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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

 気付けば青の間に独り立っている。海の底を思わせる静謐な空間は主の眠りを守るためのもの。整えられたベッドは常のとおりなのに、其処に彼の人の姿は無い。
(ブルー…)
 ハーレイは人が眠った痕跡すら無い大きなベッドを、唇を噛んで見下ろしていた。
 此処で眠っていた筈の恋人。深い眠りに沈んではいても、訪れれば姿を見ることが出来た。声も思念も返らなくても、その手を握って日々の出来事を、彼への想いを語ることが出来た。
 誰よりも美しく、気高かったミュウの長、ソルジャー・ブルー。その座を後継者に譲ってもなおソルジャーと呼ばれ、崇め敬われたミュウたちの神にも等しい存在。
 ハーレイもまた彼を人前で呼ぶ時は「ソルジャー」だったし、それが当然だと思っていた。その尊称で彼を呼び続けた自分たちが道を間違えたのか、ブルー自身が心に決めていたのか。ブルーは最後までソルジャーだった。ソルジャーの務めを果たすためだけに行ってしまった。
 二度と帰っては来られない場所へ。死が待つだけのメギドへ向かって。
(…そしてあなたは逝ってしまった…)
 ハーレイの固く引き結んだ唇が歪み、堪えていた涙が頬を伝った。
 逝ってしまった。自分を残して逝ってしまった。
 いつまでも共にと誓ったのに。恋人同士になった時から何度となく繰り返し誓ったのに。
 自分たちは何処までも共に在るのだと、その手を決して離しはしないと。
(…それなのに、あなたは逝ってしまった…)
 固く繋いだ手を振りほどくように、別れの言葉すら告げることなく。
 次の世代を支えてくれ、とハーレイの腕に触れた手から思念で送り込んだだけで、何も言わずに飛び去って行った。
(…どうしてあの手を掴まなかった…)
 そうしていれば、とハーレイは悔やむ。
 たとえその手を掴んだとしても、ブルーならばサイオンを使って瞬時に自由になれるけれども。それでも肉体の力ではハーレイが勝る。あの瞬間にブルーの手首を捕えていたなら、彼を喪わずに済んだかもしれない。留め置くことが出来たかもしれない…。
(ブルーが生きたいと願うとしたなら、それは私と…)
 何処までも共に、とブルーも応えた。だから自分が止めていたなら、ブルーは生き残る道を模索したかもしれない。
 全てが終わってしまった後で、ジョミーは確かに言ったのだ。自分がメギドへ飛ばなかったからブルーを喪うことになった、と。ブルーに止められても追うべきだったと、ナスカで無駄に時間を使う代わりにブルーを追い掛け、二人で戦うべきだったと。



(どうして止めなかったのだ…。ブルーの決意が分かっていたのに、どうして私は…)
 死なせると知っていてブルーを行かせた。それが正しいのだと信じていた。
 けれど心は揺らぎ続ける。ブルーを生き残らせる道が何処かにあった筈だと己の判断の愚かさを呪う。本当にあれで良かったのかと、キャプテンとして正しい選択だったかと。
(…それに、どうして追わなかった…)
 キャプテンの自分には出来る筈もない、けして許されはしない選択。それはブルーを追ってゆくこと。一直線に死へと飛んでゆくブルーを追ってメギドへ飛ぶこと。
 そうすればブルーと共にいられた。戦闘能力は皆無であっても、防御能力ならブルーのそれにも匹敵する。メギドでブルーの盾となるべく飛んで行っても、足手まといになることはない。自分が盾になりさえすればブルーは有利に戦えただろう。
(…そして最後までブルーを守れた…)
 ブルーがどういう戦い方をしたのかは分からないけれど。人類側の情報を解析したからメギドが沈んだということは分かる。ブルーの身体を消してしまったメギドの爆発。自分の力でも爆発からブルーを守れはしないが、それでも抱き締めて包みたかった。ブルーと共に逝きたかった。
(私は馬鹿だ……)
 救いようのない愚か者だ、と青の間に独り、ただ立ち尽くす。
 この世の誰よりも愛したブルーが死へと飛び去る背中を見送っただけで、止めもしなければ共に逝く道も選ばなかった愚か者。あまりにも自分が愚かだったから、こうして此処に立っている。
 青の間にブルーはいなくなってしまい、自分だけが独り立ち尽くしている…。
(ブルー……)
 もういない。何処を探してもブルーはいない。
 この青の間に来ても自分は独りで、この先も、ずっと。
 ブルーが遺した言葉を守ってジョミーたちを支え、地球に着くまで。
 いつの日か地球に辿り着くまで、逝ってしまったブルーを追ってはゆけない。
 そう、いつの日にか地球に着いたなら…。戦いが終わり、キャプテンとしての自分が不要になる日が来たなら、ブルーの許へ。この忌まわしい生に終止符を打って、そしてブルーに…。
「いけないよ」
 ブルーの声が聞こえた気がした。
「君はまだこっちに来てはいけない。君は生きて。…ぼくの分まで」
 ああ、ブルーならばそう言うだろう。死んで自分を追って来いとは言いはしないし、望んでなどいない。けれど自分はブルーを追い掛けて逝きたいのだ。
 たとえブルーが望まなくても、その逆が彼の望みであっても、それこそが自分の本当の…。



「ハーレイ?」
 背後から呼び掛けて来たブルーの声。心の中にだけ聞こえる幻ではない、とハーレイの補聴器に覆われた耳が感じ取り、弾かれるように振り返った。
「どうしたの、ハーレイ?」
 其処にブルーが立っていた。
 逝ってしまった彼の人ではなく、まだ少年の姿のブルー。
 十四歳の幼いブルーがハーレイを見上げ、小首を傾げて問い掛けて来た。
「ハーレイ、どうして泣いているの?」
「…あなたが…。あなたが何処にも見えませんでした」
 涙を拭ってブルーを見詰める。小さいけれども幻ではなくて、本物のブルー。自分の願いが紡ぎ出した儚い存在ではなく、命と身体を伴ったブルー。
 幼いブルーが「此処にいるよ」と微笑んだ。
「ハーレイ、ぼくなら此処にいるよ?」
 ずっといるよ、とブルーはか細い両腕を一杯に広げ、ハーレイにギュッと抱き付いて来た。
「ぼくはずっといたよ? ぼくは何処にも行かないよ」
 ブルーから伝わる確かな温もり。その鼓動までが薄い胸を通して伝わってくる。
 生きている。ブルーは生きて目の前にいる…。
(…ああ、お前だ。……俺のブルーだ)
 ハーレイは小さな身体を力の限りに抱き締めた。小さなブルーが「痛いよ」と声を上げても腕を緩めず、己の胸へと強く抱き込んだ。
「苦しいよ、ハーレイ」
「頼む、このままでいさせてくれ。ああ、本当にお前なんだな…」
 生きてるんだな、と小さなブルーを抱き締めたままで涙を流す。先刻までの後悔と悲しみの色に染まった涙とは違う、喜びの涙。喪った筈のブルーが戻って来てくれた、と嬉しさのあまりに泣き続ける。
 ブルーがいる。自分の腕の中にブルーがいる…。
 其処で目覚める時もあったし、小さな身体を抱き締めすぎて「ハーレイのバカッ!」とブルーに叫ばれ、「すまん」と謝りながら目覚める時もあった。
 全ては夢の中での出来事。
 遠い昔に失くしたブルーは帰って来たし、ハーレイも地球に生まれ変わった。
 十四歳の小さなブルーと、彼が通う学校の教師のハーレイ。
 辛く苦しかった日々は前の生であり、今はブルーと二人、幸せな時を生きている…。



 そんな夢を何度見ただろう。青の間で、ブリッジで、公園や誰もいない通路で。ブルーを喪った悲しみに囚われ、その面影を求めて彷徨い、あるいは立ち尽くすハーレイの前にヒョイとブルーが現れる。十四歳のブルーが微笑み、抱き付いてくる。
 小さなブルーを抱き締めてハーレイの悪夢は終わるし、目覚めればブルーが生きている世界。
 ごくたまにブルーが現れないまま泣き濡れて目覚めることもあったが、大抵はブルーが出て来て助けてくれた。後悔に苛まれる世界は夢だと、生きた自分がいるのだからと。
 それがハーレイが見る夢の結末。
 前の生の記憶を取り戻してから見るようになった悲しくて苦しい夢の終わり方。
 目覚めたハーレイは眠り直したり、時間によっては起きたりする。朝が来れば夢とはまるで違う世界がハーレイを迎え、十四歳のブルーに出会える。
 学校で制服のブルーに会ったり、ブルーの家を訪ねて過ごしたり。
 まるで夢のような、前世でブルーを失くした自分が見たなら夢としか思わないだろう幸せな時。
 しかし、その夢の世界こそが現実の世界。
 自分もブルーも青い地球に生まれ、巡り会って記憶を取り戻した……。



 そういう幸せに満ちた世界で過ごしてゆく中、ある日ブルーに尋ねられた。休日にブルーの家を訪れ、ブルーの部屋で向かい合って話していた時に。
「ねえ、ハーレイ。…ハーレイは怖い夢って見ないの?」
 赤い瞳が見上げてくる。
「怖い夢?」
「うん。…ぼくはメギドの夢を見るけど、ハーレイはそういう夢は見ないの?」
 前の自分だった時の怖い夢。
 ブルーの問いにハーレイは「俺も見るな」と頷いた。
「お前の夢の怖さとは全く違うが、青の間に行ってもお前がいない。…シャングリラの中の何処を探してもお前が何処にも居ないんだ」
「そうなんだ…。ハーレイも泣く?」
 泣くの? とブルーが首を傾げる。
「ハーレイも夢の中で泣く? 怖くて泣いてしまったりする?」
「いや、俺は……」
 ハーレイは少し間を置いてから穏やかな笑みを浮かべて続く言葉を口にした。
「俺はお前に助けられるな、いつもお前が来てくれる」
 本当はブルーが現れずに終わる夢もあるけれど、ブルーが現れる夢に救われているから微笑んで言った。あれほど心強い援軍は何処にも無い、と。
「そっか…。いいな、ハーレイは大人だからかな?」
 羨ましいな、とブルーが寂しそうな顔で俯く。
「ぼくはハーレイ、来てくれないよ…。いつだってメギドで独りぼっちなんだ」
 赤い瞳が少し潤んで、ブルーは小さな拳で目元を拭った。
 ハーレイの胸がズキリと痛む。前にメギドの夢を見た後、ハーレイの家へ無意識の内に瞬間移動してきたブルー。その恐ろしい夢の世界でブルーはいつも独りきりなのか。誰も現れず、助けにも来てくれないメギドでブルーは独りで死んでゆくのか…。
 何故だ、とブルーが見る夢の惨さを思って気が付いた。
 自分の悪夢とブルーの悪夢と。どちらも悪夢には違いないけれど、その状況が違うのだ。自分はブルーがいない時間を長く生きたが、ブルーの方は…。
 ハーレイは向かい側に座るブルーを手招きした。自分の膝の上に座るように、と。



「…なあ、ブルー」
 膝の上に座ったブルーをそっと抱き締め、柔らかな頬を撫でてやる。
「お前の夢に俺が出てこないのは、お前が子供だからではないさ。…時間のせいだ」
「時間?」
 怪訝そうな顔のブルーに「そうだ」と答えた。
「夢に見ている世界で過ごした時間の長さが違うだろう? …お前はメギドで独りきりになって、そのまま直ぐに死んじまった。右手が冷たくなったと泣いていた時間は短かっただろうが」
「うん、多分…。ぼくにとっては長かったけれど、一瞬か、長くても何分間か」
「長かったとしても、お前は数分。…俺はお前のいない時間を独りきりで何年も生きていたんだ。そして何度も考えた。こんな時にお前ならどうするだろう、何と言ってくれるのだろうと」
 お前の声を、お前の姿を追い続けていた、とハーレイはブルーに教えてやる。自分の標はブルーだった、と。
「俺にしか聞こえないお前の声を聞いていたのさ、俺もお前に呼び掛けていた。声に出したことも何度もあったな、お前が其処に居るかのように。…もちろん人のいない場所で、だ」
 でないと正気を疑われる、と自嘲の笑みを浮かべてみせた。
「俺の部屋だとか、青の間だとか…。何度お前を呼んだか分からん。…そういう時には俺の心に、お前の声が聞こえたもんだ。まるでお前が生きているように、お前そのものの声が聞こえた」
「ぼくが返事をしてたのかな? …覚えてないけど」
「それは分からん。俺が自分で都合のいい答えを聞いていたっていうのが真相だろうが…。だが、俺はお前と語り合うのを想像しながら生きていたんだ、それが習慣になっていた」
 だからお前に出会えるんだろうな、夢の中でも。
 語り合うのが常だったから、とハーレイはブルーを胸に抱き寄せた。
「俺に都合のいい幻だろうが、俺はお前と生きていた。失くした筈のお前を俺の側に置いて、独りきりの辛さを癒していた。…その幻が今のお前と置き換わるんだな、俺の夢の中で」
「…だったら、ぼくがハーレイに会うのは無理なの? ぼくはメギドで、もうハーレイには二度と会えないって泣きながら死んでしまったから…。会えないままの夢しか見ないの?」
「そうじゃない。時間の長さだと言っただろう? お前は俺が来てくれたらと考える暇もないまま死んじまったから、そう簡単には俺は出ないさ。…しかしだ、俺が居るのが当たり前の生活が長く続けば変わるんじゃないか? これは夢だ、と気が付くとかな」
 そういう夢もあるだろうが、とブルーの銀色の髪を優しく撫でる。
「学校に遅刻しちまった夢の世界で今日は休みだと思い出すとか、お前には無いか?」
「たまに間違えてバスに乗るよ。学校と反対の方へ行くバス」
 ブルーは「ふふっ」と笑みを零した。
「早く降りなきゃ、って慌ててる時に思い出すんだ。ぼく、寝てたっけ、って。…そっか、いつかあんな風に夢の途中で気が付くようになるんだね。でも、ハーレイに会う方がいいな」



 夢の中でハーレイに会える方がいいな、とブルーがハーレイの胸に甘える。
「メギドが夢だと気付くのもいいけど、ハーレイが見てる夢みたいなのを見てみたい。ハーレイが出て来て「これは夢だ」と言ってくれるとか、そういうのがいい」
「そうだな、俺も行ってやりたい。…お前を守りに。お前を夢から助け出しに」
 出来るものなら行ってやりたいとハーレイは心の底から思った。いつも自分を悪夢の底から救い出しに来てくれる小さなブルー。自分もブルーの夢の中に行って、メギドから救ってやりたいと。前の生では叶わなかった分、せめて夢では救いたいと…。
 小さなブルーは自分が守る。今度の生では必ず守る、と固く誓いを立てている。だからブルーの夢の中でも守ってやりたい。それが叶うよう、ブルーを抱き締めて優しく言い聞かせた。
「いつかきっと、お前の夢の中にも俺が現れるようになると思うぞ。俺はお前を必ず守ると誓っただろう? お前がそれが普通なんだと思うようになった頃には、きっと……な」
「そうなるといいな…」
「絶対になるさ。俺はお前の側に居るんだし、お前のピンチに助けに行かない筈が無い」
 俺を信じろ、とブルーの額に口付けた。
「夢だと教えに行ってやるから。…お前が撃たれる前に教えてやるから」
「弾を受け止めてはくれないの? ハーレイの力なら充分出来るよ」
「それもいいな。それでこそお前を守れるわけだな、この俺が」
 よし、とハーレイはブルーの小指に自分の小指を絡ませた。
「約束だ、ブルー。いつか必ずお前の夢の中に行ってやるから。いいか、この約束を覚えておけ。メギドの夢を見たら思い出すんだ、俺と約束していたことをな」
「…そしたらハーレイが来てくれる?」
「ああ。お前と約束していただろう、と出て行ってやるさ。お前を守って助け出すために」
「…うん……」
 約束だよ、とブルーがハーレイの手に頬を擦り寄せながら。
「撃たれる前に弾を止めてね、あの夢はとても痛いから…。夢なのに痛くて、ハーレイの温もりが消えてしまって悲しいから…」
 ぼくの右手、と今も夢の中では冷たく凍えるという右手がハーレイの褐色の手に重ねられ、その温もりを味わっていたのだけれど。
「あっ、そうだ!」
 いいことを思い付いたようにブルーの顔がパッと輝いた。



「ねえ、ハーレイ?」
 甘えた声がハーレイの鼓膜を心地よく擽り、ハーレイは自然と笑顔になる。
「なんだ? どうした、妙に嬉しそうだが?」
「ハーレイ、約束してくれたよね? ぼくの夢の中に来てくれるって」
「したぞ。お前がそいつを忘れさえしなきゃ、必ず助けに行ってやるさ」
「それなんだけど…」
 一つお願い、とブルーの瞳が期待に満ちた煌めきを湛えた。
「いつかハーレイが来てくれるんなら、キースが撃つ前に来てくれる?」
「ふむ…。どのタイミングで撃つのか知らんが、間に合うように行けばいいんだな」
「そう! それでね、キースを格好良く投げて欲しいんだけど」
 ハーレイ、柔道が得意だよね? とブルーは憧れのヒーローを見る瞳で言った。
「夢の中だから、きっとハーレイの方がキースより強いと思うんだ。だから投げてよ、格好良く! そしたら二度とメギドの夢を見なくなるかもしれないし!」
「そう来たか…。お前がメギドの夢を見なくなると言うなら努力してみよう。お前の注文どおりに投げるんだったら一本背負いか、まあ、やってみるが…。って、こら、お前!」
 それはお前の夢だろうが、とハーレイはブルーの頭をコツンと拳で軽くつついた。
「お前が見ている夢の中なんだ、俺じゃなくってお前が頑張る所だぞ。俺の方がキースより強いと信じた上でだ、うんと格好いい俺を想像してくれ。そうすれば出来る」
「…ホントに出来る?」
「今は駄目でもいつかはな。約束しただろ、俺はお前を守るんだ。今度は必ず守ってみせる。夢の中でも守らせてくれ。…いいな?」
 ブルー、お前は俺を信じろ。俺はお前の側に居るから。
 お前が悲しい夢を見ないよう、俺が全力で守ってやるから。
 …俺だけがお前に助けられるなんて、夢の世界でも俺は御免だ。
 いつか必ず助けに行く。お前を助けにメギドまで行く。たとえお前の夢の中でも……。




          悪夢から救う者・了


※ハーレイが悪夢に捕まった時はブルーが救いに来てくれるのです。夢の世界のブルーが。
 けれど、ブルーの悪夢には現れないハーレイ。きっといつかは来てくれますよね。
 ←拍手してやろうという方は、こちらv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv





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「ブルー」
「ん?」
 ハーレイと向かい合わせでの昼食。此処はブルーの部屋だったから、二人きりでの昼食である。休日にハーレイが訪ねて来てくれると、昼食は大抵、このパターンだ。ブルーの母が頃合いを見て食後のお茶を持ってくるまで、ゆっくり食事を楽しむのだけれど。
 ハーレイが手を止めてブルーの顔を覗き込むから、ブルーの食事の手も止まった。
「ハーレイ、ぼくがどうかした?」
「いや…。お前、何でもよく食べるな」
「えっ?」
 思いもよらない言葉にブルーは自分の前に置かれた昼食の皿に目をやり、首を傾げた。ピラフとスープと、それからサラダ。ハーレイのピラフは大盛りだったが、ブルーの分はお子様ランチかと思われそうなほどの量しかない。スープもサラダもハーレイの分よりずっと少ない。
 どう見ても「少なめ」でしかない食事なのに、よく食べるだなどと言われても…。
「ああ、違うんだ。俺が言うのは量じゃなくてだ、お前は食べる量が俺よりも少ないってだけで、実に何でも食べるよな…と思ってな。好き嫌いは無いのか、お前?」
「そう言えば…。無いね」
 ハーレイと再会してから何度も一緒に食事をしてきた。ブルーの家での昼食と夕食、ハーレイの家で一度だけ御馳走になった昼食。どれも盛り付けられた分は食べたし、普段の食事も特に嫌いなものは無い。料理も、むろん食材も。
「パパとママにもよく言われるよ。小さい頃から好き嫌いが無い子供だったから、身体が弱くても大きな病気はしないのかも、って」
「なるほどなあ…。俺も好き嫌いは全く無いんだが、この身体だから不思議がるヤツがいるわけが無いし、自分でも特に何とも思わなかった。しかしだ、お前も好き嫌いが無いとなるとだ」
 これは前世のせいかもな、と言われてブルーは目を丸くした。
「そっか…。そうかもしれないね」
 思ってもみなかった前の生の自分。ソルジャー・ブルーであった頃の自分…。



 前世でハーレイと共に暮らしていた白い船。あのシャングリラがミュウたちの楽園になるまでは長くかかったし、アルタミラを脱出して間もない頃には様々な苦労をしたものだ。
「うん、あの頃は好き嫌いどころじゃなかったよね。食べ物はあるだけで有難い、って」
 最初の間はシャングリラの前身であった船に積み込まれていた食料だけ。それが無くなりそうになった頃、ブルーが近くを航行していた輸送船から食料をコッソリ盗み出した。食材を選ぶ余裕は無いから、コンテナの中にあった分が全て。
 食料が無くなってくればブルーが出掛けて調達する。そういう日々が長く続いた。食料を詰めたコンテナの中身は非常食ばかりの時もあったし、やたらジャガイモだけが多かったりもした。
「ふふ、思い出した。来る日も来る日もジャガイモだらけの食事とかさ」
「あったな、まるごと全部がジャガイモだったら悲惨だったろうな」
「流石にそれだと再調達だよ、どうにもならない」
「まったくだ。芋だけでは栄養が偏っちまうからなあ…」
 ジャガイモ尽くしの他にもキャベツだらけで急いで食べねばならなかったことや、大量の牛肉に喜んだものの皆が食べ飽きてしまったことや。今となっては笑い話な食材の話は沢山あった。
「でも、ハーレイ。…食べ飽きたり出来るだけマシだったんだよね、アルタミラよりは」
「ああ。アルタミラは本当に酷かったからな」
 人間扱いされていなかった研究所。実験動物に過ぎないミュウの食事など餌でしかない。しかも実験動物なのだから家畜以下であり、肉体の質を高めるための餌は与えて貰えなかった。
「ハーレイが大きく育ったんだし、栄養は足りていたんだろうけど…。何も選べなかったよね」
「基本がシリアルだったしなあ…。後はせいぜい、パンとスープか」
「そう。おかずがついたら大御馳走でさ、どんなものでも嬉しかったよ」
 調理されて器に盛られた料理は餌ではないと思えたから。成人検査よりも前の記憶は欠片すらも残っていなかったけれど、餌と食事の違いくらい分かる。
 味の良し悪しは気にしなかった。熱を通して味が付けてある、それだけで食事なのだと思えた。いつも同じなパンとスープやシリアルとは違う、ヒトの食べ物。
 研究員たちにそういう意図があったかどうかは分からなかったが、特別な食事。ブルーは喜んでそれを食べたし、ハーレイも同じだったという。実験動物から人に戻れる時間。
「俺たちはアレを美味いと思って食っていたしな…」
「本当に美味しかったもの。独りぼっちの食事だったけど」
「違いない。檻の中で黙々と食うだけだったな」
 誰とも会話を交わすことなく、餌を与えられるだけの食事の時間。それでも料理と呼べるものが出て来ると嬉しかった。動物から人に戻れたようで。自分は今も人間なのだと思うことが出来て。



 アルタミラから辛くも脱出したものの、シャングリラでの食事も最初の間は大変だった。外から調達する方法はリスクが高いと自給自足を目指しはしたが、軌道に乗るまで試行錯誤の繰り返し。既にキャプテンだったハーレイの元には頭の痛い報告が殺到していたものだ。
「シャングリラもなあ…。最初は本当に苦労したよな、あれが採れすぎたとか、足りないだとか」
「野菜がきちんと採れるようになるまでは卵も船の中では無理だったものね」
「家畜も魚も餌が要るしな。あんな頃でも、お前がきちんと食べてくれたから嬉しかった。お前が育っていくのを見るのが嬉しかったな、栄養が足りてる証拠だからな」
「…スープしか飲まない日もあったけど?」
 君のスープ、とブルーは笑う。ハーレイが野菜を細かく刻んで煮込んでくれた野菜のスープ。
「あれもなあ…。もうちょっと何かあったならなあ、もっと美味いのを作れたんだが」
「ぼくはあの味が好きだったよ。…だから最初のままのが良かった」
「お前、頑固にそう言ったからな。それで何ひとつ工夫を凝らせないまま今に至る、と」
 ハーレイが作る「野菜スープのシャングリラ風」は今もブルーの好物だった。基本の調味料しか使わないから、ブルーの母が何かと口を出したがるそれ。ブルーが体調を崩した時に、ハーレイが見舞いがてら作りに来てくれるスープ。
「あのスープ、ホントに好きなんだもの。でも…。ぼくってどうして育たないのかな、ハーレイに会ってから頑張ってるのに。きちんと食べてミルクも飲むようにしてるのに…」
「今に育つさ。そしてとびっきりの美人になるんだ、誰もが振り返って見るくらいのな」
 そしてその美人は俺のものだ、とハーレイは片目を瞑ってみせる。
 育ったブルーは自分一人だけのものなのだから、他の人間には見ることだけしか許さないと。



「なあ、ブルー。いつかお前が大きくなったら、俺たちの好き嫌いを探しに行こうか」
「なに、それ?」
 ブルーはキョトンとした顔でハーレイを見た。好き嫌いを探しに行くとは何だろう?
「好き嫌いさ。この世の中にはいろんな食べ物があるらしいしな?」
 SD体制の頃と違って、とハーレイがブルーに微笑みかける。
「あの頃は何処の星でも似たような物を食ってたらしいが、今はこの地球だけでも何種類の料理があるんだか…。何処の地域も独自性を出そうとSD体制前の資料まで調べて頑張ってるぞ」
「そうだね。ぼくたちの住んでる所は和風を目指してるんだよね」
「何処まで昔のとおりか知らんが、俺たちが見たことも無かった料理も沢山あるしな」
「うん。少なくともシャングリラに昆布出汁は無かったよ」
 魚は養殖していたけれども、海藻までは手が回らなかった。回ったとしても、昆布からスープの材料が取れるという知識を持たなかった。昆布出汁を使った料理は今の生で生まれて来た地域では珍しくはなく、本物の地球の海で育った昆布を元にして透明なスープが作られる。
「昆布出汁なあ…。あれは本当に聞いたことすら無かったな、前は」
「ぼくは昆布も知らなかったよ」
「俺もだ。アルテメシアにも海はあったが、昆布が生えていたかどうかも知らん」
「海藻はあったけど、昆布はどうかなあ…」
 ブルーはユニバーサルに追われるミュウを救出する途中で海に何度か潜った。自分たちが目指す地球を覆う海もこの海とよく似ているのだろうか、と頭の何処かで思っていた。地球が死に絶えた星のままだとは考えもせずに、その青い海を夢に見ていた。
 アルテメシアの海の底でゆらゆらと揺れていた何種類もの海藻。あれは植物園の植物と同じで、見るためだけのものだったろうか。たとえ昆布が生えていたとしても、それが食べられる海藻だということを誰も知らないままだったろうか…。
 遙か遠くに過ぎ去った昔。アルテメシアの海を見ていたブルーはもういない。ソルジャーだったブルーはメギドで死んで、蘇った地球に生まれ変わった。それなのに今の生でも好き嫌いを感じたことが無いとは、前の生でどれほどの辛酸を嘗めていたのか…。
 ブルーは少しだけ悲しくなった。ハーレイと二人、青い地球の上に生まれて出会って、こんなに幸せに生きているのに、前の生を自分でも知らない所で引き摺ってしまっているのかと。
 その思いを読み取ったかのように、ハーレイがもう一度、ブルーに言った。
「お前の好き嫌いを探しに行こうじゃないか。もちろん俺の分も一緒に探すぞ」



 いつか、とハーレイの鳶色の瞳が細められる。
「いつかお前と結婚したらだ、あちこちに食べに行かないか? この地域だけじゃない、それこそ地球のいろんな所へ出掛けて行くんだ、好き嫌いを探しに」
 きっと何処かに一つくらいはあると思うぞ、俺たちでも「嫌い」と言うようなものが。
 茶目っ気たっぷりに煌めく瞳に、ブルーは「うーん…」と首を捻った。
「そんなの、あるかな? だって、ぼくたちだよ?」
 初期のシャングリラで長く耐乏生活をして、アルタミラでは家畜にも劣る扱いで。どんな物でも口に入れられる物は必ず食べたし、好き嫌いなどありはしなかった。今の平和な地球で調理された食材が口に合わないだなんて、まず有り得ないとブルーは思うのだけれど。
 ハーレイの方はそうは思わないらしく、自信たっぷりに返してきた。
「何処かにはあるさ。そうでなければ、人生、つまらん」
「そんなものなの?」
 驚くブルーに「そうさ」とハーレイは親指を立てる。
「前の俺たちには好き嫌いをするだけの余裕が無かった。そんな環境でもなかったしな。しかし、今の俺たちはそうじゃない。人並みに好き嫌いってヤツを作りたいじゃないか」
「好き嫌いって、作るものなの?」
「ああ。嫌いが無ければ好きでもいい。もう一回あれを食べたいってヤツを見付けるとかな」
「いいね、それ。ぼくにそういう食べ物が出来たら、作ってくれる?」
 ブルーは期待に瞳を煌めかせた。料理は得意だと聞くハーレイ。野菜スープのシャングリラ風は昔と同じ味だし、一度だけ訪ねたハーレイの家で出て来たシチューも美味しかった。二人で旅して見付けた料理をハーレイが再現してくれたなら、どんなに素敵なことだろう。
 そのハーレイもまた、ブルーのおねだりが嬉しかったらしく。
「もちろんだ。腕によりをかけて作ってやるさ」
 自信満々で答える姿に、ブルーの中に悪戯心が生まれて来た。それをそのまま口にしてみる。
「其処でしか獲れない魚とかなら、どうするの? 取り寄せたって、きっと美味しくないよ」
 獲れたての魚と、そうでない魚はやっぱり違う。好き嫌いの無いブルーだけれども、同じ魚でも刺身で食べるなら新鮮な方が断然いい。そう思ったから魚と言った。ハーレイを少し困らせるにはピッタリのものだと思ったから。
 けれどハーレイは事も無げにサラリとこう告げた。
「二人で何度でも食べに行けばいいさ。それが出来る自由ってヤツも手に入れたんだ、俺たちは」



 海の幸でも山の幸でも、一年の間のほんの僅かな時期しか手に入らない食材でも。それを食べるために何度でも出掛けてゆける。何処へでも二人で旅が出来る、とハーレイが語る。
「そうだろう、ブルー? 俺たちは何処へでも行けるんだ。シャングリラでしか生きられなかった時代は終わって、もう俺たちは自由だろうが」
「うん。…うん、そうだね」
「おまけに寿命もたっぷりとあるぞ? この俺だって平均寿命には三百年以上足りないしな」
 たとえ百歳で結婚したって二百年以上も旅が出来る、とハーレイはブルーの瞳を見詰めた。
「いいか、二百年以上だぞ? 俺たちが白い鯨になったシャングリラで旅をしたのと同じくらいに長い時間だ。それも結婚が俺が百歳の時だった時の話で、実際はもっと早いだろうしな」
「…ぼくの背、全然伸びないんだけど…」
「俺は今、三十七歳なんだ。百歳までには六十年もかかるわけでだ、いくらお前でも六十年かけて二十センチってことは無いだろう。長くて三十年ってトコだと思うぞ」
「さ、三十年!?」
 酷い、とブルーは悲鳴を上げた。そんなに待てるわけがない。
「三十年も待つくらいだったら、小さくっても結婚するよ! 十八歳で結婚出来るんだから!」
「分かった、分かった。もしもお前がチビのままなら、適当なトコで貰ってやるさ」
 その代わり結婚してもキスは無しだぞ、と言われたけれども、ブルーは頷く。キス無しだろうが本物の恋人同士になれなかろうが、ハーレイと一緒に暮らせるだけで幸せだから。結婚しない限りその幸せは決して訪れはしないから…。
「約束だよ、ハーレイ? ぼくが小さくても結婚してよ?」
「それはかまわんが、俺としては育った方がいい。見せびらかして歩きたいしな、美人のお前を。好き嫌い探しの旅の先でも見せびらかすのさ、このとびっきりの美人は俺のものだ、と」
 旅をしよう、とハーレイが誘う。足の向くまま、気の向くままに、前の生では叶わなかった好き嫌いをするために食べ歩くのだと。
 前の生でブルーが行きたいと焦がれ、ハーレイが懸命に目指した地球。その地球の上をあちこち旅して、名物を食べて、景色を眺めて。
 気に入った物をまた食べるために、気に入った場所をまた訪れるために、同じ場所へも出掛けてゆく。もちろん新しい場所も訪ねて、お気に入りを増やしてゆくのだと。好き嫌いも増やして味に文句を零してみたり、舌鼓を打って「また食べたい」と記憶に刻み付けるのだと…。



「ねえ、ハーレイ。…景色より食べる方が先?」
「可笑しいか? まずは俺たちが失くしちまった好き嫌いを探すのが肝心だろうが」
 それに、とハーレイは大真面目な顔で古典の教師らしく古い諺を挙げた。
「花より団子、と習わなかったか? 見て綺麗なだけの花よりもだ、食って美味い団子の方が役に立つんだと言うだろう。景色は綺麗なだけなんだからな、名物を食うのが正解だ」
「そっか、そういうものなんだ…」
 ブルーは素直に納得したのに、教えたハーレイがプッと吹き出す。
「こらっ、其処で信じるヤツがあるか! 今のは俺のこじつけってヤツで、花より団子の使い方としては微妙なトコだな。テストでお前が書いて来てもだ、丸をつけつつ「?」と書くな」
 もう少し巧い例を書かないと「?」マーク抜きの丸はやれない、と笑うハーレイ。
「前のお前は知らなかっただろう諺だから仕方ないんだが…。優等生だろ、せっかくの上等な頭は賢く使えよ? 俺に騙されるようでは話にならん」
「ハーレイの方が先生なんだよ、ぼくより賢くて当然だから!」
 ブルーは唇を尖らせた。
「先生の方が絶対、賢い! だから間違ったことを教えないでよ!」
「そう来たか…。うんうん、でもなあ…。好き嫌い探しはしたいだろうが?」
 どうなんだ? と尋ねられたら否とは言えない。景色を見るのも良さそうだけれど、今の生まで引き摺ってしまった「好き嫌いの無い自分」を解き放ってやるのも楽しそうだった。
 ハーレイと二人で旅をして、それぞれの好き嫌いを何処かで見付け出す。好きな食べ物は何度も食べに出掛けてもいいし、自分たちの家で作れる料理ならハーレイに作って貰って食べる。
 食べ物も景色も、我儘を言ってかまわない旅。シャングリラでは決して叶わなかった我儘放題の旅に二人で出掛ける。前の生で行きたいと願った地球で。ハーレイが辿り着いた時には死に絶えた星だった地球が蘇り、二人して其処に生まれたのだから。
 ブルーはハーレイに「うん」と笑顔で返すと、未来の夢を言の葉に乗せた。
「うん、ハーレイ。…いつか行こうね、好き嫌い探し」
「ああ、行こう」
 ハーレイがコクリと大きく頷き、微笑みながら。
「二人で見付け出さなきゃな。俺たちがすっかり失くしてしまった好き嫌いってヤツを、何処かで必ず見付けよう。だから頑張って沢山食べろ」
 残ってるぞ、と褐色の指がブルーの皿のピラフを指差す。
 いいか、俺と二人で旅に出るには、結婚するのに相応しい背丈にきちんと育つトコからだ。
 大きくならんと始まらないしな、俺たちの旅は。
 万が一、お前がチビだった時は…。約束どおり貰ってはやるが、その前にまずは努力してくれ。




          好き嫌いを探しに・了


※食が細くても好き嫌いが無いブルー。前の生での記憶を引き摺っているみたいですね。
 ハーレイと一緒に食べ歩きの旅で見付けて欲しいものです、今ならではの好き嫌い。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









 ハーレイは寝室で風呂上がりの一杯を楽しんでいた。季節はそろそろ初夏だったから、喉越しのいい酒に氷を浮かべてゆったりと。ビールも好きだが、寝る前に飲むにはあまり向かない。今日は仕事が忙しかったし、早めに休もうと寝室での一杯と相成った。
(ブルーの家にも寄れなかったな…)
 小さな恋人の顔を思い浮かべる。平日でも時間が取れた時にはブルーの家を訪ねる習慣。だが、今週は対外試合を控えた柔道部の指導と仕事の両立で時間が取れずに週の半ばに至っていた。
(明日には寄ってやりたいんだが…)
 そのためには仕事の段取りをどうするか、と頭の中で計画を立てる。早めに出勤して仕事をしてから柔道部の朝練をするべきか。校門が開くのは何時だったか、家を何時に出ればいいのか。
(…確か六時には開いてる筈だな、すると五時半に起きて朝飯で…)
 今から寝れば睡眠時間は充分に取れる。もう一時間早く起きても平気なくらいに早い時間。
「よし、それでいくか」
 ブルーに会うためにも早く寝よう、とグラスの酒を一気に呷ろうとして。
「しまった…!」
 勢いをつけすぎた酒がグラスと唇の間から僅かに伝って、ポトリと一滴、滴り落ちた。真っ白なシーツに琥珀色の染み。ほんの一雫だが、白いシーツだけによく目立つ。
「………。ロクなことにならんな」
 つい、うっかり。
 寝室のソファとテーブルで飲めば良かったものを、風呂上がりにキッチンで注いで二階の寝室に持って上がって来たから、そのままベッドに腰掛けた。部屋に入ってすぐにドッカリと。
「しかしなあ…。ベッドで一杯も捨て難いしな?」
 まあいいか、と空になったグラスをテーブルに置くために立って、直ぐに戻った。琥珀色をした染みは気になるが、どうせシーツは洗う予定をしていたし…。その時にひと手間増えるだけだ。
「つい、うっかり……か」
 ベッドに入る前のひと時、染みを見ていたら思い出した。前の生でのブルーのことを。



 今のブルーよりも背が高く、顔立ちも大人のそれだったブルー。それは美しく、気高かった前の生での恋人。いつからか彼に心惹かれて、親しい友から想いを寄せる人へと変わった。その想いを胸に秘めておくべきか、打ち明けるべきか。
 既にソルジャーと呼ばれ、青の間を居としていたブルーはハーレイが独占出来る存在ではない。常にシャングリラ全体に思念を巡らせ、船を守っているブルー。全てのミュウを愛する彼を自分の欲で一人占めなど出来るわけがない…。
 そう考えたから、躊躇した。募る想いを打ち明けたとしても、ブルーは困惑するだろうから。
 けれども、ふとしたブルーの仕草。ハーレイと二人きりの時しか見せない、その表情。自分だけでは無かったのだ、と気付いた時、どれほど嬉しかったか。ブルーも同じ思いなのだ、と。
 それからゆっくりと時間をかけてブルーの想いを確かめ、ようやく優しいキスを交わした。その日から恋人同士となって、少しずつ想いを深めていって。
 青の間でブルーと結ばれた時は、もうお互いに溢れる想いが止まらなかった。想いのままに腕を絡めて、求め合って。…そうして二人、抱き合ったままで眠ったのだけれど。
 次の日の朝、ブルーよりも先に目覚めたハーレイは身体を起こすなり絶句した。
(……これはあまりに……)
 全身から血の気が引いてゆく。まだ眠っているブルーの身体の下のシーツは酷く乱れて皺だらけだった。もちろんハーレイの下に広がるシーツも。
 しかも恐らく、皺だけで済みはしないだろう。愛し合うことに夢中で何も考えてはいなかった。自分もブルーも何度達したのか覚えていないし、その後始末などは頭に無かった。
(…ま、まずい…)
 ブルーの身体を傷つけたりはしていないと思う。苦痛を与えないように注意したから、血の色の染みは無いとは思う。しかし血の染みは無かったとしても、自分とブルーが放ったものは…。
 その跡は隠しようがない。ブルーのベッドで何があったか、係の者に知られてしまう。ブルーの相手が自分だとまでは知れないとしても、ブルーが誰かと愛を交わしていたことは。
(最悪だ……)
 ソルジャーとして誰もが敬うブルー。そのブルーを自分が引き摺り落とした。誰よりも気高く、凛として高みに立っていたブルーを、恋に溺れる「ただの人」にまで落としてしてしまった…。



 激しい後悔に苛まれ、暗澹たる気分で瞑目していたハーレイの耳に「どうしたの?」と柔らかな声がかかった。目を開けばブルーが横たわったままで見上げている。まだうっとりと酔いを残した瞳で、甘やかな笑みを湛えた唇で。
「…ブルー…」
 言えない。この愛しい人にはとても言えない、とハーレイは起こしていた身体を沈めてブルーを強く抱き締めた。何としてでもブルーを守る、と思ったけれども、どうすれば良いのか。この船の備品は自分の権限で動かせるものの、誰にも見られずにシーツを処分する方法などは…。
「…ハーレイ?」
 言葉にせずとも不安は伝わる。目覚めてから暫くはハーレイに甘え、その胸に身体を擦り寄せていたブルーが半身を起こし、ハーレイの不安の元を探った。ベッドに何かがあるのだ、と。
「あっ…!」
 ハーレイと同じものを其処に見たのだろう。ブルーも言葉を失っていたが、どうしようもない。
「…すみません、ブルー。私が…、私が注意するべきでした…」
 申し訳ありません、とハーレイは身体を起こして詫びた。
「直ぐにシーツを取り替えます。…係の者が替えに来る前に洗いに出せば分からないかと…。青の間の分のシーツのデータは私が何とか誤魔化しますから」
 船長の権限で書き換えられないことはなかった。不審に思う者があってもデータが無ければ思い違いで済むだろう。それしかない、と考えたのだが。
「…大丈夫」
 ブルーが白い指でシーツをそうっと撫でた。
「大丈夫だよ、ハーレイ、こんなものは…ね。こうしてしまえば」
 一瞬、青い光がベッドを覆って、消えた後には染み一つ無い真っ白なシーツ。激しく乱れて皺が寄った跡も何ひとつとして無い、いつもの通りのブルーのベッド。
「……魔法ですか?」
 思わず口をついて出たハーレイの言葉に、ブルーが「まあね」と微笑んでみせる。
「ベッドメイクは見慣れているから、その通りにしてみたんだけれど…。新しいシーツに替えて、前のは洗濯。もう水の中に浸けてあるから誰も汚れに気が付かないよ」
「…で、ですが…。係の者には、いったい何と?」
「多分、ぼくには訊かないだろうと思うけど…。もしも訊かれたら、水を零したと言っておくよ」
 自分が汚したシーツの始末は自分でしないと。ソルジャーでもね、とブルーは笑った。
 誰よりも強いサイオンを持ったブルーにとっては、シーツの入れ替えはほんの一瞬。ハーレイの目には魔法に見えたそれが、青の間で何度繰り返されたことだろう。たまに訊く者が出てくる度にブルーが答えた「水を零した」。その言い訳はいつしか定番になった。



 誰も気付かなかった青の間での秘めごと。初めて二人で過ごした翌朝の小さな事件が二人の間で笑い話になった頃には、ハーレイの部屋でも逢瀬を重ねた。
 キャプテンであるハーレイの部屋もまた、青の間同様、専属の者がベッドメイクをするのが常。此処でもブルーが乱れたシーツをサイオンで取り替え、新しいものを用意した。その手際良さに、ハーレイは目を瞠ったものだ。
「あなたのベッドなら慣れておられるのも分かりますが…。私の部屋のベッドメイクなど、いつの間にご覧になったのです?」
 暇潰しに覗いていたのだろうか、とハーレイは不思議に思ったのだが。
「これかい? 此処のベッドが覚えてるんだよ、どうするのかをね」
「ベッドが…ですか?」
「正確に言えば、係の残留思念かな? こう引っ張って、こっちをこう、と緊張している気持ちがよく分かる。キャプテンの部屋で失礼が無いよう、若いクルーは必死なんだね」
 キャプテンはとても怖いものね、とブルーが赤い瞳を煌めかせてハーレイの眉間に触れた。
「ほら、此処に皺。これを見るだけでも怖いってね」
「そんなことは…!」
「分かっているよ。君は怒鳴りも怒りもしない、って。…だから余計に尊敬される。若いクルーの憧れなんだよ、キャプテンは。そのキャプテンのお部屋係だ、頑張らないと」
 それで、とブルーは小首を傾げた。
「憧れのキャプテンのシーツを取り替えに来てくれた子に、何と言い訳するんだい? 自分で取り替えなければならなくなった不始末とやらは何にするわけ?」
「…私の場合は、水と言うより酒でしょうか…」
 ハーレイは苦笑しながら答えた。
「水を零した、は使用中だと仰るのでしょう? ならば酒しか思い付きません」
「ぼく専用の言い訳だからと独占する気は無いけれど…。オリジナリティは大切かもね。ぼくだと水で、君だとお酒。うん、お酒を零したと言っておいてよ」
 こうしてハーレイの部屋での逢瀬の後は「酒を零した」がハーレイの決まり文句となった。係のクルーは素直に信じて、中には零して減った酒の心配をした者までがあったほどで。
 そんな調子だから、ハーレイはたまにブルーをこう誘った。「酒を零しに来ませんか?」と。
 ブルーは酒に弱くて苦手だったけれど、いつも艶めいた笑みを返して酒を零しに訪れた。肝心の酒は飲みもしないで、ハーレイとの逢瀬に酔いしれるために…。



「本当に零しちまったな…」
 あれから長い長い時を飛び越え、辿り着いた地球でハーレイは呟く。「酒を零した」と言い訳をしていたキャプテンの部屋は今はもう無い。流れ去った時が白いシャングリラごと連れ去った。
 そのシャングリラで辿り着いた地球も、あの時の死に絶えた星ではない。
 青い水の星として蘇った地球。其処に自分は還って来た。死の星だった地球の地の底で息絶えた身体の代わりに今の身体を得て、新しい生を手に入れて。
 同じ地球の上に、今の自分が住む同じ町に、ブルーも生まれ変わって来た。メギドで失った命の代わりに新しい生を得、十四歳の少年として生きている。前よりも幼く、小さなブルー。ブルーに会いにゆくのだった、と思い出す。
 考えごとをしていた間に時が経ったかと時計を見たが、さほど時間は流れていない。テーブルの上の酒のグラスもまだ乾いてはいなかった。飲めるほどには残っていないが、グラスの底に残った液体。シーツに小さな染みくらいなら作れるかもしれない、ほんの僅かな量の酒。
 その酒のお仲間がシーツに拵えた染みを見ながら、ハーレイはフッと笑みを零した。
「…酒を零してくれるどころか、水も零せはしないんだがな…。今のあいつは」
 十四歳の小さなブルー。恋人なのだと主張しはしても、あまりに幼い身体のブルー。ハーレイと結ばれる日を夢見てはいるが、身体も心も幼すぎてどうにも話にならない。
「あいつが酒を零してくれる代わりに、俺が零してしまったか…。まだまだ待てと言われたようで縁起でもないが、ゆっくり育って欲しいからなあ…」
 前世のブルーが失くしてしまった幼い時代の幸せな記憶。ブルーにはそれを取り戻して欲しい。前の分を補ってなお余りある幸福な時間を過ごして欲しい。そのためならば何十年でも待てる、と思っているのだけれど。
「はてさて、あいつが酒だの水だの、零してくれるのはいつのことやら…」
 前の生での誘い文句をブルーは覚えているのだろうか?
 小さなブルーに「俺の家へ酒を零しに来ないか?」と言おうものなら、「行ってもいいの?」と喜びそうだ。その意味すらも考えはせずに、遊びに来ていいと許可を貰ったと歓声を上げて。
(…酒を零して遊ぶというのは、いったいどういう状況だろうな?)
 サッパリ分からん、と小さなブルーが考えそうな中身を想像してみる。スポーツ選手が祝賀会でやるシャンパンシャワー。その手のものしか思い付かない。学生時代に何度かやったが、なかなか高揚するものではある。ブルーに浴びせたら喜ぶだろうか?
(はしゃぎそうだが、酒は零してくれんしなあ…)
 ずぶ濡れになったブルーの姿はハーレイの心臓に悪そうだ。シャツがうっかり透けたりしたなら理性が危うくなってくる。これ以上はもう考えるな、とハーレイは自分にストップをかけた。



 年相応に無垢で愛らしい小さなブルー。無邪気な笑顔を思い浮かべれば邪心を抱ける筈もない。前の生では同じ姿でも一人前の戦士だったし、サイオンも比類ない強さだったけれど。
「…今のあいつには出来そうもないな、零す以前の問題だな」
 シーツに出来てしまった琥珀色の染みを指先でつつく。
 水や酒を零したと言い訳をしては、一瞬の内にシーツを取り替えた前世のブルー。魔法のように見えたその技を今のブルーは持ってはいない。瞬間移動が出来ないのだから、その応用とも言える例の魔法を使うことなど無理なのだ。
「あいつが自分のベッドに水を零したら、まずはママだな」
 大慌てで駆けてゆく姿は想像するのに難くない。「ママ、零しちゃった!」と叫びながら部屋を飛び出し、転がるように階段を下りて母の所へと一直線に。
 サイオンの扱いに長けるどころか、不器用かもしれない小さなブルー。それもまたハーレイには嬉しかった。ブルーが力を伸ばさなくてもいい世界だという証明だから。
(…そんなあいつが、あれを見たなら…)
 クックッとハーレイは笑い始めた。
 青の間で初めて二人一緒に過ごして、翌朝、愕然と眺めたベッド。前の生のブルーはソルジャーならではの冷静さと技で対処し、微笑んでさえいたのだけれど。
(あいつは間違いなくパニックだな)
 そう、あのベッドを見せられたならば小さなブルーはパニックだろう。どうしてベッドがそんな状態に陥ったのかも分かりはしないに違いない。そう考えると可笑しくなる。
 何かと言えば「本物の恋人同士になりたい」と口にする小さなブルー。ハーレイに向かって何度「キスしていいよ?」と誘ってきたかも数え切れないくらいだったが、中身は正真正銘の子供。
(うんうん、あいつは覚えていないぞ、肝心のことは)
 そうに違いない、とハーレイは思う。
 前世の記憶を全て思い出した、とブルーは言うし、実際、記憶は持っているらしい。だからこそ本物の恋人同士になれる日を待ち焦がれ、早く育ちたいと願うのだが…。
(本当に色っぽい記憶となったら抜け落ちているか、ぼやけているかだ)
 現に誘われたことがない。あの懐かしい誘い文句をブルーから聞いたことがない。
 ハーレイの部屋に行きたいと強請る代わりに、前世のブルーが笑みを浮かべて囁いた言葉。
 桜色の唇が歌うように紡いでいた言葉。
「ハーレイ? 最近、お酒を切らしているようだけど?」と。
 滅多に誘われなかったからこそ覚えている。普段は自分が誘っていたから。
 そう、彼の人から誘われる前に「酒を零しに来ませんか?」と。



 今のハーレイの家に、ブルーは遊びに来られない。ハーレイ自身がそう決めた。それをブルーはきちんと守って、ハーレイの方から訪ねて来るのを待っている。
 ハーレイの家に来たい筈なのに、前世での口実の酒を持ち出さないブルー。
 まだ十四歳の小さな子供で、法律でも酒は飲めないブルー。
 小さな身体と無垢で幼い心に合わせて、記憶もきっとぼやけるのだろう。背伸びしている子供と同じで大人びたことを口にしてはいても、ブルーは何も分かってはいない。
(…あのベッドだって確実に忘れているな)
 前の生で初めての朝を迎えたベッド。
 小さなブルーに、そういう記憶は、きっと、無い。
 それでもブルーが愛おしい。この地球の上で巡り会えたブルーが愛おしい…。
「…寝るか、明日はあいつの家まで行ってやらんとな」
 ついでに少しからかってみるか、とハーレイはシーツに残った琥珀色の染みに視線を落とす。
 懐かしい誘い文句を忘れたであろう小さなブルー。
 ハーレイが「昨夜、うっかり酒を零してな」と白状したなら、何と答えを返すだろう?
 「酔っ払ったの?」か、それとも「もったいないよ」か。
 どちらにしても、前の生のブルーの艶やかな笑みと言葉は返らない。
 「それじゃ今夜はぼくが行くよ」と微笑んだブルー。
 あの頃のブルーとそっくり同じに育ったブルーを手に出来る日はまだ遠いけれど。
(…うん、今のあいつも可愛らしいんだ)
 待っていろよ、とハーレイはベッドにもぐり込んだ。
 明日はお前の家に行くから、と……。




           言い訳の雫・了


※前のハーレイとブルーの秘めごと。小さなブルーは覚えていない、前の自分の誘い文句。
 今度は言い訳の要らない二人ですけど、二人きりで過ごせる夜はまだ遠いようです…。
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 夏休みのある日。今日はハーレイは午前中に柔道部の指導があるから、ブルーの家を訪ねて来るのは午後になる。ブルーは母と昼食を食べて、二階に戻ろうとしたのだけれど。
「ブルー。それ、ママの部屋に持って行ってくれるかしら?」
 母が紙袋を指差した。綺麗な色と模様の紙袋。
「うんっ!」
「ドレッサーの所に置いてくれればいいから」
「分かった!」
 化粧品の類なのだろう。小さな紙袋を提げたブルーは足取りも軽く階段を上り、母の部屋の扉を開けて入って、ドレッサーの前に袋を置いて。
(ママの部屋かあ…)
 この部屋に母のベッドは置いてあるのだが、恐らく母は使っていない。隣の父の部屋に置かれた大きなベッドが多分、二人用。幼い頃にはブルーも其処で何度も両親と一緒に眠っていた。今なら二人用のベッドの意味が良く分かる。
(…ぼくとハーレイ、いつになったら一緒のベッドで寝られるのかな…)
 出会った時の百五十センチから伸びない背丈。前世の自分と同じ背丈にならない限りはキスさえ許して貰えない。同じベッドなんて夢のまた夢、いつになるやら見当もつかず。
(…早く結婚したいんだけど…)
 母の部屋に飾られた結婚式の写真。今よりも若い両親が幸せそうな笑顔で写っている。ブルーはそれを羨ましそうに眺めながら。
(ぼくって、ドレスを着るのかな? 二人ともタキシードなんて変だよね?)
 並んで立っている分にはかまわないけれど、これは流石に可笑しいと思う。母を両腕でしっかり抱き上げて立つ父と、その腕の中で笑顔の母と。結婚写真の定番の一つ。このポーズでハーレイがタキシードのブルーを抱いていたなら、さながらコメディ。
(やっぱりドレスしか無さそうだよね…)
 こういう写真は撮りたいもの、と両親の写真を目に焼き付けてブルーは自分の部屋に戻った。



(ドレスかあ…)
 生まれてこの方、ドレスなんかは着たこともない。学校はずっと共学だったし、いくらブルーが可愛らしくても演劇などで女の子の役は回って来ない。小さい頃に「女の子?」と訊かれたことは多かったけれど、ちゃんとズボンを履いていた。
(でも、あの写真を撮りたかったらドレスだよね…)
 ドレスというものの着心地どころか、どうやって着るのかも分からなかった。その辺りはプロにお任せとしても、ああいった服で上手に歩くことが出来るのだろうか?
(踏んづけて転んじゃったりして…)
 それは非常に格好が悪い。かと言って最初からハーレイに抱いて歩いて貰うのも…。
(思い切りルール違反だよね?)
 結婚式が終わるまでは自分の足で歩いてゆくしかない筈だ。これは困った、とドレスの長い裾をどう捌くべきか悩み始めたブルーだったが。
「…あれ?」
 そういえば、と思考が別の方向へ向いた。
「ぼく、一回もハーレイに抱っこして貰ってないよ…」
 ドレス姿でないと似合いそうにない結婚式の写真の定番、新郎の両腕に抱かれた花嫁。
 前の生ではハーレイと結婚こそ出来なかったけれど、ああいう風に抱き上げられたことは何度もあった。ハーレイの逞しい腕に抱えられて運んで貰った。
 なのにハーレイと再会してから、そんな経験は一度も無い。ハーレイはブルーを胸に抱き締めてくれるけれども、あんな風に抱き上げて貰ったことは無い。
(…お姫様抱っこって言うんだっけ…)
 シャングリラに居た頃、若いミュウたちがそう呼んでいた。ハーレイに「お姫様抱っこだね」と言ったら「あなたは私のお姫様ですから」と真顔で返され、二人して大笑いしたものだ。ブルーは実はソルジャーではなく、シャングリラのお姫様だったのか、と。
(あれも大きくなるまでダメなの?)
 キスと同じでお預けだろうか、と考えたけれど、お預けにされる理由が思い当たらない。唇へのキスは大人のものかもしれなかったが、両腕でヒョイと抱き上げるくらい…。
(パパだって抱っこしてくれるよ、うん)
 ブルーが熱を出した時など、父が抱えてベッドに運んでくれたりする。ということは、特に問題なさそうだ。一度ハーレイに頼んでみよう、と決心した。そう、今日ハーレイが来たら、早速。



 間もなくハーレイが訪ねて来てくれ、母が部屋まで案内してきた。母はアイスティーとお菓子をテーブルに置いて階下へと去り、ブルーは勇んで切り出してみる。
「ねえ、ハーレイ」
「なんだ?」
「お姫様抱っこはかまわないよね?」
「はあ?」
 ハーレイがポカンと口を開けた。それにかまわず、ブルーは続ける。
「お姫様抱っこ! まだ一回もして貰ってないよ」
「…お姫様抱っこって…。アレか、俺がお前を抱き上げるヤツか?」
「そう! パパもしてくれるし、お姫様抱っこはダメじゃないよね、キスと違って」
 期待に満ちた瞳でハーレイを見詰め、「お願い!」とペコリと頭を下げた。
「ちょっとでいいから抱っこしてみてよ」
「……全く必要無いと思うが」
 つれない返事にブルーは「なんで?」と目を見開いた。
「ぼくがお願いしているんだから、必要はあると思うけど…」
「無いな」
「どうして? 前は抱っこしてくれてたよ? それに前よりずっと軽いよ」
 ぼくの体重、と自分の小さな身体を指差す。
「今の方がずっと軽いのに…。持ち上げやすいのに、なんでダメなの?」
「前より軽いのは知っているさ。俺の膝の上に乗っかっていても軽いからな」
「だったら、どうして! 重くないのに! ちょっとでいいから!」
 ほんの少し歩いてくれるだけでいいのだ、とブルーは強請った。けれどハーレイは「駄目だ」の一点張りで、立ち上がる気配も見せてくれない。
「ハーレイのケチ!」
「ケチでかまわん。とにかく俺はやる気はない」
「…ちょっとだけでも?」
「そのちょっとで、だ。お前は何処へ行くつもりなんだ」
 鳶色の瞳がブルーの瞳を真正面から覗き込んだ。
「俺がお前を運んでいた先は、ベッド以外に無かった筈だぞ」
「えっ…?」
 思いもよらない言葉に暫し考え込み、遠い記憶を探ってみる。お姫様抱っこで連れて行って貰う先には、本当にベッドしか無かっただろうか?



 前の生で何度も抱き上げてくれたハーレイの腕。頑丈だった腕の逞しさと力強さを覚えている。今よりも重かったブルーの身体を軽々と抱き上げ、危なげもなく運んでくれた。ふわりと宙に浮く感覚。自分のサイオンで浮き上がるのとは全く違った心地よさ。
「…ベッドだけってこと、ないと思うけど…」
 それならば青の間かハーレイの部屋での記憶だけしか無い筈だ。ブルーの記憶が違うと告げる。シャングリラの長い通路やブリッジ、公園なども覚えていた。何処でもハーレイの腕にしっかりと抱かれて周りを見たり、高い天井を見上げたり…。
「ハーレイ、絶対、間違ってるよ! 通路も公園もそれで歩いた!」
「いや、間違えているのはお前だ。俺はお前をベッドにしか運んでいないんだが?」
「そんなことない!」
 通路はともかく、ブリッジや公園にベッドは無い。百歩譲って通路の方なら行き先がメディカルルームのベッドということもあっただろうが…。
 懸命に言い募るブルーだったが、ハーレイは「お前が忘れているだけだ」と譲らない。
「俺がお前を運ぶ時には行き先はベッドだ、間違いはない」
「でも…! ブリッジと公園にベッドは無いよ!」
「ああ、ブリッジと公園にはな。せいぜい休憩用の椅子くらいだな」
「だったら、なんで!」
 ハーレイの記憶違いか、お姫様抱っこをしたくないがゆえの逃げ口上か。どちらかだとブルーは思ったのだが、ハーレイがフウと溜息をつく。
「…覚えてないのも無理ないかもな。俺が目的地に着いた頃には、お前、大抵、寝ていたからな」
「寝てた…?」
 そんな記憶は全く無かった。ハーレイの腕に抱かれて移動するシャングリラの通路や公園などは気持ち良かったし、眠ってしまうわけがないのに…。
「ぼくは寝ないよ、せっかくハーレイがぼくを運んでくれているのに」
「その気が無くても寝てるんだ。…俺はお前が倒れた時しか、外でお前を運んではいない。お前、冷静に考えてみろよ? それ以外で俺がお前を運んでいたなら、周りに何と言い訳するんだ」
「あっ…!」
 そう言われればその通りだった。前の生では身も心も結ばれた本物の恋人同士だったけれども、周囲にはそれを隠し通した。ハーレイが理由も無くブルーを抱き上げて運んで歩けば、当然、仲を疑われる。ということは、自分の記憶が抜けているだけで…。
「分かったか? お前は運ぶ途中で寝ちまっただけだ。行き先はベッドだったんだ」
 ハーレイの指摘に反論出来ない。お姫様抱っこで辿り着く先は本当にベッドだったのだ。



「…思い出したか? つまりだ、俺に今のお前を運ぶ理由は無いわけだ」
 お前はピンピンしてるんだから、と鳶色の瞳に笑みの色が浮かぶ。
「気分が悪いわけでもないし、倒れちまったわけでもない。…ついでに、そういう理由以外で俺がお前をベッドに運ぶには早過ぎるしな」
「嘘……」
 あの懐かしい浮遊感を味わえないなんて。今のブルーの身体だったらヒョイと抱き上げて何処へでも運んで貰えそうなのに、行き先はベッド限定だなんて…。
「じゃ、じゃあ…。じゃあ、ハーレイ…」
 ブルーは一縷の望みを託して尋ねてみた。
「もしも学校でぼくが倒れて動けなかったら、運んでくれる?」
「………。それはお姫様抱っこでか?」
「うん。それならいいよね、保健室まで」
 保健室ならば行き先はベッド。いつもは保健委員のクラスメイトや担任に連れられて行っているけれど、ブルーはヨロヨロ歩いてゆくか、あるいは車椅子で運ばれるか。しかしハーレイが倒れた現場に行き合わせたなら、抱き上げて運んでくれるだろう。それだけの力は充分にあるし…。
「お前を保健室までか?」
「そうだよ、保健室のベッドに運んで欲しいんだけど」
 倒れたからには気分は相当に悪いのだろうが、ハーレイの腕で運ばれるのなら悪くない。途中で意識を失くしたとしても、お姫様抱っこをして貰える。ほんの一瞬のことであっても、胸に幸せな記憶が残る。今の生でのお姫様抱っこ。
 赤い瞳をキラキラと輝かせるブルーの姿に、ハーレイは「お前なあ…」と苦笑いをした。
「…その運び方は、普通は嫌がるモンなんだが?」
「そうなの?」
 ブルーは驚いて目を丸くした。あんなに気持ちのいい運ばれ方は無いと思うのに、嫌がるなんて信じられない。クラスメイトの肩を借りて重い足を引き摺って歩くより、ぐらぐらと揺れる身体を車椅子に委ねて運ばれてゆくより、ずっと、ずっと楽で気持ちが良くて…。
 顔いっぱいに「信じられない」気持ちが溢れるブルー。けれどハーレイがプッと吹き出す。
「まあ、女の子なら大喜びだな、なにしろお姫様抱っこだからな? しかしだ、男は全く違うぞ。何処の学校でも俺のクラブのヤツらにとっては罰ゲーム的な扱いだったが」
 注意を守らずに怪我をした生徒をアレで運ぶ、とハーレイは言った。
「やめて下さいと叫んでいようが、知ったことではないからな。下ろして下さいと泣きの涙が定番なんだが、俺は下ろさん。それが究極の罰ってヤツだ」



 男子たるもの、お姫様抱っこで運ばれるなどは屈辱の極み。それがハーレイが顧問を務めてきた柔道部や水泳部の生徒の共通の認識なのだという。自分が注意を守らなかったがゆえに怪我をし、その見せしめとして校内引き回しの刑を食らうのだ、と。
 ブルーは心底、驚いた。ハーレイに抱き上げられて運ばれることを嫌がる者がいるなんて…。
「じゃあ、どうやって運んでいるの? そういう罰にならない時は?」
 きちんと注意を払っていても怪我をすることは少なくない。体育の時間は苦手だけれども、その体育で何度も見て来た。転んだり、誰かと接触したりして怪我をした子を。
 不幸にして怪我をしてしまったハーレイの教え子はどうなるのだろう? ブルーが抱いた素朴な疑問に、ハーレイは「ああ」と事も無げに答えた。
「もちろん、背負うさ」
「背負う!?」
 ハーレイの広い背中だったら、体格のいい生徒であっても背負えるだろう。そして…。
「ぼく、一回もやったことない!」
 ブルーはハーレイの広い背中に背負って貰ったことが無かった。今の生でも一度も無いし、前の生でも経験が無い。あんなに大きな背中なのに。がっしりとした肩幅が頼もしいのに…。
 自分は如何に美味しい思いをし損ねたのか、という気がした。お姫様抱っこも素敵だけれども、背中だってきっと気持ちいい。ハーレイの温もりを感じながら揺られて、支えられて。
 むくむくと湧き上がって来る背中への憧れ。ハーレイの背中に背負われてみたい。
「それ、やって欲しい! 背負って欲しいよ!」
 前の時にもやってないもの、とブルーがせがむと「前は必要無かったろうが」と返された。
「お前は大きくても軽かったしな? 様子を見ながら運ぶ分には抱いた方がいい」
「でも…!」
「お前も背負えと言わなかったぞ、抱っこで満足してたんだろうが」
「……うーっ……」
 言い返そうにも、前の生で背負って欲しいと思ったことが無いのは事実。ハーレイが他の誰かを背負って歩いていたなら思い付いたろうが、生憎と一度も目にしなかった。それでも背中に向いてしまった目は「それもやりたい」とブルーの心をかき立てる。あの広い背中に背負われたいと。
 そう、今度の生では背負って欲しい。お姫様抱っこもやって欲しいし、温かな背中も感じたい。どちらも家では無理そうだけれど、もしも学校で倒れたならば…。



「ハーレイ、背負うか、抱っこか、どっちか!」
 どっちでもいいから、とブルーは強請った。学校の中で倒れていたなら運んで欲しいと。
「分かった、分かった。…いつかその辺で倒れてたらな」
 行き先がベッドだったら運んでやる、とハーレイがパチンと片目を瞑る。
「ただしあくまで学校で、だぞ。この家の中なら運ぶまでもないしな、ベッドは其処だ」
 担ぎ上げたらゴールインだ、と笑うハーレイに、ブルーは「学校でいいよ」と頷く。
「学校でいいから、どっちか、お願い」
「よしきた、俺に任せておけ。…いやはや、今から楽しみだな? どんな噂が立つやらなあ…」
「噂?」
「お前の噂さ、お姫様抱っこで運ばれてったら不名誉だぞ! 一生モノの男の恥だ」
 女の子にも何と言われるやらなあ、とハーレイは可笑しくてたまらないという様子で笑った。
「俺とお前が恋人同士なんていう嬉しい噂はまず立たないさ。お前に笑える名前がつくのが見えるようだな、ブルーちゃんとか」
「ブルーちゃん!?」
「お姫様だぞ、女の子の名前は「ちゃん」づけだろうが」
「…そ、それは……」
 小さな頃には「ブルーちゃん」だった。よく女の子と間違えられていた頃は、お隣のおばさんや郵便配達のおじさんたちにそう呼ばれていたし、ブルー自身も気にしなかった。それがいつからか「ブルー君」に代わり、成長した気になっていたのに「ブルーちゃん」だとは…。
「嫌だよ、ブルーちゃんなんて! 学校で抱っこは要らないよ!」
「なんでだ、して欲しかったんだろう?」
 遠慮するな、と胸を叩いてみせるハーレイに「背負う方でいいよ!」とブルーは叫んだ。
「抱っこの方は我慢するから! 大きくなるまで!」
 そうは言ったものの、少し寂しい。して欲しかったお姫様抱っこ。ハーレイの腕に身体を預けて運ばれる時の例えようもない充足感と心地よさは当分、今の身体では味わえない。
 俯いてしまったブルーの頭をハーレイの手がクシャリと撫でた。
「…分かってるさ、お前の気持ちはな。だがな、今はまだ応えてやれないんだ」
 すまん、と真摯な瞳で謝るハーレイ。さっきまでの笑いが嘘だったように。
「…ハーレイ…?」
「いつかお前が大きくなったら、ちゃんとベッドまで連れてってやる。…意味は分かるな?」
「…うん…」
 ブルーの頬が真っ赤に染まった。いつか望みが叶う時には、自分は、きっと…。



 今は叶わないらしい、お姫様抱っこ。
 けれどブルーには今の生での目標が出来た。前の生では思いもしなかったハーレイの背中。その広い背中に背負って貰って移動すること。
「ねえ、ハーレイ? 背負って貰う方なら学校でやってくれるんだよね?」
「お前の家だとベッドに担ぎ上げて終わりだからなあ、まあ、学校しか無いだろうな」
 だが、とハーレイはブルーの額を指先で弾く。
「それを狙って無理して学校へ来るのは無しだ。お前が寝込む姿は見たくないんだ」
「…だけど…」
「でも、も、だけど、も聞きたくはないな」
 病気になって辛い思いをするのも、苦しくなるのも、お前だろうが。
 背負ってやるのは何でもないが、その前に、お前。行き倒れるなよ、学校で……な。
 しっかり食べて、丈夫になれ。
「……うん……」
 それがハーレイの心からの望みで、ブルーの身体を気遣っての言葉なのだと分かったから。
 ブルーはコクリと頷いた。
 学校で倒れないようにしたい。ハーレイに心配させたくはない。
(…でも……)
 同じ倒れるならハーレイの前で、と子供ならではの欲張り心も顔を出す。
 お姫様抱っこは当分無理でも、ハーレイの背中。其処に背負って貰えるのならば、保健室行きも気にしない。倒れて、寝込んで、学校を休んでしまったとしても…。
(それにハーレイのスープもつくしね)
 ブルーが寝込んだ時には大抵、ハーレイが家まで作りに来てくれる。
 前の生でブルーのためだけに作ってくれていた野菜のスープ。何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴で優しい味わいのスープ。
 広い背中に背負って貰って、あの懐かしい味のスープが飲めるなら…。
(うん、それだけでとっても幸せだよね)
 ふふっ、とブルーは微笑んだ。ハーレイに心配させたくはないのだけれども、心配してかまって欲しいとも思う。いつか一緒に暮らせるようになるまでの間は、そのくらい…。
(いいよね、ちょっとくらいはね…)
 ねえ、ハーレイ?
 ちょっとくらい我儘を言ってもいいよね、ぼくはハーレイの恋人だから…。




            ぼくを運んで・了


※今はして貰えない、お姫様抱っこ。流石に色々無理がありすぎますね、これは。
 今度は背負って欲しくなったようですが、子供ならではの我儘全開かも…。
 ←拍手して下さる方がおられましたらv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv






※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv





季節は春。新年度にお馴染みのドタバタも終わって私たちは今年も1年A組、担任はグレイブ先生です。授業も始まって落ち着いてくる時期の筈なんですけど、キース君が朝から浮かない顔。放課後に出掛けた「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でもイマイチ元気がありません。
「かみお~ん♪ お代わりの欲しい人、手を挙げてー!」
ハイハイハイッ! と手が上がってイチゴのミルフィーユが切り分けられる中、キース君は一人でズズッとコーヒーを。それも冷めかかったコーヒーだったり…。
「あれっ、キースは要らないの?」
手を挙げたのに、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に訊かれて、慌てたように空のお皿を前へ押し出すキース君。やっぱり何処か変ですよ?
「おやおや、キースはどうしたんだい?」
元気が無いねえ、と会長さんが紅茶のカップを傾けて。
「とにかくコーヒーは飲み干さないと冷めたまんまになっちゃうけれど? それでいいなら止めないけどさ」
「い、いや…! コーヒーは美味い方がいい」
熱いのを頼む、と一気飲みしたキース君のカップに「そるじゃぁ・ぶるぅ」が香り高いコーヒーのお代わりを。それでもキース君はどうも気分が晴れないようで…。
「先輩、今日は変ですよ? 昨日は何かあったんですか?」
法事でしたっけ、と尋ねたシロエ君にキース君は。
「あ、ああ…。まあ……」
「そんなにハードなヤツだったのかよ?」
法事バテなんてキースらしくねえな、とサム君だって不思議そう。元老寺の副住職なキース君は法事も沢山こなしています。春や秋のお彼岸などでは導師と呼ばれる主役を務めることもありますし、今更普通の法事なんかで疲れが出るとも思えませんが…。
「…法事は問題無かったんだ。ただ、親父に出された宿題が……」
「「「宿題?」」」
「ああ。親父にそろそろ取り組んでおけと言われてな…。戒名をつける練習を」
「「「…戒名?」」」
妙な宿題もあったものだ、と顔を見合わせる私たち。あれって練習が要るんでしょうか? そりゃまあ、使っちゃいけない文字があるとか、門外漢には理解できない細かい規則はありそうかな?



「戒名ねえ……」
どういうドジを踏んだんだい、と遠慮ない質問は会長さん。伝説の高僧、銀青様にジロジロと見られたキース君はギクリとした顔で。
「…そ、それが…。そのぅ……」
「言いにくいような失敗をやらかしてしまった、と。アドス和尚が激怒するような」
詳しく聞かせて貰おうか、と会長さんはミルフィーユにフォークを入れつつ、のんびりと。
「みんなも気になるポイントだろう? キースがドジを踏んだとなればね」
「俺は後学のために聞きてえかな。いずれは坊主になるんだからよ」
お前もだよな、とサム君に肩を叩かれたジョミー君が「違う!」と悲鳴を上げましたけれど、他の面子は私も含めて興味津々。頭が良くて優等生のキース君はお坊さんの大学も首席で卒業しています。お坊さんの世界ではエリートの卵に入る筈なのに、戒名くらいで何故に失敗?
「…お前たちには分からんだろうな、俺たち坊主の苦労なんかは」
あれで戒名も大変なんだ、とキース君は溜息をつきました。
「戒名の基本は生前の名前と行いなんだ。どんな人生を送った人か、お寺に功績があった人か。その辺も考慮しながらつけていくわけだ」
「お金次第だと聞きましたけど?」
シロエ君の突っ込みをキース君は軽く一蹴。
「そういう寺も無いことはないが、元老寺ではそれは無い。戒名料だと持ってこられても突き返す。それが親父の方針でもあるし、俺の祖父さんもそうだったそうだ。そういう姿勢を貫くからには過去帳の管理も大変で…」
名付ける時には御先祖様の戒名までチェックするのだ、と聞かされて苦労の一端を垣間見た気分。元老寺は古いお寺だけに檀家さんの御先祖様も多そうです。
「…俺が親父に出された宿題は、言わば架空の戒名で…。親父が適当に考えた名前と経歴を渡されてな。この人に相応しい戒名を考えておけ、と言われたんだ。そして昨日が提出期限で」
「…それで?」
言ってしまえば楽になるよ、と会長さんが先を促し、キース君はガックリと肩を落とすと。
「…ダブルブッキングだ……」
「「「ダブルブッキング!?」」」
飛行機とかレストランの予約だったら分かりますけど、戒名でダブルブッキング? それってどういう意味なんですか?



項垂れているキース君を他所に、会長さんは「あーあ…」とイチゴのミルフィーユをパクリ。
「やっちゃいけないことをやったね、副住職? 過去帳をチェックしなかっただろう?」
「…架空の人間と経歴だから、と舐めていた点は確かにあった…」
失敗だった、とキース君は肩を落としています。
「俺としては会心の出来の戒名だったが、親父に一喝されたんだ。檀家さんの前で大恥をかくぞ、と怒鳴られた上に今朝は境内の掃除を一人で…」
「「「えーーーっ!!!」」」
あの広い境内を一人でですか? いつもは宿坊に勤める人が総出で掃除してるのに? 仰天する私たちに向かって、会長さんが。
「ダブルブッキングの罪は重いんだよ。今回は練習だったから問題ないけど、本当にやったら後が無い。檀家さんの前で大恥どころか、お詫び行脚は必須だね」
「…ダブルブッキングって何なんだよ?」
サム君の疑問に、会長さんは淡々と。
「同じ戒名をつけることだよ、全く別の人に対してね。そういう事態に陥らないよう、過去帳チェックは必要不可欠。今は便利な戒名管理ソフトも存在するだけにアドス和尚の怒りは当然」
「あら、同姓同名ってよくあるわよ?」
スウェナちゃんの指摘に私たちは頷きましたが、首を左右に振る会長さん。
「…別のお寺なら同じ戒名も有り得るさ。だけど一つのお寺でかぶるのはマズイ。お彼岸の法要とかで卒塔婆を回向するだろう? あの時に必ず戒名を読む。卒塔婆を頼んだ人の名前も一緒に読むから、御先祖様と同じ名前が他人様につけられていたら即バレだってば」
赤っ恥な上に怠慢と認定され、お詫びに行かねばならないそうです。あまつさえ戒名をつけ直すとなれば位牌や墓石に刻んだ戒名もパアになりますし、もう色々とド顰蹙。
「それをキースがやっちゃったんだよ、架空の人で練習中だから未遂だけどね。…これは当分引き摺りそうだよ、掃除は今日だけじゃ済まないかと」
「…その通りだ。四月末までやれと言われた。世間がゴールデンウィークに突入しても、俺は四月いっぱい一人で境内の掃除なんだ…」
ゴールデンウィークは五月に入るまでお預けだ、と黄昏ているキース君。気の毒としか言いようがありませんけど、自業自得じゃ仕方ないかも…。



「…そっかぁ、キースはゴールデンウィークの前半、無いんだ?」
ジョミー君が口にした一言でキース君はズーン…と落ち込み、会長さんが。
「そのようだねえ…。悲惨な四月を送ることになるキースのために、ここは一発、慰安旅行!」
「「「けっこうです!」」」
キース君を除いた全員の声が重なりました。ゴールデンウィークは何処のホテルも旅館も満員。マツカ君の別荘に行った年もありますけれど、会長さんが提案した場合はもれなくシャングリラ号で宇宙の旅です。おまけに会長さんが歓迎と称して極悪なイベントを企画することも数多く…。
「えっ、せっかくの慰安旅行なのに…」
断らなくてもいいだろう、と会長さんはつまらなそう。その表情がコワイんです、と誰もが声に出さずに凝視していると。
「心配しなくても行き先はシャングリラ号じゃない。穴場と言えば穴場だけどさ」
「…ロクでもなさそうですけれど?」
遠慮のないシロエ君に、会長さんはチッチッと人差し指を左右に。
「ところがそうじゃないんだな。…行きたくないかい、洞窟温泉」
「「「…洞窟温泉?」」」
それは耳慣れない言葉でしたが、温泉となれば話は別です。キース君も身を乗り出していたり…。
「洞窟温泉は名前のとおり、洞窟の中が温泉になっているんだよ。この前、フィシスと一緒に行ってね…。混浴が売りの場所だったから最高で」
「…おい」
キース君が割って入りました。
「女子が二人もいるというのに混浴の風呂は無いだろう! 俺は却下だ」
「…そうね、混浴は私も嫌だわ」
お風呂に水着はダメでしょう? とスウェナちゃん。私もコクコク頷きましたが、会長さんは「心配無用」と微笑んで。
「いわゆる洞窟温泉ってヤツはゴールデンウィークは満員御礼! だけど穴場は存在する。それこそ貸し切り、水着もOK、普通にお風呂もOKって場所が」
「…何処に?」
今から予約が取れるわけ? と尋ねたジョミー君に、会長さんが。
「予約なんか最初から必要無いよ。そもそも普通じゃ行けない場所だし、第一、立ち入り禁止だってば」
「「「立ち入り禁止!?」」」
それって危険な場所なのでは、と嫌な予感で背筋がゾゾッと。やはり今年のゴールデンウィークも受難で終わってしまうとか…?



恐ろしげな行き先を提案された私たちは震え上がりました。ところが会長さんはニッコリと。
「文字通りの穴場な温泉なんだよ、地上から見れば垂直な穴の底に温泉が…ね」
縦穴の深さは十メートル以上あるだろう、とパチンと指が鳴らされ、壁に現れた中継画面。鉄の柵で囲われた深くて真っ暗な穴が映し出されて、そこから微かな湯気がフワフワ。
「これは鍾乳洞なのさ。地下に温泉が湧いているけど、この状態だから洞窟風呂なんて夢のまた夢というヤツで…。ついでに温泉も奥が深くて洞窟探検のプロでも先へは進めない」
お湯の中を潜って進んで行くのは大変なのだ、と会長さんは教えてくれました。
「ロープを手繰って十六メートルほど進んで挫折だったかな? 現時点ではこの縦穴とお湯が溜まった部分だけしか知られていないわけだけど…。実はこの先に」
中継画面がパッと切り替わり、観光で行くような大きな鍾乳洞が現れました。サイオンで明るさを補っているらしく、天井までもがハッキリ見えます。広大な洞内にはお湯の川が流れ、温泉を湛えた地底湖だか池だかが点々と…。
「「「……スゴイ……」」」
「だろ? ここの存在は誰も知らない。湯加減と泉質はもう最高だし、行くなら穴場だと思うんだけどね?」
地底の温泉で遊び放題、と聞いた私たちは万歳三唱。でも、宿とかはどうするのでしょう? ゴールデンウィークだと何処も予約で一杯なのでは…。
「その心配も要らないさ。マツカ、この洞窟の場所なんだけど…」
最寄りの駅の名前がコレで、と会長さんに声を掛けられたマツカ君が「ああ、それなら…」と執事さんに電話をかけて、間もなく別荘確保です。いろんな所に別荘のあるマツカ君と友達でホントに良かった、と再び万歳。美味しい食事も期待出来ますし…。
「…いいねえ、今年は温泉だって?」
「「「!!?」」」
ぼくも行きたい、とフワリと翻る紫のマント。忘れてましたよ、ソルジャーを! シャングリラ号へ行く時には絶対来ないと分かってますから、ゴールデンウィークの計画は大抵ソルジャー抜き。それだけにキッパリすっかり忘れていたのに、来ちゃいましたか、そうですか…。



誰も知らない洞窟温泉と聞いたソルジャーの顔は輝いていました。おまけにマツカ君の別荘つき。来なければ損だと思ったらしく、キース君のための慰安旅行を乗っ取る気持ち満々で。
「なんだか凄い温泉だねえ…。ブルー、どうやって見付けたわけ?」
「えっ、それは…。フィシスと行った洞窟温泉も良かったんだけど、あっちは普通の洞窟でさ…。どうせなら鍾乳洞だと良かったのに、と調べまくっても無いんだな、これが」
この国で温泉の湧く鍾乳洞はコレだけらしい、と中継画面を縦穴の入口に切り替える会長さん。
「これじゃお風呂にはならないし…。だけど相手は鍾乳洞だ。奥へ行けば広がる可能性もゼロではないな、とサイオンで先を探っていったら巨大な洞窟風呂に出たんだ」
だけどフィシスと行くのはちょっと…、と会長さんはブツブツと。
「ここじゃ設備が足りなさすぎる。ぼくの女神を連れて行くには湯上り用のシャワー完備でアメニティグッズやタオルなんかも充実している施設でないと…。野趣あふれるのはダメだってば」
「…そんなものかな? ぼくは全く気にしないけど」
ハーレイも連れて来てもいいよね、との言葉にズズーン…と落ち込む私たち。バカップルとの旅のキツさは骨身にしみて沁みまくっています。また来るのか、と泣きたいですけど、もはや手遅れというもので…。
「マツカ、ぼくたちが泊まれる部屋もある?」
「ええ、ご用意させて頂きますよ」
広さは充分ありますから、とマツカ君が答え、私たちが涙目になった時。
「…そうだ、ハーレイも呼んじゃおう!」
会長さんが声を上げました。
「ブルーたちが来てしまうんなら、キースの慰安旅行どころじゃないし…。この際、ハーレイを地獄の道連れってね」
「あんた、正気か!?」
教頭先生と風呂に入る気か、とキース君が突っ込むと、会長さんは。
「それはもちろん。…ただしタダでは入らせないよ? ハーレイには娯楽を提供して貰う。見事に温泉まで辿り着けたら一緒に入浴するってことで」
「「「は?」」」
「ケービングをして貰うのさ。いわゆる洞窟探検ってヤツ!」
まずは立ち入り禁止の柵を乗り越えて入るトコから、とブチ上げられて全員が絶句。ケービングといえば洞窟探検、あの縦穴と底に溜まった温泉を突破するのが一緒に入浴の条件ですか~!



教頭先生を巻き込むと決めた会長さん。その夜、会長さんの家でソルジャーも交えての夕食の席に教頭先生が招かれました。夕食のメニューは味噌ちゃんこ。和気あいあいと鍋を囲んで盛り上がった後、会長さんが徐に…。
「ハーレイ、君を招待した理由なんだけど…。ゴールデンウィークは暇だった?」
「ああ、特に予定は入れていないが…。シャングリラ号も問題は無いし」
「それは良かった。ぼくたちと一緒に温泉旅行に行かないかい?」
マツカの別荘に泊まって洞窟温泉、と切り出された教頭先生は二つ返事で即答でした。毎年、春のお彼岸の慰安旅行に同行なさっていますけれども、あの旅は教頭先生がスポンサー。美味しい思いが出来る代わりにお財布の方は大打撃です。でも今回の旅はマツカ君持ち。
「喜んで参加させて貰おう。…気にかけて貰えるとは嬉しいものだな」
「どういたしまして。ただ、行き先がちょっと変わっていてねえ…」
こんな感じで、と壁に昼間見たのと同じ洞窟の入口がパッと。
「ここを乗り越えないと温泉に辿り着けないんだよ。見てのとおりの縦穴洞窟で、底にはこういう温泉プール。これを潜ってずーっと行った先に、こんな場所がね」
映し出された大洞窟に教頭先生が息を飲んでおられます。
「…これは見事な温泉だな…。瞬間移動で行けるわけだな?」
「ぼくたちはね」
君はケービングを頑張って、と会長さんは見惚れるような笑みを浮かべました。
「タイプ・グリーンのシールド能力はタイプ・ブルーに匹敵する。温泉プールを何十メートルも潜って泳いでも全く問題ない筈だ。それに水泳は得意だろう?」
「ま、待ってくれ! 私に自力で辿り着けと!?」
「そういうこと! 入口の柵も乗り越えるんだよ、縦穴もキッチリ下るんだね。まあ、飛び込んだって結果は同じなんだけど…。温泉プールが深いから怪我の心配は全然無いし」
根性で辿り着くように、と告げられた教頭先生は唖然呆然。そこへ会長さんのダメ押しが。
「それとね、お風呂マナーは守ってよ? 辿り着いた後にかかり湯もせずにドボンは禁止! 湯桶とか石鹸も持参して貰う。防水の袋に入れて持ち込むか、シールドするかは御自由にどうぞ」
「……そ、そこまでしないといけないのか……」
「嫌なら来なくていいんだけれど?」
「いや、行く! お前と風呂に入れるチャンスだ、根性を見せて辿り着く!」
行くぞ、と燃え上がる教頭先生の闘志。…洞窟温泉旅行、どんな展開になるのやら…。



こうして決まったゴールデンウィークのお出掛けまでの間、キース君は毎朝、たった一人で元老寺の境内を掃除し続けました。戒名ダブルブッキングのキツさを嫌というほど思い知らされたみたいです。でも実際につけちゃうよりかはマシだと言えるらしくって。
「お疲れ様、キース。いよいよ慰安旅行だねえ」
よく頑張ったよ、と温泉行きの電車の中で会長さんが労いを。
「若干面子が増えちゃったけど、慰安旅行には違いない。もしもホントに同じ戒名をつけててごらんよ、悲惨だよ? 檀家さんの信用は失せるし、悪い噂は流れるし…。それくらいなら境内の掃除と面子が増えた慰安旅行で我慢ってね」
「…分かっている。昨夜、親父にも散々言われた。旅の間に銀青様に叱って貰えとも言ってたな。だが、叱られる前にこの面子では…」
俺は既に罰を受けている、と呻くキース君の視線の先ではソルジャー夫妻が並んで座って駅弁の食べさせ合いの真っ最中。お箸で「あ~ん♪」だけならともかく、口移しまで…。
「はい、ハーレイ。美味しいよ、これ」
「ありがとうございます。あなたの唇ごと頂きますよ」
「「「………」」」
バカップルめ、と睨み付ける私たちとは真逆の反応が教頭先生。涎の垂れそうな顔でソルジャー夫妻のイチャつきぶりを見ておられます。会長さんがチッと舌打ちをして。
「…ぼくまで罰を受けているような気がするよ。ブルーはアレが基本だけれども、見惚れるハーレイに腹が立つったら!」
「だが、誘ったのはあんただぞ?」
「そりゃそうだけど…。洞窟温泉に辿り着くまでは笑いの代わりに涙が出そうだ」
バカップルを見るとハーレイの妄想が更に爆発するのを忘れていた、と会長さんは悔しそう。教頭先生だけは瞬間移動で現地で合流で良かったかもです。
「マツカに手配して貰った貸し切り車両も妄想バカには勿体ないよ。デッキどころか連結部に放り出したい気分」
でなきゃ満席の自由席だ、と文句たらたらの会長さん。ゴールデンウィークだけに乗車率が高いですから、教頭先生が自由席に行ったら通行の邪魔だと思うんですけど…。
「分かってるってば、だからデッキか連結部! 座席なんて贅沢すぎるんだよ、うん」
ここまでボロカスに言われる教頭先生、洞窟温泉に着いたらどうなるのでしょう? 私たちは瞬間移動で素敵な温泉に移動ですけど、教頭先生はケービングですよね?



洞窟温泉に近いマツカ君の別荘に着くと、執事さんが迎えてくれました。山の別荘に似た二階建の洒落た建物には暖炉を備えた立派なホールやダイニングルーム、ゲストルームも充分に。二泊三日の行程ですから洞窟温泉は明日に行く予定。そして…。
「今日は露天風呂に行かないかい?」
会長さんの提案で別荘から近い温泉施設に出掛けることになりました。なんでも洞窟温泉の縦穴に湧いているのと同じ泉質のお湯なのだそうで、これは気分が盛り上がります。
「行く、行く!」
ジョミー君が賛成し、私たちも。マイクロバスを出して貰って露天風呂だの大浴場だのと満喫する間に、ソルジャー夫妻は貸し切りのお風呂に入ったそうです。帰りの車内では至極ご機嫌、夕食の席でも危ない発言が出まくりで。
「素敵だったよ、あのお風呂! 青の間のバスルームも悪くないけど、広いと気分が違うよね」
「ええ、ブルー…。私も身体を存分に伸ばせますからね」
「君のパワーを活かし放題、存分にヤれるって最高だよ、うん」
明日の洞窟風呂にも期待、と大はしゃぎのソルジャーに会長さんが出したレッドカードは十枚を遙かに超える勢い。しかしソルジャーは退場どころか騒ぐ一方、教頭先生は鼻にティッシュで。
「……あのねえ……」
いい加減にしたまえ、と会長さんの地を這う声が。
「ハーレイにどれだけ鼻血を噴かせりゃ気が済むんだい?」
「えっ? 別にいいじゃないか、鼻血くらいは毎度のことだし」
「明日のケービングに差し障るんだよ!」
貧血で倒れられたらケービングどころではないんだから、と会長さんは怒り心頭。
「ぼくはハーレイに大いに期待してるんだ。水を差さないでくれたまえ!」
「…そうなんだ……。一緒にお風呂に入りたいんだね?」
それならやめる、と猥談もどきにストップが。
「君とハーレイの仲が深まるチャンスを邪魔はしないよ、馬に蹴られて死にたくはないし」
ねえ、ハーレイ? とソルジャーが呼んだ相手はキャプテンの方で、その場で始まる熱いキス。喋りが止んだら次はコレか、と額を押さえる私たちなど目に入らないバカップルはイチャつき三昧です。それはともかく、会長さんの教頭先生への期待って……絶対、お風呂じゃないような気が…。



翌日、朝食を終えた私たちは別荘の広間に集合しました。洞窟温泉を満喫するためのタオルやサンダル、昼食用のランチボックス、他にも荷物が沢山です。執事さんはサイオンを持つお仲間ですから、瞬間移動でお出掛けしても全く問題ありません。その一方で…。
「…ブルー、頑張って辿り着くからな!」
待っていてくれ、と決意表明をする教頭先生の荷物はケービング用のロープの他に湯桶などのお風呂グッズで溢れています。その教頭先生が玄関へ向かわれるのを見送った後で…。
「かみお~ん♪ しゅっぱぁ~つ!」
元気一杯の「そるじゃぁ・ぶるぅ」の号令を合図に会長さんとソルジャー、合わせて三人分のタイプ・ブルーのサイオンが。パアァッと青い光が溢れたかと思うと、そこは広大な鍾乳洞でした。
「「「うわぁ……」」」
広い、と叫んだ声があちこちに木霊する神秘の空間。会長さんたちがサイオンで調整してくれているらしく、青の間みたいに美しく照らし出された鍾乳石や地底湖が。
「えーっと…。お湯の川は見れば分かるよね?」
アレは安全、と会長さん。
「深くもないし、熱くもないよ。…地底湖の方はバラエティ豊かだから気を付けて。殆どはさほど深くないけど、向こうのはちょっとヤバめかも」
縁は浅いけど真ん中が底無し、と教えられて背筋に冷たいものが。
「ぶるぅやぼくなら平気だけどねえ、君たちは入らない方がいい。とはいえ、度胸試しで入って沈んでも救助するから、お好みでどうぞ」
「ふうん? そういうヤツならぼくたち向けかな」
貸し切りにしてもかまわないかい? とソルジャーの赤い瞳がキラキラと。昨日の温泉施設でのことを考え合わせるとロクなことではなさそうですけど、追い払えるならそれも良きかな。会長さんもそう思ったらしく。
「…貸し切るんならシールドしてよ? もちろん音もね」
「分かってる。これだけ声がよく響くんだし、本当はシールドしたくないけど…」
ハーレイとの素敵な時間を確保するために譲歩するよ、とウインクしたソルジャーはキャプテンと連れ立って奥の底無し温泉へと。さて、邪魔者は追っ払いましたし…。
「まずは普通にお風呂かな? 女子がそっちで、男子がこっち」
会長さんが指示し、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「かみお~ん♪ お風呂の用意だね!」
荷物の中から出ました、着替え用のテントや仕切り用の組み立てカーテンやら。スウェナちゃんと私は「そるじゃぁ・ぶるぅ」も一緒に天然の洞窟風呂に浸かって大満足。ジョミー君たちの歓声も聞こえてきますし、男湯も湯加減、最高でしょうね。



お風呂の次は水着に着替えて大きな地底湖で温水プール。途中でソルジャーとキャプテンもやって来ましたが、泳ぐよりは貸し切り風呂でイチャつく方が良かったとみえて間もなく姿を消しました。そんな中、会長さんがニヤリと笑って。
「…ふふ、ハーレイがようやく入口に着いたようだよ」
「「「え?」」」
まだ入口にも着いてなかったんですか、教頭先生? そういえば別荘からの距離、かなり離れてましたっけ…。それに洞窟の入口までは道なき道の急斜面を登らなくてはいけないらしく。
「急斜面というよりアレだね、道に迷ったみたいだねえ? 地図は渡したけど目印も無いし…。これから柵を乗り越えるらしい」
こんな感じで、と現れた中継画面では教頭先生が洞窟の入口を囲んだ鉄柵を乗り越える所でした。立ち入り禁止の看板を無視して入った教頭先生、背中のリュックから縦穴を下りるためのロープを引っ張り出しておられますけど…。
「「「あーーーっ!!!」」」
運が悪いとはこういうことを言うのでしょう。不安定な足場で作業中だった教頭先生、足を滑らせて真っ逆さまに縦穴へ。ドッパーン! と派手な水音が聞こえ、切り替わった画面では真っ暗な洞内の水面で立ち泳ぎする教頭先生が…。
「…お、おい! 救助しないとヤバイだろうが!」
暗いと荷物も見えないぞ、と叫んだキース君に、会長さんは。
「平気だってば、サイオンを使えば見えるだろ? ほら、ちゃんとリュックを開けてるし」
「「「…本当だ…」」」
教頭先生は立ち泳ぎしながらリュックを開けて中から湯桶を出し、そこに石鹸とタオルを入れると頭の上にしっかりと括りつけました。他の荷物はリュックごと手近な岩にロープで結び、やおらシールドを張ると温泉プールへ。
「あのまま潜って来る気だよ。落ちたはずみに開き直ってしまったらしいね、お風呂グッズさえ揃っていれば問題ないと」
辿り着くのも時間の問題、と呆れた口調の会長さん。中継画面の教頭先生は温泉プールから鍾乳洞に繋がる地下水路を力強く泳いでいます。頭の湯桶が間抜けですけど、泳ぐ姿は逞しいかな?



タイプ・グリーンにしてシャングリラ号のキャプテンでもある教頭先生。サイオン能力は流石に高く、真っ暗闇の筈の水路を迷わずに泳ぎ抜け、私たちがいる鍾乳洞へと辿り着きました。
「おーい、ブルー!!」
来たぞ、と遙か向こうで手を振る教頭先生に、会長さんが大きな声で。
「お風呂マナーは守ってよ? そっちに川があるだろう?」
「分かった! まずはかかり湯だったな」
待っていてくれ、と濡れた服を脱いでおられるのが分かります。やがてザバーッと水音が響き、会長さんがクスクスと。
「引っ掛かった、引っ掛かった。素っ裸で身体を洗っているよ」
ぼくとお風呂に入るためには身体を綺麗に磨かないと、と嘲笑っている会長さんは水着姿。スウェナちゃんも私も他の男子も「そるじゃぁ・ぶるぅ」も、只今、水着を着用中です。なにしろ今日のメインイベントは鍾乳洞の温水プール! 泳いだ後にはもう一度お風呂に入るでしょうけど…。
「会長、これからどうするんです?」
教頭先生、裸ですよ? と尋ねたシロエ君に会長さんが「シッ!」と。
「いいかい、女子は肩まで、男子は腰より上までお湯の中に……ね。水着だとハーレイにバレないように」
「「「……???」」」
奇妙な指示ですが、まあいいか…。これじゃ混浴みたいだけれど、と肩まで沈めると、間もなく腰をタオルで隠して湯桶を抱えた教頭先生が大股でズカズカと近付いて来ました。
「待たせたな、ブルー。…おや、ここは混浴だったのか?」
女子もいたのか、と教頭先生は少し頬を赤らめたものの、湯桶を地底湖のプールの傍らに置くと。
「では、失礼して…。ブルー、お前の隣に入っていいな?」
腰タオルを解き、頭に乗せる教頭先生。スウェナちゃんと私の視界にはモザイクがかかり、真っ裸の教頭先生が会長さんの隣に足を浸けた途端。
「痴漢ーーーっ!!!」
会長さんの絶叫が響き、教頭先生は哀れ尻餅を。頭のタオルが落ちて辛うじて股間を隠しましたが、会長さんはギャーギャーと。
「なんでプールに裸で来るのさ、こっちは温水プールだってば!」
「…ぷ、…プール……?」
なんだそれは、と掠れた声の教頭先生に会長さんがザバーッと立ち上がって。
「ほら、水着! 他の子たちも全員水着さ、混浴なんかじゃないんだからね! その格好で入るんだったら向こう側だよ、ブルーの頭が見えるだろ!」
スケベ、エロ教師、と罵倒されまくった教頭先生は大パニックで駆け出してゆき…。



人間、慌てふためくと周りが見えなくなるようです。会長さんが指差したソルジャー夫妻が入っている貸し切り風呂と、私たちの温水プールの間にはカーテンで仕切られた仮設の男湯と女湯の他にも浅い地底湖が幾つかありました。なのに…。
「し、失礼したーーーっ!!!」
出直してくる、と真っ赤になった教頭先生、タオルで前を隠すのも忘れて一目散に貸し切り風呂へと突っ走り…。
「お邪魔させて頂きますーっ!」
ドボン! と飛び込んだ貸し切り風呂でソルジャー夫妻が何をしていたのかは分かりません。なにしろ音声はシールドされていた状態ですし、姿の方も「いる」としか分からない有様。ですから教頭先生が何を見たのか、何を聞いたのか、分かる人は誰もいないのですけど…。
「ブルーーーッ!!」
ソルジャーの会長さんを呼ぶ大きな声が。
「何さ!?」
「邪魔されたんだよ、お風呂男に!!」
なんかタオルだけ浮いているけど、と聞こえてビックリ仰天の私たち。タオルだけって…それじゃ教頭先生は? まさか底無しの地底湖とやらに落ちたのか、とプールから上がって走ってゆくとソルジャー夫妻がお風呂から頭だけを出しています。
「……困りましたね、ブルー…」
「だよねえ、これじゃ出られもしないや…」
いい所だったのに邪魔をされるし、このまま出たらレッドカードだし…、と文句を垂れるソルジャーに会長さんが。
「服ならサイオンで着られるだろう! それよりハーレイはどうなったのさ!」
「…ん? それがねえ……」
その辺もあって出られなくって、とソルジャーの笑みがニンマリと。
「凄い勢いで飛び込んで来て、足を滑らせてドッパーン! とね。でもって深みにはまる途中で、運よく見ちゃったものだから…」
「何処まで見られていたのでしょうねえ…?」
私はあなたに夢中でしたし、とキャプテンがソルジャーの頬にキスをしています。えーっと、それってつまり、教頭先生は大人の時間なソルジャー夫妻を目撃したと?
「多分ね」
それでもって今も期待に満ちたまま潜水中、と片目を瞑ってみせるソルジャーの言葉に、会長さんの怒りが炸裂。
「ハーレイのスケベーッ!!!」
ザッパーン!!! と噴き上がった水飛沫ならぬお湯飛沫。底無し地底湖でもタイプ・ブルーのサイオンが炸裂した時は思い切り逆流するようです…。



「…で? 何処が潜水中なんだって?」
腰にタオルを掛けられた姿で仰向けに横たわる教頭先生は完全に気絶していました。会長さん曰く、教頭先生の記憶はソルジャー夫妻の貸し切り風呂に飛び込んで以降は真っ白だそうで、探ろうにも中身が無いらしく。
「ぼくが思うに、君たちの姿で思考回路はショートだね。そのまま鼻血コースに走る代わりに底無し池にドボンしちゃったみたいだけれど?」
君たちを観察する余裕なんかは無かった筈だ、と会長さんがツンケンと言えば、ソルジャーは。
「…そうかなぁ? 君のサイオン大爆発のショックで記憶を手放しちゃっただけだと思うよ、持ってたらヤバイ記憶だからねえ…。なにしろぼくとハーレイが」
「その先、禁止!」
余計なことを口にするな、と睨まれたソルジャーの姿は今も貸し切り風呂の中。サイオン大逆流の最中もシールドを張ってキャプテンと共に持ち堪えただけに、出る気は全く無いらしく。
「…どうでもいいけど、こっちのハーレイを連れて向こうへ行ってくれないかな? ぼくたちは邪魔をされたんだからね」
仕切り直しでヤリまくるしか、とキャプテンを引き寄せ、たちまち始まるディープキス。うーん、教頭先生、やっぱり何かを見ちゃったのでしょうか…。
「どうだろう? 沈んだだけならマシなんだけどねえ、絶対に何も見ていないという保証も無いかな、ハーレイの場合」
そこが困ったトコなんだ、と会長さんは深い溜息。
「記憶も飛ぶほどの何かを見たって可能性もゼロではないんだよ。ついでにブルーの心はぼくにも全く読めないし…。もしも本当に潜水しながらブルーたちを観察していたんなら…」
もしもそうなら許せない、と拳を握った会長さんの瞳に激しい怒りの色が。
「疑わしきは罰せよ、だっけね。気絶したまま置いていく! 自力で洞窟、決死の脱出!」
「「「えぇぇっ!?」」」
疑わしきは罰せずでは、という私たちの主張は会長さんに却下されました。
「いいかい、戒名のダブルブッキングと同じで許されないことはあるものだよ。疑わしい戒名は決してつけない姿勢が大切、つけた場合は厳罰ってね。…旅行の切っ掛けが戒名ダブルブッキングなんだし、ぼくもハーレイを許す気は無いさ」
帰る時間までに目覚めなかったら置いて帰ろう、と会長さんは温水プールへスタスタと。ソルジャー夫妻は貸し切り風呂でイチャついてますし、教頭先生、決死の脱出コースでしょうか? そうならないよう、プールで時間を稼ぎますから、なんとか目覚めて下さいね~!




         お風呂な洞窟・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 お風呂な洞窟、実は存在するのです。本当に鉄柵で囲まれた穴の中から湯気がフワフワ。
 ただし、奥がどうなっているかは謎です、まだ探検した人がいないのでした…。
 来月はアニテラでのソルジャー・ブルーの祥月命日、7月28日が来ます。
 毎年恒例、7月は 「第1&第3月曜」 の月2更新でございます。
 次回は 「第1月曜」 7月6日の更新となります、よろしくです~!

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 こちらでの場外編、6月はソルジャーがスッポンタケを養子にするべく奮闘中…?
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