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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




元老寺の除夜の鐘で古い年を送って迎えた新年。初詣と冬休みが済んだら三学期スタート、シャングリラ学園はイベントが幾つもあります。お雑煮大食い大会に水中かるた大会、それが終われば入試前の下見シーズンやら、バレンタインデーに向けてのカウントダウンやら。
何かと賑やか、外の寒さも吹っ飛びそうな勢いですけど、その学校も土日はお休み。今日は朝から会長さんのマンションにお邪魔してるんですけれど…。
「…いよいよ暑苦しくなってきた…」
会長さんの呟きに「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「暑すぎた?」とエアコンのリモコンを。
「みんな寒い中を歩いて来たから、これくらいでいいかと思ったんだけど…」
「すまんな、俺たちが寒い、寒いと連発したから…」
少し下げてくれ、とキース君が。
「もう充分に暖かくなったし、俺たちの方は大丈夫だ」
「ですよね、来た時には震えていましたけどね…」
今日は北風が強かったですし、とシロエ君も。
「バス停から此処まで歩く間に冷えちゃいましたけど、今はポカポカですから」
「分かった! えーっと…」
2℃ほど下げればいいのかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が設定を変えようとした所へ。
「いいんだよ、部屋はこのままで。…暑苦しいのは別件だから」
「「「は?」」」
「暑いと思っているのは、ぼくだけってこと!」
ぼく一人だけ、と自分を指差す会長さんに、キース君が呆れた顔つきで。
「あんた…。無精していないで着替えれば済む問題だろう! そのセーターとか!」
「ホントだよ…。サイオンを使えば一瞬じゃないの?」
何処かの誰かがいつもやってる、とジョミー君だって。私も全く同感です。暑苦しいなんて言うほどだったら、着替えればいいと思いますけど…?
「会長、今日の服には何かこだわりでもあるんですか?」
それで着替えたくないんでしょうか、とシロエ君。そっちだったら分かりますよね、今日はコレだと思った服なら、気合で着ようってこともありますから…。



暑苦しいと漏らした会長さん。その実態はシャングリラ・ジゴロ・ブルーと呼ばれるくらいの女たらしで、モテるのが自慢の超絶美形というヤツです。ファッションセンスにも自信アリでしょうし、モテるためなら暑い真夏でも毛皮のコートを着そうなタイプ。
とはいえ、今は自分の家にいるわけで、周りは私たち七人だけ。あっ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」もいますけど。つまりは身内も同然な面子、カッコよくキメる意味は何処にもありません。フィシスさんでも来るというなら別なんですが…。
「フィシスは来ないよ、今日はお出掛けしちゃったからね」
ブラウたちと一泊二日で旅行、と会長さんはフィシスさんの予定もしっかり把握。今がシーズンのカニと温泉の旅だそうです、豪華なホテルにお泊まりして。
「カニですか…。それはとっても羨ましいんですが…って、だったら、なんでその服なんです?」
ぼくたちにモテても意味が無いですよ、とシロエ君。
「サム先輩は会長にぞっこんですけど、わざわざ服までキメなくっても…。サム先輩なら、会長がジャージを着ていたとしても幻滅しないと思いますが」
「当然だぜ! 俺はブルーに惚れてるんだし、服じゃねえから!」
勢いよく答えたサム君ですけど、会長さんは「そうじゃなくって…」とフウと溜息。
「ぼくが暑苦しいって言ってる方もさ、ジャージだろうが、ツナギだろうが気にしないってね」
「…ツナギですか…」
それはまた凄いツワモノですね、とシロエ君。
「それって、コスプレとかではなくって、いわゆる現場なツナギですよね?」
「うん。油だらけでも、泥だらけでも、現場の匂いがしみついていようと無関係!」
どんな服でも気にしないであろう、と言うんだったら、なおのこと着替えれば済む話では…って、ちょっと待って下さい、会長さんの服装とモテが関連してるってことは…。
「おい、誰か来るのか、これから此処に?」
ツナギでも気にしない誰かが来るのか、とキース君。
「そしてだ、そいつ用にとキメているのが今の服だという勘定か?」
「…まさか。君の理論は破綻してるよ」
どんな服でも気にしない相手が来るなら、それこそ服はどうでもいい、と会長さん。だったら、暑苦しいと言っていないで着替えればいいと思うんですけど…?



会長さんの「暑苦しい」発言、でも着替えるという選択肢は無し。ついでにツナギも気にしないという凄い女性とお付き合いしているらしいです。ウチの学校の生徒でしょうか?
「うーん…。当たらずとも遠からずってトコかな、それは」
会長さんの台詞に、ジョミー君が。
「生徒じゃないなら、職員さんとか? …先生ってことはないもんね」
「ブラウ先生は旅行中だと言うからな…」
ツワモノと言ったらブラウ先生くらいだろう、とキース君。
「それに、ブルーが付き合っているという話も聞かんし、職員さんだな。…あんた、誰を毒牙にかけたんだ!」
「失礼な! ぼくは被害者の方だから!」
毒牙にかかってしまった方だ、と会長さんがまさかの被害者。
「会長がハメられたんですか!?」
シロエ君の声が裏返って、キース君も。
「…甘い台詞でたらし込んだつもりが、逆に捕まったというオチか? それはマズイぞ」
ちゃんと清算しておけよ、と大学を卒業したキース君ならではのアドバイスが。
「後でモメるぞ、放っておくと」
「もう充分にモメてるってば、三百年以上」
「「「三百年!?」」」
その数字でピンと来た人物。もしや、会長さんが暑苦しいと言ってる相手は教頭先生?
「そうだけど? 他にどういう人間がいると!」
ぼくは女で失敗はしない、と自信に溢れた会長さんの言葉。
「でもねえ、男の方だと何かと勝手が違うものだから…。ハーレイだとか、ノルディだとか」
「「「あー…」」」
教頭先生とエロドクターは会長さんを狙う双璧、現時点では実害があるような無いような…。
「そのハーレイがさ、暑苦しくて…。どんどん暑苦しさを増しつつあって!」
冬は人肌恋しい季節だから、と会長さんは、またまた溜息。
「電話はかかるし、バッタリ会ったら熱い視線で見詰められるし…」
なんとかならないものだろうか、とブツブツと。いつものことだと思いますけど、今年は寒さが厳しいだけに余計に癇に障りますかねえ…?



会長さん一筋、三百年以上な教頭先生。けれど会長さんは女性一筋、まるで噛み合わない二人の嗜好。気の毒な教頭先生は片想いの日々、それを逆手に取られてしまって会長さんのオモチャにされている人生です。
教頭先生で遊ぶ時にはきわどい悪戯もやっているくせに、邪魔な時には電話だけでも気に障るタイプが会長さんで…。
「あんた、またしても悪い癖が出たな。教頭先生には普通のことだと思うが」
モテ期が来たなら話は別だが、とキース君。
教頭先生のモテ期なるもの、世間で言われるモテ期とは中身が別物です。自分はモテると何かのはずみに思い込んでしまい、会長さんにプレゼントやラブレターを贈りまくるという一種の発作。それが来たなら、暑苦しいのも分かりますけど…。
「違うね、モテ期じゃないんだけれど…。いつものパターンだと分かっちゃいるけど…」
暑苦しくて、と会長さんはぼやいています。
「これが服なら、脱いで着替えれば済むんだけどさ…。生憎とハーレイは服じゃないから」
「違いますねえ、教頭先生は人間ですから」
脱いだり着替えたりは出来ませんね、とシロエ君。
「教頭先生の服が見た目に暑苦しいと言うんだったら、着替えて貰えばいいんですけど…」
「そうだな、服ならそれでいけるが…」
中身の方ではどうにもならんな、とキース君も。
「諦めて我慢するんだな。…でなければ、あんたが薄着するかだ」
冬の最中に半袖を着れば暑苦しさも減るであろう、とキース君からのアドバイス。
「身体が冷えれば頭も冷える。…そうやってクールダウンするのが俺のお勧めコースだが」
「冗談じゃないよ、修行中なら真冬に滝行もアリだけど!」
なんでハーレイのために寒い思いを、と会長さんの文句が炸裂。
「ハーレイが滝に打たれに行くなら分かるけどねえ、なんでぼくが!」
「俺は滝行とまでは言っていないが?」
「似たようなモノだよ、真冬の半袖!」
そしてハーレイの方は真冬に半袖でも平気なタイプ、と顔を顰める会長さん。柔道で鍛えていらっしゃる上に、古式泳法の名手でもある教頭先生、氷が張る日に半袖を着ていても平気らしいです。そう聞いちゃったら、会長さんの方が薄着するなんて理不尽ですよね…。



教頭先生が暑苦しくても、薄着はしない会長さん。教頭先生の方は冬の寒さで人肌恋しく、会長さんに電話で熱い視線と来たものです。頭を冷やしてどうなるものでもなさそうですし…。
「そこなんだよねえ、滝行をしろと放り出しても、ぼくの命令ってだけで喜ぶ相手だし!」
大喜びで滝に打たれる姿が見えるようだ、と会長さんの嘆き。
「滝行と言えば、煩悩や穢れを洗い流しに行くと相場が決まっているのに…」
「そう聞くな。俺たちの宗派は滝行は無しだが、あんたの場合は…」
「恵須出井寺の方だとアリだったからね」
サイオンでシールドしていたけれども経験はある、と会長さん。
「あんな具合にハーレイの煩悩も綺麗サッパリ洗い流せるなら、滝行だって…。ん…?」
待てよ、と会長さんは顎に手をやって。
「暑苦しいなら服を着替えで、服というのは洗うものだし…」
「かみお~ん♪ お洋服を着替えて片付ける前には、お洗濯だよ!」
でないと服が傷んじゃうもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「放っておいたら駄目になるから、きちんと洗って片付けないと!」
「そう、それ! …ハーレイも洗って片付けられればいいんだけどねえ…」
「「「はあ?」」」
「クリーニングだよ、ぼくの家ではクリーニングに出したら返って来るけれど…」
洗い終わったら届くんだけど、と会長さんが視線を窓にチラリと。
「保管しておくスペースが足りない家の場合は、お預かりサービスっていうのがあるよね?」
「らしいね、ぼくの家でも頼んでないけど…。毛布とかだっけ?」
使うシーズンまで預けておくんだっけ、とジョミー君が言うと、スウェナちゃんが。
「そうらしいわよ? 毛布だけじゃなくて、服もオッケーだったと思うわ」
「ええ、クローゼット代わりにしている人もあるみたいですね」
たまにトラブルになっていますよ、とシロエ君。預けておいたクリーニング屋さんが知らない間に閉店しちゃって、服とかが消えてしまうトラブル。連絡先を言わない方が悪いんですけど。
「そのシステムが魅力的だと思えてねえ…。今のぼくには」
誰かハーレイの煩悩を洗い流して、ついでに預かってくれないだろうか、と会長さん。
「クリーニングに出しても、落ちない汚れはありがちだから…。綺麗に洗う方は無理でも…」
せめてお預かりサービスの方を、と無茶な発言。服ならともかく、相手は教頭先生です。人間を洗ってお預かりする洗濯屋さんなんか、存在しないと思いますけど…?



暑苦しく感じる教頭先生をクリーニングに出したいと言う会長さん。あまりにも凄すぎる発想な上に、お目当てはお預かりサービスの方。洗うだけなら、エステサロンとかで文字通りツルツルにしてくれますけど、お預かりサービスは有り得ませんよ…?
「それは分かっちゃいるんだけれど…。冬だっていうのに暑苦しいから…」
ちょっと預けてしまいたい気分、と会長さんが零した所へ。
「こんにちはーっ!」
ぼくに御用は? とフワリと翻った紫のマント。別の世界からのお客様です。ソルジャーは空いていたソファにストンと座ると、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「ぶるぅ、ぼくにもおやつをお願い! それと紅茶も!」
「オッケー! 今日はね、オレンジのキャラメルケーキなの!」
はい、どうぞ! とサッと出て来たケーキと熱い紅茶と。ソルジャーはケーキを頬張りながら。
「ハーレイをクリーニングに出したいんだって?」
「…聞いていたわけ?」
「暇だったからね!」
本当は会議中だったけど、とソルジャーはサボッていた様子。多分、適当に返事しながら座っていたというだけでしょう。こっちの世界を覗き見しながら。
「そうだよ、議題が退屈すぎてさ…。救出作戦の計画だったら楽しいけれども、メンテナンスの日程なんかは別にどうでもいいんだよ!」
ハーレイが聞いておけば充分! と流石の無責任ぶり。もっとも、ソルジャーがメンテナンスについて聞いても、何の役にも立たないんでしょうけど。
「その通り! 下手に弄れば壊すだけだし、ぼくは現場はノータッチ!」
「はいはい、分かった。…それで悪趣味にも盗み聞きを、と」
ぼくたちが此処で喋っていたことを…、と会長さんが軽く睨むと。
「失礼だねえ! ぼくが話を聞いていたから、君にとっても悪くない話を持って来たのに!」
「…どんな話を?」
「クリーニングだよ、こっちのハーレイの!」
洗ってもいいし、お預かりサービスも出来るんだけど、とソルジャーは胸を張りました。ソルジャーの世界はSD体制とやらで、全くの別世界だと聞いています。私たちの世界では考えられない人間相手のクリーニング屋さん、もしかして存在してますか…?



会長さんが希望していた教頭先生のクリーニングとお預かりサービス。どう考えても無理だとばかり思っていたのに、ソルジャー曰く、どちらも可能。SD体制の世界だったら、当たり前のようにあるのが人間相手のクリーニングですか?
「うーん…。クリーニングだけなら、当たり前だね! ぼくの世界じゃ!」
店があるわけじゃないんだけれど、と言うソルジャー。
「だけど、ブルーの望み通りのクリーニングってヤツではあるかな、うん」
「暑苦しいのを洗ってくれるのかい?」
そのクリーニング、と会長さんが尋ねると。
「他にも色々、綺麗サッパリ! 機械にお任せ、どんな危険な思考でも!」
たまにトラブルが起こるんだけど、とソルジャーは自分の顔に向かって人差し指を。
「洗い損なったら、こんな風にミュウになっちゃうから! もう大失敗!」
捕獲するとか、処分するとか、どちらにしたって大騒ぎだから、ということは…。そのクリーニングって、ソルジャーがたまに喋っている成人検査ってヤツですか?
「成人検査が一番有名だけどね、その時々で記憶を処理していくのがマザー・システムだね!」
ちょっと呼び出して記憶を綺麗にクリーニング、と怖い話が。
「別にお店に行かなくっても、人類の家は何処でも監視用の端末ってヤツがあるからねえ…。それの前に呼ばれて光がチカチカ、アッと言う間に洗い上がるよ!」
不都合な記憶くらいなら、と恐ろしすぎる世界が語られました。SD体制を批判するような危険な思考を持っていた場合は、専門の車がやって来るとか。車の中には頭の中身を調べて記憶を書き換える装置、それで駄目なら施設に送られてクリーニングで。
「大抵は上手くいくみたいだけど、失敗しちゃうと、ぼくみたいになるか、発狂するか…」
「「「うわー…」」」
怖いどころのレベルではありませんでした。教頭先生がいくら暑苦しい思考の持ち主なのかは知りませんけど、そこまでして洗って貰わなくっても…!
会長さんもそう考えたようで、慌てて断りにかかりました。
「そのクリーニングは要らないから! ぼくはそこまで求めてないから!」
「誰が機械に頼むと言った? 第一、ミュウが頼みに行っても、機械の方が断るから!」
ミュウはマザー・システムと相性最悪、と言われてみれば、その通り。ソルジャーはマザー・システムを相手に戦う日々なんですから、クリーニングは頼めませんねえ…。



会長さんの希望通りのクリーニングが出来るシステムはあっても、ミュウの場合は使えないらしいソルジャーの世界。なのに、ソルジャーは「洗ってもいいし、お預かりも」と提案して来た辺りが謎です。機械に頼らず、独自の方法でも編み出しましたか、クリーニングの?
「それはまあ…。ぼくはミュウだし、ミュウならではの方法だったら幾らでも!」
記憶をチョチョイと弄ってるヤツがクリーニング、とソルジャーが言う記憶の操作。それなら何度も見ています。ソルジャーの存在自体を誤魔化してこっちで遊び歩いたり、ソルジャーにとっては都合の悪い記憶を自分の世界で消したり。…時間外労働をさせた仲間の記憶とかを。
「…ハーレイにそれを応用すると?」
そして暑苦しさを消してくれると、と会長さんが質問すると、ソルジャーは。
「それは駄目だね、ぼくはハーレイと君との結婚を目標にしているから!」
暑苦しさはキープしないと、とソルジャーに教頭先生の記憶をクリーニングする気は無い様子。それなら何を洗うんですか?
「文字通りだよ、ぼくが背中を流すとか! もっとデリケートな場所だって!」
「却下!」
そんなクリーニングは必要無い、と会長さんは眉を吊り上げました。
「ますます暑苦しくなっちゃうじゃないか、君がハーレイを洗ったら!」
「うーん…。だったら、洗う方はセルフでお願いするとか、でなきゃ、ぶるぅかハーレイに洗って貰うか…」
とにかく洗ってお預かり、とソルジャーは指を一本立てて。
「君が求めるサービスってヤツはそれなんだろう? 暑苦しいハーレイをお預かり!」
「…そうだけど…。そう言ってたけど、君が預かってくれるとか?」
「喜んで! ぼくの青の間はスペースが余っているからね!」
ハーレイの二人や三人くらいはお安い御用、とソルジャー、ニコニコ。
「預かってる間は、ハーレイは自由に過ごしてくれれば…。寝ていてもいいし、覗いてもいいし」
「覗く?」
「青の間に来たら、覗かない手は無いってね! ぶるぅも覗きは大好きなんだし!」
ぼくとハーレイの熱い時間を是非! と言ってますけど。それって、ソルジャーとキャプテンの大人の時間の覗きですよね、教頭先生、余計に暑苦しい人間になってしまいませんか…?



ソルジャーが持ち出した、覗きとセットの教頭先生お預かりサービス。会長さんが求めるものとは正反対な結果になりそうですから、これは駄目だと思いましたが。
「…そのサービス。ハーレイが鼻血でダウンした時はどうなるんだい?」
フォローの方は、と会長さんが訊くと、ソルジャーは。
「放置に決まっているじゃないか! ぼくもハーレイも忙しいんだから!」
途中で手当てに行くわけがない、とキッパリと。
「それにね、ダウンしていることにも気付くかどうか…。真っ最中だけに!」
「なるほどね…。それじゃ、ぶるぅが手当てをしない限りは…」
「もう間違いなく、朝まで倒れているしかないね!」
それに、ぶるぅは手当てをしない、とソルジャー、断言。
「なにしろ、ぶるぅの頭の中には、食べ物のことと悪戯だけしか詰まってないし…。手当てをしようと思うよりも先に悪戯だろうね!」
身ぐるみ剥いで落書きするとか、ハーレイの苦手な甘い物を口に詰め込むだとか、と「ぶるぅ」のやりそうな悪戯がズラズラ羅列されて。
「悪戯は駄目だと言っておいたら、やらないだろうと思うけど…。手当てをするってことだけは無いね、ぼくも頼もうとは思わないから!」
ぶるぅに何かを頼む時には食べ物で釣るしかないものだから、と言うソルジャー。
「こっちのハーレイを預かるだけだし、余計な手間は御免だよ。鼻血でダウンしてても放置!」
「ふうん…。それなら預けてみようかな?」
いい感じに頭が冷えそうだから、と会長さんはニヤニヤと。
「夢と現実は違うものだ、と痛感する羽目になりそうだしねえ? …隣の芝生は青いと言うけど、どんなに涎を垂らしていたって、何も起こりはしないんだよね?」
「うん、今回のお預かりサービスに関してはね!」
ぼくのベッドに誘いはしない、とソルジャーが挙げた大事なポイント。教頭先生は覗きをしてもいいというだけ、美味しい思いはそれで全部で。
「鼻血を噴いてダウンするまでは、好きなだけ覗いてくれていいけど…。他には一切、サービスなんかは付かないってね!」
あくまでお預かりサービスだから、とソルジャーは会長さんに約束しました。クリーニング屋さんが預かり中の服を勝手に着たら駄目なのと同じで、お預かりサービスで預かった教頭先生に手出しは一切しない、と。



ソルジャーにしては珍しい申し出もあったものだ、と誰もが思いましたが、ソルジャーが言うには商売だとか。会長さんから毟れるチャンスで、たまには自力で稼ぎたいそうで。
「お小遣いなら、ノルディがたっぷりくれるんだけど…。たまには自分でアルバイト!」
今はアルバイトのチャンスが無くて、と頭を振っているソルジャー。
「こっちの世界でアルバイトしたことは無いんだけどさ…。ぼくの世界だと、時々ね」
「「「え?」」」
「何度も言ったと思うけど? 人類がやってる研究所とかに潜り込むんだよ!」
研究者のふりをして入った以上は、当然、給料も出るものだから、というのがソルジャーがやったアルバイト。貰ったお給料で外食をしたりしていたそうです。
「…ぼくの世界じゃ、それほど食べたい物もないしね…。お菓子ばっかり食べていたけど!」
「「「うーん…」」」
確かにそういう人だった、と溜息しか出ないソルジャー好みの食生活。私たちの世界に来ている時には、「地球の食事は何でも美味しい」とグルメ三昧していますけれど、自分の世界だとお菓子以外は食べるのが面倒なんでしたっけ…。
「そうだよ、栄養剤で充分だって言っているのにさ…。ぼくの世界のノルディが文句を言うんだよねえ、それにハーレイも」
「それが普通だと思うけど?」
食事くらいは食べたまえ、と会長さん。
「こっちの世界で食べてもいいから、とにかく普通に食事をね! お菓子だけじゃなくて!」
「言われなくても、こっちだったら食べるけど…。先立つものが必要だから、アルバイト!」
今はアルバイトをしたい気分、と言うソルジャーには、自分の世界でアルバイトするチャンスが無いのだそうです。そういったわけで趣味と実益を兼ねて、こっちの世界でお小遣い稼ぎ。教頭先生のお預かりサービスを始めて儲けたいとかで…。
「…こんな所でどうかな、料金。ハーレイには仕事もあるってことだし、土日は一日預かるってことで、このお値段で…。平日は夜だけ、その分、値段はお得になるよ」
ソルジャーがサラサラと紙に書き付けた値段は強烈なものでした。会長さんが御布施と称して踏んだくる金額と張り合える価格、それだけに…。
「とりあえず、お試しってことで、今日から預かって明日の夜に返すコースだと…」
このお値段! と破格に安い金額が書かれ、会長さんは「乗った!」と即答で。ソルジャーはウキウキと瞬間移動で消えてしまいました、早速お預かりサービスですか…!



寒い季節だけに、お昼は豪華にフカヒレラーメン。会長さんはもう暑苦しいとは言っていなくて、熱々のラーメンに舌鼓。そこへソルジャーがヒョイと戻って来て…。
「ぶるぅ、ぼくにもフカヒレラーメン!」
「えとえと…。ラーメンはいいけど、ハーレイは?」
どうなっちゃったの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が急いで作って来たフカヒレラーメン。教頭先生の行方は私たちも気になる所です。お預かり中か、それともこっちの世界にいらっしゃるのか。
「ハーレイかい? お昼御飯を食べてる筈だよ、青の間で!」
ちゃんとコンビニ弁当を渡して来たから、というソルジャーの答え。お預かりサービス、もう始まっているわけですね?
「お試しでどうぞ、と言ったからには迅速に! それにハーレイも納得してるし!」
もちろん、こっちのハーレイだよ、という補足。
「ぼくのハーレイにも言っておいたし、明日の夜までお預かり! 青の間には誰も訪ねて来ないのが基本だからねえ、ハーレイが増えてもバレやしないって!」
お掃除部隊が突入するまでは余裕が充分、と威張るソルジャー。片付けるのが苦手なソルジャーの青の間は足の踏み場も無くなるくらいに散らかるのが常で、酷くなったらお掃除部隊の出番です。でも、ニューイヤーのパーティーが終わった直後に突入されてしまったそうで…。
「次に来るまで、一ヶ月くらいは大丈夫! 来るとしたって、土日さえ避けて貰えれば!」
ハーレイを夜しか預からない日は問題無し! という話。ソルジャーがお小遣いを稼ぎたい間は、教頭先生は預かられたままになるようです。食事はコンビニ弁当ですね?
「一応、希望は聞くけどね…。コンビニ弁当か、カップ麺がいいか、その程度には!」
預かった以上は多少の責任というものが…、と言ってますけど、コンビニ弁当かカップ麺かを選べる程度の生活ですか、教頭先生…。
「その生活に何か問題でも? ハーレイは喜んでたけどねえ?」
夜の生活、覗き放題! と満面の笑顔。教頭先生、お預かりサービスと聞くなり嬉々として荷造りなさったそうです、ソルジャーの世界へ旅立つために。
「ボディーソープとかは好きに使っていいよ、と言ってあげたら、感激してたねえ…」
「…そうだろうねえ…」
青の間のバスルームを使えるだけでもハーレイにはポイント高いだろうから、と会長さん。そこへソルジャーと同じボディーソープとかを使えるとなれば、大満足の御滞在かな…?



こうして預かられてしまった教頭先生は、翌日の夜に戻って来ました。私たちは会ってはいませんけれど。会長さんの家でやった寄せ鍋、それを食べに来たソルジャーから話を聞いただけ。
「ちょっと早いけど、返しておいても問題ないかと…。明日も寝込んでいるだろうから」
学校の方は休みじゃないかな、と寄せ鍋の席に混ざったソルジャー。
「「「休み?」」」
「うん。…あれも知恵熱って言うのかな? それともオーバーヒートの方かな…?」
熱を出しちゃって寝込んでいるからベッドにお届け、という報告。会長さんは「ふうん?」とサイオンで教頭先生の家を覗き見してから。
「…脳味噌がパンクしたって感じだねえ? うわ言の中身が下品だからね」
「「「下品?」」」
「君たちが聞いても意味が不明で、ぼくやブルーにしか分からない中身!」
もう最高に下品だから、と会長さんは吐き捨てるように。
「まったく、どれだけ欲張ったんだか…。昨日の夜の覗きの時間!」
「欲張るも何も、一瞬で沈んだらしいけど?」
ぶるぅが証言してたから、とソルジャーは大きな溜息を。
「ほら、せっかくのお客様だしね? ぶるぅも張り切って案内したわけ、よく見える場所に!」
「「「………」」」
おませな悪戯小僧の「ぶるぅ」。大人の時間の覗きが大好き、そのせいでキャプテンがヘタレる話は有名です。「ぶるぅがあそこで…」とソルジャーに泣き付くとか、そういうの。言わば覗きのプロが「ぶるぅ」で、覗きに適したスポットにも詳しいことでしょう。
「それはもちろん! でもって、ぼくのハーレイに気付かれないよう、シールドもきちんと張ったんだけど…。ハーレイの分も、しっかりと!」
そして覗きのプロならではの解説もしようとしたのだそうです。プロ野球とかの解説よろしく、ソルジャー夫妻の大人の時間を実況中継。けれど、相手はヘタレな教頭先生だっただけに…。
「なんだったかなあ、「ハーレイ、構えました! これは大きい!」って言ったんだっけか、そこでブワッと鼻血だったとかで…」
「「「…???」」」
「おおっと、入った! ハーレイ、頑張れ、頑張れ、もっと奥まで! って解説しながら横を見た時は既に意識が無かったらしいね」
そのまま朝まで轟沈で…、と言われても謎な、その状況。大人の時間は謎だらけです…。



お預かりサービスで覗きのプロな「ぶるぅ」に出会った教頭先生、鼻血なコースを走ってダウン。会長さんに言わせれば脳味噌がパンク、下品なうわ言を連発しながら寝込んでしまって…。
「お試しコースはこういう感じ! どうする、明日からも続けて預かる?」
平日は夜だけ、土日は丸ごと、というソルジャーの申し出に、会長さんは飛び付きました。冬の最中でも暑苦しいらしい教頭先生のお預かりサービス、どうやらとても美味しいらしく…。
「それで頼むよ、あの調子だったら、当分、平和になりそうだから!」
清々しい毎日を過ごせそうだし、と会長さんが「そるじゃぁ・ぶるぅ」に持って来させた札束。現金払いがお得な所も多いらしくて、金庫に入れてあるのだそうです。
「お試しコースの分と、一週間分と…。これで次の土日までいけるよね?」
とりあえず一週間でよろしく、と札束を差し出した会長さんに、ソルジャーは。
「一週間でもいいんだけれど…。当分の間、預かるんなら、お得なコースも用意したけど?」
クリーニング屋のお預かりサービスだと、次に使う時まで預かるそうだし…、とソルジャーが出した料金表。一ヶ月コースだとこのお値段で、二ヶ月だと…、という説明。教頭先生の暑苦しさが倍増するだろう夏も含めたコースになったら、割引はドカンと三割だとかで。
「断然、こっちがお勧めだけどね? 一年コースだと五割引きっていうのもね!」
三割引きは大きいよ、と会長さんの顔を見詰めるソルジャー。
「元の値段が高いからねえ、三割引きで浮く金額がこれだけで…。五割引きだと、もっとお得で」
「五割引きねえ…。魅力的ではあるかな、それは」
「いいと思うけどね? 気が変わった時は解約できるし、長期コースがぼくのお勧め」
三割引きとか、五割引きとか…、とソルジャーは長期コースを勧めて、会長さんも。
「悪くないねえ、これだけ値引きをして貰えるなら…」
やっぱり五割引きだろうか、と大きく頷き、「一年コースで!」と札束をドンと。
「これで一年分だよね? お預かりサービス」
「五割引きだから、合ってるね。…君は賢い選択をしたよ、一ヶ月ずつ払っていたんじゃ、この倍になってしまうんだからね!」
お預かりサービス、一年コースで引き受けるから、とソルジャーが手にした札束の数に、私たちは唖然とするばかり。あれだけの現金が会長さんの家にあったというのも驚きですけど、あの金額なら家が一軒買えそうです。それも庭付き、立派な注文住宅が…。



会長さんが大金を支払った、教頭先生のお預かりサービスは順調でした。ソルジャーは約束通りに毎晩、教頭先生を回収して行き、朝に戻すという毎日。週末は終日お預かりですし、会長さんの口から「暑苦しい」という苦情はもう聞かなくて済みそうです。
「大金を払った甲斐があったよ、ハーレイが暑苦しかった頃が嘘のようだよ」
電話もかかって来ないから、と会長さんは至極ご機嫌。それはそうでしょう、夜になったら回収ですから、教頭先生はソルジャーの世界へ移動です。電話なんかは出来ません。
「あんたも思い切った選択をしたな、まさかあれだけの金を出すとは…」
そうそう出来んぞ、とキース君が言い、ジョミー君も。
「普段はケチケチしてるのに…。出す時にはドンと出すんだね、ブルー」
「快適な生活のためとなったら、あれくらいはね!」
またハーレイから毟ってやったら取り返せるし、と凄すぎる台詞。預けてあるほど暑苦しいのに、毟るためなら接近すると…?
「当然じゃないか、毟ってなんぼ! でも、その前に入試があるから」
「「「は?」」」
「シャングリラ学園の入試だってば、試験問題をハーレイから毟って来ないとね!」
「「「あー…」」」
アレか、と思い出しました。教頭先生にベッドの上で耳掃除のサービス、それをする代わりに試験問題のコピーを横流しして貰うヤツ。そんな面倒なことをしなくても、試験問題は瞬間移動で盗み放題なのが会長さんなのに。
「ぼくの娯楽の一つだしねえ、まずはアレから!」
それが済んだら、ブルーに支払ったお預かりサービスの代金を何回かに分けて毟ることにする、と会長さんは鬼でした。教頭先生をソルジャーの世界に捨てているくせに、捨てるために払った代金を捨てられた人から毟ろうだなんて…。
「いいんだってば、ハーレイの生き甲斐は貢ぐことだから!」
このぼくに、と自信たっぷりな会長さんだったのですけれど…。



「…違約金?」
そんなのは聞いていないんだけど、と青ざめている会長さん。その向かい側では、ソルジャーが。
「言わなかったかな、長期コースは割引率が大きくなる分、ぼくだって損をするわけで…」
だから途中で解約するなら、倍の値段を支払って貰わないと、と言うソルジャー。
「ぼくはきちんと仕事をしたのに、君の都合で解約なんだよ? しかも一ヶ月も経たないのに!」
支払わないなら、お預かりサービスを継続するから、とキッチリと釘が刺されました。
「君にどういうリスクがあろうと、ぼくは仕事をするだけだってね!」
「ちょ、ちょっと…! これを一年も続けられたら…!」
ハーレイがもっとエライことに、と会長さんはアタフタと。
「君も覗き見してたんだろう? 試験問題を貰いに行ったぼくが、どうなったかは!」
「見てたけど? 耳掃除の後は熱い抱擁、いつものハーレイと同じだけどねえ?」
毎年、毎年、それでおしまい、と言うソルジャーですけど。
「今年は違っていたんだってば、ぼくはお尻を撫でられたんだよ! サワサワと!」
「…いいじゃないか、別に減るものじゃないし」
「ううん、ぼくは身の危険を感じたわけで! このままハーレイを放っておいたら大惨事だと!」
覗きで耐性がついて来たのに違いない、と会長さんは震え上がったのでした。教頭先生に限ってそれは無さそうだと誰もが思っているわけですけど、会長さんはとうに冷静さを失っていて…。
「だから、解約! お預かりサービスは今日限りで!」
もうハーレイを預からないでくれ、と大パニックな会長さんには、後ろめたさでもあったのでしょうか。教頭先生を別の世界へ放り出してしまった例のサービス。暑苦しいとは言っていたものの、三百年以上も片想いされているわけですし…。
「それだけは無い! 後ろめたいなんて思ってないけど!」
でも、本当に怖かったんだ、と会長さんは解約をするつもりでいて、ソルジャーの方は。
「じゃあ、違約金。…払わない間は、ぼくは仕事を続けるだけ!」
「暴利だってば、せめて半額に負けてくれるとか!」
「どうせハーレイから毟る気なんだろ、もっと貰ってもいいくらいだよ、違約金!」
「そのハーレイから毟れないんだよ、今の状態だとリスクが高くて…!」
毟りに行ったら押し倒されそう、と会長さんは怯えまくりで、違約金の値引きに必死です。身から出た錆だと思いますけど、自分が蒔いた種なんですから…。



「…キース先輩、こういう場合は会長が払うしかないんですよね?」
違約金を、とシロエ君が訊いて、キース君が。
「契約書があったら、文句の言いようもあるんだろうが…。口約束だからな…」
「でも、口約束には法律上の効果は無かったように思うわよ?」
払わなくても良さそうだけど、とスウェナちゃんが言っていますけど。
「甘いな、あいつに法律なんぞが通用すると思うのか? 別の世界から来てやがるんだぞ」
裁判所に訴えることも出来ないんだが、とキース君がサラッと告げた現実。
「それじゃ、ブルーは払うしかないわけ?」
あのとんでもない値段の倍も、とジョミー君が呆然、サム君も。
「…払えなかったら、例のサービスがこれからも続くっていうのかよ?」
「そうなるな。…ブルーが諦めて払う気にならない限りはな」
だが、支払った金を教頭先生から毟るコースは無理そうだし…、と合掌しているキース君。教頭先生が覗きの日々で鍛えられたと思い込んでいる会長さんには、毟りに行くことが出来ませんから、物凄い額の違約金を払うか、一年コースを継続するか。
「…タダほど高いものはねえ、って言うけどよ…」
高く出してもああなるのかよ、とサム君が呻いて、シロエ君が。
「相手が悪すぎたんですよ。美味い話には罠がある、とも言いますからね…」
「「「うわー…」」」
会長さんとソルジャーは、まだギャーギャーと騒いでいます。けれど勝てない相手がソルジャー、会長さんは凄い金額を違約金として支払う羽目になるのでしょう。払ったお金を教頭先生から毟り取れる日は遠そうです。教頭先生をカモにし続けた罰が、とうとう当たっちゃったかな…?




           預けて爽やか・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 教頭先生をソルジャーの世界で預かって貰って、大満足な日々を過ごしていた生徒会長。
 ところが身の危険を感じたわけで、解約しようと思ったら…。美味い話には気を付けないと。
 次回は 「第3月曜」 10月17日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、9月のイベントと言えばお彼岸。今年は23日がお中日で…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv









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(えっ…?)
 なに、とブルーが見詰めた窓の外。今の光は何だったの、と。
 学校の帰り、いつもの路線バスの中。お気に入りの席に座って外を見ていたら、眩しい光が目を射たから。何の前触れも無く、突然に。
 光ったものの正体は、と眺めてみても分からない。光るものは何も無さそうな外。こんな昼間にライトを点けても、そう眩しくはならない筈。
 ますます変だ、と気になって外を見詰めるけれども、あの場所でだけの光だったら…。
(もう離れちゃって、何の光か…)
 分かんないよ、と思った所でピカッと来た光。あれだ、と光の方を追ったら、其処にいた車。
(……車……)
 対向車線を来た、車の屋根の照り返し。太陽の光をそのまま反射した車。
 信号停止で止まっているから、よく見てみると…。
(光ってる…)
 屋根のが特に眩しいけれども、ボンネットも弾いている光。まるで車が光っているよう。
 バスの車高が高いから見える、他の何台もの車の屋根。光っているのは、一台だけしか見えないけれど。他の車は、ごくごく普通。
(鏡の反射とかと同じで…)
 角度の問題。太陽と車と、車を見ている自分の視線の高さ。それが揃ったら、ピカリと光る。
 さっき「なあに?」と驚いた光も、きっと車が弾いた光。眩しいほどの照り返し。
 まるで気付いていなかったけれど、そうなる所を車が走って行ったのだろう。バスの窓から外を眺めていた時に。車など見てはいなかった時に。
 あんなに眩しく光るのだったら、太陽の光を弾くなら…。
(ハーレイの車も…)
 走っていたら、光る筈。太陽の光を浴びて、ピカッと。
 濃い緑色の車だけれども、いつも綺麗に磨いてあるから。鏡みたいにピカピカだから。



 バス停に着いて歩道に降りたら、もうさっきほどは光らない車。
 道ゆく車をじっと見ていても、高さも角度も、バスとは違っているのが今。照り返しが目を射ることはなくて、少し光った車が通り過ぎるだけ。光の加減で、ほんの僅かに。
 眩しいとは思わない車。
 家の方へと歩き始めても、やっぱり光る車は無い。ご近所さんのガレージにある車はもちろん、側を通って行った車も。家までの道で、向こうから来た一台の車。
(パパの車は、今は無いけど…)
 此処にあっても光らないよね、と家のガレージも観察した。太陽があそこなんだから、と。
 光る車は見られないまま、入った家。
 着替えてダイニングに出掛けて行って、美味しく食べた母の手作りのケーキ。
 「御馳走様」と二階の部屋に戻って、窓から外を見下ろしたけれど…。
(道路との間に、生垣があるから…)
 此処から見たって、車は光りそうにない。道を走って行ったとしても。どちらの方向から走って来たって、弾いた光は生垣の向こう。
(光、木の葉が飲み込んじゃう…)
 青々と茂った常緑樹の生垣、それの葉と枝が遮る光。車が光を反射したって。
 考えてみれば、ハーレイの愛車が光る所も…。
(見たことない…)
 ハーレイが車に乗って来る日は、休日だったら、雨模様か雨が近い空。そんな空では光らない。
 おまけにやっぱり生垣の向こうを走って来るから、光っても此処から見られはしない。
(晴れた日に、車…)
 出会って間も無い初夏の頃には、そういう日だって何回かあった。
 庭で一番大きな木の下、ハーレイが「デート用だぞ」と据え付けてくれた、キャンプ用の椅子とテーブルと。あれを運んで来てくれた頃は、晴れた日に車で来ていたハーレイ。
 けれど、照り返しを見た記憶は無い。ガレージまで車を眺めに行ったりしていたのに。



 仕方ないよね、と零れた溜息。晴れた日にハーレイの車が来ていた時には、車より…。
(トランクの中身の方に夢中で…)
 車はろくに見ていなかった。ハーレイが魔法のように取り出すテーブル、それから椅子。
 そちらの方に目を奪われて、ついでにハーレイにも夢中。車を見ているわけがない。太陽の光を反射していても、きっと気にさえ留めてはいない。「眩しい」とさえも。
(今だと、ハーレイ、晴れた日は乗って来ないから…)
 見られないよ、と分かっているのが照り返し。
 学校のある日は帰りに車で来てくれるけれど、もうその頃には太陽の光は強くないから。西へと傾き始めているから、ガレージの辺りはとうに日陰になっている。
(ハーレイの車が太陽の光を弾くトコ…)
 自慢の愛車の照り返しに出会えそうな日は当分先、と思った所で頭を掠めていったこと。太陽の光を受けて輝く照り返し。
(あれ…?)
 どうだったかな、と本棚の中から引っ張り出した、白いシャングリラの写真集。前にハーレイに教えて貰った豪華版。父に強請って買って貰って、ハーレイとお揃いで持っている。
 その写真集のページをめくってゆくと…。
(光ってる…)
 太陽の光を弾く船体。晴れ渡ったアルテメシアの上空、其処で輝くシャングリラ。
 アタラクシアの町の上にでも浮かんでいるのか、飛んでゆく所を撮ったのか。真っ白な船体が、まるで鏡になったよう。綺麗に反射している光。白い鯨の巨大な船体、その一部分が光った瞬間。
 写真は見事に、照り返しを写し取っていた。
 白い鯨が光るのを。…太陽の光を眩く弾いて、青空に浮かんでいる所を。



 アルテメシアの太陽を浴びた、シャングリラ。白い船体が放つ光は、太陽の光の照り返し。
 その美しさは、写真集で見慣れていたけれど。
 何度も広げて眺めてみては、「綺麗だよね」と思っていた写真なのだけど…。
(前のぼく…)
 ソルジャー・ブルーだった前の自分は、こんなシャングリラは見ていない。ただの一度も。
 白い鯨は、いつも雲海の中だったから。
 前の自分が空を飛んでも、シャングリラは常に雲の中。太陽の光を直接浴びはしないし、船体が光ることもない。太陽の光を反射しようにも、その太陽が雲の向こうでは。
(…ぼくだけが空を飛んでいたって…)
 見えるわけがなかった照り返し。雲の中にいる白い鯨は、けして光りはしないから。
 そのシャングリラがアルテメシアを離れる時には、衛星兵器に狙い撃ちされて、雲の海から外へ一部が出た筈だけれど…。
 前の自分は、船の外には出ていない。船を守れるだけの力は、もう無かったから。
 青の間のベッドに横たわったまま、「ワープしよう」と決断するのが精一杯。そんな状態では、シャングリラを外から見られるようにと、思念体で抜け出す余裕さえ無い。
 だから見ていない照り返し。…船が光を浴びていたって。
(ジョミーは見たかな?)
 もしかしたら、白いシャングリラの照り返しを。
 ミュウの子供だと分かったシロエを救い出そうと、船を離れていたジョミー。慌てて船に戻ったけれども、その時に目にしていたろうか。太陽の光を浴びて輝く船体を。
(そんなの、気が付く暇も無かったかな…)
 衛星兵器からの攻撃、それを防ぐのがジョミーの役目だったから。
 白いシャングリラが沈まないよう、死力を尽くして守らなくてはいけなかったから。



 ジョミーでさえも、アルテメシアを離れる時には、そういう状態。
 きっと照り返しには気付きもしないで、船へと飛んで戻っただろう。白い鯨を守り抜くために。
 もう戦えなかった前の自分の代わりに、シールドを展開するために。
(照り返し、ジョミーも見ていなくって…)
 前の自分も、見ないまま。…白いシャングリラは、アルテメシアから宇宙へと逃げた。
 太陽の光はもう無い所へ、漆黒の宇宙空間へ。瞬かない星たちが散らばる場所へ。
 そうなるよりも前は、前の自分がシャングリラで旅をしていた頃には…。
(せいぜい、恒星…)
 見ていた光は、その程度。白いシャングリラから見えた光は。
 アルテメシアに辿り着くまでに、旅をした宇宙。幾つかの恒星の側も通ったけれども、それほど近付いてはいない。照り返しが船を照らすほどには。
(…あんまり近付きすぎるより…)
 距離を保って飛んでいたのがシャングリラ。前のハーレイが取っていた航路。
 キャプテン・ハーレイの愉快な口癖、「フライパンも船も似たようなモンだ」を忠実に守って。
 フライパンも船も焦がさないことが大切なのだし、恒星に近付きすぎたら焦げるのが船。
 いつも安全な距離を取っていただけに、其処で物資の調達のために宇宙へと出ても…。
(…照り返しなんか…)
 一度も見られはしなかった。太陽でもある恒星までは、遠かったから。
 白い鯨へと改造する時、船を下ろした惑星上でなら、月明かりの中に浮かぶシャングリラも見たけれど。船体がぼうっと白く光って、まるで発光しているようにも見えたけれども。
(こんなの、知らない…)
 眩しいほどに輝く、太陽からの照り返し。ピカリと反射する、目を射るほどに強すぎる光。
 それを浴びているシャングリラなどは、ただの一度も見なかった。
 写真集ではお馴染みだけれど、前の自分が全く知らないシャングリラの姿。



 知っているようなつもりでいたのに、と見詰めた写真。白い船体の一部が光ったシャングリラ。
 今日の帰り道、バスの窓から見ていた車の屋根みたいに。照り返しで眩しく感じた車。
(なんだか新鮮…)
 ぼくの知らないシャングリラ、と見ている姿を、ハーレイは知っているのだろう。この写真集で見たわけではなくて、肉眼で。前のハーレイだった頃の瞳で。
 アルテメシアを落とした後なら、きっとこういうシャングリラの姿も目にした筈。様々な惑星に降りていたから、照り返しで光るシャングリラだって。
 その筈だよね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
「あのね、照り返しを見たことある?」
「照り返し?」
 なんだそれは、とハーレイは怪訝そうな顔。「照り返しがどうかしたのか?」と。
「えっとね…。今日の帰りに車が光っていたんだよ」
 バスの窓から外を見てたら、いきなりピカッと何かが光って…。
 さっきのは何の光だろう、って見ている間に、向こうから車が走って来て…。
 それで照り返しだって分かったんだよ、車の屋根が太陽の光を反射して光ってたんだ、って。
「アレか、お前もやられたんだな。バスに乗っかってて」
 なかなかに眩しいもんだぞ、あれは。運転してると、「かなわんな」と思うくらいに。
 夕方は特によく光る、とハーレイが言うのは車の話。道路を走っている車。
「そうじゃなくって…。元は車の照り返しだけど、ぼくが訊いてるのはシャングリラ…」
「シャングリラだと?」
 白い鯨か、お前が言うのは白い鯨の照り返しなのか?
「そう。…そっちに頭が行っちゃったんだよ」
 今のハーレイが乗ってる車の照り返し、ぼくは一度も見たことないから…。
 まだ当分は無理だよね、って思ってる内に、シャングリラのことに気が付いちゃって…。



 これ、と勉強机から、あのシャングリラの写真集を持って来て、広げて見せた。
 照り返しで光るシャングリラの写真。「ハーレイはこういうのも見たんでしょ?」と。
「アルテメシアを手に入れた後なら、あちこちの星で見られた筈だよ」
 大気圏の中に浮かんでいたでしょ、いろんな星で。
 そういう時なら、照り返しだって見えるから…。ハーレイが船の外に出ればね。
「確かに見たが…。お前、こいつが気になるのか?」
 照り返しなんぞ、何処で見たって同じだぞ。太陽の光は、何処も似たようなモンだから…。
 人間が住んでる惑星なんだし、それこそ夕日や、真っ昼間の光や、そんな程度の違いだけだ。
 緑や青色に光っているような太陽は無いしな、人間が暮らす恒星系には。
 特に珍しくも何ともないが、とハーレイが言うものだから。
「…そうだろうけど…。ハーレイが言う通りだけれど…」
 前のぼく、これを知らないんだよ。…こんな風に光るシャングリラ。
「なんだって?」
 前のお前が知らないだなんて…。今のお前なら当然だろうが、前のお前だぞ?
 自由自在に空を飛べたし、俺よりも先に見ていそうだが…。
 昼間に船の外に出たなら、太陽が昇っているんだから。
 前のお前も照り返しくらいは見ているだろう、とハーレイも気付いていなかった。雲海の中では船は輝かないことに。…照り返しで光りはしないことに。
「ハーレイだってそう思うんなら、ぼくが今日まで気付かないのも仕方ないかも…」
 前のぼく、アルテメシアで何度も外に出たけど、シャングリラは雲の中だったから…。
 こんな風には光らないんだよ、雲の中だと太陽の光を直接浴びることは無いから。
「そういや、そうか…。いつだって雲の中だったっけな」
 シャングリラが雲の中にいたんじゃ、お前が出たって照り返しを見るというのは無理か…。
 そいつをすっかり忘れてた。気付かなかったと言うべきか…。
 此処に載ってる、こういう姿。
 照り返しで眩しく光る姿は、お前が知らないシャングリラの顔というヤツなんだな。



 前のお前が知らない顔か、とハーレイが紡いだ言い回し。それが心に響いて来た。
 白いシャングリラには違いないけれど、前の自分は見ていない顔。
「うん、その言葉! ぼくも思った!」
 上手く言葉に出来なかったけど、ハーレイが言った言葉がピッタリ。
 照り返しで光るシャングリラの姿は、前のぼくが知らない顔なんだよ。…シャングリラのね。
 あの船でずっと暮らしていたのに、一度も見せてくれなかった顔。前のぼくが生きてた間には。
 いなくなった後には、前のハーレイも、他のみんなも見た顔だけど…。
 この照り返し、地球の太陽だとどう見えたの、と尋ねたら。
「地球か? あの時は、シャングリラは衛星軌道上に置いて行ったから…」
 それに俺たちは真っ直ぐ地球に降下したから、見てないな。
 降りる前に船の周りを飛んでいたなら、少しくらいは光っていたかもしれないが…。太陽までは遠かったんだが、地球の太陽は充分な明るさを持ってたからな。
 しかし、生憎と前の俺は見てはいないんだ。
 シャングリラが地球の大気圏内まで降りた時には、もう地殻変動が始まっていた。
 前の俺は地面の遥か下にいたし、生きていたって見えやしないさ。…照り返しはな。
「そうだったんだ…」
 地球の太陽で光るシャングリラは、前のハーレイも見ていないんだね。…ぼくだけじゃなくて。
「トォニィたちが見ただけだろうな、眺める余裕があったなら」
 多分、無かったとは思うんだが…。余裕も、外に出るようなことも。あの時の大気圏内では。
 それにだ、仮に船から出たとしたって、あんなに酷く汚れちまった大気だと…。
 大して綺麗じゃなかっただろう。照り返しってヤツを目にしていても。
 今の大気の中に降りたら、きっと綺麗に光るんだろうが…。
 此処に載ってる写真みたいに、真っ青な空に浮かんでな。
 こいつはアルテメシアの空だが、本物の地球の、抜けるように青い空の上で。
 太陽の光を一面に浴びて、キラリと眩しく弾き返して。



 さぞかし見事なんだろうな、とハーレイの目が細められた。
 シャングリラが其処にあるかのように。…地球の太陽を浴びて光っているかのように。
「…じゃあ、シャングリラは、本物の地球の太陽の光を知らないんだね」
 汚染された大気圏内だけしか、飛んでいないから。…宇宙空間だと少し違うから。
 前のぼくがシャングリラの照り返しを一度も見てないみたいに、本物の太陽を知らないまま。
 こんな風に澄んだ空気を通して、射して来る地球の太陽は。
 シャングリラは見ていないんだよね、と眺めた窓の外。夕方だけれど、まだ明るい。
「そうなるのかもな、あれも太陽ではあったんだが…」
 月だって赤くなっちまうような、濁った大気の中を通って来たんじゃ、ちょっと違うか…。
 同じ太陽の光にしても。…シャングリラが見たのと、今のとではな。
 太陽だが「月とスッポン」ってヤツか、とハーレイが持ち出した絶妙な言葉。確かにそのくらい違っただろう。白いシャングリラが浴びた太陽と、今の地球を照らす太陽とは。
 太陽そのものは変わらなくても、地球を覆う大気が違うから。
 シャングリラが地球までやって来た頃は、地球は死の星。それが今では青い水の星で、元の姿を取り戻した、まさに母なる星。その差はとても大きなものだし、別の星と言ってもいいくらい。
「…ホントに月とスッポンだよね、地球の太陽…。前のぼくたちの頃と、今では」
 前のぼくはシャングリラの照り返しを一度も見られなくって、シャングリラは本物の太陽の光を知らなくて…。
 シャングリラはもう何処にも無いから、どっちも見られないままってこと。
 ぼくは照り返しを見られないままで、シャングリラは今の太陽の光を見られないから。
「うむ…。そうなっちまうな、残念だがな」
 シャングリラはとっくに消えちまったし、地球に持っては来られない。
 今のお前に見せてやりたくても、無いものはどうしようもないからなあ…。
 シャングリラが今もありさえしたなら、お前に見せてやれるのに。…照り返しってヤツを。
 普段は他所の星にあっても、地球まで来るってことになったら、見に連れてやって。
 もちろん結婚してからなんだが、シャングリラさえ残っていたならな…。
 いや、待てよ…?



 少しで良ければ見られるんじゃないか、とハーレイはポンと手を打った。
 ほんの少しなら、シャングリラの照り返しを見られるかもな、と。
「そいつを見るには、運ってヤツが必要なんだが…」
 俺たち二人の運が良くないと、無理な話ではあるんだが…。
 運次第だ、とハーレイは言ったけれども、雲を掴むような話に聞こえる。白いシャングリラは、時の彼方に消え去った船。時の流れに消えてしまって、今は写真集の中にあるだけ。
「運次第って…。ハーレイ、シャングリラはもう無いよ?」
 遊園地になら、シャングリラの形の乗り物だってあるけれど…。あれは違うよ。
 いくら見た目がそっくりだって、シャングリラの形に作ってあるだけ。
 あれの照り返しが見られたとしても、それだと紛い物だから…。
 写真集の方がずっといいよね、と指差した写真。「これは本物のシャングリラだもの」と。
 地球のとは違うアルテメシアの太陽だけれど、ハーレイも指摘していた通り。
 人間が暮らす惑星だったら、太陽の光はそれほど違いはしないのだから。
「いいや、本物、あるだろうが。…遊園地の乗り物なんかじゃなくて」
 うんと小さくなっちまったが、今もシャングリラはあるってな。
 このくらいのサイズで、とハーレイの指でトンと叩かれた薬指の付け根。左の手の。
「え…?」
 オモチャよりも小さそうな船。とても小さなシャングリラ。薬指の幅くらいしか無いのなら。
 それが本物のシャングリラだなんて、いったいどういう意味なのだろう…?
「俺だともう少しデカくなるなあ、俺の指だとコレだから」
 お前の指よりずっと太いし、いつかお前が大きくなっても、俺の方が指は太いまま、と。
 俺の指まで言ってやっても分からんか?
 いいか、左手の薬指だぞ、この指には意味があるんだが…。
 前の俺たちとは縁が無かったが、今の俺たちには大切な指になるってな。今度は堂々と、お前と結婚出来るんだから。
 左手の薬指の指輪だ、シャングリラ・リングというヤツだ。
「あ…!」
 あったね、シャングリラ・リング…。あれはホントにシャングリラだっけ…!



 そういえば、と思い出したこと。今の時代にも残り続ける、本物の白いシャングリラ。
 トォニィが解体を決めたシャングリラは、時の彼方に消えたのだけれど。役目を終えたミュウの箱舟、白い鯨は今は何処にも無いけれど…。
 白いシャングリラの船体の一部だった金属、それが今でも残されている。その塊から、決まった数だけ作られる指輪。一年に一度、作り出される結婚指輪。
 今の宇宙では、結婚を決めたカップルだったら、誰でも指輪を作って貰える。白いシャングリラから採られた金属、それを使って対の指輪を。
 けれど、申し込めるチャンスは一度だけ。抽選に当たれば「シャングリラ・リング」と呼ばれる指輪がやって来る。ハーレイの分と、自分の分と。
 いつかハーレイと結婚する時、シャングリラ・リングを手に入れることが出来たなら…。
「…指輪の分だけ、照り返し、あるね」
 ほんの少しでも、シャングリラだから…。小さくても本物なんだから。
 指輪に太陽の光が当たれば、それがシャングリラの照り返し。…ぼくのも、ハーレイが嵌めてる指輪も、ちゃんと光を反射するから。
「そういうことになるってな。指輪サイズでも、本当に本物のシャングリラだ」
 白い鯨と同じように光るかもしれないな。あの船と全く同じ具合に。
 シャングリラ・リングは、銀色だとも、白っぽい金のようだともいう話だし…。
 白い鯨にそっくりらしい、とハーレイが浮かべた優しい笑み。「指輪になっても白い鯨だ」と。
「それって…。色は決まっていないの?」
 銀色だとか、白っぽい金だとか…。似てるようでも少し違うよ。
 同じ塊から作る筈なのに、違うだなんて…。指輪にする時、何か入れたりするのかな?
 加工しやすいように別の何かを、と傾げた首。
 白い鯨の船体だけでは、指輪を作れはしないのだろうか、と。
「そう思うだろうが、そうじゃないらしいぞ」
 どの指輪も出来上がりは全部同じだ、混ぜ物は何もしていないから。
 元はシャングリラの一部だったヤツを、溶かして指輪に加工し直すだけなんだしな。



 指輪は丸ごとシャングリラだ、とハーレイは説明してくれた。「混ぜ物は一切無しなんだ」と。
 形を指輪に作り替えるだけ、それがシャングリラ・リングだという。白い鯨の船体だった金属、他には一切何も入れない。
「そういう仕組みになっているんだ、シャングリラ・リングは」
 シャングリラそのものの記念だからなあ、手を加えたら駄目だろう。
 金属の比率を変えちまったら、もうシャングリラじゃなくなっちまう。ただの合金で、あの船の思い出にはならない。そのままの姿で残さないと。
 シャングリラ・リングは、白い鯨の船体の色じゃなくてだ、船を作っていた金属だから…。
 あの上から塗装していた船だろ、シャングリラは。色々な都合で、真っ白な船に。
 金属だけで出来てる指輪だったら、白い鯨には見えない筈だが…。
 何も塗ってはいないんだしなあ、銀なら銀で、白っぽい金なら、そういう色の筈なんだが…。
 どうしたわけだか、白い鯨にそっくりな色に見えちまう時があるそうだ。
 前の俺たちの船と同じに、真っ白に光って見える時が。
「不思議だね…。銀色だったり、白っぽい金だったりっていうのは分かるけど…」
 金属なんだし、光の具合で見え方は変わるかもしれないけれど…。
 シャングリラみたいに塗装してないのに、白い鯨の色に見えるだなんて。
 それって、とっても不思議な感じ。シャングリラで出来てる指輪だからかな…?
「どうなんだかなあ…? 俺にもサッパリ分からんが…」
 其処が光のマジックだってな、白い鯨にも見えちまうのが。…銀色とかの筈の指輪が。
 だが、色の仕組みの方はどうあれ、照り返しはちゃんと見られるぞ。
 前のお前が見損ねちまった、シャングリラの。
 指輪の分だけのヤツにしたって、本物には違いないからな。塗装してない金属でも。
「欲しいよ、シャングリラ・リング…!」
 シャングリラの照り返しが見られる指輪で、前のぼくたちが暮らした船の記念なんだから…。
「俺たちだったら、当たるって気もするんだが…」
 外れやしない、って気はしているんだが、こればっかりは運だからなあ…。
 どうなるのかは分からないよな、申し込むまで。…申し込んで抽選の結果が出るまで。



 当たってくれるといいんだがな、とハーレイにも読めないシャングリラ・リング。当たるのか、作って貰えるのか。二人揃って薬指に嵌める時が来るのか、またシャングリラに会えるのか。
「俺の運、悪くはないんだが…。お前はどうだ?」
 ラッキーな方か、と尋ねられたけれど、どうなのだろう。クジなど、滅多に引かないから。
「分かんない…。悪くないとは思うんだけど…」
 神様にお願いしておかなくちゃね、シャングリラ・リングを申し込んだら。
 抽選でハズレになりませんように、って毎日、お祈りしなくっちゃ。
 シャングリラ・リングを貰えるように、と眺めた左手の薬指。いつか結婚指輪を嵌める予定の、今はまだ細い子供の指。
 前の自分とそっくり同じ姿に育って、結婚式を挙げられる日が来たならば。…ハーレイの花嫁になる日が来たなら、この指に結婚指輪が嵌まる。ハーレイと指輪の交換をして。
(…結婚指輪に、シャングリラ・リングを貰えたら…)
 指輪を嵌めた手が本物の地球の太陽を浴びたら、白いシャングリラの照り返しが見られる。前の自分は見られなかった、太陽の光を弾く姿が。
 そしてシャングリラは、本物の地球の太陽を見ることが出来る。とても小さな指輪だけれども、今の自分の指に嵌まって。
 白いシャングリラが見られないままで終わってしまった、蘇った地球を眩く照らす太陽を。
 薬指に嵌まったシャングリラ・リング。小さな指輪に姿を変えた、懐かしい白いシャングリラ。
 それはいつでも指にあるのだし、何処へ行く時も嵌めておくのが結婚指輪。
(…ということは…)
 シャングリラ・リングを貰えて嵌めていたなら、白いシャングリラは色々な所へ行ける。薬指に嵌まって、自分と一緒に移動して。
 地球のあちこちへ出掛けてゆけるし、もちろん自分がハーレイと二人で暮らす家へも。
(それって凄い…)
 ホントに凄い、と丸くなった目。
 白いシャングリラは、本物の地球の太陽を知らないままで終わったけれども、今度は青い地球の上。真っ青な海も、緑の森も、シャングリラは見ることが出来るんだ、と。
 今の自分がシャングリラ・リングを嵌めたなら。…白いシャングリラと一緒だったら。



 とても素敵で、素晴らしいこと。シャングリラ・リングを貰えさえしたら…。
「ねえ、ハーレイ。ぼくたちの指に、シャングリラ・リングを嵌められたら…」
 抽選に当たって、ちゃんと結婚指輪に出来たら、とっても素敵。
 シャングリラ、うんと小さくなっちゃうけれど…。指輪サイズのシャングリラだけど…。
 でも、シャングリラは何処へでも行けるよ、ぼくたちと一緒に。
 結婚指輪はいつも嵌めてるものでしょ、だから旅行にも食事にも、ドライブだって。
 何処へ行く時もシャングリラと一緒で、あちこちに連れてあげられそう。前のぼくたちが生きていた船を、いろんな所へ、色々な場所へ。
 それに、ぼくたちの家の中にも入れちゃうんだよ。指輪サイズのシャングリラだから。
 玄関からでも、庭からでも…、と披露した。小さな自分が気付いたことを。
「家の中まで入れるってか? 俺の車でも、家の中には入れないんだが…」
 ガレージまでしか入れやしないし、玄関なんかは、とても通れやしないんだが…。
 シャングリラ、大した出世だな。
 人間様と一緒にあちこち出掛けて、家に入って、ゆっくりのんびり暮らせるとはなあ…。
 俺の指に嵌まってコーヒーなんかも飲むらしいぞ、と可笑しそうに笑っているハーレイ。きっと紅茶も飲むんだろうと、「お前、コーヒーじゃなくて紅茶だしな?」と。
「ケーキなんかも食べると思うよ、ぼくたちと一緒なんだから」
 シャングリラ、とても頑張った宇宙船だもの…。そのくらいの御褒美、当たり前だよ。
 家に入れるのも、コーヒーや紅茶を飲めるのも。…ケーキを食べられることだって。
 だけど、シャングリラ、凄くビックリしちゃうかも…。
 コーヒーや紅茶は美味しく飲んでも、それよりも前にビックリ仰天。
 地球が青いことにも驚くだろうけど、ぼくとハーレイが結婚だなんて。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが結婚しちゃって、シャングリラ・リングを二人で指に嵌めてるなんて…。



 もしかしたら腰を抜かしちゃうかも、と瞬かせた瞳。「青い地球よりビックリだよね」と。
「…ぼくたちがシャングリラ・リングを当てたら、ホントに大変」
 どういうカップルが嵌めるんだろう、って顔を出したら、ぼくとハーレイだよ?
 シャングリラ・リング、ビックリして床に落っこちちゃうかも、届いた箱を開けた途端に。
 ぼくとハーレイが覗き込んだら、ホントのホントに驚いちゃって。
 落ちちゃうかもね、と心配になったシャングリラ・リング。驚いて箱から転がり落ちて。揃いの指輪の片方どころか、両方ともが。
「その心配は無いってな。俺とお前の所へ来たって、シャングリラだったら大丈夫だ」
 驚くだろうが、きっと喜んでくれると思うぞ。あの船は全部知っていたしな、俺たちのことを。
 前のお前と、俺とのこと。
 船の仲間たちは知らなかったが、シャングリラは知っていたんだから。…何もかもをな。
「そっか…。そうだよね、シャングリラで暮らしていたんだから」
 前のぼくたちが恋をしてたのも、みんなに内緒で一緒にいたのも、全部知ってた筈だよね。
 ハーレイもぼくも、あの船で生きていたんだもの。
 でも…。それじゃ、何もかも全部、シャングリラに見られちゃってたの?
 前のぼくたちが抱き合ってたのも、キスしていたのも、シャングリラは全部見ていたわけ…?
 シャングリラの中にいたんだものね、と染まった頬。きっと真っ赤に違いない。
 あまりにも恥ずかしすぎるから。白いシャングリラに見られていたとは、思ったことさえ一度も無かったものだから。
「そうなるんだろうが、今度もそうだぞ。…今の俺たち」
 運良くシャングリラ・リングが当たって、指輪を嵌めっ放しなら。
 シャングリラは俺たちと一緒なんだし、今度も何もかも見られちまうってな。
 俺たちがシャングリラの中にいるのか、シャングリラが俺たちにくっついてるかの違いだけで。
 シャングリラは此処から見てるってわけだ、とハーレイがつついた自分の左の薬指の付け根。
「うーん…」
 やっぱり今度も見られちゃうわけ、シャングリラ・リングを嵌めてたら…?
 ハーレイとぼくが指輪を嵌めていたなら、何をしててもシャングリラと一緒なんだから…。



 困ったことになっちゃった、と見詰めた自分の左の手。今はまだ細い薬指。
 いつかハーレイと結婚したなら、シャングリラ・リングを其処に嵌めたいけれど。
 白いシャングリラを、あちこちに連れて行きたいけれど。
(旅行に、食事に、他にも色々…)
 満喫して欲しい、蘇った青い地球での暮らし。あの白い船に、白い鯨に。
 前の自分が守った船。ハーレイが舵を握っていた船。
 誰にも言わずに終わってしまった、前の自分たちの恋を守っていてくれた船。
 白いシャングリラには、どんなに御礼を言っても足りない。言葉ではとても言い尽くせないし、紅茶もケーキも、コーヒーも御馳走してあげたい。
(本物の地球の太陽だって…)
 その照り返しを指輪の姿で見せられるよう、左手を空へと伸ばしたいけれど。眩い光を、本物の太陽が放つ光を、シャングリラに浴びさせてあげたいけれど。
(ぼくとハーレイが結婚したら…)
 前と同じに恋人同士の日々が始まる。今は許して貰えないキスや、その先のことも。
 ハーレイと二人でベッドに入って愛を交わす時も、白いシャングリラは左手の薬指にちゃんと、くっついて眺めているわけで…。
「…恥ずかしいから外そうかな…」
 シャングリラ・リング、お風呂の前に。…外して箱に入れておいたら、見られないから。
 朝に起きたら嵌めればいいでしょ、寝る時まで嵌めていなくっても…?
 「お風呂に入る前に、外してもいい?」と訊いてみた。シャングリラに全部見られているのは、やっぱりどうにも恥ずかしいから。
「好きにすればいいが、その話、そこでやめておけよ?」
 指輪はいつでも嵌めておくんだ、って話なら可愛らしいがな…。
 いつ外そうかと相談だなんて、お前、いったい何歳なんだ。結婚出来る年じゃないだろうが。



 お前みたいなチビには早い、とハーレイにコツンと小突かれた額。
 「もっと大きくなってからだ」と、「前のお前と同じ背丈に育ってから相談するんだな」と。
 「指輪を外すタイミングなんぞ、俺は知らん」と、腕組みをして軽く睨まれたけれど。
 チビのくせに、とハーレイは顔を顰めるけれども、いつかシャングリラを指に嵌めたい。
 シャングリラ・リングを抽選で当てて、左手の薬指に嵌める小さなシャングリラ。
 指輪サイズになった白い鯨を、前のハーレイと長く暮らした懐かしい船を、大切な左の薬指に。
(結婚指輪は、いつも嵌めてるものだから…)
 白いシャングリラに、本物の地球の太陽の光をプレゼントしてあげて、前の自分が知らなかったシャングリラの顔を少しだけ覗かせて貰う。
 太陽の光を受けて輝くシャングリラを。白いシャングリラの照り返しを。
(いつも、シャングリラと一緒…)
 それがいいな、とシャングリラ・リングが当たるようにと夢を見る。
 あの懐かしい白い鯨に、沢山の御礼をしたいから。
 綺麗な景色も、御馳走なんかも、ハーレイと二人で、たっぷりと味わわせてあげたいから…。




           照り返し・了


※前のブルーは見られなかった、シャングリラの船体の照り返し。それに今はもう無い船。
 けれど、指輪になったシャングリラに、また会うことが出来るかも。何処へ行く時にも一緒。
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(嘘…!)
 クルンと回ったブルーの視界。体育の授業の真っ最中に、グラウンドで。
 まだ午前中で、日射しが暑いわけでもないのに。さっき始めたばかりのサッカー、走りすぎてはいないのに。
 けれど、回ってしまった目。よく考えたら、ボールを追い掛けて全力疾走、それもいきなり。
 いつもだったら、これだけの距離を一気に走り抜いたりはしない。足の速い仲間たちにお任せ、端で見ているだけなのが自分。
(頑張り過ぎちゃった…)
 たまたま誰もいなかったから。…いける、と思ったものだから。
 倒れちゃうんだ、と思ったけれども、止まらない身体。スローモーションみたいに感じる時間。色々なことを、こうして考えていられるほどに。
(時間、伸びてる…)
 地面が遠い、と感じる間に遠ざかる意識。まだグラウンドに倒れない身体。
 眩暈を感じた瞬間からだと、かなり経ったと思うのに。けれど時間は、まるで飴のように伸びてゆく。もう倒れても良さそうなのに、と意識はフッと消えてしまって…。
「おい、ブルー!」
 大丈夫か、と頭の上から聞こえて来た声。
 此処にいる筈がないハーレイの声で、背中の下に感じる地面。仰向けに寝かされているらしい。
「ハーレイ……先生…?」
 うっかり「ハーレイ」と呼びそうになって、慌てて付け加えた「先生」。
 ぼんやりと瞼を押し上げてみたら、ハーレイがいたものだから。
 側に屈み込んで、心配そうな顔のハーレイ。鳶色の瞳が見下ろしている。「大丈夫か?」と。
 何処から見たってハーレイそのもの、夢を見ているとは思えない。
 グラウンドで倒れた筈なのに。…身体の下には地面の感触、体育の授業中なのに。



 よくよく見たら、ハーレイの後ろに見える青空。やっぱり此処はグラウンド。
 他の生徒の声も聞こえるし、サッカーボールを追う音だって。シュートやドリブル、グラウンドだけで聞ける音。
(なんで…?)
 どうしてハーレイが此処にいるの、と訊きたいけれど。見下ろしながら日陰を作ってくれている優しい恋人、温かな声の持ち主に尋ねたいけれど。
(……敬語……)
 学校でハーレイと話す時には、いつでも敬語。学校では「ハーレイ先生」だから。
 その大切な敬語が使えそうにない。上手く話せなくて、家での言葉が口から零れてしまいそう。先生と話す言葉ではない、友達に向けるような言葉が。
 だから目だけを瞬かせた。「なんで?」と、「どうして此処にいるの?」と。
 ハーレイは直ぐに分かったらしくて、穏やかな笑みを浮かべてくれた。
「驚いたか? たまたま通り掛かったんだ。空き時間だからな」
 ちょいと学校の中を散歩だ、そしたらお前が倒れる所を、偶然、目撃しちまった、と…。
 しかしだ、お前、暫く意識が無かったし…。
 こりゃ保健室に行くしかないな、とハーレイは体育の先生と相談し始めた。グラウンドで授業を見学するより、保健室。ベッドに寝かせて、それから家に帰した方が、と。
「私もそう思っていたんですよ。帰らせた方が良さそうです」
 保健委員を呼びましょう、と手を上げかけた体育の先生を、「いえ」と止めたハーレイ。
「私が連れて行きますよ。授業中の生徒よりかは暇ですからね」
 それに、ブルー君の守り役でもあります。大丈夫ですよ、お任せ下さい。
 先生も、どうぞ授業の続きを。…あっちの方で揉めていますよ、オフサイドかどうか。



 行ってあげて下さい、とハーレイが促したから、体育の先生は「お願いします」と、生徒たちの方へ走って行った。「こら、騒ぐな!」と、声を上げながら。
(…ハーレイが連れてってくれるんだ…)
 保健委員の生徒の代わりに、保健室まで。グラウンドからは距離がある場所。
 少し遠いから、背中に背負ってくれるのだろうか。「倒れたお前を運ぶ時には、おんぶだな」と前に言っていたことがあるから。学校の中で倒れていたなら、ハーレイがおんぶ。
 それとも抱っこ、と期待したのに。
 柔道部員の生徒たちには罰でしかない、「お姫様抱っこ」での保健室行き。ハーレイが注意したことを守らず、その結果、怪我をしたならば。「行くぞ」と、逞しい両腕で抱き上げられて。
(柔道部員には恥らしいけど、ぼくはお姫様抱っこでも…)
 いいんだけどな、と夢を見たのに、「おい、立てるか?」と言ったハーレイ。
「熱は無いしな、倒れたはずみに足を捻ってもいないようだし…」
 立てるんだったら、俺が支えて歩くから。
「あ、はい…。多分…」
 大丈夫です、と起き上がってみても、世界が回りはしなかった。身体に力が入らないだけ。少し重くて、だるい感じで。
 その程度だったら立つしかなくて、外れた期待。おんぶも抱っこも、何処かに消えた。
 保健委員の生徒と行くなら、歩いてゆくのが当然のこと。ヨロヨロしていても、歩けるのなら。歩けないなら、車椅子とか担架の出番。
(…おんぶも抱っこも無しなんだ…)
 せっかくハーレイが来てくれたのに、と残念だけれど、ハーレイはしっかり支えてくれた。
 力が入らない足で立ち上がる時も、手を貸してくれて。
 なんとか立ったら、身体に腕を回してくれて。
「俺に掴まれ。…お前とじゃ、背が違いすぎるしな」
 服を握ってもかまわないから。
 スーツがちょっぴり皺になろうが、俺は文句を言いはしないぞ。



 ゆっくり歩けよ、とハーレイが一歩踏み出した足。チビの自分に合わせてくれた小さな歩幅。
 「この歩き方で大丈夫か?」と確かめてくれた。「お前に合わせたつもりなんだが…」と。
 ハーレイだったら、もっと大股で歩くのに。背筋もシャンと真っ直ぐ伸ばして。
 そのハーレイが腰を屈めて、一緒に歩いてくれている。置き去りにしてしまわないように。
(夢みたい…)
 ハーレイと並んで歩けるなんて。それも二人きりで、学校の中で。
 保健室まで距離があることを感謝した。ハーレイと二人で歩く時間が、遠い分だけ増えるから。
 倒れないようハーレイの上着の裾を掴んで歩いて、グラウンドから少し離れた所で…。
「おい、ブルー。ボロを出すなよ?」
「え…?」
 なあに、とハーレイの顔を仰いだら、返った苦笑。
「ほら、それだ。…其処は「なあに?」じゃなくて、「何ですか?」だろうが」
 学校の中では、俺はハーレイ先生だ。…お前の家とは違うってな。
 いつもみたいに敬語で話せる自信が無いなら、黙っておけ。
 他の先生だって通るし、保健室にも先生ってヤツがいるんだから。
 分かったな、と刺された釘。「失敗するより、最初から喋らない方がマシだ」と。
 それきり、黙ってしまったハーレイ。…ハーレイが話せば、きっと自分も話し出すから。
 会話はプツンと途切れてしまって、黙って歩くしかないのだけれど。
(喋れなくても…)
 ハーレイと二人だったら幸せだよ、と校舎に入って歩いた廊下。
 保健室がもっと遠いといいなと、まだまだ着きたくないんだけれど、と心の中で繰り返して。



 そうは思っても、どんな道にもある終点。「保健室」と書かれた部屋の前に着いた。
 ハーレイが扉を「ほら」と開けてくれて、中に入ると、顔馴染みになった女の先生。保健室には何度も来ているのだから、当然だけれど。
 「ブルー君?」と名前を呼んだ先生に、ハーレイが「ええ」と代わりに答えた。
「体育の授業で倒れたんです。いきなり全力疾走したそうで…。この通りですよ」
 たまたま私が通りましてね、こうして連れて来たんです。保健委員も授業がありますからね。
 ベッドに寝かせていいですか?
 熱は無いですから、それほど心配要らないだろうとは思うんですが…。
「どうぞ、ベッドは何処でも空いてますから」
 今日の保健室は暇なんです、と保健室の先生が言う通り。並んだベッドはどれも空っぽ、先客は誰もいなかった。「暇なんです」と言うほどだから、怪我をした子もいないのだろう。
「良かったな、ベッドが空いていて。…選び放題だぞ、何処がいい?」
 そうおどけながら、ハーレイはベッドに座らせてくれた。体操服にグラウンドの土がくっついていないか確認してから、「寝ていろよ」という命令。
 ベッドの上に横になったら、上掛けがそっと被せられた。「こんなモンかな」と胸の辺りまで。
 その間に、保健室の先生が「ブルー君の家に連絡を」と、通信を入れていたのだけれど。
「…お留守みたいですわね」
 困ったような先生の声で、気が付いた。母が通信に出ない理由。
(ママ、出掛けるって…)
 昨日の夜に、そう聞いた。「明日はお友達と出掛けて来るわ」と。午前中だけと言っていた母。知り合いが小さな展覧会をするから、それを見に行くと。
 思い出したから、そう言った。「母は午前中は留守なんです」と、ベッドの上から。



 午前中だけと聞いたのだけれど、行き先は小さな展覧会。しかも知り合いが開いたもの。其処へ友達と出掛けたのなら、昼御飯も食べて来るかもしれない。
(…だけど、どうだか分からないから…)
 今、言わなくてもいいだろう、と「午前中は留守」と伝えたものの…。
「そりゃ困ったな…。お母さん、出掛けちまってるのか…」
 お前、行き先、知らないだろうな、と首を捻っているハーレイ。「こりゃ連絡は無理だな」と。
「後で通信を入れてみますわ、お昼休みにでも」
 その頃にはお帰りになるでしょうから、と保健室の先生が書いているメモ。きっと中身は、次に通信を入れる時間。「お昼休み」だとか、「午前中は留守」とか、そんな感じで。
「すみません、ブルー君をよろしくお願いします」
 また昼休みに、様子を見に来てみますから。…あ、連絡がつくようでしたら…。
 ブルー君は私が送って行くと伝えて下さい、とハーレイが口にした言葉。
 「午後は授業が無いですから」と、「これも守り役の役目の内でしょう」とも。
 母が迎えに来るのだったら、タクシーを使うことになる。そうするよりもずっといい、と。
(ホント…!?)
 ハーレイに送って貰えるんだ、と高鳴った胸。
 学校の駐車場に停めてある濃い緑色の車、前のハーレイのマントの色とそっくりな車。あの車で家まで送って貰える。ハーレイの運転で、助手席に乗って。
(ハーレイの車で、家までドライブ…)
 ほんの短い距離だけれども、二人きりで乗ってゆく車。ハーレイの車で走れる道路。
 それを思うと、もう嬉しくてたまらない。
(身体、なんだか重いから…)
 下手をしたなら明日は欠席、それはとっても癪だけど。
 学校を休むことになったら、その日は会えない「ハーレイ先生」。昼の間はハーレイに会えずに終わってしまう。「ハーレイ先生」の方にしたって、ハーレイには違いないのだから。



 嬉しい反面、癪にも障る「倒れた」こと。
 ハーレイと一緒に保健室に来られて、家まで送って貰えるにしても…、と複雑な気分。大喜びの自分と、悔しい自分と、どちらも本当。
 いったいどちらが大きいだろう、と考えていたら、こちらの方へ向いたハーレイ。
「そうだ、お前の制服とかは…。ロッカーか?」
 今は体操服に運動靴だし、ロッカーの中といった所か。制服も、靴も。
「はい…」
 ロッカーです、と返事した。其処に入れてある、制服と靴。体育の授業の前に着替えて、入れた自分のロッカーの中。鍵などは無いロッカーだけれど。
「開けてもいいな? 俺が送って行くんだから」
 今じゃないがな、後で送って行く時に。…でないと、お前の服も靴も無いし。
 どうせ持ち物検査の時には、抜き打ちで開けちまうのがロッカーだしな?
 いいな、と念を押すハーレイ。「開けないとお前の服が出せない」と、大真面目な顔で。
「すみません。お願いします…」
「よし。…じゃあ、また後で見に来るから」
 お母さんと早く連絡がつくといいな、とハーレイは保健室から出て行った。「よろしく」と女の先生に軽く頭を下げて。
 次に来るのは昼休み。それまでは授業か、他の用事で忙しいのか。
(…ずっとついてて欲しいんだけど…)
 そう思ったって、此処は学校。ハーレイはあくまで「ハーレイ先生」、一人占めしたり出来ない場所。保健室まで連れて来て貰えただけでも幸運なのだし、贅沢なことはとても言えない。
 それに…、と綻んでしまった顔。
 母にきちんと連絡がついたら、ハーレイが家まで送ってくれる。
 チビの自分は、まだドライブには行けない車で。いつも見ているだけの車で。



 ハーレイと出会って間も無い頃に、一度だけ乗せて貰った車。
 メギドの悪夢に襲われた夜、無意識の内にハーレイの家まで飛んでいた。瞬間移動で、ベッドの中へ。何も知らずに朝まで眠って、朝食の後で、パジャマのままで家までドライブ。
 あの時だけしか乗ってはいない。いつか乗りたい、ハーレイの隣の助手席に座れる車には。
(…車で送って貰えるんだよ…!)
 ぼくの家まで、と天にも昇る心地だけれども、ふと心配になったロッカー。教室の後ろに幾つも並んだロッカーの一つ、自分の名前が書かれた紙がついているロッカーだけど。
(…ハーレイがあれを開けるんだよね?)
 他の生徒たちもいる教室で、「荷物を取りに来たからな」と。鍵は無いから、カチャリと簡単に開く扉。そのロッカーの中を、ハーレイが覗き込むわけで…。
 きちんと制服を入れただろうか?
 畳みもしないで突っ込まないで、皺にならないように綺麗に。それに靴とか、ロッカーの中身。美術の授業で使う絵具や、他にも色々入れている場所。
(通学鞄も…)
 ハーレイが持って来てくれる筈。そちらは訊かれなかったけれども、服と一緒に届くのだろう。鞄に入れるべき物たちを選んで、ハーレイが詰めて。
(…酷いことになっていないかな…)
 鞄の中と、教科書とかを入れた机の中。
 整理しながら入れるタイプとはいえ、いつもそうとは限らない。
(たまに、慌てて…)
 いい加減に突っ込んでしまったりする、机や鞄やロッカーの中身。休み時間に友達と話す間に、ついつい時間が経ってしまって。チャイムの音でビックリ仰天、エイッと放り込む中身。
(変なことになっていませんように…)
 今更どうにもならないのだけど、祈るような気持ち。「神様、お願い」と心の中で。
 けれど、だるくて重たい身体。自然と瞼が重くなっていって、身体もベッドに沈んでゆくよう。
 いつの間にやら、スウッと眠りに落ちてしまって…。



「ブルー君?」
 大丈夫、という保健室の先生の声で目が覚めた。あれからどのくらい経ったのだろう?
 そう思いながら「はい」と答えた。天井が回っていたりはしないし、大丈夫と言えば大丈夫。
「…少し身体が重いですけど…。大丈夫です」
「良かったわ。よく寝ていたし、あれから熱も出ていないから。でも…」
 お母さん、まだ連絡がつかないの。今はお昼休みの時間だけれど…。
 どう、お昼御飯は食べられそう?
 食べられそうなら、食堂から何か届けて貰うわ、と先生は笑顔。「何か食べる?」と。
「えーっと…」
 どうだろうか、と考えたけれど、頭に浮かぶのはランチセットのプレート。食べられそうもない量と中身と。他には何も浮かんで来ないし、「無理かも…」と答えかけた所へ開いた扉。
 「ブルー君のお母さん、どうでしたか?」と入って来たハーレイ。
「あれから連絡、つきましたか? それなら送って行きますが…」
「いえ、それが…」
 まだなんです、と先生が応じて、ハーレイは「そうですか…」とベッドの方にやって来た。
「お母さん、まだ家に帰ってないんだな。この時間だったら、外で食事かもなあ…」
 それなら暫くかかるだろう。…分かった、昼飯、持って来てやるから。
「えっ…?」
 キョトンと瞳を見開いてから、「いえ、いいです…」と俯き加減で断った。ハーレイの心遣いは嬉しいけれども、昼御飯はとても食べられない。保健室の先生にだって、断るつもりだったから。
 ハーレイにもそう説明したのに、「お前なあ…」と顰められた顔。
「お母さん、何時に帰って来るかも分からないんだぞ?」
 何も食べないなんて、身体に悪い。お前、体育で走ってたしな?
 運動した分、エネルギーを入れてやらないと。
 いつものランチセットは無理でも、プリンくらいは食えるだろうが。



 買って来てやる、と出掛けて行ったハーレイ。「直ぐに戻る」と、保健室の扉の向こうへ。
 言葉通りに、本当に直ぐに戻って来たのがハーレイの凄さ。食堂まで走ったわけでもないのに、歩幅が大きいと歩く速度も速いから。
 手には食堂で売られているプリン。放課後に食べる生徒もいるから、昼休みには売り切れない。
「食っとけ、プリンは病人食にもいいんだぞ」
 卵と砂糖で栄養満点、ただし食い過ぎると駄目だがな。甘い物ばかり食ってちゃいかん。
 だが、お前には必要だ。腹が減ったら、治るものも治らないからな。
 食えよ、とプリンを見せられた。「ベッドの上で食っていいから」と、スプーンもつけて。
「はい…。ありがとうございます…」
 うん、と言えないのが悔しい。それに「ありがとう!」も。
 学校ではハーレイは「ハーレイ先生」、敬語でしか話すことが出来ない。「起きられるか?」と支えて起こしてくれても、プリンを持たせて貰っても。…それにスプーンも。
 ハーレイが側にいてくれるのに。プリンだって買ってくれたのに。
(でも、美味しい…)
 甘くてとっても優しい味、とスプーンで掬って頬張っていたら。
「あ、ブルー君のお母さんですか?」
 保健室の先生が話しながら、「良かったわね」と向けてくれた笑み。ようやく母についた連絡。
 先生は様子をテキパキ伝えて、ハーレイが送ってゆくこともきちんと話してくれて…。
「良かったな、ブルー。家のベッドで寝られるぞ」
 食い終わったら送って行くか。…俺はお前の服と荷物を取ってくるから。
 プリン、残さずに食うんだぞ?
 栄養不足じゃ話にならん。さてと、お前の制服と靴と、それに鞄と…。
 昼休みの時間で丁度良かった、とハーレイは荷物を取りに出掛けた。
 「俺は昼飯、先に食っといたから心配ないぞ」と、気になっていたことをヒョイと口にして。
 今の時間が授業中なら、教室でロッカーを開けていたなら悪目立ちだな、と笑いながら。



 教室へ荷物を取りに行ったハーレイ。これから開けられるだろうロッカー。覗かれる鞄と、机の中と。帰り支度を整えるために。
(ロッカーも鞄も、机も、きちんとしてますように…)
 神様お願い、とプリンを食べる間もお祈り。今頃いくらお祈りしたって、手遅れなのに。いくら神様でも、ロッカーや鞄を整理したりはしてくれないのに。
 それでも祈って、プリンを綺麗に食べ終えた所へ…。
 「待たせたな」と、制服と鞄を持って来てくれたハーレイ。通学用の靴だって。
「お前の荷物は、これで全部、と…。安心しろ、机の中もきちんと確かめたからな」
 忘れ物は一つも無い筈だ。プリントとかも、クラスのヤツらに確認したから。
 食い終わったんなら、着替えろよ。
 お前が着替えをしている間に、運動靴を返して来るから。…さっき持って行けば良かったな。
 運動靴、ベッドの住人には要らないのにな、とハーレイは教室に行ってしまった。ベッドの脇の床に揃えてあった、運動靴を左手に持って。
(…着替えるトコ、ハーレイ、見てくれないんだ…)
 着替えるためには体操服を脱いだりするのに、ハーレイは自分の恋人なのに。
 前の自分なら、何度も脱がせて貰ったのに。
(ハーレイのケチ…!)
 キスも断る恋人なのだし、当然と言えば当然だけれど。着替えなんかは見てもくれない。
 保健室の先生だって、ベッド周りのカーテンをサッと引いたけれども。…他の生徒が入って来た時、着替えている姿が見えないように。
(…どうせ、こうなっちゃうんだけどね…)
 ハーレイが此処に残っていたって、カーテンの向こう。
 「早くしろよ?」などと言いながら。着替える姿は影さえ見ないで、保健室の先生と話すとか。
 そうなることが分かっているから、なんとも悲しい。
 どうせチビだよ、と悔しい気分。それに学校、ハーレイが「ハーレイ先生」なことも残念。



 膨れっ面になってしまいそうなのを、我慢して着替えて、腰掛けたベッド。靴を履いたら、丁度戻って来たハーレイ。扉が開く音と、「着替えたか?」という声と。
「あ、はい…!」
 終わりました、と開けたカーテン。「よし」とハーレイが通学鞄を持ってくれた。
「行くとするかな。…先生、お世話になりました」
 送って来ます、と保健室の先生に挨拶も。
 大急ぎで自分も頭を下げた。ピョコンと、「ありがとうございました」と御礼。
 やっぱり少しふらつく足。ハーレイが支えて歩いてくれて、保健室を出て、少し行ったら。
「大丈夫か、ブルー? なんとか歩けはするようだが…」
 プリン、美味かったか?
 ちゃんと栄養になりそうか、と問い掛けられた。「お前の昼飯、プリンだけだが」と。
「はい…」
 美味しかったです、と答えるのだけで精一杯。「ありがとうございました」も言い忘れた。あのプリンは、ハーレイが買って来てくれたプリンだったのに。
(…ぼくって駄目かも…)
 御礼も言えない駄目な生徒、と思うけれども、まだ校舎の中。
 ハーレイは「ハーレイ先生」なのだし、下手に喋ったら、きっと敬語が崩れてしまう。家で使う言葉になってしまって、周りの生徒や先生たちに…。
(偉そうな喋り方をしてる、って…)
 呆れられるか、叱られるか。
 そうなることが分かっているから、話せない。…黙って歩いてゆくしかない。
 ハーレイにしっかり支えて貰って、二人並んで歩いていても。恋人と一緒に歩いていても。



 ホントに残念、と心で溜息を零してみたり、「御礼も言えない、駄目な子だよね」と、プリンの御礼を言いそびれたことを悔やんだりして、歩いた廊下。保健室から、校舎の外へ出るまでの。
(廊下、こんなに長かったっけ…?)
 話しながらだと直ぐなのに、と思う間に、ようやっと、外。校舎を離れて、ハーレイの車がある駐車場が其処に近付いて来たら…。
「ドライブだな」
「え…?」
 もう、頑張って敬語で話さなくても大丈夫な場所。昼休みの終わりのチャイムが鳴ったし、誰も此処まで来はしない。生徒も、それに先生だって。
 そういう所で、ハーレイの口から出て来た言葉が「ドライブだな」。
 ドライブとはどういう意味だろう、と目を丸くして見上げたハーレイの顔。ドライブを期待していたのだけれども、まさかハーレイが言うとは思わなかったから。
「なあに、お前の家までドライブだってな。…ドライブにしては短い距離だが」
 お前がバス通学をしてるってだけで、元気な生徒は歩きに自転車。
 たったそれだけの距離しか無いドライブだし、ついでにお前は病人なんだが…。
 乗れ、とハーレイに開けて貰った助手席のドア。
 其処に座ったら、「鞄はお前が持ってろよ」と通学鞄を渡された。膝の上にポンと乗せられて。
 「俺はあっちだ」と、助手席のドアがバタンと外から閉まって、ハーレイが車の前を横切る。
 運転席の方のドアを開いて、乗り込むために。
(これ、本当にドライブなんだ…!)
 ぼくの家までの間なんだけど、とキョロキョロ周りを見回した。
 ハーレイの車で家までドライブ、短い距離でも二人きり。こういう車だったっけ、と天井や床やシートなんかを目で追ってゆく。
(…ハーレイの車…)
 いつもハーレイが乗ってる車、と誇らしい気分。それの助手席、其処に自分がいるのだから。
 まるでデートの帰りみたいに、ハーレイが送ってくれるのだから。



 ワクワクする間に、運転席に座ったハーレイ。ハンドルやシートやミラーを確かめ、エンジンをかけて、車が動き出した時。
「シャングリラ、発進!」
 そう懐かしい声が上がった。遠く遥かな時の彼方で、何度も耳にしていた言葉。
 キャプテンだった前のハーレイ、そのハーレイが舵を握って、あるいはブリッジのキャプテンの席でかけた号令。「シャングリラ、発進!」と、誰の耳にも届くようにと大きな声で。
(…シャングリラ…)
 そうだったっけ、と思った車。ハーレイの車は、いつかシャングリラになる車。
 今のハーレイと今の自分と、二人だけのために動くシャングリラ。今は濃い緑色の車で、白い車ではないけれど。…白いシャングリラではないのだけれど。
 ぼくとハーレイのシャングリラ、とハーレイの方に顔を向けたら、「うん?」と視線。
「ああ言ってやりたい所なんだが、まだ言えないな。…お前、チビだし」
 俺とデートに出掛けてゆくには、年も背丈も足りてない。シャングリラに乗るには早いってな。
 今のはちょっとしたサービスってトコだ、俺もケチではないんだぞ。
 お前の元気が出るように言ってみたんだが、と駐車場を出て走り始めた車。校門を抜けて、後にした学校。道路に出たらもう、本当にハーレイと二人きり。
 いくら制服を着込んでいても、膝の上に通学鞄があっても、「ハーレイ先生」はもういない。
 学校の外では、もう教え子ではない自分。ハーレイだって、教師ではない。
(…ぼくとハーレイと、二人だけ…)
 まだシャングリラとは呼んで貰えない車だけれども、ハーレイと二人。
 前の生と同じに恋人同士で、二人きりで走ってゆく道路。
 ほんの短い距離にしたって、家に着くまでの道だって。…学校から帰るだけだって。



 いつかデートに出掛ける時には、自分が座る筈の席。ハーレイの隣にある助手席。
 其処に座って前を見ている。ハーレイが見ているのと同じ景色を、ほんの少しだけ隣にずれて。
 そのハーレイはハンドルを握って、未来のシャングリラを操る。真っ直ぐに、時には右に左に、家へと続いている道を。
(気分だけでも、ドライブで、デート…)
 はしゃぎたいのに、重たい身体。
 学校を早退するほどなのだし、身体が軽いわけがない。どんなに心が軽くても。
 踊り出したいくらいに弾んで、羽が生えて飛んでゆけそうでも。
 ハーレイと話もしたいというのに、だるくて力が入らない。それでも、と口を開いてみた。
「…えっとね…」
 この車、と言った途端に、重々しい声。
「静かにしていろ。酔っちまうぞ」
 お前に元気が無いっていうのは分かるんだ。…声の調子で。
 そういう時には酔いやすい。お前みたいに身体が弱けりゃ、なおのことだ。
 ゆっくり走っているつもりなんだが、他の車には迷惑かけられないからなあ…。
 これが限度だ、だから黙って乗っていろ。…酔わないように。
 いいな、と幼い子供に言い聞かせるように、ハーレイが注意するものだから。
「…うん…」
 そう頷くしか道は無かった。
 酔ってしまったら、ハーレイの好意を台無しにする。家に着いたら車酔いでフラフラ、今よりも酷い状態だなんて。
 そんな自分を母が見たなら、きっとハーレイに平謝り。「ご迷惑をおかけしました」と。
 車に酔うほど具合が悪いと知っていたなら、タクシーで迎えに行ったのに、と。
(…そんなことになったら…)
 次のチャンスは二度と訪れない。
 学校で倒れて、ハーレイの車で家までドライブ。
 そうしたくても、母が保健室の先生に「迎えに行きます」と言ってしまうから。ハーレイの車で帰る代わりに、タクシーに乗って帰る家。…母と一緒に。



 またハーレイの車で家に帰りたかったら、酔わないこと。ハーレイの注意を守ること。
 仕方なく黙って、助手席のシートに深くもたれて乗っている内に、もう家の近くの住宅街。
(バス停だって、過ぎちゃった…)
 いつも歩いて帰ってゆく道、其処をハーレイの車で走って、見えて来た生垣に囲まれた家。
 ガレージに車が滑り込んだら、家の中から出て来た母。
「ハーレイ先生、すみません!」
 家まで送って来て頂くなんて、と母が駆けて来て、ハーレイも「いいえ」と運転席から降りた。ドアを閉めて、助手席の方に向かってやって来る。
 家に着いたのだし、此処は学校ではないし…。
(ハーレイに抱っこして貰える?)
 逞しい両腕で抱き上げられて、車からふわりと降ろされる。それとも、背中におんぶだろうか。
(おんぶだったら、助手席のドアは手で閉められるけど…)
 抱っこの方なら、足で蹴ってドアを閉めるとか。…母に「お願いします」と閉めて貰うとか。
 玄関の扉も、母が開けたりするのだろう。ハーレイは自分を抱っこかおんぶで、部屋まで運んでくれるのだから。…ハーレイに余計な手間をかけるより、母が扉の開け閉めの係。
(玄関も、ぼくの部屋の扉も…)
 ママだよね、と考える。おんぶでも、それに抱っこでも。
 学校ではどちらも駄目だったけれど、家なら、きっと抱っこか、おんぶ。
 どっちなのかな、と夢見る間に、ハーレイが開けた助手席のドア。
「降りられるか?」
 酔ってないか、とハーレイが降ろしたのは鞄だけだった。膝に乗せていた通学鞄。
 それを降ろして母に渡して、それっきり。「掴まれ」と手が差し出されただけ。
(…抱っこは?)
 それに、おんぶは、なんて訊けるわけがない。母が鞄を持って直ぐ側にいるし、ハーレイの手が目の前にあるのだから。「どうした?」とでも言うように。
「……大丈夫……」
 降りられるよ、と掴まった、がっしりした手。自分で降りるしかなかった助手席。
 この手に抱っこして欲しかったのに。…抱っこが駄目なら、おんぶで運んで欲しかったのに。



 どっちも駄目になっちゃった、と突っ立っている間に閉まったドア。
 いつか自分が乗る筈の席は、もうハーレイが閉めた扉の向こう。濃い緑色をしているドアの。
「ハーレイ先生、本当にすみません…。お仕事中でらっしゃいますのに」
 ブルーを送って下さるなんて、と母が何度もお辞儀している。「ご迷惑をお掛けしました」と。
「いえ、空き時間ですから、かまいませんよ」
 丁度いい息抜きになりました。仕事中には、なかなか運転出来ませんしね。
 車で出られる人はいないか、と声でも掛からない限り、車で走りたくても無理で…。
 じゃあな、ブルー。
 家でいい子にしているんだぞ、とクシャリと撫でられた頭。大きな手で。
「え…?」
 まさか、と見詰めたハーレイの顔。「じゃあな」とか、「いい子にしろ」だとか。
 これでは、まるでお別れのよう。…たった今、家に着いたばかりで、お茶の用意もまだなのに。
「分かってるだろ、俺は学校に戻らんと…。仕事中だからな」
 空き時間でも、お前を送って出て来たついでに、ゆっくりお茶とはいかないってな。
 その辺の所は、俺はきちんとしたいんだ。…誰も何にも言わないからこそ、けじめってヤツ。
 また帰り道に寄ってやるから、大人しく寝てろ。無理をしないで。
 晩飯の時にも、まだ食欲が戻ってなければ俺のスープの出番だよな、と笑顔のハーレイ。
 「お母さんと早く家に入れ」と、「ゆっくり寝るのも薬からな」と。
 もう一度、頭をクシャリと撫でると、ハーレイは車に乗ってしまった。運転席に。
(そんな…!)
 此処まで来たのに行っちゃうの、とハーレイに縋り付きたい気分。
 「ぼくの部屋まで一緒に来てよ」と、「ベッドに入るまで側にいてよ」と。
 けれど、閉まった車のドア。内側からバタンと、呆気なく。
 直ぐにエンジンがかかる音がして、手を振って走り去ったハーレイ。
 「じゃあな」と、運転席の窓越しに。
 いつか二人だけのシャングリラになる車、それを走らせて、真っ直ぐに元の学校へと。



(…行っちゃった…)
 ハーレイ、帰って行っちゃった、と声も出ないで立ち尽くしていたら、母の声。
「どうしたの、ブルー? ボーッとしちゃって…」
 具合が悪いのなら、早く寝ないといけないわ。パジャマに着替えて、ちゃんとベッドで。
 ごめんなさいね、留守にしていて。
 お友達に食事に誘われたけれど、食べずに帰れば良かったわ。…ブルーが帰って来るんなら。
「ううん…。ちゃんと保健室のベッドで寝てたから」
 ママはちっとも悪くないよ、と微笑んだけれど。
 家に入ってパジャマに着替えて、大人しくベッドに入ったけれど。
(抱っこも、おんぶも…)
 駄目だったよ、と本当に残念でたまらない。
 ハーレイの逞しい腕か背中で、部屋に運んで欲しかったのに。玄関を入って、階段を上がって、二階の部屋まで、ハーレイに抱っこか、おんぶで帰る。
 そうしてベッドに寝かせて貰って、上掛けもそっと被せて貰って、ハーレイは暫く、一人きりでお茶。自分が眠ってしまうまでの間、椅子に腰掛けてベッドの側で。
(…送ってくれるんなら、そこまでして欲しかったのに…)
 空き時間なら、やってくれても良かったのに、と考えるけれど、あっさり砕けてしまった夢。
 それでも、幸せなドライブは出来た。
 ハーレイと二人で、いつかシャングリラになる車で。
(…シャングリラ、発進! っていう声も…)
 ちゃんとサービスして貰えた。
 学校で倒れてしまった時に、ハーレイが上手く居合わせたから。
 その上、母が外出していたお蔭。
 ハーレイは家まで送ってくれたし、お茶も飲まずに学校に帰って行ったけれども…。



 来てくれるよね、と分かっていること。
(学校の仕事が終わったら…)
 来ると約束してくれたしね、とウトウトと落ちてゆく眠り。
 明日も欠席になってしまっても、きっとハーレイが来てくれる。
 食欲が出ないままだった時は、ハーレイが作る野菜スープも飲める筈。
 前の生から好きだったスープ、何種類もの野菜をコトコト煮込んだ素朴なスープ。
(…野菜スープのシャングリラ風…)
 ちゃんと食欲が戻っていたって、今日はあのスープを頼もうか。
 甘いプリンも美味しかったけれど、やっぱりハーレイの野菜スープが一番だから。
 「シャングリラ、発進!」という懐かしい声が聞けた、今日のドライブ。
 そんな日の夜は、あの懐かしい野菜スープを、ハーレイの側でゆっくり味わいたいから…。




          夢のドライブ・了


※体育の授業で倒れたブルー。ハーレイが通り掛かったお蔭で、思いがけない幸運が。
 ハーレイの車で家までドライブ。おんぶも抱っこも無しでしたけれど、夢のように素敵な日。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




シャングリラ学園、今日も平和に事も無し。学園祭の話題が出始める頃で、何かと賑やかではありますが…。でもでも、特別生な上に学園祭で何をするかは決まっているのが私たち。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を公開しての喫茶店です。
サイオニック・ドリームで世界の観光名所なんかを体験できるのが売りの、その名も『ぶるぅの空飛ぶ絨毯』。サイオニック・ドリームは会長さんがやってますけど、表向きは「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーという謳い文句。サイオンは明らかに出来ませんしね!
1年A組のクラスメイトや、他のクラスは学園祭に関心大ですけれども、私たち七人グループはといえば…。
「…キース来ねえな、法事だっけか?」
聞いてねえけど、とお昼休みにサム君が。ランチを食べに来た食堂です。
「月参りの方じゃないですか? 法事じゃなくて」
法事だったら欠席ですよ、とシロエ君。
「あれは一日潰れますしね、欠席届を出す筈です。でも、朝のホームルームで欠席だとは…」
「言ってなかったね、グレイブ先生…」
確かにそうだ、とジョミー君も。
「後から来るってことだよね? だったら、やっぱり月参りかな」
「そうね、午後から来るってことね」
たまにあるもの、とスウェナちゃんが言う通り。元老寺の副住職を務めるキース君には、月参りという仕事があります。その日は檀家さんの家に行ってから学校なわけで…。
「大変ですよね、キース先輩も。…制服で月参りには行けませんしね」
「だよなあ、坊主は衣を着ていなくっちゃな」
この後は学校がありますから、とは言えねえしよ、とサム君が頭を振っています。
「此処からだったら学校の方が近そうだ、と思ったってよ、着替えに戻るしかねえんだよなあ…」
「学校の方も、制服で来ることに決まってますしね…」
お坊さんの衣も私服扱いになるんでしょうね、とシロエ君もフウと溜息を。法衣と袈裟はお坊さんの制服ですけど、学校の制服とは別物です。そのままで来たらコスプレ扱い、校則違反になること間違いなし。キース君は月参りの度に着替えに帰って出直しなわけで、本当にご苦労様としか…。



シロエ君の読みが正解だったらしく、キース君は午後の授業が始まって直ぐに現れました。「すみません、月参りで遅れました」と教室の後ろの扉から。
特別生には出席義務さえ無い学校だけに、授業をしていたエラ先生も気にしていません。普通の生徒が遅刻して来たら、その場でお説教ですが。
キース君は何も無かったような顔で自分の席に着いて、授業の方も粛々と。次の時間も淡々と終わって、終礼だってグレイブ先生は普段と何の変わりもなくて…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
授業、お疲れ様ぁ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が迎えてくれた放課後の溜まり場。秋とは言っても残暑を引き摺った季節なだけに、梨のクレープが出て来ました。甘く煮込んだ梨を挟んでリキュールで仕上げて、バニラアイスが添えてあります。
「有難い…。これは疲れが取れそうだ」
頂きます、と合掌しているキース君。月参り、そんなに疲れましたか?
「当たり前だろうが! クーラーの効いた教室にいたら分からんだろうが、暑かったぞ!」
暑さ寒さも彼岸までとか言うくせに…、と仏頂面。秋のお彼岸は終わりましたけど、今年はしつこく暑いんです。真夏並みではないですけれど。
「しかもだ、今日の月参りは自転車で回るコースだったんだ!」
「「「あー…」」」
それはキツイ、と誰もが納得。暑い季節はお坊さんの衣もスケスケとはいえ、全く涼しくないというう話は嫌と言うほど聞かされています。スケスケの下に着ている白い着物が暑いんだそうで、重ね着状態になってますから。
「今日は自転車だったのかよ…」
そりゃ疲れるわ、とサム君がキース君の肩をポンポンと。
「俺もジョミーも棚経の時は自転車だしなあ、辛さは充分、分かるぜ、うん」
「棚経に比べればマシなんだが…。それでもキツイものはキツイな」
ついでに他の寺の坊主と出くわしたから余計に気が滅入った、と言ってますけど。月参りに行くお坊さんって必ず決まってますよね、ダブルブッキングは有り得ませんよね…?



門前の小僧習わぬ経を読むという言葉通りに、キース君のお蔭でお寺事情に嫌でも詳しい私たち。何処の家でも、月参りを頼むお寺は一ヶ所だけの筈です。元老寺だったら元老寺だけで、他のお寺からは来ない筈。アドス和尚かキース君かと、お寺の事情で行くお坊さんは変わっても。
「…先輩、まさかのダブルブッキングが起きたんですか?」
行ったら他のお坊さんがお経を上げてましたか、とシロエ君が訊くと。
「いくらなんでも、それだけは無いと思うんだが? …いや、たまにあるかもしれないが…」
このご時世だし、とキース君。
「引越して来たから菩提寺が家の近所に無いのは、よくあるケースだ。そうなってくると葬儀屋に頼んで紹介して貰うことになるから…」
丸投げしたら手違いが起こらないとは言い切れないな、と凄い話が。丸投げって…?
「坊さんの紹介を頼んだ以上は、月参りもその坊さんなんだが…。会館専門の坊主もいるしな、忙しすぎて月参りに行けなくて代理を頼んで、そこでミスったら…」
ウッカリ二人に頼んだ場合は起こり得るな、というのが月参りのダブルブッキング。でも、元老寺だと有り得ないってことは、どうして他のお寺のお坊さんに遭遇しちゃったんですか?
「間違えるなよ、檀家さんの家で会ったというわけじゃない」
月参りの途中で出くわしたんだ、と溜息をつくキース君。
「…暑い最中にすれ違ったというだけなんだが、向こうは車だったんだ!」
「「「車?」」」
「軽自動車だったが立派に車だ、エアコンを効かせてそれは涼しそうに!」
俺は自転車で走っているのに、と聞かされたら分かったキース君の気分。きっと心の底から羨ましいと思ったんでしょう、車で走る月参り。
「楽して回っていやがるな、とは思ったんだが、これも修行の内だと気持ちを切り替えてだな…。檀家さんの家で月参りを済ませて、次の家へと急いでいたら…」
「また車ですか?」
シロエ君の問いに、キース君は。
「車だったら、もう耐性は出来ていた! 今度はスクーターが来やがったんだ!」
あれこそ坊主の必需品だ、という言葉で思い出しました。アドス和尚も棚経の時はスクーターだと聞いています。それにスクーターで走るお坊さん、けっこう見掛けるものですしね?



棚経の季節でなくても、月参りで走るのがお坊さん。アドス和尚も檀家さんの家が遠い時には車で行ったりするそうですけど、スクーターも愛用しています。
ところが、キース君にはスクーターの許可が未だに下りないのでした。副住職になった時点で駄目だったからには、この先も当分、許可は出そうにありません。
「…スクーターでしたか…。それは羨ましいですね…」
先輩の場合は車以上に、とシロエ君の顔に同情の色がありありと。
「キース先輩、スクーターには乗れませんしね…」
「親父のせいでな! 普段だったら、スクーターのヤツに会っても滅入りはしないが…」
先に車に出会った分だけ、羨ましいと思う心が増えていたのに違いない、と左手首に嵌めた数珠レットの珠を繰っています。心でお念仏を唱えている証拠。
「…俺としたことが、まだまだ修行が足りないらしい」
「仕方ないですよ、暑い中を自転車なんですから」
「…しかもチラリと見られたような気がして、余計にな…」
なんで自転車で走っているのだ、と思われた気がするらしいです。いつもだったら月参りの途中に出会ったお坊さんは誰もが戦友、「頑張れよ」と心でエール交換なのに。
「やっぱり暑さが悪いんだろうな、そんな気持ちになるってことは」
心頭滅却すれば火もまた涼し、と言った坊主もいたというのに…、と再び繰られる数珠レット。
「俺の修行がいつまで続くか分からんが…。早くスクーターに乗れないものか…」
「直訴しかないと思うけど?」
アドス和尚に、と会長さんが口を開きました。
「待っていたんじゃ、スクーターに乗れるチャンスは四十歳だね」
「「「四十歳?」」」
どういう根拠でその数字が、と私たちは驚いたんですけれども、キース君は。
「そうか、あんたもそう思うのか…。紫の衣になるまでは無理、と」
「アドス和尚は厳しいからねえ…。君は全く年を取らないわけだし、自転車でいいと思っていそうだよ? 相応しい人物になるまではね」
それの目安が紫の衣、と会長さん。今のキース君は萌黄色、いわゆる黄緑色なんですけど、お坊さんとしての階級が上がれば松襲という色になるとか。紫っぽくも見える青色、その上になったら紫の衣。紫の上は緋色しか無いそうですから、紫は偉い色なんでしょうね。



会長さん曰く、紫色の法衣を着られる年齢の下限が四十歳。そこまではいくら修行を積んでも着られない色で、大抵のお坊さんは紫色で終わりだそうで。
「緋色は七十歳になってから、というのも大きい問題だけれど、許可の方もね…」
簡単には下りないものなのだ、と会長さん。
「だから普通は、紫になれば偉いお坊さんという認識かな。その偉い人を自転車で走らせているとなったら、アドス和尚の評価が下がりそうだし」
「「「あー…」」」
そういう理由で渋々許可を出すわけか、と理解しました。対外的な圧力と言うか、周囲の視線に負けると言うか。アドス和尚としては、四十歳でも自転車でいいと思っていそうですけど。
「四十歳かよ…。今から何年かかるんだよ?」
お前、それまで待てるのかよ、とサム君が。
「ずっと自転車で走り続けるのかよ、クソ真面目に? 先は長いぜ」
「…分かってるんだが、あの親父が許可を出すわけが…」
ブルーが一筆書いてくれたら別なんだが、とキース君の視線が会長さんに。
「銀青様の仰せとなったら、親父は無条件降伏だからな」
「生憎と、ぼくにそういう趣味は無くてね」
これでも修行をダブルで積んでいるわけで…、と会長さん。
「璃慕恩院で修行した後は、恵須出井寺にも行ってたと言った筈だけど? あそこはキツイよ」
「…俺の修行など、たかが知れていると言いたいわけだな?」
「悪いけど、ぼくから見れば、ぬるま湯。…スクーターは自力で勝ち取りたまえ」
直訴しろと背中は押してあげたし、と銀青様は助けてあげないようです。
「思い立ったが吉日と言うしね、これも何かの御縁だろう。駄目で元々!」
「分かった、親父に掛け合ってみる」
それもまた修行というものだろう、とキース君は決意を固めました。
「妙な問答を吹っ掛けられても、努力はしないと…。スクーターのために」
「頑張るんだね、副住職。…駄目だった時は残念パーティーをしてあげるから」
「かみお~ん♪ 明日は土曜日だもんね!」
お祝いのパーティーが出来るといいね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛び跳ねています。明日は会長さんの家で昼間から焼肉パーティー、お祝いの方か、残念な方か、どっちでしょうね?



次の日、私たちは朝からワクワクと会長さんの家に出掛けてゆきました。会長さんの家から近いバス停に集合ですけど、キース君は抜き。今日のパーティーの主役ですから、満を持しての登場がいいと会長さんが言っていたからです。
「キース先輩、今日は重役出勤ですしね…。お祝いだったらいいんですけど」
会長さんの家まで歩く途中も、話題はひたすらスクーターで。
「どうなんだろうなあ、俺は危ない気がするんだけどよ」
なんたってアドス和尚だぜ、とサム君が。
「棚経の時に自転車でお供する年もあるけどよ…。容赦なくスクーターで飛ばしていくしよ」
全力で漕ぐしかねえんだぜ、と体験者ならではの重い言葉が。
「ジョミーも何回もやられた筈だぜ、あのシゴキ」
「…うん、朦朧としてくるよね…。スピード、落としてくれないもんね」
前はキースがアレをやられていたんだよね、とジョミー君も。
「住職の資格を取るよりも前は、お父さんのお供で走ってたんだし…」
「そうですよ? ジョミー先輩たちと会うよりも前にもやってた筈です」
シロエ君は事情通でした。私たちよりも付き合いが長いですから、キース君がお寺を継ぐのを拒否するよりも前の話も知っているわけで。
「跡継ぎがいます、って披露しなくちゃいけませんしね。小学生の時からやっていたんだと思いますよ。棚経のお供」
「…子供でも容赦なく飛ばしてたのかよ?」
スクーターで、とサム君が震え上がりましたが、シロエ君は。
「いえ、そこまでは聞いてませんから、加減していたんじゃないですか?」
「だよねえ、子供じゃついてけないよ」
いくらキースでも絶対に無理! とジョミー君。よっぽど飛ばして行くんでしょうけど、そのスクーターがキース君の望みで希望。許可が下りてるといいですよねえ…。



スクーターに乗る許可は出たのか、駄目だったのか。会長さんの家に着くなり尋ねましたが、会長さんも「そるじゃぁ・ぶるぅ」も口を揃えて。
「さあねえ…? これに関してはサプライズを希望で、見ていないんだよ」
「ぼくも見てない! キースから直接聞きたいもんね!」
それがいいと思うの! と答えた「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、バースデーケーキを彷彿とさせる立派なケーキを用意していました。ベリーと生クリームで華やかに飾って、真ん中にホワイトチョコレートらしきプレートが。でも、真っ白。
「これはキースが来てから書くの! お祝いなのか、残念なのかが分からないから!」
どっちかなあ? と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が首を傾げた所へチャイムの音がピンポーンと。いよいよ主役の登場です。出迎えに走った「そるじゃぁ・ぶるぅ」と一緒に現れたキース君を、私たちは盛大な拍手で迎えたのですが…。
「…悪い、その拍手は無駄になったようだ」
親父は許してくれなかった、と肩を落としたキース君。「馬鹿が!」と一喝されて終わってしまったそうです、スクーターの許可を巡る話は。
「…問答さえも無かったのかよ?」
「まさに問答無用だったな」
聞く耳さえも持たなかった、と項垂れている副住職。「そるじゃぁ・ぶるぅ」がケーキのプレートに「残念でした、お疲れ様」とチョコレートで書き入れ、キース君が入刀を。
「クソ親父めが!」
バアン! とケーキナイフでザックリ切られたケーキですけど、キース君の役目はそこまでです。綺麗に切れるわけがないですから、「そるじゃぁ・ぶるぅ」と交代で…。
「…残念ケーキか…」
そして昼飯は残念パーティーになるわけなのか、とケーキを食べるキース君が背中に背負った哀愁の二文字。気の毒ですけど、スクーターはやっぱり…。
「四十歳まで無理なんだろうな、俺の衣が紫に変わる日まではな!」
残念すぎる、とケーキをパクパク、ヤケ食いと言うかもしれません。お相伴する私たちの方は、残念ケーキでも、お祝いケーキでも、美味しければ充分ですけどね…。



お昼御飯は焼肉パーティー、祝賀会ならぬ残念パーティー。さて、と焼肉を始めた所で、シロエ君が突然、思い付いたように。
「そうだ、キース先輩、準備だけでもしておきませんか?」
「準備?」
「スクーターに乗る準備ですよ! 免許が無いと乗れませんからね、スクーターには」
免許だけでも取りませんか、と前向きな提案。ちょっと気分が上向くのでは、と。
「それはそうかもしれないが…。俺が免許を取ったとバレたら、親父が何と言い出すか…」
コッソリ乗ってはいないだろうな、と勘繰りそうだ、と言われてみればヤバいかもです。運転免許を持っているなら、誰かの家に隠しておいたスクーターに乗って走ることが可能になりますし…。
「バレちゃうのかな、運転免許を取ってたら?」
ジョミー君の問いに、会長さんが。
「バレるんだろうねえ、免許の交付はお役所だからね」
キースが家族と暮らしている以上は何処かでバレる、とキッパリと。
「一人暮らしなら安全だけどね、キースの場合は確実にバレてしまうだろうねえ…」
「…俺もそう思う。免許を取ったら、確かに気持ちは上向きそうだが…」
現実問題として無理なんだ、とキース君が零した途端に。
「こんにちはーっ!」
部屋の空気がユラリと揺れて、紫のマントが翻りました。
「キースの残念パーティーだって? 美味しそうだよね、焼肉パーティー!」
ぼくも食べる、と一瞬にして着替えてしまった私服。会長さんの家に置いてある服です。ソルジャーは空いていた椅子に腰掛け、ちゃっかり面子に混ざってしまって。
「昨日から様子は見てたんだけどさ、駄目だったんだ? スクーター」
「キッチリとな! 俺は四十歳まで乗れないんだ!」
紫の衣になるまでは自転車で走るしかないんだ、とキース君。
「気分だけでも運転免許が欲しい所だが、それさえ取れない身の上なんだ!」
色々な意味で残念パーティーなんだ、とジュウジュウと肉を焼くキース君ですが…。
「その免許って、無いと駄目なのかい?」
無免許の人もいるようだけど、と言うソルジャー。とんでもないことをサラッと口にしてくれましたけれど、無免許運転は駄目ですってば…。



意外に多いのが無免許運転。スクーターとかバイクはもとより、普通の車や軽トラックでも。一度も自動車学校に通ったことが無いのが自慢の人も存在すると聞きます。けれど普通は免許無しで乗ったら警察のお世話になるわけですから…。
「あんたは俺を前科一犯にしたいのか!」
無免許でスクーターに乗ったと警察にバレたら捕まるんだが、とキース君。
「そうなったら親父がどう出るか…。殴る蹴るくらいで済めばいいがな、来る日も来る日も罰礼を三千回とか言われそうだぞ、間違いなく!」
「罰礼って、どんなのだったっけ?」
「南無阿弥陀仏に合わせて五体投地だ、スクワット並みにキツイんだ!」
百回も続ければ膝が笑う、と肩をブルッと。
「修行中なら一日に三千回もアリだが、毎日とまでは言われないぞ!」
「ふうん…? でもね、無免許運転の人もけっこういるからねえ…」
君が知ってる所で言うならハーレイだろうか、と何故か教頭先生の名前が。車を運転してらっしゃいますけど、まさか免許を持ってないとか?
「ちょっと、ハーレイって…。あれでもゴールド免許だよ?」
無免許どころか模範的ドライバーの内なんだけど、と会長さん。
「妙な話を吹き込まないで欲しいね、シャングリラ学園の教頭が無免許だなんて!」
「えっ、でもさ…。無免許じゃないかと思うんだけど?」
ぼくのハーレイと同じ理屈で、と謎な台詞が。キャプテンは確かに無免許でしょうが、それは別の世界の人間だからじゃないでしょうか。運転免許を取りたくっても、必要な書類が揃うとはとても思えませんし…。
「違うよ、車の話じゃなくって! もっと大きな!」
「…大型特殊免許かい?」
会長さんが訊くと、「その一種かも…」とソルジャーは顎に手を当てて。
「ぼくの世界じゃなんて呼ぶのか詳しくなくてね、興味が無いから」
「「「は?」」」
「だってそうだろ、人類が決めたルールなんかはミュウには意味が無いってね!」
だから免許の名前も知らない、とソルジャーは言っていますけど。教頭先生がソルジャーの世界で必要な種類の免許なんかを取る理由が無いと思うんですが…?



教頭先生は無免許なのだ、というソルジャーの主張。しかもソルジャーの世界で言う所の免許、そんな代物はこっちの世界じゃ誰も必要としていません。車やバイクを運転できれば充分、よくて飛行機といった感じじゃないんでしょうか。あれっ、飛行機…?
まさか、と頭に閃いたもの。飛行機よりも遥かに大きくて、空を飛ぶもの。
「そう、それだよ! シャングリラだよ!」
こっちの世界じゃシャングリラ号と呼ぶんだっけか、と笑顔のソルジャー。
「あれの免許は持っていないと思うんだけど! こっちのハーレイ!」
ぼくのハーレイも無免許だから、とソルジャーは威張り返りました。
「なにしろ、ぶっつけ本番だったし…。アルタミラではずっと檻の中だし、免許も何も!」
とにかく宇宙に飛び出しただけだ、と凄すぎる話。宙航とやらに一隻だけあった宇宙船に乗って飛び立ったとかで、免許などは持っているわけがなくて。
「もうその後は、飛びさえすればいいってね! それで充分!」
そして無免許で今に至る、と得意顔。
「人類の世界で免許を取りに出掛けたとしたら、一発で合格するんだろうけど…。そんなつもりも予定も無いしね、無免許人生まっしぐらってね!」
今日もシャングリラは無免許運転で飛んでいる筈だ、と言われて知った無免許な事実。キャプテンが無免許運転だったとは知りませんでした。すると、教頭先生も…?
「そうじゃないかと思うんだけどさ、どうなってるわけ?」
ソルジャーに訊かれた会長さんは、苦々しい顔で。
「…そっちの方なら無免許だねえ…。免許があるならゴールド免許の筈だけど!」
違反はともかく無事故だから、ということは…。
「会長、もしかしてシャングリラ号は免許無しでも操縦できるんですか!?」
ぼくでも動かしていいんでしょうか、とシロエ君が訊き、ジョミー君も。
「ぼくでも操縦できちゃうわけ? あの大きいのを?」
「うーん…。ハーレイは無免許なんだけど…。その他は、ちょっと…」
「「「え?」」」
「一応の基準はあるんだよねえ、あれを動かす以上はね!」
ハーレイが乗っていない時には他の仲間が動かしてるし、と会長さん。そっか、全員が無免許運転ってわけじゃないんですね、シャングリラ号は…?



会長さんが話してくれた所によると、シャングリラ号を操縦するにはシミュレーターを使った練習なんかも要るようです。その上、練習を始めるためには…。
「「「運転免許?」」」
「そうなんだよねえ、誰が決めたか謎なんだけどさ…」
最低でも原付バイクの免許が必要、と会長さん。
「つまり、君たちではスタートラインに立てないわけだよ。シャングリラ号を動かすにはね!」
「…あんた、免許を持っていたのか?」
聞いたこともないが、とキース君が突っ込みを。
「それともソルジャーも無免許とやらでかまわないのか、シャングリラ号は?」
「そもそも、操縦しないしねえ…。わざわざ操縦するくらいだったら、丸ごと運ぶよ」
サイオンで運んだ方が早い、と天晴れな返事。
「それにね、ぼくが操縦するとしたって免許は要らない。ハーレイと同じで特例ってね」
現場で経験を積んだからいい、と例外扱いになるのだとか。教頭先生も現場での経験豊富だからという理由で無免許、他にも無免許組がいるそうですけど…。
「…今からとなると、試験みたいなのがあるんだよ。実技と、筆記と」
受験資格は原付免許くらいはあるということ、と私たちの前に聳えたハードル。私は別に動かしたいとも思いませんけど、男の子たちはそうではなかったようで。
「…原付かよ…」
「つまりは俺にも無理なわけだな、スクーターの免許が取れない以上は…」
原付免許が欲しくなった、とキース君が言えば、シロエ君も。
「ぼくもです。それさえあったら、シャングリラ号に乗った時には実技の練習、出来ますよね?」
どうなんですか、と訊かれた会長さんは。
「そりゃまあ、駄目とは言わないだろうね、係の方も」
シミュレーターは使わせて貰えるだろう、という返事。
「今の君たちでも出来るんだけどね、シミュレーターで遊ぶくらいのことは。だけど遊びは練習にカウントされないし…」
実技試験を受けるために必要な時間をカウントして欲しいのなら、原付免許、という話。持っています、と届け出ておけば、シミュレーターを使った時間が公式練習扱いになるのだそうです。所定の時間をクリアした時は、実技試験への道が開けるわけですか…。



シャングリラ号を動かすためのスタートラインは原付免許。それを知った男の子たちは、俄然、色めき立ちました。原付免許さえ持っていたなら、シャングリラ号に乗った時にはシミュレーターを使って練習。塵も積もれば山となる、ですし…。
「いつかは動かせるかもしれないんですね、シャングリラ号を!」
やってみたいです、とシロエ君が声を上げ、ジョミー君だって。
「ぼくもだよ! やっぱり憧れだよね、面舵いっぱーい!」
「俺もやりてえ…。カッコいいよな、宇宙船だもんな」
サム君もウズウズしている様子で、マツカ君までが。
「一度くらいは動かしたいですね、あんな大きな宇宙船ですし…」
「俺もやりたいのは山々だが…。原付免許が…」
あの親父が立ちはだかっている間はとても無理だ、とキース君だけがぶつかった壁。えっ、シャングリラ学園の校則の方はどうなんだ、って? そっか、校則…。
「原付バイクは禁止だったと思うわよ?」
校則で、とスウェナちゃんも私と同じ考えに至ったようです。
「学校に乗ってくるのはもちろん、免許を取るのも駄目だった筈よ」
「「「あー…」」」
そうだった、と残念そうな声が漏れたのですけど、会長さんが。
「免許についても、特別生は除外だったと思うけど? 親の許可さえ貰っていればね」
「本当ですか!」
だったら取れるわけですね、とシロエ君が躍り上がって、他のみんなも。キース君以外は。
「…また俺だけが駄目なのか…」
親父が許可を出すわけがない、とキース君にだけアドス和尚という分厚い壁が。原付免許を取ったとバレたら激怒しそうなアドス和尚がいるわけですから、シャングリラ号の操縦も無理。
「…なんか、お前ってツイてねえよな…」
スクーターも駄目で、シャングリラ号も駄目なのかよ、とサム君が。
「分かった、俺も付き合ってやるから。…原付免許は四十歳まで待つことにするぜ」
その頃には俺も住職の資格を持ってるかもな、とサム君ならではの人の好さ。これはなかなか真似出来ませんよね、シロエ君とかジョミー君とかは原付免許を取りに出掛けそうですよ?



スクーターに乗っての月参りも駄目で、シャングリラ号の操縦資格も手に入れられないキース君。四十歳になったらスクーターの許可は下りそうですけど、それまでは原付免許がお預け、シャングリラ号の操縦資格も貰えない始末。サム君は付き合って四十歳まで待つそうですが…。
「ごめんね、ぼくはお先に取らせて貰うから!」
原付免許も、シャングリラ号の操縦資格も…、とジョミー君。
「ついでに住職の資格の方はさ、もう永久に取らないってことで!」
「おい、貴様! 原付免許の件はともかく、坊主の方は銀青様の直弟子だろうが!」
なんという罰当たりなことを言うのだ、とキース君が怒鳴っても、馬耳東風で。
「それとこれとは関係無いし? シロエとマツカも一緒に取るよね、原付免許?」
「そうですね。ジョミー先輩たちと一緒に行くのが良さそうですね」
「ぼくもそっちを希望です。確か一日で取れるんですよね」
筆記試験とかと講習だったでしょうか、とマツカ君。あれって、そんなに簡単なんだ?
「らしいですよ? ですから誰でも乗ってるんですよ」
難しいなら、もっと少ない筈ですよ、と聞いて納得。一日で取れるような免許でシャングリラ号を動かす資格のスタートラインって美味しすぎです。男の子たちがキース君を捨てても取りたがるわけで、私もちょっぴり欲しいような気が…。
「ジョミーたちが行くなら、私も一緒に行こうかしら?」
それさえあったらシャングリラ号を動かしたくなった時に便利だし、とスウェナちゃんも乗り気になったようです。よし、私も、と思ったんですけど…。
「ちょっと待ってよ? 一応、確認しておくから」
嘘を言ってたら大変だしね、と会長さんが電話をかけています。教頭先生にかけてるんだな、と思ったのに…。
「ああ、ゼル? シャングリラ号のことで訊きたいんだけど…」
「「「………」」」
キャプテンじゃなくて機関長の方に質問するとは、教頭先生の家に電話するのが嫌なんですね?
「…普通はキャプテンに訊くと思うが…」
キース君が呆れて、ソルジャーも。
「こっちのハーレイ、嫌われてるねえ…。真っ当な質問もして貰えないなんてね!」
なんてことだろう、と深い溜息を。私たちだってそう思いますです、質問くらいはしてあげたって減りはしないのに、避けるんですか…。



ゼル先生の家に電話している会長さん。シャングリラ号の操縦資格を取るために必要なものは原付免許で良かったよね、と確認中で。
「うん、そう。…原付免許があったら誰でもシミュレーターの公式練習が…。えっ?」
なんだって、と訊き返して。
「それは聞いてはいないんだけど…。いつ決まったわけ?」
「「「???」」」
何か雲行きが怪しいようです。原付免許から普通免許に変わっていたとか、そういう感じ?
「ぼくは承認した記憶なんか…。適当に決めろと言ったって?」
じゃあ仕方ない、と会長さんは電話を切って。
「…ごめん、規則が変わってた。原付免許があればオッケーなのは間違いないけど…」
「年齢制限でも出来たのか?」
キース君の問いに返った答えは…。
「高校卒業以上だってさ、シャングリラ学園の場合は在学中は無理だって」
「在学中って…。ぼくたち、一度、卒業したけど?」
特別生になる前に、とジョミー君が言ったのですけど、会長さんは。
「それはカウントされないらしいよ、シャングリラ学園は普通じゃないから…。特別生は特殊な立場になるしね、一度目の卒業はノーカウントだって」
だから君たちには最初から資格が無いらしい、と申し訳なさそうな会長さん。
「ぼくが適当に決めろと言った会議の議題に入っていたらしいね、この話。つまり、君たちが原付免許を取って来たって…」
「シャングリラ号の操縦資格は得られないわけか。なら、安心だ」
俺も心安らかに四十歳まで待てるらしい、とキース君はホッとしているようです。
「サムを巻き込んでしまったからなあ、申し訳なくて…」
「俺はいいんだぜ、気にしなくっても。…でもよ、誰も資格を取れねえってのは嬉しいかもな」
出遅れねえってことなんだし、とサム君も。
「特別生をやってる間はジョミーもシロエも無理ってわけだろ、原付免許があってもよ」
「そうなるねえ…。一度決まった規則を変えるのは大変だからね」
ソルジャーの権限で変えようとしても何かと面倒、と会長さんは規則を元に戻すつもりは無いらしいです。シャングリラ号の操縦資格が一気に遠のきましたね、原付免許だけって話から…。



こうして夢に終わってしまったシャングリラ号の操縦資格。原付免許を取ろうとしていたジョミー君たちは残念そうで、キース君のスクーターの許可の残念パーティーは全員分の残念パーティーになりつつあったわけですけれど。
「えーっと…。原付免許だけでもオッケーなように出来ないこともないけれど?」
会長さんならぬソルジャーの言葉に誰もがビックリ。会長さんの替え玉になって会議に出掛けて、規則を変えようというのでしょうか?
「それはしないよ、面倒だからね! ぼくのシャングリラの会議でも充分、面倒なのにさ!」
なんでこっちに来てまで会議、と顔を顰めてみせるソルジャー。
「要はアレだよ、ぼくの得意なサイオンだってば! ちょっと細工をすればオッケー!」
例外規定を意識の下に書き込むだけだ、とニッコリと。
「こっちの世界でシャングリラ号に関わってる人、そんなに多くはいないから…。ぼくにかかれば五分もあればね、充分に出来るわけだけど!」
君たち七人を例外として認めるという新しい規則、とのアイデアにジョミー君たちは飛び付きました。たったの五分で例外扱い、貰えない筈のシャングリラ号の操縦資格への扉が開くと言うのですから。後は原付免許さえ取れば、シミュレーターでの練習が出来て…。
「それ、お願い! この際、キースはどうでもいいから!」
ジョミー君が頼んで、シロエ君も。
「キース先輩には悪いですけど、サム先輩も一緒ですしね。ぼくからもよろしくお願いします!」
「…俺には止める資格が無いしな…。物分かりの悪い親父を持ったのが運の尽きだった」
他のヤツらをよろしく頼む、とキース君は副住職ならではの潔さ。
「俺とサムもいずれは原付免許を取ることになるし、それまでは待ちの姿勢だな」
「オッケー! それじゃ、君たち七人分ってことで細工するけど…」
その前に、とソルジャーは私たちの方へと向き直りました。
「君たちはシャングリラ号の操縦への道が開けるわけなんだし…。代わりと言ってはアレなんだけれど、運転の練習をちょっと手伝ってくれるかな?」
「「「は?」」」
「大したことじゃないんだよ、うん。君たちの手さえ貸してくれれば」
運転の練習をするのは君たちじゃないし、と妙な依頼が。ソルジャーが運転免許を取ろうというわけでしょうか、こっちの世界で使えるヤツを…?



是非とも欲しいのがシャングリラ号の操縦資格を得るための道。特別生をやってる間は無理な所をソルジャーが例外にしてくれるそうで、そのためだったら手伝いくらい、と考えるわけで。
「何を手伝えばいいんですか?」
シロエ君の質問に、ソルジャーは。
「話が早くて助かるよ。…ブルーときたら、さっきもゼルに電話をするくらいでねえ…」
そういうブルーを変える手伝い、とパチンとウインク。
「つまりさ、こっちのハーレイがブルーを上手く乗りこなせるよう、お手伝いを!」
「「「乗りこなす?」」」
「そのままの意味だよ、まずはデートから始めようかと!」
そしていずれは本当の意味で乗れるように、と極上の笑みが。
「ベッドの上でね、ブルーに乗っかって腰を振るわけ! 大人の時間の醍醐味ってね!」
「退場!!!」
会長さんがレッドカードを叩き付けて怒鳴り、私たちも。
「「「そ、それは…」」」
そんな恐ろしいことを手伝える猛者がいるわけありません。具体的な内容を聞かなくっても、手伝ったら最後、会長さんに殺されることは確実で…。
「…せ、せっかくのお話ですけど、お断りさせて頂きます!」
ぼくは死にたくないですから、とシロエ君が逃げ、ジョミー君だって。
「ぼくも嫌だよ、それ、絶対に殺されるから!」
「間違いないな。…俺も断る、ただでも恩恵を蒙れる日までが長いわけだし」
シャングリラ号の操縦資格は永遠に手に入らなくてもかまわない、とキース君も断り、サム君も、私たちも首をコクコクと。引き換えにするものが大きすぎます、命あっての物種ですから…!



こうして原付免許を取ろうという話は立ち消えになって、シャングリラ号の操縦資格への道も閉ざされてしまいましたが、誰も後悔しませんでした。ソルジャーだけを除いては。
「…まだ気が変わったとは思わないのかい?」
ぼくにはお安い御用だけれど、と今日も押し掛けて来たソルジャー。
「ぼくの手伝いをしてくれるだけで、シャングリラ号の操縦資格が手に入るけどね?」
「要らないと何度も言ってます!」
押し売りはお断りなんです、とシロエ君が手で追い払う仕草、ジョミー君も。
「キースのスクーターの許可と同じでさあ…。待ったらオッケーになるって可能性もあるし」
「そうだぜ、四十歳になった頃には規則が変わるってこともあるしよ」
気長に待つぜ、とサム君が返して、キース君が。
「待てば海路の日和あり、という言葉もある。…俺は危ない橋は渡らん」
自転車で月参りに走る度に肝に命じている、と断固お断りだという姿勢。事の起こりはスクーターでしたし、キース君が自転車で走り続ける間は誰の決意も固そうです。
「…ぼくはお得だと思うんだけどなあ、たったの五分で作業完了!」
「その五分で、ぼくたちの命が思いっ切り危うくなるんですよ!」
会長に本気で殺されますから、とシロエ君がブルブル、会長さんは冷たい笑みで。
「ほらね、この通り、みんな分かっているから! セールスに来るだけ無駄だから!」
「うーん…。でもねえ、みんなの協力があれば、君とハーレイとの仲だって…」
きっと前進する筈なんだよ、と諦めないのがソルジャーです。当分は押し売りに来そうですけど、甘い誘いに乗ったら命がありません。自転車で走るキース君と同じに修行のつもりでシャングリラ号の操縦資格は諦めるのが吉でしょう。原付免許で乗れるというのが美味しすぎました。
「何度来て貰っても、断りますから!」
お帰り下さい、とシロエ君が手を振り、私たちも両手で大きくバツ印。原付免許で乗れると噂のシャングリラ号は美味しいですけど、やっぱり命が大切です~!




           取れない免許・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 キース君が免許を取る話から、シャングリラ号の免許の取り方が判明したんですけれど。
 原付免許でいけると聞いていたのに、変わった規則。ソルジャーに頼むしか、って残念すぎ。
 次回は 「第3月曜」 9月19日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、8月と言えば来るのがお盆。卒塔婆書きに始まり、棚経で…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv












(おや…?)
 こんな所に、と止まったハーレイの足。土曜日の午前中、ブルーの家へと向かう途中で。
 朝早いとは言えないけれども、午前のお茶にはまだ早い時間。ゆっくり、のんびり、回り道でもしながら歩いてゆくのが似合い。早く着きすぎると、ブルーの母に悪いと思うから。
 晴れた空の下、気の向くままに歩いて来た道。其処で見付けた、青いようにも見える薔薇。
 通り掛かった家の庭から、零れるように咲いた薔薇たち。ほんのりと青みを帯びた花。
(こいつは気付いていなかったな…)
 何度も歩いた道だけれども、青い薔薇など。
 もう散りかけている花もあるから、前から咲いていたのだろうに。薔薇の木もそこそこの高さ。この大きさなら、気付いてもおかしくない筈なのに。
(青い薔薇か…)
 真っ青な花じゃないんだが、と観察してみた薔薇の花たち。幾重にも重なり合った花びら、青が濃いのは真ん中の辺り。けれど淡い青、紫のようにも見える色。いわゆる青い色とは違う。
 外側へゆくほど、薄くなる青み。一番外側の花びらになると、白い薔薇かと思うほど。
(筆でぼかしたみたいだな…)
 真ん中の青を、外へ向かって。どんどん薄くなるように。自然にぼやけてしまうように。
 そんな具合だから、花全体を見れば、ふうわりと青い。ほんの一刷毛、青を刷いたように。
(地味すぎて気が付かなかったか?)
 あるいは光の当たり具合で、白い薔薇だと思っていたか。太陽が真っ直ぐ射していたなら、淡い青色は飛びそうだから。
(こんな頼りない青ではなあ…)
 そうもなるよな、と眺めた青い薔薇の花。光の加減で消えてしまいそうな儚い青。
 前の自分が生きた頃には、真っ青な薔薇があったという。今の時代は、失われた青。写真にしか無い真っ青な薔薇。
 今はこういう淡い青だけ、薔薇の品種が幾つあっても。



 SD体制の時代だったら存在していた、本当に青い薔薇の花。地球が滅びてしまうよりも前に、その青は作り出されたけれど。
(シャングリラでは育てなかったんだっけな…)
 遠い昔に「不可能」を意味したともいう、青い薔薇は。
 その不可能を可能にしようと、人間が薔薇たちに組み込んだ色素。それが青色。薔薇は持たない筈の青。人の技術は青い薔薇を完成させたけれども、地球からは青が失われた。
(青い薔薇が吸い取っちまったわけじゃないんだろうが…)
 身勝手で愚かな人間たちが、青かった地球を死の星にした。緑は自然に育たなくなり、海からは魚影が消えていって。…地下には分解不可能な毒素。
 青い薔薇を見事に咲かせた代わりに、母なる地球を失くした人間。
 ヒルマンがそういう話をしたから、青い薔薇は導入しないで終わった。「自然のままに」と。
(…あいつの名前がブルーだったのにな?)
 白いシャングリラを導くソルジャー、ミュウたちの長の名前がブルー。「青」という意味を持つ名前。それでも青い薔薇は無かった。「植えよう」という者はいなかった。
 最初の頃には「青が無いとは片手落ちだ」という声も上がったけれども、青が無い理由を知れば誰もが納得した船。「自然のままが一番いい」と。
 白いシャングリラには無かった青い薔薇の花は、後の時代に失われた。
 SD体制の時代に消された文化や、禁じられていた自然出産。様々なものを、かつての姿に戻す過程で、薔薇の姿も元の通りに戻された。青い色素を持った薔薇など、もう要らないと。
(今はこういう薔薇ってことだ…)
 同じ青でも、淡い青色。薔薇が本来持っている色素、それだけで作り出せる青。
 綺麗なもんだ、と見ている間に、ふと思ったこと。
 あいつだったら、こういう青だ、と。



 ブルーの名前が意味する青。ブルーを青い薔薇にするなら、きっとこの薔薇。
 青い色素を組み込まれた薔薇の花とは違って、自然な青。ほんのりと青い、白い薔薇にも見えるような柔らかい色の花びら。
(あいつと言っても、前のあいつのことだがな…)
 同じブルーでも、今のブルーは、まだ薔薇の花は似合わない。
 「可愛らしい」と形容するのが似合いの子供で、前のブルーとはまるで違うから。前のブルーは気高く美しかったけれども、今のブルーは愛らしい子供。
(どうしても薔薇にしたいんだったら…)
 今が盛りの花とは違って、これから咲く蕾。開いたら何の花になるのか、蕾だけでは分からないほどの小さなもの。色さえも掴めないような。
(…この薔薇にだって、そういう時期があるわけだしな?)
 チビのあいつはそんなトコだ、と眺めた薔薇。
 まだまだ蕾で、「薔薇なのか?」と枝や葉を調べて、やっと薔薇だと分かる花。
 前のブルーなら、蕾ではなくて花なのだけれど。美しく咲いた薔薇の花。
(ついでに、散りかけた花じゃなくてだ…)
 こういう花ではないんだよな、と盛りを過ぎた花に目をやった。「これじゃないんだ」と。
 前のブルーは、最後まで気高い花だった。開いたばかりの凛とした花、そういう薔薇。
(あいつは、こっちだ)
 これがあいつ、と美しく咲いた花を見詰める。今朝、花びらを広げたばかりのような。
 三百年以上も生きて、寿命が尽きると分かった頃には、ブルーは弱っていたけれど。その肉体は日々衰えていったけれども、それを悟らせなかったブルー。
(どんなに弱っちまっても…)
 散りかけの姿を見せはしなかった。もうすぐ散るのだ、と分かる姿は。
 十五年もの長い眠りに就いた時さえ、ブルーは変わらず美しかった。
 この薔薇で言えば、とうに盛りを過ぎてしまって、散りかけの花の筈だったのに。ほんの一瞬、目を離した隙に、はらりと花が崩れて落ちても、不思議ではない姿だったのに。



 けれども、美しいままだったブルー。深い眠りの底にいてさえ、凛と咲き続けた薔薇の花。この薔薇のように淡い青色、ほんのりと青を纏った姿で。
(そして、本当に一瞬で…)
 前のブルーは散ってしまった。文字通り消えてしまった命。漆黒の宇宙で、メギドと共に。
 散る姿さえ見せもしないで、美しい薔薇は宇宙に散った。
 ふと振り向いたら、花びらだけが地面に散っているように。ついさっきまでは咲いていたのに、散る気配すらも見えはしなかったのに。
 そんな最期だ、と思うのが前のブルーの最期。
 前の自分も、白いシャングリラにいた仲間たちも、誰一人として見ていない。美しかった薔薇が散ってゆくのを、前のブルーが死んでゆくのを。
(キースの野郎は見ていやがったが…)
 あいつがブルーを撃ったんだ、と噛んだ唇。弄ぶように、何発も弾を撃ち込んだキース。
 今のブルーに現れた聖痕、あれがそのまま、前のブルーが受けた傷。左の脇腹に、両方の肩に、右の瞳まで撃たれたブルー。
 きっと血まみれだったろう。…小さなブルーがそれを体現したように。
 けれど、それをしたキースでさえも知りはしなかった。
 息絶えた、前のブルーの姿は。
 最後まで凛と咲き続けていた、ブルーという薔薇が散った姿は。
(あいつなら、きっと…)
 美しい姿だったのだろう、と思わないではいられない。
 赤く煌めく宝石のような、右の瞳が失われても。
 血まみれでも、息が絶えた後でも。
 ただ花びらが落ちているだけ、かつて「ブルー」という名の薔薇だったものが。
 その散り敷いた花びらでさえも、息を飲むほど美しく散っているのだろう。こうして零れて散るよりも前は、どれほど綺麗な花だったろうか、と誰もが思いを馳せるほど。
 「花びらだけでも美しいから」と、拾って持ち帰りたくなるほどに。
 澄んだ水の器に浮かべてやったら、その美しさを愛でられるから。たったひとひら、それだけになってしまった後にも、まだ充分に美しいから。



 きっとそうだ、と眺めるブルーを思わせる薔薇。前のブルーに似た、青い薔薇。
(こういう風にはならないな…)
 散りかけなのだ、と分かる薔薇の花。やたら広がってしまった花びら、開きすぎている花びらの隙間。じきに一枚、また一枚と零れて落ちてゆくのだろう。すっかり散ってしまうまで。
(…くっついたままで萎れる花びらだって…)
 何枚か出て来るかもしれない。茎についたまま、萎れ、色褪せてゆく花びら。
 前のブルーは、そんな散り方はしなかった。
 一瞬の内に散ってしまって、気付けば花びらが落ちているだけ。そういう最期。
(あいつには、それが似合ってた…)
 綺麗なままで逝っちまうのが、と薔薇の花にそっと触れてみた。凛と咲いている、美しい薔薇。咲いたばかりで、露を纏っていそうな薔薇。
 ブルーが其処にいるようだから。…前のブルーの姿が薔薇に重なるから。
(これからも綺麗に咲くんだぞ?)
 あいつみたいに、と微笑み掛けて、薔薇に別れを告げたけれども。
 ほんのりと青い薔薇が咲く家、其処を離れて再び歩き始めたけれども、少し歩いてから気付いたこと。角を曲がって、薔薇たちが見えなくなってから。
(…待てよ…?)
 前のブルーはああいう風ではなかった、と眺めていた薔薇。散りかけの姿だった薔薇。
 もうすぐ散ってしまうのだろう、あの薔薇の花は来年も咲く。同じ花は二度と咲きはしないし、咲くのは新しく出て来る蕾。
 それでも来年は咲くのだろうし、もしかしたら冬の季節にだって。四季咲きの薔薇なら、冬にも花を咲かせるから。上手く育てれば、他の季節にも負けない花を。
 けれど、凛と美しく咲いたブルーは…。
(散ってしまって…)
 それきり、咲きはしなかった。
 新しい蕾をつけることなく、二度と開きはしなかった薔薇。
 前の自分はブルーを失くした。美しい薔薇はもう、宇宙の何処にも無かったから。



 生きて戻りはしなかったブルー。散ってしまった、気高い薔薇。
(今のあいつは…)
 これから花を咲かせようという薔薇だった。まだ小さすぎて、薔薇の花には見えないけれど。
 同じ薔薇でもせいぜい蕾で、十四歳にしかならない子供だけれど。
(はてさて、どんな花になるやら…)
 さっき見たような青い薔薇なのか、それとも愛らしい薔薇か。
 前のブルーのようだと思った、あのほんのりと青かった薔薇。前のブルーが其処にいるようで、指先でそっと触れてみた薔薇。
 本当にブルーに似ていたけれども、あくまで前のブルーの姿。今の小さなブルーなら…。
(青と言うより…)
 淡いピンクの薔薇かもしれない。
 華やかなピンク色とは違って、淡い桃色。今のブルーの頬っぺたのような、優しい薔薇色。白い肌の下の血の色が透けた、命の色の柔らかなピンク。
(今のあいつは、青い薔薇の花じゃないかもな…)
 違う色の薔薇になるのかもな、と考えながら歩いた道。小さなブルーが待っている家へ。
 歩く間も、様々な色を湛えた薔薇に出会っては、その色合いと今のブルーとを重ねてみる。今のあいつはこれだろうかと、あの色の方がいいだろうかと。
 ピンクだけでも何色もあるし、他の色ならもう何色も。赤や黄色や、真っ白な薔薇も。
(何か企んでやがる時のあいつは…)
 黄色い薔薇も似合うんだよな、という気もする。心の欠片がキラキラ零れているブルー。
 シュンと萎れてしまった時には、白い薔薇。頬っぺたを膨らませて怒る時なら、何色だろう?
(あいつ、コロコロ表情が変わるもんだから…)
 どれがあいつに似合う薔薇やら、と出ない結論。
 前のブルーなら、あの青い薔薇が似合うのに。…あれがブルーだと、直ぐに姿が重なったのに。



 いくら考えても、様々な色の薔薇に出会っても、出て来ない答え。今のブルーに似合いの薔薇。
 そうして着いたブルーの家にも、薔薇の花は咲いていたのだけれど。
(うーむ…)
 ますますもって決められんぞ、と生垣越しに眺めた庭の薔薇たち。
 一色だけなら、この色が今のブルーの薔薇だと思えるのに。ブルーの家にはこの薔薇なのだし、今のブルーも同じ色だと決めてやることが出来るのに。
 庭を彩る、ブルーの母が育てている薔薇。一種類なら良かったのに、と考えたけれど。
(そういえば…)
 薔薇の花には、愛好家たちが名前をつける。新しい品種を生み出した時に、誇らしげに。
 愛する妻の名前をつけたり、お気に入りのスターに捧げてみたり、といった具合に。
 そうやって名付けられた中には、「ソルジャー・ブルー」もあるのだろうか?
 如何にもありそうな気がして来たから、門扉を開けに来たブルーの母に尋ねてみたら。
「ありますわよ。…薔薇のソルジャー・ブルーなら」
 いともあっさり返った答え。前のブルーの名前を持った、薔薇が存在するらしい。
「どんな花かは御存知ですか?」
「ええ。…よろしかったら、お見せしましょうか?」
 どうぞ、と思念で送られて来た薔薇のイメージは、さっきの青い薔薇に少し似ていた。花の形がほんの僅かに違うだけ。眺める角度で変わってくるから、あの薔薇がそうだったのかもしれない。
(どおりで、前のあいつに似ていたわけだ…)
 そのものズバリの名前だったら、薔薇の姿も似るだろう。前のブルーに。
 愛好家が名前をつけた時にも、「似ている」と思っただろうから。
 「ソルジャー・ブルーのような薔薇だ」と思ったからこそ、その名を付けた筈だから。



 さっきの薔薇は、本当に「ソルジャー・ブルー」だったかもな、と見回した庭。
 此処で何度も小さなブルーと過ごしたけれども、青い薔薇を見た覚えが無い。こうして見たって咲いていないし、庭には無さそうな「ソルジャー・ブルー」と呼ばれる薔薇。
 なんとも不思議だ、とブルーの母に問い掛けた。今のブルーは、ソルジャー・ブルーから貰った名前。同じアルビノの子供だから、と両親が名付けたと聞いているから。
「庭の薔薇…。ソルジャー・ブルーは植えないんですか?」
 ブルー君の名前の薔薇なのに、と訊いてみたくもなるだろう。薔薇を育てていない家なら、特に変でもないけれど…。この家の庭には薔薇があるのだし、ソルジャー・ブルーもありそうなもの。
 一人息子の名前を貰うついでに、薔薇だって。今のブルーが生まれた記念に植えるとか。
 そうしたら…。
「植えたかったんですけれど…。花屋さんで訊いたら、育てるのが難しい薔薇なんですって」
 花が咲きにくいのなら、綺麗に咲くよう、頑張ればいいんですけれど…。
 根付いて育つまでが大変な薔薇で、駄目になることも多いと言われましたから…。
 枯れてしまったら、嫌でしょう?
 一度も花を咲かせもしないで、苗の間に。…せっかく庭に植えてあげても。
「そうですね…。薔薇だって可哀相ですし…」
 ブルー君と同じ名前となったら、枯れさせるなどは…。
 嫌どころではないですね、と相槌を打った。
 一人息子と同じ名前の薔薇が枯れたら、誰の親でも嫌だろう。いくら欲しいと思った薔薇でも、育ちにくいなら冒険したい親はいない筈。
(…誕生記念に、って気軽に植えられやしないよなあ…)
 ましてブルーは身体が弱いし、生まれた時からそれは分かっていた筈。
 ブルーが丈夫に生まれていたなら、「ソルジャー・ブルー」を庭に植えても、失敗する度、また植え替えればいいけれど…。
(今でも弱いままだしな、あいつ)
 薔薇のソルジャー・ブルーはとても植えられないな、と頷かざるを得ない状況。
 苗を買って来て植えてみたって、元気が無ければハラハラする。枯れてしまったら、きっと胸が痛むし、その時にブルーが病気だったら、とても心配だろうから。



 なるほどな、と薔薇の「ソルジャー・ブルー」が家の庭に無い理由を納得しながら、案内された二階のブルーの部屋。
 小さなブルーは窓から下を見ていたらしくて、テーブルを挟んで向かい合うなり尋ねられた。
「ハーレイ、ママと何を話してたの?」
 ぼくにお土産、持って来てくれたわけじゃなさそうだけど…。何のお話?
 庭で暫く話してたでしょ、とブルーが訊くから、答えてやった。
「薔薇の話さ」
「薔薇…?」
 なんで薔薇なの、とキョトンとしている小さなブルー。「ハーレイ、薔薇が好きだっけ?」と。
「違うな、俺の話じゃない。…お前の方だ」
 お前はどういう薔薇の花かと思ってな…。何色だろう、と。
「ぼくが薔薇?」
 どうして薔薇の花になるの、と瞬いた瞳。「分かんないよ」とブルーは怪訝そうな顔。
「前のお前は薔薇みたいだった、と思ったんだ。…そう考えたのは今の俺だが」
 此処まで歩いて来る途中にだ、色々な薔薇にも出会うってわけで…。
 その中に、前のお前に似ている薔薇があったから…。
 つい立ち止まって眺めちまった、前のお前に似ているな、と。
「前のぼくって…。どんな薔薇なの?」
 ちっとも想像出来ないけれど、とブルーが首を傾げているから、差し出した右手。
「手を出せ、記憶を見せてやるから」
 さっき見て来たばかりだからなあ、少しもぼやけちゃいないってな。
「ホント? じゃあ、お願い」
 ブルーが絡めて来た右手。その小さな手をキュッと握って、「ほら、これだ」と明け渡した心。其処に入っている記憶。
 多分、「ソルジャー・ブルー」だろう薔薇。凛と咲いていた、淡い青色を纏った薔薇たち。



 どうだった、と手を離してから尋ねた感想。「あれがお前に似ていた薔薇だが」と。
「青いね…」
 ハーレイが見た薔薇、青かったんだ…。ほんのちょっぴり、青く見える薔薇。
「うむ。…前の俺たちが生きてた頃には、青い薔薇はもっと青かったがな」
 俺の記憶には残っちゃいないし、今の俺が写真で見た程度だが…。
 あれこそ本物の青い薔薇だな、今の時代は幻の薔薇になっちまったが。…本物は何処にも残っていなくて、新しく作られることもないから。
「青い薔薇…。地球の青さを吸い取っちゃったみたいな薔薇のことでしょ?」
 人工的に青い色素を持たせた薔薇。
 …青い薔薇は綺麗に出来たけれども、地球の青さは無くなっちゃった…。汚染されちゃって。
 あの青い薔薇は、シャングリラには植えていないよね。いろんな薔薇を育ててたけど…。
「不自然だったからな、青い薔薇は」
 本来、存在してはならない色だ。…ヒルマンが強く反対したから、植えてはいない。
 しかし、今の時代の青い薔薇は違うぞ。愛好家たちが頑張って作った、自然の色の青なんだ。
 ああいう青い薔薇の花なら、お前のイメージそのものだと思って、暫く側で眺めていて…。
 くどいようだが、前のお前だぞ?
 前のお前のイメージがあれなら、今のお前はどんな薔薇か、と考えながら歩いて来たが…。
 まるで答えが出て来ない上に、この家の薔薇も一色じゃなかったと来たもんだ。
 一種類しか咲いていないんだったら、それがお前の薔薇ってことでもいいんだが…。
 そうじゃないしな、「これがお前だ」と思える薔薇が無くってなあ…。
 困ったもんだ、と見ていた間に、薔薇の名前に気が付いた。薔薇につけられてる色々な名前は、そいつを作った愛好家たちの趣味だった、とな。
 奥さんの名前をつける人とか、お気に入りのスターの名前だとか…。
 それでお母さんに訊いていたんだ、薔薇の名前に「ソルジャー・ブルー」はあるのか、と。
「…前のぼくの薔薇…。それって、あった?」
 ソルジャー・ブルーっていう名前の薔薇、あってもおかしくないけれど…。
 誰かがつけていそうだけれど。



 ホントにあるの、とブルーは興味津々。「もしもあるなら、青い薔薇かな?」と。
「ソルジャー・ブルーってつけるんだものね、青い色をした薔薇になりそう」
 でも…。本当に青い薔薇は今は無いから、ソルジャー・ブルーって名前の薔薇はないのかな…?
 それとも違う色だとか、と答えを待っているブルー。
 ソルジャー・ブルーという名前の薔薇はあるのか、無いのか、どっちだろうと。
「あったぞ、こういう薔薇らしい」
 お前のお母さんに見せて貰ったイメージだが、とブルーの右手を握って送り込んだイメージ。
 ほんのりと淡い青を纏った、「ソルジャー・ブルー」と呼ばれる薔薇。
「…似てるね、ハーレイが見て来た薔薇と」
 前のぼくに似てる、って言っていた薔薇。…さっき見せてくれてた記憶にある薔薇。
 同じ薔薇じゃないの、とブルーは瞳を輝かせた。絡めた右手をほどいた後で。
「やっぱりお前もそう思うか? 似てるよなあ…?」
 眺める角度をちょっと変えたら、まるで同じになりそうだ。…俺が見たヤツと。
 ソルジャー・ブルーだったのかもなあ、前のお前に似ていたんだし。
「そうじゃないかと思うけど…。でも、その薔薇…」
 ママは植えてはいないんだ…。
 ソルジャー・ブルーっていう薔薇があるなら、植えていたっていいのにね。
 ママは庭仕事をするのが好きで、薔薇も幾つも育ててるのに…。前のぼくと同じ名前がついてる薔薇なら、大喜びで植えそうなのに…。
 ぼくの名前はソルジャー・ブルーから貰ったんだけど、と考え込んでしまったブルー。
 「どうして薔薇のソルジャー・ブルーは無いんだろう?」と。
「それなんだが…。俺も不思議に思っちまって…」
 あって当然みたいな薔薇だろ、ソルジャー・ブルー。
 似たような薔薇も見て来たトコだし、「植えないんですか?」と尋ねたんだが…。
 お母さんも育てたいとは思ったらしい。
 ソルジャー・ブルーにそっくりなお前が生まれて来たんじゃ、そうなるよな。
 ところがだ…。



 育てるのが難しい薔薇だそうだ、と教えてやった。ブルーの母から仕入れた知識。
「ソルジャー・ブルーは、根付くまでの間が大変らしい」
 苗の間に駄目になっちまって、一度も花を咲かせないままで枯れちまうことも多いんだそうだ。
 それでお前のお母さんは植えていないわけだな、とても難しい薔薇だから。
 もしもだ、お前の名前の薔薇が枯れたら、どんな気持ちだ?
 前のお前の記憶が戻る前にしたって、ソルジャー・ブルーが枯れちまったら…?
 どうなんだ、とブルーの瞳を覗き込んだら、「嬉しくない…」という返事。
「そんなの嫌だよ、ぼくとおんなじ名前なのに…」
 猫や犬とは違うけれども、やっぱりうんと悲しくなるよ。枯れちゃった、って…。
 これから大きく育つ筈だったのに、枯れちゃうなんて可哀相…。
 薔薇の苗、とても可哀相だよ、とブルーが顔を曇らせるから。
「ほらな、お前でもそう思うんだ。…同じ名前だというだけで、薔薇に同情しちまって」
 お前のお母さんとなったら、もっと悲しいだろうと思うぞ。…それに心配も山ほどだ。
 大事な一人息子と同じ名前の薔薇なんだしなあ、そりゃあ大切にするんだろうが…。
 それでも土が合わなかったり、園芸にトラブルはつきものだ。
 枯れそうになったら、もうハラハラして、せっせと世話をするんだろう。何か助ける方法は、と花屋さんに訊いたり、詳しい人を連れて来てみたりして。
 そうやって無事に育てられたらいいんだが…。なにしろ難しい薔薇らしいからな?
 枯れてしまったら、自分を責めるしかないし…。
 お前と同じ名前なだけに、お前のことまで心配になって来そうじゃないか。薔薇みたいに病気になっちまわないか、ちゃんと育ってくれるかと。
 お母さんは俺にこう言っていたぞ、「枯れてしまったら嫌でしょう?」と。
 そうならないよう、ソルジャー・ブルーは植えないでおこう、というのがお母さんの考え方だ。
 弱いお前と、枯れやすい薔薇のソルジャー・ブルーが重なったんじゃたまらんからな。
「そうなんだ…」
 ぼくが弱いから、ママは植えずにいるんだね。…ソルジャー・ブルーを。
 もっと丈夫で元気だったら、薔薇の苗が駄目になったくらいじゃ、心配しないだろうけれど…。
 新しい苗を買いに行かなきゃ、って花屋さんに行っては、何度でも挑戦しそうだけれど。



 ちゃんと「ソルジャー・ブルー」の花が咲くまで、と小さなブルーが言う通り。
 庭仕事が好きで薔薇も育てるブルーの母には、「ソルジャー・ブルー」は魅力たっぷりだろう。
 此処に来る途中で見て来た青い薔薇がそれなら、なおのこと。
 上手く育てれば、幾つもの花を咲かせる薔薇。しかも美しい青い薔薇だし、きっと育ててみたい筈。その薔薇と同じ名前の一人息子が、丈夫なら。…弱い子供でなかったら。
「お前、素敵なお母さんを持ったな、本当に」
 弱いお前が、薔薇みたいに枯れてしまわないよう、気を配ってくれるお母さん。
 たとえ薔薇でも、お前と同じ名前だったら枯らすわけにはいかないから、と植えないなんて。
 お前が此処まで育った今なら、もう植えたって良さそうなんだが…。
 それでも植えないままってトコがだ、とても優しいお母さんだっていう証明だよな。
 植えちまう人もいそうだぞ、と見詰めた小さなブルーの顔。ブルーの身体は今も弱いけれども、幼かった頃よりは丈夫だろう。体育の授業も、出られる時には出ているのだから。
 其処まで育った息子だったら、もう心配は要らない筈。薔薇のソルジャー・ブルーが枯れても、息子の命の心配まではしなくていい。
 だから、植えようと思ったのなら植えられる薔薇。…けれど植えないブルーの母。
 息子を大切に思っているから、植えようとしない「ソルジャー・ブルー」。
 人によっては、「もういいだろう」と植えるだろうに。「今まで我慢したのだから」と。
「ママは優しいよ、いつだって」
 ぼくを大事にしてくれるもの。…病気の時も、元気にしている時も。
 たまに叱られることもあるけど、それは悪いことをしちゃったから…。
 ママが「駄目」って言っていたのに、守らずにおやつを沢山食べ過ぎちゃった時とか。



 叱られる時は理由があるよ、と微笑むブルー。「それでも許してくれるけどね」と。
「…パパにも言い付けられたりするけど、いつも許してくれるよ、ママは」
 ごめんなさい、って謝ったら。
 「もうしないのよ」って言われちゃうけど…。
 次におんなじことをやったら、前よりもうんと叱られちゃうけど、大丈夫。
 悪いのはぼくで、ママは優しいから。…許してくれないままになったりはしないから。
「本当にいいお母さんだな、俺なんかは酷く叱られたがなあ…。ガキの頃には」
 おやつ抜きの刑は当たり前だったし、下手すりゃそいつが二日も三日も続くとか…。
 俺も大概、悪ガキだったし、そうなっても仕方ないんだが。
 お前の場合は、おやつ抜きだとポロポロ涙を零してそうだし、そういう刑も無いんだろう?
「無いよ、おやつが無いなんてこと」
 病気だから食べちゃいけません、って言われた時は別だけど…。
 お医者さんにそう言われた時でも、ママは必ず訊いてくれるよ。ぼくが食べられそうなもの。
 先生が「いい」って言ってくれたら、プリンとかを作ってくれるんだから。
 食事の代わりに食べられるおやつ、と得意そうな笑みを浮かべたブルー。
 「ぼくのママはホントに優しいんだから」と、「おやつ抜きなんか言わないよ」と。
「ふうむ…。俺のおふくろには無い優しさだな、おふくろだって優しいんだが…」
 息子の俺が悪ガキではなあ、お前のお母さんの育て方では、どうにもこうにもならないから。
 でもって、自慢の優しいお母さんに育てられたお前は、どういう薔薇になるんだか…。
 前のお前とは違うんだろうな、同じ薔薇でも花の色だって。
「そうなっちゃうかも…」
 今のぼくは、前のぼくよりもずっと幸せだから。
 パパとママがいて、ぼくの家があって、ハーレイもいてくれるんだもの。
 うんと幸せに暮らしているから、前のぼくとは違う薔薇の花になっちゃいそう…。
「そうだろう? 俺が最初に考えていたイメージでは、だ…」
 今のお前は淡いピンクの薔薇ってトコだな。お前の頬っぺたみたいな薔薇色。
 前と同じに大きくなったら、また変わるのかもしれないが…。



 それでもソルジャー・ブルーの薔薇とは違う気がするんだ、と話してみた。
 此処へ来る途中に出会った、「ソルジャー・ブルー」に似ていた、ほんのり青い薔薇。あの花に前のブルーを重ねたけれども、今度は重ならない気がする、と。
「…いつかお前が大きくなっても、あの薔薇じゃない、って気がしてなあ…」
 どういう薔薇になるかは謎だが、ああいう感じじゃないっていうか…。
 上手く言葉に出来ないんだが、と顎に手を当てたら、「そう思うよ」とクスッと笑ったブルー。
「ぼくも違うと思うよ、それ。…今のぼくはそういう薔薇じゃない、って」
 色もそうだし、花だってそう。もっと小さな薔薇かもね。
 ハーレイが見て来た青い薔薇の花は大きいけれども、小さい薔薇。
「…小さい薔薇?」
 お前みたいにチビってことか?
 立派に大きく育つ代わりに、鉢植えサイズになっちまうとか…。テーブルの上に飾っておくのが丁度似合いの、鉢植えの薔薇。
「違うよ、薔薇の木の大きさじゃなくて…。花の方だよ、ぼくが言うのは」
 あるでしょ、小さい花が咲く薔薇。ミニサイズの花を咲かせるヤツ。
 今のぼく、あれじゃないのかなあ…。もしも薔薇だとしたならね。
 同じ薔薇でも、前のぼくみたいに偉くないから…。
 ソルジャー・ブルーが大きな花が咲く薔薇だったら、ぼくはミニサイズの花だと思う…。
「おいおい、花が小さいってか?」
 偉いかどうかはともかくとしてだ、美人な所は、前のお前とそっくり同じだと思うんだが…。
 もうとびきりの美人なんだし、ソルジャー・ブルーに負けない大きさの花を咲かせそうだが…?
 美人な所は同じだしな、と言ったのだけれど、ブルーは「ううん」と首を横に振った。
「顔は同じでも、中身は今のぼくだから…。うんとちっぽけで、弱虫のぼく」
 そんな中身じゃ、目立たない筈だよ、前みたいには。…ソルジャー・ブルーだった頃と違って。
 だから小さい薔薇なんだよ。
 前のぼくが大きな花の薔薇なら、今のぼくは小さい花が咲く薔薇。
「そう来たか…。そういうこともあるかもなあ…」
 見た目は同じでも、中身の違いか。…色だけじゃなくて、花のサイズも違うのか…。



 同じ薔薇でも、花まで小さくなっちまうのか、と小さなブルーを見詰めたけれど。
 この愛らしい恋人だったら、育っても確かにそうかもしれない。
 姿は前とそっくり同じになっていたって、中身は弱虫でちっぽけなブルー。凛として咲き続ける薔薇と違って、時には弱音を吐いたりして。…もう咲けない、とペシャンと潰れたりもして。
(…こいつだったら、そうかもなあ…)
 前のあいつとは違うんだから、と自分の思いに沈んでいたら、掛けられた声。
「ハーレイ、どうかした?」
 ぼく、何か変なことでも言っちゃった…?
 ミニサイズの薔薇っていうのは駄目かな、ハーレイ、そういうぼくは困るの…?
 ちゃんと大きな薔薇がいいの、とブルーが心配そうな顔をするから、「いや」と返した。
「…考え事をしちまっただけだ、前のお前と、今日の薔薇のことで」
 前のお前は、散る姿さえも見せなかったな、と思ってな…。
 最後まで凛と咲いたままでいたんだ、前のお前は。…散りかけの姿を見せもしないで。
「そうだっけ? シャングリラでは、ちゃんと頑張ってたけど…」
 泣いてたよ、ぼくは。…独りぼっちになっちゃった、ってメギドの制御室でね。
 散りかけどころか、もっとみっともない姿。…クシャクシャになってしまった薔薇だよ。
 萎んでしまって駄目になった薔薇、とブルーは言ったけれども、それは間違い。
「…そうかもしれんが、その姿、誰も目にしていないだろうが」
 キースは逃げてしまった後だし、お前の姿を見た者はいない。…本当に駄目になった薔薇でも。
 つまりだ、前のお前は最後まで綺麗に咲き続けたんだ。誰も知らない以上はな。
 その点、今のお前ということになると…。
 もう散りそうだ、と弱音を吐きそうな気がするな。…潰れそうで咲いていられない、とか。
「そうだと思うよ、弱虫だから」
 ハーレイはそういう薔薇は嫌なの、ミニサイズの薔薇で弱虫なのは…?
「俺はその方が好みだな。世話のし甲斐があるってもんだ」
 せっせと世話して、水をやったり、日陰に入れたりと手のかかる薔薇。うんと弱虫の。
「ありがとう…!」
 ぼくはホントに弱虫なんだし、きっとそういう薔薇だろうから…。



 弱い薔薇でも、ハーレイがちゃんと守ってくれるんだね、と笑顔のブルー。
 「ぼくがペシャンと潰れそうでも、ミニサイズの花しか咲かない薔薇でも」と。
 きっと本当に、今度のブルーはそうなのだろう。
 小さな花しか咲かせない薔薇で、散りそうになったら元気を失くしてしまう薔薇。
 最後まで凛と咲き続けていた前のブルーとは、まるで違った薔薇になるブルー。
 けれど、どういう薔薇になっても、美しい花を咲かせてやろう。
 大切に守って、世話をして。
 今のブルーに似合いの姿で、一番綺麗な花が見事に咲くように。
 どんな色合いの薔薇が咲いても、それが今度のブルーだから。
 小さな花を咲かせる薔薇でも、愛おしい薔薇。
 今度のブルーは、自分が一人占めしてもいい花を咲かせる、それは美しい薔薇なのだから…。




            かの人と薔薇・了


※ハーレイが目を留めた薔薇の花。前のブルーを思わせる薔薇で、そういうイメージ。
 今のブルーが薔薇になったら、まるで違った薔薇なのかも。それを育てるのも、きっと素敵。
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