シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園、今日も平和に事も無し。学園祭の話題が出始める頃で、何かと賑やかではありますが…。でもでも、特別生な上に学園祭で何をするかは決まっているのが私たち。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を公開しての喫茶店です。
サイオニック・ドリームで世界の観光名所なんかを体験できるのが売りの、その名も『ぶるぅの空飛ぶ絨毯』。サイオニック・ドリームは会長さんがやってますけど、表向きは「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーという謳い文句。サイオンは明らかに出来ませんしね!
1年A組のクラスメイトや、他のクラスは学園祭に関心大ですけれども、私たち七人グループはといえば…。
「…キース来ねえな、法事だっけか?」
聞いてねえけど、とお昼休みにサム君が。ランチを食べに来た食堂です。
「月参りの方じゃないですか? 法事じゃなくて」
法事だったら欠席ですよ、とシロエ君。
「あれは一日潰れますしね、欠席届を出す筈です。でも、朝のホームルームで欠席だとは…」
「言ってなかったね、グレイブ先生…」
確かにそうだ、とジョミー君も。
「後から来るってことだよね? だったら、やっぱり月参りかな」
「そうね、午後から来るってことね」
たまにあるもの、とスウェナちゃんが言う通り。元老寺の副住職を務めるキース君には、月参りという仕事があります。その日は檀家さんの家に行ってから学校なわけで…。
「大変ですよね、キース先輩も。…制服で月参りには行けませんしね」
「だよなあ、坊主は衣を着ていなくっちゃな」
この後は学校がありますから、とは言えねえしよ、とサム君が頭を振っています。
「此処からだったら学校の方が近そうだ、と思ったってよ、着替えに戻るしかねえんだよなあ…」
「学校の方も、制服で来ることに決まってますしね…」
お坊さんの衣も私服扱いになるんでしょうね、とシロエ君もフウと溜息を。法衣と袈裟はお坊さんの制服ですけど、学校の制服とは別物です。そのままで来たらコスプレ扱い、校則違反になること間違いなし。キース君は月参りの度に着替えに帰って出直しなわけで、本当にご苦労様としか…。
シロエ君の読みが正解だったらしく、キース君は午後の授業が始まって直ぐに現れました。「すみません、月参りで遅れました」と教室の後ろの扉から。
特別生には出席義務さえ無い学校だけに、授業をしていたエラ先生も気にしていません。普通の生徒が遅刻して来たら、その場でお説教ですが。
キース君は何も無かったような顔で自分の席に着いて、授業の方も粛々と。次の時間も淡々と終わって、終礼だってグレイブ先生は普段と何の変わりもなくて…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
授業、お疲れ様ぁ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が迎えてくれた放課後の溜まり場。秋とは言っても残暑を引き摺った季節なだけに、梨のクレープが出て来ました。甘く煮込んだ梨を挟んでリキュールで仕上げて、バニラアイスが添えてあります。
「有難い…。これは疲れが取れそうだ」
頂きます、と合掌しているキース君。月参り、そんなに疲れましたか?
「当たり前だろうが! クーラーの効いた教室にいたら分からんだろうが、暑かったぞ!」
暑さ寒さも彼岸までとか言うくせに…、と仏頂面。秋のお彼岸は終わりましたけど、今年はしつこく暑いんです。真夏並みではないですけれど。
「しかもだ、今日の月参りは自転車で回るコースだったんだ!」
「「「あー…」」」
それはキツイ、と誰もが納得。暑い季節はお坊さんの衣もスケスケとはいえ、全く涼しくないというう話は嫌と言うほど聞かされています。スケスケの下に着ている白い着物が暑いんだそうで、重ね着状態になってますから。
「今日は自転車だったのかよ…」
そりゃ疲れるわ、とサム君がキース君の肩をポンポンと。
「俺もジョミーも棚経の時は自転車だしなあ、辛さは充分、分かるぜ、うん」
「棚経に比べればマシなんだが…。それでもキツイものはキツイな」
ついでに他の寺の坊主と出くわしたから余計に気が滅入った、と言ってますけど。月参りに行くお坊さんって必ず決まってますよね、ダブルブッキングは有り得ませんよね…?
門前の小僧習わぬ経を読むという言葉通りに、キース君のお蔭でお寺事情に嫌でも詳しい私たち。何処の家でも、月参りを頼むお寺は一ヶ所だけの筈です。元老寺だったら元老寺だけで、他のお寺からは来ない筈。アドス和尚かキース君かと、お寺の事情で行くお坊さんは変わっても。
「…先輩、まさかのダブルブッキングが起きたんですか?」
行ったら他のお坊さんがお経を上げてましたか、とシロエ君が訊くと。
「いくらなんでも、それだけは無いと思うんだが? …いや、たまにあるかもしれないが…」
このご時世だし、とキース君。
「引越して来たから菩提寺が家の近所に無いのは、よくあるケースだ。そうなってくると葬儀屋に頼んで紹介して貰うことになるから…」
丸投げしたら手違いが起こらないとは言い切れないな、と凄い話が。丸投げって…?
「坊さんの紹介を頼んだ以上は、月参りもその坊さんなんだが…。会館専門の坊主もいるしな、忙しすぎて月参りに行けなくて代理を頼んで、そこでミスったら…」
ウッカリ二人に頼んだ場合は起こり得るな、というのが月参りのダブルブッキング。でも、元老寺だと有り得ないってことは、どうして他のお寺のお坊さんに遭遇しちゃったんですか?
「間違えるなよ、檀家さんの家で会ったというわけじゃない」
月参りの途中で出くわしたんだ、と溜息をつくキース君。
「…暑い最中にすれ違ったというだけなんだが、向こうは車だったんだ!」
「「「車?」」」
「軽自動車だったが立派に車だ、エアコンを効かせてそれは涼しそうに!」
俺は自転車で走っているのに、と聞かされたら分かったキース君の気分。きっと心の底から羨ましいと思ったんでしょう、車で走る月参り。
「楽して回っていやがるな、とは思ったんだが、これも修行の内だと気持ちを切り替えてだな…。檀家さんの家で月参りを済ませて、次の家へと急いでいたら…」
「また車ですか?」
シロエ君の問いに、キース君は。
「車だったら、もう耐性は出来ていた! 今度はスクーターが来やがったんだ!」
あれこそ坊主の必需品だ、という言葉で思い出しました。アドス和尚も棚経の時はスクーターだと聞いています。それにスクーターで走るお坊さん、けっこう見掛けるものですしね?
棚経の季節でなくても、月参りで走るのがお坊さん。アドス和尚も檀家さんの家が遠い時には車で行ったりするそうですけど、スクーターも愛用しています。
ところが、キース君にはスクーターの許可が未だに下りないのでした。副住職になった時点で駄目だったからには、この先も当分、許可は出そうにありません。
「…スクーターでしたか…。それは羨ましいですね…」
先輩の場合は車以上に、とシロエ君の顔に同情の色がありありと。
「キース先輩、スクーターには乗れませんしね…」
「親父のせいでな! 普段だったら、スクーターのヤツに会っても滅入りはしないが…」
先に車に出会った分だけ、羨ましいと思う心が増えていたのに違いない、と左手首に嵌めた数珠レットの珠を繰っています。心でお念仏を唱えている証拠。
「…俺としたことが、まだまだ修行が足りないらしい」
「仕方ないですよ、暑い中を自転車なんですから」
「…しかもチラリと見られたような気がして、余計にな…」
なんで自転車で走っているのだ、と思われた気がするらしいです。いつもだったら月参りの途中に出会ったお坊さんは誰もが戦友、「頑張れよ」と心でエール交換なのに。
「やっぱり暑さが悪いんだろうな、そんな気持ちになるってことは」
心頭滅却すれば火もまた涼し、と言った坊主もいたというのに…、と再び繰られる数珠レット。
「俺の修行がいつまで続くか分からんが…。早くスクーターに乗れないものか…」
「直訴しかないと思うけど?」
アドス和尚に、と会長さんが口を開きました。
「待っていたんじゃ、スクーターに乗れるチャンスは四十歳だね」
「「「四十歳?」」」
どういう根拠でその数字が、と私たちは驚いたんですけれども、キース君は。
「そうか、あんたもそう思うのか…。紫の衣になるまでは無理、と」
「アドス和尚は厳しいからねえ…。君は全く年を取らないわけだし、自転車でいいと思っていそうだよ? 相応しい人物になるまではね」
それの目安が紫の衣、と会長さん。今のキース君は萌黄色、いわゆる黄緑色なんですけど、お坊さんとしての階級が上がれば松襲という色になるとか。紫っぽくも見える青色、その上になったら紫の衣。紫の上は緋色しか無いそうですから、紫は偉い色なんでしょうね。
会長さん曰く、紫色の法衣を着られる年齢の下限が四十歳。そこまではいくら修行を積んでも着られない色で、大抵のお坊さんは紫色で終わりだそうで。
「緋色は七十歳になってから、というのも大きい問題だけれど、許可の方もね…」
簡単には下りないものなのだ、と会長さん。
「だから普通は、紫になれば偉いお坊さんという認識かな。その偉い人を自転車で走らせているとなったら、アドス和尚の評価が下がりそうだし」
「「「あー…」」」
そういう理由で渋々許可を出すわけか、と理解しました。対外的な圧力と言うか、周囲の視線に負けると言うか。アドス和尚としては、四十歳でも自転車でいいと思っていそうですけど。
「四十歳かよ…。今から何年かかるんだよ?」
お前、それまで待てるのかよ、とサム君が。
「ずっと自転車で走り続けるのかよ、クソ真面目に? 先は長いぜ」
「…分かってるんだが、あの親父が許可を出すわけが…」
ブルーが一筆書いてくれたら別なんだが、とキース君の視線が会長さんに。
「銀青様の仰せとなったら、親父は無条件降伏だからな」
「生憎と、ぼくにそういう趣味は無くてね」
これでも修行をダブルで積んでいるわけで…、と会長さん。
「璃慕恩院で修行した後は、恵須出井寺にも行ってたと言った筈だけど? あそこはキツイよ」
「…俺の修行など、たかが知れていると言いたいわけだな?」
「悪いけど、ぼくから見れば、ぬるま湯。…スクーターは自力で勝ち取りたまえ」
直訴しろと背中は押してあげたし、と銀青様は助けてあげないようです。
「思い立ったが吉日と言うしね、これも何かの御縁だろう。駄目で元々!」
「分かった、親父に掛け合ってみる」
それもまた修行というものだろう、とキース君は決意を固めました。
「妙な問答を吹っ掛けられても、努力はしないと…。スクーターのために」
「頑張るんだね、副住職。…駄目だった時は残念パーティーをしてあげるから」
「かみお~ん♪ 明日は土曜日だもんね!」
お祝いのパーティーが出来るといいね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛び跳ねています。明日は会長さんの家で昼間から焼肉パーティー、お祝いの方か、残念な方か、どっちでしょうね?
次の日、私たちは朝からワクワクと会長さんの家に出掛けてゆきました。会長さんの家から近いバス停に集合ですけど、キース君は抜き。今日のパーティーの主役ですから、満を持しての登場がいいと会長さんが言っていたからです。
「キース先輩、今日は重役出勤ですしね…。お祝いだったらいいんですけど」
会長さんの家まで歩く途中も、話題はひたすらスクーターで。
「どうなんだろうなあ、俺は危ない気がするんだけどよ」
なんたってアドス和尚だぜ、とサム君が。
「棚経の時に自転車でお供する年もあるけどよ…。容赦なくスクーターで飛ばしていくしよ」
全力で漕ぐしかねえんだぜ、と体験者ならではの重い言葉が。
「ジョミーも何回もやられた筈だぜ、あのシゴキ」
「…うん、朦朧としてくるよね…。スピード、落としてくれないもんね」
前はキースがアレをやられていたんだよね、とジョミー君も。
「住職の資格を取るよりも前は、お父さんのお供で走ってたんだし…」
「そうですよ? ジョミー先輩たちと会うよりも前にもやってた筈です」
シロエ君は事情通でした。私たちよりも付き合いが長いですから、キース君がお寺を継ぐのを拒否するよりも前の話も知っているわけで。
「跡継ぎがいます、って披露しなくちゃいけませんしね。小学生の時からやっていたんだと思いますよ。棚経のお供」
「…子供でも容赦なく飛ばしてたのかよ?」
スクーターで、とサム君が震え上がりましたが、シロエ君は。
「いえ、そこまでは聞いてませんから、加減していたんじゃないですか?」
「だよねえ、子供じゃついてけないよ」
いくらキースでも絶対に無理! とジョミー君。よっぽど飛ばして行くんでしょうけど、そのスクーターがキース君の望みで希望。許可が下りてるといいですよねえ…。
スクーターに乗る許可は出たのか、駄目だったのか。会長さんの家に着くなり尋ねましたが、会長さんも「そるじゃぁ・ぶるぅ」も口を揃えて。
「さあねえ…? これに関してはサプライズを希望で、見ていないんだよ」
「ぼくも見てない! キースから直接聞きたいもんね!」
それがいいと思うの! と答えた「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、バースデーケーキを彷彿とさせる立派なケーキを用意していました。ベリーと生クリームで華やかに飾って、真ん中にホワイトチョコレートらしきプレートが。でも、真っ白。
「これはキースが来てから書くの! お祝いなのか、残念なのかが分からないから!」
どっちかなあ? と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が首を傾げた所へチャイムの音がピンポーンと。いよいよ主役の登場です。出迎えに走った「そるじゃぁ・ぶるぅ」と一緒に現れたキース君を、私たちは盛大な拍手で迎えたのですが…。
「…悪い、その拍手は無駄になったようだ」
親父は許してくれなかった、と肩を落としたキース君。「馬鹿が!」と一喝されて終わってしまったそうです、スクーターの許可を巡る話は。
「…問答さえも無かったのかよ?」
「まさに問答無用だったな」
聞く耳さえも持たなかった、と項垂れている副住職。「そるじゃぁ・ぶるぅ」がケーキのプレートに「残念でした、お疲れ様」とチョコレートで書き入れ、キース君が入刀を。
「クソ親父めが!」
バアン! とケーキナイフでザックリ切られたケーキですけど、キース君の役目はそこまでです。綺麗に切れるわけがないですから、「そるじゃぁ・ぶるぅ」と交代で…。
「…残念ケーキか…」
そして昼飯は残念パーティーになるわけなのか、とケーキを食べるキース君が背中に背負った哀愁の二文字。気の毒ですけど、スクーターはやっぱり…。
「四十歳まで無理なんだろうな、俺の衣が紫に変わる日まではな!」
残念すぎる、とケーキをパクパク、ヤケ食いと言うかもしれません。お相伴する私たちの方は、残念ケーキでも、お祝いケーキでも、美味しければ充分ですけどね…。
お昼御飯は焼肉パーティー、祝賀会ならぬ残念パーティー。さて、と焼肉を始めた所で、シロエ君が突然、思い付いたように。
「そうだ、キース先輩、準備だけでもしておきませんか?」
「準備?」
「スクーターに乗る準備ですよ! 免許が無いと乗れませんからね、スクーターには」
免許だけでも取りませんか、と前向きな提案。ちょっと気分が上向くのでは、と。
「それはそうかもしれないが…。俺が免許を取ったとバレたら、親父が何と言い出すか…」
コッソリ乗ってはいないだろうな、と勘繰りそうだ、と言われてみればヤバいかもです。運転免許を持っているなら、誰かの家に隠しておいたスクーターに乗って走ることが可能になりますし…。
「バレちゃうのかな、運転免許を取ってたら?」
ジョミー君の問いに、会長さんが。
「バレるんだろうねえ、免許の交付はお役所だからね」
キースが家族と暮らしている以上は何処かでバレる、とキッパリと。
「一人暮らしなら安全だけどね、キースの場合は確実にバレてしまうだろうねえ…」
「…俺もそう思う。免許を取ったら、確かに気持ちは上向きそうだが…」
現実問題として無理なんだ、とキース君が零した途端に。
「こんにちはーっ!」
部屋の空気がユラリと揺れて、紫のマントが翻りました。
「キースの残念パーティーだって? 美味しそうだよね、焼肉パーティー!」
ぼくも食べる、と一瞬にして着替えてしまった私服。会長さんの家に置いてある服です。ソルジャーは空いていた椅子に腰掛け、ちゃっかり面子に混ざってしまって。
「昨日から様子は見てたんだけどさ、駄目だったんだ? スクーター」
「キッチリとな! 俺は四十歳まで乗れないんだ!」
紫の衣になるまでは自転車で走るしかないんだ、とキース君。
「気分だけでも運転免許が欲しい所だが、それさえ取れない身の上なんだ!」
色々な意味で残念パーティーなんだ、とジュウジュウと肉を焼くキース君ですが…。
「その免許って、無いと駄目なのかい?」
無免許の人もいるようだけど、と言うソルジャー。とんでもないことをサラッと口にしてくれましたけれど、無免許運転は駄目ですってば…。
意外に多いのが無免許運転。スクーターとかバイクはもとより、普通の車や軽トラックでも。一度も自動車学校に通ったことが無いのが自慢の人も存在すると聞きます。けれど普通は免許無しで乗ったら警察のお世話になるわけですから…。
「あんたは俺を前科一犯にしたいのか!」
無免許でスクーターに乗ったと警察にバレたら捕まるんだが、とキース君。
「そうなったら親父がどう出るか…。殴る蹴るくらいで済めばいいがな、来る日も来る日も罰礼を三千回とか言われそうだぞ、間違いなく!」
「罰礼って、どんなのだったっけ?」
「南無阿弥陀仏に合わせて五体投地だ、スクワット並みにキツイんだ!」
百回も続ければ膝が笑う、と肩をブルッと。
「修行中なら一日に三千回もアリだが、毎日とまでは言われないぞ!」
「ふうん…? でもね、無免許運転の人もけっこういるからねえ…」
君が知ってる所で言うならハーレイだろうか、と何故か教頭先生の名前が。車を運転してらっしゃいますけど、まさか免許を持ってないとか?
「ちょっと、ハーレイって…。あれでもゴールド免許だよ?」
無免許どころか模範的ドライバーの内なんだけど、と会長さん。
「妙な話を吹き込まないで欲しいね、シャングリラ学園の教頭が無免許だなんて!」
「えっ、でもさ…。無免許じゃないかと思うんだけど?」
ぼくのハーレイと同じ理屈で、と謎な台詞が。キャプテンは確かに無免許でしょうが、それは別の世界の人間だからじゃないでしょうか。運転免許を取りたくっても、必要な書類が揃うとはとても思えませんし…。
「違うよ、車の話じゃなくって! もっと大きな!」
「…大型特殊免許かい?」
会長さんが訊くと、「その一種かも…」とソルジャーは顎に手を当てて。
「ぼくの世界じゃなんて呼ぶのか詳しくなくてね、興味が無いから」
「「「は?」」」
「だってそうだろ、人類が決めたルールなんかはミュウには意味が無いってね!」
だから免許の名前も知らない、とソルジャーは言っていますけど。教頭先生がソルジャーの世界で必要な種類の免許なんかを取る理由が無いと思うんですが…?
教頭先生は無免許なのだ、というソルジャーの主張。しかもソルジャーの世界で言う所の免許、そんな代物はこっちの世界じゃ誰も必要としていません。車やバイクを運転できれば充分、よくて飛行機といった感じじゃないんでしょうか。あれっ、飛行機…?
まさか、と頭に閃いたもの。飛行機よりも遥かに大きくて、空を飛ぶもの。
「そう、それだよ! シャングリラだよ!」
こっちの世界じゃシャングリラ号と呼ぶんだっけか、と笑顔のソルジャー。
「あれの免許は持っていないと思うんだけど! こっちのハーレイ!」
ぼくのハーレイも無免許だから、とソルジャーは威張り返りました。
「なにしろ、ぶっつけ本番だったし…。アルタミラではずっと檻の中だし、免許も何も!」
とにかく宇宙に飛び出しただけだ、と凄すぎる話。宙航とやらに一隻だけあった宇宙船に乗って飛び立ったとかで、免許などは持っているわけがなくて。
「もうその後は、飛びさえすればいいってね! それで充分!」
そして無免許で今に至る、と得意顔。
「人類の世界で免許を取りに出掛けたとしたら、一発で合格するんだろうけど…。そんなつもりも予定も無いしね、無免許人生まっしぐらってね!」
今日もシャングリラは無免許運転で飛んでいる筈だ、と言われて知った無免許な事実。キャプテンが無免許運転だったとは知りませんでした。すると、教頭先生も…?
「そうじゃないかと思うんだけどさ、どうなってるわけ?」
ソルジャーに訊かれた会長さんは、苦々しい顔で。
「…そっちの方なら無免許だねえ…。免許があるならゴールド免許の筈だけど!」
違反はともかく無事故だから、ということは…。
「会長、もしかしてシャングリラ号は免許無しでも操縦できるんですか!?」
ぼくでも動かしていいんでしょうか、とシロエ君が訊き、ジョミー君も。
「ぼくでも操縦できちゃうわけ? あの大きいのを?」
「うーん…。ハーレイは無免許なんだけど…。その他は、ちょっと…」
「「「え?」」」
「一応の基準はあるんだよねえ、あれを動かす以上はね!」
ハーレイが乗っていない時には他の仲間が動かしてるし、と会長さん。そっか、全員が無免許運転ってわけじゃないんですね、シャングリラ号は…?
会長さんが話してくれた所によると、シャングリラ号を操縦するにはシミュレーターを使った練習なんかも要るようです。その上、練習を始めるためには…。
「「「運転免許?」」」
「そうなんだよねえ、誰が決めたか謎なんだけどさ…」
最低でも原付バイクの免許が必要、と会長さん。
「つまり、君たちではスタートラインに立てないわけだよ。シャングリラ号を動かすにはね!」
「…あんた、免許を持っていたのか?」
聞いたこともないが、とキース君が突っ込みを。
「それともソルジャーも無免許とやらでかまわないのか、シャングリラ号は?」
「そもそも、操縦しないしねえ…。わざわざ操縦するくらいだったら、丸ごと運ぶよ」
サイオンで運んだ方が早い、と天晴れな返事。
「それにね、ぼくが操縦するとしたって免許は要らない。ハーレイと同じで特例ってね」
現場で経験を積んだからいい、と例外扱いになるのだとか。教頭先生も現場での経験豊富だからという理由で無免許、他にも無免許組がいるそうですけど…。
「…今からとなると、試験みたいなのがあるんだよ。実技と、筆記と」
受験資格は原付免許くらいはあるということ、と私たちの前に聳えたハードル。私は別に動かしたいとも思いませんけど、男の子たちはそうではなかったようで。
「…原付かよ…」
「つまりは俺にも無理なわけだな、スクーターの免許が取れない以上は…」
原付免許が欲しくなった、とキース君が言えば、シロエ君も。
「ぼくもです。それさえあったら、シャングリラ号に乗った時には実技の練習、出来ますよね?」
どうなんですか、と訊かれた会長さんは。
「そりゃまあ、駄目とは言わないだろうね、係の方も」
シミュレーターは使わせて貰えるだろう、という返事。
「今の君たちでも出来るんだけどね、シミュレーターで遊ぶくらいのことは。だけど遊びは練習にカウントされないし…」
実技試験を受けるために必要な時間をカウントして欲しいのなら、原付免許、という話。持っています、と届け出ておけば、シミュレーターを使った時間が公式練習扱いになるのだそうです。所定の時間をクリアした時は、実技試験への道が開けるわけですか…。
シャングリラ号を動かすためのスタートラインは原付免許。それを知った男の子たちは、俄然、色めき立ちました。原付免許さえ持っていたなら、シャングリラ号に乗った時にはシミュレーターを使って練習。塵も積もれば山となる、ですし…。
「いつかは動かせるかもしれないんですね、シャングリラ号を!」
やってみたいです、とシロエ君が声を上げ、ジョミー君だって。
「ぼくもだよ! やっぱり憧れだよね、面舵いっぱーい!」
「俺もやりてえ…。カッコいいよな、宇宙船だもんな」
サム君もウズウズしている様子で、マツカ君までが。
「一度くらいは動かしたいですね、あんな大きな宇宙船ですし…」
「俺もやりたいのは山々だが…。原付免許が…」
あの親父が立ちはだかっている間はとても無理だ、とキース君だけがぶつかった壁。えっ、シャングリラ学園の校則の方はどうなんだ、って? そっか、校則…。
「原付バイクは禁止だったと思うわよ?」
校則で、とスウェナちゃんも私と同じ考えに至ったようです。
「学校に乗ってくるのはもちろん、免許を取るのも駄目だった筈よ」
「「「あー…」」」
そうだった、と残念そうな声が漏れたのですけど、会長さんが。
「免許についても、特別生は除外だったと思うけど? 親の許可さえ貰っていればね」
「本当ですか!」
だったら取れるわけですね、とシロエ君が躍り上がって、他のみんなも。キース君以外は。
「…また俺だけが駄目なのか…」
親父が許可を出すわけがない、とキース君にだけアドス和尚という分厚い壁が。原付免許を取ったとバレたら激怒しそうなアドス和尚がいるわけですから、シャングリラ号の操縦も無理。
「…なんか、お前ってツイてねえよな…」
スクーターも駄目で、シャングリラ号も駄目なのかよ、とサム君が。
「分かった、俺も付き合ってやるから。…原付免許は四十歳まで待つことにするぜ」
その頃には俺も住職の資格を持ってるかもな、とサム君ならではの人の好さ。これはなかなか真似出来ませんよね、シロエ君とかジョミー君とかは原付免許を取りに出掛けそうですよ?
スクーターに乗っての月参りも駄目で、シャングリラ号の操縦資格も手に入れられないキース君。四十歳になったらスクーターの許可は下りそうですけど、それまでは原付免許がお預け、シャングリラ号の操縦資格も貰えない始末。サム君は付き合って四十歳まで待つそうですが…。
「ごめんね、ぼくはお先に取らせて貰うから!」
原付免許も、シャングリラ号の操縦資格も…、とジョミー君。
「ついでに住職の資格の方はさ、もう永久に取らないってことで!」
「おい、貴様! 原付免許の件はともかく、坊主の方は銀青様の直弟子だろうが!」
なんという罰当たりなことを言うのだ、とキース君が怒鳴っても、馬耳東風で。
「それとこれとは関係無いし? シロエとマツカも一緒に取るよね、原付免許?」
「そうですね。ジョミー先輩たちと一緒に行くのが良さそうですね」
「ぼくもそっちを希望です。確か一日で取れるんですよね」
筆記試験とかと講習だったでしょうか、とマツカ君。あれって、そんなに簡単なんだ?
「らしいですよ? ですから誰でも乗ってるんですよ」
難しいなら、もっと少ない筈ですよ、と聞いて納得。一日で取れるような免許でシャングリラ号を動かす資格のスタートラインって美味しすぎです。男の子たちがキース君を捨てても取りたがるわけで、私もちょっぴり欲しいような気が…。
「ジョミーたちが行くなら、私も一緒に行こうかしら?」
それさえあったらシャングリラ号を動かしたくなった時に便利だし、とスウェナちゃんも乗り気になったようです。よし、私も、と思ったんですけど…。
「ちょっと待ってよ? 一応、確認しておくから」
嘘を言ってたら大変だしね、と会長さんが電話をかけています。教頭先生にかけてるんだな、と思ったのに…。
「ああ、ゼル? シャングリラ号のことで訊きたいんだけど…」
「「「………」」」
キャプテンじゃなくて機関長の方に質問するとは、教頭先生の家に電話するのが嫌なんですね?
「…普通はキャプテンに訊くと思うが…」
キース君が呆れて、ソルジャーも。
「こっちのハーレイ、嫌われてるねえ…。真っ当な質問もして貰えないなんてね!」
なんてことだろう、と深い溜息を。私たちだってそう思いますです、質問くらいはしてあげたって減りはしないのに、避けるんですか…。
ゼル先生の家に電話している会長さん。シャングリラ号の操縦資格を取るために必要なものは原付免許で良かったよね、と確認中で。
「うん、そう。…原付免許があったら誰でもシミュレーターの公式練習が…。えっ?」
なんだって、と訊き返して。
「それは聞いてはいないんだけど…。いつ決まったわけ?」
「「「???」」」
何か雲行きが怪しいようです。原付免許から普通免許に変わっていたとか、そういう感じ?
「ぼくは承認した記憶なんか…。適当に決めろと言ったって?」
じゃあ仕方ない、と会長さんは電話を切って。
「…ごめん、規則が変わってた。原付免許があればオッケーなのは間違いないけど…」
「年齢制限でも出来たのか?」
キース君の問いに返った答えは…。
「高校卒業以上だってさ、シャングリラ学園の場合は在学中は無理だって」
「在学中って…。ぼくたち、一度、卒業したけど?」
特別生になる前に、とジョミー君が言ったのですけど、会長さんは。
「それはカウントされないらしいよ、シャングリラ学園は普通じゃないから…。特別生は特殊な立場になるしね、一度目の卒業はノーカウントだって」
だから君たちには最初から資格が無いらしい、と申し訳なさそうな会長さん。
「ぼくが適当に決めろと言った会議の議題に入っていたらしいね、この話。つまり、君たちが原付免許を取って来たって…」
「シャングリラ号の操縦資格は得られないわけか。なら、安心だ」
俺も心安らかに四十歳まで待てるらしい、とキース君はホッとしているようです。
「サムを巻き込んでしまったからなあ、申し訳なくて…」
「俺はいいんだぜ、気にしなくっても。…でもよ、誰も資格を取れねえってのは嬉しいかもな」
出遅れねえってことなんだし、とサム君も。
「特別生をやってる間はジョミーもシロエも無理ってわけだろ、原付免許があってもよ」
「そうなるねえ…。一度決まった規則を変えるのは大変だからね」
ソルジャーの権限で変えようとしても何かと面倒、と会長さんは規則を元に戻すつもりは無いらしいです。シャングリラ号の操縦資格が一気に遠のきましたね、原付免許だけって話から…。
こうして夢に終わってしまったシャングリラ号の操縦資格。原付免許を取ろうとしていたジョミー君たちは残念そうで、キース君のスクーターの許可の残念パーティーは全員分の残念パーティーになりつつあったわけですけれど。
「えーっと…。原付免許だけでもオッケーなように出来ないこともないけれど?」
会長さんならぬソルジャーの言葉に誰もがビックリ。会長さんの替え玉になって会議に出掛けて、規則を変えようというのでしょうか?
「それはしないよ、面倒だからね! ぼくのシャングリラの会議でも充分、面倒なのにさ!」
なんでこっちに来てまで会議、と顔を顰めてみせるソルジャー。
「要はアレだよ、ぼくの得意なサイオンだってば! ちょっと細工をすればオッケー!」
例外規定を意識の下に書き込むだけだ、とニッコリと。
「こっちの世界でシャングリラ号に関わってる人、そんなに多くはいないから…。ぼくにかかれば五分もあればね、充分に出来るわけだけど!」
君たち七人を例外として認めるという新しい規則、とのアイデアにジョミー君たちは飛び付きました。たったの五分で例外扱い、貰えない筈のシャングリラ号の操縦資格への扉が開くと言うのですから。後は原付免許さえ取れば、シミュレーターでの練習が出来て…。
「それ、お願い! この際、キースはどうでもいいから!」
ジョミー君が頼んで、シロエ君も。
「キース先輩には悪いですけど、サム先輩も一緒ですしね。ぼくからもよろしくお願いします!」
「…俺には止める資格が無いしな…。物分かりの悪い親父を持ったのが運の尽きだった」
他のヤツらをよろしく頼む、とキース君は副住職ならではの潔さ。
「俺とサムもいずれは原付免許を取ることになるし、それまでは待ちの姿勢だな」
「オッケー! それじゃ、君たち七人分ってことで細工するけど…」
その前に、とソルジャーは私たちの方へと向き直りました。
「君たちはシャングリラ号の操縦への道が開けるわけなんだし…。代わりと言ってはアレなんだけれど、運転の練習をちょっと手伝ってくれるかな?」
「「「は?」」」
「大したことじゃないんだよ、うん。君たちの手さえ貸してくれれば」
運転の練習をするのは君たちじゃないし、と妙な依頼が。ソルジャーが運転免許を取ろうというわけでしょうか、こっちの世界で使えるヤツを…?
是非とも欲しいのがシャングリラ号の操縦資格を得るための道。特別生をやってる間は無理な所をソルジャーが例外にしてくれるそうで、そのためだったら手伝いくらい、と考えるわけで。
「何を手伝えばいいんですか?」
シロエ君の質問に、ソルジャーは。
「話が早くて助かるよ。…ブルーときたら、さっきもゼルに電話をするくらいでねえ…」
そういうブルーを変える手伝い、とパチンとウインク。
「つまりさ、こっちのハーレイがブルーを上手く乗りこなせるよう、お手伝いを!」
「「「乗りこなす?」」」
「そのままの意味だよ、まずはデートから始めようかと!」
そしていずれは本当の意味で乗れるように、と極上の笑みが。
「ベッドの上でね、ブルーに乗っかって腰を振るわけ! 大人の時間の醍醐味ってね!」
「退場!!!」
会長さんがレッドカードを叩き付けて怒鳴り、私たちも。
「「「そ、それは…」」」
そんな恐ろしいことを手伝える猛者がいるわけありません。具体的な内容を聞かなくっても、手伝ったら最後、会長さんに殺されることは確実で…。
「…せ、せっかくのお話ですけど、お断りさせて頂きます!」
ぼくは死にたくないですから、とシロエ君が逃げ、ジョミー君だって。
「ぼくも嫌だよ、それ、絶対に殺されるから!」
「間違いないな。…俺も断る、ただでも恩恵を蒙れる日までが長いわけだし」
シャングリラ号の操縦資格は永遠に手に入らなくてもかまわない、とキース君も断り、サム君も、私たちも首をコクコクと。引き換えにするものが大きすぎます、命あっての物種ですから…!
こうして原付免許を取ろうという話は立ち消えになって、シャングリラ号の操縦資格への道も閉ざされてしまいましたが、誰も後悔しませんでした。ソルジャーだけを除いては。
「…まだ気が変わったとは思わないのかい?」
ぼくにはお安い御用だけれど、と今日も押し掛けて来たソルジャー。
「ぼくの手伝いをしてくれるだけで、シャングリラ号の操縦資格が手に入るけどね?」
「要らないと何度も言ってます!」
押し売りはお断りなんです、とシロエ君が手で追い払う仕草、ジョミー君も。
「キースのスクーターの許可と同じでさあ…。待ったらオッケーになるって可能性もあるし」
「そうだぜ、四十歳になった頃には規則が変わるってこともあるしよ」
気長に待つぜ、とサム君が返して、キース君が。
「待てば海路の日和あり、という言葉もある。…俺は危ない橋は渡らん」
自転車で月参りに走る度に肝に命じている、と断固お断りだという姿勢。事の起こりはスクーターでしたし、キース君が自転車で走り続ける間は誰の決意も固そうです。
「…ぼくはお得だと思うんだけどなあ、たったの五分で作業完了!」
「その五分で、ぼくたちの命が思いっ切り危うくなるんですよ!」
会長に本気で殺されますから、とシロエ君がブルブル、会長さんは冷たい笑みで。
「ほらね、この通り、みんな分かっているから! セールスに来るだけ無駄だから!」
「うーん…。でもねえ、みんなの協力があれば、君とハーレイとの仲だって…」
きっと前進する筈なんだよ、と諦めないのがソルジャーです。当分は押し売りに来そうですけど、甘い誘いに乗ったら命がありません。自転車で走るキース君と同じに修行のつもりでシャングリラ号の操縦資格は諦めるのが吉でしょう。原付免許で乗れるというのが美味しすぎました。
「何度来て貰っても、断りますから!」
お帰り下さい、とシロエ君が手を振り、私たちも両手で大きくバツ印。原付免許で乗れると噂のシャングリラ号は美味しいですけど、やっぱり命が大切です~!
取れない免許・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
キース君が免許を取る話から、シャングリラ号の免許の取り方が判明したんですけれど。
原付免許でいけると聞いていたのに、変わった規則。ソルジャーに頼むしか、って残念すぎ。
次回は 「第3月曜」 9月19日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、8月と言えば来るのがお盆。卒塔婆書きに始まり、棚経で…。
こんな所に、と止まったハーレイの足。土曜日の午前中、ブルーの家へと向かう途中で。
朝早いとは言えないけれども、午前のお茶にはまだ早い時間。ゆっくり、のんびり、回り道でもしながら歩いてゆくのが似合い。早く着きすぎると、ブルーの母に悪いと思うから。
晴れた空の下、気の向くままに歩いて来た道。其処で見付けた、青いようにも見える薔薇。
通り掛かった家の庭から、零れるように咲いた薔薇たち。ほんのりと青みを帯びた花。
(こいつは気付いていなかったな…)
何度も歩いた道だけれども、青い薔薇など。
もう散りかけている花もあるから、前から咲いていたのだろうに。薔薇の木もそこそこの高さ。この大きさなら、気付いてもおかしくない筈なのに。
(青い薔薇か…)
真っ青な花じゃないんだが、と観察してみた薔薇の花たち。幾重にも重なり合った花びら、青が濃いのは真ん中の辺り。けれど淡い青、紫のようにも見える色。いわゆる青い色とは違う。
外側へゆくほど、薄くなる青み。一番外側の花びらになると、白い薔薇かと思うほど。
(筆でぼかしたみたいだな…)
真ん中の青を、外へ向かって。どんどん薄くなるように。自然にぼやけてしまうように。
そんな具合だから、花全体を見れば、ふうわりと青い。ほんの一刷毛、青を刷いたように。
(地味すぎて気が付かなかったか?)
あるいは光の当たり具合で、白い薔薇だと思っていたか。太陽が真っ直ぐ射していたなら、淡い青色は飛びそうだから。
(こんな頼りない青ではなあ…)
そうもなるよな、と眺めた青い薔薇の花。光の加減で消えてしまいそうな儚い青。
前の自分が生きた頃には、真っ青な薔薇があったという。今の時代は、失われた青。写真にしか無い真っ青な薔薇。
今はこういう淡い青だけ、薔薇の品種が幾つあっても。
SD体制の時代だったら存在していた、本当に青い薔薇の花。地球が滅びてしまうよりも前に、その青は作り出されたけれど。
(シャングリラでは育てなかったんだっけな…)
遠い昔に「不可能」を意味したともいう、青い薔薇は。
その不可能を可能にしようと、人間が薔薇たちに組み込んだ色素。それが青色。薔薇は持たない筈の青。人の技術は青い薔薇を完成させたけれども、地球からは青が失われた。
(青い薔薇が吸い取っちまったわけじゃないんだろうが…)
身勝手で愚かな人間たちが、青かった地球を死の星にした。緑は自然に育たなくなり、海からは魚影が消えていって。…地下には分解不可能な毒素。
青い薔薇を見事に咲かせた代わりに、母なる地球を失くした人間。
ヒルマンがそういう話をしたから、青い薔薇は導入しないで終わった。「自然のままに」と。
(…あいつの名前がブルーだったのにな?)
白いシャングリラを導くソルジャー、ミュウたちの長の名前がブルー。「青」という意味を持つ名前。それでも青い薔薇は無かった。「植えよう」という者はいなかった。
最初の頃には「青が無いとは片手落ちだ」という声も上がったけれども、青が無い理由を知れば誰もが納得した船。「自然のままが一番いい」と。
白いシャングリラには無かった青い薔薇の花は、後の時代に失われた。
SD体制の時代に消された文化や、禁じられていた自然出産。様々なものを、かつての姿に戻す過程で、薔薇の姿も元の通りに戻された。青い色素を持った薔薇など、もう要らないと。
(今はこういう薔薇ってことだ…)
同じ青でも、淡い青色。薔薇が本来持っている色素、それだけで作り出せる青。
綺麗なもんだ、と見ている間に、ふと思ったこと。
あいつだったら、こういう青だ、と。
ブルーの名前が意味する青。ブルーを青い薔薇にするなら、きっとこの薔薇。
青い色素を組み込まれた薔薇の花とは違って、自然な青。ほんのりと青い、白い薔薇にも見えるような柔らかい色の花びら。
(あいつと言っても、前のあいつのことだがな…)
同じブルーでも、今のブルーは、まだ薔薇の花は似合わない。
「可愛らしい」と形容するのが似合いの子供で、前のブルーとはまるで違うから。前のブルーは気高く美しかったけれども、今のブルーは愛らしい子供。
(どうしても薔薇にしたいんだったら…)
今が盛りの花とは違って、これから咲く蕾。開いたら何の花になるのか、蕾だけでは分からないほどの小さなもの。色さえも掴めないような。
(…この薔薇にだって、そういう時期があるわけだしな?)
チビのあいつはそんなトコだ、と眺めた薔薇。
まだまだ蕾で、「薔薇なのか?」と枝や葉を調べて、やっと薔薇だと分かる花。
前のブルーなら、蕾ではなくて花なのだけれど。美しく咲いた薔薇の花。
(ついでに、散りかけた花じゃなくてだ…)
こういう花ではないんだよな、と盛りを過ぎた花に目をやった。「これじゃないんだ」と。
前のブルーは、最後まで気高い花だった。開いたばかりの凛とした花、そういう薔薇。
(あいつは、こっちだ)
これがあいつ、と美しく咲いた花を見詰める。今朝、花びらを広げたばかりのような。
三百年以上も生きて、寿命が尽きると分かった頃には、ブルーは弱っていたけれど。その肉体は日々衰えていったけれども、それを悟らせなかったブルー。
(どんなに弱っちまっても…)
散りかけの姿を見せはしなかった。もうすぐ散るのだ、と分かる姿は。
十五年もの長い眠りに就いた時さえ、ブルーは変わらず美しかった。
この薔薇で言えば、とうに盛りを過ぎてしまって、散りかけの花の筈だったのに。ほんの一瞬、目を離した隙に、はらりと花が崩れて落ちても、不思議ではない姿だったのに。
けれども、美しいままだったブルー。深い眠りの底にいてさえ、凛と咲き続けた薔薇の花。この薔薇のように淡い青色、ほんのりと青を纏った姿で。
(そして、本当に一瞬で…)
前のブルーは散ってしまった。文字通り消えてしまった命。漆黒の宇宙で、メギドと共に。
散る姿さえ見せもしないで、美しい薔薇は宇宙に散った。
ふと振り向いたら、花びらだけが地面に散っているように。ついさっきまでは咲いていたのに、散る気配すらも見えはしなかったのに。
そんな最期だ、と思うのが前のブルーの最期。
前の自分も、白いシャングリラにいた仲間たちも、誰一人として見ていない。美しかった薔薇が散ってゆくのを、前のブルーが死んでゆくのを。
(キースの野郎は見ていやがったが…)
あいつがブルーを撃ったんだ、と噛んだ唇。弄ぶように、何発も弾を撃ち込んだキース。
今のブルーに現れた聖痕、あれがそのまま、前のブルーが受けた傷。左の脇腹に、両方の肩に、右の瞳まで撃たれたブルー。
きっと血まみれだったろう。…小さなブルーがそれを体現したように。
けれど、それをしたキースでさえも知りはしなかった。
息絶えた、前のブルーの姿は。
最後まで凛と咲き続けていた、ブルーという薔薇が散った姿は。
(あいつなら、きっと…)
美しい姿だったのだろう、と思わないではいられない。
赤く煌めく宝石のような、右の瞳が失われても。
血まみれでも、息が絶えた後でも。
ただ花びらが落ちているだけ、かつて「ブルー」という名の薔薇だったものが。
その散り敷いた花びらでさえも、息を飲むほど美しく散っているのだろう。こうして零れて散るよりも前は、どれほど綺麗な花だったろうか、と誰もが思いを馳せるほど。
「花びらだけでも美しいから」と、拾って持ち帰りたくなるほどに。
澄んだ水の器に浮かべてやったら、その美しさを愛でられるから。たったひとひら、それだけになってしまった後にも、まだ充分に美しいから。
きっとそうだ、と眺めるブルーを思わせる薔薇。前のブルーに似た、青い薔薇。
(こういう風にはならないな…)
散りかけなのだ、と分かる薔薇の花。やたら広がってしまった花びら、開きすぎている花びらの隙間。じきに一枚、また一枚と零れて落ちてゆくのだろう。すっかり散ってしまうまで。
(…くっついたままで萎れる花びらだって…)
何枚か出て来るかもしれない。茎についたまま、萎れ、色褪せてゆく花びら。
前のブルーは、そんな散り方はしなかった。
一瞬の内に散ってしまって、気付けば花びらが落ちているだけ。そういう最期。
(あいつには、それが似合ってた…)
綺麗なままで逝っちまうのが、と薔薇の花にそっと触れてみた。凛と咲いている、美しい薔薇。咲いたばかりで、露を纏っていそうな薔薇。
ブルーが其処にいるようだから。…前のブルーの姿が薔薇に重なるから。
(これからも綺麗に咲くんだぞ?)
あいつみたいに、と微笑み掛けて、薔薇に別れを告げたけれども。
ほんのりと青い薔薇が咲く家、其処を離れて再び歩き始めたけれども、少し歩いてから気付いたこと。角を曲がって、薔薇たちが見えなくなってから。
(…待てよ…?)
前のブルーはああいう風ではなかった、と眺めていた薔薇。散りかけの姿だった薔薇。
もうすぐ散ってしまうのだろう、あの薔薇の花は来年も咲く。同じ花は二度と咲きはしないし、咲くのは新しく出て来る蕾。
それでも来年は咲くのだろうし、もしかしたら冬の季節にだって。四季咲きの薔薇なら、冬にも花を咲かせるから。上手く育てれば、他の季節にも負けない花を。
けれど、凛と美しく咲いたブルーは…。
(散ってしまって…)
それきり、咲きはしなかった。
新しい蕾をつけることなく、二度と開きはしなかった薔薇。
前の自分はブルーを失くした。美しい薔薇はもう、宇宙の何処にも無かったから。
生きて戻りはしなかったブルー。散ってしまった、気高い薔薇。
(今のあいつは…)
これから花を咲かせようという薔薇だった。まだ小さすぎて、薔薇の花には見えないけれど。
同じ薔薇でもせいぜい蕾で、十四歳にしかならない子供だけれど。
(はてさて、どんな花になるやら…)
さっき見たような青い薔薇なのか、それとも愛らしい薔薇か。
前のブルーのようだと思った、あのほんのりと青かった薔薇。前のブルーが其処にいるようで、指先でそっと触れてみた薔薇。
本当にブルーに似ていたけれども、あくまで前のブルーの姿。今の小さなブルーなら…。
(青と言うより…)
淡いピンクの薔薇かもしれない。
華やかなピンク色とは違って、淡い桃色。今のブルーの頬っぺたのような、優しい薔薇色。白い肌の下の血の色が透けた、命の色の柔らかなピンク。
(今のあいつは、青い薔薇の花じゃないかもな…)
違う色の薔薇になるのかもな、と考えながら歩いた道。小さなブルーが待っている家へ。
歩く間も、様々な色を湛えた薔薇に出会っては、その色合いと今のブルーとを重ねてみる。今のあいつはこれだろうかと、あの色の方がいいだろうかと。
ピンクだけでも何色もあるし、他の色ならもう何色も。赤や黄色や、真っ白な薔薇も。
(何か企んでやがる時のあいつは…)
黄色い薔薇も似合うんだよな、という気もする。心の欠片がキラキラ零れているブルー。
シュンと萎れてしまった時には、白い薔薇。頬っぺたを膨らませて怒る時なら、何色だろう?
(あいつ、コロコロ表情が変わるもんだから…)
どれがあいつに似合う薔薇やら、と出ない結論。
前のブルーなら、あの青い薔薇が似合うのに。…あれがブルーだと、直ぐに姿が重なったのに。
いくら考えても、様々な色の薔薇に出会っても、出て来ない答え。今のブルーに似合いの薔薇。
そうして着いたブルーの家にも、薔薇の花は咲いていたのだけれど。
(うーむ…)
ますますもって決められんぞ、と生垣越しに眺めた庭の薔薇たち。
一色だけなら、この色が今のブルーの薔薇だと思えるのに。ブルーの家にはこの薔薇なのだし、今のブルーも同じ色だと決めてやることが出来るのに。
庭を彩る、ブルーの母が育てている薔薇。一種類なら良かったのに、と考えたけれど。
(そういえば…)
薔薇の花には、愛好家たちが名前をつける。新しい品種を生み出した時に、誇らしげに。
愛する妻の名前をつけたり、お気に入りのスターに捧げてみたり、といった具合に。
そうやって名付けられた中には、「ソルジャー・ブルー」もあるのだろうか?
如何にもありそうな気がして来たから、門扉を開けに来たブルーの母に尋ねてみたら。
「ありますわよ。…薔薇のソルジャー・ブルーなら」
いともあっさり返った答え。前のブルーの名前を持った、薔薇が存在するらしい。
「どんな花かは御存知ですか?」
「ええ。…よろしかったら、お見せしましょうか?」
どうぞ、と思念で送られて来た薔薇のイメージは、さっきの青い薔薇に少し似ていた。花の形がほんの僅かに違うだけ。眺める角度で変わってくるから、あの薔薇がそうだったのかもしれない。
(どおりで、前のあいつに似ていたわけだ…)
そのものズバリの名前だったら、薔薇の姿も似るだろう。前のブルーに。
愛好家が名前をつけた時にも、「似ている」と思っただろうから。
「ソルジャー・ブルーのような薔薇だ」と思ったからこそ、その名を付けた筈だから。
さっきの薔薇は、本当に「ソルジャー・ブルー」だったかもな、と見回した庭。
此処で何度も小さなブルーと過ごしたけれども、青い薔薇を見た覚えが無い。こうして見たって咲いていないし、庭には無さそうな「ソルジャー・ブルー」と呼ばれる薔薇。
なんとも不思議だ、とブルーの母に問い掛けた。今のブルーは、ソルジャー・ブルーから貰った名前。同じアルビノの子供だから、と両親が名付けたと聞いているから。
「庭の薔薇…。ソルジャー・ブルーは植えないんですか?」
ブルー君の名前の薔薇なのに、と訊いてみたくもなるだろう。薔薇を育てていない家なら、特に変でもないけれど…。この家の庭には薔薇があるのだし、ソルジャー・ブルーもありそうなもの。
一人息子の名前を貰うついでに、薔薇だって。今のブルーが生まれた記念に植えるとか。
そうしたら…。
「植えたかったんですけれど…。花屋さんで訊いたら、育てるのが難しい薔薇なんですって」
花が咲きにくいのなら、綺麗に咲くよう、頑張ればいいんですけれど…。
根付いて育つまでが大変な薔薇で、駄目になることも多いと言われましたから…。
枯れてしまったら、嫌でしょう?
一度も花を咲かせもしないで、苗の間に。…せっかく庭に植えてあげても。
「そうですね…。薔薇だって可哀相ですし…」
ブルー君と同じ名前となったら、枯れさせるなどは…。
嫌どころではないですね、と相槌を打った。
一人息子と同じ名前の薔薇が枯れたら、誰の親でも嫌だろう。いくら欲しいと思った薔薇でも、育ちにくいなら冒険したい親はいない筈。
(…誕生記念に、って気軽に植えられやしないよなあ…)
ましてブルーは身体が弱いし、生まれた時からそれは分かっていた筈。
ブルーが丈夫に生まれていたなら、「ソルジャー・ブルー」を庭に植えても、失敗する度、また植え替えればいいけれど…。
(今でも弱いままだしな、あいつ)
薔薇のソルジャー・ブルーはとても植えられないな、と頷かざるを得ない状況。
苗を買って来て植えてみたって、元気が無ければハラハラする。枯れてしまったら、きっと胸が痛むし、その時にブルーが病気だったら、とても心配だろうから。
なるほどな、と薔薇の「ソルジャー・ブルー」が家の庭に無い理由を納得しながら、案内された二階のブルーの部屋。
小さなブルーは窓から下を見ていたらしくて、テーブルを挟んで向かい合うなり尋ねられた。
「ハーレイ、ママと何を話してたの?」
ぼくにお土産、持って来てくれたわけじゃなさそうだけど…。何のお話?
庭で暫く話してたでしょ、とブルーが訊くから、答えてやった。
「薔薇の話さ」
「薔薇…?」
なんで薔薇なの、とキョトンとしている小さなブルー。「ハーレイ、薔薇が好きだっけ?」と。
「違うな、俺の話じゃない。…お前の方だ」
お前はどういう薔薇の花かと思ってな…。何色だろう、と。
「ぼくが薔薇?」
どうして薔薇の花になるの、と瞬いた瞳。「分かんないよ」とブルーは怪訝そうな顔。
「前のお前は薔薇みたいだった、と思ったんだ。…そう考えたのは今の俺だが」
此処まで歩いて来る途中にだ、色々な薔薇にも出会うってわけで…。
その中に、前のお前に似ている薔薇があったから…。
つい立ち止まって眺めちまった、前のお前に似ているな、と。
「前のぼくって…。どんな薔薇なの?」
ちっとも想像出来ないけれど、とブルーが首を傾げているから、差し出した右手。
「手を出せ、記憶を見せてやるから」
さっき見て来たばかりだからなあ、少しもぼやけちゃいないってな。
「ホント? じゃあ、お願い」
ブルーが絡めて来た右手。その小さな手をキュッと握って、「ほら、これだ」と明け渡した心。其処に入っている記憶。
多分、「ソルジャー・ブルー」だろう薔薇。凛と咲いていた、淡い青色を纏った薔薇たち。
どうだった、と手を離してから尋ねた感想。「あれがお前に似ていた薔薇だが」と。
「青いね…」
ハーレイが見た薔薇、青かったんだ…。ほんのちょっぴり、青く見える薔薇。
「うむ。…前の俺たちが生きてた頃には、青い薔薇はもっと青かったがな」
俺の記憶には残っちゃいないし、今の俺が写真で見た程度だが…。
あれこそ本物の青い薔薇だな、今の時代は幻の薔薇になっちまったが。…本物は何処にも残っていなくて、新しく作られることもないから。
「青い薔薇…。地球の青さを吸い取っちゃったみたいな薔薇のことでしょ?」
人工的に青い色素を持たせた薔薇。
…青い薔薇は綺麗に出来たけれども、地球の青さは無くなっちゃった…。汚染されちゃって。
あの青い薔薇は、シャングリラには植えていないよね。いろんな薔薇を育ててたけど…。
「不自然だったからな、青い薔薇は」
本来、存在してはならない色だ。…ヒルマンが強く反対したから、植えてはいない。
しかし、今の時代の青い薔薇は違うぞ。愛好家たちが頑張って作った、自然の色の青なんだ。
ああいう青い薔薇の花なら、お前のイメージそのものだと思って、暫く側で眺めていて…。
くどいようだが、前のお前だぞ?
前のお前のイメージがあれなら、今のお前はどんな薔薇か、と考えながら歩いて来たが…。
まるで答えが出て来ない上に、この家の薔薇も一色じゃなかったと来たもんだ。
一種類しか咲いていないんだったら、それがお前の薔薇ってことでもいいんだが…。
そうじゃないしな、「これがお前だ」と思える薔薇が無くってなあ…。
困ったもんだ、と見ていた間に、薔薇の名前に気が付いた。薔薇につけられてる色々な名前は、そいつを作った愛好家たちの趣味だった、とな。
奥さんの名前をつける人とか、お気に入りのスターの名前だとか…。
それでお母さんに訊いていたんだ、薔薇の名前に「ソルジャー・ブルー」はあるのか、と。
「…前のぼくの薔薇…。それって、あった?」
ソルジャー・ブルーっていう名前の薔薇、あってもおかしくないけれど…。
誰かがつけていそうだけれど。
ホントにあるの、とブルーは興味津々。「もしもあるなら、青い薔薇かな?」と。
「ソルジャー・ブルーってつけるんだものね、青い色をした薔薇になりそう」
でも…。本当に青い薔薇は今は無いから、ソルジャー・ブルーって名前の薔薇はないのかな…?
それとも違う色だとか、と答えを待っているブルー。
ソルジャー・ブルーという名前の薔薇はあるのか、無いのか、どっちだろうと。
「あったぞ、こういう薔薇らしい」
お前のお母さんに見せて貰ったイメージだが、とブルーの右手を握って送り込んだイメージ。
ほんのりと淡い青を纏った、「ソルジャー・ブルー」と呼ばれる薔薇。
「…似てるね、ハーレイが見て来た薔薇と」
前のぼくに似てる、って言っていた薔薇。…さっき見せてくれてた記憶にある薔薇。
同じ薔薇じゃないの、とブルーは瞳を輝かせた。絡めた右手をほどいた後で。
「やっぱりお前もそう思うか? 似てるよなあ…?」
眺める角度をちょっと変えたら、まるで同じになりそうだ。…俺が見たヤツと。
ソルジャー・ブルーだったのかもなあ、前のお前に似ていたんだし。
「そうじゃないかと思うけど…。でも、その薔薇…」
ママは植えてはいないんだ…。
ソルジャー・ブルーっていう薔薇があるなら、植えていたっていいのにね。
ママは庭仕事をするのが好きで、薔薇も幾つも育ててるのに…。前のぼくと同じ名前がついてる薔薇なら、大喜びで植えそうなのに…。
ぼくの名前はソルジャー・ブルーから貰ったんだけど、と考え込んでしまったブルー。
「どうして薔薇のソルジャー・ブルーは無いんだろう?」と。
「それなんだが…。俺も不思議に思っちまって…」
あって当然みたいな薔薇だろ、ソルジャー・ブルー。
似たような薔薇も見て来たトコだし、「植えないんですか?」と尋ねたんだが…。
お母さんも育てたいとは思ったらしい。
ソルジャー・ブルーにそっくりなお前が生まれて来たんじゃ、そうなるよな。
ところがだ…。
育てるのが難しい薔薇だそうだ、と教えてやった。ブルーの母から仕入れた知識。
「ソルジャー・ブルーは、根付くまでの間が大変らしい」
苗の間に駄目になっちまって、一度も花を咲かせないままで枯れちまうことも多いんだそうだ。
それでお前のお母さんは植えていないわけだな、とても難しい薔薇だから。
もしもだ、お前の名前の薔薇が枯れたら、どんな気持ちだ?
前のお前の記憶が戻る前にしたって、ソルジャー・ブルーが枯れちまったら…?
どうなんだ、とブルーの瞳を覗き込んだら、「嬉しくない…」という返事。
「そんなの嫌だよ、ぼくとおんなじ名前なのに…」
猫や犬とは違うけれども、やっぱりうんと悲しくなるよ。枯れちゃった、って…。
これから大きく育つ筈だったのに、枯れちゃうなんて可哀相…。
薔薇の苗、とても可哀相だよ、とブルーが顔を曇らせるから。
「ほらな、お前でもそう思うんだ。…同じ名前だというだけで、薔薇に同情しちまって」
お前のお母さんとなったら、もっと悲しいだろうと思うぞ。…それに心配も山ほどだ。
大事な一人息子と同じ名前の薔薇なんだしなあ、そりゃあ大切にするんだろうが…。
それでも土が合わなかったり、園芸にトラブルはつきものだ。
枯れそうになったら、もうハラハラして、せっせと世話をするんだろう。何か助ける方法は、と花屋さんに訊いたり、詳しい人を連れて来てみたりして。
そうやって無事に育てられたらいいんだが…。なにしろ難しい薔薇らしいからな?
枯れてしまったら、自分を責めるしかないし…。
お前と同じ名前なだけに、お前のことまで心配になって来そうじゃないか。薔薇みたいに病気になっちまわないか、ちゃんと育ってくれるかと。
お母さんは俺にこう言っていたぞ、「枯れてしまったら嫌でしょう?」と。
そうならないよう、ソルジャー・ブルーは植えないでおこう、というのがお母さんの考え方だ。
弱いお前と、枯れやすい薔薇のソルジャー・ブルーが重なったんじゃたまらんからな。
「そうなんだ…」
ぼくが弱いから、ママは植えずにいるんだね。…ソルジャー・ブルーを。
もっと丈夫で元気だったら、薔薇の苗が駄目になったくらいじゃ、心配しないだろうけれど…。
新しい苗を買いに行かなきゃ、って花屋さんに行っては、何度でも挑戦しそうだけれど。
ちゃんと「ソルジャー・ブルー」の花が咲くまで、と小さなブルーが言う通り。
庭仕事が好きで薔薇も育てるブルーの母には、「ソルジャー・ブルー」は魅力たっぷりだろう。
此処に来る途中で見て来た青い薔薇がそれなら、なおのこと。
上手く育てれば、幾つもの花を咲かせる薔薇。しかも美しい青い薔薇だし、きっと育ててみたい筈。その薔薇と同じ名前の一人息子が、丈夫なら。…弱い子供でなかったら。
「お前、素敵なお母さんを持ったな、本当に」
弱いお前が、薔薇みたいに枯れてしまわないよう、気を配ってくれるお母さん。
たとえ薔薇でも、お前と同じ名前だったら枯らすわけにはいかないから、と植えないなんて。
お前が此処まで育った今なら、もう植えたって良さそうなんだが…。
それでも植えないままってトコがだ、とても優しいお母さんだっていう証明だよな。
植えちまう人もいそうだぞ、と見詰めた小さなブルーの顔。ブルーの身体は今も弱いけれども、幼かった頃よりは丈夫だろう。体育の授業も、出られる時には出ているのだから。
其処まで育った息子だったら、もう心配は要らない筈。薔薇のソルジャー・ブルーが枯れても、息子の命の心配まではしなくていい。
だから、植えようと思ったのなら植えられる薔薇。…けれど植えないブルーの母。
息子を大切に思っているから、植えようとしない「ソルジャー・ブルー」。
人によっては、「もういいだろう」と植えるだろうに。「今まで我慢したのだから」と。
「ママは優しいよ、いつだって」
ぼくを大事にしてくれるもの。…病気の時も、元気にしている時も。
たまに叱られることもあるけど、それは悪いことをしちゃったから…。
ママが「駄目」って言っていたのに、守らずにおやつを沢山食べ過ぎちゃった時とか。
叱られる時は理由があるよ、と微笑むブルー。「それでも許してくれるけどね」と。
「…パパにも言い付けられたりするけど、いつも許してくれるよ、ママは」
ごめんなさい、って謝ったら。
「もうしないのよ」って言われちゃうけど…。
次におんなじことをやったら、前よりもうんと叱られちゃうけど、大丈夫。
悪いのはぼくで、ママは優しいから。…許してくれないままになったりはしないから。
「本当にいいお母さんだな、俺なんかは酷く叱られたがなあ…。ガキの頃には」
おやつ抜きの刑は当たり前だったし、下手すりゃそいつが二日も三日も続くとか…。
俺も大概、悪ガキだったし、そうなっても仕方ないんだが。
お前の場合は、おやつ抜きだとポロポロ涙を零してそうだし、そういう刑も無いんだろう?
「無いよ、おやつが無いなんてこと」
病気だから食べちゃいけません、って言われた時は別だけど…。
お医者さんにそう言われた時でも、ママは必ず訊いてくれるよ。ぼくが食べられそうなもの。
先生が「いい」って言ってくれたら、プリンとかを作ってくれるんだから。
食事の代わりに食べられるおやつ、と得意そうな笑みを浮かべたブルー。
「ぼくのママはホントに優しいんだから」と、「おやつ抜きなんか言わないよ」と。
「ふうむ…。俺のおふくろには無い優しさだな、おふくろだって優しいんだが…」
息子の俺が悪ガキではなあ、お前のお母さんの育て方では、どうにもこうにもならないから。
でもって、自慢の優しいお母さんに育てられたお前は、どういう薔薇になるんだか…。
前のお前とは違うんだろうな、同じ薔薇でも花の色だって。
「そうなっちゃうかも…」
今のぼくは、前のぼくよりもずっと幸せだから。
パパとママがいて、ぼくの家があって、ハーレイもいてくれるんだもの。
うんと幸せに暮らしているから、前のぼくとは違う薔薇の花になっちゃいそう…。
「そうだろう? 俺が最初に考えていたイメージでは、だ…」
今のお前は淡いピンクの薔薇ってトコだな。お前の頬っぺたみたいな薔薇色。
前と同じに大きくなったら、また変わるのかもしれないが…。
それでもソルジャー・ブルーの薔薇とは違う気がするんだ、と話してみた。
此処へ来る途中に出会った、「ソルジャー・ブルー」に似ていた、ほんのり青い薔薇。あの花に前のブルーを重ねたけれども、今度は重ならない気がする、と。
「…いつかお前が大きくなっても、あの薔薇じゃない、って気がしてなあ…」
どういう薔薇になるかは謎だが、ああいう感じじゃないっていうか…。
上手く言葉に出来ないんだが、と顎に手を当てたら、「そう思うよ」とクスッと笑ったブルー。
「ぼくも違うと思うよ、それ。…今のぼくはそういう薔薇じゃない、って」
色もそうだし、花だってそう。もっと小さな薔薇かもね。
ハーレイが見て来た青い薔薇の花は大きいけれども、小さい薔薇。
「…小さい薔薇?」
お前みたいにチビってことか?
立派に大きく育つ代わりに、鉢植えサイズになっちまうとか…。テーブルの上に飾っておくのが丁度似合いの、鉢植えの薔薇。
「違うよ、薔薇の木の大きさじゃなくて…。花の方だよ、ぼくが言うのは」
あるでしょ、小さい花が咲く薔薇。ミニサイズの花を咲かせるヤツ。
今のぼく、あれじゃないのかなあ…。もしも薔薇だとしたならね。
同じ薔薇でも、前のぼくみたいに偉くないから…。
ソルジャー・ブルーが大きな花が咲く薔薇だったら、ぼくはミニサイズの花だと思う…。
「おいおい、花が小さいってか?」
偉いかどうかはともかくとしてだ、美人な所は、前のお前とそっくり同じだと思うんだが…。
もうとびきりの美人なんだし、ソルジャー・ブルーに負けない大きさの花を咲かせそうだが…?
美人な所は同じだしな、と言ったのだけれど、ブルーは「ううん」と首を横に振った。
「顔は同じでも、中身は今のぼくだから…。うんとちっぽけで、弱虫のぼく」
そんな中身じゃ、目立たない筈だよ、前みたいには。…ソルジャー・ブルーだった頃と違って。
だから小さい薔薇なんだよ。
前のぼくが大きな花の薔薇なら、今のぼくは小さい花が咲く薔薇。
「そう来たか…。そういうこともあるかもなあ…」
見た目は同じでも、中身の違いか。…色だけじゃなくて、花のサイズも違うのか…。
同じ薔薇でも、花まで小さくなっちまうのか、と小さなブルーを見詰めたけれど。
この愛らしい恋人だったら、育っても確かにそうかもしれない。
姿は前とそっくり同じになっていたって、中身は弱虫でちっぽけなブルー。凛として咲き続ける薔薇と違って、時には弱音を吐いたりして。…もう咲けない、とペシャンと潰れたりもして。
(…こいつだったら、そうかもなあ…)
前のあいつとは違うんだから、と自分の思いに沈んでいたら、掛けられた声。
「ハーレイ、どうかした?」
ぼく、何か変なことでも言っちゃった…?
ミニサイズの薔薇っていうのは駄目かな、ハーレイ、そういうぼくは困るの…?
ちゃんと大きな薔薇がいいの、とブルーが心配そうな顔をするから、「いや」と返した。
「…考え事をしちまっただけだ、前のお前と、今日の薔薇のことで」
前のお前は、散る姿さえも見せなかったな、と思ってな…。
最後まで凛と咲いたままでいたんだ、前のお前は。…散りかけの姿を見せもしないで。
「そうだっけ? シャングリラでは、ちゃんと頑張ってたけど…」
泣いてたよ、ぼくは。…独りぼっちになっちゃった、ってメギドの制御室でね。
散りかけどころか、もっとみっともない姿。…クシャクシャになってしまった薔薇だよ。
萎んでしまって駄目になった薔薇、とブルーは言ったけれども、それは間違い。
「…そうかもしれんが、その姿、誰も目にしていないだろうが」
キースは逃げてしまった後だし、お前の姿を見た者はいない。…本当に駄目になった薔薇でも。
つまりだ、前のお前は最後まで綺麗に咲き続けたんだ。誰も知らない以上はな。
その点、今のお前ということになると…。
もう散りそうだ、と弱音を吐きそうな気がするな。…潰れそうで咲いていられない、とか。
「そうだと思うよ、弱虫だから」
ハーレイはそういう薔薇は嫌なの、ミニサイズの薔薇で弱虫なのは…?
「俺はその方が好みだな。世話のし甲斐があるってもんだ」
せっせと世話して、水をやったり、日陰に入れたりと手のかかる薔薇。うんと弱虫の。
「ありがとう…!」
ぼくはホントに弱虫なんだし、きっとそういう薔薇だろうから…。
弱い薔薇でも、ハーレイがちゃんと守ってくれるんだね、と笑顔のブルー。
「ぼくがペシャンと潰れそうでも、ミニサイズの花しか咲かない薔薇でも」と。
きっと本当に、今度のブルーはそうなのだろう。
小さな花しか咲かせない薔薇で、散りそうになったら元気を失くしてしまう薔薇。
最後まで凛と咲き続けていた前のブルーとは、まるで違った薔薇になるブルー。
けれど、どういう薔薇になっても、美しい花を咲かせてやろう。
大切に守って、世話をして。
今のブルーに似合いの姿で、一番綺麗な花が見事に咲くように。
どんな色合いの薔薇が咲いても、それが今度のブルーだから。
小さな花を咲かせる薔薇でも、愛おしい薔薇。
今度のブルーは、自分が一人占めしてもいい花を咲かせる、それは美しい薔薇なのだから…。
かの人と薔薇・了
※ハーレイが目を留めた薔薇の花。前のブルーを思わせる薔薇で、そういうイメージ。
今のブルーが薔薇になったら、まるで違った薔薇なのかも。それを育てるのも、きっと素敵。
ジョミーにキース、とブルーが眺めた新聞広告。学校から帰って、おやつの時間に。
それぞれの写真もついているけれど、広告に載っているのは本。写真集ではなくて、子供向けに書かれた偉人伝。「こういう立派な人たちでした」という中身。
子供向けでは定番の本で、そういえば…。
(ぼくも持ってた…)
確かに読んだ、と覚えている。今よりもずっと小さかった頃に。
人類側のキースはともかく、ソルジャー・ブルーとジョミーの分は間違いなく読んだ。どちらも買って貰ったから。何処の家でも、一冊くらいは買うものだけれど…。
(…ぼくは名前がソルジャー・ブルー…)
ソルジャー・ブルーと同じアルビノだから、と両親が「ブルー」と名付けた子供。そのお蔭で、文字が読めるようになったら、プレゼントされたのがソルジャー・ブルーの伝記。子供向けの。
(ブルーの名前は、この人から貰ったんだから、って…)
読み終わったら、ジョミーの分も買って貰えた。ソルジャー・ブルーの跡を継いだソルジャー、SD体制を倒した英雄。「こっちも読んでおかないと」と。
(だけど、キースのは…)
どうだったのか覚えていない。買って貰ったのか、そうでないのかも。
自分で強請った記憶が無いから、恐らく持っていないのだろう。SD体制崩壊の歴史だったら、ジョミーの分で分かるから。…大まかなことは。
(後は学校で教わるし…)
きっとキースの偉人伝まで強請ってはいない。欲しい本なら、他にも沢山あったのだから。
(キースには、とても悪いんだけど…)
このシリーズを読んだとしたって、学校の図書室で借りた本だと思う。一回読んだだけで満足、家にも一冊持っていたいと思いもしないで、それっきり。
父に強請って買って貰うなら、もっとワクワクする本がいい。偉人伝よりも。
多分、キースのは無いだろう本。ソルジャー・ブルーとジョミーの分だけ。
けれど家には確実にあるし、この広告とそっくりな本。表紙も、それに大きさとかも。
(あの本、何処に入れたっけ?)
文字は幼稚園の頃から読めたけれども、よく考えたら、下の学校に入ってから直ぐに読んだ本。両親はきっと、プレゼントする時期も考えてくれていたのだろう。
(幼稚園だと、歴史は習わないもんね?)
いくら「ブルー」という名前の由来にしたって、幼稚園児には難しいかもしれない。書いてあることの意味や、出来事なんかが。
(学校に上がって、直ぐに貰って…)
ソルジャー・ブルーのを読んで、お次はジョミー。ちゃんと本棚にあった筈。小さい頃の本も、お気に入りなら、今も本棚にあるけれど。たまに読んだりもするのだけれど…。
(他の本だと…)
仕舞ってある場所は物置の筈。整理用の箱に入っているのか、あるいは棚か。父の書斎に置いてあることはないだろう。なにしろ子供の本なのだから。
(…ソルジャー・ブルー…)
俄かに読んでみたくなってきた本。子供向けのソルジャー・ブルーの伝記。この本の中で、前の自分はどう書かれたのか。いったいどういう人だったのか。
(歴史の授業で教わるのとは、ちょっと違うよね?)
その人物の生涯を描き出すのが伝記だから。…歴史上の出来事だけを切り取って教える、学校の授業とは切り口がまるで違う筈。しかも伝記の方は読み物。
(…前のぼくの伝記…)
子供向けでも、ちょっぴり読みたい。前の自分がどう描かれたか、知りたい気分。読むのなら、これが丁度良さそう。わざわざ大人向けのを買うより、手軽に読めるだろうから。
読んでみたいな、と思った伝記。子供向けの偉人伝の定番、ソルジャー・ブルーを描いた一冊。前の自分が生きた人生、それが書かれている筈の本。
(でも、物置…)
あそこにあるなら、自分では捜せないように思う。棚ならまだしも、箱の中では手も足も出ない場所が物置。整理して箱に入れたのは母で、そういう箱が幾つも置いてあるのだから。
読みたいけれども、見付け出せそうにない偉人伝。どうしようか、と考え込んでいたら、開いた扉。あの本を片付けただろう母がダイニングに入って来たから、訊いてみた。
「ママ、ぼくの本って、何処にあるの?」
「本?」
部屋にあるでしょ、と当然のように返った答え。「何か見当たらない本でもあるの?」と。
「ぼくが小さかった頃の本だよ。…部屋に無い分」
大好きだった本は今も持っているけど、そうじゃない本の置き場所は何処?
「そういう本なら、物置ね」
ママが仕舞っておいたから、と微笑む母。「一冊も捨てていないわよ」とも。
「やっぱり物置だったんだ…。物置の本、ぼくでも捜せる?」
棚にあるのは見れば分かるけど、箱に仕舞ってある方の本。…何か目印が書いてあるとか。
「捜すって…。何を捜すの?」
絵本だったら、纏めて入れてあるけれど…。箱にも「絵本」と書いたんだけど…。
他の本の箱はどれも「本」だわ、と母が言うから、目印は期待出来そうにない。
「…ソルジャー・ブルーの本…。小さい頃に買ってくれたでしょ?」
この広告に載ってる本。ちょっと読みたくなっちゃって…。
「ああ、それね」
買ってあげたわね、「ブルーの名前はこの人からよ」って。読み終わったらジョミーの分も。
読みたいのなら少し待ってなさいな、と出て行った母は直ぐに戻って来た。「はい」と、頼んだ本を手にして。
「早いね、ママ…」
凄い、とテーブルに置かれた本を眺めた。広告の写真よりも少し古びている本。けれど、表紙は全く同じ。広告そのまま、ソルジャー・ブルーの偉人伝。
「早い理由は簡単よ。…物置には行っていないから」
「えっ?」
なんで、とキョトンと見開いた瞳。母は物置だと言ったのに。…小さい頃の本の置き場は。
「この本はママが読んでたの。ブルーが学校に行ってる間に」
ブルーと同じね、この広告を見付けたから…。
これを読んでた小さなブルーが、今は本物のソルジャー・ブルー。とても不思議な気分でしょ?
なんだか読みたくなっちゃったの、ママも。…あれはどういう本だったかしら、って。
それで捜しに行ったのよ、という母の種明かし。アッと言う間に本が出て来た理由。母は物置で本を見付けて、自分の部屋に置いていたらしい。
「ママ、もう読んだの?」
それとも夜に読むつもりだったの、ママの部屋に置いてあったんなら…?
「全部読んだわ、子供向けだもの。直ぐに読めるわ、ブルーでもね」
懐かしいから、ママの部屋に持って行っただけ。読むなら、部屋に持って帰るといいわ。
「ありがとう、ママ!」
読みたかったんだよ、物置で捜し出せるなら。こんなに早く出て来るだなんて…。
ママが捜していてくれたなんて。
捜してくれてありがとう、と自分の部屋に持って帰った本。おやつを食べ終えた後で。
さて、と勉強机の前に座って、懐かしい本を広げたけれど。子供向けにと大きめの活字、それが並んだページをめくり始めたけれど…。
(えーっと…?)
生き地獄だったアルタミラ時代は、「大変な苦労」と書かれているだけ。狭い檻のことも、酷い人体実験のことも、まるで触れられてはいない本。子供が怖がるからだろうか?
アルタミラからの脱出にしても、ほんの一瞬。「宇宙船を奪って逃げました」とだけ、ハンスのことは書かれていなかった。開いたままだった乗降口から、外へと放り出されたハンス。
(…大人向けの本なら、きっと書いてあるよね?)
脱出の時に死んでしまったハンスの悲劇は、歴史の授業でも教わるから。ミュウの歴史で最初の事故。それまでのミュウは、ただ「殺されていた」だけだったから。
けれど、書かれていない事故。ハンスの名前。…子供向けの本だものね、と思ったけれど。
(もうハーレイがキャプテンなの?)
ハーレイが厨房に立っていた頃も、厨房出身のキャプテンだったことも、本には無かった。白い鯨も直ぐに出来上がって、舞台はアルテメシアに移る。長く潜んだ雲海の星へ。
アルテメシアに着いたら、ミュウの子供たちを何人も救出する日々。やがてジョミーを迎えて、宇宙へ。長かった歳月が本になったら、拍子抜けするほど短くなった。
(フィシスのことも、ほんの少しだけ…)
ミュウの女神を連れて来ました、と書いてあるだけの本。フィシスの生まれについては抜きで。
考えてみれば、フィシスの正体はハーレイだけが知っていたこと。あの頃の船では。
そのハーレイは航宙日誌にも記さなかったし、フィシスの正体は後の時代に明かされただけ。
(ハーレイが本当のことを知っていたのは…)
どうやら知られていないらしい。子供向けの偉人伝ではもちろん、大人向けの歴史の世界でも。
前の自分が生きた時代に、そのことは知らせていないから。前の自分は何も残さなかったから。
それでは誰も知りようがないし、今でも誰も知らないまま。…ハーレイだけに教えた秘密。
フィシスだけでも秘密が一つ、と考えながら読んでいった本。ソルジャー・ブルーの偉人伝。
前の自分がどう生きたのかは、この本に書かれている筈だけれど…。
(なんだか一杯、欠けちゃってる…)
最後のページまで、読み終えた後に思ったこと。メギドを沈めてソルジャー・ブルーは死んだ。自分の命と、ミュウの未来を引き換えにして。「とても立派な最期でした」と結ばれた本。
(…立派なのかもしれないけれど…)
大切なことが抜け落ちていた。ハーレイとの恋も、そのせいでメギドで泣いていたことも。
子供向けの本なら、恋は余計なことだろうけれど、大人向けの本にも書かれてはいない。本当の自分が生きた記録は、どう生きてどう死んでいったのかは。
(…ぼくは、本当のことを知っているのに…)
何も話しはしないまま。ソルジャー・ブルーの生涯については、何一つとして。
それにハーレイも沈黙を守り続けている。キャプテン・ハーレイの記憶を持っているのに。
二人揃って、前の自分たちの膨大な記憶を隠したまま。…明かす予定さえもまるで無いまま。
けれど…。
(…いつかは話さなくっちゃいけない?)
ハーレイとの恋のことはともかく、歴史の真実。前の自分たちが見て来たこと。生きて、自分で作った歴史。アルタミラからの脱出はもちろん、シャングリラで旅した宇宙のことも。
どれを取っても、学者たちがとても知りたいこと。キャプテン・ハーレイの航宙日誌だけでは、明らかにならない様々な事実。
いつかは話すべきなのだろうか、本当のことを知っているなら。記憶を持ったままで今に生まれ変わって、こうして生きているのなら。
新しい命と身体だけれども、言わば歴史の生き証人。自分も、それにハーレイも。
学者たちがどんな質問をしても、本当の答えを返せる人間。「こうなのでは?」と仮説を唱える代わりに、真実を答えられる人間。どうしてそういう答えになるのか、その理由までも。
今の自分の頭の中身。ソルジャー・ブルーとして生きた時代の記憶。歴史だけでなくて、様々な分野の学者たちが知りたいだろう真実。アルタミラも、それにシャングリラのことも。
それらを話すべきなのだろうか、知りたがっている人々に。今も研究し続けている学者たちに。
(どうなんだろう…?)
考えてみても、そう簡単には出せない答え。どうすればいいのか、悩むくらいに大きな秘密。
同じ秘密を抱えた恋人、ハーレイに尋ねてみたいけれども…。
(もうこんな時間…)
夢中で本を読んでいた間に過ぎてしまった、いつもハーレイが来る時間。仕事帰りに訪ねて来てくれる時は、とうにチャイムが鳴っている。鳴らなかったということは…。
今日は来てくれないハーレイ。まだ学校に残っているのか、「今日は遅いから」と寄らずに家へ帰ったか。「遅くなったら、お母さんに迷惑かけるだろうが」が口癖だから。
(でも、明日は…)
土曜日だから、ハーレイは家に来てくれる。午前中から、此処で二人で過ごすために。
その時に訊いてみればいいや、と机の上の本を眺めた。この本が机に置いてあったら忘れない。
(…ソルジャー・ブルーの本だしね?)
何をハーレイに訊こうとしたのか、明日になっても忘れはしない。夕食を食べても、ゆっくりとお風呂に入っても。一晩ぐっすり眠ったとしても。
(ちゃんとハーレイに訊かなくちゃ…)
前の自分の記憶のこと。それを持っていることを明かすか、秘密のままにしておくか。
「ハーレイはどうすればいいと思う?」と。
自分だけでは答えが出ないし、それに自分が明かす時には、ハーレイも一緒だろうから。
ハーレイがいない夕食の後で入ったお風呂。パジャマに着替えて、もう寝るだけの時間。
窓の外はすっかり夜だけれども、勉強机の上の本を手に取った。ソルジャー・ブルーの偉人伝。気まぐれにめくってみたページ。何ヶ所か開いて少し読んでは、考え込んでしまうこと。
(やっぱり、大切な記憶なの…?)
今の自分とハーレイが持っている記憶。ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ、ミュウの歴史を語る上では欠かせない二人。それが自分とハーレイの前世、今も忘れていない生き様。
(いろんなことを忘れちゃってたり、思い出したりするけれど…)
重要なことは忘れていないし、忘れていたって直ぐに思い出せる。ソルジャーとしての生き方はもちろん、その生涯の中の出来事だって。他の仲間たちがしていたことも。
今の自分の頭の中身は、大勢の人が知りたいこと。真実を探し求めていること。
子供向けに書かれた伝記でなくても、謎のままで欠けた部分が多いソルジャー・ブルーの生涯。その空白を埋められるのは、今の自分の記憶だけ。
(ぼくが話せば、沢山の謎が解けるんだから…)
とても大切で重要な記憶、それを抱えているのが自分。きちんと話して謎を解くべきか、黙っていてもいいものなのか。
その答えすらも分からない上に、自分自身がどうしたいのかも…。
(分かんないよ…)
パタンと閉じて、机に戻した本。子供向けのソルジャー・ブルーの伝記。この本を買って貰った時には、自分でも気付いていなかった。本の中身が自分自身の生涯だとは。
記憶が戻った今になっても、ソルジャー・ブルーは偉大な英雄。宇宙の誰もがそういう認識。
(…今のぼくとは違いすぎるよ…)
だから余計に分からないよ、とベッドに入っても出せない答え。部屋の灯りを消したって。
今の自分が持っている記憶、前の自分はソルジャー・ブルーだったこと。
それを自分は明かしたいのか、隠したいのかも分からない。そんな単純なことさえも。
自分がどういう気持ちでいるのか、自分の意志はどうなのかも。
分からないや、と思う間に眠ってしまって、目覚めたらもう土曜日の朝。明るい日射しが部屋に射し込み、勉強机の上にあの本。それを見るなり、思い出したこと。
(ハーレイに訊いてみなくっちゃ…)
前の自分が誰だったのかを、ソルジャー・ブルーの記憶を明かすか、明かさないままか。
きっとハーレイなら答えてくれる、と考えたから、恋人が来るなり見せた本。窓辺のテーブルで向かい合わせで座るのだけれど、そのテーブルの上に運んで来て。
「あのね、これ…」
ママが物置から出してくれたんだよ、と置いたソルジャー・ブルーの本。小さかった頃に買って貰った偉人伝。昨日も読んでいたけれど。
ハーレイは「ほう…?」と少し古びた本を眺めて、それから視線をこちらに向けた。
「いったい何を持って来たかと思ったら…。なんだ、お前の伝記ってヤツか」
もっとも、前のお前のだが…。今のお前じゃ、伝記にはまだ早すぎるしな。
こんなチビでは、とハーレイが目を細めるから。
「ハーレイも読んだ? これと同じ本」
シリーズで色々あるみたいだけど、ソルジャー・ブルーのことが書いてある本。
「もちろん読んだぞ、ガキの頃にな」
子供向けの伝記の定番だろうが、とハーレイも読んでいた偉人伝。ソルジャー・ブルーの生涯が書かれた、小さな子供向けの本。
「それじゃ、ハーレイ、大人向けのも読んでみた?」
歴史好きの大人の人が読む本、沢山出ている筈だから…。そういうソルジャー・ブルーの伝記。
読んでみたの、と尋ねたけれども、「いや…」と言葉を濁したハーレイ。
「教師だったら、読むべきなのかもしれないが…。俺は歴史の教師じゃないし…」
特に興味も無かったからなあ、ソルジャー・ブルー個人には。
わざわざ本まで買って読むほど、惹かれてたわけじゃなかったってな。記憶が戻って来る前は。
そして記憶が戻っちまったら、本物のお前がいるわけだから…。
本は読まなくてもかまわんだろうが、それよりもお前の御機嫌を取ってやらないと。
本の世界よりも現実の方が大切だ、と鳶色の瞳に見詰められた。「そうじゃないのか?」と。
「お前は此処に生きてるんだし、前のお前も一緒だろうが」
すっかり小さくなっちまったが、お前は俺のブルーだから…。前のお前と同じ魂。
前のお前の本は要らんな、本物を手に入れちまったら。
「そうなっちゃうの? …前のぼくの伝記、ハーレイも子供向けしか読んでいないんだ…」
でも、この本も…。大人向けに書かれた伝記の方でも、中身、色々、欠けちゃってるよね。
ぼくも大人向けの伝記は読んでないけど、想像はつくよ。
前のぼくの伝記、幾つあっても、本当のことばかりじゃないって。
後の時代に想像で書かれたことが多くて、穴だらけ。…ソルジャーっていう名前だけでも。
「まあなあ…。今の時代も諸説あるしな」
名付けた人間の名前にしたって、一つってわけじゃないようだから…。
まさか投票で決めていたとは、どんな学者も知らんだろう。候補が幾つあったのかも。
前の俺は航宙日誌に書いていないし、トォニィどころか、ジョミーも知らないままだったから。
ソルジャーっていうのが何処から来たのか、由来はいったい何だったのかも。
あの時代に生きた俺たちから見りゃ、お前の伝記は穴ばかりってことになるんだろうが…。
それがどうかしたか?
至極当然の結果だと思うが、記録が残っていないんだから。…前の俺も残さなかったしな。
欠けた伝記でも不思議じゃないぞ、とハーレイは納得している様子。今という時代にも、沢山の穴だらけになったソルジャー・ブルーの伝記にも。
「えっと…。ハーレイが言う通り、当然なのかもしれないけれど…」
でもね、ぼくは答えを知ってるんだよ。穴だらけの伝記をきちんと直せる答えをね。
ハーレイもそうでしょ、前のぼくのことを誰よりも知っていたのは前のハーレイだから。
それでね、思ったんだけど…。
いつかは話すべきなのだろうか、と投げ掛けた問い。
ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ、自分たち二人の頭の中身。前の生の記憶。
きっと重要な記憶だろうし、学者たちだって探し続けている筈。遠く遥かな時の彼方で、本当は何があったのか。どういう具合に時が流れて、ミュウの時代に繋がったのか。
「…今のぼくが知っている答え…。きちんと話した方がいいと思う?」
ぼくが話したら、ハーレイも話さなきゃいけないことになるけれど…。
前のハーレイが持ってた記憶も、今のハーレイが前はキャプテン・ハーレイだったことも。
ぼくの記憶が戻った切っ掛け、ハーレイに会ったことなんだから。
「…俺はともかく、お前自身はどうなんだ?」
お前の気持ちというヤツだな。そいつを抜きにして考えたって、答えは出ないぞ。
前は怖いとか言ってたが…。前のお前がやらかしたことの、責任がどうとか言ってたっけな。
お前がソルジャー・ブルーだということになれば、魂は同じなんだから…。
ソルジャー・ブルーとして下した判断、それが今では間違いだったらどうしよう、と。
前のお前が良かれと思って選んだ道がだ、結果的には失敗だったってことも有り得るからな。
歴史の研究が進んでいる分、そう考えるヤツがゼロとは言えない。全てが終わった後の時代は、何とでも言えるわけだから。結果を知っているんだからなあ、解決策も見えてくるってモンだ。
そういったことを突き付けられても、今のお前じゃ困るしかない。
ついでに、ソルジャー・ブルーだった頃ほど強くないから、責任はとても背負えそうにない、と言っていたのがお前なんだが…?
覚えていないか、と逆に訊かれて蘇った記憶。…今のハーレイとそういう話をした、と。
「それ、忘れてた…。前のぼくだった時の責任のこと…」
ぼくは誰かを話すんだったら、前のぼくのことを重ねられちゃうから…。
前のぼくがやったことの責任、取らなくちゃ駄目?
今だと間違いになっちゃってること、謝らなくっちゃいけないだとか…。
それはホントに困るんだけど、と瞬かせた瞳。
ソルジャー・ブルーだった頃に下した判断、その誤りを指摘されても、どうしようもない。時の彼方に戻れはしないし、「ごめんなさい」と詫びることしか出来ない。
前の自分が間違ったせいで、酷い目に遭った仲間たちに。…今はもういない人たちに。
そうなったならば、チビの自分は泣いてしまうし、前と同じに育っていても泣くのだろう。前の自分ほど強くないから、弱虫になってしまったから。
「…前のぼくの間違い、叱られたら、ぼく、泣いちゃうよ…」
謝る間も涙がポロポロ零れてしまって、きっと泣き声。言葉だってちゃんと出て来ないかも…。
責任なんて取れやしないよ、前のぼくが迷惑をかけた仲間は、もういないのに…。
どうすればいいの、とハーレイを見詰めた。「前のぼくの責任、取らなきゃいけない?」と。
「時効だろうと思うがな? とうの昔に」
仮に前のお前が失敗してても、その失敗から何年経ったと思ってるんだ。
死の星だった地球が青く蘇って、俺たちは其処で暮らしてるんだぞ?
とんでもない時が流れたわけだし、時効だ、時効。…誰もお前を責めやしないさ。
何か失敗してたとしても、と頼もしい保証をして貰ったから、ホッとした。前の自分だった頃の判断ミスやら、責任は問われないらしい。
「時効なんだ…。誰にも叱られないんだね、ぼく」
それなら、話した方がいい?
前のぼくの記憶を持っていること。…前のぼくはソルジャー・ブルーだったこと。
きっと大勢の人の役に立つよね、ぼくの記憶があったなら。
「どうだかなあ…。喜ばれるのは間違いないとは思うんだが…」
話しちまったら、お前は今のお前じゃいられなくなるぞ。チビでも、育った後のお前でも。
「…え?」
どういう意味、と丸くなった目。今の自分ではいられないとは、いったい何のことだろう…?
「そのままの意味だ。誰もがお前に、前のお前を重ねるからな」
今のお前であるよりも前に、ソルジャー・ブルーになるってことだ。…前のお前に。
お前自身がどう思っていても、先に立つのはソルジャー・ブルー。
俺も同じになっちまうんだがな、今の俺よりもキャプテン・ハーレイが注目を浴びて。
お互い、インタビューだけではとても済まないだろう、とハーレイはフウと溜息をついた。
実はこういう人間なのだ、と明かしたならば、最初の間はインタビュー。
大勢の新聞記者や学者がドッと押し寄せ、質問攻め。「本当ですか?」と、次から次へと。
前は本当にソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ、そういう二人だったのか、と。
本物かどうか、確認が取れるまでの間は、取材とインタビューの日々。
けれど、本物だと分かったならば…。
「俺もお前も、ありとあらゆる所に引っ張り出されるぞ」
派手に取材を受けてた間は、ただ質問に答えるだけで良かったが…。
本物と決まれば、もっと色々なことを話さなければならないだろうな。前のお前や俺として。
研究会やら、講演会やら、沢山の場所が俺たちに用意されるんだろうさ。
ソルジャー・ブルーとしての話や、キャプテン・ハーレイならではの話を期待されて。
話し終わったら、次は質問が飛んで来る。俺やお前の意見を求めて、「どう思いますか?」と。
質問して来たヤツの考え、そいつを聞いては答える羽目に陥るってな。
しかもだ、今の俺やお前の考えじゃなくて、前の俺たちの考え方をしなきゃならんから…。
そいつは如何にも大変そうだ、とハーレイが軽く広げた両手。「疲れちまうぞ」と大袈裟に。
「講演会って…。ぼくが喋るの?」
誰かの講演を聞くんじゃなくって、ぼくが講演するってわけ?
ソルジャー・ブルーだった頃はこういう時代でした、ってマイクの前で…?
おまけに人が大勢だよね、と気が遠くなってしまいそう。今の学校の講堂でさえも、前に立って話すことになったら、足が竦んでしまうだろうに。
「そうなるだろうな、ソルジャー・ブルーなんだから」
キャプテン・ハーレイの俺もだろうが、喋らされることは間違いあるまい。
どういう話を聞けるだろうか、と押し掛けて来ている連中の前で。
式典だって出なきゃいけなくなるかもなあ…。記念墓地とかでやっているヤツ。
SD体制崩壊の記念日とかには、出掛けて行ってスピーチだとか、と凄い話が飛び出した。
前の自分や、ジョミーたちの墓碑がある記念墓地。ノアとアルテメシアのものが有名だけれど、他の星にも記念墓地はある。其処で行われている式典。記念日や、他にも様々な折に。
宇宙のあちこちから、式典のために集まる人々。其処でスピーチをするとなったら、講演会より多い聴衆。中継だって入るのだろうし、新聞記者たちも押し掛ける筈。
「…式典に出掛けてスピーチって…。其処までしなくちゃ駄目なわけ?」
なんだか責任重大そうだし、凄く緊張しそうなんだけど…!
とても声なんか出そうにないけど、それでもスピーチさせられちゃうの…?
ぼくが、と自分の顔を指差したけれど、ハーレイは「うむ」と重々しく頷いた。
「当然だろうが、ミュウの時代を作った大英雄が現れたんだぞ」
ソルジャー・ブルーがスピーチしたなら、式典の値打ちがグンと上がると思わんか?
きっとお前は引っ張りだこだな、キャプテン・ハーレイよりも人気で講演会も山ほどだ。
でもって、俺とは恋人同士で、結婚してるということになると…。
どうなると思う、という質問。「俺は、こいつが世間の注目の的だと思うがな?」と。
「そうだ、結婚…。それも訊かれてしまうんだっけ…!」
ハーレイと結婚しているんだから、前のぼくたちのことも訊かれるよね?
ソルジャー・ブルーだった頃にも、恋人同士だったんですか、っていう風に…。
「前の俺たちがどうだったのかは、もう確実に訊かれるな」
恋人同士の二人だったか、前はそうではなかったのか。…今は恋人同士でもな。
出会いが違えば、関係も変わってくるモンだから…。前は違った可能性だって高いんだ。
前の俺たちは親友だったが、今度は恋に落ちちまった、という展開。
それでも別に不思議じゃないが、だ…。そうだと言ったら、みんな納得するんだろうが…。
お前、そいつにどう答えたい?
「どうって…?」
「前も恋人同士だったと胸を張りたいか、「違う」と答えて隠したいのか」
答えたい言葉はどっちなんだ、と訊いている。…今のお前の気持ちってヤツを。
「…どっちだろう…?」
前のぼくたちのことだよね…。それを隠すか、話しちゃうのか…。
どちらだろう、と考え込んだ。直ぐには答えられないから。
(…前のハーレイと、前のぼくの恋…)
お互い、恋をしていたけれども、誰にも明かせなかった恋。
ソルジャーとキャプテン、そういう二人が恋に落ちたと知れてしまったら、白いシャングリラを導くことは出来ないから。…皆がついて来てくれないから。
だから懸命に隠し続けて、恋はそのまま宇宙に消えた。前の自分の命がメギドで潰えた時に。
今の時代なら明かしていいのだけれども、前の自分たちが最後まで隠し通した恋。
誰にも知られず、前のハーレイも航宙日誌に何も記しはしなかった。
その想いを無駄にしてしまう。
今、真実を語ったならば、前の自分たちの努力を踏み躙ることになる。最後まで隠して、黙って死んでいったのに。…前のハーレイも、前の自分も。
そうは思っても、知って欲しいという気もする。
二人して隠して守った恋。遠く遥かな時の彼方で、最後まで守り続けた恋。
実はそういう二人だった、と切ない想いを知って貰えたら、どれほど嬉しいことだろう。
どんな気持ちでメギドへ飛んだか、前のハーレイとの別れが悲しく辛かったか。
それを平和な今の時代に、大勢の人たちに知って貰えたら…、と。
前の自分たちの恋を隠し続けたいと考えるのも、話したいのも、どちらも自分。
答えは自由に決めていいのに、まるで選べない選択肢。二つに一つを選ぶだけなのに、隠すか、話すか、それだけなのに。
だから、俯き加減で呟いた。答えになっていない答えを。
「……分かんない……」
分からないんだよ、今のぼくには決められないみたい。どっちを選んだ方がいいのか。
最後まで隠したままだったんだし、これから先もずっと隠しておきたいのかな、前のぼく…?
それとも堂々と話して胸を張りたいかな、どっちだと思う?
ねえ、とハーレイに訊いたのだけれど。
「おいおい、そいつが俺に分かると思うのか?」
俺もお前と同じ気持ちでいるんだからな。…もしも訊かれたら、どうすればいいか。
喋っちまったら、前の俺たちの努力を無にするような気がしてなあ…。
ああやって必死に隠していたのも、俺たちの恋を大切に守るためだったから。
「じゃあ、ハーレイにも分からないの?」
ぼくに質問していたくせに、ハーレイだって答えられないわけ…?
なのに訊いたの、と意地悪な恋人を睨み付けたら、「今のトコはな」と深くなった瞳の色。
「今の俺には答えられない。…だからだ、俺が思うには…」
いつか俺たちが結婚したら、前の俺たちの想いが叶う。
やっと二人で暮らすことが出来るわけだろう…?
其処の所を考えてみろ、とハーレイは真摯な瞳で語った。
まだ婚約さえもしていないけれども、いずれ結婚する二人。結婚出来る時が来たなら。
その時ようやく成就するのが、前の自分たちが育んだ恋。
死の星だった地球が蘇るほどの、長い長い時を越えて来て、青い地球の上で。
結婚の誓いのキスを交わして、今度こそ二人、幸せな時を生きてゆく。互いの想いを、恋を隠すことなく、同じ家に住んで、家族になって。
「いいか、今度は結婚出来るんだ。…俺たちは堂々と家族になれる。誰にも遠慮しないでな」
その俺たちがだ、どう思うかが鍵になるんだろう。
平凡な恋人同士として、前のようにひっそり暮らすのがいいか、成就した恋を披露したいか。
正直、俺にも想像がつかん。…俺たちがどちらになるのかは。
「それなら、その時を待てばいいんだね?」
前のぼくたちのことを話すか、隠すか、どっちにするのか決めるのは。
ぼくたちが持ってる記憶のことも、その時までは秘密のままで。
「そうなるな。ただ…」
話さないような気がするな…。前の俺たちが誰だったのかは。
やっと二人で生きてゆけるのに、来る日も来る日も、講演会やら式典ではな。
ゆっくりする暇も無いじゃないか、とハーレイが苦い顔をするから。
「そうかもね…。忙しすぎるのは、ぼくも嫌かも…。それにスピーチも講演会も」
でも、黙っててもいいのかな?
ぼくたち、歴史の証人なのに…。ハーレイもぼくも、貴重な記憶を持っているのに。
「もう充分に頑張っただろうが、前のお前が。…ソルジャー・ブルーが」
今度のお前まで、世界のために頑張らなくても、静かに暮らしていいと思うぞ。
お前がそれを願うなら。…誰にも邪魔をされないで。
前の俺たちの時と違って、今のお前は自由なんだ。神様も許して下さるさ。…黙っていたって。
「そうだね…!」
ぼくは何にも出来ないけれども、前のぼく、頑張ったんだっけ…。
こんな本まで出して貰っているほどなんだし、今のぼくの分まで頑張ったよね、きっと…!
黙っていたって大丈夫さ、とハーレイが穏やかに微笑むから。
前の自分が今の分まで、頑張ってくれたらしいから。
(…ぼくが誰かは内緒のままで、前のぼくたちの時みたいに…)
今度もハーレイと二人でひっそり生きていこうか、静かに、けれど幸せに。
まるで目立たない、平凡な恋人同士だけれども、自分たちの恋を大切に。
互いが互いを想い続けて、しっかりと手を繋ぎ合って。
前の自分たちが隠し続けた、恋がようやく実るから。
白いシャングリラで夢に見ていた青い星の上で、二人きりで生きてゆけるのだから…。
前の生の記憶・了
※ブルーとハーレイが持っている、前の生の記憶。歴史的には、とても貴重な資料や証言。
それを明かすか、悩んだブルーですけれど…。今の生では、明かさなくても許して貰える筈。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
今年も夏休みがやって来ました。初日に会長さんの家に集まり、予定を決めるのが毎年恒例。柔道部の合宿とジョミー君とサム君の璃慕恩院での修行体験ツアーが済んだら、三日間のお疲れ休みを挟んでマツカ君の山の別荘です。その後はお盆を挟んで海の別荘、そういった所。
予定を決めた翌日から始まった合宿と修行、お留守番組のスウェナちゃんと私は会長さんや「そるじゃぁ・ぶるぅ」、フィシスさんと夏休みを満喫して…。
「かみお~ん♪ お帰りなさいーっ!」
合宿と修行、お疲れ様! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛び跳ねている会長さんの家のリビング。一週間もの合宿や修行を終えた男の子たちが帰って来ました。
「うー…。今年も死んだー…」
もう駄目だ、と音を上げているジョミー君。修行の中身は子供向けでも、食事が精進料理というのが酷くこたえるらしいです。
「お前な…。今からそんな調子で、この先、どうする」
住職の資格を取る道場だと精進料理が三週間だぞ、とキース君が睨んでいますけど。
「だから、そっちは行かないってば…。坊主になってもロクなことが無いって知ってるし」
「なんだと!?」
「間違ってないと思うけど? …キース、今日だって卒塔婆書きだよね?」
お盆に向けて、とジョミー君の指摘。
「それはそうだが…。確かに今朝もノルマをこなして出て来たが…」
「ほらね、毎年、お盆の時期には卒塔婆、卒塔婆って言ってるし…。大変そうだし!」
春と秋にはお彼岸もあるし、十月になったらお十夜だって…、とズラズラと挙げたジョミー君。お寺の行事を把握しつつある辺り、既にお坊さんへの道が開けていませんか?
「それは無いって! ぼくは絶対、ならないから!」
「罰当たりめが! 銀青様の直弟子のくせに!」
この野郎、とキース君が怒鳴りましたが、会長さんが。
「まあまあ、今日はそのくらいでね? ジョミーも気が立っているんだよ」
「そだよ、お肉が食べられないのはキツイもん!」
だけど、おやつの時間に焼肉はちょっと…、とキッチンに走った「そるじゃぁ・ぶるぅ」。お肉なおやつは存在しないと思ったんですけど、暫く待ったら熱々の小籠包がドッサリと。冷たいジャスミンティーも出て来ましたし、お肉抜きだったイライラはこれで解消ですね!
小籠包でお肉を補給したジョミー君に笑顔が戻って、午前中は時ならぬ中華点心パーティー。お昼御飯の焼肉はまた別腹とばかりに色々と食べて盛り上がっていたら。
「こんにちはーっ! こっちは今日も暑そうだねえ!」
フワリと翻った紫のマント。別の世界から押し掛けて来たお客様です。
「…君が来た途端に、一気に暑くなった気がするけれど?」
会長さんの嫌味も気にせず、空いていたソファにストンと座ってしまったソルジャー。ちゃっかり着替えた私服は会長さんの家に置いてあるソルジャーの私物。
「暑いんだったら、クーラーをもっと強くするのがいいと思うよ」
でなきゃサイオンでシールドだね、とソルジャーは素早く取り皿を確保。あれこれと食べて楽しめるように、小皿が積み上げてあったんです。お箸は「そるじゃぁ・ぶるぅ」が取りに走って、これでソルジャーも仲間入りで。
「うん、美味しい! 暑い季節でも、蒸し立ての餃子とかは美味しいものだね」
「んーとね、中華の国では夏もお料理は熱いものなの! 冷たい食べ物は身体に悪いの!」
本当だよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「だからね、あの国で一番暑い場所だと、夏のお料理はお鍋だから!」
「「「鍋!?」」」
鍋というのはあの鍋ですかね、冬に美味しい土鍋とかでグツグツ煮えてるお鍋…?
「うんっ! 火鍋ってあるでしょ、真ん中で仕切って辛いスープが二種類入っているお鍋!」
「…あの辛いヤツ? 赤い方が辛いように見えるけど、白い方がもっと辛いアレのこと?」
激辛だけど、とジョミー君が確認すると。
「そうだけど…? 火鍋は夏に食べるものなの、本場では!」
熱くて辛い火鍋を食べて汗をダラダラ、それが身体にいいそうですけど…。
「…それはぼくでもキツイかも…。なんだかアルタミラを思い出すよ」
ソルジャーの口から出て来た言葉は人体実験時代を指すもの。火鍋と人体実験は同列ですか?
「他の季節はともかく、夏はね! 身体の限界を試されてるって感じがするよ」
夏に食べるならこの程度、と変わり餃子や焼売なんかをパクパクと。ソルジャーの世界より、こっちの世界が断然暑いと思うんですけど…。いったい何をしに来たのでしょう、中華点心が美味しそうだったっていうだけなのかな?
中華点心パーティーの次は焼肉パーティー。ダイニングへとゾロゾロ移動で、ホットプレートや山盛りのお肉、野菜なんかもドッサリと。さあ始めるぞ、と着席したら…。
「はい、みんな揃ったし、注目、注目ーっ!」
いきなりソルジャーが手を挙げました。揃うも何も、さっきから揃っていましたけれど?
「揃ってたけど、ぼくは途中からの参加だったしね! やっぱり場所を改めないと!」
「「「は?」」」
「食事しながら会議というのも、こっちの世界じゃ多いと聞くし…。これから会議!」
「「「会議?」」」
ソルジャー夫妻や「ぶるぅ」も一緒の海の別荘行きの日程はとうに決まっています。夏休みの間にソルジャー絡みで会議をしなくちゃいけない理由は、何処にも無いと思いますが…?
「会議の議題はぼくじゃないんだよ、ぼくの永遠のテーマというヤツ!」
ゆっくり食べながら話をしよう、とソルジャーは肉を焼き始めつつ。
「…こっちのハーレイとブルーの仲はさ、今も険悪なままだからねえ…」
「失礼な! 至って良好な関係を保ってるってば、ぼくにしてみれば!」
ハーレイが間違っているだけだ、と会長さん。けれどソルジャーは取り合わずに。
「それは良好とは言わないよ。君とハーレイとが立派にカップルになってこそだよ!」
「ぼくには、そっちの趣味は無いから!」
「…そこなんだよねえ、いったい何処が違うんだと思う? …こっちのハーレイ」
「「「へ?」」」
何を訊かれたのか、まるで分かりませんでした。違うって…何が?
「こっちのハーレイと、ぼくのハーレイとの違いだよ! ぼくが思うに、それが鍵だよ!」
ぼくのハーレイにはあって、こっちのハーレイには無い何かがあるに違いない、というのがソルジャーの見解。
「誰が見たって一目瞭然、そういう違いがきっと何処かに…」
「…職業じゃないか?」
本物のキャプテンかどうかの違いが大きいのでは、とキース君が言いましたけれど、教頭先生だってシャングリラ号に乗ったらキャプテンです。シャングリラ号だって動かせますから、本物じゃないとは言い切れない気が…。
焼肉をやりつつ、ああだこうだと挙げられた違い。思い付くままに無責任なのが飛び出す傾向、下着が紅白縞かどうかという説までが出て来ましたが…。
「そうだ、補聴器じゃないですか?」
あれが決定的な違いなんじゃあ…、とシロエ君。
「「「補聴器?」」」
「ええ、補聴器をつけてらっしゃる筈ですよ? 向こうの世界においでの時は」
たまに補聴器のままで呼ばれてることもありますよね、というシロエ君の意見に目から鱗がポロリンと。キャプテン、そういえば補聴器をつけてましたっけ…。
「ああ、補聴器! ぼくも着けたままで来ちゃったけれども、外しちゃったねえ!」
こっちじゃ不自由しないから、と頷くソルジャー。
「ぼくの世界だと、シャングリラの中はミュウしかいなくて思念だらけで、補聴器無しだと困るんだよ。要らないものまで聞こえちゃってね」
だけど、こっちの世界はそういう雑音が少ないから…、とソルジャーは耳を指差して。
「雑音無しなら、ぼくもハーレイも聴力をサイオンで補えるんだよ! 補聴器が無くても!」
そういう意味でも素敵な世界だ、と言うソルジャーにシロエ君が。
「ですから、補聴器が大きな違いというヤツじゃないかと…。教頭先生がシャングリラ号に乗り込む時にも、あの補聴器は無いですよ?」
「してねえなあ…。ブルーは補聴器、着けるのによ」
ソルジャーの服を着ている時は、とサム君が賛成しましたけれど。
「あのねえ…。ぼくのは補聴器ってわけではないから! 単なる記憶装置だから!」
あれで聴力を補ってはいない、と会長さん。
「ブルーから貰ったシャングリラ号の設計図とかとセットものだよ、あれだって!」
「…ぼくの補聴器も記憶装置って面はあるしね」
なかなか便利な道具だけれど…、とソルジャーは顎に手を当てて。
「でも、ハーレイのは純粋に補聴器っていうだけだからさ…。やっぱり違いはそれなのかな?」
「ぼくはそうだと思いますけど…」
ビジュアルなのか、単なるプラスアルファなのかは分かりませんが、とシロエ君。
「決定的な違いを一つ挙げろと言うんだったら、補聴器ですね」
他の説はどれも弱いです、とキッパリと。確かにどれも弱すぎですけど、補聴器なんかが決定打ってことはあるんでしょうか…?
教頭先生とキャプテンの違いは補聴器の有無。改めて言われてみれば頷けるものの、補聴器をしているかどうかで会長さんが惚れたり、惚れなかったりするとは思えない気が…。
「うん、ぼく自身がそう断言出来るね!」
ハーレイのビジュアルがどう変わろうが、ぼくの心は変わらない! と会長さん。
「剃髪して仏の道に入って、二度と俗世に出て来ないのなら、評価もするけど!」
「邪魔者は消えろという意味かい?」
酷すぎないかい、とソルジャーが言っても、「別に?」と会長さんは涼しい顔。
「三百年以上も一方的に惚れられてるとね、ぼくの前から消えてくれた方が評価できるね!」
特に暑苦しい夏なんかは…、とピッシャリと。
「ハーレイの顔を見なくて済むなら、その選択をしてくれたハーレイに感謝だよ!」
「あのねえ…。君は、ぼくが会議を始めた理由が分かってるのかい?」
「ハーレイ同士で何処が違うかっていう話だろ?」
そして答えは出たじゃないか、と会長さんが焼肉をタレに浸けながら。
「要は補聴器、それをハーレイが着けていようが、着けていまいが、ぼくは無関係!」
どっちにしたって惚れやしない、と頬張る焼肉。
「だからハーレイが補聴器を着けて来たって、鼻で笑うね!」
そんなものでモテる気になったのかと馬鹿にするだけ、と次の肉をホットプレートへ。焼けるのを待つ間は野菜とばかりに、タマネギとかを取ってますけど…。
「うーん…。ビジュアル面では補聴器をしたって効果はゼロ、と」
何の進歩も見られないのか、と難しい顔をするソルジャー。
「…使えそうだと思ったんだけどな、補聴器が違いだと言うのなら!」
「無理がありすぎだと俺は思うが?」
補聴器を着ければブルーが惚れると言うんだったら、とうにキャプテンにときめいている、とキース君がキッパリと。
「同じ顔だし、見た目も全く同じだし…。補聴器を着けている時に会ったらイチコロの筈だ」
「それもそうだね…。でもさ、補聴器は使えそうなのに…」
ソルジャーは補聴器に未練たらたら、キース君は呆れたように。
「補聴器は所詮は補聴器だろうが、それ以上の機能は無いんだからな」
聞き耳頭巾じゃあるまいし、と引き合いに出された昔話。そういう話がありましたっけね、被ると動物が喋っている言葉が分かるっていう頭巾でしたっけ…。
私たちにとっては馴染みの昔話が聞き耳頭巾。けれど、別の世界から来たソルジャーには理解不能なものだったらしく。
「なんだい、聞き耳頭巾って?」
それは補聴器の一種なのかい、と斜め上すぎるソルジャーの解釈。まあ、間違ってはいないんですかね、動物の声に関する聴力がアップするという意味では…。
「そうか、あんたは知らんのか…。詳しい話は、ぶるぅに絵本でも借りて読むんだな」
俺たちの国では有名な昔話で…、とキース君。
「そういう名前の頭巾があってな、それを被ると動物が喋る言葉が分かるというわけだ」
「へえ…。布巾を頭に被るのかい?」
なんだか間抜けなビジュアルだねえ…、と赤い瞳を丸くしているソルジャー。頭巾という言葉自体が馴染みが無かったみたいです。キース君は「頭巾だ、頭巾!」と自分の頭に手をやって。
「帽子の一種と言うべきか…。似たような形の被り物なら坊主も被るぞ」
「なるほどね…。ビジュアルは間抜けなわけじゃないんだ」
「当然だろう!」
笑い話じゃないんだからな、とキース君はフウと溜息を。
「動物の言葉が聞こえるようになったお蔭で、最後は御褒美を貰うという話なんだ!」
「御褒美ねえ…。聞こえない筈の言葉が聞こえたお蔭で?」
「そうなるな。動物たちだけが知っている世界の事情が聞こえたお蔭なんだし」
人間の言葉しか分からないのでは知りようもないことが分かったわけだ、とキース君。
「そんな具合に、凄い機能があると言うなら補聴器の出番もあるんだろうが…」
「ただの補聴器では無駄ですよね」
やたらうるさいだけですよ、とシロエ君も。
「ぼくが見付けた違いですけど、違うっていうだけですね。…補聴器に効果はありませんよ」
モテるアイテムとしての効果は…、と言い出しっぺのシロエ君にまで否定されてしまった補聴器の効果。教頭先生が補聴器を着けても、会長さんが惚れる筈なんかが無いんですから。
「うーん…。やっぱり駄目なのかなあ…」
絶対に補聴器だと思うんだけど、とソルジャーはまだブツブツと。
「…イチかバチかで着けさせようかな、この夏休み…」
「労力の無駄だと思うけど?」
それでもいいなら好きにしたまえ、と会長さん。私たちもそう思いますです、補聴器なんかは耳が聞こえる教頭先生には暑苦しいだけのアイテムですよ!
こうして焼肉パーティーは終わり、ソルジャーは帰って行きました。翌日からはキース君がお盆に備えて卒塔婆書きを続け、三日後にはマツカ君の山の別荘へと出発です。爽やかな高原で馬に乗ったり、湖でボート遊びをしたりと大満足の別荘での日々。快適に過ごして戻って来て…。
「くっそお…。アルテメシアはやっぱり暑いな」
昨日までが天国だっただけだな、とキース君の愚痴。例によって会長さんの家のリビングです。
「仕方ないですよ、此処とは気候が違いますから」
あっちは山です、とマツカ君。
「流石に高原の涼しさまでは持って帰れませんしね、諦めるしかないですよ」
「それは分かるんだが…。充分、分かっちゃいるんだが!」
しかし朝から暑すぎなんだ、と呻くキース君は早朝から卒塔婆を書いて来たとか。夜明け前から書いていたのに、既に蒸し暑かったのだそうで。
「…まだ続くかと思うとウンザリするな…。暑さも、それに卒塔婆書きもだ!」
「大変だねえ…。毎日、毎日、お疲れ様」
ぼくの世界には無い行事だけれど、と降って湧いたのがソルジャーです。またしてもおやつ目当てでしょうか、マンゴーのアイスチーズケーキですけれど…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
はい、どうぞ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサッと差し出すアイスケーキのお皿。ソルジャーは当然のようにソファに座って、アイスケーキを平らげて…。
「どうかな、これ?」
「「「???」」」
ジャジャーン! と効果音つきでソルジャーが取り出したものは補聴器でした。キャプテンがたまに着けてるヤツです。
「えーっと…。これは補聴器かい?」
君のハーレイの、と会長さんが尋ねると。
「違うよ、こっちのハーレイ用だよ! 中古じゃないから!」
ちゃんと一から作らせたのだ、とソルジャーは胸を張りました。
「この前、シロエが言っていたしね、ぼくのハーレイとこっちのハーレイの違いはコレだと!」
「あのねえ…」
ぼくは補聴器の有無で惚れはしないと結論が出てた筈だけど、と会長さん。ソルジャーも暑さでボケてますかね、こっちの世界は暑いですしね…?
教頭先生がキャプテンと同じ補聴器を着けても、会長さんが惚れる可能性はゼロ。だから無駄だと会長さんがキッパリ言っていたのに、ソルジャーは作って来たようです。ソルジャーが自分で作ったわけではないでしょうけど。
「ああ、それは…。ぼくにはこういう細かい作業は向いてないしね!」
専門の部門で作らせたから、という返事。また時間外に働いて貰って、記憶を消去で、御礼はソルジャーの視察っていう酷いコースですね?
「そのコースは酷くないんだってば、ソルジャー直々の労いの言葉は価値が高いんだよ!」
士気だってグンと高まるんだから、と相変わらずソルジャーの立場を悪用している模様。でも、補聴器は作るだけ無駄なアイテムですから、作らされた人は気の毒としか…。
「それが無駄でもないんだな! この補聴器は特別だから!」
「…記憶装置になってるとか?」
会長さんが訊くと、ソルジャーは。
「もっと素晴らしい補聴器だよ! ハーレイが着ければ分かるって!」
何処にいるかな、と教頭先生の家の方へと視線をやって。
「よし、今はリビングでのんびりしてる、と…。ちょっと呼ぶから!」
「「「え?」」」
呼ぶって教頭先生を…、と思った途端に青いサイオンがパアッと溢れて、リビングに教頭先生が。
「な、なんだ!?」
どうしたのだ、と慌てる教頭先生ですけれど。
「ごめん、用事があったものだから…。君にプレゼントをしたくって」
「プレゼント…ですか?」
ソルジャーに気付いて敬語に切り替えた教頭先生。ソルジャーは補聴器を差し出して。
「これがなんだか分かるかな?」
「…あなたの世界のキャプテン用の補聴器ですね?」
「ピンポーン! このタイプのヤツはハーレイ専用、他の仲間は使っていないってね!」
ちょっと着けてみてくれるかな、とソルジャーは言ったのですけれど。
「…お気持ちは大変有難いのですが…。生憎と私は、耳は達者な方でして…」
補聴器などを着けたら却って聴力が落ちてしまいそうです、と教頭先生は真面目に答えました。言われてみれば、その心配があるような…。イヤホンだとかヘッドホンだと、大音量で聴き続けていたら聴力がアウトでしたっけね…?
教頭先生が装着しても無駄などころか、聴力が低下しそうな補聴器。なんて使えないアイテムなんだ、と誰もが思ったんですけれども、ソルジャーは。
「聴力の方なら、何も心配は要らないってね! 君の聴力に合わせてあるから!」
補聴器で耳が覆われて聞こえにくくなるのを補う程度、と自信満々。
「ぼくの世界の技術者の腕を信用したまえ、そこは完璧!」
「ですが…。どうして私に補聴器なのです?」
そこまでして下さる意味が分かりませんが、と教頭先生の疑問は尤もなもの。
「それなんだけどね…。ぼくのハーレイと君との大きな違いは補聴器の有無だとシロエがね!」
「言いましたけど、補聴器があればモテるとまでは言ってませんよ!」
「モテる…?」
補聴器でですか、とキョトンとしている教頭先生。
「私がこれを着けたくらいで、ブルーが惚れてくれますか…?」
「物は試しと言うからね! 着けたくらいで減りはしないし、試してみてよ」
せっかく作って来たんだから、とソルジャーが促し、教頭先生は会長さんの冷たい視線を気にしてはいても、補聴器の方も捨て難いらしく。
「…では、失礼して…」
試させて頂きます、と右の耳に着けて、左耳にも。顔だけを見たら立派にキャプテンですけど、あの制服の代わりにラフな夏用の半袖シャツにジーンズでは…。
「…どうだろうか?」
これは似合うか、と尋ねられても、正直な所を答えるより他は無いでしょう。
「…失礼だとは百も承知ですが…。今日のような服だと…」
あまり似合っておられないような、とキース君が言えば、シロエ君も。
「そうですね…。背広とかなら、なんとかなるかもしれませんけど…」
「柔道着にも似合いませんね…」
多分、と控えめに述べるマツカ君。私たちも口々に「似合わない」と言って、会長さんが。
「ハッキリ言うけど、もう最悪にセンス悪いから!」
「そうか、そう言ってくれるのか…!」
何故だかパアアッと輝きに満ちた表情になった教頭先生。センス最悪って言われて嬉しい気分になるものでしょうか。それとも会長さんからも「これは駄目だ」と言って貰えて、ソルジャーからの無駄な贈り物を突き返せそうな所がポイントとっても高いんですかね…?
誰の目で見てもお洒落ではない、補聴器を着けた教頭先生。キャプテンの場合は「お洒落じゃない」とは思いませんから、あの制服が大きいのかもしれません。会長さんでなくてもセンス最悪としか言えない姿は、褒めようが全く無いんですけど…。
「まさかブルーが褒めてくれるとは…。着けてみるものだな、補聴器も」
教頭先生の口から出て来た言葉は、まるで逆さになっていました。センス最悪は褒め言葉ではないと思うんですけど、あの補聴器、聞こえにくいんですか…?
「どう聞いたら、そうなるんだい? ぼくは最悪だと言ったんだけどね?」
「有難い…! ここまで褒めて貰えるとは…!」
なんと素晴らしい贈り物だろう、と教頭先生は感激の面持ち。
「いいのでしょうか、これを私が貰っても…? 製作にかかった分の費用はお支払いしますが」
こちらの世界のお金でよろしければ…、とズボンのお尻に手をやってから。
「す、すみません、財布は家でした! また改めてお支払いさせて頂きますので…!」
どうやら財布を持っておいでじゃなかったようです。外出の時はズボンのポケットに突っ込む習慣があるのでしょう。ソルジャーは「いいよ」と手を振って。
「ぼくの世界で作ったヤツだし、そんなに高くもないものだしね。それに、プレゼントだと言っただろう? お金を貰っちゃ、本末転倒!」
プレゼントの意味が無くなっちゃうよ、と気前のいい話。
「その補聴器はタダで持って行ってよ、ぼくのハーレイには使えないしね」
聴力を補助する機能が無いのに等しいから…、と言うソルジャー。
「君専用だよ、モテるためには欠かせないってね!」
「そのようです。…まさか補聴器を着けたくらいで私の世界が変わるとは…!」
今でも信じられない気持ちがします、と教頭先生は大喜びで。
「これは有難く頂戴させて頂きます。…そして、シロエのアイデアでしたか?」
「そうだよ、シロエが気付いたんだよ。ぼくのハーレイと君との違いは補聴器だとね」
シロエにも御礼を言いたまえ、と促された教頭先生はシロエ君の方に向き直って。
「感謝する、シロエ…! この件の御礼に、家に菓子でも送っておこう」
好物はブラウニーで良かっただろうか、と尋ねられたシロエ君は「そうですねえ…」と。
「ブラウニーも好きなんですけど、今の季節はアイスクリームもいいですね」
「分かった、アイスクリームだな?」
何処のアイスが好みだろうか、という質問にシロエ君が調子に乗って高級店のを挙げてますけど、教頭先生、ちゃんと復唱してますねえ…?
シロエ君の注文、べらぼうにお高いお店のアイスクリームの詰め合わせセット。それを買うべく、教頭先生はいそいそと帰ってゆかれました。ソルジャーに瞬間移動で家まで送って貰って、それから車でお出掛けです。「補聴器は外では外すんだよ?」と念を押されて。
「えーっと…。ぼく、儲かったみたいですね?」
あそこのアイスをセットで買って貰えるなんて、と棚から牡丹餅なシロエ君。お使い物で貰うことはあっても、なかなか買っては貰えないとか。それはそうでしょう、高いんですから。
「お前、上手いことやったよなあ…。つか、教頭先生、ちゃんと聞こえてたよな?」
店の名前もアイスの種類も、とサム君が首を捻っています。
「うん、聞こえてたよね…」
聞き間違えてはいなかったよ、とジョミー君も。
「だけど、ブルーが言ってた台詞は、自分に都合よく聞き間違えていたような…」
「俺もそう思う。まるで逆様としか言えない感じで、意味を取り違えてらっしゃったような…」
補聴器のせいで聞こえにくいのなら、シロエの注文も同じ方向へ行く筈なんだが、とキース君。
「アイスクリームは聞こえたとしても、その辺で売ってる安いヤツとかな」
「…そう言われれば…。割引セールのアイスでもいいわけですよね、アイスでさえあれば」
聞き間違えの件を忘れてました、とシロエ君。
「ぼくにお菓子を下さると言うので、ついつい調子に乗りましたけど…。あの補聴器、まさか、会長の言葉だけが聞こえにくい仕様じゃないでしょうね?」
それなら辻褄が合いますが…、というシロエ君の疑問に、ソルジャーが。
「惜しい! いい所まで行っているんだけどねえ、シロエの推理」
「は?」
会長限定というのが合ってますか、とシロエ君が訊き返すと。
「そうなんだよ! あの補聴器は、実は聞き耳頭巾で!」
「「「聞き耳頭巾?」」」
動物の言葉が聞こえるというアレのことですかね、でも、会長さんは動物じゃなくて人間で…。
「この上もなく人間だねえ…! 要は聞き耳頭巾の応用なんだよ!」
サイオンで細工してみましたー! とソルジャーは威張り返りました。
「あの補聴器を着けてる限りは、ブルーの言葉は悉く愛が溢れた言葉に聞こえるんだよ!」
センス最悪と言い放たれれば、センス最高と聞こえたりね、と得意満面のソルジャーですけど。つまり、さっきの教頭先生、会長さんに褒めて貰ったと本気で信じていたんですね…?
キャプテンと教頭先生の大きな違いは補聴器の有無。けれど教頭先生が補聴器を着けた所でモテるわけがない、という話のついでにキース君が持ち出したのが聞き耳頭巾。それを覚えて帰ったソルジャー、補聴器に応用したようです。それこそ自分に都合よく。
「なんていうことをするのさ、君は!」
物凄く迷惑なんだけど、と会長さんが怒鳴ると、ソルジャーは。
「…その台詞。ハーレイが此処で聞いてた場合は、こう聞こえると思うんだよねえ…。なんて素敵なアイデアだろうと、ぼくに向かって御礼の言葉で、とても嬉しいと!」
「なんでそういう方向に!」
「なんでって…。それはやっぱり、ハーレイと仲良くして欲しいからね!」
これを機会に親密な仲を目指して欲しい、とソルジャー、ニコニコ。
「お盆が済んだら、海の別荘行きが待っているしね…。この夏休みで君たちの仲がググンと前進、そうなることが目標なんだよ!」
ぼくの夏休みの目標で課題、とソルジャーの視線がキース君に。
「キースの場合は卒塔婆書きが夏の目標だしねえ、お互い、目標を高く掲げて頑張ろう!」
「縁起でもないことを言わないでくれ!」
卒塔婆書きはもう沢山だ、と頭を抱えるキース君。
「目標を高く掲げたいなどと言える余裕は俺には無いんだ、ノルマだけで正直、精一杯だ!」
今日も帰ったら卒塔婆が俺を待っているんだ、とブルブルと。
「あんたが口走った今の言葉で、数が増えたらどうしてくれる! 言霊は侮れないんだぞ!」
「そう、言霊は侮れないよ! だからこそ聞き耳頭巾が大切!」
こっちのハーレイの耳にはブルーの愛が溢れた言葉しか届かないわけで…、とソルジャーは自信に溢れていました。
「ブルーがどんなに悪く言おうが、ハーレイの心は浮き立つ一方! そして気持ちもグングン上昇してゆくわけだね、ウナギ昇りに!」
「「「ウナギ昇り?」」」
「そう! 自分はこんなに愛されている、とハーレイが自覚するのが大事!」
愛されているという自信があったら、人間は強くなれるものだし、とソルジャーは得意の絶頂で。
「あの補聴器を着けてる限りは、ハーレイは無敵! ブルーとの愛に関しては!」
そういう気持ちの高まりがあれば、愛は後からついてくる! と言ってますけど、聞き間違えをする補聴器を着けた教頭先生の方はともかく、会長さんは正気なんですけどね…?
会長さんが何を言おうが、愛に溢れた言葉に聞こえるらしい聞き耳頭巾な仕組みの補聴器。大人しくしている会長さんではない筈だ、と思いましたけど…。
「…あれ? なんで?」
ぼくのサイオンが届かない、と焦った様子の会長さん。
「ぶるぅ、代わってくれるかな? ハーレイの家から、あの補聴器を…」
「分かった、こっちに運ぶんだね!」
鏡の前に置いてあるね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が引き受けたものの。
「…あれっ、サイオン、どうなっちゃったの? えーっと、んーっと…」
届かないーっ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。補聴器を運べないようです。ソルジャーがクッと喉を鳴らして。
「ぶるぅにも無理だし、キースたちが空き巣に行っても無駄だね!」
あれはぼくからのプレゼント! と勝ち誇った声。
「勝手に奪って処分されたら困るんだよ! 聞き耳頭巾なサイオンの細工を仕掛けたついでに、ハーレイの持ち物としてキッチリ関連づけといたから!」
ハーレイ以外の手で取り外しは出来ない仕組みで、もちろん盗んで処分も出来ない、とソルジャーは補聴器にサイオンを使って良からぬ工夫をした模様。教頭先生が自分の意志でアレを装着して現れた時は、会長さんの言葉は端から甘い言葉に変換されて…。
「その通り! 嫌いだと言おうが、来るなと言おうが、ブルーの言葉は全部ハーレイの耳に都合よく届くってね! 愛してるよとか、こっちへ来てとか!」
「「「うわー…」」」
なんという迷惑なモノを作ってくれたんだ、と誰もが顔面蒼白ですけど、ソルジャーはそうは思っていなくて。
「なんでそういう風になるかな、愛は人生の彩りだよ? 素敵なパートナーと暮らしてなんぼで、愛されてなんぼ!」
この夏休みで仲を深めて、早ければ秋にも結婚式を! とソルジャーの思い込みは激しく、もう止めようがありません。こんな調子で教頭先生の耳にも、会長さんの言葉が変換されて届くのでしょう。補聴器を着ければモテると勘違いなさっているわけですし…。
「…教頭先生、ブルーに会う時は、アレ、着けるよね?」
ジョミー君の声が震えて、スウェナちゃんが。
「着けないわけがないじゃない…。モテるアイテムだと思ってらっしゃるんだもの…」
海の別荘にも持っておいでになるのよ、きっと…、と恐ろしい読み。海の別荘、怖すぎです~!
実に嬉しくない、ソルジャーから教頭先生へのプレゼント。聞き耳頭巾な補聴器を貰った教頭先生はシロエ君の家に高級アイスクリームの詰め合わせセットを送って、その足で花束を買いにお出掛けに。真紅の薔薇が五十本というそれを抱えて、もちろん補聴器持参で…。
「ぼくは受け取らないってば!」
会長さんが突き返しても、「そう照れるな」と。
「高すぎたのでは、と心配してくれる気持ちは分かる。しかし、これも男の甲斐性だからな」
惚れた相手には貢がなければ、と真紅の花束を会長さんに押し付け、「また来る」と。
「来なくていいっ!」
「おお、楽しみにしてくれるのか…! では、明日も花束持参で来よう」
それに菓子もな、という言葉で、会長さんがキッと睨み付けて。
「お菓子だったら、シロエたちの分も! 全員分で、でもって、ぼくが欲しいお菓子は…」
ここぞとばかりにズラズラと並べ立てられたお菓子、全部が超のつく高級品。教頭先生は「お安い御用だが、一日に全部食ったら腹を壊すからな」と片目を瞑って。
「よし、明日から差し入れに来るとしよう。一日に二回、午前と午後にな」
明日はコレとコレを買って来るから、と会長さんに約束、「そるじゃぁ・ぶるぅ」には。
「というわけでな、ぶるぅ、暫くお菓子作りは休みでいいぞ」
たまにはお前ものんびりしろ、と小さな頭を撫で撫で撫で。
「夏休みの間は、私が色々届けてやるから」
「ありがとう! でもでも、ぼくもお菓子は作りたいから…。ハーレイ、お土産に持って帰ってくれるかなあ? 甘くないのを作っておくから!」
「そうなのか? それなら、有難く頂くとしよう。…明日から、お前の手作り菓子だな」
では、と颯爽と立ち去る教頭先生は自信に満ちておられました。会長さんの言葉が誤変換されるというだけで勇気百倍、やる気万倍。この調子でいけば、海の別荘へ出掛ける頃には…。
「…教頭先生、一方的に両想いだと思い込んでしまわれる気がするんですけど…」
そうとしか思えないんですけど、とシロエ君が青ざめ、サム君が。
「それしかねえよな、どう考えても…」
「ほらね、補聴器は最高なんだよ! シロエのアイデアに大感謝だよ!」
秋にはブルーの結婚式だ、と浮かれるソルジャー。この人が旗を振っている限り、あの補聴器は教頭先生に自信を与え続けるのでしょう。海の別荘行きが無事に済む気が、ホントに全くしないんですけど~!
キース君が卒塔婆書きと戦う間も、教頭先生の勘違いライフは続きました。毎日、午前と午後に差し入れ、とてつもなく高いお菓子がドッサリ。会長さんには大きな花束。私たちは「何か間違っているんです」と伝えようと努力はしたのですけれど…。
「…これが本当の無駄骨だな…」
俺たちが何を言っても、ブルーの言葉で振り出しに戻る、と溜息をつくキース君。教頭先生は必ず会長さんに「そうなのか?」と確認するものですから、それに対する会長さんの返事が変換されてしまうのです。教頭先生の耳に都合がいいように。
愛の誤解は深まる一方、そうこうする内にキース君とサム君、ジョミー君が棚経に走るお盆到来。お盆が終われば、恐れ続けた恐怖の海の別荘で…。
「かみお~ん♪ やっぱり海はいいよね!」
「今年もぶるぅと遊べるもんね!」
キャイキャイとはしゃぐ「そるじゃぁ・ぶるぅ」と、そっくりさんの「ぶるぅ」。早速繰り出したプライベートビーチでは、ソルジャーとキャプテンがバカップル全開でイチャついています。
「…まただよ、あそこの二人はさ!」
結婚記念日合わせだからって迷惑な、と会長さんが吐き捨てるように言った途端に。
「すまん、あの二人が羨ましかったのだな…。申し訳ない」
気が付かなくて、と頭を深々と下げた教頭先生。
「しかし、物事には順番がだな…。まずはお前と深い仲になって、それから結婚を考えようかと」
「ちょ、ちょっと…! それは順番が逆だと思う…!」
先に結婚だと思う、と会長さんが叫びましたが。
「そうか、お前も賛成なのだな。…だったら、今夜は初めての夜といこうじゃないか」
訪ねて行くから待っていてくれ、と自信に溢れた教頭先生には何を言っても無駄でした。会長さんの拒絶は全て変換され、私たちの助け舟は座礁か沈没する有様。そんなこんなで…。
「…良かったねえ、ブルー! ついに今夜はハーレイと!」
初めての夜を迎えるわけだね、と歓喜のソルジャー。明日はソルジャー夫妻の結婚記念日、夕食は豪華な特別メニューになる筈です。その料理を全て会長さんと教頭先生に譲ると勢い込んでいて。
「結婚記念日は来年もまたあるからね! 今年は君たちを祝わないと!」
カップル成立! と拳を突き上げるソルジャー、キャプテンは放って来たのだそうで。
「こんな大切な夜に、ぼくの都合を優先するっていうのもねえ…」
君のためにも付き添いが必要になるだろうし、と満面の笑顔。
「なにしろ、こっちのハーレイは童貞らしいから…。ブルーの身体を守るためには、経験豊かな先達がサポートすべきなんだよ!」
ちゃんと隠れて指図するから心配無用、と言うソルジャー。
「この子たちと一緒にサイオン中継で見ながら指示を出すからね! ハーレイの意識の下にきちんと、次はどうするべきなのかを!」
「要らないから!」
それよりもアレを外してくれ、という会長さんの悲鳴は綺麗に無視され、教頭先生の補聴器は外されないまま。防水仕様で海にも入れた代物なだけに、まさに無敵の補聴器です。私たちはソルジャーに「君たちはこっち」と連れてゆかれて、会長さんの部屋の隣に押し込まれて…。
「はい、この画面をしっかりと見る! 劇的な瞬間を見届けないとね!」
「俺たちは全員、精神的には未成年だが!」
キース君の抵抗は「いいって、いいって」と取り合って貰えず、モザイクのサービスがあるのかどうかも分かりません。ブルブル震えて縮み上がっていたら…。
「待たせたな、ブルー」
画面の向こうに教頭先生、会長さんが枕を投げ付けましたが、全く動じず。
「恥じらう姿もいいものだ。…さあ、ブルー…」
「ぼくは絶対、嫌だってばーっ!」
会長さんはソルジャーにサイオンを封じられてしまって逃げられません。大暴れしたって、相手が教頭先生なだけに…。ん…?
「「「………」」」
教頭先生は会長さんの身体の上にのしかかったまま、意識を手放しておられました。這い出して来た会長さんのパジャマに鼻血の染みがベッタリ、これはもしかして…。
「…オーバーヒート…ですか?」
「そのようだな…」
補聴器のパワーが凄すぎたようだ、とキース君。会長さんが上げた悲鳴をどういう風に変換したかは謎ですけれども、嫌だと叫べば逆の方向に変換されるわけですし…。
「…しまった、加減を誤ったかも…」
ハーレイには刺激が強すぎたかも、とソルジャーが歯噛みしています。でもでも、刺激が強すぎるも何も、教頭先生は元からヘタレな鼻血体質ですよ…?
「…それもあったっけ…。妄想までは逞しくっても、その先が…」
悉く駄目というのがハーレイだった、とガックリしているソルジャーの背後に会長さんが音もなく忍び寄っていました。サイオンは未だに使えないのか、ハリセンで殴るみたいです。
(((………)))
暴力反対を唱える人は誰もおらず、それはいい音が響き渡って…。
「あの補聴器! 使えないんだから、もう外したまえ!」
「ちょっと待ってよ、今、改良の余地を考えてるから、もう少しだけ!」
「問答無用!!」
食らえ! と炸裂するハリセン。ソルジャーもシールドを忘れているのか、散々に殴られまくっています。今の間に、あの補聴器…。
「ええ、今だったら外せますよね?」
行きましょう! と補聴器騒動の発端になったシロエ君が駆け出し、私たちは補聴器を教頭先生の耳から奪い取りました。ソルジャーはまだハリセンでバンバンやられてますから、今の内。「そるじゃぁ・ぶるぅ」にサイオンを使って壊して貰って、めでたし、めでたしな結末ですよ~!
補聴器の効果・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生とキャプテンの違いは、確かに補聴器。けれど、それだけでは何の意味も無し。
そこで工夫したソルジャーですけど、とんでもない効果が炸裂。無事に奪えて良かったです。
次回は 「第3月曜」 8月15日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、7月と言えば夏休み。マツカ君の山の別荘行きが楽しみで…。
「んー…」
上手く描けない、とハーレイの向かいでブルーがついた溜息。
今日は土曜日、ブルーの家を訪ねて来たのだけれど。午前中から二人で過ごしたブルーの部屋。其処で昼食、出て来た料理はオムライス。
それを食べようとしていた所で、ブルーの手にはケチャップの容器。オムライスにケチャップで描こうとした絵。「ぼくとハーレイは、ウサギのカップルなんだから」と。
つまりウサギを描きたかったらしい。ブルーも自分もウサギ年の生まれで、ウサギのカップル。
「…それがウサギってか?」
ウサギの顔の筈だよな、と眺めたブルーのオムライスの上。下手な落書きにしか見えない絵。
「やっぱり変?」
耳も口も上手くいかないよ、とブルーも残念そう。「これじゃウサギに見えないよね」と。
「ウサギなあ…。描くなら、こうだな」
まずは顔から耳を生やして、とケチャップで描いてゆくウサギの輪郭。クルンと引いて、二本の耳も。ウサギの顔の形が出来たら、お次は目。つぶらな瞳をケチャップで丸く。
(…でもって、鼻をこう描いて、と…)
チョンと絞り出してやったケチャップ。鼻が出来たら、ウサギらしい口も。
そうやって器用に描き上げたウサギ。「俺ならこうだ」と。
「ハーレイ、凄い!」
ぼくのウサギと全然違うよ、ホントにウサギ。凄く上手いね、ケチャップの絵。
「なあに、ケーキのデコレーションの要領だってな」
ウサギくらいは簡単だぞ。お前、ケーキ作りは手伝わないのか?
どうなんだ、と尋ねてみたら、口ごもったブルー。
「…ママが作ってるの、たまに手伝うけど、飾りの方は…」
やってないんだよ、小さい頃に何度も失敗したから。模様を描くのも、絞るだけのも。
薔薇の花びらを作る練習とかも、ママと一緒にやったんだけどね…。
ちっとも上手くいかなかった、とブルーは小さく肩を竦めた。「だから飾りは手伝わない」と。
ケーキ作りを手伝った時も、デコレーションは母に任せているらしい。今のブルーなら、手先も器用になっただろうに、お任せのまま。それでは上手になるわけがない。
デコレーションの方はもちろん、ケチャップで絵を描くことも。どちらも要領は同じだから。
「やってないのか、デコレーション…。それなら下手でも仕方ないな」
こいつも一種の修行だから。…経験ってヤツがものを言うんだ、ケチャップの絵も。
修行を積まないと上手く描けんぞ、と指差したブルーのオムライス。「そうなっちまう」と。
「分かった、頑張る…!」
練習するよ、とブルーが握ったケチャップの容器。もう一度絵を描くつもりで。
「おいおい、ケチャップまみれになるぞ。せっかくの美味いオムライスが」
味だって台無しになるじゃないか、とブルーを止めた。適量だからこそ、美味しいケチャップ。
「でも、練習…」
練習しないと上手くならない、って言ったの、ハーレイじゃない!
だから練習したいのに…。ケチャップで上手に絵を描く練習。
「またにしておけ、お母さんにも失礼だろうが」
食べ始めてから胡椒を振るとか、ケチャップを少し増やすとか…。そういうのならいいんだが。
自分の好みの味にするのは問題無い。だが、一口も食べない間に入れるというのは失礼だ。
マナー違反だぞ、「お好みでどうぞ」と勧められても、食べる前なら控えめにだ。
今からケチャップを増やしちゃいかん。練習は次の機会にだな。
ケチャップで模様を描ける料理が出た時にしろ、とテーブルに置かせたケチャップの容器。
「うー…」
ホントに練習したかったのに…。ハーレイだって、修行を積めって言ったのに…。
今から描いたら、練習、一回出来るんだけどな…。
駄目だなんて、とガッカリしたブルー。「こんなのじゃ上手くならないよ」と。
オムライスを頬張り始めた後にも、食べながらチラチラとケチャップの容器を見たりしている。目の端の方で、「あそこにケチャップ…」と未練がましく。
(…また描き始めるんじゃなかろうな?)
まだケチャップがついていないトコとか、皿とかに、と心配になってくるくらい。ケチャップで絵を描きたいブルーは、まだまだ未練たっぷりだから。…ケチャップ修行に。
やろうとしたら止めないと、と考えていたら、不意に頭を掠めた記憶。赤いケチャップ。
(ケチャップだと…?)
遠く遥かな時の彼方から来た記憶。前のブルーと、それにケチャップ。
まるで繋がりそうもないのに、何故、と首を捻るよりも先に気が付いた。そのままだった、と。
前のブルーもケチャップで絵を描いていたもの。朝食がオムレツだった時には。
白いシャングリラでの朝の習慣。青の間で食べた、ソルジャーとキャプテンとしての朝食。係にオムレツを注文したら、ブルーはケチャップで絵を描こうとした。描きたい気分になった朝には。
「…お前、今も昔も変わらんなあ…」
そう口にすると、キョトンとしたブルー。オムライスを掬ったスプーンを持って。
「変わらないって…。何が?」
今も昔も、って言うんだったら、前のぼくでしょ?
いったい何が変わらないの、とブルーはオムライスを頬張った。パクンとそれは美味しそうに。
「オムライスではなかったんだが…。ケチャップで絵を描いていただろ」
青の間でもよく描いてたもんだが、それよりも前も。…白い鯨になる前の船で。
食堂でケチャップを使う場面があったら、お前、描こうとしてたんだ。
「ああ…!」
ホントだ、ケチャップ…。前のぼくもケチャップで描いていたっけ、色々なものに。
青の間だったら、朝のオムレツだったよね。
思い出した、と煌めいたブルーの瞳。「前のぼく、あれが好きだったよ」と。
「ケチャップで描くの、気に入ってたけど…。誰が教えてくれたんだっけ?」
アルタミラの檻で生きてた頃には、ケチャップの絵なんか描けるわけがないし…。
子供の頃の記憶は失くしちゃったし、覚えていそうにないんだけれど…。描いてたとしても。
だから誰かに教わった筈、とブルーの記憶はまだ中途半端。曖昧な部分があるらしい。
「お前に教えたのは、前の俺だな。こうして食べると面白いぞ、と」
まだ厨房にいた頃だから…。ずいぶんと古い話だってな。
俺もケチャップで絵を描いたという記憶は、まるで残っていなかったんだが…。
思い付いたんだ、と指で示したケチャップの容器。「前の俺がこいつを見ていた時に」と。
名前だけは「シャングリラ」と立派だった船。
其処の厨房で料理をしていた時代に、ふと閃いたのがケチャップの容器の使い方。赤いトマトを煮詰めて作った、ケチャップを絞り出せるから…。
(上手く使えば、絵が描けそうだと思ったんだよな)
ケーキなどに使うデコレーション。…ケーキは作っていなかったけれど、データベースで料理を色々と調べる間に、そういう知識も仕入れていた。「絞り出したら、絵が描ける」こと。
それを生かして、ただケチャップを塗るよりは、とブルーの料理の上に書いてやった。ブルーの名前を、赤いケチャップで。
最初はそれだ、と教えてやったら、ブルーの記憶も戻って来た。「そうだっけね」と。
「ハーレイが書いてくれたんだっけ…。ぼくの名前を」
嬉しかったんだよ、このお皿の料理はぼくだけの、って気分になって。…誰も取らないけど。
でもね、名前が書いてあるだけで、特別な気分がするじゃない。
「お前、はしゃいでいたからなあ…。あれで気に入って、次から色々リクエストして…」
他にも何か描いて欲しい、と俺に注文したもんだ。いわゆるケチャップのデコレーションを。
文字だけじゃなくて、絵も描いてくれ、と。…その内に自分で描き始めたが。
「楽しそうだし、自分でもやりたくなってくるもの」
すっかりぼくのお気に入りだよ、ケチャップで何か描くってこと。…字とか、絵だとか。
前のブルーが描いていたケチャップの絵や、文字やら。上手く描けたら、大喜びで眺めていた。
ソルジャーの尊称がついた後にも、せっせと描いていたブルー。
白い鯨になる前の船でも、青の間でも。ケチャップで絵を描ける料理があったら、絵を描こうと思い立ったなら。
ケチャップはいつも船にあったし、描くのは好きに出来たのだけれど…。
(待てよ…?)
そのケチャップで、心に引っ掛かったこと。「合成品」と。
(合成品のトマトケチャップなら…)
白い鯨が完成してから、暫くの間、作っていた。自給自足で生きてゆく船を目指したけれども、栽培が軌道に乗ってくれるまでの期間は、トマトが足りなかったから。
もちろんトマトは採れたのだけれど、形を残したい料理の方に優先的に回すもの。形が無くても問題無いなら、合成品を使っていた。トマトケチャップや、トマトペーストならば合成品。
(だよなあ…?)
合成品のトマトと言ったら、あの時期だけだった筈なんだが、と思うのにまだ引っ掛かる。一時しのぎにと作られていた、合成品のトマトケチャップが。
ほんの短い間だけだった、合成品のトマトケチャップ。白い鯨になった直後の一時期だけ。
トマトの栽培は至って簡単なもので、充分な量の苗を育てられるようになったら、合成品は姿を消した。本物のトマトが次から次へと実る船では、もう必要が無かったから。
あったことすら忘れていたほどの、合成品のトマトケチャップ。
なのにどうして引っ掛かるのか、自分でもまるで分からない。相手はただのトマトケチャップ。
(何故だ…?)
合成だろうが、本物だろうが、見た目では区別がつかなかった出来。
それに不味くもなかったわけだし、キャプテンとしては及第点を出せる代物。ずっと合成品しか無かったのなら「駄目だ」と切り捨てるけれど。「ケチャップも作れない船だった」と。
トマトの栽培に失敗していれば、そういう結末。ケチャップの原料に回せるだけのトマトが無い船、なんとも情けないシャングリラ。自給自足を謳っていたって、合成品が出回る船。
けれども、そうはならなかったし、何の問題も無かった筈。…トマトケチャップに関しては。
いったい何処が引っ掛かるんだ、と捻った首。「あれで良かった筈なんだが」と。
トマトが沢山採れない間は、合成品を使うこと。きちんと会議にかけて決めたし、事前に試食もしていたほど。皆が「不味い」と言い出さないよう、船の改造を始める前から。
(分からんな…)
まるで謎だ、とオムライスを口に突っ込んでみても分からない。ケチャップの味も、記憶の鍵を運んで来てはくれない。「合成品でも、充分こういう味だったよな」と思う程度で。
「…ハーレイ、どうかした?」
何か気になることでもあるの、とブルーに訊かれた。「急に黙って、どうしちゃったの?」と。
「すまん、つい…。合成品のトマトが気になってだな…」
待て、それだ!
合成のトマトが問題だったんだ、と蘇った記憶。言葉に出したら、遠い記憶の海の底から。
「何の話?」
合成品のトマトって…、とブルーは怪訝そうな顔。ブルーにとっても、合成品のトマトと言えば一時しのぎの物だろう。ほんの一時期、白い鯨で作られただけの。
けれど…。
「ナスカだ。あそこで起こっちまった対立…」
古い世代と、ナスカにこだわった若い世代と。あの対立が激しくなった原因…。
元はトマトだ、と瞠った目。
あれから目に見えてこじれ始めた、と思い出した出来事。トマトと、合成品のトマトと。
「トマト…。ナスカでも採れた野菜だよね?」
前のぼくは食べ損なったんだけど、とブルーの赤い瞳が瞬く。古い世代はナスカの野菜を嫌っていたから、前のブルーにも供されなかった。十五年もの長い眠りから覚めても、当然のように。
「うむ。あの星の最初の収穫だった」
トマトとキュウリと、タマネギにニンジン。
それを籠に入れて、「受け取って下さい」とルリが差し出したっけな、ジョミーに。
ナスカで最初の収穫です、と嬉しそうな顔で。
ジョミーはトマトに齧り付いてだ、「美味しい! 太陽の味がする」と言ったんだが…。
同じトマトを、ゼルがだな…。
齧るなり床に叩き付けた、とブルーに話した。「この話、前にもしたんだが…」と。
「だが、あの時はトマトの話だけでだ…。問題の根はもっと深かったんだ」
やっと思い出した、今になってな。ゼルが怒って怒鳴った言葉が、実に厄介だったこと。
ゼルはトマトを叩き付けるなり、こう言ったんだ。「こんな臭い物が食えるか」と。
合成の方がまだマシだ、とな。
「…それって酷い…」
みんなが頑張って作ったトマトを捨てちゃうなんて。…味に文句をつけるだなんて。
それで対立しないわけがないよ、若い世代を頭から否定したんだから。
「ゼルがやったことも酷いんだが…。褒められたことじゃなかったんだが…」
言葉の方がもっと酷かった。…結果的には、そうなったんだ。
あれで誤解が生まれちまった、「合成の方がマシだ」と言ったモンだから。
「…どういう意味?」
誤解って、とブルーはオムライスを頬張りながら尋ねた。「いったい何が誤解されたの?」と。
ゼルがトマトを投げ捨てただけで充分酷いし、誤解も何も、とブルーは言うのだけれど。
「そのトマトだ。…お前、合成トマトなんかがあると思うか?」
あったと思うか、と言い換えてもいい。トマトそのものの形をしていた、合成品のトマト。
そんな代物、あのシャングリラに存在してたか、ほんの一時期だけにしたって…?
「トマトの形の合成品って…。あるわけないでしょ、そんなヘンテコなもの」
白い鯨に改造した後、トマトが充分採れなくっても、丸ごとの形で合成したりはしなかったよ。
足りなかった時は、本物のトマトは無しで、合成品のケチャップとかトマトペーストの出番。
そういうので出来る料理を作っていたでしょ、「トマトは暫く我慢してくれ」って。
農場でトマトが採れ始めるまでは、トマト風味のお料理で我慢。
みんな分かってくれていたから、文句を言う人は誰もいなかったよ。
白い鯨で丸ごとのトマトが出て来た時には、いつも本物。…太陽の味はしなくってもね。
人工の照明で育てたものでも、トマトはトマト、と答えたブルー。トマトの形の合成品などは、一度も作っていなかった、と。
「そうでしょ、ハーレイ? 本物のトマトは船でも作れたんだから」
最初の間は量が足りなくて、ケチャップとかを合成したけれど…。丸ごとのトマトは本物だけ。
合成のトマトなんかは作っていないよ、作ろうって話も出なかったけれど…?
「そうなんだが…。其処の所を誤解したのが若いヤツらだ」
合成トマトケチャップがあった時代を知らなかったからな、若い連中は。
シャングリラにもトマトはちゃんとあるのに、「合成の方がマシだ」と言われちまったんだぞ?
ゼルにしてみれば、合成ケチャップのトマトの方が、という意味なんだが…。
それを知らないヤツらが聞いたら、どういう意味に取れると思う?
「…言いがかりにしか聞こえないよね?」
シャングリラのトマトよりも、ずっと酷い味。…合成した方がマシなくらいだ、って。
合成品のトマトは作ってないけど、こんなトマトより、それを開発した方がマシ、って言われてしまったみたい…。お話にならない味のトマトだ、って。
「そういうこった。…若いヤツらは、その通りの意味に受け取ったんだ」
お前が言った通りにな。ありもしない合成のトマトの方がマシだ、と罵倒されたと考えた。
話はたちまち広がっちまって、対立が酷くなる切っ掛けになっちまったんだ。
俺も事情を把握してはいたが、あえて説明しなかったから…。ゼルの言葉の本当の意味。
「なんで?」
教えてあげれば良かったのに、とブルーは不思議そうだけれども。
「…自分で歴史を紐解けば良かろう、と考えたんだ」
合成のトマトで腹を立てたなら、あの船に合成品が溢れていた時代を調べるがいい、と。
最初からトマトが充分にあったか、他の作物はどうだったのか。
コーヒーやチョコレートの代用品だったキャロブにしたって、初めの間は船には無かった。
あれはゼルの一言で来た植物だぞ、「子供たちに合成品のチョコレートを食べさせたくない」と言ってくれたお蔭で。
トマトの件で「合成の方がマシだ」と言ったのは、そのゼルだ。…白い鯨を作ったのも。
合成トマトを切っ掛けにして、色々なことを知ってくれればいい、と思ったんだが…。
馬鹿な選択をしたもんだ、と零した溜息。オムライスの最後の一口をスプーンで頬張って。
「前の俺も、つくづく馬鹿だった。何に期待をしていたんだか…」
ナスカに夢中の若いヤツらが、シャングリラの過去を振り返るわけがないのにな。
古い世代に腹を立てていたなら、なおのことだ。
俺としたことが…、と皿に置いたスプーン。「御馳走様」と。
「それじゃ、みんなは誤解したまま?」
合成トマトの方がマシだ、ってゼルが悪口を言ったんだ、っていう風に。
ありもしない合成トマトなんかと比べられた、って酷い悪口だと思い込んだまま…?
そうだったの、とブルーが見上げてくる。オムライスを口に運びながら。
「恐らく、そうだったんだろう。…トマトの件は違うようだ、と噂が流れはしなかったから」
そしてゼルたちはナスカの野菜を酷く嫌って、食べることさえ無かったし…。
余計にこじれる一方だったというわけだな。若い世代と古い世代の対立ってヤツは。
「…ハーレイ、みんなに教えてあげれば良かったね。合成トマトは誤解なんだ、って」
ゼルだって言葉不足だよ。
合成のトマトケチャップの方がよっぽどマシだ、って言えば通じた筈なのに…。
それでもみんなは怒っただろうけど、言い返すことは出来たと思う。失礼な、ってね。
合成品なんかを作らなくても、これからはナスカで沢山のトマトが実るんだから、って…。
「そうだな、お前が言う通りかもしれないな…」
合成のトマトというのが何のことなのか、それだけでも皆に通じていたら…。
きちんと意味を把握していたら、同じ怒りでも別の方へと行っただろう。
合成品のケチャップよりも美味いケチャップ、そいつをナスカのトマトで作ってみせるとか。
「いつか作るから、それを食べてから文句を言え」と噛み付くだとか。
そうすりゃ、こじれはしなかったんだ。…対立したって、ライバル意識の塊ってだけで。
古い世代をいつか見返してやる、と前向きに努力するだけだから。
合成品よりも美味いナスカのケチャップが出来たかもな、と思い返さずにはいられない。対立の方向が違っていたなら、結果も違っていたのだろうに。
「あそこにヒルマンがいたならな…」
こじれずに済んでいたかもしれん。あの時、あいつが一緒だったら。
あいつだったら…、と思い浮かべた博識な友。皆が「教授」と呼んだくらいに。
「ヒルマン?」
騒ぎの時にはいなかったの?
初めての収穫をジョミーに渡そうっていう時なんだし、ヒルマンも一緒にいそうなのに…。
ハーレイたちの方じゃなくって、ルリたちの方に。…みんなヒルマンの教え子だから。
「カリナに子供が生まれるからなあ、準備で忙しかったんだ」
とうにナスカでの暮らしがメインで、其処はお前の読み通りだが…。
生憎、あの場にはいなかった。ノルディと二人で調べ物の最中だったか、育児環境を整える方で走り回っていたんだか…。
もしもヒルマンがゼルの言葉を聞いていたなら、その場で注意しただろう。ゼルに向かって。
「その言い回しは誤解される」と、「合成品はケチャップだっただろう」とな。
それだけで空気が変わったのになあ…。「なんだ、トマトじゃなかったのか」と。
「だけど、エラだっていたんでしょ?」
エラだってピンと来ていた筈だよ、ヒルマンみたいに。「これはマズイ」って。
「それがだな…。エラは、ヒルマンのように柔軟な考え方は持っていなかった」
ジョミーが自然出産を提案した時も、真っ先に反対したのがエラだ。それは倫理に反する、と。
そういう考え方なわけだし、ゼルがトマトを不味いと言ったら、同じ方に考えが行っただろう。
合成品のトマトケチャップがあった、と納得しちまっておしまいだ。
「あれよりも美味しくないらしい」と、ゼルの肩を持ってしまったわけだな。
合成品のケチャップを知らない若い世代が、言葉の意味を誤解するかも、とは考えないで。
「そっか…。そうなっちゃうかもね…」
エラはけっこう頑固だったし、ヒルマンみたいに子供たちと過ごしたわけでもないし…。
気が付かないままになっちゃいそうだね、合成品のケチャップとトマトの違いに。
そんな所から亀裂が大きくなっただなんて、とブルーは悲しげな顔でオムライスの残りを綺麗に食べた。「御馳走様」とスプーンも置いて、ケチャップの容器をチラと眺めて…。
「…合成品のケチャップ、ほんの少しの間だけしか無かったのにね…」
そのケチャップのせいで、とんでもないことになっちゃった。
若い仲間は知らなかったから。…トマトは船で沢山採れてて、ケチャップも本物だったから。
前のぼくが目を覚ましていたなら、みんなの誤解に気が付いたのに…。
「だろうな、お前の所にも俺が報告に行っただろうし…」
合成トマトの件はきちんと皆に説明したのか、と俺に訊いたんだろうな、前のお前は。
「そう。最初はゼルを呼び出して叱るんだろうけど…」
トマトを投げ捨てたことだけ叱って、それでおしまいだろうけど。
ゼルがみんなに言った言葉は知らないんだから、合成トマトなんて思いもしないよ。
でも、対立が酷くなったなら…。
ナスカの様子も青の間から思念で探り始めるから、誤解にだって気が付くってば。
合成のトマトなんだと勘違いをして、みんなが怒り始めたことにね。
前のぼくなら誤解なんだって分かったけれども、ジョミーじゃ、其処まで無理だったよね…。
「…ジョミーが知らなかったからなあ、合成トマトの正体を」
船に来た時は、普通のケチャップだったんだから。…トマトペーストも本物だったし、気付けと言う方が無理ってモンだ。
ずっと昔は本当に合成品のトマトがあって、そいつはケチャップやペーストなんかのトマト味。それで料理を作ってたなんて、ジョミーに分かるわけがない。
いくらソルジャーを継いだとはいえ、あれはソルジャーとして必要な知識じゃないからな。
「…ジョミー、何だと思っていたんだろう?」
ゼルがナスカのトマトよりマシだ、って言った合成のトマト。
ジョミーも一緒に聞いていたんだし、若い仲間たちと同じように誤解したのかな…?
「まず間違いなく、そのコースだな。ゼルの悪口で嫌がらせだと」
まさか本当に合成トマトが存在したとは、ジョミーは全く知らないんだし…。
俺も教えはしなかったからな、若いヤツらに種明かしをしてはいかんと思って。
ジョミーが答えを知っていたんじゃ、誰も勉強しやしない。シャングリラの歴史というヤツを。
教えておけば良かったんだがな…、と後悔しても、もう戻せない時。ゼルの言葉に端を発した、若い世代の合成トマトへの誤解。
元を辿れば、白い鯨が完成した後、一時しのぎに作られたトマト味をした合成品。トマトの形もしていないかった物で、ケチャップやトマトペーストのこと。トマト風味になるように、と。
「…俺も本当に馬鹿だったよなあ…」
合成トマトの正体ってヤツを早めにバラしておいたら、派手にこじれはしなかったのに。
若いヤツらが過去を勉強しないことにしたって、よく考えれば気付けたのにな。
失敗だった、と広げた両手。「今頃になってぼやいてみたって、とうに手遅れなんだがな」と。
「ナスカも、ナスカで出来たトマトも、とっくに無いしね…」
ホントに怖いね、誤解って…。合成トマトは、ケチャップとかのことだったのに。
ケチャップなんだって分かっていたなら、若い仲間も考え方が違っていたと思うよ。当たり前のように船で食べてたケチャップ、それで苦労した時代も昔はあったんだ、ってね。
「まったくだ。…古い世代の苦労を知ったら、ヤツらも変わっていただろう」
俺はそいつを狙ったわけだが、結果的には大失敗だ。学ぶどころか、対立が酷くなる一方で。
挙句にヤツらがナスカに残って、逃げようとしなかったモンだから…。
そうなったせいで、前のお前を失くしちまう羽目に陥ったのかと思うとな…。
「全部トマトのせいだ、って?」
ナスカで大勢の仲間が死んじゃったのも、前のぼくがメギドに行ったのも。
「そうなるのかもしれないなあ…。元は一個のトマトだった、と」
ゼルが齧って、臭いと投げ捨てちまったトマト。
あれが全ての元凶かもなあ、トマトに罪は無いんだが…。
ついでに合成トマトの方にも、罪は全く無いってな。あれは大いに役立ったから。
白い鯨で充分な量のトマトが採れ始めるまで、あれで色々な料理を作れた。合成ケチャップと、合成トマトペーストと。
あれが無かったら、もっと不満が出ていたろう。トマトベースの料理はけっこう多いんだから。
しかしだな…。
合成トマトが一人歩きをしちまった、と眺めたケチャップの容器。
遠い昔にゼルが言い放った、「合成のトマトの方がマシだ」という言葉。合成のトマトの正体は丸ごとのトマトではなくて、ケチャップやトマトペーストだったのに。
若い仲間がその正体に気付いてくれたら、全ては変わっていた筈なのに…。
「…俺は合成ケチャップのせいで、前のお前を失くしたのか…?」
そうでなきゃ、たった一個のトマト。ゼルに合成トマトと言わせた、あのトマトのせいで。
どちらにも罪は無いんだがな、と零れた溜息。「ゼルもそこまで思っちゃいまい」と。
あの言葉を口にした時には。「合成のトマトの方がマシだ」と詰った時には、ゼルにも分かっていなかったろう。それがどういう結果を招くか、どんな悲劇を引き寄せるのか。
「いいじゃない、トマトでもケチャップでも」
原因がどっちだったにしたって、ぼくはハーレイの所に帰って来たよ?
それにケチャップで絵だって描けるよ、さっきウサギを描いていたでしょ?
オムライスにね、と微笑むブルーの皿の上には、もうスプーンだけ。ケチャップの絵はすっかり食べてしまって、何処にも残っていないから。
「ウサギの絵なあ…。上手く描けてはいなかったがな」
あの絵の何処がウサギなんだか、と苦笑するしかない今のブルーの腕前。前のブルーは、上手に色々描いていたのに。…食堂でも、それに青の間でも。
「前のぼくは上手だったんだけど…」
今よりもずっと上手に描けていたのに、あの腕、何処に行っちゃったのかな…?
「年季が違うというヤツだ。前のお前は、何年ケチャップで絵を描いたんだか…」
うんと修行を積んでいたしな、お前が敵うわけがない。十四年しか生きていないんだから。
そういや、ナスカでも描いたか、アレ?
前のお前が目覚めた後だな、飯は食ってたと聞いてるんだが…。
「えーっと…?」
ケチャップで絵を描いてたのか、っていうことだよね?
朝のオムレツとか、ケチャップで絵を描けそうな料理が出て来た時に…?
どうだったろう、と記憶を手繰り始めたブルーの瞳に滲んだ涙。微かに光った涙の粒は、直ぐに盛り上がって目から零れた。もう留まっていられなくて、頬を伝ってポロリと一粒。
「おい、どうした?」
いきなり泣いちまうなんて、とブルーの顔を覗き込んだら、また溢れ出した真珠の涙。
「…書いたんだよ…。絵じゃなくて、字を…」
前のぼく、最後にケチャップで、ハーレイの名前…。
「なんだって!?」
俺の名前か、と問い返したら、ポロポロと零れ続ける涙。前のブルーが泣いているかのように。
小さなブルーは溢れる涙を拭おうともせずに、涙交じりの声で続けた。
「メギドに行った日の朝御飯の時に、オムレツに書いていたんだよ…」
もうハーレイと朝御飯は食べられなかったから…。ハーレイ、忙しかったから。
こんなに上手に書けたよね、って一人で眺めて、それからオムレツ、食べたんだよ…。
ハーレイのことが好きだったよ、って…。名前もちゃんと綺麗に書ける、って。
「そうだったのか…」
すまん、朝飯には行くべきだった。…前のソルジャーでも、きちんと朝の報告に。
お前と朝飯を食うべきだったな、その時間ならあったんだ。俺だって飯は食うんだから。
「…ジョミーの所に行っていたんじゃないの?」
キャプテンはソルジャーと朝御飯を食べるものだったでしょ、とブルーは言うのだけれど。
「その習慣はもう無かったんだ。…ナスカの頃には、とっくにな」
ジョミーがソルジャーになった後にも、続けるべきだという声は多かったんだがな…。
肝心のジョミーが嫌がっちまって、それっきりだった。
つまり朝飯を食うためだったら、お前の所に行けたわけだな、堂々と。
目覚めたばかりの前のソルジャーに、色々なことを報告しに行くんだから。…前と同じに。
畜生、どうしてそいつを思い付かなかったんだか…。
お前と二人で過ごせた上に、ケチャップで書いてくれたっていう俺の名前も見られたのにな…。
俺としたことが、と前の自分の迂闊さがとても悔しいけれど。
オムレツにケチャップで字を書いていた前のブルーの心を思うと、悲しくてたまらないけれど。
「…ハーレイ、そんな顔をしないで」
ごめんね、とブルーがグイと拭った涙。「もう泣かないよ」と健気に笑んで。
「泣かないって…。しかし、お前は…」
前のお前は、朝飯の時まで独りぼっちで…。俺の名前をオムレツに書くくらいしか…。
せっかく上手に書いてみたって、俺はお前の側にいなくて…。
俺のせいだ、と詫びたけれども、ブルーは「ううん」と首を横に振った。
「ハーレイのせいなんかじゃないよ。…トマトのせいでもないし、合成トマトの方だって…」
ぼくが勝手に泣いちゃっただけで、それは前のぼくのことを思い出したから…。
オムレツにハーレイの名前を書いていたのが、ついさっきみたいな気がしちゃったから…。
でもね、ぼくなら大丈夫。
今はハーレイと一緒なんだし、幸せだから。こうして御飯も食べられるから…。
オムライス、すっかり食べちゃったけど。…お皿、空っぽになっちゃったけれど。
ぼくは平気、とブルーの涙は止まって笑顔に変わったから。
「そうだな、今度はこれから修行なんだな、ケチャップの絵は」
今のお前はウサギも描けない有様なんだし、前のお前の腕前までは遠そうだ。
頑張って腕を上げることだな、前のお前に負けないように。
コツコツと努力の積み重ねだぞ、とケチャップの容器を指差した。「練習あるのみ」と、日々の努力が大切だから、と。
「努力もいいけど…。またハーレイにコツを教わるよ」
今のぼくだと、朝御飯の時にハーレイの名前は書けないから…。
そんなの書いたら、パパやママが変に思うでしょ?
だから結婚してから修行、とブルーが浮かべた笑み。「今はまだ無理」と。
「ふうむ…。そういうことなら、いつかケーキ作りも一緒にするか?」
今のお前はデコレーションは下手くそらしいし、俺が一から教えてやるから。
「もちろんだよ!」
ハーレイと一緒にケーキを作るの、やりたいに決まっているじゃない…!
でも、その前に毎朝のケチャップからだね、とブルーは幸せそうだから。
「結婚したら、朝はオムレツにハーレイの名前なんだよ」と、ケチャップで書く気満々だから。
(…うん、今の俺たちには、ケチャップはだな…)
前と同じに絵を描いたりして楽しめるもの。オムレツやオムライスに、ウサギや文字を。
赤いケチャップで好きに描けるし、ブルーにコツも教えてやれる。
「こうだぞ」とケチャップの容器を手にして、手本を描いて。もっと上手になりたいブルーに、ケーキのデコレーションの技も伝授して。
(前のあいつより、ずっと上手になれるだろうなあ…)
綺麗にケーキを飾れるようになったなら。ケチャップの絵よりも難しい技を、ブルーがマスターしたならば。
きっとそうなるに決まっているから、合成トマトの悲しい誤解は、もう遠い過去でいいだろう。
前の自分が失くしたブルーは、ちゃんと帰って来てくれたから。
今度は地球で育ったトマトのケチャップ、それで二人で好きなように絵を描けるのだから…。
合成品のトマト・了
※ナスカで採れたトマトにゼルがぶつけた、「合成のトマトの方がマシ」という酷い言葉。
若い世代との対立を悪化させたそれは、誤解が原因。合成したのはケチャップだったのです。←拍手して下さる方は、こちらからv
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