シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
大好きなシャングリラの写真集。ブルーのお小遣いでは買えない値段の豪華版。先にハーレイが買っていて、見せて貰って気に入ったから父に強請って買って貰った。
懐かしいシャングリラを収めた写真集だから好きなのだけれど、好きな理由はもう一つあった。ハーレイが持っているものと全く同じ写真集。つまりお揃い。
(…ハーレイも今頃、見てるといいな)
ぼくとお揃いの写真集、とブルーはハーレイの書斎を思い浮かべる。一度だけハーレイの家まで遊びに行った時に覗いた書斎。落ち着いた雰囲気がシャングリラに在ったハーレイの部屋に何処か似ていた。壁紙も家具もまるで違うのに、「ハーレイの部屋だ」と感じたものだ。
その書斎の机でハーレイも写真集を見ているだろうか。ブルーとハーレイの、現時点ではたった一つのお揃いの持ち物。お揃いなのだ、と考えるだけで幸せになれる。
(…シャングリラかあ…)
ページを捲って白く優美な船を眺めた。
ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
白い鯨のようだった船を、人類軍はモビー・ディックと呼んだ。遠い昔の『白鯨』という小説に出てくる巨大な白いマッコウクジラ。
(本当に鯨そっくりだものね)
前世のブルーは本物の鯨を肉眼で見たことが無かったけれども、よく似ているとは思っていた。人類軍がモビー・ディックと名付けた頃にはブルーは深い眠りの中に居て、その名を知った時には人生の終わりがもう見えていた。
シャングリラの格納庫で対峙したキース。彼の心を覗き込んだ時、モビー・ディックという名も見付けた。彼を取り逃がした後、トォニィと共に搬送されたメディカル・ルーム。其処のベッドに横たわりながら思ったものだ。
人類から見たシャングリラもまた、白い鯨に見えるのかと。同じ鯨に見えると言うなら、やはりミュウと人類とは少し違うだけの兄弟なのだと。
いつかはきっと、手を取り合える。そういう時が必ず来ると思ったけれども、その日まで自分は生きてはいない。恐らくはこのナスカで終わる。逃がしたキースが齎すであろう災いからミュウの未来を守るためだけに、自分の命は終わるのだろう…。
ブルーの悲しい予感は当たって、メギドを沈めて前の生での命は尽きた。
けれど後悔はしていない。白い鯨を守れたから。シャングリラを守って逝ったのだから…。
(…あの船にはハーレイも乗ってたんだよ)
最期まで持っていたかったハーレイの温もりを失くしてしまって凍えた右の手が冷たかったし、独りぼっちになってしまったと、独りきりで逝くのだと泣きながら死んだ。
それでもハーレイが乗っている船は無事に遠くへ飛べたであろうと、ハーレイには自分の分まで生きて欲しいと願いながらの最期でもあった。
ハーレイと二人、幸せな時を過ごさせてくれたシャングリラ。楽園という名の白い船が地球まで行けるようにと、青い地球に辿り着けるようにと、そう祈ることも忘れなかった。
独りぼっちの最期だったけれど、皆が幸せであるようにと…。
(シャングリラは地球に行けたんだよね)
その地球は青くなかったとはいえ、白いシャングリラは辿り着いた。其処からミュウと人類との手を取り合っての歴史が始まり、今では人は皆、ミュウとなった。
死の星だった地球は再生を遂げて、役目を終えた白い鯨も遙かな時の彼方へと消えた。ブルーが守った懐かしい船。シャングリラはもう記録の中にしか存在しない。映像や写真は残っていても、あの白い鯨を肉眼で見ることはもう叶わない。
(でも……)
ブルーは写真集のページをパラリと捲った。
宇宙空間に浮かぶシャングリラ。忘れようもない白い船体。
(…見たような気がするんだけどなあ、シャングリラを…)
前の生ではなく、今の生で。夢の中ではなく、何処かで、確かに。
自分の前世がソルジャー・ブルーだったことなど知りもしなかった幼い頃に、目にしたと思う。
今よりもずうっと小さかった頃、記憶すらも曖昧な幼児だった頃に。
今の生の記憶に微かに残った白い船。それを見たのは何処だったろうか?
(…いつだったのかも分からないよ…)
ブルーは懸命に記憶を辿る。せっかく端っこを掴んだのだから、白いシャングリラを手繰り寄せたい。何処で見たのか、何処でシャングリラに出会ったのかを思い出したい。
本物のシャングリラでないことだけは確かだけれども、今のブルーには懐かしい船。前の生での記憶と重なる、今の生で見たシャングリラ。あのシャングリラを何処で見たろう?
(…遊園地かな?)
あそこで白いシャングリラの姿を見た。そう、はっきりと思い出せる。
シャングリラは今の歴史の中では一番有名で人気の高い宇宙船。今は無い白い鯨に誰もが憧れ、一度は乗ってみたいと願う。ゆえに遊園地ではシャングリラは定番の乗り物だった。
小さな子供向けのコースターにも使われていたし、大人向けのスリリングな遊具の類もあった。もちろんブルーもシャングリラに乗ったことがある。
(でも、あれじゃないよ…)
あんな風に決まったコースなどに縛られた乗り物ではなくて、もっと広い場所で。もっと自由に翔けるシャングリラの姿を見かけたと思う。
(…白くて、何処までも走って行ったよ…)
そう、シャングリラは走っていた。自由自在に右へ左へと、ずっと遠くまで走って行った。
(んーと…。えーっと…)
青い青い空の下、真っ白に輝くシャングリラ。気持ち良さそうに青い波を切って、まるで本物の白い鯨が泳ぐみたいに…。
(そうだ!)
思い出した、とブルーは顔を輝かせた。
小さな頃に両親と出掛けた青い海。シャングリラには其処で出会ったのだ。
父と母に連れられ、二人が漕いでくれるペダルボートで海に出た。海水浴場と隣り合っていた、波の静かな湾だったと思う。小さかったブルーは両親の間にチョコンと座って周りを見ていた。
小さすぎた足はペダルに全く届かなかったし、届いたとしても漕ぐ力が無い。だからチョコンとシートに腰掛け、漕ぎ出した海を眺めていた。水平線まで広がる海。青くてキラキラ輝く海。
ゆらゆらとペダルボートを揺する波は優しく、船酔いしたりはしなかった。はしゃぎながら海を進んでいたら、白いシャングリラがやって来た。背中に五、六人の人を乗っけて、エンジンのついた小さな船に曳かれて。
海水浴に来た若者たち。歓声を上げる男女を白い背に乗せ、白い鯨は海を走った。波に揺られて上下しながら、あるいは左右に急にカーブを切りながら。
(…うん、本当にシャングリラだった…)
本物の地球の海に浮かんだシャングリラ。
幼いブルーが見たシャングリラは、今から思えばバナナボートの一種だろう。バナナボートなら後にも何度も目にしたけれども、シャングリラはあの一度だけ。
あれは確かにバナナではなく、白い鯨でシャングリラだった。
多分、変わり種のバナナボート。ありきたりの形ではつまらないからと作られたのか、持ち主の趣味を反映したか。どうして出来たのか分からないけれど、シャングリラの形のバナナボート。
あのシャングリラは今も何処かにあるのだろうか。
水泳が好きで海へも泳ぎに出掛けるというハーレイは見たことがあるのだろうか?
とてもよく出来たシャングリラの形のバナナボートは、青い海で気持ち良さそうだった。
本物のシャングリラが在った間には地球に青い海は戻って来なくて、シャングリラは青く澄んだ海を知らない。けれどシャングリラが青い地球の海に下りていたなら、あんな風に波間に浮かんだだろう。文字通り白い鯨のように。自分たちも人類もそう見立てていた、本物の白い鯨のように。
(…ぼくが見たのって、バナナボートのシャングリラだったんだ…)
幼かったブルーが覚えていたのは珍しかったからなのだろうか。
それとも記憶が戻る前から「シャングリラだ」と何処かで気付いていたのだろうか?
バナナボートのシャングリラ。
前の自分が守った白い船にそっくりな形をした乗り物。
楽しそうに笑う人たちを乗せて、真っ青な海を走って行った。
そんなシャングリラを見ることが出来て良かったと思う。ミュウの命を守るために在る箱舟ではなく、遊具になったシャングリラ。遊園地のシャングリラも悪くないけれど、船はやっぱり青い海が似合う。波を切って走る白いシャングリラは、本当に幸せそうだったから…。
まだ小さかった頃に出会ったバナナボートのシャングリラ。
ブルーはほんの小さな子供だったけれど、二十三歳も年上のハーレイは一人前の大人だった筈。もしも見たならきっと覚えていることだろう、とハーレイが家にやって来た時に尋ねてみた。
「ねえ、ハーレイ。…バナナボートって知ってるよね?」
「知ってるが…。バナナボートがどうかしたか?」
ブルーの部屋でテーブルを挟んで向かい合わせに座って、怪訝そうな顔をしているハーレイ。
「えっとね…。小さい頃に海で見たんだ、シャングリラの形のバナナボートを。…ハーレイも見たことあるのかなあ、って思ったから…。ハーレイ、知ってる?」
「ああ、そういえば…。あったな、俺も海で見かけた」
乗ったことは無いが、とハーレイの鳶色の瞳が懐かしそうな光を湛えた。
「お前もあれを見てたのか。…うん、実によく出来たシャングリラだったな」
「今もあるの?」
「いや、最近は見てないな…。人気はあったが、バナナボートとしては不出来だしな? 安定した乗り物はバナナボートの本来の姿じゃないってことだ」
バナナボートは乗っかった客を振り落としてこそだ、とハーレイは笑う。背中に乗せた人たちを落とさずに走っていたシャングリラはバナナボートの邪道なのだ、と。
「バナナボートに乗ったからには落っこちないとな? 形が気に入って乗った客でも、また乗るとなったら落っこちる方を選ぶだろうさ。リピーターを掴めないバナナボートってヤツだ」
「そっか…。新しいのを作らなかったんだね、きっと」
「多分な。現役の間はよく見かけたから、間違いなく人気はあったんだろうが」
普通のバナナボートが二人くらいしか乗せていない時でも、定員一杯に乗せて走っていたというシャングリラの形のバナナボート。今は無いらしいと聞くと少し寂しい。
「シャングリラ、なくなっちゃったんだ…。ちょっと残念…」
「おいおい、お前はどのみち乗れないだろうが。落ちなくても波はかぶるんだぞ」
ブルーの弱く生まれた身体は水の世界と相性が悪い。プールに十分を超えて浸かっていることは厳禁だったし、海でも同じだ。波を全身に浴びるバナナボートで海に乗り出すことは難しい。
「そうなんだけど…。乗りたかったな、海に浮かんでるシャングリラ…」
幼い頃の記憶に残った、青い海を走るシャングリラ。
あの船に乗って走りたかった、とブルーは思う。前の生では辿り着けなかった地球の海の上を、白いシャングリラで走りたかった。
ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
そのシャングリラと同じ形の、真っ白なバナナボートに乗って……。
(乗りたかったんだけどな、シャングリラに…)
今もあるのなら、あれに乗って海に出たかった。けれどハーレイは見かけないと言うし、とうに引退して普通の黄色いバナナボートが代わりに走っているのだろう。
(…いつかハーレイと海に行けるようになったら、一緒に乗ってみたかったのに…)
そう、乗るのならハーレイと一緒。シャングリラは二人で乗っていた船。他にも大勢乗っていたけれど、二人で暮らした懐かしい船。あの白い船で地球へ行くのだと思っていた。
(…地球には来られたんだけど…。もうシャングリラは無かっただなんて…)
ハーレイと二人、生まれ変わって来た世界では長い長い時が経ち過ぎていた。青く蘇った地球が在った代わりに、白い鯨は無くなっていた。シャングリラを地球の海に浮かべたくても、何処にも残っていはしない。シャングリラで地球の海には行けない…。
(ハーレイが連れてってくれる筈だったのに…。地球に……)
前の生でハーレイは何度もブルーに誓った。この船でブルーを地球に連れてゆくと。ハーレイの手を振りほどいてメギドに飛んでしまったブルー。そうしてブルーがいなくなっても、ハーレイは白い鯨を地球まで運んだ。ブルーの最後の言葉を守って、白い鯨を運んで行った。
(…ハーレイはちゃんと守ったんだよ、ぼくとの約束。…ぼくが勝手にいなくなっただけで…)
どうせ地球までは持たない命だと悟ってはいたが、シャングリラに乗っていさえしたなら、魂は地球に着けただろう。ハーレイの懐に優しく抱かれて地球まで運んで貰えただろう。
その地球は青くなかったけれど。澄んだ水の星はあの時代には死に絶えていたのだけれど…。
(…シャングリラで地球に辿り着けても青い海が無くて、海があったらシャングリラが無くて…)
地球の青い海と白いシャングリラは並び立たないものらしい。
バナナボートのシャングリラならば存在出来たが、それも今は無く、在ったとしてもブルーには乗れないらしい乗り物。
(ぼくって地球の海と相性、最悪?)
あんなに焦がれた地球だったのに、いざ着いてみたらこの有様。両親が漕ぐペダルボートとか、引っ張ってくれた浮き輪とか。海に関するブルーの思い出は「おんぶに抱っこ」なものばかりで。
(いつかハーレイと海に行っても、そうなっちゃうのかな?)
ブルーはろくに泳げはしないし、海に入っていられる時間も短い。水泳が得意と聞くハーレイにすれば、些か厄介な連れかもしれない。二人で海を楽しめる道はあるのだろうか?
(んーと…)
何か無いかな、と思った途端に閃いた。ハーレイはキャプテン・ハーレイだった…!
(そうだ、ハーレイはキャプテンだっけ!)
シャングリラのキャプテンだったハーレイ。キャプテンといえば船長のことで、海に浮かぶ船も宇宙船でも船長は船を動かせる人。
地球の青い海に白いシャングリラは無理だけれども、代わりの船ならいくらでもある。そういう船で海に出るなら、ブルーだってハーレイに付き合える。バナナボートのシャングリラは水飛沫で濡れてしまうから乗れないけれど、普通の船なら濡れはしないし…。
「ハーレイ、船の運転って出来る?」
ブルーは赤い瞳を煌めかせた。運転という言葉は変だったろうか?
「船?」
「うん、海に浮かんでる船のことだよ。ハーレイが運転出来るんだったら乗せて欲しいな」
「…生憎とそれは出来ないんだが…。俺の免許は車だけでな」
「ええっ? ハーレイ、車しか乗れないの?」
まさか、とブルーは驚いた。巨大なシャングリラを動かしていたキャプテン・ハーレイが車しか運転出来ないだなんて、俄かには信じられなかったが、そういえば自分も似たようなもの。前世と同じタイプ・ブルーのくせに、サイオンの扱いは不器用としか言えないし…。
「車の免許だけで悪かったな。…しかしだ、免許と言うだけだったら今の俺の方が上なんだが? 車の免許でもあるだけマシだ。前の俺は全くの無免許だったぞ」
「あっ…!」
「思い出したか? 若い連中にはとても言えんな、キャプテンは実は無免許です、とはな」
「そ、そういえば、無免許だったっけ…」
シャングリラにも免許というものはあった。シャングリラの操舵は試験をパスしたクルー以外は出来なかったし、それが出来たのはごく少数の優秀な者。機関部なども同じだったが、ブリッジで彼らを指揮する長老たちは試験をパスしていなかった。
アルタミラからの決死の脱出行。船を扱う術など誰も知りはせず、データベースに有った手順を実行しただけ。飛び立った後もそれは同じで、日々の積み重ねで操船を覚え、ついには船の改造が出来るレベルにまで到達した。
シャングリラはそうやって出来たけれども、キャプテンだったハーレイも機関長のゼルも、他の面々も現場で叩き上げた揺るぎない技術を持っていただけ。後進の育成のために試験制度を設けた時も受験したりはしなかった。ゆえにキャプテンが無免許になってしまったわけで…。
「ハ、ハーレイ…。それ、最後まで内緒だったんだよね?」
「もちろんだ。航宙日誌にも書いていないぞ」
誰も知らん、とハーレイが笑い、ブルーも笑った。
シャングリラの偉大な初代キャプテン、キャプテン・ハーレイは無免許運転だった、と。
無免許だったキャプテン・ハーレイ。
あの時代だったから、あの真っ白なシャングリラだったから、それで通った。
けれど今ではそうはいかないし、船の免許を持たないハーレイに船に乗せては貰えない。
(でも、乗りたいよ…。本物の海で、ハーレイと船に…)
シャングリラが無いなら、普通の船でもかまわないから。
それなのに普通の船はハーレイには無理で、バナナボートのシャングリラが今も現役で在ったとしたってブルーはバナナボートに乗れない。二人揃って船に乗るにはどうすれば…。
(えーっと、えーっと…)
ハーレイと一緒に乗れる船、と懸命に考えていたら思い出した。バナナボートのシャングリラと出会った、両親と乗っていたペダルボート。あれならば乗れる。足でペダルを漕ぐだけのボート。
「そうだ、ペダルボートに乗ろうよ、ハーレイ!」
ブルーは赤い瞳を輝かせた。
「あれなら小さなぼくでも乗れたよ、パパとママに漕いで貰って乗ってた! ハーレイと乗る時は自分で漕げるし、あれに乗って地球の海を見ようよ!」
本物の地球の青い海だよ、とハーレイに強請る。いつか自分が大きくなったら、ペダルボートで青い海の上に漕ぎ出したい、と。
「…ペダルボートって…。二人で漕ぐアレか!?」
ハーレイは目を白黒とさせたが、ブルーは「うん」と笑顔で頷く。
「二人で乗れる船、あれしか無いでしょ?」
「あ、あれはだな…! 大人が乗る時は恋人同士とか、そういうのが定番の乗り物で…!」
「ぼくたち、恋人同士だよ? あっ、その頃にはちゃんと結婚してるかも!」
ブルーはますます乗りたくなった。恋人同士で乗る乗り物なら、なおのこと大好きなハーレイと二人で乗って地球の海へと漕ぎ出したい。前の生で辿り着けなかった海へ、今度は二人でペダルを漕いで。そう、白いシャングリラを二人で地球まで運んで行こうとしたように。
ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
白いシャングリラの代わりにペダルボートを二人で漕いで、本物の地球の青い海の上を…。
「…参ったな……」
ペダルボートは恥ずかしいんだが、とハーレイが呻く。
「せめて普通のボートにしてくれ、それなら俺が漕いでやるから」
「…あれは免許は要らないの?」
「要らんさ、ゴムボートに免許は要らんだろうが」
ボートにしよう、と提案されてブルーは少し考えてみる。
青い海の上へと出てゆけるのなら、小さなボートも悪くない。しかもハーレイが漕ぐと言う。
(二人でペダルを漕ぐのもいいけど、漕いで貰うのもいいかもね…)
キャプテン・ハーレイが操る船なら、それはシャングリラと変わらない。小さな小さなボートであっても、ハーレイが舵を握る船。ハーレイの意のままに動いてゆく船。
「ボートでもいいよ」
それでいいよ、とブルーはニッコリ微笑んだ。
「ハーレイがキャプテンで船長なんだね、その時には」
「そうなるな。…だったら周りに人が居なけりゃ久しぶりにやるか、面舵いっぱーい、と」
「うんっ! ぼくたちだけのシャングリラだよね」
「二人だけだな、うん、間違いない」
シャングリラを二人で独占なんだな、とハーレイが嬉しそうな笑みを浮かべた。
「…お前を地球まで連れて行きたかった。今度こそ夢が叶うらしいな、貸しボートだがな」
「それでも、ぼくたちのシャングリラだよ」
「ああ。…いつか乗ろうな、俺とお前と二人だけでな」
「約束だよ? ボートのシャングリラで海に出ようね、青い青い海へ…」
小さかった頃に見たバナナボートのシャングリラ。
楽しそうに笑う人たちを乗せて、気持ち良さそうだった真っ白なシャングリラ。
ぼくがハーレイと乗ってゆくボートも、あのシャングリラみたいに幸せに溢れているんだろう。
だって、ハーレイと二人だから。
二人だけのためにあるシャングリラに乗って、ぼくたちは海に出るんだから。
前の生から焦がれ続けた青い地球の海へ、ハーレイがシャングリラの舵を握って……。
青い海のボート・了
※幼かった日にブルーが見ていた、バナナボートのシャングリラ。今は平和な時代です。
そしてキャプテン・ハーレイは実は無免許、古き良き時代と言っていいやら悪いやら…。
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ベッドに入る前のひと時、ブルーはパジャマ姿でベッドの端に腰掛けていた。特に何をしようというわけでもなく、ただのんびりと座っているだけ。こういう時間もけっこう好きだ。
頭の中に浮かんでは消える、脈絡も意味も無い思考。流れゆくままに流されていけば、いつしか懐かしい思い出に辿り着いたりもする。それは前世のものであったり、今の生でのものだったり。
こうした時に思い出すことは幸せな記憶ばかりだったし、眠る前にぴったりの過ごし方。今日も心を解き放っていたら、ふと唇から零れ出した歌。
「ゆりかごの歌をカナリヤが歌うよ…」
少し歌ってみて、ブルーは頬を緩ませた。
幼い頃に聞いた子守唄。母が歌ってくれていた歌。心がじんわりと温かくなる。
ブルーのお気に入りだった歌。眠る前には母にせがんで何度も繰り返し歌って貰った。
(…ふふっ)
好きだったよね、と歌詞の続きを思い出していたのだけれど。
「……あれっ?」
何処かで確かにこの歌を聞いた。
母が歌っていた子守唄。けれど歌声は母ではなかった。父の声でもない子守唄。
(…なんで?)
母の声でも父の声でもない子守唄。ブルーが好きだった「ゆりかごの歌」。
お気に入りのそれを、誰が歌ってくれたのだろう?
(ママじゃなかった…。パパでもなかった…。誰だったの?)
いくら考えても思い出せない。とても懐かしい歌声なのに、誰のものだか思い出せない。
(…ぼくに子守唄を歌ってくれるような人って、誰がいたっけ?)
親戚の誰かだったのかな、と幾つもの顔を思い浮かべた。
遠い所に住んでいるから滅多に会えない祖父母や親戚たち。たまに訪ねて来てくれる時は沢山のお土産を持って来てくれるし、誰もがブルーを可愛がってくれる。
けれど子守唄が記憶に残っているほど、長い滞在だっただろうか?
(…んーと…)
ブルーは覚えていないけれども、もしかしたら祖母が居てくれた時期があったかもしれない。
生まれつき身体が弱かったブルー。すぐに熱を出したりする子供だったから、母一人では世話が大変だろうと泊まり込んでくれていたかもしれない。
その時に聞いた子守唄かも、と幸せを見付けた気持ちになった。
両親の他にもブルーが大好きな歌を歌って寝かせてくれた人があったのだ、と。
次の日、ブルーは朝食の席で両親に尋ねてみた。小さい頃に聞いた子守唄。それを歌ってくれていたのは母方の祖母か、それとも父方の祖母だったのかと。
「…おばあちゃんたちか? そりゃあ、泊まりには来ていたが…」
「そんなに長くは居なかったわよね?」
それに、と両親は首を傾げた。小さかったブルーは祖父母たちが来ると大喜びで、あやして貰うことや遊んで貰うことが大好きで。もう御機嫌で過ごした末に、疲れてぐっすり眠っていた、と。
「子守唄なんか要らなかったぞ、おばあちゃんたちが来ていた時は」
「そうよね、いつだって朝までぐっすりだったわ」
子守唄の出番は一度も無かった、と二人は口を揃える。この家でブルーにあの子守唄を聞かせていたのは自分たちだけで、祖父母も他の親戚たちも歌って聞かせる機会は無かった、と。
「…じゃあ、ぼくが覚えてた子守唄って…。誰だったの?」
「幼稚園の先生じゃないの?」
母が柔らかな笑顔で答えた。
「お昼寝の時間があった頃もあるでしょ、きっとその時よ」
「そうだな、幼稚園に入りたての頃は昼寝の時間があったしな?」
先生だろう、と父も頷く。言われてみれば微かにそういう記憶があった。昼御飯を済ませた後に少し遊んで、それから昼寝。他の子たちと並んで眠った。先生たちが部屋で見守っていた。
(あの時なの…かな?)
そうなのかな、と納得して朝食を終えたのだけれど。
答えを貰って一度は満足したのだけれども、その夜にベッドに入ろうとしたら、記憶の彼方からまたあの子守唄が聞こえて来た。思い浮かぶままに小さな声で歌ってみる。
「…ゆりかごの歌をカナリヤが歌うよ…」
懐かしい、懐かしい子守唄。
大好きだった「ゆりかごの歌」。
(…違うよ、幼稚園の先生の歌じゃなかったよ…)
幼稚園では別の歌だった。「ゆりかごの歌」も時にはあったかもしれないけれども、懐かしいと思うほどに繰り返し聞いてはいなかった。
ならば、あの歌は誰が歌っていたのだろう?
祖母だったのかと思ったくらいに、何度も何度も歌って貰った「ゆりかごの歌」。
誰があの歌をブルーに歌ってくれたのだろう…?
(…もしかして、もっと前だったとか…?)
自分には前世の記憶がある。今よりももっともっと、遠い遠い昔の記憶。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃の記憶に刻まれた歌なのだろうか?
(……あの歌、ママの歌だったの?)
その顔すらも覚えてはいないソルジャー・ブルーだった自分の養父母。成人検査が記憶を奪ってしまった。おぼろげながらも残った筈の記憶も、アルタミラの研究所時代に失くしてしまった。
マザー・システムが消してしまった記憶に在ったブルーの養父母。生きていた間には見ることも叶わなかったデータを、前世のハーレイが目にしていた。アルテメシアを落とした時に手に入れたデータの中に在った、と今のブルーに教えてくれた。
遙かな時を越えて生まれ変わっても、ハーレイが覚えていた記録。ブルーの養父母の顔と名前。育った家のデータもあった。それをブルーはサイオンで伝達して貰ったから、今なら前の母の顔も姿も分かる。
(ママが歌ってくれてたのかな…?)
優しそうだったソルジャー・ブルーの養母。その母が歌っていたかもしれない。
ブルーが大好きな「ゆりかごの歌」。
今の両親に心当たりが無いというなら、母かもしれない。
(…でも、声が思い出せないよ、ママ……)
ハーレイが伝えてくれたデータに音声は含まれていなかったから。
それに記憶の中の「ゆりかごの歌」は、その歌い手が女性か男性かさえも判然としない。
母の声さえ思い出せたら、母の歌だと気付けたのかもしれないのに。ブルーを寝かしつける母の歌声を思い出せたかもしれないのに…。
「…ゆりかごの歌をカナリヤが歌うよ…」
歌ってみても思い出せない。とても懐かしい歌声なのに、女性とも男性とも分からない声。
(…ママの歌だった? それともパパ…?)
前の生でも「ゆりかごの歌」で眠っていたのなら、思い出したかった。記憶から消えてしまった養父母だけれど、二人に心で伝えたかった。
ぼくは今でも幸せだよ、と。今のぼくも「ゆりかごの歌」が好きだったよ、と…。
(…でも……)
養父母が歌ってくれた子守唄。そんなデータ、ハーレイだってきっと持ってはいない。データを蓄積していたマザー・システムにとっては意味を成さないデータだから。
懐かしい、懐かしい「ゆりかごの歌」。
(でも、シャングリラには「ゆりかごの歌」は無かったよ…)
ソルジャー・ブルーの記憶には無い。シャングリラの保育セクションで歌われた子守唄はまるで違うもの。SD体制の下で作られた、もっと新しい子守唄だった…。
人間が地球しか知らなかった頃に生まれたという「ゆりかごの歌」。
今の世界では広く知られていて、ブルーの両親も歌ってくれた。だからブルーのお気に入り。
けれど前世でブルーが暮らしたシャングリラでは、それを知る者が誰もいなかった。
子守唄が必要な小さな子供を保護するようになって保育セクションが設けられたが、其処で働く若いミュウたちが聞き覚えていた子守唄は全て新しいもの。SD体制に入ってから作られた新しい子守唄が歌われていて、「ゆりかごの歌」は何処にも無かった。
ブルーの記憶にある「ゆりかごの歌」が母の歌なら、その時代にはまだ歌われていたのだろう。いつしか廃れて新しい歌と入れ替わってしまい、シャングリラまでは伝わらなかった。
だからブルーは前の生では聞かなかったし、今の今まで忘れていた。
母が歌ってくれていたなら、その母に。父も歌ってくれていたなら、養父母たちに伝えたい。
自分は地球で幸せだからと、小さな頃には「ゆりかごの歌」で眠っていたのだと…。
「ゆりかごの歌をカナリヤがう歌うよ…」
庭で一番大きな木の下に据えられた白いテーブルと椅子。
其処にハーレイと座っていた時、ふと浮かんだから歌ってみた。木漏れ日の下で、初めだけを。
何の気なしに歌っただけなのに、何故かハーレイがギョッとしている。
(なんで?)
自分はそんなに音痴だったろうか、と一瞬焦ったが、音楽の成績は悪くない。皆の前で歌うのは苦手だけれども、苦手なだけで下手ではない。合唱部に入らないかと勧められたこともあったし、クラスの合唱でソロを担当したこともある。
(普段の声より高かったかな?)
きっとそうだ、とブルーは思った。今のブルーの声はボーイソプラノ。歌う時には話す時よりも高くなるから、ハーレイはビックリしたかもしれない。
「ごめん、ハーレイ。…ぼくの声、ちょっと高すぎちゃった?」
「い、いや…。そういうわけではないんだが…。その歌がな」
聞き覚えのある歌だったから、と答えが返った。
シャングリラが在った時代と違って、今では有名な「ゆりかごの歌」。ハーレイもこの子守唄を聞いて眠っていたのだろうか。耳に残る歌声とは違った声で、驚いた顔になったのだろうか。
だからブルーは問い掛けてみる。
「ハーレイの子守唄もこれだったの?」
「あ、ああ…。まあ……な」
ハーレイはそう返事したけれど、なんだか妙に歯切れが悪い。
(…何か変だ…)
ブルーが歌った「ゆりかごの歌」にギョッとした顔を見せたハーレイ。懐かしい子守唄を聞いただけなら、あんな顔にはならないと思う。ブルーの声が変だったのなら分かるけれども、どうやらそうではないようだったし…。
(…「ゆりかごの歌」でビックリしてたんだよね?)
もしかしたら、と一つの可能性がブルーの中から浮かび上がった。
歌い手すらも思い出せない、遠い遠い記憶の彼方に在る懐かしい「ゆりかごの歌」。
(もしかしたら…)
ハーレイは知っているのだろうか?
誰があの歌を歌っていたのか、誰がブルーに聞かせたのかを。
「…ねえ、ハーレイ」
ブルーは不自然に目を逸らしているハーレイの名を呼び、視線を合わせた。
「さっきの「ゆりかごの歌」なんだけど…。誰かがぼくに歌ってたんだよ、今のパパともママとも違って、おばあちゃんたちでもないんだって。…ハーレイ、もしかして知ってるの?」
誰がぼくに「ゆりかごの歌」を歌っていたのか。
そう問い掛けたブルーは、ハーレイの答えに期待した。もしかしたら前世の母のデータが残っていたかもしれないから。あの子守唄を歌っていたと、記録されていたかもしれないから…。
「前のぼくのママが歌ってくれたの? ママの歌なの?」
ブルーの瞳に母への思慕があったのだろう。ハーレイは暫し沈黙してから「すまん」とブルーに頭を下げた。
「…すまない、ブルー。…お前、覚えていたんだな…」
「なんで謝るの?」
「お前が思っているような暖かい記憶じゃないからだ。…あれはお前のママじゃないんだ」
俺だ、とハーレイが再び謝る。
「…お前が覚えていた「ゆりかごの歌」。…そいつは俺が歌っていたんだ」
「ええっ!?」
まさかハーレイだとは思わなかった。けれど記憶の中の歌を手繰ってみれば、ハーレイの面影が見える気もする。性別さえも判然としなかった歌い手の声に、ハーレイの声が被さる気がする。
「…で、でも…。「ゆりかごの歌」だよ、ハーレイ? あれはシャングリラに無い歌だったよ?」
前の生では一度も聞かなかった歌。
養父母が歌ってくれていたとしても、記憶から抜け落ちてしまった歌。
保育セクションの者たちも知らず、ソルジャーだったブルーの耳には入ることさえ無かった歌。
それをハーレイが知っていたとは思えない。
何故、と瞳を丸くするブルーに、ハーレイは「お前が眠っていた間のことさ」と語り始めた。
「お前が長い眠りに就いて、その間に俺たちはナスカまで行った。…あそこで自然出産で生まれたトォニィのために、本当の生まれ方をした赤ん坊のためにと古い子守唄を探したんだ」
母親の胎内から生まれた子だから、そういう時代の歌を探した、と。
シャングリラのデータベースには昔の歌も沢山入っていたから、ハーレイたちはSD体制以前の古い子守唄を幾つも見付けた。その中の一つが「ゆりかごの歌」。
保育セクションの者たちは古い子守唄を覚えて歌って、ナスカで生まれた子たちを育てた。
全てはブルーが眠りに就いていた間の出来事で、ブルーが知らないのも当然なのだ、と。
ナスカで生まれた子供たちのために探し出された古い子守唄。
何曲もの歌が歌われた中で、トォニィのお気に入りだった歌が「ゆりかごの歌」。
トォニィは一番最初に生まれた子だから、誰もがトォニィをあやしたがった。トォニィを産んだカリナも、父のユウイも、周りの者たちも「ゆりかごの歌」を何度も歌った。
赤い星、ナスカの空の下で流れた優しい優しい子守唄。
いつしかハーレイも覚えてしまった。
小さな小さな新しい命を寝かしつける時に歌う、優しい言葉の繰り返しの歌。
ゆりかごと、カナリヤと、それから、それから…。
そうして眠り続けるブルーのベッドの側に座って、その歌を歌い聞かせていた。
毎夜、青の間を訪れる度に。
上掛けの下のブルーの手を取り、深い眠りの底に居るブルーに届くようにと。
ゆりかごの歌をカナリヤが歌うよ…。
……ねんねこ、ねんねこ、ねんねこよ……。
「…そうだったんだ……」
ハーレイが歌ってくれていたんだ、とブルーは目の前の恋人を見詰めた。
「前のママかと思ってた。…だけどハーレイだったんだ…」
「だからすまんと謝っただろう。…勘違いさせて悪かった」
すまん、とハーレイはまたも頭を下げたけれども。
「なんで謝るの? ぼくはハーレイで嬉しかったよ」
顔も忘れてしまったママより、絶対ハーレイの方がいい。…ハーレイの子守唄がいい。
ぼくは眠りっ放しで聞き損ねたけど、それでも何処かで聞いていたんだ。
君の声だけは聞こえていたから。遠すぎて意味までは分からないことが多かったけれど、君の声だということだけは感じ取れたし、幸せだった。
そんな風にして聞いてたんだね、君が歌っていた「ゆりかごの歌」。
全然知らない歌だったから、君の歌だと分からずに聞いて、それでも覚えていたんだね…。
歌っている声が君の声だったから。
どんな時にでも感じ取れていた、大好きな君の声だったから…。
前の生でハーレイが何度も歌ってくれていたのに、それと気付かずに終わってしまった子守唄。
あれはハーレイの歌だったのだ、と知ったからもう一度聞きたくなった。
ハーレイが歌う「ゆりかごの歌」を、補聴器が要らない新しい生の自分の耳で。
木漏れ日の下、ブルーは赤い瞳を煌めかせながらハーレイに強請る。
「ねえ、ハーレイ。ゆりかごの歌を歌ってみてよ」
「う、歌うって…。此処でか!?」
ブルーの部屋の中ならともかく、日射しが明るい庭の真ん中。こんな所では雰囲気が出ない、とハーレイは必死に逃げを打つけれど、ブルーに諦める気は微塵も無かった。
「ちゃんと雰囲気にぴったりだよ? ほら、上には大きな木の枝もあるし、木ねずみが出そう」
ゆりかごの綱を木ねずみが揺するよ…。
それが三番の歌詞なんだから、とブルーが言えば、ハーレイが木の枝を指差して。
「この木は枇杷の木じゃないぞ? 二番はゆりかごの上に枇杷の実が揺れるよと歌うだろうが」
そして四番は黄色い月だ、と懸命に反論し続けたものの、ハーレイは結局、ブルーに甘い。今はまだ小さなブルーだけれども、ハーレイの大切な恋人だから。
前の生から愛し続けて、愛しくてたまらない恋人だから…。
「…仕方ないな…。一回だけだぞ」
「うんっ!」
ブルーが行儀よく座って耳を傾ける中、ハーレイは照れながら歌い始めた。
「ゆりかごの歌をカナリヤが歌うよ…」
(…そうだ、この声だ)
遠い記憶の中にある声。育ての母かと思っていた声。
眠りの底に居たブルーの耳元で、この声が確かに歌っていた。
大好きでたまらないハーレイの声。…その声だけは常に感じ取ることが出来た、低くて穏やかなハーレイの声…。
記憶の彼方の懐かしい歌と、ハーレイの子守唄とが重なる。
「ゆりかごの綱を木ねずみが揺するよ…」
ねんねこ、ねんねこ、ねんねこよ……。
(…ああ、ハーレイ…。そうだね、あの歌、君の声だね……)
君の歌だね…。
ブルーの耳に心地よく響く、懐かしい遠い子守唄。
小さな頃に大好きだった「ゆりかごの歌」を、前の生でも聞いていた。
眠り続けるブルーの枕元で、ハーレイが歌ってくれていた。
その同じ声が今、ブルーのために歌ってくれる。
大好きな声で、大好きだった歌を。
今の生でもお気に入りだった「ゆりかごの歌」を。
「ゆりかごの夢に黄色い月がかかるよ…」
ねんねこ、ねんねこ、ねんねこよ……。
そうっと歌い終えたハーレイは、少し恥ずかしそうだったけれど。
ブルーは「ゆりかごの歌」に思いを馳せる。
大好きなハーレイが歌ってくれた「ゆりかごの歌」。
いつか黄色いお月さまの下で、ハーレイの「ゆりかごの歌」を聴きたい。
その時はゆりかごの中じゃなくって、ハーレイと二人で眠るベッドで……。
ゆりかごの歌・了
※キャプテン・ハーレイが歌った「ゆりかごの歌」。前のブルーの耳に届いていたのです。
同じ歌が今も好きだったブルー。大切な人のことは、生まれ変わっても忘れません。
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十四歳の小さなブルー。アルビノであることや前世の記憶を持っていることを除けば、見た目はごくごく普通の少年。整った顔立ちは人目を引くけれど、それでも特異な存在ではない。
しかし前世のブルーは違った。迫害されていたミュウたちの長として立ち、白いシャングリラを守っていた。最後の最期まで守り続けて、独りきりでメギドを沈めて死んだ。
今の小さなブルーからすれば恐ろしくもさえ思える前世。その始まりはアルタミラでの成人検査からであったし、それよりも前の記憶は無い。辛くもアルタミラを脱出した後も不遇の人生だった気がする。ささやかな幸せはあったけれども、毎日が船の中だった。
船から出る時は戦いか、仲間の救出ばかり。外の世界は人類のもので、ブルーには手の届かない世界。いつか行きたいと焦がれた地球にも辿り着けずに、ただ独りきりで宇宙に散った。
けれど……。
(…ハーレイが居たから幸せだったよ)
自分のベッドに仰向けに転がり、ブルーは前の生の自分を思い出す。
ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃のブルーを側で支えてくれたハーレイ。キャプテンだったハーレイはブルーの右腕であり、私生活ではブルーの恋人。二人の仲を誰にも明かせはしなかったけれど、心も身体も固く結ばれた恋人同士であったハーレイ。
(ハーレイが居てくれたから幸せだったし、幸せな記憶ってハーレイばかりだ…)
どんな幸せにも、必ずハーレイの姿があった。恋人同士で過ごす時間はもちろんのこと、日常の小さな幸せでさえもハーレイから貰っていたように思う。公園の花が咲きそうですよ、と誰よりも早く教えてくれたり、「試作品が出来たそうです」と勤務時間中にお菓子を届けてくれたり。
食堂の新しいメニューの試食はキャプテンの仕事の範疇だったが、ソルジャーは違う。ブルーを神のように崇めたクルーたちは完成品しか届けたいとは思わなかった。だから試作品は貰えない。アルタミラの地獄を、その後の物資不足の時代を生きたブルーは焦げていたって平気なのに。
(…ハーレイはそれも知ってたものね)
ブルーが「普通の仲間でありたい」と思っていたことを。失敗作のお菓子を皆と一緒に試食してみたり、その失敗を笑い合ったり。そうした人間味の溢れる時間が欲しかった。けれど、青の間にそういったものを持ち込もうとする者は誰もいなくて…。
(ハーレイだけが持って来てくれてたんだよ、試作品のお菓子)
流石に焦げてはいなかったけれど、改良の余地がありそうなお菓子。青の間に届けられる頃には完璧に仕上がっているだろうそれは、少し硬かったり、甘すぎたりして面白かった。
(お菓子は部屋でも食べられるから、余分に貰うって言ってたっけね…)
自分の部屋でも試食するから、と嘘をついてブルーの分を貰ってくれたハーレイ。料理の試食はその方法が使えないから、食べられたものはお菓子だけ。それでもブルーは嬉しかった。
日常の幸せから、非日常まで。何処にでもハーレイの姿があったし、いつもブルーに寄り添って幸せをそっと与えてくれた。
戦いから戻れば皆が労ってくれたけれども、キャプテンの貌をしたハーレイの言葉が心に優しく染み通った。無事に戻れたと、ハーレイの所に帰って来られたと幸せな気持ちが溢れて来た。
地球を抱く女神、フィシスを見付け出した時も、まずハーレイに相談した。フィシスの生まれが普通ではないことも、ハーレイにだけは素直に明かした。それでも連れて来たいと思う、と。
ミュウではないフィシスを船に迎える。反対されるだろうと考えたのに、ハーレイは否と答える代わりに「私は何も聞きませんでした」と笑みを浮かべた。地球の映像を抱く神秘の少女。彼女が抱く地球はシャングリラの皆を癒すだろうから、それで充分ではないか、と。
(…記憶を消せとまで言ったよね、君は)
うっかり秘密を漏らさないよう、自分の記憶を消してしまえとハーレイはブルーに進言した。
ブルーの我儘に過ぎない偽りに加担した上、それが偽りだと知られないよう、真実を知っている自分の記憶を消去しろとまで言ってくれたハーレイ。その優しさに涙が零れた。もちろん、記憶は消さなかった。そしてハーレイは何も言わずに、フィシスを船に迎え入れてくれた…。
(…君のお蔭で、ぼくはいつでも地球を見られた。あの地球はぼくの憧れだったよ…)
フィシスの記憶に刻まれていた地球。本物の地球だと信じていた。いつかあの青い地球まで辿り着くのだと自分を鼓舞した。挫けそうになる心を叱咤していた。いつか必ず青い地球へ、と。
それが叶わないと気付かされた時、ハーレイの胸に縋って泣いた。もう行けないと、自分の命は地球に着くまで持たないのだと。地球に行けないことも悲しかったけれど、それよりもずっと…。
(…君と別れるのが悲しかったよ。死んでしまうのが悲しかったよ…)
ハーレイは泣きじゃくるだけのブルーを抱き締め、いつまでも背中を撫でていてくれた。耳元で何度も繰り返してくれた。「私がいます」「大丈夫、私がお側にいますよ」と。
いつまでもお側にいますから、と告げられて心が温かくなった。離れ離れにならなくて済むと、ハーレイが側に居てくれるのだと。それはハーレイの死を意味したけれども、幸せだった。自分は独りで逝くのではないと、何処までもハーレイと共に在るのだと。
(…それなのに破らせちゃったね、約束…)
優しかったハーレイの手を振りほどいてメギドへと飛んでしまった自分。ハーレイに次の世代を託すと言い残したから、ハーレイはブルーを追えなかった。独りぼっちで長い時を生き、死の星と化した地球に着くまで生き続けねばならなかった。
(君はぼくに幸せを沢山くれたのに…。ぼくは君に幸せをあげるどころか、取り上げちゃった…)
辛かっただろうと想像がつく、残されてしまったハーレイの生。
前の生でハーレイは幸せだっただろうか? 自分は沢山の幸せをハーレイから貰ったけれども、そのハーレイは幸せな生を生きたのだろうか…。
とても心配になったから。前のハーレイは幸せだったか、とても心配になってきたから。訪ねて来てくれたハーレイに問い掛けてみた。自分の部屋でテーブルを挟んで、向かい合わせで。
「ねえ、ハーレイ。…キャプテン・ハーレイだった頃って、幸せだった?」
「なんだ、それは?」
ブルーの意図を掴みかねたハーレイが問い返してきた。
「幸せと言っても色々とあるが…。シャングリラという居場所があったのは幸せだったな。それがどうかしたか?」
「そうじゃなくって…。えーっと、それじゃハーレイが一番幸せだったことって、なに?」
「シャングリラでか?」
「んーと…。ハーレイの人生って言うのかな? 前に生きた中で一番幸せだったこと」
何だった? と尋ねると、ハーレイは少し考えてから。
「…お前に会えたことだな。そいつが一番幸せだったな、間違いない」
おまけに恋人同士になれた、と嬉しそうに微笑む。心の底から幸せそうな笑顔。ブルーの心配を吹き飛ばすのには充分すぎる笑みだったから、ブルーも釣られて笑顔になった。そしてハーレイに告白する。自分もそれが幸せだった、と。
「ぼくもだよ。ハーレイに会えて幸せだった。…フィシスを見付けて手に入れたことより、ずっとずっと幸せだったよ、君と一緒にいられたこと。もしも地球まで行けていたとしても、一番は君に会えたこと。…フィシスより、地球より、やっぱり君だよ」
「そうなのか? 地球よりも、とは光栄だな」
もっともそいつは、前の俺だが。
そう言って笑うハーレイは今も幸せそうだったから、ブルーは更に尋ねてみる。
「それじゃ今は? 今の一番の幸せって、なに?」
「もちろん、お前と出会えたことだな。…今のところは」
「えっ?」
ブルーは赤い瞳を見開いた。「今のところ」とは何だろう? 不安が膨れ上がりそうになるのをハーレイの言葉が一気に鎮めた。片方の目をパチンと瞑って、ハーレイがブルーに微笑みかける。
「まだ出会ったというだけだろう? 前の分にはまだまだ足りない。…こうして二人でお茶を飲むとか、飯を食うのが限界だからな。俺の幸せはまだ始まったばかりだ、ってことだ」
当分、結婚も出来そうにないしな。
前は結婚出来なかったから、その先にある幸せってヤツは未経験な分、楽しみなんだ。
そうだろう、ブルー?
お前もそいつは未経験だしな、うんと楽しみにしておけよ?
今度は二人で何をしようか、とハーレイが鳶色の瞳を細める。
前の生では出来なかったことが今の生では溢れすぎていて、一通り体験するまでだけでも相当に時間がかかりそうだ、と。
「ブルー、お前は何をやりたい? 前は出来なかったことが今では山ほどあるぞ」
「ハーレイと一緒なら何でもいいよ。何をやっても幸せになれるよ」
だからハーレイのやりたいことがいい。前はハーレイから沢山の幸せを貰ったから。それなのにぼくはお返しもせずに、ハーレイを置いて行っちゃったから…。
ごめん、とブルーは謝った。
ハーレイの気持ちを考えもせずに、ミュウの未来を押し付けて逝った。貰った沢山の幸せの分を返す代わりに、重荷だけを背負わせてしまってごめん、と。
「…ごめんね、ハーレイ…。ひょっとして罰が当たったのかな、ぼくの右の手…」
メギドで冷たく凍えた右の手。ハーレイの温もりを失くした右の手。
「…ぼくが勝手なことをしたから…。お返しどころか酷いことをしたから、神様が怒って取り上げちゃったのかもしれないね…。もうハーレイは要らないだろう、って」
「そんなことがあるわけないだろう。神様は全部ご存知だったさ」
あの時がどういう状況だったか。
どんな気持ちでお前が俺を置いて行ったか、何もかも知っていらっしゃったさ。だから…。
「神様は怒っていらっしゃらないし、俺にだって謝らなくていいんだ。…俺は充分に幸せだった。お前と一緒に生きていた間、俺は本当に幸せだったし、あれが一生分だったんだ」
一生分の幸せをお前から貰った、とハーレイは穏やかな笑顔で言った。
負い目に思う必要は無いと、自分は充分に幸せだった、と。
「…お前は沢山の幸せをくれた。お前を失くして、幸せも全部消えちまったと思ったもんだが…。それは違うな、一生分の幸せってヤツは残っていたな」
此処の中に、とハーレイの指が自分の左胸を指す。
「お前の夢を何度も見た。目を覚ます度に悲しかったが、夢の中では俺は幸せだったんだ。…俺の隣にお前が居た。幸せそうに笑うお前と過ごす間は幸せだったさ、そいつはお前がくれた記憶だ」
胸の中に仕舞った一生分の幸せの記憶。
それを支えに自分は生きた、とハーレイはブルーの瞳を見詰めた。
「もちろん悲しい夢だって見たさ。…お前が飛んで行っちまう夢だ。何度捕まえたか分からない。お前の身体を何度抱き締めても、お前はメギドへ行っちまうんだ。俺の腕なんかすり抜けてな」
そして泣きながら目を覚ますのだ、と悲しい夢の話もするハーレイだけれど。幸せな夢があった分だけ救われていた、と真摯に語る。一生分の幸せの記憶が自分を生かしてくれていたのだ、と。
「全部、お前がくれた記憶だ。お前と生きた幸せの分だ」
それがあったから生きていられた、とハーレイは胸に手を当てた。
「この中に全部残っていたから、独りきりになってしまった後でも夢の中で思い出せたんだ。俺の側に居たお前の姿を、幸せそうに笑うお前の顔を。…ちゃんとお前は俺にくれたさ、一生分な」
だから前の生の分は貸し借り無しだ、と鳶色の瞳が優しく輝く。
ブルーがハーレイに貰った分と同じだけの幸せを自分もブルーから貰っていた。もしかしたら、ブルーがいなくなった後に長く生きた分、自分の方が多めに貰っていたかもしれない、と。
「というわけでな、お前は俺に借りなんか無い。あるとしたら貸しだ、俺が余分に生きていた間の支えの分だけ、お前の貸しになるってことだ。…お前は心配しなくていいさ」
「でも、ハーレイ…。ぼくがいなくなった後、ハーレイは独りぼっちになっちゃったのに…」
「…まあな。お前の後を追おうと思ったことが無いと言ったら嘘になる。…それでもお前が遺した言葉を守らなければ、と歯を食いしばって地球まで行った。それが出来たのはお前のお蔭だ」
此処に幸せが在ったからだ、と自分の胸を軽くトントンと叩く。
「辛い記憶しか無かったとしたら、俺が耐えようと頑張ってみても途中で崩れてしまっていたさ。お前の言葉を守るどころか、確実に後を追ってたな。…夢の中に幸せなお前がいたから頑張れた。いつかお前の所に行こうと、そしてお前の笑顔を見ようと…」
何もかも途中で放り出して会いに行ったら、お前は笑顔で迎える代わりに怒るだろうしな。
違うか、ブルー?
「…怒らないとは思うけど……」
ハーレイが来てくれたならば嬉しい。どんな状況でも嬉しいと思う。
けれど、ハーレイが自分の命を自ら断って追って来たなら、複雑な気分ではあるだろう。幸せになれる筈の命を捨ててしまったかもしれないと。自分のせいでハーレイの未来を消してしまったと悔やんだだろう。生きてさえいれば、幸せはいつか訪れるのかもしれないのだから。
「怒らないけど、泣くかもしれない。…幸せになれたかもしれないのに、って」
「……お前が泣くのか?」
「うん。…ハーレイが生きていたら貰えた筈の幸せをぼくが消しちゃったかも、って」
「そうか…。お前、そう言ってくれるのか…」
ありがとう、とハーレイは唇に笑みを湛えた。
「お前の方がうんと辛かったのにな、独りぼっちで逝っちまったのに……。それなのに俺の心配をしてくれる上に、泣くとまで言ってくれるのか…。やっぱりお前に借りがあるかもしれないな」
俺が貰った幸せの量、と胸を指差す。前の生でブルーから自分が貰った幸せの方が、ハーレイがブルーに贈った分より多かったのかもしれないと…。
「なあ、ブルー。お前は俺に貸しがありそうだし、どうやらお前が優先らしいぞ」
今度の人生での幸せ作り、とハーレイはブルーに語り掛けた。
「お前から沢山貰いすぎた分、頑張って返していかんとな。…お前は何をしてみたい?」
「ハーレイと一緒なら何でもいいよ、って、さっきも言ったよ」
前の生では出来なかったこと。
シャングリラの中では出来なかったことも、誰もが認める恋人同士でないと出来なかったことも沢山ありすぎて選べない。普通の人生なら当たり前のことが出来ない世界に居た自分たち。今度は何でも出来るからこそ、当たり前のことでも幸せになれる。
たとえばハーレイと手を繋いで二人で歩くこと。
歩いて行く先は公園でもいいし、買い物にだって二人で行ける。公園はシャングリラにもあったけれども、手を繋いでは行けなかった。買い物はシャングリラでは出来なかった。
そんな「今では当たり前」のことで幸せになれる自分たち。
今度の生では前よりもずっと沢山の幸せをハーレイから貰って、ハーレイに贈って、どれほどの幸せが訪れるだろう。前の生での一生分をあっという間に超えてしまって、それでもきっと増えてゆく。溢れ出してもまだ増え続けて、それこそ想像もつかない量の幸せがきっと降って来る。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくたち、まだまだこれからだよね?」
幸せ作り、とブルーが問うと「当たり前だ」と答えが返った。
「結婚さえもしていないんだぞ、これからどころかスタート地点に立ってもいないさ。…いいか、お前は前よりも幸せになれるんだ。まだ俺たちは出会ったばかりで、これからだしな」
「うん。…ハーレイと一緒に何処へだって行くよ、そして今度は離れないよ」
約束するよ、とブルーは微笑む。
決してハーレイを独りにしないと、二度と独りぼっちにさせはしないと。
「俺も同じだ。今度こそお前を行かせはしないさ」
独りで行くなら買い物くらいにしておいてくれ、とハーレイが笑う。でなければ家の近くを歩く程度で、出来ればそれも同行したい、と。
「ぼくも一緒に行きたいよ、それ。散歩と買い物!」
「ははっ、一つは決まったな。いや、二つか…。一緒に散歩と買い物だな、うん」
そうやって幸せを作っていこう、とハーレイはブルーに微笑みかけた。
幸せを貰って、自分も贈って。
そのために自分たちは生まれ変わって、この青い地球で再び出会った。
今度こそ幸せに生きてゆくために。
お互いの手を固く握って、何処までも二人、幸せを贈り合いながら生きてゆくために…。
貰った幸せ・了
※前のハーレイから沢山の幸せを貰ったブルー。なのに、お返しが出来なかったみたいです。
今度は幸せをハーレイに贈って、自分も貰って、幸せに生きていける未来が待ってます。
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朝から曇り空だったのが、午後の授業の途中から雨。終礼が終わる頃には本降り、窓から見ても雨音が聞こえてきそうなほどの雨脚となった。天気予報で言っていたとおり、明日まで止みそうもない暗い空。傘を用意してきて良かった、とブルーは鞄を開けたのだけれど。
「あっ…」
鞄の中を覗いたブルーは自分の目を疑い、それからガックリと肩を落とした。
入っていた筈の折り畳み傘。端の方に入れてあった傘が見当たらない。
そういえば昨夜、鞄の中身を整理していた。友人がコッソリ学校に持ち込んだキャンデーを鞄に入れてくれたのはいいが、其処で先生が入って来たから「お前の分な!」と文字通り放り込まれて散らばってしまい、幾つあったのかも分からなくて。
(…全部、引っ張り出したんだっけ…)
教科書もノートも、文房具も出して鞄の中からキャンデーを探した。色とりどりのキャンデーは個別に包装されてはいたが、学校はお菓子の持ち込みは禁止。うっかり何かを取り出した時に床に落ちたりしたら非常にまずい。いくらブルーが優等生でも先生に見付かれば叱られる。
キャンデーの回収作業の真っ最中に母に呼ばれた。父がケーキを買って来たから食べないかと。ケーキはもちろん食べたかったから作業中断、階下へ急いだ。
その時、荷物を広げていた机の引き出しをパタンと閉めたけれども、折り畳み傘は其処に落ちて紛れていたかもしれない。雨の降りそうな時しか用意しないから、鞄に無くても気が付かない。
(……やっちゃった……)
鞄の中身はきちんと詰めた筈だったのに。教科書もノートも全部あったのに、折り畳み傘だけが何処にも無い。小雨だったらまだ良かったのに、本降りの雨。傘が無くてはどうにもならない…。
予報通りの午後からの雨。降り始めたのを窓越しに眺めた時には大丈夫だと思っていた。鞄には傘が入っているから、それを差して帰ればいいだけなのだと。
(…忘れちゃったなんて…)
気落ちしているブルーを他所に、みんな次々と帰ってゆく。クラスメイトの鞄から出て来る折り畳み傘が羨ましい。普段の自分なら決してしない忘れ物。
こんな日に傘を忘れた経験がまるで無かったから、ブルーは見事に出遅れた。バス停の方へ行く誰かの傘に入れて貰えば良かったというのに、思い付く前にクラスメイトたちは消えてしまった。家へ、あるいはクラブ活動へと。
(そうだ、学校の傘があったっけ…!)
急な雨の日のために用意されている予備の傘。あれはどうやって借りるのだったか、と考えつつ置き場所に行けば、傘はすっかり無くなっていた。元々、全員の分は無い傘。空っぽになった傘の置き場を眺めていても傘が出て来る筈も無い。
(……どうしよう……)
鞄を抱えて校舎の出口に立ち尽くす。そんなブルーの脇を通って雨の中へと駆け出す男子たち。傘は差していないが、彼らの周りに赤や緑のシールドが見えた。雨を防げるサイオン・シールド。ソルジャー・ブルーだった頃なら出来たが、今のブルーには不可能な技。
シールドで雨を避けられはしないし、傘だってブルーの手には無い。校門からは少し距離があるバス停までは、この雨の中を走ってゆくには遠すぎた。
濡れてしまえば風邪を引く。けれども濡れない方法が無い。
(…ママに連絡して貰おうかな?)
ブルーの身体が弱いことは担任の教師も承知していたし、頼めば連絡してくれるだろう。母には迷惑をかけるけれども、風邪を引いて寝込めば母はもっと困る。それしか無い、と考えていたら。
「おい、どうした?」
傘が無いのか、と声が掛かった。
「…ハーレイ先生?」
振り向いた先に、好きでたまらないハーレイが居た。
まだ柔道着に着替えていないハーレイ。部活に出掛ける途中なのだろう。
問われるままに傘を忘れたいきさつを話すと「お前らしくない失敗だな」と笑われて。
「着替える前で丁度良かった。…ちょっと待ってろ」
クラブのヤツらに言ってくるから。
ハーレイは渡り廊下で校舎と繋がった体育館へと歩いて行って、暫くしたら戻って来た。そしてブルーを連れ、職員室に向かう。科目別に整えられた準備室ではなく、朝と放課後とに教師たちが集まる職員室。ハーレイがブルーと一緒に其処に入ると、入口にいた男性教師が直ぐに気付いた。
「おや。ハーレイ先生、今日は今からお仕事ですか?」
教職員たちは皆、ハーレイの役目を知っている。聖痕者であるブルーの守り役。ミュウの初代の長、ソルジャー・ブルーが最期に負った傷痕をその身に写し出す聖痕者と診断を下されたブルー。二度と出血を引き起こさぬよう、ハーレイが側につくと決まった。
聖痕者の出血が酷すぎた場合、寝たきりになる例もあったらしいと古い資料が示していたから。ソルジャー・ブルーの傷痕はメギドで負った傷なのだから、メギドではない場所に居たなら傷痕が浮かび上がりはしない。そのためにハーレイが選ばれた。
ソルジャー・ブルーの右腕だったキャプテン・ハーレイそっくりのハーレイ。そのハーレイさえ側に居たなら、其処はメギドではないのだから、と。
それゆえにハーレイはブルーの守り役に選ばれ、時間が許す限りブルーの側で過ごすのが仕事。男性教師が言う「仕事」とは、ブルーの側に付くことだ。今からブルーの付き添いなのか、という意味の問い。ハーレイはそれに「いいえ」と答えた。
「今回は時間外でしてね。傘を忘れて来たらしいので、バス停まで送り届けませんと」
「それはそれは…。その後で通常業務でしたか、お疲れ様です」
「いえ、柔道部の指導は私の趣味でもありますから。…では、行ってきます」
ハーレイは自分の仕事机の下から二本の傘を引っ張り出した。折り畳みではない普通の傘。雨の予報を聞いて家から持って来た分と、急な雨に備えての傘なのだろう。
それを抱えて「待たせたな」と出て来たハーレイ。扉を閉める彼の背後から労いの声が聞こえ、ブルーは申し訳ない気持ちになった。だから…。
「ぼく、傘を貸してくれたら一人で帰るよ」
うっかり敬語を忘れたけれども、大丈夫だとハーレイに告げた。すると即座に返事が返る。
「見付けちまったら放り出せんさ」
他の先生も言ってただろう。俺はお前の守り役なんだ。
濡れないように送って行くさ。バス停まできちんと送り届けるのも役目の内だ。
そう話しながら辿り着いた、先刻ブルーが出られずに立っていた校舎の出口。ハーレイが大きな傘を広げた。ブルーは借りた傘を持っているのに、笑顔で「入れ」と差し掛けてくれる。
「俺が送ると言っただろ? 遠慮しないで入って行け」
校舎から出ると、思っていた以上に大粒の雨。バラバラと傘を叩く雨粒の音が途切れない。傘の端からは雫が滴り、ふと見ればハーレイのスーツの肩の部分が雨に濡れて色が変わっていた。
「…ハーレイ先生、スーツ、濡れてる…」
校内だからブルーは「先生」と呼び掛けたけれど、続きの言葉は普段どおりになってしまった。雨が降りしきる中、誰も歩いてはいなかったから、ついつい生徒の立場を忘れた。それにブルーは全く濡れてはいなかったから。ハーレイの大きな傘に守られて、雨に打たれはしなかったから。
ハーレイが自分を大切に雨から庇って歩いてくれる。そのせいで恋人気分になった。ハーレイは自分の守り役でも教師でもなく、守ってくれる恋人なのだと。
ブルーの口調からハーレイも感じ取ったのだろうか、傘を差しながら「ははっ」と笑った。
「相合傘と洒落込みたかったが、俺の身体では無理があったか。…はみ出してるな」
お前が無事ならいいんだがな、と濡れた肩を気にせずに歩くハーレイ。そのハーレイは前の生と同じタイプ・グリーンで、防御能力には自信があると聞かされていた。シールドする力も高い筈。雨粒くらいは防げるのでは、とブルーは疑問を口にしてみた。
「ハーレイ、確かシールド出来たんじゃあ…? こんな雨くらい」
「まあな。しかし、それでは雨を味わえん」
「雨?」
味わうとはどういう意味だろう? 訝るブルーにハーレイが語る。
「ナスカでゼルがやったそうだぞ、雨を体感したくてな。わざわざシールドを解いたのはいいが、ついでに滑って転んだらしい。エラが見ていて語り草になっていたもんだ、うん」
それで自分も真似をしてみた、とハーレイは言った。
「流石に人目があるとちょっとな…。誰もいない場所でコッソリと、な。これが雨か、と妙に心が弾んだなあ…。シャングリラの中には降らないからな」
ナスカの雨でも嬉しかったのに地球の雨だ、と傘の外に褐色の手を出す。傘の柄を握っていない方の手。その手のひらで雨粒が跳ねる。透明な雫が滴り落ちる。
「ほらな、地球に降る恵みの雨だ。…味わってこそさ、シールドで避けるんじゃなくってな」
子供のような笑顔のハーレイだったが、傘からはみ出した肩を濡らす雨は衰えを見せない。肩はとっくに濡れそぼっていて、背中の方まで色が変わり始める。
これではいけない、とブルーは手にした傘を持ち上げた。
「ハーレイ、ぼくも傘を差すから」
しかし、その手をハーレイが制する。
「そう言うな。…そうそう出来んぞ、相合傘は」
な? と大きな傘をブルーに差し掛け、ハーレイは微笑んだのだった。
「…次の機会はいつになるかも分からんからなあ、相合傘」
「そうだね。その時もハーレイ、濡れちゃうのかな?」
「多分な。…お前を濡らすわけにはいかんし、かといって雨合羽を着るのもなあ…。シールドってヤツも情緒が無い。お前ごと包むなら話は別だが」
それもいいな、とハーレイが頷く。自分のシールドでブルーも包んで、傘は差さずに二人で雨の中を歩く。傘を差す手が必要無いから、互いの手をしっかり握り合って。
「いいね、それ。…いつかやろうね」
「二人で何処かへ出掛けられるようになったらな。その時は相合傘も堂々と出来るぞ」
「どっちもやろうよ、雨が降ったら」
他愛ない夢を語り合いながら二人歩いて、大きな傘に雨の雫を受けて。
甘い言葉を、教師と生徒の会話には聞こえない言葉を、雨音が包んで隠してくれる。
学校の広い敷地を抜けて、校門を出てからバス停まで。
ほんの少しの距離だったけれど、それは雨の中、二人だけのデート。
ハーレイはデートとは言わなかったし、ブルーも訊きはしなかったけれど、こんな散歩もきっとデートと言うのだろう。散歩ではなく教師が生徒を送ってゆくだけなのだけれど、二人は恋人同士だから。誰もそれとは気付かなくても、前の生から二人はずっと恋人同士だったのだから……。
スーツの肩から背中にかけて濡れてしまったハーレイは、バス停の屋根の下に着いても帰らずに待っていてくれた。ブルーが乗り込むバスが来るまで、傘を畳んで待っていてくれた。
部活の無い生徒はとっくに帰った後だったから雨のバス停には誰もいなくて、ハーレイと二人でバスを待った。雨は止まなくて、通る車が二人に気付いてスピードを落とす。タイヤで飛沫を撥ね上げないよう、気を配って通過してくれる。
傍目には教師と生徒だろうが、恋人同士に見えるといいな、とブルーはちょっぴり夢を抱いた。バスに乗る恋人を見送りに来た優しい恋人。バス停の屋根の下からバスに乗るまでの僅かな距離に恋人が雨に打たれないよう、傘を広げて差し掛けるとか…。
そんなシーンを何処かで見た。母が見ていたドラマだろうか、と考えていたら。
「おい、バスが来たぞ」
あれだ、と指差したハーレイが傘を広げた。ブルーが思い描いたドラマのワンシーンのように、雨を遮る傘をブルーに差し掛けてくれた。滑り込んで来たバスの扉の直ぐ前へと。
「ほら、ブルー。気を付けて帰れ。…もう傘を忘れたりするんじゃないぞ」
「うん。…ありがとう、ハーレイ」
貸して貰ったハーレイの傘を大切に抱えてバスに乗り込む。
ついに出番が来なかった傘。ハーレイが差した大きな傘に入っていたから、差さずに抱えていただけの傘。
ブルーの背後でバスの扉が閉まって、ハーレイが笑顔で手を振った。傘からはみ出していた肩と背中の色が変わってしまったスーツで、それでも嬉しそうな笑顔で。
だからブルーも急いで座席に座って手を振る。傘と鞄で塞がった手では振れないから。雨の中を送って来てくれたハーレイに向かって、精一杯に手を振りたかったから…。
バス停が遠ざかり、其処に立つハーレイも雨に煙って見えなくなって。
ブルーは一度も差さずに此処まで持って来たハーレイの傘に目をやった。家に忘れた折り畳み傘よりもずっと大きなハーレイの傘。折り畳みではないブルーの傘より明らかに大きいと分かる傘。
(ハーレイ専用ってことはないよね?)
父の傘より大きそうだけれど、まさか特注ではないだろう。ハーレイのように立派な体格をした人たちのために作られているに違いない。今日はブルーが一緒に入ってしまったせいでハーレイの肩が雨に濡れたが、一人だったら楽に入れる特大の傘。
(だけど重くはないよね、うん)
作りはしっかりした傘なのに、ブルーの手でも重くはなかった。それなりに重いが、その重量は安心感を与える重さ。雨も風もしっかり防いでみせます、と傘が自信を持っている重さ。
(…ハーレイの傘かあ…)
職員室の机の下から引っ張り出していたハーレイの姿を思い浮かべる。天気予報を聞いて持って来た傘か、急な雨に備えて置いてある傘か。
どちらにしてもハーレイの傘。ハーレイのために役に立つべく買って来られた大きな傘。
いつもはハーレイを雨から守るのを仕事にしている傘が、ブルーのためにと貸し出された。傘を忘れたブルーを守って無事に家まで送るように、と。
(…ふふっ、ハーレイの代わりなんだね)
ハーレイの代わりにぼくを守ってくれるんだね、と滑らかな傘の柄をポンポンと叩く。ブルーの手には少し大きいサイズの傘の柄。持ち主の手ならしっくり馴染むと容易に想像出来る傘の柄。
よろしく、と心で語り掛けた。
ハーレイを守るのが役目の雨傘。今日は家までぼくを守って、と。
家の近くのバス停で下りて、下りながら傘を広げてみたら。
予想したとおりに本当にとても大きな傘で、ハーレイに守られているような気分になった。
(凄く大きい…)
ハーレイと二人で入っていた時も充分大きいと思ったけれども、一人で差せば更に大きい。雨の雫はブルーの身体から離れた所で傘から滴り、周りにぐるっと雨の降らない安全地帯。
ブルーの傘ではこうはいかない。安全地帯はもっと狭くて、油断すれば鞄が濡れたりもする。
(……ホントにハーレイと居るみたいだ……)
守られている安心感。
前の生からブルーを気遣い、包み込んでくれていたハーレイ。
そのハーレイを思わせる傘がブルーを雨から守ってくれる。ハーレイから借りた大きな傘が。
降りしきる雨は傘の上で音を立て、路上でも跳ねているけれど。雨脚はかなり強かったけれど、この傘があれば気にならない。
自分は守られているのだから。ブルーの身体が濡れないようにと、傘が守ってくれるのだから。傘の持ち主のハーレイの代わりに、家まで守ってくれるのだから…。
(うん、ハーレイの代わりだもんね)
家までくらい直ぐだものね、とブルーは元気に歩き始めた。
傘を忘れたと気付いた時にはショックだったけれど、素敵な傘を貸して貰えた。ハーレイの傘に一緒に入ってバス停まで相合傘で歩けた。
(…次はいつかな、相合傘…)
その時は堂々と何処までも二人で歩きたいな、と雨を降らす空を仰ぎ見る。
きっといつかは、この傘に二人。
ハーレイの肩がびしょ濡れにならないような小糠雨の日に、相合傘で…。
相合傘・了
※あの17話が放映された7月28日から今日で8年です。やっぱりこの日は更新しないと…。
ハーレイとブルーの相合傘です、生まれ変わって幸せな二人。
こういう二人を書ける日が来るとは、聖痕シリーズを始めるまで夢にも思いませんでした。
ハレブル別館、今日から暫く週2更新にペースを上げます。
月曜日の更新は固定、もう1回は多分、木曜辺りです。
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なんだか妙に息が苦しい。ブルーは自分のベッドの中で意識は半分眠ったままで寝返りを打ち、丸くなろうとしたのだけれど。
(…うーん……)
身体に纏わりつく重い感触。蹴飛ばしてみたら軽くはなったが、今度は少し肌寒い。ブルーの上から上掛けが消えてしまったらしい。
(……んー……)
確かこの辺、と手を伸ばして探る間に意識が浮上し、上掛けの端を掴んだ時には眠りから覚めてしまっていた。寝ぼけ眼で上掛けをグイと引っ張り上げれば、パジャマの裾まで一緒に上がった。上掛けの下で細っこい腹だか、胸あたりまでが晒されてしまったと言うべきか。
起き上がって直すのも面倒だから、と押し下げようとしたが、眠っている間に緩んでいたのか、一番下のボタンが外れた。こうなると些か始末が悪くて、上掛けの下では留めにくい。
「…うー……」
手探りでボタンをはめる間に気付くあれこれ。乱れたパジャマも問題だったが、上掛けもかなり変なことになっているようだ。眠りながら身体に巻き付けていたか、引っ張ったか。定位置に無いそれを被って寝るには、今のブルーは意識がハッキリし過ぎていた。
(…寝にくいよ、これ…)
足が片方はみ出しているし、その足を覆う筈のパジャマのズボンも裾が上がってしまった状態。上掛けを蹴飛ばした時に巻き添えになったものと思われる。ベッドに寝転がったままでは元通りにするのが難しそうな上掛けとパジャマ。
それでも暫し格闘した末、諦めて起き上がることにした。常夜灯だけが灯った部屋は薄明るく、目が慣れてくれば充分に見える。ベッドから這い出し、裸足で床へと下り立ってみれば。
(…………)
蹴り飛ばされた上掛けの一部がベッドからずり落ち、パジャマのボタンも下の二つが外れていたらしく、一つだけ外れたと思い込んで手探りではめた結果は違う位置へと留め付けることで。
(…あーあ…)
情けない気持ちでずれたボタンの位置を直して、上掛けもきちんとベッドに被せ直した。これで安眠出来るだろう、と再びベッドにもぐり込む。くるりと丸くなり、大きな枕に顔を埋め…。
(これで良し、っと)
夢の世界を目指そうとした時、ふと思い出した。前の生での自分のことを。
(前のぼくって器用だったよね…)
あんな格好で寝てたんだから、とソルジャーの衣装を思い浮かべた。青の間のベッドで眠る時も着たままだった服。上着どころかマントもあったし、手袋とブーツもセットだったそれ。
ソルジャーの象徴でもあった正装を解かずに眠っていたのに、前の自分はベッドの中でも姿勢が良かった。目覚めた時にマントが身体に巻き付いていたことは一度も無いし、上掛けだって…。
(…今のぼくだと、あの服は多分……)
見るも無残な状態になったソルジャーの衣装は容易に想像がついた。自分のマントにぐるぐると巻かれた姿はさながらクレープ、紫色をしたクレープの中も酷いことになっているだろう。上着のファスナーは半分でも留まっていればいい方、アンダーのファスナーさえも怪しい。
(…絶対、苦しくて開けちゃうんだよ)
ぴったりとしていた黒いアンダーは首の半分を覆っていたから、今のブルーなら無意識に襟元を開けて緩めてしまうに違いなかった。ついでにマントの襟も邪魔だと留金を外し、ブルーの肩から外れたマントはクレープのように巻き付くどころか蹴り飛ばされて落ちていそうで。
(ぼくだとホントにやっちゃいそうだ…)
そんな寝姿、披露出来ない。
前の生でブルーが眠っている時にも青の間に人の出入りはあったし、枕元で会議が開かれたことさえもあった。思念だけで応えるブルーは眠ったままで、長老たちが集まって。ブルーが行儀よく眠っていたから会議は粛々と進んだけれども、もしも寝相が悪かったなら…。
(…そっちが気になって会議どころじゃなかったよね、きっと)
几帳面なエラはせっせと上掛けを被せ直してくれそうだったし、服やマントはハーレイやゼルといった男性陣が整えたり留めたりしただろうと思う。それでは大切な会議どころか、みんな揃ってブルーのための世話係。そうならなくて本当に良かった。
(後で文句も言われそうだしね?)
ソルジャーの威厳を保つためにも動かずに寝ろとか、せめて上掛けは蹴り飛ばすなとか。
丸くなって眠るのが好きな今のブルーには無理な注文。ソルジャー・ブルーだった自分のように仰向けの姿勢で服を乱さずに朝まで寝るなど、どう考えても出来るわけがない。
(…前のぼく、ホントに器用すぎだよ…)
仰向けに寝るのが好きだったのか、寝相が素晴らしく良かったのか。どちらも今の自分には到底出来ない芸当。
眠る時には手足を丸めてコロンと横になるのが好きだ。目覚めたら仰向けという時はあっても、断然、横向け。前の生でも、よく丸くなって…。
(…あれ?)
好きだった寝方は、前の生でも丸くなる方…?
何か変だ、とブルーは違和感を覚える古い記憶を探った。ソルジャー・ブルーだった頃の自分が好んだ寝方。それは仰向けでは無かった気がする。今と同じで丸くなるのが好きだったような…。
(…えーっと…。丸くなってピタッとくっついて……)
そう、ピッタリとくっついて寝るのが好きだった。いつも側にある優しい温もり。その温もりの元に身体を擦り寄せ、包まれて眠るのが大好きだった。
とても幸せで心地よかった時間。丸くなって、くっついて眠った時間…。
(……んーと……)
あの温もりは何だったろう。温かかったものは何だったろう…?
眠る時には必ず側に在ったそれ。くっついているだけで心が温かく満たされた温もり。どんなに疲れ果てた時でも、それに包まれれば幸せになれた。くっついているだけで幸せだった。
(…何もしなくても幸せだったよ、くっついていれば…)
君さえいれば、と揺蕩う記憶の海に揺られて、うっとりと心の中で呟く。
(…そうだよ、ハーレイ…。君さえ側に居てくれたなら……)
其処でブルーはパチリと瞳を見開いた。
(ちょ、ちょっと…!)
部屋の中は真っ暗だったけれども、頬が真っ赤に染まるのが分かる。
あの温もりはハーレイだった。
ソルジャー・ブルーだった頃の自分がくっついていたものはハーレイだった。
丸くなってハーレイの身体にくっついて眠り、その温もりにいつも包まれていた。
ブルーを抱き締めるハーレイの腕。その中で自分は眠っていた…。
(……そうだったっけ……)
眠る時はいつでもハーレイが居た。二人で眠って、目覚めたらソルジャーの衣装に身を包んだ。ハーレイは船長の服を身に着け、マントを羽織ってブリッジへ。
ということは、ソルジャーの衣装を着けて眠っていたわけではない。それどころか…。
(…ひょっとして大抵、裸だった…?)
ブルーの頬がカアッと熱くなる。ハーレイと二人で眠る時にはソルジャーの衣装も船長の服も、互いを隔ててはいなかった。ついでにパジャマの記憶は無い。
今でこそ当たり前になったパジャマだけれども、前の生ではブルー専用のパジャマは無かった。シャングリラの者たちに支給されるパジャマさえ持たなかったし、眠る時にはソルジャーの衣装。ハーレイの分のパジャマはあったが、それを青の間に持って来たことは一度も無くて…。
(…ぼ、ぼくはパジャマを持ってなくって、ハーレイは持たずに青の間に来てて…)
それなのにソルジャーの服だの、船長の服だのに隔てられて眠ったことは無い。
ハーレイの身体にピタリとくっつき、温もりを感じて眠っていた時、服もパジャマも無かったのならば、二人ともが…。
(…た、大抵じゃなくて、いつでも裸…!?)
ブルーは軽くパニックになった。温もりの記憶は温かいけれど、裸だったとは恥ずかしすぎる。せめてアンダーウェアくらいは、と切に願った。裸で眠っていた夜が殆どにしても、たまには何か着ていて欲しい、と。
それくらいに恥ずかしい光景だったが、幸せな記憶には違いない。丸くなってハーレイの身体にくっつき、温もりに包まれて眠った記憶。今と同じで丸くなるのが大好きだった前の生の自分。
(……だけど……)
大抵は裸で眠っていたらしい前世の自分。ソルジャーの衣装で眠っていた時はともかくとして、裸で眠っても大丈夫なほどに青の間は暖かかっただろうか?
(…空調は多分、普通だったと思うんだけど…)
ブルーの枕元で会議をしていたゼルたちは「暑い」と言わなかったし、ハーレイもキャプテンの服を着ていた時間に上着を脱いだりはしなかった。ソルジャーの衣装は特別だから暑さや寒さとは無関係としても、ハーレイや長老たちの服は温度差を感じたと思う。
(空調、特に調節していなかったよね?)
バスローブで居ても平気な室温ではあったけれども、だからと言って裸で眠ればブルーは風邪を引きかねない。今のブルーなら確実に引くし、前の自分も虚弱だった。
(…ハーレイが毛布の代わりだったとか?)
きっとそうだ、とブルーは思った。上掛けにプラスしてハーレイの温もり。それがあったから、裸で眠っても風邪を引いたりしなかったのだ、と。
毛布代わりにしていた前世のハーレイ。ぴったりとくっついて眠るブルーは暖かかったが、当のハーレイはどうだったろう?
(…ぼくが暖かかったってことは、ハーレイ、ひょっとして寒かったかな?)
自分に温もりを奪われてしまって寒かったかも、と考えたものの。
(だけどハーレイ、風邪なんか引いていないよね?)
ぼくよりも大きい身体で丈夫だったから平気だったのかな、と納得した。
(うん、ハーレイはきっとパジャマとかが無くても平気なんだよ)
あの体格ならそうだと思う。虚弱体質が多かったミュウの中では飛び抜けて頑丈だった前の生のハーレイ。補聴器が必要な耳の他にはこれという欠陥を持たなかった。
当時のハーレイでさえもパジャマが要らない丈夫さだったら、今のハーレイはどうなのだろう。
(…今でも裸で寝てるのかな?)
ハーレイの生活に興味が出て来た。
包み込んでくれる温もりが無い今の自分はパジャマが必須な毎日だけれど、ハーレイは前よりも更に丈夫になっている筈。柔道と水泳で鍛えた身体は伊達ではないし、パジャマなんかは全く必要ないかもしれない。
(ひょっとしたら雪の降る日でも裸?)
自分たちが生まれ変わって来たこの地域には四季がある。冬ともなれば白い雪が舞い、ブルーは部屋に暖房を入れて上掛けも増やして眠るのが常。しかしハーレイなら厳寒の頃もパジャマなどは着ず、裸に上掛け一枚なのかも…。
(…だとしたら、ハーレイ、凄いよね…)
ブルーにはとても真似が出来ない眠り方。丈夫なハーレイだからこそ出来る眠り方。
今も裸で眠っているのか、寒い冬でも裸なのかを知りたくなった。
(でも…。今も裸で寝ているの? なんて、恥ずかしくって訊けないよ…)
前の生の自分がいつもどうやって眠っていたのか、思い出しただけで頬が熱かったから。
ハーレイが裸で眠っていたことを思い出した切っ掛けがそれだったから…。
それでもハーレイの今を知りたい。
今の眠り方を教えて欲しい…。
どうしても気になって、訊きたくてたまらない今のハーレイの眠り方。
何と尋ねればいいものなのか、とあれこれ考えを巡らせた末に、ブルーは名案を思い付いた。
(これだったら変に思われないよね?)
早速、週末に訪れたハーレイにぶつけてみる。自分の部屋で向かい合わせに座ってから。
「ねえ、ハーレイ。…ハーレイのパジャマって、どんなパジャマ?」
「パジャマ?」
怪訝そうなハーレイに「パジャマだってば」と畳み掛けた。
「寝る時に着るパジャマだよ。…どんなパジャマなの?」
「どんなって…。ごくごく普通のパジャマだが?」
サイズはうんとデカイんだがな、という答えに、思わずブルーの本音が漏れた。
「えっ。…着てたんだ……」
「はあ?」
ハーレイの鳶色の瞳が丸くなった。
「着てたんだ、って…。寝る時は普通、パジャマだろうが。どういうのを期待してたんだ、お前」
「…え? えっと……」
言えない、とブルーは口ごもる。ハーレイは裸で寝ているのかも、と想像しただなんて、とても言えない。恥ずかしくてもう黙るしかない、と思ったのに。
「シャネルの五番じゃないだろうな?」
「……しゃねる?」
ハーレイが妙なことを言うから、オウム返しに「しゃねる」とやらを復唱した。
「何なの、それ?」
「ははっ、やっぱり知らなかったか! 古典の授業とは関係無いがな、遙か昔の名文句だな」
俺もキャプテン・ハーレイだった頃には知らなかった、とハーレイが笑う。
「SD体制に入るよりもだ、千年以上も前の言葉さ。当時の有名な女優が言ったらしいぞ、記者の質問に答えてな。…寝る時には何を着ていますか、という質問だったそうだ」
「それで?」
「シャネルの五番を着て寝るわ、と女優は答えた。…シャネルの五番というのは香水の名前だ」
香水しかつけていないという意味なんだ、とハーレイは片目をパチンと瞑ってみせた。
「つまりだ、お前が期待していた俺の答えはそいつなのか、と訊いたのさ。実は裸で寝ています、と言わせたかったんじゃないだろうな、と」
「違うから!」
そうじゃないから、と叫んだものの、ブルーの顔は耳まで真っ赤。語るに落ちるとはこのことであって、ハーレイの笑いが止まらなくなる。パジャマで寝ていて悪かったな、と腹を抱えて。
散々笑って笑い転げてから、ハーレイは脹れっ面になったブルーの額を指でチョンとつついた。
「どういう発想で、その質問を持って来たのか知らんがな…。お前が喜びそうな答えってヤツは、今の俺には手持ちが無いな。…前の俺ならありそうなんだが」
「ハーレイ、裸で寝ていたからね」
ブルーが唇を尖らせる。
「思い出したから訊いただけだよ、今も裸で寝てるのかな、って」
「それだけか? だったら前の俺からの答えは要らんな、お前が喜びそうだったんだが」
やめておこう、と言われたけれども、ブルーは好奇心をかき立てられた。
前の生のハーレイなら持っていそうだというパジャマに関する質問の答え。
自分が喜びそうなものだと耳にしてしまえば、追求せずにはいられない。やめにしておくなんて出来はしないし、ぜひ聞きたい。
「教えてよ、それ!」
「…ん? だったら俺に質問してみろ、回りくどくパジャマなんぞを持ち出さずにな」
「えっ?」
ハーレイの言う意味が分からない。キョトンとするブルーをハーレイが「ほら」と声で促す。
「さっき教えてやっただろう? 寝る時は何を着ていたんですか、と訊くだけでいい」
「ええっ?」
前のハーレイが寝る時に何を着ていたか。
着ているも何も、裸だったことを思い出したからパジャマに関する質問をした。それなのに…。ハーレイは何を着ていたと言うのだろう?
「どうした、ブルー? お前が訊かないと答えてやれんぞ、知りたくないなら教えないが」
「聞きたいってば!」
「なら、訊いてみろ」
「…………」
堂々巡りになってしまった「知りたいこと」。訊かない限りは教えて貰えそうにない。
からかわれているような気もするけれども、訊かないと何も始まらない。ブルーは渋々、さっきハーレイに聞いた大昔の名文句とやらに纏わる問いを投げ掛けてみた。
「ハーレイ、寝る時は何を着ていたの?」と。
これでハーレイの答えが聞ける。自分が喜びそうだとハーレイが言った答えが聞ける、と期待に胸を高鳴らせるブルーに、ハーレイがニヤリと笑みを浮かべた。
「そうだな、前の俺の場合は「ソルジャー・ブルーを着て寝ます」だな」
「ちょ、ハーレイ…!」
よりにもよってその答えなのか、とブルーは耳まで赤く染まった。けれどハーレイは涼しい顔でこう付け加える。「お前は俺を着てたんだろうが」と。
「ちょ、ちょっと…!」
先の言葉が続かなかった。怒りたいのに怒れない。それは本当のことだったから。
怒鳴りたいのに怒鳴れない。とても恥ずかしくてたまらないけれど、また嬉しくもあったから。
前の生では二人抱き合って、裸で眠った。
ハーレイはブルーを、ブルーはハーレイをパジャマの代わりに着て眠っていた。互いの温もりを素肌に感じて、二人ぴったりと寄り添い合って…。
「分かったか、ブルー? うん、嬉しかったと顔に書いてあるな」
見れば分かるさ、と鳶色の瞳が細められる。
「俺はお前を着て寝てたんだが、今のお前は俺が着るには早すぎだ。…そしてお前も俺を着るには早過ぎる」
子供はきちんとパジャマを着て寝ろ。
そう諭されたブルーは頬を膨らませて「ちゃんと着られるよ!」と抗議したが。
「まだまだ駄目だな、サイズ違いというヤツだ。俺のパジャマはモノによってはサイズが無いぞ」
大きすぎる身体も困ったもんだ、とハーレイが自分を指差した。
「お前が俺のパジャマを着たなら、余るなんていうモンじゃない。もっと大きく育たんとな?」
前のお前と同じくらいに育った時には、前みたいに俺を着られるさ。
それまではパジャマで我慢しておけ、俺じゃなくて……な。
(…………)
ハーレイの微笑みがあまりにも優しかったから。
鳶色の瞳の底に揺らめく熱い焔を見てしまったから。
ブルーは何も言えなくなってしまい、ただハーレイを上目遣いに睨み付けているだけだった。
優しくてちょっぴり意地悪な笑みを湛えた、前の生からの大好きな恋人。
いつかきっと、この褐色の肌をした恋人を素肌に纏って眠る。
前の生で彼を着ていたように。彼が自分を着ていたように、裸の身体に彼だけを着て……。
暖かなパジャマ・了
※前のブルーが着ていたパジャマは、実はハーレイだったのです。暖かで頼もしいパジャマ。
マリリン・モンローが言った「シャネルの五番」、今も伝わっているのが凄いかも。
あの17話から明日、7月28日で8年になります。
今まで週1更新でやってきたハレブル別館、明日から暫く週2更新になりますです。
月曜更新は固定、他に何処かで1回。多分、木曜辺りじゃないかと。
今週は「7月28日記念」で明日も更新、ゆえに週3回更新です~。
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