物のための医者は存在したらしいがな。
とにかく人間が生きなきゃならんし、増えすぎたペットは殺しちまうのも普通だったから…。
こんなに沢山飼えやしない、と生まれたら直ぐに捨てちまってな。
「…そんな…」
動物の赤ちゃんを捨てたっていうの、お母さんがいないと死んじゃうのに…。
自分で餌を捕れないどころか、ミルクしか飲めないのが赤ちゃんなのに…。
可哀相すぎるよ、と驚いたけれど、本当にあったことらしい。ネズミ退治用に飼っていた猫が、子供を産みすぎてしまったら。…番犬の犬も同じこと。
生まれた子供を欲しがる人がいない時やら、人間の食べ物を確保するのも危うい時には、小さな命が犠牲になった。沢山の犬や猫を飼うだけの余裕を、人間は持っていなかったから。
海に流されたり、山に捨てられたりした命。「とても育ててゆけない」と。
それを責める人はいなかった。そうすることが正しかったし、皆、当然だと思っていた。明日は自分が同じ選択を迫られるかもしれないから。
「そういう時代もあったというのに、動物病院が普通になったんだ」
人間の生活に余裕が出来たら、ペットも家族の一員ってな。…今と同じで。
子猫や子犬が生まれすぎても、もう捨てたりはしなかったそうだ。貰ってくれる人を探したり、頑張って自分で飼ってみたりと。
病気になったら、もちろん病院。夜も寝ないで看病する人も少なくなかった。
それをしていたのは人類なんだぞ、ずっと昔の。
本来、人類も優しかったんだ。ミュウと変わらないくらいにな。
動物の痛みもきちんと分かっていたんだから、というハーレイの話は当たっている。前の自分が生きた頃にも、人類は優しい生き物だった。…ミュウ以外には。
「そうだね…。人類だって、基本は優しかったよね…」
ジョミーのお父さんやお母さんみたいな人たちもいたし、他の人たちも優しかった筈。
軍人以外は人殺しなんかしていなかったし、保安部隊が殺していたのもミュウだけだから。
前のぼくたちは酷い目に遭ったけれども、SD体制が崩壊した後は…。
ミュウは敵だって言い出す人は一人もいなくて、殺そうとする人も出て来なくって…。
「何処の星でも、何の騒ぎも起こらなかったというからな」
マザー・システムを破壊しよう、と立ち上がった人類は大勢いたと伝わってるが…。
ミュウに向かって牙を剥くヤツはいなかったらしい。どう見ても、同じ人間だからな。
キースの野郎の大演説が無くても、きっと結果は同じだっただろう。
前の俺たちが落としていった星でも、何処もそうだったから。
アルテメシアも、他の星もノアも、ミュウを遠巻きに見るヤツはいても、それだけだ。
怖がっちまうのは仕方ないよな、慣れない生き物は誰だって怖い。
大人しい犬でも、うんとデカイのが散歩していたら泣き出す子だっているんだし…。
それと同じだ、慣れるまでは「怖い」と思っちまうのが本能だから。
時代だよな、とハーレイは言った。時代が来ないと、何も変わってくれないのだと。
「人類の優しさがミュウの方に向く、そういう時代。…そいつが来ないと駄目だったんだ」
前のお前は地球に行こうと頑張ったわけだが、そんなお前が生まれて来なけりゃ駄目だった。
ミュウ因子はSD体制が始まる前からあったし、お前が時代の変わり目なんだ。
たった一人のタイプ・ブルーで、人類にとっては脅威だったが…。
其処から全てが変わったんだな、地球の未来も、人類が進む方向も。
今じゃ学校で定番になってる、「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」って言葉の通りに。
「褒めすぎだよ、それ…」
前のぼくは何もしてないよ。
SD体制を倒した英雄はジョミーとキースで、グランド・マザーを壊したのだって、あの二人。
ぼくは地球にも行けていないし、ナスカでも眠っていたってだけで…。
トォニィたちが生まれた自然出産も、ぼくは計画さえも知らずに寝ていたんだから。
ホントに何もしていないのに…、と自分でも情けない気分。ソルジャー・ブルーの功績とされる物事は全部、ジョミーたちがやったことだから。
「そうは言うがだ、メギド、沈めてくれただろうが」
あそこでメギドが沈まなければ、シャングリラの方が沈められてた。…ミュウの時代は、ずっと後まで来やしない。それは誰もが認めることだし、前のお前が始まりなんだ。今の時代の。
ついでに今のチビのお前も、ちゃんと勇気はある筈だぞ。前のお前には敵わんが。
悲鳴を上げてた猫を助けようとしたんだろう?
「うん…。出来ないかも、って思ったけれど…」
柵に挟まっていたんだったら、噛まれちゃっても助けてあげられそうだけど…。
犬に追い掛けられていたなら、ぼくだと助けられないかも…。
小さな犬なら、ぼくでも止められそうだけど…。「こらっ!」って叱れそうだけど…。
うんと大きな猛犬だったら、ぼくも怖くて無理だもの。
とても助けに入れないよ、と腰抜けっぷりを明かしたけれども、ハーレイは笑いはしなかった。
「それでも、お前、頑張っただろ?」と。
「お前の力じゃ無理と分かっても、そのまま真っ直ぐ逃げて帰りはしないだろうが」
近所の家を端から回って、助けてくれる人を呼びに行くとか…。
でなきゃ、犬の注意を逸らしてやろうと、何か方法を考えるとか。
「そうだと思う…。犬だった時は、誰か呼ぼうと思ってたから」
近所の人なら、きっと犬とも顔馴染みだもの。叱ってくれたら、大人しくなると思うから…。
そうしよう、って行ってみたのに、助ける必要、無かったけど。
ネネちゃんはキャリーの中で鳴いてて、おじさんたちが困っていただけで…。
「病院は嫌だ、と鳴いているんじゃなあ…」
お前は助けちゃ駄目なんだよなあ、その猫を。…どんなに悲鳴を上げていたって。
ちゃんと病院に行かないことには、足に刺さったトゲを抜いては貰えないんだし…。
いつまで経っても足が痛くて、引き摺ってるしかないんだから。
それにしても平和な時代になったな、猫の悲鳴でソルジャー・ブルーの出番になるのか。
何もかもお前のお蔭だってな、前のお前だった頃のソルジャー・ブルーの。
「褒めすぎだってば…!」
前のぼくは何にもしていないよ、って言ったじゃない…!
全部ジョミーたちがやったことだし、前のぼくはホントに何も関係無いんだから…!
違うんだから、とハーレイに向かって訴えたけれど。自分でもそうだと思うけれども。
(時代なのかな…?)
前の自分が生まれたこと。…あの時代に生を享けたこと。
ミュウを診てくれる病院さえも無かった時代に、地球に行こうと大きすぎる夢を描いたこと。
其処から全てが始まったのなら、それも時代の流れだろう。前の自分に力があったか、ミュウの時代を築く礎になったかどうかは、ともかくとして。
そうして今のチビの自分は、前の自分だった頃のようには、頑張らなくてもいいようだから…。
(今のぼくなら、猫を助けに行く程度…)
弱虫だけれど、それでいいよね、と浮かべた笑み。
今はミュウにも病院があるし、動物用の病院ではなくて、人間用の立派な病院。
前の自分が生きた頃より、うんと平和な時代に生きているのだから。
ハーレイと青い地球に生まれて、幸せに生きてゆけるのだから…。
動物の病院・了
※診察して貰える病院さえも無かった、SD体制の時代のミュウ。動物病院はあったのに。
けれど動物病院だって、ずっと昔は無かったのです。その時が来ないと、変えられない世界。
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なあに、とブルーが澄ませた耳。学校の帰り、バス停から家へと歩き始めて直ぐに。
バス通りを走る車の音はもう聞こえないけれど、代わりに耳に届いた声。住宅街の先の方から。
(猫だ…)
声の持ち主は猫だと思う。子猫ではなくて大人の猫。
けれど尋常ではない鳴き声。お馴染みの「ミャア」や「ニャア」とは違って、「助けて」という悲鳴に聞こえる。喧嘩しているようでもなくて、猫の鳴き声は一匹分。
(どっち…?)
あれは何処から聞こえてくるの、と歩くと近くなって来た声。明らかに悲鳴。猫の身に起こっている何か。助けを求めて、精一杯の声で鳴き続けている。
(何処かに身体が挟まっちゃった?)
前に友達から聞いた。垣根の間を通り抜けようとして、柵に挟まってしまった猫。挟まった猫は怯えてしまって、助け出すのが大変だったという。手を差し出したら、噛もうとするから。
(挟まったかな…?)
この辺りの家は大抵、生垣。緑の木々を茂らせた中に、柵が入っている家も多い。生垣だけではペットが庭から外へ出掛けて、帰って来なくなることもあるものだから。
そういう柵がついている垣根、それを通って入ろうとした他所の家の猫が挟まることも、まるで無いとは言えないだろう。通れるつもりで身体を入れたら、挟まってしまったお尻とか。
(それとも、犬…?)
吠える声は聞こえて来ないけれども、犬に追い詰められているかもしれない。
犬を放している家の庭に、知らずにヒョイと入り込んで。犬と出会って逃げ出す前に、逃げ場を失くしてしまった猫。
驚いてパニック状態だったら、其処に垣根があったとしたって、別の方へと逃げそうだから。
大慌てで側の木に駆け登るだとか、犬は入れそうにない隙間に向かって飛び込むだとか。
(ちゃんと逃げ込めたらいいけれど…)
壁際に追い詰められていたなら、猫の力ではどうしようもない。その家の人が留守だった時は、犬を押さえてくれる人などいないのだから。
垣根に挟まったか、犬に追われているか。どちらにしたって、とても困っているだろう猫。
(こっちの方…)
悲鳴が聞こえてくる方向は、帰り道からは外れるけれども、助けに行った方がいいだろう。今も悲鳴は続いているから、次の角を曲がって、猫を助けに。
(落ち着かなくちゃ…)
走ったら駄目、と足音もあまり立てないように気を付ける。挟まっている猫を驚かせたら、前に友達から聞いたのと同じことになる筈。助けようと手を差し伸べたって、噛もうとする猫。
それでは助け出すのは無理だし、挟まったのではなくて犬がいるのなら…。
(犬がビックリして、猫をガブッと…)
噛むかもしれない、犬は本来、ハンターだから。「うるさい猫のせいで何かが来る」と、二度と悲鳴を上げられないよう、猫を仕留めてしまう犬。
そうなったのでは本末転倒、助けに出掛ける意味がない。とはいえ、相手が犬だったなら…。
(ぼくで何とか出来ればいいけど…)
犬を宥めて、その間に猫を逃がすとか。家の人が留守なら、ご近所の人に助けを求めるだとか。自分は犬と馴染みがなくても、近所の人なら犬と仲良し。「こら!」と止めてもくれるだろう。
どうやって猫を助けようか、と考えながらも「此処だよね?」と角を曲がったら。
(え…?)
猫の悲鳴は確かだけれども、その叫び声はキャリーの中から。猫を運んでやる専用のケース。
キャリーを抱えて家の前にいる、顔馴染みの其処の御主人と奥さん、それから車。
(…どうしちゃったの?)
キャリーの中から悲鳴だなんて、とポカンと道に立ち尽くしていたら、気付いた二人。
「こらっ、ネネちゃん!」
恥ずかしいだろう、とキャリーに向かって叱る御主人。「とうとう人が来ちゃったぞ」と。
静かにしなさい、と御主人がキャリーに声を掛けても、一向に止まらない悲鳴。「助けて!」と中で叫んでいる猫。「此処から出して」と、「誰か助けて」と。
猫に助けを求められても、側にいるのは飼い主たち。柵に挟まったわけではなくて、猛犬だっていはしない。自分の出番はまるで無いのに、猫の悲鳴は止まらないまま。
「えっと…。ネネちゃん?」
どうなっちゃったの、と近付いて行った。御主人たちにも挨拶をして。
「ブルー君、ビックリさせちゃってごめんよ」
あっちの方まで聞こえたんだね、と御主人がポンと叩いたキャリー。「声が凄いから」と。
「ううん、安心したけれど…。ネネちゃん、キャリーの中だから」
助けなくちゃ、って思っていたし…。きっと酷い目に遭ってるんだ、って。
「あらまあ…。やっぱりそうだったのね」
ネネちゃん、心配かけちゃ駄目でしょ、と奥さんも猫を叱っている。「ご迷惑だわ」と。
御主人は申し訳なさそうな顔で、「動物病院に行く所なんだよ」と話してくれた。足にトゲでも刺さったらしくて、引き摺って歩いていたネネちゃん。御主人たちが足を調べても、素人の目ではよく分からない。それで病院に連れて行こうとしたのに…。
「キャリーには入ってくれたんだけどね、いつものお出掛けで慣れているから」
「でもね…。車まで来たら、気付かれちゃったの」
お出掛けではないらしいことにね、と奥さんがついている溜息。
御主人が車を出した所で、ネネちゃんは外の様子に気付いた。お出掛けの時は用意するバッグ、それが何処にも無いことに。
「これなんだけどね…。後から慌てて取りに戻っても、手遅れだったよ」
いつもは持っているものだから、と御主人が指差す小さなバッグ。奥さんが手に提げている。
「おやつ入りなのよ、ウッカリしてたわ」
これさえあったら、ネネちゃんは御機嫌なんだけど…。外でおやつが貰えるから。
欲しくなったら、「ちょうだい」って言えば、バッグから出してあげるのよ。
だから、病院に連れて行く時も、お出掛けのふりでバッグなのに…。
今日は持つのを忘れていたの、と奥さんも御主人も困り顔。キャリーの中から今も聞こえてくる悲鳴。「誰か助けて」と、「此処から出して」と。
動物病院が大嫌いなネネちゃん。痛い注射をされたりするから。
おやつ入りのバッグに騙されて何度も連れて行かれて、ますます嫌いになった病院。お出掛けのつもりで家を出たのに、着いたら苦手な病院だから。お医者さんに注射されたりもして。
すっかり懲りて行きたくないのに、今日は気付いた「バッグが無い」こと。おやつ入りバッグが見当たらないなら、行き先は動物病院だけ。それで始まった、この騒ぎ。
「どうするの?」
ネネちゃん、凄く嫌がってるよ、とキャリーの中を覗いてみたら、猫の毛は全部逆立っていた。尻尾もパンパンに膨れてしまって、「行かない」と叫び続けるネネちゃん。
「連れて行くしかないからねえ…。でないと足を診て貰えないし」
恥ずかしいんだけどね、この騒ぎだから。…病院の人たちは慣れっこでもね。
ブルー君まで来ちゃうほどだし、もっと大勢の人に迷惑をかけてしまわない内に行かないと。
車に乗せればマシになるから、とキャリーと一緒に乗り込んだ御主人。おやつ入りバッグを手にした奥さんも。
ドアがバタンと閉まっても…。
(ネネちゃん…)
微かに聞こえる、この世の終わりのような鳴き声。車の窓の向こうから。
窓はピッタリ閉まっているけれど、もしも開いたら、凄い悲鳴が届くのだろう。「助けて」と、「誰か此処から出して」と。車に乗ってしまった以上は、病院に行くしかないのだから。
けれど御主人がかけたエンジン、車はそのまま走って行った。病院嫌いのネネちゃんを乗せて。
(なんだか凄い…)
誰か助けて、と絶叫しながら動物病院に向かったネネちゃん。キャリーの中で毛を逆立てて。
助けてくれる人は、その病院で待っているのに。
動物病院に到着したなら、足を診てくれるお医者さん。トゲだって直ぐに抜いて貰えて、抜いた後には消毒なども。
病院に行けば、痛かった足が治るのに。引き摺らなくても、楽々と歩けるようになるのに。
きっと今までにも、色々と治して貰ったのだろう動物病院。怪我も、病気も。
病院は助けてくれる場所なのに、ネネちゃんはまるで分かっていない。「助けて」とキャリーの中で悲鳴で、そのまま運ばれて行ったのだから。
動物だから仕方ないかな、と走り去る車を見送った後で帰った家。
制服を脱いでおやつを食べて、二階の自分の部屋に戻って考えてみるネネちゃんのこと。今頃はとうに病院に着いて、トゲだって抜いて貰っただろう。家に帰っているかもしれない。
大嫌いな病院はもうおしまい、と御機嫌で歩いていそうなネネちゃん。悲鳴を上げていたことも忘れて、もう痛くない足でトコトコと。
(ちゃんと言葉が通じたら…)
人間の言葉が分かったならば、ネネちゃんも大騒ぎしたりしないで病院に行くことだろう。足を治して貰える所、と教えて貰って、キャリーに入って。
(足が痛いままで歩いているより、治った方がいいもんね?)
けれど、猫には通じないのが人間の言葉。思念波だって。
おじさんたちも大変だよね、と思っていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速報告することにした。お茶とお菓子が置かれたテーブルを間に挟んで。
「あのね、ハーレイ…。今日の帰りに凄かったんだよ」
「凄かったって…。何がだ?」
何かいいことあったのか、と瞬く鳶色の瞳。「素敵なものでも貰ったのか?」と。
「違うよ、凄い悲鳴が聞こえて…。猫が「助けて」って鳴いていたから、行ったんだけど…」
猫はキャリーの中だったんだよ、動物病院が大嫌いな猫。
足が痛いのに、大騒ぎしてた。病院なんかに行きたくないのに、車に乗せられそうになって。
それでも、乗せて行っちゃったけど…。でないと足は治らないから。
人間の言葉、猫にも分かればいいのにね。
病院に行けば足を治して貰えるんだ、って分かっていたなら、騒がないでしょ?
不便だよね、と言ったのだけれど。「猫にも思念波とかが通じたら…」と考えを伝えたけれど。
「お前なあ…。人間の言葉が通じたとしても、駄目なものは駄目だろ」
その猫は駄目だと思うがなあ…。それだけ叫んでいたんだったら。
「なんで?」
「簡単なことだ。お前、注射に行きたいのか?」
病院に行けば注射なんだろ、あれで病気は良くなるんだが…。
お前、喜んで病院に行くのか、注射を打たれると分かっていても…?
どうなんだ、と覗き込まれた瞳。「お前、病院に行きたいか?」と。
「あ…!」
そうだったっけ、と気が付いた。ネネちゃんは注射が嫌いだけれども、自分も同じで大嫌い。
恐らくは、前の自分のせいで。アルタミラで酷い目に遭わされた注射、その恐ろしさを何処かで覚えていたせいで。…記憶が戻るずっと前から。幼い子供だった頃から、苦手な注射。
それを打たれると分かっているから、病院は嫌い。行けば治療をして貰えると知ってはいても。
「ほらな、お前も嫌いだろうが。…病院と注射」
猫のこと、言えた義理じゃないよな、お前だって。「助けて」と叫ばないだけで。
つまり言葉が通じたとしても、駄目なものは駄目ということだ。病院も、それに注射もな。
それで治ると説明したって、お前も猫も嫌がるだけだ。
一度嫌いになっちまったら無理ってもんだ、と猫と同列にされてしまった。病院が嫌いで騒いでいた猫、車に乗っても叫び続けていたネネちゃんと。
「ぼくは違うよ、病院に行って嫌いになったわけじゃないから…!」
アルタミラのせいで嫌いなんだってば、注射。…前のぼくだって嫌いだったし…!
注射は抜きで、って頼んでいたよ、と前の自分の注射嫌いを指摘した。寝込んでいたって注射を拒否したソルジャー・ブルー。「それは嫌いだ」と、ノルディにプイと背中を向けて。
「それはそうだが…。前のお前も苦手だったし、今のお前もそれを覚えていたんだろうが…」
お前、散々な目に遭ったらしいしな、アルタミラでは。…注射のせいで。
しかし、アルタミラか…。あそこは確かに、地獄みたいな場所だったんだが…。
アルタミラなあ…、とハーレイが顎に手をやるから。何か考えている風に見えるから…。
「どうかした?」
何か気になることでもあったの、アルタミラで?
嫌なことでも思い出したの、と問い掛けた。前のハーレイも、檻に入れられていた実験動物。
「いや…。動物病院ってヤツは、あったんだろうと思ってな」
「動物病院?」
何処に、と丸くした瞳。
あったも何も、ネネちゃんだったら動物病院に行ったから。ハーレイが育った隣町にも、動物のための病院は幾つもあるだろうから。
いったい何処の話だろう、と不思議に思った動物病院。何処の星にもあると思うし、宇宙空間に浮かぶステーションにも、併設されていそうな感じ。客船が立ち寄るステーションなら。
(ペットと一緒に旅行する人、いるもんね?)
旅の途中でペットの具合が悪くなったら、動物病院に行くだろう。そういう時に備えて、病院。遠い星へ飛ぶ大型客船だったら、獣医さんも乗っているかもしれない。
(動物の病院、何処にでもあると思うけど…)
それとも基地か何かの話だろうか。資源採掘用などの基地でも、其処でペットを飼っているなら動物病院が無いとは言えない。基地と聞いたら、まるで無縁に聞こえるけれど。
ハーレイが言うのは、そうした場所かと考えたのに…。
「動物病院があった所か? …アルタミラだ」
アルテメシアにもあっただろうな、ペットを飼う人間がいたならば。…あの時代でも、きっと。
首都惑星だったノアとなったら、もう確実にあっただろう。大切なペットを治療するために。
しかしだ、前の俺たちには…。
病院なんかあったのか、と問い掛けられた。「ミュウを診てくれる病院だ」と。
「…ミュウの病院?」
頭に浮かんだメディカル・ルーム。白いシャングリラには立派な設備が整っていた。
白い鯨に改造する前も、医務室という名でノルディが治療していたもの。手術も立派にこなしたノルディ。独学ながらも、ミュウの時代の医療の基礎を築いたほど。今も名前が残る医師。
けれどハーレイは「ノルディは別にしておけよ?」と言葉を続けた。
「シャングリラの医務室やメディカル・ルームは、数に入れるな」
あそこ以外で、ミュウの治療をしてくれる病院はあったのか?
ジョミーが人類に戦争を仕掛けるよりも前の時代に、宇宙の何処かに。
「あるわけないでしょ、ミュウの病院だよ?」
人類がミュウを治療するわけないじゃない。…ミュウが落とした星となったら別だけど。
そうなったらミュウが支配者なんだし、病院に来たら治療しないと…。
薬が欲しい、って言われた時には、ちゃんと薬も処方して。
だけど、そうなる前は違うよ。ミュウを見付けたら殺してしまうか、実験動物にしたんだから。
病院なんかは要らないよね、と前の自分が生きた時代を思い出す。殺すか、実験動物にするか。人類がミュウにやっていたことは、その二つだけ。
「其処なんだ、俺が引っ掛かったのは」
前の俺たちは実験動物だったわけだが…。アルタミラで檻に押し込められてな。
いいか、動物だぞ、「実験」という言葉はつくが。…ミュウも動物の内だったんだ。
おまけに見た目は人類そっくり、それだけじゃ誰も区別がつかん。サイオンの有無でしか、判断出来なかっただろうが。…人類にも、マザー・システムにも。
それほど人類に似ていたのに、だ…。ミュウの病院は無かっただろう?
「無かったけど…」
あれだけミュウを嫌ってたんだし、治療しようと思うわけがないよ。
実験で死んでしまったとしても、厄介なのが一人減ってくれたと考えるだけ。…あの時代なら。
そうじゃないの、とハーレイの瞳を見詰めたけれども、「その人類だ」と返したハーレイ。
「前の俺たちを、せっせと傷めつけてた人類。…アルタミラでな」
あいつらがペットを飼っていたなら、どうしたと思う?
ペットが病気になった時には。…実験を終えて家に帰ったら、ペットの具合が悪かったら。
「病院でしょ?」
急いで病院に行ったと思うよ、手遅れになったら大変だもの。
病院が開いてる時間だったら、もう大急ぎ。…閉まっちゃってても、連絡しそう。この時間でも診て貰えませんか、って。…駄目なら、家でも出来そうな手当てを教えて下さい、って。
「お前の意見もそうなるか…。俺もそうだと思うんだ」
次の日に研究所に遅刻したって、まずはペットの治療だろうと。
もしも入院が必要だったら、直ぐに入院させただろうな。そして仕事が終わった後には、病院へ見舞いに出掛けてゆくんだ。「良くなったか?」と。
ミュウってヤツはだ、ペット以下だとは思っていたが…。
そいつは前から気が付いていたが、病院も無かったと来たもんだ。
動物だったら、動物病院に行けば診察して貰えたのに…。無論、治療も受けられた。
だが、俺たちは駄目だったんだ。同じ動物でも、ミュウというだけで。
治療されていた実験体は少ないぞ、と言われなくても分かること。
ミュウは実験動物だったし、ペットと違って治療などして貰えない。どんなに具合が悪くても。放っておいたら死んでしまうと、誰の目にも分かるような時でも。
(…前のぼくは治療されていたけど…)
それが例外だっただけ。
前の自分は一人しかいないタイプ・ブルーで、もしも実験で死んでしまえば、二度と得られない様々なデータ。他のミュウでは、タイプ・ブルーのデータを取れはしないから。
唯一の貴重な実験動物。ただ一人きりのタイプ・ブルー。
それを殺してしまわないよう、研究者たちは治療し続けた。手荒に扱い、足蹴にしても。過酷な人体実験をされて、半ば死体と化した時でも。
(これで死ぬんだ、って何度思っても…)
再び目覚めた檻の中。まだ続くのだと思い知らされた地獄。
生きていてもいいことは何も起こらないから、心も身体も成長を止めた。生きる望みも、希望も失くして。未来への夢も、自分自身への励ましさえも。
そうやって、息をしていただけ。研究者たちに生かされただけ。
成人検査よりも前の記憶も失くしてしまって、何もかもどうでも良かった日々。狭い檻の中で、ただうずくまるだけ。檻から外へ出ることさえも、夢に見たりはしなかった。
(同じ檻でも、ハーレイたちは…)
生き延びようとしていたのに。いつか必ず其処を出ようと、その日まで生きて生き抜くのだと。
まるで希望が見えない日々でも、未来を見詰めたハーレイたち。「いつか、きっと」と。
だからアルタミラがメギドの炎に滅ぼされた時、子供だったのは前の自分だけ。
ハーレイたちは檻の中でも育ち続けて、大人の身体を持っていたから。宿る心も、当然、大人。
彼らに助けられなかったら、前の自分は燃えるアルタミラで命尽きたに違いない。
閉じ込められていたシェルターはサイオンで破壊出来ても、するべきことが分からないから。
逃げるべきだと気付きもしないで、座り込んだままでいただろうから。
(ハーレイが助け起こしてくれて…)
他の仲間たちを助けなければ、と促されたから、やっと分かった為すべきこと。
それくらいに子供だったのが自分、前のハーレイたちとは違って。
アルタミラがメギドに焼かれた時には、とうに青年だったハーレイ。
タイプ・グリーンの身では、実験で何が起こったとしても、治療はされなかっただろうに。前の自分が受けていたような、本格的な治療などは。
「…前のハーレイも、治療はされていないんだよね?」
アルタミラにはミュウの病院は無かったんだし、あの頃はノルディも檻の中だし…。
「前のお前みたいに、丁寧な治療じゃなかったな」
死んじまっても代わりはいるから、せいぜい飲み薬って所だったぞ。餌と一緒に突っ込まれて。
自分で飲み込む力が無ければ、其処で終わりというわけだ。
お前だったら、意識が無くても身体中に管を繋いでいたろうが…。必要だったら酸素もな。
しかし、俺たちはそうじゃなかった。運が良ければ生き延びるだろう、って扱いだ。
そいつを飲め、って顎をしゃくっておしまいだから。…餌を突っ込みに来た時に。
「それは治療と言わないの?」
薬を飲ませていたんだったら、治療みたいな気もするけれど…。
自分で飲まなきゃ駄目なんだったら、やっぱり治療じゃないのかな…?
「違っただろうな。積極的に生かすためではなかったから」
無理やりにでも喉に薬を突っ込んでたなら、荒っぽくても治療だろうが…。薬は正しく飲ませたわけだし、治そうという意図はある。俺たちが派手にむせていたって。
だがな、ヤツらはそうしなかった。「飲んでおけ」と檻に突っ込んだだけだ、薬と水を。
這いずってでも自分で飲めるようなら、勝手に治ると思ったわけだな。
データを取っていたかもしれんぞ、「此処までやっても治るようだ」というデータ。
意外にしぶとい、と嘲笑いながら、下等動物のミュウのデータを。
「それって酷い…」
本当にデータを取っていたなら、と顔を曇らせたけれど、ハーレイは「有り得るぞ」と答えた。
「俺のデータを見てはいないが、似たようなデータならあった」
テラズ・ナンバー・ファイブが抱え込んでた、アルタミラのミュウの記録の中にな。
殺す目的でしていた実験もあるし、もう本当に動物以下だ。
ヤツらが家で飼ってたペットは、具合が悪けりゃ病院に連れて行ったんだから。
死ぬか生きるかの病気でなくても、ちょっとした怪我で病院だろう、とハーレイは顔を顰めた。
「お前が帰りに見た猫みたいに、トゲが刺さっただけでもな」と。
「俺たちだったら、トゲどころかモリが刺さっていたって、ヤツらは放っておいただろうが…」
あれだけの怪我だといつ死ぬだろう、とデータを取ったと思うんだが…。
ペットの怪我となったら別だな、小さなトゲでも大騒ぎだ。病院に連れて行かないと、と。
「病院…。前のぼくだって、ちゃんと連れて行ってくれていたなら、もうちょっと…」
あまり病院らしくなくても、治療用の部屋に…。
「どうした?」
いったい何がどうなるんだ、とハーレイが訊くから、「注射だよ」と零した溜息。
「前のぼく、注射嫌いにならなかったかな、って…」
壁とベッドしか無いような部屋でも、檻とあんまり変わらなくても、治療用の場所。
前のぼくが半分死にかけていても、其処に運んで、意識がある間に注射して…。
「これで治る」って言ってくれてたら、治る注射もあるんだってことが分かったよ。…それきり意識を失くしたとしても、次に気が付いたら檻の中でも。
治る注射をしてくれたんだ、って知っていたなら、注射も少しは好きになれそう。
ネネちゃんみたいに騒がないよ、と病院嫌いの猫の名前を挙げたのだけれど。
「何を期待しているんだ、お前。…人類ってヤツに」
人類がそうしてくれていたなら、アルタミラは星ごと滅ぼされていないぞ。
後の時代のミュウにしたって、端から殺しちゃいないってな。人類が情けを持っていたなら。
「そうだよね…。人類にとっては、ミュウは殺してもいいもので…」
殺しちゃうのが正しい道で、殺さないなら実験動物。…病院も無しで、治療も無しで。
だけど悲しいよ、ペット以下だなんて…。
飼ってるペットが病気になったら、大急ぎで病院に連れて行くのに…。
見た目が人類にそっくりのミュウは、治療もしないで死ぬまで放っておかれたなんて…。
自分で薬を飲めなかったら、それっきり。
ちょっと起こして飲ませてくれたら、沢山のミュウが、きっと死なずに済んだのに…。
前のハーレイたちは薬を飲んだけれども、そうして命を繋いだけれど。
それほどの強さを持たなかった者は、檻の中で死んでいったのだろう。「飲め」と突っ込まれた薬を飲んだら、生き延びることが出来たのに。…飲みたいと思いもしたのだろうに。
「…ねえ、ハーレイ…。檻に突っ込まれたっていう薬…」
飲みたくても飲めなかったミュウもいるよね、もう起き上がる力も無くて。
あれが欲しい、って水を見ながら死んでった仲間…。薬だってことも分かってたのに…。
「そりゃいただろうな、一人や二人ではない筈だ」
実験の後で檻に放り込まれて、「飲め」と突っ込んでいくんだから。
俺だって「薬だ」とピンと来たから、迷いもしないで飲んだってわけで…。何処の檻でも、意識さえあれば気付いただろう。「あれで治る」と。
そうは思っても、身体が動いてくれるかどうかは、また別だから…。
あれさえ飲めたら、と思う間に意識を失くして、そのままになった仲間たちの数は多いだろう。
さっきお前が言ったみたいに、ちょいと起こして飲ませてくれたら、命を拾えていたのにな?
それをしないで放っておくって酷いことをだ、平気な顔でやっていたのが人類だ。
もっとも、マザー・システムが無ければ、そうはならなかったかもしれないが。
前にも言ったが、記憶処理が不可能だったなら…な。
「記憶処理…。可哀相だ、って思う人が出て来るってことだね」
ミュウの扱いに疑問を持つ人。…これでいいのか、って考える人。
マザー・システムは、そういう思考を消してしまうことが出来たけど…。記憶を処理して。
これは危険だ、って判断したなら、その考えは消してしまって、それでおしまい。
記憶の処理を続けていたから、ミュウを可哀相だと考える人は出て来ないまま…。
そう思っても、次の朝には消えてるものね、とハーレイの意見に頷いた。ミュウにも治療をしてやるべきだ、と誰かがチラと考え付いても、機械が思考を消していた社会。そういう時代。
「うむ。マザー・システムさえ、あそこに存在していなかったら…」
ミュウの扱いは酷すぎないか、と一度思ったら、後は疑問が膨らむだけだ。
どうも変だ、と気になって来たら、他の人類にも「どう思う?」と訊いてゆくんだろうし…。
その内に考えが変わるわけだな、ミュウの扱いを改善してゆく方向へ。
最初は治療を始めることから。…無闇に殺すのをやめちまったら、次は殺さない方向へとな。
マザー・システムさえ無かったならば、人類はミュウを生かしただろう、とハーレイは語る。
ミュウが初めて現れた頃には忌み嫌っても、やがて考えが変わっていって。
最初は実験動物の治療、無闇に殺さないように。生かしておくことが普通になったら、ミュウを殺そうという考え自体が薄らいでいって。
「動物の病院にしたってそうだな。今じゃ何処にでもあるんだが…」
ペットを連れての旅も多いし、中継基地になるステーションには動物病院がセットなんだが…。
その動物の病院ってヤツが、昔は無かったもんだから。…宇宙の何処を探してもな。
「え…?」
動物の病院、アルタミラにもあっただろう、って、ハーレイ、言っていたじゃない。
アルテメシアにもきっとあった筈で、ノアにあったのは確実だ、って…。
ちゃんとあったよ、動物病院。…前のぼくは覗いていないけれども、きっと沢山…。
無かったなんてことはないでしょ、とハーレイの間違いを指摘したのに。
「前の俺たちの頃じゃない。…もっと昔だ、地球が滅びるよりも遥かに前の時代だ」
人間が地球しか知らなかった頃で、それほど豊かじゃなかった時代。食べていくのが精一杯で。
その時代には、ペットはごくごく一部の人しか飼ってはいなかったんだ。本当のペットは。
犬は猟をしたり家の番をするのが仕事だったし、猫はネズミを捕るのが仕事。
人間様が生きるので精一杯なら、動物のための病院なんかがあるわけがない。今みたいなのは。
牛とか馬とか、財産と呼べる動物のための医者は存在したらしいがな。
とにかく人間が生きなきゃならんし、増えすぎたペットは殺しちまうのも普通だったから…。
こんなに沢山飼えやしない、と生まれたら直ぐに捨てちまってな。
「…そんな…」
動物の赤ちゃんを捨てたっていうの、お母さんがいないと死んじゃうのに…。
自分で餌を捕れないどころか、ミルクしか飲めないのが赤ちゃんなのに…。
可哀相すぎるよ、と驚いたけれど、本当にあったことらしい。ネズミ退治用に飼っていた猫が、子供を産みすぎてしまったら。…番犬の犬も同じこと。
生まれた子供を欲しがる人がいない時やら、人間の食べ物を確保するのも危うい時には、小さな命が犠牲になった。沢山の犬や猫を飼うだけの余裕を、人間は持っていなかったから。
海に流されたり、山に捨てられたりした命。「とても育ててゆけない」と。
それを責める人はいなかった。そうすることが正しかったし、皆、当然だと思っていた。明日は自分が同じ選択を迫られるかもしれないから。
「そういう時代もあったというのに、動物病院が普通になったんだ」
人間の生活に余裕が出来たら、ペットも家族の一員ってな。…今と同じで。
子猫や子犬が生まれすぎても、もう捨てたりはしなかったそうだ。貰ってくれる人を探したり、頑張って自分で飼ってみたりと。
病気になったら、もちろん病院。夜も寝ないで看病する人も少なくなかった。
それをしていたのは人類なんだぞ、ずっと昔の。
本来、人類も優しかったんだ。ミュウと変わらないくらいにな。
動物の痛みもきちんと分かっていたんだから、というハーレイの話は当たっている。前の自分が生きた頃にも、人類は優しい生き物だった。…ミュウ以外には。
「そうだね…。人類だって、基本は優しかったよね…」
ジョミーのお父さんやお母さんみたいな人たちもいたし、他の人たちも優しかった筈。
軍人以外は人殺しなんかしていなかったし、保安部隊が殺していたのもミュウだけだから。
前のぼくたちは酷い目に遭ったけれども、SD体制が崩壊した後は…。
ミュウは敵だって言い出す人は一人もいなくて、殺そうとする人も出て来なくって…。
「何処の星でも、何の騒ぎも起こらなかったというからな」
マザー・システムを破壊しよう、と立ち上がった人類は大勢いたと伝わってるが…。
ミュウに向かって牙を剥くヤツはいなかったらしい。どう見ても、同じ人間だからな。
キースの野郎の大演説が無くても、きっと結果は同じだっただろう。
前の俺たちが落としていった星でも、何処もそうだったから。
アルテメシアも、他の星もノアも、ミュウを遠巻きに見るヤツはいても、それだけだ。
怖がっちまうのは仕方ないよな、慣れない生き物は誰だって怖い。
大人しい犬でも、うんとデカイのが散歩していたら泣き出す子だっているんだし…。
それと同じだ、慣れるまでは「怖い」と思っちまうのが本能だから。
時代だよな、とハーレイは言った。時代が来ないと、何も変わってくれないのだと。
「人類の優しさがミュウの方に向く、そういう時代。…そいつが来ないと駄目だったんだ」
前のお前は地球に行こうと頑張ったわけだが、そんなお前が生まれて来なけりゃ駄目だった。
ミュウ因子はSD体制が始まる前からあったし、お前が時代の変わり目なんだ。
たった一人のタイプ・ブルーで、人類にとっては脅威だったが…。
其処から全てが変わったんだな、地球の未来も、人類が進む方向も。
今じゃ学校で定番になってる、「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」って言葉の通りに。
「褒めすぎだよ、それ…」
前のぼくは何もしてないよ。
SD体制を倒した英雄はジョミーとキースで、グランド・マザーを壊したのだって、あの二人。
ぼくは地球にも行けていないし、ナスカでも眠っていたってだけで…。
トォニィたちが生まれた自然出産も、ぼくは計画さえも知らずに寝ていたんだから。
ホントに何もしていないのに…、と自分でも情けない気分。ソルジャー・ブルーの功績とされる物事は全部、ジョミーたちがやったことだから。
「そうは言うがだ、メギド、沈めてくれただろうが」
あそこでメギドが沈まなければ、シャングリラの方が沈められてた。…ミュウの時代は、ずっと後まで来やしない。それは誰もが認めることだし、前のお前が始まりなんだ。今の時代の。
ついでに今のチビのお前も、ちゃんと勇気はある筈だぞ。前のお前には敵わんが。
悲鳴を上げてた猫を助けようとしたんだろう?
「うん…。出来ないかも、って思ったけれど…」
柵に挟まっていたんだったら、噛まれちゃっても助けてあげられそうだけど…。
犬に追い掛けられていたなら、ぼくだと助けられないかも…。
小さな犬なら、ぼくでも止められそうだけど…。「こらっ!」って叱れそうだけど…。
うんと大きな猛犬だったら、ぼくも怖くて無理だもの。
とても助けに入れないよ、と腰抜けっぷりを明かしたけれども、ハーレイは笑いはしなかった。
「それでも、お前、頑張っただろ?」と。
「お前の力じゃ無理と分かっても、そのまま真っ直ぐ逃げて帰りはしないだろうが」
近所の家を端から回って、助けてくれる人を呼びに行くとか…。
でなきゃ、犬の注意を逸らしてやろうと、何か方法を考えるとか。
「そうだと思う…。犬だった時は、誰か呼ぼうと思ってたから」
近所の人なら、きっと犬とも顔馴染みだもの。叱ってくれたら、大人しくなると思うから…。
そうしよう、って行ってみたのに、助ける必要、無かったけど。
ネネちゃんはキャリーの中で鳴いてて、おじさんたちが困っていただけで…。
「病院は嫌だ、と鳴いているんじゃなあ…」
お前は助けちゃ駄目なんだよなあ、その猫を。…どんなに悲鳴を上げていたって。
ちゃんと病院に行かないことには、足に刺さったトゲを抜いては貰えないんだし…。
いつまで経っても足が痛くて、引き摺ってるしかないんだから。
それにしても平和な時代になったな、猫の悲鳴でソルジャー・ブルーの出番になるのか。
何もかもお前のお蔭だってな、前のお前だった頃のソルジャー・ブルーの。
「褒めすぎだってば…!」
前のぼくは何にもしていないよ、って言ったじゃない…!
全部ジョミーたちがやったことだし、前のぼくはホントに何も関係無いんだから…!
違うんだから、とハーレイに向かって訴えたけれど。自分でもそうだと思うけれども。
(時代なのかな…?)
前の自分が生まれたこと。…あの時代に生を享けたこと。
ミュウを診てくれる病院さえも無かった時代に、地球に行こうと大きすぎる夢を描いたこと。
其処から全てが始まったのなら、それも時代の流れだろう。前の自分に力があったか、ミュウの時代を築く礎になったかどうかは、ともかくとして。
そうして今のチビの自分は、前の自分だった頃のようには、頑張らなくてもいいようだから…。
(今のぼくなら、猫を助けに行く程度…)
弱虫だけれど、それでいいよね、と浮かべた笑み。
今はミュウにも病院があるし、動物用の病院ではなくて、人間用の立派な病院。
前の自分が生きた頃より、うんと平和な時代に生きているのだから。
ハーレイと青い地球に生まれて、幸せに生きてゆけるのだから…。
動物の病院・了
※診察して貰える病院さえも無かった、SD体制の時代のミュウ。動物病院はあったのに。
けれど動物病院だって、ずっと昔は無かったのです。その時が来ないと、変えられない世界。
(お寿司でパーティー…)
ふうん、とブルーが眺めた広告の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
新聞ではなくて町の情報紙。其処に載っている和食のお店。美味しそうな料理の写真が沢山。
(家でパーティーするなら、お寿司…)
そういう謳い文句の広告。「パーティーにどうぞ」と盛り合わせたお寿司の大皿だとか、一人分ずつ盛り付けてある器とか。他にも和食のお弁当が色々。
(お弁当って言うより、ちゃんとしたお料理…)
そうとしか見えないものだって。お弁当用とは違った器に、綺麗に盛られた様々な料理。どれもそのまま届くという。家でするのは、お味噌汁などを温めることだけ。いわゆる仕出し。
お刺身も天麩羅も、全部セットで家に届くから、何も作らずにパーティー出来る。お寿司でも、本格的な和食が並ぶコースでも。
(いくらママでも、こんなに沢山…)
大勢の人に和食を作るのは無理。
家でこういうパーティーをするなら、仕出しを注文するのだろう。お寿司でなくても。きっと、気軽に頼めるのがお寿司。だから広告には「お寿司でパーティー」。
お寿司だったら、器は沢山要らないから。パーティー料理を並べる時も、片付ける時も、手間がそれほどかからないから。
(そんなパーティー、やってないけどね?)
小さかった頃には友達を呼んで、誕生日パーティーをしたけれど。
子供のパーティーに仕出しなんかは頼まないから、母が作った料理が並んだ。友達の家に行った時にも同じこと。子供が好きそうな料理ばかりで、お寿司を食べてはいないと思う。
(ぼくの年だと、誕生日パーティー、もうやらないし…)
縁が無さそうな、お寿司のパーティー。本格的な和食の料理を並べた方も。
こうして広告が載っているなら、やっている人も多そうなのに。その人たち向けの広告なのに。
パパたちもやっていないよね、と考える仕出しを取るパーティー。お客さんは大勢来ないから。たまに来るのは父の友人、母が充分料理を作れるだけの人数。母の友達が大勢来るなら…。
(食事じゃなくって、お茶会の方…)
その方がのんびり出来るから、と軽いランチとセットでお茶会。仕出し料理の出番は無い。
もしかしたら自分のせいかもしれない。幼い頃から身体が弱くて、熱を出したり、寝込んだり。大勢が集まるパーティーをするには、向いていそうにない家だから。
(みんなで集まっても、その家の子が寝込んでいたら…)
ワイワイ賑やかに話せはしないし、招かれた方も何かと心配。子供の様子を見てくるようにと、気を遣ったりもするだろう。「此処はいいですから、行ってあげて下さい」と。
母のお茶会程度だったら、「息子が熱を出したから」と断れそうでも、仕出し料理を取るようなものは難しそう。お店も料理を用意しているし、前の日から仕入れもするだろうから。
(ぼくのせいかもね…)
両親は何も言わないけれども、自然とそうなった可能性もある。母に訊いても、「違うわよ」と答えが返りそうだけれど。…本当は自分のせいだとしても。
理由はどうあれ、家では見たことがない和食のパーティー。お寿司も、仕出し料理の方も。
いつかする時が来るのだろうか、幼い頃よりは丈夫になったし、機会があれば。
(ハーレイのお父さんとお母さんも呼んだら…)
普段の食卓よりも増える人数。それにちょっとしたパーティー気分。
ハーレイと結婚したら、ハーレイの両親とも親戚になるし、この家に招くこともあるだろう。
自分はお嫁に行くのだけれども、たまには帰って来そうな家。
そうでなくても、父と母なら計画しそうな、ハーレイの両親も招いての食事。
(ぼくとハーレイも呼んで貰えて…)
楽しい食事になりそうだけれど、問題は母。
お菓子はもちろん、料理を作るのも得意なのだし、仕出し料理を取るよりは…。
(作っちゃいそう…)
たった六人分だもの、と眺め回したダイニングのテーブル。「全部並べても、このくらい」と。
六人分の料理くらいなら、お寿司だろうと和食だろうと、母なら作ってしまいそう、と。
ちょっと無理かも、と溜息をついて戻った二階の自分の部屋。
お寿司でパーティーに憧れたけれど、仕出し料理を頼むパーティーも素敵だけれど…。
(ママなら絶対、作っちゃう方…)
ハーレイの両親も来るとなったら、張り切って。仕出し料理を頼まなくても、ドッサリと。
「家でパーティーすることにしたわ」と通信を貰ってやって来たなら、どんな料理でも、きっと手作り。頼んでいそうにない仕出し。たった六人分だから。
(…ぼくとハーレイの家でやっても…)
料理は全部、ハーレイが作ってしまうのだろう。前のハーレイは厨房出身だったけれども、今のハーレイも料理が得意。プロ顔負けの腕前らしいし、六人分くらい、手際よく。
そしてハーレイの両親の家で、パーティーということになったなら…。
(お母さんが作るか、お父さんの得意な魚料理か…)
やっぱり無さそうな仕出しの出番。六人が集まるパーティーになっても、手作りの料理。魚まで釣って来るかもしれない、ハーレイの父は釣りの名人だから。「今の季節は、この魚」と。
(パーティーをするのが、ぼくだったら…)
自分で料理は出来そうにないし、仕出し料理を頼むことになると思うけれども。
広告を見ながら、どれにしようかと考えて注文出来そうだけれど…。
(そうなる前に、ハーレイが頑張るに決まっているじゃない…!)
パーティーしたいと言った途端に、「いいな」と頷いてくれて、料理の準備。何を食べたいのか訊かれるだろうし、「和食にしたい」と言ったなら…。
最初からハーレイの頭には無い、「仕出しを頼む」という選択肢。何を作ろうかと考えるだけ。
作る料理が決まってしまえば、パーティーの日の前の夜から仕込みを始めていそう。
当日の朝も、早起きをして買い出しに出掛けるかもしれない。市場が開いている日なら。
(ああいう市場は、朝が早いし…)
暗い内から開いているらしい、新鮮な食材が入って来る市場。
週末は休みかもしれないけれども、夏休みとかなら平日でも出来るのがパーティー。父の休みと合いさえしたなら、ゆっくりと。
平日だったら、市場はもちろん開いているから…。
お前は寝てろ、と一人で出掛けて行きそうなハーレイ。暗い間から車を出して、いそいそと。
市場に着いたら、食材選び。この料理にはこれ、と思う魚や、野菜やら。
明るくなってから、いつもの時間に目を覚ましたら…。
(もう、お料理の準備中…)
ハーレイはとっくに帰って来ていて、キッチンに立っているのだろう。朝御飯だって、きちんと作ってテーブルの上。「お前の朝飯、そこだからな」と。
せっかく市場に行ったのだから、と凝っていそうな朝御飯。なにしろ相手はハーレイだから。
なんだか凄い、と眺めていたら、「俺は料理しながら、もう食ったから」と笑ったりもして。
(うーん…)
きっとそうなる、と分かっているから、仕出し料理の出番は無さそう。集まる人数が六人では。もっと人数が増えてくれないと、仕出しは頼めそうもない。
ハーレイが「流石に無理だ」と思う人数、どのくらいいればいいのだろう。十人はいないと駄目なのだろうか、八人くらいでもハーレイは諦めてくれるだろうか…?
(だけど、招待するような人…)
いないもんね、と零れる溜息。両親と、ハーレイの両親と。それだけ呼ぶのが精一杯。六人しかいないパーティーだったら、料理はハーレイの手作りしか考えられないし…。
仕出しを取るのは難しそう、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。いつかパーティーするんなら…」
「パーティー?」
なんだそりゃ、と怪訝そうなハーレイ。「お前の誕生日パーティーとかか?」と。
「それもあるかもしれないけれど…。家でパーティーだよ」
今じゃなくって、もっと先のこと。
いつかハーレイと結婚した後、家でパーティーしようって時は…。
ぼくのパパとママも、ハーレイのお父さんとお母さんも呼んで、みんなでパーティー。
そういう時には、お料理、どうする?
パーティーするなら、お料理だって出さなくちゃ…。その時のお料理…。
どうするの、と首を傾げたら、「そりゃ作るさ」と思った通りの答え。
「張り切って美味いのを作らなくっちゃな、パーティーとなれば」
「…ハーレイが?」
念のために、と訊き返したけれど、「当然だろう?」と微笑むハーレイ。「俺の出番だ」と。
「他に誰がいるんだ、料理となったら俺だよな。今の俺だって、料理は得意だ」
お前は手伝わなくてもいいぞ。俺に任せておいてくれれば、最高の料理を作ってやるから。
「やっぱり…」
パーティー料理はそうなっちゃうよね、と頷いたものの、仕出し料理の出番は来ない。いつまで経っても来てはくれなくて、パーティーの時にはハーレイの料理。
「なんだ、残念そうな顔をして。…俺の料理じゃ駄目なのか?」
溜息が聞こえて来そうな顔だ、とハーレイも気付いたらしい落胆ぶり。それなら、いっそ話してみようか。仕出し料理を頼んでみたかったこと。
「えっと…。ハーレイの料理が駄目なんじゃなくて…」
美味しいだろうし、パパやママも喜んでくれそうだけど…。ぼくも美味しく食べるけど…。
それはいいんだけど、今日、広告を見たんだよ。新聞広告じゃなかったけれど。
お寿司でパーティーって書いてあってね、和食のお店の広告で…。
仕出し料理の写真も沢山、と広告のことを説明した。そういう仕出しを頼むパーティー、それが家には無いことも。…多分、自分が弱く生まれてしまったせいで。
「なるほどなあ…。それはあるかもしれないな」
お母さんたちは「違う」と答えてくれるんだろうが、その可能性は充分にある。
ただでも子供が小さい間は、大勢の人を招くというのは難しいからな。…料理は仕出しを頼むにしたって、家の片付けが大変だ。小さな子供はオモチャも絵本も、出したら出しっ放しだから。
「ハーレイだってそう思うんなら、ホントにぼくのせいだったかも…」
だけど今なら、小さい頃よりは身体も丈夫になったから…。ホントだよ?
しょっちゅう熱を出したりするけど、小さかった頃より減ったから…。
自分できちんと気を付けてるから、酷くなる前に治すしね。ちょっと休憩したりして。
だから仕出しを頼むパーティー、今のぼくなら出来そうだけど…。
肝心の仕出し料理の出番が無さそう、と項垂れた。
いつかハーレイと結婚したって、パーティーの時にはハーレイが料理を作るのだから。
「それでガッカリしちゃったんだよ、ハーレイの料理のせいじゃなくって…」
仕出し料理の出番は無いよね、って思っちゃったら、残念で…。
ちょっと頼んでみたかったのに…。お寿司でパーティーするのもいいけど、仕出し料理を。
「そういうことか…。出来上がった料理が届く所がいいんだな?」
テーブルに並べていくだけで済むし、買ってくるより遥かに本格的だから…。盛り付ける器も、料理が一番映えるのを選んで来るからな。
お前が頼んでみたいんだったら、注文すればいいんじゃないか?
俺は作るのをやめておくから、仕出し料理でパーティーだ。寿司も一緒に頼んでもいいな、俺が作るなら両方となると大変だが。
寿司が手抜きになりそうだ、とハーレイのお許しを貰ったけれども、引っ掛かった言葉。
「…それだと手抜きみたいじゃない。お寿司を一緒に頼んでなくても」
今、ハーレイが自分で言ったよ。お料理とお寿司と、両方だったら、お寿司が手抜き…。
それと同じで、パーティー、六人だけだから…。どう頑張っても、六人しか思い付かないし…。
六人分なら、ハーレイ、簡単に作れちゃうんでしょ?
なのに仕出しを頼んでるなんて、手抜きで注文したみたい。自分で作るのが面倒だから。
仕出しを頼むなら、もっと大勢呼ばなくちゃ駄目で、お料理が作れないほどの人数だとか…。
たった六人分で仕出しは駄目かも、と心配な気分。ハーレイは許してくれたけれども。
「手抜きって…。そうでもないんだぞ、仕出しってヤツは」
お客様にお出しするなら仕出しがいい、って人も少なくないからな。
家で料理を作るとなったら、お客様のお相手をしている時間が減るもんだから…。
次はこれだ、と温め直したりしてるだけでも、時間、かかってしまうだろ?
キッチンまで来て喋っているようなお客様なら、まるで問題無いんだが…。
それが出来ないお客様もあるから、そういう時には仕出しだってな。
もちろん出されたお客様の方も、手抜きだなんて思っちゃいない。仕出しは立派な文化だぞ。
宅配ピザとは違うってことだ、仕出し料理は。
値段もけっこう高いだろうが、と言われてみれば、そうだった。広告で見たのは、パーティーに相応しい値段。お寿司でパーティー、そう謳われても充分、納得出来そうな。
「パーティーだから、って思ってたけど…。お寿司、安くはなかったかも…」
お店で食べるような値段で、他のお料理だってそう。安いお料理、無かったかも…。
「ほらな。店の器を貸して貰って、料理も盛り付けて貰うんだから」
仕出しはきちんとした料理なんだ、お客様にお出ししても恥ずかしくない料理ってことで…。
柔道部のヤツらに御馳走するには、仕出しは上等すぎるってな。パーティー用の寿司も。
あの連中には、宅配ピザが丁度いいんだ、と教わったけれど。仕出し料理は立派な文化で、注文したっていいらしいけれど。
「そうなんだ…。でも、お客さん…」
誰かいないかな、パパやママの他にもいればいいのに…。家に呼べそうなお客さんたち。
仕出しを頼んでも良さそうな人で、うんと賑やかに。
「お前の友達なんかはどうだ? 今だと、ただのガキなわけだが…」
その内に立派な大人になるしな、人数もけっこういるだろうが。お前のランチ仲間とか。
ああいうのを呼んでやったらどうだ、とアイデアを出して貰ったけれども、どうだろう…?
ハーレイと二人で暮らしている家に、友達を呼んでみたいだろうか…?
(今はランチも楽しいけれど…。ハーレイと暮らしてる家に呼びたいかな…?)
ぼくたちには秘密も多いんだから、と記憶のことを考えた。ハーレイも自分も生まれ変わりで、前の生の記憶を持っている。両親の前なら当たり前のように話すけれども、友達となると…。
(…ぼくたちの正体、内緒のままだと、とても大変…)
何かのはずみに喋ってしまって、慌てて口を押さえるだとか。「冗談だよ」と誤魔化すとか。
ハーレイも自分も、前の自分たちにそっくりなのだし、冗談だと思って貰えそうでも…。
(やっぱり大変…)
いつものように話せないのでは、つまらない。
せっかく仕出しを頼んでパーティー、好きなように話題を選びたいのに。
ハーレイとも普段通りに話して、「前のぼくたちの頃には、仕出しなんかは無かったね」などと語り合ってもみたいのに。…あの時代に仕出し料理は無かったのだから。
そういう話も出来る人たち、両親以外で分かってくれるゲストがいれば…、と思っても、それは無理なこと。前の自分たちを知っている人、その人たちは遠く遥かな時の彼方にしかいない。
白いシャングリラで共に暮らした仲間たち。彼らしか分かってくれはしないから…。
「仕出しを頼むお客様…。ゼルたちがいればいいのにね」
「ゼル?」
どうしてゼルの名前が出るんだ、とハーレイが目を丸くする。「今は仕出しの話だぞ?」と。
「前に言ったじゃない。同窓会が出来たらいいね、って」
無理なのは分かっているけれど…。夢だけれども、ゼルたちを呼んで地球で同窓会。
その同窓会を家でするんなら、仕出しも注文出来そうだよ?
人数は六人のままだけど…。ぼくの友達を呼んで来るより、ずっと少ない人数だけれど。
でも、同じ六人で仕出しだったら、パパやママより、ゼルたちの方が面白そうだと思わない?
ハーレイもお料理しなくていいもの、仕出しを頼んでおいたらね。
お料理を作りにキッチンに行かずに済みそうでしょ、と話した思い付き。けして叶いはしない夢でも、ハーレイと夢を見たいから。
「あいつらか…! そうか、ゼルたちと同窓会なあ…。俺たちの家で」
そりゃ賑やかになりそうだよな、とハーレイの顔も綻んだ。「六人でも充分、賑やかだぞ」と。
「ね、素敵でしょ?」
ゼルたちだったら、前のぼくたちの話をしたって大丈夫だし…。
ぼくの友達を家に呼んだら、そういう話は無理だけど…。喋っちゃったら大変だけど。
誤魔化すのがね、と肩を竦めたら、「ゼルたちの場合は、別の意味で大変そうだがな?」という意見。「前の俺たちの話はともかく」と。
「仕出し料理を頼むんだろう? もうそれだけで大変なことになっちまうぞ」
ひと騒動って感じだろうな、仕出しだけに。
「なんで?」
ハーレイ、仕出しは手抜きじゃないって言ってたよ…?
それとも手抜きだと言われてしまうの、ゼルもブラウも口がとっても悪いから…。
料理も作れなくなったのか、ってハーレイが苛められちゃうだとか…?
あの二人なら言いそうだ、と思った嫌味。前のハーレイの料理の腕前を知っているだけに…。
ブラウだったら「呆れたねえ…。今のあんたは料理も作れやしないなんてさ」といった具合で、ゼルの方なら「わしらを納得させる味が出せんのじゃ。腕が落ちたんじゃ!」となるだろうか。
ハーレイにすれば、不本意極まりない話。仕出し料理は立派な文化らしいのに。
「…ゼルたちだって分かってくれるよ、仕出しをきちんと説明すれば」
おんなじ料理はハーレイにだって作れるけれども、これはそういう文化だから、って。
それに仕出しを頼みたがったの、ハーレイじゃなくて、ぼくなんだしね。
ぼくが頑張って説明するよ、と言ったのだけれど、「そうじゃなくて…」と苦笑したハーレイ。
「お前の気持ちは嬉しいんだが、俺が言うのは其処じゃない」
あいつら、嫌味どころじゃないと思うぞ、仕出し料理をドンと出してやったら。
まるで知らない料理だろうが、あいつらが。…寿司にしたって、本格的な和食にしたって。
前の俺たちが生きてた頃には、和食は無かったんだから、とハーレイがトンと叩いたテーブル。
「仕出し料理も、もちろん無いが」と。
「そうだっけ…!」
ホントだ、ゼルもブラウもビックリだよね…。見たことのないお料理ばかり。
仕出しについてるお味噌汁だって、「何のスープだい?」ってキョトンとしてそう…。
「だから賑やかだと言ったんだ。…ついでに、大変そうだともな」
どれも食えるっていう所から教えてやらんと、きっと警戒されちまう。…美味いのにな?
あいつらに仕出しを取るんだったら、寿司は外せん。是非とも食って貰わないと。
「生の魚を食べるのか」と驚きそうだが、食えば喜ぶと思うぞ、きっと。
それに天麩羅も頼まないとな。ずっと昔はスシ、テンプラと言ったらしいから。
この辺りに日本があった時代は、他所の国から来た観光客たちに大人気のメニューだったんだ。寿司と天麩羅。
大昔から人気の料理なんだし、あいつらの口にも合うだろう。
「こいつは美味い」と褒められそうなのが、寿司と天麩羅ってトコだよな、うん。
寿司と天麩羅は頼まないと…、とハーレイが挙げるものだから。
「他には…?」
喜んで貰えそうなお料理もいいし、ビックリされそうなお料理だって。…何があるかな?
お刺身も生のお魚なんだし、お寿司と一緒で用心されてしまいそうだけど…。
「茶碗蒸しも要るだろ、前にお前がお母さんに作って貰っていたぞ」
今じゃ当たり前の料理なんだが、前の俺たちが見たらどう思うのか、って話でな。
「プリンだっけね、茶碗蒸し…」
前のぼくなら、プリンの仲間と間違えるんだよ。きっと甘いよ、って食べたら甘くないプリン。
それにプリンには入っていない中身が色々…。茶碗蒸しはお料理なんだから。
「甘くないだけで驚くだろうな、あいつらは」
妙なプリンだ、と食っていったら、中に海老だの百合根だの…。
海老は一目で分かるだろうが、百合根は謎の食べ物だしな?
俺たちは何度、毒味する羽目になるんだろうなあ、「これは立派な食い物だから」と。
「そうなっちゃうかも…」
きっと、ぼくよりハーレイだよ。毒味させられる係はね。…怪しい食べ物になればなるほど。
元は厨房にいたんだろう、って言われちゃって。
「目に見えるようだな、その光景…。お前が食え、とゼルにせっつかれるんだ」
でもって、毒味する時に、だ…。俺やお前が使っている箸、そいつも大いに問題だってな。
ゼルたちには箸は使えんだろうし、ナイフやフォークも用意しないと…。
変わった道具で食べていやがる、と珍獣扱いされちまうかもなあ…。
お前も俺も、とハーレイが軽く広げた両手。「どう見たって、ただの棒だから」と。
「食べにくい道具だろうけれど…。挑戦しそうだよ、ブラウとかが。これで食べる、って」
つまむ代わりに、グサリと刺しちゃいそうだけど…。フォークみたいに。
前にそういう話をしたこと、あったっけね。お箸なんかは知らなかったよ、って気が付いた時。
「あの時も俺が気付いたんだよな、料理をしてて。…箸って道具は優れものだと」
だが、箸がどんなに優秀でもだ、使いこなせないと二本の棒のままなんだから…。
ナイフとフォークを用意してなきゃ、ゼルとブラウは手づかみで食おうとするかもなあ…。
寿司なら手でもかまわないんだが、他の料理も遠慮しないで。
きっとガツガツ食っちまうぞ、とハーレイが挙げてゆく料理。手づかみで食べられそうなもの。
「天麩羅もいけるし、刺身もいける」と、「茶碗蒸しは、ちょっと無理そうだがな」と。
「茶碗蒸しだと、箸で崩して飲んじまうのかもしれないなあ…」
ちょっと濃いめのスープってトコで、具入りのスープも無いわけじゃないし…。
前の俺たちの時代でもな、と懐かしい料理の名前が挙がった。今もあるブイヤベースなどが。
「茶碗蒸し、スープにされちゃうんだ…。確かに崩せば飲めそうだけど」
楽しそうだよね、家で仕出しで同窓会をやるっていうのも。夢の同窓会だけど…。
本当にやるのは無理なんだけれど、同窓会なら、キースも呼んであげたいな…。
「またキースか!?」
お前、俺たちの家にもキースを呼ぼうというのか、あんな野郎を…?
あいつがお前に何をしたのか、お前、覚えている筈だがな…?
それなのに家に御招待か、とハーレイが見せた苦い顔。ハーレイはキースを嫌っているから。
「…駄目?」
呼んじゃ駄目なの、せっかくの同窓会なのに…。仕出しも頼んで、みんなで楽しめそうなのに。
キースは仲間外れになるの、と瞬かせた瞳。「ハーレイに嫌われてるから、駄目?」と。
「いや、いいが…。お前が呼びたいのなら、仕方がないが…」
仕出し料理で同窓会ってのは、お前が主催者なんだしな。好きなゲストを呼んでいいんだが…。
キースの野郎には、俺の特製料理を食わせてやりたい気もするな。
もちろん仕出し料理も出すがだ、俺が腕によりをかけて作った料理も。
「なに、それ?」
特製料理を御馳走するなら、キースを許してあげるわけ?
さっきは文句を言っていたけど、ちゃんと御馳走してあげるんだ…?
ちょっと意外、と驚いたけれど、ハーレイは「人の話は最後まで聞けよ?」とニヤリと笑った。
「俺の特製料理ってヤツは、前のお前の仕返しなんだ」
いくらお前が許していたって、俺はキースを許していない。…前のお前を撃ったこと。
メンバーズだったら、多分、何でも食えるだろうし…。
そういう訓練も受けた筈だし、好き嫌いの無い俺なりに知恵を絞ってだな…。
不味い料理を作ってやる、と恐ろしい話が飛び出した。
ゼルたちは美味しい仕出し料理を食べているのに、キースの分だけ、ハーレイ特製。メンバーズならば食べられるだろう、と出されるらしい不味すぎる料理。
「不味い料理って…。ハーレイ、何をする気なの?」
わざと焦がすとか、煮詰めすぎるとか、そういう失敗作のお料理…?
失敗したなら、不味い料理も作れそうだものね。お砂糖とお塩を間違えるだとか。
「その程度だったら、それほど不味くはならないだろうが。…まだ充分に食い物だからな」
常識ってヤツを捨ててかからないと、本当に不味い料理は作れん。直ぐには思い付かないが…。
なあに、闇鍋の要領でいけば何か作れるってな、不味すぎるヤツを。
「闇鍋…。前に聞いたよ、そういうお鍋…」
運動部の人たちがやってる遊びなんでしょ、ヘンテコなものを入れちゃうお鍋。
ハーレイに聞いた話だと、あれは色々な食べ物を入れるから酷い味付けになっちゃうわけで…。
一人用の闇鍋なんか無理だよ、元々の量が少ないんだから。
きっと食べられる味のお鍋、と指摘したけれど、ハーレイの方も譲らない。
「いや、出来る。俺がその気になりさえすれば」
一人用の鍋じゃ無理だと言うなら、デカイ鍋でグツグツ作ってもいいし…。全部食え、とな。
キースの野郎が腹一杯になっていようが、「俺の料理が食えんのか」と凄むまでだ。
その辺をちょいと走ってくればだ、腹が減るからまた食える。…不味くたってな。
なんたって、ヤツはメンバーズだぞ、とハーレイは闇鍋を食べさせるつもり。キースが来たら。
「…ハーレイ、そこまでキースが嫌い?」
運動させてまで、闇鍋を全部食べさせようって…。酷くない?
同窓会に来てくれたのに…。ゼルたちの分は、美味しいお料理ばかりなのに。
「俺に言わせりゃ、好きになれというお前の方が間違ってるぞ」
あいつが何をしでかしたのかを知っていればだ、誰だって嫌いになると思うが…?
「間違ってないよ…!」
キースに撃たれたのは前のぼくだし、ぼくはキースを嫌ってないから…。
もう一度会えたら、友達になれると思っているから…。ホントに間違っていないってば…!
間違ってるのはハーレイの方、と睨んだけれども、「どうだろうな?」と不敵に笑う恋人。
「お前の考えじゃ、キースは悪くはないらしいんだが…」
ゼルたちはどう言うんだろうなあ、俺の肩を持つか、お前の方か。
いったい、どっちにつくんだと思う、キースの野郎をどう扱うかって件に関しては…?
「ぼくに決まっているじゃない!」
ソルジャーはぼくだよ、ハーレイよりも上なんだから…!
ぼくが嫌っていないんだったら、ゼルたちだって、ぼくの意見を尊重しなくちゃ。ナスカのこととかで恨みがあっても、ソルジャーが言うなら従わないとね。
ぼくがキースを許してるんなら、許さなくちゃ、と自信たっぷりだったのに。
「ほほう…。今のお前もソルジャーなのか?」
でもって俺はキャプテンってことで、お前よりも立場が下になるのか…?
少なくとも今は俺は教師で、お前は生徒だと思ったが…。お前、俺より偉いってか…?
「…違うかも……」
前のぼくならソルジャーだけれど、今のぼくだと生徒だし…。ソルジャーじゃないし…。
これから先も、ソルジャーになれる予定も無いし、と口ごもるしかなくなった。ハーレイの方が正しいのだから、どうやら悪いらしい旗色。
「お前がソルジャーではないってことは、だ…。俺の方が上だと思うがな?」
特製料理を用意するのは俺だし、パーティー会場も俺の家だし…。
お前の立場は俺より弱くて、俺に勝てるとは思えんが…?
「その家なら、ぼくも住んでるよ!」
ハーレイと一緒に暮らしているから、その家でパーティーするんだし…。仕出し料理を頼むのもぼくで、パーティーしようって言ったのもぼく…。
「そうは言っても、元々は俺の家だしな?」
俺が一人で住んでいた家に、お前が嫁に来たわけで…。お前、居候のようなモンだろ?
キースの件では俺に分がある、ゼルたちもそう言ってくれそうだが…?
「えーっ!?」
お嫁さんだと居候なの、確かにそうかもしれないけれど…。
料理も出来ないお嫁さんだし、仕出し料理を頼まないとパーティーするのも無理なんだけど…!
居候のようなお嫁さん。将来は本当にそうなるわけだし、ハーレイに負けてしまいそう。
ゼルたちに意見を訊いてみたなら、ハーレイの方に票が入って。居候では勝てなくて。
(ぼく、負けちゃう…?)
負けてしまって、ハーレイはキースに酷い料理を出すのかも、と思ったけれど。そうなるのかと諦めかけたけれども、相手は夢の同窓会。キースまで呼べるほどだから…。
「ゼルたちの意見、ハーレイの読みとは違っているかもしれないよ?」
ぼくがハーレイよりも弱くなってる世界なんだし、ソルジャーもキャプテンも無いんだし…。
人類もミュウも無くなってるから、ゼルたち、案外、キースと気が合っちゃうかも…。
「なんだって?」
あいつらがキースの肩を持つのか、俺が文句を言っていたって…?
前のお前をメギドで撃った極悪人だ、と主張してみても、キースの野郎と気が合うってか?
ゼルたちが、とハーレイは愕然としているけれども、ただの人同士として出会ったのなら、争う必要は何処にもない。まして同窓会となったら、和やかに語り合いたいもの。
「ハーレイは今もキースを許してないけど、ぼくは生まれ変わって今のぼくだよ?」
いくらハーレイが「撃ったんだ」って頑張ってみても、今のぼくには弾の痕は無いし…。
聖痕が出ても、怪我なんか何処にもしていないしね?
それならキースを悪く言うだけ無駄じゃない。みんなで仲良く食事する方がよっぽどいいよ。
ブラウは「国家主席様だ」って、キースをオモチャにしちゃいそうだし、ゼルだって。
ヒルマンは色々と話が出来て喜んじゃうかも…。SD体制のシステムだとか、他にも沢山。
エラも話を聞きたがると思うよ、今ならキースがどうやって生まれて来たのか分かってるもの。
「水槽の中から外は見えましたか?」とか、熱心に質問しそうだってば。
「うーむ…」
そういうことも無いとは言えんか、特にヒルマンとエラが危ない。
人類側の指導者をやってた男だ、ユグドラシルの仕組みとかまで聞きたがるかもしれないな…。
キースしか知らないままの話も多い筈だし、今ならではのインタビューってか?
ゼルとブラウも興味津々で質問しそうで、あいつらの場合は茶化すんだな。面白がって。
そうなると、キースは格好の話し相手ってことで…。
俺の分が悪くなっちまう、と複雑な顔をしているハーレイ。「キースには手出し出来んぞ」と。
「…マズイな、話が盛り上がっているのに、俺だけキースを睨んでいても…」
場の雰囲気が台無しってヤツか、お前もキースの肩を持つんだし…。
仕返ししようと不味い料理を作って出しても、ゼルたちにまで文句を言われるってか…?
「言うと思うよ、「何をするんじゃ!」ってゼルが怒鳴りそう」
ハーレイの料理の腕が落ちた、って言われちゃうかもね、不味いんだから。
それが嫌なら、キースにも、ちゃんと普通のお料理。みんなと同じで、美味しい仕出し。
楽しくみんなで食べるのがいいでしょ、せっかく仕出しを取るんだから。
どれがいいかな、って考えて注文するんだものね、と鳶色の瞳の恋人を見詰めた。キース嫌いの恋人だけれど、「意地悪は駄目」と。
「…キースの野郎にも、美味いのを御馳走しろってか?」
とびきり美味い仕出し料理を食わせてやって、俺の特製料理は出番が無いままか…。
まあ、所詮はお前の夢の話だし、それでもいいがな。…キースに美味い仕出し料理でも。
茶碗蒸しだろうが、寿司だろうが…、とハーレイは渋々頷いてくれた。「仕方ないな」と。
「ありがとう! 夢の話でも、キースに御馳走してくれるんだね」
ハーレイが許してくれるんだったら、美味しいのを頼んであげたいな。キースたちのために。
でも、仕出し…。夢の同窓会をするなら、ちゃんと注文出来るけど…。
ぼくたちじゃ無理だね、ホントに人数が足りないから…。
パパやママたちを呼んで来たって、六人だけしかいないんだから…。
ちょっと残念、と肩を落としたら、「さっきも言ったろ?」と穏やかな笑み。
「お前の夢なら頼んでもいいと言ってやったぞ、仕出し料理」
俺と二人で頼んでもいいし、好きな時に注文するといい。…一緒に暮らすようになったら。
「二人って?」
「店の方で駄目だと言わなかったら、二人分でも頼んでいいんだ。仕出しってヤツは」
家で作るのとは器が違うし、作る時間も要らないし…。
わざわざ店まで出掛けなくても、ちょっとしたデート気分だが?
「それ、いいかも…!」
ハーレイと二人で仕出しなんだね、お料理、二人分、届くんだね…!
まるで思いもしなかったこと。二人分だけ注文する仕出し。
いつかハーレイと暮らし始めたら、たまには仕出しを頼んでみようか。
お客さんを大勢招かなくても、ハーレイと二人でゆっくりと。お寿司や、色々な仕出し料理を。
美味しそうな広告を見付けた時には、「これがいいな」と指差したりして。
デートに出掛けて、外で食事をする代わりに…。
(いつもの部屋で、お料理だけ…)
お店の味のを食べてみる。器も、普段とは違ったもので。…お店から届けて貰ったもので。
そういう食事も、きっと素敵に違いないから、いつかは仕出しを二人分だけ。
ハーレイと二人でのんびりと食べて、懐かしい思い出話もして。
家でゆっくりデートするなら、仕出し料理も悪くない。
いつものテーブルは変わらないけれど、お店の人を気にしなくてもいいのが仕出しの良さ。
食事の途中でキスしていたって、誰も困りはしないから。
食べ終えたら直ぐにベッドに行っても、叱る人は誰もいないのだから…。
頼みたい仕出し・了
※ブルーが頼みたくなった、仕出し料理。けれど取るのは難しいかも、と思えるのが将来。
夢のまま終わりそうでしたけど、二人分だけ、注文することも出来るのです。いつか二人で。
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ふうん、とブルーが眺めた広告の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
新聞ではなくて町の情報紙。其処に載っている和食のお店。美味しそうな料理の写真が沢山。
(家でパーティーするなら、お寿司…)
そういう謳い文句の広告。「パーティーにどうぞ」と盛り合わせたお寿司の大皿だとか、一人分ずつ盛り付けてある器とか。他にも和食のお弁当が色々。
(お弁当って言うより、ちゃんとしたお料理…)
そうとしか見えないものだって。お弁当用とは違った器に、綺麗に盛られた様々な料理。どれもそのまま届くという。家でするのは、お味噌汁などを温めることだけ。いわゆる仕出し。
お刺身も天麩羅も、全部セットで家に届くから、何も作らずにパーティー出来る。お寿司でも、本格的な和食が並ぶコースでも。
(いくらママでも、こんなに沢山…)
大勢の人に和食を作るのは無理。
家でこういうパーティーをするなら、仕出しを注文するのだろう。お寿司でなくても。きっと、気軽に頼めるのがお寿司。だから広告には「お寿司でパーティー」。
お寿司だったら、器は沢山要らないから。パーティー料理を並べる時も、片付ける時も、手間がそれほどかからないから。
(そんなパーティー、やってないけどね?)
小さかった頃には友達を呼んで、誕生日パーティーをしたけれど。
子供のパーティーに仕出しなんかは頼まないから、母が作った料理が並んだ。友達の家に行った時にも同じこと。子供が好きそうな料理ばかりで、お寿司を食べてはいないと思う。
(ぼくの年だと、誕生日パーティー、もうやらないし…)
縁が無さそうな、お寿司のパーティー。本格的な和食の料理を並べた方も。
こうして広告が載っているなら、やっている人も多そうなのに。その人たち向けの広告なのに。
パパたちもやっていないよね、と考える仕出しを取るパーティー。お客さんは大勢来ないから。たまに来るのは父の友人、母が充分料理を作れるだけの人数。母の友達が大勢来るなら…。
(食事じゃなくって、お茶会の方…)
その方がのんびり出来るから、と軽いランチとセットでお茶会。仕出し料理の出番は無い。
もしかしたら自分のせいかもしれない。幼い頃から身体が弱くて、熱を出したり、寝込んだり。大勢が集まるパーティーをするには、向いていそうにない家だから。
(みんなで集まっても、その家の子が寝込んでいたら…)
ワイワイ賑やかに話せはしないし、招かれた方も何かと心配。子供の様子を見てくるようにと、気を遣ったりもするだろう。「此処はいいですから、行ってあげて下さい」と。
母のお茶会程度だったら、「息子が熱を出したから」と断れそうでも、仕出し料理を取るようなものは難しそう。お店も料理を用意しているし、前の日から仕入れもするだろうから。
(ぼくのせいかもね…)
両親は何も言わないけれども、自然とそうなった可能性もある。母に訊いても、「違うわよ」と答えが返りそうだけれど。…本当は自分のせいだとしても。
理由はどうあれ、家では見たことがない和食のパーティー。お寿司も、仕出し料理の方も。
いつかする時が来るのだろうか、幼い頃よりは丈夫になったし、機会があれば。
(ハーレイのお父さんとお母さんも呼んだら…)
普段の食卓よりも増える人数。それにちょっとしたパーティー気分。
ハーレイと結婚したら、ハーレイの両親とも親戚になるし、この家に招くこともあるだろう。
自分はお嫁に行くのだけれども、たまには帰って来そうな家。
そうでなくても、父と母なら計画しそうな、ハーレイの両親も招いての食事。
(ぼくとハーレイも呼んで貰えて…)
楽しい食事になりそうだけれど、問題は母。
お菓子はもちろん、料理を作るのも得意なのだし、仕出し料理を取るよりは…。
(作っちゃいそう…)
たった六人分だもの、と眺め回したダイニングのテーブル。「全部並べても、このくらい」と。
六人分の料理くらいなら、お寿司だろうと和食だろうと、母なら作ってしまいそう、と。
ちょっと無理かも、と溜息をついて戻った二階の自分の部屋。
お寿司でパーティーに憧れたけれど、仕出し料理を頼むパーティーも素敵だけれど…。
(ママなら絶対、作っちゃう方…)
ハーレイの両親も来るとなったら、張り切って。仕出し料理を頼まなくても、ドッサリと。
「家でパーティーすることにしたわ」と通信を貰ってやって来たなら、どんな料理でも、きっと手作り。頼んでいそうにない仕出し。たった六人分だから。
(…ぼくとハーレイの家でやっても…)
料理は全部、ハーレイが作ってしまうのだろう。前のハーレイは厨房出身だったけれども、今のハーレイも料理が得意。プロ顔負けの腕前らしいし、六人分くらい、手際よく。
そしてハーレイの両親の家で、パーティーということになったなら…。
(お母さんが作るか、お父さんの得意な魚料理か…)
やっぱり無さそうな仕出しの出番。六人が集まるパーティーになっても、手作りの料理。魚まで釣って来るかもしれない、ハーレイの父は釣りの名人だから。「今の季節は、この魚」と。
(パーティーをするのが、ぼくだったら…)
自分で料理は出来そうにないし、仕出し料理を頼むことになると思うけれども。
広告を見ながら、どれにしようかと考えて注文出来そうだけれど…。
(そうなる前に、ハーレイが頑張るに決まっているじゃない…!)
パーティーしたいと言った途端に、「いいな」と頷いてくれて、料理の準備。何を食べたいのか訊かれるだろうし、「和食にしたい」と言ったなら…。
最初からハーレイの頭には無い、「仕出しを頼む」という選択肢。何を作ろうかと考えるだけ。
作る料理が決まってしまえば、パーティーの日の前の夜から仕込みを始めていそう。
当日の朝も、早起きをして買い出しに出掛けるかもしれない。市場が開いている日なら。
(ああいう市場は、朝が早いし…)
暗い内から開いているらしい、新鮮な食材が入って来る市場。
週末は休みかもしれないけれども、夏休みとかなら平日でも出来るのがパーティー。父の休みと合いさえしたなら、ゆっくりと。
平日だったら、市場はもちろん開いているから…。
お前は寝てろ、と一人で出掛けて行きそうなハーレイ。暗い間から車を出して、いそいそと。
市場に着いたら、食材選び。この料理にはこれ、と思う魚や、野菜やら。
明るくなってから、いつもの時間に目を覚ましたら…。
(もう、お料理の準備中…)
ハーレイはとっくに帰って来ていて、キッチンに立っているのだろう。朝御飯だって、きちんと作ってテーブルの上。「お前の朝飯、そこだからな」と。
せっかく市場に行ったのだから、と凝っていそうな朝御飯。なにしろ相手はハーレイだから。
なんだか凄い、と眺めていたら、「俺は料理しながら、もう食ったから」と笑ったりもして。
(うーん…)
きっとそうなる、と分かっているから、仕出し料理の出番は無さそう。集まる人数が六人では。もっと人数が増えてくれないと、仕出しは頼めそうもない。
ハーレイが「流石に無理だ」と思う人数、どのくらいいればいいのだろう。十人はいないと駄目なのだろうか、八人くらいでもハーレイは諦めてくれるだろうか…?
(だけど、招待するような人…)
いないもんね、と零れる溜息。両親と、ハーレイの両親と。それだけ呼ぶのが精一杯。六人しかいないパーティーだったら、料理はハーレイの手作りしか考えられないし…。
仕出しを取るのは難しそう、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。いつかパーティーするんなら…」
「パーティー?」
なんだそりゃ、と怪訝そうなハーレイ。「お前の誕生日パーティーとかか?」と。
「それもあるかもしれないけれど…。家でパーティーだよ」
今じゃなくって、もっと先のこと。
いつかハーレイと結婚した後、家でパーティーしようって時は…。
ぼくのパパとママも、ハーレイのお父さんとお母さんも呼んで、みんなでパーティー。
そういう時には、お料理、どうする?
パーティーするなら、お料理だって出さなくちゃ…。その時のお料理…。
どうするの、と首を傾げたら、「そりゃ作るさ」と思った通りの答え。
「張り切って美味いのを作らなくっちゃな、パーティーとなれば」
「…ハーレイが?」
念のために、と訊き返したけれど、「当然だろう?」と微笑むハーレイ。「俺の出番だ」と。
「他に誰がいるんだ、料理となったら俺だよな。今の俺だって、料理は得意だ」
お前は手伝わなくてもいいぞ。俺に任せておいてくれれば、最高の料理を作ってやるから。
「やっぱり…」
パーティー料理はそうなっちゃうよね、と頷いたものの、仕出し料理の出番は来ない。いつまで経っても来てはくれなくて、パーティーの時にはハーレイの料理。
「なんだ、残念そうな顔をして。…俺の料理じゃ駄目なのか?」
溜息が聞こえて来そうな顔だ、とハーレイも気付いたらしい落胆ぶり。それなら、いっそ話してみようか。仕出し料理を頼んでみたかったこと。
「えっと…。ハーレイの料理が駄目なんじゃなくて…」
美味しいだろうし、パパやママも喜んでくれそうだけど…。ぼくも美味しく食べるけど…。
それはいいんだけど、今日、広告を見たんだよ。新聞広告じゃなかったけれど。
お寿司でパーティーって書いてあってね、和食のお店の広告で…。
仕出し料理の写真も沢山、と広告のことを説明した。そういう仕出しを頼むパーティー、それが家には無いことも。…多分、自分が弱く生まれてしまったせいで。
「なるほどなあ…。それはあるかもしれないな」
お母さんたちは「違う」と答えてくれるんだろうが、その可能性は充分にある。
ただでも子供が小さい間は、大勢の人を招くというのは難しいからな。…料理は仕出しを頼むにしたって、家の片付けが大変だ。小さな子供はオモチャも絵本も、出したら出しっ放しだから。
「ハーレイだってそう思うんなら、ホントにぼくのせいだったかも…」
だけど今なら、小さい頃よりは身体も丈夫になったから…。ホントだよ?
しょっちゅう熱を出したりするけど、小さかった頃より減ったから…。
自分できちんと気を付けてるから、酷くなる前に治すしね。ちょっと休憩したりして。
だから仕出しを頼むパーティー、今のぼくなら出来そうだけど…。
肝心の仕出し料理の出番が無さそう、と項垂れた。
いつかハーレイと結婚したって、パーティーの時にはハーレイが料理を作るのだから。
「それでガッカリしちゃったんだよ、ハーレイの料理のせいじゃなくって…」
仕出し料理の出番は無いよね、って思っちゃったら、残念で…。
ちょっと頼んでみたかったのに…。お寿司でパーティーするのもいいけど、仕出し料理を。
「そういうことか…。出来上がった料理が届く所がいいんだな?」
テーブルに並べていくだけで済むし、買ってくるより遥かに本格的だから…。盛り付ける器も、料理が一番映えるのを選んで来るからな。
お前が頼んでみたいんだったら、注文すればいいんじゃないか?
俺は作るのをやめておくから、仕出し料理でパーティーだ。寿司も一緒に頼んでもいいな、俺が作るなら両方となると大変だが。
寿司が手抜きになりそうだ、とハーレイのお許しを貰ったけれども、引っ掛かった言葉。
「…それだと手抜きみたいじゃない。お寿司を一緒に頼んでなくても」
今、ハーレイが自分で言ったよ。お料理とお寿司と、両方だったら、お寿司が手抜き…。
それと同じで、パーティー、六人だけだから…。どう頑張っても、六人しか思い付かないし…。
六人分なら、ハーレイ、簡単に作れちゃうんでしょ?
なのに仕出しを頼んでるなんて、手抜きで注文したみたい。自分で作るのが面倒だから。
仕出しを頼むなら、もっと大勢呼ばなくちゃ駄目で、お料理が作れないほどの人数だとか…。
たった六人分で仕出しは駄目かも、と心配な気分。ハーレイは許してくれたけれども。
「手抜きって…。そうでもないんだぞ、仕出しってヤツは」
お客様にお出しするなら仕出しがいい、って人も少なくないからな。
家で料理を作るとなったら、お客様のお相手をしている時間が減るもんだから…。
次はこれだ、と温め直したりしてるだけでも、時間、かかってしまうだろ?
キッチンまで来て喋っているようなお客様なら、まるで問題無いんだが…。
それが出来ないお客様もあるから、そういう時には仕出しだってな。
もちろん出されたお客様の方も、手抜きだなんて思っちゃいない。仕出しは立派な文化だぞ。
宅配ピザとは違うってことだ、仕出し料理は。
値段もけっこう高いだろうが、と言われてみれば、そうだった。広告で見たのは、パーティーに相応しい値段。お寿司でパーティー、そう謳われても充分、納得出来そうな。
「パーティーだから、って思ってたけど…。お寿司、安くはなかったかも…」
お店で食べるような値段で、他のお料理だってそう。安いお料理、無かったかも…。
「ほらな。店の器を貸して貰って、料理も盛り付けて貰うんだから」
仕出しはきちんとした料理なんだ、お客様にお出ししても恥ずかしくない料理ってことで…。
柔道部のヤツらに御馳走するには、仕出しは上等すぎるってな。パーティー用の寿司も。
あの連中には、宅配ピザが丁度いいんだ、と教わったけれど。仕出し料理は立派な文化で、注文したっていいらしいけれど。
「そうなんだ…。でも、お客さん…」
誰かいないかな、パパやママの他にもいればいいのに…。家に呼べそうなお客さんたち。
仕出しを頼んでも良さそうな人で、うんと賑やかに。
「お前の友達なんかはどうだ? 今だと、ただのガキなわけだが…」
その内に立派な大人になるしな、人数もけっこういるだろうが。お前のランチ仲間とか。
ああいうのを呼んでやったらどうだ、とアイデアを出して貰ったけれども、どうだろう…?
ハーレイと二人で暮らしている家に、友達を呼んでみたいだろうか…?
(今はランチも楽しいけれど…。ハーレイと暮らしてる家に呼びたいかな…?)
ぼくたちには秘密も多いんだから、と記憶のことを考えた。ハーレイも自分も生まれ変わりで、前の生の記憶を持っている。両親の前なら当たり前のように話すけれども、友達となると…。
(…ぼくたちの正体、内緒のままだと、とても大変…)
何かのはずみに喋ってしまって、慌てて口を押さえるだとか。「冗談だよ」と誤魔化すとか。
ハーレイも自分も、前の自分たちにそっくりなのだし、冗談だと思って貰えそうでも…。
(やっぱり大変…)
いつものように話せないのでは、つまらない。
せっかく仕出しを頼んでパーティー、好きなように話題を選びたいのに。
ハーレイとも普段通りに話して、「前のぼくたちの頃には、仕出しなんかは無かったね」などと語り合ってもみたいのに。…あの時代に仕出し料理は無かったのだから。
そういう話も出来る人たち、両親以外で分かってくれるゲストがいれば…、と思っても、それは無理なこと。前の自分たちを知っている人、その人たちは遠く遥かな時の彼方にしかいない。
白いシャングリラで共に暮らした仲間たち。彼らしか分かってくれはしないから…。
「仕出しを頼むお客様…。ゼルたちがいればいいのにね」
「ゼル?」
どうしてゼルの名前が出るんだ、とハーレイが目を丸くする。「今は仕出しの話だぞ?」と。
「前に言ったじゃない。同窓会が出来たらいいね、って」
無理なのは分かっているけれど…。夢だけれども、ゼルたちを呼んで地球で同窓会。
その同窓会を家でするんなら、仕出しも注文出来そうだよ?
人数は六人のままだけど…。ぼくの友達を呼んで来るより、ずっと少ない人数だけれど。
でも、同じ六人で仕出しだったら、パパやママより、ゼルたちの方が面白そうだと思わない?
ハーレイもお料理しなくていいもの、仕出しを頼んでおいたらね。
お料理を作りにキッチンに行かずに済みそうでしょ、と話した思い付き。けして叶いはしない夢でも、ハーレイと夢を見たいから。
「あいつらか…! そうか、ゼルたちと同窓会なあ…。俺たちの家で」
そりゃ賑やかになりそうだよな、とハーレイの顔も綻んだ。「六人でも充分、賑やかだぞ」と。
「ね、素敵でしょ?」
ゼルたちだったら、前のぼくたちの話をしたって大丈夫だし…。
ぼくの友達を家に呼んだら、そういう話は無理だけど…。喋っちゃったら大変だけど。
誤魔化すのがね、と肩を竦めたら、「ゼルたちの場合は、別の意味で大変そうだがな?」という意見。「前の俺たちの話はともかく」と。
「仕出し料理を頼むんだろう? もうそれだけで大変なことになっちまうぞ」
ひと騒動って感じだろうな、仕出しだけに。
「なんで?」
ハーレイ、仕出しは手抜きじゃないって言ってたよ…?
それとも手抜きだと言われてしまうの、ゼルもブラウも口がとっても悪いから…。
料理も作れなくなったのか、ってハーレイが苛められちゃうだとか…?
あの二人なら言いそうだ、と思った嫌味。前のハーレイの料理の腕前を知っているだけに…。
ブラウだったら「呆れたねえ…。今のあんたは料理も作れやしないなんてさ」といった具合で、ゼルの方なら「わしらを納得させる味が出せんのじゃ。腕が落ちたんじゃ!」となるだろうか。
ハーレイにすれば、不本意極まりない話。仕出し料理は立派な文化らしいのに。
「…ゼルたちだって分かってくれるよ、仕出しをきちんと説明すれば」
おんなじ料理はハーレイにだって作れるけれども、これはそういう文化だから、って。
それに仕出しを頼みたがったの、ハーレイじゃなくて、ぼくなんだしね。
ぼくが頑張って説明するよ、と言ったのだけれど、「そうじゃなくて…」と苦笑したハーレイ。
「お前の気持ちは嬉しいんだが、俺が言うのは其処じゃない」
あいつら、嫌味どころじゃないと思うぞ、仕出し料理をドンと出してやったら。
まるで知らない料理だろうが、あいつらが。…寿司にしたって、本格的な和食にしたって。
前の俺たちが生きてた頃には、和食は無かったんだから、とハーレイがトンと叩いたテーブル。
「仕出し料理も、もちろん無いが」と。
「そうだっけ…!」
ホントだ、ゼルもブラウもビックリだよね…。見たことのないお料理ばかり。
仕出しについてるお味噌汁だって、「何のスープだい?」ってキョトンとしてそう…。
「だから賑やかだと言ったんだ。…ついでに、大変そうだともな」
どれも食えるっていう所から教えてやらんと、きっと警戒されちまう。…美味いのにな?
あいつらに仕出しを取るんだったら、寿司は外せん。是非とも食って貰わないと。
「生の魚を食べるのか」と驚きそうだが、食えば喜ぶと思うぞ、きっと。
それに天麩羅も頼まないとな。ずっと昔はスシ、テンプラと言ったらしいから。
この辺りに日本があった時代は、他所の国から来た観光客たちに大人気のメニューだったんだ。寿司と天麩羅。
大昔から人気の料理なんだし、あいつらの口にも合うだろう。
「こいつは美味い」と褒められそうなのが、寿司と天麩羅ってトコだよな、うん。
寿司と天麩羅は頼まないと…、とハーレイが挙げるものだから。
「他には…?」
喜んで貰えそうなお料理もいいし、ビックリされそうなお料理だって。…何があるかな?
お刺身も生のお魚なんだし、お寿司と一緒で用心されてしまいそうだけど…。
「茶碗蒸しも要るだろ、前にお前がお母さんに作って貰っていたぞ」
今じゃ当たり前の料理なんだが、前の俺たちが見たらどう思うのか、って話でな。
「プリンだっけね、茶碗蒸し…」
前のぼくなら、プリンの仲間と間違えるんだよ。きっと甘いよ、って食べたら甘くないプリン。
それにプリンには入っていない中身が色々…。茶碗蒸しはお料理なんだから。
「甘くないだけで驚くだろうな、あいつらは」
妙なプリンだ、と食っていったら、中に海老だの百合根だの…。
海老は一目で分かるだろうが、百合根は謎の食べ物だしな?
俺たちは何度、毒味する羽目になるんだろうなあ、「これは立派な食い物だから」と。
「そうなっちゃうかも…」
きっと、ぼくよりハーレイだよ。毒味させられる係はね。…怪しい食べ物になればなるほど。
元は厨房にいたんだろう、って言われちゃって。
「目に見えるようだな、その光景…。お前が食え、とゼルにせっつかれるんだ」
でもって、毒味する時に、だ…。俺やお前が使っている箸、そいつも大いに問題だってな。
ゼルたちには箸は使えんだろうし、ナイフやフォークも用意しないと…。
変わった道具で食べていやがる、と珍獣扱いされちまうかもなあ…。
お前も俺も、とハーレイが軽く広げた両手。「どう見たって、ただの棒だから」と。
「食べにくい道具だろうけれど…。挑戦しそうだよ、ブラウとかが。これで食べる、って」
つまむ代わりに、グサリと刺しちゃいそうだけど…。フォークみたいに。
前にそういう話をしたこと、あったっけね。お箸なんかは知らなかったよ、って気が付いた時。
「あの時も俺が気付いたんだよな、料理をしてて。…箸って道具は優れものだと」
だが、箸がどんなに優秀でもだ、使いこなせないと二本の棒のままなんだから…。
ナイフとフォークを用意してなきゃ、ゼルとブラウは手づかみで食おうとするかもなあ…。
寿司なら手でもかまわないんだが、他の料理も遠慮しないで。
きっとガツガツ食っちまうぞ、とハーレイが挙げてゆく料理。手づかみで食べられそうなもの。
「天麩羅もいけるし、刺身もいける」と、「茶碗蒸しは、ちょっと無理そうだがな」と。
「茶碗蒸しだと、箸で崩して飲んじまうのかもしれないなあ…」
ちょっと濃いめのスープってトコで、具入りのスープも無いわけじゃないし…。
前の俺たちの時代でもな、と懐かしい料理の名前が挙がった。今もあるブイヤベースなどが。
「茶碗蒸し、スープにされちゃうんだ…。確かに崩せば飲めそうだけど」
楽しそうだよね、家で仕出しで同窓会をやるっていうのも。夢の同窓会だけど…。
本当にやるのは無理なんだけれど、同窓会なら、キースも呼んであげたいな…。
「またキースか!?」
お前、俺たちの家にもキースを呼ぼうというのか、あんな野郎を…?
あいつがお前に何をしたのか、お前、覚えている筈だがな…?
それなのに家に御招待か、とハーレイが見せた苦い顔。ハーレイはキースを嫌っているから。
「…駄目?」
呼んじゃ駄目なの、せっかくの同窓会なのに…。仕出しも頼んで、みんなで楽しめそうなのに。
キースは仲間外れになるの、と瞬かせた瞳。「ハーレイに嫌われてるから、駄目?」と。
「いや、いいが…。お前が呼びたいのなら、仕方がないが…」
仕出し料理で同窓会ってのは、お前が主催者なんだしな。好きなゲストを呼んでいいんだが…。
キースの野郎には、俺の特製料理を食わせてやりたい気もするな。
もちろん仕出し料理も出すがだ、俺が腕によりをかけて作った料理も。
「なに、それ?」
特製料理を御馳走するなら、キースを許してあげるわけ?
さっきは文句を言っていたけど、ちゃんと御馳走してあげるんだ…?
ちょっと意外、と驚いたけれど、ハーレイは「人の話は最後まで聞けよ?」とニヤリと笑った。
「俺の特製料理ってヤツは、前のお前の仕返しなんだ」
いくらお前が許していたって、俺はキースを許していない。…前のお前を撃ったこと。
メンバーズだったら、多分、何でも食えるだろうし…。
そういう訓練も受けた筈だし、好き嫌いの無い俺なりに知恵を絞ってだな…。
不味い料理を作ってやる、と恐ろしい話が飛び出した。
ゼルたちは美味しい仕出し料理を食べているのに、キースの分だけ、ハーレイ特製。メンバーズならば食べられるだろう、と出されるらしい不味すぎる料理。
「不味い料理って…。ハーレイ、何をする気なの?」
わざと焦がすとか、煮詰めすぎるとか、そういう失敗作のお料理…?
失敗したなら、不味い料理も作れそうだものね。お砂糖とお塩を間違えるだとか。
「その程度だったら、それほど不味くはならないだろうが。…まだ充分に食い物だからな」
常識ってヤツを捨ててかからないと、本当に不味い料理は作れん。直ぐには思い付かないが…。
なあに、闇鍋の要領でいけば何か作れるってな、不味すぎるヤツを。
「闇鍋…。前に聞いたよ、そういうお鍋…」
運動部の人たちがやってる遊びなんでしょ、ヘンテコなものを入れちゃうお鍋。
ハーレイに聞いた話だと、あれは色々な食べ物を入れるから酷い味付けになっちゃうわけで…。
一人用の闇鍋なんか無理だよ、元々の量が少ないんだから。
きっと食べられる味のお鍋、と指摘したけれど、ハーレイの方も譲らない。
「いや、出来る。俺がその気になりさえすれば」
一人用の鍋じゃ無理だと言うなら、デカイ鍋でグツグツ作ってもいいし…。全部食え、とな。
キースの野郎が腹一杯になっていようが、「俺の料理が食えんのか」と凄むまでだ。
その辺をちょいと走ってくればだ、腹が減るからまた食える。…不味くたってな。
なんたって、ヤツはメンバーズだぞ、とハーレイは闇鍋を食べさせるつもり。キースが来たら。
「…ハーレイ、そこまでキースが嫌い?」
運動させてまで、闇鍋を全部食べさせようって…。酷くない?
同窓会に来てくれたのに…。ゼルたちの分は、美味しいお料理ばかりなのに。
「俺に言わせりゃ、好きになれというお前の方が間違ってるぞ」
あいつが何をしでかしたのかを知っていればだ、誰だって嫌いになると思うが…?
「間違ってないよ…!」
キースに撃たれたのは前のぼくだし、ぼくはキースを嫌ってないから…。
もう一度会えたら、友達になれると思っているから…。ホントに間違っていないってば…!
間違ってるのはハーレイの方、と睨んだけれども、「どうだろうな?」と不敵に笑う恋人。
「お前の考えじゃ、キースは悪くはないらしいんだが…」
ゼルたちはどう言うんだろうなあ、俺の肩を持つか、お前の方か。
いったい、どっちにつくんだと思う、キースの野郎をどう扱うかって件に関しては…?
「ぼくに決まっているじゃない!」
ソルジャーはぼくだよ、ハーレイよりも上なんだから…!
ぼくが嫌っていないんだったら、ゼルたちだって、ぼくの意見を尊重しなくちゃ。ナスカのこととかで恨みがあっても、ソルジャーが言うなら従わないとね。
ぼくがキースを許してるんなら、許さなくちゃ、と自信たっぷりだったのに。
「ほほう…。今のお前もソルジャーなのか?」
でもって俺はキャプテンってことで、お前よりも立場が下になるのか…?
少なくとも今は俺は教師で、お前は生徒だと思ったが…。お前、俺より偉いってか…?
「…違うかも……」
前のぼくならソルジャーだけれど、今のぼくだと生徒だし…。ソルジャーじゃないし…。
これから先も、ソルジャーになれる予定も無いし、と口ごもるしかなくなった。ハーレイの方が正しいのだから、どうやら悪いらしい旗色。
「お前がソルジャーではないってことは、だ…。俺の方が上だと思うがな?」
特製料理を用意するのは俺だし、パーティー会場も俺の家だし…。
お前の立場は俺より弱くて、俺に勝てるとは思えんが…?
「その家なら、ぼくも住んでるよ!」
ハーレイと一緒に暮らしているから、その家でパーティーするんだし…。仕出し料理を頼むのもぼくで、パーティーしようって言ったのもぼく…。
「そうは言っても、元々は俺の家だしな?」
俺が一人で住んでいた家に、お前が嫁に来たわけで…。お前、居候のようなモンだろ?
キースの件では俺に分がある、ゼルたちもそう言ってくれそうだが…?
「えーっ!?」
お嫁さんだと居候なの、確かにそうかもしれないけれど…。
料理も出来ないお嫁さんだし、仕出し料理を頼まないとパーティーするのも無理なんだけど…!
居候のようなお嫁さん。将来は本当にそうなるわけだし、ハーレイに負けてしまいそう。
ゼルたちに意見を訊いてみたなら、ハーレイの方に票が入って。居候では勝てなくて。
(ぼく、負けちゃう…?)
負けてしまって、ハーレイはキースに酷い料理を出すのかも、と思ったけれど。そうなるのかと諦めかけたけれども、相手は夢の同窓会。キースまで呼べるほどだから…。
「ゼルたちの意見、ハーレイの読みとは違っているかもしれないよ?」
ぼくがハーレイよりも弱くなってる世界なんだし、ソルジャーもキャプテンも無いんだし…。
人類もミュウも無くなってるから、ゼルたち、案外、キースと気が合っちゃうかも…。
「なんだって?」
あいつらがキースの肩を持つのか、俺が文句を言っていたって…?
前のお前をメギドで撃った極悪人だ、と主張してみても、キースの野郎と気が合うってか?
ゼルたちが、とハーレイは愕然としているけれども、ただの人同士として出会ったのなら、争う必要は何処にもない。まして同窓会となったら、和やかに語り合いたいもの。
「ハーレイは今もキースを許してないけど、ぼくは生まれ変わって今のぼくだよ?」
いくらハーレイが「撃ったんだ」って頑張ってみても、今のぼくには弾の痕は無いし…。
聖痕が出ても、怪我なんか何処にもしていないしね?
それならキースを悪く言うだけ無駄じゃない。みんなで仲良く食事する方がよっぽどいいよ。
ブラウは「国家主席様だ」って、キースをオモチャにしちゃいそうだし、ゼルだって。
ヒルマンは色々と話が出来て喜んじゃうかも…。SD体制のシステムだとか、他にも沢山。
エラも話を聞きたがると思うよ、今ならキースがどうやって生まれて来たのか分かってるもの。
「水槽の中から外は見えましたか?」とか、熱心に質問しそうだってば。
「うーむ…」
そういうことも無いとは言えんか、特にヒルマンとエラが危ない。
人類側の指導者をやってた男だ、ユグドラシルの仕組みとかまで聞きたがるかもしれないな…。
キースしか知らないままの話も多い筈だし、今ならではのインタビューってか?
ゼルとブラウも興味津々で質問しそうで、あいつらの場合は茶化すんだな。面白がって。
そうなると、キースは格好の話し相手ってことで…。
俺の分が悪くなっちまう、と複雑な顔をしているハーレイ。「キースには手出し出来んぞ」と。
「…マズイな、話が盛り上がっているのに、俺だけキースを睨んでいても…」
場の雰囲気が台無しってヤツか、お前もキースの肩を持つんだし…。
仕返ししようと不味い料理を作って出しても、ゼルたちにまで文句を言われるってか…?
「言うと思うよ、「何をするんじゃ!」ってゼルが怒鳴りそう」
ハーレイの料理の腕が落ちた、って言われちゃうかもね、不味いんだから。
それが嫌なら、キースにも、ちゃんと普通のお料理。みんなと同じで、美味しい仕出し。
楽しくみんなで食べるのがいいでしょ、せっかく仕出しを取るんだから。
どれがいいかな、って考えて注文するんだものね、と鳶色の瞳の恋人を見詰めた。キース嫌いの恋人だけれど、「意地悪は駄目」と。
「…キースの野郎にも、美味いのを御馳走しろってか?」
とびきり美味い仕出し料理を食わせてやって、俺の特製料理は出番が無いままか…。
まあ、所詮はお前の夢の話だし、それでもいいがな。…キースに美味い仕出し料理でも。
茶碗蒸しだろうが、寿司だろうが…、とハーレイは渋々頷いてくれた。「仕方ないな」と。
「ありがとう! 夢の話でも、キースに御馳走してくれるんだね」
ハーレイが許してくれるんだったら、美味しいのを頼んであげたいな。キースたちのために。
でも、仕出し…。夢の同窓会をするなら、ちゃんと注文出来るけど…。
ぼくたちじゃ無理だね、ホントに人数が足りないから…。
パパやママたちを呼んで来たって、六人だけしかいないんだから…。
ちょっと残念、と肩を落としたら、「さっきも言ったろ?」と穏やかな笑み。
「お前の夢なら頼んでもいいと言ってやったぞ、仕出し料理」
俺と二人で頼んでもいいし、好きな時に注文するといい。…一緒に暮らすようになったら。
「二人って?」
「店の方で駄目だと言わなかったら、二人分でも頼んでいいんだ。仕出しってヤツは」
家で作るのとは器が違うし、作る時間も要らないし…。
わざわざ店まで出掛けなくても、ちょっとしたデート気分だが?
「それ、いいかも…!」
ハーレイと二人で仕出しなんだね、お料理、二人分、届くんだね…!
まるで思いもしなかったこと。二人分だけ注文する仕出し。
いつかハーレイと暮らし始めたら、たまには仕出しを頼んでみようか。
お客さんを大勢招かなくても、ハーレイと二人でゆっくりと。お寿司や、色々な仕出し料理を。
美味しそうな広告を見付けた時には、「これがいいな」と指差したりして。
デートに出掛けて、外で食事をする代わりに…。
(いつもの部屋で、お料理だけ…)
お店の味のを食べてみる。器も、普段とは違ったもので。…お店から届けて貰ったもので。
そういう食事も、きっと素敵に違いないから、いつかは仕出しを二人分だけ。
ハーレイと二人でのんびりと食べて、懐かしい思い出話もして。
家でゆっくりデートするなら、仕出し料理も悪くない。
いつものテーブルは変わらないけれど、お店の人を気にしなくてもいいのが仕出しの良さ。
食事の途中でキスしていたって、誰も困りはしないから。
食べ終えたら直ぐにベッドに行っても、叱る人は誰もいないのだから…。
頼みたい仕出し・了
※ブルーが頼みたくなった、仕出し料理。けれど取るのは難しいかも、と思えるのが将来。
夢のまま終わりそうでしたけど、二人分だけ、注文することも出来るのです。いつか二人で。
(あ…!)
この草は駄目、とブルーが抜いた雑草。小さいのを一本。
学校から帰って、門扉を開けて入った庭。玄関までにちょっと寄り道、庭で一番大きな木の下。其処に据えてある、白いテーブルと椅子。
座るつもりは無かったけれども、寄りたい気分になったから。大好きな場所へ。
そしたら見付けた悪い草。いわゆる雑草、芝生の邪魔者。
(此処だと、ママも気が付かないよ)
白いテーブルと椅子を眺め回す内に、たまたま覗いたテーブルの下。悪い草が顔を出していた。まだ小さいから、もっと大きく育ってこないと目に付かない。
(でも、悪い草…)
育ち始めたら、アッと言う間に広がる。上へ伸びるならまだマシだけれど、横にも茎を伸ばしてゆく。伸びた茎から根を下ろしては、芝生みたいに次から次へと増える株。
そうなってから発見したって、取り除くのは難しい。土の下へと入り込んだ根が残っていたら、また新しい株が出来てくる。種が無くても根で増えるから厄介な草。
(育っちゃったら、芝生にハゲ…)
根こそぎ取るには、芝生ごと。其処の芝生は禿げてしまって、真っ黒な土が残るだけ。それでは困るし、小さな間に発見して退治するのが一番。今、やったように。
抜いた雑草を庭に捨てておいては駄目だから…。
(これで良し、っと…)
運んだ裏庭、抜いた雑草を置くための場所。もう一度根を下ろさないよう、土の代わりに大きな石。母が退治した雑草たちが干されていたから、その上に乗せた。
(ちゃんと抜いたよ、ぼくだって)
さっきの白いテーブルと椅子は、ハーレイと初めてのデートをした場所。最初の間はハーレイが持って来てくれた、キャンプ用の椅子とテーブルで。
今ではすっかりお気に入りだし、父が買ってくれたのが白いテーブルと椅子。
その大切な場所に生えた雑草、「手入れが出来た」と大満足。悪い雑草はもう抜いたから。
家に入って、制服を脱いで。ダイニングでおやつを食べる間に、眺めた庭。ガラス窓の向こう、さっきのテーブルと椅子だって見える。庭で一番大きな木の下、大好きな場所。
(テーブルも椅子も、ママ任せだけど…)
拭いてやったりもしないけれども、今日は自分で手入れが出来た。雑草が大きく育たない内に、芝生にハゲが出来てしまう前に。
(ぼくだって、ちゃんと出来るんだから…)
気が付いたならば、雑草を抜くことくらい。小さな間に見付けてしまえば、かからない手間。
テーブルと椅子も、置いてある場所が外でなければ、自分で手入れしていただろう。専用の布をギュッと絞って、せっせと磨いて、乾拭きだって。
(あのテーブルと椅子が来たのは、夏になる前で…)
初夏だったから、じきに夏。暑い日も増えて来ていた頃だし、父や母がやっていた手入れ。ただ拭くだけのことにしたって、身体の弱い一人息子に外での作業は酷だから、と。
(それに、夏休みはハーレイが来てて…)
柔道部などの用事が無い日は、午前中から訪ねて来てくれていた。そういう時には、外でお茶。朝の涼しさが残る時間を庭で過ごして、白いテーブルと椅子が大活躍。
暑くなって来たら家に入って、夜までハーレイと部屋でのんびり。その間に母が手入れしていたテーブルと椅子。日盛りを避けて、上手い具合に木陰が出来る頃合いに。
(ぼくがやってる時間は無くて…)
夕方までには済んでいた手入れ。夜の間に雨が降ったら、朝一番に父や母が綺麗に拭いたもの。
そんな具合で自分の出番は全く無いまま、過ぎてしまった夏休み。
(ハーレイが家に来ない日だったら、ぼくにも時間はあったけど…)
夏休みだけに、太陽が昇れば気温が上がる。朝食を食べている間にも。木陰でお茶なら、涼しく過ごせる時間にしたって、テーブルと椅子を拭くとなったら、やっぱり暑い。
それではとても無理だから、と母が手入れをし続けてくれて、今も手入れの係は母。
任せっ放しにしている以上は、たまには下の雑草くらい…。
(抜かなくっちゃね?)
気が付いた時は、今日みたいに。
母に手間をかけさせてしまわないよう、芝生にハゲが出来ないように。
頑張ったよね、と帰った二階の自分の部屋。空になったお皿やカップを母に渡して。
たった雑草一本だけれど、抜いてデートの場所を守った。自分の力で、きちんと退治。
(雑草、大きくなったら大変…)
どんな雑草でも、育ってしまうと抜くのも大変。手では抜けない雑草もある。根が深すぎたり、根の力がとても強すぎたりと。
そういう雑草を引っこ抜いても、土の中に根が残っていたら…。
(今日みたいな草だと、また生えて来るし…)
ウッカリ見落としたままになったら、種でも増えてしまう雑草。知らない間に咲かせている花、目立たないから分からない。種が膨らみ始めても。
気付いた頃には、種が飛び散ってしまった後。あちこちに飛んだら新しいのが生えて来るから、抜く手間も増える。種の数だけ増える雑草。それでは、とても厄介だから…。
(小さい間に…)
抜いてしまうのが一番なんだよ、と思ったはずみに掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたこと。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃。
(……小さい間……)
まさにそれだ、とドキリとした。あの時代のミュウという種族。
前の自分が生きた時代は、今とは全く違ったもの。機械が統治していた時代で、生きられたのは人類だけ。機械は人類しか認めなかったし、ミュウは異分子だったから。
(ミュウの因子を持っていた子は…)
大きくなれずに、子供の間に抹殺された。さっき退治した雑草のように、小さい間に。
白いシャングリラが救えなかった子たちは、全て。一人残らず、子供の間にミュウは根絶やし。
成人検査を受けるより前に、大抵の子は発見された。養父母や教師が「変だ」と気付いて、通報されて。そうはならずに育った子供も、成人検査は逃れられなくて…。
(バレてしまって、それでおしまい…)
救出するのが遅れた時には、殺されてしまった子供たち。
他の星でも、皆、殺された。ミュウに生まれたというだけで。ミュウ因子を持っていただけで。
成人検査をパスした子供はいなかった。機械は思念波でコンタクトするし、ミュウなら反応してしまうから。人類の子ならば無反応な箇所で現れるらしい、ミュウならではの答えや思考。
それでミュウだと発覚するから、逃れることは不可能だった。何処の星でも。
(シロエとマツカ…)
今も知られる二人だけしか、確認されたケースは無い。成人検査を無事に通過し、次の段階へと進めたミュウ。養父母と暮らした育英都市から、大人社会への入口になる教育ステーションへ。
(シロエの方は、計算ずくで…)
マザー・イライザが選んだ子供。機械が無から作ったキースを教育するため、ミュウのシロエを選び出した。キースと競わせ、反発させて、最後はキースに殺させるために。
シロエはそういう子供なのだし、マツカだけが偶然パスした子供。きっとマツカは、幸運な子供だったのだろう。引っ込み思案だったというから、ミュウならば見せる反応さえも…。
(見せなかったか、見せても機械が気付かない程度で…)
そのまま成人検査をパスした。「この子はミュウではないようだ」と判断されて。
けれど、シロエとマツカを除いた、あの時代のミュウの子供は全員…。
(殺されちゃった…)
小さい間に、雑草のように。宇宙にミュウが増えないようにと、子供の間に。
大きくなったら厄介だからと、発見されたら直ぐに殺された。さっき退治した雑草のようだったミュウの扱い。「小さい間に」と処分されたミュウ。「大きくなると厄介だ」と。
そうやって消されたミュウの子供たち。彼らが全員、小さい間に殺されたのは…。
(ぼくたちのせいなの…?)
もしかしたら、と恐ろしい符号に気が付いた。機械がミュウを子供の間に殺した理由。
前の自分たちは、アルタミラからの脱出組。人類が星ごと滅ぼした筈の、アルタミラのミュウの生き残りだった。メギドの炎に焼かれはしないで、船で脱出できたミュウ。
元は人類のものだった船で、宇宙を放浪していた間は、誰も気付かなかったけれども…。
(アルテメシアに着いた後には…)
白い鯨に改造した船、それで雲海に潜んだ星。人類が暮らす都市があるなら、きっと何かと便利だろうと。自給自足で全てを賄える船といえども、万一の時には人類の物資が役に立つから。
此処にしよう、と雲の海の中に隠れ住んだら、外から聞こえて来た悲鳴。
あの星にあった二つの育英都市でも、ミュウの子供を殺していたから。
(悲鳴、放っておけやしなくて…)
飛び出して行って、助けた子供。それが最初で、後には専門の救助班まで出来ていた。ミュウの子供を救い出すのを、仕事にしていた仲間たち。必要だったら、育英都市にも潜入して。
シャングリラの存在は知られていなかったけれど、上層部は知っていたソルジャー・ブルー。
それが誰なのか、何処から来たか。ミュウの長だと名乗っているのは、何者なのか。
(アルタミラで滅ぼし損なったから…)
厄介なものが現れた、と上層部の者たちは思った筈。彼らを統治していた機械も。
だから余計に、必死に殺していたのだろうか。ミュウの子たちを。
第二、第三のソルジャー・ブルーが出ないようにと。ミュウが纏まり、新たな組織を立ち上げて歯向かわないように。
(ぼくが名乗っていなかったら…)
あそこまで酷くはならなかったろうか、と思ってしまう。
小さい間に殺してしまえ、と機械が命じたミュウの子供たち。ミュウだと判断したら、その場で銃で撃ち殺していたのが常。周りに他の子供がいたなら、他の場所へと連れ出して。
大人を疑うことも知らない、幼い子まで殺された。よちよち歩きの幼児でさえも。
彼らが育つと厄介だから。大きくなったら、ソルジャー・ブルーのようになりかねないから。
前の自分が名乗らなかったら、子供たちは殺されなかったろうか。ソルジャー・ブルーと名乗る厄介なミュウが、アルテメシアの何処かに住み着かなかったら。
(ぼくのせいなの…?)
雑草のように抜かれたミュウたち。小さい間に命を断たれた、大勢のミュウの子供たち。
アルテメシアでも、他の星でも、ミュウを殺すなら子供の間に。
人類が、機械が其処まで徹底したのは、前の自分のせいだったろうか?
ミュウの子供を生かしておいたら、ソルジャー・ブルーが出来上がることを、彼らは身をもって学んだから。…アルタミラで殺し損ねたばかりに、アルテメシアに住み着かれたから。
(ソルジャー・ブルーって名乗る代わりに、他の名前を名乗るとか…)
でなければ、名前を口にしないとか。何処から来たのか、何者なのかが分からないように。
そうしていたら、と考えたけれど、きっと姿でバレただろう。
アルビノのミュウは、ただ一人だけ。タイプ・ブルーだったミュウも、前の自分だけ。
テラズ・ナンバー・ファイブがデータを照会したなら、答えは直ぐに弾き出される。アルタミラから逃れたミュウだと、それが育って戻って来たと。
(…物凄く厄介なミュウだよね、ぼく…?)
アルタミラでは、心も身体も成長を止めて、檻の中に蹲っていた子供だったのに。どんなに酷い実験をしても、逆らいさえもしなかったのに。
けれど、育ったらソルジャーになった。ミュウの子供を救うためなら、戦いも厭わない戦士。
まさかソルジャーに育つなどとは、誰も思っていなかったろう。実験をしていた研究者たちも、アルタミラごとミュウを滅ぼそうとしたグランド・マザーも。
(あそこにいた頃は、小さい雑草…)
その気になったら殺せた筈。いともたやすく、息の根を止めて。
過酷な人体実験の後に、治療しないで放っておいたら、間違いなく死んでいたのだから。
そうする代わりに生かしておいたら、アルタミラから逃げられた。逃げたばかりか、サイオンを自由自在に操るソルジャーになって戻って来た。
まるで逞しい雑草のように。抜かないままで放っておいたら、芝生にハゲが出来る雑草。とても厄介で困る存在、大きく育ってしまったら。
前の自分はそれだろうか、と恐ろしい考えに囚われる。人類が、機械が、ミュウの子供を小さい間に処分したのは、ソルジャー・ブルーの存在で懲りていたからか、と。
(前のぼくが出て行かなかったら…)
けして姿を現すことなく、雲の海の中に隠れていたら。正体を把握されなかったら…。
ミュウの子たちは生き延びたろうか、徹底的に殺されずに。ただ「怪しい」というだけならば、直ぐに処分しないで、暫く様子見。
(そういう風にしてくれていたら…)
マツカのように、成人検査をパスするケースも増えただろう。成人検査を受ける年まで、生きる子供が多ければ。小さい間に処分されずに、成人検査を受けられたなら。
けれども、そうはいかなかった世界。ミュウの子供は小さい間に消され続けて、その原因は前の自分にあるかもしれない。育ってしまうと厄介なことを、人類に知らせたのだから。
(ぼくが出たのは失敗だった…?)
ミュウが育つと何が起こるか、人類が知らないままだったなら。ソルジャー・ブルーがいるとは知らずに生きていたなら、ミュウの子たちは生き延びたろうか。マツカのように。
そうなったかも、と前の自分のやり方のことで悩んでいたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。前のぼく、出たら駄目だった…?」
「はあ? 出たら駄目って…。何処からだ?」
何の話だ、青の間のことか?
あそこから出ずに何をするんだ、と返った見当違いな答え。だから急いで言い直した。
「青の間じゃなくて、シャングリラだよ。飛び出して行ってた、ミュウの子供の救出…」
あれでバレたよ、前のぼくが生きていたことが。…アルタミラで死んでいなかったことが。
ミュウの子供たち、そのせいで余計に殺されちゃった?
前のぼくが死なずに生きていたのが、人類と機械にバレちゃったから…。
「おいおい、いきなり何の話だ?」
何処からそういう話になるんだ、前のお前が姿を見せたら、ミュウの子供が殺されるなんて。
「えっとね、雑草…」
庭とかに雑草が生えて来るでしょ、あれとおんなじ…。
今日、小さいのを抜いたんだよ、と説明した。庭のテーブルの下に生えた雑草のこと。
小さい間に抜くべき雑草。増えて厄介になる前に。大きく育って、抜いたら芝生にハゲが出来てしまう結果になる前に。
「ミュウもね、それとおんなじかな、って…」
子供の間に処分しておいたら、厄介なことにならないから。…どうせ雑草なんだから。
生やしておいても困るだけの草で、抜いたり刈ったりするのが雑草。
「そりゃまあ、なあ…? 今でこそミュウの時代だが…。人間はみんなミュウなんだが…」
SD体制の時代からすりゃ、雑草だろう。進化の必然だったことさえ、隠し続けてたんだしな。
存在自体が許せないなら、雑草と同じ扱いだよな、とハーレイも頷く雑草扱い。
「それじゃ、やっぱり前のぼくのせいで…」
小さい間に殺されちゃったんだ、ミュウの子供たち…。本物の雑草をそうするみたいに。
雑草は小さい間に抜かなきゃ、うんと面倒なことになるから。
「ミュウが雑草扱いだったことは、俺も納得出来るんだが…。そいつは理解出来るんだが…」
どうしてお前のせいになるんだ、雑草と同じ扱いなこと。
前のお前はミュウの子供を助けてただけで、他には何もしちゃいないがな…?
ジョミーを助けた時はともかく、とハーレイは怪訝そうな顔。「何かやったか?」と。
「さっきも言ったよ、ぼくが出て行ったことが問題…」
アルタミラの檻で生きていた頃は、ぼくは何にもしていないから…。何をされても。
だけど、生き延びて大きくなったら、ソルジャー・ブルーになっちゃった。ミュウの子供たちを助けに出て来て、テラズ・ナンバー・ファイブを相手に戦ったりもするミュウに。
あれで人類とグランド・マザーに、大きくなると厄介なんだ、って知らせちゃった。
他にも仲間はいるんだろうし、増えると厄介になることもね。
そうなるんだ、って気が付いたから、ミュウの子供は小さい間に端から殺していたのかも…。
前のぼくみたいに、厄介なミュウが出て来ないように。
「ふむ…。確かにそうかもしれないが…」
お前の正体に気付いちまったら、雑草並みだとゾッとしたかもしれないが…。
そのことと、ミュウの子供を小さい間に殺したこととは、繋がっていないと思うがな…?
関係があるように思っちまうのは無理もないが…、とハーレイは肯定しなかった。雑草のような扱いだったことについては、直ぐに認めていたというのに。
「お前が言いたいことは分かるが、俺には違うように思える。…同じ時代を生きたんだがな」
前の俺たちが、アルテメシアに辿り着いた時のことを考えてみろ。
ミュウの子供たちは既に殺されていたぞ、ほんの小さな子供の頃に。
お前、悲鳴で船を飛び出して行ったんだから。…殺されそうな子供の思念を感じ取って。
「それでバレたんだよ、ぼくが生きていたことが」
アルタミラで星ごと滅ぼされずに、アルテメシアまでやって来たこと。逃げ延びたんだ、って。
雑草を退治し損ねたことが、人類と機械にバレちゃった…。厄介なミュウに育ったことも。
アルタミラの檻にいた頃は無害だったのに…、と顔を曇らせた。実際、無害だったから。
「それはそうだが、殺されかかった子供たちの方が先だろう?」
お前が来るなんて考えもせずに、「殺せ」と命令してたんだ。…違うのか?
俺たちがアルテメシアに着くよりも前から、もう殺してた。小さい間に。
お前の存在とはまるで関係なく、ミュウは雑草なんだから、とな。
元々、ヤツらは排除するつもりだったんだ。…ミュウという名の雑草を全部、宇宙から。
アルタミラでメギドを使ったみたいに、消せるものなら星ごと殲滅したかったろうな。
「そうなのかな…?」
前のぼくが姿を見せなくっても、人類はミュウを殺したのかな、小さい間に…?
大きくなったら厄介だとか、そういう根拠が何も無くても…?
「雑草なんだし、邪魔だと思えば小さい頃から邪魔だろう。育っても邪魔なだけなんだから」
どんなに立派に育ったとしても、庭や花壇のためにはならん。どう転んでも、雑草だしな。
前のお前が現れたせいで、酷くなったということはないさ。…ミュウは処分だという方針。
そいつを言うなら、前のお前というよりは…。ナスカから後の俺たちだな。
「え…?」
どういう意味、と目を瞬かせた。前の自分が生きていたことが知れたら、ミュウの処分に拍車がかかりそうだけれども、ハーレイたちなら、それほどの害は無かった筈。…船はともかく。
「ジョミーだ、あいつが問題だった」
それまで追われていただけのミュウが、アルテメシアを落としたモンだから…。
前のお前どころの騒ぎじゃなかった、ミュウがどれほど危険なのかを人類は思い知ったんだ。
燃えるナスカから、命からがら逃げ出したミュウ。大勢の仲間と、先の指導者を喪って。
彼らには船しか残っていないし、人類は高を括っていた。滅びるのは時間の問題だろうと、白い鯨を発見したなら沈めればいいと。
けれどシャングリラは、それから間もなく再び姿を現した。…人類に追われる種族ではなくて、侵略者を乗せた船として。人類が暮らす星への侵攻、ただそれだけを目的として。
ミュウに襲われたアルテメシアは、僅かな時間で陥落した。テラズ・ナンバー・ファイブだけは破壊を免れたものの、途絶えた通信。マザー・システムから切り離されて。
もはや人類には手も足も出せず、アルテメシアはミュウの手に落ちた。その直前まで、ミュウの子供を殺していたのに。ミュウは忌むべき雑草だったし、抜いて捨てれば良かったのに。
「…あれで慌てたのが人類だ。ミュウはとんでもない化け物だった、と」
それまでは口で「化け物」と呼んでいただけで、「気味が悪い」と嫌っていれば良かったが…。
もう、それだけでは済まなくなった。本物の化け物なんだから。
人類に牙を剥いたんだからな…、とハーレイは軽く両手を広げた。「化け物だろうが」と。
その化け物の力に驚き、大慌てでミュウの処分を始めたのが人類。
処分しないで生かしておいた実験体でも、片っ端から。
「…処分って…。どうせ殺すんだろうけど…」
実験体なら、役目が済んだら直ぐに殺すだろうけれど…。でも…。
そうする前に殺したわけ、と見開いた瞳。アルテメシアでのミュウの勢いに恐れをなして、と。
「人類から見りゃ、どれも化け物なんだから…。処分したくもなるだろう?」
必要な数だけを残して、他は殺しちまった。生かしておくとロクなことはない、と。
サイオンを無効化するための装置、アンチ・サイオン・デバイススーツ。あれの開発にミュウは欠かせないから、幾らかは残しておいたようだが…。
開発していた場所はノアだし、その近辺にだけミュウを残せばいいわけだから…。
前の俺たちが落とした星で見付けた、ミュウの収容施設はだな…。
何処も空っぽか、僅かな人数が残っていただけ。星を落としたら、急いで救助に向かったのに。
生き残った者たちは運が良かったのだという。
処分命令を受けた人類、彼らが自分の命の方を優先して逃亡した結果。ミュウの処分をしているような暇があったら、他の星へ逃れた方がいいと。…少しでもノアに近い所へ、と。
「そうだったんだ…。コルディッツのことは知っていたけど…」
ジョミーのお父さんとお母さんが、子供と一緒に行ってしまった収容所。
あれも酷いと思ったけれども、人質だったら生かしておかなきゃいけないから…。
マシだったんだね、コルディッツは。…それまでにミュウを処分しちゃった施設よりかは。
「酷いもんだろ、人類ってヤツは」
ミュウは危険だと知った途端に、その始末だ。そうする前には、散々いたぶったくせに。
前の俺たちがいたのと変わらない檻で、餌と水だけを突っ込んで飼っていたのにな?
どうせ雑草で、人類よりも遥かに劣る生き物なんだ、と実験動物扱いで。
それをいきなり処分なんだぞ、危険だからと。
…誰も、何もしちゃいなかったのに。檻の中で飼われていただけなのに。
その引き金を引いちまったのが俺たちだ。…お前じゃない。
ミュウを端から殺しちまえ、と命令させる切っ掛けを作ったのはジョミーだったんだ。
前のお前は悪くないさ、と言われたけれども、ジョミーの方も悪くない。アルテメシアは最初に落とすべき星で、別の星を陥落させていたって、結果は同じだっただろうから。
「…酷い結果になっちゃったけれど、それは人類がしたことだから…」
ジョミーは何処も悪くなんかないよ、必要なことをやっただけ。…地球に行くために。
殺されちゃった仲間たちには悪いけれども、そうしないともっと殺されるから…。
いつまで経ってもミュウは殺されるだけで、生き残れる道が開けてくれないんだから…。
そうでしょ、ジョミーが戦う道を選ばなければ、ミュウは生きられなかったんだよ。
SD体制を倒さない限りはね…、とジョミーの澄んだ瞳を思った。
あの明るかった瞳の少年、地球を目指したジョミーの瞳は氷のように冷たかったという。優しい心を殺さなければ、戦うことは出来なかったから。
凍てた瞳をしていたジョミーも、心の底ではきっと悲しんでいたのだろう。自分が始めた戦いのせいで、処分されたミュウの仲間たち。罪も無いのに殺されていった、多くの仲間たちの死を。
ジョミーは悪くなんかなかった、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。きっと仲間たちも分かってくれると、分かってくれたに違いないと。
「殺される時は、悔しくて悲しかっただろうけれど…。でも…」
ちゃんと分かってくれたと思うよ、みんなミュウだったんだから。…ミュウのためだ、って。
自分みたいなミュウが殺される世界を終わらせるには、それも必要だったんだ、って…。
「ジョミーが許して貰えるんなら、前のお前もだろ」
前のお前も、人類には脅威だったかもしれん。…ジョミーほどではなかったとしても。
ミュウは端から殺しちまえ、と思わせるのには充分だったかもしれないが…。
お前だって必要なことをしたんだ、ミュウの子供を沢山助けて。
ジョミーもお前が見付けたわけだろ、そして船まで連れて来させた。逃げられた後も、きちんと後を追い掛けて行って連れ戻したし…。命懸けでな。
そしてだ、お前やジョミーが頑張ったお蔭で、ミュウは立派に生き残った。
なにしろ雑草だったからなあ、前の俺たちは。
「雑草だから?」
ミュウが生き延びられた理由は、雑草だったからだって言うの?
ジョミーが頑張ってくれたことは分かるけれども、雑草っていうのは何なの、ハーレイ…?
「そのままの意味だな、雑草ってヤツは逞しいんだ」
お前、自分で言ったじゃないか。…俺が来た時に、雑草の話。
庭に生えてたのを退治したんだろ、小さい間に抜いておかないと、と。
残しちまうと厄介だしなあ、雑草は。
ほんの少しの根っこからでも、新しい株が出来たりするし…。
うっかり種でも出来ちまったら、とんでもない数の雑草が生えて来るんだから。
その厄介な雑草だったから、ミュウは生き延びられたんだ、と笑うハーレイ。
虚弱な種族のように見えても逞しかった、と。「潜在的には、きっと雑草並みだったよな」と。
「俺たちの代だと、頑丈なミュウは俺くらいしかいなかったが…」
ジョミーの代でも、ジョミーの他には健康なミュウはいなかったんだが…。
トォニィたちは健康だったし、あの辺りから変わり始めていたんだな。雑草並みの生命力に。
元から強い種族でなければ、そう簡単には変わらんぞ?
誰も気付いていなかっただけで、本来のミュウは、きっと頑丈だったんだろう。そうでなければ進化と呼べんし、弱い種族じゃ退化だろうが。…弱って消えたら話にならん。
今じゃ虚弱なミュウってイメージ、もう無いだろう?
かつての人類と何処も変わりはしないぞ、寿命が長くなったってだけで。
「うん…。ハーレイみたいに頑丈な人も多いよね」
プロのスポーツ選手じゃなくても、うんと丈夫な人が沢山…。ジョギングが趣味の人だとか。
前のぼくが生きてた時代だったら、ジョギングなんてハーレイかジョミーしか無理…。
他の仲間だと倒れちゃう、とシャングリラの顔ぶれを思い浮かべた。前のハーレイが後継者にと考えていた、シドでもジョギングは無理だったろう。体力はある方のミュウだったけれど。
「ほら見ろ、そいつがミュウが逞しく生き抜いた結果だ」
すっかり丈夫になってしまって、身体が弱い人間の方が珍しい。お前は今も弱いままだが…。
逞しいミュウは人類の代わりに広い宇宙を覆い尽くして、地球にもしっかり根付いてる。
前の俺たちが生きた頃には、死の星だった筈の青い地球にな。
これだけ宇宙にはびこってるなら、もう間違いなく雑草だ、とハーレイは可笑しそうだから。
「雑草なの、今のぼくたちも?」
前のぼくたちは嫌われる雑草だったけれども、今もやっぱり雑草のまま…?
「お前は綺麗な花を咲かせる筈なんだが…。前のお前とそっくり同じに、それは綺麗に」
しかし、そういう雑草だってあるからな。やたらと綺麗な花が咲くヤツ。
今も雑草ってことでいいと思うぞ、雑草はとても強いんだから。
ミュウという雑草が逞しく宇宙を征服したんだな、というのがハーレイの例え。
人類が嫌って、せっせと抜いては捨てた雑草、それが今では宇宙の主役になっちまった、と。
「きっと捨て方が悪かったんだな、今日のお前はきちんと捨てに出掛けたようだが…」
もう一度根っこを下ろさないよう、土なんかが無い捨て場所まで。
人類もそうして努力してれば、いくら雑草でも根絶やしに出来ていたかもしれないが…。
生憎と失敗しちまったってな、一番最初に捨てる所で。
アルタミラで星ごと焼いたつもりが、前のお前に逃げられちまった。…前の俺もだが。
あそこで捨て損なったばかりに、根っこが残って、其処からジョミーが出ちまったんだ。根から直接出たわけじゃないが、前のお前が残っていなけりゃ、ジョミーも殺されたんだしな?
それを考えると、捨て方ってヤツは大切だ。抜いた雑草の処分の仕方。
其処を間違えたら、こんな具合に、雑草に征服されちまう、とハーレイが指差す窓の外。
「もう人類は何処にもいないぞ」と、「地球も宇宙も、今や雑草だらけだから」と。
「雑草だらけって…。ミュウは宇宙を征服したわけ?」
人類とは和解した筈だけど…。トォニィの代に、ちゃんと文書も交わして。
征服したって感じはしないし、人類とミュウは自然に混じって、人類の方が消えたんだけど…。
ミュウは進化の必然だったから、人類もミュウに進化しちゃって。
「しかしだ、雑草という考え方でいったら、そうなるだろうが」
最初の間は抜かれてたミュウが、逞しく根を下ろしたわけで…。花壇の花の間にな。
でなきゃ芝生だ、そういう所に残った根っこが始まりだった。
気付けばすっかり雑草だらけで、元の花壇も芝生も残っちゃいないってな。もう雑草しか生えていなくて、雑草たちの天国だ。花壇も芝生も征服したんだ、雑草が。
「そうなのかも…」
雑草だらけの庭は困るけど、ハーレイの例えがピッタリかも…。
ミュウは雑草だったんだものね、小さい間に抜いて捨てられちゃってた雑草。
こんな草なんか邪魔だから、って引っこ抜かれて、生きる場所さえ貰えなくって…。
人類がせっせと捨てていたのに、ついに根絶出来なかった雑草、それがミュウ。
ひ弱な種族だったけれども、実は逞しかったから。進化の必然だった種族で、潜在的には雑草と同じくらいの生命力を秘めていたものだから…。
(雑草、宇宙にはびこっちゃって…)
今ではすっかりミュウの時代。何処を探しても、人類はもう見付からない。
そういう時代を迎えたのならば、その雑草が小さい間に人類が抜こうとしていたことも…。
(前のぼくのせいじゃないよね、きっと…?)
子供の間にミュウが殺されていったこと。
成人検査を迎える年まで、疑わしい例は生かしておいてくれたら、生存率が上がったろうに。
それをしないで、ミュウを端から殺した人類。機械が「殺せ」と命じるままに。
よちよち歩きの子供でさえも、彼らは容赦しなかった。ミュウの片鱗を見せたなら。
それは自分のせいだったのかも、と恐ろしい考えに囚われたけれど。
前の自分が生き延びたことが、引き金になったのかもしれない、と怖かったけれど…。
(雑草だったら、小さい間に抜いちゃわないと…)
後で大変なことになる。抜いたら芝生にハゲが出来るとか、種を飛ばされて雑草だらけとか。
ミュウはそういう種族なのだ、と機械には最初から分かっていた筈。
進化の必然だったことを隠して、せっせと殺していたのだから。ミュウ因子の排除は不可能だと承知していた上で。排除するためのプログラムは存在しなくて、それでも殲滅しようとした。
雑草だからと、逞しすぎる雑草は小さい間に抜いておかねばと。
大きくなったら厄介なのだし、子供の間に処分する。…それも出来るだけ小さい内に。
雑草を根絶しようとするなら、そうすることが鉄則だから。
(…前のぼくが逃げて生きていることを、知らなくっても…)
機械はミュウを殺しただろう。小さい間に、子供の内に。ミュウは雑草なのだから。
良かった、とホッとした心。前の自分が姿を現したせいで、殺されたわけではなかったミュウ。小さい間に処分したのは、その方法が正しかったから。雑草を退治するならば。
(ハーレイのお蔭…)
前のお前のせいじゃない、とハーレイは言ってくれたから。
慰めの言葉をかけるのではなくて、納得のゆく説明もして貰えたから…。
「ありがとう、ハーレイ。…ハーレイのお蔭」
もう怖くない、と御礼にピョコンと頭を下げたら、ハーレイは不思議そうな顔。
「ありがとうって…。俺が何かしたか?」
お前と話をしていただけでだ、礼を言われるようなことなんか、何もしていないがな…?
「雑草のこと…。ミュウの子供たちが、小さい間に殺されてしまっていたことだよ」
前のぼくのせいじゃなかったんなら、安心だから…。
ぼくの正体がバレちゃったせいで、小さい間に殺さなくちゃ、と決めたわけではなかったら…。
「そいつは俺が保証してやる、違うとな」
ジョミーと一緒に地球まで行った俺の言葉だ、信じておけ。…俺は最後まで見たんだから。
キースの野郎がスウェナに託したメッセージだって、前の俺は全部見てたってな。
だが、雑草か…。今も昔も、ミュウって種族は逞しく生きる雑草らしい。
前のお前は、とびきり綺麗な花を咲かせる雑草だったが…。
お前はチビだし、花はまだだな。
蕾もついちゃいないようだ、とハーレイが顔を覗き込むから。
「じきに花が咲くよ、前と同じに」
ハーレイだって早く見たいでしょ、蕾が出来て花が咲くのを…?
「駄目だな、お前はゆっくり咲くんだ。楽しみに待っていてやるから」
前のお前の分まで充分、子供時代を楽しむんだな。今のお前は幸せなんだし、のんびりと。
急いで花を咲かせなくてもいいんだから、とハーレイがパチンと瞑った片目。「急ぐなよ」と。
それがハーレイの注文なのだし、急がずにゆっくり育ってゆこう。
今の自分も前と同じに雑草だけれど、のんびりと。
前と違って、引っこ抜かれはしないから。
急いで育って広がらなくても、誰も抜きには来ないから。
今は地球まで、ミュウという名の雑草が生えて覆い尽くしている時代。
テーブルの陰に隠れてこっそり育たなくても、堂々と生えて育ってゆける。
前と同じにミュウのままでも。人間がみんなミュウになったら、雑草が主役なのだから…。
雑草のように・了
※SD体制の時代のミュウは雑草のよう、と思ったブルー。抜かれて処分されてゆくだけ。
けれど雑草だったからこそ逞しく生きて、今の時代があるのです。宇宙という庭に広がって。
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この草は駄目、とブルーが抜いた雑草。小さいのを一本。
学校から帰って、門扉を開けて入った庭。玄関までにちょっと寄り道、庭で一番大きな木の下。其処に据えてある、白いテーブルと椅子。
座るつもりは無かったけれども、寄りたい気分になったから。大好きな場所へ。
そしたら見付けた悪い草。いわゆる雑草、芝生の邪魔者。
(此処だと、ママも気が付かないよ)
白いテーブルと椅子を眺め回す内に、たまたま覗いたテーブルの下。悪い草が顔を出していた。まだ小さいから、もっと大きく育ってこないと目に付かない。
(でも、悪い草…)
育ち始めたら、アッと言う間に広がる。上へ伸びるならまだマシだけれど、横にも茎を伸ばしてゆく。伸びた茎から根を下ろしては、芝生みたいに次から次へと増える株。
そうなってから発見したって、取り除くのは難しい。土の下へと入り込んだ根が残っていたら、また新しい株が出来てくる。種が無くても根で増えるから厄介な草。
(育っちゃったら、芝生にハゲ…)
根こそぎ取るには、芝生ごと。其処の芝生は禿げてしまって、真っ黒な土が残るだけ。それでは困るし、小さな間に発見して退治するのが一番。今、やったように。
抜いた雑草を庭に捨てておいては駄目だから…。
(これで良し、っと…)
運んだ裏庭、抜いた雑草を置くための場所。もう一度根を下ろさないよう、土の代わりに大きな石。母が退治した雑草たちが干されていたから、その上に乗せた。
(ちゃんと抜いたよ、ぼくだって)
さっきの白いテーブルと椅子は、ハーレイと初めてのデートをした場所。最初の間はハーレイが持って来てくれた、キャンプ用の椅子とテーブルで。
今ではすっかりお気に入りだし、父が買ってくれたのが白いテーブルと椅子。
その大切な場所に生えた雑草、「手入れが出来た」と大満足。悪い雑草はもう抜いたから。
家に入って、制服を脱いで。ダイニングでおやつを食べる間に、眺めた庭。ガラス窓の向こう、さっきのテーブルと椅子だって見える。庭で一番大きな木の下、大好きな場所。
(テーブルも椅子も、ママ任せだけど…)
拭いてやったりもしないけれども、今日は自分で手入れが出来た。雑草が大きく育たない内に、芝生にハゲが出来てしまう前に。
(ぼくだって、ちゃんと出来るんだから…)
気が付いたならば、雑草を抜くことくらい。小さな間に見付けてしまえば、かからない手間。
テーブルと椅子も、置いてある場所が外でなければ、自分で手入れしていただろう。専用の布をギュッと絞って、せっせと磨いて、乾拭きだって。
(あのテーブルと椅子が来たのは、夏になる前で…)
初夏だったから、じきに夏。暑い日も増えて来ていた頃だし、父や母がやっていた手入れ。ただ拭くだけのことにしたって、身体の弱い一人息子に外での作業は酷だから、と。
(それに、夏休みはハーレイが来てて…)
柔道部などの用事が無い日は、午前中から訪ねて来てくれていた。そういう時には、外でお茶。朝の涼しさが残る時間を庭で過ごして、白いテーブルと椅子が大活躍。
暑くなって来たら家に入って、夜までハーレイと部屋でのんびり。その間に母が手入れしていたテーブルと椅子。日盛りを避けて、上手い具合に木陰が出来る頃合いに。
(ぼくがやってる時間は無くて…)
夕方までには済んでいた手入れ。夜の間に雨が降ったら、朝一番に父や母が綺麗に拭いたもの。
そんな具合で自分の出番は全く無いまま、過ぎてしまった夏休み。
(ハーレイが家に来ない日だったら、ぼくにも時間はあったけど…)
夏休みだけに、太陽が昇れば気温が上がる。朝食を食べている間にも。木陰でお茶なら、涼しく過ごせる時間にしたって、テーブルと椅子を拭くとなったら、やっぱり暑い。
それではとても無理だから、と母が手入れをし続けてくれて、今も手入れの係は母。
任せっ放しにしている以上は、たまには下の雑草くらい…。
(抜かなくっちゃね?)
気が付いた時は、今日みたいに。
母に手間をかけさせてしまわないよう、芝生にハゲが出来ないように。
頑張ったよね、と帰った二階の自分の部屋。空になったお皿やカップを母に渡して。
たった雑草一本だけれど、抜いてデートの場所を守った。自分の力で、きちんと退治。
(雑草、大きくなったら大変…)
どんな雑草でも、育ってしまうと抜くのも大変。手では抜けない雑草もある。根が深すぎたり、根の力がとても強すぎたりと。
そういう雑草を引っこ抜いても、土の中に根が残っていたら…。
(今日みたいな草だと、また生えて来るし…)
ウッカリ見落としたままになったら、種でも増えてしまう雑草。知らない間に咲かせている花、目立たないから分からない。種が膨らみ始めても。
気付いた頃には、種が飛び散ってしまった後。あちこちに飛んだら新しいのが生えて来るから、抜く手間も増える。種の数だけ増える雑草。それでは、とても厄介だから…。
(小さい間に…)
抜いてしまうのが一番なんだよ、と思ったはずみに掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたこと。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃。
(……小さい間……)
まさにそれだ、とドキリとした。あの時代のミュウという種族。
前の自分が生きた時代は、今とは全く違ったもの。機械が統治していた時代で、生きられたのは人類だけ。機械は人類しか認めなかったし、ミュウは異分子だったから。
(ミュウの因子を持っていた子は…)
大きくなれずに、子供の間に抹殺された。さっき退治した雑草のように、小さい間に。
白いシャングリラが救えなかった子たちは、全て。一人残らず、子供の間にミュウは根絶やし。
成人検査を受けるより前に、大抵の子は発見された。養父母や教師が「変だ」と気付いて、通報されて。そうはならずに育った子供も、成人検査は逃れられなくて…。
(バレてしまって、それでおしまい…)
救出するのが遅れた時には、殺されてしまった子供たち。
他の星でも、皆、殺された。ミュウに生まれたというだけで。ミュウ因子を持っていただけで。
成人検査をパスした子供はいなかった。機械は思念波でコンタクトするし、ミュウなら反応してしまうから。人類の子ならば無反応な箇所で現れるらしい、ミュウならではの答えや思考。
それでミュウだと発覚するから、逃れることは不可能だった。何処の星でも。
(シロエとマツカ…)
今も知られる二人だけしか、確認されたケースは無い。成人検査を無事に通過し、次の段階へと進めたミュウ。養父母と暮らした育英都市から、大人社会への入口になる教育ステーションへ。
(シロエの方は、計算ずくで…)
マザー・イライザが選んだ子供。機械が無から作ったキースを教育するため、ミュウのシロエを選び出した。キースと競わせ、反発させて、最後はキースに殺させるために。
シロエはそういう子供なのだし、マツカだけが偶然パスした子供。きっとマツカは、幸運な子供だったのだろう。引っ込み思案だったというから、ミュウならば見せる反応さえも…。
(見せなかったか、見せても機械が気付かない程度で…)
そのまま成人検査をパスした。「この子はミュウではないようだ」と判断されて。
けれど、シロエとマツカを除いた、あの時代のミュウの子供は全員…。
(殺されちゃった…)
小さい間に、雑草のように。宇宙にミュウが増えないようにと、子供の間に。
大きくなったら厄介だからと、発見されたら直ぐに殺された。さっき退治した雑草のようだったミュウの扱い。「小さい間に」と処分されたミュウ。「大きくなると厄介だ」と。
そうやって消されたミュウの子供たち。彼らが全員、小さい間に殺されたのは…。
(ぼくたちのせいなの…?)
もしかしたら、と恐ろしい符号に気が付いた。機械がミュウを子供の間に殺した理由。
前の自分たちは、アルタミラからの脱出組。人類が星ごと滅ぼした筈の、アルタミラのミュウの生き残りだった。メギドの炎に焼かれはしないで、船で脱出できたミュウ。
元は人類のものだった船で、宇宙を放浪していた間は、誰も気付かなかったけれども…。
(アルテメシアに着いた後には…)
白い鯨に改造した船、それで雲海に潜んだ星。人類が暮らす都市があるなら、きっと何かと便利だろうと。自給自足で全てを賄える船といえども、万一の時には人類の物資が役に立つから。
此処にしよう、と雲の海の中に隠れ住んだら、外から聞こえて来た悲鳴。
あの星にあった二つの育英都市でも、ミュウの子供を殺していたから。
(悲鳴、放っておけやしなくて…)
飛び出して行って、助けた子供。それが最初で、後には専門の救助班まで出来ていた。ミュウの子供を救い出すのを、仕事にしていた仲間たち。必要だったら、育英都市にも潜入して。
シャングリラの存在は知られていなかったけれど、上層部は知っていたソルジャー・ブルー。
それが誰なのか、何処から来たか。ミュウの長だと名乗っているのは、何者なのか。
(アルタミラで滅ぼし損なったから…)
厄介なものが現れた、と上層部の者たちは思った筈。彼らを統治していた機械も。
だから余計に、必死に殺していたのだろうか。ミュウの子たちを。
第二、第三のソルジャー・ブルーが出ないようにと。ミュウが纏まり、新たな組織を立ち上げて歯向かわないように。
(ぼくが名乗っていなかったら…)
あそこまで酷くはならなかったろうか、と思ってしまう。
小さい間に殺してしまえ、と機械が命じたミュウの子供たち。ミュウだと判断したら、その場で銃で撃ち殺していたのが常。周りに他の子供がいたなら、他の場所へと連れ出して。
大人を疑うことも知らない、幼い子まで殺された。よちよち歩きの幼児でさえも。
彼らが育つと厄介だから。大きくなったら、ソルジャー・ブルーのようになりかねないから。
前の自分が名乗らなかったら、子供たちは殺されなかったろうか。ソルジャー・ブルーと名乗る厄介なミュウが、アルテメシアの何処かに住み着かなかったら。
(ぼくのせいなの…?)
雑草のように抜かれたミュウたち。小さい間に命を断たれた、大勢のミュウの子供たち。
アルテメシアでも、他の星でも、ミュウを殺すなら子供の間に。
人類が、機械が其処まで徹底したのは、前の自分のせいだったろうか?
ミュウの子供を生かしておいたら、ソルジャー・ブルーが出来上がることを、彼らは身をもって学んだから。…アルタミラで殺し損ねたばかりに、アルテメシアに住み着かれたから。
(ソルジャー・ブルーって名乗る代わりに、他の名前を名乗るとか…)
でなければ、名前を口にしないとか。何処から来たのか、何者なのかが分からないように。
そうしていたら、と考えたけれど、きっと姿でバレただろう。
アルビノのミュウは、ただ一人だけ。タイプ・ブルーだったミュウも、前の自分だけ。
テラズ・ナンバー・ファイブがデータを照会したなら、答えは直ぐに弾き出される。アルタミラから逃れたミュウだと、それが育って戻って来たと。
(…物凄く厄介なミュウだよね、ぼく…?)
アルタミラでは、心も身体も成長を止めて、檻の中に蹲っていた子供だったのに。どんなに酷い実験をしても、逆らいさえもしなかったのに。
けれど、育ったらソルジャーになった。ミュウの子供を救うためなら、戦いも厭わない戦士。
まさかソルジャーに育つなどとは、誰も思っていなかったろう。実験をしていた研究者たちも、アルタミラごとミュウを滅ぼそうとしたグランド・マザーも。
(あそこにいた頃は、小さい雑草…)
その気になったら殺せた筈。いともたやすく、息の根を止めて。
過酷な人体実験の後に、治療しないで放っておいたら、間違いなく死んでいたのだから。
そうする代わりに生かしておいたら、アルタミラから逃げられた。逃げたばかりか、サイオンを自由自在に操るソルジャーになって戻って来た。
まるで逞しい雑草のように。抜かないままで放っておいたら、芝生にハゲが出来る雑草。とても厄介で困る存在、大きく育ってしまったら。
前の自分はそれだろうか、と恐ろしい考えに囚われる。人類が、機械が、ミュウの子供を小さい間に処分したのは、ソルジャー・ブルーの存在で懲りていたからか、と。
(前のぼくが出て行かなかったら…)
けして姿を現すことなく、雲の海の中に隠れていたら。正体を把握されなかったら…。
ミュウの子たちは生き延びたろうか、徹底的に殺されずに。ただ「怪しい」というだけならば、直ぐに処分しないで、暫く様子見。
(そういう風にしてくれていたら…)
マツカのように、成人検査をパスするケースも増えただろう。成人検査を受ける年まで、生きる子供が多ければ。小さい間に処分されずに、成人検査を受けられたなら。
けれども、そうはいかなかった世界。ミュウの子供は小さい間に消され続けて、その原因は前の自分にあるかもしれない。育ってしまうと厄介なことを、人類に知らせたのだから。
(ぼくが出たのは失敗だった…?)
ミュウが育つと何が起こるか、人類が知らないままだったなら。ソルジャー・ブルーがいるとは知らずに生きていたなら、ミュウの子たちは生き延びたろうか。マツカのように。
そうなったかも、と前の自分のやり方のことで悩んでいたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。前のぼく、出たら駄目だった…?」
「はあ? 出たら駄目って…。何処からだ?」
何の話だ、青の間のことか?
あそこから出ずに何をするんだ、と返った見当違いな答え。だから急いで言い直した。
「青の間じゃなくて、シャングリラだよ。飛び出して行ってた、ミュウの子供の救出…」
あれでバレたよ、前のぼくが生きていたことが。…アルタミラで死んでいなかったことが。
ミュウの子供たち、そのせいで余計に殺されちゃった?
前のぼくが死なずに生きていたのが、人類と機械にバレちゃったから…。
「おいおい、いきなり何の話だ?」
何処からそういう話になるんだ、前のお前が姿を見せたら、ミュウの子供が殺されるなんて。
「えっとね、雑草…」
庭とかに雑草が生えて来るでしょ、あれとおんなじ…。
今日、小さいのを抜いたんだよ、と説明した。庭のテーブルの下に生えた雑草のこと。
小さい間に抜くべき雑草。増えて厄介になる前に。大きく育って、抜いたら芝生にハゲが出来てしまう結果になる前に。
「ミュウもね、それとおんなじかな、って…」
子供の間に処分しておいたら、厄介なことにならないから。…どうせ雑草なんだから。
生やしておいても困るだけの草で、抜いたり刈ったりするのが雑草。
「そりゃまあ、なあ…? 今でこそミュウの時代だが…。人間はみんなミュウなんだが…」
SD体制の時代からすりゃ、雑草だろう。進化の必然だったことさえ、隠し続けてたんだしな。
存在自体が許せないなら、雑草と同じ扱いだよな、とハーレイも頷く雑草扱い。
「それじゃ、やっぱり前のぼくのせいで…」
小さい間に殺されちゃったんだ、ミュウの子供たち…。本物の雑草をそうするみたいに。
雑草は小さい間に抜かなきゃ、うんと面倒なことになるから。
「ミュウが雑草扱いだったことは、俺も納得出来るんだが…。そいつは理解出来るんだが…」
どうしてお前のせいになるんだ、雑草と同じ扱いなこと。
前のお前はミュウの子供を助けてただけで、他には何もしちゃいないがな…?
ジョミーを助けた時はともかく、とハーレイは怪訝そうな顔。「何かやったか?」と。
「さっきも言ったよ、ぼくが出て行ったことが問題…」
アルタミラの檻で生きていた頃は、ぼくは何にもしていないから…。何をされても。
だけど、生き延びて大きくなったら、ソルジャー・ブルーになっちゃった。ミュウの子供たちを助けに出て来て、テラズ・ナンバー・ファイブを相手に戦ったりもするミュウに。
あれで人類とグランド・マザーに、大きくなると厄介なんだ、って知らせちゃった。
他にも仲間はいるんだろうし、増えると厄介になることもね。
そうなるんだ、って気が付いたから、ミュウの子供は小さい間に端から殺していたのかも…。
前のぼくみたいに、厄介なミュウが出て来ないように。
「ふむ…。確かにそうかもしれないが…」
お前の正体に気付いちまったら、雑草並みだとゾッとしたかもしれないが…。
そのことと、ミュウの子供を小さい間に殺したこととは、繋がっていないと思うがな…?
関係があるように思っちまうのは無理もないが…、とハーレイは肯定しなかった。雑草のような扱いだったことについては、直ぐに認めていたというのに。
「お前が言いたいことは分かるが、俺には違うように思える。…同じ時代を生きたんだがな」
前の俺たちが、アルテメシアに辿り着いた時のことを考えてみろ。
ミュウの子供たちは既に殺されていたぞ、ほんの小さな子供の頃に。
お前、悲鳴で船を飛び出して行ったんだから。…殺されそうな子供の思念を感じ取って。
「それでバレたんだよ、ぼくが生きていたことが」
アルタミラで星ごと滅ぼされずに、アルテメシアまでやって来たこと。逃げ延びたんだ、って。
雑草を退治し損ねたことが、人類と機械にバレちゃった…。厄介なミュウに育ったことも。
アルタミラの檻にいた頃は無害だったのに…、と顔を曇らせた。実際、無害だったから。
「それはそうだが、殺されかかった子供たちの方が先だろう?」
お前が来るなんて考えもせずに、「殺せ」と命令してたんだ。…違うのか?
俺たちがアルテメシアに着くよりも前から、もう殺してた。小さい間に。
お前の存在とはまるで関係なく、ミュウは雑草なんだから、とな。
元々、ヤツらは排除するつもりだったんだ。…ミュウという名の雑草を全部、宇宙から。
アルタミラでメギドを使ったみたいに、消せるものなら星ごと殲滅したかったろうな。
「そうなのかな…?」
前のぼくが姿を見せなくっても、人類はミュウを殺したのかな、小さい間に…?
大きくなったら厄介だとか、そういう根拠が何も無くても…?
「雑草なんだし、邪魔だと思えば小さい頃から邪魔だろう。育っても邪魔なだけなんだから」
どんなに立派に育ったとしても、庭や花壇のためにはならん。どう転んでも、雑草だしな。
前のお前が現れたせいで、酷くなったということはないさ。…ミュウは処分だという方針。
そいつを言うなら、前のお前というよりは…。ナスカから後の俺たちだな。
「え…?」
どういう意味、と目を瞬かせた。前の自分が生きていたことが知れたら、ミュウの処分に拍車がかかりそうだけれども、ハーレイたちなら、それほどの害は無かった筈。…船はともかく。
「ジョミーだ、あいつが問題だった」
それまで追われていただけのミュウが、アルテメシアを落としたモンだから…。
前のお前どころの騒ぎじゃなかった、ミュウがどれほど危険なのかを人類は思い知ったんだ。
燃えるナスカから、命からがら逃げ出したミュウ。大勢の仲間と、先の指導者を喪って。
彼らには船しか残っていないし、人類は高を括っていた。滅びるのは時間の問題だろうと、白い鯨を発見したなら沈めればいいと。
けれどシャングリラは、それから間もなく再び姿を現した。…人類に追われる種族ではなくて、侵略者を乗せた船として。人類が暮らす星への侵攻、ただそれだけを目的として。
ミュウに襲われたアルテメシアは、僅かな時間で陥落した。テラズ・ナンバー・ファイブだけは破壊を免れたものの、途絶えた通信。マザー・システムから切り離されて。
もはや人類には手も足も出せず、アルテメシアはミュウの手に落ちた。その直前まで、ミュウの子供を殺していたのに。ミュウは忌むべき雑草だったし、抜いて捨てれば良かったのに。
「…あれで慌てたのが人類だ。ミュウはとんでもない化け物だった、と」
それまでは口で「化け物」と呼んでいただけで、「気味が悪い」と嫌っていれば良かったが…。
もう、それだけでは済まなくなった。本物の化け物なんだから。
人類に牙を剥いたんだからな…、とハーレイは軽く両手を広げた。「化け物だろうが」と。
その化け物の力に驚き、大慌てでミュウの処分を始めたのが人類。
処分しないで生かしておいた実験体でも、片っ端から。
「…処分って…。どうせ殺すんだろうけど…」
実験体なら、役目が済んだら直ぐに殺すだろうけれど…。でも…。
そうする前に殺したわけ、と見開いた瞳。アルテメシアでのミュウの勢いに恐れをなして、と。
「人類から見りゃ、どれも化け物なんだから…。処分したくもなるだろう?」
必要な数だけを残して、他は殺しちまった。生かしておくとロクなことはない、と。
サイオンを無効化するための装置、アンチ・サイオン・デバイススーツ。あれの開発にミュウは欠かせないから、幾らかは残しておいたようだが…。
開発していた場所はノアだし、その近辺にだけミュウを残せばいいわけだから…。
前の俺たちが落とした星で見付けた、ミュウの収容施設はだな…。
何処も空っぽか、僅かな人数が残っていただけ。星を落としたら、急いで救助に向かったのに。
生き残った者たちは運が良かったのだという。
処分命令を受けた人類、彼らが自分の命の方を優先して逃亡した結果。ミュウの処分をしているような暇があったら、他の星へ逃れた方がいいと。…少しでもノアに近い所へ、と。
「そうだったんだ…。コルディッツのことは知っていたけど…」
ジョミーのお父さんとお母さんが、子供と一緒に行ってしまった収容所。
あれも酷いと思ったけれども、人質だったら生かしておかなきゃいけないから…。
マシだったんだね、コルディッツは。…それまでにミュウを処分しちゃった施設よりかは。
「酷いもんだろ、人類ってヤツは」
ミュウは危険だと知った途端に、その始末だ。そうする前には、散々いたぶったくせに。
前の俺たちがいたのと変わらない檻で、餌と水だけを突っ込んで飼っていたのにな?
どうせ雑草で、人類よりも遥かに劣る生き物なんだ、と実験動物扱いで。
それをいきなり処分なんだぞ、危険だからと。
…誰も、何もしちゃいなかったのに。檻の中で飼われていただけなのに。
その引き金を引いちまったのが俺たちだ。…お前じゃない。
ミュウを端から殺しちまえ、と命令させる切っ掛けを作ったのはジョミーだったんだ。
前のお前は悪くないさ、と言われたけれども、ジョミーの方も悪くない。アルテメシアは最初に落とすべき星で、別の星を陥落させていたって、結果は同じだっただろうから。
「…酷い結果になっちゃったけれど、それは人類がしたことだから…」
ジョミーは何処も悪くなんかないよ、必要なことをやっただけ。…地球に行くために。
殺されちゃった仲間たちには悪いけれども、そうしないともっと殺されるから…。
いつまで経ってもミュウは殺されるだけで、生き残れる道が開けてくれないんだから…。
そうでしょ、ジョミーが戦う道を選ばなければ、ミュウは生きられなかったんだよ。
SD体制を倒さない限りはね…、とジョミーの澄んだ瞳を思った。
あの明るかった瞳の少年、地球を目指したジョミーの瞳は氷のように冷たかったという。優しい心を殺さなければ、戦うことは出来なかったから。
凍てた瞳をしていたジョミーも、心の底ではきっと悲しんでいたのだろう。自分が始めた戦いのせいで、処分されたミュウの仲間たち。罪も無いのに殺されていった、多くの仲間たちの死を。
ジョミーは悪くなんかなかった、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。きっと仲間たちも分かってくれると、分かってくれたに違いないと。
「殺される時は、悔しくて悲しかっただろうけれど…。でも…」
ちゃんと分かってくれたと思うよ、みんなミュウだったんだから。…ミュウのためだ、って。
自分みたいなミュウが殺される世界を終わらせるには、それも必要だったんだ、って…。
「ジョミーが許して貰えるんなら、前のお前もだろ」
前のお前も、人類には脅威だったかもしれん。…ジョミーほどではなかったとしても。
ミュウは端から殺しちまえ、と思わせるのには充分だったかもしれないが…。
お前だって必要なことをしたんだ、ミュウの子供を沢山助けて。
ジョミーもお前が見付けたわけだろ、そして船まで連れて来させた。逃げられた後も、きちんと後を追い掛けて行って連れ戻したし…。命懸けでな。
そしてだ、お前やジョミーが頑張ったお蔭で、ミュウは立派に生き残った。
なにしろ雑草だったからなあ、前の俺たちは。
「雑草だから?」
ミュウが生き延びられた理由は、雑草だったからだって言うの?
ジョミーが頑張ってくれたことは分かるけれども、雑草っていうのは何なの、ハーレイ…?
「そのままの意味だな、雑草ってヤツは逞しいんだ」
お前、自分で言ったじゃないか。…俺が来た時に、雑草の話。
庭に生えてたのを退治したんだろ、小さい間に抜いておかないと、と。
残しちまうと厄介だしなあ、雑草は。
ほんの少しの根っこからでも、新しい株が出来たりするし…。
うっかり種でも出来ちまったら、とんでもない数の雑草が生えて来るんだから。
その厄介な雑草だったから、ミュウは生き延びられたんだ、と笑うハーレイ。
虚弱な種族のように見えても逞しかった、と。「潜在的には、きっと雑草並みだったよな」と。
「俺たちの代だと、頑丈なミュウは俺くらいしかいなかったが…」
ジョミーの代でも、ジョミーの他には健康なミュウはいなかったんだが…。
トォニィたちは健康だったし、あの辺りから変わり始めていたんだな。雑草並みの生命力に。
元から強い種族でなければ、そう簡単には変わらんぞ?
誰も気付いていなかっただけで、本来のミュウは、きっと頑丈だったんだろう。そうでなければ進化と呼べんし、弱い種族じゃ退化だろうが。…弱って消えたら話にならん。
今じゃ虚弱なミュウってイメージ、もう無いだろう?
かつての人類と何処も変わりはしないぞ、寿命が長くなったってだけで。
「うん…。ハーレイみたいに頑丈な人も多いよね」
プロのスポーツ選手じゃなくても、うんと丈夫な人が沢山…。ジョギングが趣味の人だとか。
前のぼくが生きてた時代だったら、ジョギングなんてハーレイかジョミーしか無理…。
他の仲間だと倒れちゃう、とシャングリラの顔ぶれを思い浮かべた。前のハーレイが後継者にと考えていた、シドでもジョギングは無理だったろう。体力はある方のミュウだったけれど。
「ほら見ろ、そいつがミュウが逞しく生き抜いた結果だ」
すっかり丈夫になってしまって、身体が弱い人間の方が珍しい。お前は今も弱いままだが…。
逞しいミュウは人類の代わりに広い宇宙を覆い尽くして、地球にもしっかり根付いてる。
前の俺たちが生きた頃には、死の星だった筈の青い地球にな。
これだけ宇宙にはびこってるなら、もう間違いなく雑草だ、とハーレイは可笑しそうだから。
「雑草なの、今のぼくたちも?」
前のぼくたちは嫌われる雑草だったけれども、今もやっぱり雑草のまま…?
「お前は綺麗な花を咲かせる筈なんだが…。前のお前とそっくり同じに、それは綺麗に」
しかし、そういう雑草だってあるからな。やたらと綺麗な花が咲くヤツ。
今も雑草ってことでいいと思うぞ、雑草はとても強いんだから。
ミュウという雑草が逞しく宇宙を征服したんだな、というのがハーレイの例え。
人類が嫌って、せっせと抜いては捨てた雑草、それが今では宇宙の主役になっちまった、と。
「きっと捨て方が悪かったんだな、今日のお前はきちんと捨てに出掛けたようだが…」
もう一度根っこを下ろさないよう、土なんかが無い捨て場所まで。
人類もそうして努力してれば、いくら雑草でも根絶やしに出来ていたかもしれないが…。
生憎と失敗しちまったってな、一番最初に捨てる所で。
アルタミラで星ごと焼いたつもりが、前のお前に逃げられちまった。…前の俺もだが。
あそこで捨て損なったばかりに、根っこが残って、其処からジョミーが出ちまったんだ。根から直接出たわけじゃないが、前のお前が残っていなけりゃ、ジョミーも殺されたんだしな?
それを考えると、捨て方ってヤツは大切だ。抜いた雑草の処分の仕方。
其処を間違えたら、こんな具合に、雑草に征服されちまう、とハーレイが指差す窓の外。
「もう人類は何処にもいないぞ」と、「地球も宇宙も、今や雑草だらけだから」と。
「雑草だらけって…。ミュウは宇宙を征服したわけ?」
人類とは和解した筈だけど…。トォニィの代に、ちゃんと文書も交わして。
征服したって感じはしないし、人類とミュウは自然に混じって、人類の方が消えたんだけど…。
ミュウは進化の必然だったから、人類もミュウに進化しちゃって。
「しかしだ、雑草という考え方でいったら、そうなるだろうが」
最初の間は抜かれてたミュウが、逞しく根を下ろしたわけで…。花壇の花の間にな。
でなきゃ芝生だ、そういう所に残った根っこが始まりだった。
気付けばすっかり雑草だらけで、元の花壇も芝生も残っちゃいないってな。もう雑草しか生えていなくて、雑草たちの天国だ。花壇も芝生も征服したんだ、雑草が。
「そうなのかも…」
雑草だらけの庭は困るけど、ハーレイの例えがピッタリかも…。
ミュウは雑草だったんだものね、小さい間に抜いて捨てられちゃってた雑草。
こんな草なんか邪魔だから、って引っこ抜かれて、生きる場所さえ貰えなくって…。
人類がせっせと捨てていたのに、ついに根絶出来なかった雑草、それがミュウ。
ひ弱な種族だったけれども、実は逞しかったから。進化の必然だった種族で、潜在的には雑草と同じくらいの生命力を秘めていたものだから…。
(雑草、宇宙にはびこっちゃって…)
今ではすっかりミュウの時代。何処を探しても、人類はもう見付からない。
そういう時代を迎えたのならば、その雑草が小さい間に人類が抜こうとしていたことも…。
(前のぼくのせいじゃないよね、きっと…?)
子供の間にミュウが殺されていったこと。
成人検査を迎える年まで、疑わしい例は生かしておいてくれたら、生存率が上がったろうに。
それをしないで、ミュウを端から殺した人類。機械が「殺せ」と命じるままに。
よちよち歩きの子供でさえも、彼らは容赦しなかった。ミュウの片鱗を見せたなら。
それは自分のせいだったのかも、と恐ろしい考えに囚われたけれど。
前の自分が生き延びたことが、引き金になったのかもしれない、と怖かったけれど…。
(雑草だったら、小さい間に抜いちゃわないと…)
後で大変なことになる。抜いたら芝生にハゲが出来るとか、種を飛ばされて雑草だらけとか。
ミュウはそういう種族なのだ、と機械には最初から分かっていた筈。
進化の必然だったことを隠して、せっせと殺していたのだから。ミュウ因子の排除は不可能だと承知していた上で。排除するためのプログラムは存在しなくて、それでも殲滅しようとした。
雑草だからと、逞しすぎる雑草は小さい間に抜いておかねばと。
大きくなったら厄介なのだし、子供の間に処分する。…それも出来るだけ小さい内に。
雑草を根絶しようとするなら、そうすることが鉄則だから。
(…前のぼくが逃げて生きていることを、知らなくっても…)
機械はミュウを殺しただろう。小さい間に、子供の内に。ミュウは雑草なのだから。
良かった、とホッとした心。前の自分が姿を現したせいで、殺されたわけではなかったミュウ。小さい間に処分したのは、その方法が正しかったから。雑草を退治するならば。
(ハーレイのお蔭…)
前のお前のせいじゃない、とハーレイは言ってくれたから。
慰めの言葉をかけるのではなくて、納得のゆく説明もして貰えたから…。
「ありがとう、ハーレイ。…ハーレイのお蔭」
もう怖くない、と御礼にピョコンと頭を下げたら、ハーレイは不思議そうな顔。
「ありがとうって…。俺が何かしたか?」
お前と話をしていただけでだ、礼を言われるようなことなんか、何もしていないがな…?
「雑草のこと…。ミュウの子供たちが、小さい間に殺されてしまっていたことだよ」
前のぼくのせいじゃなかったんなら、安心だから…。
ぼくの正体がバレちゃったせいで、小さい間に殺さなくちゃ、と決めたわけではなかったら…。
「そいつは俺が保証してやる、違うとな」
ジョミーと一緒に地球まで行った俺の言葉だ、信じておけ。…俺は最後まで見たんだから。
キースの野郎がスウェナに託したメッセージだって、前の俺は全部見てたってな。
だが、雑草か…。今も昔も、ミュウって種族は逞しく生きる雑草らしい。
前のお前は、とびきり綺麗な花を咲かせる雑草だったが…。
お前はチビだし、花はまだだな。
蕾もついちゃいないようだ、とハーレイが顔を覗き込むから。
「じきに花が咲くよ、前と同じに」
ハーレイだって早く見たいでしょ、蕾が出来て花が咲くのを…?
「駄目だな、お前はゆっくり咲くんだ。楽しみに待っていてやるから」
前のお前の分まで充分、子供時代を楽しむんだな。今のお前は幸せなんだし、のんびりと。
急いで花を咲かせなくてもいいんだから、とハーレイがパチンと瞑った片目。「急ぐなよ」と。
それがハーレイの注文なのだし、急がずにゆっくり育ってゆこう。
今の自分も前と同じに雑草だけれど、のんびりと。
前と違って、引っこ抜かれはしないから。
急いで育って広がらなくても、誰も抜きには来ないから。
今は地球まで、ミュウという名の雑草が生えて覆い尽くしている時代。
テーブルの陰に隠れてこっそり育たなくても、堂々と生えて育ってゆける。
前と同じにミュウのままでも。人間がみんなミュウになったら、雑草が主役なのだから…。
雑草のように・了
※SD体制の時代のミュウは雑草のよう、と思ったブルー。抜かれて処分されてゆくだけ。
けれど雑草だったからこそ逞しく生きて、今の時代があるのです。宇宙という庭に広がって。
(今は追い風…)
反対になったら向かい風、とブルーの頭に浮かんだこと。
学校の帰り、バス停から家まで歩く途中の道で。何のはずみか、頭にポンと。
吹きっ晒しの野原ではなくて、住宅街。だからそれほど強くないけれど、背中に風。後ろ側から吹いてくる。追い風だから、人間ではなくて船ならば…。
(速く進んでゆけるんだよね?)
帆に一杯の風をはらんで、大海原をゆく昔の帆船。風の力で海を旅していた時代。
今はエンジンのついた船だけれども、昔の文化も大好きなのが蘇った地球の住人たちだから…。
(観光用とかの帆船もあるし、風だけで走るヨットだって…)
青い海の上に浮かんでいるよ、と考えたらとても素敵な気分。
エンジンなどには頼らなくても、追い風で速く進める海。帆を張れば波の上を走れる。そういう船たちが海にいる地球に来ちゃったよ、と。
(前のぼくだと、帆船なんか…)
目にしたことすら一度も無かった。アルテメシアの海に帆船は無かったから。
雲海に覆われた星の上には、テラフォーミングされた人工の海。そんな所に帆船は無い。帆船があった時代でも無い。あの時代を治めた機械はあくまで効率優先、風で走るような船は要らない。
(…ヨットくらいなら…)
走っていたかもしれないけれども、生憎とまるで記憶に無い。
アルテメシアは育英都市だし、ヨットは無かったかもしれない。大人たちの殆どは養父母たち。自分の趣味より、子育ての方が優先された場所だから。
(ヨットに乗せて貰える子供と、そうでない子がいたら駄目だし…)
きっと公平に、何処の家にも無かったヨット。借りて乗ることも無かっただろう。まるで技術が無い大人だと、上手くヨットを操れない。養父母になるのに、操船技術は必須ではないし…。
(やっぱりヨットは無かったかもね…)
観光用の帆船さえも、あの時代には無かったから。
帆に風を受けて走る船など、アルテメシアの海には浮かんでいなかったから。
前の自分が生きた時代はそうだったけれど、今では青い海に帆船。それにヨットも。
おまけに此処は地球なんだから、と足取りも軽く歩いた道。追い風を受けて、気分は帆船。
(人間は風だけで走らないけど…)
普段よりも軽く感じる足。風が背中を押してくれる、と思ったら。帆船になった気分でいたら。
家に帰って制服を脱いで、ダイニングでおやつを食べる間も外を眺めて…。
(風が吹いてる…)
庭の木たちが教えてくれる。枝や葉が揺れて、風があることを。…花壇に咲いている花たちも。
何処からともなく吹いてくる風。大気が動くと、風が生まれてくるものだから。
シャングリラでは、風は人工の風だったのに。前の自分が生きていた船、ミュウの箱舟。なのに今では本物の風で、地球の大気が生み出した風。前の自分が夢に見た星に吹いている風。
それにクルクル変わる風向き、これも本物の風ならでは。
白いシャングリラで吹いていた風は、気まぐれに向きを変えたりはしない。気まぐれに見えても計算されていたプログラム。「向きをランダムに変えるように」と。
けれど、本物の風たちは違う。地球の大気の気分次第で、好きな方から吹いてくるもの。
(木の揺れ方で…)
どちらから来た風なのか分かる。南からか、それとも北なのか。
南風が主な季節にしたって、北風が吹かないわけではない。西風も、東風も吹く。ザアッと渦を巻く風だって。つむじ風とは違うけれども、ぐるりと回るように吹く風。
(吹き流しだとか、風見鶏があれば…)
もっとよく分かる風の方向。
吹き流しは風に合わせて揺れるし、風見鶏は向きを変えてゆく。名前の通りに風を見る鳥。
(生きた鶏じゃないけれど…)
くるり、くるりと方向を変えて、風が来る方を教えてくれる風見鶏。
そういうものが庭にあったら、目に見える風。
木の枝や葉でも分かるけれども、もっと正確に「こっちから吹いている風だ」と。
たまに目にする風見鶏。郊外の農場の屋根にもあったし、個人の家の屋根の上にも。
多分、暮らしている人の趣味。「風見鶏が似合う」と思った場所には、風が吹く方へと回る鶏。
(風見鶏…)
うちには無いよね、と戻った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
部屋の窓から眺めたけれども、吹き流しだって庭には無い。屋根の上にも風見鶏は無くて、風の向きを教えてくれそうなものは…。
(鯉のぼり…)
あれなら吹き流しもセット、と思い浮かべた空を泳ぐ鯉。大きな真鯉と、小さめの緋鯉。もっと小さな子供の鯉も一緒に、風をはらんで空高く泳ぐ鯉のぼりたち。一番上には吹き流し。
小さい頃にはあったのだけれど、大きくなったら姿を消した。下の学校の途中辺りで。
(男の子が生まれたら、鯉のぼりだよね?)
きっと自分が生まれて直ぐから、鯉のぼりは庭にあったのだろう。三月の末に生まれたのだし、充分に用意出来るから。
小さい間は、父が揚げていた鯉のぼり。夕方に母が下ろしていた。空模様が怪しい時だって。
けれど子供が大きくなったら、出番が無くなる鯉のぼり。家に帰る時間が遅くなるから、あまりゆっくり見ていられない。家で遊ばずに出掛けて行ったら、帰る頃には…。
(もう鯉のぼりは、下ろしちゃった後で…)
肝心の子供が見ないわけだし、何処の家でも揚げなくなる。「もう鯉のぼりは卒業だ」と。
幼かった自分のための鯉のぼりも、そうして引退していった。母のことだから、物置にきちんと片付けてあって、直ぐに出せるだろうけれど。庭に竿さえ立ててやったら、あの鯉たちは…。
(きっと、ちっとも皺なんか無くて…)
色も今でも鮮やかなままで、悠々と空を泳ぐのだろう。
そうは思っても、あの鯉たちは鯉のぼり。一年中、空を泳ぎはしない。
(…今の季節に探しても…)
何処の庭にも泳いではいない。季節外れも甚だしいから、竿さえも立っていない筈。
鯉のぼりは端午の節句のものだし、春に青空を泳ぐもの。男の子が生まれた家の庭やら、小さな男の子がいる家の庭で。
風見鶏も無ければ、吹き流しも無い自分の家。鯉のぼりだって、とうに卒業。あったことさえ、殆ど忘れていたくらい。真鯉も緋鯉も、子供の鯉も。
(風、見えないね…)
ぼくの家では、と残念な気持ち。風見鶏も無いし、吹き流しも庭に無いのだから。
木の葉や枝の揺れ方でしか、風の動きは分からない。どちらから吹いて来たのかも。葉を揺らす風が、南からの風か北風なのか、せわしなく向きを変えているかも。
せっかく地球の風があるのに、青い地球の上にいるというのに。前の自分が焦がれた星に。
海に行ったら、帆船だって走る星。帆に一杯の風をはらんで、青い海の上を何処までも。
きっと素敵な旅なのだろう、帆に受けた風で進む海。思い通りに進めなくても、それも楽しい。
追い風が吹かずに向かい風だとか、まるで無風で少しも走れはしないとか。
そんな旅でも、今の時代は誰もが喜ぶ。先を急ぐなら、帆船などには乗らないから。帆船で旅をしたい人なら、風を待つのも旅の楽しみの内だから。
(シャングリラだと…)
風待ちどころか、風向きだって少しも関係無かった船、と思ったけれど。
アルテメシアの雲海の中に長く潜んだ白い鯨は、帆船とは違うと考えたけれど…。
(ちょっと待って…!)
今のは間違い、とパチンと叩いた自分の頬っぺた。「忘れちゃってた」と、叱り付けて。
白いシャングリラと、外の風向き。アルテメシアに吹いていた風。
関係はちゃんとあったのだった。あの星の大気が生み出した風と、白い鯨の間には。
いくら消えない雲海とはいえ、万一ということもある。風に吹かれて雲が流れて、雲海の場所が変わること。そうでなければ雲が千切れて、雲海が消えてしまうとか。
白い鯨の隠れ場所だった、雲の海。其処から姿を見せてしまったら、人類に直ぐに発見される。レーダーに映りはしない船でも、目視されたらそれでおしまい。
(そうならないように、ちゃんと観測…)
常に調べていた外の風向き。風はどちらに吹いているのか、この先はどう吹きそうかと。
観測してデータを弾き出しては、より良い方へと取っていた進路。雲の海から出ないようにと。
前のハーレイが指揮を執ったり、自ら舵を握ったりもして。
キャプテンだった、前のハーレイ。白いシャングリラを纏める船長。
まるで帆船の船長みたいに、いつだって風を読んでいた。データを睨んで、風向きを。これから先の風の行方を。
(今のハーレイだと…)
もう風向きは気にしなくていい。船の舵など握っていないし、今ではただの古典の教師。向かい風だろうが、追い風だろうが、ただ風向きが変わるだけ。ハーレイの周りの大気の流れが。
船を守るという役目が無ければ、風を眺めるのも好きになっただろうか?
「いい風だよな」と風に吹かれて、その向きを追ってみたりもして。北風とか、南風だとか。
どうなのかな、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね…。ハーレイ、風を見るのは好き?」
「はあ? 風って…」
何の風だ、と怪訝そうな顔になったハーレイ。「風と言っても色々あるが…」と。
「風は風だよ、風向きのこと。風見鶏とかで分かるでしょ?」
どういう風が吹いているのか、どっちから吹く風なのか。ちゃんと目で見て。
「なんだ、そういう風のことか。本物の風向きのことなんだな」
お前が言ってる風のこと。風見鶏とかで見えるんだったら、もう間違いなくそれだってな。
「え? 本物って…」
風を見るなら、本物の風しかなさそうだけど…。今のハーレイだと。
前のハーレイなら、シャングリラの中には人工の風があったけれどね。
あれの他にも風があるの、とキョトンと瞳を見開いた。施設によっては、人工の風が吹いていることもありそうだけれど。…植物園の温室とかなら、必要があれば。
「知らないか? よく「風向きを見る」って言うだろ、様子見すること」
みんなの意見がどっちに行くのか、自分はどちらにつくべきかと。あれも風だぞ。
そっちの方かと思っちまった。いきなり「風を見るのは好きか」と訊かれりゃ、そうなるよな?
「風向きを見るって…、それは好きなの?」
「場合によるな。どちらかと言えば、あまり見たくはない方だ」
自分の意見はきちんと話して、それが駄目なら諦める。様子見が楽しい時は別だが。
何を食べるかなどでワイワイガヤガヤ、そういう時なら面白いという。どちらについても、別に困りはしないから。様子見していたハーレイの参加で風が変わっても、それも話の種だから。
「お前が言いさえしなければ、と苦情が出るのも愉快なもんだ」
とんだ料理を食う羽目になった、と文句を言ってるヤツらの隣で、「これが美味い」と大喜びをしているヤツら。ああいうのを見ると、様子見をしてた甲斐があったと思っちまうわけで…。
もっと真面目な会議とかだと、様子見なんぞは御免だがな。自分の意見は話すべきだし…。
だが、本物の風は好きだぞ。風を見るのも。
見なくても指で分かるんだがな、というハーレイの言葉で驚いた。
「指?」
どうして風が指で分かるの、指に目なんかついていないよ?
見なくても分かるって言うんだったら、指に目玉は無くてもいいんだろうけれど…。
どうやるの、と瞬かせた瞳。風を見るには、目を使っても吹き流しとかが必要なのに。風見鶏や木の葉の動きを眺めて、ようやく風が見えてくるのに。
「俺は嘘なんかついちゃいないぞ、本当に指で分かるんだ」
ガキの頃に親父に教わったんだが…。指を使った風向きの見方。
指を濡らしてやればいいんだ、そうすりゃ指がひやっとする。風が吹いてくる方だけな。
微かな風でも感じ取れるし、真っ暗な中でも役に立つ。サイオン無しでも、どう進んだら出口があるのか分かるから。
たとえば、この部屋の中でも、だ…。そこの入口のドアをだな…。
こう、と椅子から立って行って、ドアを細めに開けたハーレイ。「これで良し」と。
それから笑顔で促された。「ちょっとやってみろ」と、「指を口に入れて濡らすんだ」と。
(ふうん…?)
少し行儀が悪いけれども、ハーレイが「やれ」と命じたのだから、いいだろう。
口に入れてみた右手の人差し指。温かい口の中で濡らして、そうっと指を引っ張り出したら…。
「あっ…!」
風だ、と声を上げていた。
ドアの方から冷たい風。頬にも微かに感じるけれど、濡れた指だとハッキリ分かった。ひやりと指を掠めた風。あちらからだ、とドアの側から吹いて来て。
風だったよね、と見詰めた指。食べていたケーキの甘い味がついていそうだから、と洗面所まで洗いに出掛けて、戻って来る時も指は風を感じた。わざと水気を拭わずにおいた人差し指が。
(ぼくが動くから、向かい風…)
歩く方から吹いて来るよ、と感心しながら戻った部屋。椅子に腰掛けて、ハーレイに言った。
「ドアは閉めたから、もう風なんか来ないけど…。凄いね、指で分かっちゃうんだ…」
ちょっと濡らしたら、どっちから風が吹いて来るのか、ホントに簡単に分かるみたい。
ハーレイのお父さん、いろんなことを知ってるね。釣りの時には役に立ちそう。
前のハーレイだと、風向きを見るのが仕事だけれど…。趣味じゃなくって。
「どっちの風向きを見るのもな」
船の中の様子も見なきゃならんし、本物の風も注意して見ておかないと…。
両方とも俺の仕事だったぞ、キャプテンの大切な役目ってヤツだ。
仲間たちの意見がどうなっているか、不平や不満が出ていないか。何か問題が起こりそうなら、どういった風に対処するのか、風向きをきちんと見なくちゃならん。俺が入るか、入らないか。
キャプテンが出て行った方がいい時もあれば、放っておくのが最善って時もあるからな。
本物の風だと、やっぱり俺の判断が決め手になっちまうから…。シャングリラの航路。
あっちでもミスは出来やしないな、一つ間違えたら雲海の外に出ちまうんだし。
実に大変な仕事だった、とハーレイが思い出すキャプテンの役目。風向きを見ること。
「じゃあ、仕事でなくなった今は幸せ?」
本物の風を見るのは好きって言っていたでしょ、風を見ている時は幸せ?
指を使って調べなくても、木の枝とかが揺れているだけでも…?
「そうだな、どういう風が来たって、庭の心配をする程度ってことになるんだし」
たまにあるだろ、風が強くなりそうです、っていう天気予報。
ああいう時には心配になるな、枝が折れなきゃいいんだが、と。
鉢植えだったら家の中に入れてやれるんだがなあ、庭の木だとそれは出来ないから。
「そうだよね…。ママも時々、心配してるよ。「大丈夫かしら?」って」
風が止んだら、急いで庭に出て行っちゃう。昼間だったら。
夜の間に吹いた時には、朝一番だよ。折れちゃった枝や花があったら、取って来なくちゃ。
放っておいたら萎れちゃうから、花瓶に生けて世話をしてるよ。折れた枝とかが元気な内に。
前のハーレイの仕事は風を見るのが大変だったけれど、今のハーレイは風を見るのも好き。
風が吹いても心配するのは庭くらいだ、と聞かされると尋ねてみたくなる。
「ねえ、ハーレイ…。今は風を見るのも大好きだったら、帆船の船長とかもやりたい?」
あれなら風を使って航海出来るし、地球の海だし、楽しそうだよ?
前とおんなじキャプテンだけれど、今の帆船ならシャングリラと違って観光用の船だもの。
風が吹かなくて遅れちゃっても、誰も文句は言わないし…。
ああいう船なら、舵だってきっと、シャングリラと同じで舵輪だものね。
ハーレイ、やってみたいんじゃない、と興味津々。古典の教師のハーレイだけれど、前の記憶が戻った今なら、帆船の船長になってみたいかも、と。
「いや、風を読むのを仕事にしたいって所までは…」
考えないなあ、風を見るのは好きだがな。こういう風が吹いて来たなら、天気が変わる、と風で天気の先を読むのも。…それも親父に仕込まれたんだが。
そういや、風か…。
風だったっけな、と僅かに翳った鳶色の瞳。楽しい話の筈なのに。
「どうかした?」
ハーレイ、なんだか悲しそうだよ。…風を見るのは好きなんでしょ?
だけど悲しい思い出でもあるの、風が吹いたら大事な何かが飛んじゃったとか…?
「そういうわけじゃないんだが…。今の俺じゃない、前の俺だな」
風向きってヤツを、シャングリラが堂々と気にするようになった頃には、お前がだ…。
「前のぼく…?」
「お前、何処にもいなかったんだ。…船の何処にも」
メギドに飛んで行ってしまって、それっきりだった。…二度と戻りやしなかった。
それこそ風に持って行かれてしまったみたいに、俺の前から消えちまったんだ。
風の匂いがしたお前はな。
もっとも俺には、風の匂いってヤツが何だか、まるで分かっちゃいなかったんだが…。
レインのヤツが何度も言うから、「そうか」と思っていただけで。
今のお前と話をするまで、雨上がりの風の匂いだったとは、考えさえもしなかったがなあ…。
あの匂いがした前のお前がいなかった、とハーレイがついた深い溜息。
白いシャングリラにいた、風の匂いがしたソルジャー。そのソルジャーがもういなかった、と。
「前のぼくって…。なんだか変だよ、その話」
シャングリラが風向きを気にしていたのは、いつもだよ?
雲海が動いちゃったら困るし、消えてしまったら大変だし…。雲の中が隠れ場所だったから。
いくらステルス・デバイスがあっても、目視されたらおしまいだものね。
人類に姿を見られないよう、風向きを見ては航路を決めて…。いつもそうしていたじゃない。
前のぼくがいなくなった後なら、もう隠れてはいなかったんだし…。
風向きなんかは関係無いでしょ、堂々とって、何のことなの?
人類と戦うと決めた船なら、風向きなんか見なくても…。
良かった筈だよ、と指摘したのだけれども、ハーレイは「そうでもないぞ」と返して来た。
「気にしてた場所は、宙港だ」
宙港ってヤツは今もあるだろ、今のお前は宇宙に出て行ったことは無いそうだが…。
それじゃ気付いていそうにないしな、前のお前に訊いてみるとするか。
お前、アルテメシアの宙港にも行っていただろう?
人類軍の動きを見るとか、色々な用で降りていた筈だ。身体ごとでも、思念体でも。
出掛けていたなら、知らないか?
あそこにあった風向計を。
「えーっと…?」
風向計って言ったら、風見鶏みたいなものだよね?
風見鶏よりも、ずっと正確なんだけど…。それに飾りでもないんだけれど。
そんなの見たかな、アルテメシアで…?
風向計だよね、と傾げた首。前の自分の遠い記憶を手繰ってみる。
アルテメシアにあった宙港、育英都市からは離れた所に。人類軍の船も使っていたから、子供が暮らす世界とは距離が取られていた。戦闘機などの物騒なものを、子供が見なくて済むように。
その宙港で見たものの中に、風向計の記憶は無い、と思ったけれど。
風向きを調べるための機械は、目にしていないと思うけれども。
(あったかな…?)
広い宙港の端っこの方に。旅客ターミナルからは離れた所に、風向計。
あったのかも、と記憶を探り当てたら、他にもあった。宙港のあちこち、宇宙船で旅をする人が立ち入らない場所。そういった所に風向計があって、風向きを観測していた筈。
「風向計…。確かにあったよ、忘れてたけど」
前のぼくとは、関係無かったものだから…。風向計には用が無いしね、見に行ったって。
あれがどうかしたの、前のぼくだった頃の記憶を引っ張り出させて、風向計って…?
古い記憶が何の役に立つの、と掴めないハーレイの質問の意図。どうして風向計なのか。
「分からないか? 俺が言うのは風向計だぞ」
いったい何に使うんだ、あれは?
何をするために風向計が置いてあるんだ、そこの所を考えてみろ。
風向計だ、と繰り返されても分からない。風見鶏よりも遥かに精度が高いもの、としか。
「んーと…?」
あれって風向きを調べるものでしょ、風見鶏とかとおんなじで。…もっと正確なんだけど…。
風見鶏だと、風向計みたいに沢山のデータを観測するのも無理だけど…。
「そいつが必要だったんだ。宙港という所には」
理屈は帆船とかと変わらん、風向きや風の強さなんかが分かっていないと駄目なんだ。
そういうデータは、宇宙船が宙港に降りる時には欠かせない。無論、離陸する時にもな。
ギブリみたいな小型艇だと、必要不可欠と言ってもいい。より安全に発着したいのならば。
シャングリラほどのデカブツになると、もはや関係無いんだが…。
デカすぎるから、風の影響を受けるも何も…、とハーレイは苦笑するけれど。
それでも管制官が指示したという。どのコースから降下するのか、何処へ降りるか。
「…シャングリラにも?」
ミュウの船だよ、なのに管制官から指示って…。管制官は人類だよね…?
「当然だろうが。俺がキャプテンだった頃には、ミュウの管制官なんかはいない」
アルテメシアを落とした時には、半ば強引に降りたんだが…。とにかく降りろ、と。
しかし、それよりも後は、けっこう気にしていたもんだ。
同じ降りるなら、友好的に、と。
こういうコースで降下してくれ、と言って来たなら、出来るだけ聞いてやらんとな?
それが人類のやり方なんだし、宙港に降りるルールなんだから。
管制官たちの指示を受けてから、降下したというシャングリラ。…制圧した星の宙港に。
「ルール、きちんと守ってたんだ…」
人類が守るためのルールで、シャングリラみたいに大きな船だと無関係でも。
風の影響を受けたりしないで、どんな時でも降りられたのに…。
「ルールがあるなら、守るってことも必要だ。…それを守れる余裕がある時にはな」
もっとも、ジョミーは「余計なことだ」と顔を顰めていたんだが…。
「さっさと降りろ」と睨み付けられたこともあったが、船のキャプテンは俺なんだしな?
知ったことか、と笑うハーレイは、風待ちをしたこともあるという。
シャングリラには全く必要無いのに、降りようとしていた人類側の小型艇を優先してやって。
「そうなんだ…。その船、戦争をしてると知らずに来たんだね?」
でなきゃ、到着前に戦争が始まっちゃったか。…それで降りられずに何処かで退避。
「そんなトコだな。他所の星とか基地に行くには、燃料不足だったんだろう」
ただでも燃料が足りないだろうし、早く降ろしてやらないと…。条件が揃っているのなら。
管制官はシャングリラを優先しようとしたがだ、「先に降ろせ」と返信させた。
武装してない小型艇にまで、喧嘩を売らなくてもいいじゃないか。
気付いた以上は、先に降ろしてやるべきだ、とハーレイが言うものだから。
「…そういうの、評価されてたかな?」
人類はちゃんと分かってくれていたかな、ミュウが譲ってくれたこと。戦争してても、人類ってだけで、全員を敵だと思ってたわけじゃなかったこと…。
「評価して貰えたと思いたいがな、俺たちの気遣い。…待ってやった船と管制官には」
そういや、人類軍の方だと…。相当に無茶をしていたようだな、航路を占有しちまったりして。
「航路って…。占有されたら、どうなっちゃうの?」
「降りられないんだ、もちろん離陸も出来ないってな」
国家騎士団が使うから待て、と連絡される。…管制官から、全部の船舶に向けて。
「それじゃ、キースも?」
「当然のようにやってただろうな、偉くなってからは」
ナスカに来た頃のあいつだったら、無理だったろうが…。
あそこで特進しちまった後は、航路は占有するのが普通だっただろう。…何処へ行くにも。
ノアでもそうしていただろうな、と話すハーレイ。ノアは当時の首都惑星だし、沢山の船が発着した筈の場所。其処をキースが出入りする度、航路が占有されたなら…。
「うーん…。キースの船が来たっていうだけで、大勢の人が迷惑しそう…」
他の船の都合も考えないで、強引に発着するんだろうし…。飛べない船とか、降りられない船、山ほど出て来てしまいそう。…軍の船だと、予定なんか決めていないんだから。
人類軍がそうしていたなら、シャングリラが風待ちしてたのは…。
敵なのに行儀がいい船だよね、とハーレイに言った。「人類軍の方がずっと酷いよ」と。
「そうかもなあ…。降りるから他の船は全部引っ込めておけ、と言いはしなかったから…」
もちろん飛び立つ時にしたって、航路を占有しちゃいない。他の船だって離着陸してた。
あれは高評価だったのかもしれんな、前の俺はそこまで計算しちゃいなかったが…。
人として判断してたってだけで、人類軍のヤツらと比べちゃいなかったんだが…。
ミュウの船でも行儀がいい、と思っていたかもしれんな、管制官のヤツら。
同じ時に宙港を発着していた、他の宇宙船に乗ってた客やパイロットも。
「流石、ハーレイ!」
前のぼくは其処まで頼んでないのに、シャングリラにルールを守らせたんだね。
地球に着くまで、何処の宙港に行った時でも、管制官たちにミュウの船が嫌われないように…。
ありがとう、とピョコンと頭を下げた。前の自分がいなくなった後も、深い絶望と孤独の中でも頑張ってくれたキャプテンに。
「褒めて貰えて嬉しいが…。今のお前の言葉にしたって、もう充分に嬉しいんだが…」
お前だったら、どうしてた?
前のお前が生きていたなら、ソルジャー・ブルーがシャングリラで地球を目指していたら。
手に入れた星に降りる時にだ、シャングリラの他にも小型艇が降下を待ってたら…。
その小型艇を先に行かせて風待ちするか、ジョミーみたいに苦い顔をするか。
「あんな船など待っていないで、さっさと降りろ」と俺を叱って。
いったい、お前はどっちなんだ、と問い掛けられた。風待ちするのか、強引に行くか。
「…どうだろう…?」
前のぼくだよね、シャングリラをそのまま待機させるか、降ろすのか。
シャングリラよりもずっと小型で、風の影響を受けそうな船がいるのなら…。
どうするだろう、と考えたけれど、きっと待たせたような気がする。
前のハーレイに「待て」と指示して、小型艇が先に降りるまで。燃料に余裕が無いかもしれない小さな船なら、先に行かせてやりたいと思う。安全に降りられる条件が揃っている間に。
相手は人類の船だけれども、武装していない民間船なら敵ではない。
白いシャングリラの敵でさえもない小型艇。しかも乗員は一般人だし、シャングリラよりも先に降ろすべき。彼らが困らない内に。
(…だって、航路を占有されたら…)
その間に風向きが変わったりしたら、暫く降りられないかもしれない。…燃料がどんどん減ってゆくのに、足りなくなるかもしれないのに。戦場と知らずにやって来たなら、有り得ること。
燃料不足に陥ったならば、乗員の身にも危険が及ぶ。救助艇が飛び立ったとしても…。
(間に合うだろうけど、怖いよね…?)
救助されるのを待っている間も、そうなる前に燃料がぐんぐんと減っていた時も。
いくら人類でも、そんな目に遭わせたくはない。軍人でないなら、民間人が乗った船なら。
ジョミーと違って、アルタミラなどで苦労し続け、文字通り何度も死にかけた自分。
他の誰かに、同じ苦しみを味わわせたいとは思わない。…人類だとしても。
何の罪も無い人類たちを、踏み躙って前へ進めはしない。
シャングリラの降下を遅くするだけで、小型艇が無事に降りてゆけるなら、それでいい。
きっと宇宙から見送るのだろう。「無事に降りた」と、「先に降ろしてやって良かった」と。
それを見届けてから、シャングリラを降ろす。他にも似たような船がいないか、確かめてから。
前の自分ならそうするだろう、と出て来た答え。人類の船を先に行かせる。
「ぼくだと、風待ち…。ハーレイがやっていたのと同じ」
だけど、それだと地球に行くのは無理だと思う。
風待ちと同じで、人類に気を遣いすぎちゃって…。戦いを始めることも出来なくて。
ジョミーは風待ちをしないタイプで、だから地球まで行けたんだよ。
人類を何人犠牲にしたって、地球まで辿り着かなくちゃ、って。…降伏して来た船だって全部、沈めたのがジョミーだったんだもの。
ぼくだと駄目だよ、そこまで出来ない。どうしても甘くなってしまって。
そのせいで地球まで行けないまま。…ホントに行けなかったんだけど。
ジョミーよりもずっと長生きしていたのにね、と零した溜息。「ぼくには無理な道だった」と。
「性格の違いというヤツか…」
お前、風待ちしすぎたんだな、様子見するっていう方の風を。
風向きがミュウに味方するのを、じっと我慢して待ってる間に、寿命が尽きてしまった、と。
前のお前は慎重すぎて…、とハーレイが口にする通り。前の自分は待っていただけ。
「うん、性格の違いだと思う…」
強引に出ては行けなかったよ、前のぼくはね。…それが必要だと分かっていても。
やっぱりジョミーでなくちゃ駄目だね、地球に行くには。
ミュウに必要だったソルジャーはジョミーで、前のぼくだと時代の流れは変えられなくて…。
戦いも始められなかったくらいに、甘すぎるソルジャーだったから。
「どうなんだかなあ…」
そればっかりは謎だと思うぞ、ジョミーだけでもどうにもならん。
トォニィたちが揃っていたって、シャングリラが無いとまるで話にならないし…。
そのシャングリラを改造させたのは前のお前で、元になった船は何処から来たんだ?
前のお前が、アルタミラから俺たちを脱出させていなけりゃ、何も始まりはしなかった。
甘すぎるソルジャーだったとしてもだ、前のお前が全ての始まりなんだから。
今の平和な世界があるのは時代の流れで、結局は風が決めたんじゃないのか、と今のハーレイは言うけれど。「甘すぎるソルジャーでも良かったんだ」と慰めてくれるのだけれど…。
「それは今だから言えることでしょ、ジョミーが頑張ってくれたから…」
命懸けでSD体制を倒して、人類とミュウが一緒に暮らせる時代を作ってくれたから。
…ジョミーだけじゃなくて、キースもだけれど。
前のぼくは風待ちしていたけれども、風待ちっていうのは、し過ぎちゃっても駄目なんだよ。
ジョミーくらいで丁度良くって、ハーレイは、ぼくとジョミーの中間。
「なんだ、そりゃ?」
どうして俺の名前が出るんだ、とハーレイは不思議そうだけれども。
「本物の風待ち、してあげたんでしょ。…宙港でね」
ジョミーが「行け」って怒っていたって、シャングリラを宇宙で待機させて。
風待ちをしないと降りられない船が、安全に先に降りられるように。
そんなハーレイが船にいたから、人類はミュウを嫌わずに受け入れてくれたのかも…。
侵略者だけど、怖くはない、って。…ルールも守るし、人類軍より親切だ、ってね。
航路を占有したりはしないし、逆に譲ってくれるんだから。
「まあ、その辺は俺も注意を払ったからなあ…」
ジョミーが強引に行きたがる分、俺が重石にならないと、と。
俺で抑えが利いてる間は、ジョミーはもちろん、他のヤツらにも目を配らんとな?
トォニィたちが無茶をしようが、物騒な台詞を吐いていようが。
「ありがとう、ジョミーを支えてくれて」
前のぼくがいなくなった後まで、いろんな所に気を配って…。人類にまでね。
「お前、そいつを頼んだしな?」
ジョミーを支えてやってくれ、と言われたからには頑張るしかない。
前のお前を失くしちまって、抜け殻みたいになっていたって、俺はキャプテンなんだから。
お前の最後の頼みなんだし、何が何でも、叶えないとな…?
そのためだけに俺は生きていたんだ、とハーレイは強調するけれど。
ソルジャー・ブルーの最後の頼みを聞いただけだ、と今も繰り返し言うのだけれど。
「…頼まなくても、ハーレイならやってくれたでしょ?」
ジョミーのことだけ頼んでいたのに、風待ちまでしてたハーレイだから。
その方がきっといいだろうから、ってジョミーが「行け」って怒っていたって、放っておいて。
頼んだ以上のことをやってくれたよ、とハーレイの瞳を覗き込んだ。
「だから、ハーレイなら、きっと」と。
ジョミーを支えてやってくれ、という言葉が無くても、色々なことをしてくれた筈、と。
「…俺の性格からして、そうなんだろうが…」
そうなったろうが、貧乏クジな気がするな。前のお前を失くしちまっても、頑張るだなんて。
「好きだよ、ハーレイのそういう所」
うんと優しいから、出来るんだよ。…前のハーレイも、今のハーレイも。
だけど、今は風待ち、しなくていいね。帆船の船長もやっていないし、風待ちは無し。
「いや、しているが?」
今も風待ちしているんだ、と返った答えに驚かされた。心当たりが何も無いから。
「待ってるって…。何の風待ち?」
「お前と結婚するってことだな、当分は此処で待機だってな」
ちっとも風が吹きやしない、とハーレイは今も風待ち中。結婚という名の風が吹くのを。
「待たなくっても、結婚出来るよ?」
ぼくは結婚、早くてもいいし、今すぐでもかまわないけれど…?
「お前、背丈も足りていないし、年もだろうが!」
前のお前と同じ背丈に育つまではだ、キスも駄目だし、デートも駄目だ。
それで結婚出来るのか?
ついでに、年も足りていないぞ。お前、十四歳だろう?
十八歳にならんと結婚出来んし、どう考えても俺は待機で、風待ちなんだ…!
結婚出来る日はまだまだ先だ、と今のハーレイも風が吹くのを待っているらしい。
今はまだ、見えもしない風。
いつになったら吹いて来るのか、何処から来るかも分からない風を。
その風がいつか、吹いて来たなら…。
(ハーレイと結婚式なんだよ…)
真っ白なドレスか、白無垢を纏って結婚式。
ハーレイと誓いのキスを交わして、左手の薬指に嵌める指輪を交換して。
嵌める指輪が、白いシャングリラの思い出だといい。
白い鯨だった金属から出来た、シャングリラ・リングを嵌められたらいい。
前の生では、風を気にしていたキャプテン。
アルテメシアの雲海の中でも、人類の宙港に降りる時にも。
前はキャプテン・ハーレイだった人と、いつか結婚して幸せに暮らす。
今も風待ちをしているという、前の生から愛し続けた愛おしい人と、青い地球の上で…。
風と風待ち・了
※宇宙船が宙港に降りる時には、風向きも重要。シャングリラほどの船だと不要ですけど。
それでも人類の船を先に降ろそう、と決断した前のハーレイ。ジョミーが不機嫌になっても。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
反対になったら向かい風、とブルーの頭に浮かんだこと。
学校の帰り、バス停から家まで歩く途中の道で。何のはずみか、頭にポンと。
吹きっ晒しの野原ではなくて、住宅街。だからそれほど強くないけれど、背中に風。後ろ側から吹いてくる。追い風だから、人間ではなくて船ならば…。
(速く進んでゆけるんだよね?)
帆に一杯の風をはらんで、大海原をゆく昔の帆船。風の力で海を旅していた時代。
今はエンジンのついた船だけれども、昔の文化も大好きなのが蘇った地球の住人たちだから…。
(観光用とかの帆船もあるし、風だけで走るヨットだって…)
青い海の上に浮かんでいるよ、と考えたらとても素敵な気分。
エンジンなどには頼らなくても、追い風で速く進める海。帆を張れば波の上を走れる。そういう船たちが海にいる地球に来ちゃったよ、と。
(前のぼくだと、帆船なんか…)
目にしたことすら一度も無かった。アルテメシアの海に帆船は無かったから。
雲海に覆われた星の上には、テラフォーミングされた人工の海。そんな所に帆船は無い。帆船があった時代でも無い。あの時代を治めた機械はあくまで効率優先、風で走るような船は要らない。
(…ヨットくらいなら…)
走っていたかもしれないけれども、生憎とまるで記憶に無い。
アルテメシアは育英都市だし、ヨットは無かったかもしれない。大人たちの殆どは養父母たち。自分の趣味より、子育ての方が優先された場所だから。
(ヨットに乗せて貰える子供と、そうでない子がいたら駄目だし…)
きっと公平に、何処の家にも無かったヨット。借りて乗ることも無かっただろう。まるで技術が無い大人だと、上手くヨットを操れない。養父母になるのに、操船技術は必須ではないし…。
(やっぱりヨットは無かったかもね…)
観光用の帆船さえも、あの時代には無かったから。
帆に風を受けて走る船など、アルテメシアの海には浮かんでいなかったから。
前の自分が生きた時代はそうだったけれど、今では青い海に帆船。それにヨットも。
おまけに此処は地球なんだから、と足取りも軽く歩いた道。追い風を受けて、気分は帆船。
(人間は風だけで走らないけど…)
普段よりも軽く感じる足。風が背中を押してくれる、と思ったら。帆船になった気分でいたら。
家に帰って制服を脱いで、ダイニングでおやつを食べる間も外を眺めて…。
(風が吹いてる…)
庭の木たちが教えてくれる。枝や葉が揺れて、風があることを。…花壇に咲いている花たちも。
何処からともなく吹いてくる風。大気が動くと、風が生まれてくるものだから。
シャングリラでは、風は人工の風だったのに。前の自分が生きていた船、ミュウの箱舟。なのに今では本物の風で、地球の大気が生み出した風。前の自分が夢に見た星に吹いている風。
それにクルクル変わる風向き、これも本物の風ならでは。
白いシャングリラで吹いていた風は、気まぐれに向きを変えたりはしない。気まぐれに見えても計算されていたプログラム。「向きをランダムに変えるように」と。
けれど、本物の風たちは違う。地球の大気の気分次第で、好きな方から吹いてくるもの。
(木の揺れ方で…)
どちらから来た風なのか分かる。南からか、それとも北なのか。
南風が主な季節にしたって、北風が吹かないわけではない。西風も、東風も吹く。ザアッと渦を巻く風だって。つむじ風とは違うけれども、ぐるりと回るように吹く風。
(吹き流しだとか、風見鶏があれば…)
もっとよく分かる風の方向。
吹き流しは風に合わせて揺れるし、風見鶏は向きを変えてゆく。名前の通りに風を見る鳥。
(生きた鶏じゃないけれど…)
くるり、くるりと方向を変えて、風が来る方を教えてくれる風見鶏。
そういうものが庭にあったら、目に見える風。
木の枝や葉でも分かるけれども、もっと正確に「こっちから吹いている風だ」と。
たまに目にする風見鶏。郊外の農場の屋根にもあったし、個人の家の屋根の上にも。
多分、暮らしている人の趣味。「風見鶏が似合う」と思った場所には、風が吹く方へと回る鶏。
(風見鶏…)
うちには無いよね、と戻った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
部屋の窓から眺めたけれども、吹き流しだって庭には無い。屋根の上にも風見鶏は無くて、風の向きを教えてくれそうなものは…。
(鯉のぼり…)
あれなら吹き流しもセット、と思い浮かべた空を泳ぐ鯉。大きな真鯉と、小さめの緋鯉。もっと小さな子供の鯉も一緒に、風をはらんで空高く泳ぐ鯉のぼりたち。一番上には吹き流し。
小さい頃にはあったのだけれど、大きくなったら姿を消した。下の学校の途中辺りで。
(男の子が生まれたら、鯉のぼりだよね?)
きっと自分が生まれて直ぐから、鯉のぼりは庭にあったのだろう。三月の末に生まれたのだし、充分に用意出来るから。
小さい間は、父が揚げていた鯉のぼり。夕方に母が下ろしていた。空模様が怪しい時だって。
けれど子供が大きくなったら、出番が無くなる鯉のぼり。家に帰る時間が遅くなるから、あまりゆっくり見ていられない。家で遊ばずに出掛けて行ったら、帰る頃には…。
(もう鯉のぼりは、下ろしちゃった後で…)
肝心の子供が見ないわけだし、何処の家でも揚げなくなる。「もう鯉のぼりは卒業だ」と。
幼かった自分のための鯉のぼりも、そうして引退していった。母のことだから、物置にきちんと片付けてあって、直ぐに出せるだろうけれど。庭に竿さえ立ててやったら、あの鯉たちは…。
(きっと、ちっとも皺なんか無くて…)
色も今でも鮮やかなままで、悠々と空を泳ぐのだろう。
そうは思っても、あの鯉たちは鯉のぼり。一年中、空を泳ぎはしない。
(…今の季節に探しても…)
何処の庭にも泳いではいない。季節外れも甚だしいから、竿さえも立っていない筈。
鯉のぼりは端午の節句のものだし、春に青空を泳ぐもの。男の子が生まれた家の庭やら、小さな男の子がいる家の庭で。
風見鶏も無ければ、吹き流しも無い自分の家。鯉のぼりだって、とうに卒業。あったことさえ、殆ど忘れていたくらい。真鯉も緋鯉も、子供の鯉も。
(風、見えないね…)
ぼくの家では、と残念な気持ち。風見鶏も無いし、吹き流しも庭に無いのだから。
木の葉や枝の揺れ方でしか、風の動きは分からない。どちらから吹いて来たのかも。葉を揺らす風が、南からの風か北風なのか、せわしなく向きを変えているかも。
せっかく地球の風があるのに、青い地球の上にいるというのに。前の自分が焦がれた星に。
海に行ったら、帆船だって走る星。帆に一杯の風をはらんで、青い海の上を何処までも。
きっと素敵な旅なのだろう、帆に受けた風で進む海。思い通りに進めなくても、それも楽しい。
追い風が吹かずに向かい風だとか、まるで無風で少しも走れはしないとか。
そんな旅でも、今の時代は誰もが喜ぶ。先を急ぐなら、帆船などには乗らないから。帆船で旅をしたい人なら、風を待つのも旅の楽しみの内だから。
(シャングリラだと…)
風待ちどころか、風向きだって少しも関係無かった船、と思ったけれど。
アルテメシアの雲海の中に長く潜んだ白い鯨は、帆船とは違うと考えたけれど…。
(ちょっと待って…!)
今のは間違い、とパチンと叩いた自分の頬っぺた。「忘れちゃってた」と、叱り付けて。
白いシャングリラと、外の風向き。アルテメシアに吹いていた風。
関係はちゃんとあったのだった。あの星の大気が生み出した風と、白い鯨の間には。
いくら消えない雲海とはいえ、万一ということもある。風に吹かれて雲が流れて、雲海の場所が変わること。そうでなければ雲が千切れて、雲海が消えてしまうとか。
白い鯨の隠れ場所だった、雲の海。其処から姿を見せてしまったら、人類に直ぐに発見される。レーダーに映りはしない船でも、目視されたらそれでおしまい。
(そうならないように、ちゃんと観測…)
常に調べていた外の風向き。風はどちらに吹いているのか、この先はどう吹きそうかと。
観測してデータを弾き出しては、より良い方へと取っていた進路。雲の海から出ないようにと。
前のハーレイが指揮を執ったり、自ら舵を握ったりもして。
キャプテンだった、前のハーレイ。白いシャングリラを纏める船長。
まるで帆船の船長みたいに、いつだって風を読んでいた。データを睨んで、風向きを。これから先の風の行方を。
(今のハーレイだと…)
もう風向きは気にしなくていい。船の舵など握っていないし、今ではただの古典の教師。向かい風だろうが、追い風だろうが、ただ風向きが変わるだけ。ハーレイの周りの大気の流れが。
船を守るという役目が無ければ、風を眺めるのも好きになっただろうか?
「いい風だよな」と風に吹かれて、その向きを追ってみたりもして。北風とか、南風だとか。
どうなのかな、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね…。ハーレイ、風を見るのは好き?」
「はあ? 風って…」
何の風だ、と怪訝そうな顔になったハーレイ。「風と言っても色々あるが…」と。
「風は風だよ、風向きのこと。風見鶏とかで分かるでしょ?」
どういう風が吹いているのか、どっちから吹く風なのか。ちゃんと目で見て。
「なんだ、そういう風のことか。本物の風向きのことなんだな」
お前が言ってる風のこと。風見鶏とかで見えるんだったら、もう間違いなくそれだってな。
「え? 本物って…」
風を見るなら、本物の風しかなさそうだけど…。今のハーレイだと。
前のハーレイなら、シャングリラの中には人工の風があったけれどね。
あれの他にも風があるの、とキョトンと瞳を見開いた。施設によっては、人工の風が吹いていることもありそうだけれど。…植物園の温室とかなら、必要があれば。
「知らないか? よく「風向きを見る」って言うだろ、様子見すること」
みんなの意見がどっちに行くのか、自分はどちらにつくべきかと。あれも風だぞ。
そっちの方かと思っちまった。いきなり「風を見るのは好きか」と訊かれりゃ、そうなるよな?
「風向きを見るって…、それは好きなの?」
「場合によるな。どちらかと言えば、あまり見たくはない方だ」
自分の意見はきちんと話して、それが駄目なら諦める。様子見が楽しい時は別だが。
何を食べるかなどでワイワイガヤガヤ、そういう時なら面白いという。どちらについても、別に困りはしないから。様子見していたハーレイの参加で風が変わっても、それも話の種だから。
「お前が言いさえしなければ、と苦情が出るのも愉快なもんだ」
とんだ料理を食う羽目になった、と文句を言ってるヤツらの隣で、「これが美味い」と大喜びをしているヤツら。ああいうのを見ると、様子見をしてた甲斐があったと思っちまうわけで…。
もっと真面目な会議とかだと、様子見なんぞは御免だがな。自分の意見は話すべきだし…。
だが、本物の風は好きだぞ。風を見るのも。
見なくても指で分かるんだがな、というハーレイの言葉で驚いた。
「指?」
どうして風が指で分かるの、指に目なんかついていないよ?
見なくても分かるって言うんだったら、指に目玉は無くてもいいんだろうけれど…。
どうやるの、と瞬かせた瞳。風を見るには、目を使っても吹き流しとかが必要なのに。風見鶏や木の葉の動きを眺めて、ようやく風が見えてくるのに。
「俺は嘘なんかついちゃいないぞ、本当に指で分かるんだ」
ガキの頃に親父に教わったんだが…。指を使った風向きの見方。
指を濡らしてやればいいんだ、そうすりゃ指がひやっとする。風が吹いてくる方だけな。
微かな風でも感じ取れるし、真っ暗な中でも役に立つ。サイオン無しでも、どう進んだら出口があるのか分かるから。
たとえば、この部屋の中でも、だ…。そこの入口のドアをだな…。
こう、と椅子から立って行って、ドアを細めに開けたハーレイ。「これで良し」と。
それから笑顔で促された。「ちょっとやってみろ」と、「指を口に入れて濡らすんだ」と。
(ふうん…?)
少し行儀が悪いけれども、ハーレイが「やれ」と命じたのだから、いいだろう。
口に入れてみた右手の人差し指。温かい口の中で濡らして、そうっと指を引っ張り出したら…。
「あっ…!」
風だ、と声を上げていた。
ドアの方から冷たい風。頬にも微かに感じるけれど、濡れた指だとハッキリ分かった。ひやりと指を掠めた風。あちらからだ、とドアの側から吹いて来て。
風だったよね、と見詰めた指。食べていたケーキの甘い味がついていそうだから、と洗面所まで洗いに出掛けて、戻って来る時も指は風を感じた。わざと水気を拭わずにおいた人差し指が。
(ぼくが動くから、向かい風…)
歩く方から吹いて来るよ、と感心しながら戻った部屋。椅子に腰掛けて、ハーレイに言った。
「ドアは閉めたから、もう風なんか来ないけど…。凄いね、指で分かっちゃうんだ…」
ちょっと濡らしたら、どっちから風が吹いて来るのか、ホントに簡単に分かるみたい。
ハーレイのお父さん、いろんなことを知ってるね。釣りの時には役に立ちそう。
前のハーレイだと、風向きを見るのが仕事だけれど…。趣味じゃなくって。
「どっちの風向きを見るのもな」
船の中の様子も見なきゃならんし、本物の風も注意して見ておかないと…。
両方とも俺の仕事だったぞ、キャプテンの大切な役目ってヤツだ。
仲間たちの意見がどうなっているか、不平や不満が出ていないか。何か問題が起こりそうなら、どういった風に対処するのか、風向きをきちんと見なくちゃならん。俺が入るか、入らないか。
キャプテンが出て行った方がいい時もあれば、放っておくのが最善って時もあるからな。
本物の風だと、やっぱり俺の判断が決め手になっちまうから…。シャングリラの航路。
あっちでもミスは出来やしないな、一つ間違えたら雲海の外に出ちまうんだし。
実に大変な仕事だった、とハーレイが思い出すキャプテンの役目。風向きを見ること。
「じゃあ、仕事でなくなった今は幸せ?」
本物の風を見るのは好きって言っていたでしょ、風を見ている時は幸せ?
指を使って調べなくても、木の枝とかが揺れているだけでも…?
「そうだな、どういう風が来たって、庭の心配をする程度ってことになるんだし」
たまにあるだろ、風が強くなりそうです、っていう天気予報。
ああいう時には心配になるな、枝が折れなきゃいいんだが、と。
鉢植えだったら家の中に入れてやれるんだがなあ、庭の木だとそれは出来ないから。
「そうだよね…。ママも時々、心配してるよ。「大丈夫かしら?」って」
風が止んだら、急いで庭に出て行っちゃう。昼間だったら。
夜の間に吹いた時には、朝一番だよ。折れちゃった枝や花があったら、取って来なくちゃ。
放っておいたら萎れちゃうから、花瓶に生けて世話をしてるよ。折れた枝とかが元気な内に。
前のハーレイの仕事は風を見るのが大変だったけれど、今のハーレイは風を見るのも好き。
風が吹いても心配するのは庭くらいだ、と聞かされると尋ねてみたくなる。
「ねえ、ハーレイ…。今は風を見るのも大好きだったら、帆船の船長とかもやりたい?」
あれなら風を使って航海出来るし、地球の海だし、楽しそうだよ?
前とおんなじキャプテンだけれど、今の帆船ならシャングリラと違って観光用の船だもの。
風が吹かなくて遅れちゃっても、誰も文句は言わないし…。
ああいう船なら、舵だってきっと、シャングリラと同じで舵輪だものね。
ハーレイ、やってみたいんじゃない、と興味津々。古典の教師のハーレイだけれど、前の記憶が戻った今なら、帆船の船長になってみたいかも、と。
「いや、風を読むのを仕事にしたいって所までは…」
考えないなあ、風を見るのは好きだがな。こういう風が吹いて来たなら、天気が変わる、と風で天気の先を読むのも。…それも親父に仕込まれたんだが。
そういや、風か…。
風だったっけな、と僅かに翳った鳶色の瞳。楽しい話の筈なのに。
「どうかした?」
ハーレイ、なんだか悲しそうだよ。…風を見るのは好きなんでしょ?
だけど悲しい思い出でもあるの、風が吹いたら大事な何かが飛んじゃったとか…?
「そういうわけじゃないんだが…。今の俺じゃない、前の俺だな」
風向きってヤツを、シャングリラが堂々と気にするようになった頃には、お前がだ…。
「前のぼく…?」
「お前、何処にもいなかったんだ。…船の何処にも」
メギドに飛んで行ってしまって、それっきりだった。…二度と戻りやしなかった。
それこそ風に持って行かれてしまったみたいに、俺の前から消えちまったんだ。
風の匂いがしたお前はな。
もっとも俺には、風の匂いってヤツが何だか、まるで分かっちゃいなかったんだが…。
レインのヤツが何度も言うから、「そうか」と思っていただけで。
今のお前と話をするまで、雨上がりの風の匂いだったとは、考えさえもしなかったがなあ…。
あの匂いがした前のお前がいなかった、とハーレイがついた深い溜息。
白いシャングリラにいた、風の匂いがしたソルジャー。そのソルジャーがもういなかった、と。
「前のぼくって…。なんだか変だよ、その話」
シャングリラが風向きを気にしていたのは、いつもだよ?
雲海が動いちゃったら困るし、消えてしまったら大変だし…。雲の中が隠れ場所だったから。
いくらステルス・デバイスがあっても、目視されたらおしまいだものね。
人類に姿を見られないよう、風向きを見ては航路を決めて…。いつもそうしていたじゃない。
前のぼくがいなくなった後なら、もう隠れてはいなかったんだし…。
風向きなんかは関係無いでしょ、堂々とって、何のことなの?
人類と戦うと決めた船なら、風向きなんか見なくても…。
良かった筈だよ、と指摘したのだけれども、ハーレイは「そうでもないぞ」と返して来た。
「気にしてた場所は、宙港だ」
宙港ってヤツは今もあるだろ、今のお前は宇宙に出て行ったことは無いそうだが…。
それじゃ気付いていそうにないしな、前のお前に訊いてみるとするか。
お前、アルテメシアの宙港にも行っていただろう?
人類軍の動きを見るとか、色々な用で降りていた筈だ。身体ごとでも、思念体でも。
出掛けていたなら、知らないか?
あそこにあった風向計を。
「えーっと…?」
風向計って言ったら、風見鶏みたいなものだよね?
風見鶏よりも、ずっと正確なんだけど…。それに飾りでもないんだけれど。
そんなの見たかな、アルテメシアで…?
風向計だよね、と傾げた首。前の自分の遠い記憶を手繰ってみる。
アルテメシアにあった宙港、育英都市からは離れた所に。人類軍の船も使っていたから、子供が暮らす世界とは距離が取られていた。戦闘機などの物騒なものを、子供が見なくて済むように。
その宙港で見たものの中に、風向計の記憶は無い、と思ったけれど。
風向きを調べるための機械は、目にしていないと思うけれども。
(あったかな…?)
広い宙港の端っこの方に。旅客ターミナルからは離れた所に、風向計。
あったのかも、と記憶を探り当てたら、他にもあった。宙港のあちこち、宇宙船で旅をする人が立ち入らない場所。そういった所に風向計があって、風向きを観測していた筈。
「風向計…。確かにあったよ、忘れてたけど」
前のぼくとは、関係無かったものだから…。風向計には用が無いしね、見に行ったって。
あれがどうかしたの、前のぼくだった頃の記憶を引っ張り出させて、風向計って…?
古い記憶が何の役に立つの、と掴めないハーレイの質問の意図。どうして風向計なのか。
「分からないか? 俺が言うのは風向計だぞ」
いったい何に使うんだ、あれは?
何をするために風向計が置いてあるんだ、そこの所を考えてみろ。
風向計だ、と繰り返されても分からない。風見鶏よりも遥かに精度が高いもの、としか。
「んーと…?」
あれって風向きを調べるものでしょ、風見鶏とかとおんなじで。…もっと正確なんだけど…。
風見鶏だと、風向計みたいに沢山のデータを観測するのも無理だけど…。
「そいつが必要だったんだ。宙港という所には」
理屈は帆船とかと変わらん、風向きや風の強さなんかが分かっていないと駄目なんだ。
そういうデータは、宇宙船が宙港に降りる時には欠かせない。無論、離陸する時にもな。
ギブリみたいな小型艇だと、必要不可欠と言ってもいい。より安全に発着したいのならば。
シャングリラほどのデカブツになると、もはや関係無いんだが…。
デカすぎるから、風の影響を受けるも何も…、とハーレイは苦笑するけれど。
それでも管制官が指示したという。どのコースから降下するのか、何処へ降りるか。
「…シャングリラにも?」
ミュウの船だよ、なのに管制官から指示って…。管制官は人類だよね…?
「当然だろうが。俺がキャプテンだった頃には、ミュウの管制官なんかはいない」
アルテメシアを落とした時には、半ば強引に降りたんだが…。とにかく降りろ、と。
しかし、それよりも後は、けっこう気にしていたもんだ。
同じ降りるなら、友好的に、と。
こういうコースで降下してくれ、と言って来たなら、出来るだけ聞いてやらんとな?
それが人類のやり方なんだし、宙港に降りるルールなんだから。
管制官たちの指示を受けてから、降下したというシャングリラ。…制圧した星の宙港に。
「ルール、きちんと守ってたんだ…」
人類が守るためのルールで、シャングリラみたいに大きな船だと無関係でも。
風の影響を受けたりしないで、どんな時でも降りられたのに…。
「ルールがあるなら、守るってことも必要だ。…それを守れる余裕がある時にはな」
もっとも、ジョミーは「余計なことだ」と顔を顰めていたんだが…。
「さっさと降りろ」と睨み付けられたこともあったが、船のキャプテンは俺なんだしな?
知ったことか、と笑うハーレイは、風待ちをしたこともあるという。
シャングリラには全く必要無いのに、降りようとしていた人類側の小型艇を優先してやって。
「そうなんだ…。その船、戦争をしてると知らずに来たんだね?」
でなきゃ、到着前に戦争が始まっちゃったか。…それで降りられずに何処かで退避。
「そんなトコだな。他所の星とか基地に行くには、燃料不足だったんだろう」
ただでも燃料が足りないだろうし、早く降ろしてやらないと…。条件が揃っているのなら。
管制官はシャングリラを優先しようとしたがだ、「先に降ろせ」と返信させた。
武装してない小型艇にまで、喧嘩を売らなくてもいいじゃないか。
気付いた以上は、先に降ろしてやるべきだ、とハーレイが言うものだから。
「…そういうの、評価されてたかな?」
人類はちゃんと分かってくれていたかな、ミュウが譲ってくれたこと。戦争してても、人類ってだけで、全員を敵だと思ってたわけじゃなかったこと…。
「評価して貰えたと思いたいがな、俺たちの気遣い。…待ってやった船と管制官には」
そういや、人類軍の方だと…。相当に無茶をしていたようだな、航路を占有しちまったりして。
「航路って…。占有されたら、どうなっちゃうの?」
「降りられないんだ、もちろん離陸も出来ないってな」
国家騎士団が使うから待て、と連絡される。…管制官から、全部の船舶に向けて。
「それじゃ、キースも?」
「当然のようにやってただろうな、偉くなってからは」
ナスカに来た頃のあいつだったら、無理だったろうが…。
あそこで特進しちまった後は、航路は占有するのが普通だっただろう。…何処へ行くにも。
ノアでもそうしていただろうな、と話すハーレイ。ノアは当時の首都惑星だし、沢山の船が発着した筈の場所。其処をキースが出入りする度、航路が占有されたなら…。
「うーん…。キースの船が来たっていうだけで、大勢の人が迷惑しそう…」
他の船の都合も考えないで、強引に発着するんだろうし…。飛べない船とか、降りられない船、山ほど出て来てしまいそう。…軍の船だと、予定なんか決めていないんだから。
人類軍がそうしていたなら、シャングリラが風待ちしてたのは…。
敵なのに行儀がいい船だよね、とハーレイに言った。「人類軍の方がずっと酷いよ」と。
「そうかもなあ…。降りるから他の船は全部引っ込めておけ、と言いはしなかったから…」
もちろん飛び立つ時にしたって、航路を占有しちゃいない。他の船だって離着陸してた。
あれは高評価だったのかもしれんな、前の俺はそこまで計算しちゃいなかったが…。
人として判断してたってだけで、人類軍のヤツらと比べちゃいなかったんだが…。
ミュウの船でも行儀がいい、と思っていたかもしれんな、管制官のヤツら。
同じ時に宙港を発着していた、他の宇宙船に乗ってた客やパイロットも。
「流石、ハーレイ!」
前のぼくは其処まで頼んでないのに、シャングリラにルールを守らせたんだね。
地球に着くまで、何処の宙港に行った時でも、管制官たちにミュウの船が嫌われないように…。
ありがとう、とピョコンと頭を下げた。前の自分がいなくなった後も、深い絶望と孤独の中でも頑張ってくれたキャプテンに。
「褒めて貰えて嬉しいが…。今のお前の言葉にしたって、もう充分に嬉しいんだが…」
お前だったら、どうしてた?
前のお前が生きていたなら、ソルジャー・ブルーがシャングリラで地球を目指していたら。
手に入れた星に降りる時にだ、シャングリラの他にも小型艇が降下を待ってたら…。
その小型艇を先に行かせて風待ちするか、ジョミーみたいに苦い顔をするか。
「あんな船など待っていないで、さっさと降りろ」と俺を叱って。
いったい、お前はどっちなんだ、と問い掛けられた。風待ちするのか、強引に行くか。
「…どうだろう…?」
前のぼくだよね、シャングリラをそのまま待機させるか、降ろすのか。
シャングリラよりもずっと小型で、風の影響を受けそうな船がいるのなら…。
どうするだろう、と考えたけれど、きっと待たせたような気がする。
前のハーレイに「待て」と指示して、小型艇が先に降りるまで。燃料に余裕が無いかもしれない小さな船なら、先に行かせてやりたいと思う。安全に降りられる条件が揃っている間に。
相手は人類の船だけれども、武装していない民間船なら敵ではない。
白いシャングリラの敵でさえもない小型艇。しかも乗員は一般人だし、シャングリラよりも先に降ろすべき。彼らが困らない内に。
(…だって、航路を占有されたら…)
その間に風向きが変わったりしたら、暫く降りられないかもしれない。…燃料がどんどん減ってゆくのに、足りなくなるかもしれないのに。戦場と知らずにやって来たなら、有り得ること。
燃料不足に陥ったならば、乗員の身にも危険が及ぶ。救助艇が飛び立ったとしても…。
(間に合うだろうけど、怖いよね…?)
救助されるのを待っている間も、そうなる前に燃料がぐんぐんと減っていた時も。
いくら人類でも、そんな目に遭わせたくはない。軍人でないなら、民間人が乗った船なら。
ジョミーと違って、アルタミラなどで苦労し続け、文字通り何度も死にかけた自分。
他の誰かに、同じ苦しみを味わわせたいとは思わない。…人類だとしても。
何の罪も無い人類たちを、踏み躙って前へ進めはしない。
シャングリラの降下を遅くするだけで、小型艇が無事に降りてゆけるなら、それでいい。
きっと宇宙から見送るのだろう。「無事に降りた」と、「先に降ろしてやって良かった」と。
それを見届けてから、シャングリラを降ろす。他にも似たような船がいないか、確かめてから。
前の自分ならそうするだろう、と出て来た答え。人類の船を先に行かせる。
「ぼくだと、風待ち…。ハーレイがやっていたのと同じ」
だけど、それだと地球に行くのは無理だと思う。
風待ちと同じで、人類に気を遣いすぎちゃって…。戦いを始めることも出来なくて。
ジョミーは風待ちをしないタイプで、だから地球まで行けたんだよ。
人類を何人犠牲にしたって、地球まで辿り着かなくちゃ、って。…降伏して来た船だって全部、沈めたのがジョミーだったんだもの。
ぼくだと駄目だよ、そこまで出来ない。どうしても甘くなってしまって。
そのせいで地球まで行けないまま。…ホントに行けなかったんだけど。
ジョミーよりもずっと長生きしていたのにね、と零した溜息。「ぼくには無理な道だった」と。
「性格の違いというヤツか…」
お前、風待ちしすぎたんだな、様子見するっていう方の風を。
風向きがミュウに味方するのを、じっと我慢して待ってる間に、寿命が尽きてしまった、と。
前のお前は慎重すぎて…、とハーレイが口にする通り。前の自分は待っていただけ。
「うん、性格の違いだと思う…」
強引に出ては行けなかったよ、前のぼくはね。…それが必要だと分かっていても。
やっぱりジョミーでなくちゃ駄目だね、地球に行くには。
ミュウに必要だったソルジャーはジョミーで、前のぼくだと時代の流れは変えられなくて…。
戦いも始められなかったくらいに、甘すぎるソルジャーだったから。
「どうなんだかなあ…」
そればっかりは謎だと思うぞ、ジョミーだけでもどうにもならん。
トォニィたちが揃っていたって、シャングリラが無いとまるで話にならないし…。
そのシャングリラを改造させたのは前のお前で、元になった船は何処から来たんだ?
前のお前が、アルタミラから俺たちを脱出させていなけりゃ、何も始まりはしなかった。
甘すぎるソルジャーだったとしてもだ、前のお前が全ての始まりなんだから。
今の平和な世界があるのは時代の流れで、結局は風が決めたんじゃないのか、と今のハーレイは言うけれど。「甘すぎるソルジャーでも良かったんだ」と慰めてくれるのだけれど…。
「それは今だから言えることでしょ、ジョミーが頑張ってくれたから…」
命懸けでSD体制を倒して、人類とミュウが一緒に暮らせる時代を作ってくれたから。
…ジョミーだけじゃなくて、キースもだけれど。
前のぼくは風待ちしていたけれども、風待ちっていうのは、し過ぎちゃっても駄目なんだよ。
ジョミーくらいで丁度良くって、ハーレイは、ぼくとジョミーの中間。
「なんだ、そりゃ?」
どうして俺の名前が出るんだ、とハーレイは不思議そうだけれども。
「本物の風待ち、してあげたんでしょ。…宙港でね」
ジョミーが「行け」って怒っていたって、シャングリラを宇宙で待機させて。
風待ちをしないと降りられない船が、安全に先に降りられるように。
そんなハーレイが船にいたから、人類はミュウを嫌わずに受け入れてくれたのかも…。
侵略者だけど、怖くはない、って。…ルールも守るし、人類軍より親切だ、ってね。
航路を占有したりはしないし、逆に譲ってくれるんだから。
「まあ、その辺は俺も注意を払ったからなあ…」
ジョミーが強引に行きたがる分、俺が重石にならないと、と。
俺で抑えが利いてる間は、ジョミーはもちろん、他のヤツらにも目を配らんとな?
トォニィたちが無茶をしようが、物騒な台詞を吐いていようが。
「ありがとう、ジョミーを支えてくれて」
前のぼくがいなくなった後まで、いろんな所に気を配って…。人類にまでね。
「お前、そいつを頼んだしな?」
ジョミーを支えてやってくれ、と言われたからには頑張るしかない。
前のお前を失くしちまって、抜け殻みたいになっていたって、俺はキャプテンなんだから。
お前の最後の頼みなんだし、何が何でも、叶えないとな…?
そのためだけに俺は生きていたんだ、とハーレイは強調するけれど。
ソルジャー・ブルーの最後の頼みを聞いただけだ、と今も繰り返し言うのだけれど。
「…頼まなくても、ハーレイならやってくれたでしょ?」
ジョミーのことだけ頼んでいたのに、風待ちまでしてたハーレイだから。
その方がきっといいだろうから、ってジョミーが「行け」って怒っていたって、放っておいて。
頼んだ以上のことをやってくれたよ、とハーレイの瞳を覗き込んだ。
「だから、ハーレイなら、きっと」と。
ジョミーを支えてやってくれ、という言葉が無くても、色々なことをしてくれた筈、と。
「…俺の性格からして、そうなんだろうが…」
そうなったろうが、貧乏クジな気がするな。前のお前を失くしちまっても、頑張るだなんて。
「好きだよ、ハーレイのそういう所」
うんと優しいから、出来るんだよ。…前のハーレイも、今のハーレイも。
だけど、今は風待ち、しなくていいね。帆船の船長もやっていないし、風待ちは無し。
「いや、しているが?」
今も風待ちしているんだ、と返った答えに驚かされた。心当たりが何も無いから。
「待ってるって…。何の風待ち?」
「お前と結婚するってことだな、当分は此処で待機だってな」
ちっとも風が吹きやしない、とハーレイは今も風待ち中。結婚という名の風が吹くのを。
「待たなくっても、結婚出来るよ?」
ぼくは結婚、早くてもいいし、今すぐでもかまわないけれど…?
「お前、背丈も足りていないし、年もだろうが!」
前のお前と同じ背丈に育つまではだ、キスも駄目だし、デートも駄目だ。
それで結婚出来るのか?
ついでに、年も足りていないぞ。お前、十四歳だろう?
十八歳にならんと結婚出来んし、どう考えても俺は待機で、風待ちなんだ…!
結婚出来る日はまだまだ先だ、と今のハーレイも風が吹くのを待っているらしい。
今はまだ、見えもしない風。
いつになったら吹いて来るのか、何処から来るかも分からない風を。
その風がいつか、吹いて来たなら…。
(ハーレイと結婚式なんだよ…)
真っ白なドレスか、白無垢を纏って結婚式。
ハーレイと誓いのキスを交わして、左手の薬指に嵌める指輪を交換して。
嵌める指輪が、白いシャングリラの思い出だといい。
白い鯨だった金属から出来た、シャングリラ・リングを嵌められたらいい。
前の生では、風を気にしていたキャプテン。
アルテメシアの雲海の中でも、人類の宙港に降りる時にも。
前はキャプテン・ハーレイだった人と、いつか結婚して幸せに暮らす。
今も風待ちをしているという、前の生から愛し続けた愛おしい人と、青い地球の上で…。
風と風待ち・了
※宇宙船が宙港に降りる時には、風向きも重要。シャングリラほどの船だと不要ですけど。
それでも人類の船を先に降ろそう、と決断した前のハーレイ。ジョミーが不機嫌になっても。