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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(すっかり止んで良かったよね)
 通り雨、とブルーが眺める窓の外。学校からの帰りに、いつもの路線バスの中から。
 午後の授業の時間に、いきなり降って来た雨。晴れていた空が急に曇ったかと思うと、突然に。
 最初はパラパラ、それから本降り。叩き付けるように激しく降ったのだけれど…。
 帰る時間までには止んで、今ではすっかり青い空。雨など降ってはいなかったように。
(でも、降った証拠…)
 バスの窓には、ちょっぴり水滴。このバスはきっと、雨の間も何処かを走っていたのだろう。
 雨が降り続けている間だったら、雨粒は窓を流れるけれど。バスが走れば後ろの方へと、ガラス伝いに走るのだけれど…。
 雨の名残の水の雫は、もう動かない。窓に貼り付いて微かに揺れているだけ。
(その内に乾いて消えちゃうんだよ)
 太陽の光と、雨上がりの空気に吸い取られて。「空へお帰り」と連れてゆかれて。
 雫が全部消えてしまったら、バスの窓だって元通り。ちょっぴりの埃がガラスに残って、雨粒の形を教えてくれるかもしれないけれど。
(…ぼくが乗ってる間は無理そう…)
 ほんの少ししか乗らないから、と思う間に着いたバス停。家の近くの。
 バスから降りて歩く途中に、道に見付けた水溜まり。道路は平らなように見えても、沢山の車がへこみを作ってゆくもの。普段は全く分からないけれど、雨が降ったらよく分かる。
(こうやって水が溜まるから…)
 雨が降った証拠、と水溜まりの中を覗き込んだら青い空。
 何の気なしに見たのだけれども、水溜まりの中は舗装されている道路ではなくて…。
(映ってる…)
 地球の空が、と仰いだ遥か頭の上。今は青空、ぽっかりと白い雲が幾つか。
 それがそっくり映っていた。水溜まりが鏡になったみたいに。



 地面にも地球の空があるよ、と気付いたら、とても素敵な気分。
 前の自分が焦がれた地球。青い水の星にいつか行こうと、行きたいと願い続けていた。
 遠く遥かな時の彼方で、地球を夢見たソルジャー・ブルー。けれど、叶わなかった夢。
(…行く前に死んでしまったから…)
 夢の星のままで終わった地球。あの頃の地球は死の星だったと、知りもしないで。青い水の星が何処かにあると信じたままで。
(今はホントに青い地球だよ)
 それに自分は地球まで来た。新しい命と身体を貰って、蘇った青い地球の上に。
 水溜まりの中にも、その地球の空。頭の上にも、地面の上にも、「此処は地球だ」と空がある。青く澄み切って、白い雲まで浮かべた空が。
(水溜まり…)
 もっと無いかな、と嬉しくなった水溜まりの中に映る空。地面に散らばる青空の欠片。
 それが見たくて、もっと見付けたくて、水溜まりを探しながら歩いた道。あそこにもあるよ、と道を渡ったり、「次はあっち」と急いだり。
 生垣に囲まれた家に着いても、探したくなる水溜まり。門扉を開けて入ったけれども…。
(…庭は無理かな?)
 芝生の上には、見付けられない水溜まり。芝生は水はけがいいものだから、窪んでいたって水は溜まらない。直ぐに吸い込まれて消えてしまって。
(うーん…)
 こっちはどうかな、と見に行った庭で一番大きな木の下。
 其処に置かれた白いテーブルと椅子に、雨の名残がくっついていた。庭の景色が主だけれども、よく見れば青い空の欠片も映った水滴。
(殆ど庭の景色なんだけど…)
 よし、と眺めた幾つもの水の雫たち。
 地球の空の欠片が地面の上にも一杯だよ、と。ぼくの家の庭の中にもあるよ、と。



 家に入って、制服を脱いで。ダイニングでおやつを食べる間にも眺めた外。
 ダイニングの大きなガラス窓の向こう、青空と、たまに木の枝などから落ちる水滴。急に降った雨が庭に残した、水の粒がポタリと落ちてゆく。家の軒やら、木の葉先から滴って。
 あの水たちも、やがて庭から消える。太陽の光と風が空へと連れ戻すから。
 そうでなければ地面に吸われて、土の下へと潜り込んで。
(…さっき見た道路の水溜まりも…)
 白いテーブルと椅子についた雫も、その内に消えてゆくのだろう。
 水溜まりや雫が消えていったら、空たちも消える。今は地面に落ちている欠片、水溜まりや雫に映った地球の空たちは。
(…空の欠片が地面に一杯…)
 いずれ空へと帰るのだけれど、なんとも心が弾む光景。
 空を仰げば本物の空で、地面の上には空の欠片たち。それも本物の地球の空。
(…こんな体験、地球でないとね?)
 出来っこないよ、と外を見ながら食べていたおやつ。「ぼくが地球まで来たからだよ」と。
 おやつを食べ終えて部屋に帰っても、窓から外を覗いてみる。
(此処から見たって…)
 空は映っていないんだけど、と濡れた木々の枝を見れば、やっぱり雫。
 もっと近くに寄ってみたなら、あの雫にも空があるのだろう。ポタリと滴り落ちる前にも、下へ向かって落ちる時にも。
 まあるい水の鏡になって、空を映しているだろう雫。
 空から降って来た雨の粒たちは、空の欠片を連れて来る。まるで空からの贈り物のよう。
 「地面の上にも空をどうぞ」と、「好きなだけ眺めて下さいね」と。



 ホントに地球でなきゃ見られない景色、と考える。地球の空からのプレゼント。
 雨が降ったら、地面にも空。水溜まりの中を覗き込んだら、水の雫たちを覗いてみたら。
(…前のぼくだと…)
 前の自分が見ていた雨。白いシャングリラが長く潜んだ雲海の星、アルテメシア。
 あの星にも雨は降ったけれども、其処で水溜まりに空が映っても…。
(アルテメシアの空なんだよ)
 地面に落ちた空の欠片は、アルテメシアの空でしかない。前の自分が焦がれ続けた、青い地球の空とは違ったもの。同じ空でも、天と地ほどに違う空。
 だから、しみじみ覗いてもいない。地面の上に空を見付けても。雨上がりだったアルテメシアに降りても、水溜まりに空が映っていても。
(地球に行っても、こんな風かな、って…)
 思った程度で、感激などはしなかった。
 地面に落ちた空の欠片が幾つあっても。「映ってるな」と気付いた時も。
 アルテメシアでさえ、そういった具合だったから。水溜まりを探して歩きはしないし、あちこち覗き込んだりもしない。「此処にも空があるだろうか」と、水溜まりや水の雫の中を。
 曲がりなりにも雨が降っていたアルテメシア。
 テラフォーミングされた星でも、雨は空から降ってくるもの。
 けれど…。
(シャングリラだと…)
 空の欠片を見付けるどころか、雨さえ降らなかった船。
 いくらシャングリラが巨大な船でも、所詮は閉ざされた小さな世界。空も地面も何も無かった。船の周りに雲はあっても、雲海の中を飛ぶ船でも。



 雨が無かったシャングリラ。踏みしめる地面も持たずに生きていたミュウたち。
 白いシャングリラはそういう船だし、雨が降らないから水溜まりなんて、と思ったけれど。あの船の中に小さな空の欠片たちが、落ちていた筈もないのだけれど…。
(公園…)
 不意に頭を掠めた記憶。シャングリラが誇った広い公園、ブリッジが浮かんでいた公園。
 一面の芝生だったけれども、そうでない場所も幾つかあった。芝生の下の土が見えている場所。散歩道やら、子供が遊ぶための場所やら、土と触れ合うための場所。地面の代わり。
 そういった場所に、たまに水溜まりが出来ていた。
(今日の帰りの道路みたいに…)
 自然に窪んでしまった所。通る仲間や、遊ぶ子供の足に踏まれて低くなった部分。
 水溜まりは其処に姿を現わし、子供たちがはしゃいだりもしていた。歓声を上げて、小さな足で踏んで回っていた水溜まり。
 水溜まりの中で遊んでいたなら、靴が汚れてしまうのに。バシャバシャと踏んで走り回ったら、土を含んだ水が飛び散って、服まで汚れてしまうのに。
(子供たち、遊んでいたんだっけ…)
 公園にあった水溜まりで、と懐かしく蘇って来た光景。それは賑やかに、水溜まりと戯れていた子供たち。広い公園にそれが出来たら、地面を模した土の上に水があったなら。
 そうだった、と思うけれども、その水溜まり。子供たちの足が跳ね上げた水。土が混じっていた筈なのだし、靴も、子供たちの服も台無し。
 せっかく係が洗ったのに。毎日、綺麗な服を着られるよう、心を配っていた係。
 子供たちの靴も、養育部門の者たちがせっせと磨いていた。小さな子供は靴の手入れどころか、下手をすれば裸足で走りかねないほどだから。
(…非効率的…)
 昼間に散水するなんて、と水溜まりのことを考えた。
 あの公園に出来た水溜まりは、散水で出来たものだから。芝生や木たちに水をやろうと、公園に備えられた散水用のシステム。それが撒いた水で水溜まりが出来て、遊んでいたのが子供たち。
 夜の間に済ませておいたら、水溜まりは朝までに消えるのに。
 そうしておいたら、子供たちの服や靴などが、泥で汚れはしないのに。



 非効率的だとしか思えないのが、あの水溜まり。
 子供たちの服を洗う係や、靴を磨いていた仲間たち。彼らの手間を増やした悪者、それが公園の水溜まり。もしも水溜まりが無かったならば、子供たちは其処で遊ばないのに。
(…なんで昼間にやってたわけ?)
 あの水撒きを。
 遊ぶのが好きな小さな子たちは、ヒルマンが止めても聞くわけがない。水溜まりがあったら遊び始めるし、服も、靴だって泥だらけ。
 そうなることが見えているのに、昼間に公園に撒かれた水。窪みに溜まってしまう水。
 しかも、毎日ではなかった昼間の散水。毎日だったら、公園の木々には欠かせないものだと思うけれども、水溜まりが出来ていたのは毎日ではない。夜の間に散水した日もあったのだろう。
(非効率的だって分かっていたから、夜だよね?)
 夜の方が何かと便利な筈だ、と今の自分にも分かること。公園は皆の憩いの場だから、来た時に水を撒かれたならば…。
(公園から逃げるか、東屋に入ってやり過ごすか…)
 そのどちらかしか無かった筈。雨が降らないシャングリラには、雨傘などは無かったから。
 シールドで水を防ぐにしたって、それでは水は防げても…。
(公園に来た意味が無いよね?)
 一息つこう、と来たのだろうに、いきなり上から降り注ぐ水。のんびり過ごそうと選んだ公園、其処で張らねばならないシールド。
(それじゃサイオンの訓練だってば…!)
 シールドが嫌なら公園を出るか、東屋に飛び込んで雨宿りならぬ散水よけ。今日はこれだけ、と撒かれる水が止まるまで。…もう水の粒は落ちて来ない、と分かるまで。
(迷惑すぎるよ…)
 非効率的な上に、うんと迷惑、と考えてしまう昼間の散水。
 子供たちの服や靴は泥にまみれて、大人たちは憩いの場所が台無し。それに憩いの時間だって。



 なんとも解せない、昼間にやっていた散水。公園に出来ていた水溜まり。
 何故、あんなことをしたのだろう、と首を傾げていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、シャングリラの公園…。ブリッジが見えた、一番広い公園だけど…」
 なんで昼間に水撒きしてたの、あそこって?
「はあ? 水撒きって…?」
 なんの話だ、とハーレイは怪訝そうな顔。「あそこの水撒きがどうかしたのか?」と。
「そのままだってば、水撒きをする話だよ。…その時間のこと」
 たまにやってたでしょ、昼間に水撒き。いつもは昼間じゃなかったのに。
 昼間にやるから、あちこちに水溜まりが出来ちゃって…。其処で子供たちが遊んでいたよ。
 水溜まりの中に足を突っ込んだり、踏んづけて走り回ったり。
 子供たちが着ていた服も、靴だって、水溜まりで遊ぶと泥だらけ…。
 そうなっちゃうのに決まっているから、水を撒くのは夜の間にしておけばいいのに…。
 でなきゃ、子供は公園に立ち入り禁止だとか。…水溜まりがちゃんと消えるまで。
 どうしても昼間に撒くんだったら、その方がずっと良さそうだよ。
 公園に来た大人も、いきなり水が撒かれちゃったら困っちゃうでしょ…?
 昼間に撒くのは非効率的だよ、と述べてみた今の自分の意見。それなのに何故、と時の彼方ではキャプテンだった恋人に訊いてみたのだけれど…。
「おいおいおい…。忘れちまったのか?」
 昼間には意味があったんだぞ、とハーレイは目を丸くした。「なんてこった」と。そして続けてこうも言われた。「そもそも、お前が原因なんだが?」と。
「原因って…。ぼくが?」
 前のぼくなの、昼間に公園で水撒きしていた理由って…?
 どうして、と今度はこちらが驚く番。前の自分は、いったい何をしたのだろう?
「本当に忘れちまったのか…。仕方ないヤツだな、お前が自分で言い出したくせに」
 前のお前が言ったんだぞ。雨も降らない船なんて、とな。
「あ…!」
 ホントだ、前のぼくだった…。雨が降らない、って言ったんだっけ…。



 思い出した、と戻って来た記憶。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃。
 シャングリラは白い鯨に改造されて、アルテメシアの雲海の中を居場所に決めた。人類が住んでいる星だったら、いざという時に頼りにもなる。物資の調達が容易だから。
 消えない雲海と船そのものを隠すステルス・デバイス、それさえあれば安心な船。
 白いシャングリラは名前通りにミュウの楽園、白い鯨の形の箱舟。
 船の中だけが世界の全てだけれども、自給自足で生きてゆけるし、何も不自由はしなかった。
(公園だって、船に幾つも…)
 ブリッジが見える広い公園と、居住区に鏤められた公園。
 どの公園にも人工の風が吹いたものだし、水撒きは何処も夜の間に。昼間に撒くと、仲間たちの憩いの場所が駄目になる。ベンチも何もかも濡れてしまうし、居合わせた仲間も濡れるから。
 そういう風に決めたプログラム。散水は人がいない夜間に、自動で。
 けれども、前の自分がアルテメシアに降り立った時に…。
(水溜まり…)
 雨上がりに降りた、郊外の野原。其処に水溜まりがあった。たまたま土が窪んでいて。
 その水溜まりに映った空に気付いて、覗き込んだ。「こんな所に空がある」と。
 空を映していた水溜まり。まるで自然の鏡のように。
 いつか行きたい地球の空もきっと、こういう風に映るのだろう。雨が降ったら。
(シャングリラには、空なんか無かったから…)
 考えたこともなかった景色。水さえあったら、空が地面に映るだなんて。
 シャングリラには無いのが空。何処も天井が見えるだけ。せいぜい、公園の天窓くらい。船では一番広い公園、その上に窓はあるけれど…。
(…いつも雲の中で、空なんか…)
 見えはしないし、その上、肝心の水溜まり。それさえも船では目にしない。
 どの公園も夜の間に散水するから、朝には消えてしまっている水。その雫さえも残さずに。
(船の外なら、空から雨が降って来て…)
 こういう水溜まりも出来る。自然に出来た窪みに溜まって、空を映している水溜まり。
 シャングリラの中には無い空を。…青く晴れ渡った、雨上がりの空を。



 地球でもきっとこう見えるだろう、と暫く見ていた水の中の空。地面の上に映し出された空。
 テラフォーミングで人が住めるようになった星でも、水溜まりを覗けば空がある。地球の空とは違っていたって、空は空。
 なのに、シャングリラは水溜まりさえも出来ない船。
 空が無いどころか、その空を映す水溜まりの一つも無いのが今のシャングリラ。
(これじゃ駄目だ、って…)
 そう思ったから、招集した会議。キャプテンと、長老の四人を集めて提案した。シャングリラの公園に雨を降らせることは無理だろうか、と。
「本物の雨が無理だというのは分かっている。…だが、似せることは出来るだろう?」
 今の公園の散水システム、あれを改造してやれば。…雨そっくりに水を撒けるような形に。
「出来ないことはないだろうがね…」
 今の設備が無駄になる、とヒルマンが答えた。「それに非効率的でもあるね」と。
 少ない水でも木々に充分に行き渡るよう、出来ているのが今のシステム。それの代わりに、ただザーザーと降らせるだけでは、水だって無駄になるのだから、と。
「でも…。今は水溜まりも無い船なんだよ、シャングリラは」
「水溜まり…?」
 それはいったい、と誰もが不思議そうな顔をしたけれど、「水溜まりだよ」と繰り返した。
「アルテメシアで水溜まりを見たんだ。その中に空が映っていたよ」
 雨上がりの青く晴れた空がね。あれが自然な景色なんだよ、水溜まりも無い船と違って。
「この船に自然は無いんじゃがな?」
 空も無いわい、とゼルが呆れた風に鼻を鳴らしたけれども、諦めずに続けようとした説得。
「自然は無くても、真似られるよ。公園に雨を降らせたら」
「それを言うなら、雨とセットで雪も降らせようって言うのかい?」
 そこまでやるなら賛成だけどね、と笑ったのがブラウ。
 「雪が降ったら楽しいけれども、そんな余裕は無い船だよ」とも。
 いくらこの船が楽園の名前を持っていたって、雪を降らせる余裕までは…、と。



 ブラウにも笑い飛ばされた雨。しかも「雪まで降らせたいのか」と。
 雪は考えてもいなかったけれど、魅力的な言葉ではあった。アルテメシアには雪も降るから。
「…雪…。雨が出来るのなら、雪だって…」
 降らせられそうな気がするよ。人工の雪があると聞くから、冬になったら…。
 雪も降らせてはどうだろう、と更に推し進めた話。シャングリラの公園に雨と雪を、と。
 けして不可能ではなさそうだから。検討する価値はありそうなように思えたから。
 けれど、ヒルマンは賛成してはくれなかった。
「雪を降らせることは可能だ。雨と同じで、システムを作り替えさえすれば」
 ただ、問題がありすぎる。この船は確かに楽園だがね…。
 そうした部分にエネルギーを割くより、もっと有効に利用しないと。船の中が全てなのだから。
「…駄目かな?」
 雪はともかく、雨の方も…?
 公園に降らせられたらいいのに、と言い募っても、ゼルにまで「駄目じゃ!」と否定された。
「余計なエネルギーは回せん、たかが水撒きの話じゃからな」
 第一、システムの改造だけでも手間暇がかかる。今のシステムで充分なんじゃ!
 さっきブラウも余裕が無いと言ったじゃろうが、と水を向けられたブラウは頷いたけれど。
「でもねえ…。ソルジャーの案にも一理あるねえ、雨が降らないのは本当だから」
 そうは言っても、雨を降らせる余裕は無いし…。もちろん雪もね。
 だからさ、昼間に水撒きするっていうのはどうだい?
 今は夜中にやっているのを、昼間に変えれば公園はずぶ濡れになるわけだろう?
 そうすりゃ水溜まりも出来るだろうさ、とブラウが出した代替案。
 雨とはかなり違うけれども、散水すれば木々は濡れるし、きっと水溜まりも出来る筈。今よりは自然に近付くだろう、と。気分だけでも雨が降った後を味わえるのでは、と。
「そうか、その手があったんだ…。昼の間に水を撒いたら、水溜まりも…」
 ブラウの案がいいと思うよ、ぼくは。…この方法でも駄目かい、ヒルマン?
 散水システムを使う時間を変えるだけだし、非効率的でもないと思うんだけどね…?



 その方法でやってみたい、とヒルマンの顔を窺った。
 本物の雨が駄目だと言うなら、せめて水に濡れた公園だけでも、と考えたから。散水システムで水を撒いても、水溜まりは出来るだろうから。
「夜の間に水を撒くのは、みんなの都合を考えてだけのことだろう?」
 濡れた公園より、快適に過ごせる公園の方がいいからね。
 でも、それだけでは駄目なんだ。…雨も降らない船のままでは、やっぱり駄目だよ。
 昼の間に水撒きしたなら、水溜まりが出来て、気分だけでも…。
 雨が降ったように見える筈だ、と畳み掛けたら、ヒルマンの顔に浮かんだ笑み。
「反対する理由は全く無いね。…エネルギーの無駄にならないのなら」
 それに子供たちにも、雨上がりの景色を見せてやれるよ。紛い物だがね。
 所詮は公園の中だけなのだし、水の降らせ方も本物の雨とは違うのだから。
「それでもいいよ。水溜まりも出来ない船よりは」
 雨は無理でも、水溜まりが出来れば充分だ。…その上に空は映らなくても。
 昼の間に水を撒こう、と乗り出した膝。「その方法があったじゃないか」と。
「ですが、ソルジャー…。毎日というのは、私は賛成しかねます」
 今の散水方法は色々と検討した結果なのですから、とエラが口を挟んだ。効率よく水やりをしてやるのならば、仲間たちの都合を考えて夜。昼間の散水はたまにでいい、と。
「それもそうだね…。公園が濡れていたら、困る仲間もいそうだし…」
 月に一回くらいだろうか、今までは全く無かったことを思ったら。
 好評だったら、様子を見ながら徐々に回数を増やしていけば…。
「そんな所じゃろうな、皆も慣れてはおらんから」
 濡れた公園も気に入った、という声が上がってからでいいじゃろ、増やすのは。
 最初は月に一回じゃな、と髭を引っ張ったゼル。
 「皆が慣れたら、自然を真似ればいいじゃろう」と。
「では、散水を昼間に実施してみる、ということでよろしいですか?」
 キャプテンとしても、反対は全くございません、とハーレイが纏めにかかった会議。
 雨を真似るシステムを作る代わりに、昼間に散水。最初は月に一回程度で実施してゆく、と。



 そして行われた昼間の散水。あらかじめ皆に予告した上で、時間通りに水が撒かれた。船で一番大きな公園、ブリッジが端に浮かんでいる公園で。
 雨の降り方とは違ったけれども、木々も芝生もしっとりと水を含んだ散水。枝や葉先から落ちる水滴、土が見える場所には水溜まり。東屋にもベンチにも、散歩道にも降り注いだ水。
 集まっていた船の誰もが、濡れた景色を楽しんだ。「本物の雨が降ったようだ」と。
 ヒルマンが連れて来た子供たちだって、走り回って喜んだ。水溜まりを踏んではしゃぐ他にも、木々から滴る水に当たっては「冷たい!」だの、「頭が濡れちゃった」だのと。
(みんな、とっても大喜びで…)
 最初は月に一度の予定が、早々に二度目をやることになった。二度目をやったら、次は三度目。
 すっかり公園に定着したら、「他の公園でもやって欲しい」という声が出て…。
「昼間の散水、いろんな公園でやったっけね」
 みんなが濡れた景色に慣れたら、それが当たり前になっちゃったから。
 昼間はいつも乾いてるなんてつまらない、ってことで他の公園でも昼間に水撒き。
「うむ。一斉にやらずに、日をずらしてな」
 少しでも多く楽しめる方がいいだろう、と実施する公園を俺が中心になって決めてたんだが…。
 面白いもんだな、人間ってヤツは。
 暫くの間はそれで良かったが、どうせやるならランダムに、っていう声が増えて来てだな…。
 予告も要らん、と言うもんだから、お望み通りにしてやった。
 もう文字通りに予告無しで、とハーレイは懐かしそうな顔。
 月一回で始めた筈の昼間の散水、それは全部の公園が対象になって、ついには全く予告無し。
 散水時間を決めるプログラムもランダムになったものだから、うっかり公園に入っていると…。
「いきなり水撒きが始まっちゃって、びしょ濡れになる仲間、いたっけね」
 シールドで防ぐ暇もなくって、頭から水を被っちゃって。
 其処でシールドすればいいのに、一度濡れたら、もうそれっきり。降って来ちゃった、って。
「いたなあ、そういうヤツらもな」
 子供たちだって、ヒルマンもろとも濡れてたが…。
 「早く入りなさい!」と、ヒルマンが東屋に走り込ませたモンだったが…。



 しかし、そいつが大人気だった、とハーレイが顔を綻ばせる。「愉快だったな」と。
「俺はブリッジからよく見てたんだが、大人も子供も大はしゃぎだ」
 こういうモンだ、と慣れちまってからも、プログラムはランダムのままだったから…。
 やっぱり慌てて走って行くんだ、いきなり降られた仲間がな。
 正確に言えば、雨じゃないんだから、水を撒かれたわけなんだが…。
「忘れちゃってたよ、あのイベント…」
 子供たちは喜んで遊んでたのにね、水溜まりで。…公園に水が撒かれた時は。
「俺もすっかり忘れていたなあ、お前が話を持ち出すまでは」
 昼間の水撒きで直ぐに思い出したが、それはキャプテンだったからなんだろう。定着するまでに色々考えたりもしたから、そのせいで覚えていたってわけだ。前の俺の記憶の中できちんと。
 とはいえ、アルテメシアを離れた後には、もう無かったしな…。
 ジョミーを迎えた時の騒ぎで、既に無くなっちまっていたが…。爆撃であちこち壊れたから。
 ナスカに着いて本物の雨に感動してたが、その雨を見るまでに十二年だ。
 それだけの間、ずっと宇宙を放浪していて、人類軍に発見されては追われてたしな…。
 昼間にやってた水撒きのことも、水溜まりも忘れちまっていたさ。
 ナスカに着いた時にはとっくに、俺はそのことを忘れてた。
 前のお前が「雨を降らせたい」と言っていたことも、水溜まりを作りたいと言い出したことも。
 雨上がりの虹なら、せっせと追い掛けていたんだがなあ…。
 虹の橋のたもとには、宝物が埋まっていると聞いたからな、と話すハーレイ。その宝物は、深い眠りに就いてしまったソルジャー・ブルーの魂だった、と前にハーレイから聞いている。
「じゃあ、ナスカでは水溜まりの中を覗いていないの?」
 ラベンダー色だったっていうナスカの空が地面にあるのは、見ていないわけ…?
「水溜まりに映っていた空か? そりゃ、気付いてはいたんだろうが…」
 俺の足元にあるわけなんだし、目に入ってはいただろう。
 しかし、感慨深くは見てないな。前のお前が思ったように、「空がある」と感激しちゃいない。
 お前の魂を探しに行くには、水溜まりは余計なものだったんだ。
 虹を追い掛けて歩くんだからな、水溜まりがあったら邪魔だろうが。



 靴は汚れるし、足は滑るし…、というのが前のハーレイが感じたこと。
 赤いナスカで虹がかかる度、ハーレイは虹を追っていた。虹の橋のたもとに辿り着いたら、手に入るという宝物。橋のたもとを掘り起こして。
 宝物を見付けたら、眠り続けるソルジャー・ブルーの魂、それが目覚めてくれるのかも、と。
「俺の目当ては虹だったんだし、消えちまう前に追い掛けないと…」
 結局、一度も辿り着けないままだったがな。…なにしろ、相手は虹なんだから。
 虹を追い掛けて歩く間は、水溜まりは俺の邪魔をするもので…。
 虹の橋まで辿り着けなくて帰る時には、俺はガッカリしてたから…。
 水溜まりをわざわざ覗きはしないし、跨ぐか、避けて通るかだよな。…俺の前にあったら。
 だから知らん、と言われたナスカの水溜まりの空。
 きっとあっただろう、ラベンダー色をした空の欠片たち。雨上がりの赤いナスカの地面に。
「そうだよね…。前のハーレイ、水溜まりどころじゃなかったよね…」
 ぼくがちっとも目覚めないから、虹を追い掛けて宝物探し。…前のぼくの魂。
 そっちに必死になっていたなら、水溜まりの中まで楽しめないよね。水溜まりに映ったナスカの空に見惚れているより、避ける方。…その水溜まりを。
 ごめんね、眠っちゃっていて…。
 ずっとハーレイのことを放りっ放しで、十五年間も眠っちゃっていたなんて…。
「かまわんさ。…お前は生きててくれたんだから」
 眠ったままでも、目覚めなくても、お前が生きていてくれただけで充分だった。
 青の間に行けばお前がいたしな、深く眠っていただけで。
 このまま地球まで行けそうだよな、と夢を見たこともあったんだ。…眠ったままでも。
 もしも地球まで辿り着けたら、どうやってお前を起こしたもんか、って考えたりもな。
 「ほら、着いたぞ」って起こしてやらんと駄目だから。
 俺は幸せな夢を見てたし、それでいい。水溜まりに映る空なんかよりも、幸せな夢。
 お前と一緒に地球に着いたら、という夢をまた見られたからな。



 ところで…、とハーレイに向けられた視線。
 ハーレイの話が話だっただけに、メギドへ飛んでしまったことかと思ったけれど。あんなに虹を追い掛けたのに、無駄骨だったと言われるのかと、内心ギクリとしたのだけれど。
「…お前、どうして水撒きの話になったんだ?」
 シャングリラの昼間の水撒きのこと、とハーレイはまるで違う方へと話を向けた。そういう話になった理由は、今日の午後に降ってた通り雨か、と。
 それもハーレイの優しさだと分かる。前のハーレイの深い悲しみを、あえて口にはしないこと。
 だから自分も、それに応えることにした。ナスカで起こった悲劇は無かったかのように。
「…ううん、降ってた雨じゃなくって、帰り道に見付けた水溜まり」
 バス停から家まで歩く途中で見付けたんだよ、道路にあった水溜まりをね。
 それで覗いたら、水溜まりの中に頭の上の空が映ってて…。
 この空は地球の空だよね、って水溜まりを覗き込んじゃった。地面にも地球の空が一杯。
 水溜まりがあったら空が映るし、小さな水の雫にだって。
 こういう景色は地球だから見られるんだよね、って考えていたら思い出したんだよ。子供たちがよく遊んだりしてた、シャングリラの公園の水溜まりのことを。
 それで水溜まりが出来た原因の方に頭が行っちゃった、とハーレイにきちんと説明したら。
「なるほどな…。地面にも地球の空が一杯だったか、水溜まりに映るもんだから」
 そりゃ良かったなあ、嬉しかっただろう?
 頭の上には地球の空があって、足の下にも地球の空が幾つもあるわけだしな。
「そうだよ、空の欠片が一杯。感動しちゃった」
 水溜まりを端から覗きながら帰って、家の庭でも見ていたよ。…水溜まりは無かったんだけど。
 ぼくの家の庭、芝生だから…。水はけが良すぎて、水溜まりは無し。
 だからね、水の雫を覗いたわけ。
 庭でハーレイと使うテーブルと椅子に、水の雫が幾つもあって…。
 それを覗いたら、庭の景色と一緒に空も映ってた。小さいけど、ちゃんと地球の空がね。



 次はハーレイと一緒に覗きたいな、と持ちかけた。
 水の雫を覗くだけなら、家の庭でも出来るから。雨上がりなら、いつでも出来ることだから。
「いいでしょ、庭に出て覗こうよ」
 雨が止んでから直ぐの時なら、水溜まりだって何処かにありそう。花壇とかに。
 覗いたら地球の空が見えるよ、ハーレイと一緒に見てみたいな。地面に落ちてる空の欠片を。
 この次に雨が降った時に…、と頼んだら。
「水溜まりもいいが、もっとデカいスケールでいこうじゃないか」
 せっかく地球の空が映るのを見るんだからなあ、どうせだったら逆さ富士とか。
 そういうのをな、と言われたけれども、掴めない意味。
「逆さ富士?」
 それって何なの、どんなものなの?
 水溜まりよりも大きいってことは分かるけれども、逆さ富士なんて知らないよ…?
「知らんだろうなあ、今は無いから。…富士山って山は知っているだろ?」
 昔の日本で一番高くて、綺麗だと言われていた山だ。
 その富士山は、今は何処にも無いがだな…。まだ富士山があった頃に、だ…。
 人気だったのが逆さ富士だ、とハーレイが教えてくれたこと。
 富士山の麓にあった湖、其処に逆さに映る富士山。その風景が逆さ富士。
 それが美しかったというから、見に出掛けようという話。富士山はもう無いのだけれども、他の湖や山があるから。湖に映る姿が美しい山は、今の時代もあちこちに。
 そういう湖がハーレイのお勧め。地球の空も景色もそっくりそのまま、映し出す湖面。
「いいね、大きな水溜まりだね」
 水溜まりだなんて名前で呼んだら、湖が怒りそうだけど…。だけど、大きな水溜まり。
 うんと大きな空が映って、地球の景色も映るんだね?
「そういうことだな、同じ水溜まりならデカいのがいい」
 いつか二人で見に行こう。お前が大きくなったら旅行だ、そういう景色が見られる場所へ。
 シャングリラの水溜まりとはスケールが違うぞ、相手は湖なんだから。
 あのシャングリラよりも遥かにデカい湖、地球には幾つもあるんだからな。



 もちろん普通の水溜まりだって二人で見よう、とハーレイは約束してくれた。
 この次に雨が降って来た時、一緒にいる間に止んだなら。晴れて青空が覗いたら。
 まだ水溜まりがありそうな内に庭に出てみて、地面の上の小さな空の欠片を眺める。水溜まりを二人で覗き込んで。
 「地面の上にも地球の空があるね」と、「そうだな」と頷き合ったりして。
 ハーレイと二人で青い地球までやって来たから、それが見られる。地面の上の空の欠片が。
 もっと大きな水溜まりみたいな、湖にだって出掛けてゆける。
 いつか自分が大きくなったら、水溜まりよりを覗くよりもずっと素敵な、空を映し出す湖へ。
(…逆さ富士、今だと、どんな景色になるのかな…?)
 湖に映る景色の方も、それを映し出す湖も。…ハーレイのお勧め、今の時代の逆さ富士。
 ハーレイと二人で暮らし始めたら、地球の大きな湖に映る空を、景色を眺めにゆこう。
 この星は水の星だから。
 地面の上にも、空を映す水がある星だから。
 前の自分が焦がれ続けた、青い地球ならではの水溜まり。
 湖という名のとても大きな水溜まりにだって、地球の空が綺麗に映るのだから…。




              水溜まり・了


※ブルーが気付いた、水溜まりの中に映った空。シャングリラでは見られなかった光景。
 船にあったのは、ただの水溜まりだけ。けれど喜んだ仲間たち。今なら水溜まりどころか湖。
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(あっ…!)
 嘘、とブルーが崩したバランス。学校からの帰り、バス停から家まで歩く途中で。
 不意に、もつれてしまった足。自分で自分の足を引っ掛けたか、それとも歩幅が狂ったものか。止める暇も無くて、気付けば転んでいた道路。それは見事に、ペシャンと、ドサリと。
(転んじゃった…)
 自分の目と同じ高さに道路。向こうの方へと伸びているのが良く分かる。両脇に並ぶ家だって。大慌てで手をついて起き上がったけれど、立ち上がって膝の埃を払ったけれど。
(こんな所で…)
 転ぶなんて、と文字通り顔から火が出そう。多分、真っ赤に染まっている顔。もしかしたら耳の先っぽまで。誰が見たって「何か失敗したんだな」と分かるくらいに。
 余所見しながら歩いたせい。生垣の向こうに見えている庭、何があるのかとキョロキョロして。花壇の花やら、駆け回っているペットたち。そういったものを探していて。
 お蔭で転んで、しかも道路には何も無い。足を引っ掛けそうな段差も、石ころだって。
 道路に何か落ちていたなら、それのせいだと言えるのに。自分のせいでも、知らないふり。
 けれど出来ない、その言い訳。道路には何も無いのだから。
(…転んだの、誰も見ていないよね?)
 少し鼓動が落ち着いて来たら、気になったものは目撃者。何処かの庭で見ていた人とか、窓から偶然、見た人だとか。
(…誰もいない筈…)
 庭にも窓にも見えない人影。サッと引っ込んだりもしなかったから、きっと目撃者はいない。
 転んだ所を見られなくて良かった、と平気なふりで家へと歩き始めたけれど。転ぶ前と同じに、庭や生垣を眺めながらの道なのだけれど。
 いつもより少し速くなる足。
 現場から早く離れたくて。とても恥ずかしい思いをした場所、其処を急いで立ち去りたくて。



 家に帰り着いて、制服を脱いで、おやつを食べにダイニングに行っても、まだ頭から離れない。道路で転んでしまったこと。何も無いのに、ペッシャンと。
(格好悪い…)
 あれじゃ子供、と消えてくれない恥ずかしさ。学校の制服を着ていただけに、なお恥ずかしい。下の学校の子供だったら、制服は着ていないから。制服だけで、今の学校だと分かるから。
(…下の学校なら、まだマシなのに…)
 あそこで同じに転んでいたって、自分よりは子供。誰が見たって、下の学校に通っている子。
 ところが自分は、そうはいかない。制服が「下の学校の子じゃないですよ」と知らせるから。
(転ぶなんて、ホントにカッコ悪すぎ…)
 幸い怪我はしなかったから、母にはなんとかバレずに済んだ。制服のズボンが守ってくれた膝。ついてしまった手も、擦り剥いたりはしなかった。
 転んだはずみに怪我をしていたら、必要になるのが薬箱。コッソリ手当てをしようとしたって、母に見付かって訊かれてしまう。「どうしたの?」と。
(雨の日だったら、まだマシなのに…)
 制服は濡れて汚れるけれども、「滑った」と言い訳出来るから。
 本当は余所見で転んでいたって、雨の日の道路は滑りやすいもの。母はもちろん、誰かが現場を目撃したって、「滑ったんだな」と思ってくれる。
 何も無いのに、転んだなどとは気付かずに。「可哀相に」と同情しても貰える筈。
(でも、誰も見ていなかったんだし…)
 制服も汚れはしなかったのだし、もうバレない。帰り道で転んでいたことは。母にも、ご近所の人たちにも。
 目撃者はゼロで、薬箱のお世話にもならなかったから。



(良かったよね…)
 転んでたのがバレなくて、と戻った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
 何も無い所で転ぶだなんて、もう本当に子供のよう。それも自分より遥かに小さい、下の学校にさえ行っていない子。幼稚園児とか、もっと幼い子とか。
(小さい頃ならいいんだけれど…)
 道で見事に転んでいたって、大勢の人が現場を目撃していたとしたって。
 幼かった頃なら、よく転んでは泣いていた。家の庭でも、さっきのような道路でも。母と一緒に遊びに出掛けた公園でだって。
 今よりもずっと小さな身体は、バランスを取るのが下手くそなもの。何かのはずみに、コロンと転がる道路や芝生。そうなったらもう、それだけでビックリするのが子供。
 おまけに痛いし、ただワンワンと泣くしかない。ほんのちょっぴり、膝が赤くなっただけの怪我でも。血が滲むだけで、流れ出してはいなくても。
 転んでしまって、立ち上がれもしないで、その場で「痛いよ」と泣きじゃくっていたら…。
(いろんな人が…)
 小さかった自分を助けてくれた。母の他にも、通り掛かった人たちが。
 「大丈夫?」とキャンディーをくれた人だって。「痛いのが消えるお薬をどうぞ」と。
 擦り剥いてしまった膝や、赤くなった手。怪我をしていた所には…。
(子供絆創膏…)
 可愛い絵が描かれた、子供の目には素敵な絆創膏。それをバッグやポケットから出して、傷口に貼ってくれた人もいた。「ちょっとしみるけど…」と消毒用の布とかで埃を拭ってくれた後で。
 ああいう用意をしていた人たち、自分の子供用でなければ、お孫さん用だったのだろう。小さな子供が転んだ時には、直ぐに必要なものだから。
(ママだって、持っていたんだけど…)
 不思議なことに、知らない誰かが手当てしてくれたら、遥かに良く効くような気がした。魔法をかけて貰えたようで。
 「痛いのが消えるお薬だから」と、貰ったキャンディーだって、そう。
 同じキャンディーを母に貰うより、ずっと素敵で良く効く薬。子供絆創膏の絵だって、頼もしく思えて嬉しかった。まだズキズキと痛んでいても、涙がポロポロ零れていても。



 魔法みたい、と子供心に思ったこと。貰ったキャンディーや、貼って貰った子供絆創膏。
 きっと心が弾んでいたから、効くように思ったのだろう。知らない人たちが「大丈夫?」と心配してくれて、優しく慰めてくれたから。…泣きじゃくっているだけのチビの子供を。
(今のぼくが道で転んでいたって…)
 キャンディーなんかは貰えない。可愛らしい子供絆創膏も。
 今の学校の制服を着ているような大きな子供は、どちらも貰えはしなくって…。
(大丈夫かい、って…)
 生垣越しに顔を出すだろう、現場を見ていたご近所の御主人。
 後はせいぜい、薬箱くらい。「傷の手当てをして行かないと」と家に入れて貰って、擦り剥いた膝や手とかの手当て。傷薬と普通の絆創膏で。
(運が良かったら…)
 おやつも出るかもしれないけれど。「食べて行くかい?」と、奥さんの自慢のケーキとか。
 それもいいよね、と想像を繰り広げていた、転んだ後の自分の姿。キャンディーや子供絆創膏の代わりに、薬箱と、運が良ければおやつ。
 ちょっぴり素敵な光景だけれど、そういう夢を描いてしまうのだから…。
(ぼくって、子供…)
 転んだのが恥ずかしくて逃げ出したけれど、かまって欲しくもあるらしい。
 幼かった頃はそうだったように、もしも誰かが見ていたならば。自分を心配してくれたなら。
(顔は恥ずかしくて真っ赤でも…)
 薬箱を断って帰りはしないで、きっと入ってしまうだろう家。御主人の後ろにくっついて。
 傷薬と普通の絆創膏でも、傷の手当てをして貰えたら、とても嬉しい。その後でおやつを出して貰ったなら、すっかり御機嫌。
(美味しいね、ってニコニコ笑って…)
 自分が転んだことも忘れて、御主人や奥さんと話していそう。ペットを飼っている家だったら、一緒に遊んだりもして。



 そうなりそう、と思った今の自分が転んだ後。もう幼いとは言えないけれども、中身はそっくりそのまま子供。キャンディーがおやつに、子供絆創膏が普通の絆創膏に変わるだけ。期待している掛けられる声、「大丈夫かい?」と。
 転んだことは、とても恥ずかしいのに。幼かった頃の自分みたいに、泣きじゃくったりはしない筈なのに。
(小さい頃から変わってないよ…)
 大きくなったのは身体だけ。中身は幼かった頃と同じで、転んだらかまって欲しがる子供。薬箱から出て来るだろう絆創膏と傷薬。それで満足、おやつがあったら、もっと嬉しい大きな子供。
 こんな調子だから、ハーレイに「チビ」と言われるのだろう。
 キスだって駄目で子供扱い、「前のお前と同じ背丈に育つまでは」とお預けのキス。
 そうなるのも仕方ないのかも、と自分の姿を顧みてみる。今もやっぱり、転んだ時にはかまって欲しい子供らしいから。
(うーん…)
 転んだ現場に居合わせたのがハーレイだったら、どうなるのだろう?
 もしも二人で、あそこを並んで歩いていたら。ハーレイの目の前で、道路に転んでしまったら。
(逃げようだなんて、思わなくって…)
 急いで立ち上がって逃げる代わりに、助け起こして貰えることを期待していそう。
 「大丈夫か?」と差し出される手。とても大きな褐色の手が、こちらに伸ばされることを。その手でしっかり抱え起こして、「怪我してないか?」と訊かれることを。
 ハーレイがそう尋ねてくれたら、自分はきっと…。
(痛くないのに、痛いって騒いで…)
 抱き上げて運んで貰おうとするか、背中に背負って欲しがるか。
 足が痛くて歩けないから、「家まで連れて帰って」と。
 逞しい腕と頑丈な身体を持った恋人、好きでたまらないハーレイに世話をして欲しくて。



 困った顔をするだろうけれど、断ったりはしない筈の恋人。「自分で歩け」と突き放すことは、きっとハーレイはしないから…。
(抱っこか、おんぶで家まで運んで貰って…)
 帰り着いたら、傷の手当てをせがむのだろう。ハーレイが「見せてみろ」と言わなくても。傷の手当てをしなければ、と薬箱を持って来てくれるように、母に頼みに行かなくても。
(ちょっぴり赤くなってるだけでも…)
 擦り剥いてはいなくて打ち身だけでも、「うんと痛い」と騒ぎそうな自分。
 ハーレイに甘えてみたいから。傷薬も絆創膏も要らない傷でも、優しく手当てして欲しいから。
(そんなの、出来っこないんだけどね…)
 二人で外を歩きはしないし、もしも散歩に出掛けたとしても、帰ったら家には母がいる筈。休日だったら父だっているし、二人とも直ぐに気付いてしまう。
(門扉のトコで、ハーレイ、チャイムを鳴らすだろうし…)
 歩けない自分を抱いているとか、背負っているなら、門扉を開けてくれる人が必要。怪我をした自分は開けられないから、母か父。それを呼ぼうと鳴らされるチャイム。
 父と母と、どちらが出て来たにしても、一人息子はハーレイに運ばれて帰宅。抱っこか、背中に背負われているか、足が痛いのは一目瞭然。
 怪我となったら、母が手当てをするだろう。ハーレイに任せておきはしないで。
 その母が「大変!」と薬箱を持って来たならば…。
(叱られちゃうよ…)
 痛いと訴えている足を調べて、「怪我なんかしていないでしょ」と。
 少し擦り剥いていたとしたって、「自分の足で歩ける筈よ」と、ペタリと貼られる絆創膏。
 ちゃんと自分の足で歩けるのに、ハーレイに迷惑をかけたこと。それを叱って、お仕置きに…。
(絆創膏を貼った上から、ポンって…)
 軽く叩くのだろう母。「このくらい、我慢しなさい」と。
 幼い子供だったらともかく、十四歳になっている子供。「甘えん坊って年じゃないわ」と、母に叱られて、ハーレイに謝るように言われる。「我儘を言ってごめんなさい」と。



 そんな感じ、と思うけれども、出来るわけがない夢のような話。
 ハーレイと並んで外を歩いて、助け起こして貰うこと。今は二人で出掛けはしないし、転ぶことさえ出来ないから。ハーレイの前で道路にペシャンと転ぶことなど、不可能だから。
(ぼくが大きくなってからだと…)
 一緒に歩くことは出来るけれども、転んだら今より恥ずかしい。
 前の自分と同じ背丈に育っているなら、何処から見たって立派な大人。十八歳でも、子供だとは言えない年頃の筈。そんなに大きく育った大人は、まず転ばない。
(…ホントに足でも滑らせないと…)
 転ばないのが一人前の大人で、転んだとしてもサッと立ち上がるもの。転んだ拍子に足を捻って動けないとか、やむを得ない事情が無い限りは。
(でも…)
 ハーレイは助けてくれるだろうか、もしも自分が転んだら。二人並んで歩く途中で、ペシャンと転んでしまったなら。
 「お前、子供か?」と笑いながらでも。「転ぶような物は落ちてないぞ?」と呆れ顔でも、あの大きな手を差し出して。無様に道路に伸びた自分に、「ほら、掴まれ」と。
(ハーレイ、助けてくれるのかな…?)
 どうなのだろう、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ぼくが転んだら、助けてくれる?」
「はあ?」
 転ぶって…。何処で転ぶと言うんだ、体育の時間のグラウンドか?
 でなきゃ廊下か、校舎の中とか、渡り廊下とか。…そういう所で、転んだお前を助けろと?
 他にも誰かいそうだがな、とハーレイは怪訝そうな顔。「体育の時間なら、先生がいるし…」と首を捻って、「廊下にも友達、誰かいないか?」と。
 「俺が助けに行くよりも前に、そっちを頼るべきだと思うが」という意見。「断然、早い」と。
「学校だったら、そうなんだけど…」
 ぼくもハーレイが助けに来てくれるまで、待っていたりはしないけど…。
 そうじゃなくって、ぼくが転ぶのは…。



 「えっとね…」と、今日の帰りに転んだことを打ち明けた。恥ずかしかったことも話して、幼い頃の思い出も。キャンディーに、子供絆創膏。
「今のぼくなら、薬箱が出て来るんだろうけど…。今日みたいに道で転んでたらね」
 家で手当てをして行きなさい、って家の中に入れて貰えると思う。もしも誰かが見ていたら。
 怪我の手当てが済んだ後には、運が良ければ、おやつも出そう。
 そんなことまで考えちゃうぼくは、まだまだ子供なんだけど…。ハーレイが言う通りに、本当にチビ。まだハーレイと一緒に歩けもしないけど…。
 いつかデートに出掛けた時にね、ぼくが転んでいたらどうする…?
 転んじゃったら助けてくれる、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。「ぼくを助けてくれるの?」と。
「そりゃまあ、なあ…?」
 助けないわけがないだろう。俺の大事な恋人なんだし、もう嫁さんかもしれないな。
 転んだままで放っておきはしないし、俺は大急ぎで助け起こすが…?
「ホント?」
 ハーレイ、ちゃんと助けてくれるの、転んでいたら…?
 「自分で起きろよ」って言ったりしないで、ぼくを助けて立たせてくれるの…?
「もちろんだ。前も助けてやったじゃないか」
 お前が転んじまった時には、きちんとな。お前を放って行ったりはせずに。
「え…?」
 転んだって…。それに助けたって、それ、いつの話…?
 知らないよ、と驚いて目を丸くした。ハーレイの前で転んだことは無い筈だから。倒れたことはあったけれども、転ぶのとはまるで違うから。
「忘れちまったか?」
 覚えてないのか、一番最初に転んでた時は、お前、今と同じでチビだったぞ。
 今のお前とそっくり同じに、痩せっぽちでチビの子供だったが…?
「チビ…?」
 それって、前のぼくのこと…?
 前のぼく、何処かで転んでいたかな、ハーレイと一緒にいた時に…?



 何処だったろう、と考えてみても分からない。チビだったのなら、アルタミラから脱出した頃。
 船の通路で転んでいたのか、前のハーレイがいた厨房の床か。
(…厨房の床なら、いつもピカピカ…)
 食料を扱う場所だから、と毎日、磨き上げられた床。夕食の後の掃除はもちろん、他の時間にも手が空いた時は、誰かがせっせと磨いていた。野菜くずなどで汚れないように、と。
 あそこだったら、滑って転んだこともあるかも、と厨房の床を思い浮かべていたら…。
「お前、アルタミラで転んでいただろうが」
 俺と出会って直ぐの頃だな、最初はポカンと一人で座り込んでたが…。
 あれは転んだとは言わないだろうし、助け起こした内には入らん。俺が立たせてやったがな。
 その後だ、後。
 俺と一緒に走ったろうが、というハーレイの言葉で蘇った記憶。
「あっ…!」
 思い出したよ、前のハーレイと一緒に走ってたんだっけ…。何度も転んじゃったけど。
 他の仲間たちが閉じ込められたシェルター、全部、開けなきゃ駄目だったから。
 でないと、みんな死んじゃうもんね、と手繰った前の自分の記憶。ハーレイと走った炎の地獄。
 メギドの炎で滅びようとしていたアルタミラ。
 空まで真っ赤に染め上げた炎、激しい地震で揺れ動く地面。その上を二人で走っていた。仲間を助け出すために。…幾つものシェルターに閉じ込められて、死を待つだけのミュウの仲間を。
 二人で開けて回ったシェルター。鍵を開けたり、扉が歪んで開かない時には壊したりして。
 そうやってあちこち走る間に、瓦礫に足を取られて転んだ。
(何処へ行っても、瓦礫だらけで…)
 道と呼べそうな場所は殆ど無かった、あの星の上。
 辛うじて道路が残っていたって、地震で入った無数の亀裂。段差だらけで、波打った路面。
 そんな所を走ったのだから、転ばない方がどうかしている。歩幅が大きいハーレイはともかく、チビだった前の自分の方は。
 瓦礫をヒョイと跨げはしなくて、段差も楽に越えては行けない。跨いだつもりでも、引っ掛かる足。越えたつもりでも、越えられなかった段差。



 いったい何度転んだことか、と蘇って来たアルタミラの記憶。炎の海を走っていた時。
 ドサリと地面に投げ出される度、ハーレイが助け起こしてくれた。「大丈夫か?」と、手を差し出して。がっしりとしていた大きな手。
(あの頃のハーレイは、今より若かったんだけど…)
 とうに大人になっていたから、手の大きさは今と変わらない。自分の方も今と同じにチビ。心も身体も成長を止めて、十四歳の頃のままだったから。
(手の大きさ、今と同じなんだよ)
 アルタミラで初めて出会った時の、ハーレイの手も、自分の手も。
 今の自分の小さな右手を、よく温めてくれるハーレイ。前の生の最後にメギドで凍えた、悲しい記憶を秘めた右手を。そっと、温もりを移すために。
 その度に思う、ハーレイの手の温かさと、それに逞しさ。とても頼もしくて、大きな手。
(あれと同じ手だったっけ…)
 前の自分が助けて貰った、ハーレイの手も。
 アルタミラで何度も転んだけれども、その度に自分を起こしてくれた手。瓦礫に覆われた地面の高さが、目の高さと同じになる度に。転んで地面に身体ごと叩き付けられる度に。
 ハーレイはチビだった前の自分を、何度も助け起こしてくれた。手を差し出したり、逞しい腕でグイと抱えて抱き起こしたり。
 助けられる度に、訊かれたこと。まだ走れるかと、痛くないかと。
 燃える地面は、多分、熱かったから。大気までが炎に炙られて燃えて、息をするのも苦しかった筈。他の仲間を助けるのに夢中で、意識してなどいなかったけれど。
 だから、前のハーレイは尋ねてくれたのだろう。前の自分が転んでしまって、助け起こす度に。
 走る力は残っているかと、何処か怪我して痛くはないか、と。
(前のぼく、ハーレイに「大丈夫」って…)
 そう答えては、二人で走り続けた。燃える星の上を、揺れる地面を。
 また転んでも、起こして貰って。
 瓦礫に躓いて放り出されても、段差に足を取られても。
 身体ごと地面に叩き付けられて、目に入るものは瓦礫や波打つ道路だけになってしまっても。



 何度も見えなくなった空。転べば、空は見えないから。忌まわしい炎の色の空さえ。
 行く手の景色も消えてしまって、見えるものは地表を覆う物だけ。瓦礫と、それを舐める炎と、深い亀裂や幾つもの段差。
 たったそれだけ、他には何も見えたりはしない。目の高さが地面と同じになったら、滅びてゆく星の地面に叩き付けられたなら。
(転んじゃったら、本当に地獄…)
 その上を走っている時よりもずっと、無残に見えたアルタミラ。瓦礫と炎と滅びゆく地面、その他には何も無いのだから。空も行く手も、目に入っては来ないのだから。
 なんて酷い、と思った景色。この星はもう終わりなのだと、滅びるのだと思い知らされた地面。
 それが視界を覆い尽くす度に、転んだのだと嫌でも分かった。
 ドサリと地面に突っ伏した自分、見えなくなった目指していた場所。その上にあるだろう空も。
(起きなくちゃ、って…)
 早く立ち上がって行かなければ、と思った、仲間たちが閉じ込められたシェルター。
 こうして自分が転んでいる間も、星は滅びに向かっているから。絶え間ない地震でシェルターが壊れて、仲間たちの命が奪われるから。
 立たなければ、と自分に命じた。「転んでいる暇は無いんだから」と。起きて、立ち上がれと。
 けれど、そうして立ち上がる前に…。
(ぼくが自分で起き上がる前に…)
 ハーレイの手が目の前にあった。前のハーレイの大きな手が。
 自分よりも前を、先を走っていた筈なのに、「ほら」と「掴まれ」と。
 いつの間に気付いて戻って来たのか、必ずあったハーレイの手。
 前の自分が、地面に叩き付けられる度に。転んでしまって、視界が地獄に覆われる度に。
(ハーレイの手に掴まって、引っ張り起こして貰って…)
 またハーレイと走り続けた。
 時には、抱え起こされて。「大丈夫か?」と、「痛くないか」と尋ねて貰って。



 あそこだった、と鮮やかに戻って来た記憶。
 前のハーレイと二人で走って、何度も転んだアルタミラ。炎の地獄で、足を取られて。
「…ハーレイ、起こしてくれていたんだ…」
 ぼくがアルタミラで転んじゃったら、戻って来て。…ぼくよりも前を走ってたのに。
 何度転んでも、いつもハーレイが助け起こしてくれたよ。
 ぼくが自分で立ち上がる前に、ちゃんとハーレイの手があったから…。
「思い出したか?」
 前のお前とは、会った時から、不思議なほどに息が合ったモンだから…。
 お前が転んだら分かるんだよなあ、俺の背中に目玉はついていなかったんだが。
 何か変だぞ、と振り返る度に、お前が転んじまってた。俺の後ろで、地面に叩き付けられて。
 その度に走って戻っていたんだ、とても放っておけないからな。
 いくらサイオンが強いと言っても、お前、身体はチビなんだから。…それに中身も。
 転んだお前を助けていたのは、あれが最初のヤツでだな…。
 お前がデカくなった後にも…。
 やっぱりお前は転んじまっていたんだが、と指摘された。
 もう痩せっぽちのチビではなくて、ソルジャーと呼ばれ始めてからも。キャプテンになっていた前のハーレイを従えての視察の途中で、それは見事に。 
「ソルジャーの威厳も何も、あったもんではなかったってな」と笑うハーレイ。
 転ぶ度にマントの下敷きだったと、「ソルジャーのマント包みだ」と。
 「パイ皮包みなら料理なんだが、マント包みは料理じゃないな」などと、可笑しそうに。
 通路で転んだソルジャーの身体は、頭と足の先っぽ以外は、マントにすっぽり包まれていたと。



 ハーレイ曰く、「ソルジャーのマント包み」なるもの。
 背中に翻っている筈のマントに包まれ、シャングリラの通路に転がるソルジャー。紫のマントが広がる下には、前の自分の身体が入っていたわけで…。
(そうだっけ…!)
 ソルジャーのぼくでも転んだんだよ、と「マント包み」で戻った記憶。
 今のハーレイが言う「ソルジャーのマント包み」となったら、まるで料理のようだけど。何かのパイ皮包みみたいに、前の自分がお皿に載っていそうだけれど。
(…ハーレイ、今も料理が得意だから…)
 そんなのを思い付くんだよね、と思う「ソルジャーのマント包み」。前の自分がシャングリラの通路で転んだ時には、マント包みが出来ていた。頭と足の先っぽ以外は、全部マントの下敷きで。
(ソルジャーのマント包みって…)
 それが通路で出来た理由は今日と同じで、原因は余所見。
 ハーレイと視察に行くと言っても、目的地が遠い時もある。其処に着くまでに通る通路で、ふと目を引いた色々なもの。「あれは何だろう?」といった具合に、逸れていった視線。
 行く手を真っ直ぐ見詰める代わりに、あらぬ方へと向けられた瞳。
 そういった時に、崩したバランス。歩幅が僅かに狂ったはずみや、不意にもつれてしまった足。
(余所見してたら、やっちゃうんだよ…)
 今の自分よりも大きく育った、ソルジャー・ブルーだった自分でも。
 白と銀の上着に紫のマント、そういう洒落た衣装に身体を包んでいても。
(前のぼくなら、転んじゃっても…)
 本当はサイオンで支えられた身体。
 通路に無様に倒れ込む前に、紫のマントの下敷きになって「マント包み」が出来上がる前に。
 それは確かに出来たのだけれど、ハーレイの手が欲しかった。
 「大丈夫ですか?」と差し出される手。
 転んでしまった前の自分を、しっかりと助け起こしてくれる手。
 だから使わなかったサイオン。
 このままだったら、転んでしまうと分かっていても。
 シャングリラの通路と目の高さとが、じきに同じになってしまうと気が付いていても。



 「マント包み、忘れちゃいないだろうな?」と、鳶色の瞳が見据えるから。
 「前のお前の得意技でだ、俺は何度も見ていたんだが…?」とも言われたから。
「…覚えてるってば、マント包み…」
 そういう名前はついてなくって、ぼくが転んでただけなんだけど…。
 マントの下敷きになってしまって、頭と足の先っぽだけしか出てなかったことは本当だけど。
 でも、ソルジャーのマント包みだなんて…。
 前のぼく、お料理みたいじゃない、と唇を少し尖らせた。「それ、酷くない?」と。
「酷いってことなら、どっちなんだか…。俺か、お前か」
 チビのお前の方じゃなくって、マント包みになってた方の、前のお前が問題だってな。
 お前、いつでも転んでマント包みになっては、前の俺に助け起こさせるんだ。
 周りに誰かいた時だったら、絶対、転びはしなかったがな。
 転んじまう前にサイオンでヒョイと支えて、気付かせさえもしなかった。…転びかけたことを。
 しかし、俺しかいない時には、マント包みになっちまう。
 「起こしてくれ」と言わんばかりに、ものの見事に転んじまって。
 酷いというのはアレのことだろ、お前、本当は転ばずにいられたんだから。
 俺の他にも誰かいればな…、と軽く睨んで来るハーレイの瞳。「お前も充分、酷いだろう」と。
「だって、それ…。恥ずかしいじゃない!」
 仲間たちの前で転ぶだなんて、恥ずかしすぎるよ。…前のぼく、子供じゃないんだから。
 今のぼくでも、今日の帰りに転んだ時には、とても恥ずかしかったんだから…!
 ソルジャーだった時に転ぶなんて、と反論した。他の仲間が見ている前では、転べない。
「…俺の前ならいいと言うのか?」
 転んじまおうが、マント包みになっちまおうが。
 今の俺が思い出してみたって、あの格好は無様だとしか思えないんだが…。
 「ソルジャーのマント包み」と呼んだら美味そうなんだが、そいつをプラスして考えたって。
 マントの中身は前のお前で、前の俺には御馳走だったが、それでもなあ…。
 ソルジャーだった方のお前は、俺の御馳走ではないんだから。



 恋人同士だったことさえ秘密だ、とハーレイが眉間に寄せている皺。
 「そのソルジャーがマント包みになっていたって、前の俺は食えやしなかった」と。
「いいか、よくよく考えてみろよ? …前のお前と、俺とのこと」
 俺たちの仲は秘密だったし、ソルジャーのお前の前に立ったら、俺はあくまでキャプテンだ。
 いくらお前に恋していたって、それを顔には出せないってな。
 なのに遠慮なくマント包みになっていたのが、前のお前というわけで…。
 俺に助けろと言っていたんだ、声や思念にもしないでな。…黙ってマント包みになって。
 自分じゃ決して起きないと来た、とハーレイは苦情を言うのだけれど。
「だって、ハーレイが側にいたんだよ?」
 前のハーレイは、ぼくの特別。恋人同士になる前からでも、ずっと特別。
 起こして欲しくもなるじゃない。他の仲間がいないんだったら、転んでしまって。
 ぼくが転んだままでいたなら、ハーレイ、助けてくれるんだから。
 いつも起こしてくれていたでしょ、と微笑んだ。「ソルジャーのぼくが転んだ時も」と。
「特別なあ…。分かっちゃいたがな、そうだってことは」
 前のお前がマント包みになっちまうのは、俺の前だけで、俺に甘えてただけなんだ、と。
 今から思えば、子供みたいな我儘なんだが…。
 俺に助け起こして貰うためだけに、転んじまってマント包みだなんて。
 前のお前は、充分に大人だったんだが…、とハーレイがフウとついた溜息。
 「チビのお前と変わらないな」と、「転んだら助けてくれるのか、と訊くお前とな」と。
「…そっか、前のぼくでもおんなじ…」
 ハーレイに助けて欲しくて転んで、起こしてくれるの、待っていたっけ…。
 前のぼく、マント包みになってた頃には、チビの子供じゃなかったのに。
 ちゃんと育ったソルジャーのぼくで、マントまで着けていたのにね…。
 それでもマント包みなんだ、と今の自分と重ねてみた。前の自分でもその有様なら、今の自分が転んだ後の夢を描くのも仕方ない。薬箱はともかく、おやつを御馳走になれたらいいな、と。
「前のお前も、俺の前ではデカい子供だ。…ソルジャーでもな」
 俺は面倒の見甲斐があったが、他のヤツらには、マント包みは見せられん。
 無様なソルジャーの姿もそうだし、俺に甘えてた姿もな。



 だから今度も安心して転べ、と言って貰えた。「ちゃんと面倒見てやるから」と。
「お前、もうサイオンでは支えられないしな、転びそうになっても」
 不器用すぎて出来やしないだろ、そんな芸当。…今のお前のサイオンでは無理だ。
 つまり、何処ででも転ぶしかないが…。
 転んじまう時には、街でデートの真っ最中でも、お前は転んじまうんだが。
 とはいえ、転んでも、俺がいるんだし…。何も心配要らないってな。
 マントが無いから、マント包みは出来ないんだが…、と今度も助けてくれるらしいハーレイ。
 けれど、街でデートの真っ最中だと、周りを歩いていそうな人たち。
 幼かった頃ならいいのだけれども、前の自分とそっくり同じに育った自分が転ぶとなると…。
「ハーレイ、助け起こしてくれるのは、とても嬉しいんだけど…」
 街でデートの最中だなんて、そんな時には転びたくないよ…!
 きっと周りには人が一杯だし、転んじゃったら恥ずかしいじゃない…!
 今日のぼくでも恥ずかしかった、と言ったのに。目撃者がいなくてホッとしたのが自分なのに。
「なあに、恥ずかしがることは無いってな。もっと真っ赤な顔にしてやるから」
 大勢の人が見ている前でだ、お姫様抱っこで歩いてやる。俺の腕でヒョイと抱き上げて。
 お前、転んだら足が痛くて、とても歩けやしないだろうが。
「抱っこって…。それって、街の真ん中なんでしょ?」
 自分で歩くよ、抱っこなんかをしてくれなくても!
 抱っこはやめて、と慌てたけれども、ハーレイは涼しい顔で続けた。
「転んだ時には助けてくれるか、と言っただろ、お前?」
 助けてやるって言っているんだ、遠慮しないで任せておけ。お前に「歩け」とは言わないから。
「恥ずかしいってば、街の中では…!」
 転ぶよりもずっと恥ずかしいじゃない、抱っこされて歩いているなんて…!
「恋人同士でデートなんだぞ、いいじゃないか。俺もお前を、周りに見せびらかせるしな」
 こんな美人が俺のものだ、と自慢しながら歩くんだ。
 前の俺だと、そいつは出来なかったしな…。
 シャングリラの中でも最高の美人を自慢したくても、ソルジャーとキャプテンだったから。



 お前とデートに出掛けられる日が楽しみだな、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 「ソルジャーのマント包みは無理だが、派手に転べよ」と。
 どうやら自分が転んだ時には、抱っこが待っているらしい。ハーレイの逞しい腕で、軽々と抱き上げられて。…二人並んで歩く代わりに、お姫様抱っこでデートの続き。
(なんだか、とっても恥ずかしいけど…)
 そういうデートは、今だからこそ出来ること。前の自分たちには出来なかったこと。
 マント包みになるのがせいぜい、そういう二人だったから…。
 今のハーレイにお姫様抱っこで歩いて貰って、恥ずかしくても、心ではきっと誇らしい。
 耳まで赤くなっていたって、幸せだから。
 ハーレイに大切にして貰えるのが、嬉しくてたまらないだろうから。
(街の真ん中で、派手に転んじゃっても…)
 幸せだろう、未来の自分。前の自分と同じ姿に育った、今よりもずっと大きな自分。
 幼い子供でもないというのに、ハーレイの腕に抱かれて運ばれながら。
 「恥ずかしいから下ろしてよ!」と言っていたって、きっと幸せに違いない。
 もしもハーレイが「そうか?」と素直に下ろしてくれたら、「酷い!」と怒りそうだから。
 せっかくの抱っこが逃げてしまったら、「下ろすなんて!」と怒るだろうから…。




            転んだ時には・了


※転んだ時にはハーレイに助けて欲しい、と思ったブルー。前の生でも同じだったのです。
 本当はサイオンで支えられるのに、ハーレイしかいない時には、ソルジャーのマント包みに。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




元老寺の除夜の鐘で古い年を送って迎えた新年。初詣と冬休みが済んだら三学期スタート、シャングリラ学園はイベントが幾つもあります。お雑煮大食い大会に水中かるた大会、それが終われば入試前の下見シーズンやら、バレンタインデーに向けてのカウントダウンやら。
何かと賑やか、外の寒さも吹っ飛びそうな勢いですけど、その学校も土日はお休み。今日は朝から会長さんのマンションにお邪魔してるんですけれど…。
「…いよいよ暑苦しくなってきた…」
会長さんの呟きに「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「暑すぎた?」とエアコンのリモコンを。
「みんな寒い中を歩いて来たから、これくらいでいいかと思ったんだけど…」
「すまんな、俺たちが寒い、寒いと連発したから…」
少し下げてくれ、とキース君が。
「もう充分に暖かくなったし、俺たちの方は大丈夫だ」
「ですよね、来た時には震えていましたけどね…」
今日は北風が強かったですし、とシロエ君も。
「バス停から此処まで歩く間に冷えちゃいましたけど、今はポカポカですから」
「分かった! えーっと…」
2℃ほど下げればいいのかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が設定を変えようとした所へ。
「いいんだよ、部屋はこのままで。…暑苦しいのは別件だから」
「「「は?」」」
「暑いと思っているのは、ぼくだけってこと!」
ぼく一人だけ、と自分を指差す会長さんに、キース君が呆れた顔つきで。
「あんた…。無精していないで着替えれば済む問題だろう! そのセーターとか!」
「ホントだよ…。サイオンを使えば一瞬じゃないの?」
何処かの誰かがいつもやってる、とジョミー君だって。私も全く同感です。暑苦しいなんて言うほどだったら、着替えればいいと思いますけど…?
「会長、今日の服には何かこだわりでもあるんですか?」
それで着替えたくないんでしょうか、とシロエ君。そっちだったら分かりますよね、今日はコレだと思った服なら、気合で着ようってこともありますから…。



暑苦しいと漏らした会長さん。その実態はシャングリラ・ジゴロ・ブルーと呼ばれるくらいの女たらしで、モテるのが自慢の超絶美形というヤツです。ファッションセンスにも自信アリでしょうし、モテるためなら暑い真夏でも毛皮のコートを着そうなタイプ。
とはいえ、今は自分の家にいるわけで、周りは私たち七人だけ。あっ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」もいますけど。つまりは身内も同然な面子、カッコよくキメる意味は何処にもありません。フィシスさんでも来るというなら別なんですが…。
「フィシスは来ないよ、今日はお出掛けしちゃったからね」
ブラウたちと一泊二日で旅行、と会長さんはフィシスさんの予定もしっかり把握。今がシーズンのカニと温泉の旅だそうです、豪華なホテルにお泊まりして。
「カニですか…。それはとっても羨ましいんですが…って、だったら、なんでその服なんです?」
ぼくたちにモテても意味が無いですよ、とシロエ君。
「サム先輩は会長にぞっこんですけど、わざわざ服までキメなくっても…。サム先輩なら、会長がジャージを着ていたとしても幻滅しないと思いますが」
「当然だぜ! 俺はブルーに惚れてるんだし、服じゃねえから!」
勢いよく答えたサム君ですけど、会長さんは「そうじゃなくって…」とフウと溜息。
「ぼくが暑苦しいって言ってる方もさ、ジャージだろうが、ツナギだろうが気にしないってね」
「…ツナギですか…」
それはまた凄いツワモノですね、とシロエ君。
「それって、コスプレとかではなくって、いわゆる現場なツナギですよね?」
「うん。油だらけでも、泥だらけでも、現場の匂いがしみついていようと無関係!」
どんな服でも気にしないであろう、と言うんだったら、なおのこと着替えれば済む話では…って、ちょっと待って下さい、会長さんの服装とモテが関連してるってことは…。
「おい、誰か来るのか、これから此処に?」
ツナギでも気にしない誰かが来るのか、とキース君。
「そしてだ、そいつ用にとキメているのが今の服だという勘定か?」
「…まさか。君の理論は破綻してるよ」
どんな服でも気にしない相手が来るなら、それこそ服はどうでもいい、と会長さん。だったら、暑苦しいと言っていないで着替えればいいと思うんですけど…?



会長さんの「暑苦しい」発言、でも着替えるという選択肢は無し。ついでにツナギも気にしないという凄い女性とお付き合いしているらしいです。ウチの学校の生徒でしょうか?
「うーん…。当たらずとも遠からずってトコかな、それは」
会長さんの台詞に、ジョミー君が。
「生徒じゃないなら、職員さんとか? …先生ってことはないもんね」
「ブラウ先生は旅行中だと言うからな…」
ツワモノと言ったらブラウ先生くらいだろう、とキース君。
「それに、ブルーが付き合っているという話も聞かんし、職員さんだな。…あんた、誰を毒牙にかけたんだ!」
「失礼な! ぼくは被害者の方だから!」
毒牙にかかってしまった方だ、と会長さんがまさかの被害者。
「会長がハメられたんですか!?」
シロエ君の声が裏返って、キース君も。
「…甘い台詞でたらし込んだつもりが、逆に捕まったというオチか? それはマズイぞ」
ちゃんと清算しておけよ、と大学を卒業したキース君ならではのアドバイスが。
「後でモメるぞ、放っておくと」
「もう充分にモメてるってば、三百年以上」
「「「三百年!?」」」
その数字でピンと来た人物。もしや、会長さんが暑苦しいと言ってる相手は教頭先生?
「そうだけど? 他にどういう人間がいると!」
ぼくは女で失敗はしない、と自信に溢れた会長さんの言葉。
「でもねえ、男の方だと何かと勝手が違うものだから…。ハーレイだとか、ノルディだとか」
「「「あー…」」」
教頭先生とエロドクターは会長さんを狙う双璧、現時点では実害があるような無いような…。
「そのハーレイがさ、暑苦しくて…。どんどん暑苦しさを増しつつあって!」
冬は人肌恋しい季節だから、と会長さんは、またまた溜息。
「電話はかかるし、バッタリ会ったら熱い視線で見詰められるし…」
なんとかならないものだろうか、とブツブツと。いつものことだと思いますけど、今年は寒さが厳しいだけに余計に癇に障りますかねえ…?



会長さん一筋、三百年以上な教頭先生。けれど会長さんは女性一筋、まるで噛み合わない二人の嗜好。気の毒な教頭先生は片想いの日々、それを逆手に取られてしまって会長さんのオモチャにされている人生です。
教頭先生で遊ぶ時にはきわどい悪戯もやっているくせに、邪魔な時には電話だけでも気に障るタイプが会長さんで…。
「あんた、またしても悪い癖が出たな。教頭先生には普通のことだと思うが」
モテ期が来たなら話は別だが、とキース君。
教頭先生のモテ期なるもの、世間で言われるモテ期とは中身が別物です。自分はモテると何かのはずみに思い込んでしまい、会長さんにプレゼントやラブレターを贈りまくるという一種の発作。それが来たなら、暑苦しいのも分かりますけど…。
「違うね、モテ期じゃないんだけれど…。いつものパターンだと分かっちゃいるけど…」
暑苦しくて、と会長さんはぼやいています。
「これが服なら、脱いで着替えれば済むんだけどさ…。生憎とハーレイは服じゃないから」
「違いますねえ、教頭先生は人間ですから」
脱いだり着替えたりは出来ませんね、とシロエ君。
「教頭先生の服が見た目に暑苦しいと言うんだったら、着替えて貰えばいいんですけど…」
「そうだな、服ならそれでいけるが…」
中身の方ではどうにもならんな、とキース君も。
「諦めて我慢するんだな。…でなければ、あんたが薄着するかだ」
冬の最中に半袖を着れば暑苦しさも減るであろう、とキース君からのアドバイス。
「身体が冷えれば頭も冷える。…そうやってクールダウンするのが俺のお勧めコースだが」
「冗談じゃないよ、修行中なら真冬に滝行もアリだけど!」
なんでハーレイのために寒い思いを、と会長さんの文句が炸裂。
「ハーレイが滝に打たれに行くなら分かるけどねえ、なんでぼくが!」
「俺は滝行とまでは言っていないが?」
「似たようなモノだよ、真冬の半袖!」
そしてハーレイの方は真冬に半袖でも平気なタイプ、と顔を顰める会長さん。柔道で鍛えていらっしゃる上に、古式泳法の名手でもある教頭先生、氷が張る日に半袖を着ていても平気らしいです。そう聞いちゃったら、会長さんの方が薄着するなんて理不尽ですよね…。



教頭先生が暑苦しくても、薄着はしない会長さん。教頭先生の方は冬の寒さで人肌恋しく、会長さんに電話で熱い視線と来たものです。頭を冷やしてどうなるものでもなさそうですし…。
「そこなんだよねえ、滝行をしろと放り出しても、ぼくの命令ってだけで喜ぶ相手だし!」
大喜びで滝に打たれる姿が見えるようだ、と会長さんの嘆き。
「滝行と言えば、煩悩や穢れを洗い流しに行くと相場が決まっているのに…」
「そう聞くな。俺たちの宗派は滝行は無しだが、あんたの場合は…」
「恵須出井寺の方だとアリだったからね」
サイオンでシールドしていたけれども経験はある、と会長さん。
「あんな具合にハーレイの煩悩も綺麗サッパリ洗い流せるなら、滝行だって…。ん…?」
待てよ、と会長さんは顎に手をやって。
「暑苦しいなら服を着替えで、服というのは洗うものだし…」
「かみお~ん♪ お洋服を着替えて片付ける前には、お洗濯だよ!」
でないと服が傷んじゃうもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「放っておいたら駄目になるから、きちんと洗って片付けないと!」
「そう、それ! …ハーレイも洗って片付けられればいいんだけどねえ…」
「「「はあ?」」」
「クリーニングだよ、ぼくの家ではクリーニングに出したら返って来るけれど…」
洗い終わったら届くんだけど、と会長さんが視線を窓にチラリと。
「保管しておくスペースが足りない家の場合は、お預かりサービスっていうのがあるよね?」
「らしいね、ぼくの家でも頼んでないけど…。毛布とかだっけ?」
使うシーズンまで預けておくんだっけ、とジョミー君が言うと、スウェナちゃんが。
「そうらしいわよ? 毛布だけじゃなくて、服もオッケーだったと思うわ」
「ええ、クローゼット代わりにしている人もあるみたいですね」
たまにトラブルになっていますよ、とシロエ君。預けておいたクリーニング屋さんが知らない間に閉店しちゃって、服とかが消えてしまうトラブル。連絡先を言わない方が悪いんですけど。
「そのシステムが魅力的だと思えてねえ…。今のぼくには」
誰かハーレイの煩悩を洗い流して、ついでに預かってくれないだろうか、と会長さん。
「クリーニングに出しても、落ちない汚れはありがちだから…。綺麗に洗う方は無理でも…」
せめてお預かりサービスの方を、と無茶な発言。服ならともかく、相手は教頭先生です。人間を洗ってお預かりする洗濯屋さんなんか、存在しないと思いますけど…?



暑苦しく感じる教頭先生をクリーニングに出したいと言う会長さん。あまりにも凄すぎる発想な上に、お目当てはお預かりサービスの方。洗うだけなら、エステサロンとかで文字通りツルツルにしてくれますけど、お預かりサービスは有り得ませんよ…?
「それは分かっちゃいるんだけれど…。冬だっていうのに暑苦しいから…」
ちょっと預けてしまいたい気分、と会長さんが零した所へ。
「こんにちはーっ!」
ぼくに御用は? とフワリと翻った紫のマント。別の世界からのお客様です。ソルジャーは空いていたソファにストンと座ると、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「ぶるぅ、ぼくにもおやつをお願い! それと紅茶も!」
「オッケー! 今日はね、オレンジのキャラメルケーキなの!」
はい、どうぞ! とサッと出て来たケーキと熱い紅茶と。ソルジャーはケーキを頬張りながら。
「ハーレイをクリーニングに出したいんだって?」
「…聞いていたわけ?」
「暇だったからね!」
本当は会議中だったけど、とソルジャーはサボッていた様子。多分、適当に返事しながら座っていたというだけでしょう。こっちの世界を覗き見しながら。
「そうだよ、議題が退屈すぎてさ…。救出作戦の計画だったら楽しいけれども、メンテナンスの日程なんかは別にどうでもいいんだよ!」
ハーレイが聞いておけば充分! と流石の無責任ぶり。もっとも、ソルジャーがメンテナンスについて聞いても、何の役にも立たないんでしょうけど。
「その通り! 下手に弄れば壊すだけだし、ぼくは現場はノータッチ!」
「はいはい、分かった。…それで悪趣味にも盗み聞きを、と」
ぼくたちが此処で喋っていたことを…、と会長さんが軽く睨むと。
「失礼だねえ! ぼくが話を聞いていたから、君にとっても悪くない話を持って来たのに!」
「…どんな話を?」
「クリーニングだよ、こっちのハーレイの!」
洗ってもいいし、お預かりサービスも出来るんだけど、とソルジャーは胸を張りました。ソルジャーの世界はSD体制とやらで、全くの別世界だと聞いています。私たちの世界では考えられない人間相手のクリーニング屋さん、もしかして存在してますか…?



会長さんが希望していた教頭先生のクリーニングとお預かりサービス。どう考えても無理だとばかり思っていたのに、ソルジャー曰く、どちらも可能。SD体制の世界だったら、当たり前のようにあるのが人間相手のクリーニングですか?
「うーん…。クリーニングだけなら、当たり前だね! ぼくの世界じゃ!」
店があるわけじゃないんだけれど、と言うソルジャー。
「だけど、ブルーの望み通りのクリーニングってヤツではあるかな、うん」
「暑苦しいのを洗ってくれるのかい?」
そのクリーニング、と会長さんが尋ねると。
「他にも色々、綺麗サッパリ! 機械にお任せ、どんな危険な思考でも!」
たまにトラブルが起こるんだけど、とソルジャーは自分の顔に向かって人差し指を。
「洗い損なったら、こんな風にミュウになっちゃうから! もう大失敗!」
捕獲するとか、処分するとか、どちらにしたって大騒ぎだから、ということは…。そのクリーニングって、ソルジャーがたまに喋っている成人検査ってヤツですか?
「成人検査が一番有名だけどね、その時々で記憶を処理していくのがマザー・システムだね!」
ちょっと呼び出して記憶を綺麗にクリーニング、と怖い話が。
「別にお店に行かなくっても、人類の家は何処でも監視用の端末ってヤツがあるからねえ…。それの前に呼ばれて光がチカチカ、アッと言う間に洗い上がるよ!」
不都合な記憶くらいなら、と恐ろしすぎる世界が語られました。SD体制を批判するような危険な思考を持っていた場合は、専門の車がやって来るとか。車の中には頭の中身を調べて記憶を書き換える装置、それで駄目なら施設に送られてクリーニングで。
「大抵は上手くいくみたいだけど、失敗しちゃうと、ぼくみたいになるか、発狂するか…」
「「「うわー…」」」
怖いどころのレベルではありませんでした。教頭先生がいくら暑苦しい思考の持ち主なのかは知りませんけど、そこまでして洗って貰わなくっても…!
会長さんもそう考えたようで、慌てて断りにかかりました。
「そのクリーニングは要らないから! ぼくはそこまで求めてないから!」
「誰が機械に頼むと言った? 第一、ミュウが頼みに行っても、機械の方が断るから!」
ミュウはマザー・システムと相性最悪、と言われてみれば、その通り。ソルジャーはマザー・システムを相手に戦う日々なんですから、クリーニングは頼めませんねえ…。



会長さんの希望通りのクリーニングが出来るシステムはあっても、ミュウの場合は使えないらしいソルジャーの世界。なのに、ソルジャーは「洗ってもいいし、お預かりも」と提案して来た辺りが謎です。機械に頼らず、独自の方法でも編み出しましたか、クリーニングの?
「それはまあ…。ぼくはミュウだし、ミュウならではの方法だったら幾らでも!」
記憶をチョチョイと弄ってるヤツがクリーニング、とソルジャーが言う記憶の操作。それなら何度も見ています。ソルジャーの存在自体を誤魔化してこっちで遊び歩いたり、ソルジャーにとっては都合の悪い記憶を自分の世界で消したり。…時間外労働をさせた仲間の記憶とかを。
「…ハーレイにそれを応用すると?」
そして暑苦しさを消してくれると、と会長さんが質問すると、ソルジャーは。
「それは駄目だね、ぼくはハーレイと君との結婚を目標にしているから!」
暑苦しさはキープしないと、とソルジャーに教頭先生の記憶をクリーニングする気は無い様子。それなら何を洗うんですか?
「文字通りだよ、ぼくが背中を流すとか! もっとデリケートな場所だって!」
「却下!」
そんなクリーニングは必要無い、と会長さんは眉を吊り上げました。
「ますます暑苦しくなっちゃうじゃないか、君がハーレイを洗ったら!」
「うーん…。だったら、洗う方はセルフでお願いするとか、でなきゃ、ぶるぅかハーレイに洗って貰うか…」
とにかく洗ってお預かり、とソルジャーは指を一本立てて。
「君が求めるサービスってヤツはそれなんだろう? 暑苦しいハーレイをお預かり!」
「…そうだけど…。そう言ってたけど、君が預かってくれるとか?」
「喜んで! ぼくの青の間はスペースが余っているからね!」
ハーレイの二人や三人くらいはお安い御用、とソルジャー、ニコニコ。
「預かってる間は、ハーレイは自由に過ごしてくれれば…。寝ていてもいいし、覗いてもいいし」
「覗く?」
「青の間に来たら、覗かない手は無いってね! ぶるぅも覗きは大好きなんだし!」
ぼくとハーレイの熱い時間を是非! と言ってますけど。それって、ソルジャーとキャプテンの大人の時間の覗きですよね、教頭先生、余計に暑苦しい人間になってしまいませんか…?



ソルジャーが持ち出した、覗きとセットの教頭先生お預かりサービス。会長さんが求めるものとは正反対な結果になりそうですから、これは駄目だと思いましたが。
「…そのサービス。ハーレイが鼻血でダウンした時はどうなるんだい?」
フォローの方は、と会長さんが訊くと、ソルジャーは。
「放置に決まっているじゃないか! ぼくもハーレイも忙しいんだから!」
途中で手当てに行くわけがない、とキッパリと。
「それにね、ダウンしていることにも気付くかどうか…。真っ最中だけに!」
「なるほどね…。それじゃ、ぶるぅが手当てをしない限りは…」
「もう間違いなく、朝まで倒れているしかないね!」
それに、ぶるぅは手当てをしない、とソルジャー、断言。
「なにしろ、ぶるぅの頭の中には、食べ物のことと悪戯だけしか詰まってないし…。手当てをしようと思うよりも先に悪戯だろうね!」
身ぐるみ剥いで落書きするとか、ハーレイの苦手な甘い物を口に詰め込むだとか、と「ぶるぅ」のやりそうな悪戯がズラズラ羅列されて。
「悪戯は駄目だと言っておいたら、やらないだろうと思うけど…。手当てをするってことだけは無いね、ぼくも頼もうとは思わないから!」
ぶるぅに何かを頼む時には食べ物で釣るしかないものだから、と言うソルジャー。
「こっちのハーレイを預かるだけだし、余計な手間は御免だよ。鼻血でダウンしてても放置!」
「ふうん…。それなら預けてみようかな?」
いい感じに頭が冷えそうだから、と会長さんはニヤニヤと。
「夢と現実は違うものだ、と痛感する羽目になりそうだしねえ? …隣の芝生は青いと言うけど、どんなに涎を垂らしていたって、何も起こりはしないんだよね?」
「うん、今回のお預かりサービスに関してはね!」
ぼくのベッドに誘いはしない、とソルジャーが挙げた大事なポイント。教頭先生は覗きをしてもいいというだけ、美味しい思いはそれで全部で。
「鼻血を噴いてダウンするまでは、好きなだけ覗いてくれていいけど…。他には一切、サービスなんかは付かないってね!」
あくまでお預かりサービスだから、とソルジャーは会長さんに約束しました。クリーニング屋さんが預かり中の服を勝手に着たら駄目なのと同じで、お預かりサービスで預かった教頭先生に手出しは一切しない、と。



ソルジャーにしては珍しい申し出もあったものだ、と誰もが思いましたが、ソルジャーが言うには商売だとか。会長さんから毟れるチャンスで、たまには自力で稼ぎたいそうで。
「お小遣いなら、ノルディがたっぷりくれるんだけど…。たまには自分でアルバイト!」
今はアルバイトのチャンスが無くて、と頭を振っているソルジャー。
「こっちの世界でアルバイトしたことは無いんだけどさ…。ぼくの世界だと、時々ね」
「「「え?」」」
「何度も言ったと思うけど? 人類がやってる研究所とかに潜り込むんだよ!」
研究者のふりをして入った以上は、当然、給料も出るものだから、というのがソルジャーがやったアルバイト。貰ったお給料で外食をしたりしていたそうです。
「…ぼくの世界じゃ、それほど食べたい物もないしね…。お菓子ばっかり食べていたけど!」
「「「うーん…」」」
確かにそういう人だった、と溜息しか出ないソルジャー好みの食生活。私たちの世界に来ている時には、「地球の食事は何でも美味しい」とグルメ三昧していますけれど、自分の世界だとお菓子以外は食べるのが面倒なんでしたっけ…。
「そうだよ、栄養剤で充分だって言っているのにさ…。ぼくの世界のノルディが文句を言うんだよねえ、それにハーレイも」
「それが普通だと思うけど?」
食事くらいは食べたまえ、と会長さん。
「こっちの世界で食べてもいいから、とにかく普通に食事をね! お菓子だけじゃなくて!」
「言われなくても、こっちだったら食べるけど…。先立つものが必要だから、アルバイト!」
今はアルバイトをしたい気分、と言うソルジャーには、自分の世界でアルバイトするチャンスが無いのだそうです。そういったわけで趣味と実益を兼ねて、こっちの世界でお小遣い稼ぎ。教頭先生のお預かりサービスを始めて儲けたいとかで…。
「…こんな所でどうかな、料金。ハーレイには仕事もあるってことだし、土日は一日預かるってことで、このお値段で…。平日は夜だけ、その分、値段はお得になるよ」
ソルジャーがサラサラと紙に書き付けた値段は強烈なものでした。会長さんが御布施と称して踏んだくる金額と張り合える価格、それだけに…。
「とりあえず、お試しってことで、今日から預かって明日の夜に返すコースだと…」
このお値段! と破格に安い金額が書かれ、会長さんは「乗った!」と即答で。ソルジャーはウキウキと瞬間移動で消えてしまいました、早速お預かりサービスですか…!



寒い季節だけに、お昼は豪華にフカヒレラーメン。会長さんはもう暑苦しいとは言っていなくて、熱々のラーメンに舌鼓。そこへソルジャーがヒョイと戻って来て…。
「ぶるぅ、ぼくにもフカヒレラーメン!」
「えとえと…。ラーメンはいいけど、ハーレイは?」
どうなっちゃったの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が急いで作って来たフカヒレラーメン。教頭先生の行方は私たちも気になる所です。お預かり中か、それともこっちの世界にいらっしゃるのか。
「ハーレイかい? お昼御飯を食べてる筈だよ、青の間で!」
ちゃんとコンビニ弁当を渡して来たから、というソルジャーの答え。お預かりサービス、もう始まっているわけですね?
「お試しでどうぞ、と言ったからには迅速に! それにハーレイも納得してるし!」
もちろん、こっちのハーレイだよ、という補足。
「ぼくのハーレイにも言っておいたし、明日の夜までお預かり! 青の間には誰も訪ねて来ないのが基本だからねえ、ハーレイが増えてもバレやしないって!」
お掃除部隊が突入するまでは余裕が充分、と威張るソルジャー。片付けるのが苦手なソルジャーの青の間は足の踏み場も無くなるくらいに散らかるのが常で、酷くなったらお掃除部隊の出番です。でも、ニューイヤーのパーティーが終わった直後に突入されてしまったそうで…。
「次に来るまで、一ヶ月くらいは大丈夫! 来るとしたって、土日さえ避けて貰えれば!」
ハーレイを夜しか預からない日は問題無し! という話。ソルジャーがお小遣いを稼ぎたい間は、教頭先生は預かられたままになるようです。食事はコンビニ弁当ですね?
「一応、希望は聞くけどね…。コンビニ弁当か、カップ麺がいいか、その程度には!」
預かった以上は多少の責任というものが…、と言ってますけど、コンビニ弁当かカップ麺かを選べる程度の生活ですか、教頭先生…。
「その生活に何か問題でも? ハーレイは喜んでたけどねえ?」
夜の生活、覗き放題! と満面の笑顔。教頭先生、お預かりサービスと聞くなり嬉々として荷造りなさったそうです、ソルジャーの世界へ旅立つために。
「ボディーソープとかは好きに使っていいよ、と言ってあげたら、感激してたねえ…」
「…そうだろうねえ…」
青の間のバスルームを使えるだけでもハーレイにはポイント高いだろうから、と会長さん。そこへソルジャーと同じボディーソープとかを使えるとなれば、大満足の御滞在かな…?



こうして預かられてしまった教頭先生は、翌日の夜に戻って来ました。私たちは会ってはいませんけれど。会長さんの家でやった寄せ鍋、それを食べに来たソルジャーから話を聞いただけ。
「ちょっと早いけど、返しておいても問題ないかと…。明日も寝込んでいるだろうから」
学校の方は休みじゃないかな、と寄せ鍋の席に混ざったソルジャー。
「「「休み?」」」
「うん。…あれも知恵熱って言うのかな? それともオーバーヒートの方かな…?」
熱を出しちゃって寝込んでいるからベッドにお届け、という報告。会長さんは「ふうん?」とサイオンで教頭先生の家を覗き見してから。
「…脳味噌がパンクしたって感じだねえ? うわ言の中身が下品だからね」
「「「下品?」」」
「君たちが聞いても意味が不明で、ぼくやブルーにしか分からない中身!」
もう最高に下品だから、と会長さんは吐き捨てるように。
「まったく、どれだけ欲張ったんだか…。昨日の夜の覗きの時間!」
「欲張るも何も、一瞬で沈んだらしいけど?」
ぶるぅが証言してたから、とソルジャーは大きな溜息を。
「ほら、せっかくのお客様だしね? ぶるぅも張り切って案内したわけ、よく見える場所に!」
「「「………」」」
おませな悪戯小僧の「ぶるぅ」。大人の時間の覗きが大好き、そのせいでキャプテンがヘタレる話は有名です。「ぶるぅがあそこで…」とソルジャーに泣き付くとか、そういうの。言わば覗きのプロが「ぶるぅ」で、覗きに適したスポットにも詳しいことでしょう。
「それはもちろん! でもって、ぼくのハーレイに気付かれないよう、シールドもきちんと張ったんだけど…。ハーレイの分も、しっかりと!」
そして覗きのプロならではの解説もしようとしたのだそうです。プロ野球とかの解説よろしく、ソルジャー夫妻の大人の時間を実況中継。けれど、相手はヘタレな教頭先生だっただけに…。
「なんだったかなあ、「ハーレイ、構えました! これは大きい!」って言ったんだっけか、そこでブワッと鼻血だったとかで…」
「「「…???」」」
「おおっと、入った! ハーレイ、頑張れ、頑張れ、もっと奥まで! って解説しながら横を見た時は既に意識が無かったらしいね」
そのまま朝まで轟沈で…、と言われても謎な、その状況。大人の時間は謎だらけです…。



お預かりサービスで覗きのプロな「ぶるぅ」に出会った教頭先生、鼻血なコースを走ってダウン。会長さんに言わせれば脳味噌がパンク、下品なうわ言を連発しながら寝込んでしまって…。
「お試しコースはこういう感じ! どうする、明日からも続けて預かる?」
平日は夜だけ、土日は丸ごと、というソルジャーの申し出に、会長さんは飛び付きました。冬の最中でも暑苦しいらしい教頭先生のお預かりサービス、どうやらとても美味しいらしく…。
「それで頼むよ、あの調子だったら、当分、平和になりそうだから!」
清々しい毎日を過ごせそうだし、と会長さんが「そるじゃぁ・ぶるぅ」に持って来させた札束。現金払いがお得な所も多いらしくて、金庫に入れてあるのだそうです。
「お試しコースの分と、一週間分と…。これで次の土日までいけるよね?」
とりあえず一週間でよろしく、と札束を差し出した会長さんに、ソルジャーは。
「一週間でもいいんだけれど…。当分の間、預かるんなら、お得なコースも用意したけど?」
クリーニング屋のお預かりサービスだと、次に使う時まで預かるそうだし…、とソルジャーが出した料金表。一ヶ月コースだとこのお値段で、二ヶ月だと…、という説明。教頭先生の暑苦しさが倍増するだろう夏も含めたコースになったら、割引はドカンと三割だとかで。
「断然、こっちがお勧めだけどね? 一年コースだと五割引きっていうのもね!」
三割引きは大きいよ、と会長さんの顔を見詰めるソルジャー。
「元の値段が高いからねえ、三割引きで浮く金額がこれだけで…。五割引きだと、もっとお得で」
「五割引きねえ…。魅力的ではあるかな、それは」
「いいと思うけどね? 気が変わった時は解約できるし、長期コースがぼくのお勧め」
三割引きとか、五割引きとか…、とソルジャーは長期コースを勧めて、会長さんも。
「悪くないねえ、これだけ値引きをして貰えるなら…」
やっぱり五割引きだろうか、と大きく頷き、「一年コースで!」と札束をドンと。
「これで一年分だよね? お預かりサービス」
「五割引きだから、合ってるね。…君は賢い選択をしたよ、一ヶ月ずつ払っていたんじゃ、この倍になってしまうんだからね!」
お預かりサービス、一年コースで引き受けるから、とソルジャーが手にした札束の数に、私たちは唖然とするばかり。あれだけの現金が会長さんの家にあったというのも驚きですけど、あの金額なら家が一軒買えそうです。それも庭付き、立派な注文住宅が…。



会長さんが大金を支払った、教頭先生のお預かりサービスは順調でした。ソルジャーは約束通りに毎晩、教頭先生を回収して行き、朝に戻すという毎日。週末は終日お預かりですし、会長さんの口から「暑苦しい」という苦情はもう聞かなくて済みそうです。
「大金を払った甲斐があったよ、ハーレイが暑苦しかった頃が嘘のようだよ」
電話もかかって来ないから、と会長さんは至極ご機嫌。それはそうでしょう、夜になったら回収ですから、教頭先生はソルジャーの世界へ移動です。電話なんかは出来ません。
「あんたも思い切った選択をしたな、まさかあれだけの金を出すとは…」
そうそう出来んぞ、とキース君が言い、ジョミー君も。
「普段はケチケチしてるのに…。出す時にはドンと出すんだね、ブルー」
「快適な生活のためとなったら、あれくらいはね!」
またハーレイから毟ってやったら取り返せるし、と凄すぎる台詞。預けてあるほど暑苦しいのに、毟るためなら接近すると…?
「当然じゃないか、毟ってなんぼ! でも、その前に入試があるから」
「「「は?」」」
「シャングリラ学園の入試だってば、試験問題をハーレイから毟って来ないとね!」
「「「あー…」」」
アレか、と思い出しました。教頭先生にベッドの上で耳掃除のサービス、それをする代わりに試験問題のコピーを横流しして貰うヤツ。そんな面倒なことをしなくても、試験問題は瞬間移動で盗み放題なのが会長さんなのに。
「ぼくの娯楽の一つだしねえ、まずはアレから!」
それが済んだら、ブルーに支払ったお預かりサービスの代金を何回かに分けて毟ることにする、と会長さんは鬼でした。教頭先生をソルジャーの世界に捨てているくせに、捨てるために払った代金を捨てられた人から毟ろうだなんて…。
「いいんだってば、ハーレイの生き甲斐は貢ぐことだから!」
このぼくに、と自信たっぷりな会長さんだったのですけれど…。



「…違約金?」
そんなのは聞いていないんだけど、と青ざめている会長さん。その向かい側では、ソルジャーが。
「言わなかったかな、長期コースは割引率が大きくなる分、ぼくだって損をするわけで…」
だから途中で解約するなら、倍の値段を支払って貰わないと、と言うソルジャー。
「ぼくはきちんと仕事をしたのに、君の都合で解約なんだよ? しかも一ヶ月も経たないのに!」
支払わないなら、お預かりサービスを継続するから、とキッチリと釘が刺されました。
「君にどういうリスクがあろうと、ぼくは仕事をするだけだってね!」
「ちょ、ちょっと…! これを一年も続けられたら…!」
ハーレイがもっとエライことに、と会長さんはアタフタと。
「君も覗き見してたんだろう? 試験問題を貰いに行ったぼくが、どうなったかは!」
「見てたけど? 耳掃除の後は熱い抱擁、いつものハーレイと同じだけどねえ?」
毎年、毎年、それでおしまい、と言うソルジャーですけど。
「今年は違っていたんだってば、ぼくはお尻を撫でられたんだよ! サワサワと!」
「…いいじゃないか、別に減るものじゃないし」
「ううん、ぼくは身の危険を感じたわけで! このままハーレイを放っておいたら大惨事だと!」
覗きで耐性がついて来たのに違いない、と会長さんは震え上がったのでした。教頭先生に限ってそれは無さそうだと誰もが思っているわけですけど、会長さんはとうに冷静さを失っていて…。
「だから、解約! お預かりサービスは今日限りで!」
もうハーレイを預からないでくれ、と大パニックな会長さんには、後ろめたさでもあったのでしょうか。教頭先生を別の世界へ放り出してしまった例のサービス。暑苦しいとは言っていたものの、三百年以上も片想いされているわけですし…。
「それだけは無い! 後ろめたいなんて思ってないけど!」
でも、本当に怖かったんだ、と会長さんは解約をするつもりでいて、ソルジャーの方は。
「じゃあ、違約金。…払わない間は、ぼくは仕事を続けるだけ!」
「暴利だってば、せめて半額に負けてくれるとか!」
「どうせハーレイから毟る気なんだろ、もっと貰ってもいいくらいだよ、違約金!」
「そのハーレイから毟れないんだよ、今の状態だとリスクが高くて…!」
毟りに行ったら押し倒されそう、と会長さんは怯えまくりで、違約金の値引きに必死です。身から出た錆だと思いますけど、自分が蒔いた種なんですから…。



「…キース先輩、こういう場合は会長が払うしかないんですよね?」
違約金を、とシロエ君が訊いて、キース君が。
「契約書があったら、文句の言いようもあるんだろうが…。口約束だからな…」
「でも、口約束には法律上の効果は無かったように思うわよ?」
払わなくても良さそうだけど、とスウェナちゃんが言っていますけど。
「甘いな、あいつに法律なんぞが通用すると思うのか? 別の世界から来てやがるんだぞ」
裁判所に訴えることも出来ないんだが、とキース君がサラッと告げた現実。
「それじゃ、ブルーは払うしかないわけ?」
あのとんでもない値段の倍も、とジョミー君が呆然、サム君も。
「…払えなかったら、例のサービスがこれからも続くっていうのかよ?」
「そうなるな。…ブルーが諦めて払う気にならない限りはな」
だが、支払った金を教頭先生から毟るコースは無理そうだし…、と合掌しているキース君。教頭先生が覗きの日々で鍛えられたと思い込んでいる会長さんには、毟りに行くことが出来ませんから、物凄い額の違約金を払うか、一年コースを継続するか。
「…タダほど高いものはねえ、って言うけどよ…」
高く出してもああなるのかよ、とサム君が呻いて、シロエ君が。
「相手が悪すぎたんですよ。美味い話には罠がある、とも言いますからね…」
「「「うわー…」」」
会長さんとソルジャーは、まだギャーギャーと騒いでいます。けれど勝てない相手がソルジャー、会長さんは凄い金額を違約金として支払う羽目になるのでしょう。払ったお金を教頭先生から毟り取れる日は遠そうです。教頭先生をカモにし続けた罰が、とうとう当たっちゃったかな…?




           預けて爽やか・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 教頭先生をソルジャーの世界で預かって貰って、大満足な日々を過ごしていた生徒会長。
 ところが身の危険を感じたわけで、解約しようと思ったら…。美味い話には気を付けないと。
 次回は 「第3月曜」 10月17日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、9月のイベントと言えばお彼岸。今年は23日がお中日で…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv









(えっ…?)
 なに、とブルーが見詰めた窓の外。今の光は何だったの、と。
 学校の帰り、いつもの路線バスの中。お気に入りの席に座って外を見ていたら、眩しい光が目を射たから。何の前触れも無く、突然に。
 光ったものの正体は、と眺めてみても分からない。光るものは何も無さそうな外。こんな昼間にライトを点けても、そう眩しくはならない筈。
 ますます変だ、と気になって外を見詰めるけれども、あの場所でだけの光だったら…。
(もう離れちゃって、何の光か…)
 分かんないよ、と思った所でピカッと来た光。あれだ、と光の方を追ったら、其処にいた車。
(……車……)
 対向車線を来た、車の屋根の照り返し。太陽の光をそのまま反射した車。
 信号停止で止まっているから、よく見てみると…。
(光ってる…)
 屋根のが特に眩しいけれども、ボンネットも弾いている光。まるで車が光っているよう。
 バスの車高が高いから見える、他の何台もの車の屋根。光っているのは、一台だけしか見えないけれど。他の車は、ごくごく普通。
(鏡の反射とかと同じで…)
 角度の問題。太陽と車と、車を見ている自分の視線の高さ。それが揃ったら、ピカリと光る。
 さっき「なあに?」と驚いた光も、きっと車が弾いた光。眩しいほどの照り返し。
 まるで気付いていなかったけれど、そうなる所を車が走って行ったのだろう。バスの窓から外を眺めていた時に。車など見てはいなかった時に。
 あんなに眩しく光るのだったら、太陽の光を弾くなら…。
(ハーレイの車も…)
 走っていたら、光る筈。太陽の光を浴びて、ピカッと。
 濃い緑色の車だけれども、いつも綺麗に磨いてあるから。鏡みたいにピカピカだから。



 バス停に着いて歩道に降りたら、もうさっきほどは光らない車。
 道ゆく車をじっと見ていても、高さも角度も、バスとは違っているのが今。照り返しが目を射ることはなくて、少し光った車が通り過ぎるだけ。光の加減で、ほんの僅かに。
 眩しいとは思わない車。
 家の方へと歩き始めても、やっぱり光る車は無い。ご近所さんのガレージにある車はもちろん、側を通って行った車も。家までの道で、向こうから来た一台の車。
(パパの車は、今は無いけど…)
 此処にあっても光らないよね、と家のガレージも観察した。太陽があそこなんだから、と。
 光る車は見られないまま、入った家。
 着替えてダイニングに出掛けて行って、美味しく食べた母の手作りのケーキ。
 「御馳走様」と二階の部屋に戻って、窓から外を見下ろしたけれど…。
(道路との間に、生垣があるから…)
 此処から見たって、車は光りそうにない。道を走って行ったとしても。どちらの方向から走って来たって、弾いた光は生垣の向こう。
(光、木の葉が飲み込んじゃう…)
 青々と茂った常緑樹の生垣、それの葉と枝が遮る光。車が光を反射したって。
 考えてみれば、ハーレイの愛車が光る所も…。
(見たことない…)
 ハーレイが車に乗って来る日は、休日だったら、雨模様か雨が近い空。そんな空では光らない。
 おまけにやっぱり生垣の向こうを走って来るから、光っても此処から見られはしない。
(晴れた日に、車…)
 出会って間も無い初夏の頃には、そういう日だって何回かあった。
 庭で一番大きな木の下、ハーレイが「デート用だぞ」と据え付けてくれた、キャンプ用の椅子とテーブルと。あれを運んで来てくれた頃は、晴れた日に車で来ていたハーレイ。
 けれど、照り返しを見た記憶は無い。ガレージまで車を眺めに行ったりしていたのに。



 仕方ないよね、と零れた溜息。晴れた日にハーレイの車が来ていた時には、車より…。
(トランクの中身の方に夢中で…)
 車はろくに見ていなかった。ハーレイが魔法のように取り出すテーブル、それから椅子。
 そちらの方に目を奪われて、ついでにハーレイにも夢中。車を見ているわけがない。太陽の光を反射していても、きっと気にさえ留めてはいない。「眩しい」とさえも。
(今だと、ハーレイ、晴れた日は乗って来ないから…)
 見られないよ、と分かっているのが照り返し。
 学校のある日は帰りに車で来てくれるけれど、もうその頃には太陽の光は強くないから。西へと傾き始めているから、ガレージの辺りはとうに日陰になっている。
(ハーレイの車が太陽の光を弾くトコ…)
 自慢の愛車の照り返しに出会えそうな日は当分先、と思った所で頭を掠めていったこと。太陽の光を受けて輝く照り返し。
(あれ…?)
 どうだったかな、と本棚の中から引っ張り出した、白いシャングリラの写真集。前にハーレイに教えて貰った豪華版。父に強請って買って貰って、ハーレイとお揃いで持っている。
 その写真集のページをめくってゆくと…。
(光ってる…)
 太陽の光を弾く船体。晴れ渡ったアルテメシアの上空、其処で輝くシャングリラ。
 アタラクシアの町の上にでも浮かんでいるのか、飛んでゆく所を撮ったのか。真っ白な船体が、まるで鏡になったよう。綺麗に反射している光。白い鯨の巨大な船体、その一部分が光った瞬間。
 写真は見事に、照り返しを写し取っていた。
 白い鯨が光るのを。…太陽の光を眩く弾いて、青空に浮かんでいる所を。



 アルテメシアの太陽を浴びた、シャングリラ。白い船体が放つ光は、太陽の光の照り返し。
 その美しさは、写真集で見慣れていたけれど。
 何度も広げて眺めてみては、「綺麗だよね」と思っていた写真なのだけど…。
(前のぼく…)
 ソルジャー・ブルーだった前の自分は、こんなシャングリラは見ていない。ただの一度も。
 白い鯨は、いつも雲海の中だったから。
 前の自分が空を飛んでも、シャングリラは常に雲の中。太陽の光を直接浴びはしないし、船体が光ることもない。太陽の光を反射しようにも、その太陽が雲の向こうでは。
(…ぼくだけが空を飛んでいたって…)
 見えるわけがなかった照り返し。雲の中にいる白い鯨は、けして光りはしないから。
 そのシャングリラがアルテメシアを離れる時には、衛星兵器に狙い撃ちされて、雲の海から外へ一部が出た筈だけれど…。
 前の自分は、船の外には出ていない。船を守れるだけの力は、もう無かったから。
 青の間のベッドに横たわったまま、「ワープしよう」と決断するのが精一杯。そんな状態では、シャングリラを外から見られるようにと、思念体で抜け出す余裕さえ無い。
 だから見ていない照り返し。…船が光を浴びていたって。
(ジョミーは見たかな?)
 もしかしたら、白いシャングリラの照り返しを。
 ミュウの子供だと分かったシロエを救い出そうと、船を離れていたジョミー。慌てて船に戻ったけれども、その時に目にしていたろうか。太陽の光を浴びて輝く船体を。
(そんなの、気が付く暇も無かったかな…)
 衛星兵器からの攻撃、それを防ぐのがジョミーの役目だったから。
 白いシャングリラが沈まないよう、死力を尽くして守らなくてはいけなかったから。



 ジョミーでさえも、アルテメシアを離れる時には、そういう状態。
 きっと照り返しには気付きもしないで、船へと飛んで戻っただろう。白い鯨を守り抜くために。
 もう戦えなかった前の自分の代わりに、シールドを展開するために。
(照り返し、ジョミーも見ていなくって…)
 前の自分も、見ないまま。…白いシャングリラは、アルテメシアから宇宙へと逃げた。
 太陽の光はもう無い所へ、漆黒の宇宙空間へ。瞬かない星たちが散らばる場所へ。
 そうなるよりも前は、前の自分がシャングリラで旅をしていた頃には…。
(せいぜい、恒星…)
 見ていた光は、その程度。白いシャングリラから見えた光は。
 アルテメシアに辿り着くまでに、旅をした宇宙。幾つかの恒星の側も通ったけれども、それほど近付いてはいない。照り返しが船を照らすほどには。
(…あんまり近付きすぎるより…)
 距離を保って飛んでいたのがシャングリラ。前のハーレイが取っていた航路。
 キャプテン・ハーレイの愉快な口癖、「フライパンも船も似たようなモンだ」を忠実に守って。
 フライパンも船も焦がさないことが大切なのだし、恒星に近付きすぎたら焦げるのが船。
 いつも安全な距離を取っていただけに、其処で物資の調達のために宇宙へと出ても…。
(…照り返しなんか…)
 一度も見られはしなかった。太陽でもある恒星までは、遠かったから。
 白い鯨へと改造する時、船を下ろした惑星上でなら、月明かりの中に浮かぶシャングリラも見たけれど。船体がぼうっと白く光って、まるで発光しているようにも見えたけれども。
(こんなの、知らない…)
 眩しいほどに輝く、太陽からの照り返し。ピカリと反射する、目を射るほどに強すぎる光。
 それを浴びているシャングリラなどは、ただの一度も見なかった。
 写真集ではお馴染みだけれど、前の自分が全く知らないシャングリラの姿。



 知っているようなつもりでいたのに、と見詰めた写真。白い船体の一部が光ったシャングリラ。
 今日の帰り道、バスの窓から見ていた車の屋根みたいに。照り返しで眩しく感じた車。
(なんだか新鮮…)
 ぼくの知らないシャングリラ、と見ている姿を、ハーレイは知っているのだろう。この写真集で見たわけではなくて、肉眼で。前のハーレイだった頃の瞳で。
 アルテメシアを落とした後なら、きっとこういうシャングリラの姿も目にした筈。様々な惑星に降りていたから、照り返しで光るシャングリラだって。
 その筈だよね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
「あのね、照り返しを見たことある?」
「照り返し?」
 なんだそれは、とハーレイは怪訝そうな顔。「照り返しがどうかしたのか?」と。
「えっとね…。今日の帰りに車が光っていたんだよ」
 バスの窓から外を見てたら、いきなりピカッと何かが光って…。
 さっきのは何の光だろう、って見ている間に、向こうから車が走って来て…。
 それで照り返しだって分かったんだよ、車の屋根が太陽の光を反射して光ってたんだ、って。
「アレか、お前もやられたんだな。バスに乗っかってて」
 なかなかに眩しいもんだぞ、あれは。運転してると、「かなわんな」と思うくらいに。
 夕方は特によく光る、とハーレイが言うのは車の話。道路を走っている車。
「そうじゃなくって…。元は車の照り返しだけど、ぼくが訊いてるのはシャングリラ…」
「シャングリラだと?」
 白い鯨か、お前が言うのは白い鯨の照り返しなのか?
「そう。…そっちに頭が行っちゃったんだよ」
 今のハーレイが乗ってる車の照り返し、ぼくは一度も見たことないから…。
 まだ当分は無理だよね、って思ってる内に、シャングリラのことに気が付いちゃって…。



 これ、と勉強机から、あのシャングリラの写真集を持って来て、広げて見せた。
 照り返しで光るシャングリラの写真。「ハーレイはこういうのも見たんでしょ?」と。
「アルテメシアを手に入れた後なら、あちこちの星で見られた筈だよ」
 大気圏の中に浮かんでいたでしょ、いろんな星で。
 そういう時なら、照り返しだって見えるから…。ハーレイが船の外に出ればね。
「確かに見たが…。お前、こいつが気になるのか?」
 照り返しなんぞ、何処で見たって同じだぞ。太陽の光は、何処も似たようなモンだから…。
 人間が住んでる惑星なんだし、それこそ夕日や、真っ昼間の光や、そんな程度の違いだけだ。
 緑や青色に光っているような太陽は無いしな、人間が暮らす恒星系には。
 特に珍しくも何ともないが、とハーレイが言うものだから。
「…そうだろうけど…。ハーレイが言う通りだけれど…」
 前のぼく、これを知らないんだよ。…こんな風に光るシャングリラ。
「なんだって?」
 前のお前が知らないだなんて…。今のお前なら当然だろうが、前のお前だぞ?
 自由自在に空を飛べたし、俺よりも先に見ていそうだが…。
 昼間に船の外に出たなら、太陽が昇っているんだから。
 前のお前も照り返しくらいは見ているだろう、とハーレイも気付いていなかった。雲海の中では船は輝かないことに。…照り返しで光りはしないことに。
「ハーレイだってそう思うんなら、ぼくが今日まで気付かないのも仕方ないかも…」
 前のぼく、アルテメシアで何度も外に出たけど、シャングリラは雲の中だったから…。
 こんな風には光らないんだよ、雲の中だと太陽の光を直接浴びることは無いから。
「そういや、そうか…。いつだって雲の中だったっけな」
 シャングリラが雲の中にいたんじゃ、お前が出たって照り返しを見るというのは無理か…。
 そいつをすっかり忘れてた。気付かなかったと言うべきか…。
 此処に載ってる、こういう姿。
 照り返しで眩しく光る姿は、お前が知らないシャングリラの顔というヤツなんだな。



 前のお前が知らない顔か、とハーレイが紡いだ言い回し。それが心に響いて来た。
 白いシャングリラには違いないけれど、前の自分は見ていない顔。
「うん、その言葉! ぼくも思った!」
 上手く言葉に出来なかったけど、ハーレイが言った言葉がピッタリ。
 照り返しで光るシャングリラの姿は、前のぼくが知らない顔なんだよ。…シャングリラのね。
 あの船でずっと暮らしていたのに、一度も見せてくれなかった顔。前のぼくが生きてた間には。
 いなくなった後には、前のハーレイも、他のみんなも見た顔だけど…。
 この照り返し、地球の太陽だとどう見えたの、と尋ねたら。
「地球か? あの時は、シャングリラは衛星軌道上に置いて行ったから…」
 それに俺たちは真っ直ぐ地球に降下したから、見てないな。
 降りる前に船の周りを飛んでいたなら、少しくらいは光っていたかもしれないが…。太陽までは遠かったんだが、地球の太陽は充分な明るさを持ってたからな。
 しかし、生憎と前の俺は見てはいないんだ。
 シャングリラが地球の大気圏内まで降りた時には、もう地殻変動が始まっていた。
 前の俺は地面の遥か下にいたし、生きていたって見えやしないさ。…照り返しはな。
「そうだったんだ…」
 地球の太陽で光るシャングリラは、前のハーレイも見ていないんだね。…ぼくだけじゃなくて。
「トォニィたちが見ただけだろうな、眺める余裕があったなら」
 多分、無かったとは思うんだが…。余裕も、外に出るようなことも。あの時の大気圏内では。
 それにだ、仮に船から出たとしたって、あんなに酷く汚れちまった大気だと…。
 大して綺麗じゃなかっただろう。照り返しってヤツを目にしていても。
 今の大気の中に降りたら、きっと綺麗に光るんだろうが…。
 此処に載ってる写真みたいに、真っ青な空に浮かんでな。
 こいつはアルテメシアの空だが、本物の地球の、抜けるように青い空の上で。
 太陽の光を一面に浴びて、キラリと眩しく弾き返して。



 さぞかし見事なんだろうな、とハーレイの目が細められた。
 シャングリラが其処にあるかのように。…地球の太陽を浴びて光っているかのように。
「…じゃあ、シャングリラは、本物の地球の太陽の光を知らないんだね」
 汚染された大気圏内だけしか、飛んでいないから。…宇宙空間だと少し違うから。
 前のぼくがシャングリラの照り返しを一度も見てないみたいに、本物の太陽を知らないまま。
 こんな風に澄んだ空気を通して、射して来る地球の太陽は。
 シャングリラは見ていないんだよね、と眺めた窓の外。夕方だけれど、まだ明るい。
「そうなるのかもな、あれも太陽ではあったんだが…」
 月だって赤くなっちまうような、濁った大気の中を通って来たんじゃ、ちょっと違うか…。
 同じ太陽の光にしても。…シャングリラが見たのと、今のとではな。
 太陽だが「月とスッポン」ってヤツか、とハーレイが持ち出した絶妙な言葉。確かにそのくらい違っただろう。白いシャングリラが浴びた太陽と、今の地球を照らす太陽とは。
 太陽そのものは変わらなくても、地球を覆う大気が違うから。
 シャングリラが地球までやって来た頃は、地球は死の星。それが今では青い水の星で、元の姿を取り戻した、まさに母なる星。その差はとても大きなものだし、別の星と言ってもいいくらい。
「…ホントに月とスッポンだよね、地球の太陽…。前のぼくたちの頃と、今では」
 前のぼくはシャングリラの照り返しを一度も見られなくって、シャングリラは本物の太陽の光を知らなくて…。
 シャングリラはもう何処にも無いから、どっちも見られないままってこと。
 ぼくは照り返しを見られないままで、シャングリラは今の太陽の光を見られないから。
「うむ…。そうなっちまうな、残念だがな」
 シャングリラはとっくに消えちまったし、地球に持っては来られない。
 今のお前に見せてやりたくても、無いものはどうしようもないからなあ…。
 シャングリラが今もありさえしたなら、お前に見せてやれるのに。…照り返しってヤツを。
 普段は他所の星にあっても、地球まで来るってことになったら、見に連れてやって。
 もちろん結婚してからなんだが、シャングリラさえ残っていたならな…。
 いや、待てよ…?



 少しで良ければ見られるんじゃないか、とハーレイはポンと手を打った。
 ほんの少しなら、シャングリラの照り返しを見られるかもな、と。
「そいつを見るには、運ってヤツが必要なんだが…」
 俺たち二人の運が良くないと、無理な話ではあるんだが…。
 運次第だ、とハーレイは言ったけれども、雲を掴むような話に聞こえる。白いシャングリラは、時の彼方に消え去った船。時の流れに消えてしまって、今は写真集の中にあるだけ。
「運次第って…。ハーレイ、シャングリラはもう無いよ?」
 遊園地になら、シャングリラの形の乗り物だってあるけれど…。あれは違うよ。
 いくら見た目がそっくりだって、シャングリラの形に作ってあるだけ。
 あれの照り返しが見られたとしても、それだと紛い物だから…。
 写真集の方がずっといいよね、と指差した写真。「これは本物のシャングリラだもの」と。
 地球のとは違うアルテメシアの太陽だけれど、ハーレイも指摘していた通り。
 人間が暮らす惑星だったら、太陽の光はそれほど違いはしないのだから。
「いいや、本物、あるだろうが。…遊園地の乗り物なんかじゃなくて」
 うんと小さくなっちまったが、今もシャングリラはあるってな。
 このくらいのサイズで、とハーレイの指でトンと叩かれた薬指の付け根。左の手の。
「え…?」
 オモチャよりも小さそうな船。とても小さなシャングリラ。薬指の幅くらいしか無いのなら。
 それが本物のシャングリラだなんて、いったいどういう意味なのだろう…?
「俺だともう少しデカくなるなあ、俺の指だとコレだから」
 お前の指よりずっと太いし、いつかお前が大きくなっても、俺の方が指は太いまま、と。
 俺の指まで言ってやっても分からんか?
 いいか、左手の薬指だぞ、この指には意味があるんだが…。
 前の俺たちとは縁が無かったが、今の俺たちには大切な指になるってな。今度は堂々と、お前と結婚出来るんだから。
 左手の薬指の指輪だ、シャングリラ・リングというヤツだ。
「あ…!」
 あったね、シャングリラ・リング…。あれはホントにシャングリラだっけ…!



 そういえば、と思い出したこと。今の時代にも残り続ける、本物の白いシャングリラ。
 トォニィが解体を決めたシャングリラは、時の彼方に消えたのだけれど。役目を終えたミュウの箱舟、白い鯨は今は何処にも無いけれど…。
 白いシャングリラの船体の一部だった金属、それが今でも残されている。その塊から、決まった数だけ作られる指輪。一年に一度、作り出される結婚指輪。
 今の宇宙では、結婚を決めたカップルだったら、誰でも指輪を作って貰える。白いシャングリラから採られた金属、それを使って対の指輪を。
 けれど、申し込めるチャンスは一度だけ。抽選に当たれば「シャングリラ・リング」と呼ばれる指輪がやって来る。ハーレイの分と、自分の分と。
 いつかハーレイと結婚する時、シャングリラ・リングを手に入れることが出来たなら…。
「…指輪の分だけ、照り返し、あるね」
 ほんの少しでも、シャングリラだから…。小さくても本物なんだから。
 指輪に太陽の光が当たれば、それがシャングリラの照り返し。…ぼくのも、ハーレイが嵌めてる指輪も、ちゃんと光を反射するから。
「そういうことになるってな。指輪サイズでも、本当に本物のシャングリラだ」
 白い鯨と同じように光るかもしれないな。あの船と全く同じ具合に。
 シャングリラ・リングは、銀色だとも、白っぽい金のようだともいう話だし…。
 白い鯨にそっくりらしい、とハーレイが浮かべた優しい笑み。「指輪になっても白い鯨だ」と。
「それって…。色は決まっていないの?」
 銀色だとか、白っぽい金だとか…。似てるようでも少し違うよ。
 同じ塊から作る筈なのに、違うだなんて…。指輪にする時、何か入れたりするのかな?
 加工しやすいように別の何かを、と傾げた首。
 白い鯨の船体だけでは、指輪を作れはしないのだろうか、と。
「そう思うだろうが、そうじゃないらしいぞ」
 どの指輪も出来上がりは全部同じだ、混ぜ物は何もしていないから。
 元はシャングリラの一部だったヤツを、溶かして指輪に加工し直すだけなんだしな。



 指輪は丸ごとシャングリラだ、とハーレイは説明してくれた。「混ぜ物は一切無しなんだ」と。
 形を指輪に作り替えるだけ、それがシャングリラ・リングだという。白い鯨の船体だった金属、他には一切何も入れない。
「そういう仕組みになっているんだ、シャングリラ・リングは」
 シャングリラそのものの記念だからなあ、手を加えたら駄目だろう。
 金属の比率を変えちまったら、もうシャングリラじゃなくなっちまう。ただの合金で、あの船の思い出にはならない。そのままの姿で残さないと。
 シャングリラ・リングは、白い鯨の船体の色じゃなくてだ、船を作っていた金属だから…。
 あの上から塗装していた船だろ、シャングリラは。色々な都合で、真っ白な船に。
 金属だけで出来てる指輪だったら、白い鯨には見えない筈だが…。
 何も塗ってはいないんだしなあ、銀なら銀で、白っぽい金なら、そういう色の筈なんだが…。
 どうしたわけだか、白い鯨にそっくりな色に見えちまう時があるそうだ。
 前の俺たちの船と同じに、真っ白に光って見える時が。
「不思議だね…。銀色だったり、白っぽい金だったりっていうのは分かるけど…」
 金属なんだし、光の具合で見え方は変わるかもしれないけれど…。
 シャングリラみたいに塗装してないのに、白い鯨の色に見えるだなんて。
 それって、とっても不思議な感じ。シャングリラで出来てる指輪だからかな…?
「どうなんだかなあ…? 俺にもサッパリ分からんが…」
 其処が光のマジックだってな、白い鯨にも見えちまうのが。…銀色とかの筈の指輪が。
 だが、色の仕組みの方はどうあれ、照り返しはちゃんと見られるぞ。
 前のお前が見損ねちまった、シャングリラの。
 指輪の分だけのヤツにしたって、本物には違いないからな。塗装してない金属でも。
「欲しいよ、シャングリラ・リング…!」
 シャングリラの照り返しが見られる指輪で、前のぼくたちが暮らした船の記念なんだから…。
「俺たちだったら、当たるって気もするんだが…」
 外れやしない、って気はしているんだが、こればっかりは運だからなあ…。
 どうなるのかは分からないよな、申し込むまで。…申し込んで抽選の結果が出るまで。



 当たってくれるといいんだがな、とハーレイにも読めないシャングリラ・リング。当たるのか、作って貰えるのか。二人揃って薬指に嵌める時が来るのか、またシャングリラに会えるのか。
「俺の運、悪くはないんだが…。お前はどうだ?」
 ラッキーな方か、と尋ねられたけれど、どうなのだろう。クジなど、滅多に引かないから。
「分かんない…。悪くないとは思うんだけど…」
 神様にお願いしておかなくちゃね、シャングリラ・リングを申し込んだら。
 抽選でハズレになりませんように、って毎日、お祈りしなくっちゃ。
 シャングリラ・リングを貰えるように、と眺めた左手の薬指。いつか結婚指輪を嵌める予定の、今はまだ細い子供の指。
 前の自分とそっくり同じ姿に育って、結婚式を挙げられる日が来たならば。…ハーレイの花嫁になる日が来たなら、この指に結婚指輪が嵌まる。ハーレイと指輪の交換をして。
(…結婚指輪に、シャングリラ・リングを貰えたら…)
 指輪を嵌めた手が本物の地球の太陽を浴びたら、白いシャングリラの照り返しが見られる。前の自分は見られなかった、太陽の光を弾く姿が。
 そしてシャングリラは、本物の地球の太陽を見ることが出来る。とても小さな指輪だけれども、今の自分の指に嵌まって。
 白いシャングリラが見られないままで終わってしまった、蘇った地球を眩く照らす太陽を。
 薬指に嵌まったシャングリラ・リング。小さな指輪に姿を変えた、懐かしい白いシャングリラ。
 それはいつでも指にあるのだし、何処へ行く時も嵌めておくのが結婚指輪。
(…ということは…)
 シャングリラ・リングを貰えて嵌めていたなら、白いシャングリラは色々な所へ行ける。薬指に嵌まって、自分と一緒に移動して。
 地球のあちこちへ出掛けてゆけるし、もちろん自分がハーレイと二人で暮らす家へも。
(それって凄い…)
 ホントに凄い、と丸くなった目。
 白いシャングリラは、本物の地球の太陽を知らないままで終わったけれども、今度は青い地球の上。真っ青な海も、緑の森も、シャングリラは見ることが出来るんだ、と。
 今の自分がシャングリラ・リングを嵌めたなら。…白いシャングリラと一緒だったら。



 とても素敵で、素晴らしいこと。シャングリラ・リングを貰えさえしたら…。
「ねえ、ハーレイ。ぼくたちの指に、シャングリラ・リングを嵌められたら…」
 抽選に当たって、ちゃんと結婚指輪に出来たら、とっても素敵。
 シャングリラ、うんと小さくなっちゃうけれど…。指輪サイズのシャングリラだけど…。
 でも、シャングリラは何処へでも行けるよ、ぼくたちと一緒に。
 結婚指輪はいつも嵌めてるものでしょ、だから旅行にも食事にも、ドライブだって。
 何処へ行く時もシャングリラと一緒で、あちこちに連れてあげられそう。前のぼくたちが生きていた船を、いろんな所へ、色々な場所へ。
 それに、ぼくたちの家の中にも入れちゃうんだよ。指輪サイズのシャングリラだから。
 玄関からでも、庭からでも…、と披露した。小さな自分が気付いたことを。
「家の中まで入れるってか? 俺の車でも、家の中には入れないんだが…」
 ガレージまでしか入れやしないし、玄関なんかは、とても通れやしないんだが…。
 シャングリラ、大した出世だな。
 人間様と一緒にあちこち出掛けて、家に入って、ゆっくりのんびり暮らせるとはなあ…。
 俺の指に嵌まってコーヒーなんかも飲むらしいぞ、と可笑しそうに笑っているハーレイ。きっと紅茶も飲むんだろうと、「お前、コーヒーじゃなくて紅茶だしな?」と。
「ケーキなんかも食べると思うよ、ぼくたちと一緒なんだから」
 シャングリラ、とても頑張った宇宙船だもの…。そのくらいの御褒美、当たり前だよ。
 家に入れるのも、コーヒーや紅茶を飲めるのも。…ケーキを食べられることだって。
 だけど、シャングリラ、凄くビックリしちゃうかも…。
 コーヒーや紅茶は美味しく飲んでも、それよりも前にビックリ仰天。
 地球が青いことにも驚くだろうけど、ぼくとハーレイが結婚だなんて。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが結婚しちゃって、シャングリラ・リングを二人で指に嵌めてるなんて…。



 もしかしたら腰を抜かしちゃうかも、と瞬かせた瞳。「青い地球よりビックリだよね」と。
「…ぼくたちがシャングリラ・リングを当てたら、ホントに大変」
 どういうカップルが嵌めるんだろう、って顔を出したら、ぼくとハーレイだよ?
 シャングリラ・リング、ビックリして床に落っこちちゃうかも、届いた箱を開けた途端に。
 ぼくとハーレイが覗き込んだら、ホントのホントに驚いちゃって。
 落ちちゃうかもね、と心配になったシャングリラ・リング。驚いて箱から転がり落ちて。揃いの指輪の片方どころか、両方ともが。
「その心配は無いってな。俺とお前の所へ来たって、シャングリラだったら大丈夫だ」
 驚くだろうが、きっと喜んでくれると思うぞ。あの船は全部知っていたしな、俺たちのことを。
 前のお前と、俺とのこと。
 船の仲間たちは知らなかったが、シャングリラは知っていたんだから。…何もかもをな。
「そっか…。そうだよね、シャングリラで暮らしていたんだから」
 前のぼくたちが恋をしてたのも、みんなに内緒で一緒にいたのも、全部知ってた筈だよね。
 ハーレイもぼくも、あの船で生きていたんだもの。
 でも…。それじゃ、何もかも全部、シャングリラに見られちゃってたの?
 前のぼくたちが抱き合ってたのも、キスしていたのも、シャングリラは全部見ていたわけ…?
 シャングリラの中にいたんだものね、と染まった頬。きっと真っ赤に違いない。
 あまりにも恥ずかしすぎるから。白いシャングリラに見られていたとは、思ったことさえ一度も無かったものだから。
「そうなるんだろうが、今度もそうだぞ。…今の俺たち」
 運良くシャングリラ・リングが当たって、指輪を嵌めっ放しなら。
 シャングリラは俺たちと一緒なんだし、今度も何もかも見られちまうってな。
 俺たちがシャングリラの中にいるのか、シャングリラが俺たちにくっついてるかの違いだけで。
 シャングリラは此処から見てるってわけだ、とハーレイがつついた自分の左の薬指の付け根。
「うーん…」
 やっぱり今度も見られちゃうわけ、シャングリラ・リングを嵌めてたら…?
 ハーレイとぼくが指輪を嵌めていたなら、何をしててもシャングリラと一緒なんだから…。



 困ったことになっちゃった、と見詰めた自分の左の手。今はまだ細い薬指。
 いつかハーレイと結婚したなら、シャングリラ・リングを其処に嵌めたいけれど。
 白いシャングリラを、あちこちに連れて行きたいけれど。
(旅行に、食事に、他にも色々…)
 満喫して欲しい、蘇った青い地球での暮らし。あの白い船に、白い鯨に。
 前の自分が守った船。ハーレイが舵を握っていた船。
 誰にも言わずに終わってしまった、前の自分たちの恋を守っていてくれた船。
 白いシャングリラには、どんなに御礼を言っても足りない。言葉ではとても言い尽くせないし、紅茶もケーキも、コーヒーも御馳走してあげたい。
(本物の地球の太陽だって…)
 その照り返しを指輪の姿で見せられるよう、左手を空へと伸ばしたいけれど。眩い光を、本物の太陽が放つ光を、シャングリラに浴びさせてあげたいけれど。
(ぼくとハーレイが結婚したら…)
 前と同じに恋人同士の日々が始まる。今は許して貰えないキスや、その先のことも。
 ハーレイと二人でベッドに入って愛を交わす時も、白いシャングリラは左手の薬指にちゃんと、くっついて眺めているわけで…。
「…恥ずかしいから外そうかな…」
 シャングリラ・リング、お風呂の前に。…外して箱に入れておいたら、見られないから。
 朝に起きたら嵌めればいいでしょ、寝る時まで嵌めていなくっても…?
 「お風呂に入る前に、外してもいい?」と訊いてみた。シャングリラに全部見られているのは、やっぱりどうにも恥ずかしいから。
「好きにすればいいが、その話、そこでやめておけよ?」
 指輪はいつでも嵌めておくんだ、って話なら可愛らしいがな…。
 いつ外そうかと相談だなんて、お前、いったい何歳なんだ。結婚出来る年じゃないだろうが。



 お前みたいなチビには早い、とハーレイにコツンと小突かれた額。
 「もっと大きくなってからだ」と、「前のお前と同じ背丈に育ってから相談するんだな」と。
 「指輪を外すタイミングなんぞ、俺は知らん」と、腕組みをして軽く睨まれたけれど。
 チビのくせに、とハーレイは顔を顰めるけれども、いつかシャングリラを指に嵌めたい。
 シャングリラ・リングを抽選で当てて、左手の薬指に嵌める小さなシャングリラ。
 指輪サイズになった白い鯨を、前のハーレイと長く暮らした懐かしい船を、大切な左の薬指に。
(結婚指輪は、いつも嵌めてるものだから…)
 白いシャングリラに、本物の地球の太陽の光をプレゼントしてあげて、前の自分が知らなかったシャングリラの顔を少しだけ覗かせて貰う。
 太陽の光を受けて輝くシャングリラを。白いシャングリラの照り返しを。
(いつも、シャングリラと一緒…)
 それがいいな、とシャングリラ・リングが当たるようにと夢を見る。
 あの懐かしい白い鯨に、沢山の御礼をしたいから。
 綺麗な景色も、御馳走なんかも、ハーレイと二人で、たっぷりと味わわせてあげたいから…。




           照り返し・了


※前のブルーは見られなかった、シャングリラの船体の照り返し。それに今はもう無い船。
 けれど、指輪になったシャングリラに、また会うことが出来るかも。何処へ行く時にも一緒。
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(嘘…!)
 クルンと回ったブルーの視界。体育の授業の真っ最中に、グラウンドで。
 まだ午前中で、日射しが暑いわけでもないのに。さっき始めたばかりのサッカー、走りすぎてはいないのに。
 けれど、回ってしまった目。よく考えたら、ボールを追い掛けて全力疾走、それもいきなり。
 いつもだったら、これだけの距離を一気に走り抜いたりはしない。足の速い仲間たちにお任せ、端で見ているだけなのが自分。
(頑張り過ぎちゃった…)
 たまたま誰もいなかったから。…いける、と思ったものだから。
 倒れちゃうんだ、と思ったけれども、止まらない身体。スローモーションみたいに感じる時間。色々なことを、こうして考えていられるほどに。
(時間、伸びてる…)
 地面が遠い、と感じる間に遠ざかる意識。まだグラウンドに倒れない身体。
 眩暈を感じた瞬間からだと、かなり経ったと思うのに。けれど時間は、まるで飴のように伸びてゆく。もう倒れても良さそうなのに、と意識はフッと消えてしまって…。
「おい、ブルー!」
 大丈夫か、と頭の上から聞こえて来た声。
 此処にいる筈がないハーレイの声で、背中の下に感じる地面。仰向けに寝かされているらしい。
「ハーレイ……先生…?」
 うっかり「ハーレイ」と呼びそうになって、慌てて付け加えた「先生」。
 ぼんやりと瞼を押し上げてみたら、ハーレイがいたものだから。
 側に屈み込んで、心配そうな顔のハーレイ。鳶色の瞳が見下ろしている。「大丈夫か?」と。
 何処から見たってハーレイそのもの、夢を見ているとは思えない。
 グラウンドで倒れた筈なのに。…身体の下には地面の感触、体育の授業中なのに。



 よくよく見たら、ハーレイの後ろに見える青空。やっぱり此処はグラウンド。
 他の生徒の声も聞こえるし、サッカーボールを追う音だって。シュートやドリブル、グラウンドだけで聞ける音。
(なんで…?)
 どうしてハーレイが此処にいるの、と訊きたいけれど。見下ろしながら日陰を作ってくれている優しい恋人、温かな声の持ち主に尋ねたいけれど。
(……敬語……)
 学校でハーレイと話す時には、いつでも敬語。学校では「ハーレイ先生」だから。
 その大切な敬語が使えそうにない。上手く話せなくて、家での言葉が口から零れてしまいそう。先生と話す言葉ではない、友達に向けるような言葉が。
 だから目だけを瞬かせた。「なんで?」と、「どうして此処にいるの?」と。
 ハーレイは直ぐに分かったらしくて、穏やかな笑みを浮かべてくれた。
「驚いたか? たまたま通り掛かったんだ。空き時間だからな」
 ちょいと学校の中を散歩だ、そしたらお前が倒れる所を、偶然、目撃しちまった、と…。
 しかしだ、お前、暫く意識が無かったし…。
 こりゃ保健室に行くしかないな、とハーレイは体育の先生と相談し始めた。グラウンドで授業を見学するより、保健室。ベッドに寝かせて、それから家に帰した方が、と。
「私もそう思っていたんですよ。帰らせた方が良さそうです」
 保健委員を呼びましょう、と手を上げかけた体育の先生を、「いえ」と止めたハーレイ。
「私が連れて行きますよ。授業中の生徒よりかは暇ですからね」
 それに、ブルー君の守り役でもあります。大丈夫ですよ、お任せ下さい。
 先生も、どうぞ授業の続きを。…あっちの方で揉めていますよ、オフサイドかどうか。



 行ってあげて下さい、とハーレイが促したから、体育の先生は「お願いします」と、生徒たちの方へ走って行った。「こら、騒ぐな!」と、声を上げながら。
(…ハーレイが連れてってくれるんだ…)
 保健委員の生徒の代わりに、保健室まで。グラウンドからは距離がある場所。
 少し遠いから、背中に背負ってくれるのだろうか。「倒れたお前を運ぶ時には、おんぶだな」と前に言っていたことがあるから。学校の中で倒れていたなら、ハーレイがおんぶ。
 それとも抱っこ、と期待したのに。
 柔道部員の生徒たちには罰でしかない、「お姫様抱っこ」での保健室行き。ハーレイが注意したことを守らず、その結果、怪我をしたならば。「行くぞ」と、逞しい両腕で抱き上げられて。
(柔道部員には恥らしいけど、ぼくはお姫様抱っこでも…)
 いいんだけどな、と夢を見たのに、「おい、立てるか?」と言ったハーレイ。
「熱は無いしな、倒れたはずみに足を捻ってもいないようだし…」
 立てるんだったら、俺が支えて歩くから。
「あ、はい…。多分…」
 大丈夫です、と起き上がってみても、世界が回りはしなかった。身体に力が入らないだけ。少し重くて、だるい感じで。
 その程度だったら立つしかなくて、外れた期待。おんぶも抱っこも、何処かに消えた。
 保健委員の生徒と行くなら、歩いてゆくのが当然のこと。ヨロヨロしていても、歩けるのなら。歩けないなら、車椅子とか担架の出番。
(…おんぶも抱っこも無しなんだ…)
 せっかくハーレイが来てくれたのに、と残念だけれど、ハーレイはしっかり支えてくれた。
 力が入らない足で立ち上がる時も、手を貸してくれて。
 なんとか立ったら、身体に腕を回してくれて。
「俺に掴まれ。…お前とじゃ、背が違いすぎるしな」
 服を握ってもかまわないから。
 スーツがちょっぴり皺になろうが、俺は文句を言いはしないぞ。



 ゆっくり歩けよ、とハーレイが一歩踏み出した足。チビの自分に合わせてくれた小さな歩幅。
 「この歩き方で大丈夫か?」と確かめてくれた。「お前に合わせたつもりなんだが…」と。
 ハーレイだったら、もっと大股で歩くのに。背筋もシャンと真っ直ぐ伸ばして。
 そのハーレイが腰を屈めて、一緒に歩いてくれている。置き去りにしてしまわないように。
(夢みたい…)
 ハーレイと並んで歩けるなんて。それも二人きりで、学校の中で。
 保健室まで距離があることを感謝した。ハーレイと二人で歩く時間が、遠い分だけ増えるから。
 倒れないようハーレイの上着の裾を掴んで歩いて、グラウンドから少し離れた所で…。
「おい、ブルー。ボロを出すなよ?」
「え…?」
 なあに、とハーレイの顔を仰いだら、返った苦笑。
「ほら、それだ。…其処は「なあに?」じゃなくて、「何ですか?」だろうが」
 学校の中では、俺はハーレイ先生だ。…お前の家とは違うってな。
 いつもみたいに敬語で話せる自信が無いなら、黙っておけ。
 他の先生だって通るし、保健室にも先生ってヤツがいるんだから。
 分かったな、と刺された釘。「失敗するより、最初から喋らない方がマシだ」と。
 それきり、黙ってしまったハーレイ。…ハーレイが話せば、きっと自分も話し出すから。
 会話はプツンと途切れてしまって、黙って歩くしかないのだけれど。
(喋れなくても…)
 ハーレイと二人だったら幸せだよ、と校舎に入って歩いた廊下。
 保健室がもっと遠いといいなと、まだまだ着きたくないんだけれど、と心の中で繰り返して。



 そうは思っても、どんな道にもある終点。「保健室」と書かれた部屋の前に着いた。
 ハーレイが扉を「ほら」と開けてくれて、中に入ると、顔馴染みになった女の先生。保健室には何度も来ているのだから、当然だけれど。
 「ブルー君?」と名前を呼んだ先生に、ハーレイが「ええ」と代わりに答えた。
「体育の授業で倒れたんです。いきなり全力疾走したそうで…。この通りですよ」
 たまたま私が通りましてね、こうして連れて来たんです。保健委員も授業がありますからね。
 ベッドに寝かせていいですか?
 熱は無いですから、それほど心配要らないだろうとは思うんですが…。
「どうぞ、ベッドは何処でも空いてますから」
 今日の保健室は暇なんです、と保健室の先生が言う通り。並んだベッドはどれも空っぽ、先客は誰もいなかった。「暇なんです」と言うほどだから、怪我をした子もいないのだろう。
「良かったな、ベッドが空いていて。…選び放題だぞ、何処がいい?」
 そうおどけながら、ハーレイはベッドに座らせてくれた。体操服にグラウンドの土がくっついていないか確認してから、「寝ていろよ」という命令。
 ベッドの上に横になったら、上掛けがそっと被せられた。「こんなモンかな」と胸の辺りまで。
 その間に、保健室の先生が「ブルー君の家に連絡を」と、通信を入れていたのだけれど。
「…お留守みたいですわね」
 困ったような先生の声で、気が付いた。母が通信に出ない理由。
(ママ、出掛けるって…)
 昨日の夜に、そう聞いた。「明日はお友達と出掛けて来るわ」と。午前中だけと言っていた母。知り合いが小さな展覧会をするから、それを見に行くと。
 思い出したから、そう言った。「母は午前中は留守なんです」と、ベッドの上から。



 午前中だけと聞いたのだけれど、行き先は小さな展覧会。しかも知り合いが開いたもの。其処へ友達と出掛けたのなら、昼御飯も食べて来るかもしれない。
(…だけど、どうだか分からないから…)
 今、言わなくてもいいだろう、と「午前中は留守」と伝えたものの…。
「そりゃ困ったな…。お母さん、出掛けちまってるのか…」
 お前、行き先、知らないだろうな、と首を捻っているハーレイ。「こりゃ連絡は無理だな」と。
「後で通信を入れてみますわ、お昼休みにでも」
 その頃にはお帰りになるでしょうから、と保健室の先生が書いているメモ。きっと中身は、次に通信を入れる時間。「お昼休み」だとか、「午前中は留守」とか、そんな感じで。
「すみません、ブルー君をよろしくお願いします」
 また昼休みに、様子を見に来てみますから。…あ、連絡がつくようでしたら…。
 ブルー君は私が送って行くと伝えて下さい、とハーレイが口にした言葉。
 「午後は授業が無いですから」と、「これも守り役の役目の内でしょう」とも。
 母が迎えに来るのだったら、タクシーを使うことになる。そうするよりもずっといい、と。
(ホント…!?)
 ハーレイに送って貰えるんだ、と高鳴った胸。
 学校の駐車場に停めてある濃い緑色の車、前のハーレイのマントの色とそっくりな車。あの車で家まで送って貰える。ハーレイの運転で、助手席に乗って。
(ハーレイの車で、家までドライブ…)
 ほんの短い距離だけれども、二人きりで乗ってゆく車。ハーレイの車で走れる道路。
 それを思うと、もう嬉しくてたまらない。
(身体、なんだか重いから…)
 下手をしたなら明日は欠席、それはとっても癪だけど。
 学校を休むことになったら、その日は会えない「ハーレイ先生」。昼の間はハーレイに会えずに終わってしまう。「ハーレイ先生」の方にしたって、ハーレイには違いないのだから。



 嬉しい反面、癪にも障る「倒れた」こと。
 ハーレイと一緒に保健室に来られて、家まで送って貰えるにしても…、と複雑な気分。大喜びの自分と、悔しい自分と、どちらも本当。
 いったいどちらが大きいだろう、と考えていたら、こちらの方へ向いたハーレイ。
「そうだ、お前の制服とかは…。ロッカーか?」
 今は体操服に運動靴だし、ロッカーの中といった所か。制服も、靴も。
「はい…」
 ロッカーです、と返事した。其処に入れてある、制服と靴。体育の授業の前に着替えて、入れた自分のロッカーの中。鍵などは無いロッカーだけれど。
「開けてもいいな? 俺が送って行くんだから」
 今じゃないがな、後で送って行く時に。…でないと、お前の服も靴も無いし。
 どうせ持ち物検査の時には、抜き打ちで開けちまうのがロッカーだしな?
 いいな、と念を押すハーレイ。「開けないとお前の服が出せない」と、大真面目な顔で。
「すみません。お願いします…」
「よし。…じゃあ、また後で見に来るから」
 お母さんと早く連絡がつくといいな、とハーレイは保健室から出て行った。「よろしく」と女の先生に軽く頭を下げて。
 次に来るのは昼休み。それまでは授業か、他の用事で忙しいのか。
(…ずっとついてて欲しいんだけど…)
 そう思ったって、此処は学校。ハーレイはあくまで「ハーレイ先生」、一人占めしたり出来ない場所。保健室まで連れて来て貰えただけでも幸運なのだし、贅沢なことはとても言えない。
 それに…、と綻んでしまった顔。
 母にきちんと連絡がついたら、ハーレイが家まで送ってくれる。
 チビの自分は、まだドライブには行けない車で。いつも見ているだけの車で。



 ハーレイと出会って間も無い頃に、一度だけ乗せて貰った車。
 メギドの悪夢に襲われた夜、無意識の内にハーレイの家まで飛んでいた。瞬間移動で、ベッドの中へ。何も知らずに朝まで眠って、朝食の後で、パジャマのままで家までドライブ。
 あの時だけしか乗ってはいない。いつか乗りたい、ハーレイの隣の助手席に座れる車には。
(…車で送って貰えるんだよ…!)
 ぼくの家まで、と天にも昇る心地だけれども、ふと心配になったロッカー。教室の後ろに幾つも並んだロッカーの一つ、自分の名前が書かれた紙がついているロッカーだけど。
(…ハーレイがあれを開けるんだよね?)
 他の生徒たちもいる教室で、「荷物を取りに来たからな」と。鍵は無いから、カチャリと簡単に開く扉。そのロッカーの中を、ハーレイが覗き込むわけで…。
 きちんと制服を入れただろうか?
 畳みもしないで突っ込まないで、皺にならないように綺麗に。それに靴とか、ロッカーの中身。美術の授業で使う絵具や、他にも色々入れている場所。
(通学鞄も…)
 ハーレイが持って来てくれる筈。そちらは訊かれなかったけれども、服と一緒に届くのだろう。鞄に入れるべき物たちを選んで、ハーレイが詰めて。
(…酷いことになっていないかな…)
 鞄の中と、教科書とかを入れた机の中。
 整理しながら入れるタイプとはいえ、いつもそうとは限らない。
(たまに、慌てて…)
 いい加減に突っ込んでしまったりする、机や鞄やロッカーの中身。休み時間に友達と話す間に、ついつい時間が経ってしまって。チャイムの音でビックリ仰天、エイッと放り込む中身。
(変なことになっていませんように…)
 今更どうにもならないのだけど、祈るような気持ち。「神様、お願い」と心の中で。
 けれど、だるくて重たい身体。自然と瞼が重くなっていって、身体もベッドに沈んでゆくよう。
 いつの間にやら、スウッと眠りに落ちてしまって…。



「ブルー君?」
 大丈夫、という保健室の先生の声で目が覚めた。あれからどのくらい経ったのだろう?
 そう思いながら「はい」と答えた。天井が回っていたりはしないし、大丈夫と言えば大丈夫。
「…少し身体が重いですけど…。大丈夫です」
「良かったわ。よく寝ていたし、あれから熱も出ていないから。でも…」
 お母さん、まだ連絡がつかないの。今はお昼休みの時間だけれど…。
 どう、お昼御飯は食べられそう?
 食べられそうなら、食堂から何か届けて貰うわ、と先生は笑顔。「何か食べる?」と。
「えーっと…」
 どうだろうか、と考えたけれど、頭に浮かぶのはランチセットのプレート。食べられそうもない量と中身と。他には何も浮かんで来ないし、「無理かも…」と答えかけた所へ開いた扉。
 「ブルー君のお母さん、どうでしたか?」と入って来たハーレイ。
「あれから連絡、つきましたか? それなら送って行きますが…」
「いえ、それが…」
 まだなんです、と先生が応じて、ハーレイは「そうですか…」とベッドの方にやって来た。
「お母さん、まだ家に帰ってないんだな。この時間だったら、外で食事かもなあ…」
 それなら暫くかかるだろう。…分かった、昼飯、持って来てやるから。
「えっ…?」
 キョトンと瞳を見開いてから、「いえ、いいです…」と俯き加減で断った。ハーレイの心遣いは嬉しいけれども、昼御飯はとても食べられない。保健室の先生にだって、断るつもりだったから。
 ハーレイにもそう説明したのに、「お前なあ…」と顰められた顔。
「お母さん、何時に帰って来るかも分からないんだぞ?」
 何も食べないなんて、身体に悪い。お前、体育で走ってたしな?
 運動した分、エネルギーを入れてやらないと。
 いつものランチセットは無理でも、プリンくらいは食えるだろうが。



 買って来てやる、と出掛けて行ったハーレイ。「直ぐに戻る」と、保健室の扉の向こうへ。
 言葉通りに、本当に直ぐに戻って来たのがハーレイの凄さ。食堂まで走ったわけでもないのに、歩幅が大きいと歩く速度も速いから。
 手には食堂で売られているプリン。放課後に食べる生徒もいるから、昼休みには売り切れない。
「食っとけ、プリンは病人食にもいいんだぞ」
 卵と砂糖で栄養満点、ただし食い過ぎると駄目だがな。甘い物ばかり食ってちゃいかん。
 だが、お前には必要だ。腹が減ったら、治るものも治らないからな。
 食えよ、とプリンを見せられた。「ベッドの上で食っていいから」と、スプーンもつけて。
「はい…。ありがとうございます…」
 うん、と言えないのが悔しい。それに「ありがとう!」も。
 学校ではハーレイは「ハーレイ先生」、敬語でしか話すことが出来ない。「起きられるか?」と支えて起こしてくれても、プリンを持たせて貰っても。…それにスプーンも。
 ハーレイが側にいてくれるのに。プリンだって買ってくれたのに。
(でも、美味しい…)
 甘くてとっても優しい味、とスプーンで掬って頬張っていたら。
「あ、ブルー君のお母さんですか?」
 保健室の先生が話しながら、「良かったわね」と向けてくれた笑み。ようやく母についた連絡。
 先生は様子をテキパキ伝えて、ハーレイが送ってゆくこともきちんと話してくれて…。
「良かったな、ブルー。家のベッドで寝られるぞ」
 食い終わったら送って行くか。…俺はお前の服と荷物を取ってくるから。
 プリン、残さずに食うんだぞ?
 栄養不足じゃ話にならん。さてと、お前の制服と靴と、それに鞄と…。
 昼休みの時間で丁度良かった、とハーレイは荷物を取りに出掛けた。
 「俺は昼飯、先に食っといたから心配ないぞ」と、気になっていたことをヒョイと口にして。
 今の時間が授業中なら、教室でロッカーを開けていたなら悪目立ちだな、と笑いながら。



 教室へ荷物を取りに行ったハーレイ。これから開けられるだろうロッカー。覗かれる鞄と、机の中と。帰り支度を整えるために。
(ロッカーも鞄も、机も、きちんとしてますように…)
 神様お願い、とプリンを食べる間もお祈り。今頃いくらお祈りしたって、手遅れなのに。いくら神様でも、ロッカーや鞄を整理したりはしてくれないのに。
 それでも祈って、プリンを綺麗に食べ終えた所へ…。
 「待たせたな」と、制服と鞄を持って来てくれたハーレイ。通学用の靴だって。
「お前の荷物は、これで全部、と…。安心しろ、机の中もきちんと確かめたからな」
 忘れ物は一つも無い筈だ。プリントとかも、クラスのヤツらに確認したから。
 食い終わったんなら、着替えろよ。
 お前が着替えをしている間に、運動靴を返して来るから。…さっき持って行けば良かったな。
 運動靴、ベッドの住人には要らないのにな、とハーレイは教室に行ってしまった。ベッドの脇の床に揃えてあった、運動靴を左手に持って。
(…着替えるトコ、ハーレイ、見てくれないんだ…)
 着替えるためには体操服を脱いだりするのに、ハーレイは自分の恋人なのに。
 前の自分なら、何度も脱がせて貰ったのに。
(ハーレイのケチ…!)
 キスも断る恋人なのだし、当然と言えば当然だけれど。着替えなんかは見てもくれない。
 保健室の先生だって、ベッド周りのカーテンをサッと引いたけれども。…他の生徒が入って来た時、着替えている姿が見えないように。
(…どうせ、こうなっちゃうんだけどね…)
 ハーレイが此処に残っていたって、カーテンの向こう。
 「早くしろよ?」などと言いながら。着替える姿は影さえ見ないで、保健室の先生と話すとか。
 そうなることが分かっているから、なんとも悲しい。
 どうせチビだよ、と悔しい気分。それに学校、ハーレイが「ハーレイ先生」なことも残念。



 膨れっ面になってしまいそうなのを、我慢して着替えて、腰掛けたベッド。靴を履いたら、丁度戻って来たハーレイ。扉が開く音と、「着替えたか?」という声と。
「あ、はい…!」
 終わりました、と開けたカーテン。「よし」とハーレイが通学鞄を持ってくれた。
「行くとするかな。…先生、お世話になりました」
 送って来ます、と保健室の先生に挨拶も。
 大急ぎで自分も頭を下げた。ピョコンと、「ありがとうございました」と御礼。
 やっぱり少しふらつく足。ハーレイが支えて歩いてくれて、保健室を出て、少し行ったら。
「大丈夫か、ブルー? なんとか歩けはするようだが…」
 プリン、美味かったか?
 ちゃんと栄養になりそうか、と問い掛けられた。「お前の昼飯、プリンだけだが」と。
「はい…」
 美味しかったです、と答えるのだけで精一杯。「ありがとうございました」も言い忘れた。あのプリンは、ハーレイが買って来てくれたプリンだったのに。
(…ぼくって駄目かも…)
 御礼も言えない駄目な生徒、と思うけれども、まだ校舎の中。
 ハーレイは「ハーレイ先生」なのだし、下手に喋ったら、きっと敬語が崩れてしまう。家で使う言葉になってしまって、周りの生徒や先生たちに…。
(偉そうな喋り方をしてる、って…)
 呆れられるか、叱られるか。
 そうなることが分かっているから、話せない。…黙って歩いてゆくしかない。
 ハーレイにしっかり支えて貰って、二人並んで歩いていても。恋人と一緒に歩いていても。



 ホントに残念、と心で溜息を零してみたり、「御礼も言えない、駄目な子だよね」と、プリンの御礼を言いそびれたことを悔やんだりして、歩いた廊下。保健室から、校舎の外へ出るまでの。
(廊下、こんなに長かったっけ…?)
 話しながらだと直ぐなのに、と思う間に、ようやっと、外。校舎を離れて、ハーレイの車がある駐車場が其処に近付いて来たら…。
「ドライブだな」
「え…?」
 もう、頑張って敬語で話さなくても大丈夫な場所。昼休みの終わりのチャイムが鳴ったし、誰も此処まで来はしない。生徒も、それに先生だって。
 そういう所で、ハーレイの口から出て来た言葉が「ドライブだな」。
 ドライブとはどういう意味だろう、と目を丸くして見上げたハーレイの顔。ドライブを期待していたのだけれども、まさかハーレイが言うとは思わなかったから。
「なあに、お前の家までドライブだってな。…ドライブにしては短い距離だが」
 お前がバス通学をしてるってだけで、元気な生徒は歩きに自転車。
 たったそれだけの距離しか無いドライブだし、ついでにお前は病人なんだが…。
 乗れ、とハーレイに開けて貰った助手席のドア。
 其処に座ったら、「鞄はお前が持ってろよ」と通学鞄を渡された。膝の上にポンと乗せられて。
 「俺はあっちだ」と、助手席のドアがバタンと外から閉まって、ハーレイが車の前を横切る。
 運転席の方のドアを開いて、乗り込むために。
(これ、本当にドライブなんだ…!)
 ぼくの家までの間なんだけど、とキョロキョロ周りを見回した。
 ハーレイの車で家までドライブ、短い距離でも二人きり。こういう車だったっけ、と天井や床やシートなんかを目で追ってゆく。
(…ハーレイの車…)
 いつもハーレイが乗ってる車、と誇らしい気分。それの助手席、其処に自分がいるのだから。
 まるでデートの帰りみたいに、ハーレイが送ってくれるのだから。



 ワクワクする間に、運転席に座ったハーレイ。ハンドルやシートやミラーを確かめ、エンジンをかけて、車が動き出した時。
「シャングリラ、発進!」
 そう懐かしい声が上がった。遠く遥かな時の彼方で、何度も耳にしていた言葉。
 キャプテンだった前のハーレイ、そのハーレイが舵を握って、あるいはブリッジのキャプテンの席でかけた号令。「シャングリラ、発進!」と、誰の耳にも届くようにと大きな声で。
(…シャングリラ…)
 そうだったっけ、と思った車。ハーレイの車は、いつかシャングリラになる車。
 今のハーレイと今の自分と、二人だけのために動くシャングリラ。今は濃い緑色の車で、白い車ではないけれど。…白いシャングリラではないのだけれど。
 ぼくとハーレイのシャングリラ、とハーレイの方に顔を向けたら、「うん?」と視線。
「ああ言ってやりたい所なんだが、まだ言えないな。…お前、チビだし」
 俺とデートに出掛けてゆくには、年も背丈も足りてない。シャングリラに乗るには早いってな。
 今のはちょっとしたサービスってトコだ、俺もケチではないんだぞ。
 お前の元気が出るように言ってみたんだが、と駐車場を出て走り始めた車。校門を抜けて、後にした学校。道路に出たらもう、本当にハーレイと二人きり。
 いくら制服を着込んでいても、膝の上に通学鞄があっても、「ハーレイ先生」はもういない。
 学校の外では、もう教え子ではない自分。ハーレイだって、教師ではない。
(…ぼくとハーレイと、二人だけ…)
 まだシャングリラとは呼んで貰えない車だけれども、ハーレイと二人。
 前の生と同じに恋人同士で、二人きりで走ってゆく道路。
 ほんの短い距離にしたって、家に着くまでの道だって。…学校から帰るだけだって。



 いつかデートに出掛ける時には、自分が座る筈の席。ハーレイの隣にある助手席。
 其処に座って前を見ている。ハーレイが見ているのと同じ景色を、ほんの少しだけ隣にずれて。
 そのハーレイはハンドルを握って、未来のシャングリラを操る。真っ直ぐに、時には右に左に、家へと続いている道を。
(気分だけでも、ドライブで、デート…)
 はしゃぎたいのに、重たい身体。
 学校を早退するほどなのだし、身体が軽いわけがない。どんなに心が軽くても。
 踊り出したいくらいに弾んで、羽が生えて飛んでゆけそうでも。
 ハーレイと話もしたいというのに、だるくて力が入らない。それでも、と口を開いてみた。
「…えっとね…」
 この車、と言った途端に、重々しい声。
「静かにしていろ。酔っちまうぞ」
 お前に元気が無いっていうのは分かるんだ。…声の調子で。
 そういう時には酔いやすい。お前みたいに身体が弱けりゃ、なおのことだ。
 ゆっくり走っているつもりなんだが、他の車には迷惑かけられないからなあ…。
 これが限度だ、だから黙って乗っていろ。…酔わないように。
 いいな、と幼い子供に言い聞かせるように、ハーレイが注意するものだから。
「…うん…」
 そう頷くしか道は無かった。
 酔ってしまったら、ハーレイの好意を台無しにする。家に着いたら車酔いでフラフラ、今よりも酷い状態だなんて。
 そんな自分を母が見たなら、きっとハーレイに平謝り。「ご迷惑をおかけしました」と。
 車に酔うほど具合が悪いと知っていたなら、タクシーで迎えに行ったのに、と。
(…そんなことになったら…)
 次のチャンスは二度と訪れない。
 学校で倒れて、ハーレイの車で家までドライブ。
 そうしたくても、母が保健室の先生に「迎えに行きます」と言ってしまうから。ハーレイの車で帰る代わりに、タクシーに乗って帰る家。…母と一緒に。



 またハーレイの車で家に帰りたかったら、酔わないこと。ハーレイの注意を守ること。
 仕方なく黙って、助手席のシートに深くもたれて乗っている内に、もう家の近くの住宅街。
(バス停だって、過ぎちゃった…)
 いつも歩いて帰ってゆく道、其処をハーレイの車で走って、見えて来た生垣に囲まれた家。
 ガレージに車が滑り込んだら、家の中から出て来た母。
「ハーレイ先生、すみません!」
 家まで送って来て頂くなんて、と母が駆けて来て、ハーレイも「いいえ」と運転席から降りた。ドアを閉めて、助手席の方に向かってやって来る。
 家に着いたのだし、此処は学校ではないし…。
(ハーレイに抱っこして貰える?)
 逞しい両腕で抱き上げられて、車からふわりと降ろされる。それとも、背中におんぶだろうか。
(おんぶだったら、助手席のドアは手で閉められるけど…)
 抱っこの方なら、足で蹴ってドアを閉めるとか。…母に「お願いします」と閉めて貰うとか。
 玄関の扉も、母が開けたりするのだろう。ハーレイは自分を抱っこかおんぶで、部屋まで運んでくれるのだから。…ハーレイに余計な手間をかけるより、母が扉の開け閉めの係。
(玄関も、ぼくの部屋の扉も…)
 ママだよね、と考える。おんぶでも、それに抱っこでも。
 学校ではどちらも駄目だったけれど、家なら、きっと抱っこか、おんぶ。
 どっちなのかな、と夢見る間に、ハーレイが開けた助手席のドア。
「降りられるか?」
 酔ってないか、とハーレイが降ろしたのは鞄だけだった。膝に乗せていた通学鞄。
 それを降ろして母に渡して、それっきり。「掴まれ」と手が差し出されただけ。
(…抱っこは?)
 それに、おんぶは、なんて訊けるわけがない。母が鞄を持って直ぐ側にいるし、ハーレイの手が目の前にあるのだから。「どうした?」とでも言うように。
「……大丈夫……」
 降りられるよ、と掴まった、がっしりした手。自分で降りるしかなかった助手席。
 この手に抱っこして欲しかったのに。…抱っこが駄目なら、おんぶで運んで欲しかったのに。



 どっちも駄目になっちゃった、と突っ立っている間に閉まったドア。
 いつか自分が乗る筈の席は、もうハーレイが閉めた扉の向こう。濃い緑色をしているドアの。
「ハーレイ先生、本当にすみません…。お仕事中でらっしゃいますのに」
 ブルーを送って下さるなんて、と母が何度もお辞儀している。「ご迷惑をお掛けしました」と。
「いえ、空き時間ですから、かまいませんよ」
 丁度いい息抜きになりました。仕事中には、なかなか運転出来ませんしね。
 車で出られる人はいないか、と声でも掛からない限り、車で走りたくても無理で…。
 じゃあな、ブルー。
 家でいい子にしているんだぞ、とクシャリと撫でられた頭。大きな手で。
「え…?」
 まさか、と見詰めたハーレイの顔。「じゃあな」とか、「いい子にしろ」だとか。
 これでは、まるでお別れのよう。…たった今、家に着いたばかりで、お茶の用意もまだなのに。
「分かってるだろ、俺は学校に戻らんと…。仕事中だからな」
 空き時間でも、お前を送って出て来たついでに、ゆっくりお茶とはいかないってな。
 その辺の所は、俺はきちんとしたいんだ。…誰も何にも言わないからこそ、けじめってヤツ。
 また帰り道に寄ってやるから、大人しく寝てろ。無理をしないで。
 晩飯の時にも、まだ食欲が戻ってなければ俺のスープの出番だよな、と笑顔のハーレイ。
 「お母さんと早く家に入れ」と、「ゆっくり寝るのも薬からな」と。
 もう一度、頭をクシャリと撫でると、ハーレイは車に乗ってしまった。運転席に。
(そんな…!)
 此処まで来たのに行っちゃうの、とハーレイに縋り付きたい気分。
 「ぼくの部屋まで一緒に来てよ」と、「ベッドに入るまで側にいてよ」と。
 けれど、閉まった車のドア。内側からバタンと、呆気なく。
 直ぐにエンジンがかかる音がして、手を振って走り去ったハーレイ。
 「じゃあな」と、運転席の窓越しに。
 いつか二人だけのシャングリラになる車、それを走らせて、真っ直ぐに元の学校へと。



(…行っちゃった…)
 ハーレイ、帰って行っちゃった、と声も出ないで立ち尽くしていたら、母の声。
「どうしたの、ブルー? ボーッとしちゃって…」
 具合が悪いのなら、早く寝ないといけないわ。パジャマに着替えて、ちゃんとベッドで。
 ごめんなさいね、留守にしていて。
 お友達に食事に誘われたけれど、食べずに帰れば良かったわ。…ブルーが帰って来るんなら。
「ううん…。ちゃんと保健室のベッドで寝てたから」
 ママはちっとも悪くないよ、と微笑んだけれど。
 家に入ってパジャマに着替えて、大人しくベッドに入ったけれど。
(抱っこも、おんぶも…)
 駄目だったよ、と本当に残念でたまらない。
 ハーレイの逞しい腕か背中で、部屋に運んで欲しかったのに。玄関を入って、階段を上がって、二階の部屋まで、ハーレイに抱っこか、おんぶで帰る。
 そうしてベッドに寝かせて貰って、上掛けもそっと被せて貰って、ハーレイは暫く、一人きりでお茶。自分が眠ってしまうまでの間、椅子に腰掛けてベッドの側で。
(…送ってくれるんなら、そこまでして欲しかったのに…)
 空き時間なら、やってくれても良かったのに、と考えるけれど、あっさり砕けてしまった夢。
 それでも、幸せなドライブは出来た。
 ハーレイと二人で、いつかシャングリラになる車で。
(…シャングリラ、発進! っていう声も…)
 ちゃんとサービスして貰えた。
 学校で倒れてしまった時に、ハーレイが上手く居合わせたから。
 その上、母が外出していたお蔭。
 ハーレイは家まで送ってくれたし、お茶も飲まずに学校に帰って行ったけれども…。



 来てくれるよね、と分かっていること。
(学校の仕事が終わったら…)
 来ると約束してくれたしね、とウトウトと落ちてゆく眠り。
 明日も欠席になってしまっても、きっとハーレイが来てくれる。
 食欲が出ないままだった時は、ハーレイが作る野菜スープも飲める筈。
 前の生から好きだったスープ、何種類もの野菜をコトコト煮込んだ素朴なスープ。
(…野菜スープのシャングリラ風…)
 ちゃんと食欲が戻っていたって、今日はあのスープを頼もうか。
 甘いプリンも美味しかったけれど、やっぱりハーレイの野菜スープが一番だから。
 「シャングリラ、発進!」という懐かしい声が聞けた、今日のドライブ。
 そんな日の夜は、あの懐かしい野菜スープを、ハーレイの側でゆっくり味わいたいから…。




          夢のドライブ・了


※体育の授業で倒れたブルー。ハーレイが通り掛かったお蔭で、思いがけない幸運が。
 ハーレイの車で家までドライブ。おんぶも抱っこも無しでしたけれど、夢のように素敵な日。
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