シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「…遅くなってしまって悪かったな、ブルー…」
寂しかったか、とハーレイは呟く。
窓から海が見える研修先の宿で鞄から取り出した日記と一冊の写真集。窓の向こうの海はとうに暗くて、沖に漁火が瞬いていた。
海水浴の季節はもう過去のもので、海に入るには寒すぎる秋。夜更けともなれば吹く風も冷たいことだろう。そう思いながら机の上に日記を置く。それの隣に写真集を、そっと。
青い地球を背景にしたソルジャー・ブルーの写真が表紙に刷られた『追憶』という名の写真集。世間に一番広く知られた、正面を向いたソルジャー・ブルー。強い意志を秘めた瞳の底に微かに揺らめく憂いと悲しみ。
キャプテン・ハーレイであった頃のハーレイがブルーを失くした後に懸命に探し、ついに見出すことが叶わなかったブルーの表情。皆の前では見せることが無かったブルーの真の姿を、悲しみと憂いとを捉えた一枚の写真。恐らくは残された映像の中の、ほんの一瞬。
前世の記憶を取り戻す前は「ソルジャー・ブルーといえば、この写真」としか思わなかった。
しかし今では「これこそがブルーだ」という気がする。
前の生で愛したソルジャー・ブルー。美しく気高く、その身をも捨てて皆を守ったミュウの長。
全身全霊で愛した恋人。
何処までも共に、と誓っていながら守ってやれずに失くした恋人…。
その恋人の悲しすぎる最期を収めた最終章を持つ『追憶』の名の写真集。
シャングリラの写真集を探しに行った書店で偶然、見付けた。その場では最後のページまで開く勇気はとても無かった。買って帰って書斎で開いて、前の生の記憶に取り込まれて泣いた。
ブルーの最期を直接写してはいないけれども、人類軍が記録していた映像から起こした何枚もの写真。青いサイオンの尾を長く曳いて暗い宇宙を駆けるブルーの最後の飛翔。メギドの厚い装甲を破り、中へと消えた後はブルーの姿は見えない。
一番最後に、爆発するメギドの青い閃光。ブルーの身体をこの世から消してしまった青い閃光。その瞬間までブルーが生きていたのか、それとも既に息絶えてしまっていたものか。ハーレイには今も分からない。
けれども胸を締め付けられる。この時、ブルーを失くしたのだ、と。
あまりにも辛い写真を収めた写真集だから、滅多にページを繰ることはない。それでもブルーの悲しみを思うと、「ハーレイの温もりを失くした」と泣きじゃくりながら死んだと話した小さなブルーの言葉を思うと、この写真集を忘れることなど出来る筈もなくて。
まして何処かに押し込めてしまうなど出来るわけもなくて、日記と一緒に引き出しに仕舞った。
一日に一度は開ける書斎の机の引き出し。
其処へ仕舞って、自分の日記を上掛けのように被せてやった。
悲しみと憂いを秘めた瞳のソルジャー・ブルーを守るかのように、日記を被せた。
今度こそは自分が守ってやるから、と。
一泊二日での研修に向けての荷造りの時に、引き出しから日記を取り出した。覚え書きのような日記はこれまでも何処へ行くにも持って出ていたし、旅先でも必ず書いていたから。
荷物に入れようとした日記の下から姿を現した写真集。『追憶』という名の写真集。
表紙のソルジャー・ブルーの瞳がとても切なく、寂しげに見えて。
記憶にある声で呼ばれた気がした。
ハーレイ、ぼくを独りにしないで、と。
ソルジャー・ブルーだった頃のブルーが幾度となく口にしていた言葉。
青の間で独りになるのは嫌だと、側に居て欲しいと願った言葉。
本当にそれを思っただろう運命の時、メギドへ飛ぶ時は欠片すらも言いはしなかったくせに。
(……ブルー……)
表紙の写真に、切ない瞳に縋り付かれた。
そうでなくても、やがて寒さの冬へと向かう人恋しい季節。
たった一晩だけだとはいえ、引き出しの中にブルーを残して出掛けられないと心が叫んだ。
上掛け代わりの日記を剥がして置いて出ることなど出来なかった。
「…ブルー、お前も一緒に来るか?」
そうかまってはやれないんだが、と言い訳しながら写真集を旅の荷物に仕舞った。
表紙のブルーが傷まないよう、そうっと日記を被せてやって。
研修旅行に来た宿の机、其処に置かれたソルジャー・ブルーが表紙になった写真集。
(…ブルーの写真は置いて来たのにな)
この時間にはもう眠っただろう、小さなブルーを思い浮かべる。
生まれ変わって再び出会ったブルーはソルジャー・ブルーではなく、十四歳の幼い少年だった。ただひたすらにハーレイを慕い、側に居たいと願ってくれる小さな恋人。
蘇った青い地球の上に二人で生まれて、同じ学校の教師と生徒としてまた巡り会った。あまりにブルーが幼すぎるから、キスさえ交わせはしないのだけれど。それでもブルーは確かに恋人。
普通ならば研修に持って来るなら、小さなブルーの写真だろう。
しかし小さなブルーが写った写真は一つだけしか持ってはいない。夏休みの最後の日にブルーの家の庭で写した、二人一緒の記念写真。ハーレイの左腕に小さなブルーが抱き付いた写真。
最高の記念写真だけれども、あの写真はブルーと揃いのフォトフレームにしか入れてはいない。
飴色をした木製のフォトフレーム。
ハーレイが写真を入れたフォトフレームはブルーの家に、ブルーが写真を入れた方はハーレイの家に、交換し合ってそれぞれ納まっていた。ブルーとの写真はその一枚だけ。
あの写真のデータはカメラの中にあるし、何枚もシャッターを切ったからそのデータもある。
けれどプリントアウトしたのは自分の分とブルーの分との、一枚ずつだけ。
データも他の媒体に移してはおらず、フォトフレーム以外の何処にも写真は存在しない。
他人に見られて困るような写真を撮ったわけではなかったけれども、ブルーと恋人同士なのだと意識しているからこそ入れられない。入れてはいけないし、持ってもいけない。
だから小さなブルーの写真は研修には連れて来ていない。
小さなブルーはハーレイの家に残されたフォトフレームの中、ハーレイの左腕に抱き付いた姿で笑っている。それは嬉しそうに、幸せそうに…。
この研修は二日間とも平日だから、小さなブルーはさほど寂しくないだろう。
幸い、ブルーのクラスで授業をする日と重なる日程にもならなかった。学校に自分の姿が無いというだけの二日間だし、仕事の後でブルーの家を訪ねられない平日が続くのもよくあること。
(……しかし……)
『追憶』の名を持つ写真集。
その表紙から自分を見詰めるブルーを家に置いては来られなかった。
強い意志を見せる赤い瞳の底、悲しみと憂いを秘めたブルーを独りきりにはさせられなかった。
メギドで逝ってしまったブルー。
最後まで覚えていたいと願ったという、ハーレイの腕に触れたブルーの右手に残った温もり。
銃で撃たれた痛みの酷さのあまりに、その温もりをブルーは失くした。ハーレイの温もりだけを抱いていたいと、それさえあれば一人ではないとブルーは思っていたというのに。
最期まで持っていたいと願った温もりを失くし、独りきりになってしまったブルー。
独りぼっちになってしまったと泣きながら死んでいったブルーはきっと、この『追憶』の表紙のブルーとそっくり同じ瞳をしていた。
強い意志を宿した瞳の奥深く揺れる悲しみ。
癒えることの無かったこの悲しみが強く出た瞳をしていただろう、と考えただけで胸が塞がる。
(……ブルー……)
ハーレイは痛む自分の胸を押さえた。
実際はブルーの右の瞳は失われていたと知っているけれど、その姿はどうしても思い描けない。
ハーレイの胸の中、独りぼっちで泣きじゃくるブルーは右の瞳を失ってはいない。
両の瞳から涙を流して、「温もりを失くした」と独りで泣いている。
ハーレイがそれを思い出した時は、いつも、いつも、いつも…。
そうして独り泣きじゃくるブルーを、どうして家に独りぼっちで置いて来られよう?
写真集の表紙といえども、其処にブルーは居るのだから。
(…本物のブルーは家でぐっすり寝てるんだがな…)
写真集の表紙を飾るどころか、すっかり小さくなってしまった幼い恋人。
アルタミラで出会った頃そのままの十四歳の姿で帰って来てくれた小さな恋人。
本当はブルーは写真集の表紙などには居なくて、地球の上で生きているのだけれど。ハーレイが暮らしている町と同じ町に住んで、毎日のように学校で、ブルーの家で会っているのだけれど。
それなのに『追憶』の表紙のブルーに囚われる。
悲しげな瞳のソルジャー・ブルーがブルーだと錯覚してしまう。
小さなブルーがちゃんと居るのに、生まれ変わった本物のブルーが居るというのに。
(…今のあいつには家も暖かいベッドもあるし、優しい両親だっているんだし…な)
けれど、『追憶』の表紙に刷られたブルーには自分しかいない。
真っ暗な宇宙に散ってしまった孤独な魂に寄り添ってやれる者は自分しかいない。
あの日にメギドについて行けなかった分、こうして連れ歩いてやるしかない。
悲しい瞳をしたブルーには帰る家もなく、シャングリラにも帰れなかったのだから。瞳に宿した悲しみの色を消してやるには、側に居てやるしかないのだから…。
(あいつがそっくり同じ姿に育つまでは……な)
こうして連れ歩くことになるのだろう。
此処にブルーの魂は無いと分かってはいても、今日のように連れて歩くのだろう。
十四歳の小さなブルーがこの姿と同じ姿になるまで、重ねることはけして出来ないのだろう…。
「ブルー。…遅くなったが、飯にするか?」
ハーレイは『追憶』の表紙のブルーに呼び掛けた。
「俺は研修で食って来たんだが、お前も腹が減っただろう。この辺りはこれが美味いんだぞ」
俺はこの町には詳しくてな、と愛しい前世の恋人に鳶色の瞳を細めてみせた。
学生時代から何度も通った海沿いの町。
ハーレイの生まれ育った町や住んでいる町からは少し遠いが、日帰り出来ないこともない距離。
夏ともなれば海へ泳ぎに来た。
学生時代は仲間と遊びに、教師になってからも何度も。もちろん今の両親とも海水浴が目当てで訪れた。泊まったことも二度や三度ではない。
ハーレイの気に入りの海がある町。遠浅の海岸も、潜って楽しめる岩場も在った。
「ほら、ブルー。これがカニ飯というヤツだ。シャングリラには無かっただろう?」
この町の名物弁当の一つのカニ飯。
悲しい瞳のブルーを一緒に連れて来ようと思った時から、これを買おうと決めていた。
カニ飯は酢でしめられたものが多いのだけれど、この町のものはカニ味噌なども炊き込んである味わい深い炊き込み御飯仕立てが売りだ。カニの身も上にたっぷりと乗せられている。容器のまま温めると炊きたての風味に近くなるから、包装紙だけを剥がして軽く温めた。
蓋を取れば温かな湯気が立ち昇る。
小さなブルーはカニを何度も食べているだろうが、前のブルーは知らないままで逝ってしまった海の幸。地球の海で採れたカニの匂いがふわりと部屋に漂った。
「ブルー、お前が行きたがっていた地球のカニだぞ」
このくらいだったら俺も夜食に食えるしな。
机に向かって弁当を広げ、食べながら『追憶』の表紙を飾るブルーと語り合う。
印刷に過ぎないブルーは喋りはしないけれども、それでも応える声が返ってくる気がした。
「ほら、見えるか? あれが地球の海だ。夜だからかなり暗いがな…」
指差してやれば、ブルーも一緒に夜の海を眺めているような気分になった。
ブルーが焦がれた青い地球の海。
前の自分が辿り着いた時には何処にも無かった、生命を育む海に覆われた母なる地球。
其処へ自分は還って来た。そうしてブルーと海を見ている。
地球に生まれて来た小さなブルーと一緒にではなく、辿り着けなかった方のブルーと。
「…沖の明かりか? あれは星じゃない、漁火だ。漁船の灯だな。ああやって魚を集めるんだ」
この季節だと何だろうなあ、夏だとイカ釣り船なんだが…。
すまん、俺は夏しか詳しくないんでな。そういう漁も出来る時代になったんだ。このカニもだ。
「ん? カニは今の季節はまだ獲れん。もう少し先だ、冬になったらカニを獲るんだ」
だから名物がカニ飯でな、とブルーに説明してやった。
悲しげな瞳が少し穏やかになったように思える。それは錯覚に過ぎないけれども、ハーレイにはブルーの孤独が和らいだ証なのだと感じられた。
ブルーを家に置いて来なくて良かった。
引き出しの中に置いて来ないで、連れて来てやって本当に良かった…。
窓の向こう、夜の海の彼方に浮かぶ漁火。その上に広がる夜空には、幾つもの星。
キャプテン・ハーレイだった頃に着いた地球では、赤く濁った月くらいしか見えなかった。夜の空を彩る筈の星座は汚染された大気に阻まれて見えず、季節の星すら分からなかった。
それが今では、時期さえ良ければ天の川も見える。澄んだ大気が戻って来た地球。水の星として蘇った地球…。
ブルーが地球を目指したからこそ、今の地球が在るとハーレイは思う。
前のブルーが、『追憶』の表紙の悲しい瞳をしているブルーが命を懸けてミュウを守ったから。
「いい星だろう、お前が行きたかった地球。…お前がミュウも、地球も守った」
なのにお前は地球まで行けもしなかった。
赤いナスカさえろくに見もせずに、降り立ちもせずに逝っちまった。
お前がメギドを沈めたからこそ、青い地球が此処に在るっていうのに…。
誰よりも地球に行きたかったお前が地球を見ないで、俺たちだけが地球を見ているなんてな…。
「酷いもんだな、お前は来られなかったのにな?」
だから食べろよ、とハーレイは名物のカニ飯を頬張る。
「俺の奢りだ。カニ飯くらいは好きなだけ食え、ついでに海もしっかり見とけよ」
なあ、とブルーに語り掛ければ、「うん」と返事が聞こえた気がした。
それはかつてのソルジャー・ブルーの声にも、今の小さなブルーの声にも思える声で。
「…分かっているさ、お前も俺と一緒に地球まで辿り着いたんだっていうことはな」
分かっているさ、と瞼に浮かんだ小さなブルーに、『追憶』の表紙に頷き返す。
「しかし、俺は未だにお前を忘れられないんだ」
ソルジャー・ブルーだった時代のお前を。
地球へ行きたいと願い続けて、辿り着けなかった前のお前を。
お前の瞳から最後まで消えることが無かった、深い悲しみと孤独の色を……。
小さなブルーは自分のベッドで眠っている筈の時間だけれど。
ハーレイは前のブルーの姿が刷られた『追憶』の名を持つ写真集の表紙と一緒に夜の海を見る。暗い海に揺れる漁火の群れと、夜空に鏤められた秋の星座と。
名物のカニ飯をブルーと食べて、「美味いだろう?」と問い掛けてやって。
「なあ、ブルー。次の研修も泊まりだったら一緒に行こうな」
連れてってやろう、と微笑みかける。
遠い昔に宇宙の彼方で、メギドで逝ってしまったブルーに。
そのブルーは生まれ変わって地球の上に生きているのだけれども、今はまだ二人が重ならない。十四歳の小さなブルーは今のブルーで、『追憶』の表紙のブルーはソルジャー・ブルー。
全く同じ二人の筈で、同じ魂だと分かっているのに、どうしても二人を重ねられない。
小さなブルーを前にしていてさえ、その後ろに前のブルーの姿が見えてしまう時があるほどに。
いつかは寸分違わず重なり、一人のブルーになるだろうけれど。
今はまだ二人、ブルーが二人。悲しい瞳で見詰めるブルーが、自分しか側に寄り添ってやれないブルーが『追憶』の表紙に独りきりで居る。
いつもは机の引き出しの中で静かに眠っているブルー。ハーレイの日記を上掛け代わりに着て、守られて眠っているブルー。
このブルーを家に独り置いては来られない。それに…。
「俺も一人より二人がいい。あいつは俺と一緒に旅をするには小さすぎるしな?」
恋人なのだと主張している小さなブルー。
ハーレイも小さなブルーを恋人だと思っているのだけれども、旅に連れては来られない。研修のための旅であっても、世間に認められた伴侶だったなら「研修に支障を来さない範囲で」自費での同行が認められるし、空いた時間に観光をしてもいいというのに。
残念なことに小さなブルーは文字通り小さすぎだった。伴侶になるには年齢も不足。
どうやら当分、ハーレイの研修の旅に同行するのは『追憶』の表紙の悲しげなブルー。いつかは小さなブルーが育って重なり、代わりについて来るようになるのだろうけれど…。
「ブルー、当分、よろしく頼むぞ」
明日は焼きカニ飯を買って帰るか、とハーレイは旅の相棒のブルーに笑顔を向けた。
「カニの足を殻ごと炙ってあるんだ。…殻つきは食うのが少し面倒なんだが、それを充分に補える美味さだ、俺が保証する」
買って帰って二人で食おうな。小さなお前には内緒だぞ?
あいつ、一人前に嫉妬するしな、相手がお前だと余計にな。だから内緒だ。
…そうか、お前を連れて旅に出たのも内緒にせんとな。あいつにバレたら大惨事だしな?
喋るんじゃないぞ、と『追憶』の表紙に片目を瞑る。
「あいつが育って、お前そっくりになった時には、あいつの中に入って一緒に来い」
ずっと一緒だ、とハーレイは『追憶』の表紙に刷られたブルーを指先で撫でた。
「俺はお前を忘れはしない。この瞳のお前を忘れはしない」
お前自身が全てを忘れられる時が来るまで。
生まれ変わったお前の右手が、あいつの右手が二度と凍えなくなる日まで…。
その日が来るまで、俺はお前を決して忘れてしまいはしない。
お前自身が望む時まで前のお前の悲しい瞳を忘れはしないし、いつだってお前の側に居てやる。
今日みたいに二人で旅もしような、地球の美味い物を色々食わせてやるから。
「でないとお前が寂しいだろう? そんな悲しい目をしたままじゃあな…」
……ブルー。
いつまでも、何処までもお前を連れてってやるさ。
お前が望む間は………ずっと。
研修の夜・了
※小さなブルーには内緒で、前のブルーと研修の旅に出たハーレイ。写真集を持って。
今でも忘れられない、大切な人。小さなブルーが気付いたら、嫉妬は確実ですね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv
澄み切った青空が広がる行楽の秋、食欲の秋。シャングリラ学園ではマザー農場での収穫祭で食欲を満たし、その後は学園祭へと一気に突っ走るのが恒例です。二学期の開始と共に学園祭の準備にかかる有志も多いですけど、私たちは至ってのんびりと。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
今日も授業お疲れ様、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が迎えてくれて、栗の渋皮煮のパイが切り分けられました。コーヒーや紅茶も好みで選んで、いつものティータイムの始まりです。やがて部活を終えた柔道部三人組も加わり、お腹をすかせたキース君たちには焼きそばが。
「あっ、ぼくも! ぼくも焼きそば!」
ジョミー君が手を挙げ、サム君も。スウェナちゃんと私も「少しだけ」と頼み、結局、全員が「そるじゃぁ・ぶるぅ」特製焼きそばに舌鼓。この焼きそばは学園祭の柔道部の屋台でも出され、今や名物になりつつあります。秘伝の味の指導係はキース君たちで。
「今年もその内に焼きそば指導か…」
秋だしな、とキース君がボソリと呟けば、シロエ君が。
「…去年のレシピ、覚えてるわけないですよねえ…。なにしろソースの配合が…」
「門外不出の秘伝ですしね、口伝になっていますから…」
みんな絶対忘れてますよ、とマツカ君。
「ぼくも記憶が怪しいです。ベースが市販のお好み焼きソースで…」
「そこに中濃ソースとオイスターソースと…」
醤油もですね、とシロエ君が記憶を確認中。記憶力抜群のキース君も確認作業に加わり、三人揃って焼きそば作りの手順まで語り合っていますけど…。
「うん、芸術の秋だよね」
まるで繋がらない台詞を会長さんが突然口にし、全員がポカーン。
「「「……芸術?」」」
秘伝の焼きそばは芸術でしょうか? そりゃあ、料理も場合によっては芸術の域で、プロ顔負けの「そるじゃぁ・ぶるぅ」の腕前は充分に芸術かもしれません。でも……焼きそばはちょっと違う気が…。
「あ、違う、違う、焼きそばの話じゃなくて!」
考え事をしていたものだから、と会長さんは慌てて右手を左右に振りました。
「ちょっとね、この間から色々と…。お抱え絵師って知ってるかな?」
「「「お抱え絵師?」」」
確かに絵師なら芸術でしょう。焼きそばとは別の次元ですけど、お抱え絵師って何のお話?
会長さんが言いたいことはサッパリ分かりませんでした。唐突にお抱え絵師なんて口にされても意味不明です。そもそも、お抱え絵師というのが耳慣れない言葉なんですが…。
「うーん、キースなら知らないかな? お抱え絵師だよ、言葉そのまま」
「アレか、昔の権力者とか金持ちとかが自分好みの絵を描かせていた絵描きのことか?」
「そう、それ、それ!」
屏風絵だとか襖絵だとか、と会長さん。
「いわゆるパトロンってヤツだよね。生活費も全部面倒見るから、心のままに描いてくれ…って太っ腹な人たちのお蔭で凄い芸術家たちが生まれたわけ。それを再現しようって企画が」
「「「は?」」」
「ぼくもこの間、璃慕恩院の老師に聞くまで知らなかったよ。アルテメシアの座禅の宗派のお寺の一つがそういう企画をやっていたらしい。名付けて現代のお抱え絵師プロジェクト!」
これが凄くて、と会長さんは膝を乗り出して。
「絵師は公募で選んだんだけど、その絵師さんを何年もお寺に住み込ませてさ…。座禅やお寺の掃除なんかの修行もセットで体験して貰いつつ、襖絵を何十枚も描かせていたんだ。ついに完成したってことでお披露目があって、老師も招待されたらしいよ」
「ほう…。そんなのがあったのか…」
俺も初耳だ、とキース君。
「なかなかに凄い企画だな。今どき住み込みで絵を描こうという芸術家の方も少なそうだが」
「そうなんだよねえ…。しかもプロジェクトのコンセプトがさ、絵師の育成っていうのが凄すぎ。名前のある人を連れて来るんじゃなくって、無名に限るという条件で公募」
「「「無名?」」」
それじゃいい絵にならないのでは、と誰もが思いましたが、違うのだそうで。
「無名だからこそ、新しい境地に挑戦できる。お寺の生活を身体に刻んで、そこの空気に相応しい絵を次々と…ね。出来上がった襖絵は素晴らしかった、と老師も手放しで褒めてたよ」
そういうのって素敵だよね、と会長さんの瞳がキラリ。
「…それを聞いてから考えてたわけ、ちょうど芸術の秋だしね。ぼくもお抱え絵師をゲットして襖絵を描いて貰おうかな…って」
「寺を持つ気か?」
キース君がすかさず突っ込みを入れると、会長さんは「ううん」と否定。
「そんな面倒なことはしないよ、住職稼業は大変だしさ。ぼくの家にも襖はあるし、あれを素敵に描き変えようかと」
ちょっといいだろ、と言われましても。今の襖絵、それなりにお高いヤツなのでは…?
マンションの最上階にある会長さんの家はフロアの全部を占めています。広いリビングやダイニング、ゲストルームも幾つもある中、和室も一つ。特別生になった最初の年の夏、埋蔵金探しで掘り当てて来た黄金の阿弥陀様のお厨子が置かれた立派な部屋で。
「おい。…あそこの襖絵、璃慕恩院の老師様の客間と同じ人の絵じゃなかったか?」
確かその筈、とキース君が指摘しましたが、会長さんはニッコリと。
「そうなんだけどね…。長年同じ絵を眺めてるとさ、飽きもくるっていうもので」
「あの手のヤツは年月を経て更に値打ちが出るものだろうが! 取り替えてどうする!」
今のままで行け、というキース君の意見はもっともでした。花鳥風月が描かれた襖絵は部屋の雰囲気に馴染んだもの。和室の廊下に面した側に小さな物置と板を張った廊下があって、そこと和室を隔てる境が襖です。今の襖絵、とてもいい絵だと思うんですけど…。
「うーん…。ぼくも嫌いじゃないんだけどねえ、模様替えもたまには悪くないかと」
今の襖を捨てるわけじゃなし、と会長さん。
「今のもきちんと取っておいてね、気分で入れ替えっていうのはどうかな?」
「…そう来たか…。で、お抱え絵師だとか言い出すからには住み込みで襖絵を描かせるのか?」
「もちろんさ。公募しなくても喜んで描きそうな人物がいるし」
「「「へ?」」」
誰が襖絵を描くんでしょう? まさか私たちの内の誰かが? あっ、ひょっとして…。
「もしかして、サム?」
ジョミー君がサム君を指差しました。
「え、俺かよ?」
なんで、とキョトンとしているサム君ですけど、有望株には違いありません。
「サムってブルーの弟子だよね? 朝のお勤めにも通ってるんだし、きっとそうだよ」
「それを言うなら、お前もブルーの弟子じゃねえかよ」
お勤めには一度も来ねえけどな、とサム君が返し、シロエ君が。
「喜んで描きそうっていう辺りからして、サム先輩じゃないですか? 会長とは公認カップルですしね、住み込みとなれば嬉しいでしょう?」
「そ、そりゃそうだけど…。でもよ、俺って絵心もねえし」
「落ち着け、サム。公募した方は無名というのが条件だ」
だからお前で決まりだろう、とキース君も読んだのですが。
「…残念でした。サムもいいけど、もっと相応しい人物が一人!」
それを使わずして何とする、と人差し指を立てる会長さん。サム君じゃないならいったい誰が…?
会長さんがお抱え絵師に使いたい人に心当たりが無い私たち。サム君よりも適役となると、私たち七人グループの内の誰かでは無いような…。
「まさかキースってことはないよね?」
真面目に仕事はしそうだけどさ、とジョミー君が言えば、当のキース君が。
「馬鹿を言え! 俺は副住職の仕事があるんだ、住み込みなんぞやってられるか!」
「でも、先輩の御両親は喜んで送り出しそうですよ?」
銀青様の家に住み込みですし、とシロエ君。
「おまけに襖絵を描くとなったら名誉な話じゃないですか? お寺の世界は分かりませんけど」
「あー、それはあるよな、キースって線も」
坊主としては凄い名誉、とサム君が。
「ブルーのために何か仕事をするとなったら、副住職なんか目じゃねえぜ。行って来いって言われるんでねえの、それこそ壮行会付きで」
「………。あの親父ならやりかねんな…」
俺なのか、と困惑顔のキース君。
「ブルーだと思うと迷惑千万だが、銀青様のお宅の襖絵となれば話は別だ。…しかしだ、俺だと手本通りのつまらん絵にしかならんと思うが」
なにしろ寺の人間だから、とキース君は悩んでいます。
「あちこちで襖絵を拝みすぎた。…斬新な発想というヤツは俺には無いぞ」
「うん、それはぼくにも分かってる」
だから君には頼まないさ、と会長さんがバッサリと。
「斬新な発想が無いのもアレだけど、銀青の名前に釣られて来られちゃ抹香臭い絵しか出来ない。お抱え絵師である以上、パトロンへの敬意は必要だけどね…。絶対服従でもダメなんだな」
自分の意見をガンとして曲げない姿勢も必要、と会長さん。
「パトロンと大喧嘩をやらかしてでも自分の描きたい絵を描いてこそ、後世に残る名作が出来る。キースはぼくと普段から喧嘩するけど、襖絵を描くとなったら無意識の内に絶対服従」
「…否定は出来ん。銀青様の家を飾る絵となれば誠心誠意尽くすしかない」
襖絵に関して喧嘩は出来ん、と項垂れるキース君は階級制度が厳しく敷かれたお坊さんの世界の住人です。会長さんが望む斬新な絵とやら、間違っても描ける筈も無く。
「…じゃあ、誰なんだよ? 俺もキースも失格ならよ」
「ジョミーかしら?」
「ぼくが喜ぶわけないし!」
ぼくだけは無い、とジョミー君。はてさて誰が適役なのやら、全然分かりませんってば…。
やはり私たち七人グループの中には、お抱え絵師が務まる人は居なさそう。それとも会長さんの視点からすれば大穴の誰かが含まれてるとか? お前だ、お前だ、と押し付け合いが始まりつつある中、会長さんがスッと右手を上げて。
「はい、そこまで! …君たち全員、間違ってるし!」
あ、やっぱり? じゃあ誰が、と顔を見合わせた私たちですが。
「分からないかな、ぼくのためなら喜んで絵を描く人物だよ? そして住み込みも大歓迎! そんな人間、一人しかいないと思うんだけどねえ?」
「「「……???」」」
「ハーレイだってば、シャングリラ学園教頭、ウィリアム・ハーレイ!」
「「「教頭先生!!?」」」
あまりにもブッ飛びすぎた答えに全員の声が引っくり返り、キース君が口をパクパクと。
「…お、おい、正気か? あんた、本気で教頭先生を…?」
「そうだけど? 楽しいじゃないか、どんな絵を描いてくれるのか」
ぼくのための絵をうんと自由な発想で! と会長さんはパチンとウインク。
「お抱え絵師として住み込んで貰って、芸術の秋に相応しく…ね。もちろん朝夕のお勤めはして貰うけれども、後は自由にのびのびと! とはいえ、ぼくもパトロンだ。気に食わない絵を描いた時には描き直させるし、そこをハーレイがどう論破するかも面白い」
この秋は芸術に浸って過ごそう、とやる気満々の会長さん。
「ハーレイは嫌とは言わないだろうし、お抱え絵師を持つというのも素敵だろ? ハーレイの家に一人で行くのは禁止だけれど、ぼくの家にハーレイを泊まらせる方は禁止じゃないしさ」
パーティーとかでも泊めているしね、と言われてみればその通り。でも…。
「ヤバくねえのかよ、教頭先生、何か勘違いしそうだぜ?」
サム君が声を上げ、シロエ君も。
「そうですよ。一緒に住むのはマズそうですけど…」
「問題ない、ない! お抱え絵師はお抱え絵師だよ、あくまでパトロンに養われるだけの立場に過ぎないし! ハーレイの夢とは真逆の方向」
あっちはぼくを養ってなんぼ、と会長さんは立て板に水。
「ぼくとぶるぅを贅沢三昧で暮らさせるのと、ぼくとぶるぅに養われるのとじゃ月とスッポン、似ても似つかない日々ってね。その中でハーレイをいびり倒すのもまた良きかな! いい襖絵を描いてくれたら苛めないけどさ」
そこは期待を裏切らない筈、と微笑む会長さんが期待するのが苛めの日々か良い襖絵かは誰も怖くて訊けませんでした。明日は土曜日、会長さんの家で教頭先生を面接するそうです。お抱え絵師を選ぶためとか言ってますけど、どう考えても出来レースですよ…。
次の日、私たちは朝から会長さんの家にお邪魔しました。朝食は食べて行ったのですけど、ふわふわの厚焼きホットケーキを御馳走して貰って大満足。その内に玄関のチャイムが鳴って、教頭先生の御到着です。面接会場はリビングで…。
「やあ、ハーレイ。よく来てくれたね」
コーヒーでも飲みながら話をしよう、と会長さん。テーブルを挟んで会長さんと教頭先生が向き合い、私たちの席はその周り。絨毯が敷かれた床に飲み物を持って散らばり、固唾を飲んで見守る中で会長さんが早速口火を。
「話があって、としか言わなかったけど、芸術についてどう思う?」
「…芸術? 芸術の秋の、あの芸術か?」
「うん。君とは縁が無さそうだけどね」
遠慮のない言葉に、教頭先生は頭を掻いて。
「…ああ、まあ……恥ずかしながら…。その方面はサッパリだ」
「いいね、そのフレッシュさが気に入った。実はフレッシュな人材を探していてさ…。お抱え絵師にならないかい? ぼくの」
「お抱え絵師?」
「そう。ぼくの家に住み込んで襖絵を描いて欲しいんだ。君の心の赴くままに、ぼくの家に相応しい襖絵を…ね」
どんな絵を描くのも君の自由、と会長さんは極上の笑み。
「お抱え絵師な以上、ぼくがパトロン。ぼくのためだけに襖絵を描いてくれるなら、即、採用! 今日からぼくの家で暮らして、朝夕のお勤めをして貰う。条件としてはそれだけかな。ぼくの家での暮らしを通して、それに相応しい襖絵を是非。…嫌なら他を当たってみるけど」
「…そ、その条件は嬉しいのだが…。私には絵心というヤツが…」
とんと無くて、と答えながらも教頭先生が惹かれていることは一目瞭然。すかさず会長さんが畳みかけるように。
「絵心が無い点、大いに結構! フレッシュな人材と言っただろ? 君だってクレヨンや水彩で絵を描いたことはある筈だ。画材は何でもいいんだよ。退色しそうなヤツを使って描いた時にはサイオンでコーティングしておくからさ」
「そうなのか? ならば私でも務まるかもしれんが、そのぅ……どういった絵を…」
「君に任せる。やってくれるなら和室の方に案内しよう」
どうするんだい? と問い掛けられた教頭先生、考えもせずに即答でした。
「やろう! お前が任せてくれるというなら、住み込みで描く!」
「それはどうも。…じゃあ、ついて来て」
和室はこっち、と会長さんが立ち上がり、教頭先生がその後に。会長さんの計画通りにお抱え絵師が誕生ですけど、どんな襖絵が出来るのやら…。
お抱え絵師に決まった教頭先生、一旦帰宅して着替えなどを大きなボストンバッグに詰め込んで戻って来ました。ゲストルームの一つが教頭先生の寝室になり、もう一つがアトリエになるようです。家具を撤去して広くなった部屋は襖絵を描くのにピッタリで。
「発想を練る場所は特に決めない。リビングでもダイニングでも自由にどうぞ」
頑張っていい絵を描いてよね、と会長さんは壮行会と称して鍋パーティーの夕食を。私たちもお相伴して寄せ鍋を始めようか、という所へ。
「…こんばんは。凄い計画が始まるってねえ?」
前祝いに、と声がして空間が揺れ、会長さんのそっくりさんが。紫のマントの正装ではなく私服姿で、なんと樽酒を抱えています。
「お祝いに買って来たんだよ。ノルディに貰ったお小遣いが沢山あるからね」
「何しに来たわけ?」
呼んだ覚えは無いんだけれど、と会長さんが睨みましたが、ソルジャーはまるで気にせずに。
「壮行会だろ、お祝いを持参した以上は混ざっていいよね? 君もハーレイもいけるクチだし」
まずは鏡割り、と樽酒を包んだ縄をサイオンでパチン! と切ったソルジャー。菰を外して竹の箍を緩め、蓋の栓を抜いて…と下準備をしてから「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「確か木槌はあったよね? ドカンとやろうよ」
「かみお~ん♪ 鏡割りだね!」
お祝いだぁ~! と飛び跳ねていった「そるじゃぁ・ぶるぅ」は木槌を三本抱えて戻ると。
「はい、ハーレイ! それとブルーとブルーだね!」
どうぞ、と手渡された木槌を教頭先生とソルジャーが握り、会長さんも仕方なく。
「…まあいいや。来ちゃったものはどうしようもないし…」
「その意気、その意気! ハーレイの栄えある前途を祝して!」
ソルジャーの音頭で教頭先生が木槌を振り下ろし、会長さんとソルジャーも。パァーン! と景気のいい音がして樽酒の蓋が割れ、それからは寄せ鍋を囲んで大宴会で。
「こっちのハーレイも出世したよね、ブルーのお抱え絵師だって?」
まあ一杯、とソルジャーが枡酒を注ぎ、教頭先生、グイッと一気に。
「ありがとうございます。私も正直、夢を見ている気分でして…」
「そりゃそうだろうね、お抱えだもんね。ちゃんとペースは守って飲んでよ、最初の夜から失敗したんじゃ話にならない」
勃たなくなったら大変だ、とソルジャーが注意し、教頭先生が。
「分かっております。足腰が立たなくなるまで飲んでしまっては、明日の朝にも差支えますし」
「そうそう、朝が肝心だよ、うん」
大いに飲もう、と枡酒を注いでいるソルジャー。教頭先生、飲みすぎないようにして下さいよ~!
ソルジャーが持ち込んだ樽酒で盛り上がっている飲める面々。「そるじゃぁ・ぶるぅ」もチビチビ舐めつつ寄せ鍋の世話をしています。私たち七人グループは飲めませんから、ひたすら鍋をつついていたわけですが。
「いいかい、ハーレイ? 初めてで緊張するだろうけど、がっつかないように!」
あくまでブルーが最優先、と枡酒をグイと呷るソルジャー。
「なんたってブルーも初めてなんだし、そこの気遣いをきちんとしなくちゃ」
「もちろんです。芸術の方はサッパリですが、任されたからにはやり遂げます」
「芸術は二の次でいいんじゃないかな」
夜のお勤めが大切だろう、とソルジャーが返せば、教頭先生も頷いて。
「そうですね。…一にお勤め、二にお勤め。朝夕のお勤めは欠かすべからず、とブルーにも言われましたし、頑張るのみです」
「うんうん、実に素晴らしいよ。夜はともかく朝もっていうのが最高だよね」
明日の朝もガンガン攻めて行け、とソルジャーは教頭先生の背中をバンッ! と。
「とりあえず明日は日曜だ。ブルーの身体を気遣いながら、やれるとこまでヤッてみようか」
「は、はいっ! 気合を入れて早起きします!」
そして一緒にお勤めを…、と教頭先生、枡酒をグイグイ。ソルジャーも手酌で飲んでいますが、同じく枡酒を楽しんでいた会長さんの手がピタリと止まって。
「…ブルー? ちょっと訊きたいんだけど」
「ん? なんだい?」
大人の時間ならドンとお任せ、と片目を瞑るソルジャー。…えっと、大人の時間って? そんな話が出てましたっけ? 案の定、会長さんがドンッ! と拳を机に叩き付けて。
「そんな話じゃないってば! 君は何処からそういう方に!」
「何処からって……。最初からだけど? ハーレイが君のお抱え絵師になるんだろう?」
でもって朝と夜とにお勤め、とソルジャーは枡酒を注ぎつつ。
「考えたよねえ、まずは婚前交渉からかぁ…。毎日、夜と朝とにやってりゃ腕も上がるし、君の好みに躾も出来る。襖絵は二の次、まずは大人の時間が一番!」
そのためにも今夜の成功を祈る、と枡酒をグイッ。
「あんまり飲むと勃たなくなるって話もあるから、君もハーレイもほどほどにね? あ、ぼくは飲んでも大丈夫なクチ! で、訊きたいっていうのは初心者向けの体位とか?」
それならハーレイと一緒に聞くべし、とソルジャーはとびっきりの笑みを浮かべましたが。
「勘違いにも程があるーっ!!!」
この色ボケの大馬鹿野郎、と会長さんの怒り炸裂、樽酒の樽がサイオンを食らって粉々に…。三人がかりでどれだけ飲んだのか知りませんけど、あまり零れませんでしたねえ?
床と絨毯に飛び散ったお酒を「そるじゃぁ・ぶるぅ」が拭き掃除する中、会長さんとソルジャーはギャーギャーと喧嘩をしていました。ソルジャー曰く、教頭先生の主な仕事は夜と朝との大人の時間。お勤めイコール大人の時間らしいです。
「だってアレだろ、君がハーレイを雇って面倒みるんだろ? それでお勤めが必須となったら、ソレしか思い付かないし!」
「なんでそっちの方に行くかな、お勤めと言ったらお勤めだってば!」
朝と夜とに読経三昧、と会長さんが叫べばソルジャーも負けじと声を張り上げて。
「だから度胸だろ、度胸は必須! でないと勃つものも勃たないし!」
「その必要は無いんだってば!」
ハーレイは絵だけを描けばいいのだ、と会長さんが喚き、ソルジャーが。
「じゃあ、フレッシュって言っていたのは何なのさ! 童貞って意味じゃないのかい?」
「誰もそういう話はしてないっ!」
よくも不愉快な勘違いを、と怒り狂っている会長さん。その一方で教頭先生は難しい顔で腕組み中。
「…ふむ……。フレッシュな感性を活かさねばならないのだったな…」
それにお勤め、と考え込んでいる教頭先生。
「やはり寺という要素をまるでゼロには出来ないか…。実に難しい注文だ…」
えーっと…。ソルジャーが勘違いしまくって大人の時間を語った事実と、会長さんと盛大に喧嘩中なことは教頭先生の耳に入っていないのでしょうか? ちゃんとお勤めとお寺が結び付いているようですし…。
「もしもし、ハーレイ?」
ちゃんと聞いてた? とソルジャーが教頭先生の肩を揺すると、ガッシリした体躯がビシッと背筋を伸ばした上で。
「もちろんです! 飲みすぎ禁止で朝が肝心、今夜の心構えもです!」
「…なんだ、こっちは分かってるんだ? いいかい、ブルーの扱い方はね…」
初心者向きならこんな感じで…、と囁きかけたソルジャーの背後で会長さんが仁王立ち。鏡割りに使った木槌を両手で振り上げ、鬼の形相。
「その先、禁止!」
「ちょ、ちょっと…! まだハーレイに何も伝えてないし!」
ちょっと待った、というソルジャーの制止を無視して会長さんは思い切り木槌を振り下ろし…。
「退場!!!」
木槌が床をドッカンと叩き、ソルジャーの姿はありませんでした。空間を超えて文字通り高飛びしたようです。散々に場を引っ掻き回しておいてトンズラですか、そうですか…。
「…なんだったんですか、アレ…」
ソルジャーが消えた辺りを見詰めてシロエ君が呆然と。
「さあな…。俺も積極的に知りたくはないが」
それくらいなら忘れてやる、とウーロン茶を呷るキース君。
「勘違い野郎が出て来たというだけで充分だろう。…とにかく襖絵には関係が無い」
「だよね。やたらお勤めにだけ、こだわっていたみたいだし?」
そんなにお経が好きだったかな、とジョミー君が首を捻れば、サム君が。
「お念仏も嫌いだったと思ったけどなぁ…。あれで意外と異文化に理解があったりしてな」
ソルジャーってヤツをやってんだから、と言われて納得。何処かズレていた気もしましたけど、ソルジャーが教頭先生に朝夕のお勤めについて説いていたことは紛うことなき真実です。大切だとも言ってましたし、教頭先生もここは努力で会長さんとお勤めをして下さらないと…。
「まあね…」
そうなんだけどね、と会長さんが疲れた口調で。
「ハーレイ。…若干一名、変なのが湧いたようだけど…。君の仕事は分かっているよね?」
「当然だ。そのためのお抱え絵師だろう?」
襖絵のことなら任せておけ、と教頭先生は分厚い胸を叩きました。
「樽酒が出たのには仰天したが、酒に飲まれるなど言語道断。今夜の夜のお勤めとやらを疎かにするつもりなどないし、明日の朝もきちんと起床する。…朝のお勤めは何時からだ?」
「…なるほど、至って正気である、と」
安心した、と微笑む会長さん。
「朝のお勤めはサムが来る日は六時からだよ。日曜は基本、サボリだけども…。お抱え絵師には修行も大切、起きられそうなら四時に起床で準備からかな」
詳しい手順はぶるぅに聞いて、との言葉を受けて「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「えっと、えっとね…。朝一番にお水を汲んで、阿弥陀様の前にお供えして…。あ、その前にお掃除も! お厨子とかをキチンと拭くとこからだよ」
それからお香で部屋を清めて、お花も活けて…、と次から次へと飛びまくる指示を教頭先生は頭の中に懸命にメモしてらっしゃる様子。お酒は飲んでも飲まれないと仰るだけのことはあります。
「…よし、分かった。では、明日の朝は四時に起床で頑張ってみよう。夜のお勤めの方は…」
どうなるのだ、と訊かれた会長さんが和室の方を指し示して。
「やる気になったなら始めようか。…鍋パーティーはこれでお開き! 今夜は解散」
希望者は瞬間移動で家まで送るよ、との好意に甘えて私たちは送って貰うことに。会長さんと教頭先生はそれが済んだ後で身体を清めて、阿弥陀様の前で読経だそうですよ~!
こうしてスタートを切った教頭先生、朝夕のお勤めをこなしつつ襖絵の構想を一週間ほど練っておられて、次の日曜日から製作開始。私たちが土曜日に遊びに行って尋ねたところ、素晴らしいアイデアが浮かんだとかで…。
「朝のお勤めと食事が済んだらアトリエに籠もって描いてるようだよ」
どんな絵かなぁ、と会長さんは好奇心に瞳を輝かせながら、家を訪れた私たちに。
「せっかくだから、覗き見はしないと決めたんだ。ぼくも、ぶるぅも」
「かみお~ん♪ 仕上がった時の、何だったっけ…カンドーだっけ?」
「そうそう、感動が薄れるからね。ハーレイもその方がいいだろう」
制作過程で何かと文句をつけられるよりは自由自在に筆を揮って、と会長さん。
「出来上がったヤツが気に入らなければ描き直し! 同じ描き直しなら下絵とか一枚だけの段階でやらせるよりもさ、仕上がったヤツがパアになる方がダメージが思い切り大きいしねえ?」
製作期間も延びてしまって修行の日々が…、と可笑しそうに笑う会長さんは朝夕のお勤めで教頭先生をいびり倒しているようです。サム君の証言によると指導の厳しさは修行体験ツアーの比ではなく、キース君がたまにジョミー君にやるシゴキに匹敵するレベル。
「え、シゴキ? それくらいやらなきゃ意味が無いだろ、お抱え絵師だよ?」
創作の方を自由にさせる分、締めるべき所はキッチリ締める、と会長さんは鬼の笑み。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も補佐役として教頭先生の立ち居振る舞いをチェックしているそうで。
「えっとね、畳の縁は踏んだらダメでしょ? それと歩幅も大事なの!」
「基礎の基礎だよね、修行のね」
それも出来ないような絵師にはロクな襖絵は描けやしない、と会長さん。そうやってシゴキまくられた教頭先生、本日は創作に没頭中。お昼御飯も食べにおいでにならなかったため、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が食べやすいお弁当を作ってお届けに…。
「どうだった、ぶるぅ? 描いていたかい、ハーレイは?」
会長さんの問いに、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はコックリと。
「うんっ! なんかブルーが来ていたけれど…」
「「「は?」」」
ブルーって? もしかして、こないだの樽酒騒動の…?
「ハーレイとお話していたよ? 後でこっちに来るんじゃないかなぁ」
きっと見学希望だよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が言っていた通り、それから間もなく私服のソルジャーが私たちの集うリビングに来たのですけど。
「えっ、資料?」
何の、と首を傾げる会長さんに、ソルジャーが。
「襖絵のだよ。…ネタに詰まって苦しんでたから、こないだ資料を提供したんだ」
「君がかい? 資料だったら、ぼくかぶるぅに言えばいいのに…」
その辺については文句は言わない、と会長さんが返せば、ソルジャーは。
「…言いにくいんだろ、シャイだしさ。お抱え絵師っていう立場だけで緊張しているみたいだよ」
毎日のお勤めが大変らしいね、と教頭先生に同情しきりで。
「もう少し、こう…。優しく扱ってあげればいいのに。ハーレイ、お勤め初心者だろう?」
「君が余計なことを言わなきゃマシだったかもね、お勤めの時間」
樽酒持参で勘違いして思いっ切り、と会長さんは吐き捨てるように。
「あれで徹底的にいびると誓ったんだよ、自分の心に! その代わり創作はのびのびと! 緩める所は緩めてあるんだ、文句を言われる筋合いは無い」
「なるほどねえ…。それじゃ気の毒な絵師を慰める役目は引き受けておくよ、資料提供とかも含めてさ」
「鼻血が出ない程度で頼むよ、襖絵がパアになっちゃうからね」
ハーレイの仕事を邪魔するな、と会長さんが釘を刺し、ソルジャーが。
「分かってるってば、一から描き直しになるんだろう? 心配しなくてもモデルはしないし、そうでなくてもぼくのハーレイも忙しいから手伝いに来てはあげられないよ」
「君のハーレイ? …確かに同じハーレイだけどさ、きっと感性が違うと思う。それに襖絵の絵師は今回は一人! 絵師が集団で請け負うケースもあるけど、ぼくはハーレイに頼んだんだからね」
姿形がそっくり同じでも絵師が二人じゃ話が違う、と会長さんはキャプテンの協力を即座に却下。そりゃそうでしょう、キャプテンの方はお抱え絵師って括りを外れてしまいますし…。
「ぼくが芸術の秋に求めるのはお抱え絵師! 君のハーレイもウチに住み込んでいるならともかく、他の世界からフラッと来るんじゃ意味が無い。アルバイトの絵師は要らないんだよ、無料で来るならボランティアかもだけど」
どちらにしてもお呼びじゃない、と大却下ですが、ソルジャーは特に言い返しもせずに。
「了解。それじゃハーレイのアトリエに寄ってから帰ろうかな。こないだ渡した資料の件で、まだ煮詰まってたみたいだしね」
下絵はかなり進んでいたけど、と語るソルジャーに襖絵の出来を質問する人はいませんでした。お抱え絵師のフレッシュなセンスを評価するのがこのプロジェクト。まるっと描き直しになったとしても、完成品を拝んでなんぼの企画ですってば…。
製作開始から一ヶ月。会長さんの厳しいシゴキに耐え、忙しい学校行事に追い回されつつ、黙々と筆を揮い続けた教頭先生の襖絵がついに完成の日を迎えました。お披露目の土曜日、私たちが会長さんの家に出掛けると先にソルジャーがちゃっかり来ていて。
「こんにちは。…ハーレイの襖絵、披露に一役買うことになってね」
ね、ブルー? と訊かれた会長さんが苦笑い。
「…しょっちゅう様子を見に来ていたし、ハーレイも頼りにしていたみたいで…。それにブルーのサイオンがあれば完成品を襖っぽく見せられるんだ。和室にズラッと立てて並べて」
そうでなければ床に並べて眺めることに…、と会長さん。
「ぼくのサイオンでも同じことは出来る。でもね、そのためには現物を見なきゃならないし…。一旦床で眺めるよりかは最初から襖仕立てだよ、うん」
「というわけで、ぼくの出番さ。ハーレイは和室に控えているし、襖絵は綺麗に並べておいた。みんな揃って見てあげてよね」
ハーレイの渾身の力作を! と先に立って歩いていくソルジャー。私たちも会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」の後ろに続いて、教頭先生と襖絵が待つ和室に入って行ったのですけど。
「な、な、な………」
会長さんが目を白黒とさせ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の目はまん丸。私たちは…。
「…これってパクリって言わないわけ?」
何処かで見た、とジョミー君がしげしげと見入り、キース君が。
「…まんまではないが、パクリだな。これを知らないヤツはモグリだ」
「鳥獣戯画って言うんですよね、確かお寺の所有物で…」
シロエ君の台詞に、教頭先生が自信たっぷりに。
「うむ。せっかくだから寺の要素を取り入れてみた。そしてブルーへの想いをぶつけて四十八手に挑んだのだが、どうだろう? 資料はブルーが貸してくれてな、動物のチョイスも手伝ってくれた」
「「「…四十八手?」」」
なんのこっちゃ、と襖絵の中で相撲を取っている兎や猿やカエルの数を数えてみれば確かに四十八組あります。相撲の決まり手も実に様々、もつれまくって絡む様子は斬新で…。
「……ハーレイ……。なんでこういう展開なわけ?」
会長さんの地を這うような声が響いて、教頭先生が不思議そうに。
「お前、壮行会の時に言わなかったか? こういう時間が肝心だとか」
「それを言ったのはブルーだってば、ぼくじゃなくって!」
よくもエロい絵を阿弥陀様の前に並べ立ててくれたな、と会長さんは怒り心頭。この絵って何処かエロいんですか? 鳥獣戯画のパクリだとしか思えませんけど…。
「君たちもそう思うだろ? それにエロと芸術は紙一重だとか言うんだってね、こっちの世界じゃあ? ハーレイの渾身の作の襖絵、もう最高だと思うんだけど…」
これぞ芸術の真骨頂! とブチ上げるソルジャーと、樽酒で酔って情報が混乱したのか自信溢れる教頭先生の最強タッグ。会長さんにはお気の毒ですが、何処がエロいのか分からない以上、これは芸術だと思います。お抱え絵師さん作の鳥獣戯画で新しい襖絵、如何ですかぁ~?
お抱えの絵師・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生が描いた襖絵、とんでもないモノになったようです。おまけにパクリ。
ちなみに「お抱え絵師プロジェクト」は実在しました、座禅の宗派な某寺ですけど。
そしてシャングリラ学園番外編は、11月8日で連載開始から7周年になりますです。
7周年記念の御挨拶を兼ねまして、今月は月に2回の更新です。
次回は 「第3月曜」 11月16日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、11月は、先日の巨大スッポンタケの末路が問題なようで…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(あっ、ホットケーキだ!)
土曜日の朝、起きて行ったらテーブルに焼き立てのホットケーキ。少ししか食べられないぼくに合わせてママが小さめのリングで焼いてくれる、それ。「一枚だとつまらないでしょう?」と二枚重ねてお皿に載せるために、パパやママのよりも一回り小さめに仕上げてくれるホットケーキ。
熱々を食べたいから、急いで上にバターを乗っけた。それからメープルシロップもたっぷりと。ナイフで切って、フォークで口に運ぶとふんわり軽くて甘い。
(うん、美味しい!)
ホットケーキは特に珍しくもないんだけれども、今日はなんだか胸がときめく。
(…どうしてかな?)
同じテーブルで食べているパパとママとはいつもどおりで、特に変わった様子は無い。土曜日はハーレイが来てくれる日だけど、だからといってホットケーキにときめく理由が分からない。
(ハーレイが来てくれる日はいつもドキドキなんだけど…)
でも、朝御飯にまではときめかないよ?
不思議だな、とホットケーキを頬張っていたら、ふと思い出した。
(そうだ、ホットケーキ!)
今のぼくには、ホットケーキはごくごく普通の朝御飯。おやつに食べる日だってある。
だけど、前のぼく…。
ソルジャー・ブルーだったぼくにとっては、ホットケーキは特別だった。
ホットケーキに本物のメープルシロップ。合成じゃなくてサトウカエデから採れた本物。それをたっぷりとかけて、地球の草を食んで育った牛のミルクのバターを添えて。
それが前のぼくが夢に見ていた朝御飯。
(…今、食べてるのがそうなんだけど…)
そうなんだけど、と、ぼくはバターが染み込んだホットケーキをメープルシロップに浸す。
シャングリラでは採れなかったメープルシロップ。公園にも居住区の庭にもサトウカエデの木は無かったし、いつだって合成のメープルシロップ。
あの頃のぼくは、地球に行けば本物のサトウカエデの森があるって信じていたんだ。
夏は涼しくて冬は寒さが厳しい所に広がるというサトウカエデの森。雪深い冬から春先にかけて木が吸い上げる沢山の水が甘い樹液に変わって、その樹液を煮詰めてメープルシロップが出来る。
知識だけはちゃんと持っていたから、地球に行けば本物のメープルシロップがあると思ってた。
本当は無かったんだけど。
本物のメープルシロップもサトウカエデの木が広がる森も、何処にも無かったんだけど…。
ぼくが夢見た地球は死の星で、有毒の大気と水と、砂漠化した大地。
そうとも知らずに夢を見ていた。地球は青いと、美しい母なる星なのだと。
本当のことを知らないままで、地球に行きたいと夢を見たままで死んでいったぼくは、今にして思えば多分、幸せだったんだろう。
地球の真の姿を知っていたなら、迷いなくメギドへ飛べはしなかった。
ミュウの未来が大切なのだと分かってはいても、きっと迷った。
その一瞬が命取りになって、何もかも終わっていたかもしれない。シャングリラは地球を見ずに沈んで、ミュウは誰一人として地球に着けなくて。
地球だって蘇ることもないまま、今も死の星だったかもしれない…。
(…そう考えると、思い込みって凄いよね?)
今だから分かる、前のぼくの凄い勘違い。
地球は青いと信じていたから前に進めたし、命だって宇宙に捨ててしまえた。
最後の最期で後悔したけど、ほんのちょっぴり後悔したけど…。
ハーレイの温もりを失くしてしまって独りぼっちで泣いたけれども、もう後悔はしなくていい。だってハーレイと二人で地球に居るんだし、今日だってハーレイが来てくれる。
朝御飯を食べて部屋の掃除が終わった頃に、ハーレイが門扉の横のチャイムを鳴らしてくれる。
ホットケーキの朝御飯。
前のぼくが夢見た、本物のメープルシロップと地球の草を食んで育った牛のミルクのバターとを添えた、ふんわりと焼けたホットケーキ。
シャングリラで一番最初に作られた、贅沢で豊かな気持ちになれる朝食。
それがホットケーキを二枚重ねたものだった。
(このホットケーキよりも大きかったけどね)
今のぼくが食べるホットケーキは小さめのリングで焼いたもの。
シャングリラの食堂で皆に出されたホットケーキは、普通サイズのリングで焼かれた。
(パパたちのと多分、おんなじくらい?)
多分そうだね、と思って眺める。
アルタミラを脱出した直後は船に最初から積まれていた食材だけで遣り繰りをして、その食材が無くなった後は人類側の物資を奪った。だけど、それでは危険が伴う。第一、奪いに行ける人材はぼく一人だけ。
そんな方法をいつまでも続けてはいられないから、自給自足の道を目指した。船の中を整備し、農場を作って野菜や家畜を育てていこうということになった。
皆で頑張って自給出来るようにはなったけれども、最初はパンを焼くのが精一杯。
其処から少しずつ進歩を遂げた結果、ホットケーキはまずお菓子として一人一枚で誕生した。
(…一枚きりだったけど、それでもホットケーキだったよ)
合成のメープルシロップはまだ無かったから、砂糖を煮詰めたシロップをかけた。バターだって無くて、合成だった。それでも充分に美味しく感じた、お菓子として食べたホットケーキ。
これを朝御飯に何枚も食べられるようになったらいいね、と皆で話した。
成人検査よりも前の記憶を失くしてしまった前のぼくたちだったけれども、記憶の底の何処かで覚えていたんだ。
幸せだった子供時代の記憶。何枚も重ねたホットケーキの朝御飯…。
前のぼくたちの夢が叶うまでにはかなりかかった。
小麦粉も卵も牛乳も大切な食料だったし、ホットケーキを作るには沢山の砂糖だって要る。
充分な数のパンを毎日焼けるようになって、卵も牛乳も充分な量が皆に行き渡るようになって。
やっと朝食にホットケーキを食べられる時がやって来た。
皆が待ち焦がれた夢の朝食。おやつではなくて、朝御飯のテーブルにホットケーキ。
一人二枚だったけど、充分な厚みのホットケーキに、シャングリラで採れた蜂蜜とバター。
あの日の朝の食堂で目にした皆の笑顔は忘れられない。
(みんな本当に嬉しそうだったものね、「ホットケーキの朝御飯だ」って)
だからホットケーキには思い入れがあった。
当たり前に食べられる時代になっても、ぼくにとっては特別なもの。
何度食べても、幸せな気持ちがこみ上げて来るホットケーキの朝御飯。
(…朝御飯はホットケーキが一番ってくらいに好きだったかも…)
沢山食べられるぼくじゃないけれど、今のぼくみたいに小さめのサイズで焼いて貰って、何枚も重ねて食べていたことも珍しくはない。
何枚も重なったホットケーキは「こんなに沢山食べられる時代になったんだ」という満ち足りた気分を運んで来るから好きだった。
そんなぼくと青の間で朝食を共にしていた前のハーレイは普通サイズで何枚も。
ぼくたちの幸せな朝御飯。
ホットケーキ以外のメニューの時でも、朝御飯は大抵、ハーレイと一緒。
ハーレイが青の間でぼくと朝御飯を食べているのは、一日の始まりに打ち合わせなどをしておくための会食なのだと皆が頭から信じていたから、二人きりでも大丈夫だった。
(食事を持って来てくれるクルーも全然気付いていなかったしね?)
青の間の奥のキッチンで係のクルーが最後の仕上げをする朝食。焼き立てのホットケーキなどの食卓を整えた後は部屋を出てゆくから、本当にハーレイと二人きり。
(あの頃もハーレイは今と同じで沢山食べられたんだよね…)
ハーレイは何枚も重ねたホットケーキの他にもソーセージや卵料理を食べていたっけ。
ぼくはミルクか紅茶があればそれで充分、お腹いっぱい。
紅茶も香り高くはなかったけれども、シャングリラの中で育てた木の紅茶だから充分、贅沢。
そんな朝御飯が幸せな時間だったから。
いつか地球まで辿り着いたら、人類にぼくたちの存在を認めて貰えたなら。
憧れの地球で、朝御飯にホットケーキを食べてみたかったんだ。
焼き立てのホットケーキに、たっぷりと本物のサトウカエデのメープルシロップ。
地球の草を食んで育った牛のミルクのバターを添えて。
(…ホントのホントに、いつかは食べてみたかったんだよ…)
本物のメープルシロップと、地球の草で育った牛のミルクで作ったバター。
どちらもありはしなかった。
夢の朝御飯は食べられなかった。
ぼくは地球まで行けなかったし、ハーレイが辿り着いた地球は死に絶えた星のままだった。
だけど今では青い地球の上で、ぼくもハーレイもホットケーキを好きなだけ食べられる。
(……でも……)
ハーレイと一緒にホットケーキの朝御飯。
二人で朝御飯を食べたいとママに頼めば何とかなるけど、それじゃダメ。
(庭のテーブルなら二人きりだけど、それじゃダメなんだよ)
ハーレイと二人、同じ家に住んで。
同じベッドで二人で眠って、朝になったらゆっくり起き出して、ホットケーキの朝御飯。
ぼくは多分、普通サイズなら二枚が限界。
ハーレイはきっと、今でも沢山。
何枚もホットケーキを重ねて、ソーセージだとか卵料理も食べるんだ。
そういう朝御飯を二人で食べたい。
前のぼくが何度も夢見た、憧れの地球に生まれて来たんだから…。
朝御飯のホットケーキを見て思い出した、ソルジャー・ブルーだった頃のぼくの夢。
ハーレイも覚えているのか知りたくなって、ぼくの部屋で向かい合って直ぐに尋ねてみた。
「ねえ、ハーレイ。…ホットケーキの朝御飯のこと、覚えてる?」
「ホットケーキ?」
「ぼくが食べたかった朝御飯だよ、前のぼくの夢」
覚えてる? と首を傾げてみせたら、ハーレイは思い当たったみたいで。
「そういえば…。お前、地球で食べたいと言ってたんだな、夢の朝飯」
本物のメープルシロップと地球で育った牛のミルクのバターつきで……だったな?
今もお前の夢なのか、それが?
俺たちは地球に来ちまったわけで、お前はそういうホットケーキを食ってる筈だが…。
「思い出したんだよ、ついさっき! それにぼくの夢、半分だけしか叶ってないよ」
「…半分だけ?」
ハーレイは変な顔をした。それはそうだろう、本物のメープルシロップも地球の草を食んだ牛のミルクで作ったバターもあるのに、何処が半分だけなのか、と。
けれど、ぼくにとっては本当に半分だけしか夢は叶っていないから…。
「半分なんだよ、だってハーレイと一緒に朝御飯を食べられないんだもの…」
ハーレイと一緒に地球まで行って、夢の朝御飯を食べたかったのに。
せっかく二人で地球に生まれて来たのに、家もベッドも別々だなんて。
「…ぼくはハーレイと食べたいのに…。ぼくの夢だったホットケーキの朝御飯…」
ぼくはガックリと項垂れる。
ハーレイと二人、青い地球の上に生まれてホットケーキの朝御飯くらい食べ放題。
本物のメープルシロップも地球で育った牛のミルクのバターもあるのに、ハーレイがいない。
朝御飯のテーブルにハーレイがいない……。
ぼくの気持ちはちゃんとハーレイに伝わったらしい。
鳶色の瞳が細められて、ぼくの大好きな穏やかな笑みが唇に乗る。
「分かった、分かった。俺と一緒に住めるようになったら、朝飯にホットケーキを食うんだな?」
「うん。本物のメープルシロップとバターをたっぷりつけて」
「本物のメープルシロップか…。お前、サトウカエデの森に憧れてたな」
ハーレイは覚えていてくれた。
ぼくが夢見た、サトウカエデの大きな森。地球にはあると信じていた森。
「お前が見たかったサトウカエデか…。そういう森は俺たちの国には無いようだがな?」
「だけど、地球の何処かにあるんだよね? メープルシロップ、売っているもの」
他の星からの輸入品ではないメープルシロップ。地球産のマークがついたメープルシロップ。
でも、何処の地域のものだっただろう?
当たり前に食べていたから、考えたこともなかった今のぼく。
「知らないのか? 地域としてはカナダ辺りだ、SD体制の前と同じだ」
地形はかなり変わったらしいが、とハーレイが採れる場所を教えてくれた。
SD体制の時代よりも遙かな昔から、メープルシロップが採れるサトウカエデで知られた地域。其処にカナダという国が在った頃には国旗の模様がサトウカエデの葉だったほどに。
地球が蘇った後もサトウカエデの森が広がり、雪の季節から春先にかけてがメープルシロップの原料になる樹液を集めるシーズンで…。
「よし、結婚したらサトウカエデの森を見に行ってみるか?」
雪がある季節なら、出来たてのメープルシロップをかけてホットケーキが食えるかもしれん。
「いいね。メープルシロップの元が採れる所を見てみたいな」
どうせだったらサトウカエデの森だけ見るより、樹液を集めている所。
前のぼくの夢だった本物のメープルシロップの原料を集める所を見てみたい。
ハーレイと二人でサトウカエデの森に出掛けて、ワクワクしながら眺めてみたい…。
前よりも大きく膨らんだ夢。
本物のメープルシロップだけじゃなくって、サトウカエデが生えている森。
サトウカエデから樹液を集めて、メープルシロップを作る所だって見てみたい。
うんと欲張りになった、ぼく。
こんなに欲張っていいのかな、と思ってるのに、ハーレイが笑顔でこう言ったんだ。
「知ってるか? 樹液を煮詰めてキャンディーが作れるそうだぞ、雪の上に流してな」
「キャンディー?」
雪とキャンディーが結び付かなくて、ぼくはキョトンとしたんだけれど。
「熱いシロップを雪で冷やすと柔らかく固まる。そいつを棒に巻き付けてやれば、キャンディーが出来るっていう仕組みだな」
「それ、やってみたい!」
なんて面白そうなんだろう。
キャンディーなんかを自分で作れるとは思わなかった。
本物のサトウカエデの樹液からメープルシロップを作るまでの間に、棒付きキャンディー。雪の上に煮詰めた樹液を流して、冷やして固めて棒付きキャンディー。
前のぼくが知らないままで終わったサトウカエデの森からの恵み。
あの時代の死に絶えた地球には無かった、サトウカエデからの素敵な贈り物。
瞳を輝かせて「やりたい」と強請ったら、ハーレイは「ああ」と大きく頷いてくれた。
「前からのお前の夢だったしなあ、ホットケーキとメープルシロップ。それにキャンディーを追加なんだな、今のお前は」
「うん、せっかく地球に生まれたんだもの。ホットケーキの朝御飯に本物のメープルシロップで、それとキャンディーを作ってみたい」
欲張りなぼくの願いごと。
前よりも一つ増えているのに、「うん、うん」と答えてくれるハーレイの優しさが嬉しい。
「行くとするか、サトウカエデの森に」
褐色の大きな手が伸びて来て、頭をクシャクシャと撫でられた。
「連れて行ってやるから、その前にしっかり食べて大きく育ってくれよ。…でないと結婚出来ないからな?」
「うん。…うん、ハーレイ…」
約束だよ、とハーレイの手をガシッと掴んで、褐色の小指とぼくの小指を絡ませた。
サトウカエデの森を見に行く約束。
出来たてのメープルシロップをかけたホットケーキと、煮詰めたサトウカエデの樹液を雪の上に流して作るキャンディー。前よりも増えた夢を叶えるための約束…。
前のぼくの夢だったホットケーキの朝御飯。
青い地球の上でハーレイと二人、ホットケーキの朝御飯。
本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球の草で育った牛のミルクのバターを添えて。
どうやら夢は叶いそうなんだけれど…。
サトウカエデの森を見に行ける上に、煮詰めた樹液を雪の上に流して棒付きキャンディーを作るオマケまでつきそうなんだけど、その前にぼくの背丈が問題。
ハーレイと再会した時の百五十センチから未だに一ミリも伸びない背丈。
クローゼットに微かに付けた小さな印、ソルジャー・ブルーの背丈の百七十センチに届かない。其処まで届いてくれないことにはハーレイとキスさえ出来ないどころか、結婚なんて夢のまた夢。
結婚出来ないとサトウカエデの森には行けない。
ハーレイと一緒に夢の朝御飯だって食べられない。
ホットケーキの朝御飯はもちろん、トーストだって一緒に食べられやしない。
(…大きくなれないと困るんだけど…)
早く大きくなりたいんだけど、と切実な悩みがまた大きくなる。
夢を叶えるには、まずは背丈を伸ばすこと。ソルジャー・ブルーと同じ背丈を手に入れること。
しっかり食べて大きくなれよ、とハーレイは口癖のように言うけれど。
キャプテン・ハーレイだった頃から沢山食べていたハーレイには簡単なことだろうけど。
(…沢山食べるのって難しいんだよ…)
ハーレイと再会してから、沢山食べようと頑張ってみては失敗多数で挫折も多数。
(でも、ホットケーキだったら食べられるかな?)
前のぼくの夢だった朝御飯。憧れだった地球でのホットケーキの朝御飯。
朝御飯にホットケーキを沢山食べたら早く大きくなれるかな?
頑張って三枚食べてみようか、前のハーレイにはとても敵わないけれど。
三枚は基本で、多い時には四枚重ねだって食べていたハーレイ。
それにソーセージと卵料理まで食べるだなんて、ぼくには絶対、無理だけれども…。
一日でも早く大きく育って、ハーレイと結婚したいから。
抱き合って二人キスを交わして、それから、それから……。
ハーレイと本物の恋人同士になって、一緒に暮らして、二人一緒の朝御飯。
いつもはトーストでもかまわないけど、一番の夢はホットケーキ。
前のぼくがずっと夢に見ていた、ハーレイと二人で地球の上で食べるホットケーキの朝御飯。
ハーレイがサトウカエデの森に行こうと言ってくれたから、夢は大きく膨らんだ。
メープルシロップの原料の樹液を集めるのを見て、煮詰めた樹液でキャンディー作り。
膨らんだ夢を叶えるためには、沢山食べて早く大きくならなくちゃ…。
ホットケーキに本物のメープルシロップ、地球の草で育った牛のミルクのバターを添えて。
前のぼくが夢見た朝御飯。
地球に着いたら、食べたいと願ったホットケーキの朝御飯。
ぼくは青い地球の上に生まれて来たから、本物のメープルシロップをたっぷりとホットケーキにかけられる。もちろんバターは地球の草を食んで育った牛のミルクで作ったバター。熱でトロリと溶けたバターを好きなだけホットケーキに塗り付けられる。
(夢の朝御飯が食べられるんだもの、頑張らなくちゃね?)
早く大きくなりたかったら、御飯を沢山食べなくちゃ。
何でも沢山……は難しそうだから、夢の朝御飯だったホットケーキくらいは多めに食べよう。
前のぼくの夢だった、地球の上でのホットケーキの朝御飯。
ハーレイと一緒に食べたいと願っていた夢の朝御飯。
今はハーレイの姿が足りないんだけど、そのハーレイと一緒に朝御飯を食べるために頑張る。
ホットケーキくらいは少し多めに、しっかりと食べて背を伸ばすために。
(…ちょっとずつでも、頑張ったらきっと背が伸びるよね?)
夢のホットケーキはあるというのに、足りないハーレイ。
今のぼくの夢はホットケーキの朝御飯じゃなくて、ハーレイつきの朝御飯。
ハーレイと一緒に、二人きりで食べる朝御飯。
シャングリラに居た頃と「当たり前にあるもの」が逆になってしまった。
(…地球のホットケーキの朝御飯はあるのに、ハーレイが一緒にいないだなんて…)
ハーレイと二人、一緒に暮らして、ゆっくりと起きて朝御飯。
普段はトーストでもかまわないけど、休日はホットケーキを何枚も焼いて食べるんだ。
本物のメープルシロップをたっぷりとかけて、地球の草を食んでのんびりと育った牛のミルクのバターを添えて。
きっと幸せな朝御飯。
ハーレイと一緒に地球の上で食べる、幸せな夢の朝御飯。
(…まだ半分だけしか叶わないだなんて…)
前のぼくの夢が叶ったのはホットケーキの部分だけ。
肝心かなめのハーレイがいなくて、夢のホットケーキを食べるテーブルにはぼく一人。
パパとママとが居てくれるけれど、ハーレイがいないと独りな気分。
(残り半分は、背が伸びないと叶わないんだけど…)
百五十センチから少しも伸びない、情けないぼくの小さな背丈。
ハーレイとサトウカエデの森を見に行きたいのに、伸びてくれない今のぼくの背丈。
前のぼくからの夢の朝御飯は、まだまだ当分、叶いそうにはないんだけれど。
だけどいつかはきっと叶うよ、サトウカエデの樹液を煮詰めて作るキャンディーつきで……。
ホットケーキ・了
※ソルジャー・ブルーだった頃の夢の朝御飯は食べられるのに、足りないハーレイ。
でも、いつか一緒に行けるのです。サトウカエデの森まで、キャンディーを作りに…。
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ママが焼いてくれたフルーツケーキ。ラム酒に漬けたレーズンやアプリコット、プルーンとかがたっぷり入って、真っ白なアイシングがかかってる。アイシングの上に載った紫色のアクセント。スミレの花の砂糖漬け。雪の中から顔を出したかのような紫のスミレ。
ぼくの部屋でハーレイと向かい合わせでのティータイム。ハーレイがフォークで紫色のスミレをチョンとつついた。
「…スミレもこうすれば食えるんだよなあ、面白いもんだ」
口に入れればスミレの香りがふうわりと広がる砂糖漬け。ママの手作りではなかったけれども、お菓子のデコレーションとしてお気に入り。ケーキに添えたり、ラスクに載せたり。小さな頃から何度も目にした。そう、今日みたいに。
「シャングリラでは作らなかったよね、砂糖漬け。子供たちが花束にしてたくらいで」
「ああ。こういう洒落た菓子を作って食えるほど優雅な日々でもなかったしな」
シャングリラにもお菓子はあったし、ハーレイと過ごすお茶の時間もあったのだけれど。紅茶は今のように香り高くはなく、お菓子もお洒落なものではなかった。
もっとも、そんなティータイムでも充分すぎるほどに贅沢なもの。アルタミラでの研究所時代を思えばお茶の時間が持てるというだけで夢のようだったし、幸せだった。
そういう暮らしをしていたぼくたちが、今は青い地球の上でティータイム。地球の太陽を浴びて育ったスミレの花の砂糖漬けが載ったケーキを二人で食べてる。なんて幸せなんだろう。こんなに幸せでいいんだろうか。
スミレの花を食べるだなんて、シャングリラに居た頃は思い付かなかった。
公園にスミレは沢山咲いていたけれど、あくまで目で見て楽しむもの。子供たちが摘んで花束にするもの。たまに愛らしいスミレの花束を子供たちがくれた。
「ハーレイも子供たちから貰っていたよね、スミレの花束」
「うんうん、ゼルもブラウも貰っていたな。クローバーとかと一緒で摘み放題だったしな」
子供たちが摘んで作ったスミレの花束。香りがいいから、貰うとガラスのコップに挿して枕元のテーブルに飾っていた。ハーレイは航宙日誌を書いていた机の上に飾った。
「実にいい香りがしたんだよなあ、あの花束は」
「あんなに小さな花なのにね。貰うと幸せな気分になれたよ」
「そうだな、部屋に公園が引っ越して来たような感じがしたな」
限られた空間しか無かったシャングリラの中。公園と居住区に散らばる庭だけが自然を思わせる緑のスペース。其処で咲いたスミレの花束は外の世界も運んで来てくれたように思えたものだ。
「ぼくは好きだったよ、スミレの花束。地面の上に居るような気持ちがしたから」
新しく見付けたミュウの救出や戦闘の時しか、シャングリラの外には出なかった。ぼくの力なら自由に何処へでも行けたけれども、他の仲間たちはそうではないから。
ぼくだけが自由に出歩くことはしたくなかった。そうやって自分に課した禁を破って出るようになったのは、偶然フィシスを見付けた時だけ。フィシスの地球を見に通った時だけ。
だからスミレの花が咲く地上でゆっくりと過ごしたことは無い。シャングリラの中だけがぼくの世界で、スミレの花束は外の世界を夢見るための小さな小道具。
「いつかスミレが咲いている地上で過ごしたいな、と思っていたよ。ハーレイは?」
「俺も同じだ。子供たちを思い切り走らせてやれる時が来ないかと願っていたな」
シャングリラの公園じゃなくて、広い大地で。
走っても走っても果てが無いような、花いっぱいの野原を何処までも……な。
遙かに過ぎ去った時を懐かしんでいたハーレイが「ん?」と顎に手を当てて。
「そうか、しまった…。お前と出会うのが遅すぎたな」
「えっ?」
そりゃあ、再会は早ければ早いほど良かったけれど。
ハーレイともっと早く会えていれば嬉しいけれども、その分、ぼくは今よりもっと小さな子供。ハーレイは何をしたかったんだろう?
小さなぼくを連れて野原へ行こうと思ったんだろうか、スミレを摘みに?
キョトンとするぼくの目の前、ハーレイはスミレの砂糖漬けをフォークでつつきながら呟く。
「もう二日ほど早ければ…。いや、四月の間に出会うべきだった」
「なんで?」
たったの二日ほど早いだけでいいの?
四月の間だとか、ほんの少ししか早くないけれど…。
「忘れちまったか? 俺たちが会ったのが五月三日で」
「そうだけど?」
「五月一日と言えばスズランの花束の日だったろうが。この地域には無いようだがな」
「あっ…!」
それを聞くまで忘れていた。五月一日はスズランの日だった。
「今もフランスではやってるらしいぞ、今の地球でのフランス地域だ。…いわゆる文化の復活ってヤツで」
「そうなんだ…」
SD体制の時代には無かった、かつてフランスと呼ばれた地域。地球が青い星として蘇った後、その名を冠した地域が生まれた。ぼくたちの住む地域が日本で通っているように、フランスだって地球の上に在る。遙かな昔のフランスの文化を追い求めて楽しんでいる地域。
「お前に堂々と贈っても問題無いんだよなあ、今の世界じゃ。なにしろ日本にはスズランの文化が無いからな? …ついでにスズランも山ほどあるんだ、シャングリラと違って」
「うん…」
あるね、とぼくは頷いた。
鈴の形をした白い花を沢山つけるスズラン。
シャングリラでは公園に咲いていただけだけれど、今の世界なら公園だけじゃなくて個人の家の花壇やプランター、もちろん花屋さんにだってある。
珍しくもないスズランの花。でも、シャングリラでは特別だった。
愛する人への五月一日の贈り物。
贈られた人に幸運が訪れますように、と祈りをこめて贈るスズランの花を束ねた花束。
シャングリラの公園で初めてのスズランが花開いた年に、ヒルマンが皆に説明してくれた。
恋人同士で贈り合ったり、夫から妻へ、妻から夫へ。
遠い昔には、わざわざ森までスズランの花を探しに出掛けて摘んでいた時代もあるらしい。森に咲くスズランは香りが高くて希少価値があるから、と後の時代には五月一日には高値で売られた。子供たちが森まで採りに出掛けて、たった一本のスズランが栽培種の花束と同じ値だったり。
小さなスズランの花を前にして、ヒルマンが語った遙か昔の素敵な習慣。
ぼくはハーレイにスズランの花束を贈りたくなった。
沢山の幸運が訪れるようにと祈りをこめて、五月一日にスズランを摘んで。
ハーレイはぼくに贈りたくなった。
ぼくが幸せになれるようにと、五月一日にスズランの花を摘んで束ねて。
でも、スズランの花は花束に出来るほど沢山咲いてはいなかった。
増えて来た頃にはそれを必要とするカップルたちがいて、ぼくとハーレイの分は無かった。
ぼくたちは誰にも仲を明かせない、秘密の恋人同士だったから。
五月一日にスズランの花束を作りたいのだと、誰にも言えはしなかったから…。
スズランの株は順調に増えて、花束を幾つも作れるようになったのに。
五月一日になると恋人たちが公園や居住区の庭で摘んでいるのに、ぼくたちはそれを微笑ましく見守るだけの立場で、スズランの花束は手に入らない。
いくらスズランの花が増えても、贈りたい人に贈れはしない。
五月一日が何度も巡って、ある年、ハーレイが「やはり今年も無理でしたね」と溜息をついて。
「いっそ私の部屋で育てようかとも思うのですが…。そうすれば私の分ですから」
「バレるよ、掃除に来たクルーに」
ハーレイの気持ちは嬉しかったけれど、部屋にスズランの鉢だかプランターだかを置くなんて。何をしているのか直ぐに知られる。スズランは特徴があり過ぎるから。
「私が好きで育てている花だと言えば問題無いかと」
「それはそうだけど、五月一日に花がそっくり消えた理由を何と説明するんだい?」
シャングリラでは広く知られた五月一日の恋人たちの贈り物。ハーレイがスズランの花を好きかどうかはともかくとして、五月一日を境に花が消えれば誰かに贈ったということになる。この船の何処かに恋人が居て、その恋人のためにスズランを育てていたのだと知れる。
「どう考えても直ぐにバレるよ、恋人用のスズランだった、と」
「…確かに…。そうではない、と言い訳するのは難しいかもしれませんね…」
いい考えだと思ったのですが、とハーレイが残念そうな顔をするから。
「ぼくの青の間でも同じなんだよ。…君がスズランを育てて贈ってくれると言うなら、ぼくだって君に贈りたいけれど…」
この部屋はこんな造りだから。
スズランを育てられそうな自然な光が降り注ぐ場所はもれなく人が入って来る。ベッドの周りは言わずもがなだし、奥のキッチンとかにも人が入るし…。
君のためにスズランを育てたくても、こっそり育てられそうにない…。
二人して自分の部屋でスズランを育てられないことを嘆いて、残念がって。
それでもお互いに贈りたかった。
贈られた人に幸運が訪れるという、五月一日の恋人たちの贈り物。スズランの花を束ねた花束。ぼくはハーレイに贈りたかったし、ハーレイはぼくに贈りたかった。
いつかは贈ってみたいものだ、と語り合った末に。
「いつか…。そうですね、いつか、地球に着いたら」
ハーレイの鳶色の瞳がぼくを見詰めた。
「そうしたらスズランもきっと沢山手に入るでしょう。その時はあなたに贈りますよ」
いつか地球に着いて、五月一日が巡って来たら。
あなたのためにスズランの花束を作って、幸運が訪れるようにと祈りをこめて…。
「うん、ぼくも。…ぼくもスズランの花束をプレゼントするよ」
ハーレイのためにスズランを探すよ、ヒルマンが言ってた希少価値が高いという森のスズラン。地球の森が広くても、ぼくなら探せる。ハーレイには無理でも、ぼくは出来るよ。
「お気持ちはとても嬉しいのですが…。それでは私の愛が足りないような気がするのですが…」
ハーレイが困ったように口ごもるから、「いいんだよ」とぼくは微笑んだ。
「いいんだよ、それで。ハーレイはぼくに沢山の愛をくれているもの、それに沢山の幸せだって。ぼくはハーレイを幸せにしてあげたいんだ、いつも貰ってばかりだから」
「いえ、私こそあなたを幸せにして差し上げたい。あなたはいつも、皆のためにだけ…。御自分のことはいつも後回しで、皆の幸せばかりを祈っていらっしゃるから…」
「ううん、その分の幸せは皆からも、そしてハーレイから沢山貰っているよ」
ハーレイが居てくれるから幸せなんだよ、ぼくはシャングリラの誰よりも…。
いつか地球へ行って、お互いにスズランの花束を贈り合う。
それがぼくたちの夢だった。五月一日が巡って来る度に白いシャングリラでそれを思った。
恋人たちのためのスズランの花を束ねた花束。
ぼくたちが贈りたいと願い続けて、贈れずに終わった夢の花束。
ハーレイがスミレの砂糖漬けを眺めながらフウと大きな溜息をつく。
「…いつの間にかお前は眠ってしまって、五月一日どころじゃなかった…」
「うん…。寝てしまったね、アルテメシアから旅立って直ぐに」
眠るつもりは無かったのだけれど、弱り切った身体はそれを許してくれなかった。
毎晩、青の間に来てくれていたハーレイに「おやすみ」といつものように言って眠って、まさかそれきり目覚めないだなんて思わなかった。
深い深い眠りの底に沈んでしまった、前のぼく。
それでもハーレイは毎晩、ぼくを訪ねて来てくれた。眠り続けるぼくに語り掛けてくれた。
子守唄まで歌ってくれていたことを、夏休みの間にハーレイから聞いた。
今のぼくが小さな頃に大好きだった「ゆりかごの歌」。前のぼくが眠りの底で聞いていた歌。
眠っていたぼくには一瞬とも思えた時だったけれど、ハーレイにとっては十五年間。
十五年もの間、ぼくはハーレイを独りきりにして眠ってしまった…。
「…ごめんね、ハーレイ…。十五年も眠ってしまったままで」
「初めの間は直ぐに起きると思ったんだがな…。そう深刻には考えなかった」
なのに、お前は何年経っても一向に目覚める気配すらなくて。
五月一日にブリッジから見ると、公園でスズランを摘んでいる恋人たちが目に入るんだ。
幸せそうにしている恋人たちを見るのが辛かった。俺の恋人は眠っているのに、と。
しかしだ、ものは考えようだ。
お前は深く眠っていたから、もしかしたら……と俺は思った。
体力的にとても無理だと諦めていたが、お前は地球まで行けるんじゃないか、と。
もしもお前が俺と一緒に地球まで辿り着けたなら。
そうしたらお前にスズランの花束を贈るんだ、とな。
そういう夢を見ていたんだ、とハーレイが昔語りをするから。
夢が叶わなかったことを知っているぼくは、「ごめん」と俯くしかなかった。
「…ごめん。いなくなってしまって、本当にごめん…」
ぼくは地球まで行けなかった。
ハーレイのささやかな夢にも気付くことなく、一人でメギドへと飛んでしまった。
別れの言葉すら告げもしないで、「頼んだよ、ハーレイ」と次の世代を託しただけで。
「…ごめん。…ごめん、ハーレイ……」
「いや、いいんだ。俺の勝手な夢だったしな」
それに俺には思い出している暇など無かった。
五月一日どころじゃなくなってしまったからな、シャングリラ中が。
地球を目指して進むことと戦いだけに明け暮れていたし、いつだって空気が張り詰めていた。
スズランを摘んでいた恋人たちの中の何人もをナスカで亡くして、トォニィたちの世代はきっとスズランの花束なんぞは知らなかったろう。
トォニィの恋人はアルテラだったが、あいつらがスズランを摘んでいるのは見なかった。もしも見ていたなら五月一日だと気付いた筈だし、お前との約束も思い出していたんだろうが…。
とうとう一度も思い出さないまま、俺は地球まで行ってしまった。
地球に着いても、その地球があの有様ではな…。
スズランの咲く森など在りはしないし、水も大気も酷いもんだった。
お蔭で俺は思い出しもせず、地球の地の底で死んじまった。
そして今頃になって思い出したというわけだ。
五月一日といえばスズランの花束を贈る日だったな、と…。
「まったく…。なんで今まで忘れてたんだか」
情けないな、とハーレイは眉間の皺を指先で揉んで。
「…五月一日はとっくに過ぎちまった上に、出会ってもいなかったんではどうしようもないな」
「そうだね、二日ほど遅かったよね…」
ぼくがハーレイと再会した日は五月の三日。スズランを贈る日は終わってしまった後だった。
今、ぼくたちが住んでいる地域にスズランを贈り合う習慣は無いから、それよりも前に出会っていたって思い出さずにいた可能性も高いんだけれど…。
でも、ハーレイは思い出したから悔しいらしい。
「来年の五月に覚えているといいんだが…。この地域にスズランの花束を贈る文化が無いだけに、思い出せるか微妙だな」
その代わり、覚えていたら堂々とお前に贈れるわけだが。
「ママにはなんて説明するの? ぼくにスズランの花束なんて…」
ぼくだって一応、男の子だから。
花束を貰うのは変だと思う。何かのお祝いならばともかく、普通の日に花束、それもスズラン。
だけどハーレイは「ん?」と、ちょっぴり悪戯っ子みたいな表情で。
「恋人に贈るって部分は省略だ。幸運が来ると聞いていまして、って言って持って来るさ」
もしもお前のパパやママに気付かれてしまったって、だ。俺の勘違いだと思われて終わりだ。
俺は古典の教師だしな?
日本の文化なら間違えはしないが、フランスの文化は範疇外だ。
「ハーレイ、勘違いで済ませる気なんだ?」
「それが一番安全だろうが、お前との仲がバレるよりかは勘違いで恥をかく方がマシだ」
もっとも、勘違いで通りそうな古典の教師ってだけに。
来年の五月一日にスズランの花束を覚えている自信も無いわけなんだが…。
忘れていたらすまん、とハーレイが謝る。
本当に済まなそうな顔をしていて、心がキュッと痛くなったから。
「お互い様だよ、ぼくだって忘れていると思うよ」
大丈夫、とぼくはハーレイに笑ってみせる。
思い出したばかりの今はスズランの花束のことがとても懐かしくて、五月一日よりも二日遅れで再会したことが残念だけれど、きっと夜には忘れていそう。フルーツケーキに乗っかったスミレの花の砂糖漬けで思い出したけれども、これを食べ終えたら忘れていそう。
ママのお気に入りのデコレーション。甘いスミレの砂糖菓子。
「ハーレイ、忘れてしまってもいいよ。ぼくも忘れてしまうと思うし」
「…そうか? 来年の手帳はまだ買っていないが、カレンダーに覚え書きを書いておいても…」
新しい年のカレンダーを買う度に、前の年のカレンダーと突き合せながら必要な予定を書き写すことにしているらしいハーレイ。
今年の五月一日の所に「スズランの花束の日」と書いておけば忘れない、と言うのだけれど。
帰宅するまでに忘れないように、メモを書いてポケットに入れようと言ってくれたのだけれど。
「ううん、こういうのって「思い出す」からいいんだよ」
思い出した時が幸せなんだよ、とハーレイの嬉しい申し出だけを貰っておくことにした。
カレンダーにもメモにも書かなくていい。
ぼくたちの思い出は沢山あるから、いちいち予定にしなくてもいい。
予定を書いたら縛られてしまって、嬉しい気持ちが少しだけ減ってしまうから…。
何かの機会にまた思い出して、その日が五月一日だとか。
五月一日の前の日だったとか、そういう方が絶対いい。
幸運は何処からかやって来るもので、予定を決めて来るものじゃない。
だから忘れてしまっていい。
スズランの花束をぼくにくれる五月一日は、ひょっこり思い出した時でいい。
「でも、ハーレイ…」
今日はこのまま忘れてしまっていいんだけれど。
ぼくもきっと忘れてしまうんだけれど。
いつか二人で思い出そうね、そしてスズランを採りに行こうよ。
「いいな、二人で採りに行くのか?」
「うん。どうせ贈るんなら、お店に売ってるスズランよりも、森のスズランがいいと思わない?」
ヒルマンが言ってた森のスズラン。
栽培種のスズランよりも希少価値が高い、いい香りがする森のスズラン。
何処にスズランの咲く森があるのか、ぼくは全く知らないんだけど…。
「そうだな、今の地球なら俺だって森のスズランを見付けることが出来そうだしな」
行くか、とハーレイはぼくの大好きな笑顔になった。
「もっとも、お前が大きく育ってくれんことには二人で出掛けられないわけだが」
「ぼく、頑張って大きくなるよ。だから二人で採りに行こうよ、森のスズラン」
「ふむ…。この辺りだと何処に咲くのか、きちんと調べておかんとな?」
そしてお前より沢山採るぞ、とパチンと片目を瞑るハーレイ。
ぼくの花束よりも大きなスズランの花束を作って、ぼくに贈ってくれるって。
「ぼくもハーレイより沢山見付ける! ハーレイに沢山幸せになって欲しいもの!」
前のぼくだってそう決めてたもの、と決意表明しておいた。
こんな風に約束し合って、意地を張り合っても、明日にはきっと忘れてるんだけど…。
それでもいつか、ぼくたちはきっと思い出す。
思い出して二人、手を繋いで春の森へと出掛けてゆくんだ。
森に咲いている香り高いスズランの花を探しに、五月一日に二人一緒に…。
スズランの花束・了
※シャングリラにあった、スズランの花束を贈り合う習慣。恋人たちが摘んで。
ソルジャーとキャプテンでは無理でしたけれど、今度はスズランを贈り合えるのです。
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(まだ育たないよ…)
土曜日の朝、ハーレイが訪ねて来る前に部屋の掃除を終えたブルーはクローゼットに付けた印を見上げて溜息をついた。床から百七十センチの所に鉛筆で微かに引いた線。ソルジャー・ブルーの背丈と同じ高さに引いた線まで育たない限り、大好きなハーレイとキスも出来ない。
(本当に全然、育たないんだけど…)
ハーレイと出会った時の百五十センチから伸びない背丈。一ミリさえも伸びてはくれない。印の高さに届いてくれる日はいつになったら来るのやら…。
そこまで背丈が伸びた時には、クローゼットに付けた印も忘れているかもしれないけれど。今のブルーには大問題で、クローゼットを見上げれば溜息しか出ない。
(クローゼットかあ…)
印を付けるまでは特に気にしていなかった。ただ其処に在るというだけの家具。
(でも…)
そういえば、と遠い日の思い出が蘇って来た。このクローゼットに纏わる思い出。子供の頃に、此処に隠れた。幼稚園から学校に入って間もない頃に、クローゼットに。
その頃、学校で流行ったかくれんぼ。
ブルーは隠れるのが下手で、いつも真っ先に見付かってしまうから。
両親はどうだか試したくなった。隠れた自分を見付けられるか、見付けることが出来ないのか。
(ちょっとだけ…。ちょっと試してみたいだけだよ)
小さな子供は下校時刻が早かったから、帰宅時間は午後のおやつの時間よりも前。ブルーが家に帰り着いた時には、母がお菓子作りの真っ最中のことも多かった。
「ブルー、もう少ししたらケーキが焼けるわよ」
待っていてね、と母が声を掛けて来たから「うんっ!」と返事をして、二階にある自分の部屋へ入るなり、キョロキョロと周囲を見渡した。
何処に隠れるのが一番なのか、と眺め回してみる。カーテンの陰は直ぐバレそうだし、ベッドの下も覗き込まれたら終わり。
(んーと…)
息を潜めていられそうな場所で、自然に隠してくれそうな場所。
クローゼットの中がいいかもしれない。まさかブルーが入っているとは思うまい。
(…服とかを入れる場所だしね?)
それにクローゼットはブルーの部屋の家具の中でも一番大きい。実に頼りになりそうな家具。
(うん、此処がいいや)
ブルーはクローゼットの扉を開けて中へもぐり込み、内側から扉をパタンと閉めた。途端に暗くなってしまって、サイオンの扱いが不器用なブルーには何も見えなくなったけれども。
(このくらいでちょうどいいんだよ)
自分の手さえ見ることが出来ない真っ暗闇。
これなら充分にブルーを隠してくれるだろう。最高の隠れ場所を見付けた、と嬉しくなった。
両親は自分を見付けることが出来るだろうか…?
隠れている間に階下で父の声が聞こえた。
いつもよりも早い帰宅時間。仕事が早く終わったのだろうか、とブルーの胸がドキンと高鳴る。父は夜まで帰って来ないと思っていたから、クローゼットには二回隠れるつもりだった。一度目は母を試して、二度目が父。思いがけない父の帰宅のお蔭で、隠れるのは一度で済みそうだ。
(パパが捜しに来るのかな? それともママかな?)
どちらが部屋に来るのだろう、とクローゼットの中で膝を抱えて座りながら。
(…まだかな?)
そろそろケーキが焼き上がる頃。父が居るなら直ぐにティータイムだと思うけれども…。
「ブルー! ブルー、おやつよー!」
母が呼んでいる声が聞こえた。普段のブルーなら、これだけで階下へ駆けてゆく。母が部屋まで呼びに来ずとも、待ち兼ねていたおやつ目当てに駆け下りてゆくが。
(…我慢、我慢…)
此処で飛び出したら何のために隠れているのか分からない。おやつのケーキも気になるけれど、それよりも先にかくれんぼ。両親は自分を見付けられるか、無理なのか。
「ブルー? ケーキが焼けてるわよー?」
母がさっきよりも大きな声で呼び掛け、階段を上がって来る足音がした。母の軽やかな足音とは違って、ゆっくりと落ち着いた父の足音。ブルーには音しか聞こえなかったが、やがて部屋の扉がカチャリと開いて。
「ブルー、おやつだぞ?」
おや。…いないのか?
部屋じゃなかったのか、と聞こえた父の独り言。
(やった!)
父には見付けられないのだ、とブルーの心は躍り上がった。
学校でやっているかくれんぼの時は、捜されもせずに見付かっている。ブルーの隠れ場所を目にした鬼は迷わず真っ直ぐに近付いてきて容赦なく「見付けた!」とタッチしてしまう。
けれど、クローゼットを目にしているのに「いないのか」と呟く父はブルーを見付けられない。もう嬉しくて小躍りしそうになったブルーの居場所は、その瞬間に父に知れていた。
かくれんぼが苦手なブルーが見付かってしまう理由は、その思念。「見付かりませんように」と懸命に祈る気持ちが零れ出ていて、鬼に容易く拾い上げられる結果。
今の場合は「見付からなかった!」と大喜びした思念を父に拾われ、父の視線はクローゼットの中の悪戯息子に向けられたのだけれど。
ブルーの意志を尊重するべく、父はそのまま出て行った。
見付かっていないつもりのブルーよりも、父の方が二枚も三枚も上手。階下に戻ると母に息子の隠れ場所を教え、それから二人で捜し回る。あちこちの扉を開けたり閉めたり、ブルーの部屋まで覗きに来たり。ついには庭まで捜している声が聞こえてきて…。
(まだかな、おやつ…)
かくれんぼは上手くいったけれども、少々上手くやり過ぎた。おやつのケーキに辿り着けない。
(…今日のケーキは何なのかな?)
早く見付けて食べさせてよ、と願うブルーは本当にかくれんぼが下手だった。鬼に見付からずに済んだ子たちが姿を現すタイミングが何処かを知らなかった。
いつも真っ先に見付かってしまうから、かくれんぼの終わりは「見付かった時」と頭から信じて疑いもしない。鬼が降参してしまった時には出てもいいのだと気付いていない。
(…パパ、ママ、まだあ…?)
捜す声はとっくに止んでしまって、両親はブルーの分も用意してケーキを食べているのに、全く気付かず出てゆきもしない。かくれんぼは鬼が見付けてくれるまで続くものだと思っているから。その鬼たちが降参するなど、思いもよらないことだったから。
(…ケーキ、まだかな…)
今か今かと待ちくたびれて、おまけにクローゼットの中は暗くて。
いつの間にかブルーはぐっすり眠ってしまって、様子を見に来た父に抱えられて運び出された。眠ったままベッドに横たえられて眠り続けて、揺り起こされた時には夕食の時間。
おやつのケーキは食べ損なった。
かくれんぼに失敗したらしいことも、ベッドで眠っていたから分かった。
なんとも情けない遠い日の思い出。かくれんぼは一向に上達しなくて、流行っていた間はいつも真っ先に見付けられては悔しい思いをする日々で…。
(そうだ、かくれんぼ…!)
ブルーの頭に突如として閃いた思い付き。
(…ハーレイはぼくを見付けられるかな?)
前の生では、ブルーが何処に居てもハーレイは直ぐに見付けてくれた。
かくれんぼをしていたわけではない。ブルーが姿を隠していただけ。かくれんぼではなく、姿を誰にも見られたくなかった。ソルジャーとしての務めの重さに苦しむ姿を、弱い自分を知られてはならないと思って隠れた。
半ば公の場である青の間では弱い姿を見せられないから、誰も来ない倉庫や、機関部の奥の奥、滅多に点検の者たちも来ない狭い通路や。
そうした場所で膝を抱えて蹲っていると、直ぐにハーレイが捜しに来た。捜すというほど時間は経っていないというのに、「捜しましたよ」と微笑みながら。
そしてブルーの隣に黙って座り込んで温もりを分けてくれたり、そうっと肩を抱いてくれたり。ブルーの心が癒えるまで待って、それから外へと連れ出してくれた。
いつもいつも寄り添っていてくれた、優しいハーレイ。
ソルジャー・ブルーだった頃のブルーが愛したキャプテン・ハーレイ…。
(…今だって分かる筈だよね?)
ハーレイだもの、とブルーは確信に満ちた表情になる。ハーレイならきっと見付けてくれる。
ブルーが何処に隠れていようと、今のハーレイでも見付けられる筈。
よし、と隠れることにした。
部屋の窓から外を見下ろし、やって来たハーレイが門扉の前に立つのを確かめてクローゼットの中にもぐり込む。内側からパタンと扉を閉めれば、子供の頃と同じ真っ暗な闇。
(だけど、ちょっとは上手になったものね)
サイオンの扱いは不器用なりに、外の気配くらいは探れるようになった。瞳を扉の方に凝らすと部屋の様子を見ることが出来る。いわゆる透視という能力。滅多に使わないブルーのサイオン。
そうやって見ていると、母がハーレイを案内して来て部屋の扉を開けて。
「あらっ?」
いないわ、と驚きの声を上げる母。
「何処へ行ったのかしら、あの子ったら…」
「直ぐ戻りますよ、他の部屋に用事でもあるのでしょう」
「そうですわね…。ハーレイ先生、どうぞこちらへ」
母はハーレイに椅子を勧めて、「お茶の用意をして来ますわね」と部屋から出て行った。足音が階段を下りて遠ざかり、ハーレイは椅子にのんびりと座る。
(あれっ?)
ハーレイがブルーに気付いた様子は無い。クローゼットの方に視線も向けない。
(…ハーレイ、鈍くなっちゃったのかな? それとも…)
お茶の用意が整った後で、クローゼットを開けて不意打ちだろうか。もしかしたら、父のように抱き抱えて運び出してくれるとか…?
ブルーは暗闇の中で頬を紅潮させた。ハーレイが気付かない筈がないから…。
クローゼットに潜んだブルーの思念は実はハーレイに筒抜けだった。しかしハーレイは素知らぬ顔で椅子に腰掛け、ブルーを待っているふりをする。其処へブルーの母が入って来た。
「ハーレイ先生、お茶とお菓子をお持ちしましたわ。…ブルーは?」
「まだなのですが…。お心当たりは?」
問われた母は困り顔で。
「それが…。書斎には居なかったんですけれど…。もう本当に、あの子ったら、何処に?」
「お気になさらず。私の用事はこちらに伺うことですしね」
もっとも用事の相手が居ないようですが、とハーレイが笑い、母が「戻って来たら叱ってやって下さいね」と息子の非礼を詫びてから部屋の扉を閉める。
「ブルー! ブルー、何処なの?」
ハーレイ先生が待っていらっしゃるわよ、と遠ざかってゆく声。足音も階下へと消え、ブルーは胸を高鳴らせた。
(ハーレイ、来るかな…)
クローゼットの扉を開けての嬉しい不意打ち。それだけで充分嬉しいけれども、逞しい腕に抱え上げられてクローゼットから出して貰えればもっと嬉しい。
(抱えて欲しいな…)
寝たふりをしていれば抱えて出してくれるだろうか?
そうしようか、とドキドキしているのに。
(…えっ、来ない?)
ハーレイはクローゼットの方を見もせず、ゆっくりとティーカップを傾けた。いつものとおりに砂糖を入れて、スプーンで軽くかき混ぜてから。どうやらブルーを待っているらしい。
(…もしかして、全然気付いていないの?)
まさか、とブルーは縋るような視線をクローゼットの扉越しに向けたが、それでも気付く様子は無い。明確な思念は向けていないけれど、こうすれば気配は届きそうなのに…。
(ハーレイ、鈍くなっちゃった?)
前のハーレイなら直ぐに見付けてくれたのに。
ブルーが何処に隠れていようと、捜し出して寄り添いに来てくれたのに…。
一方、紅茶を飲んでいるハーレイはと言えば。
(…本当に不器用になったな、あいつ)
ハーレイはとうに気が付いていた。ブルーがクローゼットに隠れていることも、今この瞬間にもクローゼットの中から自分の方を見ていることにも。
(不器用と言うか、不器用すぎて可愛いと言うか…)
この部屋に足を踏み入れた瞬間、感じたブルーの弾んだ心。
前の生でと同じように自分を見付けて欲しいと、見付けられるであろうという気持ち。もちろん隠れた場所も分かった。ブルーの表情までもが手に取るように。
全てを一瞬で見抜いたハーレイは、ブルーの母にだけ届く思念を送った。
クローゼットに隠れていますよ、ソルジャー・ブルーだった頃も時々姿を消していました、と。
私がブルーを捜すのが得意だったことを思い出してやっているのでしょう、と。
そうやって送った思念の後はブルーの母と一緒に芝居を打っていたわけで。
(…俺がとっくに気付いているのも分かっていないとは天晴れとしか…)
悠然とお茶を飲み、ケーキを食べる。クローゼットには視線も向けない。
(はてさて、いつになったら気が付くやら…)
普段は観察する暇がないブルーの部屋をあちこち眺めて楽しんだ。クローゼットはたまに視界を掠めてゆくだけで、棚に並んだ本の背表紙やら、きちんと整えられたベッドやら。
もっとも、ベッドは其処で眠るブルーを思うだけで身体の奥が熱くなるから少しだけ。それでも上掛けの模様や枕カバーなどの好みがブルーらしくて笑みが浮かんだ。
勉強机の上には自分のと揃いのフォトフレーム。
ハーレイが写真を入れたフォトフレームをブルーの分と交換したから、元は自分の持ち物だったフォトフレームがブルーの机に飾ってある。飴色の木枠のフォトフレームの中、幸せそうな笑顔のブルーと自分。
(あの写真を撮って良かったな)
ブルーがフォトフレームを大切にしていることが一目で分かった。昨夜も眠る前に見詰めていた気配が残っている。自分以外は気付くことすら出来ないだろうブルーの想い。
どんな微かな思念でさえも、ブルーのものなら必ず拾えると自負しているのに。
(まだ気付かんとは恐れ入った)
クローゼットの中の小さな恋人。
見付けて貰えないことが不満で、頬を膨らませつつある小さな恋人…。
ブルーの我慢は限界に達しそうだった。
(酷いよ、ハーレイ! 気が付かないの!?)
ぼくは此処なのに、ぼくよりもお茶とケーキなの?
あんまりだ、と捜してもくれない恋人に腹を立てるブルーと、面白がっているハーレイと。
(鈍いな、ブルー。いい加減、気付け)
ふむ、とハーレイは立ち上がってブルーの勉強机に近付いて行った。家探しをするつもりなどは無いのだけれども、悪戯小僧はこらしめねば。
(えっ、ハーレイ? …何をする気?)
ブルーはギクリと身を強張らせた。
勉強机に引き出しは幾つかあったが、一番上の引き出しの中にブルーの宝物が仕舞ってある。
学校便りの五月号。転任教師の着任を知らせる小さな記事とモノクロ写真のハーレイが載った、ブルーの大切な宝物。いつでも取り出して眺められるよう、一番上にして収めてあった。
(開けられたら直ぐに見付かっちゃうよ…!)
ハーレイの写真が載っているから宝物にした学校便り。それを見られるのは恥ずかしい。
いくらハーレイが相手であっても、恥ずかしいから知られたくない。
あんな小さなモノクロ写真を宝物にして持っているなんて…!
切羽詰まったブルーの思念はもちろんハーレイにも届いてはいたが、その中身まではハーレイもあえて読んではいない。勉強机に何かがある、という程度。
(何か隠しているらしいな?)
ブルーが大切な物を入れていそうな引き出しはどれか、と手近な取っ手に手を掛けてみた。
それが一番上の引き出し。ブルーが危惧した学校便りの入った引き出し。ブルーはとても隠れていられず、クローゼットの扉を乱暴に開けて飛び出した。
「酷いよ、ハーレイ!」
何をするの、と両手で引き出しを開けられないよう押さえ付ければ。
「酷いのはお前の方だろうが」
コツン、とハーレイが拳で軽くブルーの頭を小突いた。
「丸分かりだったぞ、隠れていること。お母さんにも思念で伝えておいたしな」
「えっ…」
息を飲むブルーに、ハーレイは「悪戯者めが」と咎める視線を向けて。
「で、開けられると困るというわけなんだな、この引き出し」
…何を仕舞っているんだ、うん?
問われたブルーは言葉に詰まった。
「…………」
ハーレイの写真が載った学校便りだなどと白状出来るわけがなかった。
どう勘違いをされてもいいから黙っていよう、と覚悟を決めた。
それなのに……。
「ふむ。…お母さんに内緒のラブレターだな、女の子から沢山貰ったんだな?」
ハーレイが口にした言葉のあまりの酷さに、沈黙の覚悟は呆気なく砕けた。
「そんなの、貰ったことないよ!」
たとえラブレターを貰ったとしても、女の子なんかよりハーレイが大事。
ブルーはハーレイのとんでもない誤解を解くべく、慌てて叫んだ。
「そんなものなら直ぐ捨てるけれど、学校便りは捨てないよ!」
「……学校便り?」
ポカンとしていたハーレイだったが、ブルーが絡めばカンが働くのも早い。
あれか、と直ぐに思い至った。ブルーの学校に赴任した直後に配られた筈の学校便りの五月号。自分の着任を知らせる記事とモノクロ写真が載っていた号。
勉強机の上に飾ってあるフォトフレームの写真を撮るまで、ブルーはハーレイの写真を持ってはいなかった。ハーレイの写真が欲しくて「キャプテン・ハーレイの写真でもいいから」と写真集を探しに出掛けた話も聞いている。
そんなブルーが如何にも大切に持っていそうな学校便りの五月号。たった一つきりのハーレイの写真が刷られた、学校便りの五月号…。
「そうか、俺の写真が載ってた学校便りか。…あれがお前の宝物なのか」
「……うん……」
消え入りそうな声で答えたブルーを、ハーレイはグイと抱き寄せた。
もう愛おしくてたまらない。
クローゼットに隠れるような幼くて小さな恋人だけれど、その愛らしさがたまらない…。
力任せの抱擁の後で、ブルーは椅子に腰掛けたハーレイの膝に乗せられた。
かくれんぼをしていた件は不問で、ハーレイはただ嬉しそうな顔でブルーの頭をクシャクシャと撫でる。銀色の髪を何度も何度も、ブルーの大好きな褐色の手で。
「うんうん、お前は実に可愛い。隠れるのが下手でも、隠すのが下手でも、実に可愛い」
「…どうせ、どっちも下手くそだよ…」
隠し通そうとした学校便りは喋ってしまってバレてしまった。
クローゼットに隠れていたのも最初からバレていて、隠れたことにすら全くなっていなかった。
かくれんぼも隠し事も下手くそで不器用なブルーだけれども、なんだか心がドキドキと弾む。
(…やっぱりハーレイは今でも凄い…)
ホントに凄い、とブルーはハーレイの広い胸に頬を擦り寄せた。
隠れていた場所も、隠していたものも、何もかもお見通しとしか言えないハーレイ。
前の生からブルーの居場所を誰よりも早く捜し当てては、そっと寄り添ってくれたハーレイ。
今でもハーレイはやっぱり凄い。
ぼくのことは何でも分かってるんだ、と…。
かくれんぼ・了
※ブルーのことなら、何でもお見通しなのがハーレイ。前のハーレイも、今も。
学校便りが宝物なのがバレてしまっても、ブルーは幸せ一杯です。
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